ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年12月13日
 さよならさよなら、またあした (ウィングス・コミックス)

 生きる。どれだけの悲しみに顔を曇らせても誰かがそばにいてくれたら日は差すことだってありうるんだ。何があろうと自分を諦めない姿に慈しみの降る。

 あらましを述べれば、ほとんどネタを割るのに近くなってしまうのだったが、シギサワカヤの『さよならさよなら、またあした』は、いわゆる難病ものの範疇に入れられる。二十歳までは生きられないだろうと幼い頃に宣告された女子高生と、とある事件のせいで仕方なく田舎の高校に追われた男性教師の、二人の出会いを題材にしたマンガなのである。しかしここがポイントになるのだけれど、作品のエモーションは、ヒロインが二十歳を過ぎても死なず、結婚してからの毎日を生き、生き続け、明日もなお生き長らえようとする懸命な、その強さとともにある。

 基本的には、気の重たくなるようなストーリーではない。ナイーヴであり、センチメンタルであるものの、青年期前後の主観をベースに、にやにやとちぐはぐの入り混じったラブコメが騒々しく、繰り広げられている。あるいはその、騒々しいテンションこそが『さよならさよなら、またあした』という作品に込められた祈りであって希望であろう。

 育と正嗣による主人公カップルのほか、育の親友である会社員の万喜と彼女に好意を寄せる後輩の武田のエピソードをワキに盛り込みながら、回想を経、過去と現在とを場面は行き来する。こうした構成は、まず間違いなく、心の移動のなかに横の広がりを持たせ、時間の概念に縦方向の手応えを与えている。作中人物が各々背負っているドラマは、もしかすればフィクションにありふれているかもしれない。だがそれらの面には確かな起伏が存在していて、先に述べた騒々しさ=光を受けてできた影の部分に、命と見られるのに相応しい触感が備わっているのである。言い換えるなら、他人との関係や経験と変化が膨らみとしてよく描かれているということだ。

 ほのぼのとした日常のシーンが魅力的に映し出されている分、いつかはそれも消えてなくなるのではないかという軋みにこわくなる。他愛もないことの大切さと同時に壊れやすさが、哀楽のグラデーションを濃くしていき、漂うポエジーをやさしくもせつなくもさせる。

 ああ、かくも運命は残酷だ。現実は非情である。でも一人ぼっちじゃないんだと。君を寂しくさせない誰かが必ずやどこかにいるのだと信じて欲しい。たどたどしくてささやかなコミュニケーションにあてられたページは、諦めを前に選ばれた抗いをあらわしているのだと思う。

 少数ではない人たちが日々を無駄に過ごし、後悔しては簡単に忘れ去っていく。結局のところ、我々が生きられているのはただの幸運にすぎないのかもしれない。しかしその幸運ですら、いとも容易く捨てられる。失われたら取り戻せないものもある。当たり前のことにさえ、目隠し。豊かな世界を台無しにしてしまえる。もちろん、それを浪費という。

 常に死を間近に受け止めてきた育が、ストーリーを通じて教えているのは、決して自分を諦めず、他愛のなさを豊かに生きる方法にほかならない。あるいは彼女の意識と強さがそれを実現させている。もう一度いうが、『さよならさよなら、またあした』は大変賑やかな作品である。端的に死別をモチーフにしているにもかかわらず。騒々しい。なぜか。誰かと誰かが何かを分かち合う。このことの価値をストレスとは反対の角度から掘り下げていっているためだ。

 しかし最終話のラスト、見開きのページにそこまでのテンションを裏切るかのようなカットがついに描かれる。突然の痛ましさに胸を衝かれても不思議ではないのだった。が、パセティックである以上に鮮烈な輝きを覗かせているのはどうしてだろう。あきらかに作者は、エンディングの印象に悲しみの一文字を残しながら、ヒロインの逞しい表情や言葉を介することで、悲愴と悲壮の意味を入れ替えている。生きることの有り難さを克明に浮かび上がらせている。

 後半の展開に震災後の影響があるのかどうかは知らない。けれども、1999年からの十数年を〈世界が滅びなくてよかった / あなたに会えてよかった / …目先の小さな「よかった」で / 私は十分泣きそうに幸せだった〉風景として切り取った『さよならさよなら、またあした』の結末は、ちょうどこの瞬間に希有な感動をもたらしているのである。

・その他シギサワカヤに関する文章
 『九月病』について→こちら
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2011年12月04日
 tiba.jpg

 小川圭の『特攻事務員ミノワ』は、第65回ちばてつや賞ヤング部門の大賞受賞作で『ヤングマガジン』No.52に掲載された。少しばかり関係のあるようなないような前置きをするが、現在ヤンキー・マンガのシーンを形成している中堅作家たち、主に団塊ジュニアの年代であるそのほとんどは、同賞の出身者でしめられているのはよく知られているところだと思う(いや、本当は知られていないかもしれないけれど)。果たしてその手のジャンルに向いたタッチを審査員が好むからか。もしくは受賞後のコネクションがそうさせるのか。因果関係ははっきりわからないものの、ある種の伝統的な傾向を26歳の作者が描いていることは、題名に付せられた「特攻」の二文字からもうかがえるだろう。ちなみに作者は掲載誌の柱コメントで「これぞ悪人! 主人公の活躍を引き立てる名悪役といえば?」という質問に、『特攻の拓』の武丸です、と答えているのだったが、おそらくはギャグでしょう。そう、ギャグなのだ。『特攻事務員ミノワ』は、元暴走族の青年を主人公にした就職のギャグ・マンガなのである。一家を支えていた父親が亡くなったため、まだ幼い妹を養っていかなければならず、就職活動し、ようやく見つけた勤め先でも以前と変わらぬ男気ルールを発動していき、周囲に仰天される主人公の姿を、おもしろおかしく、パワフルに走らせている。簡潔なコマ割り、実にテンポのいい展開が、最大の長所だといえる。デフォルメの技術も確かであるし、こうとフォームの定まった筆致は新人離れしてさえいるのではないか。なるほど、ちばてつやの「主人公のミノワのキャラクターが抜群に素晴らしい。そのほかのキャラたちも、それぞれの位置でいいバランスを作っている。演出、構成は文句なし」という選評や「本当に楽しかった。ほぼ完璧な読みきり」というコメントには納得するよりほかない。破天荒な人物を描きながら、他との関係からは彼の硬派な気質がよく伝わってくる。箕輪の行動はその素直さに裏打ちされていることが、行間のレベルをも含め、確かに描かれているので、ほのぼのとしたエモーションを汲んだオチに、くすり、と笑えるのである。この喜劇性は、ステレオタイプとイコールであるような浪花節の魅力をいかに再獲得するか、の批評性でもある。ヤンキイッシュなイメージはもちろん、主に関西弁が使われているのも、あきらかな狙いに見える。照準のきっちりと定まったストーリーを、ありがち、と切り捨ててしまう向きはともかく、ギャグという手法ならではのアドバンテージを存分に生かした内容になっている。
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2011年11月29日
 BLOOD~真剣士将人 1巻 (ヤングキングコミックス)

 他のマンガの話題から入るのはいささか恐縮なのだが、青木幸子の『王狩』が第一部完となり、存続の不透明な状況にあるのを残念に思う。ところで、もしもこの十数年のあいだに将棋マンガ・ブームというものがあったとしたら、本作、落合裕介の『BLOOD 〜真剣師 将人〜』がその最後尾にあたるのではないか。もちろん、これ以降も将棋マンガは次々と登場するであろうし、なかにはヒット作も生まれるだろう。しかしながら、作劇のパターンとしてはある程度出揃った印象を受ける。奨励会、真剣師、女流、アマチュア、サスペンス、ドキュメンタリー、メロドラマ、家族もの。将棋の指す手を通じ、実際にいくつものアイディアが網羅されてきたわけだけれども、『BLOOD』においては生と死と金をかけた真剣師の姿が描かれている。アンダーグラウンドの世界で、要するにギャンブルに近いタイプの将棋が打たれているのである。いや、ともすればギャンブル・マンガと呼んでしまっても差し支えがないそれ、少なくとも1巻の段階ではそうとしか解釈できないそれが、ここ最近では類例を持たないアプローチであるにもかかわらず、きわめてオールドスクールな仕様に見えてしまうあたりに、ジャンル内のアイディアが一回りしたような実感を得てしまうのだった。大まかな筋書きは、多額の借金を背負わされた青年が、ヤクザに恋人をさらわれ、父親と同じく真剣師としての勝負を強いられる、というもので、明らかに堅気ではない連中と相対し、さまざまな窮地に立たされていく。死線ならではのスリルに段々とはまっていく主人公の、いわば狂気とロマンが作品の濃さを決めている。盤面がどう動いたかという部分にさほど重きは置かれていない。現時点で、真剣師の勝負は、アウトサイダーいかにあるべし、を指し示すためのアレゴリカルな手段にすぎない。世間の認識がそうさせるのか、アイディアの出し方やタッチの暗い明るいがどうであれ、将棋マンガには生き様系に傾くものが多い。後がないという危機感を剥き出し、何かを背負った人間の背負った何かを具体化しやすいスタイルなのかもしれない。そしてそれはおおよその場合、生まれと育ち(遺伝と環境)の問題に還元される。『BLOOD』の主人公である桐生将人もまた、〈“獅子の血”を継ぐ〉という運命によって将棋の駒を握らされている。
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2011年11月19日
 ブルーイッシュ 1 (プリンセスコミックス)

 孤独は決して一人で生きて一人で死ぬためのレッスンなんかじゃない。と信じたい。梅田阿比の新作は、またもや、家族、あるいは、繋がり、の物語を描くかのよう。この1巻が出たばかりの『ブルーイッシュ』で、少年マンガから少女マンガへ活動の場を移した作者だけれど、特殊な条件を背負わされた人間が苦しみ、他の誰かと触れ合い、あまりにもささやかな幸福に許されていく、という本質的なアプローチは何も変わっていない。ともあれナイーヴであることが、ストーリーを苛酷にし、反面、線に淡さをもたらす。その筆跡が、控えめだが、しかし独特な叙情を為しえているのである。

 主人公は、両親を喪い、一軒家でひっそり息を潜めるように暮らす三兄妹で、彼らが能力の不自由なサイキックであることを世間は知らない。果たして自分たちは求められていない人間なのか。〈俺たちにできることといったら・近所の子供を脅かすことくらいだった・むしろこの厄介な能力のせいで・俺たちは学校でもダメダメだった・俺たちはできそこないでポンコツで・まったく進歩がない・この役に立たない能力が・毎日・呪いのように青い影になって俺たちの邪魔をするんだ〉

 それでも誰かのためになりたい。妹、知那の願いが、卑屈な兄たち、亜生と綸の心を動かした日、三人は青い影の外に足を踏み出しはじめる。

 通りすがり、困った目に遭った人々を、亜生、綸、知那が協力し、助けあげるその行為に彼ら自身もまた助けられる。こうしたパターンが各エピソードの骨格になっているのだったが、潜在的にサイキックはネガティヴなもの、当人たちにとっては足かせ、あくまでも負担として認識されている点に注意しておきたい。確かに彼らはその能力なくしては世間と関われないのだけれど、そもそもその能力が彼らと世間を隔てていたのであって、必ずしも欲されていたわけではない。彼らの善意は、無償であるというより、損失の補填に近しいのである。

 彼らの負担はサイキックであることばかりではない。血縁上、実際の兄妹ではない。三人は別々の児童養護施設から引き取られてきた義理の関係でしかなく、無論、亡くなった父母とも真の親子ではない。この意味で、文字どおりの孤児だといえてしまう。本来なら持ちえるものを持っていない。つまりはあらかじめマイナスの重みを抱えさせられているのだ。

 皆と同じになれない。居場所がない。当然、それは罪ではない。望んだのでもない。にもかかわらず、まるで罰みたいに孤独を寄越してくる。辻褄が合わないではないか。これを不幸とし、困難としたとき、その不幸に屈しないこと、困難に負けず、乗り越えることこそが、おそらく、希望の手がかりとなりうる。結局のところ、マイナスは裏返らないかぎりプラスになれないのだし、負担は軽くならない。作中のモノローグ(ナレーション)を主に担当しているのは、次男の綸だが、最初は知那の前向きな提言に批判的だったはずの彼が、次第に感化され、サイキックのポジティヴな使い途を探すうち、不幸や困難の先に希望を信じられるようになっているのは、その言葉の変化に明らかだろう。

 ああ、〈この力を誰がなんのために・俺たちに与えたんだろう・けっして正しくはなく・未熟で・中途半端な・同情と救いの杖〉であるようなサイキックを前に、主人公たちはもがきながら、希望の糸口を見つけ出そうとする。

 では、『ブルーイッシュ』において希望とは何を指すのか。家族、あるいは、繋がり、の別名だと解釈されて構わないと思う。十分な未来も幸福な過去も、まず間違いなく、それらのなかに存在していた。それらに含まれていたことは、いくつかの印象的な場面によって暗に示されている。

 だが、両親の喪失とともにそれらもまた損なわれてしまった。損なわれてしまったという事実から、亜生と綸、知那の三人は物語をはじめなければならなかった。ここに悲哀の色合いが生じている。確かに、必ずや希望はある、の道しるべを徒手空拳で獲得していく主人公たちの絆にも、家族、あるいは、繋がり、のイメージは託されており、そうであるがゆえの感動が、あたたかな気分を膨らませる。一方で、彼らはあまりにも損なわれてしまっている。この動かしがたい前提が、せつない気分を不可避にしているのである。かくして、獲得することと喪失すること、天秤にかけられた双方が皿を上下させる結果的なバランスが、『ブルーイッシュ』の叙情、エモーションの正体だろう。1巻の最後、4話目の幕に置かれた綸のモノローグ(ナレーション)に耳を傾けよう。

 そう、〈人は大事なものを・何度も何度も・追悼し・それでも・進んできた生き物だから・いくら失ったって取り返せばいい・いつまでも何度でも〉というエピソードを締め括るのに相応しいそれからはあたたかさとせつなさがたっぷり伝わってくる。

 さらに付け加えるならば、三人の能力が彼ら自身に何らかの犠牲を強いることはある種象徴的で、とりわけ知那の変身、イコール幻覚だ。亜生のテレパスや綸のサイコキネシスが、その発動に肉体の疲労を付随するものであるのに対し、知那の場合、他人に幻覚を見せるのと引き換えに変身した人物の記憶を一部なくしてしまう。自分がよく知っていたはずの人間を忘れてしまうのは寂しい。これを当たり前のこととするなら、忘れたくない人間の存在は絶対に忘れたくない。と考えるのが普通だろう。

 だが、それでも誰かのためになりたい。知那は願う。願いを叶えるべく、変身を繰り返しては決して少なくない犠牲を払っていく。その姿は『幸福な王子』を思わせる。

・その他梅田阿比に関する文章
 『幻仔譚じゃのめ』7巻について→こちら
 『フルセット!』4巻について→こちら
 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら
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2011年11月04日
 天審〜WORLD WAR ANGEL〜(1) (ライバルKC)

