ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年10月30日
 彼女のため生まれた (幻冬舎文庫)

 ああ、これが現代におけるハードボイルドなのかもしれない。でも、そこには自己犠牲とも似たヒロイズムを通じて獲得されるべき希望というものがほとんど見当たらない。殺伐とした事件の真相を、ニヒリスティックなアマチュア探偵が究明していくなかで、果てしない消耗が繰り返されるのみだ。救いはあったか。よくわからない。ただ、喪失の彼方でしか涙することを許されない主人公の姿に、たとえそれが絶望であったとしても、決して空虚とは思わされないだけの重量が備わる。浦賀和宏の『彼女のため生まれた』である。

 設定から述べると、『彼女のため生まれた』は同作者の『彼女の血が溶けてゆく』と登場人物たちのプロフィールを同一にしている。つまりは「彼女の」シリーズの続編ということになるだろう。もちろん、物語はそれぞれ独立したものであって、フリーランスで週刊誌のライターをしている桑原銀次郎が身近な人間の災難をきっかけに奇妙な事件と関わっていくという構成を(現段階では)シリーズの共通点としておけばいい。すなわち、大がかりな組織や犯罪に対して主人公の意志がどう立ち向かうのかではなく、規模が狭い世界の地盤沈下に対して主人公のスキルが行使されていることに着目されたいのだ。

 浜松にある実家が何者かに襲撃された。刃物に刺されて、父親は重傷を負い、母親は死んだ。東京から静岡へ駆けつけた銀次郎が刑事の質問を受けているとき、かつて彼が通っていた高校の屋上から一人の男が飛び降り自殺したとの報せを受ける。両親を襲撃した犯人である。なんとそれは地元の同級生、渡部だった。しかし親しかったわけではない。それがどうして銀次郎の母親を殺すに至ったのか。銀次郎の父親によれば、渡部は復讐だと言っていたという。高校の頃、銀次郎が赤井市子というクラスメイトに乱暴を働いたのだという。そのせいで市子は自殺したのだという。そして、渡部は市子の恋人だったと言ったのだという。だが、話を聞いた銀次郎からしたら心当たりはまったくない。何もかもが全部デタラメであった。大体、なぜ十数年後の今になって復讐がなされなければならないのか。その謎を解くべく、銀次郎は渡部や市子の家族との面会を試みる。

 以上がネタを大きく割らない程度の筋書きである。もしも渡部の言いが「真」だとしたならば、母親が殺された原因は銀次郎にあるということになる。実際には「偽」であったとしても、それを「真」と見なす者が一定数を越えるかぎり、真偽は不明となる。母親が殺された原因は銀次郎であるというテーゼは必ずしも「偽」とはならないのである。『彼女のため生まれた』において、主人公が挑まなければならないのは、そのような不確定性によって支配された世界にほかならない。

 作中では、銀次郎と渡部の背反したアピールをめぐるガジェットとして、ブログのコメント欄などが採用されている。上記した不確定性によって支配された世界とは、インターネットを基準としたリアリティ、価値観や群衆の心理、体験に対応しているのだろう。それを敷衍していけば、もちろん、陰謀論やデマへの信仰が立ち現れる。こうしたハーメルンの笛吹きゲームに図らずも参加してしまったこと、馬鹿げたルールであろうと参加を強制させられてしまったことに主人公の不幸はあるといえる。その際、彼を取り巻く世界がいかなる規模を持っているかはさして問題ではない。自分にとっては紛れもなく「真」であるはずのことが、他の誰かから「偽」であると否定される。自分にとっては絶対であるはずのことに、他の誰から疑惑を向けられる。いわずもがな、それはアイデンティティの否定へと通じているのである。

