ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年12月29日
 Astral Project 月の光 1巻 Astral Project 月の光 2巻

 僕のなかでは、なんとなく中上健次と狩撫麻礼ってダブるんだよなあ、などと思いつつ。江口寿史の『正直日記』を読んでいると、狩撫麻礼の無骨さと日本の若いマンガ家の体質はもはや完全に相容れないのではないか、という気もしてくるのだが、いや、しかし77年生まれの竹谷州史が見事に受けて立ったのが、この『Astral Project 月の光』である。すなわち原作者のmarginalとは狩撫麻礼の別名なのだった。保守反動的な父親に逆らい、北海道の家を出た木暮柾彦は、東京で、高級娼婦の送迎をして生計を立てている。謎の死を遂げた姉麻美の遺品であるCDからアルバート・アイラーのサックスが、その未発表テイクが流れるとき、彼の意思は体外に離脱する。〈俺は・・・自分の肉体を見下ろしていた!〉。やがて同じように東京上空を幽体で舞う人々と出会う。だが、なぜ麻美は死ななければならなかったのか、それを知ろうとする柾彦の脳内に、アストラル・プロジェクトという語感が、響いた。スピリチュアルな部分はもともと狩撫の持ち味とはいえ、過分にファンタジックでオカルティックな要素が盛り込まれ、謎解きふうのつくりが施されているけれども、印象としては『天使派リョウ』あたりに近しい、俗世間からドロップアウトした人々が、各々自分の生き方を選び直していくような、そういう内容のように思える。しかしアウトサイダーなどといえば、80年代の『ボーダー』、90年代の『天使派リョウ』、そして本作と並べてみると、ここでのトーンは深刻かつナイーヴでありすぎるほどに重たいことに気づく。それはもちろん作画側の資質の問題もあるのだろうが、そのことも含め、時代性を反映している感じがする。もうすこしいえば、社会環境ないしシステムそれ自体を安直に敵対視できない状況が、登場人物たちに暗い表情と閉塞感を与えているのではないだろうか。
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2005年12月26日
 夜刀の神つかい 9 (9)

 たぶん人はひとりでは生きてはいけないということはなくて、もしかするとひとりでも生きていけるのかもしれない、けれど、ひとりで生きるのはしんどい、そのしんどさを内面の一部だとして感知するのではなくて、そもそものはじめから信じないか、まっさらに消去してしまえば、要するに、エンプティだ、その瞳は暗くパセティックに光るのだろう。かつての日向夕介は、そのような状態にあった。アパシーに浸された肢体は、人を殺すことに躊躇いを持たず、超高度に躍動するが、充足はなく、すべては無味乾燥のうちにあった。しかし、ひとりの女性が、彼を変える。菊璃との出会いである。〈バスタブに沈む菊璃の柔らかな裸体を抱き上げたとき オレは初めて肉と骨の持つ重量を知り それが命の重量だと知った そしてオレは初めてオレの生まれて来た理由を知ったような気がしたんだ〉。しかし蜜月は“夜刀の神”砌(みぎり)の復活によって破られ、夕介は、はじめて絶望と孤独と敗北を知る。そして、ついに9巻、砌の下僕に堕ちた菊璃との壮絶な再会劇が展開されるのであった。ストーリーの進行自体はスローではないのだけれども、いかんせん単行本の出るスパンが空きまくりなので、なかなか物語に集中できない部分もあるが、ようやく佳境に入ってきたというところで、ぐっと戦況が盛り上がってきている。ただし、やはり全体のテーマみたいなものが総括しにくいため、ドラマは、薄いヴェールの向こう側で語られている印象である、各登場人物の末路が、その背景とうまく繋がっていない感じもする。感情移入のとり方に、やや難があるのだ。絶対に大団円はありえない内容であるので、その悲劇性をどのように煽っていくかが、今後の要点であると思えば、そのへんは、一抹の不安ではある。とはいえ、僕のなかではまだまだ、ぜんぜんおもしろいマンガのひとつに違いなく、夕介とヒカゲのもはやありえない友情の、その儚い残像がうつくしいことに、ポエジーだなあ、と胸の痛みを覚えたりもするのであった。

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2005年12月23日
 聖闘士星矢EPISODE・G 8 (8)

 〈誰一人だって見捨てる事もあきらめる事もオレはしねぇ 誰かの命を捨てて買う平和なンかオレは認めない〉。熱血だなあ。あいかわらず燃えワードが満載じゃねえかしら。いや、男の子はこうでなくてはならない。8巻。完全復活を目論み、封印された「楚真」を奪取すべく、聖域(サンクチュアリ)に大神(クロノス)が直接乗り込んでくる。彼が甦ったとき、地上に生きる者は、すべて滅ぶ。若き黄金聖闘士(ゴールドセイント)たちの間に緊張が走る。しかし教皇が彼らにくだした勅命は、各自待機というものであった。唯一自由に動くことのできるアイオリアは間に合わず、聖域の中心、アテネ像を守るものは誰もいない。そう、誰もいないはずであった。異界次元(アナザー・ディメンション)が炸裂するまでは。〈例え 咎人と誹られ 死して猶 蔑まれようとも それで幾多の命の未来を造れるのならば 恐れるものなど何もない!!!〉。『聖闘士星矢』本編前半において、最重要人物でありながら、あまり振わなかった双子座(ジェミニ)のサガ大活躍の巻である。サガのその後の運命を知っている、多くの読者にしてみれば、あるいは最大の魅せ場といえるかもしれない。その、自分の心の弱さを殺せず、苦悩しながらも、人々を救うため、あえて悪を引き受ける姿に、震える。また、それに符合して、この巻の冒頭にポセイドンとカノンの邂逅が描かれているあたりも、本編を知るものにとっては、憎い演出である。そうした善(正義)と悪のような二項対立に基づくネガティヴな因子は、この『EPISODE.G』の主人公であるアイオリアの立ち位置をも射程に入れたものである。異端であるがゆえに、孤絶し、愛情に飢えるけれども、平和を守る聖闘士としての規律が、感情を束縛する。戦いの最中、クロノスはアイオリアに向かって言った。〈お前の小宇宙(コスモ)は苦しみと悲しみの「陰」から生まれている――〉。だがアイオリアは信念を曲げない。自らを哀れまない。ズタズタになっても立ち上がる。〈死なねぇよ・・・こんな時の為に生きてきたんだ……オレの牙が・・・全てを守る為のもんだって証を立てる!!!〉。ごめん、ここで泣いた。だって、かっこういいだろう。伊達にエクスクラメーションマークを乱発していないのである。報いや救いはなくとも、ただ未来の明るさを信じることが、その身を支え続ける。〈闘いの中にあるのは何かを殺す事だけではないよ〉。生きるということが、ときに悲しいのは、その悲しみを乗り越えることが、同時に生きるということでもあるからなのではないか。その先に希望は、ある。アイオリアのコスモが燃え上がる。黒雲は消え去った。しかし神は人に不可能をつきつける。戦いは終わらない。つづく。

 6巻についての文章→こちら
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2005年12月22日
 蒼太の包丁 9 (9)

 テレビ・ドラマの企画をやっている人ははやく発見してください、というぐらいに、とてもとても、こう、身につまされながら、ぐっとくる話の詰め込まれた『蒼太の包丁』なわけだけれども、もちろん、この9巻目もナイス・ストーリー・テリングであった。僕は、料理マンガの本質は、いかにしてディシプリンを捉まえるかにある、と考えているのだが、さまざまな人々との接触を通じて、着実にその器量を養っていく蒼太の姿には、利己的なガンバリズムを越えた、奉仕することの是を推進力としながら、公の役割を引き受けて立つ、そういう真摯な姿形を見て取るのだった。今回の収録内容でいえば、本マグロの「テンパ」に関するエピソードが肝だろう。テンパとは、皮ではなくて、中骨から削いだ中落ちのことである。それが極上に美味いらしい。そのことに端を発した諍いに巻き込まれてしまった蒼太は、自分の接客のいたらなさに気を滅入らせる。〈いくら料理が出来たってお客様に気持ちよく過ごしていただかなきゃ意味がない・・・〉と思う。はたしてトラブルの原因となったテンパの味わいとはいかほどのものなのだろうか。築地市場で働く風間が、蒼太の景気を回復させることを思案して、それを用意する。ここで風間が、蒼太を落ち込ませた食通のテレビ局プロデューサーにかける言葉が、いい。〈不用意に若い人を傷つけることがあっちゃいけない それが見過ごせなかったんだ〉。テンパの味に説得されたプロデューサーは、反省とともに、首肯する。〈上質の客こそが最高の料理人を育てるんだな……歳かな 頭が固くなってたようだ〉。やや性善説的な着地点ではあるけれども、舞台となっている料亭「富み久」が、その店の在り方からして、俗悪を拒否した空間であるために、説得力の損なわれることがない。マンガ内の装置がうまく機能しているというわけだ。かくして蒼太は、人として、料理人として、また一回り大きく成長することとなる。しかし、修行の道はまだまだ、長く、けわしく続いてゆくようであった。また、これまでには穏当であった恋愛模様の部分も、微妙に変化してくるあたりも、この巻の見所である。

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 僕等がいた 9 (9)

 もちろん当然のように、永遠という時間は経験したことがないが、それでも永遠の愛はあるかどうかと尋ねられたならば、あるよ、と答えるのが僕のスタンスである。永遠の愛というのは、ちょっとね、過剰だとしたら、ずうっと変わらない想い、と言い換えてもオーケーである。一途っていうのは、けっして人の気持ちを試したりしなければ、すげえ良いものだと思うぜ、という心持ちなのであった。小畑友紀『僕等がいた』に関しては、前巻のラストが、ある意味では劇的なのかもしれないけれど、どうも個人的には、あーあ、といった感じであったのだが、この9巻の時点から振り返ると、いやいや、いいじゃないか、切なさ倍増計画の一部としてジャストである。遠距離恋愛を約束し、東京に引っ越してゆく矢野を見送った七美であったが、それから5年の月日が流れても、ふたりが再会することはなかった。別れの日から半年後に、矢野からの連絡は途切れた。大学入学と同時に上京した七美は、結局のところ、彼の足取りを掴むことができなかった。そして、いま七美は大学4年の季節を、就職活動で忙しなく過ごす。その速く流れる毎日のなかにあっても、矢野のことを忘れることはなかった。〈数年も経てば気持ちも変わる〉〈そう この5年で私が学んだこと〉〈人の気持ちは変わる〉〈ただひとり〉〈私をのぞいては〉。今日も線路の向こうに消えた矢野の面影が浮かぶ。そんな七美も悲しいが、七美が矢野を想い続ける5年間、同じように、彼女のことを見守り続ける竹内も悲しい。多くの場合、純粋さは、日々の経過に洗われて、過去になる。かつてあったものになる。それは悪いことじゃない。むしろ自然という意味合いでは正しさだろう。そうすることで、ふいに、目の前のラッキーが輝き出すこともありえた。だけど、そんなこともあるのか、と、心に折り合いがつかないとき、騙し騙しでやり過ごすことのほうが、つらいときだってある。自分の気持ちに忠実であることが、ぜったいに幸福だとは限らない。でも、未来は可変である以上、その先に何が待っているのかを誰も知らない、間違いだと断定できるはずもなかった。ところで矢野はいったいどこへ行ったのか、いま何をしているのか。その動向は次巻以降、明らかになる模様であり、そこへと繋いでいく、この巻の場面構成には目を瞠るものがある。間のとり方がいい。

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2005年12月21日
 打撃王凛 5 (5)

 いま、もっともホットなジャンルといえば、野球マンガなのではないか、と思う。マンガ評論家の米沢嘉博は新書『戦後野球マンガ史』(02年)において、当時のサッカー・ワールド・カップの熱狂を例にとり、野球人気の衰退とともに野球マンガも没落するかもしれない、と憂いてみせたが、それよりも深刻なのはサッカー・マンガの現状であることは言うまでもない。ちなみに僕は、実スポーツとしての野球にもサッカーにも、ぜんぜん興味がないのであって、そのように考えると、スポーツを好きな人間しかスポーツ系のマンガ(物語)を読まないというのは、ある種の偏った認識になるわけだ。もちろん世のなかでは、そうした偏りこそが、真である可能性もあるのだけれども、しごく当然のことや決まり文句しか喋れないのであるならば、さいしょから黙っていればいいだけの話だろう。ま、いいや。話を戻そう。そうそう、それで、だ。野球マンガがホットなのである。たとえば『おおきく振りかぶって』は言うに及ばず、コージィ城倉関連の作品は当面どれもナイスで、もちろんあだち充の『クロスゲーム』は流石だし、そのほかにも注目作が目白押しなのであるが、そのなかでも僕などはとくに、いわさわ正泰『野球しようぜ!』と、この佐野隆『打撃王 凜』をリコメンドしたい盛りなのであった。いやあ、あたらしい5巻目も大変よろしい。前巻の段階において、僕は、天才対凡人という見積もりを立てたのだけれども、それは浅はかすぎたか、ずばーん、と真っ正面から抜かれていってしまった。主人公である凜の奮闘によって、じょじょに盛り上がる緑南シニアは、大会2回戦、剛腕投手として知られる稲葉の率いる浜松中央シニアとぶつかる。まっすぐな性格の持ち主であり何よりも協調性を貴ぶ凜と、人を見下し自己中心的に恐怖政治でチームをまとめる稲葉、〈容姿といい 人当たりといい まるで正反対〉なふたりであったが、野球を必要とするその本質は〈全くの似た者同士〉であった。グラウンドの上だけが、ただ自分の居場所として信じるに値した。当初は、冷酷に嫌な奴すぎて、共感度ゼロの稲葉であったけれども、凜との対決において、ようやく露わになる、その孤独の在り方に、心を許せるようになる。〈最初っからココには僕の居場所なんて無かったんだから・・・〉といえば、まあネガティヴにステレオタイプな内面ではある。だが、それ自体がアイデンティティとして機能しているのではなくて、その非生産性を裏返そうとする、そういう姿形が、いい。結局のところ、稲葉が救われるきっかけとなるのは凜の直向きさであるわけなのだけれども、地獄そのものに結着をつけるのは、稲葉本人の、自己憐憫を良しとはしない態度によるものである。つうかさ、ここ最近、マンガ表現において、少年期というのはトラウマ(あるいは消えない傷、嫌な思い出)生成のために設けられるケースが多い気がする。リアリティのつもりなんだろうか。気が利いていると思っているんだろうか。くっだらない。そうした苦難を乗り越えてゆくような、そういう少年時代があったっていいだろう。この野球マンガのなかの少年たちは、とりわけ健気に成長していくようで、けっして挫けることのない足取りに僕は、思わず涙がほろり、としてしまうのだった。

 4巻についての文章→こちら
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2005年12月20日
 人はもう、なんらかの帰属先(組織、団体、企業etc)を考慮に入れないと、善と悪の線引きなどできないのであった。もちろん、昔からそうだったのかもしれない側面はあるのだろうが、それらの上位に道徳とか倫理とか、まあ大きな物語でもイデオロギーでもいいのだけれども、とにかくア・プリオリに正義があるのではなくて、あくまでも帰属先の利益または体裁を前提としたうえでの結果論でしか、善や悪は計れなくなっている、ということだ。桂正和『ZETMAN』の第6巻において、メイン・キャラクターのふたり、高雅(コウガ)とジンが放り込まれるのは、たとえば、そのような場所である。絶体絶命のピンチから九死に一生を得たコウガであったが、しかし、その心と体には深く深い傷が刻み込まれてしまった。ダメージの癒えない彼の、その与り知らぬところで、彼を巻き込んだ巨大なプロジェクトが始動しようとしていた。一方、地下に拘束されたジンは、その身体の秘密を、対面するコウガの祖父からついに聞かされることとなる。2年後、ジンはゴーストタウンに、いた。作者がアメコミのヒーローものや、とくに『バットマン』のファンであることは知られており、『ZETMAN』にもその影響が顕著であるのだけれども、組織との付き合い方みたいなものは、やっぱり日本のヒーローものの延長線上にあると思う。というのも、『バットマン』にしてみたら、主人公にとって企業というのは手足のようなものであるのに対して、当面『ZETMAN』は、その企業の下部に主人公たちは置かれているわけだから。そして、そういったヒエラルキー的な構造は、『仮面ライダー』あたりを例に出してみるとわかりやすい。初期の『仮面ライダー』にしたって、あくまでも主人公は組織に改造された人間だったのであって、とくに『BLACK』などは、そうした組織に対する反動が、正義の側に立つモチベーションになっている。また『クウガ』からの新シリーズにしても、警察との連携が尊重されたり、『アギト』などは仮面ライダーのひとりがすでに警察に仕える身であるし、それら以外にもほとんどのケースで、ライダーたちは何かしら組織の一部でしかなかったりするのだ。また、そういった傾向はじょじょに強まっている感じもする。そのあたりは、時代性の、無意識的な反映なのかもしれない。が、そこから妄想して、今日においてサブ・カルチャーにあらわれるヒーローの像というのは、もしかすると自衛隊のメタファーとして機能してしまっているのではないか、などといえそうな気もするのである。と、なんか、うまく考えがまとまっていないので、適当に過ぎるし、しっちゃかめっちゃかな文章になった。

 5巻について→こちら
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2005年12月15日
 H-エイチ- 6 (6)

 ワン・エピソード、ワン・エピソードがけっこう緊張を強いるものだったので、それほど長い話にはならないだろう、とは考えられたが、全6巻で完結となった。桜井まちこの『H』である。正直なところ、主役ふたり以外の、各登場人物の掘り下げが足りず、総体としてみれば、型くずれを起こしているような印象を覚えるけれども、反面、そういった部分がリアリティとして引っかかるのかな、という気もする。個人と出来事の関連づけが密接ではなくて、その隙間に風の通ることが、寂しさを煽っているのかもしれない。親子といったア・プリオリにある関係は、形骸化し、友人たちとの輪は、あやふやさのなかにしかなくて、ただただ恋愛感情だけが鮮やかに見えるのだとしたら、寄る辺のない少女が、ひたすら、それを追いかけるのは必然なのだろう。メイン・テーマからは外れるが、悲しいのは、死をもって自分の存在を具体化しようとした笠井である。そのアクションは、やはり存在感が濃度として伴っていないため、唐突に過ぎる。だが、その内面の見えないこと、ほかの誰かに気持ちを打ち明けられないことが、逆に彼を追いつめていたのだとすれば、なるほど、死以外に繋がれるものはないのだった。〈……さびしかったら死んでもいいの……?〉かどうかはわからないけれども、寂しさの最中を生きるのは、それ相応にハードなことである。誰しもが引き受けられるというものではあるまい。けれども、生きるのであるならば、引き受けざるをえない。そういったことの悲しみが、涙となって落ちる。つうか、まあ、逃げることばっか考えてるから、よけいに辛いということもある。だから〈逃げないほうがラクなんでしょ?〉と心を決めれば、それはそのとおりで、そこのところ素敵にいいシーンである。後ろ向きの姿形ではじまった物語は、前向きに体勢を入れ替えたところで、閉じられる。しかし前向きとは、いったいどういうんだろう。希望などといえば、曖昧としている。噂では聞いたことがあるが、実物は見たことがないな、といっても、ああ、そうか、でもそいつに向かって伸ばした手は、自分のものとして確実に信じられるのだった。

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2005年12月12日
 生き方は教えられるか。というのを、最近すこし考えている。たとえば今日においては、そのような問いが立てられたときに「教えられない」と白けてしまったほうが収まりがよいような、そういう風潮である気がして、それはちょっとダサいぜ、と思うからである。それはそうと、熱く生きるってどういうことか。そのことを吉田聡『荒くれKNIGHT 高校爆走編』の8巻は教えてくれる。高校生活にケジメをつけるため、ふたたびラグビーに取り組みだした野呂は、しばらくの間、輪蛇(リンダ)を離れることになった。ひたすらトレーニングに励む彼に、不吉な影が忍び寄る。そこには、野呂の旧友であり、輪蛇に恨みを持つ元輪蛇のメンバー、来原の姿がちらつく。この来原という男が、この巻のキー・パーソンである。来原は、けっして熱くならないことを心情としている。〈燃えねえ男の方が、ケンカは強ええんだぜ!〉。いつもニヤニヤ笑いを浮かべ、クールに振る舞うが、しかし胸の奥では、燃えることの意味をずっと教えてもらいたがっていた。その本心を誰かに見抜いて欲しかった。〈燃えるってなんだよ!?〉。結局のところ来原が、輪蛇を出ていったのは、うまく自分を表に出せないフラストレーションを持て余したためだった。輪蛇のリーダーである善波七五十(ぜんばないと)は言う。〈熱くなんねえフリしてちっぽけな自分を守ってるとよ! 負ける事からは逃げられるがそのウチ誰にも必要のない人間になるぞ!!〉。そんなことはわかってんだよ、だけど、どうすればいいのかを知りたい。あくまでも来原を信じ続ける野呂から、かつてかけられた言葉が、胸中に響くとき、何を思い、何を考えるのだろう。〈これから迷った時、“どっちでも構わねえ事は流行に従えばいい”だが“大切な事はルールに従おう”そして……“燃えるべき事は自分に従おう”〉。はたして来原は、手遅れではない自分に気づき、燃えられるのだろうか。結果をいってしまえば、燃えた。その姿に僕は、エモーションによるアパシーの超克を見る。
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2005年12月11日
 いっぽん! 8 (8)

 要するに、男の子には意地があんだよって、そういうことだ。この巻の燃え具合は尋常じゃない。焦げる。ずばりハイライトである。酒高VS黒羽高、インターハイ県大会決勝、両者ともに譲らず、ついに代表戦へともつれこむ。黒羽チームの覚悟と責任を負い、選ばれたのは主将の大嶋であった。対する酒高は、負傷者の多いなか、元気いっぱいの春が立つ。剥きだしの闘志でもって大嶋に臨む春であったが、経験の重たさと殺気をまとう大嶋の強さの前に、いいところまでいくが、しかし一歩及ばない。及ばないながらも、折れない心でもって戦う。戦い続ける。いくら春のスタミナを削っても、スピードが殺されないことに、大嶋は、その力を認める。だが、限界は近づいていた。そのとき、客席からかかる声があった。〈いつからそんなヒヨった柔道するようになった!!〉。春の恩師で、かつて天才と呼ばれながらも、ながらく姿を消していた、新井である。その叱咤に背中を押されるようにして、その日最高の鋭さで背負いに入る春。会場の誰もが、決まった、と確信する。しかし。〈ヤルかヤラレルか…その単純ながら窮極の緊張と覚悟の中で 大嶋の研ぎ澄まされた集中力は春の背負いの上をいった〉。生きるか死ぬかのレベルで繰り広げられる勝負に、心が震えなかったら嘘だろう。命をベットしまくり、掛け金を上げてゆく春の無茶は、けっして褒められたものではない。たかが柔道じゃねえか。泣き所は、万策尽き、余力のなくなった春が、それでも遠くを見つめる視線でもって、かろうじて立ち上がる場面である。涙を堪えきれず、チームメイトが必死に咎める。〈何でそこまですんだよ! たかが柔道だろう!!? お前死んじゃうぞ!!!〉。でも、春はにっこりと笑って、こう答えるだろう。〈俺には柔道しかねーもんよ…〉。ここである。ここで僕は、うわーん、ってなってしまったのだった。よくわかんねえんだけどさあ、男の子にはきっと、男の子だけが使える魔法があるんじゃねえかな、と思う。そのワンダーに魅せられたら、おまえ、どんな言い訳もクソだって感じるに違いないぜ。自分だけを大事に可愛がるような、くだらねえ自意識なんて、ふっ飛ぶ。

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2005年12月09日
 香取センパイ 9 (9)

 余談から入るが、近所の本屋に行ったら平積みになっていた。微妙に認知度が上がっているのかしら。AMAZONに画像も出るようになったしな。そういえば高橋ヒロシの『クローズ』だって、最初から大人気というわけではなかった。秋好賢一の『香取センパイ』も、とうとう9巻目である。玉水高校の麻生と並び、界隈の不良たちに一目置かれる柳を倒したことにより、ついにその強さにスポットライトがあたった香取であったが、しかし、それは最強の不良決定戦に自動的に組み込まれることでもあった。そして、ついに姿を現す西京工業のトップ倍賞、その強さを目撃したガチャピンは言葉を失う。というか、倍賞つええ。伝説の拳法の使い手レベルである。未だ香取とは相まみえないけれども、たしかに街中の不良が一目置くのがわかるってなもんだ。と、ふつうならば、ここでシリアスなほうに展開がどんどん引っ張られそうなものだが、『香取センパイ』の場合、そうはならないのはさすがである。おもしろポイントは、やはり香取セッティングの合コンにおける、ガチャピンの不幸だろう。〈女は男らしい男が好きで その男らしさはヤンキーらしさだと取り違えている男〉島津の再登場が笑える。いや、笑えるのはその島津と合コン相手の女子たちに対する、香取の心遣いのなさである。なんで、この人はこんなに傍若無人なのだろうか。ここらへんの明るさは、たとえば高橋ヒロシや、その系統のヤンキー・マンガ家たちが、女子供と大人を作品世界から排除することで、逆に閉塞感を作り出してしまっているのとは、まったくもって違う手つきから生まれている。そして、そこが、いい。気になるのは、この巻で、香取は髪をずっと下ろしたままだということだ。トレード・マークである猪木スタイルではない。気が抜けているのである。とはいえ、それは麻生と、中学時代の連れである三国の激闘を目の当たりにすることで、一気に目覚める。〈何でもねーよ!!〉と吐き捨てる視線は鋭い。これまでのなかで、一番シリアスな香取センパイの姿は、ここに収められているのだった。燃えた。

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2005年12月08日
 女神の鬼 1 (1) 女神の鬼 2 (2)

 じつは10代でデビューした田中宏は、たぶん60年代後半か70年代前半の生まれで、考えようによっては、まだ若い。その彼が昭和を描くことは、ほんとうにただのノスタルジーなのだろうか。いや、そうではない。前作『莫逆家族』が、近代という枠組みが使えなくなったあとで、どうしたら新規の共同体を立ち上げられるか、といった難題のシミュレートであったように、この『女神の鬼』も、ある年代以降の人間が、現代という前人未踏の領域で、いかにしたら成人へと到達しうるのか、そのような今日的なテーマの含まれていることを予感させる。それはもちろん、現在30代の、それこそモラトリアムとの戯れに終始する人たちが、果たすことなくスルーし続ける問題を、一身に引き受けようとする姿形である。燃える家屋を背景に、主人公であるギッチョ(佐川義)は、〈ワシは……ホンマに……人間か……?……それとも…本物の…鬼・・・・!!〉と、その生き方を根本から見直すかのようにして、1979年の小学生時代に、その記憶を遡行してゆく。はたして彼にいったい何があって、何がどうなって、〈この島は『塵芥(ゴミ)の島』とも呼ばれ 削られた島の大地には都会から次々と運び込まれたゴミの山が敷き詰められていく〉、その場所へと辿り着いたのであったのだろうか。

 作者の構想がどこまで練られているのか、その意図がどこまで張られているのかは、なかなか見抜けないが、しかし、これはもしかすると、とんでもないレベルの作品なのではないか、と思う。広島を舞台にしているということもあって、「ビースト」(漢字出ません)という『BAD BOYS』で重大な役割を負った暴走族が登場したりなどしているが、たぶん『BAD BOYS』と同じ世界ではなくて、パラレル・ワールドなのだと考えられる。同じ世界だとすると、ギッチョは、『BAD BOYS』の主人公である司とほぼ同世代になるわけで、物語が進んでいけば、両者は必然的に絡まざるをえなくなるからだ。もちろん、絡んだら絡んだらで、最高におもしろい。それはともかく。田中宏のマンガの場合、主人公というのはすべて、作者の分身だといって差し支えがない。『BAD BOYS』の司は、それこそ10代の作者をリアルタイムで反映していたのだろうし、『莫逆家族』の鉄が30代なのも、同様の理由に基づいている。だから、主人公が過去の時代を生きるというのは、ある意味で、作者自身の回想となるわけだ、が、そこで重点となるのは、けっしてレトロスペクティヴな世界観に安住しようとする意思のないことである。むしろ読み手が突きつけられるのは、地域的な共同体そして近代とも呼べるものが、いったいいつどの段階で機能しなくなったのか、そういう事実である。

 物語の最中において、未だ核心的には触れられていないが、ギッチョの父親はどうやらロクでなしのようであり、その心性がギッチョに遺伝しているかいないか、というのが、ひとつのキーみたいである。だが、昭和の時代では、工学的な物の捉まえ方は、一般でも普遍でもなくて、それらは、抽象的な伝承のレベルに絡め取られていく。つまり、いうなれば、歴史あるいは大きな物語を、過去のストーリーとして語ることで、再起動させている。その再起動させられた歴史あるいは大きな物語が、いったいどの段階で崩壊するのか、それを自覚しようとする視点こそが、成長したギッチョの過去を振り返る立場だろう。興味深いのは、広島を出自とすることで、原爆の、放射能の影響が、自分の生き方に影響を与えているという思いなしが、冒頭に語られることで、もしかするとそれは作者自身の実感なのかもしれないが、とにかく戦争の記憶が巧妙に作品内部に組み込まれている点である。外人にケンカを売ったエピソードの盛り込まれた第一話目(正確には第0話目)、そのラストは、原爆ドームを映し出し、それを背景に〈ワシの夢は…ワシの王国を作るコトじゃ!!!〉というギッチョのモノローグが入る。これはあきらかに敗戦と復興のイメージをなぞらえている。

 『莫逆家族』では、近代の終焉は、高度経済成長期に、ヤクザが義理人情を切り捨ててしまった場面において、つよく示唆されている。そのことはきつく戦後と結びついていた。それを契機とした歪な社会的発展のなかで、それこそ戦争を知らない世代の人間が、30代になったとき、既存のイデオロギーを頼れない状況にあって、では代替となる新しい理念を提出できるのか、そのような試行と挫折とわずかな希望が描かれていた。それがここではもう一段階踏み込んだものへと移行している。70年代を始点に、旧式の伝統や道徳が滅んでいく最中、一個の人格がどのように形成されてゆくのかが、まるでビルドゥングス・ロマンのように、すくいとられているのであった。連載を追っていると、けっこう冗長な気がしないでもないが、こうしてコミックスで読むと、ものすごく密の濃いドラマが繰り広げられているのがわかる。次巻以降も、すごく楽しみだ。
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 このマンガがすごい!2006 ・オトコ版 このマンガがすごい!2006・オンナ版

 『このマンガがすごい!』(2006・オトコ版)と(2006・オンナ版)は、宝島社から出たムックである。とりあえず(2006・オトコ版)のほうに目をとおして、やっぱりヤンキー・マンガはスルーされるわけね、と思う。『×××××』しか読んでねえような人間が『×××××』すげえと言っていれば、そりゃあ『×××××』すげえだろ、それしか知らねえんだから、あと偏った指向の人間を、選者として、インターネットから拾ってくるのはいかがなものか。いちおうヤンキー・マンガに関するコラムみたいなものがあって、伊熊恒介という人が書いているのだが、それがひじょうに頓珍漢な内容だったのも、萎える。〈もしくは『ナニワトモアレ』(00年/南勝久)のような昔話や、『莫逆家族』(99年/田中宏)のように三十路を迎えた中年ヤンキーを描いたものである。これはヤンキー・マンガを読む層の新陳代謝が行われていないことを意味している。現在のヤンキー・マンガのターゲットは30代なのだ。このままでは衰退の一途を辿ることは間違いないだろう〉。だってさ。じゃあというわけで(2006・オンナ版)のほうを読んでみると、どれもこれも、年齢にすれば30代付近の女性が好んでそうなマンガばっかり取り上げてた。つまり、女性向けマンガも〈ターゲットは30代なのだ。このままでは衰退の一途を辿ることは間違いない〉のだろうか。謎である。要するに、いま現在であるならば、団塊ジュニアぐらいの世代が、消費人工的に多いから、結果的に、そうなってしまうわけでしょう。ひどく一般的なビジネス・モデルじゃんね。とすれば、もう日本の産業全体に未来はないのであった。で、その当事者たちがヤンキー・マンガに限らず、『ハチミツとクローバー』にしても、まだ、そういうモラトリアムの物語を欲するという事態が、それこそ問題なのではないのかな。68年生まれ(らしい)伊熊は、どう考えているのだろうか。まあ、いいや、どうでもいい。結局のところ、僕とは住む世界が違う人たちの話だ。
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2005年12月07日
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 そういえば、鬼頭莫宏のマンガにおいて、セックス(性交)をする(させられる)のは、まだ幼さの残る少女ばかりであったか。そしてそのことが、成人した人間の、そのなかにある歪な部分を相対化する。もしも純粋さというものがあるのならば、それは、そうした所作の果てで、ようやく発見される。つまり汚染をもって清潔さが確認されるわけである。しかし浄化は行われず、すべてが同一の濃度に達すると、それはまるで消えてしまったかのように見える。『殻都市の夢』は、『マンガ・エロティクスF』誌に掲載されたシリーズで、外殻都市という、際限のない建築物の建て増しによって、空間の捻れた近未来風の世界を舞台にしている。そこでは、ごく日常的に、クローンが作られ、ゾンビが発生し、治療不可能な病気があらわれたりなどしている。頽廃には、ありふれた死と壊れてしまった生が、よく似合う。それでも人々は愛にまつわる夢物語を見続ける、それだけは止めることがないみたいであった。ぜんぶで7つの短い話が収められている、が、そのすべてがラヴ・ストーリーであると解釈してしまってもいいだろう。とはいえ、ここで頭を悩ませるのは、それらを万遍なくハッピー・エンドとして受け取れない場合、では愛情が報われるというのは、いったいどのような結果を指していうのだろうか、ということである。『殻都市の夢』では、他者の記憶に留まりたいという願望よりも、他者を記憶に留めておきたいという意思こそが、登場人物に主体性を確保している。それというのは要するに、愛されるよりも愛したいということになるのだろうけれども、なぜか作中には「愛されたい」という想いに耐えきれない声が、響き渡っているように思える。また、そのことが幸福と悲しみを保留状態のまま抱き合わせる。結局のところ、不可逆ではありえない、か細い道筋に満ちる、ささやかで儚い希望を愛と呼ぶとき、その背反に湧く、けっして逃れられない脅えさえも、相応して、愛と呼ばれるのに違いない。

 『ぼくらの』3巻について→こちら
 『ぼくらの』2巻について→こちら
 『鬼頭莫宏短編集 残暑』について→こちら
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2005年12月05日
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 『コミックH』とか『コミック・キュー』とか、サブカル受けしそうなマンガを主に扱った雑誌があまり振わないのは、結局、そういった媒体がターゲットにしている層というのは、一部のサブカル受けしているマンガ家を読むことで自らをサブカル化させるためにマンガを読むからなのであり、マンガというジャンル自体に関して、それほど熱を持っているわけではないからなのだろう。たとえばmixiの、そういった人たちが主に集っていそうなコミュニティの使えなさ(情報量のすくなさ)は、顕著に、それを物語っている。とほほ、といった感じになる。まあ、どうでもいい話だ。ところで『コミックH』の最大の功績といえば、この衿沢世衣子をデビューさせたことにある、といっても過言ではない。いい作家さんである。ここに収められたものはぜんぶ、雑誌掲載時にリアル・タイムで読んでいるが、とくに印象に残っているは、よしもとよしとも原作の「ファミリー・アフェア」をのぞけば、「体が育つ」と「明日の空に」になる、と思う。両方とも、女の子を題材にした作品であるけれども、先行する女性作家たちが、屈折した女性性の、あるいは女性性の屈折した部分の、その曲線を下敷きとすることで、たぶん感情移入の領域をつくっているのに対し、衿沢の場合、もっとずっとシンプルでストレートで元気だ。もちろん、登場人物が子供であるケースが多いため、そのようになっているといえなくもないが、それだけじゃないんじゃないかな。生きることのブライト・サイドを眺める視点が、おそらく曲線の先にある未来を、あかるい像としてマンガ化しているのである。だから『おかえりピアニカ』では、全7編のうち、5編までもが、笑顔の獲得によって、物語の幕が閉じられているのではないだろうか。さて、よしもとよしとも原作の「ファミリー・アフェア」であるが、これがじつにナイスな内容なのであった。モチーフ自体は、いっこうに続きの発表される気配のない『魔法の国のルル』と通底する、病巣込みの世界をいかにして引き受けるか、といったものであるけれども、『魔法の国のルル』が、子供の物語として描かれているのに比べると、「ファミリー・アフェア」は、あくまでも家族の物語になっている。つまり、大人と子供の共存した空間が描かれているということだ。ここ数年、さまざまな表現において、どちらか一方を排除し、共感のドラマを形作る傾向が強まっていることを考えれば、そのようなつくり自体、秀逸の域に達している。それはやはり、よしもとのサポートがあり、衿沢の筆力があってこそ、成り立ったものだろう。余談であるが、カヴァーを外すと、デビュー以前の衿沢によるフリー・ペーパーを読むことができる。
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2005年12月02日
 怪より始めよ。 1 (1)

 いいないいな人間ていいな、といいつつも、ほんとうにそうなのかどうかは知らないけれど、、佐藤智一のマンガ『怪より始めよ。』は、ヒトになるために善行を重ねる二匹の妖怪の奮闘記なのであった。かつて物の怪たちは、夜の闇の世界に住んでいた。しかし科学が発達した現在では、居場所は失われ、それでも死ぬことのできない物の怪たちは、人間になることを選んだ。5つの善行を施すことによって、物の怪はヒトになれるという寸法である。市役所に勤める黒部亜紀彦は、まわりの人間から〈つくづくいい人なのねぇ〉と評されるほどに、気が小さく、几帳面で生真面目なのだが、その兄である波留彦は、反対に、ガサツかつ暴力的で、さらには助平と、まさに凸凹な性格をしている。ふたりには、誰にも言えない秘密がある。その正体こそ、人間に憧れる妖怪なのであった。ふだんはヒトの姿をしているけれども、深夜0時から日の出までは、ほんとうの姿に戻ってしまうので、現代社会では生きづらく、恋愛さえもママならない。そのため、はやく人間になりたいと善行に明け暮れる亜紀彦なのだが、何かあるたび、波留彦に足を引っ張られてしまうというわけだ。そうした努力のなかで、彼らは、良い面も悪い面も混じった人間社会の複雑さを学んでいく。そこには、単純でないがゆえに測ることのできない、命の重みがあった。と、派手さはないが、しかし、じつに佐藤智一ならではの、やわらかい視線を捨てない、コミカルな伝奇ファンタジーに仕上がっている。とくに最終話、そこはかとなくたゆたう悲しみが、涙の温度に似てあたたかい。
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2005年12月01日
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 なんだこれ! ひさびさに度肝抜かれた。想像の斜め上を行き過ぎるラストだろう。絶対に、クリップしとかなければなるまい、と思わされた。残念ながら、原作は読んだときはないので、これが本懐なのかどうかはわからないが、しかし間違いなく、近年まれにみる衝撃のクライマックスだと断言したい。『ゆび』(原作/柴田よしき・コンテ作成/吉村一八・漫画/近藤豪志)は、『週間少年チャンピオン』05年50号から06年01号に渡って、計4話掲載された短期集中連載である。アウトラインを取り出せば、以下のようになる。三倉という高校生が転落死した。宙に浮かぶ謎の指によって、突き落とされたのだ。また、三倉の友人である上村と雪奈は、同じ指を原因とする交通事故の現場を目撃してしまう。彼らは、指の存在に、不安と不審を覚える。他方、三倉の事故を調査していた刑事は、現場に残されていた指紋が、すでに亡くなった死刑囚のものであることを突き止め、戦慄する。謎は深まるばかりである。ところで三倉の通夜へ向かう途中、ふたたび上村は、指の犯行を目撃してしまう。駅の階段で、老人が目を指に突かれ、足を踏み外し、死亡したのだ。そこで犯人と間違われ、連行される少女がいた。たまたま居合わせた上村の証言が、彼女を救う。が、どうやら裕子という、その関西弁の少女は、上村の過去に関係し、さらには指の存在と関わりがあるようであった。いったい指とは何なのだ。はたして上村とはどのような繋がりがあるのか。ネタバレになるけれども、じつはここからがすごいのである。なんと、そのように張り巡らされた伏線のすべては、三倉の通夜において、すべて放棄されるのだった。突如、上村と雪奈に襲いかかってくる無数の指たち。なぜか三倉家に駆けつけた裕子であったが、即座に、指たちに体をえぐられ殺されてしまう。逃げる上村と雪奈。それから一週間後、都庁にジェット機が突っ込む、〈ゆびは公然と姿を現し――次々と人々に襲いかかり始めた――その上ありとあらゆるボタンやレバーを手当たり次第に押し始め――都市は修復不能の大混乱に陥っていた〉のであった。上村と雪奈の逃亡生活の前に広がるのは、世紀末の様相である。増殖する指の仕業で、破滅へと向かう人類たち。もはや、どこにも隠れ場はなかった。雪奈を失い、たくさんの指に体をえぐられ、今まさに死にゆこうとする上村、彼が最後に見たのは、じゃじゃーん、なんと大地に屹立する巨大な指なのであった。なんだこれ! ラスト、2ページの大ゴマを見た瞬間、ほんとうに僕は目が飛び出る思いをしたのだ。巨大な指に対して、上村は中指を立てながら〈くだらねえ〉と呟くのだけれども、いや、ごめん、それは読み手であるこっちの感想に他ならない。先にもいったが、ここ最近で、いちばんのサプライズである。とはいえ、ホラーというジャンルを考え、すこし真剣に述べれば、黒沢清の映画『回路』のオチに近しいと思うのだが、あれは、死者へとリンクする回路それ自体が、抽象的な恐怖として、全編を覆っていたのに対して、この『ゆび』の場合は、タイトルにあるとおり、そもそも指という具体的な存在が、その背後に謎の置かれることで、恐怖を拡大し、象徴するものとして機能していた。潜んだ謎は、つまり、他者の内面といっしょで、不可視だからこそ、有効なのである。だから、指それ自体が、まるで単体の生物として動きだせば、その前提は反故となる。それでは可視でき、認識可能な異者(モンスター、エイリアン)に過ぎないからだ。その点は、完全に、失敗している。だが、その失敗をここまで胸を張り、堂々とやられたら、それはそれで、文句も言えまい。ぜんぶの説得力は、指すげえ、というダイナミックな落としどころに回収されている。そのとんでもなさに愕然とし、嘲笑する気分さえも、凍りつく。たぶん単行本化されることはないと思うが、すばらしい、迷作である。
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2005年11月27日
 キャットストリート 3 (3)

 ディスコミュニケーションに基づく、引きこもりやドロップ・アウトといったネガティヴなモチーフを流用しながらも、けっして暗くヘヴィなものにならず、むしろ力強くポジティヴな物語となっているは、もちろん『キャットストリート』というマンガが、けっしてリアリティを追求したものではなくて、徹頭徹尾ファンタジー然としているからに他ならないわけだが、しかし、それ以上に作者である神尾葉子の筆力が、作品全体を正の方向へと推進させようとしている、その部分に負うところが大きい。たとえば、どこまで意識的なのか、あるいは、まったくの無意識なのかはわからないけれども、未だ挫折からは完全回復していない主人公ケイト(恵都)の姿勢の、その描かれ方である。他の登場人物たちに比べると、極力うつむきがち、猫背に見えるようになっている。つまり内面が、ごく自然に顕在化した状態で、ストーリーのなかに組み込まれており、その彼女が、希望を持ったとき、空を見上げ、背筋が伸びる、そういった矯正の役割として、対面する男性陣はみな一様に、背が高く設定されているのでは、と深読みをしたくなるほどだ。しかし、そう考えると、やはり難しいのは女同士の友情だろう。かつての友人であり、今はあまり関係の良くない園田奈子の身長は、ほぼケイトと同じであり、目線が平行であるがゆえに、自意識をダイレクトに反映する鏡となって、機能している。この第3巻のクライマックス、ふたりが正面から激突するシーンは、単純にいい場面であり燃えるが、よくよく見てみると、奈子はヒールのあるブーツを履いている、その分、ぺったんこのスニーカーであるケイトよりすこし、頭が高くなっている。ちなみに横並びでシートに腰掛けている箇所では、ふたりの座高に差はない。要するに、ケイトと奈子は、本質的にはパラレルでありながらも、そのようには表されていない。そこからは、すくなくとも3つのポイントを読み取れる。ひとつには、現状では、あくまでも奈子がケイトに先行した存在であること。もうひとつには、その奈子のプライドを、いっさい傷つけることなく、ケイトに向かって、弱音を吐ける構図が導き出されていること。そしてケイト自身が、自分の自意識と、まだ完璧に結着をつけていない、その用意が出来ていない段階にいる、と、そういうことである。そのような骨格のしっかりととれていることが、リアルというエクスキューズを必要としない、すばらしくうつくしい未来行きの説得力を、明るく、読み手の側に伝える。もちろん今後の展開をも、ひじょうに楽しみにさせるのだった。

 1巻と2巻についての文章→こちら
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2005年11月25日
 かつて『ヤングサンデー』の編集に携わり、そして元『九龍』編集長でもあった島田一志のマンガに関するレビューと、マンガ家へのインタビューをまとめたものである。『COMIC IS DEAD(コミック・イズ・デッド)』というのは、COMIC IS NOT DEADの逆説であったとして、いささか紋切り型に過ぎるけれども、中身、『九龍』誌などに掲載されたものを含めインタビュー部分は、なかなか読み応えがある。西島大介、大越孝太郎、佐々木こづえ、小玉有起、五十嵐大介の新録部分は、リアルタイムで貴重だと思うが、個人的には、浅田弘幸、田島昭宇、竹下堅次郎、長田悠幸、永福一成の再掲部分、こうした面子が一並びになると、なんとなく懐かしい気分になる。いわゆるマンガ表現におけるニュー・ウェーヴの影響を受けながら、それを消化しつつ、メインストリームからはやや外れたところで、90年代に活躍していた(もちろん今も活躍している)人たちであるからだ。そういった意味で、ロック・ミュージックでのグランジと同じようなものとして、僕の記憶にひっかっかっているのだろう。ちなみに、浅田が68年、田島が66年、竹下が74年、長田が75年、永福が65年の生まれになるのかな(どうやら島田は69年生であるようだ)。しかし、読みながらニヤニヤしてしまうのは、浅田や田島や長田に対して音楽の話題をふるあたりで、そういうところがやっぱこの人エラいなあ、と感心してしまう。小説や、その他の表現もそうであるように、もはやマンガはマンガだけで出来ているのではないのだ。そのような前提の問題である。ただし、レビュー面については、ちょっと納得のいかないところがないわけではなかった。表紙絵は浅田弘幸。

