ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2009年01月03日
 小川とゆかいな斎藤たち 6 (6) (講談社コミックスなかよし)

 茶匡の『小川とゆかいな斎藤たち』を読んでいると、子供に向けられたギャグ・マンガは、これぐらいざっくばらんでいいし、結局のところ深く考えないで済むのがいいのだ、という感じになってくる。すくなくとも作品の魅力は、少女マンガにさもありなんというシチュエーションの数々を、ほとんど考えなしであるような手つきでレンタルしてきながら、徹底的に無化してしまう、そのくだけっぷりにある。鈍くさい性格のせいで、いつも損な役回りになってしまう小川と、それぞれが空気の読めないタイプであるため、周囲からは特異な目で見られるなか、小川だけが分け隔てなく付き合ってくれるのを友情と感じ、彼女を何とかしてやりたいとがんばる、仲良、保茂、大喜の、三人の斎藤性の中学生男子たちの、傍迷惑を省みない、賑やかなどたばた劇は、この6巻も相変わらず、である。というか、よくここまで続いているなあ、と、そんな気もしてくるのは、いや、悪口ではなく、毎回毎回、お話のパターンをお約束でまとめていれば、ふつう、テンションのダウンがどこかしら見えてきてしまうものであり、それに比例し、真面目ぶってシリアスな部分が出てきてもよさそうなのものなのだけれども、このマンガの場合、そういったナイーヴさが、あたかも根本のレベルで拒否されているみたいな、まったくの反情緒性に貫かれている。そしてそれが反対に、純粋で無垢な振る舞いであるようにも思われるのだった。だいいち、どたばた劇の結果、積み重ねにおいて、登場人物たちの欠点が改善されるということもなく、けれどもその、まるででたらめのごとく生きている様子が、せいせいとしているのである。なぜか。それはたぶん、人がいったん知識を得てしまったなら、もうそこからは逃れられないというのは、数々の寓話や経験則が教えてくれるとおりだとしたら、『小川とゆかいな斎藤たち』には、それ以前の段階が、正しくレアな状態のまま備わっているから、だろう。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月29日
 サキ、ふつうにかわいいじゃないか。いや、彼女のルックス(作中人物のデザイン)がどうというより、その、恋をしていると気づきたくないままに恋をしている表情が、とてもよく描けていると思うのだ。誰かを想うことは、ときに卑屈さをもたらす、しかしながら、そうした卑屈のなかに見え隠れする素直さが、作品のやわらかなエモーションとなり、こちら側に伝わってくるのである。

 小藤まつの『青春パンチ』は、決してインパクトのつよいマンガではないだろう。むしろ、現代的な少女向けのラヴ・ロマンスにおけるスタンダードなイディオムを、奇をてらうことなく、まっとうしている。したがって、斬新、奇抜、独創性の価値基準で作品を測るような向きには好まれないに違いない。だが、今どきであることをしっかりと押さえる手つきで、上下巻にまとめられた内容は、たいへんすぐれた長めの短篇、もしくは、たいへんすぐれた短めの長篇として、ひろく評価されてもいい。

 強面のせいで、恵まれなかった中学時代に別れを告げ、高校に入ってからは、人並みの青春を謳歌したいと願う神大寺サキであったが、過去を曝露されるような悪い噂が流れ、ふたたび肩身を狭くしてしまう。しかし、ようやく出来た友人たちの心優しさや、なぜか積極的に関わってくるイケメンさん、戸呂友哉のフォローもあり、賑やかな学校生活にも居場所を見つけられる。そうして、サキにとって問題となってくるのは、戸呂との、二人の関係であった。そもそもは一目惚れの相手だったけれども、からかわれ、信用できず、そして真意の見えぬなか、告白をされ、いったいどう答えればよいのか。サキは悩む。

 この下巻では、上巻で暗示されていたとおり、サキの兄の恋人である紅音と、戸呂とのあいだに秘められていた事情が明かされる。物語のために、くわしくは述べないが、紅音と戸呂にまつわる個所もまた、当世の少女マンガのイディオムにあって、とくに珍しいものではない。とはいえ、ここで重要なのは、『青春パンチ』では、その解となるべき部分に、サキの存在が置かれていることである。

 紅音と戸呂の関係は、ある意味、依存で結ばれた共同性(だった)と読める。それへの固執を戸呂が持っているのに対し、紅音のほうは、サキの兄との恋愛を通じて、べつの段階に入ってしまっている。このことが、戸呂を傷つける。一方、紅音とのことについて、戸呂から告げられた言葉は、サキを傷つける。注意されたいのは、戸呂の言葉の上にあらわれているのは、たしかに真実にほかならない、が、その言葉の下に隠されている感情、つまり、どうしてもこれをサキに伝えなければならない、そうした逼迫もまた、真実でしかありえない、ということだ。

 もしも紅音と戸呂の関係を、依存で結ばれた共同性とするならば、サキと戸呂のそれは、依存とは違った可能性に選びとられた共同性だといえる。もちろん、それを恋愛と名指すこともできるし、たとえば前者を過去として見るとき、後者を未来と言い換えることもできる。そしてどちらが、現在において大事にされるべきなのか、真実を伝えた側の人間も、真実を伝えられた側の人間も、同じ真実を抱え、向き合う以上、等しく決心しなければならないことが、サキと戸呂の運命を変えていくのである。

 振り返るなら、『青春パンチ』のストーリーは、世間一般でイメージされる青春の風景に近づくため、学校生活を、あるいはそこで育まれる共同体を、コミュニティを、選び直し、やり直そうとするヒロインに端を発していた。同時にそれは、今日の少女マンガにスタンダードなイディオムに由来している。もちろん、今日の少女マンガにスタンダードなのは、そのことばかりではない。紅音と戸呂に設定された環境もそうだし、ヤンキー気質の兄とサキのコミカルな対立もそうだろう。

 それらいくつもの描写は少女向けのラヴ・ロマンスにありふれている。だが、そのありふれた一個一個が、決して容量の多くない枠内で、過密に重なり合うことで、本質的には単層であるような構造に、トータル化された含みを持たせている。上下巻で繰り広げられているのは、高校入学から一年目の夏休みが終わり二学期になってまでの、要するに、わずか半年間の出来事である。半年のあいだにこれだけいろいろなことが起こっている。といっても、そうしたいろいろは、半年の期間を不自然にオーヴァーしていない。

 いや、違う、そうではない。喜びも悲しみもあふれるほど、ナチュラルに多彩なことがありうるから、青春というものは、人生の一角でしばし、重大なマジックを持つとされるのだ。ハッピー・エンド式のラストに示されているのは、その力を信じる、つよい肯定であると思う。
 
 上巻について→こちら

 『3番目の彼氏』について→こちら
posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月27日
 金(こがね)は、中学生ながらも、唯一の肉親であった祖母を亡くし、天涯孤独の身になってしまう。四十九日もすませ、悲嘆に暮れているとき、親戚を名乗る女性が現れ、一緒に暮らしたい、と申し出るのであった。しかし、じっさいには親戚ではなく、また金を引き取るのにも、べつの理由があった。巨大なグループ会社を営む大神家の先代は、かつて金の祖母と恋仲にあり、その遺言には〈大神家の財産は 全て 壱田金が相続すること ただし 壱田金は孫のいずれかと結婚することを条件とする〉とあったため、どうしても金を、三人の跡取りのうちの誰かと、結婚させたい。その跡取りたち、高校一年の松太郎、中学二年の竹蔵、小学六年の梅之介の三兄弟は、ルックスも良く、学校中に知られる人気者ではあったものの、それぞれ一癖も二癖もある性格の持ち主だったから、容易じゃない。純朴で、田舎から出てきたばかり、世間をよく知らない金は、ほとんど有無を言えぬまま、彼らと一つ屋根の下暮らし、同じ学校に通うこととなってしまう。工藤郁弥『金のエンゼル』の1巻で見られるのは、つまり、イノセントであるような少女が、金銭的には裕福だが、精神的には必ずしも恵まれているとは見なしがたい人々に、影響を与え、もう一度家族をやり直させるという、その手のストーリーのヴァリエーションだといえる。あるいは、学園を舞台とし、溌剌としたヒロインと彼女を中心とする複数の王子様が、プライドよりも大事なものを再発見していく、お馴染みの物語だろう。しかしながら、ではそれが退屈かといえば、そんなこともない。まず、テンポの良さがある。そしてそのテンポは、あくまでも登場人物たちの素直さを大事にするところから、つくられている。すべて、お約束の範疇を出ていないかもしれないが、作品の基調をなしている明るさは、決して悪いものではない。

 『シャングリラブ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月26日
 青春と恋愛はときにイコールとなる。藤沢志月の『キミのとなりで青春中。』の、タイトルで指されているのも、つまりは恋愛のことなのだろうが、しかし、この1巻に描かれている内容は、さすがにちょっと紋切り型すぎるのでは、という気がしてしまう。美羽の高校にやって来た転校生のイケメンさんは、3年前にアメリカに引っ越していった幼馴染みの慶太であった。久々に再会した彼は、かつて美羽に告白し、そして茶化され、ふられてしまった過去など、もう、覚えていないみたいだ。けれども美羽のほうは、今さら、慶太のことを好きな自分に気づき、困惑する。要するに、以前は家族のように親しかった男女が、思春期に入り、お互いを異性として意識するあまり、牽制し合う、そうしたシチュエーションに対し、ステレオ・タイプの印象を持つのであって、さらにはその、恋愛マンガの系では、ありふれたシチュエーションのなかに描かれるヒロインのときめきにも、際だって特徴的な面が、薄く、あるかないかぐらいにしか、感じられないのである。事細かなモノローグはたしかにデリケートな内面をよくあらわし、花火や大空の背景をヤマ場に持ってくる演出は相応の効果をあげており、ロマンティックなラヴ・コメディとしての落ち度があるわけではないにしても、それが他の作家や他の作品と比べ、ことさらすぐれたものであるのかどうかの点において、いささか疑問を残す。

・その他藤沢志月に関する文章
 『ラブファイター!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 芦原妃名子の『砂時計』は、ある種の通俗性もここまで高められたらメロドラマとしてたまらないよね、というところに作品の魅力があった。通俗性は、たとえば、純愛とでもすべき頑なさや、親から子へ一方的に手渡される葛藤によっていた。では『Piece』はどうか。いやたしかに、この1巻の時点では異なったテーマが見えてくるけれども、通俗性の高さがそのまま作品の魅力に転化されている、こうした意味において、やはり『砂時計』に通ずるものがある。ここに描かれているのは、いわゆる自分探し的なモチーフだろう。自分で自分が何者なのかよく知れない、そしてもし、他人が自分を映す鏡であるならその見方もよくわからない、作中人物たちの心の動きを決めているのは、以上のような、つまり今日の人々にたいへん親しまれた戸惑いである。大学生の須賀水帆が恋人の浮気を知った日、高校時代の同級生から、かつてのクラスメイトが乳癌で亡くなったとの連絡を受ける。〈“折口はるか”正直この日まで彼女の存在を忘れていた〉というほどに親しみのない人物の死に、悲しみがわくことがなくとも、葬儀に参加した水帆は、ふとした話の流れからやがて、はるかの母親に相談を持ちかけられ、のることとなる。高校の頃、地味で目立たず、からかわれ、いじめられてばかりいたはるかには、じつのところ皆に知られることなく、付き合っていた男性がいた。妊娠と堕胎の経験があった。はたして彼女の恋人とは誰だったのか。はるかの過去を知るべく、当時の人々と連絡をとるうち、水帆は自分の過去ともまた向かい合う。群像劇ふうに多種多様な人物を巻き込んでの、ブラック・ボックスに手をかけるようなサスペンスをベースとしながら、過去と現在とを行き来する進行は、なかなか工夫の凝らされたものである。しかし物語を支えているのは、やはり、自分との向き合い方がよくわからない、他人との向き合い方をよく知らない、という、通俗的なテーマにほかならない。水帆ばかりではなく、彼女とのあいだにいわくありげな鳴海皓や、一学年上の先輩ではるかに片想いしていた矢内高史等々、自身に欠損を感じている者同士が、はるかの不在を通じ、はからずも行動をともにするなかに、濃厚なメロドラマの気配を見られる。

・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月23日
 この2巻から、安西信行の単独名義となった『MIXIM☆11』だけれども、巻末にはちゃんと野坂恒の名前も作画にクレジットされていて、まあ、このへんはいろいろと事情があるんだろうね、と思うしかないし、もしかしたらアクセル・ローズがガンズの名前に固執するのと等しく、ある種、作家性の発露であるのかもしれない、と考えられたりもするが、いずれにせよ、個人的にもっとも安西信行というマンガ家に望んでいるものが、『MIXIM☆11』にはよく描かれている、この意味において、とくに差し障りの出るような変更点がないのは喜ばしい、今のところ。

 安西の過去作である『ロケット・プリンセス』や『烈火の炎』のなかでも魅力的だったのは、やはり、学園をベースとしながらどたばた転げ回る部分である。そこには、日常生活とファンタジーの境で、男の子が女の子のためにがんばる、あるいは逆に女の子が男の子のためにがんばる、といった古典的なラブコメのモチベーションが、生き生きとしてあらわされていた。やりようによっては『MAR』もそういうふうにつくることが可能であっただろう。だが、ファンタジーの世界で繰り広げられるバトルに邁進する一方、学園という場所、空間は、帰るべき平穏な日常を象徴する以上のものにはならなかった。できればの話、『ヤングキング』誌に発表された「CRAZY MANIAX」みたいなマンガを、読み切りではなく、やって欲しかった。

 そうした、こちらの願いに近しい印象が、『MIXIM☆11』には、かなり、おおきく、ある。つまり、学園という器に、ささやかな日常と大胆なファンタジーの混在になった賑やかさが、溢れている。付け加えるなら、世間の評価がどうであれ、だ。

 自分たちが、北極星の王子候補であることを告げられた壱松と竹蔵、小梅の三人は、12星座の刻印をそれぞれ一人に一つずつ持つ少女たちを探す使命を負いながら、もてない高校生活に一喜一憂する日々を送っていた。しかし、そのような安寧を脅かす存在が、すぐそこにまで迫っている。危機の到来に備え、北極星の使者カルミナは、壱松らに特殊な能力(星の加護)を与えんとする、ちょうど同じ頃、壱松の幼馴染みである弓が、謎めいた転校生たちの手に囚われてしまうのであった。というのが、ここでのくだりであって、やがて繰り広げられる超常的なバトルの展開がどうというよりも、むしろそこへ至る過程のなか、モチベーションのなかに、ホットさがある。

 ホットさは、友情や愛情、とにかく誰かを大事にする気持ちに由来している。たとえば、兄貴分である勝っちゃん(勝巳)が、転校生の一人にやっつけられ、病院に入れられてしまったのを見、壱松が、表向きは静かに、しかし内面はかっとなって、怒りを行動に移すあたり、これは男同士の繋がりを、意趣返しを用い、表現しようとするさいの、典型的な作法に違いない。だがそれが起爆剤となり、順繰り順繰りテンションのあがっていく展開、いやより正確を期すなら、それを起爆剤とするための手はずまでをも含め、場面ごとに、だんだんとテンションを加えていくプロットのあり方は、正統であるがゆえの強度を有している。

 かっこういいとはどういうことか。深く考えるうち、素直に示せなくなってしまう作家もしばしば、いる。しかしながら、ここで目にすることのできるエピソードは、かっこういいとはこういうことだ、とでもいうような断言を、素直なぐらい、登場人物の一挙手一投足に託すことで、ひじょうに明確な、すなわちわかりやすく、熱を浮かび上がらせ、実感させる。

 今後に強敵があらわれても戦うことを決意した主人公たちから、彼らの秘密を明かされた勝っちゃんは〈死ぬかもしれない!! それでも誰もお前らに「ありがとう」なんて言わねーぜ!?〉と言う。これに対し、壱松、竹蔵、小梅の三人が〈別にいいよ。損得で決めた事じゃねえんだ〉と断固たる姿を見せるのが勇ましい。そしてその姿は、苛酷な運命に巻き込まれてしまった12星座の刻印を持つ女の子たちを守るためにがんばるという、回りくどさのいっさいないおかげで、まっすぐ、溌剌としたモチベーションに支えられているのである。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月21日
 岩原裕二の『学園創世猫天!』が、この巻で完結となる。全5巻というのは、今どき、決して長いものではないだろう。いや、むしろ短く見られてしまうかもしれない。それでも、十分にヴォリュームのある内容だと感じられるのは、作中人物がみな、まさに自分の為すべきを為し、すべてに十分な決着をつけ、ようやくのこと辿り着けたラスト・シーンの、その清々しくも爽やかな印象からやって来ているのだと思う。『学園創世猫天!』は、不思議な能力を持った猫たちと、彼らと交感する少年少女たちとが、学園生活そのものに仕掛けられた困難を、反目し、共闘し、成長し、乗り越えていくていの、現代的なファンタジーである。ストーリーが進むうち、謎めいた背景が、人類全体とその他の動物種族との一千年もの時に渡る確執によっていることが、明かされる。つまり、学校という閉域、日常での出来事が、世界規模の危機を孕み、そして歴史上の先端である場所として、作中人物の目の前にあらわれてくるのだ。クライマックスに入り、いよいよ登場してきたラスボスというか諸悪の根源というべき存在に実行されるのが、生まれ変わりと伝説の継承という、二つのモーメントを含んでいる点は、とくに注目しておきたいところだと感じられる。それらはおそらく、直線的な時間のなかにおける代替の可能性と不可能性を孕んでいる。あるいは、ほんらいは直線的な時間のなかで、次々に代替者を立て、継承されていかねばならない伝説が、生まれ変わりが起こり、一個人の意識が循環し続け、彼にながらく所有されてしまった結果、欲望のかたちに歪んでしまったので、それはいったん終焉を迎えなければならなかった。学園生活とは、直線的な時間のなかで循環的な時間が繰り返される、そのような空間でもありうる。こうした条件の折り重なりが、世界中を巻き込む災厄との重大な決戦に、本質的には小さな場所でしかない学校を、選ばせている。いやまあ、そういった設定自体は、今日のサブ・カルチャーにとって、もしかすると珍しいものではないだろう。しかし『学園創世猫天!』がすぐれているとすれば、その必然性が、みっちりと高められているためである。終局にさいし、とある少年が元凶たる人物に一撃を加える展開が描かれている。両者の血縁関係を踏まえるなら、これは進んでしまった時間は、元に戻らず、先にしか進められないことの暗示になっている。やがて、〈こうして叉美学園にまつわる千年の物語は終わりを遂げました〉とヒロインが告げるとおり、日常の物語に戻った学園生活もまた、なだらかに時を先へ先へ進めていく、それを前向き、肯定するかのような様子が、ラスト・シーンに、清々しくも爽やかな印象をつくり出している。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 16巻の表紙カバーが思いっきりネタバレしているのだが、しかしまあ、それすらも些細なことよ、と思わされてしまうのが、ゆでたまごの、『キン肉マン』シリーズの魅力か。15巻と16巻とが同時刊行となった『キン肉マンII世 究極の超人タッグ編』だけれども、二冊のうちでは、ロビンマスクとテリー・ザ・キッドによって組まれたアドレナリンズと時間超人であるサンダー&ライトニングの世界五大厄(ファイブディザスターズ)の戦いを描いた15巻の内容が、最高潮に燃えるし、泣ける。未来の息子、ケビンマスクを救うべく、ふたたび因縁の不忍池デスマッチに挑んだロビンマスクは、見事な正義超人の意地と誇りをみせる。それを目の当たりにしたキッドは、自らの命を懸け、サポートの役割を十分に果たすのである。アトランティス戦の再現を経て、逆転の糸口を掴んだアドレナリンズであったが、時間軸をずらす能力を持ったサンダー&ライトニングに、残念ながら、及ぶことができない。不忍池に引きずり込まれたキッドが、右手で闘志をサインする場面は、何度も繰り返されるほどに、涙してしまうよね。そして、今まさに力尽きんとするロビンマスクが〈せ…正義超人に犬死には許されん せ…正義超人の死の そ…尊厳は悪を倒した時のみにあり!〉と示す覚悟が、たまらなく、胸を熱くする。「究極の超人タッグ編」は、いうなればタイムトラベルものの意匠を借りているわけだけれど、正義超人たちの前に立ちはだかるのが、時間を自在に操るサンダー&ライトニングでなければならなかった理由は、ライトニングのこういうセリフに出ていると思う。〈“時間”は必ず森羅万象あらゆるものを消し去っていく――っ “時間”に対しては命乞いをしても無駄だ! どんなに金を積んでもどうにもならぬ! 正義も! 友情さえも! 全ての言葉が空虚な亡骸となる! 悪魔であっても! 完璧という言葉さえも“時間”の前には全くの無力!〉なのである。続けてライトニングは、キン肉マンに向かって〈キン肉スグルよ きさま その名の通り 今は筋骨隆々の病気知らず 食欲も旺盛であろう? つまり それだけ若いということだ!〉と言い、〈しかし 自分が将来老いるということなど 考えたこともないだろう?〉と言う。老い、というのは「究極の超人タッグ編」にかぎらず、じつは『キン肉マンII世』全体を貫く一本のテーマでもある。たしかに、初代『キン肉マン』の登場人物たちは、後年の『キン肉マンII世』において、老いさらばえた姿をさらさねばならなかった。だがその魂は、次世代たちに受け継がれることによって、洗い直され、決して損なわれない輝きを持つに至る。こうした継承のテーマが、ロビンマスクとテリー・ザ・キッドの敢闘には、そしてそれを見守る前世代と新世代の視線には、如実にあらわれている。

 8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(2) | マンガ(08年)
2008年12月20日
 この『じゅんさいもん』は、九十九森(原作)と国広あづさ(作画)によってはじめられた料理マンガである。同コンビは、すでに『めっちゃキャン』という、築地市場を舞台にした料理マンガを発表しているけれども、掲載誌上、あちらが少年誌(『月刊少年チャンピオン』)向けの内容であったとしたら、こちらは正しく青年誌(『プレイコミック』)向けの内容になっている。しかしそのことが、いやまあ1巻の段階ではとの留保付きで、作品をひどく凡庸にしてしまっているように思われる。どういうことか。『めっちゃキャン』では、向こう見ずな主人公の持つある種の荒唐無稽さが、かろうじてストーリーに魅力を備えさせていた。それはやはり、少年マンガのカテゴリーでやっていこうとするがゆえに、許されたものであったのかもしれない。だが、『じゅんさいもん』に描かれているのは、つっぱった若者が、厳しい料理の世界で揉まれ、成長していくていの、要するに、皆さまご存知のストーリーでしかない。そしてその、ありふれた物語において、とくにここがこうといったインパクトを得られないのである。たしかに、ほかにも料理マンガをいくつも手がける原作者が提供しているのだろう知識は、取り上げられる題材に対し、一定の説得力を与えてはいるにちがいない。だが、ドラマのレベルで見るなら、ステレオ・タイプな料理マンガをやっているだけ、にとどまってしまっているばかりか、一個一個のエピソードのなかに、今のところ、印象的な場面をつくり出せずにいる。来店客の難題に答えるトラブル・シューティングの路線ではなくて、作中人物たちの人間関係を軸に展開するつもりなのであれば、どうもいまいちそれが描き足りていない。

 『めっちゃキャン』
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 主将!!地院家若美 6 (6) (少年マガジンコミックス)

 やきうどんの『主将!! 地院家若美』も6巻になるけれども、ますますくっだらないのがよろしいよ。もちそん、そうしたマンガに対して、わざわざあれこれ考えてみせるのは無粋なのかもしれないが、しかし作品の魅力は、単純に下品なネタがふんだんだから、というだけではないと思う。『主将!! 地院家若美』は、あくまでも骨格のみを取り出すなら、学園生活をベースとしたコメディにほかならない。その、学園生活を営む登場人物たち、とくに題名にもなっている地院家若美のエキセントリックさが、ストーリーとギャグとをリードしている。彼は、後輩の若鳥という美少年を執拗に追い回す変態であると同時に、伝説の武術とされる地院家流合気柔術の継承者である。コメディにかぎらず、学園生活をベースとするマンガの多くは、日常と非日常、そしてユーモアとシリアスの、四つのバランスによって支えられている、まあ、おおざっぱにいえば、だが。たとえばこれを『主将!! 地院家若美』に用いるならば、先ほど述べた若美が変態であることも、また彼がある種の宿命を抱えていることも、どちらも非日常にかかっており、さらに前者はユーモアへ、後者はシリアスへかかっているふうに見える。では、日常はどこにあるのか。一つの仮定ではあるけれど、作品全体を覆うどうしようもなさ、くだらなさがこそがつまり、日常そのものにあたるのではないか、という気がする。この巻では、若美の幼馴染みであり、やがて命を賭して相まみえなければならない、天敵とでもすべき天院家老醜が、なぜか、登場人物たちの通う大内裏高校の校長として、就任してくるといった展開が訪れる。この理由を老醜は〈一見 今の日本は平和に見えるが 未曾有の危機に見舞われている!〉ため、〈もはや国政は腐りきった政治家には任せておけぬ〉ので、〈天院家は常に政治の陰にまわってきたが‥‥〉、もはやそうもいかず〈とうとう表に出なければならないレベルにまできているのだ‥‥〉と、〈そこで私が校長になるということは‥‥明日の日本を背負う若者たちを肌で知るということだ‥〉と、説明されている。これはいっけん、なんとも現実味のないロジックではある。しかしながら、サブ・カルチャー史において、それこそ番長的な存在が出てくるようなオールドスクールの学園ドラマを振り返るならば、決して突飛なものではないだろう。そして大半の作品は、物語を、そこからシリアスに傾斜させていった。日常の象徴であるような学園の舞台に、非日常がなだれ込んでくるのである。近年にも、こういった手法を応用した作品は、数々見かけられる。『主将!! 地院家若美』が特筆すべきなのは、本質的には、非日常とシリアスを物語に導入しても構わないはずの老醜が、学園の外からやって来、ひとたび学園の内に入ってしまえば、作品に充ちているくだらなさにもすっかりと馴染んでしまうことだ。先に引いた校長就任の、まるで大げさな理由でさえ、女子更衣室の覗きという、たいへんせこい出来事に回収されていく。当然、コメディだからそうなっているわけだが、それは結局のところ、どうしてこれがコメディになっているのかの説明とはならない。こうしたとき、このマンガの日常とは、つまり、くだらなさのことにほかならず、それはつねに非日常やシリアスを圧倒的してしまうほどに大きいため、作品はコメディにならざるをえないと考えられる。もっというなら、日本の将来も殺伐とした事件も、作中においては、下品なネタのギャグと同じぐらい、くだらなく、どうしようもないのである。こうした構造にあらわれているのは、厚顔無恥の訳知り顔で社会批判をやらかすよりも、よっぽど潔く、堂々としている態度であって、そのことの好感が、『主将!! 地院家若美』の魅力を支えているのだと思う。いや、ごめん、じっさいに書いたら書いたで、やっぱり無粋なことしかいえてねえや。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月15日
 0851.jpg

 「第71回週刊少年チャンピオン新人まんが賞」準入選作として、『週刊少年チャンピオン』NO.2+3(09年1月5日+8日号)に発表された、濱口裕司の『Can you(勧誘)?』を読んだら、たのしかった。『週刊少年チャンピオン』NO.51(08年12月4日号)掲載の同賞審査発表で、浜岡賢次が〈話はそこそこだけど、キャラクターが主役も脇役もいい! 絵にスピード感がある〉と評し、米原秀幸が〈バカマンガなのにさわやかだ〉としながら〈セリフの生きのよさとテンポでキャラを魅力的にしている〉といっているのが、ちょうどぴったりな印象の作品だと思う。まあ、いくつかのカットにはお手本のありそうな気配がつよいし、全般的に拙さの目立つ箇所のほうが多いけれど、そうした点を差っ引いても、十分に魅力は残るだろう、と感じられる。バスケット・ボール部唯一の部員にしてキャプテンである村咲涼は、学校中から白い目で見られる変人でもあった。その主人公の空回りするやる気が周囲を巻き込み、なかには絆されてしまう人物たちのあらわれる様子が、前編に描かれ、3人まで部員が集まったところで無謀にも練習試合が組まれると、じつは主人公がポテンシャルの高いプレイヤーであったことが、後編では明かされていく。基本線は、テンションの高いコメディであるが、なるほど、テンションの高さをそのまま、スポーツの場面にも転じて用いるなかに、爽快でもあるカタルシスが生まれている。正直、バスケット・マンガ(スポーツ・マンガ)として真剣に見たら、ずっこける部分がおおきい。しかし日常の、学生の、とくに男子のそれをベースにしたマンガとしては、なかなかに恰好がついている。何がどうだとかの目的をもった行動を示すのではなく、とかく目立ちたい、自分が主役になりたいという、思春期的だからこそシンプルで無軌道な欲望が、作品のイメージを担保しているのである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月14日
 ヤマトナデシコ七変化 22 (22) (講談社コミックスフレンド B)

 はやかわともこの『ヤマトナデシコ七変化』も22巻である。作品は今も続いている。以前にも述べたが、これを一個のストーリーとして見るなら、正直、長すぎる。だが同時に、よく内容が保っている、よく内容を保たせているな、と感心もする。そもそもこのマンガは、物語を動かすにあたり、ゴールが決められているところからはじめられているような部分がある。単行本のアタマに置かれた「あらすじ」にあるとおり、ホラー趣味の行き過ぎな性格の暗いヒロインの「スナコを」、彼女と同居することになった四人のイケメンさんが、3年間で立派な「レディーに仕立て」あげることだろう。すなわち、期間は限定されていて、それはいつか、終わりを迎える。そして読み手の多くは、四人のイケメンさんのなかでもとくに、硬派タイプの恭平とスナコとがくっつくときが、それにあたるのだと念頭に置いている。あるいは、彼らの学生生活が完了し、同居している理由がなくなったときが、そうなるのだとも考えている。ここで、不満となって出てくるものがもしもあるとするなら、いつになっても、その終わりがまったく見えてこないことだといえる。もちろん、ストーリーの都合に合わせ、あたかも作中の時間が繰り返しているふうであり、ループしているふうであるというのは、『ヤマトナデシコ七変化』にかぎった事例ではないだろう。作中の時間は繰り返しているふうであり、ループしているふうであるけれども、物語の進み具合や登場人物たちの感情は、リセットされているわけではない。たんに日常のコマ数の加算でしかない。結果、すべてがあらかじめ設定されているはずのゴールへ辿り着くまでの迂回路をつくっているにすぎない、と見えてしまう。こうした光景の存在は、決して珍しいものではなく、ある意味で、お約束ともとれるパターンにほかならない。ふつう、日常をベースにした作品においては、恋愛や友情の他愛もなさに重みが加わり、それが物語を転がしていく。しかし転がり方がどうも鈍重なんじゃねえか、と思われるような局面にあって助長されるのは、物語の展開自体に直結するシリアスな要素よりも、それとは別方向で繰り広げられるコメディの要素だというのが、大概であり、そのことは『ヤマトナデシコ七変化』に関しても、同様である。ストーリーについてはもはや、おおよその検討がついてしまっていて、あとは早くゴールしてくれればいいよ、という期待ぐらいしか残されていない。にかもかかわらず、よく内容が保っている、よく内容を保たせているな、と感心するのは、ネタとしたならばワン・パターンでありながらも、一定の質と量をこなしているためで、この巻でいうなら、本筋とは無関係なワキの人間の恋愛をエピソードに盛り込むなど、今なお作者なりの腐心がうかがえる。いやいや、なんだか、毎回、当たり前の、しかも同じことばかりを書いている気がしてしまうけど、しかしまあ、それも結局、作品の性格によるものか。

 21巻について→こちら
 20巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月13日
 現在、泉谷あゆみ(脚本・田畑由秋、作監・余湖裕輝)が手がけている『ウルフガイ』は、平井和正の原作にアレンジを加え、学園バトル・ロマンに特化するかたちでマンガ化した作品だといえる。米沢嘉博は、『戦後SFマンガ史』のなかで、70年代終盤には〈SF小説を原作に求めた劇画、マンガも多く現れていた〉けれど、言葉と絵の表現上における制約の違いのためか、〈それらのほとんどは、原作の面白さをマンガとして表すことができず、逆に活劇に徹したものの方が原作の面白さを越えることがあった〉といっており、ある種の困難のあらわれと見ているが、しかし、そうしたSF小説家のアイディアから、とりわけアクションの要素を引き出し、あらためて少年の日常と非日常、少年の健全性と不良性、そして少年の意志と姿を託すことで、物語を構築もしくは再構築していく試みは、その後のマンガ史において、さまざまな影響を受けながら、独自の領域をも確保し続けてきたのである。たとえば90年代には、菊池秀行がマンガ用に原作を提供した、細馬信一の『魔界学園』があった。この、半村良の『妖星伝』を設定協力にクレジットする、桑原真也の『ラセンバナ(螺旋花)』もまた、『ウルフガイ』や『魔界学園』と同様に、SFあるいは伝奇的なファクターを手がかりに、学生たちの血なまぐさい抗争を大胆に描いている。なかでも『ラセンバナ』がユニークなのは、桑原が前作『R-16』で培ったヤンキー・マンガ的なイディオムが、ふんだんに取り入れられていることだと思う。

 春とまどかの剣(はばき)姉弟は、当人たちの与り知らぬ理由により、私立蘭武高校(通称ラブ高)の主流派チーム「鬼道」から狙われてしまう。拉致されたまどかを救うべく、奔走する春が、無勢に多勢の窮地に困惑するとき、助けに現れたのは、かつての親友、四騎森リョオであった。〈剣 春の敵は オレの敵だ〉と嘯くリョオの協力を得、春は囚われたまどかのもとへ向かう。一方、何も知らないまどかは、じつは「鬼道」のリーダーである鬼道逞馬と裏で繋がる学校の理事長から、〈君は「鍵」なんだよ 30年間 わたしが 探し続けた「宝」……「黄金城」を見つける為のね……〉と告げられる。以上がこの2巻の導入である。たしかに、春の身に突如として起こる異変や、登場人物のセリフに秘密めかされた謎など、奇々怪々な諸事情の数々こそが、ストーリーを駆動させるキーにほかならない。けれども、現段階では、心に葛藤を抱えた少年たちが繰り広げる不良ヴァイオレンスによって、展開のダイナミズムは担われている。とくに春とリョオの交わす友情に滾るものがある。リョオを巻き込むことを良しとしない春が〈これはオレの喧嘩だ――ってゆっといたよな? リョオ……〉と言う。これに答えてリョオは〈自分 一人で背負い込もーなんて思い上がってんじゃねェーよ……オマエの背中は いつだって オレが預かんよ 春ゥ……〉と言う。こうした二人の繋がりの前に、いよいよ猟奇的な本性を剥き出しにしてきた「鬼道」が立ち塞がる。

 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月11日
 平川哲弘の『クローバー』において、長めにとられたエピソードは、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、というプロットにまとめられる。たしかに、それは少年マンガ全般にオーソドックスなものであるのかもしれないが、ふつうテーマとでもすべきものが先んじ、たとえそうでなくとも、そこから起承転結式のプロットがつくられているふうに読める、あるいはテーマを掘り下げていくうちプロットが複雑化しているふうに読めるのに対し、『クローバー』の場合、じつに簡単に、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、とでもいいたげなプロットに収まってしまうのは、テーマとでもすべきものを作品が持っていないからなのではないか。いや、もうすこし正確を期したい。たとえば、日常を舞台にした物語では、たいてい、友情や恋愛や青春といったものが、主題化され、焦点化され、いくつもの展開を支える重心となる。いわゆるヤンキー・マンガ系のスタイルが、仲間や恋人のため、主人公にケンカをさせたりするのも、結局のところ、こうした理念に従っているためだろう。だが、『クローバー』を読んでいると、あたかも、そうした理念が背景のほうへ後ろ回しになっているかのような印象を持つ。もちろん、ストーリーをちゃんと追えば、主人公のハヤトは、トモキやケンジなどの友人たちを大事に思い、彼らが傷つけられたので、または彼らに協力し、悪人をやっつけにいくことになっている。だが、そうした感情はさしあたり、悪人をやっつけにいくプロセスに奉仕するものでしかない。結果、まんま主人公が悪人をやっつけてめでたしめでたし、といったプロットに、いとも容易くまとめられてしまうのである。『クローバー』は、基本的に、不良少年を扱ってはいる。しかしながら、主人公たちの不良性というのは、『サザエさん』に出てくる磯野カツオが悪ガキだという意味での、それと大差ない。カツオが家族から愛される悪ガキである以上、思春期の葛藤や成長を望まれない存在であるのと同じく、『クローバー』の主人公たちも、いちばんのトラブル・メーカーで、天涯孤独に近しい立場のハヤトでさえ、ぐれているわけでもなく、トモキの母親などの年配女性から親しまれ、信頼されているように、大人の期待を決して裏切ることがない。この8巻に収められたエピソードでは、イチゴ(オッサン)という人物のために一肌脱いだハヤトが、その事情をいっさい問われることもなく、イチゴの母親から存分に感謝されている。茶番じゃないか、とまではいわないが、こうした屈託のなさが、個人的には(今のところの)作者の限界であると感じられる一方、テーマとでもすべきものに比重を置かないカジュアルさが逆に、ある種のつよみになっているのは間違いなく、その点については、いずれもうすこしくわしく考えてみたいところである。

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月09日
 女神の鬼 11 (11) (ヤングマガジンコミックス)

 とりあえず『KIPPO』の話からはじめたいと思う。ご存知のない方は、『KIIPPO』って何だよ、となるのかもしれないので、簡単に説明すると、『ヤングキング』08年18号より田中宏があたらしくスタートさせた連載(とはいえ、現在の段階では読み切りに近しい)のことである。物語は田中の過去作『BAD BOYS』や『グレアー』と同じ世界のその後の時代を舞台にしている。つまり、この『女神の鬼』との連なりを持っている。発表された順にするなら、『BAD BOYS』→『グレアー』→『女神の鬼』/『KIPPO』ということになるけれども、作中の時系列に直すなら、『女神の鬼』→『BAD BOYS』→『グレアー』→『KIPPO』ということになる(じつは『BAD BOYS』や『グレアー』にも歴史を遡って描かれたエピソードが含まれているが、それはひとまず置いておくとして)。『KIPPO』の主人公の桐木久司は、どうやら『BAD BOYS』の主人公の桐木司の息子らしい。こうして四作を通じ、登場人物や彼らの関係性に、かなりの部分の重なりが出来ている。しかし、ここで注視されなければならないのは、それらが単純な続きもののごとき、または次世代もののごとき続編ではない、との点だろう。それこそ、中上健次の小説『地の果て 至上の時』が『枯木灘』の続編であるように、さらには『奇蹟』が『千年の愉楽』の続編であるように、田中宏のマンガ群も、いうなればサーガとでもすべき内容のうちに、特殊な体系をつくりあげているのである。

 たしかに『グレアー』は『BAD BOYS』の続編でしかありえない。だが、それは必ずしも『BAD BOYS』で展開されたドラマを、繰り越し、更新、上書きしてはいない。むしろ、べつの枠組みが地盤をともにする物語のなかに生成される過程を追っている。ただ歴史の共有だけが両者を結びつけているにすぎない。この場合の歴史とは、作品内部の設定のことであり、作者の問題意識のことである。まだ不明瞭な部分のほうが多いが、おそらく『KIPPO』もそうだろう。同じく、『女神の鬼』もまた、『BAD BOYS』の、たんなる前日譚ではない。作中の、つまり物語世界の歴史的には、もっとも古い出来事を扱ってはいるものの、しかし物語外部の、つまり作者の歴史的には、もっとも新しい出来事を扱っている。『KIPPO』に描かれている家族たち(ファミリー)のシーンにしても、あれはもちろん、『グレアー』のラストからきていながらも、じつはそれ以上に、家族や日常の場面からだんだんと離れていく『女神の鬼』から並行的に、あるいは逆接的に、派生したものなのではないか(もっといえば『莫逆家族』のストーリーを踏まえてはいるのだろうが、ここでは置いておく)。そして各個においては、尋常ならざる深みがえぐりとられており、すくなくとも、こうした田中の試みは、かなり高度なレベルに達しているし、他の追随を許していない。この時代に珍しくワン・アンド・オンリーな作家だといえる。

 さて。本題は『女神の鬼』の11巻である。のちに「カラーボウルの乱」と噂されるボーリング場の死闘にも、いよいよ決着がつく。ここでのくだりも、読み応えに読みどころがすさまじく多く、どこから手をつけたらいいのか、悩むほど。内海を裏切ったケンエーの目論みも、広島ナイツのガネ(小金澤)が〈野望のために寄せ集めた仲間なんて所詮 いつかは壊れるモンじゃ‥‥!! ホンマの仲間っちゅーモンは…ほっといたって勝手に引き寄せられて集まって‥‥固く結ばれるモンじゃろォがぁ‥‥!!〉というとおり、今まさに敗れようとしている、そのとき警察による一斉検挙をくぐり抜け、広島中のチームがボーリング場に駆けつけ出していた。先に引いたガネのセリフも合わせ、ほんらいは敵対していたはずの廣島連合は五島が、内海に向かい、大声で呼びかける言葉が印象的である。〈内海ぃいいーッ!! 迎えに来たでぇええ――ッ!! いっしょに帰ろーやぁ――――――ッ!! 島んなんか行かんでも…ココに作りゃーえ――――‥‥みんなで帰ってから一から作り直そ――やぁ――――‥‥この時代に‥‥同じよーに跳ね上がった皆で 楽しく過ごせるよ――な……ワシらの国を…!!〉。こうした夢はしかし、ケンエーを庇った内海の悲劇によって、叶わない。そして〈検挙者78名中重軽傷者23名‥‥そして死亡者1名を出したこの夜は終わりを告げる‥‥‥‥‥‥〉のみだった。

 主人公のギッチョたちが、そこで経験しているのはたぶん、コミュニティの崩壊と新たな建設が、まるで卵が先か鶏が先かとでもいうように、表裏の関係にあるとしたら、どちらも人為的には選ぶことができない、という不幸だろう。そうした結果から見て、コミュニティに加えられなかった人間は、あるいはコミュニティから追放された人間は、孤独な鬼にでもなるか、さもなくば自らが王様になるしかない。これを受け、いよいよ物語は、鬼を集めているという、王様になれるという、鎖国島と呼ばれる謎めいた地に向かい、動き出す。

 鎖国島、本当なら内海もそこへ連れて行かれる予定だった。彼もまた鬼にしかなれなかった人間だからである。一連の騒動から廣島連合を引退した五島は、初代極楽鳥であり、警察官として後輩たちを見守る岩田(岩さん)に、〈ワシは岩さんみとーーな立派な道へは行けそーにない‥‥‥‥‥‥決めた‥‥っちゅーか 最初っから決まっとるんスよ‥‥きっと‥‥〉と告げ、こう話す。〈ワシらみとーなヤツらの中にもいろいろおって‥‥ヤンチャな時代を経て 立派な大人になれるタイプと‥‥ワシみとーに結局 ヤクザになってしまうタイプ‥‥‥‥‥‥そして……〉と。五島が、岩田と自分との対照によって述べているのは、あくまでもこの社会で生きていける可能性のこと、この世界のどこかに必ずや生きられる場所のある人間を指している。しかしながら〈‥‥‥‥‥‥そして……〉と続けて言おうとし、口ごもるように〈内海みとーに この世界じゃあ……生きる場所がないヤツらがおるんじゃ…!!〉という第三のタイプが、存在する。以前にも触れたが、この第三のタイプとは、つまり、反社会的な人間をいうのではない。没社会的もしくは脱社会的な人間の傾向にほかならない。没社会的もしくは脱社会的な人間の心理と行動は、もちろん、ヤンキー・マンガに固有のトピックではないだろう。今日の文学やサブ・カルチャーの表現全般に、しばしば見受けられるテーマでもある。

 だが田中宏の筆致は、他の作家たちをはるかに凌いでいると思う。それは、この世界を、この社会を、この時代を、決して平面に描いていないからだ。そう、『女神の鬼』の舞台が現代ではなく、昭和58年の日本であったことを思い出されたい。サーガとでもすべき、歴史の縦線を据えることで、立体的に、相対的に、普遍的に、映し出される個人の歪みをすくい取っているのである。ついに鎖国島の存在を知ってしまったギッチョたちが、どうしてもそこへ向かわなければならない、とでもいいたげな衝動に駆られるのは、世界そのものの欠陥をつよく感じ、生きている実感を得られなくなってしまったためだろう。もしかしたら世界に欠陥があると感じられるのは、彼ら自身が欠陥を抱えているせいなのかもしれない。5人で50人を相手にしなければならないという試練も、結局のところ、血気盛んな彼らを充たすことなく、ギッチョに〈なんやこりゃあッ……!! お!? こんなモンかぁあああッ‥‥‥‥!! 残っとるヤツは‥‥こんなモンしかおらんのかぁああッ たらんのじゃああ〉と叫ばせる。欠陥があると気づかれてしまった世界には、もはや彼らの欲望をなだめるだけの価値がない。

 ならば他人から鬼として見られ、見られたまま、死ぬか。いや、逆に自分のほうからこの世界を突き放すべく、ギッチョは〈ワシは……ワシの決めた法で動くで‥‥ココに居場所がないだけじゃない‥‥ワシは……王様になりに行くんじゃッ!!〉と言う、そしてそのために鎖国島行きを決意する。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月07日
 きんぼし 2 (2) (ヤングマガジンコミックス)

 明石英之の『きんぼし』の連載が、『週刊ヤングマガジン』NO.1(09年号)で終了してしまったのは、最近がっかりしたことの一つで、いや、これ、詰まらなかったってことはぜんぜんないだろ、と思うのだけれども、まあ、相撲というレアな題材が、しかし目立つほどのフックとならず、スポーツ・マンガにオーソドックスな努力と根性型のストーリーが、今どき地味に見えてしまったのかもしれない。でも、そこがよかった。『きんぼし』に描かれていたのは、ずばり、いかにして過去の挫折を乗り越えるか、であり、そして同時に、それ以前の自分よりも高みにまで這い上がれるか、であって、その、奇をてらわない、真っ正直で汗くさいドラマに好感を持っていた。

 高校1年ながらも天才ピッチャーとして知られた主人公の甚野新太であったが、気位の高さが自業自得となり、試合中に大けが、左目にダメージを負い、ふたたび野球をプレイするめどが立たなくなってしまう。これにより、華やかさとは無縁の高校生活を歩まなければならなくなったところを、その高い身体能力を買われ、相撲部の嫌味な主将、長尾蒼士にスカウトされ、彼と勝負し、負け、あらたなやる気を得、蒼士のほかにも一癖も二癖もありそうな清楓高校相撲部員たちに混じり、まわしを巻き、土俵にあがることとなる。以上が1巻のあらましであるけれども、この2巻では、蒼士の弟で、名門強豪校東洸学院のレギュラーをつとめる暁人と仲間が、道場破りよろしく、新太たちの練習中に乗り込んできたことから、突然の試合展開となる。

 そうして強敵と向き合ううちに、明かされるのは、新太以外の面々もまた、乗り越えなければならない挫折を抱えていた、ということである。たしかに、こう概要を述べて、驚くほどの展開があるわけではない。だが驚きよりも、作中人物たちに託された熱意のほうこそを読まれたい。とくに、部員のなかでいちばん駄目駄目な、いじけたぽっちゃりさんふうの諏訪公彦に闘志のわく姿が、いいね、と思う。たぶん諏訪に、挫折というぐらいおおきな挫折の経験はないのだろう、むしろ逃げながらうまく生きてこられたので、いざ勝負の段になっても、痛い目に遭いたくないと〈うん そうだ‥‥無抵抗で さっさと負けてしまおう‥‥そうしよう‥‥〉と考える。しかし、すこし取り組んだだけで、その弱さを相手に見抜かれてしまい、〈ワシが寄り切るまでもない 自分から土俵割れや!!〉と、屈辱の言葉をかけられるのであった。

 ほかの部員たちには実力を知られている以上、たとえ〈ここで自分から負けを認めても…みんな 責めはしないだろ?〉と敗北を認めるのも致し方なし、いったんは敵方に背を向ける諏訪であったけれど、〈でも これって‥‥めちゃくちゃカッコ悪くないか?〉と、〈鼻血だろうが脳震盪だろうがそんなもの‥‥一瞬だ!! ここで逃げたら‥‥その屈辱は一生残る!!〉のだと、決死の想いで立ち向かおうとする。もちろん、覚悟や根性でどうにかなるような、ご都合主義は排せられており、結果的には〈ふん!! 気合いだけじゃどうにもならんのじゃ!!〉と一蹴されてしまう。しかしながら、重要なのは、その気合いがどこからやって来たのか、何をもたらしたのか、であろう。

 先に引いた〈ワシが寄り切るまでもない 自分から土俵割れや!!〉という、東洸学院相撲部員の言葉は、まさしく諏訪のプライドを折ろうとしている。もしも諏訪に挫折があるとするなら、まさにこのときがそれになりえたのである。たとえば、自分に勝つ、自分に負ける、というふうな言いがある。そうした個人的な分岐が、のちのち自己評価を低めるような後悔になることを指して、挫折と呼ぶのであれば、諏訪が乗り越えてみせたのは、先取りされたそれだといえよう。悔し涙はそこから流れる。勝負には敗れた、結果が出せなかったとしても、異なるレベルで、諏訪には勝ち取られたものがある。そしてそれをつまり、成長とも前進とも受け取れることが、物語に熱い息吹を呼び込んでいる。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月05日
 死が蠱惑的にもやさしく見えるのは、たとえば、どこにも逃げ場がないような苦しみのなか、ただそこだけがひらかれていると感じられるときである。しかし皮肉なことに、好むと好まざるにかかわらず、誰一人として死から逃れられる者はいない。生きるに悩み、死ぬに悩む。ぶれながら、揺れながら、感情は、命に寄り添う。兄の自殺をきっかけに、遺品整理業でアルバイトをはじめた主人公の岡崎裕行が、さまざまな経験を積むうち、それまで知らなかった現実に触れていく姿を、きたがわ翔の『デス・スウィーパー』は描くが、この4巻では、裕行が勤める「スウィーパーズ」の、他の社員たちの抱える葛藤がくわしくなっている。とくに、裕行のパートナーとでもいうべき三輪の素性があかされるくだりは、注目に値するだろう。

 たまたま訪れた仕事先が、恩人の自殺現場であったため、衝撃を受けた山本という社員は、立ち直れず、「スウィーパーズ」に退職願を出すことになる。それを見、〈怖くなったのか?〉と尋ねる三輪に、山本は〈自分の死についてどう考えてる?〉と問い返しながら〈オレは死ぬのがすごく怖い…〉と告げるのである。これに対し、〈どこに逃げ隠れしようとも 誰も死からのがれる事は出来ないんだ……〉と、三輪は言い放つのだった。ここでのやりとりは、どちらが正か否かを照らし合わせるものではない。たんに一つの現実が確認されているにすぎない。そう、つまり、死からは逃げるにも逃げようがない。そしてもちろん、その現実からも逃れることはできない。こうした前提が誰の人生にも含まれている。極端をいうなら、現実に追いつかれるのが早いか遅いかは、程度の差ですらある。
 
 それにしても急展開なのは、当の、死を間近に感じることをおそれ、「スウィーパーズ」を去ったはずの山本が、突然の事故死に遭ってしまうことだよね。読みようによっては、ちょっといきなりすぎるのではないかな、もうワン・クッション欲しかった気がしないでもない、と戸惑う具合だけれども、これを機に、生前の山本が自分の死体を託すと遺言していた宗教団体「バタフライ・メモリーズ」が物語に介入してくる。あるいは「バタフライ・メモリーズ」を物語に介入させるためには、あらかじめ山本の死が用意されなければならなかった。さまざまな遺体を事務的に処理してきた人間だったがゆえ、逆に〈蝶の鱗粉から特殊な防腐剤を作る技術を持っていて それによりまったく腐らせる事なく遺体を保存出来る〉という話の、都合の良さに乗ったとしても、不思議ではあるまい。

 そしてその「バタフライ・メモリーズ」と三輪のあいだに、じつは断ち切れない因縁のあることが、山本の死を経由し、明かされることとなるわけだが、重要なのは、もしも遺品整理業の反動として山本が「バタフライ・メモリーズ」を選んだとしたのであれば、「バタフライ・メモリーズ」の反動として三輪が遺品整理業である「スウィーパーズ」を選んだようにも思われる点であって、すでに挙げた二人のやりとりは、そのような相違の先取りにもなっている。〈オレは死ぬのがすごく怖い…この仕事を続けていても この人生が終わったらバクテリアに分解されて ただの土になってしまうという事実が今ひとつ分からない……〉と述べる山本に向かい、三輪は〈この世にある全てのものは終わりがあるから美しいんじゃないか〉と言ったのである。

 では、そうした有限のなかに、三輪が具体的にいったい何を見ている、見ようとしているのかが、(連載が続くのであれば)今後のキーを握っているのだと思われる。裕行とのあいだに築かれつつある一種の信頼も、おそらく、そこに含まれていくのではないか。作者の趣味や影響源からして、裕行と三輪の関係性は、少女マンガにおける同性同士のプラトニックなそれへのオマージュにも感じられる。いや何も、裕行と三輪のあいだに恋愛感情を無理やり見よ、といっているのではない。古典的な少女マンガにあっては、あるいは死こそが、尊いエモーションを照射するものであった。他の誰かへの、憐れみ、慈しみ、鎮魂が、孤独と幸福とを認識させる。同じく彼らはともに死という坐礁が決して遠からぬことからひりひりとする生の実感を得ているのである。

 1巻について→こちら

・その他きたがわ翔に関する文章
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年12月01日
 つい先日、英ロック・バンドMANIC STREET PREACHERSのメンバーであり、ながらく行方不明を続けるリッチー・エドワーズが、法律上死亡認定されたというニュースがあったが、MANIC STREET PREACHERSといえば、『STAY BEAUTIFUL』EPやファースト・アルバムの日本盤ライナー・ノーツを書いた岩見吉朗の、あの激しいアジテーションぶりが、どうしても思い出されてしまうわけだけれども、そうした頭でこの『ラーメン発見伝』を読んでいると、ついつい空しい気持ちにならざるをえないのは、ご存知のとおり、原作をつとめる久部緑郎というのが岩見の変名だからで、ううん、序盤の頃はともかく、最近はもう内容の乏しさが著しく、このようなぐだぐださこそをかつての彼はもっとも嫌悪したのではなかったか、と思ったりもするためであった。まあ、その身をもって破滅しないことの醜悪さを証明しているのかもしれない。以上は余談である。が、しかしなあ、と思う。もちろん全部がぜんぶではないにしても、料理マンガの連載が、とくに青年以上向けのそれが、しばしば長期化しがちな傾向であるのを、作品構造の点から見るのであれば、『美味しんぼ』や『クッキング・パパ』の例を挙げるまでもなく、豊富な食材や調理方法のぶんだけエピソードがつくれるというのもあるだろうし、物語をサラリーマンものや家族もの、ときには恋愛ものにシフトしやすいというのもあるだろう。そしてそのような要因が、おそらく、間口の広さや安定感にも繋がっている。たしかに題材をラーメンに特化しているとはいえ、石神秀幸の協力をあおぎ、久部緑郎が原作を手がける、河合単の『ラーメン発見伝』も、こうした恩恵下にある。いや、当初はそこからすこしずれたところで特色を出そうとしていたのが、とうとう、その恩恵のみでやりくりするようになってしまった印象を受ける。いつか自分のラーメン屋をひらく夢を持ち、昼間は会社員として働きながら、夜は屋台を引く主人公が、会社の内部で趣味と仕事を一致させるあたりまでは発展性があったものの、だんだんと惰性のルートにはまってきてしまっている。この23巻では、長野を舞台にした信州ラーメン対決が真ん中に来ているけれども、ロジックというよりはレトリックでやっつけたふうな勝敗は、どうもいまいち盛り上がりに欠ける。単発系のストーリーについては、エキセントリックな登場人物を出しただけ、みたいな感じで終わってしまっており、ギャグでやってるにしても冴えていない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月30日
 巨星董卓墜つ。どんな悪人でも今際には贖罪のときが訪れる、というのは武論尊(史村翔)原作のマンガにとっての黄金律であり、董卓もその例にもれない。また、愛に飢え、渇望するがため狂気に走り、蛮行のかぎりを尽くした結果、討伐される、というのもそうだ。皇帝以上の権力を得ながらも、失われし最愛のものへの残念を断ち切れず、〈……苦しかった………………“鬼畜”になれば、その苦しさから逃れられると思った……〉の〈だが、葉春は消えてはくれぬ……いくらこの手を血で汚そうと、逃れられぬの〉で、董卓は自らが呂布に斬られて死ぬことを受け入れる。『覇―LORD―』の14巻である。三国志(または三国志演義)的にというよりも、あくまでも“超”三国志である『覇―LORD―』的に、なぜ董卓が討たれなければならなかったのか。おそらく、彼が私怨の人であったからだろう。他方、一万の兵士を犠牲にし、敗北した劉備は、自分が何のために生き、戦うのかを見失ってしまう。それは董卓の場合とは逆に、私怨では起つことのできぬ弱さでもあり、強さでもある。こうした二者の対照において、やはり惨めなのは、董卓のほうだと思われる。その惨めさを自覚しながら、結局のところ拭いきることができなかったので、最後の最後に憐憫を誘う。董卓は空虚な自分を私怨で埋めるよりほかなかった。しかし埋まらなかった。このことを踏まえたとき、またべつの箇所で印象的になってくるのは、劉備を名乗る前の燎宇の教えを受け継いだ黄布兵の青峰を前にし、曹操が〈この曹操(オレ)の“戦”――己の腹を膨らませるためではない!‥‥〉と断言する言葉だろう。これを聞き、青峰が曹操を認めるのは、そこに私怨や利己の否定が響いているからにほかならない。むろん曹操の本意は、燎宇が青峰に説いた〈民・百姓の“明日”のため!!〉という教えとは、必ずしも一致しないに違いない。しかし、すくなくとも董卓の生き方に対するアンチテーゼにはなっているからこそ、物語のレベルにおいて、快進撃を続ける権利が与えられている。たぶん、それに対するさらなるアンチテーゼとして劉備の〈何万、何十万人だろうが その将兵の命――オレが全て背負ってやる!〉という覚悟と復活がくるわけだけれども、その前に、である。ぼちぼち呂布のターンに入る頃合いかな。愛を知ったことで、じょじょに変わりつつある呂布の造形もまた、董卓と同じく、武論尊の原作にお馴染みのものだといえる。壮絶なラストを迎えるのは火を見るよりも明らかだが、せめてそれまでは劉備や曹操を向こうに回し、最高潮にかっこうのよいところを見せていただきたく。

 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月27日
 ストロボ・エッジ 4 (4) (マーガレットコミックス) (マーガレットコミックス)

 基本的には、半径5メートルのコミュニケーションで作品がつくられているため、あまり長引いてくると、ストーリーに広がりようがなく、当初の輝きもだんだんと薄れてきてしまうのでは、といった危惧を持っていたのだけれど、ああもう、ぜんぜんそんなことはなかった。この4巻の段階でもまだ、抜群におもしろいままだ。いや、それどころか、ますますおもしろくなっているぞ、と満面の喜びが得られる。

 この咲坂伊緒のマンガ『ストロボ・エッジ』の、とくにすぐれた面は、ある種の緊張によってもたらされている。それは何も、作中人物たちが非日常の危機に瀕し、生と死にわかれるぎりぎりのラインを跨ぐ、という大げさなことではない。ごくふつうの、ありふれた日常のなかで、作中人物たちのささやかな感情の揺らぎが、呼吸の一つ一つを通じ、誰かに伝わってしまうのがつらい、自分に伝わってくるのがつらい、こうした様子がつよい訴求力をもってあらわされているのである。

 すこし小難しく述べて、恋愛もしくは三角関係の原型が、他者の欲望を欲望することであるとしたなら、『ストロボ・エッジ』が描き出しているのは、その欲望すらも自らに禁じなければならない、禁じようとしたときに生まれるエモーションであり、ドラマだろう。それがいかに切実なものか、たとえば、ヒロインの仁菜子による〈ただ想うだけでいいなら『蓮くんがふたりいればいいのに』きっとそれすらも思っちゃいけない事〉というモノローグによく出ていると思う。

 意中の人である連には素敵な恋人がいるので、両想いになることは断念しながらも、片想いを捨てきれない仁菜子の、その、純情でもある姿に関心を抱いた蓮の友人の安堂が、彼女にちょっかいを出すうち、まじに惹かれはじめていく。これが前巻からのあらすじだけれども、安堂の真摯な告白を受けてもなお、仁菜子の蓮に対する気持ちが変わることはない。一方、仁菜子とは友達以上にならない距離を置いていたはずの蓮の心境に、微妙な、しかし劇的な変化が訪れる、というのがここでのくだりである。

 連にとって、恋人は麻由香一人であり、彼女を大切にしたいし、裏切るつもりもない。だが、どうしてだろう、仁菜子のことが、ふと気になってしまう。ピュアラブルなラヴ・ストーリーにおいて、たいへんな困難をともなうのは、あらかじめ恋人のいる人間の心移りをどれだけ誠実に示せるか、であって、蓮に託されているのは、まさしくそれだといえる。いつまでも変わることのない感情などどこにもない、これを前提化してしまえば、今ここにある感情もまた、絶対的な真実ではない可能性を孕んでしまう。

 両親の離婚をいまだ引きずる麻由香が、父親の再婚を聞きつけ、蓮の前で泣く、〈やっぱり ずっと変わらない気持ちなんてないのかもね〉と流される涙が印象的である。蓮は、友人である学(がっちゃん)の慮りのとおり、もしかしたら自分が仁菜子を意識していると気づき出している。眠っている仁菜子と二人きり、電車に揺られている78ページ目から82ページ目のシーン、そこでの彼の葛藤には、じつにさりげない描写のなか、すさまじいものがある。

 ほんとうなら降りるべき駅を乗り過ごし、仁菜子の駅にまで付き添ってきたのは決して〈蓮くんの事だから 私に気を遣って 起こすに起こせないでいたんでしょ〉というのではないだろう。だが、そうした束の間でさえ、彼の性格上、とても罪深く感じられてしまう。そのことが、まったくべつの機会、べつの意図で発せられた麻由香の〈やっぱり ずっと変わらない気持ちなんてないのかもね〉という涙によって、疚しさのつよい否定へとすり変わる。

 そう、麻由香が何をしたわけでもない、何も悪くない。仁菜子が何をしたわけでもない、何も悪くない。このとき、蓮の生真面目さは、自分の感情の揺らぎこそが最大の問題であるとし、もしも彼の内側に芽生えているものが仁菜子への慕情であるとするならば、それを断念しなければならないと決める。

 連のそうした頑なさを見かねた学が〈おまえ 自分の気持ちに気付いたんだろっ!?〉と〈ムキになって自分の気持ち否定したってしょうがないだろ!?〉と責め立てるが、もう一人の心優しき友人、裕が〈本当が いつも正しい訳じゃないだろ〉と〈じゃあ 蓮のカノジョはどうするの?〉と学を押さえるとおり、どこにも正解がないような悩みにおいては、ただ、自分にできるだけのことを自分に課すよりほかないのかもしれない。こういう蓮の迷いと断念は、麻由香の存在を頂点とするかぎり、意外にも仁菜子のそれと相似でもあるふうに対置される。

 ふたたび、恋愛もしくは三角関係の原型は、他者の欲望を欲望すること、といわせてもらうなら、連の仁菜子に向けられた動揺は、さしずめ、二者のあいだに入ってきた安堂のアクションによって、引き起こされている。あるいは、顕在せざるをえなくなった。もしもそうだとしたら、仁菜子に告白する間際、安堂は〈人って結構欲張りなんだよ 本当に好きなら 自然と その先を望むものなんだ だけど連にはカノジョがいる どんなに近付いたって――――交わる事なんかない 蓮と仁菜子チャンは〉と言っていたけれど、平行する二線のあいだに結びつく斜線を引いてしまったのは、皮肉なことに安堂ともとれる。さて、彼女彼らの恋愛は、次巻以降、いかなる展開を見せるのか。

 最初に述べたとおり、咲坂伊緒の『ストロボ・エッジ』は、基本的に半径5メートルのコミュニケーションでつくられたマンガである。しかし、その狭い半径のうちで密に折り重なるエモーションやドラマを、デリケートに、さりとて憚ることなく描き取ることで、表面的にはあかるくたのしいトーンの、だが、じっくりシリアスに読ませるほど充ちた内容の、作品になっている。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
posted by もりた | Comment(4) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月26日
 激流血~OVER BLEED~ 3 (ヤングガンガンコミックス)

 全3巻で完結した、この28 ROUNDのマンガ『激流血〜OVER BLEED〜』には、たなか亜希夫(原作・橋本以蔵)の『軍鶏』や森恒二の『ホーリーランド』の、アップデートなヴァージョンになるかな、という期待を持っていたのだけれども、スペクタクルに偏重したストーリーとスタイリッシュなデザインのせいか、シリアスな議題に対して、今一歩踏み込みが足りず、後追いのかっこうをつけたまま、ラストまでいってしまった感がある。エスカレートするいじめに悩み、自殺を試みた主人公の圭は、そのさい、幼馴染みの明を行方不明にしてしまうが、自らは生き延びる。ふたたび学校生活に戻ったところで、かつて以上の責め苦を負うばかり、どこにも居場所はない。そんなあるとき、謎のサイト「激流血」が発信する動画のなかで、戦い、勝利し続ける武念という名のファイターに明の面影を見つけた圭は、彼の正体を知りたく、近づこうとし、非合法的な格闘の世界に入っていくと、苛烈な殴り合いを強いられ、繰り返すうち、その魅力にはまる。こうした物語の背景にあるのは、やはり、『軍鶏』や『ホーリーランド』に通じるような現代的なフラストレーションの歪み、だろう。そうして、少年Aのカテゴリーに迷い込まされた存在が、肉体の実感を経由することで、自己の輪郭を再獲得するのである。もしもこのような点において、『激流血〜OVER BLEED〜』が、『軍鶏』(未完ではあるが)や『ホーリーランド』のそれを上回る成果をあげられる可能性があったとしたら、あらかじめ匿名的な悪意や欲望を増幅させる装置として設定されていたインターネットというツールに、作者なりの批評性を加え、十分にひろげていくことだったと思う。しかし残念ながら、ストーリーを都合よく動かすためのガジェット以上に役割を与えられていない。インターネットがふつうにある時代だからインターネットを用いるのは、べつに構わない。だが、いじめがふつうになくならないからいじめを描いただけでは、自殺する人間がふつうにいるから自殺を描いただけでは、犯罪者がふつうに絶えないから犯罪を描いただけでは、格闘技を好む人間がふつうにいるから格闘技を描いただけでは、特別な感慨もわかないのと同じく、それじゃあまったくテーマに関わっていない。結局のところ、何がしたかったの、ということになりかねない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月22日
 話のスケールをおおきくしていくにあたり、則夫の犠牲も仕方がなかったということか。関東一円会会長選が迫るなか、アキラとドクター大内の暗殺されかけたことが、波紋を呼び、彼らばかりではなく、大介や守、そして加瀬までもが、各組で次世代として台頭してくるきっかけとなる。ここからが、裏切り、裏切られ、血で血をぬぐうシリーズの本領発揮か、と、立原あゆみの『仁義S(じんぎたち)』8巻は予感させる。なにせ、どれだけ重要な役を負っていようが、ちょっとでもヘマをしたら、容赦なく切り捨てられてしまうのが、前作『JINGI』からの伝統であり、醍醐味だからね。それにしても『JINGI』との繋がりでいうなら、大内の命が危ういところだったと知り、仁が柳澤と事を構えようとしていたと、アキラに伝える義郎の言葉が見逃せない。アキラが〈か 会長が……そんな事まで…〉と驚くのに向かい、義郎は〈おめえらは やつにとって 大切な仁義 JINGISだ!〉と言うのである。これはもちろん、作品のタイトルにシメされた意味をアピールするかのような、そういう重みの加えられた箇所にほかならない。しかし、それ以上に注意しておきたいのは、あくまでも義郎が、仁にとってアキラたち新世代は大切な後継だと考えられている、と述べている点だろう。単純に、場面的な言葉のアヤなのかもしれないが、しかし、なぜ義郎がヤクザになったかを振り返ったさい、これは意外とおおきな含みを持つ。なぜ義郎はヤクザになったのか。まあ、これまでにも再三述べてきたので、繰り返さないけれども、先ほどの言葉は、はたして義郎のなかに「仁義」があるのか、あったのかどうか、を読み手にあらためて疑わせる。そもそも天才肌の義郎は、すべてのあらましを、ひっそり、まるでゲームのマスターのごとく、仕切ってきた。その彼にしてみれば、「仁義」というそれも、盤上の展開を左右する一要素にすぎないのでないか。こういう穿った見方をさせられることが、物語のミス・リードを誘う。どれだけ重要な役を負っていようが容赦なく切り捨てられてしまう、それがこのシリーズの醍醐味と、すでに書いた。が、おいおい、まさか、ここで甲田がリタイアしてしまう。仁とともに、前世代の、「仁義」を貫いた人物である。作外の読み手にも、作中人物にも、好感度は高い。はたして誰が彼を殺したのか。ふつうのマンガであれば、仁と義郎に敵対する側の仕業と、すぐに決めつけられる。だがそれすらも、義郎の、のちのちの展開を踏まえた戦略、攪乱という可能性が捨てきれない。甲田の訃報を聞きつけた、関東一円会のトップたちが、まさしく呉越同舟のかたちで一同に介し、牽制し合う。そこで仁と義郎は、こうアイコンタクトする。〈今夜の集まりの中にいる 仁〉〈ああ…オレかもしれねえ 義郎おめえかも〉。甲田の死を起爆剤に、いよいよ戦争がはじまる。

  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『極道の食卓』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『本気![文庫版]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 両親がパチンコに熱中しているすき、駐車場の車中に残された赤ん坊は、熱さのあまり、死のうとしている。それを見つけ、助けだした第三者が、誘拐犯と間違えられ、立場を悪くする。これは立原あゆみのマンガにお馴染みのパターンだといえる。しかし、ついにこの『極道の食卓』は7巻で、作者は助けられたはずの赤ん坊を殺してしまう。いや、作中のレベルで見るなら、赤ん坊を殺したのは両親の傲慢さであり、最初の段階でそれを見抜き、対処することのできなかった社会であり、法である。たしかに、ヤクザの組長である久慈雷蔵の言葉を信じられなかったのは仕方がないとはいえ、もうすこし警察もやりようがあった。と、ここで思い出されるのは、やはり、同作者の過去作『本気!II』5巻における本気の、〈日本の法が正しかった事など 歴史上 一度もねえんだよ!〉という啖呵だろう。なぜこの言葉が思い出されるのか。『本気!II』の5巻を読み返されたい。そこで扱われているのも、置き去りにされた赤ん坊を助けようとしたはずの行いが、警察に追われるという皮肉である。そう、そしてすぐさま気づくとおり、久慈雷蔵の場合と同じく、それは「PACHIKO NEWジャック」の駐車場で起こっている。つうか、背景、完全に使い回しじゃねえか。まあ、それはさておき。『本気!II』では、結果的に赤ん坊をさらってしまった少年たちが、警察である石神に庇われたので、すべてが丸く収まるかっこうになっている。赤ん坊は死なずに済んだ。少年たちが逃げ回っているあいだの時間が、母親に親の心を取り戻させている。同僚たちに咎を受ける石神が〈提訴でも何でもせいよ! この悪代官!〉とうなり、少年たちと赤ん坊のため〈でてこおい! オレが守ったる!〉と全力を尽くす姿が、印象的である。これに対し、『極道の食卓』では、そのような善意は警察の内部になくなっている。カニと呼ばれる刑事がカツ丼をむさぼり食うくだりは、利権への執着の、矮小化された表現だと考えられる(余談になるけれども、そのような警察内部の善意をあらためて問うているのが、現在作者が同時に手がける『ポリ公』だといえる)。かくして誰も、両親が親の心を取り戻すまでの時間を稼げず、赤ん坊は亡くなってしまう。『本気!II』の5巻と『極道の食卓』の8巻には7年の隔たりがある。だが、その間、赤ん坊をパチンコの駐車場で死なせてしまう、同様の事件が現実の世界に起き続けていることが、今回、こうした残酷な結末を描かせているのだ、と思う。
 
