ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年11月20日
 ANGEL VOICE 40 (少年チャンピオン・コミックス)

 この最終40巻には見開きの2ページを丸々使ったカットが三箇所ある(三箇所しかない)のだが、まずはそこから話を広げていきたい。なぜなら、それは古谷野孝雄の『ANGEL VOICE』というマンガにおける感動や説得力が、優れた構成や場面の作り方によって支えられていることの確認になりうるからである。

 一箇所目と二箇所目は対になっている。特筆すべきは一箇所目の見開きの2ページであろう。高校サッカー選手権千葉県予選決勝、市蘭(市立蘭山高校)と船和学院の試合は、激しい競り合いの末、とうとうPK戦にまでもつれこんだ。しかし、PK戦でも〈先に蹴る船和学院が決め・市立蘭山がすぐそれに追いつく〉という〈まるで試合の再現を見ているよう〉な展開が繰り広げられ、優劣のつかぬままに5人目の順番がきてしまう。ここで主人公たちのライヴァルである船和学院の5人目を任せられたユゥエル・カールソンのキックが、一箇所目のカットにあたる。

 文字通り、終盤のクライマックスである。普通なら主人公たちの側に(貴重な)見開きの2ページが割かれてもよさそうなものだが、あえて宿敵であるチームのプレイヤーに焦点が絞られていることに注意されたい。これはこのキックが試合の結末、ひいては物語の全体にとって、いかに重要なのかを示している。作品の文脈において、単に見栄えのするカット以上の意味があるのだ。そして、既に述べた通り、それは二箇所目の見開きの2ページと対になることで、さらなる効果を上げることとなる。

 二箇所目は、そのユゥエルのシュートの直後、市蘭のキーパーである所沢均が横っ飛びをし、ボールを止めた瞬間を描いたものだ。ここまでのPK戦で、所沢は船和学院のキックに反応しながらも、あと少しだけボールに届かなかった。それが一箇所目の見開きの2ページを通じて、このシュートがどれほど重要な局面なのかを知らしめる中、ついにゴールを守りきるのである。ユゥエルのキックに象徴されているのが、船和学院の側の期待の大きさであるとすれば、所沢のセーヴに象徴されているのは、市蘭の側の期待の大きさであろう。船和学院の選手たちの表情に明らかなように、一箇所目のカットと二箇所目のカットは対になることで、正しく一つの文脈を持ちえているのである。

 やっとである。PK戦になっても〈先に蹴る船和学院が決め・市立蘭山がすぐそれに追いつく〉という〈まるで試合の再現を見ているよう〉な展開、つまりは船和学院が市蘭をリードし続けるという試合の内容は、ようやく逆転の構図へと至ったのだった。最後のキックを任されたのは、市蘭の成田信吾だ。この最後のキックをどう描くのかに、三箇所目の見開きの2ページが費やされることとなる。

 ユゥエルのカットと同じく、成田のキックを見開きの2ページで描くことも可能だったに違いない。だが、そうした安易さとは異なった段取りを組むことで、ああ、と深く頷かされるまでの感動や説得力をもたらしているところに『ANGEL VOICE』の本質はある。

 ボールに向かった成田を見守る市蘭の選手たち、まさか彼らがお互いに手を取り合う瞬間がくるだなんて。それを誰よりも望んでいたのは、もちろん、マネージャーの高畑麻衣であった。最初に意外な行動をとったのは、馴れ合いとは最も無縁そうな乾清春だったのだが、キャプテンである百瀬宏一の手を払いのけた脇坂秀和の行動には、それ以上の驚きがある。これが何を意味しているのか。察しのついた(勘のいい)読み手はどれぐらいいるのだろう。だが、脇坂が示しているものを市蘭の選手たちはみな、咄嗟に理解するのである。その作中のコンセンサスとでもすべき姿が、三箇所目の見開きの2ページには描かれているのであって、これがもう、言語化するのが不可能といおうか野暮といおうか、とにかくエモーショナルなシーンになっているのだよ。

 ぼろぼろ泣けてきてしまう。泣けるというのは、必ずしも作品の質を保証する評価にはならないのだけれど、『ANGEL VOICE』の場合、それが優れた構成や場面の作り方によって成立させられていることが、三箇所目の見開きの2ページには集約されている。ボールを蹴る間際、成田は百瀬と脇坂のあいだの空白に何を見たのか。『ANGEL VOICE』というタイトルのすべてが、そこでのカットには込められているように思う。

『ANGEL VOICE』とは、おそらく、高畑麻衣の祈りであろう。これは一人の少女の祈りの物語であった。市蘭の選手たちが一様に背負っていたのは、その少女の祈りにほかならない。背負うという。たとえば、ワールドカップ・レベルの物語であったなら、もっと次元の違ったテーマを登場人物は背負うこととなる。しかし、『ANGEL VOICE』が描いてきたのは、それとは規模の異なったテーマや物語でしかないし、実際、全国大会での活躍さえもまったく見られない。だが、一人の少女の祈りがいかに実を結んだのかだけはほとんど完璧に描かれている。

 高校サッカー選手権千葉県予選決勝の行方までが『ANGEL VOICE』の物語にとって本編だったとすれば、高校を卒業した脇坂の進路はエピローグに位置づけられる。そこでの脇坂とサッカー部の顧問である黒木鉄雄のやりとりは、非常に印象的だ。

 小学校の教師になることを決めた脇坂に黒木が問うのは、やはり、背負うということである。〈オレは過去にたくさんの人に迷惑をかけ・たくさんの人を傷つけてきた・そんなオレに教師になる資格があると思うか〉と尋ねてくる脇坂に、黒木は〈お前の考えだと…… 過ちを犯した生徒に絶望しか与えない・これから先もずっと背負っていかなきゃいけないものもあるだろう・だがそれは…… これから先にやるべきこととは違うぞ〉と告げるのだ。

 このくだりは不良少年が更生するタイプのフィクションに寄せられがちな批判(不良少年に甘すぎるのではないか等)への回答として過不足がないのではないか。他方、このくだりは脇坂にとって、市蘭のサッカー部が高畑麻衣の祈りを背負った物語であったとしたとき、卒業したあとの進路は(高畑麻衣の存在を含め)自分の過去を背負うという物語に推移していることを教えている。もしも『ANGEL VOICE』が泣けるとしたら、それは単に悲しみが描かれているためではない。その悲しみが無駄に終わらず、前向きな情熱に繋がっていくことの軌跡を、優れた構成や場面によって見事に証明していく。感動や説得力に変えているので、あたたかい涙がこみあげる。

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2014年11月02日
 公務ですから! (1) (ビッグガンガンコミックス)

 坂口いく(原作・絵コンテ)と清水ユウ(作画)の『公務ですから!』の1巻には、大きくいって、二つの軸があるように思う。一つは、これがご当地ヒーローを任ぜられた地方公務員と駆け出しのマンガ家の出会いを描いていること。もう一つは、それがエリートで堅物のイケメンさんとドジで消極的なヒロインの出会いになっていることである。前者に関しては、非常に今日的な(トピックを題材とした)コンセプトだといえるし、後者に関しては、極めて伝統的な(少女マンガなどによく見られる)ラブコメのエッセンスといえるだろう。

 日本で一番とされるT大学を卒業したものの、地元である青里市で一人暮らしを続ける母親を心配し、青里市役所の観光課に就職した結城真一は、上司の佐倉に街興しの一環として、ご当地ヒーローの企画を持ちかけられたのであった。まずは限られた予算のなかでのスーツのデザインと制作である。そこで佐倉が目をつけたのは、特撮のヒーローに詳しい妹の聡美だ。聡美は、デビューしたはいいけれど、まだ連載にこぎ着けられないでいるマンガ家でもあった。打ち合わせを通じて、結城と聡美は出会い、そして、青里市のご当地ヒーローとなるガッテンダーが誕生した。しかし、まさか結城本人がガッテンダーの中に入ることになろうとは。特撮のヒーローには一切興味のない結城だったが、真面目な性格が幸いして(災いして)自分には不似合いな佐倉の提案を〈公務ですから〉の一言で引き受けてしまう。

 坂口は、岩澤紫麗(作画)と組んだ『ちぇんじ123』に、特撮のヒーローは現代における生き方のモデルになりえるか、というテーマを忍ばせていたが、『公務ですから!』にも同様のテーマを見てとることができる。ただし、『ちぇんじ123』のそれは少年性のロマンや正義に置き換えられたのに対し、『公務ですから!』の場合は社会人(職業上)の倫理や責任として解釈されるものであろう。もちろん、本質は肩の凝らないラブコメであって、ラヴよりもコメディの色合いの強く出ているところに作品の魅力はある。

 どたばたした日常の喜劇が繰り広げられるなか、先述した二つの軸が二つのフックの役割を果たしているというより、適度にミックスされ、作品そのものに一つのフックをもたらしている。
2014年10月22日
 きょうのキラ君(9)<完> (講談社コミックス別冊フレンド)

 みきもと凜の『きょうのキラ君』は、泣きの要素の入れっぷりに、あざといと見る向きも少なくはないかもしれない。基本的に、恋人が死ぬ(かもしれない)タイプの難病ものとして進んできた話が、この最終9巻では、ペットが死ぬ(かもしれない)タイプの動物ものへと転換している。しかし、かけがえがない対象の喪失を意識せざるをえないヒロインの成長が、作品のエモーションとドラマを担っている点に変わりはない。

 ヒロインであるニノ(岡村ニノン)の成長は、彼女が自分を取り巻く世界と人々とをいかに理解し、いかに受け入れるかという姿を通じて、描かれていった。それは彼女を取り巻く人々がいかに彼女を理解し、いかに受け入れていくかという変化を、同時に描くことでもあった。中盤以降、メインであるニノとキラ(吉良ゆいじ)のラヴ・ロマンスばかりではなく、矢部と澪というワキの人物のエピソードが(単なる横恋慕や三角関係のエッセンスである以上に)充実してきたのは、そのためであろう。とりわけ、矢部は通常の少女マンガに出てくる噛ませ犬の役割を逸脱した特別なポジションにつけていたと思う。

 手術を終えたはいいが、眠りから目覚めぬキラの安否、そして、唐突に訪れることとなった先生との別れが、全編のクライマックスである。先生とは、インコであるにもかかわらず、ニノたちと対等に会話ができるという意味で、ファンタジーにほかならない。疎外されていた過去と消極的な性格のため、現実から目をそらしていたニノにとっては、当初の段階より最大の理解者の立場を一貫していた。したがって、キラとのラヴ・ロマンスを経ながら、現実のなかに居場所を得ていったニノの成長を裏づけるものとして、先生との別れが生じることは、物語上の必然だったといえる。

 幼少期にニノを疎外していた少年の謝罪は、いくらか取り繕った風ではあるが、彼女が世界をいかに受け入れるかという先述したテーマを、わかりやすくしている。また、亡くなった者からのヴィデオ・メッセージは、見え透いたアイディアではあるし、その直接的な言葉が説教くさくもあるのだけれど、ここまで作品を追いかけてきた人間にとっては、すまん、ちょっと涙腺がゆるんでしまうような場面だ。

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・その他みきもと凜に関する文章
 『近キョリ恋愛』
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2014年10月21日
 聖闘士星矢EPISODE.G アサシン 1 (チャンピオンREDコミックス)

 あの『男坂』の最新巻にはじまって、『聖闘士星矢』の外伝といおうかスピンオフといおうかが三冊同時に出るなど、この10月はまるで車田正美強化月間のようであった。三冊同時に出た外伝の中の一つが、『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』である。1巻の段階では、はっきりとした物語はまだ見えていないのだが、これ、岡田芽武版『聖闘士星矢』である以上に、岡田芽武版『Fate/stay night』なんじゃないか、と思わされるものがある。現代の日本を舞台に、異能の力を持った円卓の騎士たちが聖剣戦争を繰り広げることとなるのだ。

 新宿に一人の黄金聖闘士(ゴールドセイント)が降り立った。山羊座(カプリコーン)のシュラである。女神(アテナ)の神託(オラクル)を授かったシュラには、聖域(サンクチュアリ)に背いてまで、果たさなければならない使命があった。それは暗殺者(アサシン)である。女神の敵として現れた謎の脅威を極秘裏に倒さなければならない。他方、裏切り者となったシュラの暗殺者を請け負ったのは、獅子座(レオ)のアイオリアだ。同じ黄金聖闘士に命を狙われながら、ついにシュラは自分のターゲットと相まみえることになった。それは円卓の騎士(ナイト・オブ・ラウンドテーブル)を裏切ったアロンダイトの剣闘士(グラディエーター)、ランスロットを名乗るばかりか、シュラのことをアーサー王(キングアーサー)と呼ぶのであった。そして、ランスロットは真の聖剣を持つのに相応しいのは誰かを問い、聖剣戦争の開幕を告げたのだ。

 要するに、アーサー王の伝説の世界がギリシアの神話の世界に浸食してき、その繋ぎ目にシュラの聖剣(エクスカリバー)を位置させているというのが、現段階で判明している『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』の構図である。もちろん、『聖闘士星矢EPISODE.G』における対話篇のようなバトルの描写と展開は『聖闘士星矢EPISODE.G アサシン』でも健在だ。ランスロットは東京都庁を指し、それを〈砂上の楼閣〉に喩える。さらには〈政はどこでも同じだ 我が王よ〉〈我々の政が人々を救えたか?〉〈志を持って集まった筈の我等――円卓の騎士〉〈脆くも瓦解し――結果 我々は / 殺戮し合った――〉〈力ある者は他者ではなく〉〈己の為にその力を使うのが――必然の証〉〈力とはその全てが欲望で形作られている――それを我々が証明した〉というのだ。このとき、シュラの無手の剣は、ランスロットへの反論にほかならない

 シュラはいうだろう。〈力とは他者の為に使う物〉だと。しかし、それをランスロットは認めない。〈ならば――刮目せよ!!〉という。〈我ら「剣闘士」の剣が――思想の上に立っていない事を――!! その眼前に現れる――死の具現化を!!〉まざまざと見せつけるのだった。

 正直な話、聖剣戦争にアイオリアがどう絡むのか、ちょっとわからないところがある。ただ、女神の聖闘士という意味で、シュラとアイオリアの思想が共通しているのは明らかである。その点では、シュラに託された作品のテーマの補強する役割を担っている。オールカラーの仕様は、車田本人の『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』を彷彿とさせる。もしくは(カード・ゲームを模した)スマホ・ゲームにおけるアトラクションの感覚を参照しているのだろう。が、やはり、登場人物たちの言い回しの濃さが最大の特徴となっている。

 『聖闘士星矢 EPISODE.G』
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2014年10月20日
 [R-16]R(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 ああ、禁断の物語の幕があがる。佐木飛朗斗(原作)と東直輝(漫画)の『[R-16]R』の1巻である。どうして、禁断なのか。それは、幸福とはいいがたい結末を迎えた『[R-16]』の登場人物たちのその後を、間接的にであろうと知ることになるからだった。つまり、鳴海純弥は、門倉真希央は、テル(安斉輝男)は、狂いの生じた運命の歯車を正しくできるだけの“強い生き物”になれたかよ、であろう。もちろん、小説として発表された「秋の16歳」は、一つの回答ではあった。しかし、同時に歯車の軋みをそのままにした残響のようでもあった。失われてしまったものは永遠に取り返せないことを『[R-16]』の少年たちは知ることになるのである。そして、『[R-16]R』は、『[R-16]』の少年たちでさえも既に失われてしまった世界を舞台にしている。