 思い返せば、浦賀和宏は、アイデンティティが脅かされることの不安をミステリの形式に落とし込んできた小説家であった。しかし、かつての作品では、メタ・レベルそのものであるような(SF的な要素ともいえる)現象が物語に介入してき、登場人物たちのアイデンティティに試練を与えることが多かったのだけれど、『彼女の血が溶けてゆく』や『彼女のため生まれた』には、そういう登場人物たちよりも上位の概念が、忽然と顔を出したりするような場面はない。デウス・エクス・マキナよろしく登場人物たちの運命を操作することもない。これが「彼女の」シリーズを、別のシリーズに比べ、一般的なミステリの仕様に近づけさせているのだろう。

 運命とは、他でありえたかもしれない可能性のなかからどうしてこの現在が選ばれたのかを問うことである。こうした問いが、死者である渡部と彼に母親を殺された銀次郎の対照には内蔵されている。本来、死者が生きている人間に反論することはできない。だが、死者の残した結果が、決定的な事実として認められしまっているとき、それに反論を加えることの方が難しい。それを覆そうとし、ニヒリスティックなアマチュア探偵は奔走するのだったが、殺伐とした事件の真相には、銀次郎の母親と渡部の母親とを含む、さらなる運命の対照が隠されていたのであった。

 浮かび上がってくるのは、銀次郎、渡部、市子、三者の母子関係であり、それは極度に個人化された社会のイメージと折り重なっていく。果たして母親は子供のために存在するのか。それとも子供が母親のために存在するのか。鶏と卵のジレンマを思わせる苦悩が、『彼女のため生まれた』という意味深長な題名とその悲劇には秘められている。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『彼女の血が溶けてゆく』について→こちら
 『女王暗殺』について→こちら
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2013年08月01日
 NHK ラジオ 英語で読む村上春樹 2013年 08月号 [雑誌]

 戌井昭人の『流れ熊』は『NHKラジオテキスト 英語で読む村上春樹 世界のなかの日本文学』の8月号に掲載された。創作短編である。この小説が同テキストのなかでどのような役割を果たしているのかは、「本誌の使い方」という最初の項に「世界的作家となった村上春樹の作品世界を、あらたな目で読み直そうという連載企画」であって、その「読み直しのため」に「村上春樹作品にトリビュートを捧げる気鋭の若手作家たちが、番組で読む村上作品とゆるやかなつながりを保ちながら、独自の作品を構築していきます」と述べられている。ちなみに4月号(創刊号)では淺川継太が『通り抜ける』という作品で。5月号では谷崎由依が『鉄塔のある町で』という作品で。6月号では中山智幸が『どうしてパレード』という作品で。7月号では羽田圭介が『みせない』という作品でもって登場しているのだったが、必ずしも村上春樹のフォロワーとは判じきれない作風の人も少なくはないし、実際、どのあたりが村上春樹へのオマージュなんだろう、このあたりはそうかもしれないけれど、でもこのあたりはまったく違うよな、全然違うよな、と思わされるものもあるにはある。しかしまあ、それが企画自体の「狙い」なのだということにしておきたい。

 したがってやはり、戌井の『流れ熊』も、どのあたりが村上春樹へのオマージュなんだろう、という態度で接するべき作品となっている。話の筋は非常に素朴である。主人公の〈わたし〉は東京の電気湯沸器を製造している会社で外回りの営業をしていた人物だ。大学を卒業して以後、十年間勤めていたその会社を辞めたのは、ある日の昼休みにデパートの屋上で弁当を食べている最中、意識を失い、倒れてしまったためであった。医者は心因的なものだと診断し、環境を変えた方が良いと勧められた。その〈二ヶ月後、わたしは会社を辞めた〉のだった。それから〈東北地方を旅して、気に入った町があったら、そこに長く滞在しようと思っていた〉ところ、日本海側のとある港町に辿り着いた。それは秋の頃のことであり、今はもう春。冬を通し、行きつけになった酒場で知り合いのツネさんから「今日、熊を見たべ」と聞く。ツネさんは舟下りの船頭をしている六十過ぎのおっさんで、彼に誘われた〈わたし〉は川上まで熊を見に行くこととなる。それで、熊を見たからどうした、という感慨の大きな小説ではない。熊を見た。餌にさくらんぼをやった。さくらんぼに夢中で熊が川に落ちた。翌日、河口のゴルフ場に熊が現れたと聞く。それは昨日のあの熊が流れてきたのだと思う。町中が騒ぎになり、捕まった熊が山に放たれる。単にそれだけのことが示されているにすぎない。

