ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年09月23日
 文学界 2010年 10月号 [雑誌]

 『文學界』10月号掲載。北野道夫の小説は変だ。相変わらず。にんともかんとも、いわく言い難い。どこからどこまでが論理的に構成されているのか、一概には判断しきれないのだったが、筋書きだけを辿ると実に混乱していて、次第に何もかもがでたらめのように思われてくる。にもかかわらず、不思議と引っぱられるものがある。ありがち、うっちゃってしまいたくなるような描写の数々にさえ、なぜか目の離せなくなるところがある。この『泥のきらめき』という作品にしてもそうだ。まず最初に作者を彷彿とさせる人物が出てくる。彼は祖父の三回忌のため田舎を訪れている。だが、はっきりいって、このくだりが何を意図しているのかは不明なまま、まったくべつの物語が幕を開ける。しかしそれは、物語と形容するには、とても奇妙に歪んでいる。一人の若い女がいる。彼女は〈町の集会所の掲示板に出ている行方不明者の貼り紙を見ている〉うちに、その人物、田中きみ子とは自分のことではないかと信じはじめる。そして彼女は、いつしか田中きみ子となり、それまでの履歴を述べていくのだけれども、この田中きみ子によって語られる田中きみ子は、まるで複数の死者であり、複数の生者であり、つまりは誰でも構わない存在となり、やがて田中きみ子ですらなくなっていく。男性パートと女性パートの二つを並べている点は、前作『虹と虹鱒』に通じるものの、両者の関連性はほとんど明らかにされない。男性パートにおける〈小説も、一年以上書いていなかった〉という記述は、先にいったが、作者自身を想起させる。としたら、女性パートはその人物の手がけた創作、フィクションにほかならないと仮定するのは容易い。じっさい彼は〈私の心の中には、偏った価値観と煩悩に満ちた恣意的な極楽浄土が幾通りも繰り広げられている(略)しかし今は、嘘の極楽から差してくる嘘の光に感銘を受けて、泥の浄土で空想を遊ばせていたい〉といっている。おそらくはそうした〈偏った価値観と煩悩に満ちた恣意的な極楽浄土〉を、田中きみ子をめぐる物語は肩代わりしているのであって、いかにもそれは人工的、作り物めいている。だが、そこから顔を出す猛烈な違和感の方こそが、こちらの胸元に突きつけられるほどのリアリティを持ち、空疎に終わらぬまでの重量を小説に与えているのだ。妄想にも近しい不確定な触りが、裏返り、ある種、現実性の刻印をなしているのである。自分は何ものでもないということは自分が何ものにもなれるというパラドックスを含有する。このパラドックスに対する疑いを意識し、取り除こうとする腐心、痕跡を『泥のきらめき』の中核には求められる。

 『虹と虹鱒』について→こちら
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2010年08月08日
 すばる 2010年 09月号 [雑誌]

 『すばる』9月号掲載。松田青子の『ノースリーブ』は、若葉という主婦が、買い物の帰り、自分が住んでいるマンションの一階で、「うわっ、カギ落とした、待ってて、俺ちょっと戻って探してくる」と慌てて言い、出かけていった夫の陽一を待っているだけの短篇小説である。もちろん、その、だけ、のなかに、いかなる実感がつくられているかを見られたいのであって、たとえばさっき買ってきたばかりのリステリンを袋から出し、手にとりながら〈商品名、内容量、注意事項などが記載されているセロファンに、小さく「ターター」と書かれていて、「ターター」ってなんだと思いセロファン上をくまなく窺えば、どうやら「ターター」とは歯石のことらしい。えらくかわいい言葉である。この世に生まれてはじめてしゃべる言葉が「ターター」だという赤ちゃんもどこかにいそうではないか〉と思ったりするのだが、それのみでは間が持たず、回想が入ってきたりもする。そうして回想は、若い日の失恋にあてられており、もしかすればそこからが本題であるのかもしれないのだけれど、女性の、あるいは若い女性ならではの、心理の、とくに幼いところを、ユーモラスに、しかしそのおかしさが、当人にとってはほとんどまじであるようなとき、傍目にはぞっとしない類なものであることを、描写していく。結果、作品の印象には、主人公の内面をどう評価するか、が連なってくるのだったが、物語の微笑ましさを素直に受け取り、シンパシーを寄せても構わないし、独我論的に他人を解釈、勝手に満足しきった彼女の態度や、ノースリーブの件を深読みするあまり、ほんとうは全部この人の妄言なんでしょう、まるでおっかないホラーみたいだ、この季節にぴったりの恐怖すら覚えられる。
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2010年07月09日
 小説新潮 2010年 07月号 [雑誌]

 『小説新潮』7月号掲載。小説のことは小説家にしかわからないのかどうかは知らないが、すくなくとも小説家が小説以外のことをやり出すとけっこう退屈だぞ、という展開をここ最近いくつか見た気になるのであって、舞城王太郎の活動なども例に漏れない。もちろん、舞城は小説以外もすごい、的な言説があることは承知しているのだけれども、個人的にはそれに乗らないし、乗れない。できれば小説だけをやって欲しいのだが、もしかしたら小説を書くのが難儀になってしまったので小説以外のことにも手を出すのかな、と思わされるのもまた退屈ではあった。この『You Ain't No Better Than Me.』には、作者の新作をひさびさに読めたという刺激はあったものの、正直、それ以上の実感を得られなかったのは、文体と啓蒙、設定の、らしさ、で話をやっつけちゃってる印象がしたためである。現在はサンディエゴ警察の風紀課につとめている〈俺〉のもとへ、ある日突然、何の予兆もなく、子供時代に想いを寄せていたアンジェリーナから電話がかかってくる。彼女と彼女の娘たちはその人生に超常的なトラブルを抱えていた。当然、〈俺〉は巻き込まれ型に首を突っ込んでいくことになるのだったが、ちょうど同じタイミングで情報屋の娼婦からも緊急で厄介な案件を持ち込まれてしまう。ある種の過剰さが、躊躇いもせず、膨らんでいくなかで、雨降って地固まる、式の光景が繰り広げられるさまは、たしかに鮮烈なパワーを持っている。ただし、それはすでに過去の作品を通じ、獲得、披露されていたもので、作者と読み手の関係においては、今さら確認の域を出ていないように見られるのだ。いやまあ「でも期待することとお祈りすることは同じじゃないの?」「全然違うよ。お祈りはお祈りで、期待することは、相手に寄越せ寄越せってしつこく言うことじゃん」このような主人公と少女のやりとりは和むし、好意的にならざるをえない。しかしその点を含め、舞城王太郎というイメージを忠実になぞらえているにとどまる。

