ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2015年12月16日
 L DK(19) (講談社コミックス別冊フレンド)

 少し前に「壁ドン」という言葉が流行った。本当に流行ったかどうかは知らないが、話題にはなった。当初はインターネットで広く親しまれているジャーゴン(隣室に対するクレームとして壁をドンとすること)の誤用ではないかと指摘されることもあったけれど、メディアや広告などを通じ、壁際に詰め寄りながら異性にアプローチする行為の方を指す向きが、かなり一般化した印象がある。まあ、女性は押しに弱いという陳腐なステレオタイプを応用しているにすぎないような気もするし、一歩間違えたらハラスメントになりかねない危うさを非難することはできる。この「壁ドン」の流布に少女マンガの側から一役買ったとされるのが、渡辺あゆの『L・DK』である。たとえば、オムニバスである『きみと壁ドン』のコミックスの表紙には、まるでその代表格であるかのように渡辺の手がけたイラストが飾られていたりもする。

 渡辺本人が、自分の作品なり作風なりが「壁ドン」の語彙と否応なくセットになってしまうことについて、実際にどう考えているのかはわからない。が、『L・DK』の18巻及び19巻には、上記したような立場に対し、作者なりに何かしらのアンサーを加えようとしているのではないかと思わされるところがある。自信に溢れ、押しが強いことを一切悪びれなかったはずのイケメンさんが、しかし、真から惹かれはじめている女性にはステレオタイプなアプローチが通じず(あるいは用いることができず)戸惑い、衰弱していくかのような姿が描かれているのである。以前にも述べたけれど、18巻から19巻にかけての主人公は、本来のヒロインにあたる西森葵であるというより、彼女の恋人である久我山柊聖の従兄弟、久我山玲苑がつとめていると見なすことができる。葵に好意を抱きはじめていると自覚しつつも、柊聖を気遣うあまり、やるかたない状況に玲苑は陥るのだった。

 そして、それでも葵への恋慕を振り切れないままの玲苑が、ついに柊聖から彼女を奪い取ることを決意する、というのが19巻のあらましである。押しの強さを正義とするのであれば、柊聖にも玲苑にも、葵を押し倒せる機会が与えられている。柊聖ならともかく、玲苑を葵は受け入れないかもしれない(まあ、受け入れないだろうね、と読み手からすると思う)このときに注意されたいのは、要するに「壁ドン」に象徴されるようなアプローチが無効であると男性に意識させる女性の、その気持ちを振り向かせるにはどうしたらいいのかを、葵を真ん中にした玲苑と柊聖の綱引きに垣間見られる点なのだ。まるで玲苑を主人公にしているかのような展開だと先に述べたが、看過してならないのは、葵と玲苑の親密なコミュニケーションを直面する柊聖の視線であろう。

 玲苑は、クールな柊聖の態度を柊聖が持っている余裕だと判断する。ただし、作者の演出と作品の構成は、必ずしも柊聖が余裕をキープしているわけではないことを暗に示すものとなっているのだ。これまでの物語からすると、葵が柊聖以外の相手に決してなびかないことは、ほとんど前提だといえる。(現段階では)葵は玲苑を恋愛対象としてまったく認めていないがゆえに彼とのやりとりに無防備でいられるのである。少なくとも19巻において重要なのは、葵が何を考えているかではない。確かに彼女は自分の将来に考えを巡らすけれど、おそらく、それは今後の展開のために用意されたものであって、ここでのポイントではないだろう。19巻のなかで特に印象的な場面はどこか。よく目を通したら明らかであるように、葵の揺らぎではなく、柊聖や玲苑の揺らぎにカメラのピントは合わさっている。

 玲苑の内面が饒舌なのに比べ、柊聖が何を思っているのかは具体的に描かれない。それは1巻より『L・DK』を『L・DK』たらしめている文法の一つにほかならない。玲苑の揺らぎは、モノローグや表情にいくらでも表されている。他方、柊聖の揺らぎをこれだと指摘できるのは、たぶん、葵と玲苑の手と手がごく自然に触れ合うのを柊聖の視線が捉えている箇所になる。二人きりの寝室で柊聖が葵の手を取るのは、先のシーンの反復であり、強調である。さらにいうなら、「壁ドン」のような強烈なアプローチばかりではなく、もっと静かでやさしいアプローチもありうるのだという可能性と説得力とが、手と手がごく自然に触れ合うシーンには宿らされているのだ。

 18巻について→こちら
 13巻について→こちら
 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
2015年12月14日
 百足 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 そう。これだ。男の子なら、こういうマンガが読みたかった、と思わされる。フクイタクミの『百足 ムカデ』の1巻である。主人公である好漢が、恩義のある姉弟を救うため、100人からなる悪党の集団をばったばったと打ち倒す。プロットを述べるのであれば、本当にそれだけのお話にすぎない。しかし、どうだ。まるで長期連載を視野に入れていないかのようなワン・アイディアの徹底が、怒濤と喩えるのに相応しいスピードの展開を作品に呼び込んでいる。いや、展開らしき展開は(今のところ)一難去ってまた一難、危機に次ぐ危機の訪れのみ、であろう。だが、それが間髪を容れず、巻き起こることに大きな興奮がある。

 もちろん、主人公や彼が打ち倒してく悪党どもに充分な魅力が備わっていなくては活劇そのものの魅力も損なわれてしまうに違いない。この点も短い場面のなかに的確なプレゼンテーションを盛り込むことで見事にクリアーしている。「百手無双流」という武術の使い手として描かれる主人公の馬頭丸は、とにかく強い。そして、100人が100人、個性的なスタイルで殺戮を弄ぶ「百足」の面子は、とにかくやばい。ネーミングからして対になっているのは明らかだけれど、その二つの相反するエネルギーが、くどい回り道を経ることなしに正面からぶつかり合っていく。さらに注目されたいのは、半日も過ぎていないわずかばかりのあいだに瞬間風速的なバトルが次々と繰り返されていることであろう。

 最初から強い者同士が、何の修行もなく、何の休息もなく、何の逡巡もなく、ただただ相手を組み伏せることに終始する。一方、馬頭丸を待ちわびながらも逃げ惑うお泉と田彦の姉弟には、容赦のないピンチが絶えずにもたらされる。この二面の密接な連動が時間の進行(押し寄せるタイムリミット)を代替しているところに、肝を冷やすかのようなサスペンスが生じている。必殺技の応酬だけを見るのであれば、古いタイプの少年マンガにも思える。だが、作品の構成は、現代的な少年マンガの文法に近く、練られている。ルールや根拠のないバトルを満載にしている風でありつつ、特定の条件がスリルを左右するというデス・ゲームの印象をも表に出してきているのである。

 とはいえ、純粋な正義と純粋な悪しか存在しない勢力図に、難解さはまったくない。どちらがどちらを屈するのか。勝敗の行方は、すごい勢いで上がり下がりするシーソーの簡単なアトラクションがなぜか子供心をわくわくさせるのに似た訴求力を放つ。
2015年12月11日
 藍の時代ー一期一会ー (少年チャンピオン・コミックスエクストラ)

 紛れもなく最高だ。自分がマサミスト(車田正美のファン)の端くれであることを差し引いても、そういえる。以前に述べたときもあるが、マンガ家マンガのブームとマンガ家マンガというだけで無条件に肯定する人間を訝しげに見てしまうタイプの読み手である。後者については、どれだけ好きなジャンルであっても作品毎に質の差はあるだろう、と思うからであり、前者については、同じアシスタントを数十年も雇い続けているマンガ家がプロ・デビューを絶対視するような作品を屈託なく描いてしまうことに業界そのもののねじれを感じてしまうためであった。まあ、素直に楽しめないお前の根性が悪い、ではあるのだけれど、『藍の時代 一期一会』に関しては、否応なしに背筋をぴんと正されるものがある。マンガ史としてはデタラメな点も多いし、真に受けてはいけないようなエピソードもふんだんである。しかし、そのことがネックになっていないばかりか、他に類例がないほどのインパクトを付与しうる原動力となっている。

 大体、全1巻、全8話の長さであるにもかかわらず、登場人物が6人も死ぬ、というマンガ家マンガが他にあるだろうか。いや、ない。こうした反語をただちに引き出してしまうところにこそ、唯一無二の手応えを覚えるのだ。車田正美がまだマンガ家になる以前の、そして、駆け出しのマンガ家になった頃の、青春の爽やかさとはかけ離れた青春の像を『藍の時代 一期一会』は描いている。愚鈍でさえある若者たちの姿に投影されているのは、おそらく、「最後の硬派」というテーマであろう。「最後の硬派」とは、40年に渡る車田の創作においては常にプライオリティを高くして挑まれてきたテーマである。たとえば、それは『男坂』の菊川仁義の活躍や『リングにかけろ2』の香取石松の最期などを通じ、度々明言されていたものでもある。『藍の時代 一期一会』の主人公、東田正巳と少年時代の親友、病弱な小林純一の二人の関係は、『風魔の小次郎』における飛鳥武蔵と妹である絵里奈のそれを、あるいは『聖闘士星矢』におけるフェニックスの一輝とアンドロメダの瞬のそれを想起させる。『風魔の小次郎』や『聖闘士星矢』のようなファンタジーにあってですら、群れをなすことがない飛鳥武蔵やフェニックスの一輝の孤高からは「最後の硬派」のイメージを受け取れるのではないか。かくして、フィクションかノン・フィクションなのかはともかく、車田正美がついに自分自身を直接の題材に「最後の硬派」をアピールしてみせた。これが『藍の時代 一期一会』なのだと思う。

 車田には既に『実録!神輪会』というマンガ家マンガがある。セルフ・パロディをやったり、ギャグ色の濃い作品ではあるものの、実名がばんばん飛び交うところに、ある種の説得性が現れていたわけだが、『藍の時代 一期一会』は『実録!神輪会』と比べ、モデルのいる登場人物の実名に、かなり消極的だといえる。はっきり実名で出てくるのは、本宮ひろ志と壁村耐三ぐらいであろう。大変な無頼漢のごとく描かれるその二名には、一体何が象徴されているのか。たぶん、東田正巳(車田正美)が「最後の硬派」を受け継がなければ、彼らが「最後の硬派」になりえたのかもしれないという生き様である。車田と『週刊少年チャンピオン』の名物編集長として知られる壁村の繋がりは不明だが、実際、本宮は若き日の車田の憧れであった。『藍の時代 一期一会』で、本宮との出会いは、まるで彼の生き様が衝撃であったかのような鮮烈な場面となっている。車田にとって、本宮が最初のライヴァルであり、最大のライヴァルであり、最後のライヴァルであることは『実録!神輪会』のときからまったく変わってはいない。