 村上春樹の『象の消滅(THE ELEPHANT VANISHES)』を扱った同テキストの8月号における「村上文学へのアプローチ」という項で、沼野充義が「村上春樹の小説には、様々な動物がしばしば登場します」と指摘しており、「こういった形で登場する動物たちは、普通のリアリズム小説に登場する現実の動物とは明らかに違いますが、同時に童話やおとぎ話に登場するような、人間と同じように話をして行動をするキャラクターにまではなっていません。しかし、奇妙なことに動物が人間の特性を帯びる反面、人間が動物の特性を持ったりもして、動物と人間がいわば自由に相互浸透するような半メルヘン的小説空間を作っているように思われます」といっているが、戌井昭人の『流れ熊』で、熊の担っている役割(熊を対象とした描写)は、村上春樹のそれに比べ、というよりも村上のそれとは大分異なっていて、純粋にリアリズムを基礎としているように思われる。それはつまり、メタファーでも暗喩でも隠喩でもいいのだけれど、比喩としての効果が極めて低い(おそらくは意図的に低く見積もってある)ということにほかならない。この点に関して、たとえば川上弘美の『神様』や舞城王太郎の『熊の場所』など、熊をイメージした小説として知られるそれらと『流れ熊』とを並べてみても明らかだろう。

 無論、『流れ熊』の熊に、何かしらの形で語り手である〈わたし〉の心情が投影されているのは疑いようがない。だが、それはあくまでもリアリズムを基礎とした作品の補助線として引かれていく。高度な資本システムをドロップアウトしたという意味で、〈わたし〉は村上春樹が用いる多くの主人公と共通しているものの、その眼差しはリアリズムであることの認識にきつく囚われている。そして、かような条件こそが、ぽつねんとした寂しさを〈わたし〉の内側から浮かび上がらせて、こちらに届かせてくるのである。
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2013年07月18日
 新潮 2013年 08月号 [雑誌]

 『新潮』8月号掲載。佐藤友哉の『ベッドタウン・マーダーケース』は、あれ、この題名に見覚えあるな、と思っていたら、ああ、そうか、以前発表された『ベッドサイド・マーダーケース』の極めて直接的な続編になっているのだった。前作の語り手=主人公とコンビを組んでいた男、六条がここでの語り手=主人公であり、本作のなかで〈おれと電卓は三年間にもおよぶ憂鬱な大冒険のすえ、『連続妊婦首切り殺人事件』の解決まで、あと一歩というところにせまった〉と語られ、しかしそれは〈電卓の物語なので、ここではくわしくは語らないが、そういう『枕元の物語(ベッドサイド・マーダーケース)』を、かつて体験した〉とされるそこから十三年後、『連続妊婦首切り殺人事件』の真犯人は、より大規模でいて無差別な殺戮を仕掛けはじめていた。これに対し、前作の語り手=主人公と分かれたあとの六条が『被害者の会』と名付けれらた組織とともにレジストしようとするその苦闘がつまりは『ベッドサイド・マーダーケース』にあたる。

