ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年12月27日
 ARISA 3 (講談社コミックスなかよし)

 願い事をエサにしながら2-Bの生徒たちを影から支配する「王様」の正体は誰なのか。そして時季外れにやってきた転校生、玖堂レイの知ったふうな行動が意味するものは何か。自殺を試み、意識不明の重体に陥った双子の妹ありさになりすまし、彼女をそこまで追い詰めた原因を、真相を探るべく、姫椿中に潜入したつばさの前に立ち現れてくるのは、新たな謎、謎、謎、謎ばかりであった。3巻に入ってもなお、先の見えないサスペンスを深めているのが、安藤なつみの『ARISA』であるが、このマンガの本質はやはり、学校や教室という狭い世界に構築された同調圧力のパニックだろう。あるいはそのパニック下において利己的にならざるをえない人びとに対し、孤立無援にも抗うヒロインの姿が、『なかよし』という掲載誌の本来の読み手である年齢層に適切な印象と、勇敢なドラマを織り成しているのである。「王様タイム」と呼ばれる儀式に新しく書き加えられたルールのせいで、クラスメイトたちがみな足を引っぱり、出し抜こうとするサヴァイヴァルの要素がつよまった。こうした設定は、今様のバトルロイヤル的なシミュレーションを採用しているといえる。脱落者や犠牲者の数が増えれば増えるだけ、主人公に課せられる使命は重たくなってゆくのだ。が、しかし、本作が興味深いのは、そうした主人公が本質的には外部の(あるいは外部からやって来た)人間にほかならないことであって、彼女の介入によって閉塞した状況が改変されるという仕組みを持っている点だと思う。これはもちろん、事件の内輪にいなかった人物に探偵役を要請することで未知の条件が次々リサーチされる、式の、ミステリのジャンルのオーソドックスなパターンに倣っていると見てよいし、じっさいそれがサスペンスをつくっているのだけれども、同時に価値観の固定された共同体のなかに別個の価値観が持ち込まれる、というような構造上の、大きな特徴を兼ねる。ここで注意しておかなければならないのは、『ARISA』における教室が、社会の縮図や何かの比喩ではなく、ひじょうに直接的な舞台装置として使われていることであり、それが作品自体の共感度を高めていることである。いやたしかに、親や教師の類、要するに大人がほとんど物語にタッチしてこないのを、批判するのは可能だし妥当だ。中学生の一存で生活のあらかたが語られてしまうのは不自然ですらある。だが、社会や家庭をまるっきり括弧にくくってしまってまで、学校や教室という狭い世界が再現されているのだと考えたい。すでに述べたとおり、その、狭く狭い、閉じられた世界ならではの同調圧力が、「王様」なる象徴的な存在を、生徒たちの上位に機能させているのは、疑いようがない。ヒロインのつばさは、そうした世界の外部から別個の価値観を持ち込み、動揺を誘う者であった。そしておそらく、転校生の玖堂レイもまた、つばさとは異なるベクトルの価値観を外部から引き入れる者なのだろう。はたして両者の邂逅は、自分たちのアイデンティティを他に委ねてしまったかのような2-Bの生徒たちに、悲劇以上の影響をもたらせるのか。依然、スリルは増すばかり。

 2巻について→こちら
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2009年12月25日
 かつて父親の愛人が述べた。「彼がね」「締まりのない顔をして眠るの」「あたしの腕の中で こうすっぽり収まって」「子供みたいで愛しくて たまらなく幸せで」「それはもう」「中毒みたいな幸福で」と。まだ幼かった日の水帆は、まさか自分がその言葉の意味を理解するときがくると思ってはいなかった。〈ずっと自分には無縁だと思ってたけど なんとなく深みにハマる人間の気持ちがわかる〉そして〈何かが崩壊する〉のだと感じる。亡くなった高校の同窓生、折口はるかが抱えていた秘密をめぐり、当時、彼女と接する機会のあった人びとの群像を、サスペンスのタッチで描き、追う、芦原妃名子の『Piece』、その3巻では、主人公であり探偵役である女子大生の水帆と、謎めいた屈託を持ったまま青年となった成海とのあいだに、はたしていったいどのような関わりがあったのか、これまで仄めかされながらもぼかされていた過去の一幕が、回想のシーンをおもにして繰り広げられることとなる。作品の性質上、あまりにもネタを割るのは避けたいので抽象的な言いになってしまうが、そこにあらわされているのはたぶん、あらかじめ庇護者としてあるような存在からはからずも欠損を与えらてしまった人間の孤独、だろう。そうした孤独を通じ、高校時代の水帆と成海は、まるでタイプは異なっているにもかかわらず、惹かれ、親密になってゆくのである。しかしながら欠損は同時に、コミュニケーションの線上で、距離が縮まるなか、翻って最大の障壁になりうる。障壁にぶつかった途端の混乱は激しく、二人の持った傷は、閉じられることなく、いやむしろひろがり、せいぜい隠すよりほかなくなるのだった。それもやむなしとしていた彼女たちが、やがて再会し、いかにして自分の、あるいは互いの欠損を回復させるのかが、おそらくは本筋に被りつつ展開されているテーマなのであって、これはもちろん、作家論的に考えるのであれば、以前の『砂時計』に相通ずるものだといえる。『砂時計』がそうであったように、『Piece』のいくらかメロドラマふうな波瀾万丈は、たしかに見え透いてはいる(ベタだとかのじつは何も語ってはいない評価でさもえらそうに見てもよいよ)。だが、主体において内面なる項がもしもあるのだとしたら、こんなにも容易く肥大するのだし、大きさのぶんマトもでかく、逃れられずにダメージを受けたところがひどく痛むのだ、という苦悩を、なるたけ実直に表現しようとしている所作が、コマ割りのダイナミクスにまで及び、ぐっとエモーショナルな運びを成立させていることは、決して否定できない。水帆の自意識に顕著なとおり、このマンガに登場する人物たちにとって過去は、べつの結果には取り替えられない苦悩として、あらわれている。繰り返しになるけれども、閉じることのない傷のようなそれを、何とかして隠そうとする自己の弁護が、暗くひずんだ欠損を、反対に強調し、認識させるかっこうとなってしまっているのである。当然、どれだけ悔いても過去をやり直すことはできない。取り繕うことはできるかもしれないが、本質的な解決にはならないのだと、大学にあがってもなお、欠損を埋められずにいた水帆の、失恋は教えている。だからこそ彼女は別れた相手を早々に諦める自分に対し、さらにはふたたび成海を目の前にした自分に対し〈目を閉じて 感情を閉じ込めて その先は? ただ ぽっかりと空白が広がってるだけじゃないのかな?〉と、問いかけたのではなかったか。ここで確認しておかなければならないのは、あくまでも『Piece』は、もはや選び直すことのかなわない過去ではなく、これからを選び取ろうとする現在を、直接の舞台にした物語だということだ。すべての回想シーンは欠損の在処を指すものでしかないだろう。そして必ずやそれは埋められる。そう信じられるだけの説得力が、幸福な未来を望む視線の先に、示されようとしている。ただし、そこへと行き着けるかどうか、少なからぬ困難が残されたまま。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2009年12月24日
 今やこの国のマンガ界でほとんど唯一といっていいほど、バイオ・パニックあるいはサヴァイヴァル・ホラーを専門としている作家が藤澤勇希になるのだけれども、その新作である『ワルタハンガ〜夜刀神島蛇神伝〜』もやはり、人災であれ天災であれ、厄難にも苛酷な状況に閉じ込められた人びとが、出し抜き、助け合い、何とか生き残ろうとする必死さにドラマを担わせた内容であることが、1巻の段階からしてうかがえる。不況にあえぐ日本、勤務していた会社に倒産された三十路男性の八尋は、ケーブル・テレビのUMA情報番組の最後に賞金5千万円のツチノコ捕獲ツアーが募集されているのを見、なけなしの金をはたいて参加することにしたのだったが、目的地である夜刀島にはいくつもの不吉な伝説が残されていた。たまさか出発時に再会した会社の同僚で、UMAマニアの笠原という女性が言うには、その島には何度も何度も調査隊が送られたにもかかわらず〈上陸した隊員の中で――――島の奥まで調査に踏み込んだ者は――――生きて還ってことなかったんだって――――誰一人――――〉。しかしそれも〈所詮はただの――――伝説だし――ね――――〉と侮る笠原だったけれど、上陸してしばらくしたのち、ツアー参加者の一人が何かに襲われ喰い殺されているのを目の当たりにしてしまう。まさか、ほんとうに実在したツチノコの仕業なのか。次々と犠牲者が出るなか、迎えの船がふたたび島にやって来るまでの10日間、正体不明の恐怖におびえながらのキャンプがはじまる。作者のこれまでからすると、舞台のスケールが狭く、被害の規模が小さいためか、正直、序盤のインパクトはやや弱いかな、といったところ。また、いやな奴らだねえ、と思わせるずっこけ悪人が、ある種の閉鎖空間における秩序を乱す役割を負っているのは、過去作にもよく見られたものであるし、それ以前にこうしたフィクションのパターンであって、スリルの発動も若干鈍い。しかしながら『BMネクタール』の頃から一貫するような、経済や環境レベルの危機感を叩き台にして、大人と子供の対照のうちに、現在と未来とを繋ぐ倫理を探ろうとする手つきに、ひじょうに真摯な問題意識が浮かんで見える点は、決して変わらぬことが逆に頼もしく。

・その他藤澤勇希に関する文章
 『レギオン』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
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2009年12月23日
 サムライソルジャー 7 (ヤングジャンプコミックス)

 つい先日に出た『THE BEST MANGA 2010 このマンガを読め!』の「マンガ時事放談2010」という座談会のなかで、呉智英の「最近、ヤンキーマンガが売れているね。でもヤンキーマンガが好きな人って基本的にマンガ好きじゃないんだよ。感情移入しているだけでしょ」という発言を受け、いしかわじゅんが「一部のものを除いて、ヤンキーエピソード集、ヤンキー出世物語だよ」と言い「ヤンキーマンガが堕ちたっていったらなんだけど、作品ではなくなっているような感じが俺はしてるんだよ。日本人は(略)みんなマンガというインターフェイスを使って読むことが出来るから、それを通して猫とかヤンキーとかという素材を見ているだけ。だからあれはマンガじゃないんだろうな」と言っている。これはたしかにそのとおりなのであって、『漫画ノート』で高橋ヒロシや田中宏の存在をしっかり評価していた、いしかわの言葉だけに相応の説得力がある。が、たとえばそのジャンルをいちおう熱心に追っている者にしたら、そこで批判されているのは、具体的な作品名は挙げられていないものの、あれやあれらのことだろうな、たちまち推測できるからよいのだけれども、そうではない人たちからしたら、問われている質の違いをよくわかれないのではないか、と思う。これはもちろん、ヤンキー・マンガをめぐる言説が貧しいことの弊害にほかならない。

 さしあたり、そうしたジャンルの現在における質の高さを見るのであれば、メインストリームを張っている高橋ヒロシのフォロワー群をあたるよりも、そう、この山本隆一郎の『サムライソルジャー』を読まれたい、というのが個人的な意見である(ほんとうは前作の『GOLD』から読んだほうがいい)。絵柄や構図、ストーリー展開には、高橋の影響を思わせるところが少なくはないのだが、それを安易な模倣ではなく、クリティカルな技法の域にまで押し上げ、磨き、さらにはテーマのレベルで、先行する作家たちによる漏れを拾い集めながら、もっとずっとより深いものを模索し、描き出そうとしているためである。いしかわがいう「一部のものを除いて」の一部に、はたして『サムライソルジャー』が入っているかどうかは知らないが、今日のヤンキー・マンガを語るさい、まったく無視してよいような作品では、決して、ないだろう。そのことは最新の7巻に入り、なおもつよく実感される。

 すべての引き金であった桐生達也が不在のまま、激しく対立し合う『ZERO』と『渋谷連合』の抗争劇は、次々、凄惨な場面を招きつつあった。両者の諍いによって最悪の事態が訪れるのを何としても止めたい藤村新太郎であったが、しかしその奔走も空しく、かつての仲間である柿沢丈太郎(ジョー)が、『渋谷連合』のトップである鮫島正平との対決に敗れたばかりか、ひどい仕打ちを受け、重傷を負わされたのを見、激昂する。鮫島の旧友でありながらも現在は『ZERO』の幹部に籍を置く神波多ナオトは、ジョーを欠いてしまったことに責任を感じ、単身、過去の因縁に決着をつけようとするのだけれども、『渋谷連合』で下部の指揮を任されている市川佑介の狡猾さが、ついには彼にも危機をもたらしてしまう。というのが、この巻のあらましである。こうしたプロットを動かすにあたっては、不良の世界でのし上がり成り上がろうとする若者たちの野心や、血なまぐさい武力行使を経なければそれを達成できない状況の成立が、最大の推進力となっていることは疑いようがない。前者はもちろん、ヤンキーやギャングを題材にした立身出世譚のヴァリエーションとして見られ、後者に関しては、国盗り合戦、軍記物のヴァリエーションとして見られる。現在、ヤンキー・マンガのジャンルにある作品の多くは、おそらくほとんどこの段階に止まっているといえる。そしてそこには表現として高く買うべき点はあまりないだろう。所詮はイディオムのトレースにすぎないのだから、だ。が『サムライソルジャー』において重要なのは、あくまでもその先に行ってこそ示されなければならない、かのような手応えをちゃんと掴んでいることなのであって、フィクションにおけるリアリティがたんなる現実の反映に終わってはいけない、新しい共感や倫理の可能性を作中に抱こうとしていることなのである。

 過去にも述べたとおり、そうした可能性の大枠は、主人公であり、いったんは渋谷の不良(ガキ)を卒業したにもかかわらず、状況に要請され、致し方なくストリートに舞い戻った藤村と、彼のライヴァルであり、渋谷の不良(ガキ)をまとめ、いつまでも大人にならないことの許されたパラダイスを、モラトリアム下に構築しようとする桐生の、二人の対照に委ねられているといってよい。現時点における桐生の失踪はしかし、藤村の側に多くの役割を持たせることになるだろう。ジョーに対する『渋谷連合』の度の過ぎたやり口に怒った藤村は、はからずも市川の罠にはめられたナオトが立たされているその窮地へと介入してゆく。ここでの彼のセリフ、言葉、存在感はどれも大きい。はたして彼が、大勢を向こうに回し、ひるまず〈忘れてた 忘れてたわ 不良(ガキ)の世界を 解散しろだの んな言葉ひとつも意味がねえ 殴るか殴られるか それしかねーのが 俺ら不良(ガキ)だもんなぁ?〉と述べているのは、不良(ガキ)の世界の、暴力の肯定であろうか。いやそうではないことが、まざまざうかがえるほどの憤りを藤村に蓄えさせているのだ。それを眼のあたりにした市川が〈なんだこれはッ!! なんで俺は こんなにビビってんだ!?〉と尻込みしながら〈…だめだ こいつはだめだ! こいつに何やっても 俺は 勝てる気がしねえッ!!!〉とスケールの違いを認める描写は、ひじょうに重要だ。

 ヤンキー・マンガの表現ではしばしば、主人公にぶん殴られた敵役がなぜかその途端に改心するという不思議な現象が起こりがちである。これは高橋ヒロシの『クローズ』における坊屋春道(つまり90年代)ぐらいまでは、己の信念を曲げぬ硬派の概念が一般的に信じられていたため、主人公がそれを実践しているのだという喩えとなり機能し、相応の説得力を有していたのに、今やどうしてなのかも問われないぐらいに汎用化されたイディオムでしかなくなってしまい、あたかもエスパーのごとき神通力とさほど扱いが変わらなくなってしまっている。高橋のフォロワーであるような多くがたいへんだめだめなのは、にもかかわらず自分たちはリアリティを押さえ、真摯に男の生き方を描いていると勘違いしている点であった。すでにいったが、山本隆一郎のルーツも、たぶん他の作家とそうは変わらない。藤村のすさまじさを目撃した『渋谷連合』の一人が〈…もし喧嘩に 不可欠な要素があるとすれば 次の5つ “殺気” “腕力(パワー)” “反射神経(スピード)” “打たれ強さ” “喧嘩センス” 喧嘩で名前の売れてる奴は たいていこのうち どれかがズバぬけている〉と解説者よろしく、主要な人物のプレゼンテーションをはじめてしまうくだりは、良くも悪くも、この手のジャンルが発達させてきた作法にほかならない。しかし話を戻すなら、市川が藤村をおそれるのは、そうした喧嘩の強さのみを正確視するのとはべつの、何か、によっているのはあきらかだ。その、何か、すなわち過剰なヴァイオレンスのなかにあってさえ、間違いなく正しいと認識される共感や倫理はあるのだと証明し、たっぷりの技術を注ぎ込みながら、精確な理由付けを果たそうとしていることが、物語の魅力を為しているのであって、テーマの深みもそこに生まれている。

 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
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2009年12月21日
 爆麗音-バクレオン 6 (ヤングジャンプコミックス)

〈また…泣いているね? フロイライン… / ……苦しいのかい? その為…じゃない… / …その為じゃないんだ…フロイライン / 人は決して苦しむ為に生まれてくる訳じゃないんだよ? ヴィオレッタ…〉

〈あぁ…これは… / ……この歌は… / …自由だ…とても… / まるで風のように…〉

 いやはや『爆麗音』、まさか佐木飛朗斗(原作)と山田秋太郎(漫画)の相性がここまで良くなるとは思っていなかったし、正直、なめてはいけないものになりつつあるな、という気がする。作中に主要な人物が出揃い、それらの運命が密接に絡まり、物語のデザインに確固たる輪郭が見え出したこの6巻から、もしかしたら本編というに相応しい段階に入っているのかもしれない。じっさい、主人公である音無歩夢や、印南烈、麻生道夫、ヴィオレッタが、ようやく一つのバンドとなり、音楽で武装、巨大な世界の価値観を眼前にしながら、各々の試練や使命と相対するような展開を見せはじめている。

 しかしまあ、歩夢たちの組んだバンドの名前こそが、ずばりタイトルの爆麗音となるのだけれど、それを決定するエピソードには、佐木の諸作品にしばしば顕在する次のようなテーマ、すなわち中途半端にアメリカナイズされた日本人はそのアイデンティティをいかにして扱うべきか、をうかがうことができる。たとえば烈が、バンド名を〈漢字で行こーぜ ぜってーッ!!〉と言い〈っつーかよ“オレらのバンド”の名前をよ――……世界基準にしちまおうぜ〉と主張するのに対し、他のメンバーが意見を一致させているのは、おそらくいかなるアイデンティティも今や、グローバル化されることでしか、価値の認められないことを暗示している。ただし、それが正しく間違えていないかどうかの判断は、後々の展開によって弁証されることになるのだろう。そもそも、四人で決めたはずのバンド名は爆烈麗音なるものであったにもかかわらず、ちょっとした手違いで爆麗音の三文字に誤り改めてしまわれたように、である。

 他方で、現代において血縁や家庭がアイデンティティの助けになりうるか、という問題もそこかしこに浮上している。歩夢も烈も道夫もヴィオレッタも、あるいは彼ら以外の大勢が、寄る辺となるべき家族のすでに壊れた場所を生きている。たいがい佐木の原作しているマンガでは、登場する人物たちはみな、父母の有無は関係なしに、大人であること子供であることの垣根もなく、孤児に近しい寂しさを抱えさせられているのだが、それは『爆麗音』も同じ。ヴォーカルの面で歩夢をサポートする弥勒織顕が、自らの出自を呪って〈ボク自身“醜い一族”の中で 自分を道化の様に感じていたしネ! でも“崇高な愛”とされる自己犠牲ですら自己愛の一つにすぎないのかも知れないなら…地上の“蛋白質と塩基配列”を汚濁と判定しないのなら…“汚い人間”など決して存在しないと思うんだ!〉と述べているとおり、すべてがゼロさもなくばマイナスのなかからいかにして在るべき評価を構築するか、そのプロセスにおいて、音楽は必要とされ、生まれているのだ。そしてそれは過去にもいったように、『特攻の拓』の、あの天羽時貞が鳴らした悲劇の残響を引きずっている。

 連載時期を並行しながらも先に打ち切りを思わせるかたちで終了した『外天の夏』のアイディアが、ぼちぼちこちらへと流れ込んできているかな、と推測させるところもいくらか出てきている。若くしてパンク・ロックの権威となったジョン=ハイマンのぶっている演説などが、そう。彼は〈世界を見てみろよ?〉と言う。〈もはや人類は 旧世界の尊く偉大だが「感じられぬ者には意味を成さない」“人間の限界”に見切りをつけて 莫大な価値を無に帰そうとしているのさ…地上に残されるのは「低コスト・量産性・エコロジー」を謳い “尊く偉大なもの”に似せながらも“真逆”の収益性と「簡単便利」を誇るだろうよ…〉と。はたして〈いったいこの現実をどう取り繕えるのだろう…〉と。そうした資本制そのものに対する懐疑は、ふつう音楽マンガとジャンル視される作品には、あまりあらわれないものだろう。

 真逆であること、この世界を駆動させている価値観がじつは本質の裏をいっているのであればひっくり返して元に正すこと、このような思想の立て方は『外天の夏』で、ヤンキーや暴走族のアウトロー、アウトサイダーに託されていたものであった。が、それが『爆麗音』では、ロック・ミュージックに取り組む若者たちの姿を借り、変奏されているのであって、歩夢がバンドでつくったオリジナルの新曲を「真逆の世界」と名付けるにあたり〈この曲は題名が先に在って…ずっと前から決まってるんだ…〉といっているのは、じつに象徴的だ。

 さりとて、佐木の、ときには物語をも破綻させてしまうまでの抽象性(ポエジー)を、作画という具体のレベルでフォローする山田のすぐれた筆致を見過ごしてはなるまい。音楽マンガとしての質、ほんらい目には映らない音の出力を、どうやって紙の、平面の表現に張り付け、説得力を持たせるのかも、当然その、技術の高さによっている。すくなくとも演奏シーンのかっこうよさ、とくにレスポールのギターをぶんと振り回しながら弾きながら歩夢が発するダイナミズムはすばらしく圧倒的、ここ最近の音楽マンガの内では随一だといえる。どのようなサウンドであるかまでは必ずしも確定できないにしても、パワフルでいてヘヴィであることは間違いなく伝わってくる。またメロディアスなナンバーにあっては、それがとてもやさしく澄んだ曲調を持っていることが、実感されるほどに再現されているのである。

 バンドのプレイを前に、歩夢の妹である樹里絵は言う。〈お兄ちゃんは“弱い生き物”なんかじゃない…!! この人達は…… / この人達はそうなんだ… / 音楽で命を炸裂させる“生き物”…!!〉と。これは歩夢たちバンドの方向性のみならず、作品が辿り着こうとしている彼方をも教えているに違いない。もう少々踏み込んだ話をするのであれば、『爆麗音』のほとんどの人物が、何かしらの救済を得るための手段として、音楽を選んでいる。ただしたぶん、歩夢だけは違う。彼にとっての音楽は、手段ではなく、あくまでも目的なのであって、それを奏でること自体が魂を解放させているかのような幸福を、興奮を、その表情は有している。主人公にのみ与えられた特権性は、なるほど、ストーリーの域とはべつに、そうして描写されているのだった。同時に、山田が作画の面で果たしている貢献の大きさを思わせる。

 だいたい、と、すこし冗談めかしていうのだけれども、いや半ば真剣に、作中で重要なアクセントとなっている樹里絵のひねくれた可愛さにしたって、山田の絵にかかっている点が、かなり、だよね。大人びた彼女の幼い恋心が、そりゃあもうたいへんキュートに描かれているのはもとより、音楽への憎しみがいつしか氷解しつつあるのを微妙なタッチの変化で示しているのも、ひじょうにうまい。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら  
 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
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2009年12月19日
 あの頃、という過去回想形式の、ポエジーを含んだモノローグに引っぱられるラヴ・ストーリーとして、持田あきの『君は坂道の途中で』は、ひじょうに満足のいく完結を迎えられたように思う。物語の時制を握っている主体が、はたして作中のどの段階からそれを述べているのか、この3巻に描かれているエンディングがすべてを明かし、そしてさらには幸福で感動的な印象をもたらしている、そのため、たいへん晴れやかな気分で閉じられた幕の向こうを想像することができるのだった。亜由と千治の、幼くとも純粋であった恋の行方を〈千治、この街で 私達は数え切れない程のキスをしたね 思い出していたよ 坂道の途中で 苦しいくらいの恋をしたね ふり返るとまぶしい この陽の照る坂道で〉と締めくくるラストには、そこまでの道筋はぜんぶ無駄じゃなかった、必ずや意味のあるものだった、と信じさせるだけのカタルシスが備わっている。たしかに、少女や少年が、恋愛を通じ、いかにして成熟してゆくか、の観点からしたら、もっと掘り下げるべき点はあったかもしれないし、全般的に甘く、少女マンガに定型的なエピソードの積み重ねを逃れてはいないかもしれない。だが、なるたけショッキングな展開を避け、それでいて日常のなかにいくつもの困難を感じる主体が、逃げず、引き受けていくことで、いや間違いなく正しい選択をとったのだと主張する内容は、決して否定されるものではない。むしろ、他愛なくささやかな出来事の数々を、ドラマティックに盛り上げて賑わす作法は、2巻強のサイズでまとまっている物語に、十分な手応えを与えてさえいる。クライマックスにさしかかったあたり、とある事情により周囲の人びとといったんの別れを経なければならなくなったヒロインの亜由は、次のように言う。〈本当は不安 皆のいない世界に行くの でも皆が照らしてくれる未来なら きっと大丈夫な気がする〉と、そうして目の前の悲しみを許諾しながら、前向き、進んでいった未来に、見返り、報われるだけのミメントが用意されているのは、すでに述べたとおり。このとき、作中の事象を一通り経験してきたのちに発せられる過去回想形式のモノローグは、その利点を、最大限に生かされているのである。『君は坂道の途中で』において、過去回想形式のモノローグが、安易なアイディアを採用した結果ではなく、かなり意図的に凝らされたものであることは、サイド・ストーリーにあたる「番外編ベツサカ」や、本編と舞台を同じくするアナザー・ストーリーの「特別編アコースティック」の、二篇の読み切り作品が、表面上は近しいテーマを抱いているにもかかわらず、まったく違った語り口を持っていることから、明らかだろう。いずれにせよ、だ。作者の持田は、調和的な構成のとても魅力にあふれた少女マンガを、立派に描き上げた。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年12月18日
 よしよし、このやわらかな緊張感を崩さずに維持しているのはえらいし、じっさいにおもしろい。遊知やよみの『これは恋です』の3巻である。が、表面的には、男性教師と女子生徒の恋愛というラヴ・ロマンスに利便性の高いシチュエーションを採用していながらも、本質的には、それにかかわらず男と女のお互いの内面が見えないがゆえにもどかしい葛藤の奥深いところを描いている点が、とても優秀だと思う。教え子である伽良に惹かれているのを悩む教師の綾井、そして綾井に寄せる想いが報われないかもしれないのをおそれる伽良、二人のそれぞれ自分の気持ちを相手に隠そうとしていることが、そうそう、男女の恋愛って、立場の違いが障害となってくる以前に、向こうがこちらをどう見ているのかわからないため、どうしてもこういうふうに胸騒ぎを押さえきれなくなってしまうんだよな、と頷かせるので、ちょっとしたやりとりからも目を離せなくなるのである。話自体はさほど大きく動いているわけではないだろう。なのに、綾井と伽良の関係に挟まった距離は絶えずたゆたい、いくつもの波乱をまたぐ。繰り返しになるけれども、自分が相手にどう感じられているか知れない、その、不可視な領域がどれだけの戸惑いを生じさせるのかを、必ずや身近にありうるものとして適切に描写していることが、『これは恋です』の最たる魅力にほかならない。この巻の、熱を出して臥せっている伽良を成り行き看病しなければならなくなった綾井の姿など、それの真骨頂とでもいうべきだ。情緒不安定で挙動不審な伽良の態度に一喜一憂させられる彼の災難は、教師だから生徒だから、歳の差があるから、という問題の以前に、男だから女だから、そして彼女に恋をしてしまっているから、という根本の条件をよくあらわしている。さらにこれはべつの場面では、伽良の側にとってもいえることなのであって、そうした二人の、揺らぎ躊躇うコミュニケーションが、たいへんにすぐれた感情の模様を編むのだった。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他遊知やよみに関する文章
 『素敵ギルド』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年12月17日
 村田真優の読み切り作品集『妄想シンデレラ』には、とてもチャーミングなラヴ・ロマンスが詰まっている。はっきりいって、技術的に拙い部分も少なくはないし、いかにも若年層向けの少女マンガ的な甘い展開に終始しているのだが、おそらくはその様式に対する作者の信頼が、まあね、と斜に構えながらも、思わずはっとさせられてしまうシーンをたくさんつくり出しているのである。ほとんどすべての作品が、まだ社会的に幼い少女が同じ年頃の少年に出会い、運命的な予感に誘われて片想いし、どうにかそれを実らせようとする、型のフォーマットを採用しているのだけれども、とりあえず表題作がよい。シンデレラの昔話に憧れるヨッピー(由那)は、いつか素敵な王子様が自分の目の前に現れてくれることを心から信じている。そしてそのときは早々に訪れたのだった。歩道橋から転げそうになったところを別の高校に通う男子に助けられたヨッピーは、その彼、レンに一目惚れ。猛烈なアタックを開始するが、大勢にもてるレンからしてみれば毎度のことで、軽くそれをかわされてしまう。しかし諦めずに、彼のことをよく見、笑顔で接し続け、ついには二人きり、デートの機会を得ることとなる。というのが、だいたいのあらましで、そうしたストーリー自体がどうというより、そうしたストーリーのなかに恋の魔法がたしかに存在するという瞬間のはっきりとあらわされていることが、ひじょうに鮮やかな印象を導く。言い換えるなら、あくまでも魔法が魔法であることのダイナミズムをしっかり掴まえることで、ヒロインのときめきに眩く眩いほどの輝きが与えられているのだ。もちろんそれを、コマ割りからモノローグから何から何までひっくるめ、様式の強さといってしまっても構わない。だが、その様式をまっとうすることに技術の面を補って余りある精力が傾けられている以上、作品には読まれるべき価値が含まれることを、「妄想シンデレラ」は証明していると思う。いや、それは他の作品も等しくいえるのだが、なかでも「シュガー中毒Part.1 Sugar.1素直になれないマシュマロ」、「シュガー中毒Part.2 Sugar.2蝶と蜜」、「こんな夜空に、月」の三つが、たまらなく、好き。うんうん、こんなにも素敵な場面がありえるとすれば恋の魔法を信じてもいいよ、という気分になれる。

 『ドクロ×ハート』について→こちら
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2009年12月15日
 シンカン (あさひコミックス)

 朝日新聞出版から『シンカン』というオール読み切りのアンソロジーが出てしばらく経つのだけれども、自分の目がつく範囲ではあまり話にのぼっていないような気がする。川原由美子や伊藤潤二、岩岡ヒサエなど、一般的には良質といわれがちなマンガ家を揃えているにもかかわらず、であるが、結局のところ、そうした作家たちというのは、大勢に読まれたり、売れたりするのとは違うところで、支持されているのだろう。まあ、わりと地味目な少女マンガ誌である『ネムキ』の増刊みたいに考えるのであれば、さほど目立たなくとも仕方あるまい。さておき。イシデ電の『世界の終わりの、そのあとで』はその『シンカン』に発表された作品で、当然、読み切りの内容となっている。ある種のサスペンスを下敷きにしたストーリーのため、くわしくネタを割れないが、題にある世界とは、たぶん、生活の言い換え、喩えであると思う。現在、高校の教師である耕平は、八年間付き合っている婚約者の絵子に対し、メロメロな毎日を送る。当時、まだ高校生だった彼女のほうからバレンタインデーに告白されたときは、あまり乗り気ではなかったものの、歳月を経るにつれ、耕平のほうが夢中になっているようだった。しかし、それまで知れなかった絵子の秘密に気づき、二人の、いや耕平の日常は急展開する。『世界の終わりの、そのあとで』において、生活の描写に意味されているのは、要するに、耕平と絵子の、男女の、カップルの関係性にほかならない。じっさい、耕平の教え子である女子生徒を狂言回しに置いてはいるものの、作中の緊張は、耕平が問い、絵子が答える、やりとりによっており、二人のコミュニケーションこそが、すべての脈絡を担っているのである。そうして描かれているのは、犯人と人質が長い時間を共有するうち親密な間柄になるという、あの有名なストックホルム・シンドロームの挿話に近しい事象だろう。とあるギミックの効用はそこに盛り込まれたもうワン・アクセントにすぎない。本質的には錯覚でしかない関係性を、客観は偽だと指摘しうる。だが、客観と主観はそもそも完全には折り重ならないがため、しばしば真向かう。衝突し合う。何もかもが偽だと断定された場所に立たされた主観の、残酷として、孤独として、葛藤として、決断として『世界の終わりの、そのあとで』は読める。
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2009年12月13日
 ずっとずっと好きな人。 (講談社コミックスフレンド B)

 『別冊フレンド』系の読み切りマンガを集めたアンソロジー『ずっとずっと好きな人。』に入っている「HOLE ―君とつながる手―」(初出は『別フレ2009』11月号)に思わず感動させられてしまう。いやまあ、高橋利枝のこのシリーズ自体がけっこう好きなのもあるのだけれど、二度とはやり直しのきかない過去と、何度でも立て直しのはかれる未来の、対照のなかに、せつない希望を描いたストーリーは、ずるいよ、と言いたくなるほど、泣きどころを押さえているのだった。ファンタジックなギミックを用いて故人にあてた感傷をドラマティックにするのが、『HOLE』というシリーズそのものの特徴だが、ここでは、孤独な少女の内面に、なおも悲劇を与え、一段階落とした場所から這い上がらせ、前向き、生きてゆくための希望をふたたび掴ませるような筋書きに、ぐっとくるものがある。幼い頃、両親の離婚にダメージを受け、人前では無理やり明るく振る舞わなければならないと自らに強要するようになってしまった、あすか。そんな彼女のつらさを理解し、やさしく手を伸ばしてくれたのは、高校に入り、出会った圭という男子であった。圭のおかげであすかは〈もう1人じゃない 毎日が信じられないくらい幸せで〉と実感するの〈だけど その幸せな日々は あの日で終わった〉。交通事故に遭った圭がその命を落としてしまうのである。以来、塞ぎ込むあすかを、圭の親友である翔太は励まそうとするが、功を奏さない。しかし、後追い自殺しようとするあすかの携帯電話に死んだはずの圭からメールが届いたことで、事態は変わりはじめる。次々と圭の送ってくるミッションをクリアーするうち、あすかと翔太の二人は、不思議な力で時を行き来できるという祠の存在に行き着く。かねてよりその祠を知っていた圭が、メールを通じて、あすかに伝えようとするメッセージは何なのか。そして過去に飛んだあすかは、圭が事故に遭うのを未然に防ごうとする。というのが、大まかな内容であって、もちろん本格的なタイムスリップのSFなどを求めてはならないし、あくまでもそれは物語に都合の良いエッセンスとして見なければならない。じっさい目新しいアイディアでもないだろう。ほとんど類型的ですらある。だが、本作にとって重要なのは、やはり、そうしたきっかけを得て、主人公がポジティヴな実感を取り戻す結末なのだ。ほんとうは、あすかと翔太の関係性にそのプロセスが預けられていてもよかった。あるいはそっちのほうがずっとよかったかもしれない。もしもそうであれば、生者と生者の結びつきこそが救済になりえたのだけれども、「HOLE―君とつながる手―」はしかし、あすかと圭の、すなわち生者と死者の関係性において、救済のサインを導き出そうとしている。これは、クライマックスの前段で圭が〈じーちゃんが言ってたんだ 運命は変えられないって なんでかオレも そんな気がするんだ〉と述べているのに象徴的なとおり、運命はつねに一つしかない、そのような残酷さを、枠組みのレベルにまで広げ、強調するかっこうになっている。運命は一つしかない。とはいえ、運命はそれが過去形になった場合のみ、間違いなくそうだったと確定することができる。よくよく読めばわかるように、あすかは死者との関係をやり直し、後悔を回収しているわけではない。死者が生者であった頃の結びつきを再確認し、ようやく未来に向けての姿勢を立て直しているのである。人は過去を正せない。ただ引き受けていくよりほかない。問題は、取り替えのかなわない過去の重みに引きずられるあまり、すべての可能性をハナから投げてしまうことなのであって、それはいけないよ、どれだけの傷を持っても可能性を信じないないところに希望は生じないのだと、ストーリーの成り行きは教えているよう。
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 17(じゅうなな) 4 (講談社コミックスフレンド)

 桜井まちこの『17[じゅうなな]』もいよいよクライマックスが迫っているからか、この4巻でどっとエモーショナルな展開を見せている。いつだってやさしかった恵に惹かれる詩歌、過去の傷を引きずるあまりそれを拒む恵、二人の心がようやくずっと近く寄り添うのである。告白のシーンで、大きなコマのカットを用いて恵の表情を繋ぎながら、詩歌が〈今の 自分に傷ついているからこそ 人に優しくなろうとしていた恵に 全部 全部 飛び越えるぐらいの相手が 見つかるといい 早く 全部 飛び越えるぐらいの相手が その相手になりたかった けど もう十分 がんばって がんばって 恵〉と願う場面、そうしたところによくあらわれている鮮やかなインパクトは、この作者ならではのものだろう。たしかに、ミニマムな関係のなかでの惚れた腫れたを誇張せずに引き延ばしたかのようなストーリーは、ややざっくばらんでありすぎるけれども、作中人物たちの顔つき、とくに眼と唇の、大胆であると同時に繊細なタッチが、彼らの内面をたっぷり表現していることで、作品の説得力がぐんと高まっているのは、やはり、特筆すべき点だと思う。多少作家論的に考えるのであれば、初期の、テレビ・ドラマのコミカライズであった『to Heart 恋して死にたい』や、あるいは『ハニィ』のような、ピュアなヒロインの情熱が、坊っちゃんの抱えた屈託を照射し、ふたたび笑顔の持てることを確認させる、といった(じつに少女マンガらしい)図式を『17』は採用しているが、以前に比べ、絵柄や描写はずいぶんと大人びており、そこにある種の技法的な詮索が示されている。ただし、現在の作風ならもっと年齢層の高い物語のほうが合うのでは、というのは、過去にも述べたとおり。他方、近作の『H-エイチ-』では、河川と青空の風景が心象をフォローしていたのに対し、『17』の今巻のくだりでは、海面と夜空の風景がドラマの見栄えを深めていて、作品自体が持つカラーの違いを顕著にしている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2009年12月12日
 彼はトモダチ 6 (講談社コミックスフレンド B)

 どうしても手に入れたい人がいるし、何をしても手放したくない人がいる。そりゃあ本性を剥き出しにするほど真剣に特定の誰かを欲するのであれば、どろどろの恋愛劇にもなろうよ。吉岡李々子『彼はトモダチ』の話である。5巻から、そしてこの6巻にかけ、主要な作中人物たち四人は、醜いまでの葛藤に振り回され、ずぶずぶ泥沼の関係に足を踏み入れてゆく。まあ、当初より爽やかさとはすこし距離を置いたマンガではあったが、ヒロインの身に突然降りかかる自業自得(自業自得という言い方は少々厳しいかな、しかし客観的にみるならやはりそうなるだろう)を一つの転回とし、過剰にメロドラマティックなストーリーへと振り切れるのだった。佐々本に対する想いを断ち切ろうとするヒヨリ、ヒヨリを諦めきれない佐々本、佐々本を独占しようとする琴音、ヒヨリに対する想いに固執する水野、それらの点と点とが、もつれて絡み合った線と線とで、結ばれる。とりあえず水野、水野よお、おまえ、ヒヨリに向けた初期のアプローチからして、もしかしたら駄目な子なんじゃねえか、と思っていたのだったが、ここにきてまた男を下げたな。その、度量の試される場面で〈…それって オレの子供なの…?〉ってもう、やりとり自体がすでに紋切り型であるけれども、いちばんだらしないリアクションを返しやがった。ほんとうに残念な野郎だ。たしかに、不用意な性交渉を含め、それが若年層のリアリティなのだといえば、そうなのかもしれない。が、おかげで佐々本の、ピュアラブルな献身性の際立つかっこうになっていることが、彼を選ばなかった(選べなかった)ヒヨリの気分を真っ逆さまに落下させる。〈…もう いいんじゃないかな……後悔も反省もたくさんしたんだろ? それならきっと藤咲はダメ じゃないし ダメならダメで それでもいいよ なにがあっても オレは藤咲の味方だから〉と、佐々本はやさしい言葉をかける。けれど、もはやそれすら受け入れることができないぐらいにヒヨリ(藤咲)は傷ついてしまっている。〈今さら なんなのよ…っ 佐々本が別れようって言ったんじゃん(略)あたしは…っ 別れたくなかったのに 公園にも来なかったクセに 会えばハンパにやさしくして! 佐々本は満足かもしれないけど 残酷なのよ!〉。これはおそらく、今までのなかでもっともヒヨリが、自分の心情を、他人に激しくあらわした箇所だろう。すべては壊れてしまった。いっさい取り返しのつかないことが、ずぶずぶ泥沼の関係にはまった足を引っ張りあげられないことだけが、彼女の本性を剥き出しにさせているのである。はたして、誤りの道順を滑りながら前のめるヒヨリたちの恋愛は、どのような答えに行き着くのか。完結編となる次巻が待たれる。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
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 『99%カカオ』について→こちら
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2009年12月09日
 なにわ友あれ 10 (ヤングマガジンコミックス)

 いっときは欲望のために道を踏み外しそうになり、たんなるゲス野郎に成り下がったパンダであったが、しかし、ここで描かれているエピソードに関しては、おまえに心から同情しよう、あるいはひどく共感さえしよう。圧倒的な絶望のなか、酒の力を借りられずには越えられない夜もあったな。あった。たしかにあった。南勝久の『なにわ友あれ』10巻である。前作『ナニワトモアレ』でも、主人公であるグっさんの、走り屋としての大成とはべつに、恋愛の敗北が強烈なインパクトをつくり出していたが、まあパンダの場合、それに比べて傷は浅く、ありふれてはいるものの、いやだからこそ、必ずしも常勝の道を辿れるわけではない青春のリアリティが、よく出ている。親友であるテツの恋人、ナッちゃんに想いを寄せるパンダは、二人がとうとうスケベなことをするのだと知った晩、居ても立ってもいられなくなり、友人のタカを呼び出し、ひたすらアルコールをかっ食らい、つらい気分を忘れようとするのだけれども、それで何かが変わることは、もちろん、ないのだった。とにかく、パンダの血走った眼が、笑える。さらには、彼の傷口に塩を塗りたくるタカの所業も、笑える。笑えるのに、どうしてこんなにもパンダの気持ちが理解できてしまうのだろう。それはね、パンダがタカに〈おまえがつまらん男やから テツに持っていかれるねん――ッ!!〉と言われてしまうのに等しく、読み手の自分も詰まらんし、冴えないし、もてない男だからなんだよ。やがて、アパートに帰ってきたテツを前に〈こいつ‥‥ナッちゃんとヤッたのかッ…!!? ヤリやがったのか〜〜!!? 知りたい‥‥真実を知りたい‥‥!! ナッちゃんとヤッたのか‥‥ヤッてないのか‥‥!!?〉と勘繰りながら、探りを入れるパンダの卑屈さがもう、まったくの他人事とは思われまい。〈ちょっと堅い女でな――…ヤれんかった‥‥‥‥〉というテツの言葉に、〈そらそうや! ナッちゃんがおまえなんかと!! おまえなんかとォ〜〜〜〜!!!〉と内心喜ぶパンダの表情を見よ。そして〈ま――でも‥‥口でしてもらった――2回――!!〉と続けるテツに、〈あの天使の唇が――‥‥こんなテツクズのチンコを〜〜〜〜!? しかも2回〜〜〜〜!!?〉と衝撃を受けるパンダの表情を見よ。うんうん、おまえはいま泣いていい。以上、本筋とは基本的に関わりのない話であった。

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2009年12月08日
 女神の鬼 14 (ヤングマガジンコミックス)

 息がしたい息がしたい息がしたい。どのようなトライブに属しているのであれ、どのようなイデオロギーに従っているのであれ、どのようなルールを信じているのであれ、何らかの抑圧を感じ、苦しめられるとき、こうした念仏を唱えることは誰にとっても不思議な行為ではないだろう。そこにはすでに社会性の芽があらわれているといってよい。だってそうだ。もしもまったく自由な個人を生きられ、対他関係下で苛烈に自己を相対化されてしまうような運命から逃れられているのであれば、ハナから息詰まる必要なぞ持たないはずではないか。対他関係のストレスを前にしたさい、ふと実感される社会性の芽を、はたして抜くのか育てるのか、これはアウトサイダーとそうではない者とを隔てる大きな分岐となってくるに違いない。田中宏というマンガ家が、『女神の鬼』の、巨大な、そして壮絶な物語のなかに描き出しているのは、おそらくその、社会性の芽をめぐる一個の仮想戦線なのであって、もちろんそれは、必ずしも不良少年にのみ限定されたテーマを負ってはいない。

 とうとう、ギッチョが狂おしいほどに憧れ、夢にまで見た、鎖国島での本格的な暮らしが、幕を開ける。最大の目的は当然、そこに巣くう鬼どもの王様になることであった。懐かしい面々、仇敵との再会、じょじょに鎖国島の全容が明かされていくうち、いま現在、王様として君臨しているのが、かつて親しんだサクラこと花山であることを知り、直接対決に向かうギッチョとアキラだったが、あまりにかけ離れた実力、緊張感の差によって一笑に付せられてしまう。そうした主人公の動向をよそに、新しい王様を決めるための鬼祭りの日が近づき、花山、そして真清率いる東側と雛石顕治率いる西側の小競り合いは激しくなりつつあった。西側は毒の粉をまき、東側の戦力を大幅に低下させようとする。じっさいその効果は著しく、東側が窮地に立たされたちょうど同じ頃、海を渡り、同士であるハンニャとマンバが、鎖国島にやって来たおかげで、ふたたび真清は活路を得る。さて、かつて懇意であった花山につくのか真清につくのか、問い質されるギッチョは、しかし〈ワシは誰の下にもつかんで‥‥!! ワシが王様になるんじゃ!!〉と、無謀にも独立を宣誓するのだった。

 以上が、14巻のだいたいのあらましである。すでに繰り広げられている鎖国島での攻防を考えるにあたって、まず前提にしておきたいのは、それが、たとえば閉鎖空間におけるサヴァイヴァルを題材にしたフィクションの類を評するとき、よく社会の縮図なる喩えが用いられるのに相応しい構造を有しているのに対し、じつは一線を引いている点である。そもそも鎖国島とは、この社会では生きていけない人間の集められた場であったことを忘れてはならない。この社会の理念に苦しめられる彼らにとっては、それがまったく機能していない世界こそが、希望になりうるのであって、だからこそ自ら進んで鎖国島に足を踏み入れたのではなかったか。たぶん、不良少年にも二種類ある。これは12巻の時点で、ギッチョと別れなければならない友人たちの姿を通じ、さんざん検証された問題であると思う。端的に述べるなら、この社会で生きていくがために不良少年になるべき種と、この社会では生きられないがために不良少年にならざるをえない種とに、分類される。前者の場合、たとえ悪に見られようとも、社会自体にその存在を許されている。だが、後者は、あくまでも悪である以上に、その存在が許されていない。治療不可能で有害な病気そのものとして扱われているのに近しい。たんに根絶されなければならない。しばしば、残酷で凶悪な犯罪者の社会復帰が問題になるのは、極端をいえば、彼らがこの社会で生きられるための条件を十分に満たしていないと見なされるせいだろう。また、そうした犯罪者の群がさまざまな出自によっているとおり、症例は、なにも不良少年という現象にかぎってあらわれるものではないだろう。

 鎖国島に渡ったギッチョが、再会を果たした人びとのなかには、意外にも不良少年のライフスタイルとは無縁そうなドングリマナコくん(通称であるにしてもすげえ名前だな)がいた。なぜ、彼みたいな真面目にしか見えないタイプが、荒々しい鬼どもの巣窟に混じっているのか、さしあたり理由は明確にされていないけれども、この14巻で、寄生族と呼ばれ、今ふうの定義で囲うならばオタクやニートの層にあてられるだろう若者たちが、鎖国島の一角を占めているのは、ひじょうに暗示的だ。おそらくそれは、不良少年とは違う作法で、常識を踏み外してしまった立場のある由を意図している。病気の顕在は、どのようなトライブに属しているのであれ、どのようなイデオロギーに従っているのであれ、どのようなルールを信じているのであれ、この社会で生きられる者とそうではない者とを分別する。そこが、後者の、すなわちこの社会では生きられないと断じられた輩の、とうとう行き着く果てが鎖国島であるならば、本質的には、大勢を包括することで多彩な精神のグラデーションを帯びながら成り立つ社会の縮図とは、違ってくる。現実を見本にしたミニチュア上のシミュレーションとはなってこない。

 しかしながら、さらに注意深くありたいのは、たとえば鎖国島を運営する松尾老人が、血気盛んな少年たちに向けて述べる〈とにかくお前らが今‥‥えー暮らしがしたけりゃ〜〜花山みとーに王様んなって好きなよーにやるか 雛石みとーに保護者にしっかり金を入れてもろォて悠々自適な生活をするかじゃ……ココは‥‥鎖国島なんじゃ〉という言葉が仄めかしているように、社会の意義を前提にした秩序からは切り離された場として用意されているにもかかわらず、そこには一つの確定的な体系が出来上がっていることである。あるいはそれを指して、この社会とは異なったロジックに支えられている社会の存在を認めるのは容易いし、鎖国島はこの社会とは決して無縁なところから出てきたわけではないと解釈することも可能になるのだが、いずれにせよ、その、新しい体系に置かれたロジックだけが、海を渡った少年たちにとって、唯一の居場所であり、よすがとなるのだった。こう考えるとき、この社会で生きられる資格を持っていないがゆえに鬼と忌まれた彼らのなかにも、社会性の芽を見つけることができるかもしれない。しかるに対他関係下の苛烈な相対化は、誰が王様に相応しいかの、激しい争奪戦をもたらす。

 そしてついに、どうすれば王様になれるのか、鬼祭りと名付けられた絶対のルールが明るみになるわけだが、それは、真清が〈そんなモン わざわざ説明するほどのコトもないわい‥‥単純明快‥‥〉というとおり、たいへんシンプルなものであった。かくして、鬼祭りの概要を聞かされたギッチョが〈ぜっ…‥全員倒したりとか‥‥戦争みとーなんとかせんで えーん!? そんだけで……………たった そんだけで王様に………なれるんッ‥‥!!?〉と驚くのに対して、真清が〈まァ‥‥そーゆーのもなくはないんじゃが……それだと結局 全員が死んでしまうけぇのォ‥‥数年かけてでき上がったルールなんじゃ……〉というふうに答えているのは、ある意味で、鎖国島の少年たちが持った社会性の芽を、あらためて教えているといえる。定められた目的を達成し、頂点に立つことは、潜在的にルールの遵守と同義にならざるをえない。けれども、鬼祭りのシンプルな鉄則を知り、火がつき、いきおい独立を宣誓したギッチョに、東側に属する北丸薫が〈たとえお前が……鬼祭りで女神岩の札を取って王になれたとしても‥‥一年もの間 王の座を守れるか!? 王は法で守られとるぅ言ぅーたって 西側の連中やら‥‥もちろんワシらだって 一年中 お前の首を狙うんど!! 王っちゅーのはのォ‥‥それを撥ね除けるほどの力と………器を持ったヤツがなるんじゃッ!!〉と忠告しているあたりに、きっと、鎖国島の、鬼祭りの、王様の、物語のはじまりの時点であらかじめアナウンスされていたギッチョの絶望の、真相は含まされているのだと思う。

 13巻について→こちら
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 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら

 『KIPPO』1話目について→こちら
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2009年12月02日
 劉備玄徳という頂、曹操孟徳という頂、はたしてどちらのほうが天に近しくそびえ立っているのか、こうした対照は、『三国志演義』を元ネタにするフィクションにおいて、よく見られるものであって、もちろんのこと、武論尊(作)と池上遼一(画)のタッグによる『覇 -LORD-』もまた、それを採用しているといえるだろう。曹操のスケールを意識する劉備、劉備のスケールを意識する曹操、両者のライヴァル関係が、あたかも中国史を揺らがすほどの動力であったかのように描かれているのである。この17巻では、共同戦線を組んだ張ばくと呂布とが、それぞれ、別個に、劉備や曹操らと相対し、曹操(劉備)にとって劉備(曹操)の存在がいかにでかくはだかっているのか、直に引き出すことで、上記の構図が強調的になっている。劉備と一騎打ちを果たす張ばくが、自らのモチベーションを〈曹操の眼に映るのは、この張ばく(オレ)一人でいい! 断じて劉備(おまえ)ではない!!〉と述べているとおり、それはまさしく、曹操への情念であり、劉備への嫉妬を含んでいるのであった。そして、何人たりとも劉備と曹操のライヴァル関係に割って入ることはできない、という運命(あるいは作中のロジック)が、張ばくを敗北させる。そこには、たとえば武論尊(史村翔)の原作でいうなら、『北斗の拳』に登場する人物たちの多くが、ケンシロウとラオウの対立軸に二分され、彼らの周囲をめぐる衛星以上にはなれないのにも似た、悲劇性を見つけられる。要するに、『三国志演義』を下敷きにしたストーリーのなかに注入された独自のエッセンスは、そうしたところに効果をあらわしているわけだが、しかしながら『覇 -LORD-』を読み進めるうえで注意されたいのは、劉備と曹操の、『三国志演義』自体に由来するライヴァル関係のほかにもう一つ、劉備と常元という、このマンガならではの、つまりはほとんどオリジナルな対照が、中国史を、べつの方向からはげしく、震わせている点だ。劉備と常元の二者は、倭の国(古代日本)から大陸に渡ってきたのであって、本質的には異邦人であると設定されている。彼らのうち、とくに常元のほうに託されているのは、やや過激に捉まえるのであれば、侵略者のイメージだと思う。じっさい、一般的には曹操が行ったとされる徐州での大量虐殺は、その一部は常元の仕業であったと置き換えられている。このような、侵略者としての常元のイメージには、もしかしたら今日における日中戦争の残響さえも重ね合わされている、と解釈するのは、早計であろうか。いずれにせよ、同じく倭人でありながらも、中国史に尽くそうとする劉備のカリズマは、間違いなく、常元の所業に対するアンチテーゼになっているのであって、それはここで、かつて彼が祭輝と祭勝という親子から受けた恩に端を発していることが、あかされている。さらに付け加えるなら、劉備が、命かけ、実現しようとしているのは、その、個人的な動機からはじまっているものをどれだけ社会に敷衍することができるか、という試算にほかならない。私情にとどまる張ばくが、決して劉備に及ばない理由も、じつはそこによっているのである。

 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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2009年12月01日
 いいな、いいな。実ることのできた初恋ってじつによいよな、そう思わされるものである。吉永ゆうの『初恋白書』は、ひとまずハッピー・エンドに落ち着くような初恋を題材にした読み切りのマンガを五篇収めた作品集なのだけれど、どれもその、初々しさが、とてもせつなく、こちらの胸をやわらかに撫でる。しかし、どうしてハッピー・エンドへと至ろうとする道のりに、ちくちくとした痛み、せつなさがあらわれているのか。といえば、本質的には両想いであるはずの男女が、お互いの気持ちを知れず、すれ違い、いったんは気持ちを諦めようとし、それでも離ればなれになってしまうのをおそれる矛盾が、筋書き上の重要なヤマになっているためであって、これはすなわち、ラヴ・ストーリーにとって失恋の兆しこそが最大のエモーションになりうることを、教えている。たとえばそれは、アタマに置かれた「夏色メモリアル」の内容からして、あきらかだろう。中学時代、我が儘で奔放な男子の内海に、クラス委員の茉莉はいつも厳しくあたっていたのだったが、ほんとうはずっと彼に惹かれていた。やがて二人は、別々の高校に入り、顔を合わせる機会はなくなった。しかし、茉莉の心のなかには、卒業のときに内海がメッセージとして書き残した〈お前のことけっこう好きだった〉という言葉が、消えず、残されたまま。高校2年の夏休み、クラス会をきっかけに再会した二人は、あの頃に叶えられなかった想いと、ふたたび向き合うことになる。物語の底からしばしば、はにかみながら顔を出すセンチメントは、茉莉の後悔によっている。中学生のとき〈彼を待っている友達はたくさんいた ほんとは 羨ましかった あたしは 彼を叱ることでしか 関わりを持つことができなかったから〉なのだと彼女は思う。要するに、素直になれない。なれなかった。そしてそれは、もう一度、内海と顔を合わせた現在も変わらない。変われない。したがって、またもや後悔せざるをえない。この、次第に下がってゆく気分が、作品の印象を方向づけているのだけれども、好きな人を前にし、ついつい裏返しの態度を見せてしまうのは、じつは彼のほうも一緒であったという、つまり、両者が同様のジレンマを共有していたのだと告白し合うかっこうをとることで、さっきまでの苦しみ、ちくちくとした痛み、せつなさが、ハッピー・エンドのあかるさに、直接反転させられているのである。こうした、失恋の兆しをバネにやわらかく跳ね上がるドラマのありようは、「君と私の片想い」や「スキよりもキライ」、「雪に願い」など、他の篇の骨格ともなっている。〈どうして人は 報われない恋をするんだろう〉と、これは「君と私の片想い」の出だしに置かれたモノローグを引用したものだが、「夏色メモリアル」のエピローグにあたる「秋色メモリアル」をのぞくすべての作品に、ささやかでしかなかった願いが、欲ばり、とうとう身動きのとれない困惑をもたらす、かのようなつらさのよく出ていることが、初恋の、いわく言い難い感動を憧憬させる。
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 男女の三角関係において、そのなかから一組のペアが生まれるとき、どうしても余剰となる人物が出てしまう。こうした不幸は、そこに求められる恋愛の感情が純粋であると信じられるかぎり、二股の交際は許されないのだから、きわめて必然的なものであるし、逃れようのないものだといえる。白石ユキの『となりの恋がたき』は、子供の頃からつねに一緒に育ってきた茜、ヒロ、一夜の三者にも思春期が訪れ、恋愛の感情抜きでは異性を見られなくなってしまったため、やむをえず、三角関係に陥ってゆく様子を描いた少女マンガである。もちろん、そうしたシナリオ自体に目立った点はないかもしれないが、さしあたり特徴的であるのは、ヒロインにあたる茜が、最初からヒロと一夜のうちのどちらかを選んでいた、このことを強調しながらストーリーが進められていることだろう。言い換えるならば、どちらかを選ぶ過程で主体の心情がはげしく揺れ動く、それが物語を色濃くしているのではなく、選んだ者と選ばれた者と選ばれなかった者とに分かたれてしまったトリオが、いかにして以前の親密さを回復し、キープするか、これを醍醐味として読むべき作品になっている。すでに述べたとおり、男女の三角関係にピリオドが打たれるさいには、余剰としての役割を是非もなしに引き受けなければならない人間が、必ずや存在してしまう。このような残酷さは、ほんらい不可避なものだ。それをどう、あかるく収まる場所にまで引っ張れるか。表向きは、初心なラヴ・ロマンスに右往左往している印象があるけれど、完結編となるこの2巻によって果たされているのは、上記した取り組みの有意義だと思う。

 1巻について→こちら
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2009年11月29日
 男性教師と女子生徒という、旧くからフィクションのロマンスに定型的なシチュエーションを、少女マンガに描いた水瀬藍の『センセイと私。』が、この4巻で完結した。大団円であった。途中、記憶喪失のアイディアを盛り込むなど、ストーリーは、そりゃあ見え透いてはいたけれど、どこかで弛緩することもなく、最初から最後まで一気に読まされる内容になっていたと思う。立場の違いからやってくるさまざまな困難を乗り越え、次第に絆を深めていく高校生の遙香と教師の国広だったが、もちろんその関係は、周囲に伏せたまま、秘密にしておかなければならない。せめて親友の亜子にだけは、と思う遙香は、国広の許可を得、ついに本当のことを打ち明けようとするのだけれど、もしも自分たちの恋愛が〈大切な人に祝福してもらえない恋〉であったならば、と考え、おそろしくなってしまう。そしてそれは、ちょうど同じ頃、国広の高校時代の友人である安藤が、遙香たちの学校に赴任してき、二人の付き合いを〈教師と生徒やろ!? 間違おとる 俺は反対や!!〉と、強く否定したためでもあった。そうした困難が持ち上がったところから、エンディングに向かい、物語は収束していくわけで、つまり、全編の佳境において重要視されてくるのは、同じ気持ちを共有し、信じられるようになれたカップルが、どうしたらその、一般の判断でいうなら度し難いはずの恋愛を、周囲の人びとに認めさせるのか、になる。結局のところ、最初から許されていた、という着地点のうえに、結婚という制度的なエクスキューズを引っぱってくるのは、いささか楽観すぎやしないか、と感じないでもない。しかし、番外編というかエピローグにあたる「卒業旅行」のエピソードが教えるとおり、『センセイと私。』の本編で、ドラマの根っこを担っていたのは、相思相愛であるような二者が、あまたの障害を抱えているにもかかわらず、どれだけピュアラブルな状態で、要するに性交(セックス)による具体的な意志の確認作業を経ずに、厚く信頼を寄せ合えるか、といった点にほかならない。まあ、そのこと自体が、フィクションのロマンスにとってのありふれたテーマではあるだろう。もっとも、そうした様式美の世界を過不足なく再現していることが、本作の(もしかしたら退屈だと受け取る層もいるには違いない)価値だといえるのである。

 3巻について→こちら
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2009年11月28日
 広瀬なつめの『LOVE DRUG』は、そのタイトルこそ毒々しいし、一昔前だったらポップにも見えたろう絵柄が今の時代ではキッチュでしかないように感じられたりもするが、中身のほうは、あんがい少女マンガにオーセンティックな筋書きを持っていて、要するに、最初はいがみ合っていた男女がじょじょに接近してゆく模様を描いている。自分の通う高校へ転校してきた上級生のイケメンさん、秋吉央太郎に、友人のあいさを傷つけられたミツカは、彼の不真面目な態度に食ってかかるのだったが、どうやら藪をつついて蛇を出してしまったらしく、恋人であるジュンとの関係を含め、学園生活におけるさまざまな急所を狙われることになるのだった。こうして、いちばんのライヴァルがいちばんの理解者であるかのごとき関係性が生じ、それがいつしか恋愛のモードとなるような変動を、コメディのパッチをあてながら、物語化しているのである。しかしながら、やはり、このマンガを特徴づけているのは、作中人物たちのデザインや言動の、ちゃらさ、であり、軽さ、だろう。一般的なフィクションの理念からすれば、本作における作中人物たちの内面は、仮にそれが若さを表象するものだとしても、ひじょうに薄っぺらい。だがその薄っぺらさによって、あるいはその薄っぺらさにおいて、ロマンスだけが最大の価値を持ちうることが、あらためて確認されるかたちになっているのだ。もしかすれば、タイトルの意味もそこに符合する。たしかに、ロマンスにのみ生きるのは、ちっぽけであるかもしれないし、阿呆らしいかもしれない。けれども、たとえば嫉妬の感情一つとっても、たかだか、といった程度のことが、なぜか深刻な事態を招いてしまうときが、しばしば、ある。『LOVE DRUG』の、ちゃらさ、や、軽さ、に見られかねない点が代弁しているのは、おそらく、そのような、リアリティ、であり、エモーション、なのだと思う。
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2009年11月27日
 筋金入りの恋愛主義だから、とかくロマンティックなラヴ・ストーリーが好きである。たとえありふれたアイディアであろうが、ロマンティックなラヴ・ストーリーでありさえすれば、はらはら胸がときめいてしまうので、弱るよ。ただし、できるなら質というものにはこだわりたい、という我が儘もある。南塔子の『さがしもの』は、学園が舞台のガール・ミーツ・ボーイを描いた読み切り作品集となっている。表題作の「さがしもの」、それから「悩みのタネ」、「疾走beat」の三篇はどれも、作品の内容は決して独創的とは言い難いものの、いくつか、ポイント的に秀でたところがあり、とても好感をもって読むことができた。まず、ポップスに喩えるならイントロといおうか、物語の立ち上がりに、だいたいのあらましが集約され、その後の印象を左右するほどの、きらめき、をあらわしている点で、もちろん、それは少女マンガの短篇における常套にすぎないのだけれど、ことさら奇をてらうわけではなく、素直な道順を示そうとしているため、すうっと気持ちが入っていける。要は、うまくいっている。また、一方通行からはじまる恋愛が、両想いのハッピー・エンドになりうる可能性を有しているとき、片想いの対象を振り向かせるだけの魅力が、はたして片想いをする主体のどこにあったのか、すなわちこの場合、いっけん平凡に思われるヒロインの真の値打ちがいかなるものか、たしかに与えられていなければ、説得力はがくんと落ちるのだが、そうした部分もこぼさず、適切にフォローできており、併せて、恋愛感情を持った人間の、心理の細かいところを見よう、心理の細かいところを汲もう、心理の細かいところを描こうとする手つきが、せつなくやわらかな心地好さを寄越している。標準的といえば標準的ではあるが、じつにチャーミングな読み切りが揃っていると思う。ただし、それらが少女マンガならではのロマンティックなラヴ・ストーリーを踏襲している一方で、「消せない棘」と「青い神ヒコーキ」の二篇には、いささか色合いの違う面が出ているだろう。とくに「消せない棘」である。これは、フィクション上のリアリティではなく、現実的であろうとするリアリティをベースにした作品で、友情よりも恋愛を選んだヒロインの、都合のよい感傷を、断罪するのでも寛容するのでもなしに、ただあるがままにあるものとして切り出す。きれいごとを除けてしまえば、こういうことは十分にありえる。その、身も蓋もなさに、ぎょっ、とさせられる。反対に、「青い神ヒコーキ」は、発表(初出)の順ではいちばん古い作品になるのだけれども、女性ではなくて男性を主人公に、わりとストレートな、照れ隠しのボーイ・ミーツ・ガールをやっている。正しく、青春の一コマと評するのが相応しいような、さわやかさがある。
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2009年11月25日
 虫と歌 市川春子作品集 (アフタヌーンKC)

 市川春子の作品集『虫と歌』を、1ページずつ読み進めながら、マンガ表現にあって詩情はどこに宿るのか、を考えさせられる。それはたぶん、余白というか空白というか、作画のレベルでも物語のレベルでも、コマや言葉の内外にすっぽりとひらき、埋まる必要がないほど自然に存在している隙のなかに、だろうと思う。言い換えるならば、作者は、ある種のブランクをめぐる語り口が、残酷でいて、たわやかなリリシズムを想起させる、そのような技術を最大限の魅力に変えているのである。決して雰囲気の問題じゃないんだ。ぜんぶで四つの短篇(プラス2ページの掌篇)が入っている。どれもが我々の生きている現在をベースにしつつ、SF的というかファンタジーふうというか、ちょっとしたひねりの盛り込まれた世界を見せている。虫や植物、機械や器具等々の、ほんらい人ならざるものが、あたかも人として生きられるような、すこし不思議なありようを描き出している。もっと言うなら、その、人と人ならざるものとの、異種間の交流とでもすべきの、ささやかな入れ違いが、感情の流線を、あちらからこちらへ、引っぱってくるのだ。おそらく、基本的なイディオムは、高野文子あたりの作風に学んでいるのではないだろうか。簡素なタッチは、どこか淡々としていて、飄々としていて、ところどころに硬いエッジが立っている。きびしく抑制の凝らされた印象がある。しかし、この作品集を見るうえで注意したいのは、ある部分においては、異様なまでの過剰さが意図して突出させられている、と感じうる点だ。そこまでは律動的であった描写や構図が、突然の過剰さを孕み、ぱん、と場面を切り替える。驚きがしばらく、余波として残ったまま、しん、と横たわる沈黙のなかに、心のひだをかすってゆくような詩情が、呼び込まれているのである。そしてそれが最大限の魅力になっていることはすでに述べた。
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2009年11月24日
 ゆうやみ特攻隊 5 (シリウスコミックス)

 自伝的な要素を持った『ピコピコ少年』を読むと、先般最終巻の出た『プピポー!』であったり、この『ゆうやみ特攻隊』などで活躍する少年や少女の姿には、押切蓮介の憧れが託されているのかな、という気がしてくるし、はたまたそれは、『ピコピコ少年』の、あの、すこし根の暗い主人公に思わず共感してしまう読み手にとっての、理想像にさえ見られるかもしれない。いや、すくなくとも、これを書いている自分の場合はそうだよ。あらかじめ手渡された困難のせいで、仕方なく、くじけそうになりながらも、ほんのわずかなガッツを頼りとし、友情のありがたみに支えられ、とりあえずは前へ前へ、歩みを止めず、進み続けることが、精いっぱいの希望となって、孤独な運命を変えてゆく様子に、たいへん励まされるものがある。

 絶望、絶望、絶望、いっさいの救いを奪われ、地獄の釜の中に突き落とされた姫山高校心霊探偵部の面々、辻翔平と越島かえでであったが、まさか、すさまじい拷問に息も絶え絶えであったはずの隊長こと花岡弥依の、どんなピンチにさえ決して揺らぐことのないポテンシャルが、一気に形勢を逆転させる。他方、心霊探偵部の到来によって、黒首島に持ち上がった騒動は、祭りの日に備えていた村人のあいだにも、大きな波乱を呼び起こすこととなる。禍々しい呪力を用い、村人を狂気で支配する鉄一族のカリズマにも、ついに綻びが見えはじめているのだった。以上が、5巻のだいたいのあらましであり、さあここから反撃だぞ、という段において、ことあるごとに翔平の成長を認める隊長の言葉は、やさしい。だが、〈ふふ‥こんな目に遭っても「逃げよう」の一言も言わないなんて‥‥辻‥強くなったね〉と褒められたことに、〈‥‥隊長‥隊長と比べたら 俺の強さなんてかすんで見える‥自分の無力さがもどかしい‥‥〉と感じ入る翔平の態度からは、いまだ不甲斐ない自分自身への悔いがうかがえる。少年の成長譚としての物語的な側面は、こうした関係上の機微にあらわれているだろう。おそらく、隊長の存在は、作品の内部で働いているロジックにおいて、翔平の、今は亡き姉のかわりであるような役割を果たしている。だからこそ翔平は、彼女(たち)に庇護されている事実を知るかぎり、いくら強くなったと指摘されても、かつてと同じく、守られる立場に置かれた弱みのほうを意識してしまうのである。はたして彼がそれをどう克服していくのかは、長篇化しつつある『ゆうやみ特攻隊』の重要な意義だと思う。

 ところで作品はここで、もう一人の少年、鉄萌(くろがねはじめ)にスポットを当てている。鉄一族に育ちながらも、恋人である紗由のため、家族を裏切り、心霊探偵部を島に呼び寄せた、ある意味ではエピソードの幕開けを担った人物である。彼は、〈鉄家としての自覚を持て 萌!! お前の描こうとしている人生は 所詮 絵空事だ!!〉と口撃してくる父親に対し、〈子が悩みに悩んで人生の選択をしたんだ‥‥それを気持ちよく認めてくれるのが親ってもんだろう〉と言う。生来の関係性を邪険にしてまで彼が憎んでいるのは、閉塞感や抑圧、それらによってもたらされる虚無や憂鬱と喩えられるものにほかならない。半径の小さな世界で、当人の願いと無関係に突きつけられる運命の不幸は、他のマンガでいうなら『ミスミソウ』のなかでとくに突出していたモチーフに違いないが、よくよく読めばわかるとおり、たとえば『プピポー!』や、さらには『ピコピコ少年』にまでも、共鳴音のごとく介在している。もちろん『ゆうやみ特攻隊』も等しく、それを端的に示しているのが、鉄一族と萌とのあいだにあるアンビバレンツだといえよう。

 付け加えるなら、そこに表象されている心理の囲いは、必ずしも特殊な環境にのみ起因するわけではない。時や場合、程度の差こそあれ、多くの人生が、一度は味わい、深く傷を負わせられる類のものだ。もしかすれば、本作で翔平が、懸命に抗い、脱しようとするコンプレックスも、そうしたことのヴァリエーションなのであって、派生的な問題を孕んでいるのかもしれない。しかるに、あらかじめ手渡された困難を理由にし、憐憫をねだってみせたところで、運命を変えられるだけの強さは得られまい。『ゆうやみ特攻隊』の、派手なコマ割り、ダイナミックな展開が、スペクタクルの面以外に、大きく支援しているものがあるとしたら、それはたぶん、果敢なる少年や少女が、徒手空拳の想いで、未来を切り拓いてゆこうとする勢いだろう。不可能を断定された場所からすべてを薙ぎ倒して立つ隊長の勇姿を見よ。あの不敵さはしかし、いつだったか膝を折り、倒れそうになったとき、踏み越えられなかったな、と憧れた一線の向こうに有るので、しばしばおそろしいものとして映る。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他押切蓮介に関する文章
 『でろでろ』
  15巻について→こちら
 『ミスミソウ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『プピポー!』
  1巻について→こちら
 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
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2009年11月23日
 仁義S 11 (ヤングチャンピオンコミックス)

 前作の『JINGI〈仁義〉』で、十分な成功を果たし、安全な立場に回ったと思われていた甲田や名手ですら、いっときの油断に足下をすくわれる。いとも容易く失墜させられる。これが極道の世界のおそろしさ、真理なのだと『仁義S〜じんぎたち〜』はいっているかのようである。〈おい やくざ せっかくの順番ゆずったら すぐに一生終わるぜ〉と、これは仁のセリフだが、いずれにせよ、立原あゆみのマンガにおいて、ヤクザは、死ぬ、か、勝ち続けないかぎり、平和を得ることはできない。関東一円会に内乱が起きたせいで、旧い世代が次々リタイアするなか、主人公のアキラ、そして守や大介らの、新しい世代はじょじょに力をつけ、組織の中枢で台頭しはじめる。しかしながら当然、彼らもまた、苛酷なルールをかろうじて生きながらえているにすぎない。所詮は、盤上に置かれた無数の駒の一つでしかないのだ。そうしてこの11巻では、当人たちの思惑をよそに、来るべき大状況の決定に備え、各人の配役が改まってゆく。

 それにしてもまあ、盟友であるはずのアキラに対してせこい敵愾心を抱く守みたいな小悪党を描かせたら、さすが。とんだゲス野郎がいたもんだぜ、という気分にさせられる。だが、その守でさえ、アキラの初期のライヴァルであった加瀬に比べたら、よほど秀でた立ち回りを繰り広げている。守と加瀬、行動をともにする両者には等しくチャンスがめぐってきているにもかかわらず、活躍を分かっているのは、おそらく、野心の大きさであると同時に、捨て身になれる覚悟もしくは血気の差だろう。いざという段に、躊躇い、ひるんでしまうことは、たとえ一瞬であったとしても、まちがいなく遅れとなってしまう。文字どおり、遅れをとった者から尻に火がついていくのは、『JINGI』の頃より、作中の世界に徹底されている法則である。前作で、仁と義郎が無敵の快進撃を続けられたのは、彼らだけがつねに遅れをとることはなく、いやむしろ、その法則自体をも先んじていたためであった。過去にも述べた気がするけれど、『JINGI』とはある意味で、仁と義郎こそが、そこで展開されているゲームのマスターにほかならないことを証明していく物語だったといえる。もちろん、こうした構造上のランクは、続編の『仁義S』にも引き継がれており、他の人物の行動を予見するような二人の超越性は、下につく人間の数が増えたことで、さらに絶対的なものとなっている。と、考えられるとき、『仁義S』の物語とは、その、神格に試される側の人間を題材化し、成り立っていると解釈してもよい。

 すくなくとも、アキラたちの運命は、一般的な道義のうえで親分の命令には従わざるをえないというのもあるにはあるのだが、たしかに仁と義郎の掌中に握られていて、彼らのプランや要求に添うよう課題をクリアーすることが、すなわち正解のルートを辿ったとの意味を持つ。そしてそれを経なければ、次のフェイズに進むことは許されない。利根組に肩入れしていたアキラが、その若頭である長峰から、舎弟頭を引き受けてはくれないか、と持ちかけられた旨を、仁と義郎に相談するくだりを読まれたい。〈舎弟頭受けるにしても 表向きは親子盃にしておいた方がよくないかい〉と義郎が提案し、〈そうだな 兄弟盃だと跡を取りにくい〉と仁が頷いてみせるのに対し、意図を理解できず〈あの何を言われているのやら〉と困惑するアキラが、〈わからんか? それなら“はい”でいい〉と言われたとおり、決定権を委ねてしまうのは、正しく構造下の条件を教えている。

 ただし、注意しておくべきなのは、だからといってアキラが必ずしも主体的に生きていないわけではない、ということだ。仁や義郎には例外に特権が与えられているにしても、フィクションの内部では、プレイヤーの一員であることに変わりない。命を狙われれば、落とすことも十分にありえる。じっさい、彼らは自分たちの想像を越えるプレイヤーが登場するのを待ち望んでいるふしがある。すべてが入れ替え可能のゲームであることのスリルを楽しんでいるふしがある。たぶん、アキラなどの新しい世代を指して、若きJINGIS(仁義たち)と呼び、期待しているのもそれだ。言い換えるなら、若きJINGISは、神格の予見を逸脱するような主体を積極的に生きることでしか、その存在を認められない。これをよく示している場面が、11巻にはある。仁と義郎をまとめて爆死させるべく、投げ込まれた手榴弾を、とっさにアキラが掴み、間一髪のタイミングで絶体絶命の危機を回避してみせるという、ひじょうに興奮させられるシーンである。作者には珍しい見開きのカットを含め、ハイライトとするに相応しいだろう。仁を逃そうとする義郎がスローモーションになっているそばから飛び出してき、状況を一変させてしまうアキラの判断と行動は、一介の駒の働きをはるかに上回るものだ。

