ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2018年07月26日
 群青リフレクション 2 (りぼんマスコットコミックス)

 酒井まゆの『群青リフレクション』は、その特徴を一つ挙げるなら、芸能活動に身を置く高校生を描いていることなのだったが、最大の魅力となっているのは、ヒロインである柊心晴の無邪気な明るさなのではないかと思う。〈私立船越高校 全8クラス中2クラスが芸能科で レベルはまちまちだけど 芸能界に片足やら両足やらつっこんでる子が通っています 一応 私もその1人なんだけど−−〉という心晴の言葉には、自分がまだ全然売れていないことの気後れが含まれていて、確かに有名人が多数を占めるクラスのなかでは、一般的な生徒の立場に等しい。しかし、ほとんど無名であるにもかかわらず、いじけずに目標へ向かう積極性だけは誰にも負けてはいなかった。

 心晴(こはる)の目標、夢とは何か。それは子供の頃に観た映画でスクリーンに出ていた子役の少年と、いつか巡り会うことだった。その演技に励まされるものがあったからだ。励まされたことに対し、感謝の気持ちを伝えたいからだ。映画の名前はインターネットの検索に引っかからず、子役の名前も知らない。だが、演技の仕事をしていたら、きっと顔を合わせることができるのだと信じている。心晴はスターダムを掴むことになるのかもしれないという期待がストーリーの土台にはある。他方、芸能人でもあるクラスメイトとの恋模様がストーリーの柱を支えている。若手イケメン俳優としてブレイクしている幼馴染、紺野景悟が心晴に抱いているのは、紛れもなく恋愛感情であろう。そして、華はあるのに素性が謎めいているクラスメイト、芹沢漣もまた心晴と距離を縮めていく登場人物である。芹沢は、もしかしたら彼こそが心晴の憧れている子役だったのではないか、と読者に想像させる役割を担っているのだけれど、これまでのところ、芸能活動に熱心ではなさそうな素ぶりを見せるばかりで、正体も明かされない。

 ヒロインと2人の男子を三角関係の図式に当てはめることは、もちろん可能だ。紺野と芹沢は、いずれ恋愛の面でも仕事の面でもライヴァルのような衝突を起こすはずだと予感させる。が、ロマンスの要素は、現時点で、さほど強くない。2巻の段階で気にかけておきたいのは、芸能活動というよりも学園生活のなかで心晴はヒロインらしい活躍を果たしていることである。心晴の無邪気な明るさは、おそらく、芸能活動の厳しさや世間からの注目をまだ負っていないという未熟な面によっている。もしも心晴が芸能活動での成長を求められるようになったとしたら、それがいかに変化するのか。しないのか。今後の展開に左右される部分は大きい。

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2018年06月24日
 サイケまたしても 12 (少年サンデーコミックス)

 幼馴染の命を救うためにタイムリープを繰り返すというSFやファンタジーの定石だと思われていたはずの物語が、あれよあれよの間に異能のバトルへ展開していったのは、ああ、『うえきの法則』の作者っぽいな、と感じられた。福地翼の『サイケまたしても』である。この12巻では、宿敵であったヨハンとの決着が、いよいよ付けられる。特殊な能力(オラクル)を持つ人間、能力保持者(オラクルホルダー)の優位を説き、能力を持たない人間(ノーマル)に進化をもたらそうとするヨハンの、その頑なな信念はどこからやってきたのか。謎めいていた過去が明かされると同時に、ヨハン・ディートリッヒの野望を打ち砕こうとするサイケの必死な戦いが描かれていく。果たして、ヨハンもまた、愛する人間に降りかかった悲劇と覆すことができない過去とを挽回すべく、自分の能力を使い、あるべきヒーローの像を目指していたのだった。

 運命は変えられるのか。このような問いに対し、主人公であるサイケ(葛代斎下)の能力は、変えられる、という断言と同義の働きかけを有していることは明らかだ。同じ1日を何度でも繰り返せるサイケの能力は、無数に分岐した可能性のうちから最適の結果のみを選び取り、再現できるのであって、それは既に幼馴染みである蜜柑の死を回避してみせたことで証明されている。これはしかし、彼にだけ与えられた特権にほかならない。時間を遡れず、過去の修正も叶わない人間は、どうしたら悲劇に終わった運命をやり直せるのか。ヨハンの凶行は、そのような問いに向けられた苦悩の代弁であろう。大切だと信じられる存在を救えた者と救えなかった者との違いが、サイケとヨハンの差異なのである。その差異が、2人の価値観に衝突を生じさせている。これまでのエピソードを通じ、サイケとヨハンのあいだにシンパシーがあることは示されてきたが、彼らは一種の対照となっているのであった。12巻でもヨハンの側近であるシルヴァーノ・ダ・ヴィンチが、サイケに次のように述べているのを押さえておきたい。〈お前とヨハンはどこか似ている。正確に言えば、「表裏一体」なんだ。あいつもお前も… 誰かのために自分をなげうてる強さを持っている。違うのは、それが全ての者に向けられるか… 能力保持者のみに向けられるかだ〉

 この世界は悪意に立ち向かうヒーローを欠いているのだとすれば、誰かがヒーローになるしかない。『サイケまたしても』で、度々、主張されてきたテーマである。サイケとヨハンの対照は、銘々が理想としたヒーローの像によっている。どちらに正義があるのか。あったのか。ついに答え合わせのなされるときがきた。人質にされた蜜柑を助けるべく、サイケはヨハンに最後の戦いを挑むのだった。幼馴染みの命を救うことが、主人公の出発点であったとしたら、それがクライマックスたりえる局面で再び繰り返されていることに留意されたい。度々、繰り返すというのも『サイケまたしても』における重要なテーマである。ヨハンの野望を打ち砕き、幕を閉じる寸前までいった物語は、思いがけぬ波乱を経て「またしても」引き延ばされることとなる。そう、またしても、であろう。所謂ラスボスと見なされていた黒田ユメヲの役割がヨハンに取って代わられるという過去のあのパターンが、別の人間の手によって反復させられているのだ。

 ある意味で『サイケまたしても』は、大切だと信じられる存在の喪失に抗う人間の姿を描いている。サイケもユメヲもヨハンも、それぞれの方法で、大切だと信じられる存在を悲劇からすくい上げようと戦っていたのである。そこには常に、運命は変えられるのか、という問いが内蔵されていた。他方、能力の起源(オラクルのルーツ)や万物の記録(アカシックレコード)をめぐり、作品は新たな段階に入った。頼れる仲間である氷頭やアナとともにサイケは「またしても」様々な困難を乗り越えなければならないのだろう。そして、おそらくはそのなかでも、運命は変えられるのか、という問いが繰り返されていくのに違いない。
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2018年03月27日
 シノビノ 3 (少年サンデーコミックス)

 あだち充と高橋留美子がダブルで推薦の言葉を出している。まあ、そうしたプロモーションの仕方は、小学館のマンガにとって珍しいものではなくなってしまったけれど、2018年現在、この爺さんが熱い部門にエントリーされるのは間違いないであろう。大柿ロクロウの『シノビノ』である。徳川幕府の下、250年も続いてきた太平で役目を失った伊賀の忍び、その最後の末裔となるのかもしれない沢村甚三郎も既に58歳の高齢であった。今日の基準で58歳を見るなら、それこそ高橋留美子やあだち充よりも若いぐらいなのだから、十分に現役で通る。が、時代が違うのもあるし、技術を必要としてくれる人間も矜持を理解をしてくれる人間もいなくなるほどの長いあいだ、ほとんど孤独になろうと自分を貫いてきた者が、変革期を迎えた事情のなかで八面六臂の活躍を繰り広げるところに最高のスペクタクルがあるのだ。

 1巻から3巻にかけ、つまり、物語の導入を、およそ一晩の攻防に割いた構成は、思い切りが良い。この思い切りの良さが、のっけから捲し立てるかのような勢いで主人公の魅力を全開にしている。顧みられないのが忍びの宿命だとして、それは忘れられ、滅び去ることと同義なのか。実働がないまま老いてしまった甚三郎に初めてくだされた幕府からの任務は、先般浦賀に来港した黒船への潜入であった。成功は困難だろう。が、果たして甚三郎にとっては容易な仕事でしかなかった。結局のところ、甚三郎は想像外の手練れだったのだ。しかし、予測しなかった事態が状況を一変させる。開戦を辞さない吉田松陰の一派が、黒船を奪取しようとし、強引な手段で乗り込んできたため、国全体に及びかねない危機をも甚三郎は回避しなければならなくなったのである。ペリー(ペルリ)が率いる屈強な米兵と吉田松陰に付き従う狂気の集団とが船上を戦場に変えていく。混乱の最中、ひるまずに双方を圧倒していく甚三郎の勇姿を見よ。大変燃えるものがある。

 CIAやスパイが戦争を防ぐべく奮闘する現代の映画を時代劇の設定へと置き換えたかのような筋書きには、スリルが満ちている。そして、着目したいのは、後に新撰組八番隊組長として知られることとなる少年、藤堂平助と甚三郎の出会いである。今井哲也の『アリスと蔵六』や井上智徳の『CANDY & CIGARETTES』における老人と幼女のバディとも異なる。奥浩哉の『いぬやしき』における犬屋敷とチョッコーあるいは獅子神のコンビネーションとも異なる。年齢の開きにかかわらず、敵対し、共闘し、結果、師弟の立場に身を置いた2人の関係には、爺さんが主人公であろうと『シノビノ』を少年マンガたらしめる力学が備わっていると感じられる。
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2018年03月21日
 TOUGH 龍を継ぐ男 8 (ヤングジャンプコミックス)