 題名の「マーダーケース」が「ベッドサイド」から「ベッドタウン」へとスケール・アップしている通り、作中の事件も『連続妊婦首切り殺人事件』という特定少数を狙ったものを遙かに上回る。一個の町を崩壊させるほどの『ジェノサイド』に発展しているのだったが、物語それ自体はあくまでも語り手=主人公である〈おれ〉に寄り添っている。この点において『ベッドサイド・マーダーケース』と『ベッドタウン・マーダーケース』の基調に決定的な違いはないと思う。無論、荒唐無稽なフィクションであり、ノワールでありながら、一種の災害小説であって、原発小説の亜流であるような背景を持っているのも同様だ。あらましを取り出すのであれば、大きく二つのレーンがある。二つのレーンが、パラレルに進行し、ときには交差することで、『ベッドタウン・マーダーケース』とは一体何事なのかが明かされてく。二つのレーンのうち、一つは父子の再会と妻子を殺した人間への報復という、要するにプライヴェートな側面を負っている。もう一つのレーンは抑圧的なロジックによって構成されている(のではないかと信じられている)この世界の再編という、著しくプライヴェートをオーヴァーした目的に沿っている。運命(あるいは遺伝や環境)に束縛された者の個人的なテロルは、初期の作者にも見られたモチーフであるし、徹底管理された社会を意味する『文明更新(アップデート)』や『ジェノサイド』による不穏な成果は、伊藤計劃の『虐殺器官』や『ハーモニー』を通過してしまった読み手の多くにとっていささかアブストラクトであるかもしれない。したがって、目を引くのはやはり語り手=主人公である〈おれ〉の情緒にほかならず、〈おれ〉の情緒の深奥に集約されていくような物語それ自体になるだろう。

 一言でいうなら、エモい。作中の歳月を踏まえるなら、その〈おれ〉である六条はよっぽどのおっさんになるのだけれど、表向きはシニカルであったり、達観を気取ろうとする口ぶりが潜在的にナイーヴであることの翻しであるよう思われてくるためだ。そしてそれはたぶん、ハードボイルドや冒険小説の主人公が、ニヒルな態度の裏側に淡いロマンティシズムを隠し持っているのとは本質において異なる。行為のレベルでは同様であろうと、そのようなロマンティシズムに駆動されているのかもしれない自分自身を六条ははっきり蔑視しているのである。ロマンティシズムばかりではない。結局のところ、彼は何も信じていない。自分の傍に置かれた人間も体験も。何も信じられないでいるのである。この何も信じないがゆえにありとあらゆる表明にノーを突きつけることができるという態度は、必ずしも根拠を必要としないでいられる。非常に子供じみてもいる。この意味でナイーヴと評するに相応しいのだったが、逆説的に六条の表明も何ら説得性を有しない。決して誰にも届かない。そうした人物が家庭を築くというのがそもそもの誤りであり、こうした禍根はしばしば亡き妻と寝室の幻影となって彼を糾弾する。

 六条はこの世界に見捨てられた人間である。だが、彼のなかには自分こそがこの世界を見捨てた人間なのではないかという錯覚がある。六条が罪悪感と呼ぶもの、それはもしかしたら単なる快不快の揺らぎでしかないし、とどのつまりは錯覚を正当化すべく、謎めいた陰謀論に関わろうとしているにすぎない。クライマックスにさしかかり、とある人物に「この世はあなたの意志とは無関係に動いていますから」と言われた六条は「わかっちゃいるさ。そうだとしても、関与したいんだよ。だまって見ていることはできないんだよ」と反論する。しかし、結末における六条の独白を見られたい。ああ、〈真相に達してもなお、おれはこのざまだった。追い求めていたものを見つけても、世界の仕組みとやらを垣間見ても、一歩もすすんでいないように感じるのはなぜか。すべてが終わったというのに、明日も世界が敵でいるような気がするのはなぜか〉と述べられるそれは、やはり、非常に、エモい。設定の規模では、人類全体を襲った悲劇を『ベッドタウン・マーダーケース』を題材としている。そこから社会的なテーマを見出してもよい。とはいえ、物語の単位で考えるなら、あくまでも悲劇は個人としての〈おれ〉によっている。

 『ベッドサイド・マーダーケース』について→こちら

・その他佐藤友哉に関する文章
 『今まで通り』について→こちら
 『333のテッペン』について→こちら
 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2013年03月25日
 冬の旅

 近年、吉田修一や阿部和重、中村文則の例を挙げるとすれば、21世紀に純文学が発見あるいは再発見したものの一つは犯罪小説であったといえよう。後輩の芥川賞作家たちに触発されたのかどうかは知らないが、辻原登の『冬の旅』もまた大変立派な犯罪小説となっている。20世紀を舞台にして、ワイドショー的なリアリズムを採用しながら、一体「悪」がどこからやってき、何に宿るのかを観念のレベルで探るかのような小説になっているのである。