 以上の成り行きを踏まえるのであれば、アキラがその前段で、『JINGI』の重要なワキ役であった多古たちに、仁と義郎のボディガードを単独で任されているのも、じつに象徴的な意味合いを持ってくる。それは暗に、世代交代よろしく組織内のポジションが変動していることを含んでいるのだけれど、同時に、たとえ暫定的だとしても主人公が神格にもっとも近しい位置に収まったことを示しているのである。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2009年11月21日
 現在、ヤング誌を中心に引く手あまたの活躍を続けながらも、熱心に語られているところをあまり見たことのないマンガ家が、葉月京である。そうした作者の、豊富な履歴に反比例する評価は、90年代頃の柳沢きみおや村生ミオのそれを思わせなくもない。いや、個人的には、ポスト村生ミオの代表格として、もっとも名を挙げておきたいし、じっさい現在の村生がそうであるように、まさしく他に類を見ない領域に入りつつあるな、と感じられるのが葉月なのだけれど、もちろん本人がこう見られて嬉しいかどうか、まったく知らない。しかしながら、たとえばこの『CROSS and CRIME(クロスアンドクライム)』で遺憾なく発揮されている、性交(セックス)と疑い(サスペンス)をふんだんに盛り込み、ぞくぞくするほどの愛憎を人と人のあいだに引いてゆく手つきは、村生が同じく『ヤングチャンピオン』で成し遂げた衝撃の一つ『サークルゲーム』に匹敵するものだろう。

 ついさっきまで幸福にあふれていた景色が、一瞬のうち、真っ黒な闇に反転する。すべての絶望はあらかじめ仕組まれ、用意されていたにもかかわらず、渦中にいる人間だけがそのことに気づけない。女子大生の戸叶優香は、恋人で新聞記者の矢崎典一に愛され、とても恵まれた日々を送っていた。しかし矢崎の後輩で、今や人気バンド「ゼロサム(ZERO SUM GAME)」のヴォーカルであるケイト(佐伯敬人)と出会ってしまったことから、破滅のゲームに無理やり参加させられることとなるのだった。いちおうはネタを割るのが許されないストーリーになっているので、これ以上の要約は省くが、優香と矢崎、そしてケイトの歪な三角関係をベースに、人間模様とはここまで残酷な見栄えを持つのか、と胸引き裂かれるドラマが、いっさいの赦免もなしに描かれてゆく。肝要なのは、悲劇でしかありえない、悲劇にしかなりえないゲームが、個人の、小さな感情の耐え難さを引き金にしていることである。

 誰もが嫉妬という劇薬の入った小瓶を脳内に隠しながら生きている。だが、それは運を一つ違えてしまっただけで容易に割れる、あるいは蓋が外れて中身をこぼれさせる。漏れ出した劇薬は、神経をまわり、当人を苦しめるばかりか、彼の発作に付き合う周囲をも不幸にするだろう。その、被害のすみやかにひろまる過程が、複線の描写と急な展開を通じ、戯画状に再現されているのだ。もともとは作者(百済内創名義)の過去作『SEX CRIME』のリメイクであるらしく、残念ながらオリジナルのほうは読んだときがないのだけれど、おそらくこれほどの筆致は、現在の力量だからこそ可能になったものだと思う。あまりにも過酷で目を覆いたくなる場面もすくなくはないが、足を踏み入れたとたん、ついついずるずる引き込まれてしまう心理の奥行きが同時にある。

・その他葉月京に関する文章
 『Wネーム』5巻について→こちら
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2009年11月20日
 ドリームキングR 5 (ヤングキングコミックス)

 アパレル業界で立身出世するためにはなぜかギャングやヤクザと事を構えなければならない、という『ドリームキングR』の展開には、少々首を傾げたくなるときもあるのだったが、よくよく考えるのであれば、それって要するに水商売系のマンガと同じ構造を持っているわけね。現実との照応をべつとするなら、おそらくはそうした職種を、アンダーグラウンドっぽいものにしたい、アンダーグラウンドっぽいものに見たい、式の欲望によって設定の水準は定められているのである。もちろん、アンダーグラウンドっぽいなる思いなしは、良い意味にも悪い意味にもなりうる。水商売系のマンガにおいては、陰惨なモチーフがほとんど不可分でついて回るのに対し、ファッション産業を題材とした場合、そのイメージからか、アンダーグラウンドっぽいことへの憧れのみが、甚だしく強調されてしまうのだと、『ドリームキングR』の、いかにも若者の夢にあふれたストーリー(!)は教えている。うん。宿敵であったオズマックス(a.k.a.オザキック)と和解し、コンビを組んだジョニーは、あらたなブランド「ゼロリズム」とその高位ブランドである「ゼロル」の構想に着手する。だが、そこでも対立し合うのが良きライヴァル関係というものか。ワンオフの洋服をなるたけ高額に吊り上げようとするオズマックスのプランに、ジョニーは〈そんなボッタクリみてえな値段つけられっかよ! 生地代はタダなんだぞ!!〉と憤るのだけれども、〈生地代はタダじゃねえ! おまえの労力の対価分だけ金を払ってるのと同じだ!!〉というオズマックの言い分も正しい。こうして、資本制の社会で自分たちの理想を叶えるため、ときには衝突しながら、成功への糸口を掴んでゆく主人公と仲間の奮闘が描かれるのかと思いきや、いや、やはり、なぜかギャングとの血みどろな抗争劇に足を突っ込むことでブランドの行く末を占うことになる、というのが、この5巻のハイライトだろう。たしかに、ジョニーらが地下に潜伏していたジャンキー集団「ブラックマンバ」と対決しなければならない理由と、作品のプロットにあからさまな無理はない。しかしそもそも、ストリート仕様のファッション業界ってそんなにもギャングと昵懇でなければやっていけない世界なのか。リアリティのレベルではなく、純粋に現実にそくしているのであれば、まったく難儀な話であるし、せいぜい水商売系のマンガと同じ程度には、救いがたい部分を突出させるべきなんじゃないかと思う。救いがたい部分を隠蔽してしまうのは、決して(柳内大樹がよく尊重している)想像力とは呼ばれまい。また、『ドリームキングR』のなかに働いているのは、これまでの物語を見るかぎり、労働をモラトリアムの一部に置き換えようとする力学であった。労働に従事することは必ずしもモラトリアムを脱したのとは同義になりえない。かわりにギャングを卒業することがモラトリアムを脱したのと同義に扱われる。そうして、いちおうは社会人として大成しようとする人物を描き出そうとしながらも、労働の内容、資本制の社会に深く関わることは、建て前だけを残し、巧妙に省かれている。

 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 小説『ドリームキング外伝―シブヤ大戦争』について→こちら

・柳内大樹に関する文章
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『ギャングキング』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
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2009年11月19日
 解剖医ハンター 1 (リュウコミックス)

 まず最初にいっておくと、吉川良太郎の小説が好きである。とくに、青臭いながらもスタイリッシュを装い、わざわざ衒学的に持って回った物語が、血塗れのどんぱちを経、最終的にはホットなエモーションを発するあたり。その吉川によって提供された原作を、新人の黒釜ナオがマンガ化したのが、すなわち『解剖医ハンター』という作品で、吉川といえば、代表作であるパレ・フラノ・シリーズがそうであるように、近未来を舞台にしたSFといったイメージを持っているけれども、ここでは十八世紀のイギリス、実在したらしい人物の活躍を題材に選んでいて、それを黒釜が、硬質なタッチとすこしのユーモアがよく似合うエンターテイメントに仕立て上げている。ジョン・ハンター、後に〈児童書『ドリトル先生』ならびに怪奇小説『ジキル博士とハイド氏』のモデル〉とされるその男は、いっさいのタブーを畏れず、盗んだ屍体を解剖し、たとえ非合法であろうが、次々に新しい知識と技術とを手に入れようとする異端の医師であった。1770年当時、科学的な治療が決して科学的な治療だとは信じられていない世間に対し、自分は〈すでに二〇〇年先にいる〉のだと言い切るハンターに出会った、医学生のエドワード・ジェンナーは、最初、反発を覚えていたものの、その独創的な思想を目の当たりにするうち、彼に肩入れすることとなる。こうした筋書きにおいては、当然、医療のテーマが大きくなってくるのだが、当の主人公が、〈信仰や倫理以前の問題だ あんたには人の魂がないのか!〉と問われ、〈それは専門外だな これまで一〇〇〇体の死体を解剖したが ぼうや 魂なんて臓器は無いんだぜ…〉と堂々宣言するとおり、安易なヒューマニズムも含め、既存の価値観そのもののを足蹴にし、ひっくり返してまで果たそうとする好奇心(あるいは欲望や信念と言い換えてもよいのかもしれないそれ)の強度こそが、作品を支えるもっとも大きな柱にほかならない。たとえば吉川の小説では、アイデンティティを制度に預けることを非難したり、無自覚なままイデオロギーに従うことを嫌ったり、孤立を厭わぬどころか、あえて好むアウトロー型の人物にメインを張らせることがしばしばであったけれども、『解剖医ハンター』のジョン・ハンターもまた、虚構の存在かどうかの違いはともあれ、そのデンに漏れないといえる。もしかしたら、彼にとっての医療とは、世界を認識するための手段にすぎないのかもしれない。いや、はたしてほんとうにそうなのか。読み手は、若きエドワードの純粋さとともに、ハンターの生き様が意味するところを見せられてゆく。
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 ハレルヤオーバードライブ! 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

 近年、バンド・マンガとでも呼ぶべきがにわかに盛り上がっているのは、要するに、文系のサークルをいかにして描くか、というアプローチが、サブ・カルチャーの、とくに男性向けのフィクションにおいて急速に発展し、より豊富なヴァリエーションを、需要と供給とが要請し出していることの反映にすぎないのではないか。すくなくとも、かつての野球マンガやサッカー・マンガの盛況が、現実の流行を参照していたのとは、勝手が異なっているだろう。たしかに90年代にバンド・ブームがあった頃、ロック・バンドを題材にしたマンガは、一時的に数を増やした。が、それらのほとんどは、学生の主人公がコンテスト形式の勝敗にのぞみながら自己実現を果たす、式の、つまりは旧来のスポーツ・マンガが有していたマナーを応用するものであった。しかし、今日になって見かけられる作品の多くは、それとはべつの文脈を生きている。たとえば、ハロルド作石の『BECK』以降というよりは木尾士目の『げんしけん』以降というタームのほうが近いような。ある特定の期間もしくは空間の最適化を第一義にしているという印象さえ感じられるのである。以前であれば、少年誌が新創刊されるとなると、スポーツ・マンガの一個ぐらいは用意されるのが常だったのだけれども、『ゲッサン』はそうせず、おそらくは、その枠にバンド・マンガを入れてきたのは、雑誌のカラーを見るうえで、注意したい点だと思う。そう、ここでいっているのは、ずばり高田康太郎の『ハレルヤオーバードライブ』のことだ(正確には、『ゲッサン』の2号目からの連載になるのだけれど、創刊号の時点でプレ・ストーリーが付録に載り、大々的に予告が打たれていた)。いちおう、この1巻を読むかぎり、高校入学を機にした少年の成長物語であるふうにはじまっており、その才能が開花してゆく予感を大きく孕んではいるが、あくまでも作風は、課外活動のコミュニケーションを軸足に、文系のサークルをいかにして描くか、のスタンスによっている。ところどころ、たぶん作者の野心が顔を出しているのだろう、音楽マンガ的な矜持というかカタルシスを盛り込もうとしているふしがあるのだけれど、全体のバランスを考えるに、そういった面での大成は厳しそう。
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2009年11月17日
 ウメニウグイス (講談社コミックスフレンド B)

 〈好きな人に彼女がいても 恋は恋〉。同じ高校のクラスメイト、伊勢崎に片想いする梅原は、密かな楽しみとして自分のノートに「ISZK観察記」なるものをつけていた。だがあるとき、それがばれ、伊勢崎本人はもとより、教室中に知れ渡ってしまう。てっきり引かれ、嫌われるとばかり思っていた梅原であったが、彼は以前と変わらず、親しく話しかけてきてくれるのだった。まさか禍転じて福となすことがあるのか。「好きバレ」の状態からその恋を成就させようとするヒロインの奮闘を、日暮キノコの『ウメニウグイス』は描く。必ずしも容姿が抜群ではない人物の思い込み、純情とコンプレックスを、テンションの高さに変換し、構成されたロマンティックなコメディは、おそらく時流にそったものだといえるだろう。混在した妄想と理想とが、一種のアクチュアリティとなっているところに、作品のエモーションはよっているのである。したがって、告白をするかしないか、二人の仲はうまくいくのかいかないのか、そうしたぜんぶが、まるで夢のなかの出来事を追っているかのよう、すこしばかり宙に足を浮かせている。梅原の友人が〈たしかに 告白の結果は0か100…対して うめの現状がどっちつかずの50だとしても……夏休みに入れば その50も0になる〉とけしかける場面があるけれど、ちょうどその、50から100までに入る範囲のみをリプレゼントしている感じ、物語自体は大きく振れていないのだが、ヒロインの心情をオーヴァーにリアクション化することで、内容を補っている。単行本にもう一つ収められている「七色クロゼット」は、作中の年齢が表題作よりも上に設定されているためか、同じく一途であることの困難を基本線にしながらも、やや暗い面が前に出ている。遠距離恋愛という現実的なしがらみを、まずプレゼンテーションしたうえで、そこから一気に飛翔してゆくクライマックスは、なかなかに鮮やか。
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2009年11月16日
 L・DK 2 (講談社コミックスフレンド B)

 この『L・DK』2巻の、あとがきにあたる部分で、作者の渡辺あゆは「今後も王道まっしぐら目指して頑張ります。普遍的なものを面白く見せるって、ほんと難しいですね」といっている。なるほど、それが真に王道であり普遍的であるかはともかく、たしかに作中で繰り広げられていることの数々は、少女マンガの、とくにロマンティックなコメディにおけるクリシェを、いくらか過剰になぞらえてはいるだろう。突発的な同居生活、瓢箪から駒の恋愛、共有された秘密、ワキから絡んでくる噛ませ犬たち、等々。しかしながら、そうした表層の色づけをするにあたって、ほんらい押さえるべき本質をしっかり押さえているからこそ、作品には、目新しいポイントやサプライズはないにもかかわらず、行く末の気になる動線が生じているのである。父親の転勤にともない一人暮らしをはじめたばかりの西森葵は、諸般の事情により、同じ高校に通うイケメンさん、久我山終聖のルームメイトにされてしまう。不敵な態度の終聖にからかわれ、最初は反発を抱く葵であったが、それまで知れなかった彼の素顔を見、次第に惹かれてゆく。こうした筋書きにとって、やはり本質となるのは、特定の異性に対し、戸惑い、さながら不公平なまでに動揺させられるヒロインの心情だろう。ときおり、少女マンガのなかで描かれるペアに、サドとマゾに喩えられるような主従の関係が発生するのも、そうしたことのヴァリエーションだと仮定される。『L・DK』の場合、葵がしている片想いの障害は、そのほとんどが、彼女の言動が終聖に遅れをとってしまうことから、やってきている。終聖の気遣いでさえも、葵は後からしか気づけない、そして後から気づくことで、より関心を深めてしまう。すなわち、きわめて身近に暮らしているはずの二人なのに、両者のあいだには耐えずロスが発生し、それを葵が意識しながら、さらには乗り越えようとするプロセスが、いかにもロマンティックなコメディのクリシェをさまざま使い、あらわされているのだ。この、ヒロインの心情を再現する段取りの、様式的な方法論で徹底されていることが、『L・DK』という作品の軸足になっているといえる。もちろんそのとき、読み手であるこちらは、一つの疑問を感じないではない。たとえ葵が終聖に追いつこうとも、彼の側の気持ちがそこに合致しなければ、決して両想いの幸福とはならないのではないか。要するに、終聖が葵に惹かれている可能性があるとするなら、はたして彼女のいったいどこに代えがたいまでの魅力を見ているのか(見ることになるのか)、すくなくとも現段階でこれは、保留に近しい状態に止められたまま、やり過ごされている。

 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
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2009年11月15日
 ベインズ (講談社コミックスフレンド B)

 現在は少女マンガのカテゴリで主な活動をしている霜月さよ子であるが、福井晴敏と組んだ『C-blossom-case729-』に顕著であったように、そのタッチは田島昭宇からの影響を強く思わせる。さてしかし、この、全編オリジナルの読み切り作品集『ベインズ』では、そうした作風を、まんま少女マンガに特有のプロットに落とし込んでおり、なかなかに大胆なアプローチを見せている。が、等しい意味で、過去作にあたる『真夜中のアリアドネ』や『シーラカンス』のような、サスペンスの際立った路線を期待すると、すこし、肩すかしを食らうかもしれない。収められている三篇のすべてが、ほんとうにまっすぐ、てらいのないロマンチシズムによって支えられているのである。表題作の「ベインズ」は、絶対的な記憶力を持っているばかりに人知れぬ孤独を抱える音楽家と、彼にヴァイオリンを教えられる女子高生の恋愛を描く。絵柄や構図は不穏さをよくあらわし、作中人物の表情に色濃い影を与えている。けれどもストーリーのみを取り出してしまえば、気丈な少女の純真が、青年の隠された屈託を撃つ、という、ジャンル側の要請に丁重な応答を示したものにほかならない。もちろん、それが悪いというのではない。ヒロインである女子高生の、図々しさと一途さが裏表の、だからこそほんのちょっとのことで明るくも暗くも変わる表情が、作品あるいは恋愛そのものの説得力にまで高められているのは、あくまでも作者の細やかな筆致によるだろう。一度覚えてしまったことは二度と忘れられない青年の胸に、もっとも深く刻み込まれていたのは、いったい何だったか。画のセンスと物語の内容とが上手に一致している。不覚にも各作品の初出が単行本のどこに掲載されているのか(今これを書いている時点では)見つけられなかったのだが、続く「ライオン」のユーモアやダイナミズムは、前述の田島に加え、ジョージ朝倉や山崎さやかに学んだところがありそう。とはいえ、これも基本的な筋書きはシンプルにまとまっている。そのシンプルさに、個性と厚みを与えているのは、まちがいなく、演出の部分であって、ラストの「ROOM1/4-金欠-シンデレラ-」も同様、リッチなイケメンさんに惚れた女子大生が、貧乏を隠し、自分も金持ちを装い、猛烈にアタックする、こうしたストーリーは、決して類型を免れてはいないものの、ヒロインの心理描写にはっとする部分はすくなくない。ただし、男性サイドの気持ちがあまりよく出ていないため、都合の良さのほうが前にき、ややアンバランスな印象を受ける。
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2009年11月11日
 湾岸MIDNIGHT C1ランナー 1 (ヤングマガジンコミックス)

 ループ構造のリアリズム下で生をいかに描くか。こうした問題は、『ヤングマガジン』誌の長期連載作品において、とくに顕著化されている。きうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』が、連載中断というかたちでしかピリオドを打てなかったことは、深く考えられるべきであった。近年、その先の段階へとシフトしていったのは、村田ひろゆきの『バレーボーイズ』だが、しげの秀一の『頭文字D』や楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT(ミッドナイト)』は、今もなおループ構造のリアリズムを引き受けつつ、物語を発展させているのである。

 楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT』が、現在の『C1ランナー』にタイトルを変更したばかりの頃、掲載誌の近況コメントで作者はたしか、あまり気にしないでくれ、というようなことを述べていたけれど、いやもちろん、両者がワン・セットを為している以上、それは真であるだろうが、しかし、こうして1巻の表記を付せながら、つまりは前者の41巻分とは別個の枠をとったうえで、後者がリリースされてしまったからには、いくらかの意味づけを行うことも可能だと思う。

 きわめて簡略するのであれば、『湾岸MIDNIGHT』というマンガは、首都高をぐるぐる回る、回り続ける、文字どおり、ループする内容を持った作品であった。長いストーリーのなかに、作中人物たちの入れ替えはあるものの、主人公のアキオとライヴァルのブラックバードだけは、その円環の外に脱することはできない。円環の内に止まることを自らの宿命に課してさえいる。また、カメラマンやライターといった職業が、姿を変え、繰り返し、アキオたちの前にあらわれる点に、(ネタの使い回しといってもよいが)ある種の反復性をうかがうこともできる。『C1ランナー』をべつに、『湾岸MIDNIGHT』を単体としてとった場合、現時点における最終のエピソードでは、主人公を長いあいだ見守ってきたヒロインのレイナまでもが、円環からよそに出て行ってしまう。反対に、アキオとブラックバードは、たとえ他の誰がいなくなろうとも、円環のなかを生きてゆこうとする意志を、さらに強めるのだった。そしていったんの幕が閉じられる。当然、ループ化した世界の外部が描かれることはない。

 その、アキオとブラックバードが、(すくなくとも今の段階では)まったく登場してこないところに、『湾岸MIDNIGHT』と『C1ランナー』の大きな違いはあるだろう。『C1ランナー』もまた、C1(環状線)がキーワードとなっているとおり、首都高をぐるぐると回る、回り続ける人々の物語であることが示唆されている。舞台装置を等しくしているかぎり、表面上は、たんに主人公の存在をリセットしただけ、いくらかのリニューアルを行ったにすぎない、そう考えるのがふつうである。

 ここで注意しなければならないのは、『C1ランナー』の、主人公と定めてしまうのは難しいけれども、間違いなく中核を担っている萩島という青年の役だ。萩島は、『湾岸MIDNIGHT』における暫定的な終盤でも、重要な扱いを受けていた人物だった。自動車雑誌の編集者として活躍する夢を諦め、異業種で営業の仕事をしていた彼が、たまさかアキオと出会い、ふたたび情熱を得、フリーランスのライターにカムバックするというのが、『湾岸MIDNIGHT』に描かれていたパートだが、『C1ランナー』では、かつての有名自動車誌「GTカーズ」を復刊させるため、まずはWEB上に「GTカーズ」の名を借りたページを開いたところ、やり手の自動車評論家である荒井に引っぱられ、さまざまな人物と渡り合うことになる。

 この国のサブ・カルチャー史を紐解くまでもなく、ループ構造のリアリズムが、とくに機能を発揮するのは、それがモラトリアムを代替しているときだろう。『湾岸MIDNIGHT』の円環はおそらく、主人公であるアキオはもとより、作中人物たちのモラトリアムと相似であるに違いない。だからこそ彼らは、公道バトルという、一般の通念には還元されない情熱に身を費やし、あたかもそれが通過儀礼であったかのごとく、次第に社会化されるべきを意識しはじめ、首都高を去っていくと、二度とは戻ってこれない。アキオとブラックバードだけが、そうしたことの例外を生きていることはすでに述べたが、例外を生きているがゆえに、他の人々から憧憬の眼差しを向けられる、いわばモラトリアムの象徴としていつまでも輝いていられる。

 『C1ランナー』に先立って『湾岸MIDNIGHT』に登場した萩島も、やはり、アキオたちとの接触を通じ、モラトリアムを再体験していた。会社を辞め、自分がほんとうにしたいことは何なのか、首都高をぐるぐる回り、走り、問い、答えようとする。要するに、一般の通念から一時的な離脱を果たしていたのである。繰り返しになるけれども、『湾岸MIDNIGHT』にとって、首都高とは、そのような、モラトリアムを代替する空間、場所としてあらわれている。たとえばレイナが、プロのモデルとして大成するため、言い換えるなら、社会化された自分を獲得するのに海外への旅立ちを必要としなければならなかったのは、本質的に、首都高というモラトリアムの磁場より遠く逸れていくことを意味していた。

 同じく萩島が、紆余曲折を経、フリーランスのライターを志すことで、社会化された自分を進んでいくのであれば、『湾岸MIDNIGHT』が有している作品の構造上、首都高の円環を出て行かなければならない。だが、結局のところ、彼の選びとった自立は、それが自動車のチューニングと深く関わっているかぎり、表象のレベルではなく、まさしく現実のレベルで、首都高に立ち返らざるをえない。たぶん『C1ランナー』が、必ずしも『湾岸MIDNIGHT』ではないことの最大の理由は、そこにある。

 さしあたり荻島を中心に考えるなら、『C1ランナー』のプロットは、雑誌「GTカーズ」の復刊という、じつに社会的な課題を指標とし、立てられている。これは、いわく言い難い欲望に魅入られた人々が、眼差しを交わしながら、すれ違い、各々自己の立ち位置を確認する姿を描いた『湾岸MIDNIGHT』にはなかったものだろう。たしかに「悪魔のZ」を媒介とすることで、すれ違う人々のあいだにも、ある種のコミュニティが出来上がってはいたが、それは決して一般の通念では認められないものであった。アウトローの密約にも似た淫靡さを孕み、あくまでも反社会的な行為の共犯者だとされている。

 そうした『湾岸MIDNIGHT』におけるコミュニティのありように対し、『C1ランナー』のそれは、萩島が取り組んでいる「GTカーズ」の復刊も含め、社会の規範をベースにすることで成り立っている。このことは、『湾岸MIDNIGHT』でアキオをフォローしていたチューナー北見と『C1ランナー』で萩島をサポートする「スピードファクトリー RGO」の、双方のスタンスの違いにも十分見て取れる。

 さて。『C1ランナー』のストーリーは、もう一人の主人公とでもすべき青年ノブの登場によって、直接の幕を開いている。自車であるFD型RX-7に「RGO」のニセのステッカーを貼り、その速さからC1で注目を集めはじめた彼に、「RGO」本来の面子をかけて、萩島が挑んでゆくのだけれども、そこに示されているのは、すなわちブランド(看板)をめぐる闘争にほかならない。いうまでもなくブランドは、合法的であるとき、衆目に許された価値を持つ。首都高のルールを無視し、あっけらかんと最速を気どるノブを、萩島がくだそうとするのは、それがブランドの傷に深く関わっているためだ。

 結果、ノブは、萩島や「RGO」のスタッフであるリカコと行動をともにすることになるのだが、今度は彼の存在を中心にして『C1ランナー』という作品を考えてみるなら、やはりこれも『湾岸MIDNIGHT』がそうであったように、モラトリアムの内側を描いているのだという気がしてくる。首都高の円環をぐるぐる回るノブの前に、さまざまな人物が、入れ替わり立ち替わり、姿をあらわしては去ってゆく。そうして彼はたしかに、少しずつ成長を遂げるだろう。しかし、物語上の仕組みにより、円環の外側へ足を踏み出す必要は、ひとまず保留されてしまっている。この意味において、ループ構造のリアリズムは、『C1ランナー』にも生きているといえる。が、テーマの位相に大きな変移がある以上、これから先のストーリーで確認されるべきなのは、その質になってくるのである。

 『湾岸MIDNIGHT』40巻について→こちら
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2009年11月08日
 ランチキ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 たとえば、バツとテリー(大島やすいち『バツ&テリー』の)や、トオルとヒロシ(きうちかずひろ『ビー・バップ・ハイスクール』のね)、三橋と伊藤(西森博之『今日から俺は!!』のさ)、亜輝と直巳(米原秀幸の『ウダウダやってるヒマはねェ!』のだ)等々、例を挙げればきりがないくらい、主人公をダブルにし、男同士のフィフティ・フィフティな関係性を描いた作品は、不良少年を題材化したマンガ史において一つの系譜を為してさえいるだろう。もちろん、それはそのジャンルに必ずしも特殊な形式ではないし、旧いフィクションにいくらでもルーツは遡ってゆける。二人一組の物語、いわゆるバディもの、のレパートリーにほかならない。が、さしあたり押さえておくべきなのは、個々の作品が持っている特徴をべつとすれば、すべて、ヤンキーというこの国の現代に固有な心性を前提条件にしたさい、ホモ・ソーシャルな連帯はいかなる価値を持つのか、をダイレクトに問うかっこうになっていることである。

 不良少年である主人公たちの関係性は、正しく野郎ならではの不器用な友情を描いているのだ、と素朴に美化することができる。しかし、その判断はあくまでもヤンキイッシュなライフ・スタイルのなかでくだされる。こうしたテーマのニュー・ヴァージョンとして見るべきなのが、奥嶋ひろまさの『ランチキ』だろう。鹿野乱吉と金田哲雄の二人は、周辺から「勉強の翠山」と呼ばれている中学校の生徒で、卒業まであと三ヶ月、とくに成し遂げたこともなく、悔いを残し、退屈を持て余していたはずの彼らが、ある光景を前に衝撃を受け、影響され、ケンカの勝利に自分たちの青春をかけるべく、チーム「しかばね(鹿金)」を結成、不良校である示現中学と事を構えながら、じょじょに名をあげてゆく。1巻に示されたあらましを述べるとこうなる。

 時代がくだっているがゆえに、ヤンキー・マンガ的なテーマのニュー・ヴァージョンと見なせるが、ストーリーの段取り自体は、ひじょうに古めかしいといえる。小さな世界の成り上がりを夢想することによって、主人公たちのモチベーションは担保されているのである。学園生活にかぎられた小さな世界は、もっと大きな社会の枠を考慮したとき、たちまち空虚なものになりかねない。そのような認識からの必死な逃亡、モラトリアム下の抵抗こそが、作中で、衝動と呼ばれ、自己表現と指され、青春と意図されているものの正体だと思う。ただし、やはり着目せざるをえないのは、それが二人一組のペアになって成立させられている点だ。小賢しく、卑怯な手も辞さない乱吉と、根はまっすぐで、高潔な哲雄のコンビネーションは、お互いがお互いの分身であると批評されるものとは、おそらく異なっている。

 それこそ、『今日から俺は!!』の三橋にとって、分身的な存在がいるとすれば、それは相棒の伊藤よりもむしろ、中野であったり、あるいは相良であったりするように、たとえば『ウダウダやってるヒマはねェ!』の亜輝に、もしも分身的な存在がいるとすれば、それは相棒の直巳よりもむしろ、アマギンのほうが相応しかったりするように、性質を等しくするが、相似性を別個とするほどに非対称な関係性が、この手の作品を根っこから支えているのである。『ランチキ』の場合もやはり、主人公たちは、環境をともにするなかで、認識を共有し、意見と行動を一致させてはいるが、きわめて非対称な関係性を保っている。要するに、決して同一化されえないポジションをキープしている。たぶん、彼らのあいだの明確な差異が、コミュニケーションという文脈を物語に発生させているのだ。そして、そのコミュニケーションは、すでにいったとおり、ヤンキイッシュでホモ・ソーシャルな価値観に拠っている。問題は、それが基礎である以上、今後の展開を経て、どこまで話を拡げていけるか、突っ込んだ提起が為されるか、になってくる。

 絵柄は、ときおり(じっさい作者と交流があるらしい)柳内大樹を思い出させたりするけれども、猿渡哲也のアシスタント出身だけあって、アクションのシーンには、なかなかの迫力がある。同じ『月刊少年チャンピオン』に連載されている『ドロップ』(品川ヒロシ・鈴木大)は、それが実話をベースにしているという以外、高校生ではなく、あえて中学生にした設定をぜんぜんうまく生かせていないが、さて後発であるぶん、そのへんをどう扱っていくのかも興味のわくところ。
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2009年11月06日
 少年マンガなのだろう雑誌にまるっきりの少女マンガを発表するという取り組みは、結果的に作品の内容をライトにしてしまった、というわけではなかろうが(いや多少はあるのかもしれないが)、この4巻で完結させられた神尾葉子の『まつりスペシャル』は、前作の『キャットストリート』が背景に重たいものを用意していたのと比べ、ひじょうにまっすぐなラヴ・コメディとしての色合いをつよくしている。女子高生プロレスラーとして家業を手伝うヒロインが、クラスメイトや憧れの男子に正体を知られまいとし、奮闘、事情を汲んだボーイフレンドとの信頼を深めてゆくのである。ここから先は結末を書いてしまうことになるけれども、主人公のまつりが片想いを抱くイケメンさん、諸角が、おそらくは大方が予想していたとおり、噛ませ犬以上の役割を与えられなかったのは、すこし物足りない気がしてしまうものの、そうした展開自体がある意味、プロレス的だというふうにいえる。要するに、少女マンガにおける様式美の世界をまっとうしたのだと見て取ってもよいような。もちろん、まつりが最終的に採った選択、すなわち、王子様の燦然とした虚像に近づいてみせることではなく、身近で二度は得難いパートナーシップに自らを委ねたことは、これまで少女マンガの文脈でさんざん試されてきたテーマのいちヴァリエーションであって、そういう、コミュニケーションの繰り返しが関係性をつくる、式の小さな物語が、自然と大きなうねりのエモーションを有していることに、かの領域ならではの特性を意識させられたりもするのだが、話を戻せば、諸角の扱いも含め、プロットはいささか単純化されすぎのきらいがあり、結果、ライトだという感想を持つに至った。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他神尾葉子に関する文章
 『花より男子』37巻について→こちら
 『キャットストリート』
  8巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1、2巻について→こちら
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2009年11月05日
 ガキホス 1 (ヤングキングコミックス)

 今やホストを題材にしたマンガは青年誌やヤング誌を中心にまったく珍しいものではないだろう。しかしそのほとんどが、いやホストにかぎらず水商売をテーマにしたものの多くが、といえるかもしれないが、ダウナーな展開のなかに夜の世界の闇とでもすべき不幸を盛り込むことでしかドラマをつくれないのは、ジャンルのイディオムにおけるある種の限界をうかがわせる。結局のところ読み手は、堅気の商売じゃないから仕方ないね、という思想によって、それを了解しているにすぎないのである。もちろん、そうした職業差別になりかねない意識を誘発する仕組みは、表面上、隠蔽されており、作中人物の心理を(まるでヤクザのように)特殊化すると同時に(まるでサラリーマンのように)一般化可能なエモーションへと拡大するというアクロバットを行うことで、作品の体裁は整えられているわけだけれど、それは結果的に、創作のレベルにおける倫理がいくらか不自然にゆがめられてしまっているのではないかとの疑問を、ときおり生じさせる。このことは水商売を描いたフィクションの前進に関し、すでに大きな壁となってあらわれてさえいる。さて。本題は、きたがわ翔の『ガキホス』の1巻なのだが、このマンガの特徴を挙げるとすれば、やはりホストに題材をとりながらも、きわめてアッパーなストーリーが繰り広げられている点だと思う。テレビにも取材されるほどの大家族で育った白斗は、二十歳になって、独立し、自分の信念を叶えるべく、歌舞伎町のホスト・クラブ「マゼンタハーレム」のキャストに応募する。憧れの存在であるマンガ「ホスプリ」の主人公、如月輝に一歩でも近づくためであった。〈……オレも彼のように生きられたら……だからオレは信じてるんだ 人を愛する気持ちさえ忘れなければ すべての人を幸せに出来るって――…〉と誓う白斗は、ラブという源氏名を戴き、新米ホストの日々を励んでゆく。たしかにこの手の系にありがちな、裏切り、刃傷沙汰、心の病、生まれや育ちの不運、等々をモチーフの一部に使ってはいるが、作品の魅力は、白斗=ラブの天真爛漫な言動が、夜の世界を縁取っているような暗さに、明るく幸せな光をあてていることにほかならない。極度にアッパーな展開は、綺麗事の積み重ねにも思えるところがあるにはある。けれども、その手法は、まあ物語が膨らんでいけばどうなるかは不明だとしても現時点では、水商売を、堅気以外の何か、に脚色してしまうことへの抵抗となっている。ところで、きたがわ翔、並行して進めている『BENGO!』も、マンガに影響された青年がヒーローを目指す出だしであったが、『ガキホス』も、職種こそ違えど、そうだ。両者の徹底具合からするに、サブ・カルチャーが生き方のロール・モデルに値するという出発点は、たんにネタが被っているのではなく、この国の現在の精神性を反映していると考えてよいのかもしれない。

・その他きたがわ翔に関する文章
 『デス・スウィーパー』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
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2009年11月03日
 本気! 9 (秋田文庫 57-9)

 たとえば、本宮ひろ志のヤクザ・マンガ、具体的にいうと『男樹』のシリーズでは、刑務所ですらもやはり、闘争の場となっている。それというのはおそらく、どれだけの罪を着ようが、後悔を背負おうが、決して動じないことが、主人公に対し、要請されているためだと考えられる。他方、立原あゆみの『本気!』の場合、刑務所での暮らしは、まさしく主人公に反省をもたらそうとする。もちろん、こうした違いを作家性と呼んでも構わないだろう。が、どちらの主人公たちも結局は、いったん入ったヤクザの道からおりることはできず、さらに多くの屍を乗り越えていかなければならなくなる。そしてそこに垣間見られるのは、現実の世界のありようをフィクションに落とし込んださい、まるで真理としてあらわれるような、不幸であり悲劇にほかならない。このとき、立原の諸作品に通底する、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、というテーマは、それを叶えられないで儚く散っていった者たちに向けられるべき、ある種のレクイエムとして響き渡るのだった。

 さて、『本気!』の文庫版も9巻である。集優会の会長殺しは冤罪であったにもかかわらず、自らに殺意があったこと自体を罪だと認める本気は、裁判の末、懲役1年6ヶ月の判決を受け入れ、青森の刑務所に送られることとなる。そこでの生活を中心にして、しばらく物語は進んでゆくわけが、いやはや、当時の『週刊少年チャンピオン』は、この、少年マンガ的なダイナミズムとはかけ離れた展開をよく載せたものだと思うし、じっさいそれを十分に読み応えがあり、ぜんぜん退屈をしないふうに引きをつくりながら描いてみせた作者もたいしたもの。また、シリーズ全体からすればこれも大きなヤマ場の一部となっており、見逃せない。まあ、服役囚同士の上下関係や悪徳な看守からのいびり等々、たしかにアイディアはありふれているが(俗にいう「ベタ」ってやつかい)、そのような外在するプレッシャーに加え、主人公本人が自分自身に抑圧を倍掛けすることで、ブッダやキリストの神話にすら匹敵するほどの聖人性とカリズマに磨きのかけられていることが、何よりも重要だ。しかし、ストーリーのずいぶんあとを先取りしてしまえば、神がかった本気の精神でさえ、極道に一度足を踏み込んだ輪廻からは抜け出すことができない。この巻、同室のヤクザが、本気の真価を見抜くがゆえに〈本気 あんた足洗いてえと本気で思っているのか〉という言葉は、じつに象徴的である。

 同室の、一匹狼の極道、向田が〈本気(マジ) / いや本気さん あんたが義理のうなって木工の職人として食えるとしてカタギになるわな / 他の野郎はセコセコ稼いだ銭じゃやっていけなくなる / いい女も抱きてえ いい思いもしてえってな 知っちまってるわけよ〉と述べるのに対して、本気は〈オレは別に〉と答える。だがそれは本気という個人の資質に限った話であり、ヤクザの大多数は違う。したがって〈だから あんたはそうだ でも静かに暮らさしちゃくれねえ…察じゃとりしまれねえザルの穴みてえな情がよ / 一肌脱いでくれって泣きつくわけよ / オレはかたぎだから知らんと言えるか…知らんぷりできるか〉と向田は言葉を続けるのだ。たしかに困り果てた人間を前にすれば、本気は、その清潔さゆえに、手を差し伸べずにはいられないだろう。じじつ、ここでの喩えは、あたかも予言であったかのごとく、のちに堅気になれる可能性を得た本気を、ふたたび極道の世界へとカムバックさせることになる。

 そして、本気が刑務所に入ってしまい、半年が経とうとする頃、表の世界では、ついに久美子の持病が悪化する。現在は離ればなれになっている二人のラヴ・ストーリーは、やがて、いわゆる難病もののカタルシスを孕んでゆくのだけれども、久美子があやういと知った本気が、無力さのなか、吐くセリフがせつない。〈オレの命 全部やる! 全部あげます どうか無事に……どうか〉この祈りはしかし、次巻以降、さらなる試練となってあらわれる。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

 
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年11月02日
 少し前の話、小説家の長嶋有(いやブルボン小林だったっけ)が、文芸誌のアンケートで他の作家に、マンガ『キャプテン』の歴代キャプテンでは誰派か、みたいなことを尋ねていたけれど、当の長嶋はいったい誰派だったのか。もしかしたらどこかに書いていたりするのかもしれないが、目にした記憶がなく、ずっと気になっているのは、自分の場合は断然、丸井派だからである。そして経験上、丸井派の人間にはあまり出会ったときがないのを残念に思っているためだ。いや、たぶん近藤派には負けていないような気もするが、やはり多数は谷口派であり、次いでイガラシ派という感じではないだろうか(個人的に長嶋は近藤派なんじゃないかとにらんでいる)。たしかに、ストーリーがもっともドラマティックなのは谷口がキャプテンの編だし、試合内容の濃さでいうならイガラシがキャプテンの編を選ぶ。もちろん、近藤がキャプテンの編も、ついに名門校となってしまったがゆえの困難を描き、なかなかに魅せるのだった。が、シリーズ全体を通して、最重要人物というべきは、間違いなく丸井なのであって、奴ほどがんばり屋さんで、墨谷二中の野球部に身を捧げた人間はほかにいまいよ。

 現在、ちばあきおの『キャプテン』が、完全版と銘打って刊行されている。すでにワイド版も愛蔵版も所有しているので、べつにいいかな、と思っていたのだが、ついつい誘惑に勝てず、また1セット揃えはじめてしまう。今回の目玉は、何といっても、連載当時の扉絵とカラー原稿がそのまま収められていることである。巻末に〈原稿の紛失等により当時の印刷物を使用しているページがございます。作中に見苦しく読みにくい箇所もありますが〉云々とあるとおり、やたらインクが潰れていたり掠れていたりするところもあるけれど、それを差し引いても、ファンには嬉しいもので、とくに扉絵は、すごい、いくつかの惹句に時代を感じさせる。いずれにせよ、もう何度目かはわからないが、この野球マンガの傑作をあらためて体験しているのだった。

 今月出た二冊のうち、4巻でストーリーは、待ってました、丸井がキャプテンの編に入ってゆく。3巻の青葉学院との二度目の対決は、練習風景も込みで、そりゃあ泣けてきてしまうぐらいすばらしい。しかし丸井が3年にあがり、キャプテンになり、近藤が1年に加わってきてからも、最高に充実している。とにかく、当初はキャプテンに適切ではないと周囲に見られてしまう丸井が、持ち前のガッツで評価を翻していくさまに、惚れ惚れとしてしまう。ここでいったん、谷口がキャプテンになったばかりの頃、完全版の1巻を読み返されたい。104ページ、丸井が谷口の努力に驚き〈あれなんだな まえのキャプテンが谷口さんを選んだ理由は〉と言う。これは同じく318ページ、谷口の努力を知ったイガラシによって〈これなんだなあ…キャプテンがみんなを引っぱる力は…〉と反復される。もともとは実力の備わっていなかった谷口がどうしてキャプテンになれたのか、さらには墨谷二中の面々からなぜ絶大な支持を得るに至ったのか。そのことの説得が、繰り返し、繰り返し、物語を、前へ、前へ、進めているのである。

 ただし注意しておきたいのは、谷口はあくまでも集中力の人であったということだ。それが無茶無謀ともいえるチャレンジを可能にし、まわりの人間もほとんど仕方なく巻き込まれていき、結果となってあらわれたにすぎない。一般的に、谷口の姿に平凡な少年のがんばりズムを受け取る向きはすくなくないのではないか。だが、集中力のすさまじさを評価するなら、あれはあれでイガラシや近藤とは異なるタイプの天才だったのである。丸井の場合はちょっと違う。じつは丸井こそが平凡な少年のがんばりズムをもっともよく体現している。完全版の4巻、115ページを見られたい。まだどこの馬の骨ともわからぬ近藤に対して怒りをぶつける丸井に、イガラシは〈どうして前キャプテンの谷口さんは丸井さんをえらんだんだろう…?〉と心のなかで疑問を呈す。1年近くの付き合いがあるはずなのにそりゃないぜ、という気がしないでもないが、この問い、すなわち谷口だけが見抜き、ほかの誰もが理解していなかった丸井の類い希なる資質については、春の選抜大会で墨谷二中が予想外の敗北を喫したさい、いよいよあきらかとなる。未読の方のため、くわしくネタは割らないけれども、疑わしい目を持たれていたにもかかわらず、結局のところ〈やっぱりキャプテンは丸井さんしかいないのかな……〉とメンバー全員の意見を一致させてしまうような、ひたむきな反省と勝利への執念から生まれるその行動力が、丸井をひとかどの者にしているのである。

 『校舎うらのイレブン (シリーズ昭和の名作マンガ)』について→こちら
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2009年11月01日
 ところで『蒼太の包丁』(末田雄一郎・本庄 敬)の22巻と、この『味いちもんめ〜独立編〜』(倉田よしみ・あべ善太・福田幸江)の3巻には、和食を題材にした料理マンガという括り以外にも、一つ共通点がある。それは、社会的責任において上に立っている人間は下の人間に厳しく接しなければならない場面があるのではないか、こうしたテーマを持っているかのようなエピソードが収められていることだ。どちらもおそらくは、団塊ジュニアもしくはポスト団塊ジュニア以降の世代が、加齢するにつれ、どうすれば他人を管理する側に相応しくなれるのかを、若い主人公が自立しようとする姿に描いているのである。料理人である主人公たちが置かれているのは、ひとまず特殊な環境だと設定されているが、しかし彼らがサラリーマンの営みをワキに見、参照し、上司と部下の関係性を改めて認識するというシーンを置くことで、繰り広げられている内容が一般化されていたり、先行する世代との態度の違いを通じ、彼らが抱えている甘さが相対化されるという構図を持っているのも、じつは両作品のあいだで等しい。団塊ジュニアあるいはポスト団塊ジュニア以降の若者にとって成熟とは何か、このことを社会的な立場を交えながら表現しているマンガがほかにどれだけあるかは寡聞にして知らないけれども、00年代も終わろうとする同じ時期に出た二冊の料理マンガが、はからずもそれを意識させるエピソードを収めているのは、意外と興味深い。かつての仲間、ナベや早瀬が助っ人に来てくれたこともあって、伊橋が板長をつとめる「楽庵」もそれなり回るようになってきた。だが、ほんらいの従業員で、いまだ修行中の身である啓介は、周囲の働きをすっかり頼るようになってしまい、ナベや早瀬は自分たちが抜けたときのことを考えると、気が気ではない。その心配は伊橋にも伝わってき、じっさい上に立つ者として、どうすれば啓介の成長を助けられるか、うまく育てられるか、新たな課題を得ざるをえなくなるのだった。まあ旧くからのファンにしてみれば、おいおい、伊橋よお、すっかり丸くなりやがって、と思う部分もあるにはあるが、あの、頼りなかったナベや早瀬がいつの間にか立派な職人になっているのと同じく、彼もまた、世間知らずで甘ったれた青年時代を終わりなく引きずっているわけにはいかない。自分探しを卒業、独立し、ようやく社会的な責任を生きはじめた伊橋の、未知を経験するなかでのたゆまぬ奮闘が、『味いちもんめ〜独立編〜』の主要だろう。現時点では店の構えがどうのというより、スタッフ間のコミュニケーションに、ストーリーは大きく割かれているけれど、じょじょに地盤は固まっている。

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 『新・味いちもんめ』
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2009年10月30日
 蒼太の包丁 22 (マンサンコミックス)

 ああ、〈…「頑張ってる」ことで自分を許してたら未来はないで!〉という花ノ井の言葉には、どこかこう、考えさせられるものがあるな。主人公である蒼太が父親を亡くしてからの『蒼太の包丁』は、ストーリー上、彼の自立を描くような色合いを濃くしている。もちろんそれは初期の頃よりすでに顕在していたテーマではあったが、ここ数巻、さらにつよまってきていると感じられる。そして、いつまでも半人前のままで止まっているわけにはいかず、決意と躊躇いのなかを奔走する蒼太の姿は、必ずしも料理マンガというジャンルにのみ、あらわれるものではないだろう。いや、和食の世界を一つの手がかりとし、もっとずっと普遍的な営みが描かれているので、気づけば彼の、思い悩み、戸惑う表情を応援したくなるのだ。22巻も今までどおり、エピソードの単位では盛りだくさんの内容となっているけれども、基本的には、いかに蒼太が成長を遂げ、しかしそれでもいまだ自らの志には届けないでいるか、丁寧に汲み取ってゆく。頭に引いたのは、先に自分の店を持つことになった元同僚の花ノ井が、彼の立場からすれば、才能はあるのにぐずぐずして見える蒼太に向かい、告げた言葉である。これに対し、蒼太は〈でも僕には頑張って行くことが自分の支えなんだけれど〉と心に思う。おそらく、花ノ井の考えも、蒼太の意識にしても、どちらか一方が間違っているということはない。そもそも両者は出会ったときより、弁証し合う関係にある。だが、結果を求める段階にあっては、蒼太のスタンスでは足踏みに感じられてしまうことが、いわば物語の引きをつくっている。ところでまあ、今や立派になった須貝も登場したばかりの頃は、とんだ坊ちゃんだったけれど、この巻で「富み久」に新しく入ってくる垣内もまた、なかなか手強い。社会を知らない彼とのやりとりを通じて、蒼太は目上としての自覚を得なければならないというのが、あくまでも本筋に関わっている点で、結局のところ垣内はその役割を終えたらいなくなってしまうのだが、可愛らしいような憎たらしいような顔つきに、いやいやこいつは怒ってやらなきゃだめだろう。わざとそういうふうに表現してあるのはわかっているものの、ついつい。度量がせめえのかな。

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2009年10月28日
 姫剣 1巻 (ヤングキングコミックス)

 (かつて『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のファンだった人たちに向かって)おーいおまえら、おまえらの好きだった桑原真也がちょびっとだけ帰ってきたぞ。いや、学園をベースにした活劇性を求めるならば『ラセンバナ』のほうがそれに近しかったかもしれないが、いかにもオタク・センスなエロティック・ファンタジーとしてはこちらの『姫剣(ヒメハバキ)』のほうに分がある。そう、つまり桑原という作家は必ずしもヤンキー・マンガの人ではなかったことを思い出させる。古代の日本、奴隷の立場を脱しようとしていた竹流は、巨大な剣を携えた謎の少女、サラと出会い、成り行きから旅路を共にすることとなる。はたしてサラの望みとは、特別な目印を持った7人の仲間を探し出し、巨大な奴隷都市を築き上げた温琉の国を打倒することであった。次々とあらわれる強敵を前に、彼女の剣さばきが鮮烈に光る。正直、1巻の段階ではどうということのないストーリーが繰り広げられているけれども、コメディの描写を入れながら、やたら女性の裸や下着が出てくる一方、作中人物たちの運命がかなり過酷に設定されているあたり、『R-16』以前のカラーを彷彿とさせる。とすれば、もしかしたら『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のように後々押し寄せてくる怒濤もありうるのかな。さあどうだい。

・その他桑原真也に関する文章
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
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2009年10月27日
 りぼんファンタジー増刊号 2009年 11月号 [雑誌]

 編集者は違うのだろうが、同じ集英社から出てきたアイディアなのだから、もうすこしひねりを加えて欲しかった。あるいはこういう作品が少女マンガの文脈に置かれることに意味があるのか。『りぼんファンタジー増刊号』に掲載された牧野あおいの『HAL-ハル-』は、端的にいって、かの『デスノート』を簡略化したヴァリエーション以外の何ものでもない。主人公は、他人を見くだしているだけの凡庸な女子中学生に置き換えられ、何かしらのアイテムを媒介するのではなく、死神が直接に願い事を叶えてしまう。こうしたプロットにおいては、ミステリの要素や頭脳戦のスリルは省かれ、子供じみた他愛のない欲望だけが、教訓めいた結末を与えられることで、処置されてしまう。決して悪いお話ではないのだが、扉絵のデザインや作中の構図からうかがえるとおり、『デスノート』を下敷きにしていることはあきらか、大勢の目に止まったら叩かれそうなリスクを冒してまで発表するほどの内容になっているのかは、疑わしい。最初に述べたことの繰り返しになるが、せめてもうすこしのプラスαがあればと思う。
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 りぼんファンタジー増刊号 2009年 11月号 [雑誌]

 酒井まゆの『クレマチカ靴店』は、このたび創刊された『りぼんファンタジー増刊号』に発表された新作読み切りで、続編が『ジャンプスクエア』10年1月号に掲載されるらしいから、さらなる展開があるのかもしれないし、たしかにファンタジーの色合いが濃厚であったりもするが、すくなくとも今回のエピソードにかぎっていうなら、本質的に少女マンガのイディオムをおおきく逸脱するものではない。舞台は〈科学とささやかな魔法が混在する世界〉である。そこでは、感情を持たないせいで皮肉にも「エンプティ」と呼ばれるロボットが、人間に仕え、さまざまな業務をこなしている。大富豪のアイゼンシュタイン家でメイドとして働く少女もまた、9号という名しか与えられていない「エンプティ」であった。その彼女がたった一つの願いを叶えるため、注文を受ければどんな靴でもつくってくれるという「クレマチカ靴店」の扉を開いたところから、物語ははじまる。ストーリー自体は、ひじょうにシンプルなので、くわしい内容の説明は省くけれど、アイゼンシュタイン家の御曹司であるリヒトと9号の、不釣り合いな関係が、ある種の運命を通じ、つよまっていく様子が描かれている。おそらくは根っこの部分に童話『シンデレラ』型のラヴ・ロマンスを見ることもできる。しかしながらこのとき注意しなければならないのは、両者の結びつきが必ずしも恋愛だとは明言されていない点だろう。いやもちろん、ふつうに考えるなら、恋愛以外にはありえず、わざわざ示したりするほうが無粋であるのかもしれないが、あえて確定を避けることで、ほんらい二人のあいだに横たわらなければならない階級的な葛藤は、すんなり棚上げされている。かたや人間、かたやロボット、という障害のはらわれることが、幸福な余韻をもたらしているのは間違いない。一方で、人間同士の身分差をどう超克するのかはうまくぼかされている。たとえばおしまいに近いあたり、リヒトの〈父様なら私が説得する〉という言葉は、恋愛や結婚を前提としていない以上、なぜ9号がとある秘密を隠していたのかを踏まえたさい、今後もメイドとして傍に置いておくという約束でしかないふうにも読める。だとしたら、状況は一変もしていない。にもかかわらず、すべてが前途洋々に見えてしまう錯覚が、ハッピー・エンドの形式を担う。はたして作者がどこまで意図しているのかは知れないが、結果的にそうなっている。

・その他酒井まゆに関する文章
 『MOMO』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年10月25日
 ときおり、少女マンガって男同士の友情が好きだよね、と思わされるのだが、それはもしかしたら、ジャンルの性質上、三角関係がベースになりやすい物語において、トライアングルの頂点にヒロインが位置しているとき、彼女をめぐる二者間の緊張を高める措置であると同時に、女性の立場から見てその不器用なやりとりが、異性への憧憬を代替するような仕組みを孕んでいるからなのかもしれない。こうした仮定は、いや、あんがい的を外していないのではないか、と積極的に感じられるのが、美森青の『シーイズマイン』なのだけれども、前作の『B.O.D.Y.』とはまた、絵柄も雰囲気もがらりと変えてきたなあ。そしてそれは、この1巻を読むかぎり、うまくはまっている。性格も趣味もてんで違っているのに、子供の頃からいつもつるみ、〈くされ縁10年目の春〉、村上晴(ハル)と佐野遼太郎は同じ高校へと進学した。期待と不安を抱き、あらたな学園生活にのぞもうとする二人はそこで、うつくしい顔立ちの少女、中川美礼と出会うのだった。かくしてクラスメイトとなった彼らの、不思議な三角関係を軸にし、どうやらストーリーは進んでいくよう。ひじょうに特徴的なのは、ヒロインにあたる美礼が、計算ならば計算でタチが悪いしナチュラルならばナチュラルで輝きを増すほど小悪魔的な魅力にあふれ、ハルと遼太郎の男子二人を身勝手に振り回す様子が、作品のテンポをユーモラスにしていることだろう。最初は決して好意的ではなく、迷惑がってすらいた彼らだったが、次第にそのペースに引き込まれて、付かず離れずのスリー・ピースをつくってことになる。もちろん、恋愛感情をあいだに挟んでの三角関係を予感させながら、である。無粋にもとれる美礼の造形は、必ずしもチャーミングとはかぎらず、ふつうの少女マンガであったら、ライヴァルの役に回されかねない。だが作者は、どうして美礼がヒロインなのか、正当化のエクスキューズをストーリーにあてることで、クセのつよさをある種のイノセンスへと反転させる。それに従い、ハルと遼太郎とが彼女に対する認識を改めていくうち、読み手の側も自然と美礼の振る舞いを受け入れられるようになっている。この意味では、最初に述べたことと一部矛盾してしまうけれど、男性の視線が作品の輪郭を象っているといえる。あるいはだからこそ『シーイズマイン』というタイトルがぴったりとくる。

・その他美森青に関する文章
 『B.O.D.Y.』5巻について→こちら
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2009年10月23日
 率直にいって、この2巻で完結した『クローズ外伝 リンダリンダ』は、ひじょうに残念な作品であった。おそらく、高橋ヒロシはブランドを貸しているだけだろうから、ゆうはじめがよくなかったのか。まあ担当の編集者というセンも考えられなくはない、が。絵柄や構図のセンスはけっこう好きだったんだけどな、と思う。結局のところ、不良少年にも内面はある、というテーマを、生まれや育ちの問題に原因を求める、といった以上のところへ帰結できなかったことが、最大の瑕疵になってしまっている。そうした部分にかかずらってしまったため、ストーリーとしては絶対に押さえておきたい点、つまりリンダマンこと林田恵と吉留圭一の友情に、十分な説得力を持たすことができなかった。あるいは、個人個人の内面に焦点をあてすぎたせいで、岡倉智英や女王アリこと樫野雄大などの、せっかく出してきた魅力的な人物を、展開に都合のよいコマとしてしか生かせなかったのは、惜しい。一方、原作の『クローズ』にしても、リンダマンの内面は直接に描かれなかったわけだけれど、やはりここでもそれをあらわすのはタブーだったのか、ほとんど伏せられているのであって、かわりに内面を与えられてしまった作中人物たちが(そして読み手が)何かしらの象徴として見るべき存在へと変質させられている。ある意味、神格化されている(これはたぶん、映画『クローズZEROII』のリンダマンもそうであるし、鈴木大がやっているマンガ『春道』の坊屋春道も同様である)のは指摘しておきたい。
 
 1巻について→こちら
 4話目について→こちら
 2話目について→こちら
 1話目について→こちら
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2009年10月22日
 足利アナーキー 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 さあ、くず人間どもによる最高潮に浮ついたエンターテイメントの幕開けだよ。はっきりいって、それ以上のことは何も繰り広げられないであろう。だが、そこがいいんじゃないか、と思う。ついに新進気鋭、吉沢潤一、『足利アナーキー』の1巻が出た。ふたたび述べるが、ここには教訓もメッセージもタメになる旨はいっさい描かれていない。衝き動かされる欲求にわかりやすくアプローチしているだけだ。

 近年、ヤンキー・マンガのジャンルに属するいくらかの作品がやたらに退屈なのは、不良少年にも内面があるという、ちょっと考えれば当然のようなモチーフを引っ張ってくるのはいいが、それを確認しておしまい、物語のレベルにはっとさせられるところがなく、遺伝や環境に原因を転嫁し、生き様を問うこともない、せいぜいが独創性のないポエムをのたまうのみ、ほらこんなにもシリアスなお話なんですよ、といった身振り手振りを示しているにすぎない、と感じられるためである。もちろん、こうした陥穽を逃れている作品は何個もあるし、作家は何人もいる。けれども、それらがかえって孤高に見えてしまうあたりに、一種の難儀さを覚える。

 言い換えるなら、他のフィクションがそうであるのと同様、ヤンキー・マンガのイディオムも、90年代後半よりこちら、個人の内面、いわばメンタルの問題に従事してきたのであったが、00年代の終わりになって、そこから一気に、アクションの肉感、フィジカルな能動へと振り切れていく方向で、『足利アナーキー』はブレイクスルーを描いている。せっかくの青春なのに退屈だからギャングになっちゃおう、とりあえずギャングになったのだったらキングを目指しちゃおう、作品の全体を貫いているのは、1+1が2となるのに等しく、明解な論理である。

 栃木県、足利市、〈中途半端に栄えている中途半端な田舎であり…(略)中途半端な不良や阿婆擦れや田んぼの天国…つまりどこにでもある田舎…〉で、中学3年の頃より高校3年の17歳になった現在までずっと、県内最大のヤクザ、刈屋会にスカウトされ続け、「栃木の鬼神」と呼ばれるハルキ、そして彼の中学時代のツレで、各々が名うての喧嘩屋であるカザマサ、タカシ、ヒカルらの首を狙い、地元の不良少年たちが次々と挑みかかってくるのは、もはや日常茶飯事だが、しかしどうせ相手をしなければならないなら、いっそのこと先回りしてぜんぶ潰してしまおう、と、たった4人でギャングの根城に乗り込んでゆくのだった。

 繰り返しになるけれども、こうした筋書き以上のことは何も描かれていないことが、『足利アナーキー』の内容に、ハイな爽快さをもたらしている。作中人物たちにどのような内面が備わっているのかが重要なのではない。そうではなくて、作中人物たちがいかなる行動を起こしたかに焦点は向けられており、その顛末は、殴る蹴るのヴァイオレンスにまったく置き換えられているのである。一般的には、ほとんど褒められないアトラクションばかり展開されるが、しばしば貴ばれる若さゆえのフル・スロットルとは、要するに、これだけ傍迷惑なうえ、頭の悪いものなのであって、そこまで理解しておけば、文句のつけようはない。

 会話一つとってもすばらしくローIQなのは、ギャグとして可笑しいというより、作品のテンションをキープするための作法だろう。そういったセリフのほか、格闘技に関する蘊蓄込みのナレーションが多用されており、おそらくは森恒二の『ホーリーランド』を参照し、経由しているではないか、と思われるのだけれど、その饒舌さは必ずしも作中人物の内面をフォローしていない。状況解説に、文字どおり、因果を含めながら、多少の無理やりをねじ伏せるのに、一役買っている。ここで説かれているハウ・トゥの真偽、実用性は問題ではない。読み手の意識が、アウトローに屈託を見てしまわないための方便にほかならないからだ。

 すくなくともこの1巻の段階では、どこからどこまでがまじなのか冗談なのか、判断しかねるが、初期衝動とでもいうべきアグレッシヴさの、ダイレクトに照射されているところが、最大の魅力となっている。抜群のはったり。

 1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2009年10月21日
 こうして2話目が『ビジネスジャンプ』NO.22に掲載され、来年2月に再登場が予告されているように、どうやら弓月光の『瞬きのソーニャ』は、不定期なシリーズながらも、物語が続いていきそうだ。80年代末、ベルリンの壁は崩壊し、ソビエトを脱したザイツェフとソーニャは、中国へと渡る。しかしながら当然、彼らに無事が訪れるはずがない。殺戮機械としての運命を与えられた少女が、巨大な陰謀を背に、死屍累々のサヴァイバルを強いられる、という内容は、以前にも述べたとおり、時代や舞台こそ違えど、弓月版『あずみ』といってもよいと思う。まさか、『ガンスリンガー・ガール』への返答ではあるまいよ。小山ゆうと弓月とでは、ジャンルも作風もぜんぜん異なっているが年齢は近しく、ひょっとして彼らの世代が社会の変容を描こうとすると、こういうアプローチになるのかもしれない可能性を考えさせられるけれど、それはともかく、作者が得意とするエロティックなセンのコメディはまったく封印され、シリアスに時代の不自由と個人があらわされている。まあ、弓月からすけべな描写を取ってしまうと、オールドスクールな少女マンガのタッチがつよくなり、そのため古びて感じられるところがあるものの、たとえば今回のエピソードで繰り広げられる軍用ヘリとの対決は、画の迫力で圧倒されるのとはべつのレベル、コマの運び一つが軽やかな動きのテンポをつくっていくあたり、さすがにうまい。強権的な人為によって、破壊兵器のごときすさまじさを持たせられた少女、ソーニャの逃避行に託されているのは、やはり、イデオロギーに感情を操作された人間のテーマだろう。もちろん、無感動で無感情な子供がエモーションを獲得してゆく過程、と言い換えられるわけだが、父親代わりの老兵であるザイツェフがソーニャに〈あの研究所にいたら 何も知らずに安楽にすごせたかもしれない しかしそれでも 自分の意志で自由に生きる事の方が何よりも優るのだよ〉と諭しているのは、環境を別個とした人格が存在するという信頼にほかならない。だがはたして自由意志はありうるか、の哲学的な議論はさておき、すくなくともイデオロギーの束縛を拒否するだけの権利が人間にはあって欲しい、そのような願いをヒロインは生き、生き延びていかなければならないことが、冷戦構造の終わりを向こうにした作品の主眼となっているのである。

 1話目について→こちら
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 まあ、読み手の側からはうかがい知れぬ商売上の理由があったんだろうね。終盤、『週刊少年サンデー』本誌からインターネット上の『クラブサンデー』に連載の場を移し、おそらくは一般的な認知度をさげてしまったが、しかし内容のほうは十分に魅力的なまま、寒川一之の『GOLDEN★AGE』がこの15巻で完結した。クライマックス、サエグサ杯における対横浜ドルフィンズとの試合、かもめ中の面々が全力を尽くし、パスをつなぎ、唯と近江に希望を託してゆく場面、そして彼ら二人が抜群のコンビネーションを繰り広げ、ゴールを奪う瞬間、およそスポーツ・マンガにとって最良のカタルシスを宿しながら、作品のテーマがボールの軌道へと託されてゆく。所属していたジュニア・ユースが解散してしまったため、落ちこぼれであったかもめ中のサッカー部に身を寄せることになった白河唯、浦田(トラ)、ナリアちゃんの三人が、〈あのせまい石コロだらけのグラウンドに…何もあるわけねえと思ってた…〉〈でもかもめ中は、最強のプロJr.ユースに勝っただの!〉〈闘う気持ちと…あきらめない心……ボク達に必要なものは、ちゃんとかもめ中にあったんだ〉と言っているとおりのことを、彼らを含めたイレブンが見事、強敵を相手に証明してみせたのである。とにかく、かもめ中で唯たちを迎えた面々が、最初はこいつらどうしようもねえなあ、と思っていた連中が、まさか、ここまでやるとは、な。いや、あるいは彼らだからこそできたのだろう、という信頼が、物語のなかでたしかに描かれていた。唯と並んで、もう一人の主人公をつとめた近江の役割もおおきい。『GOLDEN★AGE』のタイトルに意味されていることは、当初、彼に課せられた手遅れとして示されていたけれども、それをじょじょに乗り越え、べつの含みが持たせられていった。可能性は決して限定されるものではなく、また、一人ではたじろいでしまうような困難ですら周囲の助けや働きかけがあれば。もしかしたら優等生的な主旨をつよく感じられる展開ではあったものの、少年マンガがそれを伝えて何が悪い。かもめ中のメンバーのみならず、彼ら以外のワキたちにしたって、みな、とてもよく生きていただろう。フィナーレを飾る勝利への執念は、まちがいなくライヴァルとのせめぎ合いを通じることにより、高い価値を得ている。唯にアプローチをかけるも、近江とばかり接近してしまうヒロインの存在も、にやにやさせられるほど楽しかった。良い作品である。

 3巻について→こちら
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2009年10月17日
 現代的な『りぼん』系の美幼女は、槙ようこが『愛してるぜベイベ★★』のゆずゆによって、かなり極まった感があったけれども、いやいや、モモのかわいさも侮れないね、と、いっけんどうでもよいような話から入るが、しかしやはり、そのキュートな表情にもかかわらず、地球を滅ぼそうとする大魔王の沈着さを兼ね揃えていることが、かくいうアンバランスな存在感が、酒井まゆの『MOMO』に描かれている魅力の一つだろう。じっさい彼女の容姿がもうちょい違ったならば、作品の印象もべつのものになっていたかもしれない可能性が、この3巻には示されている。モモの従者ではあるが、なぜか彼女に対し、悪意を向けるナナギの過去が、とうとう明かされるくだりである。

 早々にネタを割っていくが、ナナギはかつて、現在の地球がそうであるように、モモを7度喜ばさなければ破滅させられる、という条件を突きつけられた他の惑星の代表者であった。結果的にその惑星は救われたものの、ナナギ本人は多くのものを引き替えにしてしまう。そこまで自分を犠牲にしなければならなかった運命を恨み、憎しみ、絶望し、復讐の機会をうかがっていたのである。ナナギがいた惑星のエピソードは、本編の世界観とは異なり、うつくしく悲しいハイ・ファンタジーになっているけれども、そこにあらわされている排他性、疎外感、裏切りは、どのような集団にあっても起こりうるし、現実の戯画化であるふうにも受け取れる。

 作中に説明されているとおり、ナナギの故郷は、いったんは危機を回避しながら、その方法がイレギュラーであったため、〈ゆっくりと何代もかけて〉破滅の道を辿ったというのは、ひじょうに暗示的だと思う。要するに、存続に足る理由を十分に持っていなかったことが、大魔王の裁量ではなく、自滅のかたちをとって、のちのち証明されてしまったわけだ。モモのライヴァルであるピコが、〈まともにポイントを集めて救われた星なんてこれまで一つもない〉と述べているのを真であるとしたとき、つまり、事実としてはモモが降臨した段階で、その惑星の終末は、逃れがたく、決定づけられていることになる。当然、地球でさえ例外ではない。もちろん、それを唯一裏返す可能性が、モモを7度喜ばす、という代表者に与えられた条件であって、いまだ全宇宙で誰もなしとげたことのないトライアルを、ヒロインの小田切夢が成功させられるかどうかが、『MOMO』という物語の、イマジネーションと勇気をつくり出していることは言うまでもない。

 翻って、破壊を司る大魔王であるはずのモモが、地球上で幼い少女の姿をしているのは、ナナギの惑星では(本質的な言動は変わらずとも)べつの外見であったことがじつはある種の分岐を果たしていたのと同様、試練のありように何かしら関与していると解釈しても構わない。もしかしたら、この社会が無垢であるような子供にいかなる影響を有しているか、働きかけられる側から見られているのかもしれない。おそらくは、夢の、モモに対するアプローチも、そこに含まれる。

 ほんらい物心つかない幼児期がイノセントであることと、平等な破壊者であり審判であるがゆえにモモがイノセントであることに、別種の意義を見るべきかどうかの判断は微妙だが、すくなくとも彼女が保護される立場に回っているかぎり、同一視に問題はない。今回の巻には、ナナギにまつわる展開のほか、外を出歩くモモがリンゴを落とした老女に声をかける場面に、はっとしたドラマがあるけれど、二人のやりとりはひじょうに印象的であるし、象徴的である。そしてまた、そのエピソードのモモが、たいへんたいへん、とてもとても愛くるしい。

 1巻について→こちら

・その他酒井まゆに関する文章
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年10月16日
 端的にいって、前後編のスタイルでまとめられた「黄泉の真実」はすばらしいんじゃないか、と思う。いしかわえみの『絶叫学級』は、学校怪談的なエピソードをオムニバスの形式で送るマンガであるが、この3巻に入っている「黄泉の真実」に関しては、ホラーの要素はきわめて薄く、かなりダイレクトに、いじめ、の問題を扱っている。

 その篇の主人公はとある場面でこう思う、〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ だったら だったら〉どうすべきか、作者なりに考え、一個の答えを物語にあてている。突然、クラスメイトたちからいじめの対象にされてしまった渚は、両親や教師にも頼れず、理不尽な仕打ちに一人苦しみ、〈お願いだから神様…!! こんな地獄から私を逃がしてよ…〉と嘆くしかない。はたして、逃げ込んだ資料室で昔の卒業アルバムを見つけたことは、偶然だったのか。知らずのうち、彼女は、その卒業アルバムの時代を「まこと」という別人として過ごすこととなる。最初は、自分がいじめに遭っていないことに感激するまこと(渚)であったが、しかし決していじめそのもののない世界があらわれたわけではなかった。彼女のかわりに友人の優美が、クラスメイトたちから理不尽な暴力のマトにされていたのだ。それを見、実感されるのが、先に引いた〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ〉という事実である。

 おそらく、一定の文化を持った社会においては、どれだけ時代がくだり、生活の様式が変わろうが、子供だけのコミュニティ、ネットワークは存在し続ける。こうした観点から、どうしていじめはなくならないのか、と通り一遍なだけで無限に解消されない疑問を再生産するのではなく、必然的に発生するいじめに対してどう向き合うべきか、あくまでも実現可能な態度のかたちで問うているのが、「黄泉の真実」のすぐれている点にほかならない。

 繰り返しになるけれども、平然といじめを行うクラスメイトたちが、残酷にも笑う印象に、まこと(渚)は〈…そっか どこにいっても変わらないんだ そっち側の人間か こっち側の人間か いじめのない世界なんて…どこにもないんだ〉と察する。〈だったら だったら〉どうすればいいのか。〈あんたたちの仲間になんか死んでもならない…!!〉こう言い、いじめに参加することへ、絶対の拒否を告げる。この場面はとてもつよい意思表示として読み手の心を打つだろう。さらにそれをとりあえずの一歩とし、「黄泉の真実」の論旨は展開、可能性を求めようとする心に、ちいさな灯りをともしながら、閉じられてゆく。いじめ、という病理の存在を認めないのではない。認めつつ、まだ拾うに値する希望のあることが信じられているところに、感動させられてしまう。

 ところで「黄泉の真実」のタイトルにある「黄泉」とは、『絶叫学級』全体のナビゲーター役をつとめる少女の名前である。そして「黄泉の真実」の優美こそが、黄泉その人であるとあかされている。いじめに遭いながらも、毅然とした態度を貫いた優美が、まこと(渚)と同じく〈この世界に本当に…「いじめる」か「いじめられる」か 2つしか道がないんだったら…〉という問いを前にして〈私は迷わずこの道を選ぶ〉と、最終的にとった行動は、たいへんショッキングなものだ。自殺よりも壮絶な復讐だといえる。

 そしてそのことを踏まえるならば、黄泉がなぜ、『絶叫学級』の各話で、グロテスクな顛末を眺め、不敵な微笑みを浮かべているのか、一つの推測が立てられる気がしてくる。『絶叫学級』に描かれている惨劇の多くは、利己的な人間が他をかえりみなかったばかりに恨みや憎しみの連鎖反応にはまってしまう、残念な結果によって成立している。「黄泉の真実」のなかで、優美の選んだ答えが、自分自身を犠牲にした殲滅戦であったとおり、利己的な人間の一切排除が、たぶん、黄泉の願いなのだろう。その願いが叶えつつあることに、彼女が微笑んでいるのだとしたら。あるいはそれを必ずしも肯定しないがために、「黄泉の真実」のような、オルタナティヴな力学の示された内容を、ここでいったん持ってくる必要があったのかもしれない。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
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2009年10月15日
 恋色天気 (講談社コミックスフレンド B)

 木村文子の作風はひじょうに不器用だと思う。絵柄に関しても物語についても、とくに独創性があるわけではなく、また洗練されているふうでもない。かろうじて、受ける印象のやわらかさを、美点に受け取れるぐらいで、それですら他との差別化になっているほどではない。しかし個人的には、どこか根の真面目そうな手つきを、好いている。この『恋色天気』は、読み切りを四つ収めた作品集で、はっきりといってしまえば、どれもが少女マンガのシーンによく見られるストーリーのヴァリーションにとどまる、だろう。気にかかる点が、一つある。それは、ほとんどの篇で、ヒロインの片想いを何かしらの小道具に託しながら、お話がつくられていることである。たとえば、表題作にあたる「恋色天気〜木の芽風のエール〜」では、クラリネットのリードが、続く「カーテンごしの彼」では、弓道のゆがけが、「ラン・アウェイ」では、彼氏のベルトが、といった具合に、介在するアイテムを、重要なきっかけとし、恋の運気は、転回する。はたしてどこまでが作者の狙いなのかは知れないが、これはもうある種のパターンになってしまっており、作中人物の造形を派手にしようが地味にしようが、全体の結構は型どおり、一定のまま、幅をひろげていかない。もちろんそのことが、前述の、真面目そうな根を意識させるゆえんなのかもしれないけれど、もうすこし、野心的なアプローチをとってくれてもいい。木村自身が巻末に〈初めて男の子が主人公ということもあり、いつもと違うので〉とコメントしている「夏を翔る」は、そのせいか、やや異なった趣を持っていて、決してラヴ・ストーリーにまとめられるものではないが、巣立とうとしているスズメのヒナを媒介にすることで、少年と少女の感情が通じ合う、という成り行きは、他の作品と構造をおおきく違えてはいない。

 『青春パンダ!』について→こちら
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 学校の妖 (講談社コミックスフレンド B)

 この『学校の妖(あやかし)』は、複数の若手少女マンガ家がホラー形式の作品を寄せたオムニバスである。トップを飾るヒナチなおの「天地神鳴!」は、来春から『別冊フレンド』ではじまる連載のプレ・ストーリーになっており、例外としておくが、基本的にはどれも、少女の嫉妬や孤独の象徴として怪奇現象を描いている、という点では共通しているといっていいだろう。正直、お話のレベルでは類型的なものが多い。絵柄に関してもまだ先行する作家の影響を過分に感じさせる。そのなかでは、小山鹿梨子の「金魚の痣」が、決して独創的とはいわないまでも、よくまとまっている。幼馴染みの男子に想いを告げられずにいるヒロインが、彼女の邪気を吸って育った不思議な金魚の力を借り、恋愛を成就させようとする内容は、要約してしまえばありがちであるし、じっさいそれ以上ではないものの、現実と空想の対比において、あくまでも前者の色合いをつよく打ち出していることが、細かい感情をたしかにうかがわせる作風へと繋がっているように思う。裏を返すなら、こうした並びのうちで、もっとも恐怖が薄い。たんに失恋ものとして見るべきか。ぞんざいであることと紙一重なインパクト重視で、とにかく押し切った丸飴ぐみこの「無人アパート202」にも、好感を持ったが、デビューしたばかりの新人さんだから、というエクスキューズ抜きでは、きびしい点のほうがおおきい。でもまあ、そのパワフルさは高く買いたい。
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2009年10月14日
 銀座タンポポ保育園 (Be・Loveコミックス)

