ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年03月18日
 from ABC to Z(5stars限定盤) from ABC to Z

 そう、我々はこれを待っていた、と言いたい。DVDデビューという変則的な立ち位置で世に出ることとなってしまったA.B.C-Zだが、(これまでPLAYZONEのサウンド・トラックに参加していたり、既発のDVDにCDが付属したりしてはいたものの)音源としては初の作品集となる『from ABC to Z』は、いやむしろ、Sexy Zoneの『Sexy Second』と並び、2014年にジャニーズの本流をよく聴かせるものとなっているのではないかと思う。確かに戦友であるKis-My-Ft2と比べ、 カッティング・エッジな要素は乏しいし、後輩にあたるSexy Zoneの初々しさに対し、だいぶ大人びてしまっているところもある。しかし、ジャニーズのポップスとして、実に完成され、洗練されたものを、おお、このグループは受け継いでいるんだぞ、ということを『from ABC to Z』は教えてくれるのである。

 CDにして2枚組のヴォリュームだけれど、とにもかくにもディスク1の5、6、7、8曲目が、その流れも含め、素晴らしい。素敵だ。5曲目の「Never My Love」は、アメリカのソフト・ロック・グループ、THE ASSOCIATIONが67年にヒットさせた洋楽曲のカヴァーであって、そもそもジャニーズ(グループ)が発表するはずだったという逸話を持ち、72年にはジャニーズ(グループ)の弟分、フォーリーブスがアルバム『スーパー・プレゼント』に収録している。つまり、過去から現在へ、の伝統が、いくらかの時間をおいて、ここに引き渡されているのである。実際、A.B.C-Zヴァージョンの「Never My Love」は、基本の旋律は同じであっても、テクノロジーの進歩により(たとえフェイクであろうと)ストリングスの導入が容易くなった今日ならではの仕上がりだろう。A.B.C-Zのメイン・ヴォーカルは、多くの場合、橋本良亮くんが任されているが、「Never My Love」における橋本くんの歌声は、力強いぐらい、堂々としていて、ゴージャスなアレンジに決して負けていない。他のメンバーのハーモニーが、センチメンタルなコーラスをやさしく盛り上げるなか、感情のメーターを目一杯にしていくそれは、美しい映画のエンディングのように胸を打つ。

 6曲目の「砂のグラス」は、打ち込みのリズムはきらきらとして軽やかだが、ユニゾンのヴォーカルを乗せたメロディがせつない。作曲が瀬川浩平だからか。あるいはそのようなオーダーに応えたソング・ライティングなのか。KinKi Kidsのナンバーを彷彿とさせるところがある。7曲目の「ボクラ〜LOVE&PEACE〜」は、作曲の一員にNEWSへの提供で知られるヒロイズムが入っているけれど、なるほど、ドラマティックでエモーショナルな出だしはヒロイズムのテイストなのではないか。他方、ブレイクを前触れにスローであったはずのリズムが走り出す箇所が、生理的に(良くも悪くも)引っ掛かるんですよ。スムーズに転調するというのとは違う。おそらく、アクロバティックなメンバーのダンスやパフォーマンスに合わせたコンサート用のアレンジをそのまま使っているのだと思うが、それが映像なしのスタジオ音源であるとき、カタルシスとは別種の、しかし、妙にクセのあるアプローチとなってくる。特筆すべきは、そこでマイクをリレーしていき、やがてユニゾンとなっていく5人のヴォーカルを通じ、楽曲自体のカタルシスはカタルシスとしてちゃんと辻褄が合ってしまうことだ。

 8曲目の「Desperado」は、ダークでミステリアスなダンス・ナンバーであって、音色の部分にブラック・ミュージックの影響が見られる。欧米のブラック・ミュージックを独自のセンスでカスタマイズしてきたジャニーズの現在進行形であるような楽曲だともいえる。後半のシアトリカルな展開と合唱とが孤独を明るく照らしていく9曲目の「LET'S SING A SONG」もそうだし、「アンダルシアに憧れて」や「青春アミーゴ」といったジャニーズにしばしば歌われるアウトロー・アンセムの変奏であるような10曲目の「My life」もそうだが、無論、他の楽曲を含め、先達の成果から多くのことを学び取ったアルバムなのだと思う。そして、それがオリジナリティとは異なったレベルで、ジャニーズの本流をよく聴かせるという実感をもたらしているのだった。ディスク2の2曲目、賑やかにラップがはじける「STAR SEEKER」や同じく11曲目の「Vanilla」など、ファンにはお馴染みの楽曲を収録することで、A.B.C-Zというグループのヒストリーを総括するばかりか、ヴァラエティに富んだ楽曲の数々は、ジャニーズ全体のヒストリーまでをも完璧に同期してしまっているのである。

 テレビ番組に出演しているイメージからすると正統派の印象は薄いかもしれない。けれども、A.B.C-Zのポテンシャルを侮るなかれ、であろう。

 さて、これは余談になる。が、2014年3月18日現在、残念ながらWikipediaに塚田くんだけ単独の項がありません。ないよね。そんなに特記すべきことがないのか。それとも何か事情があるのでしょうか。塚田くん、好きなんだけどなあ。塚ちゃん。
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2013年12月05日
 楔-kusabi-(初回限定盤1)(DVD付) 楔-kusabi-(初回限定盤2)(DVD付) 楔-kusabi-(通常盤)

 なぜ〈NO PAIN〉と叫び、「NO MORE PAIN」と願ったはずなのに、またもや受難の道を進まなければならないのか。警告を忘れ、どこまでも高い空を目指していったイカロスの墜落と神話とが、その運命に内蔵されているのか。それとも、幾多の傷を負おうと立ち上がるヒロイックなイメージが何より似つかわしいからなのか。受難とはもちろん、グループにとっての受難であって、彼らを求めるファンにとっての受難にほかならない。そんなもの決して望んでやしないのだったが、しかし、それが『楔-kusabi-』の通常盤に収録された「PHOENIX」における次のような一節を、KAT-TUNというエピック(叙事詩)にぴったりのきらめきとしてしまう。皮肉なことに。そう、〈すべてに理由がある〉〈何度も蘇ってみせるよ〉と告げるのであって、〈WE DO NOT FEAR さあ 共に羽搏(はばた)け 終わりのない楽園へ〉と力強く、〈這い上がれ 灼熱の夜明けへ〉と歌い、そして〈ルールの無い ルールを縛りつけていく〉のである。

 5人編成による楽曲を含まない『楔-kusabi-』の制作期間がどれぐらいだったのかは不明だし、事前にミニ・アルバムとアナウンスされていたことから急ごしらえであったのかもしれないが、初回限定盤1、初回限定盤2、通常盤の3枚を合わせた(「楔-kusabi-」と「GIMME LUV」のカラオケ・ヴァージョンは除く)全10曲の内容は、それでも2012年の『CHAIN』に続く作品としてカウントされるべきものだろう。田中くん脱退の経緯が経緯だからなのか。あるいは4人編成としての真新しいスタートを強調するためか。既発のシングルをあえて外してきた点は、むしろポジティヴに評価されたい。初回限定盤1に付属している「楔-kusabi-」のヴィデオ・クリップのメイキングで、中丸くんがインタビューに答え、「メンバーが4人だとセンターが発生しない」という発言をしているのは重要である。おそらくはそれが『楔-kusabi-』の、そして『楔-kusabi-』以降のKAT-TUNに対し、メンバー自身が想定しているに違いないヴィジョンなのだと思う。

 振り返るなら、オリジナルである6人編成のKAT-TUNには、奇跡のようなシンメトリーが存在していた。しかし、それは失われた。5人編成の第2期とでもすべきKAT-TUNでは、シングルなどのジャケットを見る限り、亀梨くんをセンターに据える式のプランに基づくものがあったと推測される。だが、それも失われてしまった。たぶん中丸くんの発言は、かくしてもたらされた「メンバーが4人だとセンターが発生しない」状況を、単なる引き算の数式ではなく、現在のKAT-TUNにとってプラスαとなるような逆転の領域にまで持っていかなければならないことを意図しており、つまりはその解答例こそが『楔-kusabi-』といえるのだ。

 タイトル・トラックである「楔-kusabi」は、なるほど、最近のシングルの傾向を汲みながら、ミステリアスで切ないというKAT-TUNの一面を改めて認識させるナンバーとなっている。が、打ち込みの硬いリズム、ダンサブルな重低音、メタリックなギターのリフ、ストリングスとシンフォニックなアレンジ、そこにナイーヴでいて扇情的なヴォーカルのメロディが組み合わさり、溢れてくる過剰なまでのロマンティシズム、ああ、これなんだよな、KAT-TUNだけが与えられた天性の資質とパフォーマンスは、と実感させてくれる根拠に関しては、他の楽曲の方に大きく表れている。

 2曲目の「GIMME LUV」のヘヴィなうねりはどうだ。ヴォーカルの線の細さは(良くも悪くも)KAT-TUNの特徴の一つに挙げられる。赤西くんのパワフルな声量、田中くんのドスが効いたラップといった飛び道具を頼れなくなった今、本格派のラウド・ロックやブラック・ミュージックをベースにしたとき、それは弱点になりかねない。けれど、その線の細さが異様にドラマ性が高いグルーヴを前に鮮やかな意味を持ちはじめる。悲壮であることの本質に備わった美しさと激しさとをダイレクトにしているのだ。たとえば「与えたり」「癒し合ったり」を題目に置くようなハッピーでいて優等生ぶったラヴ・ソングにはない儚さがある。否定することも否定されることも厭わず、独善的であるほどにぐいぐい「求めてくる」「迫ってくる」焦燥がある。衝動がある。アグレッシヴさがある。この押しの強さはもちろん、KAT-TUNの過去と現在とを一つのキャリアのなかで直結させるキーである。

