ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年01月02日
 中島敦殺人事件

 こういう褒め方を作者は好まないかもしれないが、小谷野敦の『中島敦殺人事件』はとてもファニーなラブコメ小説だと思う。不穏な題名に暗示されている殺人事件とは、作中で解説されているとおり、文学史における当該作家の扱いを皮肉的に指していて、いやたしかにそれや、種々の研究をめぐるアカデミズムの世界の、内部描写が重要なパーツを為しているのだけれども、物語的には、メインの人物である男女が、恋愛の意識を踏まえながら、生々しく応答し合ってゆくところに、最大のおかしさ、魅力がある。そうした男女のうち、比較文学を専門に大学で非常勤の講師をしているという藤村敦は、おそらく、若かりし日の小谷野自身をモデルとしているのだろうし、もう一人のほう、女子大学の国文科で修士課程の一年生だという菊池涼子は、小谷野の過去作である『美人作家は二度死ぬ』にも登場していた(注記には〈本作は『美人作家は二度死ぬ』の続編だが、設定を変えてある〉とある)。さらには、小谷野が先般出したばかりの『翻訳家列伝101』に照会できる箇所も多い。が、このような情報は、筋を追いかけるにあたって、絶対に必要とはならない。むしろ、もっと息抜き、目を通されたい。すると、80年代の半ばを舞台にした恋愛の模様としてのリアリティが、ふっと浮かび上がる。個人的には、如才ないヒロインと手緩い青年の対照に、時代性が近しい『めぞん一刻』や『東京ラブストーリー』といったラブコメのマンガに対する、まるでアンサーであるような内容を見た気がした。そしてファニーだと感じられる由もそれによっているのであった。一方、併せて収められている短篇小説「天皇の煙草」は、がらりと作風を変え、禁煙を強制されるせいで、じょじょに妄念をつよめていく中年男性の意識を戯画化している。しかし、煙草への依存はきっかけの一つにすぎないだろう。半径の狭い社会生活に抑圧された個人の苦悩はいかに発達するか。その過程に込められた切実で大げさな訴えが、主体の視野を不安定に歪め、話を妙な方向に転がしているのである。『中島敦殺人事件』にしても「天皇の煙草」にしても、世界のあらわれ方自体は、たいへん小さい。せこく、みみっちい。しかるに、そういう小ささ、卑近さが、翻って、作品の重量になっている。あるいは反対に、いっけん堅苦しい題材を気軽に転じさせているのであって、そこを手がかりに共感の回路を掴んでもいける。

・その他小谷野敦に関する文章
 創作
 『童貞放浪記』単行本について→こちら
 「童貞放浪記」について→こちら
 『悲望』単行本について→こちら
 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

 評論
 『『こころ』は本当に名作か 正直者名作案内』について→こちら
 『リアリズムの擁護 近現代文学論集』について→こちら
 『退屈論』文庫版について→こちら
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2009年12月11日
 新潮 2010年 01月号 [雑誌]

 『新潮』1月号掲載。青山七恵の短篇小説『うちの娘』のなかに出てきて、一つのアクセントをなしている〈ヨイじゃない〉という言い回しは、埼玉弁でいいのかな、標準語であったり他の地方でも使われているのかどうかは知らないが、すくなくとも作者の出身地では慣れ親しまれているものだろう。たぶん、よいじゃあねえ、と書いたほうがニュアンスとしては近しい気がするのだけれども、作中で〈ヨイじゃないというのは、「容易じゃない」という意味〉と説明されているとおり、基本的には、面倒くさいことやかったるいことへの感想を指している。青山の小説には、たとえば『ひとり日和』における老女の名前の由来など、ときおりこういった埼玉ネタが用いられるが、それはともかく、『うちの娘』の〈ヨイじゃない〉は、主人公が有しているベクトルを、ゆるやかに現実へとスイッチさせる効果を持っているように思う。主人公の堀田雪子は、五十歳代の女性、現在は大学の学食につとめている。その彼女が、毎日わかめうどんを頼んでくる女学生の微笑みに感情移入し、あたかも〈自分の娘として眺めてみる気になった〉のを楽しみにしていることから、現実と夢想あるいは加齢と若さが並列されながら生きる日常を、小説はすくい取ってゆく。〈雪子はもともと、想像好きな少女であ〉り、〈一日が終わり、眠りにつく前〉には〈目を閉じて、頭の中にある想像のための部屋の前に立〉ち、〈そして暗闇の中でぼんやり発光するドアを静かにノックする〉と、さまざまな夢想にふけていたのであったが、それも今は昔、やがて〈少女時代を脱し、成人し、恋愛し(略)結婚し、男の子どもを二人産〉み、〈その過程で徐々に、四隅が見渡せないほど無限に広がっていたあの想像の部屋に出入りをしなくなってい〉き、〈夜、目を閉じても、光るドアは見えなくなっ〉てしまったのだったけれど、例のわかめうどんを頼む娘が〈やってくるのを待っていると(略)自分が再びあのドアの前に立たされているのを感じた〉のであって、こうした主人公の心理状況と周辺情報とが、作品の内容をつくり出しているのである。〈ヨイじゃない〉というのは、主人公の同僚である玉巻さんが、彼女にかける言葉だ。ふとしたときに「ヨイじゃないわね」と玉巻さんは言う。それはおそらく、生活と呼ぶべきものの、重すぎず軽すぎない実感を、代替している。結局のところ、誰の暮らしぶりも、程度の差や世代ごとで倫理の違いはあれ、〈ヨイじゃない〉。〈ヨイじゃない〉ことの内にはもちろん、他人には知れず、当人にしか確認されないはずの孤独がある。そして孤独は、現実と夢想とのあいだを、ゆるやかに行ったり来たりし、輪郭の曖昧な像を描くのみで。小説の最後、〈彼女の前には再び、発光するドアがあった〉が、しかし〈自分がその部屋の中にいるのか外にいるのか、わからないでいた〉のだった。

 『山猫』について→こちら
 『ニカウさんの近況』について→こちら
 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2009年11月12日
 季刊 真夜中 No.7 2009 Early Winter

 『真夜中』NO.7掲載。『三十六号線』は、新しくはじまった長嶋有の連載小説で、第一話目には「殺人事件」という題が付けられている。そうした物騒なニュアンスは、もしかしたら作者のイメージには似つかわしくないもののように思えてしまうのだったが、いやじっさい読んでしまえば、ディテールや人物の立ち方に、従来の、らしさ、がありありとしているのだし、反面、たしかにこれまでの作品ではあまり気にならなかったような、不穏さ、が立ちこめてもいる。二〇〇三年、北海道はA市、三十六号線沿いのスーパーマーケットで夕暮れどき、一人の中年女性が二人組の刑事に聞き込み調査を受けていた。四日前の同じ頃、その駐車場で、一人の老人が何者かに後頭部を殴られ、亡くなったらしい。まさしく「殺人事件」である。刑事たちの話に耳を傾けながら、彼女は、いつだったかに見かけた不良少年の集団を頭に浮かべるのだった。出だし、話が進むうちで重要なのは、おそらくは主人公なのだろう奈実子という中年女性の意識が、殺人を知った衝撃から、少しずつ、自分の半径をぐるりめぐる生活へと移っていくことが、小説自体の結構をつくり出していることだろう。たとえば、学童保育の仕事をしている彼女は、刑事とのやりとりにおいて不良少年を想起してしまったがために、ふと自分が受け持っている子供たちの〈背が伸びていなくなった後の彼ら彼女らの「分からなさ」に、不安か寂しさのようなものを感じ〉てしまう。こうした動き方をする奈実子の心理を、一種の語り口とし、作品は、その生活や家族、すなわち日常のあれこれを描写してゆくのだ。必ずしも中心的な出来事ではなく、むしろ背景の一部でしかないとはいえ、郊外の殺人を内容に盛り込んでいるからか、どこか角田光代の『三面記事小説』や吉田修一の『悪人』にも通じる暗がりを見つけられるけれど、何かしらの憂鬱を抱えながら、あくまでも平凡のこちら側にとどまり、ぶらんとした情緒のよくあらわれているところに、この作家ならではの逆説的な力強さがある。第二話目以降、どう展開するのか、もちろん、ぜんぜん、わからないが、楽しみ。

・その他長嶋有に関する文章
 『エロマンガ島の三人』について→こちら
 『夕子ちゃんの近道』について→こちら
 『泣かない女はいない』について→こちら
 『いろんな気持ちが本当の気持ち』(エッセイ)について→こちら

・ブルボン小林名義
 『ぐっとくる題名』について→こちら
 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら
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2009年11月09日
 文学界 2009年 12月号 [雑誌]

 『文學界』12月号掲載。村上龍の『心はあなたのもとに “I'll always be with you, always”』は、作者がこれまで手がけてきたヤザキケンあるいはケンジ・ワークスの総集編とでもすべきアイディアの流用を、今ふうの難病恋愛ものというかケータイ小説的というか、あらかじめ恋人の死が定められているような物語に落とし込んだ内容であって、正直なところ、持って回った筋書きに怠さの誘われる部分はすくなくない、というのは以前にも述べたけれど、連載も三十回を越えて、ようやく佳境に入ってきた感がある。主人公である中年男性によって手厚く養われている愛人の病状が悪化し、両者のあいだに色濃く横たわっていた死の気配が、具体的なモーメントへと変わりはじめている。ひさびさの逢瀬、しかし約束の時間に現れない香奈子に連絡をとろうとするが繋がらず、ケンジは〈これまでも直前のキャンセルがなかったわけではない。しかし、そういうときは必ず連絡があった。こんなことは、はじめてだった〉と悪い予感を抱き、心配の言葉をメールにして送るというのが、この第三十一回の引きである。が、クライマックスの生じる前段階において、かねてより香奈子が喪失されるかもしれないことに持っていたケンジの不安が、少年時代の記憶と家族との関わりのなかで、強烈さと曖昧さを増しながら先延ばしにされている、それが今回の要所だろう。てっきり、主人公の妻子は背景に引っ込んだまま、ずっと話は進んでいくのかと思っていたのだけれども、ここにきて、断片的に、彼女たちの存在が浮かび上がる。そしてそのイメージは、スノッブな印象も含め、村上龍の過去の小説にしばしば見られていたものと共通する。たとえば一つ例を挙げるなら、家族間の無関心と奇妙に戯れる短編「ウォーク・オン・ザ・ワイルドサイド」を思い出させる。必ずしもシリアスに向き合う必要のない関係性は、しばしば主体をリラックスさせる。こうした認識のありようが『心はあなたのもとに』の第三十一回では、あたかも〈家族との時間は、わたしを受身にする(略)わたしには基本的に居場所がない。まるで透明人間になったかのようで(略)それが心地よかった〉と再確認されている。他方、幼い日の出来事が、ふと主人公の頭をよぎるくだり、ヨシムラという少年の存在もまた、『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』など、作者の過去作に見つけることができるし、虚弱体質の同級生のエピソードは、他の作品にも拡散している。ヨシムラは〈でも、ぼくは、映画を観ているときだけ、少し痛みを忘れるんだよ〉と言う。もちろんこの、映画、という響きが持っている意味合いもやはり、村上龍にお馴染みのものだといえる。

 第二十七回について→こちら
 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2009年10月12日
 文藝 2009年 11月号 [雑誌]

 『文藝』冬号掲載。大森兄弟の『犬はいつも足元にいて』は、ここ数年の文藝賞受賞作を丁寧に総合したかのような、そういわれればとてもしっくりとくる小説で、なるほど、これが第46回文藝賞に選ばれたのはよくわかるものの、正直、それ以上の感想は出てこなかった。と、いきなり話はそれていくが、『新潮』11月号に掲載されてい同誌新人賞の選評で、町田康が、赤木和雄の『神キチ』を指し、〈今回の候補作で唯一、家族モノではない小説だった〉といっている。そういう家族ものへの傾斜は、必ずしも『新潮』の新人賞にかぎったことではないだろうことは、同時期に発表された『すばる』や『文藝』の新人賞受賞作からもうかがえる。そして、どうしてそうなっているのかに対し、一つの仮説を立てるのは可能であるように思う。たとえば、近代的な内面にとってのリアリティは、半径の狭い世界がいかに難儀であるかを描写することにより、保証されているとしたとき、90年代以降は、それをあくまでも自意識のほうへ極端化、奇形化したものが主流となり、うけていたわけだが、おそらくは最近、反動的に物語のほうへ引っ張ろうとする気分が高まりはじめている。しかし、半径が狭い世界をベースとした内面の説得力を捨てるほどの思い切りはなく、そのため、せいぜいが小さな共同体を巻き込み、イベントを成立させるぐらいのアプローチにとどまった結果、家族ものが台頭してきたのではないか。共同体の中身は家族ではなくとも構わない。学校という単位であってもよい。別段、共同体をダシにしたからといって、そこに血の繋がりを見たり、友情や愛情の古典的なモチーフをこしらえたり、あるいはそれを破棄するつもりはなく、基本的には、内面描写の延長線にほかならないからである。この『犬はいつも足元にいて』も、そうしたヴァージョンの一つだといえるだろう。一人の少年ともう一人の少年が、もしくは二人の少年と周囲の人びととが、悪意をキャッチボールしながら、作品はつくられているが、その悪意は、彼らの世界の半径の狭さに拠っている。小説は、語り手である小学生の〈僕〉を中心に、両親の離婚を説明しつつ、はじまる。そこらから父親の残していった犬を継ぎ目にし、物語を続け、やがて中学校のクラスメイト、サダを登場させる。〈僕とサダのやりとりは、いつもどこか噛み合わなかった。お互いにパズルの間違ったピースを無理やりはめ込んだような、気持ちの悪さを感じていたように思う。にもかかわらず、二人でいなくてはいけないという状況が、より僕たちの仲を陰険にさせていた〉といわれる関係が、非感動的な手ざわりのなかで、かすかなエモーションの確かめられた展開をもたらしてゆく。
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2009年10月09日
 新潮 2009年 11月号 [雑誌]

