ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年12月24日
 前田塁の『小説の設計図ver._1.10 補遺『「メロス・ゲート!」を追え!』――国語教科書の(レ)トリックス』は、「第七回文学フリマ」にて頒布された小冊子である。そこで論じられているのは、太宰治の『走れメロス』という、たいへん自分勝手な人物を主人公にした小説がなぜ、信頼や友情の物語になってしまい、今もなお中学校の国語教科書に堂々と採用され続けているのか、ものすごく簡単にいってしまえば、そのようなことになる。前田は、『走れメロス』において〈メロスの「正義と友情」をもっともよく体現している〉だろうと見なされるシーンを、こう、切り取って、いう。〈いまはもう、全裸に近く足裏からは血を流し、ほとんど絶望的な日没に向かって(略)、走るメロス。たしかに、それはきわめて印象深い場面ではある〉がゆえに、ある種のヒューマン・ドラマ的な設定となりうる、〈だが、あらためて指摘するまでもないことだけれども、そのように、印象づけたい場面に夕陽の情景を設定したり、登場人物のある種感傷的な心象をあらわすのに夕暮れを用いたりすることは、なにも「メロス」に独特のものではない〉のだ、と。ここから、たとえばアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』や映画『ALWAYS 三丁目の夕日』でもまた、夕陽や夕暮れが、ある種の心理作用をもって、演出上の効果をあげていることを例に出し、そしてこの国の人々が、そうした表現に対して歓迎的であることを、平岡敏夫が『〈夕暮れ〉の文学史』のなかで、柳田國男の「一種の伝統的不安」を引き、述べているとおり、〈昼の明るさから夜の暗さへと移行する「たそかれ=誰そ彼」どきの一日二四時間における物理的条件、あるいは昼=労働時間と夜=休息時間といった文化的役割の移行時間帯としての夕暮れの特殊性は、たしかにあるに違いない〉と認めながらも、ただし理由はそればかりではないだろうとする。つまり〈夕暮れが情緒一般の投入されがちなタイミングであることと、そこに投入される情緒が均質化することは、本質的には別の問題〉なのであって、『走れメロス』が〈人間性の発露として均質に教科書化される点において、さらには、受容する側の不自然なまでの疑わなさにおいては、おそらく後者とともにある〉のである。そうして前田は、べつの方向から、ふたたび『新世紀エヴァンゲリオン』や『ALWAYS 三丁目の夕日』などの内容を見ながら、どうして夕陽や夕暮れによって作品に〈投入される情緒が均質化〉してしまうのか、それを問う着眼をもって『走れメロス』の、教科書に相応しい面を、あらためて捉まえ直す。しごくコンパクトに要約してしまうのであれば、それはすなわち、〈明治のある時点以降のこの国において、そこに属する者は、誰もが「義務」として一定期間の学校教育を受けてきた。昼間は子供だけのコミュニティに赴き、夜には家族のコミュニティに帰る――そのようなコミュニティ間の「移動」を、誰もが当然のように課され経験してきたのである〉としたら、結局のところ、夕陽や夕暮れによってもたらされる情緒の普遍性の〈その根底には、「誰もが」経験させられている「義務」=制度がある〉のであり、この意味において、それが信頼や友情を、あるいは人間の美しさや弱さを、ほんとうに訴えているかどうかはともかく、〈「走れメロス」の物語は、だから、義務教育下の国語教育に、きわめて適していたのである〉と、前田は喝破する。もちろん『「メロス・ゲート!」を追え!』という論考にとって、重要なのは、そうした構造に対して〈いかに「テキスト論」が介入しうるのか〉といった結末にあたる部分なのだと思われる。それでも個人的には、ここまで引いてきたようなこと、夕陽や夕暮れによって呼び起こされる共感が、学校のコミュニティと家族のコミュニティの分割という、きわめて歴史的な制度を背景としている、との指摘には、ああ、と感じられるものがあった。

 『小説の設計図(メカニクス)』について→こちら
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2008年12月22日
 メフィスト 2009年 01月号 [雑誌]

 『メフィスト』1月号掲載。じつをいえば、近頃出た二つの新刊に関しては、読んで、あまりはっとせず、取り上げることもしなかったのだが、やはりこちらが本流なのか、『零崎人識の人間関係 無桐伊織との関係』は、ひさびさに、十分おもしろかった。ご存知のとおり、西尾維新が「戯言シリーズ」から派生させた「人間」シリーズのワン・エピソードであるが、一方で「戯言シリーズ」の後日譚的な役割も果たしているのかな、と解釈することもできる。「戯言シリーズ」が、そこでの語り手である「ぼく」こと「いーちゃん」の、一種の成長と前進を示すことでピリオドを打っていたのに対し、同等の時間とスペクタクルと経験を得て、ではワキの登場人物たちはいかなる変化を遂げたのか、が描かれているふうにも見えるからである。題名にあらわれているとおり、作品は、零崎人識を中心の点とする人間関係をベースとしているけれども、必ずしも彼が主役というわけではないだろう。『零崎人識の人間関係 無桐伊織との関係』の概要を、簡単にまとめるのであれば、「戯言シリーズ」の作中時間において、石凪萌太からとある依頼を受けた哀川潤が、「戯言シリーズ」後の世界において、ようやくそれを果たすべく、人識と伊織の零崎一賊の生き残りを引き連れ、闇口崩子をともない、萌太と崩子の生まれ故郷、大厄島を訪れ、そこで結晶皇帝の異名を持つ、生涯無敗の男、六何我樹丸と、対決することになる。そうした物語のあちこちに、家族にまつわる共同性の問題が、まざまざと縫い込まれている。ここでいう家族とは、血縁関係そのものを指すのではない。零崎一賊が、血筋ではなく、資質によって、家族化されているように、だ。また、大厄島で父や母と相対した崩子が、自分にとっての家族がいる場所、帰るべき場所は〈京都の町で立て直されている最中の(略)あの骨董アパートだけなのだった〉と実感するように、である。すなわち家族は、あらかじめ用意されたものというより、自らが選びとったものとしてあらわれている。これは、血縁関係を運命の始点とするなら、そこからの自立をも意味する。たぶん、定められた運命にも変えようがある、こうした可能性を「戯言シリーズ」は、「ぼく」と語られる人物の自意識に寄り添わせ、成長と前進の予兆を教えるかたちで、すくい出していた。それがここでは、家族にまつわる共同性をたたき台とし、登場人物の多くにひろく行き渡らせている。彼らはみな、「戯言シリーズ」の「ぼく」と、同等の時間とスペクタクルと経験を得て、以前のままの自分ではなくなっている、そして以前のままの自分でないことを、身近な他人の存在を通じ、再確認しているのである。あるいは第八章、対決のシーンになって、再三繰り返される〈奇跡は起きない。大抵の場合、バトルはオッズ通りに進行する〉という文句が、その数だけ例外を生んでいく展開もまた、すべてが運命だと決められた生き方にもきっと突破口がある、そのような可能性の、言い換えられた表現だと受け取れる。ところで、おそらく本筋とは関係のない話なのだが、誌面でいうとP90、〈哀川潤と闇口崩子は闇口崩子に案内されて〉というところ、この二回目に出てくる闇口崩子って、たんなる誤りなのか、てっきり闇口憑依という人物の名前とかけて、ミスリードを誘っている箇所なのかと思った。

 「零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係」について→こちら
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 「蹴語 SIDE-A」について→こちら
 『真庭語 初代真庭蝙蝠』について→こちら
 『君と僕が壊した世界』について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
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 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
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 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
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 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
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 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年12月12日
 踊るジョーカー―名探偵 音野順の事件簿

 北山猛邦の『踊るジョーカー』は、けっこうライトな感じのミステリ小説で、五つの篇からなっており、それらの物語で起こる難事件を、見事に解決していく探偵役と助手役の主人公二人組が、たいへん可愛らしい。まあ、可愛らしいというのが、作中の彼らにとって名誉であるのかどうか。なぜならば若いとはいえ、もう立派な成人男性だからである。推理作家を営みとする語り手の白瀬は、大学時代からの知り合いである音野を、こう評す。〈彼には誰も気づかないような真実の欠片を見つける才能があった〉と。しかし〈彼は進んで名探偵としての力を発揮しようなどとは考えない男だ〉と。それでも〈彼は本来、その冴えた能力を称賛されるべき人間なのだ〉と。そうして、根っから引きこもりがちな音野の社会復帰をあたかも手伝うかのように、白瀬は自分が借りている仕事場の一角に探偵事務所をひらくのだった。謎は謎として険しいものの、乗り気な白瀬に嫌々ながらも事件現場へと連れ出される音野の、二人の性格をよく立たせた凸凹さ加減は、繰り返すけれど、たいへん可愛らしい。可愛らしさとは、たしょう悪く言い換えるなら、幼稚さのあらわれでもある。しかしその幼稚さが作品には見合っている。いや、それは必ずしも作品が幼稚趣味だということではない。たしかに、人の生き死にに関わるような事態にさいしてさえ、極端に暗さや重たさは斥けられ、全般的に楽しく明るい雰囲気のまま、物語は進む。そこを非難するのは容易い。だが、よくよく考えてみるなら、どれほどの凶悪犯罪も、全部が全部とはいわないにしたって、動機のレベルで見るなら、たいてい、幼稚なものである。たとえば、憎しみや妬ましさのあまり、人を陥れたり、ときには人を殺したりする。たとえば、金欲しさが高じて、人から盗んだり、ときには人を殺したりする。こうした精神自体が、もしも幼稚であるとするなら、登場人物たちのコミカルな振る舞いは、むしろ、その描写に適っている。それでも、すでに果たされ、取り返しがつくことのない蛮行の解決に、胸痛めた様子を見せる音野の姿が、作品のエモーションだろうか。音野の憂いを前に、白瀬がいうとおり、〈人生を懸けたトリックで他人を殺害し、運命を変えようとする人々。探偵はその運命を矯正する力を持つ。それだけに躊躇する気持ちはわからないでもない。名探偵は他人の運命を破壊するだけの力を持っている〉のである。とはいえ、ここで重要なのは、あくまでもそれが語り手である白瀬の視線によっていることだ。白瀬の、音野を捉まえる視点から出てきている。つまり、じつをいうなら二人のやわらかな関係性を示すものでしかない。彼らの可愛らしさを見るにつけ、あるいは、この世界におけるラディカルな幼稚さにあっては、そうした親密さだけがただ、感情に繋がっているものなのかもしれない、と思う。

 『恋煩い』について→こちら
 『妖精の学校』について→こちら
 『少年検閲官』について→こちら
 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
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2008年12月08日
 すばる 2009年 01月号 [雑誌]

 『すばる』1月号掲載。ああ、これはもうふつうに大好きと言ってしまいたい。すくなくとも、モラトリアムの渦中であるような若い時期に、付き合っていた恋人から一方的にふられ、それを受け入れるとも受け入れないともなく、ただ、取り返しのつかぬ事実が別れの痛みとなるのを確認するしかなかった、そのような経験を持つ人間には、あわく、たしかに響くものがあるのではないかな。

 読み逃している作品はないと思うのだが、おそらく、この『欅の部屋』は、青山七恵にとって「ムラサキさんのパリ」に続き、二作目となる男性の一人称による小説である。「ムラサキさんのパリ」、あれはあれで飄々とした雰囲気の良い内容だったけれど、いや『欅の部屋』は『欅の部屋』で、また違った魅力にあふれている。わりとまっすぐな恋愛の物語としても青春の物語としても読めるし、何気ない日々の佇まいに隠されたエモーションをそっと撫でるふうな手ざわりに、心地好くなるだけでもいい。

 語り手の〈僕〉は来年の春、華子という女性と結婚しようとしている。その準備もあり、仕事もあり、それなりの忙しさを抱えるなか、なぜかしら思い出されるのは、二年間付き合い、四年前に別れた小麦のことで、じつは今も彼女は同じマンションのべつの階に住んでいる。しかし〈それでも、この四年で僕が小麦に出くわしたのは、たったの五度だけだ〉った。だからといって〈僕〉と小麦のあいだに何が起こるというわけでもない。だいいち彼女がどうしているのか、気にしてみたところで〈恋人だから聞いてもいい、という理由は有効だけれども、恋人だったから聞いてもいい、という理由はきっと存在しない〉のである。そしてもう、華子とのあたらしい生活のため、このマンションも引き払ってしまう。時間の流れを、過去と現在に区別するなら、前者はすでに終わってしまったことであり、後者はつねにはじまり続けることだといえる。それらが、記憶として、暮らしとして、〈僕〉の心を通じ、見られている。

 ここに描かれているのは、感傷ではあっても、未練ではないだろう。〈僕〉の知人のこういう言葉は、あんがい的を射ているのかもしれない。「なるほどねえ。そういうのって引っ越しと同じでさ、引っ越す前って、昔のものをいろいろ整理するじゃん。これは捨てようと思っても、捨てる前にもう一度見ておこうって、一応ひととおりは見るだろ。それと同じで、お前は小麦ちゃんを捨てようとしてるんだよ、でもそのまま捨てるのは忍びないから、いちいちこれで見納めだって律儀に思い出してやってんだよ、小麦ちゃんを」。

 どこにどう力を込めても、だんだんと過去は遠ざかっていく。その尻尾の長さは決まっていて、いつまでも掴んでいることはできない。手放す瞬間が、ここだぞ、とわかるのであれば、そのとき、いったい何が胸にくるのか知りたい。『欅の部屋』は、そうした一幕の、触感に近しいシミュレートだと思う。

 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2008年12月06日
 文学界 2009年 01月号 [雑誌]

 『文學界』1月号掲載。「新年創作特集」に含まれるものの一つ。ここ数作、青山七恵の短篇小説に関しては、いつも褒めてばかりいるような気がしてしまい、逆に申し訳なくなってしまうのだが、しかしこの『お上手』も、好きだ、というよりほかないので困ってしまう。要約してしまえば、お話としてまとめられるほどの出来事もなく、他愛もなくありふれた日常のシーンが切り取られているだけのようなのに、なぜだろう、すこしずつ読み進めるうち、不思議と入り込んでいかされる魅力がある。

 会社の帰り、ヒールの壊れかかった靴を〈合鍵も作ってくれるような地味な修理屋〉に差し出した語り手の、視線に寄り添うふうにして作品は動きはじめる。まずそこに描写されているのは、たんなる作業でしかない様子だけれども、そのどうということのなさが、〈わたし〉の日々に引っかかりをつくっていく。オフィスの床に敷かれたカーペットの境目にはあちこち隙間があって、それに突き刺さったせいでやはり靴のヒールを壊しかけた同僚のエミに〈わたし〉は、会社のそばでつい昨日自分が直してもらったばかりの修理屋を教える。すると翌日、「行きましたよ」とエミが寄ってきて「マリコさん、ああいう人が好きでしょう」と言うのである。いや、しかしだからといって〈わたし〉と修理屋の恋愛に小説はなっていかない。エミの発言に対して、〈わたし〉は実感がなく、むしろ懐疑的であり、そのことが〈自分の知らない、自分についての何かを知るのは苦手だ。でも、すぐ目の前にいたはずの人の顔をはっきり思い出せない、という事実はなんだか気に入らない〉という感情を引き出している。こうした自己規定もしくは自家撞着をめぐり、語り手の心は波打っていくのだ。

 結局、その手がかりであるような存在として修理屋はあらわれているにすぎない。たとえば、しばらく手入れしていなかった靴をまとめて修理屋に持って行き、預かりを記すさい、一緒にいた同僚に「オギソさん、字、お上手ですね」と褒められても〈自分にとって当然にやっていることを褒められたって、なんだか無理やり美点を探されているようで、気持ちがふさいだ。褒めてほしいのは、そういうところではないはずだった〉と考える。この当たり前のことを慣性でしかないと反発する気持ちが、淡々と作業をこなす修理屋の姿を向こうに回し、一種の合わせ鏡とさせて、それこそ人生と大げさに捉まえてもよいようなひろがりの、触感を映し出す。

 やがて、同じ会社にいた男性と付き合い出して〈わたし〉は、修理屋のことなどまったく忘れてしまう。一人きり、何かちいさなこだわりを見つけたり、見つめたりすることもなくなった。べつに何の不都合もない、つもりだった。なのに、またオフィスの床で靴のヒールをやってしまい、修理屋の話題が出たとき、もうすっかり興味のなさそうなエミの言葉と態度から、かつての自分が、いま自分たちが語っていた修理屋みたいな〈何もない、と判断される人だけにわかるもの、見えるものがあると思っていた。わたしは、それを知らない人たちのほうが不憫なのだと信じようとし〉ていたのだと気づかされる。つまり、以前の〈わたし〉自身が、その〈何もない、と判断される人だけにわかるもの、見えるものがある〉と信じられることに支えられた人間だったのである。だが、もはや、そうではない。恋人とのやりとりが、いうなれば他人からの働きかけが、自分に作用することを〈頭の緊張がふっとゆるんだ気がして、そのゆるくなったところが飛び出したりへこんだり絶えず動いている感じがして、それは落ち着かないけれども決して不快な感じではなくて、彼から連絡が来るたびに起こる変化だった。こんなことも、そのうち慣れるだろうか〉と受け入れられるぐらいには、現在の〈わたし〉と過去の〈わたし〉は違ってきている。

 簡単には抜け出せないサーキットをぐるぐると回り続ける日々、にもかかわらず同じポイントをひたすら反復し続けるわけでもない日々、それはまるで、過去を下に、だんだんと離陸していく螺旋のようでもある。そうした螺旋のどこかで去来する感傷が、最後の場面、依然として変わらぬ修理屋の仕事ぶりを指し、「お上手ですね」と声をかける〈わたし〉の視線には宿っているのだろう。

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2008年12月03日
 Classical Fantasy Within 第6話 (6) (講談社BOX)

 わくわくするというの喜ばしいことだ。当然、それを与えてくれるものも喜ばしい。「アル・ヴァジャイヴ戦記」編に入ってからの、島田荘司『Classical Fantasy Within』はちょうどそんな感じ、だと思う。いよいよ、祖国サラディーンを救うべく旅立った主人公ショーン・マスードたちの試練も、終盤に入る。しかし、さらなる難関が彼らの前に立ちはだかる。はたしてそれを突破できるか、試行錯誤する作中人物にならい、読み手であるこちらの関心も、ぐんぐん高まる。『Classical Fantasy Within 第六話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ポルタトーリの壺』である。これまでの道程により、パーティに女性が一人二人と加わって、ときにはショーンをめぐり焼き餅合戦をやらかしたり、道行きが華やかになるのはいいが、千騎の精鋭が十数騎にまで脱落する苛酷さにおいて、さすがにそれはちょっとどうなのよ、シビアさが足りないんじゃない、と、なりかねない懸念を先取りし、あらかじめすべてがさだめられた(仕組まれた)物語であるかのよう、演出する手腕が発揮されているので、攪乱される。たとえば次のような場面、あとから勝手についてきた踊り子のサミラが主人公に向かい、「ショーン、女を邪険にしない方がいいわよ。あなたはこの先で、きっと女に助けられるわ」と述べていることが、じっさいそのとおりになっていく。そうした展開はしかし、ご都合主義ではなく、いや、ご都合主義というのが、作中人物たちの生存に融通を利かせたものであるならば、ここでのくだりは、むしろ作中人物たちが決して物語の制約からは自由になれない事実を、暗示しているみたいだ。そう、もしかしたら、ロール・プレイング・ゲームふうの世界観は、テーブルトーク的な(物語消費的と言い換えてもよい)それではなくて、コンピュータ的な(データベース的と言い換えてもよい)それに由来しているのではないか。そうして、システム全体が読み手の視野に入る活劇として構築されているのではないか、とさえ感じられてくる。あるいは、そこにこそ、ミステリのジャンルでさまざまなトリックを駆使してきた作者のセンスが、生きているのだろう。壮絶に繰り広げられるスリルとサヴァイバルは、手段であり過程であり、巨大なスケールであらわされる目的の遂行は、クイズとパズルの形式に収まる。ポルタトーリの壷に与えられた難問をかけ、神のつくりし塔の上に立った一行は、ついに世界の救済へ至るためのヒントを得る。「俺たちは今からこれを使って、急いで謎を解かなくてはならない」と言う。だが、解かれるべき謎の全容は、作中の彼らのみか、作外の我々にもまだ知れない。ええ、なになに、何がいったいどうなるの。わくわくするね。

 『Classical Fantasy Within 第五話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ヒュッレム姫の救出』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍』について→こちら 
 『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2008年12月02日
 文学界 2008年 12月号 [雑誌]

 今月号がもうちょっとしたら出る時分になって、先月のに掲載されていたぶんを取り上げようと思ったのは、じつをいうと一ヶ月ぐらい前に読んだときには、ここにきて医療や格差の問題に目配せしてきたのは、さすがにちょっと詰め込みすぎではないか、というのもあったし、物語のレベルで見るなら、メロドラマしいなところが以前にも増してつよまってき、さあどうしたもんだろう、というのもあったのが、間を置いてから読み返したら、もうすこしべつの角度で、ここでのくだりを捉まえられるような気がしたためである。『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』の主人公は、すでに述べたとおり、92年に村上龍が書いた『音楽の海岸』の主人公と、下の名前(だけ)が同じになっている。『音楽の海岸』は、その主人公であるケンジが、ながく病気を患い、入院している妹を見舞う場面で、幕を引く。おおざっぱにまとめるのであれば、ある事件で精神にダメージを負った人物が、肉体にダメージを持つ人物の言葉の、確信的な響きによって、(おそらくは)得るものがある。『心はあなたのもとに』の第十九回には、そこでの構図をまた違ったふうに上書きしている印象がある。医療ミスで自分の命を危うくされたのではないか、と病院に不審を抱く香奈子を、主人公の西崎(ケンジ)は見舞い、励まそうとする。だが、じっさいに目の当たりにした香奈子の様子に、彼は〈大変だったな、というわたしが用意した言葉は、まったく役に立たなかった。香奈子のことを何も理解できていない、ゴミのような言葉だったと思った〉のだった。ここにはたとえば、『音楽の海岸』で、体力はあるのに神経を参らせている主人公が、誰かに助けを求めようとしてもできない、そのさい〈こういう時には言葉が必要なんだけど、本当の言葉というのは、今こうやってオレが喋っているようなゴミみたいなもんじゃない〉と実感するのに、立場や状況はまったく違っているけれども、どこか相通ずるニュアンスを読み取れる。たいていのコミュニケーションは、固定された関係性を維持するために必要とされる。しかし、それに費やされていくうちに、言葉は、つるつると表面が磨かれるかわり、一種の切実さ、目的や意志と言い換えてもよいものを、曇らせてしまうのではないか。『心はあなたのもとに』の主人公は、〈西崎さん、西崎さん、とわたしの胸に顔を埋め、名前を繰り返し呼〉ぶ香奈子に対し、〈何か言わなければと思ったが言葉が出て来ない。もうだいじょうぶだとも言えない。だいじょうぶだという保証などどこにもないから、それは単なる気休めだ。死にそうになった人間に気休めが言えるわけがない。ずっとそぼにいるから、とも言えない。現実的にずっとそばにいられるわけがない〉ので、やはり、何も言えない。『音楽の海岸』で、クライアントから「(略)例えば、女が、ずっと泣き続けて、酒を飲んで、自分を失っていて、おかしくなった場合はどうだ。自分の大切な女が発狂寸前になって、包丁を、君にではなく、自分の手首に当てるような時だよ」と問われた主人公が「本当に死ぬ人は、例えその時、誰かに止められたとしても、いつか一人になった時に死ぬもんです、それに、人間が発狂したら、もうその人は別人になったと思わなければいけない、別人なわけだから、最初から、やり直さなくてはいけないんです」と答える箇所がある。『心はあなたのもとに』の香奈子は、決して狂人ではなく、ただ病人なだけだが、西崎が何も言えないのは、たぶん彼が、同じ人間とべつの関係性をやり直すための言葉を持っていないからなのだと思う。そしてすでにアナウンスされているように、香奈子はやがて亡くなってしまう。当然、死者とも関係性をやり直すことはできない。こうした無力と寂しさをにおわせる連載の第一回目から『心はあなたのもとに』の物語ははじまっていた。

 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2008年11月29日
 スキャター・ザ・クロウ

 シューゲイザーの継承とは異なり、アメリカで発明されたグランジの発想を学び、積極的な導入を試みたイギリスのバンドというのも、90年代にはいないわけではなかった。しかし、まんまグランジの模倣と見られたため、かなりの成功を収めはしたものの、悪し様に言われる傾向のつよかったBUSHをべつとすれば、そのほとんどは一般の評価を得ることもなしに消えていったといってよい。そう、今ぱっと思いつくかぎり、HEADSWIMやBABY CHAOS、SEND NO FLOWERSなどとバンド名を挙げてみたところで、どれだけの記憶や記録に残っているか。FEEDERのキャリアが、SMASHING PUMPKINSやSOUNDGARDENのフォロワーに近しい音楽性からスタートしていたことも、すでに話題にのぼらなくなりつつある。独自の発想を加え、魅力的なサウンドを出していたアーティストも、決してすくなくはない。にもかかわらず、ブレイクし損なったもののほうが多いのは、結局、ブリット・ポップ前後のフィーリングにはまらなかったのだろう。だが、時代が一回りした00年代の現在になると話も違ってくる。最初は拙かった方法論自体が発展し、感性そのものが洗練されというのもある。たとえば、BIFFY CLYROやREUBENの示すアプローチに、それはよくあらわれていると思う。グランジィなテイストをわりとナチュラルに消化し、今日的なスタイルにまで昇華することで、見事な活路を切り開いている。また、そこからもうちょいハード・ロック色を高めていくと、ZICO CHAINがいて、そしてこのSLAVES TO GRAVITY(スレイヴス・トゥ・グラヴィティ)がいる、といった感じがする。SLAVES TO GRAVITYのファースト・アルバム『SCATTER THE CROW(スキャター・ザ・クロウ)』で聴くことができるのは、ALICE IN CHAINSやSTONE TEMPLE PILOTSを思わせる、重量のある、粘着型のメロディとグルーヴをベースにしながら、上向きのダイナミズムを大胆に盛り込んだロックン・ロールである。これが、それこそ90年代のTHE ALMIGHTY、THE WILDHEARTS、THERAPY?の頃から、その後のFEEDER、MY VITRIOL、さらには近年のOCEANSIZE、BIFFY CLYRO、REUBENに至るまで、英ハード系サウンドをキー・パーソンとして支えてきたクリス・シェルダン(シェルドン)のミックスも効果的に作用し、なかなかにかっこうよく決まっている。もうちょいフックが欲しいかな、という部分もあるにはあるけれど、前身であるTHE GAGA’Sに比べると、焦点が定まり、総体的な印象もつよい。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2008年11月19日
 生まれ来る子供たちのために (講談社ノベルス ウF- 18)

 八木剛士、そして松浦純菜、社会から忌まれ、疎まれ、迫害されてきたがゆえに出会ってしまった二人の、悲しい恋の物語が、ここで終わる。あれ、そんな物語だったか、いや、そんな物語だったのだ、たぶん、たぶん、たぶん。だって、ちゃんと切ない結末になってるじゃないか。とはいえ、しかし、冒頭に付せられたエピグラフが、あの安藤直樹(作者の初期作に出てくるキチガイ。キチガイっていうのはさすがに言い過ぎかい)であったことから予想できたとおり、ああ、まあ、それ以前にこれまでの展開からしてもそうなのだが、身も蓋もないぐらい、負の雰囲気に充ち満ちた作品になっているのが、ついにシリーズも最終巻を迎えた浦賀和宏の『生まれ来る子供たちのために But we are not a mistake』である。うん。こいつはすばらしくひでえや。

 自らを拒絶されたという感情が暴走し、剛士は純菜を深く傷つけてしまう。しかし剛士もまた、彼に対して複雑な思いを抱く南部の手により、もっとも大切にしていたはずのものに深い傷をつけられてしまうのであった。こうして三者の、かつては親密にもなりかけていた関係は崩壊し、憎しみのめぐりめぐる、血なまぐさく、たいへん醜い復讐劇が繰り広げられていく。一方、偽王とIR2、ハルマゲドン、天国移送、すべての計画は最後の段階に入り、地球人類に終わりのときが訪れる。

 もしかしたらやるんじゃないかやるんじゃないか、と思ってはいたが、P224、やっぱりやりやがった。過去作でいうなら『リゲル』級のインパクトをかましやがった。もうほんとうに、この作家は、良くも悪くも、期待を裏切らねえな。いずれにせよ、その瞬間を境に、アニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の頃から近年では遠藤浩輝のマンガ『EDEN』まで脈々と続く、ビオスとゾーエーに引き裂かれる主観の、映し鏡であるような物語へと作品はシフトするのであった。もちろん、それは初期の小説(それこそ安藤直樹が登場ずるシリーズ)にも見られた傾向であり、だからある意味で、原点回帰ともとれるくだりだろう。しかし、ここにきてこのシリーズが、右翼や左翼がどうのだとか憲法九条がどうのだとか、執拗に繰り返し続けていた問答や、あるいはセックスしたいセックスしたいセックスしたい不細工な人間でもセックスしたいんだと、執拗に繰り返していた欲求の高まりが、ビオスとゾーエーの二極化をよりつよく推し進めていることに着目されたい。この場合のビオスとは、せめて人間らしく、といえる。

 もちろん、物語のなかでは、ビオスやゾーエーと述べられてはいないけれども、おそらく、そのように置き換えられる意識のありようは、二重三重の構造をもって描かれている。精神と肉体の対比として、自然と政治の対比として、生命とヒエラルキーの対比として、選ばれなかった側と選ばれた側の対比として。そしてそういった相剋もしくは選択からは決して逃れられない者の姿として剛士は、世界が終わったあとの世界に、一人取り残される。

 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

・その他浦賀和宏に関する文章
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2008年11月18日
 元職員

 吉田修一の『元職員』は、講談社創業100周年記念出版「書き下ろし100冊」の第一弾ということになっているが、まあ、そういったことは中身の話をするさいにはどうでもよくて、ではどういった中身を持った小説なのかといえば、異国を舞台に日本人の像を描いた旅行小説、おそらくはそのように説明できる一方で、『悪人』や『さよなら渓谷』に続いて書かれた犯罪小説だとも読める。いずれにせよ、秘密を抱えた、つまり取り返しのつかない事件の起こってしまったあとで、それを胸に伏せたままにしている人物の影が、平静に冷淡に、しかし無味乾燥にはならないよう、語られていくさまが、じつにこの作者らしい作品だと思う。

 バンコクへと一人でやって来た片桐という中年男性は、たまたま食事のために寄った通りの屋台で、長期滞在している日本人青年の武士と出会い、意気投合し、ミントと呼ばれる脛の艶やかな現地の女性を紹介される。そしてタイに留まっているあいだの数日を、彼女とともに行動するようになる。こうした筋書きのなかで、どうやら片桐にはのっぴきならない事情があるみたいだぞ、という印象が読み手に植え付けられていく。もちろん、どんな秘密が抱えられているのかは、だいぶ先になるまで明かされることはないが、まず妻のイメージとなってあらわれたそれは、どこか不穏な空気を孕み、次第に片桐を日本から逃亡してきた人間にも感じさせてくる。