 久々に中丸くんのヒューマン・ビート・ボックスを前面にフィーチュアした3曲目の「ON & ON」には、「SIGNAL」や「YOU」の頃を思い出させる爽やかさがあるし、アップ・テンポの中盤にEDM調のブレイクが入ってくる4曲目の「FIRE and ICE」は、しかし、それでもトレンドであるよりはクラシックであるような展開とリズムのセンスとが、ユニゾンで盛り上がるコーラスに〈例え絶対零度の現実も BURN IT DOWN HARDER さあ在るがまま〉〈鼓動の限り 燃やせFIRE and ICE〉という歌詞の通り、あたかも形而上へまで届きそうなパッションをもたらしているのだった。

 以上の楽曲は、初回限定盤1、初回限定盤2、通常盤に共通しているが、初回限定盤1の6曲目に収められた上田くんの「MONSTER NIGHT」は、『楔-kusabi-』におけるメンバー唯一のソロ・ナンバーであって、かつての「MARIE ANTOINETTE」や「ニートまん」と同様、洒落っ気と茶目っ気がたっぷりの仕上がりである。コンセプチュアルなヴィジュアル系、あるいはゴシック趣味とニコニコ動画等のネット・カルチャーやアニメ・ソングに散見されるシアトリカルなアプローチとを自由に横断し、ミックスしてみせたそのアプローチは、ジャニーズの枠内に限らず、非常に独特なものだ。

 ああ、そして通常盤の5曲目に入っている「BLESS」と7曲目の(事実上のラスト・ナンバーにあたる)「PHOENIX」は、紛れもないハイライトである。とりわけファルセットのヴォーカルに堂々と挑んだ前者は、メンバー4人の個性がこれまでのキャリアにはなかった色彩となって、混じり、淡い季節のエモーションをブライトに描き出す。黄昏にも似た叙情があるけれど、バラードというのではない。ポップにはじけていくクライマックスと軽やかなステップがある。作詞を担当したRUCCAがどのようなオーダーを受けたのかは知らないものの、〈信号(シグナル)〉であったり〈僕らの街〉であったり〈FACE〉であったり〈約束〉であったり、過去のタイトルの引用であるかのようなフレーズが随所に挟み込まれているのは意図的であろう。しかして、亀梨くんが裏声で歌う〈時は過ぎて〉〈6月の或る晴れた午後に SO, I'M MISSING YOU〉に刻まれた別離ばかりか、「6」という数字でさえも自然と象徴性を帯びてしまうのだったが、単なるセンティメントが「BLESS」を愛おしくさせているわけではない。どれだけのセンティメントを抱えようと新しい一歩を踏み出していくよ。やわらかなメロディは伸び、雨の止んだ向こうに開けた景色の眩しさを想像させる。

 高く舞い上がるための翼がまだある。結果はどうであれ、自分(自分たち)はそうと信じられる。少なくともこれを希望と呼ぶことができる。「PHOENIX」は、正しく不死鳥のストーリーを再現している。音楽的には『CHAIN』のラスト・ナンバーであった「SOLDIER」の第2章みたいでもある。オーケストレーションはリアリティを度外視したスケールを生み出し、打ち込みの硬いリズムはまるで勇者を讃えるマーチのごとくである。無限のファンタジーがある。感動的ですらある。それにしてもファンに向かって自身を戦士や不死鳥に喩えずにいられないアイドルとは一体何なのだ。とんでもないことになっているのは間違いない。その存在が、活動が、もはやエピック(叙事詩)だと述べるしかない。トゥー・マッチだろうか。だが、トゥー・マッチであるがゆえに〈WE DO NOT FEARさあ 共に燃えゆけ 命叫ぶ鳥たちよ〉という声に熱がこもる。そしてそれは〈撒き散らせ 閃光の世界へ〉と〈ルールの無い ルールを降り注いでいく〉のに相応しい。

・その他KAT-TUNに関する文章
 『FACE to Face』について→こちら
 「WHITE」について→こちら
 「CHANGE UR WORLD」について→こちら
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN』(2012年4月20日・東京ドーム)について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2013年11月15日
 Still

 2011年の前作『WORTHLESS』で1曲目を飾った「HOMETOWN HERO」が猛烈に好きである。そもそもがパワー・ヴァイオレンスと目されるようなバンドであって、根っこの部分にはグラインドコア、デス・メタル、スラッジ、カオティック・ハードコアの怨嗟が渦巻いていたわけだが、そこにENTOMBEDのデス・ロールや初期THE HELLACOPTERSのガレージ・パンクが流れ込んできているみたいでもあり、当然、鼻息をふんふん荒くさせるのだった。近年のCONVERGEを引き合いに出してもよさそうな路線かもしれないけれど、WEEKEND NACHOSの方がアンダーグラウンドくさいし、ロウ・ファイで未整合な分、生々しい感じがするね。その米イリノイ州シカゴ出身の4人組、WEEKEND NACHOSが『WORTHLESS』に続けて放つフル・アルバムが今作の『STILL』になる。これがまたすこぶるメーターの振り切れた作品だから、ああ、期待を裏切らないってのはまさにこのことよ、であろう。

 印象としては『WORTHLESS』のヴァージョン・アップといえる。コンパクトな楽曲のなかで何段階もテンポがチェンジするのはもちろん、ぐちゃぐちゃに歪んだスローなグルーヴは残しつつ、スピードの強調性と同義であるようなドライヴにより磨きがかかってきている。それはギターの弾くリフがシャープさを増し、一音の輪郭がはっきりしたためだと思う。CDケースの背面にBOLT THROWERやCARCASSのTシャツを着たメンバーの写真が載っているが、確かにそれらの影響を匂わせるような荒削りでフックの強いシャープさである。ツウ好みのエッセンスを消化しながら、しかし完全に現代仕様のエクストリーム・ミュージックを確立しているのだ。スタイリッシュとは無縁のサウンドも、激情を剥き身にしたヴォーカルのアジテーションも、ドドドと溢れる原初的なエネルギーをよく伝えてくるもの。アルバムのラストに置かれた12曲目の「STILL」はタイトル・トラックに相応しい。底の見えない悲しみから這い上がってき、際限を知らない怒りへと達するかのようなダイナミズムがある。

 他にも「S.C.A.B.(SOME COPS ARE BASTARDSの略)」「SICKENED NO MORE」「NO IDOLS AND NO HEROES」「SATAN SUCKER」「YOU'RE NOT PUNK」など、物騒なタイトルのナンバーが並んでいるけれど、名は態を表すという言葉の通り、おまえらみんなクソ食らえ、のアティテュードが全編に渡って漲っている。

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2013年11月11日
 Youth

 エモ・ポップ、ポップ・パンク、ソフト・ハードコアのようなポスト・ハードコア、それらのエッセンスを若い世代として確かに汲みながら、アップ・テンポにはじけ飛ぶのではなく、ミドル・テンポやスロー・テンポの楽曲を主にメランコリックなメロディを溢れさせている。これがアメリカ中西部で結成されたCITIZENのファースト・アルバム『YOUTH』の大きな特徴であろう。

 海外のレビューでは、TITLE FIGHTやDAYLIGHT、SEAHAVENであったり、イギリスのBASEMENT等の名前が引き合いに出されているみたいだが、なるほど、エモーションの熱い部分とシンガロングのパターンとが同期している点は正しく共通する。反面、CITIZENの場合、もしかしたらヴォーカルの声質によるところがあるのかもしれないけれど、男泣きを誘うような渋さ、濃さ、タフネスをそのサウンドのなかに聴くというよりフラジャイルでいて、センシティヴな揺らぎをもっと前に出してきている印象だ。

 エモ・リヴァイヴァルの一群に数えられることもあるらしいが、個人的には90年代のイギリスで活躍していた頃のSYMPOSIUMやIDLEWILDを思い出した。要するに普遍的なユース・カルチャーとしてのオルタナティヴ・ロックといえるのである。この意味で目新しさはない。かわりにアルバムのタイトルとなっている『YOUTH』そのものを現在進行形のイメージにし、強みに変えていく。

 1曲目の「ROAM THE ROOM」と3曲目の「THE SUMMER」は、このバンドの瞬発力がいかほどかを教えてくれる。前者はトップに置かれるだけあり、アルバムにおいて最もアグレッシヴなナンバーだ。後者では切なさと激しさとが入れ替わりながら、デリケートなドラマを鮮やかに織り成している。ベースのリフが基礎となっている楽曲が多い。そこにギターがダイナミクスを加える。ヴォーカルはときに叫び、ときに喘ぎ、胸の底から込み上げてくるパッションをアピールする。

 シューゲイザーのニュアンスが、轟音が入ってきているかのような5曲目の「THE NIGHT I DROVE ALONE」は、全体のハイライトである。続く「How Does It Feel?」「SPEAKING WITH A GHOST」と似通ったタイプの楽曲が中盤に集まっていて、正直なところ、もうちょいヴァラエティが欲しいかな、という気もするが、もしも連作短編に近い結構が目指されているのだとすれば、納得がいく。そこが良いとはかぎらないにしても、作品の評価を著しく下げるものではない。

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2013年11月01日
 This Savage Land

 先般リリースされたTROUBLEの『DISTORTION FIELD』とMONSTER MAGNETの『LAST PATROL』それからこのBLACK SPIDERSの『THIS SAVAGE LAND』で、二の腕の太そうなロックン・ロールをたっぷり充電したぜ。二の腕の太そうなロックン・ロールのどこいらに価値を認めたいかといえば、やはりそのパワフルにはじかれるギターのリフがせこい立ち回りを一蹴するかのようなガッツをぶんぶん漲らせてくれるところにある。及び腰で臨むことをまったく知らない。無骨なアティテュードを前面化した楽曲、演奏、サウンドに、俄然、燃えるのである。周知の通り、TROUBLEとMONSTER MAGNETはアメリカのバンドであり、前者はドゥームを、後者はサイケデリックを基礎としているが、イギリスの出身であるBLACK SPIDERSの場合、それらと同様にLED ZEPPELINやBLACK SABBATHをルーツとして持ちながら、メロディもビートも、もっとぐっとアッパーに跳ねている印象だ。当然、MOTORHEADやAC/DCのヴァイブレーションも受け継いでいる。