・その他舞城王太郎に関する文章
 「ドナドナ不要論」について→こちら
 『ディスコ探偵水曜日』上・下について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈最終回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第四回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
  「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
  「第一部 梢」について→こちら
 『イキルキス』について→こちら
 「182(ONE EIGHT TWO)」について→こちら
 「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」について→こちら
 「子猫探し」について→こちら
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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 群像 2010年 08月号 [雑誌]

 『新潮』8月号掲載。舞城王太郎の難病ものは、いわゆる難病ものに対する批評性を込みで読まれるべきなのかもしれないが、もっともエモーショナルなのはやはり難病ものでしかないような点であって、つまりは主体にとって大切な誰かがだんだんと喪われていく様子に、かなしい。難病もの、そう書いた時点でほとんどネタを割っているみたいなものだから、続けていってしまえば、この『ドナドナ不要論』も、語り手である〈僕〉の妻、涼子が膵臓癌にかかっていることが発覚し、死、という存在への意識が、作中人物のみならず、読み手であるこちらの目の前に重たくおりてくる、そこのところで物語自体のシンパシティックな面がより強調的に見え出すのである。じつにこの作者の作品らしく、饒舌なエクスキューズとショッキングな事件を通じて、小説は軌道に乗りはじめるが、基本的にそれは半径が狭い世界を描写しているにすぎない。複数の価値観が、密閉状の社会生活に押し込まれ、せめぎながらも、どこかで折り合わなければやっていけない、この、おそらくは関係性と言い換えてもよさそうな事柄が、語り手の心理に代弁されているのだ。したがって物語は、作中人物たちの感情が、他からの働きかけを受け、いかに反応したかをベースに組まれていくことになる。ときとして病は人を以前とは違ったふうに変える。癌に蝕まれたものの、手術は成功し、かろうじて命を取り留めたはいいが、娘の穂のかに厳しく当たるようになってしまった妻を見て、〈うわあ…と僕はただただ驚く他ない。別人みたいとかじゃない。完全に別人だ。あれは涼子じゃないぞ〉と思う。ここで見直さなければならないのは、涼子の人格ではない。かつて家族間にあったはずの信頼がすでに壊れつつあるということだ。察して〈僕〉は、すっかりと壊れてしまうのを防ぐために善処しようとするのだったが、そうはうまくいかない。もちろん、それを不幸だと判じることはできる。だが、不幸であると定められたとたん、それは不幸以外の何かしらかに変容する機会を失してしまうだろう。結局のところ〈僕〉が、懸命になってまで抵抗しようとしているのは、不幸が不幸として意味づけされてしまう不幸にほかならない。たぶん、『ドナドナ』という歌に持たれる印象もそこにかかっているのだし、涼子の叔母を例にある種の資質が否定的に語られるのも同様だといえる。

・その他舞城王太郎に関する文章
 『ディスコ探偵水曜日』上・下について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈最終回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
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  「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
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 『イキルキス』について→こちら
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2010年07月08日
 NOVA 2---書き下ろし日本SFコレクション (河出文庫)

 津原泰水の『五色の舟』は、大森望が責任編集した文庫『描き下ろし日本SFコレクション NOVA2』に発表された小説であって、奇っ怪で幻想を帯びた世界のなかに、哀切の豊かに溢れだした物語を織り込んでいる。いやいや、とても鮮やかな印象の憂いである。戦時であった。誰もまだ知らないが敗戦が近づいていた。奇形であることを売りにし、興行を組んでいる一座があった。足無しのお父さん、一寸法師で怪力の昭助兄さん、牛女の清子さん、蛇女の桜、そして〈僕は生まれつきの腕無しで、指は肩から生えている〉し、まったく耳は聞えず〈声が聞えなくとも人がなにをいっているのか解る子〉だった。血の繋がりはないのだけれど〈僕ら〉は間違いなく家族だったろう。あるときのことだ。人と牛のあいだに生まれ、未来を予見できる怪物、くだんの噂を聞きつけたお父さんはそれを一座に加えたく、〈僕ら〉を引き連れて、岩国に向かうのだったが、惜しくも軍に先を越されてしまう。横取りされたくだんはしかし、感覚の鋭敏な〈僕〉にいくばくかの影響を与えていたのだった。そのせいで暗示的な夢を見、とある不安を抱くようになってしまった〈僕〉と家族の行く末が、くだんの能力とはいかなるものであったかを種明かしつつ、展開されていくのだけれども、特殊な設定によって照射されているのは、欠損を持った人間が欠損を持った世界を生きることにも必ずや幸福はあるという、ひろく普遍的な題目なのだと思う。当然、シンパシーもそこに宿る。さまざまな不自由に制約された〈僕〉の資質は、複数の面において複数の現実性をまたぐための触媒作用を果たしている。カッコの種類で区切られた言葉のありようがそうであるし、夢のあちらとこちらとに分かれた立場がそうであって、歴史を違えた戦後がそうだ。どちらかにはあったはずの真実がどちらかでは絶対にありえなかった真実となる。この、二つの位相が対立し合うあいだに立たされて所在をなくした〈僕〉はただ、自分の運命が自分の望んだとおりであって欲しかったことを願う。

・その他津原泰水に関する文章
 『バレエメカニック』について→こちら
 『たまさか人形堂物語』について→こちら
 「土の枕」について→こちら
 『ピカルディの薔薇』について→こちら
 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら
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2010年06月03日
 こと『トンデモマンガの世界2』に関して、トンデモという形容は、要するに、マイナーな作品を指しているにすぎず、紹介されているものを見るなら、作家そのものがマイナーな作品、メジャーな作家のマイナーな作品、ジャンル自体がマイナーな作品、の大きく三通りに分類されるだろう。

 何はともあれ、川野ゆーへーの『スリラー』が取り上げられているのは、うれしかった。ほんらいはギャグ・マンガ家であったはずの川野が、シリアスなストーリーに挑み、『月刊少年チャンピオン』に連載しながらも、ほとんど未完に近しい状態のまま、終盤が単行本化されなかった作品である。新田五郎が書くテキストのなかで〈本作は超能力と超能力者に作品内だけで通用する新造語を付けた点が、「ジョジョっぽいマンガ」だと言える〉とされているとおり、たしかにそのような雰囲気を持ってはいたし、作中人物の理念が直接的に言動化されているあたりからも、そうしたニュアンスのうかがえたマンガではあったが、しかし一方で〈本作が興味深いのは「木下」という、名前は平凡、デブでブサイク、性格最悪という敵キャラが、てっきり雑魚キャラかと思ったらなかなかやられずにしぶとく出続けるところ〉といわれているように、その、外見と役割が一致しないほどにインパクトのあるヒールと、態度は潔いもののじつは並み程度のポテンシャルしか持たない主人公とが、まるでそれぞれの全存在をかけるかのごとく、死闘を繰り広げていくさまが、タイトルに偽りなしの正しくスリルとなっていて、最高潮に燃えた。個人的には、トンデモである以上に、隠れた秀作と見なしたい。