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『本気![文庫版]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 本筋には直接関係のないあたりで、『ポリ公』の凉二が、ゲストで顔を出してるな。こういうのもまた、ファンにとってたのしみの一つではある。立原あゆみの『恋愛(いたずら)』も3巻に入るが、兄貴分を殺された主人公のジミーによる復讐譚としては、以前にも書いたとおり、おい、これ、『弱虫』や『東京』の焼き直しじゃねえか、と思わせる面がありながらも、大規模な組織戦に持ち込まず、孤独で非情なヒットマンの裏の顔、つまり人間らしい面を描き出しながら、それがどこへどう転がるのか、先の見えない展開を繰り出しているのは、さすがである。もちろん、どれだけイケイケのヤクザであろうと、病床に臥す女性に対しては無力にならざるをえない、というのも、まあ、この作者にしたら二番煎じ三番煎じのパターンには違いないのだけれど、別れのときが先延ばされ、そして近づいてくる予感のなかに、静かな悲哀を含ませていく手つきからは、やはり、凡百ではない、すぐれたものが伝わってくる。そうしたパートと同時進行する、単発で区切られたエピソードに関しては、第22話(二十二曲目)の「さらば青春」の、こういうところがとくに良かった。作品の舞台となっているバー「いたずら」のカウンターで、一組のカップルが揉めている。ちんぴらふうの男が、女に子供を堕ろすよう、説得している。女が去り、店に残った男に、ワキで話を耳にしていた常連の娼婦たちが、嫌な顔をし、絡んでくるのである。彼女たちに向かって、男は〈だから何です オレがオレの子を堕ろしてどこが悪いんです!?〉と言う。ここには男の、自分以外の人間をいたわる気のない、そういう傲慢さがよく出ているだろう。これに、かっ、っとした「いたずら」の店員、千春は〈私があなたのお母さんだったら 私はあなたを産んであげません!〉と一蹴する。そしてその声は、「いたずら」の用心棒であり、駆けつけたジミーの心に、次のように届くのである。〈かあさんはやくざなんか産むつもりはなかった 今のオレを知ったら 千春ちゃんがオレが店に入った時に叫んだという言葉と同じ言葉を言うのでしょう〉。自分から進んで自分が救われない生き方を、どうしてか、選んでしまう人間がいる。当人がそれを気づいている場合もあれば、気づかないままの場合もある。どちらが不幸なのかは知れない。いや、どちらもすでに不幸なのだ。千春の言葉は、憐れみよりも激しく厳しい感情で、それを告発している。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『本気![文庫版]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2008年11月20日
 もしかしたら80年代から90年代初頭にかけてのヤンキー・マンガは戦後に対する解体の表現だったと思えなくもない。それ以前の不良マンガの登場人物たちのバックに、右翼の大物や政治家、財界人がうろうろしていたのとは違い、歴史や血の繋がりとは断絶された場所で、不良少年たちは、自分たちだけのパラダイスでありユートピアを謳歌していたのである。現在の郊外がそうであるように、中途半端に終わったアメリナイズの完成形ともとれるその姿を指し、世間はヤンキーと呼んだのではなかろうか。そうしたヤンキー・マンガのフォーマットに、ふたたび歴史と血の繋がりを導入しようとしている作家の一人が、佐木飛朗斗だといえる。彼が、桑原真也に原作を提供した『R-16』にそのことは顕著であった以上、同じく所十三に作画を任せた『疾風伝説 特攻の拓』の枠組みに翻るていで、『R-16』のテーマを載せ替え、まだ若い東直輝に渡したような『外天の夏』もまた、歴史と血の繋がりのめぐるストーリーになっている。まさか〈バッカ どこの国のマネでもねー族ぁこの国の伝統文化だっつーの 日章カラーに特攻服は歴史上の事実だぜ〉という登場人物の与太を真に受けるわけではないけれども、しかしまったくの冗談で済ますこともできない。すくなくとも佐木は、本気半分の力を込め、そう言わせているはずだということは、ストーリーを追うことによって、確認される。札付きのワルが集う聖蘭高校に編入してきた主人公の夏は、そこで知り合った伊織たちから、亡くなった兄の冬がじつは横浜の暴走族である外天の初代であったことを聞かされる。さらには〈冬さんは何世代にも渡って続いてきた横浜をとり巻く族の世界の戦争を 全て終結させるつもりだったんだ…〉という夢が叶わず、外天の二代目をつとめる伊織が〈でも 冬さんは逝っちゃったし…戦争終わらせんなら やっぱ…ぜんぶ潰すっかないじゃん? 別に…オレが…死んじゃっても構わないから〉と決意しているのを知るのであった。こうした、少年たちが命をかけてまで臨まなければならない事態を、アンバランスな価値観に巻き込まれていく夏の不運なさまを通じ、ときにはユーモアを交えながら描きつつ、その少年たちの背景には、血の繋がりが、生々しく、憎しみの連鎖反応を引き起こし、彼らを掴まえ、きつく縛る苦悩が横たわる。伊織の幼馴染み、亜里沙が置かれている複雑な家庭環境も、その一つだろう。魍魎を率いる和國は、彼女の父違いの兄である。彼女の父親は、巻島グループの総帥であり、巨大な資本は政界をも左右する。そして和國は、その男に妻を奪われた父親の弱さを憎しみ、〈“賀来の家”の誇りと名誉はオレが取り戻す!! オレは街を恐怖で支配してやる…!〉と、力のみを頼り、自らの血統を訴える。ここには権力が、下へ下へ、個人へ個人へ、くだるにつれ、暴力に還元されていく構図が生じている。登場人物たちは、血の繋がりから、知らずのうち、歴史を背負わされ、結果、ぐれているのだ。たぶん和國は、まあ魍魎というチームからしてそうなのだが、『疾風伝説 特攻の拓』の武丸のイメージを受け継いでいる。しかし武丸が大企業の御曹司であったのとは違い、そこに『R-16』の、貧しく無力であるがゆえに不良にならざるをえなかった少年たちのイメージが入り込んできている。そのような意味で『外天の夏』の成り立ち自体を象徴する人物になっているといえる。それにしても、亜里沙の双子の妹である亜芽沙が切ない。足の不自由な彼女が、夏に希望を見るのは、冬の弟だからというのもあるだろうし、何よりも純粋であり、自由であるふうにも思えるからだろう。この、夏に託された男の子の像が、ちょうど80年代から90年代初頭にかけてのヤンキー・マンガの主人公たち、それこそ『疾風伝説 特攻の拓』の拓をも含められるイメージとだぶったりするのは、彼らがどれだけ歴史や血の繋がりから解放されていたかを考えたとき、あんがいおおきな意味を持っている。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 もしも、音楽によって狂わされてしまった人間がいるなら、それを調律し直すことができるのも、やはり、音楽だけなのかもしれない。おそらくはハロルド作石の『BECK』以降といってしまってよいのだろうが、ここ最近、音楽マンガもしくはロック・マンガあるいはバンド・マンガと括ることのできるような作品が、やたら増えた。しかし、リアリティ重視とでも言いたいのか、まあね、等身大といえば聞こえはいいのだけれども、しょぼいしせこいサークル・ゲームに終始しているのがほとんどなのは、ああ、ロックやパンクが他人と同じであることを嫌う時代はもう終わっていたんだな、と、あらためて思わせる。だが、佐木飛朗斗だけは、違うね、違う、スケールが違う。山田秋太郎に原作を託した『爆麗音(バクレイオン)』を読むと、たしかにそう実感されるのであった。この3巻は、「デモンズナイト」と呼ばれるイベントの出場権を得るため、コンテストに参加したバンドたちの演奏シーンに、おおよそを占められている。主人公の歩夢と彼がギターをつとめるヒューマンガンズの出番前、顕率いるチーマー系暴走族(すごいカテゴリーだな)でもある泥眼(でいがん)の、巨大な狂気を孕んだ演奏は、無意識でモッシュピットをつくらせるほど観客を魅了してしまう。はたしてヒューマンガンズのパフォーマンスは、泥眼のそれを凌ぐことができるのか。やがて歩夢のギター・ソロが響き渡ってもなお、調子のあがらないステージに、フロアにいた烈は〈こんなのは“オマエの音楽”じゃねーだろ!? 歩夢ゥ!!〉と、苛立った表情を見せる。歩夢の音色(トーン)が炸裂するのを受け止めるのに、ヒューマンガンズのリズム隊は適していないのである。自分を出せば制御不能になり、バンドに合わせれば自分が封じ込まれる。このようなジレンマが、歩夢のあがく姿に描き出されている。一方、音楽とは何よりも自由であるべきか、いや逆に不自由であるからこそ、他との調和がとれ、完璧になれるのか。同様のテーマが、ザルツブルグのオーケストラでモーツァルトに挑むピアニスト印南の苦悩を通じ、展開される。権威のみが、神のつくりし記録(レコード)と信じて疑わないジークフリートガンディーニの指揮のもと、即興演奏を試すことで、印南は〈権威を滅ぼしてボク自身が権威に成り変わってみせる! そうウォルフガングアマデウスモーツァルトの様に…〉証明してみせようというのである。それぞれべつのステージで繰り広げられる二つのクライマックスが、場所を越えて交錯するさまが、演奏の描写をスリリングに盛り上げている。複数の出来事がパラレルに進行するのは、佐木の原作が得意とするパターンであるけれども、正直なところ、時系列が整理されているとは見なしがたく、ぐちゃぐちゃにこんがらがっている。それはもちろん、作品の欠点となりうる。が、しかし、肯定的に述べるのであれば、佐木が導き出そうとしているのが、すべての瞬間と空間とが同時に生起する宇宙の存在である以上、それは当然だという気もしてくる。この『爆麗音』においては、音楽こそが、神へ、宇宙へ、ひらかれてゆく唯一の回路なのだろう。したがってそれは、関わった人間の運命を、容易くも残酷に左右する。平凡な母子家庭に生まれたはずの歩夢の、意外なルーツがあかされるのも、この巻だ。そして、歩夢の妹の樹里絵は、絶対音感を持っているがために母親から過剰なプレッシャーをかけられ、ついには音楽と神を呪詛する。〈そうだ…祈ろう…どうか“音楽の神様”…この地上から消し去ってください…あらゆる音楽を〉と。純粋な憎しみをヴァイオリンの調べにのせはじめるのであった。

 1巻・2巻について→こちら

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『外天の夏』(漫画・東直輝)1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月17日
 バイキングス 8 (8) (月刊マガジンコミックス)

 以前にも述べてきたが、もしも曽田正人の『シャカリキ!』が個の才能に集約される話であったとしたならば、風童じゅんの『バイキングス』は、同じく自転車のロードレース競技を題材としているがゆえに、おそらくは意識的に、チームワークの和に結びついていくような話になっており、そしてそのことは、この最終8巻の、文字どおりクライマックスにあたるくだりにおいて、よりあきらかだといえる。凱旋高校自転車部にとって、初の参加となる本格的なレースは、予想以上に苛酷なものとなった。一人また一人と脱落しかけるメンバーたちは、舞夜高校自転車部のエース小平良麗央奈に挑んでゆく一本木一途のため、最後の力を振り絞り、最善のサポートを尽くそうとする。もしかしたら連載の終了が先に決まり、それに合わせなければならなかったためか、やや展開は急ぎ足ではあるものの、仲間の願いと想いが一丸となり、主人公の背中を押してゆく姿には、くそ、まんまとやられたぞ、誰かが倒れなければならないたび、その手に掲げられるVサインには堪えきれないものがあるよね、と。さらには、凱旋高校を応援するワキの人物たち、とくに碧の一言と、彼女から手渡された補給食の、そこに込められた知多のメッセージには、めちゃんこ泣かされてしまう。かくして前へ前へ車輪を進める一本木と、単独のアタックでチーム・メイトすらも振り切る小平良の、両者の対照が、まさしく勝敗を分ける。仲間が傷つくのに耐えられず、失速してしまった一本木に向かい、敵方であるはずの舞夜高校マネージャーが〈みんあアンタと生きるために死んでったんだ! それがロードレースなんだよ! アンタらあたしらよりよっぽどひとつじゃないか!〉と激を飛ばす場面も、じつに象徴的である。ゴール直前、残り100メートルになってからの描写が奮っている。テーマとスピードが力づよく噛み合い、熱くはげしい興奮とエモーションを生み出している。

 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年11月16日
 中間淳生の『夜明け前』は、性同一性障害を取材し、たいへんシリアスに描く内容のマンガだけれども、作品が感動的なのは決して、扱われているテーマのためではない。これを勘違いしてはならない。そのことはたとえば第一話の、あ、とさせられる仕掛けからしてあきらかである。あまり触れるとネタを割ってしまいかねないが、ある意味で叙述トリックといってもいいだろうね、式の展開を用い、なぜ主人公の片想いが挫けなければならなかったのか、を秀逸に表現している。それを通じ、外見と内面の性が一致していない人物の戸惑いを、たんに興味深い症例を眺めるような好奇心から、見事に離陸させており、その後に続く物語を、特別な世界の出来事ではなくしている。だからこそ読みながら、胸が詰まる。もちろん、マイノリティに向けられる厳しい視線にさらされ、苦しみ、耐え、それでも顔を伏せまいとする主人公の姿には、ヘヴィであり、ハードなものが付きまとっているわけだけれども、やや反動的な言い方をすれば、この『夜明け前』を読んで、心を動かされたからといって、とくに性同一性障害に対する関心を持たなくても良いように思う。そうではなくて、ただ、現実はつねに残酷な面を持っていて、押しつけ、深い傷を負わせてくることもありうる、が、しかしときにやさしく肩を貸し、傷をかばってくれるような面だって持ち合わせているのかもしれない、こうした可能性が誰の身近にもあり、そして誰しもがその可能性の一部であることを再確認できればいい。それだけの力がここにはある。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 中途、退屈な展開もあるにはあったものの、しかし高校三年間の限られた時間がとてもきれいに切り取られていたな、という感想が、酒井まゆの『ロッキン★ヘブン』もラストにあたるこの8巻を読み終えたときに、思い浮かぶ。それはきっと、たぶん、卒業式で描かれる風景が、うつくしく、これまでの物語を締めくくっているからだろう。いや、むしろその効果によるところが、圧倒的に、おおきい。正直、快活なヒロインである紗和とひねた坊ちゃんの藍をめぐるラヴ・ストーリーとして見た場合、迂回路も迂回路で、わざわざ、といった感じがしなくもなく、やや一本調子になってしまったが、周囲の人間たちの彩り鮮やかな表情が、学校を去っていくその後ろ姿のなかにも求められ、とても幸福な余韻を与えている。特徴的であったのは、レギュラーに噛ませ犬を一人加えたほかには、当初の時点でできあがっていたスモール・サークルをそれ以上はひろげず、その内部で終始するよう、人間関係が結ばれていたことである。閉じているといえばそうなのだけれども、だからこそ教室を去るさいの〈振り返って 眺めれば なんて狭い楽園 でも ここは 私たちにとって天国みたいな場所だった〉というモノローグが生きてくる。ある時期にしか存在しえない輝きが、まるで両の手のひらでやさしく包み込まれるみたいな、そういう綴じられ方をしているおかげで、純粋な光を拡散しないままに済んでいる。ほんのすこし、卒業後の様子が垣間見られる最後の数ページに関しては、読み返すたびに、もしかするとこれは余計だったのではないか、いや、これはこれで必要なのではないか、と、いまだに結論が出せない。未来から過去を振り返る視点により、幸福な印象が高められているが、なぜそう感じられるかといえば、結局、彼らが何かを失うこともなしに大人になれた様子が示されているからなのだ。もちろん、それはたいへんすばらしいことである。だが、やはり心のどこかで引っかかってしまう。とはいえ、彼らのその後をうまく流用した番外編は無条件でたのしく、こういうかたちであれば、とくに問題とはなってこないあたり、本編の最後で個人的に覚えられる違和感は、今日における少女マンガ自体が持っている構造のほうと、ふかく関わっているのかもしれない。

 7巻について→こちら 
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月15日
 作者も欄外のコメントに書いているけど、そらまあ、誰でも、薄い、って思うよな、というのは内容のことではなくて、物量的なこと、要するにページ数のことで、番外編を除けば、100ページ強しかないのだが、物語のほうはとくに薄いとは感じさせず、最後の最後にきて、畳み掛けるような展開が続く。これで完結となる春田なな『チョコレートコスモス』の4巻である。ヒロインの視点に立てば、教師に対する片想いのストーリーとなっており、俯瞰的には、ヒロインをめぐる教師と幼馴染みの三角関係のストーリーとなっている、そのような構図で描かれているマンガだけれども、なかなかテンポのよい速度で話を二転三転させながら、すべてを収めるべきところにちゃんと収めている。前巻で横から入ってきた三年生の女子が、ヒロインである紗雪の恋のライヴァルになるのだろうかならないのだろうか、と読み手に疑わせておいて、じつはそれがもうちょいべつの役を担っているあたりも、アイディア的に云々ではなく、接続の仕方として、うまくいっている。それからヒロインの振るまいが、テンションの高いまま、ぶれなかったのも良い。ファミレスの乗り込んでいくくだりなど、場の空気を読めるようなタイプであったり、あるいは逆に場の空気を白けさせるほど落ち込むタイプであったりしたら、ああはならなかっただろう。それにしても、悠士の立場になってみると、ほんのすこしボタンの掛け違いでしかないものが、決定的な誤りとなってしまっているわけだから、正直、ちょっとこたえるものがあるよね。しかし、そのへんも、すぱっ、と割り切ったうえで結末を迎えているおかげで、どろどろにもぐだぐだにもならずに済んでいる。

 3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月13日
 自分ではきわめてヤンキー・マンガに好意的な読み手のつもりであるけれど、それでもこのマンガ版『ドロップ』の良さはよくわからない。売れている(らしい)からには、それなりの長所があるには違いない。しかしそれがうまく掴めないのである。いや、むしろどこが短所なのかも見つけづらい。なぜだろう、と思う。たとえば、やはり高橋ヒロシが名前を貸している(だけの)永田晃一の『Hey!リキ』であるならば、単純に下手くその一言で片づけられる(きつい言い方でごめんね)。だが『ドロップ』の場合、鈴木大(鈴木ダイ)の描くアクションは、そもそもSF的なバトルを得意としていただけあって、決めるべきところはかっこうよく決めている。ならば、ストーリーの部分に難があるのかといえば、そうかもしれぬ。もはや小説版とは趣の異なる展開になっているので、できうるかぎりべつもの、あくまでも品川ヒロシ(品川祐)の自伝的なフィクションに基づいたコミカライズとして見ておきたいのだが、やはり、中学生が主人公だという点に問題がある。暴走族との大規模な抗争など、これだけ派手なことをやらかすのであれば、原作者の自伝であるような要素は後退させてでも、年齢を引き上げるべきではなかったか。あるいは15歳(だよね)という年齢が重要な意味を持つというのなら、それを際立たせるもう一工夫が欲しい。読み手はせいぜい、作中人物たちのプロフィールを見、ああ、これ、中学生のお話だったのか、と気づくぐらいで、極端にいえば、無力であるがゆえに悩まなければならない思春期の像がうまく出せていない。おそらくその部分は、本質的にはふつうの中学生でありながら、ヤンキー・マンガの主人公をヒーローとして見、憧れ、不良になろうとする信濃川ヒロシが担っているのだろうけれど、結局、彼のフラストレーションも、開放感や全能感によって、簡単に上書きされてしまう。この5巻の巻末には鈴木と品川と高橋による対談(初出は『月刊少年チャンピオン』07年4月号)が掲載されている。そこでの鈴木と品川の言葉を信じるのであれば、『クローズ』や『WORST』とは違い、等身大の物語が目指されていることになっている。だとしたら、まったくのフィクションである某作品の「冬の15歳」たちに比べても、生々しさと切実さが足りないと感じられるのはまずくないか。だいぶストーリーが進んできた現在もなお、スペクタクルとテーマとが、安定しない足場のうえで、綱引きし合い、あちこち散漫になっている印象である。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月11日
 生きている者に対して「劣化」と評することができるというのは、とても寂しい感性である。しかし結局のところ、その寂しさに気づけないので「劣化」という語を用いることに屈託がなくなる。進化論だか優生学だかの勝者にでもなったつもりかよ。そのような、ある意味で、独我論じみた判断を絶対とはしない反証が、所十三の『D-ZOIC』には込められている。そもそも『『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』としてはじまった物語は、続編である『D-ZOIC』に入り、冥王マルタ率いる“在る可から不る者”たちの侵攻を、地上に生きる人間にとっての驚異として描く。凶悪で残忍な擬人(ヒトモドキ)や擬竜(リュウモドキ)で構成される軍の台頭が、主人公のユタをめぐるパートのみならず、作品の舞台そのものである五王国全域に混乱をもたらす。そしてこの2巻においては、その“在る可から不る者”であるはずの擬人(ヒトモドキ)もまた、自らの身に起こる異常を「劣化」と忌み、蔑み、呪う、悲しき宿痾を背負っていることが、暗示されている。“鍵”と呼ばれ、文字どおり、各国の要人からキー・パーソン的な注目を集めるユタに、冥王国軍の手の者が迫る。擬竜(リュウモドキ)をけしかけ、ユタを襲う巨漢のゴッロは、かつてはフリギオ公を名乗り、数々の武勲をあげた将校であった。だが今やその面影は失われつつある。〈我が身の“劣化”は面相だけにとどまらず 精神にも…〉影響を及ぼし、〈時には“ティタノイデス”の誇りさえ忘れることも有様〉であり、同様の宿痾に苦しむ同胞リーク公を前に〈あなたはまだ間に合うやもしれぬ 彼の地の扉を開き 神の御業 手に入らば その身の“劣化”を防ぐことも…〉と誓いを立て、〈降臨の地 到達は陛下だけでなく 我等にとっても悲願なれば…〉という秘められた想いを語る。おそらく、冥王マルタがあまり感情移入の対象とならないのと同じように、ゴッロを、ひいては冥王国軍を、“在る可から不る者”の存在自体を、まるっきりの悪と見なし、救いがたく表すことも可能だっただろう。いや、むしろ、そちらのほうが善悪の構図が単純化され、回りくどくなく、今後の展開が派手になったかもしれない。だが作者はそうしなかった。同情と共感の余地を与えている。もちろん、そのような内面重視型といおうか、わざわざ悪を形成するのに複雑な回路までをも取り込もうとするつくりは、今や少年マンガのセオリーだといえる。こうしたとき『D-ZOIC』で顧みられているのは、たとえばゴッロとともに恐竜の群れに取り囲まれたユタが〈この森は…彼らのものだ ここではヒトもヒトモドキも“在る可から不る者”だってのに…〉と悟るとおり、敵対関係とは立場や権利の違いでしかない、ということなのだと思う。ゴッロに捕らえられたユタを救おうとするパウルスと、ほんらいはライヴァル関係にある串刺し公フリードが共闘するさまは、恐竜の上を剣振り回し、たいへんかっこうよい。が、しかし、そこに立ち現れているのも立場や権利の違いを超えて結びついた気概なのである。

・『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月10日
 作品は『ナンバデッドエンド』とタイトルを変え、仕切り直し、現在も連載が続いているけれども、『ナンバMG5』の分のラストはこの18巻になっている。では、いったんのピリオドがどこで打たれているのか、確認しておきたいのは、それが物語の概要と深く関わっているからである。家庭では全国制覇を目指すヤンキーとして、学校へ行けばどこにでもいるようなシャバ僧として、二重生活を送っていた剛の変化が、高校2年の夏休み、あわや兄の猛に気づかれてしまう、そうした危機が、ここでのターニング・ポイントになっている。高校2年の夏休みとは、高校3年間をモラトリアム最後のスパンとした場合、ちょうど折り返しの地点になっている。ラストのエピソードにおいて剛は〈あと1年半だ……あと1年半ウソでしのげば 誰も傷つかねぇですむ〉と決心し、〈楽しい時ってのは あっという間に終わっちまうんだよな まるで花火みてぇに……〉と思う。言うまでもなくこれは、終わらない夏休み・イコール・終わらないモラトリアムなどない、という認識であろう。高校生活のなかで見られる夢を生きようとすることが『ナンバMG5』であったなら、今しがた引いた剛の言葉は、その夢にも終わりは必ずややって来ることの予感であり、おそらく、その予感が『ナンバデッドエンド』の内容に重なってくる。

 無限化していく日常と非日常の問題は、サブ・カルチャーの批評などで、よく遡上にあげられるものの一つではないだろうか。たとえば、そのような視線を用い、劇場版アニメーション『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』やテレビ・アニメーション『涼宮ハルヒの憂鬱』を分析したものを、すくなからず見かけることがある。しかし同様の問題は、通学路の往復がワン・パターンにループ化されることが作品の構造を担っていた『BE-BOP-HIGHSCHOOL』 が暗示的であったとおり、ヤンキー・マンガにとっても重要なモチーフにほかならない。あるいは、やはり永遠にループするはずだったストーリーの『工業哀歌バレーボーイズ』が、高校生活・イコール・モラトリアムの終焉とともに『好色哀歌元バレーボーイズ』とタイトルを変えたとたん、それまで止まっていた時間がまさに堰を切ったかのごとく、登場人物たちの運命を翻弄するさまは、もっと真剣に論じられてしかるべきだと思われる。しかし、サブ・カルチャーの批評のシーンにおいて、なぜかそうなっていかないのは、いっこうにモラトリアムが終わってくれないことを憂鬱だとする一方で、じっさいにモラトリアムが終わってしまうことほどの恐怖もなかなかなく、それを真剣に検討することは残酷な現実と向き合うことでもあるので、なるほど、モラトリアムを余すことなく展開したうえで終わらせてしまった作品から、逃げたくなる気持ちもわかる。と、もちろん、これは余談である。が、しかし、すくなくとも今日、山本隆一郎の『サムライソルジャー』や、そしてこの小沢としおの『ナンバMG5』が、そこから逃げず、シリアスに相対し、だからこそきわめてすぐれた表現たりえている事実だけは述べておきたい。

 さらに余談を加えると、小沢とは違うセンの、というか、高橋ヒロシ以降の、というか、要するに高橋ヒロシのフォロワー群が、夏休みの存在を強調的に描かない、描けなくなっているのは、高校生活そのものを現実の世界を向こうに回した異界にしてしまっているからで、そうしたモラトリアムの切り取り方を指し、今ふうに閉鎖空間と置き換えてもよいよ。

 それにしても、どうして剛にとって、しごく一般的な高校生活を送る、たかだかその程度のことが試練となってくるのか。ここには愛する家族の期待に応えなければならないとするプレッシャーが作用している。筋金入りのヤンキー一家に生まれた剛が、両親や兄から全国制覇を望まれるのは、エリートの家庭に生まれた子供がエリートでなければならないとつよく期待されることのパロディ化である。いや、たとえ立派な血筋でなくとも、家族を裏切ってはならない、このような卑近であるがゆえに過剰な抑圧は、たいへん普遍的なテーマだといえるだろう。剛の自意識があまりにも逞しく分別の行き届いているため、もしくは作者のコメディを成り立たせるセンスが秀逸であるため、いっけんそうは感じられないけれど、家族の前で本音をさらせないのは、結局のところ、自分に期待されている自分を演じなければならないことを、重く見ているためだ。そしてそのことは、妹である吟子との対照によって、さらにわかりやすく、強調されている。剛と吟子に対する両親の態度は、まさしく男女の性差において、きっちりと線引きされている。これは、ある意味で難破家の家風が、リベラルではなく、保守的な性質であることを示しており、17巻で、教師の長谷川が、剛や吟子の母親であるナオミと衝突したのも、じつは無意識のうちに難破家の考え方が、子供の意志と自立とを否定しているからにほかならない。

 ケンカのスペクタクルとチャーミングなギャグ、たしかにそれが『ナンバMG5』のフックであり、猛の圧倒的な破壊力は最高潮に燃えるし、ビーチで辱めを受ける伍代と大丸の可愛そうなところはげらげら笑える。だが本質的なテーマは、モラトリアムの渦中にあって子供が、自分の意志で、さまざまな決定をくだし、大人になっていくことなのだと、夏休みの終わり、剛の黄昏にはあらわされている。

 17巻について→こちら 
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月07日
 本来ならば長所であるようなポイントが、第三者の視点を意識することによって引け目にもコンプレックスにも感じられてしまう、こうしたヒロインの像は、意外と同じ神尾葉子の『キャットストリート』に通じるものではないかな、と思われるのだが、あちらが引きこもりやドロップ・アウトなどの題材を取り上げ、シリアスに傾斜するドラマのなかに、暗く重い雰囲気を醸し出していたのに対し、『まつりスペシャル』はラヴとプロレスの、大げさなアクションを、快活なコンビネーションを、ストーリーのメインに持ってくることで、コメディに近いあかるさが描かれている。とはいえ、主人公の羽生まつりの悩みは、彼女の立場にしてみれば、たいへん深刻なものだろうに違いない。自分の素性を隠し、普通の女子高生らしくありたいと願いつつも、家庭の環境からは女子プロレスラーの才能を期待され、嫌々ながらもリングにあがる。一方的な片想いではあるものの、今以上に悪く見られたくないあまり〈好きな人に二重三重の嘘を……〉つかなければならない。ある意味、二つの極に引っ張られ、引き裂かれていることが、彼女を苦しめるわけだけれども、ここで重要なのは、じつは学校(もしくは青春)とプロレス(もしくは家庭)の対立的な図式は、他の誰かや何かの強要されたものではなく、あくまでもまつり自身の意識によってつくられている点にほかならない。そのことは、この2巻からまつりのライヴァルとして登場する前野美々の存在を通じ、よりあきらかになっている。美々もまた、まつりがそうであるのと同様、女子高生でありながらリングにあがっている。が、しかし、それを伏せたままにしたりしない。まつりたちの学校に転校してきた彼女は、自己紹介のおり、〈ほんとは隠しておきたいところなんだけど あたしは自分の職業に誇りを持っているから 言っちゃう〉のである。さらには恋愛に対して消極的なまつりとは違い、好きな男子への押しもつよい。すなわち、美々にあってまつりにないものが、決意、であるならば、まつりにあって美々にないものは、迷い、であろう。そうした迷い、葛藤を抱え、主人公のじたばたするさまが、『まつりスペシャル』というマンガの、成長物語であるような側面に繋がっている。ところで、美々に好かれる男子というのは、まつりの正体を知っている同級生の重松荒太のことだが、そこから、まつり、荒太、美々による三角関係の発生を見て取るのも可能だと思う。もちろん、現段階においてまつりは、荒太を特別な異性として意識していないけれど、やがて二人の間柄が恋愛に発展するかもしれない可能性は、十分に示されている。このとき、現段階におけるまつりの片想い、イケメンさんである諸角渉に対する憧憬を軸に、もう一つ、まつり、渉、荒太による三角関係を向かい側に置くこともできる。それら二つの三角関係に反映されているのも、おそらく、学校(もしくは青春)とプロレス(もしくは家庭)という、先に述べたような、迷いから生まれ、主人公を引っ張り、引き裂こうとする二つの極、対立的な図式である。

 1巻について→こちら
 
・その他神尾葉子に関する文章
 『花より男子』37巻について→こちら
 『キャットストリート』
  8巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1、2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月05日
 キミタカの当破! 1 (1) (ライバルコミックス)

 どんな逆境にも抗い、立ち向かっていく意志を肯定すること、そうそう、これが少年マンガの良さなんだよな、と思う。キミタカ・ホワイトはヨーロッパA国の公爵と日本人のあいだに産まれた貴公子であったが、貴族の上流社会とは合わない内気な性格のため、家族とは離れ、母方の祖国である逢来町の古い屋敷に、執事とともに移り住んできた。しかし新しい暮らしも、学校では友達ができず、金欲しさの不良たちから目を付けられたり、決して幸福とはいえない。つらいときに思い出されるのは、指を拳のなかに握って耐えなければならないという、執事の教えであった。だが〈私はずっと耐えるだけで…後は何でも大人が解決してくれるのか? 私はそうやって大人になるのか!?〉と、こうしたフラストレーションに苛まれてもいる。果たしてキミタカは、学校の屋上で出会った同級生の真雛久遠の、その強さに興味を引かれたことから、自らが拳の振るわれる先を空手のなかに見出していく。以上が、金田達也の『キミタカの当破!(アテハ)』の1巻において示されている概要だけれども、いやあ、最初に述べたとおり、こいつはまさしく少年マンガの真髄をたっぷりと味わえる作品ではないかな。何よりもまず、主人公の造形がいい。あらかじめ欠如を抱えてはいるが、そうした欠如を表現するにあたり、わざわざネガティヴさばかりを強調してはいない。欠如を埋めるのに相応しい資質をも同時に兼ね揃えていることが、彼の言葉や行動によって、しっかりとプレゼンテーションされている。困難にも指を握って堪えるという仕草が、やはり、最大の特徴であろう。キミタカにとって、じっと握力のたくわえられた拳は、悲しみや悔しさに心を奪われまいとする切実さの裏返しである。こうして養われた資質が、空手との接近を通じ、開花の機会を得る。ただまっすぐな視線をまっすぐなまま据えていてもよいような精神の逞しさを芽生えさせる。導入のつくり、そしてそこから繋げられていく展開に、奇を衒ったところはないものの、むしろ王道であることにひるまず、丁寧に設定とストーリーとを練り上げているのがわかるぐらい、一個一個の構図や台詞回しが頼もしく、じつに頼もしく決まっている。もちろん、久遠を含めワキを支える登場人物たちの存在も、たいへんよく生きている。たしかに出自が出自であるがゆえに、どうしても藤田和日郎や雷句誠の作風を彷彿とさせる部分も少なくはない。にもかかわらず、それをまったくのネックとしてないところに、作者の実力が感じられる。物語が進むにつれ、本格的な空手マンガに発展する内容に違いないが、キミタカの屋敷にかけられた家族の肖像など、もしかしたら伏線かな、と思える箇所もあちこちに散りばめられており、この時点で十分、たんに格闘技の題材化されたエンターテイメント以上に見所は多い。

 『あやかし堂のホウライ』(藤田和日郎・原案)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年11月02日
 Boichi作品集HOTEL (モーニングKC)

 個人的な印象を述べるなら、80年代に萩原一至が出て、90年代には大暮維人を置いて、00年代にBoichiがいる、という線を結んでおきたい。影響の推移からすれば、あながち的外れとも思っていないのだけれど、要するに、たいへんくだらないことにたいへんな熱量を注ぐ込むことでたいへん壮大なスペクタクルを持ち上げるスタイルの、ラインである。それはもちろん、本筋とは無関係にも感じられるエロティックな描写への執着に顕著であったりするのだが、物語単位で捉まえれば、いかにもクリシェであるようなパターンを、がちがちに凝った描き込みを駆使することで、たとえじっさいにはそうではなくとも、ずっしりと重量のありそうな表現に見せかけ、プレゼンテーションしてみせるところにあらわれている。Boichiの代表作といえば、今のところ『サンケンロック』になるのかな。日本から韓国に渡った青年が、ギャングのボスとなり、裏社会で成り上がっていくマンガだけれども、なぜか抗争は肉体戦で行われるので、山籠もりをし、格闘の修行を積まなければならない、そうしたプロセスは、よくよく考えると、あんまりではある。だが、しかし、これでもかといった具合に隆々の筋肉が躍動するさまと、ギャグふうにどたばたするしょうもないやりとりとが、説得力のかわりにストーリーを支えている。ちなみに、ときおりインターネット上で見かける韓国の軍隊におけるインスタントラーメンの食し方の示されたマンガは、『サンケンロック』の一部であり、まあ、ああいう、ぜんぜんオミットしても構わない個所を、わざわざ少なくない紙幅を割き、盛り込んでしまうあたりに、作者の資質があるのだろう。この『HOTEL』は、SF的な短篇をまとめたものだが、基本的にはヴォリュームの薄いお話が並ぶ、そこへ持ち味の、解像度の高さにこだわったアレンジを加えることによって、スケールの大げさなはったりをつくり出している点が、やはりBoichiらしい。表題の異色作「HOTEL」が発表され、『サンケンロック』の連載がはじまった当時、受ける印象の違いに驚かされたものだったが、今、こうして読み返してみたら、その身振り手振りはずいぶんと共通している。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月30日
 zerosaki.JPG

 あのヤンキー・マンガを懐かしみたいのコーナー、いや、そんなコーナーはねえですし、あの、といったところで、懐かしい、と思う読み手は、ごく少数、もしかしたら皆無かもしれないのだけど、まあ、個人的な偏愛をめいっぱいに、どんな作品でも振り返られる機会があっていい、という心積もりでこれを書いていく。で、何の話をするのかといったら、TAIRAの『ZEROSAKI(ゼロサキ)』のことである。

 97年に『ヤングマガジン増刊エグザクタ』に連載され、98年に単行本となっている(全1巻)、つまり、ちょうど10年前のマンガになるわけだけれども、作者がそこで行っているのは、おそらく、ラヴ・コメディと不良ヴァイオレンスのアマルガムであるようなヤンキー・マンガの洗練、ポップ化だと思う。ここでいうポップ化とは何か。説明するのは容易じゃないのだが、しいて試みるのであれば、ラヴ・コメディを、恋愛の問題ではなくて、女の子と遊んでたら楽しいじゃん、のシンプルきわまりない態度へ、不良ヴァイオレンスを、男らしさを競うコンテストではなく、うずうずする衝動は止まらない、式の勢いによったゲームへと、それぞれ置き換えることで、ある種の軽さが前景に出てきている表現を指す。

 もちろん、モラルやルールに基づく観点からすれば、ややくだけすぎ、危なっかしい部分もあるにはある。しかし、付け足しのイデオロギーでイズムを語りがちな胡散くささをまったく斥けながら、ピカレスクなノリにすべてを預け、テンポを上げに上げていく展開の続くさまは、じつに潔い。まあ、ぶっちゃけて、ギターのケースを手にした作中人物がマリアッチと呼ばれていることから察せられるよう、当時流行っていたロバート・ロドリゲスやクエンティン・タランティーノの影響をつよくうかがわせる作風だが、ファッションやデザインは今見てもそれほど古びれておらず、とにかくアクションの数々を派手に決めているところに見映えがあって、たのしい。

 中学時代に青華のゼロサキとおそれられた主人公と、その連れのムラサキは、高校入学早々、悪ぶった新入生たちの繰り広げる抗争に、しごく当然のごとく巻き込まれ、さらには、そうした騒ぎをよく思わない上級生たちにも目をつけられてしまい、次々に敵を増やしていくのであった。要するに、筋書き自体は、この手のジャンルにおいてセオリーともいえるものだ。それを先述したとおり、ポップなセンを狙った演出によって、独特なテンションで疾走する快感の溢れた内容にまで持っていっている。絵柄はあえていうなら90年代時の日本橋ヨヲコや長田悠幸に近しいか。作中人物の会話が、関西弁のユーモラスさで成り立っているのも、効果的なんだろう。

 作者のTAIRAは京都出身で74年生まれである。この世代の、ちょうど同じ時期に『ヤングマガジン』の周辺から出てきた人びとが、現在のヤンキー・マンガのシーンを中心で支えている。だが、『ZEROSAKI』に等しいポップ性を描いている者は、ほとんど見つけられない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月28日
 せつないストーリー・テリングを求めず、コメディ作家としてのアルコの資質を考えるとき、問題となってくるのは、やはり、その、作品に課せられたページ数ということになるだろう。単純にいってしまえば、一個のエピソードに対し、与えられている紙幅が多すぎるのだ。これはもちろん、作者の能力を踏まえないで、あるいは踏まえたうえでなのか、それだけの量を与える編集者の責任でもあるのかもしれないが、すくなくとも、長尺における展開のしようがあまりよくない。一ページ内に収まる一コマ一コマが、構図が凝っているわけでも過剰な描き込みがなされているわけでもないのに、やたら大きく、かえってそれが、すかすかなお話を間延びさせると、マンガのテンポを悪くしてしまっている。先般テレビ・ドラマ化もされた『ヤスコとケンジ』の5巻は、そのタイミングに合わせ、『別冊マーガレット』誌上に四ヶ月に渡って発表されたスペシャル編、いわばエクストラ・トラックの位置づけにあたり、おそらく、あらかじめ単行本1冊分の内容になるように決められていたのではないか、と思われる内容だが、しかしこれだけのヴォリュームを使っているにもかかわらず、読まれるべき点があまりにもすくないことに、驚かされる。康子は、二人が付き合いはじめたことをちゃんと報告すべきだ、と純に言われるものの、じっさい知られたら何をされるかわからないので、兄の健児には黙ったまま、できれば秘密にしておきたい。そうしたある日、まだよちよち歩きの赤ん坊が一人でいるのを見つけ、保護したことから、謎の組織に狙われ、香港で大暴れの冒険に巻き込まれるのであった。荒唐無稽な展開は、まあフィクションだしコメディだからね、の一言で済ませることができるのだけれど、そのフィクションでありコメディである部分自体が、先述したとおりの理由によって、はげしく魅力に乏しい。せいぜい半分のページ数であったなら、だいぶ印象も違っただろうと感じられるのは、出だしとオチの二点に関しては、たいへんおもしろおかしく、楽しいからである。出だしは、ちょうど古典的な少女マンガのパロディみたいになっており、オチは、ちょうど古典的な少年マンガのパロディ(というか少年マンガにおける劇画のパロディのパロディ)みたいになっている。たしかに、このへんのセンスにはコメディ作家としての立派な資質がうかがえもする。だがこれほどに長いワン・エピソードを、持ち前のセンスのみでやっつけてしまおうとするのは、さすがに厳しい。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他アルコに関する文章
 『超立!! 桃の木高校』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月27日
 JACKALS 7 (ヤングガンガンコミックス)
 
 この『JACKALS(ジャッカル)』(原作・村田真哉:作画・金炳進)というマンガには、できれば運命や陰謀に関係なく、そう、すごく単純な理屈により正義が悪を裁くかのように気紛れもなしで、血に飢えた者同士が戦い、争い、奪い、殺し合うスペクタクルを期待していたのであったが、残念ながらといおうか、やはりといおうか、複数に並列する因果と組織単位の思惑が登場人物たちの生き死にを左右し、結果、彼らの機動性によって生じていたスリルとスピードとが減退していったと感じられる。もちろん、物語を物語らしく駆動させるためには、一定の思考や苦悩が必要ではあるのだろう。ただ、そちらに割かれるプロセスがやや大きくなりすぎてしまい、ちょうど戦闘意欲に動機付けが重石のごとく課せられてしまったので、大胆なバトルにおけるパフォーマンスの効果が低まってしまったかな、という印象を持つ。まあ、そのへんは、好みの問題、になるのかもしれないし、おい、おまえさんはたんに切った貼ったが読みたかったのかい、と問われれば、そのとおりわかりやすいチャンバラが読みたかったのだよ、と答えるしかないのだけれども、たとえば人が戦うには何かしらかの理由が必要だとして、おおよその登場人物が相応の理由をべつべつに有しているとき、いくらそれを掘り下げていったところで、和解がありえなければ、各々が各々の理由を賭けて戦ってみせるよりほかない。つまり、こうしたフォーマットに則っている以上、どうしてもメインはバトルになってしまうわけである。じっさい、この完結編にあたる7巻で迎えられているラストは、たとえそれが空しさに似ていたとしても、対話や議論を通じてではなく、あくまでも戦いの果てに見出されているものであり、しかしそのなかにあって、登場人物たちの戦う姿だけが十分に描かれていない。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月25日
 青春パンチ 上 (1) (マーガレットコミックス)

 しばし人は、ルックスではなく、内面で、自分を認めて欲しいと願う。しかし内面の評価など、いったい何によってくだされれば、そうだと信じられるのか。わかりやすい例を挙げるとすれば、友情であり、恋愛であり、ということになるだろう。容姿でのみ、自分の存在を、これこれこういう人間だと見なされてしまうことは、どれだけ懇意であっても、文字どおり、上辺のものにすぎないのではないか、とのような疑いをもたらす可能性を孕む。あるいは逆に、容姿がよくなく、そのせいで自分には魅力が損なわれていると感じられる人間を、励まし、前向きに回復させることができるのも、恋愛であり、友情であり、ということになるだろう。そしてそれは、椎名軽穂の『君に届け』や、河原和音の『高校デビュー』等々、今日、売れ線であるような少女向けのマンガに、共通し、備わり、表現されているものの一つだといえる。としたとき、やはり『別冊マーガレット』誌の作品である、小藤まつの『青春パンチ』にも、この上巻を読むかぎり、同種の傾向に基づく内容が描かれていることがわかる。ヒロインの神大寺サキは、目つきが悪く、愛想もなく、じっさいに元ヤンキーの兄がいるため、同級生たちからはおそれられるばかり、そんな中学時代を送ってしまったことがつらく、他の女の子みたいな青春を求め、心機一転、遠方の高校へと進む。ようやく友人もでき、戸呂という同じクラスのイケメンさんに一目惚れし、彼とも親しくなりつつあったのだけれど、どうしてか、どこからか、隠していたはずの過去が噂で広まってしまう。こうしたストーリーにおいて、重要なのは、じつは戸呂が、かつてサキがヤンキイッシュなイメージで見られていた事実を知っており、にもかかわらず彼女にやさしく接していた、という点である。なぜ戸呂はサキの内面を誤解することがなかったのか、これが一種の伏線となり、二人の恋の行方を色めかせながら、下巻へと物語を引っ張っていっている。また、仲良くしていたクラスメイトたちが、噂に攪乱されたからといって、手の平を返すのではなく、むしろそれが、以前にも増して深く付き合っていくきっかけになっていることも、たんなるグラデーションにとどまらない。一連の出来事は、サキに〈思い描いていたフツーの高校生活とはちょっと違うけど〉と思わせる展開をもたらすのだが、しかし反面、自然体でいられ、それでも他人から嫌われない居場所のあることが、彼女に成長と微笑みとを獲得させている。

 『3番目の彼氏』について→こちら
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月23日
 ゼロセン 1 (1) (少年マガジンコミックス)

 硬派といい、軟派という。しかし今や、こうした二項対立の図式に、どれだけの意味があるだろう。すでに硬派の有効性は疑わしいものになっており、それに比例し、わざわざ軟派のレッテルを貼ってみせるのも詮なきことになっている。というのは、過去にも何度か書いてきたことであるけれども、まあ、日本男児であるとか大和魂であるとか、望みもしない生き方を強要することのない社会は十分にアリ、ではあるものの、明確な指向性を持たない自堕落なマッチョイズムが、逃れようもなく強化されてきてしまっている感覚をときおり受けるのは、おそらく、この国のアメリカナイズが中途半端になってしまっている現実と不可分であり、つまり、郊外的だとかヤンキー的だとか呼ばれるそれとパラレルな傾向でもあると考えられる。

 不良少年の青春を扱った『今日から俺は!!』で知られる西森博之は、『甘く危険なナンパ刑事』の頃より、一貫して硬派の存在を扱ってきたといえるマンガ家だが、その西森が『天使な小生意気』でジェンダーの領域に踏み込んだのち、『道士郎でござる』では、侍や武士の、要するに近代以前の男子精神に傾倒する主人公を現代に持ってき、その復興やリバイバルというのではなく、現代社会に対するカウンターとしてあててみせ、続く『お茶にごす。』においては、茶道をテーマに、性差の垣根を意識しつつ、同質の、さらに進んだ表現を果たそうとしているのは、じつに印象的である。

 ところで本題は、やはり、90年代に『カメレオン』というヤンキー・マンガで鳴らした加瀬あつしが、現在取り組んでいる『ゼロセン』の1巻になるわけだけれど、このマンガにも、ある意味、硬派の原石をカウンター式に採用することで、今日における自堕落なマッチョイズムの潮流をチェックしようとしているところがある。六十五年ものあいだ、氷漬けにされていた海軍航空隊のエース旭が、歳をとらぬまま現代に蘇り、この国のたいへん様変わりした光景を憂い、最悪の不良中学校の教師として、札付きの悪童たちと対決する、というのが、だいたいのストーリーだが、六十五年前、旭が軍人として生きていた戦中というのは、当然、戦後よりも戦前に近しい価値観の時代だろう。それが法度として士道として、彼の受け持った私立松本学園中学のZ組に持ち込まれる。教壇に立った旭は、反抗的な生徒たちに向かい、〈士道とはサムライの道 言ってみりゃ 男の道だ! 男としてのヒキョーな振るまいをZ組では一切禁ずる!!〉と言うのだった。

 第二次世界大戦時の日本人という、シリアスに考えれば、ちょっと厄介な問題を孕む主人公ではあるけれども、下ネタもふんだんに、メジャーなサブ・カルチャーを適当にパロディ化することのできる、この作者ならではのセンスによって、ひとまず、エンターテイメントのおかしさにあふれた、教師びんびん物語の幕を開けている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月21日
 境遇のせいで無感動になってしまった少年が、遺品整理業に携わり、多くの人間の生きた証しと向き合ううち、感情を回復、成長していく姿を描いた富田由紀子の『Re:Life―リライフ―』は、この3巻でエンディングになっている。一個一個のアイディアは決して目新しくはないものの、一話一話に込められたドラマからは、けっこう、ぐっ、とくるものがあった。それというのはおそらく、主人公の爽に課せられた特殊な能力がどうというより、喪われた者と残された者との絆がいかに感動的であるかというよりも、爽を取り巻く人びと、とくに遺品整理会社である「リライフ」の仲間たちが、みな、善良的な性格であってこそ、だったかなと思う。じっさい、ラストのエピソードでは、彼らの呼びかけによって、爽は、自分の人生がリセットし、リスタートする機会の得られたことを実感し、たくましい笑顔を寄越すわけである。爽を取り巻く人々の彼を見るそれは、まだ未熟な子供をやさしく見守る大人の視線と、言い換えてもいい。幼い頃、母親に捨てられ、父親に虐待された少年が、ある意味で、家族に代わる共同体のなかに置かれ、それに対する信頼を取り戻す過程が、全体の輪郭を形づくっているのであって、遺品整理業の仕事がもたらすいくつかの経験は、むしろ、その補助線にあたる。まあ、サイコメトラー的な設定に関しては、本来ならば死者とはコンタクトのとれない生者の悶々をフォローし、きれいにまとめるための辻褄合わせ、程度の機能しかなく、あまりうまく扱えていなかった気もする。たとえば、ここに収められている「家族の肖像」というエピソード、これは爽と彼の実の母親との再会と別れを捉まえたものであるが、その部分はともかく、細かいところになるけれども、爽の特殊能力により知りえた死者の本心を、どうやって遺族に伝えたのかについては、やや疑問を残す。すでに述べてきたとおり、作品の印象を悪くするほどではないにしろ。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月20日
 力押しともとれる展開によって、あらかたの事象が収束するラストは、じつにこの作者らしい、と思うし、人類の希望と未来とが、まさしく、後発の世代に託されることで、一種の救いとなっていく様子からも、同じことが思われる。藤澤勇希の『レギオン』の、完結にあたる3巻である。日本を襲った超異常現象は、ネズミの大量発生にとどまらず、小動物全般に及び、獰猛な蟻の大群が地上を黒々と覆い尽くすとき、ついに人びとは逃げ場を失う。たとえそれが神の裁きであれ、運命を受け入れられないにせよ、滅びの瞬間はすぐそこにまで迫っていた。ようやく合流した戸隠親子は、その奇跡も喜びも束の間、さらなる災害に見舞われる。華音と龍斗の姉弟を、ずっと庇ってきた教師の鬼崎と早瀬陸曹が、とても尊敬できるよね。鬼崎に関しては、序盤、あんがい裏がありそうだな、という気もしたのだが、純粋に良い人であった。彼と早瀬陸曹のとった選択は、『BM〜ネクタール〜』の終盤における主人公たちの行動に近しく感じられる。守るべきものを守ることが、ただ一つできる使命であるならば、自分の身を挺するのも厭わない。『BM〜ネクタール〜』にとって守るべきものとは、これから生まれてくる人間すべてに対象が広げられていたけれど、『レギオン』では、今この場を生きている子供たちの命となっている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他藤澤勇希に関する文章
 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 サムライソルジャー 2 (2) (ヤングジャンプコミックス)

 おい、そこのあんた、踊るのは勝手なんだが、他の人間の邪魔になるから、もっとハジっこのほうでやってくんねえかな。せっかく楽しんでいるとき、こう言われちゃうほど寂しいこともないよね。モラトリアムを祭りとして描くこと、しかしその、ハレの場は無条件に生じ、与えられるものではなく、そしてまた、賑々しさの渦中で、余計な疎外感を覚えてしまえば、すべての魔法は解けてしまう。もちろんのとおり、永遠に続く祭りなど、どこにも、存在しない。2巻に入り、たぶん週刊連載のペースを掴みはじめ、この作者、山本隆一郎らしさが、よくよく出てきたな、と思われる『サムライソルジャー』だけれど、それというのはつまり、かつて『GOLD』のなかに描かれたテーマを、ある意味で、受け継ぎ、ある意味で、深めようとしているかのような印象を受けるためである。

 たとえば、作中人物の一人で、武闘派集団の「マーダーコープ」を率いる吉田が、〈華のねー不良(ガキ)が輝くにはよ ヒーローから無理やりライト奪うしかねーンだわ〉と述べる台詞は、なにか、象徴的なニュアンスを含んでいる。おそらく、彼にそう言わせているのは、主役には程遠いバッド・ルッキンな顔つきに対するコンプレックスであり、主役を引きずり落とそうと頼れるだけの腕力が自分にはあるとの信頼だろう。だが、その二つは所詮、主役になりたい誰しもが主役になれるわけではない、という諦念上における同質の強ばりでしかない。これは言うまでもなく、『GOLD』の、前半で、主人公を盛り立てていこうとする不良少年たちの、そして後半で、主人公の兄を裏切っていくギャングたちの、その闘争のうちにあらわされていた心情の、変奏にあたる。

 さらにいうなら、『サムライソルジャー』というマンガにあって、本来ならば主人公に位置する藤村新太郎が、なかなか本筋に絡んでこず、むしろワキの場所に置かれ続けているのは、すでにモラトリアムの外へと出てしまった人間だからであって、ふたたび彼を祭りの内部に引き戻そうとする力が、言い換えるなら、主役に相応しい人間を欲するがゆえの必然が、さまざまな局面で働き、全体的な物語がつくられているわけだけれども、そんな新太郎に向かい、「ナダレ」の元ナンバー2であり、敗北と挫折を知った市川が〈あんた…ちょっと人間が出来すぎてやしねーか そのうえバカみてーに強いときてる ずりーよ…あんたみてーな人間には自然と仲間が集まるんだろーな〉と述べているのも、やがて彼が「ZERO」に対抗すべく、「渋谷連合」を立ち上げようとし、〈『渋谷連合』は『ZERO』を倒すまでの祭りだと思ってくれりゃいい ただ…その御輿には俺を乗せてくれ 『ZERO』に『ナダレ』とられて 俺の居場所はなくなったんだ…あと戻りできねーぶん ド派手な花火あげてみせるからよ!! 終わったらそんな御輿うっちゃってくれてかまわねーから!!〉と刹那に生きることを選ぶのを考えると、じつに皮肉的な運命を暗示している。

 こうして、渋谷を舞台にした抗争は、新太郎の親友であった桐生と「ZERO」とを中心に激化していくわけだが、はたして桐生の狙いは何なのか。彼は自分に従う人間を集め、次のように言う。〈命令とか男とか…オメーらいつまでダセーことコイてんのよ 嫌なら渋谷から出てきゃいーじゃねーか でも渋谷で遊んでたいから わけわかんねー理由つけやがる 今 ここに49人いる そんで49人とも1年後は何してんの? 不良(ガキ)やめて肉体労働(ゲンバ)か? それともヤクザごっこやってのたれ死ぬの? スカウト・AVなんかの企業舎弟でもやる? みんな俺についてこい…そうすりゃ ずっと渋谷の不良のままでいさせてやるからよ〉と、まさしく宣誓する。これはもしかすると、『サムライソルジャー』に、アウトサイダーが描かれ、モラトリアムが描かれていることの意義を代弁しているのではないか、あるいは、モラトリアムの戯れを扱う、たいていのフィクションに対する挑戦のようにも思われてくる。

 子供のままでいたい、子供のままじゃいられない、そうしたジレンマの仮託されたフィクションは、しばし現実を、もっと強調すれば、社会を遠巻きに眺める視線でしかなくなってしまう。『サムライソルジャー』においての渋谷は、ほとんど匿名的な、もしくは郊外化されつつある都会の総称でしかない。しかし完全に郊外の匿名性に埋没しているわけではない、ぎりぎりのラインにより、かろうじて渋谷という固有名が与えられているにすぎない。そして、そのようなぎりぎりのラインは、モラトリアムの最中とモラトリアムの終焉との分水嶺をも、代替している。だからこそ、そこで遊ぶ不良(ガキ)たちは、桐生が言うとおり〈嫌なら渋谷から出てきゃいーじゃねーか でも渋谷で遊んでたいから わけわかんねー理由つけやがる〉のだし、〈1年後は何してんの? 不良やめて肉体労働か? それともヤクザごっこやってのたれ死ぬの? スカウト・AVなんかの企業舎弟でもやる?〉という問いかけに、心動かされる。モラトリアムの喧噪だけが、自らが匿名的な存在であり郊外的な存在であること、すなわち、ありふれたワン・オブ・ゼム以上になれないことを忘れさせてくれているのだ、と自覚する。

 桐生の言葉に刺激された一人が〈俺…みんなで遊んでる時はいいんすけど 1人になると この先どうなんだろうって ガラにもなく考えちゃって…かといって マジメに働いている自分も想像できねーし……ホント今のまま時間止まんねーかなーなんて思ってて〉と述べているが、ここには、モラトリアムとその後の世界は地続きであり、両者のまったく切断できないことが、不安となってあらわれている。そうした認識下において、〈みんな俺についてこい…そうすりゃ ずっと渋谷の不良のままでいさせてやるからよ〉という断言が喚起するイメージは、現実社会に打撃を与えるテロリズムが、ときおりそうであるのと等しく、ある種の魅力を持っているに違いない。

 ところで、かのように桐生の言動を、テロリズムと仮定するのであれば、やはり、それを食い止めるのが、新太郎に課せられた使命ということになるだろう。

 新太郎や桐生とともに「ZERO」のキー・パーソンでありながら、今は亡くなってしまっている雫の姿が、ここにきて、ようやく描かれる。不良というのでは決してなく、むしろ文系少年のステレオ・タイプであったのは少々意外だが、彼の抱いていた夢も、やはり、渋谷という街の固有性と深く関わっている。雫にとって〈……渋谷は 世界中の音楽好きに愛されている街!〉なのであって、〈ここでレコード屋をやるのが俺の夢!!!〉だったのだ。この、他のどこでもなく渋谷でなければならない、という主張は、もちろん、郊外で匿名的に生きなければならない思想と、相反するものにほかならない。それが、理由は異なれども街への愛情という一点で新太郎と桐生に通じ、雫を旧「ZERO」に参加させることになるのである。こうした、いっけん自分たちと価値観の違うふうでありながら、本質的には何ら変わらない雫との出会いが、のちの新太郎に〈……あの時 俺らはサイコーの仲間を手に入れたんだよな……桐生〉との感慨を抱かせ、現在の「ZERO」が実現しようとしていることは暴力によるモラトリアムの一元化であり、当時の三者の思い描いた理想から逸脱していってはいないか、との疑いを持つに至らせている。

 1巻について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年10月18日
 真島ヒロに先立ち、ヤンキー・マンガを描かない(描けない)ヤンキー・マンガ家としての路線を確立したのは安西信行であるが、真島が田中宏からの影響がつよいのに対し、安西の場合、吉田聡からのそれが顕著であるのは、世代の差であろうか。いずれにせよ、完全ファンタジー指向の前作『MAR』では、あまり発揮されることのなかった(初期)吉田聡的なイディオムを、ひさびさに、ふんだんに用い、描かれているのが、野坂恒との共作『MIXIM☆11(ミクシム・イレブン)』であって、二人の役割分担がどうなっているのかは知らないけれども、やはり、こういう賑やかな学園ものは、安西の持ち味であると思うし、読んでいて、無邪気にたのしい。ケンカ上等を地でいく祭壱松と、オタクでゲーマーでメタラーの参宮橋竹蔵、そして頭脳は明晰だがチャイルディッシュな春野小梅の三人は、まったく女の子から好かれず、すこし寂しい高校生活を送っている。しかしどうして彼らはこうももてないのか。じつは異星人であり、北極星の王位継承者であり、選ばれた12人の妃候補としか、恋愛ができないよう魔法をかけられているためであった。とはいえ、三人のうち、真の王位継承者は一人のみで、残りの二人は、たまたま運悪く、もてなかったにすぎないのだが、もちろん、現段階では誰が真の王位継承者なのかは、明かされてはいない。こうした条件のなか、壱松と竹蔵と小梅は、まあ適度に運命を受け入れながら、あかるい青春を目指し、奮闘していく。と、最初に(初期)吉田聡的なイディオムと述べたけれど、それはつまり旧き良き時代のラヴ・コメディの要素を、わずかならず含むものでもある。別世界から異者(エイリアン)がやって来てくることによって、物語の幕が開くなど、じつに正統的で伝統的かつ古典的な手法だろう。むしろ、期限付きのモラトリアム下において、繰り広げられるどたばた、主人公の少年たちの積極性と能動性や、それに基づくテンポの良さに、(初期)吉田聡を意識させるニュアンスがある。言い換えるならば、男の子をどうしようもなく男の子らしく、かっこうよく描きたい欲望が垣間見られる。連載で追っていると、いかんせん一話分のページ数がすくなく、物足りない部分もあるが、そのページ数のすくなさが逆に、バトル展開になりそうなあたりで、そうはなっていかない方向に作品を引き止めているのかな、と考えられたりもする、今のところ。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月17日
 もちろん、対象にされているのだろう読み手の年齢や性別が異なる以上、組まれているイディオムも違ってくるわけだから、単純には比較できないのだけれども、バドミントン・マンガという圧倒的に作品数のすくないジャンルにおいては、咲香里の『スマッシュ!』(その前身である『やまとの羽根』も含め)が先行し、なかなかの成功を収めている今日、朝吹まりの『バドガール』が、どれだけ後ろから迫っていけるか、またはべつの道を切り拓いていけるか、というのは少々気になるところではある。全体的な濃さからすると、『スマッシュ!』よりも、やや薄口であり大味ではあるものの、弱気なヒロインが、競技との出会いを通じ、身も心も成長していくドラマとしては、隠された才能の開化や、一癖ありそうなワキの人物たちとの絡み、友情と恋愛とライヴァルの関係性、等々、基本的なセオリーを押さえに押さえ、まずまずの内容となっており、今後にこのまま調子をあげていくことを期待させられる。

 ところで、いきなり話は変わるのだが、この1巻には、本編とは関係のない読み切りで「百年人形」というマンガが収められていて、これが最近読んだもののなかでは、最大のヒットであった。正しく、驚きの、というに値する結末、そして慈しみにあふれたストーリーに、おんおん泣かされてしまう。まあ、アイディアとしてはSFやミステリのジャンルにおいては珍しくないものだろうし、もしかしたら下敷きとなっている既存作品があるのかもしれないけれど、それを今日における『りぼん』の主流的な作風に落とし込んだうえ、じつはその絵柄からくる作品のイメージ自体が巧妙に伏線化されているため、そうか、そういうことか、見事に騙されたし、泣いてばかりいた少女の成長を、こんなふうに描くこともできるのだと、予想を裏切られ、いや、驚かされた。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月14日
 12月生まれの少年 1 (1) (バンブー・コミックス) (バンブー・コミックス)

 個人的な印象ではあるが、施川ユウキの登場が衝撃的であったのは、ああ、ついに『エヴァンゲリオン』世代のギャグ・マンガ家が出てきたな、と思わせるところが、つよかったためである。じっさい、作者がどれだけかのアニメーションに影響を受けているのかは知らないけれども、内面を覗き込む視線の角度、ときおり思索にふけるありように、すくなくとも90年代半ば以降ならでは、のものを感じられたのであった。このことは『がんばれ酢めし疑獄!!』の初期にこそ、如実にあらわれており、どこか根暗な面がシュールともとれるネタに対し、どうにかオチをつけるべく、まるでバカルディの三村みたいな、極度にカリカチュアライズされたツッコミを入れているのは、いま読むと微笑ましくもある。やがて、ラムニー君に代表されるような特徴的な登場人物(ラムニー君は人ではないが)をうまく生かす手法を、しばらく続いた『がんばれ酢めし疑獄!!』の連載において培い、『サナギさん』や『もずく、ウォーキング!』など、文字どおり、特徴的な登場人物(もずくは人ではないが)の名がタイトルになっている作品で、他の何ものでもない、決定的な存在感を確立するに至るわけだが、この『12月生まれの少年』は、どちらかというと、初期の頃の作風に近しい、つまり、特徴的な登場人物の造形よりも、内面を覗き込む視線の角度と、ときおり思索にふけるありようで勝負している印象を受ける。したがって、他の作品に比べると、一発でとっつき入っていけるフックの部分に、やや弱さを感じる向きもあるかもしれないけれど、ナイーヴなうつむいた感性に一ひねり加えることで、そこはかとないおかしさが生まれ、心に引っかかると残ってしまうことに、なるほど、施川ユウキだ、と思わされる。

 『もずく、ウォーキング!』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 さんざん繰り返しているけれども、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、というのが立原あゆみのヤクザ・マンガ全般における重要なテーゼである。しかしながら、どうしてもヤクザになるよりほかない人間がいる。『本気(マジ)!』でいうなら、もちろん、本気がそうであるし、たとえば、次郎がそうだろう。『本気!サンダーナ』が、『本気!番外編』、『本気!II』と続く『本気!』シリーズの(今のところ)完結編だといえるのは、本気が、長いあいだ自分の片腕として仕え、どっぷりと極道の血に染まってきた次郎を、それでも堅気の世界に戻してやりたく、ついに破門とするからでもある。いくつかの危機にさいし、本気が窮地を脱しえてきたのは、彼自身のカリスマによるところも大きいが、次郎のサポートに助けられているケースも決してすくなくはない。単純に子分ということであれば、矢印や新二のほうが古い、だが次郎は特別だとの思いが、本気にも読み手にも、ある。

 文庫版5巻には、ヤクザであるがゆえに次郎は愛した女性とともに生きられない、その別れのエピソードが含まれている。次郎の恋人の名は、美雪という。そもそも本気と次郎が出会ったのは、美雪が本気に助けられたためであった。チンピラの次郎が、本気の兄貴分である赤目の組の金を持ち逃げし、恋人の美雪が下っ端ヤクザの手込めにされそうになったところを、本気が助けたのである。これがきっかけとなり、次郎は本気を慕い、後をついてくるようになる。そのくだりが描かれている文庫版3巻を読み返されたい。命を助けられ、互いに庇い合う次郎と美雪を見つめ、本気は〈このふたりはやり直せる…ふたりそろってどこでんいける うらやましかったです……〉といっている。〈このふたりはやり直せる〉という言葉には、もはや自分とは無縁になってしまった夢を、すなわちヤクザから足を洗うという夢を、美雪といっしょの次郎なら果たしてくれるだろう、との期待が込められている。その気持ちを知っているにもかかわず、次郎が『本気!サンダーナ』のラストまで、本気にもっとも近い人物として、極道を生きてしまったのは(おそらくその後も生きるのは)、彼もまた本気と同じく、ヤクザになるよりほかない人間だったから、なのかもしれない。

 本気に〈このふたりはやり直せる〉とまで信じさせた美雪との愛が、終わりを迎えなければならなかったのも、結局のところ、次郎が、ヤクザとしての生き方を、そして何よりもヤクザである本気の傍らで生きることを、選んだためである。なぜ次郎は美雪と別れねばならなかったのか。弱点のない本気の身代わりとして、次郎の恋人である美雪が、敵対する組織にさらわれてしまい、救出することはできたものの、もしも自分といっしょにいれば、同じ場面がこれから何度も起こりうる、どれだけ彼女が平気な顔をしていたとしても傷は残る、愛しているからこそ幸福にしてやれないのがつらい。そのため、次郎は、自分がヤクザをやめることのできないかわり、せめて美雪だけは、と身を引く、堅気の男性に彼女を託す。愛しているくせに恋人への想いではヤクザをやめられない、というのは、ある意味で、我が儘な、矛盾したロジックであろう。しかし、このような自己規定の矛盾には、社会のあらゆる面に汎用可能な、一定の普遍性がある。立原が、ヤクザの世界を用い、物語化しようとしているのは、ちょうど、そうした現象下で、ときに人を正しくもさせ、誤らせもするような、エモーションのありさまだといえる。

 次郎の美雪に対するそれと同様のジレンマを、じつは本気も抱えている。久美子へ向けた純情であるほどの想いが、そうだ。久美子をどれだけ求めながら、そして相思相愛の手応えを覚えながら、自分がヤクザであるため、堅気の、しかもまだ学生である彼女には、偶然以外の理由で、指一本触れられずにいる。いや、それ以上のことは願うのも禁じている。これに関しては以前にも述べたし、またべつの機会に述べるつもりなので、そちらに譲るが、とりあえず、この文庫版5巻において、ついに久美子の病が発症する。今ふうの言葉でいうなら、難病ものとでもとれる展開が、のちのち待ち構えているわけだが、そのとき、愛する人のためにヤクザをやめるかやめられないのか、といった問題が本気の前に立ち塞がってくる。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2008年10月12日
 オトメゴコロ 2 (2) (講談社コミックスフレンド B)

 この2巻で完結を迎えた渡辺あゆの『オトメゴコロ』であるけれども、好きな男の子には、ずうっと片想いしている相手がいて、その女の子が自分よりよっぽど魅力的な存在であるとき、さあどうすればいい、という問題をいかにして描くのか、このような難しいところからはじめつつ、わりとあっさり、外見の良い女の子と気の合う女の子のどちらが男の子に選ばれるか、式の決着に切り替えてしまったのは、ちょっと逃げてしまったかな、と思えるものの、イケメンさんである淳をめぐり、ヒロインの寧々と相対する、いずみの鼻持ちならなさがじつにすばらしく、これがもてるってのが男女の不思議だよね、という気持ちで、たのしく最後まで読めた。それにしても、最近気になっているのは、この『オトメゴコロ』のいずみもやっているのだが、男の子の携帯電話をばれないよう勝手に使い、いちゃいちゃしているふうな声を、恋敵の位置にいる女の子に聞かせてダメージを与える、そのような嫌がらせを女性向けのフィクションにおいて、頻繁に見かけることである。これは着信履歴に記名性がある、と認識されているおかげで成り立つ巧妙な手口であり、しかも効果は抜群で、仕掛けは容易い。また汎用性が高く、そもそもの発明者がいったい誰なのかは知らないけれども、すさまじいアイディアだと思う。

 1巻について→こちら

 『キミがスキ』2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 彼はトモダチ 3 (3) (講談社コミックスフレンド B)

 未遂であったから良かったものの(いや良かったのか)、ユーマがやろうとしたことは立派な強姦なのだが、周囲の人間がそれを知り、当人たちに対して、まあ相思相愛の可能性があるなら仕方ないよね、というのでは、まずい。何も作中人物たちに倫理をつよく求め、そう述べているのではない。だいいち、まだカレン(佐々本)に未練を残すヒヨリが彼の名を呟くことによって、場面自体は十分な効果をあげている以上、自分が求められているわけでもないことに悩むユーマが、(酒を飲み、寝入り)ほとんど意識のないヒヨリの服を脱がし、コトに及ぼうとするのは、余計な描写でしかないだろう。これだったらむしろ、嫌がるヒヨリを無理やりユーマが犯そうとするほうが、欺瞞がないぐらいである。もちろん、掲載誌である『別冊フレンド』のカラーや編集者からの要請があってそうしているのかもしれないし、その、合意がなくとも無防備で無抵抗な女性とのセックス(性交)は強姦行為には入らない的な認識が今ふうのリアリティなのかもしれないけれど、やはり、表現のうえで瑕疵にあたる箇所だと思う。すくなくともユーマの株が下がっただけだわ。それにしても、と、いきなり話は変わるのだが、カレンのクラスメイトとして出てきたイケメンさんがいいね、こういうさばけた性格の男の子、すき。

 1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月09日
 今日的なヤンキー・マンガにおける不良少年の鬱屈も、結局のところトラウマ時代の坊ちゃんに等しく、生い立ちや幼年期の体験に尽きるのか。ワルに憧れる少年性とはまたべつの位相に、どうしても不良にならざるをえない宿痾が存在しており、それが当人の望まない不幸であるのだとすれば、たしかに悲しい。が、しかし〈親父の顔なんて知らねぇ…母親にはすてられた 友達にも裏切られ…何もねぇ……〉からといって、〈んなモン…女ブン殴っていい理由になんねぇな…〉と、これだよ、これ、である。同情的な視線では決して救われぬ魂を前に、こうしたしごくまっとうな意見を、躊躇うことなく、述べられるところに、小沢としおの、そして『ナンバMG5』の、良さ、がある。

 いよいよ、千葉最強のヤンキー剛と横浜のギャングキング光一の対決にも、決着がつく。暴力ですべてを牛耳ろうとする光一の凶行が、レディース横浜魔苦須の面々のみならず、自身のチームであるケルベロス、そして無関係な伍代までをも手にかけていくとき、まさか三階から突き落とされたはずの剛が、ふたたび立ち上がってきたのであった。もはや誰も入り込む余地のない、圧倒的なレベルのケンカがはじまる。そのなかで〈教えてやるぜ 何でオレが強ぇか……何もねーからだよ…オレには…〉とのたまう光一に、剛は言うのである、〈んなモン…女ブン殴っていい理由になんねぇな…〉と、〈つらい過去持ってりゃ 何でも許されるとでも思ってんのか?〉と。ここは最高に燃えたな。

 しかし重要なのは、母の手作り特攻服が破れ、かわりに魔苦須のメンバーがプレゼントした特攻服を剛が羽織るシーンによって、光一の孤独が相対化され、そのうえで否定の意味が込められているため、剛の言葉には、読み手の心を動かすのに十分な、重みが加わっている点であろう。前巻の回想が教えてくれているとおり、魔苦須の面々、とくにナンシーやカー子、フー子は、ある意味、光一がそうであるように、不良にならざるをえなかった人間だといえる。だが、光一と彼女らのあいだには決定的な差異があり、両者を違えているものがあるとすれば、それこそ仲間の有無、作中の言葉を借りるなら、友達(ツレ)の存在にほかならない。この仲間を大事にする気持ちが、魔苦須の特攻服には託され、象徴されているので、それを着用し、後輩の弥生たちを守るべく体を張り、光一に立ち向かう剛の言葉には、何か、こう、胸に届いてくる響きがともなっているのである。

 もちろん、それを綺麗事というのは容易いけれども、おそらく、たいていのフィクションにおいて、孤独と仲間の関係は不可分に結びついている。あるいは、現在進行形であるヤンキー・マンガにかぎっただけでも、同様の問題は、高橋ヒロシの『WORST』や柳内大樹の『ギャングキング』にも見られる。家族から見捨てられ、社会からも疎まれ、生じうる孤独をもしも、宗教やイデオロギーを持ち出さないで、救えるものがあるとすれば、やはり、仲間からの働きかけ、それになってくるのだろう。ネタを割ってしまっても問題はないと信じるが、結論からいえば、光一は剛に敗北する。力で負ける。このとき、強者が正しいの論理に光一が従っていたことを忘れてはならない。すくなくとも、そうした相手方の論理に則り、そのうえで〈ちょっと強ぇからって何なんだ!! 神奈川最強が何だっつーんだよ!! 友達の1人もいねークセに…んなモンに何の意味がある!?〉という言葉を正しく機能させるべく、剛は、ぼこぼこになるまで光一を叩きのめさなければならなかった。すなわち、暴力描写自体を、たんなるスペクタクルではなく、物語を回すなかで、十分に意味のある表現にまで持っていっている。

 それにしても、あいかわらず、作中人物たちのファッションが素敵である。剛と光一の死闘において、それを見守る伍代のTシャツにプリントされているLEAH DIZONってロゴ、なんだよ、おまえ、それ、よくよく見たら、リア・ディゾンじゃねえか、一瞬、かっけえ、と思っちまったじゃんよ。いったん気になってしまうと、こんなクライマックスに、そんなTシャツ着てんな、場違いだろ、と笑えてしまうので弱るよ。まあ、カー子のMIKUのトレーナー(これは、もしかして、猛愛用のMIKEの兄弟ブランドであろうか、それともどちらかが、あるいはどっちも既存メーカーのパチモノなのかな)もたいがいだが、すました顔してLEAH DIZONの伍代には負ける。

 と、オチもつけたところで、しかしもうすこしだけ書きたい、と文章を続けてしまうのは、この17巻で先の横浜編は終了し、エピソードが変わるのだけれど、その、剛の妹である吟子が将来について悩む新エピソードにおいて、彼女の担任教師として登場する長谷川が、たいへんナイス・ガイであるからだった。吟子ばかりではなく、兄の猛や剛を受け持ったこともあり、さらには剛の二重生活をも知る彼にかかると、三者面談で相対する難破家の母親ナオミの〈勉強より大事なことがいろいろとあんだろ!!〉という、ふだんなら頼もしいはずの言葉も、やや幼稚になってしまう。何をしたいのか、まだはっきりと自覚していない吟子のことを真剣に考え、長谷川は、吟子やナオミに対し、厳しく接するのである。こうしたまっとうな感覚を、ギャグにも見える展開のうちへ、しごくナチュラルに盛り込んでくる作者の、そして作品の健全さは、ほんとうにもっとずっと高く評価されてもいい。

