ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2016年08月31日
 新闇狩人(1) (ビッグガンガンコミックス)

 近年は原作者としての活動にシフトしている坂口いくだが、やはり、マンガ家としての代表作は『闇狩人』だろう。『闇狩人』とは、簡単に述べるなら『必殺仕事人』の現代版なのだけれど、オリジナルが連載されていたのは80年代であって、作画に細川真義を迎えた『新闇狩人』は、つまり、その(いくつかのスピンアウトを含むシリーズの)続編であり、2010年代版となっている。前作の登場人物たちも加齢を経、出てくるには出てくる。しかし、若い読者の多くにとって、オリジナルを知らないことが必ずしも障害にはならないと思われるのは、そもそもが一話完結型に近いスタイルを取っている以上、エピソード毎に描き出された悪党の姿、罪の深さや、それに対する裁きに着目すれば良いためである。

 法や社会の枠組みでは裁かれない悪党がいる。悪党に殺されてしまった者がいる。悪党に殺されてしまった者を大切に想っていた者がいる。残されていった者の無念が晴らされることはないのか。いや、彼らの復讐を代理し、果たす者がいる。それが闇狩人と呼ばれる稼業だ。士堂瑠璃は、マンガ家志望の女子高生であった。普段はおっとりとしている彼女が、まさか、ひとたび依頼が入ったなら、悪党を死に至らしめていく闇狩人であることを周囲の者は誰も知らない。

 闇狩人は殺されていった者の無念を晴らすのではない。あくまでも残されていった者の無念を晴らすのである。このため、闇狩人に依頼を発し、悲願を達成した者は、たとえ相手が悪党であろうと、闇狩人という凶器を使い、他人を殺したことに変わりはない。犯罪に手を染めることを自覚している者だけが、闇狩人に復讐を求められるのであって、もちろん、当の闇狩人もまた、犯罪に手を貸すどころか、実際に手を汚していることを自覚している。しかし、それでも果たされなければならない復讐があるのではないか。これが『新闇狩人』における倫理であろう。さしあたり、正義がどこにあるのかという問いが重要なのではない。利己的であり、他人に対する配慮、想像力を欠いた者への断罪が集中的に描かれていく。

 作中に正義が現れているとすれば、クズであるかのような悪党の救いがたさが徹底されている点だ。主人公である瑠璃にとって、それは対象を殺せるか殺せないかの判断となっている。インターネットの時代ならではの小賢しさやエゴを身につけた悪党の姿は確かに今日のものであるな、と思わされるし、調子に乗っていると気づかずに一線を踏み越えてしまう悪党の愚かさは普遍であるのかもしれないな、と思わされる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2016年)