ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年12月30日
 それなりのアユミストが、立原あゆみの新シリーズ『恋愛(いたずら)』の、その1巻を読んだならば、まちがいなく、こう言うだろうね。まあた、このパターンかよ、と。つまり、ヤクザの下っ端である主人公が、殺された兄貴分の復讐をちかうが、仇が同じ組織内の人間であるため、直截刃向かうことはできず、遠回りせざるをえない、というお話で、その遠回りがすなわち、主人公の成り上がりとして描かれる。口さがない人間からしたら、同作者の過去作である『東京』や『弱虫』の焼き直しじゃんね、ということになりかねない内容ではあるけれども、それらよりも時代がくだっているので、主人公のファッションが、スーツでも皮ジャンでもスカジャンでもなく、皮ベストになっているのは要注目であろう。いや、冗談ではなく、たとえば主人公のジミーが、〈惚れているのはこの人だと思いました〉とまで慕う兄貴分の服装を見られたい。完全にオールドスクールのヤクザ・スーツであり、作中を見渡しても、それはあきらかに浮いている。しかし、記号的に観察すれば、そこにはデザイナーズ・ブランドを着こなすようなヤクザからは失われたサムシングが、あきらかに表象されており、そのような姿にこそ、もはや皮ジャンやスカジャンすらも似合わないぐらいに若い世代のジミーは、唯一無二の価値を見ているのである。さて、この『恋愛』には、そうしたジミーをメインとする本筋と平行し、ワン・エピソードにつき一組の男女における恋愛沙汰が挿入され、その都度、ジュークボックスから懐かしのヒット・ナンバーが流れる、という新機軸が設けられている。おそらくは、内面のせこくなってしまった現代人(とくに男性)と仁義を欠きつつある任侠の世界とをパラレルに描くことで問題意識を発露しようとする手法に違いないのだけれども、はっきりいって、これ、うまくいっていない感じがする。しかし、まあ、このごろ飽きっぽい作者がこのフォーマットをどこまで引っ張るのか不明だから(というか、ネタがもたないでしょう)、たぶん、本格的に作品が屹立してくるのは、あと数巻物語が続いたらかな、という気がするし、何か語るべきことが出てくるのも、きっと、それからになるんだろう、と思う。

・その他立原あゆみに関する文章
 『極道の食卓』
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『仁義S』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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 タブロウ・ゲート 1 (1) (プリンセスコミックス)

 近場の本屋でまったく見つけられなかったのは、それだけ売れているということか、というのではおそらくなくて、まあ、出てる部数が沢山ではないからなのだろうけれど、いや、しかし、鈴木理華の『タブロウ・ゲート』は、この1巻の段階で、とてもおもしろく、たいへん心強い内容を備えたマンガであることが伝わってくる。べつの出版社からリリースされていた同名作のリメイクにあたるが、そういったことは知らずともよく、むしろ、孤独な少年が特殊なガジェットから召還される異能者たちとともに非日常的な諍いに巻き込まれる、そのような今日にありふれたパターンの内で、けして類型的ではない特徴を持っている点に注目されたい。そしてそれは、たとえば、今年(07年)終了した『金色のガッシュ』や『ローゼンメイデン』といったマンガ群、あるいは終了間近のテレビ・ドラマ『仮面ライダー電王』などの、つまり(作風はともかく)設定だけ見れば近似ともとれるサブ・カルチャーの、その08年以降のスタンスを占っているとさえ思われもし、オビで、あの大河内一楼が「もしアニメ化決定したらボクに書かせてください」といっているのは、当然リップ・サービスだとしても、しかし意外と真に受けてしまっても構わないんじゃないかしら、という気にさせられる。唯一の肉親であるイギリスの祖父から逃れるようにして、誰も知り合いのいない盾濱町で一人暮らしをはじめたサツキは、ある日、荷物のなかに自分の持ち物ではない画集を見つける。不思議に思い、手にとった瞬間、そこからは幾重もの光が溢れ、宙へと散ってゆく。強力な力を持つタロット絵の化身「タブロウ」が、彼らを封じる「タブレット」から解き放たれたのである。「タブレット」の管理人を名乗る少女レディに責任を問われるサツキは、「タブロウ」を回収するためには彼らから主(マスター)として認められる必要があることを知り、まずは太陽(THE SUN)のページの住人アレイスターを使い、月(THE MOON)の住人エリファスと契約を交わすことに成功するのだった。ねえ、そういったストーリー自体はアリガチだといえるでしょう。だが、それのみでは十分に取り出せないところに、作品の魅力は宿されている。おおきくいえば、ふたつのことが挙げられる。ひとつには「タブロウ」たちは〈固定の人格というものをもちあわせて〉はおらず、その〈人格は主の“心象力”に大きく影響されて現れる〉ということであり、「心象力」とは、作中で〈イメージの力〉要するに〈豊かな感受性と想像力〉であると説明されているのだけれども、サツキの場合、ポジティヴともとれる人格が「タブロウ」たちには与えられる。これが、サツキの欠損を埋めるものなのか、または鏡面に映ったサツキ自身であるのか、そのことは、のちのち主要なテーマへと集約されていくに違いないのだが、ここでもうひとつの特徴を、あわせて述べるのであれば、サツキの人物像が、あくまでも陰気であるふうに造形されていることになる。こういった陰気な、さらには文系体質の主人公というのは、もちろん何かしらかのトラウマ持ちであることも込みで、90年代以降における定型に他ならない。もしくは、そこに付きまとう、逃げては駄目だ、というメッセージが必ずしも前向きな行動を促さないところに、90年代のサブ・カルチャーを象徴するポイントがあったわけで、多少露悪的にいえば、内向的な少年の性根はやさしい、というのではなくて、根暗な坊ちゃんは心底腐っていることが、最大のトピックであったのに対し、『タブロウ・ゲート』は、そのような分岐をふたたび、内向的な少年のやさしい姿へと、切り返す。繰り返しになるが、サツキの「心象力」が「タブロウ」たちに与えるのは、きわめてポジティヴであるような人格である。そして、それを手がかりに、彼らが築き上げるのは、疑似家族とでもいうべき信頼関係なのだが、その関係性は、あくまでもサツキの理想を叶えるべくして成り立っている。ここで肝要なのは、サツキが、そのような恩恵に無自覚ではなく、また一方的に甘んじるのでもなく、かつ感謝の言葉を述べるだけの素直さを持ち合わせていることだろう。ひねくれた坊ちゃんを主人公にしたていの表現に顕著な、コールするがレスポンスを返されない、逆にコールされるがレスポンスを返さない、そうした対他関係の有り様は、いっけん切実に見えながら、じつは頽廃に過ぎず、すげない。だが、ここではコールとレスポンスの絶え間ない応酬が、疎外感と、そこからの回復をつくり、複雑なエモーションを活性化させる。とくに秀逸なのは、1巻における最後のエピソード(episode III)で、それまでに積み重ねてきた親愛が、しかし、お互いがお互いを想うあまり、まったく逆の効果へと裏返る。どれだけ安心できる間柄でも、寂しい、たったそれだけのことを口にするのがいかに困難かを、今後のストーリーに関心を向けざるをえない展開の最中に、描く。
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2007年12月28日
 ダブルガンロックライダー 2 (2) (KCデラックス)

 意外に良作だと思われるマンガが、ほとんど無名のまま、消え去っていくのはとても寂しいことで、永井幸二郎の『ダブルガンロックライダー』に対しても同じ気持ちを抱くのは、物語の序盤も序盤、わずか2巻の段階で、「未完」のピリオドを打ち、終了してしまったからなのだった。作者の「あとがき」によれば、やはり、人気の出なかったことが原因であるようだ。が、それにしても残念で仕方がない。地球からの移民が、その惑星に到達してから、すでに5万年の月日が経った。その間、どのように歴史が流れたのか、すべての人びとのあいだで、「空は神のもの、地は人のもの」という、飛行禁止の戒律が、絶対視され、共有されるようになっていた。その下に成り立った文明にあって、隆盛を極めたのが、バイクに乗ってマトを拳銃で射るジャンプ競技である。ジャンプマンとして成長著しい少年ロックは、大空への憧れをつよく持ち、その想いを自らの飛翔に託す。だが、彼の運命は、空から墜落してきた船と、そして、ひとりの少女との出会いにより、おおきく転換するのであった。ぶっちゃけて、おおまなかストーリーやディテールは、作者自身が「あとがき」において〈この作品のコンセプトとしてまずあったのが自分が少年の頃、心躍らせた80年代前後のSFアニメ作品のテイストを再現してみたいということでした〉といっているとおり、どこかで見たことがあるものの集積だといえる。装甲をまとうヒロイン、赤ん坊のような巨大兵器、大砲を頭上に頂き陸走するシップ、それから開拓時代を思わせる背景などなど、それなりの知識があれば、類似の表現ないし参照項を指摘することも容易に可能であろう。しかし、じつは先行する作品群(参照項)からの影響がもっともうかがえるのは、夢見がちな男の子の行動が、ボーイ・ミーツ・ガールを導き、彼を世界の謎をめぐる冒険へ出発させる、そういう構造なのではないか、と思う。つまり、主体の積極的な態度と、体験と成長とが、ここに描かれている内容を心強いものにしているのである。それこそが、あるいは作者のいう〈少年の頃、心躍らせた80年代前後のSFアニメ作品のテイスト〉を想起させるのではないか。前途はけしてやさしくはない。が、そのきびしさを当然のものとするからこそ、挑んでゆくだけの価値がある。アドヴェンチャーって、本来、そうやって生成されるものでしょう。とはいえ、画のレベルにおいては、今どきの大勢を満足させるほどのクオリティではないのもたしかで、いや、味として見ても、正直なところ、つらい箇所があり、せめて、もうちょい、そこのあたりが何とかなっていたら、世間の評価も違ってきただろうに、と惜しむ。
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2007年12月27日
 デス・スウィーパー 1 (1) (KADOKAWA CHARGE COMICS)

 掲載誌が『コミックチャージ』(角川書店)であるせいなのかもしれないけれど、江藤淳の自殺に影響を受けたインテリ人間の死という物語の発端には、どことなく大塚英志っぽさを感じてしまい、そうしてくると、単行本のデザインからは、『多重人格探偵サイコ』や『黒鷺死体宅配便』のそれを彷彿とさせられてしまうのは弱ったものであるが、まあ、以上はどうでもいいに違いない話で、きたがわ翔の『デス・スウィーパー』の1巻は、同作者が『刑事が一匹』で切り開いた路線を、受け継ぐようなかっこうの、つまり、ヘヴィなテーマをできうるかぎりシリアスに描写することの目指された内容のマンガだといえる。医大に通い、優秀であったにもかかわらず、引きこもりになってしまった兄が、意図的に餓死し、その死体を目の当たりにしてしまった主人公は、葬儀社からの依頼で駆けつけた清掃会社の青年が行う作業に、いわく言い難い衝撃を受け、肉親を喪った心の整理のつかぬまま、あるいは自らの心の整理をつけようとして、清掃・遺品整理会社「スウィーパーズ」でのアルバイトを志願するのだった。監察医やエンバーマーなどもあわせ、死体周りの職種は、ここ数年、ずいぶんとサブ・カルチャーの表現において題材とされることが多くなり、ある意味でジャンル化されてきたようにも思う。生の重み、残された者の気持ち、といったクラシックなテーマに目新しさを加える、そういうための趣向として重宝されてきているのかもしれない。いずれにせよ、作品数は増えつつある。すこし振り返っただけでも、遺品回収を題材とした富田安紀子の『Re:Life』などが見当たる。そのようななかにあって、この『デス・スウィーパー』の特徴を述べるならば、オカルト的な側面やショッキングな事件性を極力排除したうえで、ドラマを起こしている点になるだろう。主人公に、この仕事だからこそ映える特殊な能力は備わっておらず、すくなくともこれまでのエピソードに関して、物騒な背景は存在しない。そのため、サスペンスは薄い、というか、ときおり挿入されるサスペンスが、微妙な案配になってしまっているけれど、作品の主題は、おそらく、主人公が幾度か繰り返す〈今の社会は人間が生きてゆくのに必要な何かを隠蔽している〉という声を、なるたけ生真面目に増幅させることにある。その「何か」が、いったい何なのかは、まだよく見えてこず、今のところ、この国における現代的な若者の自分探しに近い印象なのは、やや歯がゆい。ところで作中で、江藤淳と並び大江健三郎の名も挙がっているけれど、作者の念頭には「死者の奢り」があったりするのかしらね。

 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
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2007年12月24日
 無限の住人 22 (22) (アフタヌーンKC)

 もっともフェイヴァリットな登場人物を挙げよということであれば、断然、凶泰斗である。したがって、奴が活躍してくれただけでもうテンションがアップしてしまうのだけれど、まあ、それはともかく、終結に近づき、まだ物語から退場していないおおよその登場人物が集結しはじめたもんだから、やあ、盛り上がってきたねえ、という印象を沙村広明の『無限の住人』22巻には持つ。「不死力解明編」の流れを受け、最終章に入った前巻より、さらに総ざらいの度合いはつよまった。吐鉤群による執念の追撃をかわしつつ、江戸からの出奔を果たそうとする逸刀流の当主、天津影久は、彼を仇敵とする凛に〈この旅は「斗い」だ――恐らく逸刀流にとって最後の「斗い」だ / 凜 / お前にそれを見届ける権利と義務があると云うなら / あの男にもあろう……〉と、もしも最後の「斗い」に立ち会うつもりであれば、〈我々をさんざん苦しめてくれたあの男〉である万次を、かならずやともなってくることを要請する。こうして、おおよその登場人物たちが、逸刀流が行く先とする常陸を目指して、江戸を発つ。という流れで、これがしかし、燃えんぜ、と息巻かざるをえない。吐の娘、燎を一蹴する凶のかっこうよさは言わずもがな、なのだが、窮地へと追いやられるにしたがい、ぐっと存在感と迫力を増してゆく吐も、良い。槇絵に別れを告げんとする天津は悲しく、百琳と偽一の再参入もまた、べつの箇所で、悲しい。そして、彼らの総和が、クライマックスの前段に相応しいような、ゆるやかな熱気を蓄える。さまざまな思惑とそれぞれの覚悟が、ただ一点の終(つい)へ向かい、動き出す。

・その他沙村広明に関する文章
 『ブラッドハーレーの馬車』について→こちら
 『エメラルド』について→こちら 
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 ブラッドハーレーの馬車 (Fx COMICS) (Fx COMICS)

 無垢な少女たちを待ちかまえる過酷な運命、沙村広明『ブラッドハーレーの馬車』のだいたいは、さしあたってそのようにまとめることができる。そして、その過酷さは、どう足掻いても彼女たちに死しかもたらさないような、そういう過酷さである。暗く、悲惨であって、救いがない。因果応報の者もあるが、ほとんどは当人の与り知らぬ非情な摂理によって地獄を思わせる境遇へと引きずり込まれ、誰ひとりとしてそこから這い上がることを、許されない。本来ならば、顔を手で覆い、目を背けたままにしておきたいストーリーといえる。しかし、それがなぜか、深い溜め息以上の感嘆を、こちらに手渡す。二十世紀の初頭、国中の孤児院にいる少女らは、ブラッドハーレー家の養女に選ばれることを憧れとする。そのことはすなわち、ブラッドハーレー聖公女歌劇団の一員に加わり、華やかな表舞台にあがることをも意味しているからであった。が、じっさいに選ばれたうちの何人かは、まったくべつの世界を覗かされる。「1・14計画」通称「パスカの祭り」と呼ばれる、人道に反しながらも、時代の移り目だからこそ実行されてしまったプロジェクトに基づき、刑務所の治安維持のため、欲望に飢えた囚人の群れに、まさしく生け贄として捧げられるのであった。正直な話、掲載誌の『マンガ・エロティクス・エフ』で1話目や2話目を読んだときには、その悲痛でしかありえないエピソードに、けっこうこたえたのだったが、こうやってまとめられたものに目を通してみると、痛々しいばかりではない、(あのSM的な画集『人でなしの恋』ともまた違う)べつの表情がうかがえ、胸を動かされた。たしかに結末だけを取り出せば、作中人物の多くは、幸福とは遠く離れた場所で、目を閉じる。だが暗闇へと滑り落ちてゆく最中、ほんの一瞬、希望と呼んでもいい光を、かするようにしてであれ、目の内にとらえているのである。その、一片の輝きが、さびしくも豊かな叙情をつくり、こちらの心を叩く。多少の大げさを承知で述べるなら、秘密めいた「1・14計画」あるいはブラッドハーレー家の謎とは、作中人物たちにとっては自分たちを左右する世界それ自体と、ほぼ同義であろう。世界は、けして望みどおりに回ってはくれず、かならずしも喜びを都合してはくれない。そうした現実にあって、彼らは、ほんのすこしの夢を見る。または、こう言い換えてもよい。ほんのすこしの夢を見ることだけは、許されている。叶えられることがなく、たとえ深い絶望のみがもたらされることになろうとも、それだけのことは、平等ですらあるほどに、許されている。見られた夢が希望に重なる、これはもちろん、特殊な状況にかぎらず、ごく普通の、一般的な事例に他ならない。だからここで問われたいのは、希望がただの夢で終わる、夢想のまま費えるしかないとき、それはまったく意味のないことなのか、という点だ。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。このマンガのエモーションは、おそらく、そうした答えを出さない、含みのなかにゆだねられているのだろうな、と思う。たとえばそれは、マッチ売りの少女がちいさな炎によって得られた夢に似て。

 『エメラルド』について→こちら
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2007年12月22日
 Walkin’Butterfly 4 (4)

 マフラーのやりとりは、すこし恥ずかしいけれど、なかなかのシーンだな、と思う。身長の高さにコンプレックスを抱えたヒロインが、ファッション・モデルの世界に入り、自分の進む道を見いだしてゆく、たまきちひろの『WALKIN' BUTTERLY(ウォーキン・バタフライ)』であるが、掲載誌(発表先)が変わったりとしながらも、この4巻をもって無事に完結した。結局のところ若い女性の自分探しが帰結する先を恋愛にしてしまいましたか、との揶揄を言えなくもないのだけれど、そもそもミチコの劣等感の根は、他人から自分が女性として魅力的に見られていないことにあったのであって、それが自分を高く評価する男性との、まさしく相思相愛のかたちで払拭されているのだとしたら、作品内の整合性に誤りはなく、そうして十分に納得のいくラストを迎えるに至る。当初はミチコの敵愾心を煽る一方であった三原が、やがて彼女の受け皿となるような展開も、あらかじめ予測できたとはいえ、エンディングまでの流れを、より一段と勢いづかせ、読ませる。ショーに遅刻しているミチコの到着を待つ三原の〈あいつを信じたから決めたんだ / ここで変えたら / 俺は自分も信用できなくなる / あいつの問題じゃない / これは俺の問題だ〉というセリフ、これはもちろん、他人を信じるということは、つまり、他人を信じる自分を信じること、という言いを含んでいるわけだが、そうした響きのなかには、他人を信じられない自分への否定、あるいは他人を信じられなかった自分への訣別を、同時にともなう。こうした態度は、過去を振り切り、ショーへと向かうミチコにもまた、共有されているものだろう。ようやく会場に辿り着いた彼女の言葉によって、そのことは確認できる。だが、ここで注意しておかなければならないのは、そこから色ボケといっても差し支えがないぐらいの大恋愛へと進展していったカップルが最後のポイントで、他人を信じる自分が、その他人のためだけにあるのではなく、また、自分の信じた他人が、自分のためにだけあるのではない、そのような毅然とした道のりを選ぶことにある。頼り合いながらも、ぜんぶを預けてしまうのではない。寄り添いながらも、ぜんぶを甘えるのではない。そのことが、作中人物たちの成長を、よく表している。

 3巻について→こちら 
 2巻について→こちら
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2007年12月21日
 仮面ティーチャー 4 (4) (ヤングジャンプコミックス)

 迷走しているとまではいわないけれども、結局、同じようなネタで大風呂敷をひろげた作品を乱発していれば、そりゃあ一個一個のクオリティは下がる、というのが、ここ最近の藤沢とおるの印象で、さらにつけ加えれば、そのどれもが中途半端なかっこうで終わってしまっているのは、やはり、残念に思われる。いちおうは4巻で完結(第1部完結)ということになっている、この『仮面ティーチャー』などもそうで、総体的に見れば作者のパターンでしかないスペクタクル、作中人物の造形、それらの関係性のなかで、せめて、仮面ティーチャーの目的とはいったい何なのか、といった特殊なギミックをもうちょい効果的に用いることができればよかったのだが、もったいぶりながら引っ張ったわりに明かされる真相が、ちょっと、せこいものになってしまっていて、がくん、とうなだれてしまう。あるいは、そこへ持っていく展開のさせ方がまずかったのかもしれず、どこまでの設定を用意していたのかは不明だけれど、手癖で話を進めていっただけじゃんね、と勘ぐられても仕方があるまい。バトル・ファンタジー路線の『REVEREND D』も、同系統の『TOKKO』以上に有耶無耶になってしまいそうな感じがするだけに、ここらでもうひとつ、こちらが納得のいくぐらい、ぐっと身の詰まった仕事をして欲しくなる。
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2007年12月18日
 打撃王凛 11 (11) (月刊マガジンコミックス)

 血を騒がせろ、おぉおおぉォ。ここにきて、こう、最高潮にヒートするとはまさか思わなかったぜ、というやつで、こちらの期待値を余裕でフェンス越えしやがった。最終7回裏、4点のビハインド、下位打線、緑南シニア逆転の目は、皆無に等しい。この圧倒的に不利な条件下で、もはや信じられるのは、奇跡、だけである。しかし彼らにとって、奇跡とは、ただ俯いてすがるものではなく、自らの手で招き、そして掴み取るものに他ならなかった。以上の正念場を、佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー)凜』は、この11巻で描いているのだが、ここが、これが、すごく、熱く、前巻の段階で述べたことは全部チャラにせざるをえないぐらい、奮っている。はっきりといえば、ツー・アウトに追い込まれたところから、野球マンガにアリガチな、ステレオ・タイプといってもいい展開が、続く。だが、いちページいちページに注ぎ込まれた熱量というか濃度に、圧倒され、萎える暇がない。たしかに、いくつかのチャンスは偶然でしかない、けれども、いくつかのチャンスは必然からきた結果である。それらをない交ぜに、すべての動作、すべてのセリフ、すべての表情が、何度目かのクライマックスであるにもかかわらず、すこぶる波濤をつくりあげ、不可能が可能になる、そういう奇跡の有り様に説得力を被せてゆく。ひねて鈍くなった感情が、思いっきり張っ倒される。単行本でいうと、半分までいったあたり、とうとう安長(やっちん)に打順が回ったその先はもう、あまりの壮絶さに、コマを追う目が潤んで潤んで仕方がなかった。〈自分の限界ギリギリを打ち破ったその向こうに 奇跡が待ってんだ / さてと / じゃあ俺もそろそろ行くぜ 最後の奇跡を起こしにな〉、そう言いながらも完全に消耗した安長の後ろ姿に、凜は、かける言葉を持たない。じっさい、立っているのがやっとな安長のバットは、空を切るばかり、悲愴ですらある。しかし、ようやく凜が励ましの言葉を見つけ、発したその声が届いたとき、安長は、笑う。〈・・・・んだよ あいつ まーた泣いてやがる・・・・(略)これじゃまるで ずっと俺が お前 泣かせてるみてーじゃねーか(略)・・・・ああ だけど 俺がここで打ったら さすがに笑ってくれんだろ――?〉。はたして安長のバットは、ボールを芯にとらえるのだった。〈見てろ相棒 お前のそのきたねぇ泣きっ顔 俺が今すぐ笑顔に変えてやっから〉。すまん、ここで、泣いた。何度か繰り返し読んでも、そのたびに泣けたほどの名場面である。もちろん、チーム・メイトたちのがんばりもナイスなサポートで、敵役の中根も裏の主役といってもいい凄まじい奮闘で魅せるのだが、やはり、この『打撃王 凜』の要は、凜と安長の相愛ともとれる絶対的な信頼にかかっているのだな、と、あらためて実感する。ガッツと思い遣りの正道を行く。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
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2007年12月15日
 給食の時間 2 (2) (デザートコミックス)

 幼い心に負ったダメージから、食に対する意欲が希薄になってしまった少女・未来は、預けられた母の田舎で、栄養士・藤川(健さん)と出会い、彼と彼のつくる学校給食のおかげで、食べることの楽しみを知り、そして性格をあかるくさせてゆく。これが、くりた陸の『給食の時間』1巻のおおよそで、2巻では、かつては一流料理人として知られた藤川が、なぜ、辺鄙ともいえる土地で給食のおじさんをやっているのか、そちらへと関心の高まりは移る。題材が題材であるし、地味なイメージのあるマンガだが、しかし順調におもしろく、物語は進んでいる。ここでは、給食費未納や地方都市における設備投資など、さらにいくつか現代的な話題が入ってきたりするのだけれども、子供の目線を大切にし、やわらかい解決の道を描いているため、ぎりぎりの線で、うざいという印象をもたらさない。まあ、大人の傲慢さに子供の存在を対照させることで、招き寄せたイノセンスないし良心へ、説得力を仮託するような手法といえばそうなのだが、それを含め、フィクションとしてのまとまりを良くしているからこそ、やさしく伝わってくるものがある。今後の展開としては、未来の藤川に向ける淡い恋心が、重要さを増してくるのかな。おそらくは失恋に終わるのであろう、その初恋をどうやって収めるのかも、またひとつの見どころである。

 1巻について→こちら

 『オレの子ですか?』5巻について→こちら
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 オレたちに愛はない (講談社コミックスフレンド B)

 犬井グループの老会長は、自分が死んだら身内のなくなる孫娘みことを不憫に思い、婿取りを考える。そうして見合いの席で、みことは、ルックスもよく、成績も優秀な、同い年の猿野いたるに出会う。一目惚れであった。早々に婚約を決める二人だが、いたるの真の狙いが、破談になったさいの慰謝料であることを、みことは知ってしまう。しかし弱みを握られ、結婚直前まで、付き合っているフリをすることを強要させられる。以上が、ヒナチなお『オレたちに愛はない』のアウトラインなのだけれども、いや、これがなかなか、明るく、楽しいお話で、おもしろく読んだ。世間ずれしておらず、単純な性格のみことにとって、意地悪ないたるは、それでも時々は可愛らしいところを見せる王子様だろう。最初はポーズでしかなかった二人の間柄が、どう恋愛感情に転んでゆくのかが、物語のメインである。それがコミカルに描かれる。細かい部分の描写よりも、ノリと勢いに納得させられる。ありえないというぐらいに現実離れした展開も、ここでは作者の(良くいえばだが)ヘタウマな作風と合い、相乗の効果をあげている。

 『机上のrubber』について→こちら
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2007年12月14日
 10年前の自分に、大暮維人と赤松健がさあ、『週刊少年マガジン』を代表して、少年マンガの未来について対談しちゃうんだぜ、と言っても、絶対に信じなかっただろうね。知らず知らずのうちに時代は変わってゆくんだな、と思う。その大暮・赤松特別対談と、加瀬あつしの自伝エッセイふうマンガ『ゲドー戦記!! オレのまんが道』を目当てに購入した『少年マガジンドラゴン増刊』だけれども、正直、そのふたつから得るものはあまりなかったし、本誌掲載作品の番外編や、安田剛士の『月と俺』などは、まあね、といった程度の作品だったのだが、しかし思いのほか、新人マンガ家さんたちによる読み切り作がみなおもしろく、買って損したという気はぜんぜんしなかったので、とてもラッキーだ。個人的な趣味でいえば、片山あやか『妖一夜』、石沢庸介『オハナ迷彩』、豪村中『メガバカ』、朝陽昇『アシタハ』、佐藤陽介『赤毛のサスケ!』、北山やいち『地球迷宮』あたりが、好みである。つまり、読者のアンケート投票で一位に輝いたら『週刊少年マガジン』への掲載権が得られる「第1回ドラゴンカップ」参加の10作品中、6割が当たりだと感じられたということで、むしろこのなかから一個だけ選ぶのに難儀させられるぐらいだ。しいていえば、『妖一夜』か『赤毛のサスケ!』かなあ。『アシタハ』や『地球迷宮』あたりは『月刊少年シリウス』のほうが似合いそう。それにしても興味深いのは、作者たちのプロフィールを見ると、影響を受けたマンガ(マンガ家)の欄に、ほとんど『週刊少年マガジン』系の作家が挙がっていないことで、まあ、大暮も赤松の対談も、そこでイメージされている少年マンガって、結局は『週刊少年ジャンプ』っぽいもののことだもんな。
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2007年12月10日
 女神の鬼 8 (8) (ヤングマガジンコミックス)

 ああ、ケンエーもまた、兄と同じく、誰とも何も分かち合わない道を行くことで、王様の座を目指すかよ。田中宏の『女神の鬼』であるけれども、雛石顕治がカヴァーを飾った4巻の、その倍数たる8巻の表紙が、弟の雛石顕映なのは、とても意味深く、やはり狙っているんだろうな、と思う。己の野心のためならば、仲間であったはずの人間をも容赦なく欺き、切り捨てる、いよいよ表面化しはじめたケンエーの企てが、ここでのおおきな展開で、それはもちろん、顕治の行為の一種反復になっている。こうした反復によって示されるのは、いわば、宿命とでもすべきものの強度であって、つまり、自分たちはこうなんだから仕方がないということであり、自分で自分の運命を変えようとすることすらも因果の内に含まれてしまう、あるいは業に囚われるということである。それでも人は生きていかなければならない。以前にもすこし触れた気がするが、雛石兄弟に焦点を合わせ、物語を振り返ってみるなら、ビイストとフレイヤの対立は、そもそもケンエーと花山の個人的な衝突に端を発しており、そうしたことの末、旧ビイストに見限られた顕治は、転落する。ケンエーが、現ビイストの仲間を背くことで果たそうとしているのは、その兄の復讐であると同時に、きたるべき「鎖国島」行きに備え、ふたたび〈雛石の血の力を証明する・・・・!!!!〉ことなのだけれども、それらのすべては、『女神の鬼』という物語において、まさしく一連なりの円環となって現れているわけだ。さらにいえば、裏切り、孤独、そして暴力の連鎖は、『女神の鬼』より下った時代の同じ場所を舞台とする『BADBOYS』、『グレアー』にあっても、登場人物の多くを翻弄するテーマであった。要するに、三つの作品を一個のサーガとして捉まえ直したさい、円環はより巨大に出来上がる。だからこそ問題となってくるのは、そのような円環のなかに作者がいったい何を見据えているのか、に他ならない。仲間、たぶん、それだろう。暴走する内海が、ギッチョたちの団結に見たのも、それである。不良少年たちに謎めいた計画を持ちかける松尾老人が、3巻で、「鎖国島」へ渡る必要条件のひとつに、人望の無さ、嫌われ者であることを挙げていたのが思い出される。だが、花山を慕う牛山がすでに海を渡り、ハンニャとマンバのふたりもリーダーである真清のあとを追う可能性が、作中に暗示されている。はたしてこれがどういう意味を持つのか。そして、ギッチョが「鎖国島」へ流されるとしたら、そこまでのあいだにどのようなドラマが導かれるのか。ともに行く者が誰かあるのか。ひとまず、内海との出会い、五島との邂逅が、何をもたらすのか。盛りだくさんの内容と、まだまだ先のまったく見えない物語に、狂おしく、心乱されるよ。ほんとうにもう、『このマンガがすごい!』08年版で、『女神の鬼』を挙げていたのが、ロマン優光だけだというのが信じられない(ちなみに、ロマン優光の文中、「中上健二的」は、正確には「中上健次的」だと思われる)。

 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
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 無痛症でたあ。しかも恵まれない家庭環境とダブルの使用である。個人的に、フィクションがこういったパターンで作中人物の暗さを演出するのは、最高潮に萎える。オールマイティ・カードを安易に切るようなもんだからね。便利なテンプレートを躊躇なく用いてるだけでしょう、と言っても良い。いやいや。柳内大樹の『ギャングキング』12巻である。不敵な新一年生が加わって、ジミーたちバラ学の周辺は、また一段と騒々しさを増す。一方、ボタ高に入学したジミーの弟竜也は、同じ一年でありながらトップに立ったサリーにケンカを挑み、実力的には押しつつも、しかし敗北を喫するのであった。このへん、なかなか燃えるものがあるのだけれども、結局のところ、サリーの強さを裏付けているのが〈俺はなぁ………痛みを感じねーんだ……〉という体質であり、〈ケンカの強さは“環境”で決まる…〉というポリシーであることに、ちょっと、と思う。単純に、この展開に、それ、必要だったかあ、という気がしてしまうのである。いや、もちろん、必要性があったらあったで、以降の物語を通じ、はっきりしてくる部分なのかもしれないけれど、このマンガの場合、どうもそこのところが信用しきれないのだよ。まあ、現時点においても、ジミーのポジティヴさとピンコのネガティヴさを、ジミーに感化されつつあるハスキーとピンコを慕うサリーの対照にずらし、強調しているというふうに読めなくないのだが、さすがにそれは無理やりすぎる、か。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
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 3巻について→こちら

 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  1巻について→こちら

 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
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2007年12月09日
 鈴蘭男子高校入学案内 (少年チャンピオン・コミックス)

 90年代のはじめには、まさか高橋ヒロシがここまでのブランドになるとは思わなかったよね。すくなくとも若い世代にとっては、『クローズ』や、その続編である『WORST』こそが、ヤンキー・マンガの始点であり、頂点であろう。かつての名門愛徳高校(『ビー・バップ・ハイスクール』)を知らなくとも、鈴蘭の名には一定の愛着を持っているに違いない。映画『クローズZERO』を観たときには、鈴蘭のイメージの悪さ(それは良さでもある)と、そこに集う不良少年たちの層の厚さを、あらためて実感させられたものであったが、まあそれはともかく、この『鈴蘭男子高校入学案内』は、マンガ『クローズ』そして『WORST』の設定を後から追ったドキュメントであり、著者は高橋ヒロシということになっているけれど、おそらくは、編集にクレジットされている濱口正樹、高橋範泰、榎本雅一の仕事と思われる。そういった性格上、制作秘話が明かされたり、作品になる以前の資料等々が提供されているわけではないので、読み手の側からしたら、周知の部分が多いのだけれども、こうやってまとめられると、マンガの舞台が「戸亜留市(とある市)」という匿名的な場所であること、つまり、どこにでもありそうな郊外都市であることが、魅力の一端を担っていることがうかがえる。ある程度の施設は揃っており、地域と密着しながら生きることもできるが、おおきな成功を夢見る人間は、東京や横浜、大阪あたりに出て行く仕様になっている。この拡張性の高さが、共感の幅をひろげると同時に、設定の後付けをいくらでも可能にする。それからもうひとつ、本書は、鈴蘭高校21期生から30期生までの登場人物紹介を兼ねた内容になっているのだけれども、第23期生、つまり映画『クローズZERO』の世代はまったくのブランクになっている、要するに、作者の手によるものとそれ以外のものをリンクしないことで両者の明確なリンクを示すというやり方なわけだが、今のタイミングで出す以上、なかなかの得策である。

・その他高橋ヒロシ関連の文章
 『WORST』
  17巻について→こちら
  11巻について→こちら

 『クローズ外伝 リンダリンダ』(監修)
  後編について→こちら
  前編について→こちら

 『クローズイラストBOOK』
  Vol.1について→こちら

 『Hey!リキ』(原案)
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら

 『ドロップ』(キャラクターデザイン)
  1巻について→こちら
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2007年12月08日
 前向きなヒロインが王子様に出会う、というのは、ある意味でラヴ・ロマンスの王道といえるわけで、あきづき空太の『赤髪の白雪姫』は、まさしく、そうした二者の感情の接近を描く。生まれつきの赤く美しい髪を、自国タンバルンの王子に見初められ、愛妾として迎え入れられることとなった少女、白雪は、しかし自らの意志で選びとった運命を歩みたく、申し出を拒否するための逃亡をはかる。その途中、隣国クラリネスの森で出会った少年ゼンに匿われ、一時の安堵を得るのであったが、彼女を連れ戻そうとする罠の毒リンゴを、はからずもゼンが口にしてしまったことから、解毒剤と引き換えに、自分の身をタンバルン王子に捧げなければならない状況に追い詰められてしまう。と、まあミエミエではあるけれども、ネタを割ってしまえば、白雪の危機に駆けつけたゼンが、じつはクラリネスの王子で、そうした立場により白雪は守られ、事無きを得る。これが1話目の粗筋であって、つまりは物語の、だいたいの設定である。先に、ヒロインと王子が出会えばそれはラヴ・ロマンスの王道だと述べたけれど、『赤髪の白雪姫』は、現代の学校生活を舞台としたドラマ上の比喩でも何でもなく、文字どおり、一国の王子様が出てきちゃうような、まったくのファンタジーになっている。しかし、たとえば『白雪姫』のような童話とは異なり、作中人物の内側は、意外とモダンである。モダンでありつつ、素朴だといえる。このことが作品にやわらかみをつくっている。悪く見ると世界観があやふやというか、封建的な社会制度がとられているようでありながら、そうした厳密さはよく伝わってこないのだけれども、そのぶん、作中人物たちの意志は自律しているふうであって、それが彼らの姿を、伸び伸びとさせ、チャーミングにしている。そのことを含め、王子様が、ヒロインにとっての王子様というより、実際的に王子様だという点にも注意されたい。そういったヒロインとの立場の違いは、このマンガにおいて、身分の差というより、男女間のギャップに近しい。つまり、白雪が、ゼンの力になりたいと思い、宮廷付きの薬剤師を目指すのは、お姫様(お嫁さん)になる以外の方法で女性の自己実現を描くことと、ほぼイコールだと考えて良く、それをクラシックなラヴ・ロマンスに滑り込ませることで、2話目以降の展開が繋がれてゆく。
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2007年12月07日
 R-16 12 (12) (ヤングマガジンコミックス)

 桑原真也が佐木飛朗斗と組んで『[R-16]』をスタートさせたときには驚かされたものである。それというのはつまり、スケベくささも込みのオタクっぽい趣味でやっていくのかと思われた桑原が、いきなりヤンキー・マンガへと転向したと感じられたためである(そういえば、大昔に藤沢とおるが『湘南純愛組!』を描きはじめたさいにも、同様の理由で、意外性を覚えたものである)。だがじっさいには、美少女をいたぶるようなサディズムや臆病な男性をもてあそぶマゾヒズムと、暴力やマチズモにまみれた不良少年たちを表現することの、その本質に大差はないのか、うまい具合に、作風をスライドしたと思われたのもたしかである。しかし、もともとの発表先であった『ヤングマガジンアッパーズ』が休刊し、『ヤングマガジン』本誌に移ってから、あるいは作中人物らが高校に進学したあたりから、どうもストーリーの運びがあやしくなってゆく。ワキの人間をばんばん増やし、風呂敷をばんばん拡げる、伏線と見るよりもはったりというのが相応しい、あの佐木原作の癖が顕著になり出したせいである。その場しのぎととれなくもない展開の連続に、状況整理が困難で、連載で追うのは、正直きつくなっていた。それにしても、なんという残念エンドだろう。と、いちおうの完結にあたるこの12巻を読み、あらためて溜め息をつく。せめて、キー・パーソンのひとりである爆麗党総長の引退パレードまでやってくれれば、それほど印象の悪くない区切りはついただろうに、その直前、さあクライマックスに突入しようかという段階で唐突に終わりというのは、こちら読み手の知る由もない作外の事情があったとしても、やはり無残としか言いようがない。爆麗党総長、南雲の引退は、かつて猪瀬の死がそうであったように、主人公の純弥や、その幼馴染みである真希央や輝男、メインを張る三者の思春期における複雑なプライドと葛藤、そして友情の亀裂にとって、重要なモーメントとなりえたはずだったのだ。それが結局のところ、何のケリもつけられず、放り投げ出されてしまった。ピアノの調べが「透明な響き」となり、人びとの魂を照らすラストは、いっけんうつくしくあるけれど、じっさいには演出上の誤魔化しにしかなっていないからね。たとえばオビに「累計200万部突破目前!!」とあるのだが、その「目前」という修辞が、厳密な事実を表していないのといっしょ。まあ、佐木飛朗斗的には、ここで扱われたテーマは、山田秋太郎とのコンビによる『パッサカリア[Op.7]』を経、そして新作『爆麗音-バクレオン-』へと持ち越されているのはあきらかだから、そちらで確認することは可能だが、桑原真也はどうするんだろう、個人的には『TO-mA』のような路線でシリアスさを追求したものを描いて欲しいところである。

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
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2007年12月06日
 高橋一郎の『バレーボール使い郷田豪』は、すごくおもしろい、と他人に薦めたくなるほどでもないし、まあ、打ち切りも仕方がないかな、という気はするにはするのだけれども、個人的な趣味でいえば、とても好きなマンガである。おそらく、少年マンガのセオリーをパロディ化しつつ、そのパロディを少年マンガのセオリー内で転がす、そういった発想のうえに作品は成り立っているのだと思われ、そこを魅力的に感じるのだが、しかし厳しくいえば、シリアスにストーリーを追うと、整合性やカタルシスが弱く、ギャグの面に関しては、あまりきれいにオチていないような、要するに、断片のトリッキーともいえる重なりが、十分なぐらいの質へとは結びついていない。まあ、このへんはもしかしたら、うすた京介の『武士沢レシーブ』が持っていた印象に近しくもあるので、そうした構造自体に、なにか重大な欠陥があるのかもしれない。けっこう早い段階で、「バレーボール使い」と風紀委員会の対決という、ひじょうに明瞭な主軸が打ち出されていたにもかかわらず、主人公のカリスマが天然性であるため、自覚的な行動がとられているふうには見えず、全体の目的が曖昧としてしまったのが、悔やまれる。
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2007年12月03日
 諦めたふりをするのは、じつは諦められていないからで、そういう若者たちの、青い、といってもよい躓きと立ち直りを、やまむらはじめの『夢のアトサキ』は描く。この世界を揺るがすほどの謎に絡むことのない、同じ作者のマンガでいえば、短篇集『未来のゆくえ』に収められたいくつかの作品に近しい、そういう雰囲気のシリーズである。美大に入ることが叶わず、一般の私立大学に通う青年は、あくまでも自分の道をゆき、彼にもそれを求めてくる恋人とのあいだに距離を感じはじめてもいた。しかし、たまたま知り合いの知り合いであったプロのイラストレーターの仕事を見、その興奮を遠方に住む恋人に伝えたく、寒い真夜中にスクーターを走らせる。第一話の、こういうところ、青年の内側に衝動が沸き上がってくるあたりの描写に、伝わってくるものがある。基本的には、その青年を含む集団を軸とし、モラトリアム下でのコンプレックス・パーソンたちを捉まえた内容だといえるが、彼らの鬱屈が、狭いサークル・ゲームの参加者であることから生じているのでも、またそこに回収されるのでもなくて、あくまでもその外部を意識してしまうがゆえに現れ、それを乗り越えようとする意識へまでストーリーを持っていっているため、いじいじとしていながらも、ほとんど閉塞感を覚えることがなく、さわやかさは、先のことがわからなくとも、あるいは先のことなぞわからないからこそ、たえず何かを希望し続けてもよい、たとえばそのようなかたちで、青春の像を切り出している。

・その他やまむらはじめに関する文章
 『神様ドォルズ』
  1巻について→こちら

 『蒼のサンクトゥス』
  5巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2007年12月01日
 覇-LORD 10 (10) (ビッグコミックス)

 呂布や曹操のカリスマが目減りする一方で、『三国志』または『三国志演義』の人気人物たちがじょじょに物語に加わりつつある武論尊と池上遼一の『覇―LORD―』は、その、“超”三国志という副題に恥じぬ、豪快なアレンジと描写がしびれるわけだが、なかでも周瑜の一流ホストぶりには、思わず、ぶっ飛ぶ。女性受けしそうなルックス、また、それに相応しいチャラさでいえば、まちがいなく作中ナンバー・ワンであろう。〈オレの息子は少し堅すぎる……もっと“不良”にしてくれい!…〉と孫堅に声をかけられ、〈承知!グズグズにしてみせましょうぞ!〉と応えるところなぞ、周瑜さんってもっと真面目な人だと思っていたのに、と言いたくもなるし、同じくこの10巻で登場する荀ケの、やり手なのはわかるんだけれど、どうも華のない印象で描かれているのが、とても不憫に感じられてしまほどである。まあ、どうでもいいような話であるけれども、本筋に関しては、董卓を、主人公である劉備の立場からしたら、それこそ絶対悪的に扱ってしまっても構わないところを、そうではなく、心のねじ曲がった傑物と解釈したうえで敵対させようとする、そうした段取りに、やや手間がかかりすぎているため、率直にいって、まだるっこしい。もちろん、その点を、一般的に悪者のイメージがつよい董卓の人間性を深々と掘り下げる入念で野心的な作業、と良い目に評価しても構わないのだが、一方で、孫堅が、武論尊原作のマンガにありがちな、難病を患いながらも大儀に命を尽くすタイプでしかありえないので、結局のところ、ストーリーの練りにアイディアが不足していると受け取られても、致し方あるまい。

 9巻について→こちら
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 蒼太の包丁(16) (マンサンコミックス)

 純子から珍しく電話をもらった花ノ井が〈いやあ『富み久』は相変わらず青春ドラマしてると思ってな〜〉とからかうのであったが、まったくそのとおりだよ、花ノ井と入れ替わりに『富み久』へやって来た雅美も加わって、主人公・蒼太を中心とする恋愛模様は、これまた、ずいぶん賑やかなご様子である。そうした部分に関し、わりと大きな動きが、この『蒼太の包丁』の16巻では見られる。蒼太から妹のような存在にしか扱われていないことを気にする純子は、急って、思い切った行動に出るのだけれども、そのことはかえって、彼女に想いの届かなさを知らしめてしまう。そればかりか、ついついとってしまった雅美への牽制から、自分の不甲斐なさを深く実感する。蒼太が片想いをするさつきも含め、このへん、女性登場人物たちの蒼太を追う視線に沿うかたちで、ストーリーは展開してゆき、はたして蒼太がクリスマス・イヴを誰といっしょに過ごすかというあたりで、ちょっとした分岐を果たすのは、まあ、たしかに旧き良き青春ドラマといった感じだよね。しかし蒼太が、料理人としてはともかく、恋愛面においては、決断しない主人公になっているのは、その鈍感さを差し引いても、良いご身分じゃないか、と思う。主人公がもてるというのは、フィクションならではの特権だともいえるわけだけれど、料理マンガの場合、ルックスや性格というよりは、食文化に対しての真摯な態度が、それを保証することが多い(某作品のぐうたら新聞記者などは、その最たる例だろう)。それというのはつまり、何かひとつのことだけ貫く職人気質こそを上等とする、あるいは、食文化に深く通じることが人間存在への愛情と一致する、という思いなしが、前提としてあるためだ。また、料理マンガというと、一般的に保守的なイメージがつきまとうのも、物語よりも先に、そういったコードとでもいうべきものが読まれてしまうからであろう。純子と須貝の急接近も、それの応用といえるわけで、妥当ではあるんだが、すこしおもしろみに欠ける。

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2007年11月29日
 『ヤングマガジン』NO.51で、南勝久が〈ヤングキングでアシスタントの門尾君が読み切りデビューします。良かったら読んでください!!〉といっていたが、それというのは、『ヤングキング』NO.24掲載に『欺瞞遊戯』が掲載されている門尾勇治のことだと思われる。トビラにある作者の紹介に「ナニワで生きる気骨の新人!」とあるから、たぶん、そうなんだろう。そのようなわけで、目を通した『欺瞞遊戯』であるが、作品内容としては、福本伸行あたりを意識しているかのような、今ふうの言葉でいうところの下流層にあたる若者たちによる出し抜き合戦であった。根本的にだらしのない人間であるトキオは、金銭に困り、やはり多額の借金を抱える幼馴染みヨシタツとともに、闇金へ盗みに入る。いちおうは成功を収めたにもかかわらず、手に入れられたのが予想していた金額に満たなかったため、二人のあいだで諍いが生じる。こうした筋立ては、まあ、アウトサイダーものによくあるていだが、しかし、二人のやりとりを限定された空間における極力暴力を排除したうえでの駆け引きに落とし込んでいる点が、おおきな特徴だといえる。しかし、その駆け引きにあって、何かしらかのルールが両者を既定しているのでもなく、したがって理詰めで相対する人間を引きずり落とすわけではない、このあたりが、最大の、いや、致命的な欠点となってしまっている。要するに、幼馴染みだから、まあ、相手のことはよく知っているし、できれば無難に片をつけたい、たったそれだけのことが、あたかも心理戦のふりをして描かれているにすぎない。作中人物の言葉や行動は、せいぜい作中人物を騙すのみであり、読み手を欺くには至っていないので、驚きも何も生まれないのである。
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2007年11月27日
 さて。ゆうはじめ(高橋ヒロシ・監修)の『クローズ外伝 リンダリンダ』だが、率直に述べて、『ヤングチャンピオン』NO.24に掲載されている後編を読んでも、とくにこれといって特筆すべきことのない内容だったのだけれども、単行本になるのか(単行本になるとしたら、どういうかたちでどこに入るのか)、現時点ではわからないので、いちおうは触れておきたい。復讐のため、岡倉がリンダマンを必死に捜す一方、岡倉の昔馴染み圭一は、そのような事情を知らず、たまたま同じ弁当屋で働くリンダマンと親しくなっていた。それを知った岡倉は、圭一に嘘をつかせ、大勢を集めた場に、リンダマンを誘い出そうとする。というのが、いちおうのストーリーである。前編を読んだ段階では、岡倉と圭一の友情にフォーカスを合わせてゆくのかとも思われたが、ぜんぜんそういうわけではなくて、単純に、リンダマンのスケールの大きさとケンカの強さをプレゼンテーションするだけに終わってしまっているのが、なんとも空しい。まあ、親交を深めつつあったリンダマンを、騙さざるをえない状況にまで追い込まれた圭一の苦渋を見、一個のテーマと判ずることもできるだろうが、前後編合わせて55ページものヴォリュームを使い、そして示されるのが、結局のところ、嘘で塗り固めた人生は嫌だ、まだレールになんか乗りたくない、式の、ステレオタイプで自己完結な十代の叫びポエム(文字どおり、言葉によって書かれたポエム)だというのは、いささか残念と言わざるをえない。総体的に、不良のイメージの描写に重点が置かれ、物語のレベルに関しては密度が薄い、そういう作品であるため、せめて、もうすこしすくないページ数であったならば、印象も違ったと思われる。

 前編について→こちら
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2007年11月26日
 この7巻にきて、彬聖子の『サルヤマっ!』には、おおきく三つの軸があると思われるようになった。ひとつは、シンプルにボーイ・ミーツ・ガールのラヴ・ストーリーであり、もうひとつは、終わりのあるモラトリアムとしての青春像である。そして、三つ目は、それら二つと深く関わっているのだけれど、自然と大人になりつつある少年や少女の姿、とでもいうべきものだ。最初に述べた軸は、もちろん、主人公である優(まちゃる)と春奈の恋愛を描くことで成立しており、次の軸は、優と春奈それからクラスメイトたちの楽しげな学校生活を描くことによって成り立っている。そこに、優の親友である敦行(あっちゃん・アツ)の横恋慕や、春奈の家庭の事情、それから高校卒業後の進路が絡むことで、三つ目の軸が顕在とするわけだが、その第三の軸を象徴しているトピックをもうひとつ挙げるとしたら、それは、優のセックス(性交)に対する欲求ということになるだろう。周知のとおり、物語の開始当初は、初心で、まさしく子供のように、無邪気な存在であり、だからこそクラスの皆から愛され、春奈が心惹かれた優が、作中の時間が流れるのにともない、恋人にセックス(性交)を求めるまでになる。こういったケースが、少女マンガのフォーマットで表現されるのは、意外と珍しいのではないか。言うまでもなく、たんに童貞や処女がそれを喪失する(喪失しようとする)ということを指すのではない。それは他の多くの作品にも見られる。そうではなくて、セックス(性交)が、恋愛状態における、なにかしらかの目的であったり、手段であったりするのとは異なり、一個の人間が、思春期における恋人や友人との付き合いを通じ、成長してゆく、その段階を示すものとして、きわめて自然に、意識されるようになっている、ということである。おそらくこれは、このマンガの特徴と記して良い点なのだが、しかしなあ、どうもこう、話の運びそのものに、あともうちょっとのつよい引きが欲しい。

 4巻について→こちら
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2007年11月25日
 ストロボ・エッジ 1 (1) (マーガレットコミックス)

 ああ、やっぱり、初恋と片想いだけは人類の偉大なる資産と讃えられてしかるべきだな。もちろん両想いを加えても良いんだが、そうしたら失恋のことも頭に入れなくてはならなくなってしまうのが、痛いところだよ。それにしても咲坂伊緒『ストロボ・エッジ』の1巻である。ここに展開されている恋愛の風景は、すばらしく、若々しく、そして、まぶしい。高校一年の仁菜子は、まだ、恋というのがどういうものかを知らない。中学時代から仲の良い大樹とのことを、同級生から〈あんたたち相思相愛でしょ〉と言われれば、〈そうか そうだったのか…これがスキって事なのか――〉と自分でも不思議がってしまうほどである。けれど、ほんとうの恋が、べつの、思いも寄らぬ方向から、やって来る。学年で一番人気の男子、蓮と、帰りの電車で偶々知り合い、すこしずつ言葉を交わすようになった仁菜子は、次第に、彼と会うたび胸を痛める自分のそれが、恋愛感情だということに気づきはじめるのであった。そのようなストーリーの流れは、少女マンガのシーンにありふれたものだといえる。また、それにしたがい三角関係あるいは三角関係以上の連なりが、作中に、成り立ってゆくのも、同様であろう。つまり裏を返せば、そうした出来事の、すくい方、捉まえ方、描かれ方において、『ストロボ・エッジ』のすぐれた点を見ることができる。仁菜子が、じょじょに蓮のことを意識していくあたりが、いい。そこで注視しておきたいのは、仁菜子の恋愛感情は、蓮との関係によってのみ、自覚されるものではないということだ。蓮と大樹との対照を経て、そうだと認識される。これはもちろん、単純に、異性間における恋愛と友情に差異の一線を引くていの表現となっている、おそらく作者はそう意図しているわけだが、読み手への作用は、そればかりではない。ある意味で、以前までになかった恋愛感情を知るということは、ひとつの世界が拡がることと同義である。しかしながら恋愛感情へのこだわりは、広くあったはずの世界を狭めてしまう(あなただけしか見えないというやつだ)。ラヴ・ストーリーは、多くのばあい、そうした遠近感を操作することで、登場人物の内側にグラデーションをつくりあげていくもので、これはもちろん『ストロボ・エッジ』でも等しくあるけれど、そのような感情の遠近図を描くさい、仁菜子の蓮に対する想いを託され、伸びるラインは、大樹とのあどけない付き合いが、いわば補助線の役割を果たし、それからの働きかけによって、太く、たしかに、定められている。たぶん、蓮と大樹のルックスと性格を、相対的に見たとき、どちらがどう勝り、どちらがどう劣るということはない。にもかかわらず、どうして仁菜子は、大樹ではなく、蓮を選ぶのか。仁菜子の、蓮へ向けられていた憧憬が、アイドル的な存在を好きというようなそれではなく、そもそものはじめから恋愛感情だったのでなければ、偶々、彼女の心がそう動いたというほかない。じっさい、根拠というほどのつよい理由は、作中に明示されていないふうに思われる。やさしくされたからというのはあるだろうが、読み手を説得するには弱い。しかし、その偶々が、絶対的な確信であるからこそ、たとえ蓮に恋人がいたとしても仁菜子の〈それでも蓮くんを好きって気持ちはなくなっていかないの〉ということになる。この、思いなし、あるいは、言い切りは、同じシーンでべつの登場人物たちにより、二度三度と反復され、一個のメッセージをつくっているわけだけれども、これがもしも印象に残るとしたら、それはつまり、そこへ至るまでの流れのなかで、いつの間にか、読み手が説得されているためである。換言すると、偶々が、偶々ではない、絶対でしかありえない、そういう表現が事前に為されている、ということで、おそらくは、先ほど述べたような、蓮と大樹の対照を用いた恋愛の遠近法とでもいうべきものが、それにあたる。この1巻は、思い詰めた表情の仁菜子が、告白をするのかしないのか、いずれにせよ蓮に歩み寄るところで、終わっている。まちがいなく山場だよね。だいたい2巻ないし3巻ぐらいの長さでまとまれば、ちょうどよい内容だと考えられるだけに、そうしてこの恋がどう転ぶのか、目が離せなくなる。

 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
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2007年11月24日
 シャングリラブ (マーガレットコミックス)

 工藤郁弥に関しては、たしかに安定感は認められるのだが、絵柄もストーリーも、ワン・アンド・オンリーといった面が積極的に見出せないところが厳しく、それは、あたらしい作品集である『シャングリラブ』についてもいえる。このなかでもっともおもしろく感じられたのは、高校デビュー系の主人公が、裏表のない性格の友人との付き合いを通じ、ほんとうの自分らしさ、に気づく姿を描いた「ベイビースター」であるが、しかし正直なところ、どこかで読んだことがあるような、そういう印象が最後まで付きまとう。とはいえ、以前の作品からするに、おそらく作者の資質がよく出ているのは、そのような友情をテーマにしたものではなくて、もてそうな男女のボーイ・ミーツ・ガールを扱った「恋ゴコロ」のほうだと思う。女子校通いのうえ、放課後は兄の開いている茶道教室の手伝いをしているため、出会いに乏しいヒロインが、ネイル・アーティストを目指すイケメンさんに出会い、そのハンド・モデルをしているうちに心惹かれてゆく、というストーリーである。これも、手堅く、けっして悪くはない内容なんだが、どこか、なにか、もうワン・エッセンスの部分で、物足りなさを覚える。
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 カトちゃんケンちゃん 1 (1) (マーガレットコミックス)

 田辺真由美の『カトちゃんケンちゃん』は、猫の自意識を描く。まあ、よくある手のペットものだといえる。このジャンルに関しては、それほど多く読んでいるほうではないので、滅多なことは言うもんじゃないが、しかし、ギャグ・マンガとして、ふつうにおかしく、二箇所ほど、声を出して、笑ってしまった。刺身のツマを〈どんな魚かは知らねえが〉大好物だというところと、コーラを飲んで〈べろいてェ〉というところで、このときの、猫の、あまりにもかわいくない表情が、むしろチャーミングである。それから、題名はもちろん、志村と加藤の芸能人からとられており、この1巻、ラストのページに〈わからない用語はドリフ世代のおとなにきいてください〉と、おそらくは掲載誌である『マーガレット』の読者層(世代)を考慮し、あるのだけれど、いやいや、あまりにも参照されているネタが、昭和であり、ドリフであり、志村けんであり過ぎる。スイカの早食いとかはともかく、クワガタを指して、〈なんだ クワマンかよ〉は、さすがにないだろう、と思いつつ、全編そんな調子なので、ついつい、にやけた。
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 学校のおじかん 12 (12) (マーガレットコミックス)

 話は動いていることは動いてはいるのだけれど、あまりのぐだぐだっぷりに、読み難さを覚えるばかりの田島みみ『学校のおじかん』であったが、この12巻は、ひさびさに盛り上がったのではないか。何回目かのすったもんだがあって、ようやくカップルになった陸とマッキー(マキ)である。が、しかし学長であるという陸の立場もあり、ふたりが付き合っていることは秘密にしよう、ということになる。この展開自体は、またかよ、もうそれにどんな意味があるのかわかんねえぜ、というぐらい、うんざりさせられるものなのだけれども、これまでは、付き合っているのか付き合っていないのか(好き合っているのか好き合っていないのか)判然としない状況下での出来事であったのに対し、ここでは、未熟なヒロインが右往左往する様子とクールなイケメンさんが余裕をなくしていく過程が、ようやくの恋愛関係をキープするという必然のうえに成立しているため、わざわざ、といった印象をあまり受けない。ただし結局のところ、セックス(性交)するかしないか、あるいはセックス(性交)することが恋愛の成就であるかのような、そういう簡単な価値観のゴール、つまりセックス(性交)することを目指すなかに、新規の登場人物を投入することで、ストーリーが水増しされている感があることは否めない。

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2007年11月22日
 フランケン・ふらん 1 (1) (チャンピオンREDコミックス)

 うへえ。待望の木々津克久『フランケン・ふらん』1巻であるが、やはりこれは、ぐちゃぐちゃで悪趣味なホラーに対抗力のない人間には堪える内容であったよ。だって、そうだろう。だいたいの登場人物が、猟奇的に殺害されるか、人体をグロテスクに改造されるか、グロテスクに改造された人間に猟奇的に殺害されるか、するんだからな。とはいえ、作者の資質は、それを、あかるくシュールなコメディに変えている、このへんが作品の魅力であろう。あかるく、シュール、というと、なんとなく矛盾している感じがしてしまうけれど、じっさいにそうなんだから仕方がないじゃないか。天才的な頭脳を持つ斑木博士の研究所に住む謎の少女ふらん、おっとりとし、とぼけてはいるが、しかし彼女自身もまた生命工学に熟知した強者であった。行きがかり上、そのふらんにトラブルの解決を頼み込んだ人びとは、当人が望んだとおりであっても、一概にはハッピー・エンドと言い難い結末へと辿り着く。こうした基本的なプロットが、一話完結形式のなかで、次々とアレンジを変え、提出されるというのが、おおまかなつくりで、まあ、オムニバスな不条理劇におけるパターンともとれるが、人間存在の情念みたいなものを、かるくばっさりと裁断してしまっているので、こう、気分の暗くなっていかないあたりが、十分に個性的である。しいていえば、藤子・F・不二雄のSF(すこし・不思議)系短篇と平山夢明の小説のあいだのどこか、に位置づけることのできるようなセンスであり、マンガだと思う。