 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月08日
 これまでの経緯からして、花と天地の一対一による直接対決(タイマン)は、『WORST(ワースト)』というマンガにとって最大の見せ場とならなければならない、すくなくとも読み手の側からすれば、そのような期待を抱いてしまうところで、へたな小細工をせず、真っ正面から二者の意地と意地とをぶつけ、凌がせ、相応に魅力的な数シーンをつくり出し、文字どおり白黒のはっきりとした決着まで持っていき、そこから先の余韻も含め、十分に手応えのある盛り上がりを描ききったのは、さすが高橋ヒロシ、まだまだやればできんじゃん、といった内容の21巻である。まあ、細かくいっていけば、いくつかの不満もなくはない。が、しかしすくなくとも、高橋のフォロワーやその周辺のマンガ家たちが、説教くさいポエムをのたまわっておけば真剣に生きていることの表現になるんだろう、式のクソ手法に屈託がないのとは違い、正しく動的なクライマックスを提出している点は、評価に値する。それにしても、な。結局、不良少年の屈折とは、生い立ちや幼年期の体験に起因してしまうものか。個人的には、もう何度も述べてきたので詳しく繰り返さないが、花と天地の対照のうちに、高橋の過去作『QP』に生じてしまった我妻涼のジレンマを見ていたのだが、その問題はもっと根深く、したがってより大きな視野で捉まえなければならないのかもしれない。たとえば他のすぐれたヤンキー・マンガを例に出すなら、田中宏の『グレアー』における大友勝将と嵜島昇喜郎の因縁がそうであるように、不良少年の孤独は彼ら自身が望んだものではない、にもかかわらず、その運命は自分自身にしか変えられない、こうしたアポリア(困難)は、どの世代にも、どの時代にも存在しており、はたして絶望にもなりうるし、希望にもなりうる。『WORST』において、なぜ天地が花に執着するのか、の理由は、作中人物により〈誰にでもやさしく 笑顔を絶やさない花…その周りには自然と人が集まる そんな花が天地にとはとてつもなくまぶしく そして疎ましい存在だったんだろうよ〉と述べられている。すなわち、自分とは似て非なる人間、もしかしたら自分もそうなれたかもしれない可能性を意識するところから、やって来ている。この関係性は、言うまでもなく、柳内大樹の『ギャングキング』におけるジミーとピンコのそれにも当てはまるものだ。近年では、高橋ヒロシの作風を指し、リアル(リアル系ヤンキー・マンガ)なる修辞を与え、評価している向きもすくなくはないが、もちろん、そのなかに現実を丸ごと見てもらっちゃあ困るし、せいぜい弘兼憲史の『課長島耕作』をリアルだとする程度の、ささやかな認識であると受け止めておきたい(団塊世代にとっての『課長島耕作』と団塊ジュニアにとっての『クローズ』は重要な対比になりえる)。が、しかしながらリアリティとなり、機能するものがあるのだとしたら、それはやはり、前述したとおり、不良少年に象徴されるアポリアが普遍的な要素を汲んでいるからこそ、なのではないか。孤独な自分の運命は自分にしか変えられない。そうしたとき、天地が花と殴り合い、やぶれ、与えられたのは、運命を違えていくためのチャンスにほかならない。二人の決着を見届けた作中人物が〈これで何も感じねーなら天地は本当のクソだ…〉と言っているのも、すなわち、そのことを指している。

 20巻について→こちら
 17巻について→こちら
 11巻について→こちら

・その他高橋ヒロシ関連の文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月06日
 きんぼし 1 (1) (ヤングマガジンコミックス)

 マンガの題材に相撲を、さらには男子学生に相撲をとらせる、というアイディアは、すでになかいま強の『うっちゃれ五所瓦』が(たぶん)大勢に傑作として知られているとおり、決して目新しいものではないものの、その作品数は、他のスポーツ・マンガあるいは格闘技マンガに比べ、乏しく、ましてや成功例をあげるとなると、かなり難しくなってくる。つの丸の『ごっちゃんです!!』も悪くはなかったが、はたしてどれぐらいの人気があったのだろうか。ちなみに、かの播磨灘の若き日を描いた、さだやす圭の『ああ播磨灘外伝ISAO』は、むしろ不良マンガの範疇に入ってしまう。この不盛況ぶりはもしかしたら、モラトリアムを営む若者と相撲競技が負っているストイシズムとの相性の悪さをあらわしているのかもしれないな。いやまあ、今日ではスキャンダルの多発によってイメージの悪くなりつつある国技だが、プロになるならない以前に、生半可な気持ちでは飛び込めない敷居の高さがある。すくなくとも青春を謳歌したい若者には、それほど魅力的な世界であるとは思われていないに違いない。明石英之の『きんぼし』もまた、〈カッコイイって なんですか? カッコワルイって なんですか? 少なくとも………あの頃のオレのカッコイイには……まわし姿は入ってなかった‥‥〉という、1巻の冒頭のモノローグに示されているように、相撲にまったく興味のない男子高校生の姿を描くところから、物語をはじめている。甚野新太は、まだ一年生でありながら、恵まれた才能を持ち、高校球界期待の星として知られる存在であった。が、しかし、自らの奢りが試合中の大けがを招き、左目に回復不可能のダメージを負ってしまう。結果、野球部を去らなければなくなり、それまでの立場を完全に失う。その彼に目をつけたのが、五人の部員を揃えなければ、廃部に追い込まれてしまう相撲部の部長、長尾蒼士である。入部を賭け、長尾と勝負をした新太は、土俵の外に投げられ、気を失うなか、〈カッコワルイのは手を抜くこと‥‥カッコイイのは必死になること‥‥〉と思う。掲載誌である『ヤングマガジン』には、宮下英樹の『ヤマト猛る!』という暑苦しい作風も同系統の相撲マンガが、数年前に存在していたけれど、あれはどちらかというと格闘技マンガふうの勝たねばならぬスペクタクルがつよかったのに対し、この『きんぼし』は、部活動的な共同体の意識とスポーツ・マンガ性の高さを前面に押し出しているふうに感じられる。作中では「心・技・体」の三要素が、とくにその「心」の部分が繰り返し、強調され、おそらく、それの意味を会得していくことが、新太を含めた青楓高校相撲部の面々を、成長させ、かたく結びつけていくことになるのだろう。また、そうした「心・技・体」を具体的に描きたいがために、相撲競技が題材として選ばれたのだとも考えられる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月05日
 あはは、これはひどい、と述べておくのが、ひとまず、相応しい。もちろんそれは、褒め言葉であるが、貶し言葉であっても、とくに意味を違えない。すくなくとも、どちらに転んでも構わないというようなレベルで、このマンガは組み立てられている。1巻の時点で、かなりの悪ノリを見せた、高橋秀武の『トクボウ朝倉草平』であるけれども、いやいや、2巻に入り、ますます、ふざけてんな。今日においては、しばしインターネット上のコミュニケーションやスラングを例に持ち出し、解説されがちな悪意もしくはアイロニーを、フィクションのなかへ、けっこうストレートに導入している内容は、せこいあざとさよりも堂々たるえげつなさのほうが勝っているおかげで、なかなか他に類のないかっこうになっており、パンチがある。散りばめられている小ネタの数々は、ギャグとしたらどれもくだらないのだが、まあ、そのくだらなさに自覚的であることが、おそらく、プラスの効果を引き出しているんだと思う。たとえば、本編にはまったく関係のないところで、52ページ目の、ニコニコ動画を模した一コマが、書き込みされているコメントのありそうな点も含め、見事にしょうもなく、個人的にはヒットであったよ。一方、ストーリー・マンガとしては、意外と骨格の部分がしっかり、がっちりしている。間違いなく悪であると判断されながらも、正規の手続きをとってしまえば裁くことができなくなってしまう、そのような存在に対するジレンマとどう向き合うかは、作者の過去作である『野獣は眠らず』にも見受けられるモチーフだけれど、解決不能の問いをめぐりめぐりながら形而上の領域にまで踏み込もうとしていたあちらとは違い、『トクボウ朝倉草平』の場合、主人公の朝倉草平が執り行う「行政指導」によって、卑近な程度に収められ、対象化されている。ここに入っているエピソードのうち、今ふうに自宅警備員と喩えられる若者が、じっさいの警備会社を巻き込み、この国のアニメーション産業を憂う「自宅警備隊」編は、登場人物たちののたまう理屈がやや冗長すぎるものの、その冗長さが、ある種のフラストレーションを写実的に描き出しているみたいだ。よくリテラシーなどというが、リテラシーをつくる基準自体がもはや曖昧になった世のなかにおいて、何がそれにあたるのか。見渡せば馬鹿ばっかりなのに、誰も自分が馬鹿であることを認めたがらない、自分だけは例外だと思い込もうとする、こうした矛盾の引き起こす自家中毒を、〈ああ死にたい〉と呟く怪人物が暴く、その無軌道ぶり、無節操なさまの身も蓋もないところに、愉快であるようなカタルシスが生まれている。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月04日
 このへんはくわしい検証が必要になるのだが、今どきヤンキーだなんて(古くさい)、という感覚は、遅くとも90年代の半ばぐらいには行き届き、一般化していたと思われる。たしかにそれは、不良の歴史がチーマーやカラー・ギャングへ変遷した結果、ヤンキーなるスタイルがオールドスクールになったことを示しているのだろうし、あるいは、もっと大きな視野において、80年代の文化に対する反動のあらわれ、前ディケイドのセンスがアップ・トゥ・デイトではなくなってしまったことを指しているのだろう。しかし留意すべきなのは、その、今どきヤンキーだなんて(古くさい)、という感覚自体は、十数年経った現在も、存分に生き、有効的だという点である。このことは翻って、いまだにヤンキーのイメージが、大勢のなかで共有され、さらにはインパクトの強度が、すり減らず、残されている事実を教えてはくれまいか。鈴木信也の『バリハケン』はそうした、今どきヤンキーなんて(古くさい)、という感覚の上辺を、ほとんど無邪気にすくい取り、そこに学園ものの定番であるトラブル・シューティングの要素を、やはり無邪気に屈託なく、掛け合わせたマンガだといえる。ほんらいオタク少年であった主人公が、高校に入学して早々、当人の望まぬハプニングによって、一年生を仕切る立場に祭り上げられてしまい、嫌だ嫌だと思いながらも「派遣組」として、さまざまな依頼を引き受けていく。こうした概要において、作品の本質はしかし、ヤンキーを描くことにはないだろう。また、トラブル・シューティングの要素も取って付けた感がある。さらには、オタクにまつわる趣味の描写も、それがヒップだから以上のひねりがうかがえない。すなわち驚くべきことに、『バリハケン』には、これといって芯にあたる部分が存在していない。もちろん、ギャグ・マンガをやっている内容に関し、特定のテーマを見出す必要はない。とはいえ、持ち込まれたガジェットの一つ一つに、何かしらの批評性が託されているわけではないので、ギャグそのもののキレが鋭いとも見なしがたい。ここで問題にしたいのは、ではそれが弱点なのかどうか、だ。作者の過去作『Mr.FULLSWING』は、1巻の、とくに1話目には、たいへん期待させられるものがあった。好きな女の子のために戦うことで不可能が可能になっていく、式の正統的な少年向きラヴ・コメディのフォーマットを用い、それをどうアレンジするのか見物であった。じっさい、燃えるような出だしを踏んでもいたものの、のちの展開は、受難も勝利も、ご都合主義の域にとどまり、そのご都合でさえも、結局は、物語のためではなく、作者の都合だろう、の、とぼけた素振りを免れなかった。にもかかわらず、長篇と認められるぐらい、ヒットしたのである。つまり、それはそれで需要があった。ヒット云々はともかく、同じことは、おそらく、『バリハケン』にもいえるだろう。周囲の誤謬によって、内面のおだやかな主人公がヤンキー視されるというのは、どこにも目新しさがないほど、オーソドックスな設定にほかならない。だが、それを用いることにいっさいの含み、矜持を感じられない。この2巻でいうなら、髪型をリーゼントにした主人公に、彼がオタクであることを知っている登場人物が〈って なんでまたリーゼント!? ここは平成20年のジャンプって〉と、ツッコみを入れる箇所がある。十数年前の『週刊少年ジャンプ』で、『SLAM DUNK』や『幽☆遊☆白書』が好評を博していたときでさえ、主人公たちのリーゼントというかリーゼントっぽい髪型は、今どきヤンキーだなんて(古くさい)、という感覚をすくなからず帯び、時代遅れになりつつあったヘア・スタイルをあえて採用することで、何かしらかの批評性が生じえていたと考えられる場合、この〈って なんでまたリーゼント!? ここは平成20年のジャンプって〉という台詞は、たんに、今どきヤンキーだなんて(古くさい)、という感覚を述べているにすぎず、作者が自分でも気が利いていないと思って言わせているのでなければ、あまりにも無邪気すぎる。だが、もしかしたら、だよ。その無邪気さをセールス・ポイントとし、受け入れなければならないのが、現代であるのだとしたら、否定的に向き合ってみせるのも詮なきことであった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年10月03日
 これまでにも何度か、テコ入れ、仕切り直し、延長してきたマンガだが、再度リニューアルを施して、『味いちもんめ〜独立編〜』となった。無印から「新」への移行は、原作者であるあべ善太の逝去という、テクスト外の変化によるところが大きかったのだろうけれども、今回の「新」から「独立編」への移行は、作中の環境を、ひいては物語の構造自体を根っこから一新しようとする試みだと思われる。まあ、たしかに「新」の終盤は、マンネリにも程があるよ、のぐだぐださ加減であった。それを考慮してなのかどうかは知らないが、「独立編」において、何よりも指摘しておかなければならないのは、示唆的な題名のとおり、主人公の伊橋悟が独り立ちし、ついに自分の店を持ったことである。京都時代の恩人に紹介され、神楽坂の「割烹・庵」で板長をつとめることになった伊橋だが、じっさいに店を訪れてみると、日本料理の世界とはかけ離れた、焼き鳥などの鶏専門の料理屋であった。このことをオーナーに相談した伊橋は、店を新しくし、日本料理屋としての再出発を請け負う。「新」に対する不満は、なぜ伊橋が出世しないのか、という点に尽きた。いざ出世の話が来ると、自分の進むべき道が自分でもわからないんだ、と伊橋は坊ちゃん風に吹かされてしまう。無印の初期においては、あんだけつっぱっていた人間がさ、結局、丸くなってやることといったら、自分探しだなんだぜ。そこに含まれている教訓を述べるなら、人間が成長するって、ろくなもんじゃねえのな。そりゃあ、ぐだぐだにもなるだろうよ。しかしながら、ここにきて、ようやく決定的なターニング・ポイントを迎えたのである。過去にも、後輩や助っ人に入った先で、他人の上に立つことはあったけれど、「独立編」では、自分の上にはもう誰もいない、完全な責任者として、それにあたらなければならない。このことは、当然、物語の構造自体を、がらりと変える。1巻の時点で、かなりシビアに金銭の問題が絡んでくるのは、わかりやすい変調だと思われる。正直、伊橋の下につく従業員の二人、深田と今宮が、ええい、絵づらだけでももうちょい何とかならんかったのか、というぐらい微妙な造形で、ぜんぜん魅力がないものの、ひとまず、こうしたリニューアルの試みに関しては、肯定的な目で評価したい。

 『新・味いちもんめ』
  21巻について→こちら
  20巻について→こちら
  19巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月30日
 otoko.jpg

 じつは『ヤングチャンピオン漢(オトコ)』Vol.1に掲載されている作品のなかでは、この吉沢潤一の『ボーイミーツガール』を、いちばんおもしろく読んだ。たぶん、ギャグ・マンガに分類される。くわしく検証したわけではないので、いや誰か、熱心な研究者か余程の暇人に調査してもらいたいところなのだけれども、おそらく今日というのは、「漢(おとこ)」なる言い回しが、この国の歴史においてもっともポピュラーになった時代だ、と思われる。「男」ではなくて、わざわざ「漢」と表記し直される行為は、ネタであれ、マジであれ、さまざまな方面で見かけることができる。しかしながら翻ってそれは、「漢」という語に託されているはずの価値がさがっているからなのではないか。「漢」とは何か、こうした問いや思想をすっ飛ばしたところで使われている、使うことに抵抗がなくなっているがゆえに、ある種の気軽さを持つにいたっている。もちろん、そこで起こっている意味の空無化を指し、アイロニーなどといってみせることも可能には違いない。だが、アイロニーというほど立派なもんか、というのが、たいていである。そうした状況下において、『ボーイミーツガール』は、本来なら「漢」と表されても良さそうな威厳を、あえて不様に、見事なギャグへと転がしているので、高く買える(作中に「漢」の文字は見つけられないものの「漢」と名付けられた雑誌に載っていることが重要だろう)。内容からして、話の筋を説明しても仕方がないところがあるのだけれども、大規模なヤクザの会長が、渋谷の路上で、座り込んでいるギャルのパンツに目が向いてしまったため、彼女から因縁をつけられ、最高潮にギャップのあるコミュニケーションによって圧倒される、というもので、たいへん頭の悪そうなやりとりと、その間の置き方が絶妙である。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 otoko.jpg

 今日におけるヤンキー・マンガ群が、ときおり作中に採用するポエム、あれはおそらく、不良にも内面があるんだよ、という表現であろう。だからか、モノローグの枠組みを借り、読み手に向けて、あるいは作中人物に向けて、告白のかたちをとっているケースが多い。しかし驚くべきなのは、90年代に発表されたヤンキー・マンガの有名作に、そういった形式を大々的に用いたものは、ほとんど見かけられないことだ。すくなくとも現在ほど長口上で、さらには数ページを費やすパターンはレアである。つまりは、00年代に入ってから、ジャンル内で主流化したのだとさえいえる。とりあえず、少女の表情と心理描写ふうの風景イラストにポエムをミックスするという、80年代に一部で流行ったポエミー(イラスト・ポエム)の文化を、少女マンガのクライマックスだけを取り出していると指摘したのは、たしか大塚英志だったが、むしろ現在のヤンキー・マンガがやっているのは、それの反転的な導入に近しい、すなわちクライマックスにあたる箇所に、ケンカや暴力の描写ではなく、少女性抜きのポエムをつらつら書き添えることのように思われる。こうした現象が進歩であるのか退行であるのか、いずれにせよ判断は微妙だが、個人的にはあまりおもしろく感じられない旨は、過去にも述べてきた。『ヤングチャンピオン漢(オトコ)』Vol.1に掲載されている『クローズ外伝 リンダリンダ―野良犬―』は、ゆうはじめが高橋ヒロシの『クローズ』から設定と登場人物を借りてきたシリーズの第二弾で、やはり以前のエピソードと同じく、作中にポエムめいた告白のモノローグが採用されているわけだけれども、しかし今回は、その語りがうぜえ、ということもなく、印象も決して悪くない。これは、たぶん、作品の構成力が、いくぶんか上がっているためである。何はともあれ、しみったれたポエムが、物語の概要もしくはテーマないしメッセージを、ぜんぶ代弁してしまわない。中学生でありながらも、ケンカの強さで名を知られるリンダマンと、そのツレの圭一を、応華中学の「蟻の軍団」が付け狙う。ちょうど同じ頃、雄太という気弱そうな少年が彼らに接触してき、圭一は好感を抱く。が、じつは雄太こそが「蟻の軍団」のトップであった。端的にいって、バトルとアクションが派手で、良い。そうして、自らを野良犬に喩えて憂鬱をのたまう雄太が、孤独を寡黙に背負うリンダマンに一蹴される場面へ、カタルシスを持ってきている。また、高橋ヒロシのフォロワーがあふれるシーンにおいて、できうるかぎり影響圏から逃れようとしている作風を評価したく、作中人物たちがスタイリッシュに躍動する姿は、どこか上條淳士の『赤×黒』を彷彿とさせる。

 『クローズ外伝 リンダリンダ』
  後編について→こちら
  前編について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月29日
 羽柴麻央の読み切り作品集である『イロドリミドリ』に入っている四篇(わずか2ページの「キミドリミドリアオミドリ」を合わせれば五篇)のなかでは、「劇団中学生」と「14歳の肖像」の二つが、良いね、と思う。もちろん、「イロドリミドリ」と「糸と釦」の、淡い情緒がリリカルともいえる作風のうちに落とし込まれているマンガも決して悪くはなく、いや、むしろそちらのほうが一般的な評価は高いのかもしれない、が、個人的には「劇団中学生」と「14歳の肖像」のほうを、尊く見た。その理由は、単純である。現在では、血の繋がりがあるにせよ義理のものであるにせよ、兄妹(姉弟)の関係を用いるさい、それがなぜか、極端なほど近親相姦化されることに屈託のない作品が多すぎる。おそらくそこにはそこで、ある種のリアリティがありもするのだろう。兄妹(姉弟)を描くことが、無条件で家族を描くことにはならず、恋愛やセックス(性交)を通じなければ、半径5メートル圏内の身近な他人を実感することもできないぐらい、実存は困難になってるんだよ、とでも言いたげな。しかし、だからといってすべての兄妹(姉弟)が、当然、恋愛やセックス(性交)をする必要などは、どこにも、ぜんぜん、ない。だいいち、そんなんばっかでも飽きるだろ。「劇団中学生」は、両親が再婚したため、義理の兄妹となってしまった少年と少女が、主人公である。一緒に暮らしはじめたとき、中学生にまで成長している二人は、それぞれ、突然の関係をうまく受け入れられずにいる。仕方がなく、兄妹になってしまった事情は、お互いを拒否するような態度となり、あらわれてしまう。一方は、兄として認められたいと思いながらも素直に向き合えず、一方は、実の兄を喪ってしまっている経験が暗い影となっている。こうした両者の軋轢が、やがて、家族のワン・シーンに、微笑ましく収まっていく。わざわざ偏って傾いた過剰さをダシにせずとも、ここまでの繋がりと結びつきを描けるのだ、という豊かさにあふれている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月28日
 テレビ・ドラマ『ヤスコとケンジ』は原作のチョイスが絶妙であった。いや、何もそれはアルコによるマンガの地力を指して述べるのではない。そうではなくて、登場人物のスペックと彼らが置かれている状況の設定しか存在せず、ストーリーがすかすかであるような作品を借りれば、いくらでもその手のプロが気の利いたエピソードを量産し、中身を水増しできるという都合の良さを言っている。中途半端にでも物語に魅力があったら、ああもうまく、原作とのあいだに摩擦のすくない実写映像化が果たされることもなかったろう。まあ、つまり、マンガ版の『ヤスコとケンジ』って、物語のレベルにおいては、ほんとうに読むところがないんだよね、という、これまでに何度か繰り返してきた話で、『超立!! 桃の木高校』に関しても、同様の危うさを抱えている、これも1巻のときに書いたような気がする。基本的には、ヒロインの片想いを友情とをベースに進められているマンガだが、メインの登場人物たち四人がみな超能力者(エスパー)だとの特殊な環境に置かれている。それら二つの主軸が、シリアスとコメディの要素を攪拌する。しているのだけれども、混ざり合ってマーブル模様になっているストーリーからは、やはり、かわいらしい、以上の感想が出てくることもない。もちろん、それが良いのだ、そこが良いのだ、といった意見もあるには違いないものの、個人的には、もうすこし、じっくりと読ませ、心に残るようなところがあっていいな、と思う。

 1巻について→こちら 

・その他アルコに関する文章
 『Loveletter from…』について→こちら
 『ヤスコとケンジ』
   4巻について→こちら
   2巻について→こちら
   1巻について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月27日
 まさか、ここまで期待させられるとは。すこしぐらいの現実離れもぜんぜん気にならない勢いが、今の高野苺にはある。コメディのたのしげなテンポとシリアスに悩むエモーションとが、どちらか一方でも欠けてしまえば成り立たないバランスで結びつき、ページをめくっているあいだ、マンガのなかを生きる人物たちの、駆けずり回っては、こけ、泣き、そして立ち上がると笑う姿に、魅了されてしまう。家出少女と男性同居人たちの賑やかな暮らしぶりを描く『夢見る太陽』の2巻は、万事が万事その調子であり、すべてのシーンにある種の、まぶしさに気持ちが動かされるような、鮮明さが備わっている。

 この巻に入ってストーリーは、ヒロインのしま奈が想いを寄せる一学年上の同居人、朝陽の、恋人との別れをめぐって展開する。朝陽が恋人と離れてしまうことは、単純な恋愛の都合に換算できるのであれば、しま奈にとっては好転のはずである。しかしながら、それが朝陽にも、彼の恋人であるまなみにも、決して望まれていない事情によっていることを知り、しま奈は、わけて入れない愛情の深さが二人のあいだにあることを教えられる。そこにあらわされているのは、もちろん失恋であって、同時に成長でもある。しま奈が独りよがりな子供のままでいられたら、片想いは失恋にすらならず、そして失恋をする機会さえなければ、彼女は独りよがりに気づかぬ子供のままでいられた。ここでのくだりは、まだ幼い少女の成長を、わりと複雑な心境の変化を、恋愛への意識を通じ、とても自然に捉まえていると思う。

 とはいえ、全体に漲るテンションの高さは、ギャグのそれに近しい。同居人の一人で、しま奈の同級生でもある善が、まるで彼女に引きずられるよう、惹かれていく様子は、コミカルで、おかしい。物語においては、こちらも大事な側面だろう。善の頭の悪さ、頭の固さには、たいへん笑わされるが、まあ、初心な男の子なんてこんなものだ。イノセンスを、天使様みたいな人間ではなく、ほんとうに単純でしかないガキへ投影することで、ご立派というより、可愛げのあるものに変えている。フィクションは宗教である必要もないのだから、イノセンスの存在はそのように扱われるのが相応しい。

 ところで、もう一人の同居人、大家の虎(たいが)が、朝陽に告白しようかどうか躊躇うしま奈へ、こうかける言葉がいいよね。〈最初っからダメってわかってたらいいじゃん 言って損することねぇんだし それにもし可能性が1%でもあったら 言わないともったいねぇ〉。たしかにそのとおりで、それはわかっちゃいるのだが、にもかかわらず勇気がえらくいるから、たった一言のためのドラマが、こうして生まれる。

 1巻について→こちら

 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 吉村綾子の作品集『できれば花になりたい』を読んで、こういうマンガであればいくら描かれてもいいな、と思う。率直にいって、絵柄と作風は、現在人気のある少女マンガのあちこちから引っ張ってきたふうであり、とくに独創性のあるものではないのだけれども、とてもやさしさのあふれる内容に、上記のような感想を抱いた次第である。まず表題作である「できれば花になりたい」が良い。周囲からは女の子らしいと見なされていない、まさしく男勝りをいく少女が、美男の同級生に告白され、作中の言葉を借りれば〈乙女なスイッチ〉を押されてしまい、戸惑う様子を描いている。技術の部分を問うなら、読み手にとってわかりやすいところとわかりにくいところの調和が、かならずしもうまくとれているとは見なしがたい面もあるにはある。が、重要なのは、だからといって物語が不格好にはなっていないことだ。これを考え悩んでつくった作者の姿が浮かんでくるようでもある。どこに重きを置くべきか、外すまいとする真摯さが伝わってくる。ヒロインからは他人の心が見えない、その見えないことが雑多なノイズを生み出し、ノイズに応対する態度がヒロインの心の描写となっている。「できれば花になりたい」がそうであるとおり、他の作品もまた、外見と内面のギャップが恋愛によって克服される、というテーマで共通している。なかでも、いちばん新しいものである「オレンジの傘が好き」が、やはり、もっともまとまりを感じさせる。大雑把な喩えを使うとしたら、『ラブ★コン』と『高校デビュー』のミックスともいえるニュアンスのストーリーだけれど、雰囲気そのものはどちらとも違っている。おそらくは、コンプレックスを表現する手つきに、この作者ならではのものがあるからだろう。そして救われ方には、くそう、こうなることはわかっていたのに、じん、とさせられてしまう。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月26日
 AMI姫先生がすげえ良いことを言っている。〈恋をしなさい 恋は心の筋トレなの 恋をしないで大人になったら それよりずっと重い愛なんて持てっこないわ〉と。いや、たしかにそのとおりであるのかどうかはともかく、恋愛という感情が、たとえ悩みの種蒔く厄介なシロモノだとしても、たとえ苦く辛い経験ばかりが重なってしまうとしても、そこから教えられるものは、かならずや、あるのだろう。もちろん、幸福のなかで学べることもすくなくはないに違いない。ななじ眺の『コイバナ! 恋せよ花火』も3巻に入ったが、しかし、ここまでわくわくさせられてしまうだなんて、驚きを隠せないほど、おもしろくなってきている。順調にピークをあげていっている。ついに花火は自分の気持ちに気づいてしまう。あれだけ憎たらしかった誓のことを、いつの間にか好きになっていた。だが彼女のいる人間に想いを抱くというのは、つまり、それが叶わない恋である可能性をも意味している。誓の顔を見られることがうれしい、話せることがうれしい、でもそのうれしさが、花火を悲しくもさせる。前作『パフェちっく!』と同じく、三角関係上の桎梏がマンガのなかに持ち込まれているのだけれど、(すくなくとも今のところは)そこに合わせてピントをきつく絞るのではなく、ワキの登場人物たちを活発に動かし、展開の幅をひろげることで、単調でも退屈でもない物語が成立させられている。たしかにメインは、ヒロインである花火の片想いにほかならないのだが、美衣や厚実といった花火の友人たちの、そして尾山や佐木など男の子たちの、その姿を広角に含めたショットを使用し、誰にとっても満遍なく、たかが恋愛、されど恋愛、と伝わるのに十分な実感がつくられているのである。にしても作者は、誓の彼女のユキネをどう描くつもりか。この一点にかなりの興味を引かれる。なぜならば、ユキネの存在は、以下のような現実の世界においても、間違いなく、ありうる困難を示しているからだ。そう、要するに、意中の人には自分より性格も容姿もすぐれた恋人がすでにいる。決してあいだに入れるとは思えず、ましてや二人の仲が壊れることを信じられない。これはときとして、絶望と同義であろう。この絶望をどれだけ深く掘り下げられるかによって、表現の質はおおきく左右されるし、もしも今後に奇跡の逆転劇があるにしたって、まあうまくやれればの話ではあるが、ヒロインはヒロインだから愛される、式のご都合主義を阻み、より高次の説得力を与えてくれるものとなる。正直、ユキネの花火や誓に対する態度が、素だとしても牽制だとしても、屈託なさすぎて、ちょっとおっかねえんだけど、執着って意外とこういうふうにあらわれるんだよね、というリアリティもある。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年09月23日
 原作をつとめている石渡洋司への贔屓がつよくて、この『デンドロバテス』を読み続けているのだが、おそらくは最後の敵(ラスボスってやつ)にあたるライコという男が登場したはいいけれど、主人公である「千の銃の男」仙川との直接対決が先送りにされているため、やや中弛みな印象を持つ。じっさい、この5巻は、ライコの部下を一人倒したら、もう一人違う部下が出てくる、っていう展開でしかないしね。もちろん、それはライコの造形を掘り下げる役割を果たしているんだとは思う。とはいえ、背景にライコの存在を絡めてこなければならないため、事件の成り立ちに以前までのヴァリエーションがなくなり、また人間ドラマといおうか依頼者たちが復讐を願うエモーションもそれに隠れがちになってしまい、全体のテンポが、すこし単調になっている。まあ、マンガが長篇化するさいに生じる迂回路とはそういうものだとしても、やはり、もうちょいのメリとハリとが欲しい。
 
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月22日
 すこし反動的すぎるな、と自覚しつつ、これを書くのだが、『新吼えろペン』に関しては、やっと終わってくれた、というのが正直な感想である。なぜこのような退屈なマンガが11巻も続いてしまったのか、それはおそらく、島本和彦が熱いマンガを描いている、というのではなく、島本和彦が描くマンガだから熱い、という錯誤が、一部の読み手のあいだで共有されてしまったためであろう。熱い、という基準が、おもしろい、や、たのしい、の評価を代替していることに、なんら問題はない。しかしながら、そうした評価の基準自体が、相対的な見方のうえに成り立たず、作品もしくは作者を絶対視しようとする姿勢からやって来ているとしたら、おそらくは、間違える。すくなくとも『新吼えろペン』の長期化はそのことを教えてくれる。いやたしかに、『燃えよペン』はおもしろかった、『吼えろペン』はたのしかった、が、残念なことに、たぶん作者がそれらとは違う方向性を模索したに違いない『新吼えろペン』は、おもしろくもたのしくも、ましてや熱くなんてなかった。続編でありながらも、『吼えろペン』において重要な役割を担った前杉英雄をほとんど登場させず、言うなれば若者の成長物語的な要素を極力抑え、炎尾燃というベテランがいかに業界と向き合うか、を軸に展開された内容は、結局のところ、実話ベースのフィクションを抜きん出るものではなかったのである。まあ、『アオイホノオ』の人気などを見るに、もしかしたら読み手の多くはもう、島本にエッセイ・マンガ以上を求めていないのかもしれない。ところで、この11巻には作品の完結にさいし、「読者からのお便りコーナー」なるオマケが設けられている。要するに、著名人のコメント的なあれなのだけれども、そのなかでササキバラ・ゴウは、〈『燃えよペン』、『吼えろペン』と、主人公は同じであっても、趣向が大きく異なるこのシリーズは『新』にいたって、ついに何かの一線を超えた領域に突入したようだ〉とし、それはつまり〈創作の現場にいる人間にとっては、決して他人事ではいられないようなギリギリの問題に、あえて捨て身で突っ込んでい〉くことなのだが、〈ただその分、旧来のファンからすると、炎尾らしい炎尾の姿を見る場面が減〉ったため、〈「熱くまんがを描く」という、傍目から見たらちっぽけな(略)行為を軸足にして乗りきってきた『燃えよペン』のシンプルさが、懐かしく思えた人もいるかもしれ〉ず、〈私も、どこかそう感じていた〉と述べている。この分析は、きっと、正しい。ただし、古くより島本の熱心なファンであるササキバラの場合、かわりに「捨て身」となっていることを強調しつつ、『新吼えろペン』を肯定的に評価している、あるいは、しようとしているみたいだ。要するに、汚物にまみれることをいとわず、現実の生々しさをえぐり、切り取るかのような態度に、作者の批評性を見ている、見ようとしているわけだけれど、それが他と比べすぐれているか、また以前と比べすぐれた表現になりえているのかどうかは、本来、分離させて考えなければならない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月21日
 ああ、結局のところ、俵文七こそが、自分にとっての『天上天下』であった。じっさい、奴に比べれば、主人公の凪宗一郎を含め、他の登場人物たちなんてみんな雑魚だしね。だが、その巨星もついに墜ちた。しかも、だ。ほとんど心や体がビョーキでしかないような連中の噛ませ犬にされて、である。作者である大暮維人の思惑はともかく、もうすこしたくさんの花を持たせてやっても良かったのではないか、という気もする。が、それでも見事な散りざまであったと思う。しかしながら、いまいちこう、文七をくだした光臣のカリスマが、納得しづらいんだよな。もちろん、この19巻で高柳父が述べている言葉を借りるなら、〈武とは「弱者」の立場から成立し 「強者」に対する卑屈なまでのコンプレックスから生まれている〉のだとして、そのような挫折を乗り越えようとする態度が、すなわち光臣の体現しているところなので、大勢を惹きつけているのだろう。〈生まれながらの絶対的強者〉である文七を前にし、拳を繰り出すけれど、〈所詮これが“武”の限界よ……光臣〉と高柳父が見なすとおり、あとすこし、及ばない。〈ならばこそ完成させねばならぬのだ 真の“武”を〉というわけである。とはいえ、文七は光臣に討たれる。なぜか。〈あのまま……振り抜いていれば おまえの勝ちだったはず〉なのに、そうはできず、文七は自らが砕かれることを選ぶ、それを“甘さ”だと光臣は言う。どちらかとすれば、文七の、その“甘さ”こそが、じつは正常者のロジックであり、光臣に委ねられた“武”のロジックは、反対に異常者のそれだというふうに感じられる。前者は、それこそ、強いや弱いにこだわらぬ、あるいは強いも弱いも許し、包括した指針となりうるのに対し、後者は、強いと弱いの基準ですべてを裁こうとする、偏狭で、独断的な考えのなかでしか、生きられない。たしかに、作品の世界は、強いと弱いの観念に支配されており、これを内側からいったん突破するには、後者のロジックが必要とされる、そうした理解は十分に可能だ。が、裏返すなら、作中には、それを支持するのが多数派であるほど、ビョーニンが溢れかえっていることになってしまう。おそらく、俵文七は『天上天下』における、数少ない正常者であった。個人的には、その正常であることに、たいへん燃えさせられた。しかし、彼がリタイアしてしまった今、光臣に象徴される異常者のロジックに立ち向かえるだけの人間がいるとすれば、やはり、雅孝とボブぐらい、か。物語からはすっかり忘れられているっぽいボブはともあれ、ここに至り、がぜん雅孝がキー・パーソンめいてきたのは、たぶん、そのためである。

 18巻について→こちら
 17巻について→こちら
 16巻について→こちら 

 『NAKED STAR』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月20日
 あまり深く考えられてはいないことだと思われるが、佐木飛朗斗とコンビを組んだマンガ家はツー・ショット写真を単行本に掲載しなければならないのか、問題というものがある。そしてそれは、00(ゼロ)年代に入り、健在化したといってもよい。桑原真也(『R-16』)や山田秋太郎(『爆麗音』)など、どちらかといえばオタク寄りの作風で売ってきた人間が、佐木と並ぶ姿は、彼らのそれ以前のキャリアを知るものにとっては、すくなからぬ衝撃を与える。この写真を撮られたかぎり、おまえはもうおれの言うことを聞いて、ヤンキー・マンガを描くしかないんだぜ、と既成事実をあらかじめ作っちゃっているかのようなインパクトがある。『外天の夏』の東直輝も、まさしくそのケースにはまっている。そもそも『週刊少年ジャンプ』からデビューしてきたマンガ家であり、まあオタクに向いた作風とは言い難かったけれども、こう、肩に佐木の手が置かれ、すこし引きつっているふうに見えなくもない表情は、まるで無理やり舎弟にされてしまった小僧みたいである。

 以上のことはまったくの冗談で述べているのではない。たとえば桑原も山田も東も、おおもとの絵柄はまったく違う。それがなぜか、佐木の原作を得ることで、微妙に似てしまう。いったいこれは何なのだ。そう考えていくとき、どうしてもあのツー・ショット写真の存在に行き当たるのだ。つまり、まず佐木の顔を立てなければならない、そのような、もちろん読み手の立場からしたら意識的にか無意識にかは知れない、バイアスがかかっているのではないか。

 さて。じつはここからが本題なのだが、『R-16』も『爆麗音』も『外天の夏』も、舞台をほぼ同じくしながら、さらには暴走族などの固有名を共有しながら、しかしサーガとでもすべき具体的な繋がりを持たない。むしろ、同じ物語がいくつものヴァリエーションをつくり、語り直されている印象がつよい。言い換えるとすれば、佐木が提供した原作に倣いながら、それぞれのマンガ家が二次創作を行っているとさえ、受けとれる。このとき、もっともオリジナルに近しい参照項は、おそらく『疾風伝説 特攻の拓』であろう。この参照項を共有していることが、あるいは、『R-16』と『爆麗音』と『外天の夏』の雰囲気と内容とを似させている。

 不良をたくさん抱える高校に編入してきた坊ちゃんが、謎めいた可憐な少女と知り合い、暴走族のきれたトップと友人関係を結び、周囲の人間からはキー・パーソンと見なされる、このようなストーリー・ラインを持つ『外天の夏』は、どうしても読み手に『特攻の拓』を思い起こさせてしまう。主人公である夏の通う高校の名は、ずばり、私立聖蘭高校であり、夏がそこで親しくする伊織と亜里沙の関係は、マー坊と晶のそれに等しい。さらには“外天”の初代頭であり、今は亡くなっている冬の存在感は、あきらかに『特攻の拓』における誠とだぶる。もちろん、『特攻の拓』では主人公の拓の姿に誠が重なることの理由は、宮沢賢治的な純粋に焦点化されていたのに対し、『外天の夏』の冬と夏とはじつの兄弟ということになっている、だからその姿が重なる。このあたりは、なるほど、血の繋がりによる拘束を重視して展開された『R-16』のテーマを受け継いでいる。だが、そうした血縁の桎梏もまた『特攻の拓』の天羽時貞に象徴されていたものであった。これらを踏まえていった結果、いやまあ1巻の時点で決めつけるのはいかにも早計だが、しかし、ある意味で『外天の夏』は『特攻の拓』の、00(ゼロ)年代的なアップデートのヴァージョンとすらいえる。

 昨年、90年代に一世を風靡したアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』が、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』としてリニューアルされ、その序章が発表された。周知のとおり、かつて『新世紀エヴァンゲリオン』は、さまざまな二次創作を生んだ。もしかしたら『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』自体、そうした二次創作の一環、いや、決定版と捉まえることも可能だろう。それに通じることが『新世紀エヴァンゲリオン』と一部同時代の作品であり表現でもあった『特攻の拓』をベースに起きたとして、なんら不思議ではあるまい。『外天の夏』は、ふと、そんなことを考えさせる。

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』1巻・2巻(漫画・山田秋太郎)について→こちら 
 『パッサカリア[Op.7]』(漫画・山田秋太郎)について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月15日
 パピヨン 5―花と蝶 (5) (講談社コミックスフレンド B)

 簡易心理学的なファクターを導入し、内気なヒロインの変身願望といおうか自己実現といおうか、とにかくコンプレックスからの脱却を、上田美和の『パピヨン―花と蝶―』は描いていたのであったが、そのヒロインである亜蝶(あげは)とカウンセラー見習いの九(いちぢく)の間柄が両想い化したのにともない、亜蝶の双子の妹、花奈(はな)の存在感をアップさせて、姉妹の確執がちょうど三角関係上に成り立つような、わりとオーソドックスな方向へとストーリーを展開してゆく。もちろん、双子という設定を生かした入れ替わりトリック(?)もふんだんに活用されている。この5巻では、かつて花奈の恋人であった新堂が登場してくるのだが、彼の語る真実は、なかなかに興味深い。先ほど冗談半分で入れ替わりトリック(?)といったけれども、じつは姉妹が入れ換え不可能だからこそ、中学のときに新堂は、亜蝶のほうに心惹かれ、花奈とはうまくいかなかったのである。そしてそのことが花奈にトラウマ状のダメージを負わせている。そもそも亜蝶は自分が花奈みたいにはなれないことをネガティヴに捉まえているのに対して、花奈は自分が亜蝶と入れ換え可能な存在であるかもしれないことをネガティヴに考えている。むしろ両者の根本的な差異はそこにあるとすらいえる。たとえ第三者にとって、二人が入れ換え不可能であったとしても、恋人が自分以外の、さらにいえば自分によく似た相手に感情を動かされ、そちらを選んだとしたならば、必然的に蹴られたほうは一時の代わりでしかなかった、と自己評価をさげてしまう。これが花奈の気持ちであろう。逆に亜蝶は、あらかじめの自己評価が低いため、そのような境地とは無縁にいる。自分が誰かを差し置いて選ばれるとは思いもしない。結果、寄せられた好意をからかいだとしてしまう。真剣に問わず逃げ出してしまう。亜蝶が新堂と再会したことを隠しているのを知り、花奈が〈あんたって自分の気持ちばっか敏感で 人に無神経すぎ あんたのそういうとこ大っきらい!!〉と当たるのは、過去に受けた惨めさを、与えた側がまったく理解していないからで、この苛立ちが解消されないかぎり、姉妹に和解が訪れることはない。むろん、それは各人が単独でのぞまなければならない問題であると同時に、両者の歩み寄りを必要としなければならない問題でもある。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 教師の萩原に惹かれていることを自覚した紗雪は、スキー合宿を経て、その想いをよりいっそうつよくするけれども、彼への距離が近づいているのか遠ざかっているのか、幼馴染みである悠士との関係を誤解されている可能性もあって、いまいち確信が持てない。そんな折、バレンタインの勢いを借りて、ついに告白を果たそうとするのだが、二人のあいだには、やはり、教師と生徒の越えられない壁が存在しているのだった。春田なな『チョコレートコスモス』の3巻である(ちなみに恩田陸の同名小説とはまったく関係ない)。率直にいって、作風やストーリーのパターンに目新しいアイディアがあるわけではないにもかかわらず、テンションの高さ、テンポの良さが、退屈を寄越さない。それというのも、(今のところ)自己評価の低い人間が登場してきていないためだと思う。せいぜい萩原が、歳のわりに自分が幼く見えることを気にかけているぐらいで、基本的にはコンプレックスに関わる描写を含まず、総体的にあかるい内容のマンガとなっている。紗雪の、恋愛の障害も、あくまでも立場の違いという外的な要因によっている。しかし各人が引け目を持たない態度でいるから、たとえば前巻のスキー合宿における萩原と悠士の牽制もそうだったし、ここで新たに形成された萩原をめぐる紗雪と由佳子の接触など、三角関係上の対立は、けっこう容赦がない。えぐい、とさえいえる。
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月14日
 17(じゅうなな) 1 (1) (講談社コミックスフレンド)

 以前から述べているとおり、桜井まちこには、ぼちぼち、子供ではなくて、大人の物語を描いて欲しい、と思う。たしかに、画の技術は著しく向上し、いくつもの場面には目をみはらされる、が、しかしストーリーのレベルにおいて、初期の頃の作品にはあったイノセンスを、それほどナチュラルにつくれていない感じを持つ。純粋の輝きをつよくしようとするかわり、どうしても登場人物たちに負わせる影を濃くしてしまう。そのような印象のなか、開放されないエモーションが、どっと暗く重みを増し、あらかじめ用意されていたはずの明るさをも飲み込んでいく。むろん、そこにいくばくかのリアリティはあるのだろう。けれども、鈍くなった光が、ある種の鮮明さをぼかしてしまう。かようなことを『17[じゅうなな]』の1巻を読み、考えさせられた次第である。〈これは高校生活最後の一年間のおはなし〉というイントロダクションをはじまりに置く『17』はつまり、詩歌と佑介のカップル、そして詩歌の友人の明、それから明が想いを抱く恵、この、三年にあがり同じクラスになった男女四人の関係が、繋がり、もつれ、ほつれ、やがてどこに到着するのか、をスモール・サークルの内における恋愛の、青春の、いつしか終わりを迎えるに違いない群像劇として展開している。ちょっとした行き違いが、過敏な傷をつけて残す描写の繊細と、その感受性には、さすが、と見入るものがある。とはいえ、その感受性は、少年少女という(すくなくともフィクションにおける)ダイナミックなシーズンを捉まえるには、いささか内向的すぎる。ところで、以前の作品である『H-エイチ-』であれば、ときおり挿入される河川の風景が、作中の息苦しさ、いわばガスを抜く効果を果たしていた。同様の役割を『17』では、雲と太陽、大空のうつくしさに与えている。このことはむしろ、登場人物たちのやりとり、笑顔だけでは、彼らを照らして十分な光度の足りない事実を、裏返し、含んではいまいか。

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 これは恋です 1 (1) (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 前作『素敵ギルド』が、どうも今一歩、あともうすこしの印象に終始してしまった遊知やよみであるが、この『これは恋です』に関しては、かなりグッド、とても愉しい。すくなくとも幕開けである1巻の感想を述べれば、そうなる。〈R高校には綾井剣(通称綾ちゃん)という生徒に人気のある先生がいます〉、若く性格のあかるい男性教師である。しかし屈託のない彼にもたった一人だけ、苦手とする女生徒がいた。その生徒、遠藤伽良をどうして自分は避けてしまうのか、悩む綾井に、同僚の辺名は、それが恋である可能性を指摘する。教師と生徒間のラヴ・ストーリーという、基本的なシチュエーションに特筆すべき点はないだろう。だが『これは恋です』において、二人の関係はまず、教師の側つまり年上の男性の一方的な片想いとしてあらわれている。立場を越えてはならんとする彼の葛藤が、作品に魅力的なコメディの要素を加えている。さらにいうなら、恋愛の対象である相手側の気持ちがうかがい知れぬため、そうした葛藤が独りよがりになりがち、要するに、まさしく内面の伏せられているような他者を相手にしているので、葛藤は必然的に一段階二段階と掘り下げられ、迷い戸惑う振る舞いが、センシティヴでキュートなストーリーのラインを描く。とりあえず、第四話までは、伽良が綾井のことをどう意識しているのか、読み手に対してもほとんど明示されず、結果、どうしても綾井に感情移入させられてしまうのは演出的に巧み。綾井の一喜一憂する表情に、こいつきもい、っていうよりも先に、たいへんですなあ、と思わされるからね。おそらくは『ハチミツとクローバー』以降の、ピュアラブル指向の恋愛劇に分別してしまっていいような内容だけれども、意外にも新鮮でどきどき胸の高まる部分は多い。

・その他遊知やよみに関する文章
 『素敵ギルド』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月13日
 もうがんばれない、死にたい。こういう呟きのか弱さから自殺を決意するまでのあいだには、いったいどれぐらいの距離があるのだろう。たとえば、とある男子中学生はクラスメイトから陰湿ないじめに遭っている。〈イジメは嵐だと思えばいい だってそれは誰にだってやってくる〉とふんばりながら、いつまでも嵐が過ぎ去ってくれないことに耐えきれず、ついに死ぬことを考える。そのとき、インターネットの検索で見つけたのが、自殺の手助けをしてくれるとの噂が立つ「自殺ヘルパー」の存在であった。指示通りの方法で「自殺ヘルパー」にコンタクトを試みた少年が、死に場所に選んだ学校の屋上に、約束した時間がやって来、謎めいた女性があらわれる。はたして彼女が「自殺ヘルパー」なのかどうかを尋ねる少年は、〈そんなことより心残りはないの? いじめられて自殺しようとするくらいだからあるでしょ 復讐みたいに学校を死に場所に選んだくらいだし〉と訊き返され、そして自分がなぜ死ななければならないのか、根本的な理由を見つめ直さなければならないような、不思議な体験をする。吉成郁子に提供された原作を、いしかわえみがマンガ化した『自殺ヘルパー』は、雰囲気は現代的にキュートなファンタジーでありつつ、かなり直接的に、自殺、というヘヴィでシリアスなテーマを表現している。もちろん作品は、自殺を肯定するものではなく、それを回避するためのメッセージを含んで成り立っているのだが、安易に、自殺はよくない、と断言するというより、登場人物たちの行動を、自殺以外のべつの在り方がある可能性を提言する、程度の範囲に止まらせることで、ほんのすこしの勇気を重たいものとして描くことに成功している。一般的に賑やかな自殺論議においては、死ぬ気になれば何でもやれる、式のたいへん頭の悪い解決策が横行しがちである。そこでは、死にたいという気分のなかに含まれる無力感が見過ごされてしまっている。ふつう、自分が無力でしかないと信じられるとき、おまえは何でもできると言われたところで、励まされはしまい。励まされるほうがやばい。いじめを苦にし、自殺を考えていた少年は、結局、「自殺ヘルパー」との出会いを経て、踏みとどまる。ここの描写はそれこそ、いっけん、死ぬ気になれば何でもやれる、式の言いを展開しているふうに感じられるが、違う。教室に限定された共同体の狭さを知ることで、無力感の払拭が行われ、そうであるがゆえに彼の心は助けられているのである。『自殺ヘルパー』が、自殺の否定を単純化していないことは、全4話のうち、ラストのエピソードによく示されている。自殺を否定することは必ずしも正しいことなのか。死ぬことでしか救われない状況もあるのではないか。誰にも死にたいと願う人間を止める権利はないのではないか。こうした疑問から出発し、それでも人は生きなければならない、そのためにできることもある、という着地点にまで、登場人物たちを悩ませながら、迷わせ、持っていく。生きていてよかった。たったこれだけのことを喜ばしく感じるには、逆説的に、重大な困難を乗り越えていかなければならない。もうがんばれない、死にたい。こうした呟きはか弱い。しかし見られるべきは、そのか弱さが抱える失意の量であろう。あふれ出すほどに蓄えられたそれが、自殺への呼び水となるならば、こぼれたそばから光をあてがい、もっとべつの、濃い希望の注ぎ込まれるチャンスが、裏からは必要とされているのだと思う。
posted by もりた | Comment(4) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月11日
 なにわ友あれ 5 (5) (ヤングマガジンコミックス)

 どんな時代にもさあ、女性を集団で強姦するような、クソみたいな連中はいやがるんだからな、吐き気がする。90年(平成二年)を舞台とする南勝久の『なにわ友あれ』は、ベンキというクズ野郎の登場を期とし、おそらくは89年の女子高生コンクリート詰め殺人事件を残響に、03年のスーパーフリー事件や、あるいはもっと近年に起きた実在の婦女暴行事件を射程に入れ、物語が展開されているふうな印象を受ける。法律がフォローできる領域に、はたしてすべての罪と罰を回収できうるものか。できないとしたら、では、そこからこぼれ落ちたものは何によって裁かれるのか。あるいは、法律とはまたすこし違うレイヤーで、ルールやモラルが立てられるべきなのではないか。こうした問題が、走り屋という一種のアウトローを用い、描かれているとの感じを持つのである。

 新興の自チーム、スパーキーの名をあげるため、次なる標的を探すグッさんたちは、はからずもエニシングとビートの対立に介入することとなる。ビートに追い込まれたエニシングのベンキという男が、過去に強姦した女性を次々と脅し、食い物にし、逃げ回っていることを知り、被害拡大の一端はビートの過失でもあると、その会長であるマンジに直談判する。結果、ベンキをめぐり、スパーキーとビートの共同包囲網が敷かれるのであった。

 以上がこの5巻のあらすじで、〈な――グッさん…こういうのって警察に言うべきちがうか‥‥?〉とツレのサトシに尋ねられ、〈俺もそう思ったけど――‥‥〉と答えるグッさんの言葉に、スパーキーとビートの、おおよその行動原理が示されているといえよう。〈仮にA地点からB地点まで(略)パトカーがサイレン鳴らして走ったところで――まあ15分くらいやろ せやけど 俺ら環状の連中やったら‥‥10分かからんやろ? 速い奴やったら5〜6分で行ける! 別に大ゲサな話やない…そんだけムチャできるって事実や〉、そして〈それに 当の女らが警察には言いたがらん! 仮にベンキがポリに捕まったとして――‥‥何年かしたらまた出てきて同じコトしよる! そんな病気みたいな奴は誰かがシメらんとアカンねや!〉と、つまり、ベンキが犯した罪は、OSAKA-KANJO-TRIBEという副題にあるとおりの、ある程度の半径内におけるトライブの問題へと集約されているのである。極端にいうなら、トライブの異常事態が、もしも何かしらかの被害者を出したとすれば、その責任はトライブ全体が負わなければならない、という態度であろう。むろん、異常と正常の区別もつかないようなトライブは破滅しなければならない。

 ところで、グッさんが強姦などの女性に対する暴力に対し、やたらシリアスな姿勢をとるのは、たぶん、『なにわ友あれ』の前身である『ナニワトモアレ』の結末によっている。以前にも述べたが、『ナニワトモアレ』のグッさんは、過去に強姦されたことのある恋人が、そのときの犯人に脅されているのを伏せようとし、元カレを頼ったため、寝取られてしまうという、ギャルゲーに喩えたら、完全にバッド・エンドを迎えている。しかし当然、それでグッさんの人生は終わったわけではなく、いくつかの教訓を得、『なにわ友あれ』ではトライブの一角を担うぐらいの役をこなしている。すくなくともベンキ包囲網は、グッさんなしでは成り立たなかったに違いない。

 しかし窮鼠猫を噛む。ヤエという女性を引っ張ったまま、ベンキは、やはり人間性の腐った野郎らと合流する。何ら罪の意識もなく、制裁を加えようとする面々を迎え撃とうとする。

 4巻について→こちら
 1巻について→こちら 
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 俵家宗弖一の原作がいけないのか、じっさいにマンガをつくっている柳内大樹の料理がうまくないのか、もしかしたら両方が、なのかもしれないけれど、『ドリームキングR』に関しては、やっぱ、ちょっとね、というのが正直なところである。このことの理由は、さほど深くはないだろう。要するに、アーティストやデザイナーをギャングのように描く、それにさいしての必然があまりにも不足しているためである。たしかに不良にならざるをえない人間というのはどこにでもいる。しかし、彼らが将来ヤクザになるしかないとしたら、それは悲しい話だ。こうした問題を、高橋ヒロシは『QP』で、山本隆一郎は『GOLD』で、シリアスに突き詰めた。また立原あゆみのマンガには、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、というテーゼが明確化されている。新田たつおの『静かなるドン』の、主人公が平凡なサラリーマンを夢見るのも、同様の問題のうえに成り立っている。にもかかわず、時代も世代もくだった作品が、不良はヤクザになるしかねえじゃん、たとえ堅気の職に就こうが、なかでも憧れの横文字職業(死語かしら)に就けようが、根はヤクザじゃん、というのでは、いささか寂しい。もちろん『ドリームキングR』でとられているのは、ハロルド作石の『BECK』が、ヤクザのやり口とそう変わらないプロデューサーやギャングに等しいA & Rを、(後に改心するとしても)まったくの悪としてアピールすることにより、主人公や仲間をそのような構造に対するアンチテーゼ化しているのと、似た手法なのだと思われる。だが残念なことに、今の段階では、ぐれた兄ちゃんたちが独りよがりなイズムをのたまうだけの表現にしかなりえていない。

 1巻について→こちら

 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 「オヤジガリガリ」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月10日
 おそらく、曽田正人の『シャカリキ!』こそが、自転車ロードレース・マンガのマスター・ピースだろう。発表されてから十年以上経つが、未だにあれを越えるものはあらわれていない、というのが個人的な印象である。もちろん、それというのは、同ジャンル内における絶対数が必ずしも多いわけではないという事情によっているのかもしれず、自転車のロードレースを扱った作品が増えていけば、自然と表現方法のヴァリエーションも豊かになり、次なるメルクマールが誕生する可能性も高まる。いや、すでにその段階へと進みつつある。『月刊少年マガジン』10月号で完結した風童じゅんの『バイキングス』は、作中に『シャカリキ!』をもじったマンガの名を出すなど、意識的に、あるいは批評的に先行する事例を乗り越えようとしたマンガであった。『シャカリキ!』が最終的に個へと帰結する内容であったのに対し、『バイキングス』はチームや仲間、連帯のほうへと重きを置いた。その結果として、女性の登場人物にもロードレースに参加する権利が与えられている。しかしながら、破滅と紙一重であるような、ぎりぎりのスリルを薄めざるをえなかった。これはまた、安田剛士の『Over Drive』があまりにも破滅することに対して屈託がなく、したがってテーマの深さではなく表面上のスペクタクルを重視していたことと対照的でもある。

 さて。渡辺航の『弱虫ペダル』が、どれだけ他の自転車ロードレース・マンガを念頭に置いているかは知れないが、決して優等生ではない主人公が自転車競技において秘められた可能性を発揮するという、このジャンルに定型的なフォーマットに縛られながらも、独自の道筋を示そうとしていることは、あきらかである。小学生の頃から秋葉原までの往復90キロを毎週のように自転車通いしていたアニメ・オタク、小野田坂道は、高校にあがり、友達をつくろうとし、現在は廃部になっているアニメ研究会を復活させようとする。その彼の脚力をたまたま目にしたのが、同じ一年生で、自転車競技部のエースを目指す今泉であった。アニメ研究会に入ることを交換条件に、今泉から勝負を持ちかけられた坂道は、圧倒的に不利なママチャリで、しかし驚くべきペダリングを発揮する。以上が1巻のあらすじであり、この2巻では、その勝負に決着がつき、そしてもう一人、鳴子というロードレースを身上とする同級生が登場することによって、まさか、アニメ研究会ではなくて、自転車競技部の扉を、坂道は叩くこととなる。

 すくなくともこれまでの展開を読むかぎり、仲間との出会いを分岐とし、少年の運命が変わっていく、つまり『弱虫ペダル』の物語は友情ベースで運ばれている。それが成長という副次的な要素を呼び寄せ、作品のテーマを為している。ある意味で、『バイキングス』と同様、『シャカリキ!』の裏をいっていることは、たしかである。だが注視しなければならないのは、そればかりではない。自転車のロードレースにかぎらず、スポーツ・マンガの広義なレベルで見たとき、極端な精神論に落とし込まず、あくまでも作者が戦略的な手つきでもって、競技を、競技に取り組む人間を、操作していることが、『弱虫ペダル』にもう一つの特色を与えている。フィジカルとメンタルの理論でいえば、両者のバランスを緻密に計算し、その総和が、粗の多さを勢いで誤魔化したでたらめではなく、説得力の高い見事なはったりとして生きるよう、全体の結構がつくられている。設定のこしらえ方、もしくは伏線の引き方が巧みだともいえる。主人公の小野田坂道がアニメ・オタクだというのも、今どき冴えない人物像を立てるにあたって、キャッチーさを狙っただけではないだろう。オタク気質のうちに含まれる一心不乱な集中力が、ひいては彼の脚力と自転車乗りのセンスを養っているのである。その彼が、今後に、気の置けない仲間に揉まれ、たくさんのライヴァルたちと出会うことによって、どのような活躍を果たすのか。『シャカリキ!』が『週刊少年チャンピオン』に連載されてから十数年、現在同誌の顔をなりつつある『弱虫ペダル』には、自転車ロードレース・マンガの、あらたなマスター・ピースとなる予感が含まれている。

 ところで、ぜんぜん関係ない話だけどさあ。2巻のアタマに坂道の昔の知り合いがちらっと登場してるじゃん。そいつが後々になって、べつの高校の自転車部として登場したら、抜群に気が利いてるよね。

・その他渡辺航に関する文章
 『まじもじるるも』1巻について→こちら
 『ゴーゴー♪こちら私立華咲探偵事務所。』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月09日
 ジミーとピンコの対立、ひいてはバラ学とジャスティスの対立を軸とする長篇マンガとしての『ギャングキング』におもしろみがないのはあいかわらずである。両者の対立が、たとえば吉田聡の『湘南爆走族』における湘南爆走族(江口)と地獄の軍団(権田)もしくは『荒くれKNIGHT』における輪蛇(善波)と虎武羅(伊武)のような、お互いがお互いの存在を対等に承認し合うライヴァル関係ではなくて、高橋ヒロシの『WORST』における鈴蘭高校(月島花)と竜胆高校(天地)のような、どちらかがどちらかを全滅しなければ収集のつかない敵対関係であるとき、その根本的で根源的な思想上の相剋が明確ではないため、長期戦になるにつれ、さまざまな綻びが出てきてしまっている、また根っこのなさを葉の部分で、つまり後付けで補おうとするから、焦点はさらにぶれていかざるをえない。深刻なトラウマや病気を都合のよい題材として扱い、想像力とのたまうのはともかく、落ち込んでは立ち直り、立ち直っては落ち込み、落ち込んだら立ち直る、の安易な繰り返しは、もはや躁鬱病の患者のようでもあり、そんな人間に大勢を惹きつけるカリスマを持たされても弱るよ。

 以前から幾度となく述べているとおり、やはり、柳内大樹の本領は一話完結型のエピソードにあって、この14巻でいうならば、ゲロッパくんが年少の不良に説教をかます回など、笑えるし、熱くて、かなり印象が良い。高校デビューのボヘが中学時代の自分に訣別する回も、ワキでアバレが気の利いた役回りをしていて、けっこう読ませるのだが、ぶっちゃけて勘所にポエムを入れてくるのにはうんざり、要らねえだろ、完全なノイズである。このポエムを発しているのは誰か。おそらく作者だろう。作中にはいない人間の声であり、いわばナレーションの立場にほかならない。もちろん、こうした手法は、それこそ吉田聡や高橋ヒロシの作品にも見られるし、いやヤンキー・マンガにかぎらず、古くより存在しているものに違いない。が、しかし、ここ最近のなかから類似の表現を探してくるなら、たぶん、森恒二の『ホーリーランド』が挙げられる。とはいえ、『ギャングキング』のそれが『ホーリーランド』ほどに効果的ではないのは、そもそも物語の内部に埋め込まれていない思想を、作品の外部から挿入されるポエムに語らせちゃう不手際によっている。要するに、ポエム化したメッセージを述べて啓蒙しているつもりになられても、マンガを済まされても困るよ、という話である。

 「ジミー君のビューティフルサンデー」と題されたエピソードは、異色作というか、作者の野心的な面、試行錯誤がうかがえ、高く買える。一読に値する。想像力という語を登場人物に使わせず、想像力を描こうとし、腐心しているのが伝わってくる。ただし、これを『ギャングキング』のなかでやる必要があったのかどうか、いささか疑問を覚える。いま現在、柳内のネームヴァリューであれば、まったくの読み切りで発表する場も得られたのではなかろうか。もったいない。

 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月08日
 ゆうやみ特攻隊 3 (3) (シリウスコミックス)

 黒首島を悪霊の恐怖によって支配する鉄(くろがね)一族に囚われた翔平は、死ぬよりも辛い拷問を味わうか、せめて人間らしく自死するか、究極の選択を迫られる。もはや逃れることはできないのか。諦めるしかないのか。圧倒的な無力感が苛む。そのとき、霊感犬2号の吠える声が聞こえた。隊長つええ。そしてかっこういい。押切蓮介の『ゆうやみ特攻隊』3巻の感想は、とにかくそれに尽きるのであって、やばいぐらいに危機的な状況すらも隊長ならば何とかしてくれる、という気にさせられる。一方、隊長の存在に感化させられ、ゆるやかにだが、たくましく成長しつつある翔平の姿を描くことも忘れられていない。そうした成長への期待が、隊長の〈漢(おとこ)を見せなさい‥‥!!〉という言葉に示されている。漢を見せる、つまり自覚的に成長を遂げるためには、これまでだったら臆してしまったようなピンチにも、敢然として立ち向かわなければならない。窮地を隊長に助けられた翔平が今度は、隊長の不在時に追っ手と対決する場面は重要なモーメントである。真っ向から戦っても勝てるわけがない相手に、罠をしかけたかえでは翔平に〈辻君は何とか敵をおびき出して 可能ならその際 敵を打ち負かせれば理想的!〉と半ば冗談めかして言うのだが、隊長の言葉を思い出し、ふんばることで結果的に、その〈可能なら〉ば〈理想的〉な事態を叶えてしまう。凡庸なマンガであれば、漢(おとこ)という語の単純化を用いればたちまち、綿密なプロセスをすっ飛ばしてしまうところを、このマンガの場合、語彙自体よりプロセスのほうに重みが置かれており、アクション・シーンの派手さはあくまでも副次的なものにあたる。そしてそれはおそらく、鉄一族との直接対決に進んでいく次巻以降、さらに明示的になっていくことだろう。それにしても、翔平やかえでたちに襲いかかってくる井戸端会議のおばちゃん三人組の造形なのだけれど、これって基本的には『でろでろ』のお化けなんかといっしょなんだよね。鬱陶しいものが、いっけんギャグでしかない。いやまあ、じっさいにギャグでしかないのかもしれない。だが、同じ三人組を使ってギャグをやっている巻末のおまけマンガと比べると、だいぶインプレッションが違う。いや、そのようなインプレッションの操作にこそ、じつはこの作者の真髄が見られる。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他押切蓮介に関する文章
 『ミスミソウ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『プピポー!』
  1巻について→こちら
 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年09月04日
 門尾勇治は南勝久(『ナニワトモアレ』のね)の元アシスタントである、と紹介したところで、それは必ずしも『真犯人!!』のアドヴァンテージとはならないだろう。たしかに舞台は大阪でヤンキイッシュなテイストを持ってはいるが、基本的には、当世流行りの心理戦もしくは頭脳戦をベースとしたサヴァイバルを題材にしている。近未来、刑法は改正され、〈法務省により無作為に選ばれた国民100名は死刑執行人となり死刑囚を処刑することを義務とする――〉と、つまりはリアル鬼ごっこであるような形式を、冤罪の主人公がいかにして逃げのび、助かるための真相を奪取するか、を描いているのである。最愛の妻が死ぬ、殺される。その犯人として捕らえられたのは夫の冴村亮であった。彼は無罪を主張しながらも、しかし警察の取り調べに屈し、裁判で死刑にまでいってしまう。もしも逆転の目があるとしたら、100人からに追われる死刑執行の最中、真犯人を捜し出すしかない。亮の手元にあるカードは、自分は犯人ではない、という自覚だけ、手がかりはゼロ、この圧倒的に不利な状況下、どういうつもりか、真犯人が挑発のメッセージを送ってくる。いやまあ、はっきりといってしまえば、作中を支配するルールもロジックも粗く、子供騙しの域を出ていない。結局のところ、無罪の逃亡者ネタ自体は、大昔の頃よりあるもので、それが今日にスタンダードなフォーマットでアレンジされている程度の作品に止まるけれど、その大味なつくりに、ひょっとすると村生ミオのサイコ・サスペンスみたいなキマイラになりかねない予感を覚えたりもする、か。とはいえ、多少マジな話をするなら、おそらく物語の根底に流れているのは、暴力と倫理の問題だと思う。強者(男性)と弱者(女性)のヒエラルキーと言い換えてもいい。たとえば、(最初に述べたことに反して)師匠格である南勝久の存在をアドヴァンテージとするなら、近しいテーマを南は『なにわ友あれ』において、被害者(犯される側)を容赦なく辱め、加害者(犯す側)の残酷さを徹底することで、その罪と罰とを問うた、問うている。報復されてしかるべき人間に情けを与えることは必要であるのだろうか。行きすぎた悪が死をもって贖うのでしかないなら、まず死を実感させなければ何もはじまらないのではないか。これがヤンキイッシュな登場人物たちのあいだに、ある種の秩序をつくり出している。『真犯人!!』の公開処刑制度も、〈死刑…近年…死刑者の数は増加傾向にある 死刑囚は殺害された者の絶望を……その身をもって知るべきではないだろうか……〉という説明を見るかぎり、同様の発想に基づいているに違いない。疑似ミステリ的なギミックを用いるだけの薄っぺらいはったりに流れていくのではなく、この点を突き詰めることができれば、シリアスな方向で化ける可能性もある。

 『欺瞞遊戯』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年09月02日
 そもそも感激屋さんタイプの読み手だから、現実にそくしたドキュメントということであれば、どうせ泣かせにくるつもりなんだろ、そうはうまくいくものかよ、と身構えてしまうのであったが、まんまと涙してしまう。『ハイサイ!甲子園』は、市田実の取材を高田靖彦がマンガ化してもので、作中に描かれているのは、沖縄の野球部が甲子園に行く、たったこれだけの出来事にすぎないのだけれども、時代がいけない。1958年(昭和33年)、まだ本土に復帰していない沖縄、彼の地の高校野球部はそれまで、地方予選を勝ち抜くばかりではなく、さらに東九州大会に混じり、そこでも優勝しなければ甲子園の土を踏むことはかなわなかった。長い道のりである。じっさい当時の沖縄球児たちは、甲子園を夢のまた夢、つまり決して手の届かないものだと考えている。だがその年、一県一高の出場枠が設けられ、まさに沖縄代表は沖縄代表として、全国大会にのぞむこととなった。こうして甲子園にはじめて出た首里高校の奮闘を『ハイサイ!甲子園』は教えてくれる。もちろん、歴史的な背景に限定された物語だと読んでもいいし、あるいはまた、若い世代を中心に苦難を乗り越えていく普遍的な物語だと読んでもいい、そのどちらも許すような演出が作品を支えている。初の甲子園出場校となった部員たちは、まさしく沖縄の誰もが経験したことがない試練と感動を味わうことになる。まだ米軍の統治下にある沖縄がどういう状況に置かれているのか、よく知らない本土の人間からしたら、彼らは奇異の存在であり、あれこれ興味半分でいじろうとする。これが一つには試練である。だが、甲子園のグラウンドに立てる緊張と興奮は他に代え難い。純粋な喜びは何にも勝る。そうであるがゆえに、試合には敗れながらも、誇りを抱き、しかし当時の制約上、甲子園の土を沖縄に持って帰れず、海に捨てなければならなかったことが悔しい。すまん、ここで鼻がぐずっとなった。さいしょはだれていた野球部をリードしていく監督の福原とキャプテン中宗根の熱血ぶりはともかく、奔放な性格の高嶺や呑気な性格の小川など、登場人物のユニークさが、全編を決してシリアス一辺倒に傾かせていないのも美点だと思う。それにしても、ぼちぼちスポーツ系じゃない高田のマンガが読みたいな。できれば『演歌の達』みたいなやつがいい。

・その他高田靖彦に関する文章
 『HOVER!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月31日
 覇-LORD 13 (13) (ビッグコミックス)

 「男(おとこ)」を「漢(おとこ)」と書き換えることにどういう意味があるのか。これを考えず容易く行う者は阿呆である(以前は自分もその阿呆の一人であった)。せめてギャグやアイロニーのつもりであるなら、まだ救いがあるには違いないのだけれども、しかし今どき誰でもやっていることが、そんなにおもしろいかあ、すくなくとも高度なレベルにまで昇華できているものは僅か、というのが正直なところだと思う。結局、たいていの場合においては「男」だろうが「漢」だろうが、たんにフィーリングで使い分けられているにすぎない。ぶっちゃけて、おまえの気分なんて知らねえよ。しかしながら、そうしたありようが普通であるのに対し、『覇‐LORD‐』というマンガには、「漢」と「男」とがたとえ同じ読み方をなされようとも、根源的には非なる意味合いを兼ねていると言わんばかりの迫力があって、そこが信用できる。作中の人物を用いるなら、倭から流れてきて、董卓に取り入り、権力を志向する常元は「男」でしかないだろう(今後の進み方次第では「漢」に生まれ変わる可能性もあるから現時点ではという留保つきで)。一方、同じ倭人でありながらも、権力よりもおおきなものをのぞみ、劉備玄徳に成り代わった燎宇などは、まさしく「漢」として描かれている。この13巻で、とうとう曹操が劉備の正体を知って〈“小国”に育った“漢(おとこ)”〉と述べ、その罪を問われた関羽と張飛が〈“倭人”であろうと“漢人”であろうと――――我らは“劉備”という“漢”に、この大陸を託したのでござる!!〉と返すのは、じつに象徴的な場面だといえよう。ここでの「漢」は、おそらく「漢人」にかけてある、そういう意味で「男」とは入れ換え不可能な用法になっている。だが、生き様や心意気というものは人種的な区別によってなされるべきではないとすることで、さらなる応用すらも示している。たんに「漢(おとこ)」と書かれているから燃えるのではない。その「漢」と書かざるをえない力学が、決して気分により支えられているのではないときにこそ、燃えるべきなのだ。この点を勘違いしてはならない。物語としては、劉備が敗走し、呂布がふたたび董卓と手を組むあたりに、おおきな展開が見える。が、個人的にはやっぱり、公孫サンと張燕の、ぶさいく二人組にたまらないものがあるのだった。くそおお。その切なさと惨めさをと悔しさを糧に、はやく大活躍してくれ。