 その男、緒方隆雄はつい先ほど服役を終えたばかりだった。二〇〇八年、六月八日。つまりは秋葉原で通り魔事件が起こったあの日のことだ。もちろん、それは緒方の人生とまったく関わりがない。少なくとも緒方にとってはどうでもいいのである。滋賀の刑務所を出て、大阪に戻った彼が五年分の作業報奨金、約十七万円を使い果たすのは早かった。当面の宿泊費を払い、二晩、風俗店に通った。二度づけOKの串かつ屋で飲み食いもした。少なくなった手持ちを増やそうと競艇に賭けて、負けた。たったそれだけ。俗っぽいし、しょっぱくもある。お決まりのパターンであるようにも思われる。

 だが、たとえばそれをお決まりのパターンだというとき、いかなる因果によってそれはそういう風に「決まっている」「決められている」のだろうか。こうした問いを引き受けるかのように、やがて物語は、なぜ緒方が刑務所に入らなければならなかったのか。京都の専門学校を卒業してから様々な道筋を経、犯罪をおかし、逮捕されるまでの十数年間を回想していくこととなる。ああ、「私は別様に生きえたのに、このようにしか生きえないのは何故であるか」そして「おれの最初の躓きは何だったのか」

 本編のおおよそを占めるのは、緒方隆雄が三十八歳となる二〇〇八年をさらに遡った過去の出来事であって、それは90年代から00年代の前半を丸ごと包括している。バブル経済の崩壊があり、地下鉄サリン事件がある。阪神・淡路大震災が起こったとき、緒方は何をしていたのか。もしくはその後、どういういきさつがあって強盗致死事件の共犯者となってしまうのか。看護婦だった妻が失踪し、変死を遂げる。新興宗教の広報として活躍していたのに、横領がバレ、多くを失う。三十歳を目前にして、彼の人生はまるで下り坂に入っていくのである。

 一見、『冬の旅』は、緒方の物語である。が、同時に何人かの並走者がいる。刑務所のなかで誰からも惜しまれずに亡くなる老人の久島や、現代的なサイコパスを彷彿とさせる大学生の白鳥がそうであろう。彼らは人生のある時期に緒方とわずかな接触を果たしたにすぎない。実際、男性の鎖骨のその窪みにエレクトする白鳥青年が、染色体に異常を持っていること、中学生の頃に同級生の少女を殺害したこと、大学を辞めた後、神を捜してアメリカに渡ったこと、日本に帰ってきてから再び殺人をおかし、保護病棟の独房へ収監されたことなど、緒方は最後まで知る由がない。我々読み手は単に、別個に存在する緒方と白鳥の人生を並べて、覗き見するのみなのだ。

 久島についても等しく、詳細なプロフィールが次々語られる反面、緒方はその一端しか知れない。これによって、登場人物が他の登場人物にどう関与したか、影響を及ぼしたのかはある種の保留状態において推測されるよりほかなくなってくる。要するに、彼らは「点」として作中に打たれているのであって、その「点」と「点」のあいだに明確な「線」は引かれない。いや、いったんは「線」で結ばれはするけれど、切れてしまったのか。消えてしまったのか。結ばれたままだとしても、直接には可視できなくなっている。その、目ではとらえられない。具体的には示しえない「線」の存在こそが、おそらくは因果というものなのだろう。

 もしも、緒方の最初の躓きが白鳥との出会いにあったとしよう。しかし、それが真か否かは誰にも証明できない。同様に彼が犯罪をおかした際、何がそうさせたのかも一概には判じきれない。緒方も、久島も、白鳥も、完全に別個の人間である。だが、「繰り返す」存在として共通しているようにも思われる。無論、躓きを、しくじりを、犯罪を繰り返すのである。「悪」がそうさせるのだとすれば、それはどこからやってくるのか。それが宿りうる人間には相応しい条件が備わっているのか。当然ながら、誰にも断定できない。断定する資格が誰にもない。