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2007年11月21日
 極道の食卓 4巻 (4) (プレイコミックシリーズ)

 このブログには、インターネットの世界においてクリティカルな、サブカルっぽさ、でなければ、オタクっぽさ、が足りないというのは、うすうす気づいてはいるのだけれど、それでも最新巻が出たばかりの○○や△△、あと□□あたりは、どうせ深い読みのなされた感想(たぶんね)があちこちですぐに上がるんだから自分がそれをやる必要もねえや、と、また今回も立原あゆみの『極道の食卓』を取り上げてしまうのであった。こういった姿勢をはたして、逃げているというのか、立ち向かっているというのか、それが問題だ。とはいえ、インターネット上における他のマンガ家たちに対する評価にくらべたら、もうちょっとこのマンガ家の魅力を、ネタではなくて、マジで語る人間が増えても良いだろう、と思う。さて。物語が開始された当初は、異色作ないし新境地と思われた『極道の食卓』であるが、この4巻では、立原がこれまでの作品でも頻繁に扱ってきた教育の問題や外国人入国者(不法滞在者)の問題、親子間に横たわるディスコミュニケーションの問題が、わりとシリアスに反復されている。まあ、どれもステレオ・タイプなエピソードといってしまえば、それまでだけれども、たとえば『不良レポート』にあった孤独や、『地球儀(ほし)』のあの深い絶望を、テーマはそのままに、こうしたユーモアを基調とする作品へと落とし込む、その執念は評価されても良い。だいいち、また「レッドデータブック」かよ、と、あいかわらずの使い回しに突っ込みを入れられる読み手も、ほとんどいないでしょう。広まらなかったメッセージを、手をかえ品をかえ、繰り返すことはアリとしたい。ただし、ここにきて『極道の食卓』という型がすっかりと出来上がった感があり、エピソードのつくりそれ自体から、ええー、と、こちら読み手に思わせるほどのパワーが乏しくなっているのも、たしかである。いや、ヤクザの親分同士がタイマンのあと、ミソ汁飲んで仲直りするところか、トロピカルな風情を演出するため、フラダンサーを呼び、流しソーメンの樋にカレーを流すところとか、その発想は、さすが、なんだが。

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・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
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 『ポリ公』2巻について→こちら
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 仁義S 5 (5) (ヤングチャンピオンコミックス)

 主人公を変え、いちおうは無印『JINGI(仁義)』(注・ここでは便宜上『仁義』と表記させてもらいます)とは切り離されたところからスタートした『仁義S(じんぎたち)』であったが、前巻ぐらいから無印『仁義』の本筋にほとんど等しい、つまり、仁と義郎が、手持ちの駒を使い、自分たちに敵対する人間を、いかに排除してゆくか、というストーリーへと立ち戻っている。そして、その駒にあたるのが『仁義S(じんぎたち)』の主人公であるアキラと大内だといえよう。また、アキラと大内は、かつて仁と義郎がそうであったように、そのことに自覚的な存在である以上、年老いて引退する、か、死ぬ、まで降りることのできないゲームを、有利に進めるため、どう主導権を握るか、画策する。もちろん、こうした作中の構図は、プレイヤーとかキャラクターとかいった今ふうの言葉で捉まえ、読み直すことが十分に可能なものであるように思う。いや、むしろそれを、立原あゆみがこのシリーズにおいて80年代から描き続けている先駆性を、誰か指摘してもよいほどなのだけれども、以上は、まあ、余談である。ただし、政治的なイデオロギーや資本制、または恋愛に殉じた者から物語を退場してゆく、というマンガのつくりは看過されてはならない点だろう。指名手配を受けるほどのテロリストであった義郎が、やがて警察ですら手駒のひとつに数えるまで快進撃を続けるのは、自分が極左であることに魅力をなくし、興味半分で身を投じたヤクザの世界で、それこそプレイヤーとしての振る舞いに徹していたからに他ならない。この『仁義S』の5巻で、実質上の関東一円会トップでありながら〈義郎 オレは一円会会長なぞなりたかねえぞ〉と口にする仁に、義郎が〈おいおい そんな事言っちゃ困るぜ 登るのをやめたとこが頂上になっちまう〉と言い、それに仁が〈やつらが怖えのは 義郎 おめえだ オレはおめえの傀儡だと思っている〉と返すシーンは、作中の力学を的確に示し表している。さて、その義郎から、現在の関東一円会会長である柳澤が経営に絡む病院の崩壊を命じられたのが、アキラと大内の二人組である。敵対する組織の縄張りに入り、たった二人で、巨大な病院潰しを行うという難題だが、これを彼らは、利用できるものはすべて利用することで、じょじょに達成へと近づいてゆく。しかしそれにしても、あの柳澤が、仁や義郎の敵に回るとはね。〈欲のねえのが売りの柳澤が何故変わった?〉と仁が訝しむとおり、はたして驕ったのか。驕りだとすれば、その驕りからくる詰めの甘さこそを、アキラと大内は、見逃すことなく、着実に、突く。

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 『極道の食卓』
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2007年11月18日
 レンジマン 6 (6) (少年サンデーコミックス)

 作者であるモリタイシの「あとがき」を読むと、やはり打ち切りであったらしい『RANGEMAN(レンジマン)』であるけれども、しかし、この最終6巻の、それでも作品に対する落とし前だけはちゃんとつけようとする意志の感じられ、まさに畳み掛ける勢いでもって読ませるところが、好きだ。ストーリーは、主人公とヒロインの恋愛に焦点化され、ふたりの関係を見届けるかのように、他の登場人物たちはワキに固まってゆく。レンジマンが、敵対する異星人と戦闘を行うたび、好きな人のことを忘れてしまう、という設定も、ほとんど両想いの状態からつくられてゆくクライマックスにおいて、見事に引き立っている。裏を返せば、結局のところ、ここまで話を持ってくるにあたり、これ、というほどのメインに相当する一本道が、こちら読み手の側からは見えにくくあった点に、本作の難があったということではないか。たしかに、作者の資質なのであろう、賑やかでコメディの要素がつよいマンガではあったが、『いでじゅう!』序盤のようにワン・エピソード単位のハプニングが連鎖していくというより、ラブコメ(ラヴ・コメ)的なディスコミュニケーションを積み重ねていくスタイルであったため、やはり、これ、といった目的があらかじめ読めないと(たとえそうした予測が裏切られることがあっても)、なかなか展開には、はまりにくい。加えて、これが単独者のヒーローではなく、戦隊単位の複数で構成されるヒーローを扱っていたのも、あまり有利に働かなかったふうに思う。じじつ、主人公以外は、意外と交換可能な要員であったのに対し、主人公のみが、すぐれた才能(恋愛衝動過剰)の持ち主であるがゆえに交換不可能な、それこそ特権的な立場であったのだし、終盤に至るまでメンバーが揃わなかったせいで、戦隊単位であることの意義も、あまり感じられなかった。いや、むしろ物語の進行を遅延させ、テンポを悪くしていたぐらいだ。もちろん、マンガが続いていけば、それなりの膨らみも生まれたのだろうが、そうしたヒーローものの要素は、先ほど述べたラブコメ的なディスコミュニケーションの、いわばダシにあたる部分だったのであり、つまり言葉を換えれば、フックが弱かったということである。とはいえ、怒濤のクライマックスを経たあと、ラストに満ちるせつなさとさわやかさには、胸が打たれる。極端な話、ヒーローものもラブコメも、何かを失っていく過程がドラマを催すものだけど、その報いが、きれいなかたちのハッピー・エンドとして描かれているからであった。ちなみにカヴァーを外すと、連載中にはなかったエピローグが見られるが、おまえさん方のその幸せカップルぶりが、じつに憎い。
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2007年11月17日
 12の月のめぐる間に 2 (2) (プリンセスコミックス)

 伝説の吸血鬼と人間のあいだに生まれた「吸血鬼の娘(ヴァムピーラ)」である奏は、17歳の誕生日から一年間のうちに、自分が、人間して生きるか、吸血鬼として生きるか、を決断しなければならなかった。そのことをめぐり、ごく平凡な女子高生でしかなかった彼女の周囲が、にわかにざわつきはじめる。彼女の父親に敵対する吸血鬼や、吸血鬼の駆逐を使命とするハンターたちの攻防が、表面化し出したのである。しかしそれでも奏は、彼女が飼っている猫のフクを仮の姿とする謎の男タロウや、幼馴染み(で、その正体を奏には隠しているハンター)の楓に守られながら、平和な学校生活を送れている、今のところ。吉川うたたの『12の月のめぐる間に』は、現代を舞台にしたシリアスな吸血鬼ものといえる内容であるが、ちんちくりんなヒロインを目的に美男美女が集まってくるていのコメディとしても読める。1巻の段階では、そうした設定がオーソドックスであり、話運びもやや地味かと思われたが、この2巻に入って、また一癖も二癖もありそうな登場人物が増えてさあ、ずいぶんと賑やかで、たのしくなってきた。おおきな魅力は、やはり、奏以外の登場人物たちの内側が、こちら読み手には伏せられている点であろう。表向きはギャグも厭わないのに、その裏では、それぞれの思惑を胸に、策略を張り巡らしている。まあ、そういったテンションの保ち方など、同作者の『すっくと狐』に通じるところもあるが、こちらのほうが、いくぶんファニーな印象を受けるし、物語のなかで、人間側のハンターと吸血鬼とが、たしかに啀み合いながらも、一個の世界で共存している風景を、違和感なく取り込んでいるのも、作品の奥行きに繋がっている。ここでの人間と吸血鬼の違いとは、宿命というよりは、属性とでもいうようなものである。つまり、カテゴリー的な闘争に巻き込まれた少女が、その渦中において、自らの属性をどこにどう準拠してゆくのかが、重要なテーマとなっている。現段階では、人間として生きることを強弁する奏であるが、このへんの心的なバランスは、おそらく、他の登場人物たちとの交わりによって、揺らぎ、補整されてゆくのだと思われる。そのために、吸血鬼はただかっこうよく描かれるのではなくて、かっこうよい人間らしく、要するに、間抜けなところもありの、完璧ではない超人として描かれている。
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2007年11月16日
 あかねSAL☆ 3 (3) (講談社コミックスキス)

 2巻のラストで、主人公のあかねが芸能界入りする展開は容易に想像できた、なかはら★ももた(原作・岡田惠和)の『あかねSAL☆』であるが、じっさいそのとおりの展開となっているこの3巻を読むと、どうもストーリーのメリとハリが弱まっているふうに感じられるのは、自分のやりたいことが判然とせず大学卒業後の進路を決めかねるあかねと、彼女より年下でありながら自分の意志でプロの世界を生きるアイドルたちとの対比が、作品のなかから消えてしまい、あかねのモラトリアムのまっすぐな延長線上に、芸能界活動が位置するかっこうになってしまったためだろう。結果、アイドル・マンガとして見ても、フットサル(サッカーないしスポーツ)・マンガとして見ても、中途半端な内容になってしまった。まあ、成長しない人間の自分探しが主題だとすれば、これはこれでアリなのだろうけれど、そういった部分を差し引いても、魅力的なマンガであっただけに、この流れには、ややもどかしさを覚える。

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2007年11月14日
 ぼくのはねはきみ (講談社コミックスフレンド B)

 くそう。不覚にも笑ったのは、この、北川夕夏の作品集『ぼくのはねはきみ』の、いわゆるオマケ・ページに近しい「bitter18」を読んでのことである。いや、まあ、アイディア的には、ワキ役であるような登場人物が自分の出番のすくなさを愚痴るという、よくあるものでしかないのだけれども、ここに収められている「sweet17」と同作者の以前作である『19歳』とのあいだの、ミッシング・リンクといえなくもないモノローグに、思わず、ふいた。このへんのセンスは高く買いたい。こういう良い意味での適当さを、本編のほうにも盛り込むことができれば、もうちょい、作品の印象も変わってくるんだろうな。と、さて、その「sweet17」と「bitter18」を含めれば、ぜんぶで四篇のマンガが入っていることになるのだが、なかでもいちばん良いものを挙げるとしたら、やはり、表題作にあたる「ぼくのはねはきみ」になるだろう。中学生の初々しい片想いを、わりと直球で描いた内容である。中学三年の亮(あき)は、小学生のとき、陸上競技会で見かけた幅跳びの選手の、その跳躍に恋をしていた。自分もあんなふうに飛びたい、そして、できるならもう一度会いたいと願っていた。そんな折、亮のクラスにひとりの転校生がやってくる。奥村優という、その男子の目は暗い。が、しかし、体力測定のさい、きれいに幅跳びをする姿を見、亮は彼のことが気になりはじめる。ここから、奥村に対する亮の気持ちがどう募っていくのか、をストーリーは追っていくわけだけど、もちろん言うまでもなく、奥村こそが、小学生の亮が見た幅跳びの選手であり、要するに、純粋さと同義であるかのような初恋のイメージが、そこに重なる。純粋であるがゆえに、亮は、なぜ奥村が中学三年の大事な時期に転校しなければならなかったのか、その裏に隠されている事情を、本人に直截訊くことができない。それを言葉にすれば、ふたりの距離が、ふいに壊れてしまいそうだからである。そうした子供心にも複雑な畏れを、うまく捉まえ、やさしく、さわやかな読後に結びつくよう、描ききっている。
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2007年11月13日
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 『ヤングチャンピオン』NO.23掲載の、高橋ヒロシが監修をつとめる、ゆうはじめのマンガ『クローズ外伝 リンダリンダ(前編)』は、その題に示されているとおり、皆様ご存知『クローズ』本編初期の登場人物であったリンダマンを主人公に据えたサイド・ストーリーなわけだが、真面目に読めば読むほど、位置づけのよくわからない作品である。いや、細かいことをいうようなのだが、まず、これがリンダマンの中学生時代であるというなら、その舞台は、80年代の終わりでなければならないのではないか。しかし、ディテール的には、どうも、そうなっていない様子である。ポッカの缶コーヒーは、いま現在のデザインに見えるし、本来はまだ存在しないはずの発泡酒が作中に存在していたり、菓子パン(かな)の包装に115円とあるのは、やはり消費税が5%であることを想起させる、などなど。まあ、もちろん、『クローズ』そのものが、正確な時代背景を持っていないというのであれば、そんなの、くだらない挙げ足とりに違いない。また、これがあくまでも『クローズ』本編のパラレル・ワールドにおける出来事であるとしたら、なんら問題視すべきことでもない。ただ、そういった前提またはエクスキューズすらもじつは考慮されてはおらず、『クローズ』という看板だけで作品が成り立っているふしがあるから、わざわざ指摘せざるをえないのであった。だいたい、作画のレベルで捉まえたら、そのような細部の描写はぼかしてしまえば済む話であって、なぜそうしないかというと、そのような細部の描写こそが、作品の、つまりは世俗的なヤンキーのリアリズムをつくると考えられているためだろう。おそらく、手法的には正しい。だとしたら、どうしてこれが10年以上も前のマンガである『クローズ』のサイド・ストーリーでなければならなかったのか。要するに、それがわからない。この前編を読むかぎり、ストーリーに関しては、高橋ヒロシによくあるパターンみたいだけれども、吉留と岡倉の友情がどういう結末を迎えるのか、後半へと興味をそそられるし、ゆうはじめの絵柄も、あまり高橋ヒロシしておらず、なかなかに好感が持てる。だから繰り返しになるが、唯一の問題はといえば、これが『クローズ』の外伝をウリにしているという点だけ、である。だったら、映画版の『クローズZERO』はどうなの、ってことになるかもしれないけど、それはもう、完全に議論が異なるでしょう。
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2007年11月10日
 ナンバMG5 12 (12) (少年チャンピオン・コミックス)

 〈この下衆野郎…オレがいつ金の話した…?〉〈金ばっかだなテメーは…〉。もちろんのように、金で買えるものもあれば、金で買えないものもあるには違いないのだけれども、まあ、だいたいのことは金で済むので、世のなかは便利に出来ているわけだ、が、そうしてこぼれ落ちるものだって、きっと、ある。そのことを忘れてはいけない。それにしても、小沢としおの『ナンバMG5』の12巻は、松と母親のエピソードが死ぬほど泣けてくるから、弱るよ。たしかに、犬や子供が辛い目に遭えば、悲しい物語が提供される、というのはあるだろう。しかし、このマンガは、そこでいじけていない。仕方がないことは仕方がないこととして、自分たちにやれるだけのことはきっちりとやる、そのところまでを、ちゃんと描いている。冗談半分(ということは、つまり本気半分)でいえば、小学校の道徳の授業(って今もあるのかしら)にテキストとして使っていただきたいぐらいである。難破家の愛犬というより、もはや家族の一員でしかありえない松は、そもそも傷つき捨てられていたのを幼い頃の剛に拾われてきたのだった。まだ子犬であった松を、母親から引き離したのがブリーダーの篠崎という男で、その篠崎が、剛の兄である猛が勤めはじめたペット・ショップの客であったことから、難破家は松の返却を求められることになる。この篠崎がとんだクソ野郎なのだが、いちおうは筋の通った言い分に、剛と猛は頭を悩ませる。当然のごとく松を渡すわけにはいかないし、さらには松の母親である秋風号が、篠崎の犬舎でひどい扱いを受けていることを知ってしまったのだ。読み手からすると、こんなむかつく奴はさあ、はやくぶん殴っちゃえよ、と思うのだけれども、そうも簡単にいかないのが世のなかであろう。その苦難において、松と秋風号、それから剛のため、最良の道を探す猛が、死ぬほどかっこうよい。かっこうよいんだが、なんだよ、MIKEって。おまえは、いつも良いシーンにかぎって、その、ふざけたデザインのトレーナー着てんのな。このへんのセンスがまたしびれる。ところで、エピソードが佳境に入るにつれ、だんだんと松が喋らなくなる(まあ、じっさいに喋っているわけではないのだけど)。このことは、テクニカルな面において、おおきくふたつの効果を上げているように思う。まずひとつには、松の自我が作中に描かれなくなることで、犬という存在に表象されるような、一種のイノセンスないし無力でありうる者に対し、他の登場人物が奉仕するという構図が浮かび上がる。要するに、まあ、犬と子供が辛い目に遭えば感動する物語のセオリーなわけだが、しかし、もうひとつテーマに沿って考えると、松からモノローグが排せられてゆくのは、つまり秋風号との再会を経て、松の内側が、秋風号のほんらいの子供である赤竜号へと遡っていることの表現に、じつはなっているのである。そうして、11巻に収められている松がはじめて難破家にやって来た場面と、ここに収められている剛が自分の非力さを松に謝る場面とが、見事なまでにオーヴァーラップし、こちらが涙を堪えきれないインパクトをつくり出す。このへんが、やはり流石で、意識的にだろうと、無意識にだろうと、一連の流れのうちで、そのような操作を自然に行ってしまう作者の力量には感嘆せざるをえない。

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2007年11月09日
 有頂天ポリス 2 (2) (少年チャンピオン・コミックス)

 前巻のときも述べた気がするけれども、元ヤンキーが社会に出、警察官になり、自分よりもヤングな悪(ワルと読んでください)どもと相対する、という設定はありふれているのだが、しかし、香取権太だけは、やはり規格外であったよ。くそう、『香取センパイ』の、あのすばらしきおもしろかっこうよさを、よくぞここまで引き継いでくれたじゃないか。秋好賢一『有頂天ポリス』の2巻である。新米警官ながら極度なトラブル・メイカーぶりを発揮する香取を、警察上層部は、少年犯罪多発地域である薮隈署の生活安全課の少年係に配属させる。もしも、そこで問題を起こせば、うまい具合に厄介払いができるというわけだ。もちろん、これは火に油を注ぐようなものである。だって、そうだろう、世界でいちばんの自己中心派であり、トップ・クオリティのバカである香取に、そんな事情などは知ったこっちゃないのだった。そして、奴が街に出れば、もれなく事件が発生する。〈ケンカにカツアゲ 傷害・窃盗…典型的なワルガキの集まりであり そのリーダー・安藤は多くの傷害事件に関わり ヤクザともつながりがあるとされる要注意人物だ〉とされる少年ギャング黒門天と、はからずも関わりを持った香取は、はたして彼らとどのように渡り合うのか。といえば、当然、ケンカだよ。ケンカ。だいたい、〈課長から少年係は丸腰って言われて〉いるので、手錠も警察手帳も持っていない、そんな体力自慢が身ひとつで出来ることといったら、そりゃまあね、といったところであるし、そこらへんの小学生よりもさらに子供じみている香取がさ、不良少年たちに説教をしたり、因果を含めたりすることなぞ、絶対するはずもないに決まってらあ。行きがかり上、安藤に強烈な一撃をもらった香取は、もう警官だとかそういうことは関係なしに、その借りを返したいだけで、ことごとく器物破損上等なのが、めちゃくちゃである。上司や同僚も、気の毒なぐらい、災厄に見舞われるしね。と、言うまでもなく、作者はこれをギャグやコメディとして描いており、ところどころ笑えるのだが、根底にあるのは、悪い奴らは全員グーで殴ってやればいいんだよ、式の論理であり、それがまた結果的にオーライなのだから、燃える。『香取センパイ』と、この『有頂天ポリス』を読んだことがない人は、真剣に、ファニーの意味で人生の半分ほどを損していると思う。

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 『香取センパイ』
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2007年11月08日
 アウト・ロー 13 (13) (ヤングマガジンコミックス) アウト・ロー 14 (14) (ヤングマガジンコミックス)

 木内一雅(作)とコウノコウジ(画)のコンビによる『アウト・ロー』であるが、掲載誌で最終回を読んだとき、ああ、どうも中途半端に締められてしまったなあ、という感想がつよくあったのだけれども、こうして単行本で読み返してみると、かつてはろくでなしだった男が、更正し、社会に復帰する話として、それ相応にまとまってはいるのか、幼児虐待を繰り返すクソみたいな奴らとの対照により、元ヤクザで〈ついこないだまで女子供をバンバンバンバン叩いていたクセに!〉といわれてしまう主人公アツシの変化が示されることで、作品全体のクライマックスがつくられている、とはいえ、全14巻という長さのなかで、そうした変化の過程が読み手を説得するほど十分に描かれていたかどうかは、ちょっと判断が難しいし、そして、少年野球の監督という、変化の基準となるべき最重要のファクターが、この終盤において大幅に後退してしまったのには、やはり不満が残る。
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2007年11月04日
 率直にいって、田中靖規の『瞳のカトブレパス』は、そんなに詰まらなくないマンガだったと思うんだが、これだけ早々に終わってしまったということは、あまり多くに受け入れられなかったということで、とても寂しい。とはいえ、抜群におもしろく、期待感の高められた1巻からすると、この2巻に入ってからは、場面展開などにごちゃごちゃしすぎた感があるのは否めない。師匠にあたる荒木飛呂彦ゆずりの突飛なアクションを、伝奇的な設定のバトル・ロマンに取り入れた作品の格好は良かったのだが、物語が進み、登場人物たちが増えるにつれ、そのディレクションに技術が追いつかなくなっていったというところであろうか。どの時点で打ち切りが決まったのかはわからないけれども、終盤は、まるで作者の焦りがテンポの悪さとなりあらわれてしまったかのようでもある。敵方から街(K都)を守ることに目的を一本化するか、あるいは、もっと早い段階で主人公サイドの人間を絞って旅に出すかすれば、ストーリーの流れもスムースになり、ずいぶんとわかりやすくなった気がする。いずれにせよ、ひどく惜しい、というのが結果的な印象である。
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 電撃デイジー 1 (1) (フラワーコミックス)

 前作『ビーストマスター』がいまいちで、ちょっとばかし最富キョウスケにはしょんぼりさせられてしまったのだったが、しかし、この『電撃デイジー』は、良い、良い、断然良い。とくに路線変更が行われているというのではないのだけれども、『ビーストマスター』にくらべると、シリアスとコメディのバランスがよく、また作中の人間関係も、すっきりと整頓され、ごちゃごちゃとしていないのが、いい。一年前にたったひとりの肉親であった兄を亡くし、若い身空で天涯孤独になってしまった紅林照だが、生前に兄から手渡された携帯電話に届くメールに励まされ、あかるくタフにやっている。メールの送り主はDAISY(デイジー)という顔も素性も知らぬ人物で、何かつらいことがあるたび、やさしい言葉をかけてくれ、そのおかげで、生活は苦しく、心ない生徒たちから貧乏人と罵られながらも、気にせず、彼女は元気に高校へと通い続けられるのであった。が、あるとき、学校の窓ガラスを不意に割ったことから、性格もガラも悪い校務員の黒崎祐につきまとわれ、こき使われる羽目になってしまう。ふだんはやたら素っ気ないにもかかわらず、なぜかピンチのさいには駆けつけてくれる黒崎こそが、まあ、ここまで書いてしまえば、ネタを割ったようなもんで、つまりはDAISYその人なわけだけれども、その正体に気づかぬまま、照の黒崎に対する距離は縮まっていく、というのが、おおまかなストーリーであり、ふたりの関係は、要するに「あしながおじさん」的というか「紫のバラの人」的とでもいうべきパターンのヴァリエーションになっている。なぜ彼が影から彼女を見守るようにして生きているのか、そのことが作品のシリアスなサイドを支えているのだが、メインの読みどころはやはり、サドっ気抜群のイケメンさんが色恋に疎い女子高生にちょっかいを出す、という現代的なラブコメ(ラヴ・コメ)の意匠だろう。そうした軽さが、前者の重たさを絶妙にコントロールし、キュートでファニーな物語をつくりあげている。システム・エンジニア界の寵児であった照の兄の死に、どうやら黒崎が深く噛んでいるらしいのが、作中で仄めかされており、そういった部分が今後に表面化してくると、また印象も変わってくるかもしれないが、この1巻の段階では、作者の言葉を借りると〈Aカップ・ちんちくりん女子高生とロリコン・チンピラ校務員のあーだこーだなこの物語〉へ、とてもたのしく、素直に入り込める。

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2007年11月02日
 ジャンプ SQ. (スクエア) 2007年 12月号 [雑誌]

 結局のところ、マンガを、いち表現というより、いちコンテンツ(もっといえばキャラクター・ライセンス)として扱い、それをプロモーションする役割に、マンガ雑誌のスタイルは変わってきている、というのが、ここ数年の印象であって、著作権の問題がシリアスに表面化しつつあるのも、もちろん作家性(オリジナリティ)などにかかる部分もあるのだろうが、版権そのものがもたらすビジネス上の利益を守ろうとする傾向が、以前までにくらべ、格段に強まってきているからなのではないか、としたら、このたび新創刊された『ジャンプSQ(スクエア)』も、マンガ自体のおもしろみや可能性を教えてくれるというよりも、メディアミックスに拡張可能なコンテンツの立ち上げを目的としているかのような、そういう誌面になっており、時流にはかなっている。それが良いか悪いかどうかは知れない。ところで、その創刊号に特別読み切りとして寄せられているのが、森田まさのりが原作を提供し、小畑健が作画をつとめる『HELLO BABY』である。さて、この異色ともいえる組み合わせはいかに、といったところで、結論からいうと、最悪の相性でした。ストーリーを要約すれば、仕事をしくじったチンピラが、恋人、それから弟分とともに逃亡し、破滅するという、良い意味で、どうしようもない話なのだけれども、小畑の、絵柄も含め、洗練された作風に、今ふうの言葉でいうDQN感が足りなく、そのせいで、おそらくピカレスク・ロマンへのアイロニーでありうる結末は空回りし、ほんとうにただどうしようもない話というだけで終わってしまっている。いや、そうであるがゆえに、あるいは逆に最後までいってようやく、これだからDQNはさあ、ぐらいのことはいえるかもしれない。でも、それが結論じゃあ、と、やはり口ごもるしかないのであった。できれば、森田自身の作画でこそ読みたい内容であったが、それだとまあ、雑誌のほうのカラーには、たぶん合わねえんだな。
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2007年10月29日
 sunday47.jpg

 『金剛番長』は、『週刊少年サンデー』第47号(先週の水曜日に出た号ね)よりはじまった鈴木央のあたらしい作品であるが、まあ、まだ一話目なのでそんなに結論を急くこともないのだけれども、これをどう評価するかというのが、ひじょうに悩ましく、最近はこのマンガのことばかりを考えている。おそらく、ネタとして読む、というのが新世代的にスタイリッシュなんだろうが、こちとら野暮いタイプの人間だからさあ、硬派をどう描くかというのはサブ・カルチャーにとって、いや、人生にとって重要なテーマだと信じている以上、ネタとかベタとか、じつは何も言ってはいないようなことは口にしたくもないのであった。こういう熱血ガクランものというのは、旧くよりいくつか系統があるわけだけれど、しかし伊藤清順の『ぶかつどう』(95年)あるいは『ヒッサツ』(01年)あたりを最後に、すくなくとも少年マンガのシーンでは終息してしまった感がある。いや、『ぶかつどう』も『ヒッサツ』も単行本化されなかったという事実を踏まえると、その時点で、どれだけ批評性(パロディの精神)をすぐれて取り込もうとも、大勢にとっての重要性はほとんど消え去っていたのかもしれない。このことは、たぶん、ヤンキー・マンガにおいて、登場人物たちがあまりガクランを着用しなくなった問題とパラレルな可能性があると考えられるのは、ガクランを着るというのは、つまり、自覚的に学校を背負うというのと、ある意味で同義であって、たとえば例外的に阿部秀司の『番長連合』(03年)はどうだろうか、といえば、あれもたしかにガクランを着てはいるとしても、登場人物たちが帰るべき共同体は、あくまでも学校の外側にあったことを忘れてはならない。言い換えるとしたら、自分たちの通う学校がイコール自分たちの帰属する共同体であることが、熱血ガクランものの根幹には置かれている、ということである(これを理由とし、ジャンル的に、ヤンキー・マンガとの差別化を図ることもできる)。それこそ宮下あきらの『魁!! 男塾』(85年)なら、まさしく「男塾」がそうであろう。また車田正美の『風魔の小次郎』(82年)なども、ごく初期おいては、その地域の各校が対立するなか、あくまでも登場人物たちは特定の学校に所属する生徒として設定されていたわけで、王道ともいえるしもさか保の『ガクラン八年組』(83年)にしても、異色だが細馬信一(原作・菊池秀行)の『魔界学園』(89年)にしても、その一点に関しては通底している。そうして、作中に描かれるのは、もちろん、男の子たちが、いかにして硬派に生き、そして死ぬか、の姿に他ならない。さしあたって『金剛番長』においても、第1話(1撃目!!)のラストで、主人公である金剛晄が雷鳴高校へやって来た転校生であることが表明されており、そのことが今後に展開されるだろう波乱を予感させるだけに、まぎれもなく熱血ガクランもののセオリーを踏襲したスタートだといえる。また、〈番長ってのは、漢ん中の漢なんだ!!〉といわれるような、作品のテーマと深く関わるに違いない一個の生き様を〈弱い者には黙って、手を差しのべ、自分のスジは貫きとおし、たとえ相手が百、千の軍勢だろうとたった一人で立ち向かい…仲間のためには自分の命張れる漢…………〉と、先行する作品群によってさんざん繰り返されてきたアフォリズムを用い、この序盤で、あらためて明確化してあるのも、十分に効果的であるように思う。だからこそ、すこし引っかかるのは、そこで男を漢(おとこ)と読み替えている、そういう力学の部分について、である。そもそもの由来はともかくとして、ここ最近のサブ・カルチャーでは、この漢(おとこ)の使われ方がどうも、ただの習わしでしかないような印象を受ける。要するに、みんなが使うから使う程度の意味しか、じつは持たされていない。さらにいうと、男ではなく、漢と示すことで、あらかじめ男女間における対他関係を免れるための、便利な使われ方をされているようにさえ思える。かつて硬派にとって、女性の存在は、ある種のしがらみであった。たとえば、『ガクラン八年組』の山崎平九郎などは、そのことをあますことなく体現した登場人物であった。とある窮地で、愛と友情のどちらをとるか、で悩むのである。こうした思想上の対決は、男を漢と読み替えるような力学からは生まれてこないのではないか(大げさかな)。いずれにせよ、漢という読み替えは、今やもしかすると、安易なイデオロギーへのすり寄りでしかなく、判断停止に近い部類の在り方なのかもしれず、ただ頭が固いというだけで硬派になられては弱るよ、と個人的に言いたい。はじめに述べたとおり、まだ1話目が終わった段階なので、結論を焦る必要もないが、この時代にあえて熱血ガクランものを描こうとする作者が、そのことにどこまで自覚的なのかは、ちょっと気にかかってしまう。
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2007年10月18日
 TRIBAL12 1 (1) (KCデラックス)

 『MAGARA』から数えれば、長田悠幸(裕幸)も早10年のキャリアになるわけだけれど、その新作『TRIVAL12(トライバル・トゥエルブ)』の1巻を読んでの第一声は、もちろんあれだろう、そうそうあれ。つまりは、またこのパターンかよお。要するに、『MAGARA』から『C[si:]』へ、『C[si:]』から『トト』(『マガジンスペシャル』版のことね)へ、そして『トト』から『トト! the wonderful adventure』(『週刊少年マガジン』版のこと)へ、ところどころ様子を変えながら、それでも一貫してきたスチーム・パンキッシュ(?)なテイストを含むファンタジー世界を舞台に、崩壊する都市または秩序や世界のイメージを背負いつつ、黒いスーツ(あ、あとゴーグルも忘れずに)の兄ちゃんが疾走するていの物語に他ならなず、12の「アクセサリ」、犬の姿をした戦闘能力、『オズの魔法使い』からとられた符牒など、『トト』の設定をそのまま引き継いでいるところも多い。『ラオウ外伝』がはじまったときは、もうオリジナル作を読むチャンスはないのかな、と思わされもしただけに、ちょっと嬉しい展開といえなくもないのだが、それにしてもしかし、またこのパターンかあ。
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 Let’sぬぷぬぷっスーパーアダルト (バンブー・コミックス DOKI SELECT)

 〈……………………な…なんてこった…くそーーーっ何がLet'sぬぷぬぷっスーパーアダルトだっ!! ぜんぜん ぬぷぬぷっのキャラ出てこねーじゃん!! こんなモン サギだろ サギっ!! 昔(オールド)のファン ダマしてんじゃねーよ!!〉と、単行本の最後の最後で、懐かしのスシネコが憤っているのであったが、いやいや、それ以前に、ここまでストレートなエロ・ネタばかりであると、あまりおかしみを感じられないかな、というのが正直なところで、かつて『週刊少年マガジン』に連載されていた無印版とは、まったくべつの作品であるというふうに捉まえたとしても、何の抑圧もないままに、卑猥なシチュエーションが繰り広げられ、その卑猥であること自体を、逆手にではなくて、順手にとったようなオチのつけ方は、ややひねりが足りない。これは、かわいらしい女性がセックス(性交)をしたり、淫乱であったり、スケベなことを言ったりするだけのオンパレードでは、つくられるギャップの幅が、意外と狭いせいであろう。また、いちいちギャップが弱いため、たいせつなギャグに繋がっていく、三ッ森あきらならではの黒さやシュールさも、ワン・パターンになりがちな節がある。要は、素直すぎるのだ。とはいえ、子供番組の人気マスコットであるばかりに、つねにイノセンスでなければならないといった宿命を負う「パンダ君」が、さまざまな受難に見舞われるシリーズに関しては、それを逆手にとったかのような意地の悪さがあって、回を重ねるごとに、おもしろくなる。
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2007年10月15日
 ワーキングピュア 1 (1) (講談社コミックスキス)

 それにしても、マンガに限らず、小説や、あるいはマンガや小説を原作にしたものを含めたテレビ・ドラマや映画にしても、社会に出て労働する人間、会社勤めの人間などを扱うのは、いま現在、女性が主人公か、女性向けか、女性が作者のものが、ほとんど主流であるように思える。なぜだろう。小山田容子の『Working Pure(ワーキングピュア)』は、とある銀行で働く女性たちをオムニバス形式で描いた作品であり、オビなどを見ると、作者のOL時代の経験がふんだんに生かされているというのが、一個のウリであるらしいが、いやいや、そういった職種や性別の経験に関わらず、これ、すごく良いマンガじゃないか。最初は、ちょっと地味かな、という気もしたのだけれど、しかし何度も読むうちに、もうすこしやさしく、そしてつよく生きられたらいいな、と思うことしきりであったよ。すべてのエピソードに共通しているのは、一個の人間の自立とでもいうべき問題である。これは、社会的な領域とプライヴェートな環境を跨ぎ、望まれるという意味で、アイデンティティをめぐる困難と、言い換えても良い。とはいえ、登場人物たちは、極度に自分を意識しながら、日々を過ごしているわけではなく、毎日の業務や他人との関わりのなかで、不可避に、自分を省み、立ち止まる。第一話「ぼくは新入社員」の主人公である内原(これは男性)は、狭い了見を自分流と履き違えているような今どきの坊ちゃんであったが、それは当然、周囲の人間には仕事ができず、積極性がないととられてしまう。思わず彼が暗くなるのは、おそらく、自分が悪かったという気からではない、そうではなくて、自己評価が世間からの目と一致していないことに、苛まれるせいである。作中に明示されてはいないけれど、おそらく、このとき彼の内で働いているのは、誰も自分をわかってくれない、式の心理作用であろう。しかし、彼の教育係であり、女性社員の仲井が、自分よりも高い壁にぶつかってもなおがんばり続けているのを見て、それまでのことに恥ずかしさを覚える。エピソードの終わりぎわに置かれた〈オレの思っていたかっこよさって 一体なんだったんだろう〉というモノローグは、つまり、自己評価によってのみ支えられた世界の外側へ、彼が、一歩足を踏み出したことを意味している。第二話「駅まで10分」の主人公友部が、三十代を間近に、彼氏にふられ、仕事もうまくいかず、そのことを一緒に住んでいる母親のせいにしてしまうのも、結局のところ、自分のアイデンティティを見つめようとせず、できれば目をそらしていたいがためだ。だが、表向きは計画性のなさそうな同僚の福沢の、意外ながんばりを知って、自分が〈自分の意志でなにかを決めたことってほとんどない〉ことに気づくのであった。その同僚の福沢が、第三話「似たもの同士」の主人公で、彼女は強がりでも何でもなく〈わたしは今の一人の生活に満足してるし 正直けっこう幸せだ〉と思っているのだけれど、ときどきは誰かがそれについて、軽く、悪し様に触れることに傷ついてしまう。それももちろん、社会的な評価、言い換えれば、他人によって対象化されることの脅えから、やって来ている。〈自分は自分 人は人 わたしは全然不幸じゃないって〉自分に言い聞かせても、すでにアイデンティティそのものは揺らいでしまっているので、〈でもやっぱり悔しかった〉という気分は残る。問題は、にもかかわらずどれだけがんばってやれるか、だろう。『Working Pure』がすぐれているのは、そこまでをしっかりと描いていることにある。第四話の「お先にどうぞ」で、〈この勝ち気な性格のせいですでに 男性や上司から煙たがられる存在〉であることを自覚している主人公の土屋にしてみれば、他の社員に都合よく使われているだけの先輩社員大石には、〈正直なところ もう少しきちんと自己主張しないと〉といった部分が欠けている。家に帰ると、母親は父親や兄の横柄な態度に甘く、〈ねえ お母さん わたしたちは男の踏み台じゃないでしょう?〉と内心苛立つ。これはいっけん、同性の側に立って、社会を見ているふうだが、じつは違う。あくまでも土屋は、社会の側に立って、同性を見ているにすぎない。そうであるがゆえに彼女の母親や大石の内面は無視されてしまう。いや、だからこそ、その行動のひとつひとつには、ちゃんと彼女たちなりの意志が託されていることを理解したとき、土屋は〈ああ そうか そうだったんだ〉と思う。えらそうなことを言っても、〈優しさは いつも それが見返りを求めないほど 誤解されるし 踏みにじられる〉可能性を、他の人たちと同じように見過ごしていた、と、わかるのである。結局のところ、彼女の厳しさは、社会的評価に自分を一致させようとする態度の裏返しに他ならず、そのことの自覚が〈わたし 怖かったんだ だから いつも 肩ひじはって 自分の弱さに抵抗していたんだ〉とのモノローグに言い換えられるのであったが、しかし、そこから導かれる〈わたしにはまだ 見えてないことがたくさんあるみたい〉という微笑みは、視野の拡がりにともなうアイデンティティの更新を、嫌がることなく、受け入れている。
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2007年10月13日
 17歳 (講談社コミックスフレンド B)

 『水曜日のライオン』に続く、みきもと凜の作品集『17歳』であるが、キャバクラ嬢が、女性経験のまったくない男性客に、恋愛をレクチャーしてゆくうち、その純粋さに惹かれてゆく「恋バナ―恋―」(原作とプロデュースはYoshiで、オムニバス単行本『恋バナ―赤―』に入っているのと同じもの)以外の、オリジナルの読み切り三篇に関しては、これまでの印象と変わらず、ストーリーと絵柄の両面に、先行するマンガ家の影響をうまく消化できていないところがあって、やはり、ちょっと厳しいかな、と思う点もすくなくはない。しかしながら、それだけで終わっていないような部分からは、作者の資質とがんばりを総和したうえでの可能性が、うかがえる。たとえば表題作の「17歳」は、いっけん欲情している女子高生を描いているにすぎないのだけれど、それを現代的な純愛に見えるようデコレイトしてゆく手つきに、少々の強引さを覚えながらも、ついつい引っ張られる。作中には、南沙織の同名曲の歌詞が引用されているのだが、これが意外と、時代も背景も違うはずの内容に合っているふうに思われるから、不思議である。おそらく、友情という意味での好きな異性とはセックス(性交)できないが、恋愛感情で好きな異性とならばセックス(性交)したい、そのようなテーマに関わる部分を、もうちょい掘りさげられたならば、作品の完成度も、さらに高められたことだろう。それにしても、この表紙(カヴァー)のイメージと中身のギャップは、けっこう大きくないかあ。
 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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 ハンド×レッド 2 (2) (IDコミックススペシャル REXコミックス) (IDコミックススペシャル REXコミックス)

 過去回想編は、今日のマンガ表現全般、とくにファンタジー系の作品においては、もはや定番ともいえる展開であるけれども、倉田英之(作)と星樹(画)の手による異世界の物語『ハンド×レッド』は、この2巻(正確には1巻のラスト)という早い段階で、それに突入している。興味深いのは、「あとがき」で倉田が〈四回ぐらいで終わらせるつもりが、一巻かけてもまだ続くスケールに膨れています〉と述べていることで、ほんとうにそうなのかを読み手の側は知れないが、同様の発言は、他のマンガの作者にもよく見受けられるものであるから、過去回想編には、そうした膨張性というのが普遍的に備わっているものなのかもしれないなあ、と思う。さらにもう一点つけ加えるなら、ここで、この過去回想編で描かれているのが、作画上、黒い髪の少年と白い髪の少年(じっさいは金髪であれ銀髪であれカラー・ページ以外では白となる)の愛憎劇になっている点である。もちろんこれも、ファンタジーの系をおもにマンガ表現の多くが、なぜかしらかのように採用するケースだといえる。おそらく、このふたつは相互的な意味合いをもって、フィクションのなかに発生するものだろう。ストーリー本編の途中で出会ったもの同士が、やがてライヴァルになるのではなくて、ストーリー本編のはじまった時点ですでに、作中人物たちは、ライヴァルであることを宿命づけられている。その因果が明かされるために、過去回想は必要となるわけだが、そこでライヴァルの条件として語られるのは、同じコインの裏表であるかのような、つまり、それぞれがそれぞれのオルタナティヴな可能性であるかのような、そういう関係性に他ならず、彼らが戦わなければならないのは、善と悪にきっぱりと分かれ、簡潔に判ぜられる二項対立の必然というよりも、いわばドッペルゲンガー的な存在である以上、どちらか一方しか必要とされない、という理由に拠っており、一個の魂を共有しながらも、別個の肉体を生きることの表象として、黒と白の髪のコントラスが、もしかすると作者らの無意識のレベルで、自然と設けられるのではないか。すくなくとも『ハンド×レッド』において、黒髪の主人公ジムと白髪の宿敵ルカは、性格こそ相反するが、戦災孤児という同一の前提を持つがゆえに、じょじょに親和性を高めてゆき、そのことが過去回想編に綴られ、そして本編では、結果、お互いの心臓を奪い合う。

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2007年10月08日
 きららの仕事 16 (16) (ジャンプコミックスデラックス)

 バトルものにおいて、主役を、ワキ役が食う、というケースは、けっして稀ではない。主人公の資質が陽であるようなとき、ライヴァルは陰の資質を為し、それが際立つ場合などは、とくにそうだ。しかしながら、『きららの仕事』における坂巻の存在感は、はたして、それだけで説明がつくものだろうか、というのを、この16貫(16巻)の展開を読みつつ、思う。ネタを割ってしまうことになるが、きららと坂巻の決着から浮かび上がってくるのは、もしかすると、勝ち抜き形式のバトルもので女性が優勝できるか、的な問題ではあるまいか。もちろん、女性VS女性、あるいは、女性VS(エイリアンやモンスターなどの)異者ということであれば、それは問題とならない。マンガを含む種々のサブ・カルチャー表現で見かけることは可能である。だが、男女入り混じってのバトルということになると、たしかに一個一個の戦いを突破することはあっても、最終的なウィナーに女性個人がなっているケースは、なかなか思いつかない。これはトーナメントやバトルロイヤル(バトル・ロワイヤル)といった方法を問わず、そうだといえる。いや、そもそもバトルを繰り返して成る物語の多くは、身体的な能力の差が直截に関係する格闘技(武闘)をベースにして発展してきた以上、それは仕方がないことなのだとしても、男性VS男性ならば、そのようなハンデを気力で乗り越えるパターンがすくなくはなく、それがカタルシスに繋がる最大の要因でもあったりするのだから、もっともな理由とはならない。以前から述べているとおり、『きららの仕事』は、スシバトル編に入ってより、ほとんど古典的なバトル・マンガともいえる様相を見せているのだが、ここでは勝敗を分かつ手段は、あくまでも料理であり、格闘技(武闘)を描いたものよりは、男女の差が縮んでも良さそうなものだけれど、結局のところ、男を漢(おとこ)と読み替えるような精神の力学によって、登場人物たちの運命は定められる。スシバトル編の終幕をもって、第一部は終わり、いったんのリセットが入るわけだが、おそらくそれは、主人公である女性をふたたび活躍させるためには、ふんだんに取り入れられたバトルもののエッセンスを、どうしても洗い流さざるをえない、という限界を示している。もしも第二部で、作中にアナウンスされている「ワールド・スシバトル」が行われるとしたら(正直なところ可能性は低いと見るが)、越えなければならないのは、その限界である。

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2007年10月07日
 白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ 5 (5) (少年チャンピオン・コミックス)

 このままいけば、まちがいなく所十三の新しい代表作になるだろう、というぐらい、『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』は、おもしろく、架空の世界を舞台にしたファンタジーとしても、十分に設定や細部のつくりがしっかりしており、いま現在、トップ・クラスに入るほどのクオリティだとさえ思うのだけれども、やはり、絵柄や作風に一時代前の印象があるからか、あまり話題になっていない様子なのを、残念に感じる。前巻で、回想編は終わり、この5巻より、物語は現在進行のかたちに戻る。はじめての任務を無事にこなしたユタであったが、雇い主の隊商に騙され、相棒であるパキケファロサウルスのジサマとともに、その身柄を、人身売買(ひとかい)されてしまう。そうして売られていった先は、ナノス(ユタの属する種族)を奴隷とする平原王国(げんこく)である。そこで、ナノスが生き残り、自由になるためには、闘竜場で戦い、死なず、勝ち続けなければならない。むろん、ユタとジサマもその例外ではなく、闘竜士としてのバトルにエントリされることとなる。あくまでもユタ個人の視点で追っていくと、そのようにストーリーはまとめられるのだが、他方にユタの救出へ向かうチームの存在があり、大状況を見れば、五つの王国がそれぞれの思惑のもと、密やかに動きつつある。こうした一連の流れを、あまり散らからせず、手堅くまとめ、たしかに派手さや奇抜さには欠けるが、しかし、着実な安定感をもって読ませている。まあ、展開がシビアなわりにはスリルに乏しく、残酷な描写にそれほどのインパクトがない等々、その安定感こそを怠いとする向きもすくなくはないのかもしれないが、すべての表現が時流に則ったりラディカルであったり必要はないのであって、こういうマンガが一個や二個ぐらい、あってもいい。

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2007年09月27日
 Loveletter from… (マーガレットコミックス)

 率直にいって、連載ヴァージョンの『ヤスコとケンジ』にはがっかりする部分が大きかった。とくに後半、ストーリーも絵も雑になりすぎ、ギャグとして見るにはテンポが悪かった。というのは、以前にも書いた。叩いているのではない。そうではなくて、作者の資質が十分に生きていなかったことを、残念に思う。この作品集『Loveletter from…』には、全部で三つの読み切りが収められており、そのなかではもっとも旧い作品で、04年に発表された「月は夢をみるか」に表されているような、こういう、キュートな叙情が、やはりアルコというマンガ家の、良さ、なのではないかしら。「月は夢をみるか」では、べつべつな三人のヒロインの、片想いをしたり、失恋をしたり、仲直りをしたりといった姿を、交じり合わせることなく、短い物語のうちでパラレルに描く、といったトリッキーな手法がとられている。とはいえ、実験的なセンを狙っているのではなくて、むしろ単純に、思いつきというかワン・アイディアの産物的なものだろう。とくに凝った描写があるわけではない。が、コマとコマとを連結させるリズムに、心地のいいものがあって、視点のスイッチにも、不自然さを感じさせない。そうして、三人のヒロインが体験するのは、それぞれ異なった出来事であるはずなのに、とにかく好きな人と一緒にいたい、という共通した気持ちを、青臭くも、まっすぐなポエジーに変えて、寄越す。

 『ヤスコとケンジ』
   4巻について→こちら
   2巻について→こちら
   1巻について→こちら

 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2007年09月26日
 yato12.jpg

 もうちょい続くかな、と思われたのだけれど、奥瀬サキ(作)と志水アキ(画)による『夜刀の神つかい』が、この12巻をもって完結した。ちゃんとケリはついている。だが、なんという駆け足、なんという言葉足らず、なんという抽象エンド。おそらく、不満を述べる向きも、すくなくはないだろう。しかし、これはこれで十分にアリだと思う。なぜならば、この以前の段階で、主人公である日向夕介にまつわる個人的な物語は、すでに終わっており、その後の〈国とか世界とか宇宙の物語〉などというものは、意外と、こんなふうに、あっさり、漠然と語られる類のものであるのかもしれない、と感じられるからだ。今日、人は、多かれ少なかれ、メタ・レベルを意識しつつ生きるものであるが、メタ・レベルそのものを生きることはできない。こまかいストーリーは省くが、〈国とか世界とか宇宙の物語〉において、超常的な力を司る砌(みぎり)は、いわばメタ・レベルとオブジェクト・レベルとを往復する運動であった。メタ・レベルにあるさいの彼が、つまりは「夜刀の神」であり、オブジェクト・レベルの彼は「夜刀の神つかい」に、他ならない。そして彼が、完全なメタ・レベルに達し、属するためには、多くの犠牲を要しなければならなかった。当然、犠牲とされる人びとは、抗う。抗うことによって、結果的に、オブジェクト・レベルに止まる。そこで、それぞれが、それぞれの、個人的な物語を生き、そして死ぬ。〈――我らは 太陽の下部ではなく 太陽の次元に――太陽系を離れた時こそ 我らは神の紐を断ち切れるのでは――神つかいを増やし 強靱な“意識の舟”を作り上げ 他の星へ――――そして 我らは袂を分かつことになった〉という、この、神のオウムの言葉は、要するに、そのことを含意している。〈国とか世界とか宇宙の物語〉が、ひとまず終わったあとで、蟆霧(まきり)が、〈どいつもこいつも馬鹿ばっかりだぜ〉と、悔しげに吐き捨てる姿が、とても印象的だ。正直な期待をいえば、ふたたびヒカゲとして、夕介とコンビを組み、といった展開を読みたかった気もするが、それはもはや、彼にとっての物語ではなかった。メタ・レベルを指向する連中の馬鹿騒ぎに、菊璃との運命を通じ、自分から進んで介入していった夕介は、かつてのようにヒカゲを必要とすることはないし、あえて参画するつもりも、蟆霧には、ない。それでもなお、夕介のことを、ひどく愛するあまり、だから、その決断を憎々しく思わずにおれないことを、彼の、淋しげな瞳が伝える。このとき、背負わされている感情こそが、たぶん、実存である。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら

 文庫版『コックリさんが通る』(上)について→こちら
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2007年09月25日
 youngchamp20.jpg

 吉田聡の、『荒くれKNIGHT』シリーズの完結編、「黒い残響」の、さらに完結編「黒い残響―完結編―」(ややこしいな)が、『ヤングチャンピオン』NO.20(今週号)より、集中連載開始である。『湘南爆走族』の完全版が、なぜか講談社から出ることになったときには、いちおうは『ジナス』の繋がりがあるからな、と思えもしたのだけれど、ほとんど脈絡のなさそうな秋田書店の雑誌に、このシリーズが移ったというのは、吉田と少年画報社のあいだには何か問題があるのかしら、との邪推をさせる。が、まあ、そういったテクスト外のことはともかくとして、たしかに続編を予感させるような終わり方をした「黒い残響」ではあったが、それでも語るべきところは十分に語られたという満足を得られただけに、いったいどこから物語を再開させるのか、興味津々ではあったのだけれど、まさか、大鳥だからオオトリをとる、というわけではあるまいが、〈大鳥……輪蛇を語るには 再び この男をあと少しだけ 描かなければならない――〉ということになっている。大鳥かあ。いや、そりゃあさあ、キーパーソンであることは認めはするよ。「黒い残響」においても、重要な役割を果たしはした。ファンもすくなくはないだろう。しかし『荒くれKNIGHT』本編(ここでは便宜上、無印本編と、「黒い残響」を除く高校爆走編のことを指す)には、(こちらの記憶違いでなければ)たった一話しか顔を見せなかった人物である。この、後付け的なにおいがぷんぷんする微妙な感じ、わかっていただけるだろうか。すなわち、外伝や番外編のニュアンスが、色濃いのである。とはいえ、「黒い残響」が、(赤蛇→)木原→善波七五十→春間といった輪蛇(LINDA)における世代交代のラインを描いていたのに対して、その、オルタナティヴでありライヴァル・チームである虎武羅(COBRA)の世代的な変遷、大鳥→伊武→井脇ラインを描くことから「黒い残響―完結編―」をはじめるのには、きっと、意味があるに違いない。と思いたい。いずれにせよ、ここまできたら、最後の最後まで物語の行方を見届けたいし、これが、蛇足の、蛇でないことを、祈る。

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
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2007年09月23日
 ジャイアントロボ地球の燃え尽きる日 2 (2) (チャンピオンREDコミックス)

 あいかわらず傾くねえ。そこが燃える。横山光輝の原作を、今川泰宏が大胆に解釈したアニメーション『ジャイアントロボ 地球が静止する日』の、まさにアナザー・ヴァージョンともいえる『ジャイアントロボ 地球の燃え尽きる日』だが、1巻に引き続き、この2巻でも、すさまじいテンションと怒濤の展開でもって、血湧き肉躍る世界を紡ぐ。むろん、マンガという器に物語を盛り込む戸田泰成の手腕も、すばらしく、巨大ロボットと等身大の人間が拳をぶつけあうような無茶無体も、じつに決まっている。それにしても、作中で描かれるおっさん連中の、なんと粋であることか。あるいは、それこそが最大の魅力であろう。たしかに、ジャイアントロボを唯一制することのできる主人公、大作少年を主軸にストーリーは進むのだが、その彼を争奪し合う敵役たちの異様な迫力ときたら、はったりを越えてあまりある。基本的には、『ジャイアントロボ 地球が静止する日』と同じく、他の横山マンガ(『バビル二世』や『マーズ』、『仮面の忍者赤影』、『三国志』等々)の登場人物をスター・システム的に採用したものであるけれど、それぞれの利害関係は、もしかしたら『ジャイアントロボ 地球が静止する日』以上に込み入っており、それをよく表すため、より深く人格を掘りさげられ、盛大に活躍の場を与えられているのが、おおきい。だいいち1巻なんて、まるまる十傑衆がひとり幻惑のセルバンテスの見せ場であったようなものだから、ね。そして2巻では、やはり十傑衆のメンバーで巨大兵器「サリー」を繰る衝撃のアルベルト(要するにサリーちゃんのパパ)と、九大天王にして戦況を左右するほどの重要な秘密を握る豹子頭・林冲とが、魅せる。さらには、第二部の副題にまでなっている白昼の残月も、謎めいた存在であることをアピールしつつ、やたらかっこうよいのが、にくい。

・その他戸田泰成の作品に関する文章
 『スクライドビギンズ』(シナリオ・黒田洋介)→こちら
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 更科修一郎や宇野常寛によって批判的に言及されることの多いアニメ『交響詩篇エウレカセブン』の、そのマンガ版を手掛けた片岡人生・近藤一馬コンビによる新作『デッドマン・ワンダーランド』が、あたかも「ゼロ年代の想像力」とリンクするかのような、それこそバトル・ロイヤル(バトルロワイヤル)式の生き残り戦を描こうとしているのは、興味深い展開ではあるが、まあ、時流に乗ったいちヴァリエーション以上の意義を、この1巻の段階から見いだすのは難しい。「デッドマン・ワンダーランド」とは、〈東京大震災から10年――東京復興のための観光事業を刑務とする 日本唯一の完全民営化刑務所であ〉り、本来ならば、修学旅行でそこを訪れるはずであった主人公の五十嵐丸太は、突如学校を急襲した「赤い男」のせいで、クラスメイト21人惨殺の罪を着せられた挙げ句、死刑対象の囚人として刑務に服することとなる。世間から切り離され、特殊なルールの敷かれた「デッドマン・ワンダーランド」で戸惑い、〈こんなの狂ってる…!〉と叫ぶ丸太に、看守はつめたく〈…狂ってようがいまいが 不条理こそが現実だろうが〉と言い放つのであった。こうして、生き残るためには戦わなければならない、といった条件が主人公に課せられるわけだが、そのようなフォーマットにあっては、正直なところ、後発の作品だけあって、目新しさはない。しかしながら同時に、先行する表現のなかにある特徴を、べつの角度から、あらたに見えやすくしているふうにも感じられる。それはつまり、主人公とヒロインの関係性である。『デッドマン・ワンダーランド』において、主人公の丸太は、謎めいた少女シロに、そのピンチを助けられる。ヒロインであるシロは、なぜか丸太に対してのみ、度を越えて献身的であり、そのため白痴に見えなくもない。こうしたケースは、たとえば『DEATH NOTE』や『未来日記』、『コードギアス』、『Fate/stay night』にも、じつは当てはまるもので、女性が主人公である『LIAR GAME』はべつとして、ともすれば『ひぐらしのなく頃に』といった作品ですら、それを免れていない。
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2007年09月22日
 怪談と踊ろうそしてあなたは階段で踊る (シリウスコミックス)

 野沢ビームによる『怪談と踊ろう そしてあなたは階段で踊る』のコミカライズは、竜騎士07の原作小説に、ほぼ忠実な内容だといえる。中学三年の退屈な季節に、友宏と博之、亨の三人組は、ちょっとした悪だくみを思いつく。それは「お骨サマの呪い」という、自分たちで作った祟りを、学校で流行らせることであった。黒板に書かれた無数の「骨」の字、校内のあちこちに落とされた骨骨骨、こうして〈僕たちによる祟りは次々と 不気味なイメージと共にばらまかれてい〉く。最初は意気揚々とする彼らだったが、しかし、同級生である田無美代子が、「お骨サマの呪い」によって意識不明の重体に陥ったことから、事態は一変する。いっけん和風ホラーの装いでありながら、ミステリの形式を意識したかのような謎解きの果てに、それなりに納得できる(ようなできないような)オチが用意されているのも、新伝綺と謳われた小説版のとおりであるけれども、だからこそ正直なところ、こちらのマンガ版のほうが、だんぜん出来が良い。それというのはまず、小説版では、語り手をつとめる友宏の、ふたりの友人が、結局のところセリフだけの存在でしかなく、やたら影が薄かったのに対して、ここではしっかりとした輪郭を持ち、少年期の倦怠に相応の実感が加わっているためで、さらには、小説版においては、やたら不自然だったマンガ的な言葉遣いが、じっさいにマンガのなかで喋らされているおかげで、変じゃなくなったのが、おおきい。後者に関してはとくに、友宏が刑事である叔母から事件の真相を知らされる段を読み比べていただければ、わかりやすい。エロティックな余韻を残す、結末の描き方も、小説版よりすぐれている、と思う。
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 オレンジ屋根の小さな家 7 (7) (ヤングジャンプコミックス)

 もちろん言うまでもなく、誰がどのような信仰を持っていようとも、べつに構わないことなのだけれど、クリスチャンになってからの山花典之には、すこし戸惑う、というのが正直なところである。いや、それはなにも、単行本のコメント・ページにおける熱心なアピールぶりをいうのではないし、作中人物に主の教えを直截語らせてしまうあたりも、けっして違和感がないとはいわないが、かといって大きな問題とも思わない。むしろ、予定調和めいた結論のために、わざわざ、トラブルが起きたり、悪人が登場したり、心の傷が描かれたりするような、そういう話のつくりを見、ちょっとどうだろう、と首を傾げるのであった。不動産屋に騙され、赤の他人同士でひとつ屋根の下に同居する羽目となってしまった、父子家庭の正太郎一家と母子家庭の菜摘一家だったが、あれやこれやとするうちに親密さを増し、お互いに惹かれあうようになった正太郎と菜摘は、いよいよ、ほんとうの家族になることを決める。というのが、この7巻までにおける『オレンジ屋根の小さな家』の、だいたいの流れで、さすがに驚くのは、最初の頃は冴えない中年にしか過ぎなかった正太郎が、ルックス、能力ともに、まったくの別人かというぐらい、恵まれてしまったことだろう。これは物語の必然上そうなっているというよりも、作者の主張を代弁する役割を負わされた結果にほかならず、ご都合主義と多少は目をつむることができないほど、マンガそのものの整合性を完全に崩してしまっている。コミカルな展開のなかで、たしかに心あたたまる部分もあるだけに、細やかな配慮を欠いた手つきからは、いささか不満を覚える。