 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月30日
 うおおお。ひさびさに立原あゆみ、腕を振るったなあ。こういう切なさ満点のエピソードを、ときおり、さも自分の領分とばかりに出してくるから、油断がならねえんだ。不条理の集合であるような社会のなかで、懸命に生きながら、それでも薄幸にしかなれない人びとの悲しみは、いったい何によってどう救われるのか。『ポリ公』の4巻は〈この章を4人の少女に捧げます〉と述べるモノローグによって幕を開ける。まったく無関係な4人の少女が、犯罪と犯罪のあいだで偶然にも一直線上に並び、それが結果的に重罰に値する罪を裁く理由となっていく。少年たちによるオヤジ狩りや銅線泥棒、子供の重病を名目に募金を集める救う会、そして少女売春とそれを求める大人、これら現代的なトピックをふんだんに盛り込み、背景としつつ、善の論理と悪の論理とが接戦させられている。4人の少女のうち、鶴という名の子はまだ幼く、健康に生きられるには渡米しての手術を必要としている。そのために設立されたNPO法人ユニコーンは募金を行うが、しかし母親は代表に金をせびり、パチンコに入り浸っている。4人の少女のうち、夏海はたまたま夜の街に放り出されている鶴を保護した売春婦で、主人公の刑事といちばん最初に関わりを持ち、やがていくつかの縁を一点に結びつける。4人の少女のうち、織絵についてはネタを割ってしまうおそれがあるから、ここでは触れずにおく。4人の少女のうち、マリアは風俗につとめ、オヤジ狩りをする不良少年たちと繋がりを持っている。マリアが金を稼ぐのは、見ず知らずの少女が心臓移植をしなければならないことを知り、心を痛め、すこしでも助けになりたいからだった。その見ず知らずの少女こそが鶴である。こうしたマリアの無償ともいえる態度に、おそらく作者は、人間性の救いとなる部分を置いている。だが、その方法自体が決して正しいとは判ぜられないので、悲劇が生まれる。立原のマンガといえば、いったいどこからどこまで前もって用意された伏線なのか、それともただの後付けなのか、一概には判断できないものが多いけれども、いやまあ、そこが魅力であるとしても、この『ポリ公』の4巻に収められたエピソードに関しては、ある程度の周到さをもって組み上げられた結構であることが如実であり、なかなかのサスペンスが味わえる。後々になって、ああ、これはこういうことだったのね、と、だいたいの納得がいく。もちろん謎解きふうの仕掛けがどうというのではない。読み手はまず、陽の当たる道を歩いているとは見なしがたい4人の少女たちが、物語において、はたしてどういう意味合いを持っているのか、気にかかる。これを入り口とし、俗世間の裏に隠された、それもまたたいへん俗っぽい真理と向き合うことになるのである。ところで『ポリ公』とは、シルバーバレットという正義の銃弾をめぐるストーリーでもあった。主人公はしかし、シルバーバレットの持つ矛盾に気づきはじめている。この点は重要であろう。法から逃れた悪を断つのがシルバーバレットの役割であるが、結局のところそれは、この国の社会を一個の組織とする構造の、不要である部分に対する尻尾切りでしかない。ともすれば不正は、不正とばれずにいるあいだ、秩序の片影を為すことがありうる。シルバーバレットはそもそも、そうした不正込みの秩序すらからも逸脱した者に向かい、人知れずくだされる制裁である以上、抑止の効果をいっさい持たず、潜在的な悪そのものを撃つこともできない。この限界がすなわち、アウトサイダー型の刑事である凉二に、不審を抱かせる。

 2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『極道の食卓』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『本気!』文庫版
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 ラブファイター! 2 (2) (フラワーコミックス)

 恋は偉大だよ、といわれればまったくそのとおりで、ときに神様の恩恵が霞むぐらいの奇跡さえ起こしてしまうんだからな。いっけん軽佻浮薄にすぎないラヴ・ストーリーが、しばし魅力的に映るのもそのためだと思う。女性にそっけない学校一のイケメンさんを自分に振り向かす、と宣言したヒロインの奮闘ははたして実を結ぶのか、藤沢志月の『ラブファイター!』は2巻で、その結末を描く。冷血王子と呼ばれる遼のクールさが、じつは孤独の裏返しであったり、たんに不器用なタチのせいであったり、と、天真爛漫なだけが取り柄のヒロイン、奈実に都合のよい部分も目立ったけれど、頑なであった相手の心を変え、気持ちを動かすことができたのは、やはり、無我夢中の片想いによって生じえたマジックだろう。むろん、すべての念願がこのように叶うはずもなく、結局のところ、ある種の幻想でしかないのかもしれない。しかしまあ、「好き」の一言であらゆる不可能が可能になるかのような、そういう奇跡を誰だって一度は信じてみたい。終盤になるにつれて、当初の設定はあまり有用ではなく、話の筋自体もしごくありふれたパターンに入っていったが、皆から祝福されるハッピー・エンドは輝かしく、素直に、良かったね、と言える。それにしても、番外編というかエピローグにあたるエピソードに登場する奈実の親父さんが、えらくファンキーで、笑う。おっさん、テンション高くて、おもしろいなあ。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月28日
 この空に響け (フラワーコミックス)

 しばの結花の『この空に響け』は、マーチングバンドに打ち込む少女と二人の兄弟が繰り広げる三角関係をベースとする青春ストーリー、という紹介以上のものでなければ、それ以上のものでもない。決して退屈な内容ではないかわり、とくに抜きん出た点もないのである。このことの理由を考えていくと、なぜマーチングバンドという題材が選ばれたのか、十分な解答を得られないためだと思われてくる。いや、登場人物たちには、ヒロインの亡母がマーチングバンドの指導者であったから、との理由付けはされている。しかしながらそれは、間に合わせ程度でこしらえられた動機にすぎないのであって、べつにマーチングバンドじゃなくても良かったんじゃないか、亡母が指導者であれば他の活動でも良かったんじゃないか、といった疑問に答えてはくれない。じっさい、作中では、マーチングバンド部が吹奏楽部に吸収されて廃部になってしまう、このような危機が物語を動かすおおきなイベントになっていて、それを阻止しようと思うヒロインは〈こーしてあたしたちの夢をかけた戦いは幕をあけた〉とまで述べるのだけれども、結局のところ、そう言わせるぐらいの魅力がマーチングバンドのどこにあるのかは描かれていない、あるいはそう言われて読み手が説得させられるだけの描写がなされていないのである。もしかすると、マーチングバンドの演奏シーンを描くことに、作者の欲望はあったのかもしれず、たしかにその場面に力は入っているが、もたらされる興奮は、残念なことに、すべてを補うほど、つよくない。

 『太陽が呼んでいる!』について→こちら
posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 女王の花 1 (1) (フラワーコミックス)

 我々の目の前には、傑作と評価するに相応しいマンガのあらわれることがしばしあって、そのような経験は得難く、他に代え難いものだから、あれこれ新刊に手を出しては一喜一憂したりもするのだろうよ、と思うのだが、しかし、和泉かねよしの『女王の花』である。これがまさに1巻の時点で傑作になることの約束された作品にほかならなかった。じつにすばらしく、いま、感動している。

 現代的なラヴ・コメディを得意とするこの作者は、すでにかつて『二の姫の物語』によって、太古の歴史を舞台にするロマンをモノにしているけれど、『女王の花』では、(設定自体『二の姫の物語』を受け継ぎ)その手法をさらに深め、スケール・アップし、おおきな流れに流されては逆らう人間の姿を用い、生きるということがたんにそれだけで命の価値を指すのではなく、ある抒情こそが生きるというに十分見合うだけの意味を命へ与えていることを、表現しているかのようである。

 「亜」と呼ばれる古代の国、正妃から生まれながらも男子ではなく姫であるばかりに、宮殿の隅にと追いやられている亜姫の成長を追うかっこうで、物語は進む。王子を生んだ第二王妃の土妃は、亜姫とのその母である黄妃を目障りに感じている。黄妃の執念と、自身の立場の危うさもあり、やがて亜姫は母を奪われ、国内に居場所をなくしてしまうのだが、しかし決して一人きりというわけではなかった。〈この手の中には俺がいます あんたの手から天運も国も親すらもこぼれ落ちても 俺が残ります〉。幼き日に助けられ、一生を亜姫に託した従者の薄星だけは、何があっても彼女を裏切るまいと忠誠を誓う。

 黄妃はもとより、父である亜王からも忌まれ、望まれぬ亜姫がそうであるように、金髪と蒼色の目を持ち、奴隷として扱われてきた胡人の薄星もまた、虐げられ、迫害される者だといえる。この二人の絆、つよい結びつきが、大勢の登場人物を抱く内容において、一個のエモーションをつくり出している。その一方、苛酷な運命を強いる父権的な社会にあって、ヒロインがどう生き、生き延び、戦場で宮殿で身を立てていくことになるのか、これが波乱含みのスペクタクルを織りなしている。そうした双軸が、あるいは『女王の花』という題名に暗示されているものであろう。冒頭で「亜」国の女王とされる人物によって、たった一つ、述べられている願いが、作品のイメージをふくらませる。

 たぶん、これから亜姫は、多くを得るかわり、多くの犠牲を払うに違いないことが予感される。まず最初に失われたのは母であった。死の描写そのものも壮絶であるが、見事なのはむしろ、そうした衝撃と相対する亜姫の態度をドラマの伏線化している点だと思う。ある意味、まる1巻分のヴォリュームを使って描かれているのは、母の喪失を意識のうえでは認めながらも、無意識のレベルでは否認していた亜姫が、それを受け入れるようになれるまでの過程だとさえいえる。母の最期の姿は決して美しいものではない。しかし、表面にはあらわれえぬ美しさが真相に隠されていることを知り、知ることで印象は変化し、亜姫は自ら、母の祖国である「黄」の将として戦場に立つことを選ぶ。

・その他和泉かねよしに関する文章
 『メンズ校』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『そんなんじゃねえよ』9巻について→こちら
 『二の姫の物語』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月27日
 幸田もも子の「姐さんカウントダウン!」は、ごく普通の女子高生がヤクザのぼんぼんに見初められるという突飛なシチュエーションを出発点にしているけれども、基本的には、初心なカップルの、性交渉抜きの、ピュアラブルなラヴ・ストーリーであって、その続編であるようなエピソードを三個(いや、四個か)収めた『姐さんカウントダウン!〜恋愛抗争編〜』もまた同様の趣旨に貫かれている。親が借金をこしらえたせいで、猿和田組の跡取りで同級生の正宗と婚約する羽目になってしまった梅北律子は、最初は嫌々ではあったものの、以前には知れなかった彼の表情を目の当たりにするうち、いつかは結ばれることを認めるぐらいには心変わりをしはじめるのだが、そうした、いつか、はもちろん、もうすでに、を意味するのではなく、まだこれから、を意味するものである。つまり、律子の正宗に対する心の距離が近くも遠くもなっていく余地があること、律子の心の移動がますます行われる可能性のあることが、作品の肝要だといえる。何かしらのドラマをつくるため、距離や移動のあいだに必要とされてくるのは、おそらく障害だろう。これは『姐さんカウントダウン!〜恋愛抗争編〜』において、正宗の従妹であるミヤビの意地悪や、極道関係のしきたりであったりする。その障害を次々踏むことで、律子は正宗への想いをじょじょにつよめる、マンガの題名どおり、ヤクザの姐さんになるまでのカウントダウンを進めるのであった。もう一つ注目しておきたいのは、他の登場人物たちがめいめい親しげに下の名前で正宗を呼んでいるのに比べ、律子のそれは「猿和田くん」にとどまってる点である。これはちょうど、二人の関係が、まだこれから、発展する途上にあることの表現になっている。アルコや高野苺、山口いづみなどに通じる作風は今どき個性的とは言い難いし、技術的な問題として絵や話の運びに粗を見つけるのは容易いが、押さえるべきところをきっちり押さえた内容には、良くも悪くもの安心感がある。

 『姐さんカウントダウン!』について→こちら
 『誰がスッピン見せるかよ』について→こちら
 『そんでむらさきどーなった?』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月26日
 中原アヤ『ラブコン』の最大の難点は、やはりあの長さであって、序盤の、カップルが出来上がり、お互いの気持ちを確かめ合うまではとても楽しかったのだが、後半になるにつれ、わざわざといった感じのエピソードが増えたため、怠かった。ラヴ・ストーリーにおいては、両想いの状態に何かしらの緩急をつけていくことが容易ではない。この作者の場合、持ち味はコメディの部分におおきいのだけれども、いわゆるラブコメの表現が、ラヴとコメディの両翼を持って成り立っているようなとき、一方の不調はもう一方の不調を自然と呼び込む。片方の不調を補うべく、もう片方を懸命に羽ばたかせても、空回りするほかない。結局のところ『ラブコン』の終盤は、その人気ぶりに反して、よれよれの低空飛行でしかない内容だったと思う。さて。中原の新作となる『ナナコロビン』の1巻が出た。お得意の関西弁からは脱却した内容であるが、メインの男女二人のやりとりには、やはり漫才みたいな元気と賑々しさがあり、とても楽しい。大会社の御曹司の結婚をぶち壊し、姉との駆け落ちを手助けしたヒロインの菜子は、その御曹司の弟である小夏が同じ高校に通う不良であったため、何かと因縁をつけられるのであったが、しかし親の経営する会社が兄の破談をきっかけに経営困難に陥ったことから、小夏は家を失い、責任の一端を持つ菜子の家に、やむなく居候する羽目になってしまう。こうして、仲違いしがならも一つ屋根の下で暮らす菜子と小夏の関係をベースに作品の基調はつくられており、おそらく物語が進んでいけば、二人は好き合うことになるのが予想されるけれども、とにかく今は、相手のあらと良いとこ探しであるような段階で、それが侃々諤々のテンションを、ラヴとコメディが綱引きする展開のなかへ、巧みに誘い入れている。ワキを飾る登場人物たちの存在感もなかなかで、気持ちのいい雰囲気づくりに一役買っている。とくに菜子の親友であるブーちゃんがかわいい。

 『ときめき学園・王子組』について→こちら

 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月24日
 人はどれだけ神や運命といった観念から自由でいられるか。このような問いと戯れ、酔いしれるなら、たいへんロマンティックになれ、じっさいに答えを求めなければ、ロマンティックな気分のままでいられる。ただしそこからは、呪われ、戦い、勝とうとするような熱さ、エキサイティングな振る舞いが生まれることなどはないだろう。無責任な憂鬱ほど甘美でのどかなものはないのである。しかし、神や運命にすこしでもあらがうつもりがあるのなら、とりあえず自分が自分で自分のために勇敢であらねばならない。人は決して神や運命といった観念からは自由になれない、なれないが、なれる、と断言すること、それが岡田芽武の『聖闘士星矢G』(原作・車田正美)に、超興奮のスペクタクルをつくっているのだと思う。〈もしも…オレに兄さんを継ぐ力があるならば――一人の人間として立ち向かわなければならないはずだ!! 何者にも頼らず 大切な者の為に立ち上がり――男なら――大切な者の為に命を削る義務がある!!〉、そうして渾身の光子疾走(フォトンドライブ)を炸裂させるアイオリアであったが、やはりコイオスには届かず、漆黒刺突(エボニーレイピア)の返り討ちに遭ってしまう。そのとき、アイオリアの内であらたな力が芽吹く。出たあ、第七感覚(セブンセンシズ)だ。この〈第六感すら超えた先にある究極の力!!〉をもって、ついにアイオリアとコイオスの闘いに決着がつけられる、というのが15巻のハイライトにあたる。それまで兄アイオロスの無念に縛られていたせいで、獅子の鬣(ヘッドクロス)を拒否していたアイオリアは、完全な装備を身にし、コイオスから神々さえも滅する力「雷(ケラウノス)」を受けとると、ティターン神族蜂起の背景に隠された陰謀を聞かされるのであった。海洋神ポントスに通じるティターン十二神の裏切り者が明かされ、いよいよここに来て、主人公であるアイオリアの成長を描くとともに、物語全体もおおきく終局に向けて動き出しだぞ、といった感じである。それにしても今後のキイは、記憶の欠落したクロノスとアイオリアの従者リトスの出会い、であろうか。このへんの展開は、無垢であるような神に人間がどのような影響を与えるか、与えられるか、といった問いにも繋がっていくのだと予感される。

 0巻について→こちら 
 14巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら 
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月23日
 ジナス-ZENITH 6 (6) (モーニングKC)

 吉田聡の『ジナス』は終わってみれば、吉田版『MONSTER』(浦沢直樹の)というより吉田版『バロン』(六田登のね)といった印象のほうがつよかったかも、つまり、じつに観念的な問題が、人類の叡智の及ばぬ、まさしく形而上のレベルで決せられている。ネタを割ってしまうというか、いや、なかなか複雑な語り口のマンガでもあったので、まあ、これも決して正確な概要ではない可能性のほうが高いけれど、99年に人類は神の裁きによって滅ぼされてしまったにもかかわらず、それに気づかなかった人々の記憶から成り立つもう一つの可能性が、それこそ『ジナス』の世界と物語を生み出していたのであり、さらにはその世界と物語自体が作者の、つまり吉田聡と思しき人物の創作であり実験であったという、要するにメタフィクションのニュアンスをも含んでいたのだろう。作中からは神がいずこともなく消え去ってしまったものの、作中にはしかし神のつくった人間の意志だけは残る、残される、そのようなエンディングが、この最終6巻には描かれているのである。それにしても『てんねん』の終盤にも感じられたことだが、こういうヘヴィでシリアスな、もしかすると宗教がかったテーマをやり出すと、吉田は読み手に不親切な方向へ行ってしまう。エンターテイメント性がかなり低まる。そのため、どこか置いてけぼりをくってしまったかのような印象を受けてしまうのがもったいなく、近年ますますその傾向はつよくなっているふうに思う。ところで、ここには『ジナス』のプロトタイプといってもいい読み切り「ガブリエルの夜」が同時に収められている。そもそも『ビッグコミックオリジナル』に発表されたものであるが、たしかのちに『荒くれKNIGHTマガジン』にも掲載されたはずだ。それが、小学館でも少年画報社でもなく、講談社の単行本に入るというあたりに、出版社との現在の関係を裏読みしてしまうのは、いやいや、さすがに、おまえ、邪推だよ。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら 
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
 『湘南グラフィティ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月22日
 濁組の構成員である飛がじつは久慈雷蔵の命を狙うヒットマンであった、っていうのは、まあ過去作にもありがちな、たいへん立原あゆみらしいアイディアで、決して驚くべきポイントではないのだけれども、そのような登場人物が死なず、改心したのちも生き続け、見事レギュラーにまで昇格するというのは、意外とレアなケースになるのではないだろうか。そうしたあたりに、極力殺伐とした展開を斥けて成り立つ『極道の食卓』ならではのテイストが、よく出ていると思う。だいたい、この6巻で起こるおおきな動きといえばそれぐらいであり、あとはいつもどおり、決まったメンバーが顔を揃え、のんびりとしたテンポの人情話が列挙される。しかしながら、中年の男性といおうか意固地なおっさんのエピソードばかりが、こうも続くのはいけないねえ。いちおう料理マンガの面もあるとはいえ、47話目(四十七品目)の「米と麦」は、まるで冴えない時期の『美味しんぼ』みたいになっちゃっている。それよりかは、おいおい、その男女のもつれに料理ほとんど関係ねえじゃん、的なエピソードのほうが、やはり、うける。48話目(四十八品目)の「男と女の約束」とか、なんだよ、これ。〈男と男の約束……約束はなかなか守れないから 男と男なんて枕言葉があるのでしょう〉と、この作者ならではのポエジーで、良い話ふうに締めくくってはいるけれども、ぜんぜん良い話じゃないよね。結局、久慈雷蔵がマグロ食っただけ、マグロ食ってるだけ。こういうしらばっくれたところが最高である。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『本気!』文庫版
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
 政治の仕組みが政治的であるのと等しく、ヤクザの世界も政治的に成り立っているのであって、会社の組織も政治的であれば、医療や教育の機関も十分に政治的で、しばし学校社会でさえも政治的だといえる。しかし、人は必ずしも政治的であらねばならないのか。いや、他人に駒として使われているあいだは、そこからいくぶんかは自由になれる。だが、駒であるかぎり、誤った命令にも従順でいなければならない。これが立原あゆみの作品に一貫する論理であり、そうした論理下であらがう人々の姿が、ドラマを積み立て、盛り上げる。『仁義S(じんぎたち)』の7巻である。いよいよ関東一円会会長選挙が迫るなか、横山のもとを訪ねた仁と甲田の口から、関西は極地天道会との結託を狙う柳澤を破るべくの策が明かされる。そこで提案される計画については、まあ読み手の立場からすると、また横山のカリスマ頼りかよ、と言いたくなる部分もあるにはあるのだけれど、結局のところ、物語において政治とはもっとも縁遠い人間に〈これからはシナリオなしだ 横山 おめえの思い通りやればいい〉と判断を託すことになるのは、作品の性質上、当然といえば当然の流れであるのかもしれないし、またそのような、仁や甲田、横山といった旧いタイプの極道を大事にする人物の会談に、義郎が同席していないのも、以前から用いている演出とはいえ、なかなかに象徴的な場面をつくっている。他方、柳澤傘下の病院を潰したアキラとドクター大内は、そのため命を狙われることになるのだが、まさか、ここで則夫リタイアかよ。そりゃあ人間性の腐った、まったく愛せない野郎ではあったけれども、こいつはきっとストーリーの終盤まで生き残るんだろうね、と予想していただけに、すこし、おどろく。いや、もしかするとストーリー自体がけっこう佳境に入ってきているのかな。たしかに、『本気!サンダーナ』ですら7巻で完結しているのだから、ここまでの内容は決して短くはない。いずれにせよ、則夫のラストは、立原の過去作である『弱虫』の終盤、あのヒロシの散り際を思い起こさせる。展開はやや唐突すぎるものの、あるいは急ぎ足だからこそ言葉と裏腹な行動に含まれてしまったのは、まさしく分かちがたい愛憎の念であったのだろう。
 
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『恋愛』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『本気!』文庫版
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『極道の食卓』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月21日
 サムライソルジャー 1 (1) (ヤングジャンプコミックス)

 返す返すも山本隆一郎の『GOLD』は傑作であった。モラトリアムという、ほんらいなら限定されるべき季節を適確なサイズで切り出し、内に生い立ちと自意識の不幸を捉まえながら、縁の部分に救いがたき孤独を濃く描き、それでも人は生きていかなければならないとするメッセージをじつにパワフルに断言してみせた。結果、導き出されたハッピー・エンドの触感は、00(ゼロ)年代におけるサブ・カルチャー表現の、とくに高度な達成の一つに数えられる。正直なところ、社会的な知名度や影響は低く、「このマンガがほにゃらら」系のなぜか命令口調なマス・メディアの企画に取り上げられることもなかったけれど、まさか不良やギャングを扱っているというだけで自称マンガに理解のある方々がパスしたはずもないだろうから、おそらく高度であるあまり受け入れがたいものがあったのかもしれない。芸術の方面では、まあよく聞く話である。

 その作者があらたに手がけるのが、この『サムライソルジャー』であって、作品のなかで今後担われていくに違いないテーマは、第1話の時点において主人公の口からじかに発せられていると推測される。つまり〈本当の意味の強さってのはな…どこのチームに属してるだとか誰の下についてるだとか……そんなモノサシで測れるようなもんじゃねーんだ!〉ということだと思われる。

 大小さまざまなチームがケンカと暴力により群雄割拠する渋谷に、かつて“渋谷の恐竜”とおそれられた男、藤村新太郎が舞い戻ってきたことをきっかけに、物語の幕は開く。新太郎は、現在渋谷でもっとも存在感がつよいとされる「ZERO」を立ち上げた、ごく初期のメンバーであった。しかしその彼が、どうしていったんは渋谷を離れ、そしてふたたび帰ってきたのか。作中では、弟分を殺され、報復を果たし、長野の少年院に入れられていたと説明されている。だが、それはただの事情にすぎなく、「ZERO」のトップである桐生とのあいだに、喪われた弟分の雫を通じ、なにか、いわくありげな因縁が存在しているためだともぼかされ、示されている。一方、舞台である渋谷は、新太郎がいた頃とくらべ、さらに混沌は激しく、より多くの波乱が満ちる場所になってしまっている。その渦中で桐生は「ZERO」とともに、他のチームを圧倒し、渋谷に自分の王国をつくろうとしているのだという。すなわち〈『マーダーコープ』『紅蓮』『ナダレ』…その他もろもろの渋谷の不良集団(チーム)…全部 俺のモンにして この街の王様になるわ〉と宣言されるこの野望が、物語をはためかすもう一つの動力にほかならない。これに対し、〈んなこたぁ不可能だし どれだけ多くの無駄な血を流すことになるのか 一番わかってんのがテメーじゃねーのか!?〉と反論する新太郎が、大規模な抗争のなかでどのような役割を負っていくのか。種々のトライブが衝突し合う状況と、その超克のありうるありえないは今日的なモチーフであり、スリリングな魅力を秘めている。が、しかし、本音をいえば、この1巻を読むかぎり、やや微妙な部分が生じてしまってもいる。

 もちろん、いまどき渋谷でカラーギャングかよ、と、マンガのセンスを評価するのは容易い。だが、それは表層を見ているにすぎないのであって、渋谷やカラーギャングといった符号も結局は『サムライソルジャー』全体を覆う誇張、デフォルメの一部でしかない。だからこそ問われなければならないのは、そのデフォルメの手法自体について、であろう。このことを述べるには、どうしても作品を一度、ヤンキー・マンガの文脈に引き寄せてみる必要がある。もっというなら、ハロルド作石から高橋ヒロシへ、という90年代的なラインの、その後に作品を置いてみなければならない。じっさいの影響源や作者の意識はともかく、『サムライソルジャー』のストーリーには、高橋ヒロシの『QP』を思わせるところがあるが、それともまたすこし話が違う。

 たとえば、ハロルドの『ゴリラーマン』は連載開始の当初は、たいへん劇画タッチのつよい作風であったわけだけれど、後期に入ってくるとデフォルメのニュアンスが支配的になっていく。ハロルドがどれだけデフォルメ化を重視していたかは『ゴリラーマン』終了後に描かれた『サバンナのハイエナ』の存在によってあきらかだと思う。しかし『サバンナのハイエナ』が頓挫したのち、再度、デフォルメとリアリズムの相半ばするところに作家性を回帰する。マンガ史的にはあくまでも大雑把な印象になるが(だってこの分野にけるすぐれた研究がまだないんだもん)、そうしたデザインを正当に受け継いだのが、高橋ヒロシである。ここで重要なのは、そのようなラインの高橋ヒロシ以降に位置づけられるマンガ家の多くが、隔週もしくは月刊の連載でその才能を開花させていった点にほからない。いや、高橋自身、単発の作品などをべつにすれば、あくまでも月刊誌を活動のベースにしており、あるいはハロルド作石でさえ、月刊での連載である『BECK』において大メジャーになったといえる。

 山本隆一郎もまた、それ以前のキャリアを踏まえ、あの『GOLD』での偉業を考えるのであれば、やはり隔週誌で花開いた才能の一人にあたる。しかし『サムライソルジャー』の場合、連載は週刊誌である『ヤングジャンプ』にて行われている。このことが、たぶん、線や絵の簡略化、リアリズムよりもデフォルメの趣向を推し進める、おおきな要因になっている。走ってくる電車をキック一つで停止させてしまう桐生は、とても人間離れし、あたかもどおくまんのギャグ・マンガに出てくる登場人物のようである。それ以外の場面にもすこしばかりデフォルメのすぎる描写が見受けられる。これがシリアスな内容にあって、やや微妙な部分を為している。とはいえ、そのおかげで結構がわかりやすくなれば、『GOLD』が難解であるあまりうまく飲み込めなかった方々も、作品に入りやすかろう(ここ、皮肉ね)。これまで言葉足らずではあるものの、いささか文章が長くなってしまったので、物語のレベルにおける細かい云々は、次巻以降に触れる。

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年08月19日
 ミスミソウ 2 (2) (ぶんか社コミックス ホラーMシリーズ)

 うんうん、あいかわらず胸糞の悪いお話であることよ。押切蓮介が描く『ミスミソウ』の2巻のことだけれども、不穏な気配が、まるでたゆたう流れを堰き止められたかのように溜まり、グロテスクな濁りをつくり出していた1巻を反動とし、びゅんびゅん悪意と殺意とが加速していく展開が導かれているのであったが、しかし、カタルシスとでもいうべき救済の効果は、未だ物語に訪れていない。エスカレートしたいじめによって、とうとう家族までをも失ってしまった春花は、狂気をその目に、そして凶器をその手に携え、クラスメイトたちを次々、容赦なく残忍に、抹殺しはじめる。正直なところ、春花の攻撃を受けて、登場人物らのあいだに浮き上がるのは、あまりにも素朴な鬱積に過ぎず、もうすこし陰謀めいた小利口さが彼らには働いていることを期待していただけに、ややはったりが弱まったかな、という印象を受けもしたけど、結局、こういう浅はかであるがゆえの極端を内に秘めているからこそ人間ってやつは怖い、のだと思う。ところで『このマンガがすごい!SIDE-B』に掲載されているインタビューで押切は、大西祥平が〈あと最近の押切作品って、テーマは違えど、どれも「家族」っていうサブテーマが必ず埋め込まれてる気がするんですが〉と尋ねているのに答え、〈ときどき人に『妹とか姉とかに何かあるの?』って言われるんですが、それはないんです。ただ、ウチの家族がもともと壊れてるっていうのはあるかもしれません(略)ただ、自分がそこに恐怖を感じたりということはないですね、逆に僕のマンガには『両親』の存在感が薄いと思っているんです。登場させても、全然『描けて』いなかったり〉と述べている。この、作者の言葉を鵜呑み、信じるのであれば、押切の作品においては、むしろ両親の存在感が薄くあることで、その不在的な環境が反対に強調され、備わっているとはいえまいか。両親、いや、とくに父親の不在は『ミスミソウ』にとっても重要なキイになっている。たとえば、春花に逆襲された生徒たちが助けを求めているのはあくまでも母親であって、行方不明になった息子を心配して担任教師の南に食ってかかるのも母親であり(その背後で控えめに立っているのが父親だろう)、春花を唯一気にかける相場晄もまた、父親ではなく、母親との関係に何かしらの確執を抱えていることが示唆されている。そういえば、いじめの首謀者である妙子の父親も家にはあまり居つかず、居つかないことが無責任なプレッシャーになっているふうである。このように『ミスミソウ』には、母親が子供とつよく関わる、積極的に庇護する立場としてあらわされているのに対し、父親の役割はずいぶんと後退させられているわけだが、そもそも主人公の春花を考えるなら、家庭を壊され、無くした彼女はもはや、父親の助けを借りられる立場からは逸脱しているので、自分と妹の祥子を自分の力で守らなければならないと自分に課するのだった。もちろん、こう見ていったとき、どこにでもありそうな地方都市を舞台に父権の損なわれた現代社会を捉まえている、と言ってみせることも可能であろう。だが、『ミスミソウ』がエモーショナルなのは、被害者の孤独が加害者の惨殺というかたちでしか贖えない、そういう不幸をこの世界がたしかに抱え持っていることの実感をなるたけ漏らさず、教えてくれるためにほかならない。

 1巻について→こちら

・その他押切蓮介に関する文章
 『プピポー!』
  1巻について→こちら
 『ゆうやみ特攻隊』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年08月15日
 なぜ少女向けのメディアもしくはサブ・カルチャーには、不良少年が王子様の役割を果たす例が少なくはないのか、そしてその場合、不良少年の姿に王子様を見出すのは、決して優等生とは限らずとも清純で溌剌としたヒロインなのか、こうしたケースについては、もうすこし深く検討、研究される必要があるようにも思えるけれども、あえて疑問視しなければ、ふつう、それが自然であるというふうに認識される。単純に、本当の自分は表からはうかがえないずっと奥に引っ込んでいるとでも言いたげな。持田あき『君は坂道の途中で』の1巻もまた、無知と無垢とが同居するイノセントな少女が、すれた坊ちゃんに片想いするていのラヴ・ストーリーとして成り立っているのだが、そのあまりの屈託のなさに、前述したようなことを思った次第である。従兄弟の大介一家と同居する主人公の亜由は、ある日、通学路の途中で、どうやら地元の者じゃないらしい男子が数人の不良に囲まれているのを見かける。このときは言葉を交わすこともなしに通り過ぎながらも、不思議と彼のことが気にかかる。やがて亜由は、その男子、工藤千治が、自分のクラスにやって来た転校生だと知り、積極的に関わっていくことになるのだった。今日では何を指してトラウマと呼ぶのか大概不明瞭であるが、そうした曖昧な意味において、亜由も千治も傷を持った者同士だといえる。これが物語を動かすキイであり、現在進行の場面を過去形で捉まえるセンチメンタルなモノローグに還元される。たとえば亜由は1話目のラストで〈――千治 君がこの街に来た時のことを今もよく覚えてる(略)まるで世界中のハッピーを君が連れて来たみたいだったよ〉と回想形式で言う。要するに、皆様方お馴染みの、あのスタイルにほかならない。そしてケンカも上等なほどに悪ぶっている千治の心は、まっすぐに感情を向けてくる亜由と触れ合ううち、じょじょに絆されていくのだが、ここで重要なのは、そうした成り立ちが、技術的な作為によってこしらえられている印象ではなく、さらにはその無作為であるような様子が、作品のエモーションに繋がっている点である。正直なところ、作者がもうちょい巧ければ、考えすぎていたら、すべてが今以上になめらかでスムーズであったならば、このマンガは逆に駄目になっていただろう。しかし、ぎこちなさが丹誠に見える錯覚が起き、それは作中人物たちの姿にも反映されている。不良少年が王子様に感じられたところで結局は錯覚かもしれないし、そもそも恋愛自体が錯覚であるのかもしれない。いや、もちろん、詳細に文化を分析していったなら相応の理由や原因に突き当たるに違いないが、とりあえず、ここに描かれているのは、そういう錯覚こそが今や自然であり、真になりうる可能性があることの際立ちなのだと思う。
posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月14日
 打撃王凛 13 (13) (月刊マガジンコミックス)

 いま一番おもしろい野球マンガはこれだ。として、佐野隆の『打撃王 凜』を挙げることにいっさいの躊躇いはない。すくなくとも、前12巻までに渡って繰り広げられたシニアリーグ編は、最高潮に燃えた。ガッツかくあるべし、とでもいうような熱闘が、超少年級のカタルシスを寄越す。そして、ついにこの13巻より、高校野球編がスタートするのであったが、なるほど、というか、やはり、というか、こうきたかあ、いやいや、とにかく納得と感心の誘われる展開に、胸が沸く。

 甲子園での対決を約束し、やっちん(安長)とべつべつの道をゆくことになった凜の進路こそが、何よりもまず注目したい点であった。培った経験値を持ち越すにしても、リセットをかけるにしても、ここをひとつ間違えれば、その後の物語におおきな不安材料が生じてしまう。その、とてもとても大事な分岐を、こいつは盛り上がらざるをえないよね、と躍らされる方向に、びしっと舵とっているのだから、まったくたいしたもんである。

 野球マンガにかぎらず、学生ベースのスポーツ・マンガ全般において、王道的なパターンは、おおよそ二つあるように思う。一つは、弱小もしくは二線級のチームが、たゆまぬ努力の結果、試合に勝ち抜き、栄冠を目指すというものであり、もう一つは、全国クラスのプレイヤーが集められた苛酷な状況のなか、熾烈にレギュラーを争い、それがチーム全体の向上に繋がっていくというもので、『打撃王 凜』の場合、シニアリーグ編では、まさしく前者のパターンを採っていたわけだけれども、高校野球編からは、ちょうど後者にあたるパターンへとスイッチしている。

 こうした転換自体は、近年では、満田拓也の『MAJOR』においても、主人公が中学から高校にあがるさいに見られ、決してレアなケースとはいえまいが、しかし、いきなりのクライマックスさ加減が、もはや尋常ではない。

 シニアリーグでの活躍ぶりを買われ、女子校から共学に変わったばかりの常磐崎高校新設野球部の監督、岩田に直接声をかけられた凜は、甲子園出場のための厳しい試練を乗り越えるべく、〈専用グラウンド ナイター設備はもちろん 雨天時の室内練習場もある さらに全国から集まる猛者達の為に寮もちゃーんとある 週3日は午前で授業を終了し あとの時間はたっぷりと練習できる まさに毎日が野球づけの日々ってワケだ〉という環境に身を置くことを決意する。

 だが当然、凜だけが特別に声をかけられたのではなかった。学校で、グラウンドで、凜は、かつてのライヴァルたちと思いがけぬ再会を果たす。そう、あの稲葉や、雄翔、寺嶋らが、今度は、チームメイトとなり、しかも九つしかないレギュラーの枠をめぐって、しのぎを削り合う。さらに、全国で知られた有名選手もそこに加わり、お互いがお互いに牙を剥く。おそろしいまでの才能に囲まれてしまった凜は、はたしてレギュラーのポジションを掴み、なおかつ甲子園でその猛打をふるうことができるのであろうか。

 いやはや、まったく先が読めねえや。たとえば、新規の登場人物であり、凜を慕う近藤の存在に、作者が、あるいは作中のレベルで岩田監督が、どのような役割を課そうとしているのか。いっけん身体能力に乏しく、何ら優秀さは見受けられない。だが、最初の試練である「ランニングバトルロワイヤル」で大勢の選手が容赦なく切り捨てられる一方、凜とともに雑用係として部に残される。このことの意味である。このことはもしかすると、岩田監督が凜を誘うとき〈チームメイトとの友情を力に変えて強くなる 今までお前はそれで様々な奇跡を起こしてきた それは認める〉といった言葉と密接に関わっているのかもしれないし、それとはまたべつの働きが近藤には用意されているのかもしれない。

 いずれにせよ、いくらオールスター集団とはいえ、一年生のみで野球部が構成されている以上、甲子園への出場が叶えられるのはまだ先のことになるんじゃないかしら、そのあいだ、さまざまな変化が物語には訪れるに違いなく。

 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月13日
 nobodycry.jpg

 サトーユキエの作品集『ノーバディ クライ』には、ぜんぶで四篇の読み切りが収められており、どれも、自意識のとがったアンテナが思わずさびしさをキャッチしてしまうような青春の風景を、きれいに磨かれたラヴ・ストーリーに落とし込んでいる。表題作である「ノーバディ クライ」は、家庭に居場所がなく、恋愛というものを知らない少女が、見ず知らずの青年に声をかけられ、行きずりの一夜を過ごし、感動もなく別れ、しかし彼とふたたび出会い、すこしずつ惹かれていく様子を描く。自分が周囲からは浮いている、溶け込めていないという思いなしや、他人と自分とは違う、誰も自分のことなぞわかってはくれないと、どこか見下している態度は、じつにありきたりなものであるが、そのありきたりであることが、たぶん今日的なリアリズムの軸なのであって、そうした狭くもある視野が、一個の関わり合いによってひらけていく様子から、前向きなエモーションが生まれている。うまくすくいとっている。その他、「恋に堕ちる」も「NO,NO,boy」も「花の咲くような」も、シチュエーションやストーリーの展開は違えど、基本的には、恋する経験を通じ、個人のうちで閉じていた回路が、他人を実感していく過程をとらまえている、といえる。他人を実感するとは、自分以外の人格を認めることでもある。それが必ずしも幸福につながるとはかぎらない。しかし、塞ぎ込んだ気持ちのなかで足踏みしているよりはマシだと提言しているかのような、そういう新鮮な孤独を、ヒロインたちの涙と表情は映し出す。いっけんポップなセンを狙っているふうな絵柄ではあるが、個人的な印象を述べれば、大昔の南Q太に似せたら、なぜか、たなかかなこになってしまったみたいな独特さを持っている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 近キョリ恋愛 2 (2) (KCデラックス)

 はじまりの1巻を、ヒロインの見事なインパクトで持っていった、みきもと凜の『近キョリ恋愛』だが、この2巻も、テンションを下げず、アクションとリアクションは破格だけれども内面はじつに初心な少女らしい枢木ゆにの個性を、ふんだんに生かし、コメディとロマンスのあいだを縦横無尽に行き来する。そこがまたチャーミングでもある。すったもんだがあり、イケメン教師の櫻井ハルカからプロポーズされ、周囲には秘密のまま、親睦を深めるゆにであったが、むろん、その前途が受難に満ちていることに変わりはなく、ここではゆにの家族の登場、とくに父親の介入によって、破局の危機に見舞われてしまう。ゆにの家族も、弟、母親、父親と、ゆにに負けず強烈な人柄が揃っていて、じっさいにはなかなかありえないようなシチュエーションとトラブルが、作品に気軽なテンポをつくっている一方で引き出されるのは、ただ一緒にいたい、ずっと一緒にいたい、という恋愛状態における普遍的な心理、エモーションだといえる。ゆにとハルカの置かれている位置を単純化して見るのであれば、教師(大人)と教え子(子供)のポジションにわかれ、さらには不良と優等生の対照をもそこに含んでいる。これはどちらもこの手のラヴ・ストーリーに典型的なパターンにほかならない。ところで、二人の付き合いを知ったゆにの父親が、否定の側に回るのは、そういったギャップを間に挟む関係がある種の現実を犠牲にしなければ成り立たないことを知っているためで、たとえば〈教師なら 一番よくわかってるんじゃないのか? 君とつきあっていけば あの子がもっている多くの可能性が消えていってしまうと それから ゆにとつきあうまえは女性関係がひどかったようだね(略)気持ちが長つづきしない質らしいな 純粋に本気になっているゆえに対して 君は気に入っているだけなんだろ?〉というハルカへの問いかけが、それを端的にあらわしている。これに対し、ゆにとハルカは、今ここにある絶対を大切にしたいという合意をもって、答えとしている。つまり、どれだけの不安材料があろうとも〈一緒にいられたらそれだけでステキ〉なのである。そのとき、たしかに恋は現実よりも重い。とはいえ、それは決して現実が軽くなったことを意味しない、あくまでも意志の問題でしかないので、次巻以降も、さまざまな、おそらくはギャグすれすれの勢いで押し寄せる逆境に、二人の繋がりは、しかしシリアスに試されていくのだろう。

 1巻について→こちら

・その他みきもと凜に関する文章
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月12日
 さくら河Volley-boys 1 (1) (デザートコミックス)

 真崎総子は、『BOYSエステ』の最終巻に収録されている読み切り(のちに複数のマンガ家による読み切りアンソロジー『方恋カタログ』にも収録された)「ダサかわ」が、最高に好きである。その作風に抵抗を持ち、印象的に敬遠していた向きにこそ、ぜひ読んでいただきたく。あるいはこの『さくら河Volley-boys』から入るのがよいかもしれない。真崎のマンガのなかでは、おそらく、もっとも一般受けするような内容だと思うし、じっさいにおもしろい。ボーイズラブを好むオタク系の中学生、的場里子には、血が繋がらず、十歳離れた兄がいた。元全日本の代表メンバーとして活躍していたけれども、足を故障し、引退した、かつてのバレーボール・プレイヤー的場拓麻である。その拓麻が、高校時代の恩師が校長をつとめる県立さくら河高校に、バレー部の監督として誘われたことにより、『さくら河Volley-boys』のドラマは幕を開ける。そうして拓麻が集めてきたのは、イケメンで金持ちだが性格に難のある御島をはじめ、一癖も二癖もありそうなプレイヤーばかりで、自身もさくら河高校に入学した里子を含め、どうやらてんやわんやの人間関係が繰り広げられるみたいだ。1巻の段階では、はたしていかほど熱心にスポーツ・マンガするのかは見えないが、長崎からやって来た獅子尾や、広島から出てきた双子の鵜貝兄弟など、的場家に下宿することになったバレーボール部員たちと、的場兄妹による一つ屋根の下ものとしても、十分にキュートで、たいへんわくわくさせられる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 みずたま (KCデラックス)

 かつて『Deep Love』のコミカライズを担当した吉井ユウが、今度は『天使がくれたもの』で知られるChacoのケータイ小説『みずたま』のマンガ化に挑む。原作のほうを読んだときはないのだけれども、ストーリー自体にあまりショッキングな面はなく、むしろ、素直になれない幼馴染み同士が短距離を紆余曲折することで描かれる恋愛模様は、現代的な少女マンガのそれに近しいといえばいえるだろう。しかしながら、その素直になれないことが、すれ違いを呼び、極度に狭い半径の人間関係をごちゃ混ぜたり、極端な物語の展開に直結しているあたり、なるほど、『天使がくれたもの』に通じる。同じマンションに住む広美に、顔を合わせれば憎まれ口を叩いてしまう悟であったが、じつはずうっと昔から彼女のことを想い続けていた。悟が、いろいろな女の子と付き合うのも、広美から自分は恋愛対象としては見られていない、と感じられることの反動にほかならない。それがあるとき、広美に彼氏ができたと聞かされ、喩えようのない混乱に陥っていく。あくまでも女性の目線ではなく、つまり男性の側を主人公にし、作品はつくられていて、まあ、活字だけで成り立つケータイ小説であれば語り口のレベルに、なにか、特徴があったのかもしれないけれど、こうして絵も含めたヴァージョンを読むかぎり、それはとくに際立った効果を果たしているとはいえず、基本的には、やはり今日の少女マンガらしい、親しい者のあいだで結ばれる三角関係のジレンマが主題化されている。ただし、ワキから横恋慕してくる健二の強烈アタックぶりにくらべ、悟と広美の歩み寄りが消極的すぎるため、どうして他の人間ではなく、この相手でなければならないのか、というような説得力に関しては、辻褄合わせ以上になっていかない乏しさを感じた。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 今日、わざわざ男(おとこ)を漢(おとこ)と書き換えるような振る舞いは、マジとしては熱くもなく、ギャグとしてはありきたりで、アイロニーとしてはまったく冴えない以上、じっさいよっぽど注意を払わなければならず、ましてや硬派を題材にしたていの作品であるならば、その質に関わってくる大問題ですらあるのだけれども、たとえば巷にあふれる『金剛番長』への評判を見るかぎり、描き手も読み手もあまり気にしてはいない様子みたいである。まあ、そうやって無自覚に時流にのってみせることが、今どきの、男らしさではなくて、漢らしさなんだろう。うへえ。さて、木村シュウジの『覇王』に続く、「覇」シリーズの第二弾が『覇道』であり(ここはちょっと嘘だよ)、掲載誌の『週刊少年チャンピオン』的には木村版『覇王の森』(石山東吉のね、これはちょっと真剣だよ)ともとれる内容であって、そこに描かれているのは、オールドスクールな不良、ツッパリ、番長のケンカ・ロマンだといえるわけだけれども、やはり、男を漢と書き換える力学が、本来ならば血の濃く通ったストーリーに、ほんの一滴の水を差してしまっている。だが興味をそそるのは、作中において、漢という言い換えにこだわっているのは、主人公である帝仙高高校の不動清正が挑み、立ち向かうことになる忌川同盟連合会の会頭である忌川義晴だけだということで、これはおそらく、現在を生きる自分たちの抗争を戦国時代のそれと重ね合わせた彼の見立てからやって来ている。むろん、登場人物たちのネーミングからして戦国武将からいただいている部分も多いのだが、しかし1巻を読むかぎりにおいては、この男と漢の使い分けに作者がどれだけの用心を傾けられるか、つまり、もしもかっこうのよい生き様というものが断定のかたちで存在するなら、それを安直にではなく、どれほどの深さにまで突き詰めていけられるのかが、今後の展開をおもしろくも詰まらなくもするのだと予感させる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月09日
 RUSH 4 (4) (Feelコミックス) (Feelコミックス)

 6月に『ライン』の4巻が出たばかりで、このところ西村しのぶの新刊があまり間をおかずに読めるなあ、と思っていたら、ああ、『RUSH』は3巻から4年半ぶりになるのか、なんとなく、いつの間に登場人物たちも大人になってしまったような気がする、いや、気がするだけか。あいかわらず、ハンサムな女の子たちときれいな男の子たちが、窮屈なしがらみをほんのすこしワキにのけて、さも楽しそうに日々を生き抜く姿は、たいへんファニーである。それにしてもこの4巻は、最後の最後になって、アキミツと住吉がねちっこく繰り広げる男の戦いが、いいね。こういうわりとダイレクト(?)なバトル(?)は西村の作品には珍しいほうで、どっちも男前だから、嫌みな言葉にうろたえる様子ですら、とてもよく決まっている。じつは『ライン』の4巻を読んだとき、そこのヒロインであるリツコが下の世代から突き上げを喰らい、その突き上げてくる相手が見えない敵になってしまっていることに、やや違和感を覚えたのであった。つまり、従来の作風では、あまりにも若い世代には応対できない、かつてのテンションでは、現代的な常識をベースとするジェネレーション・ギャップを包括できないのではないか、と思われ、そのせいかどうか、ストーリーからはどこか余裕のなさがうかがえもしたのである。いや、まあ、あくまでも『ライン』の4巻にくらべれば、という基準になるが、『RUSH』の場合、百合とアキミツをめぐる人間関係にはまだ、年齢差あるいは時代感覚に違いがある者同士の対立をうまく相対化しているように感じられる部分がおおきくあり、シリアスな局面においても、焦りがテンポの乱れにならない情緒をしなやかに描き出していることに、頬をゆるめる。
 
・その他西村しのぶの作品に関する文章
 『一緒に遭難したいひと』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『サードガール[完全版]』
  8巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『下山手ドレス(別館)』について→こちら
 『メディックス』について→こちら
 『アルコール』2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 女神の鬼 10 (10) (ヤングマガジンコミックス)

 もはやヤンキー・マンガというカテゴリーを逸脱し、広義な物語の領域で未曾有を繰り広げる田中宏の『女神の鬼』だが、そのテーマは当然のとおり、不良少年たちの反抗といったクリシェに止まらず、ともすれば文学がほんらい扱うべきほどの深さに達する。すなわち、社会から異常だと見なされた人間が、自らが異常であることを引き受けたうえで、いかに生きる意志を失わず、身の証を立てることができるか、と、こうした問いを問いだとすら気づかせぬ語り口で、登場人物たちの表情に、そして行動に託してゆくのである。それにしても、すさまじい。圧倒的な筆力が、他に類を見ない、まさしく規格外の表現を生み出し、壮絶な運命を、かくも鮮烈に、かくも悲愴に、かくも異様に、しかし高踏ぶった様子もなく、たいへん生々しく、血の通った描写のうちに示す。

 〈昭和58年夏――――鬼たちは吸い寄せられるよーに 次々と……濁りの巣へと集まってくる………それぞれが……それぞれの……因果を抱えて〉。9巻のラストで告げられた、このようなモノローグを受け、この10巻では、昭和54年から昭和57年に、主人公であるギッチョたち世代の上の世代が、内海と五島を中心とし、どのような繋がりを持ち、やがて敵対していったのかが、ケンエーの立場を借りて、回想される。ここでケンエーの立場を借りていることが、ふたたび舞台を昭和58年に戻したとき、思わず引き込まれ、拳を硬くしてしまうようなインパクトを誘発する。女神である飛鳥を喪った内海の狂気、かつて飛鳥が内海に残した〈ビイストじゃけぇとか……‥‥廣島連合じゃけぇとか……‥‥そんなの‥‥そんなのはもォ‥‥カンケーないよ…‥‥テイちゃん……‥‥黒だって……赤だって……先輩だって…後輩だって…チームが何だって……テイちゃんのホンマの味方は‥‥そんなの全部……越えた所におるよ‥‥絶対…!!〉という言葉、内海の錯乱を抑止したケンエーの叫び、これらによって一個に結びついていたはずの絆が、内海とケンエーとに分裂する瞬間を、まざまざと見せつけるからである。

 すべての場面が伏線のごとく機能し、すべての登場人物が主役のごとく生きる、というのはおそらく、マンガにかぎらず、あらゆる物語にとって理想の一つだろう。それぞれの因果を回収すべく、終結し、死闘に駆られる鬼たちの姿は、そうした理想を実現させているふうなカタルシスを寄越す。いやはや、9巻のバトルとアクションも、なかなかの見物であったが、ここでのそれも、すばらしく、息つく暇がない。自動車やバイクに囲まれたボーリング場で展開される(改造モデルガンによる)銃撃戦は、深読みするのであれば、戦後にアメリカナイズされた日本の郊外を象徴している。そこで、鬼と呼ばれ、自覚するがゆえに争う少年たちの荒涼を、とてもスリリングな、完成度の高いエンターテイメントにまで昇華することで作者は、彼らに生きる意志と同義の物語を与えているようにも感じられる。

 しかしそれにしても、『女神の鬼』がおそろしい、とんでもないのは、たとえ内面が歪んでいるのであれ、目的達成のためにはどのような手段も選ばなかろうが、権力や政治に興味のある人間のほうが、それすらも持たずに暴走する人間にくらべ、まだ社会的な存在だという一線を、崩さぬ倫理として用い、そのうえでアウトサイダーの孤独を抽出している点にある。主人公のギッチョを含め、幾人かの登場人物たちは、反社会的だからというより、没社会的もしくは脱社会的だからこそ、異常者と見なされ、鬼に喩えられる生涯を遂げなければならないのである。たぶん、内海にとって飛鳥の記憶が幸福なのは、ただ愛情のためばかりではなく、彼女がかすがいとなり、たしかに社会と交わることができていた、そういう実感でもあるからなのだと思う。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月08日
 無印版も含め『きららの仕事』は、料理マンガというより、『週刊少年ジャンプ』的なトーナメントを応用したバトル・マンガであって、そのようなあくまでも男性に向けて成り立ったフォーマットにおける困難さが一つには、男性ライヴァルたちに交じって戦う女性主人公が、勝ち抜きながらも、しかし最終的に優勝できないことにあらわれているのではないか、というのが以前から述べている私見なのだけれど、この『江戸前鮨職人 きららの仕事 ワールドバトル』の2巻を読むかぎり、なるほど、そうした点に関しては巧い対処法を見つけたようである。日本へ、そして銀座へ帰ってきた海棠きららは、ふたたび「きなり」のつけ場に立ち、店の再建に励むのだが、老舗の老舗鮨屋を潰しにかかる巨大外資の脅威に抗うため、やむなくワールドスシバトルに参加することを決意するのだった。そうして江戸前鮨職人たちの期待を一身に受けたきららの存在がつまり、侵略者に立ち向かうジャンヌ・ダルクのような位置にまで高められていることがポイントであろう。当初よりきららの意志は、他の男性ライヴァルたちがぶつけ合う意地やプライドに比べ、弱い、弱かった。そのため作中には、きららが優勝するだけの理由と必然が生じえなかった。が、ひとまず彼女を救世主化させることで、技術以外の面においても、トーナメントを勝ち抜き、優勝することが不自然とはならない、ちゃんとカタルシスに結びつくまでの条件が揃えられている。まあ、男女が混在するトーナメント形式のバトルが抱える困難を抜本的に解決しているとは決していえないし、じっさいワキの男性ライヴァルたちのほうが未だに魅力的ではあるのだけれども、何ら解決策を設けない怠慢を免れたことは、いちおうの評価に値する。それにしても神原朱雀をはじめ、無印版では強力であった登場人物らが、あきらかに噛ませ犬の役に回るぐらい、強さがインフレーションを起こし、バトルがエスカレートしちゃっているのが、すげえな。やっぱり、これ、完全に『週刊少年ジャンプ』のノリだあ。

 1巻について→こちら

 『江戸前鮨職人 きららの仕事』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月05日
 弟キャッチャー俺ピッチャーで! 1 (1) (ライバルコミックス)

 以前にも書いた気がするが、『戦後野球マンガ史』(02年)のなかで米澤嘉博は、当時、野球マンガが減少傾向もしくは絶滅の危機にあることを憂いていたけれども、それから数年のうちに野球マンガは再度増え出し、見事その地位を回復させたといってもよく、やはり他のスポーツにくらべて日本人にとっては身近であり題材にしやすい部分が野球にはあるのだろうな、と思わされる(このへんの理由はそれこそ米澤の『戦後野球マンガ史』を読まれたい)。が、しかし、同時代に絶対数が増えるということは、つまり、作品を発表すれば、そうしたジャンル内において相対的な評価にさらされざるをえない事態をも意味する。兎中信志の『弟キャッチャー俺ピッチャーで!』は、『月刊少年ライバル』が創刊にあたって用意された野球マンガであって、決して悪い内容とまではいわないにしても、正直なところ、現在進行形である他の野球マンガをざっと眺め回したとき、やや見劣りがしてしまう。シニア・リーグで関東最強のバッテリーといわれた一矢と世史の投間兄弟は、高校にあがったならば一緒に甲子園を目指すことを誓うのであったが、両親が離婚したせいで、ばらばらの生活を送ることになってしまう。その2年後、母親に連れられモンゴルに行っていた兄の一矢が、日本へ帰国すると、弟の世史はすっかりと不良のようになり、野球をやめてしまっていた。ここからふたたび兄弟のバッテリーが復活し、彼らが通う公立高校の野球部を盛りあげていくことが、1巻の時点で読み取れるだいたいのストーリーである。どこか大高忍を彷彿とさせるコメディとシリアスのバランスは、作品をテンポよく進めていく。これは長所として考えたい。だが、そういったテンポに対し、地盤のしっかりとしていないところがあるため、内容が薄口に感じられてしまうのであった。なぜピッチャーの一矢にとってキャッチャーは世史でなければならないのか、それは、このコンビでなければ実力が発揮されない、という、おそらくは題名にあるとおりの必要不可欠なアイディアによっている。そしてそれは、フィジカルかメンタルかの理論でいえば、メンタルの部分におおきくかかるものであろう。しかし率直に述べれば、そうしたメンタルの部分を描くにさいし、周囲の情報がうまくフォローされていないので、説得力が弱い。まず、一矢はモンゴルに行っているあいだ何をしていたのか。寡聞にしてモンゴルの野球事情を知らないのだけれども、野球を続けることができなかったにしても、せめて自主練習はできただろうに、どう見てもパラメーターそのものがあがっているふうには思われない。じっさい、練習試合の最中にボールを受けた野球部のキャプテンからも〈投間の球…全然スゴくねーんだけど…〉と陰でいわれている。もちろん、それはキャッチャーが世史でなければ実力が発揮されないことの伏線になっているのだが、最初にパラメーターを低くしすぎているから、その後の展開に微妙なニュアンスがつきまとってしまうのである。さらに、パラメーターそのものをアップさせている兄弟の絆に関しても、あくまでも現時点においてはとの留保つきではあるものの、都合のいい設定以上の効果を出せていない。結局、兄弟の実力を高く見せるべくとられた手段が、県大会の準優勝校であったはずの対戦相手をしょぼく描くことであったのには、表現上の疑問を覚える。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月02日
 プチッコホーム 3 (3) (ビッグコミックス)

 それが作者の持ち味とはいえ、新宿歌舞伎町の夜を背景とし、今日的にショッキングなトピックを盛り込んでいるわりには、すこしばかり甘口にすぎた内容のマンガであったかな、と思う。『東京都新宿区歌舞伎町 プチッコホーム』もこの3巻で完結であるけれども、佐藤智一の作品のなかでは、やや印象が薄い。とはいえ、ここに収められている「関根兄弟」というエピソードは、いいね、ものすごく、泣ける。母は去り、現在失業中である父親にぞんざいに扱われながら、それでも彼を慕う二人の息子、とくに兄の富一少年の姿が、たいへん健気である。毎晩飲んだくれたり、パチンコをやったりする銭があるなら、子供たちにちゃんとメシを食わせてやれよ、と、読み手の誰しもが父親に対して思うだろう。しかしストーリーは、父親を罰するのではなく、かろうじて彼に残された良心を刺激することで、いちおうのハッピー・エンドに落ち着くよう、進む。このへんが、甘い、と感じられる所以になるわけだけれども、言い方を換えれば、作者のやさしさだともとれる。単行本でいうと、P154、P155の2ページ、計10コマに最大の感動が宿る。つねに飢えている兄弟が、屋台で肉まんを一個買う、持ち合わせがないので一個だけしか買えない、富一はそれが兄のつとめであるといわんばかりに、弟に肉まんを譲るのであったが、ほんとうは自分も肉まんが食いたい。だが、この肉まんを食いたい、という感情は幼心にも伏せられる。富一が弟に肉まんを食い与えている姿を見た父親は〈……富一、お前も肉まん大好きだったはずだぞ〉と訊く。これに富一は〈ううん 嫌いだよ…俺、肉まんなんて大嫌いだよ!〉と答える。ここにあらわされているのは、ちいさな魂が、そのちいささにもかかわらず大切なものだけは守ろうとするおおきな決意にほかならない。そうしたおおきさが実感させられることで、父親は彼のなかにあるちいさな利己を打ち砕かれるのである。

 1巻について→こちら

 『怪より始めよ。』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年08月01日
 森恒二の『ホーリーランド』とは、つまり、孤独な少年が「街」という名の共同体を得るための物語であった。そうした印象は、この最終18巻によって、かなりつよく決定づけられている。神代ユウが「街」に脱法ドラッグをばらまくキングを、ほぼ大局が決してもなお、追い詰め、断罪しなければならなかったのは、それがすなわち「街」自体のプライドを回復させるからであろう。もちろん「街」には、シンイチやショウゴの親友や、それから大勢のライヴァルたち、仲間たちが含まれる。ユウと恋人同士になった伊沢マイがそこに含まれるかどうかは、たぶんセクシュアリティの問題を鑑みるのであれば、いくつか解釈がわかれるに違いないし、時間をかけて検討されるべき点だと思うのでおいておく。が、ひとまず、決戦の場面において〈何をしに街へ…来た〉と問うユウに対し、キングは平然と〈楽しむ為に〉と答え、そして逆に〈お前…お前達はどうなんだ? お前らは何をしに来ている〉と尋ね返す、これに〈僕は…〉と答えていくユウの言葉を継ぎ、シンイチが〈その答え…こいつにはわからねえよ ムダだ / こいつには金しか見えてねえ ショウゴを…いや オレ達をわかられてたまるか!〉という、その言葉のなかにある複数形の主語やワキの登場人物たちの描写などを見るとき、あくまでもユウ(ユウたち)が「街」と呼ばれる共同体の認識を前提とし、キングと相対していることは疑いようがない。

 ところで紙屋高雪が、インターネット上で読めるこちらの「――『WORST』『ホーリーランド』にふれて」という文中で、〈主人公が主人公だけに、『ホーリーランド』をヤンキー漫画とは言わない人もいると思いますが、立派にヤンキー漫画の構造と世界をもった漫画であり、個人的には一番のオススメのヤンキー漫画です〉と述べている。紙屋が、力の序列に重きを置く作品のつくりから、『ホーリーランド』をヤンキー・マンガの「傍流」としたうえで、〈「自分の居場所や存在意義を絶対に失いたくない」ということが主軸であるというのは、「ホーリーランド」というタイトルがよく表してますけどね〉といっているのを参考にすれば、そうした〈「自分の居場所や存在意義を絶対に失いたくない」ということ〉が、先に述べてきたとおり、共同体の存在によって補強されていることは意外と重要である。

 たとえば、いやまあ『ホーリーランド』からはすこし話はずれるけれども、『KINO』VOL.7に掲載されている「このマンガだけは読め! 21世紀のマンガ・ベスト60」という、どうしてこういうマンガのガイドに付せられる題はたいてい命令口調なんですかねえ、的な記事で、呉塵?(四かんむりに正)という人が、高橋ヒロシの『WORST』を紹介し、〈本作の「日常」感は言うまでもなく、そうした不良たちの「良識」によるものだろう(略)またその「良識」によって、オトナのキタナイ悪知恵も小細工もない勝負の「聖域」が成り立っている(略)なんだか新鮮で、どこか懐かしいこの「聖域」で、不良たちは仁義ある戦いをし、大人になるために洗礼をうけ、己を見極めて社会に出て行くのである〉といっている。正直、呉の『WORST』観には承伏しかねる箇所がすくなくはないのだが、いま引いた部分だけを読むかぎり、それは、あの、通過儀礼の形式に近しいもののようにも思えるし、目に見えない連帯感を軸に〈オトナのキタナイ悪知恵も小細工もない勝負の「聖域」が成り立って〉おり、そこで〈不良たちは仁義ある戦いを〉繰り返すという意味においては、『ホーリーランド』の分析にも応用することが可能だろう。

 そう、『ホーリーランド』では単行本のアタマに次のような文句が謳われていることを思い出されたい。〈子供世界と大人世界の間 そこにホーリーランドは存在する 甘やかな法と暴力のリアルが支配する隔絶された世界 その世界に――彼はいた 神代ユウ 彼は確かにそこにいた〉と。だがしかし、『ホーリーランド』を共同体ベースのビルドゥングス・ロマンとして読むとき、この18巻で提出されるエンディングは、少々、微妙なニュアンスを寄越す。そこでは伊沢マサキを中心に、「街」を卒業して、その外を歩き出した人びとが描かれているのに対し、物語の主人公である、あるいは物語の主人公であったユウが、はたして現実社会のどこに存在しているのか、曖昧にぼかされているためである。とはいえ、共同体から離れた場所やモラトリアムの外側を明確化しないのは、それこそヤンキー・マンガの常套手段、セオリーでもある。この一線を越えなかったことの意図をどう考えるか、どう評価するかは、読み手の判断になるのだろうし、個人的には決して悪くは思わないのだけれども、以前述べた期待、すなわち暴力をともなう現代的なモラトリアムの物語において、山本隆一郎が『GOLD』で果たした大団円を凌ぐことができるかどうか、という点に関しては、ほんのすこしの残念さを覚えた。

 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月31日
 『週刊少年チャンピオン』NO.17から18回にわたって連載された水穂しゅうしの『LOOK UP!』が今週号(NO.35)で終了を迎えた。『週刊少年チャンピオン』というか秋田書店の通例を考えるに、おそらく単行本化されることはないマンガだと思われるので、その作品について記しておくことにする。

 まず『LOOK UP!』のストーリーを簡単に説明すると、高校にあがり、目標を持ってサッカー部に入ったはいいが、理不尽な上級生にいじめられ、半ばくじけかけていた一年生部員の瞬が、良というサッカー・センスの抜群な転校生と知り合うことで、その才能を開花し、無名であったチームを立て直していくことになる、というものだ。

 じつは、生真面目で性格の暗い瞬ではなく、お調子者で口の達者な良のほうが、過去に水穂が描いてきた主人公の像に近しいのだけれど、それでも良をメインに据え、後ろ向きから前向きへと翻るかたちで物語が進まされているのは、これが作者にとってはじめての少年誌作品であることを踏まえてだろう。しかし、ギャグのようなテンションのなかでシリアスなドラマが繰り広げられるのは、従来どおり、水穂の作風だといえるし、青春の憂悶を経て、登場人物の内面と外面とが、次第に合致していく様子は、過去作である『いつかのメイン』に通じるものだと思う。

 正直なところ、サッカー・マンガとして見た場合、試合や練習風景よりもワキで起こるいざこざにページが割かれる機会が多く、やや焦点のぼけた印象を覚える読み手もいるかもしれないが、『いつかのメイン』において、暴走族や海外留学などのハプニングが、それまで深く生きるということを知らなかった少年に、いくつかの自覚を教える契機であったのと同じく、『LOOK UP!』では、サッカーのゲームそのものがテーマ化されているというより、それを手がかりに、少年がいくつもの決意を身につけていくこと、そうした姿にこそ重きが置かれていたことは、強豪銘城高校との試合で、良からのパスを受けた瞬が、今まさにそのボールを蹴り出そうとする場面の〈繋がっていくパスが みんなの思いさえ継いでいくのが ひょっとしてサッカーなのかも だとしたら 僕はもう1人じゃない〉という、最終話のラスト・ページにおけるモノローグにあきらかである。

 もちろん、その見せ方が悪いとしたら作者の責任にほかならないけれど、個人的にはそれほど下手を打っているとは感じられない。人気が出なかったことが連載終了の原因であるならば、むしろ問題は、掲載誌もしくは読者層との相性にあったのだろう。そこにあらわれているのはもしかすると同じ木曜日でも『ヤングジャンプ』と『週刊少年チャンピオン』のカラーの違い、か。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月30日
 蒼太の包丁 18 (18) (マンサンコミックス) (マンサンコミックス)

 テレビ・ドラマに劇場映画にと、さまざまな料理マンガが実写映像化されている今日この頃であるけれども、そうした原作にもっとも適していそうな『蒼太の包丁』がまだ手つかずとは何事か、というのは過去に何度も書いた。登場人物たちの背景はしっかりとしており、彼らは劇中の時間にそってちゃんと成長するし、単発で完結するすぐれたエピソードが何本も揃っているうえ、作者のイデオロギーを無理やり押しつけてくるところもなく、物語を追ううち大粒の涙がこぼれることもしばしある。たしかにウェルメイドな作風ではあるけれども、むしろ、そこが向いているような。いやまあ、べつに実写化をつよく望んでいるわけではなくて、ただ疑問に思うというだけの話である。しかしそれにしても、18巻という長丁場に入りながらも、相変わらず、真摯でぶれることのないおもしろさが、このマンガにはある。今までになかった大仕事を目前にして蒼太は父の危篤を聞く。周囲の人びとは、すぐさま北海道へ駆けつけるように言うのだが、はたして自身も料理人である父がそれを望んでいるのかどうか、このとき、蒼太のくだす決断がその後の展開を違えていくことになる。もちろん、ジャンルとしては料理マンガになるのだから、職人としての生き方がどうのこうのというのが重要なポイントではあるのだけど、蒼太とヒロインたちをめぐる恋愛のパートも動く動く。「富み久」の若女将であるさつきは、あくまでも料理を大事とする蒼太に違和感を抱き、いっしょに厨房に立つ雅美は、ますます腕に磨きがかかる蒼太への想いをつよくし、須貝と付き合いはじめ、蒼太をあきらめたはずの純ペイ(ところで、今さっき確認していて気づいたのだが、カヴァー折り返しの登場人物紹介で、この純子の名前が順子になっているんだけど、これって前からだったか)も、知らずのうち、蒼太と須貝の二人を比べてしまっている。しかしじつは、こうした三者の反応が、恋愛の要素を含めておけば物語の華になるだろう、の発想ではなく、働くことによって成人の将来はつくられていく、といった現実の認識を前提としている点が、『蒼太の包丁』の特色だと思う。夢を見ることと生活をしていくこととを二択化してしまうのは、ときに判断停止と変わらない。夢を見るなかにも生活をするなかにも、迷いや悩みはつかず離れず存在する。不安や挫折はどんな場合にも起こりうるのであれば、自分にできるだけのことを一個ずつクリアーしていくしかないんだろう。そうしたわずかな歩みの、積み重ね、繰り返しが、『蒼太の包丁』では、恋として、仕事として、成長として描かれている。

 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月28日
 ALCBANE 1 (1) (マガジンZコミックス)

 たかしげ宙と衣谷遊が組むというのは、一部の人間にしてみたらきっと、海の日と勤労感謝の日がいっぺんにやって来たみたいなトピックだと思うのだが(いや、まあ微妙にしょぼい喩えだとか言わないように)、じっさい、この『ALCBANE』を読んでみると、あれだな、たかしげと衣谷のコンビが手がけた作品でたしかに間違いないね、以上の感慨はないような。すくなくとも、おお、すげえ、と驚くべきほどの化学反応は起こっておらず、良かれ悪しかれ、予想通り、といったところであろう。1998年、若くして電子工学の天才と呼ばれる台場巽は、超並列計算共鳴コンピューター略してSPARCを完成させていた。その1年後、突如発生した「変身現象(メタモーフオシス・フェノメノン)」によって異能力に目覚め、凶暴化した人間たちは「扉を叩く者たち(ノッカーズ)」と呼ばれ、社会に混乱をもたらすようになる。これに対し、犯罪者を裁くことに異常な執着を持つ巽は、SPARCと特殊なスーツの力を借りて立ち向かい、自らを「ALCBANE(アルクベイン)」と名乗るのであった。これが同一の背景を複数の異なった作者がシェアする「ヒーロークロスライン」シリーズとして発表されているマンガであるのはともかく、基本的な内容は、正義感と内面の葛藤とがない交ぜとなった、じつに現代的なヒーローもののヴァリエーションだといえる。主人公である巽が、どうやらトラウマ持ちであり、悪をくじこうとする意志がその反動でしかないあたり、どれだけの深刻さを抱えていようとも、今やステレオ・タイプな造形にほかならない。そうしたとき、特徴を挙げていくとすればやはり、衣谷のつくる絵であり、たかしげが展開するストーリーだということになる。前者に関しては、『リヴァイアサン』や『AMON』に通じる禍々しい半獣人のコンセプトと福地仁がデザインしたメカニックとを対決させることによって、ひじょうに見栄えのするダイナミズムが提出されている。後者については、一本に目的化されている筋立てのなかで、しかし種々の目論見が折り重なっているところに顕著だと思う。とはいえ、たかしげが原作を担当している作品には、意外と組織戦になっているものがすくなくはないのだが(同じ「ヒーロークロスライン」シリーズの『クランド』における「BOOTS」はさておき、『スプリガン』の「スプリガン」もしくは「アーカム」や、『死がふたりを分かつまで』の「エレメンツ・ネットワーク」とか、『緑の王』の「メガリス」なんかもそうかな)、『ALCBANE』の場合、おそらく今後に登場人物が増えていけば、いろいろと状況も変わってきそうな気配であるから、あくまでも現時点ではという留保つきではあるけれども、巽のスタンド・アローンな闘争に焦点は絞られており、そうして繰り広げられる巽とSPARCの主従関係、さらに巽と異能者たちとの敵対関係はまるで、人間とは何か、を問うているようでもある。

・衣谷遊に関する文章
 『極東綺譚』(原案協力・夏十耳)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『スチームボーイ』(原作・大友克洋)について→こちら
 『デビルマン黙示録 STRANGE DAYS』(原作・永井豪)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月27日
 REVIVE! (3) (リュウコミックス) (リュウコミックス)

 やはり田安の存在は、五十嵐浩一の過去作である『めいわく荘の人々』に出てきた安川を思わせるな。『めいわく荘の人々』とは、90年代を舞台に、体育会系に生きてきた主人公が、大学に入って、トレンディ・ドラマ的な展開を踏み、やがてギャルゲーを堪能できるまでにオタク化するまでを描いたマンガである、というのはもちろん正しい要約ではないが、しかし決して間違った要約でもない。その主人公に、ゲームやらアニメやらの情報を吹き込むのが、たまたま同じアパートの住人となった安川という男である。この『REVIVE!―現役娘と出戻オヤジ―』では、かつてオタクであった小此木達郎が、中年になり、古びた模型店でとあるフィギュアと劇的な出会いを果たしたことをきっかけに、ふたたびオタク的な趣味に傾いていくのだけれども、それをワキから誘導してゆくのが、小此木の昔の知り合いである田安の役だといえよう。安川と田安は、いかにもオタクのパブリック・イメージをなぞらえたような小太りのルックスや垢抜けないファッションという点で、共通しているが、それ以外にも、いや、それを含めてか、自分がオタクであることに抑圧を感じていない、むしろ至福としていることに類似性を見出せる。そして、この抑圧を意識していないことこそが、意外と重要なポイントであるふうに思われる。『REVIVE!』においては、田安の、そうした屈託のなさが、律儀に世間体を気にする小此木の窮屈さを照射するかっこうになっている。さて。勤務していた企業を追われ、成り行きから模型店の店主をつとめることになった小此木だが、妻のきびしい反対を受けながらも、新しい生活にまんざらでもない。一方、娘の真名は、通っている有名私立中学でいじめに遭っていることが発覚し、公立の中学に移ることになる。そこはそこでしかし、外部の人間からしたら荒んでいるともとれる環境で、心配のあまり、小此木はまたもや頭を抱えることになる。以上が、この巻の流れである。これまでのところストーリーの基本線は、レールから外れることがかならずしも間違っているとはかぎらない、といった単純化でしかないけれど、誰しもがそういうふうに生きられるわけでもない、とでも言いたげ悩みが、コメディのなかにときおりあらわれ、ワン・エピソード単位のドラマを盛り上げる。

 1話目について→こちら

 『めいわく荘の人々』復刻版 第1巻 第2巻について→こちら
 『迷惑の人』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月26日
 s3.jpg