 『新潮』11月号掲載。第41回新潮新人賞をとった赤木和雄の『神キチ』は、きわめて市民的で、不運な、そして冴えない中年の男性が、さまざまな宗教における聖と俗とが入り交じり、すっかりと混乱したなか、真の祈りに値するものを探し、求め、這いつくばる小説である。というと、何か大層で高尚な気がしてしまうけれども、基本的にはギャグであって、いや、だからこそ素直に可笑しい。古い木造アパートに住み、下請けの屋根屋として働く伊作のもとへ、ある日、教会から元ヤクザの男が小冊子を配りにやってくる。たぶん善意で。それを伊作は丁重に断るのだが、まるで男はらりったような反応を示すばかりであった。またべつの機会、伊作が神社のある山を登っていたとき、今まさに自殺をしようとする背広姿の男に出くわす。彼を止めるつもりで、とりあえず自殺の支度を手伝っていると、奇抜なファッションの若者がやって来、興味本位から二人を急かしはじめるのだった。こういう、伊作とほかの誰かたちとの素っ頓狂なやりとりが、場所を変え、状況を変えながら、次々に繰り広げられているわけで、そう、それはちょうど、四コマのマンガが、一回一回のオチをつけて、ぶつ切りの小さなエピソードを積み重ねてゆくのに似ている。総合すれば、物語として見るべき流れもあるのだろうし、テーマとして取り上げられる項もあるだろう。しかし細部の、お互いがお互いにお互いの筋を違えても構わず、阿呆みたいなコミュニケーション(もしくはディスコミュニケーション)へと没入するさまに、もっとも熱が入っており、それが翻って、作品をユーモラスな印象で満杯にしている。いっけんごつごつとした語り口も、あえての仕草でキッチュな色合いを強調し、馬鹿馬鹿しさを余計に注ぎ込んでいるみたいだ。『神キチ』という題に暗示されているとおり、伊作を含め、作中人物たちはみな、頭のネジが一本か二本飛んでいる。にもかかわらず、小説の結構が崩れず、むしろ落ち着いて感じられるのは、あくまでも彼らの振る舞いを、この世界の平常として捉まえているからにほかならない。たしかに、どいつもこいつもじっさい近くにいたら弱るし、困る。だがそれというのは、程度の差こそあれ、しばしば現実に起こりうる。遭遇してしまったせいで、大けがをしてしまうことがある。大けがを見、笑われてしまうこともある。
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2009年10月07日
 すばる 2009年 11月号 [雑誌]

 『すばる』11月号掲載。木村友祐の『海猫ツリーハウス』は、第33回すばる文学賞受賞作にあたり、読みながら、なるほど、達者といえば達者な作品である、と思いはしたのだったが、都会に縁のない場所に住んでいる人間からすると、ここに描かれている田舎の風景はまるで、創作の技法上、都合のよいファンタジーにしか感じられず、そのへんで、すこし、白けてしまった。というのは、もちろん、ごく個人的な意見にほかならないのだけれども、しかし題材化されているサークル・ゲームの孤独は、結局のところ、田舎を舞台にせずとも成立する類のものであるだろう。服飾の専門学校を中退し、青森の実家で祖父母の農業を手伝う一方、米屋を営みながらツリーハウスを手がけ、役者を自称する親方のもとでアルバイトに励む語り手の〈おれ〉は、現状に対するフラストレイトからか、それとも過去に受けたダメージのせいでか、しばしば空中でヘリコプターに首を吊られた自分の姿をイメージしてしまう。二十代を半ばにし、〈もういい加減家を出て自活しようと考えている〉のだが、どうしてもその一歩が踏み出せないことを気にかけている。ちょうどそのタイミングで、大阪へ出たはいいものの、グラフィック・デザインの職探しに行き詰まっていた兄の慎平が、親方のツリーハウスによく顔を出しにくるランプ職人、原口に恋をし、彼女に近づくため、農業をやるぞ、という口実で、実家に帰ってきたことから、〈おれ〉の日常にも波紋が生じはじめる。こうした筋立てにおいて、〈原口さんをはじめとして、この「海猫ヴィレッジ」にはジャズピアニストや写真家、陶芸家といったアーティストや職人がよく集まってきた。皆一度この地を出て東京や海外で腕をみがいた人たちで、話の内容も物腰もなんとなくひとつ抜けたような洗練やほがらかさがあるものだから(略)彼らにはもう物作りするのに中央も田舎もさほど関係ないのかもしれない。でもだからこそ逆に、まったく外の世界を知らない自分の頼りなさを強く意識させられてしまう〉という〈おれ〉の自意識が、上下の起伏をつくっていくわけだけれども、起伏自体はあくまでもモラトリアムの性質に由来するものであって、その点に関しては、あまり舞台が田舎であることの必然を受け取れなかったのである。いやむしろ、方言によって規定される共同体の小ささ、交通手段によって限定される行動範囲の狭さは、〈おれ〉イコール亮介と慎平のラインに顕著であるような、つまりは兄弟や家族などのア・プリオリな関係の向きにとって、十分な効果をあげているのだが、とうとう訪れるカタストロフィ(大げさかな)が教えるとおり、小説の比重は、自己実現を目的化したとき、あとからついてくるサークル・ゲームの孤独に寄っている。ところでフラワーカンパニーズの「深夜高速」ってたしかに良い曲だよね。それを聴いている場面があるけど、得たインスピレーションもおおきそう。
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2009年10月02日
 バレエ・メカニック (想像力の文学)

 幸福な夢を見ながら目覚めてしまうのはどうして悲しいんだろう。それはたぶん、幸福な夢に比べ、現実は善く出来ていなくて、それらは必ずや後者のほうに向かい分岐されなければならないことを知らされているからなのだと思う。

 津原泰水の『バレエ・メカニック』は、現実と幻視とが入り交じった世界の混乱を、達筆な情緒で描く。おおきく三つの章にわけられた小説で、〈君〉という二人称により呼びかけられる中年男性が体験する未曾有の災厄を通し、物語は進んでゆく。では、いったいなぜ、造形家の彼は〈君〉と名指されているのか。第一章で繰り広げられた災厄のその後、平和にも見える日常のなか、不穏な人智と個人の救済とが融解する第二章を経、全貌の変わってしまった都市生活が想像される第三章に至ったとき、ああ、と深く差し込まれる感嘆がある。

 作品に高い値がつき、天才とすら評価される木根原であったが、九年前、娘の理沙を水難事故に遭わせてしまい、以来、昏睡状態のまま病院で横たわる彼女をただ存命させるためだけに、自分の人生をなげうっているにすぎない。維持費を捻出するため、芸術家的な狂気をキープし続けなければならないことはまた、彼を孤独にし、ひどく蝕んでもいる。〈年々病院から足が遠のきがちになっているのを内心では自責している。しかし君が綱渡りを続けていないかぎり(次々と錬金術を更新していないかぎり)彼女の世界は消え失せてしまう〉のだった。だが、今や十六歳になった理沙の身辺に次々と異変が起きはじめる。それは何の兆しであったか。東京中を正体不明の怪奇が襲う。白昼夢にも似た。理沙の主治医である龍神によれば、〈都市の無数の要素が絡み合った結果、奇蹟的なネットワークが形成され、理沙ちゃんの壊死した新皮質の機能を、いささか歪んだかたちで担おうとしている〉ことが、このような現象を引き起こしているのだという。〈君〉は龍神とともに、理沙がいる病院に向かわなければならない。パニック状の干渉を免れた巨馬、ストロングゴーストが引くワゴネットに揺られながら。ビル群をまたぐ壮観な蜘蛛、ハンニバルの足下を抜けて。その渦中、過去の残像が胸に去来する。

 以上のような、第一章における歪んでよじれた筋書きは、いくつもの謎かけをともなっており、そしてそれらの、多義的な解釈の余地が、生と死の臨界を踏み越え、物質と精神の垣根を取り壊し、自我と他我の分離を繋げて、夢と現実とが入れ子になったフィクションを展開させることになる。夢が現実を覆うのか。現実が夢を覆うのか。結局のところ、ミステリのタッチで理沙の行方を追跡する第二章の主人公も、ハイテックな装置で近未来のヴィジョンを覗く第三章の主人公も、第一章の主人公と同じく、入れ子になっている重箱を開け閉め、出し入れしながら、決して十分にはあかされることのない認識にはまってゆくのである。

 作品の構造は、おそらく具体的に錯綜としているが、繊細さをとどめつつ、一個一個の場面に、あざやかな抽象性を塗した物語は、せつない印象を寄越す。作者が以前に発表した長篇を例に出し、巨大な都市に幽霊の居つく不安は、『妖都』を思わせる一方で、退廃的なイメージを暮らす人びとの疲れは、『ペニス』に通じるだろう。しかし、ある種のリリシズム、感動の観点からすれば、『バレエ・メカニック』がもっとも香しい。現実を前に、無力であること、はかなさが、翻って、うつくしくなっているのだ。

 津原は『文藝』秋号(09年)の書評で、桐野夏生の『IN』にあて〈脳内ネットワークとでも称すべき、我々が共有する、もうひとつの世界。そこに巣くう怪物がフィクションであると捉えれば、公然とその養殖に励む作家という職能は、「因果な」では済まされない、呪わしい役まわりに違いない〉と述べているが、その役割を評者自身、たしかに引き受けていることが、この小説からはよく伝わってくる。

 ところで、まったく些細なことであるけれども、205ページの、マイケル・ジャクソン(作中の表記ではマイケル・ジャクスン)のくだりは、いつ書かれたものなのだろう。あるいはどのタイミングで挿入されたのだろうか。いや、取って付けた感じもせず、タイムリーな話題をうまくテーマに寄せているので。

 『たまさか人形堂物語』について→こちら
 「土の枕」について→こちら
 『ピカルディの薔薇』について→こちら
 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら
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2009年09月24日
 密室から黒猫を取り出す方法 名探偵音野順の事件簿

 副題に「名探偵音野順の事件簿」とあるように、この、北山猛邦の『密室から黒猫を取り出す方法』は、『踊るジョーカー』の続篇というか、推理作家である白瀬白夜と引きこもりがちな名探偵である音野順のコンビを主人公にするシリーズの第二弾で、もちろん前作と同じく、あかるめな雰囲気のミステリ小説になっている。まあ、扱われている事件のほとんどが殺人である以上、あかるい、というのもどうかと口を挟めたりするけれど、暗い恩讐ですらもさらりと軽く流れていくところが、やはり最大の魅力に感じれてしまうのだから仕方がない。裏を返すなら、自己中心的な悲劇にかかずらっているような甘ちゃんに完全犯罪は成し遂げられないことを作品は喝破しているといってしまってよい、かもしれない。あるいはだからこそ、唯一完全犯罪を成し遂げてしまった「音楽は凶器じゃない」の犯人だけが最後まで、いったいどんなタイプであったのか、具体的な像を結んでこちらには見えてこないのだろう。かの人物はある意味で「名探偵音野順の事件簿」のパターンを逸しているのである。全部で五つの、基本的にはハウダニット式にトリックを展開した小品が並んでいるが、それらの欺きはどれも、仕組もうとする側がたとえ疑り深い性格の持ち主であったとしても、最終的にはこの世界を支える方程式を信頼していなければ成り立たない。しかしそういった前提が、言い換えるならば、この世界のありよう自体が決して完璧ではないため、どこかで破綻をきたしてしまう。そのことはもしかしたら、表題作にあたる「密室から黒猫を取り出す方法」において、犯人の目の前で生じるイレギュラーが教えている。正直な点、この世界が完璧であろうがなかろうが、たいていの人間は平々凡々に日常を過ごすことはできる。主人公のコンビが、場合によっては不謹慎なほどひょうきんに見えるのは、彼らがその不完全さの上に載って回る世界を、自然と受け入れているからなのだと思う。

 『踊るジョーカー』について→こちら

・その他北山猛邦に関する文章
 『恋煩い』について→こちら
 『妖精の学校』について→こちら
 『少年検閲官』について→こちら
 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
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2009年09月11日
 新潮 2009年 10月号 [雑誌]

 『新潮』10月号。恥ずかしながらというべきか、正直にというべきか、朝吹真理子の『流跡』は、読んで、よくわからなかった。このことが作品の問題ではなく、読み手であるこちらの資質のせいであるなら、むしろ誰かに、どういう意を汲めばいいのか、教わりたいと思わされる作品であった。もしも次の月の文芸誌に評が載るのであれば、はやくともそれを待たなければならないわけだ。しばらくかかる。いやもちろん、よくわからなかったのは、散文の形式のなかで話の筋が明確となっていないからではない。たとえば、視線の動きが一つ一つの場面を象っており、そこに特徴的な瞬間があらわれていることにそそられる、というのではなくて、ほとんど心象でしかないものが連続し、いわくありげなモニュメントを次々と打ち立ててゆく様子の、いったいどこにピントを合わせたらいいのか、うまく掴めなかったためである。そのため、他人の実感以上のたしかさを得られなかった。あるいはじっさいに綴られているのも、他人の実感にすぎないのだろう。結局のところ、死や加齢という、誰にとっても切実な箇所だけが、光って見えた。
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2009年09月10日
 文学界 2009年 10月号 [雑誌]

 『文學界』10月号掲載。北野道夫の文學賞新人賞受賞第一作である『虹と虹鱒』は、読みはじめ、あまり良い印象を持てなかったのだけれど、小説が進んでいくうち、何か頭に引っかかるものがあり、最後までいき、ああ、そうか、と感じられたのは、とても悪くなかった。引っかかりをつくっているのは、もちろん、偶数の節において、「きみ」という二人称で語られている存在のことであるし、いくつかの記述が整合性を欠いていることであったが、要するにこれは、他でもありえた可能性を主体が見てしまうという今日的な題材を、自閉以外のどこにも辿り着かせないための方便なのだと思う。地方もしくは郊外をあちこち回ってみせる描写も、おそらくは、そのあたりに通じている。嫌がる女性を男性が無理やり制し、セックス(性交)する場面が冒頭にあり、両者の(視点とは決して言い切れないような)立場が、奇数と偶数で二つの節にわかれ、表明されてゆくのだけれども、それらは決して対他関係やコミュニケーションの物語と重なってはいない。いっけん重なっているふうに取れる箇所もじつは違っていることが、最終的にあかされているのである。まあ仕掛けというほど凝っているかどうかはべつとしても、構成の段差に共感を潜ませた作品の性質上、筋立てはやや錯綜しているものの、大まかに取り出すのであれば、非野という男が、高校の頃に失恋させられた相手を探し出し、性的なファンタジーを満足させようとする一方、その対象であるユウの、性的な欲望にだらしのないイメージが、彼女の経歴をなぞらえるかたちで示される。非野のパートとユウのパートが、ちぐはぐな線しか結べないのは、結局のところ、主観と客観とが対立し損ない、現実そのものの遠近に無理が生じているためだろう。そしてその、奇妙に歪んだ目線こそが、小説のなかで、いちばん生々しく、寂しい、もっともうつくしい光景を掴まえている点に、自閉の思想とでもいうべきリアリティを有している。
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2009年09月05日
 キャンセルされた街の案内