 すくなからぬフィクションにおいて、物語は、事件そのものの言い換えである。だが『悪人』や『さよなら渓谷』がそうであったように、あるいはそれ以前のいくつかの作品がそうであったように、『元職員』の物語は、いま目の前では事件というほどの事件が起こらず、またはすでに起きてしまった事件がなかなか語られず、先延ばしにされることによって、成り立っている。そうして出来たスペースに置かれているのは、片桐とミントの仮初めの馴れ合いであり、片桐が日本に置いてきた妻との日常である。このような女性(たち)とのコミュニケーションを、もっとも身近なところで行われているはずの対他関係と見て取ってもいいだろう。

 日本語を話せないミントが、もしも自分に嘘をついていたしても、タイ語を理解できない片桐は、それが嘘であるかどうか、真実を知れない。しかし同様に真実を述べる必要もない。これははたして言語の相違のみに由来する問題なのだろうか。長い付き合いであり、お互いをよくわかっているつもりでいるような夫婦のあいだにも、かならずや真実ばかりではない、嘘が生まれることもありうる。そのこともまた片桐は実感している。けれども、どこからどこまでがそうでありどこからどこまでがそうではないのか、この線引きだけがつねによれ、すべてを曖昧にしてしまう。

 ある場面で武士が「……なんか、嘘って不思議だと思いませんか?(略)……嘘って、つくほうが嘘か本当か決めるもんじゃなくて、つかれたほうが決めるんですよ、きっと(略)」と言っているのはチープだが真理なのかもしれない。作中には、いくどとなく、嘘、という言葉が繰り返される。しばしば、騙す、という言葉が繰り返される。

 やがてバンコクを去ろうとするとき、自分がいったい誰に何を偽っているのか、もはや考えまいとする片桐の姿は滑稽であるほどに生々しい。

・その他吉田修一に関する文章
 『さよなら渓谷』→こちら
 『静かな爆弾』について→こちら
 『初恋温泉』について→こちら
 『女たちは二度遊ぶ』について→こちら
 『ひなた』について→こちら
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
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2008年11月06日
 Classical Fantasy Within 第五話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ヒュッレム姫の救出 (講談社BOX)

 うひゃあ、話を追うのが楽しくなる一方だな、これは。古代中東(オリエント)編に入ってからのくだりは、ひたすらわくわくさせられる展開が次ぐに次ぐ。島田荘司の『Classical Fantasy Within 第五話 アル・ヴァジャイヴ戦記 ヒュッレム姫の救出』であるが、かつては栄華をきわめたサラディーンの街を救うべく、苛酷な使命を帯び、出立した千人の精鋭たちは、のっけから獰猛な小型竜に襲われ、主人公のマスードとわずかの兵士を残し、よもや壊滅の憂き目に遭う。しかしそれでも任務は果たされなければならない。アッシームの蛮族の強襲をくぐり抜け、なんとか第一の砦であるブーシェフルで、これから先で必須となるらしい「ポルタトーリの箱」を受けとった一行は、第二の砦ガズビーンを目指し、自らのまたがる馬を走らせる。ブーシェフルで得た手がかりによれば、ガズビーンで「聖なる槍」を手に入れることが必要となる、そのさい、あらたに請け負うことになるのが、すなわち題に示されている「ヒュッレム姫の救出」である。たった十四騎で十万もの兵士を向こうに回し、囚われている人間をどうやって助け出そうというのか、この無謀ともいえるトライアルが、知能的な攻略に置き換えられ、繰り広げられる。そもそも登場人物たち、とくにマスードの肉体面におけるポテンシャルは、ずば抜けて高く設定されている。これに対し、とんでもないサイズの驚異がぶつけられ、見舞われた絶体絶命のピンチを冷静な判断力で対処し、回避し、打開していく、こうした語り口のあたりに絶妙なスリルが生まれている。男性ばかりのパーティに女性が加わってきたり、誰しもが予想していたようにあの人物があれだったなど、お約束をめいっぱいに詰め込みながら、いっさいが伏線に見えて仕方がないのも、意識的な細工だろう。ロール・プレイング・ゲーム(RPG)を思わせる世界観は、文字どおり、伝説にそった役割を演じること(ロール・プレイ)を主人公たちに課す。詳細な説明とともに「ポルタトーリの箱」の中身がイラストによって可視化されていたり、いくつかの仕組みが具体的に描写されればされるだけ、それらの作用が、あらかじめ予言された筋書きをなぞらえる運命の数々に、いかなる結末をもたらすのか、謎は深まるばかりだから、油断ならない。いや、たしかに作者は『パンドラ』VOL.2 SIDE-Aに掲載されているインタビューで、「アル・ヴァジャイヴ戦記」パートの執筆にあたり〈私自身計算していない予想外の展開も現れて、さまざまな事物や風景を見ました。その都度、これでいいのかな、いいのかな、と不安にもなる。こんな変なもの、書いてもいいのかなと。「ええいかまうものか、そのまま書いちゃえ」と思って、そして通り過ぎて振り返れば、それなりに辻褄が合っていて、「あ、なんだ、よかったのか」と思ってね〉と述べているが、作品の強度、奥行きのあるつくりを支え、興奮を育んでいるのは、まちがいなく、構成の緊密な雰囲気であると思う。

 『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍』について→こちら 
 『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2008年11月04日
 覇者と覇者  歓喜、慙愧、紙吹雪

 応化十九年、いまだ内戦が続くなかで佐々木海人は二十二歳になった。幼い頃より受難を生き延び、いくつもの勝利を収めてもなお〈小さな家を建て、消息不明の母を捜し出して、妹と弟を呼びよせて四人で慎ましくクラスという夢を〉叶えられると信じられないのは、この戦争が終わることなく、さながら永遠のものであるようにも感じられるからだった。

 周知のとおり、作者の打海文三が急逝してしまったため、未完のまま上梓される運びとなった『覇者と覇者 歓喜、慙愧、紙吹雪』であるが、すくなくともこれまで上下巻とわかれて発表されてきた『裸者と裸者』そして『愚者と愚者』というシリーズの前例を考えるのであれば、『覇者と覇者』において上巻にあたるパート、すなわち常陸軍孤児部隊司令官である海人を主人公とし、さまざまな思惑と利権をめぐり敵味方が入り乱れ、銃弾と血と死とをばらまき、首都圏で攻防を繰り返す、その物語にだけは、いちおうピリオドが打たれているのは、じつに有り難いと考えるべきであろう。

 そうした個所の結末をいきなり述べてしまうと、〈常陸軍の死者四千九百人。同盟軍の死者千三百人。奥州軍の支社九十八人。宇都宮軍の死者十四人。東海軍の死者百三十五人。民間人の死者五千人以上。〈我らの祖国〉の死者二万人。負傷者をふくむ捕虜三万三千人。逃亡ないし行方不明の兵士二万七千人〉の被害を出し、もちろんそれ以上の犠牲を払いながら、戦争はようやく終結する。望むべきかたちであるかどうかはともあれ、海人を含む大勢の人間が、ついに愚かな殺戮の戦場から解放されるのである。

 したがって最大の障壁は、戦争終結のための最後の戦争であり、クライマックスに展開されているのは、まさしくそれだ。無数の死体を積み重ね、すべては最終の局面に達する。そこに向かい、あるいは平和実現を目指し、さまざまなレベルで、あわただしく物事が進み、動き、あらたな困難が次々と持ち上がる。争乱の最中、立場の弱い人間は救われず、絶望するしかないのか、このような問題は、たとえば『愚者と愚者』で、性的マイノリティたちの迫害と反抗となり、あらわれ、深い傷跡を残していたわけだが、『覇者と覇者』では、都心から地方へと逃げおおせるうち、命以外のほとんどを失ってしまった難民たちの不自由を通じ、やはり悲惨をともない、クローズ・アップされている。

 常陸市に帰還した海人が、出会い、孤児院に預けられた少女、あづみは一つの象徴であると考えられる。おおきなうねりは、しばしば、ちいさな運命を弄び、あげく、見捨てる。まだ幼い弟を守ろうと、自称十六歳の少女はショルダーバッグに自動拳銃を隠し持つ。その姿に、かつての自分と自分たち兄妹を重ね合わせてか、海人は胸を痛める。できるだけの協力をしたいと思うが、しかし少女の意志は、大局からは見えないところで、苛酷に打ちつけられ、歪む。作中でくわしく追われているわけではないけれど、上巻にあたるパートは、逞しくも弱々しい少女がぼろぼろになりつつ、それでも生き延びていく過程でもある。ありとあらゆるレベルで、戦争は人に戦争を強いることが、大状況を左右する決戦に立ち向かう海人と、みじめに追いつめられる少女との対照のあいだに、浮かび上がる。平和の尊さもまた、そのなかに生じる。

 もちろん、海人とあづみのみではなく、物語上の誰しもが死と隣り合わせ、戦い、ときには命を奪われる。これまでのシリーズがそうであったように、まさかという人間が、あれよという間に、死でんしまう場面もすくなくはない。大量の銃器へと尖鋭化された暴力は、つねに冷酷であり非情であり、年齢制限をかけぬほど無慈悲である。ミリタリ・カルチャーの氾濫が、兵士以外の人間にも武装化を促し、戦況を激化させる。

 一方、誰もがテロリストになれる時代を終わらせるべく、突破口を切り開こうとし、奔走する海人たちに訪れるのは、悲しみや別ればかりではない。いくつかの喜ばしい再会が、まるで約束のときを待っていたかのように、果たされる。恵と隆のすばらしき成長ぶりや、意外な人物たちの再登場と合流は、暗澹とした世界に、光の差し込んでくる兆しをうかがわせる。いったんは行方の知れなくなったあづみが見つけ出されるくだりも、こうした流れにそっている。彼女を捜し当てたパンプキン・ガールズのメンバーに、ほとんど無償とも思えるその態度を問われた海人は「たまたま出会った人間のために命を張る。結果がどうであれ悔いはない。きみたちはそうやって生きてきたはずだ」と答える。これはもちろん、はからずも孤児部隊を率いることになってしまった海人の、その原点を指し示してもいる。

 ある意味で、海人の生き方が正しく証明されることと平和の実現が可能になることとがかたく結びつき、上巻の幕は閉じられている。では下巻にあたるパート、女の子マフィアであるパンプキン・ガールズのリーダー、月田椿子を主人公とし、描かれるはずだったものとは何か。たとえばそれを戦後と呼ぶならば、そうした状況下における混沌と混乱であろう。平和とは、戦禍との対比にあって、莫大な価値を持ちうる。獲得された平和のなかで完璧な平和だけが実現しないのも、このためにほかならない。

 応化二十二年、首都圏では、武装解除が進み、復興の歩みがはじまっている。しかし諍いの火種は絶えない。テロリズム、爆破、銃撃、いっこうに治安は良くならず、完璧な平和が訪れないことを、まるで椿子は当然だと認識しているみたいだ。犯罪者に対する恐怖とドラッグに汚染されたアンダーグラウンド、平和のなかの戦場を、アナーキーな椿子が、どのように生き、駆け抜けるのか。

 下巻の物語は、第3章の途中で終わっている。そこから先は残念ながら、綴られることがかなわなかった。だがもしかすると、未曾有の時代にも暴力と適応と頽廃の同根には人間の業もしくは性(さが)とでもすべきものが横たわり、傷つき、翻弄される人々にささやかな希望の手渡される様子が描かれたのでないか、という気がする。

 『愚者と愚者(下)ジェンダー・ファッカー・シスターズ』について→こちら
 『愚者と愚者(上)野蛮な飢えた神々の叛乱』について→こちら
 『裸者と裸者(下) 邪悪な許しがたい異端の』について→こちら
 『裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争』について→こちら

・その他打海文三に関する文章
 『ドリーミング・オブ・ホーム&マザー』について→こちら
 『ロビンソンの家』について→こちら
 『ぼくが愛したゴウスト』について→こちら
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2008年11月01日
 地図男 (ダ・ヴィンチブックス)

 同時期に四つの新人賞を獲得し、華々しく登場した真藤順文の小説のうち、まずは第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞受賞作にあたる『地図男』から手をつけるとと、ああ、これはちょうど、古川日出夫ふうに書かれている作品だな、と思える。滔々と喋りかけるような調子で文体はこしらえられ、繰り広げられる現代的な都市の神話のなかでは愛と血とが交配し合う、からである。映画制作に携わる〈俺〉は、ロケハンをしている途中、ひらかれた地図帖の、土地土地に無数の物語を書き込み続ける不思議な、地図男と出会う。地図男の生み落とした物語に惹きつけられた〈俺〉は、その一つ一つを読み進めながら、はたしていったい、これらは誰に向けられ、そして何のために語られているものなのか、と考えはじめる。要するに〈俺〉と地図男が存在するレベルを小説の外枠とし、地図男によって語られ〈俺〉によって読まれる、まるでコミックみたいなフィクション、〈俺〉の言葉を借りれば〈たいていどれもポップで、狂躁的で、ちゃんとエンタメしてる〉ていの作中作の、次々に展開されていくことが、小説そのもののテーマを浮き上がらせる仕組みをつくっている。おそらく、くだけた文体の質は〈どれもポップで、狂躁的で、ちゃんとエンタメしてる〉部分を押さえておく過程にとって、必要なものだったのだろう。まあ、そうして成り立っている全体の結構は、凝っているといえばいえるのだろうが、一方でじつに今どきのラインを越えず、したがってはっとさせられるところはすくなく、抜群さと清新さを欠いてはいる。いっけん尖って見えるものの角がじっさいには丸くとれている、とでもいおうか。しかし趣味や好みをべつとすれば、この器用ななめらかさこそが『地図男』のまとまりを高め、一番のチャーム・ポイントになっている点なのだと思う。
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2008年10月29日
 マンガ家による映画評というのは、決して珍しい企画ではないけれど、それに何かしらかのイラストが付せられていたり、あるいは作品の魅力自体がマンガ形式で綴られているものが多いなかにあって、やまだないとの『ハルヒマヒネマ』は、活字だけでできている。とはいえ、作品に対する評価が、読めば頭の痛くなるような、小難しい文章によって述べられているのではなく、ひじょうにシンプルに、好き、と、嫌い、にわかれていく直感が、気分のおもむくままに書き留められている。わりと辛辣な意見もある。つまり、この〈メモに書いてあるのは感想で、批評とか評論ではないつもり。それから自分用の備忘録であるので、映画のあらすじなんかは書いてない〉のであって、〈ハルヒにとって、覚えていたいのはストーリーよりも、映画を見終わったあとの気分なのだ〉ということである。その結果、ガイドとして役立つというよりも、まるで一個の、楽しく、そしてときに寂しくもあるフィクションみたいな印象を帯びる。じっさい、これを書いている、もしくは語り手となっているのは、ヤマラハルヒと名乗る〈職業あまりファンのいない漫画家〉であり、彼女が〈この備忘録を読む人は、レンタルショップの棚の前に立って(略)ぼけーっとしてたら、となりのおばさんがいきなり(略)トメドナクおしゃべりを始めたと思うといい〉といっているので、そのつもりになっていると、いつの間にか、映画への関心よりも、そちらのお喋りのほうに引き込まれてしまっている。たとえば、『アバウト・シュミット』について、どういう映画なのか、説明はないかわり、〈世界にひとりくらい自分を思ってくれている人がいるのかって、老後ハルヒも考えるだろう。/ 考えてみて、いないことに気づくだろう。/ とりあえず、自分は誰かのことを思っていよう。/ 誰かが、老後同じように、自分のことを思ってくれる人がいるのかと考えて、そのとき、ハルヒが思っていれたらいいなと思う〉と、こういうふうに書かれているあたり、何かエモーショナルなニュアンスが、他愛もない言葉のうちに、すくなくとも含まれていると信じられるのが、いい。また、『メゾン・ド・ヒミコ』に関し、同じ監督の『ジョゼと虎と魚たち』は好きとしながら、〈この映画を見る限り、この人たちは何がそんなに悲しくて寂しいのかがハルヒには伝わらなかった〉のは、ラストのくだりを観、〈ああ、みんな、楽しく暮らしていくんだ。なんの問題もない(最大の悲しい問題は、他人に押しつけてしまったし!!)。幸せそうでよかった。/ なんなんだ? なんなんだ? この映画の冷たさは……〉と思ってしまったからで、そうした自分の感情から作品を〈少女の夢の国として描かれていればこの映画を嫌いにならずにすんだように思う。夢の国なんてないんだよ。おじさんがリアルを教えてあげよう。大きなお世話だ〉と、言葉のありようからすれば意外なほどに冷静な分析で、切り取っていく個所も、いい。やまだないと自身のマンガの映画化である『L’amant ラマン』には〈映画版と原作の漫画版でどっちが好きかといえば、ハルヒは、もちろん自分の描いた原作の漫画のほうが好きである〉、なぜならばそれは〈漫画の映画化は、必ずしも、その原作が伝えたことを伝えてくれるわけではないし、その義務もない〉からだと率直に対応し、縁のあるよしもとよしとものマンガが原作の映画には〈仮にこの監督が、『青い車』だか、ヨシモトヨシトモが好きで好きでしょうがなかったとしても、必ずしも両想いになれないのは、恋愛の常〉と述べている。『時計じかけのオレンジ』のファッションを〈ああいう帽子や、一見「は?」な取り合わせを、若い人はすごくさりげなく上手にやっていて、素敵だなあと憧れたり尊敬したり、ムカツいたりするが、おしゃれって、だんだんヤンキー層に降りていくものだから、ヤンキー層のさらにアホの部類、日本の悪い子供たちで、この格好をまねた集団が出てきたら嫌だなあと思った〉というのも、そりゃあたしかにそうだ、の一般論でもあるのだが、こうして言われてみると慧眼にも思われてくる部分がある。あともう一つ、『ガソリンゼロ』のところ、〈この映画の主人公が、高校生だったらよかった。というのは、まさにハルヒが、そういうデビュー作系の漫画や映画が好きだからだ。/ とくに、高校生男子がうおーっとヤミクモに疾走してくれれば、内容なんかどうでもよい〉のは〈何もすることがない、どこに行きたいかもわからないっていうのは、主人公が高校生ってだけで、誰の胸にも、なんとなく、伝わってくる、疑似体験できるという魔法の記号だ〉からで、しかし〈『ガソリンゼロ』の主人公は26歳だ。/ 26の男が、居酒屋で、「いやぁ、オレ、モラトリアムの真っただ中なんスよねー」とかいいやがったらトルチショックだ! おまえ払っとけ! と、飲み代置かずにハルヒは帰るだろう。/ 26歳のモラトリアムは、青空に煙じゃ描けないと思う〉これにも、うんうん、と頷かされる。それにしても、話はまったく変わるのだけれど、ヤマラハルヒはナカイマサヒロの(ルックスの?)ファンなのか。

 『ソラミミ』について→こちら
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2008年10月24日
 パンドラ Vol.2 SIDE-A(2008AUTUMN) (2)

 『パンドラ Vol.2 SIDE-A』掲載。『蹴語(シュウガタリ)』なる題名は、ともすれば大河ノベルとしてリリースされた仮想の時代劇『刀語』の外伝的なものを思わせる題名であるけれど、違った。そうではなくて、現代を舞台にした青春小説の趣であり、たぶん西尾維新にとってはじめてのスポーツもの(だよね)になっており、セパタクローという、わりとマイナーな競技を扱っている、とはいえ、基本的には、ルックスはともかく頭の中身に問題があるヒロインのもたらすトラブルに、坊っちゃんくさい初々しい自意識を抱えた少年が巻き込まれていく、式のライトノベルふうのシチュエーションや語り口でこしらえられた物語であって、たとえば谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』や田中ロミオの『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜』などと並べてみれば、自らの凡庸さを知ってしまったがゆえの諦念をいかにしてクリアーしてゆくか、という点において、共通するものを見つけられ、それなりに興味深いところがあるのでは、と、すくなくとも前編である「SIDE-A」のパートを読んで、思う。中学時代に、テコンドーで鳴らし、〈言うなれば主役だった。言うなれば花形だった。言うなれば一流だった。言うなれば――オレ様だった〉と信じて疑わず、我が儘を通してきた鵠沼裃(くげぬまかみしも)は、しかし同世代のキックボクサー葉原と組み手をし、圧倒的な敗北を味わい、まさしく〈オレの人生のメインテーマはテコンドーじゃなかったのだ。これから続く、エリートではない負け犬人生こそが、オレの人生の本番だったのだ〉と、挫ける。それ以来、〈自分が挫折したエリートであることは、一生隠し通すつもりでいた〉し、じっさい自分の過去を知る人間の誰もいない、遠方の高校に入学するのであったが、クラスメイトの相模笑顔に格闘技経験者であることを見抜かれ、なぜか彼女が設立しようとするサパタクロー部に誘われるのであった。この作者の新境地たるスポーツもの、ましてや部活動もの、とはいっても、まあ、読んだみたなら、いつもどおり西尾維新の作品でしかないような雰囲気の内容ではある。あるいはだからこそ、そうしたフォーマットの、そして今後の展開のなかで、挫折の乗り越えられていく様子をどう導いてくるのか、この点に関し、はっとさせられるだけの一手が繰り出されることを望みたい。

・その他西尾維新に関する文章
 「零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係」について→こちら
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『真庭語 初代真庭蝙蝠』について→こちら
 『君と僕が壊した世界』について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年10月13日
 Classical Fantasy Within 第四話 アルジャイヴ戦記 (講談社BOX)

 島田荘司の『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』は、あらかじめ予告が打たれていたとおり、前話までの舞台、第二次世界大戦中の日本から、中東(オリエント)へと、一気に飛ぶ。しかも、時代も違えば、登場する人びとも異なるような、剣と竜のファンタジックな世界に、である。こうした大胆な転回が、いったいどんな意味を持つのか、二つの物語が、どこでどう統合されるのか、あるいはされないのか。もちろん、この作者が過去に発表した小説を読んだことのある向きには、どちらかが、またはどちらともが、作中人物によって仮想された現実なのではないか、といった疑いを持つであろう。推理的にページをめくるであろう。が、そうした懐疑を差っ引いても『Classical Fantasy Within 第四話 アル・ヴァジャイヴ戦記 決死の千騎行』で繰り広げられる冒険は、たいへん魅惑的なものだと思う。

 かつて〈音楽と美の、世界最大の文化都市といわれた〉サラディーンの街は、度重なる天変地異のせいで、今や破滅の危機に瀕していた。多くの人びとが、地震、隕石、シラミの猛威、ペストの大流行で死に、そして残された人びとも、降り注ぐ雹と寒さのため、ゆっくりと死につつある。〈街は呪われた。天上の神によって、滅びを運命づけられたのだ。もう助かる道はないのだろう〉。どれだけの精鋭部隊も役に立たず、ただ終わりの時を待つしかないのだろう。だが、最強の王室守備隊に司祭から思いがけぬ使命がくだる。わずか五日間で、地上で最悪の土地アル・ヴァジャイヴを越え、イスラエルに降り立った月の女神アイラのもとに辿り着くこと、それだけがサラディーンを救い、再生させうる唯一の希望だというのである。蛮族や魔物が跋扈する彼の地を横断し、帰ってきた者はこれまで一人もいない。ましてや期限がつけられている。達成不可能にも感じられる使命は、勇敢な兵士たちさえもおののかせる。しかし、挑み失敗しようが、挑まなかろうが、訪れるのは破滅なのだ。これが神に与えられた最後のチャンスと懸けるほかない。かくして、主人公のマスードを含めた千の兵士たちが、馬を駆り、死線へと旅立つ。いきなり、小型竜に襲われ、壊滅の危機に見舞われるなど、前途多難ななか、クライマックスが連続するので、やたら盛り上がる。

 ロール・プレイング・ゲーム(RPG)を思わせる舞台設定において、特徴的なのは、兵士たちの冒険にいくつもの条件が課せられていることだろう。もちろん、五日間という期限もそうだし、それ以外にも装備や所持品、再生プログラムと呼ばれる過程に関し、兵士たちの行動には、かなりの制限が設けられている。そして、一つでも誤れば、サラディーンに救済はもたらされないのである。すべてが予言と伝説のとおり、規則性正しく、進まされなければならない。苛酷な旅路で生き残ることができるのは、たった一人の兵であり、これがつまり、ライヴァルとのサヴァイバルであるのも、同様の理由によっている。そこにはしかし、おそらく作者が荒唐無稽な物語のうちに用意しているのだろう、たしかな論理性と整合性が垣間見られる。さらには、その細かく定められた辻褄のどこか作り物めいている気配が、翻って「アル・ヴァジャイヴ戦記」というフィクションのフェイク性を高めており、『Classical Fantasy Within』全体に、なにか、とんでもないサプライズが仕掛けられていることを疑わせる。

 『Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍』について→こちら 
 『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2008年10月11日
 すばる 2008年 11月号 [雑誌]

 『すばる』11月号掲載。第32回すばる文学賞の受賞作にあたる天埜裕文の『灰色猫のフィルム』は、母親を刺殺した少年が、逃亡し、見知らぬ街をうろつき、腹を空かせ、まいっている様子の前半部に関しては、引き込まれるように読んでいたのだが、その先、ホームレスに合流し、テント小屋に居ついてからは、ちょいと怠かった。アタマのほうのくだりの、どこがどうおもしろかったかといえば、ひとまず自意識が、情緒としてではなく、視線としてあらわれ、耐えず移動を繰り返していくうちに生まれる描写、語りが、である。そこには、物語らしい物語はなく、会話らしい会話もなく、鏡に映るまでは自覚さえできない無表情な憂鬱だけが、殺伐と記録されている。これに対し、後半に入っていくと、まあそれが目論見なのかもしれないが、移動は止み、他人との交わりが、文字どおり停滞的であることによって、何か、事件を待ち構えているみたいな雰囲気が生まれる。そしてじっさいに事件が起こってしまうので、読み手からすれば、あらら、となる。できうるかぎり封じられていた、僕を見て、とでも聞こえてきそうな声が、ついに開放される瞬間をカタルシスに、クライマックスに持ってきているのかもしれないが、予定調和のために必要とされている出来事が、わざわざ、付け足されてしまったなあ、といった印象がつよく、情緒をはねのけ、成り立っていたからこそ魅力的であった部分が、最後までキープされていない損失のほうが、作品全体の強度からすると、大きかったふうにも思われてしまうのである。とはいえ、ここ二、三年のあいだに出てきた若い男性作家のものでは、かなり自分の趣味に合う小説で、惹きつけられるものがあったのも嘘ではない。作者は受賞のインタビューに答えて、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を読んだことが小説を書くきっかけの一つ(大意)、といっているけれども、たしかにそれを実感させる手触りがある。
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2008年10月08日
 群像 2008年 11月号 [雑誌]

 『群像』11月号掲載。本題に入る前にまず、津村記久子は『真夜中』NO.2に「小説には書けない好きな言葉」というエッセイを寄せていて、とてもたのしい内容なのだがそれはともかく、書き出しでこう述べている。〈毎日文を書いているからといって、頭の中の引き出しにあるすべての言葉を華麗に使いこなしているわけではないのだった。当然のごとく。どちらかというと、引き出しの前の方に溜まっている語句を繰り返し取り出しては貼り付けている(略)なんなんだろうか、こういう言葉というのは、いったん引き出しの前の方に転がり出てくると、無意識に手に取ってしまうのだろうか(略)もっと粋なことを言え、とそんなものは芸風のうちに入っていないし誰もわたしに期待していないのに、勝手に憤慨したりする〉のだ。と、もちろん、これを素直に鵜呑んだりするのは良くないのだろうけれど、意外と津村の文章がそうやって出来ているのだとしても納得がいってしまうよな、と思うのは、この『ポトスライムの舟』という小説の主人公が、自分の左腕に刺青で入れたいと考えているのが『今がいちばんの働き盛り』なるたいへん珍妙な文句であることに対し、読み手であるこちらは一瞬、いやいやいや、と面くらいながらも、しかし全体の結構からすると、決して違和感がなく、しっかりと収まり、むしろそれがアタマのほうに置かれているおかげで、後の展開が、作品そのものが生き生きとしているかのような印象さえ、受ける。裏を返すなら、引き出しのなかから持ってこられた言葉一つの扱いが、最初は無意識であったとしても、ちゃんとどこかで慎重に調整されているため、そうなっているのだとしても不思議はない、からであった。

 主人公のナガセは(長瀬由紀子)は、二十九歳の現在、大学の新卒で入った会社を心労から辞め、小型部品の生産工場に薄給ながらも契約社員として勤めている。そのほかにも、パソコン教室の講師を請け負ったり、大学時代の友人であるヨシカが開いたカフェで給仕のパートをしたりしている。そうした日々における無意識下のオブセッションが、たとえば『今がいちばんの働き盛り』の刺青を入れるという考えを浮かばせたりもする。その彼女があるとき、工場の掲示板に貼られていた世界一周クルージングのポスターを目にし、それに参加するための一六三万円という代金が〈この工場での年間の手取りとほど同額なのだ、と唐突に気付い〉てしまったことから、〈生きるために薄給を稼いで、小銭で生命を維持している。そうでありながら、工場でのすべての時間を、世界一周という行為に換金することもできる〉ので、〈自分の生活に一石を投じるものが、世界一周であるような気分にな〉り、〈いけない、と思〉いつつも、しかし〈たとえ最終的にクルージングに行かないとしても、これからの一年間で一六三万円そっくり貯めることは少しもいけないことではない、という言い訳を思いつ〉き、じっさいに節約を試みるようになるのである。こうしてナガセのうちにあたらしく芽生えた金銭への執着が、せこく、おかしく、だがそのせこさやおかしさが切実でもあるふうに綴られているのだが、一方で、ヨシカを含めた大学の同級生たち、既婚者のそよ乃やりつ子の存在が、独身であるがゆえに成熟の速度を違えているナガセとの、ちょうど対比となる感じで、物語を膨らませていく。とくに、夫の振る舞いに耐えきれず、母と二人暮らしをしているナガセの家に、娘の恵奈を連れたりつ子がやって来てからのくだり、たまたま二人きりになってしまった日の恵奈とナガセのやりとりなどは、この作者ならではのねじれたやさしさがユーモアとイコールで結ばれるセンスがよく出ていて、何度も読み返したい魅力を兼ね揃えている。

 たぶん、それなりの数の書評が出回れば、ワーキング・プア云々の現代的な若者の貧困を例に出しながら、作品を小難しく解釈するものもすくなくはないのでしょうね、と予感させる内容であるけれども、いやもっと単純に、何気ない日々の寄る辺ない不安を、ただ無為を重ねながら生きている様子を、このように切羽詰まり、それでいて袋小路に閉じこめてしまわない手つきであらわすことができるのだ、という驚くべき清新さのほうが先にくる。ほとんど女性しか登場しないなかで、工場で一緒に働く岡田さんやナガセの母親の、正しく人生の先輩と呼んでも構わない存在感も、加齢することの畏れを払ってくれるからだろう、じつに頼もしく、効き、前向きな傾きをつくって、背中を押す。
 
・その他津村記久子に関する文章
 『バンドTシャツと日差しと水分の日』について→こちら
 『ミュージック・ブレス・ユー!!』について→こちら
 「オノウエさんの不在」について→こちら
 「婚礼、葬礼、その他」について→こちら
 『カソウスキの行方』
  「Everyday I Write A Book」について→こちら
  「カソウスキの行方」について→こちら
  「花婿のハムラビ法典」について→こちら
 『バイアブランカの活断層』について→こちら
 「冷たい十字路」について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2008年10月07日
 文学界 2008年 11月号 [雑誌]

