ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年12月26日
 人類は衰退しました 2 (ガガガ文庫 た 1-2)

 おそらくSFのカルチャーに関するセンスがしっかりと備わっていれば、きっともっと愉しめたんだろうな、と思いつつ、いや、しかし、それがなくとも(あるいはこちらにそれが、ない、からなのかもしれないけれど)十分に唸らされるのが、田中ロミオの『人類は衰退しました』の2巻に収められているエピソード「妖精さんたちの、じかんかつようじゅつ」である。タイムスリップを題材にしているというのは、小説を読みはじめ、すぐに気づくのだが、そのことに気づいてしまった時点で、次から次へ錯綜する物語の、その仕組みに絡めとられ、不思議がる。ホモ・サピエンスは衰退期に入り、まさにファンタジックな存在といえる妖精さんたちに、現人類の座が明け渡された地球で、旧人類を代表し、妖精さんたちとの交渉を試みる調停官の仕事に就いた語り手イコール〈わたし〉は、未だ顔を合わせたことのない助手の出迎えを、上司でもある祖父から命じられる。極度なまでに対人関係を不得手とする〈わたし〉は、渋々ではあるが引き受けるのだけれども、待ち合わせ場所へ向かう途中、一体の妖精さんに声をかけられ、彼の差し出すバナナを食べたせいで、長くも短い遠回りを強いられる羽目になるのだった。最初に述べたとおり、こちらがSF的な教養に乏しいタイプなので、ずれを持ちながら繰り返されるループのなかで、上書きされた記憶と蓄積された(無)意識とが、たぶん、何かしらかの論理に基づいた整合をつくり上げているのではないか、と、推測するしかないにもかかわらず、構造内部における手の込みようは、着実に伝わってくる。しかも、そうしたうえでストーリー自体は、難解さに肩を凝らせず、コミカルなテンポで進んでゆくところが、印象に良い。もう一篇のエピソード「人間さんの、じゃくにくきょうしょく」も、たとえば『ガンバの冒険』と『アルジャーノンに花束を』と『スプーンおばさん』のミックスと受け取っても差し支えのないようなコンセプトが、ビターなテイスト含みのユーモアでまとめられており、なかなかにチャーミングである。
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2007年12月20日
 新潮 2008年 01月号 [雑誌]

 『新潮』1月号掲載。本谷有希子の『グ、ア、ム』は、同作者の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』とはまたちょっと違った印象の、憂鬱な姉妹と家族の小説といえなくもなくて、二十五歳の長女、二十一歳の次女、それから彼女たちの母親と父親のつくる、ひずんではいるけれども、均衡のとれた四角形の、その中心に、ポジティヴな反応を蓄え、「ロストジェネレーション」だとか「下流」だとか「ワーキングプア」だとかのNOWい閉塞に、割け目を入れる。ひとまず、地方都市を出自とする若者をデフォルメする、そういった手つきに作者の勘のすぐれたところが発揮されている。表向きのみじめったらしさを茶化すというよりも、芯を捉まえ、そこから誇張のラインを引いていくことで、矮小であるがゆえに現実味のある姿を出現させているのである。〈なんの目的もなく田舎を飛び出し〉た長女は、〈あらゆる入社試験に落ち、このままでは本当に路頭に迷うかもしれないと危機感を覚え出していた大学四年の〉時期に、〈冗談半分でアナウンサースクールのチラシをもらい、受講を決め〉るのであったが、もちろんアナウンサースクールに通うことが〈路頭に迷うかもしれない〉という危機感のまっとうな解決になるはずもなく、現在は〈東京の大型スパ施設でバイトをし〉ながら、恋人と〈結婚は貯金が溜まったら、という二人のあいだの話し合いで、未だ具体的な見通しは立っていない〉にもかかわらず〈すでにどことなく所帯じみて〉いる同棲生活を送っており、〈姉がふらふらとしているぶん、親の経済力と、日本の政治の行き詰まりに不安を感じ、さっさと地元で就職した〉次女は、〈おそらく関西弁を話せている俺、が気に入ってしょうがない〉ような、〈後天的関西系ノリ〉の〈付き合ってみると、予想通り、底の浅い〉恋人に〈家に転がり込まれてしまい。情がうつってい〉いるばかりか、出身地で馴染んだファッション文化がギャルっぽいそれであることを自分では意識しておらず、大阪に勤務するようになって三年になるが、その傾向は抜けきれていない。こういった具合に造形された姉妹が、母親をともない、女三人でグアム旅行へゆく、というのが、おおまかな筋で、当然、道中に諍いは起きる。のだけれども、これが姉妹の関係だけで完結しているお話であったならば、殺伐とするだけで終わってしまいそうなところを、じつにおばちゃんくさい母親とファンキーともとれる父親のコンビネーションを加えることで、にぎやかな、あかるみを浮かび上がらせる。とくに魅力的なパーソナリティを持った親父さんの、兎をめぐる冒険、などはぜひとも番外編に書いていただきたいほどなのであった。が、まあ、それはともかく、これはある意味で「刷り込み」とでもいうべき人間のサガに関する物語なのだと思う。長女や次女を取り巻く現代的な苦悶も結局のところ「刷り込み」でしかなく、テレビなどを通じて母親や父親が受ける現代的な影響もまた「刷り込み」でしかない。もしかしたら、ここで展開される近親のジレンマでさえ、この国の生活環境がもたらした「刷り込み」の産物であろう。作中人物たちの感情はそれに従い、同じくして自らと分かちがたく結びついた要素のなかに、なだらかな家族のシーンを発見するのである。

 「あの明け方の」について→こちら
 「生きてるだけで、愛。」について→こちら
 「被害者の国」について→こちら
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2007年12月17日
 メフィスト 2008年 01月号 [雑誌]

 『メフィスト』1月号掲載。西尾維新の『零崎曲識の人間人間3 [クラッシュクラシックの面会]』は、ヒロインは無桐伊織で、キューピット役を零崎曲識あるいは零崎双識にした、零崎人識のラヴ・アフェアである、などといえば、あの殺人鬼が、と嘘くさくもあるけれど、あんがい、そういうふうに読めなくもない。もちろん、それはミス・リードだとして、べつの可能性を考えるとすれば、一種のファミリー・アフェアといったところか。時系列でいうと、『零崎双識の人間試験』のアフター・ストーリーにあたり、双識に両手の切断された少女を託された人識は、その兄との約束を守り、彼女のために高性能な義手を得るべく、ほんとうは顔を合わせたくないほどに苦手な、もうひとりの兄である曲識のもとを訪れる。ここで驚くべきは、そうして人識が、曲識(正確には義手の提供者とでもいう人物)からの要求に、ともすれば自己犠牲に近しい態度でもって、応えることだろう。人識がワキとして登場する戯言シリーズ本編が、アパシーの状態からエモーションを獲得する、そういったていの物語だとしたなら、そこでの主人公の、まさしくオルタナティヴな存在たる人識もまた、以前の利己的な自分からすれば〈ったくらしくねえ〉といった行動を、〈あの戯言野郎の影響かね……〉と、苦々しく思いつつも、しかし、すすんで選ぶようにまでなっている。そうした彼の姿を見、曲識が「本当に、お前は変わった。お前みたいな奴は一生変わらないのだと思っていたが――旅をして、人と会えば、お前のような男でも、やはり変わるか」と、驚きの言葉を述べるとおり、それはやはり、変化ないし成長ないし前進、と受けとれる類のものだ。運命はいかようにも変わりうるし、変わりうる運命を指して、可能性と呼ぶこともできる。この作者のものとしては、とくに秀でた趣向が凝らされているわけではないけれども、話自体はすっきりとまとまり、人識の悪びれてひねくれた様子が、単純にキュートと感じられるぐらい、いや、珍しく作中の誰も死なないからなのかもしれないが、気持ちよく収まっている。

 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『不気味で素朴な囲われた世界』について→こちら
 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年12月14日
 ハルコイ (Be・Loveコミックス)

 なにはともあれ、末次由紀の帰還を、うれしく思う。05年に、参考先からのトレースを指摘され、一時は活動停止を余儀なくされたが、しかし、ふたたびマンガのシーンに戻ってくることが叶えられたのだった。そうして、『BE・LOVE』誌上に今年発表した読み切りを集めたのが、この『ハルコイ』になるのだけれども、現在、全過去作品が絶版という状況を踏まえれば、ここからあらたなキャリアがはじまると考えて構わないだろう。それに相応しく、収められている四篇はどれも、すばらしい出来と評して差し支えがないものばかりである。絵柄や構図に関しては、影響を受けている以上(現在の)井上雄彦や(現在の)いくえみ綾などを思わせる部分があるのは仕方がなく、もしかしたらその点をネガティヴに受け止める向きもあるかもしれないが、ストーリーの運びには、この作者ならではの切ないウェーヴがたしかにあって、ページをめくるごとに、堪えがたく、涙が湧いてきてしまうので、弱るよ。表題作である「ハルコイ」は、性格も正反対で二回りも歳の離れた女性同士の友情の楽しさのようなところから喪われた者に対する感傷のエモーションを引っ張り出してゆく。後悔の重たさをじょじょに強めながら、それをポジティヴな意志で支えるかっこうの展開に、ぐっとくる。離婚歴のある男性と付き合う三十代女性が、仕事ばかりではなくて、家庭や出産という可能性を、自分のなかに意識し、結婚を求める「指輪の片想い」や、派遣社員のまま、ただゆらゆらと派手に生きていただけの女性が、持ち前の計算高さと勝ち気の根性を貧乏食堂の再建に傾ける「美彩食堂」も、賑やかなドラマの先に、きれいな着地点を決めることで、胸に熱くなるものをつくり出している。過労気味の母親を励まそうと、幼女がひとり遠方へ写真を撮りに出かける「ななつの約束」は、バスでのやりとりが、そこで手を差し伸べる大人のやさしさが、まあ見え透いたアイディアではあるとしても、ひけらかさず、だからとくに印象に残る。

 『Silver』2巻について→こちら
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2007年12月13日
 メフィスト 2008年 01月号 [雑誌]

 『メフィスト』1月号掲載。ははははは。これは非道い。すばらしく非道い。むろん最大級の賛辞として送らせてもらうのだが、とにかく、非道い、の一言に尽きる。浦賀和宏の『三大欲求』は、それこそこの作者でなければ書けないというか、いや、ま、それ以前に、この作者の他には誰も書こうとしないに違いない、度し難い内容の小説である。裕福な家庭に生まれ、偏差値も高く、さらには巨大な男性器を持ち、セックス・フレンドにも事欠かないほどのイケメン高校生である語り手の〈俺〉は、しかし、現実の女性を相手にするよりも、アニメ『天×突×グ×ン×ガン』に登場する美少女ヨーコをネタに、マスターベーションすることを至福だと考えている。だから〈グ×ン×ガンの世界の中にいけたら、最初にやることは決まっている。ヨーコを口説き、ヨーコをベッドにねじ伏せ、ヨーコのでかいパイオツに自分のそそり立ったペニスを挟んでパイズリして、ヨーコの顔に思いっきりぶっかけてやるのだ〉と、アニメの世界に猛烈な憧れを抱く。まあ、この時点ですこし頭のおかしい子なのだけれども、その彼が、ポニーテールで胸がおおきく、気の強い同級生のミドリにヨーコのイメージを見たことから、何としてでも彼女とセックス(性交)をすべく、狡猾に立ち振る舞う。言い換えると、オタク的な欲望をじっさいに実現させられるだけの能力を持った人間が、それを遂行してゆく過程となっているのだが、さすが浦賀和宏といわざるをえないだろう、尋常じゃない思考回路を作中人物たちの脳髄に滑り込ませ、結果的には、吐き気を催すぐらいのバッド・エンドへと導くのであった。作品のつくりは、同作者の八木剛士・松浦純菜シリーズと等しく、ミステリの形式はほとんどとっておらず、屈折した自意識と妄想のドライヴが大部分を占め、そこへ独自に展開されるサブ・カルチャー論が挿入される、というものになっている。〈どうしてわざわざ表紙が漫画の小説なんか読むのか理解に苦しむ。表紙を見て、おおこれは中々萌えるからオカズに使えそうだぞと思っても、所詮中身は小説なのだ(略)その表紙の女の子が萌えると思っていても、そんな女の子は小説の中にこれっぽっちも、まったく、完膚無きまでに登場しないのだ。あるのはただ、文章の羅列だけだ(略)文章で表紙の女の子を想像しろって? だったら最初っから漫画の表紙などつけずに全部読者の想像にまかせろって話だ(略)アニメだったら音楽だって流れるし、登場人物も軽快に動くし、ヨーコのパイオツもプルプルと震えるのだ。オタクだったら小説なんぞ読まないで素直にグ×ン×ガンのDVD観ろよ!〉。このような、おそらくはライトノベルや「萌え」のメカニズムに対する意見などは、作者のギャグなのかマジなのかは不明だが、けっこう興味深い。データベース云々という言葉を使えば、それが(多くの場合性的な)欲望を喚起するにあたって図像が絶対必要かそうでないかの判断は、その手のことを盛んに論じている人たち(たとえば東浩紀や伊藤剛)のあいだでも一致していない点ではあるからね。それから、先ほど後味の悪いラストというような旨を述べたけれども、考えようによっては、そこに至ることで物語は、サブ・カルチャーに割く想像力と、「他者に対する想像力」と世間一般でいわれるそれとに、異質だとの線引きをする、そういう結構であることを思わせる。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

 「リゲル」について→こちら
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2007年12月11日
 やみくも―翻訳家、穴に落ちる

 鴻巣友季子のエッセイ集『やみくも 翻訳家、穴に落ちる』のなかでは、久世光彦のことを書いた「雨」が、好き、である。書き手である鴻巣は、彼と深い知り合いというわけではない。雨の晩に、たまたま〈一度だけすれ違いざまにご挨拶をしたことがある〉だけである。しかもそのときは〈いわば長年のあこがれの人に予期せず邂逅した緊張で、なにも言うことは思いつか〉ず、これといった会話を交わすことができなかったので、後々落ち込む。だが、それが縁であったのかどうか、久世の文庫解説を、立て続けに二冊、依頼される。〈久世さんは書評では「解説はしない。筋は書かない。その人(作者)に熱心に話しかけるだけだ」と言う。わたしも作者に話しかけながら書いた。初対面で言えなかったことも、そこには僅かばかり含まれていたかもしれない。なのに〉……二冊の文庫が出版される間近、久世は突然にこの世を去ってしまう。付箋に関する他愛のない導入から、ひとつずつ、久世との接点を拾い、集め、それらを惜しむかのように、文章は、急かず、流れてゆく。性質的には追悼文に近しいのだろうが、ここに書かれているのは、偶然の連なりともとれるエピソードを、大げさに仕立てる驚きではなくて、静かに頷くかっこうで受け入れる態度なのだと思う。そうすることで、もしかするとすべてのことは必然であったのかもしれない、という予断が、どこにもそうとは述べられていないにもかかわらず、生まれ、伝わってくる。悲しみのある内容だが、その悲しみが重たすぎない、おだやかに揺れるのは、書き手が筆記する自身に酔わず、出来事と感情とのあいだにある距離感を、しっかりとした目でつかんでいるためだ。その目線のよどみなさはもちろん、ここに収められた他の文章にも、同じく、いえる。
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2007年12月02日
 夫の火遊び

 アタマのほうにある居酒屋でのやりとりやしめさばのくだりを読みつつ、そういえば、『群像』4月号に掲載されている山田詠美との対談で川上弘美が、女性の小説家は、おおまかに食べ物を書く人と洋服を書く人にわかれ、藤堂志津子は洋服派で、自分はそこが好きなのだ、というようなことを言っていたのを思い出す。しかし、ここ近作にかぎっていえば、藤堂は、むしろ食べ物のほうを書く人との印象が、つよい。もちろん、これは川上の見立てに意義をいっているのではない。川上は、書評集『大好きな本』のなかで、藤堂の『若くない日々』を取り上げ、こう述べている。〈「恋に甘い妄想を全く抱かないしらけた女」の動作と心根を、近年の藤堂志津子はこれでもかというように冷徹に描いてきた。それが『秋の猫』の前後から、「赦し」ともいうべき慈しみの視線が、作中に明らかにあらわれはじめたように、わたしには思えるのだ。 / 老い / それが、かかわっているのだと思う。すべての人のもとにやってくる老いと死。その恐ろしさと理不尽さをみつめるとき、小説を描く作者の手腕はことさらに冴える〉と。こうした部分における変化と、藤堂が描写する食べ物の在りようは、おそらく、パラレルだと考えられるのである。『夫の火遊び』は、十年前に一つ屋根の下でともに暮らした四人の独身女性たちの、その後を捉まえた『桜ハウス』の続編にあたり、その、さらにすこしばかり後の姿が、それぞれ四つの篇のなかに編まれている。四人のうちのひとり、最年長で〈四十六歳の蝶子は、昔から料理好きのおいしいもの大好き人間だったけれど、その傾向は近年ますます増長されて、その具体例のひとつが手づくりのしめさばなのだ〉というわけで、最初に述べたことと繋がってくるのだけれども、作中の時間が進み、四十七歳になった蝶子は、週末に都心に出て、デパ地下をまわり、おいしいものを調達し、それを金土日でたいらげるのを、独身生活のたのしみにしている。しかし、大量の食品を持ち帰るため、ナイロン製のデイパックを背負った自分の姿を、たまたま鏡で見てしまった彼女は、ホームレスと間違えられてもおかしくはない、あまりのみすぼらしさに、ひどく衝撃を受け、二週間ほど落ち込む、が、三週目には立ち直り、ふたたびデイパックを用意し、デパ地下へと通う。〈四十代という年齢ならではのたくましさだった。 / いつのまにか、それがしっかりと身についていた。 / 十代か二十代のころに、同様の傷とショックを受けたなら、おそらくトラウマとなり、その後しばらくはデイパックから目をそむけつづけただろう。 / しかし十代二十代の若者なら、どれほどみすぼらしい身なりをしてデイパックを背負っていても、髪をふり乱していても、ホームレスには見えない。 / 四十七歳ならではの、人生のくたびれ磁波をいやでもまきちらしている年齢だからこそ、ときにはホームレスにも見えてしまうのだ〉。こうした消耗を肩代わりすべく、彼女の内側に食へ対する旺盛な意欲が生まれていると解釈しても、それはあながち的はずれではないだろう。まあ、そういったことはともかく、今回もまた、たいへん魅力的な内容であった。前作に比べると、「桜ハウス」の特別性は、直截に表現されていないけれども、たしかに作中人物たちの、心の一角にあり、すくなからず頼りになっていることが伝わってくる。四つの篇はどれも苦みを残す。四人の中年女性たちが抱える空漠は、空漠のまま、また新しい日々が続き、これからも年齢を重ねてゆくことが予感される。しかし、彼女たちを迎え入れる場所がある、と読み手に信じられることが、ここにある物語を、ただ寂しいだけに終わらせていない。

 『桜ハウス』について→こちら

・その他藤堂志津子に関する文章
 『かげろう』について→こちら
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2007年11月30日
 文学界 2007年 12月号 [雑誌]

 『文學界』12月号掲載。作品の題名を決めるのが作者のセンスであるならば、つけられた題名がどうなのかを判断するのは読み手のセンスになるわけで、第105回文學界新人賞・島田雅彦奨励賞作にあたる早川阿栗の『東京キノコ』は、その題名が、ぴん、とくることもなく、正直趣味じゃないなあ、という印象だったのだけれども、じっさいに読みはじめ、読み進めるうちに、あ、これはけっこう好きかもしれない、と思うようになった。小説は、若い一組のカップルが、二年以上の付き合いのなかで、はじめて数日間の旅行をするのだが、途中、せこいことで揉めてしまい、いきおい片方がもう片方を置き去りにして、帰途についてしまう、そのような事の起こりを、ひとりで東京の自分の部屋に戻ってきたほう、つまり女性である語り手の〈わたし〉が反芻するかっこうで、幕を開ける(ちなみに作者は男性である)。彼女は、なぜ恋人のちょとした言動にひどく腹を立てたのか、自分でもわからない。〈これほどユウトに対して苛立ちを感じたのは初めてだった。ユウトに限らず、わたしは誰かに対して言いようがないほどの怒りを抱いたことはなかった。まるで脈絡のないことが旅行先で怒り、わたしは悲しくすらあった〉。この、脈絡のなく、どこからきたのか不明な感情をめぐり、〈わたし〉は言葉を費やしてゆく。そうするとふつう、何かしらかの理由や原因が求められ、それらの整合性が、やがて物語のようなものを形づくるのだろう、と考えてしまいがちだけれど、『東京キノコ』では、すべての断片はすべて断片のまま、置かれ、作中人物たちの存在に関連づけられる。それはあたかも、点と点とを線で結べば、一個の図形が描かれるのに、そうせず、その、点と点とのあいだに、あたらしい点を次々と打つことで、はからずも描かれるべき図形が見えてしまうのに、似ている。はっきりといえば、〈わたし〉の行動や感情を左右しているのは、七年前に、両親が、家庭内暴力をふるう弟を、困り、殺した、という凄惨な出来事であろう。そして、いま付き合っている恋人が、その死んだ弟と同じ名前を持っている、という事実である。しかし、それらはスキャンダラスに傾きすぎず、ほとんど、他の断片と等しい重み、軽さ、それこそ誰の身にもありうる苦しみとして、こちらへ向け、語られる。あえて、これはどこにでもいそうな恋人たちの諍いだとでもいうふうに伝えられる。なぜならば彼女自身が、〈もちろん、本当のところは過去のことが原因としてあるかもしれない。トラウマだとか抑圧された意識だとかそういうことは理由としてあるのかもしれない〉としても、〈だけどわたしはそれを選びたくない〉と、つよく思っているからに他ならない。全編に渡って「カギ括弧」の排除された文章は、そうした語り手の意志や態度を具現化するための試みと見られても良い。彼女が部屋で育てているアロエの、その鉢に突然生えてきたキノコが取り持つハッピー・エンドは、ちょっとロマンティックなんじゃないのお、と思えるけれども、それはそれで、このラヴ・ストーリーの終わりに相応しい。たぶん誰だって、心に深い傷や闇を負っていようがいまいが、このように、やさしく愛し合うことはできるのだ。
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2007年11月16日
 文学界 2007年 12月号 [雑誌]

 『文學界』12月号掲載。村上龍の連載小説である『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』を、この第七回になって、いきなり取り上げたのはなぜかというと、先般、アタマ(6月号掲載分)からまとめて読み直していたさい、ここで語り手をつとめる人物に付せられた名が「ケンジ」であることに気づいたからだった。「ケンジ」の名を持つ主人公は、村上の作品にいくつか前例があり、たとえば『音楽の海岸』や『イン・ザ・ミソスープ』あたりの小説に、年齢や職業、立場が違い、けっして同一人物と見做すことができないとしても、見かけることができる。『音楽の海岸』が中上健次に献呈されていることを踏まえると、「ケンジ」というのは、かの作家に由来していると考えられるし、あるいは『69』や『長崎オランダ村』、『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』における「ヤザキケン」のヴァリエーションだと解釈することも可能だろう。が、その原型は、おそらく、『コインロッカー・ベイビーズ』のキクとハシだと思われる。ここで『愛と幻想のファシズム』の「あとがき」において、作家自身により、その登場人物たちであるトウジとゼロ、フルーツが、『コインロッカー・ベイビーズ』のキクとハシ、それからアネモネの再来であることが告げられ、さらには、その三者が、姿を変え、のちの作品に登場させられることが予告されていたことを、そして、ゼロの本名が相田剣介であったことを思い出されたい。そう、つまり「ケンジ」という名前は、あきらかに、そのような文脈から派生し、成り立っているのである。しかし、注意すべきは、キク、ハシ、アネモネ(トウジ、ゼロ、フルーツ)を彷彿とさせるような三者(三すくみ)が、たぶん93年の『音楽の海岸』の、ケンジ、石岡、ソフィの失敗を最後に、同じ物語の枠組みのなかで、共存することがなくなっていった点だ(ちなみに02年の『悪魔のパス 天使のゴール』における「ヤザキケン」と「トウジ」の存在も、この影響を免れておらず、キクやハシのような緊張感のある関係を結べていない)。もしかすると、村上の作品にあって「ケンジ」の名を持つ者に、どこか敗北したイメージがつきまとうのは、そのせいかもしれない。さて、『心はあなたのもとに』の「ケンジ」、ニシザキケンジは、50歳を過ぎてはいるが、投資の世界で成功し、平和な家庭を持ち、裕福な暮らしをしている、いわば勝ち組とされるタイプの人間であるけれども、小説は、その彼に訪れる精神的な敗北(喪失)とでもいうべきものの正体を探るようにして、進む。話の筋自体は、(連載はまだ続いているので)あくまでもこれまでのところにかぎっていうと、彼が知り合い、親密になった風俗嬢が、病気で死ぬ、というふうにまとめられるし、それを演出するコミュニケーションの手段が、携帯電話のメールであることから、まあ、じつに村上龍らしい半歩遅れたアンテナの産物だといえる(もちろん、その半歩の遅れこそが、世間一般でいうところの、最先端ではなくて、流行文化とジャストに重なるのも、見逃してはならない)。が、そうした過程において語られてゆくのは、単純に、好きだった人が死んで悲しい、というのではなくて、他人に希望を与えることを自らのアイデンティティとしていた人間が、その希望を与えたはずの人間を喪う、ということである。散見される経済知識やグルメ情報、性風俗の描写は、あいかわらず、といった感じではあるけれど、テーマ的にいうと、他人に生きていく希望を与えるとはどういうことか、について考えられた03年の『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』(文庫版では『空港にて』)や『2days 4girls 2日間で4人の女とセックスする方法』以降へ、しっかりと歩を進めた小説になることを、予感させる。

 『半島を出よ』について→こちら
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2007年11月10日
 槇村さとるの、以前の対談集『人生の穴 ときどき落ちても大丈夫』は、その豪華ともいえるゲストのヴァリエーションに、とても読み応えがあった。基本的には、セクシュアリティに関する話題がメインではあるのだが、たとえば、結婚当初の武内直子ののろけ話(対談自体は99年に行われている)や、山岸涼子が『舞姫(テレプシコーラ)』の連載をスタートさせた頃の裏話(対談自体は01年に行われている)あたりは、マンガに関心の高い人間ならば、それだけでニヤニヤさせられるような個所であった。今回の『槇村さとるのあなたともっと話したい』でも、各界からヴァラエティ豊かなゲストが迎えられ、恋愛やセクシュアリティのことが話されているのだけれども、個人的には、やっぱりマンガに関するやりとりから、そこへ入っていくくだりが、いちばん興味深い。それこそ、安野モヨコがゲストの回で、ホストである槇村の〈私はずっと『ハッピー・マニア』について言いたいことがあってね、そもそも少女マンガって「モテ」というのが今でも最大のテーマじゃない? 理想のストーリーは、「何もしていないのにふたりの男の子がやってきて、自分に愛を告げること」(笑)〉というフリによって、男女間の関係性について、おのおの自分の考えを述べてゆくのだが、安野が〈男友だちに救われることもありますよね。女の子同士だと痛みは共有できるけど、男の人がどう思うかは想像するしかない(略)女としてはこれでいいはずだと思ってやっていたことが大間違いだってわかるんです〉と言い、槇村が〈だいたい、まだ経験のない、成熟していない女の子たちがテキストにするのが少女マンガだからダメなんだよね(略)思い詰めた顔をしてたら彼が着てマフラーを巻いてくれるなんて嘘!(笑)〉と答えちゃうあたりが、好きである。また、べつの回でゲストの假屋崎省吾が〈私はさ、小さいころは「少女フレンド」が好きだったのよ〉と言うと、槇村の口から〈あ、フレンドですか? 楳図先生とか描いてらっしゃった〉と出てくるところとか、さすが、年の功だと思う反面、犬童一心との対談で、犬童に『タッチ』の最終回を説明され、その展開に驚くことから、そうか、槇村は『タッチ』を読んだことはないのか、と思わされる。まあ、そのへんは、この対談集の、本質的な部分ではないのだけれど、やっぱり自分の趣味からするとそうした話題にどうしてもそそられてしまうなあ、といったところである。心理カウンセラーである袰岩奈々が、〈感情というものが言葉に変わることで、苦しくなくなるわけですよね。「私、怒ってる」とか。ところが、その感情を正確にとらえる感覚が鈍くなっている。しかもその表現するボキャブラリーが、どんどん貧困になってる〉と述べ、〈行間が読めなくなっていると言ってもいいんですけど。そのへん、槇村さん、マンガ家としてどうですか?〉と尋ねているのに対し、槇村が〈フィクションを読むのは、力がいる。語彙力とか、想像力ですよね。そういう能力が下がっていると思います〉と言っているのもおもしろい。今の若い、『NANA』などがジャストであるような20歳前後の、少女マンガの読み手は、行間に含まれていることや回想シーンのための場面転換をうまく理解できないので、それを作者の間違えだと思い、問い合わせてきたりしちゃうんだってさ。へえ。嘘かほんとうかは知れないけれど、なんとなく、ありそうな話ではある。
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2007年11月06日
 水の中の犬

 木内一裕(きうちかずひろ)の小説第二作『水の中の犬』は、前作『藁の楯』とはやや趣を変え、完全にハードボイルド小説を下敷きにしたかのようなつくりになっている。つまり、元警察官である中年探偵が、依頼人から受けた調査を進めるうち、報酬とは無関係にその事件にはまる、といったパターンである。が、張り巡らされた伏線が、登場人物たちの複雑な人間ドラマを描くというよりも、ヤクザやジャンキーに殺し屋が入り乱れ、派手目の暴力と銃撃戦(そこにカー・チェイスを加えてもいいよ)が、どばどばと投入されることで、物語が展開していく、このへんはじつにマンガ的であるなあ、と思う。ミステリとして読むべき点はすくないし、おそらくレイモンド・チャンドラーや原りょうあたりの熱心な読み手からしたら、設定などが似通っているだけに、やや大味というか、ちょっと受け入れ難いところもあるのではないだろうか。語り手の水準がはっきりしておらず、場面転換にさいし、作中の視点がスイッチすることに屈託がないのも、映像化を前提としていない場合、マイナスに働きうる可能性がある。とはいえ、正義漢ないし好漢と思われる登場人物が、ほとんどそのままの印象で困難をクリアーしてゆくプロットは、ここまでいくと、むしろハードボイルドの体裁を借りた浪花節だというふうにさえ感じられるほどだが、なかなかにエキサイティングである。主人公である探偵に、興味を持ち、だんだんと感化されてゆくヤクザの矢能などはその最たるもので、この男が醸し出すラストの、あかるい湿っぽさは、同作者が原作をつとめるマンガ『Pay Off』や『ヘヴン!』に近しく、じつに「きうちかずひろ」している。ところで、作中において重要なテーマのひとつを為しているのは、幼児への虐待ともとれるファクターだろう。『藁の楯』においても、幼女を暴行し、殺害した男は「人間の屑」と形容されていた(そういや、木内一雅もマンガ『アウト・ロー』や『CHILL』で、無力な子供が暴力に曝される姿を盛り込んでいる)わけだが、そこにもしかすると、社会的なアウトサイダーを好んで扱う木内にとっての、倫理または悪徳の分水嶺が示されているのかもしれない。

 『藁の楯』について→こちら
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2007年11月03日
 不気味で素朴な囲われた世界 (講談社ノベルス ニJ- 20) 不気味で素朴な囲われた世界