 主人公は鳴海純弥の息子、鳴海純真だ。純真を中心とし、『[R-16]』の少年たちの子供の世代が『[R-16]R』では描かれていくのだったが、ここで注意されたいのは、世代を交代してもなお、『[R-16]』における運命の歯車の回転が『[R-16]R』で繰り返されている点である。輪廻、因果、ループ、どのように喩えてもいい。純真は、純弥の息子であると同時に純弥の運命をもリヴァイヴァルしているのである。いや、純真に限ったことではない。純真の親友たち、リョウ(門倉稜一郎)とマコ(二階堂麻琴)も『[R-16]』の繰り返しを彼ら自身の中に内蔵している。とりわけ、紅い髪と灰色の瞳を持ったリョウは、その門倉性が示している通り、真希央の血縁にほかならない。実は、マコも『[R-16]』のとある登場人物の血筋にあたる。さらに、純真たち三人の前に立ちはだかる少年、島田の混濁した意識と常軌を逸した暴力は、猪瀬英樹を彷彿とさせる。島田とは、猪瀬の子供を産んだ少女の名字であった。まるで示し合わせたかのように、親の世代に複雑な葛藤を持った少年たちが相まみえ、『[R-16]』の相関図を再現しはじめようとしているというのが、この1巻のあらすじとなる。

 もしも『[R-16]R』が『[R-16]』の相関図をなぞらえているのだとすれば、この段階では親友として笑顔を交わしている純真とリョウに決別が訪れるのかどうかが、大きな関心となってくる。『[R-16]R』の1巻は、純真が15歳のとき、まだ中学の頃(中学の卒業式の一日)を描いている。『[R-16]』でいうなら、「冬の15歳」である。「冬の15歳」に何があったかよ。高校進学を前にして、運命の歯車が次第にひずんでいったのではないか。その予兆は、『[R-16]R』において、島田の登場とリョウの敗北に感じられる。そして、日章カラーのカワサキ750RS、Z II(ゼッツー)だ。横浜神音天道會爆麗党の総長、南雲から純弥が譲り受けた特別仕様の単車は、『[R-16]R』でも『[R-16]』と変わらず、少年たちの欠落と欲望とを象徴するかのような役割を果たしているのだった。

 テーマのレベルで見るとすれば、『[R-16]』と『[R-16]R』の相似は、父親(父権)の不在(喪失)がもたらした少年たちの混乱に由来している。それは形骸化した家父長制といかに少年たちが闘うかということでもある。『[R-16]』の真希央の父親は父親である以上に巨大な資本家として真希央を支配することで、真希央から憎悪された。これに近い図式が、どうやらリョウと父親のあいだには横たわっているようである。リョウの父親が真希央だとしたら、真希央は自分が憎んでいた人間と同じ人間になったのだろうか。純弥だったら、それで“強い生き物”になれたのかよ、真希央、と問い質すだろうね、である。では、純弥はどうなった。純真に父親としての在り方をきちんと示しえたのか。なんと『[R-16]R』は、純真が三歳のときに純弥が故人になったという衝撃の事実をもって、物語の幕をあげるのであった。

「目的を失くしても行為は残る」これは『[R-16]』のラストで南雲が純弥に告げた言葉である。

『[R-16]R』を読むと、『外天の夏』や『爆麗音』の原点は『[R-16]』だということがよくわかる。もちろん、それらに描かれてきた孤独と苦悩は『疾風伝説 特攻の拓』の天羽時貞における根なし草というモチーフを原型にしている。佐木の作品に出てくる少年たちの少なからずが、皆、根なし草に生まれついているという意味での兄弟なのである。根なし草であるがゆえに少年たちは一瞬、刹那の速度に居場所を求めようとする。そう仮定されるとき、『[R-16]R』で母親(母性)がどのように描かれているかも見逃せない部分になるのかもしれない。

 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』(漫画・所十三)
  1巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
2014年09月11日
 オイ!!オバさん 10 (少年チャンピオン・コミックス)

 近年の少年マンガにおけるハーレム型のラブコメは、メジャーの『ニセコイ』とマイナーの『オイ!! オバさん』に代表されるのではないかと思っている。いや、いづみかつきの『オイ!! オバさん』にしたって、もう10巻になるのだから、世間の評価も相応に高いのだろうし、マイナーと呼ぶのは大変失礼であるかもしれない。しかし、10巻に入った今も当初の方向性をキープしながら、充実したエピソードを増やし続けている点を見、その魅力を改めて確認したところで決してバチは当たらないはずである。

 スタイルの便宜上、ハーレム型のラブコメとはいったけれど、複数のヒロイン、美少女の恋愛感情は、必ずしも主人公の少年に向いているわけではない。タイトルの『オイ!! オバさん』に隠されているのは「甥」と「叔母」の関係である。主人公である沢田透と透の祖母の娘である安宅菅子の間柄が、つまりは「甥」と「叔母」にあたるのだが、驚くべきことに二人は同い年の同級生であって、成り行きから同じ家に住み、同じ高校に通うことになるのだった。さらに菅子が元々は有名なヤンキー、レディースであったため、彼女を慕ったり、彼女と敵対したりする美少女たちが、菅子と透の高校に次々とやってくることとなる。これが結果的に、ハーレム型のラブコメと似た相関図を作品のなかに作り出しているのだ。

 また、菅子と透の間柄に近親相姦の要素は一切なく、それは完全に「叔母」と「甥」の関係に固定されている。むしろ、平凡でしかない主人公の恋愛感情、片想いが、高値の花であるような対象としているのは、中学校からの同級生、持田愛という美少女であって、菅子は透を応援し、後押しする立場に撤している。ただし、ここで話がこじれるのは、菅子は透を「甥」として溺愛しているが、透は菅子を「叔母」として鬱陶しがっており、好奇の目で見られるのを嫌がった透が二人の関係を他の生徒には伏せていることである。そのせいで愛は、ざっくばらんで親しげな透と菅子を、二人が何と言おうと、熱々のカップルだと信じて止まない。

 透の立場からすれば、彼の恋愛感情には愛を目指したルートしか存在しない。にもかかわらず、周囲の視線においては、菅子をはじめ、続々と登場してくる美少女たちとのルートが生じてしまう。もちろん、美少女のなかには透に好意を抱く者もいるにはいる。が、それらはむしろ、菅子を中心とした共同体のテーマに引き寄せられていく印象である。かつてはヤンキーであった菅子が、高校進学を機にごく普通の学園生活を望んでいくというのは、『オイ!! オバさん』にとって(透の片想いと並ぶ)もう一つの大きな柱だろう。

 ごく普通の学園生活を望んでいる菅子は、ヤンキーであったというプローフィールをなるたけ隠しておきたい。「甥」である透の保護者を気取っているときは穏やかでいられるのだったが、透以外の人間に「オバさん」と声をかけられると、途端に激昂してしまう。どんな不良をも一蹴するほどのおそろしさを見せるのだ。このような二面性はヤンキー・マンガの文法から持ってきたギャグになっている。と同時に、ヒロインが二面性だったり何かしらの秘密だったりを持っていることは、ラブコメのジャンルでも非常にオーソドックスな設定であって、今日ではツンデレ等と解釈されうるタイプも、場合によってはそこに含まれるのである。

 菅子にかぎらず、『オイ!! オバさん』における美少女のほとんどが、二面性であったり何かしらの秘密であったりを持っている。そのギャップは、ある意味で彼女たちの可愛らしさを引き立てるものとなっている。しかし、それ以上に彼女たちのエキセントリックな資質を引き出し、作品のテンションを極めてハイなポジションへ引き上げる効果を兼ねているのであって、ハーレム型のラブコメを装いつつ、ラブコメというよりはコメディとして見られるような傾向が前にきているのは、おそらく、このためでもある。

 ヤンキーをモチーフの一部としているからか、初期の頃には西森博之の影響を多く感じさせるところがあった。反面、『オイ!! オバさん』ならではの発明として挙げておきたいのは、菅子を通して透が眺められる際、しばしば入ってくる「オバさんビジョン」と形容されるカットの存在だ。要するに「甥」である透の姿を「叔母」である菅子の主観によって掴まえること(「甥」である透のイメージに「叔母」である菅子が独自の解釈を加えること)なのだが、その特定の人物をSD(スーパー・デフォルメ)仕様のマスコットであるような位相に落とし込むという手法は、エピソードを経るにつれ、菅子(正確には菅子から見られる透)以外の人物にも流用されていく。

 そもそもがデフォルメ的な絵柄をよりデフォルメすることの作用は、それをほのぼのと評してよければ、作品にほのぼのとした一面を生じさせている。所謂サービス・カット(セックス・アピール)とは異なった基準で、肩の凝らない内容に添ったヴィジュアルを補うことに成功しているのだ。

 ストーリーについて述べるなら、高校一年のスタートから高校二年のヴァレンタイン・デイ、つまり二月にきている。卒業まで残すは一年、透の片想いは一進一退といったところか。ただし、この10巻には、おお、お前もいくらか立派になったね、と透の成長をうかがわせるエピソードが入っている。菅子に関しては、クライマックス近くにヤンキー絡みの大事件がもう一回ぐらい用意されているんじゃないかな。たぶん、タイトルにかけられた駄洒落のワン・アイディアではじまったマンガなのだと思うが、そこに足し算の工夫が重なっている。美少女のみならず、ユニークな人物の数々がワキに揃えられているのはでかい。
2014年09月06日
 キミに小さな嘘ひとつ(2) (プリンセス・コミックス プチ・プリ)

 活動の場を秋田書店(『プチプリンセス』)に移し、いくらか連載のペースを落とした吉岡李々子だが、それと同時に作風のデリケートでフラジャイルなニュアンス(といおうかドロドロとしたメロドラマ性といおうか)がより顕著になったかな、と『キミに小さな嘘ひとつ』の1巻の時点では思わされたのである。が、この2巻に入り、学園生活をピュアラブルなロマンスとともに切り取る手法が前に出てき、ある種の悲劇をベースにしていながらも単に暗いお話になるのとはまた違った展開を見せている。

 野村千星(ちせ)と明星(あかり)は、見た目はそっくり、でも性格は正反対であるような双子の姉妹だった。消極的で不器用な千星に対し、積極的で人当たりの良い明星は男子に特に人気がある。それが千星のコンプレックスにもなっている。二人に共通しているのは、幼馴染みである宮本昌行への恋心だ。だが、中学三年の春の終わり、二人の誕生日に明星が交通事故で他界してしまう。それからしばらくして、宮本は家族と一緒に海外へと渡っていき、一年が経った。千星は高校生になった。一人暮らしをはじめた。もう明星も宮本もいない。果たして同じマンションの隣人、里見映美との出会いは、千星にとって新しいチャプターを知らせるものであったのか。クラスメイトでもある彼は千星のことを以前から知っているかのように〈1年くらい前かな オレの目の前で車に轢かれたあの女の子かと思ったんだ〉と告げた。

 タイトルである『キミに小さな嘘ひとつ』の嘘とは、おそらく、事故の直前、電話越しに明星が千星に伝えた言葉を大本としている。それは明星が宮本に告白されたというものである。しかし、実際には宮本は千星に告白するつもりでいた。それを知ってしまった悔しさのために明星は千星に嘘をついたのだ。これは後に撤回されたとしたなら、他愛のない嘘でしかない。だが、撤回される機会を永遠に失ってしまったがゆえに千星のなかに深く残されていく。決して覆ることのない嘘は、場合によって真実と同然に通用してしまうことがある。当然、明星の死は重い。その重みが千星と宮本のあいだに横たわる。他方、小さな嘘が真実と同然に通用しているとき、(ちょっとおかしな日本語になってしまうけれど)本当の真実は、それが真実であるとは証明されがたい。宮本の言葉や態度がどうであれ、それは結果的に千星には真実かどうかの区別がつかないものとなるよりほかないのである。

 明星と宮本、親密であったはずの人間が去っていった千星が、里見との出会いを通じ、いかに変化していくか。ここに『キミに小さな嘘ひとつ』の主題を見つけることができるだろう。明星が亡くなって以来、千星が抱き続けている不安は、宮本をはじめとした他人をどう受け入れたらいいのかという認識の問題からやってきており、それは明星ほどの価値が自分にはないのではないか(自分は他人に受け入れられるのか)という思いなしと根底で一致している。そうした不安に差し伸べられてくる手の役割が、つまりは里見の存在なのであった。

 先に述べた通り、この2巻では、学園生活をピュアラブルなロマンスとともに切り取る手法が前に出てきている。千星に関心を持った里見と次第に好意を寄せてくる里見に戸惑った千星の二人の姿が、二人を取り巻く友人たちの姿とともに高校一年の若々しい風景のなかに描かれているのだ。千星と宮本の再会は確かに一つのハイライトだろう。しかし、それが重要なのは、宮本という過去の影を参照することで千星と里見の関係が次の段階に進んでいくような展開となっている点なのである。宮本が本当は(明星ではなく)千星を好きだった。そのことを千星や宮本と同じ中学だった井田から聞いた里見の言動に注目されたい。里見は、そのことを千星が知らない秘密というのであれば、その秘密を千星には黙っておくようにと井田に頼むのだ。これは明星の小さな嘘を再び真実として補強することにほかならないし、明星が発したはずの嘘が里見の嘘としてすり替わることをも意味している。

 裏を返すなら、千星と里見の関係は、あくまでも嘘という土台を隠蔽しているがゆえにピュアラブルなロマンスのように成り立っている。里見が、千星と宮本の再会にやきもきしたり、弱気になったりするのは可愛い。里見と千星とが、お互いの気持ちに触れ合い、ようやくカップルとなるシーンは良いシーンである。ただし、それは嘘が嘘として質されないかぎりにおいて、にすぎない。『キミに小さな嘘ひとつ』の物語は、細部に(吉岡李々子ならではの)いびつな軋みを作っている。このままハッピー・エンドにいくとは思われない。

・その他吉岡李々子に関する文章
 『月と太陽のピース』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『99%カカオ』について→こちら
2014年09月02日
 大奥 11 (ジェッツコミックス)

 平賀源内、死してなお、世に影響を与え続ける、か。いや、源内のみならず、死者の影響と生者の影響の綱引きが、よしながふみの『大奥』に、一本の太い大河のようなドラマをもたらしていることが、7、8巻のあたりからこの11巻までを読み進めるうちによくわかる。当初は男女の立場を逆転させた時代劇(SF)というアイディアに注目の集まりがちなマンガではあったけれど、荒唐無稽でありながら、骨の硬い、そして、血肉を備えた歴史の物語を編んでいるという点では、今日において北方謙三の時代小説に並ぶものなのではないかとさえ思わされるし(よしながのファンが北方を引き合いに出されて嬉しいかどうかは知らないが)結局のところ、実写化された際にクローズ・アップされたラヴ・ロマンスのエッセンスも血肉の一部に過ぎなかったのである。

 11巻における主人公、もしくは狂言回しの役割に近いのは、おそらく、前巻まで大奥に身を置き、ワキから静かに源内や青沼を見守っていた黒木になるだろう。大奥を追放された後、青沼のもとでともに蘭方医学を学んだ伊兵衛と療養所を開いた黒木が、源内らの意志を引き継ぎ、赤面疱瘡の予防(人痘接種)の可能性を追い求める姿が、ストーリーにおける一つの動力を為している。赤面疱瘡は『大奥』の舞台、及び設定、作品世界の根源にあたる災禍にほかならない。その根源へあと一歩に迫った源内の足跡を、今度は黒木が直に見聞していくのである。他方、黒木たちの去った大奥は、三代目将軍の家光以来となる男の将軍、十一代目将軍の徳川家斉を迎えたことによって、再び(つまりは本来の)男子禁制の園に変革されたのだった。幕府の政治のレベルと市民の生活のレベルを並行的に描くことで、作品世界の実感、説得性、リアリティのレベルを具体化させるというのは、作者が『大奥』の初期より駆使してきたテクニックの一つだが、それは初期からがそうであった通り、ここでも物語のレベルにすべての事象が緊密的であるような構造を作り出している。田沼意次を失脚させた家斉の母、徳川治済の謀略と黒木の研究とが、接点がないはずの二つの事象が、歴史や運命の不思議さを思わせる(もしくは反対に歴史や運命の必然を思わせる)展開を経、大局を動かしかねない天秤の上で不可分に結びついていってしまう。

 まさか黒木がこれほどのキー・パーソンだったとはな、なのだが、それ以上に驚かされるのは、いよいよ明らかとなった徳川治済の人物像である。治済の暗躍は伏線のごとく示されてはいたものの、松平定信に比べれば、必ずしも目立った存在ではなかったろう。けれど、次第に露わとなる異様さは『大奥』に登場してきた多種多様な人々のなかからも著しく突出している。前巻を振り返られたい。治済が権力を得る前の時点でその異様さに気づいていたのは、たぶん、田沼意次だけだ。他の誰にも知られない巧妙さで自らが異様であることを隠せてしまうぐらいに治済は異様なのだといえる。砒素による毒殺は、ひょっとしたら和歌山毒物カレー事件をイメージさせる。現代ではサイコパスやアパシーに喩えられる人物像が治済に託されているのかもしれない。が、同時に治済もまた田沼意次や祖母にあたる徳川吉宗という死者からやってくる影響とは無縁ではないことが描かれている。ただし、治済をあいだに挟み、死者の影響と綱引きをするような生者の影響は(現段階では)見られない。ただ死者の影響に引っ張られるがゆえに彼女は権力の絶頂において他人の命をも自由にしながら〈生きるとは何とむなしい事…〉と述べるのではないか。

 もしも生者の影響として、治済の異様さと対決しなければならない人間がいるとするのであれば、それはきっと、実の息子である十一代目将軍の徳川家斉になる。幼い頃、家斉は青沼の治療のおかげで赤面疱瘡から救われていたのだった。ああ、青沼という死者の影響こそが、やがて家斉と黒木を邂逅させるのだというのは、さすがに過言であろうか。少なくとも家斉と黒木は(各々形は違えど)青沼からのバトンを受け取っている。さらにそのバトンは青沼が他の誰かから受け取ってきたバトンでもあるに違いない。そういうリレーのような運動を通じ、歴史や運命の不思議さを思わせる(もしくは反対に歴史や運命の必然を思わせる)展開が育まれていることは確かだと断言できる。
2014年08月29日
 熱風・虹丸組 (2) (ヤングキングコミックス)

 四騎守槐、熱いじゃねえか。もしも読者人気投票があったら絶対上位に入ってくるね。いや、少なくとも自分は一票を投じよう。ぬおお、その生き様が燃えるぜ、ってやつだ。以前にも述べた通り、この『熱風・翔丸組』で完全に独自の路線を進みはじめた桑原真也に求めるものとは、つまり、こういうバトルとロマンの徹底化にほかならない。確かにリアリティからは程遠い。そこにどれだけの今日性を見られるかはさておき、不良マンガというのは大体、70年代の段階で既に古くさくなってしまった男のロマンを目一杯に押し出したものであったろう。そのロマンは80年代、90年代と時代をくだるにつれて、さらに古び、薄まっていったわけだけれど、それをこの2010年代に、である。バトルの形式で桑原は隔世遺伝的に再起動させている。

 カリスマの残した伝説や遺産をめぐり、強敵にぶつかる。強敵と共同戦線を結び、さらなる強敵と渡り合う。団体戦なら当然、5人対5人の正面対決だ。表徴してくるのは男の意地である。これである。これ以外に言うべき必要が何もない。大ゴマと見開きのページによるダイナミズムが、細かいことは抜きだと主張している。登場人物たちのプロフィールにしたところで、たとえそれが不幸なものであったとしても、後ろ向きのテーマに縛られはしない。対人戦争(タイマンウォーズ)の第2戦、ノスフェラトゥの次鋒である「ブチ抜き獅海」と闘った狗神塔馬の言葉を借りるなら、〈たった一度の敗北も受け止められねェテメェは 小っちェただの子供(ガキ)だ / 死ぬ程 口惜しい屈辱と真ッ正面から闘うのが 男だろ〉であって、男の生き様、男のロマンとは、過去や挫折を踏み越えるなかで果たされる成熟と同義であることを雄弁にしていくのであった。

 ああ、そして、関東最大のチーム、ノスフェラトゥを仕切り、主人公である虹川潤率いる虹丸組とナラシナ市に抗争を挑んできた荒吐篤郎及び荒吐兄弟は、もしかすると不幸に囚われた者であるがゆえに強敵として立ちはだかる。この2巻で篤郎の弟、荒吐数麒が語る呪われし「荒吐家」の血、それが地獄に喩えられることでノスフェラトゥの凄みは増していく。しかし、自分の家族の血から決して自由ではないということであれば、四騎守槐も例外ではない。だが、槐においては今は亡き兄の影が彼を窮地で奮い立たせる。対人戦争の第3戦は槐と数麒とで、ある種の対照となっているのである。もちろん、塔馬と獅海の第2戦も、敗北をよく知る人間同士の勝負という意味での対照を為していたことを忘れてはならない。どっちが勝つか。勝ったか。ひいてはそれが虹川潤と荒吐篤郎の対照と影響とを明らかにするのだろう。

 作中では幾度となく「命懸け」と繰り返される。登場人物たちの脳裏をよぎる。何に対して、何のために命を懸けなければならないのか。まあ、命懸けなんてのはちょっとポップじゃねえですよ。でも、あの狂犬のごときヒールっぷりがウリであった四騎守槐の不屈であることを体現した姿には名状しがたいものがある。リアリティを度外視した『熱風・翔丸組』のバトルとロマンとが導き出した一つの解なのだと思う。ぬおお、その生き様が燃えるぜ、ってやつである。ところで2巻のラストのヒキ、このヒキのコマはさすがにオールドスクールすぎる。まさか構成がヘタクソだったり手抜きではあるまい。が、そこまでを含めて(あるいは扉絵のポエムなどを見る限り)桑原はヤンキー以前であるような不良マンガのバック・トゥ・ベーシックスを狙っているのだということにしておきたい。
 
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2014年08月25日
 はじめましてのシルヴァンドル (ヤングジャンプコミックス)

『恋愛遊星』や『ほしのうえでめぐる』で魅力的なSFラブコメを描き出した倉橋ユウスだが、『はじめましてのシルヴァンドル』もやはり、それらと同様、オムニバスで編まれるライト・ポップなファンタジーとロマンスになっている。個人レベルの葛藤だったりが地球規模の危機を左右してしまう式の所謂セカイ系に通じるマナーを汲んだところもあるにはせよ、総体的な印象はむしろ、スペース・オペラを由来としているかのようなスケールの大きい物語=SFと日常の小さな風景をベースにしたミニマリズム=ラブコメの並列化、ミックスという80年代、90年代の良質なオリジナル・ヴィデオ・アニメ(OVA)によく見かけられたものと近い。

 宇宙を渡り歩く旅の商人、「シルヴァンドル」と呼ばれるその少女が地球に降り立った目的は何か。シルヴァンドルは悩みを抱えた人々に出会うと不可思議なグッズを無理矢理にでもセールスしようとするのであった。そこで繰り広げられる様々な騒動を、つまり『はじめましてのシルヴァンドル』はオムニバスのストーリーに編んでいくのである。正直なところ、作者のものとしては『ほしのうえでめぐる』の方を強く薦めるのだけれど、もちろん本作にも倉橋ユウスというマンガ家のエッセンスがたっぷり詰まっているし、『はじめましてのシルヴァンドル』で特筆すべき点を挙げるとすれば、それはヒロインにあたるシルヴァンドルの造形になるだろう。端的に、可愛らしい。イノセントに見られるがゆえにチャーミングでありうるエイリアンのイメージは、古くは『うる星やつら』から近年では『侵略!イカ娘』に至るまで、ある種の様式を思わせる。訴求力がある。絵柄を含め、そのような類型とは決して無縁ではないながらも、独自のアレンジを加えることで作品の方向性にきちんとピントの合ったデザインへと引き寄せているのだ。

 シルヴァンドルの可愛らしさは、実は「シルヴァンドル」とは果たして何者かという問いに直結している。既に述べた通り、旅の商人である。作中ではこういわれている。〈この星には宇宙人が来ているのだ 目的は侵略ではなく モノを売る仕事 役に立つ物ばかりだ〉と。しかし、設定のレベルではなく、テーマのレベルで作品をとらえようとするとき、そのイノセントに見られるがゆえにチャーミングでありうる造形は、「天使」あるいは「魔女」であるような存在の比喩となっていることがわかる。また、作中ではこうもいわれている。〈どこから来たのか誰も知らんが どの星でも目撃されている あとになって学者どもはアレが 神が… 文明に遣わせた最後のテストだとぬかしていた〉と。おそらく、「シルヴァンドル」のセールスに象徴されているのは、なんらかの危機を前にした人間が挑むべき選択であり代償であり試練にほかならない。さらに付言するなら、たとえば『笑ゥせぇるすまん』の邪悪さが喪黒福造のおどろおどろしい造形からやってきているように、『はじめましてのシルヴァンドル』におけるポジティヴなフィーリングは、シルヴァンドルの可愛らしさからやってきているのである。

 シルヴァンドルは当然のこと、彼女と関わっていく登場人物たちの表情や、そのやりとりにもユーモラスと言い換えられるような親しみやすさがある。ポジティヴでいてユーモラスなパート=ラブコメとシリアスでいてエモーショナルなドラマ=SFとが、倉橋ユウスの筆致においては見事に調和してしまう。このことの大変優れて魅力的であることを『はじめましてのシルヴァンドル』は改めて確認させてくれる。
2014年08月15日
 ANGEL VOICE 38 (少年チャンピオン・コミックス)

 古谷野孝雄の『ANGEL VOICE(エンジェル ボイス)』は、34巻よりこちら、どの巻もクライマックス過多と評して差し支えがない。要するに、目頭は熱くなるし、胸は震えるし。で、ここまで熱量の高いものを見せ続けられたら(もちろん、良い意味で)読む方が困ってしまうのだ。おいおい、こんな作品、滅多にないぜ、と思う。34巻よりこちら、というのは、つまり、主役である市立蘭山高校サッカー部(市蘭)が高校選手権千葉県予選決勝に勝ち進み、ついに宿敵であり強豪である船和学院との対決を迎え、その試合がはじまってからずっとのことである。

 端的にいって『ANGEL VOICE』のあらすじに特筆すべき点は少ない。難病を患った女子マネージャーのためにサッカー部の元不良少年たちが再起、奮闘し、不可能を可能に変えるような奇跡に挑んでいく。こうしたあらすじは、極めて通俗的であるし、予定調和として散々消費された感がある上、その感動には耐性がつき、よほどのことでなければ、白けてしまうのが普通である。しかし、どうしてだろう。『ANGEL VOICE』というマンガに関しては、そうした耐性を突き破ってくるぐらいの感動がある。とりわけ、1巻の表紙と冒頭に用意されていた伏線を見事に回収した35巻は、ボロボロ泣くね。泣けてきて弱るのだったが、泣くことが恥ずかしくはない。知っていた。こうなることは知っていた。おそらく、読み手の大半が心していたはずなのに、目頭を熱くさせられたのではないか。これは作者が一切の妥協もなく、地道に積み重ねてきたストーリーのなかで登場人物たちが自らに与えられた役割を(当然、彼らはそうとは知らず)存分に生き、そのひたむきな姿の総和、デタラメと手抜きだけは決して引き受けまいという徹底性を通じ、ああやっぱりね、の予定調和を越えてしまうまでの感動が作り出されているからにほかならない。

 この38巻では、決勝戦も終盤を迎え、試合は三点対三点のまま、延長戦に突入する。試合の内容を詳しく述べることは、『ANGEL VOICE』の場合、所謂ネタバレになりかねないので控えるけれど、市蘭と船和とが抜きつ抜かれつの激闘を繰り広げているのは確かだ。フィールドに立っている選手は、誰もが試合を制しようとし、限界ギリギリのところでふんばり、ぶつかり合う。いや、選手のみならず、ベンチや観客席にいる登場人物たち全員が、ここが正念場だぞ、という眼差しをフィールドに注ぎ、作中のドラマの盛り上がりに関与していく。それにしても、将来有望なメンバーを含んでいるとはいえ、スタートの段階では弱小だったサッカー部が、二年足らずで強豪校と渡り合えるほどの実力を得られるものか。作者が一切の妥協もなく、地道に積み重ねてきたストーリーとは、そのような疑問に正しく答えるものであろう。もしかしたら、それは努力と呼ばれ、成長と呼ばれることの結果であるのかもしれない。努力と成長を描ききった。たぶん、その通りだと思う。しかし、やはり、努力や成長である以上に『ANGEL VOICE』は奇跡を描いているのであって、フィクションならではの奇跡にどうしたら説得力を持たせられるか。こうした疑問を解消しようとするとき、努力や成長は副次的に備わった条件でしかないのである。

 努力や成長よりも奇跡が尊いというのではない。また、奇跡がまったく万能だというのでもない。物語のキーである女子マネージャー、高畑麻衣の闘病生活を見よ。奇跡は必ずしも起こらないからこそ、奇跡として期待されることを暗示している。だが、奇跡はまれに起こりうるからこそ、奇跡として期待されることを、市蘭サッカー部の活躍は証明しているのである。『ANGEL VOICE』という美しいタイトルは、繰り返しかえりみられるべきだ。それは作中の奇跡がどこからやってきているのかを、何によってもたらされているのかを教えている。そう、奇跡とは、物語上のデタラメでもなければ、作劇上の手抜きでもない。このことは、ライヴァルである船和を単なる悪役や噛ませ犬ではなく、その内情を掘り下げ、市蘭が最後に越えなくてはならない(文字通りの)壁として、きっちり仕上げてみせた作者の手つきにも明らかだろう。

 もしかしたら、影響元である森田まさのりの『ROOKIES(ルーキーズ)』が、ライヴァルにあたるチームを十全に描けなかった(このことはむしろ、実写映画版に寄せられたいくつかの批判において顕著となっている)ことから学んでいるのかもしれないが、『ANGEL VOICE』の船和は非常に魅力的に描かれている。市蘭とは異なったモチベーションを持ち、市蘭と別の使命とプライドを守るべく、結果的に市蘭の前に立ちはだかる。市蘭の勝利に向けられた執念をクローズ・アップするだけでは、これほど試合の内容は濃く、熱くはなるまい。一ページごと、一コマごとに目の離せない展開がある。その勢いは、テンポのレベルで他のサッカー・マンガを圧倒している。かといってディテールをすっ飛ばしているわけではない。細部の動きまでを通じ、凄まじい密度で試合が運んでいくため、まさか、ここでこうくるかよ、という場面が訪れた際、思わず胸が震えるのであった。

 しばしば、登場人物たち皆が主役である式のエクスキューズをするマンガ家がいる。しかし、それは単にワキのプロットを増やし、付け足すのみであるような作法を指している場合が多い。だが、『ANGEL VOICE』においては、主な登場人物が本筋から外れることなく、誰を主役に見ても過不足のない作品が成立している。もちろん、市蘭のイレヴンの勝利が最高のカタルシスなのは疑いようがない。少なくとも、それが1巻からのテーマなのである。試合は既に延長戦の後半となった。市蘭と船和、どちらが勝ってもおかしくはないまま、クライマックスのまっただなかをボールは転がり続けていく。

 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
2014年08月11日
 セブン☆スター(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 このところ、ヤンキー・マンガのジャンルでは「7人」という数にシンクロニシティめいた一致が見られる。たとえば(今年完結したが)『サムライソルジャー』の当初のモチーフには『七人の侍』が存在していたはずだし、『SHONANセブン』では「7人」の選抜メンバーをめぐるトーナメントが繰り広げられ、そして『セブン☆スター』は「7人」のローカル・ヒーロー、守護者(ガーディアン)の物語となっているのだった。まあ『山田くんと7人の魔女』はちょっと違うかな、とは思う。が、しかし、これが偶々のことか、そうでないのかは知らない。某アイドル・グループのヒエラルキーに「神7」というのがあるけれど(意図的にであれ、無意識にであれ、同時代の産物として)それと呼応している可能性だってなきにしもあらず、であろう。もちろん、以上は余談である。本題とはほとんど関係がない。

 それにしても柳内大樹である。『ギャングキング』のビルドゥングス・ロマン=成長の物語はまだ完結を見ていないのだが、『軍艦少年』における再生の物語を経、どうやら『セブン☆スター』では不良少年というモラトリアムのピカレスク・ロマンに着手しようとしているのではないかと思わせる。

 2年前、築地に「セブン☆スター」と呼ばれる伝説が誕生した。ヤクザから自分たちが生まれ育った街を守るべく、未成年に蔓延していた脱法ハーブを撲滅するために〈当時の高校の番や暴走族の頭 ギャングのトップに愚連隊のリーターなどが奇跡的に集まり結成された一夜限りのチーム〉がそれである。現在、「セブン☆スター」の一員であった川谷卓三(タクボン)は20歳になったばかり。世界一のベーシストを目指しながら、母親が切り盛りする屋形船を手伝っている。しばらく街には平和が続いていたのだったが、2020年の東京オリンピック開催に乗じ、築地に巨大なカジノを建設しようとする不穏な動きがあった。フリーマン(自由人)を名乗り、日本人初のカジノ王を目論む松田友作は、築地の街と「セブン☆スター」の面々に何をもたらすのか。というのが、1巻のあらましとなっている。

 かつての不良少年たちと都市を一変させかねないプロジェクトの合流には『サムライソルジャー』の終盤に通じるものがある。もしくは上條淳士の『8』を彷彿させたりもするけれど、それ以上に『ギャングキング』におけるピンコと「ジャスティス」のモチーフが流れ込んできているのだろう。学校を出ても社会には出られない不良少年たちが、自分の将来と居場所とを見据えた上で、制度やシステムと格闘しなければならないのである。登場人物の名前が昔の俳優に由来していることは明らかで、なかには美船敏郎(三船敏郎のもじり)も出てくる。やはり原型は『七人の侍』か。

 また、寝たきりの父親が自宅療養しているタクボンの家庭環境など、実際の設定はかなりきつい。これは近年、作者が提起してきたリアリズムとしての「想像力」を汲んだものに違いない。しかし、タクボンのみならず、フリーマンを含め、登場人物たち大半のテンションが(現段階では)極めてアッパーであることが『セブン☆スター』の特徴といえる。柳内大樹のキャリアの、あるいは『ギャングキング』の初期の、あの健康優良不良少年たちが帰ってきたようでもある。おそらくはこのことが、『軍艦少年』におけるテーマ主義的な暗さとは異なった色合いを、ピカレスク・ロマンであるような高揚を『セブン☆スター』に与えているのだ。

 正直な話、『軍艦少年』の暗さは少しばかり厳しかった。ただし、それが『ギャングキング』の中盤以降、作者によって追求されてきたリアリズムとしての「想像力」を徹底したためであったことはよくわかる。『軍艦少年』を高く買っているのは小説家の深町秋生である。深町は『まんが秘宝 男のための青春まんがクロニクル』というムックで『軍艦少年』を取り上げ、この手のジャンルの〈不愉快なほどの脳天気さと軽薄さ〉や『ギャングキング』の〈体育会系な健全さ〉を否定しながらも『軍艦少年』を〈シンプルな「喪失と再生の物語」だが、そのどんづまりな状況から這い上がる姿は力強くて美しい〉と述べている。これもよくわかる。浮ついた気分やヘラヘラとした態度では覆いきれない痛みを通し、生きることの重みを描いていたことは確かだ。が、その息苦しさがコマのレベルで判断される語り口やストーリーのテンポを、いくらかぎこちないものとしていた感は否めない。

 対して『セブン☆スター』は、もうちょっと別の路線に入っている。とりあえず、ケンカ以外の部分で登場人物がよく動く。ヴァイタリティを前に出すことで場面そのものが非常に活発になっているのである。今後にシビアな展開を予想させる箇所もある。本筋は「セブン☆スター」とフリーマンの決戦に向かっていくのだろうが、細部にはやがて作品の奥行きとなるような人間ドラマが発芽している。

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
  21巻について→こちら 
  20巻について→こちら
  19巻について→こちら
  18巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一) 
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『新説!さかもっちゃん』1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2014年07月29日
 うぬぼれハーツクライ 1 (マーガレットコミックス)

 香魚子に関しては、『もう卵は殺さない』が(実験的とまではいわなくとも)トリッキーな趣向の読み切りをまとめた作品集だったので、ああ、今後はそちらの方向性を目指していくのかな、と思われた。しかし、この『うぬぼれハーツクライ』では、再び正統派であるような少女マンガへの揺り返しが生じている。

 確かに作者が「あとがき」めいた箇所にヒロインである葉山ゆりを通常の少女マンガだったら「かませ犬として登場するタイプ」だと述べている通り、たとえば幸田もも子の『ヒロイン失格』を前例に出せるであろうヒネリがその造形には加わっているし、またそれは今日において「残念」と形容されるイメージをも背負わされていることがわかる。ここでいう「残念」とは、新書の『一〇年代文化論』で著者のさやわかが肯定の修辞として解説していたものと同一であって、つまり『うぬぼれハーツクライ』は「残念な美人」をヒロインとしているのである。この意味で、現代的な感性と文化の水準に目配せをした内容ではある。

 葉山ゆりは高校二年生になっても彼氏がいない。ルックスが悪いわけではない。むしろ見映えは良い。ただし、ナルシシズムの傾向があり、恋人を選ぶ目は厳しい。並のレベルだったら言い寄ってこられても簡単に断ってしまう。彼氏ができないのは自分に相応しい男子がいないからだとすら思っている。そんな彼女の前に、ついに理想の人物が現れるのだった。それが同じクラスの綾倉真である。綾倉は、容姿のみならず、育ちに優れ、勉強でも部活でも秀でている。まるで欠点がない。彼こそが自分に相応しい。そう判断したゆりは、綾倉にアプローチを仕掛けるのだが、あろうことかまったく相手にされない。最初は軽い気持ちもあったゆりだけれど、頑なな態度の綾倉と接するうち、彼のことが本当に好きになってしまっていた。

 自分になびかない異性に対するヒロインの奮闘劇を予感させる筋書きである。そこに、ヒロインは「残念な美人」であるというヒネリが入ってきている。ゆりのプライドの高さは作品のユーモラスな語り口に繋がっている。が、彼女は必ずしもコンプレックスから自由なわけではない。いや、こうもいえる。とある失恋の経験=コンプレックスが現在のプライドの高さに反転しているのだ。

 繰り返しになるが、「残念」に喩えられるゆりの我の強さは『うぬぼれハーツクライ』のチャーム・ポイントであろう。外見と内面のギャップを、後者によって前者を補うのではなく、前者によって後者を補うということについて、何よりもゆりが自覚的であるところに、コンプレックスを反転させたプライドの高さが存在している。その彼女がどうして綾倉に惹かれるのか。それは綾倉が彼女とは決定的に異なった人間、外見と内面のギャップを埋め合わせる必要のない人間だからである。外見と内面とが見事に一致した綾倉の清々しさが、ゆりにとっては眩しい。ゆりばかりではなく、他の誰にとっても眩しい。その眩しさは、ときに顰蹙を買ってしまうほどでもある。綾倉をライヴァル視する新見の原動力も、おそらくは顰蹙と無関係ではない。

 ゆりや綾倉はもちろん、新見を含め、『うぬぼれハーツクライ』においては主要な登場人物を美男美女が占めている。その点では、美男美女による貴族のゲームとしてのラヴ・ロマンスに近い。綾倉の唯一の親友とされる小池でさえ、重要なポジションにいるようでいて(特徴のないルックスであるがゆえに)現時点では実質的にモブの役割を出ない。あるいは新見や、ゆりの友人である美優の、こいつらちょっと小賢しいよねえ、という立ち振る舞いも、それが貴族ならではの駆け引きだとすれば、当然のテクニックではあるのだろう。綾倉だってあれだよ、プロフィールが既に貴族みたいなもんじゃん。ただし、ギリギリのラインで『うぬぼれハーツクライ』を、貴族のゲームとは別種のラヴ・ロマンスに落とし込んでいるのが、ゆりの「残念な美人」であるという特徴だと思う。

 ゆりが「残念な美人」であることのなかには、貴族にはなりきれない人間に通じる共感が含まれている。そして、その共感と片想いの奮闘劇、ヒロインのガンバリズムをベースにしながら、ラヴ・ロマンスを描くことで『うぬぼれハーツクライ』は、正統派であるような少女マンガとなっている。

・その他香魚子に関する文章
 『シトラス』1巻について→こちら
 『隣の彼方』について→こちら
 『さよなら私たち』について→こちら
2014年07月22日
 何もないけど空は青い 1 (少年サンデーコミックス)

 西森博之が『今日から俺は!!』あるいは『甘く危険なナンパ刑事』の頃より描き続けているのは、ある種の人間性テストだといえる。そこが日常であるかぎりは気楽であったはずの人物が何かしらかの極限状態に陥ったとき、果たしてその人物はどのような本性と行動を見せるのか。そして、できるだけ理想的な姿=回答を正解に近いものとしてきたのだと思われる。たとえば、それは『今日から俺は!!』でドッキリにはめられた今井の同情を禁じえないのに笑えるリアクションであったり、ピンチに立たされた三橋の普段からは想像されない男気などを例に出してみるとわかりやすい。伊藤の正義感に関しては言わずもがな、であろう。また、それは立場や態度、性別は異なろうと、後の作品にも継承されてきたものであって、事と次第によったら悪役の者が人間性テストにかけられ、底の浅さを露呈した挙げ句、敗北したりもする。春風邪三太との共作である『スピンナウト』は、西森のキャリアにとっては異色のファンタジーだったが、あれも秩序や倫理の違う世界に飛ばされた少年たちの困難をベースにし、人間性テストを描いていたということに変わりはないのである。

 西森が飯沼ゆうきと組み、完全に原作の側に回った『何もないけど空は青い』はどうだろう。やはり、ここで繰り広げられているのも人間性テストに喩えられるような日常との対照にほかならない。いや、それはポストアポカリプス風の舞台装置(サヴァイヴァル)を取ったことで、一層顕著にすらなっている。巨大な隕石とのニアミスが原因で金属が腐敗しはじめ、これを契機に文明が崩壊し出した架空の現代日本という設定は、西森の小説である『満天の星と青い空』の流用だけれど、そこでは生き残るために必死となった人々のタガは外れ、他人を蹴落とすことも厭わぬ(文字通り)弱肉強食の価値観が主流を占めようとしている。食料は略奪によってのみ得られ、暴力が手段として必要とされる。以前の文化圏はまだ残っているが、徐々に失われつつある。野蛮であることを恥じる者は馬鹿を見るしかない。もちろん、主人公の少年的なヒロイズムはそのような状況に対するアンチテーゼにあたる。『何もないけど空は青い』において注意すべきは、環境の変化に適応した人間と適応できなかった人間の優劣を判断するのとは別の水準で物語が構築されている点だと思う。環境の変化に適応するということは生き残るということである。主人公が生き残っている以上、それはつまり彼なりのスタンスで環境の変化と適応しているのに等しい。少なくとも、この1巻の段階では、彼と周囲の人間との関わり(彼が周囲に及ぼしていく影響)を基礎にして物語は作られている。

 主人公だけではなく、あまたの人間が人間性テストにかけられる。それが『何もないけど空は青い』の概要である。このとき、主人公である河守仁吉がフォローし、仁吉をフォローする二人のヒロイン、同級生の七ノ宮華羅と母親とはぐれてしまった玲奈という幼い少女の存在は何を示しているのか。図式的に解釈するのであれば、華羅は仁吉が必要としているという意味での「他者」=鏡であり、玲奈は仁吉を必要としているという意味での「他者」=鏡であろう。それらの鏡を通して仁吉はこの人間性テストにおける「自分」の姿を確認していくこととなるのだ。清水洋三にも似たスタイリッシュさのある飯沼の絵柄は確かに『週刊少年サンデー』っぽい。一方、どういった形で原作が提供されているのかは知らないが、随所に西森のテイストを帯びたカットが入ってきている。

・その他西森博之の小説に関する文章
 『俺の心臓は彼女にしか撃ち抜けない』について→こちら
 『満天の星と青い空』について→こちら
2014年07月16日
 春風のスネグラチカ (F COMICS)