 さてしかし、この『トンデモマンガの世界2』で、自分の関心領域と密接なため、もっとも興味深く読んだのは、やはり新田五郎が担当しているのだけれども、司敬(現・マンガ原作者の倉科遼)の『学ラン維新伝 竜馬翔る』や、熊野一真(原作)と松元出樹(漫画)の『電光! 武闘派倶楽部』、向上輝の『ガリベン番長』など、対決形式のバトルで描かれた学園ものを扱った箇所だった。とくに『電光! 武闘派倶楽部』について、〈学園もののマンガやドラマでは、「生徒同士がさまざまな理由で戦う」という設定のものが1980年代に多く作られ〉ていて、〈本作『電光! 武闘派倶楽部』もそうした流れの中で描かれた作品である〉ため、〈同時代的にはそれほど斬新なアイディアではない〉とし、さらには『ガリベン番長』の項で、〈「学校の勉強で上位になることこそ至上の価値」という考えや、「文武両道を求め、庶民を支配しようとするエリート層の育成」という悪役像は、やはり近い年に描かれた『電光! 武闘派倶楽部』と酷似してい〉て、〈当時、こうした悪役は多くの作品に登場する一種の典型だった〉のは、〈おそらく、1970年代半ばから1990年代初めまでが大衆社会に疑問が投げかけられた時期だったことや、戦前からの支配層が今でも影響力を持つという陰謀論的な認識が人々の間にあったこと関係しているのだろう〉と見ている点であり、他方で『学ラン維新伝 竜馬翔る』に架空戦記のイメージを指摘していることである。

 いわゆるヤンキー・マンガ(その起こりは80年代に暫定できるだろう)以前の、不良や番長、ガクランをベースにしたマンガ(つまりは70年代から90年代にかけ、多く発表されていたもの)の研究は、膨大な作品数のわりに、ほとんど進んでいないのが現状で、正直なところをいえば、もっと幅広に込み入った考察が欲しかった気もしないではない(まあそれはそれで本書のテーマとは違ってしまうから仕方がない)のだが、歴史的な要約としては、なかなか納得のいく内容になっている。

 ところで、この本の最後に置かれた山本弘の「あとがき」である。例の「非実在青少年」問題にあてられているのだけれど、もしも日本で他国と同様の規制が敷かれたら〈18歳未満のキャラクターのエロチックなシーンが、今のアニメやマンガやゲームの中に、どれほど多くあることか。それらが全滅するのである!〉そして〈マンガやアニメやゲームは日本の誇る文化なのだ。そして、その業界の多くの部分はエロによって支えられているのだ。エロを禁止したら業界全体が衰退する〉のだと、否定派を主張するその論調はいささか単純に走りすぎ、あまりよい文章とは思われない。

 『トンデモマンガの世界』について→こちら
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2010年06月02日
 マンガホニャララ

 絶対にちばあきおの『キャプテン』を好きなブルボン小林が、はたして歴代主人公のなかで誰がいちばんフェイヴァリットなのか、かねてより気になっているのだったが、この『マンガホニャララ』を繰り返し読んでいるうち、そうした尺度、つまりは感情移入的に特定の人物を解釈することは、ブルボンというマンガの読み手にとってさほどプライオリティが高くないのかもしれない、と思うようになった。

 さて。ブルボン小林が『週刊文春』で隔週連載しているコラム、『マンガホニャララ』が一冊にまとまった。過去に何度か引用したときがあるほど、毎回、楽しみにしていたものである。連載時よりも図版が多くなっているのはともかく、あらためて確認するに、さまざまな切り口を用いながら、彼なりの尺度をしっかり、マンガ表現に託された魅力を世に問うているのがわかる。じつは紹介されているなかに、はじめて知った作品はほとんどないのだけれども、佐藤にんとんの『にんしんゲーム天国』だけは、へえ、こういうマンガがあるのか、と思い、興味を持って手に入れた。

 その項で〈僕が本作に感じ入るのも実は、ゲーム云々のことではなくて、言語の面白さについてだ〉といっているが、やはり『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』や『ゲームホニャララ』の書き手でもあるからこそのセレクションだと思うし、しかしじっさいにマンガは〈熱い愛情ゆえに言語的独り相撲に陥るにんしんさんは、ネットという場で語る、ある種の人びとの不自由さの戯画になっている〉ので、おもしろかった。

 たとえば『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』や『ゲームホニャララ』においては、今と昔の時代的な対比上にその作品(ゲーム)ならではの優位性または固有性を置き、感想をつけていくというのが、ブルボンという書き手の得意とするスタイルであって、それは『マンガホニャララ』でも同様に、自然と作品(マンガ)の背景、現代に付随する感性をもすくいとるかのような段取りになっていることが、『にんしんゲーム天国』の紹介からはよく見える。もちろん、ゲームとマンガでは表現の形式が異なっている以上、両者のあいだに微妙なアプローチの違いはあるものの、判断の基準に大きな差はない。

 ここで『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(現在は文庫化されている)に収録の、ゲーム『フロッガー』に関する文章をあたられたい。ブルボンは〈日本という国は漫画文化が発達していたから、デフォルメというテクニックを知っていた〉ので、〈ゲーム業界で日本が世界的に躍進したのは、デフォルメ力を持っていたからである〉とし、〈一方、米国で大ヒットした『フロッガー』の主人公が「蛙」というのは、逆の意味で日本にはないメンタリティがあったのだと思う〉のだが、〈これは個を愛玩する日本のデフォルメ文化にはないゲームのありようだ〉といっている。

 ただし、ブルボンは日本のすぐれたデフォルメ力を無条件に認めているのではなく、おそらくは、だからこそ、別個の視線を有した『フロッガー』の楽しみに気づかされる点を述べる。こうした判断の基準は、マンガ表現の魅力を取り上げた『マンガホニャララ』に持ち込まれたとき、とくに第2章が「「キャラ」と「個性」は違います」とあるとおり、いわゆる「キャラ」という価値観への懐疑として語られる。

 要するに、この国のすぐれたデフォルメ力の集約であるような「キャラ」のみが、マンガ表現の総和とはならないことを、喝破(というほど大げさなノリではないが)していくのである。では「キャラ」以外のいったい何が、というのが、『マンガホニャララ』の本文であり、ブルボン小林らしい分析になるだろう。「キャラ」とは、換言すれば、大勢的な傾向の顕著な表象にほかならない。そしてそこから漏れていくような個所や作品を足がかりにしながら、ほら、マンガはこんなにも楽しい、と、あらたな誘い水となりうる言葉を注ぐのだ。