 父殺しのテーマが内在しながら父殺しを果たせずに連載が長期化した結果、作品の方向性にぶれが出てしまったという(格闘マンガである以外の)共通点を猿渡哲也の「タフ」シリーズと板垣恵介の「バキ」シリーズは持っているわけだ。この『TOUGH 龍を継ぐ男』は、『高校鉄拳伝タフ』及び『TOUGH』のその後を描く。シリーズの直接的な続編となっている。いや、確かに主人公は一新されてはいるものの、やっていることは先の頃と大きく変わらない。宮沢静虎と宮沢鬼龍の双子、あるいは彼らの兄である宮沢尊鷹を合わせた宮沢一家の因縁に翻弄される人々の様子が延々と映し出されているのである。『高校鉄拳伝タフ』と『TOUGH』においては、静虎(オトン)の息子、宮沢熹一(キー坊)が一応の主人公ではあった。それが『TOUGH 龍を継ぐ男』では、鬼龍の息子、長岡龍星に主人公をスイッチしている。スイッチしてはいるけれど、熹一も出てくるし、むしろダーク・サイドに落ちた熹一の物語であるようなところがある。実際、6巻と7巻は、龍星そっちのけで、なぜ熹一がダーク・サイドに至ったのか。回想をメインのエピソードにしていたのであった。そして、再び現在に話を戻しての8巻なのだが、まあ、ほとんどの見せ場は、やっぱり静虎と熹一に持っていかれ、過去の亡霊のごとく尊鷹やガルシアも出てくるよ、といった展開が訪れている。ガルシアは、人工授精によって鬼龍の遺伝子を受け継いでいるというのが『高校鉄拳伝タフ』の設定だった。前述した通り、龍星も鬼龍の血を引いており、龍星の他にも『TOUGH 龍を継ぐ男』には鬼龍の子供とされる人間がわんさか出てくる。そのため、裏社会や米軍まで関与しているにもかかわらず、登場人物の大半が宮沢一家の関係者で占められる異常な事態が発生しているのだ。鬼龍の正統な後継者は誰なのか。これが『TOUGH 龍を継ぐ男』の重要な柱ではある。しかし、それは同時に、果たされなかった父殺しのもたらした迷走を含んでいるように思えなくもない。

・その他猿渡哲也に関する文章
 『Rūnin』2巻について→こちら
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2018年03月15日
 ダーウィンズゲーム 14 (少年チャンピオン・コミックス)

 ポスト・デス・ゲームとすべきか。理不尽なデス・ゲームに投げ込まれてしまった成り行きをゲーム・マスターをやっつけなければならないという目的に帰結させるタイプのフィクションにおいて、それがデス・ゲームであることの意味はどれだけあるのか。少しばかり疑わしくなるときもあるのだが、最近、よく見かけるものではある。FLIPFLOPsの『ダーウィンズゲーム』も、その一例に数えられる。プレイヤーたる主人公は、あくまでもゲーム・マスターを倒すべく、理不尽なデス・ゲームを生き残るのである。狂気を帯びたヒロインが主人公の少年にベタ惚れしている等、類型的な部分は少なくない。けれど、いやいや、類型的な部分がマイナスではなく、むしろ加算されるようなかたちで魅力のたっぷりなマンガになっているんですよ、これが、と思う。あえて喩えるなら、『HUNTER×HUNTER』のグリードアイランドで架空戦記が展開されている感じかもしれない。本質は、特定条件や限定空間のなかで繰り広げられる異能のバトルだといえる。先に述べた通り、その特定条件や限定空間を作り上げたゲーム・マスターを破ることに筋書きは一本化されている。そして、ゲーム・マスターを破るためにデス・ゲームの内部でいくつかに分かれた勢力の統一が必要とされていくのだった。

 スドウカナメは、とりたてて秀でたところのない平凡な高校生であった。しかし、友人であるキョウダからスマートフォンに送られてきたダーウィンズゲームというソーシャル・ゲームの招待URLを何気なく踏んだことで、すべてが一変してしまう。それは決してよくあるソーシャル・ゲームではなかったのだ。現実の世界そのものを舞台にし、各々に与えられたシギル(異能)を駆使しながら、対戦相手を倒すことで、巨額の富に換金可能なポイントを稼いでいくのである。当然、勝利すれば、ポイントを得、敗北すれば、ポイントを失うわけだが、おそろしいのは、ポイントがゼロになったなら、ゲーム・オーヴァー=アカウントの消滅=死が待ち受けている点にほかならない。途中でおりる手段は、ダーウィンズゲームに存在しない。金儲けのために参加したプレイヤーも、事情を知らずに巻き込まれたプレイヤーも、等しく命懸けの攻防を繰り返すしかないのだ。自分が有するシギルの使い方もままならぬまま、初戦、二戦と、まさか、有名なプレイヤーに勝ち続けたカナメは、それでも人間同士が殺し合うことに納得がいかず、どうにかゲームを終わらせる方法はないかと模索するのであった。他方、シギルが現実の社会に及ぼしている影響を察知した国家権力は、ダーウィンズゲームに介入するため、独自の路線を歩み出したカナメへの接近を試みようとする。

 クラン(ギルド、チーム)のシステムがプレイヤーにとってのアドヴァンテージになっているところは『ダーウィンズゲーム』の特色の一つであろう。これにより、個人個人の衝突である以上に共同体と共同体の対立であるような側面が大きくなっている。サヴァイヴァルやコンゲームの色合いよりも擬似的な陣取り合戦、国盗り物語の様相を強くしているのだ。無名であった若者が、さまざまなピンチとチャンスを経、頭角を現し、カリスマを発揮、頼もしい味方を従え、圧倒的な勢力を築き上げていく。ここにデス・ゲームのパターンを正しく踏襲していた序盤とは異なる段階へと『ダーウィンズゲーム』を飛躍させたダイナミズムがあるのは間違いない。エキセントリックで可愛い女性の登場人物が揃っているのは、この手の作品のセオリーだが、芯の通った男性の登場人物が多数、戦国の武将よろしく、ワキを固めているあたりに硬派なニュアンスが出てもいる。主人公であるカナメの立ち上げたクラン、サンセットレーベンズが、渋谷、東京、関東と制圧圏を拡大することで、不用意なダーウィンズゲームの対戦を禁止するというのが、中途のクライマックスになっているのである。