 ・関連
 『文藝別冊 田島昭宇 VS 浅田弘幸』について→こちら
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2005年11月23日
 いわゆる心に茨を持つ少年が、いかにして自覚的に正義の味方をまっとうするかといった部分が、『鉄のラインバレル』の勘所なのだけれども、いまいち、こう、釈然としない気がするのは、同コンビによる『無敵番長バクライガ』に比べると、その参照項が明らか、つまり『新世紀エヴァンゲリオン』バイアスが如実であるからなのかもしれない。そして、それは、精神と身体の相克といった、物語の本質的な部分にまで関わってしまっており、暴走するマシーンに、敵はなく、その結果として必然的に勝利してしまう、そのような因果律にプロットが規定されてしまう。とはいえ、そのことのブレイクスルーが目指されているのだとすれば、とくに批判すべき点とはならない。要するに、ぜんぶの評価は、今後の展開次第というわけだ。『魔神竜バリオン』(黒岩よしひろ)や『未来改戦Dクロゥス』(黒田洋介 / おおのじゅんじ)など、昔から今にかけて、ノー・タイアップのロボット・マンガは振わないという歴史を覆すためにも、頑張っていただきたい次第である。個人的には、もうちょいオールドスクールな肉弾戦が盛り沢山であると燃えるのだ、が、それだとすこし画面がゴチャゴチャになりすぎるかな。
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2005年11月14日
 ヤマトナデシコ七変化 14 (14)

 意外と長期の連載になっているけれども、性格が突飛な女の子に対して美少年4人という、『花より男子』的なフォーメーションのバランスがいいのか、けっしてテンション・ダウンしていないところが、すばらしく楽しいままなのであった。性格が突飛といっても、この『ヤマトナデシコ七変化』の主人公であるスナコの場合、闇と孤独を愛する根暗なゴシック・ガールなのであって、それがときおりハンサムな行動に出たりするものだから、そのへんのギャップが、いい感じに飽きないテンポの起伏を作り出している。場を盛り上げている。彼女の恋愛がどうのこうのというよりは、てんやわんやでコミカルな波乱が、停滞しない勢いに繋がっているみたいだ。というわけで、14巻目である。美少年4人組のなかで、もっとも素直な性格の雪を中心に置いたエピソードがふたつ収められているが、両方とも、友情と成長を題材とした、なかなかいい話である。あえて言葉にしないやさしさのようなものを、うまくすくい上げている気がした。しかし絵柄のためか、そういった同性同士の心の交流に、思いもよらずホモ・セクシャルな雰囲気を見て取れてしまうのが、なんか、ちょっと照れる。
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2005年11月07日
 TOKYO DRIVE 1 (1)

 『TOKYO DRIVE』というタイトルは、もちろん同作者のマンガ『TOKYO TRIBE』にかかったものであり、一部設定も重なってはいるけれども、完全な別物である。『TOKYO GRAFFITY』ともまた違う装い。で、これはといえば、ミッドナイトにジモトのファミレスでダルなタイムを過ごすナウなヤングたちの、わりと平和なお話といった感じだろう。しかし相変わらず井上三太の、じっさいに夜の街なんかで見かけたら、ウザそうに思えるタイプの人間を描くセンスは秀逸だなあ。アイロニーなのか真剣なのかは知らないけれども、啓蒙する能力をいっさい放棄した、露悪趣味全開のヤンキー・マンガになっている。まあ、それでもある程度ポップに見えるのは、イラスト的な見せ方を強く打ち出しているからに違いない。ファミレスのテーブルの上の描写に顕著なように、コマとコマの繋がりにおけるディテールは滅茶苦茶である。が、しかし、ひとコマという範囲での吸引力はたしかに感じられる。
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2005年11月02日
 ホーリーランド 11 (11)

 所詮、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ、がゆえに、誰かに期待なんてしないし、誰からも期待なんてされない、どこにも居場所などない、として、なぜ神代ユウは、ある種のスモール・サークルであるような路上にこだわるのか。このマンガ、森恒二『ホーリーランド』の本分は、ヤンキー・マンガ風バトルのなかに、「ぼくっていったいなに」的な自意識の堂々巡りを組み込んだ点にある。そのため、戦いに勝利することで承認欲が満たされる式の展開は行われない。むしろ主人公であるユウは、そうして獲得されたポジションに対してさえ、居心地の悪さを感じる。これまでの流れからみるに、物語の帰着として想定されるのは、彼が、自分を許していないのは自分だけであることに気づく、そういった場面になるのだろう気がする。さて11巻である。ここでは、ユウに内在する、ふたつの分裂した自我が、第三者からの視点によって、濃く、明瞭に提示されている。ふだんは臆病で穏やかな彼のなかには〈凶暴で好戦的で荒れ狂う怪物が〉たしかに、いる。これはもちろん「キレる」といったタームで表わせるものであると同時に、多重人格的なモチーフを捉まえているのだとすれば、じつに90年代以降に顕著な、ナイーヴ系の人物造型だといえるのであった。以前にも言及した気がするが、『軍鶏』(橋本以蔵[作] たなか亜希夫[画])において、それは暴力のサイドに統合され、結果、容赦のない格闘技マンガとしての成立を果たしたわけだ。しかし『ホーリーランド』の場合、ベクトルは、それとはべつのほうを向いている。そのことは、この11巻において、いったんは不良を卒業した人物が、ふたたび路上にカムバックするシーンから窺える。その人物は、いうなれば、モラトリアムに結着をつけるべく、街のルールに則っての格闘を望むのである。つまり路上とは、非決定の場なのであり、その磁場は、神代ユウという主人公が先送りにし続ける終着とパラレルなのである。ヤンキーという在り方も、「ぼくっていったいなに」という問いも、すべてモラトリアムの過程にしかありえない。だが、それがルーチン化されることは退屈以外の何ものでもない。ギリギリのラインで、その一歩手前に踏み止まっているところに、『ホーリーランド』のおもしろさはあるのだが、ぼちぼちそれも限界が見えてきたような感じがする。そろそろクライマックスに踏み込んでしまってもいい頃合いだ。

 10巻についての文章→こちら
  9巻についての文章→こちら
  8巻についての文章→こちら
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2005年10月31日
 SWWEET 1 (1)

 かつて舞城王太郎の「ピコーン!」をコミカライズした青山景の、初連載作品にあたるのが、本作『SWEEET-スウィート-』である。遠山さくらと幼馴染みであったススムとツトムの双子の兄弟であったが、10歳のとき、弟のツトムは謎の失踪を遂げる。しかし中学にあがった頃のことである。ふたたびツトムは姿を現した、ススムが鏡の前に立ったときだけ、彼に向かって話しかけてくるのだ。一方、さくらの学校生活は惨憺たるものであった。クラスメイトの女生徒たちから、ひどいイジメに遭っていた。それを助けたいと思いながらも、ススムは自分の臆病さの前に足がすくんでしまう。それを見つめるツトムは、まるでススムの弱さを見透かしているみたいだった。と、この1巻目を読む限り、詰まらないかおもしろいかと問われれば、いいんじゃないと答えるのだけれども、いや、でも、これ、どっか舞城王太郎バイアスがかかってないか、そのような疑問を呈したくもなる。異次元に渡ったツトム少年って、要は、ツトム・ボーイ(『好き好き大好き超愛してる。』)じゃねえのかしら、わ、自称探偵っぽい人出ちゃった、などと。前半はそれほど感じなかったのだが、ストーリーが進行するにつれ、どうもそういう風に思えてしまうのは困ったものである。というのも、濃度と密度と構成においては、舞城の小説ほどには達していないからにほかならない。また、暴力と内省の描写については、90年代以降のサブカル系マンガ家にありがちな、黒ベタどばーんの象徴的な語りがじゃじゃーんといったふうであり、そのへんも類型を逸しえていない。のだが、少年の視点から少女の表情をアップで捉まえた場面には、すこしのワンダーが宿っている。そこにだけ、飽いた向きのある閉塞感を、一気にぶち抜く力がある。今後の展開で、それをどのように使っていくのかは、ちょっと気になるところではある。
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 メメント・モリ―生と死の交差点に愛があった

 「生と死の交差点に愛があった」という、うひゃあ、な副題の示すとおり、この『漫画アクション』に掲載された8編は、亡くなった側と残された側の悲しくもあたたかい繋がりを描いたシリーズである。まあ、喪失と再生にまつわるステレオタイプなストーリーの集まりといってしまえば、言うべきことはとくにない。たとえば、第1話「大事な約束」は、会社から左遷の命が下され、やさぐれてしまった主人公のもとに、突然、かつて妹のような存在として扱っていた幼馴染みが現れる、じつは死期の迫っている彼女は、それを黙り、主人公を立ち直らせようと、明るく振る舞い、彼の身の回りの世話をするのであった、という具合で、あーはいはいあれね、ってなところである。だが、そういった性善説的な泣ける物語のパターンが、一冊のなかに、ここまで出揃っていると、さすがに心に触れてくるものがある。そこらへん、逆さまに、矢島正雄とはやせ淳らベテランの、底意地の悪さを感じる。生きることの大変さが特権的には語られず、あえて類型的に取り扱われているのかなあ、と。さすがに泣きはしないが、しんみりとした。それが年を食うということなのかもしれないけれど、ま、偶には、こういうのアリか、と思えるときがある。
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2005年10月29日
 だからさあ、自分のやったことに対して間抜けな言い訳するぐらいなら、最初から社会の一員みたいな顔をすんなよ、ってことだ。真鍋昌平『闇金ウシジマくん』第3巻、「ヤンキーくん」編結着の段である。無職ヤンキーの愛沢は、闇金融を経営する丑嶋社長を出し抜いて、その利益を奪取しようとするが、しかし〈いつも行き当たりバッタリで来た〉愛沢と、〈裏稼業の人間は、だれも守っちゃくれねェ…すべて、自己責任だ〉とする丑嶋とでは、そもそも覚悟の量が違った。わずか3秒で12万5千円が塵になっていく、スリル溢れる展開のなか、拘束された元ヤンキー社員マサルの覚悟が試される。〈俺にはよく分かるぜ。お前らは弱い。か弱い。罪悪感に押し潰されていたんだろう?〉。前巻では、へっぴり腰であった、この、マサルの覚醒が肝である。狩られる側から狩る側への変貌が遂げられている。〈オレは捕まってもかまわない。俺は、もう裏で生きてくしかねェ〉。ゼロの地点から再生し、そこから生きていくために、自分を見殺しにした人間への復讐のため、リスクまでをもぜんぶ背負い込むことが、決定される。ここでマサルと愛沢、ふたりの明暗が分けられる。とはいえ、行く先はどちらも地獄である。堕ちていくことに変わりはなかった。だが、どうだろう、生かされる不自由よりも、生きる自由に価値があるのならば、もちろん勝ったのはマサルだということになるわけだ。いやしかしながら、丑嶋の業の深さは異常である、救いがない、けれども、その救いのなさを含めて生きるといった覚悟まで、しっかりと出来てそうなあたりが、やっぱね、ちょっと、僕はまだそこのところに感情移入するほど踏み込めていない人間ではあるけれども、そのかわり、ある種の敬意は払える、かな。
 
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2005年10月28日
 ホットギミック 12 (12)

 あっは。ちょっとこれは、ひさびさに、あんまりだあ、って思った。相原実貴『ホットギミック』の最終巻である。だいいち、全12巻の物語をとおして、ヒロインというか主人公が、いっさい成長しないのである。周囲の人物たちが、ある程度よく出来た人間なので、そのことを如実に感じる。まあ、それでも空っぽの頭に夢や愛を詰め込んでいるのであれば、ちゃらへっちゃらというところなのだけれども、誰と最初のセックス(性交)をするかしか考えていないのだから、父ちゃん情けなくて涙出てくらあ、となってしまう。主体性のない少女の像がリアリティだというのだとしたら、ああそうね、という感じではあるが、ここまでのバカでも生きていけるぐらいには、この国はまだまだ豊かだっていうんなら、やっぱり、いっぺん世界は終わったほうがいいのかもしれない。団地内幼馴染みラヴ・コメディという設定の生きた、最初の数巻はおもしろかった。
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2005年10月27日
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 高校時代は、とくに恋愛面において、ぱっとしなかった女の子が、卒業してフリーターになったのを機に、それまでの自分を反省する、といった基本部分だけを取り出せば、まあアリガチではあるけれども、そこはそれ、いくえみ綾である、話の筋は単純に、LOVEって素敵みたいなところに転んでいかない。主人公である白河つぼみは、18歳と9ヶ月、ながらく女子校生活でリラックスしていたために、体型はぽっちゃりと、気持ちはぼやーっとしている。また男性に不慣れなため、働き出したアルバイト先では、どうも妙に緊張してしまう。そんな彼女であったが、あるとき、自分の従妹がCMで活躍するほどの人気モデルであることを知ると、なにか危機感のようなものを感じはじめるのだった。その従妹がストーリーに介入してくる気配は、今のところまったくないけれども、タイトルである『カズン cousin』というのは、おそらく、そこからやってきている。いや、しかし相変わらず、いくえみ綾は、だらしのない人間を描くのが巧いなあ。いうなれば、主体性のない人々の描写に長けているということなのだけれども、ここでは、それが嫌味にならず、かといって甘ったれた雰囲気以上のものを演出できているところに、その才能の冴えた部分があてられているに違いない、と思う。

 『かの人や月』第2巻についての文章→こちら
 『潔く柔く』第1巻についての文章→こちら
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 アフター・モラトリアムを意識したうえで、いかにしてその世界観を成り立たせるか、それこそが今日のヤンキー・マンガにおける、もっとも大きな課題である。というのは、繰り返し何度も言ってきたことであるが、やっぱり山本隆一郎『GOLD』がひとつのロール・モデルかなあ。コメディではなくて、シリアスな路線を追求するのであれば、この作品を踏まえていかないと、駄目な気がする。それぐらい良く出来ている。

 いよいよクライマックスが間近だからなのだろう、13巻と14巻の2冊が同時刊行となったわけであるけれども、いやあ、読み足りない。なんておもしろいんだ。燃える。

 正直なことをいえば、スバルとコータ、スーという、物語当初において中軸であった3者の友情が、いったん決裂した際、また内容の進行が複雑になっていくにつれ、ちょっとちょっと焦点がブレてきたんじゃない? これ、どうやって収束させるのだろう? と、疑問形な心持ちがすこし前まではあり、やや盛り下がり気味であったのだが、しかし、なるほど、作者がどこまで先の展開を用意していたのかはわからないけれども、四方八方に伸び、こんがらがった糸の数々が、ここにきてようやく一本の線として交わった。スバル、コータ、スー、3人の繋がり、つまり友情の深さが再確認される13巻のラストは、かなりの泣き所である。登場人物の台詞を借りれば、〈いや、おれがオッサンやから そう感じるのかな おまえら今 ピッカピカに眩しく光ってるぜ〉といった具合で、まさにGOLDというタイトルの示すべき意味が、明瞭となっている。

 振り返れば、3人を分け隔てた要因というのは、卒業後の進路、将来の夢に関わる問題であった。13巻で、これまで先々のことなど考えず、つねに「いまここ」だけを重視して突っ張ってきたスバルは、プロの格闘家になる旨の発言を行う。この決断は、3人のなかでもっとも遅い、遅れたものである。一方、いち早く未来を見据え踏み切りだしたのはスーであった。彼は物語の、最初のほうで、すでにミュージシャンを目指すことを宣言している。ここで重要なのは、そうした2人の間で、家庭の事情によって「いまここ」にもいられず、かといって「ここではないどこか」さえ見えなかったコータが、結果として、高校をドロップ・アウトし、ヤクザになってしまったことである。

 格闘家、ミュージシャン、ヤクザというのはどれも、いうなれば、ヤンキー・マンガ表現における、卒業後の進路の定番である。しかし前2者の職種においては、一流になるためには才能と、そして大量のディシプリンが必要とされるのに対して、ヤクザの場合、どうもそういったイメージは沸かない。いや、ヤクザになったコータは、上に立つ人間から、ケンカの強さと非人情の精神を要求されるわけだが、これを、前者を才能、後者をディシプリンと捉え直したとして、突き詰めれば、アウトサイドでしか生きられなくなってしまう。すると、それを幸福と呼べるかどうかの疑問が浮上する、あるいは残る。

 そこで一枚絡んでくるのが、スバルにとって重要な位置な、実の兄でもある十雲の存在なのだ。十雲は、その不幸な生い立ちゆえに、ヤクザとして権力の頂点を目指す。〈金さえあれば叶わない夢なんてないんや 権力があればなんだって手に入るんやぜ〉と、彼はいう。幼い頃、スバルに語った希望の輝きを、類いまれな知性と殺伐とした暴力という形で、その掌中に収めようとするのである。彼を動かすのは、ただただ弟であるスバルへの掛け値のない愛情なのであって、このへんが悲しい。そうして彼が小高い丘から見下ろす街の光、それもまたGOLDというタイトルにかかったものであるのだろう。しかし、そのような世界をサヴァイブすることは、結局のところ、彼の孤独をより深めるだけなのであった。

 たとえば田中宏は『莫逆家族』の最終巻で、金や権力よりも正義や仁義などを重んじる、そういう近代的なヤクザの終焉を描いている。同様に、この『GOLD』において、十雲が生きるのも、ほんとうの意味で仁義のない、利権をめぐる欲望の構造でしかない裏社会である。十雲は人を裏切ることに罪を覚えないが、それは因果律に基づいて、彼へと跳ね返ってくる。これまで順風満帆であった十雲のサクセス・ストーリーは、13巻と14巻で転覆する、窮地に立たされる。死神が彼を誘う。

 ここでもうひとつ重大なポイントを指摘しておかなければならない。十雲によって組織されたティーンエイジ・マフィア「ロットン・アップルズ」の存在である。「ロットン・アップルズ」は十雲を除き、すべて外国人によって構成されている。その人種は様々である。メンバーのひとりがいうように、彼らは〈世の中ってのはとことん不平等につくられている…! だから おれらの様なならず者を集め マフィアの多国籍軍をつくる… そして力でこの日本を乗っ取る… あんたの そんな野望を聞いた時 正直 胸が躍ったよ〉という十雲が説いた夢のために、尽力する。

 だが、けっして一枚岩ではなかった。亀裂が入る。十雲への叛逆が計画される。14巻で繰り広げられるのは、仲間同士の熾烈な殺し合いであった。それを企てたのは、イグナシオという、やはり「ロットン・アップルズ」のメンバーである。彼には、十雲殺しを果たすことで、大規模なヤクザ組織から、その地位への入れ替わりが約束されている。要するに、自分の欲望のために、十雲を切り捨てるのである。ここで興味深いのは、先にもいったように、「ロットン・アップルズ」が、もともとは十雲の夢を実現するために結成されたという事実に他ならない。イグナシオのように十雲に反旗を翻すメンバーがいる一方で、あくまでも十雲に忠実であり続けるメンバーたちがいる。彼らと十雲を繋ぎ止めるのは、敬意に近しい信頼、仲間意識である。要するに、そこでは、金や権力以外の、それこそ仁義に相応する、旧式のヤクザ的な理念が働いているというわけだ。それを実践しているのが、日本人ではなくて、外国人の集まりであるというのが、物語の層をいっそう厚くしている。ちなみにイグナシオは、ハーフであり、半分は日本人である、そのあたりの設定が、いかに現代の日本人が倫理を持ちえていないかという、アイロニーのようにも思える。

 と、長くなったが、『GOLD』というマンガの結着がいかにしてつけられるかといえば、スバルと十雲のタイマンでしかありえないことは、おそらく、すべての読者の予想するところであるけれども、そこまで先読みしても、今後の展開に期待してしまうクオリティが未だ維持されていることに、驚く。絶対に、最後の最後には、最大級の熱い漢(おとこ)泣きが待っている。だって、この時点からしてすでに、涙腺が緩みっぱなしで、視野が曇って前のよく見えない感じなのだ、僕は。

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2005年10月26日
 CRAZY FOR YOU 6 (6)

 誰だってすこしぐらいは心のなかでSOSを発している。として、でも、それがどこにも届いてないなあ、と感じるとき、自分は見捨てられている、絶対に救われえないんだ、と思ったりもするんだろうか。いや、ちょっと待って、違うよ、という。君の声はちいさすぎるんだ、あるいは、余計なノイズがあちこちで邪魔している。そのせいで、いつも、ひん曲がって、よじれて聞こえる。この距離は遠すぎるのかもしれない。だから、もうちょっと、近づく必要があるのかもしれなかった。と、若々しくも切ない片想いと友情を描いた椎名軽穂『CRAZY FOR YOU』、これにて完結である。すれ違うぐらいなら、交わらないほうがマシだ、といわんばかりの前巻からの続きで、この巻は、わりと暗めなトーンでもって幕を開ける。ユキは、登場したばかりの頃のように、心を閉ざし、やさぐれている。その悲しみに幸が気づく場面、いいシーンである。泣ける。泣けてきて困るのであった。作中で幸が回想するとおり、ここでは、前半のクライマックスがもう一度やり直されている。しかもユキと幸は、そのときとは、立場をちょうど正反対に違えている。かつては幼すぎて、想いのうまく伝えられなかった幸が、まっすぐな声を響かせる、だが、それに答えることができないほどに、ユキはもう恋愛に期待を持てず、その自己嫌悪はひどく、深い。〈さっちゃん、おれは朱美を信じてたわけじゃない〉〈信じたかっただけだ……〉。自分が他の何ものでもなく、ただ自分であることのつらさを知る幸は、だからこそ、これでお終いなのだとわかる、最後にちゃんと笑う、いつかユキも笑えるようになれるって願って信じて、そのことに胸が痛くなる。ビター・スウィートハート。しかし、すべての素敵な物語は、ハッピー・エンドにならなければならないのである。というわけで、ユキの親友である雄平と赤星が、やっぱりいいなあ。良いところを持っていく。個人的な好みをいえば、僕などは赤星くんをチョイスしたいし、プッシュするね、いや、むしろ彼と付き合いたい勢いだ。ガッツあふれる王子さまだろう。とにかく、である。いろいろな確執がクリアーになっていきながら、ラストに向かう道筋が、とてもとても鮮やかで、なんか、こう、じーんときた。人はなんのために生まれてきたのかと問われれば、恋をするために生まれてきたのだよ、と力強く断言したい今の気分だ。

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2005年10月24日
 もやしもん 2 (2)

 「菌」類が肉眼で見えてしまう、そんな不思議な力を持つ沢木の、農大ライフ『もやしもん』の2巻である。ここにはわりと長めの春祭=学際エピソードが収められているのだけれども、正直なところ『イブニング』掲載時には、行事のルールが(僕の頭の悪さのせいなのですが)よく把握できず、うまくノレなかったのだが、こうしてまとめて読むと、あーなるほどなるほど、なかなか凝った趣向となっていて、とてもとてもおもしろい、と感心したのであった。石川雅之といえば、いっけん軽く見えながらも、そのじつブラックな風味が効いているというのが、僕の見え方である。そういった部分に関しては、前巻の裏がありそうな教授の行動などに、色濃く表れていたような気がするが、この巻では、増えた登場人物たちの分だけ、てんやわんやと賑やかになっており、ふつうにモラトリアム劇として、じゅうぶん楽しい。どこかでニアミスしてそうな青春のヒトコマが繰り広げられているのであった。男の子たちはみんな駄目駄目で、女の子たちはみんな男前な媚薬のエピソードとか、すごく馬鹿げていて、ふふふ、と笑う。ほんとうの意味で細部に宿る「菌」のかわいい造型も、いいね、といった具合である。
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2005年10月20日
 Honey Bitter 3 (3)

 人の心が読めてしまう特殊な能力を持つ主人公、珠里は、それを活かす場として叔母の調査室で働いている。そこには同僚として、かつて付き合っていた吏己がいるのであったが、前向きに生きようとする珠里は、彼に対して、以前ほどの戸惑いは感じなくなっている。それは成長であると同時に、アルバイトとして一緒に働く陽太の、その明るさに感化されたせいであるのかもしれない。と、小花美穂『Honey Bitter』の3巻である。小花のマンガからは、ある種の傾向を、見て取れる。それは、いかにしてトラウマと和解するか、といったものである。和解というのは、過去に受けた心の傷を回復する、というシンプルな乗り越えの体ではなくて、どうやって折り合いをつけるか、という感じになるかもしれない。おそらく代表作になるのだろう『こどものおもちゃ』の紗南と羽山の振る舞いは、まさにそうしたものであるように思えるし、あるいは近作でいえば、『あるようでない男』における、あの回復しないインポテンツもまた同様の成り立ちをしている。『Honey Bitter』の場合、珠里の損なわれた内面は、性的に乱暴に扱われたことを原因とする、男性嫌悪というカタチで現れている。前巻からのエピソードの流れでもって、この巻では、珠里と陽太の間の距離が、ぐっと近くなるのだけれども、しかし、やはり珠里は、陽太の想いをうまく受け入れられない。なぜならば、男女が付き合えば、その先にはどうしてもセックス(性交)が、想定されてしまうからだ。〈全開の愛情で 全力で欲望をおさえている〉陽太のやさしさに、心を開きつつあった珠里であったが、〈やっぱりダメだ 体触られるのはいやだ 怖い 血の気が引いた〉として、最終的には、彼を拒んでしまう。このあたりのヤキモキ感が、もろもろ関わる犯罪事件よりも、つよく物語を引っ張っている。作者の体調不良のため、現在は掲載誌での展開は不定期であるということだが、それが気にならないほどに濃密な内容になっていると思う。いっけん軽いタッチに見受けられるけれども、そこらへんの上辺シリアスな表現よりも、ぜんぜん上等なことをやっている。
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2005年10月19日
 でっかい箱が届いて、持ってみれば、うひゃあ重てえ、というのが、第一印象だった。この重いというのは、もちろん単純に、物理的な意味合いにおいて、である。とはいえ、「アフタヌーン四季賞」87年から00年までの受賞作を収めたメインのコンテンツに関しては、文庫サイズ程度の大きさなので、読みにくさというのは、とくに感じなかった。現在第一線で活躍する、あるいは一時代を築きつつある作家の、デビュー作に近しいマンガがまとめて読めるわけだが、半分ぐらいは、以前に目を通したことがあった。まあ、こういうのは記念品みたいなものだからねえ。僕が『アフタヌーン』を定期的に読み出したのは、『寄生獣』がはじまったあたりだから、ちょうど1990年ということになるのだろう。しかし、この『アフタヌーン四季賞CHRONICLE』に収められた作品の数々を、ひとつ、時代の流れを反映したものとしてみてみれば、80年代から91年ぐらいまでは、いわゆるニュー・ウェーヴ系の作家に影響されたものが多い、だが92年になると、殺伐としたテイストのものが増えてくる。それが払拭され出すのは、ようやく98年になってからである。これは、多少の誤差を含みながら、ロック・ミュージックの歴史とシンクロしている。そういった意味合いもあって、僕個人としてジャストな作風というか、つよい感情移入を催すのは、やっぱり95年の遠藤浩輝や鬼頭莫宏あたりになるのであった。アパシーな色合いが濃いなあ。ちなみに松本大洋、王欣太、冬目景が、収録を拒むかわりに、インタビューに答えているのだけれども、彼らの初期の作品はたしかに欠点が多いし、参照項の影響が出すぎているので、むしろこうした自己言及的な発言のほうが、のちのち資料価値が高く役立つかもしれない、などと思ったりもした。

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2005年10月17日
 HAPPY DAYS ビターチョコレイト

 『ロマンチストベイビー』がよかったので、山口いづみの既刊2冊も手に入れてしまったのだった。読んでみると、やはり、この人の作風はけっこう好みかもしれない。そういえば、『ビターチョコレイト』に収められた「little」は、雑誌掲載時に読んだことがあった。いや、女性向けのマンガ雑誌は基本的に購入しないタイプなのだけれど、たまたま、ね。さて。比較的に古いものを集めて出来ている『HAPPY DAYS』に関しては、どれも習作といったレベルで、死別した恋人を扱ったものが2編ほど含まれているなど、わりとステレオタイプな話し運びのものが多いが、しかし、それでも切なさの指数は高めで、いいんじゃないかな、と思う。亡くなった姉の恋人に、密かに想いを寄せる少女を描いた「願っても。」(H15年)にしても、安直なハッピー・エンドに落としていないところが、ひじょうに好ましい。わだかまりが、消えずに、残る、そういったポイントに現れるエモーションを、うまく捉まえている。そういった手腕は、幼馴染みと友人との間で、思わず揺れる恋心を扱った「この恋のカタチ。」(H13年)の頃からすでに生きているので、この作家の本質的な部分に関わるものなのだろう。『HAPPY DAYS』に対して、大きな事件が起るわけでもない、恋愛の機微たる出来事を、特徴的に示しているのが『ビターチョコレイト』のほうである。ここらへんにくると、初期の頃はかなり不安定だった画力も、かなり上達してきている。加えてモノローグ、つまり内面の示し方も、なかなか効果的に機能している。登場人物のルックスはチャラく、たしかにストーリー自体も深みはないのだが、しかし、ピュアだね、ピュア、ピュアでよろしい。こう、真っ直ぐに生きてゆく、そのことの姿形が、まばゆいぐらい、びしっと決まっている。

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2005年10月16日
 溺れるナイフ 2 (2)

  少年と少女は束縛されている。何に? 少年と少女は、自分たちが、少年と少女であることに、束縛されているのを、知らない。あるいは、知りながらも、そこから解放される術のほうを知らず、だから彼や彼女は、少年と少女であることから、逃れられない、止まっているかのようであった。ジョージ朝倉『溺れるナイフ』において、若さは、輝かしい可能性を代替せず、むしろ反対に、可能性を剥奪された状態を示している。だから少年と少女は苛立ちを隠さない。だが、しかし、それというのは、じつは、ものすごくオーソドックスな少女マンガの作法なのである。また、登場人物のひとりが血筋による呪いに囚われている、というのも伝統的なヒーローの像だろう。それでも、古くさい、ダサくなるポイントのギリギリ一歩手前に踏み止まっているあたりに、作者の手腕が発揮されているといえる。第2巻である。クラスメイトのコウに惹かれながらも、その圧倒的な存在感の前では、自分の無力さを思い知らされてしまう夏芽は、少女モデルの仕事を再開しようか、と思う。仕事の現場、一流の才能を持つカメラマンが、彼女を見初めて、こう評する。〈なんだろうね 自分の力を信じているんだけどどうしていいかわからない〉〈居場所がない子というか……そーゆうバランスの悪さが撮りたいなぁって〉。その言葉は、おそらく、夏目の本質を言い当てている。と同時に、近くて遠い、遠くて近い、手が届きそうで届かない、夏芽とコウの、ふたりの関係をも切り出している。少年と少女は、果てなく走れるだけの力を持て余しながらも、どこにも行くアテなどないので、「ここ」に踏み止まっている。「ここ」で無邪気にはしゃぎ回れた小学生の季節は終わる。フリーズ。しかし、中学に進学することで訪れた状況の変化は、新たな局面を少女の、その心にもたらすのであった。とはいえ、彼女と彼とを結ぶ線がまだ、歪で、綺麗に整えられないのは、少年の側の気持ちが、こちら読み手からは、透視できない位置にあるからに他ならない。その見えないことが、物語を動かしてゆく。ラストの1ページで、唐突な波乱が暗示されて、次の巻へと、続く。ときおり無軌道になりがちな作者が、どこまで今後の展開を予定しているのかはわからないけれども、今のところ叙情と情緒は端正に仕立て上げられており、わりとスローに流れる時間のなかに退屈さは見受けられない。こういったあたりも、じつに少女マンガ的であり、そのことが内容の充実を促している。

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2005年10月15日
 回転銀河 4 (4)

 意地悪な双子のうちのひとりがなぜ改心したのか、その過程を描いたエピソードを冒頭に持ってきたこの巻は、海野つなみがコメントで述べているように、番外編要素の強い一冊となっている。というのも、本来の背景である共学校の外側が多く舞台となっているため、登場人物たちがニアミスする場面がすくないからだろう。けれども、秘めた、秘めざるをえない想いがどんどんと膨張し、伝染し、スイッチしていく様子は、じつに『回転銀河』的なのであった。個人的にもっとも注視したいのは、血の繋がっていない父娘が男と女として向かい合ったときの混沌を捉まえた、最終話『クェーサー』である。ふたたび作者のコメントを引いてしまうが、海野はこれを、〈お互い好意を持ったまま静香に2人で暮らす、といった、普通に優しいハッピー・エンドにはしたくはなかった〉といっている、そうしてしまえば、やはり近親相姦をモチーフにした樫本姉弟のエピソードと同じ結末になってしまうからなのだ、と。しかし、じっさいに血の繋がっている樫本姉弟の場合と、ほんらいは血縁関係にない『クェーサー』の場合とでは状況が違うのではないか、と思う。だが、じつはそのような問いには、血の繋がりよりも強い絆がある、といった観点が抜けている。逆をいえば、そうした感覚を持ちえていることに、海野の、『回転銀河』という表現の、強度が現れているのだ。ここ数年、もしかすると「萌え」などといったのもその一端であるのかもしれないが、近親相姦的なタブーを表現すること、それが表現されることに対しての戸惑いが、やや薄れてきているような気がする。いや、タブーはタブーとして在るのだけれども、それはもともと触れることを忌避するからこそタブーなのであって、触れることを前提としたタブーは、すでにその有効性を欠いているといえる。それは、おそらく近代的な枠組みにおける倫理の失効と、通底している。今日を生きる我々は前時代の規範をアテにできない、前人未踏のポイントにまでやって来ている。として、そうした、ある意味では壊れた場所から立ち上がる、寄る辺なき、だが、その分だけ自律した、イノセントな恋愛模様が、ここに映えている。
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2005年10月12日
 ロマンチストベイビー

 山口いづみという、この作者のことを知らなかった僕は、『ロマンチストベイビー』というその題名を本屋で見かけ、どうも気になる感じではあったのだが、いかんせんその表紙の絵が歪み調子だったので、なかなか手にする気が起らなかったのだけれども、じっさいに読んでみると、いや、切なさの指数がひじょうに高めで、うわーん、ってなった。感心した。作風としては、ジョージ朝倉あたりに近いかもしれない。ぜんぶで5編収められているが、とくにブリリアントであったのは「僕らは同じ空の下」というエピソードである。主人公である廣瀬は、以前付き合っていた年上の女性にひどく傷つけられたことをきっかけに、恋愛に期待することをやめてしまった。〈恋愛なんて相手に気に入られよーとがんばってる時点で終わりなんだよ くだらねえ〉。どれだけ必死になったって、人は裏切られるときには裏切られるのである。そんな彼であったけれども、たまたま転校生の清水が花壇に向かって話しかけるのに遭遇して以来、〈変な女〉と思いながらも、彼女のことが気になって仕方がない。しかし清水は、女癖が悪いと噂されるクラスメイトの松谷と付き合いはじめてしまったのだった。ここにはひとつ、「ほんとうのじぶん」という、この時代には深刻な問題があって、それを作者は、ファンタジックな恋愛ものとして、うまくエンターテイメント化している。廣瀬は、松谷にいいように扱われている清水を見て、かつて報われなかった自分の想いを重ねる。〈清水は 清水なりに いい所はあるよ 花が好きで 素直で 一途で ただちょっとがんばり過ぎただけで そのままでも好きになってくれる奴はいるよ〉。相手に合わせようとしたり、がんばったりすることは、けっして無駄じゃない。ただ想いが届かなかったとして、寂しすぎるあまり、あのとき「ほんとうのじぶん」なんてどこにもいなかったと言いたくなることもある。でも、それは本当じゃない。「ほんとうのじぶん」が愛されなかったわけでも、損なわれたわけでもない。ただ痛がる感情のせいで、見えなくなるものがあるだけのことで、だいじょうぶ、いつかはちゃんと視界は晴れ渡ってくれる。だって、そうだろう、いつだって君は「ほんとうのじぶん」であるのだから。そのような前向きのメッセージとして物語は動いているみたいだ。淡々として穏やかな日常に帰結する、流れるようなラスト数ページが、ひどく胸に沁みる。
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2005年10月11日
 プリキュウ

 元プリマが弓道をするから『プリキュウ』である。葛木安奈は、かつて天才と呼ばれるほどのバレエ・ダンサーであった。が、膝の故障のせいで、その道を断念してしまう。苦しい練習の積み重ねにより、せっかく大勢に認められるようになっただけに、挫折感は大きなものであった。そんな彼女であったが、高校に入学した際、友人に誘われて、弓道部に入ることになる。しかし弓道部の部長として安奈を待っていたのは、昔から彼女と相性の良くない、ケンカばかりしていた、幼なじみの陣内健であった。再会して早々、ふたりは激しく衝突しあうのだった。と、まあだからつまり、そのふたりが、すったもんだの末に、くっつくかくっつかないか、というのが話の主軸である。そこいらへんは、少女マンガとしては定型で、とりたてて特筆すべき点はないけれども、他方、安奈が持ち前のガッツで挫折感を乗り越えていく過程には、すこし、燃えるものがある。ハードに訓練をこなすばかりに、手の平が痛々しく傷ついた安奈に向かい、部のハンサムさんが〈もういいよ あんなにがんばったんだから〉と、やさしく声をかける。その彼よりも、頑張っていることに対して〈途中でもういいよ〉とは絶対に言わず、ぶっきらぼうにテーピングをする陣内の、隠れたやさしさに気づくくだりは、とてもとてもいいシーンである。また、極端なキャラクター付けをされている登場人物たちの造型も、たのしい。〈俺の拳の下では常に男女平等なんだよ〉という陣内のセリフは、いや、名言だろう。切なさの指数は低く、恋愛のモードに入ると、ややだれるが、コメディとしては、なかなかの内容に仕上がっている。
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2005年10月10日
 いっぽん! 7 (7)

 世界を目指しているので通称「世界」こと菅原と、主人公春の試合がメインの巻である。もちろん、彼らふたりの激闘も熱いのだが、しかし、もっとも燃えるのは、五十嵐と大嶋の大将戦なのであった。試合に関しては、あっという間に決着がつくのだけれども、その「あ」という間には、ひじょうに濃密な、漢(おとこ)の魂のぶつかりあいが含まれている。そいつが僕の胸を焦がす。左腕に爆弾を抱えながらも勝利のため〈もしそれで腕が壊れても後悔はしない〉という態度で試合に臨む五十嵐、だが迎え撃つ大嶋は、いっさい容赦しない、非情なほどに五十嵐の左腕を攻める。それを卑怯だと思うか、いや、大嶋が所属する黒羽高監督がいう、〈大嶋は正しいよ〉〈相手だって怪我をおして出てるって事はそれ相応の覚悟があるはずだ〉〈それに対してこっちも壊すくらいの覚悟を持たないと失礼だろ〉〈どんな相手だろーと自分の力を全力でぶつける〉〈俺はそれが本当のフェアプレーだと思うぞ〉。こうした言葉は、じつは先の戦いで、黒羽高の副将が、相手の怪我を攻めきれなかった、そのせいで試合を引き分けてしまった事実をも、反証のように、射抜いている。そうして試合は大嶋の圧倒的な有利で進む。しかし五十嵐は、諦めない、自分の力を出し切るまでは、けっして屈しない。その闘志に大嶋は驚きの顔をみせる。そのとき、一瞬生まれた隙を狙う五十嵐であったが、それは大嶋の仕掛けた罠なのだった。策を弄した大嶋はいう、〈たとえ腕折っても肝心なところが折れそーもねーんでな〉。ここでいう〈肝心なところ〉とは、まちがいなく、心や魂、意地あるいはガッツなどと呼ぶに値するものだろう。戦いの幕引きはあっけなく訪れる。だが、次の巻において、それを上回る壮絶な死闘が繰り広げられることを、僕は知っている。

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2005年10月09日
 ナンバMG5 1 (1)

 現在連載されているもののなかで、もっともおもしろいヤンキー・マンガは、もちろん秋好賢一『香取センパイ』なのであるが、小沢としお『ナンバMG5』はもしかするとそれを抜くかもしれないねえ、といった感じなのであった。僕がそれらの作品を高く評価するのは、つまり、かっこうよさを求めた結果ヤンキーになってしまう、といった因果律がはっきりとしているからである。たとえば高橋ヒロシ『WORST』を見てみれば、思春期におけるネガティヴさの反映として、不良が存在しているように思う。月島花の明るさは、我妻涼(『QP』)の暗さに対する反動でしかない。そういった表現は、たしかにある種の切実さとリアリティを宿している、が、しかし、90年代以降の閉塞感を乗り越えられないのではないか。田中宏『莫逆家族』からは、虐げられた末にドロップ・アウトしてしまった人間が成人しても大人になれない、という息苦しさを感じとることができる。というわけで、『ナンバMG5』である。このマンガは、筋金入りのヤンキー一家、そこの次男が、高校入学を期に、爽やかで平和な青春を夢見る、という高校デビュー系の逆のセンを狙っている。主人公は、すっかりとヤンキー的なセンスに毒されているため、ふつうの高校生から見れば「ださい」ことを「かっこいい」ことと、とり違えている。つまり、主人公にすれば、世間一般における「イケてる」ことは「シャバい」ことに他ならないのである。このへんのギャップが、ユーモアとして効いている。しらけない、殺伐としない、陽気な作風へと繋がっている。また、この作者のばあい、『フジケン』の頃からしてそうだったのであったのだが、話の筋のなかで倫理に結びつくようなものを働かせることを怠らない。家族への疑いなき愛情や、雨降って地固まる的な友情が、その基盤になっている。家庭の事情などにより、いわゆる壊れかかった(キレている)登場人物も存在するけれども、物語は、彼らの側に引きずられるよう進行するのではなくて、むしろ彼らをポジティヴなほうへと感化してゆく。そのあたり、微笑ましく、頼もしい。

 第1話についての文章→こちら
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2005年10月05日
 きららの仕事 10 (10)

 いけないのである。まったくもう。『きららの仕事』を読むと寿司(鮨)が食いたくなるから、いけないのである。それはともかく。この巻を読んで確信したのは、僕が感情移入するのは、やはり、すさまじいストイシズムで職人の道を極めんとする坂巻の存在に、なのであった。『スシバトル21』準決勝、若き天才神原朱雀との戦いにおいて、いよいよ坂巻は、最大の秘策を披露する。1万本に数本しか網にかからないといわれる、幻のサケ、鮭児の握りである。「味」「食感」「香り」、それら三者によって引き出された審査員の味覚が、クールに振る舞う朱雀の、熱く滾る本性を暴露する。熾烈な攻防。はたして勝利の行方はどちらに。と、燃える展開である。それもひとえに、坂巻が、その身を削るような、修練のはてに会得した、ハイ・レベルな技を、あわやピンチといった場面で、まざまざと見せつけてくれるからに他ならない。また、勝敗の結果には、料理マンガの基礎を成り立たせるディシプリンの問題が、ちゃんと踏まえられているのも、よろしい。才能というものは、たゆまぬ努力によって、才能として開花するのが、ベストの形であるべきなのだろう。後半、主人公であるきららの出生の秘密が明かされ、これまでその影さえも描かれてこなかった、父親の存在がようやく物語に介入してくる。その絡み方次第では、さらに激しく熱い展開が期待できそうでもある。が、しかし、いけない。あーもう、寿司食べたい。

 9巻についての文章→こちら
 8巻についての文章→こちら
 7巻についての文章→こちら
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2005年10月03日
 ストリート・ファッション・ブランドをテーマとした柳内大樹『ドリームキング』であるが、以前にもいったように、僕は、これを、ヤンキー・マンガのいちヴァリエーションだと捉えている。用いられる固有名のダサさも、じつにヤンキー的だろう。でもって、2巻目である。一流のデザイナーを目指す主人公ジョニーが、『SHIBUYA』に立ち上げたブランド『ブラッディシャカ』は、知名度こそまだまだであるけれども、ようやく軌道に乗りはじめる。しかし、反面、当初のモチベーションが失われつつもあった。街角に座り込んで呟く。〈……ファッションって一体…なんなのかのォ…〉。ようやく答えを見つけた彼のもとに、ヒップホップユニット『ツインタワー』をやっている仲間のキバとツノから、今度行われるイベントのための、スペシャルなウェア作りの依頼が入る。そのときはまだ、まさか硬い友情で結ばれた『ツインタワー』が解散することになるとは、誰も思っていなかった。〈……キバ君…俺ァ…あんまよく分からんけど…“想いやり”がすれ違うことって…やっぱ…あるんじゃねーかな…〉。いい話といえば、いい話なんだけどもね、それにしても、ギャングはともかく、デザイナーにしろミュージシャンにしろペインター(っていうのか、壁に落書きする人たちのこと)にしろ、ケンカし過ぎである。なんておっかない街なんだ、『SHIBUYA』というとこは。まあ、それというのは、ヤンキー・マンガという構造上仕方がないことなのだが。この巻は後半になって、大阪編に突入する。行きがかり上、ジョニーが大阪のファッション・シーンに介入してゆくことになるわけだ。が、そこで行われるのも、血で血を洗う、ヤクザの抗争のようであった。僕は以前から、ヤンキー・マンガは、モラトリアムの戯れを扱った表現である以上、登場人物たちが社会に出ることは、必然的に、物語の終わりを示す、と考えている。とはいえ、このマンガの場合、登場人物たちはすでに社会人なのであり、その彼らが無茶苦茶を起こしている点においては、異論がないわけでもない。でも、女子供を傷つけちゃいけねえみたいな、オールドスクールな意味合いでの人情が、それをばっちりカヴァーしている。

 1巻については→こちら

 『ギャングキング』4巻については→こちら
 『ギャングキング』3巻については→こちら
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2005年09月30日
 蒼太の包丁 8 (8)