 黙示録の世界で人間として生きることの本質が試される、かのような危機感と、我々とは生態も本質も異なる存在が人間には傍迷惑な恋のモーションをかける、かのようなラブコメのミックスは、原作者である外薗昌也の集大成的なアイディアだといえるし、初期の設定に巨人のヴィジュアルを採用しているのはトレンドへの目配せなのかもしれないが、それを作画の久世蘭が若々しいロマンの少年マンガにしている。『天審〜WORLD WAR ANGEL〜』の1巻である。遠藤光流には人には言えない秘密があった。背中に奇妙な物体を生やしているのだ。やがて天使の羽を持つ美少女のエルと彼が遭遇するのは必然であった。そして二人は、分子生物学の天才である敷島と天使教団というカルトの狂った実験に投入されていく。特殊能力に目覚めた主人公に人類の未来が託される一方、彼は病んだヒロインから執拗に追い詰められる。これを大まかな概要だとすれば、非常に現代的な様式をトレースしているわけであって、セカイ系だとかナントカデレやらのコラボレーションでありヴァリエーションであるという見方もできるのだけれど、テーマのレベルで注意しておきたいのは、いかに人類と異者(エイリアン)が出会うか。おそらくは緊急事態下のコミュニケーションを通じてもたらされる混乱を、物語に整形し、具体化したなかにその真価を問うことなのだと思う。外薗の過去作、とくに哲学まじりのパニック系においては、そうした整形こそが最大の課題でもあった。『天審』というタイトルの意味深さは、どうしたって不吉なものを孕んでいる。人間と人間ならざる存在を裁かれる側と裁く側とに隔てていくことを予感させる。暗い野望によって企てられる陰謀や、惨殺を躊躇わないショッキングなシーンの頻出は、まず間違いなくカタストロフィの前触れを果たしているのである。秤にかけられた希望と絶望が、今後の展開を左右する。

・その他外薗昌也に関する文章
 『わたしはあい LOVE & TRUTH』3巻について→こちら
 『エマージング』2巻について→こちら
 『エマージング』1巻について→こちら
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2011年11月03日
 おい、覚えておけよ。ドラマ版『QP(キューピー)』の原作は『QP』じゃねえ。『QP外伝』のワン・エピソード「死神を見た日」だってことを、な。そしてこれ、『QP外伝 ドラマスペシャル』は、そのドラマ版『QP』をトリビュートの名目でコミカライズしたものであって、コンビニ版コミックスのスタイルで発表されているのだったが、以上の経緯はもちろんのこと、原作が高橋ヒロシ、ドラマ原案がやべきょうすけ、ドラマ脚本がNAKA雅MURAKAMI、ドラマ作画が今村KSKというクレジットの入り組み方からして、何かもう非常に厄介なシロモノであろう。しかしまあ、現在のところ第2話まで描かれている内容は、ドラマ版に極めて忠実だといえる。天狼会のトップ、我妻涼に憧れ、ヤクザになった元ボクサーの美咲元が、その儚くも凄惨なサヴァイヴァルから教訓にも似たテーマを得ていくのだ。

 過去にも再三述べてきたとおり、我妻涼という発明は、00年代以降のヤンキー・マンガを左右するほどに大きく、大きかった。たとえば『ギャングキング』のピンコや『サムライソルジャー』の桐生達也などは、ほとんど我妻涼のヴァリエーションにさえ見えてしまうのである。この世界にはアウトローとして生きることを望むよりほかない人間が確かにいる。だがアウトローとして生きることは本当に幸せなのか。こうした問いは、差別や貧困を含め、生まれと育ち(遺伝と環境)の問題がしばしば取り沙汰される現在において、多分にアクチュアルであるのかもしれない。しかしてアウトサイダーの美学を一種の思想へと変換した場所に我妻涼のカリスマは立っており、高橋ヒロシよりも若いマンガ家に描かれたピンコや桐生達也がそれに続く。無論、社会性を高い倫理や豊かな成熟とイコールで考えていったとき、殺伐としたアウトサイダーの思想は否定されなければなるまい。すなわち、ピンコに対するアンチテーゼが『ギャングキング』の主人公であるジミーなのであって、桐生達也に対するアンチテーゼが『サムライソルジャー』の主人公である藤村新太郎なのであった。そして先駆的な『QP』では、キューピーこと石田小鳥がその役目を負っていたわけだ。

 現時点でドラマ版『QP』は、キューピー抜きの『QP』というちょっとアクロバティックな物語を進んでいる。結果、ただのヤクザ劇なんじゃないの、の印象を免れていない。当然、それに忠実なコミカライズも同様だろう。この第2話「カーブミラー」に出てくる美咲元の兄は、ドラマ版『QP』の原作にあたる「死神を見た日」で、所謂世間の幸せを象徴するような存在だったのだけれど、ドラマ版とそのコミカライズ(ええい、ややこしいったらありゃしない)では、再登場の可能性は捨てきれないという保留を付けるものの、元の教育係であるヒコや我妻涼の対照としては、あまりよく機能していない。
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2011年10月30日
 ひるなかの流星 1 (マーガレットコミックス)

 非常に研究熱心というか勉強熱心なマンガ家だと思うわけだ。やまもり三香は、『シュガーズ』でスイーツというモチーフをオムニバス形式のなかであまりよく生かせず(これは本当に残念であった)、『Non stop days〜シンデレラガール 佐々木希物語〜』では実話ベースのフィクションをステレオタイプなイメージ以上に押し上げられなかった(でもそれが決して悪くはなかった)のだが、カットや構成のレベルにおいて、先行する少女マンガのマナーを巧みに吸収し、独創性をほとんど持たない代わり、洗練という成果を正しく獲得していたのだけれど、それがこの『ひるなかの流星』の1巻の時点でもう一段階進んでいる。確かにスマートで達者な絵柄はやまもりに固有のものだし、いくえみ綾に象徴されるような洒脱さ(『マーガレット』の連載でありながらどことなく『別冊マーガレット』を彷彿とさせる)を受け継いでいるのは集英社の系譜だからなのだろうが、小玉ユキや岩本ナオ、ねむようこといった現在の小学館でもライト・ポップな傾向(『月刊flowers』的なトレンドのライン)を新味として踏まえているのではないか、と感じさせるのである。ストーリーは大まかに、家族の事情で田舎から東京に出てきた女子高生が、最初は都会の雰囲気に馴染めなかったものの、持ち前の大らかさでそれをクリアーすると同時に恋愛や友情に励んでいく、といったところで、やまもり版『プリンシパル』みたいなシチュエーションもある。ラヴ・ロマンスの面で軸足になっているのはおそらく、ヒロインのすずめと担任教師である獅子尾の関係であって、そうした立場の違いは少女マンガにお馴染みのパターンだ。が、しかしそれらが覚束ない手つきの仕上がりではなく、実に晴れやかな読み心地を描き出している点に真価を見られたい。一人の少女が新しい世界の入口、異性に出会い、人々と触れ合う。そこに成長のテーマはしっかり息づいている。

・その他やまもり三香に関する文章
 『シュガーズ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2011年10月28日
 ハイエナ (ヤングキングコミックス)

 オビに花沢健吾がコメントを寄せているが、あとがきマンガからわかるとおり、単に作者と旧知である以上の意味合いを求めてはいけない。しかしそれを差し引いても、この藤原さとしの『ハイエナ』は、なかなかにホットでエモーショナルな作品だと思う。

 理性をベースに判断するなら、ギャンブルや色欲、遊び(だけ)のために止めどなく借金を繰り返し、自分の首を絞めていく人間は救いがたい阿呆だろう、と判じられても仕方があるまい。だがまあ、それじゃ話は終わってしまうので、心の闇や弱さをある種のエクスキューズに、背景を埋め、物語に相応しい重量を用意するのが、闇金融などを題材にしたフィクションのセオリーだといえる。そのとき、ウェットなパートを少なくすればするほど、ひりひりするような現実性が前面に出てくるのだけれど、『ハイエナ』には反対の印象が強く、もしかしたらそこからは古さがうかがえるものの、いやあるいはだからこその情け深さを得られるのだし、ホットでエモーショナルという観点を覗かせている。

 確かに、闇金融に勤める主人公は、〈人間信用するくらいなら闇金なんかやってるかよ〉と舎弟格のパートナーへ再三告げるように、一見すると非情なスタンスで業務を全うしているのだったが、各エピソードの中心となる債務者たちに彼が与えているのは、その手段はともかく、最終的に、もしくは本質的に、救済なのであって、これが場合によっては、甘い、とも、ぬるい、とも、やさしい、とも取れる決着を与えているのだった。

 おそらくはファンタジーとして見られるべき内容である。しかし、子供を持った風俗嬢が金を与えていたホストから捨てられる二話目の「幸福」に顕著なとおり、債務者が直接的に手渡されるのは、救済そのものではない。社会に人格を認められるぎりぎりのラインに踏み止まれるかどうか、の選択だろう。自分の人生の責任は自分にしか背負えない、という必然が突きつけられ、いかに応えるかによって、債務者の体温は測られており、それがまた作品本体の温度にもなっている。「幸福」の債務者は、自分の人生の責任を自分の子供に押しつけることもできたのだけれど、そうしなかった。そうしなかったことで、あらためて生き直すための機会に辿り着けているのだ。無論、いささかレディメイドな筋書きではあるものの、作者の構成力は、迫力に溢れた場面転換のあとで、救いがたかったはずの阿呆を許せるだけの慈悲を作り出している。
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2011年10月25日
 ナンバーガール (講談社コミックスフレンド B)

 桜井まちこのことをすぐれたマンガ家だと信じてやまない。が、正直なところ、傑出した長編を残しているとは見なし難い。やはりこの人の本領は短編にあるのだと思う。表題の『ナンバーガール』は、女子学生たちのフレッシュな恋愛を題材にした読み切り形式のシリーズである。若気の至りをうかがわせるようなエネルギーに溢れ、頬を赤らめるほどにピュアでいて、空回りする気持ちが、いや確かに目覚ましく目覚ましい明るさ、かけがえのない輝きに値していく様子を、コミカルであると同時にハッピー・エンドが信じられるテンションのなかに織り込んでいる。ストーリーにこれといったひねりはない。むしろ「ど」を冠したいぐらいにストレートな内容なのだけれど、桜井ならではの引いたカメラに遠景の収められたカットや、心の動きが目元と口元を通じながらくっきりと浮かんでくる表情のアップに、ああ、と膝を打つエモーションが投影されているのだった。元気いっぱいな笑顔が正しくイノセントな魅力となっているヒロインたちの姿は、初期の頃の作者を彷彿とさせる。

 しかし最も特筆すべきなのは、それらとは全く別のベクトルで描かれているにもかかわらず、おそらくはタイミングの都合でここに入れられた「夏の霧」だろう。すでに初出(『別冊フレンド増刊 別フレ2010』7月号)の段階、そして他作家とのオムニバス集である『泣きたいほど…純愛。』へ収録された際に目を通していたのだったが、うんうん、繰り返し何度読んでも大好きである、これ。とにもかくにもせつない。端的に述べるのであれば、誠実さに負けることの憂い、ペーソスが、痛々しいまでに繊細な登場人物の仕草に凝縮されている。無論、誠実さとは本来肯定されるべきものであって、それに負けるというのが妙なレトリックであるのは重々承知しているつもりなのだった。しかるに、そう喩えるよりほかない土壇場が「夏の霧」には描き出されているのだ。筋書きとしては、ずっと好きだったクラスメイトを恋人が留守の隙に奪っちゃおう、程度の小さな裏切りを追っているにすぎない。道義上問題があるのは間違いなくヒロインの方だよね、と思う。だがそれが恋愛のルールにおいては必ずしも悪ではなくなっていき、さらにはこれ以上の関係は望めそうもないという断念を連れてくる。

 主人公であるリカのアプローチに三上が乗らなかったのは、恋人の香奈に対してばかりではなく、リカに対しても誠実であろうとした結果にほかならない。そしてリカはその誠実さに誠実さを返すなら、失恋のかたちで応えるしかなかったのである。どんな夜も明けてしまう。朝もやのなかに寂しさが詰まったラスト・シーンは、この世界にはいくら手を伸ばそうが、あるいは今にも届きそうなのに、決して自分のものにはならないものがあることを、身につまされるような実感として響かせる。

・その他桜井まちこに関する文章
 『trip(トリップ)』について→こちら
 『17[じゅうなな]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2011年10月14日
 water cube(1) (アース・スターコミックス)

 河一權が韓国のポータルサイトで発表した作品が、中村珍のアレンジを経、中澤泉汰によってリメイクされた、ということでいいのかな。残念ながらオリジナルのヴァージョンは未見なのだったが、1巻を読むかぎり、この『water cube(ウォーター・キューブ)』は、屈折した青春の風景がコメディにも似たテンションで描かれていて、そこになかなかの魅力を覚える。〈違う 僕は キミなんかどうでもいい キミを好きだったんじゃなくて 僕は キミの水着が好きだったんだ キミなんか 好きじゃない… キミなんか〉

 グッドなルックスで勉強にも長け、正しく優等生だった水希大祐にとって、女子の水着こそが至上のものであった。中学を卒業し、高校に入った彼は校内にプールがあるのを知って、思わず携帯電話のカメラを構えてしまう。はたしてその行為を担任教師の黒田に見咎められたことから、まさかの事態に巻き込まれる。性別を偽らされ、女子水球部の設立メンバーに加えられてしまうのだ。ばれたなら、ただの変態である。それに比べれば、泳げないことですら大したハンデじゃないだろう。一癖二癖ありそうな面々に囲まれ、正体を隠そうとする彼は、しかし元水泳部の藍野に心惹かれていくようだった。

 女装がある種のフックを兼ね、ボーイ・ミーツ・ガールのトリガーとなっている点は、今日的なパターンの一つであって、必ずしもユニークなアイディアではないと思う。けれども、羽目を外した設定が、現時点では何がどう転ぶのか直ちには判断しきれないストーリーの面白みに繋がっている。それこそ主人公の水希は、藍野とのディスコミュニケーションから恋愛を育んでもいいのだし、可愛らしい女子たちを前にハーレムよろしくへらへらしててもいい。あるいは彼女らと熱心に水球に打ち込んだっていいのであって、そのことを通じながら性差にこだわらぬ友情のドラマを繰り広げたっていいのである。コミカルな展開を含め、たとえば以上のような予断の許されるなかで、悩ましいティーンエイジャーの自意識が、こうと定まるべき場所を手探りしていく姿に、おそらく『water cube』ならではの温度が備わっている。

 主人公と学校の教頭である父親との関係は、裏の重要なテーマだろう。保護者の過剰なプレッシャーと所在のなさに預けられた寂しさが、少年の胸を塞いでしまう。イメージとしてはステレオタイプではあるものの、それは切実さを欠いているわけではない。ひょんなことから調子の狂った学園生活は、狭かったはずの世界が開かれうる可能性を喩えているのであって、出会いは人を変えられる。アニメ的なデザインで少女マンガの仕草を拾ってきたかのような中澤の画は、思春期の曇った気分、ナイーヴさに鮮明なきらめき、ぱあっと輝くダイナミズムを注ぎ込んでいる。

 掲載誌の『月刊コミックアース・スター』は、創刊が3月の震災とぶつかったせいかどうかは知らないが、あまり話題に上っているのを目にしない。まあ、既存作品の応用みたいなものも少なくはないし、雑誌である以上は良い部分と悪い部分もあるにはあるのだけれど、個人的にはこの『water cube』と『TRACE』(原作・NASTY CAT、漫画・雨松)に好きだといえるだけの期待をかけているのだった。
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2011年10月09日
 囚人リク 3 (少年チャンピオン・コミックス)

