ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年05月20日
 フラワー 1巻 (ヤングキングコミックス)

 いつ頃『ヤングマガジン』から『ヤングキング』へ移籍というルートが確立されたのか詳しくは知らないが、近年の柳内大樹を筆頭に前者でうまく立ち回れなかったマンガ家が後者でブレイクを果たすケースもないわけではないのであって、明石英之もここで伸るか反るかといったところであろう。心優しい殺し屋の仕事ぶりを描いた『フラワー』の1巻である。

 誰もその正体を知らないが、このところ裏の世界でにわかに話題となっているヒットマンがいた。通り名を「フラワー」という。だが実際には噂先行のルーキーであって、一回も暗殺に成功した試しはないのだった。しかし不思議なことに、彼に命を狙われた者、彼の命を狙った者、彼と関わった者たちは皆、フラワーの存在を認め、生き方を変えるほどに強く影響されていく。

 前の二作『きんぼし』と『二瘤駱駝』では、主にスポーツ(格闘)を題材としていた作者である(後者は原作付きであるものの)。それが『フラワー』では、ライトなハードボイルドと見なされるものに挑んでいる。おそらく、新境地といっていいのだけれど、肝要なのは、ライトであることとハードボイルドであることの双方を両手で引き受けられるような、そういうユニークさ、チャーム・ポイントを主人公に与えられている点だと思う。

 おっちょこちょいのルーキーらしさは、不器用な童貞っぽいイメージのなかに生かされている。携帯電話などの現代的なツールを使うにあたって喋らざるをえない場面があるためだろう。正直、まったく無口であってもよかったぐらいだが、極めて寡黙なフラワーはそのかわり、目鼻口のコミカルな動きで感情を表しており、これが作品自体の小気味よいテンポに繋がっているわけだ。ギャグとして見られる軽さ、明るさがある。

 また、ハードボイルドに似たタッチも同様にフラワーが時折覗かせるシリアスな顔つきによって担われている。絶体絶命の窮地を前に、いや確かにおどおどしたりする場面もあるにはあるのだけれど、スタンスそのものは日常と変わらず、ぶれてはいないのだし、こいつ案外何かを隠し持ってるぞ、という予断を感じさせるだけの鋭さ、厳しさをしばしば見せる。事実、彼の壮絶な過去をストーリーは徐々に明かしているであろう。

 なぜ、主人公は「フラワー」と呼ばれるのか。なぜ、彼は殺し屋になったのか。これが本作の核心であって、伏線めいたいくつかの箇所と「アガペー(見返りのない愛)の花」なる存在とが曰くありげに絡み合っていく。

・その他明石英之に関する文章
 『きんぼし』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2012年05月19日
 ライアー 〜嘘の箱庭〜 (りぼんマスコットコミックス)

 西尾維新がいしかわえみの『絶叫学級』をフェイヴァリットに挙げていたのは記憶に新しいけれど、いしかわえみの『ライアー 〜嘘の箱庭〜』には(部分的にだが)西尾維新の作品を彷彿とさせる哀切があるように思う。

 恋人であった神木が突然の失踪を遂げてから一年が経つ。今でも彼を思うと胸が痛む沙良だったが、親友のあすみや級長の拓也に励まされながら、無事に進級を果たした頃、彼女が通う中学校に神木とそっくりな教師が赴任してきたことで、ああ、誰にも知られてはいけない真実の扉が開く。クラスメイトの携帯電話に一斉送信されてきた「このクラスには嘘をついている人間がいる」というメールは一体何を意味しているのか。日常に隠されていた幼く、幼いがゆえに残酷なまでの愛憎が次第に暴かれていく。

 半径の狭い世界に潜んだ憂鬱=閉塞感をホラー・マンガという喩えのなかに描き出してみせたのが『絶叫学級』だとしたら、同じ題材をより直接的に表しているのが「ライアー 〜嘘の箱庭〜」だといえる。そしてそのことが、秘密を握っているのは誰だ、的なサスペンスをストーリーにもたらしているのである。

 謎解き、ミステリのような整合性を求めるタイプのマンガではないだろう。むしろ、隠蔽され続けてきた一点の明るみになることで、それまでの善良な振る舞いが実は悪意の裏返しであったとばれてしまう。サスペンスはこの倒錯を用意するためのものでしかなく、バランスを欠いた平穏があっけなく壊れる。その容易さの非常に無慈悲であることに登場人物たちは翻弄されるのだし、作品のテーマは集約される。秘密を握っていたのが××だったとは、的な逆転は、しかし意外性や驚きより、なぜ幸せを小さく願っただけのことが悲劇を呼び寄せてしまうのかという、せつない溜め息を生じさせているのであって、桜の美しさに差す光の眩しいラスト・カットを決して明るいものとしていないところに最大のエモーションがある。

 間違いは間違いを通じてのみ正される。この認識が道徳や倫理の枠を外れているのは疑うまでもない。そのような意味において「ライアー 〜嘘の箱庭〜」の結末は禁忌にほかならない。だが、もしも道徳や倫理を守るのに嘘が必要とされるのであれば、禁忌こそが「本当」に等しいのではないか。

 やはり学園を舞台にした西尾維新の『君と僕の壊れた世界』では、あらかじめ嘘と見抜かれている限りその嘘は真実と同型だと判断されるような物語が展開されていた。一方、いしかわが「ライアー 〜嘘の箱庭〜」に展開しているのは、一つの嘘が他の嘘を覆い尽くすことで真実に近いポジションを占めていく様子である。そしてそれは結果的に「永遠」と名付けられ、不可侵なほどにピュアラブルなロマンスへと格上げされる。「このクラスには嘘をついている人間がいる」というメールが告発であるとき、では告発をしているのは誰か。そして告発をされているのは、つまり〈本当に嘘をついていたのは――…〉誰か。このことに留意しておかなければならない。

 私にとって貴方との関係が絶対であるなら他との関係は偽りにすぎない。作中でとある人物が目論んだのは、結局のところ、これを是とするための方式であって、それはすでに述べたとおