ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年12月22日
 リクドウ 10 (ヤングジャンプコミックス)

 以前、どうして格闘マンガは父殺しのテーマから逃れられないのか、と書いた。その一方で、どうしてボクシング・マンガは父なし子のテーマから逃れられないのか、と考えさせられるときがある。もちろん、すべてのボクシング・マンガが父なし子の背景を持っているとはいえないかもしれない。が、ボクシング・マンガを代表するような作品の多くが父なし子の背景を持っているといえるのである。『がんばれ元気』『リングにかけろ(リングにかけろ2)』『チャンプ』『エイジ』『神様はサウスポー』『はじめの一歩』『Monacoの空へ』『シュガー(RIN)』etc。もしかしたら、これらの源流には『あしたのジョー』の存在があり、ほとんどのボクシング・マンガが『あしたのジョー』のヴァリエーションだとの解釈もできなくはない。それは、ある場合には孤児の姿として現れ、ある場合にはボクサーとセコンドの立場に擬似的な父子の関係をもたらしていく。こうした傾向に、松原利光の『リクドウ』は、意外なほど忠実だ。主人公である芥生リクの殺伐とした境遇は、確かに現代的ではある。現代的であると同時に行き過ぎた不幸が、作品のムードをダウナーに引っ張ってはいる。反面、一種の様式からくるようなカタルシスがあり、決してつらいだけの物語にはなっていない。古典的に見える部分が翻ってエンターテイメントにかかるバランスの面を支えているのだと思う。

 持たざる者の戦いをいかに描くか。これがおそらくは様式の一端を担っている。持たざる者の欲望をハングリー精神と喩えるのであれば、それが闘争を呼び、闘争を通じ、欠落を埋めるための報酬を得ていくことに、カタルシスは由来しているのだ。呪われ、戦い、勝った、のプロットであり、カタルシスであろう。凄惨な幼少時代を過ごし、スタンダードな感情に乏しくなってしまった芥生リクの振る舞いは、今風にいうなら、壊れていると形容されるものである。しかし、異常である以前に持たざる者としての資質が、彼をボクシングのリングに上がらせている点こそ、看過してはならないと思う。むしろ、持たざる者としての資質は、物語が進むにつれ、より明確となっていき、この10巻では、異常であるような眼光の登場人物やライヴァルたちが次々と出てきたことで、リクの欠落と欲望とが実は正常に近いのではないかと判断されるほどになっている。注意されたいのは、リクとリクをめぐる他の登場人物との関係であった。高校を卒業し、施設を離れることになったリクは、幼馴染みである苗代ユキとの二人暮らしをはじめる。異性に禁忌を覚えるリクにとって、ユキは恋人というよりも母親の代替なのではないかと暗示されるシーンがある。リクが所属している馬場拳闘ジムの会長は、高校を卒業したリクを本格的に育て上げるべく、人手を集めようとする。そこで強調されているのは、チームとしての役割なのだが、リクに対するユキの働きかけも会長の働きかけも、家族という概念でリクのイメージを包括するかのような趣向を伴っている。『リクドウ』が家族の不在に寄り添った物語であると読者に理解(もしくは誤解)させうる効果にほかならない。

 しかし、リクの欠落と欲望とが必ずしも家族という概念に包括されないことは、リクをボクシングへと導いた元ボクサーのヤクザ、所沢京介とリクの関係が、他の登場人物とリクの関係に比べ、数段特別に扱われている点で明白だ。自分を救ってくれた京介に対するリクの憧憬には、もしも理想の父親というものがあるのだとすれば、それを求めるのに近い視線が含まれている。こう推定したところで、あながち的外れではないだろう。当然、父親の存在は、家族の枠組みに結びついていくのだけれど、母親の存在とは完全に別個の回路を持っているのである。リクは自分も京介のようになりたいと願う。そのためにボクサーになったのだった。京介のようになりたいとは、赤の他人であるはずの京介を慕い、追いかけ、いずれは追い抜き、京介だけが持っていた何かしらの輝きを手に入れることを意味しているのであって、ここに父殺しのテーマや父なし子のテーマを見つけ出すことができる。

 8巻について→こちら
2016年12月10日
 熱風・虹丸組 8巻 (ヤングキングコミックス)

 男の子とは、こうでなくちゃいけねえ、と思わされる。それがDNAに刷り込まれたものか、文化的なコードによっているのか、何らかの原体験からやってきているのかは知らないが、オールドスクールな少年マンガのバトルには、どうしたって熱くなる。燃えてしまうのである。リアリズムをかけ離れ、作中の論理が滅茶苦茶に破綻していようと、お構いなしなのは、つまり、不可能が可能に変えられることを描いているためなのだとしておきたい。正確にはヤング誌の掲載だが、今日最もオールドスクールな少年マンガのバトルを全開にしているのが、桑原真也の『熱風・虹丸組』だと散々述べてきたし、これからも述べていくつもりだ。

 ぬおおお。新展開の8巻である。激闘の末、羽黒翔丸が荒吐三郎をくだし、三代目ノスフェラトゥを斥けたナラシナ・オールスターズだったが、めでたしめでたしというわけにはいかない。虹丸組のリーダー、虹川潤は、眼に深刻なダメージを負っており、治療のために九州へと旅立たなければならないのだ。ナラシナ市を離れる潤から虹丸組と十文字誠の遺産を託された翔丸は、しかし、それを引き受けるべきかどうなのか決心がつかないままでいた。このとき、彼らはまだ知らない。翔丸を抹殺すべく、三郎の送った刺客が、すぐそばにまでやってきていた。

 流動明、朱雀優里という新たなる脅威が、物語に招き入れられるわけだけれど、その登場が非常に凶悪なプレゼンテーションを成功させているので、ぬおおお、となる。敵サイドの登場人物の格が、堰を切ったかのようにエスカレートしていくのは、オールドスクールな少年マンガのバトルにおけるパターンであろう。エスカレートを重ねながら、まだまだ魅力的な登場人物が出せてきていることに恐れ入る。明と優里には、主人公である潤や翔丸の存在感を食ってしまいかねないほどのインパクトがある。いやはや、最高にトチ狂っているのである。『熱風・虹丸組』は、おおよそのところ、不良少年や暴走族の抗争劇となっている。三代目ノスフェラトゥや荒吐三郎の登場は、大人レベルの権力と不良少年の対決を思わせたが、明と優里の場合、大人レベルの権力をも悉く壊し尽くすぐらいに圧倒的な殺意と暴力とを横溢させている。

 何せ、暴力団をロケットランチャーで壊滅させ、少年院に入れられ、少年院を出ても日本刀でケンカの相手をぶった斬ったり、ビルを爆破していったりするのだ。要するに、テロリストのイメージに近い。それが新聞紙に載る規模でナラシナ市に混乱をもたらすのだから、やり過ぎだよ、であろう。しかし、こうした難敵を前に一歩も引かないんだ、潤と翔丸はよお、という点に熱くなるのだし、燃えるのである。潤と翔丸がそうであるように『熱風・虹丸組』は、ペアやコンビの関係をテーマの一つにしており、過去、ライヴァルたちの背景にも、三代目ノスフェラトゥや荒吐家の因縁にも、それは見え隠れしていた。明と優里も、やはり、二人一組のペアとして描かれている。ここまでの物語で、おそらくは一番凶悪なペアだぞ。

 明と優里が、いかなる理由で結びついているのか。現段階では、はっきりと明かされていない。とはいえ、絆と喩えるのに相応しい厚い信頼の介在していることはうかがえる。それが二人の並んだ姿に箔を与えている。他方、潤と翔丸の他には代え難い繋がりは、男の子ならではの生き様を、無骨なドラマとエモーションとを紛れもなく象徴したものだ。もちろん、不器用な友情の表現は、オールドスクールな少年マンガのロマンでもある。十文字誠の遺産であるジャケットを受け取ろうとはしない翔丸に向かって投げかける潤の言葉を聞け。〈虹丸組と無限のジャケット… コイツはオレの命だ……… !! この世でオメェの他に誰に任せられんだよ…… !! 翔丸!!〉

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2016年11月30日
 キミとだけは恋に堕ちない 3 (りぼんマスコットコミックス)

 大昔だったら、フィクションで兄妹(姉弟)間の恋愛が禁断として描かれているのを見ると、ああ、これは本当は血が繋がっていないパターンでしょう、と考えをめぐらすことができたのだけれど、近年では、実際に血が繋がっていようと結ばれてしまうパターンが珍しくはないので、もうそのへんを疑ってみても単にだらしがないだけなのだから深く読み取ったって仕方がねえよな、と思わざるをえないのだった。が、しかし。以下、酒井まゆの『キミとだけは恋に堕ちない』の3巻について、ネタを割った内容となる。

 成績と外見が優秀な二人の兄、透と航とに厳しくも大切にされてきたヒロイン、星崎すばるは、高校に入り、吉田新という同級生で、お調子者の男子と関わり合うようになっていく。同じ高校の上の学年にいる真面目な兄たちに比べ、クラスメイトの新は、ふざけてばかりで信用のならないところが多い―― はずだったのに、どうしてか心が引かれていくのであった。おそらく、こうした1巻からの話の流れで題名の『キミとだけは恋に堕ちない』に示唆されている「キミ」とは、すばるにとっての新のこと、さらには新にとってのすばるのことだ、と読者の少なからずが信じ込まされたのではないか。あるいは、すばると新が相思相愛で付き合うことになった2巻を経、なるほど、これは『キミとだけは恋に堕ちない』つもりでいた二人の偶発的でチャーミングなロマンスに違いない、と作品の方向性を見て取ったのではないか。そうであるとするなら、すばるの二人の兄はロマンスが容易いものではないことを裏付けるための障害にほかならない。だが、3巻において、航とすばるに血の繋がりのないことが(読者と新に)バラされてしまうのである。

 すばると新の交際を渋々ながら容認し、新とも穏当な関係を築いていく航の姿は、良いお兄ちゃんじゃん、という印象を強くしている。それが航とすばるに血の繋がりのないことを(読者と新に)バラすことで、異なったニュアンスを帯びはじめる。すばると新の交際を渋々ながら容認するかのような航の態度は、必ずしも彼の寛容さによっているわけではなく、もしかしたら彼が抱えている抑圧の裏返しであるかもしれない可能性を導いてくるのである。血が繋がっていないとはいえ、すばるとは兄妹であるがために恋愛の感情を表にすることは許されない。そのような抑圧を念頭に置き、作品を見返すとき、『キミとだけは恋に墜ちない』という題名における「キミ」とは、航にとってのすばるを、さらにはすばるにとっての航を意図しているのではないか、と読み替えることもおかしくはなくなるのだ。「落ちる」ではなく「堕ちる」の字が当てられているのは、兄妹間の恋愛が禁断として描かれている以上、象徴的でもある。

 航とのあいだに血の繋がりがないことをすばるが承知しているかどうかは、現時点では曖昧にボカされている。が、重視されたいのは、これまで具体的ではなかった三角関係の構図が、航とすばるに血の繋がりがないという背景を得たことで、くっきりと浮かび上がったと同時に、すばるを中心にした新と航の綱引きへ、今までになかった緊張状態がもたらされている点であろう。この展開が連載の最初から用意されていたのか否かは知れないものの、明らかに物語が異なったフェイズに入ったことを、新と航の緊張状態は教えている。