 ここ最近、長篇のイメージを吉田修一には持ちはじめていたけれど、短篇集である『キャンセルされた街の案内』を読みながら、そうだ、あくまでもこういう小さい世界を原型に持っているような作家だったな、と、ひさびさに思った。いや結局のところ、あの『悪人』みたいな作品ですら、ミクロの視点を積み重ねていった先にあらわれた集成にほかならなかったのかもしれない。『キャンセルされた街の案内』には、ぜんぶで十の小説が収められているが、それぞれ発表された年も違えば(場合によってはおよそ十年の隔たりがある)、載せられた媒体も違う、したがって物語の書き方、趣向、カラー自体違っているのだけれども、不思議と、ああ、吉田修一だ、と納得されるのは、好みをべつにすればどの篇も、作中人物たちの凡庸な輪郭が、むしろその存在感をくっきりさせているという点で、共通しているためである。たとえば文学などといったところで、今日の場合、多くは、だらしのない人間をいかに適確に描写できるか、そこにリアリティを求めているかのようですらあり、そしてだらしのない人間が、何かしらの軋轢に面し、動揺をおおきくしてゆくことが、情緒だというふうにも受け取れる。こうした手続きをたしかに踏みながら、いっけんウェルメイドに仕上がっているものが、じつはごつごつとしているあたりに、この作者の、らしさ、があるのだという気がしてくる。吉田の作品において、ごつごつとしてるのは、おそらく、現実そのものの肌触りだろう。主人公たちはみな異なった価値観、ライフスタイル(といって差し支えがなければ)に則っている。にもかかわらず、彼や彼女らが対他関係を通じ、行き当たるのは一様にごつごつとした現実なのであって、それがたぶん、レトリックでは誤魔化すことのできない生存を、苦みを、ある種の特徴として浮かび上がらせている。そうしたなかでも、「日々の春」(03年)、「零下五度」(06年)、「乳歯」(08年)、それから表題作(98年)あたりの印象がつよく残った。

・その他吉田修一に関する文章
 『元職員』について→こちら
 『さよなら渓谷』について→こちら
 『静かな爆弾』について→こちら
 『初恋温泉』について→こちら
 『女たちは二度遊ぶ』について→こちら
 『ひなた』について→こちら
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
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2009年08月18日
 この『立原あゆみ 雑誌掲載作品データ1970〜1979』は、今夏コミックマーケット76で頒布された同人誌で、内容のほうはその誌名からうかがえるとおりなのだが、あとがきに〈今回の調査はあくまでも筆者が個人的に可能な範囲で行ったもの。立原先生にも出版社にも全く無関係です〉とあるように、とにかく、これだけのデーターを個人でまとめた労力には恐れ入るし、じっさい、立原あゆみというマンガ家の、初期の活動を一望できるふうにしてくれたのは、ファンにしてみたら、とてもうれしい。自分の話をすれば、立原の作品を熱心に読むようになったのは、ヤング誌『アニマルハウス』(のちの『ヤングアニマル』)で『あばよ白書』の連載がはじまったあたりからであって(89年)、じつは現在でも70年代頃の活動、要するに少女マンガ家であった時代(あるいは、のなかのばらの別名義)をよくはフォローしてはいないのだけれど、しかしだからこそ手元に置いておきたかった。それにしても、これ、どれぐらい買われたんだろうか。今日における立原への注目を考えるに、たいへん気になるのは、資料性の高さとはべつにというべきか、表裏一体でというべきか、同人誌のつくり自体、コアな層以外に対する訴求力がいささか弱いと感じられるためで、たとえば、P75の備考欄の向こうに透けて見えるような、筆者であるsoorce(そーす)の、おそらくは思い入れであるのだろうささやかな指摘が、もうすこし、他の箇所に記されていてもよかった。もちろんそれは、立原が少女マンガと少年マンガのジャンルに分岐してゆく80年代編がつくられることになれば、もしかしたら必然的にあらわれる部分なのかもしれないし、こうしたデーターを、読むもの、というよりむしろ、見るもの、知るもの、として徹底しているところに、この同人誌のスタンスがあるのはあきらかであり、したがって先に述べた、これ、どれぐらい買われたんだろうか、という疑問が浮かぶのである。反面、入り口を立原あゆみとしているだけで、70年代における少女マンガのシーンの、その一脈を、歴史的に切り取ってみせた価値もおおきく、掲載誌や抜粋されたコメント、インタビューに当時の空気が如実となっていて、このへん、少女マンガの旧いファンや研究者にも、けっこうありがたいのではないかと思う。
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2009年08月12日
 文学界 2009年 09月号 [雑誌]

 『文學界』9月号掲載。湯本香樹実の小説は過去に二つほど読んだことがあるぐらいだから、必ずしも正確ではないのだろうが、個人的な印象を述べるなら、自分をナイーヴだと信じたい人間が好きそうな物語、といったところで、それはこの『岸辺の旅』を通じても変わることはなかった。漢字を多めにひらいた文章は、相応にチャーミングであるし、やさしく、思わせる。疲れた心にそっと触れる(こうした形容自体が紋切り型だとしても悪い意味には受け取らない向きもあるだろう)程度にはエモーショナルなのだけれど、そこから拡がってゆくだけの感想を持てないのである。おおまかに内容をいえば、奇妙な別れと再会を果たした夫婦の旅を、まるで夢を見ているようなイメージで、そしてじっさいに夢でしかないシーンを込みで、綴っている。しらたまを食べたくなり、台所に立ってそれをこしらえている〈私〉は、不意に、配膳台の向こうで、三年前に失踪し、まったく行方を知れなかった夫、優介の気配を見つける。〈しらたまは彼の好物だったし、こんな夜中にきゅうに食べたくなったのは妙だと感じてもいたから、「ああそうだったのか」とすぐに思った〉ままに、すんなり受け入れ、今までいったいどうしていたのか、尋ねると、彼は昔と同じ様子で、すこしずつ、自分のことを話しはじめるのだった。そういう不思議さで幕を開けた小説は、主人公を魂の旅とでもいうべき(こうした形容がいささか紋切り型であるとしても)に誘いながら、長篇のヴォリュームを持つこととなる。けれども、正直なところ、どうしてこれだけの長さを必要としたんだろう。やがて旅立った夫婦のあいだに、さまざまな人びとや出来事が介入してくるにはくるが、それらはあくまでも「あなたとわたし」の、ほんらいならたった二人だけで完結している世界に奉仕するものでしかなく、あらかじめの雰囲気をキープするばかり、食料の描写がたびたび大事にされているのも、結局はミニマムな関係性にもっとも身近な話題にすぎないからなのだと思うし、全体を眺めたときに異変をきたすほどの転調もとくにないため、作品自体はとても小さく閉じている。
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2009年08月10日
 群像 2009年 09月号 [雑誌]

 『群像』9月号掲載。中村文則の短篇小説には、筋書きがどうというよりも、奇妙なシチュエーションの目立ったものが多い。そのことは第一短篇集である『世界の果て』によって確認できるだろう。あるいはこの『妖怪の村』もまた、そうした傾向の一例に数えられる。個人的には、作者の作品をいうのであれば、こういうもののほうが好きである。日本中に黒い小鳥が大量発生し、〈目を突かれて死んだ人間が、この一ヶ月で九十人を超えた。黒い無数の点でつくられた巨大な影が、町の大半を埋めている。鳴き声と、建物に飛び散る小鳥の血液と、死体と糞で町は汚され〉ているので、昼間は〈雨戸を閉め、じっとしているしかな〉いのだと、語り手である小説家の〈僕〉は述べる。そして〈夜は小鳥がまばらにしか飛ばず、日が暮れると、国から業務を委託された企業が、鳥の死体を片付け始める。各省庁の天下り先であるそのR2という会社が、小鳥の死体処理の業務を独占している。年間数百億円の税金が使われ、その全てがR2に入る〉のだというふうに、舞台となっている日本は設定されている。その、作中人物にとっては当然であるような風景が、余計にねじれを重ね、幻視的な世界を導いてくるところに、魅力を感じられると思う。奇妙に歪んでいることが日常の世界では、誰もが奇人みたいであり、モデルガンを携えて夜中に散歩へ出た主人公は、鳥に襲われ、怪我を負った下着泥棒の男を助けるかわり、女性もののパンツを預かる。しかしパンツを所持しているせいで警戒心がつよまり、同じ道の先を歩く女性から痴漢に間違えられたらどうしよう、と考えているうち、知らぬまま、さらに奇妙な場所に足を踏み入れてしまう。夏目さんという女性と、まったく鳥のいない世界で暮らすことになった主人公は、そこで尻尾の生えた住民や、まるで日本昔話に出てくるお喋りな動物たちと、長いあいだを過ごすのである。正直、小説家の〈僕〉に対し、ほかの連中が物語と教訓に関する注意を促してくるあたり、ああ、まあね、せっかくの抽象性に何か辻褄を合わせているのかしら、という気分になってしまうのが残念で、ほんとうはもっとずっと不条理でもよかったが、それなりのへんてこさをさわやかに綴る雰囲気自体は、アンニュイで、楽しい。
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2009年08月03日
 アミダサマ

 今までに二つほど読んだだけでしかないのだが、沼田まほかるの小説をあまり好んだことはなくて、ときおり良い評判を耳にするものの、正直怠く感じられてしまうのは、まあ自分のタイプじゃないからなんだろうな、と思うよりほかなかったのだけれど、この『アミダサマ』に関しては、意外にもわくわく、エキサイトさせられた。もしかしたら、積極的に通俗性の高い物語をこしらえようとした部分があるのかもしれないが、何が起こってどうなっちゃうの、これ、という不穏さに引かれる。そしてその、フィクションの、不意に目を離せなくなってしまう暗がりの向こう、人間存在の卑しさが生々しく、ちょうど匂い立つていで、皮膚の感覚に触れてくるのである。とりあえず、婆さん、こええ。すべては冬の最中、冷蔵庫に入れられ、廃車置き場に捨てられた幼女が、二人の男によって助けられ、一命を取り留めたことから、はじまる。彼らはお互いを知らない。ただ、何かに呼ばれ、そこへ駆けつけたのだった。男のうちの一人、たんなる会社員の工藤悠人は、冷蔵庫の幼女を見たとたん、なぜかしら言いしれぬ感動を受ける。男のうちの一人、超然とした僧侶の浄鑑は、これを忌避すべきものと直感する。しかし、悲惨な状態の子供を放っておけはしないので、病院での治療を終えたのち、監視のためにも養子として育てることになる。まだ知らないのだ。その幼女、ミハルがやがて育っていき、おそろしい災厄になることを、知らない。強烈な出自にもかかわらず、ミハルは徹底的に無垢な存在としてあらわされている。あるいは自我が抜き取られてさえいる。無垢であるあまり、自我のないあまり、周囲の情報を鵜呑み、当人も知らぬ生来の資質が、次々と身の丈の世界を一変させてゆく。したがって、ここで起こることのだいたいが惨劇であったとしても、彼女が悪いわけではない。ではいったい誰が悪かったというのか。煎じ詰めるならば、この、誰が、の問題が作品を回しているふうにも受け取れる。そしてそれは必ずしも特定されるものではない。たとえば、神仏に祈るような気持ちと利己に純粋な欲望はどこがどう違うのか、問いかけが高度になればなるほど、その境目にくっきりと線を引っ張るのは容易くないだろう。同様の困難を前に、決まりきった解答の断言は妨げられているのである。
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2009年08月02日
 アウトアンドアウト

 ちくしょおお。序盤、52ページから55ページのあたり、見え透いたアイディアと思いながらも、まんまと泣かされてしまった。フィクションの常套手段とはいえ、健気な子供には絶対勝てねえのか。にしたって、ヒロインである栞のかわいさは、さすがにずるい、と言わざるをえない。

 この『アウト&アウト』は、まちがいなく、小説家木内一裕の最高傑作であろう。三作目にして、マンガ家きうちかずひろのテイストが、ようやくうまい具合に、小説のかたちへと結びついている。

 概要的には、『水の中の犬』の続編的な性格を持っているし、じっさい登場人物は重なり合っているけれども、本質的には、まったく別個の作品として読んでしまって構わない。どうして、こんな筋金入りのヤクザが私立探偵をやっていて、かわいい少女を養っているのか、そのあたりの経緯が気になる向きだけ、前作を参照すればいいと思う。

 何よりもまず、ハードボイルドのスタイルをまったくのお手本にしていた『水の中の犬』と異なっているのは、主人公の魅力である。ふつう、ハードボイルドの主人公たち、おもに探偵稼業の彼らは、物語が進むにつれ、ぼろぼろになっていき、にもかかわらず信念を貫き通し、損得勘定なしの結果を得ることに価値を置きがちであり、『水の中の犬』の主人公もその例に漏れなかったのだが、『アウト&アウト』の矢能は違う。大規模な暴力団の元幹部という特権を生かし、コネをフル活用、さらには持ち前の不敵さで他人を圧倒するのであって、窮地の一つや二つ、なんてことはない。そうした活躍ぶりが、どうしても拭い去れないコミックの感覚を、作品の長所にまで持って行っている。

 その主人公が、である。行きがかり上、イノセントで非情な暗殺者と真っ向から対決することになる、というのが事の起こりだ。おそらく、数馬という暗殺者、ダーク・ヒーロー的な資質を負った若き人物の背景に、作者は、現代の病巣を潜ませている。もしも彼が不幸であるとすれば、それはやはり、生まれや育ちと無縁ではなく、その向こうには社会自体の構造がひろがっている。

 が、しかし、そのような深刻さの生み落とした困難さえ、知ったこっちゃないよ、と、ほとんど気分と直感、あるいは天性の計算高さで動いているヤクザ探偵が、ばんばん薙ぎ倒していくところに、最大のカタルシスがある。

 矢能、甲斐性はあるにはあるが、完全に人でなしである。けれど、そんな彼も栞には弱いのが、ずるい。

 以前にも述べたが、幼児への虐待的な態度に対する批判は、木内にとって重要な倫理の根になっており、当然、これは『アウト&アウト』にも及んでいて、矢能の栞に向けられた目線は、ある意味で、そのことを象徴している。

 どれだけこの世界が不健全で、汚い人間しかいなかろうが、絶対に大人は子供を守らなければならない。とでも言いたげな、矢能に与えられたわずかばかりの人間性は、じつは作品を貫くテーマでもある。極端にいうなら、『アウト&アウト』で見られる事件の数々は、大人対子供の関係性に支配されている。

 物語において、矢能が最強なのは、もちろん、貫禄勝ち、くぐってきた修羅場が他人と違うからなのだが、深層のレベルでは、大人対子供の関係性によって代弁される作者の正義に、唯一忠実なためにほかならない。

 『水の中の犬』について→こちら
 『藁の楯』について→こちら
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2009年07月22日
 新潮 2009年 08月号 [雑誌]

 『新潮』8月号掲載。これまで青山七恵の小説には、東京に出てきた人間の主観で書かれたものが、少なくはない。それが(位置からすれば群馬寄りの)埼玉の出身である作者のプロフィールに由来しているのかどうかはともかく、『山猫』ではあらかじめ都内に根をおろしているような人間の主観が、作品を象っている。とはいえ、その主観の持ち主もまた本質的には東京都の出身ではないだろう。物語に招き入れられた別個の人格(なんなら他者と言い換えてもいい)と接するとき、相対的に、東京の人間になっているにすぎない。新婚生活を送る杏子のもとへ、ある日、沖縄で暮らす母の妹から頼み事の電話がかかってくる。高校二年の娘が、東京の大学に進みたいらしいので、夏休みのあいだの何日か、後学のためにも杏子のところで預かってはもらえないか、と言うのだった。それを心好く引き受けた夫婦、杏子と秋人の主観が、従妹の栞をある種のプリズムとし、二色に分かれてゆくというのが、だいたいのあらましになるのだけれど、もちろんこの作者らしく、筋立て自体は、きわめて穏当なものであり、ショッキングな事件は一個も起こらない。かわりに、半径の狭い世界ならではの摩擦が、その小ささにもかかわらず、作品の温度をあげてしまうような、さざ波の響き渡る世界をつくり出している。必然、そうした世界のなかに、女と男であったり、妻と夫であったり、の対照を見取ってしまってよいのかもしれない。しかしながら、特定の関係性における何らかの欠損が、対立によって曝し出されるというより、あやうげのないほど充足していたペアに、あからさまな余剰が含まれることで、キャパシティ内の差異に点線の輪郭が打たれるにとどまる。これはもしかすると、芥川賞を今回とった磯崎憲一郎の『終の住処』とは、反対方向のアプローチだといえる。輪郭の点線は、決して二つの主観を切り離さない。結末において、栞というプリズムが抜き取られてしまえば、夫婦の、二つの視点は〈杏子も秋人も、なぜそこにいるのか、誰を見送りにきたのか、なんてことは忘れてしまったように、ただ食べて、笑い、いつもの二人に戻った〉とされるとおり、ふたたび一つに統合され、家族とそれ以外の境界線を引きながら、こともなげに充足するのである。夫婦には、やがて二人の子供ができ、住みよい場所を求めて、都心を去ってゆく、と、最後の最後に記されている。しかしそれが家族のワン・シーンであることに変わりはない。

 『ニカウさんの近況』について→こちら
 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2009年07月08日
 『文學界』8月号掲載。単純に(両方を)読んでいる人間がほとんどいないからなのだろうが、高橋源一郎の『いつかソウル・トレインに乗る日まで』と村上龍の『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』のあいだにある、いくつもの共通点に触れているものをまだ見たことがない。まあもしかしたら、『心はあなたのもとに』の連載が終わり、単行本になったとき、ようやく出てくることになるのかもしれないが、言ったもん勝ちなので、先に言っちゃおう。まず何より主人公の、ケンジ、という名前だ。『いつかソウル・トレインに乗る日まで』がヤマザキケンジならば、『心はあなたのもとに』のほうはニシザキケンジといった具合に、苗字までを含め、ひじょうに酷似しているのである。もちろんそれを、中上健次に由来している、と指摘するのは容易い。そして中上の念に引っ張られるかのように、双方とも、韓国のソウルが、一種のシンボリックな機能を果たすのもそうだし、彼らの年齢が、職業などのディテールは違えど、ちょうど作者の、現在の等身大に近しく50歳代に設定されているのもそうだといえる。はたまた、その主人公たちが、(ほとんど登場しないが)妻もいるのに、年下の女性に惹かれてしまい、決して欲望だけでは叶えられぬ、ピュアラブルな恋愛を貫こうとしたりする。結果、いわゆるベタと喩えてもいいような、たいへん通俗的な物語を繰り広げてゆくのであった。もしも『心はあなたのもとに』をケータイ小説ふうだとするなら、『いつかソウル・トレインに乗る日まで』は韓流ドラマふうにも思われる。なるほど、ポストモダンとやらの行き着く先はそこか、とかね。ただし、作品の結構、筋書き、文体には、それぞれの資質がよく出ており、全体の印象がまったく違っているのは、明記しておかなければなるまい。

 高級風俗で働いていた香奈子を、自分の恋人にした主人公は、彼女にべつの職を紹介するとともに、栄養士の専門学校へと通わせることで、将来に対する夢も与える。しかし重病を患ってしまったために香奈子は生活のほとんどを病院で送らなければならなくなる。じょじょに希望をなくしかけてゆく彼女の不安を、携帯電話のメールで送られてくる文面などから察し、いったい自分に何ができるのかを悩むことが、主人公に無力感を突きつけてくる。こうした物語においてさえ、先ほど作者の資質がよく出ていると述べたが、この第二十七回でいうなら、主人公が一人でいるホテルの部屋に、どこからか白い蛾が迷い込んでくるくだり、描写の綿密さが内面の孤独と重なり合う筆致は、正しく村上龍に固有のものであるし、夜のデートを久々にした二人の、関係性の、抽象的な距離が、「カギ括弧」で区別されない会話のなかにあらわされ、あたかも告白に似た似た印象をつくりあげていくのも、じつに、らしい、点だろう。それにしても完結はまだ先か。一回一回のヴォリュームはそれほどじゃないにせよ、けっこう長い作品になっている。

 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2009年06月19日
 萩原重化学工業連続殺人事件 (講談社ノベルス)

 うう。おお。ああ。はっ。息が詰まるほどの絶望が漏れる。あいかわらず、狂気の沙汰である。そしてこの、浦賀和宏の、カッティング・エッジなアプローチのみが唯一、もしかしたら小説の未来に通じているのではないかとさえ、大げさにも思わされる。松浦純菜(もしくは八木剛士)シリーズという、空前絶後の物語をなしとげてしまったあとだけに、しばらくは新作を期待できないだろうと予測していたのに、まさかこんなにもはやく、驚愕の一撃が届けられてしまうだなんて、にわかには信じられないよ。そう、つまりは『萩原重化学工業連続殺人事件』のことだ。

 しかしながらまず、今までの作品に比べ、ひじょうにまともな長篇のレベルで仕上がっていることに、驚かされる。まっとうにシリアスで、いたくエモーショナル、ともすれば感動的ですらあって、いやまあ、そう受け取れてしまうというのがすでに、この作者に毒されている証拠なのかもしれず、ネタを割りかねないのでくわしくは控えるけれども、こんなにも常軌を逸した事件は、人間には不可能としか推理できないとすれば、じじつ犯人は人間ではなかったとでもいうような、奇想天外さ、起承転結のぶっとんだ連携は、従来のとおり、浦賀和宏以外の何ものでもないのだが、ただしそれが丁寧にわかりやすくあらわされているふしはある。いくつかのトリックを、容易く見抜けるのも、そのためにほかならない。

 ファッションにも敏感で、美麗なルックスを持つ青年、有葉零は、セックス(性交)をする相手に事欠くことがなく、つねづね〈女を抱くのは、朝昼晩の食事をとるのと同じぐらい造作もないこと〉なので〈こんなに簡単なこともできない男達がこの世に存在する事実と、そして自分がいつか結婚し、たった一人の女を生涯抱き続けなければならないという現実〉が、まったく想像できなかった。しかし、祥子という不思議な雰囲気の少女に教えられてはじめて、首を絞めながらセックス(性交)することがあまりにも甘美なのを知ったはいいが、絶頂のあまり、知らずのうち、彼女を殺めてしまう。祥子は、自分のことを不死身だと言ったにもかかわらず、死んだ。当たり前だ。死なない人間なんているはずがない。だが、散々足掻いた挙げ句、いよいよ警察に自首するよりほかなくなった零の前から、忽然と祥子の死体は消えた。はたしてすべては夢幻だったのか。一方、零の双子の弟で、兄とは正反対に、醜い自分を呪って、いじけ、自室に引きこもる一(はじめ)は、隣家で家政婦として働く綾佳を、窓から覗き見、密かな想いを抱いていた。その彼女が、どうしてか零の留守中、一のもとを訪れ、「お兄さんは、最近、ある事件に遭ったの。それで――少しずつ壊れて始めている」と告げながら、意味深にも「あなたのお兄さん、いきなり消えたりすることない?」と尋ねてくるのだった。さらにちょうど同じ頃、巷では女性の頭部を切断し、なかから脳みそが持ち去られるという猟奇殺人が発生する。そしてそれはやがて、犯人の手がかりを警察が掴めぬまま、連続事件へと発展してゆく。

 こうした諸々におけるミステリの、意外な真相が、次第に明かされるわけだが、それはもちろん、凡百の作家であったならば、おそらく記すのをはばかるほどに、ありえない。ありえない、とはいえ、今日的なサブ・カルチャーの想像力においては、むしろ常識の範囲内に収まるので、ちゃんとした整合性が備わっているふうに感じられてしまうのが、じっさいには異様である。

 思春期的な思いなし、通俗的な独我論を汲み、脳内、主体の思考を一種の密室に見立てるのは、初期の頃より用いられてきた手法の一つではあるが、それがここではかなり洗練され、説得力のとても高い域に迫っている。加えて、世界そのものに対する懐疑も、思弁性と抽象度を落としているかわり、作中の設定に与えられた強度をあげる方向に生かすことで、たいへんたくましいカタルシスを述べるに至る。ヒロインたち(といっていいのかな)の造形に、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイのモチーフを指摘されるのも織り込み済みだろう。はたまた、神の陰謀に等しきゲームを前に無力な個人はどう対峙しうるか、そのようなテーマのエンターテイメント化を見つけることもでき、もしかすれば村上春樹の『1Q84』や伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』にも通じる社会認識の像を取り出せるが、当然、浦賀和宏のそれは、惨劇のぬめりをぴかぴかにコーティングしない。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2009年06月12日
 枯骨の恋 (幽BOOKS)

 岡部えつの『枯骨の恋』は、作者のことをよく知らぬままに小説を読んでいって、あ、これは当たり、もしかしたら大当たりなんじゃないか、と思えるぐらいの魅力をなしている短篇集だった。全部で七つの作品が入っている。表題の「枯骨の恋」が、第3回『幽』怪談文学賞短編部門の大賞受賞作であるとおり、基本的に、おっかない話が並んでいるわけだが、いやはや、何がおっかないかといえば、現象として題材にされている怪異の数々というより、その根に刻まれている人間の、孤独の、たいへん芯の太い描写に説得されてしまうことが、であって、ほとんどどれもが、三十歳から四十歳にかけての独身で働く女性を主人公とし、今日的な様相のなか、世間的な幸福からは距離のあいた現状を送る彼女たちが、決して手に入れられなかったものを望み、ひどく飢えているかのような感情を持て余しているうちについ、日常から半歩ほど足をずらしたところへ踏み込んでしまう姿を、不吉なほどに生々しくあらわしているのだけれども、そうした断片の一つ一つが必ずしも他人事とはかぎらないことに、心証は引きずられてしまうのである。死した恋人の怨念を慰みにしながら加齢してゆく女性の欲望を捉まえた「枯骨の恋」は、もちろん白眉で、続く「親指地蔵」も、かるく眩暈を覚えるぐらい、すさまじい。外聞上、親友同士のつもりであった三人の女性から一人が欠けたとき、見せかけのバランスによって隠されていた抑圧、嫉妬、蔑視の残酷が曝露される。これを、女の友情はこわい、と通俗化してしまうことは可能だし、フリーランスでライターをしている主人公の、貧困と隣り合わせである生活を通じて、現代の病巣を覗いてしまうことも可能だろう。だがやはり、もっともおそろしいのは、若さでは選び直せない段階にまで人生を進んでしまった作中人物たちの孤独が、真に迫り、悔恨や焦燥ではどうにもならない無力なありようが、容赦なく突きつけられてくることにほかならない。そこで苦々しさに満ちた触感は、「翼をください」や「GMS」などといった他の篇にも通じている。はたまた、「親指地蔵」において、女の友情はこわい、と通俗化できるそれは、卑近な関係性の力学はつねに弱者を欲している、このことの喩えだと言い換えられる。アニミズムを媒介に、長篇への萌芽を見つけられる「アブレバチ」では、加害者と被害者の対が、まったく社会化された場所や理由でのみ起こるのではない、せこくて狭い利己の問題でしかないことが、まるで訴えられているみたいだ。そしてそれを訴えるためには、多くを犠牲にしなければならないにもかかわらず、もしかすれば誰からも賛同を得られないかもしれないことに耐えきれないのが、いちばん、おっかない、のだと皆が知っているので、想像は哀しみを生み続ける。
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2009年06月11日
 群像 2009年 07月号 [雑誌]

 『群像』7月号掲載。松本智子の『法螺ハウス』は、最初、ああ、エモ時代の若い女性作家らしく、働く女性の無味な憂鬱を情緒化した小説なのかな、と思い、読み進めるうち、いや、ちょっと待てよ、という気になりかけもしたけれど、最後までいって結局、はじめに持ったのとそう遠くは離れていない感想へと、落ち着いた。平易な日常のなかで、主人公は、労働や家族について、溜め息を吐き、吐かれた溜め息の、他愛もなさと重たさのバランスをとったイメージが、作品の輪郭をつくりあげているのである。特殊な点を述べるとするなら、東京で一人暮らしをする今の様子に対し、こういう《二重山括弧》のかたちで、幼少期の体験が、そしてそれはおそらく、阪神淡路大震災時における当事者のスケッチが、呼び出され、挿入されていることだろう。そこで喚起されているのは、正しく寄る辺のない不安だが、同時に家族の原風景みたいなものとしてありうるのであって、災害から娘の立場を通じ、父親の存在感が強調されてゆき、その強調の一本柱を、成人女性の立場で見た煩わしさにより、横倒しにすることで、過去と現在とのあいだに、橋渡しがされている。《二重山括弧》の箇所をひろげていったなら、もしかすれば立派な災害小説になったかもしれない。が、しかし、そうしなかったところに、たぶん、作品の意図はあるに違いないのだけれども、あらかじめいったとおり、浮かび上がってくるのは、あくまでも微温な心象にほかならない。
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2009年05月31日
 ポケットの中のレワニワ(上) ポケットの中のレワニワ(下)

 伊井直行の小説にはいつも不思議な魅力がある、というのが個人的な感想で、それはもちろん、この、上下巻のかたちでありながら、例の講談社創業100周年記念出版である「書き下ろし100冊」のレパートリーに加わっている『ポケットの中のレワニワ』についても同じであって、やはり、現代的な日常から、ほんのすこし、足を浮かせたままの姿勢で前へ前へ進んでいたと思ったら、いきおい、宙返りしたのち、現代的な日常の、実感のまったくのさなかに着地している、こうした物語のあり方に、ああ、伊井直行だな、と納得させられるし、不思議な魅力を覚えるのだった。

 だいいち、題に置かれているレワニワとは何か、その言葉の響き自体が、作品の奇妙な輪郭を暗示しているみたいだ。ネタを割らない程度で、おおざっぱに述べるなら、レワニワというのは、要するに、他愛もない嘘のことである。くだらなくて、ささやかな、と言い換えてもよい。しかし、その、くだらなさ、ささやかさ、他愛もなさが、主人公の安賀多青年を含め、作中人物たちが生きている深刻な現実、現在のなかで、切々とした機能を果たしてゆく。

 語り手である〈俺〉、安賀多は、小学校の頃、貧しい団地で、日本に移住してきた外国人たちを近隣に持ちながら、暮らした。クラスメイトに日本人以外の子供がいるのも珍しくはなかった。しかしその後、父親の仕事の都合で転校してゆくことになり、中学では散々いじめられ、落ちこぼれ、不良でもないのにろくな高校には行けず、大学に入ったはいいが、卒業後に就職することができなかったため、派遣社員として働いている。小学校のときの同級生だったティアン(ベトナム人とのハーフである町村桂子)とは、今の勤め先であるPC電源メーカーのコールセンターで再会した。彼女には惹かれるものがあった。とはいえ、ちっともロマンティックな調子じゃないのは、底辺と喩えられるような生活が続くなか、〈俺〉は自分に期待することも将来に希望を持つことも諦めかけていたからだろう。そんなおり、仕事上の付き合いで、小学生時代を過ごした土地を訪れたティアンに、何か、不吉な影が付きまとうようになる。

 こうした物語の背景には、今ふうの言葉でいうならば、格差の問題や人口の高齢化、思想の幼稚化、グローバリゼーションと、それに応答するローカリズムの島宇宙化、家族の困難など、まさしく現代的なものを見つけられる一方、安賀多の義理の弟で、2ちゃんねるでコテハンをやっている引きこもり、充(コヒビト)を筆頭とし、どうやら宗教団体と繋がりがあるらしく、あやしげなところもあるかつての同級生のハン(泉)、頼れる性格の上司で、ティアンに精神的な片想いをしている徳永さん等々、ちょっとクセのある連中が、それぞれにそれなりの不幸と苦悩を抱えながら、さまざまに関わってくるのだけれども、無駄にとっ散らかっているわけではないし、全体のトーンがやたらに暗かったり重たかったりするわけでもない。いや、むしろ、ある種の屈託を、これ以上シリアスにしたならば、とたんに嘘くさくなってしまう、誰も現実の世界では生きられないことになってしまう、といったラインで収め、まとめ、丸く、愛嬌のある仕草で描写しているのである。

 先に、ロマンティックな調子じゃない、と述べたが、それでも基本的には、安賀多青年とティアンのラヴ・ストーリーなのだと思う。ぜんぜん立派になれないまま、この世界に正確な居場所を持てないまま、社会を臨まなければならなかった二人が、いくらかの危険と少々のファンタジーを孕んだ冒険を経たあと、ともに差し出した答えの、他愛もなくて尊く、明るいことが、それを教えている。

・その他伊井直行に関する文章
 「心なき者、恋するべからず」について→こちら
 『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』について→こちら
 「ヒーローの死」について→こちら
 『青猫家族輾転録』について→こちら 
 「ヌード・マン・ウォーキング」について→こちら
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2009年05月11日
 文学界 2009年 06月号 [雑誌]

 『文學界』6月号掲載。「机の中から男が出てくるなんて、相変わらずあんたはありもせん話ばっかり書いてからに。第一、婆さんが恋するというそんな気色悪い話、誰が読むというのよ。あんた一体いくつやと思うてんの、いくらなんでももういい加減もっとまともなもん書いてるやろう思うてたんのに、それやったらこれまでのとちっとも変わってへんやないの」。1932年生まれであるらしい作者の実年齢と相関しているのか、老いをモチーフにしながら幻視を取り入れた小説をよく書いてきている桑井朋子であるけれど、この『黄泉入りどき』も、ある意味では、その伝を外れてはいないのだが、おそらくは作家当人を模しているとおぼしき語り手と彼女の姉の口うるさいやりとり、日常茶飯な牽制のし合いが、顰蹙とはなっていかず、不思議と呼吸の合った家族の親しみを、とうとうと浮かび上がらせているところに、むしろ本題を見ることができる。相応に積まれた人生のキャリアのなかで、いくつもの変節を経てきた二人の女性が、互いに配ってみせる目線に、それがとても出ているのである。題の、黄泉入りどき、というのは姉が〈黄泉入り前〉と言いながら説明しているとおり、当然、〈嫁入り前〉とかけている。実家でいっしょに育った姉妹が、それぞれ嫁に行くことで、べつべつの家庭を持ち、違い違いの人生を歩んだのち、暇を得て、ふたたび、しばしば顔を合わせるようになったときの一幕が、半日として描写されている。もしかすれば、作中人物の正体に何か奥行きを仕掛けてあるのかもしれないけれど、基本的には、日常のワン・シーンの微温化された叙情だと思う。
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2009年05月08日
 すばる 2009年 06月号 [雑誌]

 『すばる』6月号掲載。海猫沢めろんの『ニコニコ時給八〇〇円 其ノ壱 マンガ喫茶の悪魔』は、それほど流行ってはいないマンガ喫茶に勤める人々の内幕を戯画化したかのような小説で、ある程度のマンガに親しんでいる向きには、といっても今どきマンガに親しんでいない向きのほうが珍しいのかもしれないが、くすり、とさせられる部分があるし、現代的な文化における屈託のなさを散りばめた会話、語り口には、にやにや、とさせられるところがあるのだけれども、内容的には、エンプティ、まったくの空(から)だとさえ思われてしまう。しかし、その、中身の寂しい点が、作品の、作中人物たちが生きているリアリティを支えている、という意味で、ひじょうに効果的なアプローチが選ばれている、と、良いほうに解釈することもできる。マンガ喫茶「るるイエ」のアルバイト募集にやってきたキノキダくんは、東大の大学院を卒業予定の、つまり弁護士の卵であった。東大生、という自分たちとは無縁な世界の住人に、カザマ店長は脅威を覚えるが、キノキダくんは、他の従業員たちに溶け込み、持ち前のインテリジェンスを発揮すると、以前とは断然見違えるぐらい、店を繁盛させてしまう〈――などというふうに、物事は簡単に美しく進まない〉のだった。最後のオチが、無言の種明かしになっているとおり、基本的には、ギャグであって、コメディであって、すべてがでたらめの産物である。が、多少シリアスに考えるなら、作中人物たちはみな、見栄っ張り、嘘つきであり、彼らの他愛もない自尊心が現実の世界をそのまま、質量保存しているので、ユーモアにもアイロニーにも転がるだけのお話になっている。

 『ピッグノーズDT』について→こちら
 『オフェーリアの裏庭』について→こちら
 『零式』について→こちら
 『左巻キ式 ラストリゾート』について→こちら
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2009年04月23日
 『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内 (新潮新書)

 小谷野敦の新書『『こころ』は本当に名作か 正直者名作案内』は、題名からするといっけん、夏目漱石の『こころ』について論じられたものかという気がしてしまうけれど、じつは『バカのための読書術』に続くブック・ガイドとして読まれたい内容になっている。とはいえ、『バカのための読書術』が、書物の読み方、読まれ方をベースとし、現代的な観点から、文学にかぎらず、哲学や社会学も含め、種々の作品を再評価していたのに対して、この『『こころ』は本当に名作か』は、あくまでも文学として見られるもののなかでもとくに、世間一般の評価が、たとえじっさいには読まれていなくとも、定まり、不動になっているような古典や準古典の価値を、あらためて検討し直している。そのさいに念頭に置かれているのは、小谷野の〈「文学作品に普遍的な価値基準は存在しない」というのが私の持論であ〉って、〈ある文学作品をいいと思うか、共感するか、ということは、読者の側の年齢や経験、資質、趣味嗜好といったものに、かなり大きく左右される〉という判断である。こうした発想のありようは、某講演の草稿である「バナール(凡庸)な受容理論の試み」として、前半部のみだが、第一章の内に収められている。いわく〈ニュークリティシズム以来の文学理論というものは、読者論である受容理論にいたるまで、個々人の趣味嗜好の違いということは黙殺してやってきた〉のは、つまり〈知的な行動にはあまりにも個人的差異が大きく、科学として成立させるためには、かなりの個人的差異を無視しなければならないという事情〉を持っているからであり、〈そこに生きているのは、カント以来の「感性の普遍性」という概念〉でしかない。では、そうした概念を信じないところからはじめて、古典や準古典の案内を編んだらどうなるか、をやっているのが『『こころ』は本当に名作か』だといえる。もちろん、前提が前提である以上、小谷野という読み手自身の〈年齢や経験、資質、趣味嗜好〉に基づかなければならず、へたをすれば、ごく私的な、直感の、狭いブック・ガイドにならざるをえないところを、先行する言説や批評をたたき台とし、反証することで、名作と呼ばれるものに向けられた相対的な視線の一個となるような、余地がつくられている。まあ、そのへんは小谷野のいつもの作法にほかならないし、正直、彼がこれまでに書いてきた文章や出してきた著書を相応にチェックしている向きには、ことさら知恵となる部分は多くないだろう。「マンガの古典」というコラムに、相変わらず高橋留美子の『めぞん一刻』を挙げている一方、珍しく名香智子の『PARTNER』を挙げていないのに驚かされたぐらいである。いや、それは半ば冗談であるけれども、いくつかの作家、作品に対する評価は、『バカのための読書術』とも一致しており、本文にもあるとおり、他の著書のほうで詳しく論じられている作家、作品が、こうした新書の形態にあわせて、持ってこられているケースも少なくはない。ニュー・クリティシズム(新批評)に関する懐疑も、純文学と通俗小説の区分のあやしさも、この書き手がかねてより再三主張している点だ。しかしながら当然、あたらしく興味深い箇所も十分にある。その最たるは、まさか意図して題名にちなんでいるのかどうかは不明ではあるものの、やはり、夏目漱石に割いた項だと思う。じじつ、以前に『谷崎潤一郎伝』を書いた経験と、三浦雅士が新書『漱石――母に愛されなかった子』で行っている指摘を踏まえて、〈自分がかつて漱石を読み違えていたことに気づいた〉と述べられている。読み違えがいかなるものであったか、ここでは触れないが、すでに引いたように「感性の普遍性」を信じていないので、〈読み違え〉ることも〈読み違えていたことに気づ〉くことも起こりうるし、そのため作品をよく読むことに繋がりうるのは、ページを遡り、ブック・ガイドの合間に挿入された「私小説、モデル小説」という小論によって、あらかじめ明示されている。〈純文学愛好者の多くは、小説を読むということは「純粋」な行為でなければならないと思っている〉が、〈しかし、「純粋な読書」というのは、幻想〉なのであって、〈SFや推理小説、ファンタジーなどでない限り、人は作者や、書かれた時代について何も知らずに小説を読むなどということはできない〉のだと、小谷野はいい、たとえば〈小林秀雄は、美は目を訓練すれば見えてくると言ったが〉、しかし〈現在の図像学では、絵画には数多くのコードがあり、それらを知らないと読み解けないものがたくさんあることを教えている〉すなわち〈「訓練」ではなく、「勉強」なのである〉のと同じく、〈何の予備知識もなくとりかかるという「純粋な読書」があるというのは、幻想〉なのだとする。ならば、それを裏打ちするかのように正しく、予備知識が更新された結果、〈自分がかつて漱石を読み違えていたことに気づ〉かされているのである。

・その他小谷野敦に関する文章
 創作
 『童貞放浪記』単行本について→こちら
 「童貞放浪記」について→こちら
 『悲望』単行本について→こちら
 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