 たとえば、キャバクラ嬢などの繁華街で深夜に働く人びとを題材化したコミックはもちろん、繁華街で深夜に働く人びとの子供を預かる施設を舞台にしたコミックも、いまや決して珍しいものではない。そこで(かどうかは本当のところ知らないが)、くりた陸の『銀座タンポポ保育園』は、いくつかのパターンをミックスした。〈ここは 銀座のビルの一室を借りて営業している 24時間の保育園 昼はOLさんやデパートの店員さん 夜はクラブで働く女性たち(男性も)が子供を預けていく〉という「銀座タンポポ保育園」を中心に、保育士、子供たち、親たちが、それぞれの問題を抱えながら、さまざまなドラマを織り成してゆくのである。基本的には、一話完結型のエピソードでつくられたマンガなので、まず何かしらのトラブルが起き、やがて解決への道のりを辿るという手順を踏み、だいたいのストーリーは構成されている。そのとき、保育園の内部と外部の世界とを仲介し、なおかつすべてを丸く収める役割を与えられているのが、現在はその素性を隠して「銀座タンポポ保育園」の経営者となっているが、かつては伝説のキャバクラ嬢とまで呼ばれた蘭子の機智であって、彼女の活躍により、本来ならいくらでも悲愴になりそうな局面が、ハッピー・エンドに従うかたちへと、洗い直されている。そのため、現実的な措置としては多少甘いんじゃないかと思わせられる決着もすくなくはない。4話目の、元プロ野球選手の父親が再出発を誓うくだりなどは、むしろ、夢を諦めなければならない人間を肯定的に描いてくれたほうが、いっけんシビアに見えるかもしれないけれど、うつくしかったし、感動的であっただろう。とはいえ、これまでにも児童の視線を大切にしたマンガを何個も手がけてきた作者だけに、家族間のコミュニケーションをずぼらにしない配慮はよく行き届いていて、読み、しばしば考えさせられる。

・その他くりた陸に関する文章
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『オレの子ですか?』5巻について→こちら
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 隣のあたし 2 (講談社コミックスフレンド B)

 いつも好きな人の隣にいたい。でも選ばれたのは自分ではなかった。そんな悲しい話ってあるだろうか。しかしすべての恋が平等に叶えられるわけではないので、必ずや誰かがハズレを掴まされてしまう。そのような切ない地平からラヴ・ストーリーを折ってゆく、というのは、基本のシチュエーションはおおきく異なれど、前作の『スプラウト』に通じるところだと思う。すくなくとも、南波あつこの『隣のあたし』の、2巻に描かれているのは、その題名とは裏腹に、好きな人の隣に選ばれなかったヒロインの、まぎれもない失恋の模様である。ああ、鳶に油揚げをさらわれるとは、このことかよ。先に高校へ進学した一歳上の幼馴染み、京介に恋心を抱きながらも、淡い期待以上のリスクを負えずにいた仁菜の躊躇いが、取り返しのつかない後悔に変わる。自分が在籍する野球部のマネージャー、結衣子が、恋人との関係に傷つくのを見、手を差し伸べたことから京介は、彼女と付き合うことになり、それを知って仁菜は泣くことになるのだった。こうしたくだりにおいて、物語の分岐はほぼ京介に委ねられているわけだが、その心の動きに関し、におわされる程度の描写しかされず、あえて不透明にされていることは、技法上、とても肝心な点だといえよう。当の仁菜はもちろん、読み手であるこちらも、どうして彼女が選ばれなかったのか、明確に知ることはできない。したがって仁菜とともに、可能性が消えてなくなってゆく瞬間を、ただ受け入れるよりほか術がないのである。まあ、このまま話が終わることはないに違いないから、次巻以降、筋書きは二転三転するに決まっているのだけれども、いつもと変わらぬ日常が続いていくなかで、喪失だけを手渡されてしまった仁菜のやるせなさによく焦点が合っており、共感の磁場であるような、深い溜まりをつくり出している。仁菜のほうに感情移入しつつ、彼女のポジションからはうかがい知れない部分にまで目を通せる読み手の立場からすると、結衣子のアプローチからは、なんていうか、ちょっとこう、女のずるさみたいなものを、受け取ってしまうかもしれない。いや、作中でもそれは、以下のとおり、指摘されている。だが〈……ずるい です / 彼氏…いるんじゃないですか………〉と述べる仁菜に、結衣子が〈……ずるいのは知ってる〉と答えているのは、すなわち、彼女には彼女なりの正当性が与えられていることを意味しているのであって、たんなる悪役と完全には合致しない余地になっている。むしろ、少女向けのフィクションだからこそ、結衣子の振る舞いは、小賢しく、批判めいて感じられるが、現実の観点に即すなら、一種のリアリズムにすらとれる。かくして明確に線引きされているのは、仁菜との差異化にほかならない。これは当然、高校生である結衣子の聡さに対し、中学生である仁菜の幼さを、つよく印象づけるものだろう。おそらく、今後の展開は、ヒロインがいかに子供の時代と訣別するかによって、担われてゆく。

・その他南波あつこに関する文章
 『スプラウト』
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年10月13日
 近キョリ恋愛 5 (KCデラックス)

 いいな、いいな、恋愛っていいな、である。たとえどれだけつらくきびしい目に遭い、泥沼につっこんだ片足を引っ張り上げてはもう一方の片足を泥沼につっこむような面倒を引き受けることになったとしても、恋がそうさせるのであったら仕方がない。

 ところで、どうして自分がこう、少女マンガを好きなのかといえば、しごく明快に、ラヴ・ストーリーを読みたい、という欲望を持っているからであって、いやそれ以外の理由もあるにはあるが、やっぱりロマンスの魅力がおおきい。もちろん、ラヴ・ストーリーにも、すぐれたものとそうではないものがあるけれど、みきもと凜の『近キョリ恋愛』は、もれなく前者に入るだろう。たしかに、ヒロインのゆにを筆頭に、作中人物たちの素っ頓狂な言動が、他との差別化を告げるほどのクセとなっており、次々に繰り広げられるユーモラスな展開が、まったく飽きさせない起伏へとつながっている。むしろ、男性教師と女子生徒の秘密めいた関係を軸とし、そこに過去の因縁や横恋慕が絡んでくる物語自体は、紋切り型だとすらいえる。が、しかし、すべてを総合的に見たとき、ロマンス以外の何ものでもないまばゆい輝きに、作品は、間違いなく、包まれている。

 感情を表に出すのが苦手な天才少女ゆに、そしてイケメン教師で彼女の担任をつとめる櫻井ハルカ、二人のラヴ・ストーリーも、5巻に入り、スタートの頃とはだいぶ様子が変わってきている。両想いとなって付き合いはじめたはいいが、教師と生徒の違いから、それを伏せておかねばならない、といったところに、かつてハルカの恋人であった滝沢美麗が登場し、ただ秘密を守っていればよかった関係に、動揺を与える。そうした困難もようやく乗り越えたばかりだというのに、またあらたな騒動が、二人の気持ちを試すかのように持ち上がってくるのである。

 引き金は、ハルカの幼馴染みで、現在は人気モデルとして活躍中、しばらく海外に渡っていた小南あずさの、突然の帰国であった。ゆにの高校に転校してきた彼は、今でも初恋の相手である彼女のことを、忘れられないでいる。当然、ゆにに対しても自分と同じ気持ちであって欲しい。だが、じっさいに再会してみると、どうやら彼女にはほかに好きな人間がいるみたいだぞ、と勘づき、そこからハルカの存在に突き当たり、さらには彼からゆにを奪還しようと目論む。すなわち、前巻までの、ゆに、ハルカ、美麗の三角関係が、ハルカ、ゆに、あずさの三角関係に入れ替わり、必然、男女の比率に、逆転が起こっているわけだ。

 男女の恋愛における三角関係は、基本的に性差の割合が二対一の不均等にならざるをえない。このとき、少数に回された人間は必然的に選ぶ側の主体へと繰り上がる。それが、ゆに、ハルカ、美麗の構図では、ハルカに与えられていた立場であったのだけれども、ハルカ、ゆに、あずさの構図においては、翻り、ゆににその立場が回されている。読み手の判断からすれば、ゆにはすでにハルカを選んでいるのだし、だいいちその選択がかえってあずさを嫉妬させているのだから、迷う必要はないでしょう、と口を出したくなるが、重要なのは、そうした関係の不安定が、ゆにやハルカの気持ちを掘り下げ、どうして彼は(ほかの誰かではなく)彼女を選んだのか、どうして彼女は(ほかの誰かではなく)彼を選んだのか、いま一度作中人物たちに問うかたちとなり、もしも恋愛に真があるならいったい何によって規定されるのか、ロマンスとしての強度を高めていることである。

 関係性の揺らぎはまた、ゆにやハルカの表情に、あたらしい色合いを加えてもいる。要するに、恋愛感情を通じ、当人がそれまで知らなかった自分や相手の姿を知ってゆく過程になっているのだが、ここで注意されたいのは、当初の設定からすれば、彼女たちの性格に微妙な変化が訪れてはいるものの、個性がぶれていることを決して意味してはいないという点だ。フィクションではしばしば、何らかの都合上、作中人物を以前とは別人に違えてしまうような不自然が起こりうるが、『近キョリ恋愛』で、ゆにやハルカの身にあらわれているのは、あくまでも心境の問題であって、恋愛感情の不自由さを教えるものにほかならない。もしも主体の言動が、時や場合に応じるのだとしたら、それは必ずしも一貫しないことになる。ましてや色恋沙汰に左右されているときはなおさら。

 だが、選びとられた恋愛が、一時の熱に浮かされた結果ではなく、かぎりなく本物であると信じられるためには、相応の根拠が示されなければならない。すくなくとも主体の意識において、自らの意志をたしかにあらためたという根拠が、である。その表現化とでもすべき措置が、作中人物の個性をはっきり、際立ったものにし、こんなにも楽しいコメディと真っ当なロマンスの入り交じったストーリーを育んでいる。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他みきもと凜に関する文章
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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2009年10月11日
 陋巷に在り-顔回伝奇 1 (BUNCH COMICS) 陋巷に在り-顔回伝奇 2 (BUNCH COMICS) 陋巷に在り-顔回伝奇 3 (BUNCH COMICS)

 酒見賢一の小説をマンガ化したものには、過去に森秀樹の『墨攻』があるが、あれはそもそも短めの内容で終わる原作の尺を伸ばしてゆくうち、ほとんどべつの作品になっていった趣がある。しかしこの、羽生生純によってコミカライズされた『陋巷に在り―顔回伝奇―』からは正反対の印象を受ける。原作の内容にあたうかぎり忠実でありながら、大長編と呼ぶに相応しいヴォリュームを、だいぶコンパクトに圧縮しているのである。古代中国、孔子にもっとも愛された弟子、顔回子淵が、その超常的な能力を用い、政敵である少正卯の一派が仕掛けてくる数々の罠、妖術を打ち破る、というのが大まかな、いや、かなり大まかな筋書きなのだけれども、儒学の思想と歴史に対する独自の解釈となってゆくワキの人物たちのエピソードを簡素にし、主人公の顔回と、二人のヒロイン、子蓉と、の三角関係に、物語の焦点を絞ることで、スリムに体裁を整えているわけだが、小説版のファンから見てみると、やはり、けっこう、読み応えが寂しくなっちゃってるかな、という気がしないでもない。逆説的に、ここでは描写の大部分を省略されてしまった孔子の苦悩、顔穆の葛藤、五六の挫折、太長老の悔恨、少正卯の欲望、悪悦の残酷、等々が、オリジナルのヴァージョンの、あの厚みと感動をつくり出していたことが、露わになってしまっている。また、艶めかしさと純心とを逆さに所有しているがゆえに、似て非なる存在である子蓉と、の造形にさ、もうちょい、なんていうかこう、目を奪われるようなエロティックさが欲しかったな。たんに劣ったのか、コミカライズであることやWEB上での連載であったことが関係しているのかどうかは知れないが、羽生生の筆力自体、『恋の門』や『青(オールー)』の初期に比べ、強烈なインパクトを欠いているのも残念に思えた。酒見の原作小説があまりにも偉大であるため、文字を追うのが辛い向き用のダイジェストにとどまる。
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2009年10月01日
 たとえば、会社員をテーマにしたマンガとして見た場合、『島耕作』シリーズのようにレーゾンデートル、レーゾンデートルと悩むこともなく、脱サラをして、自己実現し、さらには結婚を叶えるということがゴールになっているのは、まあ、単純に作中人物の世代的な差としてしまってよいのかもしれない。久部録郎(作)と河合単(画)がコンビを組んだ『ラーメン発見伝』が、この26巻で完結した。もちろん、本質は料理マンガ、グルメ・マンガであって、はじまったばかりの頃は、題材をラーメンに絞り、一本化したエピソードが、なかなか興味深くあったけれども、連載が進むにつれ、結局、対決形式で話を運ぶことが多くなり、主人公やワキの存在は、取材の成果をプレゼンテーションする以上の働きを持たなくなってしまったため、ストーリーのレベルでは、あまり芳しいものを感じられなくなっていた。さすがに潮時であったろう。まあ、それでも正直、長すぎた。藤本と芹沢の、初期からの因縁に決着をつけるかたちで、幕を閉じているのは、たしかにそこしか落としどころはない、おそらくは想定どおりに違いない、とはいえ、両者の絡みもある段階から、いっさい厚みがなくなっていたので、たんに辻褄を合わせただけの印象がつよい。芹沢の、職人としての葛藤を、作者たちのそれであると解釈するのが、たぶんやさしい読みなのだが、そこまでの味わいは、残念ながらすでに失われていた。

 23巻について→こちら
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2009年09月30日
 いや、決して悪くない、というか、ぜんぜん悪くないんだけど。画は上手だと思うし、ストーリーのほうもよくまとまっていて、これで人気が出たらそりゃそうでしょうよ、と納得するのだが、どうもいまいち評価しづらい感じが、やまもり三香の描くオムニバス『シュガーズ』には、してしまう。1巻の時点で述べたとおり、やはり、個性として見るべき面があまりうがえないためだろう。また2巻に入って、ふつうこういった連作の形式であれば、エピソードが多くなるのにつれ、作中人物の魅力が増してくるものなのに、そのへんもいまいち弱いまま、ただマンガの輪郭だけがつるつるに磨かれているふうに受け取られる。換言するなら、作中人物の魅力に定まったものがなく、類型的なパターンに合わせ、その行動を整理しているため、表面上の印象に難が生まれることを逃れているにすぎないのではないか。もしもそうだとすれば、完成度はべつにしても、消極的なアプローチだといえる。さらにもう一点、タイトルに示され、全編に重要なガジェットとして盛り込まれているはずの、スイーツ、デザートの役割、効果に関しても、1巻に比べて、かなりネガティヴだ。たとえばここでは、「フルーツケーキ シンドローム」にのみ、テーマとの不可分さがあらわれているぐらいで、あとはそれなしでも十分に物語は成り立つ。「フルーツケーキ シンドローム」にしたって、似たような筋立ての先行例はすくなくなく、それらを想起してしまうとき、うん、悪くはない、悪くはないんだけど、もうすこし、といった感想にとどまる。ほんとうにもうすこし、作者ならではのポイントがあれば、そこがひじょうに残念なのであった。課題は意外と多い。

 1巻について→こちら
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2009年09月29日
 佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』だけはもう絶対にまちがいねえな。何もかもずっこけているくせに、ひたすらキュート、この案配で作品が成り立っていることにびっくりすらあ。結局のところ、楽しい、の一言に尽きるのだった。もちろん、3巻に入ってもそれは変わらない。わいわいがやがや、まあいろいろあり、トキオと付き合いはじめた音色であるが、心のなかではまだ、深のことを忘れられないでいる。そして深のほうもじつは、平静な表情の奥に、音色に惹かれる想いを隠していた。二人を見、しばしば嫉妬に駆られるトキオ、こうなってくれば、ふつう、ひゃあ三角関係の泥沼って嫌ねえ、となりそうなものだけれど、『おバカちゃん、恋語りき』の場合、ぜんぜんそんなことはないんだ。音色の馬鹿さ加減もたいがいだが、シリアスな場面の訪れるたびに予定調和をぶち壊してゆく、トキオの頭の悪さがじつにすばらしい。おまえ、ほんとうにすげえ男だぜ。この段階で、通常の少女マンガにおけるラヴ・ロマンスにしたら、いささかユニークな変調が加えられているのに、もう一人、度の過ぎた人物が物語に参画してくるのだから、たまらない。生徒会長の美羅川日記である。優等生のうえ、美人さんでありながらも、やっぱり奇人さんの類かい。彼女の存在は、直接、前述のトライアングルに絡んでくるわけではないが、音色と深とがいまだに好き合っていることを見抜き、二人をくっつけようと、当人たちにしてみたら、余計なお世話というにはあまりにも傍迷惑な親切を働かせてくるのだった。半ば好奇心で、だ。いや、でもたぶん、それが必ずや悪になるとはかぎらないだろう。音色を案じる友人の虹花が、〈何よけーな事してくれてんだ このキツネ目女!!(略)音色はトキオとつき合ってんだよ!!(略)〉と食ってかかってくるのに対し、日記が述べるこういうセリフは、意外と、トキオや深に抱える音色の躊躇いを、言い当てているのではないか。〈つらくない恋なんて恋じゃないね〉。あいかわらずの初心さとはべつの意味で、たしかに音色は臆病になった。傷つかなくて済むことは正しいのかもしれない。だが、それが決して良いとは思われない可能性を、いちおう日記の思惑はよそにしても、彼女の言葉自体は指摘しているのであって、このへん、恋愛感情へのアプローチを、ギャグではぐらかすばかりではなく、まじだと受け取られるのもやぶさかではない、じつに少女マンガらしいポテンシャルが、よく出ている。いやはや、にしても、である。音色が西日本最強の女であったというアバウトな設定を、修学旅行のくだりで、こう生かすかい。あんがい日記が関西弁みたいな喋り方だったりするのも伏線だったりするのかしらね(是が非でも抽選でプレゼントされるらしいキャラクター・ブックを当てねばなるまい)。やたら高いテンションで飛ばす作者がいったい何を考えているかわからないぶん、話がどう転がってゆくんだか見えないのが、いいよ。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
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2009年09月28日
 カノジョは嘘を愛しすぎてる 1 (フラワーコミックス) カノジョは嘘を愛しすぎてる 2 (フラワーコミックス)

 青木琴美の、たとえば『僕の妹に恋をする』にしたって『僕の初恋をキミに捧ぐ』にしても、筋立てはいささか荒唐無稽で、もしかすれば地に足をつけていないふうに受け取られるところがあったかもしれないが、一途な恋愛を試しながら見届けるかのような展開はまぎれもなくシリアスであったし、いくつかの演出は十分に劇的であった。そのことはまた、新作である『カノジョは嘘を愛しすぎてる』にも、おそらくは同時発売となった1巻と2巻を読むかぎり、いえるだろう。その青年、小笠原秋は、じつは大がつくほどの人気を誇るロック・アーティスト、クリュードプレイ(CRUED PLAY)のオリジナル・メンバーなのだけれども、目立つことを嫌い、表には出ず、ソング・ライターとしてバンドに参加、作品にクレジットされている。名前は知られているが、顔は知られていないというやつだ。彼にしてみれば、売れて有名になるよりも〈這いつくばるような小さな歌をまだ作っていたかった〉。その少女、小枝理子は、初心ではあるが平凡な、どこにでもいそうな女子高生であった。音楽が好きで、歌うことが好きで、クリュードプレイの熱狂的なファンではあるけれども、むろん秋との接点は一個もない。ほんらい二人は出会わない。しかし恋人に傷つけられた秋が、ほとんど腹いせで、たまたま通りすがった理子に声をかけ、そして彼女が、彼の嘘を嘘と気づかぬまま惹かれてゆくことから、二人の運命はおおきく変わりはじめる。そう、だからこそ秋はきっと、のちになってこう言うのに違いない。〈付き合い始めたあの頃 僕はこれっぽっちもキミのこと好きじゃなかった 全部嘘だった〉。少女マンガ特有の、派手派手しく毒々しくデコレイトされたショー・ビジネスの世界には、さすがにそれでも今どきちょっとねえ、と思わずにいられないが、しかし本質は、純粋であるほどに一途な少女の想いと、それに撃たれる青年のナイーヴな苦悩であって、二人の交わりが「あの頃」と告げられるラヴ・ストーリーならではの緊張を張り詰めさせている。自らのアイデンティティを秘密にして理子に接する秋の存在は、つまり、財産や経歴、才能をべつにしてしまえば、恋愛はいったい何によって選ばれるのか、という問いにほかならない。そのことも踏まえ、今後、波瀾万丈を予感させる出だしは、じつに魅力的だといってよい。ただし、理子までもがショー・ビジネスの世界に足を踏み入れていきそうな気配をにおわせているのが、すこし、気にかかる。なぜならば、現時点における秋と理子の明確な立場の違い、性別の差、年齢の差も込みで、両者の、対照のはっきりとしていることが、やはり、全体の構図を決めているふうに見えるからである。必然、そのへんが異なってきたときにこうして得ているイメージも変わってくる可能性は高い。だが、まあ、いずれにせよ、さまざまに翻弄されながら彼らの行き着く場所、要するに、すべての出来事を「あの頃」と述べる主体がいるはずの現在があらわれてくるのは、まだまだずっと先のことだろう。
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2009年09月27日
 作者さん、ごくろうさま、そしてありがとう、こんなにも素敵なラヴ・ストーリーを描いてくれてありがとう。おしまいのページを閉じて、思わず感謝しながら、うんうん泣けてきてしまう。藤原よしこの『恋したがりのブルー』は、まさしくそんなマンガであった。最後までいってみれば、ありえないぐらいに大げさでドラマティックな出来事は何一つ起こらずじまい。いや、違う。正確には、ありふれていてささやかな出来事のすべてが、これ以上ないほど鮮明に輝き、だからこそドラマティックに跳ね、ほんのりあたたかく、ちくりと痛むようなエモーションを連れてきてくれることが、とてもよかった。結局のところ、作中にはごく普通の少年少女四人が恋愛と友情にためらう姿しかあらわされていない。だがそれだけでも十分、すぐれた作品は成り立つのだということを教えられる。好き合っているにもかかわらず、陸と別れなければならなかった蒼は、自分を大切にしてくれる海にもっと傾きたいのだけれども、胸の内で張り詰める苦しさを消せない。陸のほうも、ほんらいは初恋の人であった清乃にやさしく接しようとすればするたび、蒼への気持ちが募る。陸と清乃は、それに気づいてもなお、自分の想いを諦められない。こうして縺れた糸が、はたして四人のあいだに、ハッピー・エンドをもたらすことはあるのだろうか。というのが、この最終6巻に展開されているぜんぶ、である。はっきり、それよりもおおきな事件はおよそ起こらないにもかかわらず、蒼が、陸が、海が、清乃が、喜びや悲しみと引き換えに、絡んだ糸を一本一本ほどき、収まるべき位置に結び直してゆく様子の、そのちいさな切実さに、たいへん引き込まれるものがある。決して長いお話ではない。〈オレの 本物の彼女になってくれないか チューもHもする 本物の彼女になってくれないか〉という、たったそれっぽっちの願い。繰り広げられるのは、わずか四人ばかりの関係にすぎない。しかし、そういうミニマムな、あるいは等身大の情緒が、あますことなく再現されているので、心動かされるのだ。感動するようにつくられた青春のワン・シーンというより、どこかで誰かが経験している(していた)青春のワン・シーンを丁寧に切り取ってきているみたい。結末に至るくだり、ああ、こんな恋をしたいな、憧れるのではなく、ああ、恋とはたしかにこういうものだったね、と、つよく実感される。じつは『恋したがりのブルー』の題名とは裏腹に、誰もがヒロインである蒼に恋をしていたマンガであったと思う。望んだり、求める側であったはずの蒼が、いつしか、望まれ、求められる側に回っていた。そのような反転が、平々凡々としている蒼の何がいったい魅力的なのか、述べるかわりになっている。あるいは恋の不思議さが、彼女たちの位置場所を動かしてしまっているのかもしれない。そこにドラマの波風が立っている。他愛もない日常が輝き出し、めくるめくドラマの。せつなく、甘い。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 1巻について→こちら
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2009年09月26日
 サムライソルジャー 6 (ヤングジャンプコミックス)

 この国に義務教育が確立されている以上、ほとんど誰もが、学校や教室という単位の共同体をいかに生きるか、を経験することになっている。すなわちそれは制度に還元可能な問題にほかならない。ましてや義務教育より先への進学が、こうも一般化している現在にあっては、その仕組みはおよそ徹底されているといってよい。高校デビューを経て、校内でのポジションやクラスメイトとの関係性をやり直そうとするストーリーは、もはや古典的であるほどにスタンダードだ。だがしかしなぜか、そこからそれてしまう人間というのがいる。いつの時代にも一定数存在する。不良であれ、引きこもりであれ、多くの場合、彼らは落伍したと見なされる。もちろん、そうした視線は共同体の内部から外へ向けて発せられているものである。さりとて、落伍者にされてしまった彼らにも孤独はおそろしいものであるに違いなく、一人ぼっちの奈落から逃れるためのネットワークがあるのなら、それを傍受し、どこかで折り合いをつけ、加えてもらわなければならない。はたして、そこで組み立てられた共同体もまた、何かしらかの制度を後ろ楯にしているのだとすれば、本質上、彼らをアウトサイダーと呼ぶことはできないのではないか。このような懐疑を、モラトリアムを終えて、社会に出、社会と直接取り引きしなければならなくなった元不良少年たちを用い、表現しようとしたのが、田中宏の『莫逆家族』(99年〜04年)であり、高橋ヒロシの『QP』(99年〜01年)であって、そして両者によって暗示された題材を、ふたたび学園という普遍性を持ち合わせた区域に復帰させ、青春の像にあらたな突破口を導き出そうとしたのが、山本隆一郎の『GOLD』(01年〜06年)だといえる。

 ところで先般、高橋ヒロシの『WORST』(01年〜)の、第一部を総集編で読み返していたら、いろいろと考えさせられる点があった。もちろん『WORST』には、『QP』で見かけられたテーマを受け継いでいるふしがある。さらには作中人物が『GOLD』の単行本を読んでいるシーンがあるように、かの作品と共有する問題意識もおそらくはあっただろう。しかしながら、学園というモチーフにかぎっていうのであれば、第一部の段階ですでに破綻しかけている。かわりにバックボーンを支えているのは、梅星一家であったり、武装戦線であったり、天地の軍団であったり、要するに、ファミリー、チーム、マフィアと横文字に言い換えられる結束である。これはたぶん、作者が欧米のギャング映画に多くの着想を得ているためなのだが、つまり、そういう(ある意味で大幅にアメリカナイズされた)制度を引っ張ってくることで、学校や教室という単位とはべつの共同体を、作中人物たちにあてがっているのである。だがそのことが、国盗り合戦のヴァリエーションであるようなスペクタクルを適宜補強する以上の効果をあげているかどうか、評価は分かれると思う。

 いささか遠回りしてしまったけれども、本題は山本隆一郎の『サムライソルジャー』である。主人公である藤村新太郎と『ZERO』を率い渋谷統一をはかる桐生達也の対立、そして桐生が言ったとされる「喧嘩天国」の実現、〈“さむらいそるじゃー”“雫は生きている”〉なる発言、これらのキー・ポイントをいったんワキによけ、鮫島正平を頂点にいだくことで正式に結束を固めた『渋谷連合』が、桐生不在の『ZERO』に対し、猛追をかけるというのが、5巻から6巻にまたがる流れであり、4巻までの展開に比べると、やや定型的な抗争劇の血みどろに落ち着いてしまった感があるものの、いや、『ZERO』のメンバーの過去回想を通じ、描かれているのは、間違いなく、あらかじめ居場所の失われている人間がいかにして共同体と関わるか、の物語であるし、反面、鮫島やその腹心に収まった市川佑介の狂気ともとれる姿からうかがえるのは、共同体に裏切られた人間の不信であり復讐、だろう。しかして、ここで重要となってくるのは、かねてより藤村の言動が教えているとおり、ほんらい彼らは、モラトリアムを完結させて、不良(ガキ)の世界の外側へと出ていき、いち個人を生きなければならない、自立しなければならない立場にある、ということだ。週刊連載のペースであるせいか、もったいぶったところの多くなっている印象は否めないが、おそらく、すべてのパートはそこに向かい、輪転している。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
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2009年09月23日
 yataga.jpg

 大西実生子の『八咫烏夢淡雪〜やたがらすゆめのあわゆき〜』は、『ヤングチャンピオン』NO.17からNO.20まで全四回にわたって集中連載された時代劇ふうのマンガである。掲載誌というか出版社の性格上、単行本化される見込みは低そうであるが(同じ作者が『月刊少年チャンピオン』に連載していた『イゾラバ』の2巻はどうなったといいたい)、あまりにも残酷でせつない物語、そしてそれを極力、うつくしさがせめてもの救いのなるようあらわそうとする筆致には、なかなか、引きつけられるものがあった。ヒナはまだ15歳のくの一でありながら、すでに74人の暗殺を達成し、八咫烏という異名を轟かせている。あと一人殺し、任務を成し遂げれば、その地獄からも放免される約束のはずだった。だがそれは彼女が、兄と慕い、唯一頼りにしている忍、才蔵のついた嘘にすぎない。才蔵は思いもしなかったのだ。はじめて彼女が人を殺した日、遊女のあいだで信じられている一枚の護符を与え、〈おまえはまだまだ赦されるんだ 残る七四人まで――――そして七十六人目に愛を誓う男とは一生添い遂げて生きて行け そのときおまえは おまえは普通の女に生まれ変わることが出来るんだ〉と言ったのは、そう、〈ただ慰めてやりたかった 生きる縁を与えたかった ひとりのくの一が一生のうちに果たせる数ではないと思った〉からなのだけれども、この約束がまさか、自由を欲してやまない彼女を修羅に変えてしまうとは思わなかった。やがてヒナの存在を厄介に見はじめた里の者は、才蔵に彼女の暗殺を命じることとなる。基本的には、ヒナと才蔵、二人の葛藤と決して叶わぬ恋をベースに作品はつくられているが、たとえば遊郭のクローズ・アップや、ヒナに殺されかけ、復讐の執念を燃やす男が、彼女をさらい、乱暴にかつぐ(強姦する)場面が、一つの転調となっているとおり、男女もしくは権力の構造において支配される側に回されてしまう性のありようが、悲劇の色合いを濃くしている。ヒナとはおそらく、そうした構造自体への逆らいである。マンガの結末を述べるなら、彼女はとてもとても大切なものを失い、自分を支配していた力学の外に出てゆくが、しかし世界の体系は何も変わらず、同じ不幸が延々と繰り返し、続くことを予感させて『八咫烏夢淡雪』は幕を閉じる。

・その他大西実生子に関する文章
 『イゾラバ』1巻について→こちら
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2009年09月22日
 フール オン ザ ロック 4巻 (ヤングキングコミックス)

 たまきちひろの『フールオンザロック』は、残念ながら最後の最後までいまいち物足りないの一線を踏み越えることはなかった。完結編にあたるこの4巻の最後のほうで、主人公の高校生が〈俺はバンドを続けていきます ミュージシャンでもなく ギターマンでもなく バンドマンでありたい〉と決心を述べているように、音楽マンガというより、ロック・マンガというより、バンド・マンガとして読まれたい内容であるのに違いないのだけれども、そういうある種の共同体にかかったテーマは、物語のあとからやってきた印象がつよく、であるがゆえにか、作品の上にうまく乗りきれていないと思われてしまう。終われないモラトリアムを青春と呼ぶのであれば、それに向かう群像のありようと共同体のモチーフとが、かろうじて辻褄を合わせたという感じにまではいっているが、あまりよくまとまっていないのである。主人公の星野は、その凡庸さが物語の語り口に合っていた反面、対となる中年のヴォーカリスト、イマイの個性を、やはり十分に生かすことができなかったので、そうなってしまったのかもしれない。最近になって、ロック・バンドを題材にしたマンガはだいぶ増えてきたけれども、成功している作品は、率直にいってしまうが、かなりすくなく、そうしたなかに『フールオンザロック』も含まれてしまう。ところで、ここには『フールオンザロック』のほかに、06年に『コミックバンチ』の「My Best Love Song」という企画の一環で発表された「私たちは春の中で」が併せて収録されている。中島みゆきの同名曲をインスピレーションにつくられたマンガで、社会に出た若い男女のラヴ・ストーリーになっており、初出で読んだときから印象に残っていたのだけれども、あらためてなかなかの短篇であることが確認される。こういうふうなあわさで『フールオンザロック』を描いてくれてもよかった。が、しかしたぶん、結果はどうであれ、作者はもっとずっとパワフルなものを『フールオンザロック』に託したかったのだろう。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他たまきちひろに関する文章
 『WALKIN' BUTTERLY』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら 
  2巻について→こちら
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 あくまでも自説ではあるが、すぐれた少年マンガや少女マンガというのはその主人公がすぐれた答えになっていなければならない、と思っている。いや、あるいはだからこそ、彼や彼女ら主人公は、ときおり疑問や難問に悩んだり迷ったり傷ついたりしながらも、奇跡を起こすほどに純粋であり続けられるのではなかったか。たとえば、『フルーツバスケット』の本田透などは、まさしくその条件を満たしていたのであって、あどけなさとは裏腹にとても頼れる存在であったのだし、作品の印象もそれにならっている。だがそうしたデンでいうなら、同じく高屋奈月を作者とする『星は歌う』には、ヒロインの椎名サクヤには、いささかあやういところがあるように感じられる。極端な話をしてしまうけれど、純粋というレッテルがただ貼られているだけで、器の中身は心許ない。もちろんそうした空虚さをイノセントであると解釈すべきなのだろうが、どうしてそれが魅力的で周囲の人物たちに影響を及ぼしているのか、あまり説得されないのである。この6巻のクライマックス、140ページのあたり、千広に対するサクヤの恋慕を危惧し、厳しくあたる聖に、サクヤが自分の決意を述べるくだりは、たぶん重要であるというふうに見てよいのだけれども、ここ、サクヤの表情にはっとさせられるものがまったくないのは、作者が彼女の資質をつくり損ねてしまっているためだとしか、考えられない。にもかかわらず、無理やり答え合わせをするものだから、言葉と物語とが上滑りしてしまう。また個人的には、これも作者のよくない面ではないかと訝しんでいるのだが、あたかも恋愛が主体の自立か何かに都合のいい装置である以上の素敵さを持ちえていないことで、たしかに恋愛よりもおおきなテーマを描こうとしているという視点は成り立つものの、それが主人公に特典として付せられている程度のあざといイノセンスによって保証されているのでは、すこし、弱い。人は必ずしも暗い過去やトラウマ、不幸な境遇を克服するためにのみ、ラヴ・ストーリーを生きるのではない。

 1巻について→こちら

・その他高屋奈月に関する文章
 『フルーツバスケット』
  21巻について→こちら
  20巻について→こちら
  19巻について→こちら
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』について→こちら
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2009年09月20日
 立原あゆみが描くヤクザ・マンガのほとんどは復讐譚として物語の幕を開けるのだが、そのほとんどが復讐譚として物語の幕を閉じることがないのは、もちろん連載が長期化するにつれ、筋立てが分岐していってしまい、当初のスタンスが変わってしまうからなのかもしれないけれど、いや、おそらくはそれ以上に、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、という潜在的なテーマが、ストーリーの前に障害となって立ち塞がってくるためなのではないか。どちらが先か、悪いかは関係なく、意趣返しは意趣返しを誘う。このような連鎖をおりるには、誰も逆らえないほどの大親分になるまで出世し続けるか、あるいは、死ぬ、しかないのが立原の諸作における鉄則であって、いったん意趣返しに関わってしまったなら、たとえ堅気になれたとしても命を落とす人物はすくなくない。ある場合には、意趣返しに向かわざるをえないほどの怒りに耐えながら生き残ることが、彼らのドラマをエモーショナルにしているのである。さて。『恋愛(いたずら)』もまた復讐譚としての体裁を持った作品であった。兄貴分を殺された主人公のジミーが、その意趣返しのため、さまざまな危険をおかしてゆく。と、こういうふうなプロットは、以前にも述べたとおり、作者の過去作である『東京』や『弱虫』等々の焼き直しにもとれるわけで、まあジミーのパートをよそに並行して展開される一話完結型の色恋沙汰を、本作ならではの特徴に挙げてもよい、というのも過去にいった。が、しかし、やはり本質的な筆致は、裏切りをベースに、復讐をモチーフとし、決められていたことは、この最終5巻によって、あきらかだろう。そして、立原のものとしては驚くべきほど、すみやかに意趣返しをやり遂げたジミーの結末が、ヤクザになるよりほかなかった人間の不幸せを、如実に浮かび上がらせる。そう、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、のだとすれば、その夢の潰えてしまう様子があたかも悲劇であるよう、示されているのである。ラストの間近、雪の夜にジミーが〈オレたちは愚かな世界の住人です アダ討った先に何があるのか? すべてなかったこんな白い世界に変わるのでしょうか 恥を雪(すす)ぐ すすぐを雪と印した人はわかっていたのでしょうか〉と述べるモノローグは、どうしたって取り返しのつかない印象を孕んでしまう。正直な話、立原のキャリアのなかでは決して上位に入るマンガではないと思うが、作家性で見るなら、多く考えさせられるところを含んでいる。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『本気』文庫版
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 打撃王凛 16 (月刊マガジンコミックス)

 作画、ストーリーのレベルともに、現在進行形で描かれている野球マンガのなかでは断トツだろう、という個人的な信頼を、佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー)凜』は、この16巻になっても裏切っていないのが、うれしい。いやさすがにちょっと、と思われる展開にも、少年マンガ的なカタルシス、熱量、はったりが効いていて、不可能が可能になる瞬間にメーターの振り切れる興奮をとてもよく伝えてくれる。要するに、奮っているし、燃えるのだ。

 シニア・リーグでの活躍を高く買われ、新設されたばかりであるものの野球部に力を入れる常磐崎高校にスカウト、入学した主人公の中村凜は、しかしそこで全国から集められた選り抜きの同世代プレイヤーたちと、数少ないレギュラーの枠をめぐり、苛烈なポジション争いを繰り広げなければならない。いったんはテストに落ち、雑用係に回されてしまった凜であったけれど、持ち前の不屈さでふたたびチャンスを掴み、部員同士が4チームにわかれて行われる対抗戦に、メンバーの数が他よりもすくないというハンデキャップを条件としながらも、参加するのだった。

 凜を含めて、表向きは落ちこぼれ集団であるはずのDチームが、まさか、一回戦を勝ち抜き、レギュラーの座にリーチをかける、というのがここまでの流れであり、チーム・メイトにキャッチャー失格を告げられている凜が、二回戦目の試合を通じ、いかなる名誉挽回を遂げるのか、というのがここからの流れである。Cチームとの一回戦で、やっちん(安長)から託された大切なバットと引き換えに、あらたなモチベーションを得た凜は仲間との連帯を高め、シニア時代に最大の敵であった寺嶋が率いるAチームに挑む。

 まず、AチームとBチームの試合を事前に置き、凜と同じく、スラッガーであり、キャッチャーであり、さらには全国区の実力者である寺嶋の、現時点におけるポテンシャルをきっちりプレゼンテーションしたうえで、つまり主人公との比較を明確化し、圧倒的な不利を示したのち、いよいよ対決を迎える、このような構成が、まあ、セオリーどおりの手順であるかもしれないとはいえ、ひじょうに、にくい。越えてゆかなければならぬ壁がこんなにもはっきりとしている以上、あとはその、越えんとするプロセスを入念に展開していけば、おのずとドラマは燃えさかるだろう。もちろん、この作者の筆力にはそれを期待させるだけの勢いがある。

 じっさい、寺嶋のモンスターぶりを目の当たりにした凜が、〈及ばない 捕手として 打者としても 何もかも どちらが日本一の打者に近いか――‥‥?比べるまでもないじゃないか――――明白だ〉と打ちのめされてもなお、後ずさりせず、果敢な表情を見せていることが、その後に『打撃王 凜』の醍醐味ともいえる大胆なスリルを呼び込んでいる。

 ここで付け加えておきたいのは、試合の最中においてキャッチャー・マスク越しにひらけている光景がおどろくべき頻度で多用され、守備のシーンに対してダイナミズムをつくり出すのに見事な効果をあげていることだ。キャッチャー・マスクをあいだに挟んだ視点というのは、たぶん、野球マンガのジャンルではすでに存在していた発明だと思う。だがそれが、ここまで主体の意識とシンクロし、また一方で読み手の意識をもシンクロさせ、臨場感を高めているような表現は、他に例を持たないのではないか。マスクの向こう、グラウンドを守る仲間、バッターボックスに立つライヴァル、放たれたボール、そして振られるバット、迫力のある場面に目を奪われる。心が動き、腰を浮かす。

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2009年09月17日
 ドリームバスター 5 (リュウコミックス)

 義父の虐待を受け、あとすこしで命を落とすところであったタカシ少年のエピソードは衝撃的で、とても悲しかった。そもそもの人格は散々に壊され、完璧に失われてしまい、復元されたレプリカの人格を持つことでしか助からなかったという結末も、悲しいが、しかし、残酷な現実の前にはこうした解決ですらもないよりはましであったろう、と思うほかない。宮部みゆきの同名小説を、中平正彦がアレンジ、コミカライズした『ドリームバスター』の5巻では、そうしてタカシ少年との融和を果たした殺し屋、モズミの口から、主人公であるシェンは、血塗れのローズと呼ばれる彼の母親が、惑星テーラを襲った「大災厄」に深く関与していたことを、聞かされる。はたして、地球に逃亡した現在もなお、さまざまな混乱の背後で暗躍するローズの目的はいったい。というのが、本筋にあたるわけだけれども、そのようなストーリー上の展開によって、読み手であるこちらは次のような、一つの印象を得る。つまり、世界が終わりに瀕したあとも続いているとき、そこでは具体的に何が損傷されているのか。おそらくは、歴史の縦線だろう。そしてそれは個人の規模から公的な規模までを包括している。ではその、千切れかけた縦線を補うものがあるとすれば、それは何か。きっと「いま、ここ」とでもすべき現在の地点を、平面上に、あちこちと無数に伸びてゆく繋がりの横線であろう。こう考えるのであれば、母親の真実にまた一歩近づき、悩みながら憤るシェンが、地球にいるリエコをはからずも心配させてしまう、それを「大災厄」で過去の記憶をなくしてしまったリップの助言に救われているというくだりは、幕間のワン・ポイントにすぎないにもかかわらず、じつに象徴的な意味合いを持ってくる。タカシ少年のエピソードにしたって、結局は、ほんらい親と子で結ばれている縦線の断絶を、平行する宇宙の住人をも動員し、あらたな横線で応急しようとする試みであった。もちろん、母親の存在を含め、シェンと周囲の人びとの関係も、それと決して遠からぬ構図のなかに描かれている。

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2009年09月16日
 君に届け 9 (マーガレットコミックス)

 たとえば『君に届け』のストーリーについて、ピュアであるというような修辞を用いるとき、それはヒロイン、黒沼爽子の純粋が周囲の人物たちにいかなる影響を与えたか、を指すべきだと思う。当然、その周囲の人物たちのなかに風早も含まれているにはいるわけだが、爽子と風早の、つまり一対一の関係性においては、むしろ、自己評価の低い人間にとっての恋愛をどう描くか、ということに作品の重心がおおきいことを、この9巻はうかがわせる。にもかかわらず、ここにきてピュアであるピュアであるばかりしか述べないような感想は、たんなる思考停止にすぎない。たしかに、それまで恋愛を知らなかった人間の恋愛があらわされている、こうした観点に立つのであれば、爽子と風早の関わりをピュアであるというふうに見ることはできるだろう。しかし、必ずしも初心であること(だけ)が二人をすれ違わせているのではないというのも、おりおりのモノローグを含めた言動によってあきらかになっているのだし、あるいは恋の魔法とすべきものがあるなら、それはやはり、自己評価の低い人間にかつては信じられなかった勇気を与えるかたちでかかっているのである。この点に関しては、さまざまな出来事を経て、自分と風早の間柄を問わねばならなくなり、ついにはいじけてしまう爽子を(まるで叱りつけるように厳しく)励ます人びとのなかでも、とくに吉田と矢野の言葉が適確だろう。おまえら、さすが親友だぜ。吉田が爽子に向けた〈あんた いつまで自分のこと下げて生きていくつもり〉という主張を、矢野があとから〈結局ちづが言った事が全てだと思ったのよ そこがねじれてるから きっと何かいろいろねじれんでしょ〉と認めているのは、つまり、そういうことだ。かくして重要なのは、彼女たちがその「ねじれ」を爽子ならば解消できると信じていることにほかならない。そして作品は、純粋な想いがそれを可能にさせると受け取れるふうにつくられているのだけれども、爽子に固有の純粋(これは周囲の人物たちから鈍感と指摘されている部分でもある)と恋愛感情に忠実な態度(イコール純粋な想い)は、基本的に別個のものであることに注意されたい。それにしてもなぜ、人気者であるはずの風早がタイプの違いそうな爽子を選んだのか。風早は、事態をこじらせてしまったことを謝罪するクラスメイトの健人に〈黒沼 俺のこと誤解していると思う でも――黒沼はいつもきっと もっとずっと誤解されてきたんだ それでもあきらめずにずっと頑張ってきたんだ(略)…いつも1人で頑張ってなんとかしてしまう黒沼に 憧れていたのは きっと俺だ〉と言っているが、これはもちろん、爽子が自分にないものを彼に感じ、憧れていたことの同義的な反転になっている。最初に述べたとおり、周囲の人物たちがそうであるのと等しく、風早もまた爽子が持っている純粋の影響下にある以上、そこに惹かれることはまったく理に適っている。だが、一対一の関係になってくると、今度はその、爽子の純粋が、彼女自身の自己評価とわかちがたく結託することで、風早の、そして二人の恋愛の障害になってしまう。この巻のクライマックスで、まさしく『君に届け』といわんばかりに描かれているのは、そうした自己評価の壁をとうとう乗り越えようとする爽子の姿ではなかったか。たぶん『君に届け』の本質的な魅力は、純粋であることをいわば叩き台にしながら、決してピュアの一言には単純化できない心理を作中の構造に滑り込ませたうえで、誰にでも起こりうるような、すなわち普遍ともとれる恋愛の可能性を、まざまざ問うていることにあるのである。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他椎名軽穂に関する文章
 『CRAZY FOR YOU』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
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2009年09月12日
 ARISA 2 (講談社コミックスなかよし)

 若年層向けのマンガ(『なかよし』の連載)とはいえ、いやあるいは若年層向けであるため、じつにハイブリッドで現代的なツボを押さえた物語づくりのされている印象が、安藤なつみの『ARISA』にはある。学園という狭い世界における同調圧力を、サスペンスに仕立て、悪意が連鎖してゆくなか、正体不明の犯人を捜し当てるという展開は、こう書いてしまうと、少女マンガのジャンルに旧くから存在するイディオムのようであるが、一定のルールが遵守されている空間に、作中の人物たちが閉じ込められ、サヴァイバルにも似たゲームを繰り広げるというのは、むしろ今日的なフィクションの傾向をダイレクトに反映していると見てよいだろう。両親が離婚したため、離れて暮らす双子の姉妹、つばさとありさは、性格はまったくの正反対だが、今でも頻繁に手紙のやりとりをするほど、仲睦まじい。しかしありさには、つばさの知らない秘密があった。3年ぶりに再会したとき、誰にでもやさしく、屈託のないあかるさで皆から好かれているはずのありさは、つばさの目の前で飛び降り自殺をはかるのだった。さいわい一命は取り留めたものの、意識不明の重体に陥ったありさが、なぜ死のうとしたのか、つばさはその原因が学校での生活にあると感じた。そしてそれを知るべく、ありさを装い、彼女の通う姫椿中学校へ、潜入、金曜日の四時限目に2-Bの教室で、王様タイムと呼ばれる儀式が行われているのを、目の当たりにする。携帯電話でインターネットを通じ、「王様」と呼ばれる存在に、ふだんは温厚なクラスメイトたちが、一心不乱、自らの願いを書き込んでいる姿の異様さは、つばさをおののかせるが、それ以上に驚かされたのは、「王様」によって選ばれた生徒の願いが、じっさいに叶えられたことであった。ありさが死のうとしたのも、おそらくこれと関係している、そう信じたつばさは、単身、「王様」の正体を探ろうとするのだけれど、周囲の誰もが疑わしく、次々と危機的な状況に陥ってしまう。このようなストーリーにおいて、ほんらいはヤンキイッシュなつばさの造形が頼もしい。鉄腕のヒロインが、学校レベルの悪を退治してゆくのは、まさしく少女マンガにお馴染みのダイナミズムだが、それが先述したとおり、今日的なフィクションの狡猾さと真っ向からぶつかり合っているのである。そうした力強さというのは、なぜか、男性をおもな読者に抱く同型のマンガや男性が主人公の作品では発現しにくい。ともすれば、いじけた坊ちゃんのために多くの犠牲が払われることが現代ふうのリアリティだからなのかもしれないけれど、つばさの場合は反対に、躊躇いもせずに一人でばんばん引き受けていってしまう。まあ、そのせいでピンチになったりもするのだし、物語全体のロジックを弱めてしまってもいるのだが、そこで自然とテンションのあがってくるのがいいね、と思う。もう一点触れておきたいのは、すくなくとも現時点では、2-Bのクラスを満たす不吉さが、誰かの生まれや育ちに端を発しているわけでもなければ、巨大な陰謀をベースにしているわけではなく、純粋に子供じみた欲望と同調圧力により成立している点で、つまりは程度の差こそあれ、どこの教室にも起こりうる可能性におおきく足場をとっていることである。あるいはそれが『ARISA』にとってのリアリティだといえるだろう。この2巻の終盤、「王様」に支配されたゲームの法則は一変する。いちおうは穏健な共同体をなしていたクラスメイトたちが、与えられたパスワードをめぐり、凶暴な顔を見せはじめる。いつか学校に復帰するありさのためにも、利己ばかりが優先される価値基準を、つばさは立て直さなければならない。これに乗してスリルは高まってゆく。
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2009年09月10日
 高橋ヒロシ本人がさんざん公言していたように、『クローズ』の主人公である坊屋春道の「その後」は、ほんらい決して描かれることがないはずの物語であった。しかしどういうわけか、まあ『クローズ』需要とでもいうべき商品価値の高騰が一つの要因ではあるのだろうが、弟子筋にあたる鈴木大(鈴木ダイ)によって実現してしまったのだから、話が違うじゃないか、と言いたいところではあるのだけれども、とりあえずこの1巻の時点では『春道』というマンガにおいて、坊屋春道は主人公ではなく、マクガフィン的に機能するワキのファクターでしかなく、したがってこれは彼の物語ではないととれるエクスキューズを残しているあたり、むしろ題名が詐欺じゃないか、という気がしないでもない。持って回った書き出しをしてしまったが、率直に結論をいえば、あまり高く買うことのできない作品である。だいいち、田舎のちいさな世界にとどまる若者のくすぶり、要するに、地元を舞台にした自分探しの題材化に、目新しさはないだろう。ましてや、それがいかにも怠いストーリーしか結んでおらず、たとえば現在、似たようなテーマでも藤堂裕の『由良COLORS』がすでに先行し、相応にアクチュアルな問題意識を抱えているのに比べたら、残念に思われる点のほうが多い。次巻以降、老人ばかりの村に不良のチームが攻め入ってきて、主人公や春道を巻き込み、バトル・ロイヤル状態の乱戦が繰り広げられることになったら、怒濤の展開に興奮せざるをえないけれど、正直、そのへんは期待できなさそう。おそらくは主人公である上松富士介の自分探しに都合よく利用されるだけだろう。それにしてもさあ、といいたいのは、春道の、他人をぶん殴ったらそのぶん殴られた人間がなぜか心変わりをする、という特殊能力のことである。『クローズ』とは、いわばそうした特殊能力に対する理由付けが、すぐれた男性の資質を掘り下げようとする試みであった。しかし、『春道』では、どうして春道に殴られた人間の心境が変化してしまうのか、まったく意味不明であって、たぶん、あいつは超能力者か何かなんだろうと納得するよりほかない。つまり、この手のジャンルに惹句としてありがちな、男の生き方や熱いメッセージなど、(すくなくとも今の段階では、と留保しておくが)ほとんど読み取れないのだった。

・その他鈴木大(鈴木ダイ)に関する文章
 『クローズLADIES』について→こちら
 『ドロップ』(原作・品川ヒロシ、キャラクターデザイン・高橋ヒロシ)
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年09月08日
 さて。この『WORST外伝』で、現在までに七代続く武装戦線のそのレジェンドがだいたい語り尽くされたわけだが。そう、ここに高橋ヒロシが描いているのは、『クローズ』や『WORST』のシリーズにおいて、何人ものカリスマを輩出してきたチームがいかにして結成されたか、すなわち初代武装戦線の記憶である。〈心を武装し 我ら最前線に立つ 自由をこの手に!!〉の旗印のもと、ゼロから自分たちの居場所をつくり上げた若者たちの青春は、いやたしかに鮮烈だ。とはいえ、まあ、基本の構成はおっさんの昔話にすぎないので、歴史上の空白を埋める作業でしかないのだけれども、熱心なファンからすれば、十分にうれしいサービスではあるだろうね、と思うし、正直、同時に発売された『“クローズ”&“WORST”キャラクターブック We are the WORST!II』と併せて読みながら、わくわくする部分もあった。終盤には『クローズ』の人物たちも、まだ幼さを残して登場する。しかしここで重要なのは、『“クローズ”&“WORST”キャラクターブック We are the WORST!II』に掲載されているもう一つの外伝「梅星ブラザーズ」もそうだが、すでに述べたとおり、あくまでもおっさんの昔話という形式をとっていることだろう。それはつまり、若い頃はやんちゃだったけど、今は社会に出て、立派に生きているぜ、このようなメッセージを言外に孕んでいる。だが、もしもこうしたヤンキー・マンガを、学園ドラマであることを含め、モラトリアムを題材にしたストーリーの一種として見るとき、注意しなければならないのは、では大人になるための成熟と契機がどうあらわされているか、要するに現代における通過儀礼の問題なのであって、その点に関し、作者は『クローズ』の陣内公平や『QP』の我妻涼の挫折以降、必ずしも達成的な表現を果たしていない。おそらくは、『WORST』の天地寿がその可能性を受け継いでいるかもしれないことは、過去に推測したとおりであるけれど、すくなくとも現段階では、先のテーマを乗り越えていないのである。そのせいでたぶん、かつては不良でも今は立派な大人の経緯を、おっさんの昔話という安直なスタイルに落とし込むよりほかなかったのだと思う。それについてはひじょうに残念だといわざるをえない。結果、ヤンキー・マンガをサーガ化もしくは作中世界をヒストリー化しようとする手法自体にも、サービス以上の切実さを感じられない。フィクションに、架空の年表、偽史を見てしまう今ふうのファンが抱えた欲望に、ただ応えているだけのものにとどまる。

 『WORST』
  22巻について→こちら
  21巻について→こちら
  20巻について→こちら
  17巻について→こちら
  11巻について→こちら

・その他高橋ヒロシに関する文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
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2009年09月07日
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 いま現在、どうして高橋ヒロシのマンガには女性が出てこないのか。理由は、本人が過去のインタビューで女の子を可愛らしく描けないからと語っているとおり、あきらかになっているのだが、それは決して作風の表層のみを左右する問題ではないだろう。結局のところ、女性が関与しない物語は女性が関与しない物語以上にならない。性が一つしか存在しない世界は、まちがいなく欠如を抱えているにもかかわらず、それをしばしば都合の良さとしてしまっている点に、高橋とそのフォロワーのあやうさを個人的には感じる。ほとんど男性が登場せず、可愛らしい女の子ばっかりの作品が、ときに程度の低いポルノとしての機能に陥ることがあるのと同じように、である。そもそも鈴木ダイ(鈴木大)は、高橋のアシスタント出身ではあるものの、女の子を可愛らしく(かどうかは、まあ判断がわかれるかもしれないが)描ける作家であった。また、過去作を見てみればわかるように、決してヤンキイッシュというわけではなく、アクションSFとの親和性が高いあたりを持ち味としていた。その鈴木が、『月刊少年チャンピオン』10月号に、高橋ヒロシ画業20周年記念企画の一環とし(女性を可愛らしく描けないのに画業だなんて、とか言っちゃ駄目だよ)、トリビュート・コミックの第2弾として発表したのが、『クローズLADIES』というマンガで、内容のほうは、『クローズ』の64話目にあたる「海の見える街へ!」を、要するにパルコ・アンド・デンジャラーズもしくはスネイクヘッズ編の序章となるエピソードを、坊屋春道をはじめ作中の人物を全員、性転換したうえで忠実にリメイクしたもので、同誌の9月号でSP☆なかてまが担当したトリビュート・コミックの第1弾『セニドクロに憧れて…』が、ほら不良に憧れる坊ちゃんはこういうの好きでしょ、だったのに比べるまでもなく、ひじょうにオタク的な作法にのっとったものとなっている。地元でラビット・イヤーと呼ばれるチームに、賞金をかけられ、首を狙われたパル子は、和装戦線を率いるお龍に助けを求めるため、その街へやってきた。そしてその誘いは、お龍ばかりではなく、彼女のライヴァルである坊屋春華やビトーニャをも、あらたな戦いに向かわせることとなるのだった。原作人物の、いわゆる女体化というアレンジは、まあ、二次創作のジャンルにおいて、もはや物珍しくもないパターンだろう。それを『クローズ』の作者と出版社公認でやったというのがトピックになりえるなら、まったくめでたい話ではあるけれど、正直、ここ最近はあまり芳しくなかった鈴木ダイの色合いが良い方向に出た作品には仕上がっている。バトルのシーンも相応にかっこういいし、決まっている。一方で、性が一つしか存在しない世界の欠如を見まいとする欲望は、ヤンキイッシュなスペクタクルもオタクふうのエンターテイメントも、じつはそう大差ないことを教えている。

・その他鈴木ダイ(鈴木大)に関する文章
 『ドロップ』(原作・品川ヒロシ、キャラクターデザイン・高橋ヒロシ)
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2009年09月06日
 なにわ友あれ 9 (ヤングマガジンコミックス)

 テツヤとパンダの対照には、まさしく充実と残念の二色にわかれてゆく青春があらわれている。もちろんそれは走り屋というトライブにのみ生じる分岐ではない。冴えている冴えていない、たしかな目標のあるなし、恋している相手とセックス(性交)できるできない、このような基準によって自分と他人とを比較せざるをえない自意識を持ち合わせているとき、自然と目前には羨まれる側と羨む側の区分が立ち塞がってしまう。

 シンナーでらりった挙げ句、あやうくナツをレイプしかけたパンダの行動に同情の余地はまったくないだろう。しかし、親友であるテツヤと片想いしているナツがもしかしたらスケベなことをするかもしれない可能性にもだえ苦しみ、ひたすら夜を過ごすパンダにはまだ同情の余地があるのは、その姿に、趣味や嗜好とは関係なく、誰もが経験しうる自意識が共有されているからにほかならない。〈一人ぼっちのクリスマス‥‥一人ぼっちの誕生日‥‥バレンタイン‥‥おおみそか‥‥正月――‥‥どれもこれも今日までは孤独に打ち勝ってきたが‥‥今日ほどキツイ思いはなかった――……〉というパンダの心境は、作品の舞台である1990年(平成二年)から遠く離れた2009年の現在もなお、十分な説得力を持っているとさえ受け取れるのであって、いやまあ大げさにいうなら、今日まで連綿と表現の対象にされ続けている近代的な人間の内面をそこに見ることもできる。

 パンダのくだりは必ずしも本筋に関わっているわけではないが、時代風俗的な描写とはべつのレベル、つまり作者である南勝久が若者のいったいどこに真価を託しているか、この点において、『なにわ友あれ』というマンガのリアリティを補っているといっていい。どのようなトライブであれ、残念な青春を送らなければならないタイプは、一定数存在する。これが、すくなくとも現時点でパンダに与えられているダウナーなポジションであるけれど、当然、彼とは対照的にアッパーなポジションをいくのがテツヤの役回りだということになる。『なにわ友あれ』を、テツヤのビルドゥングス・ロマンとして解釈するさい、9巻のここで、その成長段階をはかるようにし、二つの具体的なアイテムが彼にもたらされるのは、じつに象徴的な出来事だと思う。

 自動車の運転免許証と、そして大先輩であるヒロからやっとのことで譲り受けたホンダのワンダーシビック、二つの存在はあきらかに、物語のなかでテツヤのランクがあがったことを教えている。たとえば、主人公が伝説のマシーンを手に入れる、式のエピソードは、この手の作品にとってセオリーではあるが同時に、テレビ・ゲームのRPGなどにおける勇者が冒険の過程で金銭には換えられない装備を得るのと等しい構図を有し、成り立つ。無論、ヒロのワンダーをテツヤは100万円で買い取ってはいるものの、それが対価に見合っていないことは執拗に言及されるし、話の流れは、あくまでもテツヤの資質がヒロに認められたうえでワンダーが与えられたことになっている。

 そこで重要なのは、ではヒロはテツヤのいったい何を評価したのか、ということであって、面談のおり、〈若いうちに本物のスリル味わいたいってか――? だからって環状なんか経験したってロクな大人にならんぞ!〉と忠告するヒロに対し、テツヤは〈でもオモロイ大人にはなれるんちゃうの?〉と言っている。ヒロが〈ジジイになってから言いたいかァ――? 「ワシも若い頃は〜〜」ってェ――‥‥〉と尋ねるのに、〈めっちゃ言いたい! そんなジジイになりたいッ!! 「若い頃は〜〜」も言えんジジイのほうがさみしいやん! 俺はそう思う――!!〉とテツヤは答えるのである。テツヤの言葉はおそらく、モラトリアムをいかにして生き生きと生きるか、の決断を代弁しているだろう。そのために是が非でも〈女でも――こいつしかない!! とか――‥‥そういうビビッとくる相手っておるやん!? ホレたッ!! ‥‥ってマジで言える相手――!! こいつしかアカンって相手っておらん? 男でも女でも!〉とまでに思い詰めるワンダーを手に入れなければならない。すなわちヒロはその情熱とでもいうべきに説得され、ワンダーを譲っているのだ。

 女(ナツ)と車(ワンダー)によってテツヤの青春はアッパーなポジションを果たしてゆく。これが『なにわ友あれ』において、走り屋というトライブが題材に選ばれている最たるところだといえる。一方で、優先する順位を違えてみるなら、そのモラトリアム像は必ずしもトライブに限定されないことをすでに述べた。主人公と恋人の関係性は、ラブコメのテーゼに近しく、環状族同士の権力闘争は、国盗り合戦、軍記物のヴァリエーションともとれる。その意味で、男性性を主題としたひじょうに古典的かつ普遍的なストーリーを作品は追っているのである。

 それにしても、前シリーズである『ナニワトモアレ』で厄介な敵役を演じたタツオとゴウはあいかわらず、自動車のパーツ代を稼ぐために〈悪い事してるからな――金なんかどうにでもなる――!!〉だってさ。いい加減、おまえらも卒業しろよ。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
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2009年09月04日
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 たとえば、ヤンキー・マンガとは学園ラブコメと不良ヴァイオレンスのアマルガムであるとしたとき、そうした枠組みは90年代において極端に徹底されていき、融合していたはずの二大要素が次第に綱引きしはじめると、やがて限界にぶち当たった。その結果、反動でもあるのかしら、00年代には(現在の)高橋ヒロシに代表されるような、もしかすれば保守性の高いマッチョイズム、もしくは素朴な国盗り合戦、軍記物のイメージへ回帰した路線が主流化したのだと、ひとまず推論することはできる。が、いずれにせよ、前ディケイドにおけるラディカルな傾向は、『週刊少年チャンピオン』に発表された作品、米原秀幸の『箕輪道伝説』や『ウダウダやってるヒマはねェ!』、みさき速の『特攻天女』、そして樋田和彦の『京四郎』を並べてみただけでも確認されるだろう。どのマンガも、きわめてユーモアにあふれた日常を描きながら、その向こうには、夥しく凄惨なまでの暴力を横たえていたのである。タガが外れていたといってもよい。ほんらい『京四郎』は、ギャグのテイストがつよいマンガであった(まあ元々が浜岡賢次のアシスタントだったわけで)。しかし、ストーリーが進むにつれ、冗談では済まされない椿事をおおきく孕んでゆくこととなる。もちろん、それは読み手や編集部の要請に応答し、スペクタクルを増加させたためであるのかもしれないけれど、ジャンル自体が本質的に持ち合わせているモラトリアム下の破壊欲求であったり破滅志向であったりを、ある程度のリアリティもしくは時代性の波にそって、上書き、更新、エスカレートさせていったことの必然をも兼ねていたに違いない。さて、『週刊少年チャンピオン』NO.40に創刊40周年記念の一環として掲載された新作読み切りでは、本編でも一時的に展開されていた主人公の、とくに乱暴であった中学生の頃が、プレイバックされている。高校を卒業、モラトリアムの外に出たことでピリオドが打たれたマンガだから、その後を描くよりも、こうした番外編仕立てのほうが、たしかに元来の内容には合っている。それにしても、作品のトレードマークともいえる新聞メリケンや釘バットって、いま見てもやっぱり物騒だよね。大勢に囲まれた主人公たちが躊躇なく、蛍光灯で応戦するくだりも、じつはかなりおっかない。この、さりげなく凶悪なことをやっているのが『京四郎』の特徴なんだよな、と思い出させる。ここではそれがあくまでもコメディの作風に仕立て上げられているが、シリアスな局面では身も蓋もないほど残酷に扱われていたのが、『京四郎』というマンガだったのである。
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2009年09月03日
 若者よ、ねえ君がもしも、マンガ家になりたいと思い立ったはいいが、しかしその描き方やつくり方がまったくわからないのであれば、この車谷晴子の『0から始めるまんが教室』を手にとって絶対に損はないだろう、というのはさすがに言い過ぎか。いやだが、じっさい、マンガの技法をマンガで説明するていの作品としては、ひじょうにわかりやすい入門書にはなっている。構成で関わっている飯塚裕之は、新條まゆの『バカでも描けるまんが教室』にもクレジットされていたけれど、マンガ家の自伝的な要素を多分に含んだあちらに比べ、こちらは高飛車なお嬢様がイケメンで有能な執事に未知の体験に対してのレクチャーを受けるという、要するに、今日の少女マンガにおいてオーソドックスなシチュエーションをベースとしながら、きわめて実践的な講義を繰り広げている点で、おおきく違っている。それも踏まえ、特徴的なのは、作家性やオリジナリティ、創作上の倫理など、精神論に携わる部分はいったん棚にあげ、あくまでも基礎的なテクニックの伝授に徹していることであって、まあそのため、ある程度の知識者からしたら物足りなさを残すかもしれないし、必ずしも首肯されない箇所だってあるかもしれないが、単純に、マンガってどうはじめればいいのさ、という疑問には十分答えていると感じられる。じじつ、デジタルによる作画や高度なパースの説明等々、細かく、小難しい領域は専門書をあたってくれ、式に丸投げしており、いかにしてストーリーをこしらえてゆくかの議論にしても、ステレオタイプ以上のものを編み出すほどのヒントは与えてくれない。とはいえ、それらはやはり、応用のレベルにあるのであって、決して『0から始めるまんが教室』なるコンセプトを裏切ってはいない。マンガは描かないけれども、マンガを読むのが好きである自分のような人間にも、これが楽しかったのは、基本的な指南のなかに、あるいはベーシックなポイントのみを抜き出しているからこそ、ふだん無意識のうちに作品と共有しているアプローチが、あらためて指摘されているからである。たとえば、アングルや構図、テンポの項は、そうそう、そうね、と説得される。たしかに多くの部分が、少女マンガのイディオムに則ってはいるが、ここで述べられている技術はジャンルを限ったものではなく、思いのほか、ひろい。もちろん、『石ノ森章太郎のマンガ家入門』みたいな一般に名著とされているものに比べ、どうこうというのではなく、シンプルにこれぐらいは押さえておきたいというHOWとTOを明快に押さえている。
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2009年08月30日
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 作者当人の欲求なのか、編集者の要請なのかは知らないが、これまでの作品を読んできたかぎり、門尾勇治というマンガ家の資質は、正直、ミステリやサスペンスには向いていないと思われてしまう。はったりは利いているものの、ロジカルな展開がほとんど見られないので、つくられたどんでん返しに、驚かされるというより、拍子抜けしてしまうためであって、それはこの、『ヤングキング』NO.18に50ページの読み切りとして掲載された『Don't give up』においても、確認されるであろう。衝撃のパンデミック・ミステリーと紹介されているけれど、そのような題材は、必ずしもストーリーをおもしろくはしていない。近未来、「LIFE」と呼ばれる老化を抑制する新種のバクテリアが開発され、さまざまな食料品に配合、全世界で一般化していた。〈つまり…誰もが それを体内に潜めていた〉のであったが、〈その結果………〉同時多発的に、全人類が固まり、動かなくなってしまうという奇病が発生する。まるで時間が静止したかのような世界、なぜか異変から逃れられた青年、勇樹は、恋人である加奈に必死な呼びかけを行うが、彼女は蝋人形みたいに笑顔をたたえたまま、何も答えてはくれない。耳を胸に押し当てると心臓が働いている以上、死んではいないにもかかわらず、まったく反応をしてくれないのである。それは他の人びとも同じであった。戸惑いながらも勇樹は、沙希という、やはり「LIFE」の影響から助かった女性と合流する。彼女の恋人が「LIFE」の研究者であり、その実用化に疑問を持っていたことから、もしかすればワクチンが存在する可能性を信じ、彼のもとへ向かう二人であったが、都市機能は完全に停止、動くことのできる人間がいたとしても、すっかり暴徒化しているのを見、絶望を抱かざるをえない。この絶望に対する解答が、すなわち題名の『Don't give up』に通じているわけだけれども、そうした精神論の組み立てが、うまく物語に落とし込まれていない。まあ、設定の細かさ自体、高度なSFのファンからしたら難のあるところかもしれない、が、それ以前の段階、必ずや希望は信じられるという内容にどう説得力を与えるかのレベルで、あまり整合性を感じられないのだ。マンガの背景と作中人物による決断の合間、もうすこし、齟齬が埋まって欲しい。

・その他門尾勇治に関する文章
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 『欺瞞遊戯』について→こちら
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2009年08月29日
 ヒロインと幼馴染みのイケメンさんが二人、こうした三角関係のパターンはやっぱりつよいよね。ほとんど外さない。すくなくとも物語の立ち上がり当初においては、と思う。一夜とヒロ、そして茜は、同い歳、同じマンションの同じ階、隣同士で幼少の頃からいっしょに育ってきた。〈大好きで大切な2人とこの先もずっとずっと一緒…そう思ってた〉茜であったが、しかし高校にあがり、すっかり魅力的になった一夜とヒロは、彼女を子供のときと同じ目線ではもう、見ることができない。一夜が、茜に対し〈誰かと同等の好きなんていらない(略)オレだけを好きになって〉と告白したことから、ヒロも黙ってはいられず、それまでの均衡は崩れるのであった。白石ユキの『となりの恋がたき』に描かれているのは、つまりそのような、半径のちいさい世界を舞台にした三角関係式のラヴ・ストーリーにほかならない。すでに述べたとおり、典型的ではあるものの、いや典型的だからこそ、物語の離陸はスムーズに行われており、いきおい任せな面がありながらも、作中人物の感情はすっとはまっている。現状のままでいたい茜を傷つけたくはないが、現状を壊さなければ望みを叶えられない一夜とヒロ、三すくみの緊張が、日常の場面を盛り上げているのである。もちろん、それは『となりの恋がたき』に固有の特徴ではないだろう。たしかに1巻を読むかぎり、うまい流れはつくられているが、それは規定のルールを作者と読者が共有したうえで確認し合っているためにすぎないのであって、問題はここから先に違いない。じつは、細かい設定をべつにするのであれば、三角関係の当事者全員が主人公であるようなラブコメは、出だしこそ良いが、その後、どうしてかぐだぐだになってしまうものが多い。おそらく、三すくみの緊張に、悲劇以外の落としどころを見出そうとしているうち、そうなってしまうのだろう。だいいち、たんなる三角関係の場合であったとしても、少女マンガのジャンルでなかったとしても、どれほど名作と呼ばれるものであったとしても、たとえば、夏目漱石の『こころ』であったり、あだち充の『タッチ』であったり、死者を出さなければ収まりがつかないケースはすくなくない。それをできうるかぎり、ハッピー・エンドに持っていこうとするのだ。そりゃあ悩むよね。まあ、現在の段階では『となりの恋がたき』がどういう結末を目指しているのか、定かではないけれど、すくなくとも悲劇が望まれるタイプの作風ではない。そのことを踏まえ、もう一点、注目しておかなければならないのは、茜がすでに一夜とヒロのどちらかを選んでいる、という予断が描写されていることで、これはなかなかにスリリングな展開をもたらしてはいるが、同時に、かなりきつい決断を作中人物たちに突きつけることになりかねない。アイディア自体はすぐれているだけに、そのへんを作者はどう乗り切るのか。力量が試される。
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2009年08月28日
 サドっ気抜群のイケメン教師とマゾっ気十分な女子高校生の恋愛というのは、少女マンガのジャンルにおける一つのスタンダードであって、作者である椎葉ナナもコメントの部分で〈黄金ネタを長年スルーしてた〉と述べているとおり、『先生はエゴイスト』は、そのパターンを採用し、描かれた読み切り作品を、三篇収めている。そもそもの設定が、たしょう紋切り型ではあるため、人によっては、まあね、となってしまうだろうが、「先生の恋人」という篇は、古典の教師と彼に片想いする女子高生の関係を『源氏物語』の挿話になぞらえるアイディアが、あんがい悪くなくて、印象に残る。高校入学式の日、教師である高嶺との出会い方がよかったため、〈もしかしてこれは恋?〉と、ときめく一馨であったが、じっさいに彼の授業を受けるようになると、あまりにもちゃらい性格が当初のイメージとは違い、幻滅しはじめている。だがそれでも気になってしまうから弱る、といったところ、一馨とは正反対でいけいけの姉に相談してみても参考にはならず、高嶺の思わせぶりな態度に翻弄されてしまう。ネタを割ってしまっても問題はないと思うが、いちおうは控えて、ようやく心が通ったかに感じられた高嶺との関係を、『源氏物語』を好んで読む一馨が、光源氏と若紫のそれに喩えるあたりがキーである。〈光源氏が若紫に藤壺の面影を見たように〉高嶺が、ほかの誰かと自分とを重ねていると勘繰った一馨の不安は、すなわち、自分がほかの誰かの代わりに見られているとき、たとえ恋人に選ばれたとしても、それは真実の愛にはならないのではないか、という疑いを孕む。大げさにいうなら、対他関係の公式において主体が必ずしも絶対とはならない可能性を抱かせるのである。このため一馨は、高嶺と親しくなりながらも、〈私は一途に愛された藤壺にはなれない〉と悲しまなければならない。ただし、もったいないのは、そうした対他関係における本質的な困難を掴んでいるにもかかわらず、ラヴ・ストーリーに描かれているのはあくまでも、外見と内面の問題でしかなく、たしかにほかの誰かに似たルックスではなく、ほかの誰とも似ていない気持ちのありようこそを好きになったのだという結論は、うつくしい。だが、そのうつくしさは、結局、一馨の内面のいったいどこが高嶺には魅力的であったのか、答えていない。たんに素直だったから、だけでは、あまりにも表面的すぎするし、寂しい。
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 八寿子の『チェリーなぼくら』は、その題名から察せられるように、経験に乏しい高校生同士の恋愛を、わりとこうユーモラスにマンガ化したオムニバスのストーリーである。オムニバスとはいっても、この1巻の段階では、読み切りの作品集に性格は近しい。まあ、童貞や処女といったトピックが、コンプレックスを代替するとともにピュアであることの象徴となっている内容は、ありふれたアイディアにほかならないし、それが思春期における戸惑いと結びついているのも、さもありなん、ではあるだろう。いやいやしかし、とても楽しめてしまったのは、結局、外見と内面のギャップに苦しむ作中人物たちの姿が、もちろん当人にしてみたら深刻には違いないものの、おかしみにあふれながら、きわめてキュートに描かれているためだと思う。男女関係に未熟であることの悩みは、これぐらいばからしく、テンションの高いほうが、そうそう、そこはそうなっちゃうよなあ、と、よく伝わってくる。たとえば最初のエピソード、高校デビューし、周囲からはすれたように見られているが、じっさいには男子と交際したことのないヒロイン、佐藤千夏が、ふとしたことをきっかけに、後輩である福永信平を意識しはじめる、もしかしたら向こうも自分のことが気になっているのではないか、と考えてしまうのだけれど、ほかの女子にも愛想振りまく彼を見、〈――そーだよね あんな子…モテるに決まってる 私なんかを特別好きになるわけがない――…… / つーか ちょっと男としゃべっただけですぐ色恋に結びつけたがる この幼稚な脳をどーにかしてくれッ〉というあたり、これ、いったん少女マンガ的なイディオムを使い、シリアスさを出しておきながら、すぐさまそれを自主回収することで、要するにギャグのテンポをつくり出しているわけだが、むしろその、滑稽にあたふたする様子が、初心な人間にとってのリアリティになりえているのである。他のエピソードに関しても、もてない、というより、自己評価の低いせいで、異性へのアプローチがねじれてしまったヒロインの葛藤を、適切に戯画化している。他方、彼女らと接する男子にも同等の負荷をかけていることが、のちのちロマンティックな展開に結びついているのも良い。気持ちいい。