 『蒼太の包丁』に関しては、いつテレビ・ドラマ化されてもおかしくないぐらいの、ハートウォーミングさ加減で、内容も充実している。でもって、もしもテレビ・ドラマ化される際には、この巻で披露されている親方の引退エピソードを、ひとつ、クライマックスにしていただきたいのだった。一流の腕前と気配りを持った料理人が、常連客や従業員、家族からどれだけ慕われていたかを表した、いい話である。現実においては、年功序列型の社会はもはや機能していないな、と感じる機会が増えてきた。それというのは、もちろん資本制(金本位制)にともなう合理化の波といった側面もあるのだろうが、個人が物事を教える主体として成熟できなくなったという理由もあるに違いない。先行する世代が説得力を持たなくなったというのと、若者が話を聞かなくなったというのはパラレルである。どっちが悪いというのではなくて、どちらも悪いので、共倒れになればいいよ(えー)。いやいや。では、人が成熟するために必要なものとはいったい何だろう。おそらくディシプリンである。ここで、それは、修行という名でもって、表現されている。また同時に、教える側と学ぶ側の関係性までをも射程に入っているあたり、なんと秀逸であることよ、と詠嘆してしまうのであった

 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら
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2005年09月27日
 BARUBARA.jpg

 序盤、なかなか登場人物たちが同一の場所に揃わず、縦横に話の筋が拡散しているように感じられたため、これはけっこう膨大なものになるのでは、と思われた萩尾望都『バルバラ異界』であるが、全4巻という枠内で、見事完結した。とはいえ、短すぎるという感じもしない。このぐらいの長さであるならば、随所で機能しているSF的なマテリアルに関しての造詣がなくとも、素直に、ある程度の質を保った物語として、受け入れることができそうだ。昏々と眠り続ける少女十条青葉、彼女の夢のなかに存在するのは「バルバラ」と呼ばれる異世界、彼の地をめぐる謎が、はからずも北方キリヤの来歴の秘密を暴く、それを知ったとき、父である渡会時夫のとる行動は、この世界の流転する未来に深く関わってゆくのであった。いっけん目まぐるしく場面展開するラストは、駆け足のように見えなくもないが、ループする時間軸をうまく表しており、それは、消滅と継承といったセンでみれば、このマンガの主題を際立たせるものだろう。また一方で、ビオスとゾーエーのような、工学的な生の受け入れ方と自意識の問題が取り扱われているとした場合、そういった部分については、この時代において、けっして目新しいファクターではないけれども、逆に、先駆性よりも普遍性の域を、そして作者の哲学を示すものになっていると思う。
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2005年09月23日
 美森青『B.O.D.Y.』は、純粋無垢な女子高生凌子と、高校生ホストである藤との気持ちが通じ、付き合いだし、そして藤がホストから足を洗うまで(1〜3巻)を、ひとつの区切りとしてみた場合、現在(4巻〜)は、セカンド・シーズンといった感じである。が、これが、すこし微妙な加減で物語が進行しているのだった。凌子と藤に対して、なぜか敵意を持つ、やはり高校生ホストの白井は、凌子の親友であるアスカに接近し、彼女に水商売をやらせようとする。そのことを察知した凌子は、アスカを説得しようと思うのだが、しかし彼女はすでに白井の言葉を第一に優先するほど、その想いを強めているので、願いは聞き入れられない。そこで、困った凌子は、白井と直接対決することになる、しかし、それがまさか、藤との関係を混線させることになるとは、そのとき及びもつかなかった。というのが、この巻の前提である。と、序盤にはフックとして機能していた高校生ホストという概念は、ここでは、ほぼ消滅しかかっている。凌子をカヤの外に置けば、シンプルに、凌子と藤と白井の、三角関係がストーリーの中枢にくるようになっている。ここである。ここでの話の運び具合が、すこし、頼りない。いわゆる三角関係というのは、恋愛マンガ(少女マンガ)においては、さんざん描き尽くされた感のあるフォーマットであり、なにか新規なものがないと、あるいは、その表現を掘り下げていかないと、先行する作品群には、負ける。今の段階で、物語を駆動させるキーとなっているのは、白井の内面、つまり、なぜ白井が凌子と藤にちょっかいを出すのか、といった点になるわけだけれど、そこが、どうも彼の少年性(幼さ)に絡んでいるというのが、こちらから窺えてしまうあたり、強度としては弱いように思えた。もちろん、べつの見方をすれば、白井の存在というのは、凌子と藤の関係性を推進させるための、噛ませ犬でしかないのだから、そこにウェイトを置く必要はないともいえる。が、しかし、噛ませ犬がそのまま噛ませ犬として読めてしまうことは、やはり瑕疵なのに違いない。女子同士の友情の捉まえ方も、それが壊れたり、修復したりといった部分で、あまり感情移入できないというのは、うまくない。とはいえ、よくあるトラウマといった安直なカードを、ここまで用いていないところは、ひじょうに好感が持てる。それと、これは本編とは、ぜんぜん関係のない話なのだが、少女マンガの単行本に付せられる作者コメント(手書き)についての論考って、どっかにあるのかな。そこらへん、あんがいサブ・カルチャー史的に重要な資料になりそうな気がする。
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2005年09月22日
 影風魔ハヤセ 1 (1)

 始点は本能寺である。信長の危機を案じ、いの一番に駆けつけた光秀であったが、それが何者かにより仕掛けられた罠であったことを察する。謀叛を起こしたのは光秀という、「逆臣」の汚名を着せられたのである。はたして謀略を敷いたのは誰か。秀吉であった。織田信長を中心に戦国時代を舞台に置くマンガは、数多くあるが、信長殺しは秀吉によって実行された、という問題提起のされ方は、大胆で、勢いがある。その勢いに乗って、荒唐無稽な物語は、進行する。本能寺の変、自害したはずの信長は、じつは生きていた、生き延びている。それは、忍者に忍び寄れるほどの忍び、影風魔のハヤセの活躍によるものである。しかし、以前は数万の兵を率いた信長であったが、秀吉の見事なクーデターにより、そのすべては奪われ、今やハヤセと二人きりの軍勢にしか過ぎない。体制を立て直すため、いったん身を潜めることを決める。一方、表舞台では、秀吉と光秀の熾烈な知力戦が開始されていた。家康を殺害するため、秀吉は、配下の丹波忍衆を送り込み、信長生存を計算した光秀は、再起のときが来るのを待って、敗走は止むなしとするのだった。このマンガ『影風魔ハヤセ』の肝は、大枠の歴史は修正せず、アフター本能寺の変における、信長と秀吉の相克を、圧倒的なダイナミズムとして描いている点だろう。ハヤセら、忍びの活躍ぶりも、燃える。現在『イブニング』連載分では、信長がかつての直属の部下、滝川一益との接触を試みている。着地点としては、朝鮮出兵がじつは信長の手によって行われた、といったあたりが目指されているのではないか、という気がするけれども、いやいや先の読めない展開が続いており、すごく目の離せない感じになっているのだった。森田信吾の絵柄も、以前ほどのリアリティ・タッチではないが、その構図の取り方はやはり見事で、劇的なフィクションをさらに盛り上げる。しかし信長と光秀のかっこうよさは鬼である。
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2005年09月20日
 パラパル 1 (1)

 前作『ジグ☆ザグ丼』もそうだったのだが、石田拓実のマンガには、セックス(性交)に関して、何か過剰なものが含まれているような感じがする。それは『汚れてる暇なんかない』ということなのかもしれず、つまり、男性の視線によって固定化された女性性であったり、さもなければ社会性や倫理などからくる抑圧と無縁ではない、そういう問題なのかもしれない、が、いや、ちょっと違う気もする、外部から内部ではなくて、内部から外部へと、純粋なものへの指向性が歪に変形した結果そうなったのではないか、と、この『パラパル』からもまた、大枠の部分はともかくとして、本筋にいたっては、同様の傾向を見て取れるのだった。家族や友人、恋人との間に大きなトラブルもなく、明るい日々を送る小牧は、普通の女子高生であったが、ある朝を境に、頭のなかで謎の声が響くようになり、嗅覚が異様に鋭くなってしまう。そのことをきっかにして、今まで知ることのなかった、周囲の人々のほんとうの気持ちを察してしまうことになるのだった。小牧の著しく向上した嗅覚が、おもに捉まえるのが、発情した人間から発せられる匂いだという点が、やはりキーなのだろう。出来うるならセックス(性交)抜きの恋愛を行いたい小牧であるのだけれども、あるとき、自分の体からも発情の匂いが出ていることに気づいてしまう。人間は、程度の差こそあれ、生物のレベルで考えるのであれば、誰もが発情する。しかし、これまでのところ、小牧の秘密を知り、ともに行動する鶴見からは、それを感じとったかのような描写は見受けられない。そのことが、ひとつには、鶴見を、この物語のなかで、特権的な人物として、保証している。要するに、彼だけが、世間一般の、セックス(性交)により定型化された男女関係に、束縛されていない。この巻の前半で、ひとつのトライアングルが崩れる、しかし後半、小牧と鶴見を含めた新たなトライアングルが生成する。そのなかで、鶴見の役割も、やがて変化することになるのだろう。僕などは、SF的要素を絡めながら張られた伏線云々よりも、そういうトライアングルがどのようにして転がってゆくのか、そっちのほうが気になるタイプかもしれない。あと、このマンガ、同作者のこれまでのものと比べると、それほどネガティヴ色の強く出ていないところが、よい感じだと思う。
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2005年09月19日
 STAR BLACKS 1 (1)

 西暦2999年、つまり、このミレニアムの終わり頃、主人公である女子高生希咲は、父親と弟の三人で、平凡で平和な毎日を暮らしている。だが、ある日、先祖代々伝わる日本刀を手にしたことによって、彼女の運命は変わる。人の心から生まれ、人の世を支配しようとする、異形の鬼との戦いが、今まさにはじまろうとしているのであった。と、物語の基本線は、伝奇アクションとでもいうべきものである。育児コメディであった『愛してるぜベイベ★★』のあとに、コレというのは、かなり振り幅が大きい、チャレンジングな内容のような気もするが、若年層の読み手や、描き手当人にしてみれば、それほど違和感はないのかな。いや、しかし、槙ようこの本質は、友人たちや家族とのやりとりのなかに、現れているなあ。性善説的な思い遣りの程合いに和む。神の不在や、人の欲望が邪悪を生み出すといったテーマ自体は、さまざまな表現ジャンルにおいて行われてきたことであるので、今さら新規性は望めないが、それに接するキャラクターの頑ななまでの純粋さ具合は、けっこう新鮮である。本筋に関しても、キリスト教的な概念と古代日本の神話性みたいなものとの融合が散見できるけれども、その手つきの、もしかしたら天然じゃないかしら、と思えるあたり、逆に、個性であるように感じられる。
 
 『愛してるぜベイベ★★』7巻についての文章→こちら
 『愛してるぜベイベ★★』6巻についての文章→こちら
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 チェンジング・ナウ 3 (3)

 物語内で打ち切りが告げられる、それが真実なのかどうかは知らないが、その後、駆け足でストーリーは収斂する。しかし、締めくくりは、ばっちり綺麗に決まっており、そのため、しくじった空気を感じることは皆無で、エピローグのさらなるエピローグである特別編を合わせて読めば、いやあ、けっこう読み応えがあったなあ、などという余韻すら覚えるのだった。ショート・コメディ風の内容からスタートして、最後には、きっちりヒーローもののテーゼをまっとうした秀作だと思う。是非とも大勢に読んでいただきたい。登場人物のほとんどがハッピー・エンドに到着しているのも、なかなかの素敵さ加減である。また、そのようなエンディングに際して、悲劇性を背負った少女兵器ローズを再生させなかったあたり、この作者の指向性が見て取れる気がする。正義と悪の境界を曖昧にせず、かなり厳密に線引きしているように感じられた。というのも、たしかにローズは、それが仕組まれたものなのかどうかは無関係として、幸福な記憶の反動により、マシンナーと敵対するわけであるが、その行動理念は、やはり悪のサイド以外に居場所がない類のものだろう。ア・プリオリに正義を内部に抱えていないキャラクターには、再生(更正)の余地を与えない、そういった処理の仕方は、ドライだといわざるをえないけれども、正義VS悪という、二元論の根幹は、そのような細部からして、しっかりと守られている。その徹底性が、作品の強度に結びついている。

 2巻についての文章→こちら
 1巻についての文章→こちら
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2005年09月18日
 生徒会の存在が物語に絡んできた当初は、こういう迂回路は要らないので、さくさくと本筋を進めてください、などという気になっていたのだが、止めどなくシリアスになってゆく長編のなかにあっては、十分必要な幕あいであったのだなあ、そう、ワン・エピソードとして綺麗に落着した場面を眺めつつ、考える。いや、恋だね、恋だよ、人を想う気持ちが、痛々しい、だけど、それはやっぱ、悪いもんじゃないんだろう。ぶっちゃけて、髪の毛の色が同じ場合、女性キャラクターの区別がつかなくなってきた風情なのはなきにしもあらずだが、この18巻は、序盤の切ないハッピーから、全編の破局が駆動する、そのことを予感させる終盤まで、ずいぶんと読み応えがあった。読みながら泣けてきて困る箇所もあった。倒れたリンを、春が救い、すくい上げる場面である。孤独でなくてよかったね、それが夢ではなくてよかったね、傍にいてくれる人がいてよかったね、と僕は思う。しかし悲しげなのは、ひとり、別れへと近づいていく、夾の後ろ姿なのだった。そうして透の気持ちが、どう動くのか、気にかかる。ぼちぼち物語は終に向かう。

 17巻については→こちら
 16巻については→こちら
 15巻については→こちら

 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』については→こちら
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2005年09月13日
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 秋田書店周りのマンガ家による手塚治虫『ブラック・ジャック』トリビュートの総集編第2弾。高口里純、細馬信一、やまだないと、柴田昌弘、佐藤マコトなどの作品が収められており、また手塚治虫のオリジナル『ブラック・ジャック』単行本未収録エピソード「壁」をも含む。北見けんいちときくち正太のものは、こんなの『ブラック・ジャック』じゃねえ、というぐらい独特のアレンジがされているのだけれども、さすがの手腕で、なかなか読ませる。個人的には、御茶漬海苔の毒々しく禍々しい『猫上家の人々』がベスト。手塚によるオリジナルのエピソードがあって、それを改変したものなのだが、すっかりと嫌すぎるホラーな雰囲気なものに置き換えられている。こわい。良い話ということであれば、村生ミオの『秘密の顔』と八神健の『わすれんぼ』あたりが、けっこうぐっとくる。双方ともに、作者によるオリジナル・エピソードだけれども、それぞれの持ち味を生かしながら、寂しく切ない系の物語としてまとめている。性格のひねた天才医師であるという、ブラック・ジャックの役回りが、うまく機能している点も、ナイスである。しかし、あれだ、ドクター・キリコが登場するものは、どれもドクター・キリコが良い人すぎる傾向を持っているなあ、と思う。それはたぶん、ダーク・ヒーローとして彼の存在が愛されていることの証明だろう。もちろんブラック・ジャック自身が、本来なら、ダーク・ヒーローであるわけなのだが、そのへんは、ひとつの物語のなかで、ふたりのダーク・ヒーローがいる場合、判官贔屓的な作用でもって、どちらかといえばキリコの側に肩入れしたくなる、といった要因があるのかもしれない。

 『ブラック・ジャック マガジン』についての文章→こちら
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2005年09月11日
 僕は、スポーツについては、いっさいの関心がないタイプの人間なので、この国において、どのスポーツがどれだけ人気があるのかといった事情を、まったく知らない。しかしマンガの世界でいえば、サッカー・マンガはもはや、完全に凋落してしまったといえる。各雑誌におけるサッカー・マンガの連載率から、それはわかる。その一方で、野球マンガは、着実に、延命した。米沢嘉博は『戦後野球マンガ史』(02年)のなかで〈野球が、野球マンガが、子供たちにとって一つの教育であり、戦後の大衆文化に大きな影響を与えていった〉ことを前提に、現在においては、ヒーローの不在、要するに、憧憬対象が成り立ちえないことを理由に、野球マンガは、その構造を崩壊させてゆくしかないことを示唆している。が、現状を捉まえ直すに、むしろ野球マンガという表現は、時代性にともない、そのフォーマットを進化させるに適した器だったのではないか、という気がしてくる。たとえば今、ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』などは、けっこう泥臭いことをやっているにもかかわらず、泥臭さをそれほど感じさせず、好評を博している、それというのは自意識やトラウマなどといった諸マテリアルが、汗にまみれた熱血のモードをいったん洗浄した上で、ふたたび肉感的なドラマを再構成しているからだろう。つまり、フィジカルやメンタルといった二元論を用いながらも、どちらかのみを択一するのではなくて、それらのマイナス・ポイントを相殺させるような体で、野球マンガを成り立たせているのである。と、ここでの本題は、いわさわ正泰『野球しようぜ!』であった。

 野球選手だった父親は失踪し、実の母親とは死別、叔母に引き取られ育てられるが、その教育環境は劣悪、にもかかわらず主人公は純粋という設定は、いかにも前時代的ではあるけれども、僕は『野球しようぜ!』を、けっして古いとは思わずに、読む。それは、野球を知らなかった少年がプレイを通して野球を覚えていく、といったプロセスによって、あくまでも個人の問題として、野球という団体競技が取り扱われている、そのような手法に拠っている。この3巻のなかで興奮する、スリリングな場面を挙げるとしたら、主人公である天が、フォークのキャッチ方法を覚えるところと、送りバンドに気づくところになると思う。その破格な才能によって天は、野球を超速で学習してゆくのだが、そのほとんどは、誰かに指導されるのではなくて、独自の思考をベースに発明(!)されている。ルールだけは、さすがに他の人間から授けられなければならないのだけれども、野球がその歴史において合理的に発展してきた過程が、競技上の制度から押しつけられたのではない、個人の自由な発想に沿う形で、トレースされるという仕組みだ。もうすこしいえば、いわゆるスポ根というのは、抑圧によって汗と涙が流れる物語であるわけだが、ここでは、汗と涙はそのベクトルを解放と悦楽の方へと向けている。そのあたり、やはり野球人間の描かれ方としては、新しいのではないだろうか。というか、だいたいのところ、あらかじめ野球という概念を有していないプレイヤーというのは、野球が国民的スポーツとしては機能していない、そういう現在に至り、ようやく為しえた造形に他ならない。

 2巻についての文章→こちら
 1巻についての文章→こちら
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2005年09月07日
 HEAVEN! 3 (3)

 基本的には、後期ビーバップの方法論を流用した内容であるのだから、いくらでも話を続けられそうなものだが、切りのいいところで、ハッピー・エンドにしたのは、なかなか潔い。べつに人気がなかったというのでは、さすがにないだろう。すこし物足りないところもあるが、まあグダグダになるよりはずっと、よろしい。でも小松大幹は、これからどうすんだろ。ヤンキー・マンガはもう描けないよなあ。というわけで、大団円の最終巻である。主人公キイチがなぜ殺人の罪で刑務所に入らなければならなかったかが明かされ、物語を起動させた謎の美女さとみの正体が語られる。このマンガ『ヘヴン!』のコアは、登場人物たちは誰ひとりとして夢や希望を持っていないのに、それでもポジティヴ・フィーリングが全編に漂っているということであった。それは、どのような人間であれ、受け入れてくれる場所は、必ずやある、そのような確信に裏打ちされている。人間としての境界線を越えなければ、たとえどんな屑だったとしても、世界の片隅でぐらいは、生きることを許されてもいいのである。

 第1巻についての文章→こちら
 小松大幹『犬嶋高校行進曲』第3巻についての文章→こちら
 木内一裕(きうちかずひろ)『藁の楯』についての文章は→こちら
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2005年09月04日
 あだち充のマンガはどれもたいへんヘヴィな内容なのだけれど、と、僕が書き出せば、君は、えー、という顔をするかもしれないが、いやいやもう一度ちゃんと読み直したほうがいい、とくに『ラフ』など、その作中に漂う息苦しさは、異様である。そういったヘヴィさがどこから来るのかは、一概に断定できないが、しかしそれを、最終的には、さわやかな青春劇へと落とし込むあたり、あだち充の流石なところであったりする。さて、『クロスゲーム』である。これも現在『週間少年サンデー』誌上で再開した第2部を読む限り、とてつもなく重たい磁場を発生させている。それは第1部のラストを受けてのことである。この第1巻には、その第1部がぜんぶ、つまり主人公である樹多村光の小学生時代が丸々収められている。連載時、唐突にある登場人物の身の上に降りかかったハプニングに対して、僕は、あんまりだあ、と嘆いたクチであるのだけれども、あらためて読み返してみると、当初の段階より、あちこちに「不在」あるいは「喪失」というメタ・メッセージが張り巡らされているのに、気づく。同作者の傑作『タッチ』においては、ライバルの「不在」あるいは「喪失」が扱われていたわけだけれど、ここでは「不在」あるいは「喪失」の対象は、ダイレクトに、愛すべきパートナーであるのだった。それはつまり、泣きたいときに支えてくれる人物が損なわれたことを表している。そうして成り立つ悲しい関係性が、物語全体に、ひどく厳しい重圧を加えているみたいだ。そのへんは、ことによると、作者が実生活においてじつの兄弟を亡くした、という最近の出来事が作用しているのかもしれない。ともあれ。幼年期の記憶を、どのように受け止め成長しなければならないのか、そういった種のビルドゥングス・ロマンが、今後の展開として用意されているに違いない。と考えれば、まずまずの出だしとなっている。
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2005年09月01日
 DEB.jpg

 7年振りに出た続きということで、ひさびさに読んだ吉本蜂矢『デビューマン』だけど、相変わらず、くっだらなくて、よろしい。そういえば第1巻は、ヤンキー・マンガと間違えて買ったことを思い出す。なんでだろう、たぶん少年画報社だったからというのもあるのだろうが、90年代後半には、番長も暴走族もチーマーもギャングもいったん整理され、いろいろな表現上で、多数で徒党を組まない、かといって孤立しているわけではない、いっけん軟派ではあるけれども、じつは硬派といった体で不良が描かれることが多かった、という時代背景のせいであるかもしれない。話はずれるが、そういったことのひとつの臨界が00年のテレビ・ドラマ『池袋ウェストゲートパーク』だったりするんじゃないかな。とはいえ、これは徹頭徹尾、軟派で駄目駄目な男の子たちを主体とした、ギャグ・マンガなのであった。どちらかといえば『行け! 稲中卓球部』とか、そっちの線かもしれない。貧乏で、彼女もいない、IQも低そうな、ただ下品なだけの男子高校生3人組、彼らの、女の子に足蹴にされながら、さまざまな労力を無駄にしながら、それでもめげず、逞しく、同じ失敗を繰り返す姿が、笑いを誘う。ばっかじゃねえの、こいつら。ところどころにハードコア・パンクに関するネタや、ガンダムに関するネタが散りばめられているあたり、作者の嗜好が伺えるが、まあそうったことはどうでもよくて、けっこう場当たり的に物語が展開するものだから、初期の設定とか、この2巻においては、ほとんど反故になっちゃっているのだが、それがまったく気にならない勢いで、一気に読ませる。テンションの高さは不変である。個人的にもっともウケたのは、千代彦の自宅に泊まりにいくエピソードで、とんでもない秘密が暴露された瞬間のヒトコマが、とても、いい。吹き出した。
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2005年08月29日
 ウェルカム・ホーム!〈児島律子〉

 故鷺沢萠の小説『ウェルカム・ホーム!』は、ふたつのパートによって成り立っているが、そのうちのひとつを、入江紀子がコミカライズしたものが本作である。鷺沢×入江という組み合わせは、なかなか興味深く、読む前は相当の期待があったのだけれども、じっさいに読んでみると小説のままでよかったかな、という残念な感じがした。というのも、たぶんこれ、小説版よりも読むのに時間がかかる、それというのはもちろん全体の濃度が高くなったからだといえばいえる、しかし一方で、情報量が増えてしまったため、物語がある一定のテンポで進んでいかない、そういうギコチなさのせいでもあるように思えるのだった。言葉自体は、原作のものが、ほぼ崩されずに使われている。にもかかわらず、それを、入江は、うまく自分のモノにしている、そこはさすが。だが総体としては、入江のマンガにはなっていない、鷺沢の小説のままでもない。そのあたり、なんだろう、バランスの問題なのだろうか、すこし歯がゆい。

 原作についての文章→こちら
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2005年08月28日
 SYOUNAN.jpg

 「吉田聡 MASTER WORKS」と銘打たれたコンビニ売りのコミックス。どうやら大都社から出ていたものの再録であるようだ。高橋ヒロシのコメントもあわせて再掲されている。吉田聡には、ヤンキー・マンガ以外にすぐれた作品がいくつも存在するが、この『湘南グラフィティ』もそのなかのひとつに数えられる。『湘南爆走族』と同じ土地、同じ時代を生きる、冴えない高校生5人組の物語。坊ちゃん風の主人公、時任を中心としたメンバーたちはみな、小学校以来の古い付き合いである。ケンカに強いわけでもない、女にモテない、爽やかでもない。そんな彼らであったが、「集合」のかけ声で集まったときの団結力は、他の誰にも負けない。負けたくない。うだつのあがらない毎日も、気の合う仲間たちと過ごせば、それなりに愉快な日常なのだった。調べてみると、もともとは『湘爆』連載直後に描かれたものであるらしく、なるほど、作者は『湘爆』との差別化のために、意図的に平凡な登場人物を扱っている、そうすることで『湘爆』では取りこぼしがちだった「普通」という概念を、すくいとろうとしているように思われる。時任に兄がいるという設定も、『湘爆』の主人公、江口洋介との対比になっているのだろう。随所で『湘爆』のキャラクターも、毛色の違う人々として、ちらりと顔を出す。いや、しかし、ギャグの部分はさておき、なんて切ない青春劇なんだ。どのエピソードも基本的に、どれだけ必死になっても、最後には、悔しい涙によって回収される。報われない。だけどまあ、よくよく考えてみれば、青春なんてのは、だいたいがそんなもんである。その最中においては、ロクでもない、くっだらないことばかりだけれど、それに満足できないから走り続けることを選ぶ、そういった所作を若さと呼ぶのであった。
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2005年08月27日
 コブラ 1 完全版 (1) コブラ 2 完全版 (2)

 人が自由に宇宙を飛び交う時代、貿易会社のしがないサラリーマンであるジョンソンは、毎日に退屈していた。ある休日、自分の望む夢を疑似体験させてくれるトリップ・ムービーを観に行った彼は、そこでアーマロイド・レディとともに星々をめぐる宇宙海賊コブラの冒険を追体験する。しかし、じつはそれは彼自身の記憶なのであった。そう、宇宙一の賞金首として命を狙われていたコブラは、自らに整形を施し、過去を消し、別の人間として暮らしていた。その沈黙が、いま破られる。いやあ、久方ぶりに読んだ。このあたりはまだ『週間少年ジャンプ』連載分で、CGで描かれる以前のオールドスタイルの『コブラ』である。ぜんぜん古くさくなってねえ、とまではいわないけれども、SF的な描写なども含めて、そんなにマズくはない。それというのは、ディテールがひじょうに簡略化され、わりと大雑把に振る舞われているためだと思う。コンピューターのキーボードなんかは、四角いマスが描いてある程度だったりする。とはいえ、サイコガン、クリスタル・ボーイといったワン・アイディアの生かし方は、かなり優秀である。トリップ・ムービーにしても、要するに、今でいうところのヴァーチャル・リアリティなわけだし。ただ、ストーリーの展開はなかなかの強引さ加減。たぶん後付けの設定とか、けっこうあったんじゃないかな、当時。巻末に付せられているインタビューで、作者は〈とにかくコブラは普通の地球人、ただ単にずば抜けて強靭で丈夫だってこと。不死身と呼ばれてはいるが、実際には撃たれたら死ぬ。だからこそ死なないように頑張るから面白いんだ〉といっている、が、いやいや、剣とかで思いっきり刺されちゃってますよ、宇宙船で轢かれちゃってますよ、でも無事ですよ、と、ひとまずツッコんでおきたい。そこいらへんの荒唐無稽さというのは、まあ時代性というのもあるのだろうが、劇画タッチでシリアス風味、お色気満載(なんておっさんくさい言い回し)にもかかわらず、なるほど、少年誌というステージにはぴったりと合っていそうだ。リアリティはないんだけれども、妙な説得力が宿っている。
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2005年08月26日
 学校のおじかん 5 (5)

 いやあ、なんつうか、ハラハラした! たぶん、このマンガを読んでて、はじめてのことだ。それというのは、正直なところ、主人公である陸が女子高生と学校の理事長も兼ねている、という特殊な設定がまったく生かされていないせいだろう。つまり、ある種の失敗ではあるのだけれども、それが効を奏し、ようやく恋愛という主軸にフォーカスが合った。親の反対にあい学校を変えさせられそうになった楓であったが、親友であるマキ、楓を想う譲、そして陸の必死な頑張りによって、なんとかその危機は免れたのだった。ふたたび以前の親密さを取り戻した4人は、夜の遊園地へと遊びに行く。それにしても、今こうして書いていて気づいたのだが、このマンガは登場人物の名前だけでは、性別の判断が難しいんだ。というわけで、陸(女)、楓(男)、マキ(男)、譲(女)、である。この巻では、楓とマキの間で揺れていた陸の気持ちが、ひとつの方向へと定まる。いや、しかし少女のマンガのセオリーとして、クールで心をなかなか表に出さない楓、ホットで直情型のマキ、双方ともにハンサムさんで、じつは思い遣りに長けているというあたり、どちらかを選べというのも難しい話に違いない。ところで。遊園地のエピソードにて、楓がマキに、陸からのプレゼントを見せる場面がある、いっけん良いシーンなのだが、あれはものすごく意味深ではないだろうか。そんなこともないのか。ちょっと気になる。
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 ヤスコとケンジ 1 (1)

 高校2年になる沖康子は、6年前に両親を喪っていた。現在は、マンガ家をやっている兄健児に養われながら、暮らしている。だけど、過剰なほどに自分へと干渉してくる健児のことが、ものすごく煩わしい。元ヤンキーである健児は、どうも周囲の空気が読めない男だったのだ。恋もロクにできやしない。それにしても康子は勉強のできない子であった。それを心配した健児によって無理矢理入れられた予備校(学習塾)、そこで康子は、椿くんという美男子に出会う。もちろん一目惚れなどしてしまう。ある日、椿くんの家を訪ねることになった康子は、彼の姉を紹介される。彼女は、聡明で、うつくしく、そして優しい。しかし過去、健児との間になにか因縁があったようで。と、読み切り(『三つ編と赤い自転車』収録)時の基本設定を用いながら、連載というスパンを考慮してか、登場人物の増員が試みられている。のだけれども、うーん、この巻においては、ちょっと微妙な流れになっちゃっているのだった。まず、康子と健児兄妹という物語の軸が、周りにいる登場人物の騒がしさによって、見えにくくなってしまっている。また、コメディものとして見た場合、ツッコミ役がいないような感じがする。そのせいで、ドタバタした状況が、うまい具合に回収されていない。ただ、絵柄に満ちる元気な雰囲気はやはり楽しく、これはこれで序盤のセッティングとして考えた場合、次巻以降における登場人物たちの動き次第で、いろいろと大きく変わるかもしれない。

 『三つ編と赤い自転車』についての文章→こちら
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2005年08月24日
 おせん 10 (10)

 料理マンガを成立させるためには、いくつかのパターンがあるように思う。いま思いついたものをざっと挙げただけでも、たとえば主人公が料理人だとして、人間ドラマに重きが置かれたもの、料理のレシピ的なものに重きが置かれたもの、また主人公が料理人ではない場合でも、料理をする、料理を食べるなどの分岐があり、そこから、先にならえば、人間ドラマ、料理レシピ的といった具合に分節することもあるし、あるいは主人公が料理人ではないにもかかわらず、その腕前がプロ並であったり、逆に素人料理(B級グルメ)にこだわるなどといったりの変節を設けることも可能だ。もちろん料理の種類、国籍などの差別化によって、さらに幾通りものパターンが生み出されたりもする。では、きくち正太『おせん』はどうだろう。一升庵という店それ自体を、総体として扱うことで、料理マンガとしては、かなり幅広の表現を達している。エピソードのメインを張るのは、ときに店で働く人たちであり、ときに店を訪れる人たちであり、ときに料理の存在そのものであり、そこいらへんのバランス感覚が、まさに絶品の味わいとなっているみたいだ。飽きが来ないともいえる。さて、そんなこんなで、10巻。ここに収められているのは、筍と不倫の終わり、すき焼きと夫婦の関わり、そしてワラビと料理人の驕りと挫折、の3つのエピソードであるけれども、どれも見事なまでに料理が、すごくうまそうで、なおかつ人間ドラマとして、ひじょうにうつくしい。ただし、ひとつ弱点があって、それはゲスト・ヒロインのキャラクターが、みんないっしょに見えることである。

 第9巻についての文章→こちら
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 はからずもクロスロードで悪魔に魂を売る羽目になってしまった黒人ギタリストRJの旅は続く。しかし悪魔に魂を売るというのは、いったいどのようなことだろう。おそらく次のように言い換えられるのではないか。修羅の道を行く、と。そして修羅に堕ちた者は、やがて異形と化すのだろう。では異形と化した者の命運は? 前巻の終盤で、アウトロー風の白人であるクライドとの邂逅を果たしたRJは、なぜか彼の道中の連れ合いとされる。辿り着いたのは、郊外の富豪宅であった。庭先でパーティが開かれる。即興で弾かれるRJのギターにゲストたちは沸く。そのときクライドは、密かに邸宅内に忍び込んでいた。彼の目論見は、金品を盗み取ることであった。だが物事は無事に運ばない。RJの体に変調がきたされる。右手だ。5本の指以外の、新しい5本の指が、計10本の指が右手に生えているのだった。かくして演奏は止み、物語にトラブルが呼び込まれる。この巻において、いっそう際立つのは、RJとクライドのコントラストに他ならない。両者の差異は、黒人と白人という人種の違いによるものばかりではない。RJは、いわば自分の望まぬうちに修羅の道を行く者である。妻や子を自らの欲望のために喪いながらも、もはや自分が人の道(メインストリーム)から外れている、といった自覚が足りていない。その逆に、クライドは、修羅の道を行くことを望む者であるが、しかし、未だ人の道(メインストリーム)に、本人の自覚なしに、止まっている。そのことの顕著なのが、真夜中に、深い森のなかで、RJがクライドのためにギターを弾くシーンだろう。その冷酷な性分からさいしょはRJを圧倒していたクライドだけれども、ひとたびRJがギターを弾けば、クライドはその人間味を引き出されてしまう、頬を赤らめたりなどする。どこにも感情の込められていないギターのプレイが、他人の感情を揺さぶるというのは、ある意味では、悪魔の幻惑に似た所為である。つまり、表面的にはそうは見えないがじつは、すでに悪魔(修羅)として生きるRJが、悪魔(修羅)を目指すクライドを先行しているという、そういった図式が、この巻では、提示されているわけだ。さて。次巻以降『俺と悪魔のブルーズ』というマンガが、どのように進行するのかというのとはべつのレベルで、僕たち読み手は、RJ(ロバート・ジョンソン)とクライド(クライド・バーロー)が、どのような行く末を辿るのかを知っている。修羅に堕ち、異形と化した者を待っているのは、安穏とした長寿などではない、壮絶な最期だけなのであった。あるいは、これはそこへ向かう旅の途中。

 第1巻についての文章→こちら
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2005年08月23日
 喰人 1 (1)

 立原あゆみに関しては、『本気!』の後半が好きだ。病を押してまで若い世代に対し、人の情を伝えようとする白銀本気の生き方は、すこし宗教がかったところがあるけれども、男として大人として見習いたいところが、けっこうあったりもする。さて。この『喰人(くらうど)』の場合は、立原あゆみマンガにおける下品な部分が色濃く、内容の方も、歳をとる侘びしさ、しょうもなさみたいなものが扱われている。まっすぐ生きるのって、やっぱちょっと難しい、と思う。夜に、仕事の帰り、酔い仲間たちが集まるいつもの店、美味しい酒と料理を目の前にして、今日も、年老いた母や心のうまく通じない娘、昔の恋人たちについての話題に、花が咲く。まあ何よりも、相変わらずモノローグのセンスがすごいな、この人は。たとえば第7章「女のぬかみそ」というエピソードのラスト、〈華やぎから渋さを増す 時の中 わたしは妻を愛でただろうか わたしは絶好球を見逃した打者のように悔いている 若い人たちよ 若き妻を 今しっかりと味わうがいい〉といわれても、ねえ。残念ながら僕には、こういったポエジーに感動する資質がないので、うげえとなってしまうが、しかし、そういう部分も含めての哀愁テイストには、苦笑いと涙を誘うものがあった。ちなみに、料理マンガとしてトピック的に読むべき箇所は、ほとんどない。
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2005年08月19日
 打撃王凛 4 (4)

 昔から熱血スポーツ・マンガは、才能のない、落ちこぼれ、弱小チームが、努力と根性で這い上がっていくというのがストーリーの相場であるが、これ、『打撃王 凜』もそのとおりの内容で、だからまあ、アリガチといえばそうなのだけれども、いやいや、しかし、それでも心は燃えてくるのだろう。エースであったやっちんの故障をきっかけに、メンバーのほとんどが緑北シニアに引き抜かれ、よもや解散という事態に陥った、かつての名門緑南シニアであったが、やっちんのかつての同級生である凜の加入によって、復活の兆しをみせる。転校続きで、まともに野球をしたことのない凜であったが、6年前にやっちんが言った〈俺は日本一の投手になるから、お前は日本一の打者になれよ〉という約束を守るために、バットの素振りだけは毎日欠かすことがなかった。そうして鍛え上げられたスイングは、鋭く、さまざまな逆転劇を呼び寄せる竜巻を起こす。いよいよ開催されたシニア日本一を決める夏季関東連盟大会、その予選に緑南シニアは、9人というギリギリの人数で参加する。1回戦はあやうげなく突破。だが、2回戦の相手は、天才ピッチャー稲葉龍太郎を擁する浜松中央シニアであった。最初にもいったが、このマンガは、努力と根性をモチーフとした作品である。練習の量が天性の実力を圧倒する、というのが基本線となっている。前巻で登場した〈努力する天才〉というキーワードなどは、じつに象徴的だ。そうして物語を進める主人公たちチームが、はじめて出会う本物の天才が、稲葉という選手だろう。どこかクールで、冷めた、チャラいキャラクターは、なるほど、熱血漢である凜とは対照的な存在である。また、野球に取り組むモチベーションの立て方も、たとえば凜が友情や約束などの、ある意味では前時代的なものを基盤にしているのに対して、稲葉の場合、生活は裕福であるが、それに満足できず、自分が代替不可能な唯一な存在であることを実証するためという、じつに今様のものである点も、興味深い。そういったライバル登場的な部分も含め、今回の対決は、おそらく『打撃王 凜』における、ひとつのクライマックスである。というのは、試合はまだ開始されていない段階なので、結果はどうなるか不明ではあるけれども、試合に勝とうが負けようが、天才と呼ぶに相応しい人物が現れてしまえば、それ以降、凡人の努力ははたして天才のする努力に打ち克てるか、といった問題提起が否応なく持ち上がってくる。天才というのは、アキレスと亀のパラドクスでいえば、スタート地点が先にある亀のようなものだ。俊足なアキレスの方を指すのではない。パラドクス上においては、アキレスは亀に、無限に追いつけないことになっている。それはつまり、スタート地点が違うので、凡人は天才に追いつけないという風に解釈できるわけなのだが、もちろん努力は、そういったパラドクスを反故にする可能性を持っている。しかし、ここでもしも、亀がじつは俊足であったとしたならば、言い換えると努力を怠らなかったら、アキレスは永遠に先をゆく亀を追いかけることになってしまう。凡人のする努力の絶対性が揺らぐ。そういった今後の方向性を決定づけるという意味において、浜松中央シニア戦は、ひとつの山場となっている。
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2005年08月16日
 PS-羅生門 9 (9)

 不運な事故により、警察官であった夫を亡くした紅谷留美。彼女もまたひとりの刑事として、そして幼い息子を抱える母として、その身を粉にしていた。そんな彼女に転勤の命がくだる。配属先である東都警察署は、人々から羅生門と呼ばれるほどに常識を意に介さない、はぐれ刑事たちの溜まり場であった。亡くなった息子の成長を夢想し続ける弓坂。薬物がらみの犯罪に容赦がなくひどく暴力的な安全。警官の身でありながら膨大な借金を背負う土橋。高い運動能力と脆い精神力を併せ持つ野原。何事にも冷静で単独行動を好む町田。植物人間となり目を覚まさない妻の入院費のためにおでん屋を副業として営む刑事課長。そして紅谷とタッグを組むことになる中年刑事黒田は、被害者よりも加害者に対して感情移入をする性格のため、つねに上層部からは目をつけられていた。当初は、そういった同僚たちのアウトサイダーぶりに不信感を持っていた紅谷であったが、行動をともにする数年のうちに、じつは人間らしいその本質に感化されてゆくのであった。そうして続く日常の最中、元悪徳警官が何者かに襲撃されるという事件が起きる。警察内部からも、ヤクザや犯罪組織からも忌み嫌われていた存在だけに、その事件は今まさに闇に葬り去られようとしている。誰も捜査を望んでいない状況下、自分の信念に従い紅谷は、危険を承知で、ひとり目撃証言を集めるのだった。というわけで、この巻にて、いったんの完結である。が、しかし、このマンガは、ほんとうに秀逸であったと思う。人間とはなにか? 幸福とは何か? 愛情とは何か? 正義とは? 悪とは? そういったステレオタイプな問いかけを、表層に飛び交わせながら、根底の部分では、答えなどない、といった諦念のようなものが敷かれている。だが、諦念はけっしてシンプルな敗北ではなくて、それでも問い続けなければならないという、執念に近しい、強靭なメッセージへと逆転勝利している。もしも目の前で理不尽な暴力がふるわれたとき、この世のなかはどこか間違っている、と誰かが言うだろう。あるいは、誰もが言うだろう。けれども、では世のなかの正しい姿とはどのようなものか、そういった問いに対して、誰がいったいどのような言葉を返すことができるのだろうか。わからない。それでも僕たちは言い続けなければならない。この世のなかはどこかが間違っている、と。そのために、死なず、生き続けなければならない。
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2005年08月12日
 タッチ 7 完全版 (7) タッチ 8 完全版 (8) タッチ 9 完全版 (9)

 〈ストレートは上杉、変化球はこのおれのコピー、メッキがはがれりゃただの小心者さ〉と勢南の西村に評されてしまう吉田は、そもそものモチベーションが上杉達也のオルタナティヴになることだったわけだが、上杉達也の場合は、けっして上杉和也のオルタナティヴになることを目指しているのではなかった。ここらへんが『タッチ』というマンガの肝でもある。周囲の人間は、達也が和也並の活躍をし、和也の不在を埋める、和也のかわりとして見事その役割をつとめることを期待するのだけれども、当人は、むしろ和也以上のレベルに自分を持っていくことを志している。しかし、上杉和也という人物は、すでに亡く、その存在感は、もはや残像でしかない。蜃気楼をいくら追いかけても追いかけても追いつけることはないのと同様、不在の人物と勝負し、乗り越えることは不可能に近しい。だが、もしも、ひとつだけ乗り越えた証明になるものがあるとしたならば、それは浅倉南を甲子園に連れて行くことなのだろう。達也は、南を甲子園に連れてゆこうとする、それは和也の夢を叶えてやることであると同時に、和也のかわりをつとめることでもあり、その結果として和也を乗り越えたことにもなるのではないか、達也が野球を続けるモチベーションは、そのような体でキープされている。さて。いよいよ柏葉監督代行の登場である。この完全版でいえば、10巻以降になるのだと思うが、僕は『タッチ』終盤のクライマックスは、新田との対決ではなくて、達也と柏葉監督代行との、絶妙な心理戦であると考えている。柏葉監督代行がその胸のうちに抱える闇の原点は、才能のある兄のオルタナティヴとして使い捨てられたという事実である。しかし、同じような宿痾に縛られながらも、けっしてネガティヴに陥らない達也や南との接触を通じて、柏葉監督代行は、自分は他の誰の代わりでもないことを教えられる。

 第4巻から第6巻までについて→こちら
 第1巻から第3巻までについて→こちら 
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2005年08月11日
 大正そして昭和にかけて活躍した実在の女性ランナー人見絹枝、彼女の短くも熱かった生涯を、比古地朔弥がその独特なタッチでマンガ化したのが、この『ライジングガール!』である。そういった組み合わせは、イメージ的になんとなく意外な気がするが、比古地のエロティックでノスタルジックな作風は、ここでは、肉感的な描写とレトロスペクティヴな雰囲気の具現につとめており、また抑圧された女性の自意識を扱っているという点では、従来の作品に近しい無常の儚さが宿っている。僕は人見絹枝という人物に関しては、ずいぶんと昔に、このマンガでも参考資料として使われている『知ってるつもり?!』というテレビ番組で知った。それを見たときも、泣けて泣けて仕方がなかったのだが、これを読んでいる最中もやはり、止めどなく涙が溢れてきてしまうのだった。それというのは、ある女性の生き方が、生き方として、人の胸を打つ、そういう因子を含んでいるからなのだと思う。戦前の日本においては、女性が運動をすること自体が珍しかった。そういった環境のなかで、体を動かすことの楽しさを覚えた絹枝は、スポーツ選手としての天分の才を発揮してゆく。しかし、それは同時に男性社会における無理解との戦いでもあった。感動的なのは、孤独の泥沼に足をとられながらも、後発の世代のため、先行する世代のつとめであるかのように、けっして走ることをやめない絹枝の、悲しいほどに切実な姿だろう。自分が権利を諦めたら、ここで倒れたら、続く人々もそれを受け入れなければならなくなる。そういった倫理観のようなものが、全編からじりじりと滲み出ている。絹枝は24歳の若さで亡くなるけれども、その24という歳月の重みは、現代のモラトリアムのなかで僕たちが積み上げた同じ数字よりも、ずっと尊い。ああ、そうか、覚悟と責任か。
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2005年08月10日
 ショート・プログラム 新装版 1 (1) ショート・プログラム 新装版 2 (2)