 『夢で逢えたら[文庫版]』第1巻 第2巻について→こちら
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2007年09月19日
 99%カカオ (講談社コミックスフレンド B)

 吉岡李々子の『99%カカオ』は、計3話で構成されたシリーズであるが、何度読んでも、ああ、もったいないな、という感想が出てくる。1話目は、なかなかの案配で、高く買うのだけれども、2話、3話と進むうちに、だんだんとテンションが落ちてしまう。「世の中平和が一番です」をモットーとするサユは、ふとしたきっかけから、とある男子と仲良くなる。そのとき彼女は、彼の名前を「由井」だと勘違いしたまま、まさか、ほんとうは友人をふった「神流」であることを知らない。このことが、やがて最大の障害となり、二人の関係をこじらせてゆく。そうして、初々しい恋愛の顛末が描かれることになるわけだが、1話目が良いのは、本質的には両想いであるような二者が、片想いという迂回路をとらざるをえないせいで、もどかしく、躊躇い、悩む、そのようなラヴ・コメ(ラブコメ)の真髄とでもいうべきものを、うまく掴んでいるためである。しかし、続く2話目では、それを受け損なっており、告白のタイミングなどに関しても、わざわざ、といった印象が、つよい。さらに付け加えれば、そのタイミング自体が、サユの友人、由香っていうんだけれど、そういう第三者の匙加減ひとつになってしまっている。このへんはねえ、正直なところ、〈サユは まわりに気ィ遣いすぎ!〉って説教くれる前に、おまえがもうちょっと、他人に配慮できる子になれよ、としか思わなかった。3話目ともなると、もはや蛇足の域に近しい。両想いを両想いだけで描くことほど難しいこともないのに、作者の力量が、あきらかに、そこまで達していないので、君たちが別れようが何をしようがどうでもいいよ、となる。せっかくの1話目が、もったいない。ちなみに、あわせて収められている「黄色い目の魚」は、佐藤多佳子の同名小説をコミカライズしたものだが、そちらの出来についても、力不足の感がある。
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2007年09月16日
 NANA 18 (18) (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 すでにさんざん指摘されていることだと思われるが、矢沢あいの『NANA-ナナ-』は、基本的に「あの頃」という時制、つまり過去完了で語られている(描かれている)物語なのだけれども、この数巻のうちに、その語り手のいるポジション、要するに現在進行であるような状況が、顕著なかたちで、こちら読み手に提示されつつある。映画版一作目の内容に触れたときにも述べたが、これは、作品全体の構造を考えたときに、とても重要な前進だといえる。なぜナナがハチたちの前から姿を消したのか。それが「あの頃」といった語り口のなかに含まれるエモーションをつくり出しており、言葉をかえると、そのエモーションの正体が、いよいよ露わになることを意味するから、だ。また、やたらだらしのないハチの男性遍歴に関しても、時制の問題を踏まえたさい、もはや過ぎてしまったことである以上、批判の対象としても詮ない話であるように感じられる。元不良の語る武勇伝じみた昔話みたいなものだと考え(すこし、いや、ぜんぜん違うか)、冷ややかな目で見るに済ませたい。ともあれ、過去は改変することができない、その改変できないことが、このマンガにおいては、ひとつのテーマなのであって、登場人物たちの行動と結果はすべて、そこに組み込まれてゆく。さて18巻である。もともとトラブル・メイカーの気があったシンの本領発揮とでもいうべき不祥事のせいで、BLACK STONESは活動休止に追い込まれ、ナナは、バンドの危機を救うべくソロ・キャリアのスタートを決意する。〈自分の為だけじゃなくヤスの為に 応援してくれるハチの為に 仲間の為に あたしは歌う そう思えば一人でも 心細くはないよ〉。この言葉が、いったいどのような理由で砕かれ、そしてナナは、どうして行方をくらまさなければならなかったのか。すっごくスローなペースではあるけれども、しかし真相が明かされるときは、着実に近づきつつある。
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 SWEET16 (りぼんマスコットコミックス)

 雪丸もえの『SWEET16』には、デビュー時からのマンガが、ぜんぶで五つ、入っているのだけれど、なかでも「春待ちプラットフォーム」と「愛しいあなたへ」の二作品を、とくにおもしろいと感じた。それはどうしてだろう、と考えたとき、ああ、そうか、どちらもヒロインの片想いと告白といったパターンをとっていることに、気づく。いやなにも、こちらがそういったお話を好き、との個人的な理由をいっているのではない。そうではなくて、相手の気持ちをたしかめるべくの行動より、ただ自分の気持ちを相手に伝えようとする、そのような、まっすぐとした情熱の描き方のほうに、作者の良さがあると思われるのだ。たまたま通学途中の駅で知り合った男子に惹かれる「春待ちプラットフォーム」にしても、年の差の離れた教師へ一途にアタックする「愛しいあなたへ」にしても、ポジティヴな力に後押しされ、ささやかだが、しかし、おおきな願いを叶えようとする少女の表情が、まぶしいぐらいにキュートである。
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2007年09月15日
 山本善次朗と申します 2 (2) (りぼんマスコットコミックス)

 〈干渉する気はなかよ 考えるのはほたてじゃ でも ほたてがどうしても答えにいきつかん時 答え知っとる親でいたいじゃろう〉。とてもいいセリフである。1巻の段階では、誰を主役として見るべきか決めかねるところもあった槙ようこの『山本善次朗と申します』だが、まあ、とくに誰と決めなくていいとしても、やっぱり、霊的な能力を持つ少女ほたての親父さん、山本善次朗こそが、主役の位置にあたるのではなかろうか。という気にさせられるぐらい、この2巻で明かされる新事実は、重要で重大だ。学校には友達も出来、田舎の暮らしにも馴染んできたほたてのもとに、自分の名前も母親の顔も知らないほどに幼い幽霊がやって来て、〈ママが泣いてるの ぼくたすけてあげたいの〉と訴えかける。幽霊少年である速水とともに、母親探しをはじめたほたては、そこからは子守唄が聞こえる、と噂が立つ幽霊屋敷を訪れるのであった。詳細は省くけれど、この事件を通じて、まことのほかにもうひとり、善次朗の家に下宿人が増える。このエピソードと、続く学校に棲む少女の霊のエピソードで扱われているのは、要するに、双方向性な親子愛だといえる。しかし、そこでは同時に、子供の側の無力さというのも、立ち現れているように思う。親の子供に対する影響と、子供の親に対する影響は、その質において、かならずしも一致するものではなく、単純に力の差でいえば、子供よりも、大人のほうがおおきい場合、子供たちにできるのは、せめて、すがるように泣くことぐらいであろう。だが、『山本善次朗と申します』の基調を為しているのは、その悲痛な祈りではない。それの意味や理由を理解しようとする気持ちのたしかにあることが、暗がりを照らす、そういう、あかるい作風を引き寄せている。山本善次朗というのは、いわば、そのことの象徴である。子供にとって、最善で最良の理解者であろうとする父親、しかし、その彼が「知ったらほたてはおいのこと嫌うかもしれん」と隠していた秘密を、娘は思わぬことで知ってしまい、次巻へと続く。

 1巻について→こちら

・その他槙ようこに関する文章
 『14R』について→こちら

 『たらんたランタ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『STAR BLACKS』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『愛してるぜベイベ★★』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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 14R (りぼんマスコットコミックス)

 槙ようこがすごいのは、話そのものにけっして手応えがあるというわけではないのに、ほとんど登場人物の造形のみで、作品をきっちりと読ませてしまうところである。もしかしたらそれが、俗にいう「キャラクターの魅力」ってやつなのかもしれないが、すくなくともこの作品集『14R』に収められている読み切り五篇のうち、起承転結式のちゃんとしたプロットを持つのは、せいぜい「恋をはじめる僕たちに」ぐらいで、ほかは設定からして意味不明瞭であったり、展開の唐突すぎるきらいがあったりするのだけれど、不思議と引き込まれてしまう。表題作「14R」なんかは、ほとんど学級崩壊しているクラスで、委員長の役を押しつけられている女子が、じつは不良めいたイケメンさんを好きで、という基本的なストーリーはともかく、終盤になっていきなり、それまで影の薄かった担任教師が満を持して教壇に立ち、小生意気な生徒たちに向かって、夢や希望を語り出すくだりは、どうしてそうなっているのか、前後の脈絡からはよくわからないのだが、しかし、それをおおきな不満とはさせない。力業といえば、そのとおりで、その力業はもちろん、登場人物の造形に拠っている。こうした作者の資質が、もっともよく出ているのは「ワタクシサマ」というマンガで、人気者でありたいために皆に良い顔をする女生徒が、とりつくしまがないほどに本心剥き出しな転校生に振り回される、といった内容は、とりたてて物珍しいものではない、にもかかわらず、くっきりとした両者のコントラストが描くドタバタ劇に、これはちょっと傑作だぞ、と思わせられる。

・その他槙ようこに関する文章
 『山本善次朗と申します』
  1巻について→こちら

 『たらんたランタ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『STAR BLACKS』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『愛してるぜベイベ★★』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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2007年09月14日
 東京湾岸バレエ団 1 (1) (講談社コミックスキス)

 そもそものイメージからか、バレエを題材にしたマンガには、ハードでストイックな内容のものが多いのだが、そのなかにあって朔田浩美『東京湾岸バレエ団』の、ポップでファニーな路線は、異彩を放つ。幼い頃、義姉に連れられて観た果屋時生の踊りに衝撃を受け、バレエを志すようになった佐藤吾郎は、しかし有名なバレエ団のオーディションで、その憧れの果屋から、不格好な体型を「マグロ」と形容され、さらには不合格となってしまう。落ち込む吾郎であったが、クラシックに不向きならコンテンポラリー(現代バレエ)をやってみないか、との誘いを受け、果屋主宰の「湾岸バレエ団」の一員に加わる。だが、やたらハイ・テンションでテキトーな果屋がつくっただけあり、「湾岸バレエ団」には、一風変わった人材ばかり集まっているのであった。この1巻では、そういった状況設定が為され、これからどう話が転んでいくのか、掴みようがない、その掴みようのなさに、作品の魅力を宿らせている。登場人物たちのやりとりは、とても賑やかだけれど、締めるところは締める。実母に捨てられた吾郎の過去など、その人の陰となる面にエモーションを置くことで、バレエが与えるあかるい影響を、ドラマティックに強調する。ともすれば、せせこましいテンポの進行が、読み手の評価を左右する可能性もあるが、作品においてもっとも重要な要素である踊りを描くにさいして、優美で躍動感があり、なおかつ独創性が出るように工夫がこらされており、それがちゃんと、こちらに訴えかけてくるカタルシスへと繋がっているのが、良い。
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 アンチ・バージンですが、なにか? (デザートコミックス)

 菅田うりの作品集『アンチ・バージンですが、なにか?』は、その題の響きは悪くないんだが、やっぱり内容が、いま一歩だなあ、と思うのは、まあ、とりあえずセックス(性交)しておけ式の恋愛観が、すくなからず物語として機能することに、いまいち馴染めないからなのだが、しかし今どきの若人のあいだで、どれだけアダルト・ヴィデオに影響されたセックス(性交)が一般化しているのか、実態は存じないのだけれども、射精したさいの精液を女性が飲むのは普通であったり、避妊具を使わないのは愛しているからだという思いなしに対して、えーそれは違うよ、といった具合に一線を引くようなマンガが、わざわざ描かれなければならないというのも、なかなか大変な時代であるのかもしれないねえ。
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 わかってないのはわたしだけ (KCデラックス)

 あの娘が聴いているのはHOLEやELASTICAで、それはとてもわかりやすい、と思うのは傲慢だろうか。傲慢だろうね。眼鏡の人間がみな真面目だって決めつけるのと同じぐらい傲慢だろう。鳥飼茜、初の単行本『わかってないのはわたしだけ』には、「れいとエリ」「慶」「杏」「ミミ」の、五人の女子高生たちのターニング・ポイントを描く表題シリーズのほか、慶の兄である藍を中心とするエピソード「水辺のゆめ」の、全五篇が収められていて、そのどれもが、自分で自分を持て余して仕方がないような青春の像を、とても印象的に捉まえている。「れいとエリ」では、ボーイズ・ラヴならぬガールズ・ラヴ的な距離の微妙さにとまどう少女たちが、「慶」では、殺伐とした家庭環境のなかで兄に憧れることでしか居場所を掴めなかった少女が、「杏」では、かわいいという価値を第一義に他のものには目もくれなかった少女が、「ミミ」では、あまりにもまっすぐであるばかりに周囲からは引かれてしまう少女が、それぞれの足で、それなりの一歩を踏み出す。彼女たちはみな、とても躓きやすく、にもかかわらずヴァイタリティに溢れ、けして後ろを振り返ったりはしない。その姿が、あまりにもかっこうよいので、思わず見とれ、胸が潰れる。「水辺のゆめ」のセリフを借りるなら、つまり〈女のコは孤独だ ひとりぼっちぽつんと ひっそりと ただ眩しいくらい てらてらと光りながら そこでなにかを待ってる だれかが水に入るのを 俺は それが こわくて近寄れなかったんだ 全然〉といった感じである。これが褒め言葉になるかどうか、ちょっとわからないけれども、ところどころにおける独特なセンスと情緒の際立ちなど、ポスト・ジョージ朝倉の位置に、いまもっとも近いマンガ家であるかもしれない。
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2007年09月11日
 前巻に引き続き批判的な言いになってしまうのは、心苦しいのだが、それでもしかし永田晃一『Hey!リキ』の低迷ぶりには、看過できないものがある。この10巻を読むかぎり、作者がそのことを自覚しているのかどうか、あやしい。たとえば、こういう場面がある。何事も暴力で強引に解決しようとするリーダーに対して、その片腕とでもいうべき人物が内心〈そんなんじゃ…………そんなやり方じゃ誰もついてこねーぜ ゴっちゃん〉と困惑する。正直なところ、これだけでもう、だいたいの展開が決まっているようなもので、じっさい、ああやっぱりね、といった感じの流れに話がなっている。その流れに工夫がまったくない。要するに、先行するヤンキー・マンガ群がさんざん繰り返してきた、そういうパターン以上のものを描けていない。問題は、そうしたパターンは、高橋ヒロシの『クローズ』でも採用されていたのだから、高橋の弟子筋にあたる作者が知らないはずはない、つまり自分自身でゼロから発想したわけではない、にもかかわらず、あたかもレシピどおりであるかのように、作品をしつらえてしまっていることだ。作画のレベルにおいても同様のことが欠点となっていることは、前巻のときに述べたが、さらに付け加えれば、正面むきの上半身アップを多用して描かれる登場人物たちがセリフに対する挿絵程度にしか機能していないのは、あまり芳しくない。まさか、ギャルゲーの立ち絵を意識しているわけじゃあるまいに。いや、もしもそうだったなら、意外と野心的な試みだな、とは思う、が。

 9巻について→こちら
 
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
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2007年09月10日
 ひとまず、表紙カヴァー折り返しの作者近影がインパクト大である。ああ、この人がこのマンガ描いてんだあ、と、100人いたら100人が納得するに違いない。ぜひとも機会があったら、ご覧いただきたい。ともあれ、野部優美の『空手娑婆羅伝 銀二』は、この3巻から新章突入といった感じで、主人公の銀二は高校生となり、「正如会館」に入門して、いよいよ本格的に空手を習いはじめるわけだが、このあたりから、いつの時代のマンガだよ、というぐらいオールドウェーヴなノリで、汗くささをぷんぷん発しているのは、おそらく、意図的なもの、狙いだろう。たしかに構図やテンポはもとより、風俗的な情報は、今の時代のものであるけれども、そうしたフレームのなかで醸し出される雰囲気は、前時代がかっており、そして、そのことが作中のテーマと一致している。つまり登場人物のセリフになぞらえば、〈「強さ」を求める空手をやりたいんだろ?〉〈空手の原点回帰といこーじゃねーの〉ということで、強さそのものをプレゼンテーションするというより、強くなっていく過程をフォローしようとするため、反スタイリッシュで、むさ苦しい作風が、自然と選ばれているのだ。と、そうして(もちろん嫌な面構えをした)スキンヘッドのライヴァル登場は、こうした格闘技マンガの定番とはいえ、なにかこう、あらがえず、心騒がせられるな。ああ、そうか、きっと、この手のスキンヘッドこそが、あれね、燃え要素というやつだ。

 1巻について→こちら
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 『ANGEL VOICE』を読んでいると、『GO ANd GO』のころに比べ、古谷野孝雄の作風はずいぶんと洗練されたな、という印象を受ける。より正確にいうなら、『GO ANd GO』の長期連載を経て、現在の作風が確立された、とするべきか。いずれにせよ、井上雄彦、森田まさのり、ハロルド作石、高橋ヒロシら、つまり、90年代から現在にかけてファンタジーの系とは異なったセンでイディオムを作り上げてきたマンガ家たちの影響をあからさまに、しかし、そのうえで着実に、このマンガ家にしか描きえない物語を築きつつある、そう感じられるのだ。〈サッカー部の現状はそれは酷いものです いつの頃からか ケンカ自慢の子の集まりになってしまって 今では「県内最強軍団」という肩書きまでついてしまいました 不良と呼ばれる中学生の中には その肩書きに憧れて 我が校に進学し サッカー部に入部する者すらいます〉。そうして今年も市立蘭山高校に、ケンカをとったら何も残らない不良たちが集まる。新入生の成田信吾もそのうちのひとりであった。入学早々、派手なケンカをやらかしては停学、そして退学の危機に陥る。その彼に救いの手を差し伸べたのは、サッカー部立て直しのため、監督として赴任してきたばかりの黒木である。しかし、このことが「県大会でベスト4に入らなければ廃部」という条件を、サッカー部に突きつけることとなる。はたして蘭山高校サッカー部は、再生の機会を得、幾多もの試練を乗り越えることができるのであろうか。というのが、この1巻からうかがえる作品の概要で、おそらくこれは、『GO ANd GO』における名門野球部の進退というプロットを、落ちこぼれサッカー部の奇跡へと流用し、発展させていったものだと考えられ、一個の目標に向かって複数の人物が団結する、そのようなコンセプトが、群像劇ふうでもあるドラマのつくりに、おおきく反映されている点もまた、通底している。それにしても興味深いのは、『ANGEL VOICE』というタイトルの由来と、1巻の表紙で登場人物たちは皆なぜ泣いているのか、で、じつは物語全体のハイライトを先取りしたと思しき第1話目の冒頭で、〈…………バラバラだったチームを……ひとつに……まとめてくれた…………あの歌声に応えよう〉と説明らしきものは為されているのだが、それが意味することまでは知らされていない。あの歌声とは。涙の理由とは。そういった関心は、すくなくともサッカー部のメンバーが11人(か、それ以上)揃う段階まで、引っ張られることになりそうだ。
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2007年09月08日
 ショートソング 1 (1) (ジャンプコミックスデラックス)

 『ショートソング』は、枡野浩一の同名小説を、小手川ゆあがマンガ化したもので、申し訳ないことに原作は読んだときがないのだけれども、そういった立場から見ると、登場人物たちはみな、じつに小手川らしい賑やかなテンションで動いているな、という印象を持つ。『おっとり捜査』の、シリアスではない回におけるてんやわんや、を思い出す。ルックスが良い以外には何の取り柄もないと自覚している大学生の国友克夫は、憧れの舞子先輩のちょっとしたたくらみから、「ばれん」という短歌結社の歌会に、そうとは知らず紛れ込むことになってしまう。それまで短歌などに関わったことがない彼であったが、はじめて作った歌が、舞子先輩の彼氏でその世界では有望とされている伊賀寛介の目にとまる。ここから短歌と恋愛をめぐる克夫の青春が動き出す。というのが、この1巻のあらましである。基本的には、素直で受け身な主人公が、周囲の思惑に流されるうちに話が進み、彼と他の人間たちとのあいだにあるギャップが、作品のおかしみをつくっており、こういう世間一般にはよく知られていない分野のサークルものということであれば、ここ最近では、河合克敏の『とめはね!』にも通じる楽しさがある。

・小手川ゆあの作品に関する文章
 『死刑囚042』第5巻について→こちら
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2007年09月07日
 パッサカリアOp.7 (ジャンプコミックス)

 佐木飛朗斗が原作を提供したマンガでは、ときおり、音楽への憧憬が、重要な要素となって現れる。その最たる例は、なんといっても『特攻の拓』(所十三)に登場する天才ギタリスト天羽時貞の存在だろう。ご存知のとおり、彼の演奏は、物語のその後を左右し、作品の精神性を支えるほどに、おおきな役割を果たしていた。そこから読みとれるのは、音楽と魂は深く結びついているという、ひとつの主張である。こうした言いを直截に託したのが、山田秋太郎に作画を任せる『パッサカリア[Op.7]』だということは、次のようなイントロダクションによって、あきらかだ。〈誰かが言う「生きてる意味なんか無い…」「誰かが」「言う」「死んじゃったっていいし生まれてこなくったってよかったし…」誰かが言う「オマエ達には失望した」だから…「だから神は音楽を創造(つく)った」〉。御枷園仁基、印波烈、麻生道夫、の幼馴染み三人は、世界最高水準の国際コンクールのピアノ部門予選に揃って臨むも、その演奏スタイルが、場の規定と品位にそぐわないものとされ、あえなく失格となってしまう。一方、かつての同門、藤堂政美は、完璧に精確な演奏をもって予選一位通過を果たす。スタンスにおいては、けっして相容れない彼らであったが、しかし、音楽だけが唯一自分の生きる意味を証明する、という一点で共通していた。そもそもが短期集中連載という名目で発表された作品だとしても、この長さが作者らの望んだものか、掲載誌であった『月刊少年ジャンプ』休刊という事情によるものなのかは不明で、物語は序盤も序盤、ほとんど登場人物たちのプレゼンテーションだけで終わってしまっている。とはいえ、主題は、やはり佐木が原作をつとめる『R-16』(桑原真也)に等しく、ルーツに束縛された人間がいかにしてそこから自由になるか、にあるのだと思う。これは、もちろん『特攻の拓』のなかで天羽が部分的に背負わされていたものでもあるし、仁基と烈、道夫の友情は、『R-16』における純弥、真希央、テルのそれを彷彿とさせなくもない。したがって問題となってくるのは、そのようなテーマを、ヤンキー・マンガのスタイルではなくて、音楽を表現するスタイルのマンガに、どうやって落とし込んでいくか、であっただろう。残念ながら、この『パッサカリア[Op.7]』に関しては、そこまでを十分に描いているとはいえないけれども、同コンビは『ビジネスジャンプ』第23号(11月1日発売)より、今度はロックを題材にしたマンガをスタートさせるらしいので、そちらに期待したい。

・山田秋太郎の作品に関する文章
 『解錠ジャンキー・ロック』第1巻について→こちら
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2007年09月04日
 新・味いちもんめ 20 (20) (ビッグコミックス)

 長く続いた京都編も、この20巻で一区切り、な『新・味いちもんめ』であるが、それが結局のところ、主人公である伊橋の自分探し程度のものでしかなかったことに、かるく、いらっとする。でも、まあいいさ。その成果を東京に帰ったところで見せてもらおうか、という段になって、伊橋のやろう、どんな態度をとったと思う。驚いたことに〈今後の目標が漠然としすぎているというか…どこから手をつけていいのか…〉うろうろするばかりである。これはさすがにない。あまりにも読み手を馬鹿にしてらあ。いや、東京へのカムバックが、せいぜいリニューアル的な効果に過ぎないとしても、まあいいんだ。ただ、話をループさせんなよ。それこそ、無印『味いちもんめ』と比べてみれば、ここでの展開が、いかに杜撰かが、よくわかる。倉田よしみと福田幸江には、故・あべ善太に両手をついて詫びていただきたい、とすら言いたい。とりもなおさず、最大の不満は、伊橋がいったい何歳なのかわかんねえぜ、といった点にある。キャリアから考えるに、三十代半ばと考えるのが妥当なのだろうけれども、周囲の人間の甘やかし加減からすると、もうすこし若く見積もったほうが良さそうな気もする。そりゃあ、設定の厳密さを読むマンガじゃないしさ、といわれれば、そのとおりだが、だったら作中で、成長云々なぞとほざき、あたかもそれがテーマのひとつであるかのふうに、描くべきではない。登場人物たちの時間を停止させてしまったほうが、よっぽど理にかなっている。

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2007年09月01日
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 「あとがき」によると、そもそもは02年の秋から05年の冬にかけ、同人誌で発表した作品を、このたび上下巻のかたちでまとめたものであるらしい、シギサワカヤの『九月病』は、近親相姦の兄妹を軸に、救われたい救われないの観念を上下するような内容の、マンガである。この手のシチュエーションは、当然のように、ストーリーを暗く、重たくしがちであるが、この作品からは、そういう印象をあまり受けなかった。もちろん、作中人物たちの悩みは、深刻で、死ぬことも、ときどきは考える。しかし、その深刻さは、良くも悪くも、人工的であるふうに思われる。そのことはたぶん、手法的な部分に拠っている。用意されたパセティックなエモーションは、ほとんどモノローグに費やされ、作中人物たちは、あたかもそのモノローグに従って、行動しているかのように見えるのだ。そのへんはやはり、わざわざ、といったおもむきがつよい。けれども逆に、いや、だからこそ逆に、彼らが、モノローグから自由な行動をとっている場面は、生き生きとして、際立っている。コミカルで、愉快なところもすくなくはなくて、じっさい作者も、そちらのほうをたのしんで描いたのではないか、という気がしてくる。モノローグからの自由というのは、この場合、ダイアローグによってもたらされているといえる。物語は、きわめてハッピー・エンドに近しいかたちで、閉じる。近親相姦の罪に苛まれる兄妹は、ふたりきりの閉じた世界から、他の人びととのコミュニケーションを通じ、解放される。
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2007年08月30日
 蒼太の包丁(15) (マンサンコミックス)

 このマンガを読み続けてきた人間の多くが、まさか、あの須貝が、ここまで成長するとは思わなかったはずだ。すべての努力が報われるというわけではないが、すべての努力が報われないというわけでもない、ということかあ。『富み久』の親方の知り合いであり、マス・メディアにもよく取り上げられるほどの腕を持つ板前、嵐田が店を訪れたさい、須貝の仕事ぶりに目をとめ、彼を自分の店にスカウトする、というのが、15巻で『蒼太の包丁』に訪れる大きな転機である。蒼太が〈見込まれるというのは大変なことだよ……料理人というのはもともと指示を受けたらどこへでも行くものなんだからね!〉というとおり、それが自分の腕を磨くにあたって、一番の選択であると理解しながらも、仲居である純子に恋心を抱く須貝のなかには、迷いが生まれる。こうした須貝に関するエピソードを経て、作中における人間関係が、ふたたび変化するのであった。が、いやあ、このへんの展開の仕方が、じつに巧い。ふつう、料理マンガの類は、蘊蓄または説教や知識と料理の味を表現するためのリアクションがメインになりがちなものだけれども、『蒼太の包丁』の読み応えは、こうして、どんどんどんどんと転がっていく物語にこそ、ある。物語が転がってゆくと、自然に時間が生まれ、流れ、そのため登場人物たちは、必然的に成長を強いられる。このような連鎖反応が、いくつものドラマを織り成す。先述した経緯によって、須貝は『富み久』を去ることになるのだが、それが同時に、今後の蒼太をめぐる恋愛模様に影響を及ぼすことになりそうな、そういう気配を匂わせており、あらたな興をそそる。

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2007年08月28日
 羽衣ミシン (フラワーコミックス)

 『光の海』がとても良かった小玉ユキの、『羽衣ミシン』の大まかな筋は、おっとりとした大学生の前に、自らを彼に以前助けられた白鳥だと名乗る若い女性が現れ、いっしょに暮らすことになる、といったもので、こうしたプロット自体はもちろん、昔話である『鶴の恩返し』を下敷きにしているわけだが、舞台を現代に置き換えたという以上に、構造そのものが今日的なサブ・カルチャーのそれへと移し替えられている点に、注意しておきたい。どういうことか。『鶴の恩返し』にかぎらず、似たような筋を持つ昔話はたいてい、若い男やお爺さん、またはお婆さんのところに、人の姿をしてやって来た人ならざるものの、正体が明かされ、やがて去る、といった形式になっている。つまり、さいしょは他者と思われたものが、じつは異者であったという境界線の引かれた結果、離縁が訪れるのであった。しかし『羽衣ミシン』においては、たしかに最後には別れが用意されているとしても、その、はじめ異者であったはずのものは、だんだんと主人公からは身近な他者として感じられるものとなっており、作品のエモーションもそこに拠っている。また『羽衣ミシン』の場合、ヒロインは白鳥の化身であるけれども、これを、宇宙人や幽霊、あるいはロボットや魔法使いなどに置き換えてみれば、今日的なサブ・カルチャーの表現に類例の豊富なパターンであることが、わかる。ここで重要なのは、古典的な昔話と今日的なサブ・カルチャーの違いとは、けっして、ガジェットの用い方の違いではない、ということだ。昔話と同様のプロットであっても、今日的なサブ・カルチャーにおけるそれは、おおよそ男女関係ないし恋愛の感情に収斂する。コメディの要素はあっても、教訓めいた含みは持たず、だいたいのところ、シンプルなラヴ・ストーリーに帰結する。人は、一個の対象を、異者として斥けているときには、恋に落ちず、あくまでも他者として見なしうるさい、恋に落ちる、として、『羽衣ミシン』で扱われているのも、このような問題だといえる。そのことは当然、陽一と美羽ら主人公カップルの成立に直截的であるけれど、ワキの登場人物たちにも反響していて、たとえば、沓沢の作品を高く評価する糸織の視線が、とあるきっかけを経、沓沢当人に向けられることで、その関係性は変化するといった具合に、である。ところで、先ほどから述べていることをまとめていくと、『羽衣ミシン』は、今日的なサブ・カルチャーのなかで、とく突出したマンガではないように思われてしまうかもしれない。主題や構造に焦点を絞れば、おそらく、そうであろう。が、しかし、それらを成り立たせ、説得力を持たせるためにこそ必要な、絵柄や台詞回し、構図やテンポなどの、要するに、センスや技術の面に、作者の良さはある。ストレートなほどのロマンスをみずみずしい感性が覆う。

 『光の海』について→こちら
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2007年08月27日
 メンズ校 3 (3) (フラワーコミックス)

 女性陣のレギュラー化は、男の子ばっかりの高校生活という基本的なコンセプトにどう作用するかと思われたが、以前にも増して、登場人物たちのエモーションを、賑やかに、彩る。それはつまり、人間関係は、男女の間柄にのみ収斂するのではなく、さまざまなかたちに発展しうる、というのが、ひとつ、和泉かねよし『メンズ校』のベースにはあるからだと思う。さて、この4巻における最大のトピックといえば、中学時代の恋人エリカとの悲劇的な別れを引きずる牧に、あたらしい恋のはじまりを予感させるような、そういう出会いが訪れることであろう。その牧が、なぜか心惹かれる女子校生の名前もまたエリカというのは、ちょっと出来すぎだあ、と言いたいところだけれども、こうしたメロドラマを、しかし上向きなテンションで、だらだらとせず、和気あいあいとやってしまえるあたりに、作者のセンスがよく出ている。また、不覚にも作中の「腐女子」というタームを目にするまで、エリカに与えられている資質が、俗にいう「ツンデレ」らしきものを模してあることに気づかなかったのだが、そういった今日的にキャッチーな要素を、たんにコマーシャルなフックとして使うのではなくて、ちゃんとドラマのレベルと関連づけてあるのは、巧い、といえるし、ある種の批評性さえ感じられる。それこそ青少年向けに、紋切り型のラブコメを紋切り型だからいんだよ、と言わんばかりに描いている向きには是非とも見習って欲しい、ほどである。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他和泉かねよしに関する文章
 『そんなんじゃねえよ』9巻について→こちら
 『二の姫の物語』について→こちら
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2007年08月25日
 クレイジー☆ピタゴラス (マーガレットコミックス)

 外山あいの作品集『クレイジー☆ピタゴラス』には、五つのマンガが収められている。そのなかでも、熱血野球少女とナンパなイケメンさんの恋愛を描いた「ルーキー!!」が、好きである。〈この遊んでばかりでいい加減な奴が世間ではモテる〉と、最初は住む世界が違うとばかりに思っていた男子から、ちょっかいをかけられるうち、彼のことが気になる存在になっていた、と、パターンとしてはありきたりなストーリーだし、作風もじつに今日的でとくに特徴のあるものでない。が、しかし、ゴムボールや広島カープのストラップといったワキのアイテムが、地味に利いている。告白の場面から逆算していって、それらが採用されたのか、それらを採用した結果、告白の場面ができあがったのか、どっちなのかはわからないけれども、他のアクセサリーやグッズでは、こうはならなかったというような、そういうふたりのやりとりが、印象に残る。
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 ダメ出し 2 (2) (マーガレットコミックス)

 ああ、これで終わりなのか。おそらくは若書きの類とはいえ、最後の最後まで勢いがあり、とっても楽しかった。〈人を好きになることは苦しい / でも僕らはやめない / 漫画を描くことも然り / どんなに「ダメ出し」されたって / 僕らはあきらめたりしない〉。男の子でありながら、少女マンガ家(作中の表記では少女漫画家)を目指す寅雄は、生まれてはじめてアシスタントの仕事を経験し、これまでになかった手応えを得る。一方、寅雄の初恋相手であるタキは、過去に負った心の傷のせいで、学校に顔を出さなくなっていた。それがなぜか、たまたま知り合ったお爺さんに招かれ、寅雄の家に転がり込むことになる。というのが、筒井旭『ダメ出し。』2巻の、おおまかな筋である。とにかく寅雄の、夢や恋に傾ける、まっすぐな情熱が、いい。もっといえば、そこにユーモアを施すことの忘れられていない点が、いい。ふつう、寅雄ほどに嘘や偽りがなければ、それはもう変人みたいなもんだろう。作者も、そのことをわかっている。わかっていて、そんな人間がいてもいいじゃないか、と思っているのが、伝わってくる。ここには、本編のほか、番外編も二話収められており、それらは本編であまり触れられていなかったセクシュアルなエピソードになっているのだけれど、はじめて性交する者同士の緊張を描いた「少女で乙女で何が悪い」よりも、意外と、ホモっ気抜群な「何やらやるとかやらないとか」のほうを、おもしろく感じられた。

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 パフェちっく! 22 (22) (マーガレットコミックス)

 ななじ眺の『パフェちっく!』もようやく、この22巻で完結の運びになったわけだけれど、正直なところ無駄に長すぎた、以上の感想が出てこないのが、ひじょうに残念な次第である。この半分、いや、せめて三分の二程度の長さであったならば、まったく違う印象を残したことであろう。もちろん、人気があれば連載は長期化する、というビジネス面の宿命を責めているのではない。そうではなくて、引き延ばし作業というのが、つまり迂回路であるならば、その道のりがあまりにも退屈であったことを、遺憾に思う。作者は欄外のコメントで〈キャラの気持ちや小さなエピソードも大事にゆっくり描かせて頂いたので、途中じれったくなっちゃった方もいらっしゃるかもしれませんが〉と述べているが、その過程において、風呼、大也、壱らメインの描くトライアングルから、魅力が損なわれていった感は否めない。と真面目くさっていうのは建前で、終盤になって登場した影近さんの出番が、ここにきて少なすぎるよ。それが納得いかない。まあ、ぞんざいな扱いは、そういう役回りである以上、べつに構わない、が、しかし個人的には、ここ数巻はもう、本筋よりも、影近さんの魅力目当てに読んでいたようなものだから、もうちょい、こう、なんていうか、クライマックスまでのあいだに活躍の場があっても良かった。影近さん。

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2007年08月23日
 個人的に、富田安紀良の『NIGHT BLOOD』は、数あるホスト・マンガのなかでも屈指の作品だと思っているのだが、その作者が、名義を富田安紀子に変えての新作『Re:Life―リライフ―』は、遺品整理業者で働く少年の姿を描く。飛び降り自殺に巻き込まれ、一時は重体に陥りながらも、一命を取り留めた主人公の爽は、ふとした巡り合わせから、〈死者の後始末と遺品の整理回収を行う〉を業務とする会社リライフに勤めることとなり、さまざまなかたちの生と死に立ち会う。ここ最近では、近しいテーマのマンガに、きたがわ翔の『デス・スウィーパー』があるけれど、あれと比べた場合、主人公に「物の記憶が見える」というギミックの付与されている点が、おおきな特色といえるだろう。そうした特殊な能力によって、死者の、本来はダイレクトに触れることのできない生前が、こちら読み手へと開示されるわけで、まあアイディアとしては、やや安直ともいえ、もうひとひねり欲しいところだ、が、ワン・エピソードごとのハート・ウォーミングさ加減は、なかなか。そのへんに作者の力量が発揮されている。ところで、この1巻を読むかぎり、『Re:Life―リライフ―』における、死の存在とは、その、亡くなった者あるいは身内を亡くした者の人間性を測るきっかけの意味合いが強く、命とは何かというのを、ふかく考えさせるものでは、あまり、ない。もちろん、今後の展開によっては変化する部分ではあるだろうし、これを良いととることも悪いととることも可能だけれど、ひとまずは、重すぎず、軽すぎない、そういう適度なバランスへと繋がっている。
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2007年08月22日
 極道の食卓 3巻 (3) (プレイコミックシリーズ)

 しかしほんとうに立原あゆみはジャガイモのみそ汁のネタが大好きだな。他のマンガでも、さんざん読んだぜ。ジャガイモのみそ汁のネタとは何か、いや書かないけれども、このあたりのおっさんセンスが、きっと、ヤングな層を取り込めない要因のひとつではあるのだろう。さて、『極道の食卓』の3巻だが、初っぱなからいきなり風組の新年会で、『本気!』の読み手ならば、思わず仰け反るような風岡(本気の尊敬する人ね)の扱いに、大笑いする。その風岡を含め、小間や紅花ら風の草書をひさびさに見られる演出はにくいが、それをだよ、完全に一発ギャグのために使っちゃってるのが、すごい。また主人公である久慈雷蔵と別れた奥さんのエピソードで、反則ともいえる『本気!』のセルフ・パロディを披露するあたり、作者の突き抜け方というか、吹っ切れ方に尋常じゃないものを感じるのだよ。なんていうか、もう、やりたい放題である。いま現在、もっとも自由なマンガは、この『極道の食卓』だと言いたい。まあ冗談半分にではあるが、しかし本気半分で、こうした手つきに見え隠れする立原の自作に対する批評性は、もうちょい高く買われて良いと思う。そこからさらに立ち入った見方をするのであれば、これまでの作品にも多く取り込まれてきた教育や司法、福祉や医療の問題を、『本気!』に代表されるシリアスなパターンでは、もはや描ききれなくなった結果、ユーモアがかった『極道の食卓』のスタイルが編み出されたともいえる。じっさい、これ以前の作品では、善と悪の二項対立で現代社会を捉まえることの困難さゆえか、あるいは躊躇いからか、話の筋がどんどん暗くなるばかりであった。『本気!サンダーナ』のラストは、たしかに泣けるけれど、すべての判断は神に委ねるといわんばかりに、一種の保留状態を提示するに止まっている。どのようなかたちであれ、すべての人間は生きることを許されている、としても、それを前向きに、あかるく表せなくなっていたのだ。ところが『極道の食卓』は、同様のテーマをうちに秘めながらも、あかるく、たのしい。そして、それが意識的に為されているのは、現在、立原が抱えている『仁義S』、『ポリ公』、『恋愛』といった、従来の路線を貫く、他の連載と比べてみたさい、あきらかで、悪ふざけばかりではなく、久慈雷蔵という異色の存在に託されているものは、意外とおおきいことが、わかる。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2007年08月19日
 バイキングス 5 (5) (月刊マガジンコミックス)

 自転車のロードレースが描かれている風童じゅん『バイキングス』の4巻で、まず最初に指摘しておきたいのは、作中における次のようなちょっとしたセリフである。ワキの登場人物が、仲間の部屋を訪れたさい、本棚をのぞく場面だ。〈『ガムシャラ!』もあるナ〜〜! しかも秋葉書店初版だナ〜〜!〉と口にする、これはもちろん曽田正人の『シャカリキ!』をもじりつつ指しており、いや、そりゃあまあ物語自体に深く関わる個所ではないけれど、しかし作者の意識のうちには、すくなくとも先行するかのマンガの存在があることをうかがわせる。とはいえ、自転車競技を扱っているという共通項以上に、影響とおぼしき点はあまり見受けられないのだが、そういった引っかかりがある以上、両者の内容を比較してみたい気分にさせられる。要するに『シャカリキ!』と『バイキングス』の、おおきな違いは何か、ということである。大雑把にいって、『シャカリキ!』は、主人公テルに収斂する個の話であり、身体能力の向上は精神によってリードされていた。反対に、(物語が完結していないので、あくまでも現段階において、という前置きで)『バイキングス』は、まず身体能力のアドバンテージがあって、それに精神が追いつくなかで、登場人物たちが結束していっている。そのことはまさしく、主人公である一途とライヴァルのすばるが自分たちの高校の自転車部を立て直す、といったプロセスに顕著であろう。それこそ、この巻では、自転車部員たちの交流を通じ、みんなで、楽しく、強くなろう、の三点が、何よりも強調されている。ただし、それゆえにスポーツ・マンガにおいてカタルシスを催すような、ストイックな緊張感が弱まっているのもたしかで、このあたりのバランスをどうとるかが、今後の課題となってくるのに違いない。

 3巻について→こちら
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 スパイシーピンク 1 (1) (クイーンズコミックス)

 26歳の中堅少女マンガ家が、合コンで、グッド・ルッキンではあるが性格は微妙な美容整形医と出会い、お互いに強く惹かれるでもなく、それでも付き合うことになってからの悲喜こもごも、というのが、吉住渉『スパイシーピンク』の大まかな筋で、1巻を読むかぎりでは、このままでもテレビ・ドラマになりそうね、これ、ぐらいの印象で終わってしまいそうなのだけれども、若く情熱的というほどでもなく、かといって打算的でもない、要するに「流れ」ともいえる成人した男女関係の展開を、なかなか説得力があるふうにふうに捉まえていると思う。ストーリーは、だいたい仕事と食事(飲み)の往復によって組み立てられているに過ぎないにしても、まあ社会人の日常なんてそんなもんだよなあ、といったなかで、ヒロインの感情をどう細やかに動かすか、が作品の要となっている。それからやっぱり、オマケのマンガで作者は、ノン・フィクションな部分は少ないと述べているけれど、少女マンガ家の生活感みたいなものも、おそらくは、たしかに備わっていて、それがときおり、現実的でシビアな側面を見せるのも、フックのひとつと数えられる。

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2007年08月18日
 前巻の感動を返せ、とまでは言わないが、しかし、このクライマックスで打順がもう一回りというのは、ちょっと。各登場人物の見せ場も十分にあったじゃないか。これ以上の試合展開は、さすがに余計じゃないかしら。佐野隆の『打撃王 凜』10巻である。6回裏、凜のホームランによって、ついに勝利が目前に迫る。最終回表、この下位打線を抑え、2点差を守りきれば、宿敵緑北シニアを破ることができるのだ。まさに立場が逆転した状況で、守備につく緑南ナインであったが、ツーアウト、あと一球ですべてに決着がつくというところで、ピッチャーやっちんの肘が限界に達する。〈く‥‥そ‥‥ざけんじゃねェぞ 野球の神様――‥‥ここまできて この仕打ちはねぇだろ――――‥‥‥‥〉と、そりゃあこっちのセリフだよ。なんてマゾっ気抜群な、いや、野球の神様や作者にしたらサドっ気かあ、とにかく、緑南シニアは再度ピンチに陥ってしまうのである。まあ構成上、守って終わるよりは、打って終わるほうが決まるにしたって、もう一度ドラマをつくるのに材料がほとんど残っておらず、じっさい、この巻の時点で、敵味方双方ともの気力だけで試合が運んでいる。ここからどう話を盛り上げていくのか。やあ、目一杯ハードルをあげたなあ。それを考えると、やっぱり作者がマゾっ気抜群なのだといえる。

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2007年08月13日
 女神の鬼 7 (7) (ヤングマガジンコミックス)

 ギッチョ、(勝手に)極楽蝶五代目アタマとなる。そして、五代目ビイストのアタマ内海鄭司の本格的な始動。このふたつを田中宏『女神の鬼』7巻における重要なポイントだと考えて良いだろう。前者は、『BAD BOYS』『グレアー』の世界をつねに見守ってきた初代極楽蝶の岩さん(岩田章)の直截的な介入をもって、それら作品に連なるサーガとしての意味合いを強めており、後者は、『女神の鬼』という作品単体のテーマへと深くかかっている。たとえば、ほぼ臨戦態勢で内海と相対したギッチョ(佐川義)が、〈こんな所にも一匹…凄い鬼がおったわい…!!!!〉と述べる、このセリフが印象的である。一匹二匹とカウントされるように、鬼は、あくまでも鬼なのであって、人ではなく、『女神の鬼』という題に示されているとおり、こうした鬼の心性とでも呼ぶべきものが、作品の主題を片側から支えている。そうしてもちろん、もう片方の側にある柱は、女神の存在ということになる。〈あの内海ちゅー人‥‥‥‥ホンマにそんとに強いんか? ‥‥ワシにはそーは見えんのじゃがのォ…〉とビイストの後輩である金田に評される内海であったが、しかし、亡くなった恋人の形見である赤いCBX(バイク)が盗まれ、そして犯人が見つかったとの報せを受けて、形相をまさしく鬼へと変える。このくだりからは、花山靖にとっての佐川愛や原真清にとっての佐川舞のケースなどと等しく、一対の男女関係のうちにある鬼と女神の役割が、透けて見える。もうすこしいうと、そのような近しい資質の持ち主であるせいで、彼らは、ほとんど生理的に反目し、全存在をかけて争いあわなければならない。こうした同類同士の対立は、過去作『グレアー』にも顕著な、つまり時代を超えて不良たちの精神に根付くものであるが、あそこでのテーマが先行する世代の因果(GOBLIN BLOOD=鬼の血)につよく縛られていたのに対して、『女神の鬼』では、当事者らの「王様」という野望が物語を動かしており、各人の眼のギラつきに従うかのように、廣島連合VSビイストVS不零夜(フレイヤ)VS極楽蝶による四つ巴戦(バトル・ロワイヤル的な状況と言い換えてもいいよ)は、激しさを増す。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
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2007年08月11日
 ドクロ×ハート (りぼんマスコットコミックス)

 村田真優の『ドクロ×ハート』に収められているうち、ひねた男女の回りくどい恋愛を描いた「君の瞳に」と「想いはあふれて」「愛想カラフル」は、いかにも習作といったところで特筆すべき点はないのだが、表題作にあたる「ドクロ×ハート」と、その続編的な「ドクロ×ハート―青春編―」のにぎやかさには、すごく、幸せな気分になれる。作風自体は、オールドスクールな『りぼん』のマンガといった感じで、素直で元気な中学生を素直で元気なままに描いているふうなのだが、世代の違いなのか、ところどころにあるセンスが妙でいて、たのしい。とくに、「青春編」の完全にワキ役なんだけれども、坂本先生が生徒に言う〈愚の骨頂が〉という嫌味で、すまん、ふつうに笑ってしまった。だいたい〈そんな所に固まっていると邪魔だろうが / 愚の骨頂が〉とか〈さっさと帰れ / 愚の骨頂が〉とか、使い方からして、意図的なのか天然なのかは不明だが、ちょっと変だろ。でもね、しかしまあ、そのようなキュートさが、作品を盛り上げるのに一役買っており、結果的にではあれど、とても好感を持つ。
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 机上のrubber (講談社コミックスフレンド B)

 ヒナチなお初の単行本『机上のrubber』には、ぜんぶで四篇のマンガが収められているけれども、表題作の「机上のrubber」が、とてもかわいいお話で、良い。和む。たまたま隣同士の席になってしまった男女が、お互いの机に落書きをし合ううちに、親密になっていく、というストーリー自体は特筆すべきものではないし、ここはあのマンガ家っぽい、と指摘できなくもない、つまり今日に類型的な描写が多いけれども、登場人物たちの些細ともいえるやりとりのうちに、感情の振幅が、うまく捉まえられているように思う。とくに鉛筆の文字で真っ黒になった机に、さっと消しゴムで、しろく、「すき」と綴るシーンが、清新な印象を寄越す。そのほかの作品もけして悪くない、とはいえ、ギャグとロマンティシズムの過剰なギャップを、技術的な拙さをフォローするための安易な手法としてしまっている点が、いや、これは最近の若手少女マンガ家によく見られる傾向ではあるんだが、ややもったいない。
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 ナンバMG5 11 (11) (少年チャンピオン・コミックス)

 小沢としおの『ナンバMG5』の健全さは異常である。いや、誤解を減らすため、より正確を期していうと、世間一般には程度が低いとされている(あるいは程度が低い人間が読むと思われているに違いない)ヤンキー・マンガのひとつが、いま現在、幾千もある少年マンガ群を一並びにし、その内容の健全さを比べたときに、おそらくはトップクラスに入ってしまう事実が、たとえば異常な事態だといえるとしたら、それは社会やサブ・カルチャーの傾向に問題があるからなのであって、けして『ナンバMG5』というマンガの、そして作者の責任ではないということだ。では、その健全さはどこからやって来ているのか、といえば、硬派を描くという一点に尽きる、と思う。むろん、硬派なんて死語だろ、って言われれば、そうかもしれないけれど、結局のところそれは、ある言葉を死語にしたい人びとの方便に過ぎないのだから、かならずしもかかずらう必要はないし、また、硬派を描くというのは、作中から女性の登場人物を排除する、ということもでない。むしろ、そうして成立されたホモ・ソーシャルな空間を硬派の世界と誇るのも、できれば関わりを持ちたくない類の錯誤であろう。さて、この11巻では、なんといっても、難破家の長男である猛が、いよいよ働きに出ることになるよ、と、その就職活動が最大のトピックである。いちおうはスロットで稼いだ金を家に入れている猛であったが、自分がニートと変わりないことを家族から指摘されたのにショックを受け、真面目に仕事を探すべく、一念発起する。今日においては、もしかすると、たかだか家族に言われたぐらいのことで、ポリシーを曲げ、仕事に就く人間をこそ、だせえ、と見なす向きもすくなくはないかもしれないが、ここはまあ、いっけんギャグ調の展開ではあるけれども、伝説のヤンキーとまで畏れられる男を、ペットショップのいちアルバイトに就かせてしまうのは、じつは根の真面目さとプライドの高さ以外の何ものでもないことに注意されたい。さいしょは動物の世話なんて〈カマくせぇ〉と馬鹿にしていたのが、働くうちに〈店長がワン公に熱い男なんでな オレも気合い入れてやってんぜ!〉と変わるのも、他人の真面目さとプライドを認めることのできる器量を感じさせる。それにしてもクソみたいな人間はどこにでもいるんだな。〈いい加減に金もうけだけを考えるブリーダー〉篠崎の登場は、難破家の愛犬である松の悲しい出自と深く関わっており、その腐った人間性に対してどう向き合っていくのか、次巻、猛や剛の硬派の見せ所である。

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 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

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2007年08月10日
 白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ 4 (4) (少年チャンピオン・コミックス)

 架空の世界を題材とするファンタジーに、もはや過去回想シーンは付き物といえる今日この頃だけれども、所十三『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』にとってのそれは、とても正しい使われ方をされているように思われる。というのも、この4巻では、前巻に引き続き、主人公ユタの幼少期をメインに、さまざまな因果の起こりが描かれているのだが、そうした過程は、あくまでも本筋の補助線なのであって、全体のプロットをぼやかすものでもなければ、物語内の登場人物たちを拡散させるものでもないから、である。おおよその伏線は、主人公の特殊な資質をめぐる運命を中心の点に、そこへ向け、引かれている。ちょっとした冒険心から祖父を喪ってしまったユタは、自分に流れるナノスの血に従い、祖父や父親と同じく、立派な竜使いになることを誓う。他方、腹違いの兄に反乱を起こされ、窮地に立たされた海王国の若き国王カドモスは、秘策のため、ひとりで山越えを果たそうとしていた。その途中で、偶然にも道案内を頼んだユタに、カドモスは、何気なく、五王国に伝わる伝説を話すことになる。〈やがてナノスの中より竜の言葉を解す者が現れ〉、そして〈“その者 五族を従え『降臨の地』の門を開く”〉と。ここだぞ、これがこのマンガのポイントだぞ。つまりカドモスにしたら〈その者を探し出すコトが私の使命〉なのが、しかし、その者がまさか目の前にいるユタであることを、このときはまだ知らない。こうやって書いてしまうと、へえ、そうなんだ、ふうん、ってな感じであるかもしれないけれど、いやいや、意外に直球であるがゆえ、ずばん、と印象につよく残る節があって、じっさいに読んでいると、そうか、今のところ単なる小僧にしかすぎないユタは、このあと、いくつもの紆余曲折を経、ひとかどの人物になっていくのだなあ、と、今後の展開に対しての期待値があがる。

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2007年08月09日
 ドロップ 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス)

 『フィギュア王』NO.110(高橋ヒロシ特集号)に掲載されているインタビューによれば、品川拓(品川ヒロシ)の小説『ドロップ』がコミカライズされるにあたり、内容に感動した鈴木大(鈴木ダイ)が自分から作画を立候補したことになっているのだけれども、この1巻のカヴァー折り返しにある高橋ヒロシ(キャラクターデザイン担当)のコメントによると、鈴木を作画に指名したのは品川だということになっている。まあ、どっちでもいいし、じっさいは編集者の仕切りなんだろう(もしかしたら打ち切りが続く鈴木に対する救済措置で、高橋の提案なのかもしれない)が、鈴木にヤンキー・マンガを描かせるというアイディア自体が、何よりもまず駄目駄目だろう。そりゃあさあ、たしかに高橋ヒロシの弟子筋にあたるとはいえ、基本的には架空の世界を舞台としたアクションを得意とするマンガ家である(ぜひとも初期の傑作『BANG2』や『BANZAI』を読まれたい)。ケンカのシーンには一定の見応えがあるとしても、それ以上のチャームを作品から受け取ることはないし、そもそも品川の自伝的要素があるストーリーに関しても、ヤンキー・マンガに影響を受けた主人公が、実践でさまざまなことを学んでいく、というものであるけれど、ディテールが雑すぎて、お話になっていない。たとえば、不良デビューしたばかりの主人公が、はじめてケンカをするとき、自分が好きなヤンキー・マンガの作品名を〈ビーバップハイスクール…湘南爆走族…ろくでなしブルース…QP…Hey!リキ…クローズ…そしてWORST!!〉と列挙し、奮起するのだが、ここで単行本の4、5ページ目(要するに第1話目の扉絵)を見返すと、主人公の本棚に並んでいるのは「人でなしBLUES」という作品である。出版社が違う実在の単行本をそのまま描くのは、なにかマズい事情があるのかどうかは知らないけど、だったらセリフ中の「ろくでなしブルース」の部分をカットすればいいわけで、細かいところを突くようだが作中のテーマと密接に繋がった箇所である以上、こういうブレが説得力を殺ぐ(ちなみに『フィギュア王』NO.110のインタビューによれば、内容やセリフは品川がつくり、ネーム以降が鈴木の仕事らしいので、そのへんは両者のコンビネーションに問題があるのだろう)。あと時代設定がよくわからないのもバツ。この程度のクオリティでも、高橋ヒロシのブランドがあれば、みんな読むっていうのかねえ。
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2007年08月07日
 バイクや自動車はケンカの火種、これはヤンキー・マンガにおける普遍的な法則だといえよう。理由としては、それらの存在が、たとえば暴走族などに顕著な集団とともに権力構造をつくりだし、その結果、グループ外でもグループ内でも、ヒエラルキーをめぐる抗争が発生しやすくなるから、と考えられるとすれば、これはもちろん、社会一般のいたるところで起こりうる事態だともいえるわけで、つまり直截の暴力に訴えるかどうか、そうした手段の違いは留保しておかなければならないとしても、けっしてヤンキー・マンガに特殊なケースではない。したがって、もしも特殊性があるとしたら、それは、俺(俺たち)の走り(自由)を邪魔するな、という個人的かつ衝動的は発作が、バイクや自動車というアイテムに仮託されている点だろう。言うまでもなく、バイクや自動車は、多くの場合、男子の文化とされ、こうした文化を描いた物語のうちにあっては、女子は男子にとって都合のよい存在(おもに性欲の面において)としてしか機能せず、顔のつくりなどは類型的に描かれ、あるいは、まったくの外部へと退けられがちとなる。こうしたパターンをほとんど踏まえているがために、南勝久の『ナニワトモアレ』を、そもそも走り屋と呼ばれるような自動車愛好家を描いた作品ではあるけれども、ヤンキー・マンガのカテゴリーに入れることは可能だ。とはいえ、いやあ、終盤の、あの、主人公の(過去に強姦されたトラウマを持つ)恋人がまた強姦され、さらには元彼氏に寝取られる(あくまでも概要)という鬱展開ぶりは、ニントモカントモであったよ。ともあれ、本題は『ナニワトモアレ』あらため『なにわ友あれ』の1巻である。基本的には『ナニワトモアレ』(全27巻)の第二部という体裁をとっており、登場人物を完全に受け継いではいるが、主人公はチェンジしているのかな、ただ単に暴れたい盛りの小僧が、ほぼ自動車とは無関係な揉め事を起こしたところから、マンガはスタートしており、これが『ナニワトモアレ』のラストで立ち上げられた新チーム「スパーキー」に入るかどうかが、序盤の焦点を為す。ちなみに『ナニワトモアレ』は、おもに平成元年(要するに80年代最後の年)を舞台としており、『なにわ友あれ』では、すでに時代は平成2年(要するに90年代最初の年)に移っている。
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2007年08月04日
 新・漫画論―終わりの時代のはじまりのコミック

 たとえば、同じ05年に出版された伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』も、島田一志の『COMIC IS DEAD』も、同じようにイギリスのロック・バンドTHE SMITHのナンバーをもじったものであったのは、おそらく同世代的(伊藤は67年生、島田は69年生)なシンクロニシティであったのだろうが、それぞれの内容よりももしかすると、両者が実践するマンガ批評のスタイルが、まったくといって異なっていることのほうが、じつは興味深かった。伊藤がアカデミックなことをやりたいのに対して、島田はジャーナリスティックなことをやっている、といった感じだろうか。いずれにせよ、島田の場合、もともとが編集者だというのがあるのかもしれなけれど、送り手であるマンガ家に寄り添う姿勢がベースにあり、それはインタビューというかたちでもって、顕著に表されている。そして、そのことはもちろん、この『新・漫画論 終わりの時代のはじまりのコミック』についても、いえる。正直なところ、島田の文章は作品論としてみたら、ぴんとくるところが少ないのだが、インタビューを、ひとつの作家論として解釈するのであれば、おもしろい話がいくつも転がっている。たとえば五十嵐大介に触れた項は、実質インタビューが含まれておらず、『海獣の子供』の(単行本発売以前の)レビューとして見ても、いまいち内容に踏み込んだものではないのだけれど、業界の内部で島田がどのように五十嵐と関わったか、的な裏話からは多少は得るものがある。また、『鈴木先生』で一躍ブレイクして以降、武富健治のインタビューはあちこちで見かけられるなかでも、ここに収められているのは、わりと濃い部類に入ると思う。まあつまり、内容的には良くも悪くも(あいかわらず、ね)、何かのさいの資料にどうぞ、というようなところである。

 『ROCK COMIC』について→こちら
 『ワルの漫画術』について→こちら
 『COMIC IS DEAD』について→こちら
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 革命家の午後 (Fx COMICS) (Fx COMICS)

 松本次郎のマンガに登場するのは、たいてい、エキセントリックと見なしうる人物ばかりなのだが、しかし彼らは、けっして縁遠い存在に感じられず、むしろ身近に、とても人間らしい相貌をしているふうに思える。そして、織り成される愛憎は、じっさい陰鬱なものでありながらも、なぜか、こちらの気分を暗くはしない。だからといって、明るくするというのでもない。ユーモアでもってすくいあげられた悲哀が、作中のあちこちで、不思議な色の花を咲かせており、そこから作者固有の魅力が匂ってくる、のだと思う。この作品集『革命家の午後』に収められている五つの篇にも、それは通底していて、おのおの舞台や設定は異なれど、どれもが、じつに松本次郎らしいテイストにあふれている。いま、舞台や設定は異なる、といったけれど、ごく日常的な風景と非日常的な状況が隣り合わせで配列されているかのような、そういう世界観はすべてに共通して在り、無慈悲に人が殺され続ける一方で、安寧で怠惰な毎日が繰り返し続いてゆくという、この併置はつまり、現実と、夢や理想や妄想とを、シームレスで描いている、と言い換えられるわけだが、そうして、確たる帰属先を持たず、宙づりで、ただ生と死のあいだをおろおろするしかない、矮小で滑稽な人間の像がかたちづくられており、こちらの親近感も、ほとんどそこに一致している。というわけで、間抜けで坊ちゃんくさい主人公の哀愁を描いた「革命家の午後2」や、現代を真面目に生きようとする吸血鬼の災難をめぐる「竹山君の日常」などが、とくにおもしろかった。殺伐とした戦国時代を、肩から力の抜けたテンションで捉まえ、最後は意外としんみりする「雑兵敗走記」も良い。