 『真夜中エクスプレス』について→こちら
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2009年08月26日
 高野苺の『夢みる太陽』が、ますますおもしろくなっているのは、単純に嬉しい。作中人物たちが夢や恋に、わいわい騒ぎ、ひた走ることが、もっとおおきなエクストラを都合よくもたらす、まるで絵空事のようなストーリーであるが、これを否定してしまったら生きていくのはとても寂しいという、現実に向かって期待を込めるのにも似た、ささやかなエモーションを同時に連れてくる。しま奈が、虎(たいが)や善、朝陽、気のよい男性たちと繰り広げる一つ屋根の下の暮らしは、さまざまな出来事を通じ、以前にも増して親密さを高めていたが、善の兄である拳の登場を期に、彼の高校時代の同級生である善の知られざる屈託が仄めかされ、他の三人はそれを無視することができず、せっかくの関係性にも緊張を感じざるをえなくなってしまうのが、この4巻に描かれているくだりである。基本的には、しま奈の片想いをベースに物語は動いているのだけれども、彼女の無知ともとれる言動はいわば、ミニマムな共同体がどれだけ純粋に保たれているかをはかるテスターの役割であって、その表情が四者のあいだに成立する幸福そのものを教えるかっこうになっている。一方で、夢や希望などといったものは、本質的に、未来の時間と水準を同じくする。拳がふたたびボクサーとして再起するエピソードにあきらかなとおり、イベント状に発生するすべては、現在が未来に追いつく過程にほかならない。それをしま奈が目の当たり、体験することを指して、もちろん、成長と呼んでもよい。が、このとき、虎と朝陽、同い歳である善はどうかな違うかな、すくなくとも二人の存在は、彼らが年上であることも含め、しま奈よりほんのすこし先を行っており、彼女のいささか幼い言動を、大人の側に近い目線から逆照射するかっこうになっている。こうして見るなら、共同体と思春期の現実にそくした問題の提起が、ラヴ・ストーリー以上の予断を作品に与えていると示唆的なのだけれど、あくまでもコメディであろうとする志向が、身動きのとれない重たさよりも、息苦しさをよそにするだけの晴れやかさを、読み手が持つだろう感想のなかに送り込んでいる。そこに『夢みる太陽』の魅力があり、最良の特徴がある。しかしまあ、虎にはべつの本名があって、それがああだとすると、タイトルが持っている意味も、ちょっと違ったふうに受け取れてくる、か。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
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2009年08月25日
 酒は辛口肴は下ネタ 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 みさき速というマンガ家を、高橋留美子のすぐれたフォロワーとして見るとき、その手腕は『酒は辛口 肴は下ネタ』において遺憾なく発揮されていると思う。もちろん、ここでいうフォロワーとは決して悪い意味ではない。個性の際立った登場人物たちが、気持ちのよいテンポでコメディをつくっていく様子は、あきらかに高橋をルーツとするものであるけれど、それを現在、このレベルで巧みに表現できるのは、当の高橋を含め、ひじょうにすくない。『特攻天女』のロング・エピソードや『殺戮姫』に展開されていたシリアスさは、ほとんど見る影もなく、後ろに引っ込まされている。かわりに、日常をすこしばかり横へとスライドさせた設定のなか、ユーモラスなまでのコミュニケーション・ギャップを盛り込む手法が前面化し、どたばた、和気あいあいとするひとときが繰り広げられているのである。東京の下町、居酒屋「男道」で腕をふるう料理人、野々宮太郎は、若いながらも今どき硬派を気取る堅物であった。客からは女嫌いと見られている。彼がそうなってしまったのは、実家、京都の老舗すっぽん料理屋「華屋」が、女系の血筋だから以上に、まだ小学生である妹の花七が、性的好奇心のひじょうに高い人格に生まれ、育ったため、彼女が幼い頃より振り回され、男子としてはつらく、痛い目にあってきたせいだった。6年前、ひとり東京にやってくることで、ようやく築いた自分の城が、すなわち「男道」なのだが、小学校最後の夏休みを利用し、ちいさな災厄ともいえる花七が、太郎のもとを訪れるばかりか、しばらく居座ると言い出したことから、甚だしく賑やかな昼夜がスタートする。まあ、タイトルに堂々「下ネタ」と冠されているとおり、ギャグの材料は、グロテスクなぐらい下品なものばかり、エロティックな描写も多いし、そのへんは好みのおおきく分かれる点に違いない。しかしながら、そうした部位はあくまでも表向きの装飾にすぎないのであって、作品の醍醐味はやはり、間、のとり方にある。人物と人物、セリフとセリフ、コマとコマ、これらの技法的にナチュラルな結びつき、わざとらしさも込みの滑らかさが、はきはきとした触感を連れてくる。たしょうまじに考えるなら、男性の主人公が持っている未熟なアイデンティティや、これが(今のところ花七の夏休みという)期限を設けられたうえでの喜劇であることなど、深層的にも作風の由来がうかがえるだろう。一方で、いびつな家族のモチーフは、このマンガ家の、おそらくは本質を貫く一本の柱であって、『酒は辛口 肴は下ネタ』では、兄妹の、他には決して代えがたい関係性を守っていることが、ドラマの底を担う。

・その他みさき速に関する文章
 『特攻天女』描き下ろし新作について→こちら
 『殺戮姫』について→こちら
 「日曜の夜は出たくない」 (原作:倉知淳)について→こちら
 『曲芸家族』第4巻について→こちら
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2009年08月24日
 パンドラ Vol.4 (講談社BOX)

 ここ最近にかぎらず、よしもとよしともの活動を追っていると、カットは描けるし、文章は書ける、けれども、なかなかマンガをやってくれないのは、きっと難しく考えすぎているからなんじゃないか、という印象を持つし、そこに作者の、マンガ家としての矜持があって、最大の資質が見え隠れしている、といえば、おそらくそうなのだろう。『見張り塔からずっと』は、『パンドラ』Vol.4に掲載された。2ページのマンガを、小説でサンドイッチするかたちの、作品である。よしもとにはすでに『西荻タワー』(04年、『文藝別冊 やまだないと』掲載)という小説があるが、ああ、ふたたび塔(タワー)だ、と思う。『西荻タワー』には、文字どおりのタワーがそびえ立っていたが、ここでは巨大な観覧車がそれを果たしている。〈観覧車の頂上から見た遊園地の外の景色は、やはり濃い霧で覆われていた〉のだった。そうして作中に浮き沈みするモチーフ、高い場所から空、あるいは死者、もしくはこの世界に居場所を感じられないにもかかわらずこの世界でしか生きられない人びと、揺るぎなく過ぎ去る時間、といったさまざまは、もちろん、よしもとの過去作においても重要なトピックになりえていた。この意味において、従来のイメージを裏切っていない。小説とマンガをミックスした手法は、必ずしも「4分33秒」などの実験的なアプローチと趣を同じくしない。むしろ、作者が自分のモチベーションを判断するための材料、確認作業のようにさえ、受け取れる。以前のインタビューを紐解くまでもなく、暗い目をした子供、不自由さを得た中年、こうしたテーマに対し、どうすれば希望のイメージを与えられるかは、あるとき以降、よしもとの創作にとっておおきな課題となっている。それを現在の筆力で、できるだけマンガに近づけようとしたのが、ここまでなら何とかやれるよと意思表明してみせたのが、『見張り塔からずっと』だという気がする。たぶん重要なのは、そこから眺められる先であって、よしもとが苦心しているのもそれ、『魔法の国のルル』の、あの空の向こう、虹の向こうにひらけている世界はまだあらわれていない。

 『ブロンちゃんの人生相談室』について→こちら
 『4分33秒』について→こちら(01年に「NEWSWAVE ON LINE」内のコンテンツに書いたもの)
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2009年08月22日
 外天の夏 5 (ヤングジャンプコミックス)

 そして夜が明けることなく、物語は終わる。朝が来てしまえば、すべては消え去ってしまう、それをおそれた祈りのように、である。暴走する少年たちに委ねられた佐木飛朗斗のロマンを、東直輝がマンガ化した『外天の夏』は、この5巻で完結した。突然の連載終了によって、まったく先行きの見えないまま、いったんは幕を引いてしまった作品であったけれど、前巻の予告どおり、単行本化にさいして大幅な描き下ろしが加えられ、主人公である天外夏の使命と青春に、束の間の希望が与えられている。いや、たしかにこれでもまだ中途半端に見られてしまうかもしれない。が、結末のあまりにも儚く、ささやかで、しかし逞しく、輝いて残るありようは、断固支持したい。油断したら感動してしまいそうですらある。

 この宇宙は果てしなく、どれだけ懐のひろさを持っていたとしても、一個一個の人間が幸福になれる筋書きを、わざわざ考えてくれたりしないだろう。各々がただ、自分の理を、手探り、掴んでいくしかないのである。すくなくともその決意がラストのシーンに刻み込まれている。

 たとえば架空のガールズ・ロック・バンド、ガソリン・バニーの奏でる楽曲が暗示的であるように、作中において、あるいはすでに現在の社会において、あらゆる価値基準は相対化されており、ヒロインの一人である巻島亜里沙の両親、宗親と玲子の夫婦が、互いを利用し合うことでしか愛を実現できないのも、そのことを忠実に教えているにすぎない。悪意を望んでいるのではない。存在価値を認め、必要としながらも、今の世のなかには、あらかじめ完璧なものなぞないと悟ってしまっているため、〈“愚かな男”…真髄が感じられないのだ…そしてそれを恥じるなど…〉と、〈“愚かな女”…己の利益しか感じられぬのだ…そしてそれを妄信するなど…〉と、一方の不完全さを呪ってしまう。

 娘の亜里沙は、そうした両親の関係を、ちょうど反照射し、だからこそ完璧な愛を求める者である。かくして、親と子のあいだにもある種の相対性が生じているのはともかく、欲望が、父母を、さらには家族を狂わせた、ということにしておきたい。だが、宗教や哲学に似て、膨大なシンパサイザーを召喚するほど、二人の欲望がきわめて純粋であるとき、それは結果の一部にすぎず、必ずしも正義となりえない。自分以外の誰かを動かさないかぎり、無根拠で独りよがりな批判にとどまる。たしょう象徴的にとるなら、そのことを無意識だとしても察知しているので、亜里沙は、巻島家で行われている饗宴を、途中で抜け、べつの世界に逃げ出すよりほかないのだった。じっさいのストーリーを見るのであれば、そこから逃げ出した彼女は、やがて運命的にも夏との再会を果たす、すなわち家族を原因に欠損を抱えた人間同士が行動をともにする流れとなっている。このような物語上の必然を経、亜里沙の手をとった夏は、春の空が桜と雪を降らす晩に〈…海と空の境は夜に溶けて…まっ白い雪が埋め尽くしてゆく…オレに“真逆の世界”を変える事なんて出来るだろうか…? でも…今 目の前にいるこの娘(コ)がかけがえの無い存在だと…春の雪が教えてくれていた…〉と思うのである。

 決して夜は明けず、夏が〈オレに“真逆の世界”を変える事なんて出来るだろうか…?〉と逡巡していることにあきらかだが、登場する人物の全員が十分なエンディングを迎えてはいない。物語には未解決の余地が残されている。しかしそれでも作品が、できるだけうつくしい印象をもって閉じられていると感じられるのは、夏という主人公に与えられた可能性が、間違いなく、陽性の反応を、たとえ彼の手が届く範囲内にかぎられているとしても、導いている、と信じられるためだ。

 夏の兄である冬が、かつて伊織に向かって言った〈別に世界を変えなくても オマエは無力なんかじゃねーさ…〉という励ましと、「族の王様」を目指す龍人と対面した夏の〈オレは無力で…でも…手が届くものは 何もかも守りたかった…(略)たとえメチャクチャな結果でも…後悔はしていない 何もしない自分は赦せないから…〉という決意は、作品のなかで、まさしく一連なりであるようなテーマになっている。

 たぶん「真逆の世界」とは、いっさいが相対化され、善悪の判断もなくなり、大勢が対立し合うしかない状況の喩えだとすることができる。冬は、その構造自体を変えようと願う者であった。そして、彼のアプローチは、さまざまな人びととの出会いを通じ、弟である夏へ、たしかに託されていることが、ちょうど冬と夏とに極端化された季節のあいだ、にぎやかな春の争乱に描き出されているのである。

 繰り返していうが、結末に至ってもなお、登場する人物たちを迎えるエンディングは十分じゃない。いや、それどころか、どの願いも虚しく、悲しく、残酷でしかありえないことだけが、いっぺんに強調されている。だがしかし、所詮それが、誰しもが幸福になれるわけではない筋書きこそが、この宇宙のありようだとするなら、せめてもの希望を必死になって掲げることもまた、無意味にされてしまうのだろうか。さすがに寂しすぎるよ。冬と夏の、点と点を、線と線とで結び、繋げることで、抽象性の内にあらわれはじめたテーマは、希望を飲み込みながらひろがる空漠に対し、精一杯の抵抗を試みる。宇宙の側から見て、どれだけ誤ったかっこうをしていても、捧げられた祈りの一つ一つは、不思議と人の姿をしていた。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2009年08月21日
 ヤンキー・マンガは生き方を教えられるか。たしかにこれは、フィクションは教えられるか、というふうに敷衍できる問題なのだけれど、ヤンキー・マンガにおいて生き方の云々は、直接的かつ具体的なテーマとなりうるため、ことさら提議したくもなる。が、しかし幸か不幸か、たいていの人間はそれを修身の書として読んでいるわけではないので、作者は表現のレベルに深みをつくる必要もないし、あるいは自分の倫理を素直に述べることが表現の深みだと思ってしまっている、と受け取れる。この問題に対するおそらく懐疑となっているのが、過去にもさんざん書いてきたけれど、高橋ヒロシの我妻涼(『QP』の登場人物ね)に向けた反省である。だがそれは『WORST』に持ち越されながら、『WORST』が長篇化するにつれ、じょじょに霧散していったように感じられる。後発の作家にしてみても、そうした問題の表層ばかりを引き継いでしまっており、むしろだからこそ、自分はシリアスなんだぞ、というスタンスが、必ずしもすぐれた表現をもたらさず、所詮はったりにしか見えない場合が多い。同時に、コメディ(という批評性)をおもしろく(正確に)描けなくなっている。

 たとえば『漫'sプレイボーイ』VOL.2掲載のインタビューで、柳内大樹は、自作の『ギャングキング』について〈絵柄はヤンキー漫画だし、それを求められるけど、自分では今、メッセージ性の漫画だなと。だから上っ面だけだとバレる気がするし〉と言っているが、それすらも結局は、登場人物がさかんに「想像力」と口走るばかり、いかにもなポエムで辻褄を合わせているにすぎず、たかだかその程度のことが〈俺の漫画が変わってるのは「深く悩んだもん勝ち」というか、人として一生懸命、真面目に考えた奴がケンカも強くなるって漫画にしてるからですかね〉と作者に思わせているにほかならない。

 この、『コミックブレイク』NO.5に発表された読み切りマンガ『スマイル』は、柳内大樹と、『Hey!リキ』の永田晃一による合作である。柳内と永田の親密な付き合いは、『フィギュア王』NO.131の「なかてま連合Meeting」という座談会を参考にすると、すでに10年以上のものとなっていて、たぶん、両作者の意識のうえでは、これもまた〈絵柄はヤンキー漫画だし、それを求められるけど、自分では今、メッセージ性の漫画だなと〉という点で、合致が得られているのではないかと思われる。ただし、まあ企画自体がプレゼンスであるような作品にどうこういっても仕方のないことではあるが、しかしやはり、内容のほうは、あまりはっとしない。8ページのうち6ページを上下に区切り、ケンカ(タイマン)する少年たちの内面をそれぞれが担当するという形式で、マンガは描かれている。そしてそれは、今日のフィクションにお馴染みの、生まれや育ちによって主体は形成される、というテーマに集約されてゆく。いや、もちろん、悪い影響や抑圧からいかに脱するかが本質の部分であって、二人の少年が出会いを通じ、本音をひらき、解り合える他人になることが、あかるいハッピー・エンドをもたらしている。

 いい話じゃないか、といえば、まさしくそのとおりだろう。だが、物語の整合性をとっているのは、基本的にポエムと説明なのだ。とくに永田のあらわしているパートが、その役割を果たし、これだけ詳しく説明してもらえれば、印象づけのポエムにも、ああそうね、と頷くしかない。だってそうなんでしょ、と口を挟んでも仕方があるまい。合作の方法を良いふうに解釈するなら、お互いの作風が対照になっている点であって、それは間違いなく意図的に行われているのだが、すべてを単純化する以上の功績は見られず、登場人物が持っている深刻さを必ずしも濃くはしていない、もしかすれば薄っぺらくさえしてしまっている。結果、じつはメッセージがどうであれ、拳を交わしたら友情が生まれる、と短絡するヤンキー・マンガの思いなしを越えてはいない。

・柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・永田晃一に関する文章
 『Hey!リキ』(原案・高橋ヒロシ)
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
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2009年08月19日
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 特定の地方名を冠し、不良少年の姿を描くスタイルのマンガは、80年代は吉田聡の『湘南爆走族』の頃からあった、といえば正しくそのとおりであるが、すくなくともそこで「湘南」という固有名が持っていたイメージと、現在の、たとえば吉沢潤一の『足利アナーキー』における「足利」が持っているイメージは、おそらく違う。たぶん、ではあるが、ださい、ということの比重がおおきくなっている。しかし当然、ださい、というのは都会的な観点において生じるものにほかならない。そうした見え方を逆手にとり、都会にあっては描けないストーリーをあらわしているのが、すなわち『足利アナーキー』にあたるわけだが、この、『漫'sプレイボーイ』VOl.2に掲載された『くまがヤン』もやはり同じ系譜に入ってくるだろう。舞台は、埼玉県の熊谷市である。地理的な条件を述べるなら、『足利アナーキー』の栃木県、足利市とまったくかけ離れているわけではないのは、何やら示唆的ではあるし、『湘爆』はもちろん、90年代の藤沢とおるは『湘南純愛組!』がそうであったのに反して、少年が海の向こうにアメリカを望みやすい場所とかけ離れているのは、いささか象徴的だと思う。今回の一話目(でいいんだよね、いちおう。まあ雑誌自体の存在がやや不明瞭なので、読み切りで終わる可能性もあるかもしれないが)を読むかぎり、デザインはこなれており、エピソードはよくまとまっている、が、この手のジャンルでいうなら、かつて古沢優が『Rock'n爆音』で、熊谷市の隣である東松山市を舞台にしていたけれど、登場人物たちの言動一つとっても、あそこまでのだささを追求しきれていないのは、むしろこの時代だからこそ、すこし、もったいない。良くも悪くも、作者サイドの洗練が勝ってしまっている。原作者の猪原賽とマンガ家の横島一は、同じくコンビを組んでいた『悪徒』であきらかなとおり、きわめてオールドスクールなスペクタクルを現代のセンスで換骨奪胎するのに長けている。それが、身の丈に合ったスケールの小さい世界で、まだうまく、フルな本領の発しどころを持てていない感じを受ける。
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2009年08月17日
 小川とゆかいな斎藤たち 7 (講談社コミックスなかよし)

 茶匡の『小川とゆかいな斎藤たち』は、支持されて当然、と素直に思えるぐらい、とてもキュートな佳作だと思っている。すくなくとも今の7巻までその評価はおおきく変わらない。ギャグという素材を、ラブコメに経由させ、そこからラヴを抜き、コメディに徹したような概要の作品だが、一方で、学園ドラマとしてもじつはよく出来ているな、と感じられるものがあるのは、ヒロインの小川も、(彼女を中心に結束を固める)ただ斎藤姓というだけの共通項を持つ三人の男子も、中学校の生活においては、各々が各々の理由で鼻つまみにされているのに近しく、それが周囲の評価をよそに小さく可愛らしい共同体を育んでいくところに、ストーリーの骨子がうかがえるからなのだけれども、この7巻では、そうしたパラダイムが、もしかすれば内輪だけの閉じた温床になりかねない点に、いくらかのシフトが与えられている。6巻のラストで、斎藤男子の内の一人が欠ける(かもしれない)という危機を、マンガは迎えていたが、おそらくそれも一つの節目だったのだろう。作者は単行本の余白に付せられたコメントで〈じつはわたし、この7巻が最終巻になるんだろうなぁ…と思っていたんですが…まだつづくみたいです!!!〉といっている。これを信じるなら、当初予定したいた構想を経たのちに続きを描くべく、物語のレベルに何かしらかの変化があってもおかしくはないし、たとえば、小川のライヴァル的な位置に配せられ、すでにレギュラーではあった成田むつみが、しかしここにきて以前にも増してクローズ・アップされていることを、一つの例に挙げられる。ひじょうに簡単に述べるなら、成田という回路を通じ、小川と斎藤男子たちの小さく可愛らしい共同体による、その外部に対する貢献度が高まっているのである。貢献度というのはさすがに大げさか、だが、とりあえずは、成田が小川たちのペースに巻き込まれ、小川たちもまた成田のペースに巻き込まれるかたちで、エピソードのつくられているのが多くなっているのは、如実な変化にほかならない。もちろん、次巻以降では、また展開が違っちゃうかもしれないけれど、現時点での見え方は先に述べたとおり、サークルの可能性が外へ外へひらけてゆくものになっている。

 6巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年08月15日
 ああ、ちくしょう、こういうところが最高潮に燃えんだよね。〈先生 「大人」の言うことは 「偉い人」の言うことは 本当にいつも正しいことですか? 先生の言うことは理屈では分かっても 私は従えません このままだとみんな「目障りな人間は排除していいんだ」そう思ったまま卒業する それは生徒会長として許せることじゃないんです〉これはヒロインの芽留が、抑圧の理論で学生を矯正しようとする教師に向かい、発する言葉である。

 小桜池なつみの『フライハイ!』は、たとえ学園生活が小さく限られた世界のことを指すのであったとしても閉塞以外に求められるものは必ずやある、こうしたテーマを、チャーミングであかるいヒロインの活躍と生徒による生徒のための自治の可能性を通じ、描いているふうに感じられるのであって、前1巻ではそれを、上級生と下級生(もしくはエリートと一般)の衝突的な構図のなかで明瞭化していたのに対し、この2巻ではさらに、教師の権力が両者のつっぱりをちょうど頭ごなしに押さえつけるかっこうで介入してくる、というくだりを設けている。

 幼い頃より格闘家の父親に山奥で鍛えられた芽留は、その鉄腕ぶりを隠しながら中学校に通うことを母親と約束するのであったが、鮎沢率いる2年生のグループの横暴に友人の千夜が傷つけられたのを見、ついに抜群の身体能力を発揮してしまい、徹底抗戦の構えをとるばかりか、自らが生徒会長になって、学校に平和的な空気を取り戻してみせると誓う。千代に、頭脳明晰なクラスメイトのルカ、味方といえるのはわずかながらも、毅然とした態度で振る舞う芽留の姿は、鮎沢たちの支配に屈していた他の生徒をも刺激し、じょじょにではあるけれども、風向きが変わりつつあるなか、しかし学校側も現状を黙認しているわけにはいかなく、教育委員会から派遣されてきた学校問題のプロ、市播に学生の処分を一任してしまう。何よりも秩序を重んじる市播は、強権を発動するのも厭わず、鮎沢に厳しい処置をくだすのだった。

 鮎沢とは敵対しながら、市播の一方的な締めつけにもまた納得のいかない芽留が、腹に据えかねて口にするのが、先の〈先生 「大人」の言うことは 「偉い人」の言うことは 本当にいつも正しいことですか? 先生の言うことは理屈では分かっても 私は従えません このままだとみんな「目障りな人間は排除していいんだ」そう思ったまま卒業する それは生徒会長として許せることじゃないんです〉というセリフであり、そしてそれは間違いなく、人と人の関係を決して貧しく見ない精神からやってきていると同時に、作品の健全な理念を臆することなしに代弁しているため、燃えるのだ。すなわち無条件にではない。

 それにしても12歳かあ。(単行本のあらすじにはなぜか14歳と記されているが)中学校を舞台にしている以上、当然のことなのだけれども、子供らしさと純粋さのとてもマッチした芽留の魅力は、あきらかにそのような年齢によるものだと思う。たしかに、こんな12歳なんていないよ、と述べることはできる。しかし、自分が12歳だった頃と比べてみたとき、ほんらい想定されているだろう読み手の世代とまったくかけ離れているにもかかわらず、反省させられるものがあるし、じっさい羨ましい。素直に肯定したくなる。あるいはそこにこそ、フィクションならではの力を認めるべきだろう。

 1巻について→こちら
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2009年08月14日
 ウヅキ☆ミドリの読み切り作品集『僕が君にできること』は、タイトルが示唆的であるとおり、表題作はもちろんのこと、それ以外のマンガも、基本的には、この僕(わたし)という主体が他の誰かに関与する可能性をラヴ・ストーリーのなかに描く、というような内容になっていると思う。まず「僕が君にできること」だが、ここでのドメスティック・ヴァイオレンスの扱いは、シリアスに考えるのであれば、やや平板すぎる。本質的な解決にまでは、おそらくはあえて、話を突っ込んでいない。しかし、モチーフの上では、その難題に対し、主人公である高校生男子の〈――っくそ どうしたらいい 俺に…何ができる?〉といった無力さにあったとしても〈…このままただ守ってやっても何も解決しない…今の俺にできること――それは〉と振り絞られる意志が、どう、働きかけられるか、はたして働きかけを持ちうるだけの余地はあるのか、このことの表現にプライオリティが置かれているので、さしあたりハッピー・エンドのかたちで結ばれているエモーションに、十分な整合性、説得力がもたらされているのである。父親の厳しいプレッシャーに自殺を考えることもある少年が、爛漫な少女と出会い、世界の見え方に変化を覚える「バイバイ ブルーデイズ」も同様に、家族の関係性はいわば作用点の一つであり、それにテーマを求めてしまうと、甘く、薄い、もしかしたら鼻白んでしまうかもしれなけれど、あくまでも力点はボーイ・ミーツ・ガール式のコミュニケーションであって、その部分にあらわれている表情の変化がやはり、作品の輪郭をあざやかに象っている。外見はちゃらいクラスメイトにアプローチされるヒロインの戸惑いを題材化した「信じちゃってもいいですか?」でさえ、じつは等しい根を持っていて、いっけん素朴なラヴ・ストーリーに展開を担われているのは、まあ単純に片想いと言い換えてもよいのだが、すなわち自分にとって特別であるような人間に何かしら関与する可能性があって欲しいという、ささやかな願いの後先にほかならない。したがって、すくなくとも現時点では、それをこのマンガ家の作家性と見ることも可能だろう。単行本に収められているうちでもっとも多いページを持った「エンレン」も、当然、例に漏れていない。離ればなれ、遠距離恋愛になってしまった恋人たちのすれ違い、といってしまえばステレオタイプなラインに収まっているものの、注意すべきなのは、信じる、たったそれぐらいの行為にかけられたウェイトのおおきさが、まさしく他の誰かへの働きかけ、励ましになっている点であって、ねえ君、君がたいへんつらく、寂しく、にもかかわらずがんばろうとしているとき、僕(わたし)にできることがあればせめてそれを、精一杯の申し出みたいに響く。
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2009年08月11日
 本家である高橋ヒロシが連載を休んでいるあいだに、『クローズ』バブルはゆっくりしぼみつつないかい、という気がしないでもないし、すくなくともマンガのジャンルにかぎるなら、公式の二次創作を任せられたフォロワーの多くは目覚ましい人気を獲得することもできず、正直、プロモーションの役にも立たなさそうなレベルにとどまっている。だが、そうした情勢のなかで唯一例外的に、いいね、と認めざるをえないのが、内藤ケンイチロウのマンガ版『クローズZERO』で、この4巻も、基本的には、原作の映画に忠実でありながら、独自のエンターテイメントを描き出せている。以前にも述べたけれど、ワキの人物たちの掘り下げが、じつに功を奏し、とくにここでカヴァーを飾っている牧瀬が、たしかに映画版でも異彩を放つ存在であったが、輪をかけてチャーミングな表情を見せているのが良い。牧瀬や宙太とともにG・P・S(源治・パーフェクト・制覇)を結成し、芹沢軍団との対決も含めて、いよいよ鈴蘭統一に乗り出そうとする滝谷源治だったが、参謀役である伊崎が襲撃を受け、重傷、出鼻をくじかれてしまう。仲間をやられた源治は怒り、周囲の静止も聞かず、突っ走る。それを見かねた牧瀬は、源治にもう一度、自分たちの目標を問わなければならなくなる、というのが、だいたいのあらましである。ワキの人物の造形を深くすることで、それに対応する源治の言動が、たんなる情緒不安定になっていないのが、マンガ版ならではのつよみだ。学園という、限られた領域におけるコミュニケーションと関係性のドラマが、国盗り合戦的なスペクタクルとはべつの魅力を、青春の群像を、作品に引き寄せているのである。女性の人物たちも十分な役回りを与えられており、本家の高橋や所縁のフォロワー群とは一線を画す世界観を、もちろんそれは脚本家の武藤将吾がストーリーの元をつくった映画版に由来するものだとしても、決して借り物に終わらずに確立している。

 3巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
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 女神の鬼 13 (ヤングマガジンコミックス)

 この世界に居場所のない人間がもしもいたとしたら、はたして彼らはいったいどうすればよかったのか。ことさら難しく考えるまでもないし、ミニ哲学をぶったりする必要もないだろう。所詮、この世界から逸れていくしかなかったのである。もちろんそれは極論にほかならない。が、しかし極論を手がかりにすることで、ようやく垣間見られる回答があるとするなら、絶望すらも天秤にかけるような、破格のテーマとなりうる。ここでいう世界とは、社会という語に置き換えても構わない。

 田中宏の『女神の鬼』は、この13巻から、物語の当初より存在が仄めかされていた鎖国島に舞台を移す。広島を追われ、海を渡った鬼と呼ばれる少年たちが、世代やチームを超えて、一堂に会するのだ。

 それにしても、前巻のラストは熾烈であった。家族や仲間と離ればなれになることを選んでまでも鎖国島行きを決意するギッチョ(佐川義)とアキラ(藤永晃)、そして彼らを見送ることすら許されず、無言のまま立ち去られてしまう人びとの万感が、正しく旅立ちのワン・シーンとして描かれていたわけだけれども、すさまじい悲愴に囚われる後者に反して、前者の表情の何とぎらぎらしていることかよ。鎖国島が決して不良たちのパラダイスではないことは、たとえば12巻において、下畦の〈王様? 島の中で勝ち上がったら‥‥王様じゃとおぅ‥!? 独立国家みとーなえーモンに思ォとんかも知れんがのォ…言ぅといたるが鎖国島っちゅーのは‥‥刑務所なんじゃい!! 刑務所でてっぺん獲ったけぇゆーて何が王様なら 寝ボケたコト言ぅなやコラァッ!!〉という言葉が、教えている。これを述べる下畦にギッチョは、鎖国島は〈ワシらみとーなモンでも 王様んなれる‥‥大切な場所なんじゃ‥‥コレ以上冒涜する気ならワリゃあ殺すど!!〉と怒るのだったが、下畦はさらに〈鎖国島は永久地獄なんじゃコラァッ!! なぁ〜〜んも知らんとガキがぁッ‥‥!!!!〉と言い放ち、〈何が地獄かじゃと‥‥? ふんっ‥‥‥‥‥そんなモン‥‥‥‥‥二度と‥‥‥‥帰ってこれんけぇに‥‥決まっとろ――がぁ……!! お前らにだって‥‥大切な家族がおろーがあ………好きな女と会うコトも‥‥SEXもできん‥‥島ん中閉じ込められておるのは見渡すばかりの鬼だけじゃ‥‥まさに‥‥‥‥地獄じゃろォがぁ……!!〉と続けるのである。全容はともかく、それがひとまずの真理であることは、鎖国島を忌むべき地として知る市民の言動によって、裏付けされている。

 鎖国島は、楽園、パラダイスではない。これまでのストーリーで、その凶暴な悪童ぶりから世間では鬼と嫌われる人物たちが、次々、送り込まれていった、文字どおり、閉じられた世界であって、そこではもちろん、この社会の規範とはまったくべつのルールが働いている。にもかかわらず、ギッチョが鎖国島に向かうことを願って止まないのは、自分の生まれ育った世界に、安住を求められないせいだろう。

 そして鎖国島の不穏な内部が、いよいよ明かされはじまる。13巻で、船を降り立ったギッチョたちが、懐かしい面々との再会を喜ぶよりも先に、容赦のない洗礼を矢継ぎ早に受けることで知れるのは、象徴も隠喩も換喩も何もかも、文学的な修辞など一個も役に立たないかのような現実を、作者がフィクションのなかに表現しようとしていることだ。髪型のためパーマ液を必要とする程度には文明的な不良少年が数多、たった一つの栄冠である王様の座をめぐり、全存在をかけ、奪い合い、殺し合う。それこそが、この世界に居場所がない人間の欲望をフルに満たすに相応しい、とでも言いたげな、もはやサヴァイバルと喩えるのさえも生ぬるいほどの攻防戦が、繰り広げられている。便宜上、島の東側と西側に勢力がわかれてはいるが、かつては親しく、今や西側の大将になっている真清が、〈お前らはとりあえず この国の法律と…この国の国民の‥‥敵と味方を完ペキに把握せ――‥‥〉と、ギッチョに忠告するとおり、〈生き残りたけりゃあ…ホンマに信用できる仲間以外…絶対に信用するな‥‥!! 絶対にじゃ!!〉というのが、不可避な前提なのである。

 先ほど、文学的な修辞など一個も役に立たないかのような現実、と鎖国島のことをいったけれども、ではその現実の激しさを屹立させる物語に、少年の成長が最大の成果であるようなビルドゥングス・ロマンがもたらされるかどうか、というのが、既存の枠組みを容易に超えてしまっているぐらい巨大な作品、すなわち『女神の鬼』に見るべき一つのテーマだろう。

 すくなくとも、異界を旅し、現世に戻ってくる、こうしたビルドゥングス・ロマンの成り行きを徹底的に断絶した場所として、鎖国島は設定されている。異界は異界であってもそこは、繰り返していうが、象徴的にも隠喩的にも換喩的にも何も起こらない場所に定められているのである。すでに主人公たちは帰るべき場所を持たない。

 しかし、絶望を用いることでつねに希望を示してきた田中宏が、ここにきてたんに絶望を弄んでいるとは考えにくい。いずれにせよ、鎖国島の編に入ってからも、目が離せないことに変わりなく、余人のうかがい知れない構想が、超ど級のストーリーを展開させるに決まっている。

 11巻について→こちら
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 1巻と2巻について→こちら

 『KIPPO』1話目について→こちら
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2009年08月07日
 生まれながらに不吉な力を持った少年が、自分の運命に逆らいながら、勇敢で新しい世界を切り拓いてゆく、というのは、まあ昔からあったとしてもそれは、とくに今日の少年マンガにおいて顕著なテーマだと見なさざるをえないし、多くの作品が必ずしも古典的な図式どおり父と子の対立を採っていないのは、遺伝と環境の問題が、家族の関係性とは異なった位相で受け取られるような認識が現代にはあることの、もしかればサブ・カルチャーへの反映であるのかもしれないけれど、一方で、父から子に、の継承的なテーマは、物語の展開があくまでも健全なものであると方便するさい、たいへん重宝されているのであって、この意味でいうなら、加藤和恵の『青の祓魔師(エクソシスト)』は、1巻の時点で正しくそうした手続きを踏んでおり、今日における少年マンガのセオリーに則った成り立ちをしていると思われる。その世界は〈二つの次元が合わせ鏡のように存在してい〉た。一つは人間の暮らす「物質界(アッシャー)」であり、そしてもう一つは悪魔の住む「虚無界(ゲヘナ)」である。〈本来は互いに行き来はおろか干渉すらできない〉のだが、悪魔たちはあらゆる物質に憑依することで、「物質界」に干渉し、人間の平和を脅かそうとするのだった。こうした背景を、いわば機密事項として、『青の祓魔師』は持っている。主人公は、魔神の落胤(サタンの子)でありながらも、それを知らぬまま、祓魔師(エクソシスト)である父に育てられてきた奥村燐という少年で、要するに、彼が自分の宿命と向き合わざるえないことが、ストーリーの動力となっているのだ。『ロボとうさ吉』では、今日における少年マンガのセオリーとはちょっと違うラインで、硬派な冒険活劇を描いていた作者だが、すでに触れたように、ここでは意外とキャッチーなつくりを試みていて、人類と悪魔の戦いを題材化するにあたり、ギルドを思わせるような組織を用意したり、そのギルドの内に、学園と資格の制度が設けられていたり、やや不良っ気がある主人公に対し、優等生である双子の弟を配し、さらにはバディを組ませるなど、ひじょうに旬な傾向を研究しているふしがあり、さて、それを転がしながらどう独自性を出してゆくのか、が今後の荷となるだろう。
 
・その他加藤和恵に関する文章
 『ホシオタ』について→こちら
 『ロボとうさ吉』
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2009年08月04日
 呂布とともに不意打ちを果たし、曹操を追い詰めた張ばくが〈曹操……この“戦場”がオレの贈物だ………〉と微笑む場面の何とも蠱惑的な印象、たとえば劉備と曹操のライヴァル関係もそうだが、こういうところに、武論尊らしさがあるよな、と思う。ルックスからして、ホモ・セクシュアルのイメージを張ばくは持っているけれど、それも踏まえて本質的にはやはり、男と男の関係を物語の前面に主張するものとなっており、これは武論尊が原作のマンガにおいて、正しく基本の手続きだといえる。“超”[三国志]をうたう『覇-LORD-』の16巻、曹操による徐州侵攻がいよいよ佳境に入ってゆく。しかし、ここで目立っているのは、必ずしも国盗り合戦に寄ったテーマではないだろう。ふたたび繰り返すが、武論尊の作品はたいてい、男と男の物語なので、女性の存在はうしろへ退かなければならない。これは『覇-LORD-』でマンガを担当している池上遼一が、ほかの原作者と組んだときには、うつくしい女性の主人公を立てるのに成功していることを考えるなら、あくまでも武論尊(史村翔)に固有する問題にほかならない。原哲夫が作画をつとめた『北斗の拳』を例に出してみるとすれば、あれもまた多くの男性登場人物たちが、愛をかけ、生き、戦い、死ぬ、にもかかわらず、その対象である女性登場人物たちが、十分なスポットを受けている部分は、きわめてすくない。最大のヒロインであるユリアですら、生身のままではなく、擬装に擬装を重ねることで、ようやく主体を認められている。むろん読み手は、そうして女性性の後退したかわり、前に出てきている男性性にロマンを見出しているにすぎない。この問題はしかし、男装の麗人として描かれている趙雲の出産や、董卓の邪心すらも揺るがした貂蝉の母性などを通じ、『覇-LORD-』では、微妙な変化をきたしているようにも思われる。そしてついに登場するのが、美貌に似合わぬ凶悪さで盗賊団を束ねる紅蓮である。彼女は〈“卑怯”と“正当”の区別が無い!――それがあたい達の最大の“武器”なんだよ!!〉と言う。たんにゲリラとしての心構えを説いているだけのことかもしれないが、重要なのは、それが女性登場人物の口から述べられていることだ。彼女はその不敵さをもって、武将クラスの陶謙や常元を圧倒してしまのだし、さらには劉備の暗殺を試みる。はたしてそこからいかなる動揺が生まれるのか、すでにいったような意味で物語の根幹に関わり、十分な注目を誘う。
 
 追記:言うまでもなく、『北斗の拳』に喩えるなら、張ばくはユダ、紅蓮はマミヤのヴァリエーションだろうね。だからこそ、その両者をどう動かすつもりなのかが、興味深いのでもあった。

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その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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2009年08月01日
 相変わらず、塀内夏子の作風には、硬派、という言葉が似合う気がした。これはもちろん作者の性別とは関係ない。トレンドの観点から見るのであれば、テーマにしても技法にしても、完全にオールドスクールである。が、しかし、作者自身がまるで、それのどこが悪い、古い新しいがすべてじゃないし、真理じゃないだろう、と、頑なに描き込んでいる様子のイメージされることが、マンガ自体のつよさになっているようにも感じられるのである。この『明日のない空』も、1巻を読んだかぎりでもう、そういう塀内のカラーにあふれている。率直に、胸が熱くなる。

 二年前、父親が弟と妹を道連れに無理心中し、そのせいで心を病んだ母親を養い、生活していかなければならなくなった才谷瞬(サイちゃん)は、昼間は働きながら、定時制高校に通う。そんな彼にとって、唯一の励み、喜びは、部活動でハンドボールのコートに立つことだった。放課後、親友であり、頭は弱いがスター性を持ったプレイヤーの古賀毅(ガッツ)や、気の知れた仲間たちとともに、ボールを掴み、回し、走っているあいだは、多くの煩わしさから自由に、まったく自由になれるのだった。言うまでもなく、スポーツと青春は、この作者がもっとも得意とするジャンルだろう。若さ、生きるということは、正しく身体の運動に直結する。

 スポーツを題材にしたフィクションにおいては、主人公のモチベーションが上昇志向と一致するのがたいていであって、プロになりたい、金を稼ぎたい、世界に出たい、というレベルから、この試合に勝ちたい、大会で一位になりたい、もっと輝きたい、というレベルまで、それは程度の差こそあれ、幅広く通底している。だが『明日のない空』は、そうした理念をほとんどワキに置いてしまったところで、物語をはじめているのが、ひじょうに野心的だといえる。

 そのことは、主人公たちの東大阪第二高校ハンドボール部が、たまたま遠征で関西に来ていた浦和大附属高校ハンドボール部と試合をするくだりに、顕著である。おどろくべきことに、才谷と古賀のコンビを中心に、東大阪第二高校の面々は、全国クラスの強豪を圧倒してしまうが、彼らの結果に対する執着の必ずしもつよくないことが、相手方の中心選手である我那覇力を唖然とさせる。いや決してそれは主人公たちがハンドボールに熱心ではないということではない。あくまでも彼らのなかでスポーツは、プレイすることの楽しさに目的を限定されているのだ。じじつ、試合の最中、いちばん多く示されているのは、笑顔である。ほんのひととき、ハンドボールに触れられることの嬉しさが、何よりも優先的に表現されているのであって、おそらくそこにこそ、作者が、定時制高校を設定の一つに選んだ理由もあるに違いない。

 先に述べたとおり、才谷の境遇は不幸といってしまってもよい。けれど、不幸そのものがテーマにされているのでもない。むしろ、彼らの姿を通じ、導き出されているのは、極端にいうなら、社会の重力が強まるにつれ、濃さを増す庶民の空気にほかならない。才谷の不幸は、たぶん、その濃さを一身に受けなければならないことの喩えである。浦和大附属高校の我那覇が、彼は金持ちの坊ちゃんであり、たいへん恵まれており、主人公たちの態度を理解できないのは、結局のところ、その空気のありようなのだろう。

 コマ割り、今どきのセンからするとやや角張った絵柄もあってか、庶民に面した目線には、ちばてつや、や、ちばあきお、を、どこか彷彿とさせるものがある。もしかしたら、『プリンセス・オン・アイス』で、ひさびさに女性向けの作品に挑んだことが、ストーリーのデザインも含め、初期のちばてつやにまで遡れるような、マンガの文法を再発見させたのかもしれない。番外編として収められたエピソードなんか、まるで大昔の少女マンガみたいだ。しかしそれが、森下裕美の『大阪ハムレット』がそうであったように、方言の利便も込みで、いかにもだからこその良さに繋がっている。いずれにせよ、時流とは関係なしに、硬派なラインで輪郭の描き出されていることが、魅力のおおきさを担う作品だと思う。

・その他塀内夏子に関する文章
 『イカロスの山』
  8巻について→こちら
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  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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2009年07月31日
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 80年代から90年代にかけ、流行ったヤンキー・マンガの系は、以前の時代の不良ヴァイオレンスと学園ラブコメのアマルガムとして見るべき、というのが、かねてより述べている主張であるけれど、もちろん、いやぜんぜん違うよ、という反証があってもいいし、だとしたらむしろ、それこそが言語化されなければならないのかもしれないが、いずれにせよ、そうしたジャンルは、90年代の半ばに、レディース(女性暴走族)を扱ったいくつかのマンガを登場させることになる。たとえば、94年には克・亜樹の『エンジェル・ハード』が、95年には森左智の『特攻!アルテミス』が、96年にはきらたかしの『少女爆走伝説Fair』が、といった具合に、次々、あらわれたことの背景には、速水健朗が『ケータイ小説的。』で指摘しているような、あるいは中村すえ子が『紫の青春』で回顧しているような、90年代前半におけるレディース文化そのものへの共感が、すくなからず、影響しているだろう。しかしながら、一方でそこには、男性向けのラブコメが、ハーレム型の慰安を求めるパターンへ、じょじょに進みつつあった時勢に対するかすかな反動、女性の視点を導入し、ピュアラブルな関係性を擁護しようとするマンガの、文化的な作用が、傾向としてあったのではないか。そもそもがラブコメに寄った作家の描いた『エンジェル・ハード』が、男性が女性に乱暴(レイプ)することの罪悪を、まったく自覚することがなかったため、作品的には失敗してしまった(にもかかわらず、露骨なセックス(性交)の描写だけはあっさり解禁して、その後に『ふたりエッチ』のようなマンガを発表することになる)のは、本質にかかる部分を、皮肉でもって教えてくれていると思う。ともあれ、95年に『週刊少年チャンピオン』で連載をスタートし(01年まで続い)た、みさき速の『特攻天女』もまた、上記の一群に加えられる。たしかに、どぎつく、凄惨な場面もすくなくはなかったが、『エンジェル・ハード』とは反対に、ラブコメの触感を手放さず、残酷な世界においてさえ純心であろうとするエモーションを、女性の主人公に託していたことを、やはり一つの特徴に挙げられる。

 この、創刊40周年記念名作読み切りシリーズの一環として、『週刊少年チャンピオン』No.35 (今週号)に掲載された『特攻天女』の新作は、多くの人物が因果応報の酬いを受ける本編において、まだ幸福が許されていた時期の日常を抜き出しており、オーソドックスなラブコメの様式における一話完結型のエピソードにも読める。ヒロインである和泉祥の活発さを動力にして、周囲の面々がわいわい賑やかなワン・シーンを繰り広げるのである(本編では、その崩壊と終着がクライマックスをつくっていくわけだけれど)。そうした内容が、どことなく夏のイメージを持っているのも、ラブコメのイディオムに内在するテーマ、すなわちヴァケーションはパーマネントであって欲しい、式の欲望に要請されているのだと思われるし、じつは作風自体、終わらない夏休みといえば代表的な高橋留美子の影響がおおきい。なかでもちょうど学園ベースのどたばたを参照しているかのようなアプローチは、同じく高橋をリスペクトする渡瀬悠宇が、ファンタジックなストーリーの線を強化することで、ユーモラスなしなりを弱めているのとは、好対照な成り立ちだともいえよう。みさきは現在、『ヤングチャンピオン』で『酒は辛口 肴は下ネタ』という、この方向性を追求したマンガを描いているが、当然足し算引き算の単純さでは決して語ることができないとしてもそれは、あくまでもニュアンスを見るのであれば、『特攻天女』にはあった不良ヴァイオレンスの要項を抜き取ったものにほかならない。

・その他みさき速に関する文章
 『殺戮姫』について→こちら
 「日曜の夜は出たくない」 (原作:倉知淳)について→こちら
 『曲芸家族』第4巻について→こちら
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2009年07月29日
 大事な恋人にちょっかいをかけてくる野郎がいたら、そりゃあ腹が立ったりもするだろうし、ましてやそいつがまじであったならば、男と男の戦いになることもあるだろうよ。こうした衝突のテンションを極度にクローズ・アップした表現として、新條まゆに象徴されるような『少女コミック(Sho-Comi)』の系を読むことができる、と個人的には思っているのだが、そのラインでいうなら、この、水瀬藍の『センセイと私。』の3巻は、たいへんに燃えるな。基本的なコンセプトは、教師と生徒の、要するに、周囲に隠れて付き合わなければならない二人が、さまざまな障害のなかで、いかに自分の気持ちをキープし、自身の欲情に耐えうるか、であって、それを過剰化したところにドラマが生まれているのだけれども、2巻の時点で、教師の篤哉が記憶をなくし、恋人であるヒロインの遙香のことを忘れてしまう、という展開を持ち出してきたのには、さすがに古典的すぎるよ、白けそうになってしまったのだが、この巻に入り、遙香の傷心を見かね、同じ高校に通う男子生徒の拓海が、慰め、気持ちを振り向かせようとするあたりから、古びているはずのアイディアが、馬鹿にならず、逆にさんさんと輝きはじめる。そう、たとえば〈俺 吉野(注・遙香のことね)を抱きました あんたとつき合っても 吉野は泣いてばかりだ 記憶が戻ったって どうせまた先生と生徒のつらい恋愛になるだけだろ だから 吉野は俺がもらいます〉と、こういうセリフは、まあたしかに紋切り型であろうが、しかして遙香を真ん中に置き、篤哉と拓海が、まさしく男と男の意地をぶつけ合うかっこうになるのは、いやいや素直に熱いじゃねえか。すくなくとも、篤哉と遙香のあいだに女性の側から割って入ってくるアキラが、噛ませ犬のいやなやつ以上の役回しを得られなかったこととくらべてみるなら、テンションの激しさは歴然としている。拓海が〈…………大人って大変ですね 手が震えるほどの嫉妬も隠さなきゃいけないなんて〉と挑発するのに対し、篤哉が〈嫉妬? 貴様への怒りを抑えているだけだ〉と言ってみせるのも、なかなかのクライマックスさ加減である。もしかすれば、拓海の、遙香へのアプローチは、ちょっと、ずるい。汚いとさえ思う。だが、それだけのハンデを使ってまでも、手に入れたいと願うほど、まじであったに違いない。遙香の弱みにつけ込み〈ドキドキするだろ? 先生じゃなくても 俺なんだよ 吉野ちゃんのはじめての相手は〉と述べる姿は、完全に悪者のそれだとしても、彼女の〈ドキドキします…でも ここがぽかぽかしないんです〉という答えを前に、間違いを正す態度が、拓海を、再度、べつの意味で、男にしている。
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2009年07月28日
 藤井明美の『スイート☆ミッション』も、いつの間にやら9巻目に入った。が、それはマンガの内容に十分見合った実績であると思う。元気と純情が取り柄のヒロインとサドっ気抜群で天才型のイケメンさんの、不釣り合いともいえる恋愛を片方の辺とするなら、二人を含めた生徒会の個性派たちが活躍し、校内で起こる数々のトラブルを解決してゆくというのをもう片方の辺とする、こうしたストーリーの成り立ちには、いやまあ、たしかに目新しさを求められないけれど、まさしく学園ドラマの醍醐味の一つ、特定の条件下で結ばれる連帯の賑やかさを、気軽にアクセスできる親しみやすさで、描き出しているのである。しかし、学園ドラマのフォーマットに律儀である以上、作中人物らの卒業が近づくことは、いよいよエンディングに向かいはじめているのかな、と予想させる。一学年の上の恋人であり、生徒会長である夏の進学に、もしかしたら離ればなれになってしまうことの不安を覚える主人公の灯里に、夏の弟で、極度に兄を慕う高良は〈足枷になるなよ なっちゃんはおまえといるためにがんばってるのに 不利な条件ばっかり選んで なのに おまえは何かしてんのかよ なっちゃんのために〉と、厳しく問いかける。その言葉に灯里は〈胸を殴られたような気がした〉のだった。ここでのくだり、表面的には、夏の、京都の大学へ進学するかもしれない可能性が、物理上の距離があくことを意味し、それが灯里を苦しめているふうに読める。たぶん、作者自身もそういうつもりで話をつくっているだろう。だが、本質的には、同じ共同体に属するペアのうちの一人が、その外側に出て行かざるをえないことが、置いて行かれるもう一人のほうの精神に負荷を与えているのではないか。物理的な距離の、遠い近いは、おそらく、それを誇張しているにすぎない。すくなくとも、こうした感触を頼りにしなければ、卒業式の直前に事件が起こり、ふたたび生徒会が一致団結する、というシークエンスの説得力は薄まってしまう。ところで、誰の影響かは知れないが、絵柄に関し、女の子たちの、とくに灯里の表情が、ここにきて、ひじょうに可愛らしくなくなってしまっているのは、残念だし、もったいない。
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2009年07月26日
 前作の『学校のおじかん』もそうだったが、田島みみ、スタートのダッシュはいいんだよね。深く考える必要もなしに、わくわくさせられるものがある。唯一の肉親である祖父を喪い、まったく身寄りをなくしてしまったはずのヒロイン、菜花には、じつは母親違いの兄がいた。その兄を頼り、上京、教えられた住所を訪ねてみたはいいけれど、そこで顔を合わせたメガネのイケメンさん、桐谷蒼は、彼女のことなど知らないと言う。あまりにも素っ気ない態度に驚き、あらためて機会をうががおうとする菜花であったが、公園で一息ついているとき、不良少年たちにからまれてしまう。はたして、ピンチを助けてくれたピアスのイケメンさんは、自分を桐谷紅と名乗る。蒼と紅、彼らは血の繋がらない兄弟であり、つまり、もしも菜花の兄がほんとうにいるとすれば、二人のうちの片方のみがそうだということである。しかし桐谷家の父母が不在のため確認がとれず、蒼と紅からも拒否された菜花は、せめて〈他人かどうかわかるまで この家に置いてください〉と必死に願い出るよりほかなかった。この1巻の滑り出しから『君じゃなきゃダメなんだ。』のストーリーを述べると、以上のようになる。もちろんこれは、紋切り型といって構わないほどによく見られる設定の、ちゃんぽんにすぎない。そうして、菜花、蒼、紅、の三者による共同生活と学園生活が、近親相姦や三角関係の上澄みをすくいながら、正しくなし崩し的に幕開いていくわけだ。定石に従い、利己心がつよく意地の悪そうな美人さんも登場してくるし、ね。だが、最初にもいったとおり、これがわくわくさせられる。基本的に、少女マンガのコードに忠実なイベントやリアクションが、ぽんぽん、テンポよく起こるので、余計な躓きを得ることもなく、読み、受け入れることができるからだろう。だが、この作者の弱点は、本質的にそれ以上のものを描けないことにある。おそらく、話が進んでいけば、作中人物同士の関係性を、その上澄み、要するに状況説明だけではやっていけない局面が出てくる。するとたちまちテンポが悪くなり、わざわざ、といった感じのイベントやリアクションの繰り返しに終始したせい、怠くなってしてしまったのが、『学校のおじかん』だったのだけれど、さて、そのような困難を『君じゃなきゃダメなんだ。』はクリアーしうるのかどうか、というのが、当然、物語のレベルに作用し、内容の濃さに関わっていくのだと思う。

 『学校のおじかん』
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 香魚子の『さよなら私たち』は、純粋な少女マンガのラインで見るより、たとえば佐原ミズあたりが持っているナイーヴさを好むような層に受けそう、といった感じの読み切り作品集である。たしかに初期の頃の一篇、「失恋ファミリーレストラン」は、現代的な『別冊マーガレット』の系を意識したタッチの絵柄になっているが、本質的にはそうではないことが、他の篇からはうかがえる。ストーリー自体も、シンプルなラヴ・ストーリーとは逸れていて、なんとなくこう、根が暗い。むろんそれを、線の印象も含め、繊細と言い換えてもよい。おそらく、完成度の面でいうなら、もっとも新しい「時をかけるまえに」を挙げるべきだろう。カヴァーからして、本当はこれを表題作にしたかったんじゃないかな、という気がするけれども、題名があまりにもあんまりなので、今のものになったんだと勝手に推測する。「時をかけるまえに」の舞台は、すでにタイムマシンの完成が予見されている未来、そのようなSFの設定を用い、とある少女と少年の恋愛を、幸福とは何か、いくとおりもの解釈が許されるなかに、残酷な結末がせめてものせつなさに変わるよう、描いている。作者は現在、少女小説である『伯爵と妖精』のコミカライズを手がけているが、今後、このぐらいのクオリティでオリジナルの作品を発表していければ、おおきくファンを増やすことになるかもしれない。ただし個人的には、すべての篇を読み終えたとき、屈託している物語をあらわす手つきにいったいどれだけの躊躇いがあるのか、あって欲しいという意味で、ほんのすこし、疑問を覚えるところがあった。
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2009年07月25日
 尾玉なみえ短編集脳酸球 (シリウスコミックス)

 ギャグ・マンガについて、ああ、これ、可笑しいや、以上のことを述べるのは、たいてい難しい。ましてや、尾玉なみえの場合、エキセントリックなアプローチはおそらく、計算尽くでありながら、その尻尾を掴ませない、要するに、頭の良さをまったく隠してしまっているところが、また厄介なのである。いずれにせよ、異才であるのは間違いなく、たとえばこの短編集『脳酸球』は、たんに単行本に入っていない作品をまとめただけの内容にすぎないのだけれど、あたかも傑作選のような純度を保ちながら、ヴァラエティに富んでいるのが、おそろしくいかしているのだった(集英社や秋田書店、竹書房の雑誌で発表されたものを、講談社が出す、というのも一種のギャグになっているだろう)。まずは冒頭の「燃えよセールス!!」、最初のヴァージョンの3話分を読まれたい。これ、1話目と2話目は、コントの台本としてそのままコメディアンが演じても構わないぐらい、よく出来ている。しかしながら逆に、マンガならでは、といえるのは、せいぜいラストの2ページが完全な反復になっているあたりにすぎない、と思うのだが、それが3話目になると、同じ登場人物、設定、シチュエーションを使いつつ、ほとんどマンガでしか成立しない表現に突入しているのと並行し、作中の関係性までもが、一変する。ボケやツッコミ、といった役割分担により定められていたはずの秩序が崩壊してゆき、日常から半歩ずれているがための笑いは、ちょうどホップ、ステップ、ジャンプの、ジャンプの勢いで、見かけ上は等しい世界であるにもかかわらず、まさしくべつの位相にワープしてしまうのである。かくして、あまりポピュラリティのない場所へとオチを持って行っちゃうのが、まあたしかに作者の業であり、不幸であるのだけれども、端的に、この3話の構成は見事な技になっている。2つ目以降のヴァージョンは、むしろ助走なしのジャンプを繰り返すことで、マニアックさを追求しているふしがある。いやいや、好きなんだけどさ、趣味がつよすぎるよ。だいいち、「燃えよセールス!!」以外の作品も含め、変態さんしか出てこねえんだ。はたして、「スーパーマグナム まむしレディ」のどこに、「愛しのレスラー」のどこに、まっとうな人間が存在するというのか。もちろんその、変態さんたちが清々しいまでに生き生きとしているのが、最大の魅力でもある。3つのヴァージョンが描かれた「サルっ子ペペ」にしたって、細かいあれこれは異なれど、基本、変態さん同士のコミュニケーションをギャグに仕立てている。ここで注意しなければならないのは、変態さんと世間とのディスコミュニケーションを、言い換えるなら、ギャップをおもしろく見せているのではない、ということで、さらに言うとすれば、変態さんたちによるカオスではなく、エキセントリックなシーソーの両端でバランスがとられ、変態さんたちのコスモスがつくられている、ということだ。この違いは、似たように変態さんの我が儘をギャグにしている金田一蓮十郎の作風と比べてみれば、あきらかである。マニアックなコスモスは、もしかしたら自閉の領域になりかねない。そこに自らを打ち切り作家と嘯く尾玉の本質があっても不思議ではない。「サルっ子ペペ」は、人間の母子と高い知能を持った猿とが、心を通わし、どたばたを繰り広げる。このような梗概を、西洋文学的な題材のパロディと受け取ってもよい、が、じっさいの印象は、意外なほど隔たる。可笑しさの重心は、そうした舞台装置さえ軽くまたぎ、あくまでもこちら現実における常識そのものとの、対照のなかに置かれている。彼ら変態さんたちはまるで、読み手の側から、おいおい、と声をかけられるのを待っているみたい、とりあえずは好き勝手をし放題、ぎゃんぎゃん騒がしくやっているところに、もちろん、作者の企みがある。
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2009年07月23日
 少年サンデー1983 2009年 8/15号 [雑誌]

 大野茂の新書『サンデーとマガジン』では、副題に「創刊と死闘の15年間」とあるとおり、1959年の両誌の創刊から70年代半ばまでのドキュメントが内容を担っていて、その先に関しては〈「少年サンデー」は、1970年代後半から、「ラブ・コメディ」という金鉱脈を掘り当てる〉という一節でまとめられているのだが、では『週刊少年サンデー』とラブコメが蜜月であった時代とはどのようなものか、もちろん、それはいくつかの資料、言説で知ることはできるものの、当事者の証言を集めたものは決して多くはないと思う。そこにきて、この『週刊少年サンデー』の増刊号としてリリースされた『少年サンデー1983』である。たしかに、巻頭に〈この本は、少年サンデー誌上、最大部数(2009年7月現在)を記録した「伝説の1983年」当時、連載していた作品の中から徳に厳選した9作品を、出来る限り当時に近い形で再掲載したものです〉とあるように、ノスタルジーに頼った誌面づくりがなされており、そのへんは基本的には既発表の作品を再掲したものにとどまるのだけれども、特筆すべきは、あだち充、高橋留美子、村上もとか、島本和彦、原秀則、細野不二彦、石渡治、岡崎つぐお、新谷かおる、といった錚々たる面々に、自身のマンガ家人生と当時を振り返るかたちでインタビューが行われている点だろう。これだけでけっこう読み応えがある。また、それらの作家(あるいは作品)に所縁のある(もしくはファンである)マンガ家がメッセージをあてており、こちらのラインナップも、青山剛昌、藤田和日郎、魚戸おさむ、石川雅之、猪熊しのぶ、曽田正人、よしもとよしとも、村枝賢一、ゆうきまさみ、であったりと、かなり興味深い。だいたい、よしもとよしともが実兄である石渡治と自分のことを、これだけダイレクトに語っているというのは、なかなかレアなのではないか。さらには当時の担当編集者が、それぞれの作品の裏話を打ち明けているのも、重要なエッセンスとなっていて、同時期の『週刊少年マガジン』の側から、小林まことの発言を引っ張ってきているのも、小林の『青春少年マガジン』と合わせたとき、ぐんと資料性が高まる。それにしても、伊集院光とあだち充との対談や、青山剛昌の感想、そしてあだち自身の発言から、あらためて確認できるのは、やはり『タッチ』における上杉和也殺しは、とてもセンセーショナルな事件であったことだ。かつて小説家の酒見賢一は、ある意味で『タッチ』は『あしたのジョー』へのオマージュであると指摘したが、おそらく和也の死の遠因には、力石徹の死がある。このことをいつか誰かが明晰に論じてくれないか(酒見がやってくれてもいい)と思いつつ、読んだ。
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2009年07月21日
 あたかもその作品を内部から食い破るかのように、佐木飛朗斗のつくり出す宇宙はつねに膨張をし続ける。しかし、増大してゆくエントロピーはやがて佐木自身の手にあまり、結果、多くの作品が意味不明瞭なエンドを迎えざるをえなかったことは、周知のとおりだろう。同様の困難もしくは爆弾を、山田秋太郎と組んだ『爆麗音』も当然のごとく抱え込んでおり、はたしてそれにどう、調和の旋律を与えるかが、ストーリーとは異なったレベルで、最大のテーマになると思われる。

 ところでここ最近、ロック・マンガ、いや、バンド・マンガというべきが、シーンの一角に定着しつつある。なかでも主流をなしているのは、音楽そのものを題材化するというより、趣味やサークルの存在に焦点を絞ってゆく手つきである。これを指し、ハロルド作石の『BECK』以降から、かきふらいの『けいおん!』以降へ、とタームを切り替えられるかもしれないが、それはともかく。たとえば、花見沢Q太郎の『PLAY!』では、女の子に誘われたことをきっかけに、方向性や技術的な問題はべつとし、ついついバンドに加入してしまう主人公の姿が描かれているけれども、『爆麗音』では、似たふうな場面、まったく違う選択肢をとる主人公の姿が描かれている。もちろん、これはたんに傾向の差異にしかすぎず、どちらが良い悪い、正しい、ということではない。だが、そうした例の対照によって、同じジャンルにおける分岐の一端を知ることができる。

 さて、以上は余談にほかならない。本題は『爆麗音』の5巻である。アルバイト先を訪ねてきた「デモンズ」のオーナー黒沢に、あらためてライヴ・イベント「デモンズナイト」への出演を依頼された歩夢は、まさかの出来事を喜んで引き受けるが、しかし、肝心のバンドがない。すでにヒューマンガンズとは袂を分かってしまっている。そのため、いそぎメンバーを探さなければならない彼のもとに、かねてより縁もゆかりもある人物たち、印南烈、ヴィオレッタ、そして道夫が集まってくるのだった。

 こうしてバンドの結成される経緯が描かれているのだけれど、その様子はオーディション形式のジャム・セッションのなかに切り取られている。歩夢と烈のツイン・ギターが織り成す「揺れ(グルーヴ)」に、代わる代わる加わるリズム隊はついてゆけず、演奏の最中に除けられてしまう。〈…確かに凄ェ…っつーか “違う世界の生き物”みてーだ…〉が〈けど…“これ”をバンドにするつもりなのか? これは…ソリストのペアだっ!! …バンドじゃ無いっ…!!〉と敬遠されてしまうのである。しかしそれがすべてのはじまりだっただろう。テレキャスターのベースを携えたヴィオレッタの登場が、彼ら二人にあたらしい展開をもたらすのだった。歩夢のギター、ギターからピアノへとチェンジした烈が、ふたたび「揺れ(グルーヴ)」を発したとき、いっしょにジャム・セッションに入っていたヴィオレッタは〈最高ネ! 無伴奏ソナタでは得られない“グルーヴ”ッ!“烈のピアノ”の無限世界を “歩夢のギター”が どこまでも突き抜けてゆく…!! 〉と思う。さらには、三人が奏でる「揺れ(グルーヴ)」に触発され、ただの傍観者だったはずの道夫がドラムを叩き出すと、ようやく歩夢は〈これだっ!! この爆音こそがッ…!! オレの… オレのバンドの産声なんだッ!!〉という実感を持つのだ。おそらくはこのシークエンスに『爆麗音』の本質が託されている。そしてそれは、佐木の宇宙がひろがり、膨張するのとパラレルなものであるに違いない。

 独特なポエジーをともない、膨らみ続けながら、もしかしたら破綻さえもきたしてゆく佐木飛朗斗の宇宙に、山田秋太郎はひとまず、応え、こらえ、抗っている。演奏シーンにイディオム的な目新しさはないものの、たとえば、ファズで音をひずませたストラトキャスターを烈が弾いてみせる場面、〈まるでッ… 重金属(ヘヴィメタル)… 超デケェ戦斧を振り廻してるみてーだッ!!〉と述べられるようなイメージの具体化、激しい動きの描写は、作画上のインパクトを引き出すばかりではなく、「揺れ(グルーヴ)」なる抽象的な概念に対し、明瞭なダイナミズムを与えているのである。

 ギター、ベース、ドラム、これでバンドは揃ったかに見える。たしかに、インストゥルメンタルのみでやっていくのであれば、何ら問題はない。しかしやはりここで思い出されたいのは、弥勒の存在、つまりはヴォーカルのパートを設けるだけの余地が物語に残されていることだ。弥勒との因果は、歩夢の母親を通じ、すでにひらけている。まさかそれを伏線として回収するような真似を、佐木がしたらしたで(できたらできたで)驚くし、すくなくともストーリーのレベルではまだ、音を合わせたときの開放感以上に鳴らすべきテーマを、主人公たちは得ていない。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら  
 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
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2009年07月19日
 すこしばかりおさらいをしよう。同一の世界観をシェアする立原あゆみの作品群においては、風組(『本気!』シリーズ)、関東一円会(『JINGI』シリーズ)、極地天道会、の三大勢力が互いを牽制し合うことで、日本の極道社会の均衡は保たれている。余談になるけれど、それらの図式からは独立しながらも一目置かれているのが、けもの会は猩猩組の、壁村耐三である(『あばよ白書』)。そうして下部の組織や末端に位置するヤクザたちの、欲望、諍い、血を流す様子が、いくつものヴァリエーションを生んでいるわけだ(『東京』、『弱虫』、『極道の食卓』、『恋愛』等々)。が、より巨大なレベルで見るなら、その大半は、先述した三すくみのバランスを、崩そうとし、守ろうとし、結果的には強固にするための運動、闘争だといえる。たとえば、無印の『本気!』では、風組の内紛が、雨降って地固まるような結末をもたらしていた。たとえば、『本気!サンダーナ』では、極地天道会の内紛が、やはり雨降って地固まるような結末をもたらしていた。そして『JINGI』シリーズでは、関東一円会の内紛が、同じくなってゆくことが、この『仁義S』の10巻の、墨田川会のトップである仁と義郎、実質上極地天道会のトップである飛田の三者会談のなかで、暗示されている。

 関東一円会から分かれ、極地天道会にすり寄ろうとする六星会をめぐり、それぞれの幹部がついに顔を合わせるのである。飛田の参入は、『本気!サンダーナ』を読んでいるファンにしたら、けっこう盛り上がる箇所ではあるが、それはともかくとしても、立原の作品世界全体にかかるビッグ・イベントだろう。しかし、一円会も極地天道会も、正面切って事を構えたくない。もしもそうなってしまえば、これまでに築き上げてきた均衡が壊れてしまう。風組を巻き込んでの波乱が日本中を覆うかもしれない。そこでまず飛田は、悶着の種になりかねない六星会を潰し、その縄張りを一円会と極地天道会で折半しないかと持ちかける。だがこれに仁と義郎は首を横に振る。彼らは〈関東割るわけにはいかないと言ってるんです 割れば争いが起こるは必然〉と主張するのだった。では、そのかわりにどのような提案がなされるのか、ここに立原らしい方便が見られる。関東を割るぐらいなら、一円会もろとも極地天道会にくだり、風組との緊張をキープしたほうが穏便、とのたまうのだが、いずれにせよ〈全国がひとつになれば 進歩ってやつが止まる 少々のセクトは必要というわけです〉という義郎の言葉は、『仁義S』が、いや立原のマンガ自体が持っている構造自体を指しているかのようですらある。

 他方、若き仁義たち、つまり主人公のアキラやドクター大内は、まさしくそうしたセクトのごとき役割を果たしながら、じょじょに頭角をあらわしてゆくことになる。これをよく思わないべつのセクトが、守などの彼らと同世代のヤクザたちにほかならない。そうしたセクト同士の小競り合いが、大状況に対し、いかなる影響と進歩をもたらすのか、物語は新しい局面に入りつつある。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『本気』文庫版
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年07月18日
 しかしみんな、戦国時代とか、戦国武将とか、好きだよね。とくに織田信長とか織田信長とか織田信長とか豊臣秀吉とか織田信長とか。近年におけるヤング誌掲載のマンガでも、宮下英樹の『センゴク』や、山田芳裕の『へうげもの』、そしてこの、たなかかなこの『秀吉でごザル!!』などが、ほとんど同じ時代を舞台にしながら、それぞれに異なったアプローチでフィクションを組み立てている。さて、『秀吉でごザル!!』の4巻である。主人公の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、堺の町で、鉄砲の名手である雑賀孫市を仲間にしたはいいが、別れた妻のねねを、そうとは知らぬ孫市に寝取られてしまう。藤吉郎に恨みを持つねねにはねねの企みがあり、じつは復讐のため、孫市を利用しようとする。一方、朝倉義景の軍勢に囲まれるなか、浅井長政に反旗を翻らされた織田信長は、最愛の妹である市姫にもまた裏切られたと思い、茫然自失とする。危うし、というところを、しかし藤吉郎の檄によって、からくも乗り切った信長は、やむなく逃走をはかるのだった。以上が3巻のあらましになるのだけれど、しんがりを任され、危機に陥った藤吉郎の前に、孫市が駆けつける、というのがここでのくだりで、当然、ねねとの再会も果たされる。『秀吉でごザル!!』においては、セックス(性交)が重要なテーマを持っており、たとえば、ねねと孫市が通じていることを知って苦悩する秀吉の姿がそうだし、市姫が信長にとって特別な存在であることが近親相姦の間柄であらわされているのもそうだといえる。これはもしかすれば、ポルノ的な要請も込みで、夢枕獏や菊池秀行などに代表されるような伝奇ロマンのセオリーを忠実に踏襲したものであるのかもしれない。じじつ、信長や秀吉には鬼神が憑いており、それがときどき尋常ならざる力を発揮するなど、物語の背景には、妖怪変化の類が跋扈しているのである。またそれらが、天皇家と藤原氏の陰謀論に回収されている点を、作品の特徴として見てもいいだろう。藤原氏の始祖、中臣鎌足が、中国からやって来た妲己を抱え込んでいたとか、じつは信長包囲網は蠱毒の壷であり、藤原氏の近衛前久は信長を魔王(サタン)に仕立て上げ、操ろうとしているとか、その荒唐無稽さにこそ、作者の魅力がよく出ている。

 『たなかかなこ短編集』について→こちら
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2009年07月16日
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 いったいどれだけの人間が喜ぶのかは知れないが、ひとまず、声を大にしたい人間がここにいる。ついに『本気!』の新作がきたああっ。『週刊少年チャンピオン』NO.33(今週号ね)に掲載されている『本気!〜雑記〜』は、同誌の40周年を祝う特別企画の一環であり、てっきり他のマンガ家の作品がそうであるように、1話かぎりの読み切りかと思っていたのだけれど、どうやらシリーズ連載として今後も続いてゆくらしく、冬には2話目が発表される予定になっている(ただしこの予定はあてにならないだろう、と個人的には睨んでいる)。作中の人物がメタ・レベルである作外の事情を汲んでゆく内容は、半ば、今流行りのマンガ家マンガに近しいが、『本気!サンダーナ』のラストにおいて、本気に破門された舎弟の次郎を語り手とし、その後の経緯も描かれているあたり、番外編であると同時に、やはりこれは続編なのだろう、としたい。あるいは、『喰人』や『極道の食卓』以降のスタイルで『本気!』を展開したらこうなる、といったヴァリエーションなのかもしれない。まあマンガ史的には、少女マンガ家であった立原が少年誌でヤクザ・マンガ(「風」という『本気!』のプレ・ストーリー)をスタートさせたのはじつは手塚治虫が病気で倒れた穴を埋めるためだった、このへんがポイントであるに違いない。のちに立原はパーティの席で一度だけ手塚と顔をあわせたことがあると記している。しかしでは、という具合に、立原のファン及び『週刊少年チャンピオン』のファンは、もう一つの疑問を持つことになる。はたして立原はいつ、『本気!』登場以前に『週刊少年チャンピオン』の全盛期をつくったとされる編集長の壁村耐三を知ったのか、である。周知のとおり、立原の『あばよ白書』では、壁村耐三という同名の人物が伝説の極道として一目置かれ、その威厳は世界観をシェアする『弱虫』や『本気!サンダーナ』にも影響している。そこから推測するに、かの人物に対して何らかの思い入れがあるはずなのだ。すくなくともここには壁村への直接的な言及は存在しない(もしかしたら立原に依頼の電話をかけてきたのがそうかな、とも考えたが、たぶん時代が違う)ので、できるならそれは2話目以降に描かれることを期待すりよりほかない。一方、1話目で作者自身が、船のたくさん詰まった風景を眺めながら〈こんないっぱい船 描くのやだな〉とこぼすくだり、現在ではあきらかにコピーかパソコンで処理しているのを逆手に、余裕と貫禄で、にやり、自虐のギャグにしている。

 『本気』文庫版
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  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
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  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年07月15日
 さて。『荒くれKINGHT』シリーズのなかで、もっとも魅力的な人物を挙げよ、ということであれば、それはヒデオさ、ヒデオなのさ、と言うよりほかない。野口日出夫、大好きである。もちろんヒデオなんてのは、外道も外道、ろくでなしのクソ野郎であって、褒められたところが一個もない。だがその、絶対に否定されるべき人格が、どうしてか、とても人間らしく、チャーミングにさえ見えてしまうのが、吉田聡というマンガ家のすごさだと思う。とにかく『荒くれKNIGHT』のシリーズにおいて、ヒデオがメインを張っている回はどれも最高なのは当然で、それがヒデオさ、ヒデオなのさ。したがって、この『荒くれKNIGHTキャラクターブック THE BIBLE OF KNIGHTS―荒くれたちの聖典―』の、ヒデオの扱いの小ささには、いささか不満を持たざるをえないのだが、まあ、これだけ膨大な登場人物を抱えている作品なのだから仕方がないよね。納得はいく。しかし、こうしてシリアスなラインで登場人物たちをまとめたものを、パラパラめくっていくとよくわかるのだけれど、現在の『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』に足りないのは、やっぱり、とんだクズ人間であるヒデオを生き生き、晴れ晴れとさせていたような、明るさの余地なのではないか。個人的には、そうした部分が乏しくなりつつある最近の傾向に対し、どうもぴんとくるものがなく、もしかしたら吉田聡は駄目になっちゃったのかなあ、と、すくなからず疑っていた。ところが、『週刊少年サンデー』VOL.31(先々週号になるのかな)に掲載された「MY SWEET SUNDAY」というエッセイ・マンガの第16回(つまり吉田の回)で、まるで自身を『荒くれKNIGHT』の主人公みたいに描きつつ、現在の作風を逆手にとって遊び、さらには〈絶対オチをつけると思ったぜ! 古い読者も少しは安心しただろ〉と最後のコマをギャグに落としているあたり、意識的にイメージのチェンジをはかっていることはあきらかである。やればできるのにやらないのだ。無印の『荒くれKNIGHT』から「高校爆走編」へ、そして「黒い残響」から「黒い残響完結編」へ、シリーズを経るごとに試みられてきたのは、おそらく、かっこいいとはこういうことさ、このようなテーマの純化だろう。結果、ふざけたりおどけたりが減じていった。照れがなくなったのかもしれない。が、同時に、かっこいいとはどういうことか、読み手に問いかけてくるふうな多義性は薄れてしまった。このデーター・ブック、『THE BIBLE OF KNIGHTS―荒くれたちの聖典―』で確認できる女性人物の大半は、無印の『荒くれKNIGHT』と「高校爆走編」にあらわれているのみで、彼女たちが、やんちゃな男の子に向かい、注意を与える場面は、もうほとんど描かれることがないのである。

 『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』
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  1巻について→こちら
  1話目について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
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2009年07月14日
 ナンバデッドエンド 3 (少年チャンピオン・コミックス)