 『新潮』11月号掲載。青山七恵の短篇小説『かけら』の、〈綿棒のようなシルエットの父がわたしに手をふって、一日がはじまった〉という出だしを読みはじめ、あ、今回は父娘の関係がメインにくる話なのかな、と直感的に思ったのは、これまでにも作者は家族のあいだで一対一になるようなシチュエーションをよく用いてきたからだし、じつはそのなかに父親のポジションを具体的に題材化した作品は見かけられないからだった。じっさい『かけら』は、娘の〈わたし〉が主人公となり、父と二人きりで過ごさなくなってしまった一日を追っている。本来なら、兄嫁を除く家族五人で参加するはずだった日帰りのさくらんぼ狩りツアーは、姪の鞠子が熱を出してしまったため、〈結局、主催者の母と兄と鞠子ちゃんは残り、わたしと父だけがこうして、バスの出発を待〉つことになってしまう。〈母は「たまにはお父さんと二人もいいじゃない」と言っていたけれど、父と二人で出かけたことなど、記憶にな〉く、家を出て、大学生活を送っている〈わたし〉の年頃にしたら、ふだんより親しく接しているわけでもない父としばらく行動を一緒にするなど、正直、気が乗らない。この、気が乗らないかっこうでのぞむ小旅行の様子が、とくに激しい起伏もなく、ほんとうに淡々としているのに近いテンションで、ありのまま叙述されていく。いちおう〈わたし〉には、あたらしく趣味ではじめた写真の練習に風景でも撮るか、という動機づけがなされているのだが、いや、むしろ、そうして渋々ではありながらも断るまででもないような、断り切れないような、父親との微妙な距離が、作品の語り口を決めているのであって、写真を撮る、撮られるという行為が、語られることのなかに、記録と記憶との、表面的な重なり、本質的な異なり、を付加しているのだと思う。どこにでもありそうなワン・シーンが、平凡なさまに相応しいサイズで切り取られているだけなのに、決してぺらぺらではない、ほんのすこしばかりの厚みがあり、その厚みが、父親というもの、家族というもの、男性というもの、ひいては人間というものを見る目のうちに、感慨を与えている。

 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2008年10月01日
 小説宝石 2008年 10月号 [雑誌]

 『小説宝石』10月号掲載。生田紗代は、『野性時代』10月号の大島弓子特集に「複雑怪奇な少女の魂」というエッセイを寄せているが、そこからは、少女マンガに対する執着が決して小さくはない作家なんだろうことが、うかがえる。あるいは、生田にとってはじめての連作長篇『たとえば、世界が無数にあるとして』には吉田秋生の名が出てくる。踏まえて、この短篇小説『雨降花』は、そうした影響や感性に支えられ、正しく少女マンガ的な、物語というよりも抒情を、汲んでみせたふうな作品だと思う。作中に、ドラマティックな事件は何も起こらない、いや、もうちょい正確を期すなら、心にダメージを与えるほどの事件がすでに起こってしまったあと、その、生々しい痕跡だけが、触れることも許されず、ただあるがままに描写される。高校の合唱部に入っている〈私〉は、夏休みの練習中、古閑先輩の左腕に巻かれた白い包帯に気をとられる。一ヶ月ほど前に彼女の家は焼け、そのさい火傷を負ったのだ。〈古閑先輩は、私たち後輩にはとっては優しい先輩だった〉けれども、なぜかその姿を見ていると〈時折不安になることがあった。全体が統一されていない、不安定な穏やかさと言えばいいのか〉、しかし〈確かな違和感がつきまと〉い、〈そこに火事という余所が加わったとき、私は初めて、この人なんだか恐ろしいと漠然と思〉うのだった。こうした語り手の、他人に対する関心は、一個の目線でしかなく、一個の感情でしかない。すなわち一個の描写であって、何かを動かし、変えてしまう可能性のリアクションではない。『雨降花』には、青春のシーンにおいて具体的な記述をともなう友情や恋愛などといったものは、どこにも存在しない。そのかわり、思春期特有の、曖昧で残酷な認識が、むげに横たわる。それはまるで、苛立ちのようでもあり、感傷のようでもあり、やがて薄まっていくことの気配を孕む。

・その他生田紗代の作品に関する文章
 『たとえば、世界が無数にあるとして』について→こちら(オンライン同人誌『CHILDREN』Vol.04内)
  「さよならジョリス」について→こちら
  「アザラシのホーさん」について→こちら
  「靴の下の墓標」について→こちら
  「ハビタブル・ゾーン」について→こちら
 「浮かぶしるし」について→こちら
 『彼女のみる夢』について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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2008年09月18日
 文学界 2008年 10月号 [雑誌]

 『文學界』10月号掲載。人というのは自分だけで自分を確認することができない、おそらくはこれが村上龍の作品群を貫く一本の真理である。たとえば江藤淳や柄谷行人といった批評家に影響を受けながら(まちがいなく江藤はデビュー当時の村上を非難したことで影響を与えるのに成功している)、経済学などを学びながら、トレンドに目配せしながら、状況や情報や環境を参照しながら、さまざまな物語をつくってきた作家であるが、どれもが根っこの部分に、人というのは自分だけで自分を確認することができない、という言いを含んでいるかのような印象を受ける。もちろんそれは、ときにアメリカという外圧によって自己確認する日本の姿としてあらわれ、ときにセックス(性交)を媒介に主体と他者とのあいだに屹立する欲望としてあらわれている。村上の過去作において、自らに告白を禁じるが、しかし告白の誘惑に飲み込まれていく登場人物がすくなくないのも、結局のところ、人というのは自分だけで自分を確認することができない、さらには正体不明になってしまう自分に耐えきれないものがあるからだろう。さて。この『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』もまた、そのような思想のヴァリエーション化された小説だといえる。

 以前にも述べたとおり、『心はあなたのもとに』の概要を端的にいえば、携帯電話のメールを重要なギミックに採用した今どきの難病ものにほかならない。一般的には成功者の部類に入る中年男性が、予断を許さぬ病を抱えた風俗嬢と出会い、できるだけの手助けをしてやろうとするのである。いや、さすがにけっこう長くなってきている内容だから、もうちょい複雑な部分もあるのだけれども、おおよそとしてはそうまとめられる。まあ、そのへんはどうなの、というところもあるのだが、しかし主人公である西崎の、香奈子という決して非凡ではない女性に対する期待と嫉妬を通じ、つまりあの、人というのは自分だけで自分を確認することができない、という状態が描かれているのは、たしかだといえる。読み手にはあらかじめ予告されているように、やがて香奈子は、死ぬ。もちろん作中の人間にとって、香奈子が生きているかぎり、それは決定的な事実とならない。だが、まるきり死が意識されていないというのではない。死者を前に誰しもが無力である。どれだけの人間関係であろうと、相手が死んでしまえば、取り戻すこともやり直すこともできない。このような不安が、西崎に、香奈子の死を先取りさせる。動揺させ、混乱させる。体調不良を知らせる香奈子からのメールが、小説のなかで重みを持つのもそのときで、要するに、欠落への恐怖が、香奈子のというより、西崎自身の実在を彼につよく認識させている。

 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2008年09月17日
 20世紀の幽霊たち (小学館文庫 ヒ 1-2)

 序文を引き受けているクリストファー・ゴールデンが〈「ポップ・アート」は至高の域に達するとびきりの大傑作だ〉と力を入れていて、まあ、こういうのは話半分に聞いておくべきだよね、と思っていたのだが、いやいや、じっさいに「ポップ・アート」を読んでみたら、だ。見事にはまった。語り手が友人のことを〈つまり、ヘブライ系の空気人形だった〉とかいっても、どこが「つまり」で「ヘブライ系の空気人形」ってのが何だかわからねえぜ、と独りごちつつページをめくっているうち、孤独な少年たちの友情が思いがけずせつない別れを描く瞬間に立ち会い、胸締めつけられた。これはやばいぞ、と驚く。しかし魅力的なのは「ポップ・アート」ばかりではない。ジョー・ヒルの短篇集『20世紀の幽霊たち』に収められている、その他の作品もえらいことになっている。アタマの「年間ホラー傑作選」を筆頭に、個人的な好みを含めていえば、表題作にあたる「二十世紀の幽霊」や「アブラハムの息子たち」、「うちよりここのほうが」に「黒電話」、「挟殺」、「おとうさんの仮面」、「自発的入院」あたりは、かなりのものである。なんで訳者(安野玲)は訛りの箇所を関西弁ふうにしちゃったのか、そこが白けただけで「寡婦の朝食」も良い。要するに、大多数を気に入ったのだった。もちろん、ジャンルにしたらホラーの系に名を連ねる作家であるから、グロテスクでおっかない描写もあるにはあるし、ぞくりと背中を刺す感覚にもあふれている。だが、ときにそれをしのぐ抒情が、素朴にもやわらかく、散り散りになりそうな痛みを引き寄せる。アイロニカルな微悲劇のなか、作中人物たちはつまずき、つまずきを取り戻そうとするけれども、わずかに手遅れてしまっている。その、わずかだが致命的な境目から、人生の影を踏んで成り立つ郷愁がこぼれてくるのである。死んでしまった人間を愛し続けても生き返ることがないように、過ぎ去ってしまった日々は振り向き懐かしんでも立ち返れない。失われてしまうことの奥底には恐怖が潜んでいる、いや、だからこその重みを持ちうる。この重みを秘めることで、ある種の幻想は生々しく、美しい輝きすら放ちはじめる。『20世紀の幽霊たち』のいくつかは、正しくそうした彩りの小説化だといえる。

 『ハートシェイプト・ボックス』について→こちら
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2008年09月06日
 四人の兵士

 ユベール・マンガレリの『四人の兵士』は、読み終えて、とても寂しい気分が残される小説である。それというのは戦争の小説だからというよりも、戦争を踏み台にし、いったん失われてしまえば二度と埋め合わせることのできない孤独が、深く、掴まれているためだと思う。作中には明記されていないが、時代は1919年である、と訳者である田久保麻里は教えている。ロシアの赤軍に入隊した語り手の青年ベニヤは、そこでパヴェル、キャビン、シフラという気の合う仲間たちと出会い、行動をともにすることになる。この物語のおおよそは、しかし激動のどんぱちに費やされているのではなく、厳しい冬を越えた彼らがようやく送る平穏な日々の描写に占められている。タバコをくわえ、タバコを賭けてのサイコロに興じ、憎まれ口をたたき、からかい、じゃれ合い、まるで落ち着きのない世代のどこにでもありそうな青春を、朴訥に切り出していく。しかしだからといって、四人の若者たちが死の恐怖から自由だというわけではない。それはすでに過ぎ去った冬の、森の記憶としてあらわれ、決してぬぐい去ることができない。中途、四人の隊に彼らよりもずっと幼い少年が入ってくる。その少年の書きつけるノートが、次第に重要な意味を帯びてくる。今ここにある感情や思い出は、いったん消えてなくなってしまえば、どこへ行ってしまう、どこにも残らないのか。じつはベニヤを含め、誰も文字を書けない。だからこそ、まるで失われてしまうことの不安を隠し、希望を託すよう、少年に、自分たちの姿を筆記させ、記録させることを命じる。夜半、一日の出来事をどれだけ書きとめられたかを尋ねられた少年は「ぼく、ノートの最後に、今日はいい一日を過ごしたって書いたんだ」と言う。そして〈その言葉には、とてもふしぎな響きがあった。だって、そうなんだ、あの子のいうとおり、ぼくたちはその日、ほんとうにいい一日を過ごしたのだ〉と、テントで横になっている皆に思えることが、束の間のやさしみをもたらす。ここは作品のなかでも、たいへん澄んで、やわらかな一幕である。だが、終盤になり、転調、ささやかな約束すらも破棄させてしまうほどの濁流がすべてを飲み込む。もしも神様がいるとして、祈りが届けられることがあるとしたら、それはいったいいつどうやって確認することができるのだろう。おそらくは誰も知れない。知らずのうち、溜め息がこぼれ、せめてこれを読んだ者だけは描かれた悲しみを覚えておくべきなんだろうな、と感じ入る。
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2008年09月01日
 夜の空の星の

 まさきとしか(正木としか)の『夜の空の星の』には、表題作のほか「天国日和」と「散る咲く巡る」の、三篇の小説が収められていて、どれも語り口のあたりから違う色合いを出そうとする工夫が見られるのだけれど、基本的には現代的な日常のすぐそばにファンタジックな情景がひらけているような部分で共通している。そうして並べられているなかでは、やはり、自分がこの作家のことを知ったきっかけの「天国日和」を、もっとも良く感じた。それに比べると、書き下ろしの「夜の空の星の」も、第41回北海道新聞文学賞を受けた「散る咲く巡る」も、話の筋を物語らしくするためか、すこしばかりショッキングというかスキャンダラスな事件が、わざわざ設けられているふうに思われてしまう。「夜の空の星の」は、しごく簡単に説明してしまえば、近親相姦する父娘の姿を捉まえている。しかしながら、父娘による近親相姦の関係性自体が大切なのではなく、まるで他人にしか感じられない父親とどうコミュニケイトしたらいいのか、そういう逡巡が〈わたし〉の自意識をめまぐるしくまぜこぜにしていった結果、あるいは父親のほうも同じだったかもしれぬせいで、近親相姦の関係が結ばれざるをえなかったみたいである。〈わたし〉が、しばし見かけ、星歌いと名づける少年は、おそらく、ある種のイノセンスを仮託された存在だろう。いや、文字どおり白痴らしいととれる描写もなされている。それが、自分が自分で自分を、誤っていると疑いながら、しかし正しいと信じながら、堕ちていくしかない〈わたし〉の、こうした屈折を通し、イノセントな歌を響かせているふうに映る。すくなくとも読み手である立場からはそう受けとれる。とはいえ、作中において、とくにナチュラルな重みがあり、だから魅力を持ちえているのは、たとえば主人公が大学の同級生とファミリー・レストランで会話をしている他愛もない場面などであって、それを美点とすると、父親や星歌いにかかっているドラマ性の高い箇所は、あまり、はっ、としない。「散る咲く巡る」の語り手は、自分がいったい何者なのか知らない女性の幽霊である。彼女が抽象的な描写とともに突然作中にあらわれ、一人の少女と出会い、交信できたことで、何も情報のないところから、なぜ幽霊になったのか、正体が探られていく。おそらく、それが作者の目論見であると思われるものの、やや情緒が先行し、イメージに流されすぎていて、実感が薄い。だが、しかし、この時代のものではない語り手がのぞく今日の風景はどこか疲れている、その疲弊にたしかな手応えがある。二作の良いところが「天国日和」に集められているという印象であるが、くわしい感想は、以前に書いた。

 「子猫のお化け」について→こちら
 『天国日和』について→こちら
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2008年08月29日
 『Papyrus [パピルス]』VOL.20掲載。たとえば、角田光代、絲山秋子、津村記久子、と並べていくと、それら作家の、あるいは作品のファンであるような層は一部重なっているのではないだろうか、と思われるし、今は芥川賞のほうにノミネートされている津村もそのうち、角田や絲山みたいに、直木賞のほうの候補になったりするのかもしれない。作風がどうというより、おそらく中間小説ふうのポジションに近いものがあるのだろうが、じつは作品のなかにロック・ミュージックに対する言及性をかなり高く含んでいるという面においても、彼女たちには共通する部分があって、そこを見ていくと、それぞれの指向がそれぞれの世代や年齢と決して無関連ではなさそうなのもおもしろく、なかでも78年生まれのいちばん若い津村は、今日的なポップ・パンクやポップ・エモの系を、好んで、引っ張ってき、いじる。先般の『ミュージック・ブレス・ユー!!』は、まさにそういう、趣味のよく出た小説であった。『ミュージック・ブレス・ユー!!』で、ちょっとした挿入だが重要なロケーションに使われていたのは、日本のロック・フェスティヴァルであるサマー・ソニックだったけれども、この、短い短篇である『バンドTシャツと日差しと水分の日』は、中身をまるまるサマー・ソニックから受けた心象に費やしている。ひょっとしたら本邦初のサマソニ小説ではあるまいか。いやこれ、来年からでもパンフレットに使えばいいのに。小説は、サマソニ(大阪)の会場へ電車で向かう若い女性二人組のやりとりで成り立っている。若い、とはいっても大学を出て社会人になっていて、フェスティヴァルに過去参加した経験が、もうたくさんの思い出になっているぐらいの年頃である。歳をとるにつれ、ライヴやコンサートに出かけなくなる人というのは世間一般的にすくなくないだろうが、彼女たちにとっては逆に、加齢が、フェスにおけるいくつものシーンをありがたく、他に代え難いものとしてきらめかす。やがて会場のある駅に着き、電車を降り立つ場面からは、まるで、青春の残光はいつ消え去るのか、それはそのときが来るまでわからない、このような認識のもと、ならばそのときが訪れるまでは、とでも言いたげな声が、気持ちよく、前向きに聞こえてくる。

・その他津村記久子に関する文章
 『ミュージック・ブレス・ユー!!』について→こちら
 「オノウエさんの不在」について→こちら
 「婚礼、葬礼、その他」について→こちら
 『カソウスキの行方』
  「Everyday I Write A Book」について→こちら
  「カソウスキの行方」について→こちら
  「花婿のハムラビ法典」について→こちら
 『バイアブランカの活断層』について→こちら
 「冷たい十字路」について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2008年08月26日
 東京デッドクルージング このミス大賞シリーズ

 掃き溜めに鶴、という言いの由来は知らないけれど、すくなくともそれが一種異常な事態であるからこそ、意味ありげに機能する喩えなのではないか、と思う。ところが、物語はしばし、掃き溜めに鶴がいることを当然のごとく表現してしまい、おそらく、それが人気を博しているとき、送り手の側も受け手の側も、自分たちが異様であるものを異様だと疑いもなしに見ていると気づいていない、とすれば、そのことが自体がもちろん異状であるというよりほかない。『ヒステリック・サバイバー』を読み、遡り『果てしなき渇き』を読んだかぎりでいえば、深町秋生は、掃き溜めに鶴はいない、という正常な認識を前提とし、そうしてやっと掃き溜めのなかにちいさな鶴をちょこんと立たせる、かのように物語をつくっている作家だとの印象を受ける。小説の触感はグロテスクでごつごつしているが、ピリオドの打たれたあとに不思議と殺伐さが拭われるのはそのためであって、『東京デッドクルージング』に関しても同様の感想を持った。2015年、すべての幕開けは、日本へやって来た中国人や韓国人を主な客層とする池袋のクラブが、謎の武装集団に急襲を受けたことによる。抵抗した者は容赦なく射殺され、一人の男が連行される。彼らが立ち去ったあとのパニックを強烈な爆風が鎮圧する。このような事件がメディアで報道されるよりもはやい速度で、バックに裏社会の大物を抱く都市ゲリラの兵士たち、中国は青幇の流れを汲む精鋭部隊、そして北朝鮮からの逃亡者である女スパイが、それぞれの使命を果たすべく、入り乱れ、お互いに殲滅戦を仕掛け合う。はたして誰が生き残るのか、あるいは誰も生き残らないのか、一寸先は闇のなかどんぱち繰り広げられるさまは、たいへんスリリングである。

 設定は近未来になっているとはいえ、作中に提示されている風景は、正しく現代日本のスケッチにほかならない。このことが劇画的な内容を、劇画的なだけにとどまらないところにまで、持っていっている。たとえば立原あゆみのマンガにおいて、アメリカでは中国系のマフィアがメジャーなのに、絶対数では劣る日本の極道がそうならないのは、仁義が失われずあるからだということになっており、たとえば武論尊(史村翔)が原作をつとめるマンガにあっては、貧困や堕落を食い止めるためには礼や教育の存在が必要不可欠であり、それは戦後の荒廃をも立て直してきたということになっているのだが、この感覚はおそらく、時代や世代がくだるにつれ、薄まる。もはやこの国の風俗は、ごくごく一部をのぞき、総ゲットー化しているにもかかわらず、それには気づかぬままでいたいので、誰しもが自他のあいだにせこい差別を設けるか、しょぼい価値観をベースに仲間がいるのだと安心し、反面、そのような振る舞いに無自覚であることが、病巣を次第におおきく膨らます。『東京デッドクルージング』で、文字どおりキーパーソンである人物を手中に収めた都市ゲリラの晃が、都心から地方へ抜け、地方から都心へと遡行するうち、溜め込んでいくフラストレーションは、そうした無意識の病巣に対するまったくの嫌悪、批判だろう。だいいち〈戦闘現場から一キロも離れていないというのに、またもいまいましいほど平和な空間が広がっている〉ばかりか〈改正健康増進法のおかげで増えたヘルシーレストランやフィットネスクラブの灯りが煌々と街を照らす。バイパスにでればつぶれたカー用品やファミレスの残骸が、この国の凋落を象徴するかのようにずらっと並んでいた。売事務所、テナント募集中の看板。それが日本中どこまでも途切れず続く〉のである。苛立たないほうがおかしい。

 やがて〈晃は苛立ちを通り越して寒々しさを感じていた。すぐ近くで戦場さながらの銃撃戦が展開されたというのに。まったく揺るがないこの貫徹したシステムに怖気をふるう〉のだが、このような自覚を彼が持つのは、むろん幾たびかの死線をくぐり抜けてきた結果でもあるし、いや、それ以前に、総病巣化した社会で自分が病気であることを隠さないアウトサイダーとして少年期より育ってきたせいでもある。たしかに暴力や殺人に眉を顰めない人間性は腐っている。しかし人間性の腐った者なぞいない世界であれば、それはたかだか程度の差でしかない。そのような意味において、彼もまた、自身の嫌うシステムの一部にすぎない。システムに組み込まれながらも、平凡には生きられない、生きられなかったことが、じつは彼にストレスを与えているのではあるまいか。むしろ、亡くなった妹のために復讐鬼と化したシン・ファランこそが、この国のシステムに対する反逆者というに相応しい。日本の外から姉妹でやって来、あげく心を病んでしまった妹と、以前までのテンションを保ち続けられた彼女とでは、はたしてどちらがほんとうに適応できていたといえる。ファランの孤独はその強さでもある。帰属先もなく、群れをなさず、ワンマン・アーミーのごとく振る舞う彼女には、作中人物の誰しもが圧倒される。晃でさえ例外ではなく、たぶんそうしたインパクトに感化されることが、システムに向けた意趣返しであるような「エピローグ」に、壮絶なにおいの立つスペクタクルを招き寄せている。

 『ヒステリック・サバイバー』について→こちら
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2008年08月20日
 メフィスト 2008年 09月号 [雑誌]

 『メフィスト』9月号掲載。本題である西尾維新の小説『零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係』に触れる前に、まずはワキから話に入っていきたいのだが、斎藤環は評論集『文学の断層』で、たとえば大塚英志が提唱するライトノベルの創作術と、たとえば西尾維新がとっている執筆パターンを対比し、彼らの相違を以下のように指摘している。〈大塚英志によるキャラクター作りの技法は、ほぼ完全に隠喩型のキャラクター向けのものだ。対象物のある特徴を抽出し、その特徴を他の物語文脈に置き換えるという技法において、抽出された特徴こそが、隠喩的ジャンプを媒介するのだから(略)いっぽう、西尾維新のキャラクター作りは、この対照においては換喩的である(略)おそらく「キャラクター」と「物語」をセットで考えるには、隠喩型で発想するほうが容易で確実だろう(略)ここで重要となるのが、大塚がしばしば物語の原理として指摘する、まず欠如があってそれを埋めるための行動が描かれるという構造である。「世界」と「キャラクター」が、ともに欠如を抱えており、それを埋めていく過程が物語を駆動するというのなら、キャラクターと世界は、まさに「欠如」という中心を共有しつつ、同心円的に重ねられ得るだろう。だからこそ大塚は、あれほど「世界観」にこどわるのだ。/ しかし換喩型のキャラクターは、このような意味において「世界」と重なることがない。換喩として創造されたキャラクターをいくら並べても、そこから「世界=物語」は自動的には生まれてこない〉のだと。では西尾の技法が換喩的であるとは、どういうことだろう。今しがた引いた箇所の前のほうで斎藤は〈「人類最強の請負人」こと「哀川潤」の造形は、その語感ゆえに「だったら赤いはずだ」「男ではないな」「多分怒りっぽい」「コスプレ大好き」などの特性が、命名者である作家によって、事後的に見出されたのだった〉として、西尾のインタビューを引き、西尾が〈まず名前、すなわち固有名から決めよ、と言う。固有名が決まればあとはおのずと属性がみつかるはずだというのだ〉と述べ、〈たとえばディズニーのキャラクターは「人間」だ。つまり、「人間」なるものを隠喩的に変換(デフォルメ)することで虚構化したものだ〉が、他方〈「換喩」は対象に隣接する事物に注目する〉のであって、それこそ〈「坊主」と「袈裟」の関係、「船」と「帆」の関係は換喩的だ〉というのと同じく、西尾の技法に換喩的な発想を求めているのである。すなわち〈物語のメタレベルにこだわり続けるなら、西尾が試みていることはきわめて複雑な手続きということになるだろう。しかし私は、そうした手続きなるものがあり得るとしても、それ自体は小説が完成した後に、あくまでも事後的に見出される過程ではないかと考えている。そうでなければ「名前からはじめるキャラクター作り」といった場当たり的な手順を物語構築にはめ込む余地はない。「メタ」はあくまでも事後的に見出される。その意味で「物語のメタレベル」は存在しない、とすら言ってよい〉というわけだ。もちろん、これは斎藤の論の一部にすぎず、論旨自体はもうちょいべつのところにあるのだが、しかし、西尾の作品の成り立ちを理解するにあたって、有用な補助線として使うことができる。いわゆる「人間シリーズ」とされる、零崎兄弟をモチーフにした一連の物語は、西尾維新の作品リストにおいては、「戯言シリーズ」と呼ばれる本編の、番外編ないしサイド・ストーリーに位置づけることも可能であるけれど、「人間シリーズ」を読むかぎり、「戯言シリーズ」と世界観を共有しているというよりは、まず登場人物自体の存在が先にあって、そこから「戯言シリーズ」との接点がつくられていったのではないか、という印象を受ける。ふつう、番外編ないしサイド・ストーリーというのは、本編では語られなかった細部を埋める、もしくは本編の設定を用い、さらには補強する役目を負っていると考えられるのに対し、西尾の書く「人間シリーズ」の場合、まあ結果的に伏線を拾っているかたちになっていたとしても、そのような整合性ですら、事後的に、あるいは換喩的に、採用され、調整されているふしがある。作中で、二つ名が重要な価値を持っていたり、改名行為が決して珍しくないのも、そのためであろう。ところで斎藤は『文学の断層』でまたこうもいっている。〈「世界」は命名によって生まれ、「キャラクター」は命名によって魂を吹き込まれる。それは果たして、虚構世界だけのことなのだろうか(略)ラカンが正しく指摘する通り、言語を基礎づけるメタ言語が存在しないのと同じ意味において、「メタ世界」はあり得ない。「メタ世界らしきもの」は、あり得るとしても、それ自体が「世界」の換喩的キャラクターだ。いや、言い換えるなら、あらゆるキャラクターが「メタ世界」を内包して〉おり、〈だから私たちは、互いに「関係」を求め合いつつも、ついに「関係」を持つことができない。「戯言シリーズ」のキャラクターたちがそうであるように、だ〉と。「人間シリーズ」もおそらくは「戯言シリーズ」と同様に、斎藤がいう換喩的な発想に基づいて創作されているのではないか、というあたりはすでにつけた。『零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係』は、作中の言葉を借りれば〈石丸小唄がいうところの不幸せについての物語、つまりは人間関係の物語なの〉であって、前向きに換言すれば〈ひょっとしたら実ったかもしれない、小さな恋の物語だ〉ということになる。その、実らなかった恋は、しかしながら、べつの結びつきを登場人物たちに付与する。そしてそれはたしかに『零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係』においては、関係、と記されてはいるものの、物語内部の時系列に直すなら、この作品の後の展開である「戯言シリーズ」では、登場人物たちをプロフィールする程度の情報に止まる。要するに、彼らのスペックに回収されてしまう。まさしく属性の一つでしかないものに還元されてしまうのである。こうした変位が現実的にどういう意味を持っているのか、よりよく検討するためには「人間シリーズ」の完結編とされる「関係四部作」の、残り三作の発表を待たなければならないのかもしれない。

 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『真庭語 初代真庭蝙蝠』について→こちら
 『君と僕が壊した世界』について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年08月18日
 『小説すばる』9月号掲載。まさきとしかって正木としかのことかあ、たぶんそうだろうね、名前変わっている(?)のぜんぜん知らなかった、とりあえず、この作者のものをひさびさに読んで、嬉しかった。単行本も出ているらしいので、そちらも近いうちに読もう。〈「たまんねえ」このまちの、「頭おかしくなる」病院で、老人たちにかこまれて死んでいくのかな。それもいい、と思った。どうでもいい、とも思った。世のなかでいちばん死んでほしいひとは、ずっと高史だった。いちばん死んでほしくないのも高史のような気がした。自分がどう望んでいるのかわかならなくて、考えれば考えるほどわからなくなって、その結果のどうでもいいだった〉。まさきとしかの『子猫のお化け』は、関係性が確固たる言葉で、こう、と定着しない状態でいる一組の男女の、だらしなく、それでも他に代え難い、感情の綱引きを捉まえる。沙奈子が高史とはじめて出会ったのは、小学校に入る頃、どこにでもあるような地方都市に沙引っ越してきたばかりのこと、家の近くの川岸で沙奈子が一人、地面の虫を石ころで潰していたときに〈ふと後ろを見ると、子猫を抱いたおとこのこが立っていた〉、それが高史だった。高史の連れてきた子猫を、言われるがまま、川に投げ捨ててから、沙奈子は高史に面と向かうと、自分のへその奥で子猫が鳴いているかのような気分になる。やがて二人も歳をとり、物語は、東京で、インディで、売れないバンド活動をしていた高史が、体を壊して帰郷し、病院から、地元で働く沙奈子に電話をかけてき、はじまる。モラトリアムをこじらせた男の頼みを断れない女の姿と、決して若くはなく恋人同士でもない間柄の不思議な緊張は、たとえば絲山秋子の『袋小路の男』などに通じるところがあるけれど、それが檻もないのに逃げ場がないかのような郊外の情景に重なる。落ちは、やや勢いづきすぎていて、流れに流されているふうであり、もうすこしの皮肉と踏ん張りを加えて欲しく感じたが、しかし、こういうブレイク・ポイントを越えなければ、人の目に現実は以前と何一つ変わらず映じてしまうこと自体を暗示しているのだと思う。

