ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年12月29日
 おバカちゃん、恋語りき 7 (マーガレットコミックス)

 よくいわれるとおり、恋をすると人はバカになるのだったが、ではバカが恋をするとどうなっちゃうのか。自分(バカ)の経験にしたがっていえば、そりゃあまあ当然、人並みに悩むのである。恋の魔法は誰にだって平等に降り注ぎ、良いことも悪いことも、たとえそれらがいかにちっぽけなことであったとしても、拡大に解釈されて、嬉しさは手に余るぐらい大きくなるばかりか、嬉しければ嬉しかったぶんの不安を胸に募らせるし、おかげで頭が痛くなったりもするのだから、ひじょうに弱るよ。挙動不審に見えたって仕方がないね、なのだった。佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』が、まったくコメディのテンションをキープしながら、しばしばエモーショナルなのは、つまり作品の本質が以上のような点にあるためなのだと思う。

 この7巻で完結したマンガだけれども、いやなかなかの作品だったと思う。少なくとも最初から最後まで、ぐっと強いフックを手放さず、息つく暇もないほどのラヴ・ストーリーを繰り広げてくれたのだった。とにかく物語の最中、ずっと突っ走っていたヒロインが、やはり走り抜けていくかのようなラスト・シーンと被さったモノローグに、テーマのほとんどは集約されている。すなわち〈恋ってなんだろう 別に恋愛でおなかいっぱいになるわけでもないし(略)恋愛でけがが治るわけでも 植物が育つわけでもないし なのにいつも世界のどこかでうまれている〉のであって〈ドキドキしたり 臆病になったり 憧れたり 悲しくなったり 結局なんなわけ? 恋愛って さっぱりわかんないよ わかんない ただ〉そう、ただ〈すき〉でよい。〈わからなくていいんだよ うまくいえなくてもいい 大丈夫 恋を語ろう〉というわけだ。

 しかして、その〈恋を語ろう〉とする語り口の、たいへん特徴的なスタイルが最大の魅力であったことは疑う余地がない。少女マンガばかりではなく、少年マンガをも含めたクリシェを、意図的に、かつふんだんに盛り込みながら、それが批評性に見えてしまう地平とは完全にかけ離れたところで、IQが低そうにとられても構わない、決してキュートなスタンスだけは崩すまいとでも言わんばかりに貫かれてきた態度は、確かにギャグとしての機能を多分に負ってはいたのだが、同時にギャグである以上の潔癖さをも、惜しまず、隠さず、ストレートなぐらいに表明化していたのであった。豊富で過剰なクリシェは、気持ちの強さを正しく象徴するための手段にほかならない。さすがにありえないでしょう、という展開ですら、でもこのマンガならおかしくないよね、のレベルにまで持って行き、誰かを想う気持ちが不可能を可能にしてしまう、このような思いなしを不自然なものでもなくし、バカバカしさに白けることがバカバカしいや、ある種のロマンティシズムを成功させているのである。

 ヒロインである園田音色の、頭の悪さ、ポジティヴな性格とイノセントな揺らぎはワン・セットであって、彼女をめぐる栄山トキオと相澤深の三角関係をベースに『おバカちゃん、恋語りき』は描かれていた。三人の個性を、なるたけ平等に、並行に動かしていくという手法も、小気味よいテンポをキープするのに適していた。クライマックスの決断がさわやかになっているのもそのおかげだ。虹花、ケンイチ、十吾、影虎などなど、これまでに出てきたワキの人物たちにしたって、十分活躍の場が与えられており、もったいない使われ方をしていない。サブローさんは影が薄いままだったが、まあ、らしい、といえば、らしい。基本的にはでたらめな内容ではあるものの、そのでたらめさのなかのすべてにおいては、きっちり筋を通している。ほんとう、チャーミングな佳作であった。

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 2巻について→こちら
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 『otona・pink』2巻について→こちら
2010年12月26日
 ストロボ・エッジ 10 (マーガレットコミックス)

 咲坂伊緒が『ストロボ・エッジ』で残した最大の功績は、やはり、安堂拓海という発明であろう。いやもちろん、限りなくピュアラブルなラヴ・ストーリーこそが絶対の柱であって、『ストロボ・エッジ』を語る上での大前提にほかならないのだが、個人的には中盤以降、安堂くんの一挙手一投足から目が離せず、心が奪われっぱなしであった。パブリック・イメージにおいてはクールなイケメンさん、自分がもてていることにまったくの疑いがない、このような噛ませ犬の登場は、少女マンガのジャンルにとっていかにもスタンダードなものだ。ある意味、ステレオタイプな任務を物語に要請されているのだけれども、それが安堂くんの場合、噛ませ犬であることの悩ましさが作中人物の誰よりも表情を豊かにし、しかしそのことすらもひた隠そうとするほどにナイーヴな秘密主義を通じて、おいおい、こんなにも可愛らしい男の子がいるのかよ、という新鮮な驚きがもたらされていたのである。実際、主役の二人、仁菜子と蓮の関係にしても、安堂くんの魅力を彼女たちだけがよく知っている、こうした事実に邪魔され、結果的に後押しされていた点は看過されてならない。つまりは、贔屓目でも何でもなく、安堂くんこそが中盤以降の展開を大きく担っていたのではなかったか。ここまでの文章において、彼にのみ「くん」付けしているのは、その重要性に惜しみない敬意を払ってのことだと思われたい。だが、いくら安堂くんを高く評価してみたところで、自分がもしも仁菜子だったら蓮を選ぶしかないだろう、の説得力を備えていることが、『ストロボ・エッジ』の見事さだといえる。自分がもしも仁菜子ではなく、別の女の子であったならば、それこそ中学生時代から繋がりのある真央がそうしたように、蓮を諦めて、安堂くんを選ぶよ。しかるに仁菜子が、この、限りなくピュアラブルなラヴ・ストーリーのヒロインであるためには、蓮じゃないと駄目だった、蓮以外では駄目だったのだ。あるいはそれは連にしても同様であって、もともとは麻由香という恋人がいたにもかかわらず、仁菜子に惹かれはじめ、仁菜子じゃなくてはいけなくなってしまう。決して麻由香に対し一途じゃなかったわけではない。不純な動機からではない。目いっぱいの誠実さが、蓮と麻由香を別れさせ、そして仁菜子と安堂くんを結びつけさせなかったのだとしたら、同じく目いっぱいの誠実さで、仁菜子と蓮は互いの感情を確かめ合い、シャイであることの壁を越えていった。その誠実さを引き出したのは、疑うべくもなく、恋の魔法というもので、この恋の魔法が孕む清潔な可能性を『ストロボ・エッジ』は全10巻の長さ(およそ3年の月日)をかけ、散漫にへたれることもなしに、真っ直ぐ真っ直ぐ描いてきた。途中参加気味の安堂くんではあるが、そこから最後までよくがんばって物語をリードしてくれた。友情や愛情の厚さに、はにかんだ君のキュートさを忘れない。おそらくは君のおかげなのだ。限りなくピュアラブルなラヴ・ストーリーの、ハッピー・エンドに文句はつけられまい。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
2010年12月23日
 ラキア(5) <完> (モーニングKC)

 矢島正雄(原作)とBoichi(ボウイチ、漫画)という組み合わせは、事前にたいへん期待させられるものがあったのだが(だって『リュウ』と『HOTEL』のタッグによるSFだぜ)、正直にいっていまいちな成果に終わってしまったのが、この5巻で完結した『ラキア』である。いやもっと関係性を描くのに長けたマンガ家が起用されていたならスリリングで悩ましいドラマも生じたろう、あるいは原作を無視するほどにアグレッシヴな展開のみを繰り広げてくれたなら超ど級のバトル・アクションになったであろう。しかしながら、そのどちらにも行かず(行けず)、中途半端な作品にとどまった印象だ。時間をも越え、全世界規模で提示された超常現象は、結局のところ美少女ルナと高校生イサのラヴ・ストーリーに回収されていくのだけれども、個人的には二人の親友でありながら復讐のキリング・マシーンと化した俊也の活躍が最高潮に燃えた。つまりは彼が退場してからはかなりテンションが落ちたのだった。Boichiの、相変わらずまったくおもしろくないギャグはともかく、背景に凝ったタッチが暴力と破壊のイメージを大きく膨らませる一方、物語の駆動軸であるルナ、イサ、俊也の葛藤に、それこそ神話に匹敵するだけの説得力が与えられなかったのは残念としか言いようがない。都留泰作の『ナチュン』と同様、ヴァチカンの矮小化を実行することで人類の破滅をアピールする手法がとられているが、そこまでの大胆さに挑んでいるにもかかわらず、永井豪の『デビルマン』や大友克洋の『AKIRA』クラスの黙示録を達成させるのはかくも難しい。

・その他Boichiに関する文章
 『Boichi作品集 HOTEL』について→こちら

・その他矢島正雄に関する文章
 『メメント・モリ――生と死の交差点に愛があった』(漫画・はやせ淳)について→こちら
 『PS羅生門』(漫画・中山昌亮)9巻について→こちら
2010年12月21日
 L DK(5) (講談社コミックスフレンド B)

 人気が出、連載が長引けば、噛ませ犬的な恋敵が投入されるのは、まあ、こうしたラヴ・ストーリーのパターンにすぎないのだけれど、それでも今後の展開が気になって仕方がなくなってしまうので、弱るよ。少女マンガのワナに違いねえや、だろう。サドっ気抜群のイケメンさんと同居生活を送るうち、最初は好かなかった彼に惹かれはじめ、次第に気持ちを隠せなくなるヒロインというのも、類型的なパターンでしかないし、この狭い人間関係にどうドラマを起こすか、凝らされてきたアイディアも、やはり類型を逸していないのだったが、それに文句をつけるのは野暮、と感じさせてくれるだけの魅力が渡辺あゆの『L・DK』にはある。そして5巻では、すでに述べたとおりの局面、主人公の西森葵をめぐって久我山柊聖と対立するライヴァルが登場する。同じ高校の先輩、三条亘がアパートの隣の部屋に引っ越してき、葵と柊聖が一緒に暮らしていることを知っていながら、果敢にアプローチしてくるのだ。亘が決して嫌味な人物ではない、むしろナイスな若者である点は、物語のなかの機能として大きい。彼の干渉によって、葵と柊聖各々の恋愛観が試される、という構図が生まれている。もちろん、以前のエピソードでも柊聖の後輩や柊聖の兄が同様の役割を果たそうとはしていた。しかし亘の場合は、まったくの第三者であるがため、それらとは別種のスリルを駆け引き上に顕在させている。なおかつ注意されたいのは、さしあたり現時点ではの話に留めるが、亘のアタックにもかかわらず、心理や表情の描写において、葵の動揺が目移りからやって来ているのではない、というイメージを強めていることである。彼女の困り顔は、あくまでも柊聖の反応を原因にしており、一途さをピュアだとすれば、不純には見られないような工夫がなされている。迂闊な性格はそもそも褒められたりしないものの、印象を悪くしていない。また亘がいくらがんばってみせても噛ませ犬に思われてしまうのもそのせいだろう。読み手としては、おまえがナイスな奴なのはちゃんとわかってるぜ、と言葉をかけるよりほかない。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
2010年12月18日
 居候お断り。(2) (講談社コミックスフレンド B)

 安理由香のマンガ『居候お断り。』の明るさは、ラヴ・コメディとホーム・コメディの混在をバランス良く成立させているところからやって来ているのだと思う。物語のなかに暗いトピックがまったくないわけではないのだったが、体温の通ったコメディに収束していく作中人物たちの関係性によって、それは乗り越えられている。乗り越えられていることが、作品に明るさをもたらしているのである。もちろん、気が強いがんばり屋のヒロインとナイーヴで頼りない青年の、純粋にも見えるコミュニケーションは定型的であるし、ストーリー自体もある種お決まりのコースを進んでいるにすぎない。しかし、センセーショナルな話題でヒキを作るのではなく、微笑ましく和やかなオチを設けることに心が遣われているので、各話に柔軟な手触りが生まれている。この点が最大のチャーム・ポイントにあたるだろう。そしてそのような性格は、2巻のなかでは、貧乏な町香が薄着しか持っていない椎名のためにフリーマーケットで冬服を手に探してくるエピソードに、よく出ている。これといった事件が起きているのではないのだけれども、ちゃんとドラマが存在している。作中人物たちの人柄や、やりとりを通じ、ドラマが、エモーションが、滑らかに形を得ているのだ。家族を捨てた父親が、町香の前に姿を現すエピソードも、現実の切なさを前にしながら、結末はひじょうにやさしい。町香や彼女の家族、椎名の体温が直に伝わってくる、そういうやさしさだと思う。

 1巻について→こちら
2010年12月15日
 BALANCE 2巻―BLOODY PARTY (ヤングキングコミックス)

 作者のSP☆なかてまが巻末に〈今回残念ながら志半ばでこの物語の終焉を向かえなくてはならなくなりました まだまだ描きたい事あったんですけど……スンマセン〉というコメントを寄せているが、確かにとっちらかったままの内容に最後まで収集がつけられなかった印象のマンガである。しかしストーリー自体は意外なほど一本道であって、逆にいえば、それを走らせるのにこんだけの長さが必要だったのだろうかと思ってしまう。結局のところ『バランス』の2巻は、悪党にさらわれた友人を主人公が助けに行く、こうしたプロットの引き延ばされたその分を作品のヴォリュームにあてているにすぎない。紙幅を埋めているのは、展開の濃さ、ではなくて、ポエムの饒舌さ、であろう。スタイリッシュなアクションを派手に決めている場面で、作品のリズムはぐっと良くなるのだったが、ケンカの最中にしては甚だしすぎる登場人物たちのお喋りが、折角のリズムを崩していく。ほとんどこれの繰り返しになっている。もちろんそうした手法自体が、暴力がエスカレートすることの食い止め、暴力以外にも不良少年の生きられる道はある、という物語のテーマを再現するには相応しかったとの見方もでなくはないのだけれど、残念ながら、単調さを斥けるような説得力を生んではいない。あるいは主人公であるバネとキャンのパートナー・シップに、おそらくは本質的なメッセージが託されているのだが、クライマックスにかけ、他のネガティヴな要素(トラウマやら心の闇やら)を前面に出してきたところ、いかにもヤンキー・マンガなポエムもしくは説教のトーンが強まってしまい、全体の焦点がぼやけてしまった。特別収録されている二篇の読み切りには、そういう欠点は見当たらないので、そもそもが長篇向けのアイディアではなかったのかもしれない。

 1巻について→こちら
2010年12月14日
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 およそ2年である。第1話が発表されてからすでにそれだけの時間が経ってしまったわけだけれども、田中宏の『KIPPO』の第2話がようやく『ヤングキング』2011年1号に掲載された。長かったというよりほかない。しかしてその間にもう一つ、同作者の他の作品を通じ、重要な設定が事実化されたことを記しておかなければなるまい。以前にも述べたとおり『KIPPO』は、『BADBOYS』『グレアー』『女神の鬼』といったマンガとともに巨大なサーガの一部を為している。ここで参照されたいのは、『ヤングマガジン』2010年47号に掲載された『女神の鬼』の第158話であろう。それは1983年の12月を描いたエピソードなのだが、まさかシリーズを異にすると思われていた『莫逆家族』と『女神の鬼』が地続きであったことを明かしているのだ。つまり、実際のリリースとは別に、作中の時系列で並び替えるとすれば、『女神の鬼』『BADBOYS』『グレアー』『莫逆家族』『KIPPO』の順になる。もちろん、このことによって各々の作品に対する感想が大きく違ってきたりはしないものの、そのサーガが正しく80年代から00年代を包括するほどに巨大であり、さらには現在も膨らみ続けることで、どのような時代にも不良にならざるをえない少年たちが存在し、社会には受け入れられず、悲劇にしか辿り着けない運命を孤独と呼ぶとき、彼らの魂は何によって救われるのかを、田中宏という作家は一貫して追求していることが紛れもなくなっていくのだった。

 〈じゃあ…おまえにはどーしよーもない借金に 親友が苦しんどったら?〉

 こうしたモノローグに暗示的なストーリーを、不良にならざるえなかった少年たちを題材にしながら『KIPPO』の第2話は描いている。『BADBOYS』の主人公、桐木司の息子、桐木久司と出会い、『グレアー』の英雄たちが結集するファミリーに加わったはいいが、心を入れ替えようとした矢先、それまでの非道が祟ってイチロー(澤一郎)は、先輩格のチンピラ、加治屋から300万円もの大金を要求されることになってしまう。あてもなく困り果てたイチローは久司に相談を持ちかけてみたものの、ファミリーには絶対に金の貸し借りはしないというルールがあった。さあこの窮地をいかにして回避するか。以上が第2話の内容であって、ひとまずファンとしては、嵜島昇喜郎や長谷川壮吉など『グレアー』の面々や、佐藤タツヒロ(ヒロの息子)や段野秀樹(段野秀典の息子)など『BADBOYS』世代のジュニアたちが、次々登場してくるのが楽しい。当然、それは二世ものならではの常套手段にほかならない。しかしながら、血の繋がりが幸福にも不幸にもなりえる可能性を常に提示してきた田中宏のキャリアを踏まえるとすれば、二世たちのなかへ過去作にプロフィールを負わないイチローを投じることで、本来ファミリーとはいっさい関わりのない人間がそこに迎え入れられるというシチュエーションを、あらためて用意したと考えるべきだろう。事実、生まれや育ちの不幸から逃れようとするイチローと生まれや育ちの幸福に守られた久司の二人をある種の対照として見ることができるし、そうした対照は『BADBOYS』や『グレアー』、『莫逆家族』のみならず『女神の鬼』においても存在していたものだ。

 無論、ファミリーの概念にしても同様だといえよう。はたして自分に居場所はあるか。自分で望んだ場所にどうしたらとどまれるか。つまりは自分が生きられる共同体の可能性をいかに認識するか。このような問題もまた、諸作を通じ、深められ、さまざまなドラマと結びつけられてきたものであった。そしてあらかじめ引いておいたモノローグに戻る。

 〈じゃあ…おまえにはどーしよーもない借金に 親友が苦しんどったら?〉

 これはひじょうにたいへんとてもシンプルな困難の提起である。だが、シンプルであるだけに絶対に間違えられない信念を望んでいる。根底には、あるいは第3話以降の展開には、おそらく作者がファミリーという概念に託そうとする思想が横たわる。

 1話目について→こちら

・その他田中宏に関する文章
 『女神の鬼』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻と2巻について→こちら
2010年12月08日
 サムライ・ラガッツィ 戦国少年西方見聞録(1) (ライバルコミックス)

 藤田和日郎的なイズムを正しく受け継いでいて、現在の藤田和日郎よりも正しく少年マンガ的なロマンを描き出せているのが金田達也なのだったが、それに対して世間の注目を十分に得られていないと感じられてしまうのは、やはり、作品が持っているテーマの強度や展開のわかりやすさのわりに、今どきの流行色が薄く、派手目なトピックに乏しいからであろう。しかしまあ、そこが良いところでもあるんだった。そのような、らしさ、は『サムライ・ラガッツィ 戦国少年西方見聞録』の1巻にも当然あらわれている。〈天正十年 戦乱の時代 はるか海の外では 大航海の時代であった!〉そして織田信長が本能寺で滅したその年、九州の小国、播磨家の領主、十五歳の播磨晴信は、あまりの不甲斐なさから周囲にうつけと呼ばれていた。しかしながら探求心にかけては人一倍だった。誰にも理解されない夢があった。それはこの世のすべてを記述した万國大百科を完成させたい。はたして隣国の要請は彼にしたら幸運ですらあったろう。長く危険な船旅をもおそれず、羅馬(ろおま)への使節団に自ら志願するのだ。これをストーリーの縦線とすれば、横線にあたるのが伊賀最強の忍びである桃十郎と晴信の関係性だといえよう。そもそも桃十郎は晴信の命を狙う暗殺者だったのだが、晴信の底知れぬ情熱に説得され、行動をともにすることになるのである。桃十郎は陰の濃いイメージで描かれている。これは彼がすでに夢に破れた者だからなのだけれど、一方で晴信は、どれだけ惨めな境遇にあっても、明るい。常に夢を追い続ける者だからだ。両者の対照が、あるいは晴信と桃十郎のあいだに起こっていく影響と変化が、人は人との出会いを通じながらいくらでも成長できる、こういうまっすぐなメッセージを前面的にしている。作中の、どの場面のセリフが、もちろん行動も、いちいち熱いよ。〈幻で消える夢なんて絶対にない!〉という断言にまったく見合うだけの内容だと思う。

・その他金田達也に関する文章
 『キミタカの当破!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『あやかし堂のホウライ』(藤田和日郎・原案)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年12月05日
 スッパニタータ

 まさかツギノツギオの『スッパニタータ』が単行本化される日が来ようとは。こうしてページをめくりながらも信じられない気持ちでいっぱいである。以前『サルハンター』が単行本になったときも同様に思ったのだったが、そこにはたとえば、所謂B級映画の傑作が地上波のテレビで放映されるのと似た感動がある。

 ツギノツギオ(次野ツギオ、ツギ野ツギ雄)は永遠の新人作家である。もちろんそれは決して恵まれてはいない知名度や活動歴のみを指していっているのではない。いや、確かにそれもあるにはある。しかし、普通のマンガ家であればデビューしたのちしばらくしたら霧散してしまうであろう初期衝動みたいなものが、耐えず作品の細部にまで溢れかえっている点を見、何よりも高く買いたいのだ。少なくともこの『聖煩悩中学生 スッパニタータ』が『ビッグコミックスピリッツ』の増刊号(『新増』を経て『漫戦スピリッツ』)で連載されていた当時(01年〜03年)、ツギノのキャリアは新人の域を出かかっていたにもかかわらず、まるでどんなリスクもおそれていないかのような意欲を内容のアグレッシヴさ加減からは感じさせている。要するに、去勢されてはいない。

 これ以上の断片的な情報は巻末に付せられた大西祥平の解説に詳しいし、わざわざ引用したりはしないけれども、とにかくまあひじょうにクセの強い作品であって好き嫌いは別にしても、その規格外のテンションは一読に値すると思う。

 母親の形見である宝塚漫虫の『シャカ』(いうまでもなく手塚治虫の『ブッダ』のもじり)に影響され、不登校と肥満を克服した少年、孵我児(ふがじ)は、中学校の屋上でクラスメイトの田中音子と出会い、彼女のエロティックさにはじめての射精を経験する。だが世間にすれていない孵我児のイメージのなかで、解き放たれた精子はあたかも得体の知れない悪魔(マーラ)のごとくであった。はたしてブッダのような大人物を目指す彼は、自らの煩悩を振り払い、さらには悪魔を次々に生み出すマスターベーションをも断ち切ることができるのだろうか。音子の誘惑に心乱され、アルバイトでデリヘルをしている女教師の罠にはまり、ついには退学処分となってしまった孵我児は、母親の思い出に誘われ、高尾山へ発つ。しかしながらそこにも新たな苦行が待ち受けていたのであった。

 基本的にはスラップスティックなコメディといってよい。オーヴァーなリアクションにニヤけてもよいし、あまりの馬鹿馬鹿しさに白けてもよい。反面、多少まじめぶって述べるのであれば、主人公のネーミングや各エピソードのタイトル(「カムクリーン」や「SMASH YOUR FACE」等)あるいは作中人物が某レコード・レーベルのTシャツを着ていることからもあきらかなとおり、作者はハードコア・パンクにおけるストイシズムと『ブッダ』の思想とを、孵我児の災難や成長を通じ、融合させようとしている。どうしてこんなにも滅茶苦茶なストーリーなのに、ラストのカットは神聖にもさわやかにも思われるのか。それまでのすべてが真の愛を見つけられることによって超越されているからだというよりほかない。ツギノツギオならではの超展開(リズムとグルーヴ)がこの達成を可能にした。

 『ラブアタック』について→こちら
2010年12月04日
 ギャングキング 20巻 (ヤングキングコミックス)

 作者の柳内大樹が主人公であるジミーに委託しているテーマとは、おそらく、強いはずの人間でも悩むことがあると同時に悩むことでしか人間は強くなれない点なのであって、そこでいわれている強さをどう扱うかの問題は、たぶん、最大のライヴァルにあたるピンコの「力の模索」に集約されているのだと思う。『ギャングキング』の20巻である。何よりも気になるのはやはり、ジミーとピンコの直接対決にいかなる結着がつけられるか、であろう。それはつまり、同じテーマを背負いながら別々のベクトルを生きる二者がお互いにお互いを参照することで、作中の言葉を借りるのであれば「答え合わせ」を果たしているからなのだったが、結局のところ具体的なコンセンサスは得られず、あくまでも平行線の存在であることだけが確認されるにとどまる。さしあたり、雌雄を決しないことによって物語は延長化された、と考えて良いのかもしれないけれども、異なった観点から見るとしたら、ジミーとピンコの関係が、『ギャングキング』においては常に、止揚(アウフヘーベン)の機能を持っていることを強く印象づける展開となっているのだった。事実、ピンコとのバトルを経て、ジミーの認識が次の段階に入ったことは、後のエピソード、たとえばマッスルとの再会やベロの姉とデートしているくだりにあきらかだろう。もちろん、それ以前の成長期としてワークマンズ編があるにはあったわけだが、あそこでの借用に近しい井上雄彦『リアル』ふうの描写から作風が完全に脱却していることにこそ、最も注意されたい。要するに、作者自身もまた、ジミーとピンコの止揚を通じ、創作上に新しい手応えを掴んでいるのである。ただし、『ギャングキング』の題名に現時点で相応しいのはやはり、ジミーではなく、ピンコのほうだといえる。過去にも指摘したとおり、ピンコの思想とチーム・ジャスティスの営みは、高橋ヒロシ『QP』(99年〜02年)の我妻涼や山本隆一郎『GOLD』(01年〜06年)の御吉十雲のそれに通じるものだ。裏社会を生きることでしか運命や世界は変えられない。こうした天啓は、いかに肯定されようとも暗さを免れない。00年代以降のヤンキー・マンガが抱える宿痾でもある。しかして柳内は、我妻涼とも御吉十雲とも違う答えをピンコに与えられるのか。ジミーを軸とする本筋のほかに、そのことが気になって仕方がない。

 19巻について→こちら
 18巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一) 
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『新説!さかもっちゃん』1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年12月02日
 シマウマ 1巻 (ヤングキングコミックス)

 小幡文生、あれだけ非道であった『ステゴロ』(原作・俵家宗弖一)よりもさらに残忍な世界に潜るかよ。『シマウマ』の1巻であるが、いや実際、派手に血なまぐさい。結婚相談所をカモにした美人局で荒稼ぎしていたタツオの携帯電話に一通のメールが届いた。そこに添付されていたのは、つるんで悪さしていた仲間をいたぶりながら笑みを浮かべる不気味な男のムーヴィーであった。そしてタツオは思い知らされることとなる。〈この世の中には奴隷や家畜… それ以下の世界があるコトを…〉だ。はたして恋人である彩とともに不気味な男に拉致されたタツオは、どこまでも底の抜けた暴力に支配された現実の一部を否応なく覗き見させられる。題名にあるシマウマとは、やがてアカという名によって身元の割れる不気味な男でさえおそれる人物を指し、現段階ではその登場を予告するに止まるのだけれども、作品自体の価値観を左右しかねない存在であることだけは、あからさまに示されている。それはつまり〈この世の中のほとんどが奴隷か家畜なんだよ〉という認識の暗さを人は生きられるか、生きられたとしてもそこに求めるべきものがあるのかどうか、だろう。少なくとも主人公であるタツオの、ぎらぎらとした目つきは、希望や幸福をあらかじめ信じていないところからやってきているのだし、九死に一生を得ながら生き長らえるほどのしぶとさもまた同様の点に由来しているのだったが、しかし、より深い闇へ落ちていくことでそのような思いなしですらも突き崩されるかもしれない可能性が、今後の展開を左右しているのは間違いない。ヴァイオレントな内容からして、過激な描写の多い作品ではある。だが『シマウマ』における過激さとは、現時点でいうのであれば、リンチの行為とほぼ等号で結べる。要するに、立場の弱い者が立場の強い者に蹂躙される、の論理である。おそらくすべての作中人物が、こうした論理に従っているのであって、それに対するアンチテーゼがないがために、残忍でいて血なまぐさい印象が生まれているのだ。

 『SHIBUYA大戦争』(キャラクターデザイン・柳内大樹 原作・俵家宗弖一)1巻について→こちら
 『ステゴロ』(原作・俵家宗弖一)1巻について→こちら
2010年11月30日
 隣の彼方 (マーガレットコミックス)

 残念ながらレビューし損ねてしまったが、河原和音(原作)と山川あいじ(漫画)の『友だちの話』は、今年も終わりが近くなって発表された佳作であった。そこでは、少女マンガのジャンルが、恋愛を描くばかりではなく、友情を描くのにもひじょうに秀でていることが、羨ましくなるぐらいのプロポーションで実践されていたように思う。さて、さすがそれには及ばないかもしれないけれど、香魚子の『隣の彼方』もまた、友情ベースの少女マンガをたいへん魅力的に実践した読み切り作品集である。もちろん、作中人物が恋愛をしないわけではないものの、所謂ラヴ・ストーリーとはだいぶ案配が違っている。そのことは特に「ひみつみっつ」という篇に顕著であろう。女子高生三人組の、仲良さげな表向きのコミュニケーションとは裏腹に強いられる思惑や抑圧が、並行的に描かれていく。どのようなグループに属していようとも、寂しさは生まれる。それが他愛もないほどに身近な物語のなか、〈本当の友達が欲しい 大切な人を失いたくない 誰かに自分を受け入れて欲しい〉という願いに集約され、ささやかなハッピー・エンドをもたらしているところに最大の成果がある。表題作の「隣の彼方」は、幼馴染みの、しかし中学から高校へ進学するうち疎遠になってしまった男女の、あまりにも不器用な関わりを描いている。いくつかのしがらみやわだかまりのせいで、過去には戻れないが先にも進めない。二人の姿は思春期と呼ぶのが相応しい。「Keep a diary」は、親友を公言して憚らない女子高生たちの関係を、サスペンス・タッチの転調を用いながら描いた。物語の起伏に力みがあり、先述した二篇に比べると、いささか見劣りするけれども、誰にも受け入れてもらえないことの寂しさを確かに感じられる内容となっている。単行本の冒頭、オール・カラーで収録された「ノストラダムスと榊くん」は、他からすれば異色の作品だといえる。が、同時に出色の出来だといえる。もちろん、それはオール・カラーだからなのではない。預言者である少年の孤独が、そのごくありふれた少女の目にはどう映ったか。現代的なメルヘンを切なくも鮮やかにやさしく描いているのだった。

 『さよなら私たち』について→こちら
 爆麗音-バクレオン- 7 (ヤングジャンプコミックス)

 はたして佐木飛朗斗(原作)と山田秋太郎(漫画)の『パッサカリア[Op.7]』とは一体何だったのか。このような問いに対する解答になることを、同コンビの『爆麗音』には期待していたのだ。が、結局のところそれは、『爆麗音』とは何だったのか、という新しい問いを残す。言い換えるなら、決して完結しない無限の問いこそが佐木の作りし宇宙の本質であることをまたもや証明することとなったのである。しかしながら、最終章にあたるこの7巻で、物語は一応のレベルで納得のいく着地を得ている。数奇な巡り合わせを経、ロック・バンド「爆麗音(バクレオン)」に結びつけられた四人の若者が、伝説の魔曲「ミカゾノピアノソナタ“零”OP.7」を初演する機会に恵まれ、どのような不幸も変えられる可能性を世界中に知らしめるのだ。主人公である音無歩夢が、さまざまな出会いを通じながら、自らの運命を受け入れ、今まさにすべての境界を越えて行かんとする姿は、正に佐木がこれまで織り成し続けてきたテーマの変奏であろう。〈稀に音楽は炸裂して 音符と音符の狭間に在る知覚し得ない旋律を… 刹那的に… 有機的に… 圧倒的な質量を… 空間に漲らせる…!!〉のであって、そして〈決して目に見えない… 愛や風の様に… “それ”は何処にでも存在して… 何処にも存在しない… その力を贈られた者だけが… 楽譜から解き放つ… 唯一無二の力!! 音楽の奇蹟!!〉を、そのあまりにも抽象的なポエジーを、山田秋太郎は能うかぎりの誠実さをもって再現しようとしている。そこで山田がぶつかっているのは、音楽マンガというジャンルそれ自体の困難にほかならなず、必ずしも成功しているとは言い難いもあるにはある。したがって『爆麗音』以上にすぐれた描写を為している作品はいくつも挙げられるに違いないのだけれども、演奏のダイナミズムに関しては、すばらしく惹きつけられるものがあったように思う。一方でやはり残念なのは、『パッサカリア[Op.7]』のみではなく、東直輝を作画を迎えた『外天の夏』からも持ち越されてきたモチーフ(真逆の世界!)が、曖昧さを斥けるほどの確信にまでは辿り着けなかった。発想と混乱の眩暈にしか至れなかった点だ。かくして佐木の作りし宇宙は今なお完成を見ることもなしに膨張をし続けている。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら  
 1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』(漫画・東直輝)1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』(漫画・東直輝)1巻について→こちら
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
2010年11月29日
 コイバナ!恋せよ花火 10 (マーガレットコミックス)

 まあ人気連載の常とはいえ、前作『パフェちっく!』がせめて半分ぐらいの長さで終わっていてくれたら、と今でも思わないのでもないのだったが、この『コイバナ! 恋せよ花火』に関しては、この10巻できっちり蛇足のないところで閉まり、しかも十分に満足のいく結果を残してみせたのだから、ななじ眺というマンガ家をなめてはいけない。いや、たいへんおもしろかった。男性を受けつけないヒロインと高飛車なイケメンさんの関係をベースにしたラヴ・ストーリーを、ぶれなく最後まで進められたのがよかったし、たとえば二股のあいだで触れる乙女心などではなく、一途な想いはさまざまな障害を越えうるかもしれない、という可能性を作品全体のテーマに置いていたのは、ピュアな印象をこよなく高めていたように思う。また、そのような主題に着目すれば、ワキの人物たち、サイドのエピソードが豊富でありながらもたんなる迂回路に止まっていない。クライマックスに向かい、各人がそれぞれ抱えている問題に自分なりの解答を出していく。そこからは物語を決着することでしか果たせない作者の責任あるいは覚悟とでもすべきものが見えてくる。良作であった。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他ななじ眺に関する文章
 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
2010年11月22日
 何はともあれ『ヤングチャンピオン』NO.23(前号)の次号予告を目にした瞬間の衝撃といったら。うおお、ついにこのときが来たか。声をあげずにはいられなかった。まさかまさか、立原あゆみの二大巨編『本気!』の主人公と『仁義』の主人公の共演が仄めかされていたのである。実際、ファンの多くにとっても事件であったろう。もちろんこれまでにも同一の世界観をシェアする立原の作品群において、双方の作品がリンク、ニアミスする機会がまったくないわけではなかった。しかし、あの白銀本気(まじ)とあの神林仁と八崎義郎のコンビが直接に相まみえることだけは、それがまるで犯してはならないタブーであるかのごとく、避けられてきたのだった。だが、とうとうその禁は破られた。『ヤングチャンピオン』NO.24に掲載の『火薬』で、本気と仁義が緊張とともに接触を果たす。

 とはいえ、立原あゆみデビュー40周年特別企画として発表された読み切りの『火薬』から、メモリアル以上の側面を見出すことは難しいかもしれない。けれどもやはり、いやむしろこれが描かれたということに意味がある。『火薬』では、現在連載中の『仁義S』の番外編に近しいスタイルがとられている。『仁義S』の主人公である猿山アキラが、漁師組合の揉め事にかり出され、同じく解決に出向いていた気志団というグループと邂逅する。いうまでもなく、アキラのバックに付いているのは仁と義郎である。そして、気志団のバックには本気がいる。つまり、アキラと気志団とをそれぞれの代理に置きながら、仁義と本気はお互いを視野に収めることとなるのだった。無論、ファンの願望としては、あのマンガの主人公とこのマンガの主人公はどっちが強いんだろうね、的なドリーム・マッチを実現してもらいたいところであって、残念ながらというべきか、それは叶えられなかった。あくまでも一つのエピソードの両端を『仁義』のメインと『本気!』のメインが担っているにすぎないのだったが、場合によってはさらなる展開もありうるぞ、と期待させる決着が心憎い。

 それが立原あゆみ版『大甲子園』になるかどうかは不明ではあるものの、もしもあるとすれば『本気!』シリーズの正統な続編として描かれる可能性が最も高い。『本気!サンダーナ』と『仁義S』の物語を通じ、巧みに回避されてきた風組と関東一円会と極地天道会の三つ巴が、壁村耐三というカリスマをかつて抱いた『あばよ白書』の猩猩組はもとより全国の極道を巻き込み、にわかに日本が内乱状態と陥ったなか、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、このようなテーマを背負った本気が、テロリズム的なアプローチも良しとする『仁義』シリーズの世界へと介入していくというのが、作者のヤクザ・マンガを総括するのに相応しいシナリオであると思われるのだ。『本気!』も『仁義』もスタートした当初は、いけいけのチンピラを題材にすることで成り上がりのストーリーにダイナミズムを生み出していたが、作品の性格は完全に異なる。どれだけ慈愛を生きられるか、を本気が体現する一方、仁や義郎が引き受けていたのは、どれだけ非情に生きられるか、であったろう。

 今回の『火薬』において、本気はほとんど事件に関与していない。『弱虫(ちんぴら)』のクライマックスと同じく、ただ圧倒的な存在感を知らしめるのみである。仁に〈あの野郎 指鉄砲でオレを殺した〉と言わせ、義郎には〈男も女も触ってはいけない奴がおる〉と言わせるにとどまっている。しかしそれは立原ワールドの真底に込められた揺るぎない信念を実は教えているのであって、本気の姿を目の当たりにしたアキラが〈オレは! 潰しがいのある憧れがいたような気がした〉と火をつけられるのは、深遠を覗き見ることによる畏怖と尊敬のためにほかならない。

 ※立原あゆみの足跡や影響に関しては、『立原あゆみ 雑誌掲載作品データ』を同人誌で出されているsoorceさんのブログ「情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明」にたいへん詳しくまとまっているので、ぜひそちらも御覧になってください。現在、立原あゆみデビュー40周年記念イベントも行われております。

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『涙星〈アース〉チンピラ子守歌』1巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2010年11月21日
 絶叫学級 6 (りぼんマスコットコミックス)

 09年8月にサークル・WAIWAIスタジオが出した同人誌『ぶっとびマンガ大作戦 Vol.13』では、口裂け女マンガが特集されている。そこで新田五郎は、どうして70年代後半に口裂け女伝説が流行ったのか、〈多くの解説者の言うとおり〉としながら以下のように述べている。要するに〈「多くの子供が塾に通い始めた時期」であったことは大きい〉のであって〈学習塾が、それまでとは違った子供たちのうわさネットワークとして機能した可能性は大いにある〉のだし、〈一方で、「地域内のつながり」が急速に薄れていく時期でもあった〉から〈わけのわからない人間がそこら辺にまぎれていても、不思議ではない状態になっていた〉ことの反映として、なるほど、口裂け女はいたのかもしれない。また新田が〈「口裂け女」とは、「口裂けでなければならない」という要素と「だれでもなるかもしれない、なってしまうかもしれない」という要素があって、超個性派で出自がしっかりしているドラキュラやジェイソン、フレディ、あるいは貞子などと、まったく無個性で十把一絡げの「ゾンビ」との中間的存在ではないかと思うのだ〉と、その特性を推理しているのは興味深い。

 いしかわえみの『絶叫学級』は、都市伝説型のホラーを短編のスタイルで描いていくマンガであるが、6巻に口裂け女を題材にしたエピソードを収める。話の筋自体はひじょうにシンプルで、凝っているとは言い難いのだけれど、口裂け女を現代に蘇らせることの必然とすべきものがその向こう側には着実に備わっているように思う。『絶叫学級』の口裂け女は、男子生徒に人気があった女性教師の不幸となっている。それはつまり、大人が子供の社会に介入することの困難を反映しているのだろう。ここにおそらくは今日性が見られるのである。学校という半径の小さい世界において、教師と学生の関係はかつてと違ってしまっている。両者の立場はもはや教えると学ぶの取り引きをキープしてはおらず、たんに射程が狭いゲームへ揃って参加しているにすぎない。結果、偶々陥れられた側の悲劇と報復とが口裂け女のイメージに象徴化されているのだった。さらに注意されたいのは、巻末に加えられたエピローグにあたる「番外編」だ。〈現代の口さけ女の苦手なもの それは「大人数の子供」だと言われている〉と決着するそれは、もちろん孤独や疎外感に対しての否定となっている反面、子供の社会を自己完結させ、共同体の内なる規範を自動的に強化してもいる。

 共同体内部の規範は、ときとして同調圧力の脅威となり、所属する人間を苦しめる。八方塞がりにする。いじめはその具体例であろう。はたして、いじめのなくならない世界をどう生きるか、これをテーマにした「悪魔になった日」は、作品のナビゲーターである黄泉の過去編に通じるものがある。黄泉が作中人物たちの運命にほほえみかけているようであるのも、きっと、そのためだ。退屈な日常に飽き飽きした少女の不思議な体験を描いた「黄泉行きバス」は、確かに人生賛歌のクリシェではあるものの、ああもう、ちくしょう、最高に泣かされる。〈お前は生きてるんだ 毎日なんていくらだって変えられる 「つまらない人生」なんて悲しいこと言うな〉こういう真っ正面からのメッセージに照れないことこそが健全と呼ぶに相応しい。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
2010年11月19日
 トクボウ朝倉草平 8 (ジャンプコミックスデラックス)

 インターネット時代の感性でハードボイルドをマンガ化するとこうなる。そしてそれがハーフボイルドのようなレディメイドになりかねないところを躱し、皮肉とロマンに満ちた世界を完遂しているのが『トクボウ朝倉草平』の最大の魅力であろう。本作で高橋秀武は十分な腕前を披露した。もちろんこの最終8巻でも、ひりりとしたユーモアは健在であって、単発のエピソードにおいて生き生きとしているのだったが、全編を通じ、大きな流れをなしていたツルイ警備との決戦には、思わずこう、やってくれたなあ、とシリアスに胸の高まるものが込められているのである。兎にも角にも、一見すれば奇人変人の類でしかない主人公、朝倉草平の行動理念が、その個人的な正義が、あくまでも徹底し、貫かれているがゆえに巨悪を砕く、こうしたプロットを堂々展開しているのが、良いよ。たいへん盛り上がる。ここで重要なのは、草平の、個人レベルの正義から、しかし確かに頷かされるだけの確信が得られることなのだ。それは権力に対する懐疑として、まずは次のとおり述べられる。〈権力ゲームさ 権力なんて 単純に競技人口が多いだけのただのスポーツさ 権力を手にしたらなにができるのか…… 別に なんにも…… 別になんにもないんだ 結局みんな 権力というお山のてっぺんからいい景色が見たい… たったそんな事… そんな子供みたいな事で血眼になっているのさ……〉と。これを聞いた平凡な刑事の辻恵一が〈……俺は見てみたいっすよ… いい景色〉と言っているのは、しごく真っ当であって、必ずしも批判されるべき意見ではない。誰だってこの世界や社会のプリンシパルになりたい。本音を曝せば、そうした欲望を斥けることは難しい。だが草平はそれすらも容易く〈…そうかね〉と一蹴する。〈お山の下に広がっているのは こうして僕らがはいつくばってる地面に決まっているのにかい…………〉そうやってひっくり返してみせるだった。草平の態度は、いたって平明だといえよう。要するに、皆がのぞんでいるゲームには乗らないよ、と断じている。問題は、それが単に天の邪鬼である以上の意味合いを持てているのか、あるいは否か、であろう。実際、彼の態度は、クライマックスにおいて、物語上のスリルと不可分になっていく。はたして、すべてが決着し、ラストを飾るカットの、作品の印象さえも左右しそうなほどに穏やかなイメージは、どこからやってきているのか。最も注意されたいのは、主人公がベンチに寝そべっている構図である。そうしてその視線の先でひろがっているものにほかならない。空だ。ここにきて〈お山の下に広がっているのは こうして僕らがはいつくばってる地面に決まっているのにかい…………〉という、彼の言葉が思い返される。草平は権力の頂点に立つことで眺められたはずの景色を見ようとはしない。決してしなかった。かわりに、晴れ晴れ、果てしなく続いていくかのような空を見ている。いうまでもなく、それは安らぎの象徴である。

 7巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
2010年11月15日
 花宵道中 4 (フラワーコミックスアルファスペシャル)

 ちくしょう。悲劇ばっかりじゃねえか。宮木あや子の同名小説を、斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』だが、あたかも近世の底辺であるかのように描かれた遊郭では、その華やかさとは裏腹にまったくの不幸せが綴られる。小説のほうを確認すれば明らかなとおり、構成と内容は、原作を忠実になぞらえているといっていい。もちろん、それに絵が付くことでイメージにはっきりとした輪郭が備わっているのは、マンガ版ならではの利点だろう。連作の形式で繰り広げられる物語は、この4巻で、今までに含められてきた因果関係の全貌を教える。これがもう、最高に哀しい。霧里の苦労が、半次郎の想いが、朝霧の恋が、互いに平行線であった世界が密に繋がり、ああ、という大きな溜め息をもたらすのだった。『花宵道中』に示されている不幸せとは、おそらく、あらかじめ定められた運命を決して変えられない、このことに集約されると思う。どれだけ藻掻こうが、いくら抗おうが、地滑りし続ける人生は下へ下へ向かうのを止めない。夢は夢のまま、潰えるよりほかない。しかしながら、すべては苦しみにすぎないのか。確かに作中人物たちはその生涯を閉じる間際にしか安息を得られない。だがそこで見られる光景は、いつだったか各自の胸を満たした幸福の、鮮やかなリフレインでもあったろう。たとえ少しでも、たった一つでも、記憶をやさしく撫でるものがあったとすれば、それはもしかしたら懸命に生きたことの証になるのかもしれない。はたして、霧里や朝霧の妹分、八津もまた、彼女らと同じく悲劇を辿ろうとしている。どうか、髪結の職人である三弥吉との出会いが八津にとっての救いであって欲しい。そう祈らずにはいられない痛みを湛え、新展開の第四部が幕を開けた。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年11月11日
 マンガ史に名が残ることはないだろうし、大勢に影響を与えることもないのだろうが、しかし良質だと認められる作品が一つ、完結した。所十三の『AL(アル)』である。『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』とその続編『D-ZOIC』で、恐竜時代のファンタジーを確立した作者が、新たな趣向を凝らしながら、やはり見事なまでにダイナソーのロマンを描き上げている。『ユタ』シリーズと大きく異なるのは、人間(ホモ・サピエンス)がいっさい登場しないことだ。すなわち恐竜や古代生物しか出てこない。もちろん、恐竜の生態をイメージし、スケッチを試みたマンガというのは、これまでにも数々ある。この作家にも『DINO2』があったことを忘れてはならない。だが『AL』ではそれが、あくまでも少年マンガ的なエンターテイメントの正統に昇華されている点こそを、高く見られたい。人間の少年像を模したトリケラトプスの主人公アルが、いくつもの障害を乗り越え、多くの仲間を得、宿敵であるティランノサウルスの牙王率いる肉食の軍団に戦いを挑んでいく。テイストとしては、高橋よしひろの『銀牙』シリーズやアニメーションの『ガンバの冒険』に近しいかもしれない。いずれにせよ、小さき者たちが力を合わせて大きな存在に立ち向かう姿に燃える。感動させられる。クライマックスにあたる4巻で、ついにアルは牙王と直接対決することになる。もうねえ、このあたりがさあ、アルの仲間カブの如実な成長であったり、老兵のエドが若い世代に託す希望であったり、心をぐらぐら揺すってきてたまらないのであった。確かに、展開としてはステレオタイプなのであって、古くさいと言わば言えなのだったが、いやいや、少年マンガ的なエンターテイメントの正統とは、ずばりこれではなかったか。愚直なほどに、健全なぐらいに、核心を突いている。反面、そのような性格、作風や題材を含め、ほとんどキャッチーには思われなかったのが惜しい。また、デフォルメよりもディテールを優先したせいか、作中の個体に区別がつけづらく、こいつ誰だったっけな、感情移入を逃してしまう場面が少なくなかったのも悔しい。

・その他所十三に関する文章
 『D-ZOIC』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら 
 『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年11月07日
 ヤクザ・マンガにとって北海道とは何か。このような問いは一考に値するのだったが、なるたけ深い検討がなされなければならないと思われる以上、とりあえずは提起だけにとどめたい。まあ、新宿が舞台であればVS中国や韓国の、沖縄が舞台であればVSアメリカの、北海道が舞台であればVSソビエトの、といった具合に、ある種の喩えを含んでいるのは間違いない。そこでは戦後という残響のなか、対外と接しなければならない極道の真髄が、ひいては日本人としてのアイデンティティが試されているのである。たとえば、史村翔と池上遼一の『サンクチュアリ』や本宮ひろ志の『男樹・四代目』を代表例に挙げられるだろう。しかし、立原あゆみの『本気!』の主人公が北海道出身であったり、和久井健の『新宿スワン』(厳密にはヤクザ・マンガではないがやっていることはヤクザと一緒)の主人公が北海道に渡らなければならかったりしたのは、必ずしもその限りではないと思われるし、また高橋のぼるの『土竜の唄』ではどうだったか。ほかにも参照すべき作品は多い。

 無論、東元俊也の『破道の門』もその一つに数えられる。部分的にではなく、全面的に北海道を舞台にしているのは案外珍しい。他方、ロシアン・マフィアが麻薬の象徴であるような点は、こうした系統のパターンであろう。そしてやはり、ここでのヤクザは外国からの勢力に対して国防あるいは自警の役割を果たしている。もっとも物語上の要点は、この10巻で完結した段階から振り返るに、もっとべつのところに求められるかもしれない。ロシアン・マフィアに両親を殺された若者、藤沢ケンジの復讐劇でもあったわけだが、それはつまり、天涯孤独となってしまった彼が新しい家族を得ていく過程でもあったのである。8巻以降、クライマックスに向かい、そのテーマは急激に加速する。ヤク中になりかけたケンジを救うべく兄貴分の虎島は、自分たちが家族であることを強調する。文字どおり、オヤジである組長が死ぬ。ケンジの実の父親が明かされる。そして九条英治というカリスマは、ケンジを庇いながら、こう言うのだった。〈おまえの父親が誰だろうと関係ねぇ‥‥おまえは俺の弟だ〉

 ともすると『破道の門』における擬装破門とは疑似家族の言い換えにあたる。組織というよりは共同なのである。しかもそれは自分で自分の運命を選び直した結果、属するものとなっている。すなわちア・プリオリにはありえないのだ。必然、仁義や民族ですら無関係といえるだろう。ハイライト、父殺しの試練を経、寄る辺を獲得するケンジとは反対に、宿敵イワノフはすべてから切り離されて、死ぬ。そこには新しい価値観が興り、旧い価値観が没するといった構図が生じている。ロシアン・マフィアであるイワノフの生涯は、戦後という残響のなか、ソビエト史とともにあったのだったが、ケンジの背景にもはや日本史は存在しない。それをラスト・カットに掲げられた〈極道でもマフィアでもない新しい道――――俺たちは“破道”を進む〉このような宣言は象徴している。

 いちおうは第1部完の名目でストーリーは閉じているけれども、はたして第2部が描かれるかどうかは正直わからない。もしもあるとすれば、共同とは別個のテーマが設定されなければなるまい。

 1巻について→こちら
2010年10月29日
 ドミノ (マーガレットコミックス)

 山口いづみの『ドミノ』は、とにかくその表題作に見入らされるものがある。全三話で成り立った長めの短編とでもいうべきマンガである。作者のこれまでと比べるなら、他の作家をよく勉強し、吸収、取り入れ、とくに絵柄や構図のレベルにおいて、従来の作風とは異なったところを出してきているのだったが、それが下手な色気とはならず、上手い具合に引きの強さをつくり、随所にさわやかでいて、自然と気持ちの高まる風をふかせる。

 ストーリーは以下のようなものであって、ことさら凝ってはいないだろう。子供の頃から好いている央太と高校でも一緒になれ、心を弾ませる柚子であったが、ケンカの噂が絶えない問題児の仁科と同じクラスになってしまい、彼と顔を突き合わせるたび、互いの印象を悪くしていく。しかし央太がもう一人の幼馴染み、千春と付き合うことになり、意気消沈する柚子を励まし、元気づけたのは、意外にも仁科の気遣いであった。また、物怖じしない性格の柚子と接するうち、他人に対してナーヴァスになっていた仁科にも変化があらわれはじめる。

 要するに、犬猿の仲を思わせる男女のあいだに恋愛感情が生まれるまでを「ドミノ」は描いていて、まあそれ自体は特筆すべきトピックになりえないのだけれども、登場人物が少なく、ひじょうにシンプルな筋のなかで、たった一つの出会い、関わりが、いかにそれぞれの心を動かすかを、すでに述べたとおり、不器用な様子がドラマティックにも感じられるほどのさわやかさ、場合によってはそれが藍より出でるぐらいの青さをもって、掴まえられているのだ。

 もしかすれば、小玉ユキの『坂道のアポロン』や吉田秋生の『ラヴァーズ・キス』等に見られるような、自己表現が拙いあまりに屈託した少年像を、あくまでも少女の視点や所感を引き出すために擁し、物語の本質をまったく『別冊マーガレット』のカラーに染め直した作品、という印象を抱く。だがそれが、こんなにも心地の好いエモーションを連れてきてくれることが、何よりも嬉しい。コミュニケーションというのは、実に不思議なものである。ちぐはぐ、絡まり合って、しばしば厄介になる。でもそこからがほんとうのスタートではなかったか。面と向かい、会話を重ねるにつれ、次第に表情を変化させる柚子と仁科の姿は、ちょうどそのことを教えているのだと思う。

 表題作のほか、もっとも先に発表された「夏月花」には、作者の本来の持ち味がよく出ている。「小さな世界で」には、「ドミノ」へと繋がっていく試行錯誤を求められる。いずれも習作にとどまらない魅力を放っている。

・その他山口いづみに関する文章
 『ハルフウェイ』について→こちら
 『アカンサス』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キリン』について→こちら
 『恋愛幸福論』について→こちら
 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
2010年10月26日
 前巻、それまでに背負ってきた重荷のため、照と訣別しなければならなかった黒崎(DAISY)の告白は、いっさいが取り返しのつかない段階に入ってしまったことを教えるほどに、悲痛であった。そして照は、黒崎が兄の死に関与していたことを知ってしまい、また彼が何の弁解もせず自分の元を去ったことに対し、たいへんショックを受ける。以上のようなくだりを経、最富キョウスケの『電撃デイジー』はこの8巻で、過去の因縁を解き明かしながら、サスペンスの色合いを濃くしていくのだった。が、基本としては、精神の暗がりにはまってしまった青年をヒロインの懸命さがすくい上げようとする、という実に少女マンガのロマンスらしいコンセプトを踏襲しているのであって、物語上のエモーションもそこに由来しているといえる。おそらく二人が再会を果たすのは次巻以降であろう。ここでは〈何かあるのかな 私にできること… なんでかな むずかしいよ わかんない 私のお兄ちゃんを殺したと言って いなくなった人に 私は何を伝えたらいいんだろう またまちがえるくらいなら じっとしていたい… きっと私じゃなくったって 誰かが……〉と意を失しかけた照が、周囲の人びとの助けを得、立ち直り、兄と黒崎のあいだにいかなる繋がりがあったのかを理解、〈ねえ お兄ちゃん 私にはわかったよ お兄ちゃんは間違っていない 私これから黒崎のこと助けに行くよ〉ふたたび為すべきを取り戻すまでを描いている。回想型の展開が続き、いささかシリアスな調子を強めているのだけれども、そのような構成において支配的になっているのは、モノローグに乗せられたポエジーである。7巻では(黒崎の)携帯電話からのメールに顕著であったそれは、今巻では(兄の恋人であった理子の)照に真相を打ち明ける語り、(兄や黒崎の恩人であった緑川教授が)黒崎に残した手紙などに垣間見られる。もちろん、先に引いた照の心の声であるようなパートもしかりなのだが、しかしそれだけはまだ(読み手以外の)本来届けたい相手に達していないことが、ある種のせつなさとこれからのストーリーを呼び込む。

 7巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他最富キョウスケに関する文章
 『青春サバイバル』について→こちら
 『ペンギンプリンス』について→こちら
 『プリキュウ』について→こちら
2010年10月22日
 僕らはみんな死んでいる 1 (クイーンズコミックス)

 閉鎖空間に隔離された人物たちが、さあ殺し合ってください、という今日的なフィクションの様式を、きらの『僕らはみんな死んでいる♪』は逆手にとっている。同じ日に死亡した8名の男女が神を名乗る何者かによって一室に集められた。そして一つの提案が出される。望むのであれば生き返りのチャンスを与えよう、と言うのである。それはつまりラブゲーム、そこにいる誰かと恋をすること、〈たとえばユーとユーがアチチになれば ふたりは生き返ってゲーム終了!!〉なのであって、元の世界に帰れるのだった。こうして、今まで互いに素性の知らなかった8人の奇妙な共同生活が幕を開ける。と、まあ、基本的にはワン・アイディアの産物と見なして良いだろう。不可抗力に課せられた条件は、各人の心理を深く掘り下げるための方便になっているのだと思う。このとき重要なのは、殺人のゲームとは違い、恋愛のゲームといった比較的に与しやすいものに対し、どのような抵抗を設けるか、障害を用意するか、すなわちドラマを駆動させるキーをいくつ作れるか、なのだが、1巻の時点では、殺人ゲームの場合との差異はじつはさほど大きくない。要は、状況の一変が精神にもたらした不安と混乱をベースに人間関係の整理をしているにとどまる。もちろん、長篇化の期待されているマンガなのだとしたら、今後の展開こそが本題になるのは間違いないのだけれども、まだストーリーが十分軌道に乗りはじめていないにもかかわらず、新たにゲームの参加者を追加してきた、このことの意味をどう判断するかは難しい。さしあたり盤上の駒を増やせば物語が動く、の論理でそれが行われているのだとしたら、当初の構想をひろげるにあたって、さっそくの手詰まり、先行きの不安を感じさせるし、いやいや、それすらも織り込み済みでまずは基礎が築かれているにすぎないのだとすれば、必然、奇数人数のなかにどう足掻いてもカップルになれない余剰が生じてしまう以上、べつに殺し合うわけでもないのに、サヴァイヴァルは過酷とならざるをえない。いきなり高いハードルを作品は前にしている。

