ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年12月21日
 CHARON(1) (少年マガジンコミックス)

 アト・ランダムに召喚されたプレイヤーたちが特殊な条件下で互いを出し抜き、ときには殺し合う。サヴァイヴァル、デス・ゲーム、バトル・ロイヤルに喩えられるその手のパターンは、確かに00年代に流行りはしたけれど、流行りは廃れるものなので、2010年代には下火になるだろう、と踏んでいたのだったが、しかしそんなことはなかったぜ、であって、奇妙な変形を得、勢いを盛り返してきているようにも思う。一体誰が何のために登場人物たちを戦わせるのか。こうした問いに対し、じゃじゃーん、すべては神様の仕組んだことでしたー、プレイヤーたちは人類の命運を背負わされてましたー、とかの身も蓋もない(でたらめな)ロジックで応えるタイプの作品が増えているのである。この意味において、かのデウス・エクス・マキナまでもが堂々と姿を見せてしまった『未来日記』は本来退行(00年代における形式の最後列)であるはずなのに、それがアイディア的には先駆(2010年代における形式の最前列)であったという転倒すら起きている。

 正直なところ、人間同士の理不尽な(目的の隠された)殲滅戦であるようなフィクションは、東日本大震災以降、さすがに敬遠されていくんじゃないかな、と個人的には読んでいたのだった。そこにある殺伐さはトゥー・マッチなのではないか、と。だが、読みは外れた。現状は逆であろう。人間よりも上位のクラスが存在している可能性をエクスキューズにすることで、特殊な条件下での私闘にリアリティが、あるいはシンパシーが持たされているのかもしれない。

 山田恵庸の前作『エデンの檻』や以前の『EX 少年漂流』は、まあ少年マンガの範囲内ではあるものの、とりあえず孤島に流れ着いたらレイプという非常に凡庸な認識をベースにしたサヴァイヴァルであった。それが人間であったり男性であったりの本質を描いていることになるのかどうかは知らないけれど、お決まりのコースである以上は退屈だし、特筆すべきほどのものではない。サスペンスはむしろSF的な設定とともにあったかと思われる。SF的な設定といっても、身も蓋もない(でたらめな)ロジックによって回収されてしまうものである。そうしたSF的な設定が、この『CHARON(カロン)』ではさらに前面化されていることは1巻の時点でかなり明確だろう。なぜなら、正体不明の何者かに拉致された計18名の少年と少女とが、あらかじめ自分たちには規模の大きいミッションが課せられているのだと正しく地球を飛び出した場所で告げられるところから物語は動きはじめるのだ。

 もちろん、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』の昔よりサブ・カルチャーの歴史に存在してきた『十五少年漂流記』のヴァリエーションとして見てもいい。そこから『蠅の王』や『無限のリヴァイアス』のような残酷さを汲み取ってもいい。だが、規模の大きいミッションを強いられた少年と少女は皆、それぞれの思惑はどうであれ、限定された空間のなか、いかに共同体をキープするかをプライオリティとはしていない。このことが、サヴァイヴァルにもデス・ゲームにもバトル・ロイヤルにも転びうる展開を招き入れている点に留意されたい。そう、主人公である九十八(にたらず)密が、他の登場人物たちとは違って、積極的には自分が置かれた状況に荷担しようとはせず、〈騙し合いでも殺し合いでも好きにするがいい〉と言い放つ通り、敵対するプレイヤーを出し抜き、ときには命を奪うことを一つの前提として作品は構築されているのである。

 とある登場人物は、自分たちが召集された理由である「救世主(メサイア)計画」というそれについて、こうも言っている。〈要するにこれは…… 聖戦(クルセイド)〉なのであって〈己が信じる神の代理戦争なんだよ〉と。なるほど、様々な宗教や国家レベルの衝突と陰謀論が物語の背景には秘められているようだし、そのことによって動員された少年や少女たちには、全員がそうであるかは不明であるものの、どうやらサイキックに近い者も潜んでいるようだ。聖戦、確かにそうなのだろう。『CHARON』において、聖戦とは、たぶん比喩ではない。しかし、だからといって聖戦とそれに相応しいだけの神話を計18名の少年と少女とが繰り広げていくとは、少なくとも今の段階ではと保留しておくけれど、思われない。せいぜいがサヴァイヴァルやデス・ゲームやバトル・ロイヤルの派生もしくは発展形に止まるのだった。が、裏を返すなら、そこにこそ、この手のパターンの強度(2010年代における形式の説得性)が刻印されている。
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2013年12月10日
 ペーパーブレイバー 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 それが洗練なのか単なる野暮なのかはともかく、極めて現代的で世俗的な認識や価値観をメタ・レベルに設定することで剣と魔法のファンタジーやRPGのルール・ブックを吊し上げ、一種の倒置法として魔王や勇者を描くというのは最近の流行りである。そうしたトレンドのフォロワーに、このマンガ、藤近小梅の『ペーパーブレイバー』も入れられると思う。ルール・ブックをルール・ブックたらしめるのに必要なコンテクストをあえて理解しない。こうした態度は所詮、子供じみた遊びみたいなもので、そこにシリアスなテーマを被せたりしている作品を見ると、ちょっと白けてしまうときがあるのだったが、『ペーパーブレイバー』の場合、「あくまでもギャグですよ」式のスタンスを徹底している。本質はドタバタした学園もののコメディなのだろうし、ドタバタを展開するにあたり、リアリティをいったんワキに除け、モラトリアムのシンパシーを仮想化するために剣と魔法のファンタジーやRPGのルール・ブックが挿入されているといえる。

 実際、作品の舞台は、現実の世界(現代の日本)の至るところに遍在していそうな男女共学制の高校であって、なぜか主人公は、魔王を倒さなくてはならない立場なのに、平々凡々とそこへ通っている。ここで重要なのは、彼がレベル1から一向に成長していない未熟な勇者だという点である。これはもちろん、学園ものに古くから見られる軟弱で取り柄の少ない少年が主人公のヴァリエーションでもある。主人公の怠さを隠さないニヒリズムのような態度は、今日における若者の気分あるいは趣味を含んだ造形なのだろう。ルックスが良く描かれているのもそうかもしれない。が、彼が自分でアクションを起こさない代わり、彼と因縁のある登場人物たちが次々と関わってき、彼に無理やりでもリアクションを起こさせる。これがコメディの推進力となっている。正直なところ、序盤は、ワン・アイディアだなあ、ぐらいにしか思わないのだけれど、連載が続くにつれ、作者がペースを掴んできたからなのか、登場人物の個性とそれらのコンビネーションとができあがってくるからなのか、次の一コマに期待させられるだけの魅力を持ちはじめる。

 この1巻の終盤のエピソードには、アクションもあって、ストーリー形式の連続性も見られる。たぶん、そちらがメインになることはないと思われるものの、作品自体の可能性は着実に広がっている。
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 クロコーチ(3) (ニチブンコミックス)

 ストーリーの進みは現在、こちらのリチャード・ウー(原作)とコウノコウジ(作画)によるマンガ版より、それを元にしているはずのテレビ・ドラマ版の方がいくらか先行している感もある『クロコーチ』だが、実際、両者の制作過程にどのようなコンセンサスが取られているのかはわからないのだけれど、ベースとなっているエピソードに決定的な違いはないと思われる。それはつまり、作品を成り立たせている大まかなパーツは一緒だということである。まあ、同じ登場人物であっても年齢や性別、性格などに違いの顕著な者もいるにはいる。しかし、そのことが必ずしもエピソードの違いとはなっていない。そこから一つ推測できるとしたら、『クロコーチ』の場合、エピソードが「主」であり、登場人物が「従」の方法論によって、作品が組み立てられているかもしれないことであった。要するに、三億円事件をヒントにしながら警察を巨大な権力として、警察の内部を巨大な陰謀論として描こうとしてることが、マンガ版とテレビ・ドラマ版の内容を一致させているポイントなのではないか。

 他方、国家レベルのヒストリー(戦後史)をアレンジしつつ、それを多国籍的なクライム・サスペンスに落とし込むというのは、リチャード・ウー(長崎尚志)が関わってきた作品によく見られる趣向であろう。これを念頭に置いて、大まかなパーツを共有しているマンガ版とテレビ・ドラマ版とを比較するとき、リチャード・ウーの原作におけるテクニックみたいなものがうかがえてくる。おそらくは長編のストーリーを複数のエピソードにバラし、その複数のエピソードをあたかもジグソー・パズルのピースのように扱い、あらかじめこうと定まった枠のなかに順不同で組み合わせていく。このプロセスを読み手は全貌の隠された「筋」として見ているにすぎないのである。もちろん、登場人物は(その行動を含め)複数のピースを跨いだり繋いだりする「絵」の役割を果たしているわけだ。そして、語弊をおそれずにいえば、コウノコウジの作風は、そうした「絵」にえげつない魅力を与えるのに相応しい。

 最初に、マンガ版とテレビ・ドラマ版とでは大まかなパーツは一緒と述べた。けれど、この3巻からは、クライマックスに向かってか、あるいは連載の長期化に向けてか、独自の展開が顕著になりはじめている。無論、テレビ・ドラマ版が独自の展開に入っているという言い方もできる。が、マンガ版の場合、リチャード・ウーとすぎむらしんいちのタッグによる『ディアスポリス 異邦警察』の他、江戸川啓視名義でクォン・カヤと組んだ『プルンギル -青の道-』や石渡洋司と組んだ『青侠 ブルーフッド』にあった異邦人の介入と猟奇的なイメージとが強調化されていっているようだ。

・その他コウノコウジに関する文章
 『ゲバルト』1巻について→こちら
 『肉の唄』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
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2013年12月07日
 聖闘士星矢セインティア翔 1 (チャンピオンREDコミックス)

 マサミストとしては、既にアナウンスされている高河ゆんの『車田水滸伝』が非常に楽しみである。が、手代木史織の『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』といい、そしてこの久織ちまきの『聖闘士星矢 セインティア翔』といい、車田正美作品のブランドが女性マンガ家によって守られていくというのは、同人誌の大昔の時代からの定めなのか。もちろん、由利聡の『風魔の小次郎 柳生暗殺帖』であったり、岡田芽武の『聖闘士星矢 エピソードG』であったり、男性マンガ家(由利聡って男性マンガ家でいいんだよね)が手掛けた派生作品、公式二次創作もあるにはあるものの、前者は長らく連載が中断したままであるし、後者を入れたところで、数の上では女性マンガ家の活躍の方が目立ちはじめているのは確かだ。

 さてしかし、1巻が出た久織ちまきの『聖闘士星矢 セインティア翔』は、同じ『聖闘士星矢』のヴァリアントであっても、『聖闘士星矢 エピソードG』や『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』と、いくらか格好が違っているのは、それが女性を主人公にした物語となっているためだ。男性の登場人物たちの対決と共闘の相関図が、やはり車田正美作品のコアであろう。マサミズムとは本来、男のロマンと同義であったはずである。歴史を振り返ったとき、『スケ番あらし』の荒神山麗はむしろ稀少だったのであり、男勝りである女性のイメージは『リングにかけろ』の高嶺菊や『風魔の小次郎』の柳生蘭子に受け継がれはしたけれど、それらも次第に物語の後景と化していった。もちろん、『聖闘士星矢』にも『B'T-X』にも女性の戦士はいる。いた。が、それが作品の中核になるというのは異例のことと思う。そう、『聖闘士星矢 セインティア翔』に描かれているのは、正しく女性の聖闘士(セイント)が拳を握っていくバトルなのであった。

 現代に女性の聖闘士が描かれることのセクシュアリティにおける意義、あるいは需要については、サブ・カルチャーのその手の研究をしている人間に任せるとして、ただし『聖闘士星矢 セインティア翔』には、マサミズムに通じる大見得は(今の段階では)あまり感じないねえ、というのが正直なところである。意匠としては少女マンガのファンタジーの方に近いものがある。たとえば武内直子の『美少女戦士セーラームーン』の原型に『聖闘士星矢』を見ることができるとしたら、どちらかというと『美少女戦士セーラームーン』のフォロワーに位置付けられそうなところがある。まあ、こうしたトランスフォームの歴史についても、サブ・カルチャーのその手の研究をしている人間に任せたい点ではある。

 オリジナルの『聖闘士星矢』にも魔鈴やシャイナのように女性の聖闘士が存在したが、『聖闘士星矢 セインティア翔』の主人公である翔子が彼女たちみたいな仮面を装着していないのは、〈本来アテナ様を守護する聖闘士は男子のみ〉であって〈女子が聖闘士になるためには女であることを捨てなければならないという掟が〉あるのだけれど〈しかし処女神アテナ様が人としてご降臨されたとき〉〈ごく身近でお身体のお世話をすることを許されるのは女子のみ〉であり〈その役割を受けもつために女子のまま聖闘士となる者が特例として数名みとめられてきた〉わけで〈すぐれた素養をもち 純潔かつ完全なる「女子」のみがその資格を得る…〉のだし〈アテナ様側近の侍女ともいうべき特別な聖闘士〉それが聖闘少女(セインティア)だという設定が(当然、後付けで)用意されているためだ。この設定はただちに『聖闘士星矢 セインティア翔』が、少女が少年の役割を肩代わりするタイプのお話ではなく、少女が少女のままで少女の役割を果たしていくタイプのお話であることを示唆している。

 結局のところ、正式な続編は車田本人の『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』にしか許されないのか。基本的には『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』がそうであったように、『聖闘士星矢 エピソードG』がそうであったように、『聖闘士星矢 セインティア翔』もまた、『聖闘士星矢』本編のプリクエールだといえる。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)開催以前、姉である響子の後を継ぎ、城戸沙織(アテナ)の聖闘少女になることを翔子は誓うのだった。あの黄金聖闘士も本筋に深く関わってきそうだし、『聖闘士星矢』初期の超重要人物である辰巳(!)も出てくる等のファン・サービス(?)もあるよ。
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2013年11月28日
 サンケンロック 20 (ヤングキングコミックス)

 Boichiが『サンケンロック』と並行して連載をはじめた『Wallman』は、白竜会が消滅してから五年後の日本を描いている。もしも両者がリンクしているのだとすれば、白竜会がまだ健在であり、韓国をも勢力下に置いている『サンケンロック』は、『Wallman』よりも五年以上前の時代を舞台にしていることになる。そして『Wallman』ではヒロインにあたるナミが『サンケンロック』に出てきているのが、この20巻なのである。が、それは『サンケンロック』の本筋において、おそらくは枝葉の部分にすぎない。白竜会は消滅する。これを前提としたとき、では『サンケンロック』の主人公である北野ケンがどうやってそこまで迫っていくのか。最終章スタートのアナウンスが、いよいよ決戦の近いことを教えている。

 しかしまあ、作者が用意している展開にとっては必要なことなのだろうし、もう一人の主人公とでもすべきテス(朴泰秀)とケンの対照をビルドアップするための手続きでもあるのだろうけれど、重要な人物の裏切りはアウトローもののパターンだよね。どうせ裏があるんでしょう、これ、と深読みしちゃう点を含め、巨大化した組織(複雑化したシステムやルール)の外側に主人公をいったん締め出すことで、本来は規模のでかい政治とリアリティとを緻密にシミュレートするのではなく、それを個人的な理想や野心、人間関係や生き様などのシンプルな問題にすり替えることができるのだ。もちろん、読み手の多くが見たいのは、ケンとテスの対照が、ドラマティックであり、エモーショナルであるような正念場を連れてくるところなのだから、方向性としては正しい。

 他方、読み手の多くがどれほど期待しているのかは知らないものの、ほとんどギャグでしかないスケベなシーンはもういいのでは、という気がする。以前のようにストーリー上のブレイクを挟まなくともいい。なにせクライマックスだ。作者の欲望がスケベなシーンを必要としているのかもしれないが、前巻で明らかな通り、シリアスな局面でのすぐれたカタルシスはそれだけで充分にサービス・カット以上の役割を果たしているのである。

 19巻について→こちら

・その他Boichに関する文章
 『ラキア』5巻(原作・矢島正雄)について→こちら
 『HOTEL』について→こちら
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2013年11月23日
 いじわるシロップ 2 (フラワーコミックスアルファ)

 畑亜希美の『いじわるシロップ』は、そのいかにもスウィートぶった題名とは裏腹に極めてシリアスなプロフィールを持った女性を主人公としている。心に負荷のかかったヒロインが、ほかの誰かとのロマンスを通じ、負荷から解かれていくというあらましは、前作の『2度目の恋は嘘つき』に通じるところでもある。が、『2度目の恋は嘘つき』と比べものにはならないぐらい、こちらの主人公の境遇はヘヴィである。

 大学時代、初恋の男性と婚約したはいいが、家庭の事情により、破局してしまう。彼とのあいだにできた子供を一人で育てていたはいいが、五歳のとき、その息子が交通事故で亡くなってしまう。ショックのせいで声を発せられなくなってしまう。ヒロインである華鈴がいかなる負荷を抱えているのかは1巻の途中で明かされているし、こうしたプロフィールだけを取るなら、それは確かに不幸なものであろう。

 息子の保険金、口をきけなくなった今も自特別待遇で雇ってくれている会社、金銭的には不自由があるとはいえない。にもかかわらず、華鈴はそれらの恩恵を当然のものとして受け入れることができない。おそらくは自分の不幸を、あるいは不幸であるがゆえに自分が一個の人格としては認められていない、他からは一個の人間として必要とされていないその事実を受け入れることになってしまうからだ。かくして彼女は、甘いものが好物であったことからパンケーキ屋でのアルバイトをはじめるのだった。

 華鈴が入ったそのパンケーキ屋は二人の男性によって営業されている。日奈太と玲音の二人である。彼らは決して仲がよいわけではない。しかし、高校時代からの奇妙なライヴァル意識が腐れ縁となり、一緒にパンケーキ屋を開くことになったのだ。当然、そこにヒロインが介入してくることで、恋愛の、三角関係の様式が成り立っていき、2巻では、その様式が、物語における起承転結の「承」であり「転」であるような展開をもたらすこととなっている。

 最初に述べた通り、ヒロインのプロフィールは重たい。だが、お話はさほど暗い印象となっていない。ラブコメのユーモラスなパートをハキハキと描く作者の、これまでの作品にも見られてきた手腕がそうさせているのだ。反面、ヒロインのプロフィールがメロドラマを喚起するための単なる諸要素にしかなっていないところがある。これを欠点に挙げることができる。

 だが、最も注目されなければならないのは、心に負荷のかかった主人公が、ほかの誰かとのロマンスを通じ、負荷から解かれていくその様子なのであって、ロマンスのマジックだけが、本来は不幸であるはずの彼女の喜びや悲しみを充分に一般化しうる。そこに大きな意味が割かれていることなのである。

・その他畑亜希美に関する文章
 『真夜中だけは好きでいて』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ベイビー☆キスをどうぞ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
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2013年11月22日
 cha51.jpg

 新しさはない。すごさもない。だが、おもしろい。引き込まれるものがある。『週刊少年チャンピオン』No.51に掲載された読み切り、掛丸翔の『少年ラケット』は正しくそのようなマンガだと思う。

 卓球(スポーツ)を題材にした作品である。主人公の黒部伊地朗は一年半前、住居のアパートが火事となり、男手一つで自分を育ててくれた父親を亡くし、さらには以前の記憶も失ってしまった。記憶が戻らないまま、親戚の家に預けられ、中学にあがった彼は、イチローという有名選手と同じ名前をきっかけに野球部に入ったはいいが、プレイヤーとしての実力はまったく冴えなかった。しかしある日、イチローの学校に卓球の世界では全国レベルの選手である少年、中村ヨルゲンが訪れたことから運命は変わる。ヨルゲンはイチローの過去を知っていた。二人には繋がりがあった。そう、かつて交わした約束を果たすべく、ヨルゲンはイチローのもとにやってきたのだ。

 プロフィールに欠落を抱えた主人公がいて、ライヴァルの登場があり、対決を経ることで獲得がもたらされる。プロットは非常にシンプルだといえる。ギミックを最小限に抑えながら、ヤマ場まで話を進めていき、そこでちょうど題材とテーマとが折り重なるようになっている。イチローだから野球部という安易な発想も終盤できちんと裏返るタイプの伏線だろう。

 空間を広く取った試合の場面は、登場人物たちの動きを生き生きとさせている。メンタルの代替であるセリフやモノローグが、ボールの行き来するフィジカルな描写を邪魔していない。

 主人公とライヴァルの関係にはまだまだいくらでも展開のできそうな余地があるし、まとまりがしっかりしている分、全体のヴォリュームに物足りなさを感じないでもない。読み切りの形式云々よりむしろ、連載の一話目かよ、という印象が強いのだった。が、結局のところ、それは最初に述べた通り、引き込まれるものがちゃんと作品のなかにあることの証明にほかならないのである。
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2013年11月04日
 ギャル男vs宇宙人 (ビッグコミックス)

 私的な印象だが、以前から一時期の『ヤングサンデー』みたいな作風だな、と思っていた吉沢潤一なので、『ヤングサンデー』を吸収した『ビッグコミックスピリッツ』に活動の場を移してもさほど違和感はないだろう、と踏んでいたし、ヤンキイッシュ(あるいはDQN的)なリアリティを横溢させていたはずの物語がどうしてか、所謂セカイ系を彷彿とさせるスケールの抽象性へ突入していき、唐突に日常そのものが改編されてしまったかのような結末を迎えるという手順は、この『ギャル男vs宇宙人』も過去作と同様である。

 確かにこれまでとは違い、地方都市ではなく、大都会の渋谷を舞台としていたり、題名に示されているギミック、エイリアンとの対決が加えられていたり、新しい要素を付け足してはいるものの、異なった価値観の衝突を暴力の渦として描写し、描写のリミットをほとんど解除してしまうことでB級映画にも似た独特のテンションを得ているところなど、基本の路線に揺らぎはないのであって、まあ、そこが一時期の『ヤングサンデー』みたいな作風を思わせる点になりえているのだ。

 2010年代の現時点において(おそらく)誰よりも沢山のマンガに推薦のコメントをしているミュージシャンである綾小路翔が、コミックスのオビで「いいから読め。読めばわかるさ」といっているけれど、ロジカルな紹介よりはそうした勢いの方が相応しい。まとまりがあるのかないのか。全体の構成が決まっているのかいないのか。とりとめのなさが、しかし猛烈なパワー・トリップを引き起こしているのだ。事実、『ギャル男vs宇宙人』はドラッグについての話でもある。

 主人公はセンター街を根城とするギャル男の村田と、センター街の顔であるようなイケメンさん、テツのコンビだ。村田には三頭身というなんともキテレツなルックスが与えられている。それがどうして対照的な存在であるテツに大切な後輩のごとく目をかけられているのか。理屈ではない。男同士のパートナー・シップは『ギャル男vs宇宙人』の中軸である。彼らが知り合いのミュウをひどい目に遭わせた会社員に追い込みをかけるが、その会社員、杉本の正体が異常な戦闘力を持ったエイリアンであったことから、逆に追われる側として立場を逆転させられてしまうのだった。

 村田やテツの(セックスを含めた)ライフ・スタイルにはドラッグが介在している。ドラッグはまた、彼らと杉本とに共通した一つのラインである。ラリってハイになること、そのピークの追求において、人類(若者)とエイリアン(中年)のあいだに区分は見られなくなっている。

 ドラッグやそれを伴う(もしかしたらレイプなのではないかと疑いが持たれる)セックスに向けられた積極性は、両者に揃って内蔵された回路だといえる。杉本によってミュウが傷つけられたことに村田やテツは憤る。が、それは杉本の暴力を必ずしも否定するものではないだろう。それは自分の属している共同体であったり、ルールであったり、トライブであったりを、第三者が侵害してきたことへの怒りにほかならない。この意味で、村田たちにとって杉本は正しくエイリアンのポジションに位置付けられるし、その結果、異なった価値観の衝突と暴力の渦とが生じているのである。

 もちろん、表面上はドラッグやレイプが肯定されているのではないか。少なくとも善悪の基準がはっきりしていないではないか。登場人物が議論めいた言葉をふっかけるわりに欲望と倫理とがぐちゃぐちゃではないか。こうした批判は出るべきだ。しかし、『ギャル男vs宇宙人』が描いているのは、要するにハレとケの「ハレ」にあたるのだろうけれど、カーニヴァルやフェスティヴァル、パレードの状況下に動員される複数の個人(モブ)のイメージであって、そのエネルギーなのだと思う。それが「ハレ」の場であるとき、「ケ」における裁定が免責されることもある。

 むしろ、エイリアンとのどんちゃん騒ぎを経、憔悴に行き着いたはずの主人公たちが、それでも間を置けば再び、お祭り騒ぎの夢想に引っ張られていってしまう式のルーティンにこそ、注目されたい。パーティにも飽きがき、日常が改編されようとも、そうしたルーティンだけは永続していく。『ギャル男VS宇宙人』のなかで最も「生身」を感じさせる箇所だといえる。