 「Hale no sola sita」について→こちら
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2007年08月02日
 Paper Walls

 ダークでシリアスな印象の強かった06年の前作『LIGHTS AND SOUNDS』は、むしろYELLOWCARD(イエローカード)というバンドの良さ、すなわち率直さと陽性にあふれた部分を殺いでいるように感じられ、おいおい、君らにそんな路線は望んでいないよ、といったところだったのだが、このニュー・アルバム(メジャー・デビュー後のサード作にカウントされる)『PAPER WALLS(ペイパーウォールズ)』では、メロディアスなフレーズをドラマティックなアレンジのなかに落とし込む、かつての様式に立ち返っており、そもそもポップ・パンクにイノベーションなぞ求めておらず、翻ってエクスキューズすらも必要としない単純明快さこそが、その最大のチャームであったことを、ひさびさに思い出す。もちろん、自分たちのスタイルに危機感の欠片もなく、ただのパターンを繰り返されたら、それはもう退屈なだけなのだけれども(例を挙げれば、SU……いや、やめておこう)、その点に関しては、楽曲の艶やかさを得、全体的なスケールのアップを果たすことによって、十分にクリアーされている。そこで貢献的な、音の厚み、ギザに尖った演奏の定着は、やはり『LIGHTS AND SOUNDS』という過程があってこそ、のものだろう。おそらく、YELLOWCARDの最高作と言い換えても大勢から不満は出まい、とても高性能な内容である。

 『LIGHTS AND SOUNDS』について→こちら

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2007年08月01日
 覇-LORD 9 (9) (ビッグコミックス)

 ある文化が一定のレベルに達する、または、ある文明が過渡期に入る、と、大勢からは大切なものが損なわれる、こうした考えは、ごく当たり前のように受け入れられていて、さまざまな物語のなかで、時代的な背景を問わず、繰り返し、採用される。なぜとすれば、人類の歩みが証明しているからということなのか、歴史的な事実をモチーフにしたフィクションにおいて、それが果たされるケースは、すくなくない数にのぼる。この、「三国志」または「三国志演義」を原典とする『覇‐LORD‐』などもまさにそうで、当時の先進国というか大国であるところの後漢では、「義」の概念が希薄になったため、争いが絶えず、そこに後進国的な位置づけの倭から、主人公が逆輸入してきた「義」をもって、和平をもたらそうとする、というプロットをとっている。ここで基軸を為しているのは、おそらく、具体的で思想的な根拠というより、もはや都会人の持ちえないイノセンスを、未開の地の人間に投影するような、そういう幻想だとしたら、言うまでもなく、いくつもの表現でお馴染みのものに他ならない。もちろん、具体的で思想的な根拠を述べるのであれば、中国と日本の、地理的な関わり、歴史的な対照のうちに、儒学ベースの思想を問うことであり、たぶん、原作者である武論尊のイデオロギーは、そちらを向いている。そういえば、(酒見賢一の原作小説とは内容の異なる)森秀樹のマンガ版『墨攻』では逆に、まあ、あそこで扱われていたのは儒学へのカウンターである墨家の思想ではあったけれど、秦王朝期の中国に居場所をなくし、海を渡った主人公が、その後の日本に影響をおおきく与えたことになっていたな。とまれ、話を『覇』の9巻に戻すと、前巻で、董卓軍の華雄もまた、劉備と同じく倭人であり、「義」を尊ぶ人であったことが明かされたうえに、その華雄を陥れ、董卓の軍門にくだるきっかけをつくったのも、やはり倭人でありながら、こちらは「義」を欠く道基という人物であったことが描かれ、ある意味で、中国人と「義」をめぐるレイヤーのほかにもうひとつ、日本人と「義」をめぐるレイヤーがつくられたわけだが、前者における董卓の陰謀や袁術の野心と、後者における道基の暗躍が重なり、劉備や孫堅は窮地に立たされることになる。しかし、あれだね。テーマ云々とはべつのレベルで、「三国志」をなぞる必然上、登場人物が膨大に増えつつあるとはいえ、呂布の、あの当初はすばらしくすばらしかった呂布の存在感が、今やすっかりと乏しくなっているのには、ほんとがっかりだよ。予想どおり、渡海さん(『覇-LORD‐』と同じコンビによるマンガ『サンクチュアリ』の最高にかっこういい登場人物)の二の舞かあ。

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2007年07月30日
 キャンディーの色は赤。 (Feelコミックス)

 魚喃キリコの新刊『キャンディーの色は赤。』を開いて、一瞥、これまで以上ともいえる言葉の多さに、あ、と不安を覚えたのは、90年代に魚喃の熱心なファンであったらしい(『群像』06年8月号)雨宮処凛が、今や傷つく少女じゃいられないとばかりに、左傾化し、恋愛の捉まえ方に関して宇野常寛には、古い、魚喃は賞味期限が切れている(『PLANETS』VOL.03)とまで言われてしまうような現在にあって、つまり、以前ほどには存在がサブ・カルチャー的にヒップでもクールでもない状況下で、こうした手法がどれだけ有効なのか、訝しいところがあったからなのだが、まあ扱われているモチーフについては、あいかわらず、だめんず(って、この言葉はまだ生きてんですか)やシガレッツ・アンド・アルコール、それから浮気性に自傷などの痛々しくラヴったものであり、清新さはないのだけれど、その語り口からは、停滞とも、また成熟とも異なる、たしかな手応えを感じられる。最初に触れたとおり、いちページのなかで、言葉の、とくにフキダシ外のモノローグによって占められる割合が、ひじょうに大きい。しかし、それはなにも画とのバランスを欠いていることを意味しない。いっけん、そうは見えないとしても、である。おそらく、言葉の連なりに、小説やポエムを読ませようという心づもりがないことは、そのリズムやテンポによって、うかがい知れる。ここで、画とともにある、あるいは画のうちに含まれる言葉群は、あくまでもマンガならではのテンポやリズムで読まれるものだ。たぶん、発想としては、よしもとよしともの『青い車』に収められている諸作品や短篇「4分33秒」あたりに近しい。もしかすると、マンガにある種の音楽性を持たせようとした結果、こういうふうになったのではないか、とさえ思えるぐらい、一個の場面における間の取り方というか、息づかいが大切にされている。とくにラストに置かれた「2006、夏。」では、しばらくサイレントのままコマが進んだのち、やがてたどたどしく、しかしはっきりと刻まれることとなる独白が、ほとんどそれだけでひとつのシーンを為し、閉塞や虚無の向こうにある晴れ間に手が届きそうな、あざやかな印象を結ぶ。
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2007年07月28日
 高校デビュー 9 (9) (マーガレットコミックス)

 あ、晴菜のモテ期ってまだ続いてたんだ。意外な伏兵あらわる。いやいや、思わせぶりに登場した新入生男子三人が、あんがい肩透かしな扱いに終わってしまったところで、ここか、ここでこの人がこういうふうに三角関係的な展開を物語に持ち込むのかあ、と、河原和音の『高校デビュー』9巻を読む。いわゆるラブコメの体でつくられる作品に、三角関係が導入されがちなのは、それが恋愛のドラマをつくるのに都合が良いという以前に、恋愛そのものが、三角関係に近しい状況下における他者と固有性の問題にかかっている、と考えられるからであろう(あの、欲望とは他者の欲望を欲望すること、とかいうやつね)。つまり、なぜ私は彼でなければならないのだろう、なぜ彼は私でなければならないのか、式の問いを乗り越えていった先でしか、この気持ちは本物に違いない、という思いなしは得られないためである。さらにいえば、この巻で、いきなり噛ませ犬の役割を背負わされたヨウの親友朝丘が、晴菜に〈ねえ晴菜ちゃん あの時晴菜ちゃんの靴をひろったのがオレだったら 晴菜ちゃんはオレにコーチを頼みにきたのかなオレを好きになったのかな?〉と言うように、もしもふたりが付き合っているのが偶々のことであったならば、その絶対性は揺らぐ。すなわち、こうした三角関係ふうの危機こそが、両想いの真偽を確かめることになるのであって、ドラマティックなモーメントはむしろ、それに付随する条件のひとつに他ならない。と、まあ、これはやや図式めいた見方ではあるけれども、晴菜とヨウのカップルにおいて、以前までは、ヨウがハンサムなせいで、晴菜の側がハラハラする傾向が強かったのが、ここ数巻のうちに、両者の立場が逆転している、要するに晴菜の周辺について、ヨウの側のヤキモキする機会が増えているのは、これが、ともすれば自己完結に終わりかねない片想いの緊張ではなく、双方向の結びつきを正当化し、定着させる、すくなくとも、そういう試みをもって描かれていることの必然だといえる。

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 第7巻について→こちら
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2007年07月27日
 バンビの手紙 (マーガレットコミックス)

 あきらかにポップなセンを狙っているふうなのに、マンガの舞台が地方だから、というのとは異なるレベルで、あいからず垢抜けず、どこかイモくさい作風が、もはや逆に個性でもあるように思える高野苺の『バンビの手紙』は、作者にとって初めての連載であり、相応の苦労があったことは「あとがき」っぽい欄に述べられているわけだけれども、まあ、たしかに技術的に拙いところは多分にある、としても、いや、これはこれでけっして悪い内容ではないよ、と思う。子供の頃に可愛がっていたバンビ(ほら、田舎だから)に逃げられてよりこちら、どうも自分は不運続きなのではないか、と思い込んでいる主人公の凛子は、そのせいもあって、なかなか幼馴染みの辰之に告白する勇気を持てずにいた。〈私はこうやって幸せになれないまま おばあちゃんになって死んじゃうのかなあ……〉と、ダメモトのつもりで、子供騙しのおまじないをかけたところ、それが効いたのかどうかはよくわからないが、諸事情から彼女の家に居候することになった同級生颯太郎の訪れとともに、いろいろなことがすこしずつ変わりはじめる。颯太郎の持っている暗さや、作中における人物関係などには、やや類型的な面があるけれども、それぞれのまっすぐにやさしい視線が織り成すドラマは、なかなかにファニーで、キュートなまとまりを持っている。ただし、である。やっぱり、多くの人に読んでもらうつもりであるなら、あとすこしの丁寧さが欲しい。

 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
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 誰がスッピン見せるかよ (マーガレットコミックス)

 幸田もも子の『誰がスッピン見せるかよ』は、なんていうか、頭のイタい子満載的な恥ずかしさのある作品集なんだが、しかしまあ、健全で奥手な十代(中高生)の自意識や妄想ってこんなもんだよな、と思えば、それをそのまま、個々のマンガの魅力とすることもできる。ぜんぶで五篇が収められており、めいめいシチュエーションは異なれども、自らの積極的な意志は、ただの勘違いであり、誰かに、好き、だとか、かわいい、だとか、そう言われることで、価値観が一変し、コンプレックスが解消され、ハッピー・エンドが訪れる、といった基本のラインにほとんど違いはない。ここでチェックしておきたのは、ヒロインたちの恋愛は、結局のところ自分を変えるための手段に他ならない、という点である。彼女たちがよく泣くのは、他の誰かがどうというよりも、自分が可哀想だからなのであって、要するに、彼女たちの願う好意は、自己愛のヴァリエーションに止まる。もちろん、これは作中であからさまになっておらず(そういうふうにはっきり描かれてたら引くしかないしね)、おそらく、作者の無意識によって隠蔽されている。ドタバタとしてユーモラスな作風からは、閉じた印象を受けることはないのだけれども、ストーリーのおおよそをつくっているのは、そのような登場人物たちの完全にスポイルされた感情である。

 『そんでむらさきどーなった?』について→こちら
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2007年07月25日
 ギャンブルッ! 1 (1) (少年サンデーコミックス) ギャンブルッ! 2 (2) (少年サンデーコミックス)

 〈20XX年、日本政府は賭博行為を全面的に解禁――その法律『賭博特別法』は、イカサマ行為以外の賭博をすべて認めるものだった――年齢の制限さえも、なかった――〉、つまりは老若男女を問わず、ギャンブルにおける勝敗の価値が最大限に高められた近未来を舞台に、マサル少年の、行方不明となった父親を探すための戦いが幕を開けるのであった、が、そもそもギャンブル自体に、限定条件下での有効な戦術を求める要素が過分に含まれていたとしても、このマンガ、鹿賀ミツルの『GAMBLE!(ギャンブルッ!)』のばあい、作中で行われる各種ゲーム(チンチロリン、バカラ、カジノ・ウォーなど)のルールではなくて、むしろ〈イカサマ行為以外の賭博をすべて認める〉という作品内のルール(イカサマ行為は認めないってところを強調ね)こそが、登場人物たちを規定しており、繰り広げられるドラマもまた、それに沿ってつくられている。そういう意味では、同じ限定条件下の心理劇であっても、たとえば『カイジ』よりは、『ジョジョ』シリーズや『DEATH NOTE』、あとは『未来日記』とか、のほうに性格が近しい。要するに、今日的な少年マンガの主流に則った内容だということである。もちろん、だから主人公には、ギャンブルそのものの規則性から演繹された能力が与えられてはおらず、運や流れ(ツキ)を見抜くという、とても超人的で、特殊な能力が備えさせられているわけだ。いやあ、こうして同時刊行となった1巻と2巻をまとめて読むかぎり、たしかに賭博の性質上、物語には金銭や欲望は絡んでいるけれども、いちばんの魅力は、主人公の有するほとんど無根拠な(あるいは根拠があるとすれば、きわめてプラトニックで抽象性に依った)強さがライヴァルを圧倒する、式の爽やかなカタルシスであり、このへんのバランスをどこまでキープできるかが、今後の要になるんだろうな、と思う。
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2007年07月24日
 デンドロバテス 2 (2) (ヤングチャンピオンコミックス)

 1巻の時点では、くどさをあまり感じさせない山根章裕の画もあり、現代社会の裏側で悪を裁く殺し屋を描いたものとして見たばあい、良くも悪くもスタイリッシュにまとまってしまっているように思われたのだが、「千の銃の男」の来歴に関するヒントがちりばめられた2巻からは、むしろ原作者である石渡洋司に一貫する悲痛なテーマが強まっているふうに感じられる。では、そのテーマとは何か。このマンガの題名になっている『デンドロバテス』というのは、作中で説明されているとおり「矢毒ガエル」のことであり、それは〈南米に棲む数センチの小型ガエル だがその皮膚毒は世界最強――…1gで五万人の人間を殺す……〉わけだけれども、同じく南米コロンビアの地で、無所属でありながらも多くの組織に恐れられる、つまり〈大を殺す 猛毒の小〉であるような黒髪の殺し屋(シカリオ)の異名もまた、「矢毒ガエル」イコール「デンドロバテス」であったことに由来している。たとえば、そこでいう「大」を体制(国家、権力)に、「小」を無名の個人に、「猛毒」を復讐や反逆へと置き換えてみれば、なるほど、石渡の過去作(『フロンティア』や『青侠(ブルーフッド)』等々)に近しい構図が浮かび上がり、そうして、このマンガに描かれている社会的な弱者の姿は、そもそもの国籍が何であろうが、自国に居場所はなく、さらには受け入れ先をどこにも持たない亡命者たちの像と、ダブる。

 1巻について→こちら
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2007年07月22日
 仁義S 4 (4) (ヤングチャンピオンコミックス)

 この件については、もうちょい、詳細に検討する余地があるかもしれないが、おそらく80年代の終わりから90年代の半ばまでを舞台とする『あばよ白書』あたりを境に、立原あゆみのマンガでは、スーツ姿のではなくて、スカジャン系のヤクザがメインを張ることが多くなった。それというのはもちろん、作者の世界観(これは、ほとんどの作品に共通しており、東日本の一方には風組があり、一方には関東一円会があり、相対するようにして西があり、『週刊少年チャンピオン』全盛期の編集長と名前を同じくする壁村耐三が、全国のヤクザにカリスマとして崇められている)における、世代交代を表しているわけだけれども、しかし『あばよ白書』の主人公が、ヤクザになるため、暴走族時代には愛用していたスカジャンを卒業し、スーツを着用するようになるのとは異なり、90年代の終わりから00年代にまたがる『東京』や『弱虫(チンピラ)』の主人公たちが、スカジャンのまま、ヤクザの世界で成り上がりを達成してゆくのは、結局のところ、子供と大人の境界線が曖昧になってしまったこの国の現在を反映しているのであって、それと並行しながら、各々の作品では、日本人という総体からイデオロギーやイズム、プリンシパルが消失されることへの憂慮が、通底音となり響き渡っている。ここで思い出したくなるのは、80年代後半を出発点とする『JINGI(仁義)』(注・ここでは便宜上『仁義』と表記させてもらいます)の存在である。無印の『仁義』とは、そもそも学生時代に極左のテロリストであった主人公のひとり義郎が、資金集めのためなら手段を選ばぬ組織に違和を覚え、自らのアイデンティティを見失ったところで、もうひとりの主人公でヤクザの仁に出会い、彼のその、任侠という抽象的なものを心から信じ、命を捨てることも厭わぬ姿勢に、感化され、コンビを組み、バブル期の経済を手玉に取って、フルに活用し、先行する世代の腐敗を粛正してゆく、という話で、もしかするとそこからは、この国における近代的な価値観の、善となる部分が、悪であるような部分を取り除く、式の構図を見てとれる。もちろんこうしたとき、日本の近代性はヤクザの社会と一致しているわけだが、もはや、そのような理念すらも有効ではない時代にあって、はからずも制度から漏れてしまった人間は、いったい何を頼りに生きればいいのか、この寄る辺のなさこそが、スカジャン系のヤクザとなって、いま現在の立原マンガには現れている、と考えたい。じじつ、『東京』では、自分が何を為すべきかわからない主人公の迷いが、結果として、多くの弱者を救うこととなるのだし、『弱虫』では、生きる意味を持たない主人公のアパシーのせいで、周囲の人間が次々と死んでゆき、死の輪郭だけがエモーションをつくりだしている。では、『仁義S(じんぎたち)』の主人公アキラの場合はどうか。両親の存在が無いに等しく、主人公が根無し草的であるのは、この作者にお馴染みのものではあるが、『本気!』初期や『仁義』無印のイケイケ破滅型とは違って、確たる目標や信念を備えておらず、ただ気運に流され右往左往するのみ、そうした消極性は『東京』や『弱虫』と同様だといえる。その点がじつは、作品を物語のレベルで見たさい、カタルシスの乏しさに繋がってしまってはいるのだけれども、テーマとしては、過去作のちゃんと延長線上が目指されている。べつに自作の(作画やプロットの両面において)コピーとトレースばかりを繰り返しているんじゃないのだよ、立原先生は、たぶん。ともあれ、先に述べたとおり、立原あゆみのヤクザ・マンガはみな、同じ世界観を共有しており、それぞれの作品の登場人物同士がニアミスしたり、他の作品にゲストとして招かれたりするケースは、これまでにもすくなくはなかったわけだが、『仁義』から『仁義S』への直截的な主人公の交代において、それが両者の時代と世代とを対照する関係になっているのは、重要なポイントであろう。と、ここからようやく、この4巻の内容に触れるのだけれど、いやあ、元テロリスト義郎の十八番、時限爆弾でもって一気にケリがついたのには、まあレアなパターンではないとはいえ、さすがに驚かされたぜ。『仁義』無印時代の仇敵である合同や美里を揃えたとたん、これだもんなあ。どこからどこまでが伏線で、どこからどこまでがたんなる閃きなのか、一概には判断できない力業は、相変わらずである。かくして義郎と仁の一時的な訣別にも終止符が打たれ、ふたたびひとつにまとまった墨田川会の、その再編のおり、今回の騒動の活躍によって、アキラは、七ッ山組組長代行に就任、敵対組織と関連する大学病院潰しの大仕事を命じられる。こうした展開は、ヤクザと医者を兼ねる大内とのコンビが、今後に生きてくることを予感させる。他方、誰の子かもわからぬ赤ん坊を出産した女性を、それでも女房にしようと決意するアキラの姿には、今日的な家族の再編といった課題が与えられているようにも思われるのだが、その女房がさあ、アキラに感謝の印としてプレゼントするのは、やっぱりスカジャンだった。

 3巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『極道の食卓』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2007年07月21日
 神様ドォルズ 1 (1) (サンデーGXコミックス)

 帯にある今石洋之の「やまむらはじめのロリと巨乳のキャッチー攻撃」というコピーがたいへん萎えるんだが、いやまあ、ロリと巨乳はどうでもいいのだけれど、キャッチーであるという点に関しては、あながち的外れではない、と思う。では、そのキャッチーさがどこからやって来ているのか、といえば、たぶん、登場人物のごく日常的でファニーな振る舞い(ともすればロリや巨乳といった要素もここに含まれる)によって、シリアスな展開のもたらす緊張が、ほどよく緩和されているためである。換言すると、やまむらはじめの『神様ドォルズ』は、すくなくとも、この1巻に関しては、謎めいて超常的な現象のなかで自意識を持て余す若者たちが交錯する、といった作者の傾向を踏襲してはいるが、先ほど述べた部分が、ちょうど、灰汁をすくう役割を果たし、閉塞の息苦しさを免れている。とはいえ、序盤は良いけれど、物語が長くなるにつれ、複数にまたがる因果関係のディレクションに、難が出てくるのも、この作者のクセではあるので、そのへんについては、もちろん、今後の展開如何にかかっている。

 『蒼のサンクトゥス』
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 天上天下 17 (17) (ヤングジャンプコミックス)

 大暮維人『天上天下』の概要は、5、6巻の時点でだいたい説明されていると考えて良いのであって、というのは要するにマイ・フェイヴァリットな俵文七の勇姿が目覚ましく、第106回天覧武会が開始されたあたりなわけだが、つまり作者のコメントにより「現実世界がそうであるように このマンガにはワキ役はいない」とされるそれらが、作中で述べられている〈暴の持つ魔力に屈する現実〉に抗っていく姿を、学園内格闘バトルのフォーマットに落とし込む、というものだろう。そして、ようやく、この17巻で、本格的に、第107回天覧武会(予備戦)が、幕を開ける。いや、ほんとうに長かったぜ、ちくしょう。過去回想編や歴史遡及編などで開示された背景や設定のなかで、現在に籍を置く登場人物たちがどう生きるのか、が、やはり本題なのであり、本筋であるのだし、それこそを描いてくれないことには、困る。しかし、まあ何といっても、この巻では、柔剣部の万年足手まとい菅野影定の(表紙の人ね)、面目躍如な奮闘ぶりが、良いよ。コンパクトな活躍のうちに、本来はワキにあたる登場人物が暴力の魔性を打破する、といったこのマンガのコンセプトが見事に達成されている。これはおそらく、物語上においては、文七が慎を殴りに向かったときには及ばないまでも、あれ以来の快挙だといえる出来事で、なるほど、そうしてみたら、菅野が戦いへ臨む直截のきっかけが、文七の発破だったというのは、すこしばかり象徴的である。

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2007年07月20日
 Walkin’Butterfly 3 (3)

 もちろんのとおり、この世には、がんばれば必ずや報われる、という絶対的な保証なぞはどこにもなく、ただ、がんばれば報われるかもしれない、という僅かばかりの可能性があるにすぎない。たまきちひろ『WALKIN' BUTTERLY(ウォーキン・バタフライ)』の3巻は、やや都合がいいととれなくもない展開が続くが、しかし、主人公にうだうだと悩まれるよりはよっぽどマシなのであって、じっさいテンポよく物語は進むし、男の子に意地があるように、女の子にも意地があるんだよ、といわんばかりの熱さを引っ張ってきている。病に臥せった多湖が〈だから? たどりつかないと知りながら続けるの? 悪いけどあたしはあなたほどロマンチストじゃないわ〉と消極的な発言をするのに対して、主人公のミチコは〈けどな先がなかろうがなんだろうが終わった人間よかずっとマシだよ おまえなんかいなくたって……ひとりでなんとかしてやるよ!!〉とくってかかり、そうして得られたガッツが、挫折に囚われないスピードで、彼女の行動を、ぐいぐいリードする。このマンガは、たしかに、特殊な業界を舞台にした立身出世を、基本的なプロットにしているけれども、主人公に内在する唯一無二の天才性によって、それがフォローされているわけではない。むしろ、資質は備わっていたとしても、たとえば何人かの登場人物たちに、不向き、だと指摘される、そういう他人からの期待が少ないところから、主人公が、がんばり、這い上がっていく、要するに無価値だとされていた者が、ほとんど独力で、他人に認められ、求められる過程を捉まえている。それが端的なのは、仇敵である三原に、試着モデルの代役を頼まれ、こなし、重要なショーに起用されることが決まるくだりで、かつてはあれだけ邪険にされていた彼に〈情じゃないですよ プロとしての心構えを認めたんですよ〉と思わせたことこそが、ここまでにおける最大の成果だといえよう。そうやって得た貴重なチャンスを目前に、長らく心の支えにしてきた錦野センパイが結婚すると知って、バイクにまたがり自分探しに出てしまうのは、またかよ、おまえ、ってなもんだが、いや今度はちょっと様子が違い、誰かの慰めや励ましではなく、為すべきことを為すためのつよい決意に支えられ、彼女は、宿願のランウェイを目指し、歩きはじめる。

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2007年07月18日
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 木々津克久の『ヘレンesp』は、『週刊少年チャンピオン』のNO.26(6月21日号)からNO.30(7月5日号)にわたり、計5話が発表されたシリーズで、掲載誌の通例にならえば、単行本化される可能性はきわめて低いと思われるが、そのことを、もったいないなあ、といわせるぐらいの佳作なのだった。五年前、家族旅行の最中に、両親を亡くした少女ヘレン・高原・ラ=グィードは、自らもそのときの交通事故のせいで、視覚と聴覚を失い、言葉を喋れなくなってしまう。現在、いっしょに暮らす伯父は、それを不憫に思い、ドイツはメルキオール社製の新型補聴器をヘレンに試すのだけれども、しかしなぜか、機器が発するパルスに衝撃を受けて彼女は特殊な能力を得る。要するに、この特殊な能力こそが、ヘレンのESPなのだが、はたしていったいどういうものなのか、具体的な説明は作中で為されていない。とにかくそれが原因であり、引き金であるらしい、そうしてヘレンの身の上にふりかかってくる少し不思議な現象を、マンガは描き、オカルトともファンタジーともとれる世界観が提出されている。このジャンル的な抽象性と曖昧さのなかに、読み手の類推の入り込む余地があって、そこに作者の意図があると考えられるのは、絵柄や雰囲気からは、いっけんハートフルなニュアンスを受けとるけれど、どのエピソードも、これ、深読みすれば、人間の本質あるいは社会性とでもいうべきものを、かなりグロテスクに、突き放して捉まえているわけだよね。たとえば、ヘレンと行動をともにする盲導犬のヴィクターが、第1話で〈ヘレンはもうオレ達に近い 人間のことがわかっちゃいないね〉と示唆しているように、彼女の純粋さは、世間との繋がりが希薄であることに由来し、それがESPの開花によって、人とは異なる者たちとの交流に結びつき、もしかすると彼らのほうが人間よりもずっと人間的なエモーションに溢れている可能性を、こちらに見せていく。捨てられた人間の赤ん坊を隠れて保護する野良犬が、獰猛だというカドで人間からも同類からも追われ、やがて善意の高校生たちに撲殺される第4話「ヘレンと魔王」などは、うわべ教訓めいているのを通り越して、ひじょうにショッキングな内容である。論理的な正当性が、感情のレベルで無化される。個人的には、かつては有名であったアニメ映画の監督が、誰からも偉大な才能を理解されなくなり、ホームレスになってまで孤独に創作を続け、死ぬ、といった筋書きの第3話「ヘレンの映画鑑賞」が、とても印象に残った。そこで〈その神がかった仕事ぶりに彼を否定できる者もなく…実際その作品もすばらしかった〉とされる映画監督は、やはり、社会的な通念からしたら行き過ぎ、破綻した存在であるがゆえ、ヘレンの感覚にコミットするわけだが、逆に〈オジイさんにとってはもうドラマも見せ場も関係ないんだ…周りに理解されるわけがない オジイサンがやりたかったのは世界を そのままひとつ作りたかったんだ〉とヘレンにいわれるとおり、あくまでも彼自身が望んだ結果、そうなったのだといえる。しかし作品は、それが正しいことなのか、間違ったことなのか、を問わない。ただヘレンの言葉をもって〈争いもなく 不幸もなく 人が幸せに生まれて死ぬ世界 オジイサンは行ってしまった 私たちにはもう行くことはできない……〉と結ばれるだけだ。むろん、いかようにも解釈できるとしても、〈争いもなく 不幸もなく 人が幸せに生まれて死ぬ世界〉に〈私たちはもう行くことはできない〉のは、結局のところ、フィクションでもないかぎり、そんな世界はどこにもない、からであろう。これは半ば諦念にも似ている。だが、それでも生きている以上はみな、こうした世界を生き続けなければならない。第5話「ヘレンの旅」において、死者である父親と再会したヘレンは〈ヘレン……君は今幸せかい?〉と尋ねられ、〈ええ……とても〉と笑顔で答えると、この世ではないどこかから、本来自分がいるべき場所へと帰っていく。木々津は、第5話が載った『週刊少年チャンピオン』NO.30の巻末のコメント欄で、「ヘレンはこのあと学校に行く事になりますが、それはまた別のお話」と述べているけれど、すなわちそれはヘレンを、あくまでも人間の社会に属するものとして描く、あるいは人間の社会とより直截に関わらせる、という構想なのだと思う。
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2007年07月17日
 ムカンノテイオー 1 (1) ムカンノテイオー 2 (2)

 1、2巻が同時に出てから、ちょっと間が空いてしまったが、やっぱり、これは触れておきたい。正直をいえば、今まで玉置一平には、たしか河合克敏の『帯をギュッとね!』にアシスタントとして参加してなかったっけ(記憶違いだったら、すいません。あとで確認します。確認しました。同名の別人でなければ、最終巻でスタッフにクレジットされています)ぐらいの関心しかなかったのだけれども、このマンガ『ムカンノテイオー』(監修・取材協力 / HTロクシス)は、ひじょうに愉しく読んでいる。元ヤンキーが、持ち前の無知無鉄砲さでもって、特殊な業界内の体質と衝突する、というプロット自体は、80年代のテレビ・ドラマで見かけられそうな、どちらかというと前時代的なものであるが、そのなかに、今日のマス・メディアにアクチュアルな問題をうまく落とし込み、さらには若い主人公を旧い価値観の持ち主とし、それを権力構造と相反する位置に置くことで、現代への批評性をも獲得している。23歳になっても、社会に出ず、暴走族に従事する藤田平蔵であったけれど、いくつかの因果が重なり、なぜかテレビの人気情報番組「ザ・デイトライン」のADとして、さまざまな事件と関わっていくこととなる。そのうちのひとつ、暴走族時代の仲間であるカツヒロの殺害事件を通し、題名にある「無冠の帝王」の意味を平蔵に教えるエピソードが、つまりは序盤のハイライトなんだろうが、やたらと熱く、そりゃまあワキを支える登場人物たちが理解のある善い人揃いだよな、と思う部分はあるにはあるとしても、ここぞとばかりに話を詰めるテンポのよさが、そのことを逆に、作品に対する好感へと結びつけている。
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2007年07月16日
 社会に出て、自分が何をすべきか、未だ確信の持てない主人公というのは、じつに岡田惠和の原作らしいといえばいえるのだが、『あかねSAL☆』(漫画・なかはら★ももた)の魅力は、そうしたモラトリアムの属性にではなくて、特定の競技(ここではフットサル)に夢中になることが、そのまま登場人物たちの純粋さを代弁している点にあるのではないかな。じっさい、ここに描かれている女性アイドルたちの姿が、俗情とはけっして無縁ではないながらも、世間一般の人間よりもずっとイノセントに見えるのは、そのためなのであって、この2巻では、フットサルへの真剣な挑戦が、芸能活動における成功よりも、彼女たちの表情と価値とを輝かせることになっている。就職活動をサボタージュする女子大生の茜を助っ人に加え、アイドルのフットサル大会に臨むフロ☆フロであったが、しかし、いくつかの不運が重なった結果、予選を突破することはかなわず、当初の取り決めどおり、グループは解散させられてしまう。それでも、皆でもう一度フットサルとやりたい、と願うメンバーたちは、茜と再会したことから、仕事とは無関係に集まり、練習に勤しみ、今度は一般のフットサル大会に参加する。そこで対戦した女子高生チームからの評価が、試合を終えて〈(略)だから今日も最初はこんな田舎の試合に来てどーすんのって思ったし カメラとか来てたらやだなーとか バカにされてるのかなーとか思ったけど でも――全然ちがって あーこの人ら(略)単に フットサルが好きなんだなってわかったんで〉と高まるあたりに、このマンガのなかで、フットサルという競技がいかなる役割を持ち合わせているのかが、よおく現れている。一方、たまたまアイドルと知り合ったに過ぎない主人公の茜には、これまでのところ、いっさいの成長がうかがえないのは、どうしたもんだろね、とも思うわけだが、そのへんについては、どうやら次巻以降に発展するような予感を孕む。

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2007年07月15日
 この5巻にきて、ようやく切なさの指数が高まってきた、という実感を南波あつこの『スプラウト』から受けとるのは、メインである実紅と草平の立場が、ともすると、かなわない両想い、に見えなくもない状態へと変化しているためである。これまでのストーリーにおいて、作中の目線は、片想いに終わるしかない実紅の気持ちを汲みっているにすぎず、マンガの内容は、いってしまえば、登場人物たちの関係性を描くものではなかった。そのため、学校生活や周辺のあれこれ、賑やかな下宿人らの存在も、ただ視界の片隅に置かれているような背景でしかなく、つまり実紅の感情の動きにのることこそが、物語を読むにあたっての前提であり、ときにはフラストレーションを覚えざるをえない条件であったわけだけれども、ここでの展開によって、そうした制約は解除されている。言い換えると、ヒロインの心理を押しつけるものから、登場人物たちの関係性を描くものへと、作品の性質は移行しているのである。草平の入院を機に、彼が大切にしているのは自分ではないという事実を、あらためて思い知らされた実紅は、この恋を断念しようと決め、辛いながらも平静を装い続けるのであったが、しかし、あるとき彼の発した一言に堪えきれず、泣き、その涙に草平は動揺させられる。そればかりがきっかけというのではないのだろうけれど、ほとんど磐石だと考えられていた草平と彼の恋人みゆの関係に、より正確を期せば、草平のみゆに対する接し方に変化が現れはじめている点に、ヒロインの内面だけをフォローするにとどまらない、目線の拡がりを感じられる。翻って、これまでに培われてきた実紅と草平の親密さというのは、まあ、実紅の場合は、片想いという好意で説明がつくにしても、草平の側からすると、彼のおおらかな性格以外に理由が見当たらず、偶々ひとつ屋根の下で暮らすことになったから、だけでは、さすがに短絡的だし、安すぎるだろ、と指摘のひとつもしたくなるところで、このたび、共通する性格からくる感情(これは恋愛感情をいうのではない)の共有という、おおきな動機づけがなされている。それもまた、実紅にのみ焦点を絞った状態では、発現しえなかったものであり、要するに、こうした事柄の数々が、マンガそのものから受ける切なさの指数を高めている、のである。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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 母子家庭、いじめ、性的なトラウマ、摂食障害、といった諸々のあざといテーマを扱いながらも、くりた陸の『給食の時間』は、この1巻を読むかぎり(とはいっても一話ぶんしか収められていないのだが)、とても爽やかな印象を寄越す。そのへんは、不登校というやはり今日的なトピックを扱った同作者のマンガ『いってきます』が、ただ暗いばかりの通俗的な話になってしまったのとは、対照的でさえある。諸般の事情から、祖母のいる田舎に預けられ、地元の小学校に通うことになった鳥谷未来は、元気にふるまう態度とは裏腹に、子供には重たすぎる悩みを抱え込んでいた。祖母のところの下宿人であり、未来の転校先で給食室の管理を任されている栄養士の藤川健は、彼女の食が細いのを心配するのであったが、〈いいの / 長生きなんかしたくないから〉という拒絶の一言に、かつて犯した自分の過ちを重ねる。要するに、このような二人の出会いが一個の中心としてあり、そこから複数の人間関係が点々と打たれていき、そうした点と点とを繋ぐ線によって、あたたかなドラマが描かれているわけだけれど、それというのはつまり、登場人物のべつの登場人物に対するポジティヴな働きかけの、その連鎖反応がよく捉まえられていることでもある。まあ、今後にどう話が転がっていくのかは不明だとしても、ヴォリュームのある良質なワン・エピソードとして、十分に読める。一方、ここに併せて収められている読み切り「ハーモニーをきみに」は、落ちこぼれ男子高校生たちが合唱部への参加を通じて成長する、といった内容であるが、こちらは、複数の登場人物たちのディレクションがうまくいっておらず、焦点の定まっていないせいで、三文芝居的な安っぽさが勝ってしまった。

 『オレの子ですか?』5巻について→こちら
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2007年07月11日
 以前にも書いたとおり、序盤の印象はけっこうよかったのだけれども、結果的に、料理マンガの駄目駄目な部分でもってこしらえた料理を食べさせられたような、とても後味の悪い終わり方になったしまったのは、もったいなかった。九十九森が原作を担当し、国広あづさが作画をつとめた『めっちゃキャン』の話なのだが、駄目駄目な部分とは、要するに、マンガのなかに、リアクションと蘊蓄しかなくて、ストーリーがヘボだということであり、それが、ついに極まり、この最終4巻の内容を見るに耐えないものにしている。たとえば、カレーを題材とするエピソードにおける、某人気マンガ(映画かな)の登場人物をもじった敵役とか、パロディとして見るにしても、志が低すぎる(これはおそらく国広の責であろう)うえに、そうして行われる勝負の結着も、味覚とかほとんど関係なし(こちらはたぶん九十九の責ではないか)な。まあ、そもそも魚市場で働く少女が、カレーで勝負をするという時点で、いろいろと間違っているのだが、必然性がないところに説得力を設けなければならない、という大切な一点を蔑ろにしてしまっているせいで、ぜんぶのことが台無しになってしまった。

 1巻について→こちら
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2007年07月10日
 いちおうはギャグ・マンガに分類されるのだろうけれども、押切蓮介の『ゆうやみ特攻隊』は、掲載先が少年誌(でいいんだよね)の『月刊少年シリウス』ということもあってか、わりと、こう、燃える内容であるよ。9年前、悪霊に最愛の姉を殺された辻翔平は、いつか復讐を果たすべく、姫山高校の心霊探偵部に入り、先輩女子部員の花岡弥依と越島かえでにこき使われては、悲惨な目に遭いながらも、さまざまな霊現象をくぐり抜けることで、じょじょに臆病な自分を脱皮するのであった。基本的には、特別な霊感体質の花岡(隊長)に振り回される辻の不幸がおかしみを誘うのだが、そうしたエピソードを積み重ねるなかに、彼の成長がしっかりと記録されていることと、彼の姉の死がシリアスに刻印されていることで、ストーリーとして厚みのある、なかなかに熱い展開がもたらされている。おそらく、すでにさんざん指摘されていることだと思うけれど、この作者のマンガにおいては、妹ないし姉の存在が、ひじょうに大きな役割を持っている。たとえば、この『ゆうやみ特攻隊』の1巻と同時刊行となった『ぼくと姉とオバケたち』ならば、題名にあるとおり姉である麗子が、ご存知『でろでろ』なら妹の瑠渦が、といった具合に、設定から両親がほとんど排除されてもなお、家族のイメージをかたちづくるほどに、だ。もちろん、そうした関係性こそが、このマンガ家が得意とするギャグのパターンを支えている、というのはあるだろう。だが、ここではもうちょっとべつの色合いが濃く出ているようにも見え、ともすれば第7話(ケース.7)で、過去に苛まれる辻を〈あんまり過去に囚われてると前進できないよ〉と導く花岡の言葉は、亡くなった実姉の肩代わりであるような、そういう位置に近しい現れ方をしている。

 『おばけのおやつ』について→こちら
 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
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2007年07月09日
 最近はもう、柳内大樹のマンガをあまり高く買うことはなくて、この『ギャングキング』の10巻も、帯の「今一番アツイ ヤンキー漫画」というコピーに、げえ、と思いつつ、ページを開いたのであったが、やあ、ごめんごめん、今回はひさびさにおもしろく読めたよ。ジャスティスの傘下にある凶悪なチーム、トラッシュに潰されたゾンビとキャンディの姿を目にしてジミーは、いったい自分が何をすべきなのか、頭を抱える。ちょうどそのころ、トラッシュへの怒りに狂気を迸らせるゾンビは、傷ついた体のまま、病院を抜け出すのであった。そこからジミーの復活とゾンビの救済を描くまでが、ここでのおもな流れである。ところで話はすこし変わるけれど、同人誌『PLANETS』VOL.3に掲載されている「教科書が教えないヤンキー漫画の歴史」の、『ギャングキング』のまとめはわかりやすく、腑に落ちるものであった。いや、正確には森田まさのりの『ろくでなしBLUES』のレビューなのだが、要するに、「ヤンマガ的等身大の日常」と「ジャンプ的闘争」の自己実現には方法論的に齟齬があり、『ろくでなしBLUES』という作品は、結果、そうした齟齬を埋められなかったとして、同様のジレンマに、いま現在『ギャングキング』は苛まれている、とする。この見方は、たとえば今日においても、尾田栄一郎(はからずも柳内大樹と同じく75年生まれ)の『ONE PIECE』ならば、主人公の「海賊王になる」という宣誓が、そのままストーリーの目的となっているのに対して、『ギャングキング』では、それこそ「ギャングの王になる」ことが、主人公によって目指されているわけでもなく、だからストーリーの目的というか、本筋ともいうべき部分が、よくわからないことになっているのを考えたさい、とても納得がいく。また、以前にも何度かいっているように、個人的に『ギャングキング』における一話単位で完結するエピソードは高く認めるのだが、それをつまり「ヤンマガ的等身大の日常」と言い換えるのであれば、なるほど、本筋ともいうべきパートからは、完全に乖離してしまっているばかりか、登場人物たちの資質からは、一貫性を削いですらいる。そしてそれが、主人公の迷いという、紋切り型であるにもかかわらず、ぐだぐだな展開を呼び込んでしまっているとさえ、いってよい。こうしたことを踏まえたうえで、この巻に関しては、あまり多くの不満を持たなかったのはなぜか、を述べると、友人を救うというシンプルでストレートなテーマに従い、主人公の行動が規制されているためであろう。拳をふるったときの作画上の処理、今日のヤンキー・マンガで多用される、あの、見開きで殴られた人間が吹っ飛ぶ構図も、ここでは、ケンカの強さというよりはむしろ、殴った側の器の大きさを示すものとなっている。余談だが、この見開きの使い方、拳が与えるダメージを、『ろくでなしBLUES』やハロルド作石の『ゴリラーマン』では、できうるかぎり格闘技のセンスと一致させているのに比べ、『クローズ』終盤以降の高橋ヒロシは、あくまでも人間のスケールを測るものとして扱っているように思う。さて、と『ギャングキング』の10巻に話を戻すのだけれども、ただねえ、ジミーがさあ、自分を取り戻すきっかけが、結局のところ他者に対する想像力の話になってしまうのは、ちょっと、想像力が貧困ですよ。しかし、まあ、親しい人間の死をどう意識するか、というのは、あとあとになってピンコの人間性と対をなす重要なファクターとして機能するのに違いなく、そうだからこそ、もうちょい、説得力のあるくだりにはできなかったものか。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
  1巻について→こちら

 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2007年07月07日
 出版社をまたぎ、『でろでろ』10巻、『ぼくと姉とオバケたち』、『おばけのおやつ』、『ゆうやみ特攻隊』1巻の、なんと4冊もの単行本が同時刊行という事態に、押切蓮介の、その絶好調ぶりを否応なしに実感する次第なのだけど、なかでも作品集『おばけのおやつ』に収められている「ギガナイフ」が、すげかった。98年の『ヤングマガジン』に掲載されたものであるらしいから、おそらく初期の頃の読み切りになるわけだが、これがもう、センスだけで描かれているというか、力押しすぎるというか、むしろオーケーを出した当時の編集者が偉いんじゃないかと思うぐらい、ぶっ飛んでる。今と比べると、ホラーの要素はないに等しいが、しかしシュールなネタをテンション高く繰り出すミスマッチ感は、なるほど、現在の作風に通じる。というのは、むろん、その後の作者の活躍を知っているからいえるのであって、若書きというレベルにとどまらないアヴァンギャルドさ加減が、やたら狂おしい。「ギガナイフ」の「ギガ」って「戯画」とかけてあるのかな。ちげえか。そのほか、世界の終わりにたった一匹で立ち向かう犬の姿を描いた書き下ろし「Beautiful」も、「ギガナイフ」とはまったくべつの意味で、印象のつよく残る作品であった。

 『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!』について→こちら
 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
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2007年07月05日
 〈NASAが対宇宙用に極秘のうちに進めていた遺伝子レベルの人間改造計画が産みだした突然変異――それが“狗”であった〉が、しかし“狗”たちは、やがて人類に仇為すものとなり、そして一国を滅ぼすほどの殲滅戦によって駆逐された、はずだった。だが逃げ延びた“狗”は、世界各国に潜伏し、繁殖し、ふたたび蜂起するときを待つ。それを未然に防ぐため、秘密裏に“狗”を狩り続けるのが、“念呪者”と呼ばれる主人公に課せられた使命である。ふたたび夢枕獏(原作)と野口賢(作画)がコンビを組んだ『狗ハンティング』の1巻では、そうして“狗”対“念呪者”のハイ・スペックなバトル・アクションが繰り広げられるわけだが、直截的な武器の使用を主としていた前作『KUROZUKA―黒塚―』とは異なり、ここでは“念子”“念流”という、いわばサイキックな能力の攻防がメインであり、心理戦めいたロジックまで採用されている。その描きぶりに感心するのは、たとえば人工的な種族が人類に反旗を翻すというSF的なモチーフは、旧くからサブ・カルチャーの表現にお馴染みのものであるけれど、そうした汎用性のなかで、いかにして特殊能力の在り方をプレゼンテーションするか、ふるわれる手腕が、作品の魅力を引き立てているからである。

 『KUROZUKA -黒塚-』10巻について→こちら
 『KUROZUKA -黒塚-』9巻について→こちら
 『KUROZUKA -黒塚-』8巻について→こちら
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2007年07月03日
 『エセA国紳士ジェントリー松原の預かりモノ』は、『コミックバンチ』NO.31(先週の金曜日に出た号ね)に掲載されている小路啓之の新作読み切りである。身代金目的のために誘拐された少女が、犯人に連れられていったのは〈一.合法非合法問わず何でも預かります〉〈二.グラム千円一日預かるごとに3万円頂きます〉〈返却期日はお客様次第です……が 取りに来るのが一秒でも一瞬でも遅れた場合 所有権は私に移ります〉というシステムでもって経営されている不思議な“預かり屋”で、その条件〈所有権は私に移ります〉というところの〈私〉がつまり、このマンガの題名にあるエセA国紳士ジェントリー松原を指しており、要は、彼と少女の、やりとり、というか、駆け引き、を軸に、話は展開する。絵柄や設定はファンタジックであり、会話やストーリーは軽く、重たさを感じさせない雰囲気のなかで、〈仮定の話に希望するのはよしなさい…クセになる いつまでも他人の助けや奇跡をアテに生きるつもりですか!!〉〈本当言うと何もせず白馬の王子を待つ女なんて死ねばいいと思ってます〉というシビアな現実認識が、危機感を欠いた少女に突きつけられるあたり、じつにこの作者らしい。が、しかし内容自体は過去作が築き上げたアベレージを越えるものではないかな、ぼちぼち『イハーブの生活』以来の長篇にチャレンジして欲しいのだが、というのが正直なところで、あとそれから、ファンの要望としてはさ、こうした(あちこちで発表された)短篇を、そろそろどっかで一冊にまとめてもらえないものかしら、と思うのだった。

 『ドレミとソレミ』について→こちら
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2007年06月30日
 時は徳川三代将軍家光のころ、藩主に謀叛を企てたうえ、姉夫婦と甥を殺害した罪で、追っ手を差し向けられる物辺総次郎であったが、真相はまったく異なっており、そのために姪である沙絵を連れ、どうしても江戸まで逃げ延びなければならなかった。一方、同じ事件に深く関わり、そして真相を知ったがために、すべてを奪われ、もはや正気すらも失った伊藤は、かつての親友である物辺を苛酷な運命から救ってやろうとし、その殺害に、ただならぬ執念を傾ける。こうした二組の、じつに血なまぐさい道ゆきを中山昌亮の『泣く侍』は描いているのだが、この2巻では、1巻の終盤に予告されていたとおり、公儀隠密の、つまりは忍びの手練れが、彼らの宿痾に絡んでくる。まあ、男はもちろんのこと、女子供ですら容赦なく、ばんばんぶった斬られ、死ぬ、そうして作品に満ちる殺伐とした雰囲気は、江戸時代を舞台とする非情な剣劇にあって、特殊なケースではないだろう。そこで、このマンガならではの色を出しているのは、やはり物辺と伊藤、その二者の対照に他ならない。心を閉ざした沙絵がすこやかに生きていける居場所を求める物辺に対して、居場所を無くした人間は死によってのみ解放されると信じる伊藤、それぞれの行動原理は、相反するベクトルにより支えられているといえる。むろん、作中において伊藤は、あくまでも狂人として捉まえられているのだが、しかし、そうした彼の人格はおそらく、自己憐憫を他者へのそれと取り違えてしまったことからやって来ているのであって、それというのは、程度の差こそあれ、誰にでも起こりうることでしょうと、けして正常の対極にばかり位置づけられるものではなく、意外と身近な存在にも感じられる。
 
 『不安の種』(『週刊少年チャンピオン』版)第1話について→こちら
 『PS羅生門』第9巻(原作・矢島正雄)について→こちら
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2007年06月29日
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 今月から隔月刊誌となった『モーニング2』のなかで、もっとも楽しく読んでいる連載はといえば、それはもう、杉本亜未の『ファンタジウム』に他ならない。セキュリティ会社の第一線で活躍するエリート北条は、仕事のために訪れたカジノ・バーで、プロのギャンブラー顔負けの高度なカード・トリックを駆使し、勝利をおさめる場違いなジャージ姿の少年、長見良に出会う。はたして何の因果か、良の見事な腕前はじつは、マジシャンであった北条の亡祖父から受け継いだものだった。ここから、マジックの世界に憧憬を抱きつつも、才能の恵まれていない北条が、自分の夢を良に託し、反対に、才能に溢れながら、境遇に恵まれていなかった良は、北条の協力を得、一流のマジシャンとして成長してゆく、その過程を、物語は追うこととなる。おおきく年齢が離れ、育ちも異なり、ましてや血縁者でもない、まったくの他人であるにもかかわらず、北条と良のあいだには、いわく言い難い、つよい結びつきのある理由を、そもそも作者が所謂ボーイズラブ系のマンガ家だから、という一言で片付けるのは容易いが、しかし、それでは何の説明にもなっていない。着目すべきは、彼らの繋がりが、欠損があるゆえに他者を求める、そういう関係式の上で、相互に要されている点だろう。家庭環境に問題があり、さらには難読症(じっさいには「発達性読み書き障害」)のため、中学校にも通えない良は、けっして豊かな少年時代を過ごしているとはいえない。それを知った北条の、良への肩入れが、たんなる同情なのかというと、いや、そうではないことは、たとえば次のような場面、北条の友人でマジックにも理解のある加賀谷が、良の秀でた技術を認める一方で、その存在を訝しみ、〈あの子と……深く係わらない方がいい お祖父さんの弟子とはいえ所詮他人だ〉〈痛みを抱えた子に同情するお前の優しさは認めるが……アーティストには教養が必要だろ〉〈だってあの子は中学生なのに……字も書けないじゃないか〉と蔑むのを耳にしてしまった良の、〈ひとつだけ訊きたいんだけど 俺がかわいそうだから来てくれてる?〉という問いに対して、北条は〈いや違う! 俺が良と係わってんのは 言ってみれば俺の贅沢だ!!〉と答えるやりとりからもあきらかであるし、また、ふたりが出会ったばかりの頃、あまりの才能に驚いた北条が熱心にマジックの道に進むことを薦めたさい、良は〈ガッカリされるのはなれてるけどさ 俺を軽くとらえてないか?〉〈マジックを始めたのは不思議な事に興味があったからなんだけど……自分の才能が本物か若さからくる自信なのかはわからない〉〈マジックをとったら何もないんだ 自分を支えてるただ一つのものだから それをなくしたら……〉と躊躇う、この言葉はつまり、自分の素性を誰よりもよくわかっている良が、自分で自分を閉じておくために課した重石であり、まだ未来を諦めてしまうには若すぎる彼に、そこから解き放たれる機会がありうるのだとすれば、北条の登場こそが、まさしくそれにあたる。こうしてバディとしての固い絆を築き上げるふたりの姿に併せ、マジックの持つ魅力が人びとの心を豊かに変えてゆく様子が、作中に描かれるのだけれど、掲載誌である『モーニング2』自体が増刊号扱いという、のるかそるかの微妙な位置にあることと関係しているのか、この1巻に収められているエピソードはすべて、必ずしも続きを必要としないような、シリーズ読み切りに近しい発想で成立しており、そのぶん一話一話にまとまりがあって、ラストのワン・カットが残す余韻が深々としているのも、魅力的である。
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2007年06月27日
 「呪街」と呼ばれるそこには、憎み、呪う、たったそれだけのことで他人を殺害しうる能力を持つ異能の人びと(作中では呪力者といわれている)が、年齢や性別を問わず、行政によって保護され、秘密裏に隔離されている。まれに「呪力」をコントロールできるものもあるが〈ほとんどはダダ漏れ 無自覚に死をまきちらす〉、つまり一般の社会からすれば受け入れがたく、忌むべき存在だからである。惣本蒼が、マンガ『呪街』に描くのは、そうして普通に暮らすことを許されぬ人びとが、それぞれ、さまざまな思惑によって繰り広げる、まさに生き残り戦的な状況だといえる。物語は、ふたりの主人公(ヒロイン)を、まったく無縁な位置に立て、べつの角度から「呪街」の存在を見据えつつ進むが、この1巻の段階では、場面転換以上の効果をもたらしていない。しかし作中に漂う不穏な空気は、複数の登場人物たちが抱える宿命の、いずれ交錯する予感をにおわせ、今後の展開に期待をかけさせる。ところで、たとえば、の話であるが、たとえば「私(僕)っていったい何で、どうして生きているのか」と問いかけるだけで、自分を特別だと見なせるのであれば、それはそれで幸福なことであろう。しかし、そのような悩みを抱える人間を、たとえば百人集め、ひとつの空間に押し込めたとしたら、むろん、先ほどと同様の条件で自分を特別だと見なす権利は剥奪され、等しく凡庸な群れができあがるのに違いない。では、そこからさらに各人が、その固有性を回復させようとするとき、いったい何を要するのか。『呪街』を読みながら考えたのは、たとえば、そんなことであった。
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2007年06月26日
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 『私の恋人』の2巻を探しているのに、見つからず、まだ手に入れられていないのが悔しいのだけれども、それ以外の過去作は何とか全部集まった。と、まあ、そのぐらい、以前の作品集『BLUE』を読んでよりずっと、咲坂伊緒のことは気にかけているのだが、しかし、どこがどう好みなのかを説明しようとすると、なかなか難しく感じられるのは、ストーリーのレベルだけでみると、とくにトピックとなるような、おおきな特徴があるわけではないよね、と思えるからで、それは、この新刊『マスカラ ブルース』に収められている三篇にしても同様に、表題作の「マスカラ ブルース」や、続く「ロマンスの輪郭」などは、おおまかな概要を述べるのであれば、前者は、親しい男友達を突然恋愛対象として意識してしまったさいの戸惑いを扱い、後者は、苦手だと思っていた男子こそが実は王子様だったというパターンにしか過ぎない。たしかに、類例の多いものであるがゆえに、感情移入を催しやすいというのは、ある。だが、もちろんそれだけで作品に魅力をつくり出せるわけがないところで、この作者の資質がどこにあるのか、を考えざるをえず、そうして気づくのは、ひとつの物語を編むにあたって、主人公(ヒロイン)以外の登場人物もまた、けっして書き割りではなく、一個の人格ないし内面を所有している、こうした認識を土台としているおかげで、そのうえに築き上げられるドラマの表情が豊かになっているのではないか、ということだった。これは、いくつかの過去作において、登場人物の視点ないし内面を意味するモノローグがマンガの途中でべつの人間のものに切り替わる、というような仕草となって現れていたものだけれど、そういう手続きを踏まなくともこちらに実感されることを、『マスカラ ブルース』における三篇は、証明している。基本的に、ここで成立するカップルたちはみな、あらかじめ両想いに近しい状態にある。ただ、意志の疎通がうまく図れていない、要するに相手側の気持ちを互いに透視できないため、悲喜劇的になってしまう。これを、あくまでも主人公(ヒロイン)の一人称による物語として展開しつつ、彼女たちを独我論じみた世界に埋没させていない、あるいは、そこから彼女たちのエモーションを救い(掬い)出すかたちで、すべてが落着している点に、おそらく、咲坂伊緒の資質はあるのだろう。ただし、性同一性障害を話の落としどころとする「私が私であるために―長い夢―」に関して、そういったモチーフを用いることに、どうしても、というほどの必然があったのか、いささか疑問を呈したくなるのは、そこでは、セクシュアリティの問題が、孤独を際立たせるのに都合の良い、小道具以上の役割を果たしてしないきらいがあるせいである。

 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
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2007年06月24日
 塀内夏子の『イカロスの山』は、この8巻で、ここまで読んできた人間にしたら、やっぱり、というか、これ以外にはないだろうな、といったほうへと展開する。つまりは、平岡と三上のコンビのうち一方が、8000メートルの頂と地上とのあいだで、欠ける。ああ、しかし、予測がついていながら、どうして、こんなにも動揺させられるのだろうか。おそらくは、残された側のエモーションによって、取り返しのつかないことのすべてが、けっして取り返しのつかないこととして、発覚させられるためである。そしてそれは、登場人物たちの口からは明言されず、だからこそ物語の基盤を支えてきたテーマと合致する。〈もしもザイルを切らなければならなくなったら?〉〈このままじゃ二人とも凍りついて死ぬということになったら その時は?〉。出された答えが、残された者を納得させないとき、ほんとうに、すべて取り返しのつかないことなのか、を確認すべく、物語が続けられるのは必然だといえる。〈おれは……確かめに行くのか……おまえの……死を? それとも生を!?〉。こうした行動の先に訪れるものが、幸か不幸のどちらであれ、当事者は自分で自分を納得させるために、そうせざるをえない。これは登山というケースにとどまらず、まちがいなく、人生を捉まえる視点に立ったところからやって来ており、そのことの結末を見届けたいがゆえに、こちら読み手は、これから先も物語を追いかける。

 7巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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 この『極東綺譚』(原案協力・夏十耳)の1巻を読みながら、衣谷遊は、もしかすると藤原カムイみたいな方向へ行きつつあるのかな、と思う。いや、両者とも大塚英志とすくなからず縁があるから、そういうふうに連想した部分もあるが、それだけではなくて、まあ、どこがどうとはうまく言い難いのだけれど、たぶん、その作家性が、マンガの、物語や描写のレベルにではなく、あるいはそれらを含めて提出された一個のデザインのなかに宿っているような、つまり、読ませるといった実感よりも、ページを開いたさいの質感のほうに、作風のおおよそがかかっているのではないか、という意味合いにおいて、である。じっさい、明治期あたりの日本であるらしい世界を舞台とする『極東綺譚』の魅力となっているものを摘み上げ、具体的に解説するのは容易じゃない。見ようによっては、内容はよくわからない、けれども雰囲気がある、の一言に尽きてしまう。〈人でなしの国は 人の世よりも なお住みにくかろう〉。異形の者たちに追われる男は、夏目漱石が『草枕』に書いた言葉を噛みしめながら、密林のなかを疾駆する。武器も通じず、やがて行き詰まり、運河に呑み込まれ、流れ着いたのは、夢か、現実か。目覚めた先が現実であるならば、さっきまでのあれが、夢であったのか。読み手を判断保留の状態にしたまま、人煤花という奇病をめぐり、九鬼と名乗る謎の男と、彼に救われた遊郭の少女暮緒の、不思議な旅がはじまる。そうして謎めかされている設定などは、おそらく、ストーリーが進んでいくうちに、いろいろとわかることも多いのだろうが、何よりもまず、怪談とファンタジーの合間をゆくようにして施されたデザインにこそ、目を引かれる。