・その他きらに関する文章
 『心臓より高く』について→こちら
2010年10月21日
 爆音伝説カブラギ(1) (少年マガジンコミックス)

 佐木飛朗斗の宇宙は、何度となくパートナーを違えながら、いくつもの作品をまたぎながら、つねに膨張をし続け、はたして秩序があるのかどうか、余人にはうかがい知ることのできない様相を呈しているのだったが、まさかそれがここにきて、ついにクロニクル化されるかよ、といった幕開けにまずは驚かされるのが、『爆音伝説カブラギ』である。

 作画をつとめる東直輝とは、『外天の夏』や『妖変ニーベルングの指環』に続き、三度目のタッグとなるのだけれども、それはさておき、イントロダクションにおいて、所十三と組んだ『疾風伝説 特攻の拓』の、あの群雄割拠を前史に抱いていることが明らかとされている。すなわち〈1990年 爆音小僧六代目真嶋夏生引退。族(チーム)は解散状態となる‥‥翌1991年 鮎川真里 CB400Fourを再生するとともに七代目を襲名。横浜大抗争時代の幕開けであった‥‥〉のであって、そこから数十年後、伝説のCB400F(フォア)を受け継ぎ、爆音小僧の十六代目を襲名した少年、鏑木阿丸の活躍を『爆音伝説カブラギ』は描く。

 天羽時貞が在籍した獏羅天は現在、B・R・Tというギャング集団に形態を変えている。魍魎の武丸は、その姿こそ見せていないが、大企業「一条グループ」の次期総帥として不良少年たちに憧れられている。時代は変わったのだ。にもかかわらず、あの頃と同じく街にはまだ血が流れ続けているようであった。そしてそこに登場するのが、真紅のCB400Fを駆り、かつては鮎川真里や浅川拓の通っていた私立聖蘭高校の一年に転校してきた主人公の阿丸なのだが、彼がB・R・Tの幹部候補である桜庭多美牡の幼馴染みであったことから、因縁の糸が複雑に絡まりはじめる。というのが、この1巻のあらましであろう。

 以前にも指摘したが、高橋ヒロシや田中宏(Wヒロシ)に代表されるとおり、現在のヤンキー・マンガは『機動戦士ガンダム』シリーズのようなアーカイヴ性と中上健次における路地のようなサーガ性を併せ持っている。佐木飛朗斗もまた、諸作を通じ、近しい傾向を強めつつあるといってよい。このとき『爆音伝説カブラギ』は、ある種のメルクマールになりうるのかもしれない。爆音小僧や獏羅天といった固有名は、要するに『機動戦士ガンダム』シリーズのエゥーゴやティターンズみたいなものだと考えられるし、桑原真也をパートナーにした『R-16』等にも役割を異にしつつ偏在していた「おバあ」とは、結局のところ、中上にとってのオリュウノオバみたいなイメージではないか。いずれにせよ、クロニクルならではの特質を前面に出してきたのは確かだ。

 他方、これまでとは傾向の違った点もうかがえる。何より、登場人物をむやみやたらに増やしながら、大風呂敷をひろげ、さらには不良少年が題材であるのに、なぜか政界や財界にもカメラを回し、物語がいったいどこへ向かっているのか、焦点が不明になる、という悪癖が(まだ)抑えられているのは、大きい。ヒロインも(現段階では)一人であって目移りしないし、おおよその対立構造もはっきりとしている。

 1-Dのクラスメイトたち、なかでも爆音小僧に思い入れの強い菊川富弥也の反感を得ながらも、次第に協力関係となり、阿丸は、多美牡ひいては蓮之葉学園やB・R・Tとの決戦になだれ込んでいく。このように筋道は(留保がしつこくて申し訳ないのだけれども、とりあえずは)一本化されているのである。

 そして、なるたけ注意されたいのは、主人公である鏑木阿丸の性格と行動だ。彼は決して『特攻の拓』の浅川拓や『外天の夏』の天外夏のようなオタクでもなければ消極的な人物でもない。宮沢賢治的な無抵抗主義あるいは神聖もしくは偽善によってそのポジションを確保されているのではない。むしろ積極的に自分の旗を振り、ばんばん敵をのしていくのである。この差は、やはり看過できない。作者の用意した都合の良さでは、もはや世界に関与することはかなわない。あたかもそう告げるかのようなパワーを溢れさせている。

 転校初日、自己紹介の場面で阿丸は言っていたな。〈夢は“宇宙飛行士”〉であると。〈凄ェだろ? テメェら! 成層圏脱出だぜ〉と。それはもしかしたら、まあ妄想が過ぎるものの、彼こそが佐木飛朗斗のつくり出した宇宙を飛翔し、抜けていった先でありとあらゆるを一望する、こうした企図を、象徴的に、思わせるのだった。

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
2010年10月17日
 少女共和国(2) (講談社コミックスキス)

 新任の教師はほくそ笑む。〈オトナ ナメんじゃねーぞ〉と。〈自分ならうまくやれるって思ってるよーだけど その自信は貧困な知識と想像力の産物だってこと おぼえといたほーがいいぜ いつか なにもできない自分を目の当たりにするよ〉と言うのである。そして少女は無理解な大人に対して〈先生――無知が愚かと言うなら 子供の気持ちへの親や教師の無知も愚かと思っていいんですね――〉こう憤り、次のように思うのだった。〈子供 ナメんじゃねーよ〉

 森下薫の『少女共和国』は半径の狭い社会に追い詰められた中学生のあらがいを描く。この2巻で完結した。1巻の段階では、もっと壮絶な果たし合いが繰り広げられるのかと思われたが、存外『中学生日記』的なレディメイドに終始している。しかしそのエモーションの切実さ、たとえば誠実さを望めば望むほど何もかもが裏返ってしまうような通念を前に膝を折りかけながらも、小さな希望をぎゅっと握りしめ、ふたたび未来を信じたいと願う様子には、間違いなく、こちらの胸へ届いてくるものがあった。

 トーコの機転によって、寛容さに乏しい担任の古関を陥れ、安息の日々を得た2-1クラスだが、代わりにやってきた日向は余計癖のありそうな教師であった。実際、彼はトーコの本性をいち早く見抜くと、激しい揺さぶりをかけてくるのだった。表向き、トーコと日向の対決をベースに物語は進んでいくのだけれども、全編の結末にあきらかなとおり、本質は、少々違う。日向は、トーコや子供たちの敵ではなく、あくまでも大人の立場を生きたい人間として登場している。このことの説明は難しく、ほとんど古関との比較でもって述べるしかないのだが、古関が大人であるかぎりは子供の敵以上の役回りが与えられていなかったのに対し、日向の場合、大人と子供の二項は必ずしも対立すべき概念ではない、という可能性を持たされているのである。

 正直な話、日向をもっとニヒルなタイプに仕立て、トーコとの対決を激化させた方が、ストーリー上のスリルは高まったろう。盛り上がったに違いない。そこが残念にも思われるのであって、結局のところ、日向の善意とでもすべき点がレディメイドな感触をもたらしているのだったが、もちろん、彼の第一印象がとりあえずのミスリードを狙っていたのだとすれば、それは決して失敗していないし、結果、古関とはべつの役割が担わされることとなっている。

 もしも簡単にまとめて良いなら、『少女共和国』のテーマとは、この世界の限定性のみを見、それを否定、変えてしまうことではなく、この世界の広さ、美しさを認め、いかにそれを受け入れるべきか、にある。クライマックスにルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」が用いられているのは、まあ確かに、象徴的だ。そしてそのとき、トーコにとっての日向は、人生を先取りした存在、ある種の導き手にほかならない。いろいろなことを知りながら大人になるのは悪じゃないよ、という提言を果たしているのだと思う。

 しかしそれにしても、だ。どこまでが作者の意図なのかはわからないが、おもな登場人物のなかで、もっとも学校を嫌っていたトーコが進学し、他の三人(運野、ルイ、峰ちゃん)が日本の教育からドロップアウトしたかのようなラストを幸福と呼ぶのは、いくらか皮肉が過ぎる。

 1巻について→こちら
2010年10月15日
 彼はディアボロ!(1) (講談社コミックスフレンド B)

 霜月かよ子の『彼はディアボロ』は、作者にしては珍しい、と思われるようなコメディ色の強いマンガである。しかしながら、概容はひじょうにオーソドックスだといえる。憧れの上級生を射止めるべく、下手にまじないをかけたのがいけなかった。天使を呼び出したつもりが、現れたのは魔王ルシファーであって、女子高生の山田めい子は処女であったばかりに、無理やり魔女の契約を結ばされ、そいつにこき使われることとなってしまう。要するに、ちょっとばかりずっこけたヒロインがサドっ気抜群のイケメンさんにあれこれ振り回される、式のヴァリエーションになっており、ルシファーがめい子の担任教師、瑠偉として、学校に赴任してくるところから物語ははじまる。少女マンガによくあるパターンを、霜月の、必ずしも少女マンガふうではない作風でやっている、そのあたりが1巻を見るかぎりの特徴であろう。本来ならシリアスな調子の絵柄で、ハイ・テンションなギャグをやっているところが、大きな魅力となっているのだ。そこを含め、月刊の少年マンガ誌に載っていてもよさそうなほどにラブコメとしての射程は広い。

・その他霜月かよ子に関する文章
 『ベインズ』について→こちら
2010年10月13日
 フィクションのアウトサイダーにとってカリスマとは何か、の問題は今や主人公のポエム力に発揮されるものとなってしまった。こうした傾向は、和久井健の『新宿スワン』にまで及んでいるのだったが、ことヤンキー・マンガにかぎっていえば、柳内大樹の『ギャングキング』に顕著であろう。もしかしたら、昔からそうじゃん、と見られる向きもあるかもしれない。しかし、ここで留意しておかなければならないのは、現在の多くが、ストーリーやプロットを通じ、説得力の足しをつくっているのではなく、なんとなく気の利いたセリフを作中人物に自信満々で喋らせておけば全体の辻褄が合っていることになるんじゃねえの、ふうな誤魔化し、でっち上げにしかなっていない点なのであって、個人的にそれをあまり良しと思わない。背景に一本筋の通ったところを確認できず、かわりにポエム力を増長させるあまり、吉田聡の『湘南爆走族』やきうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』の頃にはあったハードボイルド性を薄れさせているのは、やはり時代性なのかもしれない。

 かくいう時代性を等しくしながらも可能性を感じさせるのは、奥嶋ひろまさの『ランチキ』のような作品である。ひとまず特徴として述べておきたいのは、確かに主人公の主人公たる資質はポエム力に委ねられているのだけれども、反面、腕力の強みはほとんど取り去られてしまっている。このおかげで、なぜポエムが正当化されるのか、それはね、ケンカの勝者が言っているからだよ、なぜ腕力が正当化されるのか、それはね、ポエム力があるからだよ、というトートロジーに陥ることを免れているのだった。口八丁の人物が成り上がりを達成していく様子は、鈴木大の『ドロップ』コミカライズ(掲載誌が一緒)に近接しているが、『ランチキ』のほうが、根性を見せることに対しての照れが少ない。外的な要因によって、というより、内的な必然によって、不良少年ならではの欲望の駆動されている印象が高まっているのだ。

 さてしかし『ランチキ』においてポエム力がいかなる効果を持っているのか。それは、まあ主人公自身にまつわるエピソードではないものの、この4巻で五島が種田双子の兄にどのような影響を与えたかのくだりにもよく示されている。五島本人の言葉を借りるなら〈あーあれか…単純やな…………〉程度の出来事にすぎないのだけれど、そこには正しくポエム力のなせるワザが認められるのである。だが、五島でさえも主人公の鹿野乱吉には〈こいつには口ゲンカでは敵わへんな…〉なのであって、そういうへらず口では負けを知らないような面が、彼を主人公たらしめているのは間違いない。五島に〈こいつには口ゲンカでは敵わへんな…〉と思わせたのは〈俺はなぁ 半殺しなんて怖くねぇ! 俺が怖いのは半分死んだみたいに生きることじゃ!〉というセリフに与えられたポエム力にほかならないのだが、いやもう、これはこれでやたら燃えてくるものがありますぜ、であろう。とはいえ、ストーリーやプロットのレベルで、乱吉ならそう意気込んでも不自然ではない、発言の中身にも頷ける、十分な裏づけがとられているので、思わず、がっとくる。

 乱吉の場合、ハートの強さに実際の腕力が追いついていない。このギャップが、物語の中軸をなすと同時に、ポエム力を顕在させているのだ。他方、『ランチキ』とは、チーム「鹿金(シカバネ)」の二人、乱吉と金田鉄雄(キム)のバディものでもある。十分な腕力がないので言葉が先走るばかりの乱吉と口数は少ないが立派にケンカのできるキム、彼らの関係は、言うまでもなく、ある種の対照となっている。結果、キムの活躍が目立てば目立つほど、乱吉の存在は相対化され、矮小なイメージを背負わされてしまう。当然、ジレンマが生じる可能性もある。そのような予感を、誌衛館高校との対決において、キムの仇をとるつもりであった乱吉が敗北し、反対にキムが乱吉の仇をとって勝利する、という展開はうかがわせる。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
2010年10月10日
 小説宝石 2010年 09月号 [雑誌] 小説宝石 2010年 10月号 [雑誌]

 よしもとよしともの『噛みながら』は、長嶋有漫画化計画の一環として『小説宝石』の9月号に前編が10月号に後編が掲載された作品である。長嶋の『僕は落ち着きがない』は既読であるものの、そこから派生した直接の原作小説に関しては(現在の段階では正式にリリースされておらず)目を通せていないため、ここではあくまでもよしもとの作家論的に話を進めていくことにしたい。

 今さら指摘するまでもないが、よしもとのマンガにおいて、死者の存在は、しばしば、重要なモチーフをなす。言うまでもなく、死者とは彼岸へ向かう者のことである。そしてそこには、此岸、つまりは我々が生きているこの現実をどう見つめるか、の問題が集約されているように思う。過去の作品を参照してみればあきらかなとおり、死者からの視線を意識し、それによって物語や構図が定められているケースというのは、決して少なくはないのだ。

 たとえば『青い車』(95年)を思い出されたい。主人公と女子高生のペアは、主人公の恋人=女子高生の姉が他界していることを共有していたのであって、ラストに近い箇所、女子高生の告白のなかで〈でも苦しいよ チクチクするんだ〉と言われている痛みは、一つの側面を取り出してみせるなら、まず間違いなく、死者である姉に応答した態度としてあらわれている。その前段に置かれた〈ねえ もし 神様がいたらさ きっと あたし達のこと 雲の上から観察してるんだ くそくらえだわ〉という印象的な呟きもまた、同様に受け取れる。神様と仮定されている背後には、おそらく、姉という死者の存在が意識されているのだ。こう考えるとするならば、『青い車』とは、此岸にとどまり、死者から見られている側の物語といえるだろう。低いカメラで登場人物を下から捉まえたような構図が多いのは、作品の焦点が彼らのいる場所=地上よりも高い位置に合っているからなのである。

 死者を向こうに回すことで、此岸に生きることの煩わしさを『青い車』は散文化しているのだったが、このような触感は、初期作『7-12』(86年)の時点ですでに確認できる。

 さてしかし、もう少しばかり発表の近いところから『噛みながら』と比較すべき作品を出しておきたい。『アヒルの子のブルース』(98年)である。そこでは、主人公の少年にあたかも此岸と彼岸のあいだに宙吊りされているかのようなイメージが与えられている。無論、いやあの少年は子供と大人とに切り分けられたあいだを浮遊しているのだ、との解釈も十分に許されるのだったが、それは時間の軸といおうか、縦の線を抽出しているにすぎない。死者との約束=現実の残酷さを前に果たされなかった約束が、少年の気を強く引いている以上、空間の軸として判断されるべきは、やはり此岸と彼岸のあいだを渡っているのであって、そのような横の線と先ほどの縦の線が交錯しつつ、ねじれ、深く絡まってしまっているところに『アヒルの子のブルース』のエモーションは託されている。

 これとよく似た成り立ちを『噛みながら』は持っていないか。すなわち、大人、子供、此岸、彼岸、の境界を四方に抱くどこかで混乱し、来し方はともあれ、行く末を曖昧にぼかされてしまった人物の、その心象を描いているのである。

 作中の設定などは、おおもとのアイディアである『僕は落ち着きがない』に程よく忠実だといえる。『僕は落ち着きがない』では不登校児だった頼子を主人公に、成長した彼女が偶々銀行強盗の現場に出くわし、その渦中で脳裏に去来する数々、高校生であった頃の記憶と、じっさい目の前で繰り広げられている椿事とが、まるで白昼夢のように、入れ替わる。この往復運動によって、大人、子供、此岸、彼岸、の境界が次々提示される仕組みとなっているのである。時間の軸を無視して聞こえてくる〈あんた 強盗に撃たれて死んだんだよ 頼子〉というセリフに暗示的なとおり、銀行強盗の所有した銃器は、死んでしまうこと、言い換えるならば、取り返しのつかなくなる可能性を孕み、我々が生きているこの現実を、頼子に突きつける。取り返しのつかなくなる可能性が、もはや過去でしかありえない出来事をもほじくり返す。やがて彼女は思うだろう。〈何もかも終わってたんだ あたしが引きこもっている間に〉

 しかしながら、物語上のカタルシスは、頼子が、取り返しのつかなくなる可能性のなかで逆立ち、意表をつく行動に出、もしかしたらこの現実も自分の運命もこの世界ですらも変えられるかもしれない、という期待をはっきり教えてくれているところにある。

 そのような点、〈得るために失うものがあるとしたら あたしたちは何を失くして 何を得たのか〉と悩み、〈恋人ができたり 別れたり 仕事がうまくいかなかったり 生きていくのは大変さ あの頃みたくヘコむ事がいくらだってあるんだ〉と実感していた主人公が、ついには〈スッゲー悔しいけど 仕方ないや 思った通りやったんだもん〉と気分をあらためていくあたり、確かに『アヒルの子のブルース』のカタルシスと通じるものがある。けれども、両者を並べたさいに重要なのは、『アヒルの子のブルース』では、あたかも此岸=我々が生きているこの現実は、彼岸から見られているかのごとく、地上から離れ、上空からのカメラで捉まえられたショット、構図を多用、表されていたのに対し、『噛みながら』において、作中の光景を収めるための視線は、もっと低い場所、ほとんど地上と同じ位置に示されていることだ。

 それこそ、小説として書かれた『西荻タワー』(04年)や小説とマンガのミクスチャーであった『見張り塔からずっと』(09年)などの近作にあってさえ、我々が生きているこの現実は、死者や彼岸、そして頭上から見下ろされるのがちょうどよい、そうしなければたまらない、とでも言いたげな認識を求めることができた。『アヒルの子のブルース』の言葉を借りるのであれば、〈ひしめきあう狭い世界 あさましくえげつない人々の群れ〉に〈君はもううんざりじゃないかね?〉なのである。

 もちろんそれは、『噛みながら』でも、頼子の不機嫌そうな表情に反復されているのだったが、ここで注意されたいのは、地上に足のついた構図、此岸へのカムバックを謳う物語を通じ、その不機嫌そうな表情が晴らされていることにほかならない。『アヒルの子のブルース』のラストのカット、あそこで空のまぶしさにかざされ、影をつくっていた手の平が、『噛みながら』におけるラストのカットにはない。

 かくして余談めいていくのだけれども、『魔法の国のルル』の前編(02年)がかえりみられるだろう。地上を遠巻きにすることで得られたパノラマ、それが暫定的な幸福を教えてくれる場面で物語は中断しているのだが、たぶん、きっと、あの少年は、『噛みながら』の頼子がそうであったように、ふたたび我々が生きているこの現実へと戻ってくる。帰ってくる。はたしてそのとき、彼はどれだけの希望を此岸のなかに見つけられるか。後編の発表が待たれる理由はそれである。

・その他よしもとよしともに関する文章
 『見張り塔からずっと』について→こちら
 『ブロンちゃんの人生相談室』について→こちら
 『4分33秒』について→こちら(01年に「NEWSWAVE ON LINE」内のコンテンツに書いたもの)
2010年10月02日
 セツ 1 (マンサンコミックス)

 世が世であれば、『週刊漫画サンデー』に木葉功一が、というのは意外な連載であるように思われるかもしれないが、おそらく今はそういう時代ではないのだ。しかし相変わらずの個性、独特なタッチ、ダイナミックなアクションは健在である。女子400m走、世界陸上の金メダリスト、天翔セツは、知名度、人気の高さから渋谷警察署の一日署長を引き受けることになったのだけれども、その日偶々、赤坂で銀行強盗が発生、凶悪な犯人たちが多数の犠牲者を出しながら逃亡する場面を目の当たりにしてしまう。持ち前の脚力で、果敢にも、あるいは無謀にも犯人を追跡しようとするセツは、懸命な行動のなか、不思議な能力を開花させるのだった。以上が発端であって、結果、警察官となった彼女がさまざまな犯罪者と次々対峙していくというのが、この1巻より見えてくる『セツ』の物語であろう。かくして、過激な銃撃戦が繰り広げられるのであれば、作者の得意とするところなのだが、ここでは、あくまでもそのキャリアからしたらの話だが、比較的それは抑えられていて、かわりに人情噺のような部分が大きくなっているのは、たしかに『週刊漫画サンデー』調であるやもしれない(いやいや)。とはいえ、狂人と紙一重の超人もしくは超人と紙一重の狂人が、エッジの立ったヴィジョンを持たされ、道徳や倫理を含め、この社会の現実性と逆立ちしたかっこうになっているのは、従来のとおり。たとえば、主人公であるセツの、研ぎ澄まされた感覚が、他の人間には認知されない星のイメージを、犯罪者の姿に映し出すのもそうであるし、犯罪者の、一線を踏み越えてもなお悪びれない表情が、ある種の迫力を得ているのもそうだ。正直、絵柄のレベルではなく、ストーリー自体にもっとダイナミズムが欲しい気がするものの、紛れもなく、木葉功一というマンガ家の特殊な技量は発露している。

・その他木葉功一に関する文章
 『フルーツ』について→こちら
2010年09月20日
 地球の放課後 2 (チャンピオンREDコミックス)

 吉富昭仁の『地球の放課後』2巻には印象的なセリフがある。正史という少年の妹、清美が、夢とも幻ともつかぬ場面で〈放課後が終わったら…その次に来るのは夜なんだよ 真っ暗闇の夜……〉と言う。これはもしかすれば物語の行く末を暗示しているようにも思われる。〈放課後が終わったら…その次に来るのは夜なんだよ〉

 前巻のときに述べたとおり、作品は、人類がすでに終末を迎えてしまった世界を、わずかな人間たちが、のんびりゆっくりと過ごしていく風景を、まるで週末における休日のごとく、あるいは放課後の様子に喩えながら、描いている。はたして、それにもいつしかおしまいがやって来るのだとしたら、夜、の一語に集約されるイメージには深い意図が託されているのかもしれない。

 しかしながら、正史、早苗、八重子、杏南、たった四人の生き残りと、そして読み手はまだしばらくのあいだ、かくいう不穏さを頭の片隅に置いたまま、忙しない活動を止めた都市空間のなかで、自由にも奔放にも送れるだけ送れる時間を、一種の幸福として感じられるところが、『地球の放課後』の魅力だろう。

 吉富というマンガ家は、たとえば先だって1巻がリリースされたばかりの『しまいずむ』みたいに、スタティックな日常をアブノーマルにもエロティックにも演出することができる。だがそういった持ち味を、ここではサービス・カット程度に抑えている。水着や露出の多い衣装は、必ずしも欲情の喚起に限定されてはおらず、束縛や抑圧から解放された心地好さのほうを多く伝えてくるのだった。

 SF的なカタストロフの設定にしたって、同様である。社会は機能を停止しているにもかかわらず、各自の社会性を通じ、共同体を営もうとする作中人物たちの姿こそが、穏やかですらある空気を、そこかしこに呼び込んでいるのであって、これはよくあるフィクションの、危機的な状況に男女が置かれたらとりあえずレイプ、のような貧しい発想とは対極をなしている。

 いずれにせよ、世界の終わりをこんなにも表情豊かで心地好くあらわしている作品は例が少ない。それはもう十分にトピックであるほど。

 1巻について→こちら
2010年09月19日
 たとえワン・シーンでも心を動かされるものがあれば、その作品は十分記憶に残りうるわけで、『ワルタハンガ〜夜刀神島蛇神伝〜』においては、完結にあたる3巻の、とある場面を正しくそれとして挙げたい。榊純一というワキの人物が、命を賭し、息子の火一にあて、メッセージを残していく箇所である。頼りないプレイボーイのごとく描かれていたはずの彼が、危機的な状況下、まさかの行動に出、一種の倫理を果たす姿はひじょうにぐっとくる。

 じっさい彼の決死は、『ワルタハンガ』というマンガにもしも何かしらのテーマを見るとするなら、ほとんど代弁的な役割を負っている。このことは、純一亡きあと、火一の名前がどこから由来しているのか、主人公の八尋慎二が、おそらくはこうだ、と解釈を与えている箇所に明らかだろう。すなわち〈『カイチ』っていうのはさ……中国に伝わる伝説上の生物の名前だよ……頭に一本の角を持ってて(略)人間同士が争っていると理の通らない方を その角で突き倒すといわれているんだ 中国では――正義と公正の象徴だよ〉

 もちろん、自己犠牲によって退場を余儀なくされる存在は、パニック・ホラーの常套にほかならないのだから、あくまでも形式に要請されている、以上の意味を求める必要はないのかもしれない。したがって『BM ネクタール』以降、藤澤勇希の作品に繰り返し現れるこうしたモチーフを、単にドラマツルギーのパターンであると判定してしまうことも可能なのだが、定めしそれは物語からは外すことのできぬ基本的な条件のようにも信じられるのだった。

 この世界の歴史や進化を必然や自然と呼び換えたとき、はたして人類に生きていけるだけの価値があるか。おそらくはこれが、藤澤のパニック・ホラーに一貫している問題提起である。『ワルタハンガ』では、私利私欲のためツチノコ狩りへ無人島に赴いていった面々が、未知なる生態系のなか、捕食される側に回されてしまう。招聘元であるテレビ番組のプロデューサーが言うセリフが印象的だ。〈この世に悪い生物など存在しない 全てそれぞれの生態に従って 生きているだけだ もしも悪い生物というものが存在するというなら 功名心と好奇心だけで他の生物の聖域に土足で踏み込む 我々人類がそうだろうな〉のであって、そこでは人類を中心とした主義主張はいっさい通じえない。生き残れたという結果が自然や必然に還元されるのみなのだ。

 とはいえ、作者はフィクションならではの救いや希望を無視してはいない。『BM ネクタール』はもとより、『エレル』や『メトロ・サヴァイブ』、『レギオン』などと同様に、少年や少女の生存を未来の保証に置き換え、それを命がけで守る責任を大人たちに課することで、先ほどの問い、この世界の歴史や進化を必然や自然と呼び換えたとき、はたして人類に生きていけるだけの価値があるか、に一応の留保を設けようとしている。

 ただし、舞台設定の規模が小さいわりにストーリー展開の密度は低く、全体的にスリルを欠いた。無職の中年男性、八尋の個性もあまりうまく使われなかった。

 1巻について→こちら

・その他藤澤勇希に関する文章
 『レギオン』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
2010年09月14日
 わたしが泣いた日 (講談社コミックスフレンド B)

 周知のとおり「BETSUFURE LOVE COLLECTION」は『別冊フレンド』周りの作家(おもに新人作家)による読み切りマンガをオムニバスで収録したタイトルであって、この『わたしが泣いた日』もそのうちの一冊なのだったが、いやこれはまれに見る充実度ではないかと思う。正直なところ、『ウメニウグイス』がなかなかだった日暮キノコの「金ピカの頃」と高橋利枝が「HOLE」シリーズの新エピソード「HOLE-赤いスパイク-」を目当てにしていたのだけれども、その他のものもたいへん良かったのである。

 とくに収穫として挙げたいのは、菅原じょにえるの「同情の戦利品」である。こういう作家が不意に現れてくるから『別冊フレンド』は侮れねえ。無論、少女の気持ちを題材にしているが、ラヴ・ストーリーの系ではない。「中学生日記」的とでもいおうか、なテーマの内容となっている。父親が甲斐性なしのろくでなしなせいで、貧しい暮らしを送っている佐藤有希は、同級生の男子、佐藤が学校に持ってきたデジタル・カメラをついポケットにしまおうとしているのを本人に見つけられ、咎められる。ただし佐藤が寛容であったため、大事にはならず、じっさい有希の訴えを聞いた彼から中学生でもできる新聞配達のアルバイトを紹介されるのだった。

 こうして二人の、まだ恋愛とは呼ばれないような関係をベースに、子供の力ではどうしようもないこの世界の痛み、そしてそれが小さな世界だからこそささやかな希望が大きな救いとなりうる様子を、誠実に描き出していく。画力のみを見れのであれば、決して巧いとは言わない。ストーリーに関しても、今ふうに下流社会云々の説得力はあるかもしれないけれど、いささか古くさい。にもかかわらず、だめだ、読み終えて、もう一度、そこに立っている少女と少年の姿を目に焼き付けておきたくなるぐらいの魅力を持っている。自分で得るものと他人に与えられるもの、小道具として用意されたデジタル・カメラとマフラーの存在がよく生き、「同情の戦利品」という題名にかけられた意味合いは、あまりにもせつない。しかしせつないだけに終わっていないのは、その二つを象徴に、確かに運命が変わった、無力な少女が少年のやさしさを借りて自分で自分の世界を変えられたのだ、と信じるのに十分な感動を直に手渡してくれるからにほかならない。いずれにせよ、菅原じょにえるの「同情の戦利品」は記憶に止めておきたい作品だと思う。

 さて、「同情の戦利品」以外に目を移すと、村瀬いくえの「わたしのなかのきらきらの」は、いやまあ、こうした物語は少女マンガのジャンルには珍しくないだろう。むしろ絵のセンスに助けられている点が大きい。とはいえ、同じく男性教師と女子生徒のどたばた劇をであった過去の読み切り「あなたの美しい」に比べて、地に足の着いた表現が多くなっており、登場人物のエモーションに厚みが加わった。中村智の「光のソナタ」は、ピアニストを目指す若者の出会いと葛藤という長篇向きといってもよいアイディアを手堅くまとめていて、その手つき自体が個性と呼ぶに相応しいものとなっている。
2010年09月13日
 終盤の展開においてギャグのテンションはほとんど消え去っている。かわりに一組のカップルのエモーションが極端なほどに突き詰められることになった。畑亜希美の『真夜中だけは好きでいて』が、この3巻で完結した。今しがた述べたとおり、いわゆるラブコメのコメディにあたる部分は後退が著しいのだったが、しかしストーリーのレベルでは、春日まどかと桐谷純の、離れる離れない、の関係をシリアスに描き出すのに成功し、ラストのページに至るまでを魅力的に見せている。確かに、いささかクリシェというかメロドラマふうに話が進みすぎるきらいはある。二人の愛は見事に障害を乗り越えました、式の決着にも、だいぶ都合の良さが加わっているように思われる。けれども、好き合っているからこそ感情がままならずに自分から引いてしまう、このようなデリカシーが、いくつかのきっかけを経て、好き合っているからこそ感情をまっすぐ相手に向けなければならない、という変調を得る瞬間の輝きだけは、紛れもなく切り取られているので、主人公たちの結びつきを前に信じられるものが生まれているのである。作品を構成しているアイディアはいずれも目新しくはない。通俗的といってよい。その手垢にまみれたところを、まずはユーモラスな勢いを通じ、軌道に乗せ、事細やかな心情のなかに胸を刺す痛み、所詮こんなのは夢物語だよ、と判じられてもへいちゃら、動じないぐらいに強いロマンスへと持ち上げた。

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・その他畑亜希美に関する文章
 『ベイビー☆キスをどうぞ』
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 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
2010年09月09日
 ARISA(5) (講談社コミックスなかよし)

 選ばれた学生の願いを叶える「王様」というアイディアをベースに、教室単位のサヴァイヴァルを安藤なつみの『ARISA』は描いているが、この5巻では、「王様」の最初の犠牲者にあたる望月静華の復讐劇にストーリーを大きく割いている。ヒロインであるつばさの双子の妹、ありさにライヴァル心を燃やし、絶対的な存在として崇められる「王様」への不信を口にしてしまったがため、クラスメイトに迫害、結果、心身ともに深いダメージを負った静華は車椅子での生活を余儀なくされ、しばらくのあいだ学校を休んでいた。その彼女が、修学旅行に参加すべく復学、今度は逆に「王様」の力を利用し、(現在はつばさがなりすましている)ありさに悪を為そうとするのである。たしかに、はたして「王様」の正体は何者か、のサスペンスは徹底されているけれど、静華の存在がクローズ・アップされたことで重視したいのは、学校や家族(つまり中学生にとっては社会の大きさにも匹敵する空間)から価値がないと見放された人物がいかに存在理由を回復するか、に作品の心情が移っている点だろう。ありさに対する報復こそが、静華においては自分を奮起させるのに最適なテーマであったのだ。もちろん、このことはマンガの内容を内面のドラマに後退させているふうにも見られる。しかし注意すべきなのは、主人公の活躍が、それも含め、あくまでも個人にかかってくる同調圧力の解除に通じているところだと思う。つばさの持っているエネルギーは決して、学校や家族に苦しめられるならアウトサイダーになれよ、と教えるものではない。自由を建前に個性を無理強いするものでもない。ただ、孤独な運命は変えられるかもしれない可能性を、どれだけこの世界がシビアであろうとも生きられる強さを、問うている。物語の構造としたら、ありさにしても静華にしても、級友の白い目に耐えきれず、高所より飛び降り、にもかかわらず死ねなかった、という部分で共通しているのは、自殺の否定になっている以上の意味合いを、おそらく持ちえる。当然そこに、希望を、救いを、ポジティヴな輝きを与えることが、つばさに与えられた役割にほかならない。

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2010年09月05日
 偉大なるちばてつや、ちばあきお兄弟に共通していたのは、主な題材をスポーツにとっているほか、貧困のなかに逞しさを描くこと、ではなかったか。と思われないのでもないのだった。そしてその系譜は、今や塀内夏子に引き継がれているのかもしれない。そのような予断を『明日のない空』の内容は許す。決して恵まれてはいない環境で生まれ育った少年たちの葛藤、ふんばり、そして這い上がりの精神が、力強いタッチに描かれているのである。

 生活苦に屈した父親が幼い弟と娘を殺害、無理心中を図ったせいで心を病んだ母親を養うべく、町工場で働きながら定時制の高校に通うサイ(才谷駿)にとって羽根を伸ばせるものがあるとすれば、それは部活動のハンドボールであった。長身ですぐれた才能を持った幼馴染みのガッツ(古賀毅)を含め、学校の仲間とともにコートに立っているあいだは、背負わされた重荷や不安から解放される。しかし勿論、だからといって現実は相変わらずの厳しさをゆるめはしないのだったが。

 この2巻では、父親が起こした事件の詳細を知り、あらためて母親が受けた衝撃の深さを知り、そしてガッツの姉である瑤子への感情が恋愛だと知っていくことのなかに、サイの成長する姿が示されている。一方、高校生にもかかわらず、全日本の強化合宿に呼ばれたガッツがそこで揉まれてもくじけない様子に、ハンドボールに向かう原動力、サイや仲間との絆、ホームとすべき場所の大切さが確認される。

 設定や絵柄、描写、物語の全部を引っくるめ、『明日のない空』というマンガに与えられた方向性は、きわめてオールドスクールなものだろう。けれども、新しいや旧いの基準では判断されない感動が、いや間違いなく宿されているあたりに、作品の魅力、本質を見られたい。

 母親の担当医に〈お母さんはね、本当に死んでしまいたいわけやないんよ。「死にたい程苦しい」と訴えているだけなの。誰にもわかってもらえないのがつらいんよ…〉と告げられたサイが、回想と内面のドラマに踏み込んでからの数ページは、構成にしたって展開にしたって、今どき素朴すぎるきらいがある。それなのに、ちくしょう。胸を痛めるほどに圧倒されてしまうのは、具体性の強い記述と抽象度の高い表現が、人間関係そのものの距離感をよく教えてくれ、作中の人物にそれを悩ませる表情、作中の人物にそれを歩ませる動きを通じ、誠実な態度の何たるかがしっかり刻み込まれることとなっている、かくいう深さを見事に覗かせるからなのだ。

 サイの根性は本物だと思う。それがすなわち『明日のない空』の説得力でもある。ところで、最初の話に戻るのだけれど、ちば兄弟において、根性の概念は東京の下町を舞台にしていることと無縁ではなかった。『明日のない空』の舞台は大阪である。近年では森下裕美が『大阪ハムレット』で、やはり大阪で暮らす人々に逞しさを託しているが、いずれの場合も土地柄、背景によって印象づけられているのは日本的な情緒にほかならないのであって、それに関する興味の有無がたんに新しいや旧いの基準を分けているにすぎない。

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・その他塀内夏子に関する文章
 『イカロスの山』
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 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
2010年08月27日
 ヒロイン失格 1 (マーガレットコミックス)

 今日、無根拠な思いなしによって妄想にこだわるタイプの女性像は、必ずしもヒロインを失格するものではないだろう。ここ最近、少女マンガのセオリーを意図的に外すことで成立している作品の支持されるような傾向が、随所で見かけられるが、幸田ももこの『ヒロイン失格』も、1巻を読むかぎり、そのラインに乗っかろうとしている。いや確かに『姐さんカウントダウン』や『よってけ! 音子村』の段階で、こうした作風は著しくなっていたけれども、『ヒロイン失格』において、それはさらに極まった。通常の少女マンガでは、ヒロインのライヴァル役にあたるような、見かけはべっぴんさんではあるものの、性格はせこく、少々柄の悪い人物を主人公に据える、というワン・アイディアをベースに、しかしストーリーの展開はオーソドックスなパターンを踏襲し、現代的なラブコメを描き上げているのである。おそらくは、いわゆる負け犬的なシンパシーが狙い。けっこう、あざとい、と思わせる部分は多いが、白けるほどの嫌みを感じさせず、真摯にもエモーションを伝えてくるあたりに、作者の資質がよく出ている。

・その他幸田もも子に関する文章
 『よってけ!音子村』について→こちら
 『姐さんカウントダウン!〜恋愛抗争編〜』について→こちら
 『姐さんカウントダウン!』について→こちら
 『誰がスッピン見せるかよ』について→こちら
 『そんでむらさきどーなった?』について→こちら
 恋言心 〜こいごころ〜 (マーガレットコミックス)

 ケータイコミックの市場における35万ダウンロードが、実際どれぐらい価値のある数字なのか知らないのだったが、コミックスのオビにそう宣伝されている桜乃みかの『恋言心〜こいごころ〜』は、たとえばケータイ小説の「ケータイ」がジャンル的な修辞であったとしたとき、ちょうどそこに含まれるかのようなストーリーの、読み切りマンガを三つ収めている。要するに、たかだか恋愛程度のことに、わざわざ深刻な背景を用意し、感動の種を蒔くのだけれども、いやべつに腐そうとしているのではなくて、正直、そのメロドラマティックなところによって心をたいへん騒がしくさせてくれるラヴ・ストーリーが編まれているのだ、といいたい。どの篇も注意して見られたいのは、男女の関係が内面を持った者同士の齟齬として描かれている点である。一方通行の視点を片方だけに絞り込み、カップルのコミュニケーションあるいはディスコミュニケーションを捉まえるのではなしに、一方通行の視点が二つ揃いはじめてそれが成り立つ様子を物語化している。以前の恋人に裏切られ、ショックのあまり声の出なくなってしまった女子高生が、新しい恋人の誠実さに心身を回復していく、というのが表題作のあらましなのだけれど、相手の気持ちを疑うことなく、確かめ、信じるにはどうすればいいのだろう、このような問いを発し続ける二個の心情を、どちらも伏せず、順繰り明かすことで、作品の本質は作られているのであって、ヒロインに与えられたハンデは、それを引き出すのに要された方便にほかならない。まあ、主人公の悲劇性は結局のところ自業自得じゃんね、と述べることも可能であろうが、そうした批判は表面的なものを指しているにすぎない。身近に離婚という事件があったせいで、好き合っていながら付き合えない幼馴染みたちを描いた「好きのその後は」も、根底は同じく、今まで認識の異なっていたペアが次第に共通の理解を得ていく部分に好感を宿らせている。「恋言心〜こいごころ〜」や「好きのその後は」よりも以前に発表された「Last Stop」に関しては、障害にあたる設定がやや過剰なのもあって、それら二作と比べて習作の域に止まる。
2010年08月21日
 この『チュー坊 日記』は、コンビニ向けのアンソロジー『ヤングキングα』の「新不良聖書」に1話から10話までが収録されている。南勝久と門尾勇治の師弟がタッグを組んでヤンキー・マンガを描くとなれば、両者のキャリアを知っている者からすると、期待せざるをえないところなのだったが、まあ南の監修で門尾が絵を描きましたよ、といわれたなら、まったく納得のいくものであって、ひじょうに安定した内容をキープしてはいるのだけれども、あと一つ、化学反応と呼ぶほどのサプライズは見受けられない。要するに『ナニワトモレ』の、とくに初期の、あの、大阪弁のギャグが勢い任せなのにも似た独特なテンポで、中学生ならではの狭い世界が、思春期が、そして成り上がりが、描かれていると思われたい。大阪市内でも知られた不良校、北邦中学に入ったサッピは、スケベ心は一人前だが、それまでケンカをしたことがなかった。しかし、成り行きから一年生同士のいさかいに巻き込まれていく羽目になる。そこにマドンナ的な存在であるサラへの恋慕や、小学校よりの連れ合いであるリュウジやカメとの友情が入ってき、おおまかなストーリーは出来上がっている。北邦中学の内部は、西小出身者と東小出身者に分かれており、双方の対立が派手なパートのメインだろう。なぜケンカ慣れしていない主人公が他の少年たちよりも強いのか。体が頑丈だったから、というのは、小学校を卒業したばかりの人物を題材にしている以上、ひじょうに単純ではあるものの、理には適っている。割合オールドスクールなつくりの作品だが、基本的な設計図がちゃんとしているので、白けてしまう部分はきわめて少ない。

・その他門尾勇治に関する文章
 『Don't give up』について→こちら
 『真犯人』
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 『欺瞞遊戯』について→こちら

・その他南勝久に関する文章
 『なにわ友あれ』
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  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 ここ最近、ヤンキー・マンガと呼ばれるような作品はさすがに増えすぎなのであって、正直、手に余りつつあるのだったが、携帯電話向けに配信されたコンテンツをコンビニ版の単行本にまとめた『ヤングキングα』の「新不良聖書」などはまさしくその飽和点とすべき佇まい、このなかからジャンルの新機軸やビッグ・ヒットが生まれるとは到底思えないのだけれども、まあ商売として成功すればいいですね、といったところである。

 さてその「新不良聖書」に収められているのが、俳優の宇梶剛士が原作をつとめ、『タイガーズ』の白鳥貴久が作画を担当した『COOL TEAM』で、1話から9話までが読めるのだが、評価を厳しくすれば、類型的な描写や展開が多く、さほどのトピックを含んではいない。

 内容は、二千人のメンバーで構成されるチーム「ゼブラ」の頭(ヘッド)、立花了を主人公にし、暴力で回るような青春を、ギャグとシリアスの相半ばするテンションのなかに描く、といったものである。了に関しては〈後にこの少年は役者になるがそれはまた別の話である!〉と、作中で解説されているとおり、おそらくは宇梶自身をモデルにしている部分もあるのだろう。たしかに、ケンカは強く、人望も厚いが、色恋にはからっきしな彼の性格は、前時代的な、軟派になりたいのになれない硬派のイメージを、それが長所でもあるふうに再現している。しかし、一部のファッションや登場してくる女性の人物は今日的にデザインされており、自伝の要素や深い時代考証を読む必要はなくて、たんにバッド・ボーイのロマンをなぞらえているにとどまる。

 了とはまったく違い、セックスに屈託のない「ゼブラ」のナンバー2、乾鷹志が良い味を出している。彼と主人公の、バディものであるような側面もまた、この手の作品におけるセオリーといえるものの、いやじっさい、物語にとってももっともユーモラスで人間味を感じさせるのは、不良少年の誠実さを(わざわざ)説こうとする点より何より、そこなのだったが、本筋は、ナンバー3の海江田が暗躍し、構成員二千人の説得力のないまま、巨大なチームの権力闘争に発展していきそうな気配を孕む。
2010年08月19日
 女神の鬼(16) (ヤングマガジンコミックス)

 社会の縮図や比喩としてサヴァイヴァルを描くのではなく、サヴァイヴァルそのものを描くこと、したがって鎖国島の〈港をスタートして…この道を真っ直ぐ行く!! 山道に入って そこを ずっと 真っ直ぐ登る!! すると山の中腹辺りで‥‥王の領域の入り口に突き当たる!! ソコを左に曲がって…あとは そのまま 道形に進んで行けば‥‥女神岩(ゴール)じゃ‥‥!!〉というたったそれだけの展開に、火薬や銃器、大量の暴力が持ち込まれる。もちろん、主人公であるギッチョ(佐川義)の願いは、次のようなものだった。〈まるで女神様が座っとるみとーな っちゅー その色っぽい女神岩に このワシが一番最初に辿り着いて‥‥御札をゲットして 王様になるんじゃあぁああッ!!〉

 ついに昭和58年度の鬼祭りが幕を開けた。16巻に入り、田中宏の『女神の鬼』は、ますますのスリルを高速回転させていくのであったが、しかし、この正念場に至って、いきなり金田の過去編を挿入し、いったんワキ道に逸れてしまうあたり、作品の構成としてどうなの、というのがあるにはある。ただしここでは、物語の大きさに対応すべく、肯定的なスタンスでそれを解釈していくことにしたい。

 本筋、つまりは鎖国島で開催されている鬼祭りが、すでにいったとおり、若者たちが一つのゴールを共有することでしか果たされないサヴァイヴァルそのものであるとすれば、金田の素性をプレゼンテーションしていくくだりは、まさしく社会の縮図であって比喩のなかにサヴァイヴァルを描いている。精神的にも物質的にも、貧しい暮らしぶりを余儀なくされた少年が、ほとんど独力で、この世界に生きられる可能性を見出さなければならない様子が、繰り広げられているのだ。このとき注意されたいのは、生まれや育ち(遺伝や環境)のせいで、すなわち当人の与り知らぬ運命によって、そうせざるをえなかった点だろう。小学生の頃の話だ。薬に蝕まれ、気の触れてしまった母親に囚われてしまい、父親や兄からも見捨てられてしまった金田は、虐待を受けながらも逃げられず、腹を空かせては盗みを働いていた。実情はどうであれ、世間からしたら、文字どおりの悪童にほかならなかった。そんな彼にも一人の友人ができた。コンチャン(近藤裕二)である。さまざまな紆余曲折を経、成長した二人はビイストに加入、ギッチョたちとの対立関係を築いていくこととなる。

 じつはその、紆余曲折にあたる箇所こそが、金田の素性における要なのだけれども、母親を喪ったあとも狂気にあてられたかのような破壊衝動に飲まれ、ついにはコンチャンを傷つけてしまい、すべてを御破算にしてしまった彼が、夜の街をさまようなか、ケンエー(雛石顕映)との出会いを通じ、決して健全とはいえないまでも再生を果たしていく、こうしたプロセスの最後に、ふたたびコンチャンが登場してき、この世界には他には替えられない存在がたしかにあることを、金田に教えている。

 コンチャンと別れたまま、中学校にあがり、孤軍奮闘していた金田は、たまたま遭遇したケンエーの〈ガキが‥‥‥‥何ムキんなって一人でツッパっとんなら‥‥‥‥おお!? 所詮限界じゃわい 仲間も無しに…〉という言葉に、〈それまでに出会ォた誰とも違う その特別な雰囲気の男の『仲間も無しに‥‥』の一言に ワシは固まった‥‥〉のであって、〈ホンマなら横におるはずの……………仲間がおらん苦しさから逃れるために‥‥ケンエーくんの野望とゆー名の友情に飛びつ〉き、〈中身がどーであれ 仲間ってゆー空気の中におる間は 苦しみから解放される気がした‥‥〉のだったが、それでも自分には欠落があることを認識しているので、〈救われたはずなのに…なんで‥‥なんでこんとに‥‥まだ 苦しくて…涙が出るんや‥‥〉と問わずにいられない。そうした欠落にあたるがゆえ、唯一埋められたのが、金田を追ってビイスト入りしたコンチャンだったのだ。

 さてしかし、いったん整理しておきたいのは、家族や世間から迫害され、あるいは彼自身が家族や世間との関係を放棄した結果、それら以外の拠り所を金田が求めなければならなかった。そこで要するに、コンチャンやケンエーのみが、金田にとっては正義や安息を預けるのに値した、ということだ。しかしてそれは、帰属先が自明ではないばかりか、保証されてもいないとき、はたして人はいったい何を信じればよいか、といった問題を内包している。金田が不良少年としてのレッテルを生きなければならないのは、本質的に、その居場所を家族や社会からは与えられていなかったためなのである。

 コンチャンやケンエーによって、金田の魂に救済をもたらしているのは、それが特殊であろうがなかろうが、共同体の論理にほかならない。共同体の論理がいかに構築され、共同体の論理を個人がどう引き受けるのかは、田中宏が『BAD BOYS』の昔から『女神の鬼』に至るまで、ライフワーク的に編んでいるテーマの一つだといえる。このことが、鎖国島の、鬼祭りの、決戦の、その直前に、あらためて確認されているのだとすれば、金田の過去編は、物語の全体にとって絶対不可欠なパートにも思われる。

 じじつ、急襲され、倒れたコンチャンを金田が背負い、ケンエーに助けを請う場面は、今回の鬼祭りをエスカレートさせるのに応じたイグニッションになっているのだし、そのさい見逃せないのは、ちょうど同じところにケンエーの兄であり、足に怪我した顕治が居合わせ、逆上のあまり次のような言葉を吐き、金田に秘蔵の火薬を与えようとしていることだ。〈火薬か…!? ナンボでも持って行けぇや‥‥ナンボいるんなら…お!? そのかわり‥‥原 真清一派だけじゃない‥‥雛石の血を汚したドグサレ‥‥‥‥‥‥東 紳彌(アズマ)ぶち殺せ…!!!!〉

 アズマの裏切りによって窮地に立たされた顕治にすがれるものがあるとすれば、また他には替えられない存在がいるとすれば、それは間違いなく弟のケンエーであった。自分に尽くすケンエーの姿を見、〈結局…最後に信用できるのは‥‥“血”のみじゃ………〉と実感するのである。ここにもまた、共同体の論理が働いているのはあきらかだろう。共同体は何らかの価値観をベースにすることで生成される。顕治にとってはつまり血縁がそれにあたる。

 顕治が火薬を渡そうとするとき、金田に突き付ける条件は、そうした価値観を別個の人格に強要し、共同体を拡張する場合の駆け引きを見事に含んでいる。〈お前は 唯一ケンエーとずっと仲間じゃった‥‥ワシら雛石兄弟を支える一番の側近として今回特別に‥‥ワシら以外は絶対に入れん火薬倉庫に入れてやる‥‥!! お前が信じるに値するかどーか…もし裏切ったら そん時は コン(引用者註・コンチャンのことね)を殺す!! えーのォ…コンは人質として ココにおいとけ‥‥ワシらに忠誠を誓う証として…火薬(はっぱ)でアズマの首ぃ獲って来いや……!!〉という、以上の言葉はじっさい、戦略的に見られるべきだろう。顕治の思惑において、金田が共同体の一員に相応しいかどうか、ある種のミッションをあいだに置きながら、試している。

 お前の大事なものを守りたいのであれば、真清の一派やアズマを殲滅せよ。顕治の提案を是とすることで、金田は鬼祭りに復帰していく。一方で、アズマはともかく、真清のサイドにも金田を迎え撃つのに十分な闘志が蓄えられていることを看過してはならない。鎖国島の王様になるべく、女神岩に向かい、独走していたはずの真清が、ふいに足を止める。同じ東側の仲間であるウルメが、金田に傷つけられ、倒れているのを目にしたのだった。そうしてついに、あの飄々としていた真清が〈鬼祭りはいったんおいといて‥‥‥‥金田のクソガキ殺すど!! ワシの仲間に指一本でも触れたヤツは一人残らず‥‥皆殺しじゃ‥‥‥‥!!〉と激昂を帯びるのだけれども、このような因果は、直線的なルールにガイドされていた鬼祭りの内容を、異なった共同体の複雑な衝突へと発展させる。はずみをつける。

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2010年08月17日
 はしたなくて ごめん 3 (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 石田拓実の『はしたなくて ごめん』の3巻は、ボーイ・ミーツ・ガールの枠組みにセックスへのアプローチを旺盛にした1巻や2巻とは、少々表情を違えている。じっさいメインの登場人物は、本来のヒロインである真奈緒の妹、桃花と、彼女に一途な想いを寄せる年上の幼馴染み、ハルにシフトしているし、「あとがき」にあたる項で作者が「私なりの中学生日記風を目指してみました」といっているが、桃花の置かれた半径の狭い世界をベースに、思春期が誠実なものであるとすれば、その誠実さのスケッチであるような側面が強まった。無知であるがゆえに無垢であった桃花が、ハルとの再会を経、学校での立場を悪くしていくなか、それまで気づかなかった人間関係のデリケートな表情を見、屈託してしまうのではなく、受け入れ、成長のサインをかざしていくところが、とても素敵だと思う。目の前で繰り広げられている光景に関し、必要最小限の好奇心しか持ち合わせていなかった少女が、たとえそれが小さな社会であったとしても、たしかにそこで視野の広がりを手に入れられているのである。

・その他石田拓実に関する文章
 『パラパル』
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 白のエデン(1) (講談社コミックスフレンド B)

 あの雪の日、その少年に出会えたことだけが、少女にとっては、ただ一つの。

 前作にあたる『彼はトモダチ』で、終盤の物語に泥沼の様子を演出していった吉岡李々子だったが、この新作『白のエデン』は、1巻の段階から作中に深い溜め息が渦巻き、幸福が遠く、ずっと身近ではないもののように描かれている。

 義理の父親や兄とは折り合いが悪く、実の母親のプレッシャーに応えなければならないヒロイン、芹川真白の居場所は家庭にない。かといって、学校では友人もなく、浮いてしまっている。〈イイコにしなきゃ イイコにしなきゃ イイコにしなきゃキラわれちゃう ひとりはイヤだ。〉そう願えば願うほど、彼女の孤独は増していくようだった。しかしあるとき、一人の青年に出会う。高野藍、彼には幼い頃にやさしく手を差し伸べてくれた少年の面影があった。

 藍に誘われ、通いはじめることになった鳥の子学習塾という場で、さまざまな経験を真白は積み、成長を重ねていく、というのが、おそらくは『白のエデン』の概容になるのだろう。

 むろん、義兄である秀人や藍の弟の颯生、そして藍との関係にはラヴ・ロマンスの予感が託されているのだけれども、それを縦の線とするのであれば、家族や級友を含め、摩擦化された周囲との関係をいかにしてやり直すかが、横の線に見られるのであって、双方の織り成す人間模様の色彩は、いささか暗い影を持っている。

 今日の少女マンガにおいて、離婚や再婚、といった設定の向こうに家族のディスコミュニケーションを捉まえる手つきは、決して特殊なものではない。どころか、汎用率は以前にも増して高まりつつある。真白の抱えるオブセッションは、少なくとも彼女にとって、家族のイメージがネガティヴな作用しかもたらしていない、このことからやってきているのだったが、それが現代的な印象をともなうための機能を担っているのは、まず間違いない。

 学校での待遇にしてもそうだ。要するに、共同体のなかで具体化された抑圧を生きる個人の物語になっているのである。もう少し主人公の年齢が上であったなら、いわゆるアダルト・チルドレンのストーリーになりえていたかもしれない。だが、中学三年生まで年齢を落とすことで、まさしく現代的な思春期の困難へとドラマを寄せていっているのだった。

 ところで、鳥の子学習塾の塾長代理をつとめる当道である。作者がオマケのページで触れているとおり、塾生である佐々本(早良)とともに前作から引っぱられてきた人物なのだったが、『彼はトモダチ』でも本筋には直接関係がないながら重要な任務を果たした彼の存在は、そう、まるでライ麦畑のキャッチャーを彷彿とさせる。こういう好漢を、憂鬱な筋書きに対し、配慮のごとく用意できるあたり、作者のやさしさ、強みであると思う。

・その他吉岡李々子に関する文章
 『彼はトモダチ』
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 『99%カカオ』について→こちら
2010年08月13日
 隣のあたし(5) (講談社コミックスフレンド B)