 フロントマンのピート・スパイビーが元GROOP DOGDRILLだというキャリアは、現在ではもはやアドヴァンテージにならないだろう。が、彼の特徴的なヴォーカルは、やはりこの手の野郎臭いサウンドにぴったりハマっているし、パンクとハード・ロックとを、ブルーズとヘヴィ・メタルとを、体感のレベルでミックスしたバックの演奏、そこにセクシーなアクセントをひとつまみ加える。3本のギターはもちろん、ベースとドラムの響きも分厚い。楽曲の構成はストレートなのに、強いフックがあり、ちょっとやそっとじゃひしゃげないだけのグルーヴが、ダイナミズムが、全編に備わっているのだ。ファースト・アルバム『SONS OF THE NORTH』(2011年)の時点で既に完成されていたスタイルであるけれど、セカンド・アルバム『THIS SAVAGE LAND』では、その肉付きがさらに逞しくなっている。

 ドラムの紹介がそのままイントロを兼ね、ヴォーカルの「ウッッ」という気合いがばっちり決まった1曲目「KNOCK YOU OUT」から、二の腕の太そうなロックン・ロールが豪快に溢れかえっている。リフ、リフ、リフ。そして、中盤のブレイクに挿入された〈Heavy Metal Rock'n Roller Music And Dopers(註・筆者聴き取り)〉のフレーズに、正しくノック・アウトされる。勢いがある。その勢いは、続く「STICK IT TO THE MAN」に持ち越され、より激しさを増していくのである。ミドル・テンポへとスピードを落とした3曲目「BALLS」や4曲目「YOUNG TONGUES」にさえ、ヘッド・バンギングと握り拳に見合ったドライヴがある。5曲目「PUT LOVE IN ITS PLACE」のようなパワー・バラードには、立ちのぼってくるエネルギーのかわり、男泣きにむせぶセンチメントがあるだろう。アルバムのなかで最もスロットルを開けた8曲目「TEENAGE KNIFE GANG」は、ありったけのフラストレーションが衝動とともに叩きつけられる瞬間だ。

 ラスト・ナンバーの10曲目「SLEEPY DEMON」からは、ストーナーとのシンパシーが感じられる。もちろん、スロウなうねりはクール・ダウンのためなんかじゃない。ルーズでいて、酩酊しているようでいて、しかしそれでいて扇情性があり、最後の最後まで、大音量のぴったり似合った作品となっているのである。

『SONS OF THE NORTH』について→こちら
『CINCO HOMBRES (DIEZ COJONES)』EPについて→こちら

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2013年10月17日
 ハイ・ライズ(DVD付)

 ストーン・テンプル・パイロッツ(STONE TEMPLE PILOTS)は、96年のサード・アルバム『ヴァチカン(Tiny Music... Songs from the Vatican Gift Shop)』こそが最高だと信じてやまない。初期のグランジを部分的に採用しながら、スタイルの発展と多様化を試みると同時に、ポップ・ソング、ポップ・ミュージックとしての訴求力をバツグンにしていて、うん、今耳にしても最高なんだよね。その後のハード・ロック路線も決しては悪くはないのだけれど、もしかしたらストーン・テンプル・パイロッツの音楽性は『ヴァチカン』の時点で既に極まっていたのかもしれないな、と思う。

 スコット・ウェイランドを除いたメンバー、ギターのディーンとベースのロバートのディレオ兄弟、ドラムのエリック・クレッツに関しては、トーク・ショウ(TALK SHOW)名義で97年にリリースされたアルバム『トーク・ショウ(TALK SHOW)』もなかなかの作品であった。スコットのロック・スター然としたアピールは、ストーン・テンプル・パイロッツにとって確かに重大なフックだったのだろうが、それ無しでも充分にやれる。バンドのグルーヴとソング・ライティングの内容は、バックの3人が揃ってさえいれば、きっちりキープできることを証明してしまったのだ。

 まあ、紆余曲折があり、ついにストーン・テンプル・パイロッツはスコットの解雇へと至る。かわりにヴォーカルとして迎えられたのは、リンキン・パーク(LINKIN PARK)のチェスター・ベニントンである。チェスターといえば、過去の来日公演でジェーンズ・アディクション(JANE'S ADDICTION)を弾き語りでカヴァーしたり、サイド・プロジェクトのデッド・バイ・サンライズ(DEAD BY SUNRISE)ではメジャー・スケールのグランジを展開したりと、90年代のアメリカン・オルタナティヴが自身の背骨であることを明らかにしているけれど、さてしかし、このビッグ・ネーム同士の合流は、いやはや、疑う余地もなく、相性はばっちりであろう。

 事実、その新体制によって作られたミニ・アルバム『ハイ・ライズ(HIGH RISE)』は、近年のハード・ロック路線を踏襲した上で、グルーヴやメロディには初期の頃のようなアクの強さが戻ってきており、何よりどの楽曲もコンパクトでキャッチーで、ベテランの貫禄を感じさせる以上のフレッシュさが表にきているのである。06年にディレオ兄弟がフィルター(FILTER)のリチャード・パトリックと組んだアーミー・オブ・エニワン(ARMY OF ANYONE)にはいくらか欠けていたフットワークの軽さとパンチとがここにはあるといってもいい。

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2013年10月13日
 FACE to Face(初回限定盤)(DVD付) FACE to Face(通常盤/初回プレス仕様)(DVD付) FACE to Face(通常盤)

 自分の経験則に従っていうなら、悲しいことは重なる。その悲しみが大きいほど重なるものである。10月9日、夜、ほとんど同じタイミングで二つの悲しい報せを聞いた。形容しがたい欠落がすぐそばにあった。闇があまりにも簡単に目の前を暗くした。一つは大変プライヴェートな出来事なので、ここでは触れないが、しかし、それだけでも充分こたえたというのに、もう一つ。まさかのニュースが悲しみをダブルにした。所属事務所との契約解除により、KAT-TUNから田中聖が脱退した(正確には9月の末に脱退していた)と聞いたのだ。KAT-TUNに田中くんがいない。悲しみはいつだって信じたくない現実を通して現れる。ああ、これもそのような教訓の一つなのだろうか。

 結局のところ、今年の5月にリリースされた「FACE to Face」は、後に期間限定で配信された「BOUNCE GIRL」を別にすれば、5人体制のKAT-TUNにとって最後のシングルになってしまった。正直な話、(少なくとも自分にとっては、と留保しておくけれど)ここ数作のシングルは、必ずしもKAT-TUNのポテンシャルを全開にしていたと受け取ることができなかった。悪くはないんだけどね、とは思う。でも、「悪くはないんだけどね」式に設定されたハードルなどそもそも無関係であるような高みにこそKAT-TUNのポテンシャルが見られたのではなかったか。タイアップである映画『俺俺』のテーマにそくしてアイデンティティの行方を題材にした「FACE to Face」は、早口のヴォーカル・メロディにユニゾンの強調、そしてフェイクのストリングスと打ち込みのビートという5人体制のKAT-TUNにスタンダードな方法論で組み立てられている。確かにここにはKAT-TUNならではのエピックがある。ロマンティシズムがある。ダークなヒロイズムがある。燃えてくるものがある。他方で、ある種の疑問が残る。物足りなさと換言してもいいそれがある。なぜだろう。

 6人体制のKAT-TUNが08年に作り上げた驚異の傑作アルバム『KAT-TUN III -QUEEN OF PIRATES-』(の初回限定盤のボーナス・トラック)に収録されていた「12 o'clock」の歌詞を引用したい。それはつまり、冒頭の〈Updateされたマシンで・Freeway駆け出そう・Next stage目指して・今しか出来ないRendezvous〉という箇所である。実際、「12 o'clock」が名曲ばりのハイ・センスを発揮していたのは、それがボーナス・トラックであるにもかかわらず、ネクスト・ステージを目指すのに相応しいアップデートされたマシンのようであったからだ。さらに同時期のシングル・ヒット「DON'T U EVER STOP」がそうであったように、このときのKAT-TUNはアップデートされたマシンを次々乗り継ぎ、正しくフリーウェイのど真ん中で現在進行形のランデブーを繰り返しながら、最強のポジションを確立していったのだ。6人が5人体制になっても停滞だけは決して引き受けなかった。そのことは2010年のアルバム『NO MORE PAIИ』や2012年のアルバム『CHAIN』の内容にきっちり刻印されている。

 あるいは、2010年のシングル「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」のスタジオ・ヴァージョンと脱退した赤西くんによるオートチューンのパートを田中くんのラップと中丸くんのヒューマンビートボックスに置き換えたライヴ・ヴァージョンとを聴き比べてみるべきだろう。そこには当のメンバーたちが楽曲のアップデートに対していかに自覚的であるかがくっきり明示されている。誤解をおそれずにいえば、ここ数作のシングルに関し、いくらか乏しかったのは、そうした「アップデート」されていくことの感覚である。もちろん、通算20枚目となる2013年のシングル「EXPOSE」のイントロ、07年のシングル「Keep the faith」を彷彿とさせる鋭いギターのリフに『NO MORE PAIИ』に収録されていた「RIGHT NOW」を引用するというマッシュ・アップ的なアプローチには、過去を参照して、さらなる更新を果たすかのようなアップデートへのきざしがある。だが、それがどこまで徹底されていたのか。ネクスト・ステージのサプライズをもたらしていたかどうかは、微妙なラインの判断になってくるものの、また別の問題なのだ。

 それこそ「EXPOSE」で歌われている〈ギリギリの状況じゃなきゃ味わえない昂揚感〉とは、あの06年のデビュー・シングル「Real Face」における〈ギリギリでいつも生きていたいから〉という宣言の繰り返しにほかならない。「ギリギリ」は修辞である。カッティング・エッジであることの同義でもある。常にカッティング・エッジであり続けること。これは当然、もうあとはないんだぞ、といった底辺寸前のサヴァイヴァルを意図しない。確かにKAT-TUNの活動状況をかえりみると、いささか予言的ではあるが、ベクトルはむしろ逆さまであって、どれだけの高みであろうとより高みを望む。墜落のリスクに惑わされない。飛躍、トライアルを指しているのだ。だからもし、スタンダードな方法論を選んだ「FACE to Face」に物足りなさを覚えるとしたら、それはそう、KAT-TUNならばまだこの先に挑めるはずだろう、このような(過剰かもしれないが)期待の裏返しなのだと思う。

 おそらく、必要なのはタイアップのチャンスのみではない。それにも増して、アップデートされたマシンとしての楽曲が必要とされているのである。しかし、そのとき、ここしばらくは控えめにされていた田中くんの、すなわちJOKERのラップは再びのキーとなるに違いなかった。2012年のシングル「不滅のスクラム」において最もスリリングだったパートはやはりJOKERのラップであったし、それはデビュー以前からずっとKAT-TUNをKAT-TUNたらしめていたトレード・マークの一つでもあった。自分がKAT-TUNにはじめてびびっときたのは、実は日本テレビの『ウタワラ』のコーナーのいつだったか、DEEP PURPLEの「SMOKE ON THE WATER 」をKAT-TUNがカヴァーし、ギターのリフに合わせて田中くんがラップしている姿を目の当たりにした際で、こんなアイドルがいるのかよ、と衝撃を受けたのだった。その衝撃はまた、デビュー以降のシングルについても同様で、強力なフックのいくつかはJOKERのラップとともに存在していたのだ。それだけに田中くんの脱退は信じがたい。ショックだよ。

 先にも述べた通り、赤西くんの脱退を経て「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」はライヴ・ヴァージョンとしてリ・アレンジされ、アップデートされた。そこでのキーはまず間違いなく、田中くんのラップであった。田中くんが脱退した今、残されたメンバーは4人体制のKAT-TUNにピントを合わせて、過去の代表曲を、それがコンサートで披露される可能性がある限りは、洗い直さなければならない。絶対に欠かすことのできない「Real Face」はまあ、これまでのコンサートでも他のメンバーがラップを(余興としてではあるが)担当する機会があったので、やれる、だろう。じゃあ「喜びの歌」は。「LIPS」は。「ONE DROP」は。単なる引き算で再構成されるだけだったら寂しい。不安のタネは尽きないのである。無論、KAT-TUNならばどんな困難も踏み越えられる。亀梨くんだったら、中丸くんだったら、上田くんだったら、田口くんだったら、異色のスターダムを必ずややり遂げる。と、信じるしかないのだけれど、現段階ではあまりにも根拠が弱い。

 6人でも5人でも4人でもKAT-TUNはKAT-TUNに変わりないというのは、ある種の価値観であろう。だが、絶対の真理ではない。6人体制のKAT-TUNと5人体制のKAT-TUNのあいだには、どうしたって無視できない揺らぎがあった。それを抜きにして、KAT-TUNはKAT-TUNに変わりないというのは、さすがにいい加減である。誤魔化しである。そうした揺らぎをむしろ、『NO MORE PAIИ』や『CHAIN』のようなトライアルへと見事転じてみせたところに、5人体制のKAT-TUNのポテンシャルはあったのだ。

 ただし、その5人体制のKAT-TUNも終わった。田中くんの脱退とともに区切りがついてしまった。返す返すもショックだし、非常に悲しい。そう簡単に気持ちの整理ができるぐらいだったらこんなにもファンになってやしねえんだ。しかるに4人体制のKAT-TUNがどんなキャリアを築いていくのか(これはいよいよメンバーの年齢が30歳代に入ろうかというKAT-TUNがどのようなヴィジョンを出してくるのか、でもあるが)。まだ何もわからないのである。

・その他KAT-TUNに関する文章
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 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN』(2012年4月20日・東京ドーム)について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
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  7月17日の公演について→こちら
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 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
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2013年10月05日
 Feast of Love

 ギター・ポップ。シューゲイザー。グランジ。そして、エモと呼ばれるポスト・ハードコアの一群。これらを四つの象限とし、真ん中に小さなスクエアを描くようなサウンドが米ミシガン州アナーバー出身の4人組、PITY SEXのファースト・アルバム『FEAST OF LOVE』の主要を為している。WEEZERの影響を彷彿とさせるところもあるのだけれど、90年代の終盤、日本のSUPERCARに対応してイギリスから登場してきたLLAMA FARMERSのことを思い出した。LLAMA FARMERSのセカンド・アルバム『EL TOPPO』(00年)はシューゲイザーとエモのミッシング・リンクと解釈することのできるものだったが、それをもう少しパワー・ポップのシンプリシティに寄せていった印象であるし、実際、音響レベルの緻密さがどうこう凝っているというより、ジャブに喩えられるコンパクトな挙動の楽曲が『FEAST OF LOVE』の大半を占めているのだ。アルバムのランニング・タイムは30分に満たない。

 もちろん(いやまあ「もちろん」と言い切っていいかどうかはともかく、それがこの手のサウンドにおいては魅力の一つとなりえる以上)ヴォーカルは男女のダブルである。とりわけ、ギターを兼ねる女性ヴォーカルのスウィートでアンニュイな歌声は、ナードのロマンティシズムとジャスト・フィットするかのような。そういうドリームを充分に持っている。ギター・ポップやシューゲイザーのファンにだってアピールするものだと思う。女性ヴォーカルがメインの楽曲もあれば、男性ヴォーカルがメインの楽曲もある。ハーモニーも当然ある。正しくデュエットである3曲目の「DROWN ME OUT」を聴かれたい。典型的なヴァース・コーラス・スタイルのミドル・テンポだが、ざらついた触感のプロダクトはインディならではの特性であって、下地に置かれているのは明らかにアメリカン・オルタナティヴの文脈だろう。HUSKER DUやTHE PIXIESあるいはTHE BREEDERSへと通じながら、パンキッシュなアプローチは除けられ、そのかわり低音のグルーヴが強調されているところに、WEEZERをある種の参照点としたグランジ以降のパワー・ポップ、パワー・ポップのラインに等しいエモの力学を発見できる。男性ヴォーカルは微温のまま、先述した女性ヴォーカルと交差することで、モノローグに封じ込められないメランコリーを獲得していく。同一のフレーズを繰り返すタイプのギター・ソロも、ここでは大変ツボを押さえているといえる。

 3曲目の「DROWN ME OUT」ばかりではない。ソング・ライティングのセンスは極めてグッドである。ラスト・ナンバーの10曲目「FOLD」において幕を閉じるそのフィードバックのノイズが1曲目の「WIND-UP」に対してはイントロの役割を果たしている点を含め、アルバムの構成もきっちりバランスが取られている。前作にあたるEPの『DARK WORLD』(2012年)に比べ、レコーディングのクオリティが随分あがり、轟音はだいぶ整理された。ギザギザに尖った初期衝動の勢いが薄らいでしまったのは残念だけれど、バンドの指向に関してはいよいよ焦点が定まってきたという感想を抱く。シューゲイザーのアメリカン・リヴァイヴァルとしてはWHIRRやNOTHINGほど本格派ではないものの、それらと共鳴しつつ、THE WORLD IS A BEAUTIFUL PLACE & I AM NO LONGER AFRAID TO DIEやDADSなどポスト・ハードコアの新しい世代ともシンクロナイズドしうる可能性が、『FEAST OF LOVE』の、そしてPITY SEXに固有のアドヴァンテージとなっているのだ。

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2013年09月22日
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 昨日(9月21日)は国立代々木競技場第一体育館へ「テレビ朝日開局55周年記念 テレビ朝日ドリームフェスティバル2013」 を観に行ったのである。あらかじめ断っておきたいのは、もちろん他の出演者もそれぞれの魅力を充分にアピールしていたし、ほほう、と思わされる場面も多々あったが、自分の目当てはあくまでも堂本剛であって、そもそもラインナップにその名前がエントリーされていたから会場に足を運んだ以上、ここでは堂本剛に関してのみ記すことになるのだけれど、いやあ、やっぱり、いいよね。堂本剛くん、いいよね。反時代的アイドルとしての剥き出しであるようなパフォーマンスを久々に堪能したわ。

 事前、これが一応はフェスティヴァルという形式のイベントであること、様々なアーティストとの競合であることを考慮に入れるなら、セット・リストは、比較的知名度の高いナンバーで固めた特別仕様のものになるか、あるいはまったく反対にシングル・ヒットなどはお構いなし、アティテュードを優先した通常のライヴに近いものになるか、いずれかの選択に絞られるだろうと踏んでいた。さて。結果を述べるならば、のちに堂本自身もMCで言及していた通り、普段のステージとは異なったシチュエーションであるがゆえにあえて後者の選択が採られることとなった。この「あえて」のセット・リストもファンにとっては実に「らしい」と思わされる。トライアルだ。実際、ツアーでお馴染みのメンバーをそのまま引っ張ってきたと覚しきバンドを率い、次々と演奏されていったのはあの、SLY & THE FAMILY STONEからの影響に独自の解釈を加えたファンキッシュなナンバーばかりであったろう。

 そう、ENDLICHERI☆ENDLICHERIのなかでも、ファンクという発見を、モダンなテクノロジーによるソロ・イズムの孤独ではなく、ビッグなスケールでバンドのグルーヴに落とし込んだ楽曲が、ショーの前半に弾みをつける。さすがに大幅に時間を割いたジャム・セッションは繰り広げられなかったものの、たとえば「Blue Berry -NARA Fun9 Style-」におけるエンディングの引き延ばしは相変わらず、飛び跳ねるリズムの繰り返しとヴァリエーションとが会場をフィジカルなレベルで一体化させる。メロディによる情緒のシンクロニシティとは違う。レコード(記録や経歴)に頼るのとは別の架け橋(それは大変直感的なもの)が、ステージの上と観客とのあいだを繋ぐ。ああ、こうしたコミュニケーションの在り方こそが、ENDLICHERI☆ENDLICHERI以降のサウンド、キャリアでは模索されていたのだ。