 すごいたのしい。好き。とても好きである。咲坂伊緒の『ストロボ・エッジ』もいよいよ3巻になるが、おそらくは当初に予定されていたよりも長くなってきている話のなかで、まさかここまでおもしろくなるとは思わなかったな。ユーモアや絵柄のセンスも含め、作風はじつに今どきな面もあるけれど、同系統といえる他のマンガ家に比べ、完全にアタマ一個ぶん抜きんでたクオリティと存在感がある。キープされている。どころか、ますます磨きがかかりつつある。そうしてそこからは鮮やかな印象がこぼれ出す。蓮への恋心が実ることはないが〈せめて友達のままでいて欲しい〉、それ以上のことは望むまいとする仁菜子に、もてっ気抜群のイケメンさん安堂がどうやらまじではまってしまったようだぞ、というのが前巻からの流れで、これ自体も別段珍しい展開ではないだろう。しかし、それがなぜか、片時も目の離せないほど、わくわくとした気持ちを連れてくる。その原動力となっているのは、もちろん、ヒロインである仁菜子の一途さにほかならない。が、もうひとつ、三角関係のジレンマが、つねに存在するだけではなく、繰り返し新陳代謝を果たすことで、ストーリーのうちに次々と盛り上がりがつくられている点に、着目しておきたい。振り返るなら、1巻の頃にトライアングルを為していたのは蓮、仁菜子、そして仁菜子の幼馴染みである大樹の三者であった。それが2巻では、仁菜子、蓮、そして大樹の姉で連の恋人の麻由香の三者間の問題にスライドする。そして、先ほども述べたけれども、この3巻では、蓮と仁菜子と安堂の三人によるトライアングルが、全体の中心にきている。こうした新陳代謝を重ねることによって、物語内部の空気が、停滞することも澱むこともなく、きれいに入れ替わっている。ここで注意しておかなければならないのは、それはあくまでも作者レベル、読み手レベルにおいて実感されることであり、作中から大樹や麻由香の存在が消え去っているというのではない。まあ、大樹が本筋に絡む機会はずいぶんと減ったが、しかし、ワキを支える重要な人物であることに変わりはなく、蓮と麻由香の間が磐石であることが、やはり、仁菜子の恋をうまく立ちいかなくさせている。想うだけでいい。ささやかでしかない願いが、どうしてこうもせつなく、苦しみの種を蒔くのか。〈蓮にカノジョがいる以上 何も望んじゃダメなんだよ そういうものの限界を 仁菜子ちゃんは分かってない このままじゃ辛くなるだけだよ〉と言うのに乗じて、安堂は自分の気持ちを仁菜子に伝える。あきらかに噛ませ犬くさい役であるけれど、仁菜子はこれにどう答えるんだろ、また冗談だと思うのかな、いや、さすがにそれはないか、はやくも続きが気になるところである。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月25日
 シマシマ 1 (1) (モーニングKC)

 旦那に浮気され、わずか一年で結婚生活にピリオドを打たれたシオ(箒木汐)は、夫婦で営んでいたアロマハウスのローンや、これから一人で送らなければならない暮らしに不安を感じ、何日もの眠れない夜を過ごす。こうした自己の経験をヒントに彼女は、若い男性がセックス(性交)抜きで疲れた女性に安眠を提供する添い寝屋「ストライプ・シープ」を副業として起こす。シオはもちろん、「ストライプ・シープ」で働く若い男性たちや、そこを利用する女性客の表情を、沖さやか改め山崎さやか改め山崎紗也夏は『シマシマ』のなかに描く。初期の頃はセックス(性交)によって自意識の安定をはかる女性を得意としていた作者が、こういう、セックス(性交)以外の手段でチューニングを望む女性の姿をマンガにあらわすまでになったのは興味深いが、いやいや、しかし人間性のじつに身も蓋もないところを生々しく残し、そのうえでコミカルにデフォルメされたストーリーを築き上げるセンスは相変わらず、やはりそこが個性であろう。この1巻を読むかぎり、特徴的なのは、モノローグの扱いである。作中人物の誰某にかまわず、多用され、読み手に向けてはっきりと示されるモノローグの数々は、もしかするとうるさすぎるかもしれないけれど、要するにこれは、どれだけ相手を先回りして気を遣えるか遣えないか、いわゆる空気を読めるか読めないか、を表現するための土台になっている。初見、クライアントたちは、「ストライプ・シープ」のメンバーに不満を覚える。リラックスすること、安眠することが目的であるのに、見ず知らずの他人を相手にしているのだから、当然ではある。そうした気分がまずモノローグ化される。言うまでもなく、他の作中人物がサイコメトラーやテレパスではない以上、それは聞こえない。その本来ならば聞くことのできない声に対処し、どうリラックスさせるかが、すなわち「ストライプ・シープ」のメンバーが果たすべきつとめとなる。なるのだけど、クライアントに向けられる彼らの配慮もまた、しばしモノローグ化される。いや、そうした添い寝に関する部分にかぎらず、『シマシマ』においては、ほとんどのコミュニケーションが、モノローグ状の一方的な評価を繰り返すことであらわされており、悪くすれば腹の探り合いとも受けとれかねないところを、そうではなくて、対人関係の有意味とは、そうした一方的な評価同士のうちに、妥協点を見出すというより、親和性の高いポイントをしごくナチュラルに探り当てられたとき、はじめて成り立つのではないかな、と思わされる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月24日
 ジナス-ZENITH 5 (5) (モーニングKC)

 この5巻より「プロット協力:ビッグ・オー」のクレジットがなくなってるんだけど、吉田聡が現在、古巣である少年画報社や小学館ではなく、講談社や秋田書店で主な仕事をしていたり、環境の変化のめまぐるしいことを考えると、なんとなく裏事情にネガティヴな面を推測したくなってしまうのだが、べつにそうでもないのかな。しかしながら、何がどう影響しているのかは不明だとしたところで、吉田版『MONSTER』であり『21世紀少年』であるような、抽象度の高いというか、要するに落とし所の曖昧であった『ジナス―ZENITH―』の物語に、一種のわかりやすさが戻っているのは確かで、顔のなかった子供(人形)に、具体的な表情が備わってきているのは、そのことにおける一つの証左だろう。表情にあらわれているのは、神の孤独にほかならない。神が人間に望むのは、自分と同じように、泣くことのない完全な存在である。だが、泣かない人間とは、結局のところ、心を失った死者でしかありえない。それを滅するために銀髪の男は、神よりも高い場所から地上へと降り立った。ジナスとは〈この世界の天の頂きを意味するんだろ? でも ここはぼくの創った世界だぞ そんなデタラメな名前があるものか!!〉と神を名乗る人物は言う。これに対し、銀髪の男は、こう答える。〈天頂は遠い……何者の手にも届かない彼岸だ 人間たちは時に救いがたく醜い だが――愛する者のために祈る心には天頂がある 失ったものを見上げる者に天頂はある 届かない天頂に思いを馳せて そのあまりの遠さに……人間たちは涙を流すのだ……〉と。ロジックではないけれども、ひじょうに明解ではあるレトリックが導き出され、ここまで決して長くはなかったものの、それでもやや遠回りし、だれてしまった感のある作品に、いよいよ佳境が訪れているようだ。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら 
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
 『湘南グラフィティ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月21日
 立原あゆみの『恋愛(いたずら)』は、ラブ・ホテル街のど真ん中に位置するバー「いたずら」を訪れた男女のもつれをオムニバス形式で描くのと並行し、そこの常連であるヤクザのジミーの意趣返しとでもいうべき闘争を長編型のストーリーで描く、と、つまりはそれら二つの歯車を一個の枠内で動かすことにより成り立っているマンガであるわけだけれども、このことがいったい何を意図しているのかは、ちょっと、こちら読み手の側からは見えにくいところがある。が、2巻に収められている11話目(作品上の表記では十一曲目となる)「夢ん中」では、復讐を諦められない、といった一点において、双方の歯車ががっちり噛み合い、なかなかに興味深い印象を導き出している。喪われた人間を想う復讐を今生きている人間のために踏み止まれるか、これが「いたずら」を訪れたとあるカップルの別れに投影されている。その背景で、ジミーの復讐がエスカレートしていく。ジミーは、自分を慕ってくれる子分たちを堅気に戻してやりたいと思う、殺された兄貴分の女房を平穏に暮らさせてやりたいと思う、自分の女房をこれから起こることに巻き込みたくないと思う、だが、復讐をナシにすることはできない。そういう悲壮な決意が、11話目のオムニバス・パートを置くことで、以降におけるジミーのパートに明瞭化されているのである。まあ、もちろんジミーの復讐劇は、立原の過去作『東京』や『弱虫』の焼き直しでしかない。しかし、今回のような形式をとることで、前とはまたすこしばかり異なったトーンを持たされるにいたっている、というのは、さすがにファンの贔屓目だろうか。

 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『本気!』文庫版
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『仁義S』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『極道の食卓』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月20日
 東本昌平を大友克洋のフォロワーといっていいのかどうかはわからないが、『FREEDOM』という某DVDアニメーションを観たとき、これだったら東本の『CB感。REBORN』をアニメ化すりゃあ良かったんじゃねえの、それで同じ小学館のガガガ文庫からノベライズですよ、との感想を抱いてしまったものだった。いずれにせよ、大友や今敏(『オーパス』単行本化してよ)がマンガを描いてくれない現在、東本の緻密なデザインはもうちょい評価されてもいい。代表作である『キリン』は、もしかしたらバイクや不良に興味のない読み手にはねられてしまっているのかもしれないけれど、いくつかの場面に圧倒的なインパクトとスペクタクルがあり、いくつかのドラマに胸の苦しくなるエモーションがある。機会があったら是非とも読まれたい。が、それよりもまず、近場のコンビニにでも行って、この『ヤングキング増刊 東本昌平パーソナルマガジン ハルマン』Vol.1をゲットすべきであろう。『キリン』から抜粋されたエピソードも二篇含まれているが、そのほか、バイクと不良にかぎらず、シニカルであるような作風のよく発揮されている読み切りが四篇収められている。マンガ家マンガをユーモアのあるサスペンスに仕上げた「デッドライン」は、ストーリー自体がどうというより、1コマ単位、1ページ単位での結構が、かなり決まっており、とにかく、目で追わせる。西部劇ふうの独特な舞台設定を用いた「サンシャイン」は、結局、バイク至上主義の内容になってしまっているけど、お話の部分をもうすこし膨らませて、Vol.2以降にも続いて欲しいな、と思わせる。「遡上」と「熊が出た」は、よくあるショート・ショートといったていだが、その、せこさ、くだらなさ、どうしようもなさが、手の込んだ絵のなかで、ファニーに映える。『キリン』から抜粋された二篇のエピソードに関しても触れておけば、どちらも死や加齢という作品に通底するテーマにそって、選び出されたものだろう。とくにマサキのエピソードには、死と隣り合わせの青春、とでもすべきイメージが凝縮されている。さて。じつは『ハルマン』には、東本が描いたものではない作品が、一個、入っている。東本が幼少の頃に読み、〈いまだにその強烈な印象が胸に残っている〉という、江戸川乱歩の原作を石川球太が1970年にマンガ化した「白昼夢」がそれである。いや、これは、すごく、毒々しく、すばらしい。絶対に子供の頃には読みたくねえや。真ん中にイベントがあって、前半と後半は似たテンポのシーンが、まったくのセリフなしで進む。その前半と後半、あきらかに読み手の体温が変わっている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月19日
 災厄はネズミの大量発生のみに止まらなかった。いや、それは都会での出来事にすぎなかった。田舎では、蚊や蟻などの矮小な生物が、飢えを凌ぐため、群れを為し、人間たちを襲う。藤澤勇希『レギオン』の2巻では、1巻のときよりもさらに厳しい事態へ、作中人物たちは追い込まれる。むろん誰しもが我先にとパニックに陥る。狂気に走る者もいる。しかし悪人もいれば善人もいらあ。華音と龍斗の姉弟は、教師の鬼崎と自衛官の早瀬陸曹に保護され、恐怖の一晩を越える。一方、姉弟の父親である戸隠は、部下の麻切とともに、いそぎ東京に舞い戻ろうとする。ちょうどそのころ、東京都23区に対する殺鼠剤の空中散布がアナウンスされる。〈首都圏のネズミを一網打尽にしようというのだから 半端な量の散布ではきかんだろう(略)およそ――そのエリアで呼吸する以上 人間もタダではすまんくらいに――――な……〉。郊外へ脱出せよ。さもなくば、もれなく命を落とすこととなるだろう。女性自衛官の早瀬が、かっこういい。先ほど述べたとおり、姉弟の危機を助けたときのこともそうだが、次々と起こるトラブルを毅然と対処するさまが、たいへん頼もしいのである。このマンガが、藤澤の描いてきた同系統の過去作、つまり危機的状況下におけるサヴァイバルと比べ、クローズ・アップのポイントとしているのは、たぶん、女性の強さではないかな、と思う。弟を守ろうとする華音の懸命さはそれを代替しているし、戸隠と行動を一緒にする麻切が、いざという場面で勇ましく見えるのもそうだ。が、彼らを取り巻くすべては〈我々人類にはもう――どこにも逃げ場はない――――!!〉というほどに悲観的な方向へと傾いてゆく。津波状態で押し寄せてくるネズミの群れって、もう最悪でしょう。まずい、で済む話じゃあないよね。

 1巻について→こちら

・その他藤澤勇希に関する文章
 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 やっぱり、いまいちどうものれねえな、と思う。『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』は、この1巻のカバー折り返しで作者の吉田聡が〈この作品はコブラの側から見た荒くれナイトです〉とコメントしているとおり、〈綺羅星の様な輪蛇達の伝説のワキには 物語に名前を刻むことなく去って行った者が数多いる 常にナンバーワンにはなれなかった愛すべき弱虫達 その名は――“COBRA”〉の物語である。読めばわかる。が、しかし、ここで問題となるのは、どうしてそれが「番外編」ではなく「完結編」にあたるのか、ということで、すくなくとも現段階においては、明快な解答を得ることはできない。まあ、『荒くれKNIGHT』本編もしくは続編である『荒くれKNIGHT 高校爆走編』のラストを飾るものではなくて、「黒い残響」というワン・シリーズのピリオドを意味している、と見なすことは可能であるけれども、そもそも「黒い残響」自体が『荒くれKNIGHT』総体の完結編を兼ねていたのだから、その解釈はちょっと苦しい。もちろん、「黒い残響」や『荒くれKNIGHTマガジン』の成り立ちが、吉田の希望にそうものではなかったため、少年画報社との関係が割れ、『湘南爆走族』の版権が講談社に移ったのと同じく、『荒くれKNIGHT』は秋田書店に渡ったセンもありうる、が、そこまでいくとさすがに邪推でしかなく、真相は当人や関係者以外の誰も知れない。ともあれ、純粋に読み手の立場からすれば、「黒い残響」でばっちり締まっていただろう物語が、こういう本編からはどんどん離れるかたちで続けられてしまったのには、すこし残念な気持ちを覚える。だいたい、以前にも述べたように、この「黒い残響完結編」でメインを張っている大鳥と井脇って、本編にほんのちょびっとしか絡んでいない登場人物だからね。〈この作品はコブラの側から見た荒くれナイトです〉といわれたところで、その視点がもう微妙じゃないの、という話である。また、はぐれ者が自分を受け入れてくれる共同体と出会う、こうしたテーマも『荒くれKNIGHT』本編で、人を変え、さんざん繰り返されてきたものだといえよう。とくに輪蛇のメンバーのうちでも、日陰を生きるヒデオや喜一のエピソードは、何度読んでも、ぼろぼろ泣ける。それを越えるだけのエモーションを、「黒い残響完結編」は、今のところ、残念ながら出せていない。

 1話目について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月18日
 タブロウ・ゲート 2 (2) (プリンセスコミックス)

 やはり、このマンガは高く買ってもいいな。鈴木理華の『タブロウ・ゲート』の2巻である。ぶっちゃけて、トラウマを持った坊ちゃんが、カード・タイプの異能者を使役し、諍いをくぐり抜けるうち、生きられる強さに導かれる、という現代的なファンタジーの典型であるような内容だが、バトルよりも生活を重点としながらつくられているドラマのなかに最大の特徴が見てとれる。生活とは、文字どおり日常、その暮らしぶりのことで、言い換えるなら、作中人物が、闘争や事件を通じ、半強制的に成長させられるのではなく、他とのコミュニケーションによって、自覚的に成長をのぞんでいく姿に、惹きつけられるものがある。むろん、コミュニケーションとは一種の摩擦をも意味する。偶然にも不思議な「タブレット」を手にしたことから、エリファス(“月”のタブロウ)やアレイスター(“太陽”のタブロウ)、そして「タブレット」の本来の管理人であるレディたちを家に置くことになったサツキは、そこで育まれる擬似的な家庭のシーンに、心安らかなものを覚えるのであったが、しかし、大ポカをやらかしてしまい、せっかくの親密さに溝を空けてしまう。〈タブロウは主(マスター)の心象力によって その性格が変化するのよ――でも姿まで激変した例なんて聞いたことがない〉という。だが、それはたしかに起こった。サツキの孤独が、心象力に長けた資質が、それを引き起こしたのである。かくして、何の罪もないエレナ(“悪魔”のタブロウ)にダメージを負わせてしまい、サツキは自責する。〈僕のせいだ……〉と思う。これを挽回しようとするサツキと、それでも彼をマスターと慕うタブロウたち、そして〈どんなに優れたタブロウを呼び出せても どんなにたぐいまれな才能があっても 気概が腐ってたら意味がないわ〉と言いつつ〈サツキはあたしの家族だもの〉と気にかけるレディとのやりとりが、前巻から続くヤマだといえる。自らの過失を挽回すべく、「タブレット」を勝手に持ち出し、メイザース(“死神”のタブロウ)を誘き寄せようとするサツキを、エリファスが〈いいかげんになさい〉と叱りつけ、〈自身を蔑ろにする者に他人を気遣う権利はありません なんでもひとりで抱え込む癖を直しなさい〉と述べる言葉が重たい。こうした率直であるような言葉に、重み、つまり説得力が備わるだけの信頼関係を、作者は、繊細な手つきでストーリーにこしらえていく。展開は派手ではないが、決して怠くはない。そのへんの腕を見事だと思う。前向きに生きろ、前向きに生きよう。言ってみせるのは容易いけれども、表現の質は、そうした響きにどれだけのドラマを加えられるかにかかっていることの、たしかな証明を果たす作品である。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月17日
 込由野しほの作品集『幸せ色の自転車』には、計3話で完結する表題作のほか、2篇の読み切りが収められている。どれもたいへんピュアラブルなラヴ・ストーリーで、とてもかわいらしい。なかでも「プリズム ホーム」が好きである。べつの高校に通っているため、名前も知らない男女が、通学時の駅で顔を合わせ、片想いする、というプロットは少女向けのマンガにあってとくに珍しいものではないだろう。それがヒロインからの目線で描かれていくのだが、しかし、はじめて会話が交わされることになる瞬間を、最後の最後まで引き延ばすことで、出会いというものが手を伸ばさなければ遠く、手を伸ばしさえすれば近くなりうる様子に、適切な距離が設けられている。たまたま意中の男の子が友達と話しているのを聞き、あんまりな内容につむじを曲げるヒロインの表情が、すばらしい。完全に独りよがりなんだけれども、独りよがりであると気づくこと、これがクライマックスにかけて、彼女に勇気と転機とをもたらす。彼が自分のことを何も知らないように、自分も彼のことを何も知らない。そうした意味において同じ場所に立っている。〈いつだって並んで 向かい合える 同じ場所にいたんだ〉と思う。恋愛のとば口でしばし、心は敏感に動くが、戸惑い、チャンスをふいにするときがある。立ち止まり、ひらけなかった運命が後悔に変わる。むろん、逆のときもある。ひるむことなく、ひらかれた運命は喜びと呼ばれる。正直、この作者が描く笑顔のアップはいまいちな気もするが、懸命であるような行動に雰囲気がよく出ている。
posted by もりた | Comment(1) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月15日
 金が幸せとはかぎらないが、しかし金で救える不幸がある。これは、立原あゆみの諸作品に、ときおり顔を出すテーマである。この『本気(マジ)!』文庫版の4巻で、すずめたちのいる孤児院(教会)が借地であったため、立ち退きを迫られる、それを買い戻そうと本気が奔走するくだりは、その嚆矢ともいえるエピソードだろう。貧しい人びとを守ろうと心やさしいヤクザ者が大金を工面する、こうした展開を指し、お約束と判じるのは容易いけれど、立原のマンガを一通り読んでいったとき、それが決してドラマづくりに便利なパターンの採用を意味するのみならず、戦後以降、この国の社会が高度に資本化していくのが自然であったとしても、ついていけないものがあれば彼らをフォローすべき措置もまた必要なのではないかという、作者のささやかな異議申し立てであるふうに思える。文庫版4巻の内容に戻せば、本気の最初の兄貴分である桃次の仇討ちとゴロマキで名を売ってきた後藤の登場が連携しているのは印象的で、いうなれば桃次も後藤も暴力に訴える旧式のヤクザなのだが、どちらも金の勘定に長けた新式のヤクザに敗北する。むろん、それを革命と解釈することも可能であり、結局のところ社会の理にそった流れにほかならないのかもしれない。だが同時に、古くから相伝されてきた任侠が窮地に立たされてしまい、任侠に守られていた弱者もまた危機に瀕しなければならい事態が発生している。こうした時代の変わり目、移り目のせめぎ合いにおいて、本気は自らに防波堤の役割を課す。やがての関係はともかくとして、金儲け主義の急進派ヤクザ染夜が当初、本気とライバルにあるのは、両者の姿勢の反映でもある。さて。孤児院(教会)を救済すべく、6億円(正確には未払いの3億円)もの大金を集めなければならず、四苦八苦する本気であったが、あと1億のところで足りない。しかし風組の総長である風岡が横から助け船を出してくれたおかげで事無きを得る。それまであまり金に執着を抱くことのなかった本気は、風岡に感謝して〈たかが銭とばかにしてたがよう かわいいもん守るにゃ銭もいる 考えたくもねえが あいつらいつ何があるかわからん ケガでん病気でん銭がなくて助かるもんも助からねえじゃつれねえじゃねえか〉と思う。これがすなわち、金で救える不幸があるという、最初に述べたようなテーマに繋がっている。それにしても、どうしてこう、風岡は、本気に肩入れするのか。以下は、文庫版4巻の内容と直接に関係のない余談である(だが、物語がいちおうは完結している現在からあらためて文庫版4巻を読むとすれば、まったく無関係と見なすことのできないポイントでもある)。

 なぜ風岡は本気に対して過剰な肩入れをするのか。これを考えるにあたっては、『本気!』本編よりも、番外編の『風』に目を通しておく必要があるだろう。風岡の若かりし日を描いた作品である。風岡がヤクザになった経緯を教えてくれる。風岡とは、そもそも学生運動の士であった。しかし、義を失った闘争に空しさを覚え、大学を去り、流浪する。そこでチンピラの竜二と出会い、人柄を見込まれ、極道に誘われるのだけど、ヤクザの抗争もセクトの抗争もいっしょ、しょせん暴力が幅をきかせ、金の前には転ぶのだと、これを断る。だが、堅気の平和を守ろうとし、命を懸け、散った竜二に〈自分の中の闘争は……………………自分のための闘争ではなかったはずだ 少なくとも自分以外の幸福のため………………民のためあったはずだ………………〉と、目指していたはずの道をあらためて示され、争いのない社会の礎となるべく、極道の世界を再編するための組織、風組を起こす。のちに出会うことになる本気の姿は、風岡にとって竜二のそれを思い出させる。もちろん『風』で語られているのは、後付けの設定に近しいものであるけれども、本編の内容を補うのに十分な材料であることもまた事実にほかならない。いつの時代もどのような営みにも悪はある。逃れがたく悪しき側面が存在するのであれば、同様に善なる部分もかならずやあって欲しい。そうした祈りが本気に託されているのである。

 3巻について→こちら
 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月13日
 ヤマトナデシコ七変化 21 (21) (講談社コミックスフレンド B)

 この巻でいちばん可笑しかったのは〈まちこちゃんです。21巻から、自分で描くことにしました。〉というところで、いやまあ、まちこちゃんというのは、桜井まちこがゲストで描いていた登場人物のことなのだが、いちいち頼むわけにはいかない事情もあるのだろうし、勝手に、あるいは許可をとろうとも絵柄をトレースしちゃうと、どんな揉め事になるかわからない今日この頃だしね。ただ、それ以外はいつもどおりのループ・ストーリーだから、特筆すべき箇所もなく。正直な話をいえば、スナコと恭平のラヴ・ロマンスを本格的に発展させて、物語を完結させてしまうのが、いちばんうつくしいと思うのだけれども、作者であるはやかわともこのコメントを読むと、なかなかに悩ましいものがある。コメディとして見た場合、ネタというかオチのつけ方が完全にパターン化していることもあり、テンションで引っ張るにしても、もうひとひねりあればと感じてしまう部分がすくなくはないため、そろそろうまい着地点を見つけて欲しい。

 20巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 給食の時間 3 (3) (デザートコミックス)

 派手な内容ではないけれども、シリアスなテーマを尻込みせず、疲れることのないやわらかさで、きっちりと丁寧に描いたマンガであったよ。くりた陸の『給食の時間』の最終3巻である。全体の概要を抜き出してしまえば、家族をうまく愛することができなかった「給食のおじさん」と、家族から愛されているとうまく感じることができなかった少女が、出会い、作用し合い、お互いの傷を癒してゆく過程だといえる。もうすこし絞って述べるなら、大人には子供に教えられることがあり、子供には大人に教えられることがある、だろう。ヒロインの未来が〈子供は子供の中に放り込んだら すぐに仲よくなれるなんて 大人の幻想だよ〉と、「給食のおじさん」である健と彼の娘との関係性を指摘するあたりに、作者のスタンスがよく出ているふうに思う。意外にもラヴ・ストーリー的なハッピー・エンドを迎えたラストには、最初、よりによってそこに落とすかあ、という気もしたが、大人になれなかった大人と大人になりたかった子供が、それぞれ大人になったことをあらわす風景としては、十分に、あり、ではある。細かくちいさなエピソードをこしらえていけば、いくらでも長くできるような内容であるけれど、そうならず、コンパクトにまとまっていることで、焦点のぶれない感動を貫く。地味な作品ではあるが、いやいや、その誠実さが押しつけがましくなく、心地好い空気をつくり出しているストーリーは、高く評価されていい。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『オレの子ですか?』5巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年07月10日
 以前は、ヤンキー・マンガの類を悪くいう連中を見かけるたび、ろくに読んでないのがミエミエじゃんね、と、いらっとさせられたものであったが、最近は逆に、じゃんじゃん攻撃してやってよ、そう応援したい気分になっている。理由は単純で、一時期にくらべ、しょうもねえ作品ばっかりが増えてしまったためである。とくに、高橋ヒロシを頂点とするフォロワーの一群と、個人的に「50年組」と呼んでいる一派の、あの体たらくときたら。むしろ、褒めている連中を見かけたならば、ろくにマンガも読めないくせに、と、いらだってしまう。

 しかしながら、もちろん、こうした状況下にあっても読むべき価値のあるすぐれた作品は存在していて、たとえば、小沢としおの『ナンバMG5』などは、その数少ないうちの一つだといえるだろう。『ナンバMG5』が、他のヤンキー・マンガと一線を画しているのは、不良をあかるく描くことが、すなわち作中の倫理として機能している点にある。たしかに、いつの時代にも不良にならざるをえない人間というのは、いる。だがそれと、不良になることが正しいというのとは、まったくべつのロジックで考えられなければならない。たったそれだけの前提さえ自覚していない作家が描いているヤンキー・マンガは、たいてい駄目である。

 換言する。現在の主流であるようなヤンキー・マンガの多くが行っているのは、内面に暗さを持った少年が反動的に生きることの肯定化である。じつをいうとこれは90年代以降のサブ・カルチャー全般と同根の問題でしかないのだが、要は、すねた坊ちゃんに同情的であることをハイな表現と見なしてしまう錯覚にほかならない。その結果、トラウマを持ってるからって何をしてもいいってわけがねえんだ、ということが表明し辛くなってしまっている。むろん、現行するヤンキー・マンガの主人公はほとんど、健康優良不良少年に設定されているけれども、物語の枠内で見れば、トラウマを持った敵役のエモーションに焦点をあててゆく傾向がある。このことにいち早く危機感を持ったのが高橋ヒロシなのだが、それでも『WORST』を読む限り、うまく対処できてるとは言い難い。

 さて本題に入る。先ほど、不良をあかるく描く、といった。これを、ぐれることの正当性だというふうに誤解されてはいけないので、もうすこし述べると、暴力や犯罪をモラトリアムの必須条件として用いない、その程度のことにすぎない。だいいち、未成年だからって何をしてもいいってわけがねえんだ。ケンカはヤンキー・マンガの華である。そりゃそうだ。いや、だからこそできうるかぎり慎重に扱われなければなるまい。どっちが強いか決着をつけようぜ式のロマンと、ルサンチマンの裏返しであるような暴力は、たとえ両者の混在する場合があるにしても、どこかで区別される必要がある(どこかで、というか、まあ作者の頭のなかで、なんだが)。そうした批評性の介在していることが、どれだけ物語の質を高めるかを、『ナンバMG5』の16巻における特服先生こと我らが難破剛と横浜ケルベロスのキング光一の対決は、教えてくれる。どうでもいい話だけれど、名前の由来は、たぶんKinKi Kidsかしら。

 生い立ちに不幸を持つ光一は、愛情に飢え、かつての恋人である牧野弥生に異常な執着を燃やす。千葉に逃げてきた弥生が、たまたま同じ美術部の後輩であったことから、剛は正体を隠しながら、彼女が在籍するレディース魔苦須に肩を貸すことになるが、しかし非力な魔苦須のメンバーは次々にケルベロスの手に落ちていってしまう。彼女たちのピンチを察した剛は、伍代をともない、いそぎ横浜へと向かうのであった。光一の存在は、いわずもがな、トラウマをルーツとする悪党の典型である。これに対し、剛の健全さが、どう立ち向かうのか。最大の見所は、そこにあるといってよい。光一に同情的な演出を作中に散りばめつつも、狂気は狂気でしかありえないことを〈頼むよ…女がブン殴られるのなんて オレ見たくねーんだ!!〉という剛の言葉と気持ちと行動のなかにあらわしてゆく。

 さらに、光一の暴君ぶりをじつは快く思っていないケルベロスのメンバーと、何の義理もないのに剛や魔苦須のために体を張る伍代の対照によって、クライマックスを盛り上げるのはもちろん、明確な倫理の基準に補助線を引いていくあたりも、さすがである。

 それにしても、魔苦須の面々が、弥生の盾になってやろうとする場面の、ああ、なんと泣けることかよ。〈ブン殴るんなら アタイをやれよ 妹分には手を出すな〉という先代総長のマリもかっこういいけれど、ナンシーやカー子、フー子の回想が、死ぬほど、ずるい。とくにカー子のくだりである。〈はずみでできた子供だ 失敗作だって〉と親に言われ、落ち込むカー子に、〈お前にはアタシやみんながいるだろ みんなアンタのこと大事な妹だって 思ってるよ それだけじゃダメか?〉と、弥生が手を差し伸べる。ここで、ぼろぼろ泣いた。同じように誰からも愛されず、そして同じように弥生と出会っていながらも、光一はといえば、カー子みたいに救われないで、暴力に堕ちてしまったんだからね。ほんとうに人間性の腐ったやつっていうのは、どこにでもいるんだな。

 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月05日
 心からの願いが叶えられないこと、才能や運命に恵まれず、望む場所に立てなくとも、つねに戦い続けるというのは、こうも壮絶なものかよ。思わず自分の身をかえりみ、まだ何一つ成し遂げちゃいない事実に、震えがくる。海埜ゆうこの『瑠璃の方船』は、夢枕獏の自伝的小説のコミカライズであるらしいけれど、たとえ原作を読んだときがなかろうが、主人公たちと生きている時代も違かろうが、こういうふうに青春は生き急ぎ、あるいはゆっくりと諦めをつけるかのように終わっていくのだということの満遍なく描かれた風景に、共感し、涙を流せばいい。この2巻で完結する物語は、基本的に、桜庭誠という小説に情熱を傾ける青年の半生を追っている。しかし圧倒的な存在感を放つのは、桜庭が出会い、はじめはライバルとして、やがて奇妙な友情関係を育むこととなる将棋の真剣師、甲野城平その人である。桜庭が小説家として大成していく一方、甲野は、実力を高く買われながらもプロの棋士にはなれず、発表するあてのない小説を黙々と書き溜める。はたしてその姿は悲惨であろうか。いや、どれだけ世界が変わろうと、自分の生き方だけは曲げまい、命を懸けてまで不様さは引き受けまいとする意気に、ふかく、感銘を受ける。卑屈といえばそのとおりかもしれないが、眼光はするどく、まっすぐ、とおく遥かをのぞむ、のぞみ続ける。それを前に、誰が敗北者と罵れる。失恋し、果てしない喪失感のなかにある桜庭に、甲野が〈…おまえは 女でもブンガクでも カッコなんかつけるなよ ここってときには……じたばたしていいんだ 覚悟を決めてな どうなるか先のことなんか 考えないで じたばたすりゃあいいんだよ〉と言う。これは作中で数度に渡り、ニュアンスを変え、繰り返される決まり文句のようなものであるが、そのたびに背中を押されてきた桜庭が、今度は甲野に報いの言葉をかけるラストのシーンで、たまらず、落涙する。

・その他海埜ゆうこに関する文章
 『猫の足』について→こちら
 「君という花」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月04日
 幕府と通じる次席家老の謀略によって危機に陥った藩を救うべく、姪の沙絵とともに江戸へ向かう物辺総次郎を、旧友である伊藤清之進と幕府隠密の梟が追う。中山昌亮の描く時代劇、『泣く侍』の3巻である。ほとんど味方なしの状況下、かなりの苛酷を強いられるかと思われた総次郎と沙絵の旅路だが、成り行きから(じつは凄腕の忍びである)蟻助を頭とする芸人一座の協力を得ることになる、というのが前巻までのストーリーであり、ここではさらに、国許の異変を察知した江戸留守居役の木元の一行が、総次郎らに合流してくる。主人公をベースにマンガを見たとき、彼の所帯が増えたため、前門の虎後門の狼とでもいうようなピンチとスリルは、いっけん後退したふうであるけれど、藩の置かれた状況は、より複雑になり、逼迫さを増している。それと同時に、これこそが肝なのだが、敵味方関係なく作中人物たちのほとんどが、他を出し抜き、優位に立つポジションを失っている。つまり、使命に殉ずる以外の逃げ場が塞がれてしまい、その生き方を徹底せざるをえないポイントにまで追い込まれているのである。かつての配下である梟の仕掛けに、一座を脅威にさらしてしまった蟻助が〈わしは……親の務めを果たす 親の わしが宿命から逃れ……迷っていたから……子が迷う……もう 誰も迷わすわけにはいかん わしは……もう迷わん 迷わんぞ〉と決意する場面などは最たる例だろう。結果、総次郎と木元は藩に戻り、蟻助は江戸に向かうことになるのかな、このへんの動向がおそらく、次巻以降の展開をつよく握っているんだと思う。それにしても、禍々しきは清之進の乱心、狂気を帯びた振る舞いで、各人の行動が封建的な制度に束縛されているなか、完全にイレギュラーな存在感を発している。自分を見失った姿は悲痛でもあり。ああ、そういうことね。総次郎とはべつの意味で、彼もまた、泣く侍、か。

 2巻について→こちら

・その他中山昌亮に関する文章
 『不安の種』(『週刊少年チャンピオン』版)第1話について→こちら
 『PS羅生門』第9巻(原作・矢島正雄)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年07月02日
 小路啓之作品集 2 (2) (バーズコミックススペシャル)

 他人の気持ちをわかれ、というのは容易い。だが、その容易さを実現するのは、いかに困難なことか。小路啓之の第2作品集『Lovely』に収められているうち、4ページの書き下ろしである「落殺者達のバラッド」を除けば、もっとも新しいマンガになるのが表題作でもある「Lovely」なのだが、殺伐とエモーションとが、ニヒリズムとユーモアとが、分かちがたく、きつく、結びつき、一個の世界観をつくり上げている内容を、とてもこの作者らしい、と思った。たしかに、以前ほどの突拍子なさもなく、筋立て自体はありがちといったらいえるのだけれど、そのぶん、ストレートに届いてくるインパクトがある。表向きは、SF的な設定を通じて描かれたピュアラブルなラヴ・ストーリーである。片想いの相手にただ、好きだ、と伝えられないことが、紆余曲折を経、悲しみに変わることで、ようやく実を結ぶ。ただし、冷静に観察するのであれば、作中人物たちはほとんど、サイコさんでしかない。しかし、恋というのはつねに異常事態を示すものだし、この世の正常はたいがい、個人個人の認識ではなく、大多数の結論に委ねられている。このとき、叶えられなかった願いだけがやさしく見えるような気配を、残酷な風景のなかから、うつくしく切り出している。むろん、ここに収められた他の作品からもそう実感されるのだが、つくづく希有な才能である。

 『エセA国紳士ジェントリー松原の預かりモノ』について→こちら
 『ドレミとソレミ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 これまでにも幾度か述べた気がするけれども、『ギャングキング』にかぎらず、このところ柳内大樹がこだわっているのが、想像力の存在で、想像力といってもそれは、何か行動を起こすさい自分のことのみならず他人のことも考えろ式の、要するに、説教の一種でしかないのだが、作者の想像力が、ヤンキー・マンガは倫理を教えられるか、という問題にまで及んでいないので、うまく伝えられているとは言い難い。この13巻では、主人公であるジミーの弟に大けがを負わせたサリーとの対決に決着がつく。幼い頃から父親に虐待され、ついには痛みを感じなくなってしまったサリーを、ジミーのエモーションとスケールが圧倒する。作中人物たちが、そうした顛末に感動するほどには、いい話である。しかし正直なところ、ケンカすることと無痛症が回復することとのあいだにどのような因果が介在しているのか、ちっともわからねえぜ。むろん、モノローグともナレーションともつかないポエジーによって、ジミーとサリーの内面が対照化され、その結果、腕力だけではなく、精神のレベルにおいてもサリーが敗北したがため、彼が疾患から解き放たれている、というのは理解できる。だが、こちらの立場からすると、その示し方が表現としてすぐれたものだと思えない以上、あまり感動できない。まあ、もしかしたら作者の想像力が、この程度の内容で啓蒙されるに違いない、と踏んでいる読み手にとっては、ひたすら感動するシロモノなのかもしれない。だとしたら、ひでえ話だな、と思う。それこそ、想像力が足りねえんじゃねえの。と、悪口めいてしまったけれど、シリアスなパート以外は、いや、けっこうおもしろかった。すこし前に新規で登場したアバレの存在が、ユーモアな面を、がぜん盛り上げている。マフィアの息子である彼こそが、じつは『ギャングキング』というタイトルを持つマンガの主人公に相応しいのではないか。どうせだったら、ジミーの世代を早めに引退させて、アバレやサリー、竜也(ジミーの弟)の世代をメインに、作品を組み直してくれても良いよ。

 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月30日
 山口いづみ『アカンサス』の2巻であるが、前巻からの引き続きであり、完結編であるようなエピソードは一話にとどまり、それ以外は『アカンサス』の番外編が一篇と『アカンサス』自体とは無関係な二篇の読み切りで構成されている。1巻に「青く、ふたつ」という読み切りが収められていたことを踏まえるなら、『アカンサス』の本編は、実質、単行本一冊分に満たないぐらいの連載でしかなかったのだけれど、しかしこの長さであっても、作者の現在の力量では、センスよりも未熟さのほうが勝ってしまったかな、という印象を覚える。少女の自立を描いた内容は、とどのつまり、少女がたんに世間知らずであった、という結論に着地する。一人暮らしとアルバイトと、そしてもちろん恋愛を通じ、さらには大失敗を犯すことで、周りの人間がどれだけ自分のことを想い、考えてくれているかわからなかったのを自覚するのである。もちろん、これは旧くから少女マンガのシーンに見られる通過儀礼的な物語のヴァリエーションであろう。だが、そうした歴史から捉まえるとき、全体に詰めの甘さが目立つ。ヒロインの受難も、自業自得でしかありえず、自業自得でしかありえないことに対し、周囲の人間が寛容すぎるので、ドラマに深みが出ていない。が、もっと短いお話であったならば、そのような粗は気にならなかったかもしれない、と思うのは、番外編である「〜幾年先に続く祈りを〜」が、やはり世間知らずの坊っちゃんの自立を描いているにもかかわらず、なおかつ人の死という便利な感動(まあね)を用いながらも、決して退屈な作品になっていないためだ。二篇の読み切りのうち、「ノイズ」と「water palette」に関しては、どちらもハッピー・エンドで終わるラヴ・ストーリーとして、それなりの葛藤があり、けっこう好きではあるのだけれども、たとえば、いくえみ綾やジョージ朝倉が先行する作家におり、たとえば、アルコや高野苺が同時代の作家にいる、こうした環境下にあって、個性の極度に薄まった作品になってしまっている。両親が離婚したため、恋愛を信じられないヒロインというのも、今や類型のそしりを免れない。作者がどう考えているのかは知れないが、ファンの立場からすると、山口いづみ、ここにきて伸び悩んでるかあ、と思う。

 1巻について→こちら

・その他山口いづみに関する文章
 『キリン』について→こちら
 『恋愛幸福論』について→こちら
 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月29日
 メンズ校 4 (4) (フラワーコミックス)

 ああ、やっぱり、これ、おもしれえや。和泉かねよしの『メンズ校』も4巻である。このマンガは、基本的にコメディのテンポで進む、それがある段階で、エモーショナルに転調する。コメディである部分のテンポははやく、エモーショナルである部分のテンポはおそい。両者はしかし、綱引きの関係にあるのではなく、自然と一本化し、なめらかな基調をつくり上げ、こんなふうに滑稽でなければ青春と恋愛のぶざまさは引き受けられない、こんなふうにやわらかでなければ青春と恋愛の悲劇は受け止められない、という真摯な節度を作中に示す。あるいは、誠実さなどと声高にうたえば空々しくも聞こえてしまう、そこに可笑しくわらえる軽さをつけ加えることで、薄ら寒い建前に、けっ、となることのない共感を響かせるにいたっている。中学の頃に付き合っていた彼女のことを、とある事情があって一生忘れられないだろうと思う牧に、あらたな恋が訪れる。そうして、エリカという無愛想だが魅力的な女子と、なんだかんだありつつも良い雰囲気になるのだけれども、成り行き、自分が昔の恋人への想いを未だ引きずっていることを告白してしまう。さて、二人の仲はどうなってしまうのか。前巻からの引き続きであるエピソードにおいて、作者は、そこにある感情のざわめきを、深刻に描けば描くほど深刻に見えてくる手つきでは描かず、むしろ、真剣に対処されるべきハプニングが、勢いに任せ、流されているうち、いつの間にか解決しているような調子で、さらり、と描いている。しかしながら、これが浅はかで不真面目な表現になっているかといえば、おそらく、なってはいない。たとえば、牧とエリカのやりとりを、こう解釈したい誘惑にかられる。ある人を愛するかわりにべつのある人に対する想いを捨てることを罪に感じる必要はないし、またある人が自分以外のある人に対する思いを捨てられないからといって罪を負わせる必要もない、そのような罪は結局のところ自責の内側にしか存在しない、せいぜいが尺度のいい加減な倫理にすぎない、と。作者が、さらり、と描いているのと同じく、さらり、と読んでしまえば、気づきにくい箇所がある。フェリー乗り場にいる牧に、エリカから電話がかかってくる場面である。電話をかけたのが牧だとしても、たぶん、その後の展開はおおきく変わらない。いやだからこそ、牧ではなくて、エリカが〈あ あたしだけど 今 何してんの?〉と尋ねてきたことの意味が問われなければならない。はたしてエリカが牧のことをどれぐらい気にしているのか、それまでまったくといっていいほど言明されてこなかった事実が、じつは彼女の電話に含まれる〈まさか〉という予感に集約されている。そして〈まさか〉と思えることが、彼女を牧のいるフェリー乗り場に走らせる。電話の態度は素っ気ない。だが、それがそもそもエリカの性格だろう。雨が降ってきたことと彼女の電話のタイミングは、ドラマティックな演出のためだけに用意された偶然ではない。雨が降り出してすぐ、彼女が〈まさか〉と電話をかけてきたことは、一連なりの必然にほかならない。雨のなか、もしかしたら牧は自分のことを待っているかもしれない、この予断がエリカに電話をかけさせているのである。言葉とは裏腹な行動にエリカの本音を隠し、牧の複雑な心境はあたうかぎりのわかりやすさで表す。こうした技術の交わるポイントで二人の唇が近づく。たとえ一瞬のことだとしても、重なる気持ちの透けて見える、良いシーン。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他和泉かねよしに関する文章
 『そんなんじゃねえよ』9巻について→こちら
 『二の姫の物語』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月28日
 田久ようこの『真夏の人魚姫』には、ぜんぶで三篇の読み切りマンガが入っている。ここでは表題作について触れる。「真夏の人魚姫」は、自分のことをノーブルだと思えない、あるいはキュートだと信じられない女子高生が、イケメンさんと出会い、惹かれ、結ばれる、という、この手のラヴ・ストーリーに標準的なプロットで成り立っている。そうしたとき、作品の魅力はどこでどう、生まれているか。アタマのほうのモノローグに、ほとんどのことは示唆されている、と見てよい。〈海が好きな両親が私につけてくれた名前は海弓美 海の中を 弓のように しなやかに泳ぐ 美しい人魚姫をイメージしたんだとか それから16年後 その人魚姫はどうなったかというと――――…立派な海女さんになってしまいましたとさ☆ あたしが育ったのは海に面した小さな漁師町 オシャレなカフェもショッピングビルもないけど あたしは何より この町の人たちと海が大好き〉。こう独白するヒロインが、東京からやって来たサーファーの青年の、ちゃらい見た目と違う素直さに打たれ、恋を、初恋をするのだけれども、自分の想いを童話「人魚姫」の悲恋に重ね合わせ、彼を手の届かないものとしてしまい、思わず、卑屈な態度をとってしまう。この、ヒロインのコンプレックスがどこからやって来ているのかが、重要である。もちろん一つには、自分の名前と自分の実際とのあいだにあるギャップだろう。そしてそれが、都会からやって来た彼と田舎に住む自分という、要するに、東京VS地方の二項対立的な認識によって補強されている。先ほど引いたモノローグに帰るなら、〈この町の人たちと海が大好き〉だけで済ませてもよいのに〈オシャレなカフェもショッピングビルもないけど〉との前置きを置かなければならない、ここにヒロインの無意識があらわれている。東京からヒロインの住む町まで来るのには6時間かかることが作中で強調される。6時間というのは、いうまでもなく、ヒロインがサーファーの彼に対して感じている遠さ、距離の言い換えである。さらには彼女が無意識のうちに抱えているコンプレックスのアレゴリカルな表象でもある。これを〈好き〉の一言で越えてゆく。その力強さの疑うべくもないところに、作品の魅力が生まれている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月27日
 まさかの37巻である。現在の神尾葉子のタッチで『花より男子』をやられると微妙に違和感があるな、というのが正直なところだが、しかし作者は、登場人物たち、とくに道明寺という特徴的な人材を生き生きと生かし、かつての世界観を見事に再現している。反面、つくしに関しては、90年代そして00年代を代表する少女マンガ界のヒロインであるはずにもかかわらず、あれ、こんなに個性の薄い子だったっけ、と首を傾げる。まあ、それというのはもしかすると、こちらが、『キャットストリート』や『まつりスペシャル』を通じ、育ちや性格こそ違えど、眼の輝きだけはつくしと共通するヒロインたちの活躍を、すでに経験してしまったあとだからなのかもしれない。さて。いうまでもなく、『花より男子』は、全36巻の時点で十分に完結した作品である。したがって、ほんらいならば付け足すべき余地などどこにもない。そのことは、ここに収められているうち、高校卒業後のつくしと道明寺の姿を描いたエピソードにあきらかだろう。二人は幸せに暮らしましたとさ、そのような風景を確認するにとどまる。だが、花沢類を主人公に据えた番外編「俺の話をしようか」には、ファン・サービス以上の価値がある。たいへん胸を動かされる短篇である。巻末に付せられているインタビューで、作者は〈TVドラマで類役を演じた小栗くんに、「類が何を考えているのかわからない」と言われたことがあるんですよ。だから「これじゃいけないな」と思って、類をしっかり描こうと思ったんです。この番外編であらためて向き合ってみたんですが、ただのボンヤリしたコじゃなくて、実はきちんと考えている人なんだなとわかったんです〉と執筆の動機を語っているけれど、「俺の話をしようか」とは、要するに、花沢類という少女マンガにあってじつに王子様的な立場の内面を、親友の幸福のために自分の恋愛を断念するという少女マンガに典型的なパターンを用い、描くことに挑んだ内容だといえる。〈俺が牧野つくしという女を好きだったのはもうかなり前のこと〉で、〈今はちゃんとこの目の前にいる親友の彼女としてみてる〉と類は独白する。それに偽りはない。しかしながら、簡単に割り切れないがゆえに、感情は、たとえ過去のものであったとしても、真であると信じるに値する。これがすなわち類に〈想いの残像だ たいしたことじゃない〉といわせるが、〈でも この余韻が消えるまでに あとどれくらいかかるのか〉ともいわせる根拠である。端から見れば、いつもどおり、自分の役割を淡々とこなす彼の心の動きは、しかし、とても繊細で、やさしく。よくぞ描ききったなと思わせる。

・その他神尾葉子に関する文章
 『まつりスペシャル』
  1巻について→こちら

 『キャットストリート』
  8巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1、2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月26日
 あいかわらず、くっだらねえなあ。しかし、そのくだらなさ加減に、つい、にやにやしてしまう。田辺真由美の『カトちゃんケンちゃん』における作中のギャグは、基本的に、テレビからのミーハーな引用なのだが、その元ネタのほとんどが昭和の番組で、1巻では題名のとおりドリフまわりのものが多かったけれども、この2巻では『ひょうきん族』や『元気が出るテレビ』などビートたけしに関連しているのが増えた。そしてそれを、人間ではなく、猫が、じつに猫らしい表情でやっているのが、じつに可笑しい。メロリンキューとか、唐突すぎるだろう。作者の記憶力なのか、DVDを観て研究しているのか、もしかしたら(ほんらいの読み手として想定されているに違いない)ヒロインである女子高生ぐらいの年代よりも、彼女のパパさんぐらいの世代のほうが楽しめる内容であるかもしれない。で、そのパパさん、猫たちからはメガネと見下されている彼が、たいへんおもしろ人物である。元気いっぱいで良いところなしの、完全にステレオ・タイプなボケ役なのだが、言動の一個一個が猛烈にチャーミングだと思う。年のせいかな。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 ドリームバスター (3) (リュウコミックス) (リュウコミックス) (リュウコミックス)

 宮部みゆきの原作小説は読んでいないのでどこまで忠実なのかは不明なのだけれども、中平正彦によってマンガ化された『ドリームバスター』が、ますますおもしろい。惑星テーラから逃亡し、地球人の夢のなかに潜り込んだ凶悪犯たち、彼らを追う賞金稼ぎのことをドリームバスターという。ドリームバスターは「ジャック・イン」というシステムを用い、意識だけを飛ばし、凶悪犯に取り憑かれた地球人(ドリームパーソン)の見ている夢に介入することで、その使命を果たすことが可能となる。作中の言葉を借りれば〈誰かの夢の中へアクセスすることを俺たちはジャック・インと呼んでいる まるで身体ごと他人の夢に入り込んでいるような感覚がするけど実際はそうじゃない 五体は一切使わず 脳と脳が直接情報のやり取りをしているだけなんだ つまりはデータ通信!〉にほかならない。このことはドリームバスターに、ある程度自由な活動を許しながら、一方で絶対の制約を課せる。ミッションの遂行にはドリームパーソンと凶悪犯を結びつけている「鍵」の入手が必要不可欠な条件となっているのである。そのため、ドリームバスターは、ただ凶悪犯とちゃんばらを繰り広げるばかりではなく、ドリームパーソンの抱えている悩みとも対峙しなければならない。こうして、ファンタジックでありSFでもあるふうな設定があらわされると同時に、現代的な苦悩が作中に描かれる。大まかな展開はもちろん、細かい仕様もずいぶん違うのだが、根っこの部分では、同じく宮部の小説を小野洋一郎がコミカライズした『ブレイブ・ストーリー』と、相通じている部分があるようにも思う。たとえばそれは、心に傷を持った人間が、不思議な冒険を経て、自分の人生を生き直すこと、だろう。この『ドリームバスター』の3巻では、現実の世界でじっさいに殺人を目撃してしまった女子高生が、友だちもおらず、臆病な性格につけ込まれ、ドリームパーソンに選ばれてしまう。すなわち、彼女の再生がストーリーの柱としてあるのだけれども、そこに主人公のドリームバスターであるシェンの境遇がリンクし、事態は複雑に絡み合い、次第に意外な真相が導き出される。逃避癖のある女子高生の言動には、正直、いらっとさせられるところもすくなくはない。しかし、良心がありながらも犯罪をおかしてしまった人間と良心がないせいで犯罪をおかす人間のあいだで、翻弄される運命をおりず、やがて試練のごとく受け止める姿は、なんともドラマティックである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月24日
 校舎うらのイレブン (シリーズ昭和の名作マンガ)

 たしか(『チャンプ』の解説だったかで)本宮ひろ志が、ちばあきおの表現と姿勢に関し、ふつうのマンガ家であればセーブしてしまうところをより深く潜っていき、結果、死期を早めたのだろう、というようなことをいっていたのを記憶している。この評価はもちろん、同じ実作者として親交のあった立場から発せられているので印象的なのだが、いうまでもなく、ちばの描くマンガのすぐれていることが、その裏付けになっている。ところで、ちばの代表作は、やはり『キャプテン』になるのだろうけれども、歴代のキャプテンのなかで、誰がいちばん好きかといえば、個人的には丸井である。一般的にはおそらく谷口かイガラシの人気が高いのだろうが、断然、丸井である。ことごとく失敗を繰り返しては自力で信用を回復する、あの勇姿が最高潮に燃える。たとえば、谷口は失敗を防ぐべく努力する人である。たとえば、イガラシは失敗をものともしない天才肌の人である。近藤は、まあ、あれだ、うん、あれだ、しいていえば天才だからこそ失敗するタイプである。しかし、丸井はまぎれもない凡人であり、凡人であるがゆえに失敗し、失敗しては努力を重ねる。そうした熱意が、やがて周囲の反感を抑え、納得させる。これなんだよなあ、谷口が丸井をキャプテンに選んだ理由は、なんである。さて。シリーズ・昭和の名作マンガとして朝日新聞出版社から刊行された『校舎うらのイレブン』は、表題作のほかにいくつかの読み切りを収めた、ちばの初期(中期かな)短篇集に位置づけられる。『キャプテン』連載開始の前年に描かれた「校舎うらのイレブン」と「半ちゃん」は、『キャプテン』のプロト・タイプであるような作品だと思う。前者は、貧しい中学校に赴任してきた体育会系の熱血教師が落ちこぼれサッカー部を立て直そうとする話で、後者は、少年たちがつくった素人野球チームが勝つためにプレイするのか楽しむためにプレイするのかに引き裂かれる話なのだが、はっきりいって、どっちも人間性に問題のある登場人物しか出てこない。いや、さわやかな感動作として見なされることの多い『キャプテン』や『プレイボール』ですら、じつは人間性に問題のある登場人物ばかりだったじゃないか。しかしながら、まだ未成熟な若者の人格に難があるのは当然であって、これが物語を通じるうち、親しみにあふれ、たいへんまともにも見えてくる。一方で、「半ちゃん」の主人公はイノセンスの象徴的にあらわれた存在だといえる。だが、それは自然な人間関係=社会からは疎外されてゆく。こうした無垢であることの悲しみは、のちの『ふしぎトーボくん』に通じるものだ。ちばのマンガに普遍的な魅力があるとしたら、それはつまり、ちばの描く人間に普遍的な魅力、性(さが)と言い換えてもいいような疾患が備わっているからなのだろう。それをしっかり捉まえる視線がどこからやって来ているのか、作者の自伝的なマンガである「がんばらなくっちゃ」が教えてくれている気がする。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月23日
 講談社に『猫本』という猫好きのマンガ家による猫を題材にしたマンガのアンソロジーがあるが、この『ねこまん』は同企画の集英社(正確にはホーム社)版といったところであろうか。『猫本』が、こなみかなたの『チーズスイートホーム』を柱にしているのに対し、こちらは『猫本』にも参加しているいくえみ綾を顔に持ってきている。うーん、生藤由美の『ゾッチャの日常』や田辺真由美の『カトちゃんケンちゃん』では、やっぱり一般的なネーム・ヴァリューは低いのかしら。ちなみに『ゾッチャの日常』も『カトちゃんケンちゃん』もちゃんと収録されているけれど、どちらもすでに単行本で読めるものである。他には、松苗あけみ、くじらいいく子、戸田誠二など、総勢三十名の作品が入っており、正直なところ、どれだけ描き下ろしが含まれているのかは、ちょっとわからない。さすがに全部の作家を追えているわけでないし、初出が記されているわけでもないからである。いやあ、光原伸のマンガってひさびさに読んだ気がするが、ふつうにホラーじゃねえか。猫、こええよ。基本的にはショート系の作品が並んでいるなか、ホーム社のサイトで続きが読めるらしい黄島点心の『猫のホストクラブ』が個人的にはヒットだった。猫がホストをやっている、というまんまの内容であるもかかわらず、猫と女性のやりとり、表情がやたら俗っぽく、ペットのイメージとかけ離れているようでもあり、意外と本質的でもあるようなところにおかしみがある。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月21日
 森田まさのり『べしゃり暮らし』の6巻であるが、前巻の内容に触れたさい、現在進行の場面と過去回想の場面とが並行して展開されているため、いっけん時系列がわかりにくい、というようなことを述べた。それは結局のところ、さあここから回想シーンに入りますよ、式のキューがほとんど示されず、また登場人物たちの行動に脈絡がなく(感じられるかたちで)、両者が入れ替わるからであった。しかし、ここにきてそうした、ともすれば不備になりかねないプロセスを踏んだ作者の意図がようやくわかる仕組みになっている。現在進行の場面と過去回想の場面のあいだに、わかりやすいキューが増えはじめ、増えはじめることで、作中における現在と過去の距離が顕在化し、両者の近づきを教えるかっこうになっているのである。いや、すこし言い方を変える。「きそばAT」という現在の若者二人は、過去回想の当初の段階にいる「デジきん」の二人にとって、まったく無関係な存在にほかならないが、過去回想が終わりに近づく頃には「デジきん」と「きそばAT」には相互に干渉するような関係性が生じている。この距離がキューの有無によって示されている。だからこそやがて、構成作家の下柳が辻本と子安に「デジきん」の過去を話すくだりが、直接、回想のシーンに入るキューになっているのである。このとき、下柳の〈だんだんプライベートでは一切しゃべらんようになって……ネタ合わせもほとんどせんようになって…5年はそんな状態が続いたかなぁ…今年の夏……るみねで自分らに会うまではな〉という言葉が、そこに示される場面が、今までの物語にとってどれだけのハイライトであったか、すなわち「きそばAT」の出発点であり、「デジきん」の再出発点であるところが、もう一度、反復され、再確認される。さらにはこうした手続きを踏むことで、その後、「デジきん」に訪れる運命がより悲しく、「きそばAT」を見舞う危機がより激しく、こちらの胸へと届いてくる。もちろん、圭右が藤川の息子を〈おやじの仕事はよーく見とくもんだぞ コラ〉と導いていくのは、圭右自身が経験した親子関係を反復しており、反復、繰り返しが『べしゃり暮らし』にとって重要な役割を兼ねていることは以前にも書いた。ところで過去回想の表現にちなみ、48ページ目のいちばん上のコマを見られたい。この、登場人物の表情に背景の透けていることが場面転換のキューになっている描写は、『ろくでなしBLUES』の時点ですでに採用されていたものである。だが、決して森田のオリジナルというわけではないだろう。たしか原哲夫の作品にも存在していたと思われるし、大友克洋あたりの作品にもあったような。まあ、現代ではあまりポピュラーではなくなってしまった技術の一つかもしれないけど、これがいったいマンガ史のどこでどう、発明または導入されたのか、ふいに気になる。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月20日
 1巻と2巻が同時に出た、山田秋太郎(漫画)と佐木飛朗斗(原作)の『爆麗音』は、同コンビによる『パッサカリア[Op.7]』の続編的内容であるけれども、佐木のキャリアにそくしていえば、中途半端な完結を迎えた『[R-16]』のヴァリエーションにもとれるし、さらには『特攻の拓』の、あの天羽時貞にまつわるエピソードを拡張化した面をあわせ持っている。つまり、血筋に呪われ、もしくは肉親に愛されず、苦しむしかなかった人間が、音楽によって救いを得、出会いによって喜びを得る、これを魂の必然として描く。22歳の音無歩夢は、アルバイトをしながらアマチュアでバンド活動をしている青年だが、理想と才能とが重なり合わない日々を送る。しかし、それが義指の右手で強烈なピアノを弾く印南烈と巡り会うことで、当人も、そして周囲の誰もが予想しなかった運命の扉を開くことになるのだった。もちろん天羽時貞を例に挙げられるとおり、歪んだ家族関係によって心の調律が狂った登場人物たち、というのは佐木が得意とするレパートリーだろう。歩夢(と彼の妹)は母親の独善的な態度を許せず、烈は父親の破滅とその因果に縛られている。二人の痛みと抗いが物語の通底奏音である。が、まあ、そこからどんどんとスケールが拡がってゆく様子は、これもまた佐木の作品にありがちな、最終的にはぐだぐだになっちゃうんでしょう、と想像できるようなパターンでもある。謎めいた女性がわんさか出てくるだけでも不安になる。それにしてもどうして音楽が救済になるのか。じつはこの点を『パッサカリア[Op.7]』は、いや、『[R-16]』や『特攻の拓』でさえも、十分に描いているとは言い難かった。ただ音楽は絶対的な神性であり、宇宙としてあらわれるのみであった。言い換えるなら、無条件で信じられている。信仰が描かれているにすぎない。結果、おおよその顛末が抽象的な世界に入っていくのを、さすが佐木の悪癖までとはいわないが、これがどうにかならないかぎり、いくらパートナーが変わろうとも、彼が原作をつとめるマンガに新展開はないのかもしれないな、とは思う。

 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他山田秋太郎に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年06月17日
 youngsun.jpg

 このたび休刊となる『ヤングサンデー』を振り返りたい。と言いつつ、本誌ではなくて15年近く前の増刊号で発表された作品を取り上げるのだが、しかしまあ、結局は90年代の前半に新人だった作家(世代でいえば60年代終わりから70年代半ばの生まれ)を十分に確保し、育てられなかったことが凋落の原因の一つではあるのだろう、と思う。さて。次野ツギオ(後にツギ野ツギ雄)の『ラブアタック』は、『ヤングサンデー増刊号 新人王』(1994年5月20日号)に掲載された読み切りである。この号には、次野のほかにも、森本一樹やロドリゲス井之介、都留泰作(絵柄からして『ナチュン』の作者と同一人物だろう)、華倫変など、当時の若手マンガ家が12人参加しており、技術的な拙さはともかく、意外と佳作揃いなのだけれども、個人的には『ラブアタック』がいちばん好きで、アンケートにもこれの名を書き、送った。今でも一ヶ月に一回は読み返す。

 話の筋はどうということもない。舞台は下北沢周辺、主人公のシゲルは、仲間の横山や広田とつるみ、万引きにテレクラ、深夜のファミレス、クラブ通いにアルコールと、そこそこ若気の至りに満ちたハイスクール・ライフを送りながらも、どこか白けている。しかしあるとき、小学校の同級生で、初恋の相手だった真紀を見かけ、〈なんでオレは あの時、あんなに素直だったんだ!? 自分でもさっぱりわからない…あれからたった8年くらいしか、たっちゃいないのに…〉と思う。ふたたび真紀を見かけたのは、先輩格の清原がDJをしているクラブであった。嫌がる真紀を清原に無理やり店の外へ連れ出す場面に遭遇してしまうのである。思わず引き止めたシゲルは、ひとまず真紀を逃がすものの、しかし清原にはボコボコにされる。翌日、もう一度真紀に会いたいシゲルは、大けがを負った体のまま、学校を途中で抜け、駅の周辺にずっと佇むのだが、運悪く、横山と広田を従えた清原に見つかり、あらためて報復されそうになる。ちょうどそのとき、何も知らない真紀が、偶然に通りがかる。

 ここまでの展開が21ページに渡り、描かれ、残りのわずか4ページでストーリーは決着するのだけれど、その、力押しでもいいから、とにかくマンガを終わらせ、かたちにしようとする怒濤さ加減が、最高潮に燃える。整合性はまったくない反面、勢いとエネルギーだけはまちがいなく存在すると、たしかに感じられる。次野は、かの『デカスロン』にアシスタントしてクレジットされているが、ともすれば破綻しているとも見えかねない大胆な構図の用い方は、山田芳裕のそれに通じる。理屈をオーヴァーした説得力がある。無関心であり無気力であるような主人公の造形は、じつに90年代的であるし、先に触れた文化的情報も、一昔前のものでしかない(ちなみに主人公は扉絵でティーンエイジ・ファンクラブの『サーティーン』のTシャツを着ている)。にもかかわらず、背景というか作品のコンテクストがあまり変わっていないのか、それともアパシーに向いた坊っちゃんが純情を取り戻し、エモーションを獲得するというスタイルに普遍性があるのか、現代にもちゃんとコミットしうる内容である。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月16日
 トクボウ朝倉草平 1 (1) (ジャンプコミックスデラックス)

 そう、『スーパージャンプ』とは、かつての『週刊少年ジャンプ』作家たちによって『マーダーライセンス牙』や『ふんどし刑事ケンちゃんとチャコちゃん』、『企業戦士YAMAZAKI』などの作品が描かれ、発表された場所でもあった。このことを高橋秀武の『トクボウ朝倉草平』は思い出させる。いや何もそれは、瑳川恵一の名で『週刊少年ジャンプ』からデビューした高橋のキャリアを指してのみ、いっているのではない。いっけんむさ苦しいタッチのなか、社会的なテーマを題材とし、マジとネタのアマルガムであるようなストーリーが繰り広げられるあたりに、先述した作品群との共通点を見つけられる。題名のトクボウとは何か。それは警察庁生活安全局特殊防犯課指導係の略称である。〈特殊防犯課…特防の仕事は起訴ではない 防犯のための行政指導だ 起訴のためには合法的な証拠が必要だ…だが 行政指導に証拠なんかいらないんだよ!〉という超法規的な理念に基づき、主人公の警視、朝倉草平が、通常の警察行為では裁ききれない悪を断罪してゆく。これがおおまかな筋立てで、すでに述べたとおり、それが、冗談半分本気半分であるような、判断を読み手のセンスに任せるかのような、独特な手つきで組み上げられているところに『トクボウ朝倉草平』の魅力はある。だいたい、朝倉の造形からしてかなりぶっ飛んでいる、ぶっ飛んではいるけれど今どきな一面だともいえる。たとえば発想の根っこは、現在放映中である『仮面ライダーキバ』の序盤に出てきた「この世アレルギー」と、そう変わりないだろう。〈この世は害虫であふれ返っている わかりますか? 害虫というのはたまに出現して我々の平穏をおびやかすものではない…右も左も害虫なんですよ わかります?〉と嘯く朝倉は、その極度に潔癖な性格ゆえ、つねに〈死にたい〉を口癖にしている。さらには〈害虫に噛みつく事で 生きている自分も結局害虫かもな…〉と思うので〈はあ――死にたい…〉のであり、〈世の中の害に対して僕はなんて無力なんだ…ああ〉と思うから〈死にたい〉のである。私生活はヘルシーで職務となればサラリーマン体質の男が、いちいち〈死にたい〉と呟かざるをえない姿は可笑しい。だが、そうした極端な性格を参照しなければ浮き彫りにならないシステムの欺瞞というものはたしかにあって、それをきっちり押さえることで、朝倉の陰湿なロジックとトリッキーな行動に、一理あるね、の正当性とカタルシスが含ませられている。それにしても朝倉に付き合うワキの人間も大変だあ、と思っていたら、まだ1巻にもかかわらず、ツッコミ役にあたる辻以外、ほとんど常識人が出てこねえじゃねえか。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月15日
 サブカル系専門学生ふう(じっさいはカメラマンの卵)のヒロインによる自分探しを、取材相手である関ジャニ∞(エイト)のメンバーがサポートする、というのが、みやうち沙矢の『ほんまに関ジャニ∞!!』の当初のコンセプトだが、それが完遂されてしまったあとの追加的なエピソードを描いたこの3巻では、以前にも増してコメディの要素がつよまっている。楽しいといえば楽しい。が、それはおそらく、彼らのファンであるような立場から読んでの、楽しい、であって、一般のレベルに訴求するほどの内容であるかどうかは、かなり、あやしい。このマンガの裏コンセプトともいえる反戦的な要素を、オカルトめいた展開へと応用してはいるけれど、それがしかし、一本の筋としてチャーミングだとは言い難いのである。ここで重要なのは、『ほんまに関ジャニ∞』がドキュメントではなくてフィクション、さらにいえば実際に存在する人物たちを題材にしたフィクションにほかならない点で、たしかに作者からすれば、さまざまな制約のある難しい仕事だった可能性もある、が、そのことはどうでもよく、ふだんテレビなどでお馴染みのアイドルを魅力的なストーリーのなかに落とし込むことができず、あまり魅力的ではないストーリーが逆に実在する個性によってフォローされてしまっているような成り立ちを、厳しめに見たい。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 気取ったイケメン坊ちゃんのトラウマもしくは罪悪感というのは、こうした少女向けのマンガにおけるレパートリーの一つだが、酒井まゆの『ロッキン★ヘブン』も、ようやく7巻で、今まで謎めかせられてきた藍の持っている傷が明かされる。藍と別れた紗和に、アイドルの晴希がちょっかいを出してくるというのは、まあ予想どおりの動きではあるけれど、どうやら次巻で完結であるらしく、この噛ませ犬的な展開を起爆剤とし、恋愛の面ばかりではなくて、家族の関係性や学校生活のドラマにかかる部分も、一気に収束させようとしているみたいだ。正直な話、ヒロインである紗和のチャーミングさが、物語がスタートした当初に比べると、ずいぶん目減りしていて、それはつまり、どんなに突飛で素敵な女の子も恋をすると普通になってしまうことの表現なのかな、と、無理やりな解釈を加えなければ納得のいかなくなっているのにともない、作品は凡庸な印象をつよめてしまっているが、最後にもう一回ぐらい、紗和が凛としたところを見せ、全体をブライトに輝かせてくれればいいよね。いずれにせよ、ここでは紗和が、というより、紗和の母親が〈私は世の中には幸せが似合う人間と 似合わない人間がいて ずっと それは自分にはどうしようもない事だと思ってた でも違ったの 幸せの限界を決めるのは自分なの〉と、迷い悩む藍に向かいアドヴァイスする言葉によって、かろうじてではあるけれど、クライマックスの前兆であり感動的であるようなモーメントがつくり出されている。

 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月14日
 〈遠藤はただの友達で スキなコがいて 惹かれちゃいけないって 思ってたのに こうなる予感がしてた〉。柏木寧々と遠藤淳は、中学からの付き合いで、お互いを恋愛対象としては見ないまま、同じ高校に進学するのだけれど、タチの悪い上級生に寧々が騙され、傷ついたことをきっかけに、二人の距離は急接近するのだが、しかし淳には忘れられずにいる初恋の相手がいた。渡辺あゆの『オトメゴコロ』は、つまり、そのようなヒロインの片想いをベースにした三角関係的なラヴ・ストーリーだといえる。したがって、高校デビュー的でもある寧々の、初心であるようなエモーション(それを乙女心というのかな)が、作品のカラーを決めているのだけど、個性はむしろ、じつは寧々たちと同じ学校に入っていた淳の初恋の人、河村いずみの造形によっている。この子がさあ、まだ1巻の時点においては、読み手からも作中人物たちからも何を考えているのか、ちょっと見えにくいタイプの人物になっている。もしかしたら裏表がないほどに実直な性格なのかもしれないし、もしかしたら意外と計算高く腹黒いのかもしれない。いっけん清純そうなルックスであるだけに攪乱させられる。寧々を振り回すのも、淳の態度がどうというより、それを間接的に操作しているいずみの正体の掴みづらさが原因であろう。こういう厄介な障害を寧々の恋心がどのように乗り越えてゆくのか、あるいは挫けるのか、今後の展開に関心を持った。

 『キミがスキ』2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月11日
 いかんせん前作が佐木飛朗斗と組んだ『[R-16]』であり、新しい連載先が少年画報社の『ヤングキング』なうえ、主人公がヤンキーだから、という理由で誤解されてしまうそうだが、桑原真也の『ラセンバナ 螺旋花』は、この1巻を読むかぎり、『0リー打越くん!!』の終盤やその後の『TO-mA』の展開に近しい、つまり、穏便にハイスクール・ライフを送っていたはずの青年が不条理で残酷な世界観に巻き込まれてゆくていの、エロティックなヴァイオレンスだといえる。もっとも、登場人物たちの造形が、『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のようなオタク向けの類型ではなく、不良性の濃く課せられたものであるのは、やはりヤンキー・マンガを手がけた経験によっているのだろう。姉を怪我させてしまった負い目からケンカをやめた剣春(はばきはる)の携帯電話に奇妙なメールが届くようになって数日後、彼の周囲の人間に「鬼道」と名乗る集団の悪意が降りかかる。「鬼道」を率いる鬼道逞馬が春を付け狙う理由はいったい何なのか。〈オレの目的は「鬼の血脈」を探し出して――「狩る」〉ことだと彼は言う。さらわれた姉を救おうとする春がピンチのとき、かつての親友であったリョオが突如姿を現し、共同戦線を申し入れた。設定を借りている半村良の小説『妖星伝』を読んだときがないので、くわしくはわからないけれど、どうやらここから伝奇的なアクションが繰り広げられていくみたいである。興味深いのは、現段階における話だが、学校という領域の外に出ることはなく、校内にとどまり、物語が描かれていることで、この点においても、学校の外へぐんぐんと舞台を拡げていった『R-16』より、学校そのものが重要な舞台装置であった『0リー打越くん!!』や『TO-mA』のほうに性格の近い作品であるふうに思う。以前にも書いたが、個人的にこの路線はうれしい。

 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月10日
 このところ、マンガ批評が盛んである、ような気がする。しかし男性向けの作品における、とくに劇画的な手法の進化について語られているものを、ほとんど見かけない。まあ結局は、ポストモダンと文学批評の関係と根っこは同じで、80年代頃のニューウェーヴ・ムーヴメントを境に、批評の側の水準が変化したためであろう。もちろん音楽におけるニューウェーヴとロック批評の関係性を引き合いに出してもいい。ヒップじゃないからといってしまえばそれまでのお話ではある。だが、よくよく考えてみれば、梶原一騎や小池一夫の原作に代表されるような、あるいは池上遼一以降にも、原哲夫や北条司などが80年代に活躍し、その系譜は、現在も森田まさのりや井上雄彦らに受け継がれている事実があることを忘れてはならない。これはあくまでも大雑把な見立てにすぎないが、だからこそ、もうちょい真剣に検討されてしかるべき領域なのではないか、と思う。