 先に触れた通り、たくさんの登場人物が死ぬ、という意味で、マンガ家マンガらしからぬマンガ家マンガが『藍の時代 一期一会』である。裏返すなら、それは一期一会を果たしながら「最後の硬派」として車田が生き残ったことを含意している。東田正巳は問う。〈漫画ってのは何だ!?〉と。そして、自答する。〈一千万読者との闘いなんだ!〉と。彼の魂に〈一千万対一!やってやるぜ 〉という火をつける。絶望との闘いでもある。自分自身との決戦でもある。いつ敗れ去ってもおかしくはない。そのぎりぎりの奮闘のまっただなかでも決して失うことのない情熱が『藍の時代 一期一会』のドラマをすさまじく燃え上がらせているのだ。
2015年12月10日
 あるいとう 11 (マーガレットコミックス)

 大抵の少女マンガでは、ヒロインと恋人の関係やヒロインと周囲の人間たちの関係とが時間の流れを代替するものになるのだったが、ななじ眺の『あるいとう』の場合、それが非常にスロー・ペースに描かれている。おそらくは作者の狙いであろう。時間の流れを跳ねたり走らせたりするというより、ヒロインであるくこの(同時に周囲の人間たちの)心の移動を、タイトルの通り、一歩ずつ歩いていくかのようなテンポで刻むことが作品のテーマとなっているのだと思う。

 作品の背景には、95年に起きた阪神・淡路大震災が置かれている。その災厄は(近年の作者の活動やコメントを見る限り)2011年の東日本大震災を経由し、再発見されたものに違いない。もしかしたら『あるいとう』における時間の流れは、それが起こった過去から現在までのあいだ(ヒロインのプロフィール)に凝縮されているのであって、あるいはそうであるとするのなら、そのような現在から未来へと進むための一歩をいかに踏み出すか。要するに、そのわずかにしかすぎない一歩(過去という時間の集積を乗り越えようとする最初の、勇気のある一歩)を誠実に示すべく、物語は極めてスロー・ペースに展開されなければならなかったのだ。

 最終巻である。この11巻に証明されているのは、もちろん、ヒロインや周囲の人間たちの変化であり、成長だといえる。しかし、それがどういったものか。具体的に説明するのは難しい。少女マンガのセオリーに則るとしたら、誰と誰がカップルになったとか、誰がどうした進路を得、幸福を掴んだとか、はっきりとした結果が提出されていないせいであろう。登場人物の一人が作品の構造に対し、メタ・レベルからのツッコミを入れる等、ラヴ・ロマンスの定型を逸脱することに作者は自覚的であった。慎重な回りくどさとでもしたい語り口によってもたらされていたのは、強く生きることには何の意味があるのかという問いである。

 ごめん。ありがとう。がんばれ。がんばる。これらの言葉を、気持ちを、過去から投げかけられた者が躓きを踏まえていきながら、同じ言葉を、気持ちを、未来に向けて発せられるようになるまでの足どり。それをちょうど『あるいとう』と表するのに相応しいイメージのなかに落とし込んでみせていた。

・その他ななじ眺に関する文章
 『コイバナ! 恋せよ花火』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
2015年11月14日
 弾丸タックル(9)(少年チャンピオン・コミックス)

 佐藤由幸の『弾丸タックル』は、レスリングを題材にしたマンガで、気弱な少年が、兄貴肌の人物に出会い、秘められた才能を開花させていく、という『はじめの一歩』式のチャートを採用している。スポ根が不振の80年代後半から90年代前半にあって『はじめの一歩』が成功した理由を〈かっこわるい奴ががむしゃらにむしゃぶりついていくというのがよくって、また小林まことキャラが隣にいるのが絶妙のバランスなんです〉と分析したのは、島本和彦(『ユリイカ』2014年3月号)だが、そこでいわれている小林まことキャラとは(もしかしたら青木や木村の存在も含められているのかもしれないけれど)要するに鷹村守のことであろう。『弾丸タックル』も同様、小林まことのマンガを源流に抱くかのような先輩、飛鷹勝が、主人公である朝日昇のモチベーションと成長、そして物語の流れに大きく関与しているのである。

 ところで、島本がいう「小林まことキャラ」のイメージを具体的に推測するのであれば、それはおそらく『1・2の三四郎』の東三四郎になるのではないかと思う。のちの『柔道部物語』における主人公、三五十五の先輩、鷲尾弘美などもこの系譜にあたる。他方、たとえば『柔道部物語』の西野新二に代表されるようなヒールもまた、スポーツや格闘技を題材とした小林の作品にとっては重要な位置を占めるものであった。西野の果たしている役割は、健全な精神は健全な肉体に宿る、という建前に対するアンチ・テーゼだといえる。『はじめの一歩』であれば、間柴了がこれに近いのではないか。近年のヒット作では『弱虫ペダル』の御堂筋翔も(マザコンであるらしい気配を込みで)西野を彷彿とさせる。『弾丸タックル』で、等しいポジションを負っているのは、この9巻の予選(東京都大会)の3位決定戦で、とうとう主人公の朝日と直接対決することとなった斑目正である。試合に勝つためには、相手の顔面に膝を入れる反則を厭わぬ斑目は、フェアネスをあくまでも信じる朝日がはじめてぶつかることになったヒールなのだ。

 ライヴァルたちが見守るなか、まったく別の価値観に根差した脅威であるような斑目に対し、朝日はどうした戦いに出るのか。試合の運びは、体格の差やお互いに異なったレスリングのスタイルを強調していく。作品のテーマと重なるのであろう。フェアであることとアンフェアであることを天秤としたスピーディな攻防が繰り広げられている。

 3巻について→こちら
2015年11月13日
 デビリーマン 2 (ジャンプコミックス)

 福田健太郎の『デビリーマン』は、雑誌掲載時に最終回を読み、戸惑うものがあった。なので、いくつか感想を探してみたのだったが、さらに戸惑わされたのは「良い結末」だとか「感動した」だとかの声が決して少なくはなかったことである。なぜなら、年端もいかない子供が世を儚んで死ぬ、という風にも見えるラストは、所謂バッド・エンドにあたるように思われたためだ。しかし、所謂バッド・エンドとは別の角度から判断するのであれば、もしかしたら『デビリーマン』は(たとえ少年の向かった先が一般的に天国と信じられる場所ではなかろうと)現代版の『マッチ売りの少女』あるいは現代版の『フランダースの犬』であったのかもしれない。

 率直にいって、方向性がきっちりと定まる前に作品を閉じられてしまった印象である。裏を返すなら、エピソードごとに可能性を模索していたかのようなマンガであった。短編型のダーク・ファンタジー(例『笑ゥせぇるすまん』『死神くん』)にも舵を取れただろうし、複雑なルールをかいくぐっていく知能戦やデス・ゲーム(例『DEATH NOTE』『LIAR GAME』)にも舵を取れただろう。はたまた、正体不明の攻撃が次々に飛び交う異能バトル(例『ジョジョの奇妙な冒険』『うえきの法則』)にも舵を取れただろう。だが、こうという進路を獲得する段階にまでいかず、完結だけが先にきてしまったところがある。作者の狙いがどこにあったのかをはっきりと掴むことは難しい。反面、主人公の平和(たいらあえる)少年とパートナーである悪魔のマドギワーの関係については、最初の時点で確かとなっていたイメージをまったく逸れることがなかったと思う。

 平和少年にとって、マドギワーとは何だったのか。最終回の措置に対し、救いに近いものを見つけ、ポジティヴに心を動かされるのだとすれば、それは平和少年とマドギワーの関係に端を発している。他人の目にはどうであれ、彼らが彼ら自身の立場と関係に幸福を導き出した点に、所謂バッド・エンドとの相違が立ち現れているのである。幼いにもかかわらず、際どいことに躊躇しない平和少年の姿には、子供こそが純粋だという思いなしと子供を無垢とするのは誤りだという思いなしとが同居している。しかし、注意を払うべきなのは、平和少年の行動やその結果が必ずしも悪を意味してはいないことだろう。幾重にもひねくれた平和少年の性格は、今どきだと感じられるとはいえ、偽悪的であることは、所詮、偽悪的にすぎないのである。

 2巻(最終巻)における作者のあとがきなどに明らかなとおり、平和少年の正体には(普通ではないのかもしれない)含みが込められているのだけれど、後ろ盾を持たない(無くした)がゆえ、大人をはじめとした社会にはじかれ、居場所がない、という意味で『マッチ売りの少女』や『フランダースの犬』の子供たちと変わりがない。無力であるような小さな体を、欠落や不幸の反映だとすることもできる。平和少年にとって、マドギワーとは何だったのか。マドギワーは、平和少年を直接救ったわけではない。が、平和少年は、マドギワーによって救われている。実存と別のレベルに救いが置かれていること、それは金の稼ぎを物語としていたマンガの最終回にもたらされた憐憫にほかならない。
2015年10月16日
 ハイジと山男(3)<完> (BE LOVE KC)

 山岳あるいは登山マンガにおける主人公の死亡率は異常だと思わされることが多い。たとえ主人公が最後まで生存できたとしても、彼にとって重要な人物が命を落とすという展開を迎えていることが少なくはない。もちろん、そのような危険との隣り合わせを実際に持った趣味であり職業であり行事なのだろうから、ドラマの作りとしてはまったく正しいのかもしれないし、むしろ、それを描くために選ばれた題材なのではないかと判断したくなることだってあるのである。安藤なつみの『ハイジと山男』は、登山客をサポートするための山小屋で働くこととなったヒロインの成長を中心に描いており、試練と格闘するかのようなクライマーの姿を直接扱っていないぶん、ライトな印象をもたらしてくれる。そこに他の作品と一線を画したものを見つけられるのだったが、ヒロインの成長とはつまり、高山の厳しさと豊かさとを直に経験していくことにほかならない。山をなめるな、自然をなめるな、というのは登山マンガにとっての不文律である。それを軽々しくしては誠実さを欠くのだろう。しかし、この3巻で完結した『ハイジと山男』にかぎっては、いくらでも和やかになりそうな物語をとかくシリアスな方面へ引っ張るかのようなバイアスになってしまったと思う。
 