・その他ブルボン小林に関する文章
 『ぐっとくる題名』について→こちら
 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら
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2010年05月31日
 叫びと祈り (ミステリ・フロンティア)

 物語とは、実感を指すのか、記憶を指すのか、想像を指すのか。いずれにせよ、それは生と死の狭間に覗き見られる憐憫のようであった。梓崎優の『叫びと祈り』は、斉木という青年を主人公に、世界各地を雑誌記者として取材して回る彼を探偵役とし、さまざまな事件を語り、真相に驚きを加えていく、いわばミステリ形式の連作短篇集である。斉木の職業柄、ほとんどのエピソードは海外を舞台にしていて、たとえば、冒頭に置かれた第五回ミステリーズ!新人賞受賞作の「砂漠を走る船」にもっとも顕著なとおり、この国の価値基準を他の文化や環境に持ち出していったとすれば、必然、ある種のギャップを目の当たりにしなければならないなかに、苛酷な認識とミスリードが仕込んであるのだったが、そうした手法自体が洗練的に思われるのは、おおよそのプロットが、たぶんわかりやく、欠落をベースに組まれているためだろう。時や場所、規模の違いはあれ、斉木の推理は、作中あるいは行間に用意された何かしらの欠落を埋める行為と近しい。もちろん、ほんらい探偵小説ってそういうもの、といわれればそうなのだけれど、注意されたいのは、欠落そのものの重みに物語が生まれているのではなく、欠落を埋めようとする行為に対して物語が宿されている点である。四話目にあたる「叫び」の変調を経、最終話の「祈り」に至ると、独立したエピソードであったはずの各個が、一つの主題を為すこととなる。そしてそれは、斉木当人の巨大な欠落として、あらわれている。とある理由で、幽閉状態を強いられた彼は言う「でも、もういいんだ。だってここは雪に閉ざされた城なんだ。物語は物語に留まって、終わってしまうんだ。全て、消えてしまうんだ」。詳細は省くが、「物語に留ま」るというのは、この場合、欠落そのものの物語化を意味しうる。しかし、小説が、主人公が、やがて選び取っていくのは、あくまでも欠落を埋めるのに必要とされた物語にほかならない。そのような物語は、できるだけやさしくあたたかであって欲しい。こうした想いが、おそらくは「祈り」という言葉に託されている。
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2010年05月03日
 文藝 2010年 05月号 [雑誌]

 『文藝』夏号掲載(先月出てたやつね)。たとえば先般にリリースされた『魔法使いクラブ』もそうだし、このところの青山七恵は、自身にとってある種のトライアルといえるような小説を、しかし決して質の低くないレベルで次々と送り出しているのだったが、短篇であり小品ではあるものの、『役立たず』からもまた意欲的なアプローチがうかがえるのであって、さしあたり男性を主人公に据えながら三人称で語りをはじめる、それを新境地と見なせるかもしれない。配送ドライバーとして働く阿久津の趣味は、描いた有名人の似顔絵を週刊誌に出すことである。あるとき、彼の投稿が載っているのを目にした大学時代の知り合いからメールが届く。弥生というその人物は、かつて阿久津が憧れた女性であった。それが踏ん切りとなり、阿久津は付き合いのうまくいかなくなった恋人と別れ、そしてついに弥生との再会にまで漕ぎつけるわけで、作品は、この二人がともに過ごすひとときを掴まえていくことになるのだけれども、はたしてステレオタイプな男女の関係が、ちょっとした悪意の物語へとスライドし、目も当てられない結末をもたらす、ひねりに魅力を負わせている。今まで作者によって採用されることが多かったのは、ワキの場合はもとより主人公であったとしても、淡泊というか、あっさりというか、わりとクセのない男性像であったのだが、阿久津はややタイプが異なる。いや、たしかに人となりは凡庸でしかないとはいえ、自意識の過剰さが目立つようにこしらえられており、それを動力にし、物語は回っている。彼の仕事中における態度、似顔絵に向かうモチベーションなども、本質的には自意識の影響下に置かれ、そうした根性の持ち方が、弥生とのやりとりを経、とうとう身も蓋もなくなってしまうのだ。次第に彼の言動が痛々しく、あるいは滑稽になるさまは、自分の価値を高く決めつけている人間が他人の内面を低く見積ろうとする、不遜な視線を題材にした悲喜劇を思わせる。弥生の言いを真に受けるのであれば、他人そのものを欲望する主人公が他人の欲望を欲望する他人によって復讐されているにすぎず、手の平返し、仕掛けはさほど凝っていないだろう。しかし特徴とすべきは、やはり、自意識のありようを糸口にすることで、コミュニケーションの局面を細かく、一つ一つの反応をよく描写している点である。阿久津う、おまえさんはじつに独りよがりだよ。そのおかげで皮肉的な成り行きに、ああ、ああ、相づちを打つ。

・その他青山七恵に関する文章
 『ファビアンの家の思い出』について→こちら
 『うちの娘』について→こちら
 『山猫』について→こちら
 『ニカウさんの近況』について→こちら
 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2010年04月28日
 文学界 2010年 05月号 [雑誌]