 『スチームボーイ』(原作・大友克洋)について→こちら
 『デビルマン黙示録 STRANGE DAYS』(原作・永井豪)について→こちら
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2007年06月22日
 『コミックバンチ』NO.30(今週号ね)に掲載されている松本次郎の読み切り『Hale no sola sita』は、同誌の企画「My Best Love Song 2」のために描かれたものであり、その、さまざまなマンガ家が各人にとってフェイヴァリットな邦楽曲から受けたインスピレーションを基に作品をつくりあげる、というシリーズは、これまでにもけっこうな良作が揃っているので、いつか単行本でまとまってくれると嬉しい。さて、『Hale no sola sita』のベースとなっているのは、PE’Zというインストゥルメンタル・バンドの同名ナンバーで、つまりは具体的な歌詞がない。したがって、サウンドによって起動させられたイメージの拡がりから、かなり独特な解釈が為されているのだけれども、アーティストのセレクションはもとより、そういった試みのあたりにも、この作者のセンスがよく出ているように感じられるし、日常と戦場が隣り合わせで並列されるパースペクティヴの狂った(あるいは逆に正確な)世界観は、松本次郎の作品にお馴染みなものだといえよう。〈生き残る為には「人間」を捨てなければならない / だけど「人間」に再び戻れなければ生き残る意味なんてまるでないんだ〉。女子高兵と呼ばれる、外見上は女子高生にそっくりな、巨大兵器に乗ったまま前線から逃亡したムラカミ少尉を、同じ小隊の女子高兵たちが追う。そのなかには、彼と同郷で幼馴染みの、タキガワ中尉も含まれていた。故郷の町が破壊され、知人の家族が殺されたことから、〈あいつの目的は多分……思い出の場所を全て消しちまう事なんじゃないか…〉と推測するタキガワ中尉であったが、はたしてそのとおり、女子高兵に乗り続けることで気の触れたムラカミ少尉は、自分自身の存在を否定すべく、過去に関わったものをぜんぶ、抹消しようとしていた。もちろんそこには、タキガワ中尉ら同じ女子高兵の小隊も含まれている。PE’Zの元曲が持つ躍動感は、銃撃戦や肉弾戦を繰り広げるアクション・シーンに、ホーン・セクションが織り成すメロウなトーンは、冷めた感情と渋い展開に託されている、といった印象だけれど、作画のうえでは、女子高生がハードボイルドのパロディをやっているふうにも見える、そのスラップスティックなギャップを洒落に終わらせず、先に引いたモノローグ〈生き残る為には「人間」を捨てなければならない / だけど「人間」に再び戻れなければ生き残る意味なんてまるでないんだ〉のうちに示されているようなところにまで持っていく、要するに、対置の表現として深くテーマに直結させているのが、やはり、にくい。

 短編集『ゆれつづける』について→こちら

・その他「My Best Love Song」の作品
 海埜ゆうこ『君という花』について→こちら
 こうの史代『小さな恋のうた』について→こちら
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2007年06月21日
 キン肉マン2世 究極の超人タッグ編 8 (8)

 出た、ファイティング・コンピューター。正体を表したとたん、圧倒的な格の違いを見せつけるあたりが、やたらかっこういいな。究極の超人タッグ戦Bブロック一回戦第2試合、川崎球場では、ソビエト出身のチーム・コースマスと謎の着ぐるみ超人ヘルズ・ベアーズが相対していた。その可愛らしい(と作中ではされている)見かけに反して、優勢に試合を運ぶヘルズ・ベアーズ、ベルモンドの姿に、客席で観戦するモンゴルマンの古傷は疼き、チーム・コースマスのスプートニックは同じ祖国の英雄を見る。〈あ…あんたもクレムリンに拾われ強くしてもらったんだろ? せ…正義超人になってしまったかもしれないが…西側の享楽主義を殲滅するという役目は わ…忘れていないんだろ?〉。問いかけながら、今まさに倒れんとするスプートニックに、ベルモンドは〈スプートニック おまえにだけは言っておこう われわれの祖国は遠からず崩壊することとなる…それが歴史の必然だ!〉と、容赦のない一言とともにベア・クローを突きつける。そう、つまりは未来からやって来たあの超人こそが、ベルモンドの正体なのであった。おお。主人公の万太郎ら新世代と、全盛期(80年代)の正義超人たちとの直接対決を実現すべく、タイムスリップという力業までも発動させた、ゆでたまごの『キン肉マンII世(2世) 究極の超人タッグ編』だが、この8巻に来て、さらに駒を揃えてきた感じである。こうした展開は、まあノスタルジーに頼りっきりであったならば、無条件で肯定できるものではないのだろうけれども、しかし無印の『キン肉マンII世』がそうであったように、先行する世代は教えとなる責務を持ち、そこから後発の世代は何かを学ばなければならない、といったテーマは、エンターテイメントのなかに、しっかりと抱え込まれており、手放されてはいない。まさかのブロッケンJrとジェロニモが組んだテガタナーズ(両者とも手刀を得意とするからという素敵すぎるコンビ名)の闘いぶりを見守る、ブロッケンJrの愛弟子ジェイドと超人ではないながら(要するにジェロニモと同じ境遇の)3代目キン肉マングレートをつとめるカオスの視線が熱いのも、そのためだ。
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2007年06月20日
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 吉本興業が手がける青年マンガ誌っていう前情報の部分では、どうも駄目っぽさ抜群の『コミックヨシモト』だったわけだが、意外にもこれが、同じ第1、第3火曜日に発売日を設定し、先だって角川書店から創刊された『コミックチャージ』よりも、ぜんぜん読める代物だったので、ふつうにおどろいた。いや、まあ、それはけっして『コミックヨシモト』おもしろいよ、ということではなくて、あいかわらず『コミックチャージ』詰まんないよ、という意味にしか過ぎず、やはり同じ日に出ている『漫画アクション』の格には、ぜんぜん及ばない。原作を芸人が担当した(ということになっている)マンガが、連載の多くを占めているのだけれども、それが結果的に、悪くいえばステレオタイプで既視感のつよい、良くいえばスタンダードで安心感のある、そういう内容に繋がっている。桂三枝(原作)と高井研一郎(作画)のコンビによる『桂三枝の上方落語へいらっしゃ〜い』とか、こういう内実ともにクラシカルな作品を一本でも用意できる雑誌というのは、何だかんだいって、えらいと思う(ぶっちゃけて『コミックチャージ』はそれができない。『エヴァンゲリオン』のポスト・カードやマウス・パッドを付録につけてる場合じゃないよ)。逆をいえば、千原ジュニアの原作を中川一良がコミカライズした『14歳』や、後藤ひろひとが原作を担当し、イシデ電が作画をつとめる『HUS(フース)』あたりは、どことなくサブカルってるあたりが、今さら古くさく、薄い。個人的には、さすが倉科遼原作というべきか、ナカタニD.の描く『んなアホな!!』が、第1話目からヒットだったな。基本的には、お笑いの世界でトップを目指す若者たちのお話であるが、実在する芸人を実名のまま使えるというのがメリットなのかデメリットなのか、はともかくとしても、なんら後ろ盾を持たない人間が、徒手空拳でもって、自己実現ないし成り上がりを遂げるという夢想は、いっけんオールドスクールだし、身も蓋もない、しかし今日の傾向(リアルって言い換えても良いよ)を反映したものではあるのでしょう。
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2007年06月18日
 パラパル 5 (5)

 四条とのあいだに親密さを増していく小牧は、彼と過ごす穏やかな時間のなかで〈四条くんの匂いは / すき / 気持ちがいい / 全身をやわらかくつつむ / 何も混じらない / ほのかで純粋なプレ発情(恋心)の匂い――そしてそれは / たぶん / けして / “発情”には発展しない匂い〉を嗅ぎとり、だからハナ(小牧の頭に居付く謎の存在)が、異性間の付き合いをあくまでも生物的に捉まえて〈“四条”といる時 / 小牧さんは大抵心地良いと感じていますし / 精神も安定しています / メリットのある行動を共にするのは理にかなってますから / “鶴見”さんといる時などは結構不安定ですものね〉と言うのも理解できるのだけれど、しかしなぜか、疎遠になりつつある鶴見のことばかりが、気にかかって仕方がない。そうして石田拓実の『パラパル』は、この5巻で、登場人物たちの相関関係を、またすこし動かす。おおきなポイントは、いわゆる幽霊のようなものを、引っかけてしまった小牧が、霊媒師である鶴見の祖母と、ようやくの対面を果たすことである。鶴見の過去を含め、彼の祖母が、ここで語る多くの言葉は、おそらく、このマンガのテーマを暗示しているものだとも考えられる。まあ正直、そのへんのくだりと、精神と身体の結びつきをめぐる抽象的な理解は、よしもとばななに似たものを感じさせたりもするのだが、あそこまで自意識が肥大してはおらず、したがって排他的でもなくて、それをこうして、初期の頃には、岡崎京子あたりに通じるような性のニュアンスを描いていたマンガ家が、提示しているというのは、やや興味深い点であったりもするし、そのほかにもいろいろと言いたいことが出てくるのだが、すぐにはまとめられないぐらい、おもしろい。

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2007年06月17日
 ロッキン★ヘブン 4 (4)

 明るく楽しく元気、というのは、それだけでもう十分に価値があるものなのだから、このマンガの主人公が皆から好かれるのは道理であろう、けれども、ときには噛ませ犬の気持ちも考えてあげてください。酒井まゆ『ロッキン★ヘブン』の4巻である。臨海学校での告白を経て、ついに両想いになった紗和と藍であったが、そのことをクラスメイトに秘密にしていたことが、クリスマス・プレゼントの、お揃いのピアスによってばれ、紗和に惹かれていた城戸は、内心ダメージを受ける、ばかりか、そこに藍に憧れる城戸の妹が絡んできて、事態はさらにてんやわんやなのさ、というわけだ。いちおうは城戸の失恋がメインのテーマなんだろうけれども、あどけなくもキュートな登場人物たちの、賑やかなテンションは、悲しみを、一過性のものとして、きれいに洗い流す。そうした作風によって、物語のわきに添えられた〈恋の終わりは世界の終わりじゃないから / いつかきっと思える / きみを好きになってよかった〉というポエム感が、くさくならず、澄み、あわい叙情として響いているのも、ナイスである。ちなみに城戸は、巻末のプロフィールによると〈とくぎは北斗神拳〉であり、生まれ変わったら〈ラオウ〉になりたいのだし、もしも願いが叶うなら〈ラオウになる〉ほどの拳王フリークであるらしいのが、そうした憧憬はまるで、自ずから噛ませ犬であることの宿命を背負っているかのようじゃないか、いや、そんなことはないか。さて、この巻における、もうひとつのトピックは、2年に進級した紗和たちのクラスに、転校生としてあたらしく、芸能人でもある杉下晴希が加わることだといえる。彼の、紗和に対する関心は、おそらく横恋慕に発展してゆくに違いないのだが、その過程で、紗和が(藍たちにそう働きかけたように)、晴希の屈折した性格を矯正するのだとしたら、それはそれで今後の見どころであり、物語の機軸が始点からぶれていないことの証にもなる。

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 Honey Bitter 4 (4)

 高名な医学博士の身辺警護にあたっていた私設調査室オフィス・Sの面々であったが、新薬発表のレセプションパーティの途中、会場であるホテルがテロリストたちによって占拠されてしまったため、大勢の人質を救うべく、警察に協力し、内部から状況の打開を試みる。小花美穂の『ハニービター』の4巻は、まるごと、そのような大事件(大案件)を扱っており、恋愛を含め、人間関係のレベルにおいては、さほどの進展はないのだけれども、これまでにちゃんと性格づけの行われている登場人物たちを、的確に動かすことで、ハリウッド映画じゃないんだから、という大袈裟なプロットのなかに、白けさせることのない、サスペンスの緊張をもたらしている。『こどものおもちゃの』の、というより、あの『パートナー』の作者であることを思い出させるような、そういう、うっすらと狂気の塗された描写も、君たち、眼が怖いよ、と場面場面で十分な効果をあげている。人の内面が読める主人公、珠里の能力は、ここで、テロリストたちの存在を、他者と異者、つまりコミュニケイトの予断を許す者とコミュニケイトの予断を許さない者のあいだに置き、むろんテロリズムによる暴力自体は悪だと見なしながらも、それを、理解しうる、理解しえない、の二項で判定してしまう行為を斥ける。後半の展開は、アクションに不向きな絵柄も含め、やや迫力に欠けるかな、という気もするけれど、中盤における、主人公とテロリストと人質たちの心理劇は、なかなかにスリリングで、読ませられるなあ。作者のあとがきによれば、5巻が出るのは、また1年後ぐらいになるらしいが、このぐらいのクオリティを、ずっと保っていてくれるのであれば、待てる。

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2007年06月15日
 キミがスキ 2 (2)

 うへえ。やっぱ、こういうドロドロとした展開になるのか。中学の3年間、同じバスケットボール部に所属し、お互いに惹かれながらも、付かず離れずの微妙な関係にある亜希と間瀬の二人だったが、クリスマスにデートする約束を交わしたことから、いよいよ友だちから先へと、その一歩を踏み出そうとしていた。しかしながら、そうはうまく転がってくれないのが物語というものである。ちょうど同じ頃、光一という、べつの中学の、バスケットボールで有名な選手が、亜希の前に姿を現し、彼女のことを、試合場などで見かけ、好きになった、と告げる。突然のことに驚きつつ、もちろん、断るつもりの亜希であったけれども、そのことをちゃんと伝えようとするさい、大切にしていたヘアゴムをどこかに落としてしまい、それを一緒になって探すうちに光一は、大怪我を負うほどの事故に遭ってしまう。このことがきっかけとなって、光一の傍にいることを選んだ亜希だったが、しかし、ほんとうは、心の奥では、間瀬への想いを断ち切れずにいた。以上が、渡辺あゆ『キミがスキ』の1巻における、おおまかな筋であり、この2巻では、同じ高校に進学した亜希、光一、間瀬の三人に、菜摘という女子が加わって、より面倒くさく面倒くさい恋模様が、繰り広げられてゆく。まあ、客観的にいえば、亜希の優柔不断ぶりが周囲の人間を傷つけているに過ぎず、おまえ、ふざけんなよ、といったところで、また間瀬の、亜希に対する未練があるような素振りも、作外の読み手は、亜希のほうの気持ちも知っているから、一概に悪いとは言い切れないのだけれど、でもちょっと、やり口が硬派じゃないよ、おまえ。いや、しかし、そのような傍迷惑こそが、要するに若さというもので、おそらく、当人ですらそれには逆らえず、だから苦しむしかないんだろうね、と、大目に見られたい。そうなってくると、怪我のせいで以前のようにはバスケットボールをプレイできず、それでも〈つまずいたっていつかは立ちあがるんだから / 気にしなくていいんだよ〉と亜希に言ってあげられる光一のやさしさが、不憫に思えてくる。この手の、前向きで素直なタイプは、三角関係以上の恋愛劇において、多くのばあい、噛ませ犬になりがちなので。あるいは根が真面目であることもまた、若さゆえの罪であり、したがって断罪されなければならないのだとしたら、生きるのも、恋をするのも、とても辛すぎる。
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 パピヨン 2―花と蝶 (2)

 自分と約束していたはずの流星が、なぜか妹の花奈(はな)といっしょにいるのを目撃してしまった亜蝶(あげは)は、ショックを受け、ふたたび自分に関する自信を失くしてしまうのであった。上田美和『パピヨン―花と蝶―』の2巻である。根暗な主人公に性格の対照的な双子がいる、という設定は、ふつう、分身=ダブルのテーマか、あるいは、他でもありえた可能性=オルタナティヴの問題を、深く絡めながら、物語を進めさせそうなものだが、これまでのところ、意外と真っ正直に、ひとりの少女がコンプレックスを脱することで成長する過程を描いている。そこでキーとなっているのは、やはり、カウンセラーである九(いちじく)の存在であろう。細かい部分を拾っていくと、作者が意図的にそうしているのかどうか、微妙なセンなのだけれど、やり取りのなかで、いちおうは、亜蝶が花奈のことを過剰に意識するのを逸らす、そういう役割を果たしているのである。とはいえ、その逸らされた意識が、この巻で、九への恋愛感情へとスライドすることになるのだが、今後に、このあたりをどう処理するのか。個人的には、作中または巻末のオマケで披露されている心理学的な薀蓄に、星占い程度の説得力しか感じないため、いや、まあだから逆に、星占い程度に好奇心をそそられる読み手もいるのだろうけれども、そのへんとの折り合い、兼ね合いが、おおきな課題だと思われる。

 1巻について→こちら
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2007年06月14日
 水曜日のライオン

 いわゆる、ベタ、の一言で作品を評価してしまうことは、思考の停止とほぼいっしょなので、できれば避けたいところなのだが、いや、しかし、これはさすがにベタすぎるよ、と、みきもと凜の『水曜日のライオン』を読んで、思うわけだ。表題作の「水曜日のライオン」は、見かけは不良じみていておっかないクラスメイトの男子の、意外な一面を見てしまったことから、じょじょに心惹かれていく女子高生の物語で、そうした表題作のほか収められている二篇のうち、「恋する世界の片隅で」では、幼少の頃に苛められていたせいで性格のいじけてしまった少女と、その原因となった男子が再会することで、二人のあいだの屈折した恋愛感情があかるみになってゆく、そして、もう一篇の「銀と青の永遠」は、あるとき一目惚れした男の子がじつは、病弱な双子の妹の恋人であったため、許されぬ想いに心を痛める少女を描いており、つまりは、みなどこかで見たことのあるパターンを踏襲しているに過ぎず、またそこに、先行するマンガ家の影響が上手にこなれていない絵柄を含めたうえでの批判を行うのは、容易い。じっさい、質的にもそれほど高いとは言い難いよね。しかし、細かいところを抜きにするのであれば、ぜんぶがぜんぶ、ハッピー・エンドで終わっている、そのことが結局は、読み手に感情移入を催させるようなポイントなのだ、と指摘することはできる。たとえば、すべての篇のラストは、もしも運命の一語をポジティヴなものだと信じられるとき、人の気持ちはこう動くのではないか、という力学によって支えられており、それがすなわち、ある種の紋切り型に紋切り型なりの清々しく、光り輝く機会を与えている。

 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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2007年06月11日
 『ヤングマガジン』NO.28に掲載されている「第56回ちばてつや賞」大賞受賞作、笠原滋の『ヒトイロ』は、けっして派手目な作品ではないけれども、とても質の高い、そういう内容であったよ。小学生のときに受けたショックのため、〈あれ以来 オレはまともにヒトのカオ見ていない……かわりにオレの眼に映るのはもやのようなヒトのイロばかり…〉つまり自分外の人間の感情というか内面が、色彩のかたちで透視できてしまうので、できうるかぎり他人に干渉しないようにして高校生活を送る主人公が、ひょんなことから、ささやかだが、しかしたしかな、友情とでもいうべきものの価値に気づく、までを描く。たとえば〈ラッシュの人ごみは苦手だ〉と、こうした心持ちは、とくにこのマンガの主人公のような能力がなくとも、思春期を中心に多くの人間が体験しうるものであり、それがネガティヴなほうへ、際限なく、どんどん転がっていくと、まあ90年代の頃に流行った、誰とも何も共有できないとでも言いたげな、自閉的で排他的な思想に行き着いてしまいがちなものだが、ここには、その傾斜の途中で、転落者を、下から上へと、しっかり押し上げる力が働いており、それがそのまま物語の魅力となって、現れている。最初にいったとおり、絵柄も含め、やや地味というか、あっさりとした線の作風ではあるけれども、総体的に説得力が、ある。ところで、欄外の(全マンガ家共通の)アンケート「全巻そろえたお気に入りのマンガといえば?」というのに、この作者は、『クローズ』です、と答えているのが(たぶん高橋ヒロシのだよね)、テーマ性の部分はともあれ、表面的には、ほとんど影響を感じさせないだけに、とても新鮮だ。
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2007年06月10日
 GAMBLE FISH 1 (1)

 金持ちやエリートの子息や子女だけが通うことのできる私立獅子道学園、そこに転校生としてやって来た白鷺杜夢の目的は、わずか一ヶ月のあいだに、ギャンブルで百円硬貨一枚を百億にまで増やすことであった。原作を青山広美が担当し、作画を山根和俊がつとめる『GAMBLE FISH (ギャンブルフィッシュ)』の1巻、1話目(Fight01)からさっそく、坊ちゃんたちをカモにする主人公が、じつに魅惑的である。心理戦ともいえる騙し合いは、ハッタリが効いていて、スリルに富む。それにしても記念すべき1巻だというのに、表紙がワキの女性登場人物で、主人公は裏表紙に回されているあたり、まあ、それというのも服装などにハード・ロックのバンド・ロゴがあしらえてあるのと同じように、ただ単に山根の趣味でしかないのかもしれないが、あんがい、このマンガの、灰汁であるような部分をよく伝えてくる。
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 有頂天ポリス 1 (1)

 高校時代に、きわめて不良(ワルと読んでください)だった人間が、卒業後、社会人として警察官になる、というのは、一般的にどれぐらい事例があるものなのか、寡聞にして知らないが、マンガの世界でならば、よく使われるパターンではある。それはきっと、まあ、なかには藤沢とおるの『GTO』における冴島のようなケースもあるけれど、基本的には、モラトリアムが終わったあとでの成長をわかりやすく示す、そのための発想なのだと考えられる。しかしながら、この男だけは、まったくもって成長していない、どころか、馬鹿さ加減に拍車がかかっているので、弱るよ。ヤンキーものの次に警察ものを描くというのは、鈴木けい一が『東京番長』のあとに『東京刑事』をはじめたときのことを思い出させるけれども、『東京刑事』が『東京番長』の正式な続編でなかったのとは異なり、秋好賢一の『有頂天ポリス』は、同作者の前作『香取センパイ』の主人公を、そのまま引っ張ってきている。そう、つまりは、あの、重度のトラブル・メイカー、香取権太のことである。だいたい、まだルーキーでありながら〈この1年で3つの交番を破壊…!? PC(パトカー)2台大破 バカな…テロリストの経歴みたいじゃないか…〉と、警察内部からも怖れられる破天荒ぶりは、高校時代をはるかに上回るものであろう。そうした暴走に手を焼く上層部の判断により、できるだけ表に出さないように、閉じ込めておくつもりで、藪隈署の留置係に配属されることになった香取であったが、もちろん、その程度のことで抑えが効くほど、常識的な人間ではなかった。いやあ、たとえば上司の〈ワシが黒と言えば白も黒…ワシにはさからえんよ〉という言葉に反して〈俺は俺で黒は黒!! 変わんねーよ〉と、言っていることはかっこういんだが、為すことぜんぶが真逆の成果をあげていくあたり、さすが、神がかっている。私生活においても、同僚というか先輩との飲み会で〈飲み会の時は無礼講を通りこして下克上がオレ流よ!!〉と(これはこれで名文句だけど)偉そうなところが、やっぱり、頭おかしい。いちおうは上級生の立場であった『香取センパイ』とは違い、この『有頂天ポリス』では、一番下のペーペーに過ぎないにもかかわらず、不遜な態度でもって、他人に迷惑をかけ続けたり、社会人になっても、あいかわらず、傍若無人すぎる。香取のボケに対する、いわばツッコミの役にあたる楠巡査長は、『香取センパイ』のガチャピンに比べ、個性が弱くあるけれど、悲惨な目の連続するせいで、存在感が強まり、愛着がわいてくるから不思議だ。たしかに、こんな人間が傍にいたら、堪らないよな、と。

『香取センパイ』
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 ナンバMG5 10 (10)

 小沢としおの『ナンバMG5』も、いよいよ10巻の大台である。だからといって、べつに節目というわけでもないのだろうが、いよいよ、主人公の剛ではなくて、彼の家族の念願であった市松高校の制覇が達成されるのだけれども、その、市松のアタマである陣内との対決は、わりとストレートにヤンキー・マンガしていて、これはこれで、けっこう熱い。陣内は〈昔から…何でもできた〉ために〈人生はつまらん〉と感じるクールな奴であり、こうした造型は、たとえば藤田和日郎のマンガ『うしおととら』に登場する秋葉流を彷彿とさせる、ある種の虚無を背負わされて成り立つ類のものだろう。これに対して、剛が真っ向からケンカで勝つということ、その意味をすこし考えるとき、背景には難破家という家庭のあたたかみが隠されているような気がしてならない。陣内の、そもそものターゲットが剛の兄である猛のほうであったため、おそらく一回は訪れる必要があったのだろうけれど、そうした初登場のシーンのなかで、彼が、難破家の賑やかな輪に交じっているのは、やや象徴的だといえるし、剛を焚きつけるべく、クリスマスの晩に、難波三兄弟が両親に用意したプレゼントを(そうとは知らなかったとしても)壊してしまうのも、なにか因果めいている。おそらく作者は、意識的にそうしているのではない、もしかしたら無意識なのかもしれない、としたら、なおのこと、そこから作者の、価値観とでもいうべきものを見出すことも可能だと思う。

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2007年06月09日
 クローズイラストBOOK 1

 先般、最寄りのショッピング・モールに行ったときのことである。喫煙所で、高校生か、もしかすると中学生ぐらいの男子三人組が「おまえ、どうしてそんなうまくないタバコ吸ってんの?」みたいな可愛いらしい話をしていたので、(注意しろよ、という意見の方もおられるだろうが、まあ)なんとなく聞き耳を立てていたら、尋ねられたほうが「ばっか、テッショーもこれ吸ってたんだぜ」と偉そうに、そしたら、もうひとりが「テッショーと同じなら間違いねえや」と、じつに楽しげであったわけだが、ところでテッショーって何だ、といえば、ああ、そうか、高橋ヒロシの『WORST』に出てくる河内鉄生のことじゃないか。気づいて、思わず、ぶっ、と噴き出してしまい、すっごく怖い顔で、睨まれてしまったのだが、これが創作とかではなくて、実話だから、困るよ。しかしながら、ヤンキー・マンガにかぎらず、サブ・カルチャーというのは、多くの場合、まずそのように影響を与える、つまり、形から入らせる。そういうのって結局のところ、何年経っても変わらないのな。だからこそ高橋ヒロシは一時期、『QP』におけるヒール我妻涼の読者受けの良さを、気に病まなければならなかったのかもしれない。ともあれ、そのショッピング・モールでの出来事は、『WORST』が若い世代にも読まれているのを確認できた、という意味で、貴重な体験ではあった。それにしても、ここ最近になって、ヤンキー・マンガというコンテンツは儲かるのか、出版社も含め、その周辺がいろいろと商売っ気を出しているのには、ちょっと意義を申し立てたい、と思ったのは、『クローズイラストBOOK』Vol.1の内容に、参ってしまったからなのだった。500円という値段設定は、単品でみた場合、もしかすると良心的にも思えるけれど、既出のイラストを大判化したものと真坂和義によるノベライズ、あとグラビア・アイドルの水着写真という中身は、さすがに検討の余地ありだろう。マンガ『クローズ』に関しては、単行本も総集編もコンビニ売りのヴァージョンも、このあいだの完全版もコンプリートしているので、いちおうはファンのつもりではあるが、これをあと9冊も買い集めるほどの意欲はそそられない。

・『WORST』
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2007年06月08日
 『漫画アクション』NO.12(6月5日に出た号)に掲載されている読み切り、曽山彦介『篭り姫』のトビラには、「京都精華大学卒!」と、わざわざ「!」マーク付きのコピーが打たれていて、まあ作者ではなくて、編集部がそうしたのだろうけれども、どういう思惑があってのことかは知らないが、「わざわざ」触れ回る必要のない事柄であるように思う。まさか、学んだ場(マンガ学科のある特定の大学)の名前によって、マンガ家の質が保証されるわけでもあるまいし。と、ちょっと口の悪いことを書いてしまったけれど、それはもちろん、作品を貶めるつもりでいうのではない。じっさい新人のものとしては、今後の活動に十分な期待を持てる内容に仕上がっている。戦国の世、小国の領主である父親の悪政に反抗したため、謀叛の疑いありと咎められ、牢屋に幽閉された姫君がとる果敢な行動を、『篭り姫』は描く。姫君つまり主人公のエモーションは、ほとんど親子の絆の部分にはかかっておらず、領土の平穏を願う使命感からやって来ており、おそらくは、この部分をどう見るかによって、作品の価値は分かれる。主人公の浅はかさなど、細かいところを非難することは可能だが、それでも、最初から覚醒している人間がある状況下でどう動くか、をドラマの焦点として見た場合、大胆な構図や展開には見せ場となる個所が多い。
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2007年06月07日
 こまみたま

 『アストラルエンジン』(原作・村上ひでお)で、いまどきにキャッチーな冒険ファンタジーを描いた中山敦支の、今回はオリジナル・ストーリーである『こまみたま』は、〈かつて京にはびこる八百万の妖怪を 一人の退魔師と二匹の神獣狛犬が討ち倒した そして退魔師は妖怪達を封印し 狛犬達に守護させた〉その結界を、知らずに破ってしまった主人公(ヒロイン)が、現代日本に蘇った妖怪変化の類を、同じく封印から解き放たれた神獣とともに退治して回る、という内容で、そうしたプロット自体は、手垢にまみれながらも、とても元気があり、さらにアクション性の高い作風でもって読ませる。ふだんのチャラいモードから、土壇場における熱血のモードへと切り替えることで、登場人物たちの感情を際立たせるのも、ある種のセオリーとはいえ、台詞回しや展開など、なかなかに決まっているし、ところどころ燃える。残念なのは、そのような登場人物たちや設定に馴染みはじめたばかりの、たった3話で物語が完結してしまっている点で、これが掲載誌である『月刊少年ジャンプ』の休刊に関連するものか、そうではないのかは知らないけれども、1話目と2話目に比べると、コメディの要素のつよまった最終話は、シリアス味が乏しく、あまり締まっていないふうに見えてしまうため、全体的な作品の質量が、やや軽く感じられるのが、もったいない。
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2007年06月06日
 テガミバチ 2 (2)

 まだ序盤だから当然とはいえ、設定は小出しにされながらも、全貌がぜんぜん見えてこない、この段階で、連載先である『月刊少年ジャンプ』が休刊というのは、やはり厳しいのではないだろうか。何よりもまず、作者がテンションをキープできるのかどうか、心配になってしまう。巻末の告知によれば、3巻の予定は来年の初頭になっているが、それはつまり、早くとも、ということで、なんだかずいぶんと待たされることになりそうだが、今回の場合、マンガ家当人に責任があるわけじゃなし、まあ仕方がない、かな。浅田弘幸が描く異世界のファンタジー『テガミバチ』の2巻である。アンバーグラウンドと呼ばれるそこで、5年前、国家公務郵便配達員=BEE(通称テガミバチ)のゴーシュと出会った主人公のラグは、彼への憧れから、自らも「BEE」になることを決意し、成長した今、そのための審査を受けるべく、一人旅立つ。道中、「摩訶」と呼ばれる伝説の生物の血を引く少女ニッチとのあいだで、「BEE」に不可欠な相棒(ディンゴ)の契約を結んだラグは、いよいよ郵便館=BEE HIVE(通称ハチノス)のあるユウサリ地方に辿り着こうとする、あと一歩のところで、ふたたび「こころ」と「テガミ」にまつわる騒動へと巻き込まれるのだった。ここでは、ジギー・ペッパーという、もうひとりの「BEE」に関するエピソードがメインになっているけれども、その過程で、ラグの〈「心弾」には その「もの」に込められた「こころ」を感知する能力があるのかもしれない〉可能性が示され、さらには〈摩訶の子を手なずけ…体内に精霊の力を宿した少年〉としての特性がアピールされる。つまりは、こうした資質をもってラグは、「BEE」の審査に臨むことになるわけだが、それの結果、どのような運命が拓けてゆくことになるのか、物語が本格的に動き出すのは、残念ながら、次巻以降のお話になっている。

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 第1話について→こちら

 『蓮華 spring edition one's intimate feeling / ふたつの忍花』について→こちら
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 きららの仕事 15 (15)

 『きららの仕事』は、いちおう料理マンガとの建前は持っているにしても、それよりは往年の『週刊少年ジャンプ』的なハッタリでもって物語が引っ張られている、というのは以前にも述べた気がするけれど、それがここで、この15巻で、こういう展開を持ってこられたら、そりゃあ燃えるわ。スシバトル決勝戦、宿縁の敵である坂巻との対決が熾烈をきわめるなか、坂巻の、倒れたサポートに代わって姿を現したのは、こちらも主人公きららとの根深い因縁を持つ“渡りの覇王”龍博章であった。新生坂巻チームの徹底された「“漢(おとこ)”の握り」によって、ふたたび、窮地に立たされたきららに、博章は〈こんな未熟な職人がよくもここまで勝ち上がってこれたもんだぜ それほど今の鮨職人のレベルが落ちてるってことか〉と、余裕の態度を見せつける。ああ、これはもう勝ち目がないでしょう、だいたい、この圧倒的な力の差を前にさあ、もしも逆転があったらあったで、いくらフィクションとはいえ、白けてしまうよね。と、こうした最大ともいえるピンチの場面でついに、ついに、あの“鮨の鬼神”秤屋小平治が起つ。ここでひと盛り上がりである。つまり、会場の(そして、おそらくは読み手の)誰しもが、きららをサポートするために小平治が登場したのだと思った、その矢先、しかし彼は自分ではなくて、べつの、もっと驚くべき人物を、きららの新たなパートナーとして指名するのだった。そうか、そっちへ行くのか。ここでさらに盛り上がる。いや、もちろん、それも想定しうる範囲の人選ではあるし、先に引いた博章の〈それほど今の鮨職人のレベルが落ちてるってことか〉という言葉に対しての反論を考えれば、現役を退いた小平治よりは、むしろ妥当なチョイスでもあるのだけれど、まあ、そうした予断を含めてもなお、こういう展開を持ってこられたら、そりゃあね、と熱くならざるをえまい。かくしてテンションの昂ぶるなか、はたして鮨の神は、きららと坂巻のどちらの“雷神返し”に宿ることとなるのか。雌雄を決すべく、物語は、ノンジャンルの最終戦へと突入する。うんうん。完全にかつての『週刊少年ジャンプ』のノリだ。

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2007年06月02日
 プチッコホーム 1 (1)

 いつ頃からなのか、もしかするとちゃんと検討する必要があるのかもしれないが、たとえば倉科遼(司敬)の原作に代表されるような、水商売を描くマンガ作品が、メジャーの青年誌で堂々とメインを張るようになった。キャバクラ嬢や風俗嬢、ホスト、スカウトマンなどなど、それらの職業が、かつてに比べると一般的になったから、なのかどうかは知らないけれども、やはり、そこには何かしら、時代性との因果が含まれているのだろう。佐藤智一の『プチッコホーム』は、まあ直截に水商売を扱った内容ではないけれども、この1巻を読むかぎり、そうした流れからの影響下に少なからず置かれている、と考えられる。新宿は歌舞伎町、水商売をおもに、深夜も働く人たちの子供を、24時間体制で預かる保育園「プチッコホーム」を舞台に、さまざまな人生の事情が語られるから、である。ただし、そのような設定が、この作者の作風とうまくマッチしているか、の判断は難しい。佐藤は、たしかに人の良い人間を取り扱ったら腕の立つタイプのマンガ家であるが、ここでは、そのことが、本質的にはヘヴィな話題の、その重みを拡散させてしまっている。それはもちろん、もうちょい生々しさが必要、ということではない。そうではなくて、主人公である新米保育士コッコの、温和な性格が、田舎の出身だという、ある種のステレオタイプ性によって保証されてしまっているのと同じように、夜の都会で働く人びとの、その良心を補足するためにしか、子供たちの存在が生かされていないことに、不満を覚えるのだ。

 『怪より始めよ。』について→こちら
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2007年05月31日
 忍者パパ 2 (2)

 山本康人『忍者パパ』の2巻には、職場が都内のどこにあるのかはちょっとわからないのだけれども、忍者パパこと祭のぶ夫が、東武東上線を使い、埼玉県の鶴ヶ島駅から出ている終バスに間に合うようにして、住まいに帰るためには、飲み会の席を9時過ぎには立たなければならない、そういう場面がある。これが地味にリアルである。むろん、バスがなければタクシーを使えばいいじゃない、ということもできるし、じっさい、都内から終電あたりの車輌で帰る人びとの多くはそうしており、深夜にタクシーを待つ行列が馴染み、という向きもすくなくはないであろう。ここで重要なのは、そうしたディテールの部分において、もちろん奥さんが免許をとって(持っているのかもしれないが)マイカーで迎えにいけばいいとも思うのだが、祭家にはタクシーを使う余裕がない、という点であり、そのことが、発泡酒と終バスの価値観を、作中で高めている。いや、高められているのは、そのようにして営まれている〈家庭のぬくもり…小さな平和の大切さ〉か。それは抜け忍である主人公にとって、金銭や権力には替えられないものであり、命を賭けてまで守らなければならないものなのだ。作品自体は、サラリーマンと○○の二重生活ものを、この作者流にアレンジしたマンガ、といったレベルに止まるが、ひねた人間からは陳腐に見えるほどの、しかしそうであるがゆえの実直さを、徹底的にキープしようとする気位こそを、ここでは評価すべきなのかもしれない。

 1巻について→こちら
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 サード・ガール 8 (8)

 完全版と銘打たれているの伊達じゃねいね。これまでのヴァージョンには未収録であった「Part.59」と「Part.60」がちゃんと入っているのが嬉しい。この8巻の、巻末における作者インタビューから察するに、どうやら続きが描かれる機会はなさそう、ということもあり、こうして全話が出揃った時点から振り返ってみると、マンガ『サードガール』は、80年代的な美男美女から、90年代的な美男美女へと移行する過程でもあったのだなあ、と思う。じっさい夜梨子が大学生になって、つまり彼女が、物語がはじまった当初の美也や涼の年齢とほぼ同じになってからの展開は、90年代初頭に合致し、80年代には若者として扱われていた美也や涼は、ほとんどワキに回っていく。夜梨子の、あたらしい恋のパートナーとして登場するカズボンは、現在の西村しのぶ作品にも通じる長髪のハンサムさんであり、その彼を値踏みする涼が〈いや…つまり…男の髪型ってのはそいつの思想をあらわしているわけだから――〉と言うのに対し、夜梨子が〈あっわかるわかる!! 涼さんみたいにきちっと刈り上げてると 若いひとのカジュアル ダメだよね〉と答える場面は、世代交代という意味で、じつに象徴的である。とはいえ、それは作者の時代性を捉まえる眼の問題であって、根本的な価値観やセンスは一貫されている。性差の隔てなく、容姿、心意気ともに、かっこうよい人びとが、力強く、生きる。そのことはとくに、少女から成人へと年齢を積み重ねてゆく夜梨子の姿に、とてもよく表されている。最終話に位置する「Part.60」で、夜梨子が、性急になりがちなカズボンに向かって〈あ あのね あたしが一個のいちごに優しいのは 今日ちょっと思ったんだけど 大沢くんとかね 涼さんとか みんながあたしに優しくしてくれたからだなって ということは 新しいBFほど“お得なあたし”とつきあえるってことじゃない?〉となだめる、この言葉は、楽しかったり悲しかったりする瞬間の獲得や喪失が、けっしてリセットの繰り返しなどではなく、一個の人間のうちで蓄積されることで、あたらしい視野のひらけてゆく、そうしたことの価値を代弁しているのである。先ほども触れた巻末のインタビューにおいて、作者がとうとうタイトルの由来について語っているけれど、それもつまりは、そういうことであろう。ところで6月には短編集『VOICE』(個人的には「さっきまで恋しかった人」がとても好き)の新装版が出るということなので、昨年から持ち越し、まだまだ西村しのぶイヤーは続く(という願望。これで新刊が出てくれれば、なお)。

 1巻について→こちら 

・その他西村しのぶの作品に関する文章
 『下山手ドレス(別館)』について→こちら
 『メディックス』について→こちら
 『アルコール』2巻について→こちら
 『一緒に遭難したいひと』2巻について→こちら
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2007年05月28日
 君に届け 4 (4)

 天然ボケともとれるほど、ナイーヴないしピュアまたはイノセントな主人公の爽子や、また彼女にちょっかいを出す、ルックスは良いが計算高いくるみの、そうした性格などは、少女マンガのシーンにおいて、昔からよく見かられるもののはずである、にもかかわらず、彼女たちの交わりからある種の清新さを感じられる、ってのが結局のところ、椎名軽穂『君に届け』の魅力なんだよな、と思う。爽子のまっすぐな態度に、苛立ったくるみは、とうとうその本性を顕わにする。一方、爽子や自分たちに罠を仕掛けた犯人に思い当たった矢野は、その尻尾を掴むと同時に、反撃の機会をうかがうのであった。以上が、この4巻の大まかな流れになっているのだけれども、こうしたストーリー展開もまた、球種でいえば、ストレート以外の何ものでもない。もちろん、この時代に、きわめて直球であることの勢いが、あるいは逆に変化球めいて見えることが、マンガの内容をおもしろく感じさせる、というのはあるかもしれない。が、それだけではなくて、たとえば、欠損があるゆえに人は他者を求める、という説をとるのであれば、ここで、その欠損は、暗くなく、ポジティヴで、明るいものとして描かれているのが、じつは重要なポイントなのではないか。このことは、爽子自身の成長によく現れているし、彼女と関わった人びとの変化のうちに表されている。そして、突き詰めていくと、やはり、爽子と風早の出会いが、すべてのはじまりであったことに、気づく。なぜ、爽子が、まあ風早に惹かれるのはもとより、新しく知り合った人たちを大切にするのか、それはおそらく、相手のなかに自分にはないものを見、そうして自分のなかにそれまで知ることのなかった感情を発見するから、であろう。矢野と吉田の逆襲によって、化けの皮がはがされたくるみを、しかし爽子は、友だちだと欺かれたことに傷つきながらも、嫌いになれない。むしろ〈まだつきあいは浅いけれど しらないこといっぱいあるけど…でも くるみちゃんのすごく大切な気持ちを私に教えてくれたんだよ 私もくるみちゃんに言いたいの〉と思い、彼女のもとへと走る。いいシーンである。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・『CRAZY FOR YOU』
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2007年05月27日
 メンズ校 2 (2)

 やたら前向きな男の子たちの性格も含め、テンションの高く、あかるい作風は相変わらずなのだが、ああ、くそ、やられた。まんまと泣かされたぞ。よもやこんな見え透いた手に引っ掛かるとは、というやつである。外界とはほぼ遮断された全寮制男子校の、賑やかな生活を描く、和泉かねよしの『メンズ校』の2巻は、中心人物のひとりであり、女子との交流を望みながら、どこか一線引いたところのある牧の、その原因を主な柱として進む。彼がまだ中学生だった頃、どうしようもなく惹かれた同級生エリカとのあいだに、いったい何があったのか。作中で〈入学式でドキ☆ドキな出会い / 友達以上恋人未満…そんなじれったい関係が続いて / ふとした瞬間に互いの気持ちがあふれ出す…〉ようなスクール・ライフを指して〈どこの‘90少女マンガだ〉と形容する個所があるけれども、だとしたら、ここでの展開は、さしずめ00年代の少女マンガに典型的なもの、といったところであろう。まあ要するに、好きだった人があれであれしちゃうわけだが、しかし話の持っていき方が、ずるいぐらいにうまく、先ほどもいったけれど、まったくもって油断させられる。牧とエリカの馴れ初めは、きわめてユーモラスに取り扱われており、幸福な時間の、短さと長さを、とてもよく表していて、そうすることにより、悲恋としてあるような結末が際立たせられているのだ、と思う。焦点となるのは、哀しみではない、嬉しさであり、喜びである。誰しもが、幸福な時間は永遠に続けばいい、と願う。そうした期待のふくらみの、大きくあればあるだけ、破れたときに痛む傷が、ここで、あ、と胸を打つエモーションをつくり出している。

 1巻について→こちら

・その他和泉かねよしに関する文章
 『そんなんじゃねえよ』9巻について→こちら
 『二の姫の物語』について→こちら
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2007年05月26日
 新暗行御史外伝

 最新で16巻まで出ている本編のほうは、『BASTARD!!』パターンというか『ベルセルク』パターンというか、旧くは『デビルマン』シリーズにおける不動明(アモン)と飛鳥了(サタン)のような、双子的な存在の愛情と対立をめぐっての壮大な遠回り、まあ要するに、読み手がいくら、もうゴールしてもいいよ、と言っても、作者の側は、まだまだ掘り下げたいことがあるんだ、と言わんばかりの状態に入ってしまった感のある『新暗行御史』(尹仁完+梁慶一)であるが、それが表現として立派なものなのかどうか、率直なところ、よくわからんのですわ。と、このサイド・ストーリーをまとめた『新暗行御史外伝』を読みつつ、あらためて思う。外伝とはいっても、エピソード単体の強度で勝負するというよりは、かなり本編の捕捉(または蛇足)的な意味合いが強い。つまり、あの登場人物たちのことがもっとよく知れて嬉しい、という読みをし、さらには設定がしっかりしているなあ、との感心をしないかぎり、たんに見せ方が下手なマンガになってしまっている。併せて収録されている日本デビュー作「THE FOOLS」は、『新暗行御史』とはまったく関係のない、西洋ファンタジーふうの内容だが、〈人間は誰しも誤った道を歩むことがあるけれど、人間ゆえに悔いることもできます〉といったテーマの部分に重なりを持っており、じつはそのような発言をさせる、つまり何が善で何が悪か一概には判断できない、といった逡巡こそが、『新暗行御史』という物語の遅延に通じているものなのだ、ともいえるし、結論を先送りにするフィクションというのが、もはや紋切り型のひとつでしかないようなこの時代にあって、それはけして物珍しくも、目新しくも、志の高く感じられるものでもないだろう。
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2007年05月22日
 シバトラ 1 (1)

 あまりの童顔のため、中学生にしか見られない新人警察官、柴田竹虎の夢は、少年係の刑事になることであった。親友の藤木小次郎だけが知る不思議な能力によって、宝生美月という少女の危機を察した竹虎は、彼女を救おうとし、全力を傾ける。安童夕馬(原作)と朝基まさし(漫画)が三たび組んだ『シバトラ』の第1巻である。不良という立ち位置を、テーマではなくて、あくまでもスペクタクルとしてのみ描く、そのような意味では、同コンビによる『サイコメトラーEIJI』の二番煎じに近しい。もちろん、あれには当時流行りのサイコ・サスペンスの意匠が凝らされていた、と、その部分を重要視するのであれば、ああ、まあ、そうね、といったところではあるけれども、このさいそれは置いておくとして、いや、それも含めて、意味ありげにストーリーは展開されながらも、結局のところ、中身はスカスカだという点こそが、ポイントだといえよう。いま現在『週刊少年マガジン』に、オーソドックスなヤンキー・マンガを見つけられないのは、むしろ、こうしたスペクタクル重視の作品を多く掲載させているためで、そのような傾向は、やはり『サイコメトラーEIJI』の連載がはじまった(あるいは藤沢とおるが『湘南純愛組!』のあとで『GTO』をはじめた)90年代半ばぐらいに強まったのではないか、と思う。『サイコメトラーEIJI』に登場するのは、いわゆるチーム、チーマーとでもいうべき少年たちで、それは、近代日本人の心性に基づくヤンキーや暴走族とは性格をやや異にするものであり、つまりは不良文化のポストモダンでもあった、と冗談半分でいうこともできるわけだが、本気半分でいえば、もちろんそのことは、同時期オタク文化をベースとしたサブ・カルチャーに起こりつつあったことと、並行的な問題に他ならない。そういえば『サイコメトラーEIJI』のテレビ・ドラマ版(97年)の演出を手がけたのは堤幸彦であったが、ちょうど彼の手法がそうであるように、話の筋というかテーマというか、または主人公の成長と言い換えられる項目よりも、ギミックそれ自体の機能を優先させるかたちで、『サイコメトラーEIJI』(や藤沢とおるの『GTO』)というマンガは成り立っていた。この『シバトラ』も同様で、たとえば竹虎の、未だ詳細の説明されていない能力やモチベーション、小次郎に仮託されたストリート性、それから少年犯罪におけるセンセーショナルな温度が、作中人物の内面を掘り下げたり、この時代に対する批評になっているわけではない。では、どういうことか。要するに、だ。適度に洗練されたスペクタクルが、どれだけ有効であるのかに頼む、そういう表現なのである(ちなみに藤沢とおるの現在の作品『仮面ティーチャー』にも同義のことがいえる)。
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2007年05月19日
 極道の食卓 2巻 (2)

 熟年離婚をし、夜間高校へ通う濁組組長、久慈雷蔵の生き様を描いた、立原あゆみの『極道の食卓』2巻であるが、1巻に比べると、ここではふつうにヤクザの親分をしていることに、驚いた。それというのも、作者が並行して進めている『仁義S』や『ポリ公』の灰汁抜き的な役割を、この作品は負わされているのかな、そのために金やセックス(性交)ではなくて、グルメや学校生活がマンガのなかに代入されているんだろう、と考えていたためで、こう、夜の街に、借金取りの類や水商売の方々、悪党に騙される人びとが跋扈しはじめたら、ネタは被りまくるし、ストーリーのテンションも似てきてしまうではないか、ただでさえワン・パターンの作風と見られがちであるのに、と危惧するわけだが、しかし久慈雷蔵の個性ひとつで、それを杞憂に変えてしまうのだから、さすがに、あゆみイズムの、その矜持たるや、奥が深い。ほぼボランティアで、クリスマスにはサンタクロースの恰好でプレゼントを配り、年末には幼稚園で餅をつくなど、そうした便利屋稼業顔負けの活躍ぶりは、とはいってもやはり、いかに人情家であろうともイケイケ型の若いヤクザにはそぐわないし、周囲の人間から敬遠されても仕方がないところだけれども、久慈雷蔵ならば、誰からも文句が出ず、許される。いくら物心のついていない子供とはいえ、偶然知り合っただけのおっさんが、裸になり、入れ墨を剥き出しのまま、キッチンで炒め物をしていたら、多少は物怖じするだろうに、むしろ喜んで(『仁義』の礼一じゃあるまいし)料理が出来上がるのを待っていたりするあたり、その人徳がうかがえる。まあ裏では、きっちりと稼いでいそうなのだが、一般人に迷惑をかけない、といったポリシーは、同作者の他のマンガ以上に徹底されているのである。それはそうとして、前巻のときには、料理が不味そうと書いてしまったが、ごめん、こちらの目が変わったのか、ちょっと美味しそうに見えてきた。ザリガニとバジルのパスタは食べてみたいな。

 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』3巻について→こちら
 『ポリ公』2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』第1巻について→こちら
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 主将!!地院家若美 3 (3)

 この3巻から、やきうどんの『主将!! 地院家若美』に、もうひとり、新規の変態さんが加わった。若美の妹の地院家螺木奈である。むろん、まともな人格の持ち主ではないが、しかし彼女を含んだことにより、こうして女性陣が充実してきたのは大きい。おまけマンガで作者はお色気重視云々といっているけれども、それだけではなく、(あくまでもこのマンガにしては、という意味で)まっとうに恋愛の要素が絡み、また一段とお話に賑やかさが増した。これまでは、あやしいワン・アクションとリアクションとをエスカレートさせてゆくギャグと、地院家にまつわるシリアスな展開とのギャップをもって、作品の幅がつくられていたわけだけれども、そこからさらにもうひとひねり、登場人物の行動パターンとエピソードのヴァリエーションが拡がったためである。第23話「自転車で帰ろう!! の巻」あたりは、まちがいなく、そうしたことの成果だといえる。下品なネタ(それもかなり程度が低い)は好き嫌いの分かれるポイントかもしれないが、手法や作風はわりとオーソドックスであり、意外と堅実で、順調におもしろい。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2007年05月18日
 山本善次朗と申します 1 (1)

 槙ようこの新しい作品『山本善次朗と申します』の主人公はいったい誰なのか、ということをちょっと考えたくもなるのは、ふつう、こういう題であれば、山本善次朗という奴か、そうでなかったら、そいつと恋愛関係となるような女性登場人物か、さもなければ、その名前に反して山本善次朗がヒロイン、というあたりの線を思い描いてしまいがちなところで、じっさいには、ぜんぜんそういうわけではなかったからである(だいいち、この1巻のカヴァーに、山本善次朗の姿、描かれていないよね)。霊視ができてしまう少女ほたて(歩達)は、今は亡き母の母親つまり祖母といっしょに10歳まで暮らしていたのだが、その能力を忌む祖母から避けられ、遠い親戚の住む田舎に預けられることになるのだけれども、その親戚こそが、じつは彼女のほんとうの父親、山本善次朗なのであった。と、つまり山本善次朗というのは、ヒロインの保護者となる人物の名であり、物語の基本線は、幼くして幽霊の姿が見えてしまう少女が、いかにして成長してゆくか、にあると見てしまって良い。しかしながら、それでもこのマンガが『山本善次朗と申します』であるのは、その成長を見守るやさしい視線が、もう一方の角度から、物語に膨らみをつくっているためなのだろう。このへんは、同作者の『愛してるぜベイベ★★』に通じる部分だといえなくもないが、あちらとは違い、ここでは保護者の立場をつとめるのは、すでに成人した人間であり、またヒロインが、ただ庇護されるだけのか弱い存在に止まっていない点に、あたらしい意義が含まれている。幽霊たちとの交流も、飾りつけ程度の付加要素に終わらず、ほんらいは目に映らない人の気持ちを、少女マンガふうのモノローグに落とし込むさい、効果的に作用し、たとえば、好きな人と離れずにずうっといっしょにいたい、といったシンプルなメッセージのよりつよい強調となっている、のである。

・その他槙ようこに関する文章
 『たらんたランタ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『STAR BLACKS』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『愛してるぜベイベ★★』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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2007年05月15日
 すこし前に出ていた『フィギュア王』という雑誌の、高橋ヒロシ特集号(NO.110)の内容に、その影響力というかネームヴァリューの大きさを、あらためて実感したのであったが、でもまあ、そうしたブランドめいたことの弊害もあるよね、と、高橋のデビュー作をアレンジした永田晃一『Hey!リキ』の9巻を読んで、思う。ああ、さすがにここまで質が下がるのは、まずい。何よりもまず、構図のつくり方も含めて、絵のレベルから志の低さがうかがえる。以前にはまだあった、高橋ヒロシの模倣から逃れようとするベクトルが、ここ数巻のうちに、完全に失しられてしまったのもあるし、ケンカのシーンにおけるアクション性のなさ、これが痛恨である。そもそもヤンキー・マンガにおいて、ケンカをどう描くかに関しては、あまり目新しい手法が生み出されていないにしても、先行するマンガ家のイディオムを拝借することに腐心するあまり、迫力のない、スカスカの描写になってしまっている。この巻でいえば、もはやヤンキー・マンガの定番ともいえる、あの、階段の上から攻撃されて転げ落ちるところに、それは顕著だ。同様の場面ですぐれたものなら、高橋の作品はもちろん、ハロルド作石の『ゴリラーマン』にもあるので、ぜひ比較されたい(殴り合いなどでダメージを食らった瞬間のインパクトについては、森田まさのりの『ろくでなしBLUES』あたりと比べてみるのがよいと思う)。またストーリーのレベルにおいても、看過できないポイントがある。このマンガがスタートした当初は、いわば坊ちゃんであるヒロポンの成長を捉まえる視線が、物語のうちには含まれていたはずだが、それが、ここにきて完全に破棄されてしまった。敵グループに拉致されたヒロポンを、まったくの弱者として描いてしまったのは、致命的だといわざるをえない。もちろん、以降の展開次第によっては、持ち直す可能性はあるにしたって、そのような立場をヒロポンに負わせたのは、まちがいなく、作中から女性の登場人物を極力排除していく(あるいは重要な存在ではなくしていく)のと同じ、ホモ・ソーシャル的な価値観に拠った論理だろう。そして、それをたぶん作者は無自覚に行使していると思えるのが、いけない。だいたい、ヒロポンの受けた仕打ちを目の当たりにした主人公が、〈一番手を出しちゃいけねー奴に手ェ出しやがってーーっ!!〉と逆上するのは、いっけんエモーショナルではあるけれども、この場合、それはヒロポンとの対等な関係に乗じているわけではなくて、あくまでもフェアではないことの言い換えに過ぎないため、いや、それってたんなる差別意識の裏返しでしかないでしょう。そこまで考えたうえで、暴力を扱わないと、絶対に表現は間違える。

 『ランディーズ 完全版』について→こちら
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2007年05月13日
 minima! 2 (2)

 誘拐されたアメの救出に向かったニコリであったが、犯人のひとりと接触したさい、首がもげる。という1巻からの続きではじまる、桜井まちこの『minima!(ミニマ)』2巻であるけれども、ううーん、どうもまだいまいち話にうまくノレないなあ。アメとニコリの仲直りや捨てられた猫の愁いなど、ところどころでは、この作者ならではの寂しい叙情がよく出ており、見るところもあるのだが、そうした出来事が、ワン・エピソード単位のまとまりで示されているわけではないため、全体のストーリー進行から、やや散漫な印象を受け、誰だって独りぼっちは嫌だ、というメインのエモーションへ到達するまでの展開が、もたつく。そのあたりは、もしかすると雑誌掲載時にリアルタイムで読んだほうが、素直に愉しめるのかもしれない。次巻以降では、もうちょい恋愛の要素が強まってくるのかな、緑が純粋に友情ベースで動いているのか、こちらからは一概に判断しづらい部分も、はっきりとしてくることだろう(いや、ま、アメと笹木のあいだに割り込んできたら、それはそれで噛ませ犬くさいとしても)。

 1巻について→こちら

 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』6巻について→こちら
 『H-エイチ-』3巻について→こちら
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2007年05月12日
 写真の神様

 山崎由美の原作付きの表題作である「写真の神様」は、写真甲子園というモチーフをあまりうまく扱えておらず、また、恋人の死や家族の愛情に飢えた少女、広島と原爆などの、わざわざ感動を誘おうとするマテリアルが満載されすぎていて、逆に白けてしまう、芯の部分が細い物語であったが、併録されている岡井ハルコのオリジナル作「つくさない女」(01年の作品)は、いや、けして悪くはなかった。高校時代から付き合うカップルが、同棲をはじめて2年目、倦怠というのではないが、もはや新鮮な関係でもない、そんなところにもうひとりの女性が割り込んできて、まあ、色恋めいた波風が立つ、といった内容である。そういう筋立てから、絵柄や構図にしても、オリジナルだと感じられる部分はほとんど感じられないのだけれども、自分の居場所をうまく確認できない揺らぎという点については、「写真の神様」よりも地味な表現であるが、しかし、よっぽど器用に捉まえられている。
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 ほんまに関ジャニ∞ 1 (1)

 『ほんまに関ジャニ∞!!』は、その題名が示すとおり、関ジャニ∞(エイト)7人の活躍を、みやうち沙矢がマンガにしたものなのだが、主人公として設定されているのは、写真集のため一年のあいだエイトに密着することになったカメラマンの蔵前亜理という女性で、まだ19歳である彼女の成長を、エイトの面々がフォローし、サポートするといった内容になっているのだけれど、いやあ、この主人公がさあ、まったく感情移入できない性格の持ち主でね、じっさい作中でもプロ意識の欠如から次々とトラブルを巻き起こすあたり、まだ1巻の段階だからあえて未熟に描いているにしても、おまえさんはいろいろとナメすぎだと思うよ、ってなる。しかしながら、そうすることで関ジャニ∞メンバーたちの、やわらかい心と仕事にかける真剣さが、強調されるつくりになっているのだから、やはり作者は意識的にそうしているのであろう。アイドルの意外な素顔などといったところで、結局はパブリック・イメージに則ったものに過ぎない。とはいえ、メンバーめいめいのシリアスで前向きな表情をプロモートしてゆく話の運びには、ときおり泣かされそうになる。個人的に、エイトのなかでは渋谷くんのファンなので、その渋谷くんがメインであるエピソードでの〈……無理から自分を曲げていく必要なんてないと思う / 時間かけて / いろんな経験して / いろんな考え方ができるようになれば / 自然に変わっていく時期が絶対に来るから……〉という言葉には、彼のキャリアを考えたとき、ずきん、と来るものがあった。
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2007年05月04日
 蒼太の包丁(14)

 基本的に、一話完結に近い形式でありながら、その連続のなかで、ちゃんと作中の物語というか時間が動きつつ、これだけのクオリティを未だに保っているのがえらい。現在連載されている料理マンガのうちで、最上のものは、たぶんこれではないのかな。『蒼太の包丁』の14巻である。この巻の、もっとも大きなトピックは、蒼太が助っ人に行っていた先の料理人である雅美が、『富み久』に移籍してくることになり、入れ替わりで、花ノ井が京都に戻るあたりだろう。でもって、そのくだり以前に置かれている、蒼太の、煮方に昇格するエピソードにおいて、花ノ井がみせる熱さが、また堪らなく、のちにやって来る彼の去り際を、よりいっそう引き立てる。煮方になるための課題をクリアしたはいいが、どうもすっきりとしない結果に、戸惑い、悩む蒼太に向かって、花ノ井は〈やすやすと「コツ」とか言うなやっ!〉と激しく叱責する。〈アンチョコみたいなやり方で「はい、この通り」って出来るんやったら修行いらんやんけ!〉というわけだから、である。ここで蒼太に突き付けられているのは、料理マンガの根幹ともいえる、つまりディシプリンの問題に他ならない。教わること、学ぶことは、誰かの力を頼りに、できる。しかし、そこから先は、自力で、覚えたことを、忘れず、身につけ、キープし続けなければならないのであって、それに耐えることこそが、じつは厳しい。このことは、蒼太の弟弟子である須貝が、雅美の加入によって、自分の立場に不安を覚えるべつのエピソードにも、反映されており、須貝の成長を見守る蒼太の〈才能がなければ認められない / しかし才能だけでは上がれない / それは僕たちすべての料理人に課せられた試練なんだ〉という、締めのモノローグへ、集約される。むろん、何もそれは料理人に限ったことではないから、読み手を説得する内容となるのである。ところで、マンガの見せ方としても、同じ場面を、コピーではなくて、(たぶん)模写で2コマ展開させる手法は、いつから使われていたのか気が付かなかったが、なかなかに気が利いている。

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2007年05月03日
 月の光 (4巻)