・その他安藤なつみに関する文章
 『ワルツのお時間』1巻について→こちら
 『ARISA』
  11巻・12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
2015年10月02日
 またあした 2 (りぼんマスコットコミックス)

 前作の『流れ星レンズ』に比べ、いくらかハジけた少女や少年を登場人物にしているけれど、それでも純粋な気持ちは他の誰かに必ずや影響を与えるのだ、他の誰かから純粋な気持ちを与えられることで自分が変わることもあるのだ、という点が強調的になっているあたり、ああ、村田真優だと思わされる。『またあした』である。

 明るく楽しい性格で、女友達には恵まれているが、男子との付き合いはとんと苦手なヒロイン、椛永遠(もみじとわ)であった。が、高校へ進学し、周囲に不良として見られている男子、豹藤望や、周囲に優等生として一目置かれている男子、孔雀優と知り合い、関わり、興味を持っていくうち、自分でも気づかぬまま、恋愛というものに接近していくこととなる。以上が1巻からの大まかなあらすじであって、基本的にはウブなヒロインと二人の王子様による三角関係を土台にした(定型に添った)作品だといえる。

 不良のようだが、実は心優しい豹藤と、優等生を装ってはいるが、実は性根の悪い孔雀のコントラストは、三角関係をベースにしたラヴ・ロマンスに、はっきりとした輪郭を与えている。フックであろう。異性の立場においては、永遠だけが彼らの素顔を知っていること、それが導入の部分となっていて、自分の素顔を見せられる異性は他にはいないことの大切さをめぐり、ストーリーは展開するのである。もちろん、一人の少女がそれまで無縁であった恋愛の感情を知り、戸惑い、悩むこと、ここに思春期のときめきと成長のテーマを見て取ることができる。

 友達から恋人に。友情から恋愛に。永遠が踏むステップは、それが異性からの押しの強いアプローチによるものであれ、意外と早い。そして、知り、戸惑い、悩むのは、好きになった相手の気持ちが果たして自分の気持ちと同様なのか否かを疑問符なしでは考えられないことのもどかしさについてだ。そう、であるがゆえに〈恋って面倒なんだな 相手が何考えてるか分かんなくて 怖くて 振りまわされるのは 好きになった方 人の気も 知らないで〉と思うのだし、相手の気持ちを確かめずにはいられなくなるのであった。

 ストーリーの表面で判断するのであれば、この2巻で、永遠の気持ちがはっきり豹藤に向かっていることが示されているため、三角関係そのものは非常にアンバランスなものとなっている。孔雀と豹藤のあいだで揺れ動く永遠という構図は採用されていない(ように一見すると思える)のである。しかし、注意されたいのは、永遠の意識のなかでは〈優ちゃん(孔雀)には 言わなくても分かるのに でものんちゃん(豹藤)には 言わなきゃ分かんない〉とされるような区分が生じている点であろう。

 先に述べた通り、相手の気持ちを確かめずにはいられないことが永遠にとっての恋愛のトリガーとなっている。それは永遠と豹藤の結びつきを問うものである。他方、俯瞰するのであれば、自分のことを本当に理解しているのはどちらの異性かという問いが、孔雀の介入には託されている。いずれにせよ、ヒロインの前には、たとえ当人が気づいていなかろうと、二つの選択肢、二つの可能性が置かれていることに変わりはないのだ。

 驚くべきことに、永遠をあいだにしながらも、豹藤と孔雀の直接の衝突は、ここまでほとんど描かれていない。それは一人の少女に、いかなる選択肢をもたらされているか、いかなる可能性が開かれているか、を軸にし、作品が編まれている(編まれていた)からなのだと思われる。だが、2巻のラストは明らかな波乱を予感させる。豹藤と孔雀の直接の衝突はあるのか。予感は同時に、どのような選択肢も可能性も、いつしか一つに絞られなければならないことを、うかがわせている。
 
・その他村田真優に関する文章
 『イン ザ チョコレート』について→こちら
 『妄想シンデレラ』について→こちら
 『ドクロ×ハート』について→こちら
2015年09月28日
 たいへんよくできました。 4 (マーガレットコミックス)

 今日、学園ものが描かれるとき、所謂「ぼっち」というライフスタイルが取りざたされることは多い。もちろん、社会の比喩であるような(あるいはミニマムな社会そのものであるような)学校生活における疎外感は、古くからフィクションの世界で重宝されてきたテーマである。それがしかし、必ずしも特殊なものではなく、一般化され、文字通りにライフスタイルと換言することが可能な様式を持ったため、かつてよりもキャッチーな題材となりえたのではないかと思う。

 佐藤ざくりの『たいへんよくできました。』は、正しく「ぼっち」として中学生までを過ごしてきた少女が、ヒロインの作品だ。ヒロインの野々山ぼたんが、高校進学を機に自分を変えようとし、闇雲に奮闘する様子を描いているのだった。が、友情やサークルの形成を通じながら、共同体の価値を見直すというよりも、恋愛をモチベーションとした一点突破を大々的にしている。少女マンガのロマンスに相応しいカスタマイズを、あくまでも中心としているのである。

 前作の『マイルノビッチ』が(実際にはそうではないけれど)「ビッチ」をヒロインにしていたとしたら、『たいへんよくできました。』では「ぼっち」がヒロインになっているということはできる。しかし、『マイルノビッチ』と同様、三角関係の緊張状態と一組の男女のデリケートな繋がりにいかなるドラマを与えるかということに、本質はあるのだとはっきりしたのが、前巻(3巻)の展開だ。ぼたんと因縁のある男子生徒をフィーチュアし、その横槍をきっかけに、王子様の役割にあたる甘藤春人とぼたん自身のお互いに対する意識の在り方、恋愛感情を明確にしていたのだった。

 実はこの4巻で最も美学を匂わせているのは、結果的に噛ませ犬となってしまった桜玲一郎の言葉と態度である。〈“自分なんかより相手の事”って言ったくせに 俺も全然できてなかった〉ことに気づき、ぼたんのことを想って〈あんな顔… 見たくないんだよ 結局 君の 君は… 幸せの方にいてほしい…〉と身を引く彼の姿は、それが物語の重要な転換の導きとなっているところを含め、『たいへんよくできました。』の本質がロマンスであることの証左にほかならない。

 恋愛をモチベーションとした一点突破を大々的にしていると先に述べたが、ぼたんの気持ちを後押しするクラスメイト、苺の存在からは、友情の優しさがうかがえる。一方、過去のエピソードでは、ぼたんの(苺との)友情は、甘藤にサポートされるものであった。それがここでは、ぼたんの(甘藤との)恋愛をサポートするものへと回されている。作品の構成において、恋愛の比重が何よりも増してきているのだ。

 いずれにせよ、「ぼっち」からの離陸が『たいへんよくできました。』の指針であったとするならば、ほとんど完遂されたといえる。そのあとで、どこに話を進めるのか。テーマをどうするかのレベルで佳境に入った。

・その他佐藤ざくりに関する文章
 『おバカちゃん、恋語りき』
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『otona・pink』2巻について→こちら
2015年08月28日
 ひるなかの流星 番外編 (マーガレットコミックス)

 やまもり三香の『ひるなかの流星 番外編』である。番外編だが、これから全12巻の本編の結末について言及せざるをえないのは、収められている「隣の男」という読み切りのことを取り上げたいからだった。『ひるなかの流星』は、当初は噛ませ犬(当て馬)のように思われていた人物がヒロインと結ばれるというトンビが油揚げをさらっていくタイプのエンディングを迎えていた。ヒロインである与謝野すずめ、そして、彼女と結ばれた馬村大樹の二人は、おそらく、幸福な青春時代を送ったに違いない。事実、二人のその後を描いた番外編もここにはある。では、喩えるならトンビに油揚げをさらわれた側にあたる獅子尾五月のその後はいかなるものなのか。それを描いているのが、「隣の男」なのだ。

 そもそも『ひるなかの流星』において、また、すずめと獅子尾の関係にとって、最大の障害となっていたのは、生徒と教師という立場であり、その年齢の開きであった。(だいぶ話を端折ってしまうけれど)結果、迷いながらもすずめは自分と同じペースで時間を過ごしていける馬村を選ぶこととなるのだった。しかしながら、あるいは当然なのだが、そうした結末は、決してすずめに対する獅子尾の気持ちを偽とするものではない。立場の対等性を抜きにするのであれば、単に獅子尾はフラれたのである。もちろん、単に、では片付けられない魅力が、獅子尾にはあった。それがすずめの迷いとなっていたのであって、いや、獅子尾が選ばれるというルートも、まったく不自然ではなかったのだ。それだけの魅力を持った人物が、最愛だと信じたはずの異性にフラれ、フラれたのち、どのような時間を過ごしたのか。

 本編から6年後の獅子尾の姿を「隣の男」は描いている。ファン・サービスとして優れているのは、獅子尾が以前のまま(内面を隠しているがゆえに)飄々とした魅力を損なわずに備えていることだろう。アパートの隣人である(世間に擦れ、やや無感動となってしまっているような)女性編集者の視線を通じ、果たしてすずめに対する獅子尾の想いはどこに行ったのかを垣間見せているところに、短編ならではの味わいがある。物語のレベルで見たとき、具体的にどうという展開はないものの、そこはかなとく獅子尾と女性編集者のラヴ・ロマンスが仄めかされているような気がしてしまうのは、獅子尾に特定の恋人がいないこと、ひいてはすずめに未練を残しているのかもしれない可能性と無関連ではない。

 誰かを一途に想うことを是にするとしたら、未練は必ずしも悪ではない。だが、未練のなかを生き続けることは、どうしたって悲しい。獅子尾が、長い時間をかけ、すずめが他の人物と結ばれてしまったことを、どのように受け入れたのか。これを(ある意味で特別な一日をあいだに挟みながら)アブストラクトに切り取ってみせたのが、「隣の男」だといえる。すずめを想像する獅子尾の表情は今でも優しい。優しいがゆえに切ない。その切なさに胸を打たれる。感傷の綺麗に澄んだ読み切りである。