 とどのつまり、このマンガの根源に働いているのは、タイマン張ったらダチ、的なロジックなのだと思う。瀬口忍の『囚人リク』である。頽廃的な近未来、警官殺しの濡れ衣を着させられた少年リクが、救いの断たれた監獄に閉じ込められ、その厳しい状況下でも挫けず、いかに希望を紡いでいくかが作品の主題であろう。現在、掲載誌の扉やコミックスのカヴァーに「最凶刑務所脱獄記」とある通り、ストーリーの最終目標はほとんど明かされているといっていい。要するに、そこへ向かうプロセスに盛り込まれたドラマや、あるいはスペクタクルに、大部分の魅力は預けられているわけだ。主人公のリクはきわめて非力な人物として描かれている。無論、少年期特有の純粋さ、イノセンスが、彼にとって何よりの武器であって、実際にそれが周囲の敵を倒し、または感化し、次第に味方を増やすほどの活躍を見せるのだった。が、このとき、フィクションならではの展開は、正しく先述したように、タイマン張ったらダチ、的なロジックにおいて実現されている。しかしながら、たとえば同じく刑務所で死闘を繰り広げる『デッドマン・ワンダーランド』(片岡人生・近藤一馬)の主人公とは違い、『囚人リク』の場合、主人公には特別な出自や特殊なポテンシャルは与えられていない。とにもかくにも、己の正義感一つで他と渡り合っていかなければならないのである。かくして、悪漢たちとの対決はハードな我慢大会の様相を呈していくだろう。そのことは、リクが属する第27木工場と無慈悲なリーダー椿が率いた第16木工場との抗争を描いた3巻の内容に、とりわけ顕著だといえる。ボクサーのごとく鍛えられた椿に一対一の勝負を挑んだはいいが、リクにとれる行動はあまりにも限られているどころか、ゼロに等しい。逆転の奇跡が訪れるのを信じて、椿の猛攻に耐えるよりほかないのだった。考え方次第では、残酷なゲームにしかならない。だが、どんなときだって心の隅にとどめておかなければいけない。褒め称えられるべきは、やっぱりガッツなんだよな。リクの純粋さ、イノセンス、そして正義感が、なぜ今までの窮地をくぐり抜けるのに値したのか。それはどれだけの不条理を前にしても決して膝を折らなかったからだ。絶対に信念を曲げなかったからなのだ。ひとまずであれ、その観点によるかぎり、強い弱いの評価は無効となる。なけなしにも思われるリクのファイティング・ポーズは、〈弱ぇから引き下がっちまえって… 弱ぇから殴られっぱなしでもしょうがねぇって… 俺ぁそんなのが当たり前とか認められねえんだ〉という彼自身の言葉を、比喩のようにちょうど、証明する手立てとなりうるのである。痛くて苦しかろうが、でたらめには屈したくない、と言わんばかりのアティテュードは、曲者であるはずの野郎どもが非力な小僧にどうしてか圧倒されてしまうことの十分な理由になっている。
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2011年09月09日
 疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day’s〜(1) (ヤングマガジンコミックス)

 佐木飛朗斗という作家性に対して好意的な読み手のつもりだが、この現代に『特攻の拓』の前日譚が描かれることにはどんな意味があるのか。所十三と再びタッグを組み、あの天羽セロニアス時貞を主人公に据えて、浅川拓が登場してくる一年前を舞台に展開されるのが『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』である。

 たとえば『外天の夏』(漫画・東直輝)や『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)の壮絶な破綻(いやいや、まあね)によって浮き彫りになったのは、不良少年と横浜の抗争劇を題材にした佐木の諸作品をサーガとするのであれば、全ての発端であり、オリジナルにあたる『疾風伝説 特攻の拓』で、とりわけ天羽時貞の生と死を通じ、提示されたテーマの困難さであった。

 しかしてそのテーマを簡単に述べるなら、宮沢賢治的な善性は戦争を止められるか、になるだろう。『特攻の拓』本編のラスト、例のきわめて抽象化された結末は、そうしたテーマの実現が、幻想のように儚いものであることを明らかにしている。

 もちろん、宮沢賢治的な善性は戦争を止められる、という断言こそ、佐木の織り成した宇宙が混乱の果てに導き出したい結論に他ならない。そしてそれは、正しく困難であるがゆえに、テーマとして踏まえるのに相応しい重量を持ちえるのだし、『外天の夏』や『爆麗音』あるいは『R-16』(漫画・桑原真也)の物語に、ある種の敗北を刻み込んでしまったのだった。

 だが、佐木の手によるサーガにおいて、上記のテーマを叶えられた人物が全くいないわけではない。ここで思い出されるべきは、つまり、『特攻の拓』本編の「増天寺」でのライヴである。天羽時貞のギターは、宮沢賢治的な善性と音楽とを強く結びつけ、敵味方の境を越えながら、確かにコスモスに値する瞬間を、俗情の場に、祝祭の中に、歓喜と共に誕生させていた。

 ああ、『春と修羅』よ。青い森の挽歌よ。外伝『〜Early Day's〜』で引用される宮沢の詩は、在りし日に天羽が抱えていた苦悩をあたかも代弁していくようだ。〈みんなむかしからのきやうだいなのだから / けっしてひとりをいのってはいけない〉

 天羽時貞は、『特攻の拓』本編で、同じ獏羅天のヒロシとキヨシや心を通わせた拓のことをブロウ(兄弟)と呼んだ。外伝『〜Early Day's〜』では、幼年期の友人ラファエルが、かつてNYのイーストハーレムで起こった暴動を指し、〈オレ達が“兄弟達(ブロウ)”と呼んでた隣人が よってたかってオレ達から“愛する者”を奪ったってワケさ‥‥〉と言っている。暴動のせいで、ラファエルは母親を失い、天羽は父親(トキオミ)と母親(ステファニ)を亡くした。死の商人である祖父(時継)に引き取られ、天羽が日本に渡ってきたのは、周知の通りであるが、暴力を糧とする血筋であるにもかかわらず、暴力によってルーツを奪われてしまったことが、彼の内面を複雑に歪ませているのと同時に、おそらくはポエティックな純粋に洗われたいと願わせているのである。

 日本で天羽に再会したラファエルの妹ゾーイは、損なわれてしまった過去を〈‥‥祈っても無理‥‥“壊れた砂時計”は逆様(アップサイドダウン)には出来ないわ‥‥ もう‥‥“刻”は戻せないのよ‥‥ セロニアス〉と振り返る。ここには暴力を反転させることで平和を得ようとした『外天の夏』のさらなる逆説がうかがえるだろう。

 外伝『〜Early Day's〜』は、『特攻の拓』本編よりも時代を遡り、そのヴァリエーションである『外天の夏』の遙か昔を舞台にしている。けれども、試みのレベルでは、『外天の夏』や、音楽をモチーフにした『爆麗音』のもう一歩先を見据えているのだと思う。とするのであれば、それがこの現代に描かれることの意味となってくるのではないか。もしかしたら。

 ところでこの1巻には、『特攻の拓』本編において既に死者であった半村誠が天羽に関わる重要な一人としてキャスティングされている。『特攻の拓』本編で示唆されている通り、ある意味、浅川拓の分身(ダブル)ともいえる存在だ。誠が自分の後ろに天羽を乗せてバイクを走らせるシーンは、必然、のちに二人とも命を落とすことを考えさせるのだから、非常に印象的な輝きを持つ。

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』(漫画・東直輝)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』1巻(漫画・東直輝)について→こちら
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他所十三に関する文章
 『AL』4巻について→こちら
 『D-ZOIC』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら 
 『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2011年09月07日
 mag40.jpg

 荒木光の『ヤンキー塾へ行く』は『ヤングマガジン』の38号から40号の三週に渡り、「YM次世代登竜門 “若BUTA”シリーズ」の第7弾として掲載された。要するに、新人マンガ家の試金石であるような作品である。過去にスピリッツ賞で入選を果たし、第61回ちばてつや賞で佳作に選ばれ、今までも『ヤングマガジン』に何度か読み切りを発表している作者だが、ここではやや長めのストーリー(連載形式の短編)に挑戦することとなった。内容はといえば、ほぼ『ヤンキー塾へ行く』という題名にあるとおりだといえるだろう。

 主人公の碇石は、ケンカで鳴らす中学3年生である。根っからヤンキーの宇都宮、そしてオタクふうな高見沢とつるみ、他の学校にもその名を響かせている。それが9月のあるとき、宮本奈津子という好みのタイプと出会い、高校受験に向けて、進学塾に通いはじめるのだった。

 はたして碇石の恋愛と進路はうまくいくのだろうか。と、普通なら進んで行ってもいいプロットだけれども、物語は逆の方向に進む。少年院に入っていたはずの後輩、乱太郎が帰ってきたことから、宇都宮と高見沢に火の粉が降りかかり、それに対してどうリアクションをとるべきか。更正することの成果ではなく、不良少年の友情とプライドに碇石の心は動かされていくのだ。まあ、ヤンキーって根は正直だし欺瞞が大嫌いだよね、的な言説のヴァリエーションだと受け取られてしまいかねないあたりは弱く、世間に規定されたレールを逸れることこそが若さであり、反抗だと言わんばかりの結末は、いささか古くさく見えもする。

 第一話、突然勉強に励みだした碇石のことを高見沢が〈え!? 碇石 桜並高校受けんの!? ムリに決まってんじゃん あそこ偏差値70だろ!? 俺ら 益中生の進路は益垣高校か ちりめん工場って決まってんだから!!〉と言っているが、正直なところ、そちらに流れてしまう方が、彼らの将来にとっては規定の路線であって、安易なのではないか。こうした問いに答えられるだけの結末が用意されていないため、ヤンキーに好意的なステレオタイプにとどまってしまっているのだ。

 もちろん、作者が不良少年に託しているのは青春のイメージなのかもしれない。たとえ俗悪であろうとも、後先を省みないことでしか得られない輝きなのかもしれない。が、あえて、なのだろう。主人公の内面を外から、つまりは他の登場人物から、あるいは読者から覗けないものにしたせいで、傍迷惑な小僧たちが好き勝手にやってらあ、以上の印象をもたらさないのが、悔しい。

 しかしながら第三話、狂犬のようなモードを碇石が取り戻すクライマックスに入って、それまでのフラストレーションが思い切りのよいカタルシスに転換する。その様式美にも似た構成には、ヤンキーを題材としたがゆえの魅力が溢れる。乱太郎のおっかなさがラストで弱まるのは、いくらかもったいない気がするものの、変節を良しとしなかった碇石との対照を、良くも悪くも、浮き彫りにしているのだと思う。
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2011年07月31日
 蒼太の包丁 30 (マンサンコミックス)

 北丘蒼太、ついに銀座の名店「富み久」の板長になる。絵の上ではいつまでも若々しく見える主人公だが、物語のレベルではそれだけの道のりを歩んできたということだ。以前にも述べたことがあるとおり、料理マンガにしては珍しく、作内の時間進行を歪めずに、真っ当な成長ロマンを描き出ている点が、『蒼太の包丁』の大きな魅力だろう。他方でたとえば、せきやてつじの『バンビーノ!』などが、ドラマのインパクトを強めよう強めようとするあまり、現実感をワキに追いやってしまっているのに比べて、じっくり地に足の着いたストーリーを編み続けられているのを、特徴の一つに挙げられる。おそらくはその実直さを高く買われるべきだと思うし、実際にすぐれてオーソドックスであることが内容の確かさを裏付けている。再開発の影響を考慮し、親方は「富み久」を暖簾分け、そちらに営業の主を持っていくことを決心する。兄弟子の山村が正式な後継者となって「分富み久」を任された結果、蒼太は板長として本店を守っていくことになるのだった。連載の300回目にあたり、新たな「富み久」の門出を前祝いした「分かれ目の日」は、この30巻に収められている。これまでの積み重ねを結晶したエピソードである。セリフが全くない前半に置かれているのは、何気ない日常の業務に他ならない。事件らしい事件が起こるのでもない。しかし淡々とした風景の中に、複数が交差させる視線を通じて、間近に失われてしまう現在への感傷を事細やかに落とし込む。そうした手法が鮮やかに見えてくるのは、読み手にとってもまた、あの馴染み深い場所が変わらざるをえない成り行きを、強く、惜しませるためであって、すなわち、作内の時間進行を共有させることに成功しているのだ。現在に対する感傷は、誰かに限定されたものではない。誰もが経験しうるものだろう。それをうまくすくい取っているのである。後半において、やっと主人公のセリフが入ってくる。そこで、これがあくまでも蒼太という中心点を持った物語であることが改めて確認される。「富み久」の本店を前に、背筋を伸ばした彼の顔つきは非常に精悍だといえる。成長は人を逞しくする。どんな困難に突き当たろうが、くじけまい。逞しくなっていこうとする姿が、物語をぶれさせないだけのテーマになりえている。

 25巻について→こちら
 24巻について→こちら
 22巻について→こちら
 20巻について→こちら
 18巻について→こちら
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 16巻について→こちら
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2011年07月15日
 マンガ家よゐよゐ (ワイドKC キス)

 これは非常に楽しい一冊である。マンガの、とくに少女マンガのファンであれば、にやにやせざるをえないトピックが詰まっているのだった。なかはら★ももたの『マンガ家よゐよゐ』だが、同業者や飲食店に取材したエッセイ・マンガは、今や決して珍しくはないのであって、その点を見るかぎりでは安易な企画に思われるし、確かにそれは作中で速やかに指摘されてはいるのだけれど、毎回の短い紙幅を通じ、意外と資料性の高いマニアックなエピソードが、ばんばん飛び出してくるところに、まるで宝の山のような輝きを得られる。登場しているマンガ家は以下のとおり。カトリーヌあやこ、久保ミツロウ、ひうらさとる、柘植文、稚野鳥子、おかざき真理、池沢理美、松苗あけみ、高須賀由枝、花津ハナヨ、水城せとな、東村アキコ。と、大御所から中堅、若手まで、ヒットメーカーがずらりと並ぶ。当然、裏話の類がおもしろくないわけがないのだが、それに演出を加えて、ショート・ストーリーのごとくルポルタージュ化していくなかはらの手つきが、最も褒められるべき個所であると思う。久保のように予てより交流の知れている作家も出てはいるものの、たとえばツイッターで対談相手を探したり、たとえばグーグル・マップで訪問先の店舗を見つけたり、の段取りには、今日ならではのエッセンスがあるし、それを入口にして、アルコール込みのコミュニケーションに描かれているのは、いわばホストとゲストのあいだの距離であろう。この距離、つまり言い換えるのであれば、なかはらの視線が、各エピソードの盛り上がりをヴァリエーション豊かにしているのだ。プライヴェートがどうの、といのは驚くほど少なく、にもかかわらず、各人の人柄が強く実感させられる。これが『マンガ家よゐよゐ』の魅力である。もちろん、毎回の主人公にあたるマンガ家たちのあれこれはどれも、デビュー以来のキャリアや創作のスタンスがコンパクトに総括されており、おおっとここで引用してしまうのがもったいないぐらいに興味深い。最初にも述べたのだったが、少女マンガのファンであれば、非常に楽しい一冊だと間違いなくいえる。

・その他なかはら★ももたに関する文章
 『おかわり のんdeぽ庵』(原作・イタバシマサヒロ)
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2011年07月09日
 行徳魚屋浪漫 スーパーバイトJ(1) (少年チャンピオン・コミックス)

 まさか、売れていないギャグ作家はマンガ家マンガを描くことでしかキャリアを生き残れない、式のユーモアとしては最高に退屈なパターンを沼田純も行くかよ、という懸念もあるにはあったのだが、あのマンガ家やあのマンガ家たちとは違い、たんに自虐を切り売りするだけで終わっていない。もう一ひねりを加えてあるところに『行徳魚屋浪漫 スーパーバイトJ』の魅力を感じられたい。完全に独自の路線をとっていることが、記念すべき1巻の段階からすでに如実であろう。ふつう、この手の作者本人を取材対象にしたかのような作品は、暗い性格で社会に不適合な自分のアピール合戦になりがちであって、ある場合にはろくに労働した経験のないことを話のタネにしていくものだけれど、『行徳魚屋浪漫 スーパーバイトJ』においては、スーパーの鮮魚売り場で日々アルバイトに励む主人公の姿が、大きくクローズ・アップされているし、ギャグ・マンガならでは、なデフォルメの手法も、非常に明るい使われ方をしている。まあ、日常の共感をベースにおかしさを誘っているため、過剰な自意識をトリガーにしている点に変わりはないとはいえ、同情的な評価に頼っていないその清々しさに、否応なく好感度が高まってしまうのである。いや、細かい部分を見ていくと、あんがいシビアな現実が浮かび上がる。だってさ、第5話でけっこう良くしてくれていた店長が、第28話では副店長になっちゃっていたりするんだぜ。なかなかせつないよね。しかしそれはそれ。一つのエピソードをきっちりとギャグに落としていく矜持が、『行徳魚屋浪漫 スーパーバイトJ』の本領であると思う。