 『天国日和』について→こちら
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2008年08月04日
 書き下ろしの完結編である「第四部 方舟」を込みで、舞城王太郎の長篇小説『ディスコ探偵水曜日』全体を通して読み終え、まず最初に抱いた感想は、水星Cが最高潮にいかすな、ということであった。主人公であるディスコ・ウェンズデイを完全に喰っている。しかしながら、水星Cがいったい何者なのか、和菓子職人である(あった)以外のプロフィールはほとんど明かされないし、彼が作中から姿を消しているとき、はたしてどこで何をしていたのかもほとんど知れない。このことの意味はあんがい重要であるように思われる。迷子捜し専門の探偵であるディスコとともに暮らす幼女の梢に突然訪れた奇異を発端とし、次々と巻き起こされた超常現象の数々には、神めいた力を手に入れたディスコのハイパー・アクロバティックな活躍によって、いちおうの整合性が与えられていくのだが、初登場の時点より素性の不明であった水星Cの正体だけは、全部のお終いにいたっても憶測の域を出ることはない。つまり最後の謎として残される。残されるのだけれども、読み手の大部分はおそらく、まあいいか、たとえ水星Cが何者であれ、とにかくいかした奴だったぜ、と納得されてしまうのではあるまいか。『ディスコ探偵水曜日』とは、作者の用意した攪乱でもあるメタ記述を鵜呑み、複雑に難解に分析するのでなければ、〈俺は探偵で、内なる疑いはなかなか晴れない……(下・P357)〉という状況を一個の人格がブレイク・スルーする過程にほかならない。超常現象がいかにして生成されるのかを理解した結果、時空を飛び越えることができ、時空をねじまげることができ、時空をいじれることができる技術までをも体得した探偵にとって、しかし、すべての謎は彼の内面に集約されてゆく。そこでは、世界がどのように在るか、ということよりも、自分がどのように在るか、ということのほうが大きい。作中の言葉を借りれば、すなわち〈そうだ。俺は時空をいじれる人間なのだ。そして自分自身を把握しきれない人間なのだ(下・P329)〉と、これが解かれるべき最大の課題となってあらわれている。物語の結末を、しごく簡単に述べると、《悪》と《恐怖》のアマルガムであるような内なる存在を、水星Cや梢の力を借り、ディスコが打倒することで、世界そのものが一時期の平穏を取り戻すかっこうになっている。このとき、自分の出番は終わりとばかりに颯爽と行方をくらます水星Cとは、もしかしたら、人間が持つポジティヴな因子のべつの名ではなかったか。クライマックスにおけるディスコの言葉を読み返されたい。彼はその正念場において〈俺の全てがここに揃っている(下・P442)〉といっている。そこには水星Cもまた含まれている、と考えるのも決して曲解ではないだろう。人は、自分を立ち直らせるための前向きな気分がどこからやって来るのかを知らない、ひどく落ち込んでいる場合に前向きな気分がどこに隠れているのかも知らない、前向きな気分が隠れているあいだ何をしているのかも知らない、そんなものはどこにもないんじゃないかなと疑うこともある、恨めしいことも、ただ、それが十分に感じられているあいだはどんな苦難も乗り越えられると思う。すくなくとも『ディスコ探偵水曜日』のラストでディスコが水星Cを信頼しているぐらいには、信じられる、信じてもいいはずであった。
 
 『ディスコ探偵水曜日』
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈最終回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第四回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
  「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
  「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 『イキルキス』について→こちら
 「182(ONE EIGHT TWO)」について→こちら
 「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」について→こちら
 「子猫探し」について→こちら
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2008年08月03日
 トンデモマンガの世界

 『トンデモマンガの世界』は、「まえがき」の段で山本弘が〈小説やノンフィクションと違い、マンガの場合は何を「トンデモ」とするのか、その基準が難しい。なぜなら、マンガの多くは、現実にはとうていありえないシチュエーションを描いているからだ〉としたうえで、〈著者が意図したものとは異なる視点から読んで楽しめる本――それがトンデモ本の定義であ〉り、〈本書で紹介する作品は、作者の意図とは異なるかもしれないが、僕たちが本当に「面白い」と思ったマンガばかりである〉といっていて、引用部の〈僕たち〉とは、つまり、と学会を指すわけだが、基本的には、マイナーな作品、メジャーな出版社から発表されたものであっても人気が出なかった作品などに秘められたおもしろみを、抜き出し、解説しているような内容であると思う。個人的には、取り上げられているマンガのうち、作品を知っているもの、読んだときがあるものは、だいたい3分の1程度であった。しかし正直なところ、これを参考にして読みたいと心を動かされたのは、山本弘が紹介しているアメコミの類ぐらいかなあ、そもそも興味のない作品について書かれたものに食指が動かされなかったのは、やはり、マンガに求めていること、好みが違いすぎるからなのかもしれない。ただ、全体の趣旨の問題もあるのだろうし、書き手が複数人にわかれているのもあるのだろうが、やりようによってはもうすこし深く踏み込んで論じられたのでは、と感じられる部分も多々ある。たとえば森田信吾の『攘夷』と原哲夫(原作・高橋克彦)の『阿弖流為II世』を異星人が歴史に介入したていの劇画として合わせて見たり、たとえば藤子不二雄Aの『ホアー!! 小池さん』とふんわり(原作・小池一夫)の『花引き ヴォルガ竹之丞伝』の向こうに透けて見える小池一夫性(『ホアー!! 小池さん』は、ほら、小池書院だからさ)というべきものを検討したり、高橋よしひろの『甲冑の戦士 雅武』とさいとうかずと(原作・山本邦一)の『ピンギーマヤー』(これは文中で高橋よしひろ『銀牙』の猫版とまで紹介されている)を叩き台に動物の擬人化が意味するところを分析したり、と、できたのではないか。まあ、そうしたあたりも結局は、こちらとの関心の違いになってくる可能性が高いけれども、はからずも多数の作品を遡上にあげて、共通したルーツを探るかっこうになっている「『北斗の拳』的マンガ大集合!」の項を愉しく読んだだけに、そのような願望も生まれる。ほかには「『北斗の拳』的マンガ大集合!」も担当した新田五郎による『魔神王ガロン』の項が趣味に合った。永井豪(原作・手塚治虫)の『魔神王ガロン』は、この作者がこの原作を使わなければありえなかったというぐらいの突出した傑作もしくは怪作である。それの魅力をたいへんわかりやすくガイドしている。ところで、話はぜんぜん変わるのだけれど、いがらしゆみこ(原作・井沢満)『ぼくのブラジャー・アイランド』の項に目を通していて、ふと思ったのだが、もしかして弓月光『甘い生活』の元ネタって『ぼくのブラジャー・アイランド』なのかしら、それとももっと何か、サブ・カルチャーにおける根源的なインスピレーションが他にあるんだろうか。こういうのがどうも気になってしまう。
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 エソラ VOL.5

 『エソラ』VOL.5掲載。森下くるみの『ダリア』は、話の筋だけを取り出してみれば、よくあるフラジャイルでフラグメンタルな女性の像を描く、要するに、弱いばかりに姦(や)られる立場であった人間の心が殺(や)る側へと反転しようとする間際を短篇小説化したもので、正直なところ、原動力である主人公のトラウマもその他の作中人物たちの造形や振る舞いも、物語として見た場合、類型的といおうか月並みでしかないのだが、しかし、これぐらいの長さであれば、エモーションのピントはずれず、一定のするどさをもってはためくのだな、と感じられる。もちろん、作品の根底にはセクシュアリティの根が深く絡んでいるのだろうけれども、生きるためには自分を殺さなければならない、自分を死なさないためには他人を殺さなければならない、こうした二つの極があるとして、どちらか一つを選ばなければならない、というような問いは、今どき決して深くはなく、浅いかもしれないかわりに、普遍的な広さを持つ。まあ、そうした面も込みで、「まあ、あたしくらいの女、きっと世の中にはいくらでも転がっているんだろうし」といった言葉どおりであるものの、おそらくその、凡庸さへの憎しみが、あやうく尖る出刃のごとき印象をつくっている。
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2008年07月24日
 AURA ~魔竜院光牙最後の闘い~ (ガガガ文庫 た 1-4)

 田中ロミオの『AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜』は、内面と社交性に問題のあるカップルが、差別のきびしい学校生活をくぐり抜け、ちょうど『魔女の宅急便』に出てくるキキやトンボのようになれるまでのお話で、さりげなくユーミンと愛称のつけられた登場人物が存在しているのは、おそらく、そのことのヒントであろう、というのはもちろん冗談半分だが、しかし、人は誰しもがキキやトンボみたいな勇気や目標を持ち合わせているとはかぎらないので、必ずしも空想や浪漫をポジティヴなものとして受け入れられるわけではない、こうした直感を現実との参照点とし、そこに生じるジレンマをリアルと言い換えてもいい手触りに変え、コミック化してみせた小説だといえる。暗黒の中学時代を振り切るべく、高校デビューを果たした佐藤一郎は、忘れ物を取りに戻った夜の校舎で、魔女めいたルックスの少女と出会い、その口からいかにも非日常的な言葉を聞くうち、妙なときめきを覚えるのだけれども、じつは彼女が未だ一度も顔を合わせたことのないクラスメイトであり、教師も手を焼く問題児であったため、ずいぶんと厄介な騒ぎに巻き込まれていくことになるのであった。もしも語り手の〈俺〉である佐藤一郎が、不思議な少女との接近を、それこそ『魔女の宅急便』のトンボのような素直さで喜び続けられたなら、あるいは、その不思議な少女である佐藤良子が、じっさいにキキのような本物の「魔女さん」であったならば、ここにある物語はそもそも成り立たない。そうではない半端者であるがゆえに、彼らは学校中に白い目で見られることを、抑圧に感じてしまうのである。批評性の高い内容だとは思うが、正直なところ、少女小説や少女マンガにありがちな題材(たとえば小説でいえば村田沙耶香の近作『ギンイロノウタ』『マウス』とそう大差ない)を、男子向けのライトノベルなフォーマットというか文体に落としただけにすぎない部分も多く、もうすこしどぎつくやれば安達哲のマンガのようなハイとローの鮮明な青春像になりえた可能性もあるところを、まさか出版レーベルに気を遣ったのかしら、小学館の少年マンガみたいな口当たりがよく害の薄いモラトリアム劇に全体を収めてしまっている。

 『人類は衰退しました 2』について→こちら
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2008年07月19日
 傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを

 正直なところ原作のテレビ・ドラマに思い入れるものはないのだが、じつにこの作者らしいよね、といえる時代に遅れたハードボイルド・マンの意地とロマンは、やはり、おもしろおかしく、そして、もの悲しい。矢作俊彦の小説『傷だらけの天使 魔都に天使のハンマーを』である。三十年以上も前に、弟分の亨(アキラ)を風邪で死なせてしまった修(オサム)は、殺人の容疑をかけられ、根城であった新宿を離れると一時期海外に逃れていたけれども、今は東東京市で宿無し、その日暮らしをしている。もはや、かつての波乱とは無縁であるはずだったが、しかし、親しくしていた浮浪者が自分の代わりとなって襲われたことに責任を感じ、真相を知るべく、背景に隠された巨大な陰謀に首を突っ込んでいくことになる。こうして新宿に舞い戻り、懐かしくも因縁めいた面々と再会を果たすなど、もちろん、オリジナルに準拠した設定は重要なポイントなのだろうけれど、それから三十年後の世界に、インターネットをベースとするヴァーチャルなリアリティの横溢していることが、作品にとっての、ひとつ、おおきな題材になっている。まあ、セカンドライフ的なシステムの存在が物語を駆動させるキーであったり、匿名掲示板ふうの書き込みを採用していたり、にやにやさせられる部分はあるにしても、そのへんは逆に今どきの戯画としてあまりインパクトがなく、むしろ、仁義を欠きつつあるこの国の裏社会に外国人が大勢介入してくるていの、均衡の崩落と混迷のつくりに、さすがのスリルを感じてしまうのだが、ナードといおうかオタクといおうか、つまりは現代的な若者であるような公務員のシャークショが、行動をともにするうちアウトサイダーのオサムにはまっていく展開は、愛嬌があって、いやがうえにも盛り上がる。それというのはおそらく、世代や価値観の違う二人の組んだバディもののきわめてオーソドックスなパターンを、ギャップの有り様を、ぶれなく適確に、味のある風情で再現しているためだろう。じつにエンターテイメントしている。細かい問題提起はともかく、全体の印象は、やや軽めであるけれども、その軽さが、ど派手なクライマックスを作中に呼び込む。わくわくしたな。

 『THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ』について→こちら
 『悲劇週間』について→こちら
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2008年07月14日
 地球人類最後の事件 (講談社ノベルス ウF- 17) (講談社ノベルス ウF- 17)

 浦賀和宏の八木剛士(もしくは松浦純菜)シリーズは今年の六月に起きた秋葉原通り魔事件を予見していのだと、どこかの阿呆が言い出したら、おいおい、と白けつつも、すこしは、そうね、と乗ってやってもいいな。すくなくとも『蟹工船』よりリアルな現代の生活感が、半分くらいはご苦労さんと通り過ぎたくなる頭の硬さで、半分くらいはまじに受け取ってもよいようなくだらなさで、みっちりと描写されている。いや、それにしても、あいかわらず、しょうもねえお話である、ほんとうに。身も蓋もないといおうか、救いがたいといおうか。シリーズの最新作『地球人類最後の事件』は、松浦純菜の幼馴染みであり八木剛士のクラスメイトでもある小田渚の視点を借り、これまでのストーリーが振り返られるところからはじまるのだけれど、それがまた、資料や題材に乏しい浅薄な批評や思想のサンプルを読まされているみたいで、ぞくぞくしちゃう。〈皆、私を見ていてほしい。私をかまってほしい。私を心配してほしい。でも、そんなことは天地がひっくり返ったってあり得ない。何せこの世の中は、資本主義社会なのだ。だから自分は、本格ミステリ以後の若い作家の小説を夢中になって読んでいたのかもしれない(略)あれはみんな、自分の狭い周辺だけが、世界のすべてという小説だ。本当にそうなのだ。大統領も、総理大臣も、関係ない。そんな政治家より、自分とその周辺だけが、世界で一番価値がある。それ以外の人間達なんて、虫けら同然。そんな世界に渚は憧れた。自分もそんな世界に行きたいと思った〉と、いわゆるセカイ系分析を行いつつ、〈(略)日本で改憲がなされることはないだろう。少なくとも、日本で素晴らしいサブカルチャーが全盛を極めている間には。どんな右翼の人間でも、漫画やアニメを愛する気持ちを持っている。剛士が良い例だ。日本人のDNAには、日本が大人の国になったら、もう今までのようにサブカルチャーを楽しめないかもしれないという危機感が、生まれつき組み込まれている。それは呪いと同じ(略)どんなに改憲の気運が高まっても、きっと土壇場で失敗するだろう。その繰り返し。国にはそれぞれ役割がある。日本の役割は、経済大国として、世界に向けてサブカルチャーを発信すること、それがすべてだ。間違っても、自立することなんかじゃないのだ〉というふうに、オピニオンを盛り込みながら、あらましを述べる小田渚にしてみたら、一連の事件は、もてないアニメ・オタクで、さらには学校社会におけるヒエラルキーの下位に属する八木剛士が、ルサンチマンを突破口に引き起こしたテロリズムにほかならなかった。しかし一方で、大勢の弱者が虐げられたまま状況を変えられないのに対して、剛士だけが不思議な体験を繰り返し、生き延びている現実を見、もしかしたら彼は、それこそ世界の中心に位置すべき特別な人間の一人なのではないか、と思う。そして当の剛士はといえば、まさしく選ばれた特別な人間であったため、彼をおそれる者の罠にはめられ、強姦殺人の容疑で警察に逮捕されてしまう。こうしたピンチが、剛士が実際に強姦殺人を犯しそうな存在であると世間から見られていること、剛士自身も一歩間違えれば自分が強姦殺人を犯しかねないと考えていること、しかし真実は冤罪であること、の三点がつくる図式を用い、語られる。右傾し、リベラルを嫌う剛士は、次のようにいう。〈学歴がない親は所得も低いから、自ずと子供にかける教育費も激減する。それは自然の摂理である(略)今や日本も格差社会が進んでいるから、どんどんその傾向が強まっていくだろう。生まれた時からハンデがあるのだ(略)子供の頃からイジメられ、蔑まれた子供は、その恨みを胸に抱いて、捻くれた精神のまま一生を終えることになる。捻くれた心の持ち主は、人と上手く付き合うことができない。異性と喋ることもできない。一生童貞でもおかしくはない。男が異性を知らないで生きるのは、あまりにも辛い。結婚なんて夢のまた夢。結婚できず、四十過ぎても、五十過ぎても、童貞の独身男。それなのに、世間の連中は、みな結婚し、家庭を持って、幸せそうだ。それなのに、どうして自分だけが!? 一度、そんな考えにとりつかれた男は、犯罪にでも走るしかない。子供の頃受けた残酷な『偏見』が数十年後に現実になるというわけだ〉と。この苦しみを救ってくれるのは、無償のセックス(性交)だけである。だが、無償のセックス(性交)を求めることが、苦しみを繰り返し循環させる。剛士の逮捕をきっかけに、物語は佳境に入り、ついに剛士を付け狙う組織の正体があかされる。ここでこの小説、このシリーズがやはり特殊であるのは、ハルマゲドンをめぐる背景をよそに、剛士の、松浦純菜とセックス(性交)したいという欲望が前面化していくことだろう。自分がもはや童貞ではないのを棚にあげ、純菜が処女ではない(かもしれない)ことに許し難いものを覚える。結果、目も当てられない悲劇が訪れる。いやまあ、ほんとうに、これ、進んじゃいけない方向にしか進んでいかないのが、すごいな。こうも徹底されたら、次巻でつけられるらしい結末がどんなになっちゃうのか。

 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

・その他浦賀和宏に関する文章
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2008年07月12日
 ミュージック・ブレス・ユー!!

 「音楽について考えることは、自分の人生について考えることより大事やと思う」と、ウマの合わなかったはずの男の子が口にした言葉に、どうしてか少女は耳を傾ける。津村記久子の『ミュージック・ブレス・ユー!!』はちょうど、ジミー・イート・ワールドの「スウィートネス」がテレビのCMに使われて日本のお茶の間に流れるような時代に生まれた青春小説、といったところであろうか。主人公のアザミは、ポップ・パンクというかポップ・エモというか、とにかく、その手のロック・ミュージックに思春期的な愛着を抱く女子高生で、物語は、彼女がベースとして参加しているアヴリル・ラヴィーンのコピー・バンドが突然の解散を迎えたことにより、動きはじめる。それは結局のところ、受験を遠因とする必然でもあった。ここから、一生に一度しかない凡庸で多感な一年の出来事たちが、この作者ならではの、おもしろおかしく、そしてせつなさが後ろについてくるテンポで、かろやかに描き出される。いや、これはとてもとてもキュートな作品で、世代や性別に関係なく、ごく普通にサブ・カルチャーと親しみ、文系の高校時代を送った人間であれば、すくなからず共感することのできるだろう内容だと思われる。何より、猛烈に集中力が欠如し、つねに空回り、でも心やさしくあろうとつとめるアザミのさまが、最高にチャーミングである。これだけ個性に富んでいながら、それでいて誰の身近にもいそうな人物をよくつくれたものだ。彼女の親友であるチユキも、上辺はしっかり者なのに、じつはあんがいぶっ飛んでいる。二人のコントラストに、にやにや、わくわくさせられる。そのほか、とくに魅力的であるような点を挙げていく。ひとつには、やはり、ブリンク182やニュー・ファウンド・グローリー、テイキング・バック・サンデイなどの、ポップ・パンクやポップ・エモの系を音楽的な題材にしていることが、おおきい。たとえば、これがニュー・ウェイヴやグランジの類であったら、もっとずっと暗澹たる雰囲気になってしまったに違いないし、反対にヘヴィ・メタルやハードコアだったりしたら、汗くさい体育会系との区別がなくなってしまう。ポップ・パンクやポップ・エモの、適度にあかるく、適度に女々しく、とかく疾走感あふれるイメージが、登場人物たちが交わす関西弁(大阪弁)のユーモラスなやりとりと相まって、じめっとしてしまいそうなエピソードのなかに、晴れ晴れとした気分を呼び込んでいる。また、そうしたアーティスト群を取り扱うさい、現代的なインターネットの時代が背景にあるのも生きている。インターネットで知り、視聴したことにすれば、誰々のインタビューや新譜、旧譜の評価を何々という雑誌で読んだ、的な記述は必要としなくなる。膨大な情報を一介の高校生が有していることも、まったくの不自然ではなくなっている。アザミが自作のアルバム評をインターネット上で知り合った外国人の少女に送ると〈あなたってだいぶナードだけどすごいね! 尊敬する!〉と褒められる場面があるが、なるほど、こういうのがナチュラルにナードってやつなのかもしれないね、と思える。まあ、そうした表面上のことはともかく、インターネットや携帯電話のメールは、作中において十分に重要なツールとして活用されている。このことの効果も、物語の成り立ち上、たいへんにおおきい。それにしても、津村の文章には、あいかわらず妙な引っかかりがあって、一瞬、あれ、ここのこれ、どういうことだろとか、辻褄合ってるかとか、ページをめくる手が止まる個所がいくつか見つけられるのだけれども、読み進める、あるいは読み返すと、ああそういうことかとか、ちゃんと辻褄合ってるねとか、納得がいく、感心させられることが、翻り、つよいフックになっているのがわかる。

・その他津村記久子に関する文章
 「オノウエさんの不在」について→こちら
 「婚礼、葬礼、その他」について→こちら
 『カソウスキの行方』
  「Everyday I Write A Book」について→こちら
  「カソウスキの行方」について→こちら
  「花婿のハムラビ法典」について→こちら
 『バイアブランカの活断層』について→こちら
 「冷たい十字路」について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2008年07月08日
 文学界 2008年 08月号 [雑誌]

 『文學界』8月号掲載。そういえば、あれだけ『ひとり日和』が芥川賞に選ばれたことに厳しかった豊崎由美が『すばる』8月号の書評欄で、同じ青山七恵の『やさしいため息』を〈以前、ある仕事で『ひとり日和』への芥川賞授賞を批判したことがあります。でも、受賞自体はフロックじゃなかった。今、そう認めるにやぶさかではないのです〉と、肯定的に評している。「授賞」と「受賞」の漢字の違いに豊崎のスタンスがうかがえるけれども、いわれていることにはおおむね同意できる。過去にも書いたとおり、やはり『やさしいため息』はいまいちで、ぴんとこないのだが、それ以後の作品は、十分におもしろく読んでいるからである。そのなかでもとくに好きなのが、『窓の灯』の文庫版に入っている「ムラサキさんのパリ」だというのも、以前に述べた。この『新しいビルディング』には、どこか、「ムラサキさんのパリ」に通じるところがある。それはつまり、ごく普通の会社員の、わずかでしかない日常の一コマが、他人とのささやかな関わりを通じ、ちょうど辻褄の合う重たさで切り取られているあたりだろう。〈マミコのする仕事は、専門の知識も、熟練したテクニックも、特出した注意深さも必要のない仕事だった。下着や化粧品のダイレクトメール発送を下請けしているその会社で、彼女の主な仕事は戻ってきたダイレクトメールの宛名のデータをまとめ、週に一度フジクラに提出することだった〉と、この、マミコとフジクラという〈オフィスの端にある八畳ほどの部屋〉で〈ほぼ口をきかず一日中仕事をしている〉女性二人の微妙な距離感が、作中には描かれている。上司のフジクラは、五月いっぱいで会社を辞める。妊娠したためだ。二月にマミコが会社に入ってより、四ヶ月近くものあいだ、二人は一日中いっしょにいたわけだが、とくに親しくなったということもない。険悪というのでもないけれど、仕事以外のことはほとんど喋らない。その関係はフジクラが退社することになっても変わらない。たったこれだけのことを、作者は、わざとらしくなく、丁寧に、自然で、だからこそ説得力のあるエピソードへと変える。題にある「新しいビルディング」とは、登場人物たちが働く職場の向かいで現在建設中のそれを指す。時間の積み重ねを暗にあらわしているのだと思う。フジクラの勤めが最後の日、はじめてマミコは彼女と他愛のない会話を交わす。しかし彼女たちの関係は、長くはなくとも決して短くない時間のなかで、たしかに固定され、今さらおおきく揺らぐこともなく、〈そこにはリズムも意味もなかった。ただ二人の調和しないタイミングだけがあった〉のである。

 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2008年07月07日
 文学界 2008年 08月号 [雑誌]

 『文學界』8月号掲載。お、綿矢りさもついに『文藝』以外で小説を発表しますか、と、おそらくは短篇の範疇に入る『しょうがの味は熱い』を読みはじめ、はじめに思ったのは、結局のところ綿矢は『蹴りたい背中』と「You can keep it.」が例外的に良かっただけなのかなあ、ということだった。綿矢と同じ年代の、つまり80年前後に生まれた女性作家たちが現在の若い時分にすでに一回は書き済ませているような、だらしがない同棲小説の類に感じられたためである。いや、世代や時代、もしかしたら性別にも関係なく、小説家というのは一度はこういうお話を書かなければならない、とすれば、ではその通例のどこにこの作者ならではのしるしを見つけるべきか。もちろん、文体であったりするのかもしれないし、題名のセンスであるのかもしれない。斎藤美奈子あたりだったら、作中人物の生活水準を見、料理の描写がどうとかいっちゃったりするのかもしれない。大学院に通う女性が、社会人になっている恋人のため、キッチンで晩ご飯をこしらえている場面から、『しょうがの味は熱い』の内容は立ち上がる。〈鍋が煮えるまで、またはグリルで魚が焼けるまでの、何もすることがないこの空白の時間を、私はうまく過ごせない。おかえりなさいから夕食を食べるまでの、日常の隙間の四十分が絶望させる力を持っているなんて、絃(ゆずる)に会うまでは知らなかった〉と。そうして〈今日お互いに起こったことを話したり、お腹は空いているかいないかなどのやりとりは家で彼の帰りをずっと待っていた私にとっては大切だけれど、疲れて帰ってきたうえ家でもやらなければならないことがたくさんある絃にとっては、削ってもいい時間の第一候補になるだけなのだ〉と、かすかな寂寥を覚えもしている。もちろん、寝床に入ればセックス(性交)はするし、行為が終われば睦言めいた会話も交わす。けれど、最終的には、自分と彼の内面がぴったりと一致していないことが、〈ねえ絃。なにを考えているの?/ なにを、考えているの〉という声にならない呟きをもたらす。正直、開けっぴろげすぎるよ、となるが、しかし、小説は、一方通行である女性の気持ちをよそに、視点を変え、男性側の内面までをもこちらに読ませようとする。たぶん、このへんがポイントであり(ケースはまったく異なるけれども『蹴りたい背中』におけるにな川の在り方と比べてもいい)、作者の悪意がよく出ている箇所なのだと思う。工夫がこらされ、仕掛けがあるような気がし、繰り返し、目を通してしまう。とはいえ、そうしたつくりは、一個の関係性をふくらますというより、分割していった結果上にあらわれているものでしかなく、先細り、どこか貧しい印象を持たされる。

 『夢を与える』について→こちら
 「You can keep it.」について→こちら
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2008年07月03日
 ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

 すこし前から、「ケータイ小説がどうの」と題名のつけられた本をよく見かける、ような気がする。そのなかにあって、速水健朗の『ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち』が他と一線を画すのは、巻末に挙げられている参考文献の膨大さだろう。じっさいに数多くのケータイ小説にあたっているのはもちろん、社会学まわりの様々な研究が題材化されている。いやいや、このことの意味がじつはおおきい。送り手(元関係者)の側からケータイ小説の成り立ちを報告した伊東寿朗の『ケータイ小説活字革命論―新世代へのマーケティング術』はともかくとして、たとえば杉浦由美子の『ケータイ小説のリアル』がとっている〈現場を数多く取材することで、その本質を語っていく〉というアプローチとは、対極とまでいかなくとも、かなり置かれている立場の違うことがわかるし、本田透の『なぜケータイ小説は売れるのか』や、その本田の新書を叩き台にした石原千秋の『ケータイ小説は文学か』が、題にあるとおりの疑問系を出発点にしているのに対して、むしろケータイ小説の登場とヒットを、しごく自然なものとして論じるための前提条件とするには、せめてこれだけの参考文献が必要であったのだろう、と思う(個人的には、それでもまだ足りていない気がする)。

 ところで参考文献の一つに挙げられている『暴走族のエスノグラフィー モードの叛乱と文化の呪縛』(84年)のなかで、佐藤郁哉は、それが登場した昭和30年代頃(1960年代)にはそもそも都会での活動をベースにしていた日本のモーターサイクルギャングが、時代がくだるにつれ、全国に拡大し、やがて地方に定着するうち、暴走族という独特な詩学をつくり上げていったのだと、報告している。日本の暴走族は、ヘルズエンジェルスなどの海外におけるモーターサイクルギャングとは完全に異形のものであるが、しかし、それは日本と諸外国の文化的な偏差にほかならず、ある程度まで発達した消費社会もしくは高度にサブ・カルチャー化した社会にあっては、必然と生じうる一個の現象だとさえいえる。そうしたとき、なにも話は暴走族だけのものにとどまらないだろう。たとえば、今日の我々が郊外的などと呼ぶ平準化に包括されるほとんどの事象は、同根のヴァリエーションでしかありえない。速水は前著『自分探しが止まらない』の終わり間近で、〈自分探しが止まらないのは、現代の若者に限った話ではなく、ある程度モノの満たされた資本主義社会の大きな潮流でもあるのだ〉と述べているけれども、この問題意識がおそらく、『ケータイ小説的。』のうちに〈ケータイ小説は、よく言われるように、似通ったプロットやモチーフに偏る傾向がある〉ことの理由は〈ケータイ小説の著者たちが影響を受けたさまざまな文化や、生きてきた社会的な環境などの共通性が、似通った作品を同時多発的に生み出しているのではないか〉とする仮説(P17)をもたらしている。

 そう見るのであれば、速水が、三浦展の「ファスト風土化」という言葉を引き、〈ファスト風土化は、人間性や人間らしい生活を剥奪するために進行したものではなく、現代の社会の在り方に添って生まれた新しい環境に過ぎない。それは、われわれが何モノで、何を求めているかを正直に反映しているものでもあるのだ〉と述べ、〈ファスト風土化を嫌うことは、現代人の自己嫌悪である〉といっているのは、いかにも象徴的である。「ファスト風土化」とパラレルの関係であるようなケータイ小説の内容は、ショッキングであろうか、センセーショナルであろうか、あるいは逆に、子供騙しと茶化してみせるほどに矮小であろうか。『ケータイ小説的。』では、ケータイ小説の内容を論じるにさいし、浜崎あゆみのブレイクを直接の影響元とし、その源泉には、紡木たくの表現技法や、相田みつをの詩作を受け入れる感性、ヤンキー向けの雑誌である『ティーンズロード』の読者投稿欄があるとして、どうしてそれらが、一時的にとはいえ、大勢に支持され、生半可ない説得力を持つに至ったのか、に迫っていく。

 このあたりの経緯は、なかなかに重層的であり、入り組み、要約することは難しいが、98年頃に〈旧ヤンキー文化が衰退していったのと入れ替わりに台頭してくるのが、自分の内側の敵=トラウマとの闘争を描く内省的な作品群だ〉ったとして、しかしその転換は〈それまで陽性だったヤンキーの世界が、突然陰性へと変化したということを意味するわけではない〉のであり、〈『ティーンズロード』の投稿欄が、いじめに苦しむさまから始まり、それがエスカレートし過激な不幸自慢へと展開していったように、一九八〇年代半ばのヤンキー少女漫画『ホットロード』が、母親からの愛情を感じられなくなった少女がSOS信号として暴走族に染まっていく物語として描かれたように、昔から女の子のヤンキー物語は決して陽性なものではなかったのだ〉し、〈反抗すべき敵を社会のような外部に定めることができず、みずからの内面に敵を見つけていく姿というのは、ケータイ小説の主人公の生き方とオーバーラップするものである〉と、速水がいっていることは重要だ。〈レイプや流産、恋人の死といった不幸に直面しながらも、その不幸を嘆くのではなく、すべて自分の内面に抱え込む。そして、何かに反抗するということはなく、常に自分の内面に敵を設定し、最後は前を向いて生きていくことを決意する〉、そのような〈『恋空』をはじめとする多くのケータイ小説で描かれる共通の世界観〉にあらわれているのは、つまり少女がいかにして傷を過去のものとするかであり、かつて大塚英志が『ホットロード』を例に、通過儀礼の構造を指摘した物語のイメージとだぶる。