・その他吉沢潤一に関する文章
 『★無目的無償★』について→こちら
 『デザート』2巻について→こちら
 『足利アナーキー』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
  番外編「乙女シンク」→こちら
 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2013年10月22日
 本気! 外伝クジラ(1) (プレイコミックス)

 そもそも『極道の食卓』には、ヤクザ、学校、政治、子供、グルメ、と立原あゆみのキャリアを総括しているところがあった。他方で代表作である『本気!』のセルフ・パロディといおうかセルフ・オマージュといおうか、読み手に『本気!』を参照させることでコメディを成り立たせているようなところもあった。それが「獄中編」を経、この『本気!外伝 クジラ』では、題名にある通り、ついに『本気!』のストーリーと直接関わり合うこととなっている。なるほど、確かに『本気!外伝 クジラ』とは、『極道の食卓』の続編であるし、『本気!』の外伝となっているのである。

 作品のフォーマットは『極道の食卓』そのまま、つまり「食」をテーマにして一話完結に近いエピソードが作られているのだが、このエピソードのなかに『本気!』シリーズのダイジェストが盛り込まれている。マンガとしてはかなり特異なスタイルだといえる。たとえば、人気のあったテレビ・ドラマが終了後、総集編のスペシャル番組が作られることがある。その際、新規の撮影パートを加え、回想の形式でレギュラー放送をつなぎ合わせていくことがある。それを思わせる。しかしそれが立原のマンガにお馴染みのサンプリングといおうかカットの使い回しといおうか、要するにコピー・アンド・ペーストの技法とここまでマッチしようとは。実に正しい『極道の食卓』と『本気!』のマッシュアップなのではないか。

 中身の方をシリアスに見ていくなら、現在進行形の語り手である久慈雷蔵が、回想のなかに置かれた主人公である白銀本気の活躍を振り返るとき、そこにはおおむね、喪われてしまった人間に対しての感傷が寄り添っている。無論、作中の本気(マジ)は死んではいない。ちゃんと生きている。従って、語り手が感傷を寄り添わせている対象とは、あくまでも『本気!』シリーズを通じ、その物語の最中に命を落としていった登場人物たちになるのだった。が、ここで、本来は久慈雷蔵のものであるはずの語りが、構造のレベルにおいては所謂神の視点と同化していることに注意されたい。神の視点を語り手が所有しているかのような語りは、立原あゆみの諸作に共通する要素でもあるだろう。そしてそれが、先のコピー・アンド・ペーストの技法と並び、『極道の食卓』と『本気!』の二つの作品を『本気!外伝 クジラ』という一つの作品にまとめ上げる大きな基礎となっているのだ。

 もちろん、久慈雷蔵による喪われてしまった人間に対しての感傷は、老年期に入った作者自身の感傷を同時に代弁しているに違いない。さらにそれは、失われようとしている伝統的な風景や東日本大震災以降の復興に向けられた悲哀にまで敷衍されている。『仁義』シリーズの新作である『仁義 零』にも、東日本大震災以降の風景が現れていたけれど、そこには作者の実感であったり関心であったりが色濃く出ているのだと思う。あるいはそこに90年代に原発誘致の問題を描いた『花火』の残像を重ね合わせることもできる。おそらく、過去作からの引用は『本気!』ばかりに止まらない。療養中の五社谷に魚を届けにくる漁師、あれはもしかしたら『当選』の主人公なのではないか、とかね。『極道の食卓』がそうであったように、『本気!外伝 クジラ』もまた、立原のキャリアを総括しつつある。

・その他立原あゆみに関する文章
 『火薬』について→こちら
 『仁義S』
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『涙星〈アース〉チンピラ子守歌』1巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2013年10月19日
 ウルトラ・レッド(1) (チャンピオンREDコミックス)

 同じく『週刊少年ジャンプ』の出身であり、同じくアクションの豊富なマンガを得意としながら、同じく『週刊少年ジャンプ』のメインストリームからは外れていってしまった鈴木央が、このコミックスの1巻のオビに推薦文を寄せている。周知の通り、鈴木には同じく『Ultra Red』というタイトルの作品がある。このへんはまあ、洒落になっているのだろうが、それはともかく、野口賢の『ウルトラ・レッド』は西村寿行の小説『往きてまた還らず』を下敷きにしたクライム・サスペンスである。野口にはこれまで、夢枕獏を原作とした『KUROZUKA-黒塚-』『狗ハンティング』や、冲方丁を原作とした『サンクチュアリ THE 幕狼異新』などがあるけれども、まさか現代的な異能系ヴァイオレンス(文芸)とのコラボレーションを網羅するつもりか。今度は西村寿行ときた。そしてもちろん、作品の方向性はこの作者にお馴染みの行間が大きいサイキック・バトルを思わせる。

 テーマのレベルで見るなら、並行して(あるいは先行して)連載している横山光輝のリメイクである『バビル2世 ザ・リターナー』の双子ともいえる。我々(と呼ぶべき価値基準を共有した集団)は既に謎の敵に侵略され、支配されている。我々だけがそれを知らずにいる。こうした陰謀論が真であるような世界で、徹底的に個人化された人物が、その謎の敵に対し、単身で戦いを挑んでいくのである。おそらく背景には、この国の戦後史が、またはこの国とアメリカ合衆国との関係が、参照されるべき項目として横たわっている。かいつまんでいうなら、日米安全保障条約の問題があり、地下鉄サリン事件があり、アメリカ同時多発テロ事件があり、さらには東日本大震災以降の、福島第一原子力発電所事故以降の日本人から見られる世界像や国家観が、正体不明な脅威と攻撃とに変換され、サイキック・バトルのイメージを織り成しているのだ。

 確かに『バビル2世 ザ・リターナー』の主人公は、アメリカ合衆国に戦争、もしくはテロリズムを直接仕掛ける者であったが、『ウルトラ・レッド』の主人公はこの国の内戦、もしくはテロリズムに直接立ち向かう者となっている。しかし、それらはたぶん、同根の現象として扱われているのである。

・その他野口賢に関する文章
 『バビル2世 ザ・リターナー』(原作・横山光輝)
  1巻について→こちら
 『サンクチュアリ -THE幕狼異新-』(原作・冲方丁)
  1巻について→こちら
 『狗ハンティング』(原作・夢枕獏 / 構成・子安秀明)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『KUROZUKA -黒塚-』(原作・夢枕獏)
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2013年10月09日
 ハルの肴(1) (ニチブンコミックス)

 都合上、掲載誌の休刊で連載の止まった『蒼太の包丁』の物語を全39巻で完結したと見ていいかどうか(もしかしたらどこかで続きが描かれるのではないか)判断に迷うところだが、末田雄一郎(原作)と本庄敬(作画)の同コンビによる新作『ハルの肴』には『蒼太の包丁』の終盤において中心的であったモチーフが流れてきているようにも思える。それはあの、北海道から東京に出てきた若者が、老舗であったり、飲食業であったり、そうした場所で働く人々と関わり合うことで自分の進路を新発見するという箇所である。所謂自分探しのヴァリエーションにあたるかもしれないものだ。

 たとえば、『ハルの肴』の主人公である春野ハルのプロフィール(グラフィックの専門学校に通っていたが、話の成り行きから老舗で料理人の見習いとなる)を、『蒼太の包丁』の終盤で登場してきた乙部孝太郎のプロフィール(動物園の元飼育係だったが、話の成り行きから老舗で料理人の見習いとなる)に置き換えてみるとわかりやすい。ともに北海道出身であり、そもそも料理人になるつもりはまったくなかった。コトの経緯は別なれど、田舎から東京に出てきたことになっている点も同様であろう。もちろん、『蒼太の包丁』の乙部は男性であって、『ハルの肴』のハルは女性なのだから、性別は入れ替えられているし、ハルが働く「大門」は老舗は老舗でも両国の大衆居酒屋であり、乙部が勤めている「富み久」のような銀座の名店ではない等々、基本の設定はだいぶ違う。いうまでもなく、乙部があくまでもワキ役だったのに対して、ハルは作品全体の主人公である以上、両者の役割は決定的に異なっているのだが、しかし、世間知らずで消極的な若者が、周囲に見守られながら、助けられながら、成長し、見聞を広めていく。こうしたパターンを揃って踏襲しているのである。

 もしかしたらそれを『蒼太の包丁』の主人公である蒼太の、そのオルタナティヴなイメージだとすることもできる。ただし、あらかじめ料理人を志していた蒼太のガッツ、真の強さをそのまま、時間軸のタテ糸として物語を編んでいたのが『蒼太の包丁』だったとしたら、『ハルの肴』の場合、ハルの人柄の良さは確かにヒロインに相応しい資格ではあるものの、時間軸のタテ糸で物語を読むとき、どうも頼りない。果たしてそれが作品の構造によって要請されているのか。それとも反対に作品の構造をこうと規定しているのか。一概には言い切れない。けれども、おそらく、今後、さまざまなエピソードのベースとなってくるのは、自分探しの不確かさを補うような関係性のヨコ糸なのではないかと思われる。

 『蒼太の包丁』に関する文章
  33巻について→こちら
  30巻について→こちら
  25巻について→こちら
  24巻について→こちら
  22巻について→こちら
  20巻について→こちら
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
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2013年10月07日
 ヤンキー塾へ行く(1) (ヤングマガジンコミックス)

 巷では佐野菜見の『坂本ですが?』がスマッシュ・ヒットとなっているけれども、案外この荒木光の『ヤンキー塾へ行く』はヤンキー・マンガ版の『坂本ですが?』になりえるのでは、と思うことがある。ただし、荒木の手つきは、人工的な制度としての学校生活を(それが人工的な制度でしかないことをあたかも見透かすかのような)ギャグへと転化するのではなく、今日的なアンダークラスのリアリティを学校生活を中心としたミニマリズムのなかに落とし込もうとしているところがあって、そこに色合いの大きな分かれ目が見つけられる。

 他方、もしかしたら『ヤンキー塾へ行く』は2010年代版の(ハロルド作石の)『ゴリラーマン』なのかもしれない、と思うこともある。学校生活というモラトリアムの野蛮さ(自由、可能性)と黄昏(不自由、不可能性)とを不良少年の戯れに投影しているのだが、しかし『ゴリラーマン』の引用を示せば示すほど『ゴリラーマン』が持っていたリアリティとかけ離れていく柳内大樹の『ギャングキング』とは違い、目上からの視線が物語とオーヴァー・ラップしたり、それによって作品の基準をずらしたりはしない。あくまでも若い登場人物たちの実感、生活臭に寄り添うことで、当人はマジであろうと傍目には茶番劇にすぎない、ドタバタのコメディとも受け取れる様式を作り上げているのである。

 年代や掲載誌、読者層やジャンルを越え、ある種の学園ものにおけるパターンとして『ヤンキー塾へ行く』と『ゴリラーマン』『坂本ですが?』の共通項を挙げることは容易い。一般的な学校生活のその風景、そのシンパシーのなかに異物、ストレンジャーの役割を分担された主人公が導入されているのである。これはつまり、作劇上の普遍性でもある。

 たとえば、麻生周一の『斉木楠雄のΨ難』ならば、やはりストレンジャーであるような主人公のモノローグを、所謂ボケに対するツッコミの声とし、状況を俯瞰する立場とイコールで結ばれるメタ・レベルを作中に召喚することで、ギャグのスタイルを完成させているのだけれど、先の三者に関していうなら、主人公の思考や内面は極力(読み手にも作中のポジションでも)伏せられている。無表情に近く、さらには口数の少ないその姿は『斉木楠雄のΨ難』の主人公とさほど変わらない。にもかかわらず、『斉木楠雄のΨ難』とは異なって、彼らはメタ・レベルを召喚するための回路ではない。基本的にその寡黙さは、他とのギャップを暗示している。クリシェであり、主人公がストレンジャーであることを読み手に了解させるためのデフォルメにほかならないのである。無論、アピアランスや知性についてはまた別の問題だろう。

 さてしかし、ここまでの話は『ヤンキー塾へ行く』の連載ヴァージョンといおうか高校生編に入ってからの展開を前提としている。コミックスの1巻に収録されているのは主にプレ連載ヴァージョンの方である。あらためて読んでみると、プレ連載ヴァージョンの中学生編では不良少年のロマンとアンダークラスのリアリティとが「受験」すなわちターニング・ポイントのテーマを前にして不可避に衝突している感じがする。それが高校生編になると「受験」のかわりを「日常」が果たしていく。その「日常」を背景にしながら、モラトリアムの野蛮さ(自由、可能性)と黄昏(不自由、不可能性)とが前面に出てきているのである。主人公の碇石はより無口となり、明らかに池戸定治(ゴリラーマン)化が進んでいる。まあ、それは段々と思慮を得ているというイメージの具現であるのかもしれない。

 ただ、プレ連載ヴァージョンであれ、連載ヴァージョンであれ、たとえ「受験」がテーマであろうと「日常」を背景にしていようと、タイトルにある「塾」の存在が学校生活の外部として想定されている。このことは一貫している。「塾」に通う碇石はストレンジャーであると同時に外部を覗く人間なのである。もしくは帰属すべき集団の外部を覗いているがゆえにストレンジャーなのだ。ケンカの強さが最高のカタルシスなのはもう疑いようがない。イヤな奴はぶん殴っていいよ。燃えるしね。だが、それだけでは立ちゆかない社会の壁が主人公のすぐそばから彼の青春を覗きおろしている。
 
 1話目から3話目について→こちら
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2013年09月30日
 バクト 3―高校生ギャンブル血風録!! (ヤングキングコミックス)

 指切り。指切り。指切り、である。ここでいう指切りとは、なんらかの比喩ではなく、文字通りに指を切断することであって、要するにヤクザのあれ。いわゆる指を詰めるってやつである。志名坂高次の作品においてはしばしば、ある種の通過儀礼としてギャンブルのなかに描かれる試練のことでもある。ああ、主人公の高校生が容易く足の指をちょん切られるという『凍牌』シリーズも倫理観の大変とち狂った展開がすさまじいマンガだが、この『バクト』も負けず劣らず。ニタニタしながら弱者をいたぶるド畜生がえげつない。異常であることを悪びれない連中が突きつけてくる要求は、3巻に入り、よりエスカレートしている。1、2巻はまだ肩慣らしであった。

 自分と同じく(家族のため)莫大な金銭を必要としている同級生の三神をパートナーにして、因縁の裏カジノ、紅龍へ乗り込んだバク(大村獏)は、そこでタイマン式の特殊なルールによる麻雀=紅龍麻雀での賭けを強いられる。苦戦しながら、クセのある紅龍の客を一人、二人とくだしていったバクは、そしてとうとう紅龍を取り仕切る大ボス、岡部との直接対局に漕ぎ着けるのだったが、それはさらなる窮地に立たされることでもあった。勝負の内容は二対二(ツーマン)での紅龍麻雀である。バクと岡部とが差し向かい、三神がもう一つの卓につく。二つの卓は運命共同体なのだが、三神と対局する田村という男がまた、とんだゲス野郎でよ。テレビ等でよく知られる教育評論家なのだけれど、裏では子供の人権なんて知ったこっちゃない。むしろ児童売春に積極的な変態なのだった。バクは当然、三神も絶対負けるわけにはいくまい。しかし、序盤のしくじりからバクと三神は相当苛酷な要求を飲まざるをえなくなってしまう。

 一般的な物語の水準で考えるなら、普通、この程度の(と思わされる)イージー・ミスで主人公は自分の大切な体の一部を失ったりはしないはずだ。使い捨ての端役じゃねえんだから、と。だが、その程度のイージー・ミスであっても主人公の指をちょん切るのが志名坂高次である。しかも一本からはじまって、ついには五指全部を詰めさせられる。そこまでやるかい、であろう。換言すれば、読み手の予断をいとも簡単に裏切っている。予断を裏切ることで、作中の勝負が本来いかにシビアであったかを徹底的に知らしめるかのような効果を引き起こしていく。いや、ごめん。なめていた。バクよ、三神よ、すまない。おまえらがどれだけギリギリのラインに置かれていたのか。おまえらがどれだけ極悪な奴らを相手にしていたのか。フィクションとはいえ、命懸けのシチュエーションを軽んじていたわ。そう、それは決して後には引けないからこそ、正しく命懸けで挑まなければならない場面だったのだ。

 にしたってまあ、ショッキングだわ。先に挙げた指の件はもちろんなのだけれど、それ以上にバクの弟であるナギサがえらいことになっている。昨今、よっぽどじゃない限り、登場人物の不幸なプロフィールに驚かされることはないし、『バクト』に関しては、ある程度の残酷ショーもストーリーの性質上、致し方あるまい。でも、これは久々に引いた。ひいたぞ。そもそもバクが紅龍に乗り込まなければならなかったのは、借金の肩代わりとして父親に売られたナギサを助け出すためであった。紅龍は少年専門の売春宿でもあった。命を奪われるような危ない目に遭ってはいなかったものの、しかし、ペドフィリア的には全然無事ではなかった。変態の玩具として既に仕込まれたあとだったのである。衝撃の事実をあっさり告げる岡部の外道っぷりや、素っ裸にされたナギサを目の前にしたバクの心境を含め、そこでのシークエンスが具体化しているのは蹂躙される者の無力感にほかならない。

 要するに、バクからは(一般的な物語における)主人公としての特権が取り上げられている。あるいは、そのギリギリにまで追い込まれた境遇こそが(ここでは)主人公の特権として与えられているものになっているのだ。誤解があってはいけないが、なにも作者は無力感を中心に描こうとしているのではない。そうではない。そうではないことの証拠として、無力感の真っ只なかにあってさえ、デタラメと敗北だけは絶対に受け入れまいという主人公の意志の方へ、その後の展開はスライドしていくのである。1巻の段階でアピールされていた通り、バクは是が非でもイカサマを許さない。勝利によってイカサマは覆せると信じている。頑ななアティテュードは、2、3巻ときても、まったくぼやけていない。つまりそれは、作者が中心に描こうとしているものが何なのか、はっきりしているということでもあるだろう。

 しかしながら、率直にいって、意志の強さではどうにもならないことがある。意志の強さを通じ、作品のルールやロジックがねじ曲げられてしまったなら、それこそデタラメである。そうした不文律に忠実である結果、バクは大切な体の一部を失わなければならなくなってしまうのだが、五指を失ってもなお、対局を投げ出そうとはしない。勝利を諦めていない。これを不屈の闘志と見るか。常軌を逸していると見るか。判断は人それぞれであろうが、どちらであっても構わない。いずれにせよ、ここからが問題である。逆転の目がないままであったならば、所詮、敗北するしかないのだ。

 志名坂高次のマンガにデウス・エクス・マキナのごとき神の定めが内蔵されているとしたら、それは誰に対しても容赦がない。その意味において、誰に対しても平等である。その意味において、無慈悲な悪魔と変わりがない。根性論も実際にはかなわない。にもかかわらず、バクが命懸けで挑み、掴もうとしているのは、そうした神の定めに根性論は関与できるか(不毛ではないのか)式の可能性であり、回答なのだといえよう。
 
・その他志名坂高次に関する文章
 『凍牌 〜人柱篇〜』3巻について→こちら
 『牌王伝説 ライオン』1巻について→こちら
 『凍牌』10巻について→こちら
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2013年09月25日
 シャトル・プリンセス(1) (モーニングKC)

 ここ最近、本来のキャリア(?)であるスケベなマンガに路線をセットし続けていた咲香里だが、この『シャトル・プリンセス』でまたもやバドミントンの世界を描くこととなったのである。しかし、『やまとの羽根』や『スマッシュ!』のような少年を主人公にした青春と団体生活のイメージではなく、登場人物の年齢を少し上げ、実業団に所属する女性(女性たち)をヒロインにした大人のストーリー・テリングがここでの要であろう。掲載誌との兼ね合いがあるのかもしれないし、三たびバドミントン・マンガを手掛けるということで、ヴァージョンを書き換えてきた印象だ。

 山勢電機のプレイヤー、西条美香は、ある日、監督の周防から練習生の有沢由利を紹介される。天才的な資質を持ちながらも実業団入りを拒んでいる有沢を説得するように頼まれたのだ。だが、西条は他人を冷静に説得できるタイプではなかった。結局のところ、持論を思いっきり有沢にぶつける結果となってしまう。それはもはや説得というより説教に近いものであった。その熱弁が良かったのか悪かったのか。有沢は条件次第でチームへの加入を了解するのだった。条件とは、西条とのダブルスを組ませること。二人の相性を見抜いていた周防は当然、条件を受け入れる。反面、納得がいかないのは勝手に自分の身の振り方まで決定されてしまった西条であったが、周囲の思惑には逆らえず、有沢とのコンビでオリンピックへの出場を、世界戦での勝利を目指していく。

 以上が1巻のあらましであり、基本的にはバドミントンという競技を中心にして大人や社会がどう動くのかをシミュレートしているといえる。もちろん、西条と有沢の対照的な役割にパートナー・シップのドラマを見てもいいし、熱血とは決して無縁ではなさそうなスポ根のエッセンスもあるにはある。作品の大枠は異なるものの、女性が女性ならではの魅力によっていかに巨大な資本と渡り合っていくか、という部分では、今も連載中の『8♀1♂』と共通するところも少なからずある。いずれにせよ、女性たちのチャーミングな表情がフックの一つとなっていることだけは間違いない。

 ただし、男性の登場人物にもうちょっと(誰か一人でもいい。悪役であってもいいのだけれど)存在感があった方が、絵のレベルでも、物語のレベルでも、メリハリがついたのではないか。序盤の掴みから先にまだ出ていないという気がする。

・その他咲香里に関する文章
 『スマッシュ!』
  13巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2013年09月18日
 L DK(13) (講談社コミックスフレンド B)

 他の誰かと強く惹かれ合うことで平凡なはずの日々が新鮮な1ページとして常にめくられる。このような思想(大げさだが!)の一貫性が、渡辺あゆの『L・DK』においては本質に相違ないのだけれど、この13巻では、家族というテーマがことのほか重要になっているのかな、と思う。ヒロインである葵の両親はもとより、ワキの登場人物に関しても家族を中心にしたエピソードが少なくはないのであった。まあ、葵と柊聖のあいだに噛ませ犬(当て馬)のような役割の登場人物を、入れ替わり立ち替わり、割り込ませ、一時的に発生した三角関係を乗り越えさせながら、雨降って地固まる式に二人の気持ちをアピールしてきたマンガである。それがようやく一段落したのに、さほどシーズンを変えないまま、再び横恋慕によってドラマを動かすというのではさすがに、またかよ、の感を免れないし、単なるルーティンでしかなくなってしまうだろうから、この流れは当然であるように思われる。ただし、ここで着目しておきたいのは、家族というテーマを経由することで作品の方向性にもいくらかの、しかし確実な推移が現れている点なのだ。

 葵と柊聖のカップルが、アパートの一室で二人きり、寝食をともにしながら、セックスには至らず、(キスやペッティングに近い行為はあったとしても)比較的ピュアラブルな間柄をキープし続けているのは、葵の父親が出した「卒業までの性交渉禁止」なる条件に従わなければ、現在の生活が取り上げられるためであって、つまりは第三者からの要請が二人の距離に作用を及ぼしているにすぎない。少なくとも今までの話の流れではそうなっていたのである。だが、家族というテーマの影響下で、自分が自分以外の大切な人間に対していかなる望みを抱いているかをより深く見つめることとなった結果、先の条件の意味合いが、必ずしも第三者からの要請に限ったものではなくなっている。未成年の立場において考えられる規律や責任を主体的に判断したものとなっているのだ。このことは、端的にいって、柊聖の心情(内面の成長)とオーヴァーラップするように描写されている。葵の家族の幸福に満ちたワン・シーンに含まれた柊聖は一体何を思ったのか。葵の母親の言葉を率直に受け止めた柊聖は一体何を思ったのか。おそらくそのとき、両親のいない柊聖にとっては「家族」というテーマが「居場所」や「将来」というテーマとにほぼ同一化させられている。

 是非を問わずにいえば、ラヴ・ロマンスの多くはセックスを通じて完成される私的な物語である。葵と柊聖とが住んでいる部屋であったり、二人が送っている学園生活であったりは、その物語を補強すると同時に未完成に止めておこうとする働きかけを持っている。そういう相反する働きかけの綱引きが、要するに雨降って地固まる式のエピソードをいくつも編み出してきたのであった。が、いつしか登場人物たちはラヴ・ロマンスを目的にしながら、狭い世界を生きつつも、そこから先の広がりへと想像をめぐらしはじめている。当然、これは高校卒業を射程に入れた今後の展開に繋がっていくポイントだろう。