 新装版ということで、これまで未収録であった作品が組み込まれるのかな、と思ったら、ほんとうにただの復刊だった。内容は前のといっしょ。しまった、持ってるのに買っちゃった。言ってよ。つまり、以前の『ショート・プログラム』を持っている人は買わなくてもいいよヴァージョンである。まあ、持っていない人は是非とも買った方がいいよヴァージョンともいう。1集目は、基本的に80年代に発表された短編が、2集目には、主に90年代に発表された短編が収められている。やはり80年代が、あだち充の充実期だったのか、1集目の方が、やや濃ゆいような感じがする。のだが、個人的には、2集目の「ゆく春」という作品がベストである。僕はこれを読むと、いつでも泣けてきてしまう。主人公と、亡くなった親友と、昔好きだった女性との三角関係を扱った、よくあるストーリー・ラインなのだけれども、切なさの指数が、おそろしいほどに高い。友情は友情として語られず、愛情は愛情として語られない、そうしてほんのすこし幸せから縁遠い場所に辿り着いてしまった、それでもたしかに、友情は存在したし、愛情があった。そのことを忘れない。春に訪れる別れが悲しいのはどうしてだろう、その理由とともに、ふたりの気持ちは静かに秘せられる。
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 いっぽん! 6 (6)

 楽して生きたいし、努力なんてしたくない。ははは、賛成、大賛成。だけど、それで得られるものってあるのかなあ。「ねえよ」と言われている。まあ、そりゃあ、乗り越えるものがあった方が、やる気が出るもんな。主人公である春が所属する酒高柔道部は、激戦を勝ち抜き、ついに県大会決勝へと進む。対戦相手は、宿敵黒羽高柔道部である。黒羽高で「世界」と呼ばれるルーキーが、春に向かって宣言する。〈私の名は菅原孝幸…いずれ世界一になる男だ!!〉。その言葉を聞いた春の心に、エンジンがかかる。この巻のハイライトは、春のチームメイトである橋と、その中学の頃の同級生近藤との一戦だろう。練習に真面目に取り組めなかったせいで、かつては格下であった近藤よりも、実力の劣ってしまった近藤は、春との出会いを通じて、クソみたいだった過去と訣別しようと決めた。その成果が、いよいよ試されるときである。近藤との実力差は、けっして埋まったわけではないが、自分が凡人だと認めた上で、それでも諦めをみせない橋の気迫が、じょじょに近藤を追い詰めてゆく。このマンガを読んでいると、負けや失敗から学べることって、きっと、たくさんあるんだぜ、って思う。弱い自分が悪い、という発想は、ポジティヴであることとネガティヴであることの両の面を持っている。それをどちらの側に転がしていくか、人はその間で揺れながら、悩みながら、奮闘しながら、前進してくしかないのかもしれない。と、それはそれで面倒くせえよ、という気持ちはわからないでもないけれども、才能や余裕のない人間はいつだって悔しい思いをするよ。坊ちゃんじゃないからさ。その悔しい思いを払うためには強くなるしかないのであって、強くなるためにできることなんて限られている。その限られたうちのひとつが、がんばることであるのならば、何を賭けてもやるしかねえんだった。

 第4巻についての文章→こちら
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2005年08月09日
 ダブルソウル 6 (6)

 自分の身代わりになって異形に姿を変えられた親友杏子を救うため、見えないものを感知する能力を持つ女子高生小梅は、悪霊祓いの力を持つ少年一矢とともに、邪霊との接触そして退治の旅を続けていたのだった。やがて訪れたのは秋葉原、そこで杏子そっくりのフィギュアを見かけた小梅は、その人形をつくった原型師のもとを訪れる。次巻にて完結ということで、ラスボスに近いランクのキャラクターが登場し、主人公たちは窮地に陥れられる。正直なところ、ストーリー・ラインにはいまいちな点があるが、大きなコマのなかで、そのおどろおどろしいタッチの絵柄が動きをとめる瞬間には、目をひきつけられる。三浦健太郎『ベルセルク』以降といった、いかにもグロテスクな造形ではあるけれども、それを、西洋的かつファンタジックな世界観から、東洋的かつオカルティックな世界観へ移し替えようとすると、なんと巻来功士『ゴットサイダー』あたりに近しい、カスタマイズされディフォルメされた伝奇が現れるという、意外な発見はある。フォーマットが物語をつくるのか、物語がフォーマットをつくるのか、といったことを、すこし考えた。
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2005年08月04日
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 『週間ヤングサンデー』36・37合併号掲載の読み切り。同誌25号にて行われた「あだち充監修:YS的美少女コンテスト」という企画は、要するに、あだち充がデザインした5人の架空のグラビア・アイドルを使って読者投票を行うという、よくわからないものだったが、そのなかでもっとも人気の高かった里美あずさをヒロインに起用したのが、このマンガ『アイドルA(エース)』である。若者から絶大に支持されている女子高生アイドル、里美あずさには知られざるもうひとつの顔があった。高校球界を騒がす実力派ピッチャー、平山圭太はじつは彼女の男装した姿だったのだ。その秘密を知るのは、監督をしている彼女の父親と、そして彼女の幼なじみである、本当の平山圭太だけだった。なるほど。そのようなわけでタイトルが「アイドル」と「エース」なのか。基本的には、あるカップルにおいて女性の方がまず優れた才能を顕在化させているという、あだち充得意のパターンを使った内容である。大きなトラブルは何も起こらないのにしっかりとおもしろい。そのあたりはたぶん、場面展開のテクニカルな処理によるものだと思うのだが、それをそれと感じさせないところが、さすが。

 里美あずさのプロモーション・アニメ観られます→こちら
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2005年08月02日
 逃げちゃ駄目だ、みたいなシンプルなメッセージが有効であるためには、つまり、勝ち負け関係なしで戦うことはできるけれども、勝つためには戦わなければならない、という前提が成り立っていなければならない。そういうのは面倒くさいから関係ねえよ、っていうのは、まあ有りといえば有りなのだが、それはちょっとひどい敗北主義だ。福岡から六本木の超一流イタリアンへと料理のヘルプに出向いた主人公伴省吾は、その戦場に似た凄まじいキッチンの熱気にあてられる。何度も折れそうになる心を、そのたびに歯を食いしばり持ち堪えさせる。ようやく先輩料理人のペースに合わせられるようになった彼に、ついにフライパンを振るう機会が与えられる。生き様系のものが多い料理マンガのなかでも、このせきやてつじ『バンビーノ!』は、その紙面から放たれるスピード感によって、独自の路線を確立しているように思う。師匠なり先輩なり客なりの至言の裏付けをとってゆくタイプの修行ではなくて、至言自体はあるのだが、まず体や本能のレベルでそれに近づいてゆくというスタイルの進行である。そのため、挫折したらそこで負け、おしまい、という部分がダウンというカタチでわかりやすく強調され、それを回避すべく奮闘する姿が、テンションの高い、迫力のあるシーンの連続に繋がっているのだった。

 第1巻についての文章→こちら
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2005年08月01日
 おもにヤンキー・マンガを描く高橋ヒロシは、かつてインタビューか何かで、自分の作品のある登場人物が読み手から過剰に支持されていることについて、憂慮を語っていた。そこには、アウトサイダーとして生きる(死ぬ)ことが美化されてしまう、そのことへの危惧があった。アウトサイダーとして生きる(死ぬ)ということは、たしかにいっけん格好良い、が、しかし、アウトサイダーにはハッピーエンドはもたらされない、それはほんとうにすばらしいことなのか。同様の疑問は、本宮ひろ志も『男樹』の続編によって、提出している。資本制においては、基本的に、金がなければ生きていけない。ふだん僕たちが生活していて、社会へのコミットメントを自分から必要とする場合というのは、たいていが金に困ったそのときである。だが、ヤンキーあがりの人間が、ドロップアウトした立場に止まったままで、金を稼ぐためにコミットできる社会というものがあるとしたら、すくなくともヤクザに関わりのあるもの以外には、ほとんど存在しないのだろう。それはやっぱちょっと、ね。だから高橋ヒロシは、ヤンキーというモラトリアムが終わったあとで、ギャングにならざるをえなかった登場人物に対して、読み手がつよく共感することへ向け、なにか一言いわなければならなかったのだ。以上、前置き終わり。

 さて。真鍋昌平『闇金ウシジマくん』の2巻である。この巻で、闇金融の社長である丑島が渡り合うのは、ヤンキーとヤクザである。真鍋のマンガは、モラトリアムをイコール怠惰と仮定して、そのことにどうやって決着をつけるか、というのが基本線になっているが、もちろん、ここでもその図式は適用されている。たぶん高校には進学していない、貧乏な母子家庭で育ったマサルは、悪い仲間たちとともに、ヤンキーというモラトリアムを満喫しているが、しかし、その胸中は圧倒的な無気力によって支配されている。それを誤魔化そうと、大きく羽目を外した結果、暴走族の人間である愛沢という人間に、追い込みをかけられてしまう。愛沢は、滑皮というヤクザに、恐喝されている。なるほど、ある種のヒエラルキーが出来上がっているわけだ。すでにヤクザとして資本制社会にコミットしている滑皮はともかく、モラトリアムの渦中にあるマサルと愛沢は、上位階級に献上するための費用を捻出する術を持たない。もちろん働けばいいのだが、そもそも働くモチベーションの欠如が、モラトリアムの遅延を要求し、社会へのデタッチメントを促すのである。じっさいに愛沢は〈日本中のバカが集まる工業高校を中退して、知り合いのつてで入った塗装工も運送屋もダルくてすぐ辞めてしまった〉のだった。そのようにして怠惰とイコールであるモラトリアムと決着をつけられない愛沢は、丑島襲撃を計画する。マサルはといえば、丑島に隷属することになる。いずれにせよ、底のない深い闇へと堕ちてゆく。

 いや、しかし、このマンガはいったい誰にどのようにして感情移入すればいいのか、わからないところがある。ある程度の感情移入は、物語からの働きかけである以上、重要だ。1巻で登場した初々しい新入社員の高田が、かろうじてその役割なのかなと思っていたら、この巻では、女性に関してわりと非情になっていたりする。うーん。結局のところ、すべて敗者のゲームである点が、時代性を抽象的に捉まえた風に機能し、それが読み手へのリンクとなっているのかな。ハロー、僕たちの暗い未来。

 第1巻についての文章→こちら
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2005年07月31日
 『ease』Vol.3掲載。読み切り。「ひみつの持ち方……?」という特集内の一編。主人公である伊達は、学生時代に付き合っていた女性のことを、未だ忘れられずにいた。いまマンガ家になった彼は、彼女の面影を、自分の作品のなかに描いてしまう。滝沢麻耶の作品は、『リンガフランカ』もそうだったんだけれど、全面的に屈折したコミュニケーションを題材にしている。結局のところ『リンガフランカ』のお笑い芸人も、この『smoke』におけるマンガ家という職業も、メインのファクターではない。では。屈折したコミュニケーションとはいったいどういうことか。それはつまり、「あなたが好きです」という想いが、なぜか「あなたが好きです」という言葉に変換されず、その変換されないことへの思い悩みが、「あなたが好きです」という想いとしてメッセージ化されることである。愛が愛として語られないとき、「きみとぼく」の間に愛が介在していると、どうしたら証明できるだろう。そのような自閉の問題が深く横たわっている。滝沢の描く、びっくりしたような、がっかりしたような、照れくさそうな表情が、もしも読み手の琴線に触れるとしたならば、それというのはきっと、八方塞がりな自意識を抱える登場人物に、どこか自分と似たところを見つけるからなんだと思う。
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2005年07月29日
 静かなるドン (1) 静かなるドン (2)

 テレビ・ドラマやVシネマなどで広く知られる『静かなるドン』だが、じつは僕はオリジナルのマンガ版に関しては、鳴戸が死んだあたりからしか読んでこなかった。そのようなわけで、このたび文庫化されたのを機に、読み直していくことにしたのだが、これが思いのほか面白い、よく出来ている。昼間は下着メーカーで働くサラリーマン近藤静也、その正体はしかし広域暴力団新鮮組の三代目総長であったのだった。というストーリーは、今さら説明する必要もないだろう。新田たつおのマンガは、たとえば『凡人組』シリーズもそうだし、『サラ忍マン』なんかもそうなのだが、表向きはシステムに従順であるけれども、本質はアウトロー(システムに対するアンチテーゼ)という主人公を扱ったものが多く、本作もそのパターンにあたる。いや、初期の頃の作品は読んだときがないのでなんとも言えないが、もしかしたら、そういった構図自体が、本作によって確立された可能性もある。奥付をみると、80年代後半から連載がはじまっている。いっけんヘラヘラとしているが、じつは芯が通っているという設定は、ある意味では、時代性にともなう、硬派と軟派の相克によって生じたものなのではないか、といった推測もできる。や、まあ、それはそれとして。巧いなあと思うのは、死ぬときはあっけなく死ぬんだけど、それまでは、いったん登場させたキャラクターはちゃんと使い切ると、そういうつくりである。この文庫版でいえば、2巻の最後のエピソードで登場する同僚の馬場さんとその兄である刑事などは、ギャグの読み方をすれば、ふつう使い捨てのキャラである。だが、連載が長期化するにつれ、全体の流れがコメディからシリアスに移行してゆくと、再登場し、深く物語に関わってくるようになる。そうしたリサイクル能力というか、キャラクターの側を作風へと順応させてゆくセンスは、この作者のじつに特筆すべき点だと思う。
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2005年07月28日
 正直、惰性で読んでいる風で、それほどおもしろいとは感じていなかったのだけれども、この巻を読んだらちょっと、考えるところがあった。吉田秋生のマンガというのは、基本的には、主人公なりヒロインなりが、非情であるというか、クールを気取っているというか、そういう造形の為されている傾向が強い。『カリフォルニア物語』のヒースや『吉祥天女』の小夜子とかにも、そのケがあるし、本作との登場人物の重複から、ひとつのシリーズとして捉まえるのであれば、『BANANA FISH』のアッシュや『YASHA-夜叉-』の静(凜)なんかも、もちろんそういった感じだろう。ただ、これまではそのクールさというのが、ある種のアパシーによってもたらされているとした場合、そのアパシーは、トラウマなどの精神的なドラマが駆動することで成り立っていたわけだが、この『イヴの眠り』における死鬼の非情さっていうのは、もうぜんぜんべつのレベルで成り立っている。それこそ優生学、あるいは遺伝子的に、彼は人を殺すことが許されている。そこに倫理や感情は存在しない。だから、その殺戮行為が物語化していくこともない。この巻で、今井という登場人物が死鬼について言及しているのは、たぶん、そういったことだ。ほんとうなら、それを相対化して、物語を立て直すエモーションとして主人公のアリサが設定されていると思うのだが、いかんせんキャラが弱すぎる、結果として死鬼のアパシーに物語そのものが殺されていく。本作が退屈な原因は、そのような構造にあるのだが、今井のセリフを見る限り、なんとなく作者もそれをわかってるんじゃねえかって気がする。もうちょい言えば、アリサに託すべきエモーションなり希望なりを、じつは作者自身がまだ断定しきれないのではないか、とさえ思う。才能の衰えとか、そういうことではなくて、時代性の問題として。
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2005年07月27日
 武打星 2 (2)

 毎日を怠惰に過ごす青年、神野武は、ふとしたはずみで中国映画の日本ロケに参加することになる。そこで体験したワイヤー・アクションに魅せられた彼は、スタントマンを目指し、単身中国香港へと渡るのだった。『SPEED KING』終了後、音楽雑誌『クッキー・シーン』でサブカル調の薄っぺらいマンガ(イラスト?)を発表し、ソフト・ロックを聴きはじめると男は駄目になる、という偏見を僕に植え付けた間部正志であったが、ようこそ、ふたたび「燃え」の領域に帰ってきた。絵柄は多少変わったけれども、いや、しかし、これ、『武打星』は間違いなく『ノーホシTHEルーザー』そして『SPEED KING』に続く、第三の漢(おとこ)の叫びである。1巻で、ようやくスタントマンになるための入り口に立った主人公は、この2巻で、その才能をじょじょに開花させてゆく。派手な体術を次々にマスターしてゆく。男子三日会わずば刮目して見よ。才能の裏付けとなるのは、やる気に基づく努力とガッツ、さらには負けん気である。他人を蹴落とすことに戸惑いのないライバルたち、おい、だけど、それは間違ってるぜ、って思うのであれば、口で誤魔化すんじゃなく、生き方によって証明するしかねえのであって、そのへんが、やっぱりジャストに燃える。大好きな女の子におだてられれば、どんなデンジャー・ゾーンにだって飛び込んでしまうシンプルさも、またよろしい。男の子っていうのは、まあ、そういうどうしようもない生き物であったことを、思い出す。
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2005年07月26日
 くっつくところはすでにくっついてしまったので、テンヤワンヤが起るとしたら新キャラを投入せざるをえないところで、登場した新キャラによるトラブルも収束し、あとは大団円を待つばかりなのだけれども、そうか、ここで当初から存在しているサブ・キャラクターを使って別れ(旅立ち)を入れてくるのか。それぞれに愛着がある分だけ、やや泣きである。けど、まあ、もうほとんどルーティン・ワークですよ、といった感じ、題名であるLOVELY COMPLEXのコンプレックスの部分もすでに無理矢理気味なので、ぼちぼち話を切り上げていただきたい。さいしょの数巻に比べると、やっぱりずいぶんパワー・ダウンしてる。保って、あと1巻ぐらいではないかしら。それ以上続くと苦しい。って過去ログ読んだら、8巻の時点から同じことを言ってんだ、僕というやつは。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
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2005年07月23日
 デビルマン黙示録 STRANGE DAYS

 まず概要をいうのであれば、オリジナル『デビルマン』の世界観を拡張させた『AMON デビルマン黙示録』の、そのサイド・ストーリーになっており、シンプルに話のラインを取り出すと、ロック・バンドを組んだある高校生たちの愛と友情といったところである。オリジナル『デビルマン』とのリンクのためだろう、人類最後の夏は197X年にやってきたように設定されている、そのことが70年代を舞台にした良質の青春小説や青春映画のような、大人社会との軋轢にあえぐ若い純粋さの、直接的な描写へと繋がっている。オリジナル『デビルマン』においては、人類総体の業こそが作品のアウトラインを作っていたが、ここでは(『AMON デビルマン黙示録』自体がそうなのだけれど)、個人個人の自意識が物語を駆動させるキーになっており、そういった部分においては、じつに90年代以降を感じさせるテイストであったりもする。また、そのような登場人物たちにおける自意識の在り方は、見ようによっては、不動明と飛鳥了という、ふたつの根源のヴァリエーションとなっている点が、興味深い。つまり、「大きな物語」だとかといった言葉を使わせてもらうのであれば、70年代オリジナル『デビルマン』は、まだ「大きな物語」の生きている時代の産物であるがゆえに、善や悪への問い、あるいは人間存在への不信は、必然的に人類という大きな枠に届くことができたが、もはや「大きな物語」の機能していない現在においては、善や悪への問い、あるいは人間存在への不信は、どれだけ大げさに語ろうとも、結局は個人的な内面の葛藤に着地せざるをえないのである。と、そのようなことはもしかしたら、どうでもいいのかもしれなくて、表紙のギターを弾くデビルマンが、素直に、かっこいい。デビルマンとロック・ミュージックの親和性の高さは、「あとがき」で永井豪がいっているとおりであるけれども、それをここまで具現的に描いてみせた衣谷遊の手腕は、やはり評価に値するのだろう。このコンビは、どうやら本作をもって解消となるみたいだが、なんかすこしもったいない気もする。
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2005年07月18日
 繰り返し読むたびに新しい発見があるというのは、一言でいえば、すばらしいことだな。上杉和也の死後、達也と孝太郎の和解は、『タッチ』という物語において、とても重要なモーメントのひとつである。

 それまで達也のことを良く思っていなかった孝太郎が、はたしてどの時点で、達也の存在を受け入れたのか。あだち充の巧みなストーリー・テリングは、決定的な転換を、読み手にそれとは意識させないのだが、おそらくは、西村率いる勢南戦のさなかではないかという気がする。いや、たしかにそれ以前にも、ふたりの間にある空気は、じょじょに緊張を緩和させているのだけれども、そのことはどちらかといえば、達也のほうの一方的な歩み寄りによるもののように思える。孝太郎が、達也を、和也の代替ではない、いち友人として認めたのは、やはり勢南戦においてなのだった。

 勢南戦で、孝太郎は、大きなミスをふたつ行う。どちらも、明青に勝利へと繋がるような得点がもたらされる、そういう大事な場面にかかっている。そのため、孝太郎の肩の落とし具合は、読んでいて、辛くなるほどだ。が、そのどちらをも唯一救うのが達也のフォローなのであって、その2回のフォローなしでは、その後に展開されるような絶対的な信頼関係は育まれなかっただろう、と考えられる。

 とくに孝太郎の2度目のミステイクに対する達也の態度は、名場面のうちのひとつに数えられるぐらいに感動的だ。また、そのへんの見せ方に、あだち充のマンガの巧さが伺える。この完全版でいえば、P307からP327のくだりである。

 両校ともに得点なし、緊迫した状態で試合は続いている。達也の消耗は激しい。と、そのとき雨が降ってくる。ベンチでうなだれる達也、バッターボックスに立つのは孝太郎である。このとき、孝太郎は打順を間違えている。味方の側で、それに気づいているのは、達也だけなのだが、時すでに遅く、孝太郎はホームランを打ってしまっているのであった。もちろん無効である。だが、思いがけない勝利の予感に味方のベンチは沸いているのであって、さらには孝太郎自身が最初のミスを取り返したとばかりに感涙しているのであって、そのぶん無効であることが判明したときのダメージは大きい。しかし、そのダメージの大きさは、達也のさりげない優しさによって、かろうじて救われる。遠くから達也を見つめる、浅倉南の〈打順を間違えた孝太郎くん、気づかなかった石垣さん…その二人に責任を感じさせないために――〉というセリフが、その場で起ったことをうまく説明している。

 試合終了後、時間は進行して、達也と孝太郎は進級している。そのときにはもう、達也と孝太郎の間には、かつてのようなわだかまりは微塵もない。むしろ深い理解によって、ふたりの関係は支えられている。のちの展開において、その関係が、物語のひとつの支柱とし機能しているのは、周知のとおりである。

 第1巻から第3巻までについての文章→こちら
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2005年07月16日
 ロボットであるところの少年と人間であるところの少女が恋に落ちる、という時点でハッピー・エンドは期待できず、2人(正確には1体と1人)の愛情が深まれば深まるほどに、悲劇の予感を増していくのだから、読んでいて切なくなる。はたして人工知能は心を持ちうるのか、といった題材自体は、これまでにも古今東西さまざまなSFジャンルで扱われてきたものであって、このマンガの場合はたぶんスピルバーグの映画『A.I.』が直接の影響源なのだと思うのだが、それを「きみとぼく」におけるラヴ・ストーリーに仕立て上げたところが、末次由紀『Silver』の魅力ではある。少年は、少女に承認されることだけを唯一の行動原理にする、それはプログラムとして決定されていることなので、他のいっさいの出来事をシガラミとして感じる必要がない。また一方はロボットで、一方は人間という関係は、セックス(性交)の予防線として機能しており、そのことがプラトニックの要素というか、純愛に見えるものの度数を高めている。
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2005年07月14日
 いっしょに遭難したいひと (2)

 やあっと読めた『一緒に遭難したいひと』の第2巻である。何年だろう。7、8年振りか。いや、しかし西村しのぶの描く女の子たちは、相変わらず二枚目である。ハンサムだ。この巻では、キリエと絵衣子の神戸コンビにもうひとり、東京住まいのショーコが合流する。衣食に対して、できる限り心の動くままに生きようとする彼女たちのライフスタイルは、ほんとうに見ているだけで、気持ちがいい。晴れやかだ。逞しいとか、強いとか、そういうんじゃなくて、身のこなしが軽いんだろうな、と思う。だから颯爽と進む彼女たちに、いつも男の子たちは遅れをとってしまう。その姿がとても幸福に見えるというだけで、西村しのぶのマンガには読む価値があるし、待つ価値があるのだった。と、『メディックス』の単行本化はまだなのかしら。
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2005年07月12日
 結果論的に考えれば、打ち切りになった作品というのは、そのマンガ家にとって、習作のようなものなのだろう。いま現在、高橋ヒロシと組んでやっている『Hey!リキ』が好調っぽい永田晃一であるが、それ以前の作品であるこの『ランディーズ』を読むと、なるほど、ある程度の方向性は定まっているけれども、そこにかける力加減がうまくいっていない印象だ。都内で便利屋稼業を営むランとケイジの、ランディーズは、さまざまなトラブルを、ほとんど力業によって解決する。危なっかしいギャングたちだって拳で片付ける。前半は、そのようなトラブル・シューターものとして展開するのだが、後半は、ランディーズ結成時に遡ることで、ヤンキー・マンガへと変質する。回想編と地続きで、血なまぐさい抗争に突入してゆく話の流れが、高橋ヒロシ『キューピー』と被りまくりであるのは、現時点から見る分には、愛嬌のように思える。「あとがき」によれば、柳内大樹とも交流があるらしい。へえ。で、思ったのは、誰かヤンキー・マンガ家のファミリー・トゥリーみたいなものを作ってくれねえかしら。ところで、同時発売になった『Hey!リキ』第4巻を読むと、もう『WORST』と区別のない、団体戦的な各校の勢力争いみたいなものがストーリーの主軸になっているわけだが、これと読み比べてみると、このマンガ家の本質はそういったところにはないような気がする。
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2005年07月05日
 零細

 この江上鴻基『零細リベンジャー』、表記上は1巻なのだが、現在『漫画アクション』誌では、なぜか連載が途切れている。しなびた経営コンサルタント会社に、ふらりと姿を現した謎の青年ユウジは、たまたま居合わせた倒産寸前の相談を、そのアクロバティックなアイディアによって救う。いっけんチャラチャラとして、軽薄そうな態度をとるユウジだが、経営に関する知識、銀行との駆け引きの手腕にかけては、目を瞠るものがあり、その胸中には、中小企業に対する真剣な配慮と、そして暗く重たい過去が隠されているのであった。このマンガの肝は、ある一定のヒエラルキーのなかで、その立場が逆転する際のドラマを、机上における登場人物たちのやり取りによってのみ成立させている点である。会社が潰れる潰れない、そういった場面における悲哀を、わりとドライに抑えることで、よくある人情劇の枠組みに止まらないところへと、内容を押し上げている。いや、だからこそ逆に、ユウジの〈経営に向いている人間なんて一握りだ それでも みんなやってかなきゃならねんだよ〉というセリフは、ある種のリアリティを持って切実に響く。それと毎回のおっさん(吉田さん)のとても哀愁な表情がいい。この1巻のラストでは、秘せられていたユウジの衝撃の事実が明かされる。その見せ方も巧い。というわけで、早く続きが読みたい僕なのである。
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2005年07月02日
 ぼくらの 3 (3)

 本人たちの与り知らぬところで地球の命運を握らされてしまった14人(15人)の少年少女。巨大なロボットに乗り込み、世界を1度救う、その度に、1人死ぬ。逃れられない状況に追い詰められ、彼や彼女は平和だった頃のことを思う。だが、その記憶のなかでさえも、けっして平穏無事なわけではなかった。14人中4人が死亡。そして『ぼくらの』第3巻は、学校ではパシリをやらされているカコと、登場人物紹介によれば「正統派お嬢様タイプ」であるところのチズの、ふたりのエピソードを中心にして進む。ところで『COMIC新現実』5号、みなもと太郎「トーク版お楽しみはこれもなのじゃ」(インタビュアーは大塚英志)を読むと、大塚が、鬼頭莫宏の『なるたる』の「壊れ」について語っている。その「壊れ」は、ストーリーのレベルはもちろん、絵のレベルにも関連しており、そのせいで『なるたる』は「しっくりこない」と。しかし、どうなんだろう。そのことについては、大塚自身がうまく言語化していないので、なんとなくで推し量るしかないのだけれども、僕なんかの感覚だと『なるたる』というか鬼頭の作画は、壊れているようには見えず、むしろスムーズに読みやすいし、しっくりくる。結局は、倫理とかスキル、ディシプリンとかの問題ではないのだと思う。じゃあどういうことかといえば、それはたぶん、イノセンスがイノセントであることによってでは実証できない場合、また、大人たちが子供たちに利己的であれと教えたのだとした場合、ある種の規範、たとえば大人が大人であり子供が子供であることの意味なんかは、あらかじめ剥奪されている。そのような意味のなさに耐えうる、あるいはべつの意味だけが付与されるような、そういう線を鬼頭は使い、そして物語は紡がれているのである。

 第2巻についての文章→こちら
 『鬼頭莫宏短編集 残暑』についての文章→こちら
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2005年07月01日
〈なら、世間て・・・・敵か?〉〈・・・クソや〉。尊敬していた父親を信じられなくなった甲斐は、いよいよ輝一の本格的な参謀役として活躍しはじめる。周囲の人間を巻き込まずにいられない輝一の激しい感情は、結果として児童売春の犠牲者である同級生みさとを救うような、そういう国家権力との戦いへと移行する。マスコミのカメラが、次々と大人たちにハンマーを振り下ろす輝一の姿を追う。かつて日本中を揺るがした、たったひとりの小学生が、停滞し閉塞した日本を、再び動かそうとしている。

 言うまでもなく、世界はクソである。が、しかし、そうしたクソであるところの世界でしか生きられない自分とは、いったい何なのだ。と、まるでゴミのような理屈で悩むのは簡単だ。しかし輝一は迷わない。あくまでも「気に入る」「気に入らない」という直感のレベルでもって行動している。クソのような連中をぜんぶ駆逐すれば、世界はクソでなくなる。それは余計なノイズを含まない分だけ、純粋であり、あるいは真実に近しい。そういった言い切りみたいなものがそのまま、「キーチ!!」というマンガの説得力となっている。

 ところで新井英樹の作風に宿っている暑苦しさというのは、主人公以外の登場人物を駆動させるモチベーションがカーニヴァル(2ちゃんねる)的なドライヴ感でしかない、そのような俗っぽさを、どこまで意図的なのかはちょっと断定できないが、しかしダイレクトに描いてしまうからなのだと思う。輝一に目をつけられ、敵対する大人たちも醜いが、輝一に感化され、行動をともにする大人たちもまた醜い。つうか、生きることの意味はともかく、覚悟と責任を、誰が誰に教えるのか。
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2005年06月30日
 蒼太の包丁 7 (7)

 料理人としての腕も上がり、親方や先輩からそれなりに実力を認められつつあった蒼太であるが、北海道で日本料理屋を営む父親が怪我をしたことを知り、店を手伝うために一時帰郷する。しかし、そうした行動に対して、彼の父親は激昂する。その険しい表情に、自分が未だ修行の身であることを強く思い知らされるのだった。主人公である蒼太が自分の未熟さを再確認するというのが、この巻における中心の動きだけれども、最初のエピソードに登場する月野という孤高の料理人が、やけにかっこいい。燃える。料理にかける情熱を集中力によって表現するのは、ある種のセオリーだが、そこらへんの描かれ方が巧く、説得力がよく出ている。そういう風に生きたいと思わせる匂いがある。ただ職人的な極め道というのは、他者と理解を共有することが目的ではないので、やはりどこか寂しいものに違いなく、その部分を蒼太という若い才能が、いかにして引き受けてゆくかというのが、『蒼太の包丁』の今後のテーマとなってゆくのだろう。

 第6巻についての文章→こちら
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2005年06月28日
 特務咆哮艦ユミハリ 1 (1)
 
 1回目読んだときは、正直よく話がわからなかった。富沢ひとしはもう駄目なのかもしれない、と思った『特務咆哮艦ユミハリ』であったが、2度、3度と読み返すうちに、その世界観とでもいうべきものが、朧気ながら見えた。すると、4度目、5度目と読み直すのが楽しくなるのだから、ほんとうはよく出来ているのかもしれない、と自分内の評価が見事に翻ってしまったのだった。

 なぜか理由は不明だが、さまざまな時代を生きる人間たちが同時に存在し、それぞれの覇権をめぐり戦いが行われている長崎の海。大正時代の住人である正一少年を乗せた調査船が、鎧武者の襲撃を受ける。渦中、第三の勢力であるらしい戦艦ユミハリの砲撃により調査船は沈む。海に落ちた正一少年と、その妹たちはユミハリに拾い上げられるが、安住のない海上では、またべつの時代の艦影が接近していた。そして目の前にある灰と煙に覆われる阿蘇の山には、土偶の戦士たちが待ち構えている。

 このマンガの構造を担っているのは、そのような各時代人たちのバトルロイヤル的な展開ではない。彼らの戦いに、それよりもさらに先の時代から来た未来人の存在が絡んでいる点である。その身なりが宇宙服であるように、彼らは、本来であるならばメタ・ポジションにいなければならないわけだが、しかし、過去の人間たちと同様の立場に甘んじている。つまり、ここに描かれているのは、メタ・ポジションがいったんの肯定ののちで否定される、そういう多層的に見えながらも、じつは圧倒的にフラットな時空なのである。

 どうしてこのような状況が生まれたのかとか、未来拡張というキーワードが何を指すのかとか、謎(伏線)があちこちに散りばめられているけれども、富沢ひとしのマンガの場合、それらを回収する手際を読むよりは、そういった謎(伏線)自体を含めて成り立つ世界観(雰囲気)自体が肝なので、どうせまた着地点はグダグダになるのだろうという予測のもと、その魅力の十分に発揮された新作だといえる。
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 めいわく荘の人々 (2)

 10年以上も前に愛読していたマンガが、こうして復刻されるのは、ちょっと感慨深いものがあるなあ。そうだ。五十嵐浩一『めいわく荘の人々』は、『ヤングキング』に連載されていたのだ。と、ふと思い出す。僕がこのマンガに愛着を持っているのは、90年代前半の雰囲気をじつにうまく捉まえていたからである。ストーリーは、かつて高校馬術界ではひとかどの人だった大学生坂本が、とある安アパートに引っ越してきたところからはじまる。アパートの住人たちは、みな一癖あり、圧倒される坂本であったが、やがてナンパ師の谷、ハードコアなオタクである安川といった同世代の住人たちと、交流を持つようになる。基本は、その3人がどのようにしてモラトリアムを過ごしたか、が軸になっている。序盤はけっこう明るい感じなのだが、青春の挫折が展開される中盤はわりと暗く、そして終盤は完全なオタク・コメディとなってゆく、そういった話の転がり方は、当時の世相とかなり密接にリンクしていた。今回配本になった1、2巻に関しては、バブルが弾ける直前が舞台ということで、トレンディ・ドラマ(死語)的なものへの意識が強く出ている。

 番外編『迷惑の人』についての文章→こちら
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2005年06月25日
 CRAZY FOR YOU 5 (5)

 恋愛をする際の基準に関して、そのヴァリエーションはともかく、極端なほど大雑把に分類するのであれば、絶対評価的な恋愛と相対評価的な恋愛のふたつになるのではないか、と、そのようなことを椎名軽穂『CRAZY FOR YOU』は教えてくれる。余談になるが、絶対評価的な恋愛の立場においては、ほんとうの愛はある、と言い易いが、相対評価的な恋愛の立場においては、ほんとうの愛はない、と言い易い。

 次巻でラストだからなのだろう、この巻では、さまざまな展開がぱたんぱたんと折り返す。ヒロインの幸は、ユキちゃんに対する一方的な慕情のために、赤星くんとの恋愛に踏み切れないでいる。幸の友人である登場人物たちが言うように赤星くんは〈ユキちゃんと比べて なんか劣ってるとこでもあんの?〉〈逆に言うとさ 赤星よりユキちゃんが勝ってんのって一体どこ?〉〈まあさあ 一般的には 10人中8人位はユキちゃんより赤星のが いい男だと思うんじゃないのぉ?〉であり、こちら読み手の側からみても、赤星くんは容姿言動ともになかなかの男前である。もしも自分に彼氏がいないとした場合、ほとんど拒否する理由が見あたらない。だから、この巻以前では、幸は赤星くんとの恋愛を真剣に考えようと努力する、その努力は、すなわち絶対評価的な恋愛から相対評価的な恋愛へと移行するための努力である。

 しかし結論からいえば、報われる報われないといったジレンマを切り捨ててまで、幸がとるのは絶対評価的な恋愛である。赤星くんの良いところはたくさん挙げられる、そういったレベルでみると、なぜ幸がユキちゃんに好意を寄せ続けるのかは、不明瞭である。それこそフィーリングといった言葉以外では表せないものだろう。だが、それは裏を返せば、なぜならこうですよといったロジックでは解決しないがゆえに、恋愛が、感情を向けるべき相手が、代替不可能であるという意味で、絶対になりうるということである。

 このマンガの切なさは、皆が皆それぞれ相対評価的な恋愛に落ち着けば、それなりに大団円であるような風に進みながらも、けっしてそうはならず、1人の人間の視線がべつの1人の人間へと固定される、そのような場面で強く働く純粋さだけをただ、信じるところからやってきている。

 第4巻についての文章→こちら
 第3巻についての文章→こちら
 第2巻についての文章→こちら
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2005年06月23日
 浅野いにおのことはあまり良く書けない。じゃあ詰まらないのか、といえば、そういうことではなくて、詰まらなければむしろ読まない。一息に読むが、しかし、うまく言えないわだかまりが残る。そのような複雑な感情は、僕が(浅野にとって、あきらかな参照項である)よしもとよしともの熱心なファンであるという事情が大きく関与しているのかもしれないけれども、それだけではない。ここらへんを、うまく言えれば、すこし前に進めるような感じがする。たとえば、拳銃の存在というのは、あるかもしれない。このマンガでいえば、拳銃が、ある小学生の手に渡る。しかし、それはけっして驚きへとは繋がってゆかない。自然なほどに死を無感情なものへと変える。ある種の不自由さを代替している。90年代前半の松本大洋に「リボルバー」というマンガがある(原作は狩撫麻礼)が、そこで高校生たちが手に入れるベクトルとは、まるで真逆の働きをしている。あるいは90年代半ばの遠藤浩輝「プラットフォーム」にある無感情さと比較した場合、そこにあるような喪失にともなう成長も存在しない。これが00年代の光景でありリアリティなのかしら、と、僕は思う。ストーリーは、なにか希望に似た場所に着地する。負のポイントを指し示していたベクトルが、中途で反転した結果であるのだけれども、それはたとえば、←の方向に70メートル進む、そこから→の方向に70メートルか、それ以上戻る(戻す)というのではなくて、←の方向に80メートル進まないことを良しとするような、そういう希望である。もうちょいいえば、死だけは具体的であるが、生はその合わせ鏡でしかありえない。その部分の痛ましさが、世代的であったり時代的であったりするのかもしれないけれど、やっぱり世のなかってどんどん悪くなっていってるんだなあ、と、どうも僕には肯定できそうもないのである。
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2005年06月19日
 『おれはキャプテン』は、高校生編になってから、滅法おもしろい。それは主人公カズマサの傍若無人さに磨きがかかっているからだろう。大人に対して、まったく配慮がない。体育会系の部活動はしたくはないという意思によって、各校からスカウトがやってくるほどの才能であるデレックと蝦名の2人を巻き込み、新設校に硬式野球部を作らせようとするカズマサの策略は、ほんとうに世間を舐めきっている。だが、このマンガでは、その世間のほうに感情移入できるポイントがないため、カズマサの企みがいっこ成立するごとに、わくわくするような興奮が生まれる。そのあたりは、むしろ作者であるコージィ城倉の策略の巧みさだろう。気に入らないやつが陥れられるのは、胸がすくことなのだ。にひひ。全体のつくりは、熱血野球マンガのパロディというかユーモアというアイロニーになっているのだが、捻れに捻れて、熱血というものはけっしてやらされるものではない、熱血とは自ら進んでやるものなのだ、という健全なメッセージに転化されてしまっているのが、えらい。さすが『砂漠の野球部』の人である。ただ、この快進撃ぶりが、本格的な試合でも見られるのかどうか、今後の展開はまだまだぜんぜん見えないといったところだ。
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 ZETMAN 5 (5)

 『ウィングマン』が、最後の最後までドリームノートの奇跡に救われたように、夢から覚めないヒーローを描いていたとしたならば、『ZETMAN』には、夢を見ることのないヒーローが描かれているといえる。大がかりに仕掛けられた罠に見事ハマってしまった大富豪の御曹司コウガ(高雅)は、絶体絶命の危機に陥る。そこで彼が聞かされたのは、プレイヤーと呼ばれる偽造人間たちの誕生の秘密と、欲望から生じたかなしい悲劇であった。コウガの胸中に訪れるのは失意であるが、しかし、それでも心は折れることがない。彼には彼の正義があった。それは、ただひとり生き残った少女を無事に家族のもとへと送り届けることである。当初より、正義とは何か? 悪とは何か? といった問いかけが、登場人物たちを追い詰めるマンガであるけれども、それはたぶん価値観の多様化によって、絶対的な正義や悪として規定されるイデオロギーが消失してしまった、そういう現代の風景を反映しているのだと思うが、目の前のか弱き人命を救うという一点だけは、まるで遵守されるべき使命のように機能している。ここまでのストーリーにおいて、それこそが、おそらく作者が提出しようとする、人としての正義なのだろう。ようやく気づいた。だが、しかし、そのほとんどが報われてはいないところに、より複雑な構造を見て取る。つまり、誰かを助けたいという夢が叶うことのないのが現実であったとして、それでも正義はまっとうできる、まっとうされているといえるのだろうか、という疑問が、正義は絶対にあるという命題と、つねに反証し合いながら同時進行しているのである。この巻のラスト、コウガの〈僕は何処にいくんだろう…〉という呟きは、そのまま「正義は何処に」という言葉に置き換えられる。なぜならば次巻、物語からはしばらく姿を消していた、コウガと対を為す、もうひとりの主人公ジンが心の折れた場所から再び動き出すのだった。

 第4巻についての文章→こちら
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2005年06月17日
 カラフル・パレット 5 (5)

 すったもんだの末に、同棲することを決意した真琴とシブカツであったが、しかしそれでも、大学を卒業し、社会人になったふたりの生活は、すれ違うばかりなのだった。そして、再びやってくる別れの予感。長く続いた恋が、辿り着く先はいったい。というわけで、この巻にて完結である。終わってみれば、当初は明確であった、真琴の化粧(を施すのが)上手という設定が、それはタイトルへも由来しているだけに、あまり生きなかったのは残念だったなあ。たしかに真琴は自分のそうした特性を自覚して、化粧品会社に就職するわけだが、そのことは、働く女性が夢を捨てずどう現実と向き合ってゆくかといった文脈に置換することができるけれども、やはり化粧云々は、あまりうまく作用していない。もったいない。ただアフター・モラトリアムの物語として並行してある、過渡期を経た恋愛の尊さみたいなものの描かれ方には、感心するところがあった。たとえ気持ちは変わってゆくものだとしても、また同じ気持ちがそこに戻ってくることもあるのだ。
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 タッチ 1 完全版 (1)  タッチ 2 完全版 (2)  タッチ 3 完全版 (3)

 映画公開にあわせてか、連載当時のカラーページを再現して、順次刊行となる完全版。僕が『タッチ』を買うのは、これで3セット目である。ばかなのか。へへへ。でも、ワイド版よりもサイズが大きいので、落ち着いて読めるという利点は、すばらしい。

 というわけで、序盤をひさびさに読みかえした。個人的には、柏葉監督代行が登場してからが好きなので、あんまり最初のほうは読まないのだけれども、こうして読んでみると、やっぱりおもしろい。とくに、あだち充はいつ和也殺しを決めたのか、という点で、ひじょうに引きつけられる。

 僕の推測では、それはけっこう早い段階に想定されていて、第15話ぐらいなのではないかという気がする。第15話は、篠塚かおりという美少女が達也と和也と南の三角関係に介入し、それぞれの想いを複雑化させるといった具合で話が進み、和也が南からもらったあの〈めざせカッちゃん甲子園!〉という色紙を見て、甲子園優勝を夢想するという2ページによって閉じられる。その夢想のなかで、南はつねに達也と行動をともにしている。ここらへん、ただ和也の内面が表現されているだけだといえば、それまでだが、後々の展開を考えると、すこし暗示的である。

 また20話で、周りに気を遣いすぎる和也に向かって、南が〈長生きしないよ〉というあたり、その後の和也の運命を知っている現在から振り返りみれば、すでに死の匂いが漂っている。

 さらには、達也の野球センス(ポテンシャル)が読み手に対して、目に見える形で提示されるのも、ちょうどその時期である。

 だが、もちろん、その後すぐに和也は亡くなるわけではなく、達也は野球ではなくて、ボクシングを部活動として選ぶことになる。『タッチ』は『あしたのジョー』へのオマージュだ、という説が一部にあるが、あだち充は執筆当時、『タッチ』を少年マンガという枠組のなかで、どのような方向に進ませるか、まだ模索段階にあったのではないだろうか。それは、野球マンガとして成立させるか、それともボクシング・マンガとして成立させるか、という部分での迷いとなって現れている。

 『タッチ』は『みゆき』とほぼ同時の連載であったことも重要だ。『みゆき』は、近親相姦的なタブーを扱っていたわけだが、『タッチ』の場合は、ともすれば同一女性をめぐる骨肉の争いみたいなものになる可能性もあった。そういった恋愛に関する泥沼的なシチュエーションは、70年代半ばから80年代半ばにかけての、たとえば大映ドラマの大仰さが一般受けしたことからもわかるように、当時にしてみれば、スタンダードな表現様式であったとさえいえる。その部分を、コミカルなノリで押し切ったのが、あだち充の先駆性であったわけだけれども。

 この完全版、あだち充が当時を振り返ったエッセイがカバーについている。これがもうちょい多い字数であったならば、資料として、言うことはなかった。
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2005年06月14日
 おうちでごはん 1 (1)

 スズキユカは、森博嗣の百年シリーズのコミカライズで知った人なのだけれども、こういうオリジナル作も、雰囲気はずいぶんと違うが、とてもとてもよろしい感じではないか。主人公の鴨川(通称カモ)は一人暮らしの大学生で、自炊マニアである。その彼と、同じアパートに暮らす住人たちとの、ドタバタとした食生活をめぐるコメディ。基本的に、あったかいエピソードの中心となっているのは料理なんだが、それとはべつに、ひとつ屋根の下で暮らす人々のモラトリアムものとしても読める。大人になるっていうのは、つまり、好き嫌いを無くしてゆくことで。食べられなかったものを、食べられるようになることで。受け入れることで。飲み込めるようになることで。わいわいガヤガヤと楽しいシーンが多いなかで、ときおり見せる寂しい表情が、ちょうどいいスパイスとなって、全体の味を引き締めている。
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2005年06月12日
 未来改戦Dクロウス 3 (3)

 未来を信じられないのは、明日に希望を感じられないからなんだろう。そこで、明日のことなんか知ったこっちゃないよ、と、そう言ってみせるのは、たしかにかっこう良いけれども、じっさいに明日はやって来ないと知らされたとき、不平不満を口にしない覚悟なんてあるのだろうか。ここで少年たちが行っているのは、確定され、固定されたバッド・エンドに抗うための攻防である。現在のある一点が変われば、未来に変化が訪れるという、よくあるタイム・スリップ方式がとられているのだけれども、そういった部分について、僕の関心はあまりない。というのも、未だ来たらぬ時間のサイドに立って、今あるこの瞬間を捉まえる行為自体が、下らないと思えるからだ。ただのレトリックかもしれないが、未来を作るために今があるのではなくて、今があった結果として未来はなければならない。このマンガの最重要ポイントもまた、そのような考えに依拠しているみたく感じられた。自分の行動が常に数ある選択肢のなかのひとつを取ったものでしかないことを自覚する主人公は、ある意味では、マルチストーリー・マルチエンディング的な欲望に囚われているといえる。そのような欲望は、あらゆる可能性を想定し、シミュレートしてしまう資質によってもたらされている。可能性を想定するということは、不可能性をも想定することであり、不可能性を想定するということは、それを選択肢から外すことでもある。しかし物語が進むにしたがって、そうした考えは捨て去られる。最善の行動は、選択肢の幅によって導かれるのではなくて、それを実践しようとする意思によって結実するものなのである。そのような言い切りとしてラストは閉じられる。まあだから、何があっても諦めんな、ってことだ。上手くいかない自分の運命は自分にしか変えらんねえだろ。そういった意味で、果たさなければならない責任が人生にはあるよ。

 第2巻についての文章→こちら
 第1巻についての文章→こちら
 
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2005年06月09日
 エレル 1 (1)  エレル 2 (2)

 火事により家族全員を失った少年が、いくつもの巨大病棟を抱える大学付属病院に収容される。ほぼ時を同じくして、べつの病棟では、アマゾンから帰還した老人を原因に、恐怖の種が撒かれていた。やがて人ならざる者による大量殺戮がはじまる。大人たちはみな死ぬ。絶望的な状況。閉塞した環境のなかで、少年とその仲間たちは、生き残りの逃亡を試みるのだった。と、同作者による傑作『BMネクタール』のラインを引き継ぐバイオ・パニックである。残念ながら、2巻分のストーリーで完結しているため、尻切れ感は拭えないが、しかし、他者を絶対に切り捨てないことを第一義とする少年の行動は、『BMネクタール』同様に、倫理の重たさを訴えかけてくる。まるでB級ホラー映画そのものであるラスト・シーンにさえも、希望の尊さが宿っていて、それこそがたぶん、恐怖を乗り越えてゆくための原動力なのだ、と思う。
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 すげえな。この巻のテンションの高さはブリリアントだ。やはり『香取センパイ』こそが、いま現在、もっとも注目に値するヤンキー・マンガであると確信した。いやいや、ほんとにみんな、これ、ちょっと読んだほうがいいから。ひさびさに声出して笑った。頭のネジが2、3本緩んだ、ぶっとびヤンキー香取センパイは、あまりにも馬鹿なせいで、これまで数々の強豪を蹴散らしながらも、いまだ無名のままであった。だが、しかし、とんだ勘違いから、誰も呼んでいないのに、街の不良たちを揺るがす抗争に首を突っ込んでしまう。ばかりか、その中心人物であるかのように振舞い、またもや周囲に尋常ではない迷惑を振りまくのであった。ははは。だいたいさ、スキンヘッドというだけで教頭先生と見間違え、ピンチの教頭先生を救うという明後日な目的のために、単独で他校に乗り込んでゆくという、その無用な熱さが、すでにオカシイだろう。空気を読めとなじられても、まったく読まない(読めない)。つまり、ケンカに臨む当初のモチベーションからして、すでに完全な空回りなのであり、自己完結にしか過ぎないのだが、それを呆気にとられるほどの力業で正当化してしまうあたりが、香取センパイの魅力となっている。こんな人、たしかに近くにいて欲しくない。また香取センパイのケンカは、プロレスのスタイルであり、この巻では、そのアクロバティックな動きがよく描けている。素直にかっこよい。諸手を挙げて、大賛成、真剣に最高だ。つうか、あんたらがいうこれよりもおもしろいマンガってなんだよ?