 1巻について→こちら

・その他やまもり三香に関する文章
 『シュガーズ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 わたしの上司 1 (マーガレットコミックス)

 田島みみの前作『東南角部屋』は、それまでの中高生向けな作風からの脱却を心がけたマンガであった。同様にこの『わたしの上司』の1巻も、学校を出、社会人となった(社会人になろうとしている)ヒロインを主人公にした内容となっているのだが、やはり、本質として見られるべきは、かつての作品がそうであった通り、三角関係の揺らぎをベースにしたラヴ・ロマンスであるように思う。

 かわいいグッズを好きなことが高じ、念願のおもちゃ会社に新卒で入ったヒロイン、真野恵は、志望も叶い、ガールズトイ事業部に配属されることとなった。チームリーダーである上司の中島は、若くして社内で一目置かれる存在だが、しかし、恵に対する当たりは厳しい。中島のことを最初は苦手に感じていた恵である。だが、中島が時折見せる気遣いや優しさに触れるうち、彼に対する印象は大きく変わっていくのであった。

 序盤のエピソードに明らかだけれど、中島の厳しさは、学生気分が抜け切れていない恵に釘を刺すための必然にほかならない。それを恵が(頭で理解するというよりは)身をもって実感していくこと、つまり、学生の立場から社会人の立場への転換を体験しなければならないことが、彼女の心境の変化には投影されている。ただし、会社員として働くというライフスタイルを、あくまでもラヴ・ロマンスの形に回収している点が、まあ、読み手によっては甘いと評価されるかもしれないが、『わたしの上司』の基本である。

 意地悪な異性に、いつしか惹かれてしまう。これはある種の様式であろう。それを学生の立場を題材とし、描いてきたのが、以前の田島であったとしたら、『東南角部屋』と『わたしの上司』では、社会人の立場を題材としている。題材の違いだけではなく、絵柄にも変化が出ているが、物語の構造自体は一定しており、それを作者の持ち味と受け取ることもできるのだ。

 先に挙げた三角関係の揺らぎとは、恵に積極的なアプローチをかけてくる同僚の三浦を指している。ここで注意されたいのは、三角関係といっても(現段階では)三浦が噛ませ犬のポジションにぴったりとハマってしまっていることだろう。三浦と恵の間柄がいかに進展するかにはさほどの重要性がなく、中島と恵の間柄がいかに進展するのかに作品のイメージは規定されているのである。それは既に述べたが、恵の心境の変化と社会人の立場への転換とをイコールで結んでいるところに、題名でもある『わたしの上司』というテーマが現れているからだといえる。

・その他田島みみに関する文章
 『東南角部屋』1巻について→こちら
 『青春ロケーション』1巻について→こちら
 『君じゃなきゃダメなんだ』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『学校のおじかん』
  17巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
2015年08月22日
 落日のパトス 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 ああ、すごくスケベなマンガである。過去作の『三日月がわらってる』で、教師と教え子のエロティックな緊張関係を描いていた艶々だが、その緊張関係が離島という一種のクローズド・サークルに由来していたことは看過できない点であろう。そして、『落日のパトス』の1巻では、物語の舞台はさらに狭く、閉じ、その閉じた空間のなかに元教師と元教え子のエロティックな緊張関係が描かれていく。

 主人公の青年、藤原秋は駆け出しのマンガ家であり、東京の小さなアパートで執筆に励んでいた。あるとき、アパートの隣室に若い夫婦が引っ越してきたのだが、挨拶のために夫人である女性と顔を会わせて驚いたのは、それが高校時代の数学の教師、麻生真(現在は仲井間真)だったからにほかならない。真に対し、秋には後ろめたい過去があった。忘れていたかった過去は、しかし、意外な形で呼び起こされることとなったわけである。それだけではない。聞こえてくるのだ。夜、隣室の夫婦の営みが、アパートの薄い壁を通して聞こえてくる。想像だにしなかった真のその喘ぐ声に誘われ、秋はベランダから隣室の窓の奥を覗き見しようとしてしまうのであった。

 激しいセックスに淫している真の描写は直接的ではある。所謂アヘ顔や騎乗位で揺れる巨大な乳房を含め、それは確かにイヤらしい。だが、単なるカット(サービス・カット)である以上のイヤらしさを覚えることがあるとすれば、秋の立場と視線を経ることで、セックスに興じる真の姿が非常にインモラルな光景として現れているためだろう。気持ちがどうこうのではまったくなくて、狭く閉じた物理上の条件に左右され、二人の距離があまりにも接近したがゆえに、本来は不可侵であるはずのプライヴェートな領域が、お互いの了解も承諾も一切がないまま、剥き出しにされてしまう。そのようなプロセスがいびつである点にイヤらしさが宿らされているのだ。

 もちろん、性的な関心を抱いている人間が、たとえ相手が自分でなかろうと、普段からは考えられない格好をし、欲情しているのを目の当たりにすることは、それだけでイヤらしい。ああ、いつもは澄ましているのにあんな顔をしたり、あんな声を出したりするだなんて、である。同様に『落日のパトス』においては、アンバランスな秋と真の立場が、スケベな描写を一層イヤらしくさせる。

 少なくとも今の段階では、秋と真のセックスが描かれているわけではない。また、真の淫らな姿をもったいぶり、寸止め的に描いているわけでもない。むしろ、それは大っぴらに描かれている。今後の展開次第で二人がセックスをするかもしれない可能性がないわけではない。だが、二人の実生活があくまでも薄い壁に遮られていること、当然、スキンシップを重ねるような間柄ではないこと、それでいてプライヴェートな領域が剥き出しにされてしまっていること。このような矛盾が、ほぼ丸投げになっていることの当惑こそが作品のコアであり、エロティックな緊張関係をもたらしているのである。
2015年08月21日
 Runin 2 (ヤングジャンプコミックス)

 同じ雑誌の同じ号に最終回が載りながら、森田まさのりの『べしゃり暮らし』が大々的にフィナーレを迎えるワキで、ひっそりと完結した印象がある。猿渡哲也の『Rūnin』である。そんなに人気がなかったのかと思う。いやあ、カタストロフィ後、秩序の崩壊した近未来を舞台とし、猿渡ならではの筋肉ムキムキのハードなアクションが繰り広げられるという内容には、様式美を愛でたくなるのに近いような魅力があったのにな。だが、作画の面でのスペクタクルに比べると物語が異様に暗く、スケールの大きな設定の割に作品の世界そのものに広がりが乏しかったのも確かであった。

 2巻では、かつては栄華を極めた日本人が危機感のなさから外国人の虐殺に遭い、絶滅に近付いてしまったこと(こうした背景のため、日本人である主人公の少年、タケルが一種の選民のように描かれていること)が直接的に語られていて、そこに作者の思想なりを見て取ることもできるけれど、サムライとしてタケルを育ててきた日本人の男性、ガモンとタケルの関係に『高校鉄拳伝タフ』並び『TOUGH』におけるオトンとキー坊の関係を重ねることも可能だ。ただし、キー坊を主人公だと信じていたら実はオトンの方が主人公みたいだったという『高校鉄拳伝タフ』にもあった転倒が、『Rūnin』の場合、初期の段階から起きており、ガモンとタケルの役割があまりうまくは分担されていなかったように思われ、それが登場人物に対する感情移入のレベルでネックになってしまっていた。

 もしかしたら、この2巻のエンディングの後、ガモンから独り立ちしたタケルの成長こそが、本編として描かれるものであったのかもしれない。残念ながら、そこまで辿り着くことはなかったのである。
2015年08月11日
 監獄学園(18) (ヤンマガKCスペシャル)

 屈指の傑作シリーズ、ウロボロス編を読むことができるのは、この18巻である。いやはや、何度目を通してみようとウロボロス編は傑作シリーズだと信じてやまない。どこが素晴らしいのか。結局のところ、どうでもいいようなくだらないことだって圧倒的な技術と密度で描き込んだら、とても目が離せないものになるんだぞ、というアクロバットをやってのけているからにほかならない。大体、所謂シックス・ナインの体位(ウロボロスのポーズ!)となった裸の男女がお互いにオシッコをかけるかかけないかのやりとりを丸ごとコミックス一冊の長さにまで引っ張っていってしまうこと自体が異様だし、ワケがわかんねえよ、であろう。にもかかわらず、意味不明瞭な展開からクライマックスへと至った際の緊張感たるや。まるであらゆるサスペンスのお手本を見せられたような気持ちになってしまうのだった。

 まあ、明らかにおかしいだろう、と思うところはある。だが、ツッコんだら負け式の思考停止のみで場面や展開を受け止めてはならない、と思わされるところもある。これは『監獄学園(プリズンスクール)』の全体についてもいえることなのだけれど、前者の判断においては、『アゴなしゲンとオレ物語』以来、平本アキラによって培われてきたナンセンスが、ついに技術のレベルでも密度のレベルでも最高の基準に達したことを教えてくれている。後者の判断においては、ある種のコミュニケーション・ギャップを通じ、閉塞的な状況に追い詰められてしまった男女の全部をぶち壊しかねない絶望と欲望と、それでもギリギリの理性を頼りに一縷の希望を手探りで掴み取ろうとするかのような必死さとが、切実な訴えかけを持ちながら浮かび上がってくるのであって、切実な訴えかけが切実であればあるほど、いとおかし。大変人間らしい滑稽さをも上乗せさせられているのである。いやいや、まじで。まじで。冗談半分本気半分の本気の方を強調して、そう提言したい。いずれにせよ、のっぴきならないようなシチュエーションを題材にしたコメディ(あるいはギャンブル・マンガやデス・ゲームのパロディ)としては、ちょっと馬鹿にできないクオリティとなっているのだ。

 ウロボロス編の主要人物であるキヨシと花が陥った危機は、デタラメな出発点からして既にそうなのだが、作者の匙加減一つでどうとでもなるようなものである。しかし、その匙加減一つに細心の注意が払われていることこそ、重要なのだ。花のキヨシとオシッコに対する執着は、以前のエピソードより長く持ち越されてきた因縁で、それに一応の決着がつけられる。だが、その決着が二人にとっての新たな因縁の呼び水となっていく。〈答えを‥ ください‥‥!! オシッコをかぶった人間は どんな顔をして親や友人と接すればいいんです‥‥?〉というキヨシの叫びはもう滅茶苦茶だし、見事なオチを作り出しているのだったが、それまでのサスペンスが尋常ではなかったため、決して無視のできない迫力をともなう。
2015年08月10日
 百人の半蔵(2)(少年チャンピオン・コミックス)