 西尾維新の『不気味で素朴な囲われた世界』は、同作者による『きみとぼくの壊れた世界』の姉妹篇である。あちらでは語り手にとって妹の存在が、こちらでは語り手にとって姉の存在が、作品のなかで重要な役割を果たしているからというのでは、もちろん、ない。まあ、たしかに『不気味で素朴な囲われた世界』は『不気味で素朴な囲われた世界』だけで、一個の独立した物語を為してはいるが、しかしそれでもなお、できれば『きみとぼくの壊れた世界』とあわせて読まれたい内容になっている。たとえば、将棋という小道具ひとつとっても、『きみとぼくの壊れた世界』でそれが出てくる場面を踏まえたとたん、その意味合いは、より深まっていく。壊れて分針の動かない時計塔に見下ろされる上総学園、小説の舞台はそこで、中等部に通う一年生の串中弔士が〈ぼく〉という、語り手をつとめる。彼の姉である串中小串は〈上総学園中等部三年生における奇人三人衆のひとりに数えられて〉いるのだったが、彼女を中心とする人間関係を乱すかのように、悲痛ともいえる殺人事件が起こったことから、〈ぼく〉は、女子でありながらも学ランをまとう先輩の病院坂迷路とともに、真犯人を探しはじめることとなる。『きみとぼくの壊れた世界』においては、被害者と加害者、男(性)と女(性)、嘘と本当といった、けして対称ではない二項の対照を基調とすることで、思春期的な広くもあり狭くもある世界が、つくりだされていたわけだけれども、ここでも同様に、犯人と探偵、日常と異常、それから偽物と本物などの、非対称的な二項の相関が、こしらえられたミステリふうの趣向に、自意識の彩りを加えている。冒頭に、カフカの〈悪は善のことを知っているが、善は悪のことを知らない〉というアフォリズムが引かれているが、これの、悪を偽物に、善を本物に置き換えてみると、内容について、やや暗示めいたものを感じとれる。本物は、善がそうであるように、それのみで十分に屹立しうるが、偽物は、悪がそうであるように、それのみではひじょうに曖昧な価値である。本物が明確化されていない世界では、本物として振る舞うことは可能である反面、本物が明確化されている世界では、比較、検討されたうえで、偽物以外の何にもなりえない。そのことは「えんでぃんぐ」部における丁々発止のやりとりから、一連の事件にとって〈ぼく〉の役回りがいかなるものだったのか、を考えるさい、おおきな手がかりとなる。たとえば、序盤において、作中人物たちがみな、〈ぼく〉によって将棋の駒に喩えられるなかで、しかし〈ぼく〉は自分のことを〈全方向に動けるけれど、それは全て逃げるための動き〉でしかない王将であり、〈王で王手を打つケースなんて、まずないでしょう?〉と述べるのであったが、そういえば、『きみとぼくの壊れた世界』のヒロイン病院坂黒猫が、そこでの語り手である櫃内様刻に向かって、こう言っていたのを思い出す。〈掛け値なしのきみの実力なら、歩兵を全部落としたところで大抵の相手には勝てるんじゃないのかい? どっこい、僕はそうは行かないぜ。僕なら大抵の相手には、王将以外の駒が全部歩兵でも勝てるさ〉と。つまりは、この違い。漠然としているかもしれないけれど、はっきりとあるこの三者の違いこそが、結局のところ『不気味で素朴な囲われた世界』に〈誰が何と言おうと、所詮ぼくはいかれた偽物なのだから〉という言葉を導いているのである。

 『きみとぼくの壊れた世界』ハードカバー版について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年11月01日
 きみとぼくの壊れた世界

 さて、西尾維新の『不気味で素朴な囲われた世界』でも読もうか、と、そのまえにシリーズの前作にあたる『きみとぼくの壊れた世界』を復習しておこうと思い、ハードカバーの新装版のほうを手にとる。今回のヴァージョンにあわせ、加筆と訂正が施されたことになっているのだが、とくに作品の印象は変わらず、諦念と紙一重のナイーヴさで描かれる青春の劇は、とてもエモーショナルに受けとれるものであった。とはいえ、たしかに書き加えられている個所があることには、気づく。全体を密に比較したわけではないので、もしかすると他にも細かいところなどあるのかもしれないけれど、たぶん、ここがいちばんおおきな変更点だろうと指摘できるのは、P190のあたり、以前のヴァージョンでいえば、P134の二段組み下部、〈いくらテストでいい点をとったところで、それは心証が悪すぎる〉の、〈いくらテストでいい点をとったところで〉と〈それは心証が悪すぎる〉のあいだに、けっして短くはない語り手の心境(モノローグ)が挿入されていることである。そうすることで、〈それは心証が悪すぎる〉とされる「それ」の意味合いが完全に異なってき、続く「心証」という言葉が、まったくべつの部分にかかる。そして強調されているのは、誰しもが〈被害者にもなりうるし、加害者にもなりうる〉その立場が、まるでシーソーのように簡単に入れ替わってしまう、しごく当然の摂理に対する脅えとでもいうべきものだ。語り手である櫃内様刻は、先に引いた場所の直後で〈僕はきっと――ああ、認めたくもないが……怖いのだろう。殺されるのが、怖いのだろう〉と述べる。これはノベルス版もハードカバー版も同一であるが、ここで〈僕〉が怖れているのは、死ぬ、という直截的な事実ではない、そうではなくて、殺される、という自分以外の何ものかによってもたらされる可能性を指しているに他ならない。たとえば、作中の違う場面で、とある登場人物が、自分の理解の外にあるものを不安視し、思わず自殺しようとする、それも同様の可能性を怖れる態度からやって来ている。怖れとは、要するに、他人が怖い、他者を受け入れられない、といったことの言い換えであろう。この物語においては、それがさらに敷衍され、世界という呼び名になってあらわれている。〈人間など精々、自分のことを把握するだけでも手一杯なのだから、家族や友達、学校や職場、その程度の範疇内だけを指して、僕らは『世界』というのだと思う〉のだとすれば、結局のところ、それはつまり、そういうことである。

 同作品に対する以前の文章(はてなダイアリー)→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『刀語 第九話 王刀・鋸』について→こちら
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
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 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
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 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
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 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
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 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
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 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
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2007年10月06日
 退屈論 (河出文庫 こ 11-1)

 文庫化にさいして、小谷野敦の『退屈論』には、著者の「あとがき」が付せられており、そのなかに〈当時、東浩紀の『動物化するポストモダン』という新書が話題になっていたが、私はこれに対しても、動物は退屈しないから、人間の動物化などということはありえない、と書いておいた〉とある。ここで、以前からすこし思っていることを、書きとめておきたい。この文庫版でいえば、P116のあたりで、小谷野は、次のようにいっている。長くなるが、以下引用する。〈私たちは十九世紀以来の、小説や映画のような虚構が大衆娯楽として大量生産された世界を生きてきたから気づかないが、元来、虚構の人物を面白がるというのはかなり高度な言語文化なのである。同じような男女関係のどろどろを知るにしても、虚構の人物ないしは自分と関係のない人物のそれを見聞きするより、自分が直接知っている人のそれのほうが面白い。もっとも、一人の人間の交際範囲、特にその人となりをよく知っている人の数などというのは限られているし、その狭い世界でそれほど面白い事件が起こるわけのものではないから、自ずと関心は見知らぬ他人の逸話に向かう。説話と呼ばれるもの、あるいはボッカチオの『デカメロン』で語られるような世俗の逸話の類は、そうして次第に発達したものに違いないが、それもまた、結局はセックス絡みの話、つまり猥談兼ゴシップこそ、人々の最も喜んだものに違いない。実は、十九世紀以来の「虚構」は既に歴史的役割を終えつつあるので、今の若者の多くは電車の中で本など読まずに、携帯電話で友達からその種のゴシップを取り入れたり、それが禁じられて携帯電話による電子メールが見られるようになると、じっとそれを見つめている。原始時代に返ったようなものだ〉。と、こうした、小谷野の、社会ないし世界の見え方自体は、意外と、東のそれと、おおきく対立しない。「動物化」というタームはともかく、01年に発表された東の『動物化するポストモダン』はむしろ、そういった現代的な資質ないし傾向の、そのメカニズムを、オタク文化を通じて、論じようとしたものだ。しかしながら、小谷野と東とを、決定的に違えているものがあるとすれば、それはたぶん、セックス(性交)とコミュニケーションにまつわる問題において、である(じつはその前提には、宮台真司の「意味から強度へ」という言いに対する評価の違いがあるのだが、ここではおいておく)。東は『動物化するポストモダン』の、P127で〈アメリカ型消費社会の論理は、五〇年代以降も着実に拡大し、いまでは世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。従来ならば社会的なコミュニケーションなしには得られなかった対象、たとえば毎日の食事や性的なパートナーも、いまではファーストフードや性産業で、きわめて簡便に、いっさいの面倒なコミュニケーションなしでは手に入れることができる〉として、その生活様式を指し、コジェーヴの言葉を踏まえ、「動物化」というわけだが、そもそもコミュニケーションそのものに、娯楽の要素が含まれており、それがオミットされてしまえば、どのような行動もいつかは飽きるのではないか、というのが、おそらくは小谷野の立場だといえる。このことはむしろ、00年の『恋愛の超克』を読むと、わかりやすい。小谷野はそこで〈「買春は他人の体を使ったオナニー」というのは、だから、間違っている。やはり買い手は、売春婦と会話がしたいのである。もちろん会話といっても、終始むっつりした顔で、無愛想な口しか利かないで、いきなり裸になって股を開いて「はい」と言うような売春婦ばかりだったら、やはり買い手は遠のき、もっと愛想のいい売春婦を求めるだろう。要するに買春者は、売春婦と「コミュニケート」したいのである〉と述べている。以上は、あくまでも売買春撲滅論として書かれたものの一節であって、最近出た『日本売買春史』にあるように、小谷野は、かつてとは考えを変え、現在は売春を「必要悪」として認めるようだから、ここまできっぱりと〈要するに買春者は、売春婦と「コミュニケート」したい〉と、コミュニケーションの部分を強めるかどうかは不明だけれど、すくなくとも、先般の小説『童貞放浪記』を読むかぎり、コミュニケーションを性産業の重要な要素として見ているのには、変わりがなさそうではある。

 
・その他小谷野敦に関する文章
 『童貞放浪記』について→こちら
 『悲望』単行本について→こちら
 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2007年10月04日
 世界の終わりの終わり

 佐藤友哉が、02年から04年にかけ、三回にわたって『新現実』誌に発表したシリーズが、このたび全面改稿され、『世界の終わりの終わり』として、一冊にまとまったわけだが、これがまったくべつの作品に変えられているから、おどろく。というと、語弊がありそうなので、言葉を換えれば、完全にオルタナティヴなヴァージョンになっている。まず出だし、今回のヴァージョンでは〈いきなりでもうしわけないが、想像して欲しい〉といわれている箇所は、初出の段階において〈いきなりで申し訳ないが、あなた達はこれを読むな〉というものであった。こうした短いセンテンスを覗き込んだだけでも、その言葉を動かす力学が、以前とは異なったものであることが、わかる。話の筋自体に大幅な変更が加えられているわけではない。小説のつくりは、作者を思わせる作中人物が、これを書きつつ、語り手をつめとる、おそらくはメタ私小説とでもいうべき装いなのだけれど、そうした手続きを踏む作者の内側の、おおきく違っていることが、はじめのヴァージョンとの印象をも、おおきく違えている。これは、やはり、文庫化のさい随所に改稿の施された『フリッカー式』や『エナメルを塗った魂の比重』には見られなかった現象で、それというのはつまり、あれらが基本的には物語を読ませるための小説であったのに対して、この『世界の終わりの終わり』は、物語になる前の、作者のレアな実感を、小説化してあるためだろう。『群像』1月号の創作合評で、佐藤の過去作『水没ピアノ』における得体の知れなさを高く評価する三浦雅士が、『1000の小説とバックベアード』に対しては「カルチャーセンターか何かで教えているような文学概念になっちゃっている」と不満を述べていたが、ここではその傾向はさらに進んでいるようにさえ思える。現代的な自然主義といえなくもない、そういうカテゴライズにすっぽりと収まるかのような整合性を得たかわりに、初期の衝動は完璧に失われている。じっさい、作中において重要な役割を果たす「妹」の存在からは、かつての正体不明なイメージが損なわれ、ひどく図式的な自意識の産物へと変容させられおり、〈僕がもとめ僕が愛した、僕にしか見ることのできない友人〉であり〈そして宿敵〉である「影」と呼ばれる存在も、これまた同様に、図式的すぎるほどに図式的である。あくまでも『世界の終わりの終わり』を、『1000の小説とバックベアード』以前の作品ではなくて、『1000の小説とバックベアード』以降の作品と捉まえるならば、最初のヴァージョンにはなかった(はずの)石川啄木の影響が、つよいのではないだろうか。いや、それは何も啄木の諸作が、このなかに投影されているということではない。『野性時代』6月号に掲載されているエッセイ「自作にBGM」で、佐藤は、「スーパーカーの歌詞に目を奪われた高校生の僕は、自分は言葉の分野で頑張ろうと思った。そういう意味ではスーパーカーがいなければ作家を目指」すことはなかったかもしれない、と書いているが、そのスーパーカーへの言及に示されるサブ・カルチャー的な資質が、ここでは、啄木を象徴とするかのような、すなわち文学的であろうとする指向へと、チェンジしている。本格的に東京へ出てくる前には北海道にいた啄木は、文学とともに生きようとし、かならずしも大成したとは言い難い状況のなか、27歳で亡くなった。たしか高橋源一郎だったかが、啄木の生き方は現在でいうロック・スターのようだった、みたいなことをどこかでいっていた気がするけれど、そうした部分に、作者の憧れはあるのかもしれない。何はともあれ、文学というジャンルへのこだわりが支配的となり、全体の印象を、こわばったものにし、良くも悪くも、佐藤友哉という作家が、ここからどこか次の段階に進まなければならないことを、教えてくれる作品になっている。

 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2007年09月14日
 文学界 2007年 10月号 [雑誌]

 『文學界』10月号掲載。小谷野敦の『童貞放浪記』は、頭のほうに〈金井淳は、「女を買う」とかそれに準ずることを、三十近くになるまで一度もやったことがなかった。もちろん、素人女性との交渉もなかった。キスすらしたことがなかった。要するに、純然たる童貞だったのである。世間の人は信じないかもしれないが、T大のような一流大学には、女を買うのはおろか、結婚するまでセックスはしてはいけないと考えるような堅物がけっこういたのである。今はどうだか知らないが、淳が在学していた一九八〇年代前半には、明らかにそうだった〉とあるとおり、ふたたび、作者自身をモデルとしたかのような主人公を立てて、書かれた小説であり、表向きは、その彼が性風俗を体験してゆく過程と、はじめて親密になった女性とセックス(性交)する機会が、綴られている。表向きは、といったのはつまり、話の筋だけ読めば、そういうことになっているのだが、溢れんばかりの性欲そのものを直截のテーマにしているというよりも、抑圧に苛まれた人間が過剰な自意識に振り回される、といったていの悲喜劇的な姿こそが、ここでは題材となっているふうに思えるからだ。笑って良いものかどうかは知らないけれど、ところどころ笑える。とはいえ、これまで小谷野の書いたものをけっこう読んでいる身からすると、前半のエピソードや描写に、つよい既視感があるのもたしかで、それらと主人公のかかっている神経症との繋がりを、まあ察することはできるのだが、全体の構成とうまく噛んでいないふしもあり、フィクションに落とし込むさい、アレンジにもうひと工夫欲しかったような、気もする。

 『悲望』単行本について→こちら
 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

・その他小谷野敦に関する文章
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2007年09月12日
 新潮 2007年 10月号 [雑誌]

 『新潮』10月号掲載。東浩紀と桜坂洋の共作『キャラクターズ』は、おそらく、サブカル論壇注目の小説であろう。いま、サブカル論壇(ここでいうサブカルとは単純にサブ・カルチャーの略語)といったのには、ちゃんと理由があるのだけれども、それは後述するとして、小説を読み終えたときに思い出したのは、マンガ家楠みちはるが『おまえの話はクルマばかり』のなかで、フォルクスワーゲンを評した言葉であった。なぜかというと、『キャラクターズ』の作中人物がゴルフカブリオレ、つまりフォルクスワーゲンに乗っているからなのだが、楠はフォルクスワーゲン(正確にいうとゴルフよりもクラスのちいさいルポ)に対して、その魅力を十分に認めたうえで〈意外とこのクルマは“自分が正しい”と思っちゃうんじゃないかって思ったワケよ。クルマはコレで十分、コレを選んでるオレは間違いないって(略)デカいベンツやアメ車が並んだ時に、ああコイツらはなにもわかってないって。ある意味、自分本位な価値観でまとまるんじゃないかなと。クルマってどんなのも消費なワケだから、その中で一番効率よく消費しているオレは賢い、みたいな〉と述べている。クルマという単語を文学や批評、サブ・カルチャーあるいはテクノロジーに置き換えても良いのだが、これはあんがい『キャラクターズ』において、ゴルフカブリオレを愛車とする作中人物であるところの東浩紀に課せられた人物像にとても近しく、そして〈目的は批評のキャラクター小説化。それがこのテクストだ〉とする『キャラクターズ』は、ある意味、そうしたタイプの賢さにまつわる小説として読めなくもない。だから正直なところ、ストーリー自体に、おおきな驚きがあるというわけではないのだけれど、メタ構造=作者の言い訳をふんだんに使い、さまざまな解釈の可能であるような余地がつくられているので、そのあたりをあれこれ考え、愉しむのも悪くはないだろう。が、ここで重要なのは、ではいったいそれは、どこに向いている、どこに向けられているのか、ということだ。作中で実名を挙げられ、ともすれば批判の対象となっている人びとだろうか。いいや、それも含むだろうが、正確には違う。ならば誰か。『SIGHT』VOL.33掲載の「東浩紀ジャーナル」で、東は、宇野常寛が『SFマガジン』に連載している評論「ゼロ年代の想像力」に対するネット上の賛否両論を例に、〈現在のサブカル論壇は、このていどの抽象的な議論が現れ、そしてそれが瞬時にネットで反応を引き起こすぐらいには成熟している〉といい、さらには〈伝統的な「文芸批評」とサブカル批評の関係は、読者数だけではなく、いまや質的にも逆転しつつある。サブカルそのものにも興味がない読者も、日本の言論の未来に関心があるのであれば、サブカル論壇の存在はもはや無視できないだろう〉と述べる。たぶん、そのような日本の成熟したサブカル論壇に興味を持つ人びとこそが、『キャラクターズ』という作品を成立させるにあたって、書き手=プレイヤー、語り手=キャラクターのほかに、いうなれば直截のオーディエンスであるような読み手として想定され、必要とされており、このことが、たとえば小説のラスト間際における〈この光景の意味が伝わった人は、友人に話し、あるいはブログを書く。そのブログを読んだ人が意味を解釈し、言葉を発し、さらに読んだ人が解釈して言葉を発する。ぼくたちがやるべきだったのは、新しい言葉がはじまるきっかけをつくることだったのだろう〉云々の独白を導いている。
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2007年09月09日
 堕ちた天使と金色の悪魔 (講談社ノベルス ウF- 16)

 活字にかぎらず、物語を扱う他の分野全般を見渡しても、浦賀和宏ほどカッティング・エッジな人物はそうはいないのではないか、と思うぐらい、異様な境地に達しつつある「松浦純菜&八木剛士」シリーズであるが、その新作『堕ちた天使と金色の悪魔』も、やはり、すごいことになっている。だいたい、作者本人が『さよなら純菜 そして、不死の怪物』以降の〈八木剛士は無敵の喧嘩殺法『ヤギ・カタ』を習得し、悪の組織MCAと壮絶な死闘を繰り広げていきます〉と冗談めいたことを述べている(『メフィスト』5月号)のだけれども、案外そのとおりの話にもかかわらず、ぜんぜん印象が違うから、じつに困るよ。それにしても、ほんとうに八木剛士は、こちらの期待を裏切らない男だな。『堕ちた天使と金色の悪魔』は前半、ヒロイン松浦純菜の視点であった前エピソード『世界でいちばん醜い子供』の裏面とでもいうべき具合に、進んでゆく。あそこで、ほとんど出番がなく、純菜のピンチにかっこうよく駆けつけた剛士が、じつはそのころ何をしていたのかが語られるわけだが、皆から怖れられる悪魔として覚醒したあとも、あいかわらずのルサンチマンを胸いっぱいに、学校へ行く唯一の楽しみといえば、コンピュータ室でインターネットを使い、お気に入りの外国人ポルノ女優の無修正画像などを集めることだったりする。〈おお、できた、できた。A4のコピー用紙いっぱいに、プッシーまで鮮明なモニカ・スウィートハートのお姿がプリントされて出てくる。それを皺が寄ったりしないようにクリアファイルに挟む。そしてバッグにしまう前に、もう一度マジマジと見つめる。この太股を舌でペロペロと舐め回せるのなら、仮に寿命が十年縮まったとしても構うもんか〉と、すばらしくすばらしい変態ぶりは健在である。まあ、当人に自覚はないとはいえ、いちおうは世界の創世と破滅に関わる(らしい)重要人物なのだから、もうちょい自重していただきたい。また、熱心なガンダム・オタクである彼が、右翼の教師に影響されるくだりは、もしかしたら今日におけるポリティカル・フィクション的な想像力に対する当て擦りになるのだろう、か。大層なイデオロギーですらも、しかし結局のところ、欲望や嫉妬には負ける。そして、ついに剛士はあれがあれでああなって、シリーズのレギュラーをつとめる南部までもがあんなことになってしまうだなんて、いやあ、ここまできてもまだ、まったく先が読めない展開が続き、目が丸くなる。

 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

 「リゲル」について→こちら
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2007年09月08日
 刀語 第9話 (9) (講談社BOX)

 「しかし、どうしたものかな。なんっつーか、久し振りに真っ当な刀集めって感じになったじゃねえか。ここんところ、変則的なやり方が続いていたからな――」「まあ、ここ三ヶ月はそうだったな」。四季崎記紀が残した完成形変体刀も残るは四本、奇策士とがめと虚刀流七代目当主鑢七花は、数少ない手がかりを頼りに、出羽の天童へと向かう。そこで出会った王刀『鋸』の持ち主、汽口慚愧は、これまでのどの相手と比べても、度を越えるほどに正攻法な剣士であった。本質が違う。そのことが逆に、とがめと七花を戸惑わせる。他方、真庭鳳凰暗殺のために動く左右田右衛門左衛門は、真庭鴛鴦との戦いにおいて、否定姫から借り受けた二丁で一対の刀、炎刀『銃』を、その手に握る。以上が、西尾維新の大河ノベル 第九話 王刀・鋸』の、おおまかな内容で、今回、読みながら気づいたのは、この物語における登場人物のほとんどが、大局から見れば、消え去るか、忘れ去られる立場にある、ということだった。たとえば、汽口慚愧が受け継ぐ心王一鞘流も〈いまや門下生もおらず、跡取りもいない――そんな立場へと追いやられ〉ているように、である。むろん、出自だけを考えれば、とがめや七花の立場もそう変わらぬものであるし、彼らがこれまでに相対してきた人びとの立場がそうであったとおり、おそらくは今後に彼らが相対することになるであろう人びと、それこそ右衛門左衛門の素性や立場なんかも似たふうなものだといえる。かつては脅威的であった真庭忍軍でさえも、話が進むにつれ、〈今や十二頭領のうち三人を残すのみとなっ〉てしまい、その立場を危うくしている。言ってしまえば、彼らはみな一様に、あらかじめ、歴史の流れのなかで、あるいは天下泰平の世において、不要とされざるをえない宿命を背負っており、その結果、まるで完成形変体刀が呼び水となり、互いに互いを削り合い、消耗していっている、というわけだ。こうした状況下を、当事者の一組であるとがめと七花は、いかにしてくぐり抜け、どこへ向かってゆくのかが、たぶん、これから先の要点となってくるのだろう。

 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 「零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]」について→こちら
 「零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年09月06日
 サクリファイス

 驚く。近藤史恵の『サクリファイス』は、読みはじめこそ、ああやっぱり当世流行のスポーツを題材にした青春小説の類みたいだね、と思うのだけれども、ぜんぜん違う。いや、たしかに体裁としては、挫折と栄光を通して、一個の人間の成長を捉まえているふうなのだが、中盤の「インターバル」を経て、物語が佳境に入り、とくに「惨劇」が起こって以降、すべての伏線は、あるいは伏線とすら感じさせなかった数々は、こちらが予想だにしなかった真相を描き出す。登場人物たちの印象が、がらり、と変わる。そして、その驚きが、胸のなかでちくちくとするような痛みを、連れてくるのである。語り手の〈ぼく〉こと白石誓が〈陸上で推薦が決まっていた大学を蹴って、周囲を驚かせ、自転車部の強い大学に入った〉のは、その世界でならば、競技的な勝敗とはべつのレベルで、なにか自分を満たす喜びが得られるのではないか、と思ったからだった。そのため、〈大学を卒業すると同時に、スカウトされてチーム・オッジへと加わっ〉ってからは、仲間の優れた選手のワキでアシストに徹することを厭わず、むしろ、それが自分の役割だと感じてさえいる。その彼が、じょじょにレーサーとしての頭角を現し、好むと好まざるにかかわらず、周囲の人間に波紋を投げかけてしまうことで、話の流れはつくられてゆく。ウェットな過去の反動であるかのように即物的な語り口は、展開がはやく戦略的なロードレースの描写に適している以上に、作中に散らばる不安要素の、何がどれよりもどこでどう重要なのかを巧みに攪乱し、題に課せられた『サクリファイス』というテーマの意味合いを、二重三重に膨らませる。
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2007年09月04日
 インシテミル

 米澤穂信の『インシテミル』には、とてもキャッチー、との印象を持つ。なるほど、これならば、内容とマッチしているのかいまいちわからない西島大介のイラストが表紙につくこともありうるだろうし、帯にある「見つかった。何が? 私たちのミステリー、私たちの時代が」という気恥ずかしいコピーも多少は顔を赤らめずに済む、かな。とある〈実験〉のために、12人のモニターが〈暗鬼館〉と呼ばれる施設に集められる。互いに互いの素性を知らぬモニターたちはそれぞれ、破格的に給与の良い、もちろん、それなりのリスクはあるだろうとの前提は折り込み済みの、短期アルバイトのつもりで参加するのだったが、しかし七日間に渡る〈実験〉の最中、事態は、けして楽観視できない方向へと転がってゆく。こうして、ミステリ的なガジェットを用いた閉鎖空間のなかで、限定条件下におけるサヴァイバルがはじまるわけだけれども、作中で解説されているとおり、そのような生き残り戦が、あくまでも知力的な解決ないし心理的な戦略によって行われなければならない、というあたり、じつに今日ふうな設定だといえる(これを「ゼロ年代の想像力」と言い換えることも、おそらくは可能だろう)。また、要所要所の展開を見るかぎり、そうしたつくりは、作者の自覚的かつ意識的な手つきによって為されていることはあきらかで、ここのところの巧さを指して、思わずキャッチーと述べたくなる次第なのであった。が、しかし、キャッチーであることが、この小説の第一義ではない、と思う。たぶん『インシテミル』は、『ユリイカ』4月号(特集・米澤穂信)における笠井潔との対談で話された内容の、その直截的な延長線上にある。米澤は、そこで過去作『夏季限定トロピカルパフェ事件』が、多くの若い層に受け入れられたことに対して、次のように述べている。〈これについて面白いことを言ってくれた方がいます。この小説をロジカルな本格ミステリとして読んで面白いと思う層はたぶんあまり多くはない。ではどこを面白いと思って読んでいるかというと、最終章で主人公と黒幕とが丁々発止のやりとりをするんですが、それをあたかも少年マンガのバトル物のように楽しんでいるのだと言うんです。考えてみれば、名探偵がいて犯人がいて、彼らが孤島なり密室といったバトルフィールドで推理力を用いてバトルをするという構造が読者にとって大事なのであって、そのとき論理的な解決であるかどうかといったことは重視されていないんじゃないかと〉。さらに、ミステリという構造を使った表現が、いま現在、どう受容されているかの変化について〈もともとミステリは作者と読者の対戦型ゲームであった。しかも圧倒的に作者の側が勝率が高い、読者も自分が勝ってしまっては面白くない、プレイヤーの一方が負け続けることを楽しむという特異なゲームだったと思っています。ですが、名探偵が謎を解いていく過程を見て楽しんで、自分自身はゲームに参加しないというように読者の読み方が変わってきているように感じています。たとえば、スポーツ物なんかにしても、主人公が何位になるかということは作者が決めていることで、主人公が頑張ったからということはないわけです(笑)。プロットに従って勝ったり負けたりするんですけど、それと同じような感じでミステリがいま読まれているんだとしたら、作者と読者が対戦というかたちで共有している一つのゲームであるという概念は疾うの昔に途切れてしまっているのかなと思います。ただ、その面白味そのものがなくなったわけではないと思うので、書く価値は充分あると思うんですけど〉といっている。こうした認識の先に、『インシテミル』があることは、推理合戦の手法に則りつつ、犯人は誰かといった問答よりも、誰をどう追い落とすかの、きわめてバトル形式に近しい趣向をとっていることから、ほぼ疑いようがない。また作中人物たちの個人的な資質に関しても、笠井との対談で、米澤が、自作に一貫したテーマだといっている〈全能感と裏返しの無力感〉が、さまざまなヴァリエーションで付与されている点にも注意されたい。ある意味で、それが、バトルにさいしての必要な素養であると同時に、作中人物たちの生死を分かち、プロローグとエピローグのあいだにあるコントラストに繋がっているのだし、〈全能感と裏返しの無力感〉を、できうるかぎり客観化しようとする人間が、ほとんど主人公ととれる立場に配せられているのも、そこからくる必然に他ならない。

 『ボトルネック』について→こちら
 『夏期限定トロピカルパフェ事件』について→こちら
 『犬はどこだ』について→こちら
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2007年09月02日
 本題とは直截関係のない話だけれども、『ROCK JET』VOL.29(ニルヴァーナ特集号)に、なぜか(ということもないが)掲載されている角田光代のインタビューのなかの〈小説と音楽って、凄く相性が悪いと思っているんです。小説家には当然ロックが好きな人がたくさんいて、多くの人が実際に音楽を小説に取り入れていると思います。でも、私はすごく難しいことだと思うんです。小説に音楽を持ち込むと、絶対に小説は敗北すると思うんです。音楽を持ち込むこと自体が敗北宣言だと思っています。でも、それでも音楽をなんらかの形で小説に登場させるというのならば、小説は音楽に勝たないまでも、なんとか肩を並べなければならないでしょう。その時に小説に合う音楽と合わない音楽があることが重要になってくるんです。で、ニルヴァーナは合うんです〉という発言が印象的であった。それから角田は、小説を書きはじめたばかりの〈ちょうどその頃にロックをたくさん聴いていたので、最初の頃は音楽が好きだ! と思う気持ちを小説に入れることがカッコいいと思っていたんです。このロックが好きだ! という気持ちを何とか伝えたい、そして、小説に書けば伝わる、と思っていました。でも先ほども話したとおり、小説は音楽に負けてしまうんですね。でもその当時は気がついていないので、恥ずかしげもなくロックが登場する小説を書いていました。「ロック母」は、なぜニルヴァーナなのか、ということがちゃんとあって書いていますから。計算した上で書いています。若い頃はそういうことが出来なくて、カッコいいと思う音楽があれば、主人公がそれを聴いていることにして、すぐに小説に登場させていました〉といっている。これはもちろん技術と深く関わる話題であり、そして、かつてはいち若手女性作家に過ぎなかった彼女と、現在の彼女との、本質的な差異を捉まえているように思う。

 さて。書き下ろしである新作『予定日はジミー・ペイジ』の、その題にあるジミー・ペイジとは、言うまでもなく、あのレッド・ツェッペリンのギター、ジミー・ペイジのことなわけだが、しかしこれは、べつにロック小説というのではない。作品の比重は、むしろ「予定日」のほうにかかっており、要するに、出産小説とでもいうべき内容になっている。自分の妊娠を知った主人公の〈私〉が有名人の誕生日を一覧にした本を手に、〈白髪の医者が言っていた予定日のページを開く。その日に生まれた人の一覧がのっている。ふむふむ、ジミー・ペイジ。いいじゃないか。ボーヴォワール、宗兄弟、ジェーン・バエズ、いいじゃないの〉というわけだ。そうして出産までの日々を、ほぼ時系列で追ってゆく。〈私〉の置かれている環境は、けして特殊なものではなく、世間一般からすれば、平準的なものだといえる。結婚した夫との自然な営みのなかで、妊娠し、ごくふつうに周囲からは祝福される。だが、その平凡さこそが、作品の基調を為し、作中人物たちの息づかいをつくりあげる。ドラマティックとまではいかないまでも、当然、妊婦である〈私〉は不安になったり、恐慌をきたしたりする。これを、「あとがき」にあるとおり出産経験のない作者が、いかにフィクションに定着させていくのかが、ひとつの勘所であると思う。物語としてみた場合、いちおうは亡くなった父への嫌悪というのが、伏線としてあるのだけれども、それより、夢のなかや回想の出来事を含め、とっ散らかって曖昧な心理のほうから、〈私〉という個人の姿形が、よく伝わってくる。