 ところで南信長の『現代マンガの冒険者たち』が、副題に「大友克洋からオノ・ナツメまで」とあるのに、井上雄彦から解説をはじめているのは印象的である。残念ながら、南は〈初めから絵がうまかったわけではない。北条司のアシスタントを経てデビューしただけあって、作画の基礎はできていたが、初の連載『カメレオンジェイル』の頃は、とりたててうまくもなければ魅力もない、よくいる新人の一人にすぎなかった〉にもかかわらず、『SLAM DUNK』の連載中に〈回を重ねるごとに、井上の絵は見る見る上達してい〉き、〈さらに、絵のみならず(略)マンガ表現に関するすべての要素が(略)加速度的に伸びていった〉のはなぜか、を十分に論じてくれてはいないけれども、たとえば『バガボンド』においては「漫画的記号」の使い分けが、その作品の質を左右していることを指摘しているのは、重要だ。じつは森田まさのりもそうなのだが、彼らは最初のヒット作である『ろくでなしBLUES』や『SLAM DUNK』で、劇画タッチでもあるような作風のなかに、頭身をコミカルに描くデフォルメ的な手法を、一時的に持ち込んでいる。しかしその後の作品では、逆にデフォルメ的な手法は極力排除してゆく。このことがつまり「漫画的記号」をどう使い分けるかの分岐、もしくはそれが顕著な点だと見ることは可能だろう。ちなみに井上は、伊藤比呂美との対談『漫画がはじまる』のなかで、自分には大友克洋からの影響がなく、水島新司や小林まこと、池上遼一がフェイヴァリットなマンガ家であること、そして同時代の『週刊少年ジャンプ』作家では森田まさのりにだけ関心がある旨を述べている。

 さて。『現代マンガの冒険者たち』の南は、小山宙哉や木島智、日向武史を井上のフォロワーとして挙げているけれど、おそらくはもっとも井上のイディオムに忠実なマンガ家だといえる古谷野孝雄を、見逃してしまっている(たしかに『GO ANd GO』の時点での古谷野は、初期の小山ほどには井上的はないが、すくなくとも日向よりは井上的ではあろう)。また古谷野には、井上ばかりではなく、森田からの影響もうかがえる。ここで重要なのは、その影響はデフォルメ的な手法を込みのかたちであらわれている、ということである。よりくわしく見ていけば、井上から高橋ヒロシへの影響、高橋から古谷野への影響を、あいだに置くことはできる。

 そのハードな質感のなかでこそデフォルメ的な手法を大事にする感性が、絵のレベルだけではなく、ストーリーの説得力、テーマにともなうダイナミズムにまで、よく機能しているのが、この、ようやく11人揃った市蘭高校のサッカー部と昨年度のインターハイ準優勝校である八津野サッカー部との練習試合を、まるごと収めた『ANGEL VOICE』の5巻である。ここで描かれていることは、しごく単純で、それは試合の終盤における八津野の監督の、こういう言葉で示されている。〈今 始めたんじゃない 今 出来るようになったんだ 久しぶりに見るなあ……なまじ強いチームを率いると なかなかこういう瞬間には立ち会えない 1つのチームが――一気にレベルアップする瞬間〉。と、つまり、一試合の最中にどれだけ作中人物たちが成長できるか、にほかならない。

 さっきまでできなかったことが、ちょっとしたきっかけで、できるようになる。これはスポーツ・マンガを読み、感動がやってくる、一大モーメントではあるけれど、ガッツや努力で何とかしてしまうスポ根ふうの展開が、現代的なメンタルやフィジカルの理論によって、まじめに受け取られなくなり、後退させられて以降、困難になりつつあって、そもそも潜在能力が高い人間をあらかじめ用意しておくことが通例になっている。『ANGEL VOICE』でも主要人物である成田や乾は、まさしくそういうタイプだといえる。だが、先ほど引いた八津野の監督のセリフは、成田や乾に比べれば凡庸であるようなディフェンダー陣の覚醒を指し、言われている。〈またたく間に5失点〉を許してしまった彼らが、ある場面を経て、〈10分――この後 たった10分足らずの間に(略)大幅な進歩をとげる〉のである。ここはかなり魅せる。わずか10分で、それまで歯が立たなかったはずの相手と何とか渡り合える段階にまで達することは、当然、絵空事の範疇だと思う。ましてや、それがハイ・レベルなパス・ワークの阻止という高度に技術的なものなら、なおさらだろう。しかし作者はこれを、現実をデフォルメしたフィクションのなかでなら起こりうる論理的な出来事として、正確に表現している。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月08日
 なにわ友あれ 4 (4) (ヤングマガジンコミックス)

 南勝久の『なにわ友あれ』は、もちろん同作者の『ナニワトモアレ』の続編であって、物語の背景や登場人物の大多数がそのまま移行してきている以上、両者は切っても切り離せない関係にあるわけだが、しかし、本質的にはまったく別個の作品であると考えたい。『ナニワトモアレ』に描かれていたのが平成元年(89年)の風景であるなら、『なにわ友あれ』に描かれているのは平成二年(90年)の風景であり、作中の時間において、わずか一年のあいだに、登場人物たちの物の見方や考え方は、おおきく様変わりしている。たとえば、この、『なにわ友あれ』の4巻で、走り屋のグループ、トリーズンを脱退し、スパーキーレーシングを立ち上げた主人公のひとりであるグっさんが、〈ヒロちゃんらがトリーズンを立ち上げた時とは時代がまた違うやろ? ポリの環状族の取り締まりが日増しに強なっていくのに――そない抗争ばっかりしてられへん!〉と口にする言葉に、それはよく現れているように思う。また、走り屋版国盗り合戦でもある作品の構造に着目するとき、『ナニワトモアレ』において、コマの一つでしかなく、あくまでも動かされる立場にあったグっさんが、『なにわ友あれ』では、アタマとして、さまざまなコマを動かす立場に成り上がっており、戦略的な要素に対するアプローチに変動が見られる。そのことはもしかしたら、「OSAKA KANJO STRUT」から「OSAKA-KANJO-TRIBE」へ、といった副題の違いにも現れているのだろう。さて、もう一つ述べておかなければならないのは、女性の扱いに関して、極端な話、強姦(レイプ)が日常茶飯事的に起こるような状況は相変わらずであるけれども、できればそれを断罪したい意志が、つよまっていることである。当然これは、『ナニワトモアレ』の終盤で、グっさんが、恋人を強姦(レイプ)され、挙げ句、べつの男性に寝取られるという、ギャルゲーでいったら完全にバッド・エンド向きな展開を迎えたことと無縁ではあるまい。が、他方で、もうすこしべつの要因、すなわち軽佻浮薄なナンパの時代が終わりつつある状況の前景化でもあると感じられる。これについては、スパーキーとビート、そしてエニシングによる三つ巴の渦中、〈俺がさらってきた女 こぞってマワして〜〜シャブやらハッパやら〜〜いろいろ教えてやったら〜〜〉と完全に人間性の腐っているベンキによって被害を受けた女性たちの存在を通じ、敵対関係と構図とが一変する次巻以降に、触れられたら、触れる。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月07日
 ああ、蟹座のマニゴルドと教皇のセージは、その最期まで、ほんとうに死ぬほどかっこうよかったな。そして今度は、山羊座の黄金聖闘士エルシドの出番である。岡田芽武の『聖闘士星矢 EPISODE.G』では、最新の14巻において、次世代の山羊座であるシュラが見事な活躍を見せたけれど、まさかこのシンクロニシティともいえる展開までが原作である車田正美の指示なのだろうか、手代木史織による『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』の9巻でもまた、山羊座のエルシドがその聖剣である手刀をふるい、〈ヒュプノスの兄弟とも子供とも言われる四神〉を次々に突破してゆく。片腕を失ったハンデをものともせず、〈確かに俺たち人間には超えられぬ限界はある…だが そこに極め近づいていくことはできる〉のを証明していく姿に、やあ、燃えるな。しかし、やはり、本筋というか、主人公のテンマとかつての親友アローンの相剋が、あるいはアローンの妹であるアテナのサーシャを含めた三人の葛藤が、個人的には、あまり、といった感じなんだよね。以前にも述べた気がするが、モノクロのページにおいて、髪の毛の色が、ちょうど黒と白の対照になる少年たちによって繰り広げられる愛憎劇が、どうも類型的なセンを免れていないと感じられるためだ。いやまあ、逆をいえば、こういうタイプのストーリーは、時代性にかかわらず、つねにヴァリエーションがつくられ続けているわけだから、それなりに根強い支持があるのだろう、とは思う。たしかに、幼き日の約束を守ろうとし、自分の意志を試されながら、死闘をくぐり抜けるテンマの姿には、たとえインパクトのつよいものでなかろうとも、ドラマを認めることができる。

 8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月05日
 やっぱり『ジャンプSQ(スクエア)』で、他の作品と並んでいるのを読むのと、こうやって作品単体でまとまったものを読むのとでは、受ける印象が違うような気もする。神尾葉子の『まつりスペシャル』1巻である。前作『キャットストリート』は、シリアスなテーマを扱い、わりと暗い雰囲気の出た作品であったが、この作品では、テンションをばっと上げ、女子高生の受難をコミカルに描く。とはいえ、逆境のなかでがんばる女の子を主人公にしている点において、『花より男子』の頃から(もしかしたら『めりーさんの羊』の頃からか)、まったくぶれのない作風を貫いており、あるいは、それこそが作者の少女マンガ的なセンスであるのかもしれない。羽生まつりは、ふつうの女子高生でありたいばかりに、父親が営むプロレス団体を嫌ってはいるけれど、家を助け、借金を返済しなければならない事情のため、覆面の女子高生レスラー「ハニープリンセス」としてリングにあがり、ごつい女性たちと取っ組みあう。そのことは同級生にはもちろん、片想いをしているイケメンさん、諸角渉には絶対、知られたくないと思っている。だが父親の大ファンである転校生、重松荒太に、自分の秘密を知られてしまったことから、これまで以上に事態はややこしくなってゆくのであった。『まつりスペシャル』を読み、ふと気づかされたのは、神尾がつくる物語のヴァリエーションは、男性登場人物の存在感によっているのではないか、ということで、いや、たしかに、そもそもの設定が違う部分はおおきいのだが、先に述べたとおり、ヒロインのがんばりズムが、土台となり、作品を支えているふうに見えるとき、周囲の男性陣の動向が、彼女の運命を動かす、重要なキーとなっているのだと感じられ、諸角も重松も、じつは作者が過去に描いていそうでいなさそうなタイプの男性であり、そういう、彼らがどう関わってくるか、彼らとどう関わっているのかが、あきらかに、まつりの苦難と奮闘とを、これまでの作品とはべつの個性で際立たせている。

 『キャットストリート』
  8巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1、2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月04日
 SUPER JUMP (スーパージャンプ) 2008年 6/11号 [雑誌]

 しばし誤解されがちであるが、典型的なヤンキー・マンガとは、結局のところ、モラトリアムをどう描くか、の、いちフォーマットにほかならない。このような考え方に立つとき、作中人物たちの多くが、無事に高校を卒業できたとしても、しかし大学に進まない、あるいは就業や結婚を理由に暴走族を引退してゆくのは、方法論的な問題にすぎないことがわかる。それはすなわち、モラトリアムの終焉を意味するからである。もちろん、そうした構造上の力学をリアリズムにそくしていると解釈することも可能だろう。実在のヤンキーだって皆そんなもんでしょう、と。だが、そう言ってしまったが最後、ヤンキー・マンガの大部分が、ドキュメントとして成り立っているのではなく、あくまでもフィクションであることの魅力に説明がつかなくなってしまう。もちろん、たとえまったくの虚構であったとしても、生きたフィクションは、自然と、生きた現実に隣接する。要するに、ヤンキー・マンガの質は、(スポーツであれ恋愛であれメインの題材は何であれ)他の青春をモチーフとするほとんどのフィクションがそうであるように、モラトリアムの内部で起こる出来事を、どれだけ満ち足りたドラマに仮構できるかにかかっている。『ギャングキング』を代表作に、今や人気作家になりつつある柳内が、その好評ぶりを買われてか、『スーパージャンプ』NO.12(先週ぐらいに出たやつね)に発表した『オヤジガリガリ』は、かつて伝説のヤンキーと呼ばれた主人公が、39歳の現在、おやじ狩りをするような卑劣漢に育ってしまった息子と、いかにして向き合うべきか、を描く。父親の立場から見られる社会や家庭内の問題が題材である以上、先に述べた意味において、その内容は、決してヤンキー・マンガにはならない、なるはずがない。にもかかわらず、ヤンキー・マンガの方法論に基づくイディオムを、モラトリアムの外部に持ち出し、その本質を問うこともなく、無自覚なまま採用している(自覚的であったとしても、「想像力」という語の現れ方が、まったくのヤンキー・マンガである『ギャングキング』に比べ、ほとんど発展させられていない)ため、結果的に失敗している。つうか、挙げ句、ポエム・オチかよ。いやまあ、ポエム・オチ自体を悪くは思わないのだが、こういうふうに、作品のテーマとエモーションとを全部代弁させてしまうのは、あまり感心しない。

 『ギャングキング』
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら

 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  1巻について→こちら

 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月03日
 ジャンプ SQ. (スクエア) セカンド 2008年 06月号 [雑誌]

 加藤和恵の『ホシオタ』は、『ジャンプSQ(スクエア)セカンド』に掲載された読み切りマンガで、なぜ一ヶ月以上も前の雑誌で発表された作品を今ごろ取り上げるかといえば、買ったまま放置してあったのを、つい最近になって読んだら、これが意外とおもしろかったからである。星オタ(天文オタク)であった藤子ヨシオは、高校入学を期に、〈望遠鏡だって天文雑誌だって全部捨て〉て、要するに、脱オタをはかる。それというのは〈入学の式の日 こんな暗そーな僕に明るく話しかけてくれた手塚さん〉に恋をし、〈オタだって知られたら終わりだ…! 絶対嫌われたくない!!〉と考えたからなのだが、じつはその手塚さんが〈ミーハーな星オタだった…〉と、このような入れ違いの出発点から、世界の終わりを背景にした青春の様子が展開される。恋愛の感情と人類の危機とが同一線上に存在するSF的な物語は、まったく当世ふう(これがセカイ系ってやつかしら)であり、したがってその点を特異とすることはできないだろう。じっさい、巨大隕石の衝突が少年の決死な行動によって回避されるクライマックスは、今や類型的なご都合主義であり、さほどのカタルシスを催さない。しかしながら、読み終えたとき、ふと心に残るものがあったのは、最初はネガティヴな内面の持ち主であった少年が、事件を通じ、ポジティブな意志を抱く方向へ向き直る、その手続きのとり方を、知らずのうち、作品の良さとして受け止め、認めているためだと思う。言い換えるなら、節となる描写に十分な説得力が備わっているということだ。ストーリーは、無茶無謀をかえりみず、駆け足に進むけれど、肝心な部分をすっ飛ばしていない。〈…そう 僕はずっと逃げてた あの頃…僕は星の世界に逃げてたわけじゃない ただ好きだったから 楽しかったから没頭してた あれが僕だ あれが本当の僕だったんだ…! それすら認める勇気がなくて またイジメられるのが怖くて嘘をついて 正直な君を傷つけた〉、このようなモノローグののち、主人公の態度に示されるのは、古い自分をいかに殺すか、という切実な困難であり、そしてそれは、文字どおり、見事な跳躍を描くことで、乗り越えられている。

 『ロボとうさ吉』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年06月01日
 ラッキー―Are you LUCKY? (ビッグコミックス)

 『サユリ1号』から『CUE』へ、そしてこの『ラッキー Are you LUCKY?』に至るまでの道程において、村上かつらの作品からは、ネガティヴであることの毒とでもすべき触感が薄れてきているような印象を受ける。それが、編集サイドの要望であるのか、作者の資質の変化なのか、は一概には判断しきれないけれども、しかし根底の部分で、らしさ、は損なわれていない。では、その、らしさ、とはいったい何か、といえば、おそらく、人は誰しもナイーヴなまま生きられないという諦念からナイーヴさを描き出すこと、ではないかと思う。『ラッキー Are you LUCKY?』の、父と二人で暮らすことになった内気な少年を犬型のロボットが励ます、こうした概要は、マスコットもののマンガにおける一種のパターンだといえる。だが、その犬型のロボットであるラッキーに、亡くなった母親のイメージをだぶらせることで、物語は、チャイルディッシュなロマンがもたらすあかるさとは異なった方向に展開してゆく。またそれは、たんに子供の世界をシビアに捉まえる、というのとも違う。何事も期間限定であるような、そういう時間の認識によって喚起される無力感を対象化し、乗り越えようとすることに作品の足場があり、この意味で、『サユリ1号』や『CUE』と同質の、らしさ、がたしかに備わっている。正直なところ、ワン・エピソード単位で、わざわざ、感動的につくられたシーンが逆に退屈さを誘ってしまっているのを残念に思うが、挙動不審なオタクっぽいおっさんを、主人公の祐太が、事実とは関係なしに、批判的な眼差しで、その人柄を判断してしまい、あとから後悔する第7話「消えたラッキー」には、この世界との関係をどう切り結んだら良いのかわからない不安が、よく出せている。

 『CUE』3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(2) | マンガ(08年)
2008年05月31日
 覇-LORD 12 (12) (ビッグコミックス)

 『FLASH』で連載されている「漫画家魂」の第1回(2008年2月26日号)で、池上遼一が、原哲夫の登場を振り返り、次のようにコメントしているのが印象的だ。〈彼の作品を初めて見たとき、劇画界にも男の美学を描く新しい才能が出てきたんだ、と嬉しかったですね。同時に少し嫉妬もしたんですよ。というのは、彼はギャグも描けるでしょ。シリアスな闘いであっても、その間にどこかふざけたキャラを配置する(略)昔、『ジャンプ』の編集長に言われたことがあるんです。「キミの絵は洗練されすぎている。どこかバタ臭いものがないと売れないよ」って(略)そもそも『蒼天の拳』の霞拳志郎を描くことはできるけど、虎(フー)さんのような三頭身のギャグ的キャラなんて(略)ボクには描けないよね〉と。

 これは今日のマンガ表現におけるイディオムを考えるさい、意外と貴重な証言なのではないかと思われる。たとえば、原のアシスタントから出てきた森田まさのりなどは、劇画的なタッチを引き継ぎながらも、ほんらいはシリアスな線の登場人物を屈託なくデフォルメさせることができるし、さらにはギャグだけで丸々エピソードをつくれてしまう。ちなみに『週刊少年サンデー』第16号(2008年4月2日号)で、池上は、自らの出世作である『男組』をセルフ・パロディ化しているが、それはちょうど、出来上がっている映像にあわせマトはずれなアテレコを加えているようなもので、ギャグという要素をその作風のなかでうまく消化しているとは言い難い。野中英次を認めているのも、おそらくは、そうした資質の部分で、自分とは完全に別個の表現であると承知しているためであろう。だが、ここで重要なのは、かつては〈洗練されすぎてい〉て、〈バタ臭いものがない〉とされていた池上の作風が、今日の目からすると、間逆の意匠に見えかねないという点で、若い読み手は、たぶん、池上の作風を洗練とはとらないか、あるいはもしかしたら、そうして洗練された様式を、「ベタ」だとか「ネタ」だとかいう現代ふうの、オートマティックな意識で解釈している雰囲気である。

 まあたしかに、そのきわめて劇画的な、それこそオールドスクールと言い換えてもよい作風には、どうにもこう茶化してみたくなるような誘惑が備わってはいる。この、武論尊と組み、“超”三国志を標榜する『覇―LORD―』の12巻でいえば、公孫サン(漢字出ません)と張燕とが、泣きながら兄弟の契りを交わすくだりは、たまらないよね。ひさびさに再会した二人は、その感激を分かち合うべく、連れだって娼婦を求めにいくが、しかし二人ともがあまりにも醜男だったので、ことごとく同衾を断られてしまい、そして〈どうやら オレ達ァ、“女”より“国奪り”だなァ 兄弟……〉と、自分たちの使命に気づき、結束を固めるのであった。ああ、このときの張燕の表情のすばらしさといったら。まちがいなく、名場面に挙げたい。などという冗談はさておき。

 全体の流れに関しては、常元の暗躍と劉備の人徳とが、ここにきてあきらかな対照となり、物語を動かすキーとなっているのが見逃せない。『覇―LORD―』において、彼ら二人は倭の国から大陸に渡ってきた、つまりは古代の日本人に設定されている。以前にも述べたが、主人公である劉備は、いうなれば、先進国が発展のなかで失ってしまった価値観を、後進国からやって来、復権させる役割を負っている。そこで働いているのは、歴史的には遅れている者が、じつはコスモポリタン的に先んじている、の逆説だろう。だが、それに対し、常元という、たしかに弁は立ち、狡猾ではあるが、しかし後進国の遅れが野蛮にしか現れえない人物を導入することで、一種の弁証が、作中に出来上がっている。両者の対照の内から引き出されるのは、個人のレベルで文化と精神とが熾烈に衝突し合うイメージである。このことの意味は、むしろ彼ら周辺の人物への影響となり、表されているといえる。それにしても、まさか、卑弥呼が再登場してきたのには、おどろかされたな。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(2) | マンガ(08年)
2008年05月30日
 『少女と少年と大人のための漫画読本2007-2008』は、野中モモが『流行通信』誌に〈一年に渡って書いた漫画レビューの原稿をまとめ〉た第一部と、彼女が〈いつもその動向を気にかけている漫画目利きのかたがたに、07年に面白かった漫画と08年の注目作をお聞きしたアンケート〉をまとめた第二部の、二部構成になっている自主制作誌である。自主制作誌とはいえ(いや、だからこそなのかもしれないが)、ガイド・ブックとしてたいへん便利に機能し、とても愉しく、読み応えのある内容となっている。たしかにある種の偏りはあるけれども、その偏りを自覚する鋭敏さが、決して排他的ではないポピュラリティをもたらしている。個人的に、ここで取り上げられている作品はだいたいフォローしているので、今まで知らなかったものを教えてもらえてうれしい、ということはなかったが、自分とは違う目線で、とある作品が評価される、そのことから得られた点が多い。たとえば、鳥飼茜の『わかってないのはわたしだけ』は大好きなマンガで、野中の述べていることにほとんど異論はないのだけれども、作中に登場するロック・バンドの固有名詞を見、そこから引き出される〈女子バンドを配したところにセンスとガッツを感じます〉という感想の、とくに〈ガッツ〉という部分は、自分ではうまく拾えなかった印象であるにもかかわらず、まさしくそのとおりだな、と頷かされる。もしかしたらメタ批評といえるかもしれない「漫画ランキングをランク付けしない」以降の第二部や〈「漫画レビュアー心得」のようなもの〉を紹介する「リルマグ漫画文庫ジャーナル」では、第一部でマンガそのものに傾けられた愛好が、マンガをめぐる現実の観察へと姿を変えている。言うまでもなく、両者は分離的に存在するものではない。マンガを読むことが、たとえ趣味であろうが生き様であろうが、主観と客観とが相関し合うところでこそ、その態度がはかられ、問われなければ、たいした価値や意味を持ちえないのである。体裁はコンパクトであるし、語り口や切り口はユーモアにあふれているが、しかしそれ以上のおもしろみが備わっているように思われた。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 個人的には、小説『サマースプリング』の作者でもある吉田アミには、つねづね、南勝久の『ナニワトモアレ』(『なにわ友あれ』ではなく)を論じて欲しい、そう思っているのであった。もしかしたら否定的な言葉の出てくる可能性がつよいが、それでもそこには、昭和と平成の分岐が、あるいは80年代の終わりと90年代のはじまりが、そして暴力と抑圧の対照が、さらには男根主義と女陰主義の相剋とが、おそらくは明瞭に示されることになるだろう、と予感されるからである。いやもちろん、趣味じゃないとかの一言で簡単に通り過ぎてしまう可能性のほうがもっとつよいのだけれども、しかしまあ。そのことはべつとして、この同人誌『ヨシダマガジン2 マンガ読んでる?』には、マンガについてのレビューが、長いものから短いものまで、それなりの数収められており、正直なところ、あまり説得されないものもすくなくはないのだが、たとえば徳弘正也の『狂四郎2030』に関する文章において、〈(略)ツメが甘いのは作者が女性に愛情がありすぎるからなんだろう。わからない部分はわからない、で逃げちゃってもいいのに描いちゃったので残る腑に落ちなさ(略)志乃の内面描写に魅力がない。なんでそこまで被害者意識がないの? 相手が悪いという思考にならなさすぎるというか。そう、優しすぎるし、もっと自分に都合のいいように正当化するもんじゃないのだろうか〉といっているあたりに、書き手の資質もしくは趣味がよく出ているように感じられる。そのほかには、ロクニシコージについて書かれている長文が、読んで、おもしろかった。『すべてに射矢ガール』に『こぐまレンサ』という、とてもすぐれていながらも、一般のレベルではさほど広く認知されていない二作品の、読まれるべきところを、たいへんわかりやすく取り上げている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年05月27日
 ムカンノテイオー 4 (ヤングガンガンコミックス)

 巻数というものが、そのマンガの人気をうかがうひとつの基準になるとしたら、玉置一平(監修・取材協力 / HTロクシス)の『ムカンノテイオー』が全4巻で終わっていることは、そこそこ読まれていながらも、決して大勢に読まれていたわけではない、との印象を寄越す。たしかに今日の流行からは、すこしずれたところに位置する作風であるし、キャッチーとは言い難い内容であるように思う。いや、何もそれは、元ヤンキーが主人公だからだとか、テレビ業界を(たとえリアルを謳っていたとしても)通俗的に描いているからとか、お色気の要素に肉の感触がつよすぎるとか、ということではない。物語の背景にある社会への接し方が、いささか生真面目であるあまり、汎用的なダイナミズムが、うまく備わらなかったことを意味する。いっけん、問題児VS制度のセオリーを用いながらも、問題児が制度に勝つ、負ける、を描かず、むしろ制度の側に立ってみれば、問題児も駒の一個に過ぎない、といった描き方がされているため、ダイナミックな展開が、後ろへ引っ込んでしまっている。そのことは、ゴミ屋敷を捏造してしまった主人公の平蔵が、罪と罰を免れるかわり、ある種の理不尽さを引き受けなければならなくなる様子に、よく現れているだろう。ただし個人的には、それを悪く評価しない。社会との直接的な取り引きのなかに、主人公のアイデンティティを置くことで、モラトリアムの幻想をイノセントであり正義であると勘違いした内容からは、十分に離陸しているためだ。残念を述べるとすれば、その先の地平にまで作品が飛んでゆけなかったことである。

 1巻・2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月25日
 王子ってやつが、他人から好かれたり、もてたりする存在の代名詞であるなら、一度はそう呼ばれてみたいもんだな、と思う。ぶさいく王子というのでもいいよ、いや、だめだろ、それはさすがにもてなさそうである。中原アヤの『ときめき学園・王子組』は、じっさいにどこかの国のプリンスが、というのではなくて、比喩的な意味で王子と称されるような快男子たちに恋をしたヒロインの姿を描く、四つの篇によって成り立っているオムニバスのシリーズで、コミカルなやりとりやテンポの良さに、この作者の、らしさ、は感じられるものの、正直、新規で導入された他のマンガ家からの影響が消化されず、随所にそのまま出てしまっていること、話のつくり自体にそれほどのインパクトがなく、作中にこしらえられているフックやギャップがあまりにも類型的であるせいでフックやギャップとして生きていないこと、などを欠点に挙げられる。ラスト・エピソードである「おまつり王子」に関しては、決して下手くそな作家ではないので、不便なく読めはするけれども、いかにも間に合わせのような出来に少々鼻白む。が、どの篇も、王子と注目されるほどの人間が、大勢の女性のなかから、どうしてその一人を選んだかについて、過渡にロマンティックになりすぎず、適度に納得のいく、手堅さでプレゼンテーションできている。そのことを美点に挙げられる。

 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月24日
 異性に苦手意識があるとき、または自分の気持ちが報われないようなとき、女の子にしてみれば、男なんて、ということになるのだろうし、男の子にしてみれば、女なんて、ということになるのだろう。こういう呟きは、たぶん、いつの時代にあっても変わらず、ある。ななじ眺の『コイバナ! 恋せよ花火』の2巻では、それまで男の子の良さがさっぱりわからず、恋になんかまったく興味のなかったヒロイン、丸井花火が、高校に入って知り合い、最初は嫌な奴だと思っていたはずのイケメンさん、宇野誓のことを、もしかしたら好きになっているのかもしれない、と自覚する様子が描かれている。だが、初心な花火にとって、その、イレギュラーな心の動きは、ただただ混乱を招く一方でしかなかった。そうした内面の混乱を、どたばたとしたコメディに移し替えるさいの手つきに、この作者の良さがとてもよく出ていると思われ、1巻にもましておもしろい内容になっていると感じられる。新規で登場する女講師、AMI姫もじつにユニークな人物である。〈自称28歳 実年齢45歳〉と自分でいってしまうところが、本当か嘘かは知らないけれども、すげえインパクトがある。それから佐々くんが、やっぱり、いいよね。やさしくて、気が利く、こういう男子はもててしかるべきであろう。色気より食い気な元気いっぱいのぽっちゃりさん、厚美が顔を赤らめるのも、わかるわかる。さらに、花火の友人である美衣の思わせぶりな行動が、まあ、おそらくは彼女が同性愛者あるいは性同一性障害という設定の伏線なのでしょうが、ワキの部分を賑やかにしている。しかしながら、と、注意しておかなければならないのは、あくまでも花火の恋が物語のメインだということであり、そして前途は多難だということにほかならない。ヒロインの好きになった男性にはすでに彼女がいる、ばかりか、その彼女はルックスも性格も良い、このような前提を置いてしまった少女向けのラヴ・ストーリーは、たいてい、先に進むにつれ、失敗する。なぜなら、恋愛対象である男性が今付き合っている彼女と別れ、ヒロインを好きになる、もしくはヒロインを好きになったので、今付き合っている彼女と別れる、いやまあ手続きはどうであれ、なぜヒロインを選んだのか、といったポイントに対し、つよい説得力を与えることができなかったりするためだ。ある程度、大人向けであれば、なんとなくであったり、場のムードやノリであったりしても、そういうことってあるよね、と解釈されるが、恋愛がイノセントな感情の結果だと信じられているような表現にあっては、身近にいたほうが勝ち、(じっさいに性交するわけでなくとも)寝取ったら勝ち、の美学は、そもそものテーマを壊しかねない。はからずも2巻には、誓の恋人とたまたま挨拶する機会のあった花火による〈別に 望まないし 望めないし 勝ちとか 負けとか 考えもしなかったけど 完敗な私は 宇野誓の目にどう映っているのだろう〉というモノローグがあるけれど、じっさい、誓が心変わりをすることがあるとしたら、相応の必然を、作者は、今後の展開に用意しなければならないのである。それこそ心変わりの理由にルックスや性格以上のサムシングを。この難問をどうクリアーするか。正直なところ、序盤はすごく楽しかったのに後半がかなり残念になってしまった前作『パフェちっく!』を思い出してしまえば、どうしても不安を覚えざるをえないのだった。

 1巻について→こちら

 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月23日
 前巻のときにも思ったのだけれど、やはり、こういう多国籍なハード・アクションになると、石渡洋二(原作)の絵が懐かしくなるな。いや、山根章裕のシャープな線もけして嫌いではないのだが、もうすこし無骨な感じが出ていたほうが、血や肉の残酷さがよく伝わってくるように思う。しかしながら、そういう、スマートでもある山根の作風との化学反応によって、ここまで連載が続いた、現在も続いている可能性が考えられる。たしかにこれだけの長さの作品は、今までの石渡のキャリアにはなかったものに違いない。さて。『デンドロバテス』の4巻、昼は新宿北署の会計課に勤務し、夜になれば「千の銃の男」の名を持つ復讐代行人に変わる仙川は、たまたま知り合った日系コロンビア人女性の敵を討ったことから、蛇と呼ばれる新興の外国人勢力と対決することとなる。そして読み手が知らされるのは、どうやら仙川と蛇とのあいだには何か因縁がありそうだぞ、ということである。石渡の過去作、『フロンティア』では北朝鮮を、『青侠(ブルーフッド)』(原作・江戸川啓視)では中国を、と、他民族の価値観を用い、この国を相対化し、さらには弱者と強者との、貧困と裕福との、生と死との対照のなかから、プライドとでもいうべきものの重たさを引き出した手法が、『デンドロバテス』においては、南米のアンダーグラウンドから日本に流れ込んできた人びとによって為されていることはあきらかで、蛇の頭領であり、孤児を人間爆弾に使いながら神の慈悲を語る男、ライコ(俗人)の登場が、おそらくはそれに拍車をかけることとなるのだろう。ところで、この巻には、そうしたおおきな動きとはべつに、一話完結型のエピソードが二つ、収められている。高級料亭の擬装問題にネット難民と、どちらもいわゆる時事ネタを盛り込んだ内容であるが、日本人ってほんとうに駄目になっちゃったんだなあ、でも全部が駄目になっているわけでもないんだろうね、という印象のうちで扱われているのも、基本的にはプライドの問題だといえる。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月22日
 将来を嘱望されるフィギュアスケート界の至宝、現在15歳の月岡ノエルが、その手の推薦を蹴ってまで、進学校の四ツ葉学院に受験入学したのには理由があった。幼い頃から思慕している兄の尚人がそこで教師をしているためである。一方、尚人は、いつまでも兄離れしない妹を、とても可愛らしく思い、嬉しくもある反面、複雑な感情にとらわれていた。なぜなら、彼らはじつは血の繋がらない兄妹であったからだ。ノエルだけがまだそのことを知らない。こうして、ノエルと尚人の、周囲の人間を巻き込んだ賑やかな日々が、幕を開ける。と、つまり山花典之の『ノエルの気持ち』は、オールドスクールな近親間のラヴ・コメディといえる内容であり、作者には似たタイプの過去作として『妹』とそのリニューアル版『妹〜あかね〜』があるけれど、おおきく異なっているのは、二人の両親が健在のうえ、中流もしくは上流(に見えるような環境)に生活レベルが引き上げられている点だろう。これにともない、幸せファミリーの一家団らん的なムードのつよい作品になっている。そのため、抑圧であれ、愛情であれ、家族という関係性から生じる葛藤が薄口になり、兄妹のあれこれも、どこか、嬢ちゃん坊ちゃんのママゴトじみてしまっている。もちろん、1巻の段階で、これを不備とすることは、いささか性急に違いない。おそらく、物語が進むにつれ、尚人が養子であることや、ノエルに対する大勢の期待などが、シリアスな問題となり、浮上してくると思われるからだ。しかし、そういった展開が読めてしまうことを残念に思うのである。いや、キュートな振る舞いの女性たちが多数登場してくるドタバタ劇としては、さすがにキャリアを積み重ね、それ用の作風が出来上がっているだけあり、楽しい。が、その観点からいくと、正直、女の子のデザインは以前までのほうが良かったような。どうしてこう、目や唇のかたちを(シリアスなタッチのときの)森下裕美みたいにしてしまったのか。元の絵柄に加えられた新機軸が、ところどころで歪に作用している。

 『オレンジ屋根の小さな家』7巻について→こちら
 『夢で逢えたら[文庫版]』第1巻 第2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月21日
 ええと、この『聖闘士星矢 EPISODE.G』0(0巻)には、車田正美の本編『聖闘士星矢』の前日譚を岡田芽武がマンガ化した『聖闘士星矢 EPISODE.G』のさらに前日譚にあたる「アイオロス編」と、『聖闘士星矢 EPISODE.G』の足跡をまとめた「銀河百科事典」が収められており、「アイオロス編」に描かれているのは、超人同士の壮絶なバトルというより、『聖闘士星矢 EPISODE.G』の序盤にあったような、現代文明のなかで聖闘士(セイント)がいかなる役割を果たしているか、秘密裏に人類の平和を守り、保つ働きだといえるわけだけれど、『聖闘士星矢』本編でも、『聖闘士星矢 EPISODE.G』でも、キー・パーソンとして注目を集めながら、しかし活躍そのものはあまり取り上げられることのなかったアイオロスの、そのポテンシャルがどれほどのものであったのか、ようやく見られるのが、うれしい。さらには『聖闘士星矢 EPISODE.G』の黒幕的な存在であるポントスの復活に、アイオロスとアイオリアが絡んでいたというのは、因縁めいている。それにしても、アイオロス、いやまあ、車田の設定ではないのだろうが、ずいぶんとキュートな人物である。まだちびっ子であるアイオリアを可愛がったり、意外とアバウトであったりする様子は、のちにアテナを死守した英雄と語れる像とは、いっけんかけ離れている。が、やるときはやる、凜とした立ち姿からは、やはりこれが、あのアイオロスなのだろう、と説得させられる。このへんに、岡田のアレンジのセンスの良さが出ているように思う。

 14巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら 
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 二刀聖剣(ダブルエクスカリバー)、神を貫く。まさに捨て身の覚悟というべきか、拳の砕けることを畏れぬ覚悟が、シュラを加速させ、ついにクレイオスとの戦いに決着が訪れる。やがて崩れ落ちるクレイオスが述べる言葉のかっこうよさときたら。〈その力 己の魂と引き換えに得た刃は いかなるものであろうと斬り裂くのだな 仮令(たとえ)相手が神であっても〉。以前にもいった気がするけれど、『聖闘士星矢 EPISODE.G』における最大のテーマは、やはり、たとえ運命が神によって予め定められていようとも人はけして無力ではない、ということだろう。この一戦も、それを見事なほどのスペクタクルに変え、烈火のごとき熱のうちに表現していたように思う。そして、シュラの敢闘を含め、これまで聖闘士たちの起こしてきた奇跡が、とうとう神の側に動揺を与える。人間の強さが、その有限である一生に由来していることを見抜いたティターン神族のコイオスは、約束されたアイオリアとの一戦に、勝利すべく、自らの命を懸け、のぞむ。雷光電撃(ライトニングボルト)VS漆黒刺突(エボニーレイピア)、雷と雷が衝突し合う、ここからの展開が、いやまた燃えるなあ。力、力、力、逆賊であるアイオロスの弟であるがゆえ、ただ孤独に力だけを求め、強くなってきたアイオリアを、ティターン神族全体の未来のため、死をも厭わぬコイオスが圧倒する。だが、アイオリアには、あった。〈その力は神である私を倒せる力なのか?〉と問うコイオスに、〈倒す…力じゃない これは…全てのものを…守る…力だ…〉と答えるだけの力が、まだ、あった。それを勇気という。〈勇気ある者に…こそ奇蹟が起こる…!!!〉のである。瀕死の状態にありながら、なお小宇宙(コスモ)を強大にするアイオリアの拳に奇跡が宿る、そのときをおそらく、コイオスは目のあたりにすることとなる。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら 
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月18日
 周知のとおり、矢沢あいの『NANA』で語れらているのは〈あの頃〉のことであるが、しかし、たとえば紡木たくの〈あの頃〉が現在を過去として回想する視点であったのとは違い、まさしく現在からの視点で回想される過去でしかなく、この現在と過去のあいだに何が起こったのかを、ちょうど穴埋めするような手法の〈あの頃〉であることが、じょじょに明瞭となってきているのだけれども、同時に気づかされるのは、描かれている現在の内容からするに、物語の結末は未来にまで時間が進まないとやってこなさそうだぞ、ということである。未来とはすなわち、現在がすっかりと語られ、そしておそらく、ナナとハチ(奈々)とが、何らかのかたちで、再会することを意味する。もちろん、現在がすっかりと語られるためには、そこへ至るまでの経緯が十分に説明されていなければならない。ここで注意しておくべきなのは、そうした穴を埋める作業が、他ならぬ現在において作中人物たちがいかなる問題を抱えているのか、を解説する役割を果たしていることで、この19巻では、順調に子供は育ち、生活も裕福でありながら、しかしハチの置かれている状況はまったくの幸福だといえそうもないことが、あかされる。物語のはじまった当初より、ハチは恋に生きる女性であった。換言するなら、誰かを愛し、誰かに愛されることでしか、自分の居場所を得る術を知らなかった。それを愚かだと批判するのは容易い。だが、この世のすべてが平等には成り立ってはいない以上、そのようにしか生きられぬ人間というのもいるのではないか。この巻には〈ねえナナ こんな話 知ってる?〉とはじまるモノローグがある(P129)。これはもちろん、タクミとの仲が健全に機能していない、つまり現在の時点から発せられているものである。にもかかわらず、そのモノローグは〈ほんとは今も好きなの〉と閉じられる。ここは前後の文脈を踏まえたとき、たとえ愚かだとしても笑うことができないぐらい、切実で、せつない印象を寄越す。

 18巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月17日
 スプラウト 7 (7) (講談社コミックスフレンド)

 この7巻が南波あつこ『スプラウト』のフィナーレにあたるが、やっぱり、ちょっと、残念な内容だったかもしれないねえ、というのが最終的な評価である。それはひとえに、本来区別されるべき恋愛感情と家族愛とが、ごっちゃになってしまったためであろう。いや、もしかしたら作者は、恋愛感情と家族愛とを区別するべきではない、もしくは両者に共通する、つまり自分以外の誰かを想うことの価値を掘り下げようという意図のもとに、あえてごっちゃにしたのかもしれない。だが、たとえそうだとしても、やはり、やり方が、浅はかで、薄っぺらく、拙すぎた。家族は大事、恋人は大事、というのを前提にしながら、ではなぜ家族が大事なのか、なぜ恋人が大事なのか、作品はまったく答えようとしていないのである。そして結局のところ示されたのは、たかだか、家族は大事だから家族は大事、恋人は大事だから恋人は大事、程度のトートロジーにほかならない。〈俺 俺 ときどき心配だった みゆは 俺じゃなくてもよかったのかなって あのとき最初に声かけたのがたまたま俺だったから みゆは俺を選んだだけで‥‥‥‥俺じゃなくても他のやつでもよかったんじゃないかって ずっと不安だった〉と草平が口にする言葉は、恋愛感情において、本質的な不安だといえる。しかしそれは、みゆと草平が別れる理由にはなっても、草平が実紅と付き合う理由にはならない。なぜ草平が実紅を選んだのか、なぜ実紅が草平を選んだのか、やはり、たまたま一つ屋根の下で暮らす機会があったから、にすぎないのではないか。そうしたもっとも重要とすべき部分を描くにあたり、家族の関係を例に出し、すり替え、誤魔化してしまった印象を受ける。なるほど。たしかに、どうして家族は大事なのか、それは家族だからだよ、という問答は、いちおう成立するには違いない。血縁関係がはっきりとしていればなおさらである。けれども、どうしてその恋人でなければならないのか、どうしてその恋人が大事なのか、という問いに対し、それは恋人だからだよ、と答えてみせるだけでは、そもそも赤の他人である存在を受け入れる理由として、ほとんど何も言っていないに等しい。なぜその人のことが好きなのか、ラヴ・ストーリーであるような物語において、そこに気分以上の材料を与えられていないことは十分な疵に値する。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月15日
 ちはやふる 1 (1) (Be・Loveコミックス)

 末次由紀『ちはやふる』の1巻を、08年上半期最大の収穫として挙げたい。それぐらいこのマンガはおもしろい。もうすでに30回は読み返しているけれど、そのたびに鮮度の高まっていくような興奮がある。

 まず第1話目(第一首)の冒頭、単行本のページでいうと4ページ目から7ページ目まで、〈お願い だれも 息をしないで〉とヒロインの横顔があり、次の瞬間、〈ち――――〉という読み上げとともに、かるたの札が、勢いのある擬音とともにはじかれる、このときのインパクトにどれだけの情報が凝縮されているか、物語を追ううちに気づかされ、振り返り、おどろかされる。わずかなコマのなかに示される力強い動き、烈とした目の輝き、そしてそれらを統べる集中力が、いったいどこからやって来ているのかが、その後に、もちろん1巻の時点ではすべてではないだろうが、非凡なほどの緻密さをもって展開されているためである。

 さっそうとしたクライマックスの直後、8ページ目からいきなり回想に入る。読み手が目にするのは、6年前のこと、小学生だった頃のヒロイン、綾瀬千早と競技かるたとの幸福な出会い、そのはじまりとでもいうべき瞬間だ。彼女はまだ、新聞配達をする転校生、綿谷新が、自分に何を教え、もたらすのかを知らない。ここから『ちはやふる』は、弾むようにテンポよく、しかし劇的に、一人の少女の運命が変わっていく様を捉まえていく。

 とにかく、作中人物たちの造形と配置、一個一個の設定と振る舞いが、次第に、千早のかるたにかける情熱へと集約される、その話の運びが見事だというほかない。千早と新、それから二人のクラスメイトである真島太一の、三者のあいだで結ばれる関係性が、ちょうど中心の軸となり、回り、作品全体を動かしているのだけれども、それぞれの家庭環境や性格、潜在的な能力をプレゼンテーションしながら、そこにあらわれた現実と孤独とに架橋するエモーションをよく生かすことで、イノセントな子供たちにとって成長の証となるものが、どうしても競技かるたでならなければならなかった、というストーリー上の必然に対し、多大な説得力が与えられている。あるいは、もっと単純に、かるたの存在を通じて得られた夢と友情とが、夢と友情のなかにある純粋な喜びと純粋な悲しみとが、たいへん楽しく、さらには感動的にさえ描かれている、といってしまってもよい。

 おそらく競技かるたとはマイナーなジャンルだろう。いや、すくなくともマンガ表現においては、近年、竹下けんじろうの『かるた』があっただけで、取り扱った作品が他にはなかなか思いつかないぐらい、稀少な題材ではある。だが『ちはやふる』においては、作中人物たちのユーモラスなやりとりが間口のひろがりをつくり、なおかつ集中力をモチーフに抱くドラマとしての普遍性が高められているおかげで、読み手は、マニアックな概要に躓くことがない。前者は佐々木倫子のそれを彷彿とさせるし、後者は曽田正人のそれを思わせる。

 いずれにせよ、上の句が「ちはや」ではじまる札と出会い、自意識に目覚めてしまった少女が、これからどういう道のりを歩み、冒頭に予告された一点の動作にまで辿り着くこととなるのか、先が気になっては仕方がなく仕方がなく。

 『ハルコイ』について→こちら
 『Silver』2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年05月14日
 おひとりさま日和 (デザートコミックス)

 なんとか日和、って題名がほんとうにみんな好きなんだなあ、と思うぐらい、あちこちでそう名づけられた作品を見かける、見かけることにうんざりしてしまう今日この頃なので、森下温の読み切り短篇集『おひとりさま日和』に関しても、題名の、そのひねりのなさに、ちょっと、と言いたくなってしまうのだけれど、収められた四篇の内容には、とても好感を抱く。すくなくとも、まっすぐに描かれたラヴ・ストーリーの数々からは、じょじょにキャリアを積み重ねてきた作者の、たしかな飛躍が感じられる。それはもちろん、作画や構成などのテクニカルな面によく現れているが、ストーリーやテーマのつくりにしても、わかりやすい上辺だけでぜんぶを片づけてしまうところがなくなった。たとえば、買い物も食事も一人でこなせてしまう19歳の若い女性が、はじめて異性を受け入れたことで、感傷と孤独の存在に気づいてしまう表題作では、いかにも『デザート』誌的なセックス(性交)を題材に用いながら、以前までのあざとさはなく、行為自体を、自然と作中人物のエモーションに寄り添わせることができている。そのほか、地方出身であることと小太りであることから恋人にコンプレックスを持ってしまうヒロインを描いた「うでまくらひざまくら」や、色気より食い気な体育系女子が食い気より色気に目覚める様子を描いた「高円寺純情スカート通り」の、表題作より古いマンガに関しても、切実さと純情さをすくいとる手つきの丁寧さに、着実な進歩と魅力がうかがえる。とはいえやはり、もっとも新しい「四半世紀めの恋〜おひとりさま日和〜」が出色である。24年間、男性経験のなかったヒロインに、とうとう恋人ができる。しかしどう接したらいいのかわからず、戸惑う。そういう、どぎまぎした姿がキュートであり、ちぐはぐ絡まる想いに胸を打たれる。ばかりか、細部の描写に気が利いているおかげで、まさしく郊外を舞台にしたドラマの、ショッピング・モールの内部で完結している人間関係に、生々しい、リアルと言い換えてもいいような説得力が与えられている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月12日
 毎回、永田晃一の『Hey!リキ』を取り上げるたびに批判的な内容になってしまうのは申し訳ないのだけれども、いやまあ、それだけの深刻さが含まれていると考えていただきたい。さて。個人的に秘かにだが「50年組」と呼んでいる男性マンガ家たちがいる。端的にいえば、高橋ヒロシやハロルド作石、田中宏などの90年代を代表するヤンキー・マンガを残した作家の影響下にある、もしくは直接の弟子筋にあたる一群のことで、柳内大樹(昭和50年生)やSP☆なかてま(昭和50年生)、たーし(昭和49年生)、鈴木大(昭和48年生)、真島ヒロ(昭和52年)などの、要するに昭和50年(1975年)を前後して生まれた人びとが、それである。もちろん、永田(昭和49年生)も含まれているのだが、おそらくは『Hey!リキ』にこそ、その「50年組」に共通する問題点が、もっとも具体的に現れているように感じられる。つまり、先人の編み出したイディオムを借用するのは良いとしても、そこからの発展性がほとんどない、新しさが見られないということだ。もちろん、継承したイディオムを無理やり崩す必要はない。それが完成し、すぐれているのであれば、なおさらだろう。しかし、そうしたイディオムの再現にかかずらうことが、かならずしも作品の質をより良くしてはいないし、結果的に、そうしたイディオムに特有の、効果抜群な機能を低下させてしまっている。この12巻では、天坊工業の内部抗争にいよいよ決着がつけられるのだが、これまでの過程を含め、はたしていったいどこに読み応えがあっただろうか。そもそものアイディア(原案)を提供した高橋ヒロシならこう描くだろうね、のイメージを熱心にコピーしていようと、キャリアの違いからくる力量の差ははっきりとしていて、それを他の面でカヴァーする気がないんだから、残念な結果になるしかないんだ。それから、まさか驕っているわけではないだろうね、登場人物の描き分けが、だんだんと雑になっているのも、きびしい。ファッションには疎いので、短ランの下から白いTシャツをはみ出させ、だぶだぶのボンタンにウォレット・チェーンという着こなしがどれだけナウいのかは知らないけれど、みんながみんな同じ格好をしているばかりか、顔の表情にヴァリエーションもなく(かろうじて髪型だけにあるのみで)、遠目でもアップでも誰が誰だかの区別がつきづらいのは、作者の手抜きでなければ、読み手に対する配慮の行き届いてなさを痛感させる。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月09日
 ハワイにだってクソみたいな奴はいたんだから、そりゃあ横浜にだってクソみたいな連中はいるだろうよ。市松高校と城南高校の抗争に介入し、はからずも千葉最強を達成してしまった難破剛が、またもや不本意なかたちで、しかも今度は県外にまでおもむき、横浜の不良と対決することになる、というのが、この小沢としおの『ナンバMG5』15巻にもたらされる新展開なのだけれど、まあ、剛に正義感がなく、またお人好しでもなければ、そんなことにもならなかったんだから、自業自得といえるのかもしれない。が、しかし、そこがたまらないんだよね。自意識の壊れた暴力的な存在が少年院を出てくる、こうしたシチュエーションとそれにともなう脅威の到来は、この手のジャンルにアリガチなものであるにもかかわらず、彼ならば何とかしてくれるだろう、の人柄がつよいフックとなり、ますますおもしろく感じられるし、たいへん胸を熱くさせられる。地味だが、美術部の後輩である牧野を心配するうちに知り合ったレディース、横浜魔苦須(マックス)の面々に見込まれ、自己紹介を受ける場面が、好きである。〈中学んとき みんなにカバって言われてたから…〉カー子と呼ばれる女性に〈そっか〉と答える表情、〈バカだけど力だけは強い〉ので〈フランケンって呼ばれてた〉フー子に〈わ…悪かったな デケェなんて言って…〉と謝るときの右手、もちろん彼女たちの性格の良さがあってのことだとしても、こういう些細な描写に剛の魅力がよく表されているように思う。副総長であるナンシーの自己紹介で、微妙になった空気を、さりげなく元に戻すような、作者の気配りとセンスも注目に値する。自分と同じく二重生活を送る牧野に、剛が興味を持ったのが、そもそものきっかけであるけれど、今回のエピソードを通じて強化されるのは、たぶん、仲間の重要性とでもすべきラインだろう。千葉に引っ越し、家族に心配をかけまいと普通の女子高生を装うが、魔苦須の危機に、ふたたび横浜へ駆けつける牧野の姿は、ごく一般的な(シャバいともいう)高校生活を過ごしたいのに、仲間の危機にさいしては特攻服を着るのを厭わない、そういう剛の態度とだぶっている。そして次巻では、ケルベロスのキング、光一の本格的な登場が、彼の、暴力ですべてを屈服させる狂気が、剛の、それはすなわちこのマンガの持っている健全さと、直接に対決することとなるのだった。それにしても、難破家の愛犬である松のかわいさは、あいかわらず、ずるい。上を見上げる目線とか、やわらかそうな毛並みとか、ちょっとした動作や擬音にいたるどれもが、いちいちキュートすぎて、最高潮に和む。このペット・マンガがすげえ、ということで、ブレイクしたりしないかな。

 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月08日
 帯に中島美嘉のレコメンドが付いているのは、感覚的に、ものすごく合っているようでもあり、ものすごく合っているから微妙なようでもあり、まあ『WORST』というマンガの迷走ぶりをよく表してはいるか。いま、迷走と述べたが、もしかしたら、作者の高橋ヒロシ自身、そして大勢のファンにしても、そんなことは微塵も感じていないかもしれない、結局、そのへんが最大の問題なんだよな、と思う。まず率直にいってしまえば、ここ数巻は、おどろくぐらい見るところがなかった。主要人物たちによるケンカ、というかタイマンに次ぐタイマンのシーンが繰り広げられ、それぞれの見せ場を持たされた展開は、本来ならば、こう、読んでいるうちに血が滾って仕方がなかったものだろう。しかしながら、いまいちいけていなかった。とくに九里虎と善明の決闘に顕著であったような、大ゴマを使い、極力セリフを排し、登場人物たちのアクションを軸に作中の時間を描こうとする構成は、おそらく、高橋がフェイヴァリットにしている井上雄彦の、『SLAM DUNK』の山王戦を意識したものだと推測できるのだが、いかんせん『SLAM DUNK』の場合とは違い、事前の物語で積み重ねてくるべきであったテーマの中心となる点を欠いた状況で行われているため、さあここからがクライマックスですよ、といったインフォメーション以上の効果をあげていなかったとさえいえる。薄っぺらい迫力しかなかったのは、あくまでもそれが表層的なものにすぎなかったからで、もちろん、ケンカ熱い、不良かっこういい、のスペクタクルのみをやりたかったのであれば、何ら問題はない。だが、現代ヤンキー・マンガのイディオムにおおきく関わってきたマンガ家の振る舞いが、それではまずかろう。いや、個人的には、これまでにも何度か書いたことだけれども、『QP』で扱った我妻涼の救われないアウトサイダーぶりが若い読み手にカリスマとして受け取られていることへの残念を、かつて高橋がいっていたのを信じているので、こういうふうな不服を示してしまう。要するに、我妻涼に象徴された不良の孤独をいかに克服するか、あるいはその悪影響をどう払拭するか、それらのことを『WORST』には期待しているのである。さて。率いていた軍団の主だった戦力が倒されてしまい、完全に孤立した天地寿が、いよいよ月島花との最終決戦に召喚される、というのが、この20巻の流れであり、天地の非情な性格が自殺した実父に由来するものだとの事実関係が、こちら読み手に明かされている。このことによって、仲間を必要としない天地と仲間を大事にする花の対照が、より鮮明となっているのだが、しかしなあ、天地の暗さはともかく、花のあかるさに魅力不足というか、周辺からどれだけ慕われているのかはわかるし、そういう慕われ方をもって彼の人柄をアピールしたい目論みなのもわかる、けれども、なぜ慕われているのかだけがあまりよくわからず、天然的に無邪気であるふうにしか見られないのが、つらい。天地との直接対決に入る前に、せめて花の性格を掘り下げ、存在感をつよめるエピソードを、あと一つか二つ、入れて欲しかった。

 17巻について→こちら
 11巻について→こちら

・その他高橋ヒロシ関連の文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月06日
 先日創刊された『m9』Vol.1の記事のなかに、田中太陽という人が書いた「今こそキン肉マンを再評価せよ!」なる文章がある。そこで田中は、今日はロジカルな作品がマンガの主流となっているが、その評価基準では測ることのできない点において、かつてのヒット作である『キン肉マン』の魅力を見、ロジックを無視し、矛盾や不合理を厭わなかった結果、いくつかの発明がなされたことを述べて、たとえば、それは「キャラクターの強さを数字で表すことにより、読者にわかりやすくする」ことであり、たとえば、バトル形式のマンガに「倒した敵が味方になる」パターンを導入したことだ、といっている。じっさいに、『キン肉マン』がそれらの発祥であるかどうかは、よりくわしく検討される余地のあるところだが、しかし、すくなくとも『キン肉マン』がそれらを『週刊少年ジャンプ』誌に定着させたとの見方は、けして誤ったものではないと思われる。そのうえでもう一つ、個人的につけ加えたいのは、血筋、血統、現代的にいえば遺伝の要素を、強さの無根拠の根拠とするようになった嚆矢も、じつは『キン肉マン』だったのではないか、という点で、もちろん、主人公であるキン肉スグルがじつは捨てられた王子だったという設定は、そもそも貴種流離譚的なもののヴァリエーションだろう。しかし、それがバトル化を徹底していくうち、勝利をフォローするおおきな要因となっていったのである。そしてその、たとえ後付けであれ、先天的に強者になる資質を備えていた、式のパターンは、『キン肉マン』以降の作品に多く見られるようになる。『ドラゴンボール』にサイヤ人が登場するのは89年頃であるし、まさしく血統を大事にする『ジョジョの奇妙な冒険』の連載が開始した87年に、『キン肉マン』の連載が終了しているのも何か因縁めいている。いずれにせよ、現在も『ONE PIECE』や『NARUTO』、『BLEACH』などが、じつは主人公の父親が、ということになっており、また、やはり『キン肉マンII世』がその代表になるのだけれども、往年のヒット作の続編、二世ものや先祖ものも結局は、血筋の問題が前提になっていなければ成立しない。極端な話、そのことの説得力を支えているのは、無意識であろうとも、現代的な優生学の見地であるかもしれず、おそらく、徳弘正也だけが『ジャングルの王者ターちゃん』や『狂四郎2030』において、自覚的に、これの否定形で物語をつくることに成功しているとさえいえる。まあ要するに、ある時期から『週刊少年ジャンプ』的な力学は、生まれが凡庸である存在はもとより、無作為な突然変異や自然な奇形すらも排除する方向に動いてきたのである。そのなかにあって、藍本松の『MUDDY』は、異端だったのだろうか、それとも尖鋭だったのだろうか。すでに連載は打ち切りのかたちで終了になってしまっているが、突発的に生誕した人間型のキメラ(合成動物)である主人公のマディが、その誕生に関わる元天才学者のクレイと旅を続けるうち、人間らしさとは何かを学んでゆく(はずだった)ストーリーは、けっこう重要な問題提起を含んでいたように思う。ただし、作者自身がそれに気づいていたのかどうか、うまく生かしきることができなかったのは残念である。長さからすると、全2巻でまとまるのかな。話がごっちゃになってきたので、作品内容そのものに関しては、次巻が出たときに、あらためて触れることにする。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年05月05日
 『週刊ヤングマガジン』NO.23 / 24(合併号)の編集後記の欄(黒ブタMidnight)で、他社の作品にもかかわらず、なぜかヤスという編集者が宣伝をしていたり、帯に浦沢直樹のわざわざ凡庸なコメントをつけたり、これだけのベテランを今さら『愛と誠』の作者と強調してみたり、いやまあ売りたい気持ちはわかるのだけれど、そういう戦略が、こちら読み手の側からするとかなり軽佻浮薄に感じられるぐらい、ながやす巧の『壬生義士伝』は、じつに読み応えにあふれた作品である。浅田次郎の小説のコミカライズとながやすの相性の良さは、過去に『鉄道員』や『ラブ・レター』で実証されているとおりであるが、それらが短篇をベースにしており、現代劇の装いであったのに対し、今回は幕末を舞台に、新撰組隊士の半生を扱った同名の長篇小説が、マンガ化の対象である。やや前提が異なるとはいえ、そこはさすが、きっちり骨太な時代劇に仕上げている。正直、『コミックチャージ』で連載を追うにあたっては、細切れで話のよく見えない印象がつよかったが、こうしたまとまりのあるかたちで提出されると、ページをめくるにつれ、ぐいぐいと物語に引き込まれる。逆に、ものすごい中途半端なところで2巻へ続くとなっているのが、恨めしくなるほどだ。慶応四年、鳥羽伏見の戦場を逃げのびた吉村貫一郎は、瀕死の体で迷走した挙げ句、かつて脱藩した南部藩の蔵屋敷にたどり着く。そこで命乞い、帰参を願うが、竹馬の仲であったはずの差配役大野次郎右衛門に、せめて武士らしい最期を遂げるよう、切腹を命じられることとなるのであった。ここから、吉村がいかなる人物であったのか、第三者の目を通じ、新撰組全盛の頃に回想されてゆく。そもそも原作ありきという点を差し引いても、ここの構成は見事である。語り手がスイッチし、それまで吉村の内面を見ていた読み手は、今度は彼の表面を見せられることになるのだが、このとき、まったく違和を感じることなく、自然と集中力が移動しているのに気づき、おどろく。それにしても、武士の生き様とは、現在の目からすると何とも非情な価値観であることか。だいいち切腹ってさあ、自分のお腹に刃物というか刀をぐいっと刺して自力で開いちゃうことなんだから、超こわいよね(もちろん、介錯の人が首を落としてくれる場合もあるんだけど、それだって十分怖いだろ)。そうした環境のなかにあって、金銭を得るためだけに新撰組に参加し、窮地に立たされてもなお、誇りなどかまわず、〈死にだぐねぇがら人を殺したのす!〉と自分の命を大事にする吉村の姿は、やたら貧しくもあるし、妙に生々しくもある。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 わずか0.0000007秒の遅れが命取りになるような超高速度の戦い、ああ、こういうはったりのきいたところが最高に好きだよ。ただし、それはもはや、絵に描いてしまえばスピードが死ぬのと同義ともいえる領域であって、その困難さを引き受け、よくぞここまでマンガ化したものだと思う。いや、あるいは逆に、それが限界だからこそ、ここで物語が終わることは必然であったのかもしれない。この3巻で、夢枕獏(原作)と野口賢(作画)のコンビニよるサイキック・アクション『狗ハンティング』は、フィニッシュを迎えたわけだが、正直、ストーリー的なカタルシスがもうちょいあれば良かったかな、という気もするけれど、念流という視覚できない手段を用い、さらには認識を完全に上回る刹那で繰り広げられるバトルには、たいへんわくわくさせられた。人間と人間を超越する者の相克というテーマは、同コンビの以前作『KUROZUKA -黒塚-』から引き継がれたものでもあるし、もちろん夢枕の諸作品(小説や原作をつとめたマンガ)に通じるものでもあるが、そのことが『狗ハンティング』では、わずか0.0000007秒の遅れすらも許さない最強性を主人公の天城狂に喚起している。さすがにそこから先は、作中のレベルにあっても、作外のレベルにあっても、人間の手には負えまい。〈“狗”と人の間に生まれし人間の飼い犬〉である“念呪者”の呪縛を断ち切り、まさに出奔せんとする狂を誰も引き止めることができない、結末の在り方は、ちょうど二重の意味を持たされているようにも見える。

 1巻について→こちら

 『KUROZUKA -黒塚-』
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月03日
 以前にも述べたとおり、オールドスクールなトーナメント形式のバトル・ロマンというか往年の『週刊少年ジャンプ』的なノリに、女性主人公を導入し、さらには彼女を優勝にまで持っていけるかどうか、の、じつはこれまでになかなか試みられてこなかった展開を繰り広げてみせたのが、無印『江戸前鮨職人 きららの仕事』であったわけだが、結論からいえば、やはりそれは困難なことであり、挫折に終わったといわざるをえない。たしかに、ワキ役の存在感が主人公を食うというのは珍しくはない現象ではあるけれども、しかし『江戸前鮨職人 きららの仕事』の場合は、表現形式や読み手の層が無意識のうちに抱える男性優位のイデオロギーに女性主人公が敗北したともいえるのであって、その観点からすれば、たとえどれだけの人気作であろうとも、終盤の内容を手放しで褒めることはできない。したがって、この続編『江戸前鮨職人 きららの仕事 ワールドバトル』が、ごく一般的な料理マンガに路線を戻さず、ふたたびトーナメント形式のスシバトルを採用するのであれば、女性主人公であるきららを男性優位のイデオロギーにどう対処させるのかが、最大の焦点となってくるのだが、残念なことに、この1巻の時点で、かなり期待が持てない。主人公がスイッチしているとまではいわないけれど、題名にあるように対決システムの気配をうかがわせたまま、力武匠という年少人物を新規登場させ、ほとんど中心に近い位置に据え、さらには彼の成長に対して絶対的に優位な(つまり擬似的であれ、母であり姉であろう、の)目線を、きららに備えさせてしまったのだ。おそらく、長期化するストーリーをいったん仕切り直すため、主人公に弟分を与え、リ・スタートを切るというスタイルも(これは『週刊少年ジャンプ』にかぎらず)少年マンガのノリを模しているのに違いない。だが、それはけしてこのマンガに内在する困難の解決とはならない。もちろん、この時点で決断をくだすことはできないにしても、女性主人公が隠蔽されているイデオロギーに他の男性ライヴァルたちと立場を等しくする人間として勝利することが、また一段階厄介になってしまったことだけは、たしかである。これを放棄せず、最終的には覆せたら、いやまあ、たいしたものだと思う。

 『江戸前鮨職人 きららの仕事』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年05月01日
 あぶな坂HOTEL (クイーンズコミックス)

 くわしく検証したわけではないので、あくまでも印象のかぎりでいわせてもらえば、もしかしたら作者らの年齢的な経験や実感が背後にはあるのかもしれないが、かつて24年組と呼ばれた少女マンガ家たちのこのところの作品には、老いや死といったテーマが、介護や葬式というかたちをとり、目立ってきているような感じを受ける。たとえば、山岸涼子の『舞姫 テレプシコーラ』や樹村みのりの『見送りの後で』にもそのモチーフは見かけられたし、萩尾望都の『山へ行く』などもそういった面を持っていたといえるだろう。もちろんそれは家族のシーンを描くことと同義であって、萩尾は、この『あぶな坂HOTEL』でもやはり、アイディアとしてはSF的でありながら、ムードとしては幻想的でありながら、基本的には、家族間に内在する生と死の重みを、物語のなかへ落とし込んでいる。題名の、あぶな坂HOTEL、とは何か。訪れた作中人物のひとりに〈ここはヨモツヒラサカだ!!〉といわれているように、あの世とこの世の狭間を為す異界のことである。さまざまな人びとが、今や自分が生死の境に立っていることを知らず、そこにやって来ては、オーナーや従業員たちからもてなされるうち、事実を告げられ、成り行きそれぞれの人生を振り返ることとなる。そのとき、まあたしかに全員が全員というわけではないけれども、しかし多数の胸に、ちょうど躊躇いのかたちとなり、現れているのは、家族の記憶にほかならない。誤解を避けるべく、より正確を期せば、それはけして、家族ってすばらしい、という単純化ではない。そうではなくて、たとえ家族に対するイメージが、全面的に幸福ではなくとも、あるいは極端に不幸であったとしても、生きているあいだの関係性においては大部分を占めていることが、事後的に確認されているのだ。交通事故に遭ったちいさな子供が、何の躊躇いもなく、あぶな坂HOTELを通りすぎるのを見、ホテルのオーナーが〈大人は…送るにしろ 行くにしろ…迷いが多く 切ないものです〉と口にする場面は、ちょっとした演出にすぎないが、意外と含みがある。SF的であり幻想的であるような印象を作品にもたらしている要素を、あえて特定するとしたら、それは時間の存在になるだろう。人が生きる、老いる、死ぬことは、いうまでもなく、時間が流れるのとふかく関わっている。ここに描き出されている家族のシーンは、ことによると時間の蓄積とイコールもしくはニアイコールで結ばれうるエモーションでもあるのだと思う。

 『バルバラ異界』4巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月29日
 ラブファイター! 1 (1) (フラワーコミックス)

 けして高い学力の持ち主ではない小川奈実が、受験勉強に励み、わざわざ〈中高エスカレーター式で高校からの入学はほんのわずか〉の私立若宮学園高等部に入学したのには、おおきな理由があった。それは、半年前にピンチを助けられ、一目惚れした男子生徒にもう一度会い、〈ありがとう〉と伝えるためである。しかし、いざ再会したその男子、桜木遼は、初対面のやさしかった印象とはまったく違い、〈不動のイケメン特待生ってことで有名なんだけど…それよりもさらに有名なことがあって 超モテるのにどんな女にも一切なびかず しかもこっぴどくふる 難攻不落の冷血王子ってコトで――…〉学校中に知られた人物であった。そのような導入によって、藤沢志月が『ラブファイター!』の1巻で描きはじめるのは、つまり、ホットなヒロインがクールなイケメンさんにアタックする、といった構図であって、こうしたこと自体はそれほどのインパクトを寄越さないであろう。だが、特筆すべきなのは、〈なっにが難攻不落の冷血王子だっ あんたなんか あんたなんか――このあたしがオトしてやる!!!〉という奈実の、遼に対する猛烈なアプローチが、校内で、生徒ばかりではなく、教師をも巻き込み、壮大な賭けの対象として成立している点だと思われる。このアイディアは、たいへんおもしろい。ある意味では、恋愛という行為が、リアリティ番組的な設定の内に組み込まれ、さらには当事者以外にも利害関係を生じさせているわけで、その、外野の思惑が、ときには障害となったり、ときには後押しとなったり、間接的にだが、奈実の片想いに介入してくるのである。おそらくは、そうした外野の存在に影響されない、ピュアラブルなエモーションのあることが、今後の展開によってテーマ化されてゆくのだと考えられるけれど、さて、そのへんをどうやってまとめるのか、完結編であるらしい次巻を待ちたい。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月28日
だらだらと物語を延長させることもなく、この8巻で、しっかりと収まりのよく、はっきりと手応えのあるエンディングを迎えた神尾葉子の『キャットストリート』だが、ラストに収められた番外編で表されているのは、つまり、ストーキングも立派な努力のひとつで、諦めなければいくらでも可能性はあるんだよ、というメッセージだろうか、と、いやまあ、それは冗談であるけれども、どんな人間にもかならずや希望を手に入れられるチャンスがあることを伝えてくるストーリーは、ながらく引きこもっていた少女が、フリー・スクールでの出会いを通じ、生きることの意味や価値を発見してゆく、そのような本編のなかに描かれていたテーマと、まちがいなく、通じるものであって、おそらくは幸福なエンディングの余韻から導き出されたサイド・ストリーなのだと思う。さて。女優としての再出発を果たした恵都は、小学校時代の同級生とはいうものの、どこか不審な点のある女性と知り合う、これが前巻からの流れであり、将来を不意にしてしまいそうな危機に恵都はどう立ち向かうのかが、本編終盤における重要なくだりであるけれども、いやあ、最初の頃の臆病な様子からしたら、ずいぶんとつよくなったものだな。同級生を名乗る荒井は、もちろん、恵都自身のネガ、彼女の過去の影とでもいうべき存在である。それと対決し、見事に勝利するのは、成長と前進とが題材の作品において、まさにクライマックスに相当する箇所となっている。そうして、自分にしか出来ないことがあるのに気づき、引き受けようとする意志も、たくましい。だが、ここで注意しておかなければならないのは、単純に過去の否定が未来の明るさに反転しているわけではないことで、それが象徴的に表されているからこそ、恵都の晴れ舞台に揃った仲間たちが〈ケイトはちゃんとあの頃の自分を連れて出てくるよ 俺たちは自分でしか自分を救えないんだ〉と言い、そのとおり〈暗闇にいた昔の自分の手を引い〉た彼女の後ろ姿が光に包まれる場面に、感動的な印象が加わっている。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1、2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月27日
 アルコの、とくにここ最近の、勢い任せであるようなところを、味と見るか、雑と見るか、の判断は微妙で、前者の気分で読めれば何も問題はないとはいえ、後者の気分になってしまうと、とたんに残念としか評価のしようがないような、ぎりぎりの危うさを抱えており、以前にも述べた気がするが、それの完全に悪い出方をしてしまったのが連載ヴァージョンの『ヤスコとケンジ』であったわけだけれども、さて、新シリーズである『超立!! 桃の木高校』はどうか。高校で出会った男女四人(その比率はもちろん、女の子2、男の子2)が、じつはみな、超能力の持ち主であったことから、学校や家庭のレベルでのトラブルを解決し、同時に恋愛や友情を育んでゆく、と、以上が作品の概要である。エスパーという設定は大胆だが、かならずしもオリジナリティのあるものではないだろう。しかし特殊には違いないシチュエーションを、作中人物たちに、どう受け入れさせ、向き合わせ、扱わせるかが、つまり、作品の説得力にかかっているポイントであって、はじめはわずかばかりの戸惑いがあるものの、この作者ならではの強引なノリで、なんとか乗り切っている。だが、ストーリーを追うにつれ、やはり、どうなんだろうな、と引っかかってしまうのも、バランスを崩すほどにデフォルメされた描写の数々が、手抜きではなくて、ギャグを狙っているとしたら、あまり奮っていない点にほかならず、軽く、ときめきのトッピングされた話の筋自体は、けして悪くないのに、それを押し進めるテンポが、どうもいまいちよろしくない。そのことを個性として割り切るにしてもさあ、率直にいって、もったいないんだよな。

 『Loveletter from…』について→こちら
 『ヤスコとケンジ』
   4巻について→こちら
   2巻について→こちら
   1巻について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月26日
 ベイビー☆お手をどうぞ (フラワーコミックス)