 羽生生純と柴田ヨクサルと山口貴由の作風をミックスしながら『無限の住人』や『ヘルシング』を描いているような感じと喩えたなら、んん、と興味を持つ向きがあるのではないか。『百人の半蔵』というタイトルは、ゲームやアニメの『ミリオンアーサー』シリーズを想起させるが、勢いとハッタリ、無茶無鉄砲の熱量によって、アナーキーなストーリーとチャンバラとを繰り広げているところに、どかん、という魅力がある。

 百の技を持つ最強の忍、服部半蔵から技と名前を受け継いだ百人の弟子の起こした「半蔵の乱」に、徳川幕府が敗れたのは1682年のこと。結果、百人の半蔵たちは「弱き者はクズ」だという法の下、日本全国で各々の欲望を満喫するのだった。しかし、1702年(忍明十八年)一人の男が百人の半蔵を殲滅するために立ち上がる。その片目に釘を刺した男の名前は、極楽浄土無縁之助という。無縁之助は秘剣「仏斬り」を操り、次々に服部半蔵を打倒していくのである。以上が、横尾公敏の『百人の半蔵』のあらましであって、この2巻では、さらなる狂気をまとった半蔵たちとの死闘を通じ、無縁之助の正体がまた一段階掘り下げられるのだ。

 無縁之助の師匠、千切り屋の半蔵との対決や無縁之助の幼馴染みであるタンポポとの再会が、マンガを物語のレベルで見る上でのキーであろう。だが、やはり、勢いとハッタリに溢れたセリフ回しと無茶無鉄砲の熱量をキープし続けるテンポのコマ運びとに、引き付けられるのである。1巻の段階に比べると、作中の相関図はいくらか入り組んできているものの、それでも話の筋は至ってシンプル、とりあえずは関東の半蔵と関西の半蔵が関ヶ原に集結し、日本を取り合うための半蔵戦争の開始が予定されているところへ、いかにして無縁之助が介入するのかに、焦点は絞られている。登場人物が増え、思わせぶりな点も多くなってきたが、当初のインパクトが損なわれないままでいる一因は、そこにある。

 伸るか反るか。こう、無縁之助の行動原理を言い表すことができる。そして、それは作品の全体にまで敷衍するのが可能なイメージでもある。黒幕めいた謎の男、果心居士は常に乱世であるような混沌を望む。無縁之助の旅と命が続く限り、その混沌はえげつなさを伴いながら『百人の半蔵』のなかで具体化されていくに違いないと感じさせる。
 DRAGON SEEKERS(1)(少年チャンピオン・コミックス)

 少年マンガらしからぬショッキングな描写が頻出することに割と驚く(まあ、今どきの少年マンガにショッキングな描写は少なくはないものの、それらと比べても、だ)。米原秀幸の『DRAGON SEEKERS』は、1巻を見る限り、登場人物と設定の多くを『ROCK&GEM』と同一にしているが、続編というのではなく、おおもとのアイディアを共有し、そこにアレンジを加えてきた別のヴァージョンといえる。続編だと思っていると、ズレの大きさに戸惑うのである。そうしたズレは、おそらく作者の意図したものであって、作品の世界に相対する視線や認識の違いに根ざしているのかもしれない。

 西部劇を模したかのような架空の大陸、黒ずくめの衣装で列車強盗を繰り返す三人組の男たち、そして、彼らをサポートする少女は一体何者なのか。素性は明らかにされてはいない。これが作品のコアであろう。凄腕のガンマンであるロック・バースト、精密なスナイパーのクレイ・クールス、強力の持ち主であるラバァ・ヒートは、目的のためには殺人を厭わない。一方、頭脳であるサンド・ミラージュの指示を受け、悪党の金を奪い、庶民にまいて回ることで義賊とも噂されている。果たして四人がDシーカーズと呼ばれることになったのは(もはや誰もが伝説としてしか信じていない)ドラゴンの存在を追い求め続けているからであった。

 先述したズレは、ショッキングな描写を含め、作品そのもののテンションの違いとなって現れている。『ROCK&GEM』では、ドラゴンの存在を信じ、追い求めることが、明朗活発なロマンを生じさせていた。が、『DRAGON SEEKERS』では、同様のプロセスが、登場人物たちの暗いプロフィールをうかがわさせる。ダークなファンタジーを彷彿とさせるものになっているのだ。鉄道や列車の繁栄に象徴されるような文明の利器や人間の欲望とが、自然や夢想を破壊していってしまう、という背景が物語の奥に置かれている点に関しては、『ROCK&GEM』も『DRAGON SEEKERS』も変わりがない。ドラゴンの存在は、自然と夢想の比喩だといえる。ただし、それによって引き出された登場人物たちの表情が、『ROCK&GEM』と『DRAGON SEEKERS』とでは、対照的であるほどにかけ離れているのである。

 単に弱者だからという理由で女性や子供が虐げられ、因果応報や悪党だからという理由で性差や年齢を問わずにバンバンと殺されていくマンガである。『DRAGON SEEKERS』は。銃とバトルのアクションには、さすがのカタルシスがある。反面、それは必ずしも後味の良いものばかりではない。勧善懲悪で割り切れてしまう世界もまた残酷な要素を抱え込んでいる。だが、その残酷さを決して隠していないところにこそ、作者の視線や認識がよく出ているのではないかと思わされる。ロマンやファンタジーがロマンやファンタジーとしてハッピー・エンドに到達する以前の生々しい感覚が、作品の語り口に強い訴求力を与えているのだ。

・その他米原秀幸に関する文章
 『報道ギャングABSURD!』1巻について→こちら
 『風が如く』8巻について→こちら
 『南風!BunBun』1話について→こちら
2015年08月02日
 熱風・虹丸組 5巻 (ヤングキングコミックス)

 があああ、ここまで男の子が燃えるマンガだったかい。現在、桑原真也の『熱風・虹丸組』は、神話として読まれたい作品になりつつある。神話とは、この場合、車田正美の描く作品はすべて神話にほかならないという意味での、神話である。それはつまり、不良少年の日常やライフスタイルを中心的にしたヤンキー・マンガが台頭する以前の不良マンガや少年マンガのフォーマットを正しく汲んでいることでもある。根拠の有無にかかわらず、数々の少年たちが、自分の生き様をかけ、命をかけ、体一つで超人的なバトルを繰り広げていくのだった。

 事実、前巻(4巻)そして、この5巻における主人公、虹川潤の覚醒を見られよ。タイマンの最中、相手の特技を一度味わったことで、その特技を自分のものにしてしまう。異能とでもすべきそれにより、絶体絶命の状況を脱していく姿は、やはり、かつての少年マンガや神話の世界の住人を思わせる。潤のパートナーである羽黒翔丸は、覚醒した潤と渡り合いながら、ヒートアップし、やがて笑みすらも浮かべはじめた荒吐篤郎を見、言う。〈フン…ちっと理解(わか)んぜ その気持ちがよ…………!! 人の“性能”全開にして なおそれに応えてくる男… そんな男(ヤツ)には滅多に巡り逢えねェからな…!! 全力で喰らって 自分(テメエ)の全部でブチかます… 潤ってのはそういう男(ヤロオ)なんだよ……!!〉と。要するに、ライヴァルのポテンシャルが主人公のポテンシャルを引き出し、主人公のポテンシャルが主人公の生き様をダイレクトに投影しているとするとき、主人公のポテンシャルはライヴァルの生き様を問うためのカウンターでありうる、という図式が完成しているのである。

 しかし、ああ、潤と篤郎のタイマンをよそに、翔丸の運命に暗雲が立ちこめる。篤郎の兄である荒吐三郎の登場は、翔丸にとって不吉な兆候にほかならないことが、幾度となく作中で仄めかされるのである。成り行き、三郎と彼の率いるプロの暗殺集団と対決することとなってしまった翔丸のもとへ、虹丸組の副長である橘エイトの呼びかけを受けた狗神塔馬、卯月倫人、美剣號ら、ナラシナのオールスターが駆けつけてくるシーンは燃える。それまで孤独に生きてき、閉ざされていたはずの翔丸の心の動きが手にとってわかるように描かれた良いシーンだといえる。だが、それが良いシーンであればあるほど、翔丸に対するたむけの感動にも見えてしまうのだ。

 巨大な権力の荒吐家を後ろ盾にした三郎は〈確率を決定するのは「運」じゃねェッ 「遺伝」だ 「薄い血統」の貴様等はここで死ね 引き裂かれて自分(テメエ)の親を恨め〉と言う。おそらく、貧しい両親に虐待され、幼年期を過ごしてきた翔丸は、三郎の対極に位置しているのだろう。ここで不良マンガのヒストリーを振り返るのであれば、遺伝と環境に運命が決定されることの不幸は、車田正美をルーツとはしない作品やマンガ家が90年代以降に発見したテーマやリアリズムでもあった。それが翔丸のプロフィールには託されている。もちろん、車田正美の作品にも不幸な出自の主人公は少なくはない。ただ、それは神話の世界の住人の多くが不幸な出自であるというレベルでの表現にほかならない。両者には決定的な差異があるのだけれど、『熱風・虹丸組』では、夜の太陽に喩えられている虹川潤と闇の住人に喩えられる羽黒翔丸のコンビを通じ、両者が一つの枠内に統合されている。

 最初に述べた神話として読まれたい作品になりつつあるという言葉の「なりつつある」とは、それでも主人公である潤の〈オレにとっちゃあ… アイツこそが“太陽”… “光”だッ!! そんな翔丸(アイツ)をッ… 自分の“暗さ”と闘う事もしねェで エラそーに能ガキ並べてんてめェと… てめェごときとッ… 一緒にすんじゃ無ェッ〉という拳が荒吐篤郎を巨躯を砕く見開きの2ページに、作品の魅力そのものであるようなインパクトが宿らされている点を指しているのである。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2015年07月27日
 うしろの光子ちゃん 2 (りぼんマスコットコミックス)