 
・その他角田光代の作品に関して
 『ロック母』について→こちら
 『夜をゆく飛行機』について→こちら
 『ドラママチ』について→こちら
 『おやすみ、こわい夢を見ないように』については→こちら
 『ぼくとネモ号と彼女たち』については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2007年08月24日
 メフィスト 2007年 09月号 [雑誌]

 『メフィスト』9月号掲載。北山猛邦の『恋煩い』は、都市伝説をモチーフとした短編小説である。〈たった一学年違うだけで、私と彼の距離は気が遠くなるほど離れているように思えた。それは向かい合ったホームに立つわたしたちの距離に似ている。こうして手が届きそうな場所に彼の姿を見ることができていたとしても、実際に触れようと思えばぐるっと遠回りして、長い距離を歩かなければならない。一見して近い星と星が、何万光年も離れているようなものだ〉。密かに思いを抱く同じ高校の先輩に、長いあいだ気持ちを伝えることができずにいたアキは、あるとき親友のトーコから、両想いになるおまじないを聞き、半信半疑のまま、実行する。と、はたして効き目があったのか、その直後、憧れの先輩である海野と知り合う幸運に恵まれるのだった。アキの男友だちであるシュンは、海野のことを良く言わないが、しかし、それには耳を貸さず、彼女は、だんだんと恋の成就にまつわる噂話に、はまっていく。そうして訪れる苦々しい結末を含め、青春ミステリの小品として、なかなかに据わり良く、まとまっていると思う。作品の肝要は、やはり、片想いの悩みを描いている点にある。くわしくは述べないけれども、これはなにもアキに限った話ではない。恋は盲目というほどに一途なエモーションは、たいてい、自分がまっすぐに歩いているつもりでも、他人から見れば、間違っているような道順をとらせてしまう。客観的には論理的ではないことも、主観的には筋が通っているということもありうるわけで、たとえば先に引いた箇所の〈一見して近い星と星が、何万光年も離れているようなものだ〉という部分が、大げさな誇張ではなくて、切実な問題として感じられてしまうのも、この場合であり、それを、純粋とするか、歪みとするか、の線引きはきわどく、こうした予断が、物語のなかでトリックを為し、いかにも痛切なラストの一言を導く。

 『妖精の学校』について→こちら
 『少年検閲官』について→こちら
 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
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2007年08月20日
 悲望

 そもそもは『文學界』に発表された小谷野敦の小説二篇、「悲望」と「なんとなく、リベラル」が、なぜか幻冬舎から一冊にまとまって出た(これを『文學界』に連載されていたエッセイ「上機嫌な私」が終了した件と結びつけるのは、やや邪推が過ぎるか)。なので、あらためて読み直した次第なのだけれども、意外といっては何だが、先のときよりもおかしみを強く感じられたのは、話の筋自体はすでに知っているから、ちょっとした言葉の置き方などに、いや、まあ語り手の口調が(あくまでも今日からすれば)硬いため、いっけんそうとは見えないとしても、作者のユーモアが顕著に察せられたためだ。ユーモアというのが当てはまらなければ、作者による主体の意識的な対象化と言い換えてもいい。たとえ実体験が先にあるとしても、対象化という操作を経ているがゆえに、「悲望」においても「なんとなく、リベラル」においても、主人公の様は、哀れみを誘うと同時に、滑稽さをまとっており、そこがまたエモーショナルなのである。もちろん、この判断は、読み手各人の評価によって異なるに違いない。個人的には、さっきからいっているとおり、両作品とも好意的に読むのだけど、一般的に否定の意見も少なくはなく、それに対しては作者自身が本書の「あとがき」にて答えており、〈私は、道徳批評がいけないと言っているのではない。彼らの批評の基準が分からないのである〉とあるのは、つまり、技術的な面で批判されるのはいっこうに構わないが、そうではなくて、根拠が不明な道徳観で内容を測られては堪らない、ということであろう。じじつ小谷野はかつて、宮部みゆきの小説『火車』を高く評価しつつ、しかしながら一点だけ疵がある、と作中における倫理の曖昧さを指摘するにさいして、その根拠を十分に述べている(と思う)。ところで「あとがき」でも触れられている「リアリズムの擁護――私小説、モデル小説」(『小説トリッパー』07年春号掲載)のなかで、小谷野は、自然主義と私小説は区別されるべきなのではないか、との疑問を呈したうえで、〈広い意味でのリアリズムで小説を書こうとすれば、無から作り上げ、私小説やモデル小説を避けるというのは難しい〉とし、〈同時代の社会の一断面を、通俗にならずに描くためには、何かしらかの「タネ」が必要なのである〉といっていて、これは「悲望」や「なんとなく、リベラル」のリアリティがどこからやって来ているのかを告げている、のに等しい。では弱さはどこにあるか。それはやはり、過去の出来事に題材を求めている以上、語りの時制もまた過去に止まってしまっている点ではなかろうか。当人が私小説的だと認める「悲望」はもとより、主人公を女性にし、「NOTES」の存在を置くなど趣向の凝らされた「なんとなく、リベラル」にしたって、〈その当時〉や〈その頃〉といった時代背景を免れていない。とはいえ、純文学を志す新人作家の一作目や二作目なんてのは、ほとんどみなそうで、だから、それ以降の作品でこそ、真価が問われることになるというのは、大昔に村上龍が『海の向こうで戦争が始まる』の「あとがき」で書いているとおりである。

 「なんとなく、リベラル」について→こちら
 「悲望」について→こちら

・その他小谷野敦に関する文章
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2007年08月16日
 メフィスト 2007年 09月号 [雑誌]

 『メフィスト』9月号掲載。西尾維新の『零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]』は、文字どおり『零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]』の直截的な続編だけれども、舞台はその五年前、のちに『大戦争』と一部の人間から呼ばれることになる出来事を背景としており、総じてロリコンの気がある零崎一賊にあって、いや、もしもそれが後天的なものならば、なぜ零崎曲識が「少女以外は殺さない」がゆえに『少女趣味(ボトルキープ)』の二つ名を戴くことになったのか、が明かされる。ちなみに、ここで行われている『大戦争』とは、「戯言シリーズ」との関連でいうと、あの〈狐と鷹の親子喧嘩〉のことを指し、当時はまだ無名であった哀川潤が、重要な役回りとして作中に登場しているのだが、そうした予備知識を差し引いたところで、これはもう単純に、燃えた。というのも、設定の部分はともかくとすれば、すれっからしのネガティヴ・パーソンである主人公が、やたら鼻っ柱のつよい少女と出会い、ともに死闘をくぐり抜けることになった結果、お互いがお互いに影響を与え、いちおうはハッピー・エンドに終わる、そういったシンプルなストーリーのなかで、アフォリズムめいてはいるけど、含みがすくないぶんだけ響きの良い言葉群が、いちいち決まっているためである。その点も含め、こちらの勝手なイメージからすると、他の諸作品と比べても、じつにこの作者らしい作品だといえる。

 『零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]』について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
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 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
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 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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 メフィスト 2007年 05月号 [雑誌]

 『メフィスト』5月号掲載(最新号のいっこ前のやつね)。一部登場人物が重複し、世界観が共通しているという以上に、「戯言シリーズ」を読んでいないと理解しづらい箇所が多すぎるので、その番外編というか外伝的な位置づけからはどうしても逃れられない西尾維新の「人間シリーズ」であるが、その第三弾にあたる『零崎曲識の人間人間[ランドセルランドの戦い]』は、さらにその「人間シリーズ」前二作を踏まえていないと、細かいところばかりか大筋すらも把握し難い部分があるという意味で、これはもう、単体としての評価はとても厳しい、要するに、かなり間口の狭い小説だといえるわけだが、まあ、正しいファン・サービスの在り方とは、そんなものなのかもしれない。じっさい、上記の条件を満たしている読み手ならば、正直なところ『刀語』あたりよりも、魅力的な内容に感じられることであろう。〈五年前の『大戦争』と比して双識はこの一連の出来事を『小さな戦争』と呼んでいる――しかしこの『小さな戦争』、前提からして奇妙なのだ。恐怖と恐慌を売りにした零崎一賊を、零崎一賊と知りながら狙ってくる者などそうはいるはずがない――それは本来ありえてはならないことなのだから〉と、そこでいわれている一連の出来事っていうのが、『零崎軋識の人間ノック』に収められたエピソードに他ならない。つまり、時系列でいうと、『零崎軋識の人間ノック』のちょうど続編であると同時に、「戯言シリーズ」の前日譚的な意味合いを含んでいて、ちなみに〈五年前の『大戦争』〉の一端は、続く『零崎曲識の人間人間2[ロイヤルロイヤリティーホテルの音階]』(『メフィスト』9月号掲載)で語られることになる。題にあるとおり、ここでの主役は『少女趣味(ボトルキープ)』の零崎曲識で、ランドセルランドなる家族向けのテーマパークを舞台に、まさしく彼の零崎一賊に対する家族愛が披露されるというものだけれども、しかしファンにはお馴染みの零崎双識・萩原子荻カップル(?)と零崎人識・匂宮出夢のカップル(?)が、わりあい美味しいところを持っていっている。と、すこしばかり真剣なことをいうのであれば、正体不明で不条理な敵を平然と迎え撃つ零崎一賊の倫理というのは意外と、97年に行われた吉本隆明と大塚英志の対談「エヴァンゲリオン・アンバウンド」(『だいたいで、いいじゃない。』)で述べられていることのうちに、すっぽり収まってしまうのではないか、という気がした。

・その他西尾維新に関する文章
 『刀語 第八話 微刀・釵』について→こちら
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 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
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 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年08月15日
 『群像』9月号掲載。津村記久子の『カソウスキの行方』だけれども、さて、カソウスキとは何かといえば、仮想好き、だということである。作中では以下のように説明されている。〈仕方なく、自分自身とのネゴシエイションに入る。どうだHDの空き領域を仮想メモリにあててPCのパフォーマンスを上げるのは自分次第だぞ、と、会社で死にかけのパソコンを使わされている上で覚えたことになぞらえて考えてみる。生活そのものをハードディスクとし、人生への意欲をメモリとする。生活の空き領域をあてて、人生への意欲を仮想的に満たそう、ということである〉と、つまりは、種々のパフォーマンスが低まった日々の営みのなかに作為的な恋愛感情を走らせることで誤魔化しの手応えを得ようとする、そういう試みのことだ。もちろん、自己の定義をOS機器に置き換える発想は、今日、とりたてて珍しいことではない。凡庸ですらある。が、この小説の実感は、そのような凡庸さをいかに捉まえるかにこそある。有り触れていて、他愛もない、しごくナチュラルな処世術のひとつを扱い、生きづらさを特殊なものとするのではなくて、センセーションとは縁遠い普遍的なものとして見、そのなかに一個の人間を導き出している。そこが良い。主人公のイリエは、あるとき後輩の相談を真に受け、義憤に駆られたせいで、その後輩と不倫関係にある上司から目をつけられることとなり、〈気がついたら郊外の閉鎖対象の倉庫に飛ばされて二つ年下の男の下で雑用をしている。いちおう本社では営業事務の女子の中での主任のような立場であったというのに〉である。彼女にしたら〈大学の新卒でこの機会部品の卸会社に入社してから六年、自分なりに無理してまじめにやって来た〉と思っているだけに、そうした仕打ちに納得がいくはずもなく、しかし易々と会社を辞めるわけにもいかなくて、ひたすら苛立つ気持ちと憂鬱に耐えながら、毎日の業務をこなす。また、あたらしい勤務地には、都心とは違い、帰り道に寄って、憂さを晴らすような場所もない。こうして、二十代後半で働く独身女性のストレスや巨大なショッピングモールに象徴される郊外の風景、等々のいかにもイマドキな題材が序盤に提示されるわけだけれども、作品が、ぐん、とおもしろくなるのは、イリエが、同僚の森川という冴えない人物を、身近にいる唯一の独身男性という理由だけで、とりあえず好きだということにしておく対象に選び、彼のことを観察しはじめてからだ。心なしか、文章の調子も、そのあたりを境に、キレが増してくる。たとえば、森川についてのノートに記録をとりながら、〈もしかしたらわたしがしているのは、好きごっこというより興信所ごっこではないかとたまに思うが、それには気付かないふりをしているイリエだった〉とあるのが、可笑しい。この可笑しさは、言うまでもなく、三人称の語りからやってきている。三人称の語りとは、要するに、作中へと持ち込まれた客観的な視点のことで、それこそ〈好きごっこ〉なぞといえば、関係性やコミュニケーション以前の独我論じみた世界を思わせたりもするけれど、これは自意識を下へ下へと掘りさげていくタイプの小説でもなければ、独りよがりの妄想を過剰にドライヴさせるタイプの小説でもなく、むしろ主人公は、現実の社会で、つねに困った顔をしている。ずうっと怠そうで、眠たそうにしているのも、疲労が抜けず、溜まっているためなのだと考えられる。それでも〈駅前からシャトルバスに乗り、ショッピングモールに夕食の食材を買いに行くことにする。駅前発のバスは、アパートの近所のバス停からよりは比較的一人の客が多く、それほど自分だけが孤独であるようには感じなかった〉というとき、彼女の孤独はけっして特別ではない。しかしだからといって彼女が孤独ではないことを意味しない。劇的に失ったり損なわれたりしなくとも、ただ満たされずにいることをそう呼んで差し支えがないのなら、やはり孤独であるのだろう。にもかかわらず、作中でいわれているとおり、イリエは〈望むことの少ない人間〉である。とくに何が欲しい、という具体的な願望を持たない。その彼女がカソウスキによって得たものがあるとすれば、それはきっと、やさしい憐憫なのではないか、と、ラストにおけるメールの送受信に思う。

 『冷たい十字路』について→こちら
 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2007年08月08日
 刀語 第8話 (8) (講談社BOX)

 伝説の刀鍛冶・四季崎記紀の手による完成形十二本のうち七本までを集め、着実に旅の目的を果たしつつある奇策士とがめと鑢七花は、いったん尾張へと戻り、不本意ながらも、とがめの天敵である尾張幕府家鳴将軍家直轄内部観察所総監督・否定姫からの情報を得て、四季崎記紀の工房があったとされる江戸の不要湖へと向かう。そこで彼らが相対することとなったのは、〈人ならぬ機械仕掛けのからくり剣士〉日和号であった。以上が、西尾維新の大河述べる『刀語 第八話 微刀・釵(かんざし)』の概要だといえるのだが、作者が「あとがき(アトガタリ)」のなかで、〈全体が十二巻ですから、この八巻の終わりをもってまさしく中盤終了、物語は終盤へと移行するわけなのですが〉と述べているように、いよいよ全体的な締めくくりが近づきつつあるわけだけれども、おそらくは終盤のキーパーソンになるのだろう否定姫と、その補佐である左右田右衛門左衛門の存在感が、ここで、ぐっと増しており、前話で退場した七実にとってかわるほどの、つよいフックとなりえている。そうして、いささか図式的に見るのであれば、否定姫と右衛門左衛門の繋がりは、とがめと七花におけるそれのオルタナティヴだと考えられ、やはり、何かしらかの欠損を抱える者同士がお互いを補完し合う関係なのではないか、と、ふたりのやりとりからは推測できなくもないし、作中で七花が右衛門左衛門に対して覚える〈刀としてではなく / 人として〉共感などは、この場合、いかにも暗示的である。また、七花における、そのような〈刀としてではなく / 人として〉の在り方は、かつては機械人形のようであった彼と、まさしく機械人形でしかない日和号との対決によって、印象づけられている。

 『刀語 第七話 悪刀・鐚』について→こちら
 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 
・その他西尾維新に関する文章
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年08月05日
 虐殺器官

 円城塔の『Self-Reference ENGINE』には、自分にSF読みの資質が備わっていないことを痛感させられるばかりであったのに、同じく第7回小松左京賞最終候補になりながらも受賞を逃した経緯を持つ、伊藤計劃(けいかく)の『虐殺器官』に関しては、やたらエキサイトしたわけだが、いや、それは何も、どちらのほうが優れているということではなくて、(作品の、そして、こちらの)趣味や指向性に還元される問題に他ならないのだけれども、じつは読み比べつつ、両者における違いとは、結局のところ、村上春樹と村上龍の差異のようなものなのだろうな、と思ったのだった。いや、べつに、両村上のどちらかの影響下にそれぞれの作家がある、ということでは、ない。この点をどう説明したらいいか、考えていたとき、あ、とヒントになったのは、つい最近になって講談社から新創刊された文芸誌『FICTION ZERO』に収められている、東浩紀と桜坂洋、仲俣暁生の鼎談「探求「話法」のゼロ地点」である。そのなかで東は、大雑把に抜き出せばだが、村上春樹の小説は〈寓話でしょう。寓話って構造しかない物語なので、何の現実に依拠しているかは関係ないわけです。春樹はもともと「構造しかない小説」と昔から揶揄されているわけですが、でもそれは圧倒的に強い〉のに対して、〈それに比べれば村上龍はリアリティに素朴に拘っている。龍と春樹は、そういう意味では対照的ですね〉と、村上春樹に好意的な意見を、述べている。そこで「リアリティ」として指されているものを、言い換えるのであれば、おそらく「(風俗的な)情報(量)」ということになるだろう。つまり、村上春樹に顕著なのは「構造」であり、村上龍に顕著なのは「情報」であるように、円城の作品に強調されているのは「構造」であり、伊藤の作品に強調されているのは「情報」であるように思われるのだ。そして、そのことが文体や物語をも左右している。じじつ、伊藤計劃の『虐殺器官』の、その世界観やテーマ、作中人物の言葉を支えているのは、現代的なサブ・カルチャーをベースとする知識そのものだ。そしてそれは、ある場合には、ディテールと呼ばれる。国家規模の監視と暗殺がナチュラルとなり、それによって世界の平和が保持されている、と、ごく当たり前のように受け入れられている近未来、アメリカの情報軍に所属するクラヴィス・シェパード大尉イコール語り手である〈ぼく〉は、〈アフリカで、アジアで、ヨーロッパで、つまり世界のありとあらゆる場所で内戦と民族紛争が立て続けに起こり、そのほとんどで、ある国連決議いわく「看過すべからざる人道に対する罪」、が行われた〉その直截的な原因ともいえる謎の人物ジョン・ポールを追い、いくつもの戦場を駆け回るうちに、古来より人間の脳には「虐殺の器官」なるものが組み込まれており、それを煽動可能な「虐殺の文法」が存在することを知る。〈虐殺の起こった地域では、予兆としてその真相文法が語られる。/ では逆に、争いの予兆のない場所で、その文法で会話する機会が増えたら。/ 人々が虐殺の文法で会話するようになったら、その地域はどうなるだろうか〉。この、凶行とでもいうべき営みを阻止しようとするシェパード大尉の奔走が、基本的なプロットとしてあり、そのなかで、母親の喪失に端を発する〈ぼく〉の心の動きと変化が、ジョン・ポールやその元恋人ルツィアとの関わりをともない、語られる。作品の核を為す「虐殺の器官」ないし「虐殺の文法」というのは、とても作為的なロジックで、にわかには説得されがたいのだが、まさに村上龍の小説がそうであるように、ディテールの積み重ねに拠る強度でもって、物語に没頭させる。とはいえ、ゲームやマンガ、ポップ・ミュージック、それから現代思想にまつわる、いくつかの饒舌さは、あきらかに余剰であり、むしろノイズに感じられた。
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2007年07月13日
 『en-taxi[エンタクシー]』VOL.18に掲載されている「さよならジョリス」は、生田紗代が同誌に発表してきた連作小説の最終回で、「ハビタブル・ゾーン」や「靴の下の墓標」、「アザラシのホーさん」と同じく、高校時代、帰宅部のかわりに『進路研究クラブ』に参加していた男女四人のうちからひとりがピックアップされ、そうした過去といま置かれている現在とが並行して語られる。すなわち、ここでは、これまでのエピソードにおいてタブーのようにワキへと除けられていた伊能明の、一ヶ月にもわたる家出が、8年後の彼の生活を通じ、なぜそうせざるをえなかったのかの理由を含めて、ようやくこちらへと言い渡されているのである。が、聞いてみれば、それは、いかにもといった感じにあしらえた印象がつよく、ことさら強調し、取り上げるべき質のものではないし、語りの基調をなしているのは、自分が自分で自分の感情にのみ左右され完結してしまっている、つまりは幼く、狭い自意識だといえる。しかしながら、そういう、凡庸ですらあるせこい自意識が、どうして、ときに生存をおびやかすほど、深刻な孤独となりうるのか。こうした、ともすれば現代的なテーマともとれる揺らぎを、おそらく作者は、社会学的な知識や情報としてではなく、きわめて直感的に把握し、叙情的に綴ろうとしている。そのことが、小説のつくりにも反映されていて、たとえば作中にある〈歩きながら考えていたのは、多重世界解釈についてだった(略)選択するたびに宇宙が分裂するなら、今この瞬間の自分は、すでに何百回と分裂を繰り返してきた、私という人間のほんの一片に過ぎない〉というくだりは、まさにマルチ・ストーリー形式のゲームを思わせるものであり、今日においては、メタ・フィクションのかたちに定着させられることが多い。だが、この連作を貫いているのは、半径五メートル程度の出来事からリアリティを汲んで創出される「私ないし僕または俺」の目線であり、いうなれば自然主義のそれに近しいものである点に注意されたい。むろん、時系列のシャッフルや主人公の入れ替わり、等の構成から、もしかすると、ほんとうはもうちょいメタ・フィクショナルなものを目指していたのに、作者の力量が及ばなかったせいで、そうならなかったというのは十分に考えられる。じじつ、物語それ自体の強度は、さほど高くはない。けれども、その一方で思い出されるのは、生田が、『新潮』6月号に書いていたエッセイ「本にまつわるあれこれ」の内容と、『すばる』6月号に掲載されている佐藤友哉『1000の小説とバックベアード』にあてた書評である(どちらも先々月号ね)。たぶん、この作家は、孤独を、ネガティヴなものとしてばかりではなく、ポジティヴな意味でも、信じている。そして、孤独をうまく捉まえることが、小説のうちにやさしさとつめたさの両面を導く、と信じている。あまりにもナイーヴすぎるし、まあね、とも思うが、しかし、すくなくともそれを信じさせようとする温度だけは、ここに宿らされている。

 「アザラシのホーさん」について→こちら
 「靴の下の墓標」について→こちら
 「ハビタブル・ゾーン」について→こちら

・その他生田紗代の作品に関する文章
 「浮かぶしるし」について→こちら
 『彼女のみる夢』について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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2007年07月08日
 ロック母

 表題作を含む角田光代の作品集『ロック母』に収められているもののなかで、いちばん最初に触れておきたくなるのは、92年に発表され、およそ十五年ものあいだ、どの単行本にも入ることのなかった「ゆうべの神様」の存在であろう。作者は「あとがき」で〈その理由としては「本にするには値しない」というような認識が、当時の編集者にも私にも、あったから〉で、そしてそれが、作者にとってははじめての芥川賞の候補作になったさい、とある放送局の人間があらすじを『ぐれた娘が家に火を放って逃亡する』とまとめたのを聞いて、〈はあ、間違いはありません、と私は答えたが、心のなかで、「『ぐれた娘が家に火を放って逃亡する』って、なんだそれ。すっごいつまらない小説みたいじゃん」と思った〉という愉快なエピソードに触れ、しかし今から振り返ってみても〈実際、たいへんに拙い小説だと思う〉し、〈編集者も、書き手である自分自身すらもが「単行本の収録に値しない」と切り捨てたのも、さもありなんである〉と述べている。たしかに「ゆうべの神様」は、『ぐれた娘が家に火を放って逃亡する』までの、語り手の心の動きを追った小説にすぎず、とくにすごい、といった印象を残す内容ではないけれども、たぶんだからこそ、そこからは92年という時代の空気がナチュラルに届いてくる。今日においても、若い作家が彼らの等身大に近しい主人公を書くと、何よりもまず時代性と結びつけられ、語られることが多いのと同じく、「ゆうべの神様」もまた、90年代初頭の、もっといえば、まだ80年代が離れずに近く存在している90年代にあってこそ、高く買われる価値を持った作品であったのだ、と思う。それこそ「ゆうべの神様」で、高校生の〈私〉が、閉塞感のなかで無気力とともに育む殺伐としたエモーションは、当時、ありふれているがゆえにリアルな質感を持ったものだったのに違いない。両親の不和や田舎の狭い価値観にフラストレイトし続ける〈私〉は、ついに自分の家に火を放ち、夜の闇を、行くアテもなく、走り出す。もちろん、これは反社会的な人間を描くことを目指しているのではなくて、おそらく、ぎりぎりのセンで「ここではないどこか」が信じられていた時代の感性に、作者の資質が応答し、出てきたものだ。また、こうした家出をする人間というのは、その後の角田の作品に、わりと頻繁に登場する。そしてその多くは、まるで「いま、ここ」の否定をしたいがためだけに、そうしているみたいであり、したがって、どこか望む場所に立てるわけでもない。『ロック母』に入っているそのほかの作品のうち、98年に発表された「緑の鼠の糞」と「爆竹夜」はどちらも、観光を明確な目的とするでもなしに海外(アジア)を、ぶらり、と旅するもので、いや、まあ、詰まらないことをいうようだが、いわゆる「自分探し」の時代と結びつけることも可能なのだけれど、そうしたときに「緑の鼠の糞」のなかにある〈私たちはここを出て、いつか目的地に、あるいは目的地と信じることのできる場所にたどり着き(略)今日のことを思い出すのだろうか〉という一節は、どこか象徴的である。さて。角田の経歴になぞらえていえば、このような特定の世代の個人的なモラトリアムをめぐる諸々は、85年から00年までの十五年間が物語の背景になっているという意味で、まさしく90年代小説以外の何ものでもなく、とてもJ文学的な内容だといえる01年の『あしたはうんと遠くへいこう』へと収斂し、モラトリアムそのものが社会化した時代の風景ともいうべき『エコノミカル・パレス』や『空中庭園』へと発展してゆく。そうしていった先に、「ロック母」という小説が位置しているのは、まちがいない。十八歳のとき、さびれた島、つまりは田舎にある家を出て以来(家出というわけではないのだろうが)十年ものあいだ顧みることのなかった語り手の〈私〉が、出産のため、帰郷する。以上が「ロック母」の大枠であるけれども、ともすればこれは「ゆうべの神様」における『ぐれた娘が家に火を放って逃亡する』というあらすじの反転、要するに、出て行くことと戻って来ることの構図が逆転しているふうに見えなくもなく、90年代の前半頃に、当時の空気の的確な表現であったために若い人びとの支持を得たニルヴァーナのサウンドは、しかし05年の「ロック母」では、もはや特定の世代に固有なものではなくなっている点も、興味深い。

 短篇「ロック母」については→こちら

・その他角田光代の作品に関して
 『夜をゆく飛行機』について→こちら
 『ドラママチ』について→こちら
 『おやすみ、こわい夢を見ないように』については→こちら
 『ぼくとネモ号と彼女たち』については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2007年07月07日
 刀語 第七話 悪刀・鐚 (アクトウ・ビタ) (講談社BOX)

 土佐、鞘走山清涼院護剣寺にて、奇策士とがめと虚刀流七代目当主七花は、もっともおそるべき敵と、相対する。はっきりといって、勝ち目はゼロ、これをいかに打開し、四季崎記紀が残した完成変体刀の、そのうち一本を手に入れるのか。ああ、うんうん。12ヶ月刊行の折り返しを過ぎたところで、ようやっとヤマとなるような、というか、はじめて実の詰まった話が読めたあ、ってな感じの『刀語 第七話 悪刀・鐚(ビタ)』である。正直、このシリーズは前巻まで、西尾維新というブランドに支えられているだけで、中身はけっこうスカスカだよね、といわざるをえなかったわけだけれど、ここでは逆に、そうしたブランドを支えてきたストーリー・テラーの資質とでもいうべきものが、顕著に現れている。まあ、天才性にまつわる悲劇といえば、それはデビュー作『クビキリサイクル』の頃より、作者が好んで扱うテーマのひとつだが、まさに行き過ぎた才能の持ち主の、不幸を思わせる逸脱と達観に似せるしかない絶望が、このくだりにおける語りを、ひときわだったものにしている。じじつ、これまでのような、ページ数の何割かを余裕で割く無駄話は、ほとんど姿を消し、緊張感を漲らせるほど、きわめてシリアスに展開する。あらまし自体は、いつもどおりの、予定調和にすぎないにしても、やはり、この種の話を手がけたなら、すくなからず心動かされるものを出してくるのは、さすが、である。ところで社会学者の鈴木謙介は、『ウェブ社会の思想 〈遍在する私〉をどう生きるか』のなかで、西尾の「戯言シリーズ」を「裏セカイ系」とし、〈君と僕の間だけで完結したセカイから、外側の世界の人びととの関係へ。誰ともかかわらず、あらかじめ定められた世界を生きていくことを断念するということ、いわば「断念を断念する」ということが、『戯言シリーズ』における、「ぼく」の成長の根拠となっている〉と述べている。これはたしかに同書で、鈴木がいう〈宿命と成長という問題〉に沿って、作中の「ぼく」という語り手のみを見た場合には、そのとおりだといえる。だが作品論として十分でないと思えるのは、〈君と僕の間〉における〈君〉の存在、つまり「戯言シリーズ」ならば友(玖渚友)のことを、あくまでも「ぼく」に付随する要素としてしか捉まえていないためである。鈴木は、先に引いた箇所の前で〈物語が進むにつれて、こうした「裏セカイ系」とでも言うべき二人の関係は、少しずつ変化していく。「ぼく」は、物語を通じて様々な人との出会い、別れを経験し、友以外にも大切なものがあることに気付いていく。その変化に気付き、それでも「ぼく」を失いたくない友は、自らも成長することを決意するが、そのことがかえって、友の死期を早めてしまうことになる〉といっているけれども、ここで注目しておきたいのは、やはり天才以外の何者でもない友は、「ぼく」とは違い、あらかじめ〈あらかじめ定められた世界を生きていくことを断念するということ、いわば「断念を断念する」ということ〉すらも断念せざるをえない立場にあることだ。もちろん、『ウェブ社会の思想』における鈴木の議論は、そこから進んでいった先で〈宿命によって世界の運動が停止させられないということは、すなわち人が宿命の中を生きながらも、そこで成長できる〉主体の可能性を模索する、要するに宿命と成長とを対立的に扱わないことに主眼があるのだが、しかし他者との関わりにおいてこそ、宿命と成長の関係が、ときに相対的にならざるをえないことは、留意しておくべき点であろう。ともあれ『刀語 第七話 悪刀・鐚』に話を戻すと、ここに描かれているドラマもまた、宿命と成長の相対性に拠ったものだといえる。鈴木の言葉を借りつつ、結論をいうのであれば、〈あらかじめ定められた世界を生きていくことを断念する〉人物の前に、あらかじめ〈あらかじめ定められた世界を生きていくことを断念するということ〉すらも断念せざるをえない人物は、敗北する。この場合の前者、つまり七花は、それこそ「戯言シリーズ」の「ぼく」が経験するのに近しい成長の、その過程にあるがゆえに勝利を収めるのであり、後者は、自らが天才であるという宿命から逃れられず、あるいは逃れるべく唯一望む手段でもって、死ぬ、のであった。そしてその姿が、あたかもエモーションによるアパシーの超克を示すかのように、すくなくとも今回、西尾の技術は費やされている。