・その他沼田純に関する文章
 『トンボー』について→こちら
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2011年06月17日
 MOMO 7 (りぼんマスコットコミックス)

 あなたがいれば生きていける。あなたがいなければ生きていかれない。両者はほとんど同じことを言っている。酒井まゆ『MOMO』の最終巻にあたる。7巻である。このマンガには、半径が小さい世界に対する共感を現代的なフィクションにおけるリアリティだとしたとき、一つの究極ともとれる問いが含まれていたように思う。すなわち、自分にとって絶対の人が目の前から消え去ってしまうとしたら、文字通りに広い意味での世界、つまりは地球そのものの存在を拒否することが許されるかどうか。そうした課題に、実際に神に近しい決定権の与えられた少女が直面するのだった。ヒロインがダブルであり、また年齢差をともなっている点も、上に記した内容のなかに、しっかりとした手応えを残しているだろう。生きるというのは、必ずや時間の流れと同期される。幼さを一段階ずつ乗り越えていくことが、普通、成長とされるのであって、夢とモモの非対称な関係を通じ、まじまじと見直されていたのはそれだ。狭い意味でろうが大きな意味であろうが、世界とは、おそらく複数の視線が交わる場所に他ならない。幸福も不幸も悲しみも喜びもあたたかさも寂しさも、多義的であるがゆえに悩まされるだけの価値がある。結局はその悩みを引き受けることでしか、自分以外の誰かを愛おしいと信じられる主体は確認できない。俯瞰で描かれた結末は、読み手と作品のテーマとを真向かいにさせる。物語上の帰結であると解釈されたい。ところで、本巻に併録されている読み切りの「17o'clocks」もそうだし、同時にコミックスがリリースされた『クレマチカ靴店』もそうなのだけれど、作者の細心は、喪失感が織り込み済みで当然であるような世界をいかに輝かせられるかに向けられているみたいなのだったが、その試みは目下、いや確かな成功と感動に繋がっている。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他酒井まゆに関する文章
 『クレマチカ靴店』1話目について→こちら
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2011年06月10日
 ナンバデッドエンド 13

 どんな運命も変えられる。絶対に変わる。誰にだって変えることができる。たとえそれが寝言だとしても夢を見たっていい。ささやかな夢さえ見られず、叶えることを諦めてしまったまま、クソのような世界をクズのように生きるしかなかったら、とても寂しいではないか。つらすぎるではないか。小沢としおの『ナンバデッドエンド』13巻である。

 もしも全ての望みを断たれることを絶望というのであれば、正しくそのためにぐれ、家族や友人たちすら拒否し、アウトローの道にずぶずぶはまっていく難破剛だったが、ヤクザである梶原の誘いに耳を傾けるも一線を踏み越えてしまうことは躊躇していた。藤田深雪の説得がなかったなら、ヤクザの片棒を担いでいてかもしれない。さ迷い、良心にとどまった剛は、非合法な仕事を押しつけられた仲間を救うべく、梶原と対決することになるのだった。以上が、前巻のあらすじであって、この巻では、再びそこから明るい方へ明るい方へ、歩みを得ていこうとする剛の姿が描かれる。無論、杞憂がまったく消え去ったわけではないのだけれど、ようやく取り戻された笑みに重ね合わせられているのは、間違いなく希望だと思う。

 高校をドロップアウトせざるをえなかった主人公に、梶原や不良仲間であるタカシが突きつけてくる問いは、熾烈であり、本質的なものであっただけに、よくぞそれを受けて立ったという感動が、物語の帰結としては、ある。12巻で、すがるものを失くしていた剛にタカシは〈難破さん…アンタ…どこに向かってる? これから どーするつもりなんスか? シャバ校追い出されてわかったハズだぜ オレら 向こうじゃ相手にもされねぇ…難破さん…表で勝てねぇならよ 裏で勝ってやろうよ オレらバカにしたヤツら 高ぇとこから見下ろしてやろうぜ〉と訴えかける。そしてそれはさらに、梶原の、次のような言葉に変換され、激しく剛を揺さぶるのである。〈いーこと教えてやるよ 難破…人間にはよ…運命つーのかな…しかるべき場所ってモンがあってよ オメーの生きる場所は こっちだぜ…生きる場所間違えると つれぇだけだ…〉

 生まれや育ち(遺伝や環境)のせいで悪に走るよりほかない人間がいる。ゾライズム(フランス自然主義)の変奏ともいえるこのテーマは、近年のヤンキー・マンガにおいて根幹に関わるものであり、また『ナンバMG5』及び『ナンバデッドエンド』にとっても、ギャグとシリアスの双方のパートを分け隔てることなく、実に抜き差しならないものであった。はからずも剛の退学は、運命は変わらない、変えられない、そのせつなさを実証してしまったのであって、絶望の重みもそこによっていたのだ。

 作者はしかし、それに対しての反論を試み、しっかりと成功させているので、フィクションならではの絵空事でありながら、ちゃんと地に足の着いた感動が備わっている。このとき、剛の兄である難破猛が、恋人のカズミを妊娠させたため、求職に励まなければならない、というワキのエピソードは、主人公の変節に直接絡んでこないにもかかわらず、重要な意味合いを持ちえてくる。不良少年として生きてきた人間が社会的な立場と責任をどう引き受けるか。学校の外側を舞台に、すなわち大人のテリトリーであるようなそこで、本来であればアウトサイドに転んでもおかしくはないはずの存在が、当然と定められた成り行きに逆行していく。この奮闘が、主人公の憂鬱と二重写しになり、作品自体の説得力を強く高めているのである。

 ああ、そして家族や友人たちと和解を果たした剛に、猛がこうかける言葉を聞き、おんおん泣こう。〈剛 もう誰もジャマしねーからよ やりてぇこと思いっきりやっていいんだぜ (略) 進路決める紙に美大って書いた時のオメーは 今のオレと同じ気持ちだったのかなって思ってよ…オレ オメーがさっきオレに言ってくれたみてぇに “やりたいこと見つかってよかったな おめでとう”って…なんであん時 オメーに言ってやれなかったのかな… “おめでとう”って言うかわりに…オメーをウソつき呼ばわりしてブン殴っちまった…ダッセー兄貴だぜ〉って、いいね、兄弟っていいね、家族っていいね。

 このマンガのホーム・ドラマとしても抜群にすぐれているところが、二人のやりとりにはよく出ているのだし、しばしば感情は大切なことを隠してしまうが、しばしば感情は大切なものを教えてくれる、そのような真理が、涙のなかに花開いている。

 と、まじめな話はここまでだ。何はともあれ、『ナンバデッドエンド』のヒロインはてっきり伍代だとばかり思っていたのだったが(男じゃんね、とか言わない)、ここにきて藤田さんの活躍が目覚ましく、見事にその座を奪還したな、うんうん、であろう。いや、疎遠になっていた剛からの電話を受け取り、はにかんでいるみたいな素振りを見せる伍代はさすがにキュートであるけれど、あれだけ殺伐としていた展開を経、間もなくラブコメがかった空気に持って行けたのは、やはり藤田さんという大きな発明のおかげなのだ。剛の後輩にあたる弥生ぐらいの個性では、物語を旋回させるのに必要な馬力が足りなかった。

 しかして、まさかの熱愛ムードに入った剛と藤田さんの浮かれっぷりときたら。恋は魔法というけれど、その魔法の、最高にポジティヴな面が惜しみなく達成されており、にやにやせざるをえない。幸福は一人で抱えるのではない。誰かと分かち合えてはじめて掛け替えのない価値を示す。信じられるかな。孤独な運命はいつしか絶対に変えられる。

 11巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『ナンバMG5』
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら 
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
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2011年06月01日
 サユリ 2 (バーズコミックス)

 はたして押切蓮介に望むべくは本当にシリアスなストーリーばかりなのか、という近年の作風に顕著な問題はさておき、悪霊こええええ、であって、婆ちゃんつええええ、であろうなのが、この2巻で完結を迎えた『サユリ』である。ギャグの有無はどうであれ、そもそもがホラー・マンガの作家には違いがなかったのだけれど、曰く付きの一軒家へ移り住んだせいで謎の少女に祟られる家族の恐怖と不幸を前面化する、このような手法は、ジャンル上のイディオムを考慮するのであったら、超どストレートだと思えたし、実際に1巻の段階では、おっかなさしかないじゃねえか、と目を覆いたくならざるをえない描写が豊富だったわけだが、しかし、ここにきて急展開が訪れると同時に、作者ならではの精神論といおうか根性論といおうか、とにかくそれが大爆発している。過去にも述べたことがあるとおり、家族のイメージは押切にとって特徴的なモチーフだといえるだろう。家族とは時に孤独と同義になりうる。家族とは時に孤独の反語になりうる。弱さになりうるのであり、強さになりうるのである。そして『サユリ』において、前者は、悪霊こええええ、に集約されていき、後者は、婆ちゃんつええええ、に象徴されていく。前者から覗かれる闇が深ければ深いだけ、後者に垣間見られる光は頼もしさを増している。主人公一家に降りかかる悲劇を、たとえそれが当人たちの与り知らぬ怪奇現象であったとしても、決して天災ではない、人災にほかならないレベルで扱っている点は、重要だ。二つの家族の運命を加害者と被害者の理論で分け隔てていくクライマックスも、あるいは全てが損なわれて喪われて失われ尽くしたあとで新たな希望が織り直されていく結末も、正しくそこによっている。人が人を苦しめるのと同様、人は人を救うことができる。少年は祖母に向かって問うた。〈…死ぬ事が恐ろしいと思うのは…死んだ後に恐ろしい事が待ってる事を予感するからなのかな…たとえば…「地獄」とか…〉と。これに対して祖母は次のように答える。〈そりゃあお前…存在せんと割りに合わん 何故なら人間善し悪し…様々な生き方をしていくからな 死んで行き着く先が同じであるなんて事…あってはならん 真っ当に生きてきた者達が納得いくわきゃねーだろう?〉という彼女の言葉は、確かに因果応報を説いてはいても、いや決して無差別な平等を諭してはいるのではないと思う。〈この世は理不尽…全ての不幸をまたいで生きていく事など到底不可能じゃ〉すなわち誰もが不平等に生きなければならない世界で起きる様々な軋轢の引き受け方を暗に示しているので、心に残る。

・その他押切蓮介に関する文章
 『ゆうやみ特攻隊』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『でろでろ』
  15巻について→こちら
 『ミスミソウ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『プピポー!』
  1巻について→こちら
 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
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2011年05月30日
 放課後関ヶ原 1 (プリンセスコミックスデラックス)

 うんうん、やっぱりこれ、好きである。歴史の知識をホモ・ソーシャルな関係やユーモラスなプロットに置き換えることでギャグ化する、という手法は、ある意味で現代的だといえるが、阿部川キネコの『放課後関ヶ原』の1巻は、とかく悪のりの部分にかかるドライヴを、これでもか、というほどに徹底しながら、半笑いの白けムードを払拭してみせるのだった。もしかしたらテレビ番組の『戦国鍋TV』にニアなアプローチだと思うし、そこがまた好きである。

 ごく普通の高校生であるにもかかわらず、なぜか〈前世が武将だった者たちが共に学び戦う戦場(スクール)である〉戦立関ヶ原学園に転校してきた小松右京は、有名武将の生まれ変わりと次々に遭遇するのだったが、しかしそれは同時に一癖も二癖もある彼らの言動に振り回されることでもあった。だいたい、学園内のルールにしても滅茶苦茶なものばっかりじゃねえか。かくして主人公に降りかかる災難が、バトルからロマンスまで、各種のマンガ表現をパロディとするなかに描かれていくのだ。

 何より、掲載誌である『月刊プリンセス』の愛読者を「プリジェンヌ」と呼び、作外(メタ・レベル)への目配せをふんだんに盛り込むことで、えげつなさのリミットをオフにしているのが、最大の成果だろう。それによって暴走と喩えられるような幅の広いボケが繰り広げられる。まさかタイトルの元ネタはかつて『月刊プリンセス』に発表されていた水城せとなの『放課後保健室』なのかもしれないし。

 前世が不明なため流浪人扱いされる=大勢の武将に興味を抱かれてスカウトされる右京の境遇は自分探しのパロディになっているのだけれども、それを含め、なぜこんな設定になっているのかが、学園もののフォーマットと不自然なく結び付いている点は、強い。いやむしろ、前世を素質とする生徒の収容は、学園ものにおいて、一つの伝統ですらあるのだったが、そこからイレギュラーな展開に持っていく鉄腕ぶり、惚れ惚れとしてしまうはっちゃけぶりが、たいへん痛快なんだよね、なんだった。
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2011年05月28日
 報道ギャングABSURD! 1 (プレイコミック シリーズ)

 狂気とハードボイルドは、米原秀幸というマンガ家にとって、初期の頃より得意としていたパフォーマンスだろう。『箕輪道伝説』において、学園もの、不良マンガのフォーマットに落とし込まれたそれは、続く『ウダウダやってるヒマはねェ!』で、病んだ魂を抱えながらもパワフルに生きようとする少年たちの群像へと移し換えられた。15年後、あの少年たちはどうしているのだろうか。といえば、ここにいた。『ウダウダやってるヒマはねェ!』でワキを飾った人物が、ジャーナリズムを武器に、この社会の暗部を切り出していく姿を描いているのが、『報道ギャングABSURD(アブサード)!』の1巻である。

 Jソンこと松郷勇は働き盛り、妻子を得、幸せな生活を送っていたはずだったが、実際には会社をリストラされたことを家族に言えず、しがなく公園で時間を潰す毎日を送っていた。しかしまさか、高校時代の後輩である蘭岳四郎に再会したせいで、予期せぬ事態に巻き込まれてしまう。アンダーグラウンドのジャーナリストであり、業界ではABSURD(滅茶苦茶野郎)と呼ばれる四郎から、元々はヴィデオ・カメラの営業をしていた実績を買われたJソンは、無理やり彼の仕事を手伝わされながら、次々とアンタッチャブルな領域に足を踏み入れるのだった。

 掲載が青年誌にあたる『プレイコミック』ということもあって、中年男性の再生を基本的なプロットに置いていると見ていいのだけれど、一方でやはり、どれだけの年齢を重ねたところで決して去勢されないアウトローの大胆な行動に、作者のイメージはよく出ていると思う。前者はJソンのパーソナリティに、後者は四郎のパーソナリティに、分担されており、ある種の対照が、二人の人間性に厚みを出すものとなっている。無論、バディものとしてのドラマもそこに生まれているわけだ。

 ところで米原は、この『報道ギャングABSURD!』と同時に『ヤングチャンピオン』で『Vision NOA』という作品を発表している。そちらではなんと『ウダウダやってるヒマはねェ!』の主人公であった島田亜輝の息子であるらしい島田乃亜をメインに据えた展開が進んでいて、赤城直巳や鬼場洋平などの懐かしい面々が登場しているのだったが、どちらも凶悪犯罪に関わることを不可避なテーマに置いている以上、いずれ物語がクロスオーヴァーもしくはニアミスする可能性を孕む。いやまあ、そうなったらそうなったで楽しみなのは、必ずしも同窓会的な意味合いのみではない(不良マンガの文脈においては重要なイベントだが、しかし)。おそらくは、さまざまな狂気がハードボイルドの世界で一点に重なり合う。その瞬間を目の当たりにするだろうと予感させるからなのである。

・その他米原秀幸に関する文章
 『風が如く』8巻について→こちら
 『南風!BunBun』1話について→こちら
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2011年05月24日
 ギャングキング 21巻 (ヤングキングコミックス)

 やはり柳内大樹の本領は、ポジティヴ馬鹿を魅力的に描くこと、にあると思う。『ギャングキング』の21巻である。いささかテーマ主義的であった「ワークマンズ編」やジミーとピンコによる二度目の対戦を経、作品は再び学園レベルのロマン(国盗り合戦、軍記もの)に回帰する。しかし物語はいったん主人公であるジミーと薔薇学を離れていき、舞台をサワ校(小金沢高校)に移す。そこで登場し、活躍するのが、バンコと旧知のハマーであって、奴のすばらしきポジティヴ馬鹿シンキングっぷりに作者の持ち味がよく出ているのだった。