 ちなみに『ケータイ小説的。』には、大塚の『「おたく」の精神史一九八〇年代論』と『サブカルチャー文学論』、『少女民俗学』が参考文献に挙げられているけれども、大塚は『システムと儀式』(88年)のなかで〈佐藤郁哉は、暴走族とは自作自演の通過儀礼だという意味のことを『ヤンキー・暴走族・社会人』で書いている〉といい、〈「ホットロード」は儀式のない時代にあって作り出された少女たちのための通過儀礼の神話だった〉と述べている。大幅に後日談の追加された文庫版の『恋空〜切ナイ恋物語〜スペシャル・バージョン』を読めばわかるとおり、『恋空』とは、作者の美嘉が、異界をめぐり、現実に帰ってき、大人になって幸福に暮らすために必要な物語であったことが、強調されている。もちろん、これは大塚のいう通過儀礼の構造と相似だとさえいる。敷衍すれば、『恋空』の主人公である美嘉の体験が、まったくの絵空事に見えようが、異界で起きたことだから当然なのであって、それを批判することは、すなわち批判にすらなりえない。というのは余談である。

 いや、だからこそ目を向けなければならないのは、それが一方では真実だと信じられる、信じられている現実がたしかにあることで、すくなくとも『ケータイ小説的。』は、そうした諸々を考えるための十分な補助線として機能している。

 ※この項、後日書き改める可能性があります。
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2008年07月01日
 さよなら渓谷

 罪と罰、という。もしもそれらが照応し合う関係にあるのだとしたら、吉田修一の『悪人』は罪を描いた小説だといってよく、同じく『さよなら渓谷』は罰を描いた小説だといっていい。いやまあ、両者の物語に関連性はまったくないのだけれども、『悪人』の印象を、罪、と言い表したなら、『さよなら渓谷』のほうの印象は、罰、でばっちりと決まってくる。罪深きは人間であり、したがってもちろん罰せられるべきは人間にほかならないのだが、しかし罰するのもまた人間であるようなとき、このことの当然がいかなる軋轢のうえに成り立っているのか、『さよなら渓谷』を読んで、思う。老朽化し、家賃が安く、審査も厳しくない、渓谷間近の市営団地、そこに越してきた母子家庭の一人息子が、行方不明になり、遺体で発見され、母親に殺人の容疑がかかる。さりとて、こうした事件の衝撃を作者は追っていくのではない。それが発端となり、世間の目を集めることが間接的にやがて、隣家で暮らす夫婦の、破綻とも再起ともとれる瞬間を導き出すまでの過程を克明に描写する。ああ、もうこれ以上の筋に触れることはならないであろう。ミステリ小説ふうのサプライズとはすこし違うとはいえ、伏せられていた事実が一個ずつ明らかにされる、そのつど、最初は平凡で倦怠にしなだれているようにも受けとれた夫婦の振る舞いが、ぐるり、と意味合いを変える。そして二人の貧しくとも慎ましやかな暮らしぶりが、はたして幸福であったのか不幸であったのか、一概には判断できなくなる。作品の背景には、幼児殺害ばかりではなく、しばし報道などで見かけられる俗っぽい犯罪がいくつか横たわり、マチズモの閉塞がそこら中に充ち満ちる。舞台となる団地には〈清流と呼ぶにふさわしい清水と砂利の河原、壮麗な岩が調和して、この季節には、青々とした葉が渓流に映り、水面を魅惑的な色に変える〉渓谷からの涼風が届くことはない。執拗に汗や体の放つ臭いが書き加えられ、息苦しさを増すなかで、一組の男女が、まさしく罰をめぐる。

・その他吉田修一の作品に関する文章
 『静かな爆弾』について→こちら
 『初恋温泉』について→こちら
 『女たちは二度遊ぶ』について→こちら
 『ひなた』について→こちら
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
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2008年06月20日
 METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS

 この『METAL GEAR SOLID GUNS OF THE PATRIOTS(メタルギアソリッド ガンズ・オブ・ザ・パトリオット)』は、同名のテレビ・ゲームを伊藤計劃がノベライズしたもので、あらかじめ断っておくと、原作そのものは未プレイであるし、他のシリーズに関しても大昔にMSXだかで出てた初期のやつを途中までやった経験があるぐらいで、つまりほとんど知識がないに等しい身なのだが、それでも読んで、おもしろかった。おそらく原作のファンには親しみがあり、魅力的であるに違いない固有名詞や設定を共有してないにもかかわらず、それらの描写から拡がってゆくテーマに引き込まれたためだと思う。テーマというのが大げさであれば、以前に読んだ伊藤の『虐殺器官』に含まれていたのと同一のニュアンスと言い換えてもよいような、要するに、緻密に管理された世界=戦場で、兵士が人として生き延び、使命をまっとうしようとする、こうした姿の内にこそあらわれるエモーションのことである。作品は、第二次世界大戦が終結してより半世紀後、〈スネークと呼ばれていた、一群の男達〉が、いかにして〈世界を変えようとし〉、〈世界を解放しようとし〉、〈世界を守ろうとし〉、戦い、戦いに巻き込まれた人びとが、罪と罰を負うなか、どう運命に抗ったのか、を記録している。主人公は〈スネークと呼ばれていた、一群の男達〉の一人にあたるソリッドという老兵で、彼の親友であり、共闘するオタコンことハル・エメリッヒ博士が語り手をつとめる。この、語り手の置かれている位置が興味深い。彼は、かならずしも現場にいるわけではない、が、ソリッド・アイにメタルギアMk.II、Mk.IIIといったハイ・テクノロジーを通じ、間接的に現場へと介入することで、ちょうど感情を持ったカメラの目線となり、さまざまな出来事を捉まえる。かなり自由な機能があたえられているとはいえ、もちろん限界もあるはずのそうした語りが、ともすれば、本来なら想像の範囲でしかない他人の思考をも詳細に述べてしまうのは小説の疵になるのではないか、と中途感じられたのだけれども、エピローグの段階まで進めば、なるほど、そのこともまた作者の配慮によっていることがあきらかとなる。いや、むしろ、感動は、そこからやってきている。これを踏まえ、物語を振り返ってみるとき、クライマックスの前段における次のような個所が印象的である。〈そう、記述なのだ。プログラムのコードもまた、記述された存在だ。プログラムは単なる数式でも指令の塊でもない。ある世界について斯く在れと記した文字の連なりなのだ〉。いうまでもなく、誰しもが〈斯く在れ〉と望んだ世界に生きられるとはかぎらない、しかしながら、〈斯く在れ〉と世界に望みを託すことが一縷の光となり、闇を晴らすことがありうる。絶えず血を流し、決定的な死を突きつけられてもなお、ここに語られている人びとが手放さずにあるのは、祈り、きっとそれだろう。

 追記:読後、インターネット上にあがっている動画をちらりと見たかぎり、話の筋は、どうやら原作にあたる『METAL GEAR SOLID4 GUNS OF THE PATRIOTS』にかなり忠実であるようだ。

 『虐殺器官』について→こちら
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2008年06月18日
 群像 2008年 07月号 [雑誌]

 『群像』7月号掲載。ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のなかに〈一つの命題は、それ自体では、確からしいとか確からしくないといったことはない。できごとは起こるか起こらないかであり、中間は存在しない〉という一節がある。舞城王太郎の近作を読んでいると、なぜだか、ふと、それが頭をかすめる。

 『イキルキス』は、良くも悪くも、いつもどおり、じつに舞城らしい小説だといえる。超異常事態によって、人が死ぬ。連続的に、死ぬ。生存者たちは、不可解な謎をめぐり、探偵役を演じる。かくして先送りにされる解答を追ううち、物語が生まれ、現代ふうのくだけた言葉遣いが主観を兼ねる。良くも、とはつまり、やっぱりこれはこの作者にしか書けない域の内容だろうね、という印象であり、悪くも、とは、またこの種のお話であれば結末が宙に浮いているいくつかの作品のほうをはやく仕上げていただきたい、仕上がっているんだったらそっちのほうをまず読ませて欲しいや、と思うからである。

 さて。語り手である〈僕〉が通う中学校、同じ2年A組に在籍する女子生徒が一人死ぬ、また一人死ぬ、日をあけて、次々と女子生徒たちが死んでゆく。外傷はなく、それが原因不明の突然死であるがゆえに、さまざまな不安と憶測とが、西暁町を飛び交う。〈中学に上がるときに東京から転校してきた本郷雄士〉が、最初、これを連続殺人だと言い、しかし「これは……ひょっとしたら、殺人でも自殺でもないのかもしれない(略)かと言って病気ということでもないのかもしれない。病気というよりは、現象に近いんじゃないか」と考え直すのを聞きながら、〈僕〉は〈一人目のときにあった悲しみや苦しみが皆から薄れている様子がなんだか良くないことの気がする。人が死んでるのに、理由とか原因とか……もちろん重要だけど、本当に大事なのは亡くなった人のことを悼むことだろう〉と思うが、やがて〈これから僕のクラスの女の子は全員が死ぬんだ〉ろう〈絶望の六月が始ま〉ったことに〈なんだか深く納得して〉しまう。

 因果関係の不透明な事件を起爆剤とし、抽象的な思考を饒舌に弁証させるところに、作者ならではのスリルがあって、ある種の敏感さが過剰になり、麻痺へと翻る様子が克明なのも、なるほど舞城だ。というのは、すでに述べたとおりであるけれど、なかでも『イキルキス』に特徴的な面を挙げれば、思春期における性的な関心がクローズ・アップされていることだろう。それを目印としながら、恋愛の曖昧な本質が手探りされる。クラスメイトの八木智佳子が、死ぬかもしれない可能性と間近であるようなとき、そのシリアスさがつくる漠然としたムードの影響下、彼女とのセックス(性交)を望み、試みようとする〈僕〉の内部で、性欲の肯定と初心な恋心とが、入れ替わり、すり替わり、錯綜する。

 かくして〈死ぬのを目の前にした女子がこれまでに会った男子の中から選ぶ訳で、そんな小さな範囲でムリヤリとりあえずって感じで指を指しておいたのが僕ってだけじゃないのかと思うと、逆に八木が僕のことを好きだというさっきの確信もなんか怪しく感じてくる。今二人きりでいるこの状況も、八木智佳子のほうにはたいした意志はなくて、偶然とかがいろいろ重なってたまたまこうなっているのかもしれない〉と猜疑し、〈このままこの勢いでセックスしてもいんだろうか?僕は今後僕の身に……と言うか気持ちに起こることをちゃんと考えて八木のそばまでやってきたんだろうか?今のことしか考えてないんじゃないか?今セックスすることでもたらされるはずだと考えた架空の救済ですら、今の救済でしかなかった〉とかえりみる。こうした記述のうちに含まれているのは、もちろん、なぜ今でなければならないのか、なぜ自分でなければならないのか、なぜこの相手でなければならないのか、という問いにほかならない。奇っ怪な出来事の数々と並行して、〈僕〉はこれを考え進め、小説の終わりで沈黙に行き当たる。〈沈黙の中、僕は言葉を探るが何も出てこずに困る〉けれど、〈でも困っていいのだ。それでいい〉のだとする。

 いうまでもなく、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』における最後の命題は、〈語りえぬものについては、沈黙せねばならない〉である。十分に語り尽くしたはずが、しかし不十分に終わっている、そうした不十分さによってのみ示されるものがあることを、この『イキルキス』の、不思議が不思議のまま残された結末は教えているのだと思う。

・その他舞城王太郎に関する文章
 「182(ONE EIGHT TWO)」について→こちら
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 「ディスコ探偵水曜日」
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  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
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2008年06月15日
 よっぽど『あのコと一緒』が好評なのか、藤末さくらの初期短篇群が『Pink』と『Blue』の二冊の読みきり集となり、再リリースされた。ほとんどが十年ぐらい前の作品であり、当然、経験不足のため作風が洗練されていないとはいえ、今の時点から振り返ると、とても90年代の半ばに描かれたとは信じられないぐらい、いやむしろ80年代を引きずっていることの結果がこうなのだろうと思われるほど、オールドスクールな少女マンガの印象がつよいものばかり、並んでいる。いちおうは、『Pink』が女の子をメインに、『Blue』が男の子をメインに、と、収められた作品によって色分けされているけれど、おおきな差異が両者を隔てているわけではない。基本的には、適度に不良ぶった坊ちゃんと純情と優柔不断が同居するヒロインのラヴ・ストーリーを軸にヴァリエーションがつくられており、男性性にリードされる女性性の表明が、絵柄のみならず、一種の古めかしさに繋がっていると解釈することもできる。その線で見ていったとき、もっとも異色であるのは、『Blue』に入っている「男はソレを我慢できない」ではないかと思う。恋人はいるが、真面目に愛されているとは感じられないヒロインと彼女を一途に想い続けるイケメンさんが、バレンタインのイベントをさかいに、それぞれが置かれている立場を確認するのである。〈世間は最近 ピンク色に染まっているようだ どうか俺をキミの色に染めてくれ!! なあ 花井さん?〉という冒頭のモノローグから、〈僕は君とピンクよりもっともっと甘い色に溶け合いたい〉というラストのモノローグにあいだにある距離が、じつは二人の関係性をよくあらわしている。簡単にいってしまえば、俺の色に染まってくれ、という主張ではなく、君の色に染まりたい、という願望を、いや、どちらかがどちらかに従い、変わるのではなくて、二人が歩み寄り、分かち合うことこそが、恋愛の大切だとする結論にまで、ストーリーを持っていっている。
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2008年06月13日
 マウス

 村田沙耶香の『マウス』は、すごく悲しいが、しかしとても希望にあふれた作品である。卑屈な自意識にまみれた語り手の心の動きは、この作者には珍しくはないものであるけれども、いかにも純文学でござい、といった感じの装飾を排除した語り口は、すっぽりと少女小説のカテゴリーに収まり、それにともなうやわらかさ、通りの良さが、意外なほどに感動的な物語をつくり上げている。〈学校という場所はスーパーのようなもので、私達は陳列されているのだと、私はようやく気づき始めていた。私達を評価するのは大人たちだと、私はずっと思っていて、いい子であるようつとめていた。けれど、本当の買い手は生徒たちの方だったのだ。そして、そのことにずっと前から準備をしていた子たちに、私はいつのまにか随分置いていかれていたのだった。平然と価値の低い女の子を見下す男の子も怖かったが、女の子たちの目はもっと怖かった〉。小説はおおきく、〈私〉であり主人公の役を負った律という女性が、小学五年生のときと大学生になってからの、二部にわかれている。先ほど引いた部分にあるとおり、彼女は幼い時分より、学校的な価値観もしくは集団生活のヒエラルキーにおいて、下位に属していると自己評価している。それが、五年生のクラス替えを経、塚本瀬里奈という不思議な同級生と出会い、わかれ、大学生に成長した頃、再会し、ふたたび交流をあたためることによって、自分に対し肯定的な意志を持つまでに変わってゆく。このことのあまりにも苦々しく、だからせつなく、そしてやさしく描かれている様子に、思わず、ぐっとくる。ともすれば、展開されるドラマのかたちに、ややきれいに出来すぎた部分を見つけられもするが、繰り広げられる情景のなかにしかし、孤独な自分の運命は自分にしか変えられず、そのさい誰かが傍にいてくれ、励ましてくれるのであればなお心強い、と無垢に輝くメッセージを見つけられて、まぶしさに、自然と、泣く。

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 『ひかりのあしおと』について→こちら
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 新潮 2008年 07月号 [雑誌]

 『新潮』7月号掲載。べつに世代論をやるつもりはないのだけれども、79年生まれの村田沙耶香の感性は、80年代以降に生まれた現在の若い女性作家より、たとえば70年代半ばの生まれである篠原一や黒田晶などに代表されるような、かつては若く、センセーショナルだった女性作家のほうに近いのではないか、あるいは昔ふうにいったら『エヴァンゲリオン』世代のそれにあたるのかもしれないな、と思う。いや何もそれは、件のアニメーションから直接に影響を受けているかどうか、というのではない。他者とでもすべき存在がまず、自意識を不安にさせ、さらには安定させる道具としてのみ、主体の前にあらわれる、こうした表現のモードを採用する指向性のことをいっているのである。そしてそれはたぶん、〈私が“化け物”だとして、それはある日突然そうなったのか、少しずつ変わっていったというならその変化はいつ、どのように始まったのか……考えれば考えるほど、脳は頭蓋骨から少しずつ体の内へと溶け出していき、その中を漂いながら、ぼやけた視界で必死に宙に手を彷徨わせる〉という、この『ギンイロノウタ』の、内面の抽象的であることが装飾過剰な言葉によって綴られている冒頭に示され、作品の足場となる働きをつくり出している。小説は、語り手である〈私〉の、幼年期から初潮を経て、思春期に入り、だんだんと自閉をつよめていく様子を描く。同時にそれは、神経質な脅えが、家庭や学校での関わりがすべてであるような世界のなかで、無感動や無感情へと翻る過程でもある。もちろん、未成熟な少女と性を題材にした作品としても読める、というか、ふつうはそう読むべきなのだろうが、個人的には、〈私〉の姿に、村上龍の『コインロッカーベイビーズ』に登場するハシのヴァリエーションであり、もしかしたら反転であるかもしれない可能性を重ね、見た。『ギンイロノウタ』の〈私〉である有里は、一般的な核家族に生まれ育った世間並みな人物にすぎず、ハシとは違い、ダイナミックなドラマを抱えてもいなければ、特殊な能力を兼ね揃えているわけでもない。しかし、妄想とマスターベーションでこしらえられた密室に引きこもり、自分のためにうたわれるべき歌を希求する姿がだぶって見えてくる。〈私〉の人格が、周囲から必要とされないのは、まだ子供だからで、ならば大人になれば、必要とされるだろう。一個の人間として扱われることがなくとも、女性としてであれば、男性からは必要とされるだろう。これを承認欲とすることは容易い。彼女は、たんに性欲のためにだけではなく、生きている、生きていることを実感する機会が訪れるのを願い、男性に接近し、無防備なセックス(性交)を期待する。が、それはことごとくうまくいかない。小学校のとき、同級生の男子にぞんざいに扱われ、〈価値が低いなら私は安さで勝負するしかない。/ 私は誰よりも私を安く売るんだ。そして誰よりも喜ばれて見せるんだ〉と認識せざるをえなかったのは痛々しいし、中学にあがり、上級生の男子から声をかけられ、〈今こそ、私は誰よりも私を安売りしなければならなかった〉と彼の命令に従うが、〈でも、私は失敗してしまったのだ。穴の付属品としてすら、私は出来損ないだったのだ〉と思わなければならないことは寂しく、高校生になってはじめたアルバイト先でセクハラを受けても〈私は女を使って出来損ないであることをごまかしのだから、こうして撫でられるのは当たり前のような気がした。なぜ、胸や性器ではなく背中なのかのほうがわからないくらいだった〉と納得しなければならないのも悲しい。閉塞はやがて、憎悪へと裏返り、破壊を望む。この、たとえネガティヴであろうともエモーションを復帰させた時点から小説はクライマックスにさしかかっていくのだけれども、結果的に、彼女は自分以外の何ものも壊すことができない、そこに、誰からも愛されなかった人間が、したがって愛し方を学ばず、他人に触れようとすれば、ただただ転倒してゆくしかないことの憂鬱と憐れみを誘われる。

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2008年06月02日
 童貞放浪記

 このたび単行本になった小谷野敦の『童貞放浪記』には、表題作のほか、「黒髪の匂う女」と「ミゼラブル・ハイスクール一九七八」の二篇の作品が書き下ろしで収められている。「童貞放浪記」には、アタマの部分にあきらかなとおり、筆が加えられているようである。「ミゼラブル・ハイスクール一九七八」は、題名からしてそうなのだが、いうなれば小谷野版の『ハイスクール1968』であり『滝山コミューン一九七四』といったところだろう。78年頃の文化状況論をやりながら、当時高校生だった層の世代論をやりながら、恋愛や友情のあかるさとは無縁な文系男子の、ノン・ドラマティックな青春像を描き出している。かつて小谷野は、岡崎京子のマンガ『リバーズ・エッジ』を例に、ある表現のなかで子供の共同体が無自覚に神聖化されることを批判していたけれども、「ミゼラブル・ハイスクール一九七八」では、無知な大人のつくる世間は馬鹿馬鹿しく、子供の共同体はそれに輪をかけて馬鹿げており、そうした現実の有り様を徹底して突っぱねることができなかった自分の幼さもまた、ときどきの愚かさに荷担するものでしかなかったことが、事後的な目線によって曝露されている。主人公は、あくまでも藤井という少年であり、後年の彼を思わせる語り手であるが、その姿はどうしても小谷野自身を想起させる、このとき、ラストの一文は、作者の自己正当化に見えなくもない。しかしながら、馬鹿ばっかりの世界が絶望に値するなかで、学問や知識が悲劇にも救済にもなりうることを代弁している、と解釈することも可能で、このへんは結局、読み手の判断によると考えられる。「黒髪の匂う女」は、京都が舞台の一つであることや手紙というアイテム、そして題名はもちろん、文章のリズムから想像するに、もしかしたら近松秋江の『黒髪』が意識されているのかもしれない。じっさい作中にも近松の『黒髪』の名が登場する。いずれにせよ、作者を思わせるインテリ男性が主人公だという点では、「悲望」や「童貞放浪記」と路線を同じくする作品ではあるけれど、それらに比べると、恋愛の経験や性的な幸福には恵まれている。が、やはり、女心をふかく理解できず、失恋してしまう様子に哀愁が漂う。さらに述べていくと、そういった主人公の運命を左右しているのは、間接的にであれ直接的にであれ、嫉妬の感情にほかならない。これは、好きな異性が自分以外の人間に色目を使っている、使われているのが気にくわない、というのではなく、身近な異性が自分よりも世間から高く評価されているのを素直に喜べない、というネガティヴな心の動きを意味する。いやまあ、たとえ前者であったとしてもそうだし、後者であったとしたらなおさら、せこい、ケツの穴のちいさい話には違いないのだが、自分と趣味や価値観の近い、もしくは同業者であるような異性と交際した経験があるならば、程度の差はともかく、誰しもがそんな思いに、一度くらい、苛まれたことがあるのではないか。最初は長所と感じられ、理解でき、好意を持てた一部が、つよい接点であるばかりに、摩擦の原因へと翻る。「黒髪の匂う女」の主人公である葉室は、頭でっかちで、性格に何ら問題がないとは言い難く、また学問の世界を舞台につくられたディテールを十分に把握できる読み手は、そう多くないだろう。だが、主人公が犯す失敗の意外と平凡であることが、作品を、特殊さのなかに閉じこめていない。

 「童貞放浪記」について→こちら
 
・その他小谷野敦に関する文章
 『悲望』単行本について→こちら
 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

 『リアリズムの擁護 近現代文学論集』について→こちら
 『退屈論』文庫版について→こちら
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2008年05月29日
 たとえば、世界が無数にあるとして

 オンライン同人誌『CHILDREN』Vol.04に「終わりもなく、はじまりもなく――生田紗代『たとえば、世界が無数にあるとして』について」という評論を書きました。題にあるように、生田紗代の小説『たとえば、世界が無数にあるとして』を論じております。わりと長めの内容なので、時間があるときにでも読んでいただければ→こちら
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2008年05月26日
 『スタンド・バイ・ミー』は、小路幸也の「東京バンドワゴン」シリーズの第三作目にあたる小説で、語り手の配し方を含め、そもそもの設定、全体の骨格といってもよいそれがしっかりとしているため、物語内部の時間が進み、登場人物が増え、彼らの生活や環境に変化があろうとも、一作目の時点ですでに形成されていた読み心地の好さに崩れはなく、その世界に、ある種の安心感を抱きながら、浸ることができる。もちろん、作中で起こるあれこれは、ほとんど、お約束、予定調和の範囲にほかならないし、おどろきに値するハプニングすら、平和的な解決の前段階であって、そこへ至るまでの過程を追ううち、思わず泣かされてしまう場面もすくなくはないのだが、涙は、けっして悲しみに寄り添わない、この、人の温もりが人の残酷さに敗北する、いうなれば破滅的な要素のまったく排除された筋書き自体は認められるにしても、それの繰り返される構成に、ケチをつけてみせることは、おそらく、可能だろう。しかし「東京バンドワゴン」シリーズの魅力は、現実世界の重力を、ちょうど跳躍するときのかっこうの、地についている側の足には感じたまま、先に浮かせた側の足は、そこから自由になっているような、力強さが、すべての篇を通じ、損なわれていない、むしろ際立ちを増して、こちらに届いてくる点にある。『スタンド・バイ・ミー』に収められた四つのエピソードの、ラストのエピソードの、文字どおりクライマックスとなっているのは、とあるスキャンダルを掴んだ記者の悪意とそのスキャンダルを世間に出したくない堀田家の善意とが、対決する場面である。記者の訴えかけは、もしかすると「東京バンドワゴン」シリーズが持つあかるさに対する反発でありうる。つつがなく生きられるのは一部の人間のみであり、大多数の人間はそうではない、したがって暗さを引き受けざるをえないのだ、と、彼は言っているふうにさえ思える。たしかに展開は、作品の力学にそって、主役である堀田家の立場に力を貸している、けれども、こうしたデリケートな問題を扱うにさいし、作者は周到な手続きを踏み、ぶんぶん振り回すバットにボール球が偶々当たってホームランになりました、式の都合のよさだけは斥けている。そうすることで、堀田家に象徴されるモラルの存在が、たとえ条件付きであったとしても、現実世界の前に、かならずしも非力、無意味ではないことを表現するに至る。

 『シー・ラブズ・ユー』について→こちら
 『東京バンドワゴン』について→こちら

・その他小路幸也に関する文章
 『HEARTBEAT』について→こちら
 『そこへ届くのは僕たちの声』について→こちら
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2008年05月20日
 群像 2008年 06月号 [雑誌]

 『群像』6月号掲載。第五十一回群像新人文学賞に選ばれた松尾依子の『子守唄しか聞こえない』は、海と山のある地方都市を、一個の世界として見、その閉塞に違和感を覚えながら生きる女子高生を語り手に置いた小説で、まあ概要自体は、女性作家によるライトノベルやケータイ小説にもしばし見かけられるものであるし、要するに少女マンガ的といおうか、少女文学的といおうか、とにかく、そうしたナイーヴさを土台にしており、家出や自殺などの作中で起こる事件も含め、注目に値する部分はすくない。しかし作者が、それについてけして無自覚ではないことは、次のような一節からうかがえる。〈この光景に、妙な既視感を覚えた。こんな風に複雑な気持ちで自分達の行く末を話し合う若者を幾度も見てきた気のするこの既視感の目線は、しかし私のものではないだろう。幾度も繰り返されてきた普遍的なこの一場面を通ってきた、先人達の目線だ。/ そうした大きな目で見れば、特別なものなど何もない、手垢にまみれた一場面ではあるが、それでも私たちは繰り返さなければならない。打ち砕けては引いてゆき、また打ち返す波のように、自分も波の断片となって繰り返す他ない。何度となく続いてきたリズムの一端を担うだけのことだが、それでも、自分たちとしてはたった一度の当事者としての緊張を味わいながら〉。つまり、こうした〈特別なものなど何もない、手垢にまみれた一場面〉でありながらも〈自分たちとしてはたった一度の当事者としての緊張〉が、いかに描写されているかが作品の重心にあたるわけだが、それを出来事のほうにではなく、あくまでも〈私〉という自意識に寄り添わせるような書き方は、そこが純文学っぽいとすればそうなのかもしれないけれど、やや怠い、とはいえ、その〈私〉である主人公の美里の自意識に、彼女のクラスメイト真沙子の存在が深く絡んでくる中盤は、なかなかにスリリングで、引き込まれる。たぶん、〈私〉の認識にそって成り立つ作品のなかの関係性が、はっきりとさせられている箇所だからだと思う。恋人であるタイラと三人の男友達に囲まれているとき、彼女は、性差を条件とする隔たりを逆手にとって、自己を理解している。〈私〉は彼らとは違う、彼らとは違うからこその〈私〉なのである。だが、ここにもう一人、女性が加わり、四対二の関係になるとすれば、まさしく四対一であるがゆえに得られた単独性は失われてしまう。もちろん、そうした四対一の関係における一の側が、誰とでも入れ換え可能なものであったとしたら、なおのこと自他の区別は曖昧化する。このような事実への畏れが、美里に、真沙子に対する不快感を与えている。反対に、真沙子の登場と接近は、タイラの彼女という立場からゆるやかに女性性を行使し、自分に都合のいい立場を、意図的につくり出している美里への批判ともとれる。たとえば、もしかすると書き手や語り手の性差の問題なのかもしれないけれど、白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』が、他人をプロデュースすることで狭く残酷な世界を生き抜こうとする作品であったとしたら、『子守唄しか聞こえない』は、セルフ・プロデュースによってそれを為そうとした作品だと解釈することも可能だろう。それにしてもなあ、作中人物たちが住んでいる地方都市に、田舎というわりに田舎の住みづらい感じ、環境があまりよく出ていないのには、いちおう温泉街の周辺で駅前は開発されているとの説明は為されている(そりゃあ東京にくらべれば、どんなに発達した郊外だって田舎になってしまう)ものの、もうすこし、舞台をそこにする必然、リアリティがあって欲しかった。
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2008年05月02日
 「謎」の解像度