 畑亜希美は、この、作者にとって初の単行本にあたるらしい『ベイビー☆お手をどうぞ』ではじめて知ったマンガ家であるが、いや、これ、すっごく、楽しく、とたんにファンになった。駆け出しのネイリストと、彼女がつとめる店のオーナーとが、行きがかり上、ニセの恋人を演じることになる、というのが表題作(シリーズ)のおおまかなストーリーで、まあ、ありがちであるといえばいえる成り行きであるし、どじで垢抜けないヒロインをサドっ気抜群なイケメンさんが意地悪に扱う、そのような関係性のパターンにも珍しい面はいっさいないのだが、にもかかわらず、既存の作品には見られないような、清新な空気がそこいら中に満ちあふれていることに、おどろく。おそらくは、全体的にコメディの要素がつよく、作中人物たちがみなユーモラスだというのが、おおきいのだろう。天然的にぼけているヒロインのそのみや、たまたま彼女を自分の縁談話に巻き込んでしまったオーナー心二の腹黒さ、口の汚さはもとより、ワキの人びと、なかでもそのみの二人の姉の存在が強烈で、彼女たちのアヴァンギャルドなアドヴァイスと猥談をさわやかに行う様子には、思わずツッコミを入れざるをえない。おまえら、男とどんな付き合いしてんだよ、そして何よりも、ヒモパンにすべてをかけすぎである。しかしもちろん、基本的にはラヴ・ストーリーなので、ロマンティックに決めるべきところはばっちり決まっており、そのみのまっすぐな性格に、押され、絆されてゆく心二の困った表情が、たいへん、かわいらしい。単行本には、表題作(シリーズ)のほか、「ナチュラルに恋をして」と「ぼくのもの」の二本の読み切りが収められてるけれど、とくに「ナチュラルに恋をして」おける、愁嘆場なのに気持ちのいいやりとり、それからそこでの、女心の繊細で大胆な変化のつけ方は、一読に値する。とりあえず、表紙や題名のイメージで中身を判断し、手にとるのを避けてしまうと損をするタイプの、典型的な良作であるのは、まちがいない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月25日
 この2巻でエンディングを迎えた吉住渉の『スパイシーピンク』であるが、終わってみれば、現代的で都市的な成人男女の恋愛劇として、なかなか魅力的な作品であったように思われる。ファンタジーを半分くらい、そして、現実みも半分くらい、足してちょうど一になるぐらいのバランスで描かれた物語は、たいへんやわらかで心地好く、だが、やわらかで心地好いだけで終わらない芯のたしかさを兼ね揃えており、いやまあ、たしかに少女マンガ家とイケメン医師によって繰り広げられる大筋は、ほとんどの人間からしたら、まるで絵空事のようでもあるのだが、しかし、ありえねえよ、こんなん、と言わせないほどの説得力が、その、たおやかエモーションには宿されている。この巻では、クライマックスにさしかかり、けして順調ではないまでも、ゆっくりと距離を縮めつつあるカップルのあいだに、男性側が以前に付き合っていた女性が登場するという、ラヴ・ストーリーの定番ともとれる危機が差し込まれるのだけれど、おもに若年層向けのそれが、過剰な疑心暗鬼を、とり返しのつかない事態に発展させ、そこからの大逆転を狙うことで、どきどき、を孕むドラマを構成しているのに対して、おそらく、それよりも上の世代を想定しているこのマンガでは、いったん手放してしまえば、もう取り戻せなくなる、ぎりぎりのラインで嫉妬や猜疑が描かれる。とはいっても、作中人物たちの性格が、暗く、陰険なのではない。むしろ、ヒロインである桜が携帯電話のメールを打つ姿などに、恋をしたときのアッパーな気分はよく出ているのであって、その彼女が、不安を覚えたり、でもそれをつよく払いのけたりする様子の、おおげさすぎないないところに、等身大の男女が付き合うって、意外とこういうものだよね、と納得させられるのである。また、相思相愛と呼べる関係性はセックス(性交)をした時点からスタートするものだといわんばかりの乱暴な作品が多い昨今にあって、その直前の段階にあるからこそ、じょじょに増してゆく親密さの測りかねる点を、ここまでデリケートかつ丁寧に、しかもコミカルに拾いあげている作品は、かなりレアで、それだけでも高く評価したい気分にさせられる。あまりにもテンポがよいので気づきにくいが、心の移動はとても繊細な足どりで行われ、終わりがないのが終わりであるような結末には、誰かを想うだけでは生きられないが、しかし誰かを想わず生きるのは寂しい、そういうことの実感が見事に表現されている。

 1巻について→こちら

 『チェリッシュ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月21日
 もしかすると『BECK』以降というタームが有効なのかもしれないが、このところ、男性向けのマンガ誌において、バンド活動を描くタイプのマンガが増えてきているように感じられる。90年代のはじめにも、当時のバンド・ブームや『イカ天』の影響を受けて、『ヘビメタ甲子園』や『唇にパンク』、『コータローまかりとおる(第6部)』など、にわかにバンドものが流行ったことがあった(そしてなぜかスティーヴ・ヴァイをモデルにした人物を登場させる作品が多かった)が、それらのほとんどでは、主人公が、何かしらかの大会やコンテストに出場し、優勝することを、すなわち成功であるとして、目指されていたのに対し、最近の作品の場合、もっと等身大というか、挫折やコンプレックスを含む、リアルな生活感とでもいうべきものを重要視するような傾向がつよいのは、もちろん、90年代の半ば以降に自意識をどう表現するかがシリアスな問題となった側面のほかにも、おそらく、スタンディング形式のライヴ・ハウスやインディーズでの成功も成功に値する文化が、この国におけるサブ・カルチャーのシーンに根付き、主流化したこととパラレルであると考えられる。いうなれば、たんなる時代の反映でしかないのだけれども、たまきちひろの『フール オン ザ ロック』も、そうした今日ふうに仕立てられたロック・マンガのひとつに加えられる。主人公の高校生がギターを弾くのは、やむにやまれぬ衝動を表現し、壮大なスケールの夢を果たす、というより、わびしい自己実現の手段であるような感触に近しい。正直、この1巻の段階では、ストーリーは類型的だといえるし、それほど奮ってはいないが、主人公とバンドを組む、三十路のパフォーマー、イマイケンジのパンキッシュな造形には、なかなか強烈なものがあり、彼の存在をうまく扱えれば、とたんに作品が魅力的になりうる可能性を秘めている。ところで、この手の内容だからこそ気になってくるのは、当然、音楽性(作者の趣味や知識)の部分なのだけれど、作中人物に「WITH OR WITHOUT YOU」(これ、U2のでいいんだよね)のことを〈知ってる? この曲 片想いの曲なの きれいな曲だけど 片想いはこんなにキレイじゃないわよね〉と言わせてしまうのは危ういし、今どきランディ・ローズやブライアン・メイに憧れてギターをはじめる子ってどれぐらいいるのかしら、と、やや現代的な妙味が足りない気がしないでもない。まあ、後者に関しては、掲載誌である『月刊ヤングキング』の読者層を三十代に想定したうえで、あえて、といったセンも考えられるが、それであったら、やっぱりなおのこと、イマイケンジにはがんばってもらわなくちゃならないだろう。

 『WALKIN' BUTTERLY』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら 
  2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月20日
 そもそも企画ありきのスタートだったのだろうが、それでもしかし、このマンガに『どろろ』の名が冠されていることは、誰も幸福にはしないように思う。すくなくとも、道家大輔の『どろろ梵』が、手塚治虫版のリメイク(今ふうにいえば「新約」)とかの類ではなくて、舞台を現代に持ってきた続編として描かれていることは、正直、ネックにしかなっていない。いや、何もそれは内容をクサしているのではない。まあ、たしかに、過去の因縁を引きずった妖怪退治ものというアイディアはありふれたものであるし、かつての盟友同士が、敵味方にわかれ、その宿命をもって愛憎劇を繰り広げるのも同様に、けして珍しいパターンではないけれども、とぼけたコミュニケーションのノリや大ゴマを使用したアクションのシーンには、なかなか魅せられるられるものがある。百鬼丸が、奪われた身体四十八カ所を恢復させる旅の途中で命を落としてから500年後、転生を経て、女性の姿に生まれ変わった彼の使命は、妖怪変化に身を落とした少女どろろを見つけ、討つことであった。なぜならば〈想像してみろ 自分が妖怪になっちまって 大勢の人間を怨みながら暮らす姿…それを殺すってことは 解放してやるってことだ〉からである。オリジナルにあった設定は、百鬼丸が方端であり、かわりに超能力が使えることに生かされているが、やはり、これを手塚の『どろろ』とあわせて読むのが厳しいのは、テーマのレベルでみたさい、どろろと百鬼丸のピュアラブルであるがゆえに断ち切れない関係性のみが抽出され、それ以外の要素が、ばっさり、切り捨てられているためだといえよう。人間存在の愚かさが妖怪の怒りを買う、式の取って付けたようなメッセージは論外としても、舞台を現代に移したおかげで、貧困の問題などの時代背景はがらりと変わり、百鬼丸が、男性ではなく、女性として描かれることで、父子間の対立とでもいった部分もオミットされ、そのぶん、どろろと百鬼丸のあいだの結ばれえぬ相愛性が強化されており、さらに百鬼丸のあらたなパートナーとして、現代的な少女である梵を投入することにより、擬似的な三角関係の物語が成り立たせられている。現段階においては、どろろの記憶が失われているのもあって、直接に三者の面談は果たされてはいないが、すくなくともこの2巻からは、百鬼丸にとって梵の存在が、出会いの頃にくらべると、ずいぶんおおきくなっている様子がうかがえる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月19日
 基本的に一話完結で終わるスタイルにおいて、無理に良い話でまとめようと、かっこうつけているエピソードよりも、結局、何が言いたかったのかわからん、ぐらいの素っ頓狂なエピソードのほうが、なんとなく、幸せな気分になれる、というのが『極道の食卓』に持っている印象で、それというのはたぶん、後者のほうが、平和であることの模写に近いからなんだろうなあ、と思う。『極道の食卓』が、立原あゆみの他のヤクザ・マンガと異なっているのは、もちろん、コメディの要素がつよい、その一点に尽きるのだけれど、よくよく考えてみれば、ギャグや小ネタの類に関しては、過去作の使い回しがすくなくもないのだから、もうちょっとべつのレベルで見られる違いをこそ、捉まえておくべきなのかもしれない。としたとき、たとえば、同じ世界観をシェアする『本気!』シリーズ等々が、壮絶な抗争を繰り広げるなかで平和を望む、そういう物語であるのに対し、これは、平和を乱さず、守り続ける、といったていの物語になっていることが述べられるだろう。『極道の食卓』の主人公、濁組組長の久慈雷蔵は、市井の人びとのあいだに発生するせこいトラブルが、生き死にに関わるような大事に発展しないのを防ぐべく、あちこちに顔を出しては、あれこれと手を回すのである。ところで、この5巻に収められているエピソードのうちのひとつには、かつて『地球儀(ほし)』で扱われた「盲流の民」のテーマが流れ込んできている。〈今 ものすごい勢いで経済発展を続けている中国……………………自分たちで「盲流の民」と名乗るそうです 世界中に散っている中国の民 地球上の人類の4分の1とか……〉というのがそれだが、『地球儀』では、中国人が「盲流の民」であるなら、日本人は「棄民の民」であるとし、両者の対照をもって、どこまでも暗く、救いのない絶望が描かれていたのだけれども、ここでは、若い女性にはまったおっさんの単純な歓喜と悲哀とが、本質的には深刻な問題を、ユーモラスに噛み砕いてくれている。まあ、多分に説教じみたポエムが入り混じってもいるが、あくまでもそのユーモアである調子の連れてくる平和的な雰囲気こそが、やはり『極道の食卓』の特徴なのだといえる。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『本気!』文庫版
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『仁義S』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月18日
 バイキングス 6 (6) (月刊マガジンコミックス)

 以前にも述べた気がするが、風童じゅんの『バイキングス』のえらいところは、絶対数のすくない自転車(ロードレース)マンガのジャンルにあって、おそらくは『シャカリキ!』という先行例を意識しつつ、それとは異なる方向性を模索しているあたりで、とくに団体競技であるような面に比重をおおきくしていることは、この6巻からもうかがえる。強豪である舞代高校に、自分たちが初心者集団であることを馬鹿にされた宮田は、アマチュア界では名の知られたそのプライドから、全日本チャンピオンの小平良に挑みかかるが、しかし苛酷なコースを併走する途中で、ついに振り切られてしまう。だが逆に舞代高校の面々は、どこまでも食いついて離れない、主人公の一本木一途が持つポテンシャルの高さに目を剥くこととなる。以上が、ここでのあらましであるが、一本木や宮田という、そもそも資質が備わっている人間を描くばかりで物語を進めず、彼ら以外の凱旋高校自転車部員たちの、それこそ初心者でしかない人間の初心者だからこその真剣さをも、漏らさず、同時にすくいあげているのが、やはり、美点であるように思う。まあ、そりゃあ、やる気や努力だけでは何ともならん場合がある、と、きっぱりさせてしまえば、シリアスで過剰な表現になることもありうるけれど、ときにフィクションが包括するやさしさや可能性を壊しかねない。そのぎりぎりのラインで、作者は、ポジティヴな姿勢が、なにか、励みをもたらすような、そういうやわらかな地平のほうへ、舵をとる。今後の展開はともかく、すくなくともこの段階ではそうだろう。合宿の途中、舞代高校に一矢報いた凱旋学園のメンバーたちが見せる笑顔が気持ちよい。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 打撃王凛 12 (12) (月刊マガジンコミックス)

 この野球マンガがすげえええええ。いわゆる腐女子と呼ばれる層のファンが、どれだけ佐野隆の『打撃王 凜』についているのかは存じないが、しかしまさか、ここにきて、こう、野郎同士の胸ときめく展開を持ってくるかよ。ぼろぼろになり、傷つき、今にも倒れてしまいそうなところを、わきから支えてくれた凜に向かい、やっちん(安長)は〈ありがとな お前に会えてよかった〉と言うだろう。最高潮に良いシーンであるし、何よりも、どきっ、とさせられる。もちろん、そこへ至るまでのストーリーは、死ぬほど熱く、一瞬たりとも目の離せない緊張が続くのだから、手に汗を握る。そして、ついにそのときがきた。雄翔の放った渾身の一球を、凜が長打すれば、逆転の可能性がありうる、その、文字どおり、最後の場面に、奇跡は、緑南シニアと緑北シニアの双方を往復し、やがて、誰もが悔いることのない決着を実現する。いやあ、これは名試合であった。たしかに最後のあれは守備妨害の疑いがあるけれども、むしろ勝利への執念、気迫と言い換えてもいいそれが上回った結果と見るべきであろう。敵味方にわかれた、すべてのプレイヤーが祝福され、ながく繰り広げられた死闘に幕がおりる。ああ、泣いた泣いた泣いた。これまでにもさんざん泣かされてきたが、ここでもまた泣かされたぞ。大団円とは、まさしく、こういうことをいう。だが、せつない別離が、ふたたび、やっちんと凜の二人を遠くする。いちおうは、この12巻をもって、中学生(シニアリーグ)編は終了の運びとなり、次巻からは高校野球に、つまりは甲子園を目指す物語へとシフトする。優秀な作品の連載が続くというのは喜ばしいことに違いないのだけれど、正直、ここで終わってくれても良かったな、と思うのは、やっぱりねえ、この数巻に渡って描かれてきた試合内容が、とにかくすさまじく、すばらしく、野球マンガの臨界であるかのような興奮に溢れていたためである。こちら読み手の立場からすると、さすがにこれを越えるのは厳しかろう、という気がし、不安と期待とが入り混じる。が、ひとまず、ここまでの中学生編が傑出していたことだけは断言しておきたい。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月13日
 いま現在、ファンタジックな世界を舞台にした少年マンガとしては、異端であると同時に正統でしかありえないという意味で、もしかすると冨樫義博の『HUNTER×HUNTER』と双璧を為しているのではないか。と、さすがにそりゃあ言い過ぎだろ、って声が聞こえてきそうだが、しかし個人的には、それぐらい所十三の『白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ』のことは高く買っているのであって、まあ、たしかに絵柄や構成のスタイルはやや古めかしくもあり、そのせいでマイルドに見られてしまうかもしれない点は多いけれど、残酷な描写をナチュラルに織り交ぜながら、それでいて健全な雰囲気をキープしているあたり、当世のポリティカル・コレクトな少年マンガがしれっとしているところを、真っ正面から引き受けているかのようですらあり、たいへん心強く感じられる。さて。平原王国に囚われの身となったユタが、海王国に荷担している雷龍党を討伐するための出征に乗じ、彼を助けに来た仲間たちと合流、ようやく山王国へ戻れることになる、というのが、この8巻における大まかな流れなのだが、ここでの見所は、やはり、ユタ、フリード、そしてパウルスの、同じ矮人(ナノス)でありながら、それぞれタイプも違い、持っている目的も異なる三者が、“この世に在る可から不る者たち”の襲撃を受けて、はからずも共闘関係を結ぶこととなるくだりであろう。これはちょうど、冥王の復活によって、作中世界が〈人と人が争っている場合ではない〉事態に突入したことのミニマムな再現になっており、その展開のなかで、文字どおり、人と恐竜の命運を握る「鍵」であるユタの、類い希なる資質が発揮される。そしてそれはなにも、恐竜たちと会話ができるといった先天的に特殊な能力だけの話にかぎらない。自らを危険にさらしても他人に手を差し伸べるような、気持ちの有り様も含めてのことである。そこに少年マンガというジャンルの根っこにあたる部分がきっちりと示されている。大状況と小状況をまたぎ、あれだけばらけていた伏線が、ユタの帰郷とともに一本化されている、そのへんの持っていき方にも感心させられる。いちおう『白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ』の題では、この巻がラストとなり、すでに『週刊少年チャンピオン』誌では、『D-ZOIC』とタイトルを改められた続編というか第2部がスタートしているが、全8巻、すこし残された含みはあるけれども、これはこれで一個の少年の冒険譚であり成長譚として立派にまとまっている。

 7巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月12日
 浩行が逝き、吉村のおっちゃんが逝く。『本気!』シリーズ序盤でもっとも泣けるエピソードが、この文庫版3巻には収められている。さらに、ここで描かれているテーマは、その後の立原あゆみの諸作に偏在することとなる、という意味で重要性を持ち、それはつまり、家族に捨てられた人間が救いを得ることができるのか、ということであり、家族を捨てた人間が赦しを得ることができるのか、ということであって、正直なところ展開としたらややぎこちなくありながら、しかし、そうまでして浩行の死と吉村の死をワン・セットとしなければならなかった理由も、おそらく、そこにあるのだろう。短いスパンのなかで、二人の死体を、本気が抱きかかえ、泣く、ほぼ相似形であるようなシーンが、反復される、このことの価値は、あんがい、おおきい。浩行が火葬されるときの、本気の〈浩行くん 君は…女抱きましたか…おっぱいにうずまってねむりましたか〉というモノローグと、浩行の遺骨を彼を見放したはずの母親が引きとる場面の、本気の〈浩行くん…君は今…おふくろの胸ン中です……かあちゃんの胸ン中です〉というモノローグ、そして浩行の仇をとると決意し、ひそかに久美子に別れを告げている、本気の〈抱きしめたかった……これが最後かもしれんけん……抱きしめたかった〉というモノローグ、これらによって重点的に繰り返されているのは、人が人をその胸に抱く、そういった行為が持ちうる可能性にほかならない。抱きしめること、抱きしめられることが、救いや赦しの言い換えとなり、示されているのである。もしかすると浩行や吉村の最期は犬死ににも思える。だが、彼らの死体が本気に抱きかかえられることで、犬死にであるような最期に十分な報いが加えられている。浩行の場合とは違い、吉村の遺骨は、家族に受け取られることを拒否されてしまうけれど、たぶん吉村はあの世でそれを呪いはしない。彼の本望は、遺書にあるとおりのかたちで達成させられており、そこに書かれている想いは、宛てられた本気に受け取られている。そうして遺骨は、人生の最後になって誰よりも信じることのできた本気に抱きかかえられ、墓へと入る。結果だけとれば、浩行も吉村も、たとえ一歩遅れた状態であろうとも、自分たちの願いを託した相手、本気に抱かれることで、救いや赦しを手に入れている。この事実こそが、読み手に感動をもたらす。反面、本気はといえば、先ほども引いた〈抱きしめたかった……これが最後かもしれんけん……抱きしめたかった〉というモノローグのある場面で、最愛の人である久美子を、その胸に引き寄せることを、つまり救いや赦しを断念している。久美子が立ち去ったあとの、本気が自分で自分の体を抱きしめているようなカットは、象徴的ですらある。以前にも述べたが、本気は、これ以降、誰ともセックス(性交)をしないようになる。自らを慰撫すべく、誰かを抱いたりしない。掲載が少年誌だったからというのではない。じっさい、この文庫版3巻だけでも、性風俗のサービスが登場し、女性が強姦されるシーンすら描かれている。だから理由はもっと根源的なものに違いなく、ひとつにはもちろん、久美子とのピュアラブルな関係を表現するためなのだろう、が、もうひとつ、本気の救いや赦しを拒む態度の表現になっているのだろうことは、この先のストーリーを読み進めるうえで、絶対に注意しておきたい。最愛の人を抱きしめるかわり、莫大な喪失感を抱きかかえることの繰り返しが、あれだけとがっていた本気の、角をまるく、やがて高僧を思わせる悟りの境地へと導いてゆく。ちなみに、(ことによると続編が描かれるかもしれないという可能性は捨てきれない留保つきだけれども)完結編にあたる『本気!サンダーナ』は、浩行や吉村を回想する本気の背中がとある女性に抱きしめられる場面で、終わりを迎えている。

 さて。文庫版3巻において、もう一点、重要な契機を挙げるとしたら、それは『本気!』シリーズ全編を通じ、本気の片腕として活躍することになる次郎が、ついに登場することである。次郎が担っている役割はいったい何か。このことを考え出すと、さらに文章が長くなってしまうので、べつの機会にゆずるが、ひとまず、読み書きもまともに習ってこず、金銭の扱いも適当で、自動車の運転さえ出来ない、ぶっちゃけ、カリスマだけしか取り柄のない本気を、実務の面で補うための機能だといえる。しかし当然、物語やテーマのレベルから見れば、それだけの存在に止まらない。じじつ、ある程度までストーリーが運んでいけば、次郎以外の人物が本気をサポートする機会が多くなる。だが、彼らの誰も、本気とのあいだに、次郎のような、関係は結びえない。次郎に先んじて、本気についている矢印や新二ですら、だ。では、次郎のような、とは、はたしてどういうふうなものを指すのか。それはまた、いずれ。

 1・2巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『恋愛』1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月11日
 このところ、バレーボール・マンガが好調である、との印象を受ける。大島司の『アタック!!』や日本橋ヨヲコの『少女アタック』、高梨みつばの『紅色HERO』などは、90年代における、満田拓也『健太やります!』やヒラマツ・ミノル『ヨリが跳ぶ』以来の、ひさびさのヒット作であろう。すこし前であれば、梅田阿比の『フルセット!』も、そこに含められたのだが、残念ながら現在は連載が終了している。キュートな男子たちがわんさか登場する作風は、バレーボール版『おおきく振りかぶって』といえなくもないキャッチーなものであるし、『このマンガがすごい!2008』には作者のインタビューが掲載されるなど、そこそこ注目を集めていたようではあるが、しかしまあ、たしかに弱点の多いマンガでもあった。スポーツをフィジカルとメンタルの二面で表現するとしたら、『フルセット!』は、あきらかにメンタルの面に重点を置いているのだけれど、その精神論とでもいうべきものに、あまり高い説得力が備わっていなかったのも事実で、それというのはおそらく、体の弱い主人公が、バレーボールとの出会いを通じ、精神を鍛えられる、こうしたストーリーの流れにおいて、個人にかかってくるガッツと成長、そして団体競技だからこそのガッツと成長の、要するに、努力と置き換えても良いような前者と友情と置き換えても良いような後者の双方を、うまくディレクションできなかったためだと思われる。ようやく足並みが揃い、当初よりよく描けていた中学生という幼さの、その先にあるものが見えてくるのは、この4巻の、強敵である桐条中学バレーボール部との試合の最中の、とくに終盤に至って、である。ややスロー・スターターな展開は、週刊連載の形式には向いていなかったのかもしれない。いずれにせよ、次巻でラストを迎える。

 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月10日
 ぶっちゃけて、これまで手代木史織の『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』には、あまり良い印象を持ってこなかった。それというのは単純に、かつて親友であった者同士が、光と闇に分かれ、愛憎しつつ、対立する、といったていのパフォーマンスは、彼らの頭髪の色の対照も含め、ファンタジーの系における類型に思われ、また、原作の車田正美がじっさいにどこまでタッチしているのかは不明だが、同じく作者公認の二次創作であるような岡田芽武の『聖闘士星矢EPISODE.G』と比べ、筆力、セリフ回し、展開のいずれも、ややインパクトを欠くと思わざるをえないためであった。が、しかし、この8巻の、教皇セージと蟹座の黄金聖闘士マニゴルドの師弟愛が導くドラマには、はげしく胸が熱くなる、最高潮に滾ったな。〈たとえ神から見りゃ クズだろーが ゴミだろーが 一度は派手に輝きてェよなァ〉。天究星の冥闘士ベロニカからペガサスのテンマたちを守るべく、積尸気冥界波を発動させたマニゴルドは、黄泉比良坂を通じ、いきおい眠りの神ヒュプノスと死の神タナトスのすぐ眼前にまで、飛ぶ。けれども、さすがの黄金聖闘士とはいえ、人間と神とを隔てる壁は分厚く、為す術もなく、圧倒されてしまう。そのとき、マニゴルドの危機を救ったのは、かつて彼を拾い、蟹座の黄金聖闘士の後継者として育て上げた、教皇セージその人であった。先ほど、車田の関与がどれだけあるのかわからない、と述べたが、ここでのくだりに明示されているテーマは、かなりの部分で『聖闘士星矢EPISODE.G』と重なりを持つものだ。つまり、あらかじめ定められた運命の前に人間は必ずしも無力ではない、ということであり、すべての困難は他の誰かを救おうとする心によって越えられる、もしくは報われる、ということである。〈うぬぼれるな 人間よ お前たちの命など 俺にとっては 虫ケラ以下 浮かんでは消える 泥濘の泡 塵芥よ〉。教皇を庇い、タナトスの攻撃を受けたマニゴルドは、幼き日の死と戯れる自分に教皇がかけた言葉を思い出す。〈…以前 同胞が多く斃れた その様は見ようによっては塵芥のようであったかもしれん だが 私は彼らの極限の…必死の生を知っている 私にとっての命は 塵芥などでは決してない もちろんお前の命もな〉。このシーンはもう、やばいでしょう、いたく感情を揺らされる。そして、傷つく聖闘士たちの姿に重なる、次の言葉である。〈マニゴルドよ 命は塵芥だったか お前に彼らの死は どう見えた!?〉と、それに背を押されるかのように、マニゴルドは、一瞬ではあるけど、神越えを果たす。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月06日
 女神の鬼 9 (9) (ヤングマガジンコミックス)

 田中宏の『女神の鬼』、9巻の内容はとにかく、血が騒ぐ、の一言に終始する。それというのはもちろん、広島中のチームが一点に終結し、まさしくバトル・ロイヤル(バトルロワイヤル)的な様相を見せはじめる、そのようなストーリー展開の熾烈さのためであるのだけれど、他方、作画のレベルでも、さまざまな手法を用い、ダイナミックな表現が追求されている。なかでもとくに186ページの大ゴマとその前後数ページに注目したい。たとえば186ページの、1ページを丸ごと使って描かれるカットは、ふつう、鉄パイプで殴られたアキラが地面に転がる、その姿だけがあればよい、いや、その姿だけであったほうが、ふだん我々が見慣れ、親しんだ構図であるがゆえに、効果的であったふうに思う。だがそこに、鉄パイプを握り、殴るケンエーの腕が入ってきており、描き込み具合からするに、作者の意識はそちらのほうを大切にしていることが、うかがえる。現在の一般的なマンガの手法からしたら、このシーンは、いっけん変だ。しかし、すごく目を引くのである。どうしてだろう。かつて、いしかわじゅんが『漫画の時間』において、池上遼一と大友克洋のマンガでいかに、殴る、殴られる、の瞬間が表されているのか、を対比して、そのインパクトがどう読み手に受けとられるかを論じたのを参考にすれば、ここで田中が試みているのは、池上と大友の、つまり旧いと新しいに言い換えられる手法のどちらにも近しく、またそうであるがために、どちらとも異なったものだといえる。大友のように、殴った瞬間のインパクトを省略しながら、池上のように、インパクトそのものと前後の文脈を執拗に説明する。もしかすると、これはヤンキー・マンガのみならず、暴力を扱ったマンガ全般の現代的なパターンからは、完全に逸脱しているので、最初は違和感を覚えるのだが、そこへ至るまでのコマ運びとそこから先のコマ運びの連続性によって、すぐに新鮮な迫力へと訂正される。殴られたアキラのそばにショーチャン(障一)が転がって来、鉄パイプを構えるケンエーのワキにショーチャンを倒したのだろうコンチャン(近藤)が寄り、並び立つ、こうした盛り上がりのつくりは、なかなか他に類を見ることのできない、たいへん非凡なテクニカル上の結果にほかならない。さて。『女神の鬼』の物語全体のテーマを考えるうえで、この巻における最大のトピックとすべきは、タニケンとコンチャンの、次のようなやりとりではないか、という気がする。小学生時代は、ギッチョ(主人公の佐川義)らと行動をともにしていたにもかかわらず、今はケンエーに付き従い、敵対関係にあるコンチャンに向かい、臆病な性格のタニケンが意を決して〈…な…………なんで‥‥なんでこんなにみんなケンカせんにゃ〜〜いけんのん‥‥なんか……ボクから見たら みんな同じよーな人らばっかしじゃし‥‥仲良くすれば‥‥すっごい仲良しになれそーなのに……‥なんでそんなに傷つけ合わんにゃ〜〜いけんのん…しかも‥‥コージくんとコンチャンはちっちゃい頃からずっと‥‥友だちじゃったじゃんかぁあッ!! なんでコージくんにこんなヒドイコトできるん‥……!? なんでコンチャンそんなんなったん‥‥!?〉と問いかける、これに対して、コンチャンは〈教えたらぁや‥…〉と言う。〈なんでワシらが戦わんにゃあいけんか‥‥それはのォ…同じよーなヤツらじゃけぇこそなんじゃ…みぃんな王様になりたいんじゃ…!! それでも王様には一人しかなれん…なれんヤツはどーやって自分を納得させるかを日々考えるんじゃ‥‥2番手ならまだ次が狙える位置じゃけぇえーかとか…自分より歳が上の王なら次の世代はワシが…とかのォ‥‥わかるか? タニケン…ワシはずっと あんならがジャマじゃった…………ギッチョとコージがおる限り…ワシは2番手にすらなれんのじゃけぇのォッ…!!〉と、このセリフは、かなり悲痛である。そして悲痛さは、ある種の人間たちを前にしたとき、自分が弱者ないし敗者の立場にならざるをえない、そのことの自覚からやって来ている。野心、そうでなければ関係性への脅えは、場合によって、そのような屈折を心にもたらす。だが、それでもなお〈イヤじゃ………!! それでもボクは友だちを‥‥誰も傷つけと――ないよぉッ…!!〉と反論するタニケンの言葉もまた、悲痛であり、印象的である。田中の過去作であり、『女神の鬼』に連なるサーガ『BADBOYS』と『グレアー』を読んだことのある者ならば、ここで展開される論理が、あの、すべての凶事の根源だといえる松尾安三と新太郎の、純粋なあまり歪んだ友情の反響であることに気づくだろう。人は、一人では生きていけず、しかし、一人になるのをおそれ、足掻いた結果、孤独となり、鬼となることがある。それを因果というのであれば、因果はめぐり、めぐる。五代目ビイストのトップ内海と廣島連合のトップ五島を陥れ、ぶつけ、自らが廣島連合の頭になろうとする東の邪悪さが、あらたな悲劇を予感させる。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年04月05日
 湾岸MIDNIGHT 40 (40) (ヤングマガジンコミックス)

 さて、楠みちはるの『湾岸MIDNIGHT(ミッドナイト)』という、けっして読み手のすくなくはないだろうマンガについて、ねえ誰かが真剣に論じてくれないものかしら、と、つね日頃から考えているのだけれど、自分の目に入る範囲では誰もやってくれそうもないので、ぼちぼち手をつけていきたい、と思う。まず取っかかりにしなければならないのは、やはり、この作品が、平行して発表されていた『シャコタン・ブギ』と、文字どおり、入れ替わるかたちで、作者のメイン・ワークへと発展していったことであろう。このことについては、おそらく次のように意味づけられる。つまり、『シャコタン・ブギ』がいうなれば、消費社会の恩恵を無条件で享受しよう、というバブル経済のノリと勢いであったのに対し、『湾岸MIDNIGHT』はといえば、高度経済成長以降の消費社会への、立ち止まった批評として描かれ、成り立っており、90年代を分岐点としたとき、後者のほうが、表現の題材としてはシリアスであると同時に、時代性とマッチしていた。もちろん、物語の当初は、伝説のマシーンをめぐり死と隣り合わせで行われる走り屋の青春劇でしかなった。それが連載を重ねるにつれ、じょじょに性格を変えてゆく。とくに、作中の時間はほとんど動いていない、いや、より正確にいうと、細部の設定は、生活様式の変化にあわせ、アップデートされているが、登場人物たちの年齢は静止しているのに近しい状態である、にもかかわらず、登場人物に中年期の人間だけが増え続ける、その点を注視されたい。主人公であるアキオはいつまでも若く、次々に登場するライヴァルも、多くの場合、若い。しかし、アキオやライヴァルたちをサポートする裏方、要するに、チューナーや板金工、整備士の多くは、すでに若さと一線を引いている。アキオや、アキオの駆る悪魔のZと共依存の関係にあるような、ポルシェ911(通称ブラックバード)のオーナー島はともかく、次々と現れる若きライヴァルたちは、シリーズが更新されるたび、何かしらかの事情によって、物語から退場してしまう。反面、裏方の人間たちのほとんどは物語に居残る。そうして、中年期の彼らが語るのは、自動車産業とともに発展してきた、この国の、現在であって、社会にほかならない。外観も含め、自動車のメカニズムは、消費行動における趣味や流行の変容がダイレクトに反映されたものだとの考えに基づき、そのプラスとマイナスの両サイドを通じて、日本の現代史もしくは日本人の本質が再検討される。たとえば、この40巻から言葉を引くのであれば、そう、〈たとえば車にラクを求める よく利くエアコンやパワステ&AT 快適な装備など 実は乗り手がラクになるほど車には負荷は増えるんですよ 500馬力のチューンドカーでも夏の渋滞を快適に走りたい「お前のラクは車の負担」走り屋でさえ今はわかりませんから〉といった具合に。そして再検討された結果が、あらたな自動車のチューニングとなって現れ、アキオやライヴァルたちの走りに託されるのである。とはいえ、カメラマンや自動車評論家(ライター)などの以前扱ったことがある職種を、ふたたびべつのライヴァルたちに課しているあたりからして、物語そのものは二周目に入った印象を免れず、正直、繰り返しに見える部分もすくなくはない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月31日
 この『阿部一族』は、森鴎外の同名有名小説を、寡作で知られる佐藤宏之がマンガ化したもので、封建制における殉死というテーマを真っ向から描く、硬い内容の作品だといえるが、いやいや、だからといって、そう難しく構える必要もなくて、旧い価値観と新しい価値観とが衝突して生まれた悲劇のていを為した時代劇として、ただただ、せつなく、読める。寛永十八年、当時の細川家当主、忠利が病に伏し、亡くなる。忠利が生前のさい、家臣たちは、もしものことがあったら忠義のために殉死することを申し出ており、十八人の者たちがそれを許された。側近として長く仕えながらも、しかし最後まで認められなかったのが、阿部弥一右衛門である。いくら弥一右衛門が〈いにしえの昔から武士は二君に仕えぬもの 拙者の面子が立ち申しませぬ〉と請おうと、これを聞き入れることがないままに忠利は世を去った。許しもなく自死すれば犬死にとなる。弥一右衛門にしたら、命を惜しんでいるわけでもないのに、殉死できぬことは恥のようでもあり、じっさい城内には彼を揶揄するふうな噂が立つようにもなる。こうした辱めに耐えられず、ついに弥一右衛門は、家族の同意を得て、その目の前で切腹を果たす。が、制度からするに、この行いはかならずしも褒められたことではないので、殉死者と弥一右衛門の死とを区別すべく、遺族にしたら不服を抱かざるをえない処置がとられ、結果、阿部一族は決起、館に籠城し、藩に対して謀反ともとれる姿勢を見せるのであった。基本的な筋は、きわめて鴎外の原作に忠実であり、阿部一族が討たれることによって、どうしてか報われない死があることの、その意味を深く考えさせられることになるのだけれど、佐藤は、多数の登場人物のなかでも、弥一右衛門の次男、弥五兵衛を主人公化し、また彼を現代の人間に近しい主観の持ち主につくり変え、そして彼と竹内数馬、柄本又七郎の、行きがかり立場を違えてしまった三者の友情をクローズ・アップすることで、物語により良く感情移入しやすくなるよう、工夫をこらしたうえ、事件そのものの空しさを強調するためか、ラストの展開と結末に、ややアレンジを加えている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月30日
 新・味いちもんめ 21 (21) (ビッグコミックス)

 料理マンガというスタイルは、連載が長期化すると、作中の時間進行がおかしくなってゆく傾向があって、と、まあそれは料理マンガに限ったことではないのであろうが、にもかかわらず、四季が日本人の大切なあれでどうとか、さもえらそうに説教をくれたりするから、困るのである。作中のリアリティがまず現実にそくしていない。こうした悪習のせいで、さんざんな内容になってしまっているのが『新・味いちもんめ』であるが、いやいや、オリジナルの原作者であったあべ善太の逝去をきっかけに『味いちもんめ』よりリニューアルされた当初は、おもしろく、よく出来ていた。それというのは、企業化し合理的になっていく料理の世界に反発しながら成長する主人公のお話として、芯を逃さない表現になりえていたからだと思う。だが、その主人公の伊橋が、京都に修行に出て以降は、まったく駄目、ふるわない内容になってしまった。無印の『味いちもんめ』後半に近しい、基本的にはおおきく動かない物語のなかでワン・エピソードにつきワン・メッセージ、式のフォーマットを採用するが、あべ善太ほどに、倉田よしみもシナリオに協力している福田幸江も才知がなかったのか、底の浅い無駄話を繰り返すばかりであった。だいたい、伊橋だって、いつまでも若者というわけにはいかないのだ。無印『味いちもんめ』における初期の、才能はあるけれど世間を知らない小僧、といった印象も、すでに消え去っている。ずいぶんと大人になった。結局のところ、才能があり理解もあって人当たりも良い、こういう人物を主人公に置いておくことの困難さが、ここ最近の『新・味いちもんめ』には顕著であったと感じられる。才能があり理解もあって人当たりも良い、こういう人物が、自分が何をしたいのかわからない、と、目上の人間に相談しているだけで話数が増えていくのだから、そりゃあ嫌気がさすというものであろう。さて。東京に戻ってきた伊橋に、いよいよ独立の話が持ち上がる、というのが、この21巻の主旨である。そこでもやっぱり伊橋は〈でも、まだその時期ではないと…もっと学ぶことがあるからと…先輩の二人がそう言っているのに、ボクにはとても…〉とのたまう。ひさびさに登場した料亭「藤村」の親方が〈子供やあるまいし、何をあまったれたことを言ってるんや!!〉と怒ってみせるのも当然だよね。しかし、その発破のおかげで、とうとう伊橋は独立を決意する、と、じつはここで『新・味いちもんめ』は完結の運びとなっている。正直、大勢に(名前だけは)知られている作品のラストにしては駆け足すぎる気もするけれど、京都編のぐだぐださ加減を考えると、このへんが引き際でしょう。最終回に向けて、懐かしの面々が、とくにボンさんや渡辺が、ちらりと顔を出す趣向も気が利いているし、無印の『味いちもんめ』を思い出させるかのようなエンディングも、最後のシーンとしては申し分ない。おい、このあとも『味いちもんめ〜独立編〜』に名前を変えて物語は続くんだよ、って。悪い冗談はよせよ。

 20巻について→こちら
 19巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 蒼太の包丁 17 (17) (マンサンコミックス)

 料理マンガというスタイルは、連載が長期化すると、作者の蘊蓄やイデオロギーをアピールする、だけ、の道具になりがちなところがあって、なかにはストーリー上のマンネリズムを避けるかのように、対決形式というかバトル的な展開を設けるものもすくなくはないけれど、それだって結局は、作者の蘊蓄に耳を傾けさせるか、作者のイデオロギーを優位に見せかける、そういうため、だけ、の趣向になりかねない。もちろん、若年層向きの料理マンガにおける、美味い不味い、をどうやってリアクションに還元するか、の単純なカタルシスに関しては、このかぎりではないとしても、その手の作品はたいてい、話がおもしろくない、というのが常である。『蒼太の包丁』はしかし、そのような料理マンガの悪しき慣例を免れつつ、あくまでも物語のレベルで愉しませてくれる、数少ない作品のひとつだといえる。すくなくとも、現時点で17巻のけっこうなヴォリュームに達しても、その内容が残念なかたちに歪んできているぞ、と眉をひそめたくならない。たとえワキでさまざまなイベントが発生しようとも、主人公である青年、蒼太が料理人として(または料理と人を通じて)いかに成長するか、この中心の一点を忘れることなく、ぶれず、効果的に描き続けている。基本的には人情に頼る作風であり、絵柄も含め、ややウェルメイドな印象を受けるし、話題性のすくないマンガではあるけれど、もうすこし高く評価されても良いのではないか、と、しばしば思う。さて、この巻では、蒼太にとってクリティカルな事件が、二つ、平行して起きる。そのあいだで、まさに身を引き裂かれるような決断を迫られる。それが正念場であるならば、おそらくは〈板場に立てる喜びを忘れるなよ! たとえ何があろうともな!〉という父親の言葉が、今後の展開を占うほどに、重要な意味を持ってくるに違いなく、ああ、こりゃあ次の巻では泣かされるかな。

 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月28日
 電撃デイジー 2 (2) (フラワーコミックス)

 唯一の肉親である兄を喪った少女と、自分の正体を隠してまで彼女を守ろうとする青年の、厄介に絡まったラヴ・ストーリーを描く最富キョウスケの『電撃デイジー』2巻では、なぜ黒崎祐イコールDAISYが一介の女子高生に過ぎない紅林照のために身を挺すのか、その秘密の一端が、こちら読み手に開示されるのだが、しかしそれは同時に、黒崎と照の兄とのあいだで交わされた不吉な約束に触れるものでもあった。〈『“DAISY”が守ってくれる』 妹に そう伝えておいたよ わかるよな おまえに頼みたいんだ きついなら正体隠したままでもいい 苦しいか? 祐 だからおまえに頼むんだよ 必ず妹を守って幸せにしてやってくれ そして 俺の妹に近づく度に その苦痛を “DAISY”が犯した罪を思い出せ〉。生前、照の兄に告げられた言葉が、黒崎をひどく悩ませる。と、そうした黒崎の様子を導き出す、この巻の流れを通じ、物語の構造は、おおきく転回していると考えて良いだろう。要するに、純粋無垢なお姫様の不幸を王子様が影から救う、といったかたちが、苦悩する青年がイノセントな少女によって救われる、といったかたちへと、如実に変形させられている。全般的に明るくあった雰囲気が、だんだんと翳りはじめているのも、照にではなく、黒崎のほうの内面に対応してのことである。このことはもしかすると、次巻以降の評価を微妙にさせてしまう可能性を孕む。

 1巻について→こちら
 
 『青春サバイバル』について→こちら
 『ペンギンプリンス』について→こちら
 『プリキュウ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月27日
 父親が再婚したため家に居づらくなったヒロインの亀戸しま奈は、家出の途中、着物姿で行き倒れている怪しい男、藤原虎(たいが)と出会い、彼から三つの条件をクリアすれば、住む場所を提供してやると言われ、その結果、平屋の一軒家の一室を得るのだが、そこには大家である虎のほか、同じクラスでカンフー・バカと罵る中城善と、龍ヶ江朝陽という一学年上の爽やかな先輩が同居していたのであった。こうした筋書きで幕を開けるのが、高野苺『夢みる太陽』の1巻で、話の動かし方には強引なところも多いのだけれど、それをテンションの高さで見事に押し切ってしまうあたり、とてもこの作者らしい、といえる。家庭のなかに自分の居場所が感じられない、きっと誰にも必要とされていない、式のエモーションを抱えた少女の、自分に近しい世代の人間との疑似家族的な関わりを通じ、成長してゆく姿が、おそらくは、メインのファクターだと思われる。まあ、そういった題材のとり方自体は、さほど珍しいものではないだろう。それでも特筆すべき点を述べるのであれば、無目的のうちにすべてがはじまるのではなくて、あらかじめ主体に対して「夢を持つこと」あるいは「恋をしろ」といった課題が与えられていることに他ならない。虎が、しま奈に出した三つの条件のうちのひとつが、じつはそれである。サブ・カルチャー表現における下宿には、多くの場合、モラトリアムを代替する機能が与えられている。そこを出て行くときまでに成長していなければならないので、自分が為すべきことを探す、その過程がドラマとして成立し、描かれる。現実的には、為すべきことを見つけられずとも、下宿先を後にする人間はすくなくはないに違いない、が、それではなかなか物語にならないので、作者は、各種のイベントを発生させては、登場人物たちに、何かしらかの自覚を促す。だが『夢みる太陽』においては、「夢を持つこと」あるいは「恋をしろ」と、登場人物の行動は一本化されている。もちろん「夢を持つこと」あるいは「恋をしろ」というのは漠然としており、ほとんど何も言っていないに等しい。しかし、その何も言っていないに等しいことをわざわざ明示しなければ、しま奈を主人公とするストーリーが起ち上がらなかったことだけは、注意しておきたい。それが、アプローチとして前進なのか後退なのか、一概には判断できないとしても、すくなからず今日的な意匠ではある、と考えられる。

 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 付き合う以前に、お互いを信じられなかった者同士は、結局、付き合ってからもお互いを信じることができない、というのが、田島みみの『学校のおじかん』13巻に含まれている教訓である。いやいや。今やけっこうな長篇になりつつあるのに、わたしを信じて、だめだ信じられないね、でもやっぱり好きだから信じる、おれを信じろ、だめ信じられない、でもやっぱり好きだから信じる、これだけを延々と繰り返している内容の薄っぺらさは、驚愕に値する。いろいろな困難を乗り越え(じっさいには乗り越えていないんだが)、ようやく恋人関係になった陸とマキであったが、さすが頭の悪いところがお似合いのカップルだといえよう、ワキの登場人物のひとりが〈何やってんのアンタ達! いつの間につきあって別れてって早すぎるよ!!〉と驚くぐらいの猛スピードで、破局してしまう。そして、それぞれべつの異性からアプローチされ、ちょっとは気のあるふりをするのだけれど、しかし、陸はマキに、マキは陸に、未練たらたらなのであった。これが、ここでのおおまかな筋で、ひとりよがりの馬鹿には恋愛をさせてはいけない、そういう見本のような話になってしまっている。たぶん、作者は、ヒロインたちの脳の足りなさを不器用さだというふうに読ませたいのだろうが、はじまったばかりの物語ではないのだから、もうすこし成長を描いてくれないと、まずい、説得力が欠ける。

 12巻について→こちら
 9巻について→こちら
 5巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月26日
 strobe.jpg

 現代のこの国の生活様式において、どれほど通過儀礼と呼ぶに値するイベントが存在するかは定かではないけれども、告白、というのは確実にそのうちのひとつに数えられるものだろう。もちろん、ここでいう告白とは、信仰上のそれではなく、恋愛状態下にあって行われる、つまりは神に対して身の証明を果たすのではなくて、特定の他者を対象に自らの内面を明確化する行為であることも、また重要な点だといえるのだが、ともかく、告白をするための場、空間というものは、たいていチャンスやタイミング、ムードを考慮したうえで仮構された、そうでなければ突発的に発生した異界であって、たとえ正否はどうであれ、そこへ行って帰ってくることが、当事者の今後の在り方を左右し、場合によっては、自分が属する共同体(友人たち)に祝福されるような、劇的な儀式として機能するのである。そうして告白をする前と後とでは、同じ日常は繰り返されない。このことを、咲坂伊緒の『ストロボ・エッジ』2巻は、よく教えてくれる。それまで恋愛とは無縁のまま、高校にあがった仁菜子は、女子たちにアイドル視される蓮と知り合い、親しく日々を過ごすうち、彼への抑えきれない想いこそが初恋なのだと気づかされる。しかし蓮には恋人がいて、それが絶対にかなわない相手だと知って、はげしく落ち込むが、周囲の人びとの恋愛に臨む態度がいかに真剣かを目にし、ふられてもかまわない、せめて自分の気持ちを伝えることだけはちゃんとしようと決心するのであった。こうして、さあどうなる、というのが前巻のラストで、この2巻の冒頭では、いきなり、ふられている。たしかに失恋は辛い経験ではあるけれど〈蓮くんを好きという気持ちは丸ごと残ったままだけど〉仁菜子は、今までどおり、友達同士、仲良く接してくれることを蓮に頼む。ここから物語は、告白という行為を経たあとの、片想いを描いてゆくことになる。当然、後退として、ではなく。たとえば、自分と同様に蓮にふられたことのある女子たちから悪口を言うことを強要され、拒み、〈ふられたからって その相手を否定するなんて そのほうが間違ってる 否定なんかしない たとえ届かない想いでも それでも私の大切な想いなんだ〉と思う、この、仁菜子の言葉のなかには、告白以前にはなかった成長と決意が、あきらかに刻み込まれている。はたして噛ませ犬なのだろうか、新規登場した安堂にちょっかいを出されているときの反応にも、それは顕著であろう。女子とあれば携帯電話の番号を尋ねずにおられないほどにチャラい性格の安堂からしたら、仁菜子のまっすぐな様子には理解しがたいところがあるらしく、あるとき〈わかんねーよな――彼女持ちの男をまだ好きでいるなんて ダメなら次行きゃいーじゃん 次〉と忠告し、〈レンアイって もっと楽しいはずじゃん 辛い恋とかマジ意味分かんないねッ〉と言うのだが、仁菜子は堂々と笑って、〈安堂くんだっていつかするよっ いつか きっと こういう恋するよ。〉と答える。これを受けて、安堂が〈なにその上から目線〜〜〉と照れた素振りを見せるのが、印象的である。女性に臆することがなく、おそらくは童貞でもない安堂を、蓮への告白を経た仁菜子が、意外にも凌駕しているのだ。いや、意外でもないのかもしれない。作中に明示されているわけではないけれども、たぶん安堂のこれまでの恋愛経験は、通過儀礼的な告白と無縁なものであったのに違いない。したがって、いとも容易く、仲の良い女子との関係を断ち切れてしまえる。それすらも日常と一連なりの出来事でしかない。だが、その安堂が、どうやら仁菜子に今までにない真剣さで惹かれているみたいだぞ、というのが、この巻でのクライマックスにあたる。仁菜子と蓮、そして仁菜子の幼馴染みである大樹の三角関係的な状態は、前巻の段階で解消されてしまったが、大樹のかわりに安堂が介入することによって、ふたたびトライアングルが成り立ち、あらたな緊張が提出されている。この緊張の働きかけが、各人に対し、どのような変化をもたらすのか。次巻へと持ち越される、まさかの展開に、どきどき、と、わくわく、させられる。

 1巻について→こちら

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月25日
 おせん 15 (15) (イブニングKC)

 きくち正太『おせん』の最大の魅力といえば、もちろん、料亭「一升庵」の若女将おせんのカリスマにあるのだが、もう一方で、帳簿係である江崎の成長が、物語のレベルで、作品を支える重要な役割を果たしている。と、以前までは自然に考えることができていたのだけれども、このところ、どうもそのへんが怪しくなってきたように思う。かつても述べた気がするが、おせんは、いわば水戸黄門のごとき存在であって、彼女の提供する料理は、つまり水戸黄門の印籠に近しい、作中世界における絶対の審判に他ならない。と、まあ、それはそれで料理マンガの定番的なパターンだといえるのだけれど、ここで注意しておきたいのは、江崎のもたらす物語性が後退することによって、たとえば『美味しんぼ』の海原雄山または山岡士郎が、作者のイデオロギーの代弁者であるがゆえに、その料理作法が神格視されてしまうのと同様の欺瞞に、作品の陥っていく可能性が強まってきているということである。たしかに、この15巻の、江崎に片想いする真子のお見合いに関するエピソードでは、いっけん、江崎の成長が描かれているふうであるし、じっさい、そういうふうに読ませるようにオチがつけられている。もの悲しい印象を受ける、良いシーンである。良いシーンではあるが、しかし、それはそのシーンだけを切り取って見た場合の話であって、ここまでに至るストーリーをラヴの面で判断するとしたならば、正直さあ、肩透かしも良いところだよ、と言いたくなる。江崎の妹ヨシ子の登場も含め、そうしてじょじょに、おせん信者を増やす回路だけが強化されつつあるのを、すこしばかり、危うく感じる。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月23日
 ジナス-ZENITH 4 (4) (モーニングKC)

 まあ、ほら、ビッグ・オーって長崎尚志だから、といえばそうなんだが、吉田聡の『ジナス―ZENITH―』はなあ、だんだんと、浦沢直樹の『MONSTER』とか『20世紀少年(21世紀少年)』とか『PLUTO』とかみたいになっちゃっている。要するに、巨大な陰謀を企む黒幕の正体はいったい何者で目的は何か、式のサスペンスをやたらもったいぶって描いているわけだが、重要なのは、その過程において、『荒くれKNIGHT』から持ち越されてきた〈ジナスを見た者はジナスに覗き返される〉というテーマが、結局はニーチェかよ、と指摘できるような頭でっかちで退屈な善悪の哲学に淫してしまっていることで、この4巻では、それがさらに顕著となっている。とりあえず、相応の深さはあるのかもしれないけれど、読み耽るほどにエンターテイメントしていないのを残念に思う。ぶっちゃけて、『荒くれKNIGHT 黒い残響―完結編―』のほうも当初の危惧どおり、(連載を読むかぎりなので単行本にまとまるとまた印象が変わってくる可能性もある、との留保つきだとしても)蛇足としかいえない展開になってきており、最近、この作者のものから行き詰まりを覚える機会が多い。

 2巻について→こちら  
 1巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『荒くれKNIGHT 黒い残響―完結編―』第1話について→こちら
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月22日
 かの天才、竹易てあし先生が唯一残した作品集『おひっこし』を、00年代に量産され続ける青春マンガ群がどれひとつ越えられずにいるなか、もしや新たなマスター・ピースの誕生では、と思わせるのが、石黒正数の『ネムルバカ』である。大学生という、まったく生産性のない徹夜と昼寝が社会的に容認されている馬鹿騒ぎを、アイロニーを込めながら、おもしろおかしく、しかし照れのない真っ直ぐさでもって、あざやかに、さわやかに、描き出す。勘違いの失恋や身銭にならないバンド活動など、この手の作品にアリガチというか必需なモチーフやストーリー展開に、着目すべき点はすくないだろう。にもかかわらず、にやにやとさせられてしまうのは、過ぎるのはゆっくりだけれども、終わりは性急にやってくる、そういうモラトリアムの限定性を、切り取り、デザインし、加工するセンス自体に、たいへんすぐれたものがあるからだというほかない。この作者ならではの現実離れした特異なテンションが最大のフックだと思われる一方、たとえばとある作中人物が口にする〈やりたいことのある人とやりたいことがない人との間に 何かしたいけど何が出来るのか分からない人ってカテゴリーがあって 8割方そこに属していると思うんだがね〉等の言葉によって示される冷静であるような認識が、身近なリアリティを引き寄せている。主人公の若い女性二人の関係を、当人たちが明確に意識していないピュアラブルな恋愛状態と解釈することも可能であって、そうした束の間の蜜月が若さや可能性に溢れた日々とだぶる、夢のなかを漂っていられる季節の短さを、物語の最後に、輝かせる。

 『それでも町は廻っている』1巻について→こちら
 『アガペ』(原作・鹿島潤)1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月21日
 ある年代の人間にとって、やはり坂口いくは『闇狩人』の作者という記憶であろうが、若い世代の人間にしたら、岩澤紫麗がマンガを描く『ちぇんじ123』の原作者(絵コンテ)という印象が強いかもしれない。どうやら、スマッシュ・ヒット的な人気を得た感のある『ちぇんじ123』だが、その、キャッチーともいえる特徴は、おおきく三つ挙げられる。ひとつは、女性登場人物が頻繁に肌や下着を露出させる、まあ要するに、ライトなお色気の要素であるけれど、それについてはこれ以上述べるべきことがないので、ここでは、他の二点を見ておきたい。まずは、ひ弱な男性主人公が、武闘に長けたヒロインとの、ラヴとコメディを挟んだ出会いや関係を通じ、成長する、近年でも『史上最強の弟子ケンイチ』や『すもももももも 地上最強のヨメ』等のヒット作に見られる傾向で、こういったファンタジーの発祥に関しては詳細に検討される余地があるとしても、現代の、おそらくは男性向けのサブ・カルチャー表現において、意外と支持層の厚いパターンだといえる。さて、三つの特徴のうち、残るもうひとつは、ヒロインが二面以上の多重人格的な資質を備えている点である。多重人格という症状は、これも今日のサブ・カルチャー表現において、とくに珍しい設定ではなく、だからこそキャッチーでもありうるのだろうが、わりと屈託がなく人格をチェンジしてゆくような素振りは、最近の特撮ヒーロー・ドラマ『仮面ライダー電王』にも相通ずるものだ。では、それら三つの、わかりやすい特徴が『ちぇんじ123』の本性なのだろうかどうだろうか。個人的にはむしろ、男性主人公、つまり小介川の、イノセントとも解釈できる素朴な人間性が、一個の作用点となり、他の人間たちを動かす、そのようなドラマの部分に、シリアスなメッセージ性を感じる。すくなくとも、この7巻では、沖縄への修学旅行中、同級生に怪我を負わせた米軍兵士と対決するヒロインたち、そしてそれに協力する神無弥の行動は、小介川の、活躍の場こそほとんどがないけれども、彼の理念によって決定されている。回想で示される、幼い日の小介川と神無弥のやりとりが印象的である。天才的な頭脳を持ち、達観するあまり〈価値観とか愛情とか正義というものは人の心によって変化し その定義づけがむずかしいんだ 君と僕は友達なのかな?〉と問う神無弥を、持ち前の無邪気さで納得させた小介川は〈無駄が嫌いな神無弥君だから 友達も無駄だよ って言うのかと思っちゃったよ 友達は何人いても無駄じゃないもんね!!〉と笑う。この記憶が、小介川たちの計画に最初は乗り気でなかった神無弥の気持ちを変える。素直に良いシーンだと思う。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月20日
 もしも編集サイドの要請であったとしても、結局は『BMネクタール』で成し遂げられた達成の呪縛であろう、藤澤勇希の新作『レギオン』もまた、『BMネクタール』、『エレル』、『メトロ・サヴァイブ』の系譜に連なるパニック・ホラーでありサヴァイバル・アクションなのであった。ところで、その『BM ネクタール』の特筆すべき点は、たとえば柄谷行人が『倫理21』のなかでカントを援用しつつ述べた、他者を手段としてのみならず同時に目的として扱い、そして生れざる他者への倫理的義務を負う、といったようなテーマを、はからずも(おそらく藤澤当人は柄谷もカントも意識してはいないのだろうが)十分なエンターテイメントとして描ききったところにある。人災によって文明と社会がほぼ壊滅した状況下で、それでもなお理知的に生きようとする主人公たちの行動は、この世界そのものを変えることがなくとも、この世界の内に含まれる一筋の救いであり、可能性でありえた。B級映画のような、という形容が似つかわしい完成度の『エレル』や『メトロ・サヴァイブ』でさえ、そういう基本的な理念はしっかりと作中にキープされてあった。『レギオン』も、この1巻を読むかぎりでは、同様である。地球温暖化が、シリアスにではなく、なあなあに問題視されるようになって久しい近未来、悲劇は、突然の大規模な停電によって、はじまった。地下で大量に発生したネズミたちが、食料を求め、地上へ、つまりは人間が暮らす領域に押し寄せてきたのである。誰しもが最初は、まるで他人事みたいに、甘く見ていた。しかしそれも、ネズミのエサとなって喰われる、その危機が自分たちの身近に迫り、もはや逃げきれなくなるまでは、の話にしか過ぎなかった。こうした非常事態の到来が、戸隠家の父親と姉(華音)、弟(龍斗)の三人を中心に捉まえられる。次々に安全が崩壊するなか、遠方の仕事先から父親は、子供たちのいる東京へ無事駆けつけることができるのか、そして利己と狂気に歪みつつある大人に囲まれ、はたして華音は龍斗を、龍斗は華音を守りきることができるのか。〈月並みですね…一番怖いのは人間なんて〉とセリフにあるとおり、サスペンスはあくまでも通俗的なものにほかならない、けれども、人間性の腐った人間の憎たらしさは、そのデフォルメされた容姿も含め、あいかわらず加減がない。これが、悪い意味ではなく、マンガの内容にとって重要な、ひじょうに嫌な感じの表現になっている。

 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月19日
 金色のガッシュ!! 32 (32) (少年サンデーコミックス)

 仲間との別れは、たとえそれがどれだけ前向きで建設的であろうとも、つらい。強敵クリアとの決戦にガッシュを向かわせるため、ティオとウマゴンは犠牲になることを厭わず、自分たちの想いを託し、消失する。雷句誠『金色のガッシュ!!』の32巻では、長かった物語もいよいよ佳境、次巻で完結を迎えるにあたって、次々にドラマティックなイベントが発生させられてゆくわけだが、なかでもやはり、ウマゴンの活躍とラストが、たいへん胸に迫る。いや、ティオのがんばりにも、熱くなるものがあるだろう、込み上げてくるものがあるだろう、涙を誘うものがあるだろう。あるいは、そうして切り開かれた道を走る、ガッシュと清麿を背に乗せてひた走るウマゴンの勇姿だからこそ、思わず堪えきれなくなるものがあるのだろう。ここで、人間の世界にやって来る以前の、ガッシュとウマゴンのはじめての邂逅が挿入されるのは、ずるいほどに巧い。その出会いの意義と喜びを、つよく訴えかけてくるせいで、別れの痛みがより深く、強調される。ウマゴン(本名シュナイダー)のママさんが口にするセリフが印象的である。〈もし、あなたがこの魔界の王様を決める戦いで王様になれなくても、あなたが助けたいと思える人を本当に助けられたら…力一杯助けられたら、それはとても幸せなことよ〉と。これはもちろん、『金色のガッシュ!!』の物語全体を貫くテーマのひとつを言い表している。誰もが、誰かを支え、誰かに支えられ、支え合うことのあたたかみによって、感情の貧寒を免れる。あのクールで非人間的でさえあった清麿の内面がガッシュとの冒険を通じて豊かになったように、最後の力を振り絞ろうとするティオが過去を振り返り〈なんで、楽しい時間はあっという間なんだろうって…〉思うように、そしてキャンチョメを含め、多くの仲間やライバルたちが、魔界の王を決める戦いのなかで、寂しさや悲しみ以上の多くを得たように、ウマゴンも最高の笑顔で、物語から退場する。
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 天のプラタナス 4 (4) (月刊マガジンコミックス)

 中学時代に、あくまでも裏方の打撃投手に徹してきた海原夏生に足りないのは、いち野球選手としての自信と態度であった。しかし浜鹿高校野球部に入って、はじめての練習試合の最中、素人女性監督天木のアドヴァイスを得て、夏生は、その秘めた実力を開花させてゆく。だが対戦相手は、さすがに地区の強豪校、紅鏡学園である。夏生の意外な活躍に驚きながらも、2対2で迎えた2回表、浜鹿高校チーム全体のレベルの低さを突き、次々と猛打をふるう。このピンチを、夏生を含む浜鹿ナインはどう切り抜けるのか、というのが、七三太郎(原作)と川三番地(漫画)のコンビによる『天のプラタナス』の4巻における最大のヤマ場であろう。が、正直な話、ちょっと、ドラマの部分に盛り上がりを欠くように感じられた。危機のなかで、チームに、それまでになかった連帯感が芽生えるのも悪くはなく、そうした成長を捉まえる天木のセリフも良いし、その後の展開、試合の決着も、十分に納得のいくかたちで訪れる。しかし、いまいち興奮させられないのは、そういった土壇場における覚醒というか成長というか、が、やや唐突であり性急であるためだと思う。一試合のうち、要点だけを描写し、それらを解説で連結させる、このような手法は野球マンガにかぎらず、スポーツ・マンガ全般にとって一種のセオリーで、『天のプラタナス』の作者たちが得意とするところでもあるのだけれど、ここではどうもその解説の根拠が、言い換えるなら作品に課せられているテーマが、こちらによく伝わるよう組み立てられていない。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年03月17日
 完全に色ボケである。藤枝とおるの『ドラゴン★ガール』は、父親サクヤへの憧れから、かつて彼が在籍した翔龍高校応援団を女だてらに立て直そうとするヒロイン、愛染リンナの奮闘を描くのだけれども、リンナが初恋の相手であるすばるとの再会を果たしたことによって事態は妙な方向に動き出す、というのがこの4巻におけるだいたいの内容であって、それにしても恋は偉大といおうか愚かといおうか、リンナ、当初のヴァイタリティ溢れるところが後退していき、ずいぶんとしおらしくなってしまっている。結果、無知であることと前向きであることがイノセンスとイコールで結ばれるような、少女マンガに類型的な主人公にしか見えない。それにならって、応援団という特殊な趣向に関しても、すこし、ぶれが出はじめている。いや、物語自体は、いろいろとドラマティックなイベントを発生させているのだが、ヒロインと好きな人とがじつは異母兄妹かもしれない、とか、かつては敵サイドにいた優等生がヒロインに惚れてしまう、とか、その優等生には裕福な家庭ならではの悩みがあるらしい、とか、どれも一昔前のパターンに収まってしまいそうなのは、いまいちインパクトを欠く。しかし、八乙女くん、キュートだなあ、噛ませ犬なのかなあ、このまま恋愛の方向性が強まるのであれば、彼がリンナを横からかっさらっていく展開があったりすると嬉しいのだけどなあ。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 おれはキャプテン 16 (16) (少年マガジンコミックス)

 作品がはじまった当初に比べると一般的な注目度は低まってしまった感もあるが、しかしコージィ城倉の野球マンガ『おれはキャプテン』は、掲載誌を『マガジンSPECIAL』に移し、第二部「くたばれ甲子園の章」に入って、つまり主人公カズマサが高校球界にしっちゃかめっちゃかな波乱を次々と巻き起こすような展開からは、俄然目が離せない。体育会系の部活動組織に反発を抱くカズマサは、かつてのライバルであるデレックや蝦名とともに、私立朋王学園高校へと進み、そこで新たに硬式野球部を立ち上げると、わずかな期間で地区の強豪校にまでのし上がる。これはこれでまあ同ジャンルによくあるパターンといえるけれども、根底にあるカズマサの体育会憎しの精神が増長してゆく過程は完全に他と一線を画すものだといえるし、二年目の夏、自分たちの実力とは無関係な不本意なかたちで甲子園出場が決まったことによって、さらにそれはエスカレートする。全高校野球ファンを敵に回す発言をし、マス・メディアに「ふてくされ王子」と名づけられたカズマサの目標は、一回戦を敗退して、とっとと東京に帰ることであった、というのが前巻までの流れだが、この16巻では、はからずも二回戦に進出し、新たなライバル雄馬間が登場したことで、事態はよりややこしいことになる。猛烈なプロ指向を持ち、高校野球に必要なのは〈国民的熱狂より・・・・合理性だ〉と言う雄馬間に、アンチ体制でありアンチ体育会でありアンチ甲子園であるはずのカズマサは、だが〈日本という国は・・・・甲子園大会があるから美しいんだ〉と異を唱えるのである。これはもちろん、ノーしか述べない天の邪鬼カズマサの単純な条件反射だろう。しかし、この発言と対立のせいで、こちら読み手は、一回戦のときともまた違う二回戦におけるカズマサの不審な挙動に、いちいち攪乱させられる。ふつう、野球マンガ(スポーツ・マンガ)のダイナミズムは、主人公たち選手の勝とうとする意志に宿るものだけれど、ここでは、勝つ気なのか負ける気なのか、ほとんどその意志の伏せられていることが、一試合のなかに、つよい吸引力となって働くサスペンスをもたらしている。

 8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月15日
 一緒に遭難したいひと 3 (3) (ワイドKC)

 子供の頃から、西村しのぶのマンガに出てくるような女の子になりたい、それが無茶であるならば、せめて男の子のようにでも、というのが夢で、そりゃあいずれにせよ、なかなか叶え難くあるのだが、にもかかわらず憧れが尽きないのは、チャーミングであることとハンサムであることのニュアンスがけして矛盾しない、または、奔放さと誠実さがスマートに同居する、その姿を見るたび、いつも、ほんとうに惚れ惚れとしてしまうからであった。この『一緒に遭難したいひと』の3巻で、恋人のキリエとその友人の絵依子が行ってきたアルバイトの話を聞かされたマキオが、〈今日のふたり!! “武士道”だね!!〉と言うあたり、ふつうなら、マキちゃん、相変わらずズレてんね、ってな感じなのだけれども、じつは妙に納得させられてしまう。西村の師匠格にあたる小池一夫の精神がこんなところに息づいているんだな、と思う(まあこれは半ば冗談である、が)。当初は『一緒に遭難したいひと』という題からして、キリエとマキオの、傍目からするとギャップのあるカップルの恋愛がメインで進んでいくふうであったストーリーも、だんだんと絵依子のかっこうよさが際立ってきて、ここではキリエと絵依子の悪友であるショーコの、その、やはり男前な気質が、清々しく、気持ちいい。この展開も悪くない。『一緒に遭難したいひと』とは、長く一緒に居たいぐらい心地の良い人、の言い換えだということが、よくわかる。ショーコのがさつさは、たぶん、これまで西村が描いてきた女性たちのなかでも、トップ・クラスに入るものではないだろうか。周囲が慌てるほど明け透けな性格で、恋人と別れたばかりの憂さを晴らしてやろうと、キリエとマキオが見合い相手を次々にセッティングしてあげるのだが、初対面の男性にもぜんぜん配慮しない横暴さは、正直褒められたもんじゃないんだろうけれど、なぜか魅力的にも見えてしまう。ショーコとキリエの、絵依子いわく〈絶対同乗したくないコンビ〉が、軽トラで山中をドライヴする箇所は、とても楽しく、そのあとの風任せでトラブルを満喫するくだりも、素敵である。こういう、作品に溢れる大らかさが、ふだん我々が日常的に相対するせこさを、束の間、忘れさせてくれる。

 2巻について→こちら
 
・その他西村しのぶの作品に関する文章
 『サードガール[完全版]』
  8巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『下山手ドレス(別館)』について→こちら
 『メディックス』について→こちら
 『アルコール』2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月14日
 あかねSAL☆ 4 (4) (講談社コミックスキス)

 ごくふつうの女子大生である茜の、芸能界を舞台に、フットサルを手段とする自分探しも、ようやくゴールを迎えた。岡田惠和が原作を提供し、なかはら★ももたが作画をつとめた『あかねSAL☆』の4巻である。主人公の悩みが恋愛に収束するわけでもなく、社会的にビッグ・サイズの達成が果たされるわけでもなく、清々しい気分と進むべき道を得ることでピリオドが打たれるあたり、岡田が脚本を書くテレビ・ドラマにときおり見かけられるパターンであるし、ストーリーの進行上、ワキのアイドルたちのがんばりや輝きと対照にならざるをえないとはいえ、いささかヒロインの成長がしょぼすぎ、テーマのレベルでいえば、今日とくに発展性のあるものではないのだけれども、なかはらのつくり出すテンポは気持ちよく、キュートなデザインの登場人物らも生き生きと動き、全体の印象は、けっして悪くはなかった。自分探しという題材は、うまく扱わないと、エンターテイメント性に乏しくなってしまい、この作品ではもろに悪所となってしまっている部分でもあるので、茜の芸能界での活躍に、あとちょっと比重がおおきく置かれていたならば、より良い内容になっていたと思うが、まあしかし、それは岡田に望むべき表現ではないのかもしれない。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 近キョリ恋愛 1 (1) (KCデラックス)

 要するにトレンドなのだろうが、「ツンデレ」という今どきの言葉で形容されるサブ・カルチャー的な女性像を、少女マンガのジャンルが、意識的に、採用するケースだって増えつつあるわけだけれど、この、みきもと凜の『近キョリ恋愛』も、作中で〈枢木ゆに 16歳 性格はツンデレガール〉と説明されているとおりのヒロインと、表向きはペラいが性根はしっかりしているイケメン教師との、シチュエーション上、難儀なラヴ・ストーリーとなっていて、まあ、そういったキャッチーな観点はともかく、彼女の資質は、結局のところ、純粋さと鈍感さと不器用さの裏返しであり、そのことによって、相思相愛でありながらも、ディスコミュニケーションの災いに巻き込まれてしまう様子を、とてもコミカルに描いているあたりに、本質的な魅力がある。とてもファニーで、すごくすごくキュートなマンガになっている。ずば抜けて頭が良く、運動神経にも恵まれた優等生のゆにに、ひとつ欠点があるとすれば、それは真面目すぎるあまり、周囲からは無表情ないし無愛想に見られてしまうことであった。その彼女からしたら、臨時で担任をつとめる若い男性教師、櫻井ハルカは、ルックスの非凡さは認めるけれど、とにかくチャラい態度が不愉快きわまりない対象でしかない、いや不愉快きわまりない対象でしかないはずだった、自分の感情が恋であると気づくまでは。と、そうした物語における最大の困難は、先ほども述べたように、生徒と教師という立場の違いに発生している。ゆにの支離滅裂な告白(だろうね)を経て、早くも1話目(§1)の段階で、二人は付き合いはじめることになるのだが、その関係はもちろん、秘密裏に結ばれていなければならない。こういった事情と、ゆにの性格が相まって、ドラマは横滑りし、横滑りしては、まっすぐな恋愛のシーンに立ち返る、好きだという気持ちを、毎回のエピソードごとに繰り返し繰り返し、再現する、繰り返し再現することで、ユニークでピュアラブルな状態が、新鮮なまま、キープされている。ありふれた設定がじつによく生かされ、ありふれていないレベルにまで作品を持っていっている。これまで、この作者は、オリジナルのストーリーよりも原作付きのもののほうで、手腕のすぐれているところを見せる機会が多かったが、それというのはおそらく、オリジナルの場合、自身の描きたいことと実際に描かなければならないことの距離が接近しすぎ、作中の対象に対する批評性がコントロールしきれなかったせいだと思われる。しかし、ここでは、成長著しい目線のたしかさで、一個の世界が作りあげられている。いよいよブレイクを予感させる内容の1巻である。

 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月09日
 ナンバMG5 14 (14) (少年チャンピオン・コミックス)

 城南が攻め込んできて、騒然とする市松高校に、芹沢と対決すべく登場した剛であったが、大勢のヤンキーに囲まれ、行く手を阻まれてしまう。ここでの剛による〈何人いんだよクソッ!! アイツんとこまで届かねえ!!〉というセリフは、西森博之の『今日から俺は!!』の、あの、今井たちとともに開久に乗り込んだ伊藤が末永の目の前で苦戦を強いられる場面を思い出させはしまいか。はっきりといえば、多勢に無勢でゲス野郎を相手にしている、そのようなシチュエーション以外に似たところはない、その後の展開もまったく異なっている、にもかかわらず両者が共通した表現であるように感じられるのは、仲間の信頼を一身に受けた主人公がそれを裏切らない、といったテーマの部分にかかってゆくブリッジとして、同一の意味合いを含んでいるためである。西森よりも後発のマンガ家である小沢としおが、どれだけ『今日から俺は!!』を意識しているかは定かではないし、じつはもっとべつの参照項があるのかもしれないけれど、この『ナンバMG5』の14巻における激闘は、たとえ無意識にであれ、先行する作品によって提示されたドラマを、解体し、再解釈を施し、復元し、なぞらえている。もちろん、それを悪く言うのではない。王道とは、そういうふうに踏襲されてゆくものだ。けっして、あらかじめ成功しているすぐれたパターン、あるいは典型的なパターンの、うわべだけをすくい取ってみせることではない。それでは、なんちゃって王道である。なんちゃって、なんちゃって、その気もないのに無理するな、である。近年では、とある作品の評価に「王道」という修辞が用いられているとき、だいたい、この「なんちゃって王道」である場合が多い。たとえば、一個のレビューのなかで、本質的には理解を違えるはずの、王道、と、ベタ、の二語が、あたかも入れ換え(言い換え)可能であるかのような錯誤が起きてしまうのは、そのためにほかならない。結局のところ、作品の質は、その表層ではなくて、中核(コア)となる領域で、いったい何が起きているのか、に拠っている。この巻のクライマックス、剛と芹沢のタイマンに顕著なとおり、『ナンバMG5』の中核にあるのは、だせえ奴はかっこうよい生き方には勝てない、負ける、これであろう。そして、そのようなテーマは、まさしくヤンキー・マンガ、いや、少年マンガ全般の王道をゆくものである。