 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら
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2005年06月07日
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 あ、これ、ぐっときた。涙腺と、あと身体の奥のどこだろう、たぶんガッツが湧いてくるあたりに、ぐっとくる。海外の有名な山々を渡り歩いたクライマー島崎三歩は現在、日本アルプスで民間の救助ボランティアをやっている。登山客が遭難すれば、長野県警に勤務する幼なじみの野田から連絡が入るのだ。すばらしい眺めと隣り合わせの危険、登山に魅せられた人々の姿が、てらいのない真っ直ぐさでもって描かれている。このマンガの良いところは、命の重みと軽さが等間隔で捉まえられている点だと思う。たとえば次のような場面。三歩のかつての同僚たちが海外から訪ねてくる。彼らもまた山岳でのレスキューを生業としている。三歩が近況を尋ねると〈助かる人間がいて 助からない人間がいる。日本だって同じだろ?〉という返事が返ってくる。すると三歩は答える。〈ああ、同じだよ〉。ここらへんのやり取りに暗い影は落とされていない。淡々としていて、それはつまり、無常の域で交わされている会話なのだということが、こちらに伝わる。三歩が救助に駆けつければ、すべての人間が助かるという、ご都合主義的展開も排除されている。雪崩に呑み込まれた人命が発見されることもなければ、崖から落下し頭蓋をやられてしまった人間の息はあっけなく止まる。しかし、三歩は過剰に悲しんだりしない。むしろ笑顔を崩さない。新任の婦警がそれを見て言う。〈三歩さん、海外でも人の死をたくさん見て…感覚がマヒしちゃってるのかも……〉。でも、そうじゃない。生きているときには生きてることの喜びを、そのことを忘れまいとする仕草なのだ、と読みながら気づく。絵柄は、掲載誌が『ビッグコミックオリジナル』だということもあり、じつに青年誌的なもので、キャッチーとは言い難いけれども、その部分もまたストーリーとうまい具合にマッチしている。P172の見せ場なんかは、びしっと決まっていて、とても気分が良い。かなりぐっとくる。
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2005年06月03日
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 裏表紙には1965とプリントされている。これは、やまだないとの生年を表したものであると同時に、この本のなかで中心人物として動くナイトー先生という架空の人物の生年でもあるのだろう。つまり、今年で40になるナイトー先生の、30代におけるたゆたう日々が綴られているというわけだ。マンガ家という職業柄か、ナイトー先生はダラしない大人である。でも、ちゃんとした大人ってどんなだろう。締め切りの迫った仕事場でなされる次のようなモノローグは、そのような問いかけとして、僕には聞こえる。〈定年だと思っていた父がまだ仕事を続けるという 確かにまだ元気だ 仕事も好きだ だけど この先もずっと元気だとはいえないトシだし・・・ 俺達ムスコどもは もう30を過ぎ 父親が「オヤジ」になった年齢を超え こうして自分の暮らしをもっている〉。たしか何かのインタビュー(か対談)で30歳以降をどう描くかっていうのが自分にとっての課題だみたいなことを、やまだと同世代のよしもとよしともが言っていたけれども、ここに展開されている物語も、たぶん同じような気分によって動かされているのだと思う。それはつまり、モラトリアムが無期限に引き延ばされた現代の日本において、大人が大人として生きることは、けっして日々の経過にともなうオートマティックな作業ではなくて、ちゃんとした大人ってどんなだろう、という問いかけにいつも背中を追いかけられることだとして、そうした自覚がどれだけ苦しいものであっても、繰り返しやってくる明日を、なんとかして祝福しようとする態度なのである。
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2005年06月02日
 どうも僕の読みとは違って、『南風!Bun Bun』(米原秀幸)は、ヤンキー・マンガではなく、南風一家を中心に置いたホーム・コメディとして進行するようだ、と、ここ数回の分を読んで思った。では、同じく『週間少年チャンピオン』で今週(27号)より新連載となった『ナンバMG5』はどうだろうか。作者の小沢としおは、『フジケン』でチャランポラン系ヤンキー・マンガ家の素質を遺憾なく発揮したが、ここ数作は、その評価がイマイチであったような感じがする。いや、たしかに『ダンコン』はちょっと物足りなかったが、しかし『チェリー』はおもしろかっただろ! 『フジケン』の後半よりぜんぜん良かったろ! ところで、チャランポラン系ヤンキー・マンガとは僕がいま作った言葉であるけれども、それの意味するところは、主人公はケンカは強いが硬派というわけではなく、わりと女の子が大好きで、しかし友情には厚く、トラブルが発生すれば、一躍怒濤のバトルを展開するタイプのヤンキー・マンガのことであり、90年代以降のむしろ主流なのかもしれない。でもって、この『ナンバMG5』なんだが、わ、第1話目からして、ものすごくおもしろい。千葉に筋金入りのヤンキー家族がいる。そこの次男として生まれた主人公は、両親の英才教育(?)によって、中学時代は有名なヤンキーとして過ごす。が、しかし本人は高校入学を期に、ごくふつうの学生として生きることを決心するのだった。と、まあ、つまり90年代に流行った高校デビューもの(成り上がりもの)を逆転させた構図をとっている。そうしたアイディア自体はべつに真新しくもないのだが、このマンガの特性は、ヤンキーというものをひとつ、才能の観点から割り切って描いていることである。それは主人公が高校に入ってはじめて出来た友達が、いじめられっ子を脱するために高校デビューを目指すのだが、やはりケンカは弱い、といったサイド・ストーリーを設けていることからもわかる。たとえば『特攻の拓』とか『カメレオン』とか主人公が高校デビューを成功させられたのは、ほとんど漁夫の利的なラッキーでしかないし、『今日から俺は』になると、なぜケンカが強いのかに対して、もう説明すらもない。その部分を、才能(育ってきた環境)の一言で裏付けてしまえるところが、じつに00年代らしいし、またヤンキー・マンガとしてのアドバンテージになっている。問題はこっからどう転がってゆくかってところなんだけれど、作者のパターンからすれば、コメディと人情が半々でケンカがすこしっていう感じだろうか。
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2005年05月28日
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 〈あなたの人生は失敗しました。リセットして下さい。〉と、中空に浮かぶメッセージ。とある団地で連続する飛び降り自殺。夫を亡くした専業主婦篠原仁美は、遺品のパソコンをいじくっているうちに、「ディストピア」というネットワークゲームの世界を発見する。団地に住む人々は、そこで、互いに殺し合い、架空の死を弄んでいた。殺伐とした仮想空間のなかで仁美は、自殺の原因を調査する喜多嶋俊介という青年に出会うのだった。

 作者はもともとネットで活動してた人であり、これと同時発売となった『ダズハント』は、ウェブ上に発表されたマンガのひとつである。でもって、こっちは『ガンガンYG』そして『ヤングガンガン』で連載された初の商業誌作品ということになる。ネット出身という部分をシンクロさせるためもあるのだろうが、ここで題材にされているのは、ネットワークゲームであるけれども、現在『ヤングガンガン』で連載されている『マンホール』は、寄生虫を扱ったホラーとなっており、ネット云々とは無関係に、地力のあるマンガ家だと思う。

 とはいえ、描写や構図、ストーリー運びが卓越しているっていうのとは、ちょっと違う。や、そこらへんもたしかに巧いのだが、重要なのは、内包されるテーマのようなもので、派手なアクションや謎解きのスリルの根底に敷かれているのは、生きることを見つめ直す、その眼差しなのであり、それが、たとえば架空の日々と現実の世界に境界線を引くものとして、物語中に駆動しているのだ。誰もが、ときとして後悔に苛まれる。そこで閉塞感や無関心に落っこちず、まっすぐと明日を目指し歩き出す。ネガティヴなシーンが多いけれども、とても前向きな読後でもって、グッドなフィーリングが生まれている。
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2005年05月26日
 ふわふわ悪魔

 阿部潤の現在のポジションというのは、90年代のときからすれば、ちょっと不遇だよな、と思う。この人にはちゃんとこの人なりのカラーがあって、それはけっして今も色褪せていないだけに、余計そう感じるのかもしれない。いや、このマンガ、小品ながらも、沁みた。心のやさしい少年に、ある日、キャベツから生まれた悪魔が取り憑く。悪魔が少年に授けたのは、困っている人間を救うことのできる力であった。が、しかし、一度使うごとに少年の体には変化が現れる。限度数である8回を越えたとき、自分がどうなるのかを知らず、少年は友人たちの悩みをひとつひとつ解決してゆくのだった。基本的には、ファンタジックなコメディだけれども、前半のほのぼのとしたムードと比べれば、後半はかなり性急に物事が進む。ああ、だが、前半部分も後半部分も、どちらも大変よろしい。人間を洗脳する側であった悪魔が、いつの間にか人間の世界に感応されていた、っていう転倒で中盤をいっかい締めたあと、人間ってやっぱどうしようもねえな、という終末を経由することで、ようやく性善説へと遡行するラストは、本来であるならば、けっして救いとはならないものなのだけれども、なぜか暗くない。それはきっと、阿部のやわらかで賑やかな絵柄が、何よりもポジティブであることを、強く支持しているからに違いない。
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2005年05月25日
 独り者にとって、結婚生活というのは、もちろん未踏の領域であって、それがどのようなものかは想像するしかないのだけれども、いや、もちろん親を見て何か思うこともあるかもしれないが、そのとき自分はあくまでも子供の立場なのであり、けっして夫婦という当事者ではありえない以上、やっぱり、それは知らないことなのである。さらには、子供のいる生活というのも、当然のように、未経験の状態だ。だからというわけでもないのだけれども、結婚というものには、夢を見たい見たい見ていたい。若い夫婦と幼い姉弟の4人暮らし。何気ない日常。悩みがあって、苦労があって、それでも、あたたかさがあって。このマンガには、家庭という場における「あかるさ」のようなものが宿っている。〈今は素敵なものを見つけると 家族と見たくなる 同じものを見て 一緒にワーワーキャーキャー だいじな時間〉。いつもどおり軽妙な宇仁田ゆみの筆致が、悲喜こもごもの風景を、楽しいほうへ楽しいほうへと、うまい具合に引っ張っていっている。なんて良い雰囲気なんだろう。あ、しまった。僕のようなモテないくせに(モテないからこそ)結婚願望の強い人間には、これは毒だ、猛毒だった。
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 ジョージ朝倉のマンガは、相変わらずテンションが高いなあ、そして同じぐらいの勢いでもって、切なさがだだ漏れしている。ただ、1巻の段階では、ハイなテンションのほうがやや空回り気味で、この巻になって、ようやく両者の歯車がびしっと噛み合った、そういう印象だ。猛烈な恋愛期における躁鬱な状態がよく現れている。ある女の子は、報われないと知らされながらも、自分の気持ちを変えることができない。慕われる男は、しかし今付き合っている女性に対して、誠実であろうとする。だけど、その彼女は、他人とはけっして理解し合えないという断線の上を、綱渡りすることしかできなかった。よくよく読めば(よくよく読まなくとも)わかるように、誰の想いもどこにも結びついていかないという、そのような構図が出来上がっている。しかし、それでも想いというものは、いつだって、理不尽なほどの生命力によって、身体のなかを蠢く。そいつを必死になって殺そうとする人だっているし、あるがままを受け入れようとする人だっている。どちらが正しいとかはなく、どうにかして寂しさが消去できれば、それに越したことはない。好きとか嫌いとか、気持ちの入った姿勢をとりながら、人と関わりあってゆくのは、とても難しい。でも誰だって、もしかしたら、その難しさがあることによって、自分が生きていることを、いちいち確認できるのかもしれなかった。
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2005年05月24日
 この巻にて完結(打ち切り)。満を持しての阿呆である。すばらしい。いや、あんたは詰まらんと言うだろうが、僕はおもしろかった。それで万事オーケーではないか。ギャグやパロディとして見た場合、笑えるか笑えないかの線は微妙である。この巻のさいしょのエピソードでは、BBクイーンという妹を持つBBキングというかつての盟友すなわち「ともだち」が、悪を斬り続けて四千年の主人公である劉王羽の前に、敵として立ちはだかる。無敵勇者ロボ、シシカバブーを操る富野由○季のようなルックスをした刺客は、矢盾元なのだった。という具合に、いろんなものがネタ化されているわけだが、そういう部分は、わりとどうでもよろしい。いや、スクライド・ファン必見の第10話はイカしてると思う。が、むしろ僕には、黒田洋介のベタな言語センスがジャストなのであり、燃え燃えなのである。とくに8話目と9話目あたりが、お気に入りだ。しかしラスト2話における、アンチ・クライマックスぶりも、なんていうか、それもそれで、という感じで、べつに嫌いじゃなかった。にしても、黒田洋介原作のマンガはどれも、あっという間に終わるな。わざと終わらせてるのかもしれけれど。と、思わせる適当さ加減がじつにグッドだ。

 第1巻についての文章っぽいもの→こちら
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2005年05月20日
 フルーツバスケットファンブック〈猫〉

 しかし僕は『フルーツバスケット』が好きすぎるな。画集とかはさすがに買う気になれないけど。さて。ファンブックという名のとおり、あくまでもファン向けな内容であって、最新巻つまり第17巻におけるネタバレを多く含むので、読み手を選んでいるといえる。当たり前だ。しかし、物語はけっこうな長さになっているので、人物相関図、年表、登場人物紹介などは、記憶を掘り起こす作業にかなり役に立つ。また、読み落としなどがあった場合、そのことに気づかされる。個人的には、作者(筆記)インタビューに期待していたのだけれども、べつにそれほど深い部分には踏み込まれておらず、これはちょっと残念な感じであった。巻末には、描き下ろしマンガが載っていて、この作品のコメディな面を強調した愉快なものなので、読んでて思わず、えへへ、となってしまう。りっちゃんとみっちゃんのエピソードがいいな。あと僕は、キャラクターのなかでは、綾女が好きすぎることを再確認した。あの素敵さ加減は尋常じゃない。
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 フルーツバスケット (17)

 シリアスな展開が続くので、だめだ、この巻は泣けてきてしまう。もしも運命というものがあるのだとすれば、それは、ときには希望の糸のようであり、ときには絶望の鎖のようであった。終盤に入ってきたのだろう物語は、ここでも、いくつかの秘密を明かす。けれども、あっと驚くのは、それが思いもかけない事実だからではなくて、いや、むしろこちらが想定していたとおりのものであるわけだが、しかし、切なさの破片がすべて、純粋すぎるがゆえに歪んだ愛情(想い)によって、それぞれ物語中に散らされていたことを知らされるからなのだった。言い換えれば、今後、愛情(想い)の名のもとに物語が収斂してゆくことを予感させる。ここらへんの展開は、僕にはやはり、みさき速のマンガ『特攻天女』を思い出させる。両者は表向きにはかなり違っているが、でも、全体の雰囲気のようなものはものすごく似通っている、そういう感じがする。なんだろう。信じられないかもしれないが、永遠(の愛)というものは、たしかにどこかにある。としても、それが幸福とは限らない場合、永遠を手放してしまうことは、いつだって可能だ。あるいは、その可能性を拒否することを指して、永遠と呼ぶのだろう。そのような意味で、誰もが永遠をつねに手のなかに握っている。そしてそこでは、善悪の判断よりも、ごく個人的な葛藤だけが、世界という像を形作るのである。

 第16巻についての文章→こちら
 第15巻についての文章→こちら
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2005年05月19日
 きららの仕事 9 (9)
 
 正確には9貫目。坂巻と神原の勝負はまだ決着つかず。文字どおり男と男の死闘が繰り広げられている巻であるけれども、どっか弛緩した雰囲気があるのは、審査員たちの驚き、つまり味覚の描写が大げさすぎてしまっているからだ。くそう。せっかく最高潮に燃える展開なのに、勿体ない。命を削ったバトル部分を、もっとこう、ガッと前面に打ち出す方向でいって欲しい。たぶん女性キャラを審査員にしたことも含め、過剰に男臭くなるのを緩和するために、あえてそうしているのだろうけれど、その分だけシリアスの度合いがすこし弱まってきているので。

 第8巻についての文章は→こちら
 第7巻についての文章は→こちら
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 月のパルス 2 (2)

 この巻にて完結。本来ならば見えないはずのものが見えてしまう少年と、誰にも打ち明けられない内面を抱えた少女のすれ違いを描いた物語は、もうちょいドラマティックに動くとばかり思っていたが、意外とスタティックなテンポで進行し、きれいな平面に着地した。ま、そこいらへんがくらもちふさこのくらもちふさこたる所以だろう。そう考えると、少年=宇太郎と少女=月子の造形は、どこか『天然コケッコー』における、大沢とそよを思わせるのだった。そして『天然コケッコー』が少女の側に寄った話であれば、これは少年の側に寄った話だったという風にもとれる。超常現象云々については、どうだろう、それほど強い必然性はあっただろうか。たぶん、あった。あの影が現れたり引いたりする描写はやはり、このマンガの肝であるし、最終話における宇太郎のモノローグに説得力を与えるのに役立っている。いや、しかし、もっとも胸に来るのは、同じ人間を想ってしまうばかりにこじれてしまう女の子たちの友情なのだった。強がるが、ひとりきりのときに泣けてきてしまう月子の場面がいい。終盤はやや駆け足のような気がしないでもないけど、人の出会いが幸福へと作用するのと同様に、人の別れもまた幸福へと作用するかもしれない、そういう未来の明るさを暗示させるラスト・シーンは、僕にはとてもとても清々しく感じられたな。

 第1巻について→こちら
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2005年05月12日
 タイトルは「ハエ!ブンブン」と読む、『週間少年チャンピオン』24号連載開始。で、とりあえず、初回のインプレッションだけは書いておきたい。圧倒的なケンカの強さで有名な南風文平(はえぶんぺい)だが、中学卒業をきっかけに暴力を封印する。大嫌いな父親みたいな人間にはならないように、高校では大学をめざし猛勉強するためだ。が、もちろん物事はうまく運ばない。父親の失踪と期を同じくして、隣町で凶暴な変質者騒ぎが起きはじめる。その騒動に文平も巻き込まれていくのだった。近年では、海賊ものとか、ハードボイルド的かつ国家陰謀アクションとか、いろいろとチャレンジしていた米原秀幸だが、いやあ、やっぱこの人はヤンキー・マンガが良いよ。『箕輪道伝説』や『ウダウダやってるヒマはねェ!』がそうであったように、冒頭からして、傍若無人の悪ガキイズムが炸裂である。またヤンキー・マンガ的に注目しておきたいのは、主人公がケンカだけでは世のなかを渡っていけないことをちゃんとわきまえていることで、彼の大学進学に対するモチベーションは、そこからやってきている。つまり、モラトリアムはいずれ終わるものである、という前提があって、それを支点にモラトリアムを生きる、という物語が展開されるわけだ。そうした環境設定がうまい。ただ、この作者のものは、いつも中盤で大きな脱線が起るので、どこに着地するのかは、まったくもって予測できない。そういえば、『箕輪道伝説』にしても、『ウダウダやってるヒマはねェ!』にしても、当社はコメディ色が強かったのに、途中から犯罪者続出のかなりハードな内容となっていった。
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 野球しようぜ! 2 (2)

 本題とはあんま関係ないが、天才はいかにして生成するか、というのはある。というか、いっしょくたにしてはマズいのかもだけど、たとえば『週間少年サンデー』に連載されている『ブリザードアクセル』(鈴木央)とか、『週間少年ジャンプ』の『ユート』(ほったゆみ・河野慶)とか、このふたつはたまたま氷上スポーツが題材であるわけだけれども、それよりも僕が気にかかるのは、共通して、それらに登場する保護者がものすごく子供に無関心だという点で、ここいらへんの在り方というのは、今ぱっと思いついた例でいうと『巨人の星』(梶原一騎・川崎のぼる)における親父さんとは、百億光年ぐらいの隔たりがあるな、と思うのだ。そして少年たちは、親から強要されたわけでもなく、自分が熱中できるものを、家庭外に見つけて、その才能を開花させてゆく、と。そういったことに関しては、ぶっちゃけて、この国の大人が子供にとっての将来の指標にならない、という事態を、おそらくは無意識的に感知している結果なのかもしれないけれども、そうして出来たものが普通に流通してしまう状況は、ものすごくアパシーで、僕なんかは怖くなる。で、このマンガである。このマンガの場合、そういったアパシーがあまりないのは、保護者がじつの両親ではないというのと、あと、保護者が主人公に対して無関心なのではなくて、むしろ悪感情を露わにしているという、そのネガティヴな積極性によるものなのだと思う。見ようによっては、一時代前の古くささを感じさせる。だけど僕にとっては、こっちの表現のほうがよっぽど正常である。たとえそれが負のものであれ、家庭内にコミュニケーションへの欲求が存在しているという意味で。いや、ほんとうに。

 さて。しかし、このマンガは、ふつうに野球マンガとして、ものすごくおもしろい、燃えるのだった。そのことについては、次巻以降に書きます、たぶん。あ、これ、ぜんぜんレビューになってないや。ま、いいか。

 第1巻について→こちら
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2005年05月11日
 未来改戦Dクロウス 2 (2)

 個人的にはめちゃんこおもしろく感じてたんだが、皆様方におかれましてはそのようではなかったみたいで、連載はすでに終了している。すでに終了しているので、あらすじを先取りしていえば、この巻では、未来を改変するにあたってのキーパーソンである陸奥タダシが、いよいよ物語に介入してくる。そこいらへんが見所である。巻末、黒田洋介の解説によると、主人公である結城みらいは迷いがちな性格であり、逆にタダシは直線的なキャラクターという、対照に基づいた造形が為されているらしい。じじつ、そのような二人の衝突は、どちらも見方次第では正論であるように見えるため、未来がいかに不安定なものであるかを表すのに一役買っている。いや、しかし、燃えるな。少年たちの真っ直ぐな視線の行く先が、どこに辿り着くのか、次巻にて完結するのだった。

 第1巻について→こちら
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2005年05月10日
 キャットストリート 1 (1)  キャットストリート 2 (2)

 しかし僕なんかは『花より男子』が好きすぎるのであって、とくにイジメられっ子がガッツで困難さを乗り越えてゆくくだりが最高に燃える、なので同じ作者の新作とあれば、それは期待せざるをえまいといったところだ。

 幼少の頃、名子役として知られた恵都は、ある失敗を契機に芸能界を引退、挫折してしまう。それ以来、世間に顔を出すことを怖れるようになり、16歳の現在は、いわば不登校の立場にある。彼女は、自分はただ余生を生きているだけなのだ、と思う。しかし、あるとき出会った男性が彼女をフリースクールへと導く。恵都は、そこで出会うさまざまな悩みを抱えた仲間たちとの交流によって、じょじょに再生への兆しをみせてゆくのだった。

 1、2巻同時発売。で、正直、かなりネガティヴ・テイスト溢れる1巻目は、ちょっとツラい。またココロの問題かよ、と思う。対人関係への恐怖、それはつまり他者の他者性に関わる問題で、じつに今日的なモチーフではあるけれども、その見せ方があまりにもストレートあるいはステレオタイプなため、エンターテイメントとしての魅力を欠いてしまっている。だが、1巻の終盤から2巻目に入ると、おお、これは主人公が根暗だというだけで、ピンチのときに周囲のイケメンさんが手を貸すといった進行の具合は、そのまま『花より男子』なのであった。そこいらへんからがおもしろい。や、もちろん、このおもしろいというのは、前作と構造がいっしょだということで、それはそれで良いことなのか悪いことなのかはわからないのだけれども。まあ、個人的な好みとして。

 ただし、精神分析的なほうへと行かず、ただ漠然とした友情や愛情を確固たるものとして信じられるかどうか、そこらへんの匙加減を間違えなければ、なかなかの良作に仕上がりそうな予感はある。
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2005年05月03日
 犯罪交渉人峰岸英太郎 4 (4)
 
 社会が心理学化してるのかどうかは知らないけれど、ココロの問題というの、たぶんその存在質量よりも重たいものとして、ある。というか、心、心、心、って、それでぜんぶこの世の出来事に決着をつけられるわけないじゃん。いや、心、心、心、で、すべてが解決するのであれば、それはとても素敵なことだな。結局、あんたがさ、自分のダサい生き方の言い訳にさえしなければいいんだ。

 さて。知識と情報と言葉と声で、犯罪者の心を動かす敏腕交渉人(ネゴシエーター)峰岸英太郎は、山奥に立てこもるカルト教団「メシアの号令」への強制捜査に参画する。期を同じくして、教団内部では、天才的な洗脳能力を持つ少年とその仲間たちが、教祖殺しのクーデターを実行しはじめていた。

 英太郎が用いる交渉術、知識と情報はインプットであり、言葉と声はアウトプットである。そして、それらはともに相手の内面を目的地とし、そこへと通じるための手段に他ならない。このマンガでは、ココロの問題は、そのようにして扱われている。この巻の後半、教団側の洗脳に関するシーンで、薬についての指摘がやや唐突に現れるが、それもココロの問題を工学的に捉まえるといった、ニュアンスの近しい描写だろう。ただ、両者の間には、決定的な違いがある。その違いとは何か。あるいは、その違いの間にあるものこそが、ほんとうの意味で、心なのではないか。完結となる次の巻にて、おそらく、解答が提出される。 

 3巻についての文章→こちら 
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2005年05月01日
 HEAVEN! 1 (1)
 
 今やヤンマガの看板のひとつではないだろうか。まさか、小松大幹がここまで出世するとは考えなかったなあ。ヤンキー・マンガを出発点にするマンガ家の多くがそうであるように、活動の場を転々としていって、地味にフェードアウトしていくんだと思ってた。しかし、後輩が大先輩に救われるという展開は、なんだかまるで、ヤンキー・マンガみたいだ。というか、このようにしてまとめ読みして気づいたのだが、お、そうか、このマンガは後期ビーバップの方法論をそのまま流用しているわけだ。曲者の揃った主人公のグループがあって、そこにトラブルが持ち込まれる、そのトラブルを軸に口論(ディベート?)が行われ、オチが導かれるという。この巻でいえば、ヤクザ組長との場面は、そのコマ割りからして、きうちかずひろの全面指示があるのではないかというぐらい、まさにビーバップである。ただね、やっぱりヤンキーが社会に出たあとで、どのように生きていくかという観点からみると、ものすごくおもしろいマンガだと思う。主人公は執行猶予中の身だというのが、やはり、ひとつのキーだろう。社会制度のアウトサイドから帰還した人間がどのように日常と接してゆくのか、というのを、ネガティヴな出来事ではなくて、ポジティヴの側から描き出している表現は、思いのほか少なく、貴重だ。

 小松大幹『犬嶋高校行進曲』第3巻についての文章→こちら
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2005年04月29日
 パフェちっく! 14 (14)

 クールな壱もホットな大也もかっこうよくて、どっちがどっちってのはなかなかなあ、といったところだけれども、風呼は悩んだ末に、大也と真剣に付き合う(向き合う)ことにしたのだった。当初は、壱も大也もどっか影を抱えていたけれども、そこらへんはだいたいクリアーになっており、真剣に恋愛モードに突入した感がある。とはいえ、トラブル続きで、うまい具合にはくっつかないあたりが憎い。この運びからすると、あんがいこれは神尾葉子『花より男子』のような展開でもって、長期連載になるのかもしれないな、と。ただ個人的には、こういうアッパーで元気なドタバタ劇は嫌いではないので、ますますおもしろくなってきた、という印象だ。
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 ホーリーランド 10 (10)

 子供世界と大人世界の間 そこにホーリーランドは存在する 甘やかな暴力のリアルが支配する 隔絶された世界 その世界に――はいた 神代ユウ ・は確かにそこにいた

 単行本の全巻に付せられている序文(強・箇所は原文ママ)。おそらく、それがこのマンガの骨格である。「子供」、「法」、「暴力」、そして「・」=「ユウ」というのは主人公であり、これらのタームは、ヤンキー・マンガを支えるものでもある。そういう部分を捉まえて、僕はこれをヤンキー・マンガのいちヴァリエーションだという風に解釈している。

 が、しかし、物語の細部をみれば、完全にヤンキー・マンガと合致するものではないことも了解しているつもりである。たとえば、この巻における登場人物の言葉を借りれば、「玄人(格闘技)対不良(ヤンキー)狩り」というように、ヤンキーと対峙する主人公は、さらに格闘技実践者と敵対することになる。しかし、このような構図には前例がないわけではない。他にもあるかもしれないが今ぱっと思いつくのは、『赤×黒』(上條淳士)、『1 イチ』(山本英夫、『殺し屋1』の前身)などが、90年代に存在している。それこそイジメられっ子が主人公である後者の在り方などは、『ホーリーランド』にかなり近しいものだろう。

 反面、やはりそれはヤンキー・マンガと相似であるような、モラトリアムの戯れであると思うのだ。現在、ヤンキー・マンガが抱え込んでいる困難さとは、高校を卒業したあと、つまり社会に出たとき、もしも汚い大人になることを拒むのであれば、では、どのような生き方ができるのか、といったところまで射程に入れてしまっている点である。

 80年代ぐらいだったら、アメリカに渡るとか、なんか知らんが社会的に地位のある職業に就いてたという解決策が、ぽんと提出され、それなりの説得力を持っていたわけだが、90年代以降には、そういった着地点は用意されていない。それはたぶん、時代背景のせいだと思うが、リアリズムであるかどうかとは異なったレベルで、表現として説得力を欠くのだ。同様の困難さは、この『ホーリーランド』のなかにも必然的に梱包されている。そのことは、並行して内面の問題、ネガティヴさをどう扱うかといったことをも浮上させる。

 主人公ユウは、だいぶ鬱屈した性格の持ち主である。先に『1 イチ』の名前を出したが、もしもユウがほんとうにストリートで生きるのであれば、その先には『殺し屋1』のような地獄が待っているのだろう。あるいは、格闘技を実践していったところで、『軍鶏』(橋本以蔵・たなか亜希夫)の主人公リョウがそうであるように、アンダーグラウンドに落ちてゆくしかない、ということもありうる。それは幸せなことなのかな。

 これをどのように解決するのか。この線で考えたとき、僕は今のところ『GOLD』(山本隆一郎)がもっとも解答として正しい、と思っている。のだが、しかし、友情が光のまま残されている、この『ホーリーランド』もまだ、ひとつの可能性としての機能を果たしている感じがする。それはつまり、敵とはべつの形で他者がマンガ内部に存在している、ということだからだ。そのような意味で、次巻以降の展開が気にかかる。
 
 8巻についての文章→こちら
 9巻についての文章→こちら
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2005年04月27日
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 やばい。呂布、ちょうかっこいい。燃える。登場したとたん、話の流れをぜんぶ持っていってしまった。『サンクチュアリ』でいえば、渡海さんのような圧倒的な存在感だ。が、しかし、渡海さんが、ある意味では、かませ犬であったように、呂布もまたかませ犬として、その一生を終えるのだろう。残念だ。それにしても、少年マンガ誌、青年マンガ誌で軒並みはじまったフェイク・ヒストリーとしての『三国志』の数々が地味に終焉していったのは、結局、益荒男(ますらお)ぶりが足りなかった、というか、漢(おとこ)を描ききれなかったからではないか、と、これを読んで思う。この国が失った心とは、ずばり「硬派」のべつの名前なのである。欠けているのは、あんたの熱いハートだよ。

 第1巻についての文章→こちら
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2005年04月26日
 僕等がいた 8 (8)

 うおおお、なんだよ。この展開は。ちゃんと決着をつけてよ。少年少女の淡くも醜い恋愛観が読みどころであったのに、そこから先に続いてしまうのか。二十歳越えたら大人だから、今までのような坊ちゃん嬢ちゃんの甘えというかワガママは通じないぜ。どうすんだろ、この先。僕等がいた、って、もうどこにもいないのといっしょだ、これじゃあ。だって、あれでしょう、「あの頃の俺じゃないんだ」とか「あの頃のままだよ」とか言い出すんでしょ、この人たち。
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 ご存じな方はご存じなように、僕の90年代に対する執着は、まあわりと強い。けれども、それはべつに、ロング・リヴ・90年とかじゃなくて、それ以前のディケイドを道連れに死んだはずの90年代が、今もあちこちで亡霊のように歩いている、それが堪らなく見苦しいのだ。あと数年経って、たとえば現在の80年代論=自分語りみたいな感じで、90年代を語る阿呆が出てきたら、ゲンナリしてしまう。何とかして90年代をいっかいちゃんと殺さなければならない。でもって、ヒントはこのマンガである。
 
 主人公スバルの友人であるスーがやっているバンドの名前はブリードで、それはニルヴァーナのナンバーからとられている。そのあたりにこのマンガの本質は隠されているような気がしてならない。ジャスト90年代のヤンキー・マンガ『特攻の拓』でも、天羽がニルヴァーナをプレイしていたような記憶があるけれども、あれはルックス的にはビジュアル系であり、またエクストリームなどと並奏されるような、まさにリアルタイムであるがゆえの余技であったわけだが、ここでニルヴァーナが選ばれていることには、不良=ロックというステレオタイプな造形をすこし脱する、そういう気配が含まれている。じっさいにスーは、あまりヤンキー的な行事には参加しない。

 さて。登場人物のほとんどは90年代以降のネガティヴさを負っている。そのことに対してどのような突破口を見いだすか。この巻のキーパーソンは、ここまでの伏線を引っ張ってきた悪徳警官、星だろう。星の圧倒的な救いのなさは、それほど重要なファクターではないようであったが、しかし、最後の最後にひっくり返っている。その重みは、スバルの宿命の敵、十雲へと、十雲がそれを拒むような形で、引き継がれる。闇は、さらに深く、濁る。このことを00年代の風景に当てはめることは、おそらく可能である。だから今後、スバルがどのようにして、十雲と対峙するのか、あるいは彼を地獄からすくい上げるのか、その展開に目が離せないのだった。

 10巻について→こちら
 11巻について→こちら
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2005年04月25日
 帯を見ると、累計100万部突破、とある。おお、けっこう読まれているのか。まあ、その理由はわからなくもない。基本線は、モラトリアムにおける戯れを扱ったオーセンティックなヤンキー・マンガである。ある意味、予定調和的な安心確実な内容であって、そういった部分は大勢にアピールするものだった。というのは前巻までの話かな。この巻からはちょっとハードな展開になりつつある。そのハードさっていうのは、どういうことかというと、たぶん、ビーバップなんかも中盤ぐらいまでわりとハード、鼻エンピツとか、かなり凶暴なんだけれども、人を殺さないっていう前提があって、そのなかで暴力が駆動していた、つまり、絶対に外れないタガっていうのがあった。このマンガもそういうラインはきっちりと守っていたはずなんだけれども、この巻で登場する「ハスキー」っていう登場人物はもう一線を越えちゃってる。ラリってるっていうのもあるんだろうけれど、暴力を振るうことに痛みがないというか、アパシーへと傾倒しているのである。作者は「あとがき」で『ゴリラーマン』をフェイヴァリットに挙げているが、まあ、こういうキャラは『ゴリラーマン』の頃にもいた。うろ覚えで書くのでアレだが、ゴリラーマンの姉ちゃんに惚れちゃうやつとか、たしかそうだった。ただ、あれは坊ちゃんの甘えみたいなもんが助長した結果みたいなところがあって、矯正可能なわけだったのだけれど、たぶん「ハスキー」は違うんじゃないかな、という感じがする。あえて言えば、壊れちゃってる。『ウダウダやってるヒマはねェ!』の「アマギン」あたりが、この系譜の先駆にあたるんじゃないか。そういえば『ウダヒマ』は1話目からして主人公がコンビニ強盗をやってる、っていうのがショッキングだったし、殺人とかレイプとかドラッグに対して、それをやってる側の人間にあまり抵抗がないところがあったっていうか。どうだろう。ああ、だから、要するに、ヤンキー・マンガも時代性をちゃんと汲んだ表現なので、もうちょっと皆注目したほうがいいと思う。

 『ギャングキング』3巻についての文章→こちら
 『ドリームキング』1巻についての文章→こちら
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2005年04月22日
 この巻でもっとも燃えるセリフは、これだろう。
 
 電光の――星々よ
 オレの小宇宙(コスモ)の全てを――くれてやる
 オレの命の焔を吸い取って
 暗黒を切り裂く 輝ける星となれ
 人の力が 神の造る未来を超えられるという――証を見せろ
 運命(さだめ)に牙を突き立てろ!!!
 (by アイオリア)
  
 でもって、それと対になるような終盤のこれも熱い。

 オレは過去の英雄を尊敬し
 古き歴史を誇りに思っている
 だからこそ過ぎ去った者達に
 敬意を払いオレ達は今を生きる――
 そして、今を生きる若い世代が新たな時代を造ると信じているからこそ
 闘う為に前に踏み出す!!!
(by ミロ)
 
 やあ、かっこいいな。原作者公認の二次創作であるようなマンガだけれども、こういったセリフ回しのヒートぶりは、完全にオリジナルを越えていると思う。穿った見方をすれば、頭が悪いともいえるが、うるせえ、お前は勝手に冷めてろ、ってな勢いである。

 強大な力、それはそのまま物質的な圧力でもある、への抗体としての精神力、あるいは高潔な魂の主張は、オリジナルに通じるものである。しかし、中盤で教皇とデスマスクの間で交わされるような「正義」についての対話などは、やはり、時代が一回りしたからこそ発生したものであるだろう。公理に背く個人の欲望(事情)が、それなりの説得力を獲得している。ここらへんが、このヴァージョンの肝であるように思う。

 たとえばオリジナルでは、窮地に立たされた主人公たちはほとんど根拠のないパワーアップによって、それを乗り切るわけだけれども、じつは彼らが「正義」の側に立っているというのが、当時はパワーアップの根拠として機能していた。けれども、今それをやるとネタになってしまう側面がある。というのも、「正義」って何かね? 的に、その概念自体がもう定義できないところまで、人間の意識はいっちゃてるから。

 で、そこいらへんの複雑な構図を、個人の欲望(事情)VS個人の欲望(事情)というシンプルな対立にまで還元して、そこからどこまでブレイクスルーできるかっていうのが、このマンガの中核であるような気がする。物語の着地点として、アイオリアがどれだけ頑張っても教皇を倒すことがないというのは、これがオリジナルのプロローグ的なものである以上、すでに決まっちゃっていることなので。

 5巻についての文章は→こちら
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2005年04月19日
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 『漫画アクション』NO.10(05年)スタートのシリーズ読み切り。業田良家や西原理恵子あたりに通じるような、人生の宿痾ともいえる側面を軸としたギャグ・マンガである。舞台は大阪。ソリコミ入ったヤンキーであるユキオは、教師から、君はハムレットに似ている、と言われる。けれども、ユキオは本など読まないので、その意味がわからない。じつは、つい最近ユキオの父親は亡くなっていた。でもって、「おっちゃん」と呼ばれる男が今はユキオの家に住みついているのだった。たまたま『ハムレット』を読んだユキオは、そういう自分の境遇を、教師が馬鹿にしていると思う。(僕の見落としでなければ)詳しい記述はないのだけれども、おそらくユキオは中学生である。その彼の置かれている環境は、ヘヴィだといえる。が、しかし周囲の人たちは、それは「おっちゃん」も含めて、みな基本的に悪人ではない。またユキオの〈アカンがなー ハムレットは なんでこう ハッキリ モノ言わへんねん〉という逞しさが、全体をポジティヴなムードへと持っていっている。ホットで心温まるラスト、ユキオと「おっちゃん」のやりとりが、いい。
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2005年04月18日
 要するにさ、もう正義とか悪とか、そういう考えのベースになるものがどこにもないっていうか、そうした大儀よりも個人の事情のほうが重たいわけで、そこらへんを逆手にとって、すっかりとヒーローものをパロディにしてる、アイロニーじゃなくてパロディなのが、このマンガの健全さであると思う。そのことについては余裕があるときに、もうちょいじっくり考えてみたい。あと、ぜんぜん関係ないけど、この巻の「あとがき」みたいなとこで、アシスタントにたくさんの応募ありがとう、と作者は言っているんだけれども、この間の『マガジン』では、まだ募集中です、と書いてあったから、ちゃんとした人が見つかってないのかな、と、どうでもいいことが気になった。
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2005年04月14日
 ホーリーランド 9 (9)

 うん。そうだな。基本的に、ヤンキー・マンガの延長線上にあるものとして捉えるのが正しいのかもしれない。なので、主人公の自意識下でのウダウダした悩みはネックでしかなく、その部分が前面に出てきてしまうと、あまり感情移入ができない。つまり、この巻は、それほどおもしろくなかった、ということだ。ただ、重要なポイントがひとつある。それはヤンキー・マンガ的なモラトリアムに関わる問題である。土屋という登場人物が主人公に、社会や生活を背負っていないからケンカという遊びができる、と諭す場面だ。そこでいわれているのは、つまり、モラトリアム空間での戯れのなかにおけるアイデンティティの重たさと、その内側にある軽さのことだ。この箇所は重要である。もうすこし言い換える。ケンカをすることが許される、そういう特権階級に主人公がたしかに在ることを示すものとして、ヤンキー・マンガでは血が流される、その事実が明言されている。登場人物の側からみれば、自分たちの置かれている立場を把握することからはじまり、「いま、ここ」でどのようにして生きるかという問いが発せられ、それがそのままシンプルに、生きろ、という提言へと転化しているのだ。が、しかし、この巻の後半で、それは大人と子供の使い古された二項対立に還元され、大人のルール、子供のルール、僕はどっち、みたいなところへいってしまい、「いま、ここ」が見失われる。すると、マッチ・ポンプ式に「自分探し」がはじまってしまう。折角その先へいけるというところまでいって、また後戻りするのである。そのような屈折は、ひどく90年代的であり、このマンガの弱点であると思う。
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 手塚治虫の代表作のひとつ『ブラック・ジャック』を、青池保子やたがみよしひさ、田口雅之などのマンガ家が、独自のアレンジで再構築した「ブラック・ジャックALIVE」(『ヤングチャンピオン』)と、『サスペリアミステリー』誌上で展開されている秋乃茉莉や大橋薫らによる「ブラック・ジャックM」シリーズを、一冊にまとめた増刊号で、ぶっちゃけた話、ものすごく異物感があるものもいくつか混じっているのだけれども、とくに立原あゆみとか、立原あゆみとか、立原あゆみとか、いやいや、それぞれのカラーが出てて、これはとてもおもしろい企画であると思う。

 描き下ろしとして永井豪ヴァージョンの『ブラック・ジャック』も掲載されている。が、これがいい。手塚作品と永井の相性の良さ(ミスマッチ具合)は、すでに『魔神王ガロン』にて実証されているけれど、今回のだって、コラボレーションとしては高クオリティだ。ダイナミック・プロ名義ではないのは、なにか意味があるのかしら。

 さて。ストーリーは、手塚キャラ大集合といった感じで、嵐の夜、ブラック・ジャックのもとへと治療を受けに、写楽保介や百鬼丸、サファイア、挙げ句には若き日の手塚治虫などが、次々訪れてくるという、大変にぎやかなものである。おそらく作者は意図的に、ここでのブラック・ジャックを、『火の鳥・異形編』でいえば、ちょうど八百比丘尼のような存在、つまり時系列を超えたメタ的なポジションに位置させているわけだ。ここらへんが、わーうまいな、と思わせられる。某人気作家による『鉄腕アトム』トリビュートよりも、『魔神王ガロン』こそを多くの方々に読んでいただきたい。

 それ以外の個々の作品に関して何かをいっている余裕はないので、個人的なベストを挙げるのであれば、葉月京のヴァージョン「小さなドクター」になるだろう。いやあ、葉月って『恋愛ジャンキー』の人でしょう。ごめんなさい、舐めてました。ブラック・ジャックの留守中、たまたま診療所に二人きりで居合わせることになったピノコとドクター・キリコ、そこへ急患が運ばれてくる。頭に怪我を負った少年だ。さっそく治療にあたるピノコであったが、そのときキリコは、少年の体に虐待の傷跡を見つけてしまう、という内容。で、ピノコとキリコのコミカルなやりとりから、まさしくヒューマン・ドラマティックなオチに持って行く手腕はなかなか。不覚にもラストで泣けてきてしまった。役割としては、キリコじゃなくって、ブラック・ジャックでもべつに良かったという風に見えなくもないが、患者を死へと追いやるのがキリコならば、死からの再生によって存在しているのがピノコなわけで、この二人の抱える負が対称になる点が妙なのである。
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2005年04月10日
 押切蓮介劇場マサシ!!うしろだ!!

 愉快だ。ぎゃはは、というんではなくて、くすくす、と笑える短編集であると思う。要するに、大爆笑ではなくて、どっかに共感するものがあるのだ。その共感はどっからやってくるか。たぶん、本来であるならば見えないもの、不可視であるものが見えてしまう、それはつまり、ホラー映画を成り立たせるマテリアルでもあるのだが、といったことに由来している。じっさいに、ここに収められた作品のほとんどが、視線の問題を扱っている。当人には捉えられているのに、他の人には理解されない。というのは、もう妄想と紙一重である。そこらへんのギャップがユーモアへと転化されている。あるいは「卒業シャーク」などは、もちろん怪現象がそういったことの現れなのであるけれども、それよりも友情の、その裏側に隠蔽された憎悪自身は、ほんとうは実存ではないにもかかわらず、そこではダイナマイトとしてハッキリと具現していることなども、ある意味では、同様の問題といえる。まあ、そういうことはどうでもいいのかもしれない。個人的には、登場人物たちの台詞回しがジャストである。〈ちくしょう!! 自分の被害妄想に我ながらイライラしてきぜ!!〉とか。
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 いっぽん! 4 (4)

 やー燃えるな。充足してる。この巻も、正統的な少年マンガの意地を見せる内容であった。全体のストーリーは、それまでは素人だった少年が、高校入学を期に、柔道の日本一を目指してゆく、というじつにセオリー通りのものであるが、その真っ正面から背負い投げを決めようとする熱量が、作品をすごくおもしろいものにしている。難点は、目を剥いた登場人物の見分けがつかなくなることであるけれども、まあ、そこいらへんを差し引いても、見せ場はちゃんと揃っている。さて。この作品の真面目さを考えてみたい。たぶん、それはこういう部分にある。主人公が敗北を喫する、さらに強くなるために必要なのは、ただ練習を積み重ねることのみである。そのとき指導者が言う。〈なんせ努力は天才に勝るからよ・・・!〉。この次のコマで、すかさずべつの登場人物の〈んじゃ天才が努力したらどうなんだ?〉というツッコミが入るのは今風の感性だが、しかし、おそらく作者は努力をしない天才はいない、と考えている。それは着実に力をつけてゆく部員たちが、それでも強豪校には一歩及ばない、なぜならば強豪校たちもまた執拗な努力の結果として、その地位にあるのだ、と、表している場面が用意されていることからもわかる。ぶっちゃけた話、僕は努力なんて阿呆らしいので、すぐに挫けてしまうタイプの人間である。だからこそ、このマンガが持っている説得力の前では、素直に、ごめんなさい、という気になるのだった。そうだね、もうちょい頑張ってみよう。やっぱり熱血するのが大事だ。
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2005年04月08日
 WORST 11 (11)

 この巻からが、本筋である花VS天地の大勢を巻き込んだ抗争、そのための本格的な準備期間である。この第2部を経て、第3部で決着という風になるのだろう。そのことは、この巻で「悪のヒーロー」というタームが登場することからも明らかだ。花と天地は、『QP』で我妻涼という不運でありながらも、その不運さが大勢を魅了してしまったことに対する作者の反省から生まれたキャラクターで、ホットで優しい内面を持つ花と、クールで残酷な内面を持つ天地は、両極である。どの時代にも不良が存在するのは、悪に憧れる一定の潜在層が、すべての世代に存在するからであり、それは、ある種の普遍的な事実であるのだが、しかし、悪を極めることは果たして救いになるのか、といった問いに対する答えとして、花と天地の対決はけっして避けられないものとなっている以上、ふたりの対比(違い)こそが、もっとも綿密に描かれなければならない重要なファクターなのだ。そして、彼らふたりが象徴するものがそれぞれ、彼ら以外の人々にどう作用するのか、そのことの具体的になってゆく段階へと、いよいよ物語が突入したのである。
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2005年04月06日
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 『月刊少年ジャンプ』5月号掲載。シリーズ久々の新作。和のテイスト溢れる架空の世界を舞台に、かつては感情を持たない殺戮マシーンであった主人公蓮華が、人とはいったい何か、その答えを求めて流浪の旅を続ける。道中で出会うさまざまな人々の、過酷な運命を受け入れる姿が、蓮華には、うつくしい花の咲くように見えるのだった。で、リアル・タイムの読者って、どのぐらい残ってるんだろう。長期連載だった『I'LL』を通じて、けっこう入れ替わっちゃってるんじゃなかろうか、ふとそんなことを思った。もともともは90年代にはじまった作品だけあって、基本線は、自分探し物語のワン・ヴァリエーションである。ただ、絵柄が多少変わった、あるいはブランクというのもあるのだろうけど、蓮華の表情が、以前よりも冷たさを強く感じさせるものになっており、そこいらへんに90年代が終わったあとの世界観を見て取れる。要するに、自分探しという行為が、それほど切迫感を持ったものではなくて、ある種のモラトリアム的戯れとして機能していることが、描かれる目の白さへと作用しているのだ。アパシーが表現方法に終わらず、表現目的であるような線だと思う。あと、物語でいえば、たぶん90年代ぐらいだったら、この手の話は、姫の従者の人が一回裏切るようなパターンでもって、最後は改心するかしないかというところに落ち着くというのがセオリーだったような気がする、じっさいに蓮華の第1話はそういう感じだったわけだし、が、善人は善人なんだよね、最後まで、迷いがない。迷いがないというのが大事で、そのあたりに、ここ数年における、苦悩の変容が現れている。そのことはじつは、ロック・ミュージックの移り変わりと、すくなからず連鎖しているんではないか、と。ま、それはそれとして。僕なんかにすれば、浅田弘幸というマンガ家の本質は、やっぱり彩吉のようなキャラクターにある。この人のトボけ具合だけは、依然として変わりがなかった。というか、変わりようがないんだろう。
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2005年04月04日
 雲の上のドラゴンなつこの漫画入門

 ものすごくイヤな人にデフォルメされた(ほんとうにそういう人なのかもしれない)塀内夏子本人が、自分の経験を含めた上で、マンガの描き方をレクチャーするというハウ・トゥ・マンガ。べつにマンガ家になろうとする気はなくても、これ、かなり興味深くて、どういう部分がかといえば、塀内の語る自分史が70年代以降の、同人誌とかのシーンとはべつの、あくまでも正統的な日本マンガの系譜をおさらいするものとなっているのである。講談社からの出版なんだけれども、『マガジン』だけではなくて、『サンデー』や『ジャンプ』のことにもちゃんと触れている。画力についての説明では『北斗の拳』が引用されてたり、森川ジョージや小林まことといった講談社寄りのマンガ家に混じって、島本和彦がゲストで登場したりもする。裏話的要素も盛りだくさんである。しかし、これを読んで思うのは、塀内というマンガの成り立ちもそうなのだが、90年代以前のサブ・カルチャーにおけるメインストリームっていうのは、基本的にマッチョなものを過分に含んでいたのではないか、ということだ。90年代以降になると、そういったマッチョなムードを否定するナイーヴな意識がサブ・カルチャーを支配してくる。それはたぶん、音楽やマンガやアニメを通じて、ほぼ同時進行で起っていたことだ。
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2005年04月03日
 蒼太の包丁 6 (6)

 繰り返すが、料理マンガが好きである。理由は、そこに努力とガッツによる、経験と教養の譲渡が存在しているからだ。もちろん、それは、このマンガでも行われている。主人公は、銀座の一流料亭で働く生真面目な青年、蒼太であるけれども、この巻でいちばんの読みどころは、じつは、その蒼太の後輩である須貝のエピソードである。田舎から曾祖母が出てくるので、自分の料理をなんとか食べさせてやりたいのだが、須貝はまだまだ見習いのため、親方から、それを許されない。それでも、いろいろあって、須貝の願いが叶う段になると、いや、ごめん、僕がお婆ちゃん子だというのもあるかもしれないが、ぼろぼろと泣けてきてしまう。いい話である。須貝は、もともと今風の若者といったイメージで登場してきたキャラクターであるが、ここ数巻の間で、かなり厳しくしごかれながらも、仲間に支えられることで、料理人としての自覚をちゃんと持てるようになってきている。その成果が、いよいよ現れだしているのだと思う。人はたぶん、痛みを否定しなければ、かならず成長するものなのだ。なんてね。
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 現代を舞台にした表現で、ビルドゥングス・ロマンを成立させられるのは、もはや料理マンガしかないのではないか。と、それが、僕が料理マンガを好む理由のひとつである。今の時代、叩き上げられ、鍛えられる、そういう職人的な意識って、あまりリアリティを持ちえない、というか、オルタナティヴな方法論があらゆる場所に発生しちゃって、何かを極めるにしても、一本道的な根性の据わり方は、逆に嘘臭く見えるという意識は、どっかにある。ひとつひとつの積み重ねが、何かを為しえる、その考えはちょっと古典的すぎる、実用的じゃないよ、と。スポーツ・マンガとかでさえ、深夜まで練習を続けたりする部分は、もう主題にならない、それはそれで副次的な機能しか果たさないような感じがするのだ、漠然と。このマンガの主人公である伴少吾の脳髄のなかを占めるのは、自分に与えられた役割を、どれだけ忠実にこなすか、それだけである。戦場のようなキッチンでは、誰も助けてくれない、しかしヘコたれたら負けなので、自分で自分を支えてやるしかなく、じょじょにではあるが、料理人としてのスキルを獲得してゆく。福岡のちいさなレストランで実力を認められ、六本木の一流イタリアンに出向となった伴は、そこで働く他の従業員の仕事ぶりに度肝を抜かれる。それまで腕に覚えがあり、自分を過信していたところもあった彼は、プライドやら何やらをズタズタに引き裂かれる。喪失した自信に対して、地元に帰るという選択が与えられる、そのとき彼がつかんだものは、しがみつくようなガッツで、逃げず、学び、そして戦い続けることであった。いや、冒頭からかなり燃えるストーリー展開なので、エキサイトメントにばかり目を奪われるが、根本で行われているのは、ゼロの地点から出発し、師弟関係を軸とした運動のなかで、自分がいったい何者なのかを探し当てることに他ならない。そこでは、根性と努力とが、成長と等価値で交換されているのである。
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2005年03月31日
 巻末のあとがき4コマを読むと、どうやら連載は打ち切りであったようで(もしかしたらネタかもしれないが)、そのためか、後半取り急ぎまとめにかかった感があり、随所随所に、奇妙な歪みが生じてしまったなあ、という気がする。たとえば、ヴァーチャルの世界で行われるセックスがアダルト・ヴィデオの模倣でしかないのを、作者が意図して行ったのだとしたら、それはとてつもなくアイロニックではあるけれども、その複雑な構造、つまり、現実世界における願望を実現するために虚構世界で実践されることがすでに虚構であるという転倒を、現実の虚構性を突き詰めるものでもなければ、虚構の現実性を突き詰めたものでもなく、ましてや虚構の虚構性を突き詰めようとするものでもないという、問題提起ですらない場所に落としてしまった点は、やはり瑕疵なのではないだろうか。すくなくとも、そうした問題を読み手に突きつけるところまではいっていない。だからこそ現実の世界への関与のためにではなくて、あくまでも虚構の世界の平和のために命を落とすラインハルトの在り方が、本来であるならば悲惨な末路であってもいいはずなのに、このマンガのなかでは、ほぼ無条件で、もっとも格好良いもののように見えるのだ。もうちょいいえば、リアルであろうとするがゆえに逆に現実の世界に帰還しない、というのは個人的にはアリだと思う、が、しかし、虚構の世界で得られるリアリティそれ自体が、もしも虚構でしかないのだとしたら、それは現実の世界を死んだように生きることと何がいったい違うのか、ただ痛いのが嫌で快楽が欲しいだけだ、というのだとしたら、それはちょっと志が低いのではないか、というか、妄想や想像力をバカにしてらあ、と。このマンガが逆説的に表現しようとして、すこしし損なってしまったのは、たぶん、そういうことである。虚構が素晴らしい、いや現実こそが素晴らしい、とかの話じゃないよ。
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2005年03月27日
 松本次郎短編集 ゆれつづける

 松本次郎のマンガには、日常がけっして正常を意味するわけではない、そういう風景が描かれているように思える。登場人物のほとんどは、さながら狂人のようであるが、まあ、人間なんて一皮剥けばそんなもんだよね、ということである。すなわち、皆がみなタイトロープ・ウォーカーとして生きているのだが、過剰にシリアスなわけでもなく、かといってユーモア過ぎることもない、ネジの緩んだキャラクターであったとしても、ふつうに日常に融け込んでいる、その淡々とした様に、松本の才気が現れている。はじめての短編集であるこの本もまた、従来の作品どおり、混沌とセックスに満たされているけれども、いっけん異常な人間などいないような、あるいは、すべての人間が異常であるような、異様な調和を軸として成り立っているのであった。ぜんぶで7編収められているが、とくに秀逸なのは、「サンポーラとクレゾーラ」、「ハードボイルド坂田」のふたつではないか、という気がする。それぞれ「あとがき」のなかで作者が、いちばん気に入っている作品と、好みではない作品として、コメントしているものである。「サンポーラとクレゾーラ」は、明言されていないが、おそらくはサンポーラとクレゾーラという名前の、奇妙なガスマスクを被った幼い兄妹が夢それ自体を夢想する一方で、借金のためにアダルト・ヴィデオに出演する女性が最終的には豚に犯され、悲惨な目に遭うという話である。これはもちろん、子供と大人の対比になっているのだが、しかし、現実の過酷さの前で両者は平等なのに違いない。大空襲を花火に喩えたラスト・カットが、すばらしく美しい。「ハードボイルド坂田」は、一風変わったホーム・コメディである。狙撃のために娼婦の部屋に入り込んだスナイパーが、自分でも気づかぬうちに掛け替えのない家族を成していたというもので、この作者にしては、珍しく、良い話(ハッピー・エンド)だといえる。どちらの作品にも、共通して、まるで戦時下であるようなシーンが登場する。現在『IKKI』誌上で連載されている『フリージア』にも通じるモチーフだ。僕は、これは、90年代にリアルタイムで湾岸戦争をブラウン管越しに眺めたことがひとつ起因となっているのでは、と推測しているのだけれども、さて、ほんとうのところはどうなのだろう。気にかけている。
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 高校デビュー 3 (3)

 もう一波乱ぐらいあるかと思ってたら、わりとすんなり両想いへと移行したのには、ちょっと驚いた。まあ、だからといって悪いわけじゃない。むしろ、このあとトラブルがあるんだろうな、と予測してしまうので、すこし心配になるだけだ。この巻は、つまり、恋愛の初々しい部分、ちょうど楽しい時期をうまい具合に切り取っている。読んでいて楽しい。これまでクールで陰のあるキャラクターだったヨウが、まるで天然さんのように見えてくるあたりに、恋は不思議なものである、ミラクルなのだ、という結論を思わず出したくなってしまう。ふたりして一生懸命になっちゃってさ、そういうのって、なんかグッドだよね、と。見せ場はやはり、告白のシーンである。ヒロインである晴菜の内面は、こちら読み手には明け透けであるが、しかし、受けるヨウのほうは、何を考えているのかわからない、そのため、フラれるのか結ばれるのかという緊張に引きつけられるのだが、ひとりになったヨウがはじめて内面を見せる場面で、あ、と、ようやく呑み込んだ息を吐く。その後の展開が、いい。
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2005年03月19日
 ハルカゼBITTER・BOP 1 (1)

 この人のことは外薗昌也原作の『ガールフレンド』で知ったので、あまりエラいことは言えないのだけれども、いや、これ、おもしろかったです。新学期、主人公蓮見千代春は、登校中に電車にはねられても死なない記憶喪失男「北風のソウザ」に出くわす、それだけではなく、「特命女子高生刑事カエデ」と名乗るちょっと頭のネジの外れた女の子とも遭遇してしまう。彼らの常識から外れた行動とともに、千代春の災難に満ちた青春は幕を開けるのだった。表面的には、「北風のソウザ」の謎を巡るのと同時に、千代春の友情と恋愛を絡めた成長物語風な作りなのだけれども、読みどころは、着地点のない、話がどんどんと脱線してゆく、そのドタバタぶりにある。で、こういう絵がキャッチーで、一見シリアスなんだけど、じつはオタク記号を散りばめたコメディ、という形式のマンガって、ここ一、二年ぐらいでずいぶんと増えた気がするんだけれども(ゴツボ×リュウジとか、見ようによっては羽海野チカなんかもそうだと思う)、なにか発祥に当たるマンガ家っているのかな。案外うすた京介あたりだったりするのかもしれない。や、適当。ほんとはどうなんだろう。あー大槻ケンヂ的モラトリアムの線もあるな、と。たぶん世代的なもんだと思うので、ちょっとばかし興味深いところではある。それはそれとして。ネットで調べてみると、このマンガ家は以前の作品である『プリンススタンダード』もイケてるらしいので、そちらも機会があったら読んでみたい。
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2005年03月18日
 この雑誌は、あんがい充実してる。どういう読者層を想定しているのかは、あいかわらずわかんないんだけど、その四方八方ぶりが功を奏している感じだ。もちろん雑誌側としては、ターゲットがあって、それをちゃんと見据えてのことかもしれないけれど、発売号ごとに誌面の印象が違ったりもするので、まだ暗中模索のところもあるんだと思う。

 表紙は大高忍『すもももももも〜地上最強のヨメ〜』で、このマンガが看板(雑誌の顔)として機能しているのは強い。独自の世界観があって、そのなかでコメディ、恋愛、バトルを展開しながらも、基本的には一話完結型だという作りは、幅広い層に十分にアピールする。他のレギュラー陣も安定している。個人的には筒井哲也『リセット』、中村光『荒川アンダー ザ ブリッジ』あたりがジャストである。ゴツボ☆マサル『少年探偵 犬神ゲル』は、回によって、当たり外れの幅がけっこう大きいのが難となっている。

 で、ゲスト(読み切り)陣の顔ぶれが多彩というか節操がないというか、よその雑誌から引っ張ってくる面子が、微妙な個性派揃いで、その微妙さがまた雑誌のカラーにもなっている。作家の好きにさせる放任主義なのかもしれない。今号では、前に『週刊少年ジャンプ』で連載してた露木梵犬が『Beat Girls』を発表している。話の内容は、楽器好きの少年と声の出せない少女の交流という、まあ大したことはないものなんだけれど、小品としては、そこそこ楽しめる。ジャンプ時代よりは活き活きとしている。次号では大和田秀樹が、次々号では久米田康治が、それぞれ読み切りを描くらしいので、打ち切り系マンガ家のリバイバルの場としても見逃せなくなっているのだった。

 ところで次号からアイドルグラビアを導入するらしいが、僕は、マンガ雑誌におけるアイドルグラビア不要論者なので、そういう路線変更はちょっとマイナスである、と、いち愛読者として声を大にして言いたい。つか、アイドルグラビアはなくなってもいい文化のひとつだと思う向きって、すくないのかしら。

 創刊号については→こちら
 05年02号については→こちら
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2005年03月17日
 最後までライトだったのは良かったんじゃないか、と。もちろん、子供に対する親の責任みたいなところを見れば、ヘヴィだったシリアスだったっていう言い方はできるけれども、暗い暗い勘弁してくれってところに落ちちゃわず、全体が、あっかるい雰囲気に救われているのは、やはり好印象である。ただ、大人が出てこない(それはつまり社会という場に立つ人間がでてこないってことでもあるのだけれど)、そういった部分については瑕疵があるような気がしないでもないのだが、もうちょっといえば、ラストの結平の判断がほんとうに正しいかどうかというのは微妙な感じがする、エピローグみたいなところで正しかったかのように描かれているので、たぶん事後的には上手くいったんだろうけれど、決着のつけ方としては、オールオーケーとは言い難い。まあ、でも、そのことを差し引いても、十分に良作ではあった。
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2005年03月13日
 溺れるナイフ 1 (1)

 閉塞した環境がすべてのなかで出会う少女と少年、それぞれの存在がそれぞれの未来に関与してゆく構図は、「きみとぼく」の関係性が軸となる物語だといえる。東京で中学生向けファッション誌のモデルをやっていた夏芽は、小学6年生のとき、両親の都合で「浮雲町」という方言丸出しのド田舎へと引っ越すことになる。海が近く、神様の恩恵がまだ信じられている。新しい場所に、ほんのすこし、うまく馴染めない彼女がいる。真夜中の海岸、そこで出会ったコウちゃんと呼ばれる同級生の男の子だけが、みんなとは違って見えた。掲載誌の関係なのか、『平凡ポンチ』ではやや力業すぎる一点突破を披露するジョージ朝倉だが、ここでは、繊細な情景がエモーショナルに描かれている。その分だけ、沸き立つ衝動はダイナミックである。フラッシュよりも眩い、キラキラとした光は、まるで切っ先のするどいナイフのようだ。少年や少年を束縛する何か(おそらく血縁関係に基づくものだろう)は、まだうっすらとした伏線にしか過ぎないけれども、それが唯一のルールではない、そういう場所へと移動するための交通機関として、ふたりを結ぶ恋愛は発展してゆくのだろう、という予感がするのだった。
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2005年03月11日
 未来改戦Dクロウス 1 (1)

 破滅した未来から歴史を変えるためにやってきた人々の、その戦いに巻き込まれた主人公が、さまざまな困難をくぐり抜けて成長する、というシチュエーションは、じつにターミネーター式なSFであり、奇抜なものではないが、しかし、随所に黒田洋介得意の快感フレーズが炸裂していて、燃える。未来はいくつもの選択肢から出来上がっている、目の前に現れた選択を、さあどうしよう、と考えながら進んでゆく物語は、この世界がすくなからずゲーム的な要素を持っていることを意図しているのだろう。とした場合、いやいや、人の運命っていうのは、そんなにシンプルじゃない、もうちょっと複合的なもので、冷静さだけでは計れないので、エモーションで答えなければならない、っていうのが、このマンガの狙いなんじゃないかな、と思う。シミュレートできる未来は、シミュレートできる過去と同じで、けっきょくはフェイクでしかなく、大切なのはきっと、シミュレートできない現在をどのようにして生きるか、ってことだ。
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2005年03月08日
 『めいわく荘の人々』のサブキャラ、安川を主人公にしたスピンオフ(スピンアウトっていうのか)作品。って、『めいわく荘の人々』ってそんなに知名度ないだろう、どうなの。個人的にはかなり好きで、五十嵐浩一といえば『ペリカンロード』よりも『めいわく荘』なんだけど。リアル・タイムで読んでたので。さいしょはアパートの風変わりな住人たちによるドタバタ・コメディみたいな感じではじまって、恋愛があったり、青春があったり、馬術競技があったり、就職問題があったり、テレビ局で働いたり、と、まあ『めぞん一刻』のヴァリエーションともいえるのだけれども、途中から、主人公が一日中テレビ・ゲームをやり出すようになったりして、ヘンテコな感触のマンガであった。けっきょく90年代カルチャーのゴッタ煮だったのかな。で、安川は、その「めいわく荘」に住むオタク学生なんであるが、そういった知識は、このマンガを読むにあたっては、じつはぜんぜん関係なかったりする。基本的には、美女がトラブルに巻き込まれ、その場になぜか居合わせた安川のせいで状況は悪化し、さいごには裸になってしまうというパターンを繰り返す、一話完結のコメディである。あー『迷惑の人』って、そういう意味だ。
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2005年03月06日
 創刊号のときも書いたけど、やっぱり僕には、この雑誌の提唱する「リラクゼーション」っていうのが、よくわかんない。今号の特集は「おともだち。を考える」であるけれども、これって結局さ、友達っていうのはいなくちゃいけないもの、みたいな強迫観念が前提としてあるような感じがする。僕なんかにすると、なんとなくリラックスとは程遠い感覚なんだけど、女の子って違うのかしら。とはいえ、個々のマンガはそれなりにおもしろい(ぶっちゃけてエッセイの類はイマイチなものが多い)。志村貴子「変身」、志村得意の幽霊もののようだけれども、友達という存在の重たさを軽く流すラストのほうに、この人の資質は現われている。安永知澄「友達トイレ」、まさに友達という存在がオブセッションであることを描いている。小田原ドラゴン「素敵なジュエルボックス」、童貞を処女に置き換えた、いつもの小田原ドラゴンだった。このあたりが僕の好みかな。
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2005年03月04日
 失踪日記

 菊地成孔が帯で「これはもう総てのアズマニア、だけでなく総ての現代人にとっての福音の書だと思いました」といっているのは本当で、じっさい吾妻ひでおに対してそれほどリスペクトの念のない、『ななこSOS』と『オリンポスのポロン』ぐらいしか知らない僕が読んでも、おもしろい、むしろこのマンガによってリスペクトの念を抱いてしまったぐらいだ。ぜんぶ実話らしいが、アッパーな話はいっこもない。不安、死への誘い、失踪、ホームレスとしての暮らし、肉体労働、アルコール中毒、入院、狂気、10年に近しい歳月が鬱々としたエピソードによって紡がれてゆく。が、しかし、なぜだろう。はっと息が詰まりそうになるのは、気が滅入るからではない。悲しくも楽しくもならず、おもしろいなあ、と純粋に思うだけである。この「おもしろい」は、もちろん愉快というのとは違う。当人や周囲の人々にとっては堪ったもんじゃないだろうダウナーな日々が、なかったことにされたりするのではなくて、よけいな異物感を除けた密度の濃いエンターテイメントとして、アクロバティックなほどに反転させられ、そして、ここに生かされているのだ。ちらちらと脇で登場する女の子たちは可愛い。けれども、それより何よりも、すさまじい混乱をキュートに描く、その力量にこそ、ただただ圧倒されるのであった。「発見した人だけ読める、スペシャルシークレットおまけインタビュー」までも含めて、いやあ、すごくおもしろい。よい。
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2005年03月03日
 DREAM KING

 『ギャングキング』の柳内大樹が、ストリート・ファッション誌に連載しているらしいマンガ。僕はストリートにもファッションにも疎いタイプの人間なので、その雑誌がどんなのかはしらないけれど、フォーマットとしては完全にヤンキー・マンガである。ストリート・ファッションの発信地『SHIBUYA』を舞台に、デザイナーを目指す主人公が、ギャングたちの抗争に巻き込まれてゆく、と、まあ、そんな感じのストーリーで、『SHIBUYA』っていうのが、渋谷なのか架空の都市を指しているのかどうかはちょっとわからないが、同じように渋谷(シヴヤ)のストリートを舞台としたギャングものである井上三太の『TOKYO TRIBE』なんかと比べると、サブカル的オサレ感が希薄だったりして、さらにヤンキー・マンガ・テイストを濃くしている。登場人物たちは学生ではないので、もちろん学校は出てこないが、ヤンキー・マンガにおけるモラトリアムの場であるところの学校という枠を果たしているのが『SHIBUYA』と『裏SHIBU』という、ふたつの地区派閥である。『SHIBUYA』高校、『裏SHIBU』高校みたいに見立てると、わかりやすい。もちろんケンカには大人の権力の介入はない。というか、主人公たちがじつはもう大人であるべきなのだが。や、難癖つけてるわけではなくて、ストリートのリアルとかじゃない、あくまでもファンタジックなヤンキー・マンガとして純粋におもしろい、ということです。生き様VS生き様のガチンコ勝負が繰り広げられていて。
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2005年03月02日
 cue

 僕はずっと村上かつらが駄目で、それはなぜかといえば「まだこういうことやってるのか」と惨憺たる気分になるからなのだった。「まだこういうことやってるのか」というのは、要するに、虚無感やら閉塞感やら何やらと戯れることで、それはもう90年代に散々見たよ、というか、いやいや表現として有効だと思うのだけれど、結果、ネガティヴさを助長ないし更新することにしかならないんじゃないか、という意味で肯定できなかったのだ(これは浅野いにおについても同様である)。けれども、このマンガはよかった。正確には、かなり良かった。過去形であるのは、ここで物語が終わってしまっているからだ。スポーツ選手としては挫折してしまった少年が、舞台演劇に夢中になることで再生する。という基本線はつまり、虚無感やら閉塞感やら何やらといったネガティヴさの、その向こう側へと到達することである。そこでポイントとなるのは、少年が出会う、劇団の人々が抱えた葛藤だ。子供のままではいられないこと、大人になること、損なわれるもの、モラトリアム。彼らは、それこそ従来の村上かつら的な内面を持ったキャラクターであるが、しかし少年の成長とともに、乗り越えられるべきものとして現われている。少年の恋した少女がいう。〈「演じる」ってきっと「信じる」ことなんだよ〉。その言葉はたぶん、本当の自分なんてどこにもいない、そういう時代のアパシーを正反対の側から迎え撃つ、ひた向きな格好をしているのだ、と思う。
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2005年02月28日
 誰かを想うのが切ないのは、そのほとんどが片想いにしか過ぎないからで、片想いのほとんどは、報われないのがわかっているからこそ、切ない。あるいは、それでもいつかは報われると思えることも、また切ないのであった。この巻では、5人の登場人物が抱える恋心がすべて片想いの形になるという、そういう段階に関係が発展している。要するに、すれ違いが盛り沢山なわけだ。ああ、つらい。みんな幸せになれればいいのに、と思う。というか、朱美(←登場人物のひとり)は、あまりにも人の気持ちを振り回しすぎる。こういう人って現実にいたりするから厄介だ。でもって、なぜかモテる。諸悪の権現だ。

 3巻についての文章→こちら
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2005年02月25日
 新海誠のアニメーション、『ほしのこえ』のコミカライズ。絵柄はだいぶ違うが、ストーリーはほぼいっしょである。宇宙生命体タルシアンの調査メンバーに選ばれたミカコと、平凡な高校生活を送るノボルの恋の物語。宇宙と地球、離れ離れになったふたりは、携帯のメールによってお互いの存在を確かめるのだけれども、ミカコの乗る宇宙船が、火星から木星、木星から冥王星のずっと先、そこからさらに先へと進むにつれ、メールの到着所要時間はだんだんと長くなってゆく。そうした時差のなか、ノボルは、彼女の存在が不確かなものになってゆくのを感じ、とうとう待つことをやめてしまうのだった。「ねえノボルくん……」とはじまるミカコのモノローグは、やはり切なくて、僕の涙腺はそこでぐわーと緩んでしまう。さて。アニメ版では、ミカコとノボル以外ほとんど登場人物は存在しないが、このマンガ版では、何人かの脇役が用意されている、そこいらへんが大きく違うといえばいえるし、ある意味ではノイズとなっている。もちろん、それが良いノイズなのか、悪いノイズなのか、という話である。それが大きく作用して、終盤の印象がずいぶんと違っているようにも感じられる。『ほしのこえ』の物語は、基本的には、「きみとぼく」の関係性によってのみ成り立っている。アニメ版において、ミカコとノボル、ふたりの関係は、主体と他者以上のものにはならない。ふたりの想いがオーヴァーラップしたとしても、その間にある現実的な距離が縮まるわけではない。そこが切ない。自閉的であるかもしれないけれど、その自閉性が感情移入のキーとなっているのである。だが、このマンガ版において、他の登場人物が存在していることは、たぶんミカコとノボルそれぞれの固有性を強調する役割を持っているのだろうけれども、主体と他者の間にある距離感、物語の主題に深く関わっている部分を、薄ぼやけさせてしまっている。それは、じつはマンガ版のラスト・シーンにも反映されていて、現実的な距離を詰めることが、ふたりの関係を保証するという、そういう安易な帰結を導いてしまっている。もうちょっと言い換えると、関係の不可能性が前提に置かれていたのがアニメ版だとしたら、関係の可能性を前提に置いているのがマンガ版だということである。もちろん、どちらが正しいのかは一概にはいえない。表現形式の違いによる差異だってのもあるだろう。マンガ版はマンガ版として、おそらくアニメ版を観ていない向きも、十分に感動できる内容に仕上がっていると思う。が、しかし、不可能性が完全に消去されてしまうマンガ版のラストは、たしかに希望を感じさせるものであるけれども、この時代における恋愛の物語としてみたときに、どこか後退があるのではないかな、という気がしないでもないのだった。
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 おせんさんの格好よさには、あれだ、ほんとうに惚れ惚れするねえ。沖縄編を前半に収録したこの巻でも、一級品の料理ともてなしでもって、頑なに絡まった人々の心を解いてゆく。ま、一升庵(おせんが女将をつとめる店)の名前を出せば、誰もが一応はかしこまるあたり、水戸黄門の世直し旅を思わせたりもするけれど、その一方でもうひとつの軸となり、僕なんかが感情移入したりするのが、帳簿係である江崎の成長物語部分で、この巻の後半では、すこしばかり頼りがいのできてきた彼の活躍を拝見できる。うん。危なげなくおもしろい。安定している。ごちそうさまでした。

 以前ちょこっと書いた感想というか→こちら
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2005年02月22日
 世界の終わりの魔法使い

 西島大介2冊目の単行本。前作『凹村戦争』がSFであったならば、今作はファンタジーである。が、前者にはファンタジーが混在しており、後者にも同様にSFが混在している。要するに、ふたつの要素が影響し合っているわけだ。その関係性は、主体と他者の在り様に似ている。そして、このマンガが抱えるテーマ自体もまた、そのような間取りによって成り立っている。ストーリーのアウトラインはひじょうにシンプルだ。その村の近くには魔法使いが封印されている。そこからの影響のせいで、村人の多くが魔法を使えてしまうわけだが、なぜか「僕」だけ魔法を使えない。魔法を使えない「僕」は、魔法なんて信じないといい、みんなから馬鹿にされながらも発明に勤しむ、そんなある日、顔に包帯を巻いた不思議な少女と出会う。そのことをきっかけにして、「僕」の世界は大きく変わりはじめるのだった。いっけん『魔女の宅急便』を思わせるポップかつワンダーなボーイ・ミーツ・ガールが繰り広げられているように読めるが、中核にあるのは、少女や中盤に登場するモンスターの造形から示唆されているとおり『新世紀エヴァンゲリオン』的な挫折、いわばボーイ / ミーツ / ガールである。とすると、ふつう読後はあまり良くないものになるはずだ。が、しかし、この物語のラストは、どこかポジティヴなフィーリングに満たされている。そのような読後感がなぜ訪れるのか。君(ここではない遠い世界、あるいは他者)と僕(この世界、あるいは主体)は、一体にはなれない、けれども、一対にはなれる。といった場所からスタートを切り、影に飲み込まれた世界を飛び越える、そういう鮮やかなステップが、ばっちりオーケーと決められているからである。ただ、前作に比べると一コマ一コマの持つ濃度というか密度のようなもの(それはもしかしたら情報量かもしれない)が少なくて、その分箇所箇所でセリフがやや説明的になりすぎるきらいがあり、うーん、ってな気がちょっとした。
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2005年02月11日
 野球しようぜ

 『月刊少年チャンピオン』にて連載中の野球マンガ。実の父と母はすでに亡くなっており、継母と義兄の過酷なイジメにあいながらも、あかるく元気で素直に成長した主人公小鳥遊天は、高校に入学するまで野球というスポーツがどんなものかを知らなかった。という設定からして、前時代的なニオイがばりばり漂っているけれども、けっして不幸を扱ったマンガではない。題材にされているのは「天才とは」ということである。たとえば、小山ゆうの『スプリンター』や、万乗大智『ダンドー!』(原作:坂田信弘)、曽田正人の『昴』や『カペタ』などがそうであったように、なぜか天才は、家庭的には不遇な条件下に誕生する。そうして彼らが踏み込んでゆくのは、前人未到の空間(ゾーンなどと呼ばれる)であり、ここでも、それまで野球の「や」の字も知らなかった主人公が、他のプレイヤーの思惑を大きく越えて、いつの間にか試合の流れを支配してしまう、そういうダイナミズムが読みどころとなっているのだった。絵はまだ拙いけれども、しかし、引き込まれる。天才スポーツ・マンガの系譜に連なる立派な作品である。
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2005年02月06日
 kirara

 正確には8貫目。いっけん寿司(鮨)職人を目指す少女の修行物語のようであるけれども、じつはバトル・マンガである。『スシバトル21』トーナメントが開始してから、その展開には拍車がかかっている。そして、そこがおもしろい。勝負を経ることで、成長を繰り返し、人の心を動かし、昨日の敵が今日の友になる。変幻自在のロールズシを繰るタッド松岡戦は、この巻にて、決着。いよいよ、マグロのスペシャリストである坂巻と絶対味覚の天才児神原、主人公きららにとっての、二大ライバルが激突する。以前に比べるとのっぺらしてしまった絵柄を見ると、どうも過渡期に入ってきたような印象があるけれども、全体のテンションはいっこうに下がっていない。ハッタリが利いている。個人的には、坂巻に勝って欲しいと思うが、はたして。

 第7巻についての文章は→こちら
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2005年02月04日
 コンナオトナノオンナノコ

 いっぽうは結婚もせずに働く女性、もういっぽうは専業主婦の日々を送る女性、こういった対置は、まあよく見かけるシチュエーションである。さいきんでは、角田光代の小説『対岸の彼女』もそうだったといえる。ただ角田のがそうだったように、これも、単純に「負け犬」云々なものではない、と僕は思う。根本にあるのは、おそらく90年代ぐらいに発見された、閉塞感や虚無感であり、他人との距離のとり様である。「ここではないどこか」なんて、どこにも、ない。それでも、ここには居心地の悪さを感じてしまう。だから「ここではないどこか」っていうのを、すこしだけ信じてみたりもして。それって無駄なことなのかな。平穏無事に見えるような日常のなかで、どうして、こんなにもいっぱいいっぱいになってしまうのだろう。今が一番だいじ、ねえ、そういう風に思えるようになることが、とてもとても難しい。
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2005年01月31日
 ハナモモ

 『ヤングマガジン』09号掲載。前回、なかなか良い脇役ぶりだった米田くんが今回の主人公。父親が株で大失敗したことで、生活環境の変わらざるをえなくなった彼は、ある少女に偶然出会う。彼女にもまた、家族という輪があることによって抱える悩みがあるのだった。正直、読んでてちょっと気恥ずかしい部分もあるほどに、これもまたいい話である。まっすぐになんのって、あんがい難しいや。いや、まっすぐっていうのは、真っ正直にみたいな堅苦しさを目指したりっていうんじゃなくて、素直に誰かになにかを伝えたり、それが伝わったりっていう、そんなようなことで、なんだか、ときどき、うまく言えないことを溜め込んでくために生きてるんじゃないか、ってな風に思えたりもするんだ。この流れだと、たぶん次回は、米田くんのお父さんの過去に話は繋がるとみるが、さて。

 第1話についての文章は→こちら 
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2005年01月30日
 燃える漢(おとこ)の美学を追求し続ける池上遼一・武論尊のタッグが挑んだ、フェイク・ヒストリーとしての「超・三国志」である。『HEAT‐灼熱‐』で、近代と現代そして近未来の日本男子かくあるべしを描いたふたりは、ついに、古代中国へと、その熱き想いを馳せるのだった。いや、冗談ではなくて、たぶん原作をつとめる武論尊は、前作の『HEAT‐灼熱‐』で、史村翔をも含めた、自らのキャリアを総決算してしまったのだと思う。でもって、システムを変えるという物語じゃなく、もっとずっと根本、システムを作り上げるというところまで遡ろうとしているのではないか。これまでのように「アジア主義」を主張する、そのための仮想敵として、アメリカやロシアが現われえない時代が選ばれたことからも、そのことは伺える。舞台が古代日本ではなくて、中国なのは、やはり天皇制に触れないためだろう。とした場合、かなりフィクショナルでダイナミック、かつ奔放な(ツッコミどころ満載ともいえる)世界が展開してゆきそうだ。

 個人的メモ→上野俊哉「池上遼一右往左往――新保守の起源としての劇画」(『新現実VOL.3』掲載)
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2005年01月27日
かの人や月 2 (2)

 いくえみ綾のマンガには「情」がある。いっけん薄情な登場人物たちだが、ギリギリのところで「情」によって結ばれている。他人と付き合うのは面倒くさい、けれども、面倒くさいがないと寂しい。たとえば、それは恋愛という整形された関係なんかとは、ちょっとだけ違っている。ひとつの家族と、その周辺の人たちとに起こる、ささやかな出来事を描いた、この『かの人や月』を読んでいると、そんなことを考える。この巻に収められたエピソードは、ぜんぶで4つ。どれも、ずどん、と胸を撃つような内容ではないけれども、やんわりとふんわりと、やがて、ぐっとくるような余韻を持っている。純粋にやさしい人間はちょびっとしか登場しないのに、世界をギスギスとして捉える見方を、まるくまるく転がし変えるような、そういうムードが素敵だ。

 『潔く柔く』第1巻についての文章は→こちら
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夜刀の神つかい(8)

 現代日本を舞台に、夜刀(やと)の神と呼ばれる吸血鬼たちと、人類との壮絶な攻防を描く。決戦の鍵を握る「夜の神つかい」日出子の救出のため、地下施設に単独乗り込んだ警視庁公安課の結城は、そこで驚愕の事実を知らされるのだった。

 なんてことだ。夕介が出てこないじゃないか。主人公が不在ということで、ややテンションが落ちている。けれども、まだまだ、ぜんぜんおもしろい。一巻一巻が出るスパンが長いので、一瞬ダレ気味な感じもするが、8巻の段階で、このテンポならば、けっして悪くはない。ただ人類側の勝ち目というのが、もう、ほとんどない気配なので、それをどうやって挽回するか、というのはある。

 この巻には、携帯の着信から浜崎あゆみの歌が聴こえ、吸血鬼の感情が揺さぶられる、というシーンがあって、それはたぶん、彼らが単純な破壊者ではないことの強調だろう。とした場合、今後、新しい人類と旧い人類の入れ替わりという展開が待っているのかもしれない。また人類側の逆転勝利があったとしても、その点だけを取り出してみれば、『アギト』や『555』、『ブレイド』といった、近年の仮面ライダー・シリーズのクライマックスと共通するところも多い。つまり単純なハッピー・エンドのないことは、あらかじめ読めるわけだ。
 さて。続きが気になる。
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2005年01月25日
みさき

 『月刊サスペリアミステリー』3月号掲載の読みきり。倉知淳の小説を、みさき速がマンガ化したもの。原作のほうは読んだことがないけど、どうやら猫丸先輩という探偵の活躍を追ったシリーズのなかの、一話らしい。さて。ストーリーは、恋人の奇妙な行動と頻発する通り魔殺人との偶然の一致に気づいたヒロイン、彼女は自分の恋人が犯人なのではないか、と疑いはじめる、というもので、あっと驚くような、いや、そんなに驚かないけど、それでも意外な結末が用意されている。原作がみさき向きの内容だったかどうかはわからないが、ちゃんと、みさき速のマンガとして仕上がってはいると思う。すこしばかり淡白すぎる感じではあるけれども、あくまでも恋愛が生活の軸であるような、そういうてんやわんやである。それにしても、みさきの描く2枚目男子は、相変わらず、なにか裏がありそうな顔をする。それがミステリとしては、ミスリードを働かせるように機能しているわけだ。