 円堂都司昭(遠藤利明)の『「謎」の解像度(レゾリューション) ウェブ時代の本格ミステリ』の帯(背表紙のほう)には、〈時代を通して本格ミステリを読む〉という惹句が付せられているが、収められている文章の書かれ方をより詳しく見てゆくと、さらにおおきく二つにわけられるように思う。ひとつは、まさしく時代を通して本格ミステリを読むような書き方であり、もうひとつは、本格ミステリを通して時代を読むような書き方である。もちろん、たんに初出時の発表媒体や発表目的の違いに由来している程度のことかもしれないが、しかしたとえば、全体のプロローグにあたり〈近年の若手作家のように虚構化をためらいなく推し進めるタイプの小説の場合、相対化する現実を前提にどんなことでも可能だとする感覚がベースになっている。しかし、有栖川はむしろ、問いかけても答えの戻ってこない不可能性を刻印された場所として、この現実を相手に、一泡吹かせたいと考えるのだ〉として有栖川有栖の作品を論じている「現実への抗いとしてのミステリ」はちょうど、時代を通して本格ミステリを読んでいるようなところがあって、逆に、全体のエピローグにあたる「青春以前小説 / 青春以後小説」では、米澤穂信を〈想定される青春像からのズレを描くことで、青春小説を成立させるタイプの作家なのだ〉とし、それでは〈伝統的な「青春」と現在的な青春〉とは何かを具体化させてゆくのだけれども、そうした手つきはちょうど、本格ミステリを通して時代を読んでいるかのようなところがある。いずれにせよ、ある表現の形式に作用する感受性と感受性の在り方に作用する時代性という意味で論旨は一貫しており、その一貫性を高めるべく、有栖川の『女王国の城』と米澤の『インシテミル』の対照を入り口とする「ゼロ年代の解像度――本格ミステリをめぐる現在」が書き下ろしで加えられているのではないか、との印象さえ受けるが、そこで何よりも顕著になっているのは、極端な世代論を用い、現代を縦に区切ってゆくことではなく、現代を多種多様な世代が同居する複雑な多面体として見、それを、こう、回しながら、すべての辺がじつは屈折した一本の線であることを確認する作業にほかならない。このことは、米澤の『インシテミル』について〈彼は、青春ミステリの作家というイメージが強い。だが、ルールを運用するとは、人びとが共通の見方をするように努力することである。そして、いつの時代でも相互理解の難しさが、青春小説の中心的テーマだった。そう考えれば、青春小説の優れた書き手である米澤がルールにこだわるのも当然だろう(略)このテーマ水準において、『インシテミル』は成果をあげている。/ ただし、『インシテミル』における実験のインフラなど、周辺事情の描かれかたが雑に思えるのも事実である(略)『インシテミル』はゲームのためのゲームを描くことに専念し、現実感やもっともらしさを描くことをはじめから放棄している。これでは、小説に全体的な完成度を求める人は評価しないだろう。とはいえ、求めるもののありかたが違えば、評価は変わってくる〉といっている語り口からも、うかがえる。島田荘司を論じた「編集・加工される記憶」において、読み手があまり重ならないに違いない辻仁成の『ピアニシモ』を引き合いに出してみせるのは、トリッキーであろうか。いや、そんなことはない。〈主人公の感受性を通して、それまで気づかなかった新しい世界を発見していく過程を表現するのが、青春小説の基本形である。その感受性のナチュラルさ、みずみずしさを、島田は「アクースティック」と表現している。これに対し、本格ミステリは、トリックを仕掛けることにより、こうではない別の世界を出現させる。そうした人工的プロセスが、エレクトリックに増幅された激しいロック・ビートに喩えられている〉ことの説得力が、〈島田の『異邦の騎士』や(略)新本格作家が初期に描いた青春ミステリと共通性があ〉りながら、けしてエレクトリックではなく、あくまでもアコースティックな青春小説に仕上がっている辻の『ピアニシモ』を例にとり、補助線にすることでつよめられている。ここで勘違いしてはならないのは、『ピアニシモ』への評価はともかく、円堂は、アコースティックよりもエレクトリックのほうがすぐれている、といっているのではないということだ。むしろ、アコースティックとエレクトリックの機能に違いはあっても、優劣はなく、どちらもいち素材として編集(サンプリング)されてしまうような現在の姿が、「ゼロ年代の解像度――本格ミステリをめぐる現在」の後半では検討されている。〈読者は必ずしも伝統的要請の通りに読みはしない。そうした読者層の分化は、以前からあったただの事実だ〉が、まさにネット時代ならではの〈読みの共同性を可視化するシステムの普及によって受容の分化が強化され、さらに細かい分化が起きているのが現状ではないか〉として、それこそ〈ヒップホップでは、ジャンル横断的に多様な要素がサンプリングされる。しかし、そんなトラックにのせられるラップは(略)自意識過剰の言葉であったりする。したがって、バック・トラックの作られかたに興味を持つか、ラッパーに思いいれるかでは、ヒップホップのとらえかたがまるで違ってしまう〉ことがあるように、舞城王太郎や佐藤友哉が、ミステリと純文学をまたいで活動可能なのは、じつはその〈ヒップホップの受容の二重性とパラレルなありかただった〉と推測する。このあたりのするどさには、そうそう、と頷かせられる。
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2008年04月17日
 Story Seller (ストーリーセラー) 2008年 05月号 [雑誌]

 『小説新潮五月号別冊 Story Seller』掲載。漠然とした印象ではあるが、このところ、とくに目新しいヴァリエーションが続々と発見されているというわけでもないのに、世の中では、以前にも増して物語の価値が高騰しつつある感じを受ける。本田透が新書『なぜケータイ小説は売れるのか』のなかで〈いつ登場するか分からない「新しい物語」を待っているだけでは、今現在ニヒリズムに陥っている、生きている人間は誰も救われない。/ ゆえに、既成の価値観、既成の物語を反復し続ける「小さな物語」もまた生産され続けなければならない〉と分析しているのも、つまりはそういう現代の雰囲気なのかもしれないが、いずれにせよ、平穏無事で幸福な生活が描写されているだけではとても退屈だから、あるいは平穏無事で幸福な生活を魅力的に描写するのはたいへん困難なので、とりあえず、人が病んだり、死んだり、壊れたりすることが、物語の成立条件として持て囃される。ときには人間様のかわりに、犬や猫が、病気にされ、殺されたりもする。ジャンルを問わず、さまざまな場所で、日々、それは行われている。いやいや、じつに阿呆くさくも難儀な話である。が、そういった現在の様相に対して、佐藤友哉の『333のテッペン』という小説は、もしかすると、何かしらかの、異議を申し立てているのであろうか。そこでは、かつて〈死と死と死と死が血みどろになり、倫理や論理を完全に無視した不条理なストーリー〉を生きていたという意味で、物語的であった人間が、そのような〈死と死と死と死が血みどろになり、倫理や論理を完全に無視した不条理なストーリー〉に憧れるという意味で、いまだ物語に及んでいない人間と、対決し、日常と非日常または現実と非現実もしくは正常と異常とに引き裂かれそうな、混乱が描き出されている。ところで『小説現代五月増刊号 メフィスト』に掲載されている「虚構の自意識の系譜――浦賀和宏・佐藤友哉論」において前島賢が、〈探偵小説、特に新本格という形式にあっては、すべての要素は「読者対作者の刺激的な論理の遊び(ゲーム)」を成立させるためのコマに過ぎない〉のであって、そうした〈「新本格」という環境で自意識を語る以上、たとえばどんなに懸命に描写しようとも、所詮、それが取り替え可能で凡庸なフェイク――「虚構の自意識」に他ならないという事実を受け入れられなければならない〉ということでもあり、だから浦賀和宏や佐藤友哉〈の小説で語られる自意識が、凡百の私小説から差別化されるのは、あくまでもそれが「本格ミステリ」として書かれており「自らの自意識の虚構性について自覚的である」からである。とすれば彼らの「虚構の自意識」は「出来の悪い本格ミステリ」としてしか書き続けていくことができない。それはあまりにも困難だろう。実際、周知の通り、佐藤は主な活動の場を純文学に移している。しかし自意識を描くことが肯定される安全な場所で行われる佐藤の創作は、どことなく物足りなさを感じさせるのも事実である〉と述べているけれども、『333のテッペン』では、荒唐無稽な殺人事件が起こり、探偵が謎を解き、その犯人を突き止める、式に展開されるスタイルへの回帰が見られる。と同時に、それへの無関心が綴られているようでもある。その観点からすれば、重要なのは、終盤で「探偵には二種類の仕事があるんです」と言われている箇所であろう。「一つは、事件から謎を取り除く仕事。そしてもう一つは、事件そのものを除く仕事(略)」だというわけだ。が、このとき、驚天動地の真相すらも消去されてしまう後者において示されているのは、人が病んだり、死んだり、壊れたりするような物語の否定にほかならない。しかし心境のレベルにあって複雑なのは、そうして意味される穏当な日々に価値を認めることは、結局のところ、不穏当な事件や物語をまず必要とし、前提にしたうえでの、比較的な印象に過ぎないのではないのか、というジレンマである。もちろん、それを無視することが可能であるならば、世話のない話だろう。ここでは、それに苛まれることの困難が、前傾化された自意識のかわりに抽出されている。

 ※この項、いずれ書き改める可能性があります。

 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2008年04月16日
 パンドラVol.1 SIDEーB

 『パンドラ Vol.1 SIDE-B』掲載。西尾維新の『真庭語 初代真庭蝙蝠』は、同作者の大河ノベル『刀語』の、要するに番外編になるわけだが、『刀語』に出てきた人物の目線を借りて、本編そのものの裏を展開するというのとは違い、『刀語』の設定を流用し、物語世界のほうを拡張するかたちで成り立っており、直接的には『刀語』に関与している内容ではないから、これはこれで一個の独立した短篇として、読むことも十分に可能であろう。ここで主人公の役割を担っている真庭蝙蝠は、『刀語』本編に登場する同名人物の、その先祖(といって良いのかな)にあたる。正直なところ、『刀語』に対して愛着のある読者に向けてのサービスでなければ、作者自身による二次創作でしかないような内容であって、それほど特筆すべきところのない小品にとどまるけれども、はったりの利いたストーリーは退屈さを感じさせないし、戦国時代を生きているはずの忍者に、現代人とそう大差ない、モダンな価値観を持たせ、その鬱陶しさを、覚悟と責任によってブレイク・スルーすることが、一種のカタルシスになっているあたりに、らしさ、がよく現れているな、と思わせられる。

 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『君と僕が壊した世界』について→こちら
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
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 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
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 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
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2008年04月15日
 メフィスト 2008年 05月号 [雑誌]

 『メフィスト』5月号掲載。西尾維新の『きみとぼくが壊した世界』は、ストーリーを細かく語ることを、できれば差し控えたくなるような内容の小説である。たしかに設定上は、『きみとぼくの壊れた世界』の直接の続編にあたり、あの病院坂黒猫と櫃内様刻のコンビが、日本を飛び出し、はるかイギリスはロンドンで大暴れ、で、この作者にとってはじめて海外を舞台にした小説といえるようないえないような、と、適当な説明をすることは可能だが、しかしそれ以上は、いちおうミステリの形式で書かれているこの小説の、最大のサプライズを損なうことになりかねない。そうした前提のうえで、個人的な印象を述べるとすれば、ああ、これはもしかすると西尾維新版『1000の小説とバックベアード』ということもありうるのか、と思う(人によっては、西尾版『キャラクターズ』であったり西尾版『九十九十九』と見たりするかもしれないが)。まあ、それというのは単純に『きみとぼくが壊した世界』が、佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』と同じように、ある意味、小説を書くことについて書かれた小説でもあるからで、たとえば作中で行われる議論のいくつかは、佐藤が『1000の小説とバックベアード』の宣伝と解説のために発表した「1000の宣伝とバックベアード」と共鳴し合うところがある。部分によっては、それからの引用かと見紛うほどの相似性を持っていたりする。なぜ、小説は、書かれ、読まれ、そして忘れられてゆくのか。『きみとぼくが壊した世界』のなかで起こる事件は、書かれたものが届けたいところに届かない責任は作者にあるため、存在するようなものだとさえいえる。だがそれを、私小説ふうのダウナーなモノローグではなく、あくまでもユニークでチャーミングな作中人物たちによるアッパーなエンターテイメントとして、見事に描ききっている点に、やはり、この作者の魅力はよく出ているのだろう。ネタが割れてしまえば、今どきの読み手には、それほど凝っている構造ではないに違いないけれども、とりあえず展開のされ方には、意表を突かれる。

 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
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・その他西尾維新に関する文章
 『零崎曲識の人間人間』単行本について→こちら
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 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
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 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
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2008年04月13日
 読むのが怖い! 帰ってきた書評漫才~激闘編

 北上次郎と大森望の書評対談は『SIGHT』誌に連載されているなかでも、とくに好きなコーナーであり、この『読むのが怖い! 帰ってきた書評漫才〜激闘編』は、それをまとめたものの第二弾にあたるのだが、こうやって読み返してみて、やっぱりなあ、と思うのは、まあ個人的な好みというか趣味の問題なのだろうけれども、あまり大森望の話にはぴんと来ず、北上次郎のほうに説得されてしまう場面が多いということであって、そういえば、つい先日、北上が83年に出した『冒険小説の時代』を、たまたま立ち寄った古本のフェアで手に入れたのだったが、そこで取り上げられている小説や作家は、現時点からすれば古くなってしまったエンターテイメントの系ばかりだから、読んだこともなく、関心すら持ったことのないのがほとんどであったにもかかわらず、へえ、と興味をそそられる部分が、けっこう、あった。とくに初期の西村寿行の分析をおもしろく読んだ。わりと独断に近しい語りなのだけど、へんに頷かせるパワーがある。そうしたスタイルは、この対談集にも貫かれており、単行本用のボーナス企画として、ここに収められている番外編で、北上が自身のオールタイムベストのひとつに挙げている阿佐田哲也『ドサ健ばくち地獄』の、そこでは、ギャンブルが人間ドラマとしてではなくて、心理劇として展開されているので、密室ならではの緊張感が生まれている云々の解説にも納得させられる。ところで、対談として見た場合、なかでも、おもしろい、というか、おかしかった、のは、第25回目の、大森が、いしいしんじの『みずうみ』の内容を細かく解説するのを受けての、以下のようなやりとりである。〈北上 あ、そう。豊崎(由美)さんが書いてたんだけどさ。「自分がいいと思える小説は既存の物語ではなくて何か新しいことをやっている小説」なんだって。だから壊れててもいいと言うわけ。僕はまったく好みが違うんだけれども、彼女の基準はよくわかった。ところが君と何年もここでやってるんだけれど、どうも君の基準がわからんのだよ。/ 大森 僕、これは好き嫌いで言うと、あんまり好きじゃないんですよ。/ 北上 え、じゃあ好きなのと面白いのは別なの?〉。そうした疑問は、第27回目の、クリストファー・プリーストの『双生児』の項の、次のような箇所に結びつく。〈北上 (略)それでわかったんだけど、この小説じゃなくて大森望が。解説読みながら、「なるほど。こういうことが面白いのか。こいつは」と(略)だから、そうやって読みながら考えるのが好きな人がお読みになればいいんじゃないでしょうか。/ 大森 ははは! その指摘はみごとに本質を突いてますね。北上さんは読みながら考えるのが好きじゃないんだ。/ 北上 エンターテインメントの読者としては何が書かれているかを考えるんじゃなくて、そこから派生するような様々なことを考えるわけ〉と、このあたりは、大森望という、いま現在人気のある(らしい)書評家の評価基準をめぐるエピソードとして、目にとまる。

 『読むのが怖い! 2000年代のエンタメ本200冊徹底ガイド』について→こちら
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2008年04月11日
 パンドラVol.1 SIDEーB

 うおおお。まさかのよしもとよしともの新作に思わず嬉しい悲鳴をあげた。『パンドラ Vol.1 SIDE-B』に掲載された『ブロンちゃんの人生相談室』は、まあ、たった2ページの、同じ構図の絵が裏表になっているだけの内容にしかすぎないのだけれど、しかし、その、間違い探しにも似たパフォーマンスの、行間とでもすべきを必死になって読もう読もうとしてしまうのが、ながく待たされてきたファンの心理というものであって、ひとまず、おっさんと少女の対比という、よしもとの読み手にはお馴染みのパターンに目がいってしまう。よしもとのマンガにおいて、じつは「眼」が持っている意味はおおきい。女性や若い人びとの「眼」はおおきく描かれることが多いのに対し、男性や、とくにネガティヴな性格の人間の「眼」は、だいたい黒くちいさな点で描かれる。それはもちろん見映えの問題であるが、見映えの問題であるがゆえに、ヴィジュアル的な表現でもあるマンガにとっては、何かしらかの象徴であることを必然的に担わざるをえず、与太だと思われたとしても、よしもとの作品にはそれが顕著であると考えたい。たとえばわかりやすく、『青い車』のリチオの「眼」も、やはり点に近しいものであるけど、子供の頃に受けたダメージをさらさないよう、ふだんはサングラスをかけ、隠されている、このような設定が、作品そのもののエモーションと、さりげなく、深く結びついていたことは言うまでもあるまい。またおそらく、『魔法の国のルル』を完結させられないでいるのも、あの暗い「眼」の少年の、まさしくその「眼」に、いかにして光を差し込ませるか、が、いちばんの困難であるせいなのではないか。きらきらとした「眼」を黒く濁らせるのは容易い。しかしながら、あらかじめちいさく潰された「眼」を、光を吸い込ませるほどに見開かせるのは、たいへん難しい。いずれにせよ、「眼」である。『ブロンちゃんの人生相談室』においても、おっさんと少女の「眼」が、何かを語っているような、何も語っていないような、印象的な視線を、のぞかせる。その先にあるのは、人生相談室の外、か。それはそうとして、よしもとの新作が『パンドラ Vol.1 SIDE-B』で発表されたことは、90年代に『週刊ヤングマガジン』誌で連載された『THE GOD DOGS』の、もしかしたら講談社BOXのレーベルによって単行本化する可能性を、ちょっと、妄想させたりもするのだけれど、さすがにそこまで期待するのは行き過ぎかしら。
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 『文藝』夏号掲載。青山七恵は、『窓の灯』や『ひとり日和』、そして『やさしいため息』みたいな、そこそこ分量のあるものよりも、「ムラサキさんのパリ」や、この『松かさ拾い』みたいな、短い小説のほうが感じが良い、というのが私見である。そこでは、なんら事件という事件は起こらず、ただ過ぎる時間と日常の描写が、作中人物の漠然としたエモーションと重なり、やわらかな黄昏となって現れる。ところで小谷野敦が『リアリズムの擁護』のなかで、川上弘美『センセイの鞄』と小川洋子『博士の愛した数式』、大道珠貴の『しょっぱいドライブ』の類似性を指摘していたけれども、青山の『松かさ拾い』もまた、長さこそ違えど、そういった作品群のヴァリエーションのひとつに数えられるだろう。すこし皮肉を込めた言い方をすれば、女性の芥川賞作家にはこういうのを課題作品として発表しなくちゃならない決まりでもあるんですかね、と尋ねたくなるような内容になっている。大学卒業後、特定の職に就けなかった〈わたし〉は、研究室の先輩に紹介され、小日向さんという、以前は大学で働いていたけれども、現在は本を書いたり翻訳をしたりしている年配の男性の事務所で、助手というか秘書というか、とにかく彼の身の回りの世話をしているのだが、あるとき、小日向さんに彼の愛娘である二歳のナツエ(ナッツ)の世話を頼まれ、面倒を見ながら、その日一日を過ごすうち、自分の抱えるすこしの寂しさに触れる。以上がおおまかな筋であり、具体的に断言されていないが、たぶん〈わたし〉という女性は小日向さんに好意を持っているんだろうな、と思わせられることが、作品の肌触りをつくりあげる。小日向さんやナッツの姿の向こうに、物語には登場してこない小日向さんのオクサンも含め、さも幸福でありそうな家族のシーンがイメージされる。このイメージがちょうど鏡の役割を果たし、そこに、なにか、抽象的にしか述べられない空漠が映し出される。不幸でないことはけっして、幸福だということとイコールではない。そういう微妙な感情に、できれば気づかぬ素振りをしようとする判断が、〈わたし〉の言葉の底に横たわる。

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2008年04月08日
 『新潮』5月号掲載。東浩紀の『ファントム、クォンタム―序章―』は、おそらくは長篇になるのだろう小説の、出だしも出だし、出だしにしかすぎない段階で、こういってしまうのも如何なものかと悩むけれど、しかし率直に述べれば、例の共作『キャラクターズ』に比べ、断然スリリングであり、読み応えのあるものであるように感じられた。三十歳代の語り手である〈ぼく〉と妻の夫婦関係は、義父の死をきっかけに、危機的な状態に傾いていく。子供をつくることを提案するが、妻はそれを拒否し、二人のあいだはより溝を深くする一方で、〈ぼく〉は准教授に昇進したおかげで大学の仕事が忙しく、副業の小説も研究室で書くことが多くなったため、〈自宅にはあまり帰らなくな〉ってしまう。そしてちょうど〈二〇〇七年に入ると、妻は心療内科への通院を始めた〉その頃、〈ぼく〉は、生前の義父が別荘を持っていて、何度か招かれたことのあるアリゾナの夢を見はじめるようになる。語り手の設定などに関しては、どうしても作者の東浩紀当人を想起させるし、彼が言葉にする中年期の実感は、私小説ふうに受けとれなくもないのだけれど、物語は、その〈ぼく〉のもとへ、この世には存在していないはずの娘からメールが届く、このあたりからじょじょに、インターネット環境と並行世界の可能性を題材にしたSF的な要素を増していく。〈二〇〇八年の三月二一日、三十六歳の誕生日の朝に、ぼくは一〇〇通目のメールを受け取〉ると、自分でも半ば狂気の沙汰と思いつつ、だがどうしても娘に会わなければならない、と、そこに指示されているのに従い、アメリカのアリゾナに向かう。『ファントム、クォンタム―序章―』は、5節に分けられた内容で成り立っていて、以上が、1節目の筋にあたり、2節目以降では、〈ぼく〉の個人的な状況でしかないものがじつは、こちらの現実とはすこしずれた現実における社会的な状況とリンクしているという、作品そのものの構造の一端が打ち明けられる。そうした小説の結構は、おそらく、東が以前から提唱している(あるいは以前に提唱した)メタリアル・フィクションの作法を応用したものであろう。たとえば、サイバー・スペースや妄想、キャラクターや恋愛といったものは、本質的には異なる区分である、にもかかわらず、現代的なフィクションにおいては、それらを一元化することに抵抗がなく、また一元化されることによって、それらは高い説得力と共感を持つに至る。東ふうにいえば、できうるかぎり象徴界を抜きにして、想像界と現実界とを直結させるような「まんが・アニメ的リアリズム」がスタンダード化しているということなのかもしれない、が、それに対してもさらに分析的というか、斜に構えたつくりであるふうに思われる。とはいえ、個人的には、いや、たんに村上春樹の名が作中に出てくるからそういうわけではなくて、むしろアメリカを向かいにし、都市的な人間が描かれており、日本的なスノビズムが題材のひとつに取り入れられているせいだという気がするのだけれども、村上春樹と村上龍の、つまりW村上のミクスチャーないしハイブリッドとの印象をつよく受けた。もちろん、最初に述べているとおり、まだ序盤も序盤、序盤もいいところでしかなく、このあとどう転がっていくのか、まったくの不明であるから、先々で感想がおおきく変わってくる可能性は十二分に、ある。

 『キャラクターズ』(桜坂洋との共作)について→こちら
 
 『波状言論S改 社会学・メタゲーム・自由』について→こちら
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2008年04月07日
 『文學界』5月号掲載。第132回の芥川賞候補になった『不在の姉』もかなり変な小説であった井村恭一だが、この『フル母』もやはり、すごく変な小説だ、との印象を受ける。いや、文章の書かれ方そのものは、たいへん平易であり、庶民的な会話や生活感あふれる設定は、頭に入りやすく、疲れることはない、が、しかしそれを読み進めるうち、物語は、まったく正体不明なものでしかなくなってゆく。変だ、いったいこれは何なんだろう、と思わず言いたくなるような。基本的には、語り手である〈わたし〉の暮らしぶり、日常が、〈わたし〉と母が住んでいる一軒家に、姉や、妻のみさのさん、そして昔から馴染みのあるらしい矢蔵さんという人物が出入りする様子を交え、先ほども述べたとおり、ひじょうに肩の凝らない言葉によって描かれているにすぎない。だが、たったそれだけのことが、こちら読み手を、すこし不思議な世界のとば口に立たせる。とりあえず、奇妙な存在の仕方をする母親に疑問を持ってしまったら、もう駄目である。その存在の仕方に疑問を持ちつつも、受け容れている作中人物たちのスタンス、世界観と言い換えても良いそれに巻き込まれてしまう。『フル母』の題名の意味は、とか、〈わたし〉の家にそびえるヤマモモの木は何かの象徴なのかしら、とか、そのようなことも考え出せば、キリがなく、たぶん中心がどこかにあるはずなのに、どこをそうとしたらいいのかわからないまま、しかしそれでもいいか、と、とても変な小説であるけれど、なぜか、うまい嘘に騙されたときみたいな、釈然とした気分になる。
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2008年04月01日
 リアリズムの擁護 近現代文学論集

 小谷野敦の『リアリズムの擁護 近現代文学論集』は、その「あとがき」にあるとおり、〈『反=文藝評論』(二〇〇三年六月)以後に書いたもののうちから、日本近代文学に関する、比較的まとまったものを集めた〉もので、やはり「あとがき」から引けば、小谷野の〈この数年、「私小説」は悪く言われすぎている、と思ってきた〉という考えが、全体の趣旨を覆っており、そしてそれは、たとえば表題論考のなかの〈広い意味でのリアリズムで小説を書こうとすれば、無から作り上げ、私小説やモデル小説を避けるというのは難しい〉という言いに集約されているように思われる。極端な話、じっさいの事件や経験をベースにして書かれたもののほうが、そうではない、つまり理想や空想を頼りにして書かれたものよりも、細部の描写にすぐれ、総体的に説得力が感じられる、いや、もっと極端な話、理想や空想だけでは、現実感のあるお話を書くことは難しい、ないしリアリティのある創作を果たすことは不可能に近しい、ということであろう。「大岡昇平幻想」で、大岡の小説『花影』にこだわるのも、大岡本人の身の上に起こったことをモデルにしながら、あるいはモデルとしているがために、肝心のところが書けなかった、そのせいでいまいちの出来になってしまった、との意図を含むし、また反対に、まったくの虚構であったとしても、それをつくりあげるためには、なにか、基準となる体験が作者に内在しているか、さもなくば、なにか、参考としている対象がかならずや外在していることが、「司馬遼太郎における女性像」や「偉大なる通俗作家としての乱歩――そのエロティシズムの構造」、「『卍』のネタ本――谷崎潤一郎補遺1」では、追求されている。そういった文脈からはいっけん離れているふうでもある「ペニスなき身体との交歓――川上弘美『神様』」に、藤堂志津子の名が唐突に出てくるのは、そこに書かれていることが、『反=文藝評論』において、藤堂の小説を引き合いに出し〈奇妙なことだが、通説では日本の「純文学」は、自然主義の全盛とともに、痛烈な現実を描く作品を、美化された虚構作品から区別して生まれた概念だとされているのに(略)この構図は崩れ、むしろ「純文学」と呼ばれるもののほうがロマンティックになってゆく〉と述べたことの延長にあるからに違いなく、「ペニスなき身体との交歓」で〈一応、現実とはつながっているけれど、不思議な出来事が起こって、しかし生々しいこと、七面倒なこと、決定的なことは「わたし」には起こらない。そして、現代の少なからぬ人々が、こういう世界に憧れている。こういう世界を、日本で最初に描いたのは、夏目漱石の『吾輩は猫である』である〉といわれている部分は、「リアリズムの擁護」の〈漱石は女が描けないというより、恋愛が描けなかったのである。確かに漱石は、数多くの英国・米国の小説を読んで、恋愛の心理は十分に掴んでいる〉が〈所詮は頭で考えた恋愛心理に見える〉という箇所とリンクする。そうして小谷野が、たとえば夏目漱石から藤堂志津子までを横断し、たとえば私小説を参照し、たとえばリアリズムという語を用い、行おうとしているのは、純文学という概念の峻別、大衆文学との区別化ではない、そうではなくて、ファンタジーの心地よさをなし崩し的に受け容れ、屈託なく感情移入し、無自覚のうちにそれを敷衍、水準化してしまうことへの懐疑が、根底に述べられているのである。ところで「ペニスなき身体との交歓」の(付記の)最後で、小谷野が、現代の純文学の小説家では、大江健三郎と村上龍、阿部和重を評価するといっているが、大江、村上に関しては、以前から言及されることが多かったからよくわかるのだけれど、阿部については、へえ、そんなに高く買っているのかあ、と、ちょっと意外な印象を受けもした。「岡田美知子と花袋「蒲団」について」は、大塚英志の最近の仕事、『初心者のための「文学」』あたりかな、と併せて読むのもおもしろそう。

・その他小谷野敦に関する文章
 『退屈論』文庫版について→こちら
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら

 『童貞放浪記』について→こちら
 『悲望』単行本について→こちら
 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら
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2008年03月28日
 小説すばる 2008年 04月号 [雑誌]

 『小説すばる』4月号掲載。とある作品を傑作と評してしまえば、ときおりそう評した自分が浅はかにも思えてしまうものだが、いやいや、これは傑作と評して差し支えのない作品ではあるまいか、と思わされるのが、津原泰水の短篇小説『土の枕』である。日露戦争中、砲弾飛び交う大陸で、井出六助は、銃撃を受け、死ぬ間際、内地に残してきた生まれつき鳥目のひどい妹の行く末を、傍らにいた仲間の葦村寅次という男に託す。それを承諾するさい、寅次の口から出てきたのは、次のような、いささかおどろくべき告白であった。「儂が名医に診せよう。井出、今まで隠しといて悪かった。儂は葦村寅次じゃあない。寅次は領民じゃ。子が多いのに召集されたんを不憫に思うて、名を取り換えた。儂は安芸黒禅寺門前の地主、田仲の嫡男で名は喜代治という。じゃから妹さんのこたあ心配すな」。これは嘘ではない。嘘ではないが、しかし、寅次という領民の身代わりとなり出征してきた、そのほんとうのところは、じつは喜代治当人ですら、たしかにはわかっておらず、ただ〈紙のように薄っぺらな理由が重なりに重なって、濃い陰を為したに過ぎぬと感じ〉ている。この、真実なら田仲喜代治であるはずの男が、戦地から故郷に戻ったとき、いくつかの事情によって、もはや自分は田仲喜代治を名乗ることはできず、葦村寅次としてしか生きられないことを知らされる。そうした混乱に端を発する彼の、後の半生がどういうものであったのかを追うかのように、小説は進んでゆく。何者にも固定されていない存在というのは、この作者のものに度々顔を出すモチーフであるが、ここではそれが、寿命が尽きるまで何十年も長く、だがコンパクトに切り出された人の一生として、語られる。時代の流れのなかで、さまざまな人びとが彼の前に現れ、ともに過ごしては、次々に去っていくけれど、田仲喜代治でもあり葦村寅次でもあり葦村寅次でもなく田仲喜代治でもない、その人物の正体がいったい何者であったのか、彼自身をも含め、誰も知らない。たいへん短い作品だが、そうした短さの内に、一言二言では捉まえきれないほどのヴォリュームが備わっている。

 『ピカルディの薔薇』について→こちら
 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら
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2008年03月24日
 小説すばる 2008年 04月号 [雑誌]

 『小説すばる』4月号掲載。若き社会人の現代的な受難、といった感じの作風を確立しつつある津村記久子の短篇『オノウエさんの不在』もまた、組織に属しながらも組織の体制を快く思っていない、二十代半ばの男性会社員の目線を頼りに、一個の事件が語られる。主人公のサカマキは〈二ヶ月間地下七十メートルのところにいた。去年新しく開通した路線の第二期工事の現場に出ていた〉せいで、人知れぬストレスに悩まされていたのだけれど、ようやく地上での仕事に戻ったと思ったら戻ったで、新人の頃に親切にしてくれた先輩のオノウエさんが会社での立場を危うくしていることを同期のシカタから聞かされ、たいへんショックを受ける。なぜなら〈出身大学によって部署が割り当てられるような学閥の強いこの会社で、学閥とは無関係の大学卒のサカマキには〉、高卒で本来なら出世の見込みがないにもかかわらず、現在それなりのポジションに収まっている〈オノウエさんは精神的に頼りになる存在だった〉からである。とりたてておおきな失敗を犯したわけでもないのに、どうして会社はオノウエさんを貶めようとするのか。この理不尽な対応の真相を、サカマキとシカタは、やはりオノウエさんに恩義あるらしい女性社員のあきる野と一緒になって、突き止めようとする。以上が、表だった筋だが、だからといってべつに三人が、企業に隠された秘密をめぐって、大げさなスリルとサスペンスが繰り広げるというのではなくて、ただ自分たちが知らないところで何かが起こってるみたいだぞ、という推測によってかき集められた情報をランチや夕食の機会に持ち寄る程度の、わすかばりのアクションを起こすに過ぎない。だが、そのわずかばかりのアクションが、彼らの意識にとってはおおきい、これが作品の足場だろう。じっさい、三人の行動が、組織内のシステムに関与し、状況を変えることはない、事実関係だけを述べれば無駄であったとすらいえる、が、しかし、彼らの内面には何かしら作用があり、影響したことを示すかたちで、小説は、閉じられる。物語の終わり近く、事後にあたって、サカマキが〈おれらはどうしてあんなに、待てば結果のわかることなのに必死になってオノウエさんの跡を追ってたんだろう〉と疑問をいうのに対し、シカタが〈なんていうか、お祈りをするような感じだった〉と答える、この、お祈り、という抽象的な言葉はちょうど、オノウエさんの進退にいっさい貢献していないにもかかわらず、憑き物が落ちたかのように、どこか晴れ晴れとしたところのある彼ら三人の姿とリンクする。それこそ、お祈り、を終えたサカマキは、当初のストレスから解放され、仕事に向ける態勢を新たにするのだけれども、では、そこでオノウエさんの不在に基づき鑑みられているのは、労働の思想や倫理とでもいうべきものであろうか。いや違う、そうではない。そうではなくて、おそらくは、労働の絶対化のわきに、ぽつりとある、生活やコミュニケーションの可能性が、それに気づくことが、サカマキの心に、ほんのすこしの広がりをもたらしているのである。