 『文學界』5月号掲載。井村恭一の小説はいつだって奇妙なのだが、もちろんこの『妻は夜光る』も奇妙でいて、その奇妙なところが不思議と心地好い。作品の内容を率直にまとめるなら、まるでゾンビ状態になってしまった妻とともに生活を送る男の姿、日々が題材化されている、ということになる。〈妻はずっと寝ている。夜になると起きてきて、三時間ほど活動してふたたび横になる。そのあとは翌日の夜まで起きなかった。「そういう病気なのです」とセキグチは言う〉のだった。ツォと呼ばれるその病気にかかった者は、熱を出していったん死ぬ、死んだのちしばらくすると起き上がり、肉ばかりを求め、大量に食さなければならない。同じ団地の〈豊平さんの通夜に出席したものはほとんど猫に噛まれた。猫はツォに感染していた〉ため、妻を含めた住人たちはみな、ツォを発症しはじめるのだけれども、なぜかしら〈わたし〉にだけはその病状があらわれなかった。団地は隔離閉鎖される。住人に肉が配布される。そして監視されている。監視にやってきたのはセキグチという男で、たまたま彼は〈わたし〉の高校時代の知り合いでもあった。セキグチによると、発症を免れた〈わたし〉は運が良かった。おかげでそれを看病というのであれば、毎日毎日、妻に肉料理をつくってやれる。パニック・ホラーを思わせる設定はユニークであるものの、たしかに非凡ではないだろう。むしろ『妻は夜光る』が、奇妙と述べられる読み応えを持っているのは、異常事態であるような状況下、まったく平然とした日常が、びっくり驚きのサスペンスに腰を浮かすこともなく、地に足を着けたまま、淡々と描写されている点である。作中の世界像にそったスリルが全然ないわけではない。しかしもっとも大きな特徴は、妻との暮らしが主人公にいかなる実感をもたらしているか、に預けられている。今も一つの共同体である夫婦にかつてとは異なった関係性が生じる、たとえばこれは、歳月をテーマにしても暗示することができるわけだが、同じく事件や病気を用いても可能であるし、じっさいここでは、ツォと呼ばれる現象が手段に選ばれていると考えられたとして、あながち的を外していないように思う。さらには、団地や社会の、すなわちレイヤーの異なった共同体が夫婦の外側には存在させられている。セキグチの口からしばしば〈わたし〉は、感染した人々の移住計画を聞く。引っ越しを持ちかけられる。あるいはそれは、自分たちを取り巻く環境が次第に変わりつつあるとき、夫婦の生活がどうあればキープされるのか、を間接的に問うているのかもしれない。いずれにせよ、特殊で不穏な物語において、主人公の抱く深刻さは、ごく一般的な、ある意味で卑近な観念によっており、最大の魅力は、そのギャップをことさら大げさにしていかず、自然だと受け入れられるほどに落ち着き払い、軽妙なセンスでこしらえられた語り口にある、といえる。ある晩、凶暴化したツォに関する映画をDVDで鑑賞した夫婦は、次のような会話を交わす。「あたしがああいうふうになったら、頭を撃つ?」「銃がないからなあ」「バットとかで殴ればいいんじゃない?」「バットもないよ」「どうにかしなくちゃならなくなったら、どうするの」「しかたがないから、ちょっと食われてしまおうかと思う」。こればかりではなく、端々に見られる情緒のありようは、ユーモラスである以上に、どこか深い場所へとじんわり届いていきそうな温度をイメージさせる。

・その他井村恭一に関する文章
 『フル母』について→こちら
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2010年03月29日
 だから恋とよばないで 1 (フラワーコミックス)

 この国のサブ・カルチャー、とくにマンガの表現において、学園をベースにした作品は数限りなく、尽きることがないし、増える一方ではあるのだったが、しかしここ最近、学校生活それ自体を豊かに描けているものは、ごく少数にとどまる。たいてい、作中人物の年齢や幼さが学生の立場上に設定されているにすぎず、たんにジャンルのコードにならっているだけにも思われてしまう。要するに、背景である以上の条件を出ない。場合によっては、背景にすらなっていない。どころか、題材が一本化し、都合よくそこに内包されるケースがしばしばなのであって、たとえば、恋愛であったり、友情であったり、青春であったり、情熱であったり、連帯であったり、挫折であったり、不幸であったり、葛藤であったり、いずれかのテーマが、たまたま、発生した場としてしかあらわれてこない。だがほんらい学園とは、そうした云々の、ありとあらゆるを包括しているのではなかったか。つまり、学校生活それ自体を豊かに描くというのは、その、ありとあらゆるの総和された空間をなるたけよく掴まえておこうとする、かのようなすぐれた手つきを、ここでは指したいのだけれども、ああ、藤原よしこの『だから恋とよばないで』などは、正しく好例の一つに挙げられる。

 鳴瀬心、17歳、ままならない片想いを仲の良い友人たちから応援され、奮起するほどに平凡な女子高生である彼女の、2年生の2学期、産休に入った担任のかわり、その若くて〈全然大人に見えない 全然ちゃんとしてない〉男性教師は、出席簿を片手にやって来たのだった。じっさい、25歳で「先生」になりたての高柳次郎には、子供じみた点が多く、職員室でも浮いた存在であるばかりか、一部の生徒からは「ジロちゃん」と呼ばれて、親しまれはしているものの、およそ低く見られがち、まるで教師のようには思われない。しかし、最初は頼りなく感じられた次郎とフランクに接し、いろいろなことを知っていくうち、心の注意はゆるゆる彼に引き寄せられてゆく。1巻に描かれているこうした筋書きをもって、なんだい、少女マンガのジャンルにオーソドックスであるような、教師と生徒のラヴ・ストーリーじゃん、と判じるのは容易い。でも、はたしてほんとうにそういったパターン化のみで説明に事足りる内容なのだろうか。たしかに物語は、初心なヒロインの、異性に対する視線を、メインにしている。けれども、くわしく読まれたいのは、それはあくまでも彼女の、主観によってのぞまれる学校生活の、大きな一部にほかならないことである。その大きさの、他に比べ、より大きくなっていく過程が、ある種の戸惑いをもたらすところに、おそらくは今の時点で『だから恋とよばないで』という題名の相応しさを求めてもよい。

 作中のモノローグはすべて、主人公である心の内面が、どう学園のなかで動き、生きているか、を代弁している。彼女の主観において、間違いなく恋愛の問題は大きい。そのとき次郎の境遇もまた、彼女の視線を通じた先に描かれていることは、必然、押さえておくべきだろう。だがそれは、若い年代にとって異性との出会いは重要である、といった程度や加減を描写するための作法であり、むしろどういう状況下でこそ意味や価値を持ちうるのか、学校生活という半径の狭い世界を広く見渡すことで、的確なエモーションを射ているのだし、この作者ならではとすべきデフォルメのタッチが、そしてそこにやさしさとあたたかみを与えているのだ。

・その他藤原よしこに関する文章
 『恋したがりのブルー』
  6巻について→こちら
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  1巻について→こちら
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2010年03月19日
 文学界 2010年 04月号 [雑誌]

 『文學界』4月号掲載。村上龍の『心はあなたのもとに “I'll always be with you, always”』が連載三十五回にして完結を迎えた。あらかじめ予告された愛する人間の病死、とでもすべき一昔前のケータイ小説的あるいはメロドラマの様式にそったプロットを、中年男性の慰みに改変したかのような内容は、おそらく多くの読み手にとってあまりはっとしないものであるかもしれない。が、しかし村上龍の作家性を基礎としながら考えるとき、部分部分には着目させられる点があった、というのは過去に述べてきたとおりであって、さしあたり私見を書き留めておきたい。

 今日において、村上龍はかつて並び称された村上春樹ほどの影響力を持ちえていないように感じられる。個人的にこれは、たとえば柄谷行人と東浩紀の、コジェーヴがいう動物化の理解の相違を参考にするのであれば、後者のそれが、すくなくとも文系的な認識のうちにあっては、一般的になりえたこととパラレルなのではないか、と受け取れる。いうまでもなく、この場合に読み返されたいのは、柄谷が村上龍について論じた「想像力のベース」であって、東が直接的に村上春樹を引用している『クォンタム・ファミリーズ』もしくは『ゲーム的リアリズムの誕生』であろう。