 結局のところ、緒方隆雄は以前とは異なった形で犯罪を繰り返す。刑務所を出て、一週間も経たず。熊野まで仏参りに行った先で、自分に向かってくるパトカーのサイレンの音を聞くのである。しかし、不思議とそれは彼を勇気づける。〈これまでずっと、あれよあれよと流されるままに生きてきたが、いまは違う〉と。〈おれはおれの人生に別の意味合いをみつけた上で、縛り首になるんや〉と。あたかも天啓のように響く。そして、そこで緒方の『冬の旅』は終わる。
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2013年03月24日
 彼女の血が溶けてゆく (幻冬舎文庫)

 まさか、まさか。まさか、ファン以外の方にも安心して読ませられる浦賀和宏の小説が存在するだなんて。いやまさか、その一点が『彼女の血が溶けてゆく』における最大の驚きであって、裏を返すなら、他の作品に見られるカッティング・エッジであるような魅力は影を潜め、一編としての整合性を高めることに照準を絞った物語が書かれている。この作者にかぎっては、良くも悪くも、ということになるだろうか。思わず、きいい、と感情を逆撫でされたり、目を剥いてしまうほどの強烈さ、インパクトはない。かわりに、うっかりしたら、だよ。希望や再生にも似た光明を受け取ってしまいかねない結末が用意されており、その意味で、ファン以外の方にも安心して読ませられるものとなっているのだ。

 離婚した妻は大手の病院に勤める内科医であった。彼女が誤診によって一人の患者を死なせてしまい、遺族に訴えられ、スキャンダルの的となったことから、現在はフリーランスのライターとして週刊誌で活動している主人公は、依頼と私情とを通じ、事件に関わっていくようになる。溶血と呼ばれるその症状は必ずしも死に直結しない。ではなぜ患者は死ななければならなかったのか。やはり診断に手違いがあったのか。あるいは別の原因があるのか。かつての妻や患者の遺族に取材するうちに、主人公は予想もしなかった真相へと辿り着くのだった。

 こうした筋書きは、一般的に医療ミステリと称されるのに近い印象をもたらす。実際、普段馴染みの薄い症例や用語が事件の骨格を担ってはいるのだが、物語の指針は、医療のシステムや社会上の問題ではなく、あくでも個人の内面に向いている。登場人物の内面に秘せられた謎を、探偵役の主人公が解いていくそのプロセスに二重三重の仕掛けが凝らされているのである。かくして、医療の分野に対する目配せを経ながら内面の謎が解かれるとき、運命や不幸は遺伝子のレベルで決定されるという、つまりは浦賀和宏に特徴的なテーマをこれもまた負っていることがわかってくるだろう。根源的な呪いと換言してもよいそれをめぐり、しかし従来の作品とは毛色が違って、現実から大きく飛躍した終末論や陰謀論は絡んでこず、むしろ靴底をすり減らすかのように地道な展開のなか、サプライズの埋め込まれていることが『彼女の血が溶けてゆく』の機軸を兼ねている。

 この世界に見捨てられたと信じている者が、その認識から救われるためには、この世界の有り様を作り変えようとするよりほかないのか。所詮、それは悲劇や惨劇に等しい結果をもたらすのに相応しい方法でしかないというのに。

 降って湧いた好機をことごとく叩き潰すかのような成り行きは、もちろんこの作者が得意とするところであって、『彼女の血が溶けてゆく』も本質としては同様の手はずを整えている。当初は単なる誤診と目されていた事件が、しかし真相に近づけば近づくだけ、徐々に錯綜していくのは、登場人物たちの、この世界は利己の強さによって必ずや書き換えられるという企みの折り重なりこそが、のっぴきならないミステリの正体であったことを並行的に暴いているためだ。ああ、そうか、そういうことだったんだ、と納得のいく答えを得られたとしても決して胸がすくわけではない。基本はグロテスクなお話である。が、先に述べたことを繰り返すけれど、それでも結末でうっかり、希望や再生にも似た光明を受け取ってしまいかねない。なぜか。最後の方に置かれた主人公の言葉を借りるのであれば、〈俺は何故ここに来たのか? そう自問する。女の肌を求めたからか。それともただ寂しさを埋めるためか。どちらも正解だろう。だがそれだけではないはずだ――〉とされる〈だがそれだけではないはず〉のことが、確かに決心され、示されている。そこに暗澹たる気分を少しばかり拭うような手応えが現れているのである。