 まあ、この尻すぼみ感にしたって、結局は狩撫麻礼(marginal)だしね、だとか言ったら、ハードコアなファンからは、めちゃんこクレームをつけられそうだけれども、大風呂敷を広げるだけ広げておいて、それを畳まず、最小の共同体たる家族の姿にメインのテーマを落とし込むというのは、ここ最近(おそらくは90年代以降)の狩撫麻礼が良く使うパターンのひとつでは、ある。では、なぜそれを繰り返してしまうのか、たんに手癖というのだけではなくて、ある程度意識されたうえであることが、この『Astral Project 月の光』(竹谷州史)の最終4巻には、かなり直截的に示されている。つまり、この国においては〈1990年代後半に“ある種類の人間”の数が米国を追い抜いてしまった〉ためである。この“ある種類の人間”とは何かといえば、作中で、オタク指向の人間として現れている、要するに、不特定多数が共有しうるイデオロギー(大きな物語とかに言い換えてもよろしいよ)を前提としない人びとのことであろう。〈精神構造の中核を《天皇制》にゆだねてきたこの国の長い歴史があるのだ / 1945年の終戦と同時にポッカリと“空白”になってしまったその中核を……何が埋めたと思う?(略)プロレスだ / テレビジョンを利用した本来は対社会主義の占領政策だったのだが上手くゆきすぎた / プロレスと芸能とヤクザ……がこの国の《共同体》の御神体となったのだ / 時代が移り……同じ理論で“マンガ”“アニメーション”“ゲーム”“インターネット”……が精神の空白部分を占めれば…………それこそがジャパニーズ・クール!!〉という台詞は、やや説明的にすぎる(こういう部分がマンガの内容を、すこし、詰まらなくしている)と言いたいが、しかし、一個のまとめならばわかりやすくはあるよね。たとえばプロレスや芸能が、何かしらかのイデオロギーを背景に持ったサブ・カルチャーだといえるとき、今日、あるプロレスラーや芸能人が政治団体あるいは宗教団体と結びついていたりするだけで、非難を浴びせられる場面がすくなくないのは、そもそも、そういった政治性や宗教性の持つイデオロギーの支配が、とくにインターネット上などでは、失効しているからだと考えられる。換言すれば、イデオロギー自体の存在をサブ・カルチャーが必要としなくなった結果である(と、このへんは近年の大塚英志あたりがする話とだぶるわけだ)。それでもイデオロギーを伝播する手段としてサブ・カルチャーが効果的であったのと〈同じ理論で“マンガ”“アニメーション”“ゲーム”“インターネット”〉などのイデオロギー抜きのサブ・カルチャー〈が精神の空白部分を占め〉ることの行く末が、ここでは案じられており、それに抗うべく、いわゆる対幻想とは異なったかたちで、家族に模した共同体の再構成が支持されているように見える。そしてそのことはまた、狩撫にしたら、それこそ90年代の『天使派リョウ』(中村真理子)や『タコポン』(いましろたかし)といった作品から、地続きで存在するテーマに他ならない。

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2007年04月29日
 預言者ピッピ 1 (1)

 出た。ついに単行本化された。それがとてもうれしいし、こうしてまとめて読むと、あらためてその内容に、うならされる。いやあ、考えさせられる。地下沢中也『預言者ピッピ』の第1巻である。おそらく一話目が『COMIC CUE』誌上に、読み切りだと思われるかたちで発表されたとき、大勢の読み手が、ひとりのギャグ・マンガ家の、暗い資質が、たんにシリアスに現れた程度の作品だと考えていたはずで、この時代には、そう珍しくないことだ。が、しかし、そうではなかった。その後に、続きとなるシリーズが同誌に掲載され続けることで、はたして作者の構想がどのぐらい先にまで及んでいるのかは不明だが、すくなくともこちらの与り知らぬレベルで、ある種の思考実験とさえいってしまっても差し支えがないであろう、壮大なスケールの物語の編まれようとしていることが、じょじょに明かされていった。

 ピッピと呼ばれる人(子供)型のロボット、それは、すべての事象をデータとして計算し、自然災害などをあらかじめ予知することで、被害を最小限に抑えるという、高度な科学術が達成した人類の叡智であり、そのことによって、人びとは、より安心に、そして平和に暮らせる、はずだった。しかし、瀬川という科学者の一人息子で、ピッピの親友でもあったタミオの死が――いわば不幸をなくすための装置の、その眼前で、たったひとつの例外的な存在の喪失されたという事実が、ピッピのなかに新しいインプットをもたらす。それは、つまりピッピのなかで〈ボクには願うなんてことはできないんだよ / 人間はありもしないことを心に描いたりできるらしいけど / ボクにはそんなことできないんだ / ボクはロボットだから〉とされていたことが、〈ぼくは確率の計算しかできないロボットだ / 願うということがぼくにはわからない / でも もしも願うだけで / この世のすべて災いが なくなるのなら / ぼくは きっと そうする / もしも それで願いがかなうなら〉と書き換えられた瞬間であった。感情の芽生えというなら、そうかもしれないけれども、じつはこのときを境に、人類は、カタストロフへと向かい、その歩を進めはじめていた。

 以上が、おおまかな事の起こりだといえる。かくして、生きとし生けるものにとって、未曾有の危機が訪れることになるのだが、それは当人たちの知らぬ間に、あくまでもスタティックに進行する。ここが、この物語のこの巻における、最大級のサスペンスであろう。破滅は、破滅として気づかれず、それを預言するピッピの言葉は、むしろ破滅を回避するためのものとして、歓迎される。どれだけの絶望であったとしても、他人事で済ませる段階であれば、気に留める必要なぞ生じえないからである。

 ところで、いったん話は変わり、東浩紀が提唱する言葉に「ゲーム的リアリズム」というのがある。新書『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』のなかで、〈ゲーム的リアリズムは、ポストモダンの拡散した物語消費と、その拡散が生み出した構造のメタ物語性に支えられている〉といわれているものだ(そこではあくまでも小説という形式に対してのものであるが)。ここで、その一側面を、えらく大雑把に取り出してみたいのだが、それというのは要するに、ひとつの作品のなかで、主人公が、いわゆるリセット可能な生を、何度も生き直すことによって、同じ物語のべつの展開が複数回繰り返されるような、そうした手つきが主題を浮上させる作品に対して、感情移入が生じるとき、我々は、他の展開もありえたという物語の総和(メタ物語)を見ているのだ、というふうにいえる。また、その場合、SF的な諸設定は、表現の目的ではなくて、一個の手段として採用されているに過ぎない。

 いや何も東のいう「ゲーム的リアリズム」でもって、この作品を捉まえようというわけではないのだけれども、『預言者ピッピ』には、それと接触またはそれに抵触するところがある。あるいは、大澤真幸がいくつかの文章で述べているような、自分の人生には現在とは異なるべつの展開がある(あった)と想像しうる、今日に一般的な観念を内包している、といったほうが正確かもしれない。たとえば『預言者ピッピ』の作中を生きる人びとにとっても、まさしく、そのような指向性は現実であろう。そして彼らは、ピッピの予知に基づいて、他でもありえた可能性のなかから、最良のものを選択していくのだが、しかしそのことは結果的に、彼らから、他でもありえた可能性を剥奪してゆく。公開自殺の役目を買って出た新聞記者の真田は、その最たる例だといえる。最たる例であるからこそ、人類の運命を象徴する出来事として描かれており、真田が〈俺自身のことを他の誰かに決められてたまるもんか〉と言うさい、これはいっけん主体的な行動に見えながらも、すでに因果のうちに含まれている、とピッピに告げられてしまう。

 はたしてこのとき、つまり目の前に示される可能性が、それ以外の可能性など何ひとつない、といったことの証明でしかないとき、それでも希望を信じることは可能なのか。物語のうねりによって喚起されるのは、おそらく、そのような問いである。

 ※この項、ちょっと(いや、ちょっとじゃねえな)雑で未整理ですが、時間があるときに書き改めるか、2巻以降が出たら、そのときに新しいエントリでまとめ直したい、と思います。
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2007年04月27日
 海街diary 1 (1)

 『海街diary1 蝉時雨のやむ頃』(ほんとうは憚るっぽいほうの漢字でセミ)は、ひさびさに、国家規模の陰謀も遺伝子レベルの天才も出てこない、現代的な日本の風景を扱った吉田秋生のマンガで、そうそう、こういうのが読みたかったのだよ、と思いつつ、ページをめくる。幸、佳乃、千香の香田姉妹は、鎌倉の、今は亡き祖母の旧い一軒家に、三人で暮らす。遠い過去に、父親はよその女と家を出、母親もべつのところへ再婚していったからだ。社会人として生活する彼女たちのもとへ、その父親が胃ガンで急死したとの報せが届く。しかし、十数年も会っていない父親の死は、これといって強い感情を引き出すことのないものであった。ただ気が重いなか、葬式に出席するため、新幹線で向かった先で、彼女たちは、母違いの妹すずに出会う。まだ中学生にもかかわらず、気の張りつめた態度を崩さないすずの、その寂しさと危うさに気づいた三姉妹は、彼女を引き取り、一緒に暮らそうと思う。こうして四姉妹になった女性たちの、明るく賑やかで、それでいて、どことなく悲しみを帯びた日常が綴られていく。家族ないし血の繋がりというテーマは、この作者の作品につねに付随する要素ではあったが、それをこういう、ゆったりとした時間の流れのなかで、じっくりと描くのは、けっこうはじめてのことなのではないか、という気がする。劇的な事件が起きる、というよりも、身近なトピックや変化が、登場人物たちの心を揺らす。けして派手な物語ではないが、読めば読むほどに、複雑で鮮やかな感情に気づかされてしまうのは、さすが、である。ところで佳乃の恋人である藤井朋章って、『ラヴァーズ・キス』の彼と同一であるのかな、〈彼が抱えているなにかはあたしじゃ持ってあげられないんだな〉という言葉からして、微妙にリンクしている。

・『イヴの眠り』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
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 月と湖

 芦原妃名子の『月と湖』には二篇のマンガが収められていて、ぎょ、っとする展開の「12月のノラ」も悪くはないが、やはり表題作の「月と湖」がいい。高名な作家「市原有生」の遺作「月と湖」は、〈湖畔の隠れ家で愛人と過ごした静かな時間を綴った私小説〉であった。妻を愛し、添い遂げるはずだった小説家が、別荘で出会ったべつの女性と恋に落ち、世間を欺くよにして、密かに通じ合うという作品である。12年後、「市原有生」の孫である一菜は、「月と湖」の内容が事実に基づいていることが、つまり祖父が祖母を裏切ったことがどうしても許せなくて、その小説だけは読まずにいたのだけれども、祖母に頼まれたことから、祖父の(元)愛人宅へ、「月と湖」の舞台となった山間へと赴いてゆく。一菜が、事前に(元)愛人である水橋透子に抱いていたのは、日陰の女らしく〈気が強くて でも儚くて?〉というイメージだったのだが、じっさいにそこで出会ったのは、野良仕事の似合う図々しいお婆さんでしかなかった。はたして男は、この女性のどこに惹かれ、妻よりも深く愛したのであろうか。やがて水橋のお婆さんが告げる真実に、一菜は、いま自分の思い悩んでいる恋愛の事情を重ね合わせ、そうして「月と湖」に書かれてあった言葉の、そのほんとうの意味を知る。「月が」「二つあればいいのに」「本物じゃなくていい」「実体なんかなくっていいから」「愛するあなたが二人存在すればいい」。たとえ両想いの最中に、どれだけの幸福を感じたとしても、人の気持ちは変わりうるがゆえに、不安はどこからともなくやって来る。ましてや、それが片想いでしかなくなったとき、信じられるものは自分の気持ちのみであるようなときに、人はどこでどう不安との折り合いをつければ良いのか。「月と湖」に描かれているのは、おそらく、相手を責めない別離のかたちだろう。もちろん別離にも、いろいろなかたちがある。しかし、けして分かり合えなかったからといって、あるいは結ばれることがなかったとしても、相手を想った気持ちが嘘に変わるわけではない。だからこそ別離は悲しく、悲しみは傷を残す。だけど、その傷が、生きていることの、生きてきたことの、誰かをちゃんと愛せたことの、たしかな証として実感されることだってあるのだ。作中〈“上手に嘘をつくから”“この小説は”“ギリギリ”“美しいの”〉という台詞が、とても、あまやかに、せつない。

・『砂時計』
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 弘兼憲史の『島耕作』シリーズは累計2880万部の売り上げを突破したという。一方で、高橋ヒロシ『クローズ』の売り上げは累計3200万部だそうだ。単行本以外のヴァージョン(コンビニ売りの版など)がどう計算されるのかは知らないし、そもそも単行本を買って読む人間ばかりではないにしても、こうした数字に含まれる影響力というのは、すくなからず、ある、だろう。しかしながら、いわゆるマンガ批評、とくにサブ・カルチャーから社会を考える式のものにおいては、それらを無視することが通例であるように思われる。さらに『島耕作』と『クローズ』を並べたのは他でもない。双方ともに、ホモソーシャルな価値観によって支えられている内容であるけれども、一般的に『島耕作』を支持するメインの層は団塊の世代だといわれ、『クローズ』を支持するメインの層は団塊ジュニアだとされている。が、もちろん、団塊の世代ばかりが『島耕作』を読んでいるわけではないし、団塊ジュニアばかりが『クローズ』を読んでいるわけでもあるまい。そうしたとき、問題になってくるのは、それらの、男性の生き方を描いた作品は、はたして、ほんとうに男性に生き方を教えられるか、ということである。不良をかっこうよく描くことと、かっこうよい不良を描くことは、むろん根本的に異なる。これを些事としてスルーしてしまう考えが、人びとの指向と思考とを貧しくする、というのは、いや、ごめん、こちらの個人的な妄想だろうか。

 さて、本題である。掲載誌が変わり、原作(俵家宗弖一)がついたが、物語上は『ドリームキング』の直截的な続編に他ならない、柳内大樹の『ドリームキングR』1巻であるけれども、やあ、これは駄目だあ、高く買えるところがほとんどない、というのが正直な感想である。『ギャングキング』との差異をどのへんに置いているのかわからないが、作品の比重は、以前にも増して、ファッション業界を舞台にした成り上がりの部分よりも、都市空間におけるギャングの抗争といったファクターがでかくなってしまっていて、これに比べると、同じく疑似ストリートじみた内容でも、あれほどまでに破天荒であった『TWO突風!』(藤井良樹・旭凛太郎)のいかに良く出来ていたことか。だいたい、デザイナーとして成功するため、いちいちケンカをしなければならない、というのは、ちょっと理解できない世界だぜ。いま現在の柳内のネームヴァリューならば、それ相応に売れはするんだろうが、うーん、まあね、作者がいったいどういうつもりで、主人公のジョニーに〈いつの間にか……大切なモノを見失っていたなぁ……〉と言わせているのかを考えると、悩ましい気分になるよ。しかしながら、だ。巻末の、前日譚にあたる第0話のように、お年寄りを絡ませたワン・エピソードのものを描くと、その秀逸さを回復させるのだから、侮れない(たしか、これは柳内単独名義で発表されたはずだ、とはいえ、この巻のなかではもっとも発表が旧いエピソードなので、そうした評価が当てはまるかは微妙だが)。まあ『ガキ・ロック』や『情霊記』など、人情をメインに据えた内容のせいで振るわなかった過去もあるだろうが、どうか今一度、これまでに培った実力でこそ、その手の題材に真っ向からチャレンジして欲しい、と願う次第である。

・『ドリームキング』に関する文章
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・『ギャングキング』に関する文章
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2007年04月26日
 春がくるまで

 これはちょっと照れるな。単刀直入にいって、藤戸陽子の『春がくるまで』に並んでいるのは、どっかで見たことのあるような絵柄も含め、きわめて平準的な作品ばかりなのだが、その、いささか純情にすぎる登場人物たちのやり取りからは、ぼやけず印象に残るぐらいの、清新な雰囲気が漂っている。そして、たぶんそのことは、両想いを描いた表題作の「春がくるまで」や「ひとめぼれ」よりも、片想いがテーマである「花になる」や「Believe!!」のほうに、よおく現れているように思う。というのは、モノローグの所有が、女性側にあり、男性側にはない場合、ヒロインの内面が可視され、過剰に示されざるをえないわけだが、それが両想いであるとき、どうも相手を信じられていないかっこうになってしまう。そこで、細やかな心情の機微を、表現の必要上、うまく拾い切れれば良いのだけれども、残念ながら、それだけのレベルには達していない。しかし片想いであるならば、真っ正直な気持ちを、真っ正直なままに捉まえれば良く、現時点では、そうした点に作者の資質が生かされている、と感じた。
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 キャットストリート 6 (6)

 ひとつの微妙な関係の変化が、べつのひとつの関係を、決定的に、違えてしまうことがある。かくして、思い遣る気持ちのこんがらがった結果、浩一と玲のふたりを同時に失ってしまった恵都は、彼女の通うフリー・スクール「エル・リストン」のスクール長からかけられた〈――その幸福はいつも他人から与えてもらっている幸福だから揺らぐんです / 君自身がつかまないと誰をもそれで包んであげられない / ここに通う人たちは普通の子より持ち物がひとつ少ないんです / でもそのかわり人が持たないものを持っている〉という言葉をきっかけに、ふたたび前を向いて、歩き出す。自分にしかできないことで自分を試そうとするかのように、女優としての復帰を志すのだった。と、そうした成り行きでもって、神尾葉子の『キャットストリート』は、この6巻から、本格的に、芸能界を生きようとする少女の物語へと移行しているのだが、たとえば、はじめての映画出演における主演女優とのやりとりや、かつての親友であった奈子と友情を復活させるなど、他人との協調によって成長を描く、といった本質の部分に変わりはなく、そして、その過程のなかで恵都が獲得した明るい表情に、とても励まされる。彼女には、たしかに一種の天才性があるのだけれども、それをメインのテーマとしては扱わず、あくまでも作品の輪郭をかたちづくるための補助線に用いることで、特別な業界での才能ある人間によるサヴァイバルとは、根本的に異なった体の内容が仕上がっているのであり、その手つきの先に見えてくるものこそが、先に引いた〈ここに通う人たちは普通の子より持ち物がひとつ少ないんです / でもそのかわり人が持たないものを持っている〉という台詞の、物語のレベルにおける体現に他ならない。したがって、恋愛の要素も、この段階では、二次的なものに止まってしまっているが、そのことに関しては、次巻以降に、また何か展開がありそうな流れではある。それにしても、オーディションの場面でさあ、主人公に意地悪をする女の子とか、こういう、読んでいるこちらが思わず赤面させられるほどに見え透いていながら、それでもハラハラとさせられる、つまり古典的な少女マンガの本領とでもいうべき部分をこしらえさせたら、この作者はやっぱり別格なんだよな、と感心する。

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2007年04月24日
 イカロスの山 7 (7)

 ついに、ついに、ついに、〈ここより高いところはありませんっ / 今ぼくたちは名なし山の頂上にきましたっ…………〉と告げられるそのときが、やって来た。塀内夏子『イカロスの山』の7巻である。さまざまな受難を越え、その「神々の頂」に登頂した平岡と三上の日本隊は、人類の歴史のなかで、今まで誰も見たことのなかった景色を目の前に、深い達成感を覚える。ここで幕が下りたならば、まさしくハッピー・エンドというに相応しいところなのだが、しかし、作者も読み手も登場人物たちも皆、まだ、この物語に結着がつけられていないことを知っている。〈ここまでいろんなことがあったのに帳消しになったみたいだ〉と三上が呟き、いよいよそこから立ち去ろうとするとき、平岡の脳裏をかすめたのは、三上の妻である靖子の姿であった。それが何かしらかの兆しであったかのように、濃い霧が、じょじょに視界を遮ってゆく。〈下山時の遭難が7割を占める〉ヒマラヤでは、〈本当の闘いはこれからなのだ〉とベース・キャンプで無事を祈るしかない人びとのもとへ、はたしてふたりは生還することができるのだろうか。いやあ、ここまでの展開も、十分に予断を許さぬものであったけれど、それ以上の苛酷さをこうして描き、またもやふたりの生き方を試そうとするかよ、と、ストーリーの手綱をさばく塀内の腕前に、感嘆させられる。地上までの遠く感じられる距離が、平岡と三上のあいだにある、いわく言い難い逡巡と重なり、いまだに彼らの運命が流転の最中にあることを、こちらに知らしめるからだ。作中で何度も予告されているとおり、ふたりとも欠けずに山を下りることができても、かつての日常はもう戻ることはない。それでも彼らは、物語に結着をつけるため、文字どおり命を懸け、地上へ帰ろうとするのである。

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 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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2007年04月23日
 ジナス-ZENITH 2 (2)

 我々はそろそろ、『バードマン★ラリー鳥人伝説 吉田聡傑作短編集』(90年)の解説が宮崎駿であったことを思い返す時期に差し掛かっているのではないか(大げさかな)。『湘南爆走族』を傑作だといい、『スローニン』を好きだといい、『ダックテール』をとても好きだという、宮崎がそれらの作品に見ていたのは、つまり、〈かこわれた学園生活の大騒ぎ〉から〈かこわれた学園という舞台を、世間としての学園に捉えなおすこと〉であった。要するに、一個として数えられるべき人間がこの社会でどう生きるか、ということであろう。こうした文脈を把握していないと、のちの黒田硫黄の作品に対して宮崎があてた評を、作画にのみ関してのものだという勘違いを引き起こしてしまう。といったところで、話は変わるのだけど、さて、皆様方が大好きな浦沢直樹『PLUTO』の4巻、最後のページ(奥付のさらに後ろね)を開かれたい。そこには次のようなコピーがある。〈人間とロボット…その深き闇を覗く者は――〉。作中でじっさいに使われている文句ではないとしても、作品を象徴する文句としてはすくなからず機能している、として、おそらくは長崎尚志(ビッグ・オー)のアイディアであるか、もしそうでなければ、べつの人間が意識的にか無意識にかチョイスしたことになるわけだけれども、そう、これは、どうしようもなく、あの、吉田の『ジナス―ZENITH―』で作中に響き渡る〈ジナスを見た者はジナスに覗き返される〉というフレーズを想起させるし、そもそもそのフレーズ自体が『荒くれKNIGHT』のなかですでに〈覚えときな……深い闇の淵を覗こうとする者は その時深い闇からも覗き返されているのだという事をな……!〉と発されていたもののヴァリエーションであり、『PLUTO』4巻末のコピーは、むしろ、そちらに近しい。

 と、(やや牽強付会にすぎるが)ここでいいたいのは、コメディを軽んじない作風からか、他のシリアスな作家に比べ、どうも浅く見られているような印象があるけれども、しかし吉田聡というマンガ家の問題意識は、つねに今日的な現実のほうを向き、密着していていたのであり、そしてそれは、この時代において、もっとずっと考えられてしかるべきものだ、ということである。

 あるいは、現実というものはすべて、人の心によって成り立っている、という提言なのかもしれない。『ジナス』の2巻、自分を覚えてくれている人間の記憶を頼りに、時と場所を越え、七日間だけ蘇ることのできた死者は、それぞれの思惑を胸に、この世をもう一度眺め、生きていたころの続きを、銀髪の殺し屋がやってくるそのときまで、しばし続ける。それにしても、いったい何のために、か。ジナスと呼ばれるものだけが、その鍵を握るのであったが、しかしジナスが意味するものを、未だ誰も知らない。こうしてつくられた物語のなかで、繰り返し問われているのは、感情の価値、に他ならない。この巻で印象的なのは、ジナスの謎を追っていた新聞記者を襲う連続殺人鬼(死者)が、自分が罪を犯したことではなくて、死ぬ直前に罪を悔いたことを心の病だと言い、正しさは、感情をともなわない境地にあることを主張する箇所である。〈後悔や不安……感情があるから人間なの? じゃあその感情は役に立つの? あんたが死んで誰かが泣いても その涙で世の中は変わるの? あんたが死ねば あんたと一緒に消えてなくなる感情なんて――見えないくせに苦しみを作るだけのばい菌と同じさ“ジナスが来る”“完全な物が来る!”“完全な物”は感情なんて理解しない!〉。この、感情は役に立つのか、という問いは、幼稚なレベルであれば、さまざまな場所で見かけうるもので、本来ならばハイクラスな問題として慎重に取りざたされなければならないところを、正直、自身が役に立たない人間ほどこういうことを言いたがるから、また厄介になってしまうのだが、突き詰めていくと、感情のない「物」を人間とは呼ばないよ、といった点に帰結するように思われる。作中で、銀髪が、連続殺人鬼(死者)に向けて、〈おまえを殺すことに後悔はない〉と告げるのは、ひとつには、このためであろう。

 さて。生死を直截的に扱う『ジナス』の内容は、同作者の『てんねん』の延長線上にあると考えられる一方で、原形を『バードマン★ラリー』に収められている『天翔ける鈴』という作品に見ることもできる。痛みを意識的に断絶するぐらいにまで進化した結果、最終戦争が起こっても他人事だとしか思えず、自分たちの星を失った宇宙人が、地球の様子を見て、知り合いになった不良少年のシブカワに、こう述べる。〈シブカワ、この星もよく似ているぞ! 死体の写真を子供が見て笑ってる! ウラミもない者同士が無意味に傷つけ合っている!!〉。やがてシブカワの人間らしい行動が、その宇宙人に〈おまえのようなヤツがたくさんいたら……オレの星は滅びなかったかもしれないな…………〉と思わせるくだりに、『天翔ける鈴』というマンガの主題があるわけだが、しかし、痛みや苦しみがあるせいで、争いが起こることもあり、感情のあるがゆえに、他人に対して痛みや苦しみを与えてしまうことさえある。だが、そうした世界を諦めず、逃げないことを指してこそ、現実を生きる、というのではなかったか。『ジナス』 において、ジナスを創ったと嘯く謎の男、高天明は、人間が“恐怖”や“愛”にとらわれることを、“恐怖”と“愛”の両面がけして矛盾しないことを、理解しえない。また、銀髪は、人の感情を、あくまでも情報として知る、だけである。とはいえ、それはほんとうに知ったことを意味せず、そのことは同時に、彼らには伝えるべきものが、何ひとつ、備わっていないことを示している。

 1巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

 『湘南グラフィティ』について→こちら
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2007年04月22日
 楽園のトリル 1 (1)

 一歩あるけばひとつ災難に遭う、というぐらいの不幸体質に悩まされる鹿谷律は、高校進学を機に、そうした自分の運命を変えようとの決意をするのであったが、入学して早々、校内でも有名な問題児である篁映里と出会い、それをきっかけに、よりハードな毎日を送る羽目となってしまう。藤田麻貴『楽園(エデン)のトリル』の1巻である。基本的には、庶民感覚で健全性をまとったヒロイン対サドっ気抜群でリッチかつ才能のあるハンサムさん、式のフォーマットを採用したラヴ・コメディだが、そこに、嫌々ながらの共同生活的なファクターが挿入されている。医師から胃潰瘍の診断をくだされた律は、幼い弟たちの育児など、せめて家庭内のストレスからは助けてやろうという両親の判断によって、学校寮に入ることになるのだけれど、特殊な制度のせいで、篁とペアになってしまい、ほとんど同じ部屋で生活することになるのである。このへんが、おそらくは要所で、物理的に手が届きそうな、主役格二者の、微妙な距離感が演出されているのだが、男性の側である篁に、他人を拒絶する暗い影を負わせることで、律とのあいだに精神的な隔たりを置き、そうすることによって、両者に性的な干渉が意識されながらも、べつにそれが、作中人物のみならず読み手からも、望まれることのない構図が出来上がり、したがって安易なセックス(性交)が、表現の目的とはなりえない安全弁の役割を果たしている。作者はカヴァー折り返しのコメントや巻末のコメントなどで、リリカルな物語にしようと思っているのになかなかなってくれない、というような旨を冗談交じりにいっているけれども、リリカルと言うからそうは見えないのであって、一対の人間関係を緊張させるピュアラブルなエモーションをベースに、しっかりとした足どりで、物語は進んでいるように思う。
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2007年04月21日
 ヒメレス~私立姫園学園女子レスリング部 2 (2)

 いっけんオールドスクールなエロ・マンガといった感じの絵柄、あるいは一昔前の月刊少年誌に載っていそうなちょいエロ・マンガふうのストーリーが受けなかったのか、わずか2巻で完結してしまった一智和智の『ヒメレス 私立姫園学園女子レスリング部』であるけれども、作家本人が描きたい盛りだったのか、編集サイドからの要請だったのかは不明だが、こうなってくると正直に、そうした性的な描写は、もうすこしワキにのけて、本筋にあたるレスリングの部分を、もっと詰めていって欲しかったな、といったところで、じっさい、お話の終盤に差し掛かり、ようやく展開された試合運びにおけるテンポの良さには、目を見張るものがある。リングに立つ登場人物たちの、一挙手一投足に稀な躍動感があり、そのひとつひとつが、じつに、派手に、決まっている。それとやはり、コーチ役をつとめる一場の頭の悪さが、すごく、良いよ。その部分に関しては、作中の言葉どおり〈何これ こいつらバカ? こんなゆかいな見世物めったにないわ〉という評価を与えたい。おそらく、物語が続けば、スポーツ・マンガにとってセオリーのひとつ、才能対努力というテーマに入っていく予定であったことは、随所からうかがえるし、そうした過程のなかで、いまどき珍しいぐらいポジティヴで(単細胞ともいう)熱血漢の一場がどう動くか、つまり、諦める以外の生き方があることを他人に教えられるのか、それは真剣に興味を覚えるポイントなのだったが、しかし、終わってしまったものは仕方がない。
 
 1巻について→こちら
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2007年04月20日
 Wネーム 5 (5)

 葉月京は、ことによるとポスト村生ミオ的な道を歩みつつあるのかな、と感じる。いや、何もそれは性的な描写の多さを指していうのではなくて、そうした性的な描写が、物語のレベルと深くシンクロし、登場人物たちの心理をおおきく左右する要素として、表現そのものの説得力を強めている部分のことである。これがどういう意味であるかは、(おそらく時代的な背景のせいであろう)トレンディ・ドラマ的な展開から中途サイコ・サスペンスへと転調し、その後の作家性までをも決めてしまった村生ミオの『サークルゲーム』を読んでいただければ、よりわかりやすいと思うのだけれども、性風俗にまつわる事象が話の筋のなかでたんなる情報としてのみ機能するのではなく、複数の人間関係を濃厚にする要素となると同時に、一種異様なテンションを後押ししているという意味で、まさしくこの葉月京の『Wネーム』などもそのセンにあり、たとえば、もてもてのエリート会社員でありながら女装癖のある少女マンガ家という男性主人公の造型や、その同僚で足の悪く歩けない妹のために高校生と偽り隠れて援助交際をするヒロインの造型の、そういった二面性が『Wネーム』というタイトルの由来なのだろうが、そこの設定がスキャンダラスである以上に、どろどろとした愛憎劇を盛り上げていくあたり、すぐれて効果的な演出になりえている。表向きは大っぴらにセックス(性交)が描かれていながらも、そのじつ、登場人物らの憂鬱なエモーションが、作品の磁場を形成しているのである。とはいえ、その結果シリアスに傾きすぎず、陽性のギャグを残してあるところに、このマンガ家ならではの手つきが見える。
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2007年04月19日
 バイキングス 3 (3) 

 自転車を扱った少年マンガというのは、そもそもの絶対数が多くないにもかかわらず、なぜか良作ばかりが揃っている印象を受ける(ぱっと思いつくだけでも、むろん曽田正人『シャカリキ!』を筆頭に、乗峯栄一・井ノ内 貴之の『輪道』、安田剛士の『OverDrive』などがある)わけだが、そうしたなかにもう一作、このマンガは絶対に加わってくるべきだ、と、つよく推したいのが風童じゅんの『バイキングス』である。高校生でありながら、ロードレースの世界ではそこそこ知られ、自信に満ちた毎日を送る宮田すばるにしたら、ドジばかりして不器用な同級生の一本木一途(いっぽんぎいっと)は、目障りな存在でしかなかったのだが、しかしあるとき、家業のラーメン屋の出前の手伝いをすることで鍛えられた一途の、驚くべき脚力を目の当たりにし、彼をロードレースの世界へと導くのであった。名が体を表すかのように純粋な一途は、そうして目の前に開かれた真新しい景色に魅了される。と、以上が事の成り行きであり、この3巻では、2巻に引き続き、はじめてのレース(チームレース)に参加した一途の奮闘が描かれているのだけれども、その未熟さゆえにいくつもの失敗を重ねながらも、けっしてゴールを諦めない姿に胸を打たれる。正直なところ、自転車のロードレースものとなると、主人公の造型も含め、どうしても曽田正人が『シャカリキ!』で拓いたステージからは逃れられず(つまり、かの作品がそれだけ偉大だったということで)、『バイキングス』もその例に漏れないのだが、あくまでも自転車を走らせることの、そのファンの部分を前面に伝えようとする作者の意識が、おおきな差異として働きかけてくる。それは一途とすばるが、自分たちの高校に自転車部を作ろうとするエピソードに顕著で、こういう、肩の力の抜けた雰囲気をつくれることが、逆に頼もしく感じられる。
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2007年04月18日
 打撃王凛 9 (9)

 やあ、昂ぶるぞ、これは。何よりもまず、下位打線のけっして諦めないがんばりが、やたらぐっとくるところなのだけれども、それ以上の興奮がその後にもたらされることになろうとは、ああほんとうに、こちらの期待を遙かに上回るクライマックスぶりであることよ(詠嘆)。佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー)凜』9巻は、緑北シニアのエース中根雄翔の放る「七色の変化球」によって、完璧なまでに攻撃の手立てを封じられ、じりじりと追い詰められてしまった緑南のナインたちが、しかしようやく攻略の糸口を掴み、そしてついに同点へと追いつく、と、ここまでが十分な見せ場となっているのに、じつはここからだ、ここからの展開がすげえことになっていて、おかしくなるほどにテンションが高まってしまう。投げるやっちんと打つ寺嶋の対決、打つやっちんと投げる中根の対決、見ているのも痛々しいぐらいのやっちんの意地、それらを通じて、やがて打席に立つ凜の目に入ってくるのは、奇跡を導く一筋の光であった。〈いつだってやっちんは僕を照らす太陽の光だった (略) 僕にとって永遠の光――… / そのやっちんが目の前にいる限り / たとえ僕の視界から球(ボール)が消えても / 僕の目の前から光が消える事は絶対にないっっ!!!〉。ここだ。ここに、このマンガのすべてが集約されているといっても過言ではない。誰かを信じる、信じられる、たったそれだけのことで、精神が理屈を凌駕し、努力が才能を越え、不可能が可能になる。フィクションの世界のすばらしさとは、つまり、そういうことなんだよな、と思う。これで緑北との試合に結着がついたのかな。今後どのように話が進んでいくのかはわからないけれど、すくなくともこの9巻で寄越された感動からは、自然と涙が湧く。

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2007年04月14日
 マイガール 1 (1)

 佐原ミズの『マイガール』は、ものすごく簡単にいってしまうと、男手一つでの子育てもので、この手の作品は、古今東西、さまざまなマンガ家によってかなりの数描かれており、いま現在でも、宇仁田ゆみの『うさぎドロップ』あたりを似たような体のものとして挙げることはできるし、じつは同じ掲載誌である『週刊コミックバンチ』で連載がはじまったばかりの渡辺保裕『OUT PITCH』も意外とこのパターンなのだが、そうしたなかにあって、さて、このマンガの特色はどこいらへんにあるのか、といえば、正直なところ、1巻の段階では、絵柄も含め、やわらかな雰囲気に頼るばかりで、それ以上のものは引き出せていないかな、と思われる。それというのは、主人公の笠間マサムネが引き受けることになる幼い少女コハルは、なにかしらかの縁によって預かることになった他人の子供ではなく、まさしく彼自身の実子であるという点に、いまいち緊張感が欠けている(ように読める)ためではないか。もちろんそれは、血の繋がりがあるんだから、もうちょい深刻になれよ、ということではなくて、親と子ふたりの人生を大きく左右するはずの物語に、これといったヤマがなく、ただ、なし崩し的に進んでいるふうに見えてしまうのである。いや、突然、かつて愛した女性の死と自分に子供がいた事実を知らされ、最初は戸惑いながらも、しかし、ちゃんと受け入れるマサムネは良い人であり、親としての自覚が足りないとはいわない、それは伝わってくるのだが、描写のうちからは、ファンタジックな感触以外の、現実的な摩擦が、ほとんどすっぽりと抜けてしまっている。そこのところが、すこし気にかかるのだ。たとえば、山崎さやかが『東京家族』で捉まえた覚悟と責任の境地からすると、やはり、これはすこし甘すぎる。

 『ほしのこえ』(原作:新海誠)について→こちら
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2007年04月12日
 女神の鬼 6 (6)

 ジャンルに限らず、今日における多くのマンガ表現を見渡してみても、田中宏は、とんでもない境地に入りつつあるな、と実感せざるをえない。『女神の鬼』の6巻であるが、ここから物語はといえば、主人公のギッチョが小学生であった頃(1979年時)から、1巻の冒頭でアナウンスされていた14歳になった頃(1983年時)へと転換することもあって、それを期に、あらためて最初から読み直してみた次第なのだけれども、いやあ、大筋から細部に至るまで、ここまできっちりと作者の目が行き届いた作品というのは、他に類例が少ないのではないか。たとえば、新規登場する雛石の弟ケンエーとか、雛石って弟いたのかよ、と突っ込みたいところで、じつは3巻の時点で、その存在が予告されていたのだし、そもそもビイストと(フレイヤの3人を含む)花山らの対立って、そのあたりが発端になっていたんだよね、と気づかされれば、〈仲間ぁやられたんどぉ!? 今すぐフレイヤ潰しに行こーやぁー!! のォッ!!〉というケンエーの言葉にも、べつの凄みが出てくる。またコンチャンの離反なども、振り返ってみると、ギッチョの仲間内にあって、唯一彼だけは、べつにギッチョのカリスマ性に惹かれていたわけではない、との人物造型がちゃんと過去に為されており、むしろコージとの関係性において、今後に何かしらかの因縁が絡んでくるのでは、と考えられるとしたら、フレイヤとビイストに別れ、敵対することになった彼らの立場にも、べつの解釈が必要となってくる。ほとんどの読み手が気に留めることはないであろう、北丸や小林あたりのワキの使い方も、じつに気が利いていて、小林が高校1年で、ギッチョが中学2年に設定されているのは、つまり小林が中学3年のとき、ギッチョは中学1年だったということで、近い地区に住んでいたこと以上に、世代的な接点があることの意味合いを含んでいるのではないか。このように、『女神の鬼』単体で見ても、すべてを見切るのが困難なほどの情報量が詰められているのに、それが『BAD BOYS』や『グレアー』といった、同作者の過去作と密接にリンクしているのだから、よけいに圧倒されてしまうわけだけれども、そうしたことに目を通していった結果、「繰り返し」というテーマがひとつ、作品の背景には隠されているようにも思う。それはたとえば、ギッチョとコージにおける友情の変化が、ギッチョの姉である舞とコージの憧れである真清の出会いを繰り返していたふうに、である。この巻でいうと、ギッチョのグループで、つねに足手まとい的な存在のタニケンが、中学生になっても小学生時代と同じ役回りを繰り返すのも、興味深い。ここでの流れの一部は、ある意味で、1巻以降の繰り返しにもなっているのだ。大きな視座でいえば、『女神の鬼』自体が、『BAD BOYS』や『グレアー』の繰り返しだともいえまいか、いや正確には、『BAD BOYS』や『グレアー』の物語こそが、前日譚である『女神の鬼』の繰り返しであったというべき、か。だからこそ時系列でいえば、いちばん最後の時代にあたる『グレアー』は、直截的に、輪廻転生を扱い、繰り返しの終わりで、終わる。ちなみに、これは三篇をまたぎ、多くの登場人物を見守ってきた初代極楽蝶の岩田(岩さん)の願いが叶った瞬間でもある。極楽蝶といえば、『BAD BOYS』で八代目だった司も、この『女神の鬼』で、やはり極楽蝶(四代目、五代目)と深く関わっていくことになるギッチョも、ともに屁をこきやすい体質であるということが共通していて、まあ些細なことだと言われれば、そのとおりではあるけれども、たぶん、作者はそんな些細なところまで考えている。さて。『女神の鬼』6巻の物語は、以前からその存在だけは意識され、ギッチョが一方的にライバル視するしかなかった金田が、本格的に登場し、「王様」というタームをめぐる争いは激化してゆく。一方で、「鬼」と蔑まれるほどの不良たちが送られていった先、「島」と呼ばれるそこでいったい何が起きたのか、そうして1巻の鬼祭りで一瞬挿入されたギッチョの見た光景が、どのような絶望を孕んでいるのか、すでに作者が用意しているのに違いない着地点は、こちら読み手からは未だ想像もつかず、今後の展開如何によっては、ほんとうにとんでもない境地に達することとなるよ、これは。

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 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
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2007年04月08日
 かるた 1 (1)

 出てきた場所も違えば、直截な関係もないのだが、同じ74年生まれで、90年代の半ばに、自意識のモラトリアム劇を出発点としていた竹下けんじろう(旧・竹下堅次朗)と日本橋ヨヲコのふたりのマンガ家が、キャリアを培い、30歳を越え、00年代のちょうど現在に、部活動における熱血趣味の作品をわりとストレートに描いているのを、個人的には、おもしろく思う(ちなみに両者の過去作には、あきらかによしもとよしともを参照したと思える場面が、それぞれある)。が、それはさておき、1巻が出たばかりの、竹下けんじろう『かるた』は、その題名が示すとおり、競技かるたを扱った内容で、掲載誌が『週刊少年チャンピオン』であるからなのか、すごく真剣に少年マンガしている。格闘ゲームの世界では日本一の座にいる主人公の軽部太一は、自分が通う高校のかるた同好会で唯一の部員である小野千歳に、大会直前、怪我をさせてしまった責任をとるため、幼馴染みの大江由利子とともに、同愛好会に入部する。最初は、ゲームセンターで鍛えた反射神経があれば、大昔の遊びなんてちょろい、と考えていた太一であったが、しかし、じっさいに競技をしてみると、自分がいかに甘かったかを思い知らされると同時に、競技かるたの奥深さと、その魅力にはまることとなる。まあ、この作者らしく、無闇やたらと女の子の登場人物が多いけれども、基本的には一騎打ちの対決において、主人公が勝利にこだわる姿に、物語の焦点はあてられている。見せ方は、かるたといういっけん地味な競技の、戦略性そのものにこだわるのではなくて、あくまでも各個人のスキルを用いた心理戦の様相を呈しているため、試合内容は、とてもわかりやすいエンターテイメントとして機能する。ただし、まだ物語序盤ということもあってか、ライバル勢にいまいち迫力がなく、今後にどれだけ存在感のある強敵を揃えられるか、そのへんが盛り上がりを左右することになりそうである。

 『カケル』新装版・1巻・2巻について→こちら
 『COCOON』1巻について→こちら
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2007年04月07日
 ナンバMG5 9 (9)

 中学時代、ただの不良で終わるはずだった剛に、そうじゃない、べつの道があることを教えてくれた同級生関口のエピソードに、思わず涙腺が緩むので困るよ。こういう、くさいが、しかし、いい話をつくれるのが、やっぱり、小沢としおの強さなのだよな、と思う。だいたい、弱い人間に対して、強くなれ、と口にするのは、あまりにも簡単すぎて、もしも、それで何かを言った気になっているのだったら、最初から何も言うべきではない。たとえば、ニュースなどで学校内における虐めが問題になるたび、それこそ、あちこちで議論が活発になるわけだけれども、結局のところ、何十年も同じことを繰り返してんだ。つまり、社会のレベルとしては、一向に改善されない。なので、最終的には、その個人(虐められた当事者)がどう生きる(どう生きた)のか、に話を落としていくしかないのだが、まあ、他人についてあれこれ、事後的に感想や印象を述べることも、あるいは自分はこうだった式の体験談を語ることも、節操なく誰にでもできちゃうので、その手の議論こそが、大勢に愛されているだけのことであろう。さて、『ナンバMG5』の9巻、べつの高校に行っている関口が虐めに遭っている現場を、たまたま見かけた剛は、何とかして力になってやろうとするのだが、しかし、どう声をかけていいものか、そうこうしているうちに、事態は悪化し、関口の精神は追い詰められていく。ここでの肝は、関口が、ケンカに長けたヤンキーの難波へと直截的な助力を求めず、たったひとり、たったひとりだけでも味方がいることに感謝し、励まされ、不条理に耐えてみせる点にある。それはけして、我慢しろ、ということでも、もちろん、強くあれ、ということでもない。剛の仲間になった大丸が、関口の話を聞いて、〈んなヤツよぉ 死ぬ気でかかって一発ブン殴ってやりゃいんだよ ナメられてんだ!〉と提案したことに、伍代が〈それができりゃイジメられてねーよ〉と言うとおりなのである。おそらく、虐めの問題は、たんに暴力の被害のみではなくて、孤独とのセットになっている。そのように考えられるとき、やはり、中学の頃に虐められていた島崎が言うように〈1人じゃないって思えることで…何か…心強いってゆーか〉そういったことが、もしかすると救いになることだってありうるのかもしれない。いつの時代、どの場所にだって、クソみたいな人間はいる。それはもう仕方のないことだ。ならば、せめて、それと同じぐらいは、誰かのため、手を差し伸べ、痛みを庇ってやる人間が、いたっていい。

 8巻について→こちら
 5巻について→こちら
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 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
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2007年04月06日
 WORST 17 (17)

 恐怖はどこからやって来るのか。高橋ヒロシの『WORST』は、完全にホモソーシャルな世界の物語なので、女性の登場人物が排せられていると指摘したところで、何も述べていないのと同じことなのだが、しかし物語の序盤から、主人公の月島花にとって、最大のライバルとして表現されていた天地寿がなぜ悪役以外の何ものでもないのかといえば、そのような同性間の連帯すらも信じていない人間であるためだろう。地下で暗躍し、裏切りと暴力によって、巨大さを増した天地のグループが、ついに動き出そうとしていた。拓海の加わった武装戦線は、漆黒の蠍の企みを巧くかわしたが、次にターゲットとされた鳳仙学園は、闇討ちをされ、負傷者を増やしてゆく。というのが、この17巻の流れである。さて、過去にも何度か述べたことであるが、高橋ヒロシは過去作『QP』で作り出してしまった若い世代のアウトローに対する過った憧憬をいかにして上書きするのか、が、ひとつ、『WORST』というマンガの課題としてあると思う。これは、やはり目的のためなら手段を選ばなかった『QP』の我妻涼とは異なるかたちで悪漢を描き、それを否定し、あるいは救うか救わないか、といった部分にかかってくる問題に他ならない。おそらく、そうして創出されたのが、花の陽性と天地の陰性の二極であるわけだが、では、天地と涼のどこがどう違うのかというと、涼は、たしかに壮絶なほどに孤独な存在ではあったけれども、しかし『QP』の主人公である石田小鳥との友情を信じる姿が、こちら読み手の胸を打った、のだとしたら、天地は、先にいったとおり、徹頭徹尾冷酷な人間であり、自分以外の誰も信じていない。この巻における、天地の仲間である(はずの)登場人物の言葉を借りれば、〈さーな…あいつの作り出す闇には誰も入りこめねー〉のである。そのような、人間的なものをいっさい持ち合わせない、いうなれば壊れた人間の行き着く先を、作者はどこまで見据えているのか。鳳仙の月光兄弟光政が、瀕死の状態で、天地に迫ったとき、〈ゾクッ〉と表現された感情が、今後の行方を占っているのに違いない。

 11巻について→こちら
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 HAND’S

 かつては天才的なハンドボール選手だったが、今は落ちぶれ、多額の借金を背負う父親を蔑視し、つよく反発する橘大吾は、将来に何某かの英雄になることを夢見ていた。しかし、ある日突然、父親が失踪してしまったので、その旧くからの友人で小学生ハンドボールのコーチをしている西岡誠一郎の家に預けられることになり、てんやわんやがあった末、一流のハンドボール選手になるための道を歩みはじめるのだった。以上が、板倉雄一『HAND'S(ハンズ)』の概要であるけれど、こうして単行本でまとめて読んだら、結局のところ、このマンガが短命に終わったのは、ハンドボールという題材のせいではなくて、作者のディレクションに難があったからなんだな、と思う。いや、じっさいに作者がどういった方向性を目指していたのかは不明だが、ふつう読み手に、主人公である大吾の成長や試合での活躍、そこから親子の確執などを期待させるようなストーリーでありながらも、ぜんぜんそうなってはおらず、物語のうちでもっとも積極的に動く登場人物は、コーチ役をつとめる西岡に他ならない。西岡の、主人公からの呼ばれ方が、たいてい「おっさん」か「オッサン」であるように、まさしくおっさんでしかなく、ちょうどおっさん調にデフォルメされた容姿で描かれているわけだが、しかし侮るなかれ、作中で唯一熱血しているのが、そのおっさんなのであった。で、少年マンガとしてどうとかいうのはともかく、そうしたことに気づくと、あんがい、これが泣けてくる話なのだよ。西岡、まだ年端のいかぬ少年から完全にコケにされ、それでもその少年の将来と日本ハンドボール界の未来を思い、ヤクザの事務所に拉致されても、文字どおり、命を懸ける男である。また、旧友から裏切られ、大切に育ててきた選手からも裏切られ、ストーリーのレベルにおいては、その行いが十全に報われているとは言い難いながらも、深い思慮でもってすべてを受け入れるあたり、並大抵の人間にできることではなかろう。おそらく、作品がもうちょい長く続けば、つねに人生に現役で前向きな西岡の姿は、リタイアし影へと回った主人公の父親との相対的な役割において、べつの意味を持ち、機能するはずだったに違いなく、たんに扱いの酷いだけで終わってしまったのが、また悲しすぎる存在だ。単行本の表紙にも出てこない。
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2007年04月05日
 crover.jpg

 先般、阿部秀司『エリートヤンキー三郎』のテレビ・ドラマ化や吉田聡『荒くれKNIGHT』の映画化といったニュースが出たときに、それぞれの売り上げを知ったのだが、前者が33巻(1部27巻+2部6巻)の段階で累計400万部、後者が全28巻で累計1000万部(これだと「高校爆走編」の11巻分が入ってない感じなので、それを入れたらもうちょい行くはず)だということで、たとえばヤンキー・マンガ以外のものを例に挙げると、あれだけネームヴァリューもありメディアミックスされているCLAMPの『xxxHOLiC』あたりが現在10巻の時点で累計680万部であることを踏まえれば、なかなか侮れない数字なのではないか。さらに柳内大樹の『ギャングキング』などは、いま9巻まで出ているところで、ほとんどメディアミックスが展開されていない(つまり宣伝が少ない)といえる状態で、累計330万部であり、これにも驚かされる。

 おそらく、そうした購買層の多くが、いわゆるオタクやサブカルといった指向の人びとではなくて、(まあ、議論好きな皆さんの大好きな)下流層だとかファスト風土化(ジャスコ化でもいいよ、あはは)した地方在住者であることが容易に推測できもすれば、いくらでも語ることがありそうなものなのにね、といったことも含め、それらの作品がマーケティング的に考察されたり、あるいは批評の俎上に載せられる機会の少ないことを、とても不思議に思う。

 さておき。この国におけるヤンキー文化そのものがそうであるように、思いのほかサブ・カルチャーにあってはヤンキー・マンガという土壌も侮れない、と考えられるのだった。たとえば、『カメレオンジェイル』や『てんで性悪キューピッド』こそが、という捻くれたファンはともかくとして、90年代のほぼ同時期に、井上雅彦が『スラムダンク』を、冨樫義博が『幽遊白書』を、それぞれヤンキーを主人公にしてスタートさせたのは、時代性(または編集部)の要請があったのかもしれないけれど、その結果、どちらのマンガにも初期には吉田聡の作品を思わせるところがあったのは、じつに興味深いし、また、ハロルド作石が『ゴリラーマン』で、柴田ヨクサルが『谷仮面』で、八木教広が『エンジェル伝説』で、ヤンキーを描くための手法を少しずつずらしながら、現在に通じる作風を確立していったのも、90年代前半のことであり(正確には『ゴリラーマン』は多少先んじているが)、肯定的であれ否定的であれ、すくなからずヤンキー・マンガ的な文脈が、その背景にあったことは指摘できる。

 と、まとまりのないまま、前置きが長くなってしまったけれども、本題は、『週刊少年チャンピオン』の今週号(19号)から連載がはじまった平川哲弘の『クローバー』である。いやあ、これが今日出るべくして出た、といった感じのする不良高校生もので、柳内大樹から日向武史から浅野いにおまでをも参照項に置いてあるかのような作風が、じつにイマドキなハイブリッドさ加減のうえ、それらのマンガ家が無思慮に倫理観の希薄さをリアリズムとして作中へ盛り込んでしまう点さえも共通しているのだが、そうすることで、あくまでも行き場のないモラトリアムの風景としてある伝統的なヤンキー・マンガのテーゼに、現代的な意匠が施されている。
 
 〈オレに友達はいない / オレはいつも1人だ / が…1人でいるのが好きなオレには何の問題もない〉と嘯くトモキは、べつに他人から舐められても心にダメージを受けることはない。そんな彼の家に、小学校のときの同級生で、今はドレッドヘアの強面になり、かつての面影のなくなったハヤトが、何年かぶりに親しく尋ねてくるのだが、〈何なんだ / おまえ / 突然帰って来て / 友達ヅラして / 迷惑なんだよ!!〉という次第でもって、素っ気なく追い払われる。もはや、ふたりの縁は途切れたと思われた矢先、しかし外見どおりのトラブル・メーカーであるハヤトの、街で蒔いたケンカの火種を避けられず、トモキは大勢の不良に取り囲まれてしまうのだった。

 以上が1話目のおおよそであるけれど、そこの間には、いくつか、今後の展開を匂わせるようなアイテムが組み込まれている。トモキの亡き父親が残した廃バイクや、ふたりの友情の証である二宮金次郎の像、ハヤトの持つ謎の大金などが、それである。そのうちでも、形見に近しい壊れたバイクを修理する、という設定は、言うまでもなくヤンキー・マンガにおいては、古典的ですらある通過儀礼、成長のためのイニシエーションであろう。こうしたセオリーを(たとえ作者が無意識であろうとも)踏襲している一方で、いかにも他人を見下したトモキの態度が、じつに今日ふうなアパシーを象徴しているのが興味深い。

 これまで同誌で読み切りの、ほとんど話の筋がない、雰囲気重視の短い作品を発表してきた平川哲弘が、どれだけ長尺の物語をつくれるのかは未知数ではあるが、良い個所も悪い個所も含め、ヤンキー・マンガの現在点を知るための一端として、今後も注目していきたい。
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2007年04月03日
 コミックチャージ 2007年 4/17号 [雑誌]

 「働く男を充電する」というキャッチ・フレーズでもって、3月20日に角川書店が立ち上げたばかりのマンガ誌「コミックチャージ」であるが、正直なところ、創刊2号目にして雑誌自体が充電期間に入ってしまったかのような、じつに振るわない内容で弱るよ。まあ創刊号はご祝儀または様子見のつもりで購入した向きは少なくないにしても、それで今後もついてゆく人ってどんぐらいいるんだろうね。『漫画アクション』と同じ発売日だということもあって、どちらか一方のみを選べと迫られたならば、ほとんど迷うことなく『漫画アクション』をとってしまうのではないか。だいたい懸賞のページを開いてみれば、ニンテンドーDSにクオカードに現金一万円と、この手の雑誌には三種の神器ともいえるアイテムが揃えられているあたり、よその雑誌を参考にした結果まあこんなもんでしょう感が強く、もちろんそれは、全体のカラーにも反映されていて、つまり目新しい、あるいは野心的な要素をこれといって見つけられない。連載陣においては、個人的に、このところ原作付きが多かった高田靖彦が『HOVER!』で、『塩浜電工バレーボール部』以来、ひさびさに女子バレー部の監督ものにチャレンジしているのを嬉しく思うが、これって、ちゃんと単行本にまとまってくれるのかしら。あと、さっき気づいたのだけれど、表紙の(創刊号だったらきたがわ翔の、今号だったら高田靖彦の)イラストって、マンガとは無関係な、たんにサラリーマンをイメージしたものなのだね。わからなかった。

・その他雑誌の類に関する文章
 『ease[イーズ]』VOL.2について→こちら

 『ヤングガンガン』
 05年07号について→こちら
 05年01号について→こちら
 創刊号について→こちら
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2007年04月02日
 チナミの風景

 野本明照が『IKKI』誌上に発表していたシリーズが、ようやく『チナミの風景』として一冊にまとまった。〈なんだか知らないけど、この町は――変な人で、いっぱいだ〉。そうして常識からしたら一風変わった人びととの交流を点にして、好奇心旺盛な小学生のチナミが、それまでとは違った世界の見方に気づく日々を線に結んでゆくのだが、ささやかなファンタジーといえる魔法が、描かれるシーンの各所にかけられており、ワン・エピソードを読み終えるたび、すこし、幸福な感傷に浸る。いかにも『IKKI』っぽい(どこか松本大洋とか松永豊和とかを彷彿とさせる)絵柄と話の筋とはいえ、けっして類型や亜流にとどまらない魅力を湛えていると思う。さて。先ほど、幸福な感傷、と述べた。それがどこからやってくるのか、といえば、作中で変人たちを変人たらしめているのは、要するに、彼らが一種イノセントな存在として顕在化されているからであり、そのことが、少女の成長(自立)に重ね合わせられることで、やがて失われる(すでに失われた)ものとしても暗示されているためである。いや、ここに登場している困った人たちのいくらかは、おそらく、世間一般の価値観とは異なる、彼らなりのセンスのまま、変わることなく生きてゆくことだろう。が、しかし、不可侵であるほどに真摯な彼らに対し、いわば観察者にあたる主人公のチナミには、揺らぎがある。その揺らぎのあるおかげで、それまで知らなかった風景に出会うことになるのだけれども、ならば同様に、それまで見えていたものを、いつか、忘れてしまうことだってあるかもしれない。つまり、そのような視線のほうにおける、イノセンスの損なわれる可能性が、こちらの胸に、ちいさな棘となって抜けない、過去の経験のうちにある甘やかな痛みを呼び覚ますのであった。
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2007年04月01日
 新・味いちもんめ 19 (19)

 倉田よしみの『新・味いちもんめ』も、早いもので19巻である。ストーリーをつくる人間が交代した(原作者のあべ善太が他界した)ため、無印の『味いちもんめ』全33巻とは、主人公の伊橋が板前だという設定以外は、ほぼ繋がりを持たないマンガになったといえるけれども、無印の世界観を継承しつつ、今なおワン・エピソード単位の物語で連載を続けている点は評価したい。しかしながら、伊橋がすっかりと京都に居付いてしまって以来、ルーティン・ワークに陥っている観も否めず、だいたい伊橋だってもういい歳だろうに、出世もさせないで、まだ下積みをやらせようとするあまり、舞台を京都に移したようなものだから仕方がないとはいえ、さすがに辛くなってきたところで、東京へ戻るかどうかを左右する展開が訪れそうな予感を孕み、次の巻へと続く。まあ、それすらも過去に数度繰り返されたパターンではあるが、いや、さすがにもう東京に戻してもいい頃合いなのでは。と、そのへん、どう転ぶのか、あんがい、このマンガの今後にとっては山場である。ところで、この巻には「すっぽん豆腐」というエピソードが収められている。このような料理マンガには今どき珍しくもない、料理店等に対するインターネット上の評価を題材にしたものなのだけれど、他の作品における、そうした手の話に比べ、無理なくまとまっているように思う。ブログのシーンでは有名らしい若者が、伊橋が働いている店を訪れ、自分の記事によっては〈店の流行りにも影響が出るらしいよ。実際、ボクが批判して潰れちゃった店もあったっけ〉と自慢げに、さらに京都料理を否定するのを、たまたま居合わせた陶芸教室の先生が、〈好き嫌いがあってもいい〉けれど、たとえば陶芸の世界にも様々な種類の器があり、〈それぞれに良さがあり、美しさがある。しかし、それを使う人の好みは多様〉なのであって、同様に〈自分の主観だけでお店や料理の善し悪しを書くのはいかがなものでしょうか〉とたしなめれば、カリスマ・ブロガー(いやはや)は〈まずいものをまずいと書いてなぜ悪い!!〉と反論するのだったが、そこで〈「文責」という言葉はご存じですか?〉と来るわけだ。もちろん、ここにあるのは匿名批判はいけないよ、という単純な理論ではなくて、要するに、批評するさいの姿勢こそを問うているのである。

 以前の雑感→こちら(言うまでもなく、無印の『味いちもんめ』のほうもその後一通り読み終えたうえで、上記エントリを書いております)
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2007年03月29日
 シセロシティの裏社会を牛耳るギャング「ガブリエラ」と中華街の組織「天嚢連」の抗争が顕在化すると同時に、複数人の思惑が入り乱れはじめ、やや面倒くさいことになってきたけれども、組織なんて糞くらえ、的なマインドを持つ主人公ニコルのおかげで、相変わらず、シンプルに燃えるストーリーが展開されていて、『JACKALS(ジャッカル)』(原作・村田真哉:作画・金炳進)は、じつにこの3巻も良いよ、と思うわけだ。それにしても、ついに自分が殺人業者(ジャッカル)であることをシェリルに知られてしまった挙げ句、戦いに巻き込み、怪我まで負わせてしまったニコルの、不器用な決心がさあ、またドラマを盛り上げてくれる。〈もう誰一人 / オレの側にいる人間を殺させはしねえ / ギャング共が襲ってくるなら / 片っ端からぶった斬るまで / それがオレのジャッカルとしての生き方だ / それが気に食わねえってんなら / 奴ら(ガブリエラ)を潰すまでだ〉って、ね。今は亡き母親の師匠であるイノウエの〈何故…強さを求める〉という問いに対して、そのように、ひとつの答えを出したニコルは、イノウエから学ぶ「大東流」武術によって、さらなる強さを手に入れることができるのであろうか。他方、もうひとりの孤立無援な男、賞金稼ぎのフォアは、絶体絶命のピンチを「天嚢連」に救われていた。彼の矛先をニコルへと向けようとする「天嚢連」の画策に、今後の波乱が予感させられるところだが、この巻に収められている外伝読み切りで、やはりこの男も魅せてくれたぜってな具合の、組織なんて糞くらえ、的なマインドが、そう素直に懐柔されるはずもない、と思えて。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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 XBLADE 1 (1)

