
実に「いいんだよ、細けぇ事は!!」てなノリで『ブラックエンジェルズ』の松田鏡二を現代に蘇生させた平松伸二が、遂にあの『ドーベルマン刑事』の加納錠治をも墓場から引っ張り出した。熱心なファンからすれば、ああ、禁断の扉を開いてしまったな、といった感を持たざるをえない『新ドーベルマン刑事』の1巻である。ともあれ、オリジナルの『ドーベルマン刑事』は、大きく二つのシーズンに分けられたと思う。元自衛隊である武論尊の思想(イデオロギー)が強く出ていた初期と、ラブコメ・ブーム(当時)の影響から平松がお茶目なタッチを手に入れた後期とに、だ。個人的に、加納の本質はやはり前者にあって、連載を経るにつれ、その点は薄まっていったと考えるのだけれど、ではこの『新ドーベルマン刑事』の加納は果たしてどうだろう。『新ドーベルマン刑事』において、武論尊は「原作」ではなく「原案」としてクレジットされており、おそらく作品には一切関与していないと判断される。つまり、平松が単独で再現した加納錠治にほかならない。武論尊の思想(イデオロギー)を濃く引き継いでいないことは、もしかすると加納を記憶喪失にさせたまま現場に復帰させるというストーリーからも読み取れるのではないか。全身に銃弾を浴び、死んだはずの加納が、なぜか以前と変わらぬ姿で、かつての上司、西谷警視の前に現れる。オカルト的な展開は正しく平松が得意とするものである。とはいえ、その表情には旧『ドーベルマン刑事』の後期にあった和やかさはまったく存在しない。換言するなら、初登場した頃の加納錠治でもないし、ワキの女性たちとコミュニケーションがとれるほどには、まあ、日和ったよね、な加納錠治でもない。第三の加納錠治が『新ドーベルマン刑事』では描かれていることになる。問題は、その、第三の、とでもすべき加納がいかに魅力的な野郎なのか、に尽きると思う。が、正直、現時点ではどうだとは見なしきれないので弱る。たぶん作者は「古い」と「新しい」に分かれる価値観の対立のなか、もしも正義というものがあり、それが不滅であるとしたなら、そうした正義の普遍性をあらためて問い直すために、過去の遺物として葬り去られたカリスマを今日にカムバックさせている。無論、たとえ加納の主張する正義が無茶苦茶であったとしても、あるいはそれが誰も幸福にはしない正義であったとしても、加納以上に支離滅裂な論理をかざした犯罪者が容赦なく倒されるところに、読み手はカタルシスさせられるわけだ。が、まだそこまで『新ドーベルマン刑事』における加納のイズムは、どんなに凶悪な人間に対しても一定の理解を示そうとするような社会の通念や混迷を圧倒していない。懐古派ぶるつもりはなく、こうした時代だからこそむしろ、自衛隊は国民の防弾チョッキであるべきだとし、発動を許さず、いち刑事としてテロリストやクーデターと渡り合おうとしたあの『ドーベルマン刑事』を直接復活させてくれた方がよっぽどラディカルだし、熱く燃えられたかもしれない。それにしても、ラリったジャンキーが一般人を殺しまくる光景は、『ドーベルマン刑事』がどうというより、もはや平松伸二のマンガ全般に顕著な様式美であるな。




