・その他酒井まゆに関する文章
 『MOMO』
  7巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『クレマチカ靴店』1話目について→こちら
 『ロッキン★ヘブン』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら 
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年11月11日
 Re:ロード ( 1) (ニチブンコミックス)

 佐々木拓丸はフィジカルなアクションの描写に盛り上がるものがあると思う。しかし、物語を動かす際、登場人物が内面に何を抱えているかの描写に傾いていくきらいがある。前者に作家性がよく出ていると取るか。後者に作家性がよく出ていると取るか。無論、両者がきっちりと噛み合っているのであれば、それに越したことはないのだが、ヘヴィであったりスリリングに感じられるところが多いのは、おそらく、前者であろう。バンドマンを題材にした『Eから弾きな。』も、実はそうだった。では、新作にあたる『Re:ロード』は、どうか。

 1巻を読むかぎり、『Re:ロード』は、ハードなヴァイオレンスである。ヤクザに復讐を果たそうとする元刑事がヤクザに追われた少女を守るためにヤクザと激しい衝突を繰り広げていくのだ。『極道つぶし』や『SINfinity』の作者が、再びヴァイオレンスの世界に帰ってきたともいえる。魅了されるのは、やはり、銃撃戦や肉弾戦が躊躇いなく人を死なせていくというフィジカルなアクションの描写であって、それが熱量は高いのに殺伐としたテンションを作品に与えている。他方、元刑事である乾昌吉の内面や思考は、それが迷いを見せれば見せるほどに展開の速度を間延びさせてしまう。ただし、そうした迷いによって生じた間のゆるみが、『Re:ロード』のストーリーあるいはテーマにとっては重要なポイントになりえてもいる。

 乾昌吉は、明らかに欠落を抱えた男として現れている。妹をヤクザに殺された過去が現在の彼を表情の乏しい存在にしているのだ。その主人公が、ヤクザに義父母を殺されながらも逃亡を果たした少女、日高真を救うことになったのは偶然でしかない。そして、彼女を追うヤクザが、乾の妹の死に関与した冱們會であったこともまた偶然にすぎない。これらの偶然は、もちろん、話を運ぶ上での都合の良さを兼ねているのだけれど、注意されたいのは、そのような偶然の連なりに乾の欠落が間違いなく暗示されていることにほかならない。なぜ、乾が偶然出会っただけの少女を守らなければならないのか。乾に因縁のある冱們會が相手だという理由は、あとからやってきている。乾の抱えている欠落が、そうさせたのだと考えるべきなのである。

 乾は唯一の肉親である妹を失った。家族を失った。同様に身寄りをなくしてしまった真の姿が、彼の目にどう映っているのか。彼の欠落にいかなる働きかけをもたらすのか。確かに彼の内面が言葉や回想に描写されるとき、コマのスピードは落ちる。だが、それはヴァイオレントな世界そのものに対する抵抗のようにも思われる。乾と真の関係を、冱們會の刺客であるシンは〈現状この2人はお互いが今を生きる為の唯一の糧なんだ〉と、いち早く見抜いてみせるが、しかし、日高真とは、何者なのか。どうして冱們會に狙われているのか。1巻の段階ではっきりとしたのは、乾の正体であって、伏せられ続けている真の来歴は、今後、彼女が物語のなかでの影響力を大きくしていくことを予感させる。
2016年10月11日
 マル勇九ノ島さん 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 木佐貫卓の『マル勇 九ノ島さん』は、ロール・プレイング・ゲーム、さらにはMORPGの発想が一般的になった現代ならではのマンガである。中世を模した剣と魔法のファンタジーでありながら、近代以降の認識が著しく強調されているという意味では、ライトノベルやアニメーションにおいて『ソードアート・オンライン』や『まおゆう魔王勇者』の先行例がある。文脈的には、それらに近いと感じられる。勇者(光)と魔王(影)の対照がミッションとして複数化された世界をまたぎ、メタのレベルから勇者をサポートするかのような職業を題材としているのだ。

 ユグドラシルの大樹として定義された宇宙では、さまざまに世界は枝分かれしており、それぞれに独立している。しかし、魔王が世界を滅ぼそうとし、勇者が世界を救おうとしている点は、どの世界も共通している。一つの世界で魔王が勝利すれば、ユグドラシルの腐敗は進んでいき、一つの世界で勇者が勝利をすれば、ユグドラシルは新たな枝を伸ばしていくのである。「H・S・C(ヒーロー・サポート・カンパニー)」の仕事は、ユグドラシルの腐敗を防ぐべく、勇者の活躍をワキから助けることであった。なかでも勇者と直接関わる営業部は「マル勇」と呼ばれる。「H・S・C」の華であって、それに憧れる新入社員のフォアは、入社式の日、最低な印象の上司、営業3課の課長である九ノ島竜一に出会う。

 営業3課に配属されたヒロインのフォアが、最初に取りかかるケースに明らかな通り、勇者の挫折と再起とが大まかなテーマであろう。九ノ島は、精悍なイメージとは違った勇者と出会い、困惑するフォアに〈勇者は聖人君子じゃない / 一人の 人間だ / 人は考え迷い / 間違うんだ〉と言うのである。これはもちろん、伝説や神話として確立されているはずの英雄を、今日の視線を通じ、堕しているにすぎない。人間的であるがゆえに敗北もありえるという矮小化によって勇者が描かれているのだ。もっというなら、世界を救うという重大事を背負うにはあまりにも人間的すぎる勇者の卑近さが、「H・S・C」や「マル勇」を介在させているのである。

 フォアと同様、営業3課に配属された新入社員のフレイヤが、魔王との戦いで多くのものを失い、消沈してしまった勇者を見、〈たとえ大切な人を亡くしても / 魔王討伐という大義を蔑ろにしていいはずがない〉と述べるのに対し、九ノ島に〈フレイヤお前は正しすぎてダメだ〉と忠告させている。おそらく、フレイヤの主張は正論である。なぜ、それが否定されなければならないのか。繰り返しになるが、中世を模した剣と魔法のファンタジーだからこその価値観が、近代から現代へと至るなかで生成された認識に上書きされていることを意味しているのだと思う。少なくとも、それがドラマのレベルで作品を支えるものとなっている。

 1巻を読むかぎり、会社員のマンガや女性誌のマンガとも並べることができるような文法が入ってきている。それがちょっとおもしろいし、独自性として十分に生きていたら、と惜しまれるところがある。
2016年08月30日
 カノジョは嘘を愛しすぎてる 20 (Cheeseフラワーコミックス)
 
 持つ者と持たざる者とが自然と共存させられるこの世界の枠組みのなかに結果として生じるエモーションを、青木琴美の『カノジョは嘘を愛しすぎてる』は、20巻に入ってもなお掴み続けている。もちろん、持つ者と持たざる者の対照は、必然的に不平等を含まざるをえないのだったが、決して悲劇を弄ぶかのような展開に終始せず、ときには優しく微笑まされるかのようなドラマをも内蔵しているところ、明と暗とがどぎつい線引きに冷たさを際立たせているというより、調和がとれたコントラストのあたたかさを描き出しているところに、胸を衝かれるのである。持つ者と持たざる者とが自然と共存させられるこの世界の枠組みとは、それが絶え間のない日常でもあることを含意している。ロック・バンドや芸能界の過剰なアピアランスをモチーフにしたマンガではあるけれど、むしろ、我々がよく知る日常の秀逸な戯画となっている点に、魅力の多くが同居しているのだと思う。

 ここ数巻、おそらくは16巻からフロントマンである坂口瞬の家庭の事情のために活動休止が決定したCRUDE PLAYをめぐり、ストーリーは大きく動いてきた。が、やはり、主軸は、持つ者と持たざる者の対照(才能に恵まれた人間と恵まれなかった人間、機会を与えられた人間と与えられなかった人間、努力が実った人間と報われなかった人間etc.の対照)にあったといえる。なかでも、CRUDE PLAYのオリジナル・メンバーである小笠原秋と彼の代わりにCRUDE PLAYへ入った篠原心也の心理的な綱引きは、連載の当初より看過できないものではあったけれど、さらに緊張の度合いを増すこととなっていった。ソング・ライターとしては秋に敗北しながらもベース・プレイヤーとしての腕を高く買われている心也、そして、ベース・プレイヤーとしては心也に劣りながらもソング・ライターとしての非凡さを有している秋の二人は、お互いに相手が自分には果たせない価値を持っていることを知っている。がゆえに、相手の立場と自分の立場とが交換不可能であることを痛感せざるをえない。しかし、注意を払いたいのは、それが同時に欠落を抱えた存在同士がお互いの欠落を埋め合うかのような認識を二人のあいだにもたらしている点であろう。持つ者と持たざる者の対照は、確実な優劣となって現れる。一方で、自分にとって特別な存在があるとしたら何がそうなのかの証明を兼ねているのである。

 秋と心也の心理的な綱引きは、ヒロインである小枝理子を真ん中に置いたとき、恋愛の三角関係と近いイメージに結びついていく。もちろん、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』とは、理子という少女のラヴ・ロマンスであり、彼女の成長物語でもある。幼馴染みの少年たちとバンドを組み、まだ高校生でありながらもヴォーカリストしてのキャリアをスタートさせた理子が、様々な出会いを経、自分の価値を新しく得る姿がストーリーに起伏を与えている。プロフェッショナルなアーティスト、ミュージシャンの秋や心也に比べ、デビューしたばかりで実績がない理子に対する世間の評価は、ワン・オブ・ゼムを見るそれにすぎない。では、どうして秋や心也が彼女に惹かれるのか。単に若くてキュートだからだろうか。それとも才能の片鱗と可能性とをうかがわせるからだろうか。いや、もう少し奥まった箇所に理由を求めても良い。たぶん、理子だけが作中で唯一、欠落を抱えてはいない存在であるかのように描かれているのだ。この欠落を免れているかのように見えることが、秋と心也を含めた他の登場人物の目に眩しさを導き出しているのではないか。

 本来なら極めて立場が弱いはずの理子が他の登場人物の目にとっては眩しい。ここにも持つ者と持たざる者の対照を指摘することができるであろう。理子をスカウトしたプロデューサー、高樹総一郎の過去の挫折が語られるのも20巻である。高樹が手掛けているCRUDE PLAY、そして、理子のMUSH&Co.は、かつて彼が在籍し、解散に追い詰められてしまったWANDER LINEの成り立ちを、ある面では踏襲している。理子の幼馴染みであり、MUSH&Co.のメンバーとなった君嶋祐一と山崎蒼太の不遇は、CRUDE PLAYにおける大野薫と矢崎哲平のコンプレックスを反復している。理子の眩しさに自分の欠落を突きつけられようが、MUSH&Co.で踏ん張り続ける祐一と蒼太の姿は、上の世代の敗北を下の世代が乗り越えていくというストーリーに読み替えられるものだ。

 1、2巻について→こちら
2016年08月24日
 てのひらの熱を(3)<完> (講談社コミックス)