 柄谷は「想像力のベース」で〈コジェーヴは、ポスト歴史的な世界では「アメリカ的生活様式」が支配的になるだろうという。そこでは、(階級)闘争はなく、要求は満たされ、したがって、「〈世界〉や自己を理解する」という思弁的な必要性を持たないがゆえに、人間は「ポスト歴史的な動物」になるといっている〉として〈日本の一九七〇年代後半にポストヒストリカル(ポストモダン)な傾向があらわれたとしたら、その一つは明らかに村上龍にあり、もう一つは村上春樹にある。しかし、この二人は対照的である。春樹が「意味」を空無化するためのアイロニカルな自意識の繊細さを誇示しているのに対して、龍は圧倒的な動物性のなかから「意味」の萌芽を享受するといった感じである。たとえば、『限りなく透明に近いブルー』には、アメリカ的「動物性」に没入しながら、なおそれについて行くことに耐えきれないような「精神」の萌芽がある〉といっている。そこで掴まえられている村上春樹のイメージは、現在のものとさほど大きく変わるまい。

 ところで「想像力のベース」を念頭に置きつつ、「村上龍――反=人間の想像的経験」(『反=近代文学史』)という文章を書いているのが、中条省平である。中条は〈総体として見る村上(引用者注・村上龍)の「動物性」は、コジェーヴの描くそれよりはるかに攻撃的で、明確にまた即座に、反=人間主義を指向する〉と述べ、村上龍の作家性を探っているけれども、重要なのは〈『限りなく透明に近いブルー』では、ひたすらネガティヴで、受動的なプロセスでしかなかった事物の腐敗のイメージのなかに、『海の向こうで戦争が始まる』では、腐敗させるものと腐敗させられるもの、破壊するものと破壊されるもの、能動と受動の二面性が発見され、その闘いの局面に作者のまなざしが注がれていることがよくわかる〉といっていることであって、そしてそれが『コインロッカー・ベイビーズ』の出発点だとしていることだ。

 同じく中条は〈ミニチュア的ヴィジョンに執着する『限りなく透明に近いブルー』の主人公の人間造形は(略)『コインロッカー・ベイビーズ』のハシのそれと正確に重なり合う。ハシもまた見ることの完全な受動性に囚われた人物(略)なのだ。だが、『コインロッカー・ベイビーズ』では、ハシのかたわらにキクというもうひとりの主人公が配されて、制御のきかない能動性のカウンターパートを受けもつことになる。この受動と能動の衝突が、『限りなく透明に近いブルー』には欠けている『コインロッカー・ベイビーズ』のドラマティックな原動力となるのだ〉という。その、受動性と能動性の両端にかかる傾きのありようにこそ、もしかすれば村上龍と村上春樹における動物性の相違が顔を出している。

 そう、村上春樹の小説の主人公たちの多くは、他の誰かから働きかけられるのを待っているように、きわめて受動的な人物ではなかったか。一方、村上龍の小説の主人公たちの多くは、あたかも攻撃性の高い人物であるふうに思われるほど、他の誰かに対し能動的に働きかける。

 先般も引いたけれど、ここでもう一度、村上龍の『音楽の海岸』という小説の、クライマックスでとある人物が口にする一節を見ておきたい。「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。他の誰かからの自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」といわれているそれは、たしかに能動性のつよい肯定を示唆していると思われるのであって、受動的に喚起される妄想が必ずしも希望になりえないことを教えている。

 とりいそぎ注意を加えておかねばならないのは、中条がいうようにハシとキクの存在に象徴される〈受動と能動の衝突が、『限りなく透明に近いブルー』には欠けている『コインロッカー・ベイビーズ』のドラマティックな原動力〉であるとするならば、それはおそらく、87年の『愛と幻想のファシズム』におけるゼロとトウジ、フルーツのトライアングルを経て、92年の『音楽の海岸』における石岡とケンジ、ソフィ(またはサイトウとケンジ、ユリ)のトライアングルの形成が不十分であったことにより、完全に崩壊してしまっている点である。そしてその物語の先にあらわれているのが、前段の「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」という、一つの断言であるような仮定にほかならない。

 受動性と能動性の二項は、ともしたら、村上春樹がいうところの、あるいは村上春樹をめぐる言説がいうところの、デタッチメントとコミットメントに通じるものであるかもしれない。だがそうしたとき、コミットメントの一語は、他の誰かへの働きかけではなく、もっと大きな枠組み、社会や世界に対する働きかけにまで飛躍してゆき、自然と共同体の困難を包括しようとするのは、なるほど、いわゆるセカイ系に近しい態度だと解釈することもできそうだ。さてしかし、本題は村上龍の『心はあなたのもとに』であったな。

 たしょう乱暴ではあるものの、誤解をおそれずにいうなら、村上龍の『心はあなたのもとに』も、村上春樹の『1Q84』も、主体の意識のために他の誰かが犠牲となる、このような意味では、物語に等しい性質を共有しているのだし、じっさいそこまで還元してしまったならば、美嘉の『恋空』ともそう変わりはなくなる。にもかかわらず、三者はまったく違った位相に立った作品であると、たいていの場合、受け取られるに違いない。では『心はあなたのもとに』は、主体の意識のために他の誰かが犠牲になる、それがどういった結びを導き出しているか。

 この最終回において、あらかじめ予告されていたとおり、『心はあなたのもとに』の語り手は、ついに恋人であるような女性をうしなう。結果、喪失感や無力感に囚われるのであったが、当然、そこからどうやって回復するかが、小説の主眼となってくるだろう。正直な感想をいうなら、それはきわめて陳腐なお話しにすぎない。

 主人公の西崎健児は、亡くなった香奈子の弟との面会を約束し、ホテルのバーで彼を待っているあいだ、なぜかしらとあるアイルランドの女性ジャーナリストのエピソードを思い出し、考える。やがて弟がやって来、彼と話しながら記憶を辿るうち、こらえきれず、涙してしまう。なぜならば、ふいに〈なぜアイルランドの女性ジャーナリストのことを思い出したのか、わかった。女性ジャーナリストの死はアイルランドという国家を変えた。誰が考えても、その死には意味がある。生きていたという証しを残したということだ。香奈子は誰にも知られることなく、一人で自分の部屋で倒れたまま人生を終えた〉のだと感じ入ったからである。そして、香奈子の弟に向かい〈ぼくは、香奈子さんが確かに生きていたという証しを、何とか残したいです〉と申し出、自分以外には誰にも気づかれないかたちで、ある種の記念碑をこの世界に建てるのだった。