 熱を込めながらギターを弾く堂本の顔つきは渋い。サイドのスクリーンに映ったそれを眺める限り、このピッキングがすべて、とでもいうような表情を作る。一緒にいた友人も言っていたのだけれど、プレイのスタイルやファッションがなぜか、楽曲そのものの方向性は全然違うのに、リッチー・ブラックモアやイングヴェイ・マルムスティーンを彷彿とさせることがあった。あるいはウリ・ジョン・ロートまでをも。たぶん、ジミ・ヘンドリックスを元に派生したブルーズやファンク、ロックの受け皿であると同時に我流のアレンジであるという意識が、センスが、はからずもそうさせるのかな、と思う。

 BLACK SABBATHの「IRON MAN」をプロレスラーのど派手な入場テーマに改造したかのような「shamanippon 〜くにのうた」がひとまずのクライマックスである。「shamanippon」とは何なのか。そこでは、容易には判断しかねるそのテーマがアルバムのヴァージョンにはなかった切り口で確かに新しいイメージを完成させていた。当然、私見(戯言)にすぎないのだけれど、シャーマン+ニッポンの造語はどうしたってスピリチュアルな王国を仮想させる。では、そうしたスピリチュアルな王国においてキングやゴッドの存在はありえるか。まばゆいサイケデリックが照射されるなか、バックのメンバーによって力強くコールされる「shamanippon!shamanippon!」。このとき、それを背にした堂本剛こそがキングでありゴッドに相応するのだろう。少なくともスピリチュアルな王国のシンボルとしてフロントに立っていることだけは間違いあるまい、という気にさせられる。

 しかし本当のクライマックスは、ラストのナンバーにあった。それまでのファンクとはがらりと印象を変えて放たれる「街」だ。直前のMCで、かつて故郷である奈良に置いてきた自分自身のために書いた楽曲だということが告げられたが、だからといって楽曲は必ずしもパーソナルな印象に止まっていない。いや、パーソナルでありつつも、パーソナルな物語を越え、響き渡るエモーションがあるので、「街」はかくも親しく大勢の人間が持っている背景に寄り添う。一般化していうなら、おそらく「街」とはペルソナについての歌である。そして、誰もがペルソナとは無縁に生きられないので、しばしば迷い、不意に足を取られる。転び、立ち上がっては度々〈愛を刻もう傷ついたりもするんだけど / 痛みまでも見失いたくない〉と誓うことができる。

 いずれにせよ、ショーの最後を締め括った「街」は美しかった。唯一、内省にフィードバックした場面だったともいえる。イヤー・モニターに不備があったのか、マイクに問題があったのか、歌い出しの時点で堂本が指のジェスチャーでスタッフに指示を送っていたわけだけれど、どこかで改善されたのか、もしかしたら改善されないままだったのか。観客にはわからない。だが、そのヴォーカルはどんなトラブルをも一切飲み込み、遠くまで伸びていく。最新のシングルである「瞬き」が披露されなかったのはちょっとばかり残念であった。ただし、それが決してマイナスとはならないぐらい(短いながらも)充実した内容のライヴに、あらためて反時代的アイドルとしての堂本剛を確認した次第である。

・その他堂本剛に関する文章
 『NIPPON』→こちら
 「縁を結いて」について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI LIVE 「CHERI E」』(2010年8月24日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 DVD『薬師寺』について→こちら
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2013年09月06日
 Slave Vows

 どうか俺にお前の魂を救わせようとさせないでくれ。俺にお前の魂は救えない。救おうとしても救えはしない。ああ、黙示録としてのガレージ・ロック再び、である。

 ここにきてこんなにもスリリングな作品を出してくるとは。いやはや、正直なところ、期待は低かったのだけれど、その心証はまるで初期の頃の呪詛を取り戻したかのようなリヴェンジに裏返される。2001年のファースト・アルバムの『MONO』や続く2004年の『PENANCE SOIREE』で(自分を含めた)一部のファンに強烈なアピールを果たしたTHE ICARUS LINEだ。が、しかし、ギターのアーロン・ノースが脱退して以降、次第に勢いを失いつつあったかなと思う。

 つまり、2007年の『BLACK LIVES AT THE GOLDEN COAST』を経、前作にあたる2011年の『WILDLIFE』からは、あの、退廃こそが歓喜であるがゆえに奈落へ滑り落ちていくスピードのなかでしか獲得しえないであろう禍々しいまでのエネルギーがあっさり薄まって聞こえた。所詮、ピークは一過性のものであって二度とは取り戻せないのだ。期待が低かったのは、そう考えていたせいである。それがどうしたことか。この『SLAVE VOWS』を前にしては考えを改めねばなるまい。THE ICARUS LINEは現在もなお強烈なアピールを損なってはいないし、禍々しいまでのエネルギーは様相を違えながらバンドに新しいフェーズをもたらしている。

 サウンドの面で見るなら、おそらくは第三期に入ったといえる。ガリガリのパンクとヘロヘロのサイケデリックがTHE ICARUS LINEの基調だが、後者寄りの『WILDLIFE』に顕著であったポップ指向に、これでもかとギターのノイズを浴びせ、さらにインプロヴァイゼーションのヴァイヴをぶち込み、ついには『MONO』を彷彿とさせるジャンクのテイストをも復活させているのが『SLAVE VOWS』である。総体的にはヴォリュームの匙加減が明らかに壊れているほどラウドであり、アグレッシヴであって、もちろん、ジョー・カーダモンのヴォーカルは不機嫌なオーラのなかに殺伐としたカリスマを確認させていく。渦巻いているのは漏れなく闇黒のブルーズだ。

 クレジットによれば、アディショナル・プレイヤーがいるにはいるものの、ジョー・カーダモンが主にギターを弾いている。ジョー以外のオリジナル・メンバーであり、かつてアーロン・ノースとギターを分け合っていたアルヴィン・デガズマンは、一時期ベースに回っていたけれど、『SLAVE VOWS』ではキーボードを担当しているらしい。プロデュースはジョーである。こうなってくるともうほとんどジョー・カーダモンのワンマン・ユニットみたいだ。実際、バンドとしてどの程度機能しているのかは知れないが、だからといってスタジオ・プロジェクト的な内容ではなく、以前にも増してライヴでのパフォーマンスをイメージさせることに驚く。

 確かに、倦怠と衝動の相反するパートを無区分に連動させてしまう(負の固まりとでもいうべき)そのグルーヴはギターとヴォーカルとにリードされているだろう。だが、それは方向性を意味しているにすぎず、演奏の全体こそが感覚を痺れさせるような呪詛のフィーリングを決定しているのであって、およそ11分にも及ぶ1曲目の「DARK CIRCLES」はどうだ。ミニマリズムをヒントにし、低音をスロウなテンポで刻んでいくリズムは神経性の「毒」である。その「毒」が、ジョー・カーダモンというフックを通じて、意識の下の奥の奥の方に入ってき、怪しい蠢きを生じさせる。

 2曲目の「DON'T LET ME SAVE YOUR SOUL」にはTHE ROLLING STONESとTHE STOOGESとNICK CAVE & THE BAD SEEDSが同居している。本質はダークで、しかもフットワークは激しい。そのコントラストはある種のスタイルだが、スタイルであることの表面を単になぞっているわけではない。他のアーティストには代替できないイズムがある。THE ICARUS LINEにとっての新しいアンセムだろう。コーラスにおける〈don't let me save your soul〉という厭世的なフレーズがキャッチーであればあるだけ、このバンドの異様なポジションをはっきりとさせる。悲観の徹底が憐憫と甘えを斥けているのである。ああ、どうか俺にお前の魂を救わせようとさせないでくれ。

 当然、他の楽曲にもにわかには借り受けることのできないエネルギーが、アティテュードが横溢しているのであった。ガリガリのパンクとヘロヘロのサイケデリックとが混じり合い、研ぎ澄まされ、それがあたかも人力のインダストリアルに達したかのようなナンバーもある。ドゥームやゴシックを受け皿にしたかのようなナンバーもある。4曲目の「DEAD BODY」のグシャグシャに壊れたギターのノイズがたまらない。いずれにせよ、成熟や洗練とは別のレベルで持ちうるかぎりのポテンシャルを結実させたアルバムとなっている。

 思い返せば、THE ICARUS LINEとはTHE STROKES等と同時代のガレージ・ロックにほかならない。ハードコアやアンダーグラウンドのシーンと共鳴した裏ロックンロール・リヴァイヴァルだったのである。近年、THE STROKESやFRANZ FERDINAND、ARCTIC MONKEYSがコンパクトでスマートなニュー・アルバムを次々発表しているが、THE ICARUS LINEにはそうした洒落っ気がない。そんなにもメジャーじゃないからか。LA出身だからなのか。相も変わらず、やさぐれている。

 このとき、どちらが良い悪いとかの議論は関係ない。ただ、THE ICARUS LINEにしかありえない熱狂が『SLAVE VOWS』には再現されていて、それはもう絶対に素晴らしいものなんだぞ、という話だ。そのジグザグに歪んだ姿形を支持する。