 動作のスピード感、テンポの良さが好きである。『週刊少年マガジン』からインターネットなどの別の媒体へと異動し、人気を盛り返すケースも偶にはあるけれど、どうやら北野詠一の『てのひらの熱を』は、残念ながら、ということになったみたいだ。この3巻で幕を下ろしてしまった。たぶん、作者はもっと描きたいことがあったのだろうな、と思われるし、実際、作中の少年たちの成長をもっと見てみたかったぞ、と思いもする。空手を題材にしたマンガだが、作中の少年たち、とりわけ中学校に上がったばかりの主人公、木野下慎也と彼の親友、柳屋匠の(子供の世界における子供の視点の)生き生きとしていていたところに大きな魅力があった。反面、彼らの視点と対になるような大人の視点がうまく配置できておらず、教室であれ、部活動であれ、少年たちが成長していくために必要であったはずの舞台そのもののバランスを危うくしている。物語のなかで、コーチや教師の役割を機能させられなかったのも一因であろう。また、ドラマが暑苦しく、息苦しくなるのをクール・ダウンさせようとしてか、あちこちにギャグを挟み込むのは確かに有効ではあるのだけれど、不要じゃないかしらという場面にもギャグが突っ込んであるので、ちょっと白けてしまう箇所があった。はぐらかしたり、茶化したりすることより、少年たちのまっすぐな熱をもっと信じさせて欲しかったのだ。
2016年08月16日
 百足-ムカデ- 3 (少年チャンピオン・コミックス)

 全3巻。この長さは、少年マンガの連載作品における通常の規格からすると、打ち切りに遭ったかのような印象を抱いてしまう。が、フクイタクミの『百足‐ムカデ‐』に限っては、この長さこそが作者の狙いであり、適正であったことは確かだ。その意味で、少年マンガの連載作品においては規格外になったといえる。そう、サブ・エピソードの列挙による(キャラクター・ビジネスに都合のいい)冗長さを抜きに放たれた。必殺の少年マンガなのだ。

 以前にも述べた通り、話の筋は至ってシンプルだ。強烈な拳の使い手、馬頭丸が、自分を救ってくれた娘とその家族が住む村を守るため、100人からなる悪党の集団、百足と一昼夜に渡り、死闘を繰り広げるのである。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、それ以上でもそれ以下でもない、と焦点を絞りきっていることが、全編にフル・スウィングの勢いをもたらしている。

 大風呂敷を広げることに淫するのではなく、まるで広げた大風呂敷を畳んでいく際の瞬発力、ダイナミズムのみを捻り出したかのような作品であって、やはり、そこに惹かれるものがある。1巻と2巻を通じ、大多数の百足を蹴散らしてきた馬頭丸だったが、自身の消耗もかなり激しい。1対100、そして、残る百足は38人、いよいよ決着のときが差し迫っていた。3巻で描かれるのは、正しくその決着のときであり、本当に最後のバトルにほかならない。

 悪人にも苦悩はあるんだよ式のエクスキューズや善人にも陰があるんだよ式のおためごかしを挟み込まない潔さが、さらなる佳境を盛り上げていく。なぜ、馬頭丸と百足が戦い合わなくてはならないのか。それは強い立場であるという一致があろうと、あくまでも百足が弱き者をくじく側にい、馬頭丸が弱き者を助ける側にいるからだ。満身創痍となりながらも決して揺らぐことのない馬頭丸の決意に耳を傾けられたい。

 ああ、〈誰だか知らん奴を助けるのはマヌケか? 『まぬけ』か…? 俺は そうは学ばなかった そうは思わなかったよ 誰かをかばって背負って痛い目見てもな… まぬけと呼ぶ奴がいてもな 俺は『しまった』とか『やめときゃよかった』とか 言わねえさ〉

 ただし、馬頭丸にも乗り越えなければならない欠落があった。幼少期の自分に道を指し示してくれた師匠の喪失である。百手無双流という無敵の技を授かったはいいが、それを役立てる前に師匠が亡くなってしまったことは、馬頭丸にとって寄る辺がないのに近い心境をもたらしてしまう。馬頭丸がどれほどの使い手であろうが、百手無双流の正しい使い方だけは譲り受けられなかったので、その正しい使い方を文字通りの徒手空拳で探し当てなければいけないのだ。

 換言するなら、『百足‐ムカデ‐』とは、あるいは百足との死闘とは、馬頭丸が自分の生き様を確立するための戦いでもあったのである。窮地をくぐり抜け、探し当てた答えにいかなる価値があるのか。馬頭丸の勝利が幸福や安息のイメージと固く結びついていることに明らかであろう。

 1巻について→こちら
2016年08月11日
 ゾンビの星 (ヤングチャンピオンコミックス)

 ギャグ一筋でありながら、息の長いマンガ家だ。浜岡賢次は。しかも、その長いキャリアを通じ、ある種のふてぶてしさを失ってはいないことに恐れ入る。もちろん、『浦安鉄筋家族』のシリーズは、初期の方が愉快だったという向きもあろう。自分にしても『4年1組起立!』こそが最高だと思っているのだから、そうした気持ちもわからなくはないが(お約束を繰り広げるような)安定感と(あの漫☆画太郎でさえもパロディに使ってしまうような)尖った部分とが混在する現在のスタンスを決して否定するものではないのである。

 さて、久々に『浦安鉄筋家族』のシリーズ以外の作品となるのが、この『ゾンビの星』である。近年、エンターテイメントの世界でゾンビはブームではあるけれど、流行に乗じたというより、かねてからあったアイディアを出すタイミングが今まさに回ってきた、という感じなのではないか。作者にゾンビものを含めた映画の影響が大きいことは、過去の作品における登場人物やギャグの数々に顕著であるし、本コミックスの浜岡自身による解説にも明らかである。また、確かにゾンビを題材にしてはいるものの、ホラーの要素はまったくなく、徹頭徹尾ギャグを凝らしているのも実に「らしい」と思わせる。

 20XX年、動きはじめた死体=ゾンビに地球は覆われた。ゾンビに噛まれた者もまたゾンビとなるのであった。生き残ったのは、ただ一人。ひきこもりだったため、部屋から一歩も外に出ることのなかった星はるかだけである。かくしてヒロイン、はるかのサヴァイヴァルが幕を開けるのだけれど、しかし、なぜここまでサスペンスがないか。あくまでもシチュエーションは引用であり、それに対する作者の解釈がいかにコメディとして機能するのかが『ゾンビの星』の根底だからであろう。チャップリンの頃を思わせるサイレントの手法を用いたエピソードは、他の作品にもあったものだが、『ゾンビの星』にも見受けられる。

 換言するなら、借りてきた形式に、浜岡ならではの色合い、アレンジを加えることが転じ、ギャグとなっているのである。浜岡の描くドタバタ劇の要領は、時限爆弾みたいなトラブル・メーカーをどう対処するかにある。それが『ゾンビの星』では、ヒロインであるはるかに一任されているので、マッチ・ポンプに陥らざるをえない。そこに作者の苦心が現れてしまっている。
2016年07月20日
 境界のRINNE 31 (少年サンデーコミックス)

 現在、メジャーなマンガ誌のなかで最もカッティング・エッジな連載を述べるとするならば、もしかしたら高橋留美子の『境界のRINNE』なのではないかと思うようになってきた。いや、かつてほどに個性的な美少女を描けなくなってしまった絵柄を指し、作者の衰えを見る向きもあろう。だが、同時に吾妻ひでお化しつつある絵柄がそうさせるのか。『犬夜叉』以前には顕著であった不条理ギャグのテイストが戻ってき、なおかつ、一切の情緒を信じてはいないかのような悪意が全体に張り巡らされている。これがベテランの今のヒット作として認知されていることに驚かされるのだ。

 テレビ・アニメにもなっている作品なので、大勢の人間が概要を知っているには違いないが、基本的には、この世に未練を残しているために成仏できないでいる亡霊を、死神の資格を持った少年と霊視の能力を持った少女とが協力し、あの世へと送り出すというプロットを、一話完結もしくは数話完結のミニ・エピソードとして羅列している。普通、図らずも命を落としてしまった死者の無念と生者がいかに向き合うかを主題としているのだとすれば、ある種のエモさは免れない。死者が残していった悔いを残された生者がどうイメージするかは(宗教のレベルで突き詰めていったらはともかく)極めて感情的な問題だからである。

 しかし、既に述べたように『境界のRINNE』には、情緒を信じているような素振りが一切ない。たとえば、死者にも悲しみや憎しみ喜びが存在しうるとしたところで、生者のそれと同様、しょっぱいものでしかない。まるで、そう突き放した認識すら、うかがえるのである。留意されたいのは、死者ばかりか生者のエモーションまでをもシビアに扱っていながら『境界のRINNE』が、まったくシリアスな作品ではない点であろう。むしろ、いくらでもシリアスに組み立てられそうなプロットやテーマを茶化してみせることで、ナイーヴなリアクションやダウナーなテンションとは掛け離れた人生の明暗を導き出しているのであった。

 率直な話、『境界のRINNE』では、生きているあいだに報われなかった人間が死んだからといって報われるわけがないということが、決して少なくはないエピソードにおいて共通している。持たざる人間は生きようと死のうと持たざる人間のままだということが、繰り返し描かれているのである。この強烈ともとれる人間観、死生観、価値観こそ、『境界のRINNE』の本質なのだと思われる。

 生きているあいだに願いが叶わなかった。あるいは評価を求めた人間からは評価をもらえなかった人間が亡霊となり、この世に関与してしまうタイプのエピソードは、31巻だけでも数個確認できる。なかでも親友の結婚式に何かしらかの理由があり、後ろ髪を引かれてしまった女性を題材とした「ブーケが欲しい」の回は、どうであろう。あくまでもコメディとして展開しつつ、徐々に明かされるのは、登場人物のおおよそがろくでなし、の事実だけだ。善意も祝福も憐憫もない。エモさの欠片もないはずのハプニングに一切の情緒を付け足さない冷めた視点(それはオカルトを信じている人間のあの熱っぽい語り口とは対極にあるもの)が、恨み節になりかねないどろどろとしたお話に不思議な歯切れの良さをもたらしている。
2016年07月11日
 HiGH&LOW~THE STORY OF S.W.O.R.D.~ 1 (少年チャンピオン・コミックスエクストラ) HiGH&LOW~THE STORY OF S.W.O.R.D.~ 2 (少年チャンピオン・コミックスエクストラ)

 二度のテレビ・ドラマ版を経、劇場版の公開も迫り、様々な雑誌で特集が組まれ続けている『HiGH&LOW〜THE STORY OF S.W.O.R.D.〜』だが、いまだに全貌は掴めないでいる。といっても、深遠なテーマや複雑な謎を含んでいるのではない。そうではなくて、巨大なプロジェクトのわりに設定は入り組んでおらず、話の筋は一本道であるため、ここまでのスケールをかけた企画そのものが何を求め、どこに向かっているのか、よくわからねえぜ、なのである。ただし、スペクタクルを基準として燃えるか燃えないかの判断をするなら、燃えるところもある。ともあれ、ここではコミカライズ、細川雅巳の手掛けているマンガ版について言及しておきたい。