 ただし、これが肝要なのだが、作中で「贖罪」といわれる主人公のその決心は、一昔前のギャルゲー(泣きゲー)に見られた倫理とさほどかけ離れてはいまい。白痴もしくは難病を患っていることがイノセントの保証となっているような少女を媒介にして、なんらかの正当性を自分に課そうとしている。無論、「贖罪」の対象である登場人物は最早少女の年齢じゃないじゃねえか、と口を挟むことはできるものの、明らかに白痴であり難病でもありうる少女のイメージを仮託されている点に注意されたい。おそらくは意図的に、感動してもいいよ、というサインが組み込まれている。

 エンディングにゲームセンターが選ばれているのは、もしかしたらインターネット上でちょっと前に拡散された例の「ゲーセンで出会った不思議な子の話」を参照しているのかもしれない。そうした参照が善意によるものであれ悪意によるものであれ。件のエピソードが受けたりもするのだから、この意味で、もう一度いうが、ファン以外の方にも安心して読ませられるのではなかろうかと思う。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『女王暗殺』について→こちら
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
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2013年01月18日
 海の見える街

 畑野智美、またもや地方都市の憂鬱を掴まえる、といったところか。第23回小説すばる新人賞となったデビュー作の『国道沿いのファミレス』や続く『夏のバスプール』で郊外に特徴的なワンポイントを「○○の××」と題名に置いてきた作者である。三作目となるこの『海の見える街』では、同じく題名にそうしたパターンを踏襲しつつもいくらかイメージの広がりを与えており、実際、内容の方もこれまでのような主人公を一人の男性に固定したものではなく、四人の男女が入れ替わりながら主人公をつとめていくという連作のスタイルをとっているのだけれど、基本的にはやはり、地方都市における閉じた生活圏に安住を求めるしかない現代的な若者の実相を題材にしている。

 先にいったとおり、主人公は四人の若者である。皆、海を間近にした市立の図書館で働いている。所謂草食系に分類されるような何事も穏当に済ましてしまいたいタイプの本田や、オタク的な気質と垢抜けないため女性としてもてはやされない日野、クールで周囲からの信頼も厚いが実は女子中学生にしか興味を示せない松田と、そして自分が若い女性であることの優位を包み隠さず我が儘に振る舞う鈴木(春香)が、それぞれの視点で、それぞれの時系列で、単なる同僚を越えたライン上にお互いの存在を認めていくことの結果が『海の見える街』の全景を作り出していて、無論、そこには友情や恋愛に発展しうる関係が含まれる。なかには三十代の人物もいるにはいるが、しかしあくまでも若者のヴァリエーションとして語り手を任せられている点が肝要だろう。

 松田に関しては少しばかり条件が異なっているものの、各人の生活において小動物との接触が欠かせぬ場面となっている。このことは銘々のエピソードに付けられた題名に象徴されているのだけれど、それについてはさほど気に留めなくてよいかと思う。確かに、小動物の介入は作中人物の心を開かせるキーになっていると同時にミニマムな物語を動かすためのキーとなっているのだったが、結局のところ、今日に典型的な習慣が切り取られている程度のことなのである。むしろ、その典型的な習慣を各人が共有し、なおかつその典型的な習慣を通じて映し出された(これも典型的な)寂しさが、ストーリーの都合上、どのような帰結をもたらすのかに注意を払われたい。果たして、一見すれば口当たりのよい結末は本当にハッピー・エンドなのか。