 てっきり端役だと思われていた三宅が、ヒロインである仁菜と彼女が思いを寄せる京介のあいだに割って入り、噛ませ犬に昇格した、というのが前巻のあらすじであって、どこまでが予め構想されていたのか、読み手からしたらまったくわかれないこういう人事があるから、少女マンガは油断ならねえ、のだけれども、はたして三宅はその人柄の良さで噛ませ犬のポジションからもっと上へと這い上がれるのだろうか、というのが、まあ多少の曲解を込めているのだったが、南波あつこの『隣のあたし』の5巻におけるストーリーである。ここで重要なのは、題にあるとおり、誰かの隣にいる「あたし」の心情が、作品自体のエモーションを織り成していることだろう。もちろんそれは、基本的に、京介の隣に幼馴染みとしてしかいられない仁菜の、そして今は三宅の隣に恋人として存在しようとしている彼女の、その内面を指している。簡潔に述べるなら、恋に揺れる乙女心を焦点化しているわけだが、作中人物たちの相関にあっては、もう一方の「あたし」すなわち京介の隣に無理やり居座りながらも時に元恋人の久米川とも逢瀬を重ねる麻生結衣子の、やはり二股の狭間で不安定な挙動を持った心情が、仁菜の対照となることで、そうしたテーマに厚みを与えているのだった。このように考えるのであれば、男たちは、天秤の左右に乗せられた重石のような役割だろう。だがしかし、重石にだって内面がある。と、いわんばかりに京介が、ここにきて大きな動きを見せる。仁菜が三宅と付き合いはじめたことで、彼女に対し、今までになかった反応を引き出されてしまうのだ。これもある意味で、仁菜や結衣子が立っているポジションの応用だといえる。三宅が噛ませ犬くさいのも、じつはそこだ。彼の実直な態度は、自分が誰の隣にいなければならないかを迷わない。これはおそらく『隣のあたし』の本筋からは外れている。物語にとって、とりあえず現段階では、変動をもたらすためのトリガーにほかならないのである。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら

・その他南波あつこに関する文章
 『スプラウト』
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 誰かを深く想う、というのは時として地獄であろう。霧里は京都島原を追われ、江戸は吉原へと発つ。しかし彼女は知らないのだ。京都に残された弟の半次郎が、染め物師としての腕前から、その一際立った容貌から、やがて地獄の渦中に呑まれてしまうことを、知らない。宮木あや子の同名小説を斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』も3巻であるが、おそらくは意図して安野モヨコふうになっていく絵柄を、いやまあたしかにキャッチーではあるものの、個人的にはあまりよく思わないのだけれど、この作者ならではの表情がそこかしこに生きていて、今にも壊れそうなエモーションをよく掴まえている。いずれにせよ、悲痛である。運命の苛酷さがロマンティックにデザインされることで、吐く溜め息に鮮やかな色彩の宿る、それがとても悲痛に見えてくるのだった。作中の誰しもが業をしょっている。そのことは江戸時代という設定によっている。彼らの心理は現代的に解釈されたものにほかならないが、デフォルメといってもよい、イメージといってもよい、地獄を与えられた人間はかくも苦しんだ顔を持つ。幸福のなかにあってさえ。このような説得力は、笑みの真偽をどう描き分けるかの手つきから、やってきている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年08月07日
 賢い犬リリエンタール 4 (ジャンプコミックス)

 リリエンタールはほんとうにかわいいなあ。ほんとうにやさしいし、ほんとうに賢いのだな。葦原大介の描く『賢い犬リリエンタール』がほんとうに好きである。

 全4巻という長さは、『週刊少年ジャンプ』の傾向からすると、ほとんどヒット作とは見られないだろうが、そうしたサイズも含めて、ほんとうにとてもナイスなマンガであったと思う。

 コメディの要素が強い作品ではあるけれども、ふいにこう、じんわりとさせられるものがあって、それらがコントラストというよりも、一つのやわらかな基調をなしていたところが、最大の魅力であった。

 エンディングに向かい、背景下の物語にあらかたの決着がついていく様子を、すまん、ついつい涙しそうになりながら、読んだのだ。

 不思議な力を持った犬、リリエンタールが、ついに本気となった黒服の組織にさらわれてしまう。リリエンタールの姉であるてつこやその兄、そしてこれまで縁のあった人物たちが一致団結し、リリエンタールの救出に出発する。

 作中でいわれているとおり、リリエンタールとは、人間の心や意識を現実化する能力そのものであった。これをめぐり、いわば私欲と善意とが正面からの争奪戦を繰り広げる。しかしながら、さほど難しい筋書きではない。

 要するに、一個の人格を前に他人はいかような働きかけを持ちえるか、そうしたテーマを単刀直入なストーリーに編んでいるのである。

 クライマックスで、リリエンタールの語る孤独が、平易であるぶん、ひじょうに鮮明なあたり、作品の本質がよくあらわれている。いわく〈だれだって じぶんがいなくなるのはこわいですぞ?(略)きえてしまうのがこわいのは きっと だいすきなひとにあえなくなるからですな!〉

 生きること、死ぬこと、いなくなること、消えてなくなること、すべてがありふれているにもかかわらず、どうして慣れにくく、悲しまされるのだろう。もしもありとあらゆる人格に、心、が備わっているとすれば、それはいったいこの世界の何によって動かされ、明滅するのか。

 リリエンタールの言葉は、徹底された簡素さを通じ、ある種の真理を探り当てているのだったが、重要なのはやはり、これまでのエピソードにおけるギャグやナンセンスを経、リリエンタールならそう言うね、リリエンタールがそう言うなら間違いないね、と信じられる説得力が与えられていることにほかならない。

 あるいはこれまでのエピソードにおけるギャグやナンセンスとは、作中の人物たちが、リリエンタールの純粋さを受け入れ、変化していく過程でもあった。こちら読み手の感想もそこから由来している。

 単行本化にあたり、最終回のあとで新たなエピローグが加えられた。ヒロインであるてつこの、不登校児である彼女の卒業式が描き下ろされている。

 そこでは、本編のベースであったSFやファンタジーふうの展開はいっさい排せられ、しかし本編に等しいテーマがたしかに示されている。

 一個の人格が、他人に関与し、他人に関与され、心を動かし、動かされ、この世界もしくは社会とコネクトすることの成果が、笑顔、という具体例に表現されているのである。

 リリエンタールの行動に、たまらず、ぐっとくる。おまえはほんとうにかわいいやつだなあ。ほんとうにやさしく、ほんとうに賢い。

 はたして現実にはいくつもの困難が存在している。だが誰だって彼のように生きられるかもしれない可能性を、勇気を、作者は、最後の最後に置いた。
2010年08月05日
 BENGO! 4 (ジャンプコミックスデラックス)

 全4巻で完結したところから振り返るに、きたがわ翔が弁護士マンガを描いた、以上の感想を持てなかったかな、というのが、この『BENGO!(ベンゴ!)』である。ラストまでの内容にはいくつかの変節があったように思う。松下弁悟、若林航大という二人の主人公の因縁、対立、協力、葛藤の法廷ドラマを経、最終的には〈弁護士がバーテンをしながら気軽に相談に乗る こんな面白いバーがあったら市民は大喝采するんじゃないかと思ったんです〉このような発想のもと、弁護士バーを開いた「SHOWSO」の面々が、困りに困った依頼者の相談に応じていくスタイルとなった。序盤と終盤とでは、ずいぶん物語の形式が違っているのは、紆余曲折というか、試行錯誤というか、結局はうまい具合にアイディアが安定しなかったふうにも見えてしまう。職業ものにおいて定番とすべきパターンを引き受けるかどうか。この一線の上で、迷い、ずるりとこけ、落っこち、着地点もあまりはっとこない。

・その他きたがわ翔に関する文章
 『ガキホス』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『デス・スウィーパー』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
 蒼太の包丁 25 (マンサンコミックス)

 グルメ・料理マンガには長期連載化していく作品が少なくはないが、大河のようなドラマを充実させている例は多いと言い難い。それというのはたぶん、ショートなワン・エピソードを基本に、文字どおり、回を重ねることが第一義となっているものが大半だからであって、幅の広い時間進行は結果的に生じているにすぎないためなのだと思う。つまりは当初の設計図にそってつくられた構造に建て増しの物語が与えられているわけで、作中人物の性格に、成長とはべつの意味で、当初の設定とのぶれが出てしまうことが珍しくないのもそのせいだろう。こうした皮肉をおそらくは意図的に回避すべく、作中人物同士の相関性と背景のストーリーを厚くしているのが『蒼太の包丁』である、というのは以前にいったような気がするのだけれども、いやじっさい、25巻に入った現在も、主人公の成長や周囲の感情、環境のゆるやかな変化に、最大の特徴がある。「富み久」の親方は、年末も忙しいというのに、どのような思惑があってか、花ノ井が自分で開いた店「花ノ井」の手伝いに蒼太を行かせる。それもまた、蒼太の、料理人としての、新たな糧となっていくのであった。というのが、ここでのおおよそである。カウンター越しに並び、互いに包丁を握った花ノ井と蒼太のコンビネーションは、正しく今までのストーリーがあってこそであるし、主人公をめぐる女性たちの対応も同様に、過去の積み重ねによっている。単発のエピソードを見るなら、読み手を感動させるために、作中人物を泣かせる、こういった手法のあざといものもあり、そちらに関してはさほど褒めないのだったが、「花ノ井」と競合する「松井」の大将と花ノ井の対面にはまったくべつの緊張があって、なかなかに印象深い。男と男の、職人と職人の、歳の差に関係のないプライド、言葉では通じ合えない部分が、よく出ている。

 24巻について→こちら
 22巻について→こちら
 20巻について→こちら
 18巻について→こちら
 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
2010年08月01日
 どうしたって別れはつらい。好き合っていればなおつらい。だからこそ、どうして離れ離れにならなければいけないのか、と人は思う。最富キョウスケの『電撃デイジー』は、7巻にきて、大きく物語を動かした。ヒロインの照と自らがDAISYであることを隠し続ける黒崎の、二人の距離が縮まりつつあるなか、今は亡き照の兄と黒崎にまつわる因縁がふたたび浮上、心穏やかでないながらも無事を保っていたはずの日常が切り裂かれるのである。照がDAISYと交わす携帯メールのやりとりは、これまでにも両者の内面を具体化するにあたり、効果的なパートを果たしていたが、ここではそれがさらにエモーショナルなシーンをつくり出す。ふつう、マンガの表現において、モノローグは、読み手には通じているものの、じっさいに伝えたい相手には届けられない、つまりはその作中人物のパーソナルな表明にとどまる。だが『電撃デイジー』では、モノローグの一部は、携帯メールの文面として書かれ、対象への告白に近しく機能する。黒崎とDAISYの、照が薄々勘づいている合致もじつはそこに担われていたのだけれど、状況の不幸は、そのような告白を経ることで強まってきた関係を、ひどく哀しいものへと転じさせてしまう。すなわち携帯メールという手段が、ラヴ・ロマンスの悲劇性をより高めている。それにしてもこの巻のクライマックスである。DAISYが照に向けて打つ携帯メールの文章がせつない。直接に会って話していれば、せめて携帯電話が繋がってくれさえすれば、それは生じえなかった。本来なら、愛の言葉であって、二人の結びつきをいっそう固くしてくれてもよかった。なのに、反対の感情が占めていく。きれいな印象に綴られれば綴られるほど、別れの挨拶でしかなくなっていく。寂しさを増していくのがつらい。つまりは次のとおり。〈いつもそばで 笑っていてくれて ありがとう 僕の意地悪を かわいく受け止めてくれて ありがとう ――それから―――― 君が大好きだと言った デイジーの花を 僕もきれいだと 思ったけれど 僕のそばにいる君は その花よりも ずっと きれいな女の子だと思いました〉

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他最富キョウスケに関する文章
 『青春サバイバル』について→こちら
 『ペンギンプリンス』について→こちら
 『プリキュウ』について→こちら
 だから恋とよばないで 2 (Cheeseフラワーコミックス)

 少女マンガの、とくにすぐれたラヴ・ストーリーを目にしているとき、この人物は、その人物に対し、いったいいつどこで心を開きはじめたのだろう、と考えさせられることがある。要するに提示がなされていないためなのだが、それは必ずしも描き落としているというわけではない。むしろ周到に秘せられているからなのであって、ちょうど文章における行間がもっとも大切なものを隠すことで深い彫りを持つのと同じく、作品自体の表情をとても豊かにする。藤原よしこの『だから恋とよばないで』の場合、ジロー(高柳次郎)の心理がその役割を果たしていると見てよい。

 物語は、高校2年生のヒロイン、鳴瀬心(ほんらいは心のほうが適切ではあるのだけれども、文章上のややこしさを避けるべく、以降は鳴瀬と表記していく)が、若い数学教師のジローに惹かれ、じょじょに片想いを強めていく様子を、ときめかせる材料、軸の足としている。しかしそれがあくまでも一方的なものにほかならず、したがって独りよがりな言動にとどまるのであれば、展開と構成にメリとハリはついていかない。そこをジローの心理が補っていると考えるのが妥当なのである。

 いやたしかにこの2巻で、鳴瀬と親しくしているのを職員から誤解されたジローが〈ちゃんと「生徒」だと思っています 大事な生徒の1人だと〉思っており〈ほかの生徒と 一緒だよ〉と言明しているのだけれども、それは両者の関係を指しているにすぎないのであって、決して鳴瀬がワン・オブ・ゼムであることの証明とはならない。もちろん、ジローが鳴瀬に対して恋愛感情をもっているかどうか、をいっているのではない。むしろ、恋愛感情であるかどうか、という点について述べるとするなら、すくなくとも現時点では、否だろう。肝要なのは、ジローにとって、一人の生徒が、おそらくは、他とは区別され、意識されている、このような疑いを読み手に抱かせるだけの、心理の、描写が、自然と働いていることなのだ。

 言い換えるのであれば、まず間違いなく、鳴瀬はジローの心に触れている、ジローは鳴瀬に心を開きはじめている、のだったが、それがいったいいつどこからであったか、は周到に秘せられている。秘せられているがために、物語は、ほんらいは不器用なはずの主人公が、恋愛感情を通じ、積極性を得ていく様子に焦点を結ぶような構造を持ちえているのだと思う。ジローがくだけた性格の人物である以上、彼の言動はたんに迂闊さのあらわれなのかもしれない。こうした予断を加えてもなお、上記してきた推測は残る。それこそがすなわち、ラヴ・ストーリーとしての余地となっている。

 さてしかしもう一つ付け足しておきたいのは、生徒だから教師だからという立場の問題とはまったく無関係に、ジローには恋愛感情を自ら禁じているふしがある、と察せられるところなのだった。それはこの2巻に挿入された次郎の過去編が教えるとおり、喪われた兄と彼の恋人であったミヅキの存在にかかっている。もはや取り返しのつかないまでの、深い、負い目がそうさせている。そのせいでジローは女性から〈いつもフラれちゃうんだもん いつも! すぐ! 「本気じゃないんでしょ」とか「何 考えてんのかわかんない」とかサ〜〉言われてしまうのだけれど、これを鳴瀬は〈それ は きっと 先生の心の中に 誰か いるから じゃないんですか? 先生の黒い瞳が 時々 その人を想って揺れるから――――〉と、さながら女のするどい勘で、予想するのである。

 鳴瀬の予想は、今までにジローが落としたいくつものヒントを集めた結果、やってきている。ここでいっているヒントとは、しかしジローが意図したものではない。鳴瀬の真剣な眼差しによって、奇しくも発見されたものにほかならないのだが、ジローの不注意あるいは不用意な態度が事前に置いておいたものでもある。かくして新たな問いが顕在する。すなわち、なぜ鳴瀬だけがそれを見つけることができたのか、である。当然、そのことは鳴瀬自身の固有性というか、彼女をヒロインたらしめている物語上の要請によっているだろう。だが同時に、彼女の発見が、ジローへの働きかけとなり、彼の心に何らかの反応をもたらさなければ、ラヴ・ストーリーにふさわしい情緒は出てこない。

 今後、『だから恋とよばないで』の物語がいかに転がり、ヒロインの恋愛感がどうなっていくのかは、知らない。もしかしたら両想いを叶えるかもしれない。失恋に終わっても不思議ではない。いずれの可能性も、鳴瀬の積極性はもとより、ジローの心理を参照し、はじめて導かされる。こうした相関が作品自体の表情をとても豊かにしていることは、いちばん最初にいった。

 1巻について→こちら

・その他藤原よしこに関する文章
 『恋したがりのブルー』
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  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
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2010年07月27日
 凍牌 10 (ヤングチャンピオンコミックス)

 覚悟と責任だけだ。ただ覚悟と責任だけが、その人間の眼を生かしも殺しもする。志名坂高次が『裏レート麻雀戦牌録 凍牌』というマンガに描き続けているのは、つまりそうしたことの繰り返しであるように思う。

 しかしまあ、氷のK(ケイ)と呼ばれる主人公の、じつに壮絶な生き様であることよ。高校生の身でありながら、裏の世界に出入りし、莫大な金を稼いでは奪われ、右足の小指をも失い、腹を切っては死に瀕する。にもかかわらず、決して敗北はしない。いや、決して敗北の許されない条件を自分に課すことでしか、生きられない。かけがえのないものを守れないのだから、すさまじい。

 最初はたんなる遊び心にすぎなかった。しかしずるずると引き込まれる泥沼のなかで、その少女のみが輝いて見えた。アミナ、ヤクザに売買されていたその異国の少女の、どれだけ不幸を負わされても希望を手放さない姿が、ケイに光を教える。退屈な日常も孤独な運命も地獄であるならば、たった一つ、たった一つ信じられるもののすべてを喜びに変えるべく、より深い地獄へと潜っていくのである。

 もちろん、他の誰かに選ばされたのではない。自分から選んだ。ゆえにそれをでたらめとしないためには、勝利が要る。いっさいの覚悟と責任を引き受け、命さえも賭けざるをえない。物語が進み、後戻りができなくなればなるほど、ケイの眼はするどく、つよい意志を示した。しかるに、現在の「全日本麻雀竜凰位戦」編は、以前にも増して苛酷な状況をケイに突きつける。

 8巻、畑山の退場は残酷であった。〈もう負けねえ 俺は畑山 意地の張り合いと麻雀なら もう誰にも負けねえ!!〉さらに9巻、女王アイとの再戦は熾烈であった。〈あはっ 私のトラウマとかとんだ甘ちゃん? わはははスゲ――――〉そしてこの10巻、伝説の雀士、大辻の妨害、最大のライヴァル、堂嶋との差し合い、病に倒れたアミナを救うには、一般の大会であるはずの裏に隠された陰謀を曝き、「名簿」と呼ばれる何かを手に入れなければならない。〈…誰が来ようが関係ない……必ず勝つ……いや…殺してでも奪い取る〉

 これまでのストーリーではっきりしているとおり、クラスメイトや幼馴染みでさえも平然と切り捨てられるぐらい、ケイには容赦がないのだけれど、必ずしも無情だというのではない。時と場合によっては、迷わされ、惑わされる。

 だがそこでは、葛藤や逡巡など、クソの役にも立たない。同卓の敵を喜ばせるエサになるばかり。弱みにつけこまれたなら、すぐさま足下をすくわれる。慈悲や憐憫のまったく剥奪された場所に立っている。

 当然、一寸先は闇、のシビアな設定は、博打、ギャンブル、麻雀を題材にしたフィクションの、ジャンル的なコードに要請されてはいるだろう。他の作品だってそうじゃん、なのだったが、『凍牌』において重要なのは、ありとあらゆる場面が死活と関わるなか、少年がくだしていく決断を、受動性のドラマにするのではなく、所与の条件の、たとえそれがシビアなものであろうとも、自覚的な肯定化として、描いている点にほかならない。

 それにしても、堂嶋あ、ここにきて立ちはだかってくるかよ、そしてやっぱりかっこういいな、おまえ。大辻のトリックにはまり、ついに焦りを見せるケイに、ふたたび、勝負の何たるかをあらためさせるには、この男との戦いが必然、必要であった。

 これまでもことあるごとにケイの甘さを突き、結果的に危機を乗り越えさせてきたのは堂嶋だったわけだが、1巻、最初の出会いの時点で、氷のKとしてすでに活躍し出していた少年の、しかしまだほんとうの覚悟と責任を知らない眼に向かい、次のように言っていたのが思い出される。〈ぬるい〉
2010年07月24日
 バビル2世ザ・リターナー 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 バビル2世復活す。横山光輝がマンガ『バビル2世』に提示した世界像が、はたしてこの現代にどう再現されるのか、『バビル2世 ザ・リターナー』への関心はそこに尽きるのだったが、この1巻に繰り広げられているのは、いやいつもどおり、じつに野口賢らしいサイキック・バトルであった。が、しかし驚くべきなのは、設定自体は『バビル2世』とそのオルタナティヴなエピソードにあたる『その名は101』に、きわめて忠実だという点である。じっさい物語は、『その名は101』の続編を引き受けるかのように、バビル2世こと浩一少年と、彼の血を投与してつくられた超能力兵士たちの死闘を連想させながら、進む。2010年、東京の街を見下ろした学生服の少年は、こう言っただろう。〈始めるぞ アメリカとの戦いを〉と。在日米軍のヘリ部隊が、今まさに、彼に向かい、攻撃をしかけようとしているところだ。このとき、バビル2世をかつて知ったる官房長官の伊賀野は、空前の事態にも顔色一つ変えず〈あんたらアメリカは彼を怒らせた これで終わるとは思わないほうがいい〉と告げるのだった。バビル2世がアメリカと対立しなければならない理由は、作品の裏に伏線のごとく隠されているのだけれども、おそらくは、やがて野口による『その名は101』の解釈となってあらわれてくることを予感させる。バビル2世がロデムと交わしている〈アメリカは世界を統一して世界政府を創ろうとしている 国連と同じく議長はアメリカとはちがう大陸から選ばれるだろう だが陰であやつるのはアメリカだ やろうとしていることは“ヨミ”と同じだ〉という会話が、ひじょうに示唆的だ。もちろんヨミとは、『バビル2世』の本編における最大のライヴァルである。じつは、そのヨミを対照点にし、善悪の抽象性を描くことと、アメリカを仮想敵とし、現実を寓話化することとで、『バビル2世』と『その名は101』は枝分かれしているのだが、『バビル2世 ザ・リターナー』は、双方の展開を統合、ほんらいは主人公であるバビル2世にテロリストの汚名を着せることで、今日的なテーマを組み込もうとしている。要するに、巨大なイデオロギーを持たない世界の正義は何によって保証されるのか、それだと思う。野口の描き出すサイキック・バトルは、超高速をコマ落とし、大きく広げられたカットのなかに、スペクタクルを隆起させる。リニューアルされたロデム、ロプロス、ポセイドンのデザインは迫力に富む。地球規模の危機を持ち込まれ、戦場と化していく日本、〈ぼくはバビル2世 三つのしもべとともに アメリカに宣戦を布告する〉

・その他野口賢に関する文章
 『サンクチュアリ -THE幕狼異新-』(原作・冲方丁)
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 『狗ハンティング』(原作・夢枕獏 / 構成・子安秀明)
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 『KUROZUKA -黒塚-』(原作・夢枕獏)
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2010年07月23日
 ガキホス 2巻 (ヤングキングコミックス)

 全2巻で完結したところから振り返るに、きたがわ翔がホスト・マンガを描いた、以上の感想を持たないかな、というのが、この『ガキホス』である。ストーリーにしても、とくに目新しい印象を得てはいない。主題とすべきは、欲望と拝金とが結託した水商売の世界に主人公のイノセントがどう作用していくか、だろう。が、それもまた、決して珍しいものといえない。良かったのは、ステレオタイプな道徳に色目を使ったかのような反省を持ち込まず、総じてアッパーな展開に徹していた点で、物語の深さがどうとかいうのはともかく、ひじょうにライトなエンターテイメントが、肩を凝らせない。惜しかったのは、ほとんど同じ理由によっているのだけれども、主人公に必要とされた軽さ、明るさとはべつのレベルで、作中人物たちの存在が、薄っぺらくなってしまっていた。男性キャストの集合を、会社組織の読み替え、あるいはホモソーシャルの寓話に見せたい部分が、こうした系の必然として、あきらかにありながらも、その点はあまりうまくいっていない。ストーリーは、最終的に、伝説のホストであった父親の残したテーゼを主人公が受け継ぐ、といった箇所に着地しているのだったが、それが水商売の世界に特徴的なペルソナ被りのゲームのどことどう違うのか、まあ愛があるかないかの抽象性で線引きされているのかなと判断がつくものの、いささか曖昧なままになっている。

 1巻について→こちら

・その他きたがわ翔に関する文章
 『デス・スウィーパー』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
 SHIBUYA大戦争 1 (ヤングキングコミックス)

 俵家宗弖一の同名小説を小幡文生がコミカライズしたのがこの『SHIBUYA大戦争』なのだけれども、副題に「ドリームキング外伝」とあるとおり、基本的には柳内大樹の描いたマンガがベースとなっていて、本編よりずっと前の時代、1990年のひと夏を作品の舞台に置いている。主人公は『ドリームキング』あるいは『ドリームキングR』で、街の顔役を果たしたタカである。その、彼の、若き日の活躍が繰り広げられているのだったが、概ねサブ・カルチャーのシーンに『池袋ウエストゲートパーク』が登場して以降の、ストリート・ギャングもののヴァリエーションとして評価されたい内容だと思う。少なくとも1巻の段階では、90年代という時代設定に、さほど深い意味を見て取る必要がない。ファッション雑誌の人気読者モデルをつとめているタカは、渋谷(作中の固有名の表記にどれだけのこだわりがあるのか判別し難いため、ここでは渋谷に統一する)の若者たちの支持も厚く、カリズマ視されている。業界からの注目も高い。クラブでイベントを開けば、多くのファンを動員する。しかし、人と金の集まるところには、必然、トラブルが生じるのであって、清國會というヤクザやダガーズというチームに目をつけられたタカは、彼らのほかにもガラの悪い連中と渡り合わなければならない羽目になる。このようなストーリー自体は、小説版にきわめて忠実であるといってよい。反面、マンガ版において、もっともつよいフックをなしているのは、『ステゴロ』でも十分に確認された小幡の、勢いあるヴァイオレンス描写だろう。キャラクターデザインには柳内の名がクレジットされているものの、絵柄や作風にその影響をほとんど感じさせないのは、決して悪い印象をもたらさない。かえって個性と呼ぶべき面が際立っているのだ。とくにそれは動的なアトラクションによくあらわれている。

 小説『ドリームキング外伝―シブヤ大戦争』について→こちら
 
 『ステゴロ』1巻について→こちら

 『ドリームキングR』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年07月22日
 ドリームキングR 6 (ヤングキングコミックス)

 おまえ、この前と言っていることがぜんぜん違げえじゃん、と思われるかもしれないのを承知のうえで書くのだったが、やっぱり柳内大樹のマンガが好きである。とくにこういうものを持ってこられるとそれを実感する。『ドリームキングR』が、ついに完結した。エンディングへ向かい、6巻で繰り広げられるじつにまっすぐなサクセス・ストーリーは、もしかしたら俵家宗弖一の原作に負うところが大きいのかもしれないが、しかし柳内ならではのテンションが生き生き、作中人物のほとんど根拠のない自信をいっそ清々しくし、細かい点にこだわるのは野暮だいね、と、たいへん痛快な気分を味わわせてくれる。まずだいいち話運びのテンポが良い。近年の作品を目にするかぎり、どうやら作者は主人公を、わざわざ、苦悩させるのが高尚な表現だと信じているふしがあって、いやまあ、それはそれでべつに構わないのだけれども、頭を抱えている主人公を物語のなかでどう動かすかの原理が、ものの見事に破綻しきっているばかりか、そもそも彼の基礎であるような資質をもご破算にしてしまうため、いったいその言動のどこから説得力を得ればいいのか、むしろこちらが頭を抱えたくなるのもしばしばであった。要するに、『ドリームキングR』のクライマックスは、そうした躓きを免れている。何せ、オザキック改めオズマックスやJとともに「ゼロル」のセカンド・ブランド「ゼロリズム」を立ち上げたジョニーの、行く手を阻む困難にもまったくめげず、やがてSHIBUYAで名をなしていくまでの様子に、プロットは一本化されていて、展開に迷いがない。アパレルのトップ・デザイナーになるにはなぜか血みどろの抗争劇を繰り広げなければならない、という意味不明瞭なぶれもようやく除けられている。Jやカエデ、オザマックスたちとジョニーの関わり合いにしたって、個々のエピソードを通じ、簡潔ながら十分な深さを与えられているように思う。作中人物の葛藤をことごとくセリフで説明してしまう、抽象性を誤解した、いつもの悪癖が押さえられていて、コマの単位で魅力的な場面が多い。終盤、巨大チェーンである「ウォーライウェア」のバイヤーに〈ジョニーさん アンタにとって…『洋服』とは何か〉と尋ねられ、主人公が自問自答する数ページは、その答えがどうというより、その答えを覗かせる無口な間のなかに、ひさびさこのマンガ家の真価を見た気がした。

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 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『新説!さかもっちゃん』1巻について→こちら
 『ギャングキング』
  19巻について→こちら
  18巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
2010年07月20日
 ここ最近の坂本龍馬ブームにおいては、彼をいかに人間らしいイコール矮小な人物として表現するかに説得力を設けようとしているふうな印象を受けるのだけれども、この柳内大樹の『新説!さかもっちゃん』もそうしたデンを採用しているあたり、まったく現代的な意で「新説」とうそぶくのに相応しいのだろう、が、それはともかく、このマンガに対する残念はこの作者の作家性に対する残念とほとんど同義であることだけは、前置きしておきたい。

 率直にいってしまえば、ストーリーをあまり練らず、かっこうよさげなカットとポエミーを前面化したい、このような欲望を隠そうとしないのが柳内の作風なのであって、少なくとも1巻を読むかぎり、『新説!さかもっちゃん』でとられている手法は、決して冴えた実験性などではなく、たんに作者にとって都合のよい方向性にすぎないのではないか、と思われてしまう。4コマのテイストとシリアスなタッチの複合は、たしかにアイディア以外の何ものでもないのだったが、しかし両者のギャップがもたらしているのは、ギャグやサプライズというより、ストーリーの簡略、かっこうよさげなカットとポエミーの突出にほかならない。当然、それを高く買う向きはあるに違いないのだけれども、個人的にはさほどはっとしない、といったところである。

 発表しているのが『週刊ヤングジャンプ』だからというわけではあるまいが、4コマのパート自体は、どことなくかつての森下裕美を彷彿とさせる、どたばた劇がなかなか楽しいものの、あくまでも本分はシリアスなタッチのほうにあるように見えてしまう。反面、シリアスなタッチでは、吉田聡の系譜であるようなおかしさ、デフォルメの質を生かした部分にこそ見るべきものが多い、たとえばp71のドジョウすくいのくだりなどはすごくキュートなのに、たいていは脈絡を欠いたヒキ(オチではない。オチてはいない)に大きなコマをあて、体裁のみを取り繕うばかり。要するに、長所と短所とが逆の出方をしているのだった。

 さて、ここからは余談になる。もちろん『新説!さかもっちゃん』は、ぜんぜんヤンキー・マンガじゃないのだが、上記した手法は、同じ作者の『ギャングキング』に支配的な感性の延長線上にあるのは疑いようがない。いうまでもなく『ギャングキング』は、近年のヤンキー・マンガを代表する一作だ(まあね)。そして近年のヤンキー・マンガが、いや当然すべてではないものの、その多くが特徴としているのは、一枚のカットと説明調のセリフで事を済まそうというスタイルであって、それは意外にもノベル・ゲーム(あるいはギャルゲー)の流儀と大差がない。だが、ノベル・ゲームのインタラクティヴなアプローチが、重層的な解釈を許しやすいのに対して、ヤンキー・マンガの形式は、単層的かつ直線的なストーリーを強化するための方便にしかなっていないので、表現にひろがりの出来損なっているのが、悔しい。

 誤解があってはいけないのだけれど、何もノベル・ゲーム万歳という話をしているのではないし、どちらがすぐれているかということでもない。手法上の不満を端的に、自分が今の柳内大樹に厳しい理由を述べたまでだ。

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
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 『ドリームキングR』
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 『ドリームキング』
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2010年07月19日
 打撃王 凜(17)<完> (講談社コミックス月刊マガジン)

 結局のところ、中学生編で終わってくれてもよかった、そしたら妙なしこりを残さなかっただろう、満を持して傑作だと謳えた。いやしかしまあ、長篇としては中途半端なところで完結してしまった感を免れないのだったが、でもね、と思う。これだけは言っておきたいな、って思う。ありがとう。最後まで燃えたし、泣かされそうにもなった。このマンガが最高潮に好きである。

 佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー) 凛』が全17巻で幕をおろした。すでに述べたとおり、中学生編の熱狂をキープしたまま、高校生編に入っていき、目指せ甲子園を描いてはいたものの、まさか校内試合の段階でストーリーをフィニッシュしてしまったのは、さすがに悔しい。残念にもほどがあるのだけれど、ラスト・スタンドとでもすべきクライマックスには、これまで作品を引っぱってきた魅力が余すことなく凝縮されており、くそ、涙をこぼしかけてしまう。

 ああ、主人公である凛の前に、かつての、そして現在の、最大のライヴァルが立ちはだかる。〈レギュラーになる為には 甲子園へ辿りつく為には やっぱりお前を越えなきゃいけないんだな――寺嶋!!〉

 今にも崩れかねない意識を押してまで、寺嶋との対決をあえて選んだのは、親友との約束を果たすためだ。そう、〈知っている この感じを僕は知っている こんなふうにボロボロになって何度倒れても 何度でも立ちあがった 何度でも 何度でも 僕の目の前でこうやって何度でも――〉立ち上がった少年を、凛ばかりでもなく、読み手であるこちらもたしかに知っている。

 キャッチャー・ミットを構えて〈こんな絶体絶命の状況なのに 体も こんなボロボロなのに 寺嶋 今 こうしてお前と勝負できる事が 楽しくて 楽しくてしょうがないんだ 僕 オカシくなっちゃったのかな?〉と微笑んだ凛に、寺嶋もあの少年のことを思い出す。〈あいつも 同じような事をよく口にしていたな〉と。〈相手が強ければ強い程 状況が苦しければ苦しい程 自分が どこまでいけるのか試せる 投手を そして野球を 心から楽しむ事ができる――と〉

 やっちん、やっちん、やっちん。やっちんとの絆が、いま一度、カタルシスのあふれた場面へと結びついていく。結局のところ、『打撃王 凛』とは、二人の少年の出会いからはじまって、二人の少年の出会いに尽きる、物語であった。とにかくその、始点と終点だけははっきりと定められ、漏らされることがなかったので、事前に準備されたいくつもの予感をほとんど放棄していながらも、汗を握っていた手の平をふと目頭のほうに持っていきたくなるのである。

 以前にもいったが、作画のレベルもひじょうに高く、あるいはだからこそ、ワン・シーンごとの躍動に、ひたすらのめり込まされるのだし、おおよその展開は見え透いているにもかかわらず、ただ息を呑む。凛が、自分の精根をふんばりと引き換えていくさまに十分な迫力があるため、すでに挙げてきたくだりに心は動かされるのだ。

 いずれにせよ、この作品と作者はもっと高く見られてもよい。よかった。すくなくとも、近年の野球マンガにおいて屈指の内容を誇っている。それはもう絶対に間違いなく。

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2010年07月16日
 ワーキングピュア(3) (講談社コミックスキス)

 いずれにせよ、現実は厳しいばかりである。それはもう前提のように定められているのだから、仕方がない。仕方がない。仕方がない。肝に銘じるしかない。でも決して諦めるのではない。自分に果たせることと果たせないことの区別は、じっさい壁にぶつかってみなければわかれない。そのとき、がんばる、という誓いが、どうか悪い含みを持たず、励まし、背中を押すものであって欲しい。ほんの少しでもいい。勇気をもらいたいと思う。

 小山田容子の『ワーキングピュア(Working Pure)』は、やっぱり良い作品だ。好き、の一言に感想は尽きる。とある銀行で働く面々をオムニバスの形式で描いたマンガなのだけれども、それまで漠然と生きられた日常の、必ずしも劇的ではない変化がしかし、シビアな状況の訪れとなっていき、ついには息を詰まらせ、膝を折りそうになる姿を、そこから立て直し、不安のなかにも希望が隠されていると信じられるほうへ足の向きを違えるまでのドラマにしながら示していて、その、アップとダウンの成り行きを見守るうち、ふと自分の胸に手を置きたくなる。

 たとえば3巻の内容では、三本目に収められているエピソードに、こういうパンチラインがある。〈ここじゃ頑張っても報われないことなんて山ほどある そのたびにへこんでたら身がもたない だから 腹を決めるんだ どんなことがあっても自分は自分だ なにも 変わらない〉これは大事なチャンスを逃した主人公が〈こういうとき みんな言うんだ 出世だけがすべてじゃないって そりゃ今はいいよ(略)でももうおしまいだ だってオレ 他になにもないんだもん 友だちも 彼女も 仕事以外の大切な生きがいも〉とくじけているのを見、同僚がかける言葉である。

 たった一つ、何か一つでいい、人はプライオリティのはっきりとさせられるものを手にしていられれば、ある程度の困難に耐えていける。目的と意志はそこに集約されるからなのだが、裏を返すなら、いつだって支えは小さく、少ない。それを守り続けるのも容易じゃない。奪い取られる機会のしばしば訪れる。今しがた挙げた〈でももうおしまいだ だってオレ 他になにもないんだもん〉という言葉は、そのような条件をたしかに代弁しているだろう。

 だが、そのような条件自体は特別な誰かにかぎられたものではなく、そして徒労に終わる可能性もまた同様に与えられている以上、敗北や失敗を通じ、不公平を訴えてみせたところで正当化はもたらされない。むしろ正当化されえないことを皆が経験則として知っているからこそ、いくらかの同情を得られるのであって、これはふつう、惨めである様子をともなう。当然、いつまでも惨めなままでいさせてくれるほどの猶予を、この社会は用意していない。あるいはそれだけの余裕を社会に求めることなどできない。

 こう考えられるとき、会社員もしくは社会人というのは、それに対する耐性を順次試験されるためのポジションにほかならない。もちろん、どうにもならない場合、リタイアを選択肢に数えてもよいのだったが、その判断基準がどこに属しているのか、自分の側か、社会の側か、設定をするさいにもはっきりとしたプライオリティが要請される。先述したパンチラインが射抜いているのは、おそらく、そこである。

 そのとおり〈ここじゃ頑張っても報われないことなんて山ほどある そのたびにへこんでたら身がもたない だから 腹を決めるんだ どんなことがあっても自分は自分だ なにも 変わらない〉のであって、ストーリーは、敗北や失敗を引き受けられるだけの理由を今一度あらため、コンプレックスやプレッシャーの狭間から抜け出した主人公の、明るい表情を映して、閉じる。躓きも込みで日常は繰り返し繰り返す。そうしたイメージに現実の厳しさはよっているのではない。もっとべつのもの、そうしたイメージの内側において確認されるメンタリティに左右されているのだ。と、締めの印象は教えている。

 派手な作風ではないし、物語のつくりも地味ではある。それは他の篇にしてもそう。身近な世界をモチーフにしているため、ありふれたテーマに多くが占められている。だが作者は、コマ割り、登場人物のディレクション、展開を含め、細かい部分に気を配り、そのことを実感的に描くのに成功している。大げさな重たさや暗さに喩えられない、もっと平均的なつらさを正確に掴まえているので、かすかな覗いた希望も信じられる、頼もしい、とっくり諭されるものがある。

 1巻について→こちら
2010年07月13日
 L DK(4) (講談社コミックスフレンド B)

 ヒロイン、葵が想いを寄せる同居人、柊聖のその兄、草樹が登場、何やらいわくありげな様子でちょっかいをかけてき、ストーリーが大きく動くかと思いきや、そういうわけでもなく、この手のラヴ・コメディらしい一進一退を渡辺あゆの『L・DK』は4巻に入ってもまだ繰り広げているのであったが、物語のテンポを見るうえでは、やや間延びし出しているふしがあるのは、結局のところ、何も起こってないじゃんね、といえるからなのだけれども、中心人物である二人の微妙な距離感をどう表現しているかの部分に手抜かりがないため、いよいよ飽きが訪れてもよさそうなラインをうまく逃れている。『L・DK』という題名が示唆的なとおり、このマンガの本質は、一個の部屋のなかに一組の男女を描くことである。しかしそれだけでは、若年層向けのアピールを果たすのに必要な刺激が生まれないので、いかにもトラブルでござい、の様式に従ったエピソードが用意されているにすぎない。おそらく作者の苦心もそこに費やされているのだが、個人的にもっとも魅力を覚えるのは、やはり、葵と柊聖の表情なのだ。じっさい、二人の胸中はほとんどそうした表情によって補われているだろう。とくにここにきてからは、葵に心をひらきはじめた柊聖の表情がいい。現段階での問題は、だがそれしか特筆すべき点がないことだと思う。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
2010年07月11日
 BALANCE 1巻―BLOODY PARTY (ヤングキングコミックス)

 前作にあたる『B.M.N.』(のちに『B.M.N.ジャパン』)の、とくに終盤がそうであったのだが、SP☆なかてまの欠点は、あまりマンガがうまくないと判じられてしまうことなのだけれど、もちろん、それはちょっと乱暴すぎるよ、といわれればたしかにそのとおりであって、言い換えるとしたら、ストーリーからコマ割りまで、一般的にうまいと受け取られるのとは違ったコードが支配的なマンガのつくりをしており、これを独自性として評価するのに十分な成果を必ずしもあげられていない、のである。新作の『BALANCE〜BLOODY PARTY〜』にも同じことがいえる。さしあたり1巻の序盤、数ページを見られたい。とある高校によその不良少年が数名で乗り込んでくる。これはもう、インパクトだけで解説の必要がないほど燃える展開なのだったが、かっこうよさげなカットを並べただけの内容になってしまっているため、物語の導入だから、というのとはべつのレベルで、いったい何が起こっているのかをスムーズに受け取れないのが、ひじょうにもったいない。そしてその、いちカットいちカットをやたら前面化した手法のしわ寄せが、後々、過剰なモノローグを用いた状況説明に回されているのも、マンガというよりノベル・ゲームの着想に近しく、現行のフォーマットで発表されるかぎり、不利に働く面が多い。いや、お、と思わせるテンションはあるのだ。〈その名は この街で 忌み嫌われる…赤羽 大海 通称…レッドウィング〉と呼ばれる主人公が、過去の因果から賞金をかけられ、界隈の猛者に首を狙われる。こうした発端はスリリングであるし、彼をバネ君と慕う後輩の喜屋武雄も良い人物像をしている。ただ、全体をまとまりとするなかでそれらがさほどよく噛み合っていないのを、惜しむ。なかてまは、個人的に50年組と呼んでいる作家の一人に数えられる。1975年(昭和50年)前後の生まれである彼らは、ハロルド作石や高橋ヒロシに影響を受けた最初の世代といって構わないかもしれない(なかてまはハロルドのアシスタント出身でもある)。間違いなく、ヤンキー・マンガの系において重要な契機を担っているのだけれども、それがしかし、表現自体の更新に躓いていると感じられることが少なくはない。当然ながら、この『BALANCE〜BLOODY PARTY〜』を通じて、作者が大きくジャンプ・アップする可能性はあるだろう。できればあって欲しい。
 疾風・虹丸組 1巻 (ヤングキングコミックス)

 ときとして人は自分を中心にした世界を探せる。このような独我論において、他人は自分にとって都合のよい解釈でしかないのに、どうしてだろう、孤独からの安全圏だけが見つからないのは、おそらくそんな世界などどこにもないからであって、たいていは錯誤か徒労に終わる。

〈わかってんよ 潤……わかってるけど どーしてもオレはそんな風に考えちまう…エイト達がオレと一緒に居てくれんだって もしかしたら…………オマエがオレと友達で居てくれっから…だから オレとも居てくれんじゃないかってよ…〉

 すべての魂は寂しい。だからこそ魂には救いがあって欲しい。そのための祈りではなく、戦いを描くこと、これが桑原真也と佐木飛朗斗の決定的な違いだと思う。ついに桑原が単独で不良少年たちの闘争域に踏み込んだ。『疾風・虹丸組』の1巻である。

 その頃、虹川潤と羽黒翔丸の二人を中心に結成されたチームにまだ名前はなかった。ただ他の暴走族と同様、誰からも抑圧されたくない、そして伝説のチームである関東・無限郷が残した遺産を目指し、街の頂点へと駆け上がろうとするのだったが、翔丸は自身の不安と狂騒を抑えきれず、少年院に送り込まれてしまう。かくして、トップに立たざるをえなくなった潤は、二人の名をとってチームを虹丸組と名づけるのだった。

 物語の柱は、翔丸の不在を負った潤が〈オレ達の目的はナラシナ全制覇して自衛隊の敷地に埋まってる「遺産」を手にすることだ〉といっているとおり、ひじょうに簡潔で明解なものである。「無限郷の遺産(インフィニティ・ゴールド)」をめぐり、同じ地区に遍在するチームが互いに互いを敵視、血塗れの抗争劇を繰り広げていくのだ。

 いくつかのアイディアを、この手のジャンルの歴史から引っぱってきていることは、序盤で「無限郷の遺産」の存在を印象づけるにさいし、作中人物に〈なんか そんなマンガ見た事があるぞ〉というエクスキューズを言わせているように、自覚化されているのだけれども、重要視されるべきは、そうした枠組みのなかでいったい何が起こっているのか、だといえる。

 すくなくとも1巻の段階では、強さとは何か、ではなくて、弱さとは何か、を問おうとするかっこうへと作品の内容は傾いている。それをあきらかにしているのが、羽黒翔丸の人格に対して向けられる〈アイツはなんでも“貸し借り”で考えやがる…自分一人的(マト)になってオレ達への借りをチャラにしようってつもりかよ…〉こういう評価であるし、虹丸組を事を構えることになる双騎龍団(ツイン・ドラグーン)や紅蓮(アグニ)の内部事情を掘り下げていく手つきである。すなわち、主人公である潤の強さが虹丸組を格上げすればするほど、彼との対照に配置された人間の悲しさが目立たされている。

 そこにはもちろん、ヤンキー・マンガの文脈において、高橋ヒロシが『キューピー』で指した我妻涼の影を見ることができる。とくに潤と翔丸の関係がそうさせるのだったが、いったん狭い世界の外に出、そこから戻ってくる者と、狭い世界にとどまり、約束を果たそうとする者、双方の立場が役割上、逆転している点は注意されたい。いうまでもなく山本隆一郎の『サムライソルジャー』が抱いている構図とも反対になっている。いやまた、加瀬あつしの『カメレオン』におけるキュウと美島ジュンや、藤沢とおるの『湘南純愛組!』における神堂寺郁也や阿久津淳也などのパターンとも似て非なるところがある。後者に関しては、翔丸と少年院で知り合った紅蓮の頭、美剣號の分担がたしかに近しい。

 いずれにせよ、『疾風・虹丸組』では、潤のカリズマよりも、翔丸や、双騎龍団の総長である板東妻吉、紅蓮で副総長をつとめる柊高志、総長である美剣たちの、負のオーラが、作品の輪郭をことにはっきりとさせているのであって、それはたんにワキにいる人物のほうが魅力的に描けているというレベルとは異なる。

 あくまでも潤との対照になっていることがキーなのだ。柊の弱さを見、彼を庇おうとする美剣の〈オマエは 自分の為に嘘ついた事は一ぺんも無いもんな……… オレはもっと強くなる!! オマエにこれ以上 哀しい嘘をつかせない為にもなッ〉こうした男気は間違いなくそれ、つまり潤との決闘を通じて浮上している。

 弱さとは悲しみである。暴力とは恐怖である。『疾風・虹丸組』のエモーションが、この言い換えのレトリックに生じていることは、疑うべくもないだろう。だが、悲しみや恐怖で他人を制せられたとしても、本質的な孤独は消えない。決して私欲を生きようとしない潤が主人公とされ、いささか強すぎる理由は、たぶんそこに託されているのではないかと今は読める。

・その他桑原真也に関する文章
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2010年07月05日
 トクボウ朝倉草平 7 (ジャンプコミックスデラックス)

 たとえば、2ちゃんねるにおけるニュース速報版の住民が、必ずしも政治的にシリアスな重みを持っているとはかぎらないのと同様に、高橋秀武の『トクボウ 朝倉草平』に描かれている政治性も、ある程度斜に構えた態度で咀嚼しなければならないのだったが、しかしその、冗談半分本気半分をぶれず、おそらくは自覚的にキープしているあたりに、今日的な、質、が刻まれているのだと思う。いっけんむちゃくちゃでギャグにしかなりえないような筋書きが続いたあと、ほとんど唐突に、やたらエモーショナルな展開が訪れるのもこのマンガにとってまったく不思議なことではないだろう。いやいや、7巻の話になるのだけれど、警察庁生活安全局特殊防犯課指導係(略してトクボウ)の朝倉草平と巨大な権力を盾に政界へとアプローチするツルイ警備の対決が、海上でのクーデター騒動を経、いよいよ表面化しはじめたのと同じ頃、先の件でツルイ警備を追われたため、朝倉に強い恨みを抱く森田勝利は、誰からの恩恵を得られないまま、復讐の炎を燃やし、一人行動を起こそうとするのであったが、そこで、だ。ついに直接の死闘を繰り広げることとなった朝倉と森田の表情からは、これまでとは違い、ギャグへの傾き、テンションがまったく消えている。いったい何がそうさせているのか、しごく簡単に述べるとしたら、両者の葛藤があくまでも彼ら個人の問題によっているせいである。この国の社会に対しては、皮肉という回路を通じることでしか、有効なアプローチをとれなかったのに反し、内面をドラマ化するさいには、いささかストレートな段取りが踏まれているのであって、まあたしかに義憤が正当性を持つには回りくどい手続きを経なければならないのに比べ、私怨はつねに率直さを訴えかけようとするものなのだ。しかるに、そうした率直さをひた隠しにすることが朝倉の、複雑というよりは厄介な、パーソナリティの一端を担っていたことが、森田との対峙によって示唆されてもいる。そう、彼がことあるごとに呟く〈…ああ 死にたい〉の一言は、つまり〈忌々しい事に…実に忌々しい事に 僕は…もう…こういう半端なところでは死ねないんだった〉という、自分がまだ死ねない状況にあることへの疲れ、感想にほかならない。朝倉の大義は、政界を牛耳る父親の存在と決して無縁ではない。だがそれは表に出されない。かわりにほかのものを背負い込んでしまう。ひじょうにねじれた人格が、にもかかわらずまっすぐ歩こうとする足どりを『トクボウ 朝倉草平』の物語とすべき部分は追っている。 

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
2010年07月02日
 スプライト 3 (ビッグコミックス)

 この『スプライト』というマンガには、かつてオカルティックなロマンの『童乩(タンキー)』(原作・荒井涼助)や美少女がバトルする『格闘美神 武龍』を手がけたことのある石川優吾だからこその、ひじょうに不穏な空気とダイナミックなアクションとが溢れかえり、ミックスされている。ヒロインの女子高生、スー(時任好子)は、長らく引きこもりの叔父、正午を見舞いながら、平穏な生活を送っていた。だがある日、正午、そして友人のキリコやミキとともに、巨大な地震に飲み込まれてしまう。はたしてそれはほんとうに地震だったのだろうか。カタストロフィを生き延びた彼女たちは、現代社会の名残を持った異様な世界へと導かれていたのである。事の起こり、まったく先行きの見えなかった1巻を経、2巻では時間が津波状に襲ってくる現象と人間を急速に老化させる奇病の存在が示唆された。しかして3巻に入り、事態が少しずつ明らかになりはするものの、解決策はなく、サヴァイヴァルであるような状況だけが悪化していくこととなる。つまり、正体不明の脅威に曝されなければならないことが深刻であった段階から、その脅威に関する認識が高まってもなお、深刻さの変わらないことを主人公たちが背負わなければならない段階に物語は進んだわけだが、とにかく最初に述べたとおりの特徴、不穏な空気のひじょうに濃く漂うなかでダイナミックなアクションを要請されるほど危険の度重なる様子に、つよく引き込まれるものがある。おそらくは、死、だ。具体化して襲いかかってくる時間であれ、猛威をふるう野生動物であれ、もちろん悪意を抱いた人間であれ、すべて命の奪われる可能性を過分に孕む。それらと相対し、逃げおおせようとする作中人物の姿に、きわどいスリルが生じている。スーたちに安全の訪れる場所が残されているのかはまだぜんぜんわからない。だが絶望を押してまで死に逆らおうとする躍動は、ただはっきりと描写されている。
 医龍 23 朝田のQOL (ビッグコミックス)

 この国の日常を戦場と呼び換える力学に少々の抵抗を持たないわけではないが、しかしここにはまさしく戦場が描かれているように思う。乃木坂太郎の『医龍 Team Medical Dragon』は23巻で、前巻の強烈なヒキを受け、さらに目の離せなくなるような展開を繰り広げていく。いやこれまでにもひじょうにスペクタクルの豊富なマンガではあったが、かつてなかったほどの窮地を迎えたにもかかわらず、作中の人物たちが奮迅の活躍を見せていくところに、すさまじい迫力が託されているのである。バチスタチームの柱である朝田が、病院の屋上から落ちた少年を助けようとし、心臓に大きなダメージを負ってしまう。天才というに相応しい医師の、生死と将来とを一身に引き受けなければならない手術を、いったい誰が果たせるであろうか。まさか未だ研修医の伊集院がその大役を買って出た。周囲の困惑をよそに、新兵でしかない伊集院がエースの不在を埋めようとする一方、他の医師もまた、それぞれの戦場とでもすべき状況において、自分たちの覚悟と責任とを試されなければならなくなる。何はともあれ、すべての鍵を握らされたのは伊集院である。たしかに彼の覚醒は、いくつもの場面を通じ、すでに明示的なものであったけれども、朝田の偉大なる庇護がほとんど及ばないなかに立ち、あるいは朝田という稀有の命運を委ねられることで、誰もが驚くまでの変容を遂げるのだ。霧島や国立、鬼頭やクレメンスといったエキスパートが、各人の限界と向き合わざるをえないのをコントラストにして、若き伊集院の著しい成長が具体化される、そして朝田の手術の行方は。ああ、そこに生じるドラマ、ドラマ、ドラマたるや、物語上の空間はとても狭く、息が詰まるぐらいなのに、圧倒的なスペクタクルが眼前に開かれている。
2010年06月30日
 ジャンルと呼ぶほど大げさなものではないかもしれないが、マンガの世界には、酒造(酒蔵)もの、とでもすべき系譜はたしかにあって、この、くりた陸の『美姫の蔵』もそこに含まれるだろう。酒造といえば、たとえば尾瀬あきらの『夏子の酒』などが思い起こされるわけだけれど、『美姫の蔵』もまた、妙齢のヒロインが特殊な産業のなかで奮闘する姿を描く。江戸時代から続く造り酒屋に生まれ、育った阿部美姫は、幼い頃より家業に誇りを持ち、やがては酒造りの道へと進みたいと思ってはいたものの、父親がいまだに女人禁制のしきたりを貴んでいたため、双子の弟である蔵太郎に跡を譲り、東京に出、会社勤めをすることになる。しかし三十歳になったとき、とある大きな転機が訪れ、女杜氏を目指すことを決意するのだった。おそらく、伝統の厳しい世界において女性が自分の地位を獲得していく過程に酒造を題材化したことの意義は託されており、もちろんそれは、多種多様な制約によって構築された社会を前に女性が自立的に生きることの喩えになりうる。しかし『美姫の蔵』の感動はもう少しべつのところにある。じっさい作中の時間を担っているのは、酒造りの困難というより、そのもう少しべつの点にあたる。簡単に述べるとすれば、失われてしまったもの、失われるかもしれないものを、個人個人がいかに背負い、引き受けるか、のドラマが、主人公と酒蔵の歳月として、あらわされているのだ。数々の苦悩はやがて開かれた未来に繋がっていく、こうしたストーリーはおおよそレディメイドと判断される。はたしてそれは作者の持ち味にほかならないのだったが、レディメイドであるような物語を通じ、登場人物たちの躓き、再起を図る様子が、必ずや誰にも訪れる、というケースへと一般化されているので、折々の場面に、勇気づけられる印象を持つ。

・その他くりた陸に関する文章
 『銀座タンポポ保育園』について→こちら
 『給食の時間』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『オレの子ですか?』5巻について→こちら
2010年06月28日
 さて。芦原妃名子の『Piece』であるが、4巻に入り、急展開というか新展開が訪れる。これまで秘せられていた真実が、意外な人物の口から語られるのである。おそらくは物語の印象自体を左右しかねないため、詳しい言及は避けるけれども、もしかすれば浦沢直樹的な手法でアダルト・チルドレンが描かれているにすぎないのではないか、と思わせる。そのへんに多少の危惧を抱くし、いやたしかに序盤よりミステリやサスペンスのコードを引っぱってきているマンガである以上、唖然とするようなはったりが必要なのは間違いないのだったが、しかしそれによって作品の幅がずいぶんと狭くなってしまったようにも感じられるのであって、結局は、生まれと育ち(遺伝と環境)の問題に集約されるのかよ、と口を挟みたくなってしまう。もちろん、アダルト・チルドレンの傾向であったり生まれや育ちに端を発する困難は、同じく芦原の『砂時計』においても重要なテーマを果たしてはいた。これを踏まえるならば、作家性とでもすべき切実さを認められるものの、あれとはまたパターンが違い、きわめて人工的もしくは人為的な設定を出してきているため、問題提起の深さのみが筋書き化されている印象を受ける。とはいえ、この『Piece』があくまでも少女マンガのジャンルに置かれ、展開されている点は、考慮に入れておかなければならない。そしてたぶんそこに、希望が、救いが、幸運が、やがて刻み込まれることになるのだろう。どういうことか。少女マンガにとって、希望とは、救いとは、幸運とは、おおよその場合、ロマンティックなドラマを通じ、孤独な運命を変えていく、運命の変わっていく様子を指す。これはすでに水帆と成海の関係に発芽しつつある、あるいは水帆の一方的な感情のなかに備わりつつある。たとえば、4巻からもっとも明るく光っているセリフを拾おうとすれば、絶対に、疑いなく、次の、これだ。〈感じていることを“伝える”努力をしてみる 楽観的な夢を見よう 全力で創造しよう チープでも安っぽくても 子供っぽいねって笑われても 別にいい 「現実なんて こんなもんだよ」と 固く 自分を閉じてしまわないように “夢のような現実”を 強く 思い描く〉。それはまるで、孤独な運命は変えられる、と信じる、願いのように響く。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
2010年06月24日
 ちぇんじ123 12 (チャンピオンREDコミックス)