 沙村広明は、作品自体がギャグであろうとシリアスであろうと、基本の文体に揺らぎがないので、果たしてそれが本当にギャグなのかシリアスなのか判断に迷うことがしばしばあるのだったが、この『春風のスネグラチカ』に関しては、おそらくシリアスな方に入れられるだろう。1933年のロシアを舞台にしたマンガである。革命後の粛正が続くなか、とある郊外の別荘へとやってきた若い男女が、その素性の知れなさゆえに秘密警察の監視下に置かれ、サディスティックな世界に身を投じることとなる。というのが、大まかな内容になるのだけれど、何より注意を引くのは、主人公にあたる若い男女、奇妙な車椅子に乗ったビエールカと彼女に付き従う片目のシシェノークが一体何者なのかであって、実際に二人の正体をめぐるサスペンスが、物語の中軸となり、周囲の人間の運命をも大きく動かしていく点だ。時代背景が必ずしもポピュラーではないことを考慮してか、巻末に「読み終わった人のための登場人物紹介」が載っているのは親切だと思う。しかし、確かにそれは本作を「読み終わった人のための」ものだと強く念を押しておきたい。なぜなら、次第に明かされるビエールカとシシェノークの正体こそが、あるいは突然に訪れるその真実と驚愕こそが、『春風のスネグラチカ』の本質にほかならないからである。別荘にやってきた若い男女が何者であったのか。これが序盤より敷かれてきた伏線に応える形でオープンとなったとき、スケールの小さなドラマで組み立てられていたはずの作品が見事に様相を変える。個人史レベルの悲劇と世界史レベルの暗部とがパースペクティヴの狂いもなく接続されてしまう。カタルシスがある。それにしても、改めて実感するのは、作品自体がギャグであろうとシリアスであろうと、沙村広明のマンガには一貫したテーマが存在するのではないか。もしかしたら「滅びの美学」と言い表されるものだ。結局のところ、容赦がないまでに非情な展開も目に余るほどの残酷な描写もそこに引き寄せられていく。終焉と同義であるような静寂もそこに由来している。

・その他沙村広明に関する文章
 『無限の住人』22巻について→こちら
 『ブラッドハーレーの馬車』について→こちら
 『エメラルド』について→こちら 
2014年07月06日
 なにわ友あれ(29) (ヤングマガジンコミックス)

 掲載誌の『ヤングマガジン』で最終回(30号)を迎えたのに準じ、コミックスの方でもクライマックスに向かいつつある『なにわ友あれ』である。が、最終段階における総括として本作の特徴を大きく三つ挙げられるように思う。一つは、これが木尾士目の『げんしけん』に描かれていると覚しきオタク・サークルの裏面であるようなコミュニティを題材にしていること。不良、走り屋、今日では肉食系と喩えられるだろう若者の集団をモデルにしたマンガとなっており、シリアスなパートのみならず、ギャグのパートもそうしたイメージに由来している。

 もう一つは、作者である南勝久の実体験をベースにしていながら、あたかも架空の戦記が展開されているかのような触感を持っていること。もちろん、作者の実体験を担保にすることで(90年代の初頭を背景にした)物語にリアリティが付与されているのだが、作品の構造を見る上では『機動戦士ガンダム』にも似た架空の戦記のダイナミズムが物語のなかに時間軸をもたらしているのは間違いない。南は『機動戦士ガンダム』が好きだと公言しているし、実際に『機動戦士ガンダム』の引用を『なにわ友あれ』に盛り込んでいるけれど、前作にあたる『ナニワトモアレ』をオリジナルの『機動戦士ガンダム』になぞらえるなら、『なにわ友あれ』は『Zガンダム』に位置づけられる。『ナニワトモアレ』の主人公であるグッさんをアムロ・レイとするのであれば、『なにわ友あれ』の主人公であるテツヤはカミーユ・ビダンの役割だといえる。あるいは『ナニワトモアレ』と『なにわ友あれ』をセットで考えるとき、それは『機動戦士ガンダム』から『逆襲のシャア』までの成り行きに相応する。要するに、アムロ・レイであるグッさんの引退が同時にシリーズの完結となっているのである。

 三つ目は、一つ目に述べた点と関係しているのだったが、主人公が他の男に恋人を寝取られる(所謂NTR)タイプのストーリーになっていること。で、それは『ナニワトモアレ』と『なにわ友あれ』の双方に共通している。過程や結末は異なれど、テツヤの恋人であるナツが(読み手の目からすると)非常に呆気なく他の男に転んでしまうのは、グッさんのケースの繰り返しであろう。主人公に感情移入するとしたら、寝取られてしまった境遇とスケベなシーンは、ことさらエグいともいえる。しかし、繰り返して描かれているということは、それが作者の趣味でなければ、作品にとって必要であり、不可欠な要素にほかならない。

 以上の三つを並べてみるとき、すべてが現代における男性性の発露と問題にかかっていることがわかる。ある場合には、男性性の困難は(まあ半ばギャグではあるもの)直接インポテンツのクライシスとして現れている。そこにあるのは70年代や80年代のフィクションに顕在していた「硬派」の肖像とは違う。にもかかわらず、「男らしさ」とは何かを問うような(常に問わざるをえないような)態度なのであろう。いずれにせよ、「男らしさ」であるようなプライドをかけ、もはやそれ以外の理由はないとすらいえる抗争に拍車がかかっていくのが、この29巻だ。登場人物たちが口々にする「伝説になろうぜ」という欲望は、その伝説が同じ価値観を共有するコミュニティの規模に比例するかぎりは、正直なところ、子供じみているし、他愛のないものでしかない。だが、そうした欲望自体は、もしかしたら普遍的なものであるのかもしれないことが、男性性のテーマとともに浮上してきているのだった。

 余談(どうでもいい話)だけれど、ここでパンダが発見したナツのパンツが後々の伏線だったとは。いや、本当はパンダの残念さ加減も『なにわ友あれ』の注目すべき箇所ではあるのだが、詳しく触れてあげない方が彼のためという気になってしまう。

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2014年06月29日
 はずんで! パパモッコ3 はずんで! パパモッコ4 (はずんで!パパモッコ)

 メルヘンだなあ。メルヘンである。現代における良質なメルヘンが山本ルンルンにはあると思う。少なくとも、この『はずんで!パパモッコ』に関してはそうだ。1、2巻に引き続き、3、4巻が同時に出た。相も変わらず、ゆったりと接せられるような人間観や光景を描いているのだったが、前巻までに確立された登場人物の「キャラクター」は、親しみを増し、作品の世界そのものをより生き生きとさせている。一話完結型のスタイルは、エピソードごとに両手ですくえる水たまりほどの感動を残していく。他方、設定とストーリーの連続性は、登場人物たちにコマで示されている以上の深さや厚み(内面やエモーション)を与える。リアリズムではなく、デフォルメを強調した可愛い絵柄でありながら、体温のよく通ったドラマを得られるのは、おそらく、このためだろう。

 タイトルにある「パパモッコ」とは、作品の所謂マスコットであって、主人公である双子の父親が(発明家である彼が発明品のトラブルによって)モッコちゃんというぬいぐるみに姿を変えられてしまったものだ。喩えるなら「ドラえもん」に近い。保護者としての「キャラクター」である。単に、心はおっさん、体はぬいぐるみ、であるはずなのだが、絵柄の異化もあってか、発明家であることの利便性と保護者であることの信頼性を印象的にしている。その父親が作った発明品の数々が、物語を転がすための装置だとしたら、双子の少女に溢れている好奇心は、それを働かせるためのキーであろう。また、装置を働かせる上で必要な動力をもたらしているのは、彼女たちを取り巻く人々や生活の存在にほかならない。こうした構図は、作品自体の奥行きでもある。

 科学が機能し、父親の突飛な発明品が受け入れられている世界ではあるものの、SF的であるというより、砕けたファンタジーのテイストに全編が覆われている。そこにメルヘンを思わせるものがある。ぬいぐるみが喋ったり、ロボットが悩んだりするのは、科学の成果としてではない。あくまでもファンタジーの柔らかさからやってきているのである。

 優れたメルヘンは、時々、幸せとは何か、を問いかける。答えを暗示のなかに持ち合わせることがある。主人公の双子、イチコとニコの家族に母親が欠けているのは、ある場合には、幸せとは何か、の答えに家族がなりえるからだろう。無論、『はずんで!パパモッコ』において注意されたいのは、母親がいないことの不幸せではない。それでも、双子と父親の家族の肖像が幸せを含んだものに見えてくる点であろう。悲しみや寂しさが描かれていないというのではない。悲しみや寂しさはある。確かにある。だが、それに囚われることを不幸せだとしたとき、それはいかにして上書きされるのか。まさしく、幸せとは何か、の答え合わせであるような人間観と光景とが、オール・カラーの明るいページに浮かび上がらされているのだ。

 ともすれば、寂しさが『はずんで!パパモッコ』の基調でもある。イチコとニコにかぎらず、あるいはヒトであるような存在にかかわらず、登場人物たちの寂しさを通じて、ほとんどのエピソードが作られている。誰かがいなくなってしまうという悲しみ。他の誰かにいて欲しいという寂しさが、学園や往来の賑やかさと並列されているのである。寂しさが嫉妬やワガママに変形していることもある。軽はずみな嫉妬やワガママが喜劇に繋がっていく場面も少なくはない。本質的にはハッピーなマンガである。ニコニコしちゃう。しかし、その幸せの重量は、寂しさをよく知った者の眼差しによって計られ、運び込まれてきている。がゆえに、無根拠な優しさよりもずっと優しい。

 個人的には、リッパーのエピソードと(マカセテくん改め)マカセテちゃんのエピソードが好きである。ストーリーの連続性が顕著なのも、実はそれらのエピソードだと思う。

 『ないしょの話〜山本ルンルン作品集〜』について→こちら
2014年06月22日
 本気!外伝クジラ 2 (プレイコミックス)

 氣志團のことを立原あゆみはちゃんと認識してるんだな、ということがわかる。白銀本気からは非公認である気志団にネーミングを由来している氣志團が立原あゆみの公認となっているのが、おもしろい。それはともかく、1巻以上に総集編としての役割を強めているのが、『本気!外伝 クジラ』の2巻である。最大のトピックは、やはり、久慈雷蔵と白銀本気の直接対面(再会)だろう。本気本人から久美子の死が語り直されるなど、ファン・サービスとしての見所は多い。が、ファン・サービスの域は出ていないので、未読の方には是非とも、本編は当然のこと、『サンダーナ』までのシリーズに目を通していただきたいですね、と思う。個人的には、もっと九(カブ)のその後の姿が見られたら嬉しかった。あるいは『仁義』シリーズのように(登場人物を世代交代させ)九を主人公にした続編を描いてくれたらいいのに、と。ところで、本刊と同時にリリースされた『本気!名シーン名言集』は、過去三回に渡って『プレイコミック』に付せられた小冊子を一つにまとめたもので、これといった追加要素がないのは残念だった。

 1巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『火薬』について→こちら
 『仁義S』
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  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『涙星〈アース〉チンピラ子守歌』1巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
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  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
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  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2014年06月18日
 A-BOUT!!~朝桐大活躍編~(5)<完> (少年マガジンコミックス)

 正直、「朝桐大活躍編」要らなかったのでは、というのが大方の感想であろう。もちろん、そんなことないぜ、「朝霧大活躍編」おもしろかったぞ、という向きがあってもよい。が、無印の『A-BOUT!!』以上に朝桐の活躍が描かれなかったことだけは確かであって、そのために勢いが削がれてしまったこともまた疑いようがない。『A-BOUT!』の魅力とは、おそらく、無礼講のロマンである。後先を考えていない(かのような)展開に、たとえ強引であろうと辻褄が合ってしまう。デタラメは排除されるものとしてではなく、作中に不可欠な力学として存在している。それを可能にしていたのは、間違いなく、主人公である朝桐のハイ・エナジー・ローIQであった。この点さえ外さなければ、いくら脇道に逸れたところでギャグを盛り込もうが、登場人物の持ち味をぶち壊す寸前まで滅茶苦茶をしようが、収拾はついたはずだったのだ。しかし、2年に進級した朝桐をどう動かしていくのか。方向性に揺らぎが生じてしまったように思う。

 主人公を留年させることで再び1年生を中心にした下克上と内ゲバのミックスをやるのかと思いきや、それはフェイクに終わった。さらに新規の登場人物を火種にすることで他校との勢力分布図を拡大させるのかと思いきや、それもフェイクに終わった。で、まあ、要するに何をやりたかったのか、という疑問が出てきてしまった。その後、なるほど、これがやりたかったのか、と説得されるほどのストーリーを用意すべきであった。けれど、そうはならなかったのである。当の朝桐が(あえて、バカのくせに、といってしまおう)自分が何をしたらいいのかよくわかっていない状況に置かれることが目立ちはじめてもいた。それは作者の迷いでもあったのではないか。いずれにせよ、年功序列のパワー・バランスを引っかき回すことに着目した『A-BOUT!!』の内容(全19巻)を経、第2部にあたる「朝桐大活躍編」に入ってよりこちら、ハイ・エナジー・ローIQによる無礼講のロマンは薄まっていたのは確かだ。(00年代のヤンキー・マンガに顕著であった)テーマ主義への反動であるかのような脳天気さ、あるいはテーマ主義を突破しようとするかのようなフル・スウィングこそが最大のアドヴァンテージだと信じていた人間からすると、やはり失速したとの印象が強い。

 この「朝桐大活躍編」の5巻には、『週刊少年マガジン』での最終回のほか、『マガジンスペシャル』に掲載されたエピソードが入っている。たぶん、そちらが真のエンディングであろう。そこでの朝桐の次の言葉は印象的である。〈何かを手に入れたくて…… 三嶺に来たけどよ‥‥ まだ見つかんなくてよ‥‥ それが‥‥ 何なのかさえわかっちゃいねえ‥ でも‥‥ 今がサイコーだってことは‥‥ わかってんだ いつもよ…… !!〉と。結局のところ、その通りの作品であった。『A-BOUT!!』は。ただし、朝桐に「何か」を意識させず、ライヴ感たっぷりの「今」を前面に描いていたことが、先述の繰り返しになるけれど、作品に何よりのアピールを備えさせていたのだ。

 それにしても余談だが、吉岡と東郷の存在が自分のなかでしばしばごっちゃになるときがあったのは、ここだけの話にしておきたい。

 『A-BOUT!!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2014年06月11日
 SHONANセブン 01 (少年チャンピオン・コミックス)

 以前、『くろアゲハ』の項で述べたように『SHONANセブン』は『湘南純愛組!』の続編である。が、『湘南純愛組!』の続編としては主人公(の一人)である鬼塚英吉のその後を直接描いた『GTO』が既に存在している。これに対し、鬼塚たちよりも数世代下の不良少年を主人公に置くのが『SHONANセブン』であって、つまりは舞台や設定は『湘南純愛組!』と同じなのだけれども、時代とキャスティングが違う、という意味での続編になっている。

 ずばり、舞台は鬼塚たちが在籍したあの湘南辻堂高校だ。中学から上がったばかりの新入生たちがそこで「SHONANセブン」と呼ばれるトーナメント式のタイマン戦で最強を目指していくというストーリーがあり、新入生のなかでも一際目立っているのが主人公の黒髪一輝である。オリジナルの藤沢とおるは原作にとどまっていて、実際の作画は高橋伸輔が手がけている。高橋は、どちらかというと馬場康誌や本田真吾の系譜に連なるマンガ家なのだが、アクションと美少女を魅力的に描く、という点に関しては適任であるように思う。正直なところ、現時点では湘南辻堂高校が舞台になっていること以外に『湘南純愛組!』とのリンクをさほど感じさせない。ただし、謎めいた美少女が降って湧いたようなトラブルを主人公にもたらす(主人公の鉄腕ぶりがそれを解決していく)型のフォーマットは『湘南純愛組!』や『GTO』で確立されたものであろう。ユーモラスな日常とシリアスな抗争のコントラストは、絵柄の違いはともかく、確かに『湘南純愛組!』を彷彿とさせる。