 これまでにも再三述べてきたことだけれど、小沢としおの『ナンバMG5』及び続編である『ナンバデッドエンド』の健全さは、今日における少年マンガの、とくに日常の世界をベースとした作品群のなかにあって、まったく際立っている。おそらく、匹敵する作品を現在進行形のものから探し出すとしたら、西森博之の『お茶にごす』と加瀬あつしの『ゼロセン』ぐらいしか、見つからない。しかしながらどうして、そのような、いわゆるヤンキー・マンガの系に数えられるものが、少年が健全に生きられる可能性の題材化に成功しているのか。さしあたり理由を挙げるとすれば、そもそもそのイディオムの原初的な段階において、学園生活という、ほとんど誰もが経験し、共感が可能な領域を、絶対に不可欠な舞台として選んでいると同時に、そこで自らの優位を得ようとする男の子たち(主体に都合のよい未熟な男性性)の存在に対し、決して甘やかさないぐらいの批評性を加えることが、物語を成立させるのに必要な条件となっているためだと思われる。もちろん、基本のイディオムに忠実なだけでは、たんなる時代遅れになりかねない。だがその力学を、現代にアレンジしながら、徹底的に深化させることで、高度な達成を果たしている。それが作品の健全さとなってあらわれているのである。

 だいいち、『ナンバデッドエンド』の、この3巻だよ。進学校にすべく改革を目論む校長が、テストで赤点をとった生徒のいる部活動を無理やり停止させ、あくまでも成績重視の気風をつくろうとする、それを心好く思わない生徒会長が先頭に立ち、できるかぎりの抵抗を試みるのだった、というストーリー自体は、まあベタだとか何とか、知ったかぶりのジャーゴンに喩えることができるだろう。どころか、あまりにも通俗的すぎて今どき敬遠されがちな展開だとさえいえる。しかしそれが、白けないだけの魅力をともなっているのは、テーマのレベルの要請を受け、切実に応じた結果のナラティヴだからなのであり、またそうやって確認されているのは、学園生活が青春と置き換えられるとき、その所有権はいったい誰が持つのか、こうした事実関係の問題にほかならない。じつはそこに現代的な意義が盛り込まれている。たとえばもしも、学校というコミュニケーションの空間において、関係性を維持するためには、何らかのロールプレイをキープしなければならない、あるいはスケジュールに合わせ、分断された共同体を移動するのにさいし、自らのキャラクターをスイッチしなければならない、としたならば、それを行う主体は青春の所有者として真に主体的だと判ぜられるのかどうか、このような懐疑を、主人公の行動は射貫いているのである。

 はからずも、千葉最強のヤンキー、そして白百合高校の生徒会長、の二面に引き裂かれながら、青春をハードに送り続ける主人公の難破剛だったが、妹である吟子の理解を得、ようやく一息ついていたところ、すでに触れたように、心ない校長の提案が全校生徒を苦しめることになる。月末の学力テストで赤点をとった部員が三割以上いた場合、そのクラブは活動を停止しなければならない。できるかぎり脱落者を出したくない剛は、成績の悪い生徒たちを必死になって励ます。それを見た吟子が、かつてたくさんの不良を束ねていた頃のイメージを重ねるのは、たしかにニュアンスはギャグなのかもしれないが、たとえ外見や言動が時と場合によって違ったとしても、剛の精神の柱がつねに一本であることを教えている。さらには校長の決断に抗議する剛の姿がふだんから想像できないことを、〈いや〜それにしてもさっきの難破は迫力あったな…あれが素の難破だったりして!〉とクラスメイトが言ったりするのも同様である。仕方がなく複数の個性を演じ分けているにもかかわらず、精神の柱がつねに一本であるというのは、すなわち、その責任の所在がはっきりと自覚されていることを意味している。これが、青春の所有者として真に主体的であろうとする健全さを、剛に、『ナンバデッドエンド』のストーリーに与えているのだ。

 それにしても伍代はゲーム脳すぎらあ。いやいや、こういうギャグを決して忘れてはいないあたり、作者の資質がよくあらわれているのだが、大丸が初恋の相手を救おうと奮起するのに並行し、剛の修学旅行が描かれることで、波瀾万丈の広島編が幕を開けるのだけれども、生まれや育ち(遺伝や環境)のせいで不良にならざるをえなかった運命を指すのであれば、『ナンバMG5』における横浜編の光一が、剛のオルタナティヴであったのと等しく、広島編で登場してくる鋼一もまた、剛のオルタナティヴなのだろう。やはりキンキ・キッズかい。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『ナンバMG5』
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  17巻について→こちら 
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
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2009年07月12日
 少女マンガふうの絵柄で、少年マンガのイディオムを参照しながら、独特なヤクザの世界をマンガに描く、こういう立原あゆみならではのスタイルは、私見によるが、この文庫版『本気!』の8巻に収められているあたり(89年の時期)で、完成の域に達したのではないかと思われる。じじつ、ストーリーのほうも、主人公の本気(マジ)を、いったんラブコメ的なイデオロギーから引き離し、切った張ったの激しい世界に集中させることで、シリーズ前半における最大の山場を迎えている。

 風組の調停もあり、集優会との縄張り争いにも決着がついた、はずだった。しかし集優会の目論みによって、ふたたび抗争の幕が、ひらく。集優会の組員が死亡、本気の子分である金造が罠にかけられ、警察から追われる羽目となってしまったのだ。自分たちの身内が殺されたことを理由に、集優会は渚組に対する報復の正当性を主張、またもや緊張が高まるなか、何があろうと金造を信じ、そして争いを止めようとするう本気は、とにかく真犯人を見つけ出そうとするのだけれど、事態はついに、どちらかの組長が倒れなければ収まりのつかないところにまで悪化してしまうのだった。

 ふだんから内容の濃いマンガだが、とくにここでは、渚組の組長である大河内を見舞う悲劇や、潮紋組の長である雪見老人の介入、集優会の若頭である地童の暗躍、染夜に託した五億円などなど、後々の物語において伏線となる箇所も含め、見逃せない点がやたらに多いし、まるで最終回が迫っているかのように(じっさいには倍、いや三倍以上の長いお話しになっていくわけだが)、主要な人物たちが次々と顔を出すのも、たいへん盛り上がる。しかしながら、着目しておきたいのは、やはり、ここから本気の運命において青年期の終わりとすべき転換がはじまっていることだろう。以前にも述べた気がするけれど、『本気!』とは要するに、立原あゆみ版『ブッタ』(手塚治虫のね)なのではないか。内容を先回りするなら、この後に本気は、刑務所に送られ、やがて社会に復帰し、もっとも大切なものを失う、というシークエンスを経、まさしく修行僧のごとき旅へと出発してゆく。そのような受難の、大河ドラマの、引き金となる瞬間が、ちょうど描かれているのである。

 もちろん『本気!』は、直接に信仰を題材としている作品ではない。たしかにその背景には、さまざまな種類の祈りが込められているが、特定の宗教が信じられているわけではなく、てんでばらばら、たとえばこの文庫版8巻のとある場面で、本気は〈久美子さん オレ そん時 理由もわからず 胸に十字を切りました〉という。だが結局は〈後で神さんうらむ事も知らんで…〉と思わざるをえないのであって、ことごとく神は人を裏切る役割として存在する。そしてこうしたテーマはそのまま、少女マンガから出発した作者の重要なモチーフとなっていき、シリーズの(現時点での)完結編『本気! サンダーナ』のラスト(06年)において、ようやく〈オレの存在がひょっとしたら神の解答かもしれないのだから 地球上の生きとし生けるもの そのすべての種を絶ってはいけない 神の与えた解答を絶ってはいけない すべてが解答だからだ… 草木も鳥も魚も 動物も微生物さえも そしてあなたひとりひとり すべて地球の解答なのだから〉という帰結を導く。次巻以降にまた触れることになるかもしれないが、本気の最愛の人である久美子は、たぶん、観音菩薩と聖母マリアの合わさったイメージであり、処女でありながら偉大なる母親の尊敬を集めて、作中に記録されることとなる。

 最後になるけれども、孤児院で育った利一が、本気のもとへ、高校進学を願い出るくだりが、いいよね。すずめやナツ、ギンジたちとともに、のちのちまで本気と久美子の、精神を受け継いだ子供として、成長を描かれる人物である。その彼が、高校進学の金銭的な工面を快く引き受けてくれた渚組の面々に〈オレ がんばって 必ず 恩返し し…ます〉と感謝するのに対し、本気が〈オレらに返す事なんて考えなくていいぜ…でっかくなって立派になったら同じような子供たちに手ェ貸したれ… オレはよ こんな風に思ってる… 一生かかっても人間一匹何人もの人と出会うわけでもねえ… 百人かも千人かもしんねえし そりゃ何万人も知り合いになる人もいるだろうけど それにしたって地球の人たちの数からすりゃ ほんのすこしだ 知り合った人はみんな友達だよ… 助けっこさ〉と言う。これはこの時点ではたんなる浪花節であるかもしれない。しかし、物語が進むにつれ、まるで神に与えられたかのような試練、巨大な信念のさまを呈す。

 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年07月10日
 所十三の『竜の国のユタ』並びに『D-ZOIC』はもっと評判を得てもよかった。いや、こうして作品が完結した今からでも遅くはないか。しかし、物語の途中でタイトルをいったん変えたのは、人気にとってプラスになったのかどうか定かではないけれど、『竜の国のユタ』と『D-ZOIC』を合わせて、一個の長篇としたさい、中身を知らない読み手には親切じゃないよな。まあそれはともかく、終盤の展開はさすがに駆け足であったが、それを差し引いても空想冒険活劇の良作だったと思う。

 もしかすれば、『D-ZOIC』のクライマックスにおいて明らかになるテーマの全体像は、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』(映画版でもマンガ版でもいいよ)に近しいところがあるかもしれない。ユタ(ナウシカ)、ヒトモドキ(巨神兵、科学)、恐竜(王蟲、虫)の三すくみによって、自然や環境と言い換えてもいいような、惑星規模の視点がつくられ、そこから人類の賢しさと愚かさを問うているみたいでもある。だが、このマンガの特徴は、むしろそれを軍記物のスタイルに落とし込み、少年向けのビルドゥングス・ロマンに仕上げている点にあるだろう。戦時下の波乱において、ある種の使命を生まれながらに負った主人公の成長が、正しく英雄譚のごとき盛り上がりを見せる。

 もちろん、ワキの人物たちの役回りも、なかなか。フリードやパウルス、ランス等々、さまざまな人びとが、ときにはユタのライヴァルになりながら、ときにはユタと協力しながら、それぞれの国や敵味方の垣根を越え、彼らにしかなしえないチームワークを育んでゆくのである。とくに5巻で、あれだけ対立していたフリードとランスが、ユタの説得を受けて、部隊を組むくだりから、この6巻のハイライト、原国の王都を死守すべく、わずかな軍勢で十万もの冥王軍と激戦を繰り広げる場面まで、派手なスペクタクルをこしらえるのとはべつのレベルにドラマティックな印象を描き出しており、たいへん燃える。じつは残酷な描写も多いが(だいいち人間はヒトモドキの食料なんだし。老兵が突撃死を選んだりとか)、良くも悪くも不快感を免れているあたりに、作者の資質がうがかえる、というのは以前にも書いた気がする。

 それにしても、いちばん燃えるのは、やっぱり、主人公であるユタの勇姿だろうね。ユタが、作中の言葉にならうなら「鍵」として特別なのは、その血筋と決して無縁ではないのだけれども、5巻のなかで、親友のフィルがユタを慕って集まった仲間に〈オフタルモスの力なんかじゃない あいつはちゃんと 自分で運命を切り拓いてるんだ…ってさ〉と言うように、6巻において、〈プライドやメンツなんかより “命”の方がずっと大切だってボクは思うから〉と述べるユタに対し、命を捨てようとすることでしか生きられないランスが〈結局 お前って 俺やフリードの対極に生きてるんだよな だからこそ“鍵”に選ばれたのかもしれねぇが…〉と言っているとおり、あくまでも彼の健全で逞しい精神が、物語の重要なキーとして選ばれ、そしていくつもの運命を逆転させているのだ。

 最初にもいったが、『竜の国のユタ』並びに『D-ZOIC』は、じつに空想冒険活劇の良作である。完結して十分にそのことを実感する。できれば多くの読み手がこのマンガに出会えることを願いつつ。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら 

・『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
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2009年07月05日
 たとえば、安西信行や真島ヒロが、真っ向からヤンキー・マンガを描いてくれない、というニーズに対して、田村隆平の『べるぜバブ』は応えているふうにも思われる。あくまでも学園を舞台にしながら、周囲からは荒くれと見なされる主人公が、本質的には立派な硬派であったため、不良ヴァイオレンスと少年ラブコメの展開を通じ、男をあげてゆくことになるのだが、しかし、ファンタジーの浮力を用い、現実離れしている(換言するなら、社会的な責任を逃れているかわり、世界規模の危機を持たされている)ところに、きわめて現代的な必然をうかがえる。

 石矢魔高校の一年、男鹿辰巳は、圧倒的な腕力を誇り、県下でも不良の生徒ばかりが通う校内においてさえ、注目を集める。ひじょうにシンプルな性格のせいか、ケンカを売られれば二つ返事で買う毎日であったが、奇妙な成り行きで拾ってきてしまった赤ん坊が、人類を滅亡させるべく魔界より寄越された悪魔の、魔王の息子であったことから、ただですらトラブル続きの学園生活に、さらなるハプニングが、しかも非日常なテンションで、重なってくる羽目になってしまうのである。

 男鹿になつく魔王の子、カイゼル・デ・エンペラーナ・ベルゼバブ4世は、外見も中身もまったくの赤ん坊であるけれど、彼の従者であるヒルダやアランドロンが〈まだ幼すぎる坊ちゃまが人間界で魔力を発揮するには 触媒となる人間の助けが必要となるのです / どれ程 巨大な電力があっても それを通す丈夫な電線がなければ意味がないでしょう…それと同じです〉と述べるとおり、その育ての親に選ばれた人間の存在次第では、おそろしい脅威となりうる。それこそ、男鹿の親友、古市貴之が〈もしかして人類の未来って…お前の肩にかかってる?〉と冗談混じりに言っていることは、あながち的外れではなく、作品の、基本の動力を教えている。要は、いち個人のピュアな感覚に世界の命運が預けられてしまうわけだが、こうしたプロット自体は、とりたてて目新しいものではないだろう。古くからよくある。また今日でも、酒井まゆの『MOMO』などは少女マンガのジャンルでありながら、これに近しいパターンを採っている。

 男鹿と赤ん坊の関係は、ある種の子育てを装っているが、じっさい(すくなくともこの1巻の段階では)そうではない。単純に、親代わりをする主体に父性とでもいうべき感覚が導入されていないのもあるし、結局のところ、『幽☆遊☆白書』の初期における霊界獣のミッションのような、強制的な依頼を受けているにすぎないので、男鹿はその役割を他の誰かに回してしまいたい。子は親を映し出す鏡、という言葉があるが、赤ん坊が主人公に見ているのは、決して父としての人格ではない。あくまでも、少年性の健康と不健全にほかならないのであり、そしてそれは、学園という身近な規範を目の前にすることで、明解に、いや爽快に際立たされる。
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2009年07月02日
 忍者パパ 7 (アクションコミックス)

 今日においては、いかに病的であろうとも、悪人や犯罪者の類をまったくの異常とはせず、彼らにも立派な内面があるとし、それを物語のなかに落とし込むさい、生まれや育ちの問題に還元するというのが、あたかもマナーであるかのようになっている。これが良い傾向なのかそうではいのか、一概には判断をくだせないけれども、サブ・カルチャーの表現を見るとき、すこし注意が必要だと思われるのは、そこからとくに新しいテーマを引っ張り出しているわけではないことが、たいていだからである。要するに、わざわざ、といった程度のリアリティを装っているにすぎないケースが多い。夢がないよね。山本康人の『忍者パパ』は、この7巻で第一部完、いったんのピリオドがつけられているが、クライマックス、家族を守ろうとする主人公と、彼を付け狙う敵役との対決には、もしかすれば遺伝や環境が狂気を生み出す、こうした問題を正しく乗り越えてゆけるだけの力強さを感じられることができ、それが頼もしい。忍者として生まれたばかりに、非情を貫き通さねばならなかった祭のぶ夫は、しかし、現在の妻である綾と出会い、里を抜け、俗世間での平凡な暮らしを選ぶ。やがて、のぶ夫と綾のあいだには二人の兄妹が生まれ、金銭には余裕がないながらも、幸福な家庭を築く。だがもちろん、掟を破ったのぶ夫を、里のトップは許すはずもなかった。家族には自分の過去を隠したまま、差し向けられた刺客を次々打ち破るのぶ夫であったが、かつてライヴァルであった鬼丸の異様な執念の前に、ついに綾と子供たちの身を危険にさらしてしまう。のぶ夫、鬼丸、さらにはのぶ夫に許婚を破棄されたムサシ、三者の思惑が入り乱れての決戦が暗示しているのは、やはり、生まれや育ちによって定められた暗い運命を人は変えられるか、このようなテーマに近しいものだろう。〈わたしは七狗留忍流の里に生まれ……常にエースだった / わたしは鬼丸を返り打ちにして……里を捨てた / 綾との出会いがわたしの人生を一変させた / わたしは幸せを手に入れた… / …ただ…わたしの苦しみは…家族に…血にまみれた過去を明かせないことだった…… 〉とのぶ夫が述べるのに対し、〈11年前…俺はおまえとの闘いに敗れ おちぶれた…みじめだったよ 俺は……絶望の毎日を過ごすだけだった…ただ…生きる糧は…おまえへの恨みの……黒い炎を燃やし続けることだった…〉と言う鬼丸、彼らの分岐はたぶん、運命は一つではないことを教えている。しかして、ムサシが鬼丸に突きつける〈所詮… 貴様は他人を基準(はかり)にしか自分の人生を前に進められない奴よ…〉という言葉は、とても熾烈である。そして、その熾烈さは一方で、のぶ夫とムサシの分岐をも、指しているに違いない。のぶ夫の、血で血を洗うなかでしか生きられなかったはずの運命を変えてしまったものがあるとすれば、綾との出会いであり、家族への愛情にほかならない。さいわいにして彼は、思い遣りのある妻を得ることができた。当然、これは万人にひらかれた可能性を意味しない。とはいえ、それを不可能だと完全に判じた場所で、ただ運命を呪うよりは、希望のニュアンスをたしかに含んでいることが、『忍者パパ』における倫理のたくましさをつくり出している。

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2009年07月01日
 おうちでごはん 3 (バンブー・コミックス)

 スズキユカの『おうちでごはん』は、とても和やかな料理マンガである。それはこの3巻も変わらない。しかしどうして、登場人物の言動はみな、忙しなく、わりと落ち着きがないのに、こんなにも穏やかな触感になるのか。極端にいうなら、クレッシェンドのごときドラマ性をうしろへ引っ込めているためだろう。いちおうのストーリーはある。一人暮らしを営む大学生の主人公が、料理の腕前を通じ、アパートの隣人たちと交流を深めてゆくのだが、肝要なのは、あえてそこに過剰な出来事を付け足さないことで、すべてのコミュニケーションが日常の一部に帰する、そのなかから引き出された各人の個性を、作品の和音としているのだ。たしかに、主人公である鴨川耕太のおっとりとした性格に、癒しの効果を見ることもできる(まあ、ね)。だがそれによってのみ、アップとダウンの運動で波打つエモーションが、調停されているわけではない。ここに収められているものでは、餃子の回に、『おうちでごはん』の特徴がよく出ていると思う。単純に、知り合いが集まって、手作り餃子のパーティを開く、というだけの内容なのだけれども、わいわいがやがや、騒がしいはずのやりとりが、ほんとうに羨ましくなるぐらい、ゆったり、チャーミングなスペースをつくる。

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2009年06月30日
 芦原妃名子の『Piece』は、『砂時計』もそうだったが、一片一片は、わりと見え透いたアイディアであるのに、その織り成しが達者であると、受け取ったとき、こうも胸に響くものになるかあ、という感想を持てる。高校時代の同級生、折口はるかが亡くなった。とくに仲がよかったわけではないけれども、はるかの母親から、彼女が親しくしていた男性を探し当てて欲しい、と依頼された須賀水帆は、過去に所縁のあった人びとと再会し、それぞれの諸事情に関わるうち、現在の自分のありかを掴まえ直してゆく。この2巻では、かつて学校中のアイドルとされていた瀬戸内円や、志望の大学に入れずに浪人生を続けている菅原勇、当時の体育教師であった宮本との接触を通じ、またもやはるかの知られざる一面が明かされる。だがまだ、真相には届かない。はたして彼女は、いったい誰を愛し、身籠もり、堕胎したのか。あえて指摘するまでもなく、はるかの存在もしくは不在は、『Piece』という物語の、中核に置かれた謎として機能しており、まさしくピース(断片)のように散らばった彼女の本質は、探偵の役を買って出たヒロイン、水帆の視点によって総合される。これがすなわちアウトラインとなっているわけだが、そのさい、提供される数々のヒントを、水帆は、ある種の鏡としてのぞき込んでしまう。たとえば、円の恋愛観も、菅原の挫折も、宮本の親子像も、どれもフィクションのケースにおいては、ありふれたエピソードだろう。しかし、ありふれていることが同時に、そうもなりえたという可能性と、そうはなりえなかったという断念の、じつに卑近なエモーションを描き出す。大勢との交渉がはるかの実像を浮かび上がらせるのにつれ、水帆が〈もっともっと丁寧に今周りにいる人たちを大切にしよう〉と思うのは、そして〈…最近 私の中で「はるかさん」が少しずつ“色”を持ち始めてて…〉と思うのは、接し合う人びとに対しての、もはや接し合えない人に対しての、少なからぬ共感のなかに、自分の姿を見ているためである。もちろん、誰もがべつべつの性格を持っている以上、他の誰かを丸ごと理解することはできない。せいぜいがコミュニケーションの一端からイメージされる同調をあてにしているにすぎない。それを、深い隔たり、浅い繋がりととるか、つよい繋がりをもたらせるだけの糸口ととるかは、心の持ちようだといえる。ページをめくって最初のほう、信用、という言葉が、時と場合を違え、いくども繰り返される。言わずもがな、信用することと信用されることは、お互いに一方通行なのかもしれない。だが、そうした一方通行を、とりあえずは前に進もうとする微かな足音が、どこからか響いてくる。

 1巻について→こちら
 
・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2009年06月27日
 starman.jpg

 いやはや、天才っているところにはいるもんだな。あまりにもブリリアントなのに驚き、思わず、おいおい、これ、ほんとうに新人さんの作品かよ、と疑ってしまったのであったが、本格的なデビューの前にも第1回「ドラゴンカップ」(講談社『少年マガジンドラゴン』)等にエントリーされていたり、もしかしたら熱心なマンガ・ファンや一部の編集者からはすでに注目を集めていた可能性が高い。結果としては、集英社の第1回『金のティアラ大賞』の大賞を得ることによって登場してきたわけだが、受賞者に与えられる2年間の専属契約という項がなければ、他の出版社からのデビューだって十分にありえただろう。いずれにせよ、破格の新人とは、こういう作家のことをいう。片山あやかの『Star man(スターマン)』、1巻である。

 ユキコ(雪野由紀子)17歳、ユキオ(由紀夫)15歳。両親が共働き、出張も多く、留守になりがちな家で暮らす姉弟のもとへ、ある日、突然、小型の宇宙船が突っ込んでくる。惑星「ビーンズ」のマメオ(マ・メオ)と名乗る男は、宇宙船が直るまでのあいだ、自分を雪野家に置いて欲しいと言うが、当然、しっかり者のユキコは眉間に皺を寄せる。しかし、脳天気でお調子者のユキオは、とくに躊躇う様子もなく、マメオの提案を受け入れてしまうのであった。

 こうして幕を開ける奇妙な共同生活の風景を、『Star man』は、どたばたとしたコメディのなかに、ほんのすこしのリリシズムを加えながら、描いているのだけれども、あらかじめ述べたとおり、これがまたひじょうに冴え渡っている。なんて言えばいいのだろう。その作風は、きわめてオーセンティックであることと、どこかずれてユニークであること、そしてたいへん現代的であることの、トライアングルの、ちょうどど真ん中を、猛スピードでストライクしてゆく感じ、しいて喩えるなら、矢沢あいが楳図かずおと鈴木志保と東村アキコを参照しながら『ちびまる子ちゃん』を描いたつもりが『コジコジ』になってしまったふうとでもいおうか、とにかく、規格内で遊びつつ規定外のことをやっているような羽根ののばし方をしている。

 宇宙人のマメオって、要するに、デヴィッド・ボウイをモチーフにした伊達男だ。ラヴのニュアンスも多少はあるけど、ロマンティック・コメディの、あくまでもコメディとしての自由奔放さ、絵のセンスも構図もテンポもよく、ジャンルに偏らない楽しさを満たしているので、おそらくは今後、より大勢の支持者を掴まえていくことになるだろうね。とても好き。
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2009年06月26日
 ファンタジウム 4 (モーニングKC)

 今や立派な評価を得ているマンガなので、いちいち確認するまでもないのだが、それでもやはり杉本亜未の『ファンタジウム』には、感心させられることが多い。この4巻では、類い希なるスター性を買われた長見良少年が、大手芸能プロダクションと契約を結び、派手なプロモーションのなか、これまでになかったぐらいの大舞台を踏まんとする過程が描かれているのだけれども、おそらくは「ESCAPE ARTIST」と題された(次巻へと続く)エピソードのクライマックスにあたるのだろう、驚愕に相応しい脱出マジックの実現に向かって、一連なりのドラマが成立してゆく、物語の動いてゆく、そうした様子の脈々としたところに、ふっ、と掴まれ、引き込まれてしまう。鳥井金庫店の挿話や、もう一人の主人公とでもいうべき北條英明の勤務先であるソシオセキュリティのコネクションや、数々のタイミングが、まるで良のマジシャンとしての欲望に呼応するかのよう、一種の運命的な偶然をつくり出すあたりに、フィクションならではの心地好さが溢れている。一方、そのなりゆきが、うんうん、と頷けるだけの魅力を持っているのは、作中人物の言葉を借りるわけではないが、どんなすぐれたフィクションだって人間先にありき、という理が使えるのであれば、人間の面倒くさい関わりを、適度にデフォルメしながら、しかしピントのぼやけていない精確さで、射貫いているためであって、あんがい北條もそうだし、教師の山村やクロスプロのマネージャーである岩田徹子など、作中の人びとが、まったくの善人でもなければまったくの悪人でもないのはちょうど、良という光をさらに輝かすかのようなプリズムの、多面体の役割を思わせる。そしていくらかの波瀾万丈はまるで、周囲の尽力によって良に集まってくる注目が、はたして彼の一面を見ているにすぎないのかどうかを、試している。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年06月24日
 ごく私的な意見を述べるなら、安西信行の『MIXIM☆11』には、超常バトルに満ちた展開ではなく、学園ドラマふうの賑々しさを望む気持ちがおおきい。それは決して、自分が超常バトルよりも学園ドラマのほうを好む、というのではない。むしろ単純に、マンガの趣味をいうのであれば、超常バトルのほうに惹かれることが多いのであって、要は、作者次第、つまりこの場合、安西の適正は学園ドラマに向いているのではないか、と思うのである。そのようなことは過去にも書いた気がするし、じっさいじょじょに超常バトルのモードが増してきている『MIXIM☆11』に関しても、この4巻までを読むかぎり、異性との関係性や同性との関係性のなかに、男の子の、らしさ、を描く、こうしたテーマの、とくに熱く、一方でコミカルな部分は、序盤における学校規模の舞台でこそ、ひじょうに明確であったと感じられる。もちろん、その基本線は現在も変わってはおらず、強大な敵を登場させ、壱松、小梅、竹蔵たち、メインを担う登場人物と対決させることで、勇敢な男の子の像をあらわそうとしているのだろうけれど、いかにもなアイディアのスペクタクルが、芯のつよさを、すこしばかり、曖昧にしてしまう。できることなら女の子を泣かせたくない、傷つけたくない、守りたい。友人との結びつきはとても尊く、いつだって助けられるのと同じく、どんなときも助けになりたい。もしかしたら、このようなモチベーション以外の、プラス・アルファを盛り込みたいせいなのかもしれないが、しかしそれは必ずしも、最大のチャーム・ポイントを生かしていない。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年06月23日
 鹿賀ミツルの『ギャンブルッ!』は、この11巻で完結した。連載当初はてっきり、あらゆるギャンブルのまったく合法化された世界という設定を生かし、ロジカルでゲーム性の高いエンターテイメントをやっていくのかな、と予想されたのだけれども、結局、アンダーグラウンドの人間が生死を賭けて騙し合うような、こうしたジャンルの性質上とくに目新しさのない内容となってしまったのを、すこし残念に思う。まあ、基本的には少年マンガの作品だから、ある程度のわかりやすいダイナミズムが必要だったのかもしれず、各人の人間性を掘り下げたり、ドラマを盛り上げていくための、テコ入れに近しい措置であった可能性も考えられるが、決してうまくいってはいなかったかなあ。陰謀たくましいヤクザやマフィア、ギャング、殺し屋たちの、代理戦争としてギャンブルを存在させてしまうのは、むしろ、ステレオタイプ性を高めるだけであっただろう。物語の最後は、法律や倫理の上位で機能するギャンブルが、国家間の戦争すらも代替しうる可能性を示唆し、スケールをひろげるだけひろげて、終わっている。個人的には、こういう『少年サンデー』の系にしばしば見られる素朴な政治観が、すこし苦手である。わざわざ入れなければいいのに。そのことも含め、どうして設定自体を特殊にしておきながら、平凡な個人(もちろん、能力的には天才であってもいい)の単位で、ギャンブルを、そしてマンガを成立させられなかったのか、やはり、この一点が作品の限界と重なってしまっているふうに感じられもする。

 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
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 〈オレらは群れなしてねえと何もできねえって世間からは言われるが…まったくその通りでな / 自分一人のチカラなんざ タカが知れてるって思ってるのさ / オレらにとってマシンやコブシは自分を表す言葉で…決して武器じゃあねえんだぜ! 武器はよ 仲間なんだ!!〉

 燃えるし、いいこと言ってんだけどな。そのセリフの熱さほどストーリーには熱くなれないというか。どうしてもつい、吉田聡の魅力はこんなもんじゃねえだろう、という気がしてしまう。

 一般的にヤンキー・マンガもしくは不良マンガと見なされるものの多くは、軍記物の現代版だと解釈することができるのだけれど、吉田のマンガの長所はむしろ、そういった潮流とは一線を画すところにあったと思う。しごく簡単に述べるなら、国盗り合戦の下位に青春が描かれているのではなくて、青春の像のなかにときおり国盗り合戦があらわれているのであって、構造上、必ずしも血で血を洗うような抗争劇を必要としていない。すなわちそれが、吉田の作品における、軽さ、あかるさとなっていた。

 だが、しかし、この『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』には、真っ正面から軍記物の結構に挑んでいるふうな気配を感じられる。もしかすれば、高橋ヒロシなどの後発が、軍記物のヴァリエーションでしかないことによって成功していることの逆影響なのかもしれないが、あきらかに『荒くれKNIGHT』の本編や『黒い残響編』とは、異なったテイストを発してる。血で血を洗うような抗争劇をベースに、きわめてシリアスなメッセージが組まれているのである。

 とはいえ、決して成功しているとは言い難い、というのが個人的な感想で、一つには、軍記物にとって必要不可欠な武将の、とくにそのカリズマが乏しいためで、もちろん、じつはそのことが『黒い残響完結編』のテーマなのであり、『荒くれKNIGHT』の本編を、ある種の歴史における表としたならば、この『黒い残響完結編』は、裏を、すなわち歴史の影にまわされてしまった人物たちの姿を拾い、彼らもまた一人一人が重要な役割を担っていた、と証言するかたちになっているのだけれども、そのとき、作中を生きる面々の個性と作品を成り立たせている軍記物のスタイルとが、うまくはまっていない、との印象を持たされてしまうのだ。

 『黒い残響完結編』が、軍記物の現代的なヴァリエーションであることは、あくまでも語り部の口を通じ、先達の武勲が後世に伝えられるという形式からもあきらかだろう。

 そう、この3巻で、ふいに挿入されているとおり、湘南のトップを走る輪蛇ではなく、あえて二番手に近い位置の虎武羅を選んだ若い世代、すなわち四代目リーダー候補と目される井脇が、先々代のリーダーであり、現在のチームの基盤をつくった大鳥大悟のレジェンドを、先代の一人、稲垣によって教えられる、そのような追想と継承の形式をとっているのである。まあそれがヤンキーの昔語り、おおげさな口承とどこがどう違うの、といった疑問を、とりあえずストーリーの読み応えはまだ、乗り越えられていっていない。

 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
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2009年06月22日
 聖闘士星矢EPISODE・G 17 (チャンピオンREDコミックス)

 自分の運命が自分にしか変えられないっていうんなら自分で変えるしかねえんだ。当初の目的からすれば(雑誌連載型のマンガであるかぎり、それは必ずしも最終的な目的にはならない可能性もあるのだが)、とうとう佳境に入ってきた感のある『聖闘士星矢 EPISODE.G』だけれど、このところすこし、岡田芽武の絵柄が、柴田ヨクサルふうとでもいおうか、微妙なセンスを発揮しているのは気にかかるが、大げさなはったりによって描かれるメッセージは一貫している。つまり、神という観念の前には誰しも無力にならざるをえない、そう定められていることが絶望であるような場所からでも、人は可能性をひらいてゆけるし、希望をともしてゆける、という意欲のパフォーマンス化だ。たいていのスペクタクルがそうであると同様、根拠の厳密さよりも、傾けられたエネルギーの量が、作品の価値をなしているのであって、だからこそ主人公のアイオリアは、他の黄金聖闘士たちに比べ、思慮が浅く、独善的でなければならない。とりもなおさず、感情のままに突っ走るさまが、燃えるよね。激闘の果て、アイオリアの拳がついにヒュペリオンを砕く。互いを認め合いながらも、どちらかがどちらかを倒すよりなかった。アイオリアの胸中を悲しみが満たす。そのとき、まるで彼らの戦いを嘲笑うかのごとき不敵さで、海洋神のポントスは姿を現した。こうして17巻のストーリーは幕を開けるわけだが、ヒュペリオンの敗北すらも、計画通りにすぎないと宣うポントスに対し、〈二人の運命の間に入って邪魔をすンな!!!〉と怒りをぶつけるアイオリアの叫びが、やはり、『聖闘士星矢 EPISODE.G』の本領だろう。しかし、邪悪とはいえ、神は神、ポントスの存在は強大すぎる。そして、ああ、〈我は星座にも神話にも残されぬ神ではあるが / その身の奥に燃えるたった一つの小宇宙(コスモ)に――お前と戦えた事を誇りとして刻み――この炎を永久に灯すと誓おう〉という覚悟を、アイオリアに伝え、今まさに散らんとするヒュペリオンが、せつない。だがそれもまた、あらかじめ仕組まれたものでしかないのか。ヒュペリオンとの約束を守り、クロノスを保護したアイオリアの目の前で、カタストロフィの幕が開く。

 15巻について→こちら
 0巻について→こちら 
 14巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら 
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2009年06月19日
 GOLD (KCデラックス)

 ケータイ小説『天使がくれたもの』のChacoと、『Deep Love』シリーズのコミカライズで知られる吉井ユウが、『みずたま』に続きタッグを組んだのが、この作品、『GOLD』であって、マンガ用の完全オリジナル・ストーリーを編むという新しいカードを切ってはいるが、しかしそれが、キャバクラ嬢を主人公にした通俗的なドラマであるのは、両者のキャリアもしくはイメージからするに、どうもはっとしないアイディアに思われてしまうし、せっかく女性のコンビでつくっているのに、男性作家のそれと内容的に大差がないのも、切り口としてはもったいない気がしてしまう。あるいは、こういうふうにしかサブ・カルチャーの表現は水商売をあらわせないのだろうか。派遣の仕事でかつかつの生活をつなぐ笑(えみ)は、貧しさを見かねた友人に誘われて、気が進まないながらもキャバクラの職に就き、スズと名乗ることになるのだった。色気がなく、その世界のルールもうまく飲み込めないスズは、当然、失敗を繰り返しては店に迷惑をかけるばかりなのだけれども、持ち前の前向きで明るい性格から、がんばり、じょじょに客の心を掴んでゆく。言わずもがな、枕営業がどうだとかの噂やら、金に非情な店長のプレッシャーやら、禁じられた職場恋愛やらもあるよ、といったところであって、取材の成果か、女性の視点か、部分部分にはきわどい現実性を立たせてはいるが、全体の結構は、ステレオ・タイプなドラマに収まっている。それにしてもよく出来ていないのが、作中人物のモチベーションである。それはまあ、こうしたジャンルの常ともいえる。たしかに、どのような職種に関わっているのであれ、じっさいに働いている人間の意欲なんて、この程度には矛盾しているのかもしれないにしても、説得力のプラスにはなっていない。クライマックスにさしかかって、店を辞めていこうとするナンバー1のキャバクラ嬢を、スズが引き止めるくだり、これ、要するに、お客さんに笑顔をもたらすことがいちばんのやり甲斐だと信じて疑ってはいけない、式のサービス業における倫理で話をまとめているのだが、きれいごとを述べるためだけに無理やり辻褄を合わせている(なのに、じつは合っていない)ふしがあり、ひじょうにもやもやとしたものが残る。

 『みずたま』について→こちら
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2009年06月18日
 L・DK 1 (講談社コミックスフレンド B)

 父親の転勤に連れられて、学校が変わってしまうのを嫌がったヒロインの葵は、反対を押し切り、一人暮らしをしながら高校へ通うのだが、二年生になったあるとき、アパートの隣室に引っ越してきたのが、親友の萌を素っ気なくふった同級生、柊聖であったため、敵愾心といっしょに要らぬ関心を抱くことになってしまう。そうしてさらに、トラブルもあって、同じ部屋に寝泊まりしなければならなくなったことから、波乱含みのラヴ・ストーリーが繰り広げられてゆく。というのが、渡辺あゆが描く『L・DK』(中黒の箇所はじっさいにはハートを示す)の1巻で見られる展開なのだけれども、当然、それはこの手のマンガにおけるお決まりのコースにほかならない。言うまでもなく、柊聖の存在は、サドっ気のあるクールなイケメンさんで、学校では王子様と呼ばれるほどの人気に設定されている。こうした概要を受けて、ああ、はいはい、で済ませてしまう向きはすくなくないかもしれないし、たしかに新鮮さはないのだが、しかし決して悪くはないのは、作中人物たちの、しょせん嬢ちゃんや坊ちゃんの駄々でしかないような振る舞いにおける一分の切実さが、恋愛の感情を契機とし、他人の気持ちを汲めるだけの関係性を導き出している点である。とくに萌が、柊聖に惹かれはじめている葵の自分に対する気遣いをわかり、あえて発破をかけるくだりは、いささかクリシェ的な表現でありながらも、彼女たちの友情を羨ましくさせるものがある。120ページの最後のコマ、まるで平静を装う萌の口元に、複雑な胸中をのぞかせているのが、見せ方として、いい。こうした表情の技術は、もちろん、じょじょに距離を縮める葵と柊聖のあいだにも生かされている。

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
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2009年06月17日
 同じマンションで隣同士、同い年、生まれたときから仲良く育ってきた幼馴染み、むろんその男女比は二対一の三者が、中学三年になり、要するに思春期の恋愛感情抜きではやっていけない頃を、春田ななの『スターダスト★ウィンク』は描いているわけだが、まあこうした概要は、少女マンガのジャンルにおいて、決して珍しいものではないし、すこしずれてはいるが率直なヒロインを真ん中にして、タイプの異なるイケメンさんが両ワキを固めるフォーメーションもまた、ありふれたものだろう。王子様たちといつも一緒にいるあの子はいったい何なのよ、ってやつである。が、しかし、きわめて現代的な『りぼん』の作風によってつくり出されるテンポは、あかるさを大事に、気持ちよく、作中人物たちの生き生きとした表情、やりとり、間のとり方が、とてもいい。そのようななか、少々まじな話を述べるのであれば、血縁がないにもかかわらず平衡を保ってきた共同体に、もしも恋愛の要素が不可避に持ち込まれたとしたならば、それは以前までの穏やかな関係性を破壊する可能性となりうるか、といったテーマが、ひじょうにわかりやすく顕在しているふうに思われるのは、たとえば主人公たちが、中学生という、世間一般的には、現在の家庭を出、新しい家庭を設けられるだけの力を、十分に備えていない年代に、もちろん読み手の層を意識して、設定されているためで、ヒロインである杏菜の鈍感は、自分を子供の立場にしておくことが、当然だという認識によっており、もっというなら、彼女にとって、幼馴染みである二人の少年、颯や日向との関係は、わざわざ恋愛に直す必要を持たない。すくなくとも、物語がスタートした段階においては、そのことが自然な環境に置かれている。この1巻では、杏菜と颯と日向の、行くべき場所(学校)はつねに一緒であり、帰るべき場所(マンション)もつねに一緒であることが、何度となく強調されるのだが、それはつまり、彼女たちが自覚的に進路を選ばずに済ませられている子供だからであって、結局のところ、所与の条件を見ているにすぎない。そこから恋愛の様子を通じ、すこしずつ、成長していく過程があらわされるに違いないのだけれども、おそらく、そのようにませる一方で、作者の意図や読み手の意識とは関係なしに、杏菜たちの物語は、あらかじめ与えられた共同体が、自身の気持ち一つで、不変とはならない事実に立ち合う。

 『チョコレートコスモス』
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  3巻について→こちら
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2009年06月14日
 好きです、草食男子。 (講談社コミックスフレンド B)

 そういえば、すこし前に古谷実が『ヤングマガジン』の柱と巻末のコメントでしつこく鳥飼茜の出産を報告していたが、あれはいったいなんだったんだろうか。いずれにせよ、鳥飼の資質の異質さをうかがわせるエピソードであって、現時点ではここでしか読むことができない(らしい)短篇の読み切り「家出娘」(初出は『別フレ2008』5月号)からは、古谷実や山崎さやかにも通じる内面の抽象性と現実の残酷な一面を、ジョージ朝倉以降とでもいうべき少女マンガ的なリリシズムを参考にし、すくいとっているかのようなニュアンスが感じられ、もちろんそうした手つき自体が物珍しいし、じっさいに作品は独特な雰囲気をおびている。いやはや、もしかすれば傑作であるかもしれない。ストーリーというよりもある種の叙情を読ませるマンガである。一個の物語をつくるためには、十を描かなければならないところを、その半分ぐらいにとどめ、余白のなか、見えていない部分に切々とした情緒を浮かび上がらせる。雪の降る国道沿いのバス停に、同級生の男女を偶々居合わさせただけで、こんなにも深い余韻があらわせることに、おどろく。この『好きです、草食男子。』というアンソロジーには、鳥飼のほかにも、ヒナチなおや春木さき、B型、安理由香、克間彩人といった作家が参加していて、正直、表題のカテゴリーでくくるのが無理やりな(要は、奇人タイプのイケメンさんを題材化している)ラヴ・ストーリーが並んでおり(ヒナチの「ファンタスティック コンタクト」は『机上のrubber』にも入っていたな)、それなりキュートな作品が揃ってはいるのだが、なかでもとくに「家出娘」は、異色、出色であった。

 鳥飼茜
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら

 ヒナチなお
 『オレたちに愛はない』について→こちら
 『机上のrubber』について→こちら
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2009年06月13日
 畑亜希美の『ベイビー☆キスをどうぞ』はこの2巻で完結、前シリーズである『ベイビー☆お手をどうぞ』と合わせて全3巻の内容でまとまっている。終盤、シリアスな展開になるにはなったものの、それすらも愉快な調子のまま走り抜けているのが、とてもよかった。楽しかった。新人ネイリストのそのみと彼女が勤めるサロンのオーナーである心二の、でこぼこ、騒々しいやりとりは、ちょうどマゾっ気抜群のどじなヒロインとサドっ気抜群でやり手なイケメンさんが、諍い、乳繰り合うような、つまりあの手この手のラヴ・ストーリーの、極度にユーモラスなヴァージョンとなっており、そこがとてもチャーミングで、とにかくまあ、ふつうなら暗くなりそうな話題も、テンションを落とさずにずうっと、ヒモパン、ヒモパン、って言い続けたのは見事である。クライマックスで、そのみに対し、恋愛をとるか夢をとるか、の選択と決断が迫られるのだけれども、もちろんそれ自体が、お約束とでもいうべき定型的なパターンであって、もしかしたら一種の現実性を汲んでいるため、深刻度の高いドラマになりうるのかもしれないが、うだうだいじけてしまいがちな話の筋も、持ち前の明るさで吹き飛ばしている。あまりのハッピー・エンドぶりに、都合がいい、という意見もあるだろうけれど、いやいや、一挙両得をものにしたそのみのガッツが、すばらしいんじゃないか。このマンガにはそれぐらいの勢いがあってもよい。だいいち、そのみのモチベーションが、心二の評価によって成り立っていた事実を考えるなら、両想いの成就が、彼女の器量をよりよくしているのは必然であり、それが大団円をもたらしているのであれば、物語上の辻褄は合っているし、ラストのエピソードにおいて、メインの視点、モノローグの持ち主が、いったん心二にスイッチし、そのみのがんばりは、読み手からは見えないようになってしまう、こうした手法を生かし、感動的な一コマの前にさえ、ギャグを盛り込んでくるところに、『ベイビー☆キスをどうぞ』という作品の本領はあるのだと思う。

 1巻について→こちら

 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
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2009年06月10日
 要は、皆がだいすきなガンダムのシリーズに喩えるなら、『ポケットの中の戦争』や『第08MS小隊』の、さらにマンガ化みたいなもんだ。内藤ケンイチロウの『クローズZERO』は、高橋ヒロシのオリジナルはもとより、原作の映画を観たときがある向きにも観たときがない向きにも、おそらくはその魅力をよく伝えてくる、という意味で、十分なコミカライズを果たしていると思う。作中人物が派手に動いて回る映像ほどにはスペクタクルがないかわり、急展開の連続からは抜け落ちてしまう関係性の描写に手間をかけていることが、功を奏しており、この3巻では、映画版において設定の提示のみでほぼやりくりしていた源治と時生の、友情の念が、どのようにして結ばれ分かたれたのか、中学時代を振り返るかたちで、あらわされている。源治の独特な髪型が、じつは時生の考案で、今もずっと同じスタイルをキープしているというのは、さりげなく、ちょっといい。まあ、ストーリーとしては、ヤクザの坊ちゃんと金持ちの坊ちゃんが、それぞれ学校からは浮いた存在であることを共通項とし、打ち解け合ってゆく、式のありがちなパターンではあるが、これがあるとないとでは後々、鈴蘭高校のトップをめぐって激突することになる源治と多摩雄のあいだの、ライヴァル的な対照における説得力にも、違いが出てくる。源治と多摩雄は、本質的に(あるいは逆に表層的になのかもしれないが)異なるカリズマを有しているので、互いに勢力を拡大、学校の大体を二分することになるのだけれども、映画版では、後者の振る舞いにはトップに相応しい人間性の豊かさがちゃんと託されていたのに対して、前者のいったいどこがケンカのつよさ以外に秀でているのか、あまり丁寧ではなかった。だが、孤独もしくは孤高であるがゆえの弱みを持つ者が、同じく孤独もしくは孤高な立場に置かれた者を惹きつけうることを、マンガ版の内容は、補完している。言うまでもなく、牧瀬や伊崎という反主流派の人間が、源治につくのもこのためである。

 1巻と2巻について→こちら
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2009年06月09日
 売れているマンガというのは正しい、何はさておき正しい、すくなくとも大勢の読み手から支持されるだけの正しさを必ずや持っている、が、しかし、もちろん、誰しもがその正しさに従う必要なないのだし、その正しさに疑いを抱くこともありうる。つねづね、品川ヒロシ(品川祐)の同名小説を、鈴木大(鈴木ダイ)がコミカライズした、要するにマンガ版の『ドロップ』には、あやしいものを感じており、たとえばそれは、何百万部も出ているらしい発行部数に、しばしば小説の売り上げが混ざっていたり、混ぜていることを曖昧に明記しているようなカウントの仕方が、まずうさんくさいのであって、じっさいに内容のほうも、どうしてこれがそんなに高く買われているのか、納得のいかないところが多い。率直にいって、高橋ヒロシのフォロワーもしくはエピゴーネン以上の価値は、いっさいないだろう。まあ、当の高橋自身がキャラクター・デザインとしてクレジットされているので、当然といえば当然なのかもしれないけれど、いやいや、だからといって志が低すぎやしないかい、と関係者各位に問うてみてくもなるのだった。いちおう、マンガ版にはマンガ版ならではの、原作とは異なる展開が設けられていて、この7巻のストーリーにおいて、それはとくに顕著となっているのだが、マサトという、あたかも自意識の壊れてしまったかのよう人間の扱いが、現代的なヤンキー・マンガにおいて、あまりにもステレオ・タイプであること、つまり、生まれや育ちの不幸に対するクローズ・アップでしかないので、たいへんがっかりさせられる。たしかに、テーマのレベルで見るなら深刻な問題であり、この手の、世間一般からは逸れねば生きられなかった不良を題材化したジャンルこそが、真剣に向き合い、付き合い、何らかの応答をあらわさなければならない部分も、ある、には、ある。じじつ、山本隆一郎や小沢としおなどは、これを迎え撃ち、見事な成果をあげている。だが、このマンガの、あくまでも現時点からは、ほらほら、やばいでしょう、ちゃんと流行色も押さえてるでしょう、ショッキングでしょう、シリアスでしょう、といった手つきしか感じられないのが、痛い。それにしても鈴木ダイ(鈴木大)、『ヤングチャンピオン』で連載をはじめた『春道』もそうだけど、ほんとうに駄目になっちゃったんかな。かつて『BANG2』や『MASTER GUN MASTER』に燃えたファンの身としては、とてもつらいし、寂しい。

 5巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年06月08日
 なにわ友あれ 8 (ヤングマガジンコミックス)

 いつの時代であれ、童貞のマインドをこじらせたら手に負えないのはいっしょ、不良だろうが坊っちゃんだろうがオタクだろうがヤンキーだろうが大差なく、そのまま性根を腐らせてしまえば、変態か畜生に成り下がるしかない運命かい。90年代に環状族と呼ばれた大阪の走り屋を描いているのが、南勝久の『なにわ友あれ』だが、そのモチーフ上、男性の行動原理がテーマの位置を占めており、たとえば、自動車というアイテムから離れても、男性性の横暴が女性という主体を苦しめることがありうる危うさを、ベンキみたいなクソ野郎の存在を通じ、おそらく、作者は自覚的にあらわしてきているわけだが、この8巻では、準主人公(もしくは主人公)であるテツヤの恋人、ナツに密かな感心を抱くパンダがやっちゃった。いや、正確には、やっちゃいそうになっちゃった、か。テツヤを自分の部屋に住まわせているパンダは、改造モデルガンのダメージを股間に受け、まるでインポテンツのようになってしまっていた。しかし、ナツに対していやらしい想像をしているときだけは立派に欲情することができるのだった。テツヤが不在の夜、アパートでナツと二人きりになったパンダは、あろうことか、背後から彼女を押し倒してしまう。まあ、結果的には未遂に終わったとはいえ、このくだりはほんとうに最低だよね。パンダの個性を、半ばシンナーでラリっている点も含め、特殊化することで、いちおうギャグとして受け取れなくはないのだけれども、もてない人間にありがちな我執に還元するのであれば、過剰な妄念のありようは決して例外的なものではないだろう。言い換えるなら、一般化してしまうことも可能なのである。馬鹿が、強姦の力関係で女性を組み敷いたところで、何の解決にもならないのに、そのような事件や動機が世間からまったくなくなることはねえんだ。いずれにせよ最悪だよな、パンダ。一方、グッさんのスパーキーに入り、鍛えられるテツヤは、トリーズンの初代会長、ヒロが所有しているワンダー・シビックをめぐって、トリーズンの新進気鋭であるバクとの対面を果たす。テツヤを自分の愛車の運転席に座らせ、力量をはかってやろうとするバクは、走りから感じられてくる意外なセンスに驚かされるのだった。いっけん生意気だが冷静なバクもそうだし、パンダみたいな駄目人間や、この巻でスパーキーに入ってくるケンカ屋のカワチンなど、それぞれべつの性格をもって青春を生きる同世代たちと、テツヤの対角線下に照射されているのは、やはり、すべて、男性の行動原理にほかならない。それが、90年の〈当時 大阪では様々なスタイルの環状チームが――‥‥生まれては消えた――台数と人数増強を目指し ステッカーをくばりまくるチームもあれば――ステッカーの売り上げで金儲けに走るチーム――ケンカや根性でメンバーを人選するチーム――そして環状で走りをテストするチームなどは――‥‥テストの段階で大事故を起こし――‥‥ケガ人や廃車になる者たちもいた‥‥名を上げたチームのステッカーは当時の若者にとって――ブランドと化した――〉という背景の、軍記もののアレンジともとれる物語へと集約されているのだが、ディテールの描写をべつとするなら、作品の性質から必然的に要請される男性性の美化に対し、どこまでの批評と抵抗を加えながらマンガを成立させられるかが、たぶん、『なにわ友あれ』の、最大の課題であって、テーマの重要な行く末を担っている。ところで、表紙カヴァーの折り返しに、ついに作者の近影が登場したのであったが、なんだよ、作品のイメージどおり、ちょっとおっかねえ面構えじゃないか。

 7巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻について→こちら 
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2009年06月07日
 一個一個のセリフはなかなかさまになることを言っているのに、それが半回転ほどしてかっこうがついていないところに、高橋秀武の『トクボウ朝倉草平』のおかしさはあるのだが、そうしてしばしば、かっこうのついていないところからさらに半回転ほどし、一個一個のセリフがとてもさまになっているあたりにまで戻っているのが、同じく魅力的な点をなしていると思う。たとえば、この4巻に入っている「若さゆえの過ち」編では、とある声優志望の少女(ゆ〜なタン)が詐欺にかかっているのではないかと危ぶんだアニメ・オタクの青年が、自分で助言をしてやれば済みそうな話なのに、そもそも彼女とコミュニケーションをとれるだけの度胸がないため、警察に助けを求めて、〈でも…ただコスプレしているだけの我輩と違って…〉、〈なにかを目指す勇気を持ったゆ〜なタンを我輩は尊敬してるんであります……〉と言い、〈そんな勇気すら食い物にする大人がいる世の中で――我輩たちは一体どこに向かって勇気を持てばいいんでありますか――――ッ!!〉と叫ぶ、この場面、いくら迫真的であろうが、しょせんは駄目人間の屁理屈にすぎないのだけれども、しっちゃかめっちゃかな訴えのうちに、たったの一分でも誠実さの込められていることが、朝倉の心を動かすことになっている。半ばギャグのようなマンガではあったりするものの、全編がギャグというわけではない。そこに作品の、たいへんクセのあるキレを感じられる。もしかすれば今どき、愚直にハード・ボイルドを演じたとしても、読み手の側が、ネタだとかの半可通な基準によって、おもしろおかしく茶化してしまうかもしれない、こういう予断を作者自身が適宜先導もしくは煽動し、そのうえでシリアスな部分をも描こうとしている可能性は、意外と高い。シリアスな部分とは、おそらく、善と悪の峻別が曖昧になってしまった社会において罪人と罰則はありうるか、ということで、もちろん、ある、と朝倉の行政指導は断言しているかのようであって、これは以前に述べた気もするけれど、作者の過去作であり、オカルティックでヴァイオレントな『野獣は眠らず』に通じる点にほかならないし、あるいはそこからさらに一段階、強調の方向に進んでいる。そしてついに、トクボウにとって、朝倉にとって、最大の強敵たるツルイ警備の頂点、鶴井浩二の〈この国になにものにも囚われない国防を〉という理想が語られる。プランの一歩として、海上自衛隊が守る領域に、巨大な戦艦を送り込んだツルイ警備の目論みとは何か。それを探るべく、朝倉は、もはや不幸としか喩えようのないパートナーの辻をともなって、危険な潜入捜査を開始するのだった。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年06月04日
 『宙返りヘヴン』と同時発売となった『誓いの言葉』には、三つのストーリーが入っていて、表題作は、ライトな(といっても出来事自体は個人のレベルにおいて十分にヘヴィである)不倫を描いており、受身の姿勢に近しかったヒロインがやがて自分から決心を述べるところに、作品のテーマがあるのだろうけれども、クライマックスの悔恨ですらも結局は彼女にとって甘い措置であるような気がし、あまり感心しなかった。残りの二篇、「まぶたのおさら」と「Wエスケープ」も、それらに関しては主人公を男性にはしているが、やはり、どちらかというなら受身ともとれる彼らの立場に、やや都合のよいようお話が転がっているふうにも受け取れた。これはもちろん、結末のかたちがどうのこうのといっているわけではない。物語は、心情のクローズ・アップによってつくられ、最後まで心情の外側を括弧にくくってしまっているので、作中人物の気持ちの動きが、具体性をおびないままの状態でするりと流れ、それ以上の働きかけを持ちえていないのである。いや、「まぶたのおさら」だけは、この陥穽からかろうじて逃れられているかもしれない。年齢の離れた恋愛は、もしかすれば主人公が、心情の外側へ、括弧のはずれた(あるいはそれをコミュニケーションと言い換えてもいい)ところにまで出て行くことで、ようやく実っているとも思われるからである。

・その他斉藤倫に関する文章
 『宙返りヘヴン』について→こちら
 『世界を敵に回しても』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
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 斉藤倫の『宙返りヘヴン』には、二つの長めの短篇マンガとでもいうべき作品が収められているが、個人的には、表題作よりも「ひとつぶの雫より」のほうに惹かれるものがあった。中学時代、互いが互いに片想いしながらも、誤解を残したまま、離ればなれになってしまった男女が、大学生になって再会し、いま一度、両想いになれないもどかしさをやり直す、といったていのストーリーである。これをある程度のいそがないテンポのなかに描いているのだが、そうすることで、過去の地点からうまく動けずにいるヒロインの、戸惑い、躊躇いが、とてもよく掴まられている一方、彼女がずっと心の隅で求め続けている男性の側の、素っ気なく、愛想を欠いているところにも、不器用さを建前にした魅力が生まれている。要するに、年齢や経験の基準では、適正値に達してないような、まるで初心でしかありえないコミュニケーションに、恋愛と純粋とがイコールで結びつく瞬間を預けているのだといえる。こうした作品は、出来事の平凡さも含め、たしかに深みがあるほどの構造を持たない、持っていないかわり、すうっとストライクのマトへボールが吸い込まれていくのに似た、さわやかな印象をまっすぐ放ってくる。

・その他斉藤倫に関する文章
 『世界を敵に回しても』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
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2009年06月02日
 オビで加瀬あつしがべた褒めしている。まあ、作品のカラーからして意外なところでもないのだけれど、その「一気に読めて読後が気持ちいいマンガ! この作品に懸ける作者の気持ちがコマから伝わってくる」という感想には、疑う余地もなく同意しておきたい。いや、ほんとうにおもしろいぜ、これ。

 藤堂裕の『由良COLORS』は、淡路島にある漁師町、由良を舞台とし、二十代の若者たちによる「ジモト」もしくは「地元つながり」とでもいうべきローカルな共同体の、和気あいあいとした日常を描く。彼らはそこ、太刀魚とたまねぎぐらいしか特産を持たない田舎の暮らしを、いつかは出て行くのかな、とも思うし、いつまでも仲間とともに同じように過ごせればいい、とも思う。しかし、こうしたジレンマ自体が深く掘り下げられているというより、ちょうど判断保留のモラトリアムに近しいひとときをリアリティの担保としながら、テンポのはずむコメディのなか、登場人物たちの表情を生き生きとさせていた点に、前3巻までの良さはあった。そしてそれは、たとえば、吉田聡の『湘南爆走族』から連綿と続く作法に則っているといえるし、あるいは、テレビ・ドラマ『木更津キャッツアイ』等に見られる現代的なスタンスを踏まえているともいえる。いずれにせよ、タイトルに特定の地名をあつらえたサブ・カルチャーの、しごくまっとうなポリシーを選択し、そのうえで十分な成果を挙げていたろう。

 だがこの、「赤い冬編」と題された4巻では、突然の変調、すべての限度が曖昧だからこそユートピアであったはずの世界が裏返り、楽しげな風景の向こう、暗がりに隠されていた負の領域が、二人の青年の対照を通じ、露出される。〈その年の冬は一段と冷たく……哀しみを誘う……凍える雪が……由良を飲み込んだ〉のである。

 例年どおり、気心の知れた友人たちと、おおらかな年越しを迎えようとしていた主人公のカンミであったが、一件の車上荒らしが引き金となり、不穏な事件が多発、それを自警するうちにやがて、十年前の中学生の頃に町を去っていった相刃祐佑と、悲しき再会を果たすことになる。暴力をともない、由良の町へと戻ってきた相刃に背負わされているのは、ローカルな共同体が安寧と同時に発生させている排他の磁場によって、深く傷つけられた精神にほかならない。彼はそれを復讐に変え、不良のグループを恐怖心で煽り、かつて自分を疎外した連中に罰をくだそうとする。もちろん、こうした追われた者の憎しみをモチーフとするストーリー自体は、古今東西、他に類を見ないものではない。むしろ、種々の物語におけるプロトタイプとさえいえるであろう。逆にいうなら、やってくる共感は、普遍的であるほどに、なくなることがないのかもしれない。したがって、特筆すべきは、その語り口、ストーリーのあらわし方であって、すでに述べたが作者は、そこに「ジモト」もしくは「地元つながり」と今日に評されるようなテーマを落とし込み、さらにはローカルな共同体を、あくまでも肯定する立場の人間、つまりはカンミの存在を、一種の語り手、主眼とし、住人の功罪もろともパッケージしてみせ、無自覚な悪意が自覚的な悪意の根になってゆく不幸を、単行本の1巻のサイズで、簡潔に、そして見事に表現しているところが、すぐれている。

 いやまた、カンミと相刃、二人の対決には、とにかく圧倒される。たった一個のタバコから相刃の関与をカンミが想像してしまう、こうしたプロットは稚拙だろうか、不自然だろうか、都合がいいだろうか。たしかに、もうすこしの段階が付け加えられていてもよかったが、そんなことはない。ちいさな町の偏狭において、わずかな異端であること、それが中学時代のカンミと相刃とを繋ぐシンパシーのラインであった。基本的にはよそ者であり、母親が娼婦まがいのことをしていたばかりにショフと呼ばれていた〈相刃は周りによって一人にされた……〉のに対して、田舎生まれのフラストレイトをケンカで晴らすことしか知らないカンミは〈俺は自分で一人になった…〉というわけだが、〈はみ出し者が二人そこにいた……〉ことに変わりはなかったのである。

 つまり「赤い冬編」の、カンミと相刃は、互いに互いを自分自身のオルタナティヴであるかのごとく認め、合わせ鏡の役をつとめているのであって、その結果、相刃が起こした事件の本質にカンミだけが辿り着ける、あるいは町民のなかで唯一、カンミだけが事件の本質に辿り着けるよう、相刃には仕向けることが可能になっている。

 そしてその本質を前に、二人が否応なく向き合わなければならないとき、読み手は、由良を守ろうとするカンミの立場が、暴力や犯罪を否定するのとは異なるレベルで、換言するなら、ローカルな共同体の構造に関して、必ずしも正義であるのかどうかを、あらためる必要がある。注意されたいのは、相刃の目論見が、破滅ではなく、〈人情や郷愁だけでなんの生産性もなく……排他的で 本当に差別に満ちた……この由良を観光と福祉に富んだ 金を生みだす町に変えてやる!!〉と述べられていることだ。相刃の憎しみは、町の実在そのものというよりも、差別をもたらす構造のほうを向いているのであり、それをまったくつくり直してしまうことで、地方のルールや固定の価値観を盾とした差別意識に対し、刃を入れ、切り裂き、復讐を遂げようとしているのである。立場と場合が違い、もっと手段が穏当であったならば、これは必ずしも悪にはならないだろう。同様に、カンミの正義も絶対とはならない。

 カンミらを慕う小学生、雅之のくだり(あるいは3巻にあったいじめのくだり)が暗示しているとおり、ローカルな共同体の排他的な成り立ちは、おそらくなくなることがない。にもかかわらず、カンミが、身を挺し、相刃と死闘を繰り広げなければならなかったのは、さまざまな矛盾を承知しつつも、その寄り合いがなければ生きられない人びとがいるためである。それ以上に、せめて自分だけは絶望に暮らした相刃の魂を救ってやりたかったためである。由良に向けられた相刃の声は、最後までカンミにしか届かない。相刃にとって、もしも故郷がありえるとしたら、それはまちがいなくカンミ個人のことであった。カンミと相刃の友情は、決して社会のかたちでは結ばれない。だからこそ「赤い冬編」は悲しい。
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2009年05月29日
 かつて、武論尊が平松伸二と組んだ『ドーベルマン刑事』は、初期の頃こそ、殺伐としたヴァイオレンスのなかに、半ば行きすぎであるぐらい鬼畜米英かつ護憲的な精神を盛り込み、この国がいかにあるべきかを、ハイパー・アクロバティックに活劇化していたが、女性の登場人物が賑やかになるのにつれ、ユーモラスな描写が増えていき、まるで加納が骨抜きにも見えるふうになっていったのは、まあ、いよいよ80年代が訪れようとする、そういう時代の要請とでもいうべき点を汲んでいたのだろう。それから約30年後、武論尊が、初期の加納をどこか思わせる非情な主人公、斐藤完爾の活躍を、上條淳士に託したのが、この『DOG LAW』というマンガである。タイトルに付せられた犬のイメージ、そして斐藤がバイクにまたがり、疾走し、大型の拳銃を容赦なくぶっ放すのは、たぶん、原作者の側にも『ドーベルマン刑事』に対する意識があってのことだと思わせる。警察の機能は衰え、テロが横行、右傾も左傾も甚だしく、若者はギャングに走り、カルト教団、外国人のマフィアが跋扈、ほとんど無秩序状態と化した日本、通称「D・O・G」と呼ばれる超法組織のメンバーたちは、もはや既存の正義ではくだせなくなってしまった悪を、ただ死によって裁いてゆくのみであった。『北斗の拳』のような核戦争は起こらかったにもかかわらず、なし崩し的に暴力のひろまった世界の近未来性は、武論尊の作品でいうなら、池上遼一とのタッグである『HEAT』を彷彿とさせる。すでに述べたとおり、そこに『ドーベルマン刑事』の加納の直系であるような、しかし加納ほどには法律を信じてはいない主人公が配せられている。これを上條淳士が描くというのは、いっけんミスマッチな気もするが、『8(エイト)』のあとに続く作品だと考えるなら、あながち的を外してもいない。ただし、幸福な化学反応は生まれなかったのか、全体のタッチはやや精彩を欠いている。

・その他武論尊に関する文章
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他上條淳士に関する文章
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年05月28日
 たとえばこの5巻のクライマックス、ままならぬ感情の勢いに胸を痛めるヒロインの〈何を? どこから? いつから? あたしたちはいつも まちがってばかりだ〉という、こうした言葉のありようはあまりにもナイーヴすぎる、けれども、そこがいいんじゃないか、藤原よしこの『恋したがりのブルー』の良いところなんじゃないか、と思う。

 しかし、それにしても『恋したがりのブルー』は、ひじょうに要約のし難いマンガだといえる。いやいや、ストーリーそのものはとてもシンプルであって、つまり、各々恋愛状態にある四人の男女、高校生たちが、時系列にそって、付いたり離れたりをやっているにすぎないのだが、それではまったく作品の特徴を押さえられていない。

 見られるべきは、やはり、こういう半径の狭い世界にアプローチした少女マンガには珍しく、他人の足を引っ張ってやろう、出し抜いてやろう、自分が幸福になることのみを第一義とし、腹に一物を持っているような人物が採用されていない、その人物の登場やアクションによって、物語が動かされてはいないことであろう。もちろん、最初は悪人だった子が、改心して良い子になる、性根は良い子だった、というのではない。そうした転向の様子を通じ、エモーションを描写、ドラマをつくり、転がしてゆく手法自体が、あらかじめ選ばれていないのだ。

 蒼、陸、海、清乃の、四人の作中人物は、ただ、かつて好きだった相手を想い遣り、現在の恋人を想い、そして友人の気持ちを想う、誰も等しく傷つけたくないと願っていたはずのことが、なぜかしら、お互いを傷つけ合うかっこうになってしまう、このような逆さまに対して、たっぷり引き込まれるものがあるのは、ある種のデフォルメがきいた作風のなかに、作者の綿密な手つきが説得力を生んでいるためなのだが、ではその説得力はどこに由来しているかといえば、恋愛という誰しもに身近なテーマを媒体として、欲望を抑圧された主体同士のコミュニケーションを、ありありと描写しているところからやって来ている。おそらく、世間一般的には、ルックスもよく、優等生タイプの、清乃が陸に惹かれ、海が蒼に惹かれる、これの説明は、双方の前者の目には後者が抑圧よりも自由に映っていることに求められる。だが、じつは後者ですらも決して自由ではいられない。

 このことは、5巻において、とくに印象的な場面、ヒロインである蒼と彼女に惹かれながらも無力にならざるをえない陸の、まずは84ページ目のあたりのやりとり、そして138ページ目のあたりのやりとりに、顕著である。

 たとえどれだけのささやかさであったとしても、たったほんのすこしであってさえも、いったん本心を口に出してしまったなら、何もかもがすべてぶち壊しになってしまう、なりうる可能性がある。そのことの躊躇いが、言葉を足りなくさせる。他人にやさしくありたいとする気持ちが、翻って、他人を傷つけてしまう。さらには自分自身をも傷つけることになってしまっている。

 どうしてこうも、感情の勢いだけが、ままならないのか。禁じきれないのか。過剰な事件性がそうするのではなく、思春期の日常、純粋さに忍び込んだ幾重もの疑問形が、こんがらかり、呼び水となって、喜怒哀楽を押し流す。こうした状景化の内に、『恋したがりのブルー』の、藍出でられた青さ、魅力はあらわれている。

 4巻について→こちら 
 1巻について→こちら
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2009年05月27日
 やまもり三香『シュガーズ』の1巻を読みながら、思い浮かべたのは、たとえば、いくえみ綾、海野つなみ、ジョージ朝倉といったオムニバスの名手とでもいうべきマンガ家たちであった。じっさい、直接的にか間接的にかはともかく、多少なりの影響はあるに違いないが、ここで誤解を避けておきたいのは、それはあくまでも作風のイメージを指しているにすぎないのであって、決して今しがた挙げたようなマンガ家の作品群に匹敵しているという意味ではない。とある高校を舞台に、登場人物たちが入れ替わり、いくつかの恋愛模様を描く内容は、正しく連作ふうの趣を持っているのだけれども、そのほとんどが一対一の目線を交じらせることによって充足し、内向きのベクトルしか帯びていないため、きわめて単層的、いや、たしかにピュアラブルなラヴ・ストーリーとしての完成度は高いが、それ以上にはなっていかない、つまり、群像劇としての構成要素は薄く、青春グラフィティとしての奥行きには欠けるのである。もちろんそのあたりの、要するに物語性の総和であるよりも個々の設定(いわゆるキャラクター等々)を前面化しているつくりは、作者の指向を忠実に再現しているのかもしれず、読み手の好みにおいて判断がわかれるところであろう。しかし、やはり、一話目(SWEET[1])や四話目(SWEET[4])のような、三者以上の目線を背景に感じさせ、ストーリー自体に膨らみが出ている篇のほうが、ぎこちなさはあるものの、他に比べて、印象が濃い。
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2009年05月26日
 ああもう、ちくしょう、おもしれえな。1巻の時点で、かなりのファニーが満載されており、とてもとても油断ならなかった佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』であるけれど、その印象は2巻になろうがちっとも変わらない。急展開に次ぐ急展開、そして、どうしようもないギャグ、概要はいっけんトリッキーであるのに、一周して、じつにオーソドックスな少女ラブコメにも思われてしまう内容は、つまり、たいへんおもしろい、という感想に尽きる。しかしそれにしても、こういうストーリーの運びになるかい。関西ではケンカ最強の女として知られ、恋愛とは無縁の青春を過ごさなければならなかったため、素性を隠し、関東の高校へ編入してきたヒロインの園田音色だったが、せっかくの猫かぶりもすぐに露見、問題児ばかりを集めた「特殊科」通称「バ科」に加えられてしまう。結局、かつてと同じく、もてない日々を送る羽目になるところだったのだけれども、特進科の相澤深に向けた一目惚れが、まさか叶い、念願のラヴ・カップルを成就させる。一方、「特殊科」のクラスメイトで、深とも浅からぬ因縁を持つ不良の栄山トキオも、じつは音色に好意を寄せていて、彼女彼らの高校生活は、波乱含み、賑やかさを増してゆく。それがまったくコメディのようにあらわされているのだが、ここでは、どうして深が音色と付き合うつもりになったのか、じつは暗い企みを持っていたとあきらかになるのに合わせて、わりとシリアスなエモーションが入り込んでくる。そもそも、ひじょうに喜劇性の高い物語において、恋愛に対する真剣のモードが、作中人物たちの情緒や、緊張を担っているマンガである。それがさらにはなはだしくなることで、性急なテンポのなか、理想的なテンションがつくり出されている。個人的には、『おバカちゃん、恋語りき』の1ページ1ページを、じつに楽しみながらめくっているとき、この、テンションを読んでいるという感覚がつよい。音色、深、トキオの、ややこしく絡み合うかっこうが、いわゆる三角関係の力学をベースとしていることに、異論はないだろう。舞台を学園に限定した三角関係のドラマは、半径の狭い世界そのものの密度を濃くしていくしか、表現を巧みにする術がないのだけれども、多くの場合、スキャンダルのせこさに内面のしょぼさが比例してしまい、わざわざ、といったていのオーヴァーなカットを挟むことで、やたら深刻ぶり、何とか体裁を取り繕うとする。『おバカちゃん、恋語りき』もまた、そうした様式からは決して逃れられていないのかもしれないが、ハイにキープされたテンションは、せこさや、しょぼさをも、あらかじめ、ばかばかしさの内に織り込み済み、チャーミングなノリで括ってしまうほどの効果を発しており、心覚えのある怠さに白けるということがないのだった。ところで、欄外コメント、津村記久子や山崎ナオコーラ、金子光晴を最近の愛読書に挙げている作家が、こうしたマンガを描くのは、なるほど、わかるようなわからないような気もする。

 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
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 水野美波の『アタシんちの男子』は、たしかに同名テレビ・ドラマのコミカライズを含んではいるが、正確には、読み切りの短篇を収めた作品集となっている。むろん、その半数は作者のオリジナルであるけれども、スマートな絵柄、とくにいびつなところがない以外に、アピールしてくる部分はすくないかな、という気がする。まずはオリジナル作品のほうから見ていくと、「拝啓、兄上様」は、苦しい家計を助けるためにホストをしている兄の、妹の生活に対する過剰なまでの干渉を通し、いうなればうるわしき兄妹愛を描いており、話運びもよいし、そつなくまとまってはいるものの、そうした概要の、まあ物珍しさのないなかから、この作者ならではの色合い、がしっと心掴まれるものがほとんど出てこないことを、惜しく思う。「拝啓、兄上様」の登場人物を流用した「フレンド・ライフ」は、男の子同士の友情を題材化しているが、こちらもやはり、もう一掴み程度でいい、特徴のつよさがまざまざとしているところを加えて欲しかった。もしかすれば、ストーリーがまっすぐすぎ、作品に奥行きが足りていないのかもしれない。たとえば、「拝啓、兄上様」でも「フレンド・ライフ」でも、ホストの誠二の、ちゃらい外見に反して、自己を犠牲にするのも厭わぬことが、要の役割になっているわけだけれど、そういう彼の人徳みたいなものは、残念ながら、設定の以内にとどまっている。身近な人間には、その良さが理解されているという事実だけが物語化されているにすぎず、じっさいに彼が果たしている機能は空虚なシンボルのごとくでしかない。初体験のういういしさをモチーフにした「そんな僕だけど」にしても、表だって欠点らしい欠点がないかわり、テーマのレベルを覗いたとき、セックス(性交)そのものに関する屈託をまったく省いてしまっているので、結局はタイミング次第なんでしょう、の形式的な範囲にコミュニケーションのぜんぶが収まってしまっている。さて。表題作である「アタシんちの男子」は、テレビ・ドラマ版を総括するものではなく、その、あくまでも1話目をベースにしながら、自分の年齢とそうおおきく違わない6人の、若い義理の息子を突然持つことになったヒロインの奮闘を、前後編にわけて、ダイジェストふうに描いており、借りてきた設定、登場人物たちの個性を器用にアレンジしている。しかしながら総じて、作品づくりにおける手際のよさにのみ、作家のセンスや実力を見るべきなのだとすれば、すこし寂しい。
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2009年05月24日
 打撃王凛 15 (月刊マガジンコミックス)