 評論
 『リアリズムの擁護 近現代文学論集』について→こちら
 『退屈論』文庫版について→こちら
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2009年04月15日
 『週刊少年チャンピオン』17号の、「MY FAVORITE!〜私が愛したチャンピオン作品〜」という特集記事のコメントによれば、古谷野孝雄は、石山東吉のアシスタントから出てきたのだという。ある意味で生粋の秋田書店っ子ではあるが、同じく石山のもとから登場してきた哲弘が、そもそもが石山の師匠格にあたる車田正美のパロディをにおわせるような作風なのとはまた違う印象で、どこか、旧き良き時代の『週刊少年ジャンプ』的なイディオム、矜持を持っているのは、なるほど、それもそれとして一因にはあるのかもしれないな、と、かなりの牽強付会にすぎないのだけれど、評論家によって語られないマンガ史とでもいうべきを、しばし妄想させられる。しかしまあ、そうした余談はさておき、いよいよ本筋も佳境に入り、がぜんヒートをアップさせているのが『ANGEL VOICE』の10巻である。当初は、問題児ばかりで再出発された市立蘭山高校のサッカー部であったが、部員たちがみな、それぞれにドラマを経験し、乗り越え、練習に励み、全国高校サッカー選手権は予選を勝ち抜いて、ついに県内のベスト8入りを果たす。ここで彼らの前に立ちはだかるのは、強豪中の強豪、船和学院であった。市蘭のサッカー部を指導してきた監督の黒木が述べるとおり、たしかに試合に勝つべく〈やれることはすべてやった〉が、才能と修練の双方を完璧に備える船学相手に、それが通じるかどうか、まさしく最大の正念場が迎えられる。いやはや、船学の強さときたら、まさか、こんなにも圧倒的だったとは。『ANGEL VOICE』の物語を、あくまでもリニアな流れで見たさい、船学の実力はすでに以前の段階より示されており、やがてライヴァルとして相まみえることもうかがえた。したがって両者が対決するであろうとき、その差を市蘭のメンバーがどれだけ埋められているかこそが、作品の全体にまたがるカタルシスへ繋がってゆくはずだと考えられた。すくなくとも、中心人物である成田たち、一年生部員の成長と活躍をベースにし、いっけん地味に、しかし魅せるところは魅せながら、こつこつ描かれてきたのは、そのための説得力だったといっていい。だが、〈技術ある者には技術で応じ / 力ある者には力によって捩じ伏せる / 才能に恵まれし者が幼少より積み重ねた鍛錬と研鑽 / 他者の追随を許さず / 欲するは3年連続高校3冠〉という船学のすごさは、市蘭の一人が〈勝つもクソもあるかレベルが違い過ぎんだろ〉と喘ぐほどなのであって、まったく敵わない。当然、まだ試合は序盤も序盤であるし、ここから逆転の糸口、突破口がひらかれることを信じたいところなのだけれども、さあどうか。むしろ点差は広がっていくばかりである。そこでフィクションの内に働いているのは、ご都合主義やガンバリズムだけではどうにもならないような、現実性にほかならない。もちろん、そうした現実性を前に、市蘭のメンバーたちがくじけてしまったなら、フィクションそのものが成り立たない。自分の運命は自分にしか変えられない、変わらないと断定されてもなお、変えようとしなければ、未来は閉じる。廃部の約束がかかっている以上、絶対に負けられない。負けるわけにはいかない。このような厳しくつらい展開を、作者はいっさいの手をゆるめることなく、より過酷にしていき、それでいて必ずや希望は信じられること、決して諦めてはならないことが、あまさず熱量化され、描き込まれているので、知らずのうち手に汗握るものが生まれてくる。ここに至るまでのストーリーにおいて、『ANGEL VOICE』の題名に示されている、その、天使の声が、市蘭のマネージャーをつとめる麻衣の存在と不可分であると、あかされている。天使の声とはたんに、不思議な魅力を持った彼女の歌を意味するだけではないだろう。元来はヒールであったため、市蘭の活躍を応援する人間は、ほとんどいない。しかし、もしもわずかにでもいてくれさえすれば、いかに心強く、ありがたいことか、彼女のポジションには象徴されているのである。それが奇跡を起こすかどうかはまだ知れない。が、たとえ奇跡が起こらなくとも、奇跡を見るよりも感動的な、たしょう大げさにいうなら、魂とでもいうべき真剣さを、少年たちの姿は、とうに伝えている。

 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年04月13日
 文学界 2009年 05月号 [雑誌]

 『文學界』5月号掲載。ここ最近、青山七恵の小説、とくに短篇を読むと、いやマンネリとは決していわないまでも、作者が好んで用いるテンプレートのテーマに合わせたヴァリエーションでしかないような、そんな気がしてしまう。もちろん、たいていの創作とはそうしたものであるのかもしれないし、必ずしも悪く思っているつもりはない。が、要するに、会社員として働く若い人物の日常に、小さなノイズが紛れ込んでき、それが過ぎ去ったあとの一瞬が情景化されて、終わる。こうした説明は必ずしも正確ではないのだろうけれど、大枠だけを取り出すのであれば、『ニカウさんの近況』もまた、それに倣っている。主人公が会社で使っているパソコンに、「二飼浩太郎」という、まったく身に覚えのない人物から近況報告のメールが届く。最初は〈ジャンクメールかと思って二回読み直した。名前のあとには、何をやっているのか見当のつかないカタカナの長い会社名、所在地、電話番号、メールアドレスが続く。あやしい添付ファイルはついていない。見えないところにいわくありげなURLがあるかも、と思ったけど、スクロールが必要な空白もなかった。宛先をクリックしてみると、BCCメールになっていて、他の受信者のアドレスはわからない〉ので、〈もしかして、以前に名刺交換をしたことがある人かもしれない〉と名刺のファイルを確認してみても、その名前は見当たらない。そのほかの可能性も考えたが、やはり、わからない。その、ニカイさんだかニカウさんだかの近況が、語り手である〈わたし〉の毎日に、何かを劇的にチェンジするほどの大きさではない、じつ小さなノイズとして混じってくるのである。二飼から送られてきた近況報告がメールであるとおり、インターネットでのショッピング、コミュニケーション、データベース管理、匿名性や文化などと、現実社会における〈わたし〉の半径5メートル的な世界との対照が、おそらくは、作品の主題であったり、先に引用した描写のありえそうなところも含め、リアリティを担っており、そしてエモーションは、いつもどおり、ラストの街並み、日常のシーンに情景化されてゆく。『ニカウさんの近況』という題は、過去の短篇である『ムラサキさんのパリ』を彷彿とさせ、まさか続編か、と予想したら、基本的には違う。だいいち、語り手の性別が異なる。とはいえ、ムラサキさんもニカウさんも、主人公たちにしたら、なぜか気になるぐらいユニークな人物であることが、物語の構成上必要とされている点で、似ている。

 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2009年04月08日
 群像 2009年 05月号 [雑誌]

 『群像』5月号掲載。松尾依子の『約束の夜に』は、「新鋭15人短篇競作」なる(恒例のといってもいいよね)特集に収められている一つである。が、ところで『小説トリッパー』で、宇野常寛が「教室の中のリアリズム」という、いわゆる青春小説についての評論連載を行っており、その第2回(春号掲載)で、今日における純文学のシーンで重宝されているような若手作家、とくに女性作家のあらわすそれは〈コミュニケーション空間の変容がもたらした自己目的化と動員ゲーム化は、現代における大きな文学的な課題として特異な存在感をもっていること〉を意味しているとし、同じ世代の男性作家が〈本来世界から与えられるべきもの――生きる意味や獲得すべき価値が与えられなかったという被害者意識に拠ってその世界観を構築していったのに対し〉て、つまり引きこもるのに反して、女性作家たちが〈より具体的にそんな世界――コミュニケーションの自己目的化 / 動員ゲーム化が覆う世界――をどう生きていくかという主題を選択している〉ことは、たとえば〈「働く」こと――「労働」という回路を通して表現されていると言えるだろう〉と述べ、〈そして彼女たちが労働という回路を通して描いたものは、そのかたちをかえて彼女たちが学園を舞台に設定した小説においても同じように残酷に、そして決定的にその世界を支配している〉ことの例に、津村記久子の『ミュージック・ブレス・ユー!!』や村田紗耶香の『マウス』、山崎ナオコーラの『長い終わりが始まる』を挙げ、〈これらの作品が描いているのは、いわば最初からガラスの靴を断念し、そして引きこもることすら選択できなかった十代の世界である〉といっており、まあ、宇野の論旨には人それぞれ意見はあるだろうが、個人的にはたしかにそのような傾向はあると思うし、おそらくは生田紗代の『たとえば、世界が無数にあるとして』あたりもそこに加えられると思うのだけれど、じつは松尾依子の『約束の夜に』も、こうした系列に見事にはまってしまう、という意味で、リアルであるのかもしれない反面、おどろきはすくない。アルバイトで家庭教師をしている大学生の多佳子が、教え子で中学生の実紀が〈学年が変わってからそろそろ二月が経とうとしているのに〉もかかわらず、〈一度も学校に行っていない〉ことにプレッシャーを感じるのは、要するに〈希望する高校に受かるための受験勉強を指南することより、義務教育の肩代わりを一人で引き受けることのほうが、多佳子にはよほど大役に思えたのだった〉からである。そうして小説は、実紀の姿、彼女とのコミュニケーションを一種の鏡とし、多佳子が、中学の頃には自分にもあったろう自意識の過剰をのぞいてゆく様子を、編む。内容の真摯さはともかく、正直、これぐらいの長さであるなら、もうすこし、言葉の一つ一つがデリケートであってもよかった。〈肉付きのはっきりしない体に手足だけ異様に伸びたりして〉という言い回しや、〈昔遊んだシルバニアファミリーの家のように〉といった単なる形容でしかない形容は、まるでどこかからか借りてきたふうに感じられるほど、この手のフィクションではよく見かけられる。

 『子守唄しか聞こえない』について→こちら
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2009年04月01日
 シブヤ大戦争―ドリームキング外伝

 ああ、タカとユージってもしかしたら、テレビ・ドラマ『あぶない刑事』からとられているのね。まあ、それはともかく、マンガ『ドリームキングR』に原作者としてクレジットされている俵家宗弖一が、その世界観を借りて、大人の社会とは異なるルールを生きる不良少年たちの青春像を小説化したのが、この『ドリームキング外伝―シブヤ大戦争』という作品で、物語の舞台は、マンガ版の十数年前、チーマーの跋扈する1990年は渋谷(作中ではシブヤ)の街となっていて、マンガ版ではすでにレジェンドとされている人物たちの若き日、十代の頃の姿があらわされている。とはいえ、マンガ版を読んだときがなくとも、とくに困るような内容ではないと思うのは、一部の固有名を除き、両者のあいだに密な繋がりはないからなのだが、しかし、じゃあマンガ版のファン以外の層が楽しめるかどうか、正直な話、それもそれで難しい、という気がするのは、文章におおげさな紋切り型が頻出するのはワザとだというふうに(きわめて好意的にね)解釈するにしても、物語のレベルで見たとき、ここにしかないものがない、と判断されるためである。どこか石田衣良の小説『池袋ウェストゲートパーク』を思わせるか。いや、小説云々をべつとし、雰囲気のみを述べるなら、テレビ・ドラマ版のほうが、いやいや、むしろそのプロト・タイプともいえるテレビ・ドラマ『サイコメトラーEIJI』の第2シーズンのほうが、90年代の渋谷やチーマーが題材である点も含め、近しいかもしれない。ファッション誌『ストリート流』の人気読者モデルであり、シブヤの不良シーンでもカリスマ視されているタカが、バブルの景気にしっぺ返しをくらった経済系ヤクザに、あたらしい商売のネタとして目をつけられたことから、さまざまなトラブルが持ち上がり、やがて、イケブクロの喧嘩屋、ヨコハマのバイカー、チバやサイタマの暴走族を巻き込み、血で血を洗うような大規模な抗争にまで発展してゆく。展開上、裏をかこうとしている面もあるにはあるが、基本的にはマンガ版と等しく、ケンカでだいたいの片は付いてしまう、きわめてシンプルな構成をとっている。そうしてもちろん、女性アイドルとのアバンチュールや謎めいたヒロインの登場もあるよ、といったところであろう。映像化のさいには、ぜひ若き日の東幹久を。それでは映画『オクトパスアーミー シブヤで会いたい』になってしまう。

 マンガ『ドリームキングR』(柳内大樹・画)
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2009年03月24日
 oh no not stereo

 フル・アルバムとしてはセカンドの扱いになるのかな。07年のEPで初めて聴き、どんぴしゃであったロサンゼルスはOH NO NOT STEREOの、ニュー・アルバム『OH NO NOT STEREO 003』が、ようやくリリースされたわけだけれども、メロディアスにロックし、ハードにポップする、そのサウンドのスタイルに大きなチェンジはなく、翳りもなし、こちらの期待に応えて十分な内容になっていて、うれしい。以前にも述べたとおり、基本線はAMERICAN HI-FIやSUGARCULTなどに近しい系であるが、あくまでもメインのメンバー2人組によるユニットであるため、こうしたサイズの作品になってくると特徴的なのは、良くも悪くも、拡散性が高いという点である。全15曲、並べられたナンバーは、アップ・テンポを主軸としながら、しかしそれ以上の幅を持っている。スローなバラードまでをも含め、多彩に富んでいるといってもよい。おそらくは、ソング・ライティングの段階でまとめられたアイディアから演奏の形態が練られていった結果、そうなっているのだと思う。バンドの編成をパーマネントに有していないことが、ある程度の制約を、事前に、解除してしまっている。そういった意味では、ソロ・アーティストの制作するアルバムに、雰囲気が、とてもよく似ている。自由な発想がそのまま、持ち前のカラーとなって、響く。反面、すべてのコンビネーションが一丸となって、突っ込み、のけぞり、盛り上がっていくかのようなタイトさに、すこしばかりの弱さを感じられる。いやいや、ギターははげしくはじけているし、ドラムのアタックはパワフルでするどい、かなりかっこうよく決まっているのだけれど、こういうタイプのアレンジであれば、総体的なグルーヴに、かっさらわれるぐらいの勢い、いったん覆われたなら抜け出せない厚みがあって欲しい。良くも悪くも、とは、つまり、そうしたニュアンスを指しているのだが、結論としては、やはり、ナイスな部分が傑出していることに変わりない。とくに、ギターは変幻自在にうなり、ゼッペリンふうのダイナミズムが荒々しく、逞しいなか、ヴォーカルの熱唱が印象的な2曲目の「HURRICANES」や、うつくしいピアノから入っていって、豪快なバンド・サウンドを展開、次第にドラマが過剰化してゆく4曲目の「MISS HARD TIME」、大胆な疾走のロールに、サキソフォンを導入し、大団円のラスト(じつはその後にもう1曲、シークレット・トラック的な趣向が凝らされているが、ひとまず)を飾る「CAN'T TRUST ANYONE」あたりが、すこぶる好みだ。大好き。

 『OH NO NOT STEREO 002』EP→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2009年03月14日
 すばる 2009年 04月号 [雑誌]