 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
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2013年09月09日
 777スリーセブン 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 以前にも述べた気がするが、小沢としおはデビュー以来一貫して学園ものを描き続けている。現代少年マンガ史を振り返ったとき(一、二作でリタイアしたマンガ家を除けば)これは極めて異例のことといっていい。しかし、『ナンバデッドエンド』の頃からか。その手つきにはいくらかの変化が見られはじめていた。変化は『ナンバデッドエンド』に続く『ガキ教室』において、より顕著であったろう。『ガキ教室』も当然学園ものであったわけだけれど、学生を主人公にするのではなく、教師の側から見られる学校を作品の舞台としていたのである。いや、何も主人公の立場の違いを指して「変化」だと言いたいのではない。そうではない。学校の存在をこの社会の比喩として描いたり、社会のミニチュアとして扱うのではなく、学校の存在をあくまでもこの社会の一部分としていること、社会から切り離された空間=特区のようには描かなかった点にこそ変化が現れているのだ。

 さて、新作の『777 スリーセブン』である。今まで一貫して学園ものを描き続けてきた小沢としおだけれど、果たしてこれは学園ものだろうか。確かにこの1巻を読むかぎり、学生を主人公にした学園もののように見える。だが、それはフックにあたるものでしかないし、結局のところ、擬装にすぎない。と考えさせるのは、現在雑誌で連載中の分がどうなっているかを知っているからだ。そして、作者が『777 スリーセブン』で開示しようとしているのはもしかしたら、このようなことなのではないかと思う。我々は皆、サイコパスの隣人であると同時にサイコパスの芽である。もしもそうだとすれば、サイコパスとノーマルのあいだに区分はありえるのか。また、すべてがアブノーマルである以上、正義にも悪にもサイコパスが潜んでいるとしよう。では、サイコパスの罪は何によって罪と判断されるのか。無論、サイコパスによって判断されるよりほかない。こうしたロジックが正当であるとしても、だ。果たして我々はそれを当然のものと受け入れることができるのであろうか。

 誰もがいわれなき暴力の加害者になることがあるし、いわれなき暴力の被害者になることもある。学生であろうと未成年であろうと例外はない。たとえば、どうしてイジメはなくならないのか。なぜならそのようにして社会が、秩序が作られているからである。なぜならそのようにしてシステムのバランスは保たれているからである。こうした断言を思わせる一場面を主人公のスタート地点としているのが『777 スリーセブン』というマンガであって、それは次第に俯瞰され、学校の外、つまりは社会そのものへと作品の舞台を広げていく。イジメに遭っていた友人を庇ったせいで今度は自分がイジメの標的にされてしまった高校生、佐藤優希はそれでも我慢さえしていたらいつか嵐は過ぎ去るだろうと信じていた。だが、イジメはエスカレートするばかりであった。見かねたのか、とある男子生徒が優希を助けるのだけれど、その男子生徒が誰なのか優希には心当たりがまったくない。優希がイジメに遭っていたのとちょうど同じ頃、市内の通り魔事件を謎のマスクマンが解決したことがテレビのニュースとなっていた。

 ストーリー上、ネタを割ったことにはならないので言うが、優希を助けた男子生徒の正体は優希のもう一つの人格である。いわゆる多重人格が主人公には内蔵されているのだ。この多重人格の顕在と謎のマスクマンとの接近が、点と点のごとく繋がり、イジメの被害者であった少年のライフ・スタイルを大きく豹変させてしまう。優希の住んでいる東京立山市とは、たぶん『バットマン』シリーズにおけるゴッサム・シティのような磁場なのだろう。『仮面ライダーW』における風都でもいいが。そこで次々起こる凶悪犯罪にサイコパスと同質のダーク・ヒーローが立ち向かうというのが基本のプロットとなっている。どんなに残酷な行為でもそれを肯定する人間は必ずいる。暴力は止められるか。報復は否定されるべきか。『ナンバデッドエンド』の終盤で浮上してきていたテーマが、『777 スリーセブン』では学生生活というフレームをはみ出した場所にまで拡張させられている印象を受ける。

 サイコパスである登場人物がヤンキイッシュな価値観との対決を迫られる序盤の着想は井上三太の『隣人13号』を彷彿とさせなくもない。だが、あそこでの主人公があくまでも個人的な動機や欲望に従っていたのに対して、佐藤優希の場合、強いられているんだ、とでもいうようなアンガージュマンからの要請がベースとしてある。この社会と積極的に関わっていくなかでいかに自己は形成されなければならないのか。つまりはそうした使命を課せられているのが『777 スリーセブン』の主人公であって、彼が抱える多重人格は未だ形成されざる自己を象徴しているのだと察せられる。優希を仲間にしようとアプローチしていくる謎のマスクマンは、その理念が是であれ非であれ、少年が社会と積極的に関わっていくことの誘いかけを兼ねている。ガイドの役割にほかならない。矛盾を含んでもなお正義を主張してはばからないマスクマンの態度は、パラノイアを思わせる。マスクマンが一体全体何を目論んでいるのかはいずれ明かされるに違いないが、少なくとも『777 スリーセブン』の異様さをワキから補強している。勧善懲悪のロマンなどではない。サイコパスがあらかじめ確認されている世界の物語なのである、これは。

 それにしても、題材のみをすくい上げたならもっと表現が抽象的であったり観念的であったりしてもいいようなマンガであるにもかかわらず、かつての作品と同じく、登場人物たちの具体的なアクションとリアクションとを通して物語が構成されているところに、さすがの手腕がよく出ている。作者がここで参照しているのは、冒頭のくだりが暗示している通り、ワイドショー的なリアリティである。ワイドショー的なリアリティとは、我々にとって最も身近なフィクションであろう。あるいはノンフィクションとして消費されるエンターテイメントの最たるものだといえる。実際にはそのリアリティ自体、非常に歪んでいて、本来ドラマがないはずのことにドラマを与えてしまうことがあるし、いかなる特殊性をも一般化してしまうことがある。そうした歪みがしかし、『777 スリーセブン』においては、多少大げさかもしれないけれど、今日のこの国のこの社会を(もしかすれば、狂気の沙汰ですらも)真正面から投影したと覚しきカリカチュアライズの精度となっている。

・その他小沢としおに関する文章
 『ナンバデッドエンド』
  13巻について→こちら
  11巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ナンバMG5』
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら 
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
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2013年08月29日
 Stand Up! 1 (マーガレットコミックス)

 心地いい青春の風が空を渡る。近年、河原和音が原作に付いた『友だちの話』では文字通り友情のシーンを、続く『やじろべえ』では複雑な家族たちのシーンを、それぞれ丁寧に描いてきた山川あいじだけれど、どうやらこの『Stand Up!』では春の季節をはじまりとしていく初々しい恋のシーンに着手しているようだ。と、1巻を読みながら思う。初期の頃のようなあざといポップさのなかに若者のイメージをくるませるのではなく、きめの細かい線が一本一本、爽やかな匂いのよく似合う光景を柔らかに織り成している。

 身長が高いわりに幼い性格のギャップを持ったヒロインが、高校に入り、隣の席の男子と比較的速やかに交際することとなるという内容は、所謂はじめての恋愛もののヴァリエーションであって、コンセプトとしては桃森ミヨシの『ハツカレ』や椎名軽穂の『君に届け』などに通じるところがある。が、しかし作者は、登場人物たちをことさらエキセントリックに仕立てたり、筋書きに運命の不思議を重ね合わせられるファンタジーを(少なくとも現時点では)盛り込んではいない。どこにでもいそうな少女が、誰の身にも起こりうるきっかけを経、どこにでもありそうな思春期のイメージを体験しているにすぎない。懐かしいようでいて、どこかしら羨まくなるような日々が、さんさんとした輝きとともに映し出されている。青春の光と影に喩えるなら、これはもちろん光の方である。かといって、充実した学園生活のヴァーチャル・リアリティが単に展開されているのでもない。そうではないだろう。もしも読み手が(至って平凡でしかない)作中の少女や少年の姿を目にしながら眩しいと感じ、憧れるとしたら、それはなぜか。関係性という名のミニマリズムにおいて、登場人物たちの心の動き、とりわけヒロインである古屋卯多子の心の動きが、透き通って見えるほど鮮明でいて、その翳りのないことに読み手の心もまた動かされるからにほかならない。

 事ある毎に頬と耳とを真っ赤にさせる卯多子のナイーヴさ、大変シャイである様子は彼女の心の動きを(作中のレベルでも作外の読み手にも)ダイレクトに伝える。大げさな振る舞いが、かえって彼女を素直で裏表のない存在として際立たせていく。そしてそれが身長が高いこと以外に特徴のないことが特徴であるような卯多子に少女マンガのヒロインに相応しいポジションを与えるという役割を果たしているのである。

 デリケートな卯多子のモノローグは、『Stand Up!』におけるエモーショナルなパートのキーだが、物語そのものを前に進めているのは、隣の席の男子、原田直行の積極性であろう。事実、登場人物たちの相関図は、卯多子よりもむしろ原田を中心にめぐり巡っているところがある。周囲に対する原田のアプローチによって、卯多子の心のなかに動きが現れるのだし、物語にも進展が出てくる。換言するなら、デリケートな卯多子のモノローグとは、要するにエコーなのである。学園生活の一部分であると同時に、学園生活の一場面が自然と引き起こしたエコーなのだと思う。そのエコーの濁りのない響きを通じて、読み手は爽やかな匂いのよく似合う光景に招き入れられる。

・その他山川あいじに関する文章
 『恋々。』について→こちら
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2013年07月27日
 ReReハロ 1 (マーガレットコミックス)

 海野つなみの『逃げるは恥だが役に立つ』と南塔子の『ReReハロ(リリハロ)』は序盤のプロットが非常によく似ている。もちろん、登場人物の世代も作品の本質も支持層もその後の展開もまったく異なっているのだから、単なるシンクロニシティでしかないし、まあ女性向けのマンガに定型的なパターンといってしまえばそれまでの話なのだったが、つまりは次のようなものである。

 金銭的には裕福な一人暮らしをしている男性のもとへ、成り行きからハウスキーパーとして訪れることになったヒロインに対し、雇い主であるその男性の態度はいくらか硬直的であった。家事全般を的確にこなしていくヒロインの能力を高くは買うが、それは契約上当然のことにすぎない。しかし、ある日、男性が体調を崩してしまう。熱を出し、弱まっているところ、ヒロインが看病に訪れるのである。あれこれ世話を焼き、気遣ってくれる彼女の姿を見、男性はついつい態度を軟化させるのだった。

 こうしたプロットを受け、海野ならではの(すぐれた批評性と換言してもいいような)ユーモアを交えながら、結婚という制度、現代的な成人のリアリズムを解体、再構成しているのが『逃げるは恥だが役に立つ』だといえる。他方、『ReReハロ』の場合、主体はあくまでも未成年であって、ティーンエイジャーのラヴ・ロマンスこそが最大のテーマであろう。無論、南のきらきらとした作風もそこで生きてくる。

 序盤のプロットは先に述べた通りである。便利屋を営む父親がピンチのため、かわりに依頼を引き受けたヒロインの早川リリコは、そこで同い年の高校生、金持ちの息子である周防湊に出会う。最初の印象は必ずしもよくなかった二人だったけれど、次第に距離の縮まるその様子がラヴ・ロマンスに落とし込まれている。リッチに過ごしている坊ちゃんは正しく王子様の立場にあり、貧乏暮らしをしているヒロインのヴァイタリティが彼の心を開かせるというのも定型的なパターンではある。

 だが、いいんだよな。少なくとも1巻の段階では、リリコと湊の、カップルとは見なし難く、まだ恋愛感情とは断定しえない、そういう妙ちきりんな関係がとてもいい。普通だったらエモーションが引き出されそうな場面、寸前に息継ぎの「間」を挟み、その「間」を通じることで、やさしいコメディに終始する二人のコミュニケーションに思わずニッコリさせられるのだ。

 饒舌にモノを語るのではなく、読み手の意識をリリコのリアクションに誘導し、同一化させていくかのような湊の視線、それが作中のおいては重要な効果をなしている。
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2013年07月20日
 爆音伝説カブラギ(7) (少年マガジンコミックス)

 おオオ。まさかのクライマックスっぷりに驚きを禁じえない。驚くほどのまさかとはつまり、佐木飛朗斗が原作を担うマンガでは、同時多発的な物語の拡張が長編としてのまとまりを飲み込んでしまうことがしばしばであって、本来は並行であるはずの時間帯が各々の速度でとりとめもなく引き延ばされた結果、あれ、メインのエピソードは一体どれだったんだろう、あらら、全体を総括するようなクライマックスがこないまま作品が終わっちゃったよ、というふうになるのが通常なのだったが、『爆音伝説カブラギ』はその、クライマックスを欠くことこそが佐木飛朗斗であるような流儀を鮮やかに返上している。佐木ががんばったのか。作画の東直輝がえらかったのか。この7巻に至り、おお、これぞ少年マンガぞ、と思わされるぐらいの盛り上がりを導き出しているのである。もちろん、筋金入りの佐木飛朗斗マニアからすれば、普通の少年マンガに堕したとか日和ったとか言われるかもしれない(いや、さすがにそれはないかもしれない)が、いずれにせよ、こんなにもテンションの高まる展開をまったくシカトすることはできやしねえんだ。

 ほとんど一本道化されたストーリーは、クライマックスの最中、とある登場人物が発した次の言葉によって正しく要約されているといっていい。そう、本来は対立的であった〈“朧童幽霊(ロードスペクター)”の為に“爆音小僧”が“獏羅天”と一緒に“魍魎”と大乱闘やってるなんてよ‥!!〉と。すなわち、てんでばらばらに描かれてきた複数の因縁がここにきてついに一箇所の総力戦へと整合されているのである。主人公が多くの仲間(ライヴァル)を得ながら最大の難敵(ライヴァル)に立ち向かうという展開は、やはり少年マンガならではのマナーを思わせる。前巻(6巻)のヒキに予告されていた“魍魎”と“朧童幽霊”の正面衝突は、圧倒的な数による“魍魎”の前に“朧童幽霊”があっけなく蹴散らされ、“朧童幽霊”の後方から“爆音小僧”が合流してくるのだったが、“魍魎”は“爆音小僧”をも歯牙にはかけない。そこにB・R・T(元“獏羅天”)の残党が乱入してき、彼らに急襲された“爆音小僧”は“魍魎”のトップからさらに引き離されてしまう。このまま“爆音小僧”は“朧童幽霊”とともに敗退するのか。正念場である。あわや危機的状況に陥った“爆音小僧”に意外な助け船が。現“獏羅天”の“三鬼龍”がB・R・Tの残党に対して鉄槌を下しにきたのだった。

 阿丸のピンチに駆けつけた“三鬼龍”かっこいい、であろう。彼らをドーピングにし、“爆音小僧”の体勢を立て直す多美牡も富弥也もかっこいいよな、である。“朧童幽霊”の尊も含め、これまで別個に並べられてきた因縁が、その点と点とが、一つに結びついていくという美しいシークエンスが、血なまぐさいヴァイオレンスを通じて、まざまざと浮かび上がっている。もちろん、中核に存在しているのは主人公である阿丸と“魍魎”の頂上である九曜の対照にほかならない。年上の幼馴染み、九曜のことを阿丸は“キリ”ちゃんと呼ぶ。霧澄が、九曜幸叢のかつての名字だからだ。昔、霧澄幸叢は鏑木阿丸と無邪気に約束しただろう。〈オーシ! 目指すは無敵だ! 超無敵な♪♪〉と。だが、九曜がどれだけ巨大な帝国に君臨していようと、それを前にした阿丸は〈“強力な単車(マシン)”と“超デケエ族”の頭領ン成って‥‥ “他の族”は無視(シカト)こいて踏み潰す‥ そんで“超無敵”に成れたんかよ?“キリ”ちゃん‥!!〉という疑問を突きつけずにはいられない。少なくとも阿丸の目に今の九曜は正しいとは映っていないのだ。

 多少の牽強付会を許されるのであれば、巨大な帝国の頭領である九曜は現代アメリカの比喩として解釈できる。このとき、先に引いた阿丸の主張はアメリカ主導のグローバリゼーションに向けられたアンチテーゼになりうるのではないか。過去、所十三と組んだ『疾風伝説 特攻の拓』や桑原真也と組んだ『R-16』、あるいは東直輝との前々作にあたる『外天の夏』において、比較的明らかにアメリカをはじめとした外国と日本との綱引きを登場人物たちのバック・グラウンドに設定していた佐木飛朗斗である。とりわけ『R-16』と『外天の夏』では、グローバリゼーションの権力や資本に固執した大人たちの姿が内容それ自体に暗い影をもたらしていたわけだけれど、『爆音伝説カブラギ』には、あまり大人は出てこない。出てきたとしても重要な役割を負ってはいない。そのかわり、子供たち、不良少年たちの寓話であるような側面が濃くなっていて、むしろ現実の諸問題がアレゴリーであることの強さをおおもとに引き寄せられている印象だ。もちろん、大人が出てくる出てこないの違いは掲載がヤング誌か少年誌かの判断によっているのだろう。

 少年誌のメソッドで『爆音伝説カブラギ』が描かれている以上、それが少年マンガに如実なカタルシスを全開にしていくのは必至であった。警察を斥け、一般車両を巻き込み、国道を堂々と制圧する“魍魎”のパレードは、当然のこと、ありえない。ありえないし、リアリティがないと揶揄されるのとは位相の異なったリアリティを備えている。この場合のリアリティとは、要するに〈“強力な単車(マシン)”と“超デケエ族”の頭領ン成って‥‥ “他の族”は無視(シカト)こいて踏み潰す‥ そんで“超無敵”に成れたんかよ?“キリ”ちゃん‥!!〉という疑問を阿丸から引き出すのに相応しい説得性にほかならない。「超無敵」とは、強権の発動を指していたのか。自分のルールによって他を圧倒することであったのか。阿丸がよく知る“キリ”ちゃんならこう言っていた。〈数集めて 年下狙って ヤバくなんと逃げちまう‥ ンなクソヤロウ共に負ける訳いかねーだろーが♪♪〉と。しかしその「クソヤロウ」と今の“キリ”ちゃんはどこがどう違うのか。こうした疑問が阿丸を巨大な帝国に立ち向かわせているのであって、以下のような二の句を継がせていく。〈爆音の十六代目が“クソヤロウ”に負ける訳にはいかねーからよ‥!!〉

 確かに、九曜には九曜の苦悩と思惑があるには違いない。天目駆と九曜礼奈の死が彼にいかなる影響を及ぼしているのかはわからない。が、決して不幸と悲劇を望んでいるわけではあるまい。にもかかわらず、九曜と“魍魎”が彼らに満たないマイノリティを容赦なく遮断し、それが阿丸の目に正しいと映らないのはなぜか。まるで解答はそこにはないかのように“魍魎”VS“爆音小僧”“朧童幽霊”“獏羅天”の総力戦は、武力の衝突から単車のスピード・レースへとステージを移していく。九曜のボルドールIIを先頭に。“魍魎”の親衛隊、蝶野の“Z650ザッパー”が。遊撃隊、不破の“XJ400(ペケジュー)”が。阿丸のあの“真紅のCB400F(フォア)”が。多美牡の“Z400FX”が。阿丸のために絵真という少女が陸送してきたZ IIを借り受けた富弥也が。兄である駆の形見“火焔模様(フレアライン)のZX-10”に乗った尊が。それら因縁のマシーンが象徴している通り、各々が負った因縁に決着をつけるべく、加速、団子状態のなかを一気に抜け出すのである。

 おオオ。なんというクライマックスっぷりだ。早々にリタイアしたかと思われていた“蛇破美會”大曽根の復活や悪化していく尊の傷口なども、まだまだ油断のならない要素となっている。独特の絵柄をキープしつつ、所十三や桑原真也の作風をハイブリッドした東直輝も見事である。本題からは逸れるが、コミックスの巻末に連載されている『変格不条理ミステリ! ゴスロリ探偵 巻島亜芽沙の事件簿』も毎回、ばからしくていいんだよな。ニコニコ動画調のコメントを導入したギャグ・マンガはほかにもあるけれど、それが佐木飛朗斗の過剰な様式美とメロドラマにぶっ込まれているところに、タブー破りとも似た痛快さがある。痛快さ、そう、デビュー当初の東には希薄であった痛快さが『爆音伝説カブラギ』の本編にもある。それがいつどこで身についたものか。一概にはわからない。とはいえ、二作、三作と続いてきた佐木とのコンビはターニング・ポイントとして間違いなく無視できないだろう。事実、『爆音伝説カブラギ』では、佐木のキャリアでも稀であるようなクライマックスを具体的なレベルでコマに落とし込み、これぞ少年マンガぞ、と思わされるぐらいの盛り上がりを導き出しているというのは前述した。

 6巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』(漫画・所十三)
  1巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2013年07月10日
 ワルツのお時間(1) (講談社コミックスなかよし)

 社交ダンス・マンガ・ブームはあるのか。あったのか。少なくともここ最近の講談社にはそのような動きがあったのではないか。たとえば、竹内友の『ボールルームへようこそ』が少年マンガのジャンルで、ヤマシタトモコの『BUTTER!!!』が(先般完結してしまったが)青年マンガのジャンルで、各々注目を集めていたわけだけれど、さあそこに少女マンガのジャンルから加わっていこうとしているのが、おそらくは安藤なつみの『ワルツのお時間』である。

 同じく社交ダンス(ソシアル・ダンス、ボールルーム・ダンス)を題材にしながら、少年性のガンバリズムを集中的に描いているのが『ボールルームへようこそ』であり、思春期特有の自意識やディス・コミュニケーションを回路としていたのが『BUTTER!!!』であったとすれば、やはり少女マンガならではのときめき、つまりはラヴ・ロマンスとビルドゥングス・ロマンの交差であるようなそれをきらきら光らせているのが『ワルツのお時間』だと、少なくともこの1巻を読むかぎりはいえよう。

 ダンス教室の息子だが、とあるいきさつから生徒相手の営業でしか踊らなくなってしまった南たんご。彼を再び競技ダンスに向かわせたいのが、今やjr.界のスターとなった須藤勇誠と白石菫である。三人は幼馴染みであった。勇誠と菫の期待にもかかわらず、たんごは決して重い腰をあげようとしない。しかし同じ中学校のクラスメイトである牧村姫愛(ひめ)がダンス教室にやってき、熱心な彼女と関わるうちに心境の変化を覚えはじめる。地味でぽっちゃりとしているため、異性にも同性にも低く見られていた姫愛もまた、たんごとの出会いやダンスを通じ、次第に自分の魅力を開花させていくのだった。

 内面に傷を負った王子様とシンデレラ・タイプのヒロインが互いに互いを必要不可欠としていくという内容は、正しく少女マンガの様式であるし、どうして自分がその人を選んだのか、どうして自分はその人に選ばれたのかというテーマは、社交ダンスにおけるパートナーの形式によって今後確認されるのだろうと思う。実際、序盤のストーリーと次のようなモノローグは、姫愛とたんごの未来を占う上で非常に暗示的だ。〈最高のパートナーに出会うと / 手をとった瞬間わかるんだって / まるで運命の人のように――…〉

 姫愛にとってたんごは、文字通り、導き手である。美しい名前には亡母の願いがかけられている。だが、美しくもない自分には不釣り合いだと強く実感せざるをえない14歳の少女が、王子様の差し出した手に導かれ、それに相応しいだけの輝きを備えたい。消極性のかわりに積極性を持たせる少年の存在は少女のなかで「魔法使いみたいにすごい人」だと喩えられることとなる。その魔法が少女に「お姫さま」になれることを信じさせるのだ。

 これまでのところ、社交ダンスのモチーフはあくまでも王子様の魔法と二重写しとなっている。だが、王子様であるたんごが競技ダンスに復帰したとき、以上の枠組みはいくらか違うものとなるに違いない。姫愛の主観から見られている社交ダンスの魅力ばかりではなく、たんごの主観から見られる社交ダンスの魅力を自然と含み、たんごにとって姫愛がどのような存在なのかも重要なパートとなっていかなければならないためである。

・その他安藤なつみに関する文章
 『ARISA』
  11巻・12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
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2013年07月09日
 サンケンロック 19 (ヤングキングコミックス)