 みさき速『曲芸家族』第4巻についての文章は→こちら
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2005年01月24日
 こういう命令調のタイトルは好きではねえです。あんたらの指図は受けねえぜ。基本的な内容は、マンガ業界に携わる人たちにアンケートをとって、それを基に、04年に発表されたマンガの順位付けを行うというもの。読む価値があるのは、江口寿史のさすがのコメントと、呉智英といしかわじゅん、南信長、中野晴行の座談会ぐらいで、全体的な中身は、ものすごく薄い。あと、みんな少女マンガとヤンキー・マンガを読まなすぎ。これはたぶん、音楽通みたいな人たちが10代を対象にしたロックを、どっかバカにする思想といっしょなんだろうな。まあ、どうでもいい。
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2005年01月23日
 クロスロードで悪魔に魂を売ったギター弾きの物語。主人公であるところのRJとは、かのロバート・ジョンソンのことである。1930年代のアメリカを舞台に、ひとりの男の孤独な旅がはじまる。言い方は悪いが、荒っぽい線の、読み手を選ぶような、うす汚い絵である。しかし、それが、喪失と敗北の重みを、うまく表している。『ヤングマガジン』で連載されている、同作者の『アゴなしゲンとオレ物語』にも、あれはギャグだけれども、どこか後ろむきに進んでいる印象があるように、この人は、負け犬感を醸し出すことに長けているみたいだ。それはともかく。ブルーズとは、ただ単に音楽的なテクニックではなくて、もっとべつの「なにか」を表しているという、全体を占める理解は、定石というか、ちょっとばかり教義的で窮屈すぎる感じがしないでもない、が、『俺たちに明日はない』で知られる、クライド・バローが登場するあたりで、フィクションとしての強度、エンターテイメントとしての側面がぐっと強まっているのはたしか。
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2005年01月22日
俊平

 社会見学のため、とある研究施設を訪れた中学生たちは、そこで、実験中の事故に巻き込まれる。眩い光に包まれ、気がつけば、身体が50分の1ほどのサイズになってしまっていた。『イブニング』に連載された作品だが、なぜか辰巳出版から単行本化された、そのワケは、「あとがき」から察するに、編集サイドとの折り合いが悪かったからなのかな。ストーリーの運びは、ほとんど編集者によって決定され、作者の意思は部分的にしか反映されていないらしい。なるほど。たしかに、従来の山本貴嗣のマンガとは、ちょっとばかり毛色の違う、良くいえばとっつき易い、その分、ダイナミズムとエゲつないノリを欠いた、そういう風なものとなっている。とはいえ、それほど悪くはないと思うのだ。極限状態で、少年や少女が生き残る術を模索する体の内容は、『バトル・ロワイヤル』かつ『漂流教室』かつ『ドラゴン・ヘッド』な線であるけれども、けっして暗くならない、むしろ明るい生命力に溢れた展開が、とにかく前向きであろうとする古きよき時代の少年マンガを髣髴とさせる。こういうポジティヴさというのは、この時代においては、じつに稀少で、打ち切りっぽい幕切れが、ほんとうに勿体ない。
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042

 最終巻。死刑廃止に向けた新制度のため、実験体として選ばれた死刑囚042号、公立の高校で奉仕活動を行う彼の生と死は、脳内に埋め込まれた自爆チップによって管理されていた。さまざまな人たちと触れ合うことによって、当初は無感情であった042号のなかに、人間的な感情が芽生えてゆく。だが実験の結末は……。ぐわ。だめだ。泣けてきて、困ってしまう。『おっとり捜査』のラストでは、生きることに意味があるのかないのかはわからない、だから生きるんだ、と主人公に言わせていた小手川ゆあであるが、ここでは、生きることには間違いなく意味がある、という言い切りがなされている。それは登場人物たちの悲しみの内から生まれ、読み手であるこちらの心のなかに落ちる。たしかに、非人道的な犯罪者に対する処遇や、人権、死刑制度などを扱ったわりには、ちょっとばかりナイーヴすぎる結末な気がしないでもないけれども、読み取るべきは、感情は教えられるかという、その一点なのであり、伝える伝わるという繋がりによって結ばれたラストは、ある種の悲劇であるにもかかわらず、とても穏やかだ。
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2005年01月20日
 フルーツバスケット (16)

 この巻の大部分を占めるのは、透の、亡き母と父の出会いと別れのエピソードである。おそらく物語全体の核心に関わるのだろう、夾と透の母との関係は、ほとんど語られていないので、いっけん本編とは関係ないようであるが、しかし、これもまた登場人物たちを縛るネガティヴな因果のひとつとして見るのであれば、絶対に外せない、重要な出来事となる。この巻を読んで、僕が思ったのは、現代的な「人が壊れる」という言い回しが、もしも体調を悪くしたり、言語中枢を統制できないほどに狂ってしまうことを指すのでなければ、どのようなものだろうか? たぶん、頭のなかが負の感情でいっぱいになる、その反対側でバランスとなるもうひとつの感情を損なってしまうことなのではないか、ということだった。透の母親は、誰も信じられない、誰からも自分が必要とされてはいない、そのように感じられる世界のなかで、孤独を覚える。その孤独を殺す強さを得るために、ポジティブな思考はぜんぶ、消去する。なにも映さなくなった眼は、まるで壊れているようである。けれども、やがて彼女だけを孤独にしない、そういう光に出会う。信じられるもの、必要としてくれるもの、そして必要とするもの、それらのすべてが、無表情を晴らす、優しい笑みとなるような視線として、彼女の内から生まれてくるのだった。

 第15巻についての文章→こちら
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2005年01月18日
 チェンジング・ナウ 1 (1)

 世間の評判はいかがなものなのかはしらないが、僕にとっては『週間少年マガジン』のなかの、楽しみのひとつが、この『チェンジング・ナウ』である。一話あたりのページ数がすくないコメディ仕立てのマンガなんだけれど、ギャグ自体はともかく、僕はこのマンガからヒーローの悲哀みたいなものを読み取ってしまう。ヒーローとは、日常 / 非日常でいえば、非日常の側に属するものである、いや、かつては属していたものだった。だが、いつぐらいからか日常のなかにおいて、その存在が描かれなければならないというような認識が、多くの受け手の側に発生したため、無理やり非日常から引っぺがされたものとして、今日のヒーローたちはいる。かつて山上正月のマンガに『たぬきマン』という、日常に溶け込まなければならない異形の者の苦悩をユーモアに描いたものがあったが、これは、それよりもちょっとだけ先をいっている。変身する度に、娘から軽蔑される(たぶん)主人公のおっさんは、非日常に移行することができない、日常をつねに背負わなければならない、つまり、ここではないどこかなんてどこにもない、そのような現代の不可能性を反映しているのである。いや、ごめん。うそ。そんな堅いマンガじゃ、ぜんぜんねえや。
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2005年01月17日
松本剛

 『ヤングマガジン』07号掲載。松本剛は、昔から好きなほうのマンガ家のひとりである。『すみれの花咲く頃』はりアルタイムで自分の青春と重ね合わせて読んだし、この間の『甘い水』はあまりにもノスタルジックであったけれども、それでも泣けて泣けて困ってしまった。で、ひさびさの『ヤングマガジン』復帰作は、観賞用の桃=花桃をキーワードにした、連作読み切りなのだった。母親との確執を理由に祖父のもとに預けられた中学3年生の少女が、昔の同級生や車椅子の祖父のやさしさやがんばりに触れることで、素直さを取り戻してゆく、その内容は、松本の「いい話」志向が遺憾なく発揮されたものだといえる。まあ、ありがちっていえばありがちな感じではあるし、古臭いっていえば古臭いんだけれども、描かれた表情のひたむきさには、相変わらず強い訴求力があって、どうにも惹きつけられてしまう。
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2005年01月14日
 いろんな意味で待望の3巻が、ようやく出た。いくつかの描き直しはあるようだけれども、それでも1巻や2巻に比べると、やや充実度が落ちる、そういう感じがしないでもない。2巻のときの感想とは、逆のことをいってしまうが、白黒の画面がすこし寂しく、ところどころ(カホの唇や男の子たちの流す血)に鮮烈な赤が欲しくる。

 第2巻についての文章→こちら
 第1巻についての文章→こちら
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2005年01月11日
 『銀河』が気に入ったので、それ以前の作品も読んでみることにした。ただ、これは読む前は、題名と表紙がノスタルジック過ぎるので、ちょこっと懸念があった、なぜならば僕はロマンチックなのが好みなので、でも、じっさい読んでみると、どっちでもない、キュートでファンタスティックな感じがして、よかった。とはいえ、もっともぐっと来たのは、表題作よりはむしろ、その次の「ヤスコとケンジ」という、兄弟をテーマにしたものである。性格の悪いハンサムさんに、妹が騙され、それを(元ヤンキーの)兄が、妹に嫌われながらも守る、といったストーリーはありがちといえばありがちではあるけれども、やんわりとほだされてしまった。もうひとつ「イノセント・カラーズ」の、一編のなかで主人公(モノローグを語る人)が途中交代するといった試みも、うまくいっているかどうかはともかく、おもしろいと思った。こうして見ると絵柄には、最近の(ストーリー・マンガを描くようになった)古屋兎丸っぽいところもあるのかな。ああいう屈折はなくて、もっとずっと伸びやかだけれども。
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2005年01月09日
 両親が行方不明となり、弟と二人きり、路頭をさ迷う小学五年生の少女アヤカは、ふとしたきっかけで彩貸堂(あやかしどう)という妖しげな館に足を踏み入れることとなる。そこは大陸から渡ってきた仙人たちの棲家だった。弟といっしょに住まわせてもらうことの代わりに、アヤカは、ホウライという囚人が行う妖怪封じを手伝うこととなるのだった。原案が藤田和日郎で、その元アシスタントの作品だからだろうか、初期の頃の『うしおととら』を思わせる絵柄と展開だ。気の強く、そして、誰よりもやさしいアヤカの造形は、麻子をトレースしているかのようである。少女が人外の者の元で労働をし、居場所を得るというプロットは、宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』に近しいけれども、随所に感じられる無茶無謀の「熱さ」が、少年マンガ以外の何者でもないものとして、このマンガを成り立たせている。
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銀河

 このマンガ家は読んだことがなかったけれど、これはよかった。他の作品も読んでみよう、という感じになった。とくに四人の男女が、駄目な自分とさよならをするオムニバス「さよなら太陽」は、さわやかで、あったかい、よい気分だ。どことなくコミカルで、ドギツくない絵柄もナイスである。
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2005年01月06日
 戸田誠二3冊目の単行本。前のふたつは、おもに一話につき数ページほどのショート・ショートをまとめたものであったのに対して、今回のには、それなりのページを持った長めの作品(とはいっても、短編の領域に止まる)、題名どおり物語を織ったものが収められている。が、しかし正直なところ、それほどストーリー・テリングの巧い人ではないのかもしれない、という感じがした。たゆたう印象がイメージとして深く突き刺さる前2作と比べると、話の運びがだるく、どうも冗長な気がして。それと、じっさいに宗教の人なのかどうかはしらないけれども、この人の作品にはどこか宗教くさいところがって、この世の定理に縛られることを潔しとする、そういう着地点までの距離が長すぎるため、すこしばかり窮屈な印象を覚えてしまったというのもある。個人的には、ストーリーのその先にあるものを、もうちょっと見せて欲しかった。そこまでは届いていない。
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 共生学園という閉塞した都市を舞台とする反逆の物語もこの巻にて完結。2巻、3巻と続くにつれ、ストーリーがごちゃごちゃとし、読みづらいところもあったが、しかし、それを補って余りある素晴らしい大団円が訪れている。また絵的な部分も含め、主人公嘩形弾以外の登場人物のキャラが序盤以降あまり目立たなくなっていったのも、要するに、熱血漢であるところの彼にその他大勢が感化される過程だったとして受け取れば、けっして欠点とはならない。日本橋ヨヲコ『極東学園天国』と全体の構造は似ているけれども、『極東学園天国』が最終的には大人の介入を得ることで、子供の純粋さをカウンターとして生かしたのとは違い、この『学園ノイズ』には大人は現われず、あくまでもチャイルディッシュな理屈と感情の軋轢と葛藤が基本線となっている。その狭間でキラリと光る純粋さは、どこまでも澄んだ青というよりは、血のように熱く滾る赤で、いや燃える燃える燃える、とにかくはげしく燃え盛るのであった。
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2004年12月28日
 たしかミスター・チルドレンの楽曲に、ひとりの命と引き換えに世界を救えるとしたら僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ、みたいな歌詞のものがあったと思う。少年期は終わり、愛のためになら生きられるけれども、公のためには死ねないというような風に解釈すれば、共感できるところもなくもないが、しかし僕にはやっぱり、ああ余裕があっていいですね、と感じられる。

 『ぼくらの』に出てくる少年や少女たちには、そういった余裕というか猶予は存在しない。彼らは半ば強制的に、世界を守るための戦いに駆り出され、そして死んでゆく。ある意味では、自我が自我として形成され、そこから将来の選択肢をチョイスする、そういうモラトリアムすらも与えられていないのである。

 第1巻で、おそらく読み手のもっとも感情移入しやすい人物が、やけにあっさりと死んでしまったとき、うわ、相変わらず鬼頭莫宏は容赦がないぜ、これおもしろくなるのかしら、と危惧したものだが、それでも物語がいよいよ駆動しはじめたこの巻を読むと、ちゃんとおもしろくなってるから、すごい。

 自分以外のもののために自分の命を賭けられるかどうか、というのは、おそらく人類が永遠に考え続けなければならない課題である。それに対して、たぶん鬼頭は今後、登場人物14人+α分の答えを描きこんでゆくのだろう。謎解きの要素みたいな部分も、たしかにあるが、そういったことよりも、少年と少女の死に至る切実な歩みが、強い求心力を持ったマンガとなっている。今のところ。
 ただこれ先が長そうだな。
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2004年12月26日
 正直いって、この巻はあんまり燃えない。というのも、ある主要な登場人物がアレしちゃうんだけれども、そのアレっていうのが、要するに、少年たちのモラトリアムの終焉を象徴しているわけで、大人に勝つためには子供のままじゃいられない、みたいな図式が浮かび上がってきたからなのだと思う。じっさいに、みんなもう学校行ってないしね。ストーリーはこれからどんどんハードになっていくようだが、そろそろ主人公スバルに本格的なバトルの場を与えてやって欲しい頃合だ。

 第10巻についての文章→こちら
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 完結。最終話までの出来は悪くはないと思うのだけれども、あきらかに着地点に失敗してしまっている。というのも、これ、あるおっさんとある少女の恋という話であれば納得ができるのだが、しかし、やはり血の繋がった兄妹という部分が大きなネックになっているのである。なぜ兄妹同士で愛し合わなければならなかったのか、というのにはまったく答えていないような気がする。いちおう、いろいろと考えているのだけど、うーん、うまく考えがまとまらない。まあ、ひとつの見方として、たとえばあだち充の『みゆき』なんかを、兄妹が、血は繋がっていないが、しかし、それでも相手を恋愛対象として認識することをずっと避け続けるマンガだとした場合、それはもっぱら兄の側の倫理、つまり家族として相手を思い遣ること、そして他者の視線をつねに意識し続けることによって支えられていたわけだけれども、そういった旧式(近代的)の倫理観を喪失したのが現代だとして、それを反映してみせたのが『恋風』における近親相姦的な恋愛なのだといえばいえるのかもしれない。
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 完結。外薗昌也のマンガは、ダラダラと続くよりは、このぐらいコンパクトにまとまっていたほうがいいのかもしれない。しかし、これ、ものすごいアイロニーである。いっけん人間の叡智や心のようなものが未知のウィルスに勝ったようにも見えるのだけれども、もちろん、そんなことはなくて、ただの生命力によるものだったというのは、文明の全否定になるわけだ。それにしても。人類を滅ぼそうとする部分と、最終的には救ってしまう部分、どちらが外薗の本質なのかっていうのが、いまだによくわからないのが僕である。

 第1巻についての文章→こちら
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2004年12月18日
 基本的に僕は、女の子が虐げられているシーンは苦手な人なので、この巻は読むのが非常に辛かった。まあ、それが作者の狙いというのはあるかもしれない。ないかもしれない。ただのエロなのかもしれない。いずれにせよ、ヒーローとは何か?正義とは何か?という問いかけが延々と続くのが『ZETMAN』というマンガである。桂正和の初期の作品である『ウィングマン』が仮面ライダーや戦隊ものをモチーフにしていたのに対して、『ZETMAN』はバットマンなどのアメコミを参照項に置いているという比較はできる。前者は、ヒーローとは正義に奉仕するものである、という前提の上に組み立てられているわけだが、後者では、ヒーローを駆動させるのは個人的な復讐であったり社会的なモラルであったりする。

 すこし話は変わるが、平成(あるいは90年代)以降の日本のヒーローは、従順に正義に従うということができなくなってしまっている。共通言語的な正義では人類はけっして幸せにならない、という認識が普及したためである。要するに、ウルトラマンが怪獣を倒しても、そのたびにビルが倒壊していたら堪らないという、以前だったら笑い話であったことが、深刻な問題として捉えられてしまうようになったのだ。たとえば最近の仮面ライダー・シリーズでは、『仮面ライダー555』ぐらいになると、ライダーの存在に企業の利潤が絡んできてしまったりする。それをリアルだと思う阿呆はいないとは思うが、結局、行き着くのは「個」か「公」か、という小林よしのりのゴーマニズムのような場所でしかないのが、僕なんかはとても退屈だ。

 僕は、ヒーローが正義とは何か?みたいなことを考え出したら、その表現は終わりである、と思っている。なぜならばヒーローや正義というのは、ずばり他者からの承認によって得られる他ないからだ。もちろん90年代においては、ヒーローとは何か?正義とは何か?を悩むことは有効であった。その良い例が映画『バットマン・リターンズ』だろう。しかし、あそこでバットマンとペンギンを隔てているものは、他者からの承認でしかない。最近では『スパイダーマン』があるが、『2』のなかでもっとも泣けてしまうのが電車の場面で、あの感動がどこからくるかといえば、スパイダーマンという存在が大勢によってヒーローであると認められるところからやってきている。そういったことを踏まえて、平成ライダー・シリーズのなかで唯一『仮面ライダー・クウガ』が優れているのは、当初はアンノウン(未確認)であったものがヒーローや正義として人々に認識されてゆく、その過程を追ったものだったからだ。主人公であった五代雄介は、表層的には、ヒーローとは何か?正義とは何か?といったことを悩まない、その象徴があの笑顔だといえる。

 他者からの承認を必要としない正義は何になるかといえば「俺イズム」のようなものである。俺的に正しい、というやつである。これはシステムに対するカウンターとして機能する場合には、たしかにヒーローたりうる資質であるが、しかし、現状を考えみるに、そういった状況が用意されているからこそ大勢がそういうことを言い出すのであって、結局はシステムの奴隷でしかないのだから、もちろん、そこには正義など存在しない。

 話を『ZETMAN』に戻す。現段階では『ZETMAN』にはふたりの主人公がいるように見える。ジンとコウガである。この巻では、前巻に引き続きコウガ・パートが繰り広げられている。コウガは、誰もが羨む大財閥の息子でありグッド・ルッキンでありモテモテさんである。その彼が、何者かに仕掛けられた罠のなかで、ヒーローとは何か?正義とは何か?という問題を突きつけられているのが、この巻である。僕は、ヒーローが正義とは何か?みたいなことを考え出したら、その表現は終わりである、といった。では『ZETMAN』は駄目なのかといえば、そんなことはない。なぜならばコウガは、この段階においては、いまだヒーローならざるものだからである。つまり起点が違う。このあとどのように物語は進んでいくのかはわからないが、現時点での『ZETMAN』の世界には、ヒーローも正義も存在していない、がゆえに逆に、ヒーローとは何か?正義とは何か?といった問題を問わざるをえないのである。
 
 ほかにもいろいろとあるのだが、長くなったのであとのことは次巻が出たとき以降、って次出るの来年の夏だよ。
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2004年12月17日
 なんていうか、ここに掲載されているマンガを活字化したら、たぶんライトノベルっていうかヤングアダルトな小説になる気がするんだけど、読み手はそれほど被ってない気がする。ジャンルの壁みたいな、そういうのがあるのかもしれない。ここら辺を突き詰めて考えると、大塚英志の言っていることはひっくり返せそうなんだけれどな。まあいいや。
 創刊2号目だが、総体的にエロの要素が増えてきているのは、なにかの兆しかしら。

『荒川アンダー ザ ブリッジ』第3話 中村光
 金星人を名乗る謎の少女に命を助けられた大財閥の御曹司、市ノ宮行は、その恩を絶対に返すと約束する。少女が彼に要求したのは、自分と恋をすることであった。少女の言動のおかしさに引きずられるようにして、なぜか行は、荒川にかかる橋の下で生活をすることになるのだった。
『荒川アンダー ザ ブリッジ』第4話 中村光
 めでたく(?)橋の下に住むことになった行に、少女は、村長に挨拶にいけ、という。村長は他の人間とは肌の色が違うので、そういったことによる差別があることに気を病む少女に、行は、自分は絶対に差別をしない人間だ、という。そして姿を現す村長、しかし、その姿は。
 毎号2話掲載という風になっているけれども、ふたつの話の間に明確な区切りはないので、そういったことによる効果はあまりない感じがする。どうせだったら掲載箇所は引き離したほうがいいと思う。内容は、基本的にはテンポのよいコメディで、少女がボケて、行がツッコむという、じつにオーソドックな進行でもって話は進んでいく。『ヤングチャンピオン』あたりに載っていても違和感のないようなマンガで、この雑誌のなかでは、もっとも青年誌らしい作りである、という意味合いで、僕はちょっとこの作品に注目している。

 創刊号についての文章は→こちら
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2004年12月14日
 三国志をベースにしながらも、劉備が女の子だという時点で、かなり異色であり、主人公の張飛が自分にかけられた呪いを武器に超常的な戦いを続けるという物語の進行は、じつは高田裕三の『3×3EYES』を思わたりもする。ファンタジックなエンターテイメントとしてのクオリティは高い。ただし絵的に、登場人物の区別がときどきつかなくなる(キャラクターの描き分けがあやしい)ので、そこいらへんは何とかして欲しいというのはある。さて。この巻の見所は、呂布の誕生と宿敵張角との決戦であり、それぞれが今後の展開への重要な伏線になっているような感じがするのだけれど、残念ながら、連載元であった『アッパーズ』の休刊にともない、ここで(第一部という留保つきではあるけれども)完結となってしまっている。「あとがき」を見ると、作者のなかにはまだ描ききっていない構想もあるみたいなので、いっそ『アフタヌーン』あたりが拾ってくれないだろうか。
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2004年12月10日
がちゃぴん

 皆々様方におかれましては、『WORST』や『[R-16]』の新刊がホットかと思われますが、僕は断然『香取センパイ』である。何度もいうが、現在ヤンキー・マンガの最高峰は間違いなく『香取センパイ』なのである。おもに中学生編を収めたこの巻では、あれだけの強さを持ちながら、なぜ香取センパイが無名なままであったのかが、いよいよ明かされる。っていうか、ただ単に馬鹿だったからなのだけれど。しかし、入学早々給食をチャンコにしろとデモ行進するなど、その馬鹿さ加減には、やはり容赦がない。いやあ最高である。個人的には、カメムシが止まるほど出っ歯なガチャピンがもっともフェイヴァリットなキャラクターだが、さいきん出番の減ってきていることが寂しい。がんばれ、ガチャピン。ルックスとはともかく、このマンガのなかで、唯一の常識人は君だけだ。

 第6巻についての文章は→こちら
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2004年12月07日
ease

 宙出版から創刊された女性向け「かゆい背中をそっとかくリラクゼーション・コミック&エッセイ」誌。雑誌全体のコンセプトは、よくわからん。志村貴子、南Q太、やまだないと、梅川和実のマンガを目当てにして買った。リラクゼーションと謳われているが、基本的には「戦って勝て」みたいなのを推奨しているのが、僕なんかには不思議だ。たとえば、もっともページ数が割かれている、たまきちひろのマンガ『ウォーキン・バタフライ』の扉には、でかでかと「逃げちゃ、駄目だ。」って打たれている。これって、人と人はけっして理解しあえないので個人主義みたいのが一番ですよっていう、そういう時代性なのかな。それでも僕たちはときどき、寂しい、っていうんだから人の心は難しいや。
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2004年12月05日
 セックスとは、性別のことであり、性交のことである。としたとき、それは、別つポイントと交わるポイントという、両義的な意味を持っているといえる。性は、人を人という生物たらしめるひとつの根拠であり、生きている者を保つのは体内をめぐる赤い血である。色盲のユキは、しかし血を、赤い色として見ることはできない。カホは、女の子には赤い血が、男の子には青い血が流れていると思っている。ナツが〈俺たちがそれを見ているっていう事実には変わんねえし〉と言えば、ユキは〈何を見てるかじゃねえ……どう見えるか……〉と言う。新装版である今回のヴァージョンは、基本的に、白と黒の2色でもって画面が占められている。それが、作者の意図したものかどうかはしらないが、二項対立の鮮やかなコントラストとなって現われていることは、たしかだ。

 『SEX』第1巻についての文章は→こちら
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2004年12月04日
がんがん

 マンガ家は『ガンガンYG』からの継続が多いが、マンガ自体は一新されている。『ガンガンYG』にも掲載されていた、ゴツボ☆マサルの『少年探偵犬神ゲル』は、続きというわけではなくて、リセット、べつのマンガとしてはじまっている。「同じ漫画の1話を3回描くのはもはや拷問でした」というコメントを巻末に寄せているが、じっさいに以前のヴァージョンよりもテンションが低いかな、という感じがする。どれもが第1話というわけで、おもしろかったものを列挙すると、筒井哲也『マンホール』、金田一蓮十郎『ニコイチ』、井田ヒロト『戦線スパイクヒルズ』(原作:原田宗典)、大高忍『すもももももも』、葉月京&エヌ山+TON『Missウィザード(仮)』、中村光『荒川アンダー ザ ブリッジ』といったあたり、わりと多いので、たぶんしばらく買い続けると思う。
 ただ雑誌全体のことについていっておくと、判型がいわゆる青年誌っていう感じになっているだけで、雰囲気としては『サンデーGX』に近しい気がする。同人系の作家や韓国の作家を引っ張ってきただけっていう印象が強い。おそらく読者層として設定しているのも、現在20代半ばぐらいの、子供の頃にはすでにテレビゲームや、剣とファンタジーの世界が当然のように存在していた世代で、だからだろう青年誌の定番ともいえるヤンキー系マンガ、ストレートなエロ系マンガはほとんど除外されているのが、この雑誌のカラーになっているといえば、いえる。『ヤングキングアワーズ』あたりとも被ってくるのかな。まあ表紙がドラクエとファイナル・ファンタジーってあたりが、青年誌としては奇形だと思うけれども、成熟しない男の子たちというのが今日性であるのならば、そのことはうまく掴んでいる。
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2004年12月01日
 もともとはいじめられっ子だった神代ユウは、ふとしたことをきっかけにして、格闘の才能を開花させてゆく。戦う場は、ストリート。しかしストリートでの戦いに居場所を見つけられない自分もいて。「心の闇」みたいな自意識の問題と、格闘技に関するうん蓄が、バランス良く両立しているのが、このマンガの強みだろう。要するに、メンタルな面とフィジカルな面の回転が非常に効率的なのだ。それが全体にテンポのよさとなって現われている。これが完全に自意識のほうへ落っこちてしまうと『軍鶏』になってしまう、というところを回避し、登場人物たちを上手い具合に日常のなかに止まらせている。各高校の小競り合いは、ヤンキー・マンガを思わせる。この巻では、強さと友情が天秤にかけられていて、展開次第では、次巻以降ものすごく暗くなっちゃいそうだな。
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2004年11月29日
 この巻でもっとも燃えるセリフをピック・アップ!
 
 G
 己の欲望の為 力無き幼子の未来を砕く事が
 己の正義と信じているお前が未来を語るのが不快でたまらない

 燃える燃える、超燃える。
 でもって、こういう(状況説明以外の)言葉数の多いセリフは案外、車田正美のオリジナルにはなかったりする。車田スピリット(正美イズムともいう)が、岡田芽武を経由することによって、はじめて口にされたものだ。
 コラボ・マンガの優位性というのは、こうした点にある。
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2004年11月28日
 家族とかのことを描いてるのが『かの人や月』だったら、こっちは恋愛みたいなものに焦点をあてている。ただ、それは明確に恋愛だとは断言されていない。断言されていないことによって、感情の「きよくやわい」面が強調されている。2話目を読んだときに思い出したのは、この間読んだばかりの瀬尾まいこの小説『幸福な食卓』であった。とはいっても、『幸福な食卓』の終盤、自分を守ってくれていた大切な人が自転車に乗ってるところをダンプカーに撥ねられ日常から不意に消える、という部分が似ているというだけの話だけれども、たぶん両者に因果関係はなくて、そういった展開自体がありふれたものだとも思える。テーマとして置かれているものはべつなので、簡単にいっしょにはできないが、しかし、そこにある喪失感はほぼ同等と見ていいだろう。とした場合、僕などはこのマンガの描かれ方のほうが納得できる。それはけっしてマンガと小説という立場の違いから生まれるものではない。どちらのほうが生きている感情をうまく捉えているかということだ。
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2004年11月27日
 もうぼちぼち終わりでいいんじゃないかっていう気がする。ちゃんと好きな人と付き合えて、みんなから祝福されて、ちょうどいいじゃないか。まあ人気商売だから、というのもわかるけれど、なんていうか、あきらかにマンネリである。『キン肉マン』でいったら、もう王位継承編ぐらいになっちゃってる、って、しまった、この喩えはわかりづらいか。全体の印象としては、第8巻のときといっしょ。まるで牛歩。これ、もういっかい盛り返せるのかしら。

 第8巻についての文章は→こちら
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 僕はずっと、田島昭宇と浅田弘幸を結びつけたのは、萩原一至だと思っていたのだけれど、ここに掲載されている二人の対談を読むと、どうやら違うようである。けれども、僕なんかの感覚だと、やっぱり田島、浅田ときたら、萩原を並べたくなるな。こういうのは、現在はわかりづらいかもしれない。逆に、田島や浅田が今のようにサブカル受けする状況というのが、僕はおもしろかったりするのだけれども。あ、この三者の分岐を、「サブカル」「パンク」「自意識」と「オタク」「ヘヴィ・メタル」「ガジェット」に区切って考えると、90年代は見やすくなるかもしれない、と、ふと思った。
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 生き方の反省みたいなのが、近頃のヤンキー・マンガの主流である。ほら、手元にあるマンガ雑誌を開いてみろ。どいつもこいつも暗い顔してグレてやがるぜ。ばっかじゃねえの。そういった奴らをブン殴る体でヤンキー・マンガを90年代に完成させたのが、森田まさのりの『ろくでなしBLUES』であったが、なぜかそれ以降ヤンキー・マンガは、その殴られるほうに焦点を当ててゆくことになる。おそらく、ここいら辺の実情は『週間少年マガジン』系のヤンキー・マンガ『特攻の拓』や『カメレオン』、『湘南純愛組!』あたりが、トラウマ・ブームやアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』とシンクロするかのように、自意識の問題に深く関わっていったことと無縁ではない。そのことの結果として、大きく欠けてしまったのが、硬派の存在である。

 硬派は生き方を否定しない。自分を肯定するがゆえに硬派なのである。そこには暗さではなくて、明るさが生まれる。その明るさをすくいとっているのが、この『ギャングキング』である。彫り物師を目指す主人公ジミーは、いまどき正統派の硬派だといえる。長ランとかボンタンとかの、そういう格好のことではなくて、あくまでもメンタルの面において、だ。そういった基本線がしっかりと抑えられているから、『ギャングキング』は、ヤンキー・マンガとしての安定したおもしろさをキープしている。

 この第3巻に収められたエピソードはどれも、ヤンキー・マンガの古典を踏襲したものである。友人の退学。あまりにも純情すぎる恋の展開。定年退職する教師との交流。仲間の面子を保つための嘘。ベースとなっているのは、ガッツと思い遣りだ。登場人物たちはメリットを求めて、アクションを起こさない。むしろリスクの多い場面に飛び込んでゆく。そこには計算がない。ヤンキー・マンガとは、モラトリアムをいかにして過ごすかということである。まだ大人にもなってないのに、結果のほうから逆算するように行動するなんて馬鹿みたいだ。けれど、ただ無茶すればいいってもんじゃない。それじゃ軟派野郎だ。硬派じゃない。無茶が先立つのではなくて、ガッツと思い遣りに端を発した無茶を、この巻は描いている。というかね、これを読んで、もうちょっと熱くなったほうがいいよ僕というやつは、と思った次第。
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2004年11月23日
 帯によると〈PS2にて話題をさらった超クールな武侠アクションゲーム〉のコミカライズらしい。僕はそのゲームはやったことがないのだが、しかし、このマンガはまさにジャストである。けっして大勢には薦めない内容だけれども、アニメ『スクライド』の脚本を担当した黒田洋介が紡ぐ台詞の数々は、じつに圧倒的だ。
 この世界でもっとも傍若無人な生き様をまっとうする男、劉王羽がいかしてる。いろいろと説明するのが面倒くさいので、燃えるセリフを、ランダムに、そしてジャストに抜き出させてもらうよ。

 気づかないうちに俺は・・・・俺というものを見失ってしまった
 ならば 行くしかあるまい!!
 自分探しの旅に!!

 自分探しの旅か・・・
 いざ旅に出たものの・・・・
 俺というものはここにいるのだから
 自分を見つけたも同然――
 滑稽だ 自分探し!
 だが疑問はある!!

 どちらを選ぼうとも
 地獄!!
 そうだ!!
 あの時 俺は!!
 自分の意思で選んだんだ
 それだけは
 間違いなく真実!!
 
 間違えた生き方なんてありません
 そうよ 人生は
 生き方を貫くか貫かないかだけ
 たとえ嘘をついたとしても
 その嘘を本当にすれば
 それは真実になります
 きっかけはどうでもいいの
 一度やり始めた事は最後までやりとげる
 それが大事なんだよ!!

 それが劉王羽!!
 つまり 俺!!

 あなたに斬れぬもの!?
 それはいったい――

 人の縁(えにし)だ

 お前が好きだ!!
 お前が欲しい!!

 私も好きだし
 勝手にもらって!!

 ・・・・志(こころざし)?
 お姉様 志とは?

 そうね
 不可能を可能にする一途な信念かしら・・・・

 悪はJUSTに斬る!!

 はっきりといえば、ストーリーはものすごく馬鹿であるというか、どうしようもない。絵柄もキャッチーさを狙いすぎて、逆に好みが分かれるところだろう。けれど、僕はこれを読むだけで、よし、もうちょい戦ってやろうと思えるんだよ。
 ジャストで、な。
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2004年11月16日
 竹下堅次朗といえば、僕なんかは、90年代もっともノッていた(とされる)頃の『ヤングサンデー』のイメージがあり、出てきた当初は、安達哲やよしもとよしともの後継といった感じに受け取っていたが、今はすっかりとべつの作風を確立している。90年代を「サブカル」と「オタク」の二極で考えるならば、ちょうど「サブカル」から「オタク」へと移行していった感じがある。というか、よくよく考えれば『パープル』などは、両性具有の女の子の話だった。そういったことも含めて、オタク的なガジェットに重点が置かれるようになると、自意識の揺らぎが安定する、というのが竹下のキャリアをみていて、思うところだ。
 はっきりといえば、僕は『ハッピーワールド』はちょっと乗れなかったが、これはまあまあおもしろい。少年と少女の冒険ファンタジーはわりとステレオタイプであり、少女が人間ではないという設定も、ありがちといえばありがちであるが、しかし、少女が人間ではないことをどのようにして世界が受け入れていくかという部分に、『カケル』の延長線上であるような、90年代的な自意識の問題が漂っている。開放感に溢れた夢やロマンというよりは、どこか閉じていて、その分だけ殺伐としている。
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2004年11月06日
sex

 2巻まで出ていたのが、判型をあらため、まったくの仕切りなおしで、全7巻刊行されることとなった。ようやく完結するということだろう。とはいえ、リアルタイムで待っていた身としては、半ば諦めていたというのもあるし、これだってほんとうに7巻まで出るのか信じていないところもある。ただし、元のヴァージョンと違い、色はナシ、ぜんぶ白黒である、たったそれだけのことで、常に作品に手を加え続ける作者がどっかで妥協点を見つけたのかもしれないという、安堵のようなものを読み手が感じてしまうのは、もはや業である。しかし、かっこいいな。今、読み返してみて思うのは、自意識そのものは描かれていないのに、登場人物たちの自意識がちゃんとその絵柄に反映されているということだ。正直、古びてしまったところもあるけれども、そういった点においては、まったく古びていない、現在でも十二分に通用する、というか、むしろこれが原型か。あーそういえば、ミントのガムを噛みながらタバコを吸う、そのシーンが好きで、僕は今でもそれを真似ているのだった。
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2004年10月28日
 はちゃめちゃ学園忍者コメディ。舞台が同じため、いちおうサッカー・マンガだった前作『ササメキ』の登場人物たちも、ほとんどそのまま出てくる。けれども『ササメキ』以上に、ストーリーみたいなものはあんまりない、設定もものすごくあやふや、どいつもこいつも過度にテキトー、ただテンションだけが高め。だけど僕には、そういうところがジャストだったりする。兄弟ゴツボ☆マサルの『サムライチャンプルー』2巻も同時発売だったけど、個人的には、リュウジのほうが好みだな。恒例の帯コメントは、沙村広明でした。おお、ハード・ロック好き繋がりだ。
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2004年10月27日
エメラルド

 沙村広明のかっこいい西部劇。『月刊アフタヌーン』12月号掲載の読みきり。わ、おもしろい。多額の借金を賭けて、金貸しとのゲームに臨む少女。伝説のガンマンを雇うため、彼にゲームを持ちかける謎の女。二人の女、ふたつのゲームが一点で交わるとき、たくさんの人間が死ぬ。ほんとうに沙村は、ひとりの登場人物に比重を占めさせるのではなくて、まるで群像劇のように物語を構成するのがうまい。ただ『無限の住人』ぐらい複雑になってくると、読み手であるこっちが追いついていけないというのはあるけれども、これは小品であるがゆえに、ぐぐっとした奥行きをばっちり感じとれる。欄外のコメントから察するに、タイトルは、シン・リジィのナンバーからとられていて、あーなるほど、ツイン・リードの響きのような、そういう鮮烈さが描かれているのかもしれない。シン・リジィのアルバム『ジェイルブレイク』が、BGMとしてぴったりである。
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2004年10月26日
 また文章が下手糞になってきてる。これ以上悪化させるわけにはいかないので、もうちょいさくっと書くようにしよう。

 いやあ、恋するって切ないな。切ないから、僕たち(誰と誰と誰だよ?)は、笑顔でもって悲しみもやり過ごすんだった。
 これまで脇役に甘んじていた赤星くんが、いよいよ物語に密接に絡んできた。つうか、赤星くん、超かっこいい。僕のタイプである。こういう好きな子にちゃんと優しくできる男ってのは、そりゃあモテるわな。たしかに、他の女の子には冷たいけれど、でも、その分のやさしさが、たった一人にだけ向けられている。まっすぐなのである。だけど、そのまっすぐさが報われるかどうかなんてわからない。もしも報われないとしたら?
 やっぱ、恋するって切ねえや。切なければ切ないだけ夢中になるよ、君に(誰?)。

 →2巻についての文章
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 記伊孝の『犯罪交渉人 峰岸英太郎』では、ネゴシエーターとしての重要なスキルに関しては、直接的に言われていない。が、言わないことで、間接的に言われている感じがする。だが、このマンガの場合は、アガペ(アガペー、無償の愛)だと断言されている。女子高生が犯罪交渉人として、さまざまな犯罪(人間の狂気)に関わってゆくストーリーは悪くはないんだけど、なぜか引き込まれなかったのは、たぶん、そういったテーマの扱い方に違和を覚えるからだろう。
 アガペを真ん中に置くことで、ふたつの大きな問題が浮かび上がる。他者からの承認を求める欲望と、愛されたいという欲望である。もちろん、それらは根幹の部分では、ひとつに重なる。そして、それは90年代以降の、あらゆる表現に偏在する重要なファクターでもある。
 このマンガでは、与える者(主人公)と与えられる者(容疑者)という二項対立を作り出すことで、上記した問題をクリアーしようと試みられているのだが、しかし、それはつまり、この世界は他者からの承認と愛されたいという欲望のみで成り立っているということの肯定にも繋がっている。現代的な拡散した病理を扱っているようでいて、じつは視野が狭いのである。僕なりに言い換えれば、どんな怪我も絆創膏だけで癒されてしまうようなものである。じつに当たり前のように、そんなことはありえない。
 そうした問題に真正面から取り組み、最後までもたなかったのが新井英樹の『ザ・ワールド・イズ・マイン』というマンガである。あそこでは「俺は俺を肯定する」という、承認欲や愛されたいという欲望の、いっさいの否定からストーリーが立ち上げられている。マリアという登場人物がいたが、あれはつまり、アガペーへの否定だろう。90年代以降に、アガペーの肯定を描いたマンガとしては山田玲司の『アガペイズ』があるが、あれは自己犠牲を受け入れる覚悟の問題を扱ったもので、そこには、主人公のモチベーションがどこに由来しているか、というのがはっきり見てとれる。
 が、しかし、このマンガには、今のところ、それが存在していない。はたして、愛するということはモチベーションなしに可能なのだろうか。あるいは、そういったモチベーションが存在している時点で、それはアガペーではないということが言いたいのかもしれないけれど、残念ながら、まだ上手く言えていない。
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2004年10月22日
 わりと正統派なSF海洋アドベンチャー。だけれども、「なぜ」「どうして」という自意識の問いかけと、登場人物たちの影の部分の描かれ方、そして都市がいったん謎の崩壊によってリセットされているという設定が、じつにやまむらはじめらしい。とりあえずこの1巻でいえるのは、それぐらいかな。おもしろいですよ。
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2004年10月16日
 『愛してるぜベイベ★★』をズルいぜベイベと思うのは、ゆずゆ(5歳)が猛烈に可愛いのと結平(17歳)がモテモテのくせしてものすごくイイ奴だからだ。仲睦まじいふたりの姿を見られるだけで十分に読む価値がある。言い換えれば、キャラクターの魅力にマンガ全体がリードされているということだ。なので、細かい部分ではいくつか難点がある。たとえば、この6巻で引っかかったのは、結平の彼女が妊娠している(かもしれない)ことを知った友人の〈なんでろ…うちらの歳って一発殴られなきゃ現実に気づけないの〉という台詞で、これ、流れでいうと、わりとシビアな意味を持っているんだけれど、僕などはここにもなにか甘えがあるような感じを受ける。まあ少女マンガにおけるセックス(性交)の低年齢化(現実世界でも低年齢化してるのかもしれないが、そこいらのことはよくわからない)についてあーだこーだいうつもりはないけれど、せめて避妊ぐらいはちゃんとして欲しいと思うし、完璧な避妊などないというのであれば、やはり、すこしばかり浅はかなのではないか。もちろん、その浅はかさに関して先の台詞は言われているわけだが、どこかやり直しがきくというようなヌルさ、あるいは、経験則でしか物事を考えないしたたかさを感じとってしまうのは、うわー僕がおっさんだからですか!いやいや、総じて『愛してるぜベイベ★★』で繰り広げられているのは、大人のいない未成熟な世界である。親父さんやお袋さんはちゃんと登場しているのだが、しかし、彼らは子供たちの未熟さを保護するためにのみ存在している。これは以前、笹生陽子の小説『ぼくは悪党になりたい』を読んだときの感覚に近しい。たとえば同じ子育てを扱っていても、羅川真里茂『赤ちゃんと僕』にはあったような、子供が子供であるがゆえに大人の社会で無力さを味わうというのが描かれないのは、やっぱり、この10年の間に日本人の自意識というものが大きく変わっちゃったからなんだと思う。と、難癖つけてみたけれど、僕はこのマンガ大好きですよ。次巻で完結なのが残念だ。
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2004年10月15日
夕凪

 小学校の頃の遠足で一年に一度は訪れたのが、丸木美術館というところで、そこには原爆の被害にまつわる絵が飾られていた。ある種のグロテスクさに、重たいウェーヴがかかっている。それを見ると具合が悪くなる、僕はそういう子供だった。しかし絵画には、モデルとなる現実があって、現実は、立体であり、ニオイがし、音をたてる。とすると、原爆によるダメージというのは、僕の想像力では追いつかないほど、おそろしいものに違いなかった。

 『夕凪の街』は、『WEEKLY漫画アクション』に掲載された短編で、評判がよかったのか休刊ののち復刊した『漫画アクション』に、その続編ともいえる『桜の国(一)』が掲載された。ここには、そのさらに続編である『桜の国(二)』が書き下ろしで収録されている。幼い頃に広島で原爆に被爆した女性の生涯を『夕凪の街』は扱っており、『桜の国』は、間接的に彼女の子孫にあたる人々の現代における生活を描いている。

 ふつう原爆などのシリアスな問題を取り上げると、リアルに熾烈であることが正しいメッセージであると見なされるが、しかし、このマンガはやさしいファンタジーとして成り立っている。そのファンタジックにあたたかいことが、ショッキングな事実に思考を停止させない、心の奥のほうに染み入っていって、おそらく魂のレベルで、この世界における病み(闇)というものに、読み手の目を向けさせる。他人事であるはずのことに、なにかしらかの責務をもって関心を持つのではなくて、ただただ自然にシンクロさせられる。

 とくに秀逸であると思うのは、ある意味ではけっして特殊なものではない、生きようとする力と殺そうとする意思の凌ぎ合う場として、登場人物たちの命が現われているところだ。

 ぜんたいこの街の人は不自然だ 誰もあの事を言わない いまだにわけが わからないのだ わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ 思われたのに生き延びているということ そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに 自分で時々気づいてしまうことだ 『夕凪の街』