 しかし、『湘南純愛組!』において「湘南」とは「ナンパ」をイメージさせる記号でもあったはずだ。が、『SHONANセブン』では、作中で「SHONANセブン」誕生の設定として語られている通り、不良少年と「暴力」のイメージを前に出すための象徴となっている。これが時代の違いによるものか。前作の終盤を踏まえたものか。単に藤沢の認識が変わったのか。今はまだ不明である。とはいえ、暴走族やケンカ上等の価値観が古くさくなりつつあったのが『湘南純愛組!』であったとすれば、その価値観の揺り戻しが『SHONANセブン』には起きている。このことは、むしろテーマのレベルでヤンキー・マンガ史を見ていくとき、注目せざるをえないポイントになるのかもしれない。
2014年05月24日
 くろアゲハ(1) (月刊マガジンコミックス)

 00年代の後半からヤンキー・マンガのジャンルでは自伝をベースにした作品が数を増やしている。『ドロップ』シリーズが代表だが、芸能人が原作のものも少なくはなく、『ハダカの美奈子』のコミカライズ等もそこに入れられるだろう。他方、2010年代も半ばに差しかかり、別の傾向の作品が目立ちはじめているように思う。それはつまり、往年のヒット作の続編である。

 もちろん、『クローズ』の続編にあたる『WORST』等を挙げられる通り、続編もの自体は以前からあった。が、しかし、2014年のここにきて、『カメレオン』の続編である『くろアゲハ』や『[R16]』の続編である『[R16]R』、そして『湘南純愛組!』の続編である『SHONANセブン』等が、次々に登場している。それらの作品に共通するのは、当時の登場人物のその後の姿を直接描くのではなく、オリジナル版より数世代下の若者を登場人物にしている点だ。周知のように『湘南純愛組!』の続編としては既に『GTO』がある。『GTO』は『湘南純愛組!』の主人公、鬼塚英吉のその後の姿を直接描いている。これに対し、『SHONANセブン』は、鬼塚たちの数世代下の若者を登場人物にしている、という意味での続編になるのであった。要するに、オリジナル版と舞台や設定は一緒なのだけれど、時代とキャスティングが違う。『BADBOYS グレアー』や『WORST』のアプローチに近い。

 加瀬あつしの『くろアゲハ』は、たとえば『SHONANセブン』や『[16]R』(あるいは『特攻の拓』の続編として『爆音伝説カブラギ』を加えていいかもしれない)が、オリジナル版とは異なった制作陣で描かれているのと違い、『カメレオン』と同じく加瀬本人が手がけている。近年の『ゼロセン』や『ばくだん!〜幕末男子〜』では、あくまでもコメディではあるものの、テーマのレベルで見るならば、今日において硬派とヤンキーとに分類されるような日本男児のイメージ、またはそのルーツを戦時下や幕末にまで遡り、発掘してきた加瀬である。それが『くろアゲハ』では、自らのマンガ家としての初心に立ち返ったといったところだろうか。

 前作である『カメレオン』のエンディングより7年、相沢直樹は県警の交通機動隊員になっていた。その相沢が、ひょんな成り行きから市内最大の暴走族「罵多悪怒愚(バタードッグ)」のアタマ、山本信愛の妹である都姫(みやび)に、かつて自分たちが作った伝説のチーム「OZ」の二代目を受け渡したことによって、物語と騒動の幕は開ける。主人公の星野英太は都姫の同級生である。高校に通いながら、母親が残したスナックを元レディースの姉とともに切り盛りしている。当人は嫌々なのだけれど、姉に女装を無理強いさせられ、エイラと名乗り、夜の蝶を演じるのだった。が、まさか女装しているときに都姫と出会い、強い信頼と尊敬を得てしまったせいで、正体を隠しつつ、「OZ」の活動に協力しなければならなくなるのだ。

 英太は、いかにも加瀬あつしの主人公らしい巻き込まれ型のお調子者である。が、『カメレオン』の矢沢栄作と、少々タイプが違う。ある種の二面性を生きていることは似ているけれど、矢沢ほどのゲスではさすがにないし、口からの出任せもほとんど無自覚なのではないか。しかし、素性の偽り、口からの出任せ、ハッタリを繰り返すうち、暴走族の世界で身の丈に合わないヴァリューを持っていくのだと予感させる。

 基本は確かにコメディだ。正体を隠した少年と高値の花であるようなヒロインを軸にした展開は、昔の少女マンガや少年マンガにありそうなラブコメを思わせるものがある。そうした文法が、今の読み手にとって、古いかどうかはともかく、作品の内容にはちゃんとマッチしている。『くろアゲハ』にあって『カメレオン』にはないもの、それはたぶん「継承」というモチーフである。加瀬のキャリアになぞらえるなら、『ゼロセン』や『ばくだん!』を経、確立されてきたテーマでもある。もちろん、多くの場合、続編ものは「継承」の物語にならざるをえない。したがって、二つの必然が「継承」のモチーフを『くろアゲハ』にもたらしていともいえる。そもそも、主人公の英太は母親の店を「継承」している。都姫は「OZ」を「継承」させられる。接点がないはずの二人が結びつくのはなぜか。英太は店の手伝いをしていたためであり、都姫は二代目「OZ」のプライドを守ろうとしていたためであって、彼らのプロフィールにはあらかじめ「継承」という条件が織り込まれているのである。

 正直なところ、続編ものはジャンルであったり作者であったりのネタ切れと判断されかねない。まあ、その可能性はなきにしもあらずであろう。ただ、90年代にはヤンキー・マンガのニュー・ウェーヴでありえた『カメレオン』がもはや古典となった現在、前作と一緒の舞台、異なったキャスティングと「継承」のテーマを通じ、加瀬あつしが1巻の段階で大変愉快なエンターテイメントを送り出してきていることに変わりはない。

・その他加瀬あつしに関する文章
 『ばくだん!〜幕末男子〜』6巻について→こちら
 『ゼロセン』1巻について→こちら
2014年05月20日
 BORDER (2) (カドカワコミックス・エース)

 原案は金城一紀である。金城とは別の作家によるノベライズは未読だが、テレビ・ドラマ版は(今のところ)二話目がおもしろかったかな、と思う。連続殺人が起こる。サイコパスがいて、事件にタイム・リミットがあり、主人公の特殊能力とチームワークとが犯人を追い詰めていく。奇をてらっているようでありながら、サイコ・サスペンスならではのスリルをきちっと収めたエピソードになっていた。さて、このコミカライズに関しては、テレビ・ドラマ版と設定を同じくしている以上に、小手川ゆあの特徴がよく出ている内容でもある。加害者の側に立ってしまったなら、誰も被害者にはなれない(しかし、被害者であるかぎりは誰もが加害者にはなれる)そのことを逆説上の不運として描いた『君のナイフ』のあと、「罪」と「罰」の相関であるよりは「善」と「悪」の対照に焦点を絞り、物語を作ろうとするのであれば、なるほど、こうなる、という印象だ。小手川のキャリアを考えたとき、正直な話、前巻(1巻)にははっとさせられる点は少なかった。だが、2巻に入って、とりわけ後半のエピソードである「懊悩」に引きつけられるものが多い。

 たとえば「懊悩」において興味深いのは、死者と話せるという主人公、石川安吾のアドヴァンテージが通用しない状況が現れ、さらに彼は事件の核心へ迫ったにもかかわらず、ほとんど傍観者のように、その結末を見届けなければならなくなっている。ここで注意されたいのは、おそらくサイコパスと見なせるであろう人間が、なぜ「法」を逸脱した凶行に向かったのかではなく、同じく「法」を逸脱した別の人間によって、容赦なく裁かれてしまうことである。換言するなら、因果関係のレイヤーを形而上のレベルに求めるのではなくて、すべての成り行きが形而下で起こったものとして描かれているのだ。筋書きのみを取り出すならば、変態野郎に娘を殺された父親が変態野郎と仲間たちをぶっ殺して警察に捕まりました、と。これを越えるものではないだろう。しかしながら、それだけの筋書きであるはずなのに、どうしてか心境を複雑にさせられる。

 石川の〈白か 黒か 決めるのは脳〉〈それが死者だとしても〉〈脳に銃弾を受けてオレの世界が変わった〉〈世界は 黒か… 白か… あるいは…〉というモノローグは、「懊悩」を見る上で非常に示唆的であろう。小手川のファンは、そこに『おっとり捜査』の終盤(9巻)で、とある人物が主人公の秋葉に向かい(あるいは読み手に向けて)殺人鬼の腕を移植された人間の苦悩を描いたとされる映画の引用だと言い、次のように発する問いの残響を聞き取るかもしれない。「邪悪はどこに潜むのか」「脳か あるいは心臓か」「それとも… この右腕に?」こうした問いはもちろん、高橋ツトムの『地雷震』のクライマックスに通じるものであり、臓器移植法が施行された当時(90年代の終わりから2000年代のはじまりにかけ)盛んであった「命」は「脳」に宿るのか「心臓」に宿るのか式の議論を汲んでいるに違いない。石川の問いと『おっとり捜査』に見られた問いは一部でリンクしている。他方、決定的に異なっているのは「意識」や「思念」は必ずや「脳」に由来していると物語のレベルで『BORDER』が設定していることだ。

 実存の世界で「脳」の失われた死者が石川の前に出てくることはない。石川はそれを荼毘にふすと呼ぶ。このような設定を原案の金城が用意したのかどうかは知らない。が、先に挙げた『おっとり捜査』の問いと比較してみることで、明らかに浮かび上がってくるものがあるし、そしてそのことが、すべての成り行きは形而下の課題であるというリミッターを「懊悩」のエピソードにかけるものとなっている。少なくとも現時点において(と留保しておくけれど)『BORDER』とは「邪悪はどこに潜むのか」を問うマンガではない。〈白か 黒か 決めるのは脳〉であるとすれば、「悪」もやはり「脳」に宿り、そこに潜むしかないのだ。1巻にまで遡るなら、事件の容疑者たちは皆、心理学の解釈めいたエクスキューズ(トラウマへの責任転嫁)さえ与えられず、即物的に処断されてきた。要するに、彼らの内面がいかなる闇を背負っていようが、どう病んでいようが、その「罪」を軽減するための理由とはなっていないのである。犯罪者の動機は深く掘り下げられない。彼らはただ、自らがしでかしたことの結果を通じ、人格を判断される。それはしかし、石川についても同様だといえる。

 繰り返しになるけれど、石川は〈白か 黒か 決めるのは脳〉だと述べる。〈それまでのオレの世界には黒か白かしか無かった〉〈だが自分次第で世界は色を変える〉のだと。これは単に主観の在り方が変化する可能性のみを指しているのではないと思う。いや、主観の変化は当然含まれるとしても、個々のエピソードや2巻までの物語がどのように成り立っているのかにそって考えるのであれば、登場人物たちが「なぜ」そうしたのかであるよりは、一体「何を」したのかの部分に作品の軸足が置かれているとわかる。次のようにもいえるだろう。つまり『BORDER』は、その内面にフォーカスを絞ることで登場人物の資質を浮き彫りにするのではなく、行動と選択とを具体的に描くことで登場人物の資質を浮き彫りにしているのである。

 以上のことを踏まえるとき、「懊悩」というエピソードが心境を複雑にさせるのはどうしてなのか、少しばかり近づけるような気がしてくる。「懊悩」は、サイコパスに娘を殺された父親の復讐を描く。しかし、サイコパスのルーツが徹底解剖されもしなければ、目的を遂行するために手段を選ばない父親の悲哀を前に出しているわけでもない。また、主人公である石川は最終的に事件を解決しなければならない立場を手放しており、必ずしも勧善懲悪のロジックを優先すべく、両者の内面が切り捨てられているのではないことは明白だ。ドラマとしての厚みははっきりとある。迷いや苦悩を掘り下げるかわり、彼らの行動と選択に確固たる輪郭を与えている。これによって、不幸をエクスキューズにしてしまうタイプの安っぽい結末への着地を未然に防いでいるのだった。

 なかでも注意されたいのは、やはり主人公である石川の行動と選択にほかならない。先ほど、石川は事件を解決しなければならない立場を手放してしまうといった。だが、物語において単に刑事の職務を投げ出したとは判断されないだろう。なにゆえ石川がそのような選択をしたのか。そのような行動をとったのか。それはむしろ、読み手の側に引き渡しされた謎であり、テーマであるに違いない。クライマックス、石川の視線の動きはあまりにも多くの情報を含んでいる。正しく眼で語っているのである。と同時に、台詞で説明されないために生じうる曖昧さは、彼の行動と選択を通して、決して実体のないものではなくなる。容易くは看過できない膨らみの問いを読み手に寄越すこととなる。それはもしかしたら「善」と「悪」の対照をめぐる問いであって、石川の〈世界は 黒か… 白か… あるいは…〉という〈あるいは…〉のあとに続いていくのだろう問いでもある。もう一つ、娘を殺された父親、鷺沼はたぶん、これ、作中に絶対の証拠はないのだけれど、石川が刑事だと気づいているよね。さもないと、辻褄が合わない(簡単に騙されたなら、鷺沼のプロフィールと凄みが嘘くさくなる)し、翻って鷺沼が石川を同行させた意図にも勘繰りたいものが出てくる。いずれにせよ、石川は鷺沼に復讐の瞬間を見せられ、それをジャッジする役割を突きつけられたと考えるのが妥当であろう。

 それが登場人物であれ、読み手であれ、なんらかの回答を求められるのでもなく、問いを預けられる。小手川ゆあのマンガの特徴である。主人公が問いを抱えたまま死ぬ、という作品ですら、小手川には少なくない。しかし、絶えず問い続けることでしか辿り着けないエモーションがある。思考停止を免れ、新しく提起される問いがある。問いとともに歩みを進めていくかのような登場人物の姿に胸を揺さぶられる。原案は金城一紀だが、このことは『BORDER』にも共通している。

・その他小手川ゆあの作品に関する文章
 『君のナイフ』1、2巻について→こちら
 『ショートソング』(原作・枡野浩一)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『死刑囚042』第5巻について→こちら
2014年04月21日
 真マジンガーZERO vs暗黒大将軍 4 (チャンピオンREDコミックス)

 ああ、0(ゼロ)とは正しく円環を意味していた。ついに終焉の魔神は〈我は最終にして原初 唯一無二のスーパーロボット マジンガーZERO〉なのだと宣言する。兜甲児は命を張った。剣鉄也は命を懸けた。選択肢が破滅ルートのみの世界を救うべく。そして、物語は再びゼロの地点にリセットされるのだった。結論からいえば、全9巻に渡る『真マジンガーZERO』のヴォリュームは『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』のプロローグにすぎなかった。しかるに、この4巻までに描かれてきた『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』の物語もまた、本当の決着を用意するためのプロローグでしかないことが明かされるのである。