 さて、誰が一体何のためにダーウィンズゲーム(作中ではDゲームと呼ばれることもある)を開催しているのか。その謎に近づき、ゲーム・マスター(作中の綴りではゲームマスター)の顔を垣間見られたのが、13巻だった。ダーウィンズゲームが意図していることの解明は、この14巻で、さらに前進している。〈ポイントと異能(シギル)その二つが人をDゲームに引きつける餌でしょうね〉しかし〈異能(シギル)は餌ではなくDゲームの目的そのものなんじゃないかと〉〈Dゲームアプリは異能(シギル)をばらまくためのウィルスみたいなものなんじゃないかと〉そして〈GM(ゲームマスター)は電波を使う異能(シギル)使い〉なのではないか、と。デス・ゲームを左右するゲーム・マスターとの直接的なやりとりを指向するタイプのフィクションとは、おそらく、メタ・レベルを認識することは可能であり、メタ・レベルに干渉することも可能だという発想、または錯覚と密接である。メタ・レベルへの目配りを織り込んだストーリーは、しばしば時間ループのSFや並行世界のSFを設定に借り受ける場合がある。そうした傾向を、やはり『ダーウィンズゲーム』も覗かせている。
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2018年02月18日
 雄飛 ゆうひ 13 (ビッグコミックス)

 あまりいわれていないのでいっておくと、ここ最近、ヤクザ・マンガってすげえ充実しているんじゃないですか、と思う。長期連載で世評が定まっているものはともかく、小山ゆう『雄飛』たーし『ドンケツ』大武政夫『ヒナまつり』馬田イスケ『紺田照の合法レシピ』薩美佑『侠飯(福澤徹三による同名小説のコミカライズ)』小西明日翔『来世は他人がいい』等々、ヤクザをモチーフにしつつ、掲載誌はバラバラ、傾向もバラバラ、おそらく読者層もバラバラに違いない作品が目白押しなのだ。

 当初は、小山ゆうにとって久々のボクシング・マンガということでは注目を集めていた『雄飛』だが、物語が進むにつれ、主人公である雄飛が、大垣組の親分であった養父のあとを継ぎ、実の家族を奪った極道、峻堂に復讐を果たそうとするまでを主な筋立てとしてきている。11巻、12巻に描かれた烈(いさお)の生涯は悲しかった。ボロボロ泣くね。しかし、この世界に居場所のなかった人間がようやく得た微かなぬくもり、それさえ呆気なく断ち切られてしまうのを見、ああ、さすが『あずみ』の作者だな、と感じ入る。勝太郎とともにボクサー崩れのコンビで雄飛の頼れる仲間となっていくパターンのストーリーを期待させる部分もあったのに、この非情さよ。いつどの登場人物が不幸になろうとおかしくはない、という小山ならではの切り口が、裏社会を駆使することで、よく発揮されているところがある。

 確かに『雄飛』を、ヤクザの血生臭いドラマが繰り広げられている、の一面に押し込めるのは控えたい。戦後の日本を舞台にした長尺のラヴ・ロマンスであるかもしれないし、とある家族にまつわる悲劇であるのかもしれない。システムとしてはまだ整理されていないショー・ビジネスの世界を題材にしているともいえるし、無論、ボクシングでしのぎを削るライヴァルたちの物語だともいえる。成功があり、無念がある。成功は青春を眩しい瞬間として輝かせ、無念は青春を暗い色調の逃れられない筆先で彩る。序盤、主人公である雄飛とヒロインである青葉の複数の視点と複数の時系列とが並行して描かれるトリッキーな構成は、満州から引きあげてきた少年と少女がいかなるサスペンスに巻き込まれるのかを簡単に判断させないものであった。それが女優として売れはじめた青葉に北原慎一というボクサーの恋人ができたあたりで、雄飛をめぐる因縁に視座が落ち着いてきた印象である。

 雄飛がボクサーのキャリアを勝ちあがる一方、養父である大垣を含め、親しい人々が次々と死んでいってしまう。殺されていってしまう。峻堂への復讐の根は深くなるばかりである。それでも雄飛は、周囲の人々の愛情に支えられ、悪鬼に身を落としかねない場面を幾度となく乗り越えていく。容姿にすぐれ、頭脳も明晰であり、身体の能力も達者、さらには気配りも兼ね揃えている雄飛は、ある種の理想像である。男性の登場人物の多くが、戦後の貧しさのなかで雄飛にはなれなかった存在として現れていることは明らかだ。あるいは紙一重で雄飛も彼らの立場になっていたかもしれない可能性として現れている。何が違ったのか。それを運命の一言に集約するのは容易い。が、たとえば、作中では、大垣組のような侠客と峻堂が率いる旭翔会のようなヤクザは(対外的には同種とされながら)本質的に異なる式の倫理を通じ、必ずしも強いられた結果ではないことの線引きが試みられている。