 『刀語 第六話 双刀・鎚』について→こちら
 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 
・その他西尾維新に関する文章
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
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 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
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 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
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2007年07月06日
 エソラ vol.4

 『エソラ』VOL.4掲載。これは理屈抜きで愉しかった。金原ひとみの『夢王』は、とても短い小説だから、何度か繰り返し読んでみたのだけれども、そのつど作中の人物に対して、どうしようもねえなあ、以外の感想が出てこないのが、皮肉でもなんでもなく、ほんとうに好意的な意味で、ひじょうにブリリアントである。むろん、この作者の傾向ともいえるメタ・レベルに位置する語り手がバタイユ的な欲動と戯れながら生=性の向こう側にある狂気やら虚無やらをどうたらこうたらという具合に解釈することも可能だろうが、どうでもいいよ、そんなことは、と一笑に付させるだけの勢いが、何よりも先立っており、それこそがつまり、最大の魅力に他ならない。だいたい、二十代の女性作家であるらしい語り手の〈AVとローターでオナニーをして、ぬいた後ぐっすり眠りについたら、AVを見てオナニーをしようと思うのだけれど色々と邪魔が入ってなかなかぬけない、という夢を見て目覚め、疼いていたからAVの続きを見ながらオナニーをして、終了後また寝付いたら、AVに参加するのだけれども団体ものでなかなか自分の出番がこなくて悶々としている夢を見てまた目覚め、また疼いていたからさっきのAVの続きを見ながらローターでオナニーをして〉という書き出しにおける行為が、その後も、すこしずつずらされながら反復されるうち、妄想と現実とが攪拌され、結局のところ自分で自分がどこに属しているのかも不明瞭な密室のなか、ローターの振動だけが実存を知らしめるように響き渡る、といったふうな内容(いや、ま、ほんとうはもうちょい複雑なんだが)のあとにやってくる印象は、これまでの作品と大差ないのだけれども、コンパクトにまとまっているぶんだけインパクトの強調された過程そのものである語り口が、かつてないほどに効果的で、さながらするどいジャブを思わせる。

 『オートフィクション』について→こちら
 『AMEBIC』について→こちら
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2007年07月04日
 エソラ vol.4

 『エソラ』VOL.4掲載。舞城王太郎の『182(ONE EIGHT TWO)』は、これまでに作者が発表してきた作品とは、やや趣の異なる、たとえば、ひとりの人間ががーって勢いよく喋り、喋ったそばから考え、それが物語になっていくような作品ではなくて、たぶんねえ、そのうち仲俣暁生が吉田修一の『悪人』あたりと結びつけて何か述べそうな、そういう、複数人の置かれた個々の場面を、所有者を持たない視点が観察し、移動し続けることで、まるで神の指がドミノをたおす連鎖反応みたいに、それぞれの相関関係がかたちづくられているわけなのだが、個人的には、伊井直行のいくつかの小説にも似た味わいを、その手つきからは覚えたのは、メタ・フィクションというよりも、マジック・リアリズムに近しい発想を、卑近的な風景に寄り添わせたといった印象だからだろうか。大枠をいえば、調布市内で暮らす人びとが、知らずのうちに接近し、すれ違い、予想だにしなかっただろう巡り合わせをもって、再会する。作中には「調布マグノリア」といったマンションや木蓮が登場するので、映画『マグノリア』からのヒントが、おおもとのアイディアにはあるのかもしれない。そうした過程において、もちろん、この作家の匂いでもある暴力と友愛のアマルガムが発生しているのだが、特定の人物が主人公であったり語り手であったりするのではないため、それこそ「世界」と呼ばれる、つまりは種々の人びとによる総和が、必然的に併せ持つ感情の美醜を、レアな状態で抽出し、対象化すべく、試みられたものにも思える。たださあ、これ、五話の構成で成り立っているのだが、イントロダクションに置かれたマンガの内容から察するに、おそらく、それですべてというわけではないし、じっさい「リアルコーヒー・エンターテインメント」HP内に特設ページがあるので見てね、みたいなアナウンスがなされているのだけれど、もうほんとうにそういう余計なファクターは要らないので、一個の長篇を書きはじめたなら、ちゃんと最後まで終わらせてから、あたらしいことを進めていただきたい。ずっと以前からの奈津川サーガもそうだし、そのあとの『ディスコ探偵水曜日』もそうだし、このあいだの『メフィスト』に掲載された『東京戦争』もそうだし、未完結のシリーズ(今のところ畳まれていない大風呂敷ともいう)が増えるばかりでも、困るよ。

・その他舞城王太郎に関する文章
 「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」について→こちら
 「ディスコ探偵水曜日」
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈最終回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
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2007年07月03日
 ミサイルマン―平山夢明短編集

 『独白するユニバーサル横メルカトル』の、ひどく嫌な質感がまだ記憶に生々しい平山夢明のあたらしい短編集『ミサイルマン』なのだけれども、アタマに収められた「テロルの創世」には、良い意味で裏切られ、驚かされたな。もともとの発表先が徳間デュアル文庫のアンソロジーであることが関係しているのか、そこかしこに残酷な描写はあるものの、極端な出生率の低下やクローン技術によるオリジナルとコピーの相克、平和な時代に偽装された終末などのSF的な設定を贅沢に用いながら、とても良質なジュヴナイルにまとめ上げている。物語の続きを夢想させるほどにハッタリのきいたラストも決まっており、オーソドックスといえばいえなくもないつくりなのだが、そのめざましさに、作者の根本的な力量を感じさせるのは、東方の三博士を直截的なモチーフとする長篇『メルキオールの惨劇』に通じるところである。とはいえ、まあ「テロルの創世」は、この作品集のなかにあってどちらかというとイレギュラーな内容になるんじゃないかな、ということは、やはり生理的に、ぐう、と音をあげざるをえないグロテスクさ満載の、その他六篇によって実感される。つい最近に出た吉野朔実の『本を読む兄、読まぬ兄』における対談で、平山は、チャールズ・ブコウスキーやジョー・ランズデールのような口汚い人間の出てくる小説を好む旨を述べているけれど、なるほど、そうした趣味というか指向は、ここに収められたうちでは比較的に新しめの小説(どちらも06年発表)である「Necksuker Blues」や「それでもおまえは俺のハニー」の、その、砕けた語り口に反映されている、と思われ、おそらく今後はこうした方向性を強めていくのであろう、との予感を抱かせなくもないが、個人的には、「枷(コード)」や「ある彼岸の接近」などの、淡々とした筆致のなかで、オカルトめいた事象が現実的な底無しの不安へと直結する、そういう作品のほうに惹かれるものが多い。

 『独白するユニバーサル横メルカトル』について→こちら
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2007年07月02日
 福田和也が、「わが戦前――平成年間の感情、思想、文芸――」の第十回(『新潮』6月号掲載)で、保坂和志の『記憶の季節』における〈子供は社会からおりた、つまりは競争や精勤をよぎなくされる生活から距離をおいた(略)大人たちの自己肯定の道具である〉と同時に、〈語り手の認識を構成するレンズのような存在なのだ〉というふうに述べている。要するに〈子供は、語り手とその友人たちの生活や価値観を正当化すると同時に、語り手の意識を画定している〉のである。しかし、では〈その子供が小説にとって、語り手にとって都合がよいというのは、どういう事態だろうか〉と福田は続けていき、〈それは、端的にいえば、小説のなかに他者がいないということだろう。語り手にとって、操作しえない人物や状況がないということだろう。語り手の意識が、そのすべてを覆っていて、裂け目のない、心地よい世界が作られている。その完結性によって完全な安楽さが読者に提供されるということである〉としたうえで、また〈舞城王太郎氏と佐藤友哉氏の小説も、都合のよさに溢れている、といっていいかもしれない〉というのは、つまり舞城ならば〈現実にたいして、外敵にたいして、まったく無力であるという自己認識を導くために、都合のよすぎる状況やプロットが用いられる〉からであり、佐藤の場合は〈子供でありつづけようとすることを正当化するためだけに、小説中の出会いや事件が構成されている〉からなのだが、〈保坂氏のつくりだした世界と、舞城、佐藤両氏の作品が本質的に異なるのは、子供はある種の手段でもなければ、工夫や趣向でもなく、一つの宿命として捉えられている〉のであって、〈社会というもの、そこで人が成長し、自己実現したり、自己をなくしたりする世間というものは、たしかに存在しているらしい、だが、そこから自分たちは、決定的に閉め出されているという認識が、彼らの作品の語り手を子供にしている〉のだとすれば、〈その点において、子供であるという認識を把持するときに、彼らは確実に、他者と直面している。自分たちに門を閉ざし、自分たちを拒む世界の臨在をみすえているのだ〉という意味で、〈彼らにとって社会というのは、おりたり、逃げたりできるものではないということだろう〉といっている。これは、そもそも島田雅彦の小説を褒めるための枕であるような文章だから、という前提を踏まえたうえで、それでも一応の言いを認めざるをえないのは、大人がかならずしも大人である必要のないのが、この国の現在だとしても、子供たちは、大人が自分の立場を任意でおりられる(引き受けない)のと同じようには、自分が子供であることの立場をおりられるわけではない(引き受けざるをえない)、そういう現実の一端が、とある小説群のうちに、本質と分かちがたく、結びつき、現れているのではないか、という指摘を、こうした年輩の作家と若輩の作家の対照をもって、なしているとも思えるからである。ところで舞城王太郎が、『スクールアタック・シンドローム』(文庫)に書き下ろしている短篇「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」に出てくるのはみな、子供と覚しき人物ばかりだといえよう。いやたしかに、成人した人間も登場するにはするが、それらはたんに親や教師というカテゴリーに属しているにすぎず、態度や行動は、まったくもって子供じみている。もちろん、今どき一個の人間の何を見て大人ととるか、は判断の難しいところであるけれど、すくなくとも彼らが、語り手である高校生から見て、納得がいくぐらいに成熟した人間であったならば、ここに描かれている悲劇は起こらなかったであろう。どうして亡父はそんな暗示的な名をつけたのか、杣里亜(ソマリア)という諍いを引き寄せてしまう少女は、家庭では、母親の弟に過渡に変態めいて性的な虐待を受け、母親はそれに構わず、学校では、完全に孤立し、挙げ句、同級生に暴力をふるわれ、死んでしまう。彼女の首を折って殺したのは〈俺〉の恋人である智春だった。しかし智春は「誰にも知られてない厚みなんて、意味なくない?人が生きる意義なんて、周りの他の人に何を与えられるかだけなのに、あの子全然何にも与えずに、別に取ってもいかずに、ただ何となく流れで死んじゃってない?」と悪びれた様子もない。ここから物語は、この作者おなじみの、メタ・フィクショナルでウルトラ・ヴァイオレンスな方向に発展していくのだが、基本的には、無力な子供たちの甘やかな青春の出会いと別れであることによって、作品のエモーションはつくられている。また作中の関係性に、親と子、大人と子供の対比における大人の不在を見るのであれば、それは、『スクールアタック・シンドローム』(文庫)に収められているすべての篇に共通したテーマだともいえる。

・その他舞城王太郎に関する文章
 「ディスコ探偵水曜日」
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2007年06月19日
 刀語 第六話 双刀・鎚(ソウトウ・カナヅチ)

 率直にいって、語り口の部分に、他の作品ほどの冴えが感じられないせいで、毎月毎月リアルタイムで追いかけるほどのテンションがキープしづらいのだけれども、七花の姉である七実の刀争奪戦への介入や、とがめと同じ幕府に所属しながらライバル関係にある内部監察官の否定姫が登場など、ワキの部分からではあるが、ぼちぼちと物語におおきな動きが見えはじめている。さて。西尾維新の大河ノベル、『刀語 第六話 双刀・鎚』である。薩摩をあとにした七花ととがめは、いったん尾張へ戻るつもりであったが、予定外な船行きのため、半月をかけて、絶対凍土の蝦夷地へと辿り着く。寒さを理解しえないほどにイノセントな七花は、雪の積もった山を登る途中で、知らずのうちに凍傷を負い、倒れ、行動をともにするとがめは、止むことのない吹雪のなかで、八方塞がりに陥る。それを救ったのは、完成形変体刀の一本『鎚』と深い関わりを持つ凍空一族の少女、こなゆきであった。特殊な能力の持ち主ゆえ、他人から忌避される存在、あるいはその者が抱える孤独というのは、西尾維新がこれまでに書いてきた小説にもよく見かけられるモチーフであり、このシリーズでも、登場人物たちの多くに、彼らが自覚していようがしていまいが、それぞれ背負わされているテーマのひとつだといえ、完成形変体刀が持つとされる毒の作用は、おそらく、そのことと無縁なのではあるまい。いや、たしかに、そうした考えは作中で〈さすがに牽強付会に過ぎるだろう〉と否定されてはいるのだが、しかし、それでもそう考えるのであれば、ここで七花が喫する一敗からは、ロジックで説明されているとおりの理由とはべつの、というのはつまり、寂しさの純度にパラレルな側面を見いだせるし、また、じょじょに近づきつつある七実との再会も、そのような意味合いを多少なりとも持たされたうえで、要するに、何かしらかエモーションの強度を試されるかたちとなり、果たされるのではないか。

 『刀語 第五話 賊刀・鎧』について→こちら
 『刀語 第四話 薄刀・針』について→こちら
 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 
・その他西尾維新に関する文章
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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 刀語 第五話 賊刀・鎧(ゾクトウ・ヨロイ)

 読み手の知らぬ間に、日本最強の剣士である錆白兵を巌流島で打ち破り、薄刀『針』を手に入れていた虚刀流七代目当主の七花と奇策士とがめのふたりは、五本目となる完成形変体刀『鎧』を求め、九州は薩摩の地に立つ。これまでの道中を通じて、「全幅の信頼を置くには、そなたの人間性にはまだ、如何せん頼りない部分があるが……それでも、そなたがわたしを積極的に裏切ったりはしないだろうことには絶対の確信を持てた」と言うとがめに対し、七花は「おれはとがめに惚れているんだからよ――裏切るわけがねえだろうが。一緒に旅をしたこの五ヶ月の間に、日々惚れ直してるくらいだぜ」と照れることなく答えるのであったが、しかしだからこそ、交渉のために相対した『鎧』の所有者である校倉必の提案は、彼らを驚かせた。西尾維新の大河ノベル『刀語 第五話 賊刀・鎧』である。前エピソードにあたる『刀語 第四話 薄刀・針』は、七花の姉である七実の、おどろくべき資質と動向をメインに描き、ある意味で、イレギュラーなつくりとなっていたわけだけれども、ここでふたたび、物語は、七花ととがめが築きつつあるパートナー・シップに焦点を合わせた方向に戻る。そこで「刀? そんなものに興味はねえ――この一本があれば十分だ。おれはそんなものより、とがめが欲しい」と、ふたりの間に割って入ろうとする校倉必との対決が用意されたのは、必然といえば必然といえるだろう。表面的には、とがめのひ弱さを七花の腕力がカヴァーし、かわりに七花の単細胞ぶりをとがめの頭脳がフォローする格好のコンビだが、それとはべつの位相でみれば、まあ、この作者が得意とするパターンではあるし、二人組を扱うフィクションにおける定石のひとつではあるのだけれど、人格に欠損のある同士がお互いを補完し合う関係になっていることを、今回の展開は、より強調させている。

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2007年06月12日
 エロマンガ島の三人 長嶋有異色作品集

 以前にも触れたことがあるけれど、長嶋有『ジャージの二人』文庫版の解説で、柴崎友香が〈長嶋さんは、この小説では魚肉ソーセージやジャージや漫画、ほかの小説でもゲームとか駄菓子や電化製品を書いているけれど、それらは決して語り手の持っているノスタルジーや感傷を表す「小道具」として配置されたりはしない。いつも、モノたちは主人公の気持ちとは関係なくなんだかそこにあるのであって、モノに対して語り手は「なんでこのパッケージはこうなってるんだろう」というようにあくまでも対象として興味を注ぐ。/ 関心が自分の外にあること、自分とほかのものが独立して存在していること。これはとても重要なことで、小説では(普段の生活でもそうだけど、小説では特に)油断すると、自分の感情や言いたいことのほうに、あらゆるものを引き込んで意味づけをしてしまう危険がある。だけど、長嶋さんの小説ではちゃんと、「僕」と「魚肉ソーセージ」は「他人」になっている〉と書いていて、これはたしかに『ジャージの二人』に対する感想として、ある程度の説得力を持っている。しかしながら一方で、そうした〈魚肉ソーセージやジャージや漫画、ほかの小説でもゲームとか駄菓子や電化製品〉に付せられたブランドや商品名つまりコピーライト的な固有名詞が(暗喩的または換喩的な意味すらも飲み込んで)含む情報量を、さりげなく無視してしまっている点には、留意しておくべきだろう、と考えるのは、『群像』7月号掲載の創作合評に取り上げられている柴崎の『主題歌』について、島田雅彦が、作中に出てくるバンド名である〈ROVOが何かのメタファーになっていること?〉と尋ねたことに、陣野俊史が〈メタファーではないと思います。では、どんな意味内容を持っているのかと言われると困るし、効果があるのか、と言われれば、特に効果的とはいえませんけど……。ただ、ROVOを知っている人は、ああそうかと思います〉と答えるのを受けて、その世界の狭さを〈小説に拡張的な傾向を求める人間としては、ここまで狭くていいのかと思ってしまうわけです〉といっているのを読んだからなのだった。

 固有名詞は、ふつう、それが何かしらかの対象を指し示す、という役割を持っている以上、そこではその固有名詞でなければならない、そういう場面を有する。たとえば柴崎『主題歌』のなかにおいて、あそこの場面でROVOはやはりROVOでなければならなかったのだろうし、なぜそうでなければならなかったのか、とくに理由もなく、無意識であったならばどうしてなのか、を考えることは、柴崎が『ジャージの二人』文庫版の解説で〈評論は小説を通して時代性や現代性を研究するものだから、ある程度縦軸横軸に位置づけたりするものだし、謎解きが楽しみな小説もあるかもしれない〉というのとはまた異なったレベルで、ときには必要とされるべきものであろう。なんで、と問われると、まだうまくはまとめられないので困ってしまうのだが、もしかすると福田和也が、『新潮』6月号掲載の「わが戦前(第十回)」で指摘している、保坂和志の小説におけるある種の都合のよさ、に通ずる問題なのかもしれない。

 と、そういえば、ここでの本題は、長嶋有の異色作品集『エロマンガ島の三人』なのだが、その表題作のなかにも、わりと多くの固有名詞が並んでいるのだけれど、もちろん、それらは柴崎のいうように〈決して語り手の持っているノスタルジーや感傷を表す「小道具」として配置されたりは〉していないとしても、その固有名詞が持っている情報量か、そうでなければ、そうした情報量を処理する書き手の能力が、小説の内容を左右しているのは、あきらかである。「たとえば『ペンギンクラブ』だけがエロ漫画ってわけじゃないんですからね。『快楽天』だって『ばんがいち』だって全部撮らないと、エロに失礼ですよ。『これまでは任天堂のファミコンばかりがゲームだったけど、次世代機の時代はセガもソニーどんどん活躍して、それでゲームは前以上に豊饒になっていくんだよ、それが文化だー』って、佐藤さんいってたじゃないですか、同じことですよ!」これをこうして書くこと、書けること、それは意味があることなのか、ないことなのか、絶対に必要なのか、そうではないのか。ところで長嶋は、『群像』7月号に掲載されている大江健三郎との、第一回大江健三郎賞記念対談「若い作家の言葉の力を世界に押し出す」のなかで、大江に〈あなたは、文学的にどういうふうに栄養を満たして、蓄えてきたんですか〉と問われ、次のようにいっている。〈それは自分でも漠然としかわからないのですが……だから「栄養」という言葉になるんですね。ただ、文学からの直接的な栄養ではないにしろ、なにかを代わりに摂取してきた。だから小説が書けるし、その「栄養」が満ちていることにはなんとなく自信があって(略) それは、つまり魚のとれない地方の人はどうやってある種類の栄養素をとっているのかといったら、ヤギの乳にあったみたいな、山の奥の人は絶対にその食べ物を食べられないけれども、ちゃんと人間として生きているみたいなことです。小説を書くための「栄養」は本にもあるし、本ではないものにもあるだろう。/ 僕の場合、はじめは多分、漫画でした〉。要するに、ここで「栄養」といわれているものが、どういうふうな言葉の運動となって現れる、現れているから、これを愉しめるのか、小説「エロマンガ島の三人」を読みながら、ふと、そんなことが気になったりもするのである。

 さて。エロマンガ島でエロ・マンガを読む、という馬鹿げた企画をサブカル系のゲーム雑誌に出したら、通ってしまったため、海を越え、彼の地へ飛んだ三人組の道中を捉まえる「エロマンガ島の三人」のほか、この作品集には、四篇の小説が収められていて、作者のべつの作品『パラレル』で、語り手の親友だった顔面至上主義者の津田を主人公とする「ケージ、アンプル、箱」と、あと「エロマンガ島の三人」の番外編的な位置にあたる「青色LED」が、個人的には、控え目な寂しさというか、異色作品集とはいっても作家自身のカラーがよく出ているようでいて、好き。

 『夕子ちゃんの近道』について→こちら
 『泣かない女はいない』について→こちら
 『いろんな気持ちが本当の気持ち』(エッセイ)について→こちら

・ブルボン小林名義
 『ぐっとくる題名』について→こちら
 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら
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2007年05月31日
 シー・ラブズ・ユー―東京バンドワゴン

 明治の時代から続く、東京は下町の古書店「東京バンドワゴン」に持ち込まれるさまざまな騒動を、三代目店主の堀田勘一を筆頭とする大所帯の家族が、持ち前のチームワークで次々と解決してゆく『東京バンドワゴン』の第二章、小路幸也の『シー・ラブズ・ユー』は、要するに続編的な内容の作品で、だからこちらに、登場人物たちに対する親和性があらかじめ備わっている、というのもあるけれど、それ以上に、小説のつくりがしっかりとしているため、とても安心して物語のなかへと入っていける。賑やかな作中にあっては、いっけん登場人物たちの個性が最大のチャームに思えるのだが、もちろんそれもあるのだが、しかし、じつは(以前にもいった気がするのだけれども)語り手の功績に負うところが、おおきい。それは、勘一の妻サチの、家族たちを見守るやさしくあたたかい視線、という意味でもあるし、そういうことばかりではなくて、文字どおり、語り手としての位置や機能、その役割のことでもある。幽霊である彼女は、生きている人間に比べ、制約がすくなく、ひとつの出来事とべつのひとつの出来事とのあいだにある距離を、ほとんど気兼ねなく、移動することが可能であり、そうして場面の展開はスムーズに行われる。読み手を導く、一種の親切なガイドとなっている。とはいえ、まったくの制約がないわけではなく、時間の経過をシャッフルして、ばらばらに置くことはできない、つまり、空間上においては自由に振る舞えるのだけれど、時系列に関してそうはいかない、生きている人間と同様に、そこの場で直截生成される出来事にしか立ち会えない。このことが、読み手を物語に移入させるという、もう一個の意味でのガイドをつとめる。これを、作者が意識的に行っているのは、そのような語り手に対する制約への言及が、けして、すくなくはないことからもあきらかだろう。ただし、それだけの技術を用いながら、眺められるのが、殺風景なシーンであっては、身も蓋もないところで、ようやく登場人物たちの個性が輝きはじめる。堀田一家はみな、年齢性別を問わず、自分たちからすすんで他人のトラブルに首を突っ込むほど、情の厚い人びとである。それぞれのやり方で、あるいは、それぞれの立場でしかこなせない部分で、他人を助ける。この、複数の性質によって出された情の厚みが、ドラマそのものの厚みとなり、そして多くのいいシーンとなって現れている。

 『東京バンドワゴン』について→こちら

 『HEARTBEAT』について→こちら
 『そこへ届くのは僕たちの声』について→こちら
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2007年05月25日
 太宰と井伏――ふたつの戦後

 長くすると、揚げ足とりのような不毛さに襲われるに違いないから、できるだけ短く書くつもりだが、加藤典洋の『太宰と井伏――ふたつの戦後』に関し、田中和生は『群像』6月号の書評欄にて〈まぎれもない現在の思想書としての価値をもつ〉とまで述べているのだけれども、正直、それがちゃんと読んでの感想であるならば、おいおい、馬鹿いってらあ、いやまあ、たとえパブリシストの役割を果たすべくの誇大表現であったとしても、もうちょい言葉を選べよ、といったところである。じゃあさあ、ここに書かれている思想とはいったい何なのさ。田中によれば〈太宰治の死を賭けた問いかけに対し、長く「戦後」を生きた井伏鱒二は沈黙を貫いた〉そのことの意義になるわけで、つまり、それは〈「文学」に二つあるとは、それが「純白の心」だけに立った場合と、それと「汚れた心」の二つに立った場合とでは異なるものとなるということである。芥川も、三島も、川端も、西洋からやってきた「文学」というものに自分の生命をかけようとした。彼らにとって、文学とは、美への奉仕を意味したが、井伏はそこに、「純白」の心一辺倒というのではない、いわば思い屈した姿勢をつけ加える〉と、加藤が『太宰と井伏』でいっていることである。要するに、敗戦後の日本において「純白の心」ばかりではなくて、「汚れた心」を併せ持つことによって、死なず、生をまっとうする姿勢を指す。しかしながら、それは「あとがき」にあるように、たかだか〈あるときから、生きている自分が、自殺することを選んだ太宰治や、三島由紀夫にあんまり共感するのは、変だよ、と思うようになった。そこから考えていると、どうも自分が苦しくなる。それはそうだろう。彼らは思いつめて死んでしまった。それなのに筆者は、のうのうと生きている〉という加藤の個人的な気分に、どうやって正当性を設けるか、ということでしかない。もちろん、やりようによっては、それを、大勢を説得しうる思想の域にまで高めることも可能であったろう、が、残念ながら、これはそういうふうにはなっていない、あくまでも一個人の主観に止まり、ロジックが抽象的にすぎるか、さもなければ杜撰なため、あまり頷かされない。たとえば加藤は、猪瀬直樹の『ピカレスク 太宰治伝』や、その『ピカレスク 太宰治伝』の参考文献に挙がっている川崎和啓の「師弟の訣れ 太宰治の井伏鱒二悪人説」に基づきながら、井伏の短篇「薬屋の雛女房」が、どうも自分をモデルとしているらしいことに気づき、太宰が怒った、として〈しかし、今回、『人間失格』を読み、なぜこういうものが書かれたのか、考えているうち、この太宰の反応はおかしい、常の太宰ならこうは反応しなかったはずだ、という思いが頭をよぎった〉というのだが、ここで重要となる「常の太宰」という基準がほとんど、加藤の思いなしによってつくられた以上のものではない(と読める)ので、井伏に対する太宰の怒りを〈少なくとも、これまでの彼であれば、このように単線的な、あるいは正義漢めいた反応になることは、まず考えられないのである〉といわれても、弱る。とまれ。ここで加藤が行っているのは、太宰の小説『人間失格』を、作中に含まれている内容以上に、年表や資料や当時の時代性などの、作外に置かれている作者周辺の出来事から読解することであり、おそらくは、『テクストから遠く離れて』や『小説の未来』で、現代の作品に対して試みた作法を、今度は準古典的な作品に用いた、といった体のものである。作品それ自体の内容を吟味(テクスト論)するのではない。また、ここで加藤が叩き台にしているというか、ほぼ準拠としている、猪瀬のもののような、どちらかといえば、批評というよりジャーナリズムとして、事実を調査する類でもない。そうした結果、作者の生き方を含め、対象とされているものの価値が、論者自身は動くことなしに、その論者の側に、都合よく引き寄せられてしまっている。

 『語りの背景』について→こちら
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2007年05月23日
 葉桜の季節に君を想うということ

 じつは以前の版が出たばかりのとき、こちら側の当時の指向あるいはバイオリズムの関係か、途中(正確には第四章にあたるあたり)までしか読む気になれなかった歌野晶午の『葉桜の季節に君を想うということ』が、このたび文庫化されたので、あらためて手にとった次第なのだが、ああ、これは読み通さないと作品の価値がわからないわ、なるほど、こういう仕組みになっているのか、と、つまり小説全体を覆う仕掛けが、主題としてある部分と不可分に結びついており、そのような表し方、表され方に、えらく感心させられたのである。作中において探偵役をこなす主人公が、悪質な霊感商法の内幕を暴く、というのが縦の糸であり、そこに今どきピュアラブルな男女の関係が、横の糸として絡んでくる。そして、それらによって意図されていることは、最後の最後まで、文字どおり、伏せられている。注意を払ったうえで砕かれた語り口が、そうした展開を可能にしているわけで、もちろん、それはミステリという手法にかかっている部分ではあるのだけれども、ある意味で、現代のロウな現実に対する提言になりえている点が興味深い。じじつ、ここでの主眼は、犯人たちを、何かしらかの手段で裁くことに、置かれてはいない。なぜ、相応に経験を積んでいるはずの老人たちが、あからさまな詐欺に屈していくのか。作者は、そのメカニズムをなぞりながら、寂しさではなくて、希望に近しい感触を差し出しているように思う。
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2007年05月21日
 うつつ・うつら

 デビューしてからだいぶ間があいてしまったけれども、ようやく赤染晶子の第一作品集が出た、とはいっても、この『うつつ・うつら』には、彼女のこれまでの作品がすべて収められているというわけではなく、05年に発表された表題作のほか、04年の第99回文學界新人賞受賞作である「初子さん」の二篇が読める、ということになっている。個人的には双方ともに再読となるのだが、今回、しばらくぶりに触れてみたら、その語りのトーンに、以前と比べ、ずいぶんと引きつけられるところがあった。どちらの小説も、なにか古めかしい様相をベースとし、幻想のような、おぼろげでいて、しかし色濃く、むせるほどに生々しい、人の匂いに満たされている。懐かしさ、というのではない。とある洋裁職人の〈毎日毎日同じことの繰り返しである〉ような生活にスポットをあてた「初子さん」と、歳のいった漫談師が場末の劇場で〈昨日と同じことが今日も必ず起こる〉といったふうに覚える憂鬱を扱った「うつつ・うつら」とのあいだに、舞台を京都としている以外で、共通してあるのは、一種の閉塞感とでもいうべきもの、そしてそれは、確たるがゆえに息詰まるのではなくて、漠としているからこそ人を不安にさせる類のもの、であろう。そうした気配は、不可避のうちに積み重ねられる歳月によってもたらされる。だから、それぞれの主人公である女性たちは、その繰り返しに耐えることを自分に課し、あるいは妄想を頼りにしても耐え、耐えきれず逃げ出す人びとに同情し、まだ耐えることも知らぬ無邪気な人間に自由な姿を見る。
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2007年05月16日
 ミノタウロス