 『すばる』4月号掲載。岩崎保子の中篇小説『薔薇色の明日』は、次のようにして物語をはじめる。憎むほどの因縁があって、父親の葬式には出たくない果歩は、その煩わしさから逃れるため、恋人の秀の幼馴染みで、もしかしたら彼と浮気をしているのではないかと疑える久美が、体調を崩した母親の様子を見にいったん、北海道の実家に帰るという話を聞き、同行したいと言い出す。果歩の提案に困惑する久美は久美で、体調が悪いという報せを受けたものの、じつは母親と顔を合わせるのがまずかった。結婚に失敗したのもあるし、生活にだらしのない母親と縁を切りたいのもあって、子供の頃から親しく通じていた秀だけを頼りに、東京へ飛び出してきたのだった。当然、果歩のことも良いふうに思っていない。しかし彼女の強情さに押し切られるかたちで、北海道に連れて行く羽目になってしまう。こうして要するに、一人の男性をめぐる宿敵の女性同士が、奇妙な二人旅に出立するのである。果歩は、これを機に、証拠不十分な秀と久美の関係を、問い詰めるつもりでいる。久美のほうもまた、果歩に、そして秀との関係に対し、ある種の決意を持っている。もちろん双方とも、それが重要だと考えれば考えるほど、慎重に相手の様子を見、切り出すタイミングをうかがいたい。そうした腹の探り合い、駆け引きが、読み手を煽り、おもしろくさせる。だがもちろん、作品の本題は、そこからもうすこし、奥へ入っていったところ、二個の主体のありよう、心理の、不安にかかっている。果歩は、久美の、うつくしい外見、配慮のある性格に、コンプレックスを抱く。一方、久美は、果歩の、気のつよさ、自立して働く意欲に、嫉妬を覚える。それぞれがそれぞれの姿に、自分が自分でしかないこと、他の誰でもありえないからこその欠損を、突きつけられてしまうのである。そのような対照は、しかし根本で、三十歳を過ぎ、だんだんと若くはなくなっていく女性が、この世界で生きづらく、孤独を覚えるとき、いったい何を寄る辺とすればいいのか、等しい困難をあらわしながら、繋がっている。ひとまず、果歩も、久美も、秀という男性の存在によって、自分の空漠が埋められる、埋められていると信じたい、信じている点で、お互いのなかにまったくべつのものを見ているわけではない。そうであるがゆえ、ただ一つのことをどうしても、相手に譲れない。おそらくこれが、男女の二人旅であったなら、お互いがお互いの欠損を埋め合う展開もあっただろう。あるいは彼女たちが、すべての災いは男性が支配的な社会にあると共闘できたなら、それこそ呉越同舟から友情を結ぶこともできたに違いない。けれども、そうはなっていかず、果歩と久美のロードは、郊外もしくは田舎の、アップとダウンにさまざまな出来事を経て、東京の、都会の、不思議な、良いとも悪いともつかぬ、不思議な居場所に帰り着く。
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2009年02月19日
 ぬかるみに注意

 今でこそ生田紗代の小説を好んで目を通してはいるが、初期の頃は高く買っていなかった、というのは以前に書いた。どこでどう印象が変わったかというと、この短篇集『ぬかるみに注意』に入っている「浮いたり沈んだり」によって、である。このたび単行本のなかに入れられたので、初出以来、ひさびさに読み返したが、ああ、そうそう、これなんだよな、と感心したい。しかしたとえば、その文体や物語に、すごい、と形容すべきほど、とくにおどろき、すぐれているところがあるわけではない。いや、むしろ反対に、たいへん平凡でしかない日常の様子が、ほとんどひねられることなく、とてもリラックスしたものとして、描写されている点に、愛着を持つ。だいたい、筋にあたる部分を述べるなら、こうだ。栃木で一人暮らし、大学生をやっている弟のもとへ、両親の心配を受けて、姉が訪ねてくる。はるばるやってきた姉に向かい、弟はいきなり、メガネが見つからない、と言う。いつもと同じ場所に置いて、寝たはずなのに、朝起きたら、なくなっているのだという。視力の弱い弟は、もうそれだけでかなりうろたえているのだけれど、姉のほうはあまり気にかけない。ながらも二人で、メガネを探しつつ、お喋り、夕飯の準備などをしているうち、時間が過ぎてゆく。だからといってそこで何か、読み手に対し、つよく訴えかけてくるようなエピソードが、設けられているというのでもない。そうして夕飯を食べ終わる頃、ふとしたきっかけとひょんな場所からメガネは出てき、〈どうせそんなことだろうと思ったよ〉と平然としている姉の背中で、弟は「メガネ最高」と叫ぶのであった。ほんとうに、こういう模様がまんまあらわされているにすぎない。たしかに、弟との会話を呼び水に、姉が思春期を回想して、〈とてつもなく漠然とだが、その辺の空中にそよりそよりと浮いていた何かに一瞬手が触れた気がして、顔にかかっていた髪を耳にかけた〉のは、一個の感情をかたちづくってはいる。が、決してそれが重たくはなく、何よりもやはり、姉弟の佇まいが、しごくナチュラルであることに、微笑ましさを覚える。もしかしたら作者自身は、くだらなさを目指しているのではないのかもしれないが、とにもかくにも、くだらなくくだけているふうに見えるさまが、心地好いのである。これに比べると、その他の、いっしょに収められている作品には、すこし、強張り、わざとらしく、気取っている面が、表立っているふうにも思われる。

・その他単行本に収められている作品に関する文章
 「彼女のみる夢」(「魔女の仕事」として改題)について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 
・その他生田紗代に関する文章
 『たとえば、世界が無数にあるとして』について→こちら(オンライン同人誌『CHILDREN』Vol.04内)
  「さよならジョリス」について→こちら
  「アザラシのホーさん」について→こちら
  「靴の下の墓標」について→こちら
  「ハビタブル・ゾーン」について→こちら
 「浮かぶしるし」について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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2009年02月18日
 群像 2009年 03月号 [雑誌]

 『群像』3月号掲載。『星が吸う水』は、村田沙耶香のこれまでのものと比べて、その情念とでもすべき感がやや、すっきりと整理され、たとえば本谷有希子のそれをそうというならば、ポップなエキセントリックさをも含んだ小説になっており、このあたりはもしかすると、作中人物の年齢が作者自身に近しく設定されているからなのかもしれないが、生きづらい世界だからこそ自分で自分をつくり直さねばならないこと、あるいは、自分で自分をつくり直すのがこの世界では難しいこと、といった趣旨において、主人公の年齢がずっと若い『ギンイロノセカイ』や『マウス』に通じる点を持っている。そろそろ三十歳代に入ろうとする鶴子は、性交(セックス)について、世間一般からすれば、特殊な考え方を持っていた。濡れない膣ではなく、突起物の高まりによってもたらされる欲情を勃起に喩え、やがて迎える絶頂を射精だというふうに信じ、しかしじっさいには射精しているわけではない、たしかに目に見えて示されるわけではないことを、とても残念に、寂しく思う。そうした自分の、いわば溜まったときに「抜く」感覚を、恋人の武人は理解してくれているが、べつの人々に説明したところでわかってくれないので、あまり言わない。たとえ言ったとしても、〈性器が穴状だと、いくら能動的に行動していても、受身だと思われてしまうのかもしれない〉のが〈鶴子には不満だった〉のであって、たしかに〈鶴子の性器には穴が開いているが、何かを受け入れたと思ったことは一度もない〉し、性交がうまくいくとは〈お互いに、抜くためにとても起用にこすりあっているのだと思っている〉のが〈鶴子には自然な感覚だった〉のである。作品は、そう判じている主観と対照的に、志保や梓という、同世代で同性の友人たちの、それぞれがそれぞれの煩わしさを抱えた姿をワキに置き、既成の概念と個人のプライオリティが、必ずしも幸福な関係上で結ばれるとはかぎらない様子を、ある種の困難であり、不自由さとして、現代的な性差と友情とが、ちょうどフックとなるような物語のなかに描き出してゆく。客観的に捉まえるなら、鶴子はたんに、性交の優先順位が高い人間でしかない。何はともあれ、性交のことばかり考え、それをベースに敷衍し、他のことを考えているにすぎない。結婚に現実を見、執着する梓がしばしば、だらしなくも思われる鶴子の暮らしぶりを非難するのは、二人のライフ・プランに対する見解自体がどうというより、その認識の、回路の、都合の良さを指摘しているのではあるまいか。終わりのほう、恋人とのことで落ち込む梓を、鶴子と志保は日帰りの温泉旅行に連れ出す、そこで梓の凝り固まった考えをほぐそうとし、無茶をしでかす鶴子に向かって、志保が「小学校のころ、隣の家の子が、登校拒否だったの。その子と夏休みに、夜の校庭に忍び込んで花火をしたとき、その子、火花を校舎に振りかけて、爆破しようとしてた。さっきの鶴子見て、そのこと思い出したよ。そういう、無謀な子供みたいだった」と言うのも、同じく、主人公の幼稚さをあらわしているのかもしれない。だが、それが良いとか悪いとかの峻別は、ひとまず保留されている。いったい何が正しく、何が誤っているのか、結局のところ、人は定められない。ただ、空虚な抗いのどこか底で生じる実感を、叙情と呼ぶのみなのである。

 『マウス』について→こちら
 『ギンイロノウタ』について→こちら
 『ひかりのあしおと』について→こちら
 『授乳』について→こちら
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2009年02月07日
 火星ダーク・バラード (ハルキ文庫)

 もちろん言葉は、誰にでも容易く、どうとでも使われる。したがって、他人という語のほかに、他者という語が用いられていたなら、その力学に関する認識のレベルが、作品の質を決めるといってよい。

 先日、上田早夕里の短篇集『魚舟・獣舟』を読み、感心し、そのなかに収められた「小鳥の墓」が、すでに発表されている長篇『火星ダーク・バラード』の前日譚にあたるということで、順序は逆になるのだけれども、そちらのほうも昨年出た文庫版を手に入れた次第であるが、なるほど、物語上の設定はもちろんのこと、対他関係とでもすべきテーゼをめぐるさまが、作品の主題めいて見えるところに共通の魅力があって、おもしろかった。舞台は、未来の火星である。地球から移住してきた人々は、そこでまるで、ミニ地球のような生活を送っている。主人公の〈水島の職業は地球流に言うなら刑事である。地球生まれの地球育ちの移民で、火星治安管理局の第二課に所属して〉おり、〈そこで強行犯の捜査を担当してい〉て、ジョエル・タニという、女性ばかりを狙うサイコ趣味の連続殺人鬼を、ようやくのこと逮捕したばかりであった。その護送中、彼らを乗せた列車が、巨大な怪物の襲撃を受ける。突然の事態を回避できず、これを幻覚だと判じながらも水島は意識を失い、信頼と秘かな好意を寄せていたバディの神月瑠奈は死亡、そしてジョエルには逃走されてしまう。はたして何が起きたのか。現場の状況から、まさか瑠奈殺害の疑いをかけられた水島は、自らの立場を悪くしてまでも、真相を掴むべく、執念のかぎりを尽くす。こうした筋立ては、ハードボイルド小説のそれみたいであり、じっさいに損得抜きで事件にはまり、ぼろぼろになるのも厭わず、信念をキープしようとする主人公の生き様は、たいへん無骨としている。そうした一方で、政府下のトップ・シークレット「プログレッシヴ計画」と呼ばれる人類の進化研究によって誕生した少女、アデリーンの特殊な能力が、派手目なサイキック・アクションの展開や、惑星規模の大きさではかられる陰謀など、SF的なベクトルを駆動させていく。いや、むしろ、水島の行動は、後者に巻き込まれるていで発生しているのであって、その結果、アデリーンに出会うと、彼女を守るために孤軍奮闘、八方塞がりの攻防戦を繰り広げなければならなくなるのである。スケールにふさわしく登場人物は雑多で、さまざまな思惑の入り乱れる、きわめて盛りだくさんの内容だが、肝要なのは、すべてが対他関係をベースとし、そこを争点にもつれ、たそがれ、いくつもの痕跡を残している点だろう。たとえば、人工的にデザインされたアデリーンは、ある場合において、まさしくモンスターやエイリアンのごとく、他人から見られ、おそれられる存在にほかならないけれど、そのようなまったくの異者に対して、理解を示し、悲しみ、できうるかぎりのことをしてやろうとする水島の態度こそが、彼女を人間として生かしているのだし、反対に、アデリーンの父親役であるグレアムは、あらゆる他人が不完全な他者として存在することの理不尽さに耐えきれず、知性を磨き、一般の人間からしたら、狂気に近しいプランすらも冷静にこなす。超共感性を持っているがゆえに、望もうが望むまいが、他人の心を読んでしまえるアデリーンだが、グレアムや水島の内には分厚く高い壁があって、その向こう側だけは覗けない。彼らの、そうした壁というのは、おそらくは一種の、断念と言い換えられる。水島もグレアムも、若かった頃のダメージを経て、自分以外を反動としなければ、プライドを守れず、敗北するしかなかった。やがて、水島に親密さを抱いたアデリーンのまっすぐな感情が、じょじょにその壁の向こうへと透過していく、このことが今度は、彼を人間として十分に生かしていくのである。しかしながら、物語の果てに甘やかな幸福は待っていてくれない。終盤、とある場面で、二人は、お互いがお互いを分かつ、決断と選択とを、する。そのとき、アデリーンは、水島の持っている壁が、決して消えず、なくならないものであると悟る。だが同時に、壁となりあるもののたしかな手ざわりを通じて、それぞれが別個の人間であることの不安が拭われている。なぜならば、さまざまな困難をくぐり抜け、そういった屈託もまた、一個の働きかけであると信じられるからだ。どれだけの嘘も嘘であると見抜かれているかぎりにおいて、真実に等しく、偶にやさしい。最終的に、水島は、悲劇的な未来を歩まねばならない。利己の観点で見るなら、現実の勝者はジョエルでありグレアムであろう。願うべくを叶えられている。閉じられた回路は、ノイズを除去し、完璧で、うつくしい。としても、他者の理解と不可解のぜんぶが、きっと無意味なわけではあるまい。そこから得られ、開けていくものだって、必ずや、ある。『火星ダーク・バラード』は、この世界の、生き方の正しさや誤りを問うものではない。そうではなくて、普遍的な、ただ孤独と救いの鮮やかな描写であると思う。

 それにしても、あれだ。作者のあとがきや、八杉将司の解説によると、以前のハード・カヴァー版は、まったくべつのエンディングが用意されているらしく、なんだよ、これを気に入ったのなら、そっちも読まなければならねえじゃないか。