 原爆を含め、すべて兵器は、死ねという意思の具体的な行使である。彼女はなんとかそれを生き延びる。けれども、生き延びたことが、まるで呪いやトラウマのように彼女の心を蝕む。忘れようとしても、放射能に汚染された体が、忘れさせてはくれない。そのせいで、生きることがそのままツライものであるかのように感じられる。けれども彼女はけっして自ら死のうとは思わない。忘れないでいることこそが、生きるのに等しいことを彼女は知っていた。

 そういった主題は『桜の国』でも反復される。『桜の国』で描かれるのは、被災地より時間的にも空間的にも離れた、東京での一家族の暮らしである。身内が死ぬ、だが、その原因が原爆(放射能)にあるのかどうかわからない、それぐらい遠い場所まで来てしまった家族が、あることを契機に、自分たちのルーツを遡ってゆく。半ばで、ようやく物語は『夕凪の街』とリンクするのだが、そこで得ることは、あそこ(広島)に生きていた人たちのことを忘れないという感触である。いま生きている場所はたしかにここ(東京)であるが、しかし、自分がここにあるのは、その人たちがたしかにあそこで生きていた、ということの証でもあるのだった。

 これは澱みのない直線で描かれた感動なのだと思う。とりたててドラマチックなことが起こるわけではないけれども、しかし、呪われ、戦い、勝つという普遍的な生命の躍動を、とても丁寧に掴んでいる。このメッセージが、多くの人たちに届けばいいな、と僕は願う。
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2004年10月14日
 なんだかまだるっこしく感じるのは、たぶん、こういうことなのではないだろうか。たとえばAという登場人物がいる、Aには内面がある、けれども、その内面はA自身によって語られることはない、Aを見つめているBという登場人物によって代弁される、もちろんBにも内面がある、その内面もAと同じようにB自身の言葉では表されない、そのBを見つめているCの観察によって発見されるだけだ、しかしAはBを必要としないし、BもCを必要としない、Bが必要としているのはAだとしても、AはZというべつの登場人物しか求めてはいない。なるほど。それはとてもとても悲しい話だと思う。
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2004年10月11日
 僕のなかでは、みさき速は、けっこう評価が高いんだけど、一般的にはどうなんだろうというのはある。以前、友達に『特攻天女』を薦めたら「詰まらない」と一蹴されたので、それからあまり他人には薦めないことにはしている。
 さて。これにておしまい、の第4巻である。いちおう第一部完となっているが、打ち切りっぽい展開なので、続きはないだろう。あったとしても、少年誌での再開は難しいんじゃないか。というのは設定が、どこまでが狙いなのかわからないが、あまりノーマルではないからである。主人公の葛藤のほとんどが、近親相姦的なタブーによって占められているし、野々宮花七という12歳の女の子が登場人物としているのだが、彼女なんかはレズビアンであるのだが、それと同時に、主人公(男の子)への肛門へのフィスト・ファックを夢見ている。
 とはいえ、肝心のテーマみたいなものは、プラトニック・ラヴに近しい純愛である。ここでいう純愛とは、片想いを延々と続けるという行為を、さらに変形させたものである。みさきの参照項には、高橋留美子があるわけだが、たとえばそれは、「うる星やつら」における、ラムとあたるを含めた何組かの恋人や親子の関係性に似ている。見方によれば、自我を他人に押し付ける、ある種のパラノイアである。
 たぶん、それがパラノイアであることをわかりつつも、みさきは、そこには生きることへの働きかけとなる、そういういアクチュアリティがたしかにあることを、なんとかして取り出そうとしたのだと思う。
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 前の巻からだいぶ間があったので、出ないのかな、と思ってたら出たので、よかった。ヤンマガ系(とくに増刊などの掲載)は、わりとフェード・アウトしてしまうことが多いので。さて。ここで描かれている交渉術とはなにか?といえば、要するに、相手の気持ちを考える、相手の立場を考える、ということをテクニカルにこなすことである。問題は、そのようにして相手を説得する言葉は結局のところフェイクなのではないか、ということだろう。このマンガでは、それがただのスキルではない、あるいはただのスキルであったとしても、他人を生かそうとする根本の部分が嘘ではない、とすることで、社会的なバイアスであるところの正義や悪とはべつのレベルでの、罪や償いを描くところまでいっている。どうやらカルト教団との対決が行われるらしい次巻は、きっとものすごくおもしろいし、かなりシリアスなのではないだろうか。ところで2巻で、絵柄が多少コミカルな感じになっちゃたんだけど、それにしても、この人のタッチには華倫変を思わせるところがあるなあ。あそこまで変態ではないけれど。
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2004年10月08日
きらら

 正確には7貫目。『きららの仕事』を読んでいると寿司(鮨)が食いたくなる。それが良くないところである。基本的な筋としては、鮨職人としての天才的な才能に恵まれた少女が、さまざまな苦難を乗り越えてゆく、という浦沢直樹が『YAWARA!』で提示したフォーマットを踏襲しているが、しかし、読み応えはそこではなくて、まるで少年マンガ的な展開をみせる「スシバトル」こそが、熱いのであった。幻の握りを完成するために、滝に打たれたり、極限まで筋トレを行ったり、ボロボロの体でもバトルに赴く、まさに命懸けの坂巻が、僕のお気に入りキャラである。この巻では、いよいよきららの出生の秘密が明かされる。そして、手渡される伝説の鮨職人が使っていたという包丁。アメリカ帰りのロール巻使いタッド松岡に苦戦を強いられるきららは、はたして逆転のチャンスを掴むことができるか。個人的には、寺沢大介『将太の寿司』をさらに上回る、熱血寿司マンガだと思う。ぜひとも多くの方に読んでいただきたい。
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2004年10月06日
 カレカノ最新刊。個人的には、前半(というか、最初の数巻)のテンションが高い頃のほうが好みなんだけれど、総一郎が一回壊れちゃってからの暗いムードも悪くはないと思っている。というのは、たぶん、僕はこれを90年代以降の自意識の物語として読んでるからなんだろうな。この巻では前巻に引き続き、有馬の父親であるところの怜司の過去を中心として話は進む。こういう回想モードの長期化というのも、90年代半ばぐらいから流行り出したんだと思うんだけれど、わりと他のマンガだと新しい伏線がばんばん飛び出てきちゃうところを、ちゃんと伏線の回収にあてているのが、エラい。で、この巻でようやく、作者が、どうやって物語全体に決着をつけるつもりなのかというのが見えてきた感じもある。家系というか遺伝というか、負の連鎖という発想が出てくるのだが、おそらくそれを断ち切ること、つまり父性とか母性とか恋愛とか思い遣りとか、そういったものをすべてひっくるめた上での愛情みたいなものの成立を、出口として想定しているんじゃないだろうか。ただ一歩間違えると、ロマンティック・ラヴから家族という制度へ、というような近代的な場所でしか自意識は安定しない、という結論に落っこちてしまいそうな気がしないでもない。
 で、これはぜんぜん関係ない話で、一個気になったのは、暴走族みたいのが出てくるんだけど、格好はたしかにヤンキーなんだが、どうもメンタリティがものすごくチーマーっぽいのが、どうもな。いや、ほんとうにぜんぜん関係なくて申し訳ない
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2004年10月05日
 いちおう大団円ということになる最終巻。徳弘正也が物語を着地させたのは、世界全体が平和に落ち着くことはないので、いち個人がいったんの幸せを獲得した時点をハッピー・エンドとする場所である。ある時期から、マンガに限らず、サブ・カルチャーが作り出す物語は、幸福な結末を用意しないことで、大勢の共感を得てきた。おそらく、それはハッピネスというものが、どういうものなのかを規定することからの逃れだったのではないだろうか。つまり、物語を動かすために、さいしょに問題を提出するけれども、それは永遠に解決されないとすることで、ある種の責任を回避してきたのである。このマンガの場合も、主人公たちの背景にある世界には、なんの解決もやってこないが、しかし、主人公が同じ苦悩をぐるぐる回るルーチンに対して、ちゃんとした出口となる回答を与えたことは立派だと思う。それと「あとがき」を読んで感じたのだけれど、国家の問題を扱いながらも、あくまでもラヴ・ストーリーとして成立させたのは、もしかしたら元『週刊少年ジャンプ』系作家の一部が、ここ最近、やけに政治的な物語を描いたりすることへの、ささやかな反発なのかもしれない。
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2004年10月01日
 人気があって売り切れなのか?近所の本屋を数件回っても、ぜんぜん手に入らなかったので、わざわざBK1を使って、ようやくゲット。あちこちのサイトに上がってる感想を先に読んでしまっていたのだけれど、うわ、これはたしかに泣ける締め方だ。90年代の半ばぐらいから数多の世界の終りがマンガによって描かれたわけだけれど、そのなかでも特に良質なエンディングなのではないだろうか。要するに、他者とともにあることが生で、他者との別れが死であるということなのだろうけれど、それが身体のレベルと精神のレベルの二層で表されている。ここにはあるのは、生まれてくるときと死ぬときは誰もが一人なので、せめて生きている間ぐらいは誰かと一緒にいたいとして、そういう寂しさみたいなものが、やさしい抱擁によって安らぎへと移ろう過程と、そして結末なのだと思う。
 だめだ。うまく言えないので、あとでもうちょい考えてみる。
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2004年09月30日
 背負ってしまった罪はおろすことができない。けれども誰かの赦しによって、その重みを忘れることはできる。破壊者である「神の槌」としての逃れられない宿命のために、愛する人たちとの別れをいったんは決めたブルーノであったが、しかし、彼を追う軍隊はすでに隠れ里に迫っていた。『週刊少年チャンピオン』44号掲載。前編に比べると、絵がダイナミックに動いている。ただ話自体は、ずいぶんと無難なところに着地してしまった。もしかしたら連載化が射程に入っているのかもしれない。そうなるのかどうかは知らないけれど、なったとしても杉本麦太『キリエ』と同じ末路を辿りそうな感じがする。勧善懲悪で割り切れない世界観は、物語に深みを与えるけれど、決着のつけ方を難しくさせてしまう。
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2004年09月29日
 うーん。ハッタリが効いていないというか、驚きがないというか。たぶん、これ、プロットが駄目なんじゃないかな。つまり大塚英志の部分が。テロが起こる→主要キャラクターが死ぬ→大勢に影響はなし→そこで新キャラ登場。渡久地が死んだあたりがドラマのピークで、それ以降は、この繰り返しでしかないでしょ。辛うじて田島昭宇のセンスが全体をリードしている感じ。引き際を間違えると『MADARA』みたいになっちゃうかもしれない。
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2004年09月27日
gold ←なんとも燃える表紙だとは思わないか?

 これまでにも何度かいっているけれど、『GOLD』はヤンキー・マンガのなかでも、現在もっとも上等な部類のうちのひとつに入る。学生時代が期限付きのモラトリアムであることに対して、無自覚であるがゆえに暴走するのではなくて、自覚的であるからこそ一瞬の生をまっとうしようとする姿勢は、おそらく80年代頃のヤンキー・マンガにはなかったものである。
 過去回想編が終り、この10巻からは、新章とでもいうべき展開がスタートする。ほとんどの因果関係が明かされ、いったんの仕切り直しが執り行われている。テンションはまだ、ちょっと低めだが、これから徐々に盛り返していくことが予想できる。ケンカ、ヤクザ、そしてバンドと道を違えた友情が、どのように再会するのか。ギャングのキングとなった兄を、はたして弟は拳ひとつで救うことができるのか。大人の汚い策略に、少年たちの純粋さは殉じてしまうのか。ますます今後に目が離せない感じですぜ。
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2004年09月23日
 フルーツバスケット (15) 

 登場人物たちにかけられた十二支の呪いは、閉じた円環を成立させる。ひとつの完結した世界を作り上げている。その世界に囚われていることは苦痛であるが、しかし、その世界がなければ生きてはいけない。要するに、ダブルバインドに引っかかっているのである。そこでは社会通念や道徳などといったものは、ほとんど役に立たない。救いとならない。見えざる抑圧によって、無理やり封じられた自意識は、窮屈さのなかで次第に肥大してゆく。ささやかな躓きは、それを拾うネットワークが断たれているせいで、いとも簡単に死へと直結してしまう。『フルーツバスケット』における、影の部分は、そのようにして成り立っている。もちろん、それは90年代以降の表現のほとんどに、中核として存在している問題でもある。しかし、と僕が思うのは、おそらく作者は、これを無意識的に描いているのではないかということだ。や、それはけっして悪い意味ではなくて、作為がない分だけ、ここにはある種のリアリティ(読み手が感情移入する要素)が、もっとも汎用的な形で、備わっている。その結果として、生に新しい意味を与える光となって現われるのが、無償の愛に近しいものであることは注目に値する。ここでは邪悪さを表すものがイノセンスであるならば、それと相反する純粋さを表すものもまたイノセンスなのである。シンプルな二項対立が図式的に復活する一方で、それらに挟み込まれた感情が、矛盾を孕みながら大きく揺らぎだしている。

 さて、いよいよ15巻である。主要キャラクターの過去が徐々に明かされつつあるわけだが、これは伏線の回収がはじまった証拠である。と同時に、以前よりモノローグによって予告されていた破滅の到来が、いよいよ近づきつつあることを感じさせる。学園祭などの楽しいエピソードなどは、騒がしい内容ではあるけれども、むしろ嵐の前の静けさのように平和だ。
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 外薗昌也の新作は、まあ、いつもどおりの世界が破滅へと向かう物語。とはいえ、新種のウィルスが都市に撒き散らかされるという設定自体がSFだともいえるが、しかし、オカルトやファンタジーの要素は、極力省かれている。ただ、これって『犬神』の23細胞にまつわる部分を、新型ウィルスという設定に書き換えただけじゃないかって感じがしないでもない。この第1巻だけを読んだだけじゃなんともいえないけれど、医者の人たちが中心として、話が進んでいく分には、今後の展開にも期待できそうだ。でも、きっとまた話はどんどんズレてくんだろうな。
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2004年09月22日
bruno1 bruno2

 『週刊少年チャンピオン』43号掲載の特別読みきり、前編、43P。おもしろい。設定は派手だけれども、話自体は地味に運ぶ。地下に封印された生体兵器E-17=「神の槌」。彼には一瞬にして、ひとつの街を壊滅させるだけの力がある。その彼のもとへ、謎の侵入者が、幾重ものセキュリティを突破してやってくる。邂逅が、「神の槌」の閉ざされた記憶を、蘇らせる。戦争活劇と銘打たれているけれど、この前編に限っては、バトル的な要素は、ほとんどない。戦争に心の傷ついた「神の槌」に訪れる一時の平穏が描かれている。表題の「ブルーノ」とは、「神の槌」がたまたま出会う戦争難民であるところの女性が、彼に授ける新しい名前のことである。しかし実は、彼女や彼女が引き連れる小さな子供たちがかつて住んでいた街を破壊したのは、他ならぬ「ブルーノ」なのであった。ここにあるのは希望の喪失なのだと思う。自らが存在することが、愛しい者の幸福への否定であるとき、生きることの意義など、どこにも見当たらない。さて物語は、後半で、どのように展開するのだろうか。これが失意の現在地点から見える過去の光景だとしたら、やっぱり、みんな死んじゃうのかな。それとも。
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2004年09月21日
 『天然コケッコー』なんかはとくにそうだけど、大きなドラマのないことが日常であって、そうした日々の連なりがひとつの大きなドラマをつくる、というようなことを、くらもちふさこのマンガはいっているように思う。主人公の周囲を霊的なものが取り巻いているという異様な環境のもと、『月のパルス』は幕を開けるが、しかし、それだって日常のいち風景を切り取ったものに他ならない。運命の流転を予感させるような伏線が随所に張られているけれども、物語がどのように展開していくのか、まだ先は見えない。
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2004年09月15日
 3話収められているうちの2話目「ホワイトタイガー・イリュージョン」は、ぱっと見で岡崎京子のマンガ『リバーズ・エッジ』と森田芳光の映画『家族ゲーム』が参照項にある気がするんだけど、作品が抱えるテーマのようなものはまったくべつのものに塗り替えられている。家族や郊外、学校、そして閉塞感、たぶんそこにあるリアリズムを生きるということではなくて、架空を架空としないことで現実を飛び越える、そういう跳躍が描かれているのだと思う。基本的に、ジョージ朝倉のマンガにおける女の子たちの姿はみな、夢物語を信じている、という路線でもって一貫している。彼女たちが信じる夢物語は、ほとんどの場合、やがて目の前で現実と化す。その瞬間の輝きが眩い。この巻の3話目「METAL MOON」の終盤、瀬々という少女が赤い月の下で見せる表情などは、まさにそれである。誰もが変化を待っている。その変化はどこからやってくるのだろうか。『恋文日和』ではそれは手紙という形をもって現われている。いつだったか、君や僕がこぼした言葉として、思い出される。
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2004年09月14日
 大暮維人6年ぶりのエロ・マンガ単行本。個人的には、エロ・マンガを真剣に読んでいたのは、ちょうど大暮維人が登場したぐらいまでで、大暮維人がメジャー誌で描くようになるのと並行して、エロ・マンガはあまり読まなくなってしまった。なので、ちょっと感慨深いものがある。巻末には、天竺浪人との対談が掲載されていて、これもこれで重要なポイントだと感じる。なぜならば僕は一時期、天竺浪人は90年代以降の自意識のもっとも優れた描き手なのではないかと思っていたからだ(勝手に安達哲の後継者は天竺浪人しかいないと思っていた)。じっさいに対談の内容も、ひじょうに興味深いものとなっている。それはともかく。この本に収められているものであれば『はね』のような、集団に飼われている女の子(嫌な言い方だ)を扱った作品(以前でいえば『Cせん竹田』のようなやつ)にこそ、僕は惹かれる。彼女を緊縛しているのは、いっけん目に見える暴力であるが、しかし、じつはそうではなくて、見えざる抑圧や束縛への抗いとして、あえて暴力に屈する、そうすることで心の底のレベルに、いちばん大切なものを守るのである。それはつまり、このクソみたいな世界でも、懸けるに値するものがきっとある、そのことを信じ続けようとする戦いなのだ。
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2004年09月13日
 どうでもいい話なんだけれどさ、『ヤングマガジン』今週号から『DEEP LOVE[REAL]』のマンガがはじまったんだけれど、これの画のほうを担当してるTetsuって、こしばてつやだよね?ちがうのかな?もしもそうだったら、なんか退行してない?
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2004年09月09日
 『月刊少年マガジン』連載。今までチェックしてなかった料理マンガ。とはいえ、それほどおもしろいとは思わないなあ。料理マンガ界はわりとシビアなのである。それでも、これが生き残っているのは、少年月刊誌上での作品だからかな。
 主人公の少年は、セオリーどおり、料理屋の跡取りなわけであるが、このマンガでは主人公の家は、そば屋を経営している。という理由もあって、主人公が執着するのは丼物である。扱う料理が丼物であるという点と、ストーリーを動かしているのが借金の返済という点でもって、他の料理マンガとの差異化を図っているようだ。3巻あたりからラヴ・コメの要素も絡んでくる。
 しかし、最終的にはテクニカルな面ではなくて、メンタルな面(心遣いなど)が、勝利のキーとなるというのと、料理を食べたときのリアクションでもって味を読み手に見せようというのは、いささかセオリーを踏襲しすぎて、食傷気味な感じがする。
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2004年08月29日
 最終巻。学力が高いわけでもなく、スポーツで有名なわけでもなく、ケンカで鳴らしているわけでもない駄目高校のダメ・グループが、破天荒な転校生(幼馴染)の登場によって、徐々に自分たちの進むべき道を見つけてゆく、という基本的なコンセプトを全うするためか、ド派手な抗争がすくなく、あまりにもスタティックにストーリーが進むため、地味な印象は拭えなかった。が、作者はきっと従来のヤンキー・マンガからすこしズレたものを描きたかったのだろうと思えば、これはこれで悪くはなかった。

 このマンガが扱っているのも、モラトリアムをいかに生きるか、という主題である。ただ犬嶋高校の学生たちは、なんの取り柄もなく、駄目高校にしか進学せざるをえなかったという事情によって、現在地点を常に不安定なものとして認識している、さらには将来の見通しも暗い。つまりモラトリアムという空間にすら安住できないのである。これはけっこう核心的なポイントで、たとえば従来のヤンキー・マンガでは、少年たちはモラトリアムという空間でだけ戯れることを許されるため、ケンカのスキルを重視し高めてゆくが、しかし、ケンカ以外のスキルを形成できない者は、ヤクザにしかなれない。この点について考慮しながら描かれているのが高橋ヒロシ『WORST』であるのだが、これは仲間との信頼関係がどうとか登場人物の造詣がどうであるとかいう内容の問題ではなくて、むしろヤンキー・マンガにおける構造上の問題(欠点?)であるといえる。
 
 『犬嶋高校行進曲』には、そうしたヤンキー・マンガというフォーマットへの抗いがある。とはいえ、先に書いたことと重複するが、そのことが面白味(醍醐味)をも欠けさせてしまっている。じっさいに、この巻で白熱を帯びてくるのは、旧友でありヤクザ(の手下)である人物が登場する、いわゆる紋切り型の展開がはじまってからで、そういった意味では、やはりヤンキー・マンガの定型に屈したといわざるをえない。が、しかし終盤になって、ひとりの教師=大人(それは、ある意味では、犬嶋高生たちの未来を予見した姿でもある)の生き方を介入させることで、ケンカという一瞬に張られる意地が、現実社会を脇に避けたモラトリアムへの単なる甘えになるのを、うまい具合に回避させている。
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2004年08月26日
 読み逃していたヤンキー・マンガをちゃんと読んでみようと思い立ち、まず手をつけたのが、これなのだけれど、舞台が思いっきり地元(埼玉)なので、驚いてしまった。国道254とか、東松山駅前に鳥居が立ってるなどのローカルなネタが含まれている。とはいえ、高校名なんかはぜんぶフィクション。それはさておき。『月刊少年チャンピオン』誌上で、90年代末から00年代まで連載されていた作品なわけだけれど、全体のテイストとしては完全に80年代である。まあ作者がそれなりのキャリア持ちだからなのだろうけれど、90年代以降という、時代性とのリンクはあまり感じられなかった。
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2004年08月24日
 ひきこもりだとかパラサイト・シングルだとかニートだとか、モラトリアムがほぼ無期限にまで延長された現代において、ヤンキー・マンガがどのようなアクチュアリティを持つか、ということは考えている。というのも、ヤンキー・マンガというのは、モラトリアムであることの安心と焦燥を描き、そのことのアンビバレンツが登場人物たちを苛立たせているように思えるからだ。
 しかし『爆音列島』は、不良は不良でも、ヤンキー・マンガというカテゴリーには入らない気がする。暴走族を直裁に扱っているからというのではなくて、学校という舞台がほとんど登場しないからである。そのような意味では、同じように単車乗りのマンガでありながらも、主に学校が戦場と化す『R-16』(佐木飛呂斗/桑原真也)などは、ヤンキー・マンガの範疇に入るだろう。すると『特攻天女』(みさき速)はどうなるかということになってしまうが、ここではあれはレディースだということで、ひとまず除けておく。
 や、なにもカテゴライズがしたいわけではない。そうじゃなくて、『爆音列島』においてのテーマとは、モラトリアムに準拠するものではないんじゃないかなと、そういうことを言いたいのだった。では、ここにあるものとは、いったい何だろうか?正直なところ、僕には4巻まで話が進んだここまできても、まだわからない。ただ読んでいると無性に腹が立ってくる。甘ったれるな、グズってんじゃねえよ、と思う。
 あ、そうか、そういうことか。青春にとっては、ミジメさこそが、もっともリアルな感情で、僕はそれを見てたくはないのかもしれない。あるいは、そういった意識の逃げる場所がモラトリアムと呼ばれるものなのだった。
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2004年08月19日
 鴨居まさねの10年をまとめた自選集。未発表作も収められているけれど、読んだことがあるのがわりと多かった。でも、いいね。みんながんばってる。なんのために?かといえば、たぶん幸せのために。
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2004年08月15日
 99年に出た、雑誌『H』の増刊号。ホンマタカシが基本的なコンセプトを握ってんのかな。いちおう80年代の残像のなかに90年代を見出す作りになってるっぽい。当時は、こういう似非サブカルみたいのが最高に嫌いだったけれど、5年も経つと、ああこれも時代だったのだなと落ち着いて読める。とりあえずグラビアの佐藤江梨子が最高に幼くてビックリする。

マンガカメラ。

 でもって、なぜ今さらのようにこれを取り上げようと思ったかといえば、これに収められたよしもとよしともの短文(インタビューに答えたものかもしれない)が、ひじょうに印象的で、次のような言葉は現在においてもまだ有効な気がするからなのだった。

 なんかね、よく言われる時代の閉塞感とか、わかるんだけど、もういいじゃんって思う。わざわざ声高にそんなこと言わなくたって、みんな言ってんだからもういいじゃんて。そんなの大前提なわけで。

 よしもとよしとも『吉祥寺雑記帳』


 これって過去の話に終わってなくて、じつは今もなお続いている。多くの人たちがこの大前提にとらわれているような、ヘイソクカンとか、キョムカンとか、ケンタイカンとかに拘泥しているのがリアルみたいな感じで。だけど、そういうのはもういいよ、ひどく退屈で欠伸が出ちゃう。なんていうか、その先にあるものがずっと見たいって、僕なんかは願ってる。まあ、よしもとは『魔法の国のルル』でそれをやろうとして、なかなか出来なくて、停滞してしまったわけだけれども、でもそれってけっこう重要なことで、90年代のネガティヴィティを00年代に延命させるのではなくて、きっとどこにも用意されていない、大きく吃驚するような希望とワンダーを描こうとする、そういう決意なんだと思う。
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2004年08月10日
 さいきん僕のなかでは料理マンガ・ブームで、いまは『おせん』を読んでる。下町を舞台に、和の心、というか、粋に生きるとはどういうことかというのが、気っ風のいいタッチで描かれていて、怠慢と堕落にまみれた自分の人生を思わず省みる次第。

おせんさん

 あと、おせんのお酒の飲みっぷりがとてもとてもステキである。
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2004年08月05日
 おーいえー「こんなバカ見たことない!! わがままヤンキー伝説!!」であるところの『香取センパイ』こそが、いま一番おもしろいヤンキー・マンガであることは、どんなことがあろうとも譲れないところである。
 たしかに高橋ヒロシ『WORST』もおもしろいし、山本隆一郎『GOLD』もおもしろいし、柳内大樹『ギャングキング』も捨て難いが、しかし、『香取センパイ』の無軌道さを前にしては、もはやオールド・スクールだと言わざるをえない。

 最強の不良を決めるべく開催されたケンカ・トーナメント「香取祭り」だけれども、大会主催者である香取センパイの勘違いと暴走により、予想外の結末を迎える。というのが、この巻のあらすじである。あいかわらずガチャピンが可哀想なことになっている。
 
 以前にも書いたが、ヤンキー・マンガというのは、モラトリアムをいかにして生き抜くか、というのが本質的なテーマになっている。『WORST』や『GOLD』は、高校時代というモラトリアム空間は現実と地続きであるという主張を含んでいるのに対して、『香取センパイ』は、誰が強い誰が勝ったという諍いを、完全な虚構として成り立たせている。おそらくは『ろくでなしBLUES』や『クローズ』あたりがターニング・ポイントとなったのだと思うが、じつは現在、ヤンキー・マンガの本筋は前者であり、後者のスタンスは『ビーバップ・ハイスクール』が終わった現在では、あまり見かけられない。
 ヤンキー・マンガがじっさいにどれくらい不良に対して影響力があるのかはわからないが、しかし、なんていうかモラトリアムとかってさ、将来のこととか含まない、その場の勢いでもって盛り上がれるのが特権なわけで、だから、もうちょっとはっちゃけていていいんじゃないかなと思わせるのが『香取センパイ』の強みなのである。
 なんだかんだいったって、馬鹿馬鹿しいってのがいつだって最高さ。そう思うだろ?あんたも。
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2004年07月31日
 おかしい。僕の予想では、真鍋昌平はもうちょっと上にいってるはずだったのだけれど、どうも(人気が)伸び悩んでいる気がする。山田詠美『姫君』のカバーも、文庫化にあたり、HITOE'S 57 MOVEにとって変わられちゃったしな。なんていうか、松本大洋や井上三太の後継としてハイセンスでオサレでストリートなサブカル層にもっとずっと支持されてもいい感じがするんだけれど、そうならないのは、(記号として)絵柄がイマイチ洗練されてないというのと、その作品の中枢には、「生き様」重視な野郎らしさがぷんぷんと漂っているからだろう。基本的には、足臭系のロッカーなのである。
 この『闇金ウシジマくん』も、闇金融によって人が落ちぶれていくという、青年誌においては、わりとキャッチーな構図でもって描かれているのだけれど、テーマとして存在しているのは『スマグラー』の頃と同じで、昇るも落ちるも自分次第、ならば見せてやろう、これが男の心意気なのである。主人公である丑嶋はいっけん冷酷非道な男であるが、しかし、彼が無情に切り捨てていくのは、都合が悪くなれば他人のせいにする、覚悟と責任を負わない、そういう本質的な意味で「自分」を持っていない奴らばかりだ。つまり人生を舐めるなということだ。お前らの人生はとても退屈だけれど、まあいいや。とりあえず戦って死ね。
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2004年07月29日
 『週刊漫画アクション』の休刊にともない有耶無耶のうちに連載の終わっていた作品が、大幅な描き下ろしを加え、ようやく単行本化。クラシックの世界を舞台とした内容は、いま現在ヒットしている二ノ宮和子『のだめカンタービレ』と近しい趣向だといえる。ただ群像劇という点と、音楽的表現という点においては、こちらのほうがやや優れている。
 ところで僕は、さそうあきらの最高作は90年代に描かれた『愛がいそがしい』だと思っていて、さそうのクラシック音楽への拘りは、その頃から顕著であったわけだけれど、もうひとつの拘りであったはずのセックスは、最近描かれなくなったのは、はたしてどのような心境の変化があったのかというのは、ひとつ気になるところである。
 あと、ぜんぜん関係ないんだけど、さそうのマンガの食堂のシーンにはよくバター丼が登場する。僕は食べたことがないので、どんなのか知らないのだけれど、好物なのかしら。
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2004年07月27日
 うひゃーだめだ。ストーリーは動いてんだけど、なぜか停滞してる印象を受ける。以前に比べると、大きくなったコマが、ダイナミズムを削いでいるのかもしれない。
 『BANANA FISH ANOTHER STORY』(文庫版)の解説で、岡田斗司夫が、マンガと続編の関係性について書いていて、そのなかで、たしかクローンがいたという設定でもって続編が作られることがある云々とかって述べてた気がするけれど、図らずも、そうしたことを実践してしまっているのが、この『イヴの眠り』なんだけれども、さて、そこまでして描かなければならなかった続編として仕上がっているかといえば、ちょいと疑問であったりする。
 が、しかし、それでも続きが気になってしまうのがファン心理というもので、うーん、厄介であることよ。
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2004年07月25日
 あーだめだ。今日はぜんぜんダメダメで、何も考えたくない。煩わしい、面倒くさい。ほんとうに駄目人間だ。そんなときに安彦麻理絵のマンガを読んだりするのは、きっと、僕たちは勘違いをしたり、間違えたり、その度にグダグダ悩みながら、それなりに必死なんだけれど、まあそれでも適当に毎日を生きていけるということを知っているからなのだった。
 『色恋』というタイトルだけれど、たぶん、ここに詰まっているのは恋愛に限ったことじゃないんだと思う。あるいは、女性たちのリアリティとか、そういうことでもないんだと思う。じゃあ、何がここに収められた短編たちに通奏低音として鳴っているのかといえば、ごめん、今日は聴き取れないや。でもきっと、それでもいいのかなと、これを読んでいる間は、なんとなくだけれど思えるので、そうだね、よしとしよう。
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2004年07月23日
 女の子が主人公の恋愛マンガ(形式としては少女マンガというのかな)は、ヒロインが自分のほんとうの気持ちに気づくところ(いやん、恥ずかしい)で、ピークに達すると思っているのが僕である。ちなみにここまでの文章は使い回しである。コピペである。それはともかく。ヒロインが、自分がいったい誰のことをほんとうに好きなのかがわかってしまってからが面白いのが、この『ラブ★コン』なのだけれど、それはこのマンガがコメディとして割り切るところは、すぱっと割り切ってしまっているからだろう。でもって、前の巻で、ようやく付き合うことになったリサと大谷であるが、この巻では、ストーリーに起伏を持たせるためか、リサの恋のライバルが新キャラとして投入されている。ただ、ちょっとやっぱり頭打ちな感じを免れないのは、リサと大谷が付き合うまでの過程が、それなりにロングロードであったからで、起こりうる可能性のあるドラマのほとんどが、すでに経験されてしまっているからだろう。
 あと、ひとつ気になるのは、新キャラの投入によって物語が延命されるのは、往年の『週刊少年ジャンプ』的な、かつて否定された、強さのインフレーションと変らない現象であって、ここら辺でそろそろ完結してしまったほうが、ひとつの作品としてはまとまりがあり、綺麗なのかもしれない。や、まだまだぜんぜん面白いんだけどね、コメディとしては。
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 女の子が主人公の恋愛マンガ(形式としては少女マンガというのかな)は、ヒロインが自分のほんとうの気持ちに気づくところ(いやん、恥ずかしい)で、ピークに達すると思っているのが僕である。で、この2巻でヒロインが、自分がいったい誰のことをほんとうに好きなのかがわかってしまって、『高校デビュー』はこの先どうなってしまうのだろう。次の巻あたりで、終了なのかしら。というのも、このマンガは基本的に、モテない(女らしさの足りない)ヒロインが、とてつもないハンサムさんから恋愛に関するレクチャーを受ける、という構図で成り立っていて、その関係性が崩れてしまったら、そのあとは凡庸な少女マンガとして物語を展開せざるをえなくなってしまうからだ。そのように考えると、ああ、この2巻の進み方は、すごく勿体ない気がする。
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2004年07月20日
 コンビニ売りの小冊子で、こういうのはどういう層が購入するんだろうと思いつつ、買ってみる。『タッチ』と『みゆき』がそれぞれ一回目から数話と、この創刊号には短編『ショートプログラム』が掲載されている。200円(2号以降は250円)という定価だけれど、正直いって、それほどお得感がないのは、すべてが既発表であるという点が大きい。けれども、これまで単行本やらワイド版やら文庫版などを持っていない人が、暇潰しで読む(読み捨てる)分には、ちょうどよいサイズではあると思う。『タッチ』や『みゆき』の序盤は、完全に一話完結のコメディなので、こういう形式でも中途半端な印象はあまり受けないけれど、中盤以降、恋愛の要素や青春の要素が深く絡んだストーリー・マンガとして機能してくると、この体裁では少々キツいのではないだろうか。ストック話数からして、たぶん『タッチ』のほうが今後比重が大きくなってくるんだろうけれど、そこら辺のバランスはどうするんだろう。って、そんなこと真剣に考えることでもないのかもしれない。
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2004年07月19日
 こういうガイドブックを買うのはどういう層かといえば、僕のような層である。アニメ『スクライド』のガイドブックは、名著なので2冊も持っているよ。とはいえ、ガイドブックがどうのこうのというよりは、その作品にどれだけ入れ込んでいるかと、たぶんそういうことが重要なのだ。
 べつになにかが起きるような特別な毎日ではないけれど、それでもときどきは挫けそうになる。そんなときはまあ、藤田和日郎の『からくりサーカス』を読むのが僕である。とくに20巻以降が泣ける、超男泣きなのであって、主人公のひとりである加藤鳴海とその仲間たちは本当にかっこいいなあ。ああいう風に戦って死にたいと思う次第。
 『週刊少年サンデー』の連載では、すでにクライマックスに到達し、あとはラスボスとの激闘を描くだけかと思われたが、しかし、どうにも盛り上がりに欠けると思っていたら、このガイドブックを読んでみると、藤田は、まだこれから先いくつものドラマを用意しているみたいである。が、読み手としては、本当にぜんぶ出せるのかと不安になってしまう。その前に連載が終わらないことを祈る。
 それはともかく。インタビューで藤田がいっている「男の目的としてカッコよく死にたい、っていうのがあるじゃないですか」というのは、ああ、ものすごくよく理解できるよ。それはつまり、死に急ぐことじゃない、ただ真っ直ぐにカッコよく生き抜く、そのことの先にあるものに違いない。
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2004年07月17日
 っざけんなっ!すっこんでろっ!と声を荒立てたくなるのは、『Invitation』今月号の、鹿島茂という人が書いた、安彦麻理絵『ソレしながら好きっていえる?』評を読むからで、大学の教授とかフランス文学者とかの肩書きがあると、こういうデタラメを書いても許されてしまうのかと思うと、サブ・カルチャーというのもずいぶんと舐められたものだと憤慨してしまう。
 ここで鹿島がいっていることは、大きくいえば、次のようなことである。安彦は『ソレしながら好きっていえる?』において、セリフのみで黒ベタ白ヌキのコマ使用法によって、「わたし物語」を拒否する、そのことで安彦は、ポスト岡崎京子のダンゴ・レースから一馬身くらい抜けた存在となった。おいおい、そのポスト岡崎のダンゴ・レースは、じゃあ誰と誰と誰によって行われているんだよ!というのが、まずは疑問点であり、そして、安彦のセリフのみで黒ベタ白ヌキのコマ使用は、彼女が90年代より使っていたもので、つまり、なぜそれを10年前ではなくて、今になって偉そうに説明されなくてはならねえんだよ!というのが2つ目の疑問点である。
 おそらく、ポスト岡崎のダンゴ・レースというときには、安彦の盟友である魚喃キリコなどが想定されているように思われる(大塚英志は『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』で、魚喃ややまだないとを、本屋の同じコーナーに並べられているという理由でもって、ポスト岡崎としているが)。だが、ここで安彦と魚喃のマンガを、手法的に比べるならば、この黒ベタ白ヌキというのは、それほど特筆すべきものではないことがわかるはずだ。彼女たちが、90年代に青年誌を主にその活動をはじめられたのは、安彦の出世作である『おんなの子の条件』が、どちらかといえば女の子の本音的部分を求められたものであったように、青年マンガにおける女性の視点の獲得が、背景としてあった。なるほど、そのような意味では、先行する岡崎や内田春菊などに連なる系譜であるといえる。
 ところで安彦には『わたしのすべて』という短編がある。95年の作品である。そこでもまた鹿島がいうような、セリフのみで黒ベタ白ヌキのコマは、ふんだんに使われている。しかし、そのマンガの最後で成功した主人公が、かつての夢を訊かれ〈あたし!!インタビューされる人になりたかった〉と答えるのは、つまり、私の話を聞いて欲しかった的な「わたし物語」のオルタナティヴだといえるのではないだろうか。
 ここでポイントとなるのはおそらく、セックスとの距離のとり方みたいなことだろうと思う。安彦のマンガにおいて、セックスは、身体と「わたし」=「主体」の乖離が起こる場でもある。女の子は、男性の視点によって「モノ」化されるのではなくて、むしろ女性(自分)自身の視点によって「モノ」化される。それは言い換えれば、もうひとりの自分がどこかで自分のことを冷静に見ている、という風にもとれるわけで、今日においては、もっともオーソドックスな「わたし物語」の雛形だといえる。セックスしている自分の不恰好さは、本来であるならば、自分からは見えないはずであるのに、なぜか、自分が醜い姿を晒しているという妄想は、たとえば90年代にJ文学のシーンから登場した女性小説家たちもまた共有していたイメージでもある。
 そのように考えるならば04年の現在、安彦のマンガが優れているのは、けっしてそのラジカルさによってではなくて、むしろ「わたし」という存在を中心に置いたときに発生する、免れることのできない切実さ、それへの取り組みからなのである。
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2004年07月15日
 『ビッグコミック・スペリオール』ではじまった榎本ナリコの新連載の1回目。原作には夏目漱石の『こころ』が使われているのだけれど、舞台は、現在に移されている。このはじまりを読む限りでは、わりと原作に忠実なようで、けっこう好感が持てる。のだが、作者が作者なだけに、これ、もしかしたらボーイズ・ラヴのほうへ流れていっちゃうのかな、という雰囲気もある。そちらへ行かず、このまま持ち堪えるかどうかというのは、じつはマンガ家としての榎本ナリコの正念場であるような気もする(要するに、ワンパターンから抜け出すという意味で)。また作中、センセイが学生にボードリヤールの本を数冊貸し出すのだが、たぶん榎本の『こころ』に対する読みは、ポスト・モダン経由のものなのだろうなと思うと、けっこう微妙なんじゃないかしら。最終的には孤独も自由も記号のように扱われちゃうのだとしたら、それはちょっと。今さらというか。
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2004年07月11日
 宇仁田ゆみのマンガからは、温度の低さのようなものを感じる。温度が低いという言い方は、正確じゃないかもしれない。それでは冷血なようである、が、そうではなくて、それはつまり、過剰なほどにドラマチックな装飾が施されていないということで、物語にはそれなりの波乱を含まれているのだけれど、見るに耐えない乱暴さはどこにもなくて、「のほほん」というか「ほのぼの」というか「のんびり」とした空間が、描写のなかに広がっている。温度は低いかもしれない、だが、触れる体温はあったかい。ごく当たり前のように、恋人たちは付き合い、ごく当たり前のように、恋人たちは別れ、ごく当たり前のように、新しい恋人と出会う。ああ、そうか、それは僕の人生とは無縁なことばかりで、なるほど僕は、そのようにして存在する世界そのものに憧れているのかもしれない。
 この短編集から一編『エバグリン』を取り出してみると、そこではほとんど脈絡のないままに一組の男女の恋がはじまるのだけれど、ふつう脈絡がないということは、相応のエネルギーが放出されていなければ、誤魔化しが効かないので前後の繋がりがおかしくなるものだが、しかし、女の子がひとり頭のなかで膨らます妄想でさえも、やがてゆったりとした眠りのなかへ吸収される、熱烈なセックスではなくて、布団の柔らかさが、目には見えない底のレベルで、彼女と彼とをしっかり結びつけるのだった。『エバグリン』は、本来ならば「EVERGREEN」という言葉であるけど、「エヴァーグリーン」の堅さを通り越して「エバグリン」と表記するとおりの丸みを帯びた、独特のやさしさが、そこかしこに漂っている。そうして恋人たちは、まるでスポンジのように、お互いに良いところと悪いところを吸い込むようにして、受け入れるのだろう。
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2004年07月09日
 さいきんの少女マンガのヒロインを大まかに分ければ、無闇にポジティヴな子かやたら自虐的な子、のどちらかになると思う。
 これは無闇にポジティヴな女の子が主人公で、その前向きさは、とてもとても感動的である。
 誰も傷つかない世界を求める、彼女のやさしさは、不遇ではあるけれど、ここまでのところはたしかに誰かを救っている。
 ただ、これ以降、もうちょいハードに物語は動いていきそうだ。そのときの登場人物たちの振る舞いが、このマンガの評価にそのまま繋がっていくんだと思う。
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 埼玉県民ならば、2倍楽しめるギャグ・マンガというほどには地域密着型ではないけれど、個人的には「上尾」とか「蕨」とかの固有名詞がツボ。とはいえ、そんなの抜きにしても、ふつうにおもしろいです、これ。
 作者は85年生まれであり、まだ高校を卒業したばかりで、これがはじめての連載なのだけれど、すでに独特のテンポを持っている。『週刊少年チャンピオン』は本当にギャグ作家を発掘するのがうまい。
 130センチの女教師が主人公なんだけど、彼女はどう見ても担当する小学生たちと同級生にしか見えなくて、さらにものすごいバイオレントな性格の持ち主であるという、こんな先生いてほしくない度100パーセント、ほのぼのさ皆無の殺伐とした世界なのに、なぜかニヤニヤしてしまうのは、偽善的な大人視点がいっさい滑り込んでいないせいだろう。要するに、ガキのやることに大人が口出すな、口出すならばガキにもどってから来いというスタンス。師も生徒もふつうにグーで殴り合っているんだけど、すげえ清々しいという。
 紹介をみると、どうも女性みたいだが、本当はどうなんだろう。尾玉なみえの系譜に連ねようと思えば、連ねられる気もする。
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2004年07月04日
 『新花いちもんめ』を読んでる。中居くんがドラマをやってた『花いちもんめ』じゃない。『新花いちもんめ』だ。理由はとくにない。なんとなくだ。なんとなく僕は『新花いちもんめ』を12巻まで集めてしまった。『花いちもんめ』は一冊も持っていない。で『新花いちもんめ』なのだけれど、おもしろいかどうかは微妙だ。なぜならば全部がぜんぶワンパターンであり、伊橋は年をとらなさすぎて、まるで僕のようなヤング(!)が読むマンガでない上に、出てくる料理がどうにも美味そうではないからだ。それもそのはずで、『新花いちもんめ』は料理マンガじゃない。気配りを主題に置いたマンガだ。そのための料亭という舞台なのだ。つまり僕は気配りを『新花いちもんめ』から学ぼうとしているのだ。そして人はそれを、付け焼刃、と呼ぶ。
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2004年07月01日
 永い間、ずうっと心の片隅にあるマンガがあった。それは幽霊になってしまった少年が電柱の上から下の世界を見ている、ひとりだけその存在に気づいた少女の危機を彼が救う、というナイーヴなやさしいもので、たしか『週刊少年チャンピオン』に読み切り(僕の記憶では新人賞だった気がしてた)で掲載されたものだった。作者が誰なのか知らないが、僕はそのマンガを忘れたことは、なかった。
 鬼頭莫宏の短編集を買った。そしたら、そこにそのマンガが載っていたので、驚いた。ああ、そうか、あれは鬼頭のマンガだったのか。そしてたぶん僕はその頃、鬼頭莫宏のことを知らなかったのだ。
 それはともかく。こういう偶然はとても嬉しい。あるいは、そういう奇跡のような偶然を、僕たちは、ラッキーだなんて呼ぶのだろう。 およそ10年ぶりに読み返してみた、「三丁目交差点電信柱の上の彼女」は、初読のときの記憶のままであった。

すこし長めのものはこちら。http://home.k06.itscom.net/newswave/moritatop.htm
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