 昨年に『小説のストラテジー』が出ているから、あくまでも小説作品でという意味で、佐藤亜紀ひさびさの新刊となる『ミノタウロス』は、さすが、期待に応えてあまりある内容であり、フィクションの底の深さを、つまりこの世界の拡がりとして十二分に堪能、感じさせてくれるのであった。どこぞの坊っちゃんが、内戦的な状況下で、小悪党へと転じ、その渦中を駆けずり、這いずり回る、といった内容は、同作者の『戦争の法』あたりを彷彿とさせるし、時代背景からすると、『天使』や『雲雀』と重なりそうなところもあるのだが、いやもちろん、それらともまた異なった冒険と魅力を孕んでいる。20世紀初頭のロシア、妙な経緯から地主に成り上がった父親を持つ少年は、たぶん、世の中のたいていのことをチャラいと考え、馬鹿にすらしていた。農場からあがる利益の現実性のみを信じ、追求する父親とそのパートナーであるシチェルパートフ以外の周囲の大人たち、とりわけ七つ上の兄や見栄ばかりの母親と大学教授の伯父は地に足をつけて生きていないように見えたし、教師も含めて、学校の連中なぞ言わずもがな、である。〈人間の尊厳なぞ糞食らえだ。ぼくたちはみんな、別々の工場で同形の金型から鋳抜かれた部品のように作られる。大きさも、重たさも、強度も、役割もみんな一緒だ。だからすり減れば幾らでも取り換えが利く。彼の代わりにぼくがいても、ぼくの代わりに彼がいても、誰も怪しまないし、誰も困らない〉といった具合に。人びとの見る甘やかな夢は、結局のところ、俗情に過ぎず、すくなくとも自分は、それに溺れることもなく、そうして世界に対し、何ら貸し借りもなく、生きていける、と踏んでいた。戦争の余波が、あるいは自身の成長が、彼の人生に災厄を持ち込むまでは。後半に、主人公がウルリヒとフェディコという(まさしく)気の置けない仲間を得てからの、快進撃は堪らなく愉しいけれど、前半の、諸設定を細やかに整備し、物語の基盤を構築してゆくくだりも、じつにスリリングで、読ませる。搾取か、そうでなければ、略奪に次ぐ略奪、ときには銃撃戦による略奪。言うまでもなく、この世界には、完璧な善人などいない、のと同様に、魅了するほどに見事な悪を為せる者もいない、要するに、たいがいが偽善者でしかなく、小悪党に過ぎないのである。そうした真理を喝破するかのように、誰もがちっぽけな些事のなかで、とりとめもなく生き、なし崩し的に死んでゆく。当然、主人公も例外ではない。これはこれでネタばらしになってしまうのかもしれないが、『ミノタウロス』は、この作者のものにおいて、おそらくは、はじめて語り手(それは必ずしも主人公ではない)が作中で死ぬ、小説である。時代のうねり、といったところで、後世を知らぬ語り手が述べることができるのは、自分が死んで失くなるまでに、かろうじて見聞きし、行った所業だけであろう。今際のきわ、眼前を淡々と捉まえるしかない彼にしてみたら、そうした一生なんてきっと、物語のなかで上映される『トリスタンとイゾルデ』のようなカタルシスをもたらすものでもなければ、むろん歴史に刻まれるぐらい価値のある上等な類のものでもない。しかしながら、こうして小説を読み終えたばかりの、こちらはというと、その語られたことによって、いたくいたく心を動かされている。
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2007年05月11日
 『群像』6月号掲載。本題である柴崎友香の『主題歌』とは、いっけん関係のないようなところからこの文章をはじめさせていただくが、第1回「大江健三郎賞」受賞作となったのは、長嶋有『夕子ちゃんの近道』なわけだけれども、その選評(やはり『群像』6月号掲載の「長嶋有『夕子ちゃんの近道』のために」)で、大江は作品に含まれる細やかな描写に触れつつ〈さて、私がなぜこうした細部の、それもさらにこまかな読みとりにこだわるのか?〉その理由を〈この作家が、細部をはっきりと書いてゆくことに、特別な思いを込めている人だからです。そうしながら、かれがそこに、正確な「小さい意味」をきざみ出す人だからです。長嶋有は、意味のあいまいな文章は決して書かない。しかも背負わされた意味によって言葉が重くなったり、文節が嵩ばったりしないよう細心の注意をはらう。つまりは、すべて具体的な事物にそくして、スッキリと書く努力をおこたりません〉といっているのだが、それを読んで、あ、と思い出されたのは、じつは柴崎が長嶋の『ジャージの二人』文庫版にあてた解説であった。〈関心が自分の外にあること、自分とほかのものが独立して存在していること。これはとても重要なことで、小説では(普段の生活でもそうだけど、小説では特に)油断すると、自分の感情や言いたいことのほうに、あらゆるものを引き込んで意味づけをしてしまう危険がある。だけど、長嶋さんの小説ではちゃんと、「僕」と「魚肉ソーセージ」は「他人」になっている〉と、柴崎はそこからやって来る感覚を〈小さいけれど新鮮な驚き〉と評しているのだけど、おそらくそれは、大江のいう〈正確な「小さい意味」〉とニュアンスの近しいものなのではないかしら。大江、柴崎という、まったくタイプが異なるといってもいい小説家が、一個の作家に対して、似たような印象を見出すというのは、たいへん興味ぶかく、あるいはだから、それこそがたぶん長嶋有の本領ということになるのであろうが、さておき。そういえば柴崎友香という作家もまた、そういう、ちいさくちいさい感動のうちにあるやわらかな喜びを大切に扱う人なんだよな、と、彼女の小説『主題歌』を読みながら、あらためて実感する。

 これまで柴崎によって書かれた作品と同じく、ここにも起承転結の因果でまとめられる、わかりやすくドラマティックな出来事は存在しない、にもかかわらず、他愛のないトピックをたいへん魅力的に伝える巧みな話者の言葉を聞くときみたいに、ひとつひとつの場面に、ぐ、と引き込まれてしまう。ずうっと展開されているのは、若い女性たちの素朴な生態とでもいうべきものだが、それら年齢や性別に関係なく、とても親密な感情が湧く。個人的にはとくに、次のような箇所に共感するのだった。〈女の子を見るのが好きなのは、男性俳優やジャニーズ事務所の誰彼が好きだというのと同じことなのか違うことなのか、と実加はときどき思う。ほかにもかわいい女の子が好きだという話をする女友だちはいるけれど、同性愛というわけでもなく、小田ちゃんは結婚するし花絵も失恋して落ち込んでいるし、男が嫌いとかいらないとかでもない。ただ、かわいい女の子やきれいな女優を見ていると、それだけで幸せな気持ちになるし、そのことについて話すのが楽しい〉。僕なんかは男性であるけれども、べつに同性愛者というのでもないのだが、グラビア・アイドルや女性タレントにはほとんど興味がなく、むしろジャニーズの人たちや若手男性俳優たちの、じつに決まっている姿を見ていると、やはり〈それだけで幸せな気持ちになる〉から、ここ、ここのところに、わかるわかる、と反応してしまう。とはいえ、作品の主題めいた部分となるのは、あくまでも〈最近自分の周りにかわいい女の子が好きな女の子が多いのは、なんか理由があるんやろか、と考えてもみる。けれど、もともと女の子を眺めることを特別なことだと思っていなかったし、結局は理由があってもなくても「だってかわいいねんもん」という一言で、自分の単純な気持ちを分析するのをやめてしまうのだった〉といわれている、つまり、きわめて直感的に発せられる「かわいい」という認識であろう。あるいはそれは、すくなくともここでは、まっすぐなエモーションたりうる。そして、そのことが作中で、ひとつのヤマともいえる〈女の子カフェ〉という催しに自然と繋がっており、たとえば、お菓子やお酒、お茶などを大勢で囲みつつ、カイリー・ミノーグのプロモーション・ヴィデオを観ながら、口々に「これ、いちばん好きやねん。見て見て。だんだん増えていって、カイリーがいっぱい」「声かわいい」「おなかのむちむちが素敵」「こんなにかわいかったら、そら、世界中の人に見てもらわなもったいないわなあ」と、こういうやりとりが、すごく楽しく、ふとした拍子に80年代における少女マンガの、そのワン・シーンにありそうな、すこやかでファンシーな様子を思い起こさせる。

 『その街の今は』について→こちら
 『フルタイムライフ』について→こちら
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2007年05月10日
 『すばる』6月号掲載。この作家のものは今回はじめて読むのだが、おそらくは60年生まれである作者の実感に基づき、こうした物語が編まれているのではないか、と感じられた。つまり長薗安浩の『空庭』は、壮年期の男性(たち)を中心に据えた作品で、彼らがけっして短くはない歳月をかけて身につけてきた自由と不自由とが、ある程度は重たく、ある程度は軽く、そうして深い哀切にならないよう、語られている。ある晩、単身赴任をしている立花和人は、研修で東京にやって来ている幼馴染みの浜島(杉浦)倫代を連れて、本多剛が経営する新宿のゲイ・バーを訪れていた。みな高校時代の同級生であり、四十四歳になろうとする現在、こうして三人が顔を会わせるのは、卒業以来のことで、まさに四半世紀ぶりの対面だった。和人は、四年前すでに剛と再会していたが、倫代は、剛がゲイであることを、この時まで知らず、戸惑う。そのような場面から幕が開くわけだけれども、三人の関係がどうというよりは、和人と剛の友情を思わせる付き合いを通じて、小説は展開される。和人がガンの疑いのあるせいで検査を受けたり、剛が和人をともない(ある役割のため)骨壺を持って帰郷するなど、死の影が、作中の至るところに散りばめられているが、基本的には、今も生きていること、生きる姿が青春の残像となって現れている。「だからさ、十代二十代三十代をもう一度やれって、好きなようにやり直せって言われたら、あたしぞっとしちゃう。他人様に自慢なんてする気はないけど、あたしなりに必死だったから。あんただって、そうでしょう?」と剛に尋ねられた和人は「そうだな。もう一度やる気は、ないな」と答える。クライマックスのシーンである。ふたりの前には、伊勢神宮の、新御敷地となる空き地が切り拓かれている。「美しい空っぽよ」と剛が言う。『空庭』という、この小説の題名は、おそらくそこに由来しており、そしてそれは、あるいは彼らの、これからもまだ続いてゆく人生の、その先の拡まりを暗示しているのかもしれない。
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2007年05月09日
 『文學界』6月号掲載。第104回「文學界新人賞」受賞作のうちのひとつ、円城塔の『オブ・ザ・ベースボール』は、たとえば〈人が降るっていうのは人が降るっていうことで、つまり文字通り人が降る〉というようなトートロジーめいた言い回しが頻出し、もしかすると作者は気が利いていると思っているのかもしれないし、じっさいに巧くいけば文章の旨みとなるのに違いないけれども、正直なところ、誰かさんの物真似でなければ、たんに作品を読みづらくする一方で、いやまあ、それは好みの問題だろ、と言われればそうだとしても、とにかくげんなりとさせられたのだったが、しかし、そうした語り口の退屈さを補って余りあるぐらい、この設定をどう生かし、あるいは殺すのだろうか、といった点に興味を持たされる内容ではあった。ほぼ一年に一度の割合で、空から人の降ってくる町がある。そこでそのためだけのレスキューを仕事とする語り手〈俺〉が、ついにその役割を達成するというのが、大まかな筋で、〈俺〉を含むレスキューのチームが九人編成であり、装備がなぜかバットであることから、野球の見立てが行われていて、さらに〈町は麦畑に包囲されて〉いたり、彼らレスキュー・チームには〈余分なキャッチャーが入り込む余地はない〉といわれていることから、ある意味で、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のアイロニカルな裏返りととれなくもない。そう考えていくと、これはこれで、ひとつの青春を切りとっている可能性もある。先ほども触れたとおり、小出しにされる設定がどこでどういうふうに結ばれるのか、興味を覚えつつ、物語を追ったのだったが、結局は、ファウルで終わる凡庸な青春が、こういう、気取ってらあ、といった調子(あくまでもこちらのセンスにしたらの話)で述べられているに止まるのかな、と感じられて、あまりぞっとしなかった。
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 『新潮』6月号掲載。伊井直行の短篇『心なき者、恋するべからず』は、簡単にいってしまうと、ふいに一目惚れをした若い男が、その場で、素性も知らぬ女性に告白をしようと思うが、しかし、結局はその行為すら叶わず、結ばれるだとかふられるだとかいった段階に入ることもなく、〈唐突にこの話は終わ〉ってしまう小説で、そうして作中に浮上するのは、題にある〈心なき者〉とは、いったい何を指すのか、どういう意味か、というような戸惑いの感覚である。主人公にあたる藤森工は〈恋というのは飛行中の旅客機からの落下物に頭を直撃されるようなもので、当人の関知しない偶然によって始まるものだと思いこんでいた〉のであるが、あるとき〈うんと年の離れた従妹から「工は心のない少年、心ないんじゃないよ、心のない少年」といわれ〉てしまう。これらふたつの個所は、〈工が恋を空からの落下物と心得ていたのは、前述の通りだが、恋をするときの自身の心の状態については実は自覚がなく、恋が彼の内部に住み着くためには、それが落下物であるにしろなんにしろ、心に空白の部分がなくてはならいという法則の発見には至っていなかった〉と書かれることによって、相関されるわけだが、この作品にとっての重心は、その法則自体にではなくて、〈いや、ついに一生そのような認識を得ることはないのかもしれない〉といわれる、主人公の、つまり認識の部分にかかっているのだと思う。恋愛というものは、まあ、真剣に議論すれば、ひとつに落ち着かないほど、さまざまな定義が提出される類のものだろうけれど、おおよその場合、これは恋だ、と判断しうる主観以外を虚偽に変えてしまう性質を持つ。とはいえ、主観ってやつは、たいがい、いろいろな要素が入り混じり、成り立っているものだ。逆に、それらの要素のほとんどは、主観の外では散らかるだけ散らかっていて、とくに接点を持たなかったりする。工は、一目惚れをする直前に、以前に飼っていたアルフレッドという犬のことを思い出す。このアルフレッドに関する挿話は、読み手からすると、いっけん、どういう役割を持っているのか、考えあぐねる。だが、この挿話がなければ、作中人物の主観が、その恋を見つけるに至らなかったことだけはあきらかであり、こちらの与り知らぬ、偶然の結果か、それとも法則の裏でなのか、ともあれ間違いなく、何かしらかの必要性を帯びているのである。

 『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』について→こちら
 「ヒーローの死」について→こちら
 『青猫家族輾転録』について→こちら 
 「ヌード・マン・ウォーキング」について→こちら
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2007年05月08日
 『文學界』6月号掲載。ここ最近の傾向なのか、二十代三十代の若い男性作家が積極的に無職の人間を扱うのに対して、同じ世代の女性作家は会社等に勤めている人間を用いることが多いような、そういう気がする。もちろん、それというのは作者らの実体験が反映された結果であるのかもしれないし、そうしたことの背景には、今日における男性と女性の生活環境の差異があるのだろうけれども、後者の場合はとくに、そこにあるストレスを描写することで、何かしらかのリアリティをからめとっている、との印象をつよく受けるわけだが、津村記久子の『冷たい十字路』もまた、そのようなフラストレイトする女性についての小説である、といえなくもない。学生同士による自転車衝突事故周辺の事情を、作中の視点が、複数回チェンジしながら語られる作品であるため、けして働いている女性ばかりが登場するのではないのだけれど、いや、たしかに世代や年齢は違えども、彼女たちはみな、どこか、なにか、に対して苛立ち、精神を疲弊している。いま「どこか、なにか」といったが、それはわりとはっきり作品のなかに示されており、また根源をほぼ合致させるもので、簡単にまとめるのであれば、公(おおやけ)の場における他者との不可避な接触、に端を発している。しかしどうして誰しもが、そこでストレスにかかずらわなければならないのか。たとえば、自転車衝突事故の直截の被害者ではないが、会社へ向かう途中、その場面に遭遇した、作中人物のひとりであるイマザトが、〈哀れなのは事故った連中よりも汚れたスカートで仕事に行かなければならない自分だと思いこもうとする〉のは、〈この界隈で擦れ違うどの人もが、その目的地を問わずそう思い込んでいるのと同じように。彼らがお互いについて知っていることは唯一、わたしはあんたより重要な目的地を持っている、ということだけだ。もちろんそれはまったく一方的な思い込みであるのだけども、朝方に擦れ違う人たちはなぜかそういう確信を抱いているように見える〉のだから、せめて自分は遅刻するわけにいかないからで、要するに、立場や状況こそ異なっていたとしても、各人がこの世界を眺める、あくまでもその見え方の同一性が、べつの誰かを、歩み寄れない、平行線の位置に押しのけてしまう。そして、それらのことが、ここでは、錯綜した因果の連鎖反応によって、あぶり出されてゆく。正直なところ、結末の箇所に、そこまで言わなくとも、と蛇足めいた点を感じさせもするが、作者の、たしかな眼に支えられた信頼に値する内容だ、と思う。

 『炎上学級会』について→こちら
 『十二月の窓辺』について→こちら
 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2007年05月07日
 コップとコッペパンとペン

 福永信の過去作である『アクロバット前夜』を以前読んだとき、正直なところ何が書かれているのかよくわからなかったぜ、と感じられたのは、もしかしたら(まさしく物理的な意味で)文章が右側に向かってまっすぐに伸びていくつくりのせいだったりするんだろうか、と思ったものだったが、そういう表向きの在り方に限っていえば、今回はあんがい普通の小説として読めそうな『コップとコッペパンとパン』に関しても、結局の話、いや、ごめん、やっぱり何が書かれているのかよくわかんねえや、以外にはっきりとしたことは思いつかないのだけれども、しかし、だからといって、読んで損した、って言いたいわけじゃない。たとえば、読んで損した、とかいった場合の、損とは、ふつう、時間を無駄にした、というような意味だと思う。すなわち、読んで得をするケースとは、逆に、そうした最中の時間を有意義に過ごせた、との感想を含有する、つまり、ひとときを濃くする、わけだ。あるいは、読んでいるあいだ心地良い時間が流れた、などの紋切り型で表されるに違いない、あれである。とはいえ、この『コップとコッペパンとパン』に収められた四篇からもたらされるのは、そういったことでもない。むしろ損もしなければ得もしない。できるだけ読み手に対する干渉をセーヴしつつ、しかし退屈に陥らせない、ひじょうに手つきのこらされた小説が並んでいる。このことはまた、書かれた内容とも、おそらくどこかで、密接に繋がっている。『アクロバット前夜』もそうだったが、あるときは作中に置かれた手紙の存在に目がいくように、一方的な伝聞への、リフレクションが、べつの向きへの、一方的な伝聞となる、そうして情報が拡散されていく道程を、ワン・センテンスとワン・センテンスの連続から、ふと脈絡が消える瞬間の、その残像によって刻んでいった挙げ句、そもそもの起こりが忘却されてしまう。じっさい、「座長と道化の登場」以外の三篇から文末だけを、要するに、表題作の「コップとコッペパンとパン」ならば〈つまり、ここにいる誰にも判断できなかった〉と、「人情の帯」ならば〈聞き取った者は、一人としていなかった〉と、「2」ならば〈やはり、そのときも、何も考えていなかった〉といった具合に抜き出してみると、そこにはなにか共通するニュアンスが掴まれていることに気づくだろう。ひょっとすると、登場人物の発する感情や物語におけるダイナミクスというのではなくて、そうしたラストのセンテンスを述べるまでに、言葉それ自体が積み重ねてきた距離そのものが、各々の作品を一個の小説たらしめているのかもしれなかった。
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2007年05月04日
 『早稲田文学0』掲載。川上未映子の『わたくし率 イン 歯ー、または世界』は、詩のサイドから小説のサイドへとジャンプした、その、言葉の連なりの宙空に浮かぶ姿が、とてもかっこうよい作品で、今日におそらく、こういうふうに書きたいと思っている人間はすくなくないのに、誰もこういうふうには書けない、それをまさにこういうふうにちゃんと書けている、そしてそのことが、すごく、新鮮に、響く。カッティング・エッジというのではなくて、ワンセンテンスはスムースに流れるのだけれども、当たりぎわに芯の部分はけっこう太く感じられ、たとえば町田康や中原昌也あたりが持っているニュアンスに近しい、繊細な図々しさが、そのうち透けて見えてくる。話の筋というものはあることにはあるのだが、それを抜き出してみたところで仕方がないと思いつつ、ひとまず、歯科助手の仕事に就いた歯の丈夫な〈わたし〉には、青木という恋人がいて、そうして未来の自分の子供にあて日記を書き出すことから、ひょっとすると彼女は妊娠しているのではないか、と、こちらに予感させたりもするのだけれど、作中の空間は、微妙によれており、物語はやがて、すこし崩れたほうに着地する。とはいえ、展開そのものは単純である。しかし、饒舌な語り口のうちに、それ以上のことや、またはそれ以外のことが、多分に含まれていて、そこからやってくる印象は単調ではない。〈ねえ、おまえの主語はなんですか? お母さんの主語は、こうして手紙を書いているたった今は、お母さん、でいられるのです。お母さん。お母さん。とても素敵。このたった今ならお母さんはお母さん以外ではないのだもの〉と、そのような個所から演繹するのであれば、たぶん題のなかにある不思議な感触の言葉「歯ー」とは、「Her」のことでもあり、その「Her」が何を指しているのかといえば、彼女の(現実には存在しない)子供にとってのお母さんである、つまり〈わたし〉のことだ、とも考えられる。いや、そう考えていくとき、結局のところ、何も所有せず、何にも固定されていない〈わたし〉という主語自体の、寂しげな姿が浮かび上がってくるようだった。
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2007年05月02日
 俺はあやまらない

 故久世光彦は、『美の死 ぼくの感傷的読書』のなかで、福田和也と小林秀雄を比して、〈私は近代の批評の中で、色気がある文章を書いたのは(略)小林秀雄一人だと思っていたが、それとよく似た匂いを、ふと福田和也のこのごろの文章に嗅ぐように思うことがあるのだ〉といい、それから〈どこに色気がある、どんな風に似ていると言われると困ってしまうが、文章から何かが伝わってくるということは、その人の色気が伝わってくることだと思っていた〉と書いている(これは福田の『甘美な人生』にあてた解説でもある)。たしかに、ロジックの精確さとはいっけん異なる、文章の迫力で読ませるあたり、両者には通じるところがあるな、と、久世の言葉に、この福田の評論集『俺はあやまらない』を読んでいると、頷かされる。ここに収められているすべては、『en-taxi』誌で組まれた特集の一角で掲載されたものであるけれど、向き合う対象または扱われているテーマがべつのものであろうとも、書かれている内容の色彩は変わることなく、つまり、書き手が固有する一色でもって、綴られている、ように感じられる。まあ、何を言わんとしているのか、ともすれば抽象的に見えすぎる嫌いもあるのだが、それもそれで、おそらくはここにしかないであろう、ひとつの読み心地をつくり出している(そうして、そのことに対する評価は、読み手側の好みに左右されるに違いなく、僕には、ふん、としたくなる箇所もあるにはあった)。ところで福田は、ここで、保田與重郎の〈姿勢は、小林秀雄とは、対蹠的だ〉としたうえで、〈それは、要するに二人にとっての美が違うということだ。美が違うというのは、美意識が違うというような意味、水準ではない。美の内容、あり方そのものが異なっているということなのだ。小林の美というのが、その眼、つまり鑑賞に関わるものだとすれば、保田にとっての美は、暮らしに、そのスタイルにかかっている〉と述べている。つらつら読み進めながら、福田にとっての〈美の内容、在り方そのもの〉というのは、小林と保田のどちらか一方のそれではなくて、どちらものそれらにどこか似ているという、あくまでもそのような意味で、両者とは異なったものであるのかもしれない、と思った。

 『バカでもわかる思想入門』について→こちら
 『イデオロギーズ』について→こちら

 『暴論・これでいいのだ!』(坪内祐三との対談集)について→こちら

 『en-taxi』07号について→こちら

 中川八洋『福田和也と《魔の思想》―日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝』について→こちら
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2007年04月25日
 巨船ベラス・レトラス

 ベラス・レトラスとは何か、それは作中に登場する文学雑誌のことであり、あまたの作中人物を搭乗させる巨大な船のことである。筒井康隆の『巨船ベラス・レトラス』は、文学というジャンルないしシーンの現状と周辺についての、悲観と希望に満ちた小説で、といえば、この作者の過去作にも見受けられるケースだが、あれやこれやのじつに今日的な事象が盛り込まれ、作中で〈いったい彼の文学修行とは過去の海外の名作や日本の古典を読むことではなくてひたすら現在、文芸誌を賑わせ文壇マスコミの話題になっている作品のみを読むことであり、実はそのような学び方こそが彼の無知につながっていたのである〉と揶揄されるような、とりわけ〈普通の小説〉を好む層にも意識されやすい内容になっているのは、そのように意図されてのことであろう。が、たんに時事の部分がアップ・デートされているに止まらず、作者の危機感がより深まっていると感じられるのは、終盤、ここからはあからさまにメタフィクションのノリですよ、式の前振りを置いて、作中人物である筒井康隆が、じっさいに自分が体験した悪辣な出来事に関して、熱弁を振るう箇所に顕著なのだけれども、正直、そこのくだりがいちばんおもしろくない。いや、連載中にそこを読んだんだったか、べつのエッセイだかでそのエピソードを読んだんだったか、は忘れてしまったが、そのときは、やはり僕という読み手なぞも〈普通の小説〉に熱心な人間であるから、好奇な視線をびっと注ぎ、とても愉しく読めたのだけれど、こうして虚構としてある流れのなかで、事実的なことを饒舌なほどに述べられると、やけに生々しさを増すというか、その厳しさにあてられるというか、もちろん、それはそれで意図的に、なのだろうし、そのあたりの評価は、人によって異なるには違いない、が、なんとなく、頷きがたい印象を受けてしまう。ともあれ。ベラス・レトラスというのが、おそらくは文学の言い換えであるならば、それが「虚」船ではなくて、あくまでも「巨」船であることの意味を、つい考えさせられるような、そういう一作ではあった。
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2007年04月20日
 メフィスト 2007年 05月号 [雑誌]

 『メフィスト』5月号掲載。北山猛邦の『メフィスト学園―妖精の学校』は、いっけんファンタジックな意匠の小説であるが、最後まで読むと、近未来SF的な発想に基づいていることがわかる。ある意味で、この作者が執着する世界観、この世界の終わりを背景にした作品だといえる。そこは孤島、記憶を失くしたままベッドの上で目覚めた少年は、同い年ぐらいの、同じように鳥の名前を持つ子供たちからヒバリと呼ばれ、妖精になるべく『妖精の学校』へ通うこととなる。また、その島には、教師と魔法使いのほかに大人の姿はなく、いくつもの定められたルールによって、ゆっくりとした時間と、変化のない秩序が保たれていた。そうした環境に疑いを持ったヒバリと、その仲間の行動が、物語を転がしていくことになるわけだが、いやあ、最後の最後に示される数字の意味を理解し、そこから引き返すようにして、作中に散らばる抽象的なメッセージの裏を考えていくと、なかなかに現代日本的な問題を孕むシリアスな設定で、それを隠蔽しつつ、仄めかす。ワン・アイディアを徹底させるための装置に凝った内容であり、そのことに気づき、動揺し、驚かされた。

 『少年検閲官』について→こちら
 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
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2007年04月17日
 新現実 vol.4 (4)

 太田出版に移った『新現実』VOL.4は、ざっくりと読んだ感じ、以前にも増して政治的であろうとしているのかな、といったところで、個人的には、人は何かしらかのイデオロギーをともなわないと生きていけないにしても、筋金入りの恋愛至上主義者なので右も左も結構です、お引き取り下さい、といったタイプだから、このシリアスさをちゃんと理解できているのかどうかは自信がなくて、ひとまず編集日記で大塚英志が角川の新雑誌(『コミックチャージ』だよね)について悪口いっているのを、下卑た調子でおもしろがる。二線級って、いやまあ。ところで、その角川の新雑誌の、某マンガの一話目でさあ、江藤淳がどうのこうの、とあったのを大塚は読んだだろうか、と、そういうあたりが気になってしまう。さて、ここからが本題である。たとえば「「ヲタ」が「サヨク」化するか」という文章と「サブカルチャーのファシズム起源」という文章を読むと、大塚の抱えている問題意識は、中塚圭骸との対談のなかにある〈サブカルチャーの非政治的なやっかいなところ〉〈つまりサブカルチャー的なものっていうのはさ、結局、政治性みたいなものをすごく暴力的に飛び越えちゃうのね〉といった言葉に集約されている、と思われる。以前から繰り返し主張されていることでもあるが、その、今日この国においてサブ・カルチャーの非政治性がどのように厄介なのかは、大塚に上野俊哉、トマス・ラマール、トム・ルーザーによる座談会「世界の中の、戦時下のおたく」で、多角的に検討され、そこで大塚は〈なんでおたくがファシスト化したかっていうと今の日本の中だけ見てみても説明できないわけじゃない。本来、非政治的だった彼らの言動が何で右傾化するのかわからないけれども、そこでぼくはおたくのファシズム起源という仮説を立てたわけで、まさにその、おたく文化というのはテクノロジーに対する礼賛で、アニメに関してもテクノロジーに関する美意識みたいなものが非常に発達していて〉といっている。この言葉は、あれはどこだったか(未確認だけれども『KINO』のガンダム特集の号だったかしら)、富野由悠希による『マトリックス』以降を例に挙げたテクノロジー批判を思い出させる。要するに、テクノロジーによってスペクタクルの量産が軽く可能になることは実質を低下させる、あるいはテーマのようなものがなくとも表現が成り立ってしまう、というような話だった気がするが、そうして創出されたスペクタクルは、中心が空洞の形骸でしかないがゆえに、用途に応じて、いかようにも歪曲できるし、それでもなお相応の効果を発揮する、といった危うさを自覚すべきだ、との意識が根底にはあるのだろう。むろん、これに対して、しょせんサブ・カルチャーなんてツールだし、と反論することは可能だが、たとえば浦沢直樹の(最近の)マンガを見ていると、作中人物自身が正義漢だからサブ・カルチャー表現における正義の味方に憧れるのではなくて、サブ・カルチャー表現における正義の味方に憧れるから作中人物が正義漢として描かれるといった具合に、つまり倫理や道徳よりもサブ・カルチャーのほうが上位にある、そういう世界観が、ごく自然と大勢に受け入れられている以上、やはり、ある種の慎重さは持ちたいところである。そのほか、収められている論考のなかでは、泉政文という人の書いた「誰がために我走る〜あだち充小論〜」が、もっとも自分の関心に近いものなので注目したのだけれども、あまり刺激を受ける部分はなかったかな。用いられている資料(あだち充と島本和彦の対談は以前『サンデーGX』05年7月号に掲載されていたものでしょう。論旨におおきく関わる箇所なんだから、ちゃんと明記しようよ)などから、「報われない属性」というタームを導き出してくるのだが、それはいわゆる、惚れた弱み、とどこがどう違うのか。三角関係における他者の重要性(ときに他者論が恋愛論と深く関わってしまうのはこのためである)についての考察が足りないというか、おそらくは意図的に無視されているからであろう、ここで主張されている〈「報われなさ」を経由した「優しさ」〉の意味を掴みあぐねた。

 ※この項、思うところがあって大幅に書き改めました。

 『COMIC新現実』vol.2について→こちら
 『COMIC新現実』vol.1について→こちら
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2007年04月15日
 『群像』5月号掲載。川崎徹の小説をぜんぶ読んでいる自信はないのだが、この『海近しの眩しい陽射しが』の、ゆっくりと老いる速度のなかで、じょじょに近づいてくる死を観察する、といった内容は、これまでの作品と似て、通じるものだ、と思う。もはや若くはない、語り手である〈わたし〉は、人の死にまつわるいくつもの催事を経由し、記憶のあちらと日常のこちらとを往復する。小説の重心は、母親の十三回忌のあと、中学三年生の姪が、書物で得た死生観を披露すると、〈わたし〉の妹がそれに疑問を呈し、そのやりとりを傍らに聞いていた〈わたし〉が、半信半疑というか、ほとんど否定的な気分で、過去に、「いたこ」と対面したときのことを思い返す、そのくだりにかかっているふうに感じられた。ここでの妹の、現実的にするどい調子は、同作者の「彼女は長い間猫に話しかけた」あたりとリンクする部分でもあるので、もしかすると実体験と密な関係にあるのかもしれない。が、さておき。先述した箇所における、〈葬式で棺の中の顔を見るたびに、この人は体を置いてどこに行ったのかを考えた。考えるまではいかず、思った。いまもそれは変わらない〉という、そのところにある〈考えるまではいかず、思った〉、この状態で語りのバランスは保たれており、そうした角度からの視点によって、生(生者)と死(死者)の結びつきが捉まえられているからである。それも含めて〈わたし〉のなかには父親によく似た資質のあることが実感できるのに対して、「いたこ」が口寄せた母親はまったく母親には似ていない。にもかかわらず、「いたこ」の体から〈霊魂の去った姿は、抜け殻のようだった。もとの彼女に戻っただけだったが、大切なものが抜け出てしまった形骸に見えた。いったんそう思ったら、ますますそう見えた〉のである。この部分を、肉体と精神または形而下と形而上の、二項式で解釈することは可能であろう。むろん、感情論を排せば、前者と後者では、後者のほうが錯覚に近しい。が、しかし、どちらをより確かと信じるかは、各人の判断、主観による。そのことと同時に、ここでは、ペアと呼ぶべき結びつきが、強調されている印象を受ける。たとえば〈わたし〉の、友人夫婦のことであったり、父と母のことであったり、電車で見かけた言い争いをする男女のことであったりする。両親の墓参りに赴いたさい、墓石に、寄り添うよに貼りついた二匹のナメクジを、あれだけ合理的な考えの持ち主である妹が、両親の再登場した姿であると信じているのが、〈わたし〉には訝しい。この態度は、亡くなった友人の父親が、一匹の我に息子の姿を重ね合わせる場面でも同様で、〈だが、我は我であり、故人ではないことを十分承知しつつも重ね合わせてしまう相手〉に対して、どう対処したらよいものか、〈曖昧な相槌を返すしかない〉のである。先ほども述べたように、感情論を排せば、〈わたし〉の態度は間違っているとはいえない。けれども、感情を媒介とするからこそ見えてくるものもあって、それへの、ささやかな肯定が、ラストのセンテンスで〈わたし〉に、一匹ばかりではない、二匹の我の存在を思わせる。