 北上次郎と大森望が『SIGHT』54号の「ブック・オブ・ザ・イヤー2012」エンターテイメント編の対談で『海の見える街』の結末を次のように評している。〈大森「(略)4章、どれも面白いんですけど、唯一の疑問はラストですね」北上「ああ、ああ。これ、この人の癖なんだよ、きっと。1作目の『国道沿いのファミレス』もそうじゃなかった?」大森「テレビドラマ的にね、めでたく収まってしまう。それならそれで全員うまく収めてほしかった」〉と。ここである。おそらくは「テレビドラマ的にね、めでたく収まって」いるところが、一見すれば口当たりのよい結末の、その印象に繋がっているのだが、深読みすればするほど、それは本当にハッピー・エンドなのか、という疑問を残すのだし、むしろリアリズムに由来する袋小路の決まりを覚えてしまう。

 一年間のおおよそを四人のエピソードに区切った物語の最後に訪れるのは、要するにロマンスという名の祝福にほかならない。身も蓋もない言い方をすると、単に一組の男女がくっついたにすぎないのだ。そして、それは地方都市の内部にとどまるしかない若者の、あるいは地方都市の内部を脱してもなお別の地方都市の内部に辿り着くしかない若者の選択であり、帰結として提示されている。もちろん、その帰結が妥協や挫折を意図した後ろ暗いものであったなら、小説の締め括りはここまでキラキラしたものとはならなかっただろう。『海の見える街』のロマンスは、間違いなく、狭い世界で自分が抱えた問題をいかに解決するかへの糸口となっているのであって、それがうまくいったことの例として最後にカップルが成立させられているのである。

 当然のことながら、うまくいかなかったことの例も存在する。四人の主人公を並べてみたとき、松田のとった選択は極めて異色だといえる。ナボコフの『ロリータ』をなるたけ正確に引用しながら日常の外側へあっさり飛び出してしまうのである。しかし彼は必ずしも悪人や犯罪者としては扱われていないし、四人のなかではむしろ真善美に最も近い立場でさえある。また、もしもその一編のみを取り出したなら、危ういがゆえに美しいロマンスを達成すらしているのではないか。だが、作品の全体像においては、平凡なロマンスの獲得の方にこそ幸福があるのだと強調する役割を果たしていく。つまりは地方都市の内部で普通に生きられることの価値を対照的に高めているのだ。

 誤解があってはならないのだけれど、そのようにして設けられた結末に不満があるのではない。そうではなくて、最初に述べたとおり、前作や前々作と同じく、地方都市における閉じた生活圏に安住を求めるしかない現代的な若者の実相をよく感じられるところに、この作者の何よりの特徴が出ているのである。『国道沿いのファミレス』も『夏のバスプール』も、ロマンスという名の祝福によって、筋書きはともかく、結末の印象が爽やかに変えられていた。反面、物語のその後を考えさせもした。大きな決心をした主人公たちはこのままずっとそこで充足した暮らしを送れるのだろうか。初々しいボーイ・ミーツ・ガールであった『夏のバスプール』は別としても、青年期の選択を描いた『国道沿いのファミレス』や『海の見える街』の場合、その問題は意外と根深いものだと思う。

 どれだけ平凡であろうとロマンスの獲得がハッピー・エンドの肩代わりをしている。これを批判するのは容易い。だが、それを否定してしまえば、現実の社会にあってもほとんどの幸福にケチがついてしまう。ある意味、『海の見える街』における松田の選択はネガティヴな語り口で拾われがちな郊外のイメージを踏襲しているといえる。しかし、それはもはや何十年も繰り返されてきた議論のステレオタイプを引きずっているにすぎない。これをいかに上書きするか。むしろ、残された三人の側のロマンスにその可能性は暗示されているのではないか。なぜなら、海が見えるか見えないかぐらいの違いしかよそとはないにしても、好きな人がそこにいるかいないか程度の違いでしかないとしても、この郊外を、この地方都市を肯定的に生きていく。こうした判断だけは誤魔化されずに備わっているのである。
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