 いしかわえみの『うしろの光子ちゃん』は、同じくいしかわの『絶叫教室』の裏面にあたるようなマンガなのだと思う。裏面とはつまり、『絶叫教室』が暗くて怖いホラーであったとしたら、『うしろの光子ちゃん』は明るくて優しいホラーになっているということであって、こうも換言できる。人間の気持ちの重みが他の人間に対するネガティヴな働きかけになることを描いていたのが『絶叫教室』であるなら、人間の気持ちの重みが他の人間に対するポジティヴな働きかけになることを描いたのが『うしろの光子ちゃん』なのである。

 14歳のヒロイン、朝花光子は、幼馴染みである少年、晴生にずっと片想いをしているのだけれど、シャイな性格が災いして、気持ちを伝えられずにいる。よくある思春期の一コマにすぎないはずだった。しかし、不慮の事故に遭い、まさか光子は亡くなってしまうのだ。晴生に対する未練から、この世に残りたいと願う光子は、魂の消滅を回避するために怨霊としての仕事を引き受け、教官と名乗る男に鍛えられることになるのだったが、やはり、そのシャイな性格が災いし、うまく標的を怖がらせられない。ばかりか、標的を助けたり、応援したり、まるで怨霊が果たすべき役割とは正反対の結果を招いていくのであった。

 本末転倒であるような展開はコメディである。けれど、光子や光子が出会う標的=少年や少女たちの他の人間を思い遣り、関わり合う姿勢をデリケートにすくいあげることで、一つ一つエモーショナルなエピソードが作られている。ヒロインの片想いを中心に描いているのもあり、『自殺ヘルパー』以来のいしかわの作品では、正統的な少女マンガに最も近い内容といえるかもしれない。後ろ向きにしか物事を考えられなかった光子だが、様々な試練を経て(既に死んではいるものの)一回性の命を前向きに生きられるようになるという変化が、成長と呼ぶのに相応しいストーリーの糸となっているのだ。

 大丈夫、がんばろう、と自分や他の人間までをも励ましてしまう純粋無垢な怨霊の物語は、この2巻で完結している。ヒット作の『絶叫教室』を復活させることになったいしかわだが、気持ちの重み、それが他の人間へいかなる働きかけをするのか、というテーマのレベルで見るなら、両者に大きな差異はないように思う。ただし、見せ方、作品の持っている雰囲気はまったく違う。センセーションとインパクトでは『絶叫教室』に分があるけれど、絶望や恐怖を払いのける『うしろの光子ちゃん』の明るさ、心強さも実に捨てがたい。

・その他いしかわえみに関する文章
 『ライアー 〜嘘の箱庭〜』について→こちら
 『絶叫学級』について
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
2015年07月17日
 L DK(18) (講談社コミックス別冊フレンド)

 渡辺あゆの『L・DK』には、確かにこれまでにもメインのカップル以外の登場人物に照明をあてたエピソードがなかったわけではない。が、ここ数巻、とりわけこの18巻における久我山玲苑の描かれ方は、それらと少々異なっていると感じられる。

 玲苑は、ヒロインである葵の恋人、柊聖をアメリカへ連れて帰るためにやってきた従兄弟であって、目的の妨げになる葵を当初は毛嫌いしていた。しかし、葵と再三ぶつかり合ううち、玲苑の気持ちに変化が生じはじめる。それが恋愛感情であることを玲苑は認めたくはないのだけれど、否応なく惹かれていき、次第に葵と柊聖のあいだに割って入るようになるのだった。要するに、少女マンガのロマンスに不可欠な噛ませ犬(当て馬)のポジションを与えられている。

 ただし、『L・DK』に関しては、既に別の登場人物を噛ませ犬にし、三角関係のエピソードを展開していたという過去があるし、三角関係のエピソードそれ自体、シチュエーションを変えつつ、繰り返されてはいた。必ずしも新しいパターンを持ってきているのではない。だが、以前のパターンが、あくまでもヒロインである葵の心の揺らぎを中心にしたものであったとしたら、今回、本来はリリーフであるはずの玲苑の心の揺らぎに寄り添うようにし、エピソードを描いているところがある。

 換言すれば、メインであるカップルの存在を一旦ワキにずらしておいて、かわりに噛ませ犬のような立場から同居型のロマンス、ラブコメという『L・DK』のコンセプトを再編しているのである。

 少なくとも今巻に限って見れば、主人公は玲苑だとさえいえる。多くの読み手が、玲苑が出てきた段階で、現在の展開は読めていた、のではないだろうか。筋書きには驚きがないのだけれど、従兄弟の恋人に惹かれることのジレンマ、しかし、その従兄弟の恋人の目には恋愛の対象として入っていないことのジレンマ、それらをデリケートに掘り下げるような手つきが、18巻の長さの作品を再びフレッシュにしているのだ。

 まあ、玲苑が何をどうしようと、葵と柊聖の繋がりは盤石でしょうね、と思わざるをえない。この意味で本編を左右するほどの緊張は作られていないのだが、玲苑の独り相撲であるような状況には、片想いを承知しているにもかかわらず、誰かを好きになってしまった際の(当人には完全に制御しきれない。それでいて普遍的でもある)衝動が、実によく反映されている。

 13巻について→こちら
 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
2015年07月14日
 FRIEND OR FOE (KCx)

 常々、葉月京は過小評価されているマンガ家の一人ではないかと思っている(作者や熱心なファンからは、ちゃんと評価されてるわい、と怒られちゃいそうだけれど、もっと評価されてもいいという意味である。たとえば『純愛ジャンキー』には、マンガ家マンガがブームであるような今日にあってさえ、人気マンガ家のアシスタントや編集者に対するハラスメントを描いている作品がほとんど見あたらないなか、それを題材にしてしまう着眼点の鋭さや、そのスキャンダリズムに終始しかねない題材を非常にエモーショナルなストーリーへと展開させてしまう手腕の確かさを見ることができる)が、この『FRIEND OR FOE』に関しても、さすが、といえるだけのオムニバスとなっている。

 あとがきの欄にあるとおり、葉月にとっては珍しい女性向けの内容であって、そのためであろう。得手であるスケベなカットは完全に控えられている。他方、サスペンスを通じ、登場人物の意外な一面にドラマの盛り上がりを仮託させるといった持ち味は健在である。また、露骨なセックスのアピールを後退させたかわり、三角関係、友情、家族などのテーマに掴まえやすさが出てきているのが特徴だ。

 サスペンスという意味で、最もぞくっと感じたのは、五篇あるうちの最後に収められたエピソードである。結婚を間近にして幸せの最中にいるヒロインの前に、自分に暴力を振るい、別れたあともストーカーのように付きまとっていた昔の恋人が、ヒロインの親友と付き合いはじめたことをきっかけとし、再び現れる。その男の目的は、ヒロインの結婚を滅茶苦茶にすること、そして、よりを戻すことであった。ヒロインの親友は利用されているのだ。男の正体を知っているヒロインは、親友に対し、男と別れることを説得しようとするが、それは厚かったはずの二人の友情に破綻をもたらしてしまう。ヒロインは親友と自分の幸せを守ることができるのか。と、こうした筋書きが、ショッキングで予想外の、それでいながら非常にエモーショナルな結末へと辿り着く。

 結末がエモーショナルなのは、決定的な不幸せを免れているためだといえる。しかし、必ずしもハッピー・エンドとはいいきれない。毒がある。恋愛と友情の綱引きが、サスペンスを経、思いもよらぬクライマックスを迎えるという点で、一番目と最後のエピソードは共通しているし、思いもよらぬクライマックスが、毒のように染み渡る余韻に繋がっているという点で、二番目と最後のエピソードは共通している。そこに『FRIEND OR FOE』つまりは「友か敵か」なるタイトルを深読みさせるほどの幅が生まれている。パブリックな基準で「友か敵か」を判断するのではなく、もっとずっとプライヴェートな部分で「友か敵か」が判断される。倫理のレベルでは誤っているかもしれない。だが、こうするよりほかない。背徳と絆の美しさとが描かれている。

・その他葉月京に関する文章
 『CROSS and CRIME』1巻について→こちら
 『Wネーム』5巻について→こちら
2015年07月12日
 [R-16]R(3) (ヤンマガKCスペシャル)

 しばしば、運命という重荷を背負わされているぞ、と感じることがある。運命と呼ばれるものが先天的に備わっているのか。後付けの解釈にすぎないのかは不明である。が、不幸な道筋を歩まなければならないことの理由を運命に求めてしまうときがある。しかし、所与の条件であれ、何であれ、結局のところ、自分の運命は自分にしか変えられない。自由とは、もしかしたら自分の運命をいかに転換させるかという態度の在り方を指しているのだと思う。

 佐木飛朗斗(原作)と東直輝(漫画)の『[R-16]R』は、不良少年を題材とし、運命に翻弄される人々の姿を描く。この3巻では、主人公である鳴海純真にとって、ファム・ファタールであるような少女、里帆の登場が大きなトピックとなっているのだったが、里帆もまた、自分の運命を呪わずにはいられないことの不幸を繋ぎ目とした群像の一部にほかならない。名門である女子校の制服を着、援助交際と水商売とで金を稼いでいる里帆は、シャンパンに酔いしれながら、〈‥パーティは‥終わらないんだネ‥〉という呟きに悲しみをしまい込む。この言葉は、おそらく、一話目のタイトルでもあった「祝宴と宿縁の子供達」に応答しているのだろう。

 もしも、運命と呼ばれるものが先天的に備わっているのだとすれば、それは親をはじめとした上の世代から下の世代(大人から子供)へと不可避に近い形で譲り渡されたといえるのかもしれない。純真の年上の幼馴染みという以外、ほとんどプロフィールの明かされていない里帆だけれど、彼女がミサトと名乗り、裏通りで働いているのは、母親が病気で死んでいる(弟も事故で死んでいる)ことと無関係ではないと容易に推測できる。純真との再会が里帆に何をもたらすのか。現段階ではわからない。だが、純真を前にして頬を伝っていってしまう涙は、その運命を決して自分から選び取ったわけではないのだと教えているのである。

 純真の親友である門倉稜一郎が出会った少女、稜一郎と同じ色の髪と瞳を持つカチェリーナ・ラズモフスカヤは、やはり、稜一郎の腹違いの妹であった。それは父親である門倉真希央によって、用意された運命の一つに数えられる。稜一郎が真希央を憎み続けていることは、すなわち、稜一郎が自分の運命を憎み続けていることを意味している。その憎しみは、どうしたら解消されるのか。街中の不良少年が憧れる伝説の単車(マシン)日章カラーのカワサキ750RS“ZII”を手に入れ、自分が無敵であることを証明するしかない。だが、果たして純真の父親である今は亡き鳴海純弥こそが“ZII”の所有者だったのだ。“ZII”を中心にした運命は、真希央と純弥の世代から稜一郎と純真の世代へと不可避に近い形で譲り渡されていく。