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2007年04月14日
 ポップ・カルチャー年鑑 2007 (2007)

 文化デリック(川勝正幸・下井草秀)の『ポップ・カルチャー年鑑2007』は、昨年(06年)版のときも書いた気がするが、映画や小説、音楽など、自分のカヴァーしている範囲と被るものもあるにはあるが、世代や趣味が違うからだろう、取り上げられている作品に関してあまり感心しない(小説だったら『わたしを離さないで』とか『世界の果てのビートルズ』とか、映画だったら『ラストデイズ』とか、個人的には、ぜんぜん高く買わない)のだけれども、じつはそのへんが逆に、愉しく、読める。なかでも、菊地成孔が現在のコーネリアスを評して、〈大人っぽいの。社会的ではなく、生物学的な大人感というか〉、それは〈小沢健二があれほど見え方を変えようとして苦労してるのに比べるとね。大人になる。っていう、これはある意味、日本人の大問題を、この二人が実に対照的な形で実践している〉といっているのが、たいへん興味深かったし、あと、やはりゲストの話題になってしまうのだが、掟ポルシェのヤンキー臭とは無縁でありたいニューウェイヴ観とか、ZAKが振り返るエンジニアとしてのキャリアと今日におけるマスタリングの意味合いなども、なるほどねえ、と頷く(このぐらいのレベルで大西祥平の突っ込んだ話も読みたい)。それから、近田春夫がメガデスのドキュメンタリーDVDを挙げ、デイヴ・ムステインとメタリカとの確執を指し、〈だって人生それだけで生きているもんね。この人はメタリカに真剣に勝ちたいと思ってる〉そのあたりがストレートにロックの真髄であり奥深さなので、このDVDはぜひみんな買ったほうがいい、と推しているのが、おかしかった。

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2007年04月13日
 刀語 第四話 薄刀・針

 ようやく話にノレるようになってきた。西尾維新の大河ノベル『刀語 第四話 薄刀・針』は、序章の段階で予告されているとおり、急展開とでもいうべき内容になっているのだが、それというのは要するに、ここまでのパターンを逸脱するとともに、べつの角度から物語が動揺させられることを意味しているわけだけれど、ここで見せられる意外さというのは、たとえ事前に予測していなかったところで、まあ、今日的なサブ・カルチャー表現に慣れ親しんだ向きからしたら、おそらく、そんなには珍しくないものに違いない。つまりサプライズの効果よりも、アジテーションの意味合いが強く、それはそれでそれなりに、うまくいっているように思う。そうした結果、主人公格のふたりに関して、さらに存在感が薄まった点に難をいうこともできなくはないが、敵役も含めワキを固める登場人物たちが、メインの登場人物以上に魅力的に描かれるというのも、この手の作品にあって、しごく真っ当なエンターテイメントを盛り上げるための手法だといえるので、むしろ、それらの存在がユーモアに傾いたさい、語りのなかにおかしさを感じられないあたり(もちろんこちら側のセンスに問題があるのかもしれないけれども)、すこし歯痒い。

 『刀語 第三話 千刀・ツルギ』について→こちら
 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら
 
・その他西尾維新に関する文章
 『新本格魔法少女りすか3』について→こちら
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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 『新潮』5月号掲載。前田司郎の『グレート生活アドベンチャー』は、三十歳無職男の話である。三十歳で無職の語り手〈僕〉は、将来のことなどに関して、何も考えていない(ように見える)。自分の部屋で一日テレビ・ゲームをして過ごし、金が無くなったので、付き合っている彼女の家に転がりこみ、彼女が働きに出ているあいだ、彼女の日記や彼女の持ち物である少女マンガを勝手に読んだり、彼女の部屋にあるものにいたずらをしたり、それ以外は、ほとんど唯一自分の持ち物であるテレビ・ゲームをしたり、あとは寝て過ごす、要するに、まあ、典型的な駄目人間じゃんね、といったところだが、しかし、この小説で駄目人間が、そのように正しく書かれていることの先にあるものを、すこし考えてみたい。いきおい半径5メートルのリアリティという言葉を使用させてもらうが、一個の人間を中心にした半径5メートル圏内に発生する現実感とは、つまり、それだけの広さには他人の介入する余地があり、他人の介入してきたことを契機にして、主体のうちで形成されるエモーションに拠っている。しかしながら、たとえば引きこもってさえいれば、目の見える範囲や手の届く範囲から他人を排除することは可能であるし、あるいは今日、無感動や無関心を通すことも異様な振る舞いではなく、したがって常備さえしていれば、近くにいる他人を徹底的に無視することも不可能ではない。こうしたときに、ではリアリティやエモーションはまったく消去されるのかというと、意外とそうではなくて、たんに別種のそれらが取って代わり、主体のなかへと入り込んでくるだけのことなのではないか。かつて〈僕〉には妹がいた。2年前に死んでしまった。そのことを悼んでいる様子は、とりたてて〈僕〉からうかがえはしないのだけれども、にもかかわらず作中において、すくなからず言及される。もちろん、そうすることによって、〈僕〉というアパシーな状態が見えやすくなる効果はあるだろう。だが他方でそれは、実在とは異なるレベルで、主体に関与してくる、他人の影とはいえまいか。言い方によっては、幽霊とも妄想ともとれる。要するに、実在していない以上、べつの他人とは共有することのできない対象に端を発する、リアリティでありエモーションである。小説の終わり、ただパスタを茹でている最中、いきなり〈僕〉はパニックに襲われる。〈急にあわただしいような気持ちになった。世界が端から崩れ始めている。ほっておくと立っている場所もなくなってしまう。逃げてもそれは追いかけてくる。止めるしかないのだけど、それがなんなのかも良くわからない〉のである。しかし、じっと見つめてみると〈それは不安のようにも見えた。僕は不安の類を全部目の届かないところに捨ててきた。秘密裏に、後ろめたい物をどっかの海に沈めるみたいに。しかしそれが今莫大な量になって、己の嵩で圧縮されてなんだか硬いもう別の物質のような非情な塊となって僕の中にある。それはしこりのようで、ごろごろした質感をもっているように思えた。グロテスクで純粋な悲観の権化、それを僕は迷宮の奥深くに隠していたみたいだ〉ということがわかり、そこで〈そんなものを真面目に相手にしてはいけない。日常の生活に埋没させるんだ〉と思う。こういわれている日常の生活とは何でどこか。おそらくそれは、あの半径5メートルのリアリティが生じうる場所に他ならない。だからこそ、きっと、キッチンに散らかったパスタを発見して怒る彼女に対して、〈僕は言い訳を考え始めないといけない〉のだ。

 『恋愛の解体と北区の滅亡』について→こちら
 『愛でもない青春でもない旅立たない』については→こちら
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2007年04月12日
 世界でいちばん醜い子供

 八木剛士のシリーズは、もしかすると浦賀和宏流のラブコメ(ラヴコメ)なのではないか、というのは以前から思っていたことではあるが、意外とそのとおりなのかもしれない。シリーズ最新作『世界でいちばん醜い子供』では、これまでその内面があからさまに明示されなかったため、当面の主人公であった八木剛士を小悪魔的に翻弄する、いわばヒロインの役をつとめていた松浦純菜が語り手に置かれ、そうすることで物語の見え方に微妙な変化が加えられている。当人の与り知らぬ因果によって、謎の組織に命を狙われ、いくつもの怪事件に関わってきた剛士であったが、しかし、あるときを境に、唯一自分のことを受け入れてくれた存在の純菜から拒否されてしまい、そのことをきっかけに覚醒し、ついに自分を迫害してきた人間たちへの復讐を果たす。というのが、前エピソード『さよなら純菜 そして、不死の怪物』までの、だいたいの筋で、いやあ、やけに血なまぐさいじゃないか、といった具合なのだけれども、それがここでは、ほんとうは両想いのくせして、とんだ勘違いによってすれ違い、あわやトンビに油揚げをさらわれるかという、あの、古典的ですらある恋の鞘当てへと、転調する。ああ、南部の、見事なまでの噛ませ犬ぶりであることよ。噛ませ犬がいい奴だというのも、この手の話におけるセオリーであろう。とはいえ、もちろん、この作者のことだから、劣等感があるゆえに人間は妄想するアシである、と言わんばかりの自意識をぐるぐるさせる語り口は、手放されていない。その語り口が、小説そのものの顛末に深く関わっている点も、然りである。それにしても、だ。ここまで来たら、純菜と剛士には是非ともうまくいって欲しい、と思う。が、しかし、まあ、どうか。両者は一種のシンメトリーであり、その精神の傾きは、とてもよく似ている。

 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

 「リゲル」について→こちら
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2007年04月01日
 小倉千加子がどのような意図をもって、これを書いたのかはわからないが、『ナイトメア―心の迷宮の物語』は、いつものような、批評や分析というのではなくて、あくまでもフィクションの体を保っている。作家である語り手〈私〉のもとに、あるとき、ひとりの学生からの手紙が届く。出だしは「ナイトメアの話をしてもいいでしょうか?」と、こうである。ナイトメアとは、芥川龍之介の『闇中問答』に出てくる、「僕」と対になる「或声」のようなもの、いわば自意識の反響であり、彼女もまた同様の現象に、自身を苛まれている。手紙を読み終えた〈私〉は、〈彼女を、ナイトメアと呼ぶことに〉し、そうして深入りしない程度に関わったなかで知ったことを、淡々と語りはじめる。ものすごく簡単にいってしまえば、ここ最近の著作で小倉が述べてきたことを、抽象的な物語へと移し換える、そういう内容で、現代という時代にあって女性性がいかにダメージを受けているか、が、中心的な話題となって進むのだけれど、そのような書き手のこれまでの仕事を抜きにして、作品を単体で見た場合、90年代の村上龍やJ文学期の女性作家によって書かれたことのある小説のワン・ヴァリエーションに止まるかな、といった気がしないでもなく、散文としての強度はそれほど高くはない、そうであるがゆえに、ここでは、論理に準ずる根拠が先ずあって、それをわざわざ虚構めいたストーリーに変容させる、といった手つきをどう見るかが、結局のところ、評価の基準になるのではないかと思う。たとえば〈ナイトメアの苦しみは、女性にとって不可避の、構造的な、底の深いものであると私は思っている〉といわれてしまうと、男性でありながらも、ナイトメアあるいは語り手である〈私〉に同調しつつ、ページをめくっていた読み手は、ふと困らされてしまう。むろん、そのとき、ここでいう性の区分は単純な性差によるものではない、との解釈が為されるべきであろう。が、しかし、それは、そうした教養をある程度有しているか、または書き手である小倉の、以前の仕事を参照してのことであり、作中の言葉そのものが持つ説得力と、必ずしも重なっているわけではないのである。

 『シュレーディンガーの猫―パラドックスを生きる』について→こちら
 『17歳 モット自由ニナレルハズ』について→こちら
 『結婚の条件』について→こちら
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2007年03月31日
 新本格魔法少女りすか3

 いよいよ3巻目となる西尾維新の『新本格魔法少女りすか』に収められている三篇(第七、八、九話)はどれも、『ファウスト』掲載時に目を通してあったにもかかわらず、以前にも増して愉しく読めたのに驚かされる。それで、こうやってひとまとめに再読しつつ、改めて確認したのは、つまり、この作品にあっては、限定空間における限定条件下の心理戦が妙味になっている、ということである。じっさい、ここでのエピソードはみな、閉じ込められた範囲内で、主人公たちが、いかにして課せられたハンデを克服するか、を描いており、また、そのへんを成り立たせるにあたっては、ミステリ小説的というかロジカルな理詰めを用いるというより、どちらかといえば、マンガ的な一点突破の精神論を軸にしていて、スリルやサスペンスを覆すさいのカタルシスも、そこに拠って生まれている。まさしく第八話目でいわれているとおり〈元々、魔法っていうのはフィジカルじゃなくてメンタルなものだからね――できると思えばできるし、できないと思えばできない。そんなとんでもない精神論が、当たり前のようにまかり通り世界〉なのであり、第九話目では〈ぼくはぼくだ。ぼくは自分を否定しない――パラレルワールドなんて認めない。ぼくがぼくでない世界なんて、この世に存在していいわけがないんだから〉の決心たる一言が状況を打破してしまう。しかしながら、である。結局のところ、そうした展開が燃える。行動だけを見れば(小学生とは思えぬほどに)きわめて非情であり冷静な語り手であるところの「ぼく」イコール供犠創貴を含め、たしかに、この小説の登場人物たちは特殊な資質の持ち主ばかりだが、突き付けられた無理難題を、少年や少女は、ほとんどガッツのようなもので乗り越えて、ゆく。とはいえ、じつは第九話目のラストにおいても、完全に窮地から脱し切れたとは言い難い状況なのだけれど、見事に不安を払いのけるかのような、語り手の強い意志が逞しく、それこそが物語を盛り上げる一大要素であるとともに、この作品のうちにある倫理として捉まえても差し障りがない。

 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
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2007年03月26日
 泣き虫弱虫 諸葛孔明 第弐部

 かつて『小説すばる』に不定期連載されていた酒見賢一のコラム「マンガたたき台」が最高潮に好きでね、つねづね一冊にまとまってくれないものか、と願っているのだが、なかなかなあ。でさあ、と話が続くのは、この『泣き虫弱虫諸葛孔明』における酒見の書きぶりは、じつはあそこでのそれに近いのじゃないかしら、と思うからで、もちろんこれはコラムなどではなくて、純然たる歴史小説である(はず)なのだけれども、中国史上において名高い武将たちの厳然たる漢(おとこ)ぶりを期待して読むと、びっくりすること間違いなしである。たとえば、かの関羽などは〈たんに「器の小さい髯自慢の男」と切り捨てたいのはやまやまなのだが、その強さは天下無敵、一人で一万の兵を殲滅可能という戦術核兵器type-Iじみた虐殺の達人だから、一目も二目も置かざるをえないのである〉と形容され、〈書物に極端に影響されて人の道を誤る理想主義者はときたまいる。関羽が始末に困るのは動機がたいてい“義”であるだけに(理論上は)道を誤っているとは言えないし、道義とは誰にも否定しようがないものであるから、皆恐れて間違いを指摘できず、(現実に照らした)勇気ある忠告をする友もいなくなった。それがまた関羽のプライドを暴走させてしまうのである〉とまでいわれてしまう。しかしながら、けっして関羽を貶めるためにのみ、こう書かれているわけではない。記述者であることに自覚的な語り手(ときに作者自身)の存在は、酒見のデビュー作である『後宮小説』のときからして、すでに顕著なものであったが、それというのはつまり、作中の人物に対して絶えず行われる批評が、小説の内部に持ち込まれることを意味する。ここでは、『三國志』正史や『三国志通俗演義』その他もろもろの先行する関連テクストを参照し、引用することで、虚構的な事実(あるいは事実的な虚構)が再検証され、再構築されている。第一部(無印の『泣き虫弱虫諸葛孔明』)では、主人公である孔明が三顧の礼をもって劉備軍入りするまでが描かれていたけれど、第二部(第弐部)では、長坂坡の戦い(いくつもの伝説つくり)をクライマックスに、難物揃いである劉備軍のなかにあっても奇抜さでは引けをとらない孔明がいかに彼らをコントロールしてゆくのか、が、ユーモア満載の語り口によって捉まえられている。いやあ、ほんとうに砕けた文章で、某アニメの主題歌を大胆にも組み込んじゃったP120あたりのくだりには、思わず仰け反った次第である。そういえば、と、ここで話は変わるのだが、『後宮小説』が第一回ファンタジーノベル大賞を受賞したさいの選考委員には高橋源一郎がいたからいうわけではないけれども、高橋が『ニッポンの小説』でやっていることと、酒見が『泣き虫弱虫諸葛孔明』でやっていることは、あんがい近いのではないか。近しいが、しかし異なる。要するに、似て非なる。『ニッポンの小説』は、書き手が、作品ばかりではなくて自身すらも、詩になることを恐れない、むしろ望んでいるので、純文学(ないし純言語芸術)的に機能しようとする。一方で、酒見の場合は、たとえば『陋巷に在り 1』文庫版の「あとがき」などから推測できるとおり、詩と小説の区別は判然としており、あくまでも小説家であろうとする意識によって、その作品は物語的に読まれようとする。むろん、それをもって文芸におけるジャンル的な言いを述べるつもりもないし、せいぜいが、たんなる私見に過ぎないのだが、せっかくなので思い付いたままに記しておきたい。
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2007年03月23日
 ロング・グッドバイ

 個人的には、村上春樹の訳しぶりは、彼自身が公言しているほどには、作品を〈現代の感覚(近しいもの)で洗い直〉しているとは感じられず、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』も『グレート・ギャッツビー』も、以前からある邦訳に比べ、それほど大きな清新さを覚えなかったのが正直なところで、そのことは、このレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』に関しても、印象を違えない。まあ、話の筋をすでに知っているんだから、細かいところにこだわらなければ、たんなる再読に止まってしまうという、こちらの読み方の事情もあるだろうし、それを愛着の問題に還元すれば、やはり『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に対して『ライ麦畑でつかまえて』がそうであったように、『ロング・グッドバイ』よりも『長いお別れ』のほうに愛着がある、というだけのことなのかもしれない。が、さておき。このフィリップ・マーロウを主役とする都会の探偵小説を、いかに村上春樹が捉まえているか、を解説した「訳者あとがき 準古典としての『ロング・グッドバイ』」に目を通しながら、ふと思うところがあったので、それについて書いておきたい。ちなみに日本文学において、準古典というとき、多くの場合、明治・大正あたりの小説を指すと思われる(というようなことを吉本隆明が言っていた気がする)のだが、つまり、すっかりと近代化された場所で書かれたものではなくて、じょじょに近代化しつつある時代に書かれたものだという意味合いを含むのではないか。もちろん『ロング・グッドバイ』の舞台は、明治・大正期の日本に比べるまでもなく、ずっと近代化の行き届いた1950年代(でいいのかな)のアメリカであり、むしろその当時に発表された作品が、準古典として数えられるほどに時代が流れた節を考えるべきなのだろうけれど、こちら読み手の意識のうちにあっては、フィリップ・マーロウの立ち振る舞いから、その精神が近代化されてしまうのに抗って現れるものを、見てとることができる。清水俊二訳による『長いお別れ』のあとがきで、清水は、文章のスタイルに加えて、〈アイルランドのクエーカー教徒の家に生まれた母親の血をひくイギリスびいきの目で、一九三〇年代から一九五〇年代にかけてのアメリカの風土、文化、社会を見つめ、その描写が味わいの濃い文明批評、社会批判になっているところ〉がチャンドラーの魅力であるといっており、村上は、フィリップ・マーロウと彼の友人であるテリー・レノックスの関係は、スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』におけるジェイ・ギャッツビーとニック・キャラウェイを思い出させ、〈マーロウは、ロス・アンジェルスという正体をつかむことのできない大都市の中で孤独に生き延び、自分自身の軌範を維持していくためには、ときとして子供っぽく、そしてある場合には滑稽にさえならざるを得ないのである。そしてそのような子供っぽさ、滑稽さは、ニック・キャラウェイの見せる頑ななまでの生真面目さに相応するし、『ロング・グッドバイ』においてマーロウが最後に背負い込む深い憂愁と孤絶感は、青年ニック・キャラウェイが東部の都市の喧噪の中で、その未曾有の経済的繁栄の中で体験することになる、憧憬と幻滅の物語にぴたりと重なっていくのである。それらの物語はまた、個人と都市とのあいだで繰り広げられるせめぎあいの物語でもあったのだ〉といっている、たとえばそういった部分のことである。近代化とは、過去の日本において、生活が、資本化または都市化あるいは西欧化ないしアメリカ化することと同義であったといえよう。これはもしかすると(あとがきを読んでしまったことも含め、村上春樹というバイアスがかかっているための)錯覚かもしれないが、『ロング・グッドバイ』は、清水訳『長いお別れ』に比べ、ハードボイルド的なタフネスよりも、急進的に成長する社会のなかで、適者であることを強いられるがゆえに、一個人によって行われる消耗戦の色合いが、濃く出ているように感じられた。あるいは、その点が、近代という磁場に立たされた人間の孤独とでもいうべきものを思わせる。
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2007年03月13日
 『文學界』4月号掲載。第37回九州芸術祭文学賞最優秀作となった芝夏子の『ナビゲーター』は、30歳の女性が失恋のダメージより回復するまでの過程を、婚約者との破局からはじめている。〈四年に及ぶ付き合いで、去年の暮れに婚約し、今年の秋に挙式するはずだった〉三歳年下の相手に、200万円の慰謝料を渡され、一方的に婚約解消を告げられた〈私〉は、もちろんふられたことに納得できるはずもなくて、そのためフリーランスでやっているプログラマーの仕事を取ってくる気にもならず、空いた時間を、半ばストーカーのように彼の経営する喫茶店へと通い詰めながらも、このままではいけないと考え、手元にある200万円を贅沢に使い切ることで、気持ちを切り替えてしまおうとするのだが、ふだんから〈貧乏性で倹約家の私はこんな時でも冷静に使い途を見極めようとしているらしい。それに合理性を重んじる私としては、無駄なものは買いたくないのだ〉と、なかなか思い切った買い物には踏み出せない。こうした宙ぶらりんの状態の〈私〉を〈私〉が〈私〉の力でなんとか立て直そうとする、その姿形に心触れるものがあった。この小説では、筋立てのなかに、再生を促すためのドラマティックな出来事が丁度よく用意されていない、むしろ逆に、平坦にならされていた日常が、突然の失恋によって、あたかもドラマティックに変容されてしまった場所から、語り手は、自前の物語でもって修正を行っていくのである。たとえば、病弱だった幼児の頃に病院の外に見えた鉄塔と父親の夢に関するエピソードがあり、〈夢の話を父から聞かされて以来、私は何かあると山下病院の前にあるこの公演に来て、ぼんやりと鉄塔を眺めるようになった。大学受験を失敗した時も、親友から絶交を言い渡された時も眺めた。また頑張ればいいさという前向きな気持ちがわいてくる〉ので、恋人にふられた夜も、やはりそれを眺めに行こうとしタクシーを走らせる、といった具合に、だ。そうして〈公園から鉄塔まではどれくらい距離があるだろう。一キロないくらいか。ふと、眺めているだけじゃ物足りなくなった。一度そう思うと、居ても立ってもいられないほどの激しい思いに変わった。今すぐ駆け出して鉄塔へ近づきたくなった〉のだけれども、そこへ至るための道順がわからない。ここで作中に浮上した鉄塔への憧憬は、〈私〉の虚しさと重なり、鉄塔との距離を詰めることが、その虚しさを埋めることと合致するかたちになる。鉄塔のある場所は、そう遠くないはずだから、ときおり目指してみるのだが、なぜか〈すぐ近くに見えてきたと思って勇んで歩いて行っても、道は迂回していて、あれよあれよと鉄塔から遠ざかる。近くに行けば行くほど、ふと見失ったりする。拒否されているみたいで少し悲しくなる〉と、このような右往左往を、傷心からの回復もまた強いられるのである。そこからどうやってブレイクスルーするのか。おそらくは平明を心がけた文章を追っていくうち、じょじょに強く、関心が募り、そうした期待に十分応えてくれるだけの結末へと、ちゃんと辿り着く。
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 『群像』4月号掲載。小林エリカの『ノース・ショア』には、今や日本のインターネットのシーンでは一般的になったミクシィが出てくる。語り手は、ミクシィを通じて、小学校時代の知り合いと再会し、その知り合いから、初恋の男性が現在どうしているのか、の情報を手に入れるのだ。ミクシィで旧い知り合いを発見するというのは、僕個人は経験したことがないのだけれど、わりとよく聞く話でもあるので、そういう意味では、ある種のリアリティを支えうるような小道具なのだろう。しかし、その小道具は、役割を果たせばすぐに、小説の舞台からは片付けられてしまう。こうした扱いは、他の固有名を持った小道具に関しても同じで、たとえば語り手である〈私〉がハワイに渡り、〈トランクからCDを取り出し、ジャック・ジョンソンをかけた〉りするのは、初恋の相手である皆川君に対して〈私はいつでも、こんな音楽を聞いている素振りをした〉いがためで、〈わざわざインターネットで調べて買ってきたCDで、私の知っている音楽の中で最上級に洒落たものだった〉のだが、〈皆川君は、音楽を聞くと、ジャック・ジョンソン、懐かしいねと、笑った〉それきりで、やはり作中のどこへも影響していかない。あるいは小学校の頃にアイスを食べる箇所がある。わざわざガリガリ君と銘が指定され、わざわざ〈ガリガリ君は水色で、時々、溶けて〉云々と描写されるほど、もしかしたら語り手にとって印象深い記憶なのかもしれないけれど、後年になって、つまり話の筋が進んだところで振り返られることもなく、たんに水色のソーダ・アイスで十分に意味が通じるのに、わざわざガリガリ君でなければならなかった理由は反故にされてしまう。あたかも無為な会話が思いつきに頼って強引に続けられているかのような。何の話をしているのかといえば、要するに、これを小説として見た場合、細部がまったく機能していないのだ。散文的といえば聞こえはいいが、まあ今どきのポエムともJポップの歌詞的ともいえる抽象的な言葉遣いが連続することから推測すれば、おそらく作者がここで行っているのは、なにがしかのイメージを語りのなかに定着させることであろう。だが、それのみである程度の長さがある物語をつくろうとしてしまっているため、断片が羅列されるばかり、やや独りよがりなまま完結してしまっている印象である。いち場面いち場面に限定すれば、たとえばチェルノブイリの記憶をノスタルジーの一部に転化してみせるあたりとか良い箇所もあるだけに、それらが有機的に結びついていないのが、残念でならなかった。

 『終わりとはじまり』について→こちら
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2007年03月12日
 中原中也帝都慕情

 中原中也について書かれたものを読むと、彼のような人間は彼以外にはいないという気になるのだけれど、もちろんそれは事実に違いないにしても、他の人物について書かれたものを読めば読んだで、だいたいは同じように、その人物以外にその人物のような人間はいないと感じたりもするのだから、つまり、そうした効用こそが評伝的な力というものだろう。福島泰樹の『中原中也帝都慕情』は、詩人中原中也の足どりを、ここでいう足どりとは当然その生涯の意味を含むと同時に、文字どおり中原が歩き見てきた風景を、たとえば書き出しに〈大正十四(一九二五)年三月、京都での学生生活を終え、年上の女長谷川泰子とともに上京した十七歳の中原中也のたどった道筋を追って山手線高田馬場で下車〉とあるように、書き手の主観によって再構成したもので、その道程には、石川啄木や芥川龍之介、宮沢賢治に萩原朔太郎、そしてもちろん小林秀雄などといった、何人かの文学者たちの影が伴走する一方で、長谷川泰子の『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』からの引用が少なくないことからもわかるとおり、書き手の感情移入は、中原と長谷川との関係性に強く出ていると思われた。正直なところ、物語せしめた対象に自己を重ね合わせ、メロドラマめく語り口には、やや過剰なものを覚えるのだが、長谷川が小林秀雄のもとへ去ったときのことを、中原当人が「我が生活」のなかに記録としてしたためた箇所を引き、それが〈泰子の回想とは、まったく違っているのはどうしたことか。相談されることもなく、不意を喰らったことがよっぽど口惜しかったのだろう。まるで合意の別れのように脚色している〉と指摘しながら、しかしだからこそ、その文章自体がどう響くのか〈私は中原中也の散文をかわない。小説はあどけなく(毒がなく)、評論は理屈が優先しすぎている。しかし「我が生活」にみせたこの一連の冴えは抜群。艶やかで粘っこく悲しい。文体の張りがなによりもいい。フォービートのリズムに乗って場面が見えてくるようだ〉と述べる、こうした批評の部分に心へ留まるものがあった。
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2007年03月09日
 『新潮』4月号掲載。運命があるから人はそれを信じるのか、それとも人が信じるものを指して運命と呼ぶのか。こうした問いは、舞城王太郎の過去作『九十九十九』において、まさしく自分の尾を噛むウロボロスの蛇であり、そしてそこでの名探偵九十九十九は、連環する時間の〈その一瞬の永遠の中で、僕というアキレスは先を行く亀に追いつけない〉と思うのであったが、この小説のなかで探偵役をつとめるディスコ・ウェンズデイは、パインハウスに発生したウロボロスの環を解き、永遠という時間の結着にあたる場所を突き止めようとする。「ディスコ探偵水曜日」の第三部「解決と「○ん○ん」〈最終回〉」である。前回のラストで姿を現したルンババ12は、いわばブリッジの役割を担っており、文字どおり橋の上で彼と向き合うディスコは「運命って何や?必然って何や?出来事が意志と運命の産物なら偶然なんてないはずや。そこにはそもそも運命があるか、あるいは意志に導かれた新しい運命があるはずなんやでな。でも意志は俺らが生むにしても、運命ってどっから来るんや?ぽこってどっからか湧いてくるんか?あんな、よう考えてみ?俺がここに十二番目に来たの、俺の意志やと思うか?ここでは俺は明らかに文脈を作ってるんや。誰のために?何のために?順番をどうこう言うってことは全体を踏まえるってことや。1も2もねえんやったら9も10も12もねえもんな。文脈を作るってことは前後に関係性を持たせるってことや。文脈を読むってどういうことかって、次を予想することや。次があるんや、ウェンズデイさん」と言われ、すべての断片にかかっている意味をひとつずつ拾い集めていく気持ちを固めるのであった。いやいや、ここからの展開こそが、まさに怒濤とでもいうべきもので、これまで作中の名探偵たちにより披露された推理が、けして正解そのものと重ならなかったのは、それが細部から仮構された全体の像でしかなく、いうなれば主観を始点にして引かれた線であるため、真っ直ぐに引かれていることを他の人間に説得することは可能だとしても、じっさいに真っ直ぐであるかの判定は、事実によってのみ下されなければならない、つまり歪みに気づかない場合、あるいは歪みを意識的に無視してしまった場合ならば、真っ直ぐにも見えるのだろうが、しかし事実的には真っ直ぐではない、なかったからだ。と、そのような実証の、とんでもロジック的なダイナミックさが、最大級の見物である。さらにいえば、そうした経緯をえて、物語は、荒唐無稽というか無理無体にも思える時間SFの要素を飲み込み、数多くの伏線が一挙に回収されるに至るのだけれど、ここのくだりにとにかくパワーがあって、そりゃあねえだろうと思う一方で、すごいすごいと感嘆し、ひさびさにこの作者の力量を見せつけられた感じだ。ところで、まあ、いちおうこの回で第三部は終了し、全編を完結させる第四部は、今夏単行本にて書き下ろされるらしいのだが、正直なところだよ、こうして毎回連載を追ってきた読み手にしたら、やっぱり連載のかたちで最後まで見届けたうえで、単行本を再読の愉しみにしたかったよね。