 2012年、村上春樹が朝日新聞に発表したエッセイに「魂の行き来する道筋」というのがある。おそらく、それを国内ではじめて引用したマンガがBoichiの『サンケンロック』になる。引用は18巻にある。日本のヤクザと韓国の政界の巨大な権力が拮抗するなか、韓国でギャングのボスとなった日本人の主人公であるケン(北野堅)が、移民であるがゆえに韓国の下層に追いやられた暗殺者のバンフムと、ワケありの死闘を繰り広げるそこで引用されている。日中韓の関係を指した件のエッセイを日本で活躍する韓国人の作者が引用していることの意図は、もちろん、十分に汲まれるべきものであろうが、おいておく。それよりむしろ、作品の内部において、引用である「しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない」という一節が喚起している展開でありテーマの方に目を向けられたいと思うからである。

 村上の「魂の行き来する道筋」に呼応する疑問=エモーションを作者はケンに次のように言わせている。〈この世の中の大体の人たちは良い人で善良だ / 守らないといけないと習った事を守りたがるし… 真実を追究する / そんな良い人々が… どうして互いに憎悪しながら暴力を擁護する事になるんだろう? どうして国籍が違うという理由だけで暴力を振るわれないとならない? 苦しんで生き続けて / その上 死んでいったりしないといけない? どうして… 国籍が同じという理由だけで犯罪者が保護され / その上 堂々とできる? 一人の良い人が悪魔になっていったのは… 何人かの悪党のせいなのか? じゃなければ―― 国家がギャングだからなのか…? バンフム 国家の正体がギャングだから… おまえが俺を憎悪しているのか? 俺らが互いに戦って… 互いの魂を遮断し合っているのか…!? 〉

 ギャングとは権力のことである。しかし、権力とは国家のことである。であるなら、国家こそがギャングなのではないか。ギャングを悪だとするのであれば、国家もまた悪なのではないか。ケンの疑問=エモーションは極めて素朴に発せられている。だがそれが、韓国とベトナムのミックスであり、ミックスであるがために虐げられてきたバンフムに向けられているとき、カテゴリーの差別がいかなる暴力を生じさせるか、その成果を純正の国家やギャングは不可避に備えていることをも同時に述べるものとなっていく。バンフムとケンの死闘は、さながらジョン・レノンがベトナム戦争の時代に歌った「イマジン」では変えられなかったこの世界のパートを剥き出しにし、あらためて権力と暴力とが、国家とギャングとが、本来的には区分されていなければならないそれらが、行為のレベルでは一致してしまうことの危うさを自ずから背負っているかのようでもある。

 それにしても、あの出来の悪いギャグみたいだった芸能界編は何だったのだろうか。不動産激闘編に入ってよりこちら、すさまじくシリアスな内容に『サンケンロック』はなっている。女性の胸や尻がたくさんのスケベを描きたいという作者の欲望は、鍛えられた肉体のマチスモと熾烈なバトルを描くための技術に変換され、いやまあヒロインであるユミンの陵辱シーンやらノーパン戦士とノーブラ戦士の謎の矜持やらあるにはあったが、物語の本筋はあくまでも不屈であるような意志が絶望や不幸をいかに凌駕するかであり、緊張の張り詰めた作画にテンションの高さを上乗せすることで、ガッツとガッツのぶつかり合いが、文字通り、他に類を見ないクオリティで具象化されていたのであった。そして、この19巻では、17、18巻と延々描かれてきたケンとバンフムの死闘がついに決着する。ああ、そのクライマックスたるや。ここ最近のマンガで一番に認めたいぐらいのアクションであろう。

 女性コマンドーの襲撃。ケンとバンフム、ユミンの三位一体。場面それ自体の急変と同じくして、登場人物たちの関係が大きく転回しているのがわかる。ケンの訴えがバンフムに影響を及ぼしたように、バンフムの訴えもケンに多くの影響を与えている。このことはしかし、韓国のギャングのボスであるケンと日本のヤクザの娘であるユミンのラヴ・ロマンスに対しても少なからぬ影響を持ちえていくのだろう。『サンケンロック』とは、そもそもソウルに渡ったヒロインを主人公が日本から追いかけていったことをはじまりとしていたのであって、少年だった主人公は韓国のアンダーグラウンドと深く関わる最中で青年への脱皮を遂げる。ヤクザの娘でありながら韓国で警察官となったヒロインもしかり。少女の立場をすでに終えている。国境や国籍を越えた場所で、当人の思惑をよそに、彼らは幾多の試練を、今までも前にしてきたし、これからも前にしていかなければならない。

・その他Boichに関する文章
 『ラキア』5巻(原作・矢島正雄)について→こちら
 『HOTEL』について→こちら
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2013年07月04日
 静かなるドン(108)(完) (マンサンコミックス)

 新田たつおの『静かなるドン』は、長いあいだ、コミックスのオビに累計4400万部とアピールされていた。実際、えらい数字ではあるのだが、どれだけ巻数を増やしてもそれが更新されることはなかった。ああ、このクラスのマンガでも(あるいはタイトルだけで内容を知っている気になってしまうようなこのクラスのマンガだからこそ)売り上げを大きく伸ばすのは難しいんだな、と思わされた。しかし、ついに最終巻のオビで「累計4500万部突破!」と相成った。最終巻というのはつまり108巻のことで、108という数字はもちろん除夜の鐘の音に相応しているわけだけれど、まあ、そこまでの含みがあるのかどうかはともかくとしても、まるですべての煩悩が遠く過ぎ去ったみたいに穏やかでいて静謐なラストを迎えるだなんて。本当に誰が予想したかよ。ギャグであること、シリアスであること、それからアクロバティックな展開を並立させながら、『静かなるドン』は一組のカップルの数奇な運命を、いや、大団円というのはとはまたちょっと異なる。感動とも似て非なる。けれど、確実に素晴らしく素晴らしい光明のなかへと到着させたのである。

 鬼州組の海腐が退き、白藤龍馬が台頭した当初、ああ、近藤静也はこいつと最終決戦を繰り広げるのだな、と予感させたよね。もしくは物語のスケールが拡大するにつれ、世界皇帝リチャード・ドレイク5世が姿を現したときは、ああ、近藤(と龍馬)はこいつと最終決戦を繰り広げることになるのかな、と想像させた。おそらく、構想の段階ではそのような筋書きもあったかもしれない。が、結果的にはそうはならなかった。龍馬は呆気なく退場し、ドレイクは容易く失脚してしまう。てっきり、カリスマとの壮絶な死闘を通じて主人公はエンディングに向かうのだと踏んでいたのだが、違った。これは大河型のストーリーにおける従来の文法を巧妙に逸しているということでもある。確かにシチリア・マフィアのドン・メタボーニやアメリカの政界を裏から操る死の商人チャック・グリードキンは巨大な権力であるし、世界を揺るがすほどの秘密を収めたメモリー・チップを巡り、主人公はもちろん、ヒロインの秋野明美をも巻き込んでいく陰謀劇こそが本筋という見方もできる。が、実のところ、それらも後景でしかなかった。メタボーニの脅威は日本国内における東西ヤクザの対立にあっさり上書きされ、グリードキンは最後までせこい悪役として描かれる。

 かくして、前景に浮上してくるのは、やはり、近藤と秋野のラヴ・ロマンスにほかならない。龍馬の復讐のため、ドレイクやグリードキンに単身挑んでいく主人公の姿、あれはヤクザと会社員の二極に引き裂かれる近藤静也とはまったくべつのものであろう。どちらの組織をも離れ、あくまでも個人としての責務を果たそうとしている。このとき、組織内におけるメタボーニの引退やドレイクの失脚も同様、個人への回帰であり、それがささやかな幸福を伴っているかのように表されているのは案外、象徴的である。その意味で、メタボーニやドレイクすら歯牙にかけず、どんな組織も敵わないグローバリズムの頂点に立ち続けようとするグリードキンは正しくヒールに相応しい。グリードキンのもとに辿り着いたはいいが、囚われ、死よりも強烈な拷問にかけられることとなってしまった主人公を一体誰が救えるのか。もちろん、『静かなるドン』が近藤と秋野のラヴ・ロマンスをメインのテーマにしているとするのであれば、その役割は秋野明美以外にありえまい。近藤を助けるべく、龍馬から託されたマイクロ・チップを手にグリードキンとの直接交渉に向かおうとする秋野が、下着会社であるプリティの社長の座を他に譲り渡していかなければならないのは、無論、それが組織の問題ではなく、恋愛という個人の領域に属したテーマによっているためだ。

 グリードキンと相対する秋野は「新鮮組三代目の妻」を名乗る。そうした肩書きにおいて比重が大きいのは「新鮮組」の方ではない。「三代目の妻」だという点だろう。近藤はアメリカに仇をなすテロリストとしてグリードキンに囚われた。いくら個人として行動しようが、日本のヤクザはアメリカの政府にテロリストだと断定されているからである。たとえ冤罪であろうと、そのテロリストに味方する行為はテロリズムになりかねない。ヤクザのパートナーという肩書きは、個人であること、それが図らずもパブリックな立場を負ってしまうようなアンビバレンスを暗に含んでいるのではないか。もしかしたら、そうしたアンビバレンスこそが『静かなるドン』の、近藤と秋野のラヴ・ロマンスにとって最大の困難を担っていたのであって、それがクライマックスにきて、とうとう一つの結論に統合される。秋野に救い出された近藤静也とは何者であろう。彼女と同じプリティの社員だろうか。「新鮮組三代目」なのだろうか。それらとは既に無関係ないち個人にすぎないのだろうか。二人の涙を通じて確認されるのは、そのような問いでさえもほぼ無効化された境地なのであった。それはたとえば、フランスの哲学者であるサルトルがいうところのアンガージュ(アンガジェ)と密接な存在を思わせる。アンガージュとはもちろん、英語でいうエンゲージ(engage)のことであり、もしも近藤をサルトルに喩えられるなら、公私ともサルトルに影響を与えたボーヴォワールは秋野となるわけだ。

 かように様々なドラマを乗り越えてきた近藤と秋野だったが、しかし、だからといって「いつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし」とはならない。どれだけ深く愛し合っていながらも二人は別離という答えを出すのだった、ああ。多くの犠牲の上に成り立ったラヴ・ロマンスである。ギャグのタッチがそれを忘れさせるけれど、あまりにもたくさんの人間が血を流しては死んでいった。あるいは作中の当事者にあたる二人だけがそれを決して忘れてはいないので、近藤はヤクザに戻り、秋野は日本を旅立つ。ここで彼らが選び取っているのは、単純に自分たちで自分たちを罰するような罪悪感などではない。過去にあったすべてが無駄ではないのだとし、積極的に未来を築き上げるにはどうすればいいのかを決心している。最後のとき、秋野は近藤に次のような言葉をかける。〈あなたはちゃんと道を選んだわ / あなたは今 / 何も隠さず / あなたの選んだ道を突き進んで!/ もう誰にも卑怯だなんて言わせない〉というこれは、誰もが何らかの使者であるということ、運命からは逃れられないとしても、運命は変えられるものだということを示唆している。現在が未来へと通じているかぎり、運命は変わり続けるものだということを肯定している。そうであるがゆえに、二人の別離は悲しみよりも美しい。

 新鮮組に復帰した近藤は〈たとえそれが叶わぬ夢だとわかっていても…〉国内の暴力団の解体を目指す。そこにはもう迷いはない。かつて『静かなるドン』とは、昼はサラリーマン、夜はヤクザの組長、凶暴性を内に秘めながらもおっとりとした主人公の姿に由来していた。だが、それはラストのページでまったくべつの意味に変容している。トレードマークのサングラスはある種のペルソナに相違ないが、それは今や本性を隠すためのものでもないし、押しつけられる圧力を逃れるためのものでもない。どのような運命をも引き受ける。引き受けられるという覚悟と同義であろう。約束を守ることは約束に守られることでもある。約束を生きることの尊さが穏やかでいて静謐な場面に重なる。凪のイメージに投影される。

 それしても見事なエンディングだ。ワキの登場人物たちの進退にまで十分な気が配られている。(当初はそうでもなかったが)ギャグ・マンガのジャンルから飛び出してきた生倉と肘方はまるでギャグ・マンガのジャンルに帰っていったようでもあり、シリアスな劇画のジャンルから飛び出してきた鳴戸と龍宝はまるで劇画のジャンルに帰っていったようでもある。そう考えられるとしたら、いくらか牽強付会になるかもしれないけれど、近藤と秋野の選んだ道がどこに繋がっているのかがよくわかる。荒唐無稽なファンタジーをくぐり抜けた先でようやく二人はフィクションのなかの現実を歩きはじめたのである。分かれ、離ればなれであったとしても、同じ現実を。歩いていく。

 107巻について→こちら
 98巻について→こちら
 文庫版1巻、2巻について→こちら
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2013年06月28日
 ノスタルジア (マーガレットコミックス)

 系統としては、羽柴麻央や咲坂伊緒あるいは初期のアルコを彷彿とさせる一方、ぼんやりとした輪郭の淡いタッチが、80年代から90年代初頭における『別冊マーガレット』のラインを思わせる。もちろん、新人である以上、こうした特徴は徐々に洗練され、変化していくに違いないし、現状、没個性だというのでもない。総じて、いなたい。だが、いなたさのなかにきらきら光るものがしっかり備わっていて、それを個性と呼びたくなるようなところがある。全六編を収めた読み切り作品集だが、「真っ赤なチューリップを君に」や「キンモクセイ」「ゆめのはなし」などは、少女マンガの枠にそいながら、ヤング誌あたりにひょっこり載っていても案外不思議ではなさそうな雰囲気を持っており、これを普遍性と呼びたくなるようなところがある。萩原さおりの『ノスタルジア』である。

 ここに入っている読み切りはどれも、ボーイ・ミーツ・ガールをモチーフとしているといってよい。たとえラヴ・ストーリーとは見なせないものであったとしても、一対の少年と少女を基本のユニットにし、二人の交流がどのような変化を心に及ぼすのかを掴まえているのである。おおよその場合、ボーイ・ミーツ・ガールとは、人と人の出会いはその人を変えられるか、という疑問形に、人と人の出会いはその人を必ずや変えられる、という断言で答えることであろう。「キンモクセイ」に描かれているのは正しくそれが起こったときの「記憶」であり「風景」にほかならない。はっきり〈秋は好きじゃない〉と否定されていたはずのことが、かつての同級生との穏やかな時間を通じ、〈もう少ししたら 秋を好きになれそうな気がする〉と肯定されるような結びに運ばれていく。

 同じく「ゆめのはなし」では、漠然とした将来、漠然とした不安、漠然とした自分自身を持て余した少女の、決して急ぐのではなく、ただ漠然とした日常を過ごしながら、次第にこうと足どりの定まっていく様子が、ボーイ・ミーツ・ガールの挿話として描かれる。

 美大の受験に備え、近辺の画塾に通いはじめたヒロインが出会ったのは、大変才能に恵まれた少年であった。彼女が直面するのは、彼との実力の「ひらき」である。少年の置かれている立場がトップだとすれば、少女の置かれている立場はボトムだといえよう。しかしどうしてか。少年は少女のことを気にかける。なぜ気にかけるのか。詳細を述べようとするなら、この、なぜ、には不思議な巡り合わせが隠されており、題名にある「ゆめのはなし」の「ゆめ」は一種のダブル・ミーニングになっているのだけれど、お話そのものはさほど複雑ではない。単純に、少年の少女に対する積極性によって両者の「ひらき」が越えられる(または埋められる)こうしたアプローチの在り方をロマンスだと解釈しても構わないと思う。ただし、作品の体温、優しい余韻はやはり、ラヴ・ストーリーとは一概に判断できない含みの方からやってきている。

 足が地に着いていない、という喩えがある。「ゆめのはなし」において、様々な角度の構図とアクセントの凝らされたコマ割りが再現しているのは、あくまでも日常を日常たらしめている「風景」だろう。だが、そうした「風景」が浮き彫りにしているのはむしろ、立場の違いこそあれど、足が地に着いていない、という一点で共通している少女と少年の姿なのではないか。引いたカットでは、確かに彼らは「風景」に溶け込んでいる。反面、寄ったカットになると、その眼差しは具体的な「風景」とは違うどこかに向かっている。少なくともそう感じられる対比が、いくつかのシーンに生じている。では、そのような乖離はどうしたら統合されるのか。

 答えは最後の場面にある。少年の発見した「記憶」は紛れもなくボーイ・ミーツ・ガールのそれであって、固く握られた手、走っていく二人の姿、まっすぐな足どりに象徴されているのは、人と人の出会いはその人を必ずや変えられる、という断言にほかならない。
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2013年06月21日
 デビルマンG 3 (チャンピオンREDコミックス)

 そもそも『バイオレンスジャック』の時点で次元の複数化が見られはじめた永井豪のブランドは、現在もなお出版社や作者、シリーズをまたぎながらそのシェアード・ワールドを拡大化しつつある。なかでも『デビルマン』のタイトルを冠したものは、過去の公式二次創作群(傑作も多く、個人的にはPCゲーム『ラストハルマゲドン』を思わせる井上大助の『デビルマン戦団(バトラー)』の続編を今でも待っている)もそうだし、先般1巻の出たTEAM MOON『デビルマン対闇の帝王』がそうであった通り、基本的には黙示録的なカタストロフを題材としているのだったが、高遠るいの『デビルマンG(グリモワール)』に関しては、いや確かに黙示録的なカタストロフをバック・グラウンドにしてはいるのだけれど、むしろスケベとギャグの部分に永井豪のイズム(もちろん、それは高遠自身の持ち味でもある)を大きく感じられた。ドジな魔女、マキムラミキ(魔鬼邑ミキ)が悪魔族の勇者アモンを不動アキラの犠牲によって召喚してしまい、人類の平和を守るべく、どたばたタッチの奮闘劇を繰り広げていくのだ。

 しかし、この3巻に入り、物語は新たなフェーズに突入する。オリジナル版のキー・パーソンである飛鳥了が登場せず、タイトルに象徴されているデビルマンの存在もまた確認されてこなかった作品である。『デビルマンG』における不動アキラは、オリジナル版の設定上、デビルマンではない。ホスト(宿主)であるアキラを乗っ取ったデーモンにほかならない。正義感に溢れたミキをサモナー(召喚者、接触者)としているため、彼女に協力せねばならず、同族への裏切りを含めた彼の行為は「デーモンハンター」でしかないのだった。では、『デビルマンG』とは決してデビルマンの出てこない『デビルマン』なのかと思っていたら、ついにデビルマンきた。けど、不動アキラじゃねえんだ。実写映画版の代名詞と化したあの〈ハッピーバースデイ………悪魔人間(デビルマン)!!!!〉のフレーズが引用され、あらぬ人物がデビルマンへの覚醒を遂げるというのがここでのクライマックスである。

 大きなところのみを挙げるなら、1巻では牧村(魔鬼邑)家への襲撃が。2巻では悪魔降臨のサバトが。原作のヴァージョンとは異なったかたちで再現されていたわけだけれど、3巻ではオリジナル版のラスト・シーンがリメイクされている。不動明と飛鳥了の最後の語らいである。だが、それは半ばギャグとして見られたいものであって、パロディの範疇に入る。既にいったように、『デビルマンG』に飛鳥了そのものは登場してきていない。おそらく了の父親に対応している人物は、雷沼教授のパートナーとして2巻であっさり死んでいる。前述の場面で了の代理を務めているのは水妖族のニクスなる悪魔だ。が、意外だったのは、飛鳥了は登場しないとしても、その正体である魔王サタンはストーリーに関与してき(カヴァーも飾っているしね)、はからずもデビルマンの生誕を引き起こしてしまうことであろう。デビルマンとは何か。〈悪魔族(デーモン)に憑依されても人の心を失うことなく 悪魔の力を持った人間として悪魔と戦う者!!〉という解答がそこで、不動アキラではなく、他の人物により宣誓されることとなる。

 それぞれの思惑とは別にニクスやシレーヌが、デーモンの襲来に対し、アモンと共闘するという展開はいいね。どの作者のヴァージョンでもクローズ・アップされがちなシレーヌはともかく、ぶらりと登場したニクスはてっきりコメディ・リリーフかと思っていたよ。それが少年マンガ的な意味で正しくライヴァルの役割を帯びていくのはなかなか。テンポの良い話運びは、近年永井自身とダイナミック・プロの名義で発表された『改訂版デビルマン』や『激マン!』のヴァージョンよりもオリジナル版に近い。
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2013年06月20日
 常住戦陣!!ムシブギョー 10 (少年サンデーコミックス)

 架空の日本史が舞台となってはいるが、昨今の少年マンガが描くファンタジーにおいて主流派であるギルドものに、福田宏の『ムシブギョー』も入る。ギルドものでは通常、外敵と内敵が用意され、おおよその場合、前者はバトルのロマンに転じ、後者は陰謀論めいた要素を汲んでいくのであって、無論、ほとんどの作品は前者と後者とをワン・セットにしながらストーリーを練ってはいるものの、システムの成り立ちにこそ諸悪や本当の問題点は潜んでいるという内敵の発想の方に現代の様相は反映されているのではないか。あるいはここまで少年マンガは成熟したと言いたい向きもあるには違いない。しかし、時代遅れであることを承知の上で述べるなら、それはちょっとこう、なんかあんまりロマンを感じないんだよね、と思わされる機会が少なくない。

 題名にある「蟲奉行」をめぐる謎は仄めかされ、先送りにされてはいるけれど、システムにおける派閥争いを主人公のイノセンスによって割とあっさり乗り越えてきた印象の『ムシブギョー』である。それが真田幸村編に入ってよりこちら、さあ外敵のターンだといった感じになってきており、市中見廻り組と真田十傑蟲が直接相まみえることとなったこの10巻では、シリーズのクライマックスに向かい、ある種の総括がはじまっている。つまりはバトルのロマンを前面化し、そのなかに因縁の回収を描いていくのだった。

 シングル・マッチ(場合によってはタッグ・マッチ)の形式でヤマ場が作られていくというのは皆さんお馴染みのパターンであろう。外敵を強化しようとすると当初は異形であったそれが知能を持った人型として再現されるようになるというのもパターンではある。ワキの登場人物たちによる局所戦がクローズ・アップされることで主人公の活躍が後景化するというのもパターンにほかならない。しかしまあ『ムシブギョー』の最大の魅力はやはり、主人公である月島仁兵衛の無限に近いポジティヴ馬鹿さ加減なのではなかろうか。仁兵衛と同じ市中見廻り組の火鉢と恋川が強敵を前にそのポテンシャルを発揮するシーンを見られたい。そこで彼らを起爆させているのは、確かに過去の回想なのだったが、その過去の回想に対するアティテュードの極めてポジティヴであることが正しく勝利の要因を為しているのであって、そうしたアティテュードが仁兵衛との出会いによって開花されたものであることは1巻からの読み手に明らかだ。換言するなら、シングル・マッチの形式に主人公からの影響を(ダイレクトに、ではなかろうと)盛り込むことでチーム・ワークのテーマをも複合している。

 いずれにせよ、苦悩らしい苦悩を(今のところ)ほとんど持たない仁兵衛の存在は、現代の少年マンガの主人公としては意外と興味深い。鈍感ではあるのだろうが、内面が欠如しているというのではない。行き当たりばったりでありながら、まったく無反省というのでもない。そうではなくて、徹底してポジティヴ馬鹿であるようなスタンスにきっちり焦点が絞られ、そこから一切ずれていないのだと思う。
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2013年06月15日
 銀のスプーン(7) (銀のスプーン (7))

 ぼろぼろ泣くでしょう、これ。ぼろぼろ泣くよ。ルカのかわいらしさといじらしさはずるいし、トミカの消防車でぼろぼろ泣く。前巻(6巻)に引き続き、自分にもう一人の弟がいることを知り、もしかしたらその弟のルカ(雨宮路加)が母親からネグレクトされているのではないかと思った主人公の律は、自分がどうすればいいのか、自分に何ができるのかを悩む。誰にも悩みを打ち明けられないせいで、ついにはあんなに親密となった夕子との距離も開きはじめてしまうのだったが、それでもルカのために多くの時間を割かずにはいられない。幸福を願うこと。幸福は伝えられるということ。律とルカ、そして早川家に訪れる新たな転機に、ちくしょう、幸福に見えることは不幸に見えることの何倍も泣けるんだな、と実感させられるのが、小沢真理『銀のスプーン』の7巻である。

 サイキックスがいい奴であった。相変わらず駄目な奴だけれど、いい奴であった。シリアスな展開が続くなかに、こういうユーモアを入れ、行き詰まりの展開をギア・チェンジさせるそれが無理のない筋を運んでくるところに、ああ、『銀のスプーン』の魅力はあるのだなあ、と思う。一個の人間から多方向に伸びる関係性の芽が、ある場合には夕子のようなすれ違いを生んでしまう。ある場合にはサイキックスのような励ましやアドヴァイスとなりうる。翻り、そうした様々な関係性の芽を束ねることでしか一個の人間は充実されえない。プライオリティの違いはあるかもしれないが、ルカを含め、誰もが律にとって欠かせない存在なのであった。料理マンガ(グルメ・マンガ)の体裁や家族というテーマで考えるなら、もちろん絵のスタイルや読者層は異なるものの、案外うえやまとちの『クッキングパパ』(とりわけ、まことが思春期を経て以降、70巻あたりから)の印象に近いものがあるのではないか。