 現在、ヤンキー・マンガの主流は、芸能人等の自伝をベースにしたものや往年のヒット作の続編によって占められている。が、そこにもう一つの流れを加えることもできる。架空の都市を舞台とし、リアリズムを度外視したアトラクションを繰り広げるタイプの作品であって、『熱風・虹丸組』(桑原真也)や『蟻の王』(塚脇永久・伊藤龍)、そして、この『HiGH & LOW』などが例に挙げられる。『セブン★スター』(柳内大樹)や『元ヤン』(山本隆一郎)もこれに近いけれど、あくまでもフィクションであるはずの世界が実在の都市やリアリズムを根拠にしながら作られている点で、やや方向性が異なる。おそらく、それらに共通しているのは、必ずしも不良少年と呼ぶべきティーンエイジャーの存在に主題があるわけではないことであろう。反面、裏社会やヤクザを直接的に描いてみせるアウトローものとも違う。学生もいれば、学生ではない者もいる。未成年もいれば、成人した者もいる。それらが本業はあたかもモラトリアムであるという主張を暴力や抗争に変換していくかのような現れ方をしている。半グレやギャングである以上にエクストリームなヤンキーのイメージを踏襲しているのだ。

 伝説のチーム、ムゲンの解散後、五つの組織が割拠したそこは、各々の組織の頭文字から取って「SWORD AREA」と呼ばれた。山王連合会(S)White Rascals(W)鬼邪高校(O)RUDE BOYS(R)達磨一家(D)のSWORDである。各々の組織に属し、「G-SWORD」と名付けられたギャングたちは、互いを牽制しつつ、派手な争乱に発展しないだけの均衡を保っていた。しかし、それは何かがあったなら、たちまち壊れてしまう。非常にあやういバランスの上に成り立つ均衡でもあった。果たして次から次へと起こっていくトラブルの数々は、「SWORD AREA」での平穏が常に暴力と隣り合わせであることを「G-SWORD」の面々に実感させざるをえない。

 おおよそのところは、テレビ・ドラマ版に忠実なコミカライズとなっており、山王連合会のトップであるコブラと親友のヤマトを中心にストーリーは進められている。ことによったら、戦国武将を現代の若者に置き換えた軍記もののヴァリエーションとして見ることは可能であろう。だが、「G-SWORD」の対立には、数世代に渡るような因縁もなく、いざ決戦だの場面には、裏をかくような工夫もない。結局は、仲間を敵には売れない式のプロットであったり、ドラッグを売りさばく汚い連中をやっつけろ式のプロットが羅列されるにとどまっている。とりあえず、この1巻と2巻では、山王連合会、White Rascals、鬼邪高校、RUDE BOYSの四つの組織と「SWORD AREA」を傘下に収めんとするヤクザの家村会がイントロデュースされているにすぎず、達磨一家を含めた作品の世界像に本格的な変動が生じるのは、これからなのかな、と思わせる。

・その他細川雅巳に関する文章
 『シュガーレス』
  18巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年06月29日
 頂き!成り上がり飯(1)【特典ペーパー付き】 (RYU COMICS)

 近年、グルメ・マンガのジャンルは大きなムーヴメントだが、物語と呼ぶのに相応しい時間の縦軸をきちんと機能させている作品は少なく、結局のところ、「クックパッド」的なレシピや「ぐるなび」的なガイド、登場人物のリアクションとを土台にした安易な作りのものがほとんどであって、テレビの情報番組やヴァラエティ番組と一緒じゃん、という感想を脱していない点で、方法論としては頭打ちなところがある。他方、ヤンキー・マンガの現状を見てみるなら、著名人の自伝をベースにした作品や往年のヒット作の続編が大部分を占めるようになってしまっており、こちらも方法論としては頭打ちなところである。

 さて、さしあたり、そのグルメ・マンガとヤンキー・マンガの二つの領域をミックスしてみたのが、奥嶋ひろまさの『頂き!成り上がり飯』であろう。料理を題材にしているけれど、「クックパッド」的なレシピや「ぐるなび」的なガイドと隣接しておらず、芸能人のレポーターさながら登場人物のリアクションが重視されている。安易な作りといえば、その通りではある。しかし、不良少年の学園生活をいかに描くか、を目的とした作品のなかで、それがあくまでも主人公の持ち味を際立たせるための手段となっていることが、『頂き!成り上がり飯』の特徴を担っているのである。

 奥嶋のキャリアを振り返るとき、その作品のおおよそは、元々特別なオンリー・ワンではない人間が、ナンバーワンを目指し、それでもナンバー・ワンにはなれないでいるジレンマを、トラジック・コメディに近い手つきで描き出していることがわかる。『頂き!成り上がり飯』も同様であろう。地域の不良が集まっていることで知られる玉森高校に入学した主人公(ケニー)が、モブやエキストラのように学園生活を過ごしたくないと思い、ケンカでトップに立とうとするのだが、実際には三年生のボス(メリケン)に敵わず、地面に這いつくばるしかないのであった。ここから主人公が、どう這い上がっていくのか。過程の意味で「どう」にあたる部分が、つまりは物語を兼ね、手段の意味で「どう」にあたる部分に、つまりはグルメ・マンガのイディオムを借用しているのだ。

 料理に自信のある主人公は、三年生のボスに弁当を褒められたことから、料理の腕前で全校生徒に認められようとするのである。グルメ・マンガのイディオムを借用していることが、殴り合いの多いマンガなのに肩の力の抜けた作風へと繋がってもいる。プロットのレベルでは、以前の作品である『アキラNo.2』に似ているものがある。おそらくは(先に述べたように)元々特別なオンリー・ワンではない人間が、ナンバーワンを目指し、それでもナンバー・ワンにはなれないでいるジレンマを、テーマの一つとして踏襲していることに起因している。

・その他奥嶋ひろまさに関する文章
 『ばぶれもん』1巻について→こちら
 『ランチキ』
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年06月23日
 リクドウ 8 (ヤングジャンプコミックス)

 どうして格闘マンガは父殺しのテーマを免れないのか、と思うときがある。たとえば、90年代以降を代表する二つの巨大な作品、板垣恵介の『刃牙』シリーズや猿渡哲也の『タフ』シリーズは、父の脅威は決して越えられないという帰着を得ると同時に物語そのものの方向性に曖昧さが出てしまったし、川原正敏の『修羅の門』シリーズでさえ、最終的には父殺しのテーマに辿り着いていったのである。あらかじめ父殺しを果たしていたのは、たなか亜希夫の『軍鶏』だが、物語の途中で空中分解を見せたのみならず、結局のところ、父の束縛に苦しむ少女の闘争を主人公が代行するといった展開から破滅と似たエンディングへ向かうこととなったのであった。近年でも遠藤浩輝の『オールラウンダー廻』や太田モアレの『鉄風』など、必ずしも父殺しのテーマを逃れていない作品を挙げられる。後者においては、引きこもりとなった兄の存在が家父長の役割を兼ねているといえるだろう。

 狭義ではボクシング・マンガになるのだけれど、広義では格闘マンガに入れられる松原利光の『リクドウ』も、やはり、父殺しのテーマと無縁ではないことは、1巻の段階で明らかだった。なにせ、父親の自殺、そして、母親の恋人(要するに義父のポジションに近い人物)の殺害を、物語の出発点にしているのである。もちろん、ボクシング・マンガの歴史を振り返るなら、ちばてつやの『あしたのジョー』以来の孤児の系譜を反復しているわけでもある。『あしたのジョー』と『リクドウ』の年月の開きのあいだに、同じく父の不在を師匠にあたるトレーナーが肩代わりしているタイプの作品である森川ジョージの『はじめの一歩』を置いてみるとき、両者の相違あるいは類似は、よりはっきりとするであろう。なぜ父が失われているのか。60年代から70年代にかけて描かれた『あしたのジョー』と90年代を舞台に描かれ続けている『はじめの一歩』と2010年代に描かれ出した『リクドウ』とでは、背景がまったく異なっている。これを各々の時代性の反映と換言しても良い。反面、『リクドウ』における血と汗とをない交ぜにした青春の暗さには『はじめの一歩』よりも『あしたのジョー』と共通するところがあるのだ。

 自分を認めてくれない者といかに向き合うか。父殺しのテーマに通じていくような抑圧のイメージは、『リクドウ』の主人公、芥生リクにとって序盤の最大のライヴァル、兵動楓のモチベーションを支配するものでもあった。それがリクとリクをボクシングへと導いた所沢京介の関係では、自分を認めてくれた者といかに向き合うか、の図式に反転させられている。さらに付言するのであれば、自分を認めてくれない者といかに向き合うか、もしくは自分を認めてくれた者といかに向き合うか、という問いかけは、自覚していようと無自覚であろうと『リクドウ』の登場人物のおおよそに内蔵されている。この意味で物語の支柱にほかならない。7巻と8巻に渡り、繰り広げられてきたエドガルド・ガーベラとの対戦を通じ、ヒロインである苗代ユキとリクの関係に確かな変化が生じた。かつてリクが預けられていた施設の職員がそうであったように、女性の存在が登場人物たちに何かしらの影をもたらしていることも『リクドウ』の特徴の一つなのである。
2016年06月12日
 聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン 7 (チャンピオンREDコミックス)

 多分、『聖闘士星矢』のデスマスクのせいで蟹座のイメージを悪くしてしまった人間は少なくはないのではないか。その汚名を返上するときがきた。もちろん、『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』(手代木史織)のマニゴルドによって、その地位は随分と回復したには違いない。しかし、決してデスマスク自身の失墜をどうこうするものではなかった。それがまさか、デスマスク自身が本人と蟹座の名誉を挽回するような活躍を見せてくれる。『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』(岡田芽武)の7巻だ。

 当初は、円卓の騎士の伝説と『聖闘士星矢』の神話とをミックスすることで怒濤のスペクタクルを起こしていたマンガである。が、ここ数巻では、後者の要素が前者の要素を上回っていくなかに驚愕の展開を生じさせていた。本編の引用がふんだんになることは、外伝の在り方としては確かに正しい。と同時に、やり過ぎだよ、と思わされるところに、もっというなら、原作に対するリスペクトをキープしつつ、スピンアウトもしくは二次創作ならではのセンセーションが過剰となっているところに、間違いなく『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』のアピールが存在していることは、そう、前巻(6巻)における星矢の復活によって明らかであろう。

 再起不能に陥ったはずの本来の主人公、星矢の復活は、車田正美が手掛けている正統な続編の『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』でもいまだ果たされていない以上、ある種のタブーに近い。なぜなら『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』の聖闘士たちは、生きているとも死んでいるともつかない状態の聖矢を救うべく、新たなる聖戦を繰り広げている最中なのである。作品そのものや時代の設定が違うとはいえ、それを本家よりも先にやられては読んでいる方が困ってしまう。結局のところ、聖矢の不在とは、本編完結後の作中の時間軸における最も重要なキーであって、この点は『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』も『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』も同様なのだ。

 しかして『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』は、物語の舞台を時空の狂った世界、それこそ円卓の騎士が現代へと蘇ってくるほどに時空の狂った世界であることの必然として星矢の復活を可能にしている。なぜなのかの具体的な説明がないまま、先代の黄金聖闘士と黄金聖闘士になった紫龍たちの世代とが時間を越えて共闘しうる世界であるならば、何が起きても不思議ではあるまい、という成り立ちをしているのだ。たとえば、ソーシャル・ゲームでは、伝説の英雄や歴史上の偉人がガチャのユニットとして肩を並べることに違和感がない。以前にも述べた通り、そうしたソーシャル・ゲームのシステムと親和であるような発想が『聖闘士星矢 EPISODE.G アサシン』の説得力を支えているのだと思う。

 何が起こっても不思議ではあるまい。しかし、ここにきて、またサプライズな登場人物がどんどんと出てくるかよ。一応はサプライズなので、新規に参入してきた他の登場人物の名前は伏せておくけれど、そのうちの一人が、先に挙げたデスマスクにほかならない。

 ああ、残酷なる蟹座の黄金聖闘士よ。その本質にアレンジは加えていないながら、新しい角度から矜持とでもすべき部分を掘り出すことで、デスマスクのイメージをアップデートするに至っている。いや、前身にあたる『EPISODE.G』の段階で既にデスマスクは存在していたが、ここでは悪質な彼をよく知る氷河との対峙を通じ、単なるヒールのそれにとどまらない表情を覗かせているのだ。そんなのデスマスクじゃねえよ、という否定ではなく、こんなデスマスクを見てみたかった、と頷かされるものがあるのは、つまり「もしも」の可能性を十分に再現しているためであろう。「もしも」の可能性を十分に再現することが、すぐれたスピンアウトあるいは二次創作にとって必要不可欠な条件だとしたら、それを満たしているのである。

 その「もしも」の可能性を十分に再現するような手つきは、デスマスクのみならず、あの黄金聖闘士にも本編とは一線を画した表情をもたらしていく。シュラをして〈あれは… 俺が… 討てなければ成っていた男だ〉と「もしも」の可能性を示唆された対立教皇、そして、混沌女神(カオスアテナ)の降臨は、以前にも増して驚愕の展開を予感させる。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
  20巻について→こちら
 17巻について→こちら
  15巻について→こちら
  0巻について→こちら 
  14巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
2016年05月31日
 ハニーレモンソーダ 1 (りぼんマスコットコミックス)

 1巻の段階で既にボロボロ泣いてしまっている。村田真優の『ハニーレモンソーダ』である。これは自分には安達哲の『ホワイトアルバム』や『キラキラ!』といった作品をはじめて読んだときのことを思い出させてくれる。安達の初期の作品には、80年代の少女マンガ、たとえば紡木たく等のカラーを少年マンガのジャンルに転移させたところがある。そこにあった痛々しくも淡い青春のイメージが、数周して少女マンガに帰ってきたような感覚が『ハニーレモンソーダ』には備わっているのであった。

 ああ、〈何のために変わりたいの? 学校で居場所を見つけるため? それもあるけど1番は 少しでも君に近づけるため〉だという大変小さいながらも切実な少女の願いに寄り添った物語の幕があがる。

 ヒロインの石森羽花は、成績が優秀で本来なら難関校である真聖学園へと進学するはずだった。が、夜の街でとある少年からかけられた言葉に心を動かされ、派手な生徒が多いことで知られる八美津高校に入学するのであった。それは羽花にとっての大きな冒険でもあった。なぜなら、中学の頃はいじめられ、周囲に「石」と呼ばれるほど感情と表情とを固くさせなければ、クラスに身を置けないような毎日を送っていたためだ。しかし、八美津高校への入学を期に自分を変えよう。あの少年、八美津高校に進学するのだと言っていたレモン色の髪の毛の少年との再会を信じようと願う。果たして羽花の高校生活は、あの憧れたレモン色の髪の毛の少年、三浦界とクラスメイトになったことからはじまったのである。

 地味な少女と不良っぽい少年のボーイ・ミーツ・ガールが基本にある点は、ラヴ・ストーリーや学園もののスタートとして類型的であるし、古典的でもある。反面、内気な性格のせいで同級生たちなどに省かれることを「ぼっち」と名指しうる立場のクローズ・アップは、確かにコンテンポラリーではあるけれど、現代における類型的な見方を免れてはいない。もちろん、作者は作者なりに時代の空気を取り込もうとしているのだろうが、それは必ずしも目新しさに直結するものではない。類型的であるにもかかわらず、それを普遍的だと言い換えられるようなシチュエーションや話運びのなか、登場人物の微かでも確かな足音が響き渡っていく。その響きを通じ、等身大の孤独を描き出すことに成功しているのだ。

 羽花の内面、つまりはモノローグに示されている言葉の成り立ちは、ほとんどポエムである。しかし、ポエムであること自体に彼女の切実さが宿っているわけではない。ポエムがどこからやってきているのか。他の登場人物との関わり、とりわけ界との関わりによってもたらされた少女の内面の変化が、カットの一つ一つやそれらを結び付けるコマ割りを含め、つぶさに把握できるぐらいに表されているので、その切実さに胸を衝かれることとなる。

 少女の内面に変化を生じさせるきっかけが不良っぽい少年であり、彼が「リア充」と称されている点に批判的な向きもいるかもしれない。ただし、それは表面上のデザインの問題にすぎない。注意されたいのは、ヒロインである少女、石森羽花の目に、この世界はいかなるものとして映っているか、なのである。そう考えるとき、三浦界とは、これまでに羽花が目にしたことのない可能性を、あるいは否応なしに自分の欠落を突きつけられるインパクトを代替しており、羽化が界に憧れを抱くのは、彼が単に「リア充」と目されるような人間だからなのではないとわかる。結局のところ、誰の憧れも踏み越えなければならないラインの向こう側に存在している。

 かつて「石」と呼ばれていた羽花にとって界の言葉が魔法と似た励ましを持っているのも、以上の理由によっているのだ。〈確かに あの時 オレが声をかけた でも そんなのは ただのきっかけで あそこから飛び出した力は石森のものだ 今までの自分に引きずられなくていい 石でも おまえは宝石なんだよ〉

・その他村田真優に関する文章
 『またあした』2巻について→こちら
 『イン ザ チョコレート』について→こちら
 『妄想シンデレラ』について→こちら
 『ドクロ×ハート』について→こちら
2016年05月20日
 かみさまドロップ 10 (少年チャンピオン・コミックス)

 いま現在、自分が最も注目している少年マンガのラブコメが、これ。みなもと悠の『かみさまドロップ』である。なぜなら、少年マンガのラブコメに特徴的なハーレム型のシチュエーションを備えながら、そのシチュエーション自体を正しく試練の形へと転化することで、主人公である少年の成長はもとより、少年やヒロインたちの苦渋と決断とを、ほとんど直接的に描いている。そこに心を動かされるものがあるからだ。

 確かにカヴァーの表紙の女の子の胸の大きさは、変態かギャグでしかないものの、ストーリーとテーマのレベルでは、非常に生真面目な作品となっているのである。

 どうして、主人公、野分あすなろは、生まれつき、不運な目にばかり遭ってきたのか。ついに前巻(9巻)で、衝撃の事実が明かされた。あすなろにとって片想いの相手であるバンビ(橋姫万里)がまだ母親のお腹にいた頃、その母親が交通事故に見舞われ、あわや死産の直前になってしまう。このとき、かつて「神」に封じられた「蛇」がバンビの両親に囁きかけるのである。バンビと同じ日に生まれる予定のとある命が持っているすべての幸運を奪ったならば、娘の命は助けられる。それが自分にはできる、と。まるで悪魔との契約だが、娘のためにバンビの母親は承諾してしまう。そして、それは同時に「蛇」が再び現世に解き放たれることをも意味していた。

 もちろん、察せられるとおり、バンビを生かすために奪われたのは、あすなろが本来持って生まれてくるはずの幸運なのであった。この事実をバンビの許嫁となった「蛇」の口から聞かされたあすなろは、果たしていかなる気持ちでバンビと向き合うのか。ずっと呪ってきた自分の不運が、自分の与り知らぬところで、自分が信じていた人間によってもたらされていたのだ。

 少年マンガのラブコメ、とりわけハーレム型のシチュエーションのものにおいて、主人公の少年が優柔不断であることは、作品の性質上、欠かせない条件であろう。自分の気持ちやパートナーを決定しないという引き延ばしを物語として見させようというケースが少なくはないのである。『かみさまドロップ』の野分あすなろもまた、当初は優柔不断であることを免れてはいなかったのだが、しかし、様々な変化や経験こそが物語と呼ぶのに相応しい展開を経てきた結果、優柔不断は越えられるのだということを、この10巻は描いているように思われる。

 確かに、あすなろは、ヒロインであるバンビに対し、一途ではあった。けれど、自分は彼女に釣り合っていないのではないかという迷いが、もう一人のヒロインであるエル(得)をはじめとした他の女の子たちとの結びつきを生じさせていたのである。当然、そうした図式は、主人公の優柔不断が解消されると同時に改められることとなる。

 生まれてくる以前の段階で自分の人生が狂わされ、すべての原因が最愛の人物にあったというのは、災難にほかならない。それを知ってしまったあすなろは、バンビ(とバンビの両親)を恨むのか。許すのか。苦渋を与えられ、決断を迫られているのと同様の状態に陥るのであった。

 あすなろの決断は、先に述べたように作中の図式を大きく改める。契機でもある。あすなろとバンビのハッピー・エンドにも似た光景は、あすなろの恋のサポートに撤してきたエルに不意の虚しさをもたらす。あすなろが願い、あすなろのためにエルが叶えようとしていたはずの光景は、しかし、エルの働きかけをよそに見事な輝きをまとってしまったのである。ああ、〈運と命 まさに「運命」と呼ばれるソレで あやつらははじめから結ばれておったのじゃな…… それならば……… わしのしてきたことは一体何だったのかのう……〉

 もしも「神」が「人間」の願いを叶えるために存在しているのだとしたら、「人間」の願いが叶うということに「神」が不要のものになるということが含意されるのだろうか。あるいは「人間」でしかないあすなろが「神」であるエルに報いることは可能か。こうした問いを伴い、クライマックスへと向かいはじめているかのような局面と新しい図式とが迎え入れられている。

 6巻について→こちら
2016年04月19日
 午前0時、キスしに来てよ(3) (講談社コミックス別冊フレンド)

 映画化もされた『近キョリ恋愛』では、男性教師と女子生徒のラヴ・ロマンスを。続く『きょうのキラ君』では、難病と密接なラヴ・ロマンスを。といった具合に、少女マンガにとって正統的であるようなモチーフをフォローし続けている一人が(そのユーモラスな作風からすると意外なことに)みきもと凛である。そして、『午前0時、キスしに来てよ』で扱われているのも、スター俳優と優良な女子高生のラヴ・ロマンスであって、やはり、これも正統的であるようなモチーフの一つだろう。

 生真面目な性格のせいか、「おとぎ話のような恋」に憧れるヒロイン、日奈々だが、まさか、そんな乙女らしい夢が叶うなんて、いや、本当に叶ってしまう。日奈々の通っている高校へ、映画のロケのために人気沸騰中のイケメン俳優、綾瀬楓がやってき、ひょんなことから二人きりの時間を過ごしたことで、お互いに相通じるものを感じ取ったのだ。最初は、綾瀬が自分をからかっているだけではないかと疑っていた日奈々だけれど、自分だけしか知らない綾瀬の姿を見、綾瀬もまた、自分を見つめる日奈々のまっすぐな視線に惹かれ、本格的な交際をスタートさせるのである。もちろん、それは世間には隠しておかなければならない関係のはじまりでもあった。

 世間には隠しておかなければならないということは、障害があるということだ。障害の介在していることが、『午前0時、キスしに来てよ』にドラマと展開とをもたらしているのだが、この3巻では、かつて綾瀬が所属していたアイドル・グループのメンバーたちが直接、物語に関わってくると同時に、綾瀬の離脱が必ずしも友好的なものではなかったことが(以前より匂わされてはいたけれど、より濃く)匂わされている。それは綾瀬が日奈々(と読み手)に対し、まだ秘密にしている過去や内面の一部でもある。他方、日奈々も綾瀬(と読み手)に対し、まだ秘密にしている背景や内面がある。打ち明けられずにいる秘密は、おそらく、何かしらの欠落を意味している。欠落を抱えている者同士の結びつきが、『午前0時、キスしに来てよ』のシリアスさ、登場人物の複雑な表情を作り出している点は看過してならない。

 さらにみきもとの作品において注意しておきたいのは、表面上、そうとはアピールされていなかろうと、少女の主体性が絶対の支柱を作り出している点だろう。少女の主体性をいかに描くかは、当然、少女マンガにとって正統的であるようなテーマにほかならないのであって、これは『午前0時、キスしに来てよ』にも適用されている。たとえば、タイトルに裏打ちされているし、コミックスのカヴァーのコピーにある通り、ある種のシンデレラ・ストーリーを標榜している作品なのだと思う。だが、王子様と魔法とが灰かぶりのヒロインに輝きを与えるのだという構成にはなっていない。綾瀬に振り回されてばかりいるので、一見すると受動態に思われかねない日奈々の主体性こそが、実際には彼女の運命と彼女に関わる人間の運命とを大きく転回させているのである。

 孤独は、常に確かな陰影を伴っているものではない。『午前0時、キスしに来てよ』に散りばめられたハイなテンションの明るさは、曖昧に誤魔化されながら、それでも決して消え去ってくれたわけではない孤独を、不意に照射する。のろけであるような甘い甘い場面にも、はっとさせられる瞬間がある。

・その他みきもと凜に関する文章
 『きょうのキラ君』
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
 『近キョリ恋愛』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『17歳』について→こちら 
2016年04月11日
 AIの遺電子 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 心は何に、そして、どこに宿るのか。こうした問いには、それが一定の普遍性を持っているがため、胸を衝かれるものがある。根拠になりうるほどの根拠はなかろうと、心は必ずや存在するという思いなしの上に我々の生活が成り立っているのだと感じられる場面は決して少なくないのである。

 山田胡瓜の『AIの遺電子』は、ヒューマノイドが人権を得た未来、主にヒューマノイドの治療に当たっている医師、須堂が立ち会ってきた様々なケースを描く。オムニバスの形式で編まれたマンガだ。AIに人格は認められるのか。これはマンガに限らず、SFの小説や映画に古今東西からあるテーマだろう。また、医師と患者の苦悩をオムニバスの形式に編んだ作品ということであれば、その多くがヒューマニズムに対するアウフヘーベンを内包しながら、現在もあまた登場している。スタイルについて、目新しさのみで判じることはできない。が、双方の要素を、おそらくは最良の形で結束させているのが『AIの遺電子』だと思う。

 心が存在することの不確かさをベースにしたマンガであるからか、安易な感動とはいくらか距離を置いたエピソードが並んでいる。ドライな選択や結末に、ああ、と切なくさせられるエピソードもある。だが、選択や結末がどうであるより、その選択や結末に至った逡巡のなかに、不確かなもの(本質的には証明不可能であるはずの心の存在)の確かさが導かれているのである。

 とりわけ、この1巻に収められた3話目には、はっとさせられる。とある少年が大切にしているクマのぬいぐるみ、簡素なプログラムの入ったロボットの修復を須堂に頼むのだったが、修復されたことでぬいぐるみは、それはつまり、中古で買われてきたぬいぐるみだったのだけれど、以前の持ち主のデータと現在の持ち主の少年とを混同してしまうようになるのであった。ぬいぐるみの混同は、短いストーリーに対し、何層ものレイヤーの重なり、解釈の幅を持ち込んでいる。心はどこに宿るのか。こうした問いは、その人間にこの世界はどんな見え方をしているのかを問うものにもなる。ぬいぐるみ、少年、少年の母親のトライアングルは、家族や死のイメージに繋がっていくものでもある。

 さしあたり、モッガディートやMICHI等の単語の指しているところが具体的ではないところを含め、謎めいた須堂のプロフィールは、『AIの遺電子』の全体にとっての伏線をなすものであろう。ときおり覗かせる憂いや笑みは非常に印象的だ。が、現段階では、患者たちにもたらされる逡巡にこそ、物語の重みはかかっている。
2016年03月22日
 暁の暴君 1 (少年サンデーコミックス)

 1月31日にNHK-BS1で放送された「ぼくらはマンガで強くなった」の小林まことの回でも指摘されていたように、柔道マンガが『柔道一直線』における格闘マンガの延長線上ではなく、スポーツ・マンガの枠内で扱われるようになった(扱われることが主となってきた)のは、浦沢直樹の『YAWARA!』や小林まことの『柔道部物語』が描かれた80年代の頃だろう。重なった時期、河合克敏の『帯をギュッとね!』というヒット作もあったけれど、以後、柔道マンガの本流はスポーツ・マンガとしてのそれであると認識されるのが一般的になったのではないかと思う。

 さて、伊織の『暁の暴君(タイラント)』の1巻である。たとえば、同じく『週刊少年サンデー』に連載されていた『帯をギュッとね!』と比べたとき、『暁の暴君』は、スポーツ・マンガというよりは格闘マンガの路線に近いと感じられる。スポーツ・マンガとしての柔道マンガとは、おそらく、オリンピックや実在の大会に挑むことに作品のフレームを合わせたようなマンガだと簡略しても構わない。しかし、『暁の暴君』の場合、作中の人物や団体のフィクション性が極めて高い。それは、とある組織のトップが日本の柔道界を牛耳り、私物化しているという設定に顕著だといえる。

 一方、柔道は、格闘技であるべきなのか。スポーツであるべきなのか。果たし合いであるべきなのか。エンターテイメントであるべきなのか。これらの問いを作品そのものが内包しているのであって、各々のテーマを複数の登場人物に分け与え、試合の形式において互いに競わせることで物語は動かされていくのである。天才型の主人公がヒールのように振る舞っている点は必ずしもトリッキーではないけれど、はったりとして生きているし、1話目の段階で主人公の目的と敵対関係とをきちんとプレゼンテーションできているのも、掴みとして不足がない。
2016年03月20日
 コハルノオト(1)(プリンセス・コミックス)

 藤田麻貴の『コハルノオト』の1巻についていうなら、一話一話はえげつないともとれるエピソードであるにもかかわらず、総体的には雰囲気の良いマンガに仕上がっているように思われるし、おそらくはそれが作品の特性になっているようにも思う。

 人一倍真面目で働き者だが、昔から災難を呼び寄せてしまう体質(?)のせいで以前の職場を追われたヒロイン、室田小春は「悩み相談」の看板を掲げる大きな屋敷に住み込みで雇われることになるのだった。雇い主の青年、南方慧は一見すると爽やかだけれど、性格に難があり、実は他人の感情を匂いで判断できるのだという。

 依頼主が持ち込んできた事件を慧と小春の二人が次々と解決していく。これが基本のプロットであって、ラヴ・ロマンスであるよりは、サスペンスの色合いが強い。また、徒手空拳のヒロインが踏ん張り、周囲に影響を及ぼすというのは(作中の年齢層は少し高めに設定されているが)藤田の作品にお馴染みのパターンであろう。

 先に述べたとおり、一話一話に描かれている事件は、決して心穏やかなものではない。派手ではない。地味なほどにステレオタイプである分、ちょっとした弾みで魔の差してしまうことが、いかに卑近であるかをうかがわせる。

 人間には裏の顔がある。誰もが嘘をつき、騙す。それが慧の特殊な能力を通じ、浮き彫りにされるテーマであり、物語における起承転結の「転」である。しかし、あくまでも〈この世界は / 良心とか思いやりとか / そういうやさしいモノでできていると信じていたいんだ〉と願ってやまない小春の存在が「結」の部分に、明るいイメージを与えているのだ。

 多少大げさにいうのであれば、『コハルノオト』において一話一話のエピソードに展開されているのは、人間の善良さと邪悪さの対立、対決だと思う。そして、善良さが勝利することにこそ価値があるのだとするような仮定形を、小春と慧の二人は、ちょっとずつであろうと手応えのなかで確かにしていっている。

 そこに作品の特性が生じてもいるのである。

・その他藤田麻貴に関する文章
 『楽園のトリル』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年03月06日
 ものの歩 2 (ジャンプコミックス)

 現在、競技マンガの少なからずが、まるでその競技にトラウマの解消策を見出そうとしているかのような描き方をしてしまっている。おそらくは主人公やライヴァルの暗いプロフィールを掘り下げることで何かしらのドラマを生み出そうとする安易さと悪習のせいであろう。しかして、それは健全な精神は健全な肉体に宿る式の古い建前とどこがどう違うのか。既に方法論が一周したがゆえの不自由さに退屈を覚えるときがある。スポーツ・マンガに限定した話ではない。将棋を題材にした池沢春人の『ものの歩』も同様にトラウマの解消策を物語の内側に抱え込んでいるのだ。ほとんど偶然に将棋と出会い、プロの棋士を目指しはじめた主人公、高良信歩のモチベーションは、漏れなくトラウマとワンセットになっているし、この2巻で信歩と対局を繰り広げている天才ゲーマー、相楽十歩にしても心に傷を負った過去を免れてはいない。と、批判的な旨を述べている風だが、そうではない。にもかかわらず、熱くなるものを感じられるのはなぜか。それを重要視したいのであって、やはり、男子三日会わざれば刮目して見よ、というテーゼこそが少年マンガにとっての大きな魅力にほかならないことを思い出させてくれるのだ。信歩は、天才というよりは努力型の人間である。たゆまぬ努力が無駄に終わることなく、見事な成果へと結びついていく。そこでしか得られないカタルシスと一致しており、個性の面でいえば、とりたててチャーミングな主人公ではないかもしれないけれど、凡庸さのなかに隠された可能性が芽吹き、花開く瞬間を体現している。
2016年03月05日
 トラビスといっしょなら(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 馬鹿も元気いっぱいに描いたら、なんだか不幸には見えないぞ、というのも、貧乏も元気いっぱいに描いたら、なんだか不幸には見えないぞ、というのも、ある種のトリック(詐術)にすぎない。わかっていながら、中田あもの『トラビスといっしょなら』を読んでいると幸せな気分になってしまうのだから、いけない。題名だけで捉えるならば、まるでトラビスというペットとのほのぼのした生活をイメージさせなくもない。が、このトラビスとは、ヤンキー的なバッド・センスで描かれた中卒少年のことである。トラビス=虎火守であって、所謂キラキラ・ネームのごとき本名である。トラビスと弟の犬吾、そして、トラビスの恋人である女子高生のみぽちを中心にしたミニマリズムのコメディが『トラビスといっしょなら』に企図されているところなのだ。魅力は、やはり、主人公である三人の幼さや頭の弱さが悪意とは無縁そうな基調を為している点であろう。トラビスが進学を望まなかったのは(勉強が嫌いだからなのもあるが)母子家庭であるがゆえに病弱な母親と小学生の弟のために生活費を稼がなければならないからであり、それはもちろん、思い遣りからやってくるものではあるけれど、不良少年の根は優しい式のおためごかしとは、いくらか距離を置いたもののように思われる。トラビスの無知であること、正しく馬鹿であることが、欺瞞がないこと、文字通りにイノセンスであることを担保しているのだ。だからこそ、犬吾もみぽちもトラビスを放っておけないのだし、頼りにもするのであろう。同様に犬吾やみぽちは、トラビスのイノセンスを映し返す鏡にほかならない。彼ら三人の持ちつ持たれつの関係や彼らが引き起こしていく悶着は、欲望と理性あるいは道徳とが拮抗するなかにのみ存在しうる人間らしさを考えさせる。性質的には下品なギャグでしかないにもかかわらず、おそらくはそこに、なんだか不幸には見えないぞ、という印象が宿らされている。
2016年03月04日
 ReReハロ 9 (マーガレットコミックス)