 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第四回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「子猫探し」について→こちら
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2007年03月08日
 刀語 第三話 千刀・ツルギ

 要するに、だ。西尾維新の『刀語(カタナガタリ)』は、読み手からの過剰な解釈を極端に拒むような、そういう作品なのではないか、と思ったのは、たとえば語り手は作中の人物に設定されておらず、ほぼ間違いなく作者自身であると考えられ、その語り手によって、登場人物たちをめぐる状況ばかりではなくて、彼らの心の動きまでをも詳細に解説されているとき、読み手が、いやこの登場人物はそんな奴ではない、と反論することは難しい。したがって読み手は、綴られている内容を綴られているまま直線的に追っていくよりほかないのだけれど、いや、まあたしかに、エンターテイメントの小説とはかくのごとくあるべきだ、といわれればそのとおりなのだろうが、ここで気づかされるのは『刀語』における西尾の作風とはもしかすると、ワン・シーン・ワン・シーンごとの高い再現性で、読み手にその場面を追体験させるというよりは、登場人物に付せられたテーマやスペックに口癖など(全部を合わせてキャラクターと言い換えてもいい)をフックに、あるいは順繰り順繰り開示されるそれらが、いかに読み手の側があらかじめ想定するイメージに合致するか、その判断でもって読ませようとすることに特化されている。つまり『刀語』という題名が何か暗示的であるとすれば、作品に内包されているのは「物語」ではなくて、あくまでも「語」のみなのであり、略された「物」の部分は、読み手とのある種共犯関係を通じ、はじめて成り立たせられる。さて、出はじめのころは、それこそ与えられた特徴を抜かせば、ほとんど木偶の坊でしかなかった主人公の二人に、この『刀語 第三話・千刀・ツルギ』あたりから、ようやく内面じみたものが蓄積される(語り手が説明する)ようになってきており、だからこそ、先に述べたとおり、あくまでも登場人物そのものを読ませるつくりであるため、ようやく話を追いかけるだけの関心が引っ張れるだけのかっこうがついてきた印象である。

 『刀語 第二話 斬刀・鈍』について→こちら
 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年03月05日
  鏖みなごろし

 三宅乱丈がマンガ化した『鏖(みなごろし)』の単行本に併せて収められた阿部和重の書き下ろし新作小説「くるみ割り人形」は、阿部という作家の卓越した批評性が凝縮された短篇となっている。しごく簡単にいえば、14歳の少女ユリがクリスマスの晩に経験した悲惨な出来事をまとめた都市伝説「十四回目のクリスマス」の、その続編が、作中の人物によって作中の人物に語られる、というものなのだけれど、おそらくは作中の人物によって作中の人物に語られている内容が、作外の我々に読まれ、なんらかの解釈が施されることを射程に入れたうえで、作者がこれを書いているのだろうというのは、たとえば作中において「十四回目のクリスマス」がなぜ大勢を惹きつけるのかをめぐり〈不在(潜在するはず)の正解の在り処(顕在化)を求めて、彼あるいは彼女らは、ひたすら分解と添加の作業に精を出す。そこで見出されるべきひとつの「理」が、陽に透かしたり炎で炙ったりしなければ表面化され得ないという前提が信じれている限りにおいて、一篇を、あの手この手で読み解こうとする好事家が絶えることもない、というわけだ〉と述べられるところや、ひとつの物語をベースに語り手そのものが次々にスライドしていく構成からうかがえもするのだが、要するにそれはこうも言い換えられるのではないか。あらゆる解釈が正しくない程度には、あらゆる解釈に間違いはない、と。この「くるみ割り人形」が持つ三宅版「鏖(みなごろし)」へのアンサー的な意味合いを、そういったふうに、あくまでも解釈のひとつとして、解釈することもできる。ところで「くるみ割り人形」には、阿部の近作でいえば、『グランド・フィナーレ』や『ミステリアスセッティング』の意匠を受け継ぐかのように、姉妹ともとれる、ふたり組の少女が登場し、進行上の重要な役回りとつとめている。すなわち、それらの延長線上にあるともいえるわけだが、『ミステリアスセッティング』の評で、少女を主人公に置いたため、その少女に何らかの救済をあたえるべく、阿部は、以前とは異なるパターンをとらざるをえなかった、みたいな解釈を石川忠司や佐々木敦等々がしているが、ここではより率直に、あくまでも語り手の話す物語のなかでという註釈つきになるけれど、ラスト間近で希望に近しい感触が与えられている。

・その他阿部和重に関する文章
 『ミステリアスセッティング』について→こちら
 『課長 島雅彦』について→こちら

 『シネマの記憶喪失』について→こちら
 『阿部和重対談集』について→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら
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 鏖みなごろし

 〈文学とコミック、ここに共闘す!〉というわけで、阿部和重の短編小説「鏖(みなごろし)」を、三宅乱丈の手によるコミカライズが、IKKI COMPLEXより出た。二者のネームヴァリューからして、作品への期待は膨らまざるをえないし、そのことはつまり、評価に対するハードルが高くなるということでもあるのだが、しかし、じっさい、すぐれて満足のいく内容になっているな、と感心した。マンガ的な演出を施されることで、阿部の小説が持つ特有の多義的な構造が単層化され、三宅ならではの複数人が巻き起こすドタバタ劇へと、うまく、換骨奪胎されている。ひとりの登場人物の、無思慮なアクションが、ほかの登場人物のなかの、感情のトリガーを引いてしまう、それこそ暴力が伝達される過程の掴まえ方に頷かせられるだけの力がある。
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2007年03月03日
 変死するアメリカ作家たち

 このぐらいのヴォリュームで一冊にまとまるのであれば、以前に『エンタクシー』誌で連載されていた、一種の村上春樹論でもあり江藤淳論でもあるような「アメリカ」のほうを単行本化して欲しいものだ、と、つくづく思ってしまうのだったが、さておき、坪内祐三の『変死するアメリカ作家たち』は、本文中には「肖像(ポルトレ)」という言葉が使われているけれど、つまり、何人かのマイナーなアメリカ人作家が死へ至るまでの足跡を直線的に記録したもので、ほとんど「あとがき」にも思える最終章を読めばわかりとおり、もっとも古いものは91年に『未来』誌上で発表され、最新のものは05年の『エンタクシー』に発表されていて、いちばんおもしろく目を通せたのは、坪内という書き手にとっても、まさしくスタートラインにあたる「デルモア・シュワルツの悲劇」の項だった。たとえば、シュワルツの大学時代の教え子にルー・リードがおり、ベルベット・アンダーグラウンドにはシュワルツに捧げた曲がある、などといわれると、それが有名なエピソードなのかどうか知らないので、へえ、となってしまうのも含め、魅力のある「肖像(ポルトレ)」になっていると感じられる。が、ときに坪内の文章は、評論というよりはエッセイみたいな趣きが強くなってしまうことがあり、その傾向は近年になって(たぶん『『別れる理由』が気になって』を書いて以降)より顕著になった気がする(小島信夫と森敦の対談『文学と人生』の解説が最たる例といえる)のだけれども、いちばん新しく書かれた「ゴールデン・ゲイト・ブリッジに消えたウェルドン・キース」の項は、その点において「肖像(ポルトレ)」としては、あまりうまくいっていない。もちろん、それは述べられていることが退屈だということではない。これはこれでオーケーだとしても、坪内や読み手であるこちらが生きる現在進行の時間を大事にするあまり、対象そのものの側で流れていたはずの時間が、把握しづらくなってしまっている。

・その他坪内祐三の著作に関しての文章
 『酒日誌』『本日記』について→こちら
 『「近代日本文学」の誕生―百年>前の文壇を読む』について→こちら
 『考える人』について→こちら
 『同時代も歴史である 一九七九年問題』について→こちら
 『古本的』について→こちら
 『『別れる理由』が気になって』についての文章→こちら
 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』についての文章→こちら
 『文庫本福袋』についての文章→こちら
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2007年03月02日
 ガラスのなかの少女

 1932年のアメリカ、不法移民の少年ディエゴは、ボスであり父親代わりでもあるシェルと、その助手のアントニーとともに、霊媒師を騙り、金持ち相手の商売を続けていた。詐欺だ。もちろん彼らは誰も幽霊の存在なぞ信じてはいない、はずだった。しかし、あるときの降霊会で、三人のうちでもっとも賢明なシェルは、そこにいるわけもない少女の姿が、ガラス戸に映っているのを見る。はたして彼女が意味するところは何なのか。数日後、その、ガラスのなかの少女とそっくりの写真が新聞の記事に載っている。降霊会が行われた日の前日、彼女は行方不明になっていたのだった。このようにして、ジェフリー・フォードが書き、2006年度のアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀ペーパーバック賞受賞作となった『ガラスのなかの少女』の、物語は転がりはじめる。つまり、失踪した少女の謎を、ニセ霊媒師たちが追っていくわけだが、いや、これが、過不足なく引き込まれるスペクタクルであったよ。一個の真相に辿り着いたそばから、裏切られ、また新たな危機と謎が生じる、そうしたスリルとサスペンスのうちに、たとえば少年の自立を見てとることも可能だし、たとえば友情ともいえる繋がりを見てとることも、たとえば親子の関係や、恋愛に、差別の問題なども見てとることが可能だし、と、いくつものテーマがふんだんに盛り込まれているのだけれど、話の前後を見失うことなく、それらのすべてに没頭することのできる、何よりも展開のされ方がにくい。さて。序盤に次のようなやり取りがある。「勉強の調子はどうだね?」とシェルに尋ねられたディエゴが「いまはダーウィンの『種の起源』を読んでるところだよ」と返答するくだりだ。〈「読んでなにがわかった?」「ぼくたちは猿だって」そういって、わたしはターバンのむきをなおした。「まさしくそのとおり」「神さまは嵐のなかの屁みたいなもので、世界を動かすのは自然だけなんだ」「こういうものをすべて生み出したのは完全なる存在じゃない」ハンドルから右手を放して、優美な動きで宙に円を描きながら、シェルはいった。「すべては偶然と、ささやかな失敗がうまくはたらいて、それがいつしかからみあっていくんだ。タイスアゲハ(略)の繊細な編み目模様を考えてごらん。すべては、一匹の芋虫が成虫になるとき、なにかほんのちょっとした好都合な失敗が起きた結果だ」「失敗は、あらゆるものごとの中心なんだね」シェルはうなずいた。「そこがすばらしい」〉。おそらくは、ここに、その後に起こることのぜんぶが、象徴的に、語られている。主人公のディエゴが移民であることも含め、作中には、人種的にも身体の特徴的にも、当時の上流社会が望む規格からは外れた人びとが、あまた登場する。その彼らの手のなかにある小さな幸福と、選民思想に基づく狂気の引き起こした悲劇とが対比され、結末の近くで「魔物」という言葉に集約されるのである。
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2007年02月27日
 シネマの記憶喪失

 阿部和重と中原昌也の対談『シネマの記憶喪失』は、『文學界』の連載をまとめたもので、いちばん最初にアナウンスされているとおり、そもそもは「映画覚書」という阿部の映画評を対談形式にリニューアルした内容なのだが、現在は、阿部が抜け、かわりに毎回異なったゲストを中原が迎える「映画の頭脳破壊」というコーナーへと、さらに変更されている。企画は残り、ホストが変わる、というのは、まるでテレビのトーク番組みたいだけれども、話し合われていることの中心は、ここにも登場している樋口泰人が司会をつとめ、青山真治や黒沢清、塩田明彦、安井豊らに、阿部和重を加えて、99年に行われた座談会『ロスト・イン・アメリカ』(00年)にまで、おそらくは遡れる。たとえば『ロスト・イン・アメリカ』のなかで、阿部は、映画『トゥルーマン・ショー』を例に〈あのドームの中には、無数の隠しカメラが設置されていますよね。隠しカメラが撮った映像っていうのは、ぜんぜん統覚がない。遍在する神の視線と言ったらいいでしょうか(略)そういった、統覚の欠いたカメラの視線と、それを誰が統御するのかという闘争の物語は、80年代前半にもいくつか作られていたように思います〉といっており、この、統覚の喪失(消失)、つまり視点または視線が複数であるために責任の主体が曖昧かつ不明瞭にならざるをえないことは、むろん物語の在り方と密に関わり合っているわけだけだが、では、なぜに統覚が喪失されなければならなかったのかというと〈しかしなにしろハリウッド映画の物語展開のパターンは限られていますから、主題が見えにくくなっていけば当然、構造だけがどんどん表面に出てきてしまう(略)そうなってしまえば後はもう構造それ自体をひたすら組み換えていくしかないわけで、必然的に破綻にも追い込まれる。アメリカ映画を統覚の消失へと至らしめたひとつの契機は、この過剰な構造の組み換え作業なんじゃないかというようにも思える〉として、その根本には、冷戦の構造が崩れ、対立関係みたいなものを設定しにくくなったため、歴史そのものを直線的に語りにくくなったことがあるのではないか、との推測が行われるのだけれども、『シネマの記憶喪失』では、その統覚が喪失されたあとに、むろん9・11というモーメントがあり、そうして視線あるいは視点がどこに宿ることになったのか、が語れている感じを受ける。思いっきり極端にまとめてしまえば、幽霊やゾンビを含め、死者ということになるのではないだろうか。じっさい、クリント・イーストウッドが監督した『ミリオンダラー・ベイビー』を取り上げたさい、〈自分が見ていないはずのことまで語ってしまう〉語り手であるモーガン・フリーマンの存在はあたかも幽霊のようであり、そこが良い、との意見で阿部と中原(とゲストの青山真治)は一致しているし、ほかの映画に関しても、すでに死んでいるものの見ているシーンとして、解釈され、言及されている箇所は少なくない。また阿部が、疑似ドキュメンタリーの類を嫌っている旨を何度も口にするのは、それが、統覚の喪失を素朴に再現しているに止まるからなのだろう。9・11を直截的に描いた『ユナイテッド93』について、阿部は〈この映画が何とか成り立っているのは、あの事件で実際どういうことが起こったのかが機内の様子も含め、既に多角的に報じられているからなんだよね(略)そういった報道されてきた事実の記憶を追認しているに過ぎないというか。それはもう映画とはいえないでしょう〉として、さらに次のように言っている。〈事実をすべて記録しようとしてカメラをそこらじゅうに仕掛けたとしても、それらを全部見通すことなんてできない。われわれの視線が届かないとこなんて幾らでもあるわけだから〉と。先ほど述べたように、その、けして見えないものを込みで物語として語りうる存在こそが、ここでいうところの死者にあたるのである。

 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら

・その他阿部和重に関する文章
 『ミステリアスセッティング』について→こちら
 『課長 島雅彦』について→こちら
 『阿部和重対談集』について→こちら

・その他中原昌也に関する文章
 『ISHIDAIRA』について→こちら
 『ボクのブンブン分泌業』について→こちら
 『待望の短編集は忘却の彼方に』について→こちら
 『キッズの未来派わんぱく宣言』について→こちら
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2007年02月22日
 『小説すばる』3月号掲載の短篇。〈ガーリー〜GIRLIE〜特集〉というののうちに含まれているのかな、よくわからないけれど、すくなくともこの津村記久子の『炎上学級会』に限っていえば、女性作家が書いたというだけのことで、阿呆みたいなカテゴライズはどうでもよろしい、おそらくは今こうした時代にあり、大勢に身近であろう内容になっていて、やはりこの作家はもうすこし注目されてもいいのではないか、と思う。題にある「炎上」とは、あの、どこそこのブログが炎上したとかいう、現代用語ふうな意での「炎上」を指しており、つまり作中には、インターネットの要素というか、この場合は、匿名による掲示板文化とでもいうべきものが盛り込まれているのだが、だからといって、そういうやり取り、コミュニケーションの在り方を、あたかも深刻で不可避なモーメントぶって大げさに捉まえず、また、そのさいポジティヴかネガティヴかのどちらかの反応へと一方的に傾くのでもなくて、ただ、どこにでも転がる誰もが体験しうる日常の一断片として、肌触りがよく、愉しく読めるテンポで、綴っている。だいたいの筋は、次のような感じである。シゲオのいる小学五年のクラスだけがまだ、文化祭のための出しものを決められずにいるのは、担任の若い女性教師が、積極性に欠ける生徒たちを巧みに指導できないせいでもあり、そこで悩んだ彼女から、インターネット上の掲示板を使い、匿名でもいいから皆で話し合いをするようにとの提案がなされるのであった。こうして、ふだんよりパソコンに慣れている生徒や、まったくインターネットに通じていない生徒が、もちろん携帯電話での閲覧も含め、一個の場を共有し、意見を出し合うなか、まあ当然のように起こる揉め事が軸となり、話は展開される。この小説の最大の成果はしかし、そういった題材の取り上げ方にではなく、むしろそのことを背景の一部に、シゲオという少年の、たとえば塾で書いた作文が悪い評価を受けたことや自分の書き込みに対するリアクションが気になって落ち着かない様子なども交えながら、ことあるごとの心の動きにピントを合わせ、それをうまく操作することで、読後に、良質なジュヴナイル感とでもいうべきものを備えさせた点にある。

 『十二月の窓辺』について→こちら
 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2007年02月14日
 『新潮』3月号掲載の短篇。今やすっかりECDの書くものは、良くも悪くも、いや悪くものほうがやや強く、日本の私小説然としていて、その、情けなく、だらしなく、冴えない成人男性の有り様は、今日では西村賢太の作風にも通じるところがあるのだけれど、そういえば、坪内祐三は西村の著書の帯にもECDの著書の帯にも登場していたりするので、こういうのが本質的に好きな人なのかもしれないな、と、それはさておき、この『口実』もおそらくは作者自身の体験をベースにした挿話であり、話しの筋はなんてこともない。二十歳を過ぎながら、ろくに働きもせず、両親に寄生し、万引きや置き引きをして小遣いを稼ぐ〈僕〉が、警察に捕まったり、捕まらなかったり、といった程度のことが綴られており、まさしく口実だけを頼りによろめく存在などを指して、リアルだとかエモーショナルだとかいったりするぐらいのことは可能かもしれない。が、正直、不良青年のレポート以上の域は出ておらず、この手のスタイルやパターンにおいての構成や語り口に、はっとさせられる点もないので、いささか凡庸な作品だとすら思える。

 『ECDIARY』について→こちら
 『失点イン・ザ・パーク』について→こちら
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2007年02月13日
 かげろう

 藤堂志津子の『かげろう』には、表題作を含む三つの短編が収められていて、どれも40歳を過ぎ、壮年期も終わりに差し掛かった女性が、人生の残りの部分をいかにして迎えるか、その構えを書いた小説となっており、他人との距離を一定に保ち、孤独であることを込みで、自分の生き方をまっとうしようとする登場人物の像は、いかにも藤堂的で、物語のレベルでいえば、「かげろう」や「みちゆき」のほうがこの作者らしさがよく出ているようにも思えるのだが、じつはいちばん印象が強かったのは「あらくれ」という篇に漂う、諦観とも達観ともどことなく違う、渇いた空気のようなものである。さびれた港町で「ちどり」という食堂を兼ねた居酒屋を営む滝子にとって、亡母の姿を夢で視るというのは、じつに疲れ、不快な出来事でしかなかった。なぜならば母親に対して、幼い頃は恐怖を感じ、成長してからは嫌悪を覚えるのみであったからだ。今の居場所も、その母親への反発によって、辿り着いたようなものだった。15年前、この地にいっしょに流れてきた年上の夫である金道はすでに先立ち、現在はミヤとフキコという、ほとんど年齢不詳で身元も確かではない二人の女性を保護者同然に引き取り、この2年間、ともにさびれた店をやりくりしている。だからといって滝子は、彼女たちに信頼を寄せているわけでもなく、また何かを期待しているわけでもない。むしろ逆で、つねにその存在を訝しんでおり、いつか突然に姿を消すのだと半ば決めてかかっている。と、こうした状況の提示は、読み進めるうちに、三者のあいだで事件めいたトラブルが起こるのでは、との予測を呼び起こすのだけれども、そうはなっていかない。いや、たしかに三人の生活ぶりはけっしてまともとはいえないが、そうした日々は、滝子の心の動きを表すというのではなくて、〈十二年前、金道が突然死したとき、残された滝子は、この世にはもう怖ろしいものはひとつもないといった心境になった。その心境はいまもなお変わらずにつづいていた〉といった具合に、心の動くことがない様子を抽出しており、そこからもはやイノセントとは無縁な人間の、しかし、だからこそ真にも思える魂の寂寥が感じられる。

 『桜ハウス』について→こちら
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2007年02月12日
 零式

 まれに見かけるリアル・フィクションという銘に関しては、以前に『SFマガジン』の特集を読んださい、どうもこれは漠とした概要しか持っておらず、東浩紀の定義するメタリアル・フィクションとは異なるものみたいだぞ、ということぐらいしか掴めなかったのだけれど、この海猫沢めろんの小説『零式』が、帯に〈次世代型作家のリアル・フィクション〉とあるとおりなのであれば、総じて80年代のOVA(オリジナル・ヴィデオ・アニメ)が内包していたのと空気が似ているみたいな印象が強く、まあもしかするとそれは75年生まれである作者の、サブ・カルチャー体験が反映された結果なのかもしれないが、個人的には、どこか懐かしく感じられるものだった。先の大戦で、敵側の帝国(LEV)が原子爆弾を使用、投下したことによって、国土の半分が廃墟となり、降伏せざるをえなかったため、その植民地と化した皇義神國は、頽廃の一途を辿るのみで、55年後の東暦2000年には、カルトがテロを行い、都市部には閉塞と享楽とが同時に満ちる。そうした世界観を背景に、特攻服(KILLスーツ)をまとい、高速で走る原始駆動機(レシプロマシン)にまたがった少女が、やがて、国境を取り囲む壁の、その向こう側にある歴史の真実と、そして新しい可能性へと到達するまでの話し、と、だいたいのアウトラインを取り出すことはできる。また、そこには9・11以降の問題意識が明瞭に組み込まれていたりもするのだが、ともあれ物語の駆動軸は、おおきく三つであって、ひとつは、先ほどいった原始駆動機の少女である朔夜、もうひとつは、朔夜が出会う、かつての天子そっくりに改造された少女の夏月で、もうひとつは、夏月を囲う、大戦を生き残った挙げ句に狂ってしまった巨大な老人、忌三の名が挙げられる。三者には、実質的な因果関係が隠されているのだけど、それとはべつに、アイデンティティを喪失したものとして忌三があり、そもそもアイデンティティを持たないものとして夏月があり、両者のちょうど中間あたりのラインに朔夜が位置する、といったふうに読み取れなくもなく、この図式が、じつはそれぞれが存在することの意味合いを関連づけてもいる。とはいえ、この小説のいちばんのフックはやはり、ひとまず言葉の誤用などは放っておいても、テンポ・アップを一義に、文章の勢いづいたところであろう。あるいは〈銃弾の生演奏(ライブ)をかいくぐって兵士たちが戻ってきた故郷は、死ぬか生きるかの境界(ライン)が引かれた街。闇市(ブラックマーケット)の米(ライス)と、乳飲み子の命(ライフ)が似たような値段にしかならない〉といった具合に、ルビの部分で押韻している箇所などは、いやヒップホップの人がそうラップしていたらとてもリアルじゃないけれどもさあ、こうしたフィクションのなかでなら、との含みでリアル・フィクションという提案を、いま思い付いたのだが、どうだろうか。

 『左巻キ式 ラストリゾート』について→こちら
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2007年02月08日
 以前から読みたいなとは思っていたのだが、いかんせん絶版のため、なかなか手を出せずにいたのだけれども、先日読んだ『現代小説の方法』のなかで中上健次が〈非常にきれいな小説を書いた〉と言っていたのが踏ん切りとなり、古本で取り寄せ、ようやく目を通した『髪の花』は、昭和46年(1971年)の群像新人賞受賞作で、作者の小林美代子は、そのとき54歳であったが、2年後に自殺している。彼女の死を悼んだ文章が、当時の選考委員であった江藤淳の『全文芸時評』に入っていて、じつはそれを読んださい、この作者と作品のことを、僕は知ったのだった。さて。『髪の花』の内容を、簡潔にいうと、精神病棟を舞台に、そこの患者が、院内で、また社会において、いかなる差別を受けているか、を扱っており、「あとがき」によれば、それらは作者の実体験をベースにしているらしいのだけれども、注意されたいのは、そうした出来事の書かれ方であろう。〈母上様、三回目の手紙をさしあげます。前の二回の返事を随分待ちましたが、ついに下さいませんでしたね〉との出だしからあきらかであるとおり、母親へあてた手紙の形式をとっているのだが、しかし〈私は思い出せない母上様に向って手紙を書いて〉いるのであり、当然、その母の住所も名前も知らず、また〈封筒はあけたままで渡して、看護婦が中を読んでから封をして出してくれることになって〉いて、〈文になっていない支離滅裂の手紙はその場で破かれます。私の二度の手紙は、はいはい出してあげますよと、優しく優しく言って看護婦が受けとりましたが、果たして出して貰えたのか、戻ってきたのか、出さずに看護婦が破り捨てたのか、戻りもせず、返事もこず、破り捨てたとも言われず、私にはどうなっているのか判りません〉というような具合に、書かれたものが読まれるということ、あるいは書かれていることの真偽に対しての保証がどこにもない、そういった状態で日々が綴られている、ということはつまり、寄る辺のなさを強調するかたちで、作中の時間が進められている、ということである。このことによって、主体である〈私〉の抱える悲哀が、深く、あたかも底がないかのように、さらに深く掘り下げられている。ところで、そうした悲哀はどこからやって来ているのだろうか。けっして特殊な場所ではない。人並みに生き、平和に暮らし、安らかな死を迎えたい、という極めて素朴な願い、祈りだ。それの叶わないように思えることが、ひどく悲しく、寂しいのである。あるとき外出の許可を得て、所沢の街へと買い物に出た〈私〉は、次のような感想を持つ。〈八百屋菓子屋レコード店洋品店、小さな店が商品を道まであふれさせて目白押しに並び、その中に一組一組の家族がいて、連携を保って暮らしている。それが私には何とも不思議に思えた。私の病棟では、一、二を除いて皆孤独で、人間はみんな一人ぽっちだと思っていたので、改めて社会の人々の生活を目のあたりに見て、驚いていた。どうして大人達は、一人一人で生きていないのだろう〉と。そして〈その人々は自分が今生きていることをあまり考えず、さしあたりの買物を、仕事を、勉強を、デートを、娘の家のことを、庭木のことを思い浮かべて歩いている〉ように見えて、〈そのもろもろの複雑な人間臭い生活を持っている人々を、私は羨ましいと思った〉と記される。たとえば狂気や精神の病みなどの類を、表現の重心に用いたものは、今日においても少なくはないけれど、それらの大半が、自分が自分がの固有性を主張し、拡声しているのとは違い、この30年以上も前に発表された小説は、ただ普通でありたい、たったそれだけのささやかな呟きを、すごく誠実に拾ってみせている。
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2007年02月06日
 刀語  第二話  斬刀・鈍

 西尾維新の『刀語(カタナガタリ)第二話 斬刀・鈍(ザントウ・ナマクラ)』を読みつつ、ここに書かれているものはいったい何であろうか、と考え、あるいはこう言えるかもしれない、と思う。それはつまり、登場人物ひとりひとりのテーマとスペックである、と。設定は、まるで物語の背景を為すためにではなくて、各人が持つテーマとスペックの説明にあてられており、作中の時間はほぼ、彼らのやりとり、会話と戦闘によって進行させられる。もしかするとそのような形態を指して、キャラクター小説などというのかもしれないが、しかしこれを一個の表現として見た場合、そのテーマなりスペックなりが、ある状況下において、いかに働き、逆に陥穽となるのか、が、おそらくは大きなウェイトを占め、そうして重要なフックとなるのに違いないことは、たとえば作中に(わざわざ)予告されている今後の展開からも判断できるのだけれど、まあ今はまだ全体の出だしでしかないのだからといえば、もちろんそのとおりだと承伏するにしても、記述は、敵役も含め、登場人物たちに内在するテーマやスペックの整理に忙しくあるため、それらがぶつかったさいに、濃く、あとに残るようなダイナミズムを、ことごとく欠く。むろん、それが狙いなのだということもありうる、だろう。だが言葉のうえで語られることから、語られている以上の情報を得られないのが寂しい、というのも正直なところだ。

 『刀語 第一話 絶刀・鉋』について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年02月05日
 僕僕先生

 可もなく不可もなく、と書きはじめれば貶めているようだけれども、そうではなくて、エンターテイメントという枠にちょうどぴったりとはまる、たのしい小説であると思う。第18回日本ファンタジーノベル大賞をとった仁木英之の『僕僕先生』は、中国は唐代、父親の財産にあてがあるため、働きもせずに日々を飄々と過ごす王弁という青年が、〈まだ十代の半ばにしか見えない少女〉であるにもかかわらず、悠久の時を生きてきた僕僕と名乗る仙人に、ひょんなことから弟子入りすることになり、彼女とともに不思議な出来事をさまざま体験するうち、ふたりのあいだに芽生えた親愛なる感情の、その行く末を平明な文章で辿ってゆくのだが、これが、ここまで述べてきたこと以外の側面をほとんど排し、きわめて単層的に物語られることで、疲弊とはまったく無縁な、あかるい読後感へと到達する。背景である中国史に関する配慮も、説明的になりすぎず、また、おそらく多くの読み手がサブ・カルチャー等で得た知識で追いつける程度にまとまっており、話の筋に置いていかれることもなく、このへんはきっと作者によって意識されたところだろう、と思われる。深く潜るタイプの作品ではないが、軽く、伸ばした手に、行き過ぎす、かといって事足りなくもなく、すっぽりと収まる。
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2007年02月03日
 少年検閲官

 まさしく世界の終わりを取り扱ったデビュー作『「クロック城」殺人事件」の印象があるからか、北山猛邦の作品からは、終末感とでもいうべき雰囲気を覚えることが多く、またそれは、登場人物たちのどこか醒めた、いわば無感動的な造型ときつく密着しており、両者の因果関係、つまり背景と人為との相互作用を重ね合わせることで、その内容が成り立っているように思われるわけだ、が、そうしたことはこの『少年検閲官』にも共通した事象である。『少年検閲官』の舞台は、一種のパラレル・ワールドとでも呼ぶべき世界で、そこでは、書物の文化がまったく失われている。そのことが、我々の現実とは異なる既成概念を作り上げていて、要は、そういった落差が話の展開されるさいにミスディレクションの役割を担う。ここで注視したいのは、作中の人間にとってはナチュラルであることが、読み手からは欠損にも見えることだろう。たとえば次のような記述は、それを端的に知らしめていると思われる。〈僕たちの時代は、書物がない時代であると同時に、完璧な事実だけの時代とも云えるし、物語の不在の時代とも云える〉。書物がいっさい排せられているかわりに、人びとはラジオの情報を生活の基礎にしているのだが、すべての情報は政府の検閲下にあるため〈ラジオでは基本的に創作物は放送されない〉し、〈作り物に触れる機会をほとんど奪われている〉のである。もちろん殺人や犯罪がメインの題目である『ミステリ』に関わる項はすべて削除され、その結果、事件らしい事件は減少したことになっている。こうした状況設定が、逆に、謎解きの要素を『少年検閲官』のなかに盛り込んでいるのだけど、もう一方で、ひとつの思考実験に近しい読み応えをもたらす(というのは多分に大げさだが、まあ)。つまり、もしも殺人や犯罪が知識として存在しなければ、それらは起こることがないのか、あるいはそうではなくて、起きてしまったことが、たんに殺人や犯罪として認知されていないだけなのではないか、と。これは形を変え、もっとも重要なトリックとも関連される。ところで題名にある少年検閲官とはいったい何者なのかというと、文字どおり、少年の検閲官を指すのだけれども、それはこの作品のうちで、いうなれば名探偵の役目を果たしている。名探偵というのは、真実を見抜くがゆえに名探偵である以上、錯覚をしない。翻って、名探偵以外の者が錯覚に陥っている場合においてのみ、名探偵は特権的な存在になりうるのだが、もしかするとそれは、こうも言い換えられるのではないか。彼は、信仰やイデオロギーを含め、漠たるものに自分を預けない、したがって確たるものはぜんぶ、彼の内部ではなく、彼の外で起こったことのなかにある。むろん、このような人間が、事実のほかに抱え込むのは、静かなまでの空虚さであろう。「私は完璧な検閲官だが――心は失われている」と言う少年検閲官のエノが、ひとりでは外を出歩くことすらままならず、「一人では外に出られないけど、近くに人間がいれば問題ない。だから、クリス、君は常に私の手の届く範囲にいて欲しい」と、当面の語り手である〈僕〉に持ちかけるのは、なるほど、こうして探偵と助手の共存関係が結ばれるという趣向なのだが、しかし、じつに印象的である。