 平均未満な少年の価値が、破格な美少女との出会いや、複数の異性との関係を通じ、底上げされるという、男性向けのラヴ・コメディにあってオーソドックスなパターンに、多重人格、バトル、ヒーロー指向などの要素を盛りだくさんにしながら、荷崩れせず、バランスもよく、坂口いく(原作・絵コンテ)と岩澤紫麗(漫画)の『ちぇんじ123』は、物語の最後まで見事に完走した。最終の12巻である。この作品の、とくに男性性に託されたテーマは、オタク的な資質を持った小介川に、ヒロインであるひふみの父親であり、最強の格闘家である流河竜也が、こう告げるセリフに託されているふうに思う。〈俺なんかより ムコ殿の方が一番無敵に近い所にいると思うぜ〉、〈北海道で言ってたよな 生きていくのに人が人を殺す必要なんて無い 戦場や殺(や)らなきゃ殺(や)られる状況それ自体が正義じゃないって〉、〈戦うよりも友達になる お互い へつらう事の無い本物の友達を作り続ければ 敵なんていねえ 文字通りの無敵ってヤツだ〉、〈お前さんは その絶対不変の正義を貫けばいい〉と、そしてそれは、じっさい全体のストーリーにおいて、ほとんど取り柄のないように見える小介川がどうして多数の人間から愛されるのか、を裏付ける理由となっている。言い換えるのであれば、やさしい心根がそのまま当人を支える芯の強さになっていた、ということなのであってそれが、特異な症状のせいでつねに自分に不信を抱かざるをえなかった少女の、まさしく欠損を補う役割を果たしてもいたのだ。うららかなエンディングを含め、整合性は高く、坂口にとっては、裏方ではあったものの、ひさびさの会心作だろうし、岩澤にとっては出世作と呼ぶに相応しい。

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2010年06月22日
 00年代のヤンキー・マンガにおいて、ギャングのキングになるという夢想は、その切実さにもかかわらず、屈折し、やがて敗北する運命にあった。『キューピー』の我妻涼しかり、『莫逆家族』の五十嵐けんしかり、『GOLD』の御吉十雲しかり。『ギャングキング』のピンコはどうなるかまだわからないが、心はやはりよじれ、暗いものを背負わされている。それはまた、不良少年が不良少年のまま社会に出たとき、必然的に引き受けざるをえない試練だったろう。吉沢潤一の『足利アナーキー』が、はからずも2010年代をマークしつつあるこの作品が、決定的に異なっているのはそうした点である。

 たとえば、主人公のハルキが3巻のなかで〈オレはよォオー!! 日本一のギャングになるのが…夢なんだ〉と言うそれは、とても前向き、ポジティヴな触感を持っている。だからこそ、彼に恨みを抱き、相対していたはずのジェットは、呆気にとられ、以前までのわだかまりを捨てられた。しかし、ジェットが尋ねるとおり〈だいたい日本一って…オマエ…何をもって日本一なんだよ〉なのであろうか。じつは行方や根拠のほとんどはっきりしていないことが、『足利アナーキー』というマンガのストーリーと展開をエネルギッシュにしているのだけれども、その思い切りのよさはたしかに、先行する作品や作家には見られなかったものであって、おそらくは吉沢の世代や年齢(現在22歳でいいのかな)に還元可能な問題である一方、登場人物たちの置かれている状況によっている。

 ここでは後者に関して、いささか真面目な感想を述べたい。主人公であるハルキ(黒澤春樹)やカザマサ(真壁風雅)の立場は、いちおうは高校を無事に卒業する予定の学生である。すなわち、社会人や大人になる手前の段階にいる。これをモラトリアムと言い換えても差し支えないし、あるいは実直に、若さ、と見てもよい。『足利アナーキー』にとって重要なのは、その若さがまさしく肉体や精神のピークとして描かれていることなのだ。このとき、社会や道徳に付随する条件はいったん保留される。作中に、無難な高校生や堅気の人間があまり出て来ないのは、そういう条件の保留と物語の構造とがダイレクトな結びつきを得ているからにほかならない。カザマサはヤクザのスカウトを断るが、べつだん暴力の存在を否定するのではない。いやむしろ、暴力への積極性に、生の実感を見、求めようとしているのであって、生の実感が、いま、ここ、にしかないものである以上、組織的な犯罪や将来のプランは、さしあたり不要とされている。もちろんそれを一般化し、是か非かを問うことはできる。しかし『足利アナーキー』の魅力であると同時に強烈なグルーヴは、倫理上の危惧をあらかたすっ飛ばすかのようなフル・スロットル、無鉄砲なスタンスに由来しているのは間違いない。

 従来の目線でのぞむのであれば、まじにとるべきなのか、ギャグととるべきなのか、判然としないセンスに満ちているのも、そのためだ。モノローグを借り、盛り込まれた蘊蓄の類に、ロジカルな根拠がいったいどれぐらいあるだろう。あるにしてもないにしても、それはそれなのであって、ある種の雄弁さが空転せず、大げさな力説が白けそうになるところでぎりぎり、作品自体のテンションをアップさせている、このことを『足利アナーキー』の本質的な特徴とすべきである。登場人物たちのモチベーションは、冷静に判断してしまえば、たいへん馬鹿げている。だが、馬鹿馬鹿しさを真芯から引き受けて立っている様子がちょうど、いま、ここ、若さの証明になりえているので、ぎょっと目の離せなくなる。

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 番外編「乙女シンク」→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
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2010年06月20日
 マサムネ (ヤングキングコミックス)

 このマンガ、『マサムネ』における木村シュウジのタッチは、どこか『軍鶏』のたなか亜希夫を思わせる。おそらくはそこに注意すべきであろう。不良少年を題材にしたマンガの歴史はすでに古く、ここ最近目新しくなってきたのは、ケンカ自体を熱心に描くような作品が増えてきたことである。いや、その手のジャンルにケンカはつきものでしょう、という向きもあるかもしれない。が、じっさい多くの作品にあたってみればわかるとおり、他のジャンルに比して、必ずしもアクションのシーンは豊富ではなかったのだけれども、それが変わってきているような印象を受けるのだ。一つにはたぶん、表現の様式的な問題であって、ヤンキーやギャングによる闘争がストリート・ファイト型のアプローチと密になった結果、具体的な打撃戦でページの埋められる機会が高まったからなのではないか、と推測される。ともすれば、上條淳士の『赤×黒』や、たなか亜希夫(原作・橋本以蔵)の『軍鶏』、森恒二の『ホーリーランド』などに見られたアイディアの、格闘技抜き、よりヤンキイッシュな変奏といってよい。いずれにせよ、『マサムネ』という作品もまた、ケンカ、ケンカ、ケンカの迫力を前面に、不良少年たちのアティテュードを講じようとしているのだった。主人公の金田正宗は、かつて恩を受けた立花が教師として勤める天領高校に通うことを喜ぶのだのだが、しかし立花は、工業科を取り仕切る尾張勝信に重傷を負わされ、現在絶対安静の状態に陥っている。これを発端に、正宗と勝信とその周辺がばちばちのバトルを繰り広げていく。ストーリーはひじょうに簡素であって、大部分をはったりで通している。個々のカットに勢いの溢れているところが良い。骨太な絵柄もじつに生きている。残念なのは、ドラマのレベルにまったくひねりがないため、次第に単調さのつよまってしまう点である。また、〈暴力は俺にとって――――秩序だ 俺の秩序(ルール)に例外は無いんだ わかるだろ?〉という勝信と〈ド突きド突かれはお互いを認め合うためのもんや それが俺の喧嘩や 支配のための暴力は 俺は認めんわい〉という正宗の、ある意味テーマに類した対決からは、それが両者の立場を違えている以上の説得力を、最後まで得られずじまい。
2010年06月16日
 過去にも何度か書いてきたとおり、サブ・カルチャー表現のなかでもとくにヤンキー・マンガの系においては、フィクションは生き方を教えられるか、という問題がダイレクトに顕在する、あるいは、顕在しなければならないのではないか、と思う。多くの場合、不良少年のイメージに憧れて不良少年になることが真に幸福なのかどうか、を前提とした作品のほうにテーマの深さを見られるからであるし、それ以前に、不良少年の存在をどうにか肯定化するさいの条件が、ストーリーやドラマの質自体を左右しがちなためである。

 おそらくは現在もっともメジャーなヤンキー・マンガである『クローズ』や『WORST』の作者、高橋ヒロシの画業20周年を記念し、『月刊少年チャンピオン』にて発表されたトリビュート・コミックのシリーズが、このたび『かってに高橋ヒロシ』として一冊にまとまった。参加しているのは、浜岡賢次をべつにすれば、永田晃一、鈴木大、SP☆なかてま等、つまりは個人的にに50年組と呼んでいる(昭和50年、1975年前後の生まれの)作家たちである。『弱WORST』と題しながらも、いつもどおり『浦安鉄筋家族』をやっている浜岡はさすがであって、オタク的なアイディアを採用し、見事に『クローズ』を二次創作した鈴木の『クローズLADIES』については、過去に取り上げた。

 永田の『ウィローズ』は、マンガ家マンガふうの半フィクションになっており、作者とニアイコールな男性の、その高校時代が振り返られていて、なかてまの『セニドクロに憧れて』は、たまたま知り合った女性のために一念発起、ダイエットし、トラブルに巻き込まれる不良少年の姿を描いているのだったが、たとえ手法は違えど、どちらもヤンキー・マンガ(前者は『クローズ』で、後者は『WORST』)に影響された主人公を題材にしている点で、共通している。

 さて『ウィローズ』のラストは、〈オッサンになった今でもクローズの男達のようにカッコよく生きてみたいと思っている そして10年後の俺に聞いてみたい クローズにあこがれて胸躍らせたあの頃のように……今も熱く生きてるかい?〉というモノローグによって締められている。『セニドクロに憧れて』の終盤には、このようなモノローグがある。〈近年の日本の漫画は世界から注目を浴び その日本国内でもマンガ原作の映画・ドラマなどあらゆる場面で影響力を放つ漫画に“想い”を乗せ描く漫画家がいて その“想い”を受け取る読者さんがいる… “想い”はそれぞれの解釈を経て 人々の心の中で生きている…〉。いずれの場合にも、まさしく、フィクションは生き方を教えられるか、という問題がダイレクトに顕在しているだろう。

 たしかに『ウィローズ』も『セニドクロに憧れて』も、トリビュートという枠内で、各人の個性を残しつつ、クオリティのキープされた、なかなかの意欲作といえる。しかし残念ながら、多少皮肉的に述べるとすれば、それはたんに影響を受けた側の雄弁さにすぎないのかもしれない。じっさい、永田もなかてまも、オリジナルの作品では、影響を与える側が、いかにしてその自覚を表現化し、驚き、感動を果たせるかのレベルにまでは及んでいない、今のところ。

 鈴木大『クローズLADIES』について→こちらこちら
2010年06月15日
 ギャングキング 19巻 (ヤングキングコミックス)

 柳内大樹の『ギャングキング』は、作中の人物が持ち回りで自分探し(!)に取り組んでいくマンガであって、もちろんこれは多少の揶揄を込めていっているのだったが、いやたしかに思春期も終わりに近い高校生活においては、自らのアイデンティティを疑い、危ぶみ、思い悩むのはまったく珍しいことではないに違いない。しかしそれが、必ずしも学生ならではの風景としては再現されていないので、その、わざわざご苦労さん、であるような回り道が企図しているところに、いまいち説得されないのである。青春、限られた時間のなかで足掻くことの切実さを見るよりも、所詮、高等遊民的なライフスタイルを不良少年のイメージに移し換えたにすぎない、と受け取れてしまう。これは、作者があきらかに手本に置いているハロルド作石の『ゴリラーマン』における藤本軍団の、あのきわめてすぐれたリアリズムと比較してみれば、一目瞭然だろう。ことによると、『ゴリラーマン』の現実性はすでに旧く、時代をくだった『ギャングキング』の現実性こそが新しい、このような解釈を許すべきなのかもしれないけれど、結局のところそれが、作品の魅力を十分に満たすだけの条件となっていないことが問題なのだ。

 そうした次第で、ようやくお宅に順番が回ってきましたよ、と、ついにバンコまでもが自分探し(!)のモードに入ってしまうのが、この19巻である。ワークマンズ編で謎の覚醒を得、超常的なパワーを手に入れたジミーは、街を取り仕切るギャングのボス、ピンコとの再戦を望む。一方、ジミーの謎の覚醒と超常的なパワーを見、彼が自分たち学生とは決定的に違う人間だと思い知らされた親友のバンコは、複雑な心境を一人抱えることになってしまう。以上にはちょっとばかりの脚色が加わっているけれども、概ねはいじっておらず、正直、ストーリー自体はよくわからないものになっていて、何だろう、これ、といった感じがつよい。アネが失恋するくだりなど、短いエピソードのなかにこのマンガ家の良さは出ていると思うのだが、もっと大きな部分、つまりは本筋にさほどの興味がわかないので、弱る。

 自分探し(!)の安易な導入ばかりをいっているのではない。ジミーのライヴァルであると同時に一種のダーク・ヒーローとして設定されているピンコに、文字どおり『ギャングキング』のテーマを見ようとしたとき、そこからもあまり、はっとしたものが感じられない。いささかまじめに突っ込んでいく。大規模なギャング、ジャスティスを率い、トマス・モアを引きながらユートピアを述べるピンコの造形はさしあたり、99年から00年代にかけて高橋ヒロシが『キューピー』に描いた我妻涼や同時期に山本隆一郎が『GOLD』に描いた十雲に類しているといってよい(おお、見事に『ヤングキング』だ)し、山本が現在『サムライソルジャー』に描いている桐生達也も同様の、破滅と孤独の裏返しにユートピアを指向するタイプのアウトサイダーなのだったが、しかしそれらと並べてみたとすれば、ピンコの佇まいには著しく評価できるだけのカリズマが備わっていない点を残念に思う。それは当然、ピンコに負わされているテーマがぼんやりしていることを意味しているだろう。法規上の悪たりえることで、自己をあえて反社会的な立場に措定し、テロリズムもしくは革命を目論むというのは、00年代のヤンキー・マンガに顕著なヒールの像であった。ピンコもまたその系譜を受け継いでいるのは間違いない。だが、自分探し(!)のテーマが作品全体の精度を低めてしまっているのと等しく、掘り下げ、徹底さを欠いているため、借り子のアイディア以上に成果をあげていない。

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 4巻について→こちら
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・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
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  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年06月14日
 ステゴロ 1巻 (ヤングキングコミックス)

 この10年をざあっと見渡しただけでも、ストリートでのファイトをモチーフにしたマンガというのは、決して数が少ないわけではない。しかしながら、ぱっと思い出そうとするかぎり、つよく印象に残っているのはさほど多いわけではない。それこそヒットした作品を挙げようとすれば、わずか、といえるほどもない。これはどうしてだろう、と考えるまでもなく、よく描けているものがほとんどないためである。では、どういったマンガが魅力的に映じてくるのか、あくまでも私見にすぎないのだが、路上における格闘を手がかりに、作中の人物が、現実から滑り落ちようとしているのか、あるいは現実を駆け上ろうとしているのか、正確に掴まえられていなければならないと思う。落ちる(堕ちる)上る(昇る)とは、必ずしも即物的な条件を指すのではない。多少大げさに述べるとしたら、その個人の、魂の、自律性の問題によっている。フィジカルなアトラクションに重きを置いているはずのストーリーが、なぜか内面の肥えると痩せるに迫真していくことがあるのはそのせいなのだったが、さて、小幡文生(作画)と俵家宗弖一(原作)による『ステゴロ』もまた、ストリートのファイトがモチーフとなりそうな気配をうかがわせる。池袋でスナックを営む姉と二人で生きる16歳の少年、獅頭忍が高校を中退し、素手喧嘩(ステゴロ)に自分を託すのは、父親を自殺に追い込んだ覚醒剤を憎み、カラー・ギャングからドラッグと金を巻き上げるためだ。ところが調子に乗りすぎた。武闘派ヤクザさえおそれる謎の男、阿修羅にのされた忍は、多額の借金を背負わされ、血なまぐさい闇のなかへ引きずり込まれてしまうのだった。もはや〈殺られる前に…殺るしかねぇ…〉のであって〈場数を踏んで 阿修羅より強くなるしか道は無ぇんだ…!〉という逼迫が、要するに、主人公をより過激にしていくのである。格闘家は出てくるものの、1巻の時点で展開されているのはあくまでもケンカであって、バトルそのものよりも裏社会の風景のほうが前面にきているのが、とりあえずの特色といえるだろう。一方でやはり、作中の人物の、魂の、自律性が、物語の行方を左右することになるのでは、と予感させる。小幡のタッチは、どこかしら桑原真也を彷彿とさせるところがあり、ヴァイオレントな展開に十分な濃さを与えている。
2010年06月12日
 ナンバデッドエンド 8 (少年チャンピオン・コミックス)

 まったく、クズみたいな野郎はどこにでもいるんだな。千葉にもいたし横浜にもいた。もちろんそりゃ渋谷にだっていらあ。しかしどうして、ただ平凡な高校生活を送りたいだけの少年が、そんな連中を相手にしなければならないのか。彼に恨みを抱くその男はたしかにこう言ったのだった。〈オメーがどう思おうが アイツらから見たらオレもオメーも同じクズなんだ!! オメーにクズばっか寄ってくんのはな…オメーがクズだからだよ…〉。

 ああ、こんなにも残酷で悲しい解答に対し、いや違う、どのような運命にも必ずや自由があるはずだ、という反証を与え、ひたすらポジティヴな説得力を与えているのだから、しびれるよりほかない。小沢としおの『ナンバデッドエンド』の8巻は、このマンガが掛け値なしの傑作であることを、あらためて教えてくれる。じっさい、どこからどう褒めればよいのか悩むほど、とても深い懐のエピソードを収めているのであって、さしあたり概容から入っていきたい。

 家族に嘘がばれ、友人である伍代の家に身を寄せた主人公の剛は、自分で学費を稼ごうとし、夏休みのあいだ、渋谷のカラオケ・ボックスでアルバイトをはじめるのだったが、折しもそこの客に、兄である猛にかつてくだされたチンピラたちが訪れていたため、過去の因縁に否応なく巻き込まれなければならなくなる。元マッドマウスのグリとグラは、難破兄弟をはげしく恨み、報復すべく、悪質な手段を用いて、剛を脅し、猛を誘い出そうとするのである。しかし剛はといえば、家族はもとよりアルバイトの仲間にもこれ以上の迷惑をかけたくないので、何もかも全部一人で背負い込もうとするのだった。

 こうしたストーリーにおいて、暴力の輪を自分以外へと広げるわけにはいかず、一方的な被害に遭いながらもそれに耐えようとする剛の姿が、まず目を引く。〈いつから無抵抗主義になった? ガンジーにでもなったつもりか?〉と言う伍代に答えて、剛が〈オレが…アイツらブン殴っても同じことのくり返し…って思ってたら めんどくさくなって…気のすむまで殴らせようって……イカれたヤツらとは早く縁切りしたくてよ…〉と述べているのは、間違いなく、本心だろう。注意されたいのは、そのとき、彼の心が、どう動いているか。おそらくは、周囲の人間を考慮してのみではなく、自分自身もまた暴力の輪から早く抜け出したい、このように動いていることである。

 筋金入りのヤンキー一家である難破ファミリーの、剛に託した全国制覇という夢は、ある意味、暴力と不可分だといえる。他方、ごく一般的な学生時代を歩みたい剛にとって、ヤンキーをあがるというのは、必然的に暴力の否定形をとらざるをえない。だが、暴力を否定することが、たとえ可能であったとしても、家族を否定することは、彼らからの愛情をつよく感じられる以上、ひじょうに難しい。これが『ナンバMG5』も含め、『ナンバ』シリーズ、『ナンバデッドエンド』全体を貫くジレンマの一つであって、主人公がケンカに応じてはなぜ、自分の素性を隠し、母親特製の特攻服を着、別個の人物を演じなければならないのか、物語下の条件としてではなく、深層のレベルでそれを見るなら、葛藤によって二つに引き裂かれる主体を、文字どおり、意味している。

 しかして、今回のエピソードのなか、グリとグラの攻撃を前に、もはや剛が特攻服を着ないでいるのは、そうしたジレンマ自体の放棄に値しているのだと思われる。もちろん、たんに実家から持ってきてはいない、程度の問題にすぎないのだけれども、裏切りが明るみとなり、すでに家族とは別離的になってしまったので、葛藤を覚える必要がないことの表象になっていると解釈しても差し支えがあるまい。

 だからこそリンチにすぎないとしても、それが暴力の終わりであるのならば、もう片方の主体を前面にしたかたちで、つまりは降りかかる火の粉に対して無力な状態で、引き受けざるをえない。すくなくとも、あれだけ欲していたケンカに荷担しない権利が、不慮のこととはいえ、結果的に行使されているのだ。

 当然、これが暴力の終わりになりうる、という見込みの甘さはべつの話としてある。結局のところ、伍代の心配もそこだろう。それにしてもまあ、剛を気遣い、難破家の両親や猛に働きかけ、仲をとりもとうとする伍代の友情には、あやうく涙しそうになるよ。猛の恋人であるカズミの、ちょっとした出番、〈アタシ知ってるぞ アンタが剛のこと大好きだってこと 剛だって アンタやみんなのことが大好きなんだ だからつきたくもねぇウソついてたんじゃねーか〉というセリフもひじょうに良い。こんな友達や恋人が今すぐにでも欲しい。

 いやいやともかく、他人の伍代がなぜ、しかもあれだけクールであった彼がなぜ、よその家の事情に立ち入るほど親身であろうとするのか。いうまでもなく、剛との友情がそうさせるのだったが、過去のエピソードにあったとおり、難破家の幸福な様子を目にするうちに彼自身が家族のイメージを再獲得しているからでもあって、その価値をよく認識しているためだ。またこれは伍代と難破家の関係にのみ特殊な印象ではないことを、先ほど引いたカズミの言葉は裏付けている。

 要するに、外聞上はヤンキーの家系でしかない難破ファミリーの、その良心がどこに見られるべきかを、近辺に置かれた人々の反応は示しているのだといってよい。ここで振り返りたいのは、7巻のくだり、まだ幼く小学生だった剛に、母親のナオミが次のように諭している箇所である。〈剛 気持ちが大事だよ 友達(ツレ)のために中坊に向かってったオメーは偉いよ お前は強くなる なんたって父ちゃんと母ちゃんの子 猛の弟だからな〉というこの、とくに〈友達(ツレ)のため〉という言葉は、口にする者や響きを変え、8巻のなかでさまざまに繰り返されることとなる。

 たとえば、猛に面会した伍代が剛の現状を〈逃げたらバイトの友達(ツレ)ボコるって言われて アイツ 自分が殴られることで終わりにしようとしたんだ…〉と告げているのもそうだし、いよいよ剛と和解するにあたって猛が発するのもそうだといえよう。

 対決の最中、グラに〈オメーがどう思おうが アイツらから見たらオレもオメーも同じクズなんだ!! オメーにクズばっか寄ってくんのはな…オメーがクズだからだよ…〉と言われたのを受け、さらには助けようとしたアルバイトの仲間がケンカにこわがるのを見、剛は暗い顔をする。〈あ〜あ…なんでこうなっちまうかな…アイツの言ってた通り…やっぱオレ クズなんだ クズなんだ… ちゃんとしたヤツんとこには あんなの寄ってこねーよ… オレの… アイツらと同じニオイかぎつけてクズが寄ってくるんだ〉と思う。途方に暮れる。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか。違う、決してそんなことはない。〈オメーはクズなんかじゃねーぞ〉と救いを差し伸べるのが、猛の役割である。たいへん親密であった難破ファミリーの、家族のあいだで、兄弟のあいだで、いったい何がすれ違ってしまったのかを、彼の言葉と態度は総ざらいする。すなわち〈オラァな オメーもさ… オレらと同じだと勝手に決めつけてた…〉のであって〈強さで… 存在を証明するっつーか… 強けりゃ強いほど カッケーと思ってる人間〉だと思っていたのは〈だって オメーは男だし 難破勝とナオミのガキだし オレの弟だから〉なのだし〈実際オメーはハンパなく強ぇーしな だから オメーはオレと同じ側で…それは一生変わんねーんだって… オレ勝手に思っててよ…〉、〈でも…オメーは変わった… いや… 今 考えてみりゃオメーはもともと自分からケンカ売ってくヤツじゃねーし… ケンカも 友達(ツレ)助けよーとしただけだって 家出るとき言ってたっけ…〉と反省の色をうかがわせるのだった。

 猛のこのセリフと、7巻時点でナオミにあらわされた言葉、そして剛が一貫してとってきたスタンスに、大きなぶれはない。誤差があるとすれば、それはやはり、強さとして求められるものが全国制覇の野望によって具体化されることへのこだわり、なのだ。グリとグラを二対一で相手する剛を指し、〈どーせ勝てっこねぇ〉と〈あの2人をやった唯一の男が難破猛… つってもそりゃ3年前の話… 今の2人はそん時より数段上… 猛にだって勝てるぜ!〉とのたまうチンピラに、さりげなく伍代が〈弟の方が強ぇかもよ〉と反している点に注意されたい。

 剛は強い。そしてそれはつねに周囲の人間のために身を挺してきたからであることを、伍代はもちろん、『ナンバデッドエンド』の読み手は知っている。グリとグラとの因縁に描かれているように〈友達(ツレ)のため〉なら何でもするのは、猛も同様であるに違いない。しかるに、剛にとってそれはそれだけで完結しうる強さなのだったが、兄である猛の立場にしたら、あるいは勝とナオミの両親にしても、自分たちが為し遂げられなかった全国制覇の夢を託したくなるぐらい、魅力的な強さなのである。

 じっさい、剛が猛と等しく〈強さで… 存在を証明するっつーか… 強けりゃ強いほど カッケーと思ってる人間〉であるかぎり、家族の期待に応えようとする姿は真になるはずだった。が、すでにいったけれども、両者のあいだには温度のひらきがあり、したがってそれは真とはならない。なれない。むしろ、それが偽であることを隠蔽しようとして、嘘つき、家族を騙さなければならなかった。このことが、主人公の運命に軟禁を強いていたのは、周知のとおり。

 さてしかし、長い文章となってきたので、話をもとに戻しながら、多少の整理を加えておきたい。剛の境遇に対して〈オメーがどう思おうが アイツらから見たらオレもオメーも同じクズなんだ!! 〉と言ったのはグラであった。これに思い悩む剛に〈オメーはクズなんかじゃねーぞ〉と言ったのは猛であった。同時に猛は〈オレも…グリとグラ(あのふたり)と変わんねーよな…〉とも言っている。ここで、剛と猛とグラ(とグリ)の三者に、いちおうの区分を設けることは、必ずしも不可能ではない。たぶん、武力抗争によって自己実現を果たそうとする欲望において、猛とグラは共通している。一方、〈友達(ツレ)のため〉に体を張れるかどうかの基準において、両者を差別化できる。また〈友達(ツレ)のため〉に体を張れるかどうかを問うのであれば、猛と剛のあいだに違いはないものの、武力抗争によって自己実現を果たそうとする欲望において、両者は分けられている。

 問題は、武力抗争によって自己実現を果たそうとする欲望、言い換えるなら〈強さで… 存在を証明するっつーか… 強けりゃ強いほど カッケーと思ってる人間〉であろうとすることの極限とイコールであるような全国制覇のかわりに、剛がいったい何を望んでいるのかであって、それはつねづね作中で繰り返し述べられている以上、あらためるまでもないのだったが、たしかに猛は弟の口からこう聞いた。〈オレ ヤンキーのてっぺんとるより友達と一緒に白百合を卒業してぇ…!〉。

 あらかじめ伍代が〈アイツはヤンキー一家に生まれて いやおうなく暴力の世界で育ってきたけど 見つけたんだ 夢中になれるもの… 前向きになれるもんを… アンタ 兄貴のクセに何でそれを喜んでやれねぇんだ〉と訴えていたのを伏線に、ようやく剛の本心を受け入れ、やさしい言葉をかける猛の表情に、それまで物語を覆っていた緊張がゆるみはじめる。あまりにもナイスなクライマックスに思わず、ぐっとくる。

 難破家についていえば、あとは両親の許しを得るのみとなったわけだが、この8巻に見られる勝の、父親ならではの憂いが、ちくしょう、じつにせつねえな。

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 『ナンバMG5』
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2010年06月10日
 奥嶋ひろまさの『ランチキ』は、スマッシング・パンプキンズのTシャツを着たヤンキーとブラック・フラッグのTシャツを着たヤンキーがタイマンを果たす、というようなマンガである。めちゃくちゃな解説から入ってしまったが、まったくの嘘ではないよ。けれどもまあ、たしかに本題とはあまり関係ないのであって、作品の魅力をいうのであれば、不良少年の成り上がりを最優先のテーマとしている点にあるだろう。もちろん、ヤンキー・マンガにおいて成り上がりは必ずしも珍しいトピックではあるまい。しかし、現在この手のジャンルでは、あらかじめ才能の発揮された人物が、トーナメント形式で実施される抗争劇のなかで、シード枠的に優遇されているのが主流となっているのに対し、『ランチキ』の場合、それこそボトムに等しい位置の人物が一念発起、ちょうど自分で自分の可能性を試すかのように、向こう見ずなトライを、たとえ力及ばずとも挑んでいくところに、つまりは比較上の個性を述べられるのだし、じっさいもっとも大きなエモーションを掴まえているのである。

 ある意味では旧いパターンにあたるのかもしれないが、そこが良いよ、とも感じられるのは、少年の少年であるがゆえに未熟な思い込みを、立派なエレメントにし、物語のドライヴに白熱を加えているからなのだった。さて、作品は3巻に入り、本格的に高校生活編の幕を開く。親友であるキム(金田鉄雄)とチーム「シカバネ(鹿へんに金)」を組んだランチキ(鹿野乱吉)は、不良校として知られる降威高校に入学、ほとんど無名の状態から成り上がり、周囲に認められていこうとする。こうしたストーリーに関して、着目されたいのは、2巻時点のエピソードにより、降威高校のトップであり上級生の椿屋や亀山社中学出身ですでに一年最強とされている五島に高く買われたおかげで、周囲の評価が変化していることを、ランチキ自身は好ましく思っていない点にほかならない。同級生の視線を背に〈くそ…俺らを通して椿屋さんや五島を見てやがる…〉のを気に入らないのは〈俺は自分にしか出来へん青春を過ごすために降威高校に入学したんや(略)でもこのままじゃ椿屋さんと五島の名を借りただけで 中学3年間と全然変わらん高校生活になってしまうぞ〉と察せられるためで、他力には頼るのではなく、自力で実績を残すべく、「シカバネ」の二人は、ケンカの強さで知られる双子の種田兄弟との決闘を望む。要するに、はからずも手に入れたシード枠的なポジションを返上するところから高校生活の、新しい日常をスタートさせているのだ。

 これでランチキに見事な腕っぷしがあればカタルシスは単純化されたのだけれども、そうはなっていない。キムはともかく、ランチキときたら、相も変わらずぼろぼろ、決して強いとはいわれない。だが、それを『ランチキ』というマンガにとっての要所とすべきだろう。つまり、主人公の惨めでもあるような姿と悪戦苦闘とが、弱い自分を塗り替える、上書きしようとすることのパフォーマンスになっているのであって、〈部活にも勉強にもピントが合わんかった俺には もうケンカしかないっス 自分の中の劣等感や焦燥感 憧れや嫉妬を掻き消すためには闘うしかねぇ 今の俺には何もないけど どつき合いの中でだけ 何か得れそうな気がするんスよ〉という、子供じみてはいるものの、いやだからこそ初期衝動と覚しきモチベーションに随時具体性をもたらしている。

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2010年06月07日
 岡田ユキオの『MOTEL』が映画化される、と聞いたとき、まじかよ、と思ったのは、さほどメジャーな作品じゃなかろう、という気がしたからだし、その、独特なポップさ加減が、やはり一昔前のものに感じられたので、現代の風潮からするになかなか厳しいのではないか、と踏んだためであった。しかしまあ、じっさいの映画版はまだ観ていない。さてこの『MOTEL THE LAST WEEK』は、題名から察せられるとおり『MOTEL』の続編というか前日譚的な内容を持っている。すなわち、前作で幼馴染みの因縁を果たした朝倉と相田の二人が、それぞれ物語の舞台となった「シーサイドモーテル」に行き着くまでの過程をメインに描いており、『MOTEL』でとられたグランド・ホテル方式のアプローチは、複数のエピソードを通じ、同じ時間軸が繰り返し展開される、このような特殊な構成において、再利用されている。ああ、あそこの場面とここの場面がこうして繋がるのか、というアイディアの成り立ちが、興味深さを催させるのである。ストーリーの面でいえば、破滅型の人物たちがはからずもバッド・ラックと戯れてしまう姿に、最大のフックがあるだろう。収まるべきところに収まろうとする筋書きは、あんがい一本道であるため、起伏に乏しくあるものの、朝倉と相田の出会いにはじまり、両者の再会を予感させながら幕引きしていく、つまりは『MOTEL』へと接続されるラスト・シーンの印象は、じつに決まっている。

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2010年06月06日
 なにわ友あれ(12) (ヤングマガジンコミックス)

 旧来より不良少年を題材にしたマンガは、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションに近しくあろうとする側面をたしかに持ってはいるのだったが、80年代頃から全国制覇の野望はむしろ作品の説得力を削ぐものとなってしまい、90年代頃には地区予選程度に収まった規模のなかに青春の群像とイコールであるかのようなモラトリアムを描く手法が主流化した。しかして現在もこの傾向を逸していないといえる。

 ここで問題となってくるのは、じっさい、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションとして現代における不良少年のフィクションを見たとき、たいていはさほどおもしろくないと感じられてしまうことだろう。モラトリアムのテーマは、さしあたり置いておく。

 すくなくとも、奇襲や武器の使用がジャンル上の倫理(正々堂々のタイマンがいちばん偉いの理屈)によって規制されているせいで、高い戦略性は求められなくなり、登場人物のパラメーターも結局はケンカのつよさのみに振られているのだったが、その要素を男性的なスケールの大きさに変換し、演出していくさい、ポエムの抽象性にコマを割き、本質を目くらますことばかりに聡くなってしまったのである。当然、それを技術の洗練と見なしても構わないのだけれど、個人的には、ちょっと説得されにくいせこさに目がいってしまうので、弱る。

 さてしかし、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションとして不良少年が生きられるマンガをのぞむとすれば、今日もっともすぐれいているのは、間違いなく、南勝久の『なにわ友あれ』ではないか。とにかく、11巻からこの12巻(そして次巻)へと続く展開には、繰り返し読み、確認したくなるほどの駆け引き、えげつなさも上等の戦略性が組み込まれているのであった。

 かねてよりグッさんは、自分たちスパーキーレーシングの戦術を「桶狭間の戦い」に喩えているけれども、それはつまり、奇襲や武器の使用をまったく厭わない態度を指しているといってよい。もしかしたら、いくつかの表現を過渡に暴力的と非難すべきなのかもしれないが、そもそも軍記物や国盗り合戦に死屍累々は付きものなのであって、むしろポリティカリー・コレクトな誤魔化しを除けていった結果、そのようになっているのだと思われたい。

 不良少年たちを、戦国武将の立場に置き換え、考えてみても、その扱いはなかなかに見事である。友情や連帯、利害の一致、上下の関係、これらをごっちゃにせず、線引き、ディレクションが巧みに機能しているので、登場人物の行動理念に納得のいくものが備わっている。

 だいたい、今やスパーキーレーシングでマーボとともに特攻隊長をつとめるハマダにしても、参謀役を任されているサトシにしても、前シリーズにあたる『ナニワトモアレ』では敵役に回ることもあったが、そこから別段ポリシーを違えたわけではなく、グっさんにスカウトされたことの意味合いを正確に把握しているため、言い換えるならば、自分の能力を生かす場を与えられたことに対して忠実なので、チームの前進に尽力するのだし、これはカワチンなどの『なにわ友あれ』で新規に登場し、オーディションされた人物たちにもいえる。

 プレストやハッシュレーシングとの三つ巴において、個々のリーダーが持っているカリズマ、アウェイやホームであることの地理的条件、そして機動力(自動車)が、重要な条件を果たしているのも、さりげなく、うまい。攻防の、勝敗の、現実的な理由付けとなっているのだ。

 以上は、あらかじめ述べたとおり、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションであることに関しての評価であって、個々人のビルドゥングス・ロマン、モラトリアムのテーマを踏まえるとすれば、べつの視点が得られる、このようなつくりもまた『なにわ友あれ』の魅力を補っている。

 それについては、やはり、主役級の位置に置かれたテツヤの成長、さらには彼の友人であるパンダのパーソナリティにかかっている。いうまでもなく、『なにわ友あれ』のリアリティは、90年代の過去を選び、実在の都市を舞台としていることも含め、本質的にはクルマとオンナの存在によって生じている。男性的な欲望を男性が持ちえている点に描写されているのである。そしてそのパターンにもっとも正直なイメージとしてあらわれているのが、テツヤとパンダになるだろう。『ナニワトモアレ』では、グっさんが負っていたポジションでもある。

 とくに、ここにきて、今までのストーリーを通じ、まさしくコメディ・リリーフをやらされてきた感のあるパンダの、意外な活躍ぶりには、彼の見方を変えるものがある。いやいや、駄目人間なのは相変わらずなのだったが、それが時と場合に応じて、じつに、やる。惨めさと切なさとシンナーだけの野郎ではなかったのかよ。たんに巻き込まれたのであれ、株を上げるとは、なるほど、こういうことだ、を地で行っている。

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2010年06月04日
 1年5組いきものがかり(1) (講談社コミックスなかよし)

 いわゆる学園ものは、家庭とはべつの単位で構成される共同体のテーマを自然と持ちえてしまうのであり、それを濃くしていくか、薄くしていくか、薄くしたかわりに何を前に出していくかによって、作品の内容は左右される、というのは、もちろん私見にすぎないのだけれど、ジャンル的な様式の強度を考えるとき、こうした仮定は必ずしも無意味ではないように思う。たとえば、フクシマハルカの『1年5組いきものがかり』の1巻を読むかぎり、このマンガは学園ものの様式をまったく信じ切ったところに描かれていて、おそらく作者本人はそのことに無自覚であるため、かえって共同体のテーマが、ひじょうに杜撰なかたちをとり、浮き彫りになっていると感じられる。あらましはといえば、とてもシンプルだ。15歳のヒロインが、吸血鬼に好かれ、狼男に好かれ、透明人間に好かれ、つまりはそのような、逆ハーレムとでもすべきサークルを「いきものがかり」と名付け、学校内に置き、恋愛というよりも性交をイメージさせるようなコメディを編んでいる。主人公を求める男性たちが人間ではない、というトピックは、たしかにストーリーを賑やかしながら転がすのに必要不可欠なアイディアだろう。しかしそれはワン・プッシュ程度の動力でしかない。じっさい、彼らが魔物や怪物であることの特殊性は、物語のレベルに深く根差しているのではなくて、展開を用意するのに都合された材料にほかならない。そこで注意されたいのは、登場人物として次第に増えていく魔物や怪物たちがみな、ヒロインを中心に「いきものがかり」という共同体に組み込まれていくこと、だがそれはたいへん安易に学園ものの様式をなぞらえている結果にすぎない、にもかかわらず作品の魅力を完全に担ってしまっていることなのである。ふつう一つのクラスを指して「1年5組」などというのに、このマンガでは、どうしてそれが題名に付せられているのか、ほとんど意味不明瞭になっているのであって、表層のイメージこそが『1年5組いきものがかり』の本質とイコールであるのは、そのあたりからもうかがえる。
2010年05月29日
 覇―LORD― 19 雑草 (ビッグコミックス)

 つねづね述べてきたとおり、武論尊(作)と池上遼一(画)のコンビ版「三国志演義」にあたる『覇 -LORD-』では、古代日本から渡ってきた二人の倭人、劉備(燎宇)と常元とが、英雄(聖)と下衆(邪)の対比において、両の極を為しているように見立てられるのだけれども、ここ最近、劉備にとってほんらいのライヴァルである曹操よりも常元のほうが存在感を大きくしているのは、一時的にであれ、私的なロマンをどう描くかに物語の方向性がシフトしているためだろう。たとえばこの19巻などは、大局を見据え、国単位の改革を野望する劉備や曹操よりもむしろ、私情や私怨をモチベーションに、死屍累々を駆け抜ける常元や紅蓮、呂布の姿に、スポットがあてられている。常元の暗躍を指して、〈…“国”や“種”ではない………どの“地”にも“雑草”は生える……手を怠れば 雑草は作物を駆逐する……雑草(やつら)には“自制”も“律”も無い!………葉茎を刎ねられても“根”を伸ばす!〉という劉備の言葉には、それが秩序の壊れた乱世で発せられているかぎり、たしかにある種の道理を見出せるのだったが、しかし一般化してみたとき、やや厳しく、冷たいものを感じる。この厳しさや冷たさによって屈折した立場を負わされているのが、もしかしたら常元や紅蓮なのではないか、と思える。それはつまり、同情の余地だといってよい。たしかに常元も紅蓮も、倫理の観点からすれば、許されない点が多い。とくに常元のクソ野郎っぷりときたら。しかし理由や原因がまったくないわけではないことの奥に、作品世界の背景があらわれている。反面、かつては〈己の“欲”のままに戦い、飲み食らい犯し――力尽きれば、その場で野垂れ死にすればよいと思っていた……〉はずの呂布にもたらされた〈だが、戻る場所を………この呂布(オレ)が、帰る場所を望んでいる……〉という迷いが教えているのは、すべてがあまりにも私的であるがゆえの孤独だといえる。寄る辺を持たない人間は、たとえそのことに耐えられるだけの強さに抱かれていたとしても、ひっきょう孤独である点に変わりはない。どのような超人であれ、そうした孤独からは決して逃れられないので、彼は父として他人と繋がりうる可能性を、じつの息子である関平との関係のなかに見出すのである。ところで、いくつかの言動は、呂布と常元がいわば、あの偉大なる悪漢、董卓の(孤独に生き、孤独に死んだ姿の)ヴァリエーションにほかならないことを、示唆している。じじつ、彼らは生前の董卓に庇護されていたのだから不自然さはあるまい。

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2010年05月28日
 おバカちゃん、恋語りき 5 (マーガレットコミックス)

 馬鹿。ばか。バカ。ラヴ・ストーリーの類がときおり滑稽に見えてしまうのは、恋のせいで人はバカになってしまうことがあるんだぞ、という事象の直接的な表現たりえるからであって、では最初からのバカが恋をしたらどれぐらいのタガがはずれるのか、ああ、まったく手に負えねえや。佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』も5巻目に入ったが、相変わらずのバカさ加減に惚れ惚れすらあ。その、とてもコミカルでキュートなさまが大好きであるよ。

 園田音色と栄山トキオの関係は、まあ順調であった。いよいよキスをするような段階にまでいった二人だったが、しかし少女マンガの常として、彼氏の側にすれば昔の女が登場してき、また一波乱巻き起こる。というのが、ここでのくだりになるのだけれど、いやいやもちろん、それによって作品の軸がぶれたりすることはないから、安心してよい。

 水島華弥、かねてよりトキオや相澤深の過去に関わる人物とアナウンスされていた彼女の登場は、結局のところ、もう一人バカが増えやがった、と思わせる。今どき華族の令嬢という大げさな設定は、このマンガにとってさしたるサプライズにはなるまい。要は、浮き世離れした生活環境で育ったため、やはり、頭のネジが一つ二つゆるんでいる、屈託のないエキセントリックさんであることが、音色のラヴ・ストーリーにおいて、最大の障壁となってくるのである。

 権力をフル活用し、無理やりトキオと結ばれようとする華弥を、はたして音色は阻止することができるのか。まさか協力を申し出た深とともに水島家の大邸宅に乗り込み、警備と戦い、カバと戦い、凄腕の執事と戦い、トキオの救出を目指す。話の筋はめちゃくちゃであるし、少年マンガのごとき展開も見せるが、そのハイなテンションですべてをオーライにしてしまうところが、何より『おバカちゃん、恋語りき』の魅力だろうね。音色たちの危機に、おお、ここでおまえらが助けにくるのかよ、という今巻の引きには、ごめん、ちょっと燃えた。

 一方で、華弥やトキオとの因縁を通じ、深のデリケートな心理を手探り、描写しているあたりに、このマンガの、じつに少女マンガらしい一面が垣間見られる。32話目を丸々使って展開される深の中学生時代は、過去回想の導入は内面の代弁になりがち、というフィクションの利点と弱点において、利点だけがちょうどよく生きるように、前後の繋がりも含め、工夫されている。もはや噛ませ犬に近しい状態の深が、現代的なロマンスならではのエモーションを負うことで、物語上、必要不可欠なパートを為しているのである。

 だからこそ、音色とトキオのあいだに割って入れないかもしれない可能性を前に、他人からはもう〈気づいてるでしょ? あの二人に特別な空気ができはじめてること 障害があればあるほど恋は盛り上がる〉ので〈一人であがいてバカみた〜〜い〉と言われてしまいながらも、自分の気持ちを諦めない深の〈あがくよ 本気だから〉という言葉には、ぐっとくるものがある。

 振り返るのであれば、当初の深は、何事にも動じず、合理的であるほどにクールなタイプであった。それが恋をすることで、すっかりと打算を忘れてしまう。つまりは、バカになっている。その、音色とはべつの意味で、バカに準じていることが、彼に主役級の存在感を与えているのだと思う。

 ほんらいは非情なはずの深にしてみたら、音色からトキオが引き離されるのは、願ったり叶ったりだったろう。しかし損得をかえりみず、音色のために〈君のために トキオを取り返してあげる〉と決する姿からは、『おバカちゃん、恋語りき』の全体像にかかっているテーマのようなものがうかがえる。誰かのため。作中人物のおおよそを統べている行動理念は、それにほかならない。あの美羅川生徒会長にしたって、そうだよ。たまたま、傍迷惑にしかならないことが、ギャグをもたらしているのである。いいや、たまたま、じゃねえな。

 いずれにせよ、現在のエピソードで、華弥がある種の悪役となっているのは、上述したテーマとは反対の立場、すなわち、あくまでも自分のためにトキオの自由を奪っているからであるのは、あきらかだ。

 こうして作品の構造はつくられているのだったが、トキオを救うべく、下着姿をさらすのも辞さない音色の、想いのつよさを〈……はずかしいにきまってんじゃん…でも今は…ぱんつよりトキオでしょーが!!〉といい〈あたしの大切 うばいかえす〉と示していく言葉には、誰かのためが自分のためとイコールであって欲しい、自分のためが誰かのためとイコールであって欲しい、相思相愛の本質めいたところが託されているので、たんなるエゴにとどまらない印象を持つ。

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2010年05月27日
 コイバナ!恋せよ花火 8 (マーガレットコミックス)

 いやはや、校長先生の扱いがすげえな。とにかくもう、ななじ眺『コイバナ! 恋せよ乙女』の8巻に関しては、それに尽きる。というのは、まあ冗談半分本気半分であるが、はからずも会食状態になった校長先生と宇野誓のツー・ショットは、両者のコミュニケーションも含め、なんかこう、めちゃくちゃであって、なんだこれ、と思わず口に出してしまうぐらいの迷シーンであろう。

 しかしながら、もちろん本題はヒロインである花火と宇野誓(花火がそう呼んでいるせいか、どうしてもフル・ネームで書きたくなる)の、やきもきとしてくるラヴ・ロマンスなのだったが、以前にもいったとおり、このマンガは、ワキを固める人物たちの群像がまた程よくて、マサトとしのっちょカップルの危機や、佐々に対する厚美の片想いなど、関係と経験とを蓄える場としての高校生活にも、少しずつ変化が見られていく。ああ、みんな幸せになれるのかい。

 懸命な厚美の努力を目にし、宇野誓が〈ふーん どっこもフクザツだーね〉と呟くのを受けた花火の〈そりゃカンタンがいいに決まってるし カンタンを望む人のが絶対多い気がするのに カンタンじゃないことのが多いね〉という言葉がひじょうに印象的なのは、それが作品全体のテーマをまるで代弁しているかのように感じられるからだと思う。〈でも だからこそがんばろうと思うし がんばってって思うし〉その対象は違えど、誰もが他の誰かに惹かれ、好かれたいと願い、働きかけ、傷つき、にもかかわらず、自分の気持ちを諦められない。だがそして報われる想いもあった。

 紆余曲折を経、ようやく花火は宇野誓と相思相愛に近しいところにまで行けた。これは正しく本筋における大きな前進であり展開にほかならない。けれども、そこで最初期の障害が改めて確認されることとなる。つまりは、若い男性を苦手とする花火の性質が、当人の思慕とは裏腹に、宇野誓からのアプローチを拒絶してしまうのである。

 以前のストーリーにあっては、宇野誓のバリアをどう花火が解いていくかが、要約のうえでの重要なトピックであったといえる。今後のストーリーでは、もしかするとそうした立場が逆転することになるのかもしれない。どちらか片方がもう片方に歩み寄るばかりではなく、双方が歩み寄ることで一つの解決が得られるのであれば、当然、それがいいに決まっている。

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 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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・その他ななじ眺に関する文章
 『パフェちっく!』
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  19巻について→こちら
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 私日和 2 (マーガレットコミックス)

 ときどき、運命というものを思う。時間の進みは常に不可逆であり、現在を過去として積み重ねていった先の、未来を現在として上書きしていった結果が、いく通りも用意されていたうちの一つなのか、あるいはそれしか用意されていなかったのか、ほんとうの答えは誰も知れない。知れないことが、幸福なのか、不幸なのかすら、わかれない。場合によっては、運命のやさしさと残酷さもそこに生じる。ああ〈すべてはなるようになるし なるようにしかならないし 希望? 絶望? 願い 祈り〉。

 だめだ。泣きそうになるので弱るよ。羽柴麻央の『私日和』は、読み切り形式のシリーズ・マンガであるが、2巻に収められた「ありあけの月とダンス」そして「ブルーブルーバード」の二篇を前に、じっと目頭が熱くなる。

 あらかじめいっておくと、「ありあけの月とダンス」と「ブルーブルーバード」は、それぞれ主人公の違う独立したストーリーとなっているものの、設定上、前者は後者の未来を描き、後者は前者の過去を描く、深い繋がりを持っている。当然、表紙から順番にページをめくっていく読み手は、「ありあけの月とダンス」に目を通したのち、「ブルーブルーバード」を開くこととなるのだけれども、「ブルーブルーバード」の成り行きによって、まず間違いなく、もう一度「ありあけの月とダンス」の内容に触れたくなるだろう。「ブルーブルーバード」という題は、おそらく『青い鳥』の童話にちなんでいるが、はたして一人の少女が青い鳥を得られたかどうか、「ありあけの月とダンス」のなかに確認したくなるだろう。かつての少女が〈…うん そうね 先のことなんてわからないよね すべてはなるようになるし なるようにしかならないし〉と言うのを聞くだろう。時間に与えられた静かな喜びと悲しみを見つけるだろう。それを受け入れるかのような作中人物たちの表情に、もしかすれば、運命というものを思うだろう。

 作者のセンシティヴな筆致が、感覚のみに頼ってはいないことを、小道具の描写は教えてくれる。細部に向けられた注意が、作品の感動を、やわらかなイメージのまま、具体的にし、つよめているのである。

・その他羽柴麻央に関する文章
 『イロドリミドリ』について→こちら
2010年05月26日
 ベリー ダイナマイト 3 (マーガレットコミックス)

 これは中原アヤのキャリアのなかでもかなり残念な部類に入るマンガなのではないかと思う。麻衣とくるみの二人は、STAR BERRYというティーンのアイドル・ユニットを組んでいるが、まだ売れていない。しかし業界の力関係に負けず、がんばり、それぞれの個性を発揮しながら、じょじょにファンを獲得していくのだった。このようなストーリーをまったくのクリシェ、おそらくはあえてだろう、安手のファンタジーとして描いていたのが『ベリーダイナマイト』なのだけれども、全3巻で完結した内容のなかに、冴えたところはほとんど見受けられなかった、といってよい。基本的には、一つのエピソードに対してハートフルなオチの用意されたコメディになっている。それはもちろん作者の持ち味にそったものではあったろう。だが、つくられたエピソードそのものに、あ、っと引き寄せられるほどの魅力が、まったくなかったのである。まず何を目指した作品だったのか、ヒロインたちの友情だったのか、芸能界での困難にアレゴリー化されたガッツだったのか、アイドルという職業の持っている有意だったのか、たんに今ふうのアイドル・ブームに刺激を受けただけなのか、そしてそれに便乗したかっただけなのか、すべてというにはあまりにも散らかりすぎ、よくわからなかった。言い換えるなら、焦点の定まっていない印象がつよかった。結果、この最終3巻ではとても精度の低いラヴ・ロマンスが繰り広げられることになってしまう。いや、アイドルとファンとの関係性が恋愛に喩えられているのだと解釈できるかもしれないが、そこでのコミュニケーションには、わざわざ、安直なドラマしか与えられていないため、ひじょうに説得力を欠く。

・その他中原アヤに関する文章
 『ナナコロビン』
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 『ときめき学園・王子組』について→こちら
 『ラブ★コン』
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2010年05月22日
 なるたけフェアになるよう、まず最初にいっておきたいのは、正直な話、『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』の前4巻までをさほどおもしろいとは思わずに読んでいた。だがしかし、この5巻は、いいぞ。ぐっとくる場面が目白押しである。何よりも輪蛇(LINDA)がいい。そしてCOBRA(虎武羅)もいい。

 初代輪蛇の赤蛇はこう言った。〈木原よ…………今後自分に迷った時は仲間を見ろ 人は仲間によって自分の姿を知らされるんだ 仲間がクズならおまえもクズだ(略)卑怯な野郎は卑怯な夢しか見ねえ 卑怯者の国の王様の墓は卑怯者によって暴かれて盗まれ……消えるんだぞ〉と。それを聞く二代目輪蛇の木原は次のように応えたろう。〈赤蛇……不思議だぜ あんたのいう事はどうにもしみったれてるがよ なんだかよ 白髪になってもずっと覚えてる気がするよ〉。

 以上は、たんなるセリフの響きにとどまらない。重要なのは、このポエジーとでもいうべき言葉のあり方が、マンガのなかで、たしかにストーリーと結びつき、登場人物たちのさ迷い、傷を押し、信念を得ていく姿の正しく代弁になっている点なのだ。

 おそらく吉田聡という作家の良さは、「個」よりもむしろ「群」を描く手つきにある。だいたい『湘南爆走族』の長所もそこにあったのだし、無印の『荒くれKNIGHT』や『荒くれKNIGHT 高校爆走編』にしたところでそれは同様であった。たぶん『荒くれKNIGHT』の前シリーズまでで、もっとも「個」や「我」を体現していたのは、あのすばらしきクズ人間のヒデオ、野口英男なのだが、彼が本来ならまったく評価のできない性格をしているにもかかわらず最高潮に魅力的でありえたのは、やはり善波七五十を頂点とする「群」との関わりにおいて、その存在感がアピールされていたからにほかならない。

 多くの後続に影響を与えながらも、吉田がかつてほどには巨大な作家に見られなくなってしまったのは、もしかすれば時代的な背景として「群」ではなく「個」が表現のベースとなっているような作品の売れる傾向がつよまったせいなのかもしれない。もちろん、それに合わせたマンガを吉田も発表してこなかったわけではないのだけれど、持ち味の十分に生かされる機会は減っていった。

 いずれにせよ、「群」であり、あくまでも「群」を中心に「個」を配置していくさい、作者の本領に十分な発揮の見られることを、『黒い残響完結編』の5巻を通じ、確認されたい。いうまでもなく、「群」とはチームの枠組みを含意する。

 物語は、がらがら蛇残党との対決を経、いよいよ一つにまとまった初代虎武羅の様子を追いはじめるのだが、その困難は、すでにチームとして確立されている二代目輪蛇との対照において、明確化される。赤蛇の言葉を受け、輪蛇を率いた木原が決意をあらたにする一方、木原の誘いを蹴り、COBRAを始動させた大鳥ではあるけれど、彼のカリズマのもと有能なメンバーが集まりだしてもまだ、チームは「群」としての機能を十分に果たしていない。輪蛇とタメを張れるほどの器にはなっていない。そこをもう一つのチーム、百目小僧が狙ってくるのである。

 赤蛇の意志を木原が継いだように、大鳥はネギ先輩(根岸)の意志を継いだ。しかしそれが、輪蛇とは違い、COBRAそのものとなるにはもっと多くの時間が必要とされる。がらがら蛇残党の美濃原は、大鳥を認めて言う。はたしてCOBRAは〈輪蛇のようになれるか……?〉。

 もちろん、熱心なファンは周知のとおり、COBRAと輪蛇のライヴァル関係がある種の均衡をつくり出すのは、もうしばらく先のことだ(『黒い残響完結編』は本編よりも遡った時代を舞台にしている)。そう、先に引いたセリフのあと、美濃原は〈リーダーの下 まるで一匹の蛇のように…COBRAが 常に新しい風を探して動けるようになるまで もう一世代はかかる――〉と続けているのだったが、これはシリーズの全体像を考えるうえで、予言の効果に近しい。