 階級の異なった男女が、恋愛のマジックを通じ、身分の差を飛び越えていく。これは少女マンガにおいて古くから継承されてきた(一億総中流が語られた年代にあってさえ有効であったし、格差社会が叫ばれる現在なお有効な)ファンタジー、様式、形式美であろう。必ずしも生活が豊かではない女子高生と裕福なエリートの坊ちゃんのロマンスを描いた南塔子の『ReReハロ』も、どれだけ作者が意識しているのかは不明だが、その様式が下敷きになっているといえる。

 ヒロインであるリリコは、父親が営む便利屋の手伝いをきっかけに、広いマンションで一人暮らしをしている他の学校の男子、湊と知り合い、次第に両想いの関係へと進むのであった。いくつもの障害を経、晴れて恋人同士となった二人の、足並みは寄り添うほどに確かだが、それでも性急に事を運ぶことのないテンポが、ここ数巻の魅力だと思う。周囲の人間との関係を含め、前向きに一歩一歩が刻まれることの心地良さが現れているのだ。そして、形式美の必然ではあるのだけれど、きた、というべきか。なぜ湊が家族との折り合いが悪く、一人暮らしをしているのか。初期の段階から暗示されていた重要な案件が、この9巻では展開させられているのである。

 エピソードそれ自体は、やはり、様式として見られるものであって、目新しさを覚えることはない。だが、常にクールであるような湊の孤独と救済をいかに描くか。果たしてリリコのポジティヴなテンションが湊に何をもたらしているのか――リリコのポジティヴなテンションこそが湊にとっての救済であるがゆえに他の誰でもない彼女を選んだのだということ――を、本来は暗いお話であるはずなのに、その暗さの方には引っ張られてはいかない力強さで、きっちりプレゼンテーションできている。そこに『ReReハロ』というマンガの優れている点が同居しているのだ。

 リリコの弟が捨て猫を拾ってくるエピソードには、弟を中心としたサイド・ストーリーのようでありながら、湊とリリコのお互いに信頼しきった姿がよく出ている。カップルがただいちゃついているだけのシーンにさえ、作品を好印象にさせるような輝きが備わっている。

 1巻について→こちら
2016年03月03日
 隠密包丁〜本日も憂いなし〜 3

 今やグルメ・マンガは主流である。しかし、そのリアリティの質は、ここ数年で大きく様変わりしているように思う。ここでいうリアリティの質とは、食べること(料理を作ること)をブリッジとし、いかなるライフスタイル(健康や流行を含めた生活様式)を提示するかにあると考えられたい。

 食は文化であるとしよう。その文化を手段として使用し、ある場合には目的として設定し続けることで、その文化そのものが再構築される。こうした図式をグルメ・マンガは内蔵しているとしよう。このとき、綿密な取材なり作者の思想なりが、作品の方向性を決定づけることがある。だが、現在では必ずしも綿密な取材や作者の思想を必要とはしない(もしくはアピールしない)作品が目立ちはじめているのだ。

 たとえば、『ダンジョン飯』や『だがしかし』のヒットを念頭に置かれたい。他方、あれだけ支持された『美味しんぼ』が極端に評判を落としてしまったのはなぜか。無論、一般的には『美味しんぼ』における綿密な取材なり作者の思想なりが誤っていたという見方もある。しかし、もしかしたら綿密な取材なり作者の思想なりを作品と合致させる式のフォオーマットにガタがきているのではないか。もはや、そのようなフォーマット自体にリアリティはなく、説得力を持ちえなくなったからなのではないか。

 以上は余談にすぎないが、少なくとも「食べログ」的な情報や「クックパッド」的なレシピに対抗しようとしているグルメ・マンガと「食べログ」的な情報や「クックパッド」的なレシピとは異なったベクトルを持ったグルメ・マンガとでは、後者の方にブームの可能性と盛り上がりを感じられる気がするのであった。

 料理人を主人公にした『蒼太の包丁』『ハルの肴 両国居酒屋物語』(どちらも末田雄一郎が原作)や近代文学の小説家と食とを題材にした『文豪の食彩』(原作は壬生篤)等、この手のジャンルでポジションを築いている本庄敬の『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』(やはりグルメ・マンガのシーンでよく知られる花形怜が原作)は、幕末を舞台とした時代劇となっている。

 戦国時代や江戸時代のライフスタイルに着目したグルメ・マンガは決して珍しいものではないけれど、どう歴史が動くかというより時代劇ならではの平坦な日常と人情話に厚みを持たせている点が『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』の特性であろう。

 宮村惣右衛門の本職は隠密だ。素性を隠し、一膳茶屋の料理人を勤めながら、江戸の町に不穏な動きがないかを探っている。剣の腕も立つ。料理の腕も立つ。欠点があるとするなら、人柄が良すぎること、そのために悪人であろうと斬ることができないことである。このやさしい主人公が、己に与えられた使命と持ち前の親切心から様々な事件に首を突っ込み、平和な解決に導いていく姿を『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』は描いている。

 どう歴史が動くかは『隠密包丁〜本日も憂いなし〜』の主題ではないと先に述べたが、この3巻では若かりし日の近藤勇が出てくるし、そもそも惣右衛門の上司は「遠山の金さん」として有名な遠山景元であって、徳川家慶の難題に関わるなど、歴史を参照した上でのIFを多分に含んでいる。とはいえ、あくまでも本作の魅力は、これにて一件落着で結ばれるような時代劇の楽しさとともにある。副題に置かれた「本日も憂いなし」の平穏無事であることこそが主題となっているのである。

 それにしても、だ。作品の成り立ちから、チャンバラは必須なのだけれど、本庄の描く登場人物の骨格がしっかりとしたアクションは、なかなかの見栄えがする。これまでの作品からも明らかなように、料理の場面も実にしっかりとしている。制作には手間暇がかけられているはずなのに、構えずページをめくれてしまえるあたり、ちょうどテレビ・ドラマの時代劇を観ているみたいでもある。

・その他本庄敬に関する文章
 『ハルの肴』1巻について→こちら
 『蒼太の包丁』
  41巻について→こちら
  33巻について→こちら
  30巻について→こちら
  25巻について→こちら
  24巻について→こちら
  22巻について→こちら
  20巻について→こちら
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
2016年03月01日
 アダムとイブ 1 (ビッグコミックス)

 山本英夫は『おカマ白書』の頃から余裕のない人間(臆病な人間)を中心的に描いてきたのではないかと思わされるときがある。しかし、自身は原作に回り、池上遼一とタッグを組んだ『アダムとイブ』の1巻を読むと、余裕のない人間(臆病な人間)の過剰なアピールは、山本の強迫観念を前面に出しているかのような画の描き方とのマッチングによって生じていたところが大きかったのだと気づかされる。

 そのクラブでは特殊な能力を持ったヤクザたちの密会が開かれていた。彼らの素性がばれないようにホステスは目隠しをされている。真ん中の席に座り、スメルを呼ばれる男は言った。〈俺たちは「影」であり「裏」であり「秘密」に撤しなければいけない。決して姿を現してはいけない。決して姿を見せてはいけない。決して姿を知られてはいけない。それはまるで透明人間ばりに、です…〉と。

 だが、まさか。自分たちが透明人間の襲撃を受けるとは想像すらしなかっただろう。正体が不明=姿の目視できない男女二人組の凶行に突然さらされ、ヤクザたちは次々と命を落としていくのである。果たして密室状態となった一室に何が起こっているのか。不可思議な状況に陥ったヤクザたちだったが、一切臆することなく、特殊な能力を通じ、珍妙な侵入者に反撃を加えようとするのだった。

 山本の作品を踏まえるならば、『殺し屋1』と『ホムンクルス』のミックスに近い成り立ちをしている。フィジカルとメンタルの限界値が暴力という名の計測器にかけられることで明るみとなり、危機的な場面と展開とが作られていくのだ。他方、池上の画が作品にもたらしているのは、危機的な場面や展開に見舞われながらも貫禄を手放さない姿が狂人を彷彿とさせうる、そのイメージである。

 ある種のトラウマに囚われた者が進んで破滅に向かっていくかのような予感は、山本の作品に顕著なものであって、それはびんびんに張り巡らされている。実際、オブセッションに追い詰められ、死に飛び込んでしまうヤクザも出てくるのである。ひとたび仮面を剥がされれば、余裕のない人間(臆病な人間)の正体が隠されているとする際、そこからは『のぞき屋』や『ホムンクルス』の残像を得ることもできるだろう。

 しかし、現時点では(としておくけれど)いかにも池上遼一の主人公のタッチで描かれるスメルには、そのような弱点をにおわせないだけの貫禄がある。

 たとえば、磨き抜かれたガラスとダイヤモンドは、一見すると区別がつかないにもかからず、強度に圧倒的な差異を存在させている。こうした真偽の埋没してしまう可能性をエキセントリックな心理の源泉へと置き換えることこそが山本の作品にかかっているプレッシャーだとするのであれば、『アダムとイブ』におけるスメルには、確かにエキセントリックな心理を覗かせはするものの、ダイヤモンドの強度のような凄まじさを今後も崩さないのではないかと信じさせられるのだ。

 スメルのカリスマの堅牢さは、池上の強迫観念に物怖じしないかのような画の描き方からきているところが大きい。もちろん、スメルが『殺し屋1』の垣原と同様、いずれペルソナの敗北を迎えてもおかしくはない。だが、この段階では正体が不明の敵と無敵の超人の非情なバトルがスリリングに繰り広げられている。

・その他池上遼一に関する文章
 『SOUL 覇 第2章』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2016年01月27日
 熱風・虹丸組  6巻 (コミック(YKコミックス))

 このマンガは一体何なのだ、と思わざるをえない。もはや90年や00年代におけるヤンキー・マンガの文法を逸脱しており、比較すべきは、不良少年をベースにしながらもリアリティを度外視していった70年代の『男組』や80年代の『熱笑!! 花沢高校』、『ヤンキー烈風隊』あるいは車田正美や宮下あきらなのではないか、という気がする。しかし、それが単なる時代錯誤ではなく、大変魅力的なアトラクションになっていることに驚きを覚えるのだった。桑原真也による『熱風・虹丸組』の6巻である。

 所謂ヤンキー・マンガの現状についていうなら、自伝的な見栄っ張りと神話的な権力闘争の二種が大きな潮流となっている。たとえば、山本隆一郎の『元ヤン』や高橋伸輔(原作・藤沢とおる)の『SHONANセブン』、伊藤龍(原作・塚脇永久)の『蟻の王』などを後者に区分することができる。伝説と同義であるようなレガシーを巡って、不良少年がバトルに没入していく式の構図が共通しているのである。井口達也のシリーズに代表されるような前者は、00年代からのトレンドでもある。そして、2010年代になり、後者の方向性を活気づける端緒となったのは、おそらく、この『熱風・虹丸組』であろう。

 フェイクなヒストリーを題材にしているという意味では、前者も後者も同様だが、物語の派手さやスケールのでかさを見るのであれば、やはり、神話的な権力闘争を描いている作品の方に分がありますね、ではある。いやはや、実際、『熱風・虹丸組』における壮絶なバトル、バトル、バトルを前に、リアリティがねえよ的な批判を述べることは正しいのだけれど、それを無粋だとし、ねじ伏せてしまうほどの勢い、振り切れたスウィングを感じられるのだ。大体、クライマックスで命を落としたはずの登場人物が別のクライマックスに颯爽と現れる。あのパターンを、ここまで堂々とやってのけているマンガが、今、どれだけあるというのか。

 必殺技の応酬と主人公のサイドの登場人物の死とが、ひたすら繰り返される。6巻は、これまで以上にバトルとポエムを満載にしており、遠からずマンネリズムに陥るかもしれないことを伺わせもするのだったが、しかし、一個の目的に突き進んできた物語とカリスマを持った登場人物のラインナップとが、必要十分に達することで、ジャストに噛み合ったカタルシスを同時に成立させている。最大のライヴァルが味方につき、より凶悪なライヴァルに挑まなければならない、という強さのインフレーションは既にはじまっているものの、ギリギリのラインで物語上の必然を持たせられているのだ。

 なぜ、この登場人物が、こう動くのか。いかなる作品であれ、それは積み重なったプロセスに暗示されている。『熱風・虹丸組』とは、ポジティヴ馬鹿である虹川潤が他の不良少年を感化していくプロセスにほかならない。なぜ、狗神塔馬も美剣號も卯月倫人も咲崎翼も四騎森槐も、さっさと身を引いてしまえば無事で済むような場面に、生き様を賭けてしまうのか。その理由は、ばしっと決まった見開きのカットと辞世の句とも取れるポエジーに、くどいぐらいアピールされている。問いは必要ではない。
 
 5巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2016年01月24日
 真マジンガーZERO vs暗黒大将軍 8 (チャンピオンREDコミックス)

 神はサイコロを振らないという。偶然はない。必然しかない。それでも。前巻(7巻)のラストにおいて、兜甲児は必死の抵抗を試みる。〈でも俺は違う 最後まで足掻く!!! サイコロをふらせろ〉と。〈勝負させてくれ!!!〉と。〈どうも何もない 戦うんだよ! ちょっとの間 神様は目をつぶってくれてりゃあいいんだ!!!〉そう、要求するのであった。

 無限に繰り返されてきた破滅を防ぐべく、いよいよ最後の決戦の幕が開く。『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』の最終巻(8巻)である。いや、これはしかし。おそらくは傑作になりえたマンガであったろう。だが、もしかしたら問題作とも取れる方向へと舵を切った印象になった。作者(田畑由秋・余湖裕輝)の判断は、賛否両論に分かれるものかもしれない。とはいえ、並行世界やループものにかかるメタ・フィクショナルな認識が、ここまで一般化された現在に共鳴しつつ、その可能性と限界とをきっちり手応えのなかに収めていることは間違いない。

 我々の世界が、他にもありえた筋書きやそこに至っていく分岐を多数、ア・プリオリに含んでいるのだとすれば、今このときは、神がこしらえた二次創作の一つにすぎないのではないか。こうした仮説を前提にする際、では、あまたある二次創作の一つの一部にすぎない我々が、作者である神や並列している他の二次創作に関与することはできるのか。サイコロを振らないはずの神を前にした兜甲児の必死の抵抗は、以上のような問いを肩代わりしているといえる。当然、論理的には不可能と見なされるだろう。重視されたいのは、それが不可能であったとしても、トライするだけの意味は必ずやある、と信じ抜く一個の人間の姿が、熱量の高いドラマを生んでいる点なのであって、そのドラマは、やがて、人間は神によって表されたものだとされる反面、神こそが人間によって想像されたものなのではないか、という逆転を導いてくるのである。

 前作にあたる『真マジンガーZERO』と合わせ、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』自体が(公式の)二次創作みたいなものである。あるいは『真マジンガーZERO』が、オリジナルの『マジンガーZ』をヴァージョン・アップ(今風にいうならリブート)した作品であるとしたら、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』は、『真マジンガーZERO』をさらにヴァージョン・アップした作品でもある。無論、作中のグレートマジンガーは、マジンガーZをヴァージョン・アップしたマシーンにほかならない。はたまた、マンガやアニメのジャンルでは、『マジンガーZ』から派生し、パイロット搭載型のロボットを題材にした作品がいくつも誕生した等々。これらの視点を盛り込みながら、兜甲児とマジンガーZEROの対決は、未曾有の事態を招き入れていく。

 正直なところ、シリアスさの極まった展開なのに、アンパンを食べる駄洒落が物語を大きく動かすためのキーとなっているあたり、ちょっと鼻白むものがある。最高にヒートしたテンションを返せ、と思わざるをえないのだけれど、それはコメディやサスペンスにかかわらず、リプレイをモチーフとした様々な作品のパターンを参照し、一つにはギャグの形として導入した(換言すると、リプレイをモチーフとした作品はサスペンスばかりではない。コメディにまで及んでいるマナーをも集積し、統合しようとした)結果なのだと受け取っておきたい。

 そして、まさか。並行世界やループものにかかっているメタ・フィクショナルな認識と二次創作の概念を基礎としたメタ・フィクショナルな認識の混在が、テレビ・ゲームの『スーパーロボット大戦』を連想させるような局面を、物語のなかに召還させるのだ。

 確かに『グレンダイザー』とのクロスオーヴァーなど、これまで他の永井豪の作品の引用は見られてきた。しかし、それがあくまでも『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』という枠組みを再確認するための方便であったとしたら、ここでは『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』という枠組みの外側に目を向けさせるための逸脱となっている。兜甲児の言葉を借りるならば〈…俺の心が繋がっている… 過去か 未来か 並行する宇宙なのか いや もっと別の全く違う世界…… マジンガーZEROが知ることのない世界との架け橋 それこそが俺が最後に作った光子力エンジンなんだ!〉こう力説されてはいる。他方、光子力とは、理系もしくはSFのロジックに依拠してきたはずなのに、文系もしくはファンタジーのレトリックにスライドさせられてしまっている(かのように感じられる)ことが、問題作かもしれない理由の一端となっているのである。

 永井豪の作品のみならず、他のマンガやアニメの引用が〈想像力がついていけないのか 俺にも光にしか見えないぜ〉とぼかされているのは、それを作中のレベルで認知できないからである以前に、著作権の問題にすぎないのではないか、という疑問の差し込まれる余地が残った。いや、生まれてしまっているのである。と同時に、オリジナルの『マジンガーZ』に帰属していた固有性も薄まってしまっているように思われる。兜甲児と剣鉄也の揃い踏みが、かつてのハイライトほど燃えてこないのは、たぶん、そのためであろう。既に描かれたものは描くことができる。だが、いまだ描かれていないものは描くことができない。こうした境界線をいかに解釈するかで、作品に対する評価も変わってくるに違いない。

 ああ、それでもやはり、プロの戦士であるがゆえに屈託なく死闘を繰り広げてきた剣鉄也のガッツこそが(中盤以降の)最大のフックであったな、という気がする。その活躍は、7巻の段階で、おおよそ終わっていた。地獄大元帥の退場とともに、である。もちろんのこと、『真マジンガーZERO vs 暗黒大将軍』は、兜甲児とZEROの物語としてはじまったかぎり、兜甲児とZEROの物語として閉じられるのが、必然ではある。ただ、剣鉄也が図らずも引き起こしてきた偶然の方に、実は作品の本質は正しく示されていたのではないか、と付言したくなるのだった。

 4巻について→こちら
2016年01月14日
 恋について話そうか 2 (フラワーコミックス)

 たとえば、と思う。永遠に続くものなどはないのだとしても、この気持ちがずっと変わらずにあって欲しいと願うときがある。ともすると、藤原よしこのマンガはどれも、そのような願いの、ささやかであるはずなのに、かけがえのないことを綴っているのである。ヒロインの年齢を、以前の作品に比べて、いくらか上の大学生に設定した『恋について話そうか』についても、それは同様であろう。

 立場やイメージ、性格にギャップがある男女のロマンスは、この作者の得意とするところであって、ヒロインである野々村昴とカップルになる桐谷瑠衣の兄との関係には、『だから恋と呼ばないで』等の過去の作品を参照させる部分がある。しかし、お約束である以上に色褪せない魅力を感じさせるのは、若い登場人物たちに訪れる最初の経験と新鮮な感動とを、派手にデコレイトすることなく、むしろ素朴であるほどに切実さの際立っていくような手つきで導き出しているからである。現代的なセンセーションに乏しいかわり、若い登場人物たちの(若いがゆえに)つたないやりとりには、エヴェーグリーンと喩えるのに相応しい適温が備わっているのだ。

 教育学部の美術科に通う昴は、母親の再婚を機に一人暮らしをはじめたのはいいのだけれど、期待と違ったのは、アパートの隣に住んでいるのが、少しばかり意地の悪そうな男性であることだ。しかも、彼は同じ大学の法学部だという。他方、端麗な容姿と優秀な成績から大学でも目立つことの多い瑠衣は、アパートの隣に引っ越してきた昴の、そのおっちょこちょいだが、お人好しな性格に、どうしてか興味を引かれてしまう。からかっているつもりで昴に接していた瑠衣、そして、敬遠しているつもりなのに瑠衣と身近になっていく昴、お互いとも意図せずに恋愛の入口へと足を踏み入れていたのだった。

 昴と瑠衣の恋愛は、大学生だが、まるで中高生のような初々しさを強調している。今どきの子はもうちょっとすれているんじゃない式のリアリズムで鼻にかけない向きもあるだろう。だが、ピュアと換言できるレベルの初々しさが、それまで恋愛を知らないできた二人の最初の経験と新鮮な感動とに、確かな輪郭を与えている点を看過してはならない。全2巻の長さが作者の構想によるものか人気の結果によるものかは不明である。しかし、終わりや別れではなく、あくまでもはじまりを描くことに撤した『恋について話そうか』には、このときの気持ちがずっと変わらないでいて欲しいという願いの、透き通るぐらいに濁りのない趣が、よく出ている。

・その他藤原よしこに関する文章
 『だから恋とよばないで』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『恋したがりのブルー』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  1巻について→こちら