 ごく私的なランキングを述べるなら、佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー)凜』が現在の野球マンガでトップにあたる、というのは以前よりいっているとおりであるけれど、正直、高校野球編に入ってからは、ほんのすこおしテンションが落ちたかなと感じられるのは、そりゃ仕方がない。中学野球編で、あれだけのクライマックスをやり遂げたあと、状況設定を一新し、主人公の実績をほとんどチャラにしてしまったのだ。カタルシスはゆるやかに後退せざるをえない。のだが、しかしそれでも、一場面一場面における熱量の半端なさは相変わらず、さらには先の読めない展開のはったりをばっちり決めており、すくなくともそうした点に関してはまだ、他の作品の半歩ほど先をいっているように思う。さて。中学野球編では、落ちこぼれの野球部が一丸となって、努力と訓練により鍛えられ、強豪チームをくだしてゆく、というスタイルをとっていた『打撃王 凜』だが、13巻以降の高校野球編では、主人公である凜が、エリート級のプレイヤーばかりを集めてきたチームのなかで、ライヴァルたちに混じり、さながらバトル・ロイヤルのごとく、レギュラーのポジションを得るため奮戦する、といった形式へと転じている。もちろん、ある程度のまとまりがチームにできたならば、目指せ甲子園、のテーマに段階をシフトするのだろうが、今のところ、団体性よりも個人間の対決的な姿勢が前面になっている。中学野球編のような前者であれ、高校野球編のような後者であれ、スポーツを題材化したフィクションではすでに定番のパターンというか、そのどちらかがたいていであるし、両者の混成ですらも、決して類例が少なくないわけではない。にもかかわらず、『打撃王 凜』が、まあね、と一笑に付せないほどにエキサイティングなのは、繰り返しになるけれども、尋常ではない熱量の込められていることが、如実であるがゆえにほかならない。この15巻では、第一次のテストに落ち、あわや脱落しかけて、雑用係に回されてしまった凜がそこで、同じく下位の立場にある選手らとチームを組み、二次のテスト、3イニングの短縮試合を行うことになる。そのような過程において描かれているのは、凜の過去との訣別、自立であり、あらたな仲間意識の芽生えとでもいうべきものである。もっとも重要な局面で、バッターボックスを任された凜の気迫、チーム・メイトからの信頼には、このマンガのいちばん良い部分が出ている。やはり、胸を熱くさせられる。ただし、一年生のみで新設された野球部を、やがて全国区の戦いに向かわせるためか、内輪でしかないレギュラーの争奪ですら、各人のすさまじいポテンシャルをアピール、やや超人オリンピックの様相を呈しつつある。今後、対外試合が行われるとなれば、これ以上のプレイヤーが次々登場してくるに違いなく、そうしたインフレーションにどう対処するのか、まあそれ自体は少年マンガの文法があらかじめ抱えている条件だとはいっても、懸念はある。

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2009年05月22日
〈読解力なんて必要無い / 想像力なんかで補わない / だからアタシは尋きたいの――命の宇宙を突きつけて――冷徹に精密に寸分たがわぬ正確さで――命なんかじゃ物足りない / MONOTARINAI / 命なんかじゃ物足りない / MONOTARINAI〉

 まったく。実在の世界でも、佐木飛朗斗プロデュースで、世界で最高にアナーキーなガールズ・ロック・バンド、ガソリンバニーをデビューさせるぐらいの投資を『ヤングジャンプ』にはして欲しかったものだな。甲斐性なしとは思っていたが、まさかここまで甲斐性なしとは思わなかったぜ。せいぜい、どっかの男性誌と組んで「オトナのマンガ」とかでっち上げてろよ。中身はトッチャンボウヤの慰みでしかないくせに。以上は、『外天の夏』の連載が終了してしまったことに対する完全な逆恨みであり、もちろん、それ以外の何ものでもない。

 まあ、じっさいに編集部が打ち切ったのか、原作者の佐木飛朗斗が途中で放り出してしまったのか、まさか力関係ではいちばん弱そうな東直輝が投げたわけはあるまいが、真の事情を知れない読み手にしたら、好き勝手を述べるぐらいの自由は許されてもいい。それにしたって、佐木がつくり出した宇宙の、相変わらず、罪深きさまよ。カオスに満ち満ちた物語を、また一つ、出口も見えないままに閉じてしまったんだからね。すくなくとも、この4巻の時点では、いったい何がどうなれば正解なのか、まったく把握させないほどの勢いで、カタストロフィに向かい、フル・スピードのスロットルを開けている。

 ところで「マンガ大賞2009」の非ノミネート作品でありながら、この『外天の夏』を激賞しているのが、選考委員の一人、小説家の海猫沢めろん(こちらのPDFの70ページ目で読むことができる→http://www.mangataisho.com/dl_data/comment090324.pdf)で、かなり激しめのアジテーションが、まじなのかネタなのかどうか不明ではあるものの、『外天の夏』もしくは『疾風伝説 特攻の拓』もしくは佐木飛朗斗評としては、なかなか、読ませる。

 海猫沢がいう〈80年代ヤンキー漫画〉の定義は、やや感覚的に過ぎるし、明確さを欠くけれども、『特攻の拓』が他と一線を画したのは〈実は単なる「ヤンキー漫画」などではなく、同種と異種の交流と争いを描いたハイブリッドなヒロイックサーガ(三国志や大河ドラマのような)であった〉からであり、佐木が〈初期から一貫して描いているテーマは「組織統一=全体性の回復」そして「脱アイデンティティ=どこにも属さない者こそがそれを成し遂げられる!」という右翼的であり左翼的であるというアンビバレンツな夢想〉なのであって、そうした偉業的なサーガの集大成こそを『外天の夏』が担っているというのは、十分に説得力のある紹介だと思う。

 さながら国家単位のイデオロギーは弱まり、誰もが他人の目線によるカテゴライズから逃れられず、種々のトライブに分かれ、固まり、排撃と自衛ばかりの過剰化された価値基準を乱立させているような状況下、それが人を人たらしめる本質に拠っているのか、あるいは戦後における制度的なものにすぎないのか、このことを佐木原作の諸作品は、ヤンキイッシュな若者たちの抗争劇を通じ、アレゴリカルに問うているのである。そして『外天の夏』は、こうしたテーマのアップグレード、最新のヴァージョンにほかならない。ほかならなかった、というべきか。

 尊大なロジックで自らの正当性を述べる作中人物の言葉を聞かれたい。しかし彼らは何のための正義に身を委ねているのかを語らない。おそらく、当人たちの従っている主義主張が誤っていないとすればそれは、敵、つまりは自分たちとは違う倫理に従っている者と戦い、打倒し、勝利した結果でしか保証されないと知っているのである。

 街角でナンパされる少女の〈でも大量消費っていいよネ! アタシ達にはその価値があるんだからさ〉と悪びれない声も、じつは同様の無根拠を示すものだろう。彼女たちが、自分に認めている価値というのは、所詮、高度に発達した資本社会の恩恵にすぎず、必ずしも先天的な資質ではないのであって、穿った見方をするなら、ア・プリオリに特別な存在であるがゆえに、大量消費が許されているのではない、大量消費が可能な主体という逆説においてのみ、その価値が許されているにとどまる。

 かつて『R-16』の終盤の展開がそうであったように、『外天の夏』もまた、子供の世界の暴走に並行して、大人の世界の謀略を描いている。しかし、表面上、両者は深く関わっているわけではない。ある意味では、乖離している。これを、佐木の大風呂敷、今までに畳まれたためしのない大風呂敷として非難することもできるし、作品を散らかすばかりの悪癖と見なすのが普通である。もしも『R-16』や『外天の夏』に比べ、『特攻の拓』がすぐれていたとするとき、それはやはり、あくまでも少年誌に発表されたものだからなのかもしれないが、物語の題材を子供の世界に限定することで、筋書きに一定の収まりをつけていたためでもある。

 だがもちろん、『R-16』や『外天の夏』における大人の世界の導入とは、あの『特攻の拓』を象徴する天羽時貞の悲劇を、根底にまで掘り下げる、本質的な背景を拡張していこうとする試みにほかならない。活動の舞台をヤング誌に移し、読み手の層を青年以上に想定するのであれば、より複雑な問題の提起は、当然の帰結だともいえる。そこにあらわされているのは、たぶん、父性なき父権であり、母性なき母権であり、その集合体であるような社会がすでに一般化され、構造的には何ら不合理なく機能していることの不幸だ。

 思い出すべきは、天羽時貞の認識にとって、家族の絆は、資本制もしくは巨大なシステムの下位に置かれ、そこから絶対に脱しえないと感じられることが、この世界の不浄と過酷な運命を強いていたのである。話を『外天の夏』に戻すなら、政財界につよい影響力を持ち、金本位制の実現を目指す巻島宗親、彼とその妻であり、四人の娘を自らの所有物として扱う玲子が、作品のなかで、徹底された資本システムの強度を代弁する役割を果たしている。こうした両親の思想に、まさしくヒロインの亜里沙と亜芽沙は抑圧されているのであったが、ここに親子の対位法を用いることは、おそらく、できない。すくなくとも佐木は、もっとべつのベクトルを作中人物に与えている。

 この4巻までに描かれた『外天の夏』の物語では、大人の世界と子供の世界は、すくなからず等位になっていると考えていい。家族の関係だけが、たんにその序列を定めているにすぎない。どちらが大きい、どちらが小さい、ということはないのである。したがって片方がもう片方を覆ってはいかない。これが両者を乖離させているふうにしてしまう要因でもあるのだけれど、双方ともに独善的な精神が先んじた価値基準を生きているという意味で、まったく同様のテーマを負っている。

 たとえば巻島は、夜会に招いた議員を前にし、〈“流儀”“見識”“美学”…どんな男であっても戦う事から逃れられんのだ…〉と言い、〈誰もが…人類の誰もが暴力を否定する / 譬え“蹂躙する側であっても否定するだろう…〉と言いながら、現代の誤謬を資本制に求め、金本位制によってその乗り越えを訴える。妻の玲子の場合はさらに、男の価値とは〈どんなに莫大な“権威と叡智”“名誉と資本”も無意味…価値とは『何を敵とし如何に成し遂げたかを証明する事で』で計り得る〉とし、女の価値とは〈尊く美しいのは人生…肝要なのはその“偉大な価値”を持つ男に…どれ程尊く…“美しい人生”を支払わせたかで計り得る〉とする。彼ら夫婦はたしかに、資本制の本質を見、社会を判じてはいるが、しかし、あくまでも私的な個人主義の敷衍であって、そこからこぼれ落ちてゆく者を決して救わない。

 こうした利己と正義の同一視に対して、何のためにかくあるべきか、のアンチテーゼを加えることが、主人公の天外夏に課せられた役割であり、そして暴走族同士の苛烈な殲滅戦に紛れ込んでしまった彼が、それを回避させていった先でこそ、獲得されるに違いない主題だろう。主題のおおよそはあらかじめ見当がつけられている。友情の絶対性、愛情の絶対性、もしくは絶対的な友情のあること、絶対的な愛情のあること、必ずしも物質の形式に囚われることのないそれら、であるはずだ。

 しかしそもそも、そのような議論自体が抽象の概念を汲んでいるので、整合性の高い立証を物語化するのは、ひどく困難だといわざるをえない。取り組み自体は、当然、立派であるものの、最初に述べたとおり、『外天の夏』は、ほとんど未完結の状態で連載を終了してしまった。事情はどうであれ、作品の力及ばずのことだから、こればっかりはいただけない。巻末の予告によれば、完結編となる5巻には、大幅な描き下ろしがあるらしいので、せめて納得のいくピリオドが打たれていることを期待したい。

 ※この項、いずれ書き改めるかもしれません。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2009年05月20日
 スマッシュ! 13 (13) (少年マガジンコミックス)

 もちろん、バドミントンを題材にしたマンガは過去になかったというわけではないが、おそらくそのジャンルを代表する一作として、後のマンガ史に名を残してゆくのは、咲香里の『スマッシュ!』になるだろう、という気がする。すくなくとも、現時点で13巻もの内容に及んでいる連載の好調ぶりは、そうした可能性を十分に示しており、『スマッシュ!』と同じように深い愛情をもってバドミントンを描いていたにもかかわらず、掲載誌の休刊と不運をともにしなければならなかった『やまとの羽根』の前例を持つ作者にしても、この成功は励みとなっているに違いない。いや、じっさいに作品がすぐれておもしろいものをキープしている以上、読み手であるこちらの視線も必然、熱くなるばかりである。そもそも、競技への熱心さを溢れさせつつも、自らの秘めたポテンシャルを知らず、人並み程度に収まっていた主人公が、進学にともなう環境の変化や、出会い、訓練を通じ、才能を開花させてゆくていの、つまりはスポーツ・マンガにオーソドックスな形式を、あえて選ぶことによりスタートを切ったマンガであって、そこからの話の膨らませ方、好奇心の持たせ方にこそ、評価の好悪を分かつセンスが発揮されていると見てよいのだけれども、ストーリー、作画、構成などの、あらゆるレベルにおいて、十二分な成功を果たしていると思う。バドミントンに詳しいか詳しくないかの前提は関係なく、作中人物たちの一喜一憂に没頭させられるだけの質をともなっている。たとえば、練習や試合のシーンでは、作中人物の内面を開示することによって、読み手の視線を競技の結果に誘導する仕組みになっているのだが、すなわちトリガーの役目を為す彼らの、心の動きは、日常の描写を丁寧に積み重ねることで、説得力を宿すことができている。ともすれば『スマッシュ!』が、学園ドラマ、ラブコメ、青春群像としての魅力を有しているのもこのためで、日々の一個一個に、プレイヤーの、あくまでも思春期の人間らしいモチベーションを含ませ、それを筆に、色にしながら、成長へと繋がってゆくようなラインが引かれているのだ。物語の開始当初は、中学を卒業したばかり、まだ初々しかった主人公の翔太も、すでに高校2年生となってずいぶん経つ。その間には、ヒロインである優飛との恋愛や、アキレス健に重度の怪我を負うなど、さまざまな事件、出来事があった。伏線よろしく、潜在的な才能も引き出された。こうした歳月をみっちり踏まえているおかげで、現在の彼の存在に、そりゃ一つ上の蛯沢先輩も一つ下のひよりちゃんもめろめろにならあ、というぐらいの頼もしさが備わっているのである。苦労もしたんだ、実力がつくのも当然だし、皆から信用されるのもわかるよ。したがってその、あまりのもて具合に対して、ずるい、とは言わない。いや、ちょっと言いたい。純粋な嫉妬としてなら、めちゃんこ言いたい。

 1巻について→こちら
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2009年05月18日
 お憑かれさん 6 (6) (講談社コミックスマガジン)

 島田英次郎の『お憑かれさん』も、いつの間にやら、6巻である。いや違う、これは作者が堅実に積み重ねてきた結果以外の何ものでもないのだから、いつの間にやら、と言ってしまうのは失礼にあたるだろう。個人的に、島田というマンガ家は不遇、というイメージがある。『伊達グルーブ』も『サッカーけるける団』も好きな作品なのだけれど、あまり評価されなかった。しかしそれだってもうずいぶん昔のことであって、この『お憑かれさん』に至るまで、本式の連載を持てず、当然単行本のシーンで名前を見かけられなくなってしまう。もちろん、過酷な競争社会で実力が足りなかったのだといえば、それだけの話にすぎないし、あるいは運がなかったのかもしれない。だが、決してリタイアしてくれなかったことがファンにはうれしく、さらに現在の風潮であれば、こうしたギャグ作家のキャリア自体を、自嘲的に、自虐的に展開することも可能であるだろうに、プロフィールや欄外のほかにはほとんどそれを出さず、あくまでも創作の内容で勝負しているふうに感じられるところが、潔い。そしてそうした潔さは、ある意味、現在の作風にも反映されている。『お憑かれさん』は、4コマのスタイルをベースとし、アレンジを加えたギャグ・マンガである。霊能力を持った神社の神主とその周辺人物たち、むろんなかには妖怪変化の類を含む、彼らの日常が、ずっこけ、どたばた、賑々しく描かれているわけだ。女の子のかわいらしさや、題材としているネタのレベルからは、最近の流行をリサーチしていることがうかがえる。だが、それをそのままフックとして用いるのではなく、ちゃんと自己流に解釈し直し、作者ならではのスタイルに落とし込んである。ボケとツッコミのコミュニケーションで、話を転がしていった先に、お得意の、ぜんぶ台無しの1コマをオチとして置く、この、すべての設定が有機的に結びつかなければ成功しない様式を前提とし、それをつくるのに手間を惜しんでいないことこそが、てんやわんやとした機能をもたらしている。ただし、フォーマットの性質上、マンネリを回避しながら新規性を出すためか、登場人物の入れ替わる回転が、ここ数巻、かなりはやい。初期の、とくにドラキュラ伯爵が登場したばかりの頃のような、各人の個性をしっかり定着させて生かすエピソードが、乏しくなってしまっている点には、多少の危惧を抱く。
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2009年05月17日
 怖い話、ホラーの系が最高潮に苦手である、というのは以前に書いた。しかしこの『絶叫学級』の2巻は、それほど怖くなかったかな。いや、怖いのは怖くて、たとえ掲載誌である『りぼん』の読者層よりずっと大人であったとしても、絶対、夜には読まないのだけれど、一話完結型におけるアイディア自体はわりとよく見かけるもので、ことさら凝った仕掛けが設けられているわけではないから、悪意のある描写にぞおっとするぐらいで済む。このマンガの場合、だいたい、幽霊や怪人、サイコさんやストーカーの正体は、じっさいに幽霊や怪人、サイコさんやストーカーということになっており、サプライズは少ないのである。バレンタインのエピソードは、ラヴ・ストーリーの系でも偶にやっているものがある。それの趣を黒く塗り替えているにすぎない。とはいえ、作品の基調を見る上で重要なのは、あくまでもその幽霊や怪人、サイコさんやストーカーの噂が、学校や教室の範囲内で培養されていることだろう。つまり、半径が狭い世界の関係性、優越感、承認欲が、主題となっているのであって、子供の世界にも息苦しさがあること、ときにそれが他人に対しての加減を狂わせることに、物語の内容は還元されている。

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 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
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2009年05月15日
 東京湾岸バレエ団☆ 3 (3) (講談社コミックスキス)

 巻末のコメントからするに、作者はもうすこし続けたかったのかな、という感じがしないでもないが、朔田浩美の『東京湾岸バレエ団☆』は、この3巻で完結を迎えた。しかしほんとうのところはどうだったのか、内幕は知れないけれど、読み手の立場からいうなら、もうすこし続けてくれてもよかった、残念な気がしてしまう。特定の団体をベースにしたコメディのなかに、トラウマめいた暗い影を落とし、それを糧にして、才能を持った若い男の子を、逞しく、育成するかのようなアウトラインは、『のだめカンタービレ』や『ハチミツとクローバー』に通じる点でもあり、もしもアニメ化されたとしたなら、ちょうど「ノイタミナ」の枠がはまるような印象の作品だったと思う。もちろん、それを悪く言っているのではない。世界的なプリンシパルの果家時生に誘われ、彼が設立した湾岸バレエ団の一員となった主人公、佐藤吾郎が、恋愛や友情、ライヴァルを含め、さまざまな障害によって、賑やかに揉まれていく様子は、いや、なかなかに楽しかった。題材をダンスに置いている以上、踊りのシーンをどうあらわすかは、重要な個所で、しっかりとした工夫を凝らし、見映えは美しかった。おそらくはヒロインになるのだろう三上十子を、とうが立った腐女子にして、某テニス・マンガのミュージカルのパロディを登場させるなど、今どきなアイディアを取り入れたりしているのも、可笑しかった。だたし、そういった物語や設定において、雑多な情報を詰め込み、うるさくなりすぎ、群像劇としての描き方は、やや散漫であったか、展開が飛び飛び、どこへ向かっているのか、掴みづらい面もなかったとはいわない。

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 おかわりのんdeぽ庵 3 (3) (講談社コミックスキス)

 食文化は健康であって欲しいという信仰が根底にあるからか、料理マンガのストーリーには、性善説といおうか、人に善くすることを当然として採用しているものが多い。もちろん、なかにはいくらかの例外はあるものの、基本的に例外はその絶対数が少ないことの上に成り立っているのであって、そちらを主とは踏まえない。イタバシマサヒロが原作をつとめ、なかはら★ももたがマンガを描く『おかわり のんdeぽ庵』も、やはり、料理マンガの多数派に入る、つまり、良心的な人々の関わりが味覚の幸福をもたらすことになっており、東京で居酒屋「ぽ庵」を営む菜々葉と穂波のコンビが、店にやって来た人々の悩みに答えるかたちで、酒と料理に腕を振るうのを通常のスタイルとしているけれども、この3巻では、大学時代の友人に招かれ、山形県の庄内を訪ねてゆく。そうして彼女たちが出会うのも、ひっきょう気持ちのやさしい人間ばかりである。これをジャンルの性質、そのベーシックなイディオムに由来した現象だとするとき、『おかわり のんdeぽ庵』ならではの特徴をべつに求めるとすれば、ヒロインのかわいらしさ、ということになるかい。たしかにまあ、なかはらの女の子は、デザイン的にとてもかわいい、と思われる。おおまかな背景だけを共有している前作『のんdeぽ庵』に比べると、デフォルメのタッチをつよめているが、それも含め、キュートな印象が、丸くまとまったエピソードの気色を、より和やかに上塗りする効果をあげている。しかしいきなり穂波にモテ期が到来するくだり、なかはらは久保ミツロウと親しかったはずで、まさかオマージュではないのだろうが、こういう、ちょっとばかばかしいののほうが、個人的には、好き。

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・その他なかはら★ももたに関する文章
 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)
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2009年05月14日
 ナンバデッドエンド 2 (2) (少年チャンピオン・コミックス)

 とりあえず、自意識や社会性が欠損している人間に関しては生まれや育ちのせいにしておけ、的な言説によっていくつもの物語がつくられているにもかかわらず、フィクションを通じ、そうした土壌とでもいうべき家族や学校の風景に、希望を描き込むことの困難さを嘆くばかりが、さも高尚な問題提起であるかのごとくもてはやされる近年、小沢としおの『ナンバデッドエンド』が一際すぐれているのは、その、容易じゃないところを果敢に攻め、着実な成果をあげているような真面目さが、もれなくマンガのおもしろみへと繋がっている点にあるのだと思う。

 ついに剛の秘密がばれる。ばれた。実の妹の吟子や後輩である弥生は、自分たちの敬愛する人物が、どうして偽りを用いてまで、ありふれた高校生活を守ろうとしているのか、納得のいかない表情を浮かべる。とくに吟子は、裏切られたという気持ちがいっぱいになってしまい、素直に話を聞くこともできない。彼女の不信感に対して、主人公は、いかなる言葉、態度を尽くし、切実さをあらわそうとするのか。これが2巻のあらましであって、主眼である。もしかすれば、二人の和解が用意されるにあたり、ワキから悪人が登場してくるなど、ストーリーに都合のよい部分があるかもしれないし、吟子のピンチに剛が駆けつける展開を、ベタだとか、お約束だとか、の一言で済ませてしまうのも可能だろう。が、しかし、それらはいわば、ドラマの核心を強調してゆくための補助線を果たしているのであって、作品の内容、価値を低めるものではない。どころか、無理のないプロットを自然と成功させ、そのなかに十分なテーマを盛り込んでいる作者の、熟達した手腕に舌を巻かされる。

 吟子に剛のことを尋ねられた伍代が〈ヤンキーの難破もアイツだし 生徒会長の難破もアイツ…ウソはついてない どっちもアイツなんだ〉と伝える言葉は、せつなく、重い。弥生に特服先生の正体を知られた鉄が、まじな横顔をのぞかせる一瞬、一コマのさりげなさに、剛をかばう気持ちがよくあらわれている。これら友人たちのやさしさは、もちろん、前シリーズである『ナンバMG5』から引き継がれてきた主人公の人格、魅力、苦悩を再確認している。

 以前にも述べたとおり、主人公である難破剛に課せられているのは、環境と内面の二極に引き裂かれた主体のアレゴリーにほかならない。いうまでもなくそれは、今日のサブ・カルチャーが物語を扱おうとするとき、誰しもが経験しうる可能性として、説得力の足しにされているものと同質である。そして、たいていは、悲惨な暴力や犯罪の原因にあてることで、ほら、こんなにも深刻に時代を捉まえてますよ、といった程度の手振りを示しているにすぎないのだけれど、『ナンバデッドエンド』の場合、等しい現実に属していながらも、そこから腕をひろげていき、運命には必ずや変えられるだけの余地が残されていることを、表現の内に抱こうとしているので、注目にあたいする。剛の〈オレは……暴力でしか評価されたことがない……ケンカ以外でホメられたことがない自分が スゲェカラッポに感じたんだ…〉といい、〈オレの取り柄なんてケンカだけかもしんねェ…それでもさがしたかった ケンカ以外の何かをな…〉という告白は、とても悲痛だが、「ケンカ」の個所を他の言葉に置き換えてみればあきらかなように、家族からの期待を理解しているうえで、自立心を目覚めさせてしまった人間にとっては、決して特殊な呟きではないだろう。

 それにしたって、相変わらず、クソみたいな連中はどこにでもいるんだな。おまえら、数と力に頼って他人に言うことを聞かせようとするのが、みっともねえって思わないのかよ。危ない目に遭う吟子と弥生を助けるべく、躍起になって息切らす剛の、その表情をよおく見られたい。傷か、汚れか、黒い線がいくすじも張り付いている。ああ、こうして誰かのため、いつだって身を挺し、仕方なしに戦ってきたから、先に引いた告白のくだりは、彼の自分勝手以上の深い意味を、持ち合わせてくるのである。

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 『ナンバMG5』
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2009年05月13日
 何だかんだ言ったって、いまだに新しいギャグ・マンガの才能を輩出し続けている『週刊少年チャンピオン』の役割は立派なもんだと思う。この『トンボー』が、初の単行本となる沼田純も、そうしてあらわれてきた内の一人で、まあ、たしかに昔からのファンにしてみれば、やっと、という感じかもしれないが、作者の名の知られる機会が一個でも増えてくれたことは、単純に、うれしい。舞台は田舎、道草村に住むワイルドな14歳の少女、トンボが、親友のリンコなど、半径5メートルの範囲で接する人々を巻き込みながら、どたばた、はちゃめちゃ、賑やかに繰り広げてゆく日常を、ギャグの勢いにしている。正直、現代の観点からすると、やや古めの作風だというふうに判断されてしまう可能性があるのは、エロや萌えの要素、シュール、根暗さ、インターネットに由来するジャーゴンや知識、つまり今日的なフック、キャッチーなノリに、ほとんど頼ることなく、一個一個のエピソードがつくられているためだろう。ただ、元気いっぱいな人間の元気が目いっぱい剥き出しにされていることによって、ゆかいな世界が開けてゆく。要するに、素直な馬鹿をてらいなく描いているところに、おかしさが生まれている。よいほうにとるなら、完全に正統派なのである。トンボの表情は、ときどきキュートであるけれども、彼女のパンツが見えることに、およそ有り難みはない。このアンビバレントでさえも、ちょっとした魅力だといえてしまう。ただし、1巻の段階ではまだ、たとえば登場したばかりのリンコの髪型がきちんと定まっていないのと等しく、作中人物たちの個性が十分に育ちきっていないふしがある。そのへんは、いやもちろん、のびしろとすべきなのであって、作品の楽しさを決してそぐものではない。
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2009年05月07日
 田中宏の新シリーズである『KIPPO』の第1話は、『ヤングキング』08年18号に掲載され、第2話の発表を待たずに、先般、YK BEST版『BAD BOYS』の「廣島不良伝説」編に収録された(コンビニ版コミックスのことね)。さすがにこの調子では、いったいいつ、単行本化されるのかわからないし、そのせいか、現時点ではインターネット上にほとんど感想が見かけられないので、これを期に一度ちゃんと取り上げておこうと思う。すくなくとも、読み切りのマンガだと判断したところで、作品の内容は十分、語るに値する。

 その界隈では名の知られた危険人物、澤一郎には決してゆずれない、そして是が非でも大事にしたいものがあった。〈やっぱ 俺には……お前らだけじゃ………!! お前らと作った この大切な場所 ココだけは… ココだけは絶対に守る…………!!〉。母親の愛情をまったく感じられずに育った家には居場所がなく、気心の知れた二人の友人といつも集うガード下の一角、そこに宣戦布告ともとれる張り紙を見つけ、怒り、犯人捜しに躍起となるのである。だが、皆目見当はつかず、協力を仰ぐため、地元に幅広い人脈を持つちんちくりん、桐木久司という少年を呼び出すのだった。

 物語は、澤一郎の抱える孤独を追うようにして、描かれる。幼少の頃より、家庭でないがしろにされ続けてきた彼は、おそらく、生い立ち、精神的な理由によって食行動に異常を持っている。作者はたぶんこれを、物質的には豊かな時代との対照のなかで、愛情への飢えに変換しているが、しかし、そういった説明では、紋切り型すぎ、ぜんぜん作品の内容を捉まえきれていないところにこそ、『KIPPO』の、1話目の切実さは刻み込まれている。

 これまでにもさんざん述べてきたことだけれども、どのような時代でも不良にならざるをえない人間というのは、いる。今日ではその原因を、生まれや育ち、つまり遺伝や環境の問題に求めることが主流になっており、トラウマなどの要素もこの系統に含まれる。もちろんこれは、不良にかぎらず、社会から逸脱したアウトサイダー全般にまで範囲をひろげることができ、フィクション化のさいには、運命の過酷さをもって逃れにくくしてしまうのが、容易い。だが、もしもそうであるなら、生まれや育ちに選ばれなかったため(言い換えるなら、生まれや育ちに選ばれてしまっため)に業を背負わされてしまった人間の魂は、あまりにも救われないではないか。

 そうしたある種の宿命論に対して、反証となるかのような福音が、物語を通じ、澤一郎と彼の仲間にもたらされているのである。当然、ここで重要なのは、反証として機能するには一定の論理が必要だということであって、この1話目の場合、作中人物を逸脱させてしまった本来の社会そのものを代替する別個の社会が、彼の前に差し出され、共同体のこうあるべきを選び直し、生き直す機会の与えられていることが、まさしくそれを果たす。

 はからずも自分たちの大切な場所を占拠され、意外な光景を目の当たりにしておどろく澤一郎に向かい、真相を知る桐木久司が〈みんな 親戚でもなんでもない 友情で繋がれたファミリーなんスけど 愛情だけはバカみとーにアツくてね ソレに魅かれて 行き場 無くした不良が どんどん集まってきて……年々 増えよんですよ…このファミリー〉と述べる、そのコミュニティの幸せそうなイメージに、あらかじめ愛情の断絶を言い渡され、暗い現実のみを現実としなければならなかった人間の、心の深くに新たな継ぎ目を足すほどの可能性が、あらわれているのである。

 以上の題材のきわめて丁寧な切り口は、これが作者のライフ・ワーク的なシリーズの続編であるという前提を、必ずしも要しない。たいへん魅力的な一個のエピソードとして完成している。一方、バック・グラウンドのストーリーを知っているとき、その理解はよりいっそう深まるだろう。したがって補助的に述べるが、『KIPPO』は、『BAD BOYS』を始点とし、『グレアー』、『女神の鬼』と、同じ場所、違う時代を舞台にした巨大な物語の一部でもある。さらにテーマ上には、同作者のべつシリーズである『莫逆家族』との重なりもうかがえる。すなわち、莫逆(血の繋がらない親しい者)と家族(血の重たさに繋がれた者)の相剋に接点がある。

 この1話目では、ほぼワキに徹しているかのような桐木久司は、『BAD BOYS』で主人公をつとめた桐木司の息子である(作中に明言されているわけでないので、たぶん、としておきたい)。その彼が、ファミリー、と呼ぶコミュニティは、作中の時系列でいうなら『女神の鬼』、『BAD BOYS』、そして『グレアー』の物語を経、世代を越えながら、ようやく実現された理想であって、それはつまり誰も疎外されない、血の繋がりのある者も血の繋がりのない者も、一度交わったなら、等しく、尊く、かけがえがないと信じられる未来の、あかるい記憶にほかならない。

・その他田中宏に関する文章
 『女神の鬼』
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  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻と2巻について→こちら
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2009年05月06日
 コープスパーティー BloodCovered 1 (ガンガンコミックスJOKER)

 如月学園、文化祭終了後の校舎、雨のなか、2-9の教室に居残った仲の良い生徒たちは、転校してゆく友人の寂しさを紛らわすため、インターネットで見つけたという紙で出来た「サチコさん人形」のおまじないをし、現在の繋がりが末永く続くことを願おうとするのであったが、しかし、それがまさか、悲劇と惨劇の幕を開くことになろうとは、思いもしなかった。おまじないの終わり、突如として大地震に見舞われ、教室が崩落してしまい、一時意識を失った生徒たちが目覚めたのは、如月学園が建つ前、取り壊しになったはずの廃校、天神小学校だった。心当たりのない不気味な場所で、離ればなれになってしまったクラスメイトの行方を探す直美は、やがて自分たちが怨霊によって異次元空間に監禁されていることを知らされる。篠宮トシミの『コープスパーティー BloodCovered』は、チームグリグリ(原作・監修にクレジットされている祁答院慎はその一員)による同名同人ホラー・ゲームのコミカライズで、その原作をじっさいにプレイしたことはないのだけれども、某ニコニコ動画の実況動画でプレイしているのを観たことがあり、さらには原点であるRPGツクールでつくられたフリー・ゲームは昔にやったときがあって、だいたいのストーリーは知っているつもりなのだが、この1巻を読むかぎりでは、相応に忠実なマンガ化がされているように思う。現代的なセンスで頭身や性格のデフォルメされた登場人物が、その、軽はずみ、ユニークな言動とは不釣り合いなほど、グロテスクな恐怖に追いつめられていくさま、複数の次元が多重の閉鎖空間を設けている舞台は、もしかすれば『ひぐらしのなく頃に』にも通じるところがあるけれど、いちばん最初のゲームのヴァージョンが発表されたのが90年代ということもあってか、謎解きの要素が必ずしもメタ・レベルの意識を召喚しないところに(いや、たぶん)、作品のオーソドックスさ、物語の魅力がある。ただし、ゲーム版と比較してしまうなら、サウンド、演出の効果を含め、インタラクティヴなはったりに頼ることができないため、そのぶん、おっかなさは薄らいでいる。いくつかの描写からは正直、迫力を感じられず、もちろん、それは篠宮のマンガ家としての技量によっているのかもしれない。
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2009年05月04日
 街中で血が流れているようなとき、片隅にたたずんでいる君が、想像力などと言って頭を抱えていたところで、不幸がなくなるわけではないし、不幸な世界が変わってくれるわけでもないのに、悩むことに意味があるというなら、ねえ、教えてよ、その意味をはやく教えてよ、と思う。さあ、現在展開中の「ワークマンズ」編も、この16巻に入り、毎度の例にならって、いよいよ芳しくなくなってきた柳内大樹の『ギャングキング』であるが、さすがにここまでシリアスなテーマを持ってきておいて、作品がどこへ向かっているか、まったく見通せないのが、辛い。まさかまた、紋切り型のポエムで言わんとしていることをぜんぶ言ったら、事態が収拾しちゃうんじゃないだろうね。アラーキーとチャンベのケンカから波紋はひろがり、「バラ学」の生徒たちと肉体労働する同世代たちとが全面的な衝突を繰り返し、次第に状況を悪化させてゆくなか、我らが主人公のジミーは、ふたたび優雅な自分探しのモードを満喫するのだった。自分でまとめておきながら、すげえあらすじだな、これ。しかしどうしてこうなってしまうのか。キー・パーソンである人物が入院し、面会がかなわないため、誤解に誤解が重なったあげく、種々の亀裂がエスカレーションするさまは、おそらく、ハロルド作石の『ゴリラーマン』の、あの館井に急襲された藤本が重傷を負うくだりの応用である。チャンベと相対したバンコが〈テメエ 身軽なタイプのデブだな!〉と述べるのも、直接的な元ネタは『ゴリラーマン』だろう。そしてこの巻では、作画の面に顕著なように、井上雄彦の、しかも『リアル』あたりの影響が混じってきている。ヘドロベロは、完全に井上のタッチだ。言うまでもなく、『ゴリラーマン』とは、限られた学園生活のなかを右往左往する十代の物語であった。これに対し、『リアル』とは、ハンデキャップの文脈をべつにすれば、学園生活の外へと追われ、はからずも社会と向き合わなければならなくなった十代の物語にほかならない。こうした二極のミックスが、『ギャングキング』における「ワークマンズ」編である、と、ひとまずの解釈を与えても問題はあるまい。むしろ、そうした取り組みに志の高さを買うことさえできる。だが、肝心の内容がそれについていっていないのは、やはり、参照している作品の上辺だけをすくい取り、足して引いてしている以上のサムシングが見られないためである。15巻の段階で、何気なくフォーカスを合わせられていたサイコやゴリが、重要な役割になってきているとおり、たぶん、作者の頭のなかにはある程度の設計図が用意されていたにちがいない。その設計図がどれだけ緻密であるのかは、当然、知れないが、じっさいのマンガを読むかぎり、あまりよく生かされているとは感じられない。チャンベが、保険に入っていない事故を起こしてしまったせいで、2億6千万もの賠償金を払わなければならないというのも、じつにすさまじい話であるけれども、金額設定の間違いでないのならば、未成年に2億6千万もの大金が課せられるとはよっぽどのことであって、にもかかわらずそれに関する当事者の意識があまりにも低すぎる。もちろん、のちのちのことを踏まえ、あえてそうしている可能性もある。まだ十代でしかない人間の狭さ、幼さをあらわそうとしているのだとしてもよい。チャンベを追いつめる「バラ学」の面々の〈俺達がガキでオメー等が立派な大人だっつーんならよぉ……最初っからクビになるよーなモメごとに首つっこまねーで大人しくしてりゃーよかったんだよ〉〈中途半端に都合のいい時だけガキに戻ってんじゃねーよバカ……〉という言葉は、意外な口から出た真理だろう。しかるにこれがどう解決されるのか、すくなくとも想像力想像力述べてるだけの主人公に期待するものがないので、物語も魅力的になっていかない。せいぜいが、ケンカが強ければヤクザも怖くない、肉体労働しているからケンカが強い、ってロジックの単純明快さに圧倒されるのみである。

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 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年05月03日
 肉の唄 1 (1) (ヤングマガジンコミックス)

 コウノコウジ(こうのこうじ)の本領とは何か。作者の過去作、ボーリングを題材にしたコメディ型の青春劇『カラコカコ〜ン』や、筋金入りヤクザが少年野球の監督に転身するヒューマン・ドラマ・ライクな『アウト・ロー』を並べてみるに、まあ後者は原作付きではあったものの、絵柄のむさ苦しさからしてすでに、一種のハングリーさ、それも現代を舞台にすることで著しさを増すようなハングリーの精神なのだと思われる。この新作『肉の唄』も、1巻を読むかぎり、その線が貫かれている。おそらくは本格的な格闘マンガとして読まれたい内容なのかもしれないが、何かを手に入れようとし、惨めであるほどに、無粋であるほどに、執着の炎を燃やす主人公の姿が、まず第一に、作品の骨格をつくっているのである。物語は、一人の青年が、金欲しさのため、プロレスの団体に道場破りを仕掛けることで、幕を開ける。もちろんその青年には勝算があった。なぜならば彼は、今は総合格闘技の世界から追放されてしまったが、「霊長類史上最強」の男、森戸定治に、かつてただ一人、勝利したことで知られる一色亮太だったのだ。当然、プロレスなんて八百長の連中に負けるはずがないと考えていた。しかし乗り込んだ「新世界プロレス」で、時間無制限のヒンズースクワット勝負を挑まれ、予想だにしなかった苦戦を強いられる。登場人物の一人が、プロレスを指して、地上最強の即興芸術と述べているように、真剣勝負(シュート)とはべつの体系で測られるべきプロレスの強さ、ポテンシャルのすさまじさが、作中のロジックを支えているのだけれども、現時点では、その理屈の、ややくどく、迂遠なところが、冗長に間を延びさせており、主人公のハングリーさは、無目的で無自覚なまま、空回りしているふしがある。両者がかっちりと組み合ったとき、すばらしい化学反応が起こることを期待したいが、それはしばらく先のことになりそうである。すくなくとも格闘マンガ的なカタルシスはお預け、もちろん、作者の狙いが安易なカタルシスではなかったとしたところで、読み手の関心を一手に引き受けるまでの世界観は、まだ十分に構築されていない。

 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
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2009年04月28日
 そもそも、伝奇ロマンと学園ドラマの相性の良さは、サブ・カルチャー史における種々の作品群によって実証されていることであって、さらには、伝奇ロマンと軍記的な物語のそれも、古来より支持されてきた創作手法の一つを担っているし、もちろん、学園ドラマと軍記的な物語のミックスもまた、数かぞえきれない名作をマンガのジャンルに生み出してきている。これらの可能性を全方位的に包括している以上、桑原真也の『ラセンバナ』がつまらねえわけがねえんだ。いやいや、じっさいこの3巻のあたりから、すばらしく燃えるばかりなので、うれしくなってしまう。親友である春のため、単身、「鬼道」の目論見を探るリョオは、はからずも、不良たちの集団が、不可解な表情で、飛び降り自殺をする現場に出くわす。謎めいた力でそれを引き起こした「鬼道」のウランが、自殺者たちを指しながらリョオを挑発するのに対して、彼は〈知らねーな… この世界でオレにとって大切な人間は二人しか居ねェ 他の奴らが何万人 死のうが 眼中にねえよ〉と一蹴するが、しかしウランの能力は、圧倒的なプライオリティに動かされるリョオの精神すらも、当人には気づかれぬまま、支配下に置いてしまうほどのものであった。まさか、自分がウランに操られているかもしれない、と知ってしまったリョオが、春とまどかの剣(はばき)姉弟に別れを告げようとする場面、その、あまりにも男前な態度がしびれるし、リョオの悲しむ背中を見て、激昂する春の、なんて熱いことかよ。かくして彼らは、幼馴染みのウランを止めたいヒナに手引きされ、今まさに大規模な暴走族の「夜叉丸」が「鬼道」に襲撃されんとする現場に介入することになる、というのがここでのくだりであるけれども、「鬼道」のトップに立つ逞馬のいまだ明かされぬ野心も絡めて、ひじょうに雑多な思惑が入り乱れるなか、うはあ、こうくるかい、にんともかんとも衝撃的な展開が訪れる。過去作の『0リー打越くん!!』や『TO-mA』で見られた桑原の、エロティックでグロテスクでヴァイオレントな資質は、原作者をべつにする『R-16』ではむしろセーヴされていた、と思わされるぐらい、パンツ丸見えのキャミソール・ワンピースで蹴りを繰り出すヒナのアクション・シーンも含め、数々の描写に本領が発揮されている。いとも容易く日常を崩壊し、じょじょにエスカレートしてゆく残酷さは、あくまでもヤンキー・マンガとして描かれてしまった『R-16』で、つい離れていった本来のファン(っているんだろうね)にこそ、再度確認されたいインパクトがある。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
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2009年04月27日
 まさか柳内大樹がここまでの人気作家になるとは。かつて誰が予想したであろうか。もしかしたら、秋田書店で彼と組み、現在は『スーパージャンプ』の編集部にいる担当のO川氏(小川瞳でいいのかな)は、信じていたかもしれない。そのO川氏によって編まれているのが、柳内にとって初の短篇集となる『柳内大樹短編集 柳内大樹』であり、「バンカラボーイズ」、「オヤジガリガリ」、「救命野郎 鮫介」、「ジ・パッピ・ルッジ・ゴルボフちゃん」、「ギャングパラダイス」の五つの読み切りマンガが収められている。なかでも、柳内のキャリア上、とくに興味深く思われるのは、01年に発表された「ジ・パッピ・ルッジ・ゴルボフちゃん」と「ギャングパラダイス」だろう。初期の、いかにも『ヤングマガジン』的なテイストをバネにしながら、試行錯誤をしている様子が見られ、どこかスタイリッシュであろうとし、ある種のポップ性すら感じさせるところは、友人である長田裕幸(長田悠幸というよりも長田裕幸の頃)に近しいものがある。結局、長田も含め、個人的に「50年組」と呼んでいるマンガ家たちが、こうした冒険心と遊び心のある路線ではやっていけず、スタイルの幅を狭めていったことが、現在の彼らの活躍に繋がっているのは、皮肉といえば皮肉である。とりあえず、柳内の場合、それは作風が完成されたと解釈されるべきであるし、じっさい誰彼のフォロワーではないだけの魅力を備えてはいる。しかし、今年(09年)の作品である「オヤジガリガリ」を、「ジ・パッピ・ルッジ・ゴルボフちゃん」や「ギャングパラダイス」と比べるなら、やはり過渡期に入っているかのような印象を持たされてしまう。「バンカラボーイズ」では、そこを突破していけそうな勢いが取り戻されている、が。ところで、じつはこの短篇集で(というか柳内の作品全般にいえることなのだが)いちばん好きなのは、制作裏話的なあとがきマンガのくだりであった。はっちゃけたギャグが、歴史的な証言になっているのは、吉田聡のそれを彷彿とさせる。にしても「救命野郎 鮫介」の30ページ強を三日間で仕上げたってのはすごいな。いやまあ、たしかに05年に発表された「救命野郎 鮫介」というマンガは、それほどひねりのある内容ではないけれども、無闇に「想像力」と言い出す前の、この作者のよさ、つまり、コメディでさえもちゃんとエモーショナルなストーリーとして生かされている点が、とても恋しい。

 「バンカラボーイズ」について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
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  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
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  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
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  2巻について→こちら
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2009年04月26日
 全体的なストーリーや心情の汲み取り方は、決して悪くはないものの、アルコというマンガ家のギャグやコメディのよさ、おかしさを十分に理解しているとは言い難い読み手なので、やはり、『超立!! 桃の木高校』の完結篇にあたる3巻を読みながら、すこし、弱ってしまう。たとえば、その、テンポの順調さを選んでいるのか、たんに手間を惜しんでいるのか、大きく割ったコマのなかに極度なデフォルメの登場人物を描く手法を個性として認めるにしても、とくに冴え渡っているとは思われないのである。ジャンルの違うところで、昨今のストーリー性を持った四コマ・マンガと比べるならば、内容や密度の濃さがいかほどのものか、判然としてしまうだろう。いずれにせよ、森まり、城幹太、嶋田紗織、小野寺秀樹の〈役立たずのビミョーな超能力 4人の力を合わせて一人前 人よんで エスパー4!! このマンガはそんな彼らの青春の日々の記録である!!〉らしい作品も、いよいよ幕を閉じられる。クライマックスにあたって、ほかの三人の超能力が、突如、消えてしまったため、一人疎外感を覚えるまりをめぐり、友情や団結とでもすべき、正しく青春のテーマが浮上していくのだが、このへんは、学校生活において誰にでも起こりうるデリケートな問題を、ユーモラスな展開でくるみ、うまく寂しさをはらっているのだけれども、それを縦の線で進んでいったときに、結末というかオチのつけ方が、あまりよくない。めでたしめでたし、の気分が、いかにも取って付けたふうになっており、起、承、転まできて、結の部分でずっこけてしまっている。そしてそれは同時に、自分がこの作者のギャグやコメディに笑わされない理由でもある。巻末に収録された「夏、イエスタデイ」は、アルコの、作風の内の叙情的な面によって成り立った読み切りで、ギャグやコメディの要素はかなり少ない。しかし、田舎へのカムバックをベースにした自分探し系のストーリーを、ただこの作者がやった、というだけのものにとどまっている。

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・その他アルコに関する文章
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
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 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2009年04月25日
 逢沢雪名の作品集『みつげつ』には三篇の読み切りマンガが収められていて、最初の「みつげつ」では、ヒロインの同性に対して抱かれた恋愛にも近しい気持ちが、続く「うそつきディストーション」では、記憶をなくした片想いの相手の恋人になりすます女の子の姿が、その次の「Re:BIRTH」では、ヒロインの目を通じて複雑な母子関係を持った男の子の姿が、それぞれ描かれており、こうして概要だけを述べてしまうと、いまいち新味を欠くように思われてしまうかもしれないし、じっさい作風にしてもとくに目を引くほどの個性を有しているわけではないのだが、いやいや、けっこう読ませる。正直、絵のレベルにおいて、登場人物の全身像はちょっと狂っているのだけれども、アップになったときの表情、それから場面の転換や、モノローグを含めた心理の描写のレベルにおいて、感情の我がままに動きながら迷う様子が、よく掴まえられているためだと思う。そのなかでも、表題作にあたる「みつげつ」に、いちばん胸なびかされるものがあった。主人公の蜜月(みつき)は、中学校からの同級生である男子の上田に言い寄られても、決して友達以上の付き合いになりたいとは感じられなかった。友人たちに茶化されても気が向かない。今以上の新しい変化を欲していないのだ。しかし高校二年の春、ナツヲという同性の転校生に出会い、その、うつくしくも精悍な立ち振る舞いに惹かれていってしまうことになる。「みつげつ」にあらわされているのは、恋愛と友情の違い、区別は、いったいどこでつけられるか、という少女マンガの系にときおり見かけられ、多くの場合、男女の間を使い、示されるモチーフであったりするが、それがここでは、あえて同性同士の関係上に置き換えられている。もちろん、今日では百合(ガールズ・ラヴ)などと呼ばれ、親しまれているサブ・カルチャーの鑑賞法を意識している部分もあるには違いない。だが、骨格の正しく少女マンガ然としていることが、作品の魅力を為しているのであって、むしろ、女性誌の記事等でソウル・メイトとして扱われるようなテーマのヴァリエーションに見られるべき方向性を、ともなう。なぜ、蜜月はナツヲに魅せられてしまったのか。おそらくは彼女が自分にはないものの象徴であり憧憬であったからではないか。当人ですら、はっきりとはわからいでいる欠乏を埋め、満たしてくれる、そのような居心地のよさに、ただただやさしく甘い期待を募らせていたからこそ、〈――ナツヲも 弱いフツーの女の子だったんだ〉と知らされることで破局が訪れる。たしかに、蜜月の涙は、クライマックスのシーンで、ナツヲが、女性である自分ではなく、男性の存在を選んだこと、つまり自分が選ばれなかったことによって誘われてはいる。でもそのときの〈パキン と 小さく 何かが折れた音が聞こえた 気がした 強いと思ってたナツヲの胸の あたりから〉という主観は、あくまでも蜜月のものでしかなく、はたしてナツヲが同性との恋よりも異性との恋を取ったから〈弱いフツーの女の子だったんだ〉と思うのでは、きっと、ない。たぶん〈――ナツヲも〉の〈も〉とあるのは、女性全般を指してはおらず、蜜月自身のことを意味している。もしもそうであるなら、〈パキン と 小さく 何かが折れた音が聞こえた 気がした 強いと思ってたナツヲの胸の あたりから〉といわれているそれは、ナツヲのなかに投影されていた何か、先に述べたような蜜月にとっての欠乏が、はっきりと自覚されたことを教えている。変化を欲しなかった彼女の成長あるいは前進の痛みを伝えているのである。
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 さすがに元ネタとの差別化をはかるためか、題名のアタマに「猫」と付き、判型も通常のコミックス・サイズになって、仕切り直し、リニューアルされた田辺真由美の『猫☆カトちゃんケンちゃん』の1巻であるが、中身はぜんぜん変わっておらず、あいかわらず、くだらなくて、たのしい。帯には「ちょっぴり昭和」とあるけれども、いやいや、「どっぷり昭和」の間違いだろう。80年代や90年代初頭におけるテレビ番組などの引用をからめながら、たいていのギャグは組み立てられており、むろん、笑いとなる箇所の大半を、うんち、や、おなら、で決めている。ああ、まあそれから、はげ、もあるよ。ふつう、ペット系のマンガだと、かわいい、というイメージが、後にであれ先にであれついて回るものだが、この作品の主人公たち、猫のカトちゃんとケンちゃんに関しては、すばらしくばからしい、以外の感想を必要としないことが、最大最高の魅力になっているのだった。ここで新規登場する子猫の墨ちゃんも、そのつぶらな瞳に似つかわしくないぐらいの曲者であって、ウマが合わないカトちゃんとの三文芝居ぶりが、とても好き。〈この東京砂漠 水だってタダじゃないんでちゅよ!〉って何だよ。ところで、カトちゃんとケンちゃんの飼い主、ヒロインの役にあたるマリアに恋人ができたのは、意外だったな。ルックス的にはいけてるんだろうが、そんなふつうの女子高生みたいなことをされても弱るよ。しかし、その恋人の梅田くんが、とかく好漢であるばっかりに、猫様々、災難に遭ってしまったりするのが、また愉快になっている。いずれ、梅田くんと我らが(毎回毎回気の毒な)パパさんの対決もあるのだろう。その前にまず、みんなもうちょい、パパさんを労ってあげて。

 『カトちゃんケンちゃん』
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2009年04月22日
 まさしくモラトリアムの渦中にある少年がロックすること、そしてモラトリアムを過ぎてしまったはずの成人がロックすること、こうした軸の二足歩行で、たまきちひろの『フール オン ザ ロック』は進んでいると感じられるのだが、いかんせんそれが、必ずや自分の居場所はどこかにある、必ずやありのままの自分を受け入れてくれる者がいる、的にしつらえたテーマの周囲を、ぐるぐる、回るばかりなので、あんまり、溌剌としてこない。もちろん、夢を持って生きようとする人間が、壁にぶつかり、痛がり、躓き、転がり、悶々とする様子に、主眼を置き、青春のドラマを担わせようとしているのはあきらかなのだけれども、そのことは決して、望まれるべきは音楽でなければならなかった、というモチーフを高めていない。換言するなら、音楽は、ロックは、夢や青春の概念に入れ替えられる、入れ替えられることで作品のエモーションは成り立っているのだが、入れ替えられることが逆説的に、他の分野でも十分な題材になりえたことを示してしまっている。要するに、音楽マンガとしての強度が、いささか低い。他方、少年と成人の年齢差を並列化するためにバンドの形式が選ばれている、と見たさい、両者の、本質的には異なっている立場が、すでに述べたように、必ずや自分の居場所はどこかにある、必ずやありのままの自分を受け入れてくれる者がいる、の一点で同調されるのは、どうも。たとえ人生を経験で捉まえないにしても、成人のなかの幼さをあらわすことと、幼稚なままの成人をあらわすことは、まったくべつのものであるにもかかわらず、作中の都合に合わせて、混同されているように思われてしまうのである。この3巻では、中心人物のイマイと旧知であるキヨシの姿を通じ、少年が成人になっても絶えずロックすることの、どこか悲壮ですらある喜びが描かれており、そこはよい。キヨシが言った〈才能のない奴にはないなりの居場所があるってもんだぜ〉という、ささいなセリフにさえ、現実の重たさが備わっている。しかし、これに対し、信じられる仲間がいてくれて気持ちが助かったでは、ちょっと。すべてのロマンが無期限に許されているのであれば、まず誰も悩むまい。少年の孤独と成人の孤独を同型にしたばかりに、納得のいかない部分が出てくる。

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・その他たまきちひろに関する文章
 『WALKIN' BUTTERLY』
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2009年04月21日
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 弓月光の『瞬きのソーニャ』は、『ビジネスジャンプ』NO.10(5月2日号、先週に出たやつね)に発表された、この作者にとっては、久々の、まったくの新作読み切りである。少女マンガのジャンルから男性誌の作家に転向してからは、エロティックなコメディをおもに描いてきた弓月であるが、しかしこれは意外にも、そのイメージを裏切るかのような内容となっている。1989年、まだソ連と呼ばれていた頃のロシア、雪深い地に設置された国家の研究所が、何者かによって爆破される。至急現場に駆けつけた若きブーニン中尉は、監視カメラに残されたテープのなかに、かつての教官、ヴィクトル・ザイツェフ中佐が小さな少女を連れ去り、逃走する姿を確認する。はたして、国家に反逆したザイツェフの目的は、いったい、何なのか。上層部よりザイツェフを殺害しても〈子供は可能な限り無傷で保護せよ〉との指令をくだされたブーニンは、任務の遂行に不吉な予感を覚えるのであった。ストーリーはおおまかに、きびしくすぐれた老兵が、遺伝子から人造された幼児を保護し、逃走の最中、たくさんの追っ手と攻防戦を繰り広げるというもので、その背景には、ベルリンの壁崩壊を一つの象徴として、いよいよ冷戦も終わりを迎えつつある時代の認識が置かれている。まあ、フィクションの世界では決して珍しくはないパターンの一つといえる。しかしそれを手堅く、魅せるところは魅せ、うまくまとめており、おお、さすがベテラン、と思わされる。いっけん、従来の作風からするとミスマッチにも感じられる概要だが、そうした部分も含め、小山ゆうの『あずみ』を最初に読んだときと、いやあそこまで殺伐としてはいないのだけれど、あんがい近しい印象を抱いた。ザイツェフにソーニャと名付けられた少女の、おどろくべきポテンシャルが、おそらく、いちばん力の入っている個所だろう。表向きの可愛らしさに反し、野性の虎におそれられるほどの身体能力を持ち、軍の精鋭すら歯牙にもかけない、瞬く間に圧倒してしまう。正直、今どきのマンガなどに見慣れてしまった眼には、やや迫力に欠ける面もあるにはあるが、ダイナミズムのどこかスロー・モーションなところは、つまりソーニャのスピードを彼女自身の速度感覚のほうから捉まえているためだと解釈することもできる。ちょっと好意的すぎるかな、でもまあ、タイトルからして『瞬きのソーニャ』なのだから、作者の意識はそこに寄り添っていると見ても、おかしくあるまい。たとえば、ザイツェフが狙撃手に撃たれる場面、読み手にはソーニャの動きがばっちり把握される一方、作中の人物には〈当たる瞬間に標的がブレたように見えなかったか?〉という疑問が浮かぶのみなのである。
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2009年04月20日
 たとえば、東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べている「データベース消費」論でもいいし、伊藤剛が『テヅカ・イズ・デッド』で述べている「キャラ/キャラクター」論でもいいのだけれど、そのようなオタク向けのサブ・カルチャーを題材にした読解のロジックを用い、高橋ヒロシの『クローズ』や『WORST』のシリーズや、あるいはこのゆうはじめの『クローズ外伝 リンダリンダ』のような二次創作ふうのサイド・ストーリーを見ることは、おそらく、できるが、しかしそれは同時にあらたな疑問を浮上させる。つまり、高橋ヒロシの諸作、ひいてはヤンキー・マンガ、ひいてはサブ・カルチャー、ひいては物語は、生き様を教えられるか、ということである。もちろん、サブ・カルチャーは必ずしも生き様を教えなくてよい。この考えを割り切っていったところに、もしかしたらオタク的な評価に顕著な「萌え」の発想があるのかもしれないのだけれども、高橋が描いているようなヤンキー・マンガの場合、彼を特集した記事やインタビュー、ファンのメッセージなどからあきらかなとおり、作中人物たちの生き方に憧れる、式の感想を免れることができないのであって、やはり、生き様系の意識は重要なテーマとならざるをえない。しかるに、生き様とは結局、ライフ・スタイルでありファッション・センスであり集団行動の原理でしかないとき、作中人物たちの生き方に憧れる、式の感想自体がそもそもあてにならないといえば、そのとおりなのである。近年の高橋や彼のフォロワー群が、一定の売り上げ、支持を得ながらも、表現のレベルにおいて、ひじょうにあやしいのは、ほとんどこのためにほかならない。たしかに、望むと望まぬにかかわらず不良にしかなれない少年というのは、いる。そしてそれは十分に生き様を扱ったストーリーになりうる。しかしその原因を、生まれや育ちのみに求め、安易にトラウマ化してしまったならば、遺伝と環境を重視したゾライズムの様式を脱さない。まあそうしたおかげで、文学における自然主義よろしく、リアルなどといった修辞が弄される程度の内容にはなっているのだろうが、そこにあてられるべき救いが、所詮、ライフ・スタイルだったりファッション・センスだったり集団行動の原理だったりでしかないのだとしたなら、とても寂しい。その寂しさによって正しく『リンダリンダ』というマンガは満たされている。この1巻には、読み切りで発表されたエピソードが二つ、それを受けて連載になってからのエピソードの序盤が入っているのだけれども、とくに連載分の、リンダマンこと林田恵と中学時代の友人である吉留圭一の誤解と対立は、彼らの生まれや育ちを不幸にしなければ不良の像を結ばれない手つきに、わざわざ、といった気がしてしまう。

 4話目について→こちら
 2話目について→こちら
 1話目について→こちら
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2009年04月17日
 民間人参加型の死刑制度をサヴァイヴァル・ゲーム化していってフーダニットのサイコ・ミステリを繰り広げるという、今どきの売れ線要素を満載しながらも、結局、門尾勇治の『真犯人!!』が、最後の最後まで、あまりぱっとしない、あとちょっと、もう一歩のところでおもしろくなれなかったのは、ひじょうに残念であった。誰がいったい何のため、冴村亮の妻を殺害し、その容疑を彼に負わせねばならなかったのか、この3巻で、すべての真相が明かされ、物語の幕は閉じられる。作品の性質上、ネタを割ってしまうわけにはいかないけれども、ようやく知れた真犯人の正体には、なかなかの意外性があったと思う。しかしそれが十分に生かされるだけの基準を、筋書き、話の運び、マンガの総体的なつくりは満たしていなかった。また、猟奇的な事件の原理を、生まれや育ちのせいで社会から脱落してしまった人間の狂気へと収束させてゆくのだが、その、いうなれば今日的な犯罪の意識に関しても、こうした内容の作品であるなら、もっとずっと、深く突き詰め、考えられるべきであった。罪と罰でもいいし、善と悪でもいい、テーマのレベルに徹底されたものがないので、現実の重たさに表現が負けているふうに見えてしまうのである。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『欺瞞遊戯』について→こちら
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 おかざき真里の『渋谷区円山町』は、タイトルどおり、渋谷のとくにラヴ・ホテル街沿いを舞台に、おもに行き交う若者たちの悩み、迷い、出会い、別れる姿を題材にしてきたシリーズであるが、この『渋谷区円山町―浪人吾郎―』では、端的に、やり直せるものと取り戻せないもの、とでもいうべきテーマに焦点が合わせられ、ストーリーは描かれている。単行本には四つのエピソードが収まっているけれども、おおまかにセクションは、かつてはカリスマと呼ばれながらも、若くしてリタイアし、現在は流しの美容師をやっている吾郎をガイド役に、寄る辺ない少女たちが自らの居場所を求めてゆく篇と、恋愛に躓いてしまった女性たちの前に、どこか不思議な空気をまとった青年があらわれ、やはり彼をガイド役にして、自らの悔いと執着とに正直になってゆく篇の、二つに分けられ、後者では、青年の意外な正体も含め、この世界には取り戻せないもののあることが、そして前者では、美容師の生き方も含めて、この世界にはやり直せるもののあることが、ちょっと甘く、すこし苦いドラマの、ワン・シーンの源泉となっている。そのなかで、どれか一個をチョイスせよ、ということであれば、個人的には「浪人吾郎」の二話目を挙げるだろうか。狭いサークルにおける同調圧力下で、何かしらの人格を演じなければ、自分のポジションを得られない、このようなパブリック・イメージの、じつに今日的な議題が、ユイという根無し草の強さ、あるいは弱さを通じて、コンパクトにマンガ化されている。たとえば〈何でバカキャラやってんの?〉と美容師に訊かれ、ユイが〈でもさーみんなやってなくない?みんなキャラ作ってるでしょ――? そーやってひととつき合ってんでしょー?〉と述べる場面、こう答えることがすでに悲しく、寂しいので、たぶん作者は、ひとまず安易なかたちでしかなかったとしても、ハッピー・エンドに持っていかなければならなかったのだと思う。

 『渋谷区円山町―桜―』について→こちら
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2009年04月16日
 たとえば、個人的にはラブコメのラブが恋愛を意味するようなラヴであって欲しい読み手なので、恋愛の感情や関係が十分に描かれていないラブコメほど残念なものはないのだったが、遊知やよみの『これは恋です』は、そのへんをばっちり押さえており、そうそう、たいへんコミカルなのにキュートでエモーショナルだから、こういうの好き、と素直に述べられる。たんに男女がセックス(性交)の周囲をうろうろするだけで恋愛がついてくるというふうになっていないのもよい。おおまかな筋だけを取り出すのであれば、男性教師と女子高生の両想いが、立場の違いのため、片想いとしてしか生きられない、よくある設定のヴァリエーションだといえてしまうけれども、その二人、教師の綾と生徒の伽良の触れ合いと葛藤に、とても複雑でいて、やわらかく、感受性豊かなものを感じられる。この2巻では、同僚の女性教師に綾がアプローチされているのに嫉妬した伽良が、ついに堪えきれず自分の気持ちを彼へ伝えることになる。それに対して、あくまでも教師の、そして大人の役をまっとうしようとする綾は、どう応えればいいのか、どう接すればいいのか、自分の気持ちを持て余し、悩み困る。ここで見ておかなければならないのは、綾にしたところで伽良にしたところで、必ずしもイノセントな人間とは描かれていないことだ。いやまあ、たしかに世間とくらべたなら、さわやかな佇まいではあるものの、生きてきた経験に相応の貪欲さは兼ね揃えている。しかしそれを、やはり年齢の差によって置かれたアンフェアな事情から、一方は素直に出せず、一方は抑えなければならないことが、ひとつの辻褄となって、ピュアラブルなストーリーを育んでいるのである。セックス(性交)がどうのというのではない、そうではなくて、ただ、好き、だという旨だけがいっさいの報いを得ない、たったそれぽっちのことが、前面化されている。誰しもがイノセントなままいられるわけではない。が、ピュアラブルに恋をすることはできる。願わなくともピュアラブルに恋をしなければならないことがある。こうした道理に説得力の与えられていることが、作品に実感と共感の磁場をつくり出しているのだと思う。それにしても、綾に接近してくる美術教師、花巻の見事な噛ませ犬っぷりよ。綾の友人、強烈な性格の辺名に〈結婚願望の強い妄想癖のある年上女〉と言われてしまう、そんな性格付けをされてしまってはいるが、いやいや正直、ぜんぜん悪いタイプじゃない。たぶん不器用なのであろう。にもかかわらず、ボタンの掛け違いでこうも、どつぼにはまってしまったらさ。そりゃ泣ける。ああ、彼女にもきっといいことがあって欲しい。

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・その他遊知やよみに関する文章
 『素敵ギルド』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年04月11日
 立原あゆみのマンガには、現代を舞台にしているものが多く、したがって現実の時代風俗を参照している場合が多い。この文庫版『本気!』の7巻では、ポケベル(ポケット・ベル)の使われているシーンがあって、へえ、そうか、その頃の話に作品が入っていることを教えてくれる。ヤクザは地上げ、投資、土地を転がし、莫大な利益をあげるようになっている。動かされる額もずいぶん景気がいい。こうした背景は、じつは、主人公である本気(マジ)に与えられた役や、彼と関係する人物たちの構図にも、影響を及ぼしている。

 たとえば、染夜の存在などは、経済系の新式ヤクザと武闘派の旧式ヤクザという対照において、本気のライヴァルとなりえていたはずであった。いわんや、本気は後者である。しかし、武闘派のヤクザのままでは極道の世界を生き残れなくなってしまった、さらには上に立てなくなってしまったことが、おそらくは、物語上で働く主人公の機能を変えており、染夜とのライヴァル状態をも解消させている。もはや、本気は金の価値に対して無垢ではいられない。もちろん、がめつくなったというわけではない。執着のなさは相変わらずといえる。ただ、どうしても金を手段として必要にせざるをえない局面がこの世界にはある、と受け入れられているのだった。

 取り込み詐欺の被害者から相談を受けた本気と弟分の次郎のこういうやりとり。〈兄貴 / 話聞いてみると / とんでもないやつですね / また別の会社つくって悪さしているんでしょうね〉〈そういう悪がいるから / オレたちも食っていける / 法律のザルの目ぬけて生きていくやつがいるからよ〉〈違います / 兄貴 / そういう悪からかたぎの人守るためにオレたちがいます〉〈わりい / そうだったな〉〈はい!〉と。こういうやりとりは、作品のなかの現在で主人公に与えられている役割を適確に代弁している。次郎の〈はい!〉という嬉しそうな声がいい。次郎がどれだけ、本気に感化され、信頼しているかが、伝わってくる。

 主人公の武闘派で旧式なヤクザからの脱却は、戦略的な面においても、すみやかな効果をあげている。渚組と集優会の緊張が高まっていくなか、本気が先手を取ることができたのは、正月の慣例に束縛されず、動くことができたためだ。一個の土地をめぐる争奪戦に突破口を見出した次郎は、そのキー・パーソンである老人に、今にでも会いに行くことを本気にすすめる。〈兄貴すぐに〉と言う。これに本気は〈松とれんうちは失礼じゃろ〉と最初は断るのだけれども、〈何言ってんすか / 松とれたら集優会も動き始めます / 出入りするわけじゃねえ / 動いても極道の仁義にゃはずれんでしょう〉という次郎の訴えに促される。じっさいこれが、集優会の、とくに武闘派である奥村を出し抜く結果を導いている。

 しかるにそれが、必ずしも、ずる、と見られないのは、たしかに〈出入りするわけじゃねえ / 動いても極道の仁義にゃはずれんでしょう〉であるからなのだが、もうすこしべつの方便、すなわち世俗VS神聖とでもいうべき傾向が、作中によりつよまっていて、主人公の行動理念は、そのベクトルのありようによっている、というのもある。この文庫版にかぎらず、シリーズの全編を通して眺めることができる今日の立場から述べるなら、『本気!』とは、いうなれば、あの手塚治虫の『ブッダ』の、立原あゆみのヴァージョンとして解釈されても構わない。本気のパンチ・パーマがシャカ族の王子シッダルタのそれを思わせるのは伊達ではないのだ。と、まあ、これは冗談半分であるけれども、煩悩から出発した主人公が、苦難、苦悩、苦行を経て、悟り、聖人化してゆく過程が、一つの篇を長く編んでいることは疑いようがない。そうして、この巻で挙げるなら、忘木のような、怖いもの知らずで傍迷惑な者でさえも改心させ、じょじょにシンパを増やしていく。次郎などは、さしずめブッダの高弟だろう。

 もっとも『本気!』に関しては、久美子とのピュアラブルな恋愛が大元にあり、野心や欲望からの離脱を本気に強いているのだが、それにしても驚かされるのは、彼のストイックさよ。クリスマスも大晦日もバレンタインも一人で過ごすかい。どれだけ惹かれようともヤクザに堕ちた人間と良いとこのお嬢さんでは住む世界が違いすぎる。〈そうです / 久美子さん / あなたも関係ねえお人だ / ただオレの目にうつる風景の中にきれいな花が咲いていたって許してもらえる / ま…何を考えたって始まりません…………久美子さん / オレはあなたが元気でいてくれるそれだけでいい〉と心に願うのみなのである。またこの願いが、せつないドラマを生むこととなる。

 ところで、先ほど触れた土地の件、キー・パーソンである老人との面会にさいして、この文庫版でいうなら前巻の、大阪から東京へ戻ってくるくだりで出会った幼女が、まさか関連してくるとはな。おそらくは、いや、ほぼ間違いなく、後付けのご都合主義でしかないのだが、そうはいっても、あらかじめ用意周到であった可能性も捨てきれない、すくなくとも読み手の与り知らぬところで、ほとんどの人物が、無駄には登場せず、何かしらの役を負っている、という辻褄が合わせられている、これぞ立原マジックである。ここには、施設で暮らす孤児のすずめとアキラの別れが描かれているけれど、この二人もたしか、物語のずっとあとのほうで再会するんだよね。そのようなサプライズがあるたび、伏線や仕掛けというのとはまったく違うにしても、作者はよく忘れなかったな、と感心する。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年04月09日
 さしずめ高橋ヒロシ・バブルといったところだろうか。クレジットのどこかに彼の名前が入れられたマンガの同時連載率たるや。もちろん、こうしたことの背景には、実写映画『クローズZERO』のヒットやフィギュアの市場におけるプレミア化、そして芸能人やミュージシャンなどからのリスペクト視が、重なり、後押しとしてあって、じっさいに高橋自身は名前を貸しているだけ、作品に関与していないものがほとんどなのだが、それはかえって彼の有するネーム・ヴァリューの大きさ、ブランド力の高さを知らしめることになっている。この活況はどこまで続くのか。まあ、もしかしたら実写映画『クローズZEROII』の公開をピークに、ある程度の収束を見せるのかもしれないけれど、いま現在の状況にかぎっていうなら、ちょっと馬鹿にならないよ、これは、と思う。ただし、高橋の名前を借りて成り立っているマンガ群の大半が、質的に残念な内容しか持っていないことは、過去にも何度か述べてきた。

 さて、高橋の代表作『クローズ』の、実写映画版として成功した『クローズZERO』の、コミカライズにあたるのが、この内藤ケンイチロウの『クローズZERO』という作品である。周知のとおり、実写映画『クローズZERO』は、マンガ『クローズ』のいわゆる前日譚を念頭に、作者公認の二次創作ふうにつくられた独自のストーリーであって、もちろんマンガ版はそちらのほうにならっている。オリジナルの『クローズ』がどうというより、実写映画の物語を、きわめて忠実にマンガ化しているのだけれども、おそらくは表現方法の違いからだろう、いくらかの変更点も見られる。その最たるは、作中のヒロインに位置する逢沢ルカが、フィーメールなヴォーカリストの立場から、主人公である源治の中学時代の同級生に移動させられ、映画版ではあまり深くは踏み込まれなかった部分、源治と時生のかつての繋がりが、クローズ・アップされていることである。これによって、静的な鑑賞に耐えうるドラマのレベルで整合性は高まり、アクションの面では動的な映像の派手さにかなわないところが、フォローされている。

 以前に『週刊少年チャンピオン』に載った記事によれば、オーディション式にイラスト・ボードから選ばれ、今回のマンガにあたったという内藤の作風は、高橋ヒロシのバイアスがへたにかかっておらず、他のフォロワーにくらべて、十分に個性が生きている。技術的には拙さがあるものの、エピソードが進むにつれ、コマを割って進むテンポも、だんだんよくなっているみたいだ。正直、作品自体は、メディア・ミックスの要素を差し引いてしまったなら、かなりインパクトが弱い。しかし個人的には、先にも触れた源治と時生のそれも含め、作中人物たちの友情とでもすべき関係性がどう描かれるか、地味でまじめな表現のなかに期待しているものがある。
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2009年04月07日
 でろでろ 15 (15) (ヤンマガKCデラックス)

 雑誌掲載時、てっきり単発のネタかと思っていた耳雄の、メダカちゃんと呼ばれる二次元アイドル化が、その後も数週に渡り、しばらく引っ張られたのには、少々とまどってしまった。こうして単行本で読むなら、ああ、というオチがついて丸く収まっているような展開ではあるものの、続きが見えない段階では、まさかずっとこのままで行くのではあるまいね、と、まあ、これはこれで可笑しいし、楽しい、ぜんぜんオーケーなのだけれども、こんなにもキュートで皆から愛でられるのなんて耳雄らしくねえや、という気分もあるにはあったせいである。しかしじっさい、耳雄が元に戻ってしまうと今度は、メダカちゃんを返せ、と言いたくなってしまうのだから、まったく人間ってわがままだな。これまで作品自体は取り上げることのなかった押切蓮介の『でろでろ』について、このように書いているのも、すべてはメダカちゃんのためである。いやいや。中野のブロードウェイ、80年代の二次元アイドル『猫耳メダカちゃん』の専門店で、メダカちゃんを現実化する装置実験に、はからずも介入してしまい、すっかり姿恰好の変わってしまった耳雄に対し、周囲の人物たちの接し方がふだんとは違ってしまうのが、おもしろい。親友であるはずの委員長とか、大概である。もちろん、だからこそ人間に戻った耳雄が、メダカちゃんに執着する委員長に向かって、〈委員長‥前みたいに俺に優しい委員長でいてくれよ‥〉と述べたりするのが、こう、心のひだに、溜め息交じり、触れてくるおかしさになっているのだが、並べられたエピソードを眺めてみるに、結局のところ、妹の留渦にだけは、耳雄はいつもどおりの耳雄であったのかもしれない。このへんの兄妹愛といおうか家族の関係性が、やはり『でろでろ』の、全体の構成を支える骨格になるのだろうな、と感じられる。相原姉妹のくだけたファミリーっぷりもいいよね。じつはどっちも不便な性格なのに、不思議と不幸せばかりではなさそうな。

・その他押切蓮介に関する文章
 『ゆうやみ特攻隊』
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  2巻について→こちら
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 『ミスミソウ』
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 『プピポー!』
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 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
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2009年04月06日
 ゆうやみ特攻隊 4 (4) (シリウスコミックス)
 
 藤田和日郎が、『ぱふ』4月号の「まんが家180人大アンケート」、「2008年に読んだまんがのなかで、印象に残った作品を教えてください」という質問に答えて、押切蓮介の『ゆうやみ特攻隊』を挙げている。いわく〈スゲーわ。恐怖とアクションがかっこ良すぎ〉なのであって、恐怖とアクションに関しては一時期きわどくすぐれていたマンガ家に、〈スゲーわ〉と褒めさせるぐらいのインパクトが、『ゆうやみ特攻隊』には、たしかに、ある。そしてそれは、この4巻に入っても、ぜんぜん衰えていない。なぜ姉は死ななければならなかったのか、真相に近づこうとして、心霊探偵部の面々、隊長(花岡)やカエ(かえで)、心霊犬の2号とともに、黒首島へと渡った翔平であったが、悪霊の恐怖によって島中を支配する鉄一族に逆らい、猛追を受け、囚われの身になってしまう。煉獄部屋。そう呼ばれる場所に落とされた翔平は、度し難いまでの拷問を、苦痛を一身に味わうことになる。ちくしょう、おっかねえ、吐き気がするほどのピンチである。頼みの綱である隊長も神経毒にやられ、捕まえられてしまった。こうした窮地において、翔平のおどろくべき成長が描かれているわけだが。成長。成長と、今しがた述べた。たしかにいったんは危機から脱し、ふたたび合流した翔平の、傷つきながらも逞しい姿に、カエは〈昔はあんなにヘタレ男だったのに 見違えたわ‥‥〉と思う。しかし、ふつう、成長という語を用いるとき、無条件にポジティヴなものを想定してしまいがちであるのに、翔平のそれには、どこか、悲壮なニュアンスが引っくるめられている。じっさい、彼を動かしているのはすでに、希望というよりも狂気であるかのようにさえ、感じられる。あきらかに、いくつかの描写は、そうした傾きを持っている。いや、何もそれは翔平にかぎったことではないのかもしれない。敵方のみならず、味方も含め、登場人物たちの表情、とくに白眼と黒眼のバランスのぎらぎらとしているところには、このマンガが基本的にホラーのテイストであらわされている以上の、すごみ、がある。おそらくは、善悪の判断が主観の内に呑み込まれてゆく、主観のありようが善悪の基準を覆うぐらいに肥大化しているので、そうなっている。もちろんその、イメージの出方自体がホラーの表現に由来するものだといえばいえる。だが、そこにとどまらず、さらに先へ先へと突き抜ける気配を、『ゆうやみ特攻隊』は孕む。いつもどおり、この作者が忍び込ませるギャグのセンスはおかしい、愉快であり、翔平や隊長の佇まいがハイパー・シリアスになっていくなか、カエが一定のユニークさをキープしていることが、かえってすばらしい。そう、振り返るなら『ゆうやみ特攻隊』とは、翔平、隊長、カエ、それから2号を加えてもいいよね、の三人と一匹を主要とし、はじめられた物語であった。心霊探偵部で得られたコミュニケーションこそが、姉を失って孤独な運命を抱えた翔平の、心の成長を代替していたのである。黒首島の決戦が佳境に入れば入るだけ、事態は深刻に、救いがたさは増すに違いない。しかし一人きりではない、絶対にないことがきっと、彼らの魂を助けるだろう。