 さしあたりまとめるのであれば、『黒い残響完結編』の1巻から4巻までは、大鳥という「個」とさまざまな「個」の出会いが、やがてCOBRAという「群」の誕生へと連なっていく時間を描いていた。しかして5巻に入ってより、COBRAという「群」の積み重ねていく時間の内側に、大鳥という「個」やさまざまな「個」の抱えた苦悩を描いているのであって、その、構造的な違いが必然、作品自体の見え方をも変化させているのだし、作者の資質がどちらに向いているのかは、あらかじめ述べておいた。

 それにしても、背水の陣あるいは満身創痍とでも呼べる状態で、輪蛇や百目小僧ら強豪と渡り合おうとする初代COBRAの、無謀といおうか勇敢といおうか、ひたすら自分たちのガッツだけを頼みとした姿、奮闘には、ぐっとくるものがあるだろう。

 損得の勘定でいば、絶対に得はしない。にもかかわらず、退くことはできない。すべてを賭しても守りたいものがあるのだった。それはつまり、ポリシーと称して差し支えがないもの、メンバーにとっては大鳥の、大鳥にとってはネギ先輩の、〈他人が勝手につけた“値段”じゃなくてよ……自分らの“価値”を探してみろよ トサカをあげて歩けよ〉という言葉の。

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 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

 『荒くれKNIGHTキャラクターブック THE BIBLE OF KNIGHTS―荒くれたちの聖典―』について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
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  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
2010年05月21日
 花宵道中 2 (フラワーコミックスアルファスペシャル)

 おおむね、歴史上の遊郭を題材にしたフィクションが描き出しているのは、決して覆せない運命を生きること、なのではないかと思うのだったが、この宮木あや子の同名小説を斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』も例に漏れない。とどのつまり、絶対的な制度を否応なしに受け入れなければならない女性の姿を主体化し、幸と不幸にわかれてしまう実感を、しかし後者のなかに見られるほころびでしか前者はありえない、と、いやだからこそ小さいはずのものにすべての希望を任せるよりほかないのだ、と、こういう認識の上に置きつつ、表現の対象にしているのである。オムニバスに近しいストーリーはその2巻で、二人の女郎の、どれだけ華やかに映ろうとも恵まれているとは言い難い経歴を遡っていく。まだ客をとれないほどに幼い茜は、茶屋で見かけた若い船頭に想いを寄せるのだったが、はたしてそれは自分の価値が何によって定められているのかを思い知らされる恋となる。他方、茜と同じ吉原の山田屋の霧里は、かつて島原にいた頃、あまりの人気を疎まれ、同業からの評判を悪くしてしまうのだけれど、唯一の肉親である弟の存在をよすがにすることで、毅然とした態度を守り続けるのであった。前巻の朝霧もそうだし、霧里にしても茜にしても、立場や境遇が違う。生まれも資質も違う。適正も年齢も違う。だが、女郎であるという点で一致している。女郎である以前に、ただの女であるという点で一致している。女である以前に、ただの人間であるという点で一致している。そして、ただの人間がどう足掻いても逆転することのない運命を引き受けなければならない、という点で一致している。これの悲哀にも見えることが作品の本質、ドラマトゥルギーの形成にかかってくるエモーションであり、現代的な共感の幅だといえる。もちろん、そうした根幹は原作の段階によっている部分に違いないものの、斉木は構図やタッチに工夫を凝らしながら、いくつものシーンに印象を織り上げている。

 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年05月19日
 A−BOUT!(2) (少年マガジンコミックス)

 いうまでもなく、不良少年を題材としたフィクションの闘争においては、階級(学年ヒエラルキー)とテリトリー(地区予選的枠組み)の二つが最大の指標となる。もしかするとこれは、等しく学園を舞台にしている以上、スポーツ・マンガにも通じる点であるのだったが、しかし00年代以降、ヤンキー・マンガのジャンルでは、高橋ヒロシの『WORST』が象徴的なとおり、前者は組織化された宗教(もしくは字義ままのギャングやヤクザ)を扱うかのごとく小さくまとまっていき、後者を熾烈に肥大、それがちょうど国盗り合戦や軍記物のスタイルを彷彿とさせる傾向がつよくなっていった。どうしてなのか、の考察には余程の時間をかけなければならないので、さしあたり置いておきたいのだけれども、2010年代に入り、またすこし様子が違ってきているぞ、と感じられるのは、たとえばこの、市川マサの『A-BOUT!』のように、階級(学年ヒエラルキー)を燃料にアウトサイダーの闘争を描く作品があらわれはじめているためである(おそらくは細川雅巳の『シュガーレス』も同様に見ることが可能であって、現時点では平川哲弘の『クローバー』や吉沢潤一の『足利アナーキー』との差異もそこに設けられるだろう)。不良少年ばかりの集まった私立光嶺高校、転校生の朝桐真之輔は、自分が新顔であることを気にしない。まだ一年の立場であることもまったく顧みず、上級生にケンカを売り、はたまたでかい態度をとっているせいで、同級生にケンカを売られ、騒動、騒動、騒動を繰り返すうち、校内で注目の的になっていく。『A-BOUT!』について、現在2巻までの概容を述べるとすれば、こうなる。主人公、朝桐の個性はたしかに、フル出力のわがままっぷり、まるでギャグでしかないほどの傲慢な態度、ずばり頭の悪い様子にあるわけだが、それが物語にとって重要なのは、光嶺高校という制度のなかで徹底されていた階級(学年ヒエラルキー)に、ノーを突きつける、かのような役割を担っているからにほかならない。そしてそれに対する反発として、同調として、80人の軍団を率いる砂原、狂犬としておそれられる柾木、意外な実力者でメガネの瀬下など、朝桐と同じ一年生である彼らの姿が描かれ、直線状のストーリーを起伏のあるものにしているのだし、作中人物たちの連なりが、まず先にイデオロギーありきではなく、必ずしもコミュニティの問題と一致していないところもまた、本作の特徴だといえる。

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2010年05月18日
 アライブ 最終進化的少年(21) <完> (月刊マガジンコミックス)

 とうとう二人の少年の愛と憎に幕がおりる。この21巻で完結を迎えた『アライブ 最終進化的少年』(原作・河島正、作画・あだちとか)だが、いやたしかに作品は、設定を凝らしながら、多数の人間を巻き込み、やたらスケールのでかいお話を繰り広げてはいたけれども、大局的に見れば見るほど、主人公の叶太輔と親友である広瀬雄一の葛藤に核心が委ねられなければならないかっこうをしていたと思うし、じっさい彼らの直接的な闘争をクライマックスに、すべての決着がつけられている。

 もちろん、落合恵をあいだに挟んでの三角関係をベースに概容を掴むことも可能ではあるのだったが、基本的に彼女の存在はトランスミッションの役割に近く、本質はやはり、『デビルマン』の不動明と飛鳥了や『AKIRA』の金田と鉄雄に象徴されるような、この国のマンガ史において指標となった図式の一つ、すなわち、身近な他人への憧憬を通じることで、欠損を自覚してしまった者が、その欠損ゆえに他人を欲望しようとするとき、彼によって欲望された者はそれをいかに引き受けるか、の00年代的なヴァリエーションにほかならず、さながら当然というべきか、双方の緊張は、半径を一気に広め、世界規模のスペクタクルとして描き出される。結果、自殺ウィルスを生き延び、アクロの心臓を脅威と知った人びとが、国家レベルの権力と敵対、各々が自分で決定した使命を果たすこととなるのである。

 ここで重要なのは、いくつもの類例に比べ、欠損を自覚せざるをえなかった者、つまりは『アライブ』の場合、広瀬の動向にあまり焦点が合わされていないことだろう。彼の苦悩と混乱は意外なほどワキに除けられ、かわりに大輔のアクティヴかつポジティヴな活躍がストーリーに不可欠な動力をなしているのであって、言い換えるのであれば、広瀬を主人公化しては読めない構造を作品が持っている(たとえば『ベルセルク』のグリフィスとは違う)。たしかに劇中で、能力者と呼ばれ、特殊性を備えた人物たち皆に、あらかじめ何かしらの欠損が埋め込まれているのを見、ほんらい広瀬に集中させられるべき機能があえて分担させられている、と解釈することが可能ではあるものの、そのさい押さえておきたいのは、大輔との出会いを経て、彼らから引き出された好意的な反応が、あくまでも相関性のドラマをつくりあげていることなのだし、じつは家族のテーマやラブコメのモードもそこに付随しているのである。だが当の広瀬に関しては、最後の最後まで、そうしたリクリエーションから疎外されている。

 大輔の、いわばヒーローの建て前とイコールであるようなモチーフが物語の前面にきていることを、少年マンガ的なロマンに要請された結果だというふうに判断しても構わないのだったが、他方でそれを根拠にしながら、類例よりも時代がくだっているがゆえの特異性として述べられる。

 誤解をおそれずにいえば、『アライブ』に提示されている社会像はたいへんシンプルなものであり、破滅のイメージにはさほどの重量と絶望を感じられない。ショッキングな描写はあるにはある。いや少なくはない。にもかかわらず、圧倒されはしない。こうした受け取り方はむろん、読み手であるこちらの資質にかかっているのかもしれないし、ソフティスケイトされた絵柄のせいなのかもしれない。いずれにせよ、終末の風景がステレオタイプであるほどにフラットな状態であらわれているのは間違いなく、そのため十分なインパクトを損なってはいるのだったが、しかし生や死に対するアパシーがまったくありふれた日常を程よく抽出している。これをすでにある足場とし、そこからエモーションの回復されていく様子を紡ぎ出そうとするのであれば、広瀬の自閉性はむしろ追認にしかならない以上、大輔の積極性に作品の企図が担われなければならないのは、ほとんど必然であった。

 20巻について→こちら
 10巻について→こちら
2010年05月17日
 勝利の悪魔 3 (りぼんマスコットコミックス)

 槙ようこのファンのつもりではあったが、正直なところ、この『勝利の悪魔』には最後まではまれず、やや残念な気持ちを抱いたのはつまり、貧乏なヒロイン、女装男子など、設定のおおよそが、いささかトレンド的というか、現代のサブ・カルチャーにおけるマーケティングを研究し、わざわざ用意されたふうであって、しかしそれが作者の持ち味をよくは引き出していない、と受け取れたせいである。おそらく全3巻の内容に試みられているのは、そういう今日に流行のアイディアをある種の引っかかりとする一方で、きわめてスタンダードな様式の、たとえば男性にも読めるだとか大人にも読めるだとかの枕や飾りを必要としないぐらいの、じつに少女マンガらしい少女マンガの学園コメディを描き出すこと、だったんだろうと思う。もしもそうだとすれば、野心は野心として高く買えるのだけれども、ガジェットをふんだんに盛ったわり、個々のエピソードは素朴すぎ、あまりにも表層的なアトラクションに終始した感は否めない。もちろん肝要なのは、読み手に想定された若い人びと(『りぼん』の読者層)に対し、どれだけアクティヴな表現たりえているか、訴求力を持ちえているか、ではあるのだったが、たぶん作者の実績においてこれがマスターピースに選ばれることはない。

・その他槙ようこに関する文章
 『山本善次朗と申します』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『14R』について→こちら
 『たらんたランタ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『STAR BLACKS』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『愛してるぜベイベ★★』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
2010年05月15日
 17[じゅうなな](5) <完> (講談社コミックスフレンド)

 ずるいよ。ここにきてこういう本領を発揮したかのようなドラマを描き出すんだから、しんしんと泣く。桜井まちこの『17[じゅうなな]』最終巻であるが、詩歌と恵のカップルに訪れる結末は、同作者の傑作(といって差し支えがないよね)短篇「冬の塵」の、あのすばらしくすぐれた叙情を思い起こさせる。誓い〈まけない さみしさに 自分に〉そして雪の降る。夜に染められた空を白い塵が舞う。ああ、この光景だけでも胸に軋んでくるものがある。5巻のストーリーを要約すれば、おそらくは他愛ない。ようやく通じ合えた二人が高校卒業を機に離ればなれになるやもしれない、の、皆様よくご存知のくだりである。しかしそれがどうしてこんなにも心を動かすのか。理由は大きく二つほど挙げられる。一つには、桜井ならではの端整なカットが作中人物の内面を見事に代弁しているからであって、目や口の開き、表情はもちろん、遠めの佇まいから滲んでくるエモーションを画の力というのであれば、それにはっとさせられてしまうのだし、そしてもう一つは、ストーリーのレベルになるのだが、前巻までの展開に強烈なひっくり返しが加えられており、そこで生じたギャップとでもすべきなかに、ある種のリアリティ、あまりにも厳しい現実の認識が捕捉されているため、つらくさみしい想いの実感がひじょうに高まっている。ふつう、こういうピュアラブルなロマンスにおいて、イノセントなヒロインはその無邪気さゆえに他人の気持ちを溶かす、何よりも一途であることが、純粋であることが、周囲にも認められ、幸福となる。じつは『17』もまた、4巻の時点での内容をいうなら、そのようなロジックで進まされているマンガであった。詩歌の屈託のなさが、恵の過去、秘密、暗がりを晴らし、認められていくところに、作品の軸足が置かれていたのである。だが5巻に入って、つまりはクライマックスへと至り、事態は反転する。いつしか将来を頭に入れていた恵に比べ、詩歌には恋愛の価値基準しか備わっておらず、それは必ずしも世間には通用しないことが、読み手に対し、曝露されてしまうのだ。このあたりの成り行きは存外悲痛な見え方をする。主人公の前向きな魅力は、たんなる幼さでしかなかったことが、容赦なく指摘され、じっさい学校という小さな世界の外側ではまったくお話にならない。あたかも恋人以外のことに関しては空っぽであるかのようにすら表現されている。ロマンスの励ましがいくら必要であっても、ロマンスだけでは生きていかれない現実が、突きつけられる。たぶん作者は、男女の関係をベースに、置いて行く者と置いて行かれる者との差異を用い、それでも後者が前者の手助けになろうとする心境を掴まえようとしたにすぎないのだと思う。しかし掴まえようとする手つきに要求された精緻さは、同時にエゴイズムの深さをもえぐっているのであって、さらには依存と自立の問題を学生生活から社会生活への移行上に浮かび上がらせる。だからこそ、それを踏まえて述べられる〈……今まで「恵のため」とか……「助ける」とか 「がんばって」とか……クチばっかでごめんなさい……がんばって……恵と離れても まけないように…………恵が……安心して東京にいられるように……あたしもがんばる……〉という詩歌の言葉や〈………メールも……電話も…………忙しくて だんだんできなくなるようになるかもしんない…………けど…おなじだから……さみしいのも……つらいのも……………離れても……おなじキモチだから……〉という恵の言葉のあいだには、センテンスが示す以上の含み、一緒にいられないことを受け入れてもなお、繋がりの決して断ち切られないつよさが芽吹く。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
2010年05月12日
 風が如く 8 (少年チャンピオン・コミックス)

 全編の展開は必ずしもエキサイティングだったとは言い難いものの、最後の段に来、さすがのポテンシャルで爽快なぐらいの感動を寄越していると思う。米原秀幸の『風が如く』がこの8巻で一応の大団円を迎えた。かっこういい生き方に憧れる現代の少年、時越速太が、戦国時代にタイムスリップ、そこで天下の大泥棒、石川五右衛門と行動をともにするうち、成長を果たしていく、というふうにストーリーは要約可能ではあるけれども、荒唐無稽な冒険活劇のなかに歴史上の人物の魅力をどう描くか、次々に用意されたアイディアが物語のスケールを大きくしすぎ、作品の焦点が定まらず、もしかすればとっ散らかった印象を持たされてしまったのが惜しい。もちろん本来の主人公は石川五右衛門である。したがってワープくん(速太のことね)は狂言回しにすぎない。だがそうだとしても、SF調の設定によって高められた架空性が全体の整合度をうまくフォローしきれていないところがあったのはたしかで、ゴエモンを中心の点とするあれこれが十分なアンサンブルを奏でられていなかったのも悔しい。だがしかし、ラストが抜群に決まっているのは最初に述べたとおり、読後の感想を決して悪くはないものにしている。ちょうど円環を閉じるていでまとめられた結末は、本作がボーイ・ミーツ・ボーイの類例、とりわけグッド・ボーイとバッド・ボーイのそれであったことを示してくれる。今やサブ・カルチャーが強力な影響源となる時代である。そのとき、フィクションは生き様を教えられるか、フィクションから生き様を学べるのかは、重要なテーマとなりうるだろう。当然、これはマンガ表現において、すけべな描写にかける熱量を技術と呼び、洗練をさも高尚であるかのように評価するのとはべつのレベルの、であるにもかかわらず同根の問題を孕んでおり、つまりはスペクタクルにすぎないものを信条化することの可否を意識されたい。それこそ『風が如く』のワープくんは、範馬刃牙や月島花といったサブ・カルチャーのヒーローを見、ああなりたいと願う人間であった。はたして彼の根性は、フィクションのごとき体験を経ることで試され、鍛えられた、とすべきか。いやむしろそうした面は、過去回想編を含め、ゴエモンの姿にこそ託されている。そして、結果的に、ではあるが、ゴエモンに与えられたスペクタクルは、中途で幕を下ろされている。絶体絶命に陥ったはずの彼がいかにして危機を乗り越えたのか描かれていない。クライマックスへ至り、かわりに浮上しているのは、ワープくんの主観であって、これまでに得てきた出会い、あるいは仲間がいることの尊さにほかならない。設定に負うしスペクタクルはよそに、本作を通じて何か教えられるものがあるとすれば、結局のところ、そこに集約される。欠損を抱えた人びとが欠損を抱えているがゆえに一つの和となっていく場所に辿り着いているのだ。それにしても現代に戻ってきたワープくんの向かう先が、まさか『ウダウダやってるヒマはねェ!』と同じ桜城高校とはね。ああ、学園を舞台にゴエモンとバディを組む彼の姿も見てみたかったな。

・その他米原秀幸に関する文章
 『南風!BunBun』1話について→こちら
2010年05月09日
 シュガーレス 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 間違いなくこれだ。これこそが少年マンガの本分である。男の子には戦わなければならないときがある。是が非でも戦わなければならないときがある。自分の価値を掴みとるために戦わなければならないときがある。自分の価値を奪われないために戦わなければならないときがある。自分の価値を確かめるために戦わなければならないときがある。勝つことも負けることもある。もちろん勝つためには戦わなければならないのであって、少なくとも下に見られるのだけは勘弁なんだろう。上から見られてんのが許せないんだろう。つまらん遠慮はいらん。気に入らない連中には片っ端から挑みかかっていけよ。たとえ負けるにしても、身の程をわきまえるのは思う存分に戦ってからでよい。仕方がない。男の子には、ちっぽけ、なのに、でかい、意地があるのだから仕方がない。そしてその、どうしようもなく男の子であるような部分を剥き出し、我が儘なまでに純粋で鮮烈な少年たちの姿を躍動させているのが、細川雅巳の『シュガーレス』なのである。

 彼は言った〈弱肉強食ってのが九島高校の “風車”のルールだろ〉と。校舎の屋上にそびえる風車、そこに自分の名前を掲げようとする少年たちが集まるから通称“風車”、九島高校の頂点(テッペン)を目指す者に与えられた条件はたった一つ、すなわち戦って勝つ、それだけであった。椎葉岳、今年新入生の彼もまた、風車に惹かれ、門をくぐった人間である。ケンカ、ケンカ、ケンカ、〈動物なら 上に立ちたいと思って当然だろ 弱肉強食ってヤツだよ〉と嘯き、上級生であろうがお構いなし、現在“風車”の頂点にいる3年生、シャケ(荒巻至)との対戦を目論み、次々に騒動を巻き起こしていく。同じく新入生の丸母タイジは、その巨躯にもかかわらず、風車に興味を示さずにいた。〈頂点(テッペン)とか 時代遅れだ〉平然と言うタイジであったが、しかし岳との出会いを通じ、はからずも1年生同士がしのぎを削り合う戦線に加わることとなる。やがて二人の前に姿を現したシャケはこう言う。〈正面から人を殴る勇気と 正面から人に殴られる度胸のある奴が 正面から殴り合って 強い方が勝つ それが“風車”のケンカだ〉そして圧倒的な強さをもってそれを実践してみせる。なるほど、頂点は高く。遠い。だが当然、そこで怯まなかった者にのみ風車へと向かう資格が与えられる。

 基本的には、バトル・トゥ・バトルのオン・パレードに物語の進行を担われたマンガである。それが正しく『シュガーレス』の魅力になっているのだが、ここで少年マンガ史について一つの仮説を述べたいのだけれど、もしも80年代から90年代にかけて大きな転換があったとすれば、車田正美が学ランの主人公を描かなくなったことを例に語れるのではないか。要するに『男坂』の未完と『聖闘士星矢』のロングランに何かしらの手がかりを求められる。言い換えるとしたら、学園という舞台にロマンが求められなくなった結果、広義な意味でのファンタジーに題材が移っていき、そのことがちょうど時代のセンスとマッチしていたがゆえに、後者は成功したのかもしれない可能性を考えられる。もちろん、作者自身の資質の変化もあったろう。しかし80年代後半から、少年マンガにおける学園ものはラブコメかヤンキーの両極に分かれ、モラトリアムを描き、本来はその中間でありコアであったはずの立身出世的な項が抜けていき、かわりに異世界での冒険にそれを託すケースが主流化した、このような背景と車田が学ランの主人公を描かなくなったことは必ずしも無縁ではないと思う。

 しかるに時代は一回りした。それを予感させるのが『シュガーレス』の登場である。このところ『週刊少年チャンピオン』には、まさか当の車田が『聖闘士星矢』を移籍させたこととどれだけ関係しているのかは知れないが、正美イズムを隔世遺伝的に継承しているかのような作家、作品が増えてきている(すこし前には石山東吉ラインの哲弘もいた)。いよいよその真打ちに値すべきが『シュガーレス』だとさえいえる。たしかにここで展開されている作風は、細川のキャリアからすれば、線の違い、女性がいっさい描かれないあたりも含め、新境地、一種のトライアルに受け取れる。だがそれが、作者本人の望んだものであれ、外部(編集サイド)の要請であれ、学園にロマンを取り戻すための強烈な一撃になっている点が、重要だろう。他の作品を引き合いに出して申し訳ないものの、大暮維人の『天上天下』が、鈴木央の『金剛番長』が、学園にロマンを取り戻すことができず、見事に瓦解していくさまは、じつに悲痛であった。そうした残念を晴らし、期待に繋げていけるだけのインパクトが、この1巻には宿っている。不良少年をメインに据えているからといって、ヤンキーがどうだ、アウトサイダーがどうだ、なのではない。モラトリアムでもなく、夢想でもない。いまその若さにかけられる熱量のすべてを描く。難しい理屈はなしだ。忘れちゃおう。これこそが少年マンガの本分であると支持したい。


・その他細川雅巳に関する文章
 『星のブンガ』1巻について→こちら
2010年05月06日
 蒼太の包丁 24 (マンサンコミックス)

 料理マンガの系には長期連載化するものが少なくはないが、時間の流れをうまく掴み、丁寧に描けているものほど、物語の魅力に富む。たとえば、現在それに成功しているケースとして『蒼太の包丁』を挙げられる。この24巻には、主人公の将来に関し、大事件となるようなエピソードはないのだけれど、しかし細かいところで作中人物たちの変化や成長が押さえられているため、積み重ねられてきた過去に自然と想いを馳せる、そして今後の展開にも興味をそそられるのだった。蒼太の恋愛はじつにスローリーである。他の職人との関係もそうなのだが、決定的なモーメントはなかなか訪れない。だがそのじれったさのなかにこそ、心情の深みがよく出、ああこのように微妙なニュアンスを一つ一つ汲み取っていく日々が、人生であり、生活であるのかもしれないな、と、多少大げさにいえば、思わされる。たとえば、ついに自分の店を持ったはいいが、オープン早々ピンチに陥った花ノ井に、「富み久」の親方や蒼太が自分なりの手助けを与えるくだりなど、筋書き自体は定型のパターンではあるものの、それぞれの性格と今までのストーリーを踏まえたうえでの構成が妙でいて、ダイナミックな引きはないかわり、ページ毎に小さな読み応えが生まれている。しかしてその、小さな読み応えのひじょうに侮れないのが、『蒼太の包丁』というマンガの魅力でもある。また、泉田や坂口といった「富み久」の常連たち、ワキの人々がじょじょに存在感を大きくしているのも、新たな楽しみとなりつつあるのだが、蒼太に目をつけた金持ちの嬢ちゃん、真知のもたらすアクセントもよい。それにしても蒼太の野郎もてやがんな。たとえ好いた相手ではなかろうとも、そりゃあ〈雑魚とは違うの…あなたは特別な人 なんたってこの私が認めた男なんだから〉と言われたならば、はっとすらあ。

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2010年05月02日
 きららの仕事 7 ―ワールドバトル― (ジャンプコミックスデラックス)

 ワールドスシバトルを謳っておきながらも、日本国内における予選を決着させたところで完結を迎えてしまった『江戸前鮨職人 きららの仕事 ワールドバトル』であるが、広げに広げた大風呂敷の、そうした投げっぷりがまた、じつにこのマンガらしいな、と思うのであった。というのも、以前から述べているとおり、たしかに料理を題材にしてはいるのだけれど、いわゆるグルメ・マンガとして見るより、往年の『週刊少年ジャンプ』に特徴的であったトーナメント型のゴージャスな対戦をあたかもオマージュしているかのような作風に、強力なフック、最大の魅力が生じえていたためであって、際限なくエスカレートしていくダイナミズムに従うがまま、さてどう収拾させるつもりなのか、の算段がさほど芳しくない終わり方をしているあたりも、ちょうどそれに倣っているのだとすれば、納得するしかないのである。とはいえ、これがじっさい、物語のスケールを世界規模に伸ばしていったあとだったとすれば、綻びもよけいにでかくなっただろうな、と考えられるのだから、全7巻で一応の区切りにまで持っていき、ピリオドを打ったのは、じつに適切な判断と見なせる。しかしながら、主人公の海棠きららとはいったい何だったのか。過去にもさんざんいってきたが、少年マンガふうに展開するバトルにおいて、女性が男性とまったく対等な立場を得、勝利するというのは、その(男性に向けたフィクションで発達してきた)様式を成立させているコードの制約上、なかなかに困難であり、クライマックスの成り行きを鑑みるに、こうした課題を十分にクリアーしたとの評価はしづらい。概して作品のカタルシスは、きららのライヴァルにあたる坂巻慶太の活躍にあったように思う。早川光(原作)と橋本狐蔵(漫画)のコンビは、本作のスピンオフとでもすべき『渡職人残侠伝 慶太の味』で坂巻を主人公に据えているけれども、そちらは完全にホモ・ソーシャルの価値観を、まあ半ば意図的なギャグにはなっているものの、存分に描いている。

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 『江戸前鮨職人 きららの仕事』
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2010年05月01日
 ARISA(4) (講談社コミックスなかよし)

 まったく〈キミにも経験あるだろ 信じてた人にうらぎられたり 秘密をもたれたり 人ってみんなそんなもんじゃないの? それを 愛するとか 信じるとかって……きもち悪いよね〉といわれれば、心を突かれるものもあるよな。しかしそれでも、人を愛することが強さか弱さか、人を信じることが強さか弱さか、試されていることのうちでしか得られない物語もあったろう。選ばれた者の願いのみを叶える「王様タイム」というアイディアを学園に持ち込み、クラス単位で繰り広げられるサヴァイヴァルを安藤なつみの『ARISA』は描く。が、前巻で参入してきた転校生の玖堂レイ、この4巻で登場してくる望月静華、の両名をもしも外部からの異分子として考えるのであれば、最重要なポイント、半径が狭い世界だからこその閉塞的なサスペンスに支障を生じるおそれもあるわけだけれど(まさか限定されていた条件が覆るぐらい白けることもないからね)、いや作品の結構は必ずしも崩れていないと感じられるのは、やはり、両手で収まる範囲の関係をベースに、疑い、傷つけ、いがみ合い、瓦解していった共同体を、なんとか必死で取り戻そうとするかのようなトライが、圧倒的に不利な状況だけは変わらないなか、ヒロインの活躍を通じ、示されているからにほかならない。それにしても、双子の妹であるありさのかわり、姫椿中に潜入したつばさの孤軍奮闘は、先述した二人の暗躍によって、さらに厳しさを増す。すべての元凶、「王様」と呼ばれる人物の正体がいまだまったく掴めずにいるのに、ほとんど味方はなく、敵ばかりが次々立ち塞がる。はっきりといって、もっと絶望してもよい状況である。これを、表現上、(あくまでも大人の目から見れば)絶望の深さが足りないと解釈しても構わないのだが、むしろ、どれほどの不安に駆られても、小さな希望を諦めず、頼りにし、決して挫けない姿を見せてくれるところが、主人公のつばさに与えられた魅力であって、『ARISA』というマンガの本質的な構造であると思う。しかして、冒頭に引いたセリフを受け、つばさの発する〈そっ そんなことない!! 自分よりも大事な人だから あたしは信じたいって思うんだよ!〉その反論が意味を持ちえてくるのだし、のちのちの展開に結果を残すこととなるのである。この巻で大沢なるクラスメイトの実らせようとした願いが示唆的であるとおり、あるいは今までのストーリーに仄めかされていたように、おそらくは、利己に適さないものはいっそ失われればいい、の理論が「王様タイム」を駆動させている。ともすれば敵と味方の区別も、自分の損得を基準としたとき、表面化するものだろう。2-Bの教室において、つばさが同調を免れた異分子であるのは、そもそもは外部の人間だからという理由にかぎらない。同じく玖堂や望月と立場を違えているのも、とどのつまりは「王様」のロジックに内在することを拒んでいるせいなのであって、利己に根差した価値観を向こうに回している以上、それが支配的な空間では必然的に孤立せざるをえない。そしてその孤立を引き受けてもなお彼女には為し遂げなければならないことがある。

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2010年04月30日
 Hey!リキ 17巻 (ヤングキングコミックス)

 今日のマンガ表現において過去回想編とは何か。当然異論はあるだろうが、内面描写の代替であるようなパターンが多い。それはつまり、作中人物にとっての知識や経験を描くというより、どのような記憶を彼らが負っているかに費やされることであって、その記憶がたいてい悲痛な出来事として追加されなければならないのは、トラウマの有無が心理や意識の存在とほぼイコールで結ばれるようになった90年代以降、フィクションの形式でスタンダード化し、発達してきた技法だから、なのである。ときおり過去回想編の類がひじょうに怠く感じられてしまうのは、要するに、これこれこういう内面を作中人物は持っていますよ、といった説明のあまり奮っていないにもかかわらず、わざわざ付き合わされていることが、たんに面倒くさくなるためだろう。そしてそれが、マンガ表現の全体で一般的とされているのが近年である以上、もちろん、ヤンキー・マンガのジャンルも同じ轍を免れてはいない。ヤンキー・マンガの不良少年たちによって語られる思い出、そのほとんどは昔でいうところの武勇伝とは違ってきており、後悔や残念、過去に受けたダメージの割合を高めることで、やはり、内面描写の代替を果たしがち、本質的にはせこくまとまっているものが少なくはない。世代論として見るなら、個人的に50年組と呼んでいる層(昭和50年、1975年前後の生まれ)の、言い換えるならば90年代に青春時代を過ごしたヤンキー・マンガの作家たちが、しばしば、そうしたマナーにはまってしまうのは、ある意味、道理のいくところではあった。さて、先ほどいった50年組に含むべき作家の一人である永田晃一が、この『Hey!リキ』の17巻で、前巻に引き続き、過去回想編を展開しているのだけれども、その手つきはしかし、内面描写ではなく、むしろ武勇伝をのぞんでいる節があり、あんがい興味深いのだったが、おそらくは作者の自覚的な意志にすべてがよっているのではない。国盗り合戦の現代版、軍記物のヴァリエーションとして、ヤンキー・マンガが成立させられてしまう、このようなジャンル側の今日性を素直に受け入れた結果であることが大きいのではないかと思う。国盗り合戦、軍記物では、武勇伝は重要なファクターとなる。その部分が強調されているにすぎないのである。ただしそのことを必ずしも悪く言うのではない。主人公であるリキの中学生時代をプレゼンテーションすることで、若気の至り、いけいけどんどんの単純明快さが出、長らく不調であった物語に一定のダイナミズムを与えているのだ。とはいえ、それが作品の良さとして今後に生きてくるかどうかはまたべつの話、留保しておかなければなるまい。ところで、17巻に入ってついに単行本から高橋ヒロシ(原案)のクレジットが取れた。
 
 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら

・その他永田晃一に関する文章
 『スマイル』(柳内大樹との合作)について→こちら
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
2010年04月25日
 心臓より高く (マーガレットコミックス)

 少女マンガのジャンルにかぎらず、多くのラヴ・ロマンスまたはセックスを主題にした作品において、病気の感染、とりわけHIVの脅威が忘れ去られて久しい。それは現実上の認知がそうであることを反映しているのかもしれないし、これを性意識の前進と見るか後退と見るかは判断のわかれるところであろうが、あまりにも無頓着すぎるといわざるをえない描写がフィクションに増えた点に関しては、ときどき怪しく感じられてしまう。すくなくとも、妊娠だけ気をつけていればよいよ、という発想が、性交渉を題材化するのにさいし、豊かなものとは思われないのである。まあ、まったくの無菌状態で育ってきた童貞と処女の恋愛しか取り扱っていないのだとすれば、多少の留保は許されるのかもしれないけれど、近年ではむしろ、その幼さにもかかわらず、どちらかがすでにセックスを体験していることが悩ましくある、といった様子を深刻なドラマとしているケースが少なくはないのであって、やはり妊娠の可能性だけに注意を向けるのは、たしかに向けないよりはよいのだとしても、表現の作法にとってイージーな単純化にすぎないのではないか。こう考えられるとしたら、きらの『心臓より高く』に収められた「H‥」は、その、現在ではなぜかしら盲点となってしまった領域を突いているように思う。作中で〈……「こわい」「恥ずかしい」「いやらしい」そんなイメージでエイズと自分は関係ないって思いたがってる人も多いわね だけど予防しなければ誰だって感染する可能性があるの ……さっきセックスしたらすぐうつると思ったっていったわね コンドームなしの性交渉による感染効率は1%程度よ ――低いと思った? それなら予防をしなくても1回や2回大丈夫って思った? だけど1回の性交渉でも妊娠する人がいるように回数の問題じゃないわ 予防するかしないかそこが大事 自分と自分の大切な人を守るためにね〉といわれている警告は、おそらくは今や古びてしまっている。しかし古びてしまったからといって、必ずしも偽とはならないことを、高校生カップルの初々しい恋愛を通じ、描いているのだ。もちろん、教訓的なメッセージを含んでいるのが、えらい、のではない。やがてヒロインのもとを訪ねてくる吸血鬼、いうまでもなくあれは、ヘヴィな内容をファンタジーの色合いで柔軟するための方便ではなく、逃避の作用や孤独の源泉を表象しているのであって、それと向き合う場面が悲痛でありショッキングな印象を湛えていくあたり、語り口のうまさ、作品の結構がいかにすぐれているか、を高く買われたい。すなわち技術の評価に還元することができるのであって、じじつ自然と感動させられる説得性がつくり出されている。『まっすぐにいこう。』等々の代表作では、読み手にかかるストレスの軽減であるような、明るめのタッチに注がれていた筆力が、ここではシリアスな展開に傾けられている、あらためて達者な作家だと見直す。表題作もよい。いや、じつをいえば表題作である「心臓より高く」のほうがよいかもしれない。他人にコンプレックスを与えてしまったことを自分のコンプレックスとして生きる主人公が、表層的ではない、他人との深い関わりを得ることによってそれを乗り越えていく姿が、パーツモデルという特殊な業種を媒介に描かれており、いくつもの場面にはっとする。
2010年04月24日
 夢みる太陽 6 (マーガレットコミックス)

 基本的にワン・アイディアではじまったマンガではあるものの、そのワン・アイディアを次のワン・アイディアにスイッチ、またそのワン・アイディアを次のワン・アイディアにスイッチ、と、し続けることによって、高野苺の『夢みる太陽』は6巻の長さとなってきたわけだけれども、現時点に描かれているのは、ヒロインであるしま奈の、大家である藤原虎(たいが)に向けられた片想いであり、対する虎の反応なのだが、いやまさか、物語の当初からすれば、この二人が真剣な恋仲となっていく、もっというなら、それが本筋になっていくとは、まあ思わなかったよね。そもそも、家庭に居場所をなくした少女の自分探し的なニュアンスを含んでいたストーリーは、いくらかの変節を経て今や、たった一人の人間とたった一つでしかない関係性をどのように切り結ぶか、そのような主題が前面となったピュアラブルなロマンスをまっとうしているのである。三人の異性、虎、朝陽、善との共同生活という設定も、しま菜が生家に戻ることでいったん解除されており、自分の気持ちに正直となった彼女が〈あとは大家さんから「好き」って言ってもらえるように頑張るだけだ〉といっているように、作品の指針もひじょうに明確化されている。これは、『夢みる太陽』に共同体をめぐるテーマを見ていたとき、大きな転換として映る。他方、少女の成長を恋愛によってドキュメントしていたと見るとき、大きな前進の役割を果たしてもいる。いっけん作風がだいぶ異なるため、そうとは受け取りにくいのではあったが、意外と羽海野チカの『ハチミツとクローバー』が終盤にはっきりとさせた方向性、構造に近しい。

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 2巻について→こちら
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 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
2010年04月21日
 ヤングチャンピオン烈No.5 2010年 5/30号 [雑誌]

 うんうん、吉沢潤一の本領はやっぱりこういう感じだいね、と思わず納得させられてしまう。こういう、とは、どういう、のか。言葉にして説明するのはなかなか難しいのだったが、たぶん、まじとギャグの二分法でマンガを考えようとしたとき、いっけんそのパースペクティヴが狂っているふうでありながらも、じつはそれが時代にそった感性になりえている(かもしれない)ので、作品自体に普遍であるのとはまた異なった魅力、とりあえずの定義化を無効とするようなインパクトが備わっている点を指したい。さてこの『乙女シンク』は『ヤングチャンピオン烈』NO.5に掲載された読み切りであり、『ヤングチャンピオン』の本誌で連載されている『足利アナーキー』の外伝ということになっている。物語の舞台は本編と一緒、『足利アナーキー』の主人公であるハルキとカザマサが通う栃木県立南総合高校で、彼らに憧れる一学年下の女子高生たち、ユン、マキコ、ランの、ヤンキイッシュでポップな青春の一コマが切り取られている。ストーリーはひじょうに簡素である。ユンとマキコとランは、友人のよぅちゃんを妊娠させたにもかかわらず、素知らぬ顔で学校にやってきた同級生、松本をこらしめるべく、武装し、夜道の襲撃を果たすのであった。ほんとうにたったそれだけのことでしかない。だがそれだけのことがとてもチャーミングな印象を持っているのは、たとえば、今どき地方都市でギャルのセンスに寄っていく高校生の指向、リアリティがよく掴めている、そう単純に述べてみせるのが正しいかどうか、当事者じゃない人間にはわかれないのだけれども、自分なりの解釈が許されるとすれば、おそらくは、半径の狭い世界を眼前に自分たちのプライオリティがどこに置かれるべきか、少なくともそのことをはっきりさせながら生きている若者の強さ、あるいは素直さが、できうるかぎり肯定の姿形で描かれている、これがはっとするほどの勢いを内容につけさせている。欲望も友情も恋愛も、三人のヒロインにとって大切だと信じられているものをまったく批判しない、たとえ軽さやちゃらさに勘繰られようとも、否定をしりぞけることにより、作中の世界、人物の表情を、彩りあざやかにしているのだ。彼女たちが保健室のベッドで横になり、ファッション誌を眺め、他愛のない言葉を交わすうち、寝入ってしまう、そのシーンの日常感たるや、良い良い。

 『足利アナーキー』
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  1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
2010年04月20日
 サムライソルジャー 9 (ヤングジャンプコミックス)

 吉田薫、ついに推して参るかよ。この9巻の顔に彼が、つまりは表紙のカヴァーに選ばれているのはまったくの道理であった。『サムライソルジャー』のストーリーにおいて、もっとも早い段階で主人公である藤村新太郎のシンパサイザーとなった吉田が、その男気たるところを存分に披露してくれるのだ。「渋谷連合」の面々に囲まれるなか、市川佑介の仕掛けにのって、殴り合い、負傷した藤村と神波多ナオトの窮地に、きたきたきた、いったんは不良(ガキ)の世界から身を退いたはずの吉田と、藤村に敗北を喫し「ZERO」で肩身を狭くしている江田昭二が、駆けつけてきた。予想外の登場に、鮫島は驚きながらも〈おめーらは もう不良(ココ)の世界じゃ終わった人間…見物せずにされ〉と言い放つのだったが、構わずに彼らは「渋谷義勇軍」を名乗り、臨戦態勢に入ろうとする。藤村を守るべく。しかしそれでも鮫島が〈義勇軍? お前ら2人で何ができる? 名前売りたいならウチに入れてやってもいいぞ?〉と述べるとおり、多勢に無勢、劣勢であることに変わりない。そこで吉田が口にするセリフがじつに奮ってらあ。〈俺は初代『藤村新太郎』を終わらせない ただ それだけに体を張る〉のであって、鮫島が〈負け犬とビビリが2匹…カッコつけてんじゃねえ!!〉とすごむのに対し、〈はっは〜ん 体張ったら 何か もらえると思ってるタイプだな おめーは / お前は体張って何が欲しい? 金か? 名誉か? 女か? それとも…友情か? / 俺は欲しいモノなんか何もねーよ ただ 自分のことはひとつも考えず 他人のことだけに必死な 藤村新太郎っちゅう超ド級のドアホウながめてたら 引退した体が勝手に反応しちゃうワケ いいじゃない それが俺の体の張り方だ〉と笑ってみせるのである。こういうタイプの言動は、一般的に旧いと見なされるだろう。くさいと思われてしまうかもしれない。だが、旧いやくさいが必ずしもださいとはイコールになりえない、そのことの当否を、吉田の活躍を通じ、確認されたい。要するに、今まで吉田を舐めてた連中はみんなごめんなさいするんだぞ、なのである。いや吉田ばかりではなく、江田にしてもそうなのだけれど、二人がたった二人で「渋谷連合」を向こうに回す姿は、前記した理由があきらかにしているように、利己をベースにした価値基準との衝突になっているのであって、正しくそれに打ち勝とうとすることが、一つの盛り上がりとなっていく。

 多少の観点を変えるのであれば、山本隆一郎がここでのくだりに描いているのは、まず第一にファイトでありバトルである。それはもしかしたら、『ヤングマガジン』や『ヤングキング』でヤンキー・マンガのイディオムを会得してきた作家が『ヤングジャンプ』で『週刊少年ジャンプ』的なテーマを再現している、といってしまってもよい。すなわち、努力と友情と勝利の介在が、スペクタクルの質そのものを左右するような展開を、不良少年もしくはアウトサイダーの物語に導入しているのであって、じじつ紙幅のほとんどは、一対一の勝ち抜き戦としてルール化された決闘に費やされているのだし、ごつごつ血みどろの戦いが繰り広げられているにもかかわらず、ある種の晴れやかさすら受け取れる。江田VS烏丸テツヤ、吉田VS寺恵一、「渋谷義勇軍」と「渋谷連合」とが互いの意地をかけながら相まみえていった結果、とうとう藤村と鮫島の直接対決がなされようとする。吉田と江田のふんばりに〈悪かったな2人とも ありがとう〉と素直な感謝を伝える藤村がいかしている。熱くなる。ぐっとくるものがある。しかし恋人を喪い、親友であった神波多と袂を分かち、孤独を生きる鮫島にしてみたら、それが気に入らない。だからこそ〈クズどもがッ!! ヘドが出る…頭ん中から爪先までヘドでたくさんだ!!〉と罵らなければならないのであって〈どんな友情ごっこだ? どんなつまんねえテレビドラマだ!? 他人の為に喧嘩する!? テメーらは不良(ガキ)じゃねえ!! ホモ野郎だッ!!〉という懐疑を〈ブッ壊してやる…コナゴナにブッ壊してやる…薄汚えバケの皮剥いで…薄汚え本性さらけ出してやるッ!!〉こうまでもつよく激しい否定の感情へと持っていくよりほかない。怒りをあらわにせざるをえない。他人を信じられないこと、いっさい信じないこと、自分しか頼りにならない、頼りにしないこと、そもそもそれが「渋谷連合」の背後に潜まされているイデオロギーであり、鮫島や市川の存在に表象されているものだろう、というのは以前にもいったが、彼らの振る舞いがきわめてネガティヴな意識からやってき、不幸ばかりを踏まえているのだとしたら、それを質すのは当然、主人公の役目ということになる。藤村は鮫島に言ったろう。〈喧嘩が強いだけの臆病者が 寂しい寂しいって泣いてんじゃねーよ〉と。吉田と江田の奮闘を目の当たりにし、いよいよ憤りを隠せなくなった鮫島の様子は、藤村との対照にあって、ちょうど子供が駄々をこねているようにも思われる。『サムライソルジャー』の作中、多くの場面で、不良がガキと読み替えられていることの意味合いもおそらくはそこに加算されている。
 
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
2010年04月18日
 スターダスト★ウインク 3 (りぼんマスコットコミックス)

 その小さな共同体は、その小ささゆえに、恋愛感情が入り込むことで、ふいに壊れてしまいそう。得るものと失われるものとが天秤にかかる、たとえばそれの避けがたいことを受け入れなければならない、といわれている一方、たとえば結果的に何も得られず失うばかり、そう考えられるとしたら、当然、悩まざるをえないよね。頭を抱えるし、臆病にすらなる。こうした認識を頼りにしながら、こうした認識のみに止まらない物語を、春田ななの『スターダスト★ウィンク』は用意しているように思う。同じマンションで隣同士、ずっと一緒に育ってきた杏菜、颯、日向の三人組であったが、中学三年のとき、思春期的な意識がつよくなることに従い、その関係にも複雑な変化がもたらされようとしていた。こうしたストーリー・ラインを作品は持っていて、ヒロインである杏菜に対し、颯が想いを寄せるのをよそに、彼女はといえば、日向のほうへ惹かれている自分に気づいてしまう、以上の展開が前巻までのなかに描かれてきたわけだけれども、同時にこのマンガが、三人組の内情だけで動かされていないのは、スモール・サークルの外側に位置している人物たちが、次々、スモール・サークルの現状と係わってくることから、じつにあきらかであった。そして2巻の引き、さらには3巻の内容において、とくに注意されたいのは、颯→杏菜→日向という矢印の、さしあたり終いであるような日向が、いったいどこの誰に向けて視線を送っているか、という点だろう。ネタを割らずにおくため、詳細は避けるが、それはつまり、三角関係の閉塞とは異なった葛藤を杏菜に与えることとなっているのだし、三人組の共同体が内情とは無縁に開かれてしまう可能性を孕んでいる。もちろん、スモール・サークルの維持を保守的に捉えるのでなければ、決して悪いこととはかぎらない。しかし、何かが変化してゆくことは何かが終わってゆくことをも意味しうる。印象的なモノローグがある。杏菜の〈恋人じゃないから 誓いもない 家族じゃないから血の繋がりもない ただ家がとなりなだけ でも それだけで人より特別な気がしてた それすら なくなってしまうんだ〉というこれは、たしかに日向への恋愛感情をもって発せられているのだが、敷衍するのであれば、一つの共同体が将来に解体されてしまうことの不安を示唆している。どうして主人公たちの年齢は中学三年に設定されているのか。読み手の年齢層(掲載誌である『りぼん』の需要)が踏まえられているのは間違いないにしても、物語の構造を見るのであれば、それが高校進学を期に離ればなれとなるかもしれない三人組にとって、その小さな共同体がその小ささだけで充足することのできた最後の瞬間を押さえているからにほかならない。繰り返すけれども、ヒロインの戸惑いは、まず恋愛感情によっている。だが、広く受け取ろうとしたさいにそれは一足先に大人びていく男の子たちを前にした戸惑いでもありうる。だいたい、杏菜を慮る颯にしたって、態度は子供じみているものの、良し悪しの判断、言い分はよっぽどしっかりしている。

 1巻について→こちら

・その他春田ななに関する文章
 『チョコレートコスモス』
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2010年04月17日
 居候お断り。 (講談社コミックス別冊フレンド)

 貧乏だがパワフルなヒロインと、年上だがナイーヴで頼りない青年が、諸般の事情により一つ屋根の下で同居することとなる、このような少女マンガのジャンルに定番なエッセンスをミックスし、片想いベースのラヴ・ストーリーを描いているのが、安理由香の『居候お断り。』である。主人公の町香は、高校に通いながら、母や兄とともに小さな食堂を切り盛りしていた。そこにある日、兄の高校時代の同級生であるという椎名が下宿してくることになるのだったが、無職である彼を世話するだけの余裕が家にはないので町香は良い顔をしないばかりか、昔から赤字経営にまったく危機感を持たない母と兄によけい苛立ちを募らせる。しかしそれまで肩に力を入れすぎ、頑なに生きてきた彼女の、心の強ばりをやさしく解してくれたのは、出会うなり嫌っていたはずの椎名であった。かくして、二人の関係が恋愛になっていくまでを作品は展開していて、まあそれもオーソドックスなパターンを踏んでいるにすぎないのだけれど、ほんらいはまだ子供じみている少女の、がんばり、背伸びすることの無理が、特定の誰か、つまりは異性の存在を通じ、年齢に相応しい可愛げを得ていくところに、白々しくないだけの実感が備わっているため、予定調和であってさえ、十分なときめきが生まれている。物語の心情は、あくまでもヒロインに寄り添っており、作者は「あとがき」で〈椎名はつかみどころのない感じが良いと担当さんに言われましたが 単に私が椎名のキャラをつかめていなかっただけの気がします〉と述べているが、たしかに今どき草食系男子といえば聞こえはよいものの、青年に与えられた個性は、もしかしたら少女の態度に対して、放られてきたボールを、壁、のように返している程度でしかなく、あまりぱっとしないのだけれども、技量以上の表現に手を広げていないぶん、かえって焦点が一つに絞られ、ぼやけていない印象を持つ。
2010年04月13日
 真夜中だけは好きでいて 2 (フラワーコミックス)

 駆け出しのCMプランナーであるヒロイン、春日まどかの恋した相手、桐谷純はライヴァル会社の営業マンであり、悪質な手段を辞さないことでその名を知られていた。しかしまどかの純真で一途な姿は、次第に桐谷の頑なな心を解していく。お互いにお互いを必要とし合う二人であったが、お互いがお互いを必要とすればするほど、結ばれるのは困難であるように思われてしまう。はたしてこの想いは諦められなければならないのか。それが相手のためであれば、自分の気持ちは殺そう、平静でいよう、そうつとめているにもかかわらず、激しく焦がれるばかりなのであった。畑亜希美の『真夜中だけは好きでいて』は、2巻に入り、まどかと桐谷の相思相愛が、両者を各々めぐる二つの三角関係が折り重なることによって、よけい波乱含み、さらに障害の与えられた様子を描く。以前にもいったとおり、ストーリー自体は、いかにもメロドラマティックな筋をなぞらえているにすぎないのだが、これもまた述べたように、作者ならではの手つきが、その、紋切り型ですらあるラヴ・ロマンスの光景を、なかなかのものにしている。人間関係はすっかり泥沼にはまっているのだけれども、それがコメディに近しいテンション、テンポのよさで繰り広げられているため、じめじめ暗くて重たくなるはずの内容に、意外なまでのさやわかさが出てきているのである。桐谷の過去、復讐劇であるような側面、彼に目をかけるMM広告の社長がマゾヒストふうであるなど、アイディアの一つ一つが見え透いていることに驚かされはしないが、それは必ずしも作品の印象を悪くしていない。物語のレベルで、というよりはむしろ、心情のレベルで、作中人物たちの表情を豊かにしている。このことはとくに主人公であるまどかの、どれだけ悩み疲れても明るさの失われない資質に、よく生かされており、結局のところ、桐谷や同僚の幸村が、彼女に惹かれるのもそこだろう。広告の業界を舞台にしている必然性にしても、働く女性を題材にしたリアリティにしても、1巻の時点と比べるに乏しくはなっていて、そのへん、評価が分かれてくるかもしれない。だが、恋愛のままならなさ、ままならなさにも耐えなければならないせつなさは、十分なぐらい胸に響く。

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・その他畑亜希美に関する文章
 『ベイビー☆キスをどうぞ』
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2010年04月12日
 ナンバデッドエンド 7 (少年チャンピオン・コミックス)

 そう、ついに秘密を知られた剛が猛に連れ去られるのを心配し、〈どーする伍代〉と言う大丸に、伍代は〈マジでもう何もできねぇ…こっからは難破家(アイツんち)の問題だ〉と答えるしかないのだった。小沢としおの『ナンバデッドエンド』の、その物語は、とうとう、直接の問題を抱えた家族以外には誰も解決できない領域へ入る。当然、今まで以上にシビアであり、せつない問題を取り扱わざるをえないのだけれども、さすがこの7巻には、見るべき点が多い。したがって全部は触れられまい。いくら語っても言葉足らずになるのがオチであって、それはつまり、作品自体、たいへんすぐれていることが、ある種の佳境を得て、顕著さを増しているからなのだと思う。

 親の期待どおり育った兄、親の期待に添えなかった弟、こうしたコンビネーションはふつう、前者が世間一般から見ても優等生であるのに対し、後者は世間一般から見たら劣等生である、というふうに解釈される。しかし周知のように、『ナンバデッドエンド』というマンガにおいては、それが逆になっている。ほらまあ、猛なんてさ、どれだけコワモテであっても実家住まいの無職、しまいにはニートと呼ばれてしまう立場なわけだし、このへんの転倒した価値観は、もちろん秀逸なギャグにもなりえたのだが、シリアスな面でもまた、作品の彫りを深くしていることが、ここにきて、はっきりし出している。

 猛に問い質されたのち、両親と向き合い、真実を打ち明けなければならない剛の姿が悲痛である。〈ケンカばっかでヤになった…オレ 普通の高校生やりてぇって思って…普通にオレ…勉強とか部活とか〉ああ、こんなにも普通の、ごく当たり前の願いが、どうして、あれだけ団欒であった家族のシーンを引き裂かねばならないのか。思春期の子供を持った家庭にあって、親子間の葛藤は、決して珍しいものではないだろう。普遍的ですらある。一方、今どきのフィクションでそれをやるにはよっぽどの度胸が要る。テーマとしては古びたところがあるため、一つ間違えば、高級でありたい(だけの)読み手から、陳腐だと見なされてしまう可能性が高いためだ。この難しさを、変化球でありながら、ばっちりストライクに入るコースどりで描いているのが、7巻の前半、あの難破家にディスコミュニケーションが訪れてしまうくだり、といえる。

 自分たちに隠れて白百合高校へと通っていた剛を、責め、怒る両親のロジックは一貫している。父親の勝が〈オレが聞いてんのは なんでオレらに嘘ついたかってことだ!〉と口にするとおりなのであり、母親のナオミが〈お前は家族(みんな)をダマしてた 2年半も!!〉と述べているとおりなのであって、すなわち〈オメーは家族みんなを裏切った!〉ためなのだし、〈オメーは2年半オレらにチョーシ合わせて嘘ついてただけだ…〉からなのである。だが、剛の側に立ってみるなら、むしろ家族を裏切りたくなかったので、仕方なく嘘をつかなければならなかった。親と子の、心情のすれ違いが結果的に互いを傷つけ合う、こうした構図は必ずしも特殊ではなく、一般化されてしまっても構わないものだろう。しかしそのねじれが、難破家に固有のものであるとすれば、作品の構造によっているところが大きい。

 剛の告白によく耳を傾かれたい。〈教えてくれ オレ…行きたい学校に行っただけじゃねーか…オレのやったことって そんなに悪いことかな…〉と思うのは〈10代がケンカばっかで終わると思うと なんか…怖くなって…だってよ 学生ん時って…他にも色々できることとか…オレだってやりたいことも色々…〉あると気づいたからなのだったが、しかし自分に期待してくる両親の気持ちを考えれば考えるほど、正直にはなれなくなり、この苦しみが彼に〈オレだって好きで嘘ついてたワケじゃねーよ!! 千葉制覇とか関東制覇とかしたから何だっつーんだよ!! 全国制覇とかくだらねぇこと言ってんじゃねーよ!こんな家に生んでもらって迷惑なんだよ!!〉という、心とは裏腹な発言をさせてしまう。これは、主人公の剛が、筋金入りのヤンキー一家に生まれた次男であるにもかかわらず人並みの学園生活を夢見る、このような前提があってこそのものにほかならない。

 たしかにこの場合、剛の漏らした〈こんな家に生んでもらって迷惑なんだよ!!〉との文句は、売り言葉に買い言葉、的に出てしまったニュアンスがつよいものの、思春期の多くにとってそのような思いなしは、ファミリー・ロマンスの概念が教えるとおり、資質上、異常であることを意味しない。いやむしろ、正常であることの保証さえするだろう。このとき、今までそうした叫びを剛があげたことがなかったのは、そこに属している彼自身をも含めて難破家の環境が異常だったからだといえるし、他に理想を見る必要がないほどに難破家の環境が幸福に感じられたからだともいえる。いずれにせよ、もっとも注意されたいのは、先に引いた告白のなかで〈10代がケンカばっかで終わると思うと なんか…怖くなって…だってよ 学生ん時って…他にも色々できることとか…オレだってやりたいことも色々…〉と言われている点、要するに、両親の庇護から自立しつつある主体がモラトリアムの段階において自らの将来を模索しようとする、その、しごくナチュラルでもありえる成長の像が、ほとんどまっすぐな愛情で築き上げられている難破家の平和を切り裂いている、ということである。