 たとえば、ハマーの屈託のなさを前にバンコはこう思う。〈……… そうだ……… 忘れてたぜ…… 俺の中で…… 昔から……… 今まで出会った……… 誰よりもデケエと思った人間…… マッスルくんと……… 竜針さん………(引用者注・ジミーのカットが入る)……………… そして…… 誰よりも当たり前に生きている……… おまえだったな… ハマー……〉と、つまりは『ギャングキング』の良心とでもいうべき人物たちに匹敵するだけのカリスマが彼に備わっていることを暗示しているのだったが、いや実際にハマーの決してふてくさらない態度は、ここ最近続いていたダウナーな展開を払拭している。

 そしてもしかすればそれは、ジミーの存在感からじょじょに失われつつあったものでもある。またおそらく、ジミーと距離を置こうとしているバンコが再会したハマーに見出したのも、それであろう。

 テーマ主義的なアプローチにおいて柳内がキーとしていたのは、過去にもさんざん述べてきたとおり、想像力、の問題である。この世界が不可避に暴力を孕んでいるとするとしたら、想像力を張り巡らすことでしか人は悲劇と渡り合えないのではないか。想像力を手放さないことはア・プリオリな不幸を生き抜いていくことでもある。このような解釈が可能である認識はまず、ギャングの王を目指すピンコの言動に顕著であったといえる。とくに20巻でピンコがジミーに述べている主張は総合的だ。

 いわく〈どいつもこいつも………… 『現実的に守りきれない』という理屈だけだっ… イメージ(想像)がたりないんだ……! おまえは…… 人間の持つ… 本当の“狂気”を知ってるか……? 俺は知ってる……… つもりだ……! ………アウシュビッツがいい例だ… ボタン一つで何十人も殺せるガス室… 鼻歌まじりで子供を殺す奴… 死んだ者の金歯を抜いて金に換える奴…… まるで羽毛布団のように死んだ者の髪の毛を集めて作られた布団… 銃を向けられ『助けてくれ 撃たないでくれ』と懇願する者の目を見て笑いながら殺せる奴…… そんなの信じられるか……? けどそれは… ついこの間までパン屋だったオヤジや教師や学生だった奴等が…… 戦争勃発とヒトラーというカリスマの出現により実際に行われていたことだ…… そんな普通の人間だった奴等が…… なぜそんな残酷なことができるように変わっちまったかわかるか……? それは人間がイメージを遮断できる生き物だからだ… 自分の精神を守るためのイメージの遮断…… その“イメージ(想像)の遮断”こそが…… すべての自分自身の『不幸』に繋がってるとも知らずに……〉

 イメージを遮断してはいけない。想像力を捨ててはいけない。はたして自分たちが暴力団と同等の扱いを受けることも厭わぬピンコとチーム「ジャスティス」の脅威が正当化されるかどうかの判断はつきかねるが、その倫理に全くの説得力がないわけではなかった。一方で注意しておきたいのは、ピンコに代表されている想像力はあくまでも、暗いもの、としてあらわれていることにほかならない。先の場面で、ジミーに〈…… そこまでわかってて……… なんでおまえは不幸なんだ………?〉と問われたピンコが〈……… じゃあ俺は… イメージするのがあまりうまくないのかもな…〉と答えているのを看過してはならない。

 もしも想像力に、暗いもの、と、明るいもの、があるとすれば、『ギャングキング』のなかで、前者はピンコに象徴されている。では、後者に見られるべきは誰か、といったところで、もちろん本来なら主人公のジミーが引き受けてもよさそうな役割を代替することになったのが、たぶんハマーというカリスマである。

 『ギャングキング オフィシャルキャラクターブック UNDERCOVER』に収められた田中聖との対談で、田中が好きな言葉に〈やっぱり「イメージしろよ」かな〉と挙げているのを受け、柳内はハマーについて以下のような発言をしている。〈ああ…。「イメージはリアルを超える」って最近はホントそう思ってる。ハマーってキャラクターは、ヒドイ目に遭ってるからすごいんじゃなくて、イメージする力が強いんだよね。俺の周りにもいるんだけど、ヒドイ目に遭ってもないのに、人の辛いことが誰よりも理解できる人や、優しい人を見ると、「イメージにはかなわねえな」って思う〉

 そこにはピンコとハマーの差異がはっきり浮かび上がっているように思う。要は、〈ヒドイ目に遭ってるからすごい〉イメージを持てているのがピンコだとしたら、〈ヒドイ目に遭ってもないのに〉イメージを強く保てているのがハマーなのであって、暗い想像力と明るい想像力の違いも、その一点で区別されている。かつて恋人が強姦(レイプ)されそうになったせいで社会への懐疑を抱いたピンコと、見ず知らずの女性が強姦(レイプ)されそうになっているのを助けたことから夢を追われたハマーの存在は、ある種の対照になっているのだろう。

 当然、おいおい、じゃあジミーの役割は何なんだよ、という話ではあるけれど、以前の段階を、想像力を持たない者と想像力を持つ者のあいだを行き来する存在だったとするのであれば、現時点では、暗い想像力と明るい想像力を行き来する存在になっている、と仮定することがさしあたりはできるし、最近のジミーときたらどうも中途半端だよね、と思われてしまうのも結局はそのためであった。

 20巻について→こちら
 19巻について→こちら
 18巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一) 
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『新説!さかもっちゃん』1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2011年05月14日
 trip (講談社コミックスフレンド B)

 それ以外の余剰を省き、あくまでも一対一の関係を切り取ってみせること。この『trip(トリップ)』には桜井まちこの魅力的な部分がよく出ているとは思う。しごく簡単に述べてしまうなら、内面の壊れた青年に声をかけられた女子高生が困難な恋愛に傷つく、というだけの展開が繰り広げられているにすぎないし、当然そこに目覚ましいほどの物語や事件を見つけるのは難しいのだったが、しかし作中人物たちのちょっとした表情であったり仕草であったり、本質的には何の解決も得ていないはずの、ラストの、そのカットから、鮮やかな印象が染み出しているところに作者の本領が発揮されているのは間違いない。確かに〈好きな人を想って想われる 至極プレーンな恋愛を夢見ていた〉つもりが、たった一つの出会いを経、〈会えなくなるくらいなら 想うだけでいい〉このような結論に行き着くまでの心の移動は、たわいないのかもしれないけれど、それを繊細な手つきで描いているなかに深い余韻が残されているのである。そして、雪、だ。「冬の塵」や『17[じゅうなな]』の読み手にしたら、静かに雪の降り積もっていく光景には、黒と白のしんしんとした色合いにすべてが消え入っていくようなイメージには、たいへん忘れがたいものがあるのであって、『trip』の結末においても、夜の闇が、まばゆい朝が、同様のすぐれた叙情を浮かび上がらせている。寂しく鳴り続ける携帯電話を置き去りにし、槇と慎太がどうなってしまったのかは知らない。二人に必ずしも幸福が訪れたとは考えられない。だが、目の前に存在する相手を他の誰よりも真に望んでいると信じられるとき、気持ちはこう動く。そのせつなさ、十分に一般化できるそのせつなさは、クリアな輝きとなってあらわれていた。

・その他桜井まちこに関する文章
 『17[じゅうなな]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2011年05月10日
 乱飛乱外(9) (シリウスコミックス)

 さすがにもういい年齢であるから、所謂ハーレム型のフィクションに胸をときめかせたりすることもないのだったが、この田中ほさなの『乱飛乱外』に関しては、素直に、すごく好きだ、と言えるのはつまり、ストーリーやテーマが、男の子の魅力とは何か、という問いをぐるりとめぐるなかに、エモーショナルでいて確かな手応えを残せているからなのだと思う。

 そしてそのことが、フォーマットの必要上、次々に新しい女性の人物を出さなければならないため、回り道をふんだんに用意せざるをえないにもかかわらず、作品の核を行方不明にはしていない。方向性を見失わないまま、ファン・サービスを注ぎ続けていたのも立派であるし、実際、最終9巻のエンディングには、たいへん充実した印象が備わっているじゃんね、であろう。

 長い旅の結末は、主人公である雷蔵と強敵である星眼がメイン・ヒロインにあたるかがりの争奪戦を繰り広げることによって迎えられていく。雷蔵と星眼の対照を通じ、男の子の魅力とは何か、が極めて明瞭に提出されているのである。そのとき重要なのは、各人における国盗り合戦、軍記ものレベルの野望が、各人における身の丈に合った正義の、あくまでも下位に回されていることだ。すなわち、意中であるような女性の歓心をどうすれば得られるか、に物語のプライオリティが置かれている。

 当然それは、男の子の魅力とは何か、の問いに言い換えられるのだけれど、ふつう、星眼みたいなライヴァルが主人公の前に立ちはだかり、バトルでしか勝敗を分けられぬ局面に入っていけば、巨大な使命が浮上し、何よりも優先されそうな展開になりがちだが、そうなってはいないところに注意しておきたい。

 男の子の魅力とは何か、という解答が必ずしも大義を果たすことで達成されるものではなくなっているのである。勝者と敗者の違いもそこで分けられていく。当初のインパクトからしたら、ここにきて星眼が弱体化したと受け取れるふしもあるにはあるが、ストーリーやテーマを考慮するのであれば、獲得し続ける者である雷蔵と喪失し続ける者である星眼の差が如実になった結果、そのように見えると解釈すべきだろう。

 恒久平和という巨大な使命のために多くの犠牲を惜しまない星眼は、やはり喪失し続ける者でしかないのだ。星眼が、かがりに執着するのは、ある意味でその空漠を脱するのに必要とされた目的だからなのであって、クライマックスに至り、雷蔵との入れ替わりが試みられるのは、喪失し続ける者が獲得し続ける者への反転を叶えるのに適した手段であるからにほかならない。

 ではしかし、雷蔵のいったいどこが獲得し続ける者としての資格に合致しているのか。もちろんそれは、男の子の魅力とは何か、と問うてみせることと同義であって、おそらくは誠実さにすべてが由来していることは、星眼に向けられるかがりの懐疑あるいは雷蔵に向けられるかがりの信頼に述べられている。すなわち彼女にとっての「との」は〈いつでも女子に誠実で――そのために身体を張って〉いたのであり〈こんな不実な方ではなかった!!!〉のだった。

 誠実さとは、一対一の関係を、見ると見られるの立場に区分したさい、前者が後者に与える評価だといえる。だが同時に、後者から前者への働きかけでもある。かがりの特殊能力である「神体合」は正しくその具体的な実用例になっていよう。誠実さが破られ、自他のフェアネスが歪められてしまったとき、「神体合」は「邪体合」に裏返り、術者に破滅をもたらすのである。

 そしてそれを救うことができるのもまた誠実さであった。どうしてかがりは、「神体合」の念者として、星眼ではなく、雷蔵を選んだのか。これはそのまま、男の子の魅力とは何か、を代弁するような展開を運んでくることになる。すでにいったとおり、誠実さをその解答に当てはめられるわけだが、一方で雷蔵の誠実さはどこからやって来ているのか。成りゆき、かがりと対峙しなければならなくなってしまう彼のせつなさに『乱飛乱外』の梗概が印される。

 いわく〈なんで失くすまで気が付かなかった? 初めて会った時から オレに向けてくれたあのまっすぐなまなざしこそが―― 里で誰からも相手にされてなかったこのオレに― 人を好きになる心を 人と関わる勇気を 与えてくれたんじゃなかったのか 見られることで 強くなってたのは オレの方だったのに――〉

 結局のところ、誠実さは個人が自動的に生成しうるものではない。互いに関与し合う個人と個人のあいだで手渡し、強要するのではなく、共有されるような心象なのだと思う。たとえハーレム型のフィクションだったとしてもそれが普遍的なものであることを期待する以上は変わらないであって欲しい。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2011年05月08日
 やまちち(1) (AKITA COMICS DELUXE)

 とにかく二話目が最高だし、おそらくは傑作だろう。しかし誤解を与えてはいけないのだったが、それはあくまでも二話目(第2話「水に流して」)に関してのみ言っているのであって、他のエピソードについては、まあね、程度の感想しか持たない。では、二話目と二話目以外のエピソードでは一体何が異なっているのか。これを述べることはそのまま吉沢緑時『やまちち』1巻の読みどころに触れることになると思われる。

 基本、このギャグ・マンガのギャグは、ディスコミュニケーションを患った人間の一方的な発信がはからずもコミュニケーションに届いてしまう、という意図せざる状況の可笑しさによっている。つまり、それが最もよく出ているのが二話目なのである。

 ヒロインのどかは、母親の事業が安定するまで長野に住んでいる祖母のもとに預けられることになった。小学生の身にしてみれば、それはたいへん寂しいことだ。また、都会にいた頃から内気な性格のために友達がいなかった彼女が新しい環境に不安を覚えるのも仕方がない。そこにつけ込んでくるのが妖怪のやまちちである。マイナーな妖怪であるやまちちは、インターネットで自分の検索数=知名度を上げるべく、のどかを利用することを企むのだった。

 のどかだけがやまちちの姿を見られる。したがって、やまちちだけがのどかに積極的なコミットメントを見せる。この関係性が『やまちち』の本質とコンセプトを支えているといえる。のどかとやまちちの繋がりは、社会からつまはじきにされている存在同士であるという点に由来しているのであり、両者と共同体との対照がある種のギャップを浮かび上がらせながら、そのギャップをのどかとやまちちのコンビネーションがエスカレートさせていくなかにギャグの色合いが強まっているのだ。

 換言するなら、のどかとやまちちのコンビネーションは異化効果に近しい役割を持っているのである。そして、両者の立ち位置をプレゼンテーションするにとどまらないそのコンビネーションに『やまちち』ならではの魅力が求められるだろう。

 二話目がとくにすぐれているのは、上記してきた条件を十分に満たしているためにほかならないのだけれど、いやまあ、いじけたまどかの機嫌をいやいや取ろうとするやまちちのしようもなさが、とにかく素晴らしいではないか。無論、学校裏サイトを覗いてしまったばっかりに痛手を受けてしまったまどかの暗い過去を前提にしているからこそ、やまちちのしようもなさは極めて明るいものとして生きてくるのだし、やまちちの下品でどうしようもないネタのいっそ清々しく感じられることが、所謂トラウマを題材にしたエンターテイメントよりも一段上のレベルに作品を引き上げているのは間違いない。

 すなわち、その相互作用を高く買える、と言いたい。しかるに二話目以外のエピソードでは、それが弱い。作者の過去作『ざんねんなこ、のんちゃん』と同様、自意識が壊れた人間と周囲のリアクションをデフォルメしているにすぎない。二話目の可笑しさのみがそこから先へ少し進んでいった場所にある。
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2011年05月05日
 おはようおかえり(1) (モーニングKC)

 少女マンガの出身ではあるものの、鳥飼茜の作風にはどこか、山崎紗也夏や安野モヨコに通じるところがあるのだから、活動の場をヤング誌に移そうが大きな違和感はないのであって、その、デリケートでありつつタフな内面同士をいかにコミュニケイトさせるか、に足場を置いたアプローチは『おはようおかえり』の1巻でも十分に冴えている。

 現代の京都を舞台にした作品である。二十五歳の青年、堂本一保と彼の二人の姉、三十一歳の奈保子と二十八歳の理保子を中心に、面倒くさい手続きを踏みながら、しかし軽やかな足取りで進むのも忘れず、コミカルに体温のよく出た人間模様が織り成されていく。家族、会社、恋人、という半径の狭い世界を切り出し、そこにある実感を読みでに変換しているのだった。