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・その他押切蓮介に関する文章
 『ミスミソウ』
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 『プピポー!』
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 キミタカの当破! 2 (2) (ライバルコミックス)

 しばしば、少年のイメージに純粋を重ね合わせたりしがちなのは、その、無知であり未熟でしかないような姿が、打算なし、でたらめだけは引き受けまい、ひたむきな情熱だけは決して手放さないことを欲している、と信じられるからなのではないか。もしもそうだとすれば、この意味で、少年マンガには、リアリズムよりも大切なものが存在する。金田達也の『キミタカの当破!』は、たいへんにホットな作品であった。物語のなかで少年マンガ的な少年の主人公が十分に生かされていたためである。今や師匠格の藤田和日郎が上手にやれなくなってしまったことを、この新しい年代の作家は、ちゃんと受け継ぎ、立派に成し遂げていたと思う。惜しむらくは、主人公であるキミタカの輝きに対して、ワキの人物たちの個性が、必ずしも見合っていなかったことであろう。この2巻に入り、ライヴァルの役に相応しい人物、斗和が登場し、さあようやく体裁が整ってきたぞ、といったところで、ひじょうに残念ながら、マンガは完結してしまった。自分の無力さに悩み苦しむキミタカに、励みを与え、希望を教えた真雛空手道場が、大手の流派、獅子王会館に奪われようとしている。こうした逆境を、闘って、乗り越えるため、キミタカは、そして彼に空手をもたらした久遠は、獅子王会館主催のトーナメントに出場する。終盤の展開は駆け足になりつつ、いくつかの場面からは事前に用意されていたアイディアの全部が消化しきれていないことをうかがわせる。クライマックスのシーンに被される〈当破とは 突き詰めれば “当てる方法”“自分をどう使い どこへ突き抜けさせるか”のチカラらしい〉というモノローグは、まず間違いなく、作品のテーマを暗示している以上、ほんらいなら、もっとずっと、感動的な印象となるべきだったに違いない。そうしたメッセージの説得力は、おそらく、主人公の躓きや挫折にかかっているのだけれども、十分な相関を持つまでには、いささか内容が足りていない。キミタカと久遠の、まさしくボーイ・ミーツ・ガールによって、エンディングはうつくしく保たれている、反面、ちょうどラヴの部分が表現に欠けてしまい、間に合っていないのが、悔しい。那智、おまえみたいな、敗北を通じ、生まれ変わった噛ませ犬も、こういう格闘技マンガの花形であるはずなのに、活躍の場はなかったな。残念を挙げていけば、きりがない。が、しかし、である。最初に述べたとおり、主人公の、キミタカの、がむしゃらな魅力、ふんばり、まっすぐな眼差しは、少年マンガの少年はこうであって欲しい、という期待にはっきりと答えていて、あたたまる、とても頼もしかった。

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・その他金田達也に関する文章
 『あやかし堂のホウライ』(藤田和日郎・原案)
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2009年04月05日
 『きららの仕事 ワールドスシバトル』の4巻では、無印の頃も含めて、このマンガに珍しく(いやいや)、主人公の紛れもない大活躍が見られる。ワールドスシバトル日本予選1回戦、第4試合、アイドル並の人気を誇る女性パティシエ、未知花・イザベル・ブレッソンとの対決にのぞむ主人公、きららの、そのスペシャルぶりがオーヴァーにフィーチャーされているのである。反面、きららのサポートをつとめる匠とのあいだに何かしら因縁を秘め、数少ない女性参加者の未知花が、噛ませ犬ふうの扱いになってしまっているのだけれども、それはまあ、作品の性質上、仕方がないかという気もする。たとえば、きららと未知花の勝負は、両者に明確な区別を付けることで、主人公の側を優位に立たせている。明確な区別とは、要するに、正義と悪者の違いなのであって、もちろん、きららはまったくの実力で未知花を凌駕しているのだが、しかし読み手の心理が、なぜそのような展開を信じれるのかといえば、作中の審査員が公正にそう判定したからである以上に、彼女たちの対照がはっきりとしているためにほかならない。この点は、物語のなかにおけるきららのポジションの底上げと深く関わる。無印の終盤、主人公のきららが、男性の登場人物たち、とくにライヴァル役の坂巻に比べ、やや見劣りしていたのは、作品の構造がグルメ・マンガのそれよりもバトル・マンガ(少年マンガ的なトーナメント)の様式に近く、男女が同じフィールドで相まみえたさい、ジャンル自体が無意識のうちに孕んでいる性差の力学に、表現の内容が屈してしまったせいなのではないか、という推論は過去にもさんざん述べてきた。これに関し、「ワールドスシバトル」篇では、いくつかの処置がとられている。未知花との対決もその一つであろう。未知花が魔女だとすれば、きららは聖女なのであり、これによって彼女のジャンヌ・ダルク化がさらに進んだ。主人公をある種シンボリックな存在にまで持っていくことで、ジャンル下の、フォーマットの制約より逸しようとしているのである。未知花戦にあって、きららの内面は、ほとんど示されない。驚くべきアイディアへ至るまでの思案を伏せて、はったりをきかせている一方、もはや余人にはうかがい知れぬレベルの人物であるかのように演出されている。これ以前に修行や成長の段階を具体的に描かなかったこともまた、正体不明の神通力を高める。

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 『江戸前鮨職人 きららの仕事』
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2009年04月02日
 おちけん (アクションコミックス)

 今でこそ独自のキャリアを歩む川島よしおであるが、登場したばかりの頃は、吉田戦車と比較されることもすくなくはなかった、と記憶している。たしか、デビュー以前の『週刊少年チャンピオン』にも、そうしたニュアンスの選評が載っていたはずだ(これについてはうろ覚えなので、事実誤認であったら申し訳ないが)。おそらくは極端な話、登場人物の個性で引っ張るセンスとある種のシュールさが主張的であったことを指していたのだと思う。しかしそこから、エロティシズムの要素やほのぼのとしたムードを試行錯誤し、現在の作風が確立されていったのは、周知のとおり。そしてその作者のすばらしき集大成とでもいうべきが『おちけん』ではないかという気がしてくる。ここで川島が挑んでいるのは、古典落語に固有のおかしさを現代ふうな4コマ・マンガのスタイルへと批評的に取り込む、かのような手法である。落語を学ぼうとする登場人物たちの姿をギャグに描きつつ、噺の内容そのものを題材化することで、きわめてオーソドックスな起承転結の構成に、不思議とひねられた二重性が持たされている。もちろんこれを、4コマ・マンガの枠組みにおけるコマ数とテンポが噺家によるパフォーマンスのかわりを果たしている、と言い換えることも可能だろう。作中で落語が演じられるさい、フォーマットの性質上、小さなコマのなかにもかかわらず、表情のありようや言葉の置き方、背景の描写など、無数の工夫が凝らされていることに注目されたい。じつはそれが、作品全体が負っているストーリーの精度をあげるのにも役立っている。『おちけん』は、文字どおり、大学の落語研究会を舞台とし、そこで活動にいそしむ3人の人物をヒロインにしている。彼女たちは各々の情熱をもって、落語につとめ、落語に笑い、落語に泣き、落語に学び、落語を学ぶ。もしも落語が人生に関する物語であるならば、そのことに深く頷いてゆく様子が、彼女たち自身の成長と物語になっているのである。全1巻でまとまった物語のラストは、エピローグも含め、驚かされるほどのさやわかさに満ちる。はたして、これが川島よしおの真骨頂とは言えないかもしれないし、代表作と呼べるかどうかはわからないが、とにかく胸をいっぱいにしてくれる、誇らしいマンガであった。
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2009年03月31日
 蒼太の包丁 20 (マンサンコミックス) (マンサンコミックス)

 細かい部分はさておき、料理マンガと大きく括るのであれば、数的に見ても他の題材に決して劣らぬこのジャンルの、とくに物語のレベルにおいて、『蒼太の包丁』は、いま現在、もっとも正統派の作品であるし、すぐれて上質な部類に入るとさえいえる。北海道から上京してきた青年が、形式と伝統の世界で揉まれ、自立を目指し、頼もしく成長してゆく、こうした本筋の魅力的なところは、20巻の長さになっても変わらず、さまざまなエピソードが次々に繰り広げられている。しかしまあ、嫌な奴は嫌な奴でどこの店にでもいるもんだな。蒼太たちが働く銀座の『富み久』から、赤坂の『なのは』へ移っていった須貝が見舞われる悪意に、思わず、そう呟きたくもなる。だが、ここで重要なのは、嫌な奴が誰でどうというより、災難に振り回された須貝が、それをバネとし、前向き、また一つ、歩みを進めることに、物語のテーマが託されている点である。主人公の蒼太と同じく、作中の時間は確実に、ワキの人物たちをも逞しくさせている。初期の頃の、あのだらしがなかった須貝は、もはや、いない。それは、以前と比べたときに彼の造形がぶれているということではなく、こうした表情を持てるまでに彼が育っているというしるしにほかならない。一方、蒼太のもとには、亡き父の弟弟子だという料理人、勝俣が訪れる。生前に〈俺に万一のことがあったら……たまにでもいい 東京で仕事をしている蒼太の様子を見てやってくれねぇか?〉と言付かっていた勝俣の目に、はたして蒼太の仕事は、どう映るか。一度は苦言を呈しながらも、十分に納得のいく答えを得られた勝俣は、まさしく蒼太の、父の魂とでも呼ぶべき包丁一式を手渡す。こうしたくだりは、たしかにウェルメイドのきらいがあるだろう。じっさい、話の内容そのものはあまり深くなっていないので、作中人物と同じぐらいの感動を得られるかといえば、ノーである。主人公の成長自体の表現化にはなっていないためでもあるのだが、そのかわり、彼はいったいどこまで進んだか、一種のチェック・ポイントであるような確認が、物語のなかに明示されている。

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 とりあえずは、もうここで完結しても十分だろう、ゴールしてもいいよ、と感想を述べたいのであったが、いやいや、それは決して批判の意味ではない。じつのところ、たいへん恥ずかしながら、この『味いちもんめ〜独立編〜』の、2巻の内容には、これまでの無印『味いちもんめ』そして『新・味いちもんめ』とシリーズを通し、最大級のクライマックスが用意されており、読みつつ、涙させられてしまったのだった。おい、具体的にどのへんだよ、と尋ねられれば、もちろん、ついにオープンした伊橋の店に、かつての恩師である『藤村』の親父さんが訪れ、祝いの言葉をかける場面のことをいっている。そこはまちがいなく、シリーズ全体を一個の作品として捉まえたさい、重要な到達点であるような、つまり、これを描いてしまったらあとは何が残されるんだ、というぐらいのピークを担っている。だって、そうだろ。スタートの段階においては、つっぱった兄ちゃんでしかなかった主人公が、形式と伝統の世界で他人と交わり、経験を積むうち、いくつかの変節を経て、一人前の職人へと成長してゆく、こうした過程のすべてが、『藤村』の親父さんの〈いい店やないか。開店おめでとう〉という伊橋に向けた言葉、さらには従業員たちに対して〈いたらん所もあると思いますが、伊橋をよろしく頼みます〉と頭をさげる姿には、集約されているのである。以前のレギュラー陣、無印のボンさんやナベ、「新」の松下や早瀬の再登場も手伝い、作品史上、特筆すべきエピソードとなっている。すくなからぬ思い入れを持った読み手であれば、しばし泣けるであろう。『味いちもんめ』を、伊橋の物語として考えたとき、もはや、これ以上のドラマがありうるとは思われない。無印の当初は、伊橋の意識に明確であった親子間の確執と葛藤も、『藤村』の親父さんとのやりとりに肩代わりされ、報われていると見てしまってもいい。もう、これ、最終回でいいじゃん。とはいえ、深田と啓介の新メンバーを加え、いよいよ『楽庵』を開店させた伊橋の、見事な大将っぷりは、しょぼい自分探しで展開を引き延ばしていたふうな「新」の、あの後半のぐだぐださ加減を払拭して余りある充実を、ストーリーに提供している。ふつうにおもしろい。まだ人手の足りない『楽庵』に助として入っているナベや早瀬とのやりとりもたのしい。伊橋の野郎、すっかりカリスマじゃねえか。ほんとうはこのまま、山あり谷あり質のよいエピソードを量産していければ、まあ、問題はないのだが、いかんせん、「新」の前例があるだけに、シナリオの部分に不安が残る。

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 『新・味いちもんめ』
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2009年03月29日
 河原和音の『青空エール』は、1巻のときはそうでもなかったのだが、2巻を読んで、ぴんとこない。どころか、あまり感心しなくなってしまう。それというのは、相応のキャリアを積んでいる作者が、どうしてこんな、まあ原作が付いているわけではないのだけれども、出来がいまいちな児童文学のコミカライズみたいな作品を描くのか、つよく響いてこないためで、もちろん、児童文学のコミカライズみたいな作品であることが、どうというのではない。そうではなくて、ここに捉まえられている純粋のようなものが、個人的には、よく信じられないのである。ヒロインのつばさは、高校にあがると、吹奏楽部に入り、甲子園のスタンドで、トランペットを吹き、野球部の応援をすることを夢見る。しかし、まったくの初心者である彼女にとって、吹奏楽の名門として知られ、実力者が揃って練習に励む活動の内容は、きびしい。ときにはくじけそうになってしまうつばさであったが、野球部でがんばり、甲子園出場を目指すクラスメイト、大介の存在と言葉を支えに、すこしずつ、夢に向かって、前進をしてゆく。こうした物語をあらわすにさいし、作中からはほとんど、悪意をもって働きかける人物が、排除されてしまっている。そのため、いかにもピュアでござい、としつらえられている部分が、無条件に前面化している。ふくらみがない。もしも、何かしらかの純粋が託されているとしたならば、それはひどくごつごつとしていて、とても魅力的には感じられないのだ。たとえば、ここに示されているイノセンスは、『高校デビュー』がそうであったように、体育会系の熱心さを糧にしている。だが『高校デビュー』においては、そうしたヒロインの資質が、周囲の言動によって相対化されることで、ある種のイノセントとして機能しえたのに比べ、『青空エール』の場合は、子供は子供だから純粋だという無根拠な思いなしと同じく、十分に検討されていない基準を信仰しているふしがある。そうした偏りは絵柄にも及ぶのか、登場人物たちのデザインにしても、以前ほどにはチャーミングでなくなった。

・その他河原和音に関する文章
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2009年03月28日
 さまざまな体験を通じ、ヒロインのしま奈にとって、虎(たいが)、朝陽、善たちとの暮らしが掛け替えのないものになってゆくなか、また一人、クセのありそうな人物と関わりを持つことになる。その、善の兄、拳の登場、次第にあかされる彼ら兄弟の葛藤が、高野苺の『夢みる太陽』3巻の、一つの柱とでもいうべき展開になっているわけだが、そのほかにも、しま奈の心が朝陽から虎に移ったり、しま奈に対する善の片想いが頑なになったり、といった二つの柱が存在している。もちろん、それらは異なった面を別々に支えているのではない。同じ、一個の物語にかかっている。では、ここでいう物語とは何か。『夢みる太陽』は、その内容を、同居タイプのどたばたラヴ・コメディ、と簡単にまとめることができる。しかし、それはあくまでも設定と語り口の問題であって、ストーリー上の要点は、もうすこし、ほかのところに見られる。たしかに、どたばたとしていることが、にぎやかなラヴとコメディの部分を、がんがん盛り立てており、次から次へ、ひっきりなしに事件の起こっていくさまが、作品のテンポや魅力を担ってはいる。だが、それだけではこの、浮き世離れしているかのようなマンガが、どうしてときどきエモーショナルなのか、を説明しきれないのである。したがって、もしも『夢みる太陽』に、何か、こちらの心をゆっくり動かすものがあるとすれば、それは、いささか紋切り型の言いになるけれども、おそらく、先天的な共同体から逃れてきた人間が後天的な共同体のなかで家族関係をやり直す、式のテーマが、現実性として控えられているためなのだと思う。この巻のアタマのほうで、しま奈が、自分たちを家族に喩えてにこやかなのは、たんに洒落がおかしかったのだと、ふつう、読み手は受け取らない。また、善と拳の兄弟は、まったくじつの肉親にほかならないが、いったん家庭の外に出なければ、ここでのくだりで見られるほどには、正直になれなかったのではないか。拳が、善と言い争いしたのち、もともとは同級生だった虎に〈てめぇ 善に変な事考えさすなよ ちゃんと見てろって言っただろ 道 間違えねぇようにちゃんと見てろって!〉と告げていることは、ある意味で、それを裏書きしている。反面、善と拳の対立は、多くの関係性が、家族の感情をベースにしていることを教えてくれる。これに、ほんらい部外者であるはずのしま奈が、どうしても首を突っ込もうとするのは、善のことが、(すくなくとも現段階では)恋愛とは違うレベルで、赤の他人ではないと認識されているからだといえる。こうした物語を、テンポよく、あかるくほがらかに描けている成果まで見てきて、ようやくそれを、『夢みる太陽』の、特徴的な魅力として挙げられる。

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 1巻について→こちら

 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
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2009年03月26日
 ストロボ・エッジ 5 (5) (マーガレットコミックス)

 いま、もっとも素敵な少女マンガは、ということであれば、間違いなく、咲坂伊緒の『ストロボ・エッジ』を挙げよう。とにかくもう、最高潮に胸がときめく。せつない。このせつなさを誰かと共有できるなら、そうしたい、と願う気持ちを恋と呼ぶのなら、恋がしたい、恋がしたい、恋がしたいに違いない。たいへん、いてもたってもいられなくなるのである。

 しかしそれにしても、安堂くんがかわいいすぎる。このさい、安堂きゅん、と口にしてもいい。なんとキュートであることよ。詠嘆せざるをえない。途中から物語に参加してきたワキのくせに、完全に主役の二人を食っている。まあ、さすがにそれは過言だろうが、すくなくともこの5巻は、番外編の「〜未完の地図〜」を含め、安堂という男の子の魅力に満ちている。もちろん、ストーリー自体も、いつだって、佳境かというぐらい、感情のままならなさに満ち、きらきらとしたドラマを輝かせているけれど、ここではとくに、その輝きのうちの一つ、安堂が眩しい。

 仁菜子の、蓮に対する気持ちは変わらぬまま、季節は冬に移っていた。学校が休みに入って、これでもうしばらくは蓮と会えない。12月24日、きっと蓮は恋人の麻由香と一緒に過ごすのだろう、と思っていた仁菜子であったが、クリスマス・パーティの帰り、たまたま目に入ったガソリン・スタンドで働く彼の姿を見、どうしてか苦しく、いや、たぶん諦めきれない心が苦しくて、涙してしまう。好きだと告白してくれた安堂の言うとおり、ほんとうはふっきれなければいけない。蓮のことも、この苦しみも。しかし休み明け、学校で彼の姿を見たとたん、ふたたび思い知らされる。〈この冬休みで 会えない事に少しは慣れたかもしれない だけど目に映った瞬間 そんなのはいっぺんに振り出しに戻される こんな確かな気持ちを 私は 消すことが出来るのかな 蓮くんの写真は毎日見てしまった〉。自分の気持ちに嘘はつけなかった。

 何よりも『ストロボ・エッジ』がすぐれているのは、作中人物たちの仕草、表情に、その心のなかの傾きが、よくあらわされているからで、たとえば、先ほど引いた仁菜子のモノローグの場面では、じつは蓮の目線、仁菜子の目線、そして安堂の目線がそれぞれ、三角関係とも言い難い微妙なニュアンスを見事に構図化している。とくに蓮の眼の動き、眼の輝きは、ふだん口数が少なく、あまり大げさな感情を見せない人物だけに、他のシーンにおいても、重要な意味を持つ。

 あるいは、ここにきて、安堂がやたら魅力的なのも、表向きちゃらかっただけの彼の内面が、同様の技法により、実感として十分な説得力のあるところにまで引き上げられているためだろう。〈手は握ってないっ 服しかつかんでねーもん〉って、はにかむ、その顔、ああ、まじで恋しちゃってんのね。かわいくて弱るよ。

 物語のレベルで踏まえるならば、そうした安堂の一面を引き出しているのは、やはり、仁菜子の存在にほかならない。この巻で語られているように、かつて恋人に裏切られたせいで、恋愛に対して、女性に対して本気になれなくなってしまった。だから遊びでなら誰とでも付き合えた。その、いったんは不審になってしまった純粋が、仁菜子との出会いを、さらにいうなら、彼女の、自分のためだけに人を利用したり、騙したりしない性格を通じ、信頼を取り戻すことができているので、なんだかかわいらしい顔を見せるようになっているのである。やがて、蓮に向けられた仁菜子の一途さに、ふられた安堂が〈今なら仁菜子チャンの気持ちもわかる 仁菜子チャン 前に『いつか きっと こういう恋する』って俺に言ったよね まさに今それだから だから まだすぐには諦めるとか出来そうにないけど〉と述べている言葉の、ひたむきな印象も、そこからやって来ている。

 一方、蓮と麻由香のカップルに、いよいよ作品が佳境に入ってきたことを教えるかのような、そういう大きな転換がもたらされる。二人のあいだに何が起こったのか、くわしくは触れないけれども、両親の離婚に傷つく麻由香が、父の話を聞き、のちに一個の天啓を得るくだりは、今日の少女マンガを考えるうえで、なかなか見過ごせない。

 両親の離婚もしくは再婚というのは、この現代の家庭事情にそったリアリティを担うからか、少女マンガのジャンルに、おそらくは以前にも増して、頻出的になってきた設定だといえる。このこととパラレルになって顕在化しているのは、どれほど愛し合った者同士でも別れてしまうことがあるなら、永遠の愛などない、今こうして誰かを愛していることも、いずれ嘘に変わってしまう、という不安である。ときにそれは、恋愛に真実はない、という諦念になりうる。ある種、ロマンティック・ラヴ・イデオロギーへの反動であるが、にもかかわらず少女マンガ的なテーマを追わねばならず、恋愛主義の物語を抱かなければならない、そのような困難からはじまっている作品が増えつつある。

 もしかしたら不変なものなんてないのかもしれない。こうして前提化された困難に、『ストロボ・エッジ』は、たとえば心境と時間の概念を、麻由香の決断とそれを聞き入れる蓮の姿に託し、少女や少年の時代に必ずやもたらされる成長へ置き換えることで、うまく、誠実に応えていると思う。

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・その他咲坂伊緒に関する文章
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 『GATE OF PLANET』について→こちら
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2009年03月25日
 ハロルド作石といえば、今や『BECK』の作者であろうが、ロック・マンガとしての萌芽はすでに『ゴリラーマン』の時点であった。そしてそれは、日常から浮遊した文化祭の夢であり、思春期の名残となってあらわれる幻であった。これと同様に、佐木飛朗斗の(正確には佐木が所十三に原作を預けた)『疾風伝説 特攻の拓』からもまた、ロック・マンガへの指向を見てとれる。言うまでもなく、あの、死によって永遠のカリスマを得た天羽時貞の存在と、まさしく彼のギター・ヒーローたるハイライト、増天寺にて行われた大規模なコンサートのことである。が、しかしそれもまた、一度失われたなら二度とは取り戻せない、夢幻のごとく、であった。いささか後付け的ではあるけれども、そこには、今日のように毎夏のロック・フェスティバルが恒例化する以前の、ロマンとロマンの敗北とが、限りのある学園生活の姿を借り、縫い込まれていたのかもしれない。

 現在、佐木が山田秋太郎と組んで発表している『爆麗音』は、ハロルドの『BECK』がそうであったのと同様、ロック・ミュージックを直接の題材とし、学校の外側を生きる人々のロマンを、小さなライヴ・ハウスからはじめ、大きなスケールのひらけているところにまで持っていこうとしている。22歳のフリーターである主人公の歩夢が、さまざまな才能と出会い、ギターの類い希なる資質を開花させてゆく、というのがメインの筋にあたり、それと並行して、クラシック音楽に全人生をかける人々の執念が、作中に複雑な愛憎劇をもたらす。この4巻では、強力なパフォーマンスによってライヴを成功させながらも、他のメンバーとはあまりにもかけ離れたグルーヴであったため、バンドを追い出されてしまった歩夢が、再出発を誓う一方、前日譚でもある『パッサカリア[Op.7]』の、そのタイトルに暗示された伝説の楽曲をめぐり、運命の歯車が、よりいっそうの激しさをもって回りはじめる。

 過去にも何度か述べてきたけれど、『特攻の拓』の天羽時貞を最大の象徴とし、佐木の諸作品に通底しているのは、生まれと育ち(遺伝と環境)にまつわる苦悩の問題にほかならない。学園生活をベースとしない『爆麗音』の場合、社会に出ても、自己が実現されないでいる、このことへの苛立ちが反転し、生まれや育ちに対する苦悩となって、物語の磁場をつくっている。たとえば、印南烈がそうであるように、藤堂政美がそうであるように、ほとんどの登場人物は、そのエモーションを、出自に左右されてしまうのである。だが、おそらく歩夢(と、もしかしたら『パッサカリア[Op.7]』の主人公の妹、理香子)は、そうした拘束から、極力逃れられている。まあ、それは母親の冴子や妹の樹里絵と比べてみればあきらかなとおり、基本的には無知であって、無知であることがイノセントの役割を果たしているためなのだが、しかし、いっけん平々凡々としている彼が、周囲にとってチャームを持ちうるのは、眼差しが、生まれや育ちに囚われず、いまだ敗北を知ることのないロマンのほうをずっと、まっすぐ向いているからなのだと思う。

 しかしそれにしても、ガソリンバニーというグループのナンバーが名曲だとされてラジオでかかったりするのは、じつは『外天の夏』とリンクしている設定だったりするのだけれど、〈誰が何を――アタシの価値に払うのー 命なんかじゃ物足りない MONOTARINAI 命なんかじゃ物足りない MONOTARINAI(はあと)〉って、これ、ひどい歌詞だよね、どんな曲なんだろう、ちょっと聴きたい、MONOTARINAI。

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 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
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 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
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2009年03月23日
 恋愛 4巻 (4) (ニチブンコミックス)

 騙す男が悪いのか、騙される女が悪いのか。そうした訴えはもちろん、立場を逆転させて、騙す女が悪いのか、騙される男が悪いのか、と言い換えられる以上、必ずしも性差の都合にのみ単純化できないし、一般的に嘘偽りは正しくないので、絶対に騙す側がいけない、と判断するのも可能ではあるのだけれど、じつはそうと知りながら騙される、ということも世間にはありうる。このため、たいていは当事者の関係を固有のものとし、内情を見、是非を推し量っていくよりほかないのだが、いずれにせよ、悩ましい問題であるには違いない。立原あゆみが、マンガ『恋愛(いたずら)』を二部する構成のうち、オムニバスのパートに描く、つまりホテル街にあるバー「いたずら」を訪れたカップルたちに託しているのは、恋愛状態にあるような男女の仲に、そもそも共犯ならざる罪の介在する余地はあるのか、もしあるのだとすれば、はたしてそれはどういうふうにあらわれるのか、あるいはそのせいで幸福になれないのが悲しいのはなぜか、アンビバレントなまま、いくらでも続けられる謎かけを、ちょうど人がひとり、両手ではすこし持て余すぐらいのサイズに切り出した憂鬱なのだと思う。正直、作品がはじまった当初は、主人公のジミーの、いけいけの復讐譚だけを重点的にやってくれればいいのに、という気持ちのほうがつよかったのだが、しかし平凡な人々の、ささやかでしかない願いが、それこそ毎回引用されている歌謡曲のごとく変奏されながら、静かに、さまざまな重みを伝えてくると、ジミーの破滅的なスタンスとは異なった部分で、人生の哀歓を響かせるようになっている。この4巻の冒頭、「メモリーグラス」や「雨の慕情」と題されたエピソードなどは、それが一話単位で、うまく、はまった例であろう。その一方で、ジミーの、ヤクザとしての宿命を追ったパートが、重要なモーメントを迎える。死んで欲しくない人間が死ぬ、死んでしまう、というのは、フィクションにおける常套手段であるし、この作者が得意とするパターンであるけれど、これでもう、すべてを擲つのにジミーの躊躇う理由は何もなくなってしまった。それは決して救いじゃあないことが、ひどく、寂しい。

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・その他立原あゆみに関する文章
 『極道の食卓』
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  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
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 『仁義S』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『本気![文庫版]』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年03月22日
 そもそも、立原あゆみの『極道の食卓』は、1巻が出たきりになっている過去作『喰人』を原型にしていると見てもいいのであって、つまりは柳沢きみおにとっての『大市民』のようなもの、といえばいえなくもない側面を持っているのだけれど、個人的には、あくまでもマンガを読みたいときに、そういう時事に対するオピニオンは、やはり、ストーリーとなる部分が生きてこそ有意義だと思っているので、さすがに8巻までになってくると、一話完結の形式でエピソードをこしらえるのがつらくなってきたのか、お話のレベルに当初ほどのエンターテイメント性が感じられず、すこし残念な節もあるにはあるのだが、路上売春婦と援助交際者の対立を描いた篇や、若いカップルの出産を苺のバースデイ・ケーキで祝う篇、そして、久慈雷蔵の子分の失恋をベースとした篇には、シリアスな作品とは違ったユーモアのなかに、独特のあゆみイズムがよく出ており、世知辛さも込みで人生の情趣であるような、そのへんはしっかり満足のいく内容になっている。とくに、先ほど挙げたうちの三番目、濁組の若い衆である飛が、高嶺の花に一目惚れし、夢中になったはいいが、二目と会えず、傷心するくだりは、ああ、こういうのがやっぱりこの作者の真骨頂だな、と思われる。純情であるあまり、恋愛にはからっきしなヤクザというのは、『本気!』の初期に通ずるものだろう。いや、もしかしたらパロディになっているのかもしれない。もはや自分からは失われてしまった清廉を、高潔でうつくしく見える女性に求めるというのも、そうである。しかしそれが、ここでは、ひとひねりのオチも含め、ラヴ・ストーリーとして盛り上がる以前の、可笑しいとも悲しいとも、何とも言えない、侘びしさを連れてくる。

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 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
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・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  9巻について→こちら
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  4巻について→こちら
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 『本気![文庫版]』
  6巻について→こちら
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 『恋愛』
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 『ポリ公』
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2009年03月21日
 サムライソルジャー 4 (4) (ヤングジャンプコミックス)

 これまでの3巻において、山本隆一郎『サムライソルジャー』の、単行本(コミックス)の表紙をつとめていたのは、つねに主人公の藤村新太郎であった。しかし、この4巻でついにべつの人物がカヴァーを飾る。そう、藤村のライヴァルであり、もう一人の主人公とでもいうべき桐生達也のことである。これはある意味で、物語に、一つの転換が訪れていることを暗示しているかのようにも思われる。よくよく注意するまでもなく、4巻の作中に、桐生の姿は、ほとんど、見かけられない。にもかかわらず、彼の存在感は、その野望によって、以前にも増し、大きくなっている。そのこととは反対に、というべきか、それとも正比例して、というべきか、主人公でありながらもメインのストリームからは外れていたため、当初は控えめであった藤村の活躍もまた、ずいぶんと目立つようになってきた。いずれにせよ、桐生のプランが具体的になるにつれ、そうなっている。藤村が、それに真っ正面から口を挟む、首を突っ込みはじめたことで、そうなっているのである。こうした二者の、各々が各々で自分に課している使命の対照こそが、やはり、作品の最重要なポイントであって、その象徴的なバランスこそが、すくなくとも4巻の、桐生の表紙にはあらわれている。

 緊迫した空気のなか、睨み合う『ZERO』と『渋谷連合』の面々、そこに構成人数わずか一名のチーム、初代『藤村新太郎』として、まさしくワンマン・アーミーのごとく乱入し、すべてを阻止せんとする藤村に向かい、『ZERO』の一人は、こう言う。〈…藤村さんよォ き…桐生さんはこう言ったんだ 俺についてこい…そーすりゃ ずっと不良(ガキ)のままでいさせてやるってな………あんたにはわからねーかもしれねーが 俺ら渋谷にしか居場所がねーんだ…あんたが桐生さんの邪魔するんなら 俺らだって自分のために体張るんだよ!!〉と。これに対し、藤村は〈…バカ同士よってたかって ケンカして血ィ流して守る居場所…んな居場所にドンダケ価値があんのよ? そのモノサシ 俺にはわかんねーが………こっちも大事なモン守るためにデバってんだわ テメーらの欲しいモン…簡単に手に入ると…思うなよ!?〉と一蹴、居合わせた全員を挑発してみせるのだった。

 いやあ、3巻の盛り上がりを受けたまま、スペクタクルは増大する。『ZERO』対『藤村新太郎』の火蓋が切って落とされようとするとき、満を持してあらわれた元『マーダーコープ』の頭、ヨッシー(吉田薫)が、にくいね。まったく。良いところを全部持っていきやがった。これなんだよなあ、いっけんぶさいくでかっこうわるいヨッシーが、『マーダーコープ』の連中から慕われるのは、というやつであろう。そうした藤村とヨッシーの意外な登場により、『ZERO』と『渋谷連合』のあいだにある緊張は、いったん水に流される。だがもちろん、それはすべての終わりを意味しない。むしろ、すべてのはじまりとなって、今後の展開を担ってゆくのである。ふたたび、渋谷の、戦争状態であるかのようなサイドに帰還せざるをえず、花屋の仕事を辞め、居候先を去った藤村を引き受けるかわり、〈……教えろ あんなに嫌がってた不良(ガキ)の世界になんで戻った?〉と尋ねるヨッシーのするどさが、侮れない。これなんだよなあ、いっけんぶさいくでかっこうわるく、もてないし、だいいちもてるための努力の方向性が完全に間違っているのに、なぜか男前に見えてしまうのは。だが藤村は、ヨッシーの問いに、うまく答えることができない。あるいはそれ以前に、正確に答えようとはしていない。ぼかしている。なぜならばそこには、かつては親友であった桐生に関する、とてもデリケートな問題が含まれているからだ。そしてそうした二人のやりとりは、迂遠にではあるが、じつは作品上の構造自体を言い当ててもいる。

 この『サムライソルジャー』という物語は、あらかじめ主人公のために用意されていたものではない。当人もそれをよく知っている。だからこそ、部外者でいたかった。主人公らしからぬ立場にいた。主人公以外の人物たちが、彼が介入してくることを快く思っていないのも、そのためにほかならない。ここでいう物語を、渋谷やストリート、青春、モラトリアムと換言してもよい。どれだけ縁があろうとも、そこから出ていった人間は、もはや外部の人間でしかないのである。一般化していうなら、OBであるような者が、現役の舞台にしゃしゃり出てくることは、当然、筋違いに近しい。しかしながら、そういう筋違いを犯してまでカムバックしなければならない理由ができてしまったので、藤村は初代『藤村新太郎』の名乗りをあげる。

 すこしばかり、作外のインフォメーションに触れておきたい。単行本の帯や巻頭の相関図、また雑誌掲載時の煽りなどを見るかぎり、作者の考えはともかく、編集の側は『サムライソルジャー』を、おそらく、アウトサイダー・フィクションのフォーマットに忠実な、すなわち現代に意匠替えした国盗り合戦、軍記物のヴァリエーションとして売り出したいみたいである。たしかに、あちこちにさまざまなカリスマを立て、渋谷統一を至上の目的とした抗争が、作中には繰り広げられているだろう。だが、作品そのものの力学は、必ずしもそれにそっていない。結局のところ、藤村は〈あんなに嫌がってた不良(ガキ)の世界になんで戻った〉のか。先ほども述べたヨッシーの問いかけは、場面を変え、次のように繰り返される。〈3日なんていってもう1週間たっちまったじゃねーか だいたい『ZERO』の渋谷統一が気にくわねーなら桐生本人に直談判すりゃいい話で おめーがわざわざ看板出す必要はねえ そう考えると おめーは理由をとにかく隠しつつ…誰にも理由を知られることなく「渋谷統一するチーム」を絶対に作らせない…ように動いている…〉のではないか。と、言われた藤村の反応からわかるとおり、これは彼の意志の、読み手に向けた代弁になっているのであって、つまり『サムライソルジャー』においては、もしも主人公が主人公として物語を十分に生きられたとき、渋谷統一の概念は、必然的に無効化されねばなるまい。すくなくとも、作品の力学は、そのように動いているので、是が非もなく、藤村の介入が、戦況を一変させてしまう。

 はたしてヨッシーが、初代『藤村新太郎』に加わるのかどうかは不明だけれども、藤村とのコンビネーションは、なかなか楽しい。シリアスな部分以外、すばらしく頭が悪いのが良い。本筋がやたら血なまぐさいぶん、こういうギャグやユーモアのセンスは大切である。ありがたい日常のワン・シーンを思わせる。一方、『渋谷連合』だけではなく、厄介なことに『藤村新太郎』とも事を構えなければならなくなった『ZERO』の幹部たちは、面倒が重なることに苛立ちを覚える。とくに、しでかしたヘマを挽回したい江田昭二は、狂気とでもいうべき光を、その眼に宿らせるのだった。かくして実現された江田と藤村のタイマンは、この巻の、最大のクライマックスだろう。喧嘩のほかに自分が存在する意義を知らない江田の執念がすさまじい。そしてその執念は、彼の回想となって、まだ藤村も雫もメンバーにおり、絶頂期を謳歌していた『ZERO』の、初期の理念として語られる。江田にとっては、やばいチームを次々と潰し、全方位を敵に囲まれたとしても、最短距離で渋谷の制覇を成し遂げようとする『ZERO』のつよさが、すべてであった。誇りであった。命を懸けるのも厭わなかった。〈ワシらが渋谷に出れば誰もがワシらに見とれとった そりゃあ気持ちよかったわい ワシらに誰が勝てる? ワシらに誰が歯向かえる? 喧嘩がイチバン強い男たちがイチバンの注目を浴び イチバンの風を切って歩く ワシは その風に吹かれて渋谷の残るチーム全部に喧嘩をふっかけたろっちゅう勢いやった〉のは、4年前も今も変わらない。ただし、新アニイこと藤村だけは、そんな自分に厳しい視線を向けてくるのが、気に入らない。『ZERO』の特攻機であるからには、〈ワシの喧嘩を認めんいうことは ワシをゴミやということと同じ 最悪の気分じゃ〉と思えて仕方がないのだったが、こうして袂を分かった以上、〈不良は喧嘩が全てじゃ わからしちゃる ワシの喧嘩を〉と、血気逸らせる。

 もちろん、藤村の態度の見え方は、江田の主観にすぎない。何よりも、藤村と桐生、そして雫が『ZERO』によって目指したのは、あくまでも『頭のいない渋谷』の可能性であって、江田の望むような、統一制覇などではなかった。それなのに、雫が亡くなり、自分が去ったのち、桐生が巨大化した『ZERO』を使い、渋谷を仕切ろうとしているため、藤村は、不良(ガキ)の世界の外で、伝説のまま、のうのうしているわけにはいかなくなったのである。

 繰り返しになるけれども、藤村を、渋谷の、戦争状態であるかのようなサイドに引き戻したのは、『ZERO』の暴走行為にほかならない。しかしそれは表面上の結果であって、本質的には、幼馴染みの桐生が、武闘派ヤクザとつるみ、何かを画策している、そのせいで命を落とすかもしれない、こうした心配のせいだろう。つまり、しごく私的なモチベーションに従っている。ここで注意しておかなければならないのは、藤村個人にとってはそれが、渋谷中を巻き込んだ抗争よりも大きい、ということだ。語弊はあるかもしれないが、決して、渋谷の街が、他の不良がどうなってもいいのではない。因果関係がまったく逆なのである。すでに述べてきたとおり、ほんらい藤村は、部外者、外部の人間としてあらわれている。その彼がまず、法や倫理の大義をかざし、不良の世界の内部の諍いに手を出していったならば、それこそ欺瞞になってしまう。私利私欲であれば、なおさら、なのはいうまでもない。だが、この観点において、藤村の切実さが不純を免れているのは、親友である桐生への憂慮が先立っているためであって、桐生の意味深長な行動からすべてがはじまっているようなとき、副次的に、抗争の形勢に関わってゆく必要が生まれている。こうした藤村の位置づけを、すくなくとも読み手にレベルにあって、明確にしているのが、桐生と裏で繋がっているとされる武闘派ヤクザ、武藤の存在だと思われる。藤村と武藤、あるいは二者の対比に、ベトナム戦争や湾岸戦争におけるアメリカの役割を投影することも、不可能ではない。

 それにしても、一定のバランスが保たれていたはずの勢力図を塗り替えてまで、桐生が果たそうとするたくらみは、いったい何なのか。藤村との対決の最中、〈わしゃ偶然 桐生さんのハナシ聞いてしまったんや〉と告げる江田の口から、ついにその一端が明かされる。

 喧嘩天国。

 そう、たしかに聞いた、〈桐生達也がヤクザぁ 後ろ盾にして創る 喧嘩で飯の喰える喧嘩天国・渋谷の話をのう〉と、江田は述べるのである。喧嘩天国がいかなるものか、具体的な内容はいまだ謎めいているが、そのネーミングのセンスからは、まあ、いけているかださいかの是非はともあれ、すくなからず99年の映画『ファイト・クラブ』の影響を感じとることができる。『ファイト・クラブ』とは、簡略していうなら、超高度に資本化された現代社会の、抑圧と暴力、テロリズムをめぐる、一種の寓話であった。『サムライソルジャー』もまた、以前にもすこし書いたことがあるけれど、日本に固有な不良のイメージをジャンル化したマンガのなかに、すぐれて等しいテーマを内包している。ちなみに、阿部和重が、渋谷の街を戦争状態に喩え、やはり抑圧と暴力、テロリズムを採用した小説『インディヴィジュアル・プロジェクション』を発表したのは97年のことである。後者に関しては、山本隆一郎がそれを読んでいるかどうかは知れないが、『ファイト・クラブ』や『インディヴィジュアル・プロジェクション』の、およそ10年後、俗にいう「9.11」を遠目に眺め、通過したのち、この国のサブ・カルチャーは、『サムライソルジャー』のような、じつにヤンキイッシュでエモーショナルなフィクションを成り立たせた。

 作品のエモーションは同時に、先行きの不安な世のなかで未来があかるくひらけていない若者たちの、とめどない寄る辺なさに拠っている。たとえば、それが当人の幸福であったとしても、江田の〈不良(ガキ)は出たトコ勝負ッ! やってみるまでわからんのが喧嘩やろーがっ!! “負け”は“死” それがワシの喧嘩……!! 前にしか飛ばん特攻機(トッコー)の意地じゃあッ…!!〉という生き方は、どうしたって寂しい。そうした江田の、喧嘩でしか物事を測れない心情に、桐生と藤村は、二股にわかれてゆく生き方を示している。かつて〈生まれて初めて喧嘩に負けた…今までテングじゃった鼻折られて悔しくて 涙ぁ流した…んな情けないワシを…桐生さんは笑うことなく認めて『ZERO』に入れてくれた…〉ことが、江田にとっては一つの救いとなっている。しかしそれを救いとし、破滅にすらまっすぐ突き進んでしまう愚かさを、藤村は〈俺の喧嘩は バカにバカってわからせる目覚ましだ〉と、容赦なく、圧倒するのである。そこではたぶん、自身を受け入れようとすることと、運命を変えようとすることとが、認識上、折り目正しく重なってはいない。こうした、ずれ、メッセージのありよう、違いようは、いうまでもなく、桐生と藤村の、現在の、分岐に連なっている。無期限のパラダイスを導こうとする桐生と、悲劇を阻止すべく奔走する藤村の。

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 2巻について→こちら
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 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
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  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
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2009年03月19日
 youngjump4.jpg

 山本隆一郎の、『月刊ヤングジャンプ』の4月号に掲載された『サムライソルジャー 吉田薫外伝』を読んで、やっぱりこの人はどっちかっていうと短篇よりも長篇向きのマンガ家で、そしてそのへんが、おそらくは柳内大樹などと比べたときに大きな資質の違いでもあるのだろう、と思う。題名からあきらかなとおり、「吉田薫外伝」は、『サムライソルジャー』の番外編、スピンオフ(スピンアウト)的な内容にほかならないけれども、一個の独立した作品として見るなら、怪我のため柔道の夢破れた学生が、純粋に生きようとする不良との対決を通じ、励まされ、立ち直り、自分のあらたな居場所をストリートのなかに見つけるという、たいへん素朴なストーリーであって、本編を参照するなら、主人公の学生とはつまり、『サムライソルジャー』において、とくに男気あふれる喧嘩屋、半端を慎むポジショナー、吉田薫その人を指す。当然、ここで彼に対して、重要な働きかけとなっている不良は、本編のほうの主人公、藤村新太郎であり、ストリートとは、さまざまなギャングが闊歩する、あの渋谷の街のことである。要するに、吉田薫、いかにして不良になりしか、を前日譚ふうに描いている。正直、青春の挫折と救済のあらまし、骨格自体は、ステレオタイプなものでしかない。たしかに問題は、それがどのようにあらわされているか、であって、若き日の、一回かぎりの敗北で人生のすべては決まらないことが、不器用な少年たちの姿に投影され、じつに尊い和を結んではいる。しかしながら、そこから先にひらけているものが、あまりよく、見えないのだった。いやまあ、そこから先にひらけていった世界こそが、すなわち『サムライソルジャー』の本編の、まさしく学校と社会の合間に置かれたモラトリアムの、苛烈な闘争だといえる。なるほど、ヨッシー(吉田薫のことね)の、ああいうカリスマは、こうしてはじまったのか。これで中学生というのもかなりすごいが、〈どうして不良(ガキ)の世界に足を踏み入れたのか理由はない ただ藤村(バカ)の言う通り このままじゃ俺の男が腐っていくだけだ 柔道だろーが 喧嘩だろーが 俺は俺の男を上げるために 戦い続けることでしか輝けない…〉という、彼の決意には、十分な意味と価値がある。前向き、後ずさりはしまい。ただし、そのような表明は、厳密さを問うなら、ひとまず、の条件付きを逃れていない。したがって当然、ひとまず、の決着にすぎないこと、そしてそれが、この物語の単位では深く突っ込まれていないことに、短篇としての弱さを感じてしまう。

 『サムライソルジャー』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
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2009年03月16日
 フライハイ! 1 (りぼんマスコットコミックス)

 小桜池なつみの『フライハイ!』1巻を読んでいると、ああ、こういうマンガが若年層に向けてつくられているかぎり、この国のサブ・カルチャーはまだまだ大丈夫なんだぞ、と思えてくる。しょぼい人間のせこくてネガティヴな内面があらわされていることをリアルと評するなら、運命や未来を切り拓いてゆくポジティヴな心持ちは、これぐらいばかみたいな大胆さでもって、フィクションに描かれていてもいい。

 5歳の頃、総合格闘家である父親に、男の子と間違われたまま、修行の旅に連れ去られた立花芽留は、7年のあいだに、合気道、空手、拳法、柔術のほとんどをマスターし、逞しくなって、ようやく東京の家に帰ってきた。そんな娘を、普通の女の子として中学校に通わせたい母親は、友だちが欲しかったら〈ここでは その力をしまって生きていきなさい〉と諭す。しかし彼女の入学先では、大きな支配力を持った2年生たちが、年中行事を潰したり、授業を妨害したり、さまざまな横暴を働いていた。上級生の3年ですら、敵わない。かつてルールの役割を果たしていた生徒会執行部は、機能しておらず、教師たちは、見て見ぬふり、手を出せないでいる。もはや学校そのものがおかしくなっていた。これに憤りながらも、母親の言いつけどおり、目立たないでいようとする芽留であったが、はじめてできた友だちの結木千夜が、理不尽にも傷つけられ、悲しまされているのを見、とうとう我慢ができなくなってしまう。スポーツ万能でケンカもつよい鮎沢一哉、カリスマ読者モデルで権力者の父親を持つ宇野夏澄、頭脳明晰で知略に長けた針谷莉久、この3人を頂点とするグループに対し、逆らうべく〈私が、この学校の生徒会長になる〉と宣言、〈「生徒会長」っていう肩書きが学校を変えていくのに使えるなら 私はそれを使う そして もう二度と 学校のことで千夜を泣かせない〉と誓う。

 作風は、基本的に、あかるい。テンションは高く、コミカルかつキュートな部分を多くを占める。楽しくて、にやにやとさせられたりもするのだが、しかしそのぶん、シリアスなモチーフが、たとえ綻びは小さく見えようとも、幼い登場人物たちの影を濃くしている。なぜ、鮎沢の一派は、生徒会を目の敵にし、学校中に害を与えるのか。具体的な理由は、今のところ明かされていないかわり、ちょうど伏線であるかのような含みを、彼らの表情に持たせている。しかるべき原因があって、そうせざるをえない。だがもちろん、それは鮎沢の一派にとっての正当性でしかなく、全校生徒に共有されているわけではない。このことが彼らを悪役にしているのである。

 いやなにも、鮎沢たちの振る舞いを肯定したいのではない。そのような彼らと対置されることで、いっけんしたら単なる頭の弱い子であるけれども、本質的には勇敢さにあふれる芽留の資質が、よりいっそう、際立つ。持ち前のガッツで、不穏なムードを打ち払い、周囲に影響を及ぼす彼女の姿に、会心のドラマは担われているのである。学校を舞台に、意地悪なイケメン坊ちゃんと健やかで前向きなヒロインとが衝突し合う、といった系のストーリーは、決して、この手の少女マンガに珍しくはないだろう。だが、ここまで対決のムードが前面化されているものは、なかなか見られない。いや、あるいは逆に古典的もしくは正統的な学園ドラマのスタンスに近しい、のかもしれない。当然、ラヴ・ロマンスもあるにはあるとして、恋愛だけに的をしぼらず、なるたけたくさんのニュアンスが、劇中に盛り込まれている。ここで注意しておきたいのは、そうすることによって浮上してきているのが、自治の問題だということにほかならない。たしかに『フライハイ!』の校内においては、教師や大人が不介入の、奇妙な状態が設けられている。しかしそれは同時に、生徒たちが、教師や大人を頼らないで、いかにして学校生活を正常化させるか、といったテーマをも顕在させている。

 ワキの、ほんのちょびっとしか動かない生徒たちの描写が、意外とするどい。彼らは、要するに、名もなき小市民であり、鮎沢たちの支配的な態度に反感を持ってはいるものの、自力では太刀打ちできないので、半ばくじけており、そしてその、仕方がない、とでも言いたげな気分がよく出ている。無条件で従属する奴隷というよりも、各人がささやかな権利と主張を有していることが、芽留による新生生徒会と鮎沢たち2年生グループのあいだの、緊張を、バランスを、絶妙にしているのである。

 最初は孤軍奮闘していた芽留の活躍によって、だんだんと校内の空気に変化が訪れる。千夜だけではなく、天才的な頭脳を持つクラスメイトのルカ・ミラーなどが、仲間に加わってくる、このような展開も、じつに頼もしい。いかんせん、正しく現代の『りぼん』にラインナップされている絵柄であるため、アクションのシーンはやや迫力を欠くが、物語には、それを補って十分なカタルシス、波瀾万丈が用意されている。さわやかな熱気の込められているところに、わくわくする。
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2009年03月15日
 サトーユキエの『ノーバディ クライ』は、とても好感触な作品集であった。その作者がもうすこし長めの物語に取り組んだのが『子供だって大人になる』である。もしもこのマンガが、すぐれた内容であるとすれば、それはたぶん、ピュアラブルな片想いのストーリーとして成り立っていると同時に、上京という個人単位のエクソダスをベースにした一種の田舎論だからであって、さらには現代的な背景のなかに、二人の女性の逆さまな関係性を置き、どこへ行っても、何をしていても、他愛のない自分自身からは誰もまったく自由になれないことを、ちょうど読み手の感傷に見合うかたちで描けているおかげだと思う。

 田舎を出てから五年、大学を卒業し、社会人となって働く直は、久しぶりに帰郷したさい、初恋の相手である譲と再会する。〈思い出なんてない この町を出るまではそう思っていた〉のだったが、譲に対する想いだけは、そのせつない気持ちだけは、ずっと忘れたことがなかった。二人きり、言葉を交わせば、今でも〈譲ちゃんのちょっと泣きそうな笑顔が好き〉だと感じられてしまう。しかし彼の口から、近々結婚するのだと聞かされ、過去の痛み、現実のきつさが、憂鬱となってあらわれる。譲と結婚するのが、幼馴染みの鈴だというのも、つらい。わがままで奔放な鈴は、昔から、控えめな性格の自分とは、まるで正反対の人間だった。失意のまま、都会で一人暮らしのアパートに戻ってきた直が〈どうして鈴となの〉と呟く、こうした嘆きには、おそらく、選ばれる側と選ばれない側の違いは、あらかじめ定められており、その差異が埋めがたいとしたなら、絶望するよりほかないような後者の気分が、含まれている。だがその鈴が、やっぱり譲とは結婚しないと言って、直の部屋に転がり込んできたため、てんやわんや、一騒動持ち上がっていくのである。

 べつに譲のことが嫌いになったわけでもないのに、どうして鈴は、周囲の人間にも迷惑をかけ、こんなことをしでかしたのか。じつはそこにも、直の場合とは同じではないにしたところで、自分は必ずしも選ばれた側に立っていない、という不安が隠されている。ほんらい譲は、高校を卒業したら、大学に進み、一度は町の外へと出てみたかった。けれども、父親が倒れてしまったので、家業を手伝わなくてはならず、その願いは叶えられない。もしも譲が、心の奥底でそれを悔やんでいるとしたら、ほんとうはここにいるはずじゃなかったとしたら、自分との恋愛もまた真ではないことになってしまう、この可能性を考えられてしまうことが、鈴にとっては、つらい。

 たとえば『子供だって大人になる』において、直と鈴は、一個の対照にほかならない。そしてその対照は、都会と田舎という二項の分岐をベースとしており、ある意味、譲と彼の弟の行生の現在とも重複している。すでに述べたとおり、家庭の事情のため、譲は大学へ進むことを、都会に出て行くことを断念しなければならなかった。しかしながら、行生のほうは、譲のおかげで、大学に進み、都会へ行くことができた、はいいが、そうした兄の恩恵に対し、逆に負い目を感じてもいる。何かを得ることで何かを諦めなければならないとしたとき、登場人物たちはみな、イーブンの条件下にあるといえる。ただ、主観ではそれを認められないので、身近に育った他人の姿から自分の不幸せを演繹してしまう。そのような錯誤をあるいは、各人が真摯さを通じ、前向き、解消していこうとした結果、ようやく『子供だって大人になる』のかもしれない。

 一回かぎりの、初恋の、片想いの、結末の、せつなさにも、ポジティヴな光が、宿されている。

 『ノーバディ クライ』について→こちら
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 彼はトモダチ 4 (4) (講談社コミックスフレンド B)

 しかし嫌な女がいたもんだねえ。生まれや育ちのせいで、性根のひん曲がってしまった坊ちゃんもたいがいであるが、嬢ちゃんも同様に、タチがわりい。吉岡李々子の『彼はトモダチ』に登場する、神原琴音の困ったちゃんぶりは、作者はよくぞこれを発明したな、と思わせるぐらい、むかむかする。この4巻では、それがさらに腹立たしくなっている。水野から恋愛の感情を伝えられたヒヨリは、そのことをきっかけとし、あらためて、自分がほんとうに好きなのは佐々本以外にありえないと知る。そして彼の家を訪ね、もう一度、話し合いの機会を持とうとするのだが、琴音の陰謀によって、知らずのうち、それを阻止されてしまうのだった。やはりヒヨリのことを忘れられない佐々本が、彼女を追いかけたときにはもう遅い。すべて終わってしまったと悲しむヒヨリが、水野によって慰められ、彼の気持ちを受け入れる場面を目撃してしまう。とにもかくにも、琴音の、自意識の壊れ方がすばらしい。これが男の子だったら、甘ったれんな、不幸なのはおまえだけじゃねえんだよ、って、ぶん殴ったら効果があるのかもしれないが、女の子はデリケートで複雑という思いなしが世間一般にはあるので、周りの扱いもそうはいかない。だからこそ、佐々本は〈……あいつは1人にしておくと ヤバいんだ 「さみしい」ってだけで 他人も自分もキズつける〉琴音に、自分のヒヨリに対する想いを断念してまで、付き添わねばならないのである。琴音の事情を知ったクラスメイト(当道のこと、かっこういい役回りだよね、この子)が、〈オレもさぁ ヒメみたいな子 近くにいたんだよ あれはエスカレートすると取り返しのつかないことになりかねないし ほっとけないよな……〉と述べるとおり、はたして佐々本のスタンスが、正しいとも間違っているとも、容易くは判断できないけれども、このままでいいはずがない。ヒヨリ、水野、佐々本、そして琴音の四角形において、もっとも横暴な琴音が、ヒヨリに向かい〈ホントのコト なにも知らないクセに〉と冷ややかに浴びせる言葉が、そりゃおまえのせいだろう、誰かさんの匙加減一つじゃん、あんまりだあ、いちいち癇にさわる。もしも作者が、物語をヒロインのハッピー・エンドに持っていくつもりで、さらには琴音の存在も救いたいと考えているなら、どういうふうな結論を用意するのか。すくなくとも、その点からは目が離せなくなっている。

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2009年03月12日
 ナンバデッドエンド 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス)

 しかしそれにしても、どうしてこう、『ナンバデッドエンド』って、やたらにおもしろいのか。たしかに主人公に課せられた設定自体はユニークであるものの、話の運びや展開に奇をてらったところはなく、むしろオーソドックスきわまりない。したがって、ページをめくりながら、落とし所が見えてしまう部分もあるにはある。にもかかわらず、その内容からは目が離せない、たいへん引き込まれる。なぜこんなことができるのだろう。と、考えて、作者の過去作を振り返ってみたとき、驚くべきことに気づかされる。なんと、小沢としお(小沢利雄)というマンガ家は、98年に『フジケン』ではじめての連載を得てより、すくなくともこれまでのあいだ、複数の作品を手がけながらも、一貫して高校生活だけを描いてきているのである。それのどこがすごいのか、と問う前にまず、現代において他にどれだけ同じようなスタンスの作家がいるか、を考えて欲しい。しかもファンタジーを題材とせず、つまり、にぎやかな学校生活を日常に置き換えることで、異界の戦いから帰ってくるべき場所としてあらわすのではなく、にぎやかな学校生活そのものをズームし、表現し続けている点も踏まえねばなるまい。さらにいうなら、『フジケン』、『いちばん』、『ダンコン』、『チェリー』、そして『ナンバMG5』と、読み比べてみればわかるとおり、テーマのヴァリエーションは豊かであり、決してマンネリズムには陥っていない。こうした一途ですらある関心の高さと、対象に向けられる視線のやわらかさが、おそらくは、現在の小沢に類い希なる筆致をもたらしているのであって、むろん、スキルとセンスもそれに乗じる。

 筋金入りのヤンキー一家に、生まれ、育った難破剛は、ケンカばかりで明け暮れる日々に疑問を覚え、家族には黙って、秘密にしたまま、遠方の白百合高校へと入学する。かつての自分とは無縁な、ごく一般的な学校生活を、そこで送るつもりであった。しかし根っからの面倒見で、あれこれと持ち上がるトラブルに関わるうち、隣の不良校である市松高校のトップにされてしまい、あまつさえ千葉を制覇、横浜のギャングたちからも一目置かれるまでになってしまう。ふだんは何とか素性を隠しおおせるてはいるが、擬装も兼ねていた特攻服の姿が、「特服の男」の噂となって、各地の不良のあいだで一人歩きし出す。以上が、『ナンバMG5』のあらましであり、後継作にあたるこの『ナンバデッドエンド』の出だしといえる。ふつうのヤンキー・マンガだったなら、学校の外に舞台がひろがりそうになったとき、それを好都合と利用することで、物語に規模のおおきなダイナミズムを導き出していくものだけれども、『ナンバデッドエンド』の場合、むしろベクトルは逆さまに、学校の内へ内へと物語を深めていっている。いったん揉め事に巻き込まれれば、特攻服を着、修羅のごときつよさで、不良連中を圧倒する剛の、破天荒なスペクタクルではなく、どうしてもその正体を知られたくない、できれば普通の学生でありたいとする心性こそが、前面化されているのである。

 以前にも述べたが、『ナンバMG5』とは、一人二役の奇妙で困難な高校生活を送る主人公の、入学から二年生の夏休み明けまでのストーリーであった。すなわち、三年間という限られた時間の、まさしく折り返しが、一つの区切りとなっている。そこからバントを受けてはじまった『ナンバデッドエンド』では、この1巻の時点で早々と、三年にあがった主人公の様子が中心にきている。つまり限られた時間のおしまい、ちょうど高校生活の最後となるような一年が、示されているわけだ。

 序章、まだ二年生であった頃、クラスメイトたちに信頼されて、次期生徒会長に立候補することになった剛が、次のとおり述べる演説は、たぶん、『ナンバMG5』から『ナンバデッドエンド』にまたがるテーマを代弁している。〈みなさんは もし何かの理由で 学校をやめなきゃいけなくなったらって 考えたことありますか? って…そんなこと考えませんよね……あの…高校生活って長い人生のたった3年しかなくて ボクは この白百合高校での毎日が ホントに楽しくて 明日 高校生活が終わっても 後悔しないように 毎日を過ごしたいと思ってて……すいません…あの…ボクが言いたいのは 白百合高校のみんなが充実した学校生活を送れるように お手伝いできたらいいなって思います!〉。こうした表明に含まれているのは、言うまでもなく、たとえ今がいくら楽しいときであっても、永遠には続けられない、いつしか終わりはやってきてしまう、という剛自身の実感であろう。そしてそれはたしかに胸を打つ。大勢の生徒たちからの支持を得られても不思議ではあるまい。剛が生徒会長になることに対して、今やもっとも親しい友人の伍代は、〈皮肉だな…〉と危惧を抱く。なぜならば〈生徒会長なんてやってみろ アイツ ケーサツとヤクザ 1人でやってるよーなモンだぜ ぜってー どっかに無理が出る…………〉はずで、この予感が、『ナンバデッドエンド』の、剛の、今後を先取りしていることはあきらかである。しかし最初の波乱は、思いがけぬ方向からやってくる。

 ここであらためて確認しておかなければならないのは、どうして剛が、難破家の皆には、伍代と同じ市松高校に通っていると偽ってまで、自分の選んだ高校生活をまっとうしたいのか、ということだ。基本的にはとてもユーモラスにあらわされているため、表面上はなかなか感じられないのだけれども、そうした主人公の腐心には、家族関係におけるシリアスなジレンマが預けられている。しごく簡単に、親からの期待に応えなければならない、式の抑圧と指し替えてもいい。いやまあ、難破家の父ちゃんも母ちゃんも、ぜんぜん悪い人間じゃない、どころか人が好すぎるぐらいであるし、息子である剛は、彼らの愛情をちゃんと享受できている。しかしだからこそ、その存在が、重たい、ということもありうる。ヤンキー一家の人間がしゃばいふりして高校生活を送る、このような始点はコメディにほかならない。だが、そのコメディを成り立たせているのは、まちがいなく、家族関係下の普遍的な問題にほかならない。付け加えるなら、次男であって、上に兄があり、下に妹がいる、これもまた剛の立場に影響を与えている。たとえば、両親が自分たちの果たせなかった夢を託しているという意味で、高校時代に関東を制覇し、カリスマとして崇められた猛は、見事、その理想を叶えている。したがって、父ちゃんと母ちゃんは、次男にも同様の、あるいは長男のとき以上の期待をかけたい。だが、次男の希望は必ずしもそれと一致しない。じつはこれ自体が、よくあるフィクションの、エリート一家の子供が自分の生まれや育ちに苦しむていの、パロディになっているともいえる。一方、妹の吟子である。吟子の高校進学に関し、父ちゃんと母ちゃんは、剛のときのような期待をかけてはいない。期待をしていないのではない。誤解を避けるべく、換言すると、男と女では両親のなかで求めるものが違っているのだ。そうであるがゆえに彼女は、学力など馬鹿らしいとする難破家の価値観に向かい、堂々と勉強を宣言することができるのだし、じっさいに最初は無理だとされていた白百合高校に合格すれば、父ちゃんと母ちゃんは嬉しそうな顔を見せる。ヤンキーでオーライな難破家の家風は、いっけん自由で奔放に思われる。しかし本質的には、ヤンキーというポリシーに厳格であるため、封建的な性格を持ち合わせている。剛が自分の嘘を、真実を打ち明けられずにいるのは、もちろん純朴に家族の愛情を裏切りたくないからなのだが、その背景には、男の子として置かれた環境の複雑な呪縛が横たわっている。

 さて、つい先ほど触れたとおり、進学した吟子がなんと、剛と同じ白百合高校に入ってくることになった。これが、思いがけぬ方向からやってきた最初の波乱である。剛の高校生活を見た伍代の〈ぜってー どっかに無理が出る…………〉という予感は、ともすれば外敵の到来を案じている。ところが、『ナンバデッドエンド』において、まっさきに窮地をもたらすことになったのは、ほんとうに身近すぎる相手、妹の吟子だったのである。吟子は、自分の学校の、冴えない生徒会長が同性同名であっても、親しい兄と同一人物だとは間違っても信じられない。もしも同一人物であったなら、ただただ嫌悪を抱かざるをえない。ばかりか、吟子の登場は、特攻服姿の剛を「特服先生」と慕うが、それが自分の知っている先輩と同一人物だとは思わない、美術部の後輩である弥生に、もしかしたら、との疑惑を呼び起こす。このとき、家族関係と学校生活という、半径5メートルの世界だけで成り立つような、それをリアルと呼んでもいい寓話の、つまりはモラトリアムの認識にあっては、二項のクリティカルなポイントが折り重なり、さあ、おまえさんのアイデンティティがおまえさんのものならば、おまえさんはそのアイデンティティが正しいとどうやって証明するんだ、証明できるのか、熾烈な訴えを投げかける。はたして、これといかに向き合い、答える。ああ、これ、やっぱり、すげえおもしれえや。いくら語っても語り足りない。もっと語りたい気持ちの続きはまた、次巻。

 『ナンバMG5』
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら 
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
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  10巻について→こちら
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  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2009年03月11日
 なにわ友あれ 7 (7) (ヤングマガジンコミックス)

 それが現在であろうが、90年代であろうが、女性にひどいダメージを与えることに呵責のないクソみたいな野郎は、いつだってどこにだって存在しているのだった。南勝久の『なにわ友あれ』が、この7巻で、いちおうのピリオドが打たれるベンキ編のなかに描いてきたのは、そのようなゲスに対し、いかなる罪と罰がありうるか、という認識の問題だと思う。グっさん率いるスパーキーの猛追もあって、ついに捕縛されてしまったベンキは、その身柄をビートに引き渡されると、バーナーで火あぶり、紛れもない私刑(リンチ)にかけられる。こうした行為は完全に社会的な倫理を逸脱している。よい子は真似しないでね、どころの話ではないであろう。しかし、ここで見ておかなければならないのは、その私刑によって、ベンキの犯した罪、つまり複数の女性を連続し、拉致し、監禁し、暴行し、強姦し、脅迫しても平然としていられる態度が、彼らのルール内では絶対に許されていない、このことが示されている点であって、そしてそれは、行きすぎた暴力をふるった主体が、被害者の人格をかえりみないとき、法の裁きは十分に値するかという、今日の社会において、しばしば浮上すると同時に議論される問いを、極端なかたちで内包している。もちろん、ビートの会長であるマンジの処断、制裁が正しいわけではない。だいいち、改造自動車を乗り回し、他のチームと揉めれば、暴力的な解決も辞さない彼ら自身、一般的には犯罪者として括られる。したがって、彼らの正義はあくまでも、小さな枠内の秩序を盾にしているにすぎない。ここでいう小さな枠内とは、すなわち副題に置かれている「OSAKA-KANJO-TRIBE」の、そのトライブだと考えてよい。言うまでもなく、トライブのルールは、トライブの内部の人間だけが決定でき、トライブの内部でのみ通用する。そうしたルールが正常に機能しているかどうかは、トライブが正常に機能しているかどうかの結果上でしか、結局のところ、判断されないのである。たしかにベンキの罪は許しがたい。この感情にそうなら、作中の私刑は、必ずしも悪とはかぎらない。だが、外部に立つなら、やはりそれは、たんなる私刑以外の何ものでもない。あきらかに作者は、そうしたレイヤー構造を用い、物語をシリアスにこしらえている。グロテスクな描写も、おそらくは、そのために必要とされた。ところで、私刑の途中、マンジがグっさんに〈グっさん――あんたさっきから黙ってるけど――どう思うよ‥‥?〉と尋ねる場面がある。そこでグっさんが〈俺が好きやった女は――‥‥こいつらみたいな奴にマワされた……〉と言っているのは、前作にあたる『ナニワトモアレ』の、終盤の展開を指しているわけだけれど、それこそ『ナニワトモアレ』の序盤において、女性とセックス(性交)をするためだったら、どんな無茶もやらかしてきた人物の、個人の欲望にこだわるのではなくトライブ全体の規律を踏まえるまでになった成長が、『なにわ友あれ』ほんらいの主人公(でいいんだよね)テツヤの活躍とはべつに、作品にとって一つの柱をなしているのは周知のとおり。

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 4巻について→こちら
 1巻について→こちら 
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2009年03月09日
 ビューティーハニー 3 (3) (花とゆめCOMICS)

 マツモトトモの『ビューティーハニー』は、はきはき颯爽としている女子高生とバツイチでイケメンさんな美容師の、いっけん不似合いな恋愛を描く。前巻(2巻)半ばから、しかしそうした部分よりも、二人のバック・グラウンドをめぐる、ある意味ではサイド・ストーリー的な面が、主軸化してきていたが、この最終3巻においても、同様のラインをとっており、ヒロインである二子の家族、小日向家の、総じて男運に恵まれない人々の、それでも不純さだけは引き受けまいとする姿や、二子の恋人である馨の元妻が、タフであろうとするあまり抱え込んでしまった脆さ、それをすくいとるようなやわらかな人間の登場を通じ、さまざまなタイプの女性が各々に、あるがままを受け入れていく様子があらわされている。どのエピソードも、適度にロマンティシズムを散りばめ、かといってユーモアを忘れず、作者の資質が生き生き、良好な短篇として読むことができる。個人的には、二子の祖母の、そして彼女に想いを寄せる男性の、半世紀に渡る縁のありかたに、もっともつよい印象を持った。たった一言を言い出せない、言い出せなかった、というデリケートな感情を、ページ数自体は決して多くないながらも、大胆な作中時間を用い、丁寧に導き出している。ただ、そういった番外編的に自立したパートにくらべ、本筋の、つまり二子と馨の成り行きに関しては、そもそもの発端、ワン・アイディアより先の拡張がうまくいっていないので、先制点以上の成果をあげられていないのが、悔しい。
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2009年03月07日
 土屋彼某の『天然探偵』にあてた、浅田弘幸の〈絵は上手く(略)ただデジタル処理で見映えは良いのですが必要以上な効果も多く、読者が漫画に入り込むのを邪魔しているように思います〉という選評を読むと、現代的なツールは便利だとしても、おもしろいマンガを描くのは難しいんだね、と思ってしまうし、土屋も含め、好きな作家の項に、奈須きのこや西尾維新、浅野いにお、野田洋次郎など、今どきでヤングなカリスマの名前が、ごく自然に挙がっているのを見ると、自分のような年輩者は、くらくらしてしまうのだったが、まあそうか、こうして時代は変わっていくんだな、と思うよりほかない。『ジャンプSQ.Comic Selection Vol.1(ジャンプスクエア コミック セレクション ヴォリューム1 )』は、同誌の新人賞である「コミックグランプリ」の、これまで12回行われたなかから、とくに優秀であった作品を5篇収めたアンソロジーである。はたして、取っかかりがよいからか、引っかけやすいからか、基本的にはどれも、ファンタジーの世界における依頼と任務、でなければボーイ・ミーツ・ガールのアレンジで、物語がつくられているふうな印象になっている。そのうちで、個人的に好感を持ったのは、木村聡の『DIGITAL LOSTMAN』と、菊田タクミの『きつねとカクレンボ』の二つ、次いで伊佐義勇の『メクモと双羅丸』といったところであろうか。ただし、『ジャンプSQ.』自体が少年誌であるかどうかという面もあるのだけれども、少年マンガの範囲で見るなら、必ずしもジャストな内容とは言い難い。『DIGITAL LOSTMAN』は、近未来、ヴァーチャル・リアリティの普及を背景として成り立ったマンガで、電子情報化された自我が、本人の死後もネットワークを彷徨い乱す、こうしたトラブルを解決するための掃除屋を主人公に、題材としている。記憶と記録の、生と死の、境目はどこにあるのか。ヒロインのエモーションを、ある種のレーダーとしながら、サイバーなアトラクションが描かれる。ガジェットが豊富なわりには、けれんみが乏しいし、登場人物たちの造形に、フックとなるほどにつよい魅力が備わっていないため、全体の結構がやや地味にも思える。が、これ、単純に好きである。一方、菊田タクミの『きつねとカクレンボ』も、決してカタルシスにあふれた作品ではない。昔々、化け狐の血には、どんな傷をも癒すという伝説があった。その、化け狐きっこと、人間の少女るびの、あわく、かたい友情を描いていて、成り行きは、ひどく重たい。そこに胸動かされるものがあるのだが、そうした重たさを最後の段で持て余してしまっているとおり、ドラマのありようは、表面的なレトリック以上の効果をあげてはいない。それにしても、こうしてみるかぎり、いや、たんに選者の趣味なのかもしれないとしたってあれだ、『ジャンプSQ.』の「コミックグランプリ」に、男の子を主人公にした良作ってないのかい。
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2009年03月04日
 デス・スウィーパー (5) (KADOKAWA CHARGE COMICS 2-8)

 雑誌掲載の時点で、この結末を読んでいたので、さすがに驚くということもなかったが、しかし、たいへん残念エンドであることには変わりない。まあ、発表先である『コミックチャージ』自体が休刊の憂き目にあってしまった以上、作品も共倒れするよりほかなかったのなら仕方がないし、そう考えるとしたならば、終盤、象徴的に挿入される〈自然の猛威の前では人類など塵に等しい――――〉というモノローグは、なにか、アイロニーを抱えているふうにも思われてくる。不断な時勢の前にはマンガ家個人など無力に等しいのかもしれない。きたがわ翔の『デス・スウィーパー』、完結編の5巻である。正直なところ、どこまで作者の構想どおり、描かれているのかは不明であるけれども、生と死を見つめていたようなテーマが、大災害を通じ、抽象的なイメージに落とし込まれてゆくラストは、あまりよく締まっているとはいえないだろう。江藤淳の自殺に影響された人物の死からはじまり、カルト教団めいた存在の介入や、大都市を壊滅させる震災を経て、訪れたカタストロフィのなか、オタクふうの容貌をした男性に〈この世の終わりだよ この世の終わり!! ずっとこんな日がやって来る事を待ってたんだ!! 金持ちでいばりくさってるヤツも イケメンで女とやりまくってる男も 死んじまえば 皆 同じ!! こんな理不尽な世界は とっとと消えてなくなっちまえ――――!!〉と叫ばせていることから、ある意味で、90年代よりこちらの現代日本を総括する、そのような野心を物語の背景に置いていたことがうかがえもするが、それもまたうまくいっていない気がする。以前にも述べたけれど、そうした概要であったり、角川書店の雑誌で描かれていたりすることなどを踏まえるにつけ、ほんとうにこれ、大塚英志がタッチしていないのかしら、という、どうでもいい疑問だけが、胸中に生じるのみである。

 4巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他きたがわ翔に関する文章
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
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 すもももももも~地上最強のヨメ~ 12 (ヤングガンガンコミックス)

 創刊当初の、まだ海のものとも山のものともつかなかった『ヤングガンガン』において、大高忍の『すもももももも 〜地上最強のヨメ〜』が、同誌の看板として機能するだけの内容を兼ね揃えていたことは、もうちょいまじめに考えられてもいいことであって、これだけラブコメの氾濫した世のなかにありながら、いやだからこそ正しくラブコメたりえたのが最大の理由ではないか、と思う。たしかに、萌えー萌えー何々はおれの嫁、などというピンポイントにすぎない個人の趣味判断が、あたかも作品の総体に対する評価のごとく、熱心に語られてしまう今どきであるから、エロスに関する目配せもすくなからず含まれてはいたが、ストーリーの構成はあくまでも、主人公である考士ともも子の関係性をベースとし、キャパシティをひろくすることで、組まれていたように感じられる。かつて島本和彦は、あだち充の『タッチ』を例に、すぐれたラブコメの基準を、婚姻を結んでいない夫婦の姿を描くこと、というふうなニュアンスで述べていたけれど、『すもももももも』の場合も、たぶん、その例に漏れていない。もちろんそれは、考士ともも子が事実上の許嫁であるという設定自体を指すのではない。ましてや、熱烈なもも子のアタックに反し、考士が否定的な態度をとっている以上、両家のあいだに交わされている契約は、かならずしも絶対ではないだろう。だがしかし、そういう相容れていないギャップも含め、二人の親密さが自然体のうえに成り立っている点が、ラヴとコメディにまたがっているムードをかたちづくっている。周囲の登場人物たちの魅力、安定性も、じつはそこによっているのである。その『すもももももも』も、いよいよ12巻で完結の運びとなった。基本線は、オーソドックスなラブコメでありつつ、さらには現代的な自意識の葛藤と古典的な武闘バトルの要素とを、器用に盛り込んでいることが、特色のマンガであったが、クライマックスにかけて、展開は、そのような三角構造をいったんばらし、考士の成長譚ともとれる面をつよく押し出すていで、再編成されている。天才である優介と(彼に比べれば)凡庸な考士の対照のうちに、生まれや育ちの呪縛を設け、描き、挫折を乗り越えた末のゴールを、もも子の、いうなれば不変の愛情に定めている。このとき、副題である「地上最強のヨメ」は、当初とはべつの意味を持つ。そうして、考士ともも子の、受動と能動の構図が逆転してしまったため、他の登場人物たちのスタンスやポジションも、自ずと変化せざるをえなく、これについてのフォローは十分に満たしていない気もするけれど、すべての落着を、肯定的な変化として見られ、受け入れられるレベルへ、ちゃんと持っていっているのは、まちがいなく立派であって、さまざまな苦労もあったろうに、よくぞエンディングまで走りきったという印象を抱かせる。

