
25日に、新宿の紀伊国屋ホールで行われた「ゼロ年代の批評の地平―リベラリズムとポピュリズム/ネオリベラリズム」というトーク・イベントへ、行ってきたのである。そこで東浩紀は、本書『波状言論S改』について、ある意味で、宮台真司論になっている、というようなことを言っていたのだった。いや、まあ、たしかにそういう側面はある。この本の序盤で、もっともリアリティのある発言は、じつは東の次のものであると感じられた。〈今日は、なんというか、僕が三十代になにをするべきかについて、ヒントをいただければと思って鼎談を申しこんだのです〉P69。〈たとえば僕の場合、政治的に機能の言葉を駆使できそうな分野として、情報通信系とコンテンツ産業系という二つの世界があります (略) ここの部分では、僕は政策にもけっこうからめる気はするわけですね (略) でも、そんなことやって、三十代の貴重な時間を使っていいのか、と真剣に考えてしまう〉P70。つまり、ひとりの若い人文学者がこれから壮年期を生きるにあたって感じている多少の迷いが、宮台という先行者を、その分析のうちに捉まえるのだろう。いや、しかし、だから本書の言い方を借りれば、「アイロニカルにベタ」ではなくて「ベタにアイロニカル」な、いまの宮台のスタンスは、すこし野暮ったくも見えるに違いない。が、しかし読み手である僕の関心は、あまり宮台にはなくて、『自由を考える』の続編にあたるような、大澤真幸×鈴木謙介×東浩紀による鼎談「再び「自由を考える」」の項に集約されているのであった。というのも、ここ最近、大澤が寛容というタームを使って掲げる論理、たとえば北朝鮮からの難民を無条件で引き受けたりすることで、たとえばイスラム原理主義者以上にイスラム原理主義的に振る舞うことで、相手の敵意を無効化させる、要するに、圧倒的な喜捨によって前提を共有しない他者(他国)を自然と理解のテーブルに座らせるといった提案は、たしかに夢があり、正直ワクワクさせられるのだけれども、とうてい実現可能だとは思えず、そういった意味ではついていけないところもあったのだが、〈可能性への想像力を喚起したい〉〈とにかく思い切った選択肢もありえると示せば、新しい想像力の空間が開かれるわけです〉P299といわれれば、なるほど、腑に落ちる。つまり、である。硬直したイメージのなかにあっては、人は眼前にある可能性を自由とは感じられず、具体的に想像しうる不可能な事柄からの逆算により、未来を創出していってしまうものなのかもしれなかった。さすがにそりゃあ閉塞感だろう。























































































