 また、幼い頃の雄飛を保護していたまち子と岡田の影響は、血よりも濃い繋がりによって結び直される運命があることを教えている。もちろん、斥けられない運命もある。まち子が危惧するとおり、真っ当な将来に進むことのできた雄飛が、大垣組の中心に立ち、峻堂への復讐を貫かなければならないことが、それであろう。ボクサーとして日の目を見たにもかかわらず、旭翔会との決着のため、雄飛はボクシングと訣別しなくてはならない。13巻では、その覚悟が、慎一との試合となって描かれており、慎一も、やはり、雄飛の合わせ絵といえるようなプロフィールを持っている。
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2018年02月16日
 魔入りました!入間くん 4 (少年チャンピオン・コミックス)

 それ自体の良し悪しはさておき、ギャグのようだったマンガがシリアスなモードに変調する際のダイナミズムを、この西修の『魔入りました!入間くん』の4巻は持っている。不幸な環境で育ったため、どんなにひどい災難にも慣れてしまった少年、鈴木入間だったが、まさか身勝手な両親が悪魔に自分を売り飛ばしてしまうだなんて思わなかった。悪魔とは、比喩でも何でもなく、あのおそろしい魔界の住人のことである。魔界でも屈指の悪魔、サリバンに買い取られた入間は、しかし、サリバンの孫として大切にされ、彼が理事長をしている悪魔学校(バビルス)に通うこととなるのであった。

 ともすれば『小公子』のヴァリエーションであるような設定を借り、ファンタジーの世界に入っていった主人公が、人間であるという正体を隠しつつ、気が置けない異能の存在たちと騒がしい学園生活を繰り広げていく。と、ひとまずは概要を述べられるであろう。持ち前のおおらかさで価値観のまったく異なった魔界での暮らしに順応しつつ、ある場合には人の良さで魔界のルールを掻き乱してしまう。そのトリックスターぶりが、エリートのアスモデウスや周囲から疎まれていたクララ等々、愉快な仲間を引き付けるのである。

 3巻、4巻と描かれているのは、通常の学園ものにおけるクラブ活動編といえる。新入生としてクラブ活動に相応する師団(バトラ)に従事しなければならなくなった入間は、魔力が乏しい上級生のキリヲに共感し、彼が1人で所属している「魔具研究師団」に入団するのだった。もちろん、アスモデウスとクララも勝手に付いてくるわけだ。が、一見気が弱そうな印象だったキリヲが、実は悪魔学校全体を巻き込むほどの後ろ暗い目論みを果たそうとしており、その目論み、そして、その目論みを阻止すべく奮闘する主人公の姿にシリアスなモードへの変調が現れている。

 このとき、参照されたいのは、悪魔学校の生徒会長であるアメリが、かつて入間に投げかけた問い、入間にとっての「野望」とは何なのか、だろう。「野望」は、自分が成し遂げなければならない「夢」の言い換えでもある。入間の「夢」それは具体的に示されているものではない。けれど、キリヲの「野望」との対決を通じ、わずかにも確かにも垣間見られるものとなっている。そう、他人に絶望を強いようとするキリヲに入間が向けた〈僕は絶望しない(略)全部拾いたい 僕は全部を諦めない〉という断言が、ひたすら頼もしいのはどうしてなのかを軽視してはならない。

 非情であるはずの悪魔と人間とが和気藹々できる程度には、ゆるいマンガである。そのゆるさは、どんな悲惨な目に遭おうとぐれることがない主人公、入間の資質を抜きにしては成り立たない。とにかく、めげない。ポジティヴと判断される資質は、シリアスなモードに変調したところで損なわれることはない。『魔入りました!入間くん』の一貫性にほかならないのだし、それこそが人間としては本来間違っている両親によって突き落とされた困難をくぐり抜けることと悪魔としては本来正しい周囲の存在に何らかの感化をもたらしていくこととを並列にしているのだ。
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2018年02月01日
 ブラザーフッド(3) (サイコミ)

 ふむ、やっぱり、1巻にあった「いいか ヤマト・ムサシ」「オレはお前ら2人をクソ大事に思ってんよ… 血ィつながってねーとか関係ねーから!」「オレはお前ら2人を兄弟だと思ってんよ 兄弟(ブラザー)を大事にしろよ 心にメモっとけ!」というタイトルに直結するかのような言葉が、このマンガの柱なんだなあ、と思わされる。村上よしゆき『ブラザーフッド』の3巻である。

 ヤンキーの実情を知らない新しい世代が、古いヤンキーのイメージに憧れ、不良少年ならではの学園生活をがんがん送っていくことになる。と、こうした筋立ての作品だが、目下の魅力は、不良少年の屈託や荒んだ光景ではなく、若いスタンスの内側から自然と溢れ出てくる軽さや明るさを、何よりの基調としている点にある。ポジティヴな意味で、実に騒がしい内容だといえる。

 軽く、明るい。だが、チャラく、浮ついてはいない。どこかにしっかりと重心が備わっていると感じられる。その重心とは、最初に持ってきた言葉のとおり、血縁でなかろうと兄弟(ブラザー)と喩えることが可能な関係、繋がりを結び付ける力学と密接なものであろう。主人公であるヤマト(山中大和)とムサシ(山中武蔵)を見るかぎり、ヤンキー・マンガの常道であるバディの形式をとってはいるけれど、彼らが血の繋がりがない同い年の兄弟であることに、それははっきりとしているし、彼らを取り巻く状況にまで敷衍されている。