 たぶん、投資家として成功している主人公のビジネス面が、香奈子とのラヴ・ストーリーであるような箇所と、長らく並行して書かれていたことの理由も、その女性ジャーナリストのくだりを介することで、一点に折り重なる。要するに、個人と社会の関わりと個人と個人の関わりが、いわくありげな対照をなしていたのだという辻褄が合うのである。いやまあもちろん、それを汲んでもやはり陳腐さは拭いきれない。しかしながら『1Q84』や『恋空』と等しく、主体の意識のために他の誰かが犠牲になる、このような物語が追われているなかで、あくまでも他の誰かへの働きかけがペースメーカーの役割を果たしていたあたりに、作家性の、作品上の、意義を取り出せる。

 ほんとうは村上龍の小説における告白の機能についても触れるべきであったが、そこまでいけなかった。

 第三十四回について→こちら
 第三十一回について→こちら
 第二十七回について→こちら
 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
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・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2010年02月07日
 文学界 2010年 03月号 [雑誌]

 『文學界』3月号掲載。同じく村上龍による『群像』の連載『歌うクジラ』が、今月、ひと足先に完結されたが、こちら『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』のほうも、そろそろ終局を迎えつつあるようである。つまりそれは、第一回の段階ですでに予告されていたとおり、ヒロインである香奈子の死に、語り手の西崎が、否応なく面せねばならぬことを意味しているのであって、この第三十四回のラスト、作中の時制はようやく、小説全体の冒頭に追いつかんとしている。ところで、先ほど挙げた『歌うクジラ』の内容を、たとえば、他の誰かに働きかける主体の顕在化、と仮定するのが可能だとすれば、『心はあなたのもとに』は、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、であると仮定することが可能であるように思う。『心はあなたのもとに』の主人公、西崎は当初、他の誰かに働きかけられる自分を拠り所としていたのであったが、それが香奈子との出会いや、彼女の闘病生活との関わりを通じ、あきらかに変容してゆく。前回(第三十三回、2月号掲載)における西崎のこういう所見、〈香奈子が不安や悲しみで泣き出してもいつか泣き声は止んだ。痛みや吐き気があってもいつか収まり、救急車で入院してもいつか必ず退院するときが来た。繰り返されるうちに、そういったことがいつの間にか特別なことではなくなった〉のは、体に怪我をしたときに痛みがあるのと一緒で〈痛みがないと人間は傷に注意を払わないからそうなっている、ただずっと痛かったら辛いので、しばらく時間が経つと痛みが中和される仕組みになってい〉て、そのさい〈身体の中でものすごい数の化学変化が起こっている〉ように〈精神にも、似たような変化が起こるのではないだろうか〉、すなわち〈香奈子が怒ったときには、どうやって謝ろうかとそればかりを考えて仕事が手につかなった。会うのが憂うつに思われるときがあって、ひどい罪悪感を覚えた。そういったことが起こり、収束するたびに、少しずつ何かが変わっていった〉わけで、〈わたしたちは何にでも慣れてしまう。痛みも不安も罪悪感も憂うつも、繰り返されるたび、気づかないほど少しずつだが薄くなっていく。いいことなのかどうか、わからない。しかし、香奈子が入院するたびに不安に駆られていたら神経が保たないかもしれない〉というのは、一般論である以上に、他の誰かからの働きかけによって成立しうる何某かの実感が曖昧になりかけていることの、自分自身に対するエクスキューズにもとれるだろう。じじつ、それがおためごかしにすぎないかのごとく、今回のくだりで、香奈子とまったく連絡がつかなくなってしまった西崎は、とたんに〈いやな予感が湧き上がった。棚にあった花瓶がいつの間にかなくなっているとか、見慣れた建物が取り壊されて空き地になっているとか、毎朝庭にやってきた小鳥が来なくなるとか、それまでずっと同じ場所にあった馴染み深いものがなくなっているのに気づく、そんな感じだった〉と、あまりにも漠然としていながら、しかし確実な不安を抱えることになるのである。そしておそらくは、そうした不安のありようこそが、他の誰かに働きかける主体を潜在化、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、を担う。かつて村上龍は、『音楽の海岸』という作品で、病床のとある人物にこう言わせた。「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。他の誰かからの自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」。以前にも触れたけれど、完全な別人であるにもかかわらず、その『音楽の海岸』の主人公の名前は、『心はあなたのもとに』の主人公の名前と等しく、ケンジという。とある人物は病床から彼に「ケンジは何も気にする必要がない。生きていく希望がないってことは、他の人の希望も奪うことはできないってことだからね。わたしが言っているのは、誰かの子供を殺すとか、母親が死ぬとかそんなこの国のテレビドラマみたいなことじゃないのよ」と語りかける。さて、大切な人間がやがて病気で死ぬ、こうした『心はあなたのもとに』の大筋は、それこそ、この国のテレビ・ドラマ、メロドラマみたいであり、テレビ・ドラマや実写映画の原作になりそうなケータイ小説に近しくもある。もしもそのなかで展開されているのが、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、だとすれば、フィクションの形式とテーマを考えるうえで見出せるものがある、という気がしてくる。近未来SF的なモチーフもしくは想像力を持った『歌うクジラ』との、語り口、プロットの大きな相違を含めて。だが、いやもちろんこれは現時点での推測にほかならず、『心はあなたのもとに』の物語が完結したとき、すべては、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、それを認めたのちでの抵抗、あるいはふたたび他の誰かに働きかける主体の顕在化、へと逆転する場合も考えうる(ややこしいな。いずれもうすこし丁寧にまとめたい)。

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2010年01月24日
 女王暗殺 (講談社ノベルス)

「そういう世界と自己をダイレクトに接続するような小説を書けば売れる。読者はみな、自分は特別であるという幻想に飢えているから。でもあなたはそういう小説は書けない。確かなことは、あなたがそういう小説を書けない言い訳に、自分が特別ではないと主張しているということです。そうでしょ? 自分が特別であるという物語は容認出来ない、でも作者の自分は特別としか言いようがない。こんな矛盾はありません。売れる小説を書いたら、あなたはどんどん特別になってしまう。あなたはそれを怖れた。自分の溢れんばかりの才能を怖れたんです」(P318)

 これまでにもさんざん繰り返しいってきたことだが、やはり浦賀和宏だけは別格だな。おそらくはこの作家のみが、90年代や00年代というディケイドの区切りに関係なく、そして2010年代の現在から先も、自意識の地獄の向こうにいっさいの救済の拒まれた驚天動地の物語を容赦なく創造し続けることだろう。すくなくとも、いや、まいった。あまりのインパクトに、『女王暗殺』を読み終えた瞬間、どっと重たい息をつく。率直に感想を述べようとすれば、うあああああああ、であり、があああああああ、であり、ぐわああああああ、であって、ほんとうはもうそれ以上の言葉が見つからない。