 引き合いに出したついでに述べるなら、『クッキングパパ』が(題名にある通り)父親であったり父性であったりを頂点とした作品であるとすれば、『銀のスプーン』は、むしろ父親のいない舞台を描いているといえる。家族、家庭と生活において、母親がその核となっているのである。したがって、その母親を失ってしまうかもしれない可能性が、物語の序盤では、登場人物たちの困難となっていたのであって、反対にこの7巻では、母親の母親であることの寛容さを通じ、幸福なワン・シーンが、登場人物たちにもたらされていく。このとき、早川家の母親とルカの母親(律の実の母親でもある)を一つの対照として、たとえばそれは良い母親VS悪い母親のような図式で見ていいものだろうか。おそらくは微妙に違っている。なぜなら、ルカの母親が母親になることを拒んだ結果、ルカは育児放棄されているのだし、前例である律の立場も踏まえるとしたら、ルカの母親は母親のイメージそれ自体を徹底的に手放している。

 正直な話、ルカの母親が幸福か不幸かはわからない。一概には判断できない。しかし、少なくとも『銀のスプーン』の倫理においては、早川家の母親が幸福のイメージを支えているのは明らかだ。ルカのことで悩んでいた律だったが、サイキックスのアドヴァイスを受け、そしてとあるハプニングを得て、とうとう言えないでいたことを母親に打ち明けることとなる。そこで律は母親に救われている。いや、律ばかりではない。律をあいだに挟みながら、ルカもまた早川家の母親に救われているのであって、物語の暗さも、あるいはそうした物語を目にしている読み手も、元を辿るならすべて早川家の母親に救われているような構造が出来上がっているのである。ともあれ、ルカのかわいらしさといじらしさがもう、ずるいんだよ。トミカの消防車、つまりオモチャは子供にとって幸福のシンボルであろう。それを兄弟4人の複数で同時にプレイできるWiiのマリオカートへと移し換えたワン・シーンがあまりにも穏やかで平和で、ああ、これは涙もろい人間には仕方ない。ぼろぼろ泣くね。

 6巻について→こちら
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2013年06月13日
 手塚・赤塚賞受賞作品集 平成24年度上期

 久保拓哉の『鐘鳴らしのパン』は平成24年度上期(第83回)手塚賞の準入選作だが、偶々読んだら、なかなかヒットであった。一度『ジャンプSQ.19』に掲載されたらしいのだけれど、見逃していたのは不覚だった。騎士が出てくるような中世的な世界を舞台としたファンタジーになっているものの、冒険活劇が繰り広げられているというのではない。ドラゴンやモンスターなどと戦わないし、魔法使いも出てこない。しいていうなら、おとぎ話や童話をマンガでやろうとしているかのような印象を持っている。現代的な毒気のなさに対して注文をつけたくなる向きもあるだろう。しかし、少年性のイノセンスが何よりの正義になりうることを絶対的に信頼した上で最小限のギミックを使いながら編まれたドラマからは澄んだカタルシスが伝わってくる。やさしくあたたかい明かりが灯されるようにである。

 パンは、小さな体にもかかわらず、とんでもない怪力を持つ少年だった。とあるいきさつがあって、時計塔の番をしているミゲルはその仕事をパンに助けられている。老人であるミゲルには町中に時刻を知らせられるほど巨大な鐘を鳴らすことができず、ミゲルの生活を守るために(皆には隠れて)パンが彼の代理をしていたのである。パンは誰より他人に親切な少年でもあった。パンが、ミゲルの住む時計塔に、ガスという行き倒れになっていた青年を運んできたのと同じ頃、騎士団の入団試験が行われることとなった。ガスは、パンが騎士になりたいのではないかと思う。だが、入団試験は鐘を鳴らす時刻とちょうど重なってしまっている。参加するとしたらミゲルの仕事を手伝えない。花屋になろうとしてうまくいかなかったガスは、せめてパンには自分の夢を叶えて欲しいと考え、ミゲルに相談を持ちかけるのだった。それはつまり、パンを入団試験に送り出してやって、ガスとミゲルの二人で巨大なあの鐘を鳴らすこと。しかし、ガスが想像する以上にその作業は困難で、入団試験の最中、時間が過ぎようとしても鳴らないでいる鐘にパンの注意は奪われていく。

 入団試験のアトラクションとアクションに少年マンガらしさがよく出ている。が、事実上のクライマックスを担っているのはガスとミゲルの奮闘だろう。少年、青年(中年)、老人の三者が主な登場人物となっているのだけれど、三者の関係を冷静に見るのであれば、大の大人二人が非力で不甲斐なく、(精神的にも体力的にも)子供一人に負担をかけているにすぎないのだし、これに対して、だらしないぜ、情けないなあ、との感想を抱いても構わない。とはいえ、それはクライマックスのわずかな瞬間にほんのちょびっとだけ返上される。そのわずかな瞬間におけるちょびっとした返上が作品全体のカタルシスとなっているのであって、本質的にはショボいはずのドラマを数割増しで底上げできているのは、やはり、少年性のイノセンスを是とするような思いなしが前面化されているためだ。少年性のイノセンスがテーマとしてどうのという以上に、そうした前面化の手法が魅力の根っこを為している。魔法使いの出てこない物語に魔法を作っている。
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2013年06月09日
 エイト(2) (エイト (2))

 いやもちろん、『あいつとララバイ』や『シャコタン☆ブギ』にもロックン・ロールやブラック・ミュージックは流れていたが、これまで主にモーターサイクルあるいはモータリゼーションを題材にしてきた楠みちはるが直接的な音楽マンガに挑戦するというのは最初驚きであった。ここにきてどういう路線の変化かと思われた。しかし『湾岸ミッドナイト』そして『C1ランナー』と、この『エイト』を通して見るかぎり、基本は同様のテーマを描き続けているよう。それはつまり、国産(日本製)であることの歴史は継承できるか、にほかならない。『湾岸ミッドナイト』や『C1ランナー』において国産車と国産のマス・メディアとして現れていたものが、『エイト』では国産のロック・ミュージックと国産のマス・コミュニケーションに移し換えられている(だけ)だと考えられたい。あくまでも国産でしかありえない我々が本当はどこからやってきたのか。なおかつ、どこへいこうとしているのか。こうしたヒストリーへの問いを内蔵した現代というポジションが、かつては巨大な産業であり、ポップ・カルチャーであった音楽に今も関わる中年たちと少年の姿を通じ、ストーリー化されているのである。

 その少年、エイトは父親を知らない。父親の鮎川和人は80年代の伝説とされたバンド、ジャガーのギタリストであった。元ジャズ・ミュージシャンの祖父、トミーに育てられ、和人の形見のギターを携えるエイトだったが、父親が誰なのかを知らない。それが高校2年のとき、中学の同級生であるニーナ(新名)と再会、商業高校でバンドを組んでいる彼に才能を見出され、メンバーに誘われることとなる。それまで自宅で一人、誰にも聴かせることなくギターを弾き、満足していたエイトだったけれど、ニーナやバンドの熱に押されながら練習に参加し、ついには文化祭にステージに立ち、大勢の人前でプレイをする機会を得るのだった。というのが、1巻から2巻までのあらすじである。父親を知らないエイトが、父親と同じくギタリストへの道を歩みはじめる。これはいわずもがな、自分のルーツに近づいていくというプロセスであって、物語であろう。祖父が黒人であること、そして父親の形見であるギターが国産のもの、フェンダー・ストラトキャスターのコピーだという設定は、明らかにロック・ミュージック全体の歴史や、日本人と輸入文化であるはずのロック・ミュージックとの歴史を踏まえたものだ。伝説のマシーン、海外からやってきたアイディアを日本人が国産するなかで伝説となったマシーンを継承するという部分で『湾岸ミッドナイト』の「悪魔のZ」と『エイト』の「ドラゴンギター」は同じ役割を担っている。

 音楽マンガ、もしくはロック・マンガが大メジャーなジャンルとなった昨今、楠みちはるのアプローチはいくらかクラシックであると思う。たとえば『BECK』『NANA』『けいおん』『カノジョは嘘を愛しすぎてる』以降の作品でありながら、それ以前の青春像をあたかもトレースしているみたいである。無論、これは楠の年齢、年代的な問題でもある。しかし一方で、00年代や2010年代といった範囲で区切れる部分を現代としながら、そのイメージであったり気分を切り出し、スケッチしているのではなくて、数ディケイドにまたがるようなもっと大きめの範囲を現代としながら、総体的なヒストリーのダイジェスト化をテーマとしているのが『エイト』であるとすれば、こうしたアプローチ以外にはなかっただろうと感じられる。実際、作中に登場するレパートリーもビートルズであったり、ローリング・ストーンズであり、レッド・ツェッペリンであったりと古い。が、その古さを今日に奏でることが、要するに歴史を描くことと同義になっているのである。『エイト』における現代史、日本史においてキーとなってくるのは、やはり国産の「ドラゴンギター」であって、ジャガーの元メンバーである大物歌手、松永恭也の往年のヒット曲「ラブ・ユー」だといえる。

 果たして〈1970年 通販専用モデルとして生まれたフェンダー社のストラトをコピーした安価な国産品 ――だが製作者の志は高く 量産母体となるマザーモデルにとてつもない想いを込めた〉とされる「ドラゴンギター」と〈‥あれは和人のフレーズだ 和人が父であるトミーさんから受け継いだモノ もっというとその向こう ‥トミーさんの父 名ジャズマン ロニー・ピーターソンから流れてきた 音のブラッド(血)だ〉とされる「ラブ・ユー」を正統に継承しうる立場のエイトは何を求めるのか。その姿にはおそらく以下の問いが託されている。そう、つまり、あくまでも国産でしかありえない我々が本当はどこからやってきたのか。なおかつ、どこへいこうとしているのか。エイトがキーを握っているとするなら、ニーナは扉である。一人きりで完結していたエイトの世界を外の世界へと繋げていく扉にほからない。エイトはニーナを通じ、ニーナとのバンド活動を通じ、バンド活動で関わった人々を通じ、不特定多数と向かい合いという意味で、マス・コミュニケーションを成功させていくのではないか。さしあたり、文化祭でのステージはそのことを暗示するかのような一幕となっているのである。

・その他楠みちはるに関する文章
 『湾岸MIDNIGHT C1ランナー』
  11巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『湾岸MIDNIGHT』40巻について→こちら
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2013年06月08日
 シュガーレス 18 (少年チャンピオン・コミックス)

 週刊連載でマンガを読むことの体験として、たとえば水曜日に『週刊少年マガジン』で市川マサの『A-BOUT!』を読んだ次の日、木曜日に『週刊少年チャンピオン』で細川雅巳の『シュガーレス』を読むというのは、なかなかに悩ましいものであった。どちらも好きな作品である。が、『A-BOUT!』の後追いであるような展開を『シュガーレス』に見かける機会が少なくはなかったからだ。無論、単細胞の一年生が主人公であったり、その彼が不良高校のトップである三年生に挑まなければならなかったり、当初のアイディアにもいくらかの類似が確認できたのだけれど、ストーリーが進むにつれ、他校との抗争や一年生たちによるトーナメント、匿名集団の襲撃など、明らかな重複が目立つようになってきていた。『シュガーレス』が『A-BOUT!』を真似たと言いたいのでは決してない。それはあくまでも掲載誌が出、こちらが目を通すタイミング程度の問題にすぎないし、結局のところ、先に挙げた展開の諸々は、ヤンキー・マンガにおける様式美であり、形式美のヴァリエーションとして十分了解されうる例だろう。したがって、何が悩ましかったのかといえば、ある種の様式美を散々繰り返すしかないヤンキー・マンガのジャンルとその限界について、2010年代の今、あたかもシンクロニシティを起こしているかのような二つの作品を前にしながら、しばしば考えさせられてしまったことにほかならない。まあ、どうでもいいじゃん、ではあるのだけれど、生真面目な性格なんでね。ついつい、ふと、気になってしまう。

 さてしかし、『シュガーレス』はこの18巻で完結を迎えた。先般、同じく18巻を出したばかりの『A-BOUT!』の方はまだ連載が続いているが、奇しくもといおうか、両作品とも主人公が一年生でいられる最後のクライマックスを高校の屋上でのタイマンに設定していたところまでついにダブっていたな。もちろん、『シュガーレス』の場合、そのアイディアは物語がはじまった段階ですでに決定されていたものであろう。そもそも、九島高校の屋上にそびえ立つ風車、そこに自分の名前を書いた旗をかかげることこそが主人公である椎葉岳の目標であったのだ。それはつまり、頂点に君臨するカリスマ、三年生のシャケを倒すことと同義でもあった。そして、極めて単純化するなら、主人公が物語を立ち上げ、目的を果たさんとするあいだに組み込まれたいくつもの展開が、要するにヤンキー・マンガの様式美をなぞらえることとなっていたのである。

 正直にいって、スタート時の『シュガーレス』に対して期待していたのはヤンキー・マンガ以外のイディオムであった。リアリズムを度外視したシャケのたたずまいや、主人公を驀進させる破天荒なパワーやエネルギーにヤンキー・マンガ以前の番長もの、あるいは広義のレベルで「少年マンガならでは」と判断されるようなスペクタクルが垣間見られたのである。だが、前述した通り、総体的な印象としてはヤンキー・マンガらしさが勝っちゃったかと思う。いや、そんなことはなかったぜ、大体主人公とすべきは椎葉岳のみではなく、椎葉岳を含めた一年生四人組じゃねえの、もしくは椎葉と丸母タイジのコンビを主人公と見なさなくてはならない。そう意見する向きもあるだろう。しかし、丸母の不幸なプロフィール、あれは正しくヤンキー・マンガのリアリズムによっていたのであって、たとえ(建前上は)そうしたリアリズムを否定するために必要とされたエピソードであった(事実、椎葉岳の立場はそれを否定している)としても、このハイ・テンションな作品にどれだけ貢献していたかは疑わしい。最終巻の表紙はシャケである。椎葉岳でも他の誰でもなく、シャケこと荒巻至であることはいささか象徴的なのではないか。もしももう一人主人公の候補を挙げるとするならば、やはりシャケだという気がするためだ。『別冊少年チャンピオン』に彼を主人公とした番外編も描かれたが、そのカリスマは明らかにヤンキー・マンガに縛られない自由さからやってきている。この意味で、あくまでもヤンキー・マンガのカテゴリー下に収まる登場人物たちが最後まで誰も彼に敵わないというのは非常に当然の結果ではあった。

 1巻について→こちら
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2013年06月06日
 僕だけがいない街 -2 (カドカワコミックス・エース)

 インターネット上でも次第に注目を集めつつあるようだし、「このマンガを読め!」で知られる『フリースタイル』誌の22号における個人レビューの欄で大根仁がこれを取り上げていたり、タイミング次第では年間の話題作ランキングで上位に顔を出してくるのではないかと予想される三部けいの『僕だけがいない街』だが、いや実際、すべてのコマに(と言ってしまっていいほど)張り巡らされた緊張の糸に絡め取られながら、ああ、まったくもう目が離せない。

 所謂ループもののSFであり、ミステリであって、サスペンスである。万能ではないけれど、時間の「再上映(リバイバル)」に立ち会えるという特殊な能力を持った青年が、文字通り自分の運命を一変させるような事件に巻き込まれ、関わっていくうち、未解決のまま忘れられた過去の因縁に立ち向かわざるをえなくなるのだ。もちろん、こうした筋書きそれ自体はいくらかの類型を帯びてはいるだろう。では、そこで謎解きゲームとしての強度もしくは精度、巧妙さが『僕だけがいない街』に圧巻のスリルをもたらしているのか。確かにそれはある。が、しかし、それを踏まえた上で自分みたいなどこからどこまでが伏線なのかを深く考慮しないタイプの読み手からしたら、大きく二つのポイントに作品の魅力は左右されていると述べたい。

 一つはやはり、主人公の認識、意識のありよう。マンガ家としてデビューしてはいるものの、28歳になった今もアルバイトを続けている藤沼悟は、俯瞰(諦観)した態度でしか他人と接せられない。編集者にも、仕事仲間にも、唯一の家族である母親に対しても。その姿には、成熟とは何かを問うことすら無効化された現代的な共感とイメージとが大変よく出ている。俯瞰(諦観)のメタ・レベルで物事を判断することは、果たして自分に言い訳を許すことにもなりうる。主人公に課せられた意識のありよう、プライドが具体化させているのは、ある種のエクスキューズであって、無論、そこには少なからぬ羞恥の裏返しが秘められているとしよう。このとき、時間を巻き戻せるという現象は、つまり、場面毎の判断を繰り返し試されるものである以上、必ずしも主人公にとって都合がいいわけではない。あらためて彼に自分の認識が決して万能ではないことを思い知らせる機会であり、条件となっていく。

 ごく当たり前の日常が、わずかずつ不穏な気配を孕みはじめる前巻(1巻)において、おそらくは重要な伏線だろう過去回想や、ショッキングな展開を通じ、最も強調的にプレゼンテーションされていたのは、主人公と母親の関係だ。一親等に向けられた主人公の視線は、ほかの誰に対するものとも違う。誰よりもウザいと見なすそれが甘えであろうとなかろうと、必然として彼の感情を明瞭とするのに至っている。換言するなら、徹底して俯瞰(諦観)が装われるなかにあって、母親との関係だけが例外的なバランスを持っているのである。受け取り方によっては、おいおい、案外マザコンなんじゃねえか、の印象を持つかもしれないが、さしあたりこの母親との関係が、青年のポジションからすれば、あくまでも稀少なケースである点に留意しなければならないと思う。結局のところ、それが稀少なケースであるぐらい、本当に昔から他人とのディスコミュニケーションを主人公は生きてきたのか。

 あらゆる結果にしかるべき原因があるとしたら。作中世界の現在である2006年から18年前、1988年に主人公がまだ小学生だった頃の「再上映(リバイバル)」が幕開け、いよいよリプレイものの本領をうかがわせる2巻では、そのしかるべき原因の追及に多くの紙幅が割かれていくこととなるのだったが、いや、これはでも、全然一筋縄ではいかなさそうだぞ、と謎めく物語にさらなる拍車がかかっているのは、やはり、そのヒキの強さゆえだろう。確かにサスペンスであることとヒキの強さは不可分であるには違いない。だが、連載ベースでもそうだし、コミックスで見てもそう、コマの単位で、ページの単位で、はっとさせられるような瞬間が次々織り成されては、それが新しい布石であるかもしれない可能性を招き入れる。手練れ。『僕だけがいない街』の魅力を為しているもう一つのポイントとは、要するにそのヒキの強さだといえる。1巻のお終いにはたっぷりのカタルシスがあったが、2巻のラストも実に見事である。
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2013年05月25日
 メットくんはイケメンです。 (フラワーコミックス)

 あれ、ヒナチなお、って、あのヒナチなお、なのだろうか。以前とはレーベルが異なっているし、新人らしいことを強調したプロフィールや作者のコメントからは一概に判断しきれないのだったが、もしもそうだとすればこの『メットくんはイケメンです。』では結構作風を変えている。実際、まったくの別人だったら申し訳ないのだけれど(さすがにこのペンネームでそれはないと思うものの)今時のライト・ポップなタッチに寄せてきている印象だ。総体的に屈託がなく、良くも悪くも、口当たりの軽いラブ・ロマンスをやっている。

 純朴型のヒロインとナイーヴ型のイケメンさんによるボーイ・ミーツ・ガールが、要するに表題作である。ハプニングから一つ屋根の下で暮らすこととなった二人の心の距離、関係の変化が作品の主題であろう。そして、そのプロセスは非常にシンプルに絞り上げられており、さほど入り組んだ要素を持っていない。これが「悪くも」でいえば、そこまで単純化してしまったなら、登場人物の内面も行動も薄っぺらいだけに見られかねない。このような危うさを自然と含んでしまう。反面「良くも」でいえば、しがらみを深く追求しないスタンスが、肩の力の抜けた心地好さのなかに兎角キュートであることを重視したイメージを描き出しているわけだ。題名にある「メットくん」はなぜ、そのヘルメットのように揃えて伸ばした前髪で自分が「イケメン」である事実を隠すのか。サスペンスやミステリ、驚くべき感動があるのでもない。また、どうしてヒロインは「メットくん」に惹かれ、接近しようとするのか。物語の推進力についても同様である。つまり『メットくんはイケメンです。』という断言がどこからやってきているのか。その根拠を説得させるようなマンガであるというよりは、そうした断言によってもたらされたドタバタ劇をニヤニヤしつつ眺めていればいいようなマンガだと思う。

 表題作と表題作の番外編のほか、「こっち向いてよダーリン」「アタシが好きなのは…」という二つの読み切りが入っており、どちらも片想いと勘違いが両想いに通じていくような風景を展開していて、切なさや苦しさをいくらか汲み上げてはいるが、総体的にはやはり口当たりの軽いラヴ・ロマンスに止まっている。良くも悪くも。

・その他ヒナチなおに関する文章
 『オレたちに愛はない』について→こちら
 『机上のrubber』について→こちら
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2013年05月18日
 虹の娘 (Feelコミックス)

 わはは、おもしれえなあ、この人たち、というのが、とにかくの感想であって、本当にこの人たち、おかしいねえ。いがわうみこの『虹の娘』には、今まで発表されてきた読み切りのすべてが入っているらしいのだけれど、そのほとんどが実にユーモラスな輝きを持っている。大半の作品が、現代における日常のコミュニケーションを題材としたリアリズムによっているのだが、それがこの手のヤング向け女性マンガに顕著なセンシティヴィティを仄かに匂わせながらも、反面、シリアスに徹するというよりはギャグに転がりそうなラインを堂々と割っていくところに一番の魅力があるのだった。登場人物たちは皆、常識に照らし合わせたとき、どこか変わっている。頭のネジが一本ほど緩んでいるか外れているのでは、と思わされる。とはいえ、ことさらエキセントリックなのではない。エキセントリックな人間がとりたててエキセントリックに表現されているのではない。確かに登場人物たちは一様に馬鹿である。しかし、どうして馬鹿に見えるのか。それはおそらく、彼ら彼女らが「あるある」「ねーよ」のような既視感の備わった(読み手にとって)非常に身近な存在として現れているからにほかならない。つまり、非常に身近な存在の非常に身近なドラマであることを根本にして、最初に述べたとおり、おかしいよな、この人たち、という感想が生じているわけだ。

 コミックスのオビに、いくえみ綾が推薦を寄せている。イチ押し作品は「愛され洋輔」だそうだ。「愛され洋輔」いいよね。主人公である洋輔のワガママさ加減、大変自己中心であるような面倒くささは『虹の娘』のなかでも特筆すべきものであるし、実際、そこには作者の登場人物に対する距離や態度が凝縮されている。ここでいう登場人物に対する距離や態度とは、果たして作者は主人公にどれだけ優しいのか、はたまたどれだけ意地悪なのかを不意に考えさせられる手つきのことだと思われたい。洋輔の傍迷惑な性格は、もちろんデフォルメされ、カリカチュアされてはいるが、誰しも経験上、こんな奴いねえよ、とは判じきれないものであろう。程度の差こそあれ、これと似たタイプの人間はいるのであって、SNSなどを通じた周囲の反応(適当なあしらい)は今日的なシンパシーをよく示していると思う。いずれにせよ、極めて残念な若者であるはずの主人公が極めて残念に描かれているにもかかわらず、その残念でしかないありさまが、彼を取り巻く人々、とりわけ二人の女友達の、洋輔を蔑ろにするのではなく、同情するのでもない立場を通じ、あくまでも主人公は自然体であるがゆえに無反省とイコールであり続けるという帰結をもたらしているので、要するに悪意があるわけじゃないんだ。そう了解されるようなユーモラスでいて微笑ましい光景を成り立たせているのが、すなわち登場人物に対する作者の距離や態度なのである。