 先に引用した1巻の言葉は、幼い頃のヤマトが憧れていた年上の存在、信兄ちゃんによるものだ。同様の意義は、この3巻で、別の登場人物と別の登場人物のあいだに交わされた会話として、以下のように反復される。〈でもまあ お前 気に入ったぜ〉〈オレの舎弟になれよ…〉〈子分… つーか 手下っつーか… 弟子?〉〈じゃあ兄弟(ブラザー)だ…〉〈舎弟… 血のつながってねー仲間(ブラザー)だ… ブラザーフッドだ〉

 ヤンキーへの憧れが高じ、不良少年が多く通っている黒浜高校に転校してきたヤマトとムサシは、一年でありながら学校の頂上に立つため、番長格である三年の赤城に挑もうとするのだが、もちろん、コトは簡単に進んでいかないのだった。赤城や赤城の亡くなった親友、ガガ、そして、ガガの後輩であり、赤城に敵意を向ける二年の木曽川、彼らをめぐる因縁に決着がつくなかで、兄弟(ブラザー)という言葉は反復されている。反復されることで、マンガの柱となるような強度を増しているのだ。

 軽く、明るい、と述べた。それはコメディのパートが充実しているためでもある。コメディのおかしさは、登場人物と登場人物のあいだの認識のズレ及び登場人物と世間の認識とのズレからやってきている。ヤマトが飛び抜けて馬鹿に見えるのは、ズレの大きさが最も顕著となっているがゆえに、だろう。ヤンキーという過去の文化をリスペクトし、邁進していく勢いが、現代的な当然とのズレを際立たせているのである。
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2018年01月20日
 白星のギャロップ 3 (裏少年サンデーコミックス)

 西連助の『白星のギャロップ』だが、ええっ、これからというところなのに3巻で終了かよ。驚かされたものの、タイトルを変え、再開される旨の予告を見、一安心する。おもしろいもんな。さては鳴海聖二郎の『栄光のギャロップ』とタイトルがバッティングしていることが鑑みられたのかしら、と思う。『白星のギャロップ』(小学館)も『栄光のギャロップ』(講談社)も、競馬の騎手を父親に持った主人公を描いているけれど、父親に向けられる感情が正反対なのは興味深い。そう、『栄光のギャロップ』が父親への憧憬に端を発しているのに対し、『白星のギャロップ』は父親への憎悪に端を発しているのである。

 過労が祟ったのか。女手一つで自分を育ててくれた母親が半ばノイローゼになり、亡くなった。病んだ母親が競馬のテレビ中継にしか反応を示さなくなってしまった末期は悲しかった。しかし、それには理由があった。母親の死後、祖父から自分の父親が実は有名な騎手、藤宮将二であることを教えられた少年、森颯太は、いずれ競馬の騎手となって、こんな目に遭わせたそいつを引きずり落してやろうと誓うのだった。ここまでの3巻に渡って繰り広げられていたのは、颯太を含め、プロの騎手になるべく、競馬学校に入った6人の若者の奮闘である。河合克敏の『モンキーターン』における研修所のパートを競馬のヴァージョンにした感じといったら、イメージしやすいかもしれない。気が置けない同窓たちとの切磋琢磨、友情や反発、一般の学生とは異なった色合いの悲喜こもごもが、少しばかりヘヴィでいて、総体的には軽快なストーリーの上に導かれているのだ。

 登場人物の個性をきっちり押さえ、ちょっとしたプライドやディス・コミュニケーションによってもたらされた葛藤を、過剰に演出するのではなく、滑らかに転がし、苦い後味を残しても丸く収まるようなドラマへと運んでいく手際に優れている。ある意味、主人公の肉親に対する不理解からはじまった物語である。そして、颯太のみならず、他人に対する不理解は『白星のギャロップ』の随所に見かけられるテーマでもある。不理解は、生徒たちの前に、ちょうど障害を飛越する訓練のように立ち塞がる。彼らは皆、自分とは違う他人との共存のなかで、どうしてだろう、という問いに思い悩み、自分とは違う他人との共存のなかに、どうしてなのか、という当たりをつけようとするのであった。必ずしも潔癖には生きられないので、どこかひねくれてしまってはいるが、それでも目標だけは誤るまい。くじけることのない若者のひたむきさが、晴れやかな青春像を造形しているのだと思う。

 いかにして不理解を斥けるのか。これはやがて、颯太と父親の関係にまで適用されることになるのだろう。そこに至る道筋があるのだとしても、物語はまだ、とば口に立ったばかり。厩舎に所属し、ようやく、競馬学校を卒業しようというところで『白星のギャロップ』の幕は下りている。プロの騎手になった颯太の活躍は、予告された続編に期待したい。
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2018年01月19日
 昭和ファンファーレ(2) (BE・LOVEコミックス)

『明治緋色綺譚』及び『明治メランコリア』で、明治の時代を背景に少女の成長を波瀾万丈なラブコメへと落とし込んだリカチだったが、『昭和ファンファーレ』では、昭和の初期を舞台にし、正しくビルドゥングス・ロマンとなるような筋書きのなかに少女の自立を描き出している。

 大人にしてみれば何の役にも立たない少女にとって、たった一つの武器は、その歌声のみであった。幼少編といえる1巻と2巻では、ヒロインである水瀬小夜子がトーキー映画に出会い、歌声で世に出ることを夢見、スタァ(スター)を目指すまでが描かれる。並行して紐解かれるのは、どうして寿司屋の娘にすぎない小夜子に類い希なる才能が備わっているのかという謎だ。現在の環境が母親の再婚によるものであること、本当の父親が別にいることは、物語の一番最初に明かされているのだけれど、実はそれ以上の運命を背負っていたことが、彼女と映画の世界とをより近づけていくのだ。