 変化球でありながら、ばっちりストライクに入るコースどりで、親子間の葛藤を描いているというのはつまりそのような意味において、であって、いうまでもなくそれが『ナンバデッドエンド』に、ヤンキー・マンガのジャンルに止まらないだけの器量を与えているのだけれども、一方でユーモラスな設定のなかに家族の難題を描き出したエピソードは、今日でいうところのヤンパパであったりヤンママであるような層が、思春期に入って自意識に目覚めた子供との確執を通じながら、この社会でいかに保護者としての役割を再確認するか、多少真面目ぶって述べるとすれば、現代的な環境の変化が汲まれているようにも受け取れる。

 言い換えるなら、現在の若い世代が若い感覚を第一義に置いたまま父母のつとめを果たそうとする、その姿が成熟の新たな方向性になりうるかもしれないと仮定されるとき、主人公の発育と周囲の反応がそれを試しているのであって、予想外の事態に当面したナオミから呼び出され、剛の高校進学を世話した中学校教師、長谷川が再登場するのは存外見逃せない。前身にあたる『ナンバMG5』の、剛の妹である吟子が進路に悩むエピソードで活躍した長谷川は、そこにも描かれていたが、難破家の教育方針が是とは限らない推測となってあらわれており、両者の衝突は、そしてここでもまた反復される。

 長谷川とナオミの対談によって表象されている意見の異なりは、ずばりどちらが正論であるかを確定するのは難しい。教師と母親では、立場の違いがある以上、それは仕方がないことではあるものの、あくまでも一般論をとるなら、長谷川のほうに分があるように思われる。しかし彼自身が剛の進学に関し〈私は教師の権限をはるかに逸脱した行為をした…〉と謝りを入れているとおり、ナオミの怒りにまったくの正当性がないわけではない。同時に、剛の選択が、たとえ親子関係上の良識を欠いていたとしても、決して批判にのみ終わるべきではないことを、長谷川は〈難破さん…私が言うのも何ですが…剛のついた嘘に悪意はありません…家族が好きだからそうせざるを得なかったんです そこは…わかってあげていただけませんか…〉と代弁しているのであって、その〈アイツは何も悪いことしていません! アイツは自分を生きてるだけですから!〉という事実が、あらためてナオミの心情に息子の成長と自立を問うことになっている。このへん、タバコなどの小道具がナオミの苦悩をヤンママ(文字どおりヤンキーでヤングなママさんの意)のリアリズムへ寄せるのに役立っている。

 さりとて、『ナンバデッドエンド』の本筋であり本領は、ヤンキー一家の次男であることを課題として持たされた剛のハイスクール・ライフ、限られているがゆえに貴重な高校生活を、高いエンターテイメント性を介し、ファニーでありつつエモーショナルに切り出していることであった。これまでのストーリーにおいて、主人公が、生まれや育ちのせいで性格が歪んでしまった人物たちと渡り合い、勝利もしくは和解してきたのは、彼自身が生まれや育ちによって肯定されている、さらには彼自身が生まれや育ちを肯定していることの保証となっていたためにほかならない、こう作品のロジックを解釈できる。それが今回は剛を傷つける原因に裏返ってしまっているのだから、こたえるに決まっている。家を飛び出し、へこんだ彼を励まそうとする伍代と大丸の友情はやさしい。とくに伍代、いいやつだな、おまえ。かつて伍代が母親との確執を剛に救われていたことを思い返せば、なお感慨深い。〈これからお前がどーなりたいかだけハッキリすりゃ 今すべきこともハッキリすると思うんだけど…〉と、剛にかける言葉、表情に、照れ、は見えないだろう。

 しかるに、剛をふたたび奮起させる直接のきっかけとなっているのは、これが意外と重要なのだけれども、藤田さんとのメールのやりとりであって、そのあたりが、コミカルな場面のつくりも含め、じつに秀逸なのである。たまらないものがある。そう、どれだけどん底の気分にあっても、好きな相手からの連絡一つで、助けられてしまうことがある。思春期に固有なことではないが、思春期に顕著なことでもある。それが伍代や大丸の友情を前段とし、たいへんよく描かれている。藤田さんからのメールが着信したとたん、携帯電話をするどい手つきで開く剛の表情を見られたい。あれはたしかにギャグである。藤田さんのチャーミングさ(藤田さんには呼び捨てしたくないような魅力が絶対にあるよ)も半ばギャグである。しかしギャグである以上に、少年の励まされるが何たるかを、的確に再現している。いやほんとう。

 友情と恋愛の両方を糧に、ようやく剛は〈そうだ…忘れてた! スゲェしたいことあるじゃんオレ!! 白百合だけは卒業すっぞ!! 藤田さんやみんなと一緒に!!〉という決意とともに晴れやかな笑顔を取り戻すのだったが、それを、学費の工面を理由にカラオケ・ボックスでアルバイトするエピソードへとシームレスで繋いでいくのは、展開上、うまく出来ている。作者の技術だといえる。かくしてこれが、親子間の葛藤を題材にしている一方で、主人公にとって高校時代最後の夏休みを舞台にしていることがわかりやすくなっている。

 実際問題として、00年代以降、ヤンキー・マンガのジャンルは、夏休みをスキップしてしまうことが多い。その理由の一つは、学生生活の内容がどうというよりも、学園をベースに、国盗り合戦、軍記物をやっているにすぎないものがほとんどだからであって、おそらくは、作中の人物を内戦状態の外へ置き、ドラマを付け加えるのは、物語に余剰を持ち込むこととなりかねない、つまりは不要な設定であると見なされているためで、『ナンバデッドエンド』が、他と一線を画しているのは、やはりこの点、学生生活をあくまでも学生生活として描くこと、不良少年のモチーフを、国盗り合戦や軍記物のスタイルへとすり替えるのに適した方便とはしていないことだろう。驚くべきは、それが結果的に、しょせん地区予選程度の抗争劇を繰り広げているにすぎない他の作品に比べ、特攻服をまとった主人公による全国制覇という、スケールの大きな成り行きを孕ませてしまっているところでもあった。

 いずれにせよ、都内にある伍代の家で居候する剛は、渋谷の街に出、カラオケ・ボックスのアルバイトを得る。これは、距離と交通を考えるなら、千葉の実家にいてはありえなかったシチュエーションをもたらしているのだが、そこでストーリーに入ってくるのは、どうやら渋谷では知られた顔であるらしい二人組、見るからに凶悪そうな雰囲気を漂わせたグリとグラのコンビである。今後の展開を先取りしていえば、グリとグラの存在は、暴力を縦の軸に、不良少年のイメージを横の軸にしながら、剛と猛の兄弟たちと一つの対照をなしていくこととなる。

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 『ナンバMG5』
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2010年04月08日
 前巻からの引き、そしてこの最終11巻に描かれる全国大会の決勝戦から余韻まで、たいへんぐっとくるものがあった。野部優美の『空手婆娑羅伝 銀二』だが、一人の不良少年が、空手との出会いを通じ、とくに精神的な面で成長していく過程を、余すことなく描ききったと思う。作風は暑苦しく、ともすれば古くさかったかもしれない。だがしかし、そのような観点がマイナスとはならない、いやむしろそれ自体が、普遍的とさえ言い換えられそうな、色の濃い感動をもたらしているのである。クライマックスはもちろん、主人公である銀二とライヴァルにあたるピッコロ(伊東)の、はたしてどちらが最強に相応しいか、不屈さを試すがごとく、勝敗を分けていくところに見られる。試合内容のすばらしさは、小林まことの『柔道部物語』における三五と西野のそれを彷彿させる。一方で物語はここまでに、道場の人々、家族や友人を含め、周囲の愛情により、個人がつよく生かされる様子を、まっすぐ汲み取っていたのであって、そのすべてが決勝戦での打ち合いを介しながら、あらんかぎりのやさしさへと結実する点に、やはりぐっときてしまうのだよ。決勝戦の半ば、銀二とピッコロの対照を描くにさいし、ややアクロバティックな手法がとられているのだけれども、それはとてもうまくいっている。身体と内省の表現においては後者に寄りすぎではあるものの、拳の交わる一撃一撃を、あくまでもコミュニケーションの延長として、どう比喩的にあらわしたらよいか、すくなくとも作者なりの解答例が出されていることを評価されたい。やがてピッコロにかける銀二の〈おーし いつまでもこんな暗い所にいねーで 明るい場所に行こ――ぜ さ 立て〉という言葉の重みが、あるいは反対に深刻な世界を晴らすような軽さが、作品の鮮度を上げている。かくして銀二がピッコロの呼び名を変えるのは、さりげないが、じつに効果的な印象を持つ。所在のない人間はいつだってどこにだっている。だからこそ、誰にだって救いはある、必ずや互いが互いに互いを認められる人間と巡り会える、決して孤独ではない、と信じなければならない。たぶんそれは、いくら繰り返されても構わないテーマを担っているので、ぐっとしてしまう。

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2010年04月07日
 女神の鬼(15) (ヤンマガKCスペシャル)

 時として人は、趣味や世代の違いごときを理由に争う、壮絶な諍いを繰り広げる。しかしその、たかだかにすぎない程度のことが死活問題にまで発展してしまうような水準の持ち方、トライブやイズムとでもすべき対立の身も蓋もないありさまに、今日性がうかがえるのであれば、田中宏の『女神の鬼』が、作品の舞台に、高度に資本化され続けていく社会においてメルクマールたりえる80年代の過去を選んでいるのは、現代史の本質を探るうえでの必然にほかならないのであって、まあ作者がどれほど自覚的であるのかは定かでないにしても、さすがすぐれた嗅覚といえよう。この15巻の冒頭、鎖国島の王様を目指すギッチョのため、そして自分の不甲斐なさを晴らそうとし、単身、西側のテリトリーに忍び込んだアキラが、家屋にされた落書きを目に、呟く言葉を見られたい。〈よいよ‥‥見覚えのあるラクガキがあるわい‥‥うす気味悪ィモンばっかし描きゃ〜〜がって…〉そこには、場所を本土と離島に違えても何一つ変わらない、決して理解不能な者同士のあいだに横たわる価値観の衝突が、暗に示されているのだと思う。広島の市街にあって、のちほど鎖国島に集められていった不良少年たちは、みな同類、鬼として忌むべき存在に一元化される。だが結局のところ、そのなかにも差異の避けられぬことが、まさしく命を賭すほどに彼らを決戦させているのである。

 ところで先々の展開のネタを割ってしまうことになりかねないのだけれども、ちょうど発売のタイミングが重なった本巻収録分(第百二十二話)と『ヤングマガジン』NO.18掲載分(第百十八話)は、ぜひとも合わせて読まれたい内容になっている。後者に対する伏線の一部が前者に含まれているからなのだったが、それ以上に、寄生族と呼ばれる少年たちの存在感が、双方を通じ、ぐっと高まる仕掛けになっているためでもある。社会からは悪とされ、鬼とされ、鎖国島に送られていったのは、いわゆる暴走族の不良少年ばかりではなかった。ドングリマナコくんを例に、いっけんすれば弱々しく、人畜無害の坊ちゃんであるような少年たちが、他方に含まれていた。不良少年でもない彼らがどうして、鎖国島に追いやられなければならなかったのか。西側のテリトリーに入ったアキラを介し、ついに読み手はその理由を知ることとなる。壁一面に貼られた幼女の写真に〈………‥なるほど‥‥いわゆるお前ら寄生族っちゅ――のは…違う意味であっちで暮らせん鬼っちゅーコトか〉と納得させられるのであって、そうした趣味嗜好をまったく、変態の類としてしか理解できないため、不良少年たちに蔑まれた目で見られていることが、あきらかになるのだった。が、ここで留意しておきたいのは、やっぱり変態って気持ち悪いよね、ということではない。暴力に走ることも、性癖が異常であることも、社会の側からすれば、その質の違いは関係なしに、病巣として切り離したいということなのである。また、15巻の段階で寄生族の〈ホンマの王様〉としてアナウンスされている人物の正体がじつは、『女神の鬼』のなかでも、きわめて病んだ魂の持ち主ともいえる○○○である点は見逃せない(現時点では伏せておくのがよいだろうね)。

 要するに現在の感覚にしたら厳しめであるぐらい、暴走族も寄生族も、犯罪者でなければ病気のせいであるかのように扱われているわけだ。そこに物語が80年代であることの理由を見てよいものの、いやじっさい、12巻でギッチョが生まれ故郷を発たんとするくだり、松尾老人が問うとおり、世間から鬼と判断されてしまった以上、社会の側に彼らを受け入れられるだけの余地はない。当人たちにしても、この社会には自分が生きられる環境はないと察しているので、鎖国島へ渡ることを待望するよりほかなかった。

 かくして、もはや離島にしか居場所を与えられなかった若者たちの、トライブやイズムを違えてしまったがために共存はかなわず、互いを打倒しなければ自己の正当性も得られない、このようなサヴァイヴァルが幕を開けているのである。さらにそれは同世代間の闘争を、そして異世代間の闘争をも内包するだろうことは、とうとう西側への潜入を見つけられてしまったアキラを取り囲む敵、敵、敵の面々によってはっきりとさせられている。噂に聞いた先輩風情、元極楽蝶、宿敵の金田、それらは必ずしも一枚岩ではない。だが、各々の因縁が絡んだ先でアキラと、ひいてはギッチョと、真向かいの等しい側から対立するようなかっこうで結びついている。このへん、田中宏の緻密な設計図が感じられるところであって、ようやく鎖国島以前のエピソードが結実してくるのだけれど、構造のレベルでいうなら、かつては大勢を巻き込み、広い枠内で相対化されていた者同士を、狭い範囲に移すことで、その相対化をより直接的にし、つよめることになっている。ここで注意しておきたいのは、そうした相対化の免れえないことに、作中の人物たちが自覚的な点なのであり、むしろ彼らは進んでそれを引き受けているがゆえに、諍い、争いのなかに身を置くことを良しとしているのだ。もちろん、サヴァイヴァル自体はプロセスであって、方法上の問題にすぎない。結果としてのぞまれているのは、間違いなく、自他の優劣を明確とすることにある。この意味において、王様になることで獲得される絶対性とは、鎖国島においてじつに効率的な措置、具体的な権利だろう。

 鎖国島の王様とは、いわば相対化を前提とし、その地位の、価値が求められるような計算である。ただし、すくなくとも一人だけ、これを共有することなく、王様になろうとする人間がいる。そう、主人公のギッチョにほかならない。彼の闇雲なスタンスは、鎖国島の特殊なルール下にあっても、常軌を逸していることは、13巻からこちらの展開が教えているるとおりであるし、目的の前にはほとんどのライヴァルが意識されていない。あくまでもア・プリオリな欲望として行使されている。際立って純粋といっても差し支えがないと思う。ここで押さえておきたいのは、アキラをめぐり西側の連中が一堂に会する場面、ほぼ初見である渥美と荒木に対し、雛石兄によってギッチョが〈何より‥‥最後の‥‥‥‥‥いや‥‥最も色濃い‥‥内海一派じゃ!!〉と紹介されていることであった。渥美、荒木、内海の関係性についての詳しくは省くが、まず重要なのは、彼らからは内海を代理する人間としてギッチョが認識されている、この点だろう。濁りの巣のエピソードに描かれていたように、内海は亡くなった恋人(女神と言い換えてもよい)の記憶を手がかりに、トライブやイズムを越えようとした、あるいは一時的に越えていったのだけれども、結局のところ、社会から鬼として見なされたまま、死んだ。その役割をギッチョの引き継ぐかもしれない可能性が、渥美と荒木との邂逅を通して、読み手に仄めかされているのである。しかし同時に思い返されたいのは、1巻の幕開けで不吉な予告編のごとく描かれていた風景、悲痛なギッチョの独白であって、もしもあれが破滅をあらわしていたのだとしたら、純粋なまでの欲望の先、鬼として鬼の群れのなかを生き抜いたギッチョはいったい、何を果たすことになるのか。物語は未だ予断を許さずに続く。

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2010年04月05日
 君のナイフ 1 (ジャンプコミックスデラックス) 君のナイフ 2 (ジャンプコミックスデラックス)

 持ち味のはっきりとしたマンガをいくつも描いてきている小手川ゆあだが、作家性とでも呼ぶべきは、当時流行りのサイコ・サスペンスを手本に置き、作品の心情を次第にアウトサイダーの側へと寄り添わせていった『おっとり捜査』の後半において、すでに具体的であったと思う。すなわち、次のとおり述べることが許されるなら、この社会から逸脱してしまうかもしれない可能性を今日的な原罪として見ることであって、それが織り込み済みである以上、逸脱してしまうかもしれない可能性を直に生きてしまった人間を受け入れられるだけの余地があるかどうかを、世界に対し、問うている。このことに関してはもちろん、『ARCANA』や『ライン』、『死刑囚042』などの諸作にも敷衍できるだろうし、最新の作として1、2巻が同時にリリースされた『君のナイフ』からもまた、同様の意識がもたらされる。

 高校の臨時教師として働く志貴雪鷹は、とある晩に知り合った女性から〈一回人を殺して500万円もらえるとしたらどうする?〉という不穏な提案を持ちかけられる。個人的な事情により大金を必要としていた彼は、半ば疑いの眼差しで話を聞くのであったが、はたして殺人の代行は現実のものとなってゆく。中国人男性のヤン、本職は刑事の久住と、各々の素性を知らぬままにチームを組まされた志貴は、悪質な手口で富を築く会社役員をターゲットとして殺さなければならない。じっさい、目の前で人が死ぬ、殺されて死ぬ、その場面に立ち合った彼は、臆しながらも使命を果たすべく、家捜し、厳重に閉じられていた地下室に足を踏み入れる。しかしそこで志貴が出会ってしまったのは、霊感で人の心を読める少女さつき、であった。父親の死体を見たにもかかわらず、自分たちの正体を知り〈すごい!あなたたち正義の味方だわ(略)私も仲間になる!! 連れてって!!〉と喜ぶさつきに唖然とし、予想外の事態に対処すべく、とりあえず彼女とともに現場を離脱した志貴と久住は、今後の展開に頭を悩ませる。さつきを殺したくない志貴に彼女を引き取らせた久住は、自分たちが起こした事件の犯人はようとして不明であることを、刑事の立場から確認し、笑みを浮かべる。一方、平凡な市民でしかない志貴は、良心の呵責に苛まれることになるのだった。

 かくして『君のナイフ』は、この社会から逸脱していきながらもこの世界に止まろうとする人物たちの様子を、殺人の代行というアイディアのなかに描く。与えられたターゲットについて、それがその個人に特定されなければならない理由は、志貴たちの側にない。にもかかわらず彼らの内面には、殺人を良しとしてまで目的をなさなければならない動機がある。両者の齟齬にサスペンスが生まれていて、宙づりにされているのはおそらく、正義の存在ということになるのだろう。誰のもとにも正義があることと誰のもとにも正義がないことの区別は、いったい何によってつけられるのか。社会的な基準を向こうに回すことで、心理の表層ばかり重たくなってしまった現代をドラマ化しているわけだが、必ずしも作品は、正義とは何か、倫理のあるべきを大上段に構えていない。むしろ確定された倫理はどこにもなく、足場とはならない、それが常であり、不安定であるような世界像をフィクションにあらわしているのだといえる。

 日常を踏み外してしまった志貴の葛藤をよそに、殺人の依頼は次々とやって来る。残酷な犯罪者でありながら逮捕から逃れている男がターゲットであるとき、久住がそれを容赦なく裁こうとするのを目にした志貴のモノローグが印象的である。〈不思議だ クズミのことが恐ろしくない 殺人も…それどころか好感さえ感じる 正義のためでも 金のためでもなく クズミは自分のために殺してるんだろう オレはずっと殺しに意味付けを探してたけど それは必要ないのかもしれない クズミは自分のため ただそれだけで…〉これは自己の正当性が、もしかすれば外在に頼れるものではなく、各個の心因に根ざしていることを射ているように思う。べつの価値観を用意することで、罪悪感を棚上げし、自分を納得させようとする志貴に比べ、久住の手続きはもっとずっとシンプルに見られており、それが先の言葉に繋がっているのだ。

 これを踏まえながら『おっとり捜査』の9巻を開かれたい。ある人物が自分の正当性を以下のとおり述べている。〈欲しい物は欲しい 犯りたい時は犯り 喰いたい時は喰う 込み上げてくる衝動を抑えきれない(略)オレたちはきわめて原始的な人間なんだろーな〉そして〈――――お前もか〉と、主人公にその行動原理を尋ねる場面である。作中でそれを言っているのは、社会から逸脱するほどの猟奇性を生きてはいるものの、すぐれて社会的な人間として描かれている。つまり、彼の資質が悪であるという判断は、社会性の有無によってのみでは、的確にされえない。だが、犯罪者にほかならないという自覚を〈オレたちはきわめて原始的な人間なんだろーな〉と指しているのは、話を『君のナイフ』に戻すのであれば、志貴が〈オレはずっと殺しに意味付けを探してたけど それは必要ないのかもしれない クズミは自分のため ただそれだけで…〉と見なす久住の態度にも通じる部分があるだろう。

 ところで作者の過去作を例に出したが、『君のナイフ』における志貴とさつきの関係にしても、前例がないものではない。いうまでもなく『おっとり捜査』の秋葉とみずほであったり、『ARCANA』の村上とまきであったり、『死刑囚042』の田嶋とゆめであったり、成人男性と純真な少女のペアは、小手川ゆあのマンガにとって鉄則ともとれる。おそらく作者が、このパターンのコミュニケーションを、ギャグの面でもシリアスな面でも、得意として扱っているというのはある。だがそれ以上に、欠損を抱えた者同士の結びつきであるような側面が、この社会から逸脱してしまうかもしれない可能性と相対する要素となっている。この世界に逸脱の可能性を生きてしまった人間が受け入れられるだけの余地はあるかどうか、たとえささやかであったとしても世界の一片と一片に間違いない二人が関わり合うことのなかに、もしかすればそれは示されようとしているのだと感じられる。

・その他小手川ゆあの作品に関する文章
 『ショートソング』(原作・枡野浩一)
  2巻について→こちら
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 『死刑囚042』第5巻について→こちら
2010年04月03日
 サンクチュアリ-THE幕狼異新 1 (ジャンプコミックスデラックス)

 野口賢、冲方丁の原作を得、新選組を描く。とはいえ、この『サンクチュアリ -THE幕狼異新-』の1巻において特徴的なのは、近作を経て、いよいよ個性となりつつある野口式のサイキック・バトルが、幕末を舞台に全開させられていることだろう。すなわち現在の段階では、冲方の貢献は、物語のレベルではなく、設定のレベルに大きい。新選組とは。と、わざわざ説明する必要はないと思うが、ここでのそれは、近藤勇の遺命を土方歳三と沖田総司が引き継ぎ、是が非でも存続させようとするものとして描かれている。すなわち近藤はすでに死んでいる。しかも池田屋の事件で命を落としたことになっている。かくして史実の改変が施されているのだけれど、新選組のなかで近藤の不在を承知しているのは土方と沖田のみであって、影武者のごとく幻術で近藤勇(いさみ)を演じるのが、深雪太夫という謎めいた妖女である。その、土方、沖田、美雪太夫、の三名が、近藤によって託された美意識を象徴的に指していうのが、つまり「聖域(サンクチュアリ」なのであり、なるほどタイトルもそこに由来しているわけだ。しかし先ほども述べたとおり、作中で展開されるサイキック・バトルのはったりこそが、最大のフック、新選組に加わった隊士たちの壮絶な生き様をもっともよく伝えてくるものになっている。野口は過去作の『BE TAKUTO!!』で、車田正美のマンガの一節を引いていたことがあったが、荒唐無稽なサイキック・バトルが野郎の信念をダイレクトに代弁するかのようなスタイルは、車田のそれに近しい。異能の力を使い、異能の力を持った敵と攻防する、そういう新選組隊士たちの姿は、まるで『風魔の小次郎』の戦士たちを思わせる。細かい点はさしあたり抜きにしたっていい。土方と沖田はもちろん、斎藤一や島田魁、井上源三郎らが、超常的な決戦を繰り広げることに燃えられたなら、じつにしめたものである。

・その他野口賢に関する文章
 『狗ハンティング』(原作・夢枕獏 / 構成・子安秀明)
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  1巻について→こちら
 『KUROZUKA -黒塚-』(原作・夢枕獏)
  10巻について→こちら
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2010年04月01日
 恋の実力 愛の才能 (フラワーコミックス)

 尾崎衣良は、一対一の男女だけで織り成されるラヴ・ストーリーを、とても達者にマンガ化する。そのことはたとえばこれ、読み切り作品集である『恋の実力 愛の才能』の四篇によって、じつにあきらかだろう。場合は異なれど、若い年代の恋愛ってそうそう、このようにすれ違い、諍い、離れそうになったところでくっつき直し、またあたらしくはじめられるものなのだ、ということの実感をよく掴み、描き出せている。特徴的なのは、男性の側の内面が女性の側からはまったくうかがい知れない、つまり対他関係においては当然であるような戸惑いをしっかり押さえ、余すことなくヒロインの心情へと託している点で、結果、どのエピソードでも男性の像がひじょうに淡泊で我が儘にも見えるふうになっているのだけれども、それは決して作中の人物が丁寧にあらわせていないからなのではない。あくまでも視点、女性である主人公の視点に特化された語り口にいっさいのぶれを許さないことが、男性の振る舞いをしばしば、冷めたものとして映し出すことになっている。言い換えるなら、そのとき彼女は彼の言動をこう受け取っているよ、という表現が十分に果たされている。もちろん、じっさい彼のほんとうはそのとき違う、これが物語自体の説得力に繋がっているのであって、こういうストレートなロマンスにあっては伏線に近しい役割を持っているのだが、そのへんも抜かってはいないことは、たとえば「おやすみ真夏の月」や「独占ハッピネス」の結末にわかりやすい。要するに、作中に男性の内面がつくられていないわけではなくて、それがすっかりと隠れてしまっているように感じられる瞬間、ヒロインの胸を占める不安、寂しさをたしかな筆致で切り取っているそのことが、作者の力量を信頼させる。
2010年03月30日
 my little world (マーガレットコミックス)

 この佐藤楓の読み切り作品集である『my little world』には、小さくて素敵な恋の物語が五つ入っている。なかでもとくに良いと思われるのは、連作仕立ての表題作にあたる「my little world〜若葉〜」と「my little world〜咲季〜」の二篇である。前者では市村若葉という中学一年生の妹を、後者では市村咲季という中学三年生の姉を、マンガの主人公に置きながら、それぞれの片想いを描いていくのだけれども、性格や印象、タイプの異なる二人の、しかし、その恋の実らないかもしれない可能性においては等しく胸を痛めなければならないことが、つまりは大勢にとって〈叶わなくて 苦しくて 誰にも言えなくて 私だっていっしょだよ〉という経験の決して他人事ではないところをよく掴むことで、こちら読み手との距離を近くしている。たしかに、幼馴染みへの告白に踏み切れない、年齢と立場が異なるため躊躇わざるをえない、といったストーリーは、紋切り型の一種であろう。だが、話の運び、ポエジー、作中人物の表情のよさが、いやこれもまた誰かの亜流といわれてしまいそうな部分もなくはないとはいえ、ああ、せつなさを噛みしめてあとに残る情緒の、なんて心憎いことかよ、を信じさせてくれる。不器用な少年の一途さを、ヒロインの視点から覗いた「コズミックワンダー〜乙女とライオン〜」もなかなかなのだけれど、デビュー作であるらしい「Sweetest goodbye」の、短いページのなか、ぎこちなくではあるものの、我が儘な恋人に振り回される側の弱気を精いっぱいのつよがりに持っていき、二人のあいだにコミュニケーションの魔法をかける、その手つきも悪くない。これは他の篇にもいえることだが、作者の魅力は、素直になれない男子のイメージとそれを視認しようとする具体的なプロセスによって、おおきく担われている。
 君じゃなきゃダメなんだ。 3 (マーガレットコミックス)

 もちろんのように、タネもハラも違えばまったくの他人になりえるものの、タネかハラが一緒であればまったくの他人というわけにはいかない。ふつう、近親相姦型のラヴ・ストーリーは、主体と対象の関係がそうした区別のどちらに分かれるのかを謎めかし、もったいつけながら、恋慕と抑圧のシーソーを盛んにしていくものであるが、田島みみの『君じゃなきゃダメなんだ。』の場合、わりとあっさりネタを割ったところから、イケメンさん二人とヒロインの、はらはら、をあいだに挟んだ共同生活を描いているのだけれども、これがなかなかにおもしろい構成を作品にもたらしている。要するに、血の繋がった兄妹がそれまで離ればなれであったのをどう歩み寄ってゆくか、と、血の繋がらない兄妹がお互いを異性として意識してしまうことの困難、を、ほぼ同時進行、パラレルに展開しているのである。物語のレベルにおいては、特筆すべき点はすくないかもしれない。たとえば前巻やこの3巻に見られるようなくだり、性格に裏表のあるワキの人物たちが、菜花、蒼と紅、の付かず離れずにちょっかいをかけてき、追い追い、雨降って地固まる、式の進捗をもたらすというのは、学園をベースにした少女マンガのジャンルにパターン化されたセオリーだろう。しかし『君じゃなきゃダメなんだ。』が興味深いのは、先述したとおりそのなかに、軸足を同じくする二つのステップを埋め込んでいる点であって、もちろんそれを可能にしているのは、主人公である菜花の、良くいえば純粋すぎる、悪くいえば世間知らず、な資質にほかならない。彼女は、血縁のある蒼を肉親として見るのに疑いがない一方、血縁ではない紅を素直なほど肉親から外れる可能性で眺めてしまう。これが結果として、蒼にも紅にも影響を与えることになっている。心理の部分に深い葛藤のほとんどないぶん、キュートな戸惑いを際立たせ、家族と恋愛のテーマをあっさり、一挙両得しようとしている機能性に、作品の魅力はあるのだと思う。

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・その他田島みみに関する文章
 『学校のおじかん』
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2010年03月26日
 サムライソルジャー 8 (ヤングジャンプコミックス)

 ああそうか〈俺は…まともなお前と違って……バカだ バカは一度信じたモンを忘れられねえ〉という言葉に、藤村新太郎のモチベーションは示されてゆく。そして彼はその前段でたしかにこうも言っていたのだった〈ナオト 誰かを信じるっつーのはよ そいつに自分を全部預けちまうことなのかよ!? 人を信じてやるってことはよ…そいつの人生とトコトン闘い続けてやるってことじゃねーのか!?〉と。青春やモラトリアムと呼ぶにはあまりにも血なまぐさい若者の抗争を描く山本隆一郎の『サムライソルジャー』であるが、この7巻では大半をワキの過去回想編に費やしながらも、話の進めるべきところは進め、作中人物たちの心情をざっくりえぐり出すことで、作品の彫りをまた一つ深くしている。

 かつて、たった二人で渋谷ENVYというチームを組み、結束の固かった鮫島正平と神波多ナオトが、なぜ袂を分かたねばならなかったのか、今やZEROの幹部として渋谷連合の頭として対立し合う両者の、中学生時代の交わりを通じ、その、悲痛な分岐点が描かれることとなる一方、作中の時制を現代に戻したところで、渋谷連合の暴走を止めるべく、単身、彼らの陣中に乗り込んだ藤村が、市川佑介の卑劣な提案を、やむをえず飲み、ナオトとタイマンを張るなか、口にすることになるのが先に引いたセリフである。それはもちろん、前もって述べられた〈ナオト…おめーは自分の大事なもんがいつだってきっちりわかってる奴だ…俺も自慢じゃねーがよ 大事なモンだけはわかってるつもりだ…それにバカな分 子供(ガキ)の頃から変わりゃしねえ ナオト…おめーなら わかってくれると思ったがな なんで俺が不良(ココ)の世界に戻ったか〉この本質を言い換えているのであって、前巻の〈………今じゃあ付き合いもねーが ジョーだろーが一度ツルんだ奴は死ぬまでダチのつもりなんだわ〉という主張を受けているのだけれども、ある意味、『サムライソルジャー』の物語におけるフック、エモーションの突端となる部分を教えているように思う。

 藤村の言葉を聞いたナオトが〈桐生のために不良の世界に戻ってきた…!?〉と察するとおり、それは表面上、友情のテーマに集約される。では、その友情を信じるとはどういうことか、主人公の口を借り、態度をもって示されている様子は、なるほど、胸を熱くさせるのであったが、看過されてならないのは、ほんらいであれば、藤村と桐生の関係もしくは藤村の個人的な理念にすぎないものが、ZEROの成り立ちを介し、あるいは鮫島とナオトの関係を対照にすることで、『サムライソルジャー』の、物語の全般にまで敷衍されている点だろう。

 いうまでもなく、鮫島とナオトの訣別は、桐生と藤村のそれの、オルタナティヴな位置づけを果たしている。お互いがお互いにお互いを他には決して替えられない同性だと認めながらも、何らかの不幸を契機とし、道を違えなければならなかったことが、結果的に、渋谷の街中を巻き込んだ抗争へと発展している、こうした確執に近似であるようなものが見られるのである。そのとき重要なのは、彼らの立場は同時に不良少年の異なったイズムを代弁していることであって、ひいてはZEROと渋谷連合に初代「藤村新太郎」を加えた三つのチームの、各自のイデオロギーに直接繋がっていることにほかならない。しかして物語の構造上、さらに注意されたいのは、ナオト(ZERO)と鮫島(渋谷連合)の葛藤が私怨を逸脱しようとしつつも私怨に絡み取られていくのに対し、藤村と桐生(ZERO)のそれは私怨にこだわりながらも私怨を逸脱していっていることだ。すなわち、後者のほうが前者よりもスケールが大きい。そこから見えてくるものもまた少なくはない。

 渋谷連合の面々、とくに現在のトップである鮫島とナンバー2の市川に色濃く投影されているのは、間違いなく、孤独であって孤立であろう。7巻で鮫島はたしかにこう、ナオトに向かい、言っていたのだった。〈お前も這いつくばるんだ 俺が生きてきた孤独って闇の中を〉と。市川の非情さが、彼の孤立した魂からやって来ているのは、ここまでの展開において、疑うべくもない。それが渋谷連合の根幹であると仮定したならば、ZEROの、すなわち桐生達也の本腰はもっとほかのところにある。たとえばこの8巻の、ZERO結成当初に時を遡った過去回想のなか、桐生の〈親に捨てられ 先公に無視され 家庭でも学校でもずっと用なしだった俺にとって やっと見つけられた居場所がこの渋谷の街だ その居場所を汚す お前らゴミどもがのさばるんなら 俺はたとえ一人でも戦い続けるつもりだが みんな勝てねえ喧嘩だって 俺をアホ呼ばわりするわけよ そんな俺以外にも 卑怯なお前等に 堂々と一人で立ち向かう 最高のドアホウ見かけちまったらよ 友達になりてえから体張ってみたくなるべ?〉という言葉が、ナオトの胸を打つように、おそらくは孤独や孤立を逆さまにしようとしている。

 しかしその桐生のスタンスが、いつしか、よじれ、べつのものとなってしまったのではないか、もしもそうだとしたら、他の誰でもない、彼をよく知る自分が厳しくあたるべきなのではないか、と信じることこそが藤村の友情でありモチベーションだといえよう。ここでもう一つ気に留めておきたいのは、藤村がいったんは不良(ガキ)の世界を退いたにもかかわらず、ふたたび不良(ココ)の世界にカムバックしてきた人物だということだ。換言するならば、モラトリアムの外側に出、成熟することを良しとしていたのだったが、上記の理由により、あえて少年の価値観に臨まなければならなくなったのが藤村なのであって、過去にも繰り返しいってきたのだけれども、そうした主人公の存在に対置されているのが、渋谷を統一し、永久的なモラトリアムのユートピアを実現せんとする桐生の企てなのである。

 じつをいうならそのような観点においても、ナオトと鮫島の関係は、藤村と桐生のオルタナティヴになりえていることが、中学生だった頃の姿に暗示されている。そもそもナオトとの一蓮托生を誓った鮫島が、孤独に陥らねばならなかったのは、博美という恋人の喪失によっていった。鮫島への友情から、敵対していたチームにさらわれた彼女を秘密裏に取り返そうとしたナオトは、だがその配慮が裏切りにとられ、反対に憎しみを買ってしまうのである。二人の行き違いが深刻化する過程においては、博美が女性であること、そして鮫島の子供を身籠もっていたことが、強力な変数として関わっている。正直なところ、この、中学生の妊娠を作中に導入する手つきは、やや乱暴であるし、表面的な効果はさほどないものの、踏まえることで、鮫島の人物像に、父親として成熟すべきを引き受けられなかったイメージが付加されているのだった。

 ここで見られたいのは、博美がナオトに妊娠を打ち明けたさいの、以下のような夢想だと思う。〈私の夢は子供のために一生懸命働いて 正平も私たちをしっかり守ってくれて 何か一生懸命がいっぱいの家庭(イエ)に ナオト あんたが おみやげにおやつを買ってきてくれて それを4人みんなで食べるの〉というそれは、甘やかであればあるほど、なおかつ決してありえなかったぶん、モラトリアムの外側に幸福を託すことの困難を喚起させる。そして、もしかすれば、ではあるが、藤村と桐生のあいだに横たわる暗く深い影、つまりは雫と呼ばれた少年の不在も、同様の困難にかかっているのではないか。

 不良(ガキ)の世界にとどまることと、そこから出てゆかねばならないこと、さらには別種の選択肢があるのかもしれないこと、すくなくともこれらの三つ巴が際立った図式のなかを『サムライソルジャー』の主人公たちは生きている、そう考えられるとき、誰もが同じ問いを前に違う答えを手にしているので、反発のための諍いにのめり込む。

 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
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 2巻について→こちら
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 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
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  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
2010年03月22日
 たしか以前にも引いたようにヤンキー・マンガの現状について〈一部のものを除いて、ヤンキーエピソード集、ヤンキー出世物語集だよ。それって、「本当にあった○○話」じゃないの?(略)ああいう“実話”ものってほかにもたくさんあるけど、あれは読者の体験記を元にマンガを描くとか、マンガ家がそれぞれ自分の体験を描く体験エピソード集だよね(略)ヤンキーマンガが堕ちたっていったらなんだけど、作品ではなくなっているような感じが俺はしているんだよ〉と『このマンガを読め!2010』の座談会で言っているのはいしかわじゅんだが、これに関してはもうすこしべつの見方もできるように思う、というのはつまり、内面を語るメディアとしてのこのジャンルの機能が、時代をくだり、特化され、より多くのヴァリエーションを求めた結果、いわゆる体験談や自伝的な要素と結び付いたかもしれない可能性である。そもそも原作が、芸能人の書いた実話ベースの小説である点を踏まえてもいいし、逆に差し引いてもいいのだけれど、先立って品川祐(品川ヒロシ)の同名作を鈴木ダイ(鈴木大)がコミカライズした『ドロップ』にしても、この佐田正樹がオートバイオグラフィふうストーリーのゆうはじめによるマンガ版『デメキン』にしても、煎じ詰めれば、不良少年にも内面があるんだぞ、式の切り口をテーマの下敷きにしているのであって、これはもちろん、今日におけるヤンキイッシュな表現手法の拡張にほかならない。しかしながら自分があまりそのようなアプローチを高く買っていないのは、メッセージ性(まあね)を個人の葛藤に寄り添わせるあまり、ストーリーの立ち方はせこくなるしかなく、その内容にはっとさせられるものがほとんど見られないからである。かくして、この1巻では、子供時分にデメキンと呼ばれ、いじめられていた主人公が、一念発起し、不良少年となっていく様子があらわされているのだが、作中の人物たちがやたら盛り上がっているほどにはこちらのテンションはあがってくれないのが正直なところ。当時のヤンキー文化的な情報をディテールにストックしているあたり、半径の狭い世界を丁寧に描写しようとする誠実さがうかがえはするものの、残念ながら現段階では、それ以上の成果をあげられていない。

・その他ゆうはじめに関する文章
 『クローズ外伝 リンダリンダ』(監修・高橋ヒロシ)
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  4話目について→こちら
  2話目について→こちら
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2010年03月21日
 A−BOUT!(1) (少年マガジンKC)

 結局のところ、いま現在ヤンキー・マンガのジャンルに用いられるリアリティという形容は、不良少年にだって内面があるんだよ、といった程度のことを指しているにすぎないのであって、それはたいていの場合、生まれや育ち(遺伝や環境)の問題へ、からめ捕られていくのだし、シチュエーションの現実離れしたものが時としてリアルだと受け取られてしまうのも、所詮はそれによっている。この傾向は、高橋ヒロシのフォロワーであるような、要するに、1975年前後に生まれた作家たちに顕著である、というのは過去にも繰り返し述べてきた。が、しかし彼らよりも若い世代の、つまりは『クローバー』の平川哲弘であったり『足利アナーキー』の吉沢潤一であったり『ランチキ』奥嶋ひろまさであったり『A-BOUT!』の市川マサであったり、といった作家たちになってくると、そうした事情は少々違ってくるみたいだ、というのもさんざん述べてきたのだけれど、その特徴をわかりやすくすれば、さしあたり内面がどうというよりも不良少年を決して利口ではないものとして描いていること、になるだろう。いやそれは必ずしも悪い意味ではない。たとえば文学の歴史が証明しているとおり、内面に対する固執は軒並み表現と物語のあり方をせこくしてしまう。そのようなせこさをとっとと免れている点に、新しいヤンキー・マンガ作家たちの可能性を見ることができる。先ほど名前を挙げた市川マサの『A-BOUT!』に出てくる不良少年にしたって、この1巻を読むかぎり、たいへんバカだ。そして馬鹿さ加減がそのまま、作品の魅力へと通じているといっていい。不良の巣窟として知られる私立光嶺高校、そこに転校してきた主人公の朝桐慎之輔は、喧嘩上等のうえ、目立とう目立とうとするのだったが、じっさい彼の登場を期に校内のパワー・バランスは変わりはじめゆく。事の起こり自体は不良マンガにおける古典的なヴァリエーションにほかならないものの、主人公の頭の悪さをよくあらわせていることが、ページをめくった先、筋書きをわくわくさせるところにまで持っていっているのである。しかしバカバカくどくて申し訳ないが、シリアスに考えたときでさえとくに注意してきたいのも、やはり朝桐の馬鹿さ加減にほかならない。彼の、きわめて単純化された思考回路は、いうなれば内面のせこさに対するアンチテーゼなのであって、反証的なスケールの大きさをともなっているため、腕力のつよさやタフさとはべつのレベルでもライヴァルであるような他の人物たちのこだわりを小さく見立て、軽く凌駕する、その根拠たりえているのだ。
2010年03月17日
 これはたいへんキュートな初恋の物語であって、とにかくもう、ひよりん、というヒロインの一挙手一投足を目の当たりにしたとたん、ああちくしょう、そのたどたどしくぎこちない慕情を心から応援したくなってしまうよ。高校入学の前日に事故に遭い、12月になろうかという時期にようやくクラスに復帰した西山ひよりは、生来の人見知りもあり、はたして皆に溶け込めるかどうか、大きな不安を覚えながら、担任の教師に紹介されるのであったが、そのとき遅れて教室に入ってきた男子、広瀬結心とたまたま横に並ぶことになってしまい、二人の身長差があまりにも著しかったため、べつの意味で注目をされる。ひより、140p。広瀬、190p。席も隣同士となった二人は、見栄えばかりか、性格も対照的であり、人当たりもよく、大勢に好かれる広瀬と接するうち、ひよりは彼のことを意識せずにはおれなくなる。しかし広瀬と親しくなればなるほど、不釣り合いな自分を思い知らされる。以上が、雪丸もえの『ひよ恋』1巻に描かれている、だいたいのあらましである。最初に書いたとおり、広瀬から、ひよりん、と呼ばれるヒロインのいじらしさに、このマンガの魅力は負うところが大きい。いやまあ、正直にいって、現実で身近にいたならば、少々いらっとさせられるタイプであるかもしれない。けれども、そこを好感の抱ける人物像にまで持って行けているあたり、作者の手腕を買える。ひよりに対する周囲の人物たち、とくにやはり広瀬の態度がよいのだ。もしかすればネガティヴな印象になりかねない彼女の資質に、それ以上の、勇気や元気が前向きにあらわれてくるふうな一念を与えているのは、まず間違いなく、広瀬のあかるさ、おおらかさなのであって、もちろん、そうした影響のありようが、初心なラヴ・ストーリーの、片思いの喜びと辛さのよくすくい取られた展開、さしあたり、ひよりん、がんばれ、と声をかけたくなる瞬間をもたらしている。

・その他雪丸もえに関する文章
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2010年03月16日
 彼はトモダチ(7) <完> (別冊フレンドKC)

 ああ、これはよくまとめた。じつによくまとめられているのであって、全7巻という長さのなか、紆余曲折はあったけれども、吉岡李々子の『彼はトモダチ』は、たいへんに満足のいく落着、不覚にも涙させられてしまったほど、きれいなエンド・マークを打てていると思う。たとえば、両想いがいかにして実るかよりも、実った両想いをどうキープするかが、近年の少女マンガにとって重要なテーマになりつつある、というのは少なからぬ人間により指摘されているところではあるが、その観点からいえば、あきらかに『彼はトモダチ』は、前者の、要するに古式ゆかしいマナーに従っているといってよい。じっさい、いくらか見え透いたアイディアはあったものの、それらの総和が、正しく感動と呼んでも差し支えのないワン・シーンに収まろうとしていくクライマックスには、だめだ、自然と泣かされてしまうので、困るよ。ほんとうは好き合っていたはずなのに、結ばれるまであまりにも遠回りしてしまった二人、日和と佐々本の恋は、作中で、運命、の一語に集約されている。つまりは遠回り自体が物語化されており、その結末が運命に喩えられているわけだ。が、しかし、それはあらかじめ定められていた、と、すべてを簡略化しているのではない。最後の場面で〈あたしたちはなんで とても簡単なこたえが わからなくなるんだろう 悩んで 迷って まちがえて でも そうやって見つけた こたえが きっと 運命って 言うんでしょう?〉といわれているとおり、何もかもが不確かであやふやな道筋を、よれよれ、彷徨ってようやく辿り着いた結論を、受け入れ、肯定的に言い換えてみせる、そのような意識のあらわれを指す。たかが恋愛、もしかしればそう見なされるだろう。その、たかが、程度のことに熱を上げ、さんざん我が儘にも振る舞った末、各人が手に入れられたのは、一般論からすれば当然、たいして褒められたものではない。にもかかわらず当人たちにとっては、それが絶対にしか感じられない、だからこそ運命として認められる、これに対し、はたしてどれだけ共感のエモーションを持たせられるか、『彼はトモダチ』の説得力はほとんどそこにかかっている。作品の奥行きは決して深くない。だけど、恋愛がときおり浅はかなものだとすれば、その真髄を掴まえているので、ふと眼の前が霞むし、逆らえない。

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2010年03月15日
 真夜中だけは好きでいて 1 (フラワーコミックス)

 しかしなぜに自分はこうも畑亜希美の作品が好きなのか。絶対に、すごいとか巧いとかどうとか何とか、そういう評価で語られるマンガ家ではないのだったが、ひじょうに好みなのは間違いがなく、いやまあ単純明快に考えるなら、この作者ならではのテンポがたしかにあって、それがこちらの趣味にはまっているせいなのだと思う。だいたい、登場人物たちの喜怒哀楽、テンションの持たせ方からして、独特なところがある。やたらハイではあるものの、それは必ずしも彼ら彼女らの不真面目さに由来しない。はしゃいだりとぼけたりすかしたりしているのが常日頃であるような人間だって、時と場合に応じ、他人や社会とシリアスな関係を結ばざるをえないのは当然のことであり、その様子が物語化されているとき、むしろ各人の個性を引き出し、伸ばし、十分な魅力を与えるのに適当なデフォルメとして見られるのである。この1巻が出たばかり、『真夜中だけは好きでいて』に関しても、そうしたカラーに変わりはないといえる。たしかに前作の『ベイビー☆キスをどうぞ』に比べ、ギャグの要素はあからさまでなくなっているのだけれども、劇中のトーンは決してダウンしておらず、真面目なやりとりにあってさえ、この作者ならではのテンポに勢いのよくついていることが、登場人物たちの表情と物語の内容とを生き生き、際やかにしている。

 中堅の広告代理店、ドリーム広告に勤める春日まどかは、駆け出しのCMプランナーであって、一所懸命仕事に励むのだったが、会議ではろくなアイディアも出せず、怒られてばかり、そんな自分に不甲斐なさを感じている。いつも同じく、深夜、職場からの帰り、落ち込みながら立ち寄ったスーパーでの出会いが、まさかいくつものドラマを運んでくるのだと彼女はまだ知らない。売り場で困っていたところをスーツ姿の若い男に助けられたまどかは、その笑顔とやさしさに元気をもらい、さらには着想を得、はじめて上司が認めるほどの企画を立てられたのだったが、翌日、自分の喜びと感謝を伝えようとする彼女に対し、彼は冷たい。にもかかわらず、まっすぐ向き合ってくるまどかの態度にその顔つきは緩んでゆく。お互いに名前を知ったまではよかった。しかし桐谷純という、その男がじつはライヴァル会社、MM広告のやり手営業マンであったことから、今にもはじまりそうであった二人の恋愛は、ねじれにねじれ、さまざまな障害を抱えることになる。

 以上の筋書きを、都会的な企業を舞台に社会人の恋愛を描いたものとしてはいささかステレオタイプ、紋切り型であるように思うかい。いやまったくそのとおりである。だが、そうしたプロットの手垢にまみれた部分をぬぐい去るとはさすがにいわないのだけれど、すくなくとも凡庸に戯画化された企業像と葛藤を前に、一組の男女がいかにピュアラブルなラヴ・ストーリーを築き上げるか、このへんに焦点の合わさっていく物語において、畑亜希美ならではのテンポが、登場人物たちの、しばしば考えなしで素っ頓狂な言動すらも新鮮みのあるアプローチにしてしまう、それがあたかも作品自体のテーマと不可分であるように受け取れることに注目されたい。ヒロインであるまどかが、桐谷の存在を介して(あるいは桐谷がまどかの存在を介して)直面するのは、公私の問題といえよう。想い、惹かれる相手とは、職業上、対立しなければならない。しかし恋愛の感情がプライヴェートにとどまるものであるかぎり、あくまでも可能性としては、企業上の倫理を持ち込む必要はないと考えられる。これがたぶん『真夜中だけは好きでいて』という題名の一端にかかっているのだが、当然、そのような線引きをきっちり、まったくの負い目を除けてしまうことは、人間の内面にとってたいへん難しい。まどかと桐谷の、ことあるごとにころころと表情を変える様子は、まるで極端な躁鬱を行き来しているふうである。だがそれは、公私の不自由なバランスの内側で、引き裂かれつつ、たとえ割り切ろうとしても、否応なく盛り上がってしまう主観を、肯定的に掴まえられているからなのだと思う。

・その他畑亜希美に関する文章
 『ベイビー☆キスをどうぞ』
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  1巻について→こちら

 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
2010年03月13日
 恋をするまで帰さない 1 (フラワーコミックス)

 家事代行業の仕事に勤め、根は真面目な21歳の女性が、派遣先の高校生男子(もちろんイケメンさんである)に猛アプローチされ、歳の差や立場など、いくらかの葛藤に苦しみながらも、しかしほだされ、交際することになったのだけれど(当然、隙あらばセックスするのは前提でね)、その、受験生である彼氏の進路に関わる教師が、彼女の知人であるばかりか、かつて良い仲になりかけたことがあったため、ただでさえ気苦労の多い恋愛により厄介な影が差し込んでしまう。こうした筋書きは、俗情というよりも欲情と結託している以上のものではないのだったが、他人を思い遣ろうとする気持ちと自身では儘ならぬほどの執着が、入り混じり、たった一言、好き、の一言に単純化してしまえるはずの関係が、こじれにこじれ、当事者同士が互いに相手を傷つけ合わなければならない羽目になってしまう、それがちょうど、心と心の不安定な距離感をわかりやすく、明示するかっこうの表現となっているところに、織田綺の『恋をするまで帰さない』の魅力を見つけられるだろう。この1巻を読むかぎり、ラヴ・ロマンスをベースにしたマンガの手法上、もしかすれば心理の描写に特別な点はない。ストーリーの展開も紋切り型に近しい。にもかかわらず、そのオーソドックスな形式のなか、作中人物たちが持ちえるダイナミクスを、序破急ともいえるテンポの丁寧さでしっかり、切り出すことにより、自然と盛り上がれる部分が多くなっている。印象的なセリフがあった。晴れてヒロインと結ばれたはいいが、波風ばかり立ち、彼女が自分を遠慮しているふうに感じるあまり、切羽詰まった男子が、携帯電話を使い、直接問い質そうとする場面である(p-170)。〈好きな人のために無理することの何が悪いんだよ!!〉というそれは、たしかにありきたりであるし、子供じみた弁論にすぎないかもしれない。腐すのは容易い。が、しかしセリフ自体のインパクトがどうというよりも、だ。物語の内部において、すくなくとも彼がそう言うだけの必然があり、そう口にしなければならない道筋がちゃんと辿られているので、せつなく、頷かされるものがある。
2010年03月10日
 幻仔譚じゃのめ 7 (少年チャンピオンコミックス)

 すくなくとも自分にとって、梅田阿比の『幻仔譚じゃのめ』は、家族の繋がりをめぐりめぐるすぐれたファンタジーであった。精霊や化け物との共存が不可避であるような状況を解れ目とし結び目とし、子が、親が、弟や姉が、妻や夫が、お互いがお互いにお互いの必要性を心の奥深いところで確認し合い、次第に育ってゆくあたたかな温度をすばらしく繊細なタッチで描ききってみせたと思う。もちろん、さまざまなエピソードのなかには友情や恋愛の要素も多分に含まれてはいるけれど、この完結編となる7巻を読み終え、胸に去来するのはとくに、ああこうして家族は一つになることもできるのだな、という感動のつよさである。そしてそれは必ずしも血縁上の問題を述べているのではない。本来は他人であった者同士が一個の家庭を得、関係することで、遺伝や環境や運命すらも包括してしまう、かのような広さと大きいイメージを、なるたけ身近で小さな物語の延長線に掴まえているのだ。

 それにしても『幻仔譚じゃのめ』というマンガを語るうえで、ぜひとも触れておきたくなるのは、やはり父親の存在だろう。象徴的に見られたいのは、義理の姉弟となり、成り行きから不思議な能力を分かち合わなければならなくなった主人公たち、朝灯と邑の父親である伊原陽の、じつに頼りなく平凡な佇まいだと思う。物語の初期の段階において、彼はまさしく蚊帳の外に置かれていた。これはひじょうに重要な点であって、作者の意図したところに違いないのだが、父親の再婚相手である巴が蛇の精霊の末裔であったため、その息子である邑とともに数々の奇異と遭遇することとなる朝灯、たとえば彼女たち三人の生活が絶えず非日常と交わり続けることを不幸だとしたとき、それを知らず、のほほんと一人だけごく普通の日々を送る陽の、気楽ともとれるありようは決して責められるものではない。いやむしろ彼のそうした位置づけは、ある種の苛酷さと接することで消耗した妻や子供たちが、ひとときそれを忘れ、帰る場所として、要するに日常の重み、ありがたさを与え、休ませる役割を引き受けていた、と解釈することができる。

 かつてのフィクションであったなら、そのような役割は、母親もしくは母性によって補われていたものであったかもしれない。だが『幻仔譚じゃのめ』では、あたかも父親もしくは父性がそれを肩代わりしている。そこから批評性とすべきを指摘してもよいし、鋭敏な感性を見て取っても構わないのだけれど、このことが作品の終盤において、さらに印象的な場面をつくってゆくこととなる。6巻に収められたエピソードで、ついに陽は自分以外の家族が抱えていた秘密を知らされる(第48話)。そして誠実ともいえる対応をもって妻や子供たちを包み込もうとする(第49話、第50話)。このくだりに関しては、戸惑いや躊躇い、葛藤が足りていない、描写が十分ではない、と述べられる向きもあろう。しかし平凡な男性にすぎないはずの彼が、訳ありである家族の屈託を余すことなく抱きかかえ、すべてやさしさで覆ってしまう、これこそが物語の構造上、何よりも優先され、あらわされなければならなかったことは、7巻の、つまりは全体のクライマックスに至って、証明される。

 さまざまな因縁の入り混じる最終局面、その、直接の引き金となるのは、伊原家の主である陽と、邑の実の父親であり、志田家を代表する兵梧の面談である(第56話)。伊原家と志田家の対照は、作品の中盤よりこちら、本筋と呼んで差し支えのない部位を担っていたわけだけれども、それがとうとう陽を巻き込むのは、娘や息子、妻たちのただならぬ秘密を、彼自身が認めたためであった(第49話)。そこでようやく、志田家の長女であり、邑の腹違いの妹である出流の、伊原家への視線からうかがえるとおり、両家の立場は、完璧な反対性を帯びる。しかして、等しく四つのピースで出来上がった家族同士の、ちょうど長男である人間たちが、父親もしくは父性の一時的な喪失をきっかけに、死闘の様相を見せはじめる、そのことを看過してはならない(第56話)。伊原家の長男、邑は、危害を加えられ、記憶を奪われてしまった陽を前に、兵梧に対する怒りを爆発させる。一方、志田家の長男であり、邑の腹違いの兄、大和は、父親の愛情が自分には注がれていないと感じて、暴走、臥せった兵梧を踏み越える。このとき彼らはいったん、まさしく父親もしくは父性の、ワキに追いやられている、ワキに追いやっているのである。