 他方で「阿部くんと吽野さん」や「アヒルにホッチキス」は少女マンガに類型的なパターンのヴァリエーションであるような作品といえる。それはつまり、ある種の三角関係をモチーフにしているためなのだが、実際の印象は少し異なる。少しばかりズレている。そうしたズレが何に起因するのか。単純化すれば、三人の主な登場人物が相互に関与しない状況を前提にしているからなのだけれど、「アヒルにホッチキス」においてコマを仕切り、構図をこうと決めているカメラもしくは視線の向きに注意されたい。一見すると、カメラの向きはヒロインである鰤谷の視線や内面と合致しているふしがある。他人に可愛いいと認められたい彼女の自己評価そのもの、として汲み取ることができる。ただし、鰤谷と友人である「郷田ちゃん」を同時に収めている視線は必ずしも鰤谷(だけ)のものではないだろう。もちろん、そこでカメラは「りゅーぞーくん」の立場にスイッチしているのだという解釈は可能だ。あるいは全体のなかで鰤谷と「りゅーぞーくん」の視線が入り混じっていると判断される。その上でもう一つ別の推測も許されるのではないか。カメラは常に客観のレベルで機能していて、場面場面のピントの絞り方により、登場人物たちのミニマムな変化をクリアにしていく。ラストのモノローグを唯一除き、カメラは客観のレベルを動かない。この、あくまでも客観を維持していることが、この人たち、おもしろいねえ、おかしいなあ、という感想に繋がるのだと思う。

 映画『天空の城ラピュタ』を引用した「くらん くらんく くらんくらん」では、そうした作者の登場人物に対する距離や態度が「吉川さん」という女性の語りに委託され、より明らかとなっているのであって、表題作の「虹の娘」や最もファンタジー色の強い「アマネの日記」など、家族の肖像を描いた他の作品についても、そのユーモラスでいて微笑ましい光景を豊かにしているものが何か。同様のことがいえる。
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2013年05月11日
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 吉沢潤一の『★無目的無償★』は『週刊少年チャンピオン』23号に掲載された。この間まで『ヤングマガジン』に『デザート』を発表していた作者のこれが少年誌初登場となるわけだが、いくらでも本格的に展開させられそうなストーリーやテーマをことごとく脱臼させるかのような基本の路線に変更はない。むしろ初期の読み切りを思わせる。極めてスラップスティックなコメディだといえる。こうしたマンガはまあ、話の筋を書き起こしても仕方がないところに最大の魅力があるのだけれど、偶々ファミリー・レストランで居合わせた二人の不良少年がお互い、因縁をつけはじめ、先輩を呼び出した結果、フル・マラソン型の逃亡劇にまでエスカレートしていく。珍事を描いている。命からがらの二人を助けた通りがかりのトラックがなぜか宙へと飛翔するラストのカットに「飛べ!ギャラクシーの彼方へ!!」というアオリが付けられているが、これをどう解釈すればよいのか。おそらく意味はない。あるいはハチャメチャな暴走を徹底的に無意味化させながら、内包されているエネルギーそのものを抽出していると見るべきか。案外、浜岡賢次や漫☆画太郎のアプローチに近いのかもしれない。この意味では少年誌的である。ただし、浜岡や漫☆画太郎であったら、コマ運びの洗練や手法の実験性をより高めることで、あくまでもギャグですよ、というサインを明確にさせたであろう。

・その他吉沢潤一に関する文章
 『デザート』2巻について→こちら
 『足利アナーキー』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
  番外編「乙女シンク」→こちら
 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2013年05月03日
 黒子のバスケ 22 (ジャンプコミックス)

 黄瀬、かっこいいよ、黄瀬、であろう。藤巻忠俊の『黒子のバスケ』は当初、『週刊少年ジャンプ』らしからぬ影の薄い主人公がウリの一つであったと記憶している。が、連載が長期化するにつれ、さらにいうなら「キセキの世代」の具体的な活躍によって、案外車田正美あたりが確立したファイヴマンセルの伝統を受け継いでいるのではないかと思うようになってきた。この意味において、主人公よりも他の登場人物が目立っているというのは当然のことであるし、謎ロジックの必殺技がばんばん飛び出すようになったのも同様に派手でいて楽しい。とりわけウィンター・カップ編に入ってからの「キセキの世代」VS「キセキの世代」という展開は、『リングにかけろ』のあの「黄金の日本Jr.」とライヴァル・チームの死闘や「黄金の日本Jr.」の同胞対決さえも彷彿とさせるのであって、おお、実に『週刊少年ジャンプ』しているではないか。

 前巻(21巻)に引き続き、主人公の黒子テツヤ擁する誠凛高校と黄瀬涼太がいる海常高校との準決勝を描いているのがこの22巻なのだけれど、やはり、なんといっても「キセキの世代」と呼ばれるサイキッカーたちの超人オリンピックぶりに大変燃えるものがあるのである。他の選手のプレイを一目見ただけで自分のスキルとしてしまう黄瀬の「完全無欠の模倣(パーフェクトコピー)」は、いやもう完璧に反則の域だよ。しかし、読み手の側は「キセキの世代」を追放された灰崎との雌雄を経たことで「完全無欠の模倣」が獲得された成り行きを知っているので、必ずしもそれをズルとは感じない。むしろ、最初は軽いタイプに設定されていたはずの黄瀬のプロフィールが案外熱血漢だったと更新されたため、逆境に追い込まれるたび「完全無欠の模倣」を発動させ、ぎりぎりピンチをしのぐ彼の姿に大きなカタルシスすら覚えるのだった。ああ、黄瀬、かっこいいよ、黄瀬、であろう。

 こうなってくると、やばいのは主人公のチームだ。どこでどうやって勝ち目を取り戻すのか。ただし、作品の結構からすると黒子の誠凛高校が勝利するのだろうと大体の予測はつく。そこで作者はいくつものハッタリを駆使し、とにかく試合を盛り上げようとしているかのように思われる。こうして浮上してくるのは、黒子の必殺技「幻影(ファントム)のシュート」破れたり、な展開であって、それを穴埋めしながら活路を作り出していく火神大我の底知れぬポテンシャルだろう。無論、黄瀬や黒子を一時交代させることでワキの登場人物たちにカメラを回したり、会場の雰囲気を攪乱に使うことでどちらのチームが本当は劣勢なのかを冷静に判断させなくするなど、様々な工夫も十分効果をあげている。でもまあ、土壇場で「完全無欠の模倣」を通じて種々の必殺技をばんばん繰り出す黄瀬の大盤振る舞いが最高に燃えるよな。

 ことさら強調するまでもなく、試合の方向性を定めているのは根性や執念の精神論だといえる。現代のスポーツ・マンガのおおよそはもっと高度でロジカルなものになっているのだが、『黒子のバスケ』においては、とくにここ最近の内容は『週刊少年ジャンプ』の少年マンガならではのイズムがきわめて濃厚だ。黄瀬というある種の天才からも根性や執念が引き出され、またその天才を前にすることで、相対的にだが、黒子と火神に努力や学習型の古臭いファイトが備わっていることを判りやすくしている。

 ところで、コミックスのカヴァーにある作者コメントで藤巻は「100%集中していないと(我に返ったら)描けないもの」として「必殺技名」「おっぱい」「ポエミィなセリフ」を挙げている。実際、「おっぱい」がどれぐらい作中に描かれているかは不明だけれど、そうか。「必殺技名」や「ポエミィなセリフ」に関しては、気恥ずかしさを覚えながらそれを採用しているわけだ。裏を返すなら、たとえ気恥ずかしくとも『黒子のバスケ』にとって「必殺技名」や「ポエミィなセリフ」が必要不可欠であると自ら明かしているのである。車田正美だったら絶対にそれを気恥ずかしいといわないに違いないが、たぶんそのへんが作者の妥協であると同時に現代的なスタンスなのだろうと思う。
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2013年05月02日
 味いちもんめ 独立編 10 (ビッグ コミックス)

 途中、原作者の逝去もあり、リニューアルを経なければならなかったが、主人公である伊橋悟のビルドゥングス・ロマンとしては、彼が(雇われではあるものの)自分の店を持ったことで一段落した感がある。その伊橋が大将となってからの活躍を描いた『味いちもんめ〜独立編〜』には、『新・味いちもんめ』ではほとんど顔を出さなかった旧『味いちもんめ』のレギュラー陣が次々再登場し、物語の集大成的な側面を強く感じさせてもいた。現在、『スペリオール』での連載は新シリーズに入っていて、ゲストの依頼をホストが解決していく式の小さなエピソードをどれだけ量産できるかという、つまりは料理マンガの様式美を徹底するかわり、旅行記のスタイルを取り入れ、新機軸を打ち出そうとしているけれど、正直なところ、長編としての役割はもはや終わりつつあるな、あるいは既に終わっているのだったか、と思わせる。

 さて、その『味いちもんめ〜独立編〜』の完結編となるのがこの10巻である。兄貴分である坂巻が伊橋の「楽庵」を訪れたり、弟分である渡辺が結婚をしたり、長編に相応しい作中の時間と変化とが懐かしい面々の姿に投影されている一方、新シリーズへのブリッジとなるような展開が用意されるのだったが、いやまあ、『味いちもんめ』における最大の難点とは、要するに主人公をいつまでも若者のイメージに止めておきたいというシナリオ上のバイアスによっているのではないか。

 端的に伊橋のキャリアは無限に続いていく以外にない修行と同義だろう。無論、これを料理人の本質だと解釈することもできるし、人生の喩えであると解釈することもできなくはない。だが、そのなかで彼が獲得したものだけが具体的には現れない。たとえば、地位や名誉、金銭や年齢、恋人や家族、そういった恩恵を想起させないファンタジーとして(初期は違ったかもしれないが)現在の伊橋は存在している。強いていえば、人脈こそが恩恵になっているものの、その人脈が繰り返し伊橋に修行を要請しているのである。自分の店を持つというのは、非常に判りやすい恩恵であった。しかし、周囲の人物たちは、今のままじゃだめだ、修行に出よ、修行に出よ、とりあえず店を離れて修行せよ、と言うのだった。本来、伊橋は中年の域に達している。中年になってもなお、お前には修行しかないのだと規定されるのはかなりきつい。本作のシナリオはそうしたきつさを棚上げにすることで成り立っているのであって、そのために伊橋は未来多き若者のイメージを永遠に負わされる。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『新・味いちもんめ』
  21巻について→こちら
  20巻について→こちら
  19巻について→こちら
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2013年04月29日
 静かなるドン 107 (マンサンコミックス)

 今や小学館漫画賞ばかりか手塚治虫文化賞の選考委員をつとめるブルボン小林は、『静かなるドン』の最終話が載った『漫画サンデー』2013年1号で作者の新田たつおと記念対談をしていたが、その著書である『マンガホニャララ ロワイヤル』でも『静かなるドン』を取り上げている。ことあるごとに。極めて積極的に。かなり褒めているといってもいい。〈様々に間抜けな脇役たちは主人公にヤクザだけでなくギャグもやめさせないp123〉のであって〈時に無茶な筋、ふざけた脇役など、その騒がしさも手塚イズムの延長にあるんだがp142〉というブルボンの評価は、たぶん、マンガならではの、と形容するのに相応しい表現を『静かなるドン』が、つまりは新田が達成してみせたとの認識を含んでいるのではないか、と思わせる。

 ある作品を見、これぞマンガならではの表現だとするとき、場合によっては、高度であったりテクニカルであったり難解であったり知的であったり実験的であったり前衛的であったりするような部分に焦点を合わせたがるものだけれど、もちろん、『静かなるドン』はそうした種類の作品ではないだろう。いや、実際には十分高度であるし、テクニカルでもある。しかし、決してそうとは感じさせない。この、決してそうとは感じさせないこと、無論、それも技術であって、正にコミックだからこそのすぐれた技巧とその本質を、ブルボンは『静かなるドン』におけるギャグの在り方として掴まえているのではないか。新田の作風を〈手塚イズムの延長にある〉としているのではないか。

 たとえば、この107巻である。和解し、弟分となった白藤龍馬の死を経、さらには最愛の女性である秋野明美を目の前で失ったショックから、ついに近藤静也は禁断の殺戮マシーンと化す。正気をなくし、もはや誰にも止められない。白昼堂々、銀座に攻め入ってきたシチリア・マフィアの大群を次々虐殺していく。一人で、である。今風の喩えでいうならば、自我のリミットを外され、闇に堕ちた人間が、物語と作中世界にとってのカタストロフィを担っていくわけだ。当然、これをどこかで誰かが制御できなければ、バッド・エンドにしかならない。普通、そうした重要度の高い役割はシリアスな筋書きにおいて活躍を果たしてきた者に課せられるべきであろう。『静かなるドン』なら、やはりヒロインである秋野か、鳴戸、龍宝あたりが適任なはずなのだったが、作者はそこで意外な人物を持ってくる。

 先に挙げた対談でブルボンもそのシーンに対して〈まさかの……(筆者註・一応名前は伏せておきます)だった。あれはすごいカタルシスでした〉と述べているけれど、いうなればギャグのオチになっている。ばかりか、シリアスな筋書きとギャグの展開とが不可分でありつつ、見事なレベルで融合しながら、驚きの効果をあげている。そこでは、これがギャグなのかマジなのかを問うような視線が根本的に無効化されてしまう。どちらでもいいし、正しくどちらでもありうる。実にマンガならではのすぐれた技巧がほとんど無条件のうちに達成されているのである。

 前巻(106巻)で訪れた龍馬の最期も見方次第ではギャグだったろう。当人の与り知らぬ攻撃によって爆死していく龍馬の爽やかな笑顔は、間抜け野郎みたいでもある。ストーリー上、ダーク・ヒーローのごとく活躍してきた人物の呆気ないラストは、龍馬はこんな死に様さらさない、と思わず言いたくなるものであった。だが、そうした龍馬の爆死もまたある意味で『静かなるドン』の両義性もしくは多面性をよく象徴している。90年代のある時期からのヤクザ・マンガ、おそらくは暴力団対策法施行以降のヤクザをテーマにしたマンガの多くは、テロリズムや革命の問題を必然として抱え込まなければならなかった。白藤龍馬なる人物は、『静かなるドン』も同様にそのポリティクスから必ずしも自由ではないことを、シリアスなパートにおいて体現していたといえる。

 いや、正直、龍馬のダーク・ヒーローぶりはなかなかに00年代らしくあって、終盤のストーリーが息切れしなかったのは、彼の活躍によるところがでかい。日本を欧米に隷属させまいとする行動原理は名前の由来である坂本龍馬に通じているのだろう。しかし、それはあくまでも要素の一つにとどまる。龍馬のポリティクスは確かに『静かなるドン』をシリアスな目で見ようとするとき、絶対に必要だった。必要ではあったが、そうしたポイントだけでなく、もっと幅広い視野を獲得しながら作品を楽しんで欲しい、という作者の声が、シリアスな筋書きとギャグの展開とが不可分であるような構成からは聞こえてきはしまいか。

 いずれにせよ、次巻(108巻)で、とうとう『静かなるドン』は完結を迎える。ヤクザとサラリーマンの二重生活へ奇妙な運命を負った恋人たちのラヴ・ロマンスが入り込んだ物語は、紛れもなく、終幕に向かっている。ここ数巻、コミックスのオビには「累計4400万部突破」とずっとあり続けるが、最終巻でそれが「累計4500万部突破」となったら美しいかな、とも思う。

 98巻について→こちら
 文庫版1巻、2巻について→こちら
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2013年04月25日
 不良皇帝 1 (ヤングキングコミックス) 不良皇帝 2 (ヤングキングコミックス)

 現在、ヤンキー・マンガのジャンルにおいては、自伝をベースにしたファンタジー(語義矛盾しているが、実際そうとしか形容できない作品群)が一角を占める。大半は芸能人が原作を提供しているのだけれど、この宇梶剛士をモデルにした白鳥貴久の『不良皇帝 BAD BOY EMPEROR』もそのなかに数えられるだろう。2巻の末に収められた宇梶の「あとがき」を読むかぎり、エピソードの骨格は若き日の彼が経験した出来事を元にしていると覚しき反面、設定のレベルでは携帯電話やスマートフォンが存在する今日を舞台としているのである。

 ゼブラという巨大なチームのトップ、立花了が本編の主人公であって、その巨大なチームをめぐる抗争と内紛とが描かれる。正直なところ、この程度の内容であれば、いや、この程度の内容であるからこそ、自伝をベースにしているという保険が必要だったのかもしれないが、目新しさはまったくないし、深く感じ入る点も少ない。過去に散々読み継がれてきた不良少年のフィクションを再生産しているにすぎないものの、しかし、類型的であると同時に古臭い結構が、それに見合うだけの極めて硬派な性分を主人公へ与えていることに、価値を置くことができるにはできる。

 たとえば、品川祐や佐田正樹などのお笑いタレントが原作を提供した作品の主人公は基本的にクズである。果たしてそれが「昔はワルだった」というような自慢に入るのかどうかは知らないけれど、少なくともワルである以前にクズである。これは内容が成立するどこかの段階で、マンガ家の責任なのか原作の責任なのかの判別は難しいながら、倫理や硬派の概念がすっぽり抜け落ちてしまっているためであろう。無論、不良少年が倫理を抱く必要はないのかもしれない。ただし、そこで硬派であることの必要をも希薄にしてしまったなら、一体何が残るのだろうか。文字どおり、クズのみが残るのでは、という疑問が生じる。

 品川や佐田と宇梶では一回りぐらい世代が違う。それは70年代から80年代に青春を過ごした者と80年代から90年代に青春を過ごした者の違いでもある。この間に、おそらく、硬派という概念は変容した。単にそうした影響の差異が主人公のカラーを分けているのだとしても、クズを描いているのかワルを描いているのか。印象は大きく変わってくる。ちなみに1巻の前半部分はかつて『COOL TEAM』として発表されていた作品と同じものである。

 『COOL TEAM』について→こちら
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2013年04月16日
 ないしょの話~山本ルンルン作品集~ (フラワーコミックス)

 山本ルンルンの読み切り作品集『ないしょの話』をアタマから読んでいき、一番最後に収められた「空色のリリィ」に目を通しはじめたとき、思わず、ぎょっとする。なぜか。説明するのは容易なようでいて案外難しい。が、まずはこういえる。「空色のリリィ」の登場人物が、一番最初に収められた表題作「ないしょの話」の登場人物と重なっているためである。加えて「空色のリリィ」は時系列的に「ないしょの話」のその後を描いていると大抵は判断されるからなのだけれど、もちろん、これだけのことで、ぎょっとするはずがない。問題は、登場人物が同一(と見なすことが可能)でありながらも世界の在り方それ自体がまったく異なったものへと変貌している点だろう。しかし、単に設定が変更されているというレベルで、ぎょっとするのでもきっとない。

 もし、「ないしょの話」が幼年期をモチーフにそれを寓話化しているのだとすれば、「空色のリリィ」は少女期をモチーフにそれを寓話化しているのだといえる。それがたぶん時系列の違いとして現れている。だが、ここで慎重にならなければならないのは、その寓話化の作用が、世界の在り方それ自体をまったく異なったものへと変貌させていることなのであって、つまりは幼年期に感じられている世界と少女期に感じられている世界とが、地続きでありつつも、実際には切断されている。こうした真理をありありと突きつけてくることに、おそらく、ぎょっとするのである。確かに、「ないしょの話」の登場人物と「空色のリリィ」の登場人物が重なっているのは、固有名を流用したパラレル・ワールドの手法という解釈もできるにはできる。だが、パラレル・ワールドでしかなく、両者に深い関連はないのだと読み手が素直に受け入れられるなら、ぎょっとすることは絶対になかろう。

 ポップもしくはキッチュなファンタジーは、この作者の持ち味だ。そこにゾンビ映画的なリアリズムが、ほとんど無遠慮に入り込んできているのが「空色のリリィ」である。表面上は、ゾンビの出てくる出てこないが、「ないしょの話」のメルヘンと「空色のリリィ」とを隔てている。ゾンビの出てくる設定によって、「ないしょの話」における家族の肖像は消失している。ええ、まさかあの登場人物がこんなことに、と驚きはする。しかし、その程度の驚きに止まるなら、ただ時系列をまたいでいるにすぎない。注意されたいのは、そのまたいだなかに何が描かれているか。何が描かれているせいで、ぎょっとするのか。既に述べた通り、幼年期に感じられていた世界と少女期に感じられる世界とが、地続きでありつつも、実際には切断されているということ。その真理が、寓話化の作用を通じ、ありありと突きつけられてくることに、それは由来している。

 たとえば「ないしょの話」における寓話化の作用は、ヒロインであるケイトの空想、純粋な子供心とでもすべき人間の観念の側からこの世界を変えうるものとして現れている。反面、「空色のリリィ」において寓話化の作用は、ゾンビの野蛮さに変えられてしまったこの世界として現れる。そこではもはやヒロインのケイトは純粋とでもすべき子供心を持ったままでは生きられない。幼年期に感じられたすべてがすでに変貌を遂げた後の世界を彼女は生きるのみであって、その、かつてとはまるで別人のようにしか思われない境遇が、少女期になって感じられている世界を抽出しているのである。ところで、ケイトの幼馴染みであるマックだけが唯一、決して変わらない存在として両方の作品に共通している。より正確を期すなら、変わることを許されていない。

 おそらく、「ないしょの話」でのマックの役割は少女に遅れる少年(少女の進歩に遅れてついていく少年)のイメージだろう。また、ケイトにとってそれは純粋とでもすべき子供心を担保するものであった。こうした役割は「空色のリリィ」でも大きく違わない。

 幼年期に感じられている世界にあっても、少女期に感じられる世界にあっても、マックは同質の役割を引き受け続ける。成長することも退場することも叶わず。象徴的な意味で、正しくゾンビのごとく。「ないしょの話」のケイトは、姉に憧れる。彼女はボーイフレンドの自転車に二人乗りで街へ出かけていく。このとき、幼年期のケイトに対して姉の役割は少女期の可能性を指し示している。「空色のリリィ」のケイトはその姉と同じようにボーイフレンドと一緒に自転車で出かけていくことができる。このとき、彼女こそが少女期の可能性を指し示しているのである。ただし、いずれの場合であれ、マックはケイトから決して変わらない存在として認識され続ける。すなわちマックとは、幼年期に感じられていた世界が少女期に感じられる世界へと変貌してしまったことを顕著に知らしめる。ある種の特異点にほかならない。
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2013年04月15日
 おはようおかえり(5) <完> (モーニング KC)

 永遠に続くものなんて何もないんだ。どんなに素晴らしい愛だっていつかは終わりを迎える。と、このような断言を物語にしていけば、普通は寂しさの非常に張り詰めた内容になるはずだ。しかしなぜだろう。鳥飼茜の『おはようおかえり』には、いやもちろん、寂しさがある。にもかかわらず、寂しさを確かめ、忘れずにいることでしか達せないぬくもりがある。そのぬくもりに泣いてもいいような、笑ってもいいような、新鮮でいて、懐かしい、正直な感動を覚えるのだった。全5巻ぐらいで充実しているマンガを、ということであれば、これを挙げたい。完結編に相応しい第5巻である。

 一保は京都を離れ、東京で恋人の実佑紀と同棲生活をはじめた。一方、長女の奈保子は元姑に願われ、夫抜きでその家に養子入りするのだった。次女の理保子といえば、今までと変わらず勝手気ままに過ごしているようでいながら、奈保子の決断に対し、実際はわだかまりを持ち続けていた。はからずも離ればなれになってしまった堂本家の姉弟だが、日々は止まることなく、そして周囲の人々との触れ合いも自然と変わっていく。

 同時刊行となった『おんなのいえ』の1巻でも、鳥飼は姉妹(と母子)の関係を描いているけれど、家族というのがやはり一つのテーマとしてあるのだと思う。家族は良いものだとか、家族は難しいものだとか、の単純化ではない。人生という大袈裟な枠組みにとってでもいいし、生活というミニマムな営みにおいてでもいい。その、文字通り、骨肉のレベルで他人ならざる存在が、ある場合には助けとなり、ある場合には障害となるとき、そこには一体どのような意義が生じているのであろうか、と。おそらく、誰もが正確に答えを定めることができない(主観を通して一方的にしか答えを定めることができない)疑問に対して、空気や温度と同様に抽象的かもしれないが、しかし心を動かすイメージの形で応答しているのである。

 福住の子供を身籠もった奈保子に関与しようとする理保子が、それを拒否され、耐えきれずに訣別を告げる場面へ目を向けられたい。成り行き〈キョーダイやめたらええのん違う?〉と口に出した奈保子を見る理保子の視線が〈……もうやめてるやんか…… 紙の上でも関係なくなって 重大な選択にも立ち合うことも許されへんようなん そもそも家族なんて呼べへんし〉という決定的な一言を引き出している。表立った感情が示されているわけではないのに、大変印象に残るシーンとなっている。この後、理保子は手伝っていた奈保子の雑貨屋を辞め、しばらく顔を合わせる機会もないのだったが、馴染みの客に理保子のことを尋ねられた奈保子の受け答えは、作品の全体像を考える限り、たぶん、恋人や夫婦の関係は、休むことができないが、辞めることができる反面、親子や姉妹の関係は、辞められないかもしれないが、休むことができる、という要約を含んでいるのではないか。