・その他津村記久子に関する文章
 『婚礼、葬礼、その他』について→こちら
 『カソウスキの行方』
  「Everyday I Write A Book」について→こちら
  「カソウスキの行方」について→こちら
  「花婿のハムラビ法典」について→こちら
 『バイアブランカの活断層』について→こちら
 『冷たい十字路』について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2008年03月13日
 零崎曲識の人間人間 (講談社ノベルス ニJ- 21)

 『メフィスト』誌に発表された「ランドセルランドの戦い」、「ロイヤルロイヤリティーホテルの音階」、「クラッシュクラシックの面会」に、書き下ろしの「ラストフルラストの本懐」を加えた四篇が、西尾維新の『零崎曲識の人間人間』の全容であり、「ラストフルラストの本懐」のアタマで〈これまでの三つの物語からも読み取れるよう、零崎曲識という男は、世界において徹底した脇役として位置づけられている〉とあるとおり、あくまでもスマートでハンサムな裏方である点に魅力の大部分を負っているタイプの人物なのだが、〈しかし、そんな男でも(略)長い人生において一度くらいは、脇役ならぬ主役を演じられる局面は訪れる〉あるいは〈主役を演じなければならぬ局面が訪れる〉のであって、作品の性質上、ネタを割ったことにはならないと思うのでいってしまうと、最後に、彼は死ぬ、壮絶に散る、その最期によって、これが零崎曲識の初恋をめぐるラヴ・ストーリーであったことが明かされる、そういった意味で、主人公は零崎曲識その人でしかありえないのである。西尾の小説においては、どれほど好感度の高い登場人物であろうとも、惜しみなく、あっさりと殺されるケースがレアではない。だが今回のように、どのようなかたちであれ幸福のなかで報われながら死にゆく、というのは意外と珍しいのではないか。いや、「ラストフルラストの本懐」のラスト・シーンに幸福が感じられるとすればそれは、まさしく〈奇跡のようなものだっただろう〉とある一節が、しかし〈決していい奇跡ではなかったかもしれない〉出来事が、フィクションならではの力学を用い、翻り、そうして自分の身の上に対して無感動ですらある主人公の内側が、喜びにも似たエモーションで満たされたところにこそ、ある。

 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『傷物語 こよみヴァンプ』について→こちら
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年03月12日
 04年の『群像』7月号掲載。つまり、四年近くも前に森健(もりたけし)が発表した中篇小説をひさびさに読み返したのは、いつの間にか作者のサイトがなくなってしまっていたことに気づいたからで、ほとんど文芸誌では名前を見かけなくなって以来、ぼちぼちとケータイ小説の場で活動していたようであったけれども、しかしこれで作家としては消えてしまったということになってしまうのだろうか、だとしたら、この『種を蒔く人』、とても好きな作品なんだが、ついに単行本にならなかったな、と残念に思う。ただ、まあ、ちょっと、大声で好きと口にするのは憚れるような内容ではある。予備校の元講師である語り手の〈おれ〉は、二年前にはまだ十代だった元生徒のユリとおよそ15ヶ月間にも及ぶ逃避行のすえに結婚し、裕福な両親の恩恵に授かりつつ、マイナーなエロ小説家として、夫婦以外には誰も知り合いのいない街に暮らしている。ユリの嫉妬する姿に見送られながら、何人かの女の子たちと束の間の逢瀬を愉しむ、そういった日々のなかで〈おれ〉は、コンドームを使わないセックス(性交)の射精、要するに中出しによって、妻以外とのセックス(性交)では〈社会のなかに於ける自分自身の存在さえも感じ〉たり、妻とのセックス(性交)では〈日に日に大地に根を張りつつある自分を自覚〉するのであった。こう書いてしまえば、まったくどうしようもないお話なのだが、そのどうしようもなさが、やがて、鼓動をはやめるような救いがたさへと転じ、しまいには、なぜか爽やかな印象を寄越す読後に結びついていくことが、この小説の最大の魅力であろう。ユリが妊娠を告げてからの展開が、けっこうどぎつく、ショッキングである。〈おれ〉が〈おれ〉で、他の女の子と関わりを持っているあいだ、ユリはユリで、けっこう激しい内容のアダルト・ヴィデオに隠れて出演していたことが、判明する。複数人の男性と同時に、あるいは入れ替わり立ち替わり交わった描写のあと、〈最後にはもう一度インタビューがあり、そこでユリは「これからも応援お願いしますね」などと言って手を振り、頬に付いた精液を指で掬って口に含んでいた。そしてその背後から浅黒いヤザキが裸のままで現れて「馬鹿女でーす」とか言ってユリの頭を掴み、楽しそうに振っていた。ユリも笑っていた〉のである。ヤザキというのは、サブの担当編集者で〈おれ〉の才能を高く買ってくれている人物なのだけれど、じつはそのことも含め、自分ではそこそこやれていたつもりの生活のほとんどは、彼の用意周到に張り巡らされた計画にそって動いていたものでしかなかったことが、明かされる。ユリのお腹の子供でさえ、もはや誰の子供かはわからない。ふつう、こうなってくると鬱としか言いようのない気分に作品は傾いていきがちなものだが、『種を蒔く人』は、そうなっていかない。いやたしかに、事実を知った〈おれ〉に訪れるのは、ひとしきりの怒りと混乱にほかならない、これから半年間の契約が残されていると悪びれず口にするユリのヴィデオ出演を、ふだんどおりのチャラい明るさで「すごいな」と笑いながらも、あきらかに〈おれ〉は傷ついている、にもかかわらず、絶望だけは述べられない。べつに阿呆みたいにポジティヴだというのではない。だいいち自業自得みたいなもんだしね、といえばそのとおりであるし、結局のところ諦めなのかもしれない。〈おれ〉にしてみたら、中出しとはある意味で社会性に関わる行為なのに違いない、しかしながら、そのような立場をとる以上、ユリがセックス(性交)によって果たした圧倒的なダイナミズムの前には、あらゆる面で敗北している。敗北をともなう経験がもたらすのは、かならずしも具体的な獲得や喪失とはかぎらない、漠然とした失意と希望、ここに手応えとなって現れているのは、たぶん、それである。

・その他森健に関する文章
 『ずっと』について→こちら
 「ペイル・ブルー」について→こちら
 「楽園の夜に」について→こちら
 「女の子と病気の感染」について→こちら
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2008年03月11日
 文学界 2008年 04月号 [雑誌]

 『文學界』4月号掲載。いま現在、村上龍はシリアスに語られる機会のすくない作家になってしまったような印象を持つ。まあ、たしかに90年代に、同じネタを使い回し、クオリティが一定ではない作品を乱発し、なおかつホットであろうとする過剰さが空回りするあまり、どうにも説教オヤジのイメージが定着してしまった感があって、当時、赤坂真理がどこかで、『ラブ&ポップ』の村上自身による「あとがき」に向け、女子高生のサイドに立てるわけがない、と批判していたのももっともである。が、しかし、金原ひとみのいくつかの小説を読むと、もしかしたら『エクスタシー』や『メランコリア』、『タナトス』のシリーズからのインスピレーションが潜んでいるのではないか、といった気がしないでもない。ともあれ、90年代以降の村上が、告白という手法を逆手にとって、繰り返し描いてきたのは、自己評価の低い人間が、ほんとうの自分なんてどこにもない、おまえにはいっさいの価値がないんだぞ、という事実を突きつけられ、受け容れられず、バランスを崩していくような様子であった。あるいはそこから、差別や排除の根底には恐怖や嫉妬の感情が横たわっていることを、身も蓋もなく、抽出する。三浦雅士が、たしか『青春の終焉』のなかで、村上龍の小説に、本来的な意味での主人公が登場するのは『コインロッカー・ベイビーズ』からで、それ以前の主人公はただの視線でしかなかったのに対し、『コインロッカー・ベイビーズ』の主人公たちは、行動する急進派だというふうなことを述べていたけれど、その行動する急進派タイプの系譜は、もちろん、近年の『半島を出よ』にまでしっかりと受け継がれている。一方、先ほどもいったとおり、90年代以降の村上作品に顕著になってきたのは、告白をする主人公たちであり、告白を聞く主人公たちである。SMというモチーフも、デカダンスを演出すると同時に、告白の場として機能していき、ヘッジファンドやらの経済に関する知識でさえ、個人の価値は逃れがたく社会性と結びついていることや、その価値を認めたうえですべてのものが交換可能でしかありえないことを、告白という形式のなかで言い表すさい、利便に働いた。この系譜の最新ヴァージョンが、おそらくは『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』で、携帯電話のメールや病死するヒロインなど、今どき(まあね)ともいえる題材を扱っているのだが、この第十一回にきて、だから使い回しのアイディアを盛り込みすぎだよ、と思うのは、『悪魔のパス 天使のゴール』によっぽどの達成感があったのか、いっけん本筋と関わりのなさそうなサッカーの試合の描写がおおきく入ってくると、さすがに煙に巻かれるからで、こういうところがなあ、きっと、シリアスに語ろうとする気分を挫く原因になるのだろうけれども、いやむしろ、物語が最後までいって、全体を通して見たとき、ああ、そうか、とくる必然の感じられることを願いたい。
 
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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2008年03月10日
 小説の設計図(メカニクス)

 待望であった前田塁の初の単行本が、ようやく出た。『小説の設計図(メカニクス)』がそれであるが、てっきり『文學界』でやっていた同名の連載をまとめたものかと思っていたのだけど、そうではなくて、種々の媒体に発表したやや長めの文章をいくつか集め、加筆、再構成したものであった。個人的には、連載されていたヴァージョンを一冊にしてくれると、手元にある『文學界』のバック・ナンバーをしまっちゃえたので嬉しかったのだが、しかしまあ、ああいった時評形式よりは、こういった作品論(作家論)のほうが、前田塁という架空の批評家に託された意図の、伝わりやすさ、というのはあるだろう。前田塁の本体である市川真人が問題意識として抱えているのは、ひとまず、一般的な評論のジャンルにカテゴライズされる文章の、その長さ(字数)だと思われる。たとえば、市川は、宇野常寛が主宰する同人誌『PLANET』VOL.4に掲載されているインタビューで〈もちろん書評家と批評家の違いというものは明確にあります。書評というのは、何百字以内という制約のなかで内容を要約し、面白さを伝えることに主目的がある。丁寧に批判するには字数が足りないし、書評とひとくくりにするけれど、多くはそれを求められている仕事でもないから。極論しちゃえば、ちゃんと魅力がつたえらえる書評はすべて無記名でいいし、逆に「このひとが選んだ本なら信用できる」という人物依存型の書評なら、署名を挙げるだけでもいいんですよきっと(略)一方、批評はまったく違う世界をそこで構築して提示してみせるものです。僕も最初は批評が嫌いで(略)ところが、蓮實重彦であるとか渡部直己であるとかいった人たちと出会ったとき、小説がまったく違うものとして読める、作品にもともとあった文脈とはまったく違った文脈を用意して読ませてくれることに驚いたんです。それは文芸批評に限ることではなく、ただしく批評的な仕事ってぜんぶそういうものなんだよね(略)その意味で、批評の本質的な機能というものは、たんなる本の紹介ではなく、ときに本そのものを裏切るような読み方の提示にあるんだと思います〉といっており、そして、佐々木敦の『絶対安全文芸批評』に収められている対談では〈最近「批評ではなくて書評の時代」だとよく言われますよね(略)世にあまりに数が多く、ひとりが書く量が多いものを見ると、書評がどこか無責任に感じてしまうんです。もちろん、未読の読者に数百字で伝える責任はプロとして果たされているし、本当にお勧めが毎月あるならすごいけれど、経歴や粗筋だけだったり根拠の薄いまま評価の勢いだけでもたせている書評も多い(略)普段三〇〇字で書評をしても「なぜこれがいいの?」と聞かれたときは三万字使ってでも答えられる、そんな書評家が増えたらいいと思いません?その意味で、ぼくは書評家と批評家を、それぞれのスキルは別にあっても、分けて考えたくないんです(略)書評家を自任する人もときに長い批評を書いて、批評家を名乗っている人達を圧倒すれば、そのことで短い書評にも信用がおけるし、逆に安直に信用されることもなくなると思うんですが〉といっている。こうした発言から読みとれるのは、批評家の責任は、その批評家が書くことのできる文章の長さ(字数)によって認められるものであり、なおかつ、批評の質それ自体は、批評家の名前によってではなくて、あくまでも書かれた批評の内容において保証されなければならない、ということである。佐々木との対談で、市川は、前田塁の役割を、蓮實重彦と柄谷行人の〈その両者から大なり小なり直接学んだ「遅れてきたテクスト論者」としては、絶対値では到底及ばなくとも、両極への志向を並立させたようなサンプル〉を提示することだと述べているとおり、前田塁の名のもとに試みられているのは、行われた批評が、できれば書き手の実存には還元されない、いわゆる私批評からは遠く離れようとする態度にほかならず、そのように課せられた前田塁の特性を、この『小説家の設計図』のなかでとくによく表しているのは、おそらく、テクストそのものに拡張性の高い多和田葉子の『容疑者の夜行列車』を論じた項であるけれども、なるたけわかりやすく提示されているという点では、川上弘美の『センセイの鞄』を論じた項や小川洋子の『博士の愛した数式』を論じた項あたりになるのではないだろうか。『センセイの鞄』も『博士の愛した数式』も、大勢の認識では、要するにパブリックなレベルでは、泣ける、すなわち感動できるからすぐれている、と、すでに結論されている小説だといえる。が、前田塁はしかし、そういった評価とはまったく異なった読み方を体現する。『センセイの鞄』であるならば、作中人物たちのSM的なコール・アンド・レスポンス、つまり〈ツキコとセンセイの、支配−従属関係〉が、たった一行挿入されたメタ記述(メタな語り)を契機に逆転する、いうなれば〈悲恋でもなければ純愛でもなく、マゾヒストによるサディストの弑逆であり、ツキコによる「センセイ殺し」の物語〉である事実に魅力を見いだし、『博士の愛した数式』であるならば、語り手である家政婦の語り落とし(見落とし)を恣意的に操作したうえで、それを不誠実だとは読み手には思わせず、さらには〈「数字のファシズム」とでも読んでしまいたくなる秩序〉に覆われた〈たいそう抑圧的な物語で〉あることをも巧妙に隠蔽工作する書かれ方こそを、最大の美点とする。これらはもちろん、見方次第では、批判的な読みとも受けとられかねないが、そうではない。なぜならば、そこで果たそうとされているのは、論者の、趣味や主張を、作品と対立させることではなくて、その小説の外に附属する価値やイデオロギーをいったん洗い流し、あくまでも小説の内に含まれる情報と技法とを、精密に、再検討することだからである。
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2008年03月08日
 群像 2008年 04月号 [雑誌]

 『群像』4月号掲載。「新鋭13人短篇競作」という特集のなかの一編。吉原清隆の『しげのり』は、〈首振らないと、死ぬよ〉という不穏な一節によって、はじまる。そのあと、一行分の空きがあって、〈私には、二つ違いの弟がいた〉と続くので、なおさら不穏なものを感じる。しかし〈首振らないと〉は、扇風機の運転を指し、要するに、寝ているときに扇風機の風にずうっとあたっていると〈死ぬよ〉という母親の注意、言いつけであったことがわかる、と、兄弟のいる人間であるならば幾度となく経験したことがあるだろう、その扇風機の主導権をめぐる幼い諍いを、可愛らしく受けとったりもするのだけれど、読み進めるうち、やはり、これは不穏な、近親憎悪の物語であったと思い直す。とにかく、自分とどこか似ているが、どこも似ていない、身近な他人に対する恐怖が、あるいは閉塞的な環境における一対一の関係性に対する脅え、と言い換えても良いようなそれが、日常的な出来事のなかに、よく書き込まれている。実感をともなっている。そして、その実感は、夢とも現ともつかない、不安定な、だが、たしかにある憂鬱へと、次第に滑り落ちてゆく。几帳面に端正で歪な作品である。
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 群像 2008年 04月号 [雑誌]

 『群像』4月号掲載。エッセイ等はべつとして、小説というかたちでは、この『オフェーリアの裏庭』が海猫沢めろんの文芸誌初掲載作となるのかな。「新鋭13人短篇競作」という特集のなかに置かれている一編で、発表媒体に合わせてか、おもしろおかしく、しゃんとまとまったミニ・エピソードになっている。作者と同名の、三十歳を過ぎても金のない青年が、インターネットで知り合って現在は居候をさせてもらっている男性友人と、アルバイト先のコンビニエンスストアで出来た女性友人の、三人で、借りたレンタカーに乗り、隣県の山にある別荘へ遊びに行く、その途中で、「パワーストーンSHOP オフェーリアの竪琴」という、あやしげな屋敷に立ち寄ったことから、奇妙な体験をすることとなる。話の筋は、だいたい、このようにまとめられる。「パワーストーンSHOP オフェーリアの竪琴」の住人たちの振る舞いは、グロテスクでユニークだが、そうした人びとに同類だと認められることで、語り手の〈私〉に訪れる不安が、おそらくは、作品のエモーションであろう。冒頭の、中学時代にIQテストの追試を受けたことがあるという記憶が、一種の呼び水となり、小説は、いま、自分が、ここに、こうしていることの、つまりは実存そのものの不確かさを述べるに至る。「パワーストーンSHOP オフェーリアの竪琴」を散策する〈私〉が、そこで見られる異様な光景に〈まるで江戸川乱歩原作の、とあるZ級映画のようだ〉との感想を持つくだりがある。彼は〈何年も前に恋人と、その映画を見た〉、そして〈Z級映画は笑って見るのだがマナーだ。そんなことはわかっている。が、しかし笑えなかった。一体何に共感したのかわからないが、ともかく泣いた〉のであった。もしかしたら、作者がこの小説でやろうとしたのは、それと同じような感情を読み手に抱かせることなのではないか、と思わせられる、わらい、と、せつなさ、がある。

 『零式』について→こちら
 『左巻キ式 ラストリゾート』について→こちら
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2008年03月05日
 Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍 (講談社BOX)

 奇妙な晩が明け、目覚めると、母親はいつもどおりやさしく、だが、いつもとはまったくの別人でもあるようだった。その変貌に〈ぼく〉は、かすかな戦慄を覚える。島田荘司の大河ノベル『Classical Fantasy Within 第三話 火を噴く龍』では、主人公である少年を取り巻いた小さな状況の変化と、第二次世界大戦によってもたらされた大きな状況の変化とが、閉塞的な村社会のなかでリンクし、それによって、人間存在の醜くも残酷である一面が、えげつないほどにクローズ・アップされる。あさましい大人たちの姿や、爆撃され、破壊し尽くされた研究所を目撃した〈ぼく〉が、〈完敗もいいところだなあと思う。手も足も出ない。これが鬼畜米英恐るるに足らずと、日頃あんなに大威張りだった日本軍の実態なのだ。それはむしろアメリカの言うことだろう(略)そして日本軍は、この完敗を、母みたいなモンペを穿かない不行儀な人間のせいにしようとして、馬鹿ないじめを繰り返している(略)日本人、本当に何から何まで駄目なんだなあ〉と思うのも、おそらく、当然の感情だろう。ドイツが敗北し、アメリカ軍の、日本本土への攻撃は、いよいよ激しさを増す。B29の編隊が迫り、〈今夜にでも筑波や美浦村が空襲され、家が燃やされるかもしれない〉のである。そういう状況下で、頼れる大人は、母親しかいないのに、その母親を、しかし今は〈ぼく〉が守っていかなければならない。正直な話、ここでの展開は、かなり、むごい。人間とはいかに下卑た生き物であろうか、の報告が、子供の目線を借り、なされる。注目すべきは、大嫌いな小学校が焼けるのを見て〈学校がなくなった。もう学校に行かなくていい、ぼくは自由だ(略)踊り出したい気分だった。そして、この時だけはアメリカに感謝〉する反面、日本軍の最新鋭機「火龍」がB29を次々と撃墜してゆくのを実体験することには興奮を覚えるとおり、主人公の内側では、日常生活と戦闘とが、意外ときれいに乖離させられている点だと思われる。その乖離こそが、あるいは〈それからの一昼夜の記憶は、ぼくにはまるで夢のようで、現実とは到底思われない。本当にあんなことが起こったのか、何よりなんなことがあり得たのか。願望ゆえのぼく自身の妄想なのかもしれないし、実際に夢を見たのかもしれない(略)でも一方で、絶対に受け入れたくない、とてつもなく嫌なストーリーというものもあった。絶対にこうなって欲しくはないという、それは物語だ。でもこれからの一昼夜の出来事には、これもあるのだ。だから解らない。これがぼくに、やはりあれは現実だったのかと疑わせる。いずれにしてもぼくは、あの夜を境に、長い長い妄想と疑惑の迷宮に迷いこんだ〉という記述を導いており、作品の、どこかミステリアスな雰囲気を決定づけているのである。

 『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』について→こちら
 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2008年03月04日
 Classical Fantasy Within 第2話 (2) (講談社BOX)

 こういう展開になるであろうことは『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』の段階で、とくに終盤にあった士郎正宗のイラストが象徴的であったように、におわされているフシがあった。つまり、戦時下の日本で、主人公の少年にとって、数少ない、あるいは唯一の味方である母親の身に、とんでもない事態が起こるのではないか、という予感である。島田荘司の大河ノベル『Classical Fantasy Within 第二話 怪力光線砲』では、それが、異常な現実でなければ、捉えどころのない悪夢として、語られる。ロケット戦闘機「秋水」の試運転中に、慕っていた深町さんを喪い、ひどいショックを受けた〈ぼく〉に、ミツグ伯父さんは、秘かに開発されている怪力光線砲の実験を見せてくれると言う。雷雨激しい晩、研究所の奥で〈ぼく〉は、その、怪力光線砲の驚愕すべき姿を目にし、〈こんなものすごい機械が現実に存在して、いや人間が存在させて、本当に大丈夫なのだろうか〉と〈神様の怒りに触れないのだろうか〉と、畏れを抱く。しかし、その後、〈ぼく〉が体験することになるのは、もっとずっと身近で、具体的な、そういう恐怖だった。おそらくは、物語の重要なファクターである怪力光線砲の本質が明かされ、それが災厄に結びついていくあたりが、ここでのターニング・ポイントだろう。そして、そこに、小学生の目線というフィルターがかけられることによって、こちら読み手には、どこからどこまでが真であるような出来事なのか、判別することができず、攪乱される。よく知っていたはずの大人たちの、まるで異者(エイリアン)であるかのような振る舞いは、あくまでも〈ぼく〉の主観に基づいている以上、彼らの言動がいったい何を意味しているのかは、ほとんどブラインド、隠蔽されている。さらには、怪力光線砲の実験に立ち会った〈ぼく〉自身の、たとえば〈今のこの感じ。以前に一度体験した。もう経験したのだ。今目の前にあるすべてが、前に一度見た景色だ。すっかり憶えている。だからぼくは、この先に起こることを知っている。なのに、全然思い出せない。どうしてだ――?〉といった言葉が、謎めくレイヤーを、もう一個、つくり出す。

 『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』について→こちら
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2008年03月01日
 ハートシェイプト・ボックス (小学館文庫 (ヒ1-1))

 『Invitation』誌の3月号(先月号になるのかな)で、豊崎由美が、この『ハートシェイプト・ボックス』を評し、〈血は争えません。怖いのに後味が悪くないのは父キング譲りといえましょう。父の諸作に負けないリーダビリティ高きエンタメ小説としておすすめする次第です〉といっているが、ジョー・ヒルがスティーヴン・キングから受け継いだのはそればかりではなく、ロック・ミュージックへの造詣という点も加えられる。もちろん、題名である『ハートシェイプト・ボックス』は、ニルヴァーナのナンバーよりとられており、現在五十四歳となる主人公のジュード(ジューダス・コイン)は、70年代にレッド・ツェッペリンのオープニング・アクトをつとめたこともある往年のロック・スターで、彼が飼っている二匹の愛犬の名は、ボンとアンガスの、要するにAC / DCだったりするし、そのほかにもトレント・レズナーやマイ・ケミカル・ロマンスなどなど、その手の固有名詞が頻出する。いやいや、本筋とあまり関係のないネタを得意げになって拾っているのではない。そうではなくて、たとえば、やたらとカート・コバーンを意識するジュードが、悪霊の攻撃に疲れ果てているとき、たまたまカー・ラジオで聴くのがフー・ファイターズのナンバーだというのは、まあ見え透いたアイディアではあるけれど、生者と死者の対決とでもすべきテーマと、不可分に結びついているといえる。ブラック・サバスのようなパブリック・イメージを演じる若い頃の習慣で、それほど興味がないながらも、オカルトなグッズの蒐集家となってしまっているジュードは、ある日、マネージャー役のダニーに、インターネットのオークションで幽霊の取り憑いたスーツが出品されていることを知らされ、ほとんど反射的に購入を決める。だが、それは彼を破滅に陥れるため、用意周到に仕掛けられた罠であった。スーツを手に入れたジュードの前に、かつての恋人フロリダの義父が幽霊となり、現れる。捨てられ、自殺した娘の復讐を果たすべく、その死んだ男マクダーモットは、軍在籍時にヴェトナムで鍛え上げられた催眠術を駆使し、ジュードと彼の現在の恋人であるメアリベスを、精神的にも肉体的にも追い詰めてゆく。前半は、家屋を舞台にしたゴシック・ホラーの様相であるが、中盤、ジュードとメアリベスが、愛車のマスタングを駆って、真相と解決を握るフロリダの姉に会いに行こうとすると、幽霊もまたピックアップのトラックに乗り、後ろから追いかけてくる。このへんはロード・ムーヴィーのようでもある。旅の途中で、いくつかの事件が起き、作中人物たちは、それぞれの過去と向き合う。物語の背景には、親子間の葛藤、幼児虐待やトラウマがあって、結局のところ、告白が救いのキーとなっていくあたり、とてもアメリカっぽい作品だな、と思わされる。余談だが、主人公周りの人間にはタバコを吸わせず、喫煙者を敵役に悪く描いてあるのは、意図的に、だろうね。
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2008年02月28日
 静かな爆弾

 以前にも述べた気がするが、吉田修一の小説はほとんど、話の筋だけを取り出すと、この国のウェルメイドなテレビ・ドラマと大差なく、だとしたら安っぽいものをイメージすることになりかねないけれど、まあ、じっさいに崇高さとは無縁の俗世界が展開されているのであって、あの大作『悪人』ですら、そうだといえる。にもかかわらず、それが軽くはなくて、薄っぺらいながらも、一定の重み、ごつごつとした触感をともなっていることに、おそらくは最大限の魅力がある。そういった箇所を指し、リアリティやエモーションと解釈してよいのかもしれないが、もうすこしいえば、作中人物たちの心理や行動をあくまでも彼らが持っている情報の、その精確な総和として描写することで、ステレオ・タイプでしかありえない存在に、シリアスでヘヴィな印象が持たせられているのである。この『静かな爆弾』も、テレビ局に勤務する男性が、公園で、耳の不自由な女性と出会い、惹かれ、付き合い、悩む、といったアウトラインはクリシェにも程があるし、そうした個人的な事情と、その、語り手である男性主人公の〈俺〉が海外の爆破テロに絡むスクープをものにしてゆく過程とが、並行的に進められるつくりを、ことさら大げさに取り上げてみたところで詮なきことだろう。重要なのは、そこで、どう、彼の持ち得ている情報が処理され、感情を動かし、アクションを起こさせているか、に他ならない。恋人とのメモ帳によるやりとりや、職務における緊張において、繰り返されるのは、漠然とした欠損あるいは過剰が、言葉そのものの不自由さとなり、立ち現れてくる様子である。実際を知らなくても済み、深く追求しなくても済まされるものに対しては、適確な言葉を用いる必要はなく、あるいは逆に、的はずれな言葉を無駄に使うことも許される。しかし、誰かの何かをより良くわかろうとするのであれば、そして、自分の何かをより良く伝えようとするのであれば、そうはいかない。だが、そういった何かが何であるのかを切実に表す言葉だけが、つねに足りない。物語のラスト、恋人から携帯電話のメールで送られてきた問いに返すための言葉を〈俺〉は慎重になって探す。ほんとうに見つけられるかどうかが焦点なのではない。どれだけ探しても、見つけられるものは、いつだって限られていて、その限られているなかでしか人は自分の情報に形を与えられないことが、ただ静かに実感され、確認される。

・その他吉田修一の作品に関する文章
 『初恋温泉』について→こちら
 『女たちは二度遊ぶ』について→こちら
 『ひなた』について→こちら
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
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2008年02月26日
 ドリーミング・オブ・ホーム&マザー

 〈あの日あそこで、十三歳の男の子と十一歳の女の子にとって、死にゆく月光を看とることのほかに選択肢はなかった。それはそうなのだが、田中聡は、自分の無力と、ゆうの勇敢な行動の挫折を、おそらく本人が意識している以上に深く悔やみ続けた〉と、ここで〈死にゆく月光〉といわれているのは、編集者の聡とフリー・ライターのゆうが、子供の頃に可愛がっていた犬の名前である。その彼の死から幾年月を経て、二十代後半となった二人が、〈二十六歳のときに短編小説〈ドリーミング・オブ・ホーム・アンド・マザー〉でデビューし〉て〈三十九歳の現在まで、二十三冊の短編小説集と二冊の短めの長編小説を発表している〉、〈自意識の垂れ流しがそのまま共同幻想であるようなハッピーな作家ではな〉くて〈日本ではめずらしい知的な作家である〉小川満里花と奇跡的な出会いを果たし、親密になってゆく過程に軸足を置きながら、やがて『ドリーミング・オブ・ホーム&マザー』の物語は、おどろくべき方向へと展開させられてゆく。打海文三の小説においては、男性から自立していて、勇敢な女性たちが、つねにカリスマティックな魅力を放っているが、それはこの作品もそうで、序盤は、自分でも意志が強くないことを実感している聡の、〈どちらも魅力的な女性で、惹かれ合うのも当然だろう〉というフィルターを通し、ゆうと満里花の奔放で急速な接近が描かれる。そこに割って入ってくるのは、人間ではない、満里花の愛犬のイエケである。イエケが、ある事件を起こす。この事件を発端に、聡、ゆう、満里花、三人の運命は、取り返しのつかない官能と黄昏と混乱の入り交じったかたちに、歪んでゆく。おそらくは、伏線と見なしうる箇所が、かなり最初の段階からあちこちに存在しているのだけれど、多くの読み手がもっともショックを受けるのは、第28節(ページ数でいえば144ページ目)のあたりであろう。東京中をSARSの猛威が覆う、そういった作中で起きるスケールのおおきな危機ですら、第28節の転換を前にしたら、恐怖を薄める。あまりネタを割らないようにしたいのだが、巻末の解説で、池上冬樹が作者の過去作『ぼくが愛したゴウスト』との接点を指摘しているとおり、それはまるで、この現実を現実的だと認識する自分はいったどれだけ現実的な存在なのか、との猜疑を、直に手渡される瞬間だといえる。意識の切断、記憶の空白、体験の反復、出来事の擬装。それらの集積が、ちょうど寝ているときに見る夢がそうであるように、無限の解釈をともなった結末を連れてくる。たとえ唯一の解答が込められているのだとしても、故人となった作者はもうそれを教えてはくれない。