 父親もしくは父性の、抑圧から逃れなければならなかった大和を、出流や朝灯たちが抑止しようとすればするだけ、事態は深刻さを増し、父親もしくは父性の、信任に値するものを取り戻そうとする邑が、それを説得するかのよう、決戦に応じるさまは、多少熾烈ではるけれど、じっさい兄弟ゲンカの類にほかならない。別々でありながらも、接点があるばかりにねじれ、望まれない対照となってしまった二つの家族が、ここでその、双方の欠損を通じ、代表者をしてぶつかり合い、同じく愛情というテーマのなか、収まっていく。死闘を経、傷を負った邑と大和に、あらためて家族の実感を諭すのが、それぞれの父親、陽と兵梧であるのは、たいへん印象的だ(最終話)。

 単行本化に際して、連載時にはなかった4ページの描き下ろしが付せられている。巳緒と呼ばれる小さな少女が、朝灯と邑の妹として登場している。三人の間柄は、当然、兄弟である。しかしラストのカットは親子のようにも見える。あるいは親子のようにも見えることが、朝灯と邑の、もっとずっと先の未来を暗示しているふうにも思われる。はたして二人はその未来で、夫婦となっているのだろうか、姉弟のままでいるのだろうか。正直にいえば、どちらであろうがどうでもよい。なぜならば、いずれであっても一つの家族であることに変わりなく。それだけは疑いようのない、真であることは、すでに描かれ、知っている。

・その他梅田阿比に関する文章
 『フルセット!』4巻について→こちら
 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら
2010年03月07日
 肉の唄(3) (ヤングマガジンKC)

 コウノコウジが『肉の唄』というマンガにプロレスとして描き出そうとしたのはきわめて高度な表現である。だがそれは不首尾に終わったといわざるをえない。しかしまったく無視されてよいものではないだろう。この完結編となる3巻(要するに『ヤングマガジン』本誌から別冊や月刊に発表の場を移してから)の、およそ半分を費やし、展開されるクライマックスには、作者が意識的にある様式の過剰化をはかり、それによって目新しいフレームの今にも生じそうな手応えが、未遂ではあるものの、はっきり感じられる。大げさかな。自分ではそう思わないけれど、話半分に取ってくれて構わない。総合格闘技の世界を追われ、成り行きから「新世紀プロレス」の門をくぐることになった一色亮太であったが、真剣勝負(シュート)を志していた頃の記憶を拭うことができず、あくまでもエンターテイメント性を競うプロレスの、その稽古に熱を入れられない。マッチメイカーである涼子に才能を高く買われ、期待されながらも、たしかなモチベーションを得られないまま、とうとう彼のデビュー戦が決まろうとしていた。相手は、アマチュアレスリングの日本代表候補を経、プロレス入り、いちやく人気選手に駆けのぼった藤沢賢太郎である。一色の実績と浅からぬ因縁を持つ藤沢は、万全を期し、執念を傾け、リングに上がろうとする。はたして強敵である藤沢との勝負の最中、ついに一色はプロレスの真骨頂と出会うことになるのだった。これがたとえば、単純に藤沢をくだし、試合に勝利した結果、めでたしめでたしとなる物語であったならば、いっさい驚かされたりはしない。だがそうなっていない。あらかじめ一色は、負け役に徹せねばならず〈この試合のフィニッシュ技はプリンスドライバー フィニッシュの時間は試合開始後二十分過ぎ それだけは絶対に守るのよ!〉と、敗北しなければならない旨を涼子に伝えられている。こうした制約を前に、どうやって彼は面目躍如するのか、その、肉体と心理の複雑な葛藤を、プロレスの構造を通じ、直接に描こうとすることが、作品の、最大の見せ場をつくっていき、表現の、奥行きを、ああもうすこしですごいことになりそうだった、という惜しさへと深めているのである。ただしそこまでの助走が長かったのはたしかであって、おそらくは急ぎ足に結末を迎えざるをえなかったことが、はからずも功を奏し、終盤の迫力や緊張をもたらしている感は否めない。

 1巻について→こちら

・その他コウノコウジに関する文章
 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
 メルヘンちゃん(1) (なかよしKC)

 いちおうはまだ『小川とゆかいな斎藤たち』が続いているなか、茶匡が新たに送る『メルヘンちゃん』は、やはりこのマンガ家らしく、学園ベースの愉快などたばたコメディであった。13歳の伊達まりあは、スコットランド人の母を持ち、容姿は端麗だったが、人見知りがつよく、祖父からもらった妖精図鑑を肌身離さず、メルヘンの世界に浸りがちであるため、学校には友達が一人もいない。しかしふとしたきっかけを経、らびこ、という小さな妖精の姿を見ることができるようになり、そのせいでさまざまなトラブルに巻き込まれながら、クラスメイトたちとの関わりを多くしてゆく。こうした、他の誰かがクッションとなることでヒロインのコミュニケーションの幅がひろがる、という概容は当然『小川とゆかいな斎藤たち』に通じるものだろう。いやそれ以前に、現実離れしたマスコットの介入によってヒエラルキーにおける主人公のポジションが改まる、式のフィクションをヴァリエーション化しているにすぎない。たしかにらびこは、必ずしもまりあに協力的なわけではなく、妖精が見えてしまう人間の「おめめ」を狩らなければならない、このような使命上、共存、むしろスタンスは悪質であるものの、それは表面の設定にほかならず、本質をうかがうなら、きわめてオーソドックスなパターンをとっている。ただしここで注意しておきたいのは、1巻の1話目、つまりはもっとも大切な出だしに顕著なとおり、主人公が周囲にコミットするさい、ほとんど善意や努力といったものは払われていない、すくなくとも当人の意志とは関係のないラッキーばかりが助けとなっているふうに見えることである。まあこういったケースでは、主人公を駄目人間とするのが常であって、作中人物の幼さには相応しいのだけれども、いささかその我が儘に対し、都合がよすぎる。もちろんそれを作品の瑕疵とすることはできる。反面、現代性だとすることもできる。いずれにせよ、テンションの高さとテンポの勢いで読むようなマンガなんだから細かい点はべつにいいじゃんね、の一言で済ますことだってできる。

・その他茶匡に関する文章
 『小川とゆかいな斎藤たち』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年03月03日
 この、『らーめん才遊記』の1巻に付せられている帯で、谷口悟朗が『ラーメン発見伝』をベタ褒めしているのを見、けっこう驚かされたのは、個人的に好きなアニメーションの監督であるからなのだが、いわく〈“夢”と“仕事” 異なるこの二つを一つの道につなげるにはどうすればよいのか。私にとって、[ラーメン発見伝]という作品は、その問いかけに対しての道標でした〉なのだそうで、いやまあ、たしかにそういう内容を持ったマンガではあったし、初期はおもしろく読めたものの、正直、中盤以降の展開は、はっとしない部分もすくなくはなかったと思う。

 さて。久部録郎(作)と河合単(画)のコンビが、『ラーメン発見伝』に続き、タイトルどおり、ふたたびラーメンを題材にしているのが、『らーめん才遊記』である。主人公は別人に変わっている一方、前作と設定を共有している点も多いため、一種の続編として見られても差し支えがないのだけれど、物語上のメソッドはだいぶ異なっていて、しかしそこがなかなか魅力的な出だしの作品になっている。

 汐見ゆとり、22歳、半年前はじめてラーメンを口にした彼女はその味わいに感動し、主としてラーメン店を相手にビジネスをするフード・コンサルティング会社「清流企画」の中途社員に応募するのだったが、面接での印象は最悪、社長であり業界の有名人である芹沢達也の不興を買ってしまう。ところが、入社試験の実技で非凡な才能を発揮、それを認めた芹沢に、人間性は決して褒められないながらも、採用を決定されるのだった。こうして従来の社会からすれば、常識を知らない若い世代の女性が、ラーメン食に携わる職務を通じ、力量を得ていく経験が、おそらくは主要だと推測される。ここで注意しておきたいのは、どのような語り口をもってそれが実現されているか、である。

 入社試験のおり、芹沢に〈ラーメンとはなんですか?〉と〈半年前に生まれて初めて食べて、大好きになったというラーメンを、あなたなりに定義してみてください〉と問われたゆとりは、ラーメンとは〈「ワクワク」なんです〉と答える。このあまりにも曖昧な定義は、ついに芹沢を怒らせてしまう。反面、彼と懇意である評論家の有栖涼には〈これって実はかなり本質的な指摘ですよ〉と言われることになる。ではどこがどう本質的であるのか。じつはこうしたやりとりによって、物語の構造はほとんど説明されているといってよい。

 要するに、希有なポテンシャルのヒロインが、直感で差し出す抽象的な真理の、ラーメンの創作やアレンジの作業を介しての、適切なロジック化がそのままストーリーの進行を担っているのだ。芹沢という年齢や立場が上位である男性の、権威や知識は、それを補填する効力にほかならない。ゆとりと彼の意見対立は、いわばアウフヘーベン状に懐疑をめぐる循環となっている。もちろん、これは『ラーメン発見伝』のなかにもすでにうかがえたアイディアではあったろう。しかしあそこでの主人公が、会社員として十分に生きられるだけの資質を有した人物であった(だからこそ谷口吾朗がいうとおり、仕事と夢の両立であるような物語になりえた)のに対し、ここでの主人公は、そういった要素を極端にダウン・グレードさせられている。

 たとえば、芹沢は、前作においても主人公のよきライヴァルとして重要な役割を果たしていたわけだけれども、『らーめん才遊記』におけるゆとりとの関係は、彼女の幼稚さがひじょうに際立たせられているため、それと似て非なる意味合い、ベクトルを持つ。序盤だからかもしれないが、単純に師弟とは言い切れないものもある。すくなくとも今の段階では、ロジックの構築と検証とを徹底させる手法としてかなり冴えているのであって、そこをおおきな魅力とし、読ませる。

 『ラーメン発見伝』
  26巻について→こちら
  23巻について→こちら
2010年03月01日
 キミのとなりで青春中。 / 4 (フラワーコミックス)

 ああ、これはひじょうによいラブコメである。ねえ、教えてよ、胸がときめき、恋することの痛みを教えてよ、という要請に対し、ユーモア交じり、たいへん鮮明なタッチで答えている。彼は〈………………なんつ――か…自分の中にある気持ち 言葉にしなけりゃなかったことにできるのに ってのは…すげーわかるから〉と言い、〈――――なんか 七瀬 見てたら 他人事と思えなくて 大事なモン失くすのがこわくて ウソつこーとする気持ち すげ――――わかるからさ〉と言う。なるほど、片想いのプロフェッショナルは、ときおり片想いのよきアドヴァイザーになりうる。しかしそのことが誤解となって、自分たちの恋愛にいざこざを起こし、せっかく近づいた気持ちを傷つけてしまったなら、本末転倒じゃないか。藤沢志月の『キミのとなりで青春中。』が、前巻から引き続き、この4巻で描いているのは、せっかく両想いになれたはずのカップルが、いや両想いになったばかりだからこそまだ不安のたくさんなカップルが、小さなすれ違いをきっかけ、真剣交際することの難しさを、あらためて認識する様子だろう。幼馴染みの慶太とようやく恋人同士になれた美羽であったが、その喜びも束の間、ほんらいはもてる彼がべつのクラスの女子、七瀬と抱き合っているのを見、疑い、信じ切れないせいで、巨大な不安に苛まれてしまうのだった。一般的には、まあね、と思われてしまう展開には違いないものの、これがある種の説得力、キュートでありつつエモーショナルな引っかかりを持ちえているのは、小さなつっかえが大きな障害になるという、恋愛の遠近法を適確に採用、再現しているからにほかならない。遊びじゃないので余裕もない。深く考えるあまり、生真面目、狭量に陥ってしまう、そのような心境を、初心な高校生の恋愛を通じ、コミカルに共感の幅をひろげながら、まっすぐ指しあらわしている。たしかにこの手のマンガにパターン化されたくだりはすくなくないし、はっきりいってここから先どれだけエピソードのヴァリエーションをつくれるか危うい。以前はそれをステレオタイプと判じてしまったが、いや今なら実直な手つきの、ひじょうによいラブコメであると思う。

 1巻について→こちら

・その他藤沢志月に関する文章
 『ラブファイター!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年02月28日
 黎明のアルカナ / 3 (フラワーコミックス)

 正直、藤間麗の『黎明のアルカナ』に関しては、1巻、2巻の時点であまりおもしろがれなかった。少女マンガのジャンルで、ファンタジーの世界を舞台とし、架空の身分差別をバネにすることで展開をつくるというアイディアは理解できたのだが、ではそこからどこに飛躍してゆくつもりなのか、ほとんど描かれていなかったし、現実性で考えれば苛酷でしかありえない境遇の痛ましさを薄め、適度にぬるくしてしまっているため、ドラマティックに跳ねる面も乏しかった。しかしこの3巻に入り、ようやく作品の見晴らしが定まってきた印象を受ける。ヒロインであり赤毛の不幸を持つるナカバ、政略結婚で彼女を迎え入れた王子のシーザ、さらには従者としてナカバに仕える亜人のロキ、そうした三角関係の愛憎が重要な役割を担うだろう予感は、あらかじめ得られていたものだったけれど、それらの人物の自覚が具体的になることによって、メリとハリとがだいぶ筋書きについてきたのである。敵対するベルクート国に人質として嫁入りしたセナン国の王女、ナカバはしかし持ち前の気概で、夫のシーザ王子を牽制、対等の立場を保ちながら誇りを守ろうとする。彼女に手を焼き、苛立ちを募らせるシーザだったが、いつしかそれは想いのつよさへと変わっていた。一方、ベルクート軍に対する恨みを抱き、ナカバとともに入国したロキは、二人が次第に打ち解けていく様子を見、複雑に心境を揺らすのだった。国レベルの権力が、諍い、対立するという大状況と、そこに巻き込まれた個人がいかにして運命を生きるかという小状況とを、かろうじて合算させてはいるものの、あきらかに後者のほうに比重のおおきな作品であって、ラヴ・ロマンスのモチーフが高まることにより、足場のしっかりとした描写が増え、はっとさせられる場面も多くなってきたように感じられる。一つの転換点として見られたいのは、やはり、ベルクート国王の容赦ない仕打ちを前に、シーザ、ロキ、ナカバの三者が、惜しげなく、眼差しを一致させるシーンであろう。これは必然、世界の存在を外部とし、それを向こうに回した側から、銘々の意識もしくは内面を照射、際立たせる表現となっている。その後の、リトアネル国の第5王子、アーキルの物語への介入も、近しい効果をあげているといってよい。創作上で、大状況に巻き込まれた個人がいかにして生きるか、これはつまり、その個人の単位をいかにしてあらわすかという技法の問題に含意される。舞台を仮構、生まれや育ち、特殊な能力を設定するだけで、必ずしもストーリーに魅力が宿るわけではない。ここにきてようやく、たしかな手応えが備わりつつある。
 ダイヤモンド ビート (フラワーコミックス)

 しばの結花の『ダイヤモンドビート』は、高校生のバンドを扱っているが、それはあくまでも一途な恋愛をフォローするための材料でしかなく、音楽マンガとして読まれるべき点はほとんどない。したがって、ラヴ・ストーリーに描かれていることのどこに魅力があるのかのみを見ればよい。ヒロインの紗月がヴォーカルをつとめるバンドのライヴは、ギターである輝一の腕前とルックスもあって、評判は上々、メンバー・シップも固く、すべてが順調に思われた。しかし付き合っているはずの紗月と輝一の仲だけがまったく進展しない。だがあるとき、レコード会社の人間を名乗る吉岡が訪ねてき、紗月のスカウト、引き抜きを申し出たことから、事態は一変する。こうした筋書き上、もっとも注意されたいのは、バンドの活動がどうこうではない。吉岡の介入がトリガーとなって、紗月と輝一の心境におおきな波紋がもたらされることにほかならない。二人の関係は、きわめて単純化するのであれば、愛情や才能に欠損もしくはコンプレックスを抱える者同士が互いを特別だと認め合い補う、式の成り立ちを持っている。そのような構図の強調線が、家族やバンドの存在を通じ、わかりやすく引かれているのである。しかしてそれが、余計な憂鬱とならず、ピュアラブルでチャーミングなロマンスとなっているのは、同様のネガティヴ・ファクターを吉岡が肩代わりし、彼を悪役とした対比の内に、前向きとなるようなニュアンスが仕込まれているためだろう。展開はいささか子供じみている。でもその甘さが、かえって印象をよくしているところに作品の本質を求められるのは、表題作のほかに収められた二篇(「ユキ・ドキ・スキ」と「7DAYSシンデレラ」)に関しても等しくいえる。

 『1/3ロマンチカ』について→こちら
 『この空に響け』について→こちら
 『太陽が呼んでいる!』について→こちら
2010年02月27日
 姫剣 2巻 (ヤングキングコミックス)

 桑原真也のキャリアにおいて、相応のラストを迎えられたのは、結局のところ、初の連載作であった『0リー打越くん!!』ぐらいであって、いや『TO-mA』だって悪くはなかったよ、という熱心なファンもいるだろうが、佐木飛朗斗と組んだ『R-16』を含め、中途半端に終わらされてしまうケースの多いような気がする。だいたい『ラセンバナ』はどうなったの、ねえ。もちろんその原因をすべて、作者の力量不足に求めるわけにはいかないのだけれど、すくなくともトータルな完成度を極めることのできないマンガ家との印象が弱くはなく。反面、その、勢い、はったり、急展開をこしらえていく手つきこそが、桑原の真骨頂と見なせなくもない、か。とはいえ、『姫剣(ヒメハバキ)』である。わずか2巻で完結したわり、話にまとまりがなさすぎるよ、と思う。とりあえず、設定をやたらおおきくしておきながら、あまりよく生かされなかった。せっかく改変の許された古代を舞台に用意したのだから、もうちょい、荒唐無稽を貫いてもよかった。ヤンキー・マンガの作家にエントリーされてしまったことが、そのイディオムにいったん慣れてしまったことが、殺伐としたエロティックなヴァイオレンスと綱引き、インパクトを削いでしまったところがある。ヒロインであるサラと歌鹿の決闘は、両者の身体は女性でも、不良少年同士の牽制し合いみたいになってしまっている。それ自体が良いとか悪いとかではない。ただ、ファンタジーを題材にした作品の幅を必ずしもひろげていないので、もやもや、悔しさが残る。

 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2010年02月25日
 地球の放課後 1 (チャンピオンREDコミックス)

 昔から吉富昭仁のマンガにはしばしば、達者な作家だな、と思わされるところがあるのだったが、いったいどこの部分がそう見えのるかといえば、おそらくは、その、語り口になるだろう。ここでいう語り口とは、さしあたりコマ割りや場面の構図、作品自体のデザインのことであって、ストーリーや設定のアイディア、概容は必ずしも非凡とは言い難いのに、なぜかしらはっと目を見張らされるものがあるわけだ。それは当然、この『地球の放課後』にも当てはまる。自分たち以外の人類がまったく消滅してしまった世界で、三人の少女と一人の少年が文明の残骸を借りながら、ささやかな共同生活を営む、こうした筋書きは、たしかに日常のイメージを逸脱してはいるものの、今どき斬新とはされないに違いない。にもかかわらず、白けることがないし、いや反対に引き込まれるほどの魅力にあふれているあたりに、吉富の達者さがある。題名は、この1巻で、早苗、八重子、杏南という三人のヒロインと並ばされ、たった一人配置されている男性の正史が、無人となった街並みのなか、次のように言うセリフに由来している。〈今はね…放課後みたいなものなんだよ いつか朝になって みんなが戻って来て 授業が始まる…きっと…今は地球が一息ついてるだけなんだよ〉。これは読み手の判断において、じょじょに人口を減らしてゆく一年前の事態にテレビのキャスターが〈良い終末を……〉と漏らしたのにかかっている、と考えてよい。いうまでもなく、そうした言い回しには学園生活の単位が比喩的に用いられているのだけれども、じっさい作中人物たちが生きている状況は決して平和とはなりえないはずなのに、彼らの暮らしぶりは、あたかもそれがアフター・スクールであり週末であるかのように、ほのぼの、安泰としている。現実社会にあって、終わりのない夏休みは存在しない。あるとすれば、非日常にほかならない。この非日常なシチュエーションが、にこやかな表情に、しかしときどき、不安をもたらすのである。ところで、これを読みながら、想起したマンガがある。意外かもしれないが、あずまきよひこの『よつばと!』であって、たぶん作品の温度や時間のありように通じる点がある、そう仮定することができるとき、スタティックな情景が描かれる『よつばと!』を、あくまでも物語として動かしているのが、あの、主人公の異彩さであるのに対して、『地球の放課後』の場合、現在がこうなってしまった原因、ファントムと呼ばれる生物の脅威が、物語の動力源にあたると推察される。同時に、というか、もちろん、というか、その存在は、たいへんな危険やおおきな秘密を孕んでおり、SF的な波瀾万丈の呼び水ともなっている。今の段階ではそうした展開はすくないけれど、やがて、順風を打ち消して逆さにするかもしれない可能性をうかがわせる。
2010年02月24日
 ねえ君、君がどれだけ尽くそうが、家族から見捨てられ、友情に裏切られ、恋人が離れていってしまう。それでも絶対に裏切らないし、裏切れない。間違いがないと信じられるものが残されているとき、いったい何と呼べばよかったのか。

 前巻で、作中においては完全無欠に等しい仁と義郎がまさか命を落としかけたその間一髪をアキラが救ってみせたのは、『仁義S〜じんぎたち〜』屈指の名場面に挙げられるだろう。じっさいそこでの立原あゆみの筆致には、突然放り込まれた手榴弾を掴み、迷わず、投げ捨てる主人公の姿からは、ひさしくなかったほどの興奮を得られる。そうしたハイライトを経て、関東一円会を割った六星会との抗争は新たな局面へ入ると同時に、アキラや大介、守の新世代たちの台頭は著しくなる。一方、出世するにつれ、彼らを取り巻く人間関係にも、もちろん女性の存在を含めて、変化が訪れていた。

 この12巻には印象的な箇所がある。それは江美に去られたアキラが、花いちというスナックのママさんと差し向かい、相棒であるドクター大内のことつについて交わす、次のような会話である(p97-98)。〈奴もバカだよな 大人しく医者やってりゃいいものを 何とち狂ってやくざとの二足のわらじ〉とアキラが述べるのに対し、ママさんが〈アキラを愛してるんじゃない〉と言う。これをアキラは〈やめてよ ゲイかい? 奴は〉とはぐらかすのだけれども、ママさんは〈そんな言葉でひとくくりにはできないわね 男が生きてゆくにはね 女ばっかじゃしょうがない 男がいなくちゃだめなのよ 女は男だけでも生きてゆける〉というふうに諭すのだった。こうした二人のやりとりはその前段(p-95)で、甲田に対する長峰の裏切りを思い、アキラが〈………何でもありなんか やくざは〉と言うのを聞き、大内が〈安心しろ 俺は アキラを裏切らん〉と答えるのを受けているわけだが、そこには『仁義S』のみならず、前作『JINGI』から、いやあるいは作者のヤクザ・マンガに脈々と連なる一つのテーマが見え隠れしているように思う。

 いわずもがな、『JINGI』とは、極左の天才テロリストであった義郎が、一介のちんぴらであった仁のなかに、いまだ自分の知らない世界を見、生き様をともにしてゆく物語であった。こうした基本線は『仁義S』にも継承されている。要するに、極道のアキラとエリート医師であったはずの大内の関係が、それ、である。仁と義郎の成り上がりが、お互いがお互いに命を賭すのも厭わなかったほどの信頼によって達成されていたのと同じく、アキラと大内のサヴァイバルも、彼らの名状しがたいコンビネーションを通じて果たされているのだ。

 さらにできるなら立原のヤクザ・マンガを一望されたい。驚くべきことに、その作品のほとんどは、『本気!』の本気と次郎を例に出すまでもなく、まさしく裏切らないバディを持った主人公が生き残る、かのような構造を持っていることに気づかされる。必ずしもヤクザ・マンガに当てはまらない『当選』にしてもそうではなかったか。反面、『花火』や『地球儀』、『弱虫』、『恋愛』などでは、バディを持たない孤独な主人公が、その逞しさとは裏腹に、はかなく散る、もしくは生死不明になってしまう。また以前にも触れたとおり、それらの主人公の大半が、肉親から見捨てられ、あらかじめ居場所をなくしてしまっていたことも忘れてはならない。

 たしか(うろ覚えになってしまって申し訳ない、いずれ該当箇所を見つけたら直接引用したいが)極道は自分のために捨て身となれる者が5人いれば全国を制覇できる、というような格言みたいなものが立原の過去作にはあるけれど、それもつまりは、絶対に裏切られることのない繋がりをいかにして望むか、を意味しているに違いない。

 そして、おそらくその繋がりは家族とも友情とも恋愛とも違う。似て非なる。あえて名指すとすれば、仁義、ということになるのかもしれない。仁や義郎は、アキラたち新世代のことをJINGISと呼ぶ。仁義たち。マンガの題名からメッセージを探るのが可能だとしたら、はたして真のJINGIを有した人間だけが争いのなかで生き残ることになるのだとしても不思議ではない。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『涙星〈アース〉チンピラ子守歌』1巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2010年02月21日
 さすが元『週刊少年ジャンプ』作家というべきか(いやいや)、たなかかなこの『秀吉でごザル!!』は、この5巻より本格的な異能バトルに突入する。しかも戦国武将その人たちが直接にぶつかり合うのではなく、憑き鬼神という、彼らの分身であるような存在が代理で行うのだから、さながらスタンド・バトルである(まあね)。と、述べてみたところで所詮それは表面をさらっているにすぎない。おお、と思わされるのは、やはり、宗教的もしくは神話的な構造が前面化すると並行し、そこに歴史上の有名人物たちが否応なく巻き込まれてゆく、そのスペクタクルに対して、なのだ。織田信長の背景にキリスト教を見出し、サタンと結びつけるアイディアは、ある意味、紋切り型であろう。だが、それを叩き台にしながらスケールをさらにひろげるさまは抜群であって、たいへんわくわくする。どこかに参考されている発想があるのかもしれないけれど、小さな島国である日本を〈自然神信仰においては超大国といってよい国である!!〉とするのは、〈かつて世界のほとんどの国は自然神信仰を持っていた…人間は善にも悪にもなりうる多様な神々と暮らしていたのだ〉ったが、一神教の拡大によって世界情勢は変動してしまい〈もはや世界に自然神のよるべき国は日本だけになりつつある…!!〉からであり、その結果、第六天魔王である信長を含め、多種多様な憑き鬼神と彼らを憑依する戦国武将たちの、まさしく決戦の場に相応しくなっている、こういう舞台設定の在り方に、おお、エキサイトさせられるものがある。朝廷の介入を通じ、天皇家がなぜ絶対なのか踏み込んでいるあたりもよい。しかしここで重要なのは、主人公はあくまでも木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)であって、物語の内容自体は、彼の身辺的な欲望に従っていることだ。そしてそれは、信長と藤吉郎の、一般にイメージされる主従関係を、必ずしも徹底しない、しばしば覆す仕様をもたらす。藤吉郎は、信長の妹である市姫に恋い焦がれ、熱心な想いを寄せている。彼が尾張に与する最大の理由はそれなのだが、身分の違いによって許されず、事態は二転三転してゆき、行きがかり信長の片腕にまで成り上がるのと同時に、先ほどの宗教的もしくは神話的な構造が絡んでくるのである。やがて、市姫の娘である茶々もまた、憑き鬼神との縁に繋がれていることを知った藤吉郎は、信長を仏敵と呼ぶ比叡山から、彼女や市姫たちを守らなければならない。このように、史実をベースにしながら、改変を加え、じょじょにスペクタクルをエスカレートする一方で、藤吉郎という矮小な個人に、さまざまな重責を背負わせることで、人格の成長を描く。これがすなわち、『秀吉でごザル!!』の魅力的な点にほかならない。

 4巻について→こちら
 
・その他たなかかなこに関する文章
 『たなかかなこ短編集』について→こちら
2010年02月20日
 アライブ最終進化的少年 20 (月刊マガジンコミックス)

 〈世界を否定することは 自分自身を否定することと同じよ だったらあなたひとりで死になさい‥‥!〉。超常現象を生き延びながら少年は、アクロの心臓を呼ばれる脅威に取り憑かれた親友を救うべく、彼と直接対決しなければならない、こうしたプロットは大友克洋の『AKIRA』に通じるものがあり、モノクロのページにおいて髪の色が黒と白に塗り分けられたライヴァル関係は、たとえば永井豪の『デビルマン』に象徴的なとおり、この国のマンガ表現においてスタンダードな対照をなしているし、そしてそれが、極端化すれば、女性の取り合いになっているのは、さしあたり現代ふうだといえる。しかして、叶大輔と広瀬雄一の、愛憎半ば、歪な友情劇も、いよいよ終局を迎えるのだった。あだちとか(作画)と河島正(原作)による『アライブ 最終進化的少年』の20巻であるが、人類規模の決戦が、日本の、東京の、高校の、屋上で、たった二人の少年によって繰り広げられるという、要するに、広い範囲の危機が狭い世界の葛藤に帰結してゆくような展開は、主人公である大輔が広瀬に向かい〈わかるか? ここ 全部 ここから始まったんだ もう 終わらせようぜ〉と言っているそのはまり具合からして、おそらくは物語の当初から予定されていた段取りであって、じっさいこれ以外のクライマックスはありえないだろう。そう考えるとき、やっとここまで来たか、と思う。登場する人物の数は多く、さまざまな紆余曲折はあったものの、筋書き自体はわりと一本道であったため、長かったなあ、という気がする。はたしてその過程のなか、しばしばうかがえたのは、命に価値はあるのか? 生きることに意味はあるのか? という問いかけであった。こうした問いかけは今やステレオタイプでしかない。だがそれがステレオタイプに感じられるのは、サブ・カルチャーの歴史においてさんざん繰り返され、慣れ親しまれてきた結果にほかならない。よく知られたテーマに対し、たしかに雰囲気は洗練されている一方、必ずしもイメージの新たではない作品が、いかなる決着を用意するのか。結局のところ、興味はそこに尽きる。『アライブ 最終進化的少年』は、次巻で完結する。

 10巻について→こちら
2010年02月18日
 こちらのブログ「人面犬の『秋田に始まり、秋田で終わる』」さんから、『週刊少年チャンピオン』を読み続けてきたなかで好きだったマンガを10個、という企画に声をかけていただきましたので、挙げさせていただきたいと思います。『週刊少年チャンピオン』は、80年代の後半(終盤)ぐらいから目を通しはじめ、今も買っておりますが、こうしてフェイヴァリットなものを並べていくと、ああ、わりあい90年代頃の作品に偏っている気がしますね。さしあたり思いついたところから、順位は暫定的なものです。

 1)みやたけし『めざせ1等賞』
  マラソンという、マンガのジャンルには珍しい題材を扱い、どれだけの不幸にあっても逆境にあってもくじけぬほどストイックな少年の、そのがんばりズムを描いた傑作であって、とにかく何度読んでも励まされるし泣ける。取り柄のないとされていた人間が成長し、社会に出、世界に羽ばたくまでを現実とリンクさせるオーソドックスな手法、健全なスポーツ・マンガとしても文句のつけようがない。

 2)米原秀幸『箕輪道伝説』
  ハードボイルド不良マンガとでもいうべきレアなグルーヴ、殺伐さをエスカレートさせていき、最終対決の凄惨さが暴力の否定となっている点に本作の価値はある。

 3)みさき速『特攻天女』
  90年代の女性暴走族(レディース)ブームに着想を得ているが、本領は中盤以降の展開、すなわち裁かれない未成年の罪と罰をいかにして描くか。そしてそれは現在もまだアクチュアルな問題提起として機能しうる。

 4)菊地秀行・細馬信一『魔界学園』
  『魔界都市ハンター』と悩んだが、こちらを。後半はやや厳しいものの、ボクシング編の完結まではほんとうに驚天動地の展開続き。小山内との師弟関係にはたまらないものがあるし、壇隼人の生き方は紳士とは何かを教えてくれる。

 5)緋采俊樹『ひもろぎ守護神』
  『ゲッチューまごころ便』とどちらにしようか、死ぬほど悩んだ。じつは今も悩んでいるのだったが、いくぶんシリアスな要素が強く、ストーリー性の高いこちらを取ることにする。  

 6)浜岡賢次『4年1組起立!』
  個人的には『浦安鉄筋家族』よりもこちらをリアルタイムで読んだことの衝撃のほうが大きく。さらには今や作者からは失われてしまった荒々しい勢いがあって、とくに健ちゃんとブーの意地の張り合いが最高である。

 7)伊藤清順『ぶかつどう』
  大昔にPUFFYの人も『週刊少年チャンピオン』のアンケートにこれを挙げていたが、多くのファンにとってはもう、言わずもがな、といったところだろう。車田正美ふうの展開というか、いかにも少年マンガの学園トーナメントをオマージュし、ギャグに転がしながら、なぜか熱くなれるところのある不思議な作品であった。

 8)能田達規『GET!フジ丸』
  サッカー・マンガには食傷気味だった当時、きわめてオーソドックスな筋立てながら、ひじょうに興奮させられた。作者はその後もサッカー・マンガの佳作をいくつも描いているが、これを選んだのはやはり出会いのインパクトが強い。

 9)芹沢直樹『サムライマン』
  世間の評価は低いかもしれない。永井豪『デビルマン』もしくは『凄ノ王』のパスティーシュ的な作品であって、そのへんも含め、自分の趣味とたいへんマッチしていた。『池袋ウェストゲートパーク』のパスティーシュ的な『迷探偵史郎シリーズ』も好きである。

 10)小沢利雄『チェリー』
  あまりにも長く続いたため 『フジケン』は終盤テンションにむらがあったが、小沢としお(小沢利雄)の作品はどれも高く買えて、完結しているもののなかから一つ選ぶとすれば、整合性の面で、これかな。もちろん『ダンコン』も捨てがたく(月チャンでやってた『いちばん』ももちろんよいよ)。おそらくは『ナンバ』シリーズが完結したさいにはそれが最高作になるだろう。

 次点は、岩塚卓『デカポリス』、石山東吉『覇王の森』、どおくまん『超人S氏の奮戦』、大熊良『パーフェクティーチャー』、瀬口たかひろ『えん×むす』、曽田正人『シャカリキ!』、沼よしのぶ『白い弾丸』、細川雅巳『星のブンガ』、おおひなたごう『おやつ』、施川ユウキ『がんばれ酢めし疑獄!!』、と思い出しながら挙げていけばきりがなくなるので、やめる。
2010年02月17日
 おもいで金平糖 (りぼんマスコットコミックス)

 持田あきは良い。ほんとうに良い。何よりもそのポエジーは宝物のようであって、ほんのすこし触れただけで、不思議と心を満たすものがあるのだった。もちろんここでいうポエジーとは、少女マンガならではの、あのモノローグによって綴られる情緒に負うところが大きいのだけれども、いやしかし誤解を避けたいのは、そうしたポエムの決まり方のみを指すのではない。物語や展開、セリフ回し、すべてのカットがそこに集約されてゆく過程において、じょじょに立ち上がってくる感動の、まったくぼけていないことをいうのである。

 そしてそれを最良のかたちで実現しているのが、この『おもいで金平糖』ではないか、という気がする。テーマを等しくする四つの短篇、読み切りの作品が並んでいるが、どれもすばらしく鮮やかなポエジーによって、ああ、こんなにも人は悲しみからそれを越えてゆくための誓いを得られるのだ、と教えられる。要するに、どのエピソードもたいへん感動的に伝わってくる。

 SFのジャンルで語られるほどではないかもしれないけれど、基本的には、タイムスリップのアイディアを用い、オムニバスに、少女たちがその、まだ小さい人生のなか、後悔と現在、希望と未来とを、一連なりにし、ただ残念であったはずのことから、できるだけの幸福を強く、やさしく紡ぎ出してゆく様子を、描いている。〈今の子は知らないかもしれないけど このあまなつ屋の“おもいで金平糖”には不思議な言い伝えがあるんだよ 不思議な奇跡を起こす力があるとか〉と、これは第三話「さまざまなことを思い出す…」で年輩の教師が口にする言葉であるが、じっさい「おもいで金平糖」には、ある人びとを過去に連れて行ける効果があった。そうして時間を遡り、今の自分にかかるターニング・ポイントへと導かれたヒロインが、たとえ結果的には喪失であったとしても、決して誤りではない、このような境地を経、再起する姿を、とびきり健やかに表現化している。

 泣くだろう。第一話の主人公が、今は亡き兄と出会い、自分が誰かの代わりではなく、そして自分の抱えた不安を除けて、ふたたびがんばり、走り出すのを見、泣くだろう。泣くだろう。第二話「テイクオーバーゾーン」の主人公が、自分がいった何を忘れてしまったのか、失恋を受け入れることで、ようやく気づけたとき、泣くだろう。泣くだろう。第三話「さまざまなことを思い出す…」の主人公が、恩師であるような人物の挫折と関わっていき、諦めずにいれば、情熱は尽きぬのだと知ったことに、泣くだろう。泣くだろう。第四話「パンクロックマザーグース」の主人公が、自分は見捨てられたと母親を憎しむ、だが真実は違う、生い立ちと和解し、開かれた心に、泣くだろう。

 さすがに、泣きすぎだろう、おまえ。と言われてしまいそうだが、涙脆いことを差し引いても、こんこんと涙があふれてしまうのだから、弱るよ。仕方がない。とにかくそれぐらい、この作者の、『おもいで金平糖』のポエジーには、たしかなものがある。もしかしたらストーリー自体はどうということもない。ことさら絵が巧いわけでもない。にもかかわらず、はっとさせられ、目頭を熱くする。

 最初に述べたことの繰り返しになるけれど、たとえば第一話の、印象的な場面の、こういうモノローグ〈逢いたかった 逢いたかった 一目逢いたかった “もう会えない” それを越えて 「晴れた日ってどうしてこんなに切なくなるんだろう」 あぁ そっか お兄ちゃんが最後に見たのも こんな風に澄み切った空だったんだね〉そのありようにのみ、感動させられるのではない。物語や展開、コマ運び、マンガとしての総和が、そこでついにカタルシスをピークさせる。これにひたすら胸を打たれるのだ。

・その他持田あきに関する文章
 『君は坂道の途中で』
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  2巻について→こちら
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2010年02月16日
 花宵道中 / 1 (フラワーCアルファ スペシャル)

 報われない恋も、叶わない夢も、悲しいね。報われないことを知りながら誰かを想い、叶わないことを知りながら夢を見て、だけどたったそれだけのことが救いになってくれないのは、なお悲しいよ。斉木久美子の『花宵道中』は、江戸時代、吉原、遊女の世界を舞台にしている。宮木あや子の同名小説のコミカライズであって、残念ながら原作のほうは読んだときがないのだったが、しかしその、マンガ版のせつなさにたっぷり酔わされてしまう。花魁もの、とでもすべきは、この国のフィクションにおいて連綿と受け継がれてきたジャンルの一つであり、近年では安野モヨコの『さくらん』のヒットが記憶に新しいけれども、そうした系譜に『花宵道中』も入れられるだろう。しかしこれがどうしたって胸痛ましいのは、すくなくとも1巻に収められたエピソードを読むかぎり、ヒロインたちの願いが次第に悲恋の色合いを濃く発し、そしてじっさい、はかなく壊れ散ってしまう、そこに焦点が絞られ、物語がつくられているためだと思う。花魁もの、において遊郭というのは、たとえば夜の商売を題材にしたストーリーが女性によって構成される社会の一片を比喩しうるとすれば、それをさらに寓話化することで直接的な現実のイメージを緩和、虚構のなかに共感の領域であるようなエモーションを生成する形式だと推察される。男性の権力が優位であり、金銭や身分の格差が明確であるあまり、立場が弱いほうに置かれた人間の、ある種の生きづらさが著しく見える、そこに感情移入のドラマが盛られているのである。と、仮説を立てるとき、『花宵道中』では、どれだけ環境が不自由であろうとも、心は自由でありたい、こうした願いが、だが空しく潰えてしまう、その情景がまさしく恋愛の姿を借りて、描かれている。もちろん、複数の人物が入れ替わり立ち替わり主人公となる、つまり連作のスタイルをとっているようなので、それがすべてのテーマであると現段階では言い難い。けれど、第一部のクライマックス、夢想のベールとともに述べられた〈あさ…おまえは もう 体に咲く花をだれにも見せなくていい〉という言葉の、ああ、なんて印象的なことかよ。そこでのヒロイン、朝霧がいったい何を望んだのか。当人と読み手以外は誰も知れない。報われることもなく、叶うこともなかったのだから、当然だろう。そう、たしかにそのとおりであることが、悲しい。せつない息吹を吐くのだった。

・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年02月14日
 哀しき妖の恋 (講談社コミックスフレンド B)

 この、『別冊フレンド』周りで発表された読み切りをオムニバスで集めた『哀しき妖の恋』は、ヒナチなおの「天地神鳴!」(原作・天之ひるめ)のほか、仁の「月光蝶」、きだちの「死花−白薔薇−」、Ishikoの「奇妙な僕ら」、B型の「りんごのうた」という、五篇のマンガで入っている。その内、ヒナチなおと仁、きだちは同種のアンソロジーである『学校の妖』にも参加しており、「天地神鳴!」(以前は原作者いなかったよね)と「月光蝶」はそこに収められていたエピソードの続編的な内容になっている。まあ「天地神鳴!」に関しては、すでに連載が決定しているので、単行本にまとまったときにでも触れられればな、と思うだが、しかし正直なところ、どの作品も技術的には拙く、あまり褒められない。もっとも良いものを、ということであれば、「月光蝶」になるだろう。同級生の女子をバイクで轢き逃げし、両目を見えなくさせてしまった不良少年が、犯人は自分であることを隠し、彼女を見舞い、アルバイトで手術費用を稼ぐうち、二人のあいだに恋愛感情が芽生えるのだけれど、それはやがて当然のように、彼の罪を問うことになるのだった。と、大雑把にまとめられるストーリーは、いや要約の仕方のせいであったら申し訳ないが、わりあい凡庸なものであるし、いくら何でも学校の教室でタバコを吸わせたりするかい、あるいは少女の性格がよく出来すぎだよ等、細かい部分に難をつけられる。にもかかわらず、単層的な筋書きをドラマティックに見せるだけの工夫は凝らされている。いくつかの構図はもとより、ホラー寄りの要素も、いっけん薄口ではありながら、そこに貢献しているのである。次いでIshikoの「奇妙な僕ら」に好感を持ったが、それはあくまでもピュアラブルなラヴ・ストーリーとしての標準をクリアーしているからにすぎない。きだちの「死花−白薔薇−」は、見え透いてはいるものの、オチは強烈であり、読ませる。だが、そうした転調のためだけにストーリーが存在してしまっている印象を受ける。反対に、B型の「りんごのうた」は、これ、ぜんぜんオチてないよね。しいて解釈を試みるとすれば、内気なヒロインと殊勝な鬼、傲慢な王子の三者三様に、恋愛に対するアプローチを委ね、意味深長に掘り下げることは可能なのだが、それがどうこうというほどにはまとまっていない。
2010年02月13日
 近キョリ恋愛 6 (KCデラックス)

 ああ、みきもと凛の『近キョリ恋愛』たるや、こんなにもコミカルでありながらロマンティックでいてくれることがうれしい。6巻に入っても勢いは弱まらず、なおおもしろく読まされてしまう。たとえば「liner notes」という、「あとがき」めいた箇所で作者は、この巻の〈後半2話は中継ぎ的な話なので、テンション高めに描いてみました〉と述べているが、たしかにそれらが〈テンション高めに描〉かれているのは疑いようのない一方、どちらもたんに〈中継ぎ的な話〉として見てしまうのがもったいないくらいチャーミングなのであって、こういう一話一話の、内容のじつに富んでいるところが、最高に、好き、なのだった。

 ところでその、後半の二つのエピソード、23話目にあたる「天才少女の新年」と24話目にあたる「天才少女の親友」は、女子高生と男性教師の秘密にしておかなければならない恋愛を物語の中心の点としたとき、それを事情的に知っている周囲、周辺の人びとの態度を半歩ほどひろく足の伸びた範囲で盛り込んでいるのだけれど、何よりもまず、ヒロインである枢木ゆにのファミリーときたら、相変わらずの愉快な面々である。とくに、るーちゃん(ゆにの弟)に催眠術をかけられ、猫のぬいぐるみと戯れる親父さんの間抜けぶりがたまらない。催眠術を破られて、落ち込むるーちゃんも可愛らしい。ママさんも美人であるし、こんな家庭に生まれたかった。というのは、まあ冗談半分だが、ややまじな話をすれば、そうした家族の雰囲気が、ゆにの恋愛にとって、決して高い障害となっていないことに、『近キョリ恋愛』というマンガの特徴がよく出ていると思う。もちろん、それはギャグとしての評価で済ましてしまってよい部分ではある。しかし、同時にギャグでありえているのは、ゆにの奇抜な、独特な、とにかくチャーミングな個性を、登場人物たちは当然のこと、読み手の側も暗に認めているからなのであって、それに見合うだけの環境を作者が用意しようとしたことの必然によっている。ゆにの親父さんが、教師である櫻井ハルカとゆにの交際に反対的であるのは、必ずしもギャグではない。だからこそ、ゆにもハルカもそれをシリアスに受け止めねばならない。にもかかわらず、ゆにの変化球気質の言動がそのままストーリーの魅力になっている以上、作品の枠組みもまたそれに従っていかなければいかず、結果、他の登場人物たちをもそこに準拠させることとなっている。これがギャグに等しい傾きをつくっているのである。いっけんギャグのようでありながら、あくまでもゆにとハルカの恋愛がロマンティックなのは、作中のレベルにおけるコミュニケーションが、まじ(真剣)なためにほかならない。

 かくいう〈中継ぎ的な話〉として、ゆにの家族をアクセントに使ったのが23話目であるなら、24話目は彼女の親友であるナミ(名波菊子)に大きな役割を与えている。ナミ、今まであまり目立ってこなかったが、なるほど、こういう娘だったのかあ、ならば、ゆにの個性とも五分に付き合っていけるだろうね。いやここはふつう、少女マンガ的な展開を期待するとしたら、最初にゆにが誤解したとおり、真実を隠されていたことがある種の軋轢を生んでしまう、というふうに話は進んでゆくのだけれど、そうはなっていない。ちょうどそのようなセオリーをずらしてゆくかっこうで、エピソードは山折り谷折りされているため、これもギャグのように見られる面が多い。だが、先述したのと同様、作中のレベルでは、シリアスに友情の温度が確認されているので、きれいに畳まれた決着がもたらされるのである。

 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他みきもと凜に関する文章
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
2010年02月12日
 そもそも東直輝は『週刊少年ジャンプ』で東洋的なアイディアのファンタジーを描いていたマンガ家であり、佐木飛朗斗にしてもサイキック・バトル的なファンタジーの原作を書くことが少なくはなかったのだから、その『外天の夏』のコンビがこうして本格的なファンタジーをつくり出すことに別段驚かされなくともよい、にもかかわらず、やはりぎょっとしてしまうような気がしてしまうのは、古典的であるほどに本格式のファンタジーだからだろう、『妖変ニーベルングの指環』が。しかしそれもそのはず、ワーグナー作のオペラである「ニーベルングの指環」を直接の題材にコミカライズしているのであって、ここまで剣と魔法のファンタジーが多種多様にあふれかえった現代ではむしろ、ひじょうにオーソドックスな内容だとさえいえてしまうのである。このあいだヤンキー・マンガを手がけていたチームにこれを持ってこられたら、そりゃあちょっとは驚く。だが意匠は大きく異なれど、本質においては『外天の夏』と同じく、巨大な運命に翻弄される無垢な少年のサーガ、であることに相違ない。“恐怖を知らぬ愚か者”“ケガれた鍛冶屋の息子”そう呼ばれる主人公、ジグルトは、巨人族に蹂躙される大地を向こう見ずに生き、剣を振り、戦いながら、もしも恐怖というものがあるならそれを知りたい。眠りから覚めたワルキューレ(戦乙女)のブリュートゥが、巨人族を制圧すべく、地上に舞い降りたのとちょうど同じ頃、ジグルトの父親である鍛冶屋のもとに、天空の神々の盟主にして、戦いの神、覇神として知られるヴォータンが訪れたのは、正しく予兆であった。やがてブリュートゥと邂逅したジグルトは、炎を司る魔物ロキの協力を得、魔剣であるノートングを鍛え治し、伝説の巨竜ファフナーを倒そうとするのだった。数奇な巡り合わせのもとに生まれた主人公が、半自動的に要請されてくるクエストを次々とクリアー、英雄としての本分をまっとうしてゆくことになる、こうした筋書き自体は、なるほど、伝説や神話の基礎にほかならないし、『外天の夏』(や『特攻の拓』)ですら、じつはそのようなプロットをベースにしていたと解釈することも可能である以上、物語の構造に特筆すべき点は少ない。ではそこで『妖変ニーベルングの指環』の、作品の強度を高めているものがあるとしたら、いったい何か。ずばり、語り口、だということになる。語り口とは、この場合、佐木の独特な美学が、マンガ家のタッチでさえも影響を逃れられないぐらい、つねにダイレクトであることを指す。セリフ回しを含め、いわく言い難い情緒が踊っており、トータルの印象を左右しているのだ。それが、剣と魔法のファンタジーが多種多様にあふれかえった今日で、さらには古典的であるほどにオーソドックスな内容でありながらも、一種の異様、個性になりえている。ところで1巻とクレジットされているが、じっさいに2巻以降に話が続くのかどうか(少なくともこれ以降のエピソードは現時点で発表されていない)不明ではあるのだけれど、ストーリーにはいちおうの区切りがついていて、まずまずのスペクタクルを感じさせる。

 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
 奥嶋ひろまさの『ランチキ』は、無気力に倦んでいた坊ちゃんたちが、つっぱることに青春を見つけ、活き活き生きようとする姿を、マンガに描いているが、この2巻で、彼ら坊ちゃんたち、不良少年に憧れ、チーム「シカバネ(鹿金)」を結成した鹿野乱吉と金田鉄雄の二人組は、中学生から高校生へとステップ・アップしてゆくことになる。中学卒業を目前にした乱吉のもとに、抗争し、くだした示現中のトップ、木場大輔が訪ねてき、〈俺とタイマンはってくれ〉と申し出る。〈頼む! 俺とタイマンはってくれ!! このままじゃ中学生活に後悔しか残らへんねん!〉と言うのである。もともと卑怯な手でケンカを勝ち抜いてきた乱吉は、それをむげに断るのであったが、相棒であるキム(金田)の説得や、進学せずに就職しなければならない木場の事情を汲み、ついにタイマンをはる気になったのだった。この、木場とのタイマンが、じっさいの卒業式を欠席する羽目になった乱吉にとって、一つの通過儀礼的な意味合いを果たしていることは、明らかだろう。しかして、それ以前に同級の小出水悟から〈あ…あそこは偏差値の高さより武勇伝の多さを誇るような高校やぞ!〉という話を聞き、〈俺たちの進む道は――降威高校や!〉と進路を決めた乱吉とキムが、その降威高校でいったい何を実現しようとしているのかが、物語を見ていくうえで、もっとも注意されたい点であると思う。もちろん、そこには彼らが「シカバネ」を結成するきっかけとなった椿屋が在学しているため、というのが大きい。しかしそうした導き手を得たことで、主人公たちは、何と訣別し、何を把握しようとしているのか。これが所謂ヤンキー・マンガのジャンルで読まれる作品である以上、表層的には、ケンカに勝利し、名をあげ、他から認められることにほかならないのだけれども、それを手段として考えるのであれば、深層のレベルで目的化されているのは、自己の将来をいかにイメージし、イメージされたプランに粉骨砕身到達せんとする、このような人生学上の理念を成就させることなのであって、たとえば乱吉が母親に言う〈夢やとかやりたいことって言われたらまだ分からへんけど でも降威高校で3年間 自分らしく過ごせたら 卒業する頃にはなりたい自分になってる気がするんだ!〉こうした志望理由は、まだ朧気ながらも、いや、いまだ十代であり未熟であるからこそ漠然としたヴィジョンの、たしかな起点になりえているのである。当然、その起点からどれだけ具体的な認識を取り込み、表現の幅を拡げていくのかが、やがて『ランチキ』の価値を定めることになるのは、いうまでもない。

 1巻について→こちら
2010年02月11日
 ナンバデッドエンド 6 (少年チャンピオン・コミックス)

 いうまでもなく、小沢としおの『ナンバデッドエンド』(当然、前身にあたる『ナンバMG5』のことも含めたい)は、ヤンキー・マンガである以上に、すぐれた学園ドラマであるのと同時に、すぐれた家族劇なのであって、本質的には、複雑に入り組んだ愛情と葛藤を期限付きだからこそ価値のある青春もしくはモラトリアム下の人間やコミュニケーションに託しているのだが、それをきわめて平易に、なおかつエンターテイメント性のひじょうに高いレベルで仕上げてしまっているため、むしろ正当な評価を受け損なっているんじゃねえの、と思うよりほかない。たいへんひらかれた内容であるし、もっと大勢に読まれてもよい作品である、というのは過去にもさんざん書いた。

 いやしかし、それにしてもじっさい、この6巻に描かれている光景の、適度に戯画化された現実の、日常生活の、なんて可笑しく、そして痛ましいことかよ。次々と県外の不良少年たちをのし、特攻服の猛者として、広く存在を認められてゆく一方、ふだんはごく世間並みの高校生として、学業はもちろんのこと、恋愛や部活動、生徒会の運営にいそしむ主人公、難破剛であったが、ついにその、是が非でも家族にだけは伏せておきたかった事情が、兄の猛に知られてしまう。すでに秘密を共有している妹の吟子が〈市松で全国制覇目指してるハズの兄ちゃんが 実は白百合の生徒会長だったってだけでも みんな気絶モンだぜ… 兄ちゃん これマジで カマだのホモだの言われるくれえじゃ済まねぇぞ…〉と心配するほどの、あるいはそれ以上の破滅が、とうとう剛のもとに迫ってくるのである。

 たぶんというか、当然というか、ほとんどの人間が、学生時代に、剛のような特殊な境遇を生きてはいない、生きてはこなかっただろう。にもかかわらず、彼にもたらされるピンチが、スリリングであればあるぶん、その苦悩が生々しく、著しい説得力を持つのは、まさしく作者の、マンガ技術の、とくにストーリー・テリングの巧みさによっているのだけれども、同時に作品世界を統べている認識、共感可能な領域のこしらえ方が、まったく正常だからであって、すなわち青春もしくはモラトリアム下にある人間とコミュニケーションとが、じつによく描け、丁寧に機能しているからにほかならない。それこそ、こうしたジャンルにおいてスペクタクルの担保たるケンカや抗争劇など、ヤンキイッシュな局面とはべつの部分で展開されるドラマに目を凝らされたい。たしかにそれらは、適度に戯画化されてはいるものの、どこにでもありふれた学園のひとコマ、家族のワン・シーンのように見られる。

 たとえば、修学旅行先での問題行動を咎められた剛が、停学明け、学校に復帰してからのくだり、半ばギャグに近しいテンションで和気あいあいが繰り広げられる場面からは、いっさいといっていいぐらい、過剰さを持て余した気配が排せられている。主人公の立場になって考えるのであれば、束の間だとしても自分がしりぞいていた世界に、ようやく戻ることができたとき、かつてとは違う場所のように感じられる変化があたっとしたら、どうだろう。おそらくは、寂しい。居場所の定かではなくなってしまったことが、寂しい。これは、時や場合、程度の差こそあれ、誰しもが経験則として知っている不安に等しい。こうした不安を踏まえたうえで、しかしそれでも、ねえ君の居場所がなくなることはないんだよ、と言わんばかりの健全さを、繰り返しになるが、半ばギャグに近しいテンションの和気あいあいに繰り広げることで、何気ない日々の積み重ね、そこまで積み重ねられた日々のありがたさが、しっかり示されており、だからこそ、それが失われることのこわさもまた如実になっているのであって、〈停学ぐらいで済んでよかった… やっぱ白百合はいいな 白百合にはオレの大事なモンがいっぱいある あと8ヶ月〉という剛の実感に、しかとした手応えの加わっている点が、つまり『ナンバデッドエンド』の、すばらしく達者なところなのだ。やがて卒業後の進路を、仲間と話し、悩むあたりもそうだよ。

 そしてそれはさらに、作品のもう一つの柱であるヤンキイッシュな局面と横並び、対照されて、遺伝と環境のノルマ(これについては以前にも述べたし、いずれあらためたいと思うのだったが、広島編におけるヤクザの息子の鋼一は、まさか某二人組アイドル・グループに由来しているのか、剛のオルタナティヴであると解釈することもでき、その広島編の解決自体が、鋼一と光一というライヴァルの名前の相似性にうかがえるとおり、『ナンバMG5』での横浜編の反復だとも解釈される)と抗い、もがき、ふんばり、自立しようとする主人公の姿に、フィクションとしての類い希なる深みを持たせることになる。

 にしたってまあ、『ナンバMG5』のラストに示唆的だったわけだけれども、キー・パーソンはやはり、関東最強でありながらニートと呼ばれるのをおそれる男、猛か。三下の態度から瞬時にして市松高校の上下関係を見抜き、剛をかばおうとする伍代や大丸でさえ躊躇なくぶん殴る、そのポテンシャルは、おっかなく、一目置くしかねえ。そいつがそいつなりの、きっちり筋の通ったロジックで立ちはだかるんだからな。ましてや、責められる剛にしても、自分の行いが必ずしも正しかったとは強がれない。こうして訪れたデッドエンドをいかにしてブレイクスルーしてゆくのか。ここに描かれる学園ドラマと家族劇は、ますます見逃せない境地へ達しつつある。

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 『ナンバMG5』
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2010年02月08日
 週刊少年チャンピオン40th 創刊40周年記念特別編集