 有里恵との別れを経、実佑紀と新しい関係を築き上げてきた一保の姿からは、恋愛と自立とをシーソーに乗せた青年のテーマが見て取れるだろう。東京での生活や仕事、意欲的に変化を受け入れようとすればするほど、一保と実佑紀の気持ちはすれ違っていく。当初はかけがえがなかったはずの親密さも段々と薄れていく。進んでしまった時計の針は戻らないという喩えがあるけれど、正しくそのように二人の溝は深まっていく。もし、恋人同士でい続けるという関係が、休むことができないかわり、辞めることのできるものだとすれば、その選択肢がやがて持ち上がってくるのである。それでも失ってはならないものに手を伸ばそうとして、電話越し、実佑紀に呼びかける一保の言葉がどう実を結ぶか。これがラヴ・ストーリー上のクライマックスだといえよう。

 果たしてそれがどう実を結んだかは書かずにおく。いやそれ以前に二人がどうなったのかは具体的に描かれていないというべきか。だが、ちゃんとある。一保が、そして理保子や奈保子が、その先どこへ行き着いたか。それを教える風景が物語のなかに、最後に、ちゃんと、ある。寂しさを確かめ、忘れずにいることでしか達せないぬくもりの宿った場所が間違いなくそこにあることを、次のような声として聞く。〈僕らはひたすらに出会って別れて そのインパクトの前では理由や意味なんか なんの価値もない〉〈近付くことに意味なんてない〉〈離れることに理由もない〉〈ただ その手から離れてしまったものを惜しみ続け〉〈今 手に触れられるものを精一杯愛でて〉〈ここの景色は止まってみえるけど 僕たちは明日には全て形を変えてしまうことを 皆 知っている〉〈せめて いっときでも ここにいてと祈りながら 流れる〉

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他鳥飼茜に関する文章
 「家出娘」について→こちら
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら
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2013年04月14日
 きょうのキラ君(5) (講談社コミックス別冊フレンド)

 彼女は〈キラ君にもらった言葉をくりかえす〉それはつまり〈オレの生きる意味はニノンなんだ〉ということである。前作『近キョリ恋愛』でハイ・テンションなラブコメに作風を振り切ったみきもと凜が『きょうのキラ君』に描いているのは、所謂難病もののヴァリエーションだといえる。意中の人が余命いくばくもない。あらかじめ定められたリミットをダシに切ないラヴ・ストーリーが編まれていくのだった。と、こう説明したら、いかにも辛気くさい内容に思われてしまうかもしれないけれど、ヒロインであるニノ(岡村ニノン)のパーソナリティにちょっとしたエキセントリックさを与え、さらには先生(ニノが飼っているオウム、人の思考や言語を理解する)というコミック・リリーフ兼、これはファンタジーですよ、と示すためのサインを用意することで、全体の色合いを、決して暗くはなく、むしろ明るいものとして輝かせている。

 イケメンさんで人気者、普段はチャラい性格のキラ(吉良ゆいじ)だが、実は学校の誰にも、友人にも言えない秘密があった。それは病気のせいで間もなく死ぬということ。その秘密がまさか、家が隣同士だけれど、キラとは対照的にクラスでは浮いた存在のニノに知られてしまう。自分の悩みを受け入れてくれた彼女にキラが心を開いていくのは当然の成り行きであったろう。周囲から見ればギャップの大きな二人は、しかし次第に気持ちを通わせ合うのだった。以上がこれまでのあらましであって、ついに恋人同士となったニノとキラが、ごく普通のカップルとして、すれ違いや嫉妬を通じ、雨降って地固まるかのような様子を、この5巻は追っている。

 病院でのキラの知り合いである美少女、レイ(矢作零)の登場は、そしてそれがヒロインの恋路に対し、牽制の役割を果たしているというのは、もちろん、難病もの云々は関係なく、こうした少女マンガのセオリーにほかならない。なぜ自分が大切な人間から選ばれたのか。相手にとって本当に自分は相応しいのか。交際の初期段階おいて、非常に普遍的なジレンマを、それまで奥手に過ごしてきたニノはようやく経験することとなる。先に、ごく普通のカップルとして、と述べたのは、そのような意味で、である。結局のところ、ニノがキラを選ばなければならなかったように、キラもまたニノを選ばなければならなかった。このことが、そこであらためて、両者の実感を伴い、確認される。ある場合には、人はそうした出会いを運命と呼ぶ。運命と呼ばれるものの幸福な印象が、少なくとも現時点では、本来湿っぽくなりそうなラヴ・ストーリーの、その色合いを明るく輝かせているのである。

 ニノとキラのラヴ・ストーリーに焦点が絞られているためか、新しく出てきたレイを含めても、登場人物は極めて少ない。裏を返すなら、キー・パーソンしか見当たらないということでもある。友人であるキラに憧れ、ニノにも惹かれながら、屈折した心境から二人に厳しく当たる矢部も、やはりキー・パーソンの一人だろう。基本的には嫌な奴だが、憎めないタイプであるように描かれている。今後、キラの病状が深刻になっていったとき、ケータイ小説の『恋空』になぞらえていうのであれば、たぶん、ヒロに近いポジションを担っていくことになるのではないかと思う。が、とりあえずはニノとキラのあいだに割り込み、三角関係の火種となるような立場にある。

 最初に書いた通り、所謂難病もののヴァリエーションといえる。ささいなワン・シーンやセリフ回しが、しばしば過剰に響く。思わず涙を誘われたりしてしまうのは、やがて喪われてしまう存在が物語の中心に置かれているためである。無論、奇跡的に難病を克服する可能性があるにはあるものの、フィクションの力学上、どうしたって喪われていく対象としてキラは見られてしまうし、その予感は『きょうのキラ君』に付せられたエモーションから絶対に抜き取ることのできない重要なファクターだ。けれど、もう一度繰り返していうのだったが、作品の色合いは決して暗くはない。それは「死」を介在させながら、しかしあくまでも「恋愛」によって結びついた少女と少年の眩しさを、ユーモラスなやりとりを交えつつ、とってもチャーミングに導き出せているがゆえに、であろう。

・その他みきもと凜に関する文章
 『近キョリ恋愛』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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2013年04月12日
 saku.jpg

 石丸なおの『サクラノ嵐』は『週刊少年チャンピオン』2013年12号から19号にかけて掲載された。全8話の作品である。砕けた感じの絵柄や、屈託がない暴力の描写から、当初はスラップスティックでアナーキーな路線をいくのかなと思われたのだったが、最終的にはヤンキー・マンガにおけるシリアスな側面を真面目に踏襲しており、登場人物たちの配置も非常にオーソドックスなものであった。ただし、そこが良かったとは言いにくい。若い世代ならではの勢い、荒削りであるがゆえにジャンルを上書きしうるかのようなそれを匂わせていたはずなのに、ああ、またこの手のお話ね、という既存のパターンに収まってしまっている。

 小学生の頃、その地域で知らぬ者のいなかった問題児、桜野嵐が高校生になって引っ越していった先から帰ってきた。不良少年のチームが様々入り乱れるなか、再び嵐は注目のマトとなる。一方、嵐とは無関係に他のチームを圧倒しつつあったのが御影零率いる「魔獣」である。実は嵐と零は幼馴染みだった。いじめられっ子だった零は嵐の強さに憧れ、独立独歩で現在の地位を築き上げたのだ。しかしその歩みは今も暗闇のなかを彷徨っているかのよう。果たして嵐は零を救えるのか。対決のときがきた。

 嵐と零の関係は、近年のヤンキー・マンガに定型的なパターンのヴァリエーションにすぎない。田中宏の『グレアー』における大友勝将と嵜島昇喜郎しかり、橋ヒロシの『QP』における石田小鳥と我妻涼しかり、山本隆一郎の『GOLD』におけるスバルと御吉十雲しかり。光と影のイメージを託されながら衝突せざるをえない両の極端を象徴しているのである。無論、テーマのレベルで見るなら、それはまだまだいくらでも追求することのできる課題を残しているのであって、アプローチとしては決して意義のないものではない。だから残念なのは、作者がそこで目新しい意識を開拓していない。つまりは『サクラノ嵐』が先行する作品を反復するに止まっているという一点なのである。
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 クローズZERO2鈴蘭×鳳仙 2 (秋田トップコミックスW)

 世間の認識がどうかは知らないけれど、必ずしも橋ヒロシのフォロワーと断じ切れない立場にあって、殺伐系とは異なった路線のヤンキー・マンガを展開し、それがテレビ・ドラマ化されるほどの人気を博している『クローバー』の平川哲弘が、映画『クローズZERO II』のコミカライズを手掛けるというニュースを最初聞いたとき、うーん、となってしまったのは、資質のレベルで合致しない。もしかしたらミスマッチではないか、との予断を持ってしまったためである。が、しかし、結果からすれば杞憂であった。原作の内容に沿いながら、正しく平川哲弘版としか述べようのないアレンジの『クローズZERO II』が『クローズZERO II 鈴蘭×鳳仙』には描かれている。そのことは2巻に入り、より顕著となっていると思う。

 この場合の原作とはもちろん実写である映画のそれを指しているわけだが、設定の上では橋ヒロシの『クローズ』を抜きにして存在しえないもののことでもある。まあ、『機動戦士ガンダム』における宇宙世紀みたいな着想をベースに、『クローズ』というヤンキー・マンガを見ながら、平川が独自の解釈で新規のヴァリエーションを編んでいる程度に考えておけばよい。事実、『クローズZERO II 鈴蘭×鳳仙』の主人公、滝谷源治は、『クローズZERO II』で小栗旬が演じたイメージと微妙に違う。金子ノブアキが演じた鳴海大我についても同様だろう。むしろ、『クローバー』の登場人物に近い。そして、これが橋のオリジナルともその副次創作的な映画とも別種のエッセンスとなり、推進力を作品に与えている。

 メインのストーリーに変更はない。題名にある通り、鈴蘭男子高校と鳳仙学園の因縁と対立を軸足にしているのだけれど、そこで平川は映画のヴァージョンよりもさらに詳しく鳳仙学園の内部にカメラを向けていく。美藤真喜雄のカリスマが一段と強調され、鳴海大我のモチベーションが深く掘り下げられている印象だ。失われてしまった人間とそれを失ってしまった人間のテーマは、オリジナルの『クローズ』においても鳳仙学園と美藤兄弟の姿に託されていた。当然、映画『クローズZERO II』にも反映されているが、平川のヴァージョンは、真喜雄と鳴海、鳴海と美藤竜也、達也と真喜雄のラインをクローズ・アップし、鳳仙学園というまとまりの根っことなるような部分に紙幅を割くことで、失われてしまった人間の大きさ、それに比例する不在の大きさと挫折はいかに乗り越えられるかを具体的に連結させているのである。

 もっとも、カメラが鳳仙の側に行き過ぎ、鈴蘭と滝谷源治の魅力がさほど目立たなくなってしまっているところもある。おそらく、平川自身もそれに気づいており、主人公のサイドへテコを入れるべく用意されたのが、河田二高の久賀陽二だろう。映画に(たぶん)いなかった登場人物である。彼の関与がどのような影響をもたらすのか。現時点では不明だが、方向性を定められずにいた者が周囲の期待を再獲得するにはあらためて自分を立て直さなければならない、という意味で鳴海とパラレルなポジションに置かれた源治のプラスαたりうるのは間違いないし、芹沢多摩雄やリンダマンにはない働きを期待させる。

・その他平川哲弘に関する文章
 『クローバー』
  14巻について→こちら
  8巻について→こちら
  1話目について→こちら
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2013年03月30日
 SOUL 覇 第2章 3 (ビッグ コミックス)

 武論尊が三浦健太郎と組んだ作品に『王狼』とその続編『王狼伝』というのがある。ジンギス・カンの正体は源義経だった説にタイムスリップのアイディアをミックスしたものである。池上遼一とのタッグによる『SOUL 覇 第2章』のエンディングを目にしながら思い出したのは、実はそれであった。いや、もちろん、SFとして描かれているわけでは決してない。そうではなく、古代アジア大陸の歴史に日本人が介入すること、そして、介入した日本人はあくまでもカリスマの影武者であるような役割を果たしていることが共通しているのだ。

 しかしまあ、題名をあらためてからわずか3巻で完結した『SOUL 覇 第2章』である。これがスケジュール通りだったのかは知らないが、『覇-LORD-』との違いを簡単に述べるとすれば、要するに赤壁の戦いをメインに据えた次世代編だったのだろうと思う。もし『北斗の拳』に喩えるとすると、リンやバットが成長して以降、あるいはリュウが登場して以降のパートに相当する。古い世代と新しい世代のバトン・タッチを描いているところがある。いや、バトン・タッチは世代間のみならず、「劉備」や「孫権」のブランドをめぐって行われてもいる。関羽が燎宇から「劉備」の名を奪おうとし、本物の孫権を殺した周瑜が自らを「孫権」と称するくだりもある。

 てっきり「三国志演義」の翻案と見られていたものが、なんと「三国志」中の「魏志倭人伝」の空想化だったと明かしているのが『SOUL』でもある。この意味において、中国史を題材としているにもかかわらず、日本人(倭人)を主人公にすることができたともいえる。いずれにせよ、大胆な解釈が施されている点に変わりはない。「王」ではなしに「皇」を抱き、その下に民主制らしき形態を敷いた「蜀」があって、宗教国家として一丸となった「呉」があり、それらに対抗する「魏」がある。これが『SOUL』にとっての「三国志」である。無論、「蜀」が代替しているのは戦後日本のイメージだと容易に推測されるし、おそらく、大衆を改革しようとした燎宇や関羽の姿には『サンクチュアリ』や『HEAT-灼熱-』のテーマが入り込んできているのではないか。

 ただ、常元の扱いは最後まで定まらなかったな。いや、徹底したゲス野郎ではあったのだけれど、物語の駒としては弱かった。常元ばかりではない。終盤、諸葛亮や馬超のぶっ飛んだアピールは決して悪くはないのだが、正直、初期の呂布や董卓を越える人物はついに発明されなかった。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他武論尊(史村翔)に関する文章
 『SILENCER』(画・ながてゆか)1巻について→こちら
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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2013年03月22日
 デスルデス (ニチブンコミックス)

 ファンの立場からすると、やはり鈴木大(鈴木ダイ)の良さはヤンキー・マンガにはねえだろう、SFやファンタジーでアクションをやってくれよ、と思っていたのだった。が、そうした期待と近いラインの作品に『デスルデス』はなっているんじゃないか。冴えないタイプの少年と異世界からやってきた美少女によるラブコメのようであり、それとバトルをミックスしているようでもある。

 不運に見舞われてばかりのその少年は果たして本当にツイていないだけなのだろうか。いや、確かに三月漢太は日々散々な目に遭っている。それでもいつだって明るい笑顔でいられるのは持ち前のメンタルがポジティヴなおかげで、これを周囲の人間は単に客観性の低いプラス思考と見なしているのだけれど、実際にはもっと大きな運命の歯車が動き、それに左右されていたのである。なんと、漢太は死神に命を狙われていたのだ。本来は死ななければならない人間であった。だが、どれだけの災難をもたらされてもことごとく生き延びてきた。この意味においてはむしろツイている。誰よりも幸運だとしていい。なぜ漢太は死なないのか。彼を殺せなかったせいでエリートの地位を失った死神、ドルニエ=F=カルアは名誉を挽回すべく、人間界に参上する。是が非でも漢太の命を奪わなければならないのだ。それがいつの間にか漢太のペースに巻き込まれ、奇妙な同居生活を営むこととなっていく。

 1巻の中身を受け取るかぎり、『デスルデス』は今どきのライトなフィクションにおけるパターンを踏襲しているにすぎない。カップルの相克が終末論めいた物語の導入になっている点を含め、目新しさはほとんどないし、正直なところ、鈴木大がわざわざこれをやる必要もたぶんない。しかし、たとえ世界が無慈悲であろうとも正義を信じ、熱血的な振る舞いを照れ隠しにしない若者の姿は、初期の『BANG2』や『BANZAI』に通じるものであって、にわかにキャッチーであるような部分ではなく、そこに好意を持つ。

・その他鈴木大(鈴木ダイ)に関する文章
 『クローズLADIES』アンコールについて→こちら
 『クローズLADIES』について→こちら
 『春道』1巻(キャラクター協力・高橋ヒロシ)について→こちら
 『ドロップ』(原作・品川ヒロシ、キャラクターデザイン・高橋ヒロシ)
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2013年03月09日
 デザート(2)<完> (ヤンマガKCスペシャル)

 吉沢潤一が前作の『足利アナーキー』とこの『デザート』で何をやろうとしたのか。正直なところ、よくわからないのだけれど、一種異様な個性を確立しつつあるのは明らかである。もしかすれば、浅野いにおと平川哲弘のあいだのどこかに置くことのできそうなその作風は、つまりリアリズムをファンタジーとして描くこと、あるいは反対にファンタジーをリアリズムとして描くことを基礎にしているのだったが、しかし、ポップ・パンクを愛好するこの若いマンガ家の場合、あまりにも直接的な言語の指示とほとんど暴力的なイメージの奔流とが、果たしてそれが意図なのか脱線なのかはともかく、本筋やテーマを見えにくくしてしまう。突拍子もない振る舞いに、ラディカルであったりアヴァンギャルドであったりするのに近い迫力が備わっているのだ。

 私見を述べるなら、『足利アナーキー』は、ヤンキー・マンガ版『ONE PIECE』であるように思われた。日本一のギャングを目指すという主人公の目的は、ルフィにおける海賊王のテーマを代替しているのだし、実際、それが並みいるアウトサイダーたちを特定の集団にまとめ上げていく。こうしたプロセスが本筋を担っていた。とするのであれば、『デザート』はそれの拡張ヴァージョンと解釈することもできるのではないか。本編の主人公はキノ(紀有希)とデザート(鈴木苺)男女のダブルである。一見するとボーイ・ミーツ・ガールのストーリーを持っているのだが、カップルというより同志であるような二人の関係は、ルフィとナミのそれに重ねられるだろう。当初、デザートは抑圧される人物でありながら信念をなくさない人物でもあった。その彼女がキノによって解放され、彼と道行きを共にすることとなる。他方で、キノの活躍は各々身勝手な不良少年たちを結束させるという機能を兼ねていくのだから、おお、なんて『ONE PIECE』的なんだ。

 が、そうした本筋やテーマにあたるものは、既に記した通り、あまりにも直接的な言語の指示とほとんど暴力的なイメージの奔流を通じ、必ずしもクリアには見られなくなっている。そして、そこが吉沢潤一ならではの個性になっているのである。たとえば、この2巻のクライマックスだろう。デザートと烏山の対決に目を向けられたい。ヒロインVS悪党という単純な構図を、人類や宇宙の存在までをも問う謎の哲学が、過剰なモノローグとなり、さらには飛躍したカットとなって、まったく覆い尽くすとき、ああ、ここに描かれている内容を十分に理解している人間がいたら一体何がどうなっているのか是非教えて欲しい。おそらく、作者自身も完璧には解説しきれない。つまりは感受性のレベルでスペクタクルを再現しているのであって、ロジックには転じえぬインパクトだけは見事に達成されている。

 ことによったら柴田ヨクサルにも通じる。形而上と形而下のシェイクを登場人物のアクションとして戯画に置き換える。いささかアクロバティックなアプローチをこの若いマンガ家は身につけているのである。突如、物語を放り出すかのような最終回を迎えた『足利アナーキー』に比べても『デザート』は短い連載となった。その結果、初期衝動を思わせる質のエネルギーがラストまで維持されたといえる。

・その他吉沢潤一に関する文章
 『足利アナーキー』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
  番外編「乙女シンク」→こちら
 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2013年03月01日
 SILENCER 1 (ビッグ コミックス)

 ながてゆか、史村翔。一部の人間からしたら(自分のことなんだが)強力なタッグによって描かれる『SILENCER(サイレンサー)』の、その1巻である。『銀の聖者 北斗の拳 トキ外伝』に史村(武論尊)がどれだけ関わっていたのかは知らないけれど、両者の持ち味がハード・ヴァイオレントなサスペンスの中によく生かされた内容にこれはなっていると思う。毒をもって毒を制すかのごとく、犯罪者に対し、手段を選ばず、ばんばん銃撃を繰り広げるヒロインの様は、女性版『ドーベルマン刑事』のようでもあるし、彼女に備わった妖しいフェロモンと激しいアクションは、現代版『蝶獣戯譚』のようでもある。が、いずれにせよ、あくどい連中が蔓延り、秩序のくたくたになってしまった世界が、まるで死線として存在するとき、それに殺されないでいるためのギラギラした眼差しが、極端なまでにカリカチュアされた不敵さを可能にしているわけだ。

 いやまあ、実にぶっ飛んだ奴だね、桂木静というヒロインは、であろう。なにせ、研修先のニューヨーク市警で、マフィアのボスをあっさり銃殺。さらには北朝鮮や中国のシンジケートにも容赦なく顔を突っ込んでいく始末である。無論、悪と見なせば、ヒット、ヒット、ヒットであって、このヒットはヒットマンのヒットと同義なのだったが、さすがに殺しすぎだよ。その、一人無法地帯ぶりは常軌を逸しているぜ、と言うよりほかない。ともあれ、明らかな問題行動を咎められることなく、むしろ同僚からは一目置かれ、日本に帰国した彼女が、今度は警視庁を舞台に八面六臂の活躍(でいいんだよね)を見せるというのが、おおよそのところ。なのだけれど、桂木が配属される生活安全対策分室にはもう一人、伊波というアウトロー・タイプの刑事がいて、これが彼女を陥れようとしたり、なかなか一筋縄ではいかない。

 先般、平松伸二が加納錠治を墓場から蘇らせたが、『SILENCER』にはそれへのアンサーを期待させるものがある。序盤、北朝鮮や中国のアンダーグラウンドが出てきたのを見、史村はもしかしたら『覇-LORD-』とは別のレベルでアジア史をやろうとしているのか、あるいは『HEAT-灼熱-』あたりの変奏を組み込もうとしているのかもしれない、と思われもした。今後、そうなっていく可能性がありえないわけではない。しかしながら、伊波が登場して以降の展開は、もっと率直にピカレスクのイメージを押しているふしがある。生活安全対策分室は、要するに『ドーベルマン刑事』における警視庁特別犯罪課のような特殊性を代替しているのだ。桂木は女性でありながら、初期の加納と同じく、史村が得意とする内面や体温を隠したタイプの主人公である。がゆえに、無慈悲にも感じられる。その特徴的なヒロインをながてがとても艶っぽく肉付けしている。
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2013年02月25日
 花めぐりあわせ 1 (りぼんマスコットコミックス)

 タイム・スリップのファンタジーを使った『おもいで金平糖』の、とりわけ2巻の内容においてレトロな時代への傾倒を見せていた持田あきだが、この『花めぐりあわせ』でよりストレートにそれは出、直接、明治の日本を舞台としたロマンスを描いている。なぜ明治か。作者の趣味である以上の理由があるとすれば、持田がその時代に対して現代の日本にはない(あるいは現代の日本に通じる)力強さを感じ取っているからではないかという推測は容易に立てられるし、実際、そのようなヴァイタリティが作品の魅力へ繋がっているところがあると思う。

 明治35年、貧しい田舎の村から東京の大型書店へ奉公しにいくこととなった少女、穂積きょうが『花めぐりあわせ』のヒロインである。盲目である母親のためにも精一杯がんばるつもりが、しかし一つだけ手違いがあった。奉公先の三室堂が求めていたのは男手だったのだ。働く場所をなくしてしまいそうになった彼女だけれど、必死になって懇願し、かろうじて三室堂に置かせてもらえるようにはなった。無論、店主夫婦の風当たりは強い。だが、辛い目に遭うばかりでもなかった。三室堂の養子である観月慧一郎や三室堂に雇われている作家の佐助に助けられ、励まされ、学びながら、徐々にその見聞を広めるのである。

 作中で、見聞を広めていくという経験は概ねヒロインの喜びと等号で結ばれている。最初は読み書きもできなかった彼女の無学は、当然、物語の背景によっているのであって、読み手の側からは非難の対象とはならない。むしろ無学であることを補っていこうとするその勤勉さは、この物語がどれほど健全であるかを教えているのだし、そうした物語に相応しい主人公であることを証しているのである。差別を導入することでドラマに起伏を作り出すのは、少女マンガに限らず、フィクションのセオリーだけれど、それがここでは近代化の途上であるような風景を通じ、男女の間や貧富の中に明確な壁を横たわらせているのだった。が、その壁を図らずも乗り越えてしまうヴァイタリティが、すなわちヒロインのアピールとなっているわけだ。