 無論、地に足を着けようとする暮らしにおいて食事のシーンは何よりも重要だし、社会へ出たところに生活のにおいを溢れさせているが、やはり、この作者の良さ、このマンガの良さは、主体と主体とが、それらが別個の主体であるかぎり、こうも簡単にすれ違ってしまう、その決してはかばかしくは事が運ばない様子に顕著であろうと思う。

 たとえば一保と恋人である女子大生の有里恵の、わだかまり、心の距離の、ありふれているがゆえに説得力の高い描写を見られたい。ほんの少し前までどんな不安もワキに除けられたはずの関係が、ちょっとした衝突でこんがらがり、いつの間にやら当ての外れた場所にと流されていってしまう。北山というアグレッシヴな青年の横槍と一保の受け身な態度とを比べ、いわゆる肉食系男子と草食系男子の対照に構図を落とし込むことも可能だけれど、どうあっても他人の気持ちだけは自分勝手に動かせない、こうした躓きにこそ一般化して頷けるだけの価値が備わっているのである。

 おはよう、と言い、おかえり、と言う。おかえり、と言い、いただきます、と言える。それはとてもささやかだが、幸福な信頼だろう。ちっぽけでありながら、日常の確かさを正しく伝える触れ合いだろう。機微のなかにその豊かさがたっぷり詰められている。

・その他鳥飼茜に関する文章
 「家出娘」について→こちら
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら
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2011年04月20日
 熱のこもったセリフ回しでもって作中人物の体温をあらかた説明してしまう手法を、もしも『MIXIM☆11』の弱点だとするのであれば、それは安西信行に固有のものとして見るより、師匠格にあたる藤田和日郎や吉田聡にまで敷衍されるべき問題であろう。しかしながら、すでに藤田や吉田が少年性のロマンティシズムからは降りてしまった(かのように感じられる)現在、その手法を通じ、なおもガッツあふれる展開を繰り広げているところに安西の良さ、ふんばりを認められたいのである。

 そして『MIXIM☆11』がこの12巻で完結した。少年マンガのジャンルにおいては、決して長い作品ではないものの、当初の物語からしたら、だいぶ矛先の違った場所に着地したなあ、という印象を抱くのは、おそらく主要な作中人物の役割が、前から出ている者よりも後から出てきた者のほうが活躍の機会を多く与えられてしまうため、必ずしも一貫していないと受け取れるあたりに由来していたと思う。反面、なんで男の子は女の子を守らなければいけないのか、なんで男の子は一番になることを目指しながら競い合うのか、なんで男の子は幾人もの仲間とつるみたがるのか、こうしたテーマの明確性を欠くことはほとんどなかった。

 終局では、各々方針の異なった男の子の意地と意地とを懸けて、ついに最強のライヴァルであるパンドラと主人公の祭壱松とが決戦を果たす。ここで両者のスタンスはあらかた熱のこもったセリフ回しでもって解説されているといってしまってよい。つまりは〈仲間の為? 息子の為? そんなちっぽけな大義の為に!! 闘う事も死ぬ事もできんわ!!〉と圧倒的な優位を述べるパンドラに対し、壱松が〈ちっぽけ…!? 小せえだとォ――っ!!? その言葉取り消せ!!! パンドラ!!!! 大事な奴の為 戦う事は小さくなんかねえんだ!!! オレ達が証明してやる!!!!〉という反論を試みる、それがバトルの勝敗を分けていくのである。

 いや正直なところ、パンドラの〈「人間は必ず裏切る」と思ってちょうどええ。他者に「期待する」事も「期待される」事も必要無い。これは自分の言動に責任を持つ覚悟や!!!〉こうした主張は、ある意味ひじょうに陳腐なのだが、しかしその暗さには、それが特別際立ったものではないがゆえに、共感しやすく、ひどく頷かされる現実味がある。ときに孤独は強烈な説得力になりえるのだ。けれども、少年性のロマンティシズムは決してそこで折れない。折れてはいけない。むしろ、儚く、空しい(かもしれない)トライに全身全霊を捧げることが必ずや幸福への手がかりをもたらす、と信じられるだけの姿形をしていて欲しい。

 ネガティヴなイメージをポジティヴなイメージが打ち砕く。パンドラとの決戦を経、最後に平和を守るべく宇宙に飛び立った壱松の、その眼差しに託されているのは、すべてが不可能だと断定された状況に置かれようが絶対に希望を諦めない、悲しみに心を奪われないほどの輝き、であろう。どんな呪いも断ち切れる。笑顔が笑顔に笑顔を繋いでいくエンディングは、正しく苦しみを踏み越えた先でしか得られない光景を、日常という安らぎのなかに描き出している。

 個人的には序盤の学園を舞台にしていた頃を高く買っていた作品なので、ファンタジー色の濃く出た後半はややつらいのだったが、それでも決めるべきところをきっちり決め、紆余曲折の果てに確かな足跡を残すことはできていると思う。巻末「THANX!!」の欄には吉田聡と藤田和日郎の名が見られる。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2011年04月16日
 爆音伝説カブラギ(2) (少年マガジンコミックス)

 周知のとおり、『月刊ヤングマガジン』4月号で佐木飛朗斗と所十三のコンビによる『疾風伝説 特攻の拓外伝〜Early Day's〜』の連載がスタートしている(現在は二話目まで発表されている)が、天羽時貞を主人公に置いたその作品に対する評価をいまいち決めかねてしまうのは、結局のところ、宮沢賢治的な聖性は戦争を止められるか、というテーマをもしももう一度やろうとしているのだとすれば、はたして時計の針を逆に戻していくことにどれだけの意味があるのか、多少の懐疑を挟み込む余地があるからなのだった。無論、意味はある。そう思えるだけの作品になってくれることを今はただ期待するのみである。

 あるいは佐木が『特攻の拓』以降、不良少年をモチーフに、編み続けながら、問い質してきたテーマは、むしろこの、東直輝と組んでいる『爆音伝説カブラギ』に求めるべきであろうか。『特攻の拓』や山田秋太郎との『爆麗音』、そして東との前々作『外天の夏』のその後の世界を直接に描いたマンガであって、桑原真也と組んだ『R-16』でも見られた群像のイメージ、つまり孤独な魂の繋がりを、主人公にあたる鏑木阿丸と桜庭多美牡の結束に重ね合わせてみせた展開を経、この2巻では、一年生の多美牡に裏切られ、威厳を損なったB・R・T(旧獏羅天)への粛正を、かつて獏羅天を破門された風神、雷神、龍神の三鬼龍が開始する。そうしたなかに、暴力に支配された若者のせつなさを描き出していく。

 言うまでもなく、三鬼龍の登場は『Early Day's』とのリンクを不可避に持っている。ヒロシ、キヨシ、天羽の存在を指していた風神、雷神、龍神の異名は、時代が移って、風間柾喜、雷沼雷蔵、そして春馬の別人に代替わりしている。だが、平和な社会における異端のさらなる異端という点においては、伝統を正しく受け継いでいるのだった。しかしながら注意しておきたいのは、天羽時貞に顕著であったような根無し草の不安は、龍神にではなく、多美牡の精神に強く反映されているということだ。これは作品を下るごとに膨張し続ける佐木飛朗斗の宇宙にあっては、まるでタンポポの胞子のごとく、テーマが拡散、新しい芽を伸ばしていることを証明してはいまいか。

 宮沢賢治的な聖性によって戦争を止めようとしたのが『特攻の拓』であったとするのであれば、普遍性を逆さまにすることで決して辿り着けないはずの平和に辿り着こうとしたのが『外天の夏』だったといえる。両者の試みは、その漠然としたエンディングから判断するかぎりにおいて、成功したとは見なし難い。極論するなら、戦争が止められず、平和に辿り着けなかった世界こそが、すなわち『爆音伝説カブラギ』の舞台にほかならないのである。

 さて、そこで爆音小僧の十六代目である鏑木阿丸に課せられた役割とはいったい何か。正直な話、現在の段階ではまだぜんぜんわからねえよ、なのだったが、しかし以前にも述べたとおり、聖蘭高校のクラスメイトはもとより、多美牡を爆音小僧の特攻隊長に引き込み、次第にシンパサイザーを増やしていく彼の活躍には、『特攻の拓』や『外天の夏』とは異なった光が宿されていることだけは確かだ。それが照らした風景のなかにきっと解答は浮かび上がる。

 いやまあ、それにしても変格不条理ミステリ「ゴスロリ探偵 巻島亜芽沙の事件簿」(巻末のおまけマンガのことね)が、ばかばかしくて、好き。たぶんこれ、東のアイディアなんだろうけど、『外天の夏』の設定をギャグにしてしまうこのセンスが、もうちょい本編で生かされてもいいぐらい。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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 アオハライド 1 (マーガレットコミックス)

 多くの場合、学園ものというのは、いかにしてリ・スタートを切るか、で幕を開ける。失敗のすべてはもう過去の出来事にしなければならない。そこから先にたくさんの真新しいチャレンジが待ち受けている。くじけかけ、乗り越え、ひたすら前を向くこと。失われたはずのものもやがて形を変えながら再び目の前に現れうるかもしれない。このような可能性がその後の物語を引っ張ってくるのである。咲坂伊緒の新作『アオハライド』は、その出発点を見るかぎり、正しく学園ものならではの魅力を放つ。

 中学生の頃、双葉と田中はお互い惹かれ合っていたにもかかわらず、ささいな擦れ違いから、気持ちを断念、離ればなれの状況になってしまう。高校一年の生活が終わる頃、双葉は馬淵という男子生徒に田中の面影を見つける。はたして馬淵の正体は田中その人であった。両親が離婚したため、名字を替えていたのである。馬淵洸との思わぬ再会は、しかし吉岡双葉に〈私が変わったように あの頃の田中くんはもういない あの頃には戻れないんだ〉というせつなさをもたらした。

 主軸は、双葉と洸のラヴ・ロマンスであろう。いくつかの試練を前にあらためて心を通い合わせていく二人のプロセスが作品のダイナモとなっている。しかしてそれは、学園という小さな世界を少女や少年が生き直そうとする姿との重なりを持つのであって、この1巻では、中学一年から高校一年の生活のなか、別れていった人びと、新しく出会った人びととの関係をも大きく孕んでいく。

 ヒロインである双葉は、チャーミングなルックスをしているが、異性を苦手とし、また友人たちの嫉妬や反感を買わないように、わざわざがさつな素振りをしている。無論、それは一般化してしまえば、自分を偽るという行為にほかならない。彼女はクラスメイトで女子生徒からは浮いてしまっている槙田悠里を前に〈周りに どう思われても平気なんて得な性格 私だって本当は こういうの付けたいけど 今の私のキャラじゃないしさ〉と思うのだった。すなわち、ある種の抑圧が自分を不自由にしていることに気づいている。そこに止まるのか、あるいは変わっていこうとするのか。こうした分岐が、洸との再会を経たのち、高校二年への進級には託されているといえよう。

 前作『ストロボ・エッジ』においては、蓮や安堂くんといったハンサムでいてナイスな男子生徒が際立っていた作者である。『アオハライド』でも、馬淵洸の存在感には特筆すべきものがある。いやもう、田中くん(洸のことね)、性格にやや難のありそうなところを含め、ひじょうに見せ場が多い。とくに謙虚というより卑屈な双葉に対して〈あんなので気が済むなんて おまえ 安いな / そんなんだから友達との関係も安いんだ / あんなのただの 友達ごっこじゃん / くだらない〉と言い切るシーンが良い。じつに印象的だし、この関係の形成に向けられたシビアな視線は、彼の置かれた環境からやって来ている。両親の離婚や自分の学校の教師である兄とのコミュニケーションに依拠していることが暗示的に描かれている点は看過できない。

 双葉の、洸への呼び名が、以前の「田中くん」から「洸」に変化する場面、あれは洸との関係を新たにしていくうち、彼女の内面が確かに成長したことを象徴している。だからこそ彼女はそれまでの卑屈さを乗り越えられた。友人たちに自分の正直な気持ちを打ち明けることを厭わず、たとえ嫌われてしまっても、こう思えるようになれる。〈歩み寄って それでも無理だった時の事 あの頃は教えてもらわなかったな―― 教わらなかった事を知っていく 割り切る事も強さなんだって 今 知ったよ / 私はあの頃よりはきっと強い〉

 〈無くしてしまったのなら また 作っていけばいい / 次はもっと注意深く 今日からまた 一から作っていく / 始まる〉このような双葉の決意が、洸の働きかけによってもたらされたものであったとすれば、かつての素直さをなくし、いわくありげな表情を浮かべる洸もまた、おぞらくは双葉の働きかけによってべつの顔つきを得ていくに違いない。かくしてリ・スタートの物語は期待に満ちるスタートを切った。

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『ストロボ・エッジ』
  10巻について→こちら
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 『マスカラ ブルース』について→こちら
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2011年04月01日
 静かなるドン 98 (マンサンコミックス)

 新田たつおの『静かなるドン』がすばらしいポテンシャルのマンガであることは疑う余地もないのだったが、しかし98巻の現在もなおトップ・クラスのストーリー・テリングを繰り広げていることを世間はあまり語らない。もったいないではないか。いっけんギャグにしか思われないパートがじつは重要な伏線だったという演出は、たとえ後付けであろうが、作中人物に都合が良すぎであろうが、たいへん見事なレベルで成立させられているのであって、今や国民的な作品である『ONE PIECE』にも比肩しうるものだと言いたい。

 昼は下着会社のサラリーマン、夜は暴力団の三代目総長、以上の二極に引き裂かれながらも自己実現を果たそうとする青年の姿を(まあ多少真面目にいえばね)初期からのテーマにしているのは周知のとおりだけれど、中期以降は、ヒロインとの結ばれない恋愛を通じて、ロマンティックな悲劇性を全体化してきた印象が強い。近藤静也に惹かれ、ついにその正体を知ってしまった秋野明美は、しかし立場を越えてまで彼のそばに止まろうとすることが、結果としてお互いを苦しませ、滅ぼすとかえりみ、自分の想いを決して告げたりせず、秘めたまま、近藤を見守っていこうとする。そしてそれは秋野の幸せを願う近藤にしても同じであった。

 近藤と秋野の、許されざる恋愛をベースに、事態を一転、二転、三転させてきたのが、中期以降の『静かなるドン』である。他方で、関西は鬼州組七代目組長、白藤龍馬と近藤のライヴァル関係がいくつものハイライトを作り出していく。無論、近藤が率いる新鮮組と鬼州組の抗争は、初期の頃より熾烈なものだったが、白藤龍馬のカリズマときたら、先代たちを遙かに凌ぎ、いよいよ終止符が近づいたことを予感させるほどに強力なものなのである。実際、近藤と白藤の衝突は日本中に緊張をもたらすばかりか、海外の勢力をも国内に呼び寄せることとなる。さてそして、新鮮組と鬼州組の連合に斥けられたはずのアメリカン・マフィア、アレキサンダーが、チャイニーズ・マフィアやロシア・マフィア、コロンビア・マフィアを従え、再び日本制圧に乗り込んでき、まるで大阪が戦場と化してしまうというのが、ここ数巻の粗筋であって、アレキサンダーの背後には世界皇帝と呼ばれる巨大な存在の控えていることが明かされる。いやもう、とにかく規模のやたらでかい物語になっているのだけれども、近藤と秋野のラヴ・ロマンスを中心に考えるのであれば、作品の本質はほとんどぶれていない。

 この98巻では、大阪で繰り広げられる市街戦をよそに、東京で下着会社プリティの社長となった秋野がデザイナーとしての近藤を花開かせようとする展開がもたらされる。はたして秋野が近藤を高く買うのは私情にすぎないのかどうか。ここでの二人のやりとりは、いくぶんコミカルであるが、大人のせつなさをも漂わせる。それにしても、である。出世した近藤の渡英が、あるいは白藤とアレキサンダーの対決が、新鮮組の傘下にいる生倉の馬鹿馬鹿しい暗躍が、それら点と点とが、まさか一つに結び付くだなんて。〈この時、静也は現地で本物の英国諜報部員と大立ち廻りを演じるとは想像もしていなかった〉どころか、そんなの読み手だってまったく想像しちゃいねえよ。ほんとう驚くべきストーリー・テリングであろう。