 平行世界、リプレイ、時間ループものとして永井豪の『マジンガーZ』をアレンジしているのが、田畑由秋(脚本)と余湖裕輝(作画)の『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』(と前作の『真マジンガーZERO』)である。かのアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に喩えるなら(まあ、喩える必要はないのかもしれないけれど)ミネルバXがほむらで、兜甲児がまどか、剣鉄也は他の魔法少女の誰かといったところか。あるいは、兜甲児がまどかで、マジンガーZがきゅうべえ、暗黒大将軍がワルプルギスの夜あたりであろうか。いずれにせよ、無限に近い繰り返しを運命と呼び、それが悲劇であるようなとき、いかに絶望はキャンセル可能かという問いを、巨大なスケールのエンターテイメントのなかに導き出しているのだ。

 無論、Dr.ヘルとゴードンヘルは強敵であった。暗黒大将軍と七つの軍団はそれをも上回る強敵だった。絶望、絶望、絶望。『真マジンガーZERO』の主要人物たちがいとも容易く殺されていき、地球は無残に破壊し尽くされる。しかし、最もおそろしいのは魔神と化したマジンガーZであって、善も悪も関係なく、すべてが終焉に行き着くそのシナリオは、何度ループを経ようと結末だけを決して違えない。マジンガーZの暴走は止められないという『真マジンガーZERO』の展開によって覆されたはずの悲劇が、『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』のここに至って、再び繰り返されてしまう。ミネルバXは、とうとう諦めの言葉を述べるだろう。〈ゴードンヘルを倒し 人類が掴んだ幸せ これほど奇跡的な世界ですら魔神化が発動するというなら 何度世界を繰り返そうと運命に抗うことなんてできない〉と。

 だが、希望への突破口は必ずやある。これが主人公である兜甲児に課せられたテーマにほかならない。そうだ。〈信じろ!!!! この世界の円環を突破し 仲間たちを滅亡から救う希望がある!!!!〉と意気をあげた兜甲児は、剣鉄也とグレートマジンガーに協力を仰ぎ、もう一度世界を繰り返し、やり直してみようと試みるのだった。が、最高に燃えるのは剣鉄也である。兜甲児の試みにおいて、剣鉄也の役割はほとんど捨て駒なのだ。それなのに自分の命を投げ出すことに躊躇いはない。なぜなら〈出撃の時 命はとうに懸けてきた!〉からであって〈グレートと俺は受けた仕事はきっちりやり切る!どんなにボロボロになろうが!死ぬ寸前だろうが!最後は必ず勝利を掴む!〉と信じて止まない。

 それこそ「世界を救うために自分の命を犠牲にできるか」式に一般化された問いは偶に見かけるものであろう。そこで悩むのは、アマチュアであり、そもそも世界を救うだけの資格があるかどうか、あやうい。少なくともプロの勇者は、悩まない。世界を救うという断定のみを生きる。見よ。兜甲児をもって〈彼の戦士としての矜持は本物だ〉と言わしめる剣鉄也の奮闘は、今まさに終わろうとする世界のなかで世界を救うための活路を確実に切り開いた。
2014年04月20日
 熱風・虹丸組 1 (ヤングキングコミックス)

 周知のとおり、桑原真也をヤンキー・マンガのシーンに属させたのは、佐木飛朗斗と組んだ『[R-16]』だったわけだが、その続編として先般連載のはじまった『[R-16]R』に桑原は参加していない。いかなる理由があるのかは知れないが、まあ、桑原の場合、佐木のポエジーとは異なった路線を『疾風・虹丸組』によって確立してみせたのだから、そのままの調子で突き進んでいくことの方が、こちら読み手にとっても必然のように思われる。

 さておき、こうして1巻が出てばかりの『熱風・虹丸組』は『疾風・虹丸組』の続編である。続編とはいっても、物語は『疾風・虹丸組』の10巻からシームレスに繋がっているので、タイトル(前置詞?)の微妙なリニューアルと巻数のリセットは、パッケージ上の単なる仕切り直し程度にとらえておけばいい。要するに、架空の街であるナラシナ市を舞台に不良少年たちが、関東最強の証として七代に渡って受け継がれてきた「無限のジャケット」をめぐり、熾烈な抗争劇を繰り広げていく点に大きな違いはないのだ。

 しかしながら『熱風・虹丸組』においては、『疾風・虹丸組』の後半にかけ、とりわけわかりやすく出ていた特徴が、より顕著となっていることは指摘すべきであろう。その特徴こそが、つまりは桑原が確立したといえる路線であって、一対一(タイマン)によるバトルとアクションの様式にほかならない。一対一によるバトルとアクションの様式は、ともすれば、古典的なスタイルへの回帰でしかないのだった。が、そのリアリズムを度外視したパフォーマンスは、近年のヤンキー・マンガに強調されている「不良少年にだって内面があるんだよ」式の悪しきテーマ主義と因果話の退屈さを、明らかに打ち砕いていよう。

 確かに『疾風・虹丸組』の序盤には、主人公である虹川潤と幼馴染みである羽黒翔丸の対照(光と影の緊張状態)をベースにした暗さがあった。「虹丸組」というネーミングが二人の名前に由来していることを踏まえるならば、そこに作品の根幹を見出すことも可能であった。だが、次々と新しいライヴァルが登場し、彼らとの対決を経るごとに、あるいはヒロインである十文字魔子との(もしかしたら80年代的な)ラブコメ・パートや「虹丸組」の面々を巻き込んだギャグ・パートをシリアスなストーリーのあいだに挟んでいくことで、ポジティヴ馬鹿に等しい主人公の明るさが強調され、それが全編を覆う熱気のようになっていったのである。

 チームを越えて結集したナラシナ市の精鋭、虹川潤、羽黒翔丸、狗神塔馬、四騎森槐、卯月倫人の五人と、「無限のジャケット」を狙ってナラシナ市に侵攻してきた関東最大のチーム、ノスフェラトゥの総長、荒吐篤郎をはじめとする五人とが、お互いに雌雄を決すべく、団体戦形式の対人戦争(タイマンウォーズ)を果たしていくというのが、1巻で提示されている『熱風・虹丸組』の概要であって、もちろん、これはヤンキー・マンガに限らず、格闘をモデルにしたフィクションの古典的なスタイルであり、パターンだろう。

 対人戦争の背景では、他のチームの暗躍が描かれていたりもするが、基本としてカタルシスは一対一によるバトルとアクションの様式に起因している。絵のレベルで、これだけのバトルとアクションを示しているマンガは、現在、そうは存在しない。それはたとえば、橋ヒロシの『WORST』や市川マサの『A-BOUT!! 〜朝桐大活躍編〜』がクライマックスでコケてしまったのはなぜか、を考えさせるものだと思う。どうして不良少年は争わずにいられないのか。この回答が拳と拳のダイアローグとしてバトルとアクションのなかにきちんと埋め込まれているのだった。

 登場人物たちの大見得を前にしたら、タイマンなのにウォーズとはいかに、という疑問は小さなことにすぎない。

 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2014年04月06日
 バウンスアウト(2) (ヤングマガジンコミックス)

 近年、フィクションにおけるアウトローものは、たとえば「関東連合」や「半グレ」というモデルを新しく獲得することで、ジャンルそのものを延命させたといえる。しかし、それは単に今ふうのゴシップあるいはスキャンダル的なリアリティを導入したにすぎず、結局のところ、どんなに偉い連中も殴り殺して逃げちゃえばこわくないじゃん式の展開を描くことしかできていないし、エンターテイメントとして新しいフェイズに入ったとは見なしがたい。80年代から90年代にかけ、知的な経済ヤクザを台頭させることで、マネー・ウォーズやコン・ゲームのスリルを盛り込んでいた作品に比べるなら、むしろ、どんなに偉い連中も殴り殺して逃げちゃえばこわくないじゃん式の展開は非常に幼稚で、退行ですらあるだろう。もちろん、それが現実の社会を素直に追従した結果だとしたら、現実の社会そのものが既に退行しているのだと述べるよりほかないのであって、西条隆男(原作)と東元俊也(漫画)のコンビによる『バウンスアウト』も、そうしたフィクションの一例に挙げられるマンガだ。

 一年半ぶりに少年院を出た主人公の大和壮兵は、幼馴染みで現在はアダルト・ヴィデオの会社を立ち上げている木嶋からバウンサーの仕事を紹介される。バウンサーとは、クラブ等(この場合のクラブは、DJが音楽をかけるクラブであっても水商売のクラブであっても構わない)のセキュリティを指すのだけれど、その会社を運営しているのがヤクザであることを知り、大和は最初断ろうと思うのだった。が、偶々、覆面を被った物騒な集団が六本木のクラブを襲撃する現場に居合わせたために事態は一転してしまう。この襲撃事件をきっかけとし、大和は超野興行の会長、超野と出会い、彼が運営するバウンサー会社、バックドロップの一員に加わることとなるのだ。他方、襲撃犯である暴走連合の黒澤は、相対した大和に覆面を暴かれ、正体を知られてしまったせいで立場を悪くし、どうしても大和を追い詰めなければならなくなっていた。まず黒澤が狙ったのは木嶋である。罠にハメられた木嶋は逃れられず、黒澤が率いる暴走連合によって重傷を負わされる。というのが1巻のあらましであって、この2巻では、木嶋の仇を討つべく、大和の奔走がはじまっていく。

 作中の「暴走連合」のモデルが「関東連合」なのは明らかだが、それはともかく。アウトローものの大半がそうであるように、意趣返し、復讐、報復のテーマを、やはり『バウンスアウト』も負っていることが、物語を見ているとよくわかる。木嶋のリヴェンジが大和を動かしているのはもちろん、なぜ大和は少年院に入っていたのか。高校時代、恋人が暴走族に殺され、その報復を果たしたためであった。敵方の黒澤にしても、だ。襲撃の原因は、仲間を殺されたことのリヴェンジだったということになっている。復讐は止められるか。憎しみは止められるか。暴力の連鎖は止められるか。暴対法(暴力団対策法)の施行以降、意趣返しが必然的にテロリズムとして扱われざるをえない可能性のなか、ヤクザをモデルにしたフィクションによって探られてきた倫理がそれだとしよう。しかしながら「半グレ」を含め、ヤクザとは違い、暴対法の適用を免れているアウトローをモデルとした作品においては、少々様子が異なっているように思う。憎しみは止められない。復讐は必ずや果たされなければならない。スカウトマンを題材にした和久井健の『新宿スワン』でさえ、こうしたロジックを免れていなかったのは周知の通りである。

 憎しみは止められない。復讐は必ずや果たされなければならない。これが、どんなに偉い連中も殴り殺して逃げちゃえばこわくないじゃん式の展開と合わさるとき、比喩の上であろうとなかろうと、いかにしてテロリズムは肯定されるかの正当化と大した差異はなくなるであろう。『新宿スワン』の真虎は、どれだけ主人公のタツヒコがアンチテーゼとして機能し、がんばろうが、意趣返しとテロリズムのテーマを達成してしまった。本来、タツヒコが真虎を阻止できなかった時点で、物語は破綻したと見られるべきだけれど、それを破綻だとはしないことの切実さが現代にはあるのかもしれない。とはいえ、やはり、意趣返しとテロリズムは不幸の結果であると同時に原因でしかないし、否定の方が強くあって欲しいものなのだ。

 本題に戻るなら、『バウンスアウト』は、先にいったように(現段階では、と留保しておくが)今ふうのゴシップあるいはスキャンダル的なリアリティを導入したアウトローもの程度の作品である。どこまで取材が正確なのかは不明だけれど、現実の社会に影響を及ぼされているに違いない若者の気分や風俗、情報のパッチワークが、このマンガの説得性を支えているのだと思う。裏を返すと、それ以上の特徴は出てきていない。フィクションであるがゆえに乗り越えなければならないものをまだ見つけていない印象であって、そこが非常に残念な点でもある。

・その他東元俊也に関する文章
 『破道の門』
  10巻について→こちら
  1巻について→こちら
2014年03月28日
 Bread&Butter 1 (マーガレットコミックス)

 芦原妃名子は、実にメロドラマ的であった『砂時計』にせよ、サイコ・サスペンスへ近寄った『Piece』にせよ、家族や他の人間との関係(あるいは原初であるような体験)によって知らずのうちに痛手を負っていた者の欠落が一つのテーマとなっていたといえるし、それはこの、はじめての集英社での連載となる『Bread & Butter』についても共通している点かと思われれる。

 12年間の教師生活にピリオドを打ったヒロインの柚季は、まだ34歳の独身である。しかし、次の目標もなく、思い立って結婚を望むのだったが、相談所で紹介された男性とはことごとくウマが合わない。自分が悪いのか。落ち込んでいたとき、パン屋を兼ねた文房具店を訪れた柚季は、そこの主人、原洋一の態度に救われたような気分になり、勢いにつられて、まさかプロポーズの言葉を口走ってしまうのであった。

 39歳の男性に年下の女性の方から求婚するというコミカルな展開を『Bread & Butter』の1巻は、まず最初に描いている。アラサー、アラフォー、転職、婚活等の現代的なトピックをフックにしながら物語を立ち上げているわけだけれど、本題はむしろその先にあるものを探るかのような手つきのなかにこそ現れている。柚季の要求=プロポースは、洋一がほとんど無条件でそれを受け入れたことから、難なく叶ってしまうのである。

 さしあたり読み手は、柚季が何者なのかをあまりよくは知らない。洋一が何者なのかも知らされてはいない。作中の柚季と洋一に関しても、お互いが何者なのかを知っているとは言い難い。この段階で動かせることができるのは、運命と呼ばれる以前の偶然、偶発性であり、出会いのみであろう。そして、その偶発性を通じ、柚季が何者なのか、洋一が何者なのかが徐々に明かされていく。柚季と洋一とがお互いにお互いは何者なのかを知っていくことになるのだ。

 ところで『Piece』では、こうと信じていたはずの人物が別の何者かであるのかもしれない可能性によってミステリが作り出されていた。それは今まで積み上げてきた自分の経験に疑いを持たせ、自身の現在をも見つめ直させるものであった。『Bread & Butter』でも、同じく登場人物たちの過去と現在とを参照しながら(参照しなければならない必然を物語に含ませながら)、しかし「今まで」積み上げてきたというより「これから」築き上げていくに違いないプロフィールや他の人間との関係に大きく軸足が置かれている。

 印象的なのは、幼少時の体験が小さなトゲのようにもたらした傷を洋一との関係によって治された柚季が〈記憶が上書きされていく / 優しい方向に〉と感じ入る箇所である。この場面は、洋一が何者なのかは定かではないとしても、なぜ柚季が洋一を選んだのかの理由を暗示しているといえよう。つまりはラヴ・ロマンスとして見られるパートのキーでもある。

 どうして洋一がパンを焼くようになったのか。どうして文房具店に高級な設備が整っているのか。はたまた、どうして柚季は小学校の教師を辞めたのか。どうして〈何を間違えたんだろう?〉と一人悩まなければならなかったのか。換言するなら、登場人物たちが何者なのか。何者であったのか。これは作品の語り口(コマ割り)をスリリングにしているある種のミステリにほかならない。だが、自分に居場所を与えてくれる人間が必ずやどこかにいる、そばにいてくれる、という慎ましいドラマが『Bread & Butter』の、物語の温度を規定しているのだと思う。

・その他芦原妃名子に関する文章
 『Piece』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
2014年03月03日
 どうせ夢オチなんだろ? 1 (オフィスユーコミックス)

 なかはら・ももたと久保ミツロウのあいだに今も交流があるのかどうかは知らないのだけれど、『どうせ夢オチなんだろ?』には久保の『アゲイン!!』にいくらか寄せていった印象がある。そこにいくえみ綾の『トーチソング・エコロジー』が少し入ってきているか。無論、実際のインスピレーションがどこからやってきているのかはわからない。が、要するに(不甲斐ない男性のイメージをベースにしながら)他でありえたかもしれない可能性と他ではありえなかった自分とをめぐる現代的なファンタジーになっているのである。近親相姦をモチーフとしたエロティックなパートがあるにはあるものの、なかはらの過去作でいうなら、『世界はひとつだけの花』とも毛色が違っている。

 37歳、配送業のアルバイトで生活をしのいでいる主人公、都賀大(ツガヒロシ)は、酔っぱらって駅の階段から落ち、死んだ、と思った。だが、それは夢だったのか。目覚めるといつも通り、しがない日々が待っていた。唯一の楽しみはアルコールだけである。それが行きつけの飲み屋で隣になった若い女性に声をかけられ、一晩をともにしようとしたことから、不可思議なねじれに入り込んでしまう。なんと、彼女は都賀の娘だという。確かに都賀には数年前に別れた妻子がいた。しかし、娘のココロはまだ7歳なのだ。目の前の人物とは年齢が合致しない。そんなわけがない。にもかかわらず、いつしかその言い分を信じはじめた都賀は、彼女と一緒の暮らしを望むのだった。そう、この幸福は〈どうせ 夢なんだろ?〉

 今日的な認識において、我々はみな、メタ・レベルの住人である。とするのであれば、本当は誰もメタ・レベルには立てない(立っていない)のではないか。ココロと暮らすようになって以降、都賀は幾度となく自分が駅の階段から落ちて死んだシーンのフラッシュバックを見る羽目になる。かの映画『ジェイコブス・ラダー』の例を出すまでもなく、幻視と現実の境界が曖昧になっているのであって、それは同時に生と死のどちらに自分の主体が置かれているのかも不明瞭になっていることのサインであろう。事実、都賀は自分が死んでしまったがため、娘との奇妙な再会を果たせたのではないかと思う。すべては死の間際にもたらされた夢なのではないか。こうした懐疑が『どうせ夢オチなんだろ?』という題名には内包されているに違いない。そして、それは種々のフィクション等を通じ、様々な位相のリアリティを学んできた我々(今日的な認識)にとっては、ごく自然な解釈の一つでもある。

 作者が本気でSFをやろうとしているか否かはともかく、所謂パラレル・ワールドの発想が『どうせ夢オチなんだろ?』の物語あるいは展開の動力となっているのは明らかだ。都賀は作中の出来事を自分の見ている夢だと思っている。目が覚めたら、きっと自分は死んでいるのだろう。しかし、夢だとするのであれば、本当にこれは都賀によって見られた夢なのか。作中の別の人物が見ている夢のなかに主人公であるはずの都賀が含まれているにすぎないのではないか。あたかも複数のメタ・レベルが入れ子になっているかのような構造(構造というのが大げさであったら、コマ割りと場面転換)が、1巻のクライマックスにサスペンスを作り出していて、ことのほかヒキは強い。

・その他なかはら・ももたに関する文章
 『マンガ家よゐよゐ』について→こちら
 『おかわり のんdeぽ庵』(原作・イタバシマサヒロ)
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2014年02月05日
 蒼太の包丁(41)完結 (マンサンコミックス)

 コミックスの奥付に、この41巻は「平成24年11月6日号より平成25年3月5日号までの漫画サンデーに連載されたもの」とあるので、それから少々間が空いたことになるけれど、無事に最終巻の出た『蒼太の包丁』である。おそらくは掲載誌の休刊に合わせた完結だったのだろうが、きちんとまとまり、ほとんど過不足のないエンディングが描かれているように感じられるし、その見事さは、マンガの内容と相まって、作者(この場合は末田雄一郎と本庄敬)の誠実であるような姿勢と結びついた成果なのかもしれないね、と思わされる。いずれにせよ、満足と同義に見られる大団円が描かれているのだった。

 再三述べてきた通り、『蒼太の包丁』は、日々の営みを時間軸のタテ糸として強調し、これに変化を盛り込むことで、(エピソード単位でストーリーを量産していく料理マンガによくある)人間模様のスナップである以上のドラマを具体化していた。完結にあたり、主人公である蒼太の成長を見守ってきた読み手が最も関心を寄せるのは、やはり、彼の姿が以前とはどう違っているのか、だろう。老舗で働く料理人として店の看板をいかに引き受けるか。そして、そこから自分が独立するためには何が必要か。中盤以降、蒼太が対峙しなければならなかったのは一種の背反だったわけだが、クライマックスに至って、充分に納得のいく答えが出されている。また、二人のヒロイン、さつきと雅美のどちらを蒼太が選ぶのか。まあ、ラヴ・ロマンスが主要な作品ではないとはいえ、それについても、三者が収まるべきところに収まったという印象である。

 将来の「夢」は近づくこともあれば、遠ざかることもある。だが、遠ざかってもなお近づいていこうとするその意志こそが、『蒼太の包丁』においては、時間軸のタテ糸と変化とに試されるものだったのかな、と思う。岐路に差し掛かったとき、蒼太は〈目指すものがあるなら何かが変わっていかなきゃいけないんだ 僕だって今までの修行や経験でそれはわかってるつもりなんだけど…〉と躊躇うばかりでなく、〈為せないことや足りないことを挙げてって 首をひねっているだけではダメだ〉と認識せざるをえない。はっきりいって、周囲の人間が積極的なのに比べ、蒼太はあまりにも消極的すぎる。しかしそれは歩幅の問題にすぎない。小さなストライドであろうと絶えず前に進み続けること。その恩恵は確かにあると、物語の終わりは、蒼太はもちろん、他の登場人物たちの幸福であるような表情を一巡りするなかに伝えている。

 33巻について→こちら
 30巻について→こちら
 25巻について→こちら
 24巻について→こちら
 22巻について→こちら
 20巻について→こちら
 18巻について→こちら
 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら

 『ハルの肴』1巻について→こちら
2014年01月31日
 東南角部屋 1 (マーガレットコミックス)

 田島みみの『東南角部屋』は、この1巻の「あとがき」にある通り、作者にとっては〈初めての大人の女性向けまんが誌掲載作品〉となっていて、なるほど、登場人物の年齢や設定、絵柄の部分に、以前と比べ、大きく変化が持ち込まれている。ただし、男女の三角関係をモチーフとしているという点においては、そしてそれはこの手のラヴ・ロマンスの様式性ではあるのだったが、田島自身の持ち味に忠実すぎるほど忠実なものでもあろう。その意味で、一貫している。

 引っ越しの直前でアパートの契約を反故にしてしまい、一晩路頭に迷うこととなってしまった夏目翼は、それを見かねた通りすがりの男性、千賀大輔に声をかけられる。大輔のそのチャラい言動とルックスから、最初は用心していた翼なのだけれど、成り行きのまま彼を頼りにするしかなかった。大輔は隣人であり友人である川島薫のところで寝泊まりすると言う。ばかりか、自分の部屋をしばらく使っていてもいいと翼に許可するのである。そこは実際に翼が大家を兼ねているマンションでもあった。結果、そのマンションの空き部屋を翼が借り受けることになり、三人の生活は次第にリンクしていくようになるのだった。

 過去の作品であれば、ヒロインがお姫様の立場にあって、二人の王子様が彼女を中心とした綱引きをするというのが、田島のマンガに見られた傾向である。だが、『東南角部屋』では、決してそうとは明言されていないものの、大輔に好意を寄せる同性愛者であるかのように薫は描かれており、(少なくとも今の時点で)お姫様をめぐる王子様同士の対立は確認されない。このへんが、活動の場を移しての新機軸であるかもしれない。

 とはいえ、重要なのは、社会に出た女性をヒロイン(翼は警備員の仕事をしている体力派である)に置きながらも、ディテールや展開のレベルでは、必ずしもリアリズムで読まれるべき内容にはなっていないことだと思う。大体、リアリズムの尺度を採用するのであったら、見ず知らずの人間にひょいひょい付いていくヒロインは単に迂闊であるし、それが善意からくるものであれ、ラヴ・ロマンスに相応しい物語の入口となっているのはいくらか都合がよすぎる。もちろん、悪く言っているのではない。あくまでもリアリズムの尺度に限ったらの話であって、しかし『東南角部屋』の本質もしくは魅力はおそらくそこではないだろう。

 モノローグに明らかであるようにヒロインの内面が主に作品のエモーションを握っているのに対して、大輔や薫の内面は奥に引っ込まされている。とりわけ、にこやかな表情を崩さない大輔の内面はほとんどクローズドだといえる。それはつまり、彼らがフェアリーテイルにおけるファンタジーに近い役割を果たしているからなのである。『東南角部屋』がある種のフェアリーテイルであることの暗示なのだ。

 現状、確かに社会を舞台にはしているが、翼の特権的な立場、ヒロインならではのポジションは、二人の男性の登場によって与えられている。これは学園ものがそうであるのと同じく、少女マンガに特徴的なラヴ・ロマンスの様式性とその構造に由来する。そうしたなかにこそ、作者のきらきらとした持ち味は生きてきているのだ。反面、今後、ヒロインの家族や女性の自立などのテーマが浮上してくる可能性もないわけではない。それは過去の作品にはなかったものである。どう転ぶか。田島のキャリアにとって『東南角部屋』がどのような作品であるのかの判断は、もう少し先まで待たれなければならない。

・その他田島みみに関する文章
 『青春ロケーション』第1巻について→こちら
 『君じゃなきゃダメなんだ』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『学校のおじかん』
  17巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
2014年01月10日
 クローバー 34 (少年チャンピオン・コミックス)

 広島訪問編は、まさかのWひろし・トリビュートなんだろうか。この『クローバー』の34巻では、主人公の美咲隼人が、かつての強敵たちとファイヴマンセルを組み、規格外の問題児を隔離した孤島へと乗り込んでいくのである。作者である平川哲弘の意図はどうであれ、こうした筋書きは、橋ヒロシの『WORST』と田中宏の『女神の鬼』のミックスを思わせる。オールスター・チームの地方遠征は『クローズ』にもあったし、5対5のタイマン形式で行われるそれは『WORST』におけるクライマックスでもあった。また、肉親からも見放され、広島の市街を追放された不良少年たちが、追放された先で内輪のルールを独自に作り上げているというのは、イメージの上で『女神の鬼』の鎖国島と重なる。もちろん、そのような類似は単にヤンキー・マンガの様式性によってもたらされているにすぎないのかもしれない。ここで肝心なのは、その様式性の高さ、形式美とすべきものこそが『クローバー』を、今日この手のジャンルのなかでも見逃せない一作にまで持ち上げている点なのだ。

 近年のヤンキー・マンガは大きく二つの系統に分けられるのではないか。フェイク軍記もの(『疾風・虹丸組』『Hey!リキ』『A-BOUT!』等)とフェイク自伝もの(『ドロップ』『チキン』『OUT』等)の二つに、である。時代劇の比喩を用いるなら、実はどちらも大河ドラマのごとき長編を指向しているといっていい。当然、例外はある。そうした例外の一つに『クローバー』は数えられるのであって、再び時代劇の比喩を使うのであれば、『クローバー』などはエピソード単位でコトを運ぶ、つまりは勧善懲悪の捕物帖に近い。原作のマンガ版というより、テレビ・ドラマ版の脚色を通じて『水戸黄門』のスタイルになぞられることもあった『ごくせん』のあれだ。この意味で、フェイク軍記ものやフェイク自伝ものが戦国時代や幕末の波乱を描いているのだとすることができるのに対して、『クローバー』は近世の市民と生活とを描いているのだといえる。作品の軸足はあくまでも日常にほかならない。他の作品に比べ、アルバイトや恋愛、趣味での活動やコメディのパートにページが多く割かれているのは、それが日常を描くことと同義だからなのだと思う。

 勧善懲悪の捕物帖では、主人公は必ずや正義でなければならないという前提が必要とされる。なぜ、主人公は正義なのか。それはほとんど「悪党を懲らしめる、やっつける、改心させる役割を果たしているためだ」型のトートロジーによって成り立っている。『クローバー』の主人公、美咲隼人もこのケースに当てはまるだろう。序盤の展開こそ、ハヤトとトモキ、ケンジの友情をベースに物語は進んでいくのかな、と感じられたけれど、連載を経るにつれ、美咲隼人を「ハヤト」と呼ぶのは幼馴染みであるトモキやケンジに限られることとなり、かわりに「美咲」と声をかけてくる登場人物の方が目立ちはじめるようになった。現在の『クローバー』において「美咲」とは、トラブル・シューターとして登場人物たちから信頼に足る存在の名称である。ここで注意されたいのは、そのような信頼がどこからやってきているのかであって、端的に述べるなら、それは「義理」や「人情」に基づいているということなのだった。おお、「義理」や「人情」だなんて、まるで近世を舞台にした時代劇みたいではないか。

 事実、この34巻を例に出すなら、どうして美咲隼人は紅葉神島高校という極悪の集団に挑んでいくのか。理由を考えるべきである。どうして真木や菊池、ゲンゲン(源元)、ハンマーヘッドの吉良が、わざわざ広島に駆けつけてくるのか。あるいはトモキやケンジを除いた登場人物たちが、損得勘定なしで「美咲」の助けになろうとするのか。これはもう「義理」と「人情」というしかない。美咲隼人は旧友である来栖を見捨ててはおけず、来栖とは無関係なはずの登場人物たちは過去に美咲隼人から受けた恩を返さずにはいらない。それがすなわち「義理」と「人情」の世界なのだ。そして、正直な話、その旧き良き価値観をさりげなく(一切の重荷とはせず)皆で背負っちゃってるところが、なにげに熱いんですよ、と口にしたい。「不良少年にも内面はあるんだよ」といわんばかりのテーマ主義に傾いたヤンキー・マンガの多くは、フェイク軍記ものとフェイク自伝もののいずれかに振り分けられるが、そこから『クローバー』はいち早く離脱しているのであって、形式美にまで高められた様式性はむしろ、逆転としてその個性をより一層際立たせる(他の作品との相似が同時に他の作品との差異をも明らかにする)ものとなっている。

 14巻について→こちら
 8巻について→こちら
 1話目について→こちら

・その他平川哲弘に関する文章
 『クローズZERO II 鈴蘭×鳳仙』(原作・橋ヒロシ、脚本・武藤将吾 / 水島力也)2巻について→こちら