 これは佐木飛朗斗の作品の多くにいえる点でもあるのだが、とりわけ『[R-16]R』に出てくる人物はみな、運命の不自由さに極めて自覚的である。であるがゆえに、それを変えるために奔走せざるをえない。不良少年や少女にかぎらず、大人となった前作のキャストたちでさえ、例外ではないことが、巨大な権力を欲望する真希央や恩田寿の復讐を誓う美加の姿には投影されている。

 1巻について→こちら

 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
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  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』(漫画・所十三)
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 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
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  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
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2015年07月07日
 花のち晴れ 〜花男 Next Season〜 1 (ジャンプコミックス)

 現在、シーンの一角を占めるようになった往年のヒット作の続編には、いくつものパターンがある。主人公のその後を描くものであったり、主人公の次の世代や次の次の世代を描くものであったり、舞台は同じであっても前作とはまったく別の設定を用意したものであったり。もちろん、それ以外にも様々だ。神尾葉子が『花のち晴れ 〜花男 Next Season〜』で選んだのは、『花より男子』の登場人物たちの直の後輩を描くことであった。

 F4と呼ばれるカリスマ4人組が卒業して2年が経った英徳学園が舞台である。金持ちの子供が通う名門校として知られた英徳学園だが、ライヴァル校の台頭により、生徒数は減少、威光は徐々に弱まりつつあった。が、しかし、道明寺司に憧れる男子生徒、神楽木晴をリーダーにしたコレクト5が、品格に見合わない生徒を「庶民狩り」と称し、追放、生徒のレベルの低下を阻止することで、学園のプライドは保たれていた。ヒロインの江戸川音は、父親の経営していた会社が事実上倒産、貧乏になったことを隠しながら英徳学園に通っている。本来、晴は音を退学に持っていく立場にある。それがひょんなことから音に弱みを握られてしまったため、足下をすくわれる羽目に陥ってしまうのだった。

 正直、1巻の段階では『花より男子』の続編である必然はあまり感じられない。ブランドに頼ったのでなければ、金持ちと貧乏人の対照を題材にしている点が被るので、続編としたのかもしれない。もちろん、続編を描くことが前提であるがゆえに金持ちと貧乏人の対照というアイディアを引っ張ってきた可能性もあるし、前作のファンに向けたサービスも随所に見られる。ただし、作品の結構や雰囲気は必ずしも『花より男子』のそれをトレースしてはいないのである。

 注目されたいのは、ヒロインにあたる音より、男子生徒である晴の視点に多くのページが割かれていることだ。これは発表の媒体が少女マンガ誌ではないということもあるのだろう。確かに『花より男子』においても男子生徒=道明寺司の視点は大きな柱ではあったけれど、『花のち晴れ』では、晴の視点に読み手の視点が同化することで、音の存在に一種のミステリが生じている。それはちょうど『花より男子』の花沢類が、牧野つくしや読み手の視点からは一種のミステリとなっていたように、である。

 なぜ音は、自分の境遇を隠してまで英徳学園に通わなければならないのか。おそらく、それは今後に物語が晴と音のラヴ・ロマンスへと飛躍するための鍵を握っている。いずれにせよ、今の時点では、残念なイケメンさんであるような晴のユーモラスな空回りに支えられているところが多い。

 『花より男子』37巻について→こちら

・その他神尾葉子に関する文章
 『まつりスペシャル』
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 『キャットストリート』
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2015年06月09日
 ストーリーズ 〜巨人街の少年〜 1巻 (ヤングキングコミックス)

 これは大井昌和版『天空の城ラピュタ』であろうか。それとも大井昌和版『風の谷のナウシカ』か。あるいは大井昌和版『宇宙海賊キャプテンハーロック』のようでもあり、大井昌和版『ファイブスター物語』のようでも大井昌和版『天元突破グレンラガン』のようでもある。いずれにせよ、である。『ストーリーズ〜巨人街の少年〜』の1巻では、非常にスケールのでかいファンタジーと冒険活劇とが繰り広げられているのであった。

 根っこの部分に置かれているのは、おそらく、ボーイ・ミーツ・ガールの思想である。死海雲渚と呼ばれる有害な線量子に地上が覆われたため、天空に居場所を求めた人々が、巨大なロボットを次々に建造し、それぞれの機体を軌道国家(オービタリア)としながら暮らすようになって長らくが経った。三都暦945年、母親を小国「黒金の周落」の操縦者に持った少年、アキナケスが、大国「白銀の神無国」の軍勢に追われていた少女、ル=クィンを、素性も理由も知らぬままに助けたことが、正しく波瀾万丈を引き起こすかのようなトリガーとなっているのだ。

 そう、虫使いなる特別な力を背負わされ〈30年前――――オービタリア大戦の戦犯・青の終国…その軌道国家が手にせんんとした終末の剣 星剣「ワンマイル・ソード!!!」〉こそが、死海雲渚を払い、再び人々を地上に戻すことができると信じているがゆえに追われる身となってしまったル=クィンの役割は、ちょうど『天空の城ラピュタ』におけるシータのそれを彷彿とさせる。このとき、大国を敵に回し、ル=クィンとともに星剣が存在しているとされる「雲の向こう」を目指すアキナケスの姿は、『天空の城ラピュタ』のパズーに重なるものであろう。

 しかし、注意されたいのは、そうしたイメージを下敷きとしつつ、そうしたイメージからどれだけの飛躍を果たしているか(飛躍を果たそうとしているか)という点に、『ストーリーズ〜巨人街の少年〜』の本領が現れている点にほかならない。

 ボーイ・ミーツ・ガールをベースとした物語が、コマを進めるたびに前面化させているのは、少年性の熱血主義とでもすべきものだ。確かに、巨大なロボットを駆動させることのスペクタクルや迫力を持った空中戦、複数のカメラと伏線によって展開させられるサスペンスの数々に、見所は多い。だが、それらに増して強いフックとなりえているのは、狂的や難題を前にしようと屈託や躊躇を一切引き受けず、無鉄砲を地でいくような主人公、アキナケスのがむしゃらなガッツであろう。

 かくして、アキナケスのがむしゃらなガッツは〈「力」が男を決めんじゃねぇぞ 何をするかで男は決まるんだろうが!!〉という断言と同時に、拳と拳とが直接ぶつかり合うような超人同士のバトルをも大胆に引き寄せてしまう。正直なところ、超人同士のバトルが導入されるのは、いささかトゥー・マッチであるし、このあたりに眉をしかめる読み手がいるかもしれない。反面、わざわざ主人公にスカジャンを着させるといった趣味のデザインから察せられる通り、タイマン式の対決にこそ作者の熱気がよく込められているのかな、と思う。

・その他大井昌和に関する文章
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2015年05月23日
 聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン 3 (チャンピオンREDコミックス)

 ここまで何でもありだと、もはや『聖闘士星矢』じゃないのではないか。しかし、その「何でもあり」なことで最高に燃えるのが、岡田芽武の『聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン』である。いやはや、えらいものになってるぞ、と思う。1巻では、ギリシア神話をアレンジした『聖闘士星矢』の作品世界とヨーロッパにおけるアーサー王と円卓の騎士の伝説とをアクロバティックに接続してみせたわけだが、続く2巻では、時空をさらにチューニングし、なんと車田正美のオリジナル・ヴァージョンのプリクエル(前日譚)にあたる『聖闘士星矢EPISODE.G』とオリジナル・ヴァージョンがいまだ正式には描いていないはずの未来とを直結させてしまった。結果、若き日の山羊座(カプリコーン)のシュラと双子座(バルゴ)の黄金聖闘士として成長した瞬とが物語の同一線上に存在するばかりか、聖剣戦争の名において彼らが新旧世代の区別なく共闘しうる可能性を提示してしまったのだ。そして、3巻では、その可能性を正しく実現したかのように天秤座(ライブラ)の黄金聖衣をまとい、もう一本の聖剣(エクスカリバー)を携えた紫龍が、北欧神話からやってきた聖剣(グラム)の聖剣所持者(セイクリッドソードホルダー)シグルスと相対することとなるのであった。

 時空を越え、ありとあらゆる神話と伝説とが統合されていく。『聖闘士星矢』のスピンオフあるいは『聖闘士星矢EPISODE.G』の続編というより、岡田芽武版『Fate/stay night』なのではないか、と思わされるようなところが『聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン』にはあるし、オリジナル・ヴァージョンなどで既出の登場人物たちが、独自のコンセプトを担わされ、召集されるさまは、スーパーヒーロー大戦さながらである。あくまでも車田の『聖闘士星矢』を背景(データベース)にすることで作品は成立しているという意味では、確かに二次創作的であって、オリジナル・ヴァージョンのブランドの強さを感じさせる。と同時に『聖闘士星矢』のブランドをプラットホームとし、様々な神話や伝説の類が、別個の背景(データベース)として縦横無尽に参照され、作品それ自体の枠組みを補強している点に注目されたい。これはもしかするとスマートフォンのゲーム・アプリに近いアプローチなのかもしれない。『パズル&ドラゴンズ』や『モンスターストライク』、『ドラゴンポーカー』といったヒット作を例に挙げられる通り、そこでは本来は異なった体系に存在しているはずの神話や伝説の住人、果てはアニメのキャラクターまでもが、ゲーム内のシステムとイベントに組み込まれ、共闘しようと不思議ではない。もっというなら、『聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン』におけるCGとオールカラーの美麗なカットは、ゲーム・アプリにおけるバトルの派手な演出に符合するのではないか。

 いずれにせよ、『聖闘士星矢EPISODE.Gアサシン』の「何でもあり」な展開は、即時的なスペクタクルと不可分に繋がっている。根拠の有無にかかわらず、奮い立つような断言を畳みかけてくるポエジーも同様である。紫龍とシグルスの決戦の最中に紡がれる以下のモノローグは、おそらく「ペガサス幻想」からの引用を含んでいるのだろう。それは満身創痍の紫龍に〈立てと鼓舞する友の声――〉でもある。そう、〈――あの少年だった日々――オレたちは――明日こそ成ろうと想っていた――その夢だけは誰も奪えない――相手は過去の「英雄」――でも――オレたちはみんな――今は「勇者」――だろ? 紫龍〉そして、炸裂する廬山昇龍覇のかっこよさときたら。たちどころに胸を熱くさせるのだ。