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2013年08月17日
 Taedium Vitae

 端的にいえば、スタイルやエチケットとは生き様の問題である。その場面は常にお前の生き様を試しているんだぞ。生き様、おお、なんて暑苦しい言葉だろう。しかし、魂を溶鉱炉にするような熱のなかでしか抽出されないストイックな態度こそが、ヘラヘラとした笑いや浮き足だった気分に釘を刺す。ナアナアには染まらないスタイルやエチケットを徹底させるのではなかったか。と、こうした精神論がしばしば許されるのもハードコアを源泉としたジャンルの魅力であって、ラウドにヴォリュームを固定しながらスリリングなヒート・アップを果たしていくサウンドに自分たちが腑抜けじゃないことを証明しているバンドが好きだよ。手遊びの怠いナンバーは止めろ。

 米フロリダ州出身の4人組、CENTURIESのファースト・アルバムである『TAEDIUM VITAE』は大変はっとさせられる内容だった。超フル回転のエネルギーが正しくヘラヘラとした笑いや浮き足だった気分に釘を刺している。溢れんばかりのガッツにブレーキをかけない。妥協のポイントを一つ認めてしまったなら、それだけでもうサウンドの整合性が失われる。あるいは説得力が著しく低まる。このことを熟知しているがゆえのすぐれたインパクトが全編に渡って支配的なのである。全編に渡ってとはいっても(同系のアーティストの例外に漏れず)わずか20分程度の間隔にすぎないが、間隔の片時ですら息もつけない。完璧な暴風域がすべてを飲み込んでしまうところに真骨頂がある。

 いやまあ、とりわけ風速の激しい5曲目の「GELU」などは、まんま『YOU FAIL ME』期の(もしくはそれ以降の)CONVERGEだし、近年のラインでは同じSOUTHERN LORDからのリリースであるNAILSやBAPTISTSに近い。各パートの機動性は高く、それがカオティックな構成の楽曲をスーパー・チャージさせる一方、スラッジやドゥームのグルーヴを重低音に組み入れていく。当然、オリジナリティの面で判断するのであれば、いくらか遅れをとっていると見なされても仕方はないのだったが、しかし、二番煎じであるようなクオリティのダウンは頑として拒まれている。むしろ、参照すべきものを参照し、その参照がいかにも明確であることの是々非々を受け入れながら自分たちのスタイルやエチケットをこうと決定している印象であって、「こう」と振り切る迷いのなさが作品の精度をにわかには到達できないレベルへまで引っ張っていっているのである。

 純化といってもいい。先に述べた通り、ドゥームやスラッジを彷彿とさせる箇所もあるにはあるのだけれど、リミットを越えたフラストレーションを躊躇いなく叩きつけるそのスピードが具体化しているのは紛れもなく初期衝動だろう。なかでも絶叫の壮絶なヴォーカルとすばらしい手数のドラムに圧倒される。とにかくもう(繰り返しになるが)ヴォーカルとドラムがえらいことになっているのだ。それはまるで厳しい糾弾のようでいて、油断してはいけない。冷めた目をぐるりと覆される。

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2013年08月08日
 Circumambulation

 繰り返し、反復することの官能という意味で、シューゲイザーとストーナーは共通している。してはいるが、もちろん、リフとコーラス、ダイナミズムのパターンを見るなら、非なるものであって、各々の熱心なファンからすれば、全然違うよ、であろう。スタイルとしては近距離でありながら、ジャンルとしては遠距離に存在している。か、あるいはジャンルとしては近距離でありながら、スタイルとしては遠距離に存在していると考えられることがしばしば。しかし、それらを発想の同一線上に置き、合併させ、合併させたサウンドを際立った個性にまで持っていっているバンドがある。米テキサス州はダラス出身のトリオ、TRUE WIDOWである。ストーンゲイズ(stonegaze)と称されることもあるそのサウンドは、08年のファースト・アルバム『TRUE WIDOW』で既に確認できたわけだけれど、2011年のセカンド・アルバム『AS HIGH AS THE HIGHEST HEAVENS AND FROM THE CENTER TO THE CIRCUMFERENCE OF THE EARTH』を経、EP『I.N.O.』をリリースした後、エクストリームなトライアルに意欲的なアーティストを数多く抱えるRELAPSE RECORDSへとレーベルを移したサード・アルバム『CIRCUMAMBULATION』では、スロウコアをも同期しうる基本の路線はそのまま、演奏のアンサンブルと楽曲の構成、ドローンの効果を適度にシェイプアップし、ポップ・ソングとしての強度を高めることで、相変わらず以上の深い憂鬱を再現している。当然、ここでいう憂鬱とは最高の褒め言葉にほかならない。

 近年、ストーナーと呼ばれるバンドの多くに近しく、TRUE WIDOWも音響の傾向としては非常にクラシックである。ただし、それが他と大きく違っているのは60年代や70年代のアーティストをロール・モデルにレトロスペクティヴなスタイルを発掘しているのではない。そうではなく、モダンなテクノロジーでテクスチャーを加工しているとは一切感じさせない。飾りっ気のないアプローチとアンプの出力によって、全体のイメージが決定されるかのような仕上がりに、あくまでも軸足が置かれているということだ。オールドスクールのハード・ロックを彷彿とさせるパートはほとんどない。かわりにシューゲイザーやスロウコアの技法を流用してきたサッドネスが土台となっているのは既に述べた通り。煙幕と幻想のなかに意識を彷徨わせる。陶酔の強固なサウンドを為しているのであった。

 ああ、〈Wait〉〈Yes〉〈Yeah〉〈Gateway〉と韻を踏んでいくフレーズがNIRVANAやALICE IN CHAINSのそれを思わせる。つまりはグランジのマナーを引っ張ってき、メロディのレベルで共有した1曲目の「CREEPER」に、『CIRCUMAMBULATION』の醍醐味、方向性は集約されている。描かれた情景は霞んでおり、色彩の妖しさにTRUE WIDOWならではの魅力が宿されている一方、情景を収めたフレーム自体はこれまでになかったほどに輪郭を明瞭にしている。ポップ・ソングとしての強度が高まっているというのは、正しくこの点において、であるし、他のナンバーについても同様のことが言える。2曲目の「S:H:S」でさえ、ドゥームの成分が濃いめに玄人好みのしそうなナンバーとなっているけれど、以前までと比べ、一音一音の並びはずいぶんと整理されており、クリアーになっている。シューゲイザーの系列によくある男女がともにヴォーカルを取るタイプのバンドだが、女性のヴォーカルがメインにきている3曲目の「Four Teeth」は、夜のとばりが優しく降りるのに似ている。キャッチーでありながら、バックの演奏は歪んだグルーヴを織り成し、覗かれた灰色の世界にしっかりとした足跡を残していく。もしもシューゲイザーのあのアーティストやあのアーティストがモダンなテクノロジーやダンス・ミュージックとは無縁なディスコグラフィを築き上げていたら、と想像させるようなIFがある。6曲目の「I:M:O」などは、インストゥルメンタルであるにもかかわらず、いや、トリオであるがゆえのアンサンブルが呼吸のひと息すら具体化させているかのよう。そのひと息から漏れた憂いが美しい。

 8曲目の「LUNGR」は大変立派なエンディングである。ひとわたりアルバムをプレイバックさせるのに相応しい。男女のヴォーカルが入れ替わりしつつ、繰り返し、反復することの官能を大々的にしている。軋み続けたドローンの向こうには底のない寂しさが上映されているみたいでもある。なんてパセティックなんだろうと思う。深い憂鬱なんだろう。クレジットを見ると2012年の11月にレコーディングされた作品であることがわかる。たぶん、ここにはその冬の冷たい匂いが消えず、生々しく漂う。
 
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2013年07月28日
 Fairy Dirt No.5 <初回限定盤>

 近年のソロ・ワークでグランジ回帰(転向?)を果たしたLUNA SEAのINORANが、BUSH以降の英産グランジでは最もビッグ・ネームとなったFEEDERのタカ・ヒロセと合流、結成したのが、このMUDDY APESである。ヴォーカルは8ottoのマエノソノ・マサキが務めており(ドラムは別の人間がクレジットされている)、FEEDERのサポート・メンバーでもあるディーン・テディがギターとして参加しているのだったが、確かに。こうした足し算から想起されるような音楽性にそのサウンドはなっていると思う。

 リフのパターン、ギターのアプローチはINORANのソロ・ワークを引き継いでいて、ぶりぶりとしたベースの触感はFEEDERのいくつかの楽曲に通じているし、ヴォーカルのムードには00年代のロックン・ロール・リヴァイヴァル世代と共通したセクシーさがある。本質はやはりグランジなのだろうけれど、ロール・モデルとなっているのはQUEENS OF THE STONE AGEであったり、QUEENS OF THE STONE AGEのジョシュ・オム(ジョシュ・ホーミ)がプロデュースした『HUMBUG』期のARCTIC MONKEYSだったりするのではないか。後者に関してはバンド名にも類似が見られる次第である。

 正直なところ、グランジ化したハード・ロックあるいはハード・ロック化したグランジであるようなINORANの『TEARDROP』や『DIVE YOUTH, SONIK DIVE』に大きく欠けていたのはフックの強さであった。残念ながら。FAKE?やTourbillonにおけるキャッチーな面が他のメンバーによっていたことが明らかとなっていた。グルーヴは十分な上、演奏はかっこいいのにね、であろう。このことを弱点とするなら、それはしかしMUDDY APESでも2012年にリリースされたファースト・アルバム『CRUSH IT』の時点では払拭されていなかったといえる。FEEDERのあのポップなフィーリングや8ottoのあの素晴らしいメリハリが単純には持ち込まれていなかったのもある。

 もちろん、アーティストのサイドがそれを望んではいないのかもしれない。が、こちらとしては、もうちょっとキャッチーであったらなあ、という感想を抱かざるをえなかったのだ。だが、まさか、自分の願いが届いたわけではあるまいよ。セカンド・アルバムの『FAIRY DIRT NO.5』はもっとオープンな作品となった。つまりは総体的に段階的にフックの強さが増している。