 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
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2007年01月31日
 現代小説の方法

 『現代小説の方法』は、中上健次が80年代(84年から85年にかけて)行った講義・講演をまとめたもので、中上という作家が、いったい何を意識し、そのうえで小説を書いていたのかが、けっこうこれが、じつに当人の資質をうかがわせるかのような、直感的というか抽象的に、たとえば128ページらへんの〈蛇が出てくると物語は面白くなるんです。突然取りを入れると面白くなる(略)小説の中に蛇だとか、取りだとかが入ってきたら面白くなるんだということを分かっていた人いないかな。単純にもう一つ平たく言うと、全部トーテムなんだ(略)それが小説の中に登場するとすごい面白くなる〉のはなぜかといえば、それらが天や地の象徴であるがゆえに、無自覚のうちに畏怖する〈われわれの中の一種神話作用が働いて〉いるからで、〈これが入ってくると突然物語が転倒する、ひっくり返る、そういう形が起こってくる。こういうものを一番自覚していたのが、自覚して一番反応したのは川端康成なんです〉といった具合に、けっして論理的に正当であると判断しえないところがあるが、しかし、まったく理に適ってはいないとも断言しきれない、そういう説得力を持った言葉で語られている。あるいは中上の作品を読むにあたって、次の、54ページからの箇所も興味深い。〈どんな物語を考えていただいてもいいんだけど、基本的に主人公が傷を受けた子、傷を受けた王子様として存在としてしまうことなんですね(略)神話の時代では「流され王」の形になったんだけど、物語という時代においてはみなし児、私生児として作られているんですよ〉。これはもちろん『枯木灘』などに登場する秋幸の存在を思い起こさせもし、〈この主人公の決定論みたいなものは、もう少し考えていくと、古代において、あるいは近代以前にあった家族形態とか、子供の育ち方とか、そんなものも原因しているんじゃないかということです〉と、ここで〈神話の時代から物語に変転していくときに〉もっとも重要な役割を果たしたのは「仮母」とでもいうべきものではないか、そう中上は言う。この「仮母」というのは、要するに、主人公に働きかける語り手のような存在のことである。〈この語り手の立場によって、親がときどきすごい悪になったり、すごい善であったり、やさしい自然であったり、怖い自然であったり、あるいは神という形になったり〉とコントロールされるため、みなし児や私生児の〈苦痛や悲しみが、現実ではわれわれ分からないのに、主人公として登場するとぐっと惹きつけられて、涙を流して感動したりする〉ということになる。もちろんこうした考えが、中上に、いくつかの作品に特徴的な、オリュウノオバという語り手を、発想させている。131ページのあたりで中上は、意識の流れというジョイスの試みを引き合いに、〈表現の新しい形ではなくて、小説というのは無意識の器である。だから深層に流れている意識みたいなものを引っ張り出す。つまり人間の、その中に現れている神話性だとか、閉じ込められたものとか、それを上に引っ張り出すっていう行為が可能なんです。言語の前衛性みたいな形で捉まえていくと、ことごとく間違えます〉と言っている。これがつまり、中上という作家の、いわば作法であり、先ほど引いてきた言葉の根幹にあたる。それ以外にも発言等々から細かい部分を拾っていけばキリがないけれど、当時の小説家や評論家への言及も少なくはなく、中上の交流の広さはもとより、その状況や知識に対するえらく生真面目な面もうかがえる。ところでじつは、現在(00年代)の位置から中上の言いを捕捉し、あるいは捉まえ直したりする脚註の仕事ぶりも、なかなかよいよ。こちらは編者である高澤秀次と、ほかに前田塁が担当している。

 『中上健次[未収録]対論集成』について→こちら
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2007年01月26日
 法月綸太郎ミステリー塾 国内編 名探偵は何故時代から逃れられないのか

 推理小説作家である法月綸太郎の、『謎解きが終わったら』以来となる評論集『法月綸太郎ミステリー塾 日本編 名探偵はなぜ時代から逃れられないのか』は、「反リアリズムの揺籃期【1975〜1987】」(02年)という文章を冒頭に置いている。そこで法月は、〈「新本格」誕生に先立つ十二年間の本格シーンを駆け足で回顧〉しており、その12年間における本格シーンの分岐点を、というのはおそらく世代的な交代を意味しているわけだが、あるひとつの時代に対して、「昭和」と認識するか、「西暦」と認識するか、つまり昭和50年=1975年であったならば、前者であるか、後者であるか、の違いに着目しつつ、論じてゆく。この文章のなかで、法月が「西暦」ベースの記述を行うのは、彼の立場を考えるうえで暗示的であるがともあれ、1975年というのは、〈空洞化した社会派への批判的スタンスを明確にし〉つつ探偵小説ルネッサンスの中心となった探偵小説専門誌「幻影城」が創刊され、そのほかにも〈本格アンソロジーの刊行が相次いた〉年で、〈こうしたアンソロジーは、トリックのデータベースとして、新本格の登場を準備した〉のであり、さらに1976年には、数々の名探偵をシリーズ化した作品が次々と発表され、〈アマチュア名探偵の復活=超人的名探偵を否定した清張リアリズムへの決別を印象づけ〉た、と、こうした出来事を、しかし法月は、推理小説というワン・ジャンル内に限定的なことではなく、〈もうひとつ見逃せないのは、一九七五年という年が、読者投稿誌「ビックリハウス」の創刊年であり、第一回コミックマーケットが開催された年でもあるということだろう。クリエイティヴな領域で、プロとアマの境界線が消滅する前触れといってもいい〉として、〈社会学者の大澤真幸は、戦後日本のイデオロギー状況をリアリズム志向の「理想の時代」と、反リアリズム志向の「虚構の時代」に区分したうえで、「一九七〇年代――とりわけその後半――以降の虚構の時代とは、情報化され記号化された疑似現実(虚構)を構成し、差異化し、豊饒化し、さらに維持することへと、人々の行為が決定づけられているような段階である」(略)と述べている〉といった具合に、大澤真幸の『虚構の時代の果て』を参照、援用する。「反リアリズムの揺籃期【1975〜1987】」よりあとに置かれた文章は、そのように80年代が過ぎ去り、90年代から現在に至るまでの、推理小説と時代との関わりに的を当て、種々の作家や作品を論じていくわけだけれども、なかでもヴォリュームのある「大量死と密室――笠井潔論」(93年。これはむしろ笠井の作品を叩き台にしたエラリー・クイーン論であろう)や「挑発する皮膚――島田荘司論」(95年)は、プレ90年代または20世紀という総体に向けられていて、それこそ、なぜ名探偵が時代から逃れられないのか、といったことの根本を指示しているように感じられる。そうした問題は、やがて(本書の最後に置かれた)東野圭吾『容疑者Xの献身』論「PはパズラーのP」(06年)における〈本格ミステリの「謎とその論理的解決」という回路は、世界のデータベース化=計算可能領域の急速な拡大に伴い、PからNPへの移行を迫られるにちがいない〉という一節に辿り着く。法月の説明によれば、〈さまざまな計算問題の中で、解の候補が与えられたとき、それが正しいことが比較的簡単に検証できる問題をNP問題と総称〉し、〈一方、答えを比較的すばやく(実用的なコンピュータの計算コストが間尺に合うレベルで)見つけられる問題を総称して、P問題とい〉い、〈PとNPの分かれ目は、自分で考えて答えを出す際の難易度(計算量の大小)に左右される〉わけで、そもそもは数学の考えであるらしいのだが、〈文系の言葉に無理やり翻訳すると、NP問題を解く作業は、シナリオ分岐型のノベルゲーム、あるいは一昔前に流行ったゲームブックを完全攻略するようなものだ。分岐するストーリーラインをシラミ潰しにし、すべてのエンディングをクリアするためには、逐次処理的な一本道のストーリーが展開する小説を読むのに比べて、膨大な時間を要する〉と、つまり、これを推理小説の変質に当てはめるなら〈昨今の読者の興味は、自分で考えて謎を解く=答えを出すことより、いきなり提示される「真相」=解の候補が与えられたストーリーと整合しているかを検証することに向かいつつあるからだ〉となるのだけれども、もちろんこのような在り方は、今日における様々なサブ・カルチャーがいかにして受容されているのか、との密接なリンクを持っている。
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2007年01月24日
 『小説現代』2月号掲載、「新春豪華ショートショート大特集」という枠に収められた掌編。この世には猫の出てくる散文というのが、それこそ挙げればキリがないほどに数限りなくあり、むろん、この場合の猫の出てくるというのは、その存在が作品のうちで、たんに小道具以上の意味合いを持つ場合を指すのだが、じつは舞城王太郎も、小説に猫を出すことの少なくはない作家で、たとえば「我が家のトトロ」なんかは一例としてわかりやすいといえるけれど、この「子猫探し」にも、題名から明らかなとおりのかたちで、猫を出してきている。〈猫を三匹飼っていて、「ニャ王」「ミャ王」「マ王」、その一番下のマ王がこないだ生んだ五匹の子猫が全部消えて、私は村の中を探して歩く〉のだが、見つからず、〈どうして猫は子供を隠すんだろう?〉と思う。表だって、それだけのことが四百字詰め原稿用紙五枚程度のうちに、筋立てられている。ところで、たしか(やはり猫をよく出してくる)金井美恵子が『待つこと、忘れること?』のなかで、猫には「待つこと」と「思い出すこと」が欠けており、そうであるがゆえに彼らは永遠の瞬間を、まどろみ、自由に生きている、みたいなことを書いていた気がするけれど、それっていうのはあるいは、思推のない、肉体のレベルでのみ、彼らには時が行き過ぎるということなのかもしれず、ここでも猫には猫で猫の時間が勝手に流れ、語り手の〈私〉は、その経過に含まれているであろう事々を、人間の、頭の物差しで測ろうとし、おそらくはこうした対照が、文末に置かれた〈猫と人は違うし、猫が恥ずかしがり屋ってのは、綺麗好きと相まって納得しやすいけど、でもミウのおならの話だけでそうだとは決めつけられない〉とのセンテンスに、読み手を頷かせるような、そういう効果を及ぼしている。

・その他舞城王太郎に関する文章
 「ディスコ探偵水曜日」
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第四回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2007年01月21日
 『新潮』2月号掲載。村田沙耶香の小説は、たんに見逃していただけかもしれないが、すごく、ひさびさに読んだ気がするし、読み終えたあとで、うん、やっぱり、この作家のものは好きだ、という感想を持った。〈あの公衆トイレの中で、私は何かにとり憑かれたのだと思います。そうでなければ、恐怖のあまり、少し頭がおかしくなったのでしょう〉。『ひかりのあしおと』の語り手、古島誉は、小学校二年生の夏に体験したある出来事を境にして、瞼の内側に光で出来た人影を見るようになり、それが(ピジイテチンノンヨチイクン)という呪文をともない、近づいてくると感じられることを恐れる。けれども〈レンアイをしている初期段階では、いつも光への恐怖が薄れます。だから私は思いこんでしまうのです。この人が私の救世主だ、というふうに〉、そうしてこれまで男性との関係が途切れたことはないのだが、しかし〈光への恐怖心が増してくると同時にいつもレンアイは終わってしまうのです〉と、そのときがくれば、いとも容易く別れの算段をはじめる。そういったやり取りを、中学二年の頃から大学に入った今でも、ずっと繰り返しつつ、悪びれた様子はない。なぜならば彼女は、自分で自分を正常に保つためにはそうせざるをえない、必然があるからだ。こうした一種の無感動的な人物造型の背後に、平均的な新興住宅地の風景や、幼いまま成人したかのような母親と、その母親を大切に甘やかす父親の存在などが、置かれているのだが、しかしポイントとなっているのは、それらの事柄が淡々と綴られることで、清潔な少女の幻想が時折そうであるみたいに、グロテスクにも、錯綜した語り手の自意識が浮かび上がってくることであろう。誉は、大学の教室で、蛍という屈託のない青年に出会い、惹かれ、やがて〈誰かの恋人になることで、他人の頭脳を介した世界を少しだけ覗き見してきたつもりですが、こんなふうに立っている場所の色彩まで変わってしまうのは初めてです〉と感じるまでになる。ここの、何もつけていない食パンをふたりで分けあうくだりは、一瞬、いいシーンである。だが、そういった多幸感は次第に、行き過ぎ、不穏当な気配を孕み、横滑りしていく。とうとう光の人影に掴まえられた誉が、その意味に気づく結末は、やさしいようでいて、どこかひやりとしている。

 『授乳』について→こちら
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2007年01月14日
 刀語 第一話 絶刀・鉋

 『en-taxi』vol.16からはじまった文芸時評「王の奇術」のなかで、藤野眞功が、西尾維新の『DEATH NOTE ANOTHER NOTE / ロサンゼルスBB連続殺人事件』について、だいたい次のような指摘を行っている。『DEATH NOTE ANOTHER NOTE / ロサンゼルスBB連続殺人事件』は〈人間不在の作品で〉あり、〈順序立てて、プロットに記された仕掛けの骨組みだけが透けて見える。南空ナオミが南空ナオミである必然は、ノベライズという漫画との関係性でしかなく、名探偵Lもまた、感情ではなく関係性の産物として、事件に介入する〉、言い換えれば、登場人物たちがその登場人物であることの意味合いは、あくまでもプロットを構成する上での必要によって決定されており、つまり〈それはプロットにおける人脈相関図の但し書きの範疇に止まる〉と。むろん、藤野は否定的な意でそういっているわけだが、しかしこれは、『DEATH NOTE ANOTHER NOTE / ロサンゼルスBB連続殺人事件』のみならず、西尾作品全般に関しても、なかなか正鵠を射た批評になっていると思われる。また裏を返せば、そうやって書かれたものを小説として鑑賞することが珍しくもなく、むしろ主流となった現在では、だからその作中人物たちは、読み手から、人間として捉まえられるのではなくて、いわゆる「キャラクター」といったふうに呼び換えられなければならなかったのではないか。たとえば、探偵小説研究会『CRITICA』創刊号に収められた「第三の波の帰趨―ジャンルを取り巻く「言説」の配置」という鼎談で、小森健太郎が〈最近西尾維新をまとめ読みしましたが、西尾は頭の中でアニメ化して読めますね〉といい、笠井潔が〈西尾作品は、はじめからマンガのように、アニメのように書かれ、読まれているのかもしれないな〉といっているのは印象的で、じっさいに西尾の書く登場人物たちは、活字上で示されている服装や言葉遣いによって、そのスペックを規定されているといってよいし、あるいは彼らの内面ですら推し量られるべきものではなくて、あたかも事前の資料設定が開示されるかのように、またはディテールを補うかのように、作中における会話や語りのうちで、きっちりと説明されてしまう。はっきりいって僕個人は、そういった側面に関して、かなり批判的な読み手のつもりなのだけれど、それでも西尾維新という作家に注目してきたのは、そのような書かれ方をされた言葉の向こうに、たとえば巽昌章が『論理の蜘蛛の巣』で『クビシメロマンチスト』を指し〈これは身もふたもない軽さの中で語られる裸の観念劇なのだ。世界に意味を求めない即物性が、かえって観念的というほかない動機を浮き彫りにする〉といっているような、おそらくは同時代的な、一種のリアリズムが感じとれる(それをおおげさに未だ言語化されえないエモーションといってもいい)からで、あるいは、それ以外の理由はない。と、しかしながら講談社BOXで大河ノベルとして幕を開け、12ヶ月連続で刊行される予定の新シリーズ『刀語(かたながたり)』は、この「第一話 絶刀・鉋」を読んだかぎりでは、あまり褒められたものではないかなあ、というのが正直なところである。いやたしかに、天下太平の脅威となる十二本の刀を求め、無刀の剣士と宿命を背負う奇策士のペアが、さまざまな強敵と相まみえるといった体の、活劇としては退屈するような場面は少なく、あいかわらずリーダブルな内容だといえる。が、逆にそれ以上のアピールを持っていない、すくなくともこの段階では、この作者に典型的なプロットのいちヴァリエーションに止まっている。

・その他西尾維新に関する文章
 『化物語(下)』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2007年01月12日
 暗渠の宿

 いやもう相変わらず語り手は甲斐性なしのろくでなしで、その彼が心に据えているポリシーや他の登場人物に吐き捨てる言葉の安っぽさといったら、深刻ぶっているぶん、よけいに居たたまれなくもなるのだけれど、まあ、たいていの人生は安いものと相場が決まっているのだし、それでもせめて自分ぐらいは高値をつけてやらないことには、生きていけないような気がしてくるのだから、ずいぶんと厄介で鬱陶しい、そういう感情の真に迫ってみせているところが、読み応えのひとつにはあるのだ、と思う。この『暗渠の宿』には二篇の作品が収められており、表題作は『どうで死ぬ身の一踊り』と共通するつくり、それはつまり、ふだんは小心で臆病なくせに酒に浸れば気が大きくなって、周囲の人びと、とくに同棲相手を罵詈雑言や暴力でもって組み伏せる、けっして素行の良くない〈私〉が、藤澤清造という大正作家の生き方や作品に心酔し、自己を同一化することで、そのような所作の正当性を主張するといった内容なのだが、もう片方の「けがれなき酒のへど」は、そうした背景の、いわゆる前日譚に位置づけられる、さびしき中年独身男性による恋人探しを綴った悪戦苦闘記といえるけれども、たしかに〈何も私は特別な女を得たいわけではない。一般的な美人や、愛くるしい顔立ちを求めているのでもない。ただ普通の女と、普通に仲良くなりたいだけなのだ〉との切実な焦燥に動かされた主人公が、数々の風俗嬢にアタックし、そうして親密になった相手に淡い期待を抱いた結果、大金を騙しとられるという、じつに身も蓋もないうえにショボい話の筋は、今日的なモテない男小説のなかでも、とくに救いがなく惨めで侘びしいものに違いないのだが、なぜか同情的にさせてくれない、その一癖も二癖もある語り口こそが、やはり西村賢太の強みであり、持ち味なのだろう。
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2007年01月11日
 『文學界』2月号掲載。『なんとなく、リベラル』という題が、あきらかに田中康夫の『なんとなく、クリスタル』をもじったものであるとおり、膨大とまではいかないまでも、相応の量の注釈が、あえて付せられた小谷野敦の小説であるが、内容は、筒井康隆の『文学部唯野教授』あたりの線を思わせなくもない、虚実入り混じった固有名を用いながら、アカデミズムの世界を揶揄するかのような、ある意味でコントラヴァーシャルなものだといえる。だいたい、次のようなやり取り、「あっ、スチュアート・ホールだ。これが主著なんですか? あっ、でもエディテッド・バイ(編集)だな……」「最近のホールは自分一人で本を書くことはあまりないみたいね」「ああ、そうなんですか。それで日本語の翻訳もないんですね」、こうした会話の機微を推量させる箇所が、作中には、けっこう多い。さて。話の筋はといえば、〈私が助手になったのは、なにも美人だからじゃない、と岡村朋は思った〉と、この岡村朋という女性の主人公が、年齢なら20代から40代のあいだ、それはちょうど90年代から現在までに至る時代を、いかに過ごしたか、これをおおまかに、大学院生または留学時代における恋愛、帰国して大学に勤めるようになってからの結婚、結婚生活や学内の人間関係または権力争いからくるストレスに悩まされ、いちおうは立場と余裕のある平穏な壮年期に入るまで、と、起承転結の四つに区切ることができ、そうしたなかに、社会状況と並行してカルチュラル・スタディーズの話題やフェミニズムの問題などが加味される。そうして物語的なクライマックスはやはり、9・11があり、それ以降に、国内の言論が「なんとなく、リベラル」になっていくことと主人公の気分が合致してゆくくだりなのだろうけれども、そのへんはわりと俯瞰して書かれているのに対して、全体におけるもっともエモーショナルな描写は、それ以前の段階、律神経失調症を患い、夫婦仲がこじれるへんにかかっており、おそらく作者自身の感情もまた、そこに重なり、強く出ているのではないか、といった気がしたが、ひとつの分野の世界をあくまでも図式的に描くことに執着されたフィクションだとしたら、逆に、瑕疵にあたりうる場面なのかもしれない。ところで「適当に平和主義を唱える、適当にフェミニズムの見方をする、適当に石原慎太郎とかの悪口を言う、万事なんとなく、だ(略)」といった具合に、わざわざ登場人物のひとりが指摘するぐらい、都知事に対する言及も少なくはない、こういう小説のすぐあとのページから、その彼と北方謙三の対談が掲載されているのは、まあ作外のことであるけれど、メモとして留めておきたい。

 『悲望』について→こちら

・その他小谷野敦に関する文章
 『新編 軟弱者の言い分』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2007年01月08日
 『新潮』2月号掲載。「無駄ですよ。この事件、絶対終わりませんよ。だって真実が逃げていくんですもん。僕の推理が絶対に正しかったはずなのに、いつも通りの正しい手応えもちゃんとあったのに、推理が完成した途端に真実の方が姿を変えちゃってますからね。本郷さんも知ってるでしょ?嬉遊さんの推理んとき確かめましたもんね」と名探偵のひとりである二瑠主が吐き捨てるとき、まさに堂々たるタイミングで、かのアルファでありオメガである九十九十九が降臨する、舞城王太郎の「ディスコ探偵水曜日」第三部「解決と「○ん○ん」」12〜14パート目となる〈第五回〉である。さて、九十九十九といえば、この作者の別作品に登場する主人公であり、いや、それ以前に清涼院流水の創作において、ひときわ目立った存在なのだが、しかしもちろんのように、それらはそれらで別の文脈の話でしかなく、ここでは、他の作中人物たちから大爆笑カレーと名指され、本筋をかすめる程度の仕事を果たせば、すぐさまワキへとやられる。なぜなれば、これはあくまでも〈俺〉=ディスコ水曜日の物語に他ならないからなのだけれども、ところで、そのことの意味合いを、すこし、考えてみたい。ここしばらくの、たとえばイラストを交えながら、さまざまな推理が提出される展開は、まさしくミステリ小説ふうのつくりを、こちら読み手に思い起こさせるわけだが、謎解きの劇がすぐれるためには、ふつう、作品の内部に精確な論理の整合性を有することを避けられない、というのは、作中ばかりではなくて、作外から向けられる推理に対してもフェアである必要のゆえに、だ。けど、この作品のうちで、つまり「パインハウス」という作中の場において、そうした論理の整合性は、ほぼ無意味に機能する。〈本来ならば、名探偵は決して間違えないんだろう。 / でもパインハウスでは必ず間違える。 / ほとんど間違えることが決定されてるみたいだ。 / まるで世界の他の場所で名探偵は間違えないということが決定されているのと同じくらい決定的に〉である。それについて〈俺〉は〈絶対間違わないはずの名探偵が絶対間違うということはどういう意味なんだろう?〉と考える。このような思考には、無意味と有意味の対照があり、当然、有意味への支持が見られる。では、作中人物たちにとって、とりわけ主人公であり語り手であるディスコ水曜日=〈俺〉にとって有意味な行動ないし決断とは、どこでどのように下されるべきだろうか、というと、この作品の、この物語自体を足場にした場合においてのみ、であろう。言い換えれば、意味を為すための基準が、外在化されてしまってはならない。このことは、同時に「キャラクター」といった今日的な発想に基づく、鑑賞作法への批評にも通じている、と思われる。とある登場人物が、まあたとえば九十九十九が、まさに「キャラクター」的な扱いとして、一個の作品や一個の物語から、べつの作品や物語に輸入されてきたとき、彼はたしかに、もとの作品や物語からは自立しているといえる反面、その価値の基準は、要するに、個々の作品や物語といったものの外部に置かれている。つまり彼の命は、作品の内部で物語に寄り添い流れる時間のなかでの、一回性だからこその、固有的な意味を持てなくなってしまう、あるいは量に拡散されない質的な高さを保てなくなってしまうのだ。もしかすると、そのせいで彼は、この作品のうちにあっては、わざわざ、複数回死ななければならないのかもしれない。が、ともあれ、二瑠主とディスコ水曜日による、次のようなやり取りは印象的である。「なんで僕たち名探偵は必ず真相に辿り着き、ウェンズデイさんは迷子に辿り着くんでしょう?」「……?才能じゃねーかな?」「何かの才能なんて全ての人がいろんなものを持ってますよ。でもあることを常に必ず成し遂げるなんて全ての人にはできませんよね。(略) そこに生まれる差は何でしょうね?」「神のご加護じゃねーの?」「馬鹿馬鹿しい。神なんていませんよ。僕らも誰かに創られた訳じゃない。ときどき名探偵にもいるんですよ、自分が誰かの推理小説の中のキャラにすぎないじゃないかって人。そういう発想自体は面白いけど、生きて生活して人生を送ってる人間が誰かのキャラなんてありえないですよ (略) 」。しかしながらやがて、作中において〈誰かの推理小説の中のキャラ〉であったはずの、ふたりの少年が、名探偵を名乗り、姿を現す。彼らの片方ルンババ12が行う十二番目の推理は、はたして、どのような局面をもたらすことになるのか。そうして物語は、4月号掲載予定の、第三部完結篇へと持ち越されるのだった。

 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第四回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2007年01月07日
 屋上がえり

 石田千のエッセイに特徴的な技法は、書き手の主語が省かれ、かわりにその視点が抽出されるというもので、この『屋上がえり』のなかから適当に引っ張ってくるのであれば、たとえば、こんなふうにだ。〈エレベーターでいっしょにのぼってきたおばさんが、あそこだと指をさした。夫、娘、娘の夫、赤ん坊をしたがえ、レストランマルゼンにまっすぐ歩いていく。白髪の背の高い紳士が、いらっしゃいませ。会釈する〉。もちろん、これは眼前にある光景のスケッチに他ならない。しかしながら、けっして描写というほどには綿密に執着されず、その素朴なままであることが、平易に、読み手が入っていきやすい文体を整えている。ふたたび適当な箇所を引くと〈西郷さんの足指には緑青がふき、頭には汗をかいたように鳩のふんがかかっている。刀を差していても動けないから、気の毒だった〉とある、この「西郷さん」は、事前に、具体的に書かれた地名や固有名から、上野の西郷隆盛像以外の何ものでもないことが、こちらには重々と知らされているわけだが、頭のなかにイメージされるのは、そこにしかないにもかかわらず、まるでどこにでもある(のかどうかはわからないが、とにかく)身近に知ったような「西郷さん」の姿なのだった。つまり、切りとった特定の場所にあてられた、いち個人の気分が普遍化されている。そうすることで共感の位置にくる。ここには、おもにデパートの屋上へ登るまでの、そして登ってからの道すがら見られたものが綴られており、たとえば〈海から汐留、それから銀座。ぼきぼきと首をねじると、去年の夏にテレビで見た猛暑のしくみが実物大であらわれた。海風を汐留がさえぎって、銀座が灼熱の地となる。そのまんまの、わかりやすさでいる〉と、こうした、とくにどうしたこともないのに雰囲気がある一節に、散文の散文たる魅力が詰められている。
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2007年01月05日
 この国の今はとてもすばらしい時代なので、将来に対しての何か志望や期待を持たなくとも、また日々のなかに何らかの対決がなくとも、だらだらと十分に生きていけるとして、しかし、そのまま歳月を重ねていった先に転がっているのは、いったいどのような感情なのだろう。ああこんなはずじゃなかった、そうやって項垂れるほどにがっかりすることもなければ、まあこんなものだよね、と笑顔で満足に納得することもないのだとしたならば、いやもしかすると、そういったことなどを指し、かっこうつけ、終わりなき日常だとか平坦な戦場だとか言ったりするのかもしれないけれど、なんだかそれはそれでひどく寂しいことだな、と、生田紗代が『en-taxi[エンタクシー]』誌上で発表しているこの連作長篇を通じ、捉まえようとしているのは、たとえばそのような、漠然としてある孤独なのではないか、と思う。『en-taxi[エンタクシー]』誌VOL.16に掲載されている「アザラシのホーさん」は、これまでの「ハピタブル・ゾーン」や「靴の下の墓標」と同様に、高校時代に『進路研究クラブ』という活動というか場で、身も蓋もない言い方をすれば、のんべんだらりとした無為な時間のみを共有した文系マイノリティ的な四者の、そのうちのひとりが成人してからの姿を、平方に切りとったものである。〈二人が仕事に行くと、私は一人になる。まず悟が出て行き、次に義母がいなくなる。私は一人になって、夕方になると義母が帰ってくる。それから一時間ほどあとに悟が戻ってくる。平日は毎日、その繰り返し。まるでこの家は、循環する水を通す管のよう。出ては入って、入っては出て。その流れの中で、私だけがここに留まっている。沈澱したヘドロみたいに、ぼってり、ゆらゆら〉。結婚して、仕事を辞め、若い専業主婦となっている高橋せりは、いっしょに暮らす夫や義母との仲は悪くなく、昼間はふたりとも勤めに出ているので、一日の大半はインターネットやテレビ・ゲームなどの好きなことに存分に取り組めるし、今後の生活を深刻に考える必要もなく、べつに外へ出て働きたいとは思わないため、そのことに不満があるわけではないが、ときどき〈一日があっという間に過ぎていき、すぐに一週間が終わる。毎日のんびり暮らしているはずなのに、生き急いでいるみたいだ〉と思ったりもする。当然、こうした彼女の現在は、高校時代からの延長線上にあり、その気分もまた、文字どおりの延長線上に発している。中学の頃より熱心に続けていたホルンを、高校のときに、ほんのささいな、しかし当人にしてみれば大きな躓きによって挫折し、吹奏楽部を辞め、その結果『進路研究クラブ』に移ることになるわけだが、そこでは目標や、それを目指して向上すべきものは求められない。〈でもさあ、と思う。私はあのクラブ、嫌いじゃないな。だって部室の進路相談室にいると、雲の上にいるみたいなんだもん。あたりを霧に覆われて空も見えない、ものすごく閉鎖的な雲の上ではあるけど〉。もちろんのように、未来に希望を持ったりしない、そういう自分を責めない、否定しないことで、焦燥や不安からは距離をとることができる。けれども、そうやって積み重ねられてきた時間のなかに、おそらく物語化するのに適した出来事は発見されないに違いなく、だからこそ彼女は、地道にプレイ時間をまっとうすれば、レベルがあがり、効果が出、それだけで自動的に物語が生成されるRPG(ロール・プレイング・ゲーム)に、はまる、のだろう。テーブル・トークの時代ならともかく、今のおもなRPGは、他者のいない空間で、要するに自分しかいない世界で役割を演じる(まるで語義矛盾が可能になった)ゲームだ、といえる。アザラシのホーさんとは、義母が視た夢のことである。それはコミュニケーションを経て、あたかも現実に隣接した物語であるかのように、あるいは現実と一部重複する暗示のように、複数のかたちで解釈される。けれども〈私〉は、そもそもそんな夢を視ない。それについて悪びれることもなく、時間のすべては、個人の内側で虚しく費やされていく。

 「靴の下の墓標」について→こちら
 「ハビタブル・ゾーン」について→こちら

・その他生田紗代の作品に関する文章
 「浮かぶしるし」について→こちら
 『彼女のみる夢』について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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