 先立つ明治のシリーズがそうであったように『昭和ファンファーレ』でも階級や格差の表現はわりとはっきり出ている。スタァを目指す小夜子の動機に金銭への憧れがあることは隠されていない。しかし、あくまでも寿司屋の娘として育てられている小夜子に課せられたイメージは、中流家庭ぐらいのものにとどまるであろう。貧困から逃れようとする決死の姿は、いや、むしろ、小夜子のライヴァルにあたる小鳥遊月子に具体的である。とはいえ、小夜子も月子も、孤児であるような立場に置かれている点に違いはない。そして、それは紛れもなく裕福な者と裕福ではない者との段差から生じているのである。

 しかし、目を引くのは、不幸に浸るよりも幸福を手に入れようとする小夜子と月子の力強さだ。二人の力強さが、いくらでも暗くなりそうな作品に明るい光を当てている。悲劇に陥りかねない局面において前向きな展開を切り開いていくだけの希望となりえている。
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2018年01月17日
 悪童-ワルガキ- 1 (近代麻雀コミックス)

 ギリギリの窮地で勝利できなかろうと一矢報いること、を描かせたら、さすがの志名坂高次である。それは『悪童 -ワルガキ-』の1巻でも見事に冴え渡っている。柿沢鉄男が中年でありながら「ワルガキ」と呼ばれているのは、ケンカ早く、ヤクザを怖れぬほどに肝は太いが、子供には優しい性分のためであった。飲む、打つ、買う、を地でいく男でもある。今日も今日とて、ヤクザと揉めたり、麻雀に興じていたりする。しかし、ああ、まさか。ひょんなことから運命が一変してしまう。いじめられ、自殺しようとした小学生、カイト(片平海人)と入れ替わり、カイトの代わりにその人生を引き受けなければならなくなったのだ。見た目は子供でも中身は大人、の立ち位置に目新しさは少ないかもしれない。けれど、作者ならではのえげつなさが『悪童』というマンガを特徴的にしている。物語の柱は、大きく二つある。一つは、小学生の姿を借りた主人公が、カイトの人生に対し、リヴェンジを果たすことであって、もう一つは、このような目に遭ってしまった主人公が、自分自身の人生、つまりは柿沢鉄男の人生に対し、リヴェンジを果たすことだ。さしあたり、無力でしかない少年が、リヴェンジを進める上で、いかなる優位性を得ていくのか。元手の乏しさを補うための工夫が、麻雀などのギャンブルとして展開されるのだったが、まあ、チョロくはないよね、であろう。むちゃくちゃな条件下、いとも容易く吊り上がっていくリスクが、作品そのもののスリルを倍増ししているのである。

・その他志名坂高次に関する文章
 『バクト』3巻について→こちら
 『凍牌 〜人柱篇〜』3巻について→こちら
 『牌王伝説 ライオン』1巻について→こちら
 『凍牌』10巻について→こちら
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2018年01月09日
 KING GOLF(31) (少年サンデーコミックス)

 ちょっとこれ、異様な作品になりつつあるな、と思わされる。佐々木健の『KING GOLF』(技術指導・監修、谷将貴)である。少なくとも、18巻の後半からこの31巻にかけての読み心地は、非常に説明のしがたいものとなっている。基本的に、ゴルフを題材としたスポーツ・マンガにほかならない。不良少年である主人公、優木蒼甫が、同じ高校のゴルフ部で名を馳せている霞見ひかると出会い、その不敵な眼差しに導かれ、ゴルフの世界に足を踏み入れていくというプロットをスタート・ラインにしており、彼ら2人のライヴァル関係のなかに異端(トリックスター)VS天才(スーパースター)の対比、それ自体はスポーツ・マンガにおいて決して特殊ではない構図が描き出されているのであった。18巻の前半までは、ひかるとの対決を望み、一度敗北し、再戦での勝利を目標とした蒼甫のディシプリン(訓練と成長)が、ほぼ直線状に表されていた。キャディ編がいくらか変化球じみた試みであったとしても、蒼甫の向こう見ずなスタンスと著しい飛躍とが少年マンガ式のカタルシスをまっすぐ示していたことに違いはない。しかし、19巻のアメリカ修行編を経、帰国後のSSSカップ編を舞台にした20巻以降、作品の様相が異なってき、それは次第に大きくなっているのだ。

 アマチュアでありながらプロのトーナメントであるSSS(トリプルエス)カップへ出場することとなった蒼甫は、試合中、快調に飛ばしていたはずだったが、そこで新たな試練にぶち当たってしまう。同じくSSSカップの予選ラウンドに挑んだひかるも、人生の岐路をまざまざと見せつけられるかのような苦境に立たされていた。21巻から31巻に渡って繰り広げられているのは、4日間に及ぶ大会の2日間に起こったことだ。たった2日の出来事が、およそ10巻分の長さを持っているのである。たとえば『風の大地』や『あした天気になあれ』等、1試合が長くなりがちなゴルフ・マンガのなかにあっても、予選のみでこれは突出しているのではないか。けれど、注意されたいのは、その長さなのではない。その長さが、いかに描かれているかという点なのである。それこそが近年の『KING GOLF』を前に、異様な作品になりつつあるな、と思わされるゆえんとなっている。