 同一のクリシェ、コーラスのリピートを前面化したスタイルのサウンドにとって、やはりそのコーラスが担う役割はでかい。英産グランジのキー・パーソンであるクリス・シェルダン(クリス・シェルドン)にミックスを任せた1曲目の「NEW SUNDAY」では、『CRUSH IT』においてはいくらか控えめであったクリシェへのアプローチが全開になっている。ばかりか、録音のレベルでヴォーカルのポジションが以前と異なっているのが明らかであろう。結果、日本語詞には聞こえない日本語詞と英語詞の合体が一層不思議でいて、鮮やかだ。〈笑み Wants You 笑み Wants You〉というコーラスの「笑み」は、たとえば人名の「エイミー」のようでもあり、空耳で届いてくる「Any」のようでも「Every」のようでもある。

 ベースを軸に織り成されていくグルーヴは分厚い。グランジはもとより、ストーナーやデザート・ロックにも似たそのとぐろのなかへ、ギターは一筋のきらめきを差し込む。ヘヴィ路線の楽曲を陽性に引っ張り上げているのは、間違いなく、ヴォーカルとギターのパートである。これは続く2曲目の「KIZUNA DRIVE」の、タイトル通りのドライヴの基礎となって、よりはっきりさせられる。3曲目の「BEAUTIFUL DRUNK」や6曲目の「PEEP SHOW」も同様、ダンサブルであることとエモーショナルであることの並列に、ああ、これがもしかしたら完成形のMUDDY APESか、と思わされる。このバンドならではの妙味がある。

 8ottoの「GENERATION 888」を原曲にした9曲目の「GENERATION 555」は、線は太くなったものの、パンキッシュな衝動の薄れたアレンジに評価が分かれるだろう。しかしながら、その線の太さ、それこそが『CRUSH IT』と『FAIRY DIRT NO.5』とをまたぎ、繋がっている本質でもあるのだ。

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2013年05月31日
 ザ・ラスト・スパイアー

 ブリティッシュ・ドゥームの巨匠、CATHEDRALのラスト・アルバム『THE LAST SPIRE』がとうとうリリースされてしまった。とはいえ、リリースされてしばらく経つわけだが、繰り返し聴きながら、これは本当に最後の傑作であるな、と思うし、正しく有終の美を飾るのに相応しい。つくづく思わされる。アヴァンギャルドな路線を模索することで異形の様式へと辿り着いた初期の三作『FOREST OF EQUILIBRIUM』(91年)『THE ETHEREAL MIRROR』(93年)『THE CARNIVAL BIZARRE』(95年)と、ヘヴィでスローなハードコアを再発見したかのような6作目の『ENDTYME』(01年)に個人的な愛着はあるのだけれど、『THE LAST SPIRE』はそれらに並ぶかもしれん。リー・ドリアンとギャリー・ジェニングスの持ちうる才知が、非常に「濃く」そして「豊かな」音楽性を唯一無二のイメージのなかに出現させているのである。

 当時は途轍もなく「遅い」「重い」と驚かされた『FOREST OF EQUILIBRIUM』を現在の感覚で判断しようとすると確かに不吉な「暗さ」はあるものの、ギターのリフは結構「鋭い」し、場合によっては「速い」と感じられる。要は、その総合的なスタイルこそが新しい発明であったがゆえに、様々なラウド・ロックの可能性が開拓された分野において90年代初頭を代表するマスターピースの一つになりえたのである。続く『THE ETHEREAL MIRROR』は、そこへキャッチーとも取れる要素を大胆に盛り込み、『THE CARNIVAL BIZARRE』では、フックをより強烈とすることでメジャーなレベルでのハード・ロックを成立させるに至った。その後の試行錯誤は、オールド・スクールなフォーク・ロックやプログレッシヴ・ロックに対する憧憬を、おそらくは成熟と同義であるようなバランスとして解釈できるものにしていき、2枚組の前作『THE GUESSING GAME』(2010年)で、多種多様でありつつも極めてマニアックな世界に到達するのだったが、こうしたキャリアを統括した上でなお、過去の焼き直しに終わらないヴァージョンのCATHEDRALが『THE LAST SPIRE』にはたっぷり詰まっている。

 ギャリー・ジェニングスのギターが良い。ここ最近で一番良いのではないか。もちろんのこと、リー・ドリアンのヴォーカルは相変わらず個性的であるし、リズム隊の活躍も目覚ましいのだけれど、構築的であると同時に滑らかでインパクトの著しいリフが次々放たれては、このバンドならではのドゥーム・メタルを明瞭に織りなしていく。重低音のフレーズが禍々しさを倍加させる一方、物悲しげなアコースティックの調べが、決して単色に染め上げたのではない、意外にもカラフルであろう、いくつものパートに分かれた楽曲をさらなるアクセントを入れ、その印象を何よりマジカルにしているであろう、の役割を果たすのだ。イントロダクションである「ENTRANCE TO HELL」を受け、どろどろのグルーヴをソリッドに響かせる(これが語義矛盾ではない)2曲目の「PALLBEARER」がブリリアントである。11分にも及ぶ大作のなかからCATHEDRALをCATHEDRALたらしめてきた多くの魅力が溢れ出てくる。スロー・テンポ、ミドル・テンポ、アップ・テンポを含めた一つのナンバーがある種の総集編であり、ダイジェスト版のようでもある。

 ざらついた触感のハードコアを想起していると神秘的なメロトロンの旋律が飛び出してくるので、ぎょっとするという3曲目の「CATHEDRAL OF THE DAMNED」や、初期の勘を取り戻したのか、リズムがずっしり沈んだまま展開するという4曲目の「TOWER OF SILENCE」以降も、ギャリー・ジェニングスのギターは兎角冴え渡っている。ああ、そして、リー・ドリアンのヴォーカルはそのくっきりとした輪郭に本来備わるべき魂を注ぎ込むカリスマの息吹だろう。ともすれば、ヘタウマの一言に回収されてしまうタイプのシンガーだけれど、所謂エモーショナルとは別次元の説得力を持った歌声は長き物語の結末まで呪術めいた妖しさを損なうことはなかった。
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2013年05月01日
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 衝動と洗練が対立も矛盾もせずに同居している。大雑把にニューヨーク・ハードコアといっても、そのイメージは人それぞれであろう。方法論やスタイルとしてはクロスオーヴァーであったりビート・ダウンであったりストレート・エッジであったりユースクルーであったり等々、いくらでも専門的に細かく語れるだろうが、結局のところ、等身大の姿から自然と溢れ出るような熱量をさらにどうビルドアップさせるか。これを皮膚感覚のレベルでびりびり味わわせてくれるものを自分は好むのだなあ、と思う。思ったのは、ブルックリン出身の5人組、GO DEEPのEP『COUNSELING』を聴いたからであって、つまりはなんともびりびりくるのである。

 ニューヨークのバンドだからニューヨーク・ハードコアなのではない。いやもちろん、それは大前提なのだけれど、そうである以上にかつてニューヨーク・ハードコアを代表していたアーティストが持っていたのに近しい核の部分をGO DEEPのサウンドには求められる。たとえばGORILLA BISCUITSを引き合いに出している海外のブログをいくつか見かけたが、なるほど。メタリックなグルーヴとパンキッシュなスピードを両立しながら、ヴォーカルのシャウトが強力なアジテーションとなっている点などが確かに相通ずる。と同時に、GORILLA BISCUITSばかりではなくて、QUICKSANDをも引き合いに出せそうなエモーショナルのアピールに今日性をうかがわせたりもする。プレ・エモ・ロック的であることによって、カオティック・ハードコアともアメリカン・スクリーモとも異なったポジションを獲得しているのである。少なくとも『COUNSELING』のなかで衝動と洗練はそのように仲違いせず、現れている。

 EPということで、全7曲のヴォリュームはイントロダクション程度にとどまる。だが、キックオフに十分な内容を示しえている。まず第一、フックが強い。ヘヴィなギターのフレーズが一気に加速する1曲目の「LATE NOTICE」から、勢い身を乗り出したくなるようなナンバーが満載である。なかなかにセンスの良いヴィデオ・クリップが作られた2曲目の「GLOSSECTOMY」と5曲目の「ELDERS」は、全体のかっ飛び具合において、むしろ異色だろう。スロットルをぎりぎり絞ることで逆説的にきつく研ぎ澄まされたテンションを覚醒させている。そのダイナミズムは一時期のSNAPCASEを彷彿とさせる。そこからはポスト・ニュースクールのハードコアでもありうるヴィジョンと可能性が垣間見られる。

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2013年04月04日
 Abandon All Life

 こうしたジャンルのファンにとって、CONVERGEのカート・バルーが自身のゴッドシティ・スタジオでバックアップ、というのは何かしらのブランドになっているのではないかと思う。が、個人的にはさほど歓心しない。いや、決してカートの才覚を疑っているわけではないし、それが成果として芳しくないのでもない。実際、そのようなクレジットを持った作品はどれも、十分ファンの期待に応える内容に仕上がっているだろう。だから文句ではなく、残念なのは、なのである。まず、いま現在、ゴッドシティ・スタジオが関わった作品が結構な数にのぼること。そして、それらの肌触りとでもいうべきものが、とりわけ2010年以降、同様の指向性をアピールしているように感じられることであって、つまりは各個のオリジナリティ、もしくは希少性が見えにくくなりがちな側面を抱えている点なのだった。無論、こちらの勝手な受け取り方にすぎないのだが、質とは完全に異なったレベルで、驚きや衝撃を覚える機会は減った気がする。単に慣れてしまったといえば、そうだ。また、同様の指向性のなかから銘々のオリジナリティやポテンシャル、ディテールの違いを本来は聴き取らなければならないのかもしれない、として。

 NAILSのセカンド・アルバム『ABANDON ALL LIFE』もエンジニアとミックスのクレジットにカート・バルーとゴッドシティ・スタジオの名がある。2010年にリリースされた前作の『UNSILENT DEATH』と等しく、である。プロデュースはバンド自身とカートが行っている。これが、いやしかし、先述したことといくらか矛盾するけれど、他と同様の指向性をうかがわせながら、そこに止まらず、NAILSならではの個性を如実かつ猛烈に知らしめる作品となっているのだった。