 イダタツヒコ(原作)と士貴智志(漫画)コンビによる『クロスブレイド』の1巻だが、正直なところ、オリジナルであり前日譚であるイダタツヒコの『ブレイド』が来月に復刊されるそうなので、そちらを読んでください、以外にいうことがないなあ。それというのは要するに、あの『ブレイド』がこんなふうになっちゃって、という旧いファンの見方だと思っていただいてもよろしいのだが、いや、絵柄も含めて、今ふうのバトル・アクションということならば、士貴の特性がよく出ており、それなりにおもしろいのだけれど、逆に、今どきの定型としてうまくまとまっているだけだよね、という気もする。そもそもイダタツヒコ(井田辰彦)は、『外道の書』の頃から、わかる人にはわかる程度に雑多な先行作品を参照(ネタ元に)しながら、それらを単層的な物語に落とし込んでゆくあたりに魅力があるわけだが、そこで、たとえばこの『クロスブレイド』の「東京閉鎖区域」といった設定だって、あんがい小松左京の『首都消失』でしょう、と(当たっているかどうかはべつとして)推測しても仕方がなく、むしろ、この手のマンガの読み手が好きそうな背景(何かしらかの裏設定を想起させる記号と言い換えてもいいよ)として、じつに機能的に機能するのみだろう。それを指して、アリガチと捉まえ直してもよい。またそのことは『ブレイド』に由来している女性が刀化するという部分に関しても同様で、たぶん女性登場人物の造型や性格づけに惹かれる向きも少なくはないに違いないけれど、そういうのは個人的にあまり関心の持っていかれる要素ではない。
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2007年03月28日
 夜刀の神つかい 11 (11)

 前巻で、夕介と菊璃の物語は終わった。だから最終章である「太陽の理」は、夕介の言葉にしたがえば、〈国とか世界とか宇宙の物語だ〉ということになる。『夜刀の神つかい』の11巻では、夕介不在のまま物語は進み、“神”の紐付きである“夜刀の神”と“人”の紐付きである“夜刀の神つかい”の相克がいかにして発生したのか、その真相へとまた一歩近づく。立場は違えど、お互いの実力を認める久米と峅杷は、対決のさなか、久遠であり刹那である空間へと飛び、それぞれの自意識を共有し合う。一方、現世では、ふたりの止めどない力に触発されたのか、封印されていたはずの龍穴から、かつて砌(みぎり)を滅ぼした小林猶之介の姿が浮かび上がるのだった。いかんせん一冊一冊の出るスパンが長すぎるのはともかく、作中の進行は、この手のパターンである過去の回想などを挟みながらも、だれることなく、意外とスピーディで、また予想だにしなかった展開が次々と続いてくれるので、じつに読ませる。ここでは久米と峅杷のトラウマ的な気分が相互干渉するわけだが、結果、童心に帰ったふたりがテトリスで勝負をする場面が、すごく、いい。要するに、世界を一変させる(かもしれない)ほどの力の衝突と、その発端となった過去の傷が、子供向けのサブ・カルチャーによって回避されている光景であり、おそらくは、そうして他者とのはじめての出会いがやり直されている。“夜刀の神”と“夜刀の神つかい”の相克も、あるいは他者関係の換喩であろう。峅杷が語るとおり、そもそも“夜刀の神”とは、人類にとっての異者であった。しかし、それを利用するがために、他者として組み込んだとき、〈新しいタイプの“夜刀の神”が大量に生まれ〉ることとなって、〈“夜刀の神”と人との間にそれまでは無かった相克もまた新しく生まれる事となった〉のである。思えば、このマンガは、そのような他者によってもたらされる主体の揺らぎを、または対(つい)となるような二項の相関を、いくつもの異なる局面のなかで描き出してきた。夕介と菊璃の物語も、そのヴァリエーションのひとつ、といえよう。では、作中にあって唯一例外的な存在である砌は、そうであるがゆえに神に近しい場所へ立つのか。いずれにせよ、すべてにかかる物語は、あと数巻のうちに結着がつく。

 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら

 文庫版『コックリさんが通る』(上)について→こちら
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2007年03月27日
 7SEEDS 10 (10)

 もちろん、これが現実の出来事であるならば、悲惨さはさらに極まりないのだろうが、しかし、世界の終わりとはかくも救いのないものか。田村由美『7SEEDS』の10巻、秋のチームとの幸運とは言い難い合流を経て、地下シェルターへと到達した春のチーム末黒野花が、そこで発見したのはお笑い芸人マークの綴った日記であった。最後のほうに記された〈もうあかん〉の一言。シェルターに避難した人びとの目を通して、人類終焉の時がどのようなものであったのかが語られる。〈現在(いま)を頑張れば未来が……ええ未来に変わる…ほんまに…?〉。うあああ。これは堪える。世界が終わったあとの世界に残された少年や少女を待ち受ける苛酷な運命、それを追ってきたこれまでの展開もけして生易しいものではなかったけれど、ここでの直截的な破滅が描かれるくだりによって、絶望がまた一段階深まったぞ。〈神の国に到る門は狭くて 二人並んではなかなか通れないのよ〉。すべての人間が助かるわけではなく、そのために多くの犠牲が払われなければならないとして、それでも結局のところ誰一人助からないのだとしたら。〈君は最後の最後まで嘘がつけるか?〉。せめて自分に課せられた使命をまっとうしようとするマークが、最後の瞬間に見たものはいったい何だったのであろう。次の巻を読むのが、待ち遠しく、そしてイヤになるほどに怖い。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
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2007年03月26日
 hanamomo3.jpg

 『ヤングマガジン』17号掲載。なんと2年ぶりとなる松本剛のシリーズ読み切り『ハナモモ』の第3話「蝶々」である。もうここまでくると、描かれたってことに意味がある、とすら言いたくなる。が、しかし、まあいいか。古橋優紀にとって、子供の頃に家を出て行った父親との思い出の場所は、祖父の描いたハナモモの絵が壁一面を飾る銭湯であった。そこが壊されると聞いた優紀は、複雑な気持ちのなか、銭湯の経営者の息子である同級生の玉木の家を訪れる。そうした家族の事情と思春期の揺らぎみたいなものは(うろ覚えでいってしまうが)前2話と共通するテーマであろう。そして、それこそがこの作者の得意とするところでもある。さすがというべきか、一篇の短い作品であるけれども、少年と少女のやりとり、それから暗がりの銭湯を舞う蝶の羽ばたきが、深く浸透するようなエモーションを寄越す。

 第2話「春雷」について→こちら
 第1話「坂道」について→こちら

 新装版『甘い水』について→こちら
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 ほとんど1巻ごとに1フェーズ進む展開とはいえ、思いのほかプロとしてデビューするのは早かったな。飯星シンヤの『スピードスター』3巻である。オートレースの世界で、最速の男を目指す相沢竜也は、養成所の訓練を経て、亡父のライバルであり、現在トップクラスの選手である秋吉のいる川口レース場に配属されることになった。しかし根っからの問題児気質である竜也のことである。若手ホープとして期待される先輩選手の兵藤と、さっそく衝突してしまうのだった。と、そこでいきなり、彼らを直截対決させてしまうあたりの思いきりの良さが、このマンガの魅力だろうね、やっぱり。それにしても兵藤の迫力は、たんなる噛ませ犬に終わりそうもない予感を孕み、竜也の師匠についた岩田にも、ワキを固めるにあたり、相応の存在感があってよろしい。たぶんこの調子だと、宿命のライバルである青葉と相まみえることとなるに違いない新人王決定戦は、次の巻ぐらいにやって来てしまうのかな、という気がするけれど、たとえそこに行くまで、あと一波乱や二波乱あったとしても、じゅうぶんに物語が保つだけの役者が揃えられている。
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2007年03月25日
 この国ではもはや、サブ・カルチャーのなかでも、とりわけテレビ・ゲームを身近に置いたまま成人するというのが、ごく自然なこととなったわけだが、そうした世代の人間が、ではそのゲーム業界を舞台に、いかにして社会人たりうるかの奮闘劇を描いた、うめ(小沢高広・妹尾朝子)のマンガ『東京トイボックス』の、掲載誌を違えての続編が、この『大東京トイボックス』である。作者の本意であろうがなかろうが、いったんは終了した作品を、それほど間を置かず、ふたたび手がけることに意味があるのか、といえば、ある、あった、と納得できるだけのおもしろさを、ちゃんと1巻の段階で提示できているのが、えらい。言うまでもなく、イノセンスを描くことと登場人物を甘やかすことは違う、まったく異なる。急ぎ物語を畳まなければならなかった必要上か、『東京トイボックス』は、終盤に、両者の境界が曖昧になり、三十歳過を過ぎた男性のイノセンスが無条件に肯定されているかのような、まあエンディングに相応するカタルシスは用意できたにしたって、ともすればご都合主義ともいえる結論しか導き出せなかった。それをひどく残念に思う。だが、仕切り直されたここでは、無傷なままでは生きられないながらも、しかし懸命に、自分を見失わずにあろうとする人びとの姿が、あらためてシビアに表されている。できうるかぎりゼロに近しい印象からの序盤を構成するためであろう、前作『東京トイボックス』の延長線上にある物語に、24歳の新入社員である百田モモという女性登場人物が投入された。おおよそイノセントに見える彼女の存在は、いうなれば、『東京トイボックス』の主人公であった天川太陽の、その理を肩代わりするものである。ゲームクリエイターに憧れつつも、未だこれといったスキルは持っておらず、ただ〈ウチ今手持ちの武器がないんです / 夢と希望しかないんですよ〉と主張するしかない彼女に、上司である太陽がどのように向き合い、フォローしてゆくのか、それをうまく転ばせていった先でならば、おそらく『東京トイボックス』のリベンジが果たされることとなるのではないか。期待したい。ところで登場人物にオープンオフィスを使わせるぐらい細部の描写に拘る一方で、マサのギター、あれはギブソンのレスポールっぽいかあ(いや、そのへんが虚実入り混じった巻末のデータベースにおけるダウトなのかもしれない)。

・『東京トイボックス』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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 スチームボーイ 上 (1) スチームボーイ 下 (3)

 〈“常識を超えねば進歩はない!! ぼくの発明で世界は変わるんだ!!〉。1863年のイギリス、名だたる発明家である祖父と父親を尊敬する少年レイ・スチムは、新しい蒸気機関車を見に出かけたマンチェスターの駅で、文明批判を主旨とする“七つの封印”教団による暴挙に遭遇する。蒸気機関車が破壊され、鉄クズ呼ばわりされているのに衝撃を受けたレイは、〈未来はそんなんじゃない!! これは鉄クズなんかじゃない!! これは夢のかたまりなんだ!!〉と叫ぶ。こうして結びついた“七つの封印”教団との因縁が、レイに様々な出会いをもたらす冒険へと導くのだった。上下巻同時刊行となった衣谷遊のマンガ『スチームボーイ』は、言うまでもなく大友克洋による同名のアニメ映画をベースに描かれており、主人公や一部登場人物、設定は重複するけれども、映画そのもののコミカライズというのではなくて、いわば前日譚に位置する内容になっている。もちろん映画からの引用も少なくはないが、これはこれで一個の独立した作品として読める。ところで映画版の『スチームボーイ』であるが、一般的な評価はどうも高くなかった印象だけれど、個人的には、そんなに悪くなかったよお、と言いたい。大友の映像上の演出がいまいちなのは、それこそ映画版『AKIRA』の頃(あるいは、それ以前)から言われていたことでもあるので、そこを問題視しても仕方がないし、そのことを含めても、たとえば宮崎駿の映画で少女に仮託されたイノセンスがロリコンを意味するのと同じように、大友の作品が少年に健全さを仮託するのはショタコンなのであって、いやまあ、ショタコンの語源が『鉄人28号』の金田正太郎に起因しているのならば、まさしく『AKIRA』の健康優良不良少年である主人公らの名前が『鉄人28号』に由来しているのは暗示的なのだが、だから映画『スチームボーイ』に関しては、あくまでも、少年いかに健全であるべきか、を主題に捉まえて見ていくと、やはり相応に見どころのある物語になっていると思う。このマンガ版で、衣谷が描こうとしているのも、おそらくは、それだ。まだあどけない顔つきのレイ少年が、すでに邪な考えを覚えてしまっている大人たちを相手どり、ひたすら無垢に〈ぼくは未来をあきらめない!!〉と、無茶無謀な大立ち回りを演じる姿を、どう効果的に見せるか。むろん、現実の世界にあっては、物心ついた少年が必ずしも健全であるとは限らない。そうであるがゆえに、虚構的な存在にしか過ぎないそれに、はたして説得されるかされないか、式の考えが、内容の出来不出来の判断にも繋がるのだろうが、すくなくとも僕は愉しく読んだ。

 衣谷遊『デビルマン黙示録 STRANGE DAYS』について→こちら
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2007年03月24日
 高校デビュー 8 (8)

 3人の1年生男子から関心を持たれ、まさかこれがモテ期というものか、いやそんなことはないない、と、やけにあっさりしている晴菜であったが、しかしヨウにしてみれば、そんな無防備なところも含めて、彼女のことが心配でならない。その矢先、またもや晴菜を暴走させるハプニングが起こるのだった。河原和音『高校デビュー』の8巻である。作者がどこまで考えているのかわからないが、たぶん今ぐらいの人気なら、最低でもヨウの卒業か、晴菜の卒業までは連載が続くのだろうから、ここらでぼちぼち新展開が欲しいところで、前巻の時点では、ひと波乱ありげな1年男子3人の登場が、もしかするとけっこうなターニング・ポイントになるのかなあ、と思いもしたのだけれど、結局いつも通り、晴菜とヨウのカップルが磐石であることを示しただけだったのは、ちょっともったいなくあったかなあ。まあ、それなりに個性的で、使い勝手の良さそうな面々が、ここで新規投入されたと考えれば、今後の話作りにも幅が拡がるというものか。とはいえ、晴菜がはじめて恋人と迎える誕生日のエピソードは、最初おもしろおかしくて、最後に締めるとこは締める、このマンガの黄金パターンがばしっと決まっており、こういう、行事ごとに少しずつ進んでいくふたりの関係が、やはり最大限の魅力なのだろうね、と再確認した次第である。

 第7巻について→こちら
 第6巻について→こちら
 第3巻について→こちら
 第2巻について→こちら
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2007年03月22日
 仁義S 3 (3)

 おお、ここで横山を投入するかよ。前作(『JINGI II』を含めれば前々作)からのファンであったならば、にわかに心沸く場面だろう。なぜならば横山こそがザ・任侠・オブ・任侠というに相応しい漢(おとこ)だからである。『仁義S〈じんぎたち〉』は、『本気!』と並ぶ立原あゆみの代表作『仁義』の、その設定と登場人物を引き継いでいるという意味では、まちがいなく続編にあたるわけだけれど、主人公が世代交代のうえチェンジしており、無印のほうでメインを張った面々は、あまり表立って来ず、彼らのその後を知る機会がなかなか訪れなかったなかで、あの横山が、こうして健在であってくれたのはもちろんのこと、未だ一介のチンピラでしかないアキラと大内のコンビを一目見ただけで、〈ま オレに出来る事があったら言ってくれ! 来いと言う場所に行ってやろう 話せっていう言葉言ってやる〉と相談を引き受けるあたり、器のでかいところを損なっていないのも、嬉しい。しかしながら、こういうときにいつも思ってしまうのは、はたして作者はいったいどの段階でこうした展開を用意していたのだろうか、ということで、立原の場合はとくに、それが思いつきなのか計算によるものなのか、一概には判断しづらい。や、正直なところ、たんなる思いつきというか、あ、そういえば、あれはここで使えるな程度の発想に過ぎないのだろうが、それにしても伏線ですらなかったような細部が、後々になって効果を発揮する率が異様に高く、じっさい計算ではないとしたら、驚くべき閃きの持ち主なのであって、その凡人には及びもつかない領域で構成される物語には、毎度毎度痺れる。だいたい、この『仁義S』においては超重要人物である農協だって、そもそも通りすがりのホームレスだったのだ。一、二コマでお役ご免の。それが今やヤクザの大幹部である。ヤクザの大幹部なのに、未だに農協と呼ばれているのは、じつは時効待ちの犯罪者で、それが偽名だからである。立場上、もうちょいべつの名前を名乗ればいいじゃんね、と言いたいところだが、恩義ある親分のつけてくれた名前だから、変えないのである。だからこそ、この巻で農協が発する〈ひょんな事から八崎さんに拾われて この世界に入って 一番大切な事は裏切らねえって事ですよ〉という言葉は生きる。いや、作者がそこまで考えているかどうかは知らない。だいいち、正確には農協を拾ったのは義郎(八崎さん)ではなくて、仁のほうだろう、なぜ仁のいる神林組に行かなかったのか、それは裏切り行為ではないのか、農協。とはいえ、まあ、そういったことも、もしかするとあとで話に絡んでくるかもしれない、もちろん絡んでこないかもしれないので、油断ならない。いずれにせよ、農協の出世も含め、わらしべ長者的に話が転がってゆくのが、この『仁義』シリーズの醍醐味であろう。無印の『仁義』では、エリート・テロリストだった過去を持つ義郎の知性と技術が、仁の成り上がりに役立ったわけだが、『仁義S』においては、医者との兼業である大内が、度胸だけは一丁前のアキラを、横からサポートする。たぶん横山が、アキラたちをおもしろいと評したのは、ふたりの姿に、若き日における仁と義郎の影を見たからなんだよね。

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 『喰人』第1巻について→こちら
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 蒼のサンクトゥス 5 (5)

 そのとき投げかけられた〈どちらが正しいと思う? 自分の思いを貫く事と 周囲の為に留まる事と…〉という問いに対し、自分なりの答えを求めるかのように、治基は〈A-NEST〉と呼ばれる未確認領域、その最深部へと向かう。やまむらはじめが描く海洋アドベンチャー『蒼のサンクトゥス』も、いよいよ終着と相成ったこの5巻である。人類規模の災難が個人レベルのエモーションに集約されるというのは、同作者のマンガ『カムナガラ』に近しい結末への至り方であるけれども、こちらのほうが、もちろん長さが違うというのもあって、ワキの登場人物たちに物語が散漫にならず、全体的にすっきりとしており、読みながらの混乱が少なかったように思う。最初に引いた問いに含まれる、自分が自分のために出来ること、自分が他人のために出来ること、こうした主題に関わる部分は、治基と日奈とやしほら主人公クラスの三者に仮託され、そのことの結果をちゃんと、哀しみも込みでの大団円へと結びつけている。けっしてすばらしくすぐれた内容とまでは言わないし、物足りなさを認めたうえで、いや、それでも好感の持てるエンターテイメントではあった。

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2007年03月19日
 天のプラタナス 1 (1)

 〈どんな球種も投げ分け / スランプのバッターを回復させちまうんで / またの名を「ドクターピーマン」!!〉として中学時代に在籍していたシニア・チームを全国制覇に導いた海原夏生であったが、それはバッティング・ピッチャーとしての裏方における活躍であり、じっさいの試合でマウンドに上がったことはなかった。そのことを気に病む夏生は、高校では無名の野球部に入り、エースの座を目指そうとする、が。七三太郎・川三番地コンビによる野球マンガのスタイルは、『4P田中くん』を経て、『風光る』で完成されてしまった感があり、不良と天才の要素を組み込んだ『Dreams』では多少意識されたところがあったのかもしれないが、この新作『天のプラタナス』では、もはや過去作のヴァリエーションであることを隠そうとしていない。小柄で体型的に恵まれていない主人公のピッチャーが甲子園を目指すといったプロットは、『4P田中くん』ですでに発想されていたものだし、その主人公のちょっとした特技が隠されていた才能に結びつくという展開も、やはり『風光る』からの流用だといえる。で、まあ、さすがに読み手の側としては、またこのパターンかあ、と言いたくなってしまうところで、作品の質が高まっていればいいのだけれど、いや、1巻の段階、まだ一試合も行われていない時点で、こういうふうに言うのは尚早であろうが、以前までのものと比べ、それほど上回った部分のない内容に止まっている。
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 渋谷区円山町-桜

 このたび映画化された『渋谷区円山町』の続編、おかざき真里の『渋谷区円山町―桜―』であるが、じつはそれとは無関係に併録されている「フカミドリ」が興味深い。04年の作品である。話題が噛み合わないせいで、高校のクラスから浮いてしまい、苛めに遭った亜咲は、夏休みのあいだ、小説家で血の繋がらない姉である彩子に家事手伝いとして呼ばれ、山間の一軒家で過ごすこととなるのだったが、そこには姉のほかに、幼い子供のミサキを連れた謎めく若い男性、夏樹が居候していた。なぜ彼らは、恋人や家族というのでもなく、世間から離れ、ひっそりと暮らしているのだろうか。三人が秘めながら共有する悲しみに触れ、亜咲は、それまでに想像することもなかった種類のやさしさがあることを、知る。つまりは傷ついた少女の再生劇ともとれる内容であり、アウトライン自体はよくある手のものなのだが、最後まで厭世感が手放されないところに、ある種の壮絶さが感じられたりもするのだった。たとえばここで恋愛とは一個の他者体験だとしよう。亜咲は生まれてから17年間、誰かを好きになったことがなく、そのことがクラスメイトからすれば〈えー変わってるってゆーかヘンだよー〉と指摘される点なのであって、じじつ他人に深く関心を持つことなぞどうでもいいと思っているから、〈亜咲は恋バナしないもんね〉〈うちらのことバカにしてるでしょ〉と迫害されてしまうのだけれども、彩子の家で夏樹と接するうち、彼に惹かれはじめ、〈夏樹さんのコト……もっと知りたいのにどうしていーのかわかんない〉〈知りたい……触りたい〉〈知って欲しい〉〈こういうのって初めてで〉と、要するに初恋をし、その対象に接近しようとするさい、必然的に感じられる距離感によって、自分ばかりではなく〈みんな気持ちでできている〉ことに気づく、そのような意味で、はじめて他者に出会ったといえるわけだが、物語はしかし、そこで、外に出て他者に出会え、式のメッセージには着地していないふうに思われる。夏休みが終わると、学校へ戻らなければならない亜咲はともかく、彩子と夏樹にいたっては、今後とも山から下りることがないのでは、と予感されるし、それに対しては、けして否定の表現になっていないからだ。どこまで意図されているのかはわからないが、切りとられたひとつの場面としては美しく、いや、ま、この作者のマンガはいつも雰囲気重視で結末における印象が曖昧な節があるにしても、ここまで出口のない風景が描かれるというのは、良くも悪くも異様である。
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2007年03月18日
 主将!!地院家若美 2 (2)

 規格外の変態に率いられた大内裏高校柔道部のドタバタ劇を描く、やきうどんの『主将!! 地院家若美』は、2巻に入って、ますますおもしろくなってきた。いや、まあたしかにパッケージからイメージされるとおりの内容に他ならないのだが、下品なネタで安直に通すばかりではなくて、登場人物たちが作中でいろいろと巻き起こす諸々の騒動が、ヴァリエーション豊かに、すぐれて愉しませてくれる。1巻の段階では、男色家であり、目的のためなら手段を選ばない若美の無軌道ぶりが大概であったけれど、それにつられて話が進んでいるからか、彼以外の人間もあんがいにアブノーマルな一面を見せ、もはや総員がボケの役回りである。数少ない良心(ツッコミともいう)であった新入部員の若鳥や副主将の雨宮も男同士であやしい。しかしながら、マンガ自体のバランスは崩れていない、あるいはテンポ良く読めるようになっているのは、ワン・エピソードそのものがしっかりとつくられ、各人の個性が、その展開によって引き出されているためだ。言い換えれば、話に外れがない。なぜか忍者を志している三平先輩が仲間外れになる回など、くだらないといえばじつにくだらないんだが、それまであまり活きていなかったワキの登場人物を、メインに持っていくまでの導入が巧い。それにしても、ギャグやコメディだと思っていると、まるっきりシリアスなエピソードの回が出てきたりするから、油断ならない。地院家をめぐる血なまぐさい因縁は、前巻でもちらっと触れられていたけども、あくまでも背景としてストーリーを小出しにしていく手法が、思いのほか効果的に現れており、そちらのほうもけっこう引きが強く、80年代の少年マンガを彷彿とさせるハードボイルドなやりとりもいける。

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2007年03月16日
 スプラウト 4 (4)

 片想いというのはとかく苦しい。それはもう疑いようのない真理だ。と思う。感情は一直線に出口へ向かい急いているのに、あらかじめ出口が塞がれていると感じられるときなどはとくにそうで、自分で自分の気持ちでしかないものに窒息させられそうにもなる。当事者にしてみれば、救いとなるのはただひとつだけ、なのにもかかわらず、その救いに手が届かないことに、救われず、苦しい。かくして草平への想いが高まれば高まるほどに、実紅の寂しさはぐっと確かなものになってゆく。南波あつこの『スプラウト』4巻である。下宿人たちとキャンプに出かけた夜、成り行き上の中途半端なかたちで、草平に自分の気持ちを打ち明けてしまった実紅であったが、今付き合っている彼女(みゆ)を大事にする草平は、それに気づかないふりをする。ワキの登場人物たちの個性がうまく活かされていないこともあり、ひとつ屋根の下で暮らす、という部分に関してはあまり褒めないのだが、主人公の心理を観察し、つぶさに記録するかのようにして描かれる挙動からは、(今のところ)三角関係にすら及ばずにある、一方通行の恋におけるしんどさがよおく伝わってくる。若いがゆえのナイーヴさというのは、ともすれば世間知らずと同義でしかないが、しかし、だからこそ痛みや苦しみは、鮮明さを為して、感情に深く、刻み込まれることに気づかされるのである。

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 ラブ・コン 16―LOVELY COMPLEX (16)

 いま現在の人気であれば、あと数巻は惰性で保っただろうに、この16巻で完結となった中原アヤの『ラブ★コン』だが、しかし、これでも正直なところ無駄に長すぎた。やはり、リサと大谷が結ばれて以降に、それ以上のクライマックスをつくれなかったのが、いや、つくろうとしている節がうかがえたこともあって、丁度よく終われなかったのは残念に思う。それでも、だ。ここまで長く続けておきながら、この、うまくまとめるだけはまとめました的なエンディングには、さすがにちょっと。ラストの文化祭から卒業式への流れが、いまいち盛り上がらず、まあ登場人物たちがみな、相応にハッピーになれてよかったですね、といったところではあるけれども、ピークを過ぎたあとでも連載を続けること、あるいは続けさせられることの困難が、ダイレクトに示されてしまったかのような、あまりにももったいない、尻つぼみ感であったよ。

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2007年03月15日
 スイーツ禁止委員会 

 もしかするとプロフィールに京都精華大学マンガ学科卒とある人の作品を読むのは、この、かじの『スイーツ禁止委員会』がはじめてのような気がする。しかし正直なところ、絵もストーリーも、新人という点を差し引いたとしても、かなり巧くない(それを個性的と言い換えられる可能性もある、が)。また発表された雑誌がどれも『ザ・デザート』周りだということもあってか、まずセックス(性交)ありきのシチュエーションも、論理と倫理がぐちゃぐちゃで、たとえば「生出し禁止委員会」という、えらい題の一篇があり、そこではたしかにコンドームの使用が推奨されてはいるのだけど、あくまでも避妊の一面でしかそれは考えられておらず、性行為による病気の感染等は危険視されない、裏を返せば、妊娠さえしなければ生でもいいじゃん、ということになってしまう。こういう話をすると、おまえは頭がかてえよ、と言われてしまうかもしれないが、ここでのコンドームの使用をモチーフとした内容は、やがて、セックス(性交)のさいに自分のことばかりではなくて相手の気持ちや負担も考える、そのようなテーマに突き当たるため、やはり、ひとつ掘り下げが足りなかったと考えるべきであろう。こうして、先に批判めいた旨ばかりを述べてしまったけれども、恋愛をしている女性(少女)の心理がいかに動くか、その切実なエモーションの掴まえ具合がいい。そのへんはおそらく作者の資質によるものではないか。最初に述べたとおり、技術的にはだいぶ拙いにもかかわらず、はっとする描写がいくつかある。
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2007年03月14日
 あかねSAL☆ 1 (1)

 これまでは過去にマンガ作品がテレビ・ドラマ化されるさい、その脚本を書く機会の多かった岡田惠和が、ここではじめてオリジナルのマンガ原作をつとめ、なかはら★ももたが絵を描く『あかねSAL☆』の主人公、田丸茜は、大学の友人たちが就職活動に勤しむなか、とくに目標もなく、その気にもなれず、これまでどおり中途半端に日々を過ごしていた。そんな彼女にも、過去にたったひとつ、真剣に取り組んだものがあった。サッカーである。しかし中学に 入って辞めてしまったそれも、今や懐かしい思い出でしかなく、あの頃がもしかすると自分の人生にとってピークだったのかもしれない、と思うだけだった。が、初恋の人であり、現在は芸能事務所でマネージャーをやっている相田翼と偶然再会し、彼が担当するアイドル・グループ、フロ☆フロのフットサル・コーチを頼まれたことから、ふたたびボールに情熱を傾けることとなる。こうしたアウトラインから明らかなように、ただの芸能界ものではなくて、そこにフットサルという要素が組み込まれている点に、目新しさがうかがえる。じっさい、プレイのシーンにはちょっと迫力が欠けるにしても、作品のなかで、フットサルに置かれている比重は大きく、それがなくては物語が回らないぐらいである。また、あくまでも一般人でしかない主人公と、オーラのあるアイドルたちとの対比も、いくつかの場面で、効果的なグラデーションになっており、アイドルの切ない恋心や、あるいは華やかさの裏に隠れてしまう挫折や孤独みたいところで、それぞれ一個のエピソードが成り立ちうる箇所にも、さらにワン・アクセント加わっている。この1巻を読むかぎり、主題となるべきは、アイドルたちの影でがんばる姿を目にし、じょじょに怠惰であった主人公が変わっていくことだろうが、いや、フロ☆フロのメンバーがまたみんな良い子でさあ、ひとりひとり夢が叶うといいですね、と、そちらにもあたたかい声援を送りたくなってしまう。
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2007年03月11日
 『猫の足』は、現在はコミカライズを担当することが多い海埜ゆうこが、90年代の終わりから00年代のはじめにかけて、ということは、たぶん活動初期にあたるのかな、そのあたりに発表したオリジナル作品を収めており、この頃のものは読んだときがなかったんだけれど、なるほどねえ、個々の出来だけを見れば、ライトな味わいのなかに小さな棘のちくんと刺す感触があり、けして悪くはないのだが、総体的な印象をいうと、いかにもサブカル層に向いてそうな女性作家といったセンで、これといった個性を拾い上げるのは難しい。表題になっている連作「猫の足」は、掲載がヘアカタログ誌だったという事情があるには違いないにしても、美容師という職種の扱い方が、ややステレオタイプに止まっている。とはいえ、そこでの男性主人公が無垢な女性に弱いという資質にあきらかなとおり、根本には、イノセンスへの憧憬があって、まあそれもアリガチといえばアリガチなテーマではあるのだが、海埜というマンガ家のキャリアを考えたとき、現在に至るまで、原作付きであろうとも、ぶれず、一貫されている部分であることは付け加えておきたい。

 『君という花』について→こちら
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2007年03月10日
 『鈴木先生』で一躍ブレイクを果たした(と言ってしまって何ら差し支えはないであろう)武富健治が、ほぼ90年代のあいだに発表した短篇をまとめた作品集『掃除当番』に収められているものはどれも、現在の目からすれば、習作の域に感じられたりもするのだが、しかし、このマンガ家に特有な心理の描写が、その時点ですでに確立されていた事実に、はっとする。ふつう、マンガ表現におけるフキダシ外のモノローグというのは、そのモノローグを所有する人間の内面を担保していると考えられていて、そこで発せられている言葉を読み手が追う行為は、すなわちモノローグを所有する人間の視線で作内の世界を捉まえ、感情に寄り添うことの意味合いが強いわけだけれど、武富のマンガは、そうした手法に安住していない。たしかに、『鈴木先生』や、この『掃除当番』で読むことのできる登場人物のモノローグは、その者たちの心の動きを、隠し立てなく、こちらに伝えてくる。ときに妄想ともとれるそれらは、明け透けでありすぎるほどだ。が、たとえば他のマンガでよく見かけるモノローグの類が、要するに、作品そのものを一人称的な内容にしてしまうのに対して、武富の場合は、三人称的というか、客観に近しい位相を作中から手放さずにおく。それがワン・エピソードの終わりで、いわばオチの効果に転じる。悲劇であるような、ギャグであるような、むろんハートフルというのとは違うし、かといって冷淡だというのでもない、なんとも形容しがたいクライマックスは、おそらくそうして訪れるのである。

 『鈴木先生』第1巻について→こちら
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2007年03月07日
 1ポンドの福音 Vol.4 (4)

 減量が苦手なボクサー畑中耕作と純粋な修道女(シスター)アンジェラの、あまりにもあまりにもスローな恋愛劇を描いた高橋留美子の『1ポンドの福音』が、ようやっと完結した。最終話はまだ『週刊ヤングサンデー』に掲載されてから間もないので、むしろ98年と01年に発表されたエピソードがこの4巻に収められ、ひさびさに読めたことのほうが嬉しいのだが、そこ(P49の上段)に、とあるマンガを模したカットがあり、もちろん何げないパスティーシュでしかないと済ませてもしまえるのだが、しかし思わずはっとさせられるのは、その元ネタが『あしたのジョー』であったからだ。ここで話は大きく飛躍する。あだち充の『タッチ』が『あしたのジョー』のオマージュであるとの指摘は作家の酒見賢一によって為されているけれど、ところで『タッチ』には、あだち以外のふたりのマンガ家の、代表的な作品の登場人物がそのままで出てくることはよく知られている。誰と誰のマンガかといえば、そう、高橋留美子と島本和彦である。ササキバラ・ゴウは『〈美少女〉の現代史 「萌え」とキャラクター』という新書のなかで、おおまかに、たとえば『あしたのジョー』に代表されるような70年代までの少年マンガでは信じられていた価値や根拠の失われた結果、男性主人公の挙動はヒロインの存在によって振り回されるようになり、80年代のラブコメブームが到来し、そのなかで代表的な作家であったあだちや高橋はそうしたことに自覚的であった、と述べている。もちろん、背景には当時の『週刊少年マガジン』とは異なる路線を模索する『週刊少年サンデー』編集部のライバル心があるのかもしれないが、ここで胸に留めておきたいのは、おそらく、先行する世代の代表作である『あしたのジョー』という作品が、あだちや高橋といった後発のマンガ家の意識に、その表面的な作風とは異なるレベルで、じつは深く影響していたのではないか、ということである。先ほど名前を挙げた島本和彦は『あしたのジョーの方程式』(ササキバラ・ゴウ編)で、『あしたのジョー』の白木葉子は、力石にできなかったことをジョーにやらせようとしていた、と推測しているが、これを変形させたところに『タッチ』の、南と和也と達也の関係が成り立っていることは明らかだといえる。さて『1ポンドの福音』に話を戻すと、作中における最後の試合、それまでただ軽いだけの性格だった畑中は、シスターの借金を返済するため、シリアスに戦う決意をする。それをホストを副業とする対戦相手は〈抱けもしねえ女のために…こいつバッカだなー〉と思うわけだが、ここにはまさしく、前提として肉体関係がないという意味合いにおいても、あのヒロインのために行動する主人公という図式が顕在化しているといってよい。しかし、これに対してヒロインが〈私のためとか、お金のためとか…間違っています。自分のために闘わなければ…〉と言ったことで、主人公は〈俺が闘う理由〉について、ひとたび頭を悩まさなければならなくなる。『あしたのジョーの方程式』において、ジョーが勝てなかった試合というのはすべて白木葉子が途中で逃げだそうとしていた、という島本の指摘を受け、インタビュアーのササキバラは〈見方によっては、ジョーのあしたが潰れそうになると、思わず葉子が逃げ出すという構図にもなっていますね〉と発言しているが、『1ポンドの福音』のクライマックス、あくまでも愛のためにとの覚悟で主人公が臨む試合の行方は、そのような構図を、あたかも正反対の方向から捉まえ直し、乗り越えようとしているかの印象を、まあ過渡な曲解といわれてしまうかもしれないが、受ける。
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2007年03月06日
 少年少女漂流記

 もはやネタが尽きたので映画やテレビのドラマは原作をマンガに求めるのだ、という言いはよく聞く類のものだけれども、あんがいマンガだってジリ貧なのではないかしら。安易なコミカライズの、やけに増えたことか。要するに、ジャンルをかぎらずサブ・カルチャーの領域全体に新規のアイディアの生まれる余地がなくなり、まあ下卑たことをいえば、宣伝材料になるようなトピックを絶えず作り続けなければ商売がやっていけないので、あいかわらず飽きられながらもメディア・ミックスは展開されるのだし、最近ではコラボレーションなる体のいい言葉が流行るのだ。いや何も、この『少年少女漂流記』がそうだというわけではないのだが、しかしこのところ原作付きのマンガを担当することが多い古屋兎丸と小説以外の他ジャンルに活動の幅を広げつつある乙一の、ここでの合作は、双方にとって何かしらかの試金石めいた意味合いを含んでいる、と考えられなくもない。単純に乙一が原作を担当し、古屋が絵をつけるといった作業により、作品がつくられたのではなくて、直截的な話し合いのなかでストーリーが組まれていったことは、巻末の対談(ちなみにどこにもクレジットされていないけど、この対談自体もすでに『小説すばる』3月号に載っていたもの)で述べられているとおり、どちらの持ち味も殺さずに生かしてある内容に仕上がっている。基本的には、オムニバスの形式で、各話ごとに、クラスでは浮いた存在の少年や少女たちが、肥大した妄想を漂流したのち、現実に帰還するまでを描いている。一話目や二話目らのへんは、まだコツがうまく掴めていないのか、思春期の自意識をベースに、わざわざ影とヒネった演出を加えてみました、といった感じの、まあ掲載誌が『小説すばる』だからあれだけど、90年代の『ガロ』や、今だったら『アックス』とか『クイック・ジャパン』などに載っていれば、ちょうど収まりのよさそうな典型に止まっており、正直なところ連載時に読み、がっかりしたのを覚えているのだが、三話目あたりからぐっと良くなる。五話目の「お菓子帝国」と六話目の「モンスターエンジン」は、最高潮に痺れたな。全エピソードの主人公が一堂に会する最終話「ホームルーム」は、本来は指向が異なるはずの登場人物たちを、同一の着地点でまとめてしまっているため、個人的には蛇足に感じられもしたが、それでも、ひじょうに良質な作品として完結している、と納得のできる範囲である。

・その他古屋兎丸に関する文章
 『彼女を守る51の方法』第1巻について→こちら

・その他乙一に関する文章
 『UTOPIA』について→こちら
 『銃とチョコレート』について→こちら
 「愛すべき猿の日記」について→こちら
 『小生物語』について→こちら
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2007年03月05日
 田丸浩史のマンガに出てくる妄想垂れ流しの駄目人間どもが、しかし筋肉隆々に描かれているのは、作者が偉大なるヘヴィ・メタル・バンドMANOWAR(マノウォー)の影響下にあるからで、というのは、いやいや、あながち冗談でもなく、じっさいに「尿意デマイオ」などとMANOWARにいるメンバー名をもじった、むしろ当人にしてみたら失礼千万なギャグが、たしかどっかにあったはずなのだが、そういう参照項への不遜なプローチが田丸の良さでもあり、このマンガの基本的な設定も、ものすごく怒られそうなところから持ってこられていて、将来重要人物になる小学生の女の子を守るべく、未来からやって来た海兵型ロボットが、さまざまな便利グッズを披露する、といった具合に、あからさまに元ネタが割れるようになっており、題名は、その海兵型ロボットの名前に由来しているのだけど、まあ、駄目人間がわんさか出てきて、駄目でない人間も駄目になってしまう、いつも通りのひどい内容になっているのは、さすがといえば、さすがなんだろうね。とはいえ、これまでの作品と比べたら、トラブル・メーカーであるレイモンドが、だからあくまでも他の作品と比べたらの話で、意外と使命に忠実なことの結果として、コメディになっている点は指摘できるかもしれない。ところで、ここには、けっこう詳細な作者インタビューも収録されていて、そっちも『最近のヒロシ。』そのままの妙味があっておかしいし、むろんMANOWARへの愛情も語られている。しかしロビー・バレンタインも好きなのかあ。
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2007年03月04日
 ピコーン!
 
 IKKI COMPLEXに関しては、要するに、小説のコミカライズをおもに扱うレーベルという解釈でよろしいのかな。とまれ、そのIKKI COMPLEXよりリリースされた『ピコーン!』には、『月刊IKKI』04年8月号の付録だった「ピコーン!」に加え、やはり舞城王太郎の作品を青山景がマンガ化した「スクールアタック・シンドローム」が、描き下ろしで収められているのだが、「ピコーン!」がそうであったように、そちらもあまり成功しているとは言い難いというか、たんに活字に絵をつけただけの出来に止まってしまっているのが残念なところである。しかしながら、その結果、原作が語り手である父親の主観によって物語が駆動させられていたのとは異なり、他の登場人物たち、とくに息子の表情などがダイレクトに示されているため、内容を父と子の関係性一本のみに絞れば、ひじょうに捉まえ易くはなった。反面、それ以外の事象については、幾度となくリピートされる〈暴力は伝達される〉といったフレーズ、言葉そのものの持つ効果に頼りきってしまっていて、たとえば、そこにかかってくる血なまぐさい描写は、まあタッチを変えているのは意図的になのだろうけれども、そうして絵の部分により作中人物たちが生きる現実と乖離されてしまった暴力を、〈暴力は伝達される〉の一言で無理矢理に、意味ありげなものとして機能させるのは、技術的に拙い。と、ここまでいいながらも青山景のことは、けっして悪い作家だとは思わないのだが、これといって抜きん出た面も僅かしかなくて、今後の活動は、もしかするとポスト秋重学みたいな位置で小学館に使われていくことになるのかもしれない

 『SWWEEET-スウィート-』1巻について→こちら
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2007年03月02日
 バンビ~ノ! 7 (7)

 ときおり料理マンガの類には、この国の現状を憂う声が入り込んでくるのだが、それってたぶん、料理を巧く作るためには一定のディシプリンが有されなければならない、といった思いなしが、無目的に流動化しているかのように見える今日を、相対的に捉まえ直すからなのではないか、と考えることができて、このマンガでも年輩の登場人物が〈アタシ達が作りたかったのはこんな国だったかね?〉と世を眺める一方で、料理人の主人公に〈あんな若者もいる!〉との期待をかけたりもする。せきやてつじの『バンビーノ!』7巻である。一流の料理人を目指し、上京してきた伴省吾だが、現在はまだホール(サーラ)で接客を学ぶ段階にあった。しかし彼をバンビと呼ぶ、上客である野上の態度は厳しく、自分が試されていることを知った伴は、なんとか認めてもらおうと奮闘するのだった。先ほど引いた、この国に対する悲観と希望は、そして伴に一応の信頼を置いた野上が発したものだ。ここの、いちウェイターがいかにして接客業務のみで相手を満足させるかといったくだりは、ああ、そういうふうに打開するわけね、多少の安易さを感じさせもするけれど、これまでのちょっと物足りない流れからすれば、十分なカタルシスを味わえる。そうして物語は、厨房(クチーナ)とホールの店員全部に参加資格のある秋の真メニュー品評会へと進むのだが、やっぱり、料理と直截に向かい合う展開になると、作品の燃え具合が違う。〈俺が料理人かどうか…俺の皿食ってから言って下さい。今の俺、コイツに全部込めちょりますけん…俺の皿、食って下さい!!〉と挑む伴を、見事な料理で〈テメーにこの皿を越える事が出来んのかよ!!〉と迎え撃つ先輩料理人の香取が、あの嫌味だった奴ですら、熱くてよいよ。

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2007年02月27日
 やっぱり、柳内大樹の『ギャングキング』は、単発のエピソードだな。吉田聡の亜流というか下町人情的なアレンジでしょう、と言われれば、そのとおりなのだが、ちょっとしたいい話をオチのあるワン・エピソードにまとめるのがいかに難儀なことであるかを知りたかったら、それこそマンガ史を振り返ってごらんというやつである。しかしながら、長尺のエピソードは、ぜんぜん駄目だ。この駄目さ加減を知りたかったら、それもまたマンガ史を振り返ってごらんというやつなんだろう。方向性の違いから、ジミーと決別したゾンビの新生ジャームは、ピンコ率いるジャスティスとの結着を急ぐあまり、他のチームとの衝突を繰り返し、無理矢理にメンバーを増やそうとする。その暴走を見かねたキャンディは、ゾンビと行動をともにするのであったが、その一方で、ジャスティス傘下のなかでもとくに凶悪であることで知られるトラッシュが、ジャーム潰しのために動きはじめていた。こうしてストーリーを拾いながら、いやあ改めてすごいネーミング・センスだね、と思うのだけれど、それはさておき。はっきり言って、登場人物たちを動かすモチベーションに(以前はあったように感じられた)一定の基準がなく、場面場面によって言動が揺らいでしまうので、何をどうしたいのかよくわからない。ところどころに良いシーンは良いシーンで存在しているにもかかわらず、それらにしても取って付けたような印象が強いため、説得力を欠く。だいたい、トラッシュの非道なやり口に、ぼろ雑巾みたくされたゾンビとキャンディの姿を見たジミーは如何なる行動をとるのか、で次巻へと持ち越されたわけだが、そこでまた、うだうだと悩むのをリプライズするようだったら、最初からケンカなんてするべきではないし、不良なんてやめてしまえよ、の一言で収まってしまうところで、これはたぶんテレビ・ドラマ版『池袋ウェストゲートパーク』の最終回以降に、どうヤンキーの物語が展開されるべきかに面した問題なのだ、が、はたしてどう転がす。

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・『ドリームキング』に関する文章
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2007年02月26日
 乱飛乱外 3 (3)

 滅亡した武家の末裔である雷蔵の、逆玉の輿を目指す旅は続く。田中ほさなの『乱飛乱外』だが、この、武芸の里である柳生国での立ち回りを主に収録した3巻に入り、さらにおもしろさを増したので、ちょっとびっくりした。脆弱な男性主人公が、逞しい(ついでに可愛い)複数の女性にフォローされつつ、成長するといった体のマンガは、珍しくも何ともないわけだけれど、そうしたパターンのなかにあって、これは頭ひとつ出たハイ・レベルさ加減ではないだろうか。その原動力は、これまではナイーヴさ余って受動的すぎる嫌いのあった雷蔵が、ここにきて隠切の太刀というアイテムを手に入れたことで、バトルのさいに、なかなかのアクションを見せるようになったことにある。このことによって、作中における主人公の位置が、きっちりと定まった。より正確を期していえば、ヒロインたちの道連れでしかなかったような立場から、自立的に活躍のできるクラスへと上がったのである。じっさい柳生国でのイベントにおいて、ヒロインたちは完全にワキへと回らされている。もちろん、そうしたシフトのチェンジは、今回のエピソードにかぎってのことかもしれないにしても、まあ、メインの登場人物のひとりがひとつ見せ場を持っていると考えるのであれば、そこにもうひとつ見せ場が増えたということでもあるのだから、今後への期待に添えてしまってもいい。それにしても、だ。すぱすぱと人が斬り殺されるのを、これほどまで、いっさいの屈託もなしに描いているのには、どひゃあ、と思わされもするのだけど、時代劇ふうの背景に殺伐としたものがあるのを踏まえると、あんがい作者は狙ってそうしているんだろうね、という気もする。

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 youngjum.jpg

 昨年完結したマンガのなかで、ほんとうに、このマンガがすごい、このマンガを読め、というふうに偉ぶって褒めるに値したのは、山本隆一郎の『GOLD』だけだったのだが、いやまあそれは言葉の綾だけれども、しかし、今日というかもう10年以上ものあいだ、多くの表現が、終わるに終われないモラトリアム(夏休みだとか祭りだとかに言い換えてもいいよ)が日常化してしまったことの、その内側の閉塞感をいじってみせるのが高尚だと勘違いしているのに対して、モラトリアムに終わりはつきものなんだよ、でも日常は続くんだよ、と、きっちり引かれた境界線の上に、読み応え溢れるエンターテイメントを展開させ、さらにはハッピー・エンドへと導いた点で、見事な達成を果たしていたと認めるのにやぶさかではない。その作者が、『週刊ヤングジャンプ』NO.12(もう先週号になるかな)に初登場し、読み切りとして発表したのが、『紙の翼』という作品なのだが、これに関しては、ちょっと、判断を迷う。雑誌全体からみれば、「ヤンチャの美学 悪童特集「男革」」というのの一環に組み込まれていて、そりゃあたしかに、子供向けかオタク向けのメディア・ミックスをべつにすれば、ビー・バップ世代というか団塊ジュニアをも含む現在オーヴァー・サーティの層をターゲットにしたビジネス・モデルが、サブ・カルチャーの商売にも適用されるのは妥当だろうが、そうした枠内にぴたっとはまってしまう安直さには、いささか戸惑わされる。16歳のときに少年院で知り合って以来、10年間ずっと危ない橋を渡り続けてきたヒデとイエローのふたりであったが、しかし彫師として人生を再出発したいと願うヒデにとって、あまりにも暴君的で危険なイエローの存在は、疎ましく感じられるものでしかなかった。そこでイエローの殺害を計画したヒデが、いざ実行の間際になって、イエローが自分のことをほんとうはどう思っていたのか、その真意を知ることとなる、との筋は、やはり通俗的すぎる。とはいえの話、じつは、この物語のなかでアウトローの姿は間違ってもかっこうよく描かれていない、むしろ悲惨ですらある、これをどう評価すべきか。たとえば、世のなかには、ヤクザになるほかない人間というのが、少なからず、いる。それはある意味で、仕方がないことなのだろう。だが、以前にも何度か書いたように、高橋ヒロシが『QP』というマンガにおいて、我妻涼というアウトローの姿をかっこうよく描いてしまったことで、ヤクザとして孤独に生きなければならないのはまったく幸福とは言えないにもかかわらず、若い世代の読み手から我妻涼の暗さに憧れる声が多く出てしまったことに対し、逆に批判的にならざるをえなかったことを、過去のインタビューで高橋自身が述べていたのが思い出されるのだけれど、それが不可避であろうとなかろうと、アウトローの立場を選ばなければならないのは、けして持ち上げられたり、肯定されたり、当然のように望まれるべきではないのである。この一線だけは、「ヤンチャの美学 悪童特集「男革」」なぞという阿呆みたいな枠に収まりながら、しかし、あくまでも踏み越えてはいない。もしかすると、そこに『紙の翼』の価値があるのかもしれない。と、そのことは明記しておきたい。

・『GOLD』に関する文章
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2007年02月25日
 キリン

 少女を主人公とする恋愛の物語に、両親が離婚するしないの問題が導入されがちであるのは、それが作品に今日的な生活感を付与するからだという必然もあるのだろうけれど、そのほかに、あるひとつの絶対だと感じられていた関係が壊れる、かつては蜜月であったものにも必ずや終わりが訪れる、といった認識が、主人公の目の前に提出されたさいの反応を描くことで、逆説または相対的に、彼女のなかのピュアというかイノセンスな部分が顕在化されるという効果を持っているためだ。たとえば、真実の愛というものが永遠に変わることのない想いを指すのだとしたら、それが保証されることは不可能なのかもしれない、が、しかし、では今こうして誰かに向けられる想いが、間違いなく真だと信じられるのはいったい何故なのか、と、このような経験則とは無縁であるがゆえに、無垢とも無知ともいえる青い懐疑の真下に、主体がぶらさがることとなるのである。山口いづみの『キリン』には、三篇のマンガが収められているが、そのうちメインの作品である「キリン」もやはり、少女の、内面の劇を扱うにあたって、両親の別れを発端にしている。母親が家を出て行って2年が経ち、父親との二人では広く感じられるマンションを引き払い、新しく引っ越した先で、同じアパートに住む不思議な雰囲気の青年、漠慎二と出会った高校生の冴木凛は、やがて、そののやわらかな印象に惹かれはじめるのだけれども、彼にはまだ想いを残したまま忘れられずにいる相手のあることを知る。そうした漠の存在と両親の離婚が、主人公の凛に〈……わかんない……大人の事情って何 そのせいで好きなのに別れて 嫌いじゃないのに 離れていって そのせいで……誰かが悲しい想いをして……そんなの難しくて分かんない〉との悩みを口にさせる一方で、彼女に対して恋心を抱く同級生の新との関係を、居心地はいいが、恋愛に発展させることはできず、だから今の状態が壊れないよう、彼からのアピールには気づかないふりをする、そういう自分の狡さにも気づいている。これらの諸事情が、凛の〈見ないフリをして受け入れようとしなかっただけ ただ漠然とそうしていれば 何も無かったかの様に 全て元に戻る気がしていて〉という消極性へ如何に関与するか、が作品の主題だといっていい。現実のなかで無傷なまま生きられるイノセントなぞ、たぶんどこにもない、けれど、いや、だからといって最早イノセントではないというだけで、不純であったり不誠実であったりの断罪が行えるものでもない。いくつかの出来事のあとで、凛が〈大人の事情には お互いの価値観がどうとか 経済力がどうとか そういうものが山積みで だけどもっと根本で 幸せになりたいとか 相手の幸せを願うとか そういう単純なものがあるのだと そう思ったら 少しだけ救われるような気がした〉と思うのは、おそらく、そのことに気づいたためである。ともあれ、以前までに比べると、絵柄と全体の演出に、どうもちょっと、いくえみ綾の作風を意識させられてしまうが、作者の良好ぶりを示した内容に仕上がっている。

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 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
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2007年02月24日
 3番目の彼氏

 ただ胸が大きいせいで、中学の頃、はじめて付き合った彼氏からは〈おまえみたいなのとつきあってんのハズカしんだよ!!〉とフラれ、次に付き合った年上の彼氏には、そのような外見のイメージに反して、わざわざ同じ高校にまで追いかけてくる一本気な性格を理由に〈思ってたカンジと全然違うし…(略)正直重すぎんだよ…〉とフラれた主人公に、はたして三度目の正直はあるのか、という内容から『3番目の彼氏』というタイトルがつけられているわけだが、じつは、これが作者の小藤まつにとって三度目の連載であったらしく、案外そうしたことのダブル・ミーニングであったりするのかもしれない、との余談はさておき、〈オシャレ好きだし 化粧もするし 悩みのなさそーなお調子者で おまけに乳までムダに大きくて だけど今度こそは ちゃんと中身まで好きになってくれる人とつきあいたい……〉と思う梨央は、男子との遊びの席で、ひとりはグッド・ルッキンで人当たりもよく、ひとりは性格も身なりもぱっとしない、雰囲気のまったく異なる双子の兄弟と出会い、ちょっとしたハプニングから、彼らのうち地味目なほうの太一(通称のみ太)と親密になるのだけれども、予想されるとおり、そこに双子のもう一方である理一が絡んでくることで、物語は三角関係の様相を帯びる。これは僕の持論になるのだが、三角関係の劇というのは、トライアングルのなかで選ぶような立場にある人間が、とにかく他の二者のあいだを右往左往しているばかりだとおもしろくなっていかず、どちらと結ばれるのかあらかじめ見当のつくぐらいがいい。それというのはどうしてかというと、主体が、どちらを選ぶかわからないとき、どうしても複雑な心境の変化そのものが表現へと転化されなければならないし、結果、よっぽど高度な技術の持ち主でないと、つまり多くの場合ということになるのだが、うだうだする様子に退屈させられてしまうのに対して、話の落としどころが決まってさえいれば(あるいは決まっているのではないか、と考えられさえすれば)、あとはストーリーの山と谷に沿って、ぱたぱたと動かざるをえない登場人物のアクションに、読み手は自分の関心を注ぐこととなり、展開それ自体の妙をダイレクトに味わえるからだ。このマンガは、ちょうど、そういうバランスの上に成り立っており、だから、きわめて典型的な筋書きであるのに、最後まで、だれず、見届けられる。
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 ヤスコとケンジ 4 (4)

 全4巻というヴォリュームは、こうした女性マンガ誌の連載作にあっては、けして少ないほうではないけれども、逆にそれが不思議なぐらい、最後まで冴えたところのない内容になってしまったのが残念で仕方がない、アルコの『ヤスコとケンジ』であるが、その原因を考えてみるに、もともとあった読み切り作(これはよかったのだが)の設定を、長尺へと引き伸ばすにあたって、ストーリーの部分にしっかりとした地盤がつくれなかったためではないだろうか。そのことを誤魔化すかのように、異様に高いテンションでびゅんびゅんとコマは進むのだが、しかし、それがページを埋めるための作業でしかないみたいに、ほとんど無駄だと思えるカットが大半を占めてしまっていて、コメディとして見た場合でも、1、2コマで済ませばよさそうなところを倍以上の数のコマで描いているため、正直、テンポが悪い。いやまあ、箸が転んでもおかしい年頃の女性ならば、もしかするとこれぐらいが丁度いいのかもしれない、が、短篇で持たされた期待が大きかっただけに、序盤からの懸念が払拭されないまま終わってしまったのが、くやしい。

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2007年02月23日
 聖闘士星矢EPISODE・G 11 (11)

 現在、車田正美当人が描くものも含め、『聖闘士星矢』には複数のサイド・ストーリー、まあ要するに、公式認定されている二次創作ふうのマンガが同時に存在しているわけだが、この岡田芽武のヴァージョンが、もっともオリジナルの設定に忠実であるし、いちばんの燃える展開とアフォリズムを有している。それともうちょいいえば、オリジナルにおいては、アテナ(沙織)を守ることが星矢ら青銅聖戦士たちにとっての平和を守ることとイコールで、そのことは当時80年代という冷戦下の状況と無意識のうちに結びついていたのだろうが、つまり、一種のイデオロギー信仰でもあったといえるのだけれども、そうした面の有効性が弱まった今日に、いわゆる大きな物語が云々とはべつのレベルで、身近で直截的な対他関係こそを、自己証明の手立てにすべく戦うといった図式が、他のヴァージョンに比べ、効果的に回されているのも『聖闘士星矢 EPISODE.G』の強みである。作中で、神への懐疑が頻繁に投げかけられるのも、おそらくは、そのことに一役買っている。として、〈美は表面上にのみ現れるものではありません / 己の信じるものに命をかける者は須くみな輝く――賢明に生き 死ぬ者に美しくないものなどいない――神を名乗るならそれを知るべきです〉とアフロディーテが嘯いてみせる11巻も、あいかわらずホットな場面の連続なのだった。アフロディーテの援護を受け、リトス救出のための一歩をさらに進めたアイオリアの前に、ティターン神軍の思惑すらも余所にする存在、海洋の神ポントスが突如として降臨する。彼の目的は、人間に絶望を教えること、アイオリアの魂に敗北を刻むことにあった。いやあ、ここからがまた、最高潮にクライマックス(同義反復)で、青くさい名台詞が続出である。けして埋めることのできない力の差に、右腕を切断され、いったんは心の折れかけたアイオリアだが、しかし天秤座童虎の助力によって、自分を信じてくれる、自分が守らなければならない人びとがいることを思い出し、〈理解できねぇな / 神だって名乗るお前が / ただ壊すだけの力を真の力というのかがワカラねぇ / 力って言葉は!!! なンかを心から信じたモンだけが使っていい言葉なんだよ!!!〉と逆襲の狼煙をあげることになる。と、このポントスの降臨はじつは、『聖闘士星矢 EPISODE.G』のなかにあっては枝葉の部分であり、むしろオリジナルである本編への補助線にあたる。そのことを示すかのように、巻末で、星矢とアイオリアの、十二宮での戦いがリプレイされているあたり、演出も手が込んでいる。

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2007年02月20日
 立原あゆみが、お馴染みのヤクザではなくて警察の姿を描いていることは、まあ『ポリ公』という直截的な題名に示されているとおりだけれど、結局のところ、従来の作品と大きく変わった印象がないというのは、さすが、というべきだろうか。いつもどおり舞台は港町、浜西署のなかでも、とくに末端に位置する0課へと配属になった、新米刑事の粟飯原凉二が、持ち前の人情と行動力で、白とも黒ともつかぬグレーのゾーンを生きなければならない立場の弱い人びとを、なんとかして救ってやろうと立ち回る。大まかな話の流れをいえば、そういった感じである。むろん、いつもヤクザを演じている俳優が刑事の役をやるのとは違い、物語という枠全体に、普段とは異なる、各種の制約が設けられているわけだが、それらはしかし、あゆみイズムの前では、些末な問題に過ぎない。たとえば無印の『仁義』ならば、そもそも高いインテリジェンスを持ったテロリストの義郎が、所属団体の組織化されたイデオロギーに懐疑を覚えたため、犬死にであろうとも自分の信じるもののために命を懸けるヤクザの仁の生き方を真だと思い、彼の参謀役を買って出るのを出発点としているように、立原のマンガのほとんどには、どのような組織であれ、その内部の空洞的な部分を批判する眼差しがあり、それがこの『ポリ公』では、警察機構のほうへと転換されている。とはいえ、虚をついた飛び級形式の出世が、立原のもっとも多く用いる展開のダイナミズムであるとしたら、当然のようにそれは刑事が主人公のとき適用し難く、さてそこで、この場合は作中に、シルバーバレットという、法では裁けない悪を断罪する謎めいた存在を組み込んでおり、それを主人公が追うかっこうになっているのであったが、これが正直どうもうまくいっていない。2巻の、ここまでのところでは、どうやら粟飯原の在籍する0課の存在自体が、シルバーバレットと深く絡んでいるみたいなのだけれども、だからどうしたいのか、現時点ではだいぶ掴みあぐねる。