 『愚者と愚者(下)ジェンダー・ファッカー・シスターズ』について→こちら
 『愚者と愚者(上)野蛮な飢えた神々の叛乱』について→こちら
 『ロビンソンの家』について→こちら
 『ぼくが愛したゴウスト』について→こちら
 『裸者と裸者(下) 邪悪な許しがたい異端の』について→こちら
 『裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争』について→こちら
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2008年02月19日
 パンドラVol.1 SIDEーA

 『パンドラ』Vol.1 SIDE-A掲載。『傷物語 こよみヴァンプ』のアタマ、語り手である阿良々木暦が〈いずれにしても、僕は運が悪かったのだと思う――勿論、僕がその不運をたまたま避けられなかったのと同じような意味で、その不運をたまたま避けられていたのだとしても――僕ではないほかの誰かが同じ目に遭っていたかと言えば、多分、そんなことはないのだろう。運が悪かったなどというのはあるいは非常に無責任な物言いであり、僕が悪かったと、素直にそういうべきかもしれない。結局あれは、僕が僕であったがゆえに起きた、そういう一連の事件だったのだと思う〉という、このようなモノローグは、西尾維新の小説において頻繁にフォーカスされる、あの、他でもありえたオルタナティヴな可能性と他ではありえない「この私」にかかる必然と固有性の相克を、あらためて示唆しているふうにも思われるわけだが、見ればわかるとおり、その言葉の動きのなかでは、前者よりも後者の重みが自覚的に選びとられている。言ってしまえば、そうした動き方次第をストーリー化し、小説化したのが『傷物語』で、作中、いくどとなく「学園異能バトルの漫画」という単語が用いられているように、ストーリーそのものは、あきらかに現代的な少年マンガのそれを手本にしているのだけれど、何よりも特筆すべきなのは、そうやってつくられたストーリーが、たいへんおもしろい、ということである。基本的には同作者の過去作『化物語』の前日譚にあたる、とはいえ、おそらく『化物語』を未読であったとしても、このおもしろさはいっさい損なわれない。むしろ、ちいさなエピソードの積み重ねであった『化物語』よりも、主人公の役をつとめる男子高校生が、いかにして人間をやめ、吸血鬼になり、そして吸血鬼をやめ、人間に戻ったか、に焦点をしぼり語られるこちらのほうが、作品単位の充実度は高いとさえ感じられる。もはや様式美に近い作風であるし、諸々のインパクトはすくない、にもかかわらず、めっぽう胸を熱くさせられるところがあり、ほろりとさせられるところがあり、くすりとさせられるところがあり、いやはや、作者がこれまでに発表してきたもののなかでも、かなり上位に位置づけられる出来であることは間違いない。

 『化物語(下)』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 「そっくり」について→こちら
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 「零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2008年02月13日
 文学界 2008年 03月号 [雑誌]

 『文學界』3月号掲載。しくじりも、その後悔も、さらに結果の不幸せも、冷静に見れば、どこか滑稽でいて、そして、やはり悲しい。津村記久子の『婚礼、葬礼、その他』は、〈子供の時にお誕生日会をして、大人のお祝いの手間を人間は学んでいくのだろうか。だとしたらわたしははなっからそっち側じゃない、とヨシノは思う。祝福される側。人を呼ぶ側。ヨシノは常に列席者だ〉と自覚する主人公が、結局はそういう運命なのだろう、ちょっとした行き違いから同日に行われる友人の結婚式と会社関係の葬儀とを掛け持ちする羽目になり、その忙しいにも程があるような彼女の個人的な状況を通し、生きていることの平坦さのなかには、しかし人の感情を左右するぐらいの起伏がかならずや含まれていることを、とても愉快な喜劇のかたちとして提出している。すごく立派に愉しい小説であるし、その愉しさが、ふつう卑近であればあるだけ痛くなりがちなモーションの波立ちを、なめらかに引かれる線の心地よい感触で伝えてくる。主人公の意識は、要するに、あるトピックのプライオリティが順次変動するたび、立ち止まり、抵抗しながらも受け入れる、そのようなごく一般的に誰もが踏んでいるプロセスの描写だといえる。たとえば作中では、幾度となく彼女の空腹の身であることが強調されているけれど、それを満たすことが最優先できない状況というのがある。これはつまり、プライオリティが当人の意志によってのみコントロールされ、決定されているわけでもない不自由さ、窮屈さでもある。だが皮肉なことに、そうした窮屈さがなければ、束の間の休息も十分な価値を持ちえない。主人公であるヨシノの一挙手一投足が、けっして賑やかにおかしいだけではなく、せつなくもやさしく、こちらの読み手の気持ちに、す、と入ってくるのは、たぶん、そこのところのささやかで切実な矛盾が、憂鬱とも安堵ともとれる溜め息をもたらしては一種の懸命さをも呼び起こすためだと思う。

 『カソウスキの行方』
  「Everyday I Write A Book」について→こちら
  「カソウスキの行方」について→こちら
  「花婿のハムラビ法典」について→こちら
 『バイアブランカの活断層』について→こちら
 『冷たい十字路』について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2008年02月09日
 小説現代 2008年 02月号 [雑誌]

 『小説現代』2月号掲載。このところ評論家にカテゴライズされる人たちが創作にチェレンジする機会がどうしてか多いように思われるが、切通理作もこの『妄想小説イジメ系』をもって小説家デビューを果たすというわけだ。「10分間で読める 超短編官能小説特集」というのに含まれている一篇になるのだけれど、正直なところ、官能というには程遠く、エロティックの略語であるようなエロとも無縁で、せいぜい十代の坊ちゃん連中ぐらいしか喜ばんだろう、な、しょうもない陵辱小説であって、まあ、おそらくはそれが狙いなのであろうから、最大限の褒め言葉として受けとっていただきたいのだが、しかし、もちろんこちらとしては褒めているつもりではない。もしかしたら、実在するWEBサイトの〈小説コーナーにおける、同じ設定のお題に沿って書いたものです〉という末尾の注釈に、なんらかの批評性を見いだすべきなのかもしれないし、夜な夜な複数人の男性にいたぶられる女性の、その、対他関係とでもすべきものを観察する目線から、ふかく読まれなければならないのかもしれないにしたって、いかんせん描写の数々も含め、それ以前の訴求力に乏しい。

 『失恋論』について→こちら
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2008年02月06日
 カソウスキの行方

 先般、芥川賞の候補にもなった表題作を含む津村記久子の作品集『カソウスキの行方』には、ぜんぶで三篇が収められているのだが、「Everyday I Write A Book」だけは以前に読んだときがなかったので、それについて触れる。ひとまず、アタマらへんの〈しかし、あそこまでやるかあ。あいつ、飲まへんのになあ、ストレートエッジやから。/ 野枝は、なるほど、と同意した。野枝の目線を釘付けにしたシカドの不思議なストイックさは、酒も煙草も薬もやらない、という、ハードコアパンクのある種の人々の生活態度を採用している部分から漂ってくるのか、と合点がいった〉というあたり、これ、一般的にはどれぐらいわかりやすい表現になっているのかわからないんだけれど、小説の雰囲気を決める、けっこうな箇所だと思われた。とある友人の結婚式の二次会で、〈ワークアウトが趣味で、頭をスキンヘッドにしてい〉る、まさしくストレート・エッジをきどったデザイナーが、〈全裸で機動戦士ガンダムの映画版主題歌である『哀 戦士』を異常に生真面目な様子で振るコーラス歌って帰った〉のを見、主人公である野枝は、なんとなく、彼に関心を持つ、そしてこの、まったく面識のない他人に生じた関心の、意外なおおきさが、彼女の心理を左右するからである。それをもしかしたら一目惚れだとか片想いだとかいった言葉で捉まえることも可能なのかもしれないが、というよりはむしろ、なにかもっと抽象的で漠然とした期待とでもいうのが相応しいものであろう。野枝は、結局、ほぼ接点のないまま、そのデザイナーが〈今度地下鉄で導入されるICカードのキャラクターデザインの仕事が決まったのと同時に、絵本作家兼ミュージシャンと婚約した〉ことを知り、〈胸の中にぼんやりとした霧が広がるのを感じた〉のだった。そうしたことの反動のせいで、じっさいに導入され、シェアをひろめつつある地下鉄のICカードを使う気になれない。たとえば、逃した魚はおおきい、という喩えがある。このとき、彼女が〈なんだか、入り口から締め出されてしまったみたいだ、と思った〉のは、それに近しいのではないか。そもそも手に入れようとしていたのかどうか、自分が自分でも定かではないのにそう感じられるといったことは、まま、ある。とくに対象が世間からはひとかどのものとして見られている場合などは。ともすれば、そのような不明瞭でもある失意のおおきさが、彼女に、いわく言い難い空漠を、もたらす。物語の柱は、同じ結婚式の二次会で知り合ったもうひとりの男性、デザイナーの友人にあたるオサダとじょじょに親密になっていく過程にある。しかし彼女が、そこで何を望んでいるのかは、おそらく当人ですら気づいていないので、末尾まで、ほとんど曖昧にぼかされている。そのぼかされていることのなかで、毎日は進み、感情は、不安定なウェーヴを、上下するようにして、描く。

 「カソウスキの行方」について→こちら
 「花婿のハムラビ法典」について→こちら

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2008年01月24日
 ロング・グッドバイ (角川文庫 (や31-5))

 矢作俊彦の『THE WRONG GOODBYE ロング・グッドバイ』は、刑事二村永爾を主人公に据えたハードボイルド・シリーズの三作目(ストーリーとしては四篇目にあたるのかな)で、昨年に文庫化されたものを読んだ。探偵役であるような主人公が、偶然知り合った酔っぱらいにシンパシーを抱いたことから、奇妙なかたちをした殺人事件に巻き込まれてゆくという出だしは、題名からうかがい知れるとおり、レイモンド・チャンドラーの『THE LONG GOODBYE(長いお別れ)』を下敷きにしたものであろう。物語のラストに置かれたセンテンスは〈アメリカ人にさようならを言う方法を、人類はいまだに発明していない〉というものである。つまり、あちらに描かれていたのが都会化されたアメリカ社会の孤独だとしたら、こちらに描かれているのはアメリカナイズされた日本社会の孤独とでもいうべきものだといえる。退廃的でもある情熱や進歩的でもある疲弊が、冷静な目線によって切り取られ、「不思議だね。君らみたいなのは、みんな金じゃないって言うんだ。そのくせ、結局トラブルは金で起こる。セックスが牛乳みたいに簡単に手に入るようになっても、そこは変わらない」ような現代の風景に、さまざまな世代の声が招き入れられる。国籍が違う場合もある。シリーズの一作目『リンゴォ・キッドの休日』で初登場した由やヤマトの、あの癖のある喋り方も、ここでは彼らの属性そのものであるかのように響き渡り、それぞれの資質をよおく伝えてくる。そうやって立ち現れた世界のなかで、主人公は、点と点とを線で結びつけ、ときには誰からも望まれていない真実を手繰り寄せ、昔からの友人たちや新しい友人たちと、二度と巡り会うこともないのだろう、別れを交わす。あとには誰も残らず、ただ自分だけが残る。それこそ〈人間は知らぬうち、結局自分に一番似合いの結果を引き出すのだ。銀行のATMから限りある預金を引き出すように〉である。世間一般からすれば、遅れていることにもなりかねない、そういう人間が貫く意地っ張りな態度は、同作者の『スズキさんの休息と遍歴』や『ららら科學の子』にも通じる。かっこうよくおっさんになるのは、とても寂しく、難しいことだな。けれども、その姿は、この世に変わらないものなんてないのかもしれないが、しかし失われないものだってきっとあるのだということを、教えている。

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2008年01月23日
 妖怪変化 京極堂トリビュート

 西尾維新の『そっくり』は、小説現代増刊号「メフィスト」別冊『妖怪変化 京極堂トリビュート』に寄せられた短篇小説で、当然のごとく、内容は京極夏彦へのオマージュになっており、『塗仏の宴』の登場人物である堂島静軒を作中に引っ張ってきて、京極堂シリーズのサイド・ストーリーというか二次創作として機能するような、そういうお話に仕上がっているのだが、堂島が口にする「不思議」の一語に暗示されたアイデンティティの不安または記憶域や認識上の陥穽を、思春期的な感情の揺らぎと結び合わせることで、じつにこの作者らしいテーマをも同時に成り立たせている。祖父が亡くなったとの報せを受けた日、語り手である〈僕〉のもとにその祖父からの手紙が届く。それは死期を悟った祖父が、誰にも打ち明けたことのない秘密を記した懺悔の手紙であった。祖父がまだ三十代の頃だ。突然、自分の家族がまるで自分の家族ではないみたいに感じられるようになってしまった彼は、自分に〈自分を取り巻く環境に疑問を覚えることなど、考えてみれば誰もが普通に経験することである――思い起こしてみれば、十四や十五の頃、わたしは今と同じようなことを感じていた――と、そんな風に自分を納得させようとした〉のだったが、しかし、事実はもっと深刻であり、そして、取り返しのつかないものであることを、堂島静軒と名乗る男によって知らされる。まあ、『そっくり』という題から、ある程度予測できるとおり、ここで扱われているのはダブル(複体)やオルタナティヴ(代替)とでもすべきモチーフである。それが『塗仏の宴』の設定を手がかりに、あくまでも自意識の問題として前面化されてゆく。〈僕は僕であるべきなのだ。 / それは、欲しいものではない。/ 必要なものなのだ(略)が、しかし、どうだろう。/ そんな風に思っている、この僕の気持ちも、僕の人格も――ひょっとしたら、上塗りされ、仕組まれたものなのかもしれないという、そんな考えかたもある〉。こうした言葉に託された響きは、それこそ西尾維新の作品にお馴染みのものだろう。人はときに、自分がいったい何者なのか、と問いかける。『そっくり』における五十年前の出来事は、たとえば運命が自らの与り知らぬところで定められていることへの耐え難さにほかならない。そうであるがゆえに祖父は苦悩する。これに比して、語り手はといえば〈僕が僕であることなど、証の立てようがない。/ ただ――その可能性を、祈るしかないのだ〉と消極的につぶやくのみで、あるいは、そうした対照のなかに現代的な感覚が描写されているふうにも思われる。

・その他西尾維新に関する文章
 『刀語 第十二話 炎刀・銃』について→こちら
 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
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 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
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 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
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2008年01月18日
 文藝 2008年 02月号 [雑誌]

 『文藝』春号掲載。青山七恵の『やさしいため息』は、芥川賞受賞第一作ということになっている。けれども、あら、先んじて発表された短篇「ムラサキさんのパリ」(『窓の灯』文庫版のための書き下ろし)が、それにあたるのではなかったのか。このへんのカウントの仕方はよくわからんね。しかし「ムラサキさんのパリ」、あれはたのしかった。男性による一人称というのがあるのかもしれないが、意外にも長嶋有(それとやはり中村航)あたりに通じる愛嬌があって、何しろ自分がそうだからいうのだけれど、けして『ひとり日和』に関心しなかった向きにこそ、読んでもらいたいとすら思う。さて。本題の『やさしいため息』である。あいかわらず題名はしょっぱい、が、いやいや、中身の味わいは悪くない。むしろ、「ムラサキさんのパリ」とこれを通じて、作者に対する信頼が、ぐん、と高まった感が、個人的には、ある。〈朝、会社へ向かう電車の中で、弟と四年ぶりに会った〉。こうしてひさびさに再会した姉弟の束の間の共同生活、ミニマムな家族のシーンをベースに物語は進む。語り手である〈わたし〉の弟、風太は、昔から正体の掴みづらいところがあって、四年前に〈短歌の勉強したいと言っ〉て、そのまま、ふらりと行方が知れなくなってしまっていた。それは〈わたしが今の会社に入って、半年たったくらい〉のことであり、〈彼はまだ大学一年生で〉あったころのことだ。その弟が、いなくなったときと同じく、ふらりと姿を現し、しばらく居候させてくれないかといった様子で、〈わたし〉の部屋にあがりこむ。アタマの部分で、飄々とした風太の性格が、それを煩わしくも妬ましく眺めるような、小心な〈わたし〉の視線でもって一から説明されるのは、どうかな、という気がし、風太が〈わたし〉の報告する一日をノートに書きとめ、読んだ〈わたし〉が〈その数行をコピー、貼り付け、コピー、貼り付け、をして、続いていく毎日だ〉と微かな焦燥をあぶり出されるのも、見え透いたアイディアに感じられなくないのだが、この、あくまでも〈わたし〉は風太との対照によって〈わたし〉自身の現実を知らされるという図式から、自分はこうなんだから仕方がないという諦念でも、自分がいやでいやで堪らないという嫌悪でも、自分以外の誰かみたいになりたいという逃避でもない、それでいてたしかな着地点を導き出そうとしている点に、作品の魅力はある。他人の人格を無視せず、認めるところに、自意識の遠近感を置き、まめに距離を測りながら、ほんのすこしの勇気とほんのすこしの敗北とほんのすこしの後悔とほんのすこしの前進とが、さざ波を思わせるおだやかな印象で、描写されている。それにしても、だ。これまでにも何度か述べたことがあるけれど、若い男性作家が無職であるような若い男性を書きがちなのに対して、若い女性作家は会社員として働く若い女性を扱うケースが、最近はほんとうに多く、この小説もまたそうした一例に加えられる。

 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2008年01月17日
 Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」 (講談社BOX)

 〈今は退屈な発想だけで凝り固まり、それゆえにただ意地悪なだけと思える日本人だけど、当時はあんな夢のような発想を持ち得た。科学者たちのみんなが、きっと空想科学小説とか、SF漫画の読者だったのだ〉と、島田荘司の大河ノベル『Classical Fantasy Within 第一話 ロケット戦闘機「秋水」』の語り手が述べる「当時」とは、昭和二十年、つまり第二次世界大戦の末期のことで、そのときまだ小学生で幼くあった語り手は、最新鋭の高速度戦闘機「秋水」の研究に携わるミツグ伯父さんや海軍航空隊の深町から、兵器開発にともなう科学技術の前進を聞かされるたび、胸躍らす。戦争あるいは敗戦の気配に心を醜くさせる田舎の人びとの言動は、母の筆子と二人で暮らす〈ぼく〉の心証を悪くするばかりであったが、科学がもたらす夢のある未来を想像するだけで〈自分が暮らしている平凡な田舎村が、月の世界や、広大な宇宙空間につながっていると日々実感ができ、いつか自分こそがそれに乗っていくのだと僕に思わせてくれた〉のだった。しかし、軍でも腕利きのパイロットである深町が、試験飛行のため、ロケット・エンジンが未完成な「秋水」に搭乗、空を高く舞い上がった瞬間を境とし、〈ぼく〉と夢想の日々は一変する。こうした幕開けは、「超弩級のファンタジー・ワールド、ついに開幕!」という煽りに相応しく、波乱に満ち、また作中に散りばめられたギミックや登場人物たちの口にする固有名詞の数々は、なにか暗示めいてもいて、不穏にスリルとサスペンスを盛り上げる。この作者の過去の作品をいくつか読んだことがあれば、伏線であるようなそれらを回収すべく、物語の終盤になって名探偵(御手洗潔)が登場し、架空と現実とが論理的に直結させられたところにカタルシスが訪れるのではないか、と勘ぐりたくなるほどである。じっさい、これが基本的に、現在(現代)における過去の記述(回想)であるという性質をもって書かれているのは、ちょっとあやしい、と思えなくもない。が、しかし、そのような見方をせずとも、戦時下という背景と少年のイノセンスとが、切り結び、反響し合い、壮大でジュヴナイルなロマンを期待させる。魅惑的な導入が成り立っている。まあ、講談社BOXの、この大河ノベルの刊行スタイルは、あいかわらず一冊が割高に感じられるけれど、清涼院流水の『パーフェクト・ワールド What a perfect world!』や西尾維新の『刀語』とは違い、挿絵にあたる部分も、士郎正宗のイラストが、カラーできれいに収められているのは、ありがたい。
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2008年01月09日
 刀語 第十二話 炎刀・銃 (エントウ・ジュウ) (講談社BOX)

 これまでとは一変して(といってしまって良いだろうね)、悲壮な雰囲気を漂わせ、『刀語 第十二話 炎刀・銃』は進む。悲壮ということは、ある意味でエモーショナルだということで、ラストに来て、こう、エモっ気抜群の展開を繰り広げられたら、そりゃあ、目頭も熱くならあ、といったところである。着目すべきは、やはり、人生あるいは運命は変わりうるのか、変わりえないのか、であり、もしも唯一無二のものがあるとしたら、いったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、であって、それらがいかに綴られているか、であろう。物語の書き手(おそらくは作者である西尾維新自身)が、「序章」において、次のように述べる。〈歴史とは――人のことである〉と、そして〈わたしの記述は虚構だが〉しかし作中人物たちの〈人生は真実であり。失われない唯一無二だった〉と、なぜならば〈歴史とは人である〉以上、〈つまり歴史とはきみである〉以上、〈きみの知る歴史はすべて嘘〉であったとしても〈きみの知るきみは、決して嘘ではない〉からだというわけだ。このような言いを受けるかっこうで、七花ととがめの十二ヶ月にも及ぶ旅路は、終(つい)を迎え入れるのだが、その二人を分かつ瞬間が、軽口を間に挟みながら、それでいて、やたら切ない。かけがえのなさは、それをかけがえがないと信じる者の視線によって、生じる。完成形変体刀の存在もしくは完成形変体刀と持ち主との関係も、つまりは、そうしたことのうえに成り立っていたのだと思う。そのように考えられるとき、七花が、ここで、十二本の完成形変体刀を次々と破壊してゆく場面、あれは、それらをかけがえがないと信じる者の視線の消失を意味しうる。このことはもちろん、虚刀『鑢』でもある七花とその所有者であるとがめの間柄にも適用可能であり、翻っていうなら、あそこで、七花が自らの死を願い、命を捨てようとさえするのは、彼をかけがえがないと信じる者の視線がもはやどこにも存在しない、からにほかならない。これは当然、論理的な思考とはいえない。が、しかし感情とは、そのように動くものである。別離のとき、とがめが「無感情で無感動だった頃のそなたとは――今のそなたは、まるで別人だぞ」と言っていたように、かつてならば、肉親を喪っても、どこか冷め、狼狽することすらなかった七花の心は、物語を通じ、そのように動くまでに変わっている。『刀語 第十二話 炎刀・銃』におけるエモーションは、そこにある。正直なところ、十二ヶ月連続刊行というスタイルは成功しているとは言い難いけれど(コストパフォーマンスも良くねえしさ)、もしも終わりよければすべてよしであるなら、最後の最後で十分な手応えを得る。

 『刀語 第十一話 毒刀・鍍』について→こちら
 『刀語 第十話 誠刀・銓』について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
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 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
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 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
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 刀語 第十一話 毒刀・鍍 (ドクトウ・メッキ) (講談社BOX)

 「いよいよ十一本目だな、最初の頃は、一本集めるたびに先が思いやられる感じだったけれど――さすがにもう、いよいよ終わりって感じだぜ。もちろん順風満帆とはいかないだろうけれどさ――」と、これは主人公のひとり、七花の言葉だが、たしかにそのとおりで、終局は、順風満帆というよりも波瀾万丈というのが相応しい驚きをもって、訪れる。西尾維新の大河ノベル『刀語 第十一話 毒刀・鍍(メッキ)』である。『刀語 十話 誠刀・銓』において開示された虚刀流と四季崎記紀の因縁は、ここで、虚刀流七代目当主鑢七花と毒刀『鍍』を手にする四季崎記紀との直接的な決闘によって、つよく意味づけられることになるのだけれども、いやいや、さすがにラストの一踏ん張りといったところで、がつん、とテンションのあがる場面が次々に設けられている。前半、あらすじも含め、これまでの復習事項を文章の内に多く含むのは、まあ、作品形態の性質上、やむをえずとはいえ、真庭鳳凰と左右田右衛門左衛門による宿命の対決から後半に差し掛かり、展開はスリルを増す。巧みなレトリックを用い、アクロバティックなロジックに説得力を付す、この作者ならではの力量も、ここぞとばかりに効いており、伏線もあらかた回収されては、ほほう、そういうことでしたか、と腑に落ちる。ここ最近の西尾作品に顕著な、人(または人生ないし運命)は変わりうるものだ、といったテーマを、このシリーズもまた、登場人物の行動や物語の進行からして、ふかく踏襲しているのはあきらかだが、それが、どのような結末を導くのか、興味は『刀語 第十二話 炎刀・銃』へと注がれてゆくのであった。

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2008年01月08日
 刀語 (第10話) (講談社BOX)

 人間の記憶力というのは、頼りなくも大したもので、(こちらの都合で)このシリーズの前巻にあたる『刀語第九話 微刀・鋸』を読んでからだいぶ経ってしまったけれど、以前までのお話はけっこう覚えているものであるな。というか、導入の部分が親切につくられているおかげなのかもしれないけれど、まあ。汽口慚愧から王刀『鋸』を譲り受けた七花ととがめの二人は、ふたたび否定姫より四季崎記紀が残した完成形変体刀の情報を得、誠刀『銓』の在処を知るのだが、しかし目指すべきそこは、とがめの故郷であり宿命の地でもある〈即ち、飛弾鷹比等が起こした反乱にかかわった者共が死刑に処された〉百刑場、奥州は飛騨城跡地であった。『銓』の所有者、仙人を名乗る彼我木輪廻は、超然とした態度で「僕はね、きみの記憶の投影なんだ」「姿や立ち振る舞いはきみの記憶から――そして僕のこの性格は、彼女の記憶から形成されているようだね」「ここらでそろそろ、自分の苦手意識と向き合うことが必要だろう」と言い、彼との対峙が、とがめに〈忘れていたことさえ――忘れていた〉父の最期の言葉を思い出させる。作中人物たちの、読み手にはもちろん、もしかしたら当人にすら伏せられていた背景が、次々とあかるみになり、いよいよクライマックスが近づく西尾維新の『刀語 第十話 誠刀・銓』だが、ドラマは十分なのに、どうもいまいち盛り上がりに欠ける気がしてしまうのは、やはり、シリアスなエモーションが、やや薄口に感じられるためだろう。基本的にはレトリックで引っ張る作者の持ち味が、ここから、残りの二話をどう展開させてゆくのか、期待と不安を相半ばにしたまま、終盤に入る。

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2008年01月07日
 文学界 2008年 02月号 [雑誌]

 『文學界』2月号掲載。藤野可織の『溶けない』は、少女文学を思わせるあどけない語り口で幕を開ける、が、それは意図的に凝らされた趣向であることが、しばらくするとわかる。そこで、おお、これはおもしろそうだぞ、という予感を得るのだけれども、そのせいなんだよね、結局のところ。読み進めるにつれ(正確には「ニ、」節の途中から)、あらら、といった残念な気分で胸がいっぱいになる。そういえば、同作家の『いやしい鳥』(第103回文學界新人賞受賞作)を読んだときも、似たような感想を抱いたものだった。一個の小説の内で文体をチェンジする式の工夫に作者の野心が預けられており、もしかしたら作中で働いている論理も(こちらが見抜けないだけで)高尚な可能性が疑えなくないのだが、そうして届けられる印象は、あまりにも不甲斐なく、ここでは、坊っちゃんや嬢ちゃん様にカスタマイズされた自意識の、その不甲斐なさが、作品のトーンを決めてしまっている。
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2008年01月06日
 『野性時代』1月号(vol.50)掲載。教養のない人間なので、バイアブランカって何だったろう、と考えつつ、小説を読みはじめたのだが、ああ、そうか、アルゼンチンの地名である。作中では〈『母をたずねて三千里』のマルコが行こうしてたとこはバイアブランカやろ(略)にしても完全に地球の裏側やんけなあ〉といわれている。〈その時作朗は、サンディエゴから来たという揃ってぽっちゃりしたアメリカ人の中年夫婦に、ゼアイズテンプルノノミヤ、フォーエンムスービ、とめちゃくちゃな説明をしながら、彼らの顔をしかめさせていた(略)英語がぺらぺらのまやちゃんは、その日、用事があるとかで作朗に嵯峨方面の外人のガイドを交替してくれと当日に打診してきた。下宿で眠りこけていた作朗は、よく考えもせずにそれを引き受けたのだが、間違いだったのかもしれない〉。でもって、同じとき、まやちゃんという、つまりボランティアで京都は嵐山のガイドをやっている大学生の作朗の、恋人であるらしき女性は何をしていたかというと、どうやらべつの男と会っていたところから、津村記久子の『バイアブランカの活断層』は、はじまる。そういうわけで主人公はふられてしまうのだけれど、その、冴えないといってもいいような若い男性が、インターネット上のとある外国人コミュニティで、バイアブランカに住まう少女と知り合い、メールのやりとりなどをするうち、彼の国に興味を持ち、そこをきっかけに一皮むけてゆく、と、作品の概要は述べられる。が、あくまでもメインは、生まれてこのかた京都から出たことのない作朗の、友人やら家族やらを含む日常生活にほかならない。大学卒業後には〈基本的に地元で公務員にやることを考えていた〉彼は、友人のエンドーに〈本っ当に挑戦ということをせんやつやなおまえ、京都からいっぺん出たらどやねん、と眉をひそめ〉られてしまうほどなのだけれども、それを気にする様子もない。また、やや卑屈な傾向があるくせに、親しくなった女性がいるとすぐ、恋愛感情に結びつけてしまう。こうした単純ともとれる姿が、おもしろおかしく、どことなく切実に、語られる。心に屈折があったとしても、それを鬱陶しくしない点に、この作者らしさがあり、だからこそ、主人公の一生懸命な逆立ちと形容したいラストは、また一段と、さわやかな印象をつくる。正直な話、作朗とエンドーがほとんど衝動的に神社へお参りに出向く箇所で終わったほうが、余韻が良く残ったのでは、という気が最初はした。でもやっぱり、その先にまで足を伸ばさなければ見えない風景というものがたしかにあって、この物語には、それがとても相応しく、必要不可欠であるのかもしれないな、と思い返す。ところで、些細なことだが、雑誌のページ数でいえば236ページの下の段に〈もぐりこめそうな必修単位以外の初級英会話の講義はみづきちゃんが履修している〉の「みづきちゃん」は「まやちゃん」が正しいのではないだろうか。いや、みづきちゃんという登場人物もいるにはいるのだけど、ここはまやちゃんじゃないと、辻褄があわないような。こちらの読み違えかしら。

 『カソウスキの行方』について→こちら
 『冷たい十字路』について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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