 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月07日
 ゆうやみ特攻隊 2 (2) (シリウスコミックス)

 いやいや、押切蓮介はほんとうに、なんかすごいことになってるな、と思うのは、この『ゆうやみ特攻隊』2巻に収められている11話目(ケース.11)が、死ぬほど燃えて泣けるからであった。そこらへんの凡百な少年マンガをあっさりと蹴散らす。そして、その、展開のうちに〈私 校長に年賀状を書いてくれた生徒は7日までの休みを15日にしてやろう〉というギャグを盛り込んでくるのは、さすが、である。姫山高校心霊探偵部の二人の先輩、花岡(隊長)とかえでに可愛がられ(いたぶられ)るうち、じょじょに度胸をつけてきた翔平はついに、姉の仇が、黒首島という、そこは母親の故郷でもある孤島に存在していることを知る。狂気の因習をいまだに引きずる場所へ向かう危険から、心霊探偵部のメンバーを巻き込んではならないと感じ、冬休みを利用して、翔平は単独、黒首島を目指す。〈隊長・・俺が一人で島に行った事知ったら スゴイって思ってくれるのかな それとも無謀って言うのかな〉。ここでの決意と旅立ちを追った一週間の流れは、繰り返すけれど、死ぬほど燃えるし泣ける。そうしたカタルシスのなかで、こちら読み手には、みなぎるぐらいの心強さが、手渡される。とくにあの見開き2ページの感動はすさまじい。何してくれちゃってるんだよ。それにしても、黒首島、予想以上におっかないところである。はたして翔平は、呪われた地での目的を達成したのち、無事、日常に帰還することをかなえられるのであろうか。我らが霊感犬2号の活躍に期待したい。

 1巻について→こちら

・その他押切蓮介に関する文章
  『ミスミソウ』第1巻について→こちら
  『プピポー!』第1巻について→こちら
  『おばけのおやつ』について→こちら
  『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
  『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 ミスミソウ 1 (1) (ぶんか社コミックス ホラーMシリーズ)

 押切蓮介が『プピポー!』の1巻で見せたあたたかさの対極に、『ミスミソウ(三角草)』の1巻に張り詰めるつめたさはある。これを同じコインの裏表と解釈することも可能だけれど、『でろでろ』のヴァリエーション豊かなエピソード群を読めばわかるとおり、押切というマンガ家にとっては、おそらく、どちらも表面でしかありえず、さもなければ、どちらも裏面でしかありえないのだろうな、と思う。極力ギャグの要素を排除した『ミスミソウ』のシリアスさは、たぶん(同時発売である)『ゆうやみ特攻隊』の2巻におけるそれに近しいが、しかし、ここには、救い、となるような展開が、いっさい、ない。ただただ深い絶望だけが、おぞましいまでの悪意にさらされ、せつない地獄の果てに横たわる。この作者のものとして、おどろくべきは、まったく霊的な現象を題材にしていない、という点である。なのに、こわい。他のどの作品と比べても、こわい。もちろん、だから死んでいる幽霊よりも生きている人間のほうがこわいのだ、と、ありきたりなクリシェを述べることもできる。だが、そのような単純化は、結局のところ、人間はこわい、以上のことを意味しない。なぜ人間はこわいのか、どうして生者は死者よりもおそろしいのか、あるいは、生者のいったい何に人間は恐怖を抱くのか、こういった問いに対する解答を、『ミスミソウ』は、切々と訴えかけてくる素振りで、きわめてデリケートに、物語化してゆく。父親の仕事の都合で、今年の卒業生を出せば廃校となる中学に転校してきた春花は、クラスメイトたちには東京からやって来た部外者という目で見られ、罵られ、イジメられている。けれど、両親や妹のしょーちゃんに心配をかけたくない一心で、あと二ヶ月もすれば卒業できることを励みに、ひたすら耐えていた。それに相場という男子生徒が味方をしてくれるのもありがたい。しかし、である。〈それから数日後に私の家族は焼き殺された〉。郊外というより、郊外にあるものすらも存在しないド田舎の、その閉塞のなかで育まれる狂気、と説明したら、たしかに類型的な面もあるだろう、が、ここで注意しておきたいのは、すくなくともこの1巻の段階においては、あくまでも人間対人間という認識に基づき作中人物たちがすべての行動をなしていることだ。たとえ閉鎖的であったとしても、けっして時代遅れではない、科学を信じ、文化的で、モダンな人間の仕業が、ここに、極端へと振り切れた惨劇をつくり上げているのである。家族を失った少女の形相が、まるで鬼のように禍々しくあろうとも、それはつまり、人間の人間に対する働きかけの結果でしかありえない。殺意はただ、他人から手渡された感情の内に含まれている。ところで、押切のマンガには主人公には兄弟(姉妹)がいるケースが多い。もっと言えば、四人家族が一個の基準となっており、たとえば(やはり同時発売である)『でろでろ』の12巻では、家族の四人が揃うくだりが良いシーンになっており、たとえばこの『ミスミソウ』では、四人の家族の欠けることが、寂しくも強烈な空漠となり現れている。言うまでもなく、四人とは、すこし以前までの核家族における一般的な構成である。

 『プピポー!』第1巻について→こちら
 『ゆうやみ特攻隊』第1巻について→こちら
 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月06日
 プピポー!1 (Flex Comix)

 ときどき、押切蓮介のマンガを読んでいて、困るよ、となるのは、笑ってやるつもりが、つい泣かされてしまうことである。いや、君は押切のマンガで感動したことがないのか、弱ったな、それは話が合わなさそうだぞ、しかし、この『プピポー!』の1巻に目を通してもらえれば、すこしは、言っていることがわかってもらえるのではないか、と思う。両親には可愛がられているが、霊感があるばかりに、クラスからはハブられている小学五年生の少女、若葉は、あるとき、道ばたに捨てられている変な生き物、というかオバケを拾う。ポーちゃんと名づけられ、プピポーと鳴く、そのオバケのフカフカさ加減は、塞ぎがちな若葉の性格を、じょじょに明るくしていくようであった。これがおおまかなアウトラインであるけれど、とにかく、マスコット役であるポーちゃんのユニークなかわいさが反則的で、コマのなかにちっちゃく出ているだけでも、なんだかニヤニヤしてしまう。なんとも形容しがたい表情で〈カタコトだけど日本語を話す〉んだぜ。そういったポーちゃんの存在が、ちょうどやわらかなクッションがそのためにあるように、シビアな学校生活を送る若葉の心をそっと解きほぐす、というのが『プピポー!』の魅力のひとつなのだが、もうひとつ、オカルト好きな転校生、礼子と若葉のあいだに芽生え、次第につよくかたく結ばれてゆく友情が、それのストレートに描かれていることが、こちらの涙腺をゆるめてくれちゃうんだから、まいる。礼子の傍迷惑なところは、ひっきょう汚点であるはずなのに、どうしてこうも良い子に見えてしまうんだろう。怪奇現象への関心、思春期的な共感、ペットに対する愛情、と、この作者の得手とする部分が、あくまでもポジティヴな方向へとリリースされ、とても奇抜で、しかも笑え、なおかつあたたかな物語を成り立たせている。それこそ、大人から子供まで、できれば多くに届いて欲しい、素直に良い作品である。

 『ゆうやみ特攻隊』第1巻について→こちら
 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年03月03日
 HOVER! 2 (2) (KADOKAWA CHARGE COMICS 12-2)

 全2巻で完結というのは、結果的に、有名小説のコミカライズである『いま、会いにゆきます』を除けば、単行本化されている高田靖彦の作品のなかで、いちばん短いものとなった。かつての名門女子バレー部解散を使命とする顧問の入江と高校時代の母親が在籍していたバレー部を守ろうとする瞳の対立がストーリーの主軸ではあるけれど、チーム全体の成長を描く群像劇の側面もあっただけに、各登場人物たちの個性が立ってきたところで終了とは、惜しんでも仕方のないこととはいえ、やはり残念な気持ちが残る。まあ、この作者のマンガに目を通したことのある向きにしたら、けっきょく『ボールパークへようこそ』や『やんちゃぼ』のヴァリエーションじゃんね、の一言で片づけてしまえる部分もすくなくはないだろうし、それを踏まえ、『ボールパークへようこそ』が全4巻であり『やんちゃぼ』が全3巻であったことを考えると、今回のヴォリュームは、マンネリズムゆえの必然であると同時に妥当なラインといえるのかもしれない。たしかに、スポーツを題材に第一線からいったんは退いた人間の再起を描く、といったテーマは、『ボールパークへようこそ』や『やんちゃぼ』のそれと等しいし、分野こそ違えど『演歌の達』にも通じる。しかし裏を返せば、そこにこそ作者の執着がうかがえるということでもある。高田のマンガは、先ほどから挙げている諸作や、そして『HOVER!』がそうであるように、カムバックを果たそうとする、あるいは、これから夢を実現しようとする登場人物たちに対する扱いが、意外と厳しい。甘くはない。情熱だけではどうにもならず、才能がなければ諦めざるをえない、そういった展開をかならず入れてくる。かくして浮き彫りにされるのは、他の誰かに委ねてしまえばその時点で消える、当人の意志であり判断である。そのことは『HOVER!』において、この2巻のラスト、入江が瞳に伝える〈自分が導き出した答えってもんが どれほどデケェ喜びを背負ってきてくれるかってことをよぉ〉という言葉へ集約されてゆくのだが、いかんせん、そこへの繋がりが駆け足でありすぎるため、深くドラマティックな響きを欠く。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月27日
 太陽が呼んでいる! (フラワーコミックス)

 表題作「太陽が呼んでいる!」の絵柄は、今どきではあるにもかかわらず、それがなぜか大昔の竹下堅次朗(現・竹下けんじろう)に似ているというのが、まあ余談にしか過ぎないのだけれど、マンガ表現における作画上の不思議ではある。さて。しばの結花、初となる単行本『太陽が呼んでいる!』には、ぜんぶで五篇の読み切り作が収められていて、そのすべてが、両想いになる物語といった部分で共通している。また、そのうち、「太陽が呼んでいる!」、「風の中のオレンジ」、「名前のないファンレター」の三篇には、スポーツする男子という共通項があるのだが、あんがいスポーツという概念に青春の印象を頼ったそれらよりも、率直にラヴ・ストーリーしている「ウソと君とピアスの理由」と「スターライト・ハイツ」の二篇のほうが、出来が良いように思われた。とくに「ウソと君とピアスの理由」を推したい。恋愛というものをまだ良く知らないヒロインは、友人たちから好きな異性のタイプを尋ねられ、適当に〈自分と同じ耳(トコロ)にホクロがある人〉と答えたため、その条件にちょうど合う男子を紹介され、行きがかり上、交際することになってしまう。以上が事の起こりであり、こうした仮初めの恋愛からマジになってゆく過程が描かれる。先ほど、ここに入っている作品に共通する点を挙げてみたが、そこにもうひとつ加えるとすれば、どれもヒロインがハッピー・エンドに向かい目の前にある障害を飛び越えようとする姿を捉まえている、といえる。演出のわかりやすさもあって、「ウソと君とピアスの理由」の跳躍が、もっともダイレクトに、その意志の逞しさを感じさせる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 キミのすべてを見せて (フラワーコミックス)

 三つ葉優雨の『キミのすべてを見せて』には、ぜんぶで五つの読み切りが収められており、援助交際をしていた女子高生が恋愛によって改心する「青・春・花」と、恋人とセックス(性交)をせず遠距離恋愛になってしまったヒロインの戸惑いを描く「ハナレバナレ」に関しては、それが複雑な女心であろうが何であろうが、ちょっと、お話が単純すぎて高く買えるところがないのであったが、他の三篇のマンガには、そう悪くないぞ、という好感を持てた。恋人がいる年上の男性を好きになってしまい、親密になればなるだけ居心地のよくなっていくことが、逆に、身を刺すような痛みを連れてくる「片想い」はせつなく、舌にピアスをした同級生に興味を持つうち、いつの間にか彼女に惹かれていた「コイ・した・ピアス」の少年の青さはまぶしく、見ず知らずの二人が、お互いに泣いているのを、見た、見られたことから、出会い、すこしずつ気持ちを接近させる「きみと居た曲」はさわやかで、やさしい。なかでも、「きみと居た曲」の、いちばん最初にクライマックスとなる出来事があって、そこからクリスマスというイベントに向け、ゆっくり、感情のピークを高めてゆく手腕は、鮮やかである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 坂本勲の『First Love〜あなたが私を寂しくさせる〜』は、そもそも〈ケータイで読む漫画「モバイルフラワー」〉にて発表されたものであるらしいが、しかしまあ、それでもケータイ小説といってすぐさまイメージされるようなプロットをなぞらえる必要があったのかどうか、というのは一考に値する。文章、文字であるならば、媒体における表示上の性質やメール文化との親和性にならって機能が簡素化される云々というのは、あちこちでさんざん論じられているとおりだとしても、マンガの場合、いや、すくなくともこの『First Love〜あなたが私を寂しくさせる〜』に関しては、紙媒体に発表されているものと、ほとんど変わらない技法で描かれているように思われる。もちろん、ここでひとつ推測を立てるとすれば、それはつまり、携帯電話を娯楽として嗜む層の指向性が、このようなプロットを召喚せしめる、あるいは、そういった層が求めるのはこうしたプロットなのだ、と送り手(マンガ家と編集者)の側が想定している、ということであろう。学校の成績は優秀でありながらも、世間をなめ、援助交際をしている女子高生が、あやうい場面をイケメンさんに助けられる、もちろん気になる存在になる、やがて折り合いの悪い母親に再婚の可能性が持ち上がる、その相手というのが、かつて自分を買ったことのある中年で、さらにはその息子というのが、なんとあのイケメンさんなのであった。口さがない向きにしたら、鼻で笑うんだろうな、の、はちゃめちゃなストーリーである。だが、読み進めるうちに、あることに気づかされる。それは、いじめや脅迫、レイプ未遂、妊娠、流産などを経験するヒロインの、苛酷さにけっして屈しないガッツとタフさ加減で、言うまでもなく、有名どころのケータイ小説に書かれているヒロインたちの姿とダブる部分でもあるのだけれど、いやいや、これが意外と励まされる。親世代も含め、社会全般はクソであり、自分ひとりで何とかしようとすることの限界だけが、逃れがたい苦しみをもたらす。伝え方はともかく、普遍的であるようなテーマのなかに、それでも負けるな、という普遍的であるようなメッセージが響き渡っている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月25日
 otona・pink 2 (2) (マーガレットコミックス)

 女子高校生のみくにが、とても気の合う男子の千穂と両想いのステップをあがりはじめた矢先、海外へ転勤となった母親の計らいから、一人暮らしとなる彼女の家に、生徒に無関心な担任教師の西園が転がり込んでくることとなる、それを知った千穂はもちろん良い顔をしないし、みくにも最初は嫌で嫌で堪らなかったのだが、学校では知れない西園の隠れた素顔を見るうち、じょじょに彼へと惹かれはじめてしまう、ところが、西園には一生を誓い合った恋人がいた。以上が、佐藤ざくりの『otona・pink』の概要で、こうしたストーリー自体、ありふれていて、借り物であるような感覚が強く、また、作中で展開されるダイアローグやモノローグ、シチュエーションなどにも、おそらくは参照項なのであろう既存作品の影がちらほら見えてしまい、けっこう厳しい部分が多いのだけれど、登場人物たちが話す関西弁のリズムは、まあそれすらも中原アヤのヒット以来とくに驚くべき点ではないにしたって、なかなかにたのしく、この2巻で完結となる物語の最後まで、意外とくじけず、読むことができた。せめて西園が、性格のいじけた眼鏡野郎のステレオタイプでなければ、もうちょい印象が違ったかもしれない。本編の前日譚にあたる「はつ恋 otona・pink番外編」も、男女三人の大学生活における友情を描いたものとしては、せつなく、さわやかで、いや悪くはないんだが、とにかく他の作品に似ているところがありすぎるよ、と言わざるをえない。せめて若き日の西園が、純情でナイーヴな眼鏡野郎のステレオタイプでなければ、もうちょい印象が違ったかもしれない。でも「ピュ矢」は良かったな。

 追記:本編ラスト、今どき電話ボックスから男が女に向かい帰ってきたことを告げる、というのは、どうしても村上春樹の小説『ノルウェイの森』を思い起こさせる。そしてそれは、待たせる男と待っている女の構図に簡略化され、さらには待たせている男の弱さと待っている女の強さに変換させられている。よくよく考えれば、西園の自覚的な我が儘がヒロインであるみくにを振り回す、ひどいお話ではある。しかし、おそらく作者はそれを意識したうえで、あたかもハッピー・エンドで終わるラヴ・ストーリーであるかのように描いている。これをどう評価するかは、保留としておく。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 まじもじるるも 1 (1) (シリウスコミックス)

 どうしてこうも渡辺航のノリは楽しいのだろう。たしかに、ヒロインの造形やギャグのネタ自体は、オタク文化に親和性の高いコードによって支えられている(それをデータベース的消費と言い換えても良い)のだけれども、本質的なおかしさはもうちょっとべつのところからやって来ているのであって、それはたとえば、テンポとか「間」などと呼ばれるものであるような気がする。(もちろん、そうしたテンポや「間」自体がオタク文化に深く根ざしている可能性もあるが、ここではそこまで深くは問わないとして)作者の作品を一列に並べてみたとき、そのテンポや「間」は、ある意味、個性と評するに相応しいことがわかる。原作付きのストーリー・マンガ『電車男〜でも、俺旅立つよ。〜』や、探偵ものでありながら探偵していないコメディ『ゴーゴー♪ こちら私立華咲探偵事務所。』、そして先日『週刊少年チャンピオン』誌で連載をスタートさせたばかりの(おそらくはシリアスな)自転車もの『弱虫ペダル』と、どれも根本的なテーマは異なっているが、しかし紡ぎ出されるテンポや「間」の、そのなかに、まったくずれのない、渡辺ならではの楽しいノリが備わっている。それはもちろん、この、落ちこぼれ魔女と欲望に忠実な男子高校生のファンタジックなドタバタ劇『まじもじるるも』の1巻に関しても同様で、不思議発見クラブという妙な団体に属し、学校中の女子からヘンタイシバキという二つ名で忌まれる柴木が、冗談半分で召還してしまった感情表現に乏しい魔女るるものキュートさは、類型的であるぶんキャッチーだし、たぶん何とかデレとかいう最近の流行りで、頻繁に登場する下着類やコスプレ的なファッションも含め、フックにあたる要素なんだろうが、もっともニヤニヤとさせられるのは、たいへん頭が悪い、と同時に、あんがいするどい、要するに、場面場面においてボケとツッコミの役割に割り振りできるような、そういう作中人物たちのやりとり、さらには作画上のテンポと「間」によってである。その最たるものは、寡黙なるるもと饒舌な柴木のギャップあるコミュニケーションなのだけれど、願いを叶えるたびに寿命が縮まるチケットの秘密を、るるもと柴木が共有していないあたりの設定も、おかしさを倍加させる、重要な補助線となっている。

 『ゴーゴー♪こちら私立華咲探偵事務所。』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年02月23日
 ファンタジウム 2 (2) (モーニングKC)

 世間で高く評価されている気配をほとんど感じないながらも、『このマンガを読め!2008』で堂々の34位にランク・インしているのがさすがである、と言いたいところだが、それは結局のところ、おおひなたごう一人が積極的に推した結果でしかないのが寂しく、『このマンガがすごい!2008』のなかでは取り上げている者すらいない。まあ、たしかにキャッチーでもなければマニアうけしそうでもない作品だとはいえるけれど、いやいや、そういったうわべの価値は抜きに、シンプルなレベルで、ひじょうにおもしろく、ストーリーに入り込んでいった先で、ひたすら胸を打たれるマンガであろう、杉本亜未の『ファンタジウム』は。『このマンガを読め!2008』の〈『ファンタジウム』は離読症という読み書きの出来ない障害を持つ天才マジック少年・長見が、マジックを通じて、どう社会と関わって行くのかがとても気になる。時折挟み込まれるマジックの解説も面白い〉という、おおひなたによる要約が、とても正確である。そこいらの作品が、長見少年のような主人公を据えると、たいてい、社会から遅れている存在として扱ってしまい、それこそ社会と関わること自体が目標と設定されてしまう。主人公はあらかじめ社会の外にいる(いた)ものでしかなくなる。つまり、主人公の社会性というものは、そもそものはじめから剥奪されており、それを獲得する過程が、がんばれ、がんばった、人並みに出来た、人並みに出来ることはすばらしい、式の欺瞞をドラマ化する。しかし『ファンタジウム』は違う。そうではない。主人公をけっして社会からは遅れた存在としては描かない。いや違うな、より詳しくいうと、主人公のような人間を社会から遅れている存在であると規定する社会そのものを描き、そうした社会のなかにそもそも含まれている難読症(「発達性読み書き障害」)の主人公が、マジックの才能に端を発するいくつかの出会いを通じ、いかに彼以外の人間が有する通念と関わってゆくのかを、ふかく描くのである。良(長見)をサポートする北条が見つけてきた中学校に通うことになった、この2巻では、そういった方向性がさらに明確に打ち出されている。共同体内部における異者の排斥を、ごく自然な行為であると認識しているがゆえに、できればそこに加わりたくない良と、自分たちはみな一様に普通の人間だとして疑わないクラスメイトたちとでは、ほんとうに良のほうが遅れた存在だといえるのだろうか。かつて天才少年マジシャンと騒がれ、今はスピリット・リーダーという怪しげなカリスマを演じるサカキシンが、良に北条のことを〈社会に迎合した人間は才能を糧に生きる人間に憧れて寄ってくるがやがて自分の領域に戻る 僕には……きみの才能が涸れた後 彼が去っていくのが見える……〉と忠告するシーンは苛酷だ。しかし〈サカキさんの言うとおり才能がなくなれば おじさんは去っていくかもしれない どれだけ簡単に人が人を見捨てるか…………俺は知ってる いくら願っても決して奇跡が……起きないってことも……それでも〉良は北条のことを信じようと思う。性格も育ちも年齢もぜんぜん違う二人がマジックの輝きのなかにはまったく同じ価値を見られている、そのことにいっさいの嘘はないと知っているからである。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月22日
 仁義S 6 (6) (ヤングチャンピオンコミックス)

 『DEATH NOTE』とそのフォロワー群を凌ぐスリルとサスペンス、そしてシリアスな問題提起、それが立原あゆみの『JINGI(仁義)』シリーズである。いやいや、まじでまじで。冗談抜きで。ぶっちゃけた話、『仁義S (じんぎたち)』に至っては、背景は資料のトレースのようであるし、人物はべつのコマのコピーで、エピソードは過去作のリサイクルにしか見えない、にもかかわらず、テーマにかかる部分は更新され続け、破綻と呼べる箇所が次々と伏線となっては生き、まったく先の読めない展開が繰り広げられるから、じつにエンターテインさせられる。さて。立原のヤクザ・マンガに共通する最大のテーマは、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、すなわちすべてのヤクザがいなくなるのを夢見ることだといえる。無印『JINGI(仁義)』の終盤、某国の国家予算と同等の資金を自由に使えることができ、もはや敵なし状態になった仁と義郎のコンビが、自分たちでトップには立たず、関東一円会の会長の座を譲ったのは、そうしたヤクザの夢を叶えるのにもっとも近しい人間は柳澤だと判断したためであった。しかしなぜ、どうして柳澤は大恩ある仁と義郎を裏切ろうとするのか。〈真正直なやつがオレたちを排除したがっている……つまりオレらが心底悪ってわけか〉。こういった疑惑を中心の点とし、『仁義S』6巻の物語は動く。仁と義郎の命により、柳澤の組織にダメージを与えるべく、潜入行動を起こすアキラと大内の、その正体をじつは柳澤は見抜いていた。そうでありながらも、彼らの計画を見逃す。ここで謎めくのは柳澤の真意にほかならない。仁と義郎はいちおう、西をまとめる極地天道会の傘下に、力を持ったまま一円会を入れることだと当たりをつけている。組織の絶対数が減れば、それだけ争いも減る。義郎の言葉を借りれば、なるほど〈柳澤の考えそうな事だね〉というわけである。しかしねえ、物事の道理というのは、そう簡単に出来ていないのだよ。〈天道会にシッポふりゃ 風組との戦争になるぜ 天道会は最後の敵 風組を喰う気になる〉と仁が言うように、だ。ここで、すこしメタ・レベルに立った解説にならざるをえないのだけれど、同一の世界観をシェアする立原作品において、風組と天道会が直接対決をするということは、つまり『本気!サンダーナ』のなかで本気がつくった一時の平和の和を壊すことになりかねない。また、一円会が天道会につくとなれば、日本極道のパワー・バランスが完全に崩れる。そうなってしまえば、世界観をシェアしているため、現在同時進行中の『極道の食卓』や『恋愛(いたずら)』にも十分影響を与えるし、風組総長を含む『本気!』シリーズはもちろん、すでに完結した『あばよ白書』や『東京』、『弱虫(よわむし)』の登場人物たちをも巻き込まざるをえない。ある意味、立原ワールドのハルマゲドンとでもすべき事態が到来する。是非とも読んでみたいところだが、おそらく、作者の意図はそれを回避することだと思われる。できれば一円会内部の抗争で収めたい。そこで仁と義郎はどう動くか。そして〈義郎 おめえのいうJINGIS(じんぎたち)が育ってきた〉と評されるアキラと大内がどういった役を担っていくのか。ふと義郎が〈平和が一番という事なのだろうね だとしたら何の為のヤクザだろうね 生き死にがすぐ側になければつまらない〉と呟くのも気にかかる。極左のテロリストから転向してきた彼にしたら、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、というのは、あくまでも根っからのヤクザ者である仁の、個人的な理想でしかないのかもしれない。何を企んでいるんだか。あいかわらず、そのゲームを完全に支配しているかのような底の見えないクールさが、作品の層を何重にも厚くしている。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
 
・その他立原あゆみに関する文章
 『本気![文庫版]』第1巻・第2巻について→こちら
 『恋愛』1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月21日
 天上天下 18 (18) (ヤングジャンプコミックス)

 いちファンとしていわせてもらうのであれば、大暮維人は、『エア・ギア』か『天上天下』のどちらかを速やかに終了させ、全部のアイディアを一本に注いでくれるとありがたい、と思うのは、演出のパターンやストーリーの構成にかなりの重なりが見られるからで、そのせいなのかどうかは一概には判断できないが、だれているようなところまで似てきてしまっている。たとえば、『エア・ギア』ならば「パーツ・ウォウ」こそが作品のキモだろうし、『天上天下』であるならば「予備選」こそがそうであろう。すくなくとも、メインの登場人物たちを網羅するイベントは、それでしかない。しかし双方ともに、その背後にある陰謀論みたいなものに深くかかずらうあまり、ワキ道ばかりが増え、本筋にあたるのがいったいどこなのか、こちら読み手にはよくわからなくなってしまっている。まあ、派手なスペクタクルを連続させることでマンガとしての体裁は保たれてはいるのだが、派手なスペクタクルを連続させるだけでは魅力的な物語にはならないからね、それに先ほどからいっているとおり、そのスペクタクルですら二作品のあいだで流用されてしまえば、必然的に、目が慣れ、かすむ。せいぜい、お気に入りの登場人物を観察することぐらいしか愉しみを見出せなくなってしまう。そこで『天上天下』のマイ・フェイヴァリットを挙げるとしたら、やっぱり俵文七になるのだけれども、この18巻で、いよいよ繰り広げられる文七と光臣の直接対決が、まさかここまで昂ぶらないとは予想だにしなかったぜ、というやつである。もちろん、結局はワキのイベントの一個にすぎないのだから、といわれてしまえば、そりゃまあね、なのだが、そうであるがゆえに繰り返させてもらいたいのは、じゃあ本筋はどこなのさ、そこをいちばん盛り上がらせてよ、という点だ。それを踏まえたうえで、文七と光臣の対決を、あえて好意的に解釈してみたい。言うまでもなく、そこでの展開は、過去回想編における慎と文七の死闘の、意識的な反復になっている。高柳道現の〈2年前の事すらもう忘れたか〉というセリフが示唆的であるように、である。〈ダブルインパクト俵 推参(おしてまいる)〉なのである。そうしたふたたびの鬼退治を道現が〈あいかわず……この男…〉と評するとおりである。だが、導き出される結果はまったく異なっている。おそらくは、この一致していないことこそが重要で、過去回想編にあたる2年前の悲劇とは違う結末へと、本編にあたる現在の進行が行き着く、そういう予感または伏線になりえている。だいたい、作中で「運命の檻」、「運命の鎖」、「運命の輪」と呼ばれるそれを断ち切るのに相応しいのは、やはり、文七ではなくて、主人公の宗一郎や、準主役級の亜夜や雅孝であるべきなのだろう。と、ここで改めて述べておきたいのは、で、その本編の目的がいったい何なのか、どこが目指されているのか、じつはよくわからないんだ。

 17巻について→こちら
 16巻について→こちら 

 『NAKED STAR』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月18日
 楽園のトリル 3 (3) (プリンセスコミックス)

 すべての問題には必ずや何かしらかの原因が秘められている、とすれば、律の苦労性と音楽を忌避する心性の奥底には、幼い頃に受けたダメージの存在があった。藤田麻貴の『楽園のトリル』3巻では、それがいかなるものであるかが明かされ、いやいや、そういう理由がございましたか、となるのは、思ったよりもずっと複雑な家庭の事情が隠されていたためである。このへんはけっこうシリアスでヘヴィな部分もあるのだが、表向きは犬猿の仲であるような篁のフォローによって、深刻さは、あたらしい扉を開く鍵となり、律の負担を、ほんのすこし軽減する。たしかに〈トラウマ持ちの自分に酔ってんだな〉と言い、〈アンタは負け続けてるんだよ この中のモンにな〉と言う、言葉自体はきついけれども、そうした態度の裏側に隠されている気遣いが、やがて律に〈バカだアホだ罵りながら あたしの過去調べたり 引き換えに たぶん このヒトにとってものスゴイ大きな秘密しゃべったり 何ひとつ自分の得にならないことばっかりで――〉と伝わる。篁が弾くピアノの前で、歌えず出なかった声が、出るように歌えるようになる。なるほど、こうやって二人の距離は、だんだん近づいてゆくわけだ。が、フィクションにおける恋愛は、法則的に障害を必要とし、召還するものなので、あらたな厄介ごとが持ち込まれるのであった。律が異性と寮の同室をシェアしていることを知った義弟の大は、じつは律を恋愛対象として想っていることもあって、猛烈に篁を敵対視する。お約束といえばお約束といえるパターンであるし、正直なところ悶着の中心にいる律の主体性が乏しすぎやしないか、という気もするのだけれど、ちゃっちゃっと物語を先に進めるテンポの良さが、それを気にさせない。

 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 金剛番長 1 (1) (少年サンデーコミックス)

 もしかしたら反動的なことを書くようだが、鈴木央の『金剛番長』は、ギャグを眺めるのに近しい斜めからの視線で受けとるのでなければ、熱い、とか、燃える、とかの評価を前提にし読まれ、漢(おとこ)というタームをふんだんに使い語られるべき作品、マンガなのかもしれないけれど、個人的には、いまいち、こう、かっと盛ってくるものを得られず、漢といったところで、今日のサブ・カルチャーにおいては、中身の乏しさを形容するのに似た空虚なレトリックとして使われることが多く、それが相応しくあるのは、やはり、ちょっと、まずいだろ、と思ってしまう。ここで、学園マンガというか、ガクランもの、とりわけ番長ものの歴史を振り返りたく、引用したいのは、横山光輝の『あばれ天童』の文庫版1巻に付せられた飯城勇三の解説である。飯城は、その、70年代半ばに発表された横山にとっては異色にあたる番長ものに対し、〈私は本作を連載中に愛読したのだが、正直言って、最初の頃は感心しなかった。あまりにも古くさい感じがしたからだ。連載第一回めのスカートめくりのシーンなどは、すでに永井豪の『ハレンチ学園』(一九六八)の洗礼を受けた読者には物足りない(?)ものであった。その後に登場する天童の、屈折のかけらもない真っ直ぐで優等生的な性格と行動もまた、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』(一九六八)を読んだ者には不満だった。まるで、ちばてつやの『ハリスの旋風』(一九六五)か関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』(一九六二)の時代にタイムスリップしたかのような錯覚すら感じてしまったのだ〉が、じつはそれが同時期に横山の手がけていた『三国志』の学園版、つまり「学園三国志」であることに気づくと〈時代錯誤に感じたのも当然。そして、面白いのもまた、当然なのである〉と考えを改めた旨をいっている。要するに『あばれ天童』は、(当時の)リアルタイムな表現としてはアクチュアルさを欠く、けれども、普遍的なエンターテイメントとしてのすぐれた完成度を持っている、ということであろう。同様の見解を、『あばれ天童』文庫版4巻の解説で、米沢嘉博が〈本宮ひろしの学園マンガが、学生版国盗り物語であり、現代英雄譚であったように、当時少年マンガの新たなジャンルとなっていた学園硬派物に、横山光輝は自らが得意としてきた物語を見たに違いない〉と披露している。しかし重要なのは〈「学園三国志」は三巻目の番長連合との大決戦で終わり、犬神というキャラクターの登場から、物語のテーマは変わってゆく。それは「暴力の否定」である〉と飯城が指摘している点である。〈再び正直に言うと、私は、なぜ作者がこんなテーマを描いたのか、連載中には理解できなかった。しかし、今ではわかっている。当時の横山光輝は、少年たちの世界で「ケンカ」が「暴力」に変質していくのを、感じ取っていたのだろう〉と、そこでいわれている「ケンカ」と「暴力」の違いとは〈ケンカは一対一で武器を持たずに正々堂々とやるものであり、そのため死に至ることもないし、恨みや憎しみも生まれることはない。しかし暴力は、人数の多さや武器や姑息な手段で一方的に他者を痛めつけるだけであり、そのため死に至ったり、恨みや憎しみが生まれてしまう〉のであって、〈漫画の世界を見ても、ケンカしか出て来ない『ハリスの旋風』から、ケンカと暴力の混在する『男一匹ガキ大将』へ、そして暴力だけの『男組』(雁谷哲・池上遼一 / 一九七四)へと、学園マンガは変質していった。この流れを止め、少年たちを暴力からケンカの世界に戻そうとして、作者は『あばれ天童』を描いたのかもしれない〉、そのように飯城は自分の意見を述べている。これに沿っていうのであれば、80年代の最中、学園マンガはさらに「ケンカ」よりも「暴力」をメインに扱うようになり、ヤンキー・マンガの隆盛を経て、90年代には、完全に「暴力」だけが主題化されてゆく。あるいは、こう言い換えても良い。エスカレートする「暴力」のなかをいかにして生き残るか、または「暴力」それ自体をどうしたら食い止めることができるか、にテーマは移り変わってゆく。さて『金剛番長』に話を戻せば、まず序盤で登場するライバルたちがボクシングや居合いを身につけている、というこの手の定番のスタイルを意識的になぞらえている(90年代前半の菊地秀行と細馬信一による『魔界学園』でさえ、このパターンを踏襲している)以上、あきらかにそうした歴史の先に存在しているわけだが、この1巻の段階では、残念ながら、「ケンカ」や「暴力」といわれるところのものが、たとえば「バトル」や「ヴァイオレンス」といった具合に言葉を改められ、その本質の漂白されているかのようなスペクタクルを、たんに展開しているにすぎない。もちろん、それは「男」を「漢」と表記し直すのと同じ手つきの上書きであろう。とはいえ、今後の物語の進み方次第で、そうした空虚さを埋めうる可能性は、十分に、ある。なぜか『週刊少年サンデー』に発表される作品は、語らなければいいのに小学生レベルのとても素朴な政治観を恥ずかしげもなく語る傾向があって、『金剛番長』の「23区計画」などもまさにそうなのだが、言うまでもなく、番長または熱血硬派というものは、本宮ひろ志や車田正美が描く主人公たちに象徴されるとおり、国家や法律をはるかに上回るスケールの存在でなければならない。一種のテロリズムでしかありえない彼ら主人公たちの行動が大勢を納得させるのもそのためで、ねえ、はからずも政府そのものと相対しているかっこうの金剛番長こと金剛晄は、そこまでいけるかな。

 1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年02月17日
 山本善次朗と申します 3 (3) (りぼんマスコットコミックス)

 ほたてばかりではなく、じつは父親の善次朗もまた、幽霊を見、そして彼らと話すことのできる資質を持っていたという事実は、物語によりいっそうの深さをプラスさせ、順調におもしろさをキープし続けている、槙ようこの『山本善次朗と申します』であるが、この3巻では、ほたての傍につく幽霊の速水が、どうやらじっさいには死んでいないらしいことが明かされ、さらに興味をそそるような部分を増す。いやあ、ほてたが善次朗の秘密を知り、どうしてそれを隠しているのか、速水に〈私 速水くんのことみえて うれしいよ!? 速水くん やさしいし いっつも助けてくれるし 私 速水くん 好きだもんっ それをなんでかくすんだろ!? うれしいことなのに!!〉と話す、そこのところは、ほたての心が、今までの展開を通じ、いかに動いてきたのかを示す、けっこうキモの場面にあたるのではないかな、と思う。彼女が自身の特殊な能力を、ポジティヴなものとして受け入れ、そして疑問は、そのことをポジティヴなものとして受け入れさせてきた善次朗の働きかけに対する、率直な反応となっているからである。ワン・エピソードのレベルではともかく、大局においては、そのように親子間のコミュニケーションが、意外と高度に抽象的なかたちで示されている。さて。ここには『山本善次朗と申します』本編のほか、完全に独立した内容である「愛してない」(じっさいには文字は反転され表記されている)という読み切り作が収められている。〈いいじゃん 別に 誰に何言われても 自分てやめられないじゃん〉。頻繁にもてるにもかかわらず、やや不思議な性格の持ち主であるため、交際相手から次々にふられる知也果と、彼女の親密な男友達である大心の、つかず離れずの不思議な距離感を描く。ふつう、こういうストーリーであれば、二人は、内心好き合っていて、そのことに気づいていない、か、あくまでも気づいていることが秘せられている、といったパターンに落ち着きがちなもので、まあたしかに、知也果の場合は前者であり、大心の場合は後者だというふうに解釈できなくもないのだけれど、だとしたらここでのそれは、両者のギャップをかなり極端にひらかせることにより、恋愛の重みをほとんど感じさせない、とても肌触りのいいコメディへと、落とし込まれている。構図的に見れば、男性が女性に奉仕しているだけ、といえなくもないが、そこにある幸福のあかるさが、ネガティヴな印象をまったくの外に押し退ける。それにしても、作者は〈おじいちゃんになるまで一緒にいてあげますよ〉云々というフレーズがよっぽど好きなんだね。『山本善次朗と申します』のなかにも同じのがある。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他槙ようこに関する文章
 『14R』について→こちら

 『たらんたランタ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『STAR BLACKS』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『愛してるぜベイベ★★』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月16日
 ワールズ・エンド (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 「獣の頃」が、良い、とても良い。斉木久美子の『ワールド・エンド』には三篇の読み切りが収められており、けしてノーブルではない女子高生同士の友情が展開される表題作も、バレンタイン・デイの兄妹再会といえる「スウィート・チャイルド」も、そこそこ魅力的な作品だとは思うのだが、江戸時代あたりを舞台とし、一人の少女と二人の浪人らしき男たちの束の間の平穏と悼むべき別離を描いた「獣の頃」が、もっともつよく胸を打つ。〈嗚呼 嫌だ 女は損だ 女は無力だ 今度 生まれて来る時は 他のものがいい――かと言って 男も嫌だ〉。山中、背中を切られ、行き倒れていた少女は、通りがかりの男二人組に声をかけられ、〈ダメだ! ついて行ったら 犯される 輪姦(まわ)される そして きっと殺される おっ母の様に…〉と思いながらも、拾われてゆく。だが、少女を飼うことにした多喜松と伊織は、そんなふうに手を出してくることはなかった。彼女をコロ助と呼び、まさしく犬を可愛がり、しつけるかのように、自分たちの生活のなかに置いた。このマンガのポイントは、女になるのが嫌だ、つまり、それ以前の状態に止まり続けることを願う少女が、しかし自然や運命には逆らえず、女であることも込みの一個の人間でしかありえない自分を受け入れてゆく、そうした姿に、多重の想いを含ませ、物語を、しん、と静かに響かせているところにある。〈おれの頭はふるとカラカラ音がするほど脳ミソが小さくて たくさんの事がキチンと理解できないんだ 町はダメだ 人が多い 山がいい 山にいれば 多喜松と伊織だけの事を考えればいい〉と少女は思う。けれども、人は、人に出会わなければ、人にはなれない。伊織が〈あの山の様にただ「在る」だけの存在かよ〉と言うように、そして多喜松が〈せっかくの長い道があるんだから 歩くんだよ 景色はいつか変わる〉と言うように、いつまでも人にならず、そのまま、獣の頃のままでいていいはずもない。やがて、それを証明するかのような機会が、望まずにやって来る。まあ、ある意味では予定調和とでもいうべき破滅が訪れるわけだ、が、むしろ、その後、すべての出来事がやさしくも輝いて見える風景のなか、悲しさばかりではない、涙を誘われる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 ロッキン★ヘブン 6 (6) (りぼんマスコットコミックス)

 ああ、こういう展開に持っていくのかあ。驚くには驚くにしたって、びっくりサプライズというほどではないのだが、しかし、新規登場人物を投入した結果、作中における人間関係のバランスをほとんど意味なく攪拌しただけの、前巻の悪い流れから、ひとまずストーリーを立て直し、さらにはあたらしい局面をもたらすことにも成功している。だいたい、スモール・サークルに限定された恋愛劇は、シリアスになればなるほど、どうしたってしょぼいお話になっていかざるをえない。したがって、そのしょぼさに対していかにも価値があるかのごとく演出を施す手腕こそが、作品の質を決めてゆく。言い換えるなら、酒井まゆの『ロッキン★ヘブン』は、そうした部分に関し、この6巻で、あきらかな復調を見せているのである。修学旅行の最中、紗和と藍のカップルは、お互いの未熟さゆえ、好き合っていながらも破局を迎える。それをきっかけにして、というわけでもないのだろうけれど、今度は彼らの周辺に恋の風が吹く。紗和は、クラスメイトの晶が、藍の親友の椿に、どうやら惹かれているらしいことに気づいてしまうのである。そういった事情を知らず、藍と椿のグループにいる草太は、意を決し、晶にアプローチをしはじめる。このことの波紋がやがて、紗和をめぐり、藍と椿のあいだに、微妙な波紋を投げかけることになるのだった。ここでのエピソードは、基本的に晶メインで進む内容で、彼女がオタク的な趣味を持っている云々はともかくとしても、恋というものをまだよく知らない少女の胸の内にある脆さと強さが、いくつかの良いシーン、そしてささやかな感動をつくり出している。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月15日
 minima! 4 (4) (講談社コミックスフレンド B)

 この4巻でラストを迎えた桜井まちこの『minima!』であるが、結局、焦点の定まらないままで行っちゃったな、という印象を持たされるのはそう難しくはない理由からで、片方に、自意識を持ったマスコットのニコリとヒロインの飴(アメちゃん)の交流があり、もう片方に、飴と幼馴染みの緑、そして笹木の三角関係的な恋愛模様がある、それら二つのポイントが一個の物語のなかでうまく化学反応を起こさず、むしろ綱引きしてしまったからなのだけれど、より突き詰めて述べれば、中学一年生という幼さが、どうも十分に表現されていないせいで、そうなっているのである。もちろん、いまどきの中学一年生というのは、こちらが思うよりもずっと大人びており、あるいは、ここに描かれるよりもずっとずっと子供じみた大人でしかありえない存在なのかもしれないが、フィクションの場合、あえて中学一年生をメインの登場人物とするのであれば、そのことに相応の必然性が備わっていなければ、説得力のある表現とならない。そして『minima!』においては、ある程度の現実離れした設定である以上、それこそ現実離れしているぐらいイノセントであるように見えたほうが良い方向に作用したのではないか、と思うのだ。とはいえ、このマンガ家の描く泣き顔と笑顔の表情は、十分につよい効果を持っており、総体的なストーリーのレベルに関しては、先ほどいったとおり、やや不満が残るものの、ワン・シーン・ワン・カットにおける演出の力によって、別れで彩られるクライマックスの最中、ついついほろりとさせられてしまう。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』6巻について→こちら
 『H-エイチ-』3巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月14日
 OUT PITCH 3 (3) (BUNCH COMICS)

 渡辺保裕の『OUT PITCH』は、ジャンル的に見れば、野球マンガ(スポーツ・マンガ)でしかありえない内容なのだけれども、かつて付き合っていた女性が、じつは男性主人公の子供を身籠もっており、その事実を彼女の死後、ある年齢になった子供を託されると同時に知らされる、という点において、意外にも同じく『コミックバンチ』誌の作品である佐原ミズの『マイガール』と共通したドラマを含んでいる。また両者は、子供の母親である女性が、男性個人の将来を優先的に考え、妊娠を秘密にし、別れる、そのようなイントロダクションや、さらにはいかなる展開においても、父親としての自覚ないし責任が子供からの熱烈な好意のあとに遅れてやってくる、そういったベーシックな構造ですら、ことごとく共有している。このことを、育児マンガというジャンルの見方で捉まえ直し、たとえば女性向け雑誌にて発表されている宇仁田ゆみの『うさぎドロップ』と比べてみたならば、体裁上は男性向けである『OUT PITCH』と『マイガール』の物語のなかでは、女や子の登場人物たちは男の登場人物の都合にあわせこしらえれている、とさえいえる。もちろん、これを発表媒体や読者層の性差の問題に還元し、あるいは意見を述べてみることもできる(が、寡聞にしてそれを行っている文章を知らない。まあ劇的に作風の違う『OUT PITCH』はともかく、『うさぎドロップ』と『マイガール』は一定の読み手が被っていそうにもかかわらず)。しかし、ここでの話は、では逆に、そういうふうに整備されている『OUT PITCH』のストーリーが、男性主人公にどのようなテーマを与えているか、つまり東京ヤクルトスワローズへピッチャーとして入団した幸村風児に課せられている試練とはいったどういったものか、で、それはもう、一人前の男になること以外の何事でもなく、そして、一人前の男になるとは、要するに、プロ野球の世界で活躍しうるだけの選手に成長すること、と、単純化されている。この3巻で、ついに一軍の試合でマウンドに立つ風児であったが、しかし好調なピッチングをみせながらも、最大のライバル江神との対決を目前に、ホームランを打たれてしまい、降板させられる。この、今回は叶わなかった、江神との対決が、おそらくは序盤における最大のヤマであろう。阪神タイガースの4番であり、名実ともにトップ・クラスのバッターである江神を、もしも風児が抑えることができたなら、彼の実力もまた一線級であることの、とてもわかりやすい証明となるためである。それにしても、と思うのは、同じスワローズのピッチャー吉岡が、まだ一軍にあがったばかりの風児に〈ったくアマの実績もねーくせに計画性もなくガキだけは作っちまうバカップルが…自覚しろよ今のてめえのポジションを!〉と非難するのは、あんがい重要なモーメントなのではないかな、ということで、なぜならこれに対し、風児が〈オレの背中を子どもが見てるんだ!! 後には引かない!!〉と答える言葉は、最初にいったような、男性主人公に女性や子供の側が尽くす、そうした作品内部のステータスがどうあれば正当化されるかを、はからずも作中人物自身が言い当てているからにほかならない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月10日
 白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ 7 (7) (少年チャンピオン・コミックス)

 完全に長篇ペースになってきた所十三の『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』であるが、安定しつつけっしてだれていないのは、主人公であるユタをめぐるシンプルな小状況の変化と作品世界である五王国をまたがる複雑な大状況の変化とを、パラレルに進行させながらも巧みにさばき、いくつかの接点と伏線を通し、あくまでも一個の物語としての全容をこちらに伝えてくるからだと思う、というのは以前にも述べた気がするけれど、この7巻では、そうしたさい作者がフィクションに対し、どのような操作を行っているのかが、とてもわかりやすく示されている。さらわれ、平原王国の闘竜場に立たなければならなくなってしまったユタは、パートーナーであるパキケファロサウルスのジサマとともに、獰猛な人食い竜ドリュプトスに立ち向かう。これと平行するかたちで、15年前に一度見られた凶兆が、ふたたび五王国各地で目撃されるシーンが挿入される。このとき、作中の時間の動きを、現実のそれに照らしてみたならば、おそらく、厳密にはなっていない。同時発生であるような出来事が、演出上の必要にあわせ、ごく自然にずらされ、そして表現されている。もちろんそれは、手法としたらきわめてベーシックなものであろう。だが、そのベーシックな手法のポイントを押さえ、外さず、効果的に用いることで、ユタのピンチと世界規模の攪乱という異なった局面の、同一のベクトルで展開させられていることが、たぶん週刊連載(初出時)の段階においてでさえ、てきめんにアピールされているのである。言うまでもなく、これは作者が過去作(とくに『特攻の拓』)において、もっとも得意としたところでもあって、そういった基本がしっかり出来ていれば、流行り廃りとは無縁な作風をそのままに、日常的なドラマでもスケールのおおきなファンタジーでも、いかなる舞台であっても十二分に通用することを、証明している。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 有頂天ポリス 3 (3) (少年チャンピオン・コミックス)

 歩く無法地帯である香取権太に、かろうじて警官がつとまっているのは、言っていること(説教)があんがいまっとうであったりするからなのだが、それを言うべきタイミングとやっていること自体が120パーセント間違えているので、関わった人間はことごとく災難な目に遭わされる、というのが秋好賢一『有頂天ポリス』の醍醐味なのだけれど、この3巻では、生活安全課のアイドル華ちゃんと薮隈署署長にそのお鉢が回ってくる。〈…店ではアナタが一番えらいのです 何かあったらギャングにこう言うんです!! アイム店長!!〉って、いやいや、いくら香取に影響を受けたとはいえ、さすがに滅茶苦茶だよ、華ちゃん。そりゃあ相談に来たコンビニ店長もひく。しかしながら今回は、そういったギャグのパートにあまりキレのよさを得られないのは、けっこう最初の段階で、オチがミエミエだというのもあるし、香取の傍若無人ぶりによって引き起こされる被害が、警察内部の、つまりは身内のみに止まっているからだろう。主人公の素性を知らぬ人物たちが、どんどんペースを崩れ、右往左往せざるをえないパターンこそが、前作『香取センパイ』から引き継ぐ最良の部分なのにな、と思う。それとやはり、ツッコミ役の不在が、とても惜しい。本来は1巻に収録されるはずであったエピソードが、都合上この巻末に収録されているが、そこでの、きわめて常識的であるような登場人物たちと非常識を貫く香取のやりとりは、ボケとツッコミの役割をちょうど分担するかたちになっていて、やたらと愉快であるから、よけいにそう感じられる。いずれにせよ、街中を騒がすほどにスケールのおおきな大迷惑の中心であることを、香取権太には期待してしまう。一方、生活安全課の同僚たちと繰り広げられるシリアスなパートのほうは、順調な様子で男くさいドラマになってきており、これはこれでなかなかに熱いものがある。破天荒なルーキーと型破りな先輩勢とが、相互作用し合い、眼前の事件を解決してゆくという、警察もののオーソドックスなスタイルを採りながら、しかし基本的には、マン対マンがグーとグーとで決着をつける、まさしくタイマン勝負でしかありえないあたりに、反時代的なおもしろさを見たっていい。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『香取センパイ』
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
   9巻について→こちら
   8巻について→こちら
   7巻について→こちら
   6巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月09日
 野球しようぜ! 10 (10) (少年チャンピオン・コミックス)

 神奈川県大会決勝戦、ついに決着がつく。はたして甲子園へ行くことができるのは、主人公の天が属する鷹津高校か、それとも優勝候補の筆頭であった西京学園か。いわさわ正泰『野球しようぜ!』の10巻なのだが、いやいや、なんともぶっとんだストーリー展開であるな。西京学園のスラッガー正宗が師匠と呼ぶ謎の男、彼の正体が物語をおおきく動かすことになるのだけれど、そこのところのひねりのなさが誇大表現を呼び込んでいるあたり、かつての『コロコロコミック』や『コミックボンボン』を引き合いに出してもいいような、小学生向きマンガの無理矢理なノリを思わせる。たしかに、この巻で作品はいちおうの完結になっており、したがってこれが打ち切りエンドということであれば、まあね、といった感じではある。しかし『もっと野球しようぜ!』とタイトルを変え、いま現在も連載は続いている最中なのだから、どこへ向かっているのか、先が見えず、良くも悪くも、目が離せないのではないかな、これは。

 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月05日
 ショートソング 2 (2) (ジャンプコミックスデラックス)

 枡野浩一の小説を小手川ゆあがマンガ化した『ショートソング』は、この2巻で完結である。短く、まとまりのある、良い内容であった思う。短歌という特殊な要素はともかくとして、いやいや、そこをともかくとしたら駄目だろう、との意見もあるかもしれないが、しかしまあ、その一点のみに注意をとられないおもしろみがストーリーにはあるということであって、悩める文系男子もしくは文系サークルの悩める男子といった女々しくもあるポイントを、このマンガ家が得意とする悪意の棘をあかるく描くような手つきによって、調和し、ただモラトリアムに耽溺しているだけのナイーヴな作品に終わらせていない。作中人物たちの目線、そしてモノローグやダイアローグにおける間のとり方みたいなものから、シリアスであることがときにはおかしく見えてしまう、そういったギャップのかたちでしか表せないエモーションの、あやふやな誠実さが、よく伝わってくる。

 1巻について→こちら

・小手川ゆあの作品に関する文章
 『死刑囚042』第5巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 テガミバチ 3 (3) (ジャンプコミックス)
 
 ラグ、国家公務郵便配達員「BEE」に本採用される。しかし憧れのゴーシェの姿はどこにもなく、「BEE」から登録抹消されて行方知れずになってしまった彼の謎をめぐり、そしてそれはもしかするとラグの出生の秘密に関わっていきそうな段階へと、いよいよ物語は入る。ここまでが要するに『月刊少年ジャンプ』に掲載された分で、『週刊少年ジャンプ』掲載の特別編を挟み、次巻よりが『ジャンプSQ』の連載分となるわけだ。浅田弘幸の『テガミバチ』3巻である。今日の少年マンガにオーソドックスなギルド形式のパターンを採ったり、ニッチやシルベットら女性登場人物の喋り方等の特徴付けに狙った感があったり、と、すごくリサーチのされている印象を受けるけれども、いやらしさはすくなく、エモーションの揺らぎやドラマのつくりにはメリハリがしっかりときいており、ますます読みどころが増えてきた。それにしても、と話を変えながら思うのは(つまり以下は余談にすぎないのだが)、少年マンガのシーンにおいて、ちょうどRPGで使われる意味合いでのギルドとでもいうべき設定がこうまで重宝されるようになったのは、いつぐらいからだろう。たとえば、今日の『週刊少年ジャンプ』を代表する『ONE PIECE』や『NARUTO』、『BLEACH』、それから『HUNTER×HUNTER』といった作品群をギルドものとカテゴライズすることも可能であるし、『週刊少年ジャンプ』以外でも『週刊少年マガジン』の『FAIRY TAIL』や『月刊少年ガンガン』の『鋼の錬金術師』などのヒット作もギルドのアイディアを借りていると解釈できる。いやいや、昔から珍しくはないよ、『聖闘士星矢』のセイントだって一種のギルドでしょう、といえるのかもしれないが、しかし『キン肉マン』の正義超人、あれをギルドと見なすのにはすこし躊躇いを持つ一方、(少年マンガとは言い難いが)『キン肉マンII世』の場合、まちがいなくギルドの仕組みに正義超人は則っていて、あきらかな差異を確認できる。そうしたことの背景には、たぶん、時代性の問題が隠されている。寡聞にして、このへんを突き詰めて考えた論を知らないけれども、『STUDIO VOICE』2月号の特集「[少年ジャンプ]というジャンル!」が、ひとつ、参考にはなる。なかでも更科修一郎が書いた「突出する“[ジャンプ]的異能バトル”!」の項の〈暗黒時代の迷走を経て、武井宏之・織田栄一郎以降、新世代の異能バトルマンガが次々と台頭していくのだが、その多くは思想的自壊を回避するため、横山光輝的コンゲーム手法の導入を意識的に行っている。結果、「他者とのコミュニケーション」を異能バトルに抽象化することに成功した[ジャンプ]は現実のクラス内で起きていた価値観の多様化に対応し、同時代性を確保することに成功した〉という箇所である。あくまでも少年マンガにおける異能バトルの要素に着目した内容の文章だが、ギルドものの普及も、おそらくは、そのような推移変遷とパラレルないし同根の現象だと思われる。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 『蓮華 spring edition one's intimate feeling / ふたつの忍花』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月04日
 HOVER! 1 (1) (KADOKAWA CHARGE COMICS 12-1)

 『コミックチャージ』誌では、すでに連載が終了している(おそらくは打ち切りになった)『HOVER!』であるが、こうして1巻から単行本化されたのは、まあ良しとしたい。というか、ちゃんと2巻も出してくれるんだろうね。それにしても、あの『いま、会いにゆきます』のコミカライズも含め、高田靖彦のマンガにははずれがないのだけれど、どうしてか一線級の活躍をしているという印象を受けないし、じっさい人気作家と見なしうるほどのネーム・ヴァリューを得られていないように思われるのは、なぜかしら。推測するに、どこか垢抜けていない絵柄もあわせ、オールドスクールな社会人向けではあっても、今どき流行らないガンバリズムが、その作風であると大勢に考えられているためではないか。たしかにそういった部分はあるにはある。これまでの作品はどれも、ヒエラルキーがもたらす挫折と一点突破式の奮闘による逆転劇であった、と捉まえることも可能である。しかし、ドラマはそこに宿っていたのではない。そうではなくて、いったんは壊れてしまった関係性をいかに修復するか、あるいは歪んでしまった関係性をどうやって正すか、または手放すか、こうしたことこそが高田というマンガ家の一貫して描き続けてきたテーマであり、根本的なドラマの源泉にあたる。『ユニゾン』しかり、『演歌の達』しかり、『ざこ検マル潮』しかり、『やんちゃぼ』しかり、である。そういった点に着目していったとき、『いま、会いにゆきます』のコミカライズが、この作者によって行われたことでさえ必然でしかありえなかったことがわかる。いやいや、そこがださい、くさい、ウケないんだよ、と言われればそれまでの話ではあるが、『HOVER!』のストーリーも、表向きは、落ちこぼれ女子バレーボール部の再興とまとめられる、けれども、顧問を引き受けた教師の過去にどうやらバレーボールに関わる因縁がありそうであったり、部員たちのチーム・ワークが本質的なところでうまく回っていない様子などからは、以前と変わらぬ、つまり逃れがたく人は何かしらかの関係性に左右されながら生きるというテーマが、形を変え、同じく託されていることがうかがえる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年02月02日
 闇金ウシジマくん 10 (10) (ビッグコミックス)

 真鍋昌平の『闇金ウシジマくん』10巻のオビには、呉智英、中条省平、斎藤環といった批評のシーンのビッグ・ネーム(まあね)によるレビューの言葉が集められていて、結局のところ、格差であり下流であることがリアルみたいなふうになってしまっているのだけれど、いやもちろんそのへんはそういうふうにまとめた編集者側のセンスを見るべきなんだろうが、はいはいどうも、という気がしてしまうのは、それは作品のうわべ、いわばキャッチーさでしかないような部分に過ぎないと思えるからである。ところで、呉の『マンガ狂につける薬 下学上達篇』における『闇金ウシジマくん』評というか呉の思想的立場からくる読みに、紙屋高雪が『オタクコミュニスト超絶マンガ論』のなかで、「貧困観の貧困」として違和を唱えており、いわく、そこには〈生きるか死ぬかという絶対的生存水準を基準に「貧困」をイメージする発想が抜き難く存在している〉のであって、そしてそれが〈呉に特異な発想なのではなく、広く社会に存在する〉ことを問題視する。このあたりの議論は、なかなかにややこしいところがあるので、ひとまず「貧困」を規定するにはいくとおりかのレイヤーがあるということにして、紙屋の目線からは〈たしかにヤミ金にからめとられていく人間を一方的な無垢の被害者ととらえずに、「消費社会」の中にしかけられた様々なワナに陥っていく「ダメ」さを描写したことは、息をのむリアルさを生み出すのに成功したと思う〉が、〈しかし、『ウシジマくん』の「面白さ」の核心は、こうした人間の「ダメ」さを思わず目をそむけたくなるようなリアルさで描きながら、それらが「消費社会」というような平板な社会像からではなく、さらに深奥にある新自由主義下の貧困から、複雑なからみあい、転倒、倒錯をへながら現象していることを描いている点にある〉という読みが行われている、と理解しておけば良いように思われる。ひとまず、ね。いずれにせよ、そのような社会の写し鏡としての評価が『闇金ウシジマくん』には相応しくある一方、個人的には、同作者の過去作である『スマグラー』や『THE END』と等しく、堕ちるのも這い上がるのも自分次第とでもいいたげなテーマが、この作品には含まれていることをチェックしておきたい。むろん、自分次第などというと、今日ふうの自己責任という意味合いで受け取られかねないが、しかし、そうではない。自己責任というとき、それはたいてい、社会の側に立っているという思いなしによって個人の行動に物差しをあてようとする、かのような振る舞いであろう。だが極端な話、社会は、よっぽどの犯罪行為に関わっていなければ、駄目な人間が駄目なまま生きることですら、許している。にもかかわらず許せない、許していないと述べる、述べられるものがあるとしたら、それは結局のところ、自分自身の声であり他人の声であり、つまりは人の声なのである。そういう人びとの声が『闇金ウシジマくん』には満ちている。ちょうど〈ニギ…ニギ…〉や〈ネチ…ネチ…〉といったフキダシ状の擬音と同じように、不穏当にデフォルメされ、わかりやすく。この巻から、うだつのあがらない医療器具の営業マンをメインに据えた「サラリーマンくん」編に入る。このところ、丑嶋が完全にワキに回っているエピソードが続くが、それでも物語が成り立っているのは、これが社会の暗部ではなくて、ごく一般の人びとの奥向きを描いた作品であるからにほかならない。

 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | マンガ(08年)
2008年02月01日
 チェリー 4 (4) (ビッグコミックス)

 率直にいって、いまいち歯切れの悪いエンディングになってしまったように思う。いや、この4巻で完結した窪之内英策の『チェリー』のことであるが、たしかにまあ、ここまでのストーリーそれ自体もけしてキレがよかったとはいえないものであったけれど、最後の最後まで、その印象を払拭できず、引きずり、それでもなんとか体裁だけは整えました、という印象に尽きてしまっている。ラスト、パラレル・ワールド的な転換を経たのち、作中人物たちの、他にもありえたオルタナティヴな可能性、つまり夢を叶えた姿が描き出されているのだが、その作中人物たちの夢を叶えるまでの過程が、物語のなかからは、完全に抜け落ちているので、どうも腑に落ちないのである。もちろん、本筋は、かをると風子の自分探し的な駆け落ちにある、とはいえ、結局はそちらのほうをスムースに展開させられなかったため、ワキの部分のフォローもままならなかったのではないか、というふうにも読める。都会から田舎へとカムバックする、このような結末であったならば、いっそのこと、かわいらしい女性登場人物たちをキャバクラや性風俗の営みに徹せさせるぐらい、えげつない方向に振り切れてしまえばよかった。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年01月31日
 恋したがりのブルー 1 (1) (フラワーコミックス)

 1巻の時点で佳作になることが約束された作品などと評すると、いかにも過言であるかのように思われてしまうかもしれないが、しかし、藤原よしこの『恋したがりのブルー』の1巻は、今後に展開されてゆくであろうラヴ・ストーリーからまさしく目が離せなくなるほど、すばらしく良く出来たイントロダクションになっている。なぜそう感じられるのかといえば、恋愛状態における三角関係以上の関係性によってもたらされるアポリアが、とても的確に描き出されているからである。なにも難しいことが行われているわけではない。スモール・サークルの内で生じる三角関係以上の関係性においては、愛情と友情とが背反し合う、たったそれだけの要所をしっかりと押さえることで、物語それ自体の魅力的な導入がつくられているのだ。これをやれている恋愛のマンガは意外とすくない。よくもわからず、とりあえず三角関係にしておけばお話は動くだろう式に発進させられたラヴ・ストーリーのほとんどが、やがてぐだぐだになってしまうのは、結局のところ、そのためというほかない。作中人物たちがどのような価値観で動いているのか、じつは作者自身が理解していないのではないか、と勘ぐりたくもなる凡百の作品群と比べ、『恋したがりのブルー』は、前記した一点、ただその一点の違いでもって、あきらかにワン・クラス上の内容を持つに至っている。高校の入学式が行われる朝、偶然に知り合った陸という同級生からいきなり〈なんにもしねえから チューとかHとか絶対しねえから フリだけでいいんだ ウソの彼女になってくれればいんだ〉と頼まれた蒼は、もちろん当然のごとくその申し出を断るのであったが、じつは陸が自分の恋心を秘してまで、彼の幼馴染みである海との友情を守ろうとし、そんなことを言い出したのを知って、思わず嘘の恋人の役を引き受けてしまう。かつて陸と海のあいだに何があったのか。〈仮に 仮にだよ? 違うけど もしオレが海の彼女を好きだったとしてもサ――せっかくうまくいってるものをサ――別れるか? フツー いくらオレが小4ん時からのつきあいのダチだからってサ――あのバカ ヨリ戻せ――ってゆったら殴りやんの〉というわけである。そして、この海の彼女とされるのが、蒼が高校にあがってはじめてできた友だち、清乃であったことから、どうやら厄介な問題が起こっていきそうな気配を、こちら読み手にうかがわせる。嘘から出た実、という諺があるけれど、蒼と陸の虚偽であるような間柄が次第に本物らしく、つまり軽くあったものがじょじょに重たくなってゆく一方、陸と海そして清乃と蒼の四者の立場は、それぞれがお互いを慮るあまり、あたかも本心の隠された状況になっている、要するに、そこにも嘘が、嘘からやってきている重たさがある。これらの重みが、作品を両脇から支えるふうにして安定させているとともに、まるで綱引きし合うみたいな緊張をドラマのなかに呼び込んでいる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年01月29日
 7SEEDS 12 (12) (フラワーコミックス)

 世界が終わったあとの世界を取り扱ったマンガというのはけしてすくなくはないが、多くの場合、そこで描かれるのは、近代的な自我というリミッターのはずれた社会ないし中途半端に中世以前へと先祖返りした近代的な人間であるふうに思われる。その結果、暴力が作品の中心にくる。あるいは、暴力を主題化すべく文明は崩壊させられる、と言い換えられる。だが田村由美の『7SEEDS』で、世界が終わったあとの世界と相対するのは、近代以降における社会のルールをきわめてまっとうに遵守しようとする人間たちである。もちろん、この作品の場合、生存者の数が極端に低く、その多くがついさっきまで現代的な暮らしをしていた、そうした条件が揃えられている、というのがあるのかもしれないけれど、しかし世界の終わりの真っ最中といえたシェルター編においてでさえ、近代的な自我のプライドを作中人物たちが手放さなかったことは、注目に値する。とはいえ、このマンガの舞台が、他のそれと比べ、サヴァイバルにやさしく設定されているということはない。相対的にみたら、むしろ、苛酷な部類に入るであろう。だから、ひとまず、次のように仮定することも可能なのではないか。『7SEEDS』では、人類はほんらい野蛮を事とする動物である、と規定する想像力とは違う角度から、世界が終わったあとの世界で生きる人びとの姿が、想像されている。と、さて。この12巻では、とうとうあの精鋭揃いである夏のAチームが、本格的に登場し、他のチームへと関与してくる。シェルター「龍宮」を封じ、地上に脱出した花たちの前に、あきらかに装備仕様の異なる謎の集団が現れる。それこそが、つまり、自分たちの意志で未来行きを選んだ安居たち、夏のAチームであった。他のチームを一般人と呼び、〈血を絶やさず 子孫を残し 再びこの国を繁栄に導く〉ことを使命に、発砲すらも躊躇しない彼らの態度は、ともすれファシズムを想起させる。いや、そもそも〈君たちのチーム名は「夏」である ほかに春・秋・冬の3チームが一般から行くはずだ そのほかにも生き残った人々がいるに違いない 君たちは その中で 最も優秀であり かつ訓練も積んでいる 迷える人々を保護し 管理し または戒め 害を成すものは取り除け 導くのだ〉というふうに作中で示される彼らの行動理念それ自体、十分にファシズムと共鳴しうる。むろんファシズムは近代の内側に含まれるシリアスな問題にほかならないし、もっとも規律の訓練が徹底されている人間たちが、もっとも暴力を厭わず、もっとも冷酷であるのは、作品に込められた一種のアイロニーであるようにも思われる。これに対し、性格のまったく違う夏のBチームがどう絡んでくるのか、そのことが、おそらくは今後の物語の行方を握る。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年01月28日
 父親を亡くしてから、母親との折り合いが悪くなった少女が、家を飛び出し、従兄の営む雑貨屋「アカンサス」で住み込みのアルバイトをしはじめる。そして彼女は、そこで知り合った陶芸を志す青年に、片想いの気持ちを抱く。山口いづみ『アカンサス』の1巻で描かれるのは、そのようなオーソドックスともいえる構えのストーリーであり、こうして説明してみるかぎりわかりにくいところはなさそうなのだが、しかし、作者が主人公の彩香に何をさせたいのかが、よくわからない。当然のごとく、自立や成長といったところだろうな、との推測はつく。とはいえ、物語のなかで彼女がやっていることは所詮ママゴトの域を出ていないように思われるのである。自分がまだ子供であると自覚しながら、だが子供ではないというふりをしながら、でも周囲のやさしさにはべったりと甘えている、そのような態度に対する否定のモーションが、ほとんど行われていない。もちろん、そのあたりに関しては次巻以降で変化が訪れるに違いない(訪れなかったなら、むしろ、まずい)ので、これは早計にほかならないのだけれども、ちょっと、軸足となる部分が頼りなく、このあとの展開次第では体勢がよれてしまわないか、と、すこし心配になる。一方、併せて収録されている長篇「青く、ふたつ」は、気恥ずかしくなるぐらいにわかりやすいラヴ・ストーリーで、たとえば、バンドでの成功を夢見る青年が東京へ出て行くのにさいして同級生の恋人に別れを告げる、そうした筋立ての陳腐さを、げえ、と思う向きもあるだろうが、個人的には、好きである。作品は、おおまかに「青く、ふたつ―十八歳の唄―」と「青く、ふたつ―二十三歳の唄―」のふたつのパートに分かれており、前者では女性の、つまり十八歳だった頃のヒロインの視点で、好きであるからこそ別れなければならなかった恋人のことが、後者ではバンド・マンの、つまり二十三歳になった青年の視点で、かつて好き合っていながらも別れた恋人との再会が、語られる。ものすごく簡単にいってしまうと、いくえみ綾の影響を使って、単層的な今ふうのメロドラマをやっているような内容で、クライマックスにおける悲劇の利用は、見え透いたアイディアではあるけれど、そこまでに積み重ねられる叙情の、洗練のされてなさが、翻って、印象の濃い痛みをつくる。

 『キリン』について→こちら
 『恋愛幸福論』について→こちら
 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
2008年01月27日
 幸田もも子の三冊目となる作品集『姐さんカウントダウン!』には、ぜんぶで五篇の読み切りマンガが入っている。そのうち、07年に発表された表題作「姐さんカウントダウン!」と「素直になれないアルビレオ」は、表層では判断できない人間の内側の価値とでもいうべき、共通のテーマを持っている。ヤクザの四代目に見初められたヒロインが、彼の強面とは裏腹な素直さに惹かれてゆくというのが、前者の筋で、後者では、口汚いせいで性格までも悪いと周囲から見なされているヒロインが、クラスメイトたちに心を打ち明けられるようになるまでを、下宿人の男性との出会いを通じ、描く。どちらもワン・アイディアのみで成立させられているようなストーリーであるけれど、誰にも理解されない、そういう姿を改変不可能な孤独としてではなく、そこから希望までの距離がそう遠くはないことを、コメディのあかるさで、やさしく照らしえている。感情の奥行きとは、いじけることにではなくて、いじけないことのなかに現れる、そんな提言みたいにも思える。その二篇以外は、じつはごく初期の頃の作品が収められており、どれも画のレベルにかなり厳しいものがある。現在と比べるまでもなく、拙く、これはやばいだろ、と断言できるほどである。とくに02年のデビュー作であるらしい「たまごやき」は、まったく別人の域である。とはいえ、これが意外と悪くなく、先行するマンガ家からの影響があちこちに感じられるけれども、今のレベルで、こういう湿りっ気抜群のものを一本ぐらい描いてくれたっていいのかもしれない。

 『誰がスッピン見せるかよ』について→こちら
 『そんでむらさきどーなった?』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
 世界を敵に回しても 4 (4) (マーガレットコミックス)

 たしかに近親相姦は、古今東西を問わず、あらゆる表現の世界で、シリアスなテーマとして重宝されてきたものであるが、ここ最近のそれに対する感受性は、しかしかつてと同じ水準にあるわけではない、という気がする。たとえば、この十年を見回しただけでも、近親相姦を題材としたサブ・カルチャーはメジャーのフィールドでもだいぶ増えた。じっさい、ウケているようでもある。そのような屈託のなさを、モラルの問題と結びつけるのは、容易い。しかし、そうではなくて、もうちょっとべつの面があるようにも思う。推測をいえば、家族という共同体をかならずしも必然的なものとするより、むしろ偶然的(偶発的)なものとする認識の先に、愛した人がたまたま肉親であった式の発想が置かれている、置かれやすくなったからなのではないか。愛した人がたまたま○○であったなら、それはもう自由恋愛のカテゴリーになりかねない。人は、とくに現代人は、自分が自分の意志で選びとったという思いなしを好み、したがってそれを否定したがらない。恋愛のような、判断基準の曖昧な感情に対しては、なおのことそうであろう。こうした理屈の敷衍が、おそらくは、近親相姦の受容を助長させる。もちろん、それはインモラルでもなければラジカルでもない、ただの時流にしかすぎない。この4巻で完結した斉藤倫の『世界を敵に回しても』もまた、近親相姦を扱った内容であるけれど、最終的には、近親相姦を行う当人たちの意志が、ほんとうの気持ちや幸福と言い換えられ、尊重されている。いかなる倫理も真実には楯突けないというわけだ。が、しかし、特筆すべきは、物語の進行につれ、主人公の目線を、近親相姦をする当事者の側から、近親相姦を見守る傍の立場へと、スイッチしたところにある。この観点で、もうすこし問題を突き詰め、徹底することができていたならば、あるいは、なにか新しい触感が得られたかもしれない。そこに手を伸ばしながらも、届くことな