 SSSカップの予選2日間では、蒼甫を加えた予選7組の3人とひかるを加えた予選6組の3人の2つの試合が主に描かれていく。だが、それは回想を含んだ上での時系列をときにシャッフルし、複数の登場人物の視点や思惑をときにスイッチし、1個の展開を進めるだけのあいだに様々な迂回を挟み込むかたちで構成されているのである。単に内面の描写によって占められる割合が増えたとえいるし、以前から下敷きにされてきたゴルフはメンタルのスポーツだというガイドラインに沿ってフィジカルの動きよりもメンタルの動きに軸足を置いたストーリーが紡がれているとはいえる。結果、少年マンガ式のカタルシスが後退したのは疑いようがない。爽快さ、わかりやすさが減じてしまったので、登場人物にかかる重たさ、つらさ、苦さばかりが目立つ格好をとっている。正直なところ、ここで怠くなったとそっぽを向く人間もいるだろうね、と思う。だが、それで本当に作品の魅力が引き下げられているのかどうか。個人的には引き下げられてはいないと評価したい。

 蒼甫が入った予選7組の試合内容は、大変タガの外れたものであった。悪意と足の引っ張り合い、プライドを地に落とされた2人のプロの選手がトップを走るアマチュア、蒼甫を陥れようとする。しかし、さすがは我らが主人公、どんどんとエスカレートしていく妨害工作ですらも蒼甫は簡単にかわしてしまう。が、それとは違ったレベルの障害を通じ、蒼甫の快進撃にストップがかかるのだった。自分の積んできた経験が、もう1つの人格を持ち、まるでドッペルゲンガーのように立ち塞がり、重要な1打を次々とぶち壊しにするのだ。他方、予選6組でひかるが一緒にホールを回るのは、なんと彼の2人の兄、霞見家の長男、天司と次男、瞬である。天司、瞬ともにエリートとして知られるプロの選手であって、世間では高く買われているひかるだけれど、兄の立場からすると霞見家の落ちこぼれにすぎないことが明かされる。とりわけ、ひかるが瞬に抱いているコンプレックスやプレッシャーは想像を絶するものであった。弟を忌み嫌う瞬は、狡猾にもひかるの無意識にトラップを仕掛ける。それにはまったひかるは、まともにゴルフをやらせてもらえず、ほとんど自滅しかかっていた。要するに、蒼甫という異端(トリックスター)並びに、ひかるという天才(スーパースター)の避けがたい躓きを、SSSカップの予選2日間は、浮き彫りにしている。果たして、彼らは躓きを乗り越えられるのか。

 蒼甫とひかるが躓きを乗り越えられるのかどうか。あらかじめ述べた通り、それは徹底的に先送りされる。先送りにされながら、積み重ねられていくのは、むしろ、敗北するのかもしれない可能性の方だといえる。いや、ただでさえ、アッパーなノリは抑えられているのに、時系列を入れ替えて回想は挟まれるし、視点や場面の変転が多く、アレゴリカルといおうか、シンボリックといおうか、比喩としての描写や抽象度の高いカットが頻出するので、話を飲む込む際、ものすごいストレスがある。盛り上がらないのはもちろん、すかっとしない。もやもやする。しかし、そうした紆余曲折に目を凝らしたとき、はたと気づかされるのは、ああ、そうか。これはストレスそのものを描こうとしているのだ。はずみから苦境にさらされ、踏ん張るたびに無力さを味わい、もがこうとすればするほど絶望に足を掴まれるかのような極限状態のストレスが、登場人物の姿を借り、具現されているがため、それを見ている側にも相応のストレスを強いるのであろう。いかんせん、およそ10巻分の長さでもって、である。たまったもんじゃない。が、ここまでのしつこさでなければ描けなかった説得力が備わっているのも確かなのであった。

 作品の色合いを違えてしまいかねないストレスは、蒼甫やひかるだけではなく、予選7組と予選6組の全員、そして、予選6組の試合を観戦している霞見家の父親へと波及している。たった2日の短さが、非常に長い時間に引き伸ばされているのも、こうした拡大による。おびただしいストレスのなかで、何度も確認されるのは、他の誰かの背中にこの眼差しを向けること、この背中に他の誰かからの眼差しを受けること、であって、それは物語の当初から一切違えていない作品の意義を同時に主張している。SSSカップが幕を開ける間近、ひかるに告げた蒼甫の〈おい 霞見!! 間違っても横を見て オレの背中を見んじゃねえぞっ!! てめェがオレの背中を拝む時は、このオレにぶっ飛ばされた時だ!!〉という言葉は、2人がはじめて出会った段階で既に発されていた因縁の再演であり、先を進む者と遅れをとった者のゆるまざる緊張は、2人と周囲の関係にまで敷衍される。『KING GOLF』の全体像に与えられた線の太い輪郭にほかならない。自分を踏まえた皆が他の誰かに認められべく戦いを続けている。他の誰かは自分を踏まえた皆に認められるべく戦いを続けている。そのようなテーマを絶えず研ぎ澄ませていった先に、異様な質感と読み心地が生じているのである。
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