 要約のひじょうに困難な小説である。作品の性格上、たった一つでもネタを漏らしてしまったなら、すべての意味を損なってしまう可能性があるためなのだけれども、あえて試みるとすれば、世間知らずで童貞の坊っちゃん二人が、それぞれ、奇怪な殺人事件に巻き込まれながら、謎めいた女性にたぶらかされながら、やがてニアミスしながら、与野党の政権争いに深く関与していき、日本の将来をその手に握らされてしまう、といった具合になるのだが、もちろん、ぜんぜんそんな筋ではない。いや、まったくの嘘を書いているつもりではないものの、むしろ、これを真に受けてしまっては困るほど、多重の仕掛けが満載されているのだった。

 作中人物の一人が「クリストファー・ボグラーの『神話の法則』という本に、こんなことが書いてあった。物語はすべからくオーディナリーワールドから、スペシャルワールドへの移行を描くものだと。映画でも漫画でもアニメでも小説でも、読者や観客がいる世界がオーディナリーワールドで、物語の中の世界がスペシャルワールドだ。それを象徴する映画にヒッチコックの『鳥』がある(略)『鳥』の構成は、観客と映画との関係性のメタファーになっている(略)」(P179)と述べているのに忠実なとおり、『女王暗殺』もまた、「オーディナリーワールド」から「インターミッション」を経て「スペシャルワールド」への移行を捉まえていくのだが、結果として〈読者や観客〉が誰も必ずや物語の主人公に相応しく特別ではないことを曝いてしまう。

 帯のコメントに評論家の千街晶之が〈浦賀が描き続けるのは世界のありようへの懐疑なのだ〉と寄せているが、じっさい、ラストのセンテンスに到達するまでミスリードにミスリードにミスリードの束で構成されているような物語は、この世界に信じるに値するものは何もない、という真理が果たして誤りなく真であるとき、その真理自体がすでに疑われなければならない、こうしたパラドックスを丸ごと飲み込んでいるのであって、あまりにも頼りない足場がついに、ぼろぼろと崩れ去ってゆくクライマックスの、なんて残酷きわまりないことかよ。しかし、読み手がいくらそれを拒否しようとも、作中人物たちは否応なしにそれを受け入れざるをえない運命にあるので、悲痛さは増すばかり。難を逃れ、かろうじて生き残った人間より、主観的な愛情や正義をひたすら良しとし、犬死にしていった人間のほうが、よっぽど幸福に思われるのだから、たまらない。

 ところで『女王暗殺』には、浦賀の初期作においてキーの役割をつとめた安藤直樹の名が見つけられる。これをもって「安藤直樹シリーズ」の最新作と位置づけられるのだけれども、それ以上に前作である『萩原重化学工業連続殺人事件』の続編として受け取りたい部分が大きい。じじつ、カヴァーの折り返しには「萩原重化学工業シリーズ」とある。たしかに、本作のインパクトは『萩原重化学工業連続殺人事件』に目を通していなくとも、決して薄まるものではないだろう。しかし、両者のリンクがじょじょに明かされていったさい、ここに展開されている世界像は、さらに壮絶な歪みを見せはじめる。全貌のようとして知れない現実の、底の底を軽くさらって出てきたかのような、歪み、を、である。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2010年01月18日
 真実一郎さん、速水健朗さん、と御一緒させていただき、年明けにお知らせした座談会の後編、サラリーマン編が公開されております。題して、「サラリーマン漫画はどこへ行く【サラリーマン漫画座談会】」。ふだんマンガの批評では取り上げられない作家、作品を主にしていますので、興味のある方は、ぜひぜひよろしくお願いします。
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2010年01月13日
 文学界 2010年 02月号 [雑誌]

 『文學界』2月号掲載。青山七恵の小説において、東京を舞台にして生きる作中人物たちはたいがい、「どこか」から離れている自分のことを実感している。では日本を発ち、海外に渡った作中人物たちの場合、それはいかように変化するのか。ひどく簡単にいえば「どこか」と呼ぶべき地平がたしかにあるということを実感するのである。もちろん二つの「どこか」は持っている意味合いが大きく違っている。前者の「どこか」が既知の言い換えだとすれば、後者の「どこか」は未知の言い換えになるだろう。作家論的に考えるとき、作者にとっての東京とはすなわち、未知と既知とが入れ替わる途中にほかならない。このことはおそらく、『群像』09年12月号で青山が吉田修一の『横道世之介』にあてた書評「『東京』していたあの頃」からも推測可能であるし、また同時に栗原裕一郎が『國文学』09年6月臨時増刊号「小説はどこへ行くのか 2009」に書いた「吟子さん(『ひとり日和』)の家がある駅の名が伏せられているのはなぜか――青山七恵の場所」がひじょうに示唆的である。ところでおまえは何が言いたいのか、という話なのだが、要するに、今までの青山の作品に主張的であった既知の移行とでもすべき運動が、この短篇「ファビアンの家の思い出」では、未知への離陸という運動へと転じているように思われるのだった。すくなくとも、作者が海外の情景を描写した小説はこれがはじめてなのであって、同じく男性を語り手にしつつ「○○の××」の体裁で題された過去作「ムラサキさんのパリ」が、海外を遠くに、すなわち未知である「どこか」を向こうのほうに見ながらも、決して近づかないことで、いつの間にか既知に変わってしまった東京の空をあらわしていたのに対し、「ファビアンの家の思い出」は、未知である「どこか」、すなわち海外の〈長いあいだ、日本の電車に乗らず、日本の食べ物を食べず、日本の道を歩かない〉場所に、いやじっさいには短い日程なのだけれども、直接降り立った作中人物たちに、たとえばこのようにいわせている。〈「なんでここにいるのか、俺たちは不思議だな」 / 卓郎は唐突にそう言った。しかしそれは、この旅行中、普段考えないことを考えた後に必ず私の頭に浮かんだ言葉そのものだった〉のだ、と。そして次のように〈私は彼のあとに続けた〉のだった。「そうだな。旅行って、金かけて移動して、いろいろ不便な思いして、食べたことないもの食べて、見たことないもの見て、こういうもんかって思うだけだよな。でもその最中、そこにいる自分が不思議って思う瞬間は、気持ち悪いのも腹痛いのも忘れて、俺はなんだか、宇宙を飛び出してるみたいな感じがするよ」。たぶん、この、小さく新鮮な驚きのなかに、未知と既知とにまたがる、もっとも大きな核心が触れられている。さらにもちろん、以上に述べてきたことを鑑み、もしかすれば作者は新しいフェーズに入ろうしているのではないか、と考えてもよい。

 『うちの娘』について→こちら
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