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 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
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2015年02月12日
 でぶせん(2) (ヤンマガKCスペシャル)

 学園ものにとって、教師のイメージをいかにアップデートするか、というのは重要な課題の一つに違いないのだが、この十数年、社会におけるトリックスターであるようなヤンキー先生の立場と段階から大きく進んではいない。確かに『暗殺教室』は良いところまでいった。ついには人間ならざるエイリアンが教師となり、地球の破滅を賭け、生徒との緊張関係を正しく命(タマ)の取り合いとして描こうとする手つきには、所謂セカイ系や『バトル・ロワイヤル』の殺伐とした授業風景以降にフィクションのなかで学校を機能させるための新しい展望が開きかけていたのであった。しかしながら、連載を経るにつれ、現代ならではの設定やモチーフよりもプロフィールに問題のある教師がプロフィールに問題のある生徒の更正に尽力する(ひいては問題のあった学校そのものが健全さを取り戻す)といった様式の方が全体化し、やっていることは要するに『GTO』と一緒じゃん、の段階まで後退してしまったのを残念に思う。

 学園ものと教師のイメージとを魅力的にアップデートすることはかくも難しい。そのような意味で、意外にも無視しちゃいけないマンガになりつつあるのではないか、と(あくまでも相対的にだが)持ち上げたくなってきているのが、安童夕馬(原作)と朝基まさし(漫画)のコンビによる『でぶせん』である。

 題名から『ごくせん』の(原作というよりはテレビ・ドラマ版の)フォーマットを下敷きにしていることは明らかだし、実際、筋書き自体もプロフィールに問題のある教師とプロフィールに問題のある生徒の衝突を軸にしているのだけれど、ここで注意しておきたいのは、その主人公の教師が、まったくのヤンキーではないかわり、完璧なサイコパスであることにほかならない。プロフィール以上に、人格に問題がある。それだけではない。主人公ばかりではなく、生徒も、生徒の親も、さらには同僚の教師もが、もしかしたらサイコパスなのかもしれないと見なされるような人格と挙動とを与えられているのだ。

 周知の通り、『でぶせん』を手がけているコンビは『サイコメトラーEIJI』及び続編の『サイコメトラー』の作者であって、そもそも『でぶせん』はそのシリーズのスピンオフとして描かれている。『サイコメトラーEIJI』では本編の幕間にコメディ・リリーフのように登場する機会の多い福島満(みっちゃん)が、ここでの主人公である。90年代、『羊たちの沈黙』のヒットにいち早く同調し、様々なサイコパスやシリアルキラーの凶悪犯罪をオンパレードにしてきたのが、『サイコメトラーEIJI』であった。もちろん、目的のためには殺人やテロリズムをも厭わぬ沢木晃などの巨悪に比べたら、福島は単なる変態にすぎない。とはいえ、それは程度の問題でしかなく、やはり、自分が変態であることを自覚しつつも、犯罪行為に対し、極めて無反省であるような人格は、一般的にサイコパスと判断されうる資質を兼ね備えたものだろう。

 大体、どうして教職ですらなかった福島が高校の先生をやっているのか。もっというのであれば、本来の性別は男であるはずなのに女教師をやっているのか。不幸な身の上に消沈し、自殺するつもりで訪れた樹海で発見した死体の(生前の)ルックスと名前とが偶々自分にそっくりであったため、入れ替わり、その死体の生活をごっそり奪取しちゃおうと思ったのだ。死体は女性のものであったが、女装癖のある福島には、ネックであるよりはむしろ好都合の条件でさえあった。こうして女教師、福島満子(みっちゃん)が誕生したのである。

 まあ、ほとんどギャグとして成り立っている展開に、シリアスな意見を投じるのは野暮かもしれないけれど、自殺する直前にもかかわらず、脳天気に樹海をさ迷い、挙げ句には他人の死体を活路にすることで安寧を得てしまうという切り替えの速さを含め、いささか常軌を逸している。だが、それがみっちゃんなんだよなあ、と『サイコメトラーEIJI』のファンだったら納得できるほど、福島のパラノイアは、かねてよりナチュラル(福島にとってはパラノイアであることが正常)なのであり、そうした社会の通念を逸した存在を、ヤンキー先生がそうであるようにトリックスターとして学園ものの教師に仕立て上げたのが、つまりは『でぶせん』なのだ。

 果たして筋金入りのサイコパス先生は、札付きの悪童たちと荒廃した教室に変革をもたらせるのか。しかし、先に述べたが、主人公だけではなく、生徒や生徒の親、同僚の教師までもが、どうやら常軌を逸していそうだぞ、と思われる。皆、サイコパスの可能性を秘めているところに『でぶせん』の特異さが強く出ている。家庭や周囲の環境のせいで生徒がぐれてしまう。これは学園もののセオリーである。それが『でぶせん』では相当に極端なレベルで採用されているのだ。1巻における緋熊五郎という生徒の家庭は非常に殺伐としていたが、この2巻に描かれた神夜晶という生徒の家庭も平穏とは程遠い。とりわけ神夜の父親は、『サイコメトラーEIJI』に悪役としてエントリーしていてもおかしくはなさそうな二面性と暴力を通じ、母子を抑圧しているのであった。

 学校へやってきた生徒たちの素行も常軌を逸しており、刃傷沙汰もリンチも常態化している。当然、主人公(ヒロイン?)であるがゆえに福島は、彼らと対決せざるをえないのだし、それは『GTO』や『ごくせん』のヤンキー先生よろしく事態を好転させているには違いないのだけれど、あらためて注意されたいのは(たとえ作中には顕著であっても)福島の眼中に生徒たちの不幸は一切入ってきてはいないことだ。福島は生徒たちの境遇や内面を徹底的に無視し続ける。それがマンガならではのレトリックにより、生徒たちを救った結果となっているにすぎない。

 通常、ヤンキー先生もそうだが、学園ものの教師は、一見ふざけているようでいて、その深奥には教育や理念に関する配慮を隠し持っている。『暗殺教室』ですら例外ではなかった。なのに『でぶせん』の福島には、それが完全に欠落している。いや、福島の同僚の教師たちにしたところで、聖職とはかけ離れた裏の顔が仄めかされている。本物の福島満子は何者かに殺害されたのではないか。その犯人は同僚のなかにいるのではないか。こうしたサスペンスは『サイコメトラーEIJI』の本編を彷彿とさせるテイストであって、序盤の時点で用意された伏線の一つだろう。

 いや、そんなに真剣に読むような作品じゃねえよ。まあね、である。だが、サイコパスの教師がマイルドな学園ものの様式を繰り広げるという倒錯、そこには単なるギャグでは済まされない現代ならではの不穏さが潜んでいることだけは確かだと思う。
2015年01月12日
 かみさまドロップ 6 (少年チャンピオン・コミックス)

 みなもと悠の『かみさまドロップ』は、冴えない少年のもとに形而上の世界から美少女がやってきたことをきっかけとし、ハーレム状の環境が作られ、当然、ラッキーなスケベやサービス・カットもあるよ、といったタイプのラブコメとなっている。が、ライトなファンタジーを基調としながらも、どことなく暗い影の随所に差している点が特徴であるように思う。そして、その影は巻数を増すごとに強まっているようにも感じられる。

 この手のマンガにとっては定番ともいえるし、大抵は明るく描かれるはずのリゾート編にあたる前巻(5巻)で何が起きたのかを見てみよう。6巻における登場人物の言葉をそのまま借りるのであれば、主人公は〈好きな女と旅行に行ったら・その女の許嫁に女を連れ去られたあげく・打ちとけたと思っていた彼女のことを実は何もわかっておらず・ただただ一人で浮かれて舞い上がっていただけという現実をつきつけられて〉しまったのであった。要するに、瓢箪から駒の出来事に喜んでいたつもりが、泣きっ面に蜂みたいな状況に一転してしまうのだ。

 そもそも『かみさまドロップ』は、不幸を招きやすい資質の主人公の片想いを天界から追放された「神」である美少女が失われた自分の力を回復するためにサポートしなければならないというアウトラインを持っている。もちろん、主人公の片想いの相手もまた高嶺の花のような美少女である。三者のバランスは、三角関係を思わせる。しかし、それ以上に注意されたいのは、三者が皆、本来あるべき可能性を剥奪された存在として共通していることにほかならない。おそらく、そうした三者の共通項によって作品全体にどことなく暗い影が運ばれてきている。

 主人公の願いを引き受けたエル(得)は、父親から「神」である資格と力とを無効にされており、主人公の片想いの相手、クラスメイトのバンビ(姫橋万里)は、圧倒的な権力を有しているらしい許嫁に支配され、不自由に暮らしている。そして、主人公の野分あすなろは、ありとあらゆる幸運から見捨てられ、ごく普通の同級生たちとは程遠い高校生活を送らざるをえない。『かみさまドロップ』とは、ライトなファンタジーのラブコメである一方、彼ら三者が本来あるべき可能性を取り戻していくような姿を描いているといえる。

 ラブコメと呼ばれるマンガの多くには、主人公の決断を先送りにすることで、エピソードを増産する傾向がある。だが、『かみさまドロップ』に関しては、エピソードのたびに何かしらの決断を主人公は迫られる。決断を誤ることもあるが、それは本来あるべき可能性を取り戻すための奮闘と同一視できるものであろう。この6巻に収められた主人公の姉のエピソードは、非常に印象的だ。わずかなほころびをきっかけに仲違いしていた姉弟の和解を描いたエピソードである。

 本当は嫌い合っているわけでもないのに仲違いをしてしまった姉弟に対し、エルはこう言う。〈……お互いに自分の中で勝手に結論を決めて・勝手にいじけて・引っこみのつかなくなるところまで自分を追いつめて……〉と。そして、それは主人公と姉の関係のみならず、主人公とバンビの関係や主人公とエルの関係にまで敷衍できるセリフであり、誤った運命は必ずや正せるという意味の忠告となっている。