 初期のTERRORでギターを弾いていたトッド・ジョーンズによって結成されたバンドである。痩身ではなく、首回りの太いハードコアがパワフルなサウンドの源泉となっているかのよう。それをスピード・アップさせることでウルトラ・ヴァイオレンスなイメージが高められている一方、スラッジやドゥーム、デス・メタルのニュアンスが入り込んできており、カオティックであったりエクストリームであったりのイメージが一層甚だしくなっている。ザクザク刻まれる高速のリフがNAILSの真骨頂を伝える1曲目の「IN EXDOS」からシームレスで放たれる数々のナンバーに圧倒されたい。矢継ぎ早に叫ぶスタイルのヴォーカルが勢いよくガッツとファイトを前傾させているのもあって、トータルで10曲17分強のアルバムに正しく待ったなしのエネルギーを降臨させている。馬車馬のごときリズム隊にも目を瞠る。〈SO GO TALK YOUR FUCKING SHIT〉の一声がエンディングで見事に決まる9曲目の「CRY WOLF」を経て、ラスト・ナンバーの「SUUM CUIQUE」へ。ついにはノイズとスローなグルーヴに濃密なカタルシスが溢れる。ヘヴィであるがゆえの深さを覗かせる展開に舌を巻くのである。

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2013年03月04日
 Anthems

 ギターとヴォーカルの2名からなるユニットに、思わずイギリスのB'zと形容したくなるのだったが、いやいや、それもあながち的を外してはいまいよ。PURE LOVEのファースト・アルバムである『ANTHEMS』には、実に堂々としたハード・ロックが盛り沢山に詰まっているのだ。無論、そのハード・ロックは日本のものともアメリカのものとも性質が異なる。イギリスの、つまりはブリティッシュ・ハード・ロックにほかならない。とはいえ、THE ANSWERのブルージーな濃さともTHE DARKNESSのキャッチーな明るさとも系統が違う。強いて述べるなら、SHARKS(not THE SHARKS)のパンク・ロックをハード・ロックに置き換えたかのような印象がある。ポップで親しみやすいメロディをアグレッシヴに力強く響かせているのである。

 ヴォーカルのフランク・カーターはGALLOWSの初代ヴォーカルであって、ギターのジム・キャロルはTHE HOPE CONSPIRACYに関わっていた。双方、ごりごりのハードコアを出自にしていながら、PURE LOVEで展開しているのが、先にいった通り、実に堂々としたハード・ロックなのはおもしろい。レンジを絞らず、マスをターゲットにしたかのようなアプローチの紛れもないサウンドが、おそらくは『ANTHEMS』という大胆なタイトルへ通じているのだろう。奇をてらうのではなく、ストレートなソング・ライティングを経て、シンプルに削り出されたフックが、個々の楽曲をくっきりさせている。

 先行してリリースされていたシングルは当然全部入っているけれど、PURE LOVEのデビューを知らしめた「BURY ME BONES」は、やはりパワフルでいて、かっこいいね。フランクのヴォーカルには、個性と呼ぶに相応しいアピールがある。男の色気がある。それがメロディの抑揚に従い、扇情的なムードを作り上げていく。雄々しいコーラス、そしてジムのギターは、まあ確かに派手じゃないし、やたらテクニカルなソロが飛び出すわけでもないのだが、ソリッドなリフを十分ソリッドに弾き、しなやかフレーズをとてもしなやかに弾きこなし、コマーシャルな楽曲を非常に熱っぽく、ストイックな印象に引き締めているのである。その他のナンバーも充実している。ヴァラエティに富んでいるといってもいい。

 前半にアーティストの方向性のよく出た楽曲が並んでいるのはもちろんのこと、後半になってもクオリティは落ちず、8曲目のスロー・バラード「BURNING LOVE」で一息ついたかと思いきや、再びギアをドライヴに入れ、ラストまでエネルギーを尽きさせない構成からは、このユニットの地力がうかがえる。ポテンシャルの高さが、失速のない構成を可能にしているのである。また、イギリスのバンドでいえば、TERRORVISIONやCATHERINE WHEEL、FEEDER、最近ではMAXIMO PARKやTWIN ATLANTIC、PULLED APART BY HORSESなどを手掛けてきたジル・ノートンのプロデュースが、モダンであることと同義となるようなエッジを際立たせていて、作品の佇まいは非常にシャープだ。

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2013年02月15日
 Die Young [Explicit]

 ロクデナシを救済するというロック・ミュージックに備わった一側面をとてもよく実感させる。アイルランドはダブリン出身の4人組、WOUNDSのファースト・アルバム『DIE YOUNG』である。だいたい、『DIE YOUNG』なるタイトルからして、こう、積立預金的なアティテュードを匂わせねえんだ。紋切り型ではあるものの、このバンドのサウンドを的確に示していると思うし、曲目を見ると「DEAD DEAD FUCKING DEAD」とか「NO FUTURE」とか並んでいる。

 ハイライトはやはり、その、3曲目の「DEAD DEAD FUCKING DEAD」と続く4曲目の「NO FUTURE」であろう。曲名通りの、馬鹿の一つ覚えでもここまではなかなか知性の退行をうかがわせないよね、というフレーズをコーラスで連呼するのだから、まあ、誤解する余地もないほどに直接的なパッションが何よりの持ち味であることをアピールしているのだった。他の含みはほとんどない。

 サウンドのスタイルはパンキッシュでアグレッシヴなロックン・ロールだといえる。ハードコアというより、イギリスから近年登場してきたPULLED APART BY HORSESやDINOSAUR PILE UPなどのパワー・グランジに近いタフネスを持っているけれど、それらが90年代のアメリカン・オルタナティヴを陽性のマチスモで再構築していたのに対し、WOUNDSはもっと不健康そうである。俺たちにはこれしかできねえもんな、という素朴さで合奏したら、パンクにもグランジにもハード・ロックにも似たアプローチとなってしまった印象だ。

 阿呆でもすんなり入る判りやすさが大きな魅力である。「NO FUTURE」なんかはもう、ノー・フューチャーって響き、かっこいいよね、そこにノー・ホープって加えながら、皆で一緒にでかい声で叫んだら決まるんじゃないかな、という明快さだけで成り立っちゃっているところがある。ギターのコードはシンプルであって、リズムにも小難しいパターンはないのだが、無論、それはこのようなバンドの美点にほかならない。

 基本的には勢いに重きを置いたサウンドだ。ラストに収められたバラード型の「DEAD ROAD」にさえ、力強いプッシュがある。エモーショナルだが、ナイーヴではない。がさつであるがゆえのテンションとエネルギーをどばどば溢れさせている。

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2013年02月01日
IV (日本独占リリースCD) Parting the Sea Between Brightness & Me

 国内のバンド、INFECTIONとENDZWECKの熱演はもちろんこうしたハードコアのファンであれば好感の持てるものであったろう。が、個人的には次に出てきたトリオ、STORM OF VOIDによるストーナー・ロック・タイプのインストゥルメンタルがなかなかに決まっていて、ぐいぐい身を乗り出す。エモさよりヘヴィなグルーヴの目立ったサウンドは、この日のラインナップのなかでも異色だったように思う。そして、LOMA PRIETAだ。

 最新作の『I.V.』がとてもスリリングな内容だっただけに期待していた米カリフォルニア州サンフランシスコ出身の4人組、LOMA PRIETAである。いや、実際にそのライヴもまた気迫に充ち満ちたもの。体感する価値の十二分にあるものだった。ステージの真ん中にベースが立ち、左右にギターが並ぶ。シンメトリーとなったギターの二人が前のめりにヴォーカル(主にスクリーム)を発していく。絶妙なリズムをパワフルに叩き出すドラムも凄まじく、キレのよいサウンドをより強靱に。マシンガンのようにぶちかまされるパッションを連続的に倍加させる。そこかしこに耳目を引くフックがある。やはり「FLY BY NIGHT」は激情のアンセムであろう。底知らずのエネルギーが、切ない旋律を飲み込みながら、フラストレーションを撃ち抜き、最高のカタルシスを現出させるのだ。ハードコアのジャンルが持つ様々な文脈、イディオムをミックスするなかに、整合性にも似た美学が響き渡る。このバンドならでは、と思わせるほどのインパクトが怒濤となって押し寄せてきたことに、ガッツ・ポーズを隠しきれない。

 だがまさか、それ以上に侮れなかったのがTOUCH AMOREである。この米カリフォルニア州ロサンゼルス出身の5人組によってもたらされたのは、正しく現場で鍛え上げられてきたかのような質実剛健のパフォーマンスだ。エモさもあり、パンキッシュなところもあるサウンドは音源で聴かれる通りだが、どうしてそれがこんなにもエキサイティングなのか。もうねえ、方法論的に自分たちが決して間違っていないことをちゃんとライヴで実践できているから、と言うよりほかない。ルックスは必ずしも冴えていないのに、どのアクションもすばらしく映えているのあって、無論、演奏の完成度も高い。そして、ナイス・ガイであることと熱血漢であることを両立し、まざまざと見せつけたヴォーカルのアピールがでかい。彼が観客にコンタクトを送る度、会場の温度は着実に高まる。さっきまでが限界と思われていた沸点が何段階も繰り上がっていくのである。いやはや、すごかった。2011年のセカンド・アルバム『PARTING THE SEA BETWEEN BRIGHTNESS AND ME』からのナンバーを中心にショーを進めながら、すべての瞬間をクライマックスに変えてしまう。ラストの間近、フロアーへ降り立ったヴォーカルと観客とがもみくちゃになりながら大合唱を繰り返していたあの光景はヴァイオレントと違う。何かあたたかみのある印象を覗かせた。非常に良いシーンだ。
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