 文庫版1巻、2巻について→こちら
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2011年03月29日
 シトラス 1 (マーガレットコミックス)

 誰とも理解し合えないことはすごく寂しい。しかし誰かと理解し合おうとすることでしかその寂しさは消せない。香魚子の『シトラス』は、小さな田舎町を舞台に、日常のなかで中学生たちが思わず背中を丸めてしまう瞬間を通じ、この世界のせつなさとやさしさを描く。今にも壊れ、失われてしまいそうなイノセンスを、ノスタルジックな詩趣に封じ込めた作品である。少女マンガのジャンル(『別冊マーガレット』)で発表されてはいるが、どこか松本剛の作風を彷彿とさせる。ストーリー、絵柄ともに、素朴であることが何よりの魅力になっている。山に囲まれた木ノ戸町の中学校に転校生の奈七美がやってきた。3年生のこの時期になぜ彼女が東京から越してきたのか、誰も知らない。学級委員長を任された志保は、奈七美に親しく接しようとするのだけど、反対に突き放された態度をとられてしまう。ここから物語は、志保や奈七美ばかりではなく、何人ものクラスメイトの胸中をリレーし、それらの、思春期ならではの姿をやわらかにスケッチしていく。まずこの1巻では、木ノ戸中の学生たちにとって、奈七美は都会という称号を持った異物としてあらわれている。だが価値観やスタイルがいくら洗練されていようと、彼女もまた他の子と変わりなく、自らの幼さと無力さに悩まされているところに、『シトラス』の本質が見え隠れしているだろう。そう、環境の違いを前提にしたとき人はたちまち相対化されるが、個々の営みは、期待と失望の絶え間ない接続を逃れられない、という点において、正しく共通しているのだと教えれるかのようだ。

・その他香魚子に関する文章
 『隣の彼方』について→こちら
 『さよなら私たち』について→こちら
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2011年03月19日
 PSYREN-サイレン- 16 (ジャンプコミックス)

 不安が常にあるのと同じように希望も常にあるよ。とっちらかった世界を綱渡りで進むしかないのであれば、幾通りにもひらかれているはずの未来がより良い行き先を教えてくれると信じるよりほかないんだ。めげながらでも踏ん張れる。ときにフィクションは、祈りをもたらし、勇気である。

 岩代俊明の『PSYREN -サイレン-』が16巻で完結した。おそらく、このアイディアには先行例がありそう、と容易に指摘できるほど現代的なスタイルの作品に独創性を見出せはしないだろう。細部の設定はもとより、バトル・ロイヤル式のサヴァイヴァルを予感させた序盤、オルタナティヴの可能をめぐる時間改変ものへとスライドしていった終盤など、大筋に関しても、じつに今時だいね、の類型に止まっているのだった。が、しかし、物語の全容を通じて確かに伝わってくるメッセージには励まされ、少年マンガとして高く買えるだけの根拠が備わっていたように思う。

 とくに主人公である夜科アゲハの、正義感、自己犠牲も厭わぬ熱血漢であるようなところが、幾分ややこしい展開においては明確なテーマになりえていた。実際、『PSYREN -サイレン-』とは、アゲハの活躍に他の作中人物たちが感化され、悪を挫いていく過程だったといえるのであって、その、目先の流行色をふんだんに盛り込んだ成り立ちに相反し、古めかしくもとれるストーリーの構成にこそ、まったく少年マンガらしいポジティヴな価値を求められる。

 一方でこれは、ペアにまつわる物語だったとも解釈される。決して一人では生きていけまいよ。敵対であれ、恋愛であれ、友情であれ、家族であれ、尊敬であれ、各人が誰かと何かしらのペアを為すことで、世界に組み込まれ、世界そのものを変えていく。少なくともそのような営みを連係させることによって、ドラマは駆動、旋回し、エモーショナルな場面を描き出していたのだし、孤独を愛するあまり、ペアを組めなかった者が、結果的に世界からはじかれていったのも、作品の基礎がどこに置かれているのかを示していた。

 その基礎は、作中人物たちの年齢にかかわらず、あまねく『PSYREN -サイレン-』の物語を支えていたといってよい。最高に好きなのは、15巻で祭と影虎の大人が、長い月日をかけて、ようやくお互いをペアと認め合うシーンである。いやはや、それまで頑なであった祭の要請に一つ返事で〈これでやっとアンタと一緒になれる・地獄でもなんでも死ぬまで付き合うって前から言ってんだろ……心開くの遅いんだよ・バカめ〉と応じてみせる影虎さん、かっこいい、であろう。事実、二人の再登場が局面に与える影響はでかい。あたかも、ペアを組んだ者がいかに強くなれるか、を象徴しているみたいでさえある。

 無論、アゲハと雨宮の、つまりは主人公とヒロインの関係に、ペアの精神が代表されているのは述べるまでもない。そうだ。このマンガは、雨宮のSOSを受けたアゲハが、彼女を守るべく、手を差し伸べ、自ら危険に身を投じる姿を、まずは始点にしていた。そしてその繋がりが、新たな繋がり、次の繋がり、さらなる繋がりに通じていき、やがてはイメージの大きな繋がりを生んだ。アゲハの行動と理念が間違いでなかったことは、正しく最終回である「繋がる世界」の感動に集約されている。

 結局のところ、アゲハが命を懸け、立ち向かった悪の正体は、ウロボロスという名前に由来のとおり、自分で自分の尾を噛む、誰とも繋がれないことの孤独が、暴力に転じたさまなのだと思う。災厄と破壊を目論んだ天戯弥勒の、16巻でいわれている〈だが この世界は仏の顔をして屑が蠢く…特異なる者への偏見に満ちた世界だ〉こうした主張自体は、必ずしも理不尽なものではない。しかし、アゲハの奮闘が、弥勒と弥勒の姉とを再び結びつけ、すなわち彼らがペアであった頃の記憶を取り戻させることで、事態に救いの現れた点を看過してはならない。

 本質を理解してもなお立場を異にするアゲハに弥勒は〈……生きろ・生きてこの世界を見届けろ・夜科アゲハ〉と告げた。これは、死なないでいるかぎり、いくらでもこの世界と他の誰かに働きかけられる、というサインだろう。不安をシェアすることができるのであれば、希望もまたシェアすることができる。未来を信じられる。つらさ、悲しみに行く先を隠されてしまうときもあるが、忘れない。無力じゃない。
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2011年02月26日
 医龍 25 (ビッグコミックス)

 世間でどう考えられているかはいまいち知らないのだったが、やはりこれは自分にとって『キン肉マン』と同じカテゴリーに属するマンガである。最終25巻のラストを飾るポエジーを前にあらためてそう思うのだった。無論、大河のような医療ドラマは善悪の基準によって区別しきれない世界のありようを深くえぐり出してはいた。しかしながら、朝田や加藤、霧島や木原、伊集院たちの奮闘には、スグルやテリーマン、ロビンマスク、ウォーズマンやジェロニモ等々と同様のふんばりを重ねられるのである。医局におけるさまざまな勢力の対立は超人と大衆をめぐる葛藤でもあっただろう。作中人物は各々、アクロバティックなロジックを経、次のステージへ駆け上っていった。伊集院の成長はその最たるものだ。あるいは序盤の展開を振り返ってもよい。『ブラックジャックによろしく』の地べたを這うかのような実直さに比べ、『医龍-Team Medical Dragon-』の場合、天才的な外科医の登場、バチスタ・チームの招集を期に、なかんずくスペクタクルとカタルシスに持って行かれるところが多かった。作品の構造とパラレルに、テーマとして強調されていたのもつまりは、最後に信じられ、助けられ、お互いを逞しく育てるのは仲間であってライヴァルなのだということである。そう、志を同じくしていれば、たとえ立場を違えてしまおうが、ともにいられなかろうが、それはもうチームなのだ。完璧なヒールなどいない。血の通ったプロレスみたいな感動を、乃木坂太郎は見事に描ききったと思う。

 23巻について→こちら
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 イン ザ チョコレート (りぼんマスコットコミックス)

 たとえば、どれだけ苦しくとも無理やり笑うことでしか自分を救えない少女に向けられた次のような言葉である。〈ねぇ 空 / 笑うことは苦しいことを忘れるためにあるんじゃない / ずっと逃げてたら 楽しいことも分からなくなる / 空は今まで 全部1人で抱えようとしたから / 限界でそんな考え方になっちゃったんだ / でも これからはオレに投げて / オレが絶対なんとかするから / 変えられる / 空は 変わる〉

 もちろんこれは、ヒロインの立場に対し、白馬の王子様が手を差し伸べ、投げ掛ける慈しみにほかならない。しかし村田真優の「ブルースカイヘブン」を正確に読もうとするのであれば、ラヴ・ストーリーのロマンティシズムに加え、もう一つ別の視点が必要となってくる。すなわち、いったい何のために少女がSOSを隠していたか、である。「ブルースカイヘブン」は、読み切り作品集『イン ザ チョコレート』に収められたマンガだが、以上の問いは、「イン ザ チョコレート」や「平成赤ずきん」といった他の二篇(あるいはショート・ショートに近しい描き下ろし「DREAM TOUR --pop-up book--」をも含めた三篇)にまで通底しているといってよい。

 家族、だろう。結局のところ、少女たちは家族を原因としたバイアスを強く意識するあまり、他人に言えぬ苦しみをその小さな体に抱え込んでいたのだった。まだ幼い精神が、頼るべきものに頼れないとしたら、そりゃあ助けを求めようとする言葉は自然と失われてしまうんだ。おそらくこのとき、白馬の王子様の登場には、だが君は孤独じゃない、絶対に君は孤独じゃないんだぞ、という希望が、サインが、メッセージが託されている。それが「イン ザ チョコレート」を、「平成赤ずきん」を、「ブルースカイヘブン」をひときわ魅力的なものにしているのである。

 無力を生きざるをえないヒロインは、家族という最も身近な抑圧から逃れることもできない。そのせつなさが、「ブルースカイヘブン」においては、世界の存在自体を肩代わりしている。だからこそ、空と名付けられたヒロインは〈あたしが 今まで見てきた世界は / あたしの世界は / あたしの現実は〉と、今までの体験を通じ、幸福を望むことを諦めてしまっている。〈少しの幸せは きっと幻だった / この手にあると思っていても そのうち失う / それは悲しいから / もう はじめから近づいちゃいけない〉こうした卑屈をまったく信じていた。

 あらためて述べるまでもなくそれは、ひどくひどく寂しいことだ。けれども、その寂しさのせいでどうか君が駄目になってしまわないように。もしも君が苦しみに押し潰されず、新しく目の輝きを持ち直すことができたなら、世界はいくらでも塗り替えられる。空が出会い、やがて親密になっていく少年、青のやさしさ。つまり、先に引いた〈ねぇ 空 / 笑うことは苦しいことを忘れるためにあるんじゃない〉し〈変えられる / 空は 変わる〉という言葉は、まるでそう告げている。ささやかでありながら、正しく励まされるだけの根拠を伝えてくる。

・その他村田真優に関する文章
 『妄想シンデレラ』について→こちら
 『ドクロ×ハート』について→こちら
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2011年02月18日
 ハナミズキ (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 サトーユキエの『ハナミズキ』は、言わずもがな同名映画のコミカライズである。その映画版の方は観られていないため、あくまでもマンガとして描かれたものについての感想を述べるしかないのだったが、そもそものストーリーが一青窈のヒット曲にインスパイアされていることぐらいは知っている。話の筋はさほど難しくない。一組の男女が、高校生の頃に出会い、好き合い、しかし離ればなれになってしまったのち、数年間の紆余曲折を経て、お互いがお互いにとってどれだけ大きな存在があったか、あらためて知らされる。要するに、切り出された半生のなかのたった一つの恋をめぐる物語だといえる。水産高校に通う康平にしてみれば、進学校の紗枝は高嶺の花だった。だが、同じ電車に乗り合わせていた彼女が試験に遅刻しそうになったことから、関わりを持ち、やがて恋人同士の関係になっていく。いや、そこまではよかった。紗枝が東京の大学に進み、遠距離のせいで擦れ違いや不安が重なっても、二人の気持ちに変わりはないはずであった。そう信じられるような繋がりは確かにあったものの、子供のままではいられず、社会を前にしなければならなくなった二人に、当人の気持ちだけでは乗り越えられない事情がもたらされることとなる。物語の背景には、1996年から2006年までの時代設定を持っていて、おそらく携帯電話などの小道具にそれは影響しているのだろう。一方で、9.11の出来事がある種のターニング・ポイントを果たしているのだけれども、正直、とある人物の生死を含め、その扱いがドラマを変調させるのに都合のいいイベント以上になっていないのは、作品の評価を冷静に判断するとしたら、傷にも思われてしまう。実在の事件を導入する手つきにデリケートさが足りていない。あるいは、単にラヴ・ロマンスを仕立て上げるのであったなら、そんなにも大きなトピックを必要としないで、もう少しスマートな展開がありえたのではないか。勿論、そのへんは原作に準拠しているに違いないので、マンガ版に限定された不注意ではあるまい。さりとて、それ以前の段階において、紗枝と康平が、もう自分たちの感情は過去のなかでしか生きられない、と確認し、別れを受け入れていくハイライトに、たいへんせつなくさせられたのは、決して否定しない。結局のところ、コマ・レベルのテンポと作中人物の表情が十分なエモーションを作り出しているためであって、そこにこそサトーユキエの手腕が発揮されていると見られたいのである。

 『子供だって大人になる』について→こちら
 『ノーバディ クライ』について→こちら
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2011年02月10日
 ああ。そりゃこんなのもうぼろぼろ泣くよりほかねえんだ。現実を見れば、叶わない願いや通じない祈りのほうが多くなりがちに世のなかはできているみたいだった。それでも信じられるものはあったろう。信じ続けられることが必ずしも幸福であるとはかぎらないにしたって、決して不幸だと思えなかったろう。だから手放したくなかった。しっかり握りしめておきたかった。その確かさだけが、幾重もの哀しみにおいて、一輪の救いになりえた。勿論、それは奇跡を待つという体勢を意味しているのではない。たとえ奇跡がやって来てくれなくとも生きていけるという光明をただただ指している。斉木久美子の『花宵道中』は、この5巻で完結を迎えた。以前にも述べたとおり、宮木あや子の原作小説にたいへん忠実なコミカライズであったと思う。前近代における社会の底辺と近しい位置に遊郭を描き、ほとんど不可避な悲劇性に照準を合わせながら、懸命に手探り、足掻き、もがくことでしか果たされない美しさを女郎たちの有終に当てはめており、時系列をばらばらに複数のエピソードをまたいでいるが、結論からいうと、その大半が実存のレベルでのハッピー・エンドとは縁遠い物語となっている。過酷な環境下、もしも彼女らに救いがあっととすれば、それはあくまでも観念のレベルに存在しているのであって、空想、夢や幻の匂い立つほどに甘やかな印象が、各話の幕引きに残される。いや、少なくともマンガ版に関してはそうなのだ。先行する女性作家群からのインスピレーションを隠すことない斉木の筆致は、逃れられない困難に耐え、忍ぼうとする作中人物たちの表情を、眼差しを、息づかいを、せつなく輝かせた。そしてその奥底に、孤独を前にしようが空しさに支配されないまでの強さをひっそりと置いた。これが作品の構えをとてもエモーショナルにしているのである。作品全体のエピローグを思わせる第五部「雪紐観音」で、ようやく年季明けに達せられたヒロインがあらわれる。しかしそれ以前のエピソードでは、どのヒロインも吉原という運命の檻の外へ、生きたままでは出て行けない。結局のところ、生涯のどこかにありえたかもしれない光景をささやかな希望と呼ぶにとどまる。第四部「十六夜時雨」のヒロイン、八津の〈ここは江戸吉原――… 男に惚れるということ――それは死へ向かうこと あたしは生きる そのために… 誰にも惚れやしない けっして 誰にも〉という決意が胸に痛いのは、本当に欲するものを求めてはいけないと自ら禁じる姿に、逞しさではない。大きく開いた寂しさを覗かせているからだ。いくら制度に縛られ、きつく口を塞がれていようが、ほんの一呼吸ぐらいは息をつける場所があったっていい。それすら断念したら誰も光を得られまいよ。かすかな明かりさえ届くまい。『花宵道中』に展開されているラヴ・ロマンスとは、要するに、そのような不幸に対する反語であろう。何もかも苦しみに潰えていくのみか。そんなはずはない。八津はやがて〈姉女郎の朝霧姐さんは男のために死を選んだ〉のとも〈再会した実の姉は男のために生きるとおはぐろどぶを越えていった〉のとも違った結末を得る。すべての願いが叶い、祈りが通じ、まったくの幸福を選び取れたわけではない。だが信じられるものを信じ続けられると知ったことでおそらくは救われた。それまでと変わらぬ日々を真新しく生きていけた。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
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2011年02月05日
 GAMBLER! @ (近代麻雀コミックス)