 『魚舟・獣舟』について→こちら
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2009年02月04日
 魚舟・獣舟 (光文社文庫)

 結局のところ、すべての人の利害が一致することは決してないので、ある程度の残酷さを容認しながら、誰しもやっていくしかねんだな。上田早夕里の短編集『魚舟・獣舟』は、読み手が生きている現実とは、一歩半ほど、ありかたの違う現実を題材とした小説が、全部で六つ並んでいる。たとえば、そのうちの一つ「真朱の街」の物語では、〈科学技術の発展は、人間の外見を急速に変えつつある。奇妙な装置をつけて電脳と接続し、本来見えないものを見たり、その場にいない人間と会話している人間たち……。人工器官で視覚や触覚を拡大し、ヒトとしての形態を変容させつつあるおまえたちの外観は、もはや妖怪同様に生物として充分に異形だ〉と言う妖怪と、欠損を補うハイ・テクノロジーを引き受けた人間たちとが共存、共生しているように、である。しかしながら、それが必ずしも縁遠く、実感を伴わないものではないのは、あくまでもこちらのよく知る現実の、日常の、平穏の映し鏡として、舞台が成立させられているためであろう。どれもがSFやホラーの意匠をまとってはいるけれども、湛えられたおどろきやおそろしさは、見れば見るほどに不確かな人間の内面にそって歪んでいる。作中にあらわれる奇異の生物たちは、まったく意味不明な異者(エイリアン)というより、交感可能な余地のある他者の像に近しい。個人的に、いちばんつよく惹かれたのは「くさびらの道」という作品で、これの簡単な概要を述べるなら、新種の真菌によって、世界が汚染、変容していく過程を描いたバイオ・パニックだといえる。死体に寄生した茸の類が、生きている者に見せる幽霊の姿は、人の心の反響、それ以外の何ものでもない。そして、その声から逃れるためには、ほんらいはよすがであるはずを壊し尽くし、焼き尽くさねばならぬことが、不安の根拠となっているのである。一方、収められているなかではもっとも長めの「小鳥の墓」は、近未来の科学上で成立する管理システムにおいて、脱社会的もしくは没社会的な、つまり世間一般からは異者として見られる存在へと成長していく少年の様子を、注意深く描写している。かくして彼が行き着くのは〈ささやかな日常に人生の喜びを見出し、他者とのつながりを確信している者ならばとっくに手にしている心の安らぎを〉しかし〈未だに得られずにい〉て〈ただ飢え乾くように、それがどこかにないものかと、心の奥で暗い炎を燃やし〉ているのは〈光の届かぬ深海に沈んでいく、決して救われない罪人の姿そのものだった〉にもかかわらず〈いまの自分を、ほんの少しだけ気に入っていた〉といわれるとおり、まさしくその人のほかには誰も知れない、残酷の許された世界であった。
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2009年02月03日
 ICO-霧の城- (講談社ノベルス)

 原作のテレビ・ゲームはプレイしたときがないものの、だいたいの概要は知っているし、たまたま興味をそそられたので、以前に宮部みゆきがノベライズした『ICO-霧の城-』を読んだのだが、いやまあ、ドラマの部分に出された厚みが逆に、すこしばかり怠くもあるにはあったけれど、冒険の物語の最後までいって、作中人物たちに、よしよしよく生きたね、と声をかけたくなることができた。人々におそれられる「霧の城」へのニエ(生贄)として育てられ、捧げられた少年イコは、城内に吊された鳥籠のなかに、白く、うつくしい少女を認め、そして助けだそうとする。こうした二人の出会いは、まさしく運命的なものであった。やがてヨルダとその名前を知ることになる少女に通じる言葉を、イコは持たないが、しかし手を繋ぐたび、幻想ともとれる不思議な光景が目の前にあらわれ、次第に自分にはなさなければならぬ使命があることを知ってゆく。基本的には、ファンタジーの形式にそって、光と闇の戦いをベースとし、作品はつくられているが、ボーイ・ミーツ・ガール譚を横のラインに、親と子の関係性を縦のラインに、引き、両者が交わったところに、悲劇と希望とが持たされている。後者はまた、神話であり伝説であり歴史であるような側面だといえるだろう。そこから生まれた祈りと呪いとが、少年と少女の運命におおきくかかっているので、前者の懸命なトライアルが、たくましい輝きを抱く。
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2009年01月31日
 Classical Fantasy Within〈第7話〉アル・ヴァジャイヴ戦記再生の女神、アイラ (講談社BOX)

 ああ「サミラ、今ぼくにもやっと解った。これが、再生というものなんだな」かくして千人の兵士たちによる、故郷サラディーン救済のための、苛酷な試練は、目的を遂げる。島田荘司の大河ノベル『Classical Fantasy Within 第七話 アル・ヴァジャイヴ戦記 再生の女神、アイラ』である。神の塔の上、ついにポルタトーリの壷の謎かけを解いたショーン・マスードは、辿り着くには遠く遠い紅海までの距離を、最高速で駆け抜ける手段を手に入れる。砂金を燃料とし、モーターを回転させ、雷の力で二輪を駆動させる、そのマシーンならば、不可能を可能にすることもできるだろう。だが、行く手にはまだ、おそろしい竜が、虫が、獰猛なトゥルード族が、待ち構えている。「Classical Fantasy Within」のうち、「アル・ヴァジャイヴ戦記」と題されたシリーズも、いよいよ完結になるわけだけれど、ここから物語は、クライマックスに向かい、まるで主人公らが乗る雷の機械の力を借りたかのように、さらにスピードをあげてゆく。とくに、二つに割れた紅海を、リミットぎりぎりで、走りすぎなければならぬくだりに、はらはらさせられる。全編を通じて、士郎正宗の手がけたイラストとのコラボレーションが、もっとも生きているのも、その場面ではないかと思う。結論からいえば、ロール・プレイング・ゲームふうの英雄譚に、ミステリやSFのロジックを持ち込んだ神とは、いったい何者だったのか、神話レベルでの真相は、作中に明示されていないが、まあ、伝説や寓話の成り立ちは本質的にそういうものであって、そこにこそ想像力の入り込む余地がある、想像力で補われなければならない部分なのかもしれないし、あるいは今後に別シリーズの続く「Classical Fantasy Within」のすべてが提出されたとき、はじめて見えてくるものがあるのかもしれないけれど、こうしてサヴァイバルのかたちで描かれたファンタジーが、しごく単純に考えるなら、受精や受胎の喩えを持っていることは、主人公と女神の邂逅に、あきらかだ。しかしそれにしても、たいへんわくわくさせられる冒険活劇であったな。もしも「Classical Fantasy Within」に興味を抱いている向きがいるとしたら、順番は異なってしまうものの、ひとまずこの「アル・ヴァジャイヴ戦記」から入ってしまってもよいとさえ、言いたい。

 『Classical Fantasy Within 第六話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ポルタトーリの壺』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第五話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ヒュッレム姫の救出』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍』について→こちら 
 『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2009年01月30日
 文藝 2009年 02月号 [雑誌]

 『文藝』春号掲載。自分でも、この頃は青山七恵の作品を持ち上げてばかりいるなあ、という気がしているのだけれど、どうしてかと考えながら、たぶん、少女マンガの端整な小説化であるようなところを好いているのだろう、と思うようになった。もちろん、少女マンガみたいな感性を持った小説自体は、80年代ぐらいよりこちら、とくに珍しいものではないし、今日的な小説家にとっては、もしかしたら無意識な、ごく自然と身についた作法なのかもしれないが、だからこそ重要なのは、それが端正にも受け取れる、との一点である。たとえば、同世代の(といってしまってもいいかな)同系統の(といってしまってもいいよね)女性作家である島本理生や生田紗代と比べてみたとき、そのことはわかりやすく見えてき、最初期の『窓の灯』や『ひとり日和』には、十分に足りていない部分であった。この『出発』にもまた、まるで少女マンガの(とはいっても若い社会人ぐらいの年代が読む)ような印象が備わっている。とくにドラマティックな出来事が展開されるのではない。気難しくない程度に、等身大の、個人の、漠とした感情をあらわしている。二十八歳の〈僕〉が、絶対のおおきな理由があるわけでもなく、会社を辞めようかと考えているある日、街角で、派手目の見知らぬ女性に「お金貸してくんない」と声をかけられた場面からはじまり、そうして何か事件が起こるのではなしに、一日の、風景や人々の描写がちょうど、語り手の、心の移動と重なるかたちで、小説は進んでゆく。男性の一人称による語り手は、この作者にとっては『ムラサキさんのパリ』、『欅の部屋』に続く三作品目で、もはやキャリア上の異色ではないだろう。その彼が、旅行事業部に勤めているという設定によって、たしか『ムラサキさんのパリ』の主人公も旅行関係の仕事だったよな、と思ったのだが、両者に表立った関連性はなさそうである(旅行会社に勤務しているらしい作者の経験に基づいているだけの話とも考えられる)。けれども、ビルディング小説として対照的な面を持ってはいる。あるいは、『新しいビルディング』を間に挟み、立ち去る者や出て行く者になれない者、とでもすべきテーマを持ち出していいのかもしれないが、『ムラサキさんのパリ』では、匿名的な高層ビルに囲まれるなかで〈フェンスの向こう、ビルとビルの隙間のもっと遠くに、小さな灰色の電気塔が小さく見えた。エッフェル塔に似ていなくもなかった〉と、ここではない風景がイメージされることに、おそらく主人公の心証を託しているのに対して、『出発』では、〈駅を昼にして西のほうを見やると、すぐ向かいには昼、女に声をかけられたスバルビル前の横断歩道、コクーンタワー、工学院大学、それから僕の会社が入っているビルがある。十二回のフロアには、ぜんぶの窓に蛍光灯がともっている。そこを取り囲むようにいくつかの高層ビル、京王プラザホテルの一部、そして駅からまっすぐにのびるイチョウ並木。街灯に照らされて、今はどの木の葉もマーカーでひいたような蛍光イエローに光っている〉という、具体的な場所に立ち、いま〈日本の中心の東京の中心の新宿の中心に〉いると気づかされることに、主人公の実感を預けている。

 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2009年01月20日
 たまさか人形堂物語

 『たまさか人形堂物語』は、津原泰水の小説のなかでは、どちらかというと『ブラバン』や『ルピナス探偵団の憂愁』のようなものに近しい、要するに、口当たりのよいせつなさをたくわえた内容だというふうに感じられた。あるいは、自らの所在を求め、手に入れ、失くし、再発見するといった流れのうちに、他の作品へと通じるものがある。失業の存在が、とても身近に描かれているのも、らしい、といえばいえる、か。渡りに舟ではないのだが〈三年前、勤めていた広告代理店をとつぜんリストラ解雇され、茫然と赤坂の2DKのマンションに引き籠もっていた私は〉、つまり主人公の澪は、ニュージーランドに移住していった祖父から、時代遅れにも世田谷に残された小さな人形店を継がされる。それが本編の舞台、玉坂人形堂であって〈当初はどうなることかと思っていたが、人形の小売りではなく修復に主軸を移してから、ありがたいことに店はそこそこ忙しい。ふたりの従業員も、かろうじて雇い続けられている〉その二人の従業員、勝手気ままな性格ながら、手芸を起用にこなす青年、富永くんと、過去や素性をいっさい明かさないかわり、たしかな技量を持った人形職人、師村さんに助けられる澪のもとに、さまざまな思惑や因縁を秘めた人形が持ち込まれる。これを次々に解決してゆくというのが、まあ、収められた六編のおおよそである。一編一編は、決して長くはなく、ライト目であるけれど、真相のはっとさせられる業のありようを、気詰まりしないぐらい、和気あいあいとしたドラマのうちに隠している。先に述べたとおり、所在にまつわる物語になっていると受け取ることもできる全体のおしまいのあたり、現実感はぼやけ、立ち位置がぐらつき、視線のよろめいた描写に、この作者ならではの感情が際立っている。

 「土の枕」について→こちら
 『ピカルディの薔薇』について→こちら
 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら
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2009年01月10日
 『群像』2月号掲載。基本的に、メジャーであれマイナーであれ、ロックやポップのアーティストの、何かしらかの固有名が小説のなかに出てくると、結局のところ、それって作者の趣味でしかないでしょう、と白けてしまうのであったが、海猫沢めろんの『ピッグノーズDT』は、そうした趣味程度の問題が、さも重大事であるかのごとく受け取られかねない時代を、逆手にとった内容であって、その点に関しては、さほど白けるということはなかった。たとえば語り手である〈オレ〉は、MOSAIC.NAVからUNDER17からSound Horizonから初音ミクからアイマスから、RADWINPSからマキシマムザホルモンからELLEGARDENから9mm Parabellum Bulletから、NirvanaからDinosaur jr.からPixiesからFoo FightersからFrank BlackからSONIC YOUTHからNeil YoungからSteve AlbiniからMy Bloody BarentineからThe Flaming Lipsから、相対性理論からGOOD DOG HAPPY MANからcruyff in the bedroomからSyrup 16gからART-SCHOOLから、ナイトメアからディルからムックからプラトゥリからZi÷KillからD’ERLANGERから(以上、すべては作中の表記に従った)、まあジャンルはさまざまであるけれども、それぞれにおいて正しく半可通が好みそうなあれこれの名前を、ヒカリさんという、安っぽいメロドラマみたいな出会い方をした女性と共有することで、中学生の段階でフリーズしたかのような自意識のまま、恋愛の気分になっていく。『ピッグノーズDT』とは、要するに、豚っ鼻の童貞の、秋の16歳の、物語である。中卒で、田舎から出てきたはいいが、ぶさいくでも平気で雇う場末のホストクラブで働くぐらいしか、能のない〈オレ〉の生活も内面も、ろくなもんじゃないが、そのろくなもんじゃないさ加減が、よく出ており、それをリアリティや批評性と言い換えても通じそうであるし、性差をからめた構造上のどこかから意味深な部分を見つけてもよさげであるため、いかにも今ふうにドラマティックでございといった展開のなかに、ぎりぎり、白けるか白けないかの、おかしさ、手応えが生まれている。

 『オフェーリアの裏庭』について→こちら
 『零式』について→こちら
 『左巻キ式 ラストリゾート』について→こちら
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