 『ヤングガンガン』05年07号について→こちら
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2009年03月02日
 自分探しの旅というのも一度ぐらいは出てみるべきなのかもしれないな。だってそうだろう。あれほどの劉備玄徳ですら、一回りも二回りも大きくなって、帰ってきやがるんだからな。袁術に従ったため、曹操の大軍を前に、孫策、孫権の兄弟、そして関羽と張飛は、窮地に立たされてしまう。そのとき、彼らの危機を救ったのは、敗北感に呑まれ、姿を消していたはずの劉備であった。ふたたび劉備を迎える関羽がふるっている。〈兄者………兄者が遊んでいる間に、曹操はこれだけの“軍”を………〉という言葉、表情には、やはり戻ってきた、あのままで終わるわけがなかった、との信頼が見え隠れし、これに〈………勝ち続ける“戦”なんて無ェよ………〉と応える劉備には、すっかりと挫折から立ち直った自信がうかがえる。そうして、いったんは快進撃をくじけさせられた曹操、あらたな勢力を手に入れた呂布を巻き込んでの、徐州争奪戦の幕が開くまでを、武論尊と池上遼一による“超”[三国志]の、『覇-LORD-』の15巻は描く。董卓の死によって情勢は著しく動いた。その一方で、物語は、父親殺し、とでもすべきテーマの、汎用性よりも一歩先の段階へと、入っている。たとえばそれは、董卓を義父と呼んだ呂布があらたな決意を燃やすことや、曹操に次なる野心をもたらすのが父親の死であることに、見出せるだろう。もはや、目の上に置かれ、憎しみ、殺さなけらばならぬ父を持たない彼らにとって、戦国の世で果たすべきは、己の野心を満たすのみである。劉備に強烈なライヴァル意識を抱く曹操は、彼を倒し、“天”を掌中に収めるべく“非情”を宣誓する。いやはや、ここにきて、劉備と曹操の二者が、すばらしくかっこうよくなった。〈真の“敵”は劉備元徳ただ一人!――〉といきり立つ曹操に対し、〈………泣かせてやるよ 曹操……〉とほくそ笑む劉備、そうしたスペクタクルのありようは、武論尊の作品でいうなら、『北斗の拳』の全盛期をも彷彿とさせる。さらには、曹操との因縁を持ち、妖しい魅力を備えた張ばくの登場が、波乱に輪をかける。その張ばくと、呂布とがタッグを組むのは、「三国志演義」のとおりであるが、裸身で〈……曹操蹂躙…………なんと心地良い“想い”か……〉と述べる姿が、ソー・デンジャラスで、こいつはただじゃすまないぞ、と思わせる。しかし、相も変わらず常元の野郎が、くそすぎるよ。劉備a.k.a.燎宇と同じく倭人である彼には、劉備とは逆に、日本の負のイメージが託されているのでは、というのが個人的な読みではあるけれど、常元、死ぬほど人間が腐ってらあ。だが、一つだけ気にかかっているのは、どれほどのピンチにあっても、なぜか常元の名を捨てないことである。かつての自分や生まれ故郷、慕ってくる他人には、いっさいの執着を持たない、生き残るためには地べたを這うことすら厭わないにもかかわらず、常元の名前だけは手放すことがない。どうしてだろ。あるいはそれこそが、彼の、唯一の、プライドであるのかもしれない。

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2009年03月01日
 〈ただ 目が合うだけでも まるで 魔法にかかったみたいに あたしの世界は チカチカ 光って見える カナリ 重症だ〉。クラスメイトの徳本倫太郎に、猛烈な片想いを抱く星野ハナの、その密かな恋は、しかしあるとき、まさか気持ちが通じ、両想いとなって実ることになる。夢みたいな成り行きにうれしくて、喜びを隠せないハナであったが、自分たちの高校の教師、田村と徳本とが、以前に付き合っていたことを知ってしまい、驚き、動揺させられる。しばの結花の『1/3ロマンチカ』の、表題作に描かれている、そのような内容は、青々したラヴ・ストーリーにおいて、スタンダードなものであろう。そしてその、青々しさのなかにあらわれているのは、現在の二人の結びつきがはたして信じるに値するのかどうか、という恋愛のジレンマだと思う。自分の好きな相手に、かつて自分以外に好きだった相手がいたとき、それが真であったとしたなら、この関係こそが真ではないのかもしれない、あるいはそれが真ではなかったとしたなら、この関係もまた真ではないのかもしれない。こうした対他関係上の疑問は、たとえば最近では、小畑友紀の『僕等がいた』などによって、顕著化してきているものの一つである。それが時代的なものだと一概には判ぜられないけれども、おそらく背景には、すべての経験が一回性でしかないことの過剰さと、誰しもが入れ替え可能であることを受け入れざるをえない認識とが入り組んで、成り立った二重螺旋を、置くことができる。だがもちろん、そう仮説してみたところで、作中人物たちがべつの作中人物からほんとうに愛されているのか、このことに対し、第三者である読み手は解答を持てるわけではない。当人たちが、今そこにある実感を真であると見なすよりほか、証明に代わる手立てはないのであって、物語のおおよそは、いかにしてそれを描くかに費やされている。

 『この空に響け』について→こちら
 『太陽が呼んでいる!』について→こちら
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2009年02月28日
 以前にも述べたとおり、某『金剛番長』というマンガに関しては、たいへん懐疑的であるのだが、それというのは結局、往年の番長マンガもしくは学園バトルを今日ふうにチューンナップしているのはわかるのだけれども、そのチューンナップの方向性をまったくといっていいほど支持できないからで、すくなくとも、あれを読みながら、かっこういい男の生き様(これを、漢、と言い換えてもいいよ)を感じとり、かっと胸が熱くなる(これを、燃える、と言い換えてもいいよ、っていう)ことは、ない。まあ、それがテーマではないのなら、やはり自分には関係のない作品だということになってしまう。しかしそれにしても、である。あの作品に対し、肯定的な弁を述べられる方々は、この、瀬戸カズヨシの『〜なめねこ又吉最強伝説〜 なめんなよ!』を、はたしてどういう目で見ているのだろう、すこし気になる。

 マーケティング的なことにあまり明るくないので、いったい「なめねこ」が現在どれぐらいの需要を持った商品なのかはよく知らないが、『なめんなよ!』は、その「なめねこ」と呼ばれる猫たちを題材にしており、ストーリーは、ツナカン学園に転校してきた熱血硬派の又吉が、そこで数々のライヴァルと出会い、ときには拳を突き合わせ、汗や涙や笑いや喜びとともに次々、友情を芽生えさせながら、進むのであって、要するに、往年の番長マンガもしくは学園バトルのセオリーをなぞらえている。この4巻では、前巻の流れを受け、鮫牙工業の襲撃を受けた又吉たちが、敵陣に乗り込み、立ちはだかる魔猫四天王と激闘を繰り広げていくわけだけれど、そのボス、謎の番長である土方リョウのもとへ辿り着くためには、魔猫の塔の最上階を目指さなければならないというのも、じつにツボを押さえた展開である。

 これまでにもライヴァルの造形は、たとえば今どきらしく、ストリート・ギャングっぽいものもいれば、ヒップホップ・ファッションっぽいものもいて、必ずしも学ラン・ベースではなく、さまざまであったが、ついに姿を現した土方リョウのそれはスタイリッシュなホストっぽいといえるかもしれない。『なめんなよ!』において、「なめねこ」のイメージは、主人公の又吉がそうであるように、80年代のヤンキーというよりも、それ以前の不良番長にまで遡っている一方、ギャングスタにラッパー、お兄系といった具合に、ニュー・センスも加えられている。これによって顕在化しているのは、後天的な種族であり、トライブの問題であろう。もちろんそうしたとき、登場するのはすべて、ネコ科というのが先天的なものにあたる。

 それら種々のトライブは、しかし、どれもが自分たちの同胞意識を第一にしているという点で、共通している。このため、異なった信条を生きるトライブとの接近は、必然的に抗争とならざるをえない。土方リョウにとっては、親のいない貧しさに盗みを働くしかなく、そのせいで既存の学校社会からは拒否されてしまった仲間たちのため、あたらしい学校社会をつくりたいとする願いが、又吉たちの通うツナカン学園を攻撃することに結び付いていた。それは、だが、やはり同じく仲間を守るべく、必死を厭わぬ又吉らに阻止されてしまう。土方リョウは〈ボクたちは誰にも居場所をもらえなかった…。だから、絶対に…、この場所はゆずれねェ!!〉と漲り、あと一歩のところまで計画を推し進めながらも、〈お前の気持ち…、オレにはわかるぜ…。オレもずっと独りだった…。ツナカン学園に入るまで……。でも(略)沢山の猫と出会って…。いつの間にか…ツナカン学園のヤツら全員仲間だと思えてきた。仲間がいるのはお前だけじゃない。オレもオマエも同じなんだ…。大切な仲間を…悲しませたくない! オマエがオレの仲間を苦しめるというのなら…、オレは何度だって――、立ってやるぜ!! なめんなよっ〉と立ち上がり、まさしく少年マンガ的なフィニッシュ・ブローを決める又吉に、敗北してしまうのである。

 ここに働いているのは、いうまでもなく、スケールの小さなものはスケールの大きなものにくだされる、という力学にほかならない。ツナカン学園には、現在、いろいろなトライブが共存している。そのような、和の大きさこそが、又吉を勝たせているのだ。そしてそれは、内輪を決して、小さく、狭くは見ない観点から発想されている。したがって、決戦に破れ、自分を信じてくれた者たちに泣く泣く〈約束したのに…、ごめんな…!〉と詫びる土方リョウをも、又吉、そして彼の仲間らはみな〈ツナカン学園に来いよ!〉と受け入れることができるのである。こうした作品の性質上、重要になってくるのは、かくいうスケールの大きさに相応しい人格を又吉が備えているかであって、ギャグ的な短いエピソードのものも含め、物語は、見事に、それを描いている。

 ところでこの巻には、まったくべつの角度から、もう一つ触れておかねばならないトピックがある。何かというと、語尾にメーン! と付けながら喋り、ラップ・グループの練マザファッカーを率いるD・Oが、ツナカン学園を去らなければならないというエピソードのことで、モデルとなっている実在のラッパーは、周知のように、先般、麻薬の所持事件で逮捕されたばかり、雑誌掲載時はともかく、よくもオミットせず、こうして単行本に収めたものである。しかも本来の読者は幼年層なのに(あるいは、だからなのか)。まあ、たんに発売日と制作の工程に変更を加えられなかっただけの話かもしれないし、別れの内容である以上、作品にはもう登場することもないなのだろうが、〈がんばれD・O!〉という大勢の仲間たちによるメッセージは、今この時期だからこそ、変にインパクトを持ちうるな。ラディカルだとさえ思う。なめねこレペゼン、コロコロレペゼン、練マザ学園。
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2009年02月27日
 以前作の『ラブ★コン』が、必ずしも物語にとって幸福な長さではなかったことを考えるなら、『ナナコロビン』の場合、この3巻がエンディングにあたっているのは、ひじょうに適正であるように思われる。『ラブ★コン』において、まあたしかに、高校三年間を描くのにあれだけのサイズが必要だったのは理解できる、にしても、メインのカップルが成立したあとの展開は、エモーショナルであることとコミカルであることの双方に関し、やはり冗長であった。じじつ『ナナコロビン』にしても、ほぼ高校の入学時をスタートにしている以上、三年間の展開にまでストーリーを伸ばすことは可能であったろう。だが、諸事情は知れないけれども、メインのカップルが打ち解け合う瞬間を、正しく落としどころとすることで、とても歯切れのよい、ラヴ・コメディに仕上がっている。それにしても裏表紙が、作品の性質上あまり問題はないとはいえ、めちゃんこネタバレみたくなっているな。楓を意識する小夏を見、自分の想いは伏せたまま、その恋をサポートすると決めた菜子であったが、楓の家に仕える借金取りの妨害なども入って、事態はややこしくなるばかり、右往左往してゆく。自分の兄と菜子の姉のせいで、ひねてしまった坊ちゃんの小夏が、前向きでエネルギッシュな菜子との出会い、交流を通じて、じょじょに変わろうとしている。このことが作品のおおきな柱である。ただし作者は、あくまでもそれを菜子の目線によって、捉まえている。対象人物の気持ちが不透明であるがゆえに、自然と揺れるヒロインの、心の動き、あるいはじっさいの行動力が、柱のあちこちにカラフルな紋様を刻み込んでいるのだ。正直、菜子と小夏の関係に重きが置かれているため、ワキでとても魅力的だったブーちゃんの活躍が乏しかったのは、すこし残念であるし、中原アヤのキャリアを、たとえば『HANADA』、『ラブ★コン』、『ナナコロビン』と並べていったとき、全般的にある種のマンネリズムととれてしまう部分もあるにはある、このマンガ家ならこれぐらいはやれるでしょうね、といったラインを越えてはいないような、しかしそうした点に関する不満を、ちゃんと次作以降の期待へと繋げてはいる。さて、すでにアナウンスされている『ラブ★コンD』はどうなんだろう。

 1巻について→こちら

・その他中原アヤに関する文章
 『ときめき学園・王子組』について→こちら
 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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 山口いづみの『ハルフウェイ』は、脚本家である北川悦吏子が監督をつとめた映画のコミカライズを表題に置いているが、じつはそのほかにも二篇、オリジナルの読み切りを収めており、基本的には、あたらしめの作者を知れる短篇集として読まれたい内容になっている、とはいえ、やはり何よりもまず、「ハルフウェイ」(と、その番外編である「〜だけど、それはまだ物語の途中〜」)に触れておきたくなるのは、それがいちばん最近に描かれたものだからである。正直、原作に関して詳しい情報を持ってはいないままに読んだのだけれども、いや、これはとても素直に、うつくしくやさしい作品だね、と感じられた。話の筋自体は、きわめてシンプルで、北海道の、高校生のカップルの恋愛を、男の子のほうが大学進学のため東京に出て行かなければならないので、地元に残る女の子のほうは離ればなれになってしまうことに脅えるという、ちいさくちいさな関係性のなかに捉まえている。日常に含まれる何かが、具体的に、変化し、終わらざるをえない様子が、ドラマティックに物語化されているのではなく、日常そのものが、つねにゆるやかな変化をともない、そうして進んでゆかざるをえない様子の、スタティックな叙情を、以前よりもあきらかに繊細さを増した山口の筆致が、できうるかぎりこぼれぬよう、丁寧にすくいとっているみたいだ。あとがき的な弁によると、北川からのアドヴァイス(でいいんだよね)もあったらしいが、コマの一つ一つや、表情の一つ一つに、ここまでやってきた作者の、現在の実力がよく示されていると思う。概要において、男の子はとくに目的もなく上京を指向し、女の子はまったりと地元を指向するのはどうして、的な見方もできなくないけれど、それは映画版と社会学的な批評に任せておきたい。とにかく、すべて他愛もないからこそ、敏感な震えの何よりもおおきいことに、作品のすぐれた部分は預けられているのである。「ハルフウェイ」以外の篇、「今日だけのアンリアル」は、若い女性同士の、友情ともつかない繋がり、自意識のあふれるさまを描いていて、いくらか『NANA』を思わせるところもあり、いくらかいくえみ綾のようでもあり、ストーリーについても、ありふれたアイディアを脱しえないが、ささやかな記憶でしかないことがどうしてこうも尊いのか、その触感のたしかさに胸動かされるものがあって、不覚にも泣けてきてしまった、という意味で、好き。一方、「星は日が暮れるまで眠る」は、ふいに再会した幼馴染みの男女が、セックス(性交)を通じ、あらためて恋愛の間柄に入っていくという内容で、決して暗くも後ろめたくもない題材に、不思議とせつない印象を与えている。そしてそれが翻り次第、どこかあたたかな温度に変わる。

・その他山口いづみに関する文章
 『アカンサス』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キリン』について→こちら
 『恋愛幸福論』について→こちら
 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
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2009年02月26日
 田島みみの『学校のおじかん』も、いよいよ完結であるが、全17巻というのは、正直、長すぎた。実質、それだけのヴォリュームで描かれるに相応しい内容ではなかったと思う。ヒロインが、学生と学園長を兼ねるというアイディアも、かなり序盤の段階で、あまりよく生きなくなってしまったし、とはいえ、これ、要するに、できうるかぎり家族の抑圧を持ち出ずに不純異性交遊(!)をさせないための方便になっていたんだよね。以前にも述べたけれど、陸とマッキーのカップルは、相思相愛で付き合っていながらもなぜか、いやまあ、よっぽど欲情しているのでなければ、それが現代的だからなのだろうが、セックス(性交)をしないことには、恋人同士の意思確認ができないことになっている。すなわち、当人たちがピュアラブルな関係を望んでいるかどうかは、本筋において、無関係なのであって、無理やりピュアラブルな関係にさせられているという、唯物的な葛藤こそが、作品の主軸だったのである。したがってハッピー・エンドはもちろん、ちゃんとセックスできたので二人は末永く幸せに暮らしましたとさ、なのであって、それで満足がいくのなら、おめでとう、よかったね、以外に何も言うべきことはない。個人的には、ワキの登場人物たち、譲や楓、仁美の、細やかな心の動きのほうに好ましいものがあったけれど、作者にとっては、17巻をかけても、配慮だけは備わらない高校生が、たんに障害があるせいでセックスをできないから、あたかも初心であり続けるかのように見える、見せかけることが、何よりも大事であったに違いない。

 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 9巻について→こちら
 5巻について→こちら
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2009年02月25日
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 吉沢潤一の『足利アナーキー』は、『ヤングチャンピオン』NO.6(今週号ね)からはじまった新連載であるが、その一話目を読みながら、平川哲弘の『クローバー』が登場したとき以上に、おお、こいつはいよいよヤンキー・マンガのシーンにもあたらしい世代が出てきたな、と思わされたのであった。すくなくとも、個人的に「50年組」と呼んでいる現在の主流派とは、だいぶベクトルの違ったものが目指されている。もしかしたら、井上三太の『TOKYO TRIBE 2』や森恒二の『ホーリーランド』みたいな、都会派(でいいよね)の不良マンガを一周させて、正統なヤンキー・マンガのスタイルに着地させると、こうなるのか、という印象を持つ(そのほか『バクネヤング』の松永豊和の影響もうかがえるかしらと感じられるところもある)。ストーリーは、次のように幕をあける。七つのドラゴンボールを手に入れたハルキとカザマサだったが、しかし彼らの目の前に現れたのは神龍などではなく、腕に自慢のありそうな、たいへん柄のよくないバッド・ボーイの集団であった。多勢に無勢とはいえ、なんてことはない、ハルキとカザマサのコンビは、これを簡単にいなしてしまう。実践的な蘊蓄も含め、二人の、よっぽどケンカ慣れしていることが描写されているシーンは、ひじょうにダイナミックである。

 17歳、高校三年にしてヤクザから一目置かれるほどの喧嘩屋であるハルキと、ファッション誌の読者モデルをこなすちゃらいカザマサのコントラストは、この手のジャンルにおいて、スタンダードなものだといえる。そうした物語の構成上、もっとも重要なのは、作品の舞台が、栃木県の〈人口約15万8千人のここ足利市は華々しい歴史のある土地である反面…中途半端に栄えている中途半端な田舎であり…(略)中途半端な不良や阿婆擦れや田んぼの天国…つまりどこにでもある田舎…〉に設定されていることだろう。つまり意図的に、何もない場所が選ばれている。いつどのような時代にも不良にならざるをえない人間というのは、いる。その理由は、枝葉を見るのであれば、さまざまであるに違いない。ましてや、坊ちゃんくさい自意識の産物としてそれが描かれることも珍しくないぐらい、モダンのきわまった今日、何もない田舎で頭は悪くてケンカがつよいから不良になるしかなかった、というのは、さすがに呆れるよりほかないわかりやすさであるけれども、いやだからこそ、真理を突くがごとき生々しさを持っている。だいいち子供なんて、そんなものだろうよ。登場人物のディテールは、まだ十分なわけではないが、ハルキもカザマサも、何やらドラマがあってというより、自然と不良になってしまったタイプであるふうに見られる。そしてその、自分の身の振り方に対して、ほとんど屈託のないことが、『足利アナーキー』の、一種のリアリティを補っている。

 たとえば『ケータイ小説的。』の速水健朗は、〈暴走族が反社会的な行動をとったように、一九七〇年代〜一九八〇年代に見られる、ヤンキーの反抗の矛先は親や学校といった社会へと向かっていた。しかし、現代ではその構図は消失している〉と述べ、〈現代のヤンキーとは社会に反抗する存在ではないのだ〉とし、〈一九九七年には(略)少年漫画週刊誌を代表するヤンキー漫画がどれも同じ年に連載が終了している〉のであって、〈そういった旧ヤンキー文化が衰退していったのと入れ替わりに台頭してくるのが、自分の内側の敵=トラウマとの闘争を描く内省的な作品群だ〉としながら、現代的なヤンキー文化と郊外風俗とケータイ小説の相関を論じているが、『足利アナーキー』にあらわされている不良の像は、そのさらに一歩先をいっている、あるいはもっとずっと先にまで突き抜けているようにさえ感じられる。

 個人的に「50年組」と呼んでいるマンガ家の多くは、昭和50年(1975年)前後の生まれである実年齢のためか、作中に、何か、人生訓めいたものを込めたがる。しかし、じっさいに描かれているそれらはほとんど、身近な家族や友人との関係性をベースに発想させられたローカルなルールでしかなく、真の意味で倫理的だと言い難い。彼らよりもずっと若い世代の平川哲弘ですら、この陥穽からは逃れられていないので、善悪の判断にその場しのぎの危うさを認められる。もっというなら、不良の存在自体を悪として示すことに躊躇うあまり、たんに主人公の敵がイコール不良であり悪であり、したがって主人公はイコール不良ではないし悪ではない、の公式でやっているのみなのである。これに関しては、主人公の人格をまったくのクズ人間として造形することも辞さなかった90年代前半のヤンキー・マンガ群にくらべ、不良のおっかなさ(不良になることのおっかなさ、不良がいることのおっかなさ)を深層のレベルで無自覚に隠蔽している、という点において、すくなからず後退しているといわざるをえない。だいいち、不良が無害であるなら、誰も彼らに眉を潜めたりなどしない。愚かではないのなら、誰からも忌まれたりする必要などないのだ。

 反抗すべき対象もなく、もはや内面の闘争にかかずらうのもかったるい、このような不良がハッスルするとどうなるのか。『足利アナーキー』の一話目では当然、退屈しないで済むなら何でもあり、な状況が繰り広げられている。題名に置かれているアナーキー、アナーキズムとは、おそらく、そうした無軌道さの隠喩となっているのだろう。たかだか公園とコンビニ前の場面だけで、とにかく、不良少年たちの砕けっぷり、救いがたく傍迷惑で、タガの外れた様子が、うまく出せている。ジャージーを基調にしたファッションのセンス、日本のメロコア系に熱心な音楽の趣味も、カテゴリー的な、らしさ、を、よく掴んでいる。21歳の若い作者が、ここからどこまでまじに持っていくのか、あんがいギャグの調子でやっていくのか、行方は不明であるけれども、ヤンキーのタチの悪さ、程度の低さを、このぐらい、開き直り、思い切って、表現できるというのは、今や圧倒的なつよみであって、ほぼ独自の路線をひらけている。なにせ、主人公たちを指し、その土地を「板東の大学」と呼んだ〈フランシスコ・ザビエルも……〉それから所縁の〈足利尊氏も…相田みつをも…足利市民も関東平野も渡良瀬川も…アピタもゲオも栃木県民も太田イオンも…佐野アウトレットも佐野ラーメンもイモフライも〉そればかりか〈全国民も…全世界もビルゲイツもマドンナもヒョードルも…宇宙も…星も…神も…こいつらのことをこう罵るに違いない…………〉のである。〈人間失格!!!!〉と。いやいや、その、まさに極悪な人間失格ぶりは、スタート当初の、加瀬あつしの『カメレオン』や米原秀幸の『ウダウダやってるヒマはねェ!』をも、しのぐ。

 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2009年02月22日
 仁義S 9 (ヤングチャンピオンコミックス)

 まさか、ということもあるまいが、しかしまさか、横山が復帰、柳澤込みで、関東一円会が再編されることになろうとはな。それがはたしていったい、あらかじめ用意された筋書きどおりなのか、あるいは土壇場の思いつきにすぎないのか、作者の思惑について、読み手は推し量るしかないのだけれども、結果として、物語の背景に置かれた関東一円会と獄地天道会の対立という構図に、ふたたびの弾みがついている。ここにきてもまだ、盤面をおおきく揺るがし、動かすとは、あいかわらず予断を許さないねえ、といった感じの、立原あゆみ、『仁義S(じんぎたち)』の9巻である。いや、今までの流れからするに、もうしばらくは柳澤を仮想敵に置いたまま、アキラと大内の主人公コンビによる追撃を描いてくれてもよかった。柳澤の陰謀を、もしもそれが墨田川に仇なすつもりであるなら、突き詰め、打破することで、二人の、とくにアキラの、組織内の株はあがり、ひいては仁と義郎の、つまり今はビッグ・ネームとなった前作『JINGI』の主人公たちの、次の「仁義たち」としての資格を十分に得ることもできたろう。だが、関東一円会が、柳澤の目論見とはべつのところで、二つに割れ、再編されたため、事態は一転し、彼らは目下の事件から、あらたな局面に駆り出されることになる、さらなる火種を抱えてゆくことになるのである。それにしても、大内の役は、見事なぐらい、かつての義郎をなぞらえている。元極左のエリート・テロリストであった義郎と、無所属の天才ドクターである大内とでは、たしかにインテリだとの共通項を持ってはいるが、当然のごとく能力のありようが違う、いやむしろ、前者は暗殺に長け、後者は救命に長けている以上、対極だとさえいえるし、そもそも極道を選びとった目的も異なる。にもかかわらず、株で儲けた金を、パートナーの成り上がりにつぎ込む、賭けるといった奉仕のスタンスで、だぶっている。これをアイディアの使い回し、二番煎じと判じることはできる。けれども、革命の分野であれ、医療の分野であれ、システムが完全な拝金主義に陥ってしまい、本質の見失われたことを憂い、自らドロップ・アウトした人間が、金銭には換えられないものを信じて命すら惜しまぬ人間に出会い、ヤクザの抗争に身を費やしていくことが、投資の行為によって担われているのは、資本制の徹底された世界に対する一種の復讐であると見られたい。バブル経済の余波を受け、小国の国家予算に匹敵する額を叩き出した義郎にくらべたら、そりゃあ今日の不況にあたってしまった大内の儲けは、ややスケールが落ちるとはいえ、それでも億単位で好きに動かせるだけの余裕を稼いでいる。だが、義郎や大内が欲に目をくらますことはない。なぜならば彼らにとって、金には金以上の価値はなく、それ以上の価値を知るべく、存在する手段にほかならないからだ。これから行く道で、もしも金が障壁になることがあるなら、先に除けておきたいだけの話にすぎない。仁をガードするアキラを見、大内は〈今 見送っている男を見送られる男にする 登った先に何があるのか?〉と思う。義郎と仁の関係がそうであったように、大内もまた、アキラの躍進に、いまだあらわれたことのない世界の実現を託しているのである。〈ヤクザはみんなゲイだろ〉という大内の言葉は、たんなる自嘲ではない。むろん、真に同性愛だというのでもない。おそらくは、野郎が野郎の生き様に信頼を預けるような意気を指している。一方、所属は違えども、同じチンピラとして和気あいあいとしていたアキラ、守(もり)、大介(大ちゃん)の、三人の友情とバランスは、それぞれの立場があがるにつれ、微妙になっていく。はからずも甲田の殺害に関与してしまった守に、アキラは、真犯人の捜索を、厳しく、強いる。守の命を思えばこその仕打ちなのだけれど、事情は複雑に絡み、もはや以前みたいに腹を割って話すことはできない。これがのちに遺恨を残すことになる。この作者のマンガにおいて、守のような、小悪党めいた人物の恨みは、しばしば重要なキーとなりうる。穏便な大介の〈アキラの気持ちが守に伝わるか どうか?〉という懸念は、すでに悪い予感を孕んでいるのである。ところで、だ。今後、関東一円会と獄地天道会とが、本格的に臨戦態勢に入るのだとしたら、あんがい、同一の世界観をシェアする立原作品のなかでも獄地天道会ともっとも関わりの深い『本気!』の物語から、本気(まじ)あるいは風岡の登場があるかもしれない。さすがに仁や義郎が、それらの人物と直接相対することはないだろうが、アキラか大内のいずれ、さもなくば関東一円会のトップに立った横山との対面は、決してありえなくない。

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 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
  
・その他立原あゆみに関する文章
 『本気![文庫版]』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『恋愛』
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  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2009年02月21日
 なるほど、ヤクザもやっつけちゃえるほどの腕力があれば借金取りだって怖くない、というのは真理の一つである、かな。俵家宗弖一が原作をつとめ、柳内大樹がマンガを描いている『ドリームキングR』に関しては、これまで、どうもちょっとね、いまいち腑に落ちないところも多かったのだけれど、この4巻は、いやいや、たいへん物語に入っていきやすかった。それはおそらく、作品を占めるおおきな要素のうち、自分探し的なモラトリアムの迂回路めぐりが一歩後ろに引き、国盗り合戦的な軍記物のわかりやすさが前に出ているためだと思う。服飾、ファッションの業界を舞台とする『ドリームキングR』であるが、そこでの成功とはつまり、軍記物の様式であらわされているといって良い。競合は許されず、ブランドや店舗は、他のブランドや店舗を食い、支配していかないと、生き残れないのである。もちろん、企業系のフィクションも同様の論理で動いているものがすくなくはない。しかしこのマンガの場合、なぜか、ケンカなどによる武力決着が果たされなければ、優劣ははっきりしないとの点において、ヤンキー・マンガのヴァリエーションに等しくなっている。しかして、そこにモラトリアムを支援するヴァーチャルな自意識を組み込んでいるのは、同じ柳内の『ギャングキング』のごとく、だけれども、『ギャングキング』がそうであるように、作者の筆力は、感情の複雑なさまを緻密化するのに向いていない、むしろ抽象的なイメージのとおり戯画化するのにすぐれているのであって、それがすなわち、自分探し的なモラトリアムの迂回路めぐりを下げ、国盗り合戦的な軍記物のわかりやすさを押すことにより、うまく作用しているのが、『ドリームキングR』の、4巻の内容だといえる。主人公であるジョニーの、深く考えることもなしに、まず行動を先に起こしてゆくことの結果が、関わった人びとを悪政から解放させる。客観的な事実はともかく、主観の判断で敵と見なされるべきは、ぶん殴って倒しちゃえばいい。そしたら勝ったことになるだろう。失敗するはずがない。これはこれで当然、子供のモチベーションにほかならない。だが、ここで重要なのは、『ドリームキングR』の概要自体が、子供が子供のままビジネスの世界でサクセスする姿に支えられていることである。言い換えるならば、子供抜きでは成り立たない世界なのだ。子供らしさは、ジョニーの頭の悪さがイノセンスとイコールであることによって保証されており、その正当性を拳のつよさが補う。正直、こうした構造に関する非難はあるにしても、とりあえずおいておきたいのは、一塊の純粋さが、汚い大人をくじく、汚れつつあった同志を導き直す、といった展開の単純さに、やはり、胸のすくものがあるからで、飛び降りた先にたまたま相撲取りの集団がいたので命が助かったっていう、馬鹿馬鹿しさは好きだよ。数々の困難をまとめてクリアーし、『ゴッサマー』を譲り受け、『SHIBUYA』の顔役を任されるようにまでなった当のジョニーが、こうした成り行きを〈もう展開が急すぎて何がなんだか………〉と漏らしているけれど、ライヴァルであったオザキックやJが配下に加わる部分も含め、武勲の示し方としてはひじょうに明解である。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 「バンカラボーイズ」について→こちら
 『ギャングキング』
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
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2009年02月20日
 そう、たとえば、こういうナイーヴなポエジー、イズムからも、『特攻の拓』の残響を聞きとることができる。〈ホントに世界は逆様に出来てやがんよ? 夏ゥ… / 平和を謳って兵器を量産し / 利益の為に世界中に戦火を撒き散らす / 愛されている事を利用して / 誰かを有罪にする事で正義を量産している / 強いものは“強い事”を平然と遣って蹂躙してゆき… / 弱いものは“弱い事”を当然と盾に被害者に擦り変わる… / 愛や心を嘲笑うもの達が権威や収益を崇めてる / 無い価値を信じ込まされた弱きもの達の破綻が世界を瓦解させ… / 自国の価値を信ずる事が出来ぬ強きもの達の判定が人々の豊かさを崩壊させてゆく…〉という、このような残念は、あきらかに天羽時貞のそれを引き継いでおり、佐木飛朗斗が原作を提供する諸作品のなかで、通底音として存在する、もしくは存在し続けるうち、あらためられた変奏にほかならない。生まれや育ちを一種の呪いとして見、世界レベルの不幸と結びつける感受性は、サブ・カルチャー的な想像力において、決して特殊なものではない。むしろ普遍的だとさえいえる。誰しもが戦って死ななければならないとしたら、それは世界によって定められているからなのである。すくなくともそう信じられていることが自然であるような、そういう戦いに対し、はたしてピリオドを打つことは可能か。『外天の夏』が描こうとすること、主人公の天外夏が、死んだ兄から託されているのは、おそらく、そのテーマだろう。物語が3巻に入って、いよいよ夏は、兄がはじめた族(ゾク、チーム)である“外天”の集会に合流することとなる。しかし同じ夜、間宮龍人率いる“泥眼”が、百瀬の“朧童幽霊”に向けた敵意を宣誓し、“魍魎”の和國も戦争の構えをみせるのであった。よもや全勢力の衝突は必至、という事態に巻き込まれた夏が、いかなる活躍を、いかなる役割を果たすのか、いっさいの焦点は、そこへ絞られてゆくのだと思われる。それにしても、これ、ぜんぶ、たった一日の出来事なんだぜ、ありえねえよな、というぐらい、現段階ですでに、作中時間の量は、無尽に膨れあがっている。だが、そのことはもしかすると、登場人物の雑多さも含め、ドストエフスキーの『罪と罰』や埴谷雄高の『死霊』のような文学作品の、狭い物語内における複雑な思弁性を同例にして捉まえられる。としておきたい。じっさいにマンガをつくっている東直輝や、佐木のデザインが間抜けなのではなく、血まみれの諍いも含め、さまざまな思考や対話が、形而上を目指し、奔放に繰り広げられているのである。たしかに、目に見えずとも信じられるものは、ある。としても結局のところそれは、目に見えるかたちを通してでしか、認識されない。このことが真であるのかどうか、バイクや音楽、ダイヤモンドや宗教のもたらす熱狂は、それを問うている。ここに描かれている少年や少女たちが、過酷に生きなければならないのは、ありとあらゆる価値基準が、恒常性のないまま、とっくに頼りなくなってしまっていると、察知しているため、に違いない。たぶん、少女たちにとって、大人が用意した規則や男性のマッチョイズムは、もはやおそれるものではない。安い女子高生はレディース(女性暴走族)をDQNとあざ笑い、レディースは女子高生をウリモンと罵り、合い、同性同世代のなかで、せめて自分のポジションをキープしようとする。元セレブ・ギャルズとゴシック・ロリータの姉妹は解り合えない。ネガティヴな反動のみが、自己を体感させる。少年たちが、暴走と暴力を用い、実現せんとするのも、それと等しいベクトルにほかならない。舐められたらお終い、というと不良くさいけれども、優劣の曖昧なカテゴリー間のせこい対立は、現代においてシリアスな問題となりうる。それぞれがそれぞれのカリスマを立て、群雄割拠する動向をよそに、平凡な立ち振る舞いの夏を主人公たらしめているのは、彼のきわめて中庸な姿勢であるのかもしれない。夏は、現在の“外天”のアタマ、すなわちヘッドでありトップであり、リーダーである伊織の微笑む姿に〈そうやって笑うと…特攻服が全然似合わない… / 出会った頃と変わらない伊織くんなのに…〉と思う。そうした無邪気さのみが、とても手に入れにくいので、争わなければならないとしたら、何とも悲しいことだ。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2009年02月17日
 おかわりのんdeぽ庵 2 (2) (講談社コミックスキス)

 なかはら★ももたの、たとえば『あかねSAL』や『のんdeぽ庵』のイメージで、原作なしのオリジナルである『世界はひとつだけの花』を読むと、ぎょっとさせられるものがあるけれど、それはある意味で、さまざまなモチーフに対応しうる作者の巧みさが十分にあらわれている、ということなのだと思う。そして、イタバシマサヒロの原作と組んだ『のんdeぽ庵』の続編『おかわり のんdeぽ庵』には、ライト・ポップなテンションが、グルメ・マンガもしくは料理マンガの体裁を借りて、とてもよく示されている。前作『のんdeぽ庵』のヒロインの一人であるサカナから、居酒屋「ぽ庵」を受け継いだ奈々葉は、相棒の穂波とともに、心づくした料理ともてなしで、訪れた人々の疲れや迷いを晴らしてゆく。こうしたストーリーにおいて大事なのは、やはり、前向きな浮力となるあかるさだろう。現実の生活にそくして、料理とコミュニケーションを描いていくと、人生に突き当たるのか、この手のジャンルにおいては、世知辛い話題が好まれるもので、当然『おかわり のんdeぽ庵』も例外ではなく、茶番でしかない部分もあるにはあるが、男性向けの諸作品に見受けられがちな、断定、言い切り型の説教くささはあまり感じられず、その雰囲気の軽やかさがおもな特徴となっている。この2巻に収められているもののなかでは、前作の主人公をスペシャル・ゲストに使ったそれではなく、ファミレスの大手チェーンで利益を求める親のスタンスに反発し、接客の密な「ぽ庵」で包丁をふるう奈々葉の、よき理解者であり、現在は家業を継いでいる兄が登場してきてのエピソードが、もっとも魅力的である。生き方におけるイズムの問題にしてしまえば、堅苦しくなってしまいそうなところを、うまくかわし、兄妹間の信頼を、とても羨ましいものとして描いている。

 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)に関する文章
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
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2009年02月15日
 17(じゅうなな) 2 (2) (講談社コミックスフレンド)

 桜井まちこの描く泣き顔や笑い顔がほんとうに好きで、ほとんどもう、そのチャーミングさを見るために、作品を追っているようなところがある。しかしそれは、必ずしも作中の人間たちがよく生きているということではないのであって、むしろ各々の個性、魅力、ひいては物語のレベルにおいての弱さを思わせる。と、これはかねてより述べてきたことの繰り返しであるかもしれない。が、そうした印象は『17[じゅうなな]』の2巻になっても、おおきく変わることはない。けれど、登場人物はわずか四人とさえいえる青春の像にあって、表情の一つ一つがこうも鮮やかであると、その一喜一憂に切々と訴えかけてくるものが生まれている。恵に励まされ、佑介との関係を元に戻したい詩歌であったが、終わりは、自然に、唐突に、やって来てしまう。これを機とし、詩歌と恵の二人の関係にも微妙な変化が訪れる。というのが、ここでのだいたいの流れである。四年間付き合っていたカップルが別れる、別れなければならないのは、傍からすれば、たったそれだけのことにすぎない。だが、もちろん、たったそれだけのことが、ひたすら悲しく、重い、このような気分が、さりげない風景にまじった描写のレベルでたしかに伝わってくる。巻頭に置かれている「放課後」と題された前日譚のような、たいへん短いエピソードがとくに、すばらしく、うつくしい。こういうワン・シーンだけを切り取ってきても、それが十分に機能してしまうのが、作者の、らしさ、であるし、同時にウィーク・ポイントでもある。今後、詩歌と恵の間は、どう進んでいくのか。二人の関係をあやしむ明の表情が、彼女の内面を雄弁に語っているのにくらべ、どうも詩歌や恵のそれが、ニュアンスの妙をうまく出せていないのは、たとえばゼロに近しかった関係を積み重ねるというのが、ある場合には物語をつくるというのとほぼいっしょのことだから、だろう。

 1巻について→こちら

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2009年02月14日
 MOMO 1 (りぼんマスコットコミックス)

 可愛らしいファッションに身を包んだ少女は、自らを大魔王だと言い、もしも地球に存続するだけの価値がないのなら、破壊してしまおうと告げる。人類は知らずのうち、わずか二年の猶予を突きつけられる。その間、たった一人だけ真実を知ってしまった平凡な主人公が、彼女の気を変えることができなければ、まさしく世界は終わる。酒井まゆの『MOMO』は、ストーリーのラインを取り出すなら、わりと青少年向けのマンガやライトノベルのフィクションに近似な内容であるけれども、矮小な身に巨大な運命を背負ってしまった主人公が、ひねた坊ちゃんなどではなくて、前向きな決断力と行動力を持った女子高生であるところに、なるほど、現代的な少女マンガらしいデザインが宿っているし、作者のセンスがよく出ている。また、そのことは作品の構造自体にも関与していて、1巻を読むかぎり、照れ隠しのボーイ・ミーツ・ガール譚が目指されている印象ではなく、あくまでも素直にロマンティックなファンタジーとしての成果を上げているのだった。不幸に次ぐ不幸に見舞われ、〈誕生日なのに やっぱりいいことなんかひとつもない こんな世界 今からでも遅くないから 終わっちゃえば いい――――――…〉と願っていたヒロインの夢だったが、しかしたまたまのことから、地球の破滅を左右する代表者にされてしまい、大魔王であるモモを〈この星のすべてを使って7度喜ばせ〉なければならなくなる。こうした理不尽さに対し、確たる使命感をもって応えようとするのである。見逃してならないのは、人類に与えられた二年というリミットが、16歳になったばかりの夢にとって、18歳になるまでの歳月と等しいことだろう。それはすなわち、一人の学生が成長して、大人になっていく過程を、含んでいる。この点を見るなら、基本線は、入学から卒業までのあいだをとった学園ドラマ形式の変奏にほかならない。そのなかで、世界の終わりをダシにして描かれていることの本質は、誰しもがどこかで乗り越えてゆかねばならない自立のテーマ、なのだと思う。

・その他酒井まゆに関する文章
 『ロッキン★ヘブン』
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  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
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2009年02月12日
 SUPER JUMP (スーパージャンプ) 2009年 2/25号 [雑誌]

 西森博之が『道士郎でござる』を描いたように、加瀬あつしが『ゼロセン』を描いているように、90年代にヤンキー・マンガで鳴らした作家が、00(ゼロ)年代になって、敗戦以前の日本男児的な精神を現代にぶつけてきていることは、彼ら自身の思惑や表向きはどうであれ、本質的には、中途半端にアメリカナイズされたこの国の男性性を問うている、という意味で重要だ。またこうした観点からなら、ヤンキーの語が、アメリカ人と不良少年の両義性を持っている事実も、不自然ではなくなる。それを前提にしたとき、柳内大樹が『スーパージャンプ』NO.5(09年2月25日号)において、読み切りで発表した『バンカラボーイズ』にも、やはり、注目せざるをえない。ご存知のとおり、『ギャングキング』のヒットを生み、今日のヤンキー・マンガのシーンで、大勢のファンを擁するトレンド・ラインとなり、西森や加瀬たち90年代的なヤンキー・マンガ家に比べれば、およそ一回り下の世代にあたる、その作者が、昭和21年の旧制高校を舞台とし、モラトリアムの馬鹿騒ぎを捉まえたのが、『バンカラボーイズ』である。相変わらず、とってつけたかのような問題意識に、わざわざさあ、といった気がしてしまい、鼻白む部分もなくはないのであったが、しかし、いわゆるベタなネタで押し切ったストーリーは、決して悪くはない。こういう、善悪の判断をよそに、無邪気さが、ただただ理想を夢見るていで、一話完結型のエピソードをやらせたら、柳内は見事にその良さを発揮する。先に述べたことを反故にしてしまうようだが、『バンカラボーイズ』の比較対象として挙げるべきは、『道士郎でござる』や『ゼロセン』ではないだろう。おそらくは、00年のテレビ・ドラマ版『池袋ウェストゲートパーク』の、とくに八話目の内容であった。惚れた女性のため、身を削る人物を見、仲間たちが、ほとんど無償で、協力を申し出る。そのようなプロットのなかで、社会に出るにはまだ未熟だから不良少年をやるしかない弱さに対し、ある種の覚悟が突きつけられている点に、共通性がうかがえる。したがって、このマンガにとって余剰だと思えてくるのは、じつは終戦直後という設定である。登場人物が、バンカラであるよりもボーイズであることのほうが鮮明なのであって、両項のあいだに何かしらの化学反応が起きているわけでもなく、要するに、今に置き換えても十分にやれたドラマにほかならない。そうして、柳内が戦後日本をまるで現代みたいに描いてしまうことと、西森や加瀬が現代をあくまでも敗戦以後の日本として描くことは、たぶん、スタンスが決定的に異なっている。それが世代に由来するものなのか、当人の資質や年齢に由来するものなのか、あるいはもっとおおきく時代背景のパースペクティヴで踏まえるべきものなのか、もしも2010年代から先になってもヤンキー・マンガのジャンルがなくなっていかないとき、あらためて考えていかねばならない宿題の一つだと思う。

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
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  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
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2009年02月10日
 きんぼし 3 (3) (ヤングマガジンコミックス)

 敗北から学べるものはあるか。もちろん、ある。ということにしておきたい。そうでもなければ、誰も敗北から立ち直れないし、やり直せないし、這い上がれないではないか。

 スポーツ・マンガ、もしくは勝負を題材にしたフィクションにおいて、敗北を立派に描くことは難しい。感動のためだけに登場人物を殺しちゃうのは、とっておきの手だから、やたら滅多に使うわけにもいかないしね。しかして生きている人間が、真剣になればなるほどうだうだしてしまう局面をも、うまく表現していかなければならないのである。安易にはいかないこのことに成功している作品は、もうそれだけで、えらい、と思われる。たとえば、明石英之の『きんぼし』などは、そうだ。

 巻末のコメントにもあるとおり、全3巻という長さは、おそらく作者の望んだものではないのだろう。だが、挫折した人間が救ってくれた人間の挫折を救う、このようなかたちできれいに物語は閉じていて、十分に読み応えのある結果を残している。こうした力量をしっかりと見るなら、ほんとうにもうちょい評価されても、よかったな。

 左目を怪我し、野球部を追われた甚野新太が、その身体能力の高さを買われ、長尾蒼士に相撲部へと引き込まれてからしばらく経った頃、彼ら清楓高校のもとに、蒼士の弟で、強豪校である東洸学院のレギュラーをつとめる暁人が、一年生の仲間を連れ、道場破りよろしく、試合をふっかけてくる。これを受けて立った新太たちは、その実力差の前に、自らがまだ、発展途上であることを、あらためて認識していくのだった。

 暁人の類い希なる才能にコンプレックスを持っている蒼士が、しかしじっさいに土俵の上で破れ去る場面は悲痛である。禁じ手を用いてまで勝利しようとするけれども、実力は覆らない。それに対して、暁人は〈苦しまぎれに反則なんて救えねーな マジで相撲やめろ お前‥‥〉と、無情にも言い放つ。

 蒼士には蒼士の勝たなければならない理由があり、暁人には暁人の勝たなければならない理由がある。だが、勝者になれるのはどちらか一人のみであって、望みながらも、選ばれなかったことが蒼士を落胆させる。

 突きつけられた真理に逆らえず、場の空気が重たいとき、ありきたりな慰めに、言葉に、はたしていったい、どれだけの意味があるだろう。蒼士の心は完全に折れた。ここからがクライマックスである。まさしく〈で‥出た――!! ミスター無神経!!〉の新太が、その暗いムードも気にかけず、いや本心ではぜんぶをひっくり返してやるために、満を持して暁人に挑む。

 当然、勝ち気だけで無理難題が何とかなるなら、蒼士がそうしていたはずである。ほとんど素人の新太が、屈強な暁人をねじ伏せる見込みは薄い。新太の一身を平然といなす暁人が〈お前の薄っぺらな気合いと決心だけじゃ‥‥このオレを押すこともできねえんだよ!!〉と言うように、その差は、かぎりなく大きい。それでもゆく。ゆかねばならぬことが、ほんのわずかな可能性の、わずかさをたしかに信じられるふんばりを生む。そうした、ゼロを百にまでは持って行けなくとも、たった一にだけは進めてみせるドラマに、がぜん奮ってくるものがある。

 そこではつまり、作中でいくどとなく繰り返される、カッコイイとはどういうことか、という問いが、そして敗北からしか学べない、認められない、はじめられないものがあるのだとする旨が、新太の姿を借り、こういうことだ、との言い切りとして応答されているのだと思う。

 しかしながら作者は、新太が、暁人に一矢報いることができたのは、たんなる精神論ではなく、もしかしたら身体的な潜在能力のおかげだったのかもしれない、そのような予断を持ち込んでいる。であるがゆえに、他の部員たちが、敗北を経て、前向きさを得ているのに反し、自らのポテンシャルを低く見積もっている蒼士だけは、リタイアを考えなければならなかった。

 ここにおいて、作品の冒頭あたり、新太がすべてを失い、沈んでいくのを、蒼士が引き止めたときの立場を、ちょうど逆さまにしたかのように、今度は新太が、自棄になりかけた蒼士のハートを、たきつけ、ふたたび火ともさせることで、物語はひとまとまりのメッセージとなり、閉じられる。

 逃げ出そうとしていたにもかかわらず、結局のところ、相撲を取り戻すほかなかった蒼士に向かい、新太のこう言うセリフが、最高潮に効いているだろう。〈無理かもしれねえ‥‥勝てねえかもしれねえけど 今ここで諦めるより…頑張る方が楽だろ!!〉。

 白けることが、かっこうよく、満足いくのであれば、まあ悪くはないよね、と。だがほんとうにそれでいいのかどうか、自分で自分に訊いてみな。決して他人事じゃあないのである。

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2009年02月08日
 前巻(13巻)には、とてもプロの仕業とは思えない困ったカットが満載で、ああ、ほんとうに永田晃一はだめなんじゃねえかな、という気にさせられてしまった『Hey!リキ』であるが、さすがにまずいとの自覚があったのか、この14巻では、やや復調してきている。まじでひどかったんだから。まさか、あれ、ギャグだったんじゃあるまいね。と、まあ、それはともかく。いろいろと悶着のあった先輩連中が卒業、学校を去っていき、主人公である早乙女リキとその仲間たちはみな、無事に三年に進級することができた。そのようなくだりを経て、ここでは、花椿高校の新入生たちによる誰がトップに相応しいか、の自発的なトーナメントが繰り広げられる。要するに、この手の作品の節代わりに、お約束の展開である。しかし、そうした様式性に寄りかかっているおかげで、勝者と敗者とを分けるモーメントを含め、それなり見所の用意された内容をキープすることはできている。にしても指摘しておけなければならないのは、やはり、登場人物たちのドラマが、生まれや育ちによってのみ、補強されてしまっている点だろう。すなわち、家庭環境が悪いと必ずや不良になる、式の真面目くさったPTA的なロジックと、じつは同根でしかない。もちろんそこから、不良にしかなれなかった人間が必ずしも悪とはかぎらない、といった帰結にまで持って行くことが、作品のテーマにかかる部分なのだとは思われる。なのに問題は、関係性の描写などをすっ飛ばし、自己完結形のポエムで、物語のすべてを代替してしまおうとすることなんだよな。黒地に白抜きで綴られるモノローグがもしも、魚喃キリコや安彦麻理絵の影響だったら、ぶったまげる。いや、それはないない。

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 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
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 現在の『WORST』には、『クローズ』や『QP』の作者に求めるべきものはもう、ほとんど描かれていないのかもしれない、というのが正直なところで、じつは先般、総集編が出たのを期に、アタマのほうを振り返ってみたのであったが、そこで登場人物の一人が山本隆一郎の『GOLD』を読んでいたことにあらためて気づかされたのはともかく、作品のつくり、そうして受ける印象自体が、当初と今とではかなり異なっているように感じられたのだった。すくなくとも、月島花という純粋が、理不尽な暴力と、正しく対位になるかっこうからはそれていっている。もちろんそれを、高橋ヒロシというマンガ家にあたらしく描きたいことが生じたからだとは、十分に解釈できるだろう。しかしながら、その、うしろからやってきた部分が、どうもいけていない、と個人的には思われるのである。おそらく、不良少年をベースとして、欧米のギャング映画みたいな、アウトローの倫理、モラル、ルールとでもすべきストーリーを編みたい、との欲望が『WORST』の発想にはあった。このことは、作画の面において、いくつかのシークエンスが、ちょうどギャング映画のそれを真似ている点からも、うかがえる。だが結果的に、日本のエンターテイメントに伝統的な、国盗り合戦の、いうなれば軍記もののヴァリエーションへと収束してしまっている。そうしたありようは、たとえば、作中の視点が、個人の内面を素通りし、複数の人間を、場面を、展開を、俯瞰していくような場所で成り立っている、かのようなストーリーの組み方によって担われている。まずテーマが先んじてというより、群雄割拠する登場人物たちの名前とスペックとインパクトだけで、作品がほぼ完成しているといっていい。要するに、エピソード以上に武将のカリスマが雄弁な表現の形式に近しい。インタビューなどでよく、高橋のマンガが、いわゆるキャラクターの魅力が物語を引っ張っている、と解説されているのも、結局は、そうしたことにほかならない。いや、何もそれを悪く言うのではない。重要なのは、もしかしたら作者自身は軍記ものをなぞらえているわけではない、と考えているかもしれないことであって、にもかかわらず軍記もののフォーマットを学園ドラマに落とし込んだスタイルになっているため、未成年と暴力の問題が、不可分に結び付くことを良しとし、シリアスに突き詰められていない、血まみれの、はったりとスペクタクルが前面に出てきていることである。この22巻で、『WORST』は、第2部の完結を迎えている。とはいえ、内容のほとんどは、武将の紹介に費やされているふうな感じだ。活躍の描写ではないのだが、まあ、武将のデータ・ファイルとか、男の子は燃えるよね、といったところで、人気は上々のままなのだろうし、イラストが重宝されたりもする。たぶん、第3部では、月島花が、高校三年に進級して、いよいよ天下統一を果たす(か、果たさないかの)くだりへ、入っていくに違いないけれども、この調子でさて、序盤でゼットンの口を借り、述べられた問題提起、つまりそれは『QP』で示され、繰り越されてきているものでもあるのだが、不良にしかなれなかった人間もいつかはモラトリアムの楽園を出て行かざるをえない、そのとき、希望と可能性の両翼がもがれることなく備わっていなければ、どこにも飛んでゆくことはできない、これに値する回答をきちんと導き出せるかどうか、不安が募る。

 21巻について→こちら
 20巻について→こちら
 17巻について→こちら
 11巻について→こちら

・その他高橋ヒロシ関連の文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
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2009年02月06日
 テガミバチ 6 (6) (ジャンプコミックス)

 振り返るなら、もしかしたら『BADだねヨシオくん!』ですらもそうであったのかもしれない、と思えるぐらい、浅田弘幸というマンガ家はつねに、挫きを描くことで、挫けないものを表現しようとしてきたといえるだろう。しかしながら、その線が、筆致が、物語が、あまりにもまっすぐであるため、人間の業、えぐさが十分にはあらわれていないので、ライトでキャッチーな面が表立ってしまっているようにも思う。もちろん、それを作者の資質であり、個性であるとして見ることもできるし、おそらく、良さもそこにあるに違いない。この点に関しては、『テガミバチ』についても同様であって、たとえば元テガミバチのゴーシェ・スエード(ノワール)が抱えた屈託を、いかに主人公であるラグ・シーイングの純粋が照射しえるか、といったライン上に成り立ったドラマは、今どきのファンタジーにあって、決して重厚な手応えを持った内容ではない。むしろ、やさしいデザインのちいさな手応えが作品の魅力を負っている。念願の「BEE」となり、働くラグは、いよいよ、とうとう、恩人であるゴーシェとの再会を果たす、が、しかし彼は「こころ」のすべてを失くし、そして自らを「黒(ノワール)」と名乗り、今や「略奪者(マローダー)」であるとし、ふたたび姿を消してしまうのであった。以上が、前巻までの筋で、なぜゴーシェはたいへん様変わりしてしまったのか、その背景となるべき出来事には、世界レベルの謎が横たわっているのだけれども、基本的には、ゴーシェの「こころ」を取り戻そうとするラグの正直で熱心な態度を追って、マンガは進んでおり、この6巻には、そうした本筋のワキで、主人公の、らしさ、をあらためてよく示すかのような、一話完結型のエピソードが並んでいる。第十九話の「アジサイ色の絵テガミ」と第二十話の「荒野幻灯台」は、たしかに作品の設定を生かさなければ、ストーリーに収集のつかないところもあるが、アイディアとしては読み切りでも不都合のないそれに近しい。そして、こういう短篇型でちゃっとまとまっているもののほうが、じつは合っているのか、登場人物の表情を豊かに出せている。おそらく浅田が、ここで目指しているのは、『眠兎』や『蓮華』みたいな屈託のある人間を主軸にしたリアリティではなくて、純粋の際立った寓話であろう。だが、すぐれた寓話のほとんどは、わざわざの長さを求めない。それでも長篇としてやっていこうとしているところに、今後の『テガミバチ』の困難はある。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 『蓮華 spring edition one's intimate feeling / ふたつの忍花』について→こちら
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2009年02月03日
 ドリームバスター(4) (リュウコミックス) (リュウコミックス)

 プロジェクト・ナイトメアが引き起こした大事故のせいで、惑星テーラから地球人の夢のなかへと逃亡した凶悪犯たち、彼らを追い、捕まえ、報酬をいただく賞金稼ぎ、ドリームバスターのシェンとマエストロが新たに請け負ったミッションは、有名な冒険小説のモデルにもなったガンマン、殺し屋のモズミを相手にすることであった。しかしモズミの銃の腕前は本物であって、それだけでも厄介だというのに、彼が憑いている幼きドリームパーソンの苛酷な心象が、さらに困難な状況をつくり上げているため、シェンたちは今回の件を、これまでに成功事例のない仕方に切り換え、取り組まなければならなくなってしまう。宮部みゆきの同名小説を中平正彦がコミカライズした『ドリームバスター』は、さすがにこの二人が組んだら外さないだろうね、というレベルの、十分に手応えのあるSFファンタジーを繰り広げ続けているが、女子高生の村野理恵を襲った事件を通じ、シェンの母親であるローズの暗躍が浮き彫りとなったストーリーを経、こうして4巻に入り、世界設定の巧みさと現代的なテーマの重たさとが、さらにつよく結びつくと同時に、見所の多い内容を打ち出している。

 モズミのドリームパーソンである八歳の少年、タカシの置かれた環境が、ああもうちくしょう、残酷で悔しい。義父による幼児虐待は、今日の現代劇において類型的な惨事であるけれども、だからといって見慣れるもんじゃねえな。しかもその、じつに救いがたいイメージがあえて、簡潔に、ショッキングに、描かれているので、たいへん胸が詰まる。理恵たち、かつてシェンと知り合った地球人の協力を得て、タカシの身を救おうとしたことが、結果的に〈このままでは虐待を受けた哀れな子として生きなければならないから そんな理由でお母さんはタカシ君をベランダから捨てました〉という事態を引き起こしてしまうのだから、まったく、どうしようもない人間はどこにもいるのである。そうした悲劇のありようが、しかしテーラという、地球とは位相の違う場所から見られている、これが『ドリームバスター』の、物語の、ひとつ奥行きでもあるだろう。

 現実のひどさに耐えきれないタカシ少年の断片に、別世界からやって来たモズミの意識が乗っかってしまっている、このたびのケースは、地球の観点からすると、さながらDID(解離性同一性障害)であるかのように思われる。だが、テーラには多重人格という発想自体が存在しない。そこでまずタカシとモズミの共生をどう解釈すべきか。なにか参照されたものがあるのかもしれないが、パズルに喩えられたロジックには、とてもサイエンス・フィクション的な説得力があり、そしてそれは、ある意味で『ドリームバスター』のコンセプトを、いっそう深めている。そもそも、地球人の意識とテーラの世界との行き来を可能にしたプロジェクト・ナイトメアの原理は、作中で使われる「チート」や「バッファ」などの用語に暗示されているように、デジタル化されたデータをベースにしたヴァーチャル・リアリティの本質に近しい。地球とテーラの関係は、どちらか一方の側に寄れば、向こう側は、正しく夢のとおり、完全に自立した仮想の領域か、あるいはオルタナティヴな現実感の可能性にほかならない。

 たとえば、地球の人間がしばしば、自分を省み、もしかしたらこれとは別の生き方があったかもしれない、と思うのと同じく、テーラの人間もときおり、自分を省みながら、もしかしたらこれとは別の生き方があるのかもしれない、と思う。両者の思惑が、互いの世界を覗き込むことで、ちょうど合致したポイントに、ドリームパーソンとテーラ逃亡犯との邂逅は設置されているのである。しかしながらもちろん、根本においては、誰もが所与の人生しか歩めない、所与の人生を歩むしかなく、その足下にはつねに自覚と責任の問題が横たわる。モズミとタカシのエピソードが、ただどんぱちだけでは済ませられない、解決することができないのも、そうした倫理の旨によっている。

 3巻について→こちら
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2009年01月28日
 柳内大樹の『ギャングキング』には、かつての吉田聡みたいに学園ラブコメと不良ヴァイオレンスのアマルガムであるようなヤンキー・マンガの路線をいって欲しかったが、結局、高橋ヒロシ以降ともとれる国盗り合戦的な不良ヴァイオレンスの方向に向かってしまったことを、とても残念に思う。とはいえ、当人としては、おそらく、ハロルド作石の『ゴリラーマン』の、藤本がしばしばモラトリアムの自由と不自由で迷う姿を、一つの手本に置いていることは、以前に、ひさびさに悪魔のような自分を取り戻したぜ、的なセリフがオマージュされていたことから、うかがえる。だが、そのことが結果的に、主人公であるジミーの造形を、ちょっと、頼りないものにしてしまってもいる。彼の、リーダーとしてのスケールが、エピソードごとにぶれる、生きている人間だからぶれるのは当たり前じゃんね、というのはあるのだけれど、そのぶれの奥底にあるべき芯すらもぶれてしまっているふうに見えるので、どうも頼りないのである。もちろんそうした、先行する作品群と比べたら、筋の通っていないところを、あえて描いている点を指し、新しさといい、今日のリアリティをよく掴んでいるとするなら、ああ、まあ、たしかにそれはあるのだろう。さて。この15巻では、かつて『ヘドロ会』に在籍し、現在は建設現場で働くチャンベが、居酒屋で、がやがやうるさいアラーキーと相まみえたことから、バラ学の不良グループと元不良の土木作業員たち(ワークマンズ)とが、いさかい、抗争に発展するくだりが描かれている。いうなれば、モラトリアムと社会の衝突が、その背景に見え隠れしているわけだが、しかしここで重要なのは、それが決して子供対大人の図式にはなっていない、いやむしろ、子供対大人の図式になってはいないがために、学生と社会人とが、たんなるカテゴリーがべつの、同年代の人間同士の、暴力による対立関係を結べていることだ。当然、これが導き出しているのは、成熟などしない男性像にほかならない。おそらく、作者の思惑は、そのような男子のイメージに対してさらに、なるたけ争いを穏便に解決したいので、非の所在を明らかにしようとするジミーと、そして元『ヘドロ会』のリーダーで、今の段階ではメインのストーリーに噛んではいないが、高校にも行けずに働くことを良しとするヘドロベロを、子供から一歩先に進んだ場所へ配置することだと考えられる。が、ジミーの立ち振る舞いも含め、長篇向けのドラマと文脈のつくり自体は、相変わらず、うまくない。
 
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
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2009年01月27日
 登田好美の作品集『夏の残骸』には五つの読み切り作が収められていて、そのなかでは表題作と「わたしたちの箱庭」、「4.5時間目はうそつき」が、印象に残った。幼馴染み同士の淡い触れ合いと当人たちの気づかぬうちに成長している姿を描いた「夏のあと」も、いやいや決して悪くはないのだが、今しがた挙げた三つのマンガに比べると、雰囲気以外の部分にすこし、物足りなさがあるように感じられる。もっとも分量のある「いびつな太陽」は、血の繋がらない姉弟の恋愛という、つまりフィクションの世界にありふれているモチーフが、これだけの長さ、物語のサイズの内で、うまく実を結んでいない。作者にとっては、短いもののほうが、具体的に、焦点の定まったドラマを描きやすいのかもしれない。と、そのことは翻って、「夏の残骸」の、思春期の無力さに対する抵抗が鮮明である様子に、よくあらわれている。両親の身勝手な離婚に疎外感を覚えた少女は、自分が子供だから意見も何もできないのだと思う。はやく大人になりたい、はやく大人にならなければ、噂では女性にだらしないとされる同級生と付き合いはじめ、セックス(性交)をして、はやく子供の時代を終わらせたいと願う。そんな彼女に対して、じつは真剣で大切にしていたかった彼氏が〈…寝るって大人になることじゃねーよ?〉と投げかける言葉が、つよい。たしかに、思春期においては、セックス(性交)や恋愛は、なにか、魔法のような力を持ちうることがある。だがそれが、ほんとうに魔法として生きるには、感情の、心の作用が必要なのではないか。もしもそうだとすれば、という可能性が、少女に、誤りからさえも真に信じられるものを見出させてゆくのである。同様に、「わたしたちの箱庭」も、少女同士の閉塞的な共犯関係から、恋愛によって与えられた勇気を一つの手がかりとし、抜け出そうとするヒロインの姿を、デリケートに描く。
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 ホンゴウランコの『ヘブンズ・ドア』は、同名邦画のコミカライズであって、さらに大元の原作は海外の映画にある以上、プロットに対しての責任はよそにあると言うべきなのだろうが、しかしマンガのエモーションが、登場人物の迎えるラストの描写にのみ担われてしまっているのは、あきらかに作者の演出上の問題である。結局のところ、荒唐無稽な難病ファンタジーのヴァリエーションを突破するものではなく、悪い見方をしてしまえば、タチの悪いカップルの、そして死以外は二人にとって都合のよい、傍迷惑な逃避行でしかなくなってしまっている。余命いくばくもない少女、春海は、病院で知り合った青年、勝人から、〈天国じゃ みんなが海の話をするんだ〉という、彼が昔観た映画の話を聞かされ、一度もじっさいに見たことのない海に思いをはせる。子供の頃に入院して以来、病院の外へ出たことがない春海の境遇に、同情してか、あるいは他にも理由があってか、勝人は、春海を連れ、海の間近に感じられる場所まで向かおうとする。盗んだ自動車、そこになぜか置いてあった拳銃、強盗、強盗、そして警官に追われて強盗、しかしそのような椿事は、しょせん、着の身着のままで出発した二人がどうやって海にたどり着いたのか、それはね、犯罪を働いたからだよ、といった程度の、説明不足を補うがための説明にすぎず、あくまでも概要は、死を背景にしたボーイ・ミーツ・ガール譚にほかならない。ヒロインの、ようやく得る生の手応えが、死にたくない感情が、どこからやってきているのか、たとえプロットのうえではそうでなくとも、ここではラヴ・ストーリーの部分がクローズ・アップされているので、ただ大切な相手ができたから、ということになってしまっている。そうしたとき、大勢に損失を与えてまで海に行く必要がほんとうにあったのかしら、逆説的な疑問が生じるのである。結末だけがうつくしい。
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2009年01月26日
 ああもう、切なすぎて、胸が潰れそう。藤原よしこの『恋したがりのブルー』に示されているのは、男女四人のスモール・サークル内における恋愛模様でしかなく、それがこの4巻に入っても決して開けてゆくということはないのだが、しかし、溜め息がいくつも漏れるほど、やわらかく透き通って今にも壊れそうな、情景が広がる。ウソからはじまったはずの恋が、いつの間にか、本心になってしまっていた蒼であったけれど、陸と清乃とがじつは昔から好き合っていたことを思えば、それがどれだけ辛くとも、身を引くよりほかなかった。一方、清乃と付き合い出した陸も、蒼のことが思い出されては、悔やみたい気持ちでいっぱいになる。だが、いったん先に進んでしまった時間の針はもう元に戻ることがない。清乃のかつての恋人であり、陸の親友でもある海から、意外な告白を受けた蒼は、そのやさしさに触れて、だんだんと陸を忘れようとする。ほんとうに、それ以上のことは、何も起こらないのである。事故や難病で誰かが死んだりもしない。にもかかわらず、ありありとした感動が、マンガのうちに存在している。なぜだろう。たとえば嫉妬がそうであるように、想いがつよく深ければそのぶんだけ、せこいこと、しょぼいことにも、感情が、おおきく揺さぶられてしまう場合がある。たかだかその程度のことさえ、コントロールしきれない部分に、あるいは人間らしさを見つけられたりもする。こうした、他愛もないモーメントのうちに隠される生々しい表情を一個の手がかりとし、作品は、自分にすら正直になれない人々の苦しさを、見事に描き出しているためである。四人がそれぞれ、複雑な思惑を抱き、立ち会い、二手に分かれる場面の〈ただ いっしょうけんめい好きな人がいるだけなのに あたしたちの 心は いつも 泣いていた〉というモノローグが、抜けないトゲの痛みを寄越す。

 1巻について→こちら
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2009年01月25日
 この4巻に入って、花火と誓、そして雪音の三角関係が、やたら生々しい展開を見せているような、ななじ眺の『コイバナ!』である。好きになってしまった男子に、自分では決してかなわなそうな恋人がすでにいる、さてどうしたらいいか、の展開をいかに描くかが、このマンガのポイントになるだろう、と考えていたわけだけれども、劇的なドラマを用意し、状況を一変させるのではなく、言い方は悪いが、せこいアプローチを積み重ねることで、相手の心変わりを期待しちゃうだなんてのは、こうしたピュアラブルなラヴ・ストーリーのヒロインらしからぬ、邪の道ではないかしら、という気がしないでもないが、意外と現実の恋愛だってそんなものだしね、とは思う。他人からは磐石に見えていた誓と雪音の隙を、まあ花火の立場からしたら自覚のないまま、突いて、別れのきっかけをつくってしまう。以上が、ここでのくだりであって、おかげで誓と急接近できたことに、多少は罪悪感を覚えながらも、結局のところ、うきうきしちゃう花火は、でもやっぱりちょっと、客観的には、嫌なやつだねえ。要するに、恋愛においては物質的に近くにいる人間がいちばんつよいの理論、の勝利でしかないわけだからさ。しかし必ずしも悪者となっていないのは、三角関係にあとから加わった人間の、こういうかたちでしか恋愛を成就できない仕方なさに、それなり説得されてしまうものがあるからだろう。それで十分なのに、はたして読者の目に向けてのフォローか、あるいは今後の物語のためになのか、雪音の人格に致命的な非があるように持って行っちゃう、持って行こうとしているのだとしたら、程度が低すぎる、疵となりかねない。そのへん、ほんとうはどうやって転がすつもりなのか、次巻以降を待たなければならないが、うまくやって欲しく。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
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 ああ、こいつはやばいや。佐藤ざくり、まさかここまでのポテンシャルとは、思わなかったな。すさまじくファニーである。『おバカちゃん、恋語りき』は基本的に、最近のアルコや幸田もも子のような、ギャグとしてのラブコメになっているのだが、しかしその弾け具合ときたら、正しく他に類を見ない。この1巻の時点でもう、ネジが一個か二個、完全に外れてしまっている。とにかく、身も蓋もなさすぎるところが、茶目っ気にあふれ、おかしい。

 格闘家の父親に育てられ、不良をも簡単にのしてしまうせいで、西日本最強の女という噂が一人歩きしてしまった園田音色は、そうしたすべてをリセットすべく、東日本の高校への転校を果たす。もちろん、目標は本気で恋をすることであった。以上のような出だしから、自然と、最近の主流でもある高校デビュー系のヴァリエーションかしら、と予想してしまうけれども、いや、ぜんぜんそんなことはなかったね、これ。

 何せ、さっそく音色は揉め事を起こすし、彼女が入れられたのは、問題児ばかりを集めた特殊クラス、通称「バ科」であり、〈なんか…スタートダッシュ…逆走って感じ…?〉と、途方に暮れる。だが幸運はどこにでもあって、特進科のイケメンさん、相澤深と出会い、一目惚れし、胸ときめかす。こうした筋立てから、自然と、逆境にくじけないヒロインの片想いとがんばりを描いていくのかしら、と予想してしまうけれど、いやいや、そんなこともぜんぜんなかったね、これ。

 たしかに、筋書きだけを追えば、高校デビュー系のヒロインが片想いにがんばる、と要約できるだろうが、しかし最大の魅力はそこではない、そこにはなくて、現代的な少女マンガの、通常におけるイディオムを換骨奪胎しながら、セオリーとして想像される展開の斜め前を、一歩も二歩も先にいったコメディが、怒濤のごとく繰り広げられる様子に、たまらないものがある。ノック・アウトされる。

 ひとまず、登場人物たちがみな、めちゃんこである。基本的なスペックがどうというより、その言動が、ずれているのではなく、あまりにも明け透けであるため、おいおい、ちょっと、慎めよ、という具合に、突っ込みを入れたくなる。特殊科のクラスメイトは、もちろんとんでもないし、ほんらいは彼らと住む世界が違う相澤も、天然なわりにサドっ気抜群、という少女マンガにおける典型的な王子像を、大胆にサンプリングし、いい感じに傍若無人であるさまが、音色を引っ張り回す。賑やかな空気の一端を、ぎゅっと掴んでいる。理事長とその弟も、ワキに置いておくのがもったいないぐらいの馬鹿さ加減で、いいよ。

 特殊科のなかでは、しだいに音色に惹かれてゆくトキオが、どうやら相澤と因縁があるあらしい点も含め、キー・パーソンの役を負っていると思われるが、それ以外には虹花という女子の存在が、じつにエクセレントである。ふつうなら、ヒロインの親友にあたるポジションにいるのだけれども、初対面の音色に向かい〈え〜〜虹花 女子とかどうでもいいんだお だって虹花 男子にモテる事以外 どーでもいいんだもん〉と悪びれないあたり、かなりひどい。そして音色の恋愛に関しても、完全にどうでもよさげであって、こういう態度がしかし、芯のしっかりしているふうに見えてきてしまうのが、困る。

 個性的な登場人物ばかりではなく、エピソードの立て方やギャグの入れ方も、よく生きていて、とくに音色と相澤が急接近する学内合宿の編が、好き。音色が手刀で薪を割っているシーンとか、それだけでもう変だろ、愉快だろう。イベントの最中にヒロインが倒れ、好きな男子に介抱される、そのようなお約束だって、理由が生理の二日目に熊に襲われたからだというのも、ロマンティックぶち壊しである。だがそうした全部がたいそうすばらしい。

 印象としては、作中に〈よかったね 相澤深は園田さんにラブずっきゅん・なんだよ〉というセリフがあるけれど、おそらくはそのフレーズの元である邦楽の某アーティストがそうであるように、まじなのかネタなのか不透明な揺らぎを脈絡の欠いたまま、できうるかぎりクリアに描き出している。

 『otona・pink』2巻について→こちら
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2009年01月24日
 おや、幸田もも子も(この、も、こそが今日重要である)、こういう路線へと振り切れていくのか。『よってけ!音子村』は、ラヴ・ストーリーの、ストーリーにあたる箇所を、コメディに移し換えて成り立ったマンガである。もちろん、それって単純にラブコメのことでしょう、といえるだろう。が、しかしラブコメと呼ばれる系がすでに、男女の関係を戯画化した一つの様式、一つの語り口である、と前提されるとき、『よってけ!音子村』に描かれているのは、もっぱらギャグでしかなく、恋愛のモチーフは、ただそのどたばたを盛り上げるためにのみ、費やされる。つまり、従来のラブコメに比べて、極端に物語性が低い。にもかかわらず、そこにドラマを見ることが可能なのは、やはり、ラヴを扱っているからにほかならない。要するに、これをラヴ・コメディであるとするならば、ラヴはテーマにかかっているわけではなく、あくまでもストーリーを肩代わりしているものなのであって、それがさらにコメディとしてあらわされているのである。そしてそのようなスタイル、センスは、幸田に特有であるというよりも、現在、少女マンガのシーンにおいてポピュラーになりつつあるものの一つ、ではなかろうか。ヒロインの有栖川乙女は、根っから〈男ってのは最低な生き物ね!〉と思っており、恋愛なんてのもするつもりがない。だが、16歳になったら婿をとらなければならないという、家のしきたりのために無理やり、婚約者を見つけるべく、住民の98%が男子であるらしい音子村で暮らす羽目になってしまう。まず設定の大半が冗談のようであるし、そうした事情を嫌々、反抗する乙女の態度が、当人の切実さに反し、おもしろおかしく示されていることが、作品の魅力を担う一点だと感じられる。もう一点、白馬騎士(はくばないと)という、この名前もまあ冗談のようであるけれど、その、音子村で出会った同級生とのやりとり、じょじょに惹かれ、不器用で切実に片想いしていく様子が、フックの役割を果たしている。つまり、こうした二点を指し、最初に述べたとおり、ラヴ・ストーリーの、ストーリーにあたる箇所を、コメディに移し換えて成り立ったマンガ、と受け取れる。

 『姐さんカウントダウン!〜恋愛抗争編〜』について→こちら
 『姐さんカウントダウン!』について→こちら
 『誰がスッピン見せるかよ』について→こちら
 『そんでむらさきどーなった?』について→こちら
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