 かれこれ麻雀のマンガを読み続け、20年以上は経っていると思うのだったが、じつはいまだにそのルールをほとんど知らない。同じ種類の牌を三つ集めていくといいんでしょ、ぐらいである。にもかかわらず、麻雀のマンガに大きな魅力を覚えてしまうのは、結局のところ、一寸先は闇の抜き差しならぬほどに危機的な状況が、正しくワン・オア・エイトでありオール・オア・ナッシングのスリルに次ぐスリルを、まざまざと喚起するからに他ならない。だいたいどうして、いやまあこれはギャンブルを題材にしたフィクション全般にいえることなのだけれども、小銭を稼ぐ程度ではじまった物語がいつしか命懸けの展開にまで発展していかなければならないのだ。それはつまり、絶対に死んだように生きていたくはない、という理想を高々掲げようとすれば、誰しもが相応のコストを支払う義務からは逃れられない、このことのおそらくは直接的な比喩になっているためであろう。たかだか数十センチ四方の卓上で繰り広げられているのは、どれほどのリスクを背負っても妥協だけは決して受け入れまいと選ばれた人生の、文字通り、縮図なのだ。スリルに充ち満ちた麻雀のマンガを読むと、話の筋が明るかろうか暗かろうが、本質においては絶望を向こうに追いやろうとする力学が働いているので、無闇矢鱈と元気が出る。

 鹿賀ミツル、『GAMBLER!(ギャンブラー) ―勝負師―』の1巻である。以前、わざわざ『週刊少年サンデー』でギャンブルのマンガを描いていた作者が、活躍の場を『近代麻雀オリジナル』に移し、本格的な麻雀のマンガに取り組んだ。というのは、一応のトピックになりうるだろうか。いずれにせよ、『ギャンブルッ!』に閃いていた鋭いぐらいのスリルは、この『GAMBLER!―勝負師―』でも健在なことに安心されたい。

 頬の傷に似つかわしくない微笑みを浮かべる青年「勝」、彼の流浪は出会った人びとに破滅と再生の運命をもたらした。もちろん、麻雀を通じて、だ。はっきりといって、現時点におけるストーリーのレベルに、新鮮な驚きはない。要するに、素性の不明な勝負師が、一癖も二癖もあるライヴァルたちによって用意された窮地を、余人にはうかがい知れぬポテンシャルを武器に、数々踏破してみせる、というギャンブルを題材にしたフィクションからすれば、常套を地でいくものである。いとも容易く指が落とされる、賭け事の前では命すらも軽々しい、殺伐としたシチュエーションもまた、近年では衝撃と珍しさに目を瞠るものではない。しかし、たとえそうであったとしても、作中人物たちの企みが交錯し、ぎりぎりの緊張感が、彼らの一挙手一投足を支配せんとするその様子に、上質なスリルが漲っているので、ある種のパターンを確認する以上の歓喜が生まれているのだった。最もテンションがあがるのはやはり、いっけん穏やかに思われる主人公が、イメージとは裏腹の凄みを見せ、ギャンブルとイコールな自らのイズムを述べる場面であろう。いわく〈そうやって…… 安全なところばかりで打ってたんだろ? そんなのは本当の勝負(ギャンブル)じゃない… 軽すぎるんだよ… お前らの牌には「命」は乗っていない〉あるいはいわく〈あんたの勝負はいつも こういうやり方なのか? 恐いんだろ? あんたに有利な条件なしじゃあ〉

 と、もちろんそこには、どうすれば人生そのものを果敢に引き受けられるか、の問題にまで拡大可能なポエジーが備わっている。そうだからこそ、麻雀に関する知識の有無とはべつの観点で、震えがくるほどに心を掴まれるものが、はっきり目立たされているのだ。

 ところで、先ほどストーリーのレベルに驚きはないといったが、じつはこれ、主人公である「勝」のプロフィールや彼が大事にしている写真の光景からするに、『ギャンブルッ!』の続編として解釈のできる内容となっている。もしもそうだとしたら、あの死闘をくぐり抜けた少年が、以後にどのような世界を歩んできたのか、むしろ特筆すべき物語はこれからに残されているのかもしれない。

・その他鹿賀ミツルに関する文章
 『ギャンブルッ!』
  11巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻と2巻について→こちら
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2011年01月24日
 牌王伝説 ライオン @ (近代麻雀コミックス)

 堂嶋のような兄貴分がいたら当然魅了されらあ、であろう。自らをライオンと嘯くその豪気なアティテュードに、これぞ男の生き様を堪能されたい。しかしながら相変わらずぶっ飛んだ野郎である。惹かれはするものの、さすがに無茶苦茶だよ。真似したくないし、真似できっこない。あるいはだからこそ夢を見られる。もっとも堂嶋とは誰か。志名坂高次によるハイ・スリリングな麻雀マンガ、『凍牌』のワキを固める面子のなかでもとくにインパクトの強い人物であって、この『牌王伝説 ライオン』は、掲載誌(出版社)は違えど、堂嶋を主人公にした『凍牌』の外伝的な作品にあたる。本編においては、氷のKのクールさとは対照的に、きわめてホットに描かれている堂嶋だが、無論、その熱量が溢れ出んばかりの佇まいは、1巻の序盤からマックスに際立っている。〈俺はライオンだからな どうせ命を張るならでかい相手のほうがいい〉こういうセリフがじつに似合う。見事に決まっているのだった。すさまじいのは、狼と呼ばれる勝負士、黒田との7億もの大金を賭けた対決だ。負ければすべてを失う場で、名言に相応しい啖呵が踊る踊る。逆境を前に堂々と述べる〈何よりな 俺は「怖れる事」が大嫌いなんだ ま 通れば勝ち 当たれば負け 2分の1よ 俺は堂嶋! ライオンは怖れねえっ!!〉という屈託のなさときたら、確実な根拠もないのになぜおまえはそんなに堂々としているのだ。だがそれが堂嶋なのだと納得させられる。十分なカリズマが描かれている。物語は殺伐としているにもかかわらず、読めば異様に元気が出るのは『凍牌』と同様である。トラウマの類はこの世界を乗り越えていく上でクソの役にも立たない。凄惨な過去を持った黒田を向こうに回し、自らのモチベーションがどこからやって来ているのか、堂嶋が滔々と語ったエピソードが最高に痺れる。麻雀のためだけに右足の指を五本全部切り落とすなんて、完全に常軌を逸しているのだけれども、どうしてだろう、不思議とそれがポジティヴな決断にさえ思われてしまうのは、おそらく、ノー・ペイン・ノー・ゲインもしくはハイ・リスク・ハイ・リターンの美学を一切の躊躇いもなしに貫くこと、その潔いまでの振る舞いに説き伏せられるものがあるからで、ほとんど狂気の沙汰でしかない行動ですら堂嶋にとっては持ち前の明るさにほかならない。いやいや、彼のたいへん素敵な資質は、ひょうきんな描写にもよく表れている。財布とテレビのリモコンを間違えて懐に入れていたと気づいたときの渋い顔つきには、こいつ絶対に嫌いになれないぞ、と認めざるをえない可笑しさがある。ところで作品の構成に関してだが、そういう堂嶋の個性を引き出すにあたり、平凡な青年である石原(イッシー)をある種の狂言回しに据えているのが、でかい。予想外のカリズマと出会い、じょじょに感化されていく石原の姿は正しく、堂嶋のような兄貴分がいたら当然魅了されらあ、の夢を追っている。

 『凍牌』10巻について→こちら
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2011年01月22日
 白のエデン(2) (講談社コミックスフレンド B)

 この2巻には、良いセリフがあるぞ、と思う。〈近くにいるから大丈夫って思い込んで 基本を怠った結果がこれよ バカみたい! わからなければ訊くこと 伝えたいなら言うこと そんなの小学生でもできるのにね……〉というそれは、いやまあ確かにワキの人物が漏らした個人的な感想にすぎず、必ずしも名シーンには直結しないのだったが、作品のテーマを見るのであれば、恋愛の積極性を確認し、肯定する役割を果たしており、その後におけるヒロインの行動を左右しているという意味で、えらく印象に残るし、事実そのように受け取られたい描き方をしている。どうしたって誰かに対する想いや、気持ちが不自由であるのは、それが対他関係とコミュニケーションの困難に深く根ざしているためだ。自己完結の妄想ではないかぎり、誰かに働きかけ、誰かから働きかけられる、こうした連動のなかにしか、実際の結びつき、繋がりは生じえない。そして誰かへの働きかけは、いくら懸命さをともなおうと、絶対に実るとは約束されていない。かといって諦められたらどれだけ楽か。結局のところ、諦めきれない部分に感情は縛られる。吉岡李々子、『白のエデン』の2巻である。「あとがき」にあたる項で作者が、〈そうだ! 王道少女マンガを描こう!〉と発起した結果、これが出来たと述べているとおり、イノセントな少女と暗い影を持った青年のラヴ・ストーリーに目新しさはないものの、主人公である芹川真白と高野藍の今にも壊れそうなぐらいに繊細な心がお互い、数々の障害を前にしながら、クレッシェンドに響き合っていく様子を、照れることのないポエジーで追っているところに、もっぱら作品の魅力は預けられている。しかして1巻では、真白が小さな体に抱え込んだ傷を中心に物語は展開されていたのだけれども、ここでは、屈託のない笑顔を見せる藍の側にもまた何かしらの傷のあることがひじょうに示唆的となっているのだった。上辺のやさしさとは裏腹に、女性に対して冷淡な彼の一面が覗かれる。それを知ってもなお、藍に尽くそうとする真白の健気さに、だが決してシンパシーを持たされるのではない。周囲の人間を巻き込んでも手放せない恋愛の積極性を通じ、対他関係とコミュニケーションの困難から生じた屈折をひたすら乗り越えようとする意識が、現時点では、直接であるほど剥き出されている点に、ただ心を動かされる。

 1巻について→こちら

・その他吉岡李々子に関する文章
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
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2011年01月11日
 ナンバデッドエンド 11 (少年チャンピオン・コミックス)

 難破剛、ついにぐれる。

 喧嘩上等の青春を期待された少年が、いかにぐれず、健全で真っ当な学園生活を送り続けられるかを『ナンバデッドエンド』は、コメディとシリアスの絶妙なバランスを保ちながら描いて来たのだったが、9巻と10巻におけるドラマティックなほどの急転回を経て、ああ、やるせないことこの上ない、『ナンバMG5』から続くシリーズのなかで最大の絶望へと至った。あんなにも必死で自分の居場所を守ろうとしていた主人公の剛が、その努力も空しく、白百合高校から追放されてしまうのである。作者の小沢としおが、やはり只者でないのは、作中人物たちはもちろん、読み手の多くが決して望みはしなかった展開を、ここに用意したことだろう。

 やられた。うわわわ、の驚きがあり、ちくしょおおっ、の悔しさがある。はたして試練は終わったのか。それとも受難は続くのか。この11巻では、すべてが御破算になろうとする瞬間が、そしてすべてが御破算になったあとでも青春は続いていくという残酷が、悲劇的に繰り広げられている。

 あらかじめ生まれや育ち(遺伝と環境)に規定された人間が、他でもありえた可能性(オルタナティヴな人生)をあらためて選び取ろうとする。『ナンバデッドエンド』の背景には、そういう、現代に特徴的なテーマが控えられているのであって、それが、ヤンキー・マンガのジャンルで培われてきた学園もののノウハウを生かし、通俗性に臆さないレベルのエンターテイメントへと引き上げられているところに、すぐれた魅力があるのだけれども、呪われ、戦い、勝った、の幸運は、先に述べたような挫折に邪魔され、さらに遠のいた。他でもありえた可能性にトライすべく、学生服と特攻服の二重性を生きなければならなかった剛が、しかし不可避な暴力に巻き込まれ、本来ならば捨て去りたい方の選択肢を強いられていく10巻は痛ましかった。せっかく両親に秘密を打ち明け、和解し、一歩前進できたと思ったのも束の間、結局のところ定められた運命は変えられないのか、ちょっとした躓きで何もかもが無駄になった。いとも簡単に〈全部終わっちまった……〉のである。

 再起のチャンスはあった。退学処分を言い渡された彼を救おうとし、クラスメイトたちが奔走する。その甲斐もあって、学校はいったん意見を取り下げるのだが、剛の存在を認められない者もいた。あくまでも利己と保身を通したい校長は、〈難破は必ずまた騒ぎを起こす… 更生させるなぞ理想にすぎん 人間は変わらんよ…〉と非情にも言い放ち、それを受けた強硬派の教師、桐山は、剛の入学の裏に隠された秘密を暴き出してしまう。

 過去にも再三見られた中学時代の恩師、長谷川との関係が、ここにきてある種の伏線になっているのが、うまいというかずるいというか、とにかく泣ける。泣けるのだ。9巻で長谷川が進路に〈迷ったら白百合の先生に相談しろ〉と剛に発した言葉が、桐山との対面においては、まるで皮肉のように思われる。そう、どんなトコにもゲスはいるんだな。〈バレたんだ… 桐山に長谷川がオレの白百合行きに手ぇかしたこと 願書と提出する書類に手ぇ加えたことがバレたんだ〉と妹の吟子に告げる剛の、穏やかな表情は、決着してしまったことはもう取り返しがつかないのだと教えているようでいて、最高潮につらい。長谷川を助けるべく、〈お前が学校やめたら まぁ…昔のことを報告しても しょーがないからな…〉という桐山との取り引きに応じ、剛は自主退学を申し出るのだった。

 そこからの物語はもう、だめだ、だめだ、目にするだけで胸の奥から込み上げてくるものがあるよ。剛の身を案じる人びとの、気持ちがわかるぐらいのやさしさに、ぼろぼろ涙がこぼれそうになる。〈何で走るのをやめた 何があったか教えてくれ〉と尋ねる伍代はほんとうにいい奴である。だが、それに答えられない剛を誰が責められよう。長谷川に事情を話せず、約束の果たせなかったことを謝るしかできない剛にどんな咎があろう。そしてとうとう剛は、次のような苦しみに支配される。〈オレが白百合なんか行ったから 大事な人みんなに嫌な思いさせちまった… 白百合なんて行かなきゃよかった〉

 この反省は、反省のさらなる反省というねじれた構造を持っている。フラストレイトした気分をどこにも逃がせないという厄介な病理に通じている。結果、難破剛は、ついにぐれた。

 かつての友人たちや、あたたかな両親とさえ、穏当に接せられないという意味での不良少年であり非行少年が、次第に道を踏み外していく。その仕方なさを皆が知っているだけに手を差し伸べられない。せめてどこかに出口があって欲しい。さもなくば、哀しすぎるではないか。

 あまりにもせつない。

 8巻について→こちら
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 1巻について→こちら

 『ナンバMG5』
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