 巻頭に置かれた「ごあいさつ」に〈1969年7月、週刊少年チャンピオンは創刊されました(略)すでに通巻2000号を超える幸福な歩みを今日にいたるまで続けております。この記念の年、小誌では「伝説のキャラクターたちに再び会える!! 創刊40周年記念名作読み切りシリーズ」と銘打ち(略)あの名作を、あの素晴らしいキャラクターたちを、特別に描き下ろしていただく企画を1年に渡って続けてまいりました。ここにその珠玉の作品たちを一冊の短編集にまとめ、お届けいたします〉とある。自分が『週刊少年チャンピオン』を購読するようになったのは、80年代の後半ぐらいだったから、この『週刊少年チャンピオン40th 創刊40周年記念特別編集』に入っているもののうち、半数近くはリアルタイムで連載を読んでいたことになる。読者になったばかりの頃、一番の目当ては菊池秀行(原作)と細馬信一(漫画)の『魔界都市ハンター』であった。もちろん、その新作もここには収められているが、しかし本当に好きだった。同コンビの次に手がけた『魔界学園』にも夢中になった。やがて米原秀幸の『箕輪道伝説』がはじまり、通常のヤンキー・マンガとは一線を画すスタイリッシュなヴァイオレンスにはまった。そして曽田正人の『シャカリキ!』や、みさき速の『特攻天女』、緋采俊樹の『ゲッチューまごころ便』と、愛すべき作品に次々と出会う。『箕輪道伝説』と『シャカリキ!』の新作は、残念ながらないのだけれども、『特攻天女』や『ゲッチューまごころ便』の新作が、かつての面影いっぱいに描かれているのはとても嬉しく。まあ、あれやこれやの新作もぜひぜひ読みたかったという気持ちは捨てきれないものの、他誌の創刊○○周年特別企画などと比べても、たいへん豪華で好感の持てるアイディアだと思う。余談ではあるが、きくち正太や瀬口たかひろは昔のタッチのほうが好きである。山上たつひこの『がきデカ』だったり、石井ひさみの『750ライダー』だったりよりも、そちらのほうが気になってしまうのは、世代だろう。もちろん『がきデカ』も『750ライダー』も後追いで読んではいる。立原あゆみの『本気!』は続編になって掲載誌が変わってからもずっと読んでいた。そういう、個人的な思い入れの観点でこれを高く買ってしまう一方、ボーナス・トラック的な要素の(といったら失礼か)宮崎克(原作)と吉本浩二(漫画)による『ブラックジャック創作秘話』も、伝記的なマンガ家マンガとして、じつに読ませる。このような取材と証言でまとめられた内容のマンガ家マンガは、これだけマンガ家マンガが流行っているにもかかわらず、あんがい珍しい。さすが我が道をゆく『週刊少年チャンピオン』といったところ。誰かに壁村耐三レジェンドも描いて欲しい。それにしても、いつになったら伊藤清順の『ぶかつどう』を単行本化してくれますか、細川雅巳の『星のブンガ』の2巻は出ますか、水穂しゅうしの『LOOK UP!』は、と、最後に、そこそこの連載作が必ずしもコミックスにならない(秋田書店の)独特な方針に注文をつけて、終わる。いや、だいたい『ブラックジャック創作秘話』ってもう一話あるよね。

 樋田和彦『京四郎』描き下ろし新作について→こちら
 みさき速『特攻天女』描き下ろし新作について→こちら
 立原あゆみ『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
2010年02月04日
 べるぜバブ  4 (ジャンプコミックス)

 『週刊文春』に連載されている「マンガホニャララ」の1月14日号分で、ブルボン小林が、藤巻忠俊の『黒子のバスケ』と田村隆平の『べるぜバブ』を例に、『週刊少年ジャンプ』の主人公の、80年代と今日の傾向を比べ、〈八〇年代、ジャンプ漫画の主人公の多くには共通点があった。「女の子に甘く」「明るいお調子者」だが「やるときゃやる」〉のだったけれども〈『黒子のバスケ』の黒子は、影が薄いという以前に、かつての「主人公らしさ」が廃されている〉のは〈まず「女子に甘い」どころか、女子に興味がない(略)冷静で「お調子者」でもない(略)「やるときゃやる」だけは発揮されるが、「やるときゃ」という軽みはない〉からのなのであって、同様に〈『べるぜバブ』の喧嘩の強い主人公男鹿も女子に興味を示さない。子育てなんかしている〉のを〈これはあれだ、安直な見立てだが、草食系男子だ〉としながら、そのかわり〈どちらも脇役たちが等分に個性を発揮している〉のは〈少年漫画という枠組みは、とっくに屹立した一人の主人公を不要としていた〉からなのではないか、と書いている。さらにブルボンは、同連載の2月11日号分では、〈前々回紹介した『べるぜバブ』の「魔王」には、方便と、今日的な(つまり勤勉ではない)悪の両面がみられる〉のを、一つの特徴に挙げている。そこでいわれている〈方便としての悪〉とは、真の目的にプライオリティが発揮されるのではなくて、ギャグに転びうるもの、すなわち物語上で〈異物を日常世界に定住させるためと、価値観のズレで笑いを獲るために便利なやり方〉を指し、〈今日的な(つまり勤勉ではない)悪〉とは、かつての映画『007』シリーズや特撮『仮面ライダー』シリーズの敵役組織みたいに、モチベーションのレベルで〈真面目さと威勢のよさ〉を持っているのではなく、それこそ〈「エヴァンゲリオン」あたりの表現から、地球の滅亡を揺るがすのは「元気な悪役」から「人の内面」的なことになってきた〉のに等しく、『べるぜバブ』の場合、魔王が〈人類滅亡させんとする理由は「人間うざくね?」という高校生みたいな一言だけ〉なのである。

 と、じつはどちらの文章も『べるぜバブ』が話の中心に置かれているわけではないのだけれど、作品のユーモア、チャーミングさが、ときにシリアスな傾きとなって見えることの理由を、とてもわかりやすいかたちで示そうとしているように思う。したがって、それを参考にしながら、自分の意見を加えさせてもらうのであれば、『べるぜバブ』における主人公、男鹿のポジションには、一種の時代性がうかがえるような、要するに、確定的な所与ではなく、あくまでも暫定的でしかない条件に、少年として表象される主体は、いかにサーブすべきか、という問題が、おそらくは自然と含まされている。だいたい、この4巻で、石矢魔高校で最強と呼ばれる東条との対決を通じ、以前にも増して明確になっているのは、男鹿に所有されている特権(あるいは使命と言い換えてもよい)は、さしあたりのものにほかならず、必ずしも絶対的ではないことだろう。そしてそれは、大魔王の息子であるベル坊の、育ての親という名目をとり、つねに他人へと移譲されうる可能性となってあらわれているのだ。ましてや、男鹿自身、そうした特権を積極的な態度で望んではいない以上、彼を主人公たらしめている優位の、揺らぎは大きい。もちろん、マンガをもう一段階べつの位相から考えるとき、にもかかわらず男鹿のもとに主人公である資格の帰属し続けることが、いくつかの状況を動かし、物語のダイナミクスとなっているのは、まぎれもない事実なのだった、が。いずれにせよ、男鹿と東条とがやり合わなければならないのは、表向き、お互いのプライドを懸けざるをえない必然であるふうなのだけれど、じっさいは、当人たちが自分の欲望に素直であるというより、外的な要因に押されている部分がつよいところに、『べるぜバブ』の本質が、今どきこんな設定でありながらアクチュアルに読まれているゆえんが、見え隠れしている。

 1巻について→こちら
2010年02月02日
 ななじ眺の『コイバナ! 恋せよ花火』は、恋愛に特化した学園生活を描くという意味では、前作にあたる『パフェちっく!』と大きく様式を違えていない(すなわちラブコメである)ものの、その触感が著しく異なっているのは、もちろん恋愛を中心にしながら、しかしそれ以外の部分、も、射程に入っているような意識を作中人物たちが持たされているからであって、基本的に、小さな世界の狭いコミュニケーションを前提にしているにもかかわらず、物語の奥行きは必ずしも薄っぺらくないし、いや、たとえ薄っぺらかったとしても、その内実には十分な手応えが備わっている。ひじょうに単純化していえば、ヒロインの置かれた環境において、恋愛対象となる異性ばかりではなく、ワキの人びとの性格や言動、友情までもが、ストーリーの構成にしっかり貢献する作品づくりがなされているので、そう感じられるのだったが、テーマのレベルで見たとしても、ある特定の恋愛条件にのみ焦点を絞るのではなしに、そこからより広い範囲で豊かなヴァリエーション、グラデーションをなしてゆく恋愛の感情を汲むことに成功しているのである。たしかに主軸は花火と誓の接近だろう。それを中心にしておおよそは展開しているといってよい。だが、花火や誓の友人たち、厚美、美衣、しのっちょ、尾山、マサト、佐木の、すれ違い、片想い、両想いが、どうして恋愛は困難なのか、あるいは幸福をもたらしてくれるのか、人数の分だけ例証するかたちになっているのに加え、メインのパートへと効果的に連結させられているため、マンガ総体の説得力が深まっている。たとえば、この7巻では、しのっちょとマサトのカップルに訪れた危機が目立っており、まあ、あてられている切り口自体は類型的ではあるのだけれど、横恋慕や三角関係の深刻さに、周囲への影響力をからめて、誰にとっても必ずや他人事というわけではない、だからこそ共感しうるところにまで内容を持っていっている。そうして、しのっちょの内面を知った花火の〈ふと思った もしも世界に私と宇野誓しかいなかったら もっと楽でいられたのかな 単純でいるには 大切なものがちょっと多すぎる〉というモノローグは、小さな世界の狭いコミュニケーションにも、悩み、傷を負わされるだけの価値が認められることを、逆説的に、示す。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
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 『パフェちっく!』
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2010年02月01日
 チェリーなぼくら 2 (フラワーコミックス)

 まあたしかに〈あぁもう恋愛ってばめんどくさ〉いのであって、すべてが新鮮であればあるほど悩みは尽きぬし、いっそのこと、しないで済むならしないほうがよいのかもしれないのだったが、しかし、ときどき自分でも知らずのうちにしてしまっているのが恋愛なのであって、しないでいたらしないでいたでついついそれに憧れたりもしてしまうから、弱る、のだった。こうした心情を、八寿子の『チェリーなぼくら』は、少女マンガに類型的なシチュエーションを用い、とてもよく描いていたと思う。1巻の段階では、オムニバスの読み切りに近しい性格の内容だったけれども、この2巻では、一学年違いである千夏と新平のカップルに焦点をあて、二人の進展をじっくり掘り下げている。表向きは盛っているように見られながらも、じつは双方ともに高校デビュー型の初心なカップルが、どうしたら自分の気持ちと相手の気持ちに確信を持てるのか、これを、いずれセックス(性交)することを前提とした関係性のなかに、ユーモア交じり、ふっくら閉じ込めているのである。あるいはむしろ、作中人物の意識において、セックスへの関心をまったく抜きにしてしまったなら、もっとずっとピュアラブルに受け取られたはずのストーリーに、あえて処女や童貞であることの負い目、強調線を入れることで、両想いのはじめの、ほんとうに微妙な距離感を丁寧にすくいとっているところが、最大の魅力となっている。テーマや題材とは裏腹に、決してスキャンダラスな作品ではない。

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・その他八寿子に関する文章
 『真夜中エクスプレス』について→こちら
2010年01月31日
 アルコ、やればできるじゃないか、アルコ。個人的には、大味なギャグでマンガをやられるより、こういうリリシズムの淡いストーリーに浸れるタッチのほうを、この作者には求めているので、連作仕立てとなる『終電車』にはひさびさ、そうそうこれ、これが読みたかったんだ、という感想を持つ。四つの編からなるオムニバスの作品集で、登場人物に多少の重なりが見られるのだが、あくまでも一話完結型の、その、ワン・エピソードから堪えきれずにあふれてくる情緒が、よい、好きなのである。

 たしかに、物語のつくりとして、特筆すべき点は少ないだろう。たとえば、1話目の内容は、周囲に流され、日常の惰性に倦んだ女子高生が、ふとしたきっかけを経、普段とは違う風景に足をおろす、というものであって、2話目は、かつての恋人を忘れられずにいる大学生の男が、追憶に苦しみ、悩み、ようやくそれを受け入れるまで、3話目は、決して恵まれてはいない容姿にコンプレックスを抱いたヒロインが、やがて諦めを乗り越え、片想いしている同級生に告白しよう、といったもの、4話目は、『ヤスコとケンジ』のスピンオフ的な設定で、上辺を取り繕い、何もかもうまくいけていると信じていた女性の編集者が、挫折、あらたな世界の認識を得、ほんとうの自分を見つめ直す、このようにいずれも各人に訪れる転機、分岐が、一日と一日と(すなわち、さっき、と、これから、と)を跨いで走り、時間的にも空間的にも遠くて近い場所に運んでくれる終電車の、そのイメージに喩えられているのだけれども、端的に述べるなら、どの篇も、ある程度に発達した自意識を題材化したフィクションにあって、ベーシックかつコンパクトな筋書きのヴァリエーションにとどまる。だがしかし、それがひたすらエモーショナルな余韻を連れてくるところに、アルコならではの叙情を見られたい。

 とくに作風、本質に相応しい面が顕著となっているのは、2話目と3話目である。2話目の、主人公の、いっけんストーカーの執着として仄めかされていた六年間の片想いが、じつはべつの理由によっていたという、こうした真相にピュアラブルな悲愴が預けられているのだが、はっきりといえば、その転調の仕方はかなり雑然としていて、ちょうど昔のカセット・テープが仕様上A面からB面に切り替わらなければならないのに似た荒っぽさがある。これはふつう汚点になりかねない。にもかかわらず、大きく割られたコマ、人物の身振りと素振りを前面にしたカット、振り当てられるセリフとモノローグが、印象のレベルで、寂しくひらいた心の空白をありありと述べる、かのようなテンポをつくり出しており、ラストのシーン、せつない希望を浮かび上がらせる。3話目に関しては、ほとんどギャグの作法で描かれているといってよい。ゴリラと罵られるほど、極度にデフォルメされた主人公の言動は、たいへん力強く、逞しい。要は、その、裏側、彼女にも十代らしいデリケートな内面のあることが本題になるのだけれども、展開は一本調子であって、凝ったドラマが用意されているわけではない。しかるに、無造作に概容を引っぱっていく手つきが、楽観とは異なるポジティヴなフィーリングを、苦慮の対極へと配置し、前者が後者を押しやり、後退させる励ましに、ささやかであることが最大限であるような詩情が託されていて、そこに、は、っとさせられる。

 たしかに、ストーリーやメッセージはありきたりではあるものの、思い切りのよいダイナミクスが、一篇一篇の好感触に通じている。

・その他アルコに関する文章
 『超立!! 桃の木高校』
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  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
2010年01月29日
 作風、物語のかっこう、もちろん絵柄も含めて、これがあの『B.O.D.Y. 』と同じマンガ家の手によるものかよ、と、少々戸惑わされるところのあった美森青の『シーイズマイン』だが、しかし、それが良いほうに転がったまま、この2巻で完結を迎える最後の最後までずうっと、楽しんで読める内容となった。作者がここで果たしているのは、極端にいうのであれば、ピュアであるあまり無自覚に小悪魔の素振りを見せる少女の内面をいかにして肯定的に描くか、というトライであって、それが結果的に、いまだ初心でいる二人の少年を、友情のなかに他愛のない葛藤を生じさせながら、振り回しているのだと思う。いつだって奔放な美礼の態度を責めるハルと遼太郎に、遼太郎の姉が〈なんで美礼ちゃんは悩んでいないって決めつけてんの? あんた達からしたら的はずれな言動でも 美礼ちゃんなりに考えて 真剣に答えようとした結果かもしんないじゃん まぁ変わった子なのは事実だし いろいろ納得いかないことがあんのもわかるけど それを全部「いいかげん」とか「やりたい放題」で片付けたら 美礼ちゃんがかわいそうだよ〉といっている言葉が印象的である。しばしば恋愛は、利己的な満足のみを要請するのであり、他人にも自分と同じように、たとえそれが薄っぺらだとしても、内面と呼ぶに等しいものが備わっているのだということを忘れさせる。これに気づかされることが、もちろん作中人物たちが若く純心だからというのもあるだろう、前向き、背中を押す力となりえているので、さわやかな結末を実らせる。

 1巻について→こちら 

・その他美森青に関する文章
 『B.O.D.Y.』5巻について→こちら
2010年01月27日
 何はともあれ、前巻のときに応募した「キャラクターブック バカ本」が、つい先日、手元に届いたのが、うれしい。薄っぺらい小冊子だけれども、登場人物の紹介とオマケのマンガに、はちきれんばかりのギャグがいっぱいで、あはは、と笑う。結局のところ、これなんだよなあ、佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』の良さは、と思う。当然、この4巻でも、そうした魅力、要するに、はちゃめちゃな連中の真剣さが空回りしながら喜劇を装ってしまうようなラヴ・ロマンスは、存分に堪能できるだろう。

 だいたいさあ、ヒロインの〈ちょりーす☆☆☆ みなたんのアイドル 園田音色♪でっす(笑) 16歳でお年頃なもんで 恋がしたいわ! ラブりたいわ! と熱い想いを胸に西日本から東日本へ上陸(転校)してきたわけなんですけど…… 一目惚れした王子には だまされーの 野生児には告られーの つきあいーの 再び王子に告られーの…………って あらあらあら? なんだかんだいってラブ街道まっしぐらでないの? ラブコメってんじゃないの?〉という頭の沸いたモノローグではじまったエピソードが、大阪の不良、ヤンキーとの死闘編に突入していくんだからな。というか、である。音色、西日本最強の女だとは聞いていたが、まさか広島の出身だったとはね。それが大阪のチームまでのしちゃって、武勇を轟かせていたんなら、まともな恋愛は望めまい。ふつうの女子高生に憧れて、東日本に上陸でも転校でもすらあ。

 そうして京都、大阪への修学旅行で訪れた先で、かつて自分が打倒した東大阪鬼瓦連合に見つけられ、音色いわく王子である相澤深をさらわれてしまい、音色いわく野生児の栄山トキオをともなって、敵方のアジトに乗り込んでゆくことになるのだった。以上が、この巻のくだりになるわけだが、もちろん、こうしたヤンキー・マンガのオマージュもしくはパロディであるようなプロットが、本質的に見られるべき点なのではない。その最中にあって、深やトキオとの三角関係における音色のポジションが、ありありとしてき、それに従って、気持ちの所在もはっきりしなければならない、と、彼女自身に要請されていることが、物語としての機能を果たしているのだ。が、そこで成立したエモーションが、照れ隠しというには度を過ぎ、どたばたのコメディに回収されながら、ふたたび行方不明となってしまうところに、『おバカちゃん、恋語りき』ならではの楽しさがある。

 と、ここでいささかまじな話になるのだけれども、素敵な恋愛を得るため、女らしくありたいと願っているのに反し、男勝りの鉄腕ぶりを発揮すればするほど、音色の個性が際立ち、他にはないチャーミングさを備えさせていることは、作品の、重要な指針となっている。これは要するに、その人のコアであるような部分をどう描き、さらにはそれに対する周囲の反応、評価をどう描くか、という技法上の問題にかかっているのであって、たくさんのギャグが溢れているにもかかわらず、たびたび、真剣な顔つきのやりとり、ラヴ・ロマンスのときめきに、はっとさせられるのは、そういう勘所の押さえられた表現が成功しているからにほかならない。

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 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
2010年01月26日
 足利アナーキー 2 (ヤングチャンピオンコミックス)

 以前にも記したとおり、近年、ヤンキー・マンガ(より広くいうならば不良マンガ)の系は、その総数を伸ばし、以前にも増してジャンルに勢いをつけつつあるわけだが、2010年代のヤンキー・マンガについて、さしあたり目を凝らしておきたいのは、やはり、この『足利アナーキー』の吉沢潤一や『クローバー』の平川哲弘、『ランチキ』の奥嶋ひろまさ、『A-BOUT!』の市川マサといった若い世代の台頭になるだろう。彼らの大半が1980年以降の生まれであることはつまり、70年代、80年代当時に育まれていた不良文化の土壌を正しく共有していないことを意味する。言い換えるとしたら、ノスタルジックなリアリティ、文脈では必ずしも括れない。作風にしても一世代上との違いを見せはじめているだろう。このジャンルにおける70年代生まれの作家の多くが、高橋ヒロシやハロルド作石、井上雄彦などのタッチをベースに、そうした直接の影響元や参照先を隠しきれないのに対し、もうワン・クッションなりツー・クッションなりの要素がミックスされていて、一概には誰彼のフォロワーとは判じられないところにきていると思われるのだ。必然、そのことは作品を構成するロジックや物語に内包される倫理にも及んでいるといってよい。詳しくはべつの機会に譲るけれども、端的に見て、暴力の使い途一つとってもひじょうにカジュアルな感性によっており、刹那的なアトラクションが表現の優位に立っている印象を受ける。もちろん、それは作者の若さに負っているのかもしれないし、結果的に良いとか悪いの問題はさておき、たしかな変移(変異)が、わずかでしかないとしても、あらわれている点は気に留めておかれたい、というのも以前に記したことがあったな。

 何はともあれ、『足利アナーキー』の2巻だが、やはり、刹那的なアトラクションを満載にしながら、ローを知らないテンションでがんがん攻めているところが、このマンガの本領にほかならないよね。まじとギャグの境目に引っ張られたロープを、勢い任せ、ぎりぎりのステップで渡り、どちらに転がり落ちても損なわれてしまいそうな破天荒さ、無闇やたらにアップするヴォルテージにこそ、最大の魅力を覚えるのだった。たとえば、90年代に『谷仮面』というヤンキー・マンガのオルタナティヴであるような位置からキャリアをスタートさせた柴田ヨクサルの作品がそうであるように、だ(もしかしたら吉沢にとって柴田は参考例の一つなのかもしれない)。じっさい、作中で展開されているケンカや格闘技、社会に関する蘊蓄が、どれだけまじであろうがギャグであろうが、『足利アナーキー』の本質を違えることはないのであって、それこそ、ここで主人公と教師が交わしている説教やイズム語りにしたって、たいていの思いなしなんてこれぐらい益体のないものでしょう、程度のリアリティに捉まえておけばよいのだし、いやむしろ、〈オレはよォ…日本一のギャングになるのが…夢なんだ〉という宣誓は、いっそ清々しく、そうした夢を叶えるためにヴァイオレンスが必要不可欠である以上、暴力がふるわれなければならないというのは、理に適ってさえいる。すくなくとも、作品を構成するロジックや物語に内包される倫理に破綻をきたさない、だろう。当然、ストーリーが進んでいけば、テーマとして総括できる部分も浮き彫りになってくる違いない(例を挙げるなら、作中で高校卒業が十代のラストだと考えられていることはモラトリアムの定義に深く関わるポイントだ)。が、しかし、今はこれでいい、このレックレスなグルーヴが心地好い、と言わざるをえない。

 足利市の、不良のシーンでその名を知られた高校生たち、ハルキ、カザマサ、タカシ、ヒカルに、「シルバーラット」の元キングであるテルを加えた五人は、自覚的な若気の至りで、足利市のナンバー1ギャングに、ひいては栃木一のギャングに、ひいては日本一のギャングになるべく、「ファックジパング」を結成、他のギャング集団はもとより、筋金入りのヤクザすらも向こうに回し、頂点を目指そうとする。いったその自信はどこからくるのか。たんなる恥知らず。バカなのか。調子よく余裕をかます彼らは、現在、栃木県のトップに立つ「ギルティージャンク」に宣戦布告、でぶ三人兄弟のキング、そして潰し屋のジェットと事を構えることになるのだった。はたしてどうなることやら、という次第なのだが、いずれにせよ、名前もふざけた「ファックジパング」の猛追、猛追、猛追には、生き生き、旬として認められるだけのカタルシスが、十分、ある。

 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
2010年01月23日
 ああ、〈この家族にこんな日がくるなんて〉。ほんとうだよ。武富智の『EVIL HEART』とは、要するに、家族の、あるいは家族を組織する人びとの、再生の物語であった。もちろん、合気道を直接の題材にしたマンガではあるのだけれども、いわばそれを、二つ以上の主体がコミュニケーションするさい、双方のあいだで自然に生じる力点、そして作用点の喩えとし、ひらかれていったドラマの先に、本質的な感動が在る。誰も一人では生きていかれないよ、とは単純に言わないが、他からの働きかけによって暗がりを救われることがある、このような可能性を、フィクションの、力強い描線に変えているので、心を押される。

 父親に起因する暴力のせいで、離散してしまった正木家。兄の滋は、自分を刺し、現在は服役中の母親を恨み、報復すべく、非情な裏社会で暮らす。そんな彼から家族を守ろうとして合気道を習いはじめた弟の梅夫は、教師のダニエルなど、さまざまな人たちと関わりながら、その、合気道の理念を身をもって知っていくうち、成長、次第に失われていたはずの穏やかで子供らしい表情を取り戻すのであったが、しかし父や兄に通ずる暴力の芽が完全に摘まれることはなかった。姉である真知子の心配をよそに、母親が出所する日が近づく。梅夫の、いまだ不甲斐ない自分に対する焦りは、ふたたび彼を深い孤独に引きずり込もうとする。

 全3巻で終わった連載ののち、すべて描き下ろしの「氣編」を経て、この上下巻となる「完結編」のリリースにまでこぎつけた経緯はまったく知らないのだけれど、とにかく、出てくれてよかった、読めてよかった、と、感謝できるだけの内容、十二分に価値のある結末を得られることが、うれしい。絶え間ない暴力の連鎖はいかにして否定されるべきか。さんざんに壊れてしまった絆の修復は為せるのか。幸福や希望はその対象に自分と他人とを一つにして含まなければならないのではないか。こういう普遍的な、いくとおりかになる問題の提起を、半径の狭い世界に投影しながら、ひじょうにエモーショナルな解答を導き出しているのである。

 物語全編のクライマックスにさしかかり、作中人物らの行動を通じて、大人は必ずや子供を守らなければならない、という意識が主張的になるのと同時に、子供は決して大人に庇護されるだけの弱小ではない、という定義が顕在化するのは、作品のなかにあらかじめひろがっていたネガティヴなヴィジョンを、思わず涙させられるほどのカタルシスへと傾かせるのに、おおきな足がかりとなっている。そこには、立場が異なれども、一個に数えられ、相互に干渉し合う人間の、真理めいた関係性があらわれているのであって、当然、合気道の描写もその具現に奉仕しているのだし、梅夫と滋の最終決着においてついに、鮮烈な実証を見ることになる。

 下巻のほとんどを費やし、展開される梅夫と滋の対決は、目を離せなくなるまでの迫力に満ちている。兄弟喧嘩といえばそうであろう。しかし、複雑な葛藤と愛憎を過分に孕んだそれは、暴力と破壊でしか果たせない惨劇の一幕にほかならなかった。膨大なページに渡って繰り広げられる殺意、憎しみ、攻防の、なんて痛ましいことかよ。だが、作者はたしかにその、絶望的な光景の向こうに、合気道のモチーフを、そうして和解と救済のもたらされる瞬間を、慈愛の吸い込まれる息遣いを描いている。感動するのだ。正木家の、母親が、兄が、姉が、弟が、父親が、やがて再会する場面、まさか〈この家族にこんな日がくるなんて〉。それは奇跡などではなく、一人一人が損なわれてしまった自分と繋がりを取り戻そうと懸命に生きた軌跡の。
2010年01月21日
 おかわりのんdeぽ庵 5 (講談社コミックスキス)

 借金のせいで土地をなくす、という受難は、いつの時代にあっても物語を転がすのに適しているのだろう。なかはら★ももた(漫画)とイタバシマサヒロ(原作)の『おかわり のんdeぽ庵』は、この5巻で、二人のヒロインが細腕繁盛させている居酒屋「ぽ庵」の入った長屋に、立ち退き要求、さてそれを斥けるには1億もの金額を用意しなければならない、を、周囲の人びととの関わりとともに描きながら、完結している。ファミリー・レストランをチェーン展開する親に反発し、家を出、料理人となった菜々葉と、実家の酒蔵を再建すべく、修行、菜々葉に協力する穂波、彼女たちの素性を踏まえると同時に、その友情を再確認しつつ、物語はきれいに収まっていると思う。前作との関連性を高めているのもサービスとしては上々である。が、しかし、少々あっさり、クライマックスにいたってさほどドラマティックに感じられなかったのは、雰囲気といおうか、ストーリー・テリングのあり方に従った結果だと見られる。とはいえ、まあたしかに、そのような、軽さ、こそが本作の持ち味、魅力ではあった。つまり、わざわざ、といった変調を用意しなかったことに価値を与えることもできる。個人的には、だいぶテイストの違うエロティックな近親相姦劇『世界はひとつだけの花』をすでに完結させているなかはらが、『おかわり のんdeぽ庵』も終え、今後、どういうスタンスでマンガを描いてゆくことになるのか、けっこう高く買っているだけに気になる。楽しみにしている。

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 2巻について→こちら

・その他なかはら★ももたに関する文章
 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 正直なところ、今どきこんなに古くさいプロットをよくやる。山花典之の『ノエルの気持ち』6巻である。まあ、血の繋がらない兄妹が互いを意識しながら一緒に暮らす、このような初期設定自体がいかにも前時代的ではあるのだが、兄の尚人がかつていた『こひつじ園』が立ち退きを迫られ、その借金返済のため、フィギュアのスケーターとして活躍する妹のノエルは〈次のオリンピックで必ず金メダルを獲ること〉そして〈そのオリンピックの間出場するすべての試合で優勝し〉なければならない条件で、莫大な金額のスポンサー契約を青年実業家と交わし、もしも達成できなければ、彼との結婚を受け入れざるをえないというのは、さすがに見え透いている。もちろん、盛り上がるべき箇所はちゃんと押さえられているし、オーソドックスさのなかでこそ生かされている作者の良さはあるのだけれども、じつはそうした作風からしてハッピー・エンドになると約束されているのが丸わかりなせいで、いまいち、ぐっとこない。はたしてこの予想を裏切ってくれるだろうか。予定調和でしかありえない展開を必ずしも悪いとは言わない。もうすこし攪乱をつよめるだけの材料があって欲しい。もしかしたらノエルのパートを拡大し、スポ根の要素の高まる気配もあるが、ストーリーについた慣性、話の流れが大きく変わることはないと思う。

 1巻について→こちら

・その他山花典之に関する文章
 『オレンジ屋根の小さな家』7巻について→こちら
 『夢で逢えたら[文庫版]』第1巻 第2巻について→こちら
2010年01月20日
 涙 星 ―アース―1 (芳文社コミックス)

 『涙星』と書いて「アース」とある。立原あゆみの新シリーズである。副題は「チンピラ子守歌」となっていて、表紙カヴァーのカットやこの1巻の内容からあきらかなとおり、年端のいかぬ女児の存在が物語の重要なキーとなっている。テキ屋(的屋)の写楽は、腕っぷしがつよく、周囲からも信頼を置かれているが、女性にだらしない。そんな彼が、スナックの店員と行きずり、彼女の子供を預からなければならなくなってしまったことから、マンガははじまる。とにかく、歌という名のその四歳がやたらにかわいいのは、卑怯だ。喋り方は拙いのに、大人びてしっかりとした性格、作者の絵柄も手伝って、思わず目に入れたくなっちゃうじゃねえか。ちくしょう、あまりにも愛らしくて弱るよ。と、いきなりまじな話に入っていくが、少年や少女を題材とし、あるいは少年や少女と社会との対照に、必ずしも健全に機能していない現代をテーマ化するというのは、初期の頃から作者にとって重要な仕事の一つであった。もちろん、『本気!』における孤児院のエピソード等を例に出すまでもなく、ヤクザ・マンガの系にフィールドを移して以降もそれは変わらないし、そうした作品の主人公たちの極道がほとんど、親から見捨てられた子供の成長した姿であるというプロフィールを持っているのは指摘しておくべきだろう。そのような意識をおそらくは極端にまで徹底させていった結果、全体の構成を破綻させてしまったのが、過去作にあたる『地球儀(ほし)』なのだけれども、ストーリーのレベルでは関連性が見つけられないものの、この『涙星』とタイトルの部分で響き合うものを有しているのは、やはり興味深い。作者の熱心なファンにしてみれば、言うまでもないことかもしれないが、まだ自力では生きていかれない子供の未来を考えることが、この惑星を動かしているシステムの現在に向き合うことの、たぶん見立てになっているのだ。そうしてP100の〈かぐやかなんか知らねえが 月から地球を写していた そいつは地球が涙の粒に見えると言った かもしれねえな 悲しみばっかの星だもんな 地球は涙の星?〉というモノローグ、歌に視線を向ける写楽の表情が印象的にも思われる。しかし誤解を避けておきたいのは、『涙星』は決して徹頭徹尾シリアスな内容、重苦しく、息詰まるばかりの展開を備えているわけではない。たしかに、縄張りをめぐる闘争が背景に置かれてはいるのだけれども、『極道の食卓』以降とでもすべき、肩の力をすこし抜いた語り口が、一話一話の物腰をやわらかくしている。あくまでも日常の単位に付随するアップとダウン、微笑ましさ、やるせなさを際立たせているのである。

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2010年01月19日
 隣のあたし 3 (講談社コミックスフレンド B)

 三角関係上の恋愛が主題であるようなとき、自然と浮かび上がってくるのは、嫉妬、の感情だろう。すくなくとも、たった一人の存在をめぐり、はからずも対立状態に陥ってしまった二者は恋敵たるもう片方を(たとえ親交があろうがなかろうが)意識せざるをえないのだし、究極的にはどちらかが(あるいは双方が)敗者の立場に回らなければならない以上、もしも自分が選ばれなかったならば、もしも自分がそれを勝ちとれなかったら、という心理に余裕を保っていられるわけがねえんだ。兎角いま望んでいる相手こそが真であり絶対であると信じられれば信じられるほど、その苦しみ、呪われた気分は深刻となるに違いない。もしかすれば、過去作にあたる『先輩と彼女』や『スプラウト』の頃から一貫して、南波あつこというマンガ家は、本質的にはネガティヴな嫉妬の感情にとらわれる人間の心理にどれだけの純粋さが仕舞われているのかを描こうとしている、と、この『隣のあたし』の3巻を読みながら、思う。したがって、逆説になってしまうのだけれども、三角関係の葛藤をモチーフにすることがしばしばなのであって、むしろすでに作家性の一部として見られてよいのかもしれなかった。一歳上の幼馴染み、京介に想いを抱きながらも、彼に結衣子という恋人ができたことから、悲しみ、打ちひしがれなければならなくなった仁菜であったが、いくら断ち切り、諦めようとしても、好きになった気持ちは消えてなくなってはくれない。叶わないのを知っているにもかかわらず〈……京ちゃん 好き………「応えて」とか言わないから………せめて好きでいさして〉と告げる言葉が、京介の動揺を誘う。他方、久米川と別れ、京介との真剣な交際をはじめた結衣子は、今でも彼が仁菜に対して、やさしく接し続けていることに目をつむれない。笑顔でそれを許しているふうに装ってはいるのだが〈「彼女」は…「一番」は あたしなんだから……〉という苛立ちを秘め、京介への不審をつよめてゆく。たしかに、仁菜と結衣子とでは置かれているポジションが違うし、当然、アプローチ、意識のありようは異なってくる。だが、ある段階まで掘り下げて考えるならば、嫉妬の感情によって両者の行動は左右されている、その点において共通していることがうかがえる。とくに、ほんらい優位に立っているはずの結衣子の側の執着がありありとしているのは、それが物語を展開させるのに必要な動力になっているからなのだけれども、印象としては、女の子っておっかねえ、というのがよく出ていて、このへんの不穏さは、なかなか。ときおり結衣子の見せる表情はまじで油断ならない。ところでここで、この巻で、仁菜と京介、結衣子のトライアングルを中心としてきたストーリーに、仁菜のクラスメイトである上村が介入してくるわけで、彼の告白はいきなりすぎ、あまりの唐突さに、いやいや、君は誰だったかい、と、読み手の一人からすれば尋ねたくもなるのだったが、おそらくはこれが、京介を刺激し、わずかばかりだとしても嫉妬の感情を与えることになるのでは、と想像させる。

 2巻について→こちら

・その他南波あつこに関する文章
 『スプラウト』
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2010年01月18日
 終盤、物語を畳むべく、たいへん忙しない展開が続きに続くが、その、どたばた、落ち着きのなさがこのマンガにはぴったりはまっている。小桜池なつみの『フライハイ』、完結編にあたる3巻である。無垢で溌剌としたヒロインが、自分の通う中学校の荒廃を、持ち前の明るさで、次々改善してゆく、というのが、だいたいの筋書きであって、それをギャグに近しいハイなテンションでアップ・テンポに描ききったところが、作品の、最大の魅力だろう。いや、じっさいに最初から最後までとても楽しく読むことができた。ただし、アトラクションのスピードが心地好かったぶん、シリアスな問題のいくつかは置いてけぼりを食らってしまったかな、と思わないでもない。敵役のグループが、学園を独裁、他の生徒に危害を加えていたのには、相応の理由があったとし、過去に遡ることで、根は悪い子じゃないんだよ、のエクスキューズを与えながら和解の糸口を掴んではいるが、結局のところそれは責任の転嫁以上にはなっていないように感じられたのである。要するに、罪は描けているにもかかわらず、罰が描けてはいない。おそらく、こうした結末は最初の頃からすでに用意されていたものであり、伏線とおぼしき箇所も十分見受けられただけに、詰めの部分で甘くなってしまったのを、すこし、残念に受け取る。たしかに、敵役のグループの一人が自分たちの所業をかえりみて〈一番不幸なのは こんな僕らの自分勝手な計画のせいで 普通の学校生活を送れなくなった生徒たちですよ〉と言うのに対し、もう一人が険しく〈最初に裏切られたのは私たちよ〉と反論する。しかしながら〈そうです 確かに被害者でした 僕達が報復を始めるまでは でも もう僕たちは加害者なんです 泣きつく場所も 逃げこめる場所もどこにもありません〉と結論されているのは、贖罪にも似た印象を寄越す。だが、罪の告白は、どのようにしても告白にしかすぎず、罰を受けたことの代わりにならない。もちろん、中学生の幼さに罰を与えるべきかどうかの保留はあってしかるべきではあるけれども、別の人物をスケープゴートに立てて、そちらに罰を肩代わりさせている以上、作者が自覚的に論理をすり替えている、と見なされかねない危険性を併せ持つ。とはいえ、総体的にはひじょうに満足のいく内容であり、生徒による学園の自治という厄介なテーマを前に置き、きわめてポジティヴな脚力をゆるめず、最後の最後まで見事に走りきった点は、高く買いたい。

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2010年01月17日
 少女共和国 1 (講談社コミックスキス)

 この世界を、もしくはこの社会をいかにして生きるべきか、という問題は多くの未成年にとって、この学校を、この教室をどう生きればよいのか、という問題に置き換えられるのであって、それはすなわち、ほとんどの人間が義務教育のために学園生活を経験してゆくことが必定となっている現代の、正しく普遍的なリアリティとして機能しうる。学校や教室の、狭く小さい範囲を舞台にしたフィクションが、広い共感と深い主題、高い訴求力を得、表現と倫理の大きな可能性を持つのは、そのためにほかならない。もちろん、時代や世代がくだれば、学園生活の内情は様変わりするだろう。しかしそれというのは、しょせん様式の捉まえ方にすぎず、決していじめの文化がなくならないように、本質的あるいは根源的な転換が、すくなくとも今のところ、起きているわけではない。

 こうした認識の上に立ちながら、ぜひとも注目して欲しいマンガが森下薫の『少女共和国』である、といいたい。すくなくとも、この1巻で繰り広げられているドラマには、家庭と学校とを往復し、共同体に居場所を求めようとしているだけのことが、たくさんの不条理となり、主体を脅迫、傷つき、苦しめられるなかにも必ずや突破口はあるのだと信じながら、もつれてしまう足どりの、ひどく切実なステップが描き出されている。

 十四歳、中学二年生の主人公、透子によれば〈あたしが通っているのは地域でも評判の公立中〉で〈熱心な先生と優秀な生徒が集まってるということらしい〉のだが、教師たちは表面を取り繕うばかり、誰も何も〈生徒のホントの姿なんて――〉知らない。当然、学級委員として皆から信頼されている彼女がじつは〈いつ誰が敵になるかわからない中で うまくやんなきゃいけないからね〉と思っているただの傍観者であることも。クラスメイトの一人がいじめに遭っているのを無視することさえ、透子にしてみたら、自分が安全地帯に居続けるのに必要な日常の一部でしかなかった。だが、ルイという女子生徒が転校してき、無邪気にも教室内のアンタッチャブルに触れはじめたことから、苛立ち、陥れようとするのだけれど、それが次第に予想外の関わりへと転じていくことになるのだった。と、これはあくまでも導入を説明したにとどまるのであって、そこから物語が、そして透子の立場が二転三転するところに、は、と息詰まるぐらいのエモーション、並びに今日ならではの戦略的な思考が生まれている。

 万人が幸福になれるだけの容量を制度は維持していないので、必然、他の人間を蹴落とさなければならない。としたとき、『少女共和国』が特徴的なのは、大人対子供、の構図を明確に導入している点である。大人の存在を仮想敵に定めることで、あらかじめ寄る辺の失われていた子供たちは、自立的な姿勢を確保してゆく。たとえば、透子にとって最大の恐怖は、共同体の枠から逸脱してしまい、孤独にさらされることであった。学校にあっては、同窓や教師との関係を乱さぬようつとめ、家庭においては、実母や義父との関係を最善に保とうとする。フラストレイトからか、味覚障害や拒食とおぼしき症状を人知れず抱える羽目になってしまっている。しかしそれは、ルイとの出会いや、問題児扱いされている運野という男子生徒との接触を通じ、回復の兆しを見せるのだが、この、恩恵の価値は逆照射的に、自分に欠損を与えた者への敵愾心、抵抗となって、具体化されるのである。

 いくつものストレスが重なって、担任の女性教師の心ない態度に〈どうして……どうしてあたしたち 大人の都合で傷つけられなきゃならないの!?〉という憎しみを得た透子が、やがて〈先生 ここはさ 先生の王国じゃないんだよ あたしがそれを 気づかせてあげる〉と反旗を翻し、悪意に充ちたプランを企てるプロットは、なかなかの迫力を有している。

 しかして注意しておきたいのは、『少女共和国』に用いられている、大人対子供、の図式が、必ずしも権力や体制を向こうに回した(いうなれば前時代における)勧善懲悪の簡略になっていないことだろう。むしろ、権力や体制の構造は変えられない、そのような諦念のなかに限られてしまった幸福を掴むべく、主人公である透子は、悪役になるのも厭わぬほどに狡猾な表情を、見せているのではなかったか。もちろん、それが幼い独我論に走った結果であったり、利己的な心理の産物にすぎなかったならば、ばかばかしくて読んではいられない。嬢ちゃんや坊ちゃんの我が儘なんて聞いちゃられないからね。だが、そうではなくて、ここに描かれている子供の存在とはつまり、欠損を持った者同士がささやかに生きるよりほかないアサイラムの意味を指しているのであり、彼女はそれを守るため、懸命に身を挺し、踏み荒らされないよう、罠を張り巡らすのだ。

 あまりにも消極的な、あまりにも際限的な、あまりにも悲観的な防衛戦にも思われる。勝利に値する条件なぞ、はじめから用意されてはいない。いや、だからといって作品が、暗い認識ばかりを際立たせていないのは、たとえ一縷であったとしても、溜め息のつらさをよけて、光のごとく差し込んでくる希望が、透子や周囲の人びとの、束の間の笑顔を、あざやかに映し出すことができているからである。大人を抜きにした学園の物語をあえてつくらないで、このマンガは、学校や教室を、世界や社会そのものの、直接の現実として確立することに成功している。そうしたさい、生徒の、いま手にしている希望の、小ささにもかかわらず、なんて尊い輝きか。つい泣ける。
2010年01月15日
 ギャングキング 18巻 (ヤングキングコミックス)

 はたして「ワークマンズ編」とはなんだったのか。これに関しては、そのストーリーに感動した人間こそが詳しさを述べられたいのであって、ほんとうは口を挟むべきじゃないんだ、と思うのは、自分は内容をあまりよく理解できていない人間だからである。とはいえもちろん、極度に高度だったり難解な筋書きが描かれているわけではないだろう。いやむしろ、本質的には深みのあるテーマを安易なカタルシスへと落とし込んでいった結果、道理のかなっていないものになってしまっていると感じられるのだった。薔薇十字学園工業科2年生(通称・バラ学少年愚連隊)と、建設現場等で働く同世代(通称・ワークマンズ)の対立は、些細な行き違い、お互いがプライドを守りろうとし、なし崩し的に大規模な抗争にまで発展してゆく。これに収拾をつけるべく、当初は諍いを避けたいがために傍観を装っていた両者のリーダー、ジミーとベロとが、いよいよ直接に果たし合い、それぞれの想いを拳に託すこととなる、というのが、この柳内大樹の『ギャングキング』は18巻にあらわされているくだり、なのだけれど、当人が望まぬ事情のせいで学生と社会人にわかれてしまった少年たちの、ひじょうに複雑な立場の違いを題材にしながらも、結局は、タイマンはったらダチ、式の、この手のジャンルに有用なルールを、都合にあわせ、拡大解釈した以上の成果をあげられていない。したがって細かい点を見ていけば、様式にそったダイナミズムに任せるあまり、作中のロジックや倫理に綻びが出ているような気がしてしまう。もちろんそれは何も、道徳的であれ、ということではない。そうではなくて、物語をつくるうえでの技術を指したい。正直、ここで作者が挑んでいるテーマには、万鈞の重みが含まれている。モラトリアムに滞在することと社会に出立することとを線引き、境目で裂かれるほどに苦悩する若者の存在を、等しい傾向と資質を持ちつつも立場の異なった二者の並列によって、主張化しようとしている、これは労働のプライオリティが必ずしも保てなくなった現代において、重要な問題提起、一考に値する面を持っており、その志を高く買おう。としても、決して表現の、説得力、に対する好評価とはならないし、すべきではない。それをつよめるために必要なロジック、倫理に一貫性を求められないのであって、『ギャングキング』の場合、いくらかまずい箇所のほうが多くて目につきやすい。具体的に、もっとも大きなところを挙げるのであれば、やはり、主人公であるジミーのカリズマになるだろう。と、過去にもさんざん述べてきたことであるが、たとえば「ワークマンズ編」において援用されている、タイマンはったらダチ、式の展開がルールとして機能するためには、主人公の正義が十分に保証されていなければならない。そうしたときにはじめて、主人公の勝利が必然に、暴力的な行為が暴力的な行為にとどまらぬ意味、コミュニケーションの役割を得ることになるからである。にもかかわらず、その、いちばん大切な軸足が、ともすればおろそかになっているので、すでにいったとおり、安易なカタルシスとしか繋がっていかない。たしかに、ジミーとベロが雌雄を決するにあたり、〈今回は………負けるかもな――…ジミー……ジミーは昔から“怒り”の度合いで強さが変わるだろ…? 今回はアイツにその“怒り”の感情がいっさいないからなあ………………〉といわれていたはずが、〈ジミーくんの強さは………もはや“怒りの度合い”とかってレベルじゃなくなってるみたいだね――…〉と説明し直されることで、いちおう主人公が勝利するのに最低限欲しい条件は整えられている。が、しかし、そこに預けられているに違いない正義が、物語上のロジックや倫理の演繹とはなっておらず、不透明なまま、ひどく曖昧にも思われるので、素直に感動させられない。

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 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年01月10日
 現在、マンガ家を題材にしたマンガがブーム状になっていることに対し、懸念を抱かざるをえないのは、同じジャンルのなかにあって質の良い悪いがあってしかるべきなのに、どうもその点があまり顧みられていない気がしてしまうからなのだったが、いやたしかにどれもおもしろいよね、というのはわかるのだけれども、たとえば自伝もしくは私小説的なアプローチや、エッセイまたはルポルタージュふうのアプローチ、まったくのフィクションを描くアプローチとでは、あきらかに評価の軸が異なってくるはずなのに、一部では混同されているように思えてしまうし、べつにそれが問題にはなっていない。ゆえに自分は、マンガ家マンガをあえて全面肯定しない、という立場をとりたいのだった。が、しかしまあ、そんな小さいことはどうでもいいじゃねえか、と、目の覚まされる作品にようやく出会う。それがこの、横山了一の『極☆漫〜極道漫画道〜(ゴクマン)』である。何よりも、すばらしくくだらなく、まじになっても仕方がないところをぐんぐん攻めていっているのが、よいよ。内容はといえば、徹底したフィクションであって、ギャグであって、むしろこれを今流行りのマンガ家マンガのカテゴリーに入れたら、怒られちゃいそう。でも現状においては、そういう、すがすがしいまでの馬鹿馬鹿しさ、いっさいタメにならないアプローチに、ある種の批評性すら感じられてしまう。鬼ヶ島香、40歳、〈武闘派で知られる“鬼ヶ島組”の2代目組長だ〉が、真の夢は〈あこがれの雑誌“花とまめ”で いつかきっと少女マンガ家デビューしてみせる…!〉ことであった。その〈昼はヤクザの組長 夜は少女マンガ家志望という二つの顔を持つ男である!〉彼が、次々とマンガ業界の片隅で引き起こしてゆく災難が、たいへん愉快だ。本質的には、外見と内面に著しいギャップを持った主人公の一挙手一投足が、周囲の人間に間違ったリアクションをさせ、当人は無自覚であるにもかかわらず、どつぼにはまらせてしまうのがおかしい、式の、昔からよくある手法のコメディにほかならない(『デトロイト・メタル・シティ』の作者が帯にコメントを寄せているのも道理であった)。かならずしもディテールが詳しく出来ている必要はなく、きわめて通俗的かつ大雑把な描写の連続に、むしろ、こんなやつ絶対にいねえだろう、と思わせたら勝ち、たいていのことは笑って許せてしまうのである。たとえば、白湯社の「花とまめ」を代表する人気マンガが「NINA」だったところで、どうでもいいじゃないか。要は、極端にデフォルメされた世界像が冴え渡ってさえすれば、作品の質は疑うべくもなく保証されるのであって、これは同じく、ヤクザを題材にしたマンガとして読み替えたさいにもいえる。ロシアン・マフィアのピョートルとかもう、ほんとうにあんまりすぎる。いずれにせよ、ローズマリー香(主人公のことね)が、「花とまめ」でデビューを飾る日を、ぜひとも見届けたく。それまで、このテンションを落とさず、キープしてくれたら、とてもうれしい。
2010年01月09日
 00年代が終わった。もはや忘れてしまった向きも多いかと思うが、00年代の途中頃にはヤンキー・マンガなんてもう萎みかけだとする風潮があった。たちまち廃れるだろう、と言った人もいた。しかし2010年代に入った現在の状況をいえば、ヤンキー・マンガの一群はかつてと同じか、あるいはそれ以上の市場と影響力を持ちかけてさえいる。このことの意味については、誰かが真面目に検討してくれてもいい、と願うのだったが、個人的には、同ジャンルのファンを自認しているにもかかわらず、こうした盛況を無条件に喜べないのは、質のレベルにおいて、必ずしもすぐれていると信じられないものが高く買われているように思えてしまう場面が多いからである。00年代のヤンキー・マンガが、いかなる系譜を持っていたかは、いずれ詳しく考える必要があるが、とりいそぎまとめるのであれば、99年から00年代にかけ、すでにベテランになろうとしていた高橋ヒロシと田中宏がそれぞれ、『QP』と『莫逆家族』で、不良少年のモラトリアムにも終わりがある、という真実を身も蓋もなく曝露、成熟できないことの不幸を厳しく追及したのと並行し、当時はまだ無名に近しかった山本隆一郎が、01年から06年に渡り発表した『GOLD』で、同じ問題意識を共有、その、限りあるモラトリアムの、絶望のなかにしかありえない不良少年の成熟を描き直してみせたのだった。けれども、こうしたシリアスな、普遍性が高く、ある意味で深いテーマ性を有した作品は、決して絶大な支持を得たわけではなかった。むしろ、このあたりが00年代におけるヤンキー・マンガの低迷期と見なされていたのではなかったか。ヤンキー・マンガというジャンルが、ふたたびのブレイクを果たすためには、03年に『ギャングキング』をスタートさせた柳内大樹を筆頭に、先行する作家や作品群からスペクタクルのみを引用、モラトリアムの苦悩と不良少年のイメージをステレオタイプ化したうえで、あらためて学園生活に夢を託そうとする若手作家たち(1975年前後の生まれが多く、高橋ヒロシのフォロワーと呼べるものも多い)の、そのわかりやすさゆえに若年層をも取り込むような活躍を待たなければならなかった。もちろん、高橋ヒロシが『クローズ』の続編である『WORST』を01年に開始、不良少年のモラトリアムを、軍記物、国盗り合戦のロマンへと、あらかじめ回帰させていたことは、大きな地盤となっていた。たしかに同時期、西森博之や加瀬あつし、小沢としお、(原作者として)佐木飛朗斗などの作家が、独自の路線で、不良少年の題材とテーマを更新し続けてはいたが、現在本流と呼ぶべきは、だいたい高橋ヒロシとその周辺の作家たちになる。しかるに、上述の理由で彼らの作風が少々表層的に感じられる点を、個人的に訝しんでいるのである。そうして2010年代の話をちょっとしたいのだけれど、すでにいったとおり、いまヤンキー・マンガ界の中核をなしているのは、1975年(昭和50年)前後に生まれた作家たちであるが、さらに若い年代がじょじょに登場しはじめていることは、やはり重要だろう。それというのはつまり、平川哲弘(『クローバー』)のことであり、吉沢潤一(『足利アナーキー』)のことであり、奥嶋ひろまさ(『ランチキ』)のことであって、彼らのセンス、とくに人生のプランや暴力に対するカジュアルな感性は、まあたんに実年齢の問題なのかもしれないが、上の世代の作家がやたらイズムをかざそうとするのとは、趣を違えるものだ。そのなかでいち早く頭角を現したのが、平川哲弘であるし、今や『クローバー』はストーリーが14巻も続くほどの人気連載となっている。にもかかわらず、『クローバー』のよさ、に関しては、いまいち掴みづらく、言語化しにくい。しいて挙げるとすれば、その、明るさ、軽さ、ということになるだろうか。いずれにせよ、先行する作家や作品群にはあまり類例のなかった屈託のなさが、一つの特徴をなしているのは間違いない。たとえば、主人公のハヤトやトモキ、ケンジが背景として持っている家庭環境は、決して恵まれてはいないのだけれども、そうした生まれや育ちに結びついていく問題が、物語の説得力を担うのでもない。前巻で彼らが2年に進級しても大きく変わらず、ただ、誰にでもモラトリアムを謳歌する権利があることを主張的にしていったところに、不良がいて、諍いがあって、友情があって、青春がある。そこにあらわされたいくつもの衝突に果たしてどれぐらいの価値があるのか。こうした問いはおそらく、2010年代のヤンキー・マンガを真剣に見ようとするとき、何かしらの目安をつくる。

 8巻について→こちら
 
 1話目について→こちら
2010年01月08日
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 前回の掲載がよほど好評だったのか(どうかは知れないが)、高橋ヒロシの『クローズ』をふたたび、直弟子にあたる鈴木ダイがアレンジ、リメイク、男性の登場人物を全員女性のイメージに置き換えるという、要するに二次創作的に再現した『クローズLADIES』の続編が、『月刊少年チャンピオン』の2月号に発表されたわけだけれども、その、先のエピソードがアクションとはったりの生き生きと生かせる場面をオリジナルから引っ張ってきたおかげで、わりとインパクトのある内容になっていたのに対し、今回のエピソードはだいぶ地味、いや、単純にイラストのレベルで見るなら見開きの2ページを使ったカットがふんだんであって派手なのだが、動きのあるマンガとして見ようとすればこれといってアピールしてくるところの少ないものになっている。正直、おお、と思わされたのは、メリンダ(リンダマン)の意表をつくデザインぐらいであって、それは結局、どれだけ原作を裏切っているか、飛躍しているかの驚きでしかない。もちろん、そうしたオリジナルとの比較を前提にするのが、二次創作的なアプローチの本質なのだとすれば、まったく正しい、というよりほかないだろう。このたび、トリビュートの題材として採用されているのは、『クローズ』本編の第51話である「桜の下で…」(ここでは「櫻の下で…」に改題されている)で、卒業間近のリンダマンと坊屋春道とがいよいよ決着をつけようとするのを見届けるべく、大勢のギャラリーが集まり、クライマックスへと向かうに相応しい緊迫が高まってゆくだりである。たしかにすばらしく印象的なシーンだったのだけれども、その触感はやはり、長篇のなかに置かれていればこそ、物語という背景を持っていたがゆえのものであった。『クローズLADIES』の「櫻の下で…」が『クローズ』の「桜の下で…」と違うのは、読み手は直接の物語の参照するのではないという点であって、一連なりの文脈にテーマを見るのではなく、春華と春道の相違、メリンダとリンダマンの相違、他の登場人物たちの相違、等々の細切れな描写のレベルにおいて、スペクタクルを得なければならない。そしてそのとき、高橋ヒロシのフォロワーによってスタンダード化したカット、カット、カットの並列で展開をつくっていくヤンキー・マンガの手法が、あるいは効果が、オタク寄りの作品にありえそうなそれと大差ないことに気づかされる。

 「逆転の発想!」(「海の見える街へ!」)について→こちら

・その他鈴木ダイ(鈴木大)に関する文章
 『春道』1巻(キャラクター協力・高橋ヒロシ)について→こちら
 『ドロップ』(原作・品川ヒロシ、キャラクターデザイン・高橋ヒロシ)
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  1巻について→こちら