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 『月の教室』について→こちら
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2007年02月18日
 GOLDEN AGE 3(3)

 いっときは主要少年マンガ誌からすっかりと姿を消したこともあったサッカー・マンガだが、ここ最近になり、ふたたび連載作が増え、その立場を回復しつつあるように思う。そうしたなかにあって、今もっともおもしろい作品はといえば、これはもうまちがいなく寒川一之の『GOLDEN★AGE』だろ、と断言してしまってよい。まだ3巻までしか出ていないけれども、しかしここまでの段階ですでに、十分に読まれる価値がある。サッカー・マンガにかぎらず、スポーツ・マンガ全般またはテレビ・ゲームなどの他のスポーツを扱うサブ・カルチャーを含め、一点突破のスポ根じみた無根拠を乗り越えるべく、フィジカルにメンタルといった論理性と、さらには、それらをチーム単位の手段とする戦略的な要素を盛り込むことで、表現の様式は更新され、ジャンルの活性化が担われてきたといえるわけだが、このマンガのすぐれているところは、そのような段階の推移をあますことなく包括すると同時に、今日的にきわめて良質な、また良心的な、一線級のエンターテイメントをまっとうしている点にある。だいたいストーリーのレベルだけで見るのであれば、元ジュニア・ユースの選手が、自分の中学の弱小サッカー部を立て直し、全国制覇を目指すといった、この手のジャンルにあっては、むしろ古典的なセオリーに忠実なものに他ならない。しかし、ひとりのヒーローの天才的な活躍によってのみ、それが成し遂げられていくのではないし、また単純な努力、つまり練習量の多さだけがチーム・メイトらの成長を保証するのでもない、いや、そういった部分も含みつつ、より説得力のある表現が探られている。むろん、現実的にはそんなことねえよ、という部分もあるには違いないが、にもかかわらず素直に頷かされてしまうのが、フィクションというもののうつくしさ、醍醐味である。このマンガにおいて、それを可能にしているのが何なのか、と作中の言葉を借りて指せば、まさしく白河の魔法(マジック)ということになるであろう。ジュニア・ユースの世界ではエリート中のエリートであった主人公の白河唯は、たとえば試合中に彼が立ち回れば、それだけで勝負が決してしまうほどの特権的な役割を、作者から与えられている。同じジュニア・ユースからの移籍組であるトラやナリアちゃんと比べても、その実力は破格ですらある。だが、それは言うなれば、滅多に抜かれることがないゆえに伝家の宝刀たりうるようなもので、この『GOLDEN★AGE』は、そうした唯のプレイに直截の焦点を合わせるのではなく、あくまでも彼の才覚が(試合の最中に前後の状況を含め)特定の条件下でいかに機能するか、を物語の基礎に置いている。結果、他の登場人物たちの唯に触発される姿を中心に、試合の様子などが描かれることになるのだけれど、序盤においては、有象無象にしか思えなかったチーム・メイトが、じょじょに、その魅力を増し、感情移入の対象になっていく過程は、団体競技が表現されるさいの、あの、メインのプレイヤー+その他大勢といった定型的な読みを、するどくかわし、新鮮な興奮をもたらすに至っている。準主役の近江はともかく、ぱっと見個性のないメンバーが、ここ一番で思わぬ頑張りを発揮する場面が、いい、燃える。そのような内容をおそらくは示すにあたって、題名に用いられたゴールデン・エイジとは何か、おおよその由来は、この3巻のなかに説明されているのだが、それはつまり、すべてに未成熟な少年期には逆にあらゆる可能性が開かれている、といったことの言い換えなのだ、と考えられる。今日においては、壮年や青年向けの作品にかぎらず、少年向けの作品にさえ、挫折や断念が、リアルな感触として入り込み、そこに安易に寄り添う傾向がある。まあじっさいに、少年誌といえども、購買層の何割かは、おっさんが占めているんだろうしね。とはいえ、だ。ハナから夢や希望を信じていない向きが、挫折や断念を重要に感じられるはずもないのであって、むしろ現実には幻滅的な部分が多いからこそ、夢や希望は信じるに値しうるのである。と、すこし話は逸れたが、『GOLDEN★AGE』で披露される唯の手腕、要するに白河の魔法(マジック)は、もしかすると、あの『DEATH NOTE』の月(キラ)の快進撃に近しいカタルシスを、読み手に喚起するのかもしれない。また、そのような話のつくり方におけるテクニカルな面、先読みのできないことからくる展開の妙は、唯の内面が、作中の人間にも、作外の人間にも、けっして開示されないことによって、さらに徹底されている。しかし、先ほどもいったとおり、この作品が伝えてくるメッセージは、とってもポジティヴでシンプルなものに他ならず、そうであるがゆえに、今どき他に類を見ない、冴え渡ったエンターテイメントを具現しているのだ。
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2007年02月17日
 ロッキン★ヘブン 3 (3)

 藍と元彼女が抱き合う場面に遭遇してしまった紗和の、その乙女心はこれまでにないぐらい、てんやわんやになるのだった。と、ここだぞ、ここがたぶんこのマンガの山場だぞ、といった展開の、酒井まゆ『ロッキン★ヘブン』の3巻なのだけれど、そこから先の話の持っていかれ方が、良く言えば王道、悪く言えば定型でしかないような、そういう少女マンガのパターンに入ったきりになってしまうので、すこしばかり鼻白む。換言すると、この登場人物たちでなければならない、この物語でなければならない、という必然性を強く感じられなかったのである。そのことは、紗和と晶とのあいだで友情が明言されるエピソードに関しても同様で、いや、いい話ではある、いい話ではあるのだが、晶のコンプレックス・パーソンぶりもまた、ステレオ・タイプに過ぎるあまり、底が浅く、結局のところスネているだけ以上の表現となっていない。そのため物語の要である、登場人物たちの、あかるい積極性が、ここではやや魅力を欠いてしまっている。

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2007年02月16日
 素敵ギルド 2 (2)

 出だしにあたる1巻では、主人公のふうが、世間一般とは暮らしぶりのやや異なる三人組の男性と出会い、そうして彼らの素性を知ってゆく過程の追われていた、遊知やよみの『素敵ギルド』であったが、この2巻からは、逆にふうの謎めく出自をめぐるほうへと、物語の重心は切り替わっている。とはいえ、そういった本筋に関しては、ちょっと、サスペンスとスリルの線で行こうとしているのはわかるのだけど、展開のされ方に引き込まれるほどの力が備わっていない。うまくいっていない。それを残念に思うが、本筋からはすこしずれて、三人組のうちのひとり、三慈とその幼馴染みの悶着を扱ったエピソードは、よくある啓発的な劇だと言ってしまえば、まあそうだけれども、幼馴染みを励まそうとする三慈の〈みんなそうだよ 自分に何が足りないのか どこがだめなのか 右も左も上も下もわからない状況で それでも自分の夢に道をつけたくて がむしゃらに努力してるんだよ オレだってそうだ 頑張るってそういうことだよ〉という真っ正面からの言いには、僕みたいな単純な人間にしたらね、こう、ぐっときたりするところもあるのだよ、と思う。

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 『週刊コミックバンチ』第12号(07年3月2日号)掲載の読み切り。『柳生非情剣 SAMON』は、余湖裕輝と田畑由秋のコンビが、隆慶一郎の小説『柳枝の剣』を頼りに、時代劇に挑戦した一作である。徳川三代目将軍家光は、幼少時よりつねに持った身体的なコンプレックスと、平静の世で具体的な敵のいないことから来るプレッシャーを克服すべく、己の剣術に磨きをかけるのであったが、教えを請う柳生十兵衛の抜きん出た才能を前にしては、新たな屈辱と畏怖を覚えるしかなく、結果、稽古役から十兵衛は罷免される。しかし十兵衛には敵わぬまでも、己の実力に相応の覚えがある家光は、十兵衛の弟、左門に仕合を申し込み、五分以上に渡り合ってみせることで、自信の回復を試みる、が、はたして仕合の場において、左門のとった思わぬ行動と態度に、つよい衝撃を受ける。原作の小説を読んだときはないのだけれども、これはこれで、柳生左門の貫き通された生き方が、徳川家光という負の精神を、いかにして説得するか、の人間ドラマとして、なかなかの見応えがあった。登場人物たちの存在感にも、作品を印象深くするのに、十分なだけの重みがあり、今後に余湖と田畑による時代劇の、それも本格的な長篇を期待したくもなる。ところで、作品のあとに田畑の「隆慶一郎世界と魅力」なるコラムが付せられていて、じつはそちらも興味深い内容に思われたのは、そこに〈私はファーストガンダム世代にハマった80年代オタクです。歴史的知識は手塚治虫先生の漫画から得るのみ〉だという田畑はじつは、原哲夫の『花の慶次―雲のかなた―』で隆慶一郎に出会い、やがてその物語世界に惹かれていったと書かれ、たとえば隆の小説のほとんどは〈徳川家康、後水尾天皇、柳生を軸に、まるで水島新司先生の「大甲子園」や松本零士先生の作品のように同じ登場人物が視点を変え描かれたりするところも見どころなのです〉と説明しており、また今回のコミカライズに関しては〈『柳生非情剣』は隆先生の作品の中でも主流とはズレた話で、敵側として扱われる柳生家を主役にした話なのです。ガンダムで例えるならザビ家列伝のような話に当たるような話〉といっていることが、このガンダムで例えるなら、という箇所を顕著に、それこそ大塚英志がよく、80年代以降のオタク世代が実際の歴史をガンダムの年代記ふうに理解し認識し解釈する云々と論じているのと、ちょうど符合するかのように見えるからで、そういえば余湖・田畑コンビの以前作『アクメツ』は、特撮ヒーローのノリで、政治の問題を相手どったものであったことを思い出させるわけだけれど、さておき、もしかすると田畑が述べているのはたんに、隆の小説はサブ・カルチャー的だ、ということの言い換えにすぎないのかもしれない。だが〈しかし、なんといっても私の心を最もとらえたのは、人として魅力的であるとはいかなることか、それが一貫して描かれていることでした、【惚れるに値するキャラクター】この極めてシンプルなテーゼは私の人生にとっても一大転機になったのです〉と、この点に着目し、もう一度『柳生非情剣 SAMON』を読み返したさい、そこにあるのは、個々の人間が理念や理想に殉ずる姿に他ならない、と気づかされる。
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 グ・ラ・メ!~大宰相の料理人 1 (1)

 総理大臣阿藤一郎は、政治の場における食の役割を大きく考えるため、〈吉田茂首相以来約60年ぶりに官邸料理人を復活させることにした!!〉のだった。そして選ばれた25歳の若き女性料理人、一木くるみの心づくしが、首相官邸を訪れる様々なゲストを驚かせる。その活躍の描かれた『グ・ラ・メ!〜大宰相の料理人〜』の1巻である。このマンガの主人公であるくるみは、同じく西村ミツルが原作をつとめた『大使閣下の料理人』の主人公大沢公の弟子という設定であるけれども、けっしてスピンオフ的な内容というのではなくて、完全に一個の作品として独立している。とはいえ、『大使閣下の料理人』と比べてしまうと、大崎充の絵柄には、まあ女性の可愛らしさはあるのだろうが、ストーリーのレベルに関してキュートさはあまりなく、いやいや、たとえば『大使閣下の料理人』の前半における、大沢への片想いを募らせるベトナム人ホアのときめき具合などはここにはないので、ぱっと読むかぎり、料理マンガ特有の臭み、つまり料理が登場人物に奉仕するよりも、まずメッセージありきの部分が、やや強めに出てしまっており、あんがい間口は狭くあるように感じられる。
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2007年02月14日
 ハンド×レッド 1 (1)

 かけられた呪いのせいで〈100年過ぎると10日だけこの世界に“存在”することを許されるが それを過ぎればまた“無”の100年を一人で過ごすことになる…〉魔法使いの弟子ジムは、奪われた心臓の半分を取り戻すため、かつての同胞であったルカを、時を越えて、追い続ける。倉田英之原作による星樹の『ハンド×レッド』1巻である。いやあ、これはずいぶんとシリアス一辺倒な倉田作品ですね、と、それはともかく、旧友に裏切られた復讐者が(複雑な心境で)苛酷な冒険を強いられる剣と魔法のファンタジーというのは、サブ・カルチャーの表現、とりわけマンガにおいては、もはや一種の定石ではあるけれども、ここではやはり、100年というスパンのうちにあって、活動期間の限定されていることが、何よりも最大の障害となっている点に、他との差異を見出すべきであろうか。あと一歩というところで、しかしジムはルカを取り逃し、ふたりの距離はリセットされる。その都度、ワキの人間たちも一新され、オムニバス的に、物語が連ねられてゆくことになる。時系列はけっこうバラバラなのかな、現在の段階ではそれぞれのエピソードに関連性はないよう(に見えるの)だが、作中人物たちの寿命がどうやら長めに設定されていることも含め、どこかのポイントで積み重ねられたものがリンクするようになってくるのかもしれない。たとえば、この巻の最初に出てくるバージルが〈するべきコトがありますので〉と述べていることが、後々の歴史において重要な展開を担ってきたりなどしたら、俄然、燃える。
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2007年02月11日
 うさぎドロップ 2 (2)

 大人になるというのはもしかすると、保護者としての役割をまっとうするということであるのかもしれない。と、たとえば一定の年齢になり、生殖能力と殺傷能力とを兼ね揃えたら、この社会においては、行動に相応の責任をともなわなければならない、として、責任を果たさない果たせない人間を、とっても大人だな、とは判じられないし、反対に、ぼく子供だもん、といった具合に、そもそも責任を引き受けようとしない輩だっていて、周囲が無理矢理、大人のレッテルを貼ったところで、なんら解決に至らないことも少なくはない。結局のところ、ままごとをやっているわけではないのである。いや、ままごとのなかですら、利口な子供ならば、その役割をこなそうとする。宇仁田ゆみの『うさぎドロップ』2巻を読みながら考えていたのは、そんなことだった。祖父の隠し子で、6歳児のりんを引き取った三十路の独身男である大吉は、子育ての難しさ忙しさに悩みつつも、ゆっくり、りんのいる毎日の営みをごく自然なものとして受け入れてゆく。そうして親密さが増せば増す分だけ、杳として行方の知れないりんの母親に対して、許せない部分も出てくるのであった。こうした心境のデリケートな変化は、〈怒りはますますこみ上げてくるし 納得いかないことばっかだし(けど…今のりんとの時間…今りんが楽しいと思うこと…か…そうだな…先のことも大事だけど 今 あいつには俺しかいないんだもんな…それだけは忘れないようにしないと)腹立ててばっかじゃダメだ…〉というモノローグにおける、またじっさいに作中で大吉がとる行動の、優先順位に、よおく示されていると思う。しかし、ようやく発見された祖父の遺書から、りんの母親の足どりを掴んだ大吉は、ついに彼女と対面することのなるのだが、この母親、正子の態度に大吉は〈彼女は言動が子どもじみていたり一貫性がなかったり 大事な話の最中に甘いモンばっかり食ってたり そうかと思うと 俺じゃ思い付かない様な母親らしいことを言い出したり その妙なバランスが俺には何とも…〉と困惑し、祖父の遺書にあった「正子には母としての りんへの愛情は確かにある」「ただ 正子はまだ若く 未だ人として親として成熟しきっていないのかもしれない」という言葉を思い出すのだけれども、そのことを、いち登場人物が未成熟なままあることへの反感として見るのではなくて、あるいは独我論的な考えへの違和に読み替えることも可能だろう。そして、その独我論じみた指向が、今日では支配的であるがゆえに、正子のいっけんワガママに見えなくもない主張や、その生活感にも、一種の生々しさが与えられてしまうのである。むろん、それが子を育て、養うにあたって、つまり保護者に向いているかどうかといえば、首を傾げざるをえない。

 1巻について→こちら
 
・その他宇仁田ゆみの作品に関して
 『酒ラボ』について→こちら
 『よにんぐらし』第1巻について→こちら
 『アカイチゴシロイチゴ』について→こちら
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2007年02月10日
 野球しようぜ! 7 (7)

 2点リードで迎えた9回の裏、〈2アウト一塁二塁 一発が出れば逆転サヨナラ!!!〉の局面を、指に負傷を抱えたカイオと、それを気にかける天のバッテリーは、はたして乗り切ることができるのだろうか。いわさわ正泰『野球しようぜ!』の7巻であるが、結果をばらしてしまえば、乗り切った。天の、天才的とも奇跡的ともいえる抜群の働きが、ほとんど実際的にはあり得ないファイン・プレイを可能とした。かくして日横商工をくだした鷹津高野球部は、そのままの勢いで順調に県大会を勝ち抜き、天にとっての宿命のライバル国東がいる西京高校と、ついに決勝戦で相まみえることとなるのだった、と。ところで、いま現在、世間でもっとも評判をとっている野球マンガは、おそらく、ひぐちアサの『おおきく振りかぶって』ではないだろうか。たしかにあれはあれで、すばらしくおもしろくあるのだけれども、個人的には、いやたぶん作者の登場人物たちに対する愛着からそうなっているのだろうが、一試合の運びをあそこまで拾われると、まあそのことが表現力を高めているのは認めるにしても、たとえば、ちばあきおの『キャプテン』や『プレイボール』とか、あだち充の『タッチ』や『H2』の、細部においては切り捨てる箇所は切り捨てながらも、一試合内の論理的な整合性を(後付けの部分も込みで)ちゃんとキープし、ダイナミズムに焦点を合わせ展開させる技術に親しんだ身にすると、少々怠いというのも正直なところで、逆に、この『野球しようぜ!』や、佐野隆の『打撃王 凜』ぐらい、すぱっとカタルシスを催す指向に振り切れていてくれたほうが、いち場面いち場面の描写に、熱中できる。というか、この巻の、そんな伏線あったかあ、というほどの勢いで、いきなりカイオと国東の因縁が明かされるくだりには、びっくりさせられたが、そういう唐突さも含めて、感情の高ぶったまま物語が接がれている。あ、それから、あれだけ天と野球を嫌っていた義母の、少しずつ歩み寄る様子には、しみじみさせられた。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2007年02月09日
 小川とゆかいな斎藤たち 1 (1)

 〈あのころはパシリにされてうつむいてばかりいた そんなわたしを救ってくれたのは「恐怖の三人衆」とよばれる(超)問題児たちでした――…〉と、中学二年になってもクラスメイトからはコケにされ、いじめられていた小川里生は、その悪名を学校中に響かせる三人の、斎藤という同性ではあるが赤の他人でもある男子たちと、偶然にも知り合い、そうして全然ベクトルは違うけれども、「友だち」がいないといった点においてはまったくの同士と見なされたことから、彼らと親しく付き合うこととなる。茶匡の『小川とゆかいな斎藤たち』は、これが作者にとっては初の連載作であり、まだ1巻だということもあって、けっして巧い部類に入る作品ではないけれど、まあ『なかよし』系のマンガをこう評するのは間違っているかもしれないが、燃えるし、ガッツが出てくる。その理由はおそらく、メインの登場人物らが誰も、周囲からは好かれてはいないのに、めげず、明るさを捨てないで、学校生活を営む姿に、心を動かされるからなのではないか、という気がする。ふつう、この手の内容だったら、三人の斎藤のうちのいずれか、または全員を、良い意味での権力者か、カリスマであるがゆえに一目置かれている、といったふうに設定することも可能だったように思う。だが、ここでは皆がみな嫌われ者でしかない。そのため同級生などに陰湿な罠を仕掛けられ、そのたび窮地に立たされてしまう。ひどい目といえば、ひどい目だ。しかし、これが暗い話になっていかないのは、たんにコメディの要素が入っているからだけではなくて、小川と三人の斎藤の、お互いがお互いにお互いを信頼し助け合う姿は、とても微笑ましく、読み手の関心を、そちらへと惹きつけられるぐらい、愉快に、楽しげであるから他ならない。〈楽しいコトも苦しいコトもどんななやみがあってもだいじょうぶ!! 勇気をくれる人たちがそばにいるから〉と、こうした台詞を、陳腐に貶めず、シンプルなメッセージとしてまっすぐに放ってくる。
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 空手婆娑羅伝銀二 1 (1)

 年上の高校生すらも簡単に叩きのめすほどにケンカには絶対の自信を持つ中学生、長尾銀二は、仲間の敵討ちと腕試しを兼ねて、実践空手集団正如会館の道場へと乗り込む。余裕の表情でそれを迎えた黒帯の二人は、しかし、銀二の恐るべきポテンシャルに気づかされるのであった。野部優美の『空手娑婆羅伝 銀二』1巻である。絵柄も含め、いっけんヤンキー・マンガを思わせるニュアンスを多く持ちながらも、しかしヤンキー・マンガとしては読めず、あくまでも格闘技マンガのジャンル下にある作品として成立させられているという点からは、やはり『月刊少年チャンピオン』の連載作であるSP☆なかてまの『B.M.N.』との共通項が見いだせなくもない。むろん、不良が強さに憧れ格闘家を目指す、というのは、大昔からの格闘技マンガにおける基本路線ではないか、と思われる向きもあるかもしれないけれど、格闘技を描くマンガと不良を描くマンガのつくりが、たぶん90年代に、前者であるならば板垣恵介の『グラップラー刃牙』あたりを、後者なら高橋ヒロシの『クローズ』らへんを、おおまかな目安に様変わりしてきたとの傾向がある以上、それ以降に位置した一種のニュースクールだといえる。
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2007年02月08日
 不安の種 (1) 不安の種 (2) 

 このあいだ『週刊少年チャンピオン』で連載の開始された中山昌亮の『不安の種』を取り上げたあとになってはじめて、同作者の同名のマンガがすでにあることを知り、こういった不明があったさいはほんとうに、自分のアンテナのへぼさや知識の頼りなさを、不甲斐なく思う。それでさっそく三冊出ているらしい単行本のうち二冊をゲットし、読んだわけだが、なるほど、『週刊少年チャンピオン』のヴァージョンは、まさしくこれを受けての新しいエピソード群といったところで、いやあ、まいったな、こちらもこちらでひどくおっかないや。このうちの何篇かは、なんとなく過去に読んだときがあった気がする(そのことすら覚えていなかったのだ)けれども、まあそれはさておき。すべての篇が、都市伝説風に日常へと浸み出した不可解な風景をスナップしているわけだが、それのいったい何にインパクトがあるのかというと、作中の人物たちが、そこで見たことや体験したことを、けして他の人間と共有できない、そのような心理作用を抽出してみせることで、読み手をも、束の間、大勢の騒がしさから孤絶した場所へと引きずり込んでしまうところである。しーん、としている空間で、ほんのすこしの物音に心臓を射抜かれる、あの感覚がトレースされるのだ。こういうのは、読んだそばよりも、あとで不意に思い出されてしまった瞬間のほうが、ぞっとするものなので、怖いのが最高潮に苦手な僕は、やはり読まなければよかったのだよ、と臍を噛む。

 『不安の種』(『週刊少年チャンピオン』版)第1話について→こちら

 『PS羅生門』9巻について→こちら
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2007年02月04日
 甘い水  上 甘い水  下

 松本剛リヴァイヴァルはあるだろうか。個人的な実感をいえば、この『甘い水』が、最初の版で出たときこそが、そのタイミングに相応しかったのではないか、と思う。松本の作風は、そもそも古くさいものであるけれども、まあ裏を返すと、古びれないということでもあるのだが、しかし結局のところ、デビューしてよりいっときも現役感がなかったとの印象が、あの『ハナモモ』が中途半端に浮いてしまった今となっては、ことさら強いためである。それというのは、たとえば同じように講談社BOXから『さくらの唄』が出された安達哲が、やはり寡作なマンガ家であっても、つねにどこか現役であることを感じさせるのとは、対照的だとさえいえる。あるいは、巻末の告知によれば来月に復刊されるらしい初期の作品集『すみれの花咲く頃』と、『甘い水』とを読み比べてみればわかるように、十年の幅があっても、作者のなかでは時間がほとんど動いていない。もちろんそのことが作品のうちにある叙情を普遍化させてもいる面もあるわけだ、が。はたして松本剛リヴァイヴァルはありうるのだろうか。あるとすれば、それは作風のいったいどの部分からであろうか。すこし気にかかる。

 『ハナモモ』第2話「春雷」について→こちら
 『ハナモモ』第1話「坂道」について→こちら
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2007年02月03日
 料理マンガなどと誰が言った。いやあ、これはもう完全に少年マンガの世界、といった展開の続く『きららの仕事』14巻である。「友情、努力、勝利」といえば、ご存知のように往年の『週刊少年ジャンプ』的なテーゼなわけだけれども、それを今どきここまで何ら照れることなく採用してみせているマンガというのは、ちょっと他に見当たらないんじゃないかな、と思う。スシバトル決勝戦、坂巻に圧倒的なリードをつけられてしまい、もはや逆転の目は無いかに思われた主人公のきららだったが、窮地ともいえるその場面でマツカワを握る彼女が見せたのは、なんと坂巻が得意とする石塔返しの構えであった。会場の誰もが驚くなか、未だ不完全ながらもそれが、きららの曾祖父である伝説の鮨職人雷巳之吉の秘技雷神返しだということが判明し、それに火をつけられた坂巻は渾身の石塔返しを披露する、が、彼の肘は爆弾を抱えているため、本領を発揮することができない。これを機に形勢が逆転されようかというところで、きららが〈この勝ちは…私の実力の勝利ではないのかも知れない…〉というように、正直、こういうふうなかたちで勝ちを拾うというんじゃあ遺憾を残すよねえ、ちとカタルシスを削ぐ、と、しかしそこでまさか、あの男が坂巻のパートナーにつくことになるとは、いやいや、そうくるかあ。坂巻とのこの対決に、さらなる因縁が持ち込まれたことで、〈絶対に倒します。あなたたちふたりを倒してみせます!!〉と、さらなる闘志を燃やしたきららは、ふたたび雷神返しを使う。うん、こうやって活字だけで追うと、ほんとうに少年マンガ然としてるよな。

 12巻についての文章→こちら
 10巻についての文章→こちら
 9巻についての文章→こちら
 8巻についての文章→こちら
 7巻についての文章→こちら
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2007年02月01日
 森恒二『ホーリーランド』14巻である。たんなる坊ちゃんであったイザワが、いかにして“路上のカリスマ”になっていったかを、前巻の続きで描いているわけだが、このへんはまあ、皆さんお馴染みソノ手の自分探し劇場でしかなく、正直、盛り上がりに乏しいのだけれども、イザワの妹マイが視る夢のなかで、過去のイザワにユウの姿がオーヴァーラップさせられるなど、この作品の主題と、しかし深く関わる箇所となっている。シンイチの〈毎度の事ながらわかんねえよ どーしてあんなにこだわるのかね? 強えーとか弱えーとか…わかんえねえ…〉という言葉に対して、ユウは〈僕には…わかる それは心にかけられた呪いみたいなモノだ〉と思う。やはりこの〈心にかけられた呪いみたいなモノ〉のせいで、過去に発せられたイザワの〈逃げられないぞオレ自身からは一生〉という自問が、2年後にマイを経由することによって、〈僕はもう自分を嫌うのをやめよう〉というユウの自答へと繋がるとき、それはつまり、孤独であることや虚無であることに、いったんの結着がつけられたことを意味する。と、そうしてストーリーのレベルでいえば、次の段階へと展開させられることになるのが必然で、あきらかに悪党じみた連中が、さあ来たといった感じで続々と登場するなか、今後に脱法ドラッグをめぐる抗争の起こることを予感させるわけだが、このマンガを暴力のともなうモラトリアムの物語として見るならば、はたして山本隆一郎が『GOLD』で描いたあの大団円以上の成果を、作者は結末までに導き出すことができるだろうか。

 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2007年01月30日
 蒼太の包丁(13) 

 人はどうしてガッツと思い遣りだけでは幸福になれないのだろうか。それはね、誰も非難せず、また偽善的にならないで生きるのは難しく、そういったことの難易度は世の中の複雑さに比例しているからだよ、と言われれば、まあそりゃそうだ。助っ人先である老舗料亭『神かわ』の内部事情に深く関わってしまった蒼太は、〈『神かわ』が後継で困っていることに目をつけて 割り込んで来ようとする料理人も居る…〉ことを知り、思わず〈僕が『神かわ』の跡を継ぐことは出来ませんか?〉と申し出るのであった。はたして蒼太は、いつか故郷で自分の店を持つという夢や長く親しんだ『富み久』の人びとに、別れを告げ、このまま『神かわ』に入ることとなるのであろうか。と、以上が『蒼太の包丁』13巻の、おおきな見所である。このへんの展開は、相応に見所となっているのだけれども、ただすこし、主人公である蒼太の心境が、状況が二転三転するにあたって、たんに流されているだけに思えなくもなく、もちろんそれが、蒼太の良さ、彼の心の柔らかさの表現にもなっているのだが、しかし物語がどう転ぶのであれ、もうちょい、本人の意志の固いところが描かれても良かった。作中、『神かわ』と『富み久』の親方同士が、蒼太の今後をめぐって話し合う場面に、〈男には実の父以外にもうひとり父親が出来ると聞いたことがある〉という台詞があり、じつはこれが蒼太の進退を決めることとなるのだけど、そうして浮かび上がった父と子の関係で結ばれる図式は、先ほど述べたように、蒼太=子の側の主体性が強く感じられないため、あまり効果的だとはいえない。『神かわ』の、本質的な跡継ぎ章介が料理人を断念するエピソードの、どこか物足りない印象も、同様に、子である者の消極的な振る舞いからやって来ているのではないだろうか。話しの内容自体は相変わらずよくまとまっており、料理マンガとしての良質な面をキープしているだけに、些末なことだとしても注文をつけたくなる。

 12巻についての文章→こちら
 11巻についての文章→こちら
 10巻についての文章→こちら
 9巻についての文章→こちら
 8巻についての文章→こちら
 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら 
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2007年01月29日
 メンズ校 1 (1)

 和泉かねよしの『メンズ校』は、全寮制の名門私立男子高校を舞台にしており、この1巻の感じをいえば、前作『そんなんじゃねえよ』と比べても、非常にコメディの要素が強まったように思える。基本的には、もてるもてない以前に、出会いがほとんどない環境下で繰り広げられるドタバタ劇で、登場人物たちひとりひとりの個性がそのまま、ひとつひとつのエピソードを支えている。失恋があり失恋があり失恋があり、と、傷心の一時を笑いで庇うかのような、このテンションをどこまで維持できるのか、また、一話完結的な展開にどれだけヴァリエーションを設けられるか、まあそういった今後のことはともかく、元気いっぱいでハンサムな男の子たちの愉快なやりとりは、なかなか、好感触である。

 『そんなんじゃねえよ』9巻について→こちら
 『二の姫の物語』について→こちら
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2007年01月28日
 hikarinoumi.jpg

 ああ、ブリリアントだよ、との喝采を送りたい。『光の海』は、小玉ユキ(旧コダマユキ)にとって初の単行本であり、じつはこのマンガ家ははじめて読むのだが、ひととおり目を通したら何よりもまず、ひじょうに幸福な気分で、心から、掛け値なしに、とても素敵な才能だなあ、と思う。表題作「光の海」をはじめ、「波の上の月」「川面のファミリア」「さよならスパンコール」「水の国の十人」の、五つの短篇が収められている。「光の海」や「川面のファミリア」あたりは青年誌に載っていても違和感がなさそうな内容なのだけれど、すべての篇が、現代の日常をベースにしながら、人魚が、人間社会の近くで自然に生息している世界を舞台にしていて、いろいろな事情を抱えた人びとが、人魚たちとの交流などを通じ、すこし、成長する様子を描いている。その語り口、あるいは質感、または登場人物の息づかいに、一際だったチャームが備わっており、そうしたことが、喪失や失恋、出会いや別れ、といった普遍的であるがゆえに有り触れているともとれる主題のなかに、ある種の独特な叙情を顕在化させている。白とのコントラストを大事にするかのような、はっきり、黒く濃い流線と、多くの場面を引いて捉まえた構図が、ひとコマひとコマの持つ物語性を高め、それを連鎖反応的に並べてゆくことで、ワン・エピソード総体の情緒を深めているみたいだ。けっして少なくはないモノローグが、ひじょうに効果的に生きているのも、地の、画の部分がしっかりとしているからである。ときどき見せるユーモアのセンスもいい。「光の海」で、人魚がワカメに八つ当たりするところとか、くすり、とさせられる。これはもちろん、たんに描写が可笑しいからだというだけではなく、作品に溢れるやさしさに触れることでもたらされた、そういう微笑みでもある。
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2007年01月27日
 暴虐外道無法地帯ガガガガ 3 (3)

 山下ユタカの『暴虐外道無法地帯ガガガガ』であるが、この3巻でいえば、アタマの屋台での一幕が、いい。ベニマルやレーイチが、相手の素性を知らぬまま、敵方のリンたちと、顔を合わせるくだりである。彼らが敵対関係にあるのを店の主人だけが心得ており、当のベニマルやリンたちは、たまたま飲み屋で隣り合った客が一言二言会話を交わすといった風情で、互いに関心がなく、ぜひとも自分の店でのトラブルを回避したい主人にしたら、状況をこのままキープしたいから一人あたふたと挙動不審なのが、場合をルビでバヤイと読ませる言葉遣いも含め、おかしい。ま、それでもちろん、主人の儚い願いは叶わず、交戦状態に入るわけだけれど、そこからのスピードと血しぶきに満ちた展開が燃えるのだよ。レーイチのイカレっぷりもさることながら、走る車が火炎瓶で急襲され、ど派手なアクションを繰り広げるあたりも、ばんばん火が燃え盛ってるというのもあってさあ、文字どおり、燃えるわけだ。かっこうよい。ストーリーのレベルでいうと、いろいろあって、ベニマルが窮地に陥ってるっぽい気配だ、が、さて、どうやら次巻で完結らしい、物語の最終決着まで、なんとか生き残ることができるといいですね。

 2巻について→こちら
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2007年01月26日
 君に届け 3 (3)

 たとえば24ページいちばん左下のコマ、爽子(貞子)と龍の斜め上なやりとりを見た吉田(ちづ)の〈こいつらちょっと似てるとこあるよな〉というツッコミ調の発言や、たとえば40ページで好みの(異性の)タイプを尋ねられた龍が〈にぶくて単純な奴?〉と、これは作外の読み手には、その尋ねた吉田を思わせたりもするけど、当の吉田はやはり「にぶくて単純」なので、右下のコマで〈にぶくてたんじゅん……やっぱ貞子みたいな……?〉というボケた発言をするのに、注目されたい。まあそれら二つの箇所は、正確なセリフとしてはカウントされないような手書き文字であるし、物語の進行そのものに大きく関わる部分ではないが、しかし、このマンガにおける人間関係への、わかりやすく、的確な指摘になっている。要するに、「にぶくて単純」な似たもの同士が、椎名軽穂『君に届け』には集められている。いや矢野にはすこし引いたところがあるけれども、「にぶくて単純」はもちろん、風早に関してもいえることであろう。そうしたグループを中心に据えた作品であるから、ここ3巻での、どうにも腹黒そうな胡桃沢(くるみ)の本格的な登場はやはり、ひとつの違和として表現されることになるわけだ。胡桃沢は、自分と風早とを指して〈わたしたち……ちょっと似たようなところあるからなあ…………〉と言うが、本質的に似ていることと、表面上を似せることとは、当然のように、まったくべつである。だからというのもあって、ふつうラブコメ等で恋のライバルふうの登場人物が出てくると、すわ三角関係か、と、やきもきさせられ、それが一種の読み応えになるものだけれど、ここでは、矢野の〈さーて くるみちゃんの思惑どおりに事が進むもんかね〜〜〉といった言葉が示唆的であるとおり、やや異なる反応を読んだそばから引き出される。そういった恋愛沙汰以前に、あくまでも「にぶくて単純」な主人公の気持ちをどう動かすか、に重点の置かれたつくりが、次巻以降の展開を期待させるのだった。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・『CRAZY FOR YOU』
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2007年01月25日
 『週間少年チャンピオン』今週号(NO.9)よりはじまった『不安の種』は、中山昌亮の新連載であり、作者にとっては、これが少年誌初登場となるらしいのだが、だからといって、とくに若年層に向け、派手めにカスタマイズされた内容というわけではなくて、じっくり、じわっと脳裏に拡がる恐怖を、ポイントの押さえられた構成力でもって、作り、練り込んでいる。僕個人がホラーの系を不得手とする読み手だというのもあるのだろうけど、いやいや、勘弁してくれと思うぐらいに、なんともまあおっかないのだよ。この1話目をみるかぎりでは、3、4ページほどの短いエピソードをオムニバス形式に披露するといった進行で、趣向としてはけっして斬新なものではないにもかかわらず、後頭部から背筋にかけて、ひそやかに、ぞくり、と刺さってくる感覚に抗えない。ここで描かれている都市伝説ふうの怪異は、直截的に、登場人物たちに被害を与えず、ただその場その空間に、ごろん、と存在しているに過ぎないのだが、しかし何よりも、その存在感または描写自体が、登場人物の、それから作外の読み手の、心理の、不安に直結する部分へと働きかけてくるのであって、作中の言葉を借りれば〈ジッとしてさえ居れば何事も無く通り過ぎるという事も〉知っているのだけれど、そのことに耐えるのすら困難であるかのような、重圧、不吉さ加減に、まいる。

 追記→こちら

 『PS羅生門』9巻について→こちら
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2007年01月22日
 メトロ・サヴァイブ 2 (2)

 全2巻で完結というかたちになった藤澤勇希の『メトロ・サヴァイブ』であるが、この長さ(短さ)が作者の望んだものであるのかどうかはわからないけれど、結局のところ、ラスト間近の〈我々はやはりロビンソンクルーソー 見事に取り残されていたというワケだ――〉というモノローグが示唆的なように、物語の進行につれ、日常と地続きの空間におけるサヴァイバルが、日常とは完全に区切られた空間内でのサヴァイバルにスライドしていった結果、サスペンスの要素が後退し、当初の息詰まる緊張が損なわれてしまった、との印象に落ち着く。大地震が発生したことにより、地下に閉じ込められた生存者たちの、地上への生還を試みるストーリーは、やがて少ない食料をめぐっての心理戦から、ついには直截的な暴力の劇へと転換している。このことで、マンガ内の構図が、いささか単純化されたきらいがある。悪人は自滅し、善人が生き残るエンディングは、まあ良心的といえばそうであるけれども、ある一点(正確には二点)での機転以外は、ほとんどラッキーでしかなく、そのへんに、いや、ま、これはこれで十分な内容だと思いながらも、ちょっと、物足りなさを覚えた。

 1巻について→こちら

 『エレル』全2巻について→こちら
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2007年01月20日
 デンドロバテス 1 (1)

 千の銃を持つと噂される復讐代行屋、はたして彼は無感動のうちに悪党を撃つのだろうか。そもそも石渡洋司の描くどばどばの流血騒ぎが大好物であったので、原作に回られてしまうのも、ちと困るかなあ、と思いながら、この『デンドロバテス』の1巻を読みはじめたわけだが、山根章裕の、青年誌的に、適度にスタイリッシュな絵はけっして悪くはないし、ばしばしと人を殺めていくあたりの容赦のなさは、相応のカタルシスを与えてくれはするのだけれど、血の流れる瞬間に圧倒的な迫力が欠けているからか、今のところ情念が足りないというか、クライム・アクションまたはガン・アクションとしては、ちんまりとまとまってしまっているような印象だ。
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 天上天下 16 (16)

 現在の『エア・ギア』もそうなのだけれどもさあ、登場人物たちがなぜ争わなければならないのか、の因果はどうでもいい、いや、どうでもいいとまでは言わないまでも、せめて本筋のなかでやってもらえないものだろうか。要するに、長えんだよ、過去篇というかワキのエピソードが。まったくもって、大暮維人にかぎらず、オタクでメタルでファンタジーなマンガ家(あとエロ要素が強い、を付け加えてもいいよ)の悪い癖だ。とにかく、である。僕がこの『天上天下』で読みたいのは、超高度で燃える学内バトル・アクションなのだった。いっそのこと俵文七クラスのホットな人間だけで物語をつくってもらえないものだろうか。と、しかしようやく、この16巻を読むかぎりでは、本筋に復帰してくれそうな気配が感じられる。そう、舞台はそこへ、かつてはパラダイスであった統道学園へ、と戻る。とはいえ、主人公である凪宗一郎には、不必要に変わるルックスも、性格も、メタモルフォーゼしちゃうところも含め、もはや信用に値する造型はないし、最大にして最強の宿敵であるはずの光臣に関しては、おいおい、おまえ、何やってんだよ、ふざけるな、みたいな感じの展開になってしまっているけど、あいかわらずボブが熱さを秘めてバカっぽいのと、文七が執行部の副将にばっちりエントリーされている点に、ひと筋の期待をかけるが、何はともあれ今巻のサーガ・マスクみたいな扱いは勘弁願いたい。

 『NAKED STAR』について→こちら
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 主将!!地院家若美 1 (1)

 やきうどんが二人組であること、そしてそのペンネームがゆでたまごを真似ていることは、『週間少年マガジン』第7号掲載の西本英雄『もう、しませんから。』で知ったのだが、そのやきうどんの“うどん”が柳澤鉄郎だというのは、この『主将!! 地院家若美』1巻に付せられているオマケのマンガを読むまで、不覚にも気づかなかった。まあどうでもいいといえばどうでもいいことだけれども、このマンガの誕生秘話が綴られたそれの、切なおかしいドキュメントぶりが、良いよ。いや、もちろん本編のほうも、十分に、おもしろい。けっして上品ではないギャグに、小匙一さし程度のシリアスさ加減を加えた作風は、ペンネームの由来となったゆでたまご的でもあるし、むしろ初期の徳弘正也かなあ、といった気がしないでもないが、もしかするとそれというのは作者らの世代的な指向性ゆえになのかもしれないし、あるいは、登場人物たちに課せられた本質的なテーマが、あくまでも肉体を用いて強くなることにあるからなのかもしれない。自分を変え、男らしくなりたいと、超人的な強さを持つ地院家若美(ちいんけわかみ)に憧れ、誘われ、彼が主将をつとめる柔道部に入った若鳥飛翔は、しかし男色な若美の、さらには筋金入りの変態ぶりに、貞操の危機を覚えるのであった。こうして柔道を中心とした学校生活のなかで、てんやわんやのドタバタ劇が繰り広げられるわけで、そのとき、全身を使っての身ぶり手ぶりが大きなアクションとテンポに魅力がある。
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2007年01月19日
 silent summer snow

 〈小6の夏 うちの母と綿矢のお父さんが駆け落ちした 当の本人達が戻らぬまま綿矢んちは半年後に引っ越し。知らない間に離婚が成立。母の消息も綿矢家のその後も不明。封印したい過去だ〉と、主人公の美昇(みのり)が通う高校に、その、彼女とは因縁浅からぬ綿矢晃大が同じ学校に転校してきたことがきっかけとなってはじまる、吉井凜の「silent summer snow」は、先に引いたように俗っぽく仕立てられた悲劇を背景に、ひとりの少女が無関心から回復し、やわらかな感情に涙を湧かせるまでを描く。美昇の家族は、母親が出て行って以来、うまくいかなくなっていて、弟は部屋に引きこもり学校へ行かず、父親はほとんど家に寄りつかない、そして美昇は〈あの家の中で今にも溶けてなくなりそうな自分の輪郭を誰かに触ってもらって確かめたかった〉という理由だけで、彼氏でもない人間と寝る。もちろん、こうした紋切り型の、いまどき三文芝居じみてすらいる家庭崩壊劇そのものに、つよい魅力が備わっているのではなくて、主眼は、晃大からの積極的なコミットによって、美昇がいかに変化してゆくのか、にある。言い換えれば、作品の比重は、ひとつの出来事に、暗く横たわる面ではなく、そこに触れてくる明るさの作用にかかっている。じつに3年半ぶりに再会したとたん、積極的に関わってくる晃大の態度に、美昇は戸惑い、〈何なの? 何で私に構うの? ほっといてよ〉と思う。それというのは自分と似た境遇であるはずの晃大が、まったくイジけておらず、〈私と同じ傷みをまだ持っていたら少しは救われたかもしれない でももう違う〉からで、要するに、同じ過去を共有していることが同じ感情を共有することにはならない、そのせいで感じられる孤独からやって来ている。反対に、父親や弟との関係は、家族の一角を損なうことで受けたダメージが近似であるがゆえ、そうして深刻な気分を共有してしまうあまり、不全としているのだ。家のなかには、誰かにかける言葉がなく、誰かからかけられる言葉もない。ある種の密室に立ちこめる閉塞感もやはり、孤独というに相応しいものだろう。そういった実感は、美昇が晃大に告げる〈周りのものまとめていっぺんに失くしたんだと思ったら すごく恐かった……しかも あんたまで いなくなっちゃうし〉という言葉のなかに、短くまとめられているように思われる。物語は、とある展開を経て、まあ出来すぎともとれるのだが、やがて哀しい気配を含んだラストへと至る。しかし読後に、さわやかな風が吹く。すでに彼女の抱えていた孤独は解かれ、悲しみさえ他の誰かと共有しあることが、最後のシーンによって確認されているのである。ここには、その表題作「silent summer snow」の他に、「4days」という作品が収められており、そちらは、とある偶然に知り合ったカップルの、題名にあるとおり、4日間にわたるファンタジックなロマンスになっていて、少女の心でネガティヴに澱むウェーヴの、ゆるやかに晴れてゆく様子が、ふたりの道行きに重ねられている。

 『比べようもない程に』について→こちら
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2007年01月18日
 Y-STYLE 1 (1)

 間部正志のファンだから読んだのだが、しかし人生という名のギャンブル以外にはいっさい興味がなく、パチスロ(スロット?)に関する知識などはほぼゼロなので、なんとも。細かいところはよくわからないのだけれど、この『Y-STYLE〜趣味はパチスロ〜』というマンガは、帯にある惹句を頼りにすると〈女性スロッターとして年間500万を稼ぐ凄腕!〉であるYUKKYという、たぶん実在する人物のレポートを、たんにマンガの形式でまとめただけの内容になっているのだ、と思う。実用性の有無はよくわからない、が、話の筋自体に(そして、それにあわせて画のレベルにおいても)ダイナミズムがあるでもなく、人間関係にドラマが盛り込まれているわけでもないため、正直、ふつうにマンガとして読み、愉しむには辛いものがあった。

 『マスター・オブ・サンダー 決戦!! 封魔竜虎伝』について→こちら
 『武打星』3巻について→こちら
 『武打星』2巻について→こちら 
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2007年01月17日
 ドラゴン★ガール 1 (1)

 男子校としての伝統を守ってきた翔龍高校は、しかし本年度から共学化され、入学式の日には多くの女生徒の姿があった。そのうちのひとりである主人公の愛染リンナには、17年前に同校で伝説の応援団を率いた父親に憧れ、彼と同じように活躍する夢があったのだが、団にはかつての威厳はなく、すっかりと凋落し、生徒会長からは廃止を通告される有り様で、さらに現応援団長からは女子の入団を拒否されてしまう。そうした逆境のなか、はたしてリンナは、父親がいた頃のように応援団を復活させることができるのであろうか。と、以上が藤枝とおるの『ドラゴンガール』1巻のあらすじであり、そこからはおおまかに、ガッツのある女生徒がエリート男生徒たちと対決する、といった構図を採用したマンガだといえる。もちろんのように、そうしたつくり自体は、ある種の様式美であるけれど、あくまでも応援団というチームの物語になっているところは、ひとつの特異点として挙げられるだろう。また、そこに絡んでくるリンナの幼馴染みであり、おそらくは初恋の人物と特定できる、すばるの、現時点における謎めき加減も、物語を盛り上げるのに重要な役割を果たしている。ここまでの段階では、恋愛の要素はすくないが、いかにも美形であったり、あるいは人柄の良さそうな面々の揃えられた登場人物たちが、今後に、複数で織り成してゆくに違いないドラマにも期待を持ちたい。
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 たらんたランタ 2 (2)

 良い。良い。すごく良い。槙ようこの『たらんたランタ』は、1巻を助走に、この2巻で完全に軌道に乗ったという感じである。登場人物たちはみな、生き生きと、とても賑やかに、ときにぐっとくることを言う。ローIQの強みで誰彼かまわぬ親密さを発揮する主人公のヒカルはもちろん、てっきり噛ませ犬でしかないと思っていた三木や勝人らワキの、他人の気持ちを慮る、そのハンサムな振る舞いには、なにか、こう、明るい気分にもなるような勢いで、読みながら、このキュートなやりとりの世界にできるだけ長く浸っていたいものだな、と願うのだけれども、じつは全2巻で完結しちゃったのを知り、ひじょうにショックだ。潤の家族とヒカルが接触したあたりから、いかようにも物語を展開することは可能だったはずなのに。まったく、この作者は長いものを描けないのかしら、それとも、これ、そんなに人気がなかったのかなあ。いずれにせよ、そうやって終わりを認めるのが残念なぐらい、楽しく愉しい時間を過ごさせてもらった。

 1巻について→こちら

・その他槙ようこに関する文章
 『STAR BLACKS』
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 『愛してるぜベイベ★★』
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
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2007年01月15日
 オレの子ですか? 5 (5)

 くりた陸『オレの子ですか?』が、この5巻で完結した。主人公は潤という大学生で、その彼が過去に関係を持った女性から預けられた幼児の扱いに右往左往するといった内容は、明瞭に「育児もの」と分類できるが、いわゆるハウ・トゥの要素はなくて、あくまでも子育てをベースにした感情のドラマになっており、そうした系においては、幼児の存在は、ある意味で、他の登場人物たちの成長を促さんとする装置になるわけだが、そのことはもちろん、このマンガについても同様で、スミレという2歳児を中心にして起こる様々なハプニングが、いかに潤の人格に変化を及ぼしたか、また彼らの営みが、どのような影響を周囲の人びとに与えたのか、が、作品のおおよそを担っている。女性にだらしなく、他人に対する配慮のなかった人間が、子育てを通じ、相応の責任感を身につけるまでの過程といってしまえば、そのとおりだけれど、終盤、はたしてスミレは本当に潤の子なのか、に焦点が当てられてからのくだりには、けっこうしみじみとさせられた。それというのは、潤を含め、スミレの将来に関わる人物たちの、飾り気のない心の動きがしっかりと捉まえられているからで、反対に(おそらくは収束点として用意されたのだろう)ラストの一山は、そうした流れにあまり沿っていないうえに、ふと羅川真里茂の『赤ちゃんと僕』を思い浮かべてしまったりもしたので、やや集中力を削ぐ。そのような部分も含め、あきらかに作者の都合にあわせ展開させられている場面も少なくはなく、いくつかの箇所は、現実的に考えれば、ややライトに描きすぎのきらいがあるのだが、いやいや、それでも総体的には、とても愉しく読んだ。
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2007年01月14日
 タイヨウのうた

 本作は『タイヨウのうた』という映画の、みきもと凜によるコミカライズで、その元になった映像版を僕は観たときがないのだけれども、それでも恋愛中のカップルのどちらかが何かしらかの理由で(若くして)亡くなる類の、いわゆる難病ものであるぐらいの知識は持っていて、いや、ま、たしかに読んでみると、そのとおりの内容に他ならず、あたかも、泣くこと、泣かせること、に機能を特化したかのような物語が展開されており、こういった作品には、自然と評価が辛くなってしまうのだが、しかし、喪われることを悲劇に留めない登場人物たちの前向きさには、すこし、見習いたいところがあるな、と思う。〈ベビーピンクの淡い月がきえかかるころ / 彼はあらわれる〉。紫外線に関わる病のため、太陽光を浴びられない主人公の薫にとって、外出ができるのは深夜に限られており、その自由になれる時間を彼女は、路上での弾き語りに費やし、日の出前には家へと帰らなければならない。そうした暮らしのなかにあって、ひとつの励みであり、希望は、窓の外にときおり見かける同世代ぐらいの男子への恋心であった。要するに、その孝治という〈太陽の似合う男の子〉と薫が、やがて出会い、付き合うようになり、死別するまでが描かれており、そこで正直、両親や不登校の友人の感情など、ワキの部分があまり掘り下げられていないのは不備に感じられなくもなく、まあそれがこのマンガ版に限定されたことなのかどうかはわからないが、ここではしかし、作者の技術的な拙さをフォローするかのようにコマ間の繋がりには忙しさが溢れ、それがまた妙に作中関係の短絡的な有り様にマッチしていて、一種トラジック・コメディともとれる、つまり本質的には暗い話の、その全体像を明るく照射している点がおもしろい。
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2007年01月13日
 パピヨン 1―花と蝶 (1)

 『ピーチガール』の上田美和による新作『パピヨン―花と蝶―』の第1巻である。双子の姉妹でありながらも、亜蝶(あげは)は田舎の祖母に預けられ、花奈(はな)は都会で両親のもとに育つ、そんな彼女らが〈再会したのは小学2年のとき 祖母が体を壊してやむなく都会で同居することに〉なったからなのだが、幼少時における環境の違いゆえか、ふたりはまるで正反対の性格で、明るく目立つ花奈と地味で垢抜けない亜蝶は、じつに対称的な高校生活を送っていた。やがて初恋の男子である流星が花奈と付き合うことになったのを知り、ひどく傷ついた亜蝶は、しかしスクールカウンセラーの九(いちじく)に導かれ、じょじょに自分を変えていこうとするのだった。と、アウトラインだけを述べれば、とりたてて特筆すべき点はないように感じられるけれども、登場人物たちのアクションにいちいち関心を引かせるほどの技術が作者にはあり、また亜蝶と花奈のコントラストや、また流星をめぐる三角関係ばかりではなくて、九の手ほどきによって亜蝶の資質が開化されるといったマイ・フェア・レディ調の仕掛けも、作品を盛り上げるに十分なアクセントとなっている。おそらく今後は、姉妹の確執がより強調され、なぜ幼い頃に亜蝶が両親と暮らせなかったのか、そうした家族周りの関係などが、物語に絡んでくるのだと思われるが、すくなくともこの序盤において、登場人物たちは効果的に配せられている。ひとつ懸念があるとすれば、カウンセリングという要素が高まり、心理学的なイカサマが、何かしらかのバイアスとなる可能性を孕んでいることぐらい、か。
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2007年01月10日
 ナンバMG5 8 (8)

 硬派に興味がある。あるいは僕がヤンキー・マンガの類を読む理由のひとつには、そうした関心の高さがあるのだった。と、そういえば、以前に吉田聡がコラムか何かの文章で、ナンパというのは、本来、軟派のことをいい、硬派との対でもって使われる、男の生き方を二分するカテゴリーのひとつだったはずなのに、いつから女の子を引っかける行為を指す意味で使われるようになったのだろう、といったような懐疑を呈していたけれど、それというのはおそらく、軟派の、その対向であるべき硬派が影響力を失していった問題と密接であると思われる。要するに、男らしさの意味が一義的ではなくなるにつれ、硬派・軟派の二項対立が立ちいかなくなってしまい、それら本来の語義が忘れられることとなったのだ。もしかすると、軟派からナンパへの変容は、学校文化における、たとえば番長などの定義が消失したのとパラレルなのかもしれない。が、ともあれ、『フジケン』以降の小沢としおのマンガには、いや、ま、ユーモアの部分はさておき、シリアスな面にかぎれば、硬派ともとれるほどに頑なな意地を貫く男の子の姿が多く見られる。応援団の進退を扱った『ダンコン』などは、その、もっとも顕著な例だといえるし、もちろん『ナンバMG5』の主人公で、筋金入りのヤンキーでありながらもシャバい小僧に憧れる難破剛もまた、硬派というに相応しい存在だろう。だいたい、ヤンキーのサイドからみたとき、「シャバい」という形容は、硬派よりも、軟派に寄った傾向を含むのではないか。つまり、おおまかに言い換えると、剛の属性は、本質的に硬派なのである。そうして、そのことが、この8巻では、大丸という熱血漢に〈藤田さんは お前のこと弟みてぇに守ってやりたくなるって…そんな藤田さんんにテメーは…バリバリのヤンキーのクセにシャバいふりして近づきやがってよ!! テメーはな ダニ以下だよ!!〉と責められることによって、明るみになっている。剛にしてみたら、当然そんなつもりはない、〈オレ…一度だってお前や藤田さんのことダマそうと思ったことねーんだ〉けれども、大丸の怒りに、ひどく動揺させられる。こうした真面目な悩みを、照れず、真っ向から描いているのが、やはりこのマンガのチャームで、〈ウソつきだよ 結果的にはな だた……アイツはそのウソを楽しんじゃいない〉と剛の気持ちを汲み取ってやる伍代の言葉を聞き、大丸が深刻な顔つきになるのも、一種の健全さを茶化さず、いじけた表現になっていない、良いシーンだ。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 1話目について→こちら
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2007年01月06日
 ロック・コミック

 『COMIC IS DEAD』と『ワルの漫画術』に続く、島田一志のマンガ批評の表紙は、もちろん浅田弘幸で、『ROCK COMIC(ロック・コミック)』なる表題からわかるとおり、ここで扱われているのは「ロック漫画」というジャンルの限定されたものなのだが、いちおう、その「ロック漫画」とは何か、といった定義はされてはいるものの、「序」の文に〈自伝のような本〉とあるように、あくまでも書き手である島田の指向性を強く出したものであり、正直にいえば、考察や資料としての価値は低い。そもそも、ここでいわれている「ロック」のイメージ自体が、パンク(にハードコアを少々とニュー・ウェイヴを少々)といった範疇に収まるものであろう。むしろ、驚くほどに詳細なロング・インタビューを行っている上條淳士または『TO-Y』についての、副読本的な意味合いが大きい。さて。自分語りには自分語りで抗してみようという気にもなるわけだが、ここで取り上げられておらず、『TO-Y』以降にロックを扱ったマンガということであれば、どちらかというと僕自身がハード・ロックやヘヴィ・メタル寄りのサウンドが好みなので、どうしても笠原倫『唇にパンク』(「ボーイズ・ビー・シド・ヴィシャス」なのだけれども、楽器対決の描写は、じつにメタル的である)や岩田康照『MAD JAM』などに愛着があり、みやすのんき『ヘビメタ甲子園』や蛭田達也『コータローまかりとおる!』のバンド編でスティーヴ・ヴァイって凄いんだな、と思わされた記憶を持つし、また島田は、90年代に触れた項(P30-31)で〈そして、この時代、忘れてはならないのが、田島昭宇と浅田弘幸のブレイクだろう。今のところ彼らには直球勝負の「ロック漫画」はないが〉と書いているけれど、当時は彼らとも交流があり、先だってブレイクした萩原一至がやはりメタル・リスナーであったことのほうに関心は高く、そういえば、まつもと泉『せさみすとりーと』の主人公もバンドをやっていたっけなあ、と、さっき思い出した。とはいえ、個人的に執着している作品を一個挙げるとなると、間部正志の『ノーホシTHEルーザー』になるか、やはり。いや、ほんとうに僕は『ノーホシTHEルーザー』が好きで、その後に作者が音楽雑誌の『クッキーシーン』でサブカル寄りの作風を披露したさい、ソフト・ロックを聴き出すと感性までも柔になることを思い知らされた。だから、たしかリッチー・ブラックモアを好きだという山下和美や高橋ツトムは、もうそれだけで、その人間性が作風に現れていると感じられるよ。

 『ワルの漫画術』について→こちら
 『COMIC IS DEAD』について→こちら
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 テガミバチ 1 (1)

 〈ラグ……きみには……「テガミ」には大切な「こころ」や「きぼう」「願い」がたくさん込められているのです / 命をかけてきみを必ずキャンベルに届けます…!!それがテガミバチの仕事ですから…!!〉。正体不明の男たちによって母親を奪われた幼年期に、主人公のラグは、アンバーグラウンド国家公務郵便配達員「BEE」(通称テガミバチ)のゴーシュと出会い、助けられ、憧れ、彼のようになりたいと願う。その五年後、いよいよ成長したラグは、テガミバチになる資格を得るため、旅立つ。〈まっていて……おかあさん……!!ゴーシュ…!!ぼくは…必ずりっぱなテガミバチになって あなたたちに会いに行きます…!!〉と、こうして「こころ」を載せた「テガミ」をめぐる彼の冒険は幕を開けるのであった。おお、もう単行本になるのかあ、はやいな、と驚いたら、たったの二話しか収められていないじゃないか、しかしながら本格的に物語をはじめる前に背景をきっちりと説明する必要があるからだろう、けっこうなヴォリュームが感じられる。まあそのせいで、今後に作品がどのようなテンポで進んでいくのかは、現段階ではいっこうに見当がつかず、内容の是非に関しては、本質的な判断はまだ下せない状況だ。とはいえ、以前にも書いた(つまり繰り返しになる)のだが、先行する人物の背中を追うかたちで主人公が特定のジョブに就くという基本線は、今様の少年マンガ活劇における主流的なフォーマットで、そのうちに浅田ならではの、リリカルな精神論を、どれだけ組み込めるかが、やがて要所となっていくのでは、と思われる。のだけれども、以前であったならば中原中也へのリスペクトが、たとえばここでは、ゴーシュという名が登場人物のなかにあったりと、宮沢賢治への傾倒をそこはかとなく感じさせるわけだ、が、そうした宮沢の影響をマンガの表現においていかに扱うかは、今ぱっと思いつくだけでも、外薗昌也が『犬神』で、幸村誠が『プラネテス』でやっていて、そうして見ると、じつは意外に落としどころが難しく、物語そのものを破綻させる可能性を過分に孕んでいる点に、注意しておきたい。

 第一話について→こちら

 『蓮華 spring edition one's intimate feeling / ふたつの忍花』について→こちら
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