 なおかつ、普通、差別を導入すれば暗くなってしまいがちな局面を、なるたけ前向きに明るく、おおらかに描けているのが最大の美点だろう。ヒロインが知り合う(自分と同じ使用人の立場に置かれた)幼い少年、軍が折檻を受けるシーンは結構シビアであるものの、作中のレベルではそれが平常として存在している。これを悪と見なそうだとかこれを変えようだとかの判定は、少なくとも現時点では、登場人物に委ねられていない。ただ、その境遇において、いかなる試練をまっとうするか。悩みや苦しみにくじけまいとする姿を、登場人物の少女や少年たちが共有していること、それこそが作品をダウナーに陥らせない傾きとなっているのである。

 確かに、きょうと慧一郎によるラヴ・ストーリーが本題なのだろうし、現代における格差やネグレクトの比喩と解釈できる部分もあるにはある。しかし、やっぱり。ふとした瞬間に様々な抑圧を振り払ってしまうかのような力強さ、徒手空拳のヴァイタリティに対して何よりエールを送りたくなる。今後の展開をも左右する基調であるに違いないと思う。

・その他持田あきに関する文章
 『おもいで金平糖』1巻について→こちら
 『君は坂道の途中で』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2013年02月20日
 男樹〜村田京一〈四代目〉〜 1 (ヤングジャンプコミックス) 男樹〜村田京一〈四代目〉〜 2 (ヤングジャンプコミックス)

 作中に描かれている若者のファッションを見るにつけ、古いよね、と言わざるをえないのだったが、80年代の時点で既に古くなりつつあったマンガ家なのだから、何を今さら、であろう。むしろ、その不変であるようなイズムは、学ランやスーツという基本のデザインにこそ現れているのだと思うしかねえんだ。本宮ひろ志は。そして、まさかの『男樹』新章である。

 ああ、誰が何と言おうと『新・男樹』は傑作であった。それはやはり、京太郎と大友、二人のカリスマに絶対的な主従関係を結ばせたのが大きい。無論、三島や正次もなくてはならない名脇役だったけれど、オリジナルの『男樹』で京介が父から継ぎ、さらには伝説化させた「村田」のブランドを、京太郎が真性のアウトロー・大友を擁し、国家や警察までをも巻き込みながら止揚していく、その破格さに目を奪われるものがあったのだ。京太郎は京介の実の息子であり、「村田」のブランドにおいて、京介の父・正三が初代、京介が二代目、京太郎が三代目ということになる。

 ハッピー・エンドにはなりえない破滅型のファンタジーをハッピー・エンドに持っていった京太郎は決して敗北しない。大友も無敵だと思われた。しかし、男のドラマにとって女は添え物でしかなかったはずの既定路線を変更し、京太郎の娘である京子をメインに置いた『男樹 四代目』で、いとも容易く京太郎と大友は、死ぬ。もしかしたら、女性を主人公として立てることで『男樹』や『新・男樹』で繰り返されてきたエディプスコンプレックスの物語を越えようとしたのかもしれないし、野郎のロマンに翻弄された久美子や舞の物語に決着をつけようとしたのかもしれない。だが、それは当然、本宮に固有のドラマツルギーを見事なほど破綻させてしまう。

 文字通り、終わった、と実感させられたのが『男樹 四代目』だったと言えよう。そうであるがゆえに、『男樹〜村田京一〈四代目〉〜』のスタートは、まさか、と思われる。

 それが男尊女卑であるかはともかく、女性に「村田」のブランドは継げなかったということだろう。結局のところ、京子は四代目じゃなかったわけだ。つまり、題名から明らかなように、真の四代目として登場したのが、京子の腹違いの弟・京一なのである。

 京介は紛れもない極道だった。日本一のヤクザになることで彼のロマンは満たされた。対して、暴対法以降の時代背景もあり、京太郎はテロリストの役割を兼ねていた。その、本来国家と相反する人間が国家を上書きするというロマンを京太郎は達成しつつあったのだが、彼を脅威と見なした権力の同盟に弱点を突かれ、打倒されてしまう。『男樹 四代目』とは、いわばそのような物語であった。では、『男樹〜村田京一〈四代目〉〜』の主人公である京一が果たそうとしているロマンとは何か。段階的にヤクザを兼ねるが、ヤクザではない。テロリストでもない。それは作中でとある人物にこう予感されている。〈村田京一が目指しているのは… 政治 行政… 更にヤクザ 経済界 それらを一本の線でつなげられる 日本には今 誰もこの席にはいないと言われている真の… フィクサーだ 絶対に…〉

 独自にロシアとのコネクションを作り、あと一歩で国家そのものになりうるところだった京太郎から九千億の遺産と「村田」のブランドを継いだ京一は、手はじめに有望な若者を召集、彼らを従え、弱冠20歳の大学生でありながらヤクザの世界ばかりか政治や経済の世界にも介入していくというのが1巻と2巻の筋である。ここで重要なのは、京一は父・京太郎を越えるカリスマを得られるのか。また、大友を越えるカリスマが彼の元に現れるのかであろう。

 今のところ、前者に関しては、京子が京一を指して〈あの子は悪魔のにおいがするの おじいちゃんとも父の京太郎とも違う… 怖い… とんでもなく恐ろしい子の様な気がする〉と述べている程度の印象に止まっている。後者に関しては、現大友組の若頭にその可能性を見られたが、実際には使い捨ての駒で終わっている。大学で知り合った側近の矢沢もそのスケールではないと思う。勿論、自分以外のカリスマを必要としない点が、京一の、京太郎とは異なったカリスマなのだと判ずることはできるものの、物語の動力としてはいささか弱い。あるいは大友を下した若松勝成の娘であり、京一の女房となる真理がそのポジションに就くのか。いや、真理は京子とともに、久美子や舞の物語を変奏していくのだという気がする。

 いずれにせよ、『新・男樹』は京太郎が『男樹』の京介を越えることで傑作となった。京太郎の敗北を描いた『男樹 四代目』は、残念ながらシリーズの中で最も魅力が薄い。これを挽回できるかどうか。今一度、本宮ひろ志に期待したいところである。
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2013年01月30日
 ばぶれもん 1 (ジェッツコミックス)

 さあ、無礼講をはじめよう。奥嶋ひろまさ、同時リリースとなった『アキラNo.2』の1巻と『ばぶれもん』の1巻は、どちらもギャグの方向にフルスウィングした内容となっていて、思い切ったな、と感じさせるのだったが、とりわけ後者である。なぜかここ最近、たとえば柳内大樹は『新説!さかもっちゃん』で、加瀬あつしなら『ばくだん!〜幕末男子〜』で、といった具合にヤンキー・マンガ家ゴーズ・トゥ幕末的な作品を見かける機会が少なくはなかったのだけれど、奥嶋の『ばぶれもん』もそこに加えられるだろう。副題には「最強ヤンキー幕末画録」とあるとおり、近代化を目前にした景色のなかでヤンキイッシュなボーイズ・ライフが描かれている。

 今どき喧嘩上等で最強を目指す千葉竜平には居場所がなかった。23区の不良少年を片っ端から倒しても、ただ白けた目で見られるだけであった。十代が短く、限られたものであるなら、せめて熱く生きたかったのである。タイマンを挑んだ相手にさえ〈生まれてくる時代間違ったんじゃねぇか?〉と言われる。だが〈何の志もなく ぐずぐず日を送るは実に大馬鹿者なり〉という父親譲りのポリシーをねじ曲げるつもりはなかった。それがいよいよ東京制覇を果たそうとしたとき、恨みを晴らそうとする連中に取り囲まれ、リンチされた挙げ句、頭部に鉄パイプを受けて意識をなくしてしまうのだった。さすがに死んだ、と思った。〈志半ばで俺は死んだのか?〉と思った。しかしどうしてか。左肩に入れた家紋のタトゥーと何か因縁があるのか。時代を越えた文久元年(1861年)の土佐で目を覚ますこととなる。

 要するに、現代のヤンキーが幕末にタイムスリップし、当時の歴史的な状況に介入していくというのが主な筋書きであって、まだ龍馬が世に出ていない坂本家に匿われたことから尊皇攘夷の激動に関与せざるをえなくなるのだ。が、最初に言ったように、作中のテンションはギャグの方向に振り切れていて、シリアスなパートはかなり控えられている。土佐藩における身分制度の厳しさは、普通、坂本龍馬の青春に光を当てたフィクションでは暗いイベントとして扱われがちなのだけれど、『ばぶれもん』の場合、下士と行動をともにするヤンキーの主人公が公衆の面前で上士にタイマンをふっかけちゃうもんね。ある種の無礼講をカタルシスにしているのである。これは考証がどうというより、ギャグあるいはパロディのマナーを強めに採用しているためだろう。主人公のセリフには幕末を舞台にしたタイムスリップもののヒット作『JIN -仁-』に関する言及がうかがえるし、つのだじろうや楳図かずおの絵柄を模したカットを積極的に取り入れているのは、読み手がどこまで許せるかを試しているサインなのだと思う。

 いずれにせよ、やりたい放題なところがある。無論、幕末の運動が本格化するにつれ、ギャグでは乗り切れない部分が出てくるのかもしれない。必然としてシリアスなパートが増えてくるのかもしれない。現在は後の展開にショックを作るための準備段階にすぎないのかもしれない。だってどれだけコミカルに描かれようと武市半平太はやっぱり悲しいでしょう。かの『おーい!竜馬』でさえ、初期はのんびりしてたもんな、であろう。だが、前近代のルールを直接ぶち壊しかねない主人公の無茶苦茶ぶり、ギャグでしかありえない行き過ぎこそが『ばぶれもん』の大きな魅力となっているのである。

 第一、未来からやってきたことをまったく隠していないのが無茶苦茶である。そして、主人公が未来からやってきたと吹聴するのを他の登場人物たちがあまりにも素直に受け入れていることに対し、ツッコんではいけない。それは野暮ってもんだろう、と退かせる強引さがあるのだったが、実際に幕末の有名人を坂本龍馬しか知らないヤンキーがそこでできることといったら、i Podを使って龍馬の甥である高松太郎にザ・ブルーハーツなどのロック・ミュージックを聴かせたり、土佐勤王党の志士に『ドラゴンボール』のストーリーを広めたり、サッカーを教えたり。タイム・パラドックスお構いなしにしても、極めてしょぼい。しかしそれは今日性の反映であり、その現代をなぞらえた主体の持ち方と封建社会にまで遡った主体の持ち方との対照において、もしくは両者のあいだに共通項を探り当てることで、ギャップのギャグが表されている。と同時に、男子たる者かくあるべし、な生き様系のエモーションがもたらされているのだ。

 それにしてもまた坂本龍馬だ。柳内大樹の『新説!さかもっちゃん』や加瀬あつしの『ばくだん!〜幕末男子〜』の例があるように、ヤンキー・マンガ家ゴーズ・トゥ幕末的な作品とアプローチは決して珍しくはないのだけれど、必ずや坂本龍馬はアウトサイダーという意味で不良少年のアティテュードと一致し、さらにはスケールのでかいカリスマとして現れてしまう。ヤンキーと坂本龍馬がどうして通じ合うのか。ちゃんとした考察が待たれるが、これはおそらく司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によって一般化されたイメージ、そしてそれは消費社会に並行して学歴や出世の問題がトピックとなりつつあった1960年代(昭和三十年代)後半に発表されたことの影響を遠回しに受けている(石川忠司の『新・龍馬論』や浅羽通明の『昭和三十年代主義』、斎藤環の『世界が土曜の夜の夢なら』等を参照することが可能だろう)。

 さておき『ばぶれもん』では、1巻の最後になって、ついに坂本龍馬が出てくる。やはり、というか。フェンダーのストラト・キャスター型に改造された三味線(かな、弦が六本あるものの)を肩にかけたその姿はどこからどう見てもアウトサイダーの、カリスマの風貌であった。

・その他奥嶋ひろまさに関する文章
 『ランチキ』
  9巻について→こちら
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2013年01月28日
 pupa(3) (アース・スターコミックス)

 兄妹間のアブノーマルでグロテスクなダーク・ファンタジーだと思っていたマンガが、その本質には父と母の、そしてその内奥には雄と雌の、つまり、人間観のレベルでは普遍的な、さらに生態系のレベルにおいては真理的なテーマを潜めていたことが明かされる。 茂木清香の『pupa』3巻である。が、それにしてもクソ野郎のろくでなしである四郎(主人公の父親)がまさかこんなにも家族想いの行動を見せるなんて。いや、クソ野郎のろくでなしであることには変わりはないのだけれど、あまりの活躍にちょっと頼もしく感じてしまったわ。

 かくして、伊万里医神会に介入した四郎の発言は、主人公である長谷川現(うつつ)と妹の夢を苦しめるpupaとは一体何なのか。どうして夢は化け物のような姿になってしまったのか。意外な真相を我々読み手に教えることとなるのだった。はたまた、その真相が意外なのは、結局のところ、こうと信じられていた因果関係が実際には逆さまだったと暴露されているためであろう。夢は不幸な事件を通じて異形と化したのではなく、そもそものはじめから、その存在が誕生した時点ですでに人間とは別の生物だったのだ。夢の正体に気づきながら、誰にも相談できず、狂気に逃げ込まなければならなかった幸子(主人公の母親)の心境は、それが現の持っている記憶とまったく正反対の意図を含んでいたというのは、かなりおっかない。ホラーである。共同体の単位において、異常なのは父親や母親の方ではなく、現や夢の方だったことがばらされてしまうのだ。

 しかし、何が異常で何が正常か。作中では擬態と解説されている夢と現の運命は、他種の巣で孵化するカッコウの挿話を彷彿とさせる。我々の観念では異常に見えるかもしれないものが、自然の摂理を前にしたら異常でも正常でもない。ただ単に一貫した営みがあるにすぎない。だが、度を越した人間のエゴイズムがその野生らしい営みを壊し、暴力的にねじ曲げた結果として、あたかも不幸であるような物語を兄妹は背負わされてしまったのである。夢と同じくpupaであり、現に協力を申し出たユウの孤独もそれと並行している。この世界に唯一の寄る辺を、外からやってきた理不尽によって奪われてしまったユウの孤独は、『pupa』という作品が侵略と共同体の幸福とを裏表にしていることの暗示なのではないか。ここでいう侵略とは決してスケールの大きなものではない。あるいは侵害と言い換えた方がニュアンス的に正しいかもしれない。

 なぜ現と夢の平穏は破られたのか。いや、それ以前になぜ長谷川の一家は離散してしまったのか。さらに遡るなら、なぜpupaに異変が起こらねばならなかったのか。これらの出来事はすべて、何者かが何者かの生活を侵害したことに端を発しているのであって、文字通りの一連なりになっている。ともすれば元凶は、かつて伊万里医神会の中枢であった研究者のマリア(伊万里愛)だろう。彼女の態度こそが正しく度を越した人間のエゴイズムを体現しており、常軌を逸してしまった現と夢の立場は図らずもその悲劇に試されるものとなっているのである。現と夢のあいだに横たわる感情が、兄妹であることに由来しているのかどうかはともかく、それが侵略のもたらした苦難に対する一つの答えを為しているのは間違いない。

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2013年01月25日
 爆音伝説カブラギ(6) (講談社コミックス)

 戦争は止められるか。このような問いを、佐木飛朗斗が原作のヤンキー・マンガは喩えとして強く抱いているのだったが、ああ、しかしついに戦争がはじまってしまう。『爆音伝説カブラギ』の6巻では、誰かを殺された憎しみが誰かを死なせた悲しみを上回るとき、戦争は不可避になるという状況が描かれていく。

 鏑木阿丸を中心に一枚岩となった十六代目・爆音小僧が集会へ繰り出そうとする夜、免れえぬ怨念を理由に二つの巨大な勢力、朧童幽霊(ロードスペクター)と魍魎とが直接の対決を目の前にしていた。朧童幽霊の天目尊は、兄である七代目総長の駆を魍魎の十九代目統領の九曜幸叢によって殺されたと信じ、全存在を懸けてまでその仇を取らなければならなかった。また魍魎が以前にも増して結束を固くしたのは、九曜の妹である礼奈が朧童幽霊に殺されたと信じられていたためであった。礼奈と駆が実は好き合っていたと知る九曜の恋人、瑠美子は秘められた真相を阿丸に告げるが、しかし因縁はあまりにも込み入りすぎていた。すべてが一触即発のまま、爆音小僧が、朧童幽霊が、魍魎が、国道に爆音を響かせる。〈あ――? 相手ェ 何人何台カンケー無ェゾ? “対人(タイマン)”だろーが“戦争”だろーが“上等”だぜ〉

 平行軸というか水平軸というか、横線上の対立に紙幅を割き、膨らみ上がった相関図を一個の世界あるいは宇宙として機能させる。この極端性が佐木の作品の大きな特徴を担っているのだけれど、そこではしばしば時間の存在が失われる。本来は24時間と定まっているはずの一日に、決して収まりきらないであろういくつもの事件が描かれるのである。結果的にそれは、戦争がなかなかはじまらない前夜に登場人物を延々と引き止めるかのような措置になっていると見ることもできたと思う。だが、『爆音伝説カブラギ』において不良少年たちは意外なほど速やかに全面的な衝突を迎える。

 過去の回想は筋書きを明瞭にしている点も含め、時間の垂直軸が物語の動力とほとんど一致しているためである。もちろん、この勢いで爆音小僧VS朧童幽霊VS魍魎の三つ巴に決着がつくわけではないのだろうし、ここからさらに二転三転する展開が待っているに違いない。しかし時間の垂直軸によって、ネガティヴなモチベーションに煽られながら戦争がはじまるべくしてはじまる、その局面が顕著に示されることとなっている。

 戦争は止められるか。このような問いは、まだはじまっていない戦争に対して投じることが可能であるし、すでにはじまってしまった戦争に対して投じることも可能である。いずれにせよ、戦争が不可避となるような状況のなかで発せられるものであろう。

 以前にも述べたのだけれど、佐木の作品によくいるタイプの消極的な主人公と阿丸は違っている。むしろイケイケの鉄腕ぶりに主人公としての真価が現れている気さえする。たとえば『疾風伝説 特攻の拓』の浅川拓や、この『爆音伝説カブラギ』と同じく東直輝とコンビを組んだ『外天の夏』の天外夏が、穏健派に近かったのとは性格が異なっているのである。では、鏑木阿丸に託された役割とは何か。そうであってもやはりどこかで戦争を止めることであって欲しいと思う。


 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』(漫画・所十三)
  1巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2013年01月23日
 ロマンチカ クロック 1 (りぼんマスコットコミックス)

 槙ようこのキャリアを通してみると(妹である持田あきが原作であってさえ)大きく二つの理想がイメージされていて、つまりはそれが作品の主だった柱を作り出しているように思われる。理想の一つは、学校は楽しい場所であるべきだということであろう。もう一つは、家族はかけがえのないものであるべきだということである。もちろん『りぼん』のイズムを反映した結果にすぎないのかもしれないが、実際に槙のマンガにとってチャーミングなメリットとなっている点に変わりはないのだし、そうしたメリットは当然この『ロマンチカ クロック』の1巻にもよく出ている。

 ヒロインは明るく活発な14歳の少女、杏香音だ。彼女には双子の兄、蒼がいる。しかし蒼は杏香音と正反対の性格で、口数も少ないし、引きこもりと見なされている。それがとあるきっかけで学校へ顔を出すようになり、明晰な頭脳と持ち前の容姿を高く買われ、生徒たちの人気を集めはじめると、目立ちたがり屋の杏香音は気に食わない。そもそも仲睦まじい兄妹ではなかったけれど、以前にも増して蒼に敵対心を抱くのだった。とはいえ、二人のあいだには、当人たちですら気づいていない確かな信頼があるようでいて、周囲の人間を巻き込みながら次第に歩幅を合わせていく。というのが、おおよその筋である。

 賑やかな学園生活を経ながら兄妹の繋がりが強まる。こうしたストーリーに、作者の、らしさ、は現れている。兄妹を中心とした友人関係や、二人を見守る家族の視線が、作品の温度を大変微笑ましく表しており、またこれによって、ラヴ・ロマンスの部分がいくらか退いて感じられるのも、作者の、らしさ、である。もちろん、ラヴ・ロマンスにあたるパートはしっかりとある。学園生活に恋愛は付き物なのである。しかしそれは(少なくとも今のところ)メインのプロットではないだろう。やはり杏香音と蒼、この兄妹の、心の距離が『ロマンチカ クロック』のテンションを上げ下げしているのだ。

 学校は楽しい場所であるべきだということも、家族はかけがえのないものであるべきだということも、現実的には絶対ではないので理想としてありうる。『ロマンチカ クロック』は、子供の目の高さで、あるいはそれが大人びていく過程のなかに、エモーションを描いている。場合によってはその幼さが、近親相姦を想像させる下世話なフックを(潜在的には存在するとしても)斥けているのだけれど、何より状況はいくらでも変えられることの可能性を素直に代弁している点が大きい。絵柄に多少の変化を加えてきているが、中身の方では従来通りの槙ようこが貫かれている。

・その他槙ようこに関する文章
 『勝利の悪魔』3巻について→こちら
 『山本善次朗と申します』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『14R』について→こちら
 『たらんたランタ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『STAR BLACKS』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『愛してるぜベイベ★★』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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2013年01月15日
 銀のスプーン(6) (KCデラックス)

 ああ、どうか。この〈……ぼくがしあわせであるように …その人たちもしあわせでありますように この同じ空の下で …どうかしあわせでありますように〉と祈れる心優しい青年の前途が明るいものでありますように。願い。

 ほぼ同じ題名である荒川弘の『銀の匙』がほぼ同じ時期に存在しているのがどういう偶然かはさておき、小沢真理の『銀のスプーン』は、日々生きるていることの賛歌をささやかに歌うかのような作品であって、登場人物たちが自然と併せ持ったせつなさや、あたたかさ、厳しさに、ついつい胸を打たれる。

 料理のレシピや食卓にまつわるエピソードを作中に盛り込んだ内容は(ヤングな女性層に向けてカスタマイズされた)グルメ・マンガのカジュアルなヴァージョンとして区分することが可能だろうし、何よりもコンセプトありきでスタートした部分もあったのではないか。しかしそれを踏まえてもなお、主人公である律とその家族をめぐり幸せと不幸せのシーソーがいくつもいくつも繰り返されていく。筋立てにぐっとくるのである。

 確かに、女手一つで三人の子供を育ててきた早川家の母親が病気によって失われるかもしれない。という出だしからシリアスなパートのふんだんなマンガではあった。が、律と同級生である夕子の初々しいロマンスや、だめな大学生男子の典型みたいなサイキックスのコメディ・リリーフぶりなどがそうであるとおり、体温が冷えるほどヘヴィなムードを全面的にしているわけではなく、むしろにやにやしたり、ほっと胸を撫でおろせる一場面一場面のなかに「生活」と呼ぶに相応しい風景が眩しくひらけていた。

 それがここにきて、あまりにもやるせない展開を迎える。ルカという少年の無垢で真っ直ぐな眼差しは、そのあどけなさが似つかわしくない現実を律に教えるだろう。自分が養子であることを知り、悩んでいた律は、ようやく実の両親を訪ねていこうと思う。結果的にもたらされたのは、母親にネグレクトされている弟、ルカとの出会いであった。

 冒頭に引いた律の〈……ぼくがしあわせであるように …その人たちもしあわせでありますように この同じ空の下で …どうかしあわせでありますように〉という祈りは、結局のところ、聞き届けられなかった。代わりにひどく寂しい姿をしてその回答は彼の目の前に現れたのである。

 養子でありながら家族に充分愛されてきた律が、今の「生活」を幸せだと感じられれば感じられるだけ、ルカの不幸せは大変理不尽に思われてしまう。ルカに対して何かできることはないかと考えてしまう。誰だって他の誰かに差し伸べられるやわらかい手を持っている。周囲との関わりにおいて、それは間違いなく真(true)であったのだ。こうしたテーゼに含まれるやさしさこそが『銀のスプーン』の筋立てを魅力にしてきたものにほかならない。

 律ばかりではない。今巻(6巻)には、早川家の次男である調をメインに、彼の後悔を淡く描いた回が入っている。バスケット部の後輩が不良の仲間になるのを引き止められなかった調は、ガラの悪い連中を前に尻込みしてしまった自分の臆病さを強く噛みしめるのだった。無念である。無力である。けれど、他の誰かに差し伸べられるやわらかい手を持ち合わせていなかったならば、そもそもその後悔は生じていない。

 調の抱えていた問題と律の抱える問題にストーリー上の繋がりはないが、他の誰かに自分は一体何ができるのか、というアプローチのレベルで一致している。題名である『銀のスプーン』が指しているのは、おそらく、分け与えられる気持ちのことだろう。律とルカがはじめて顔を合わせるシーンでそれは実に印象的(あるいは象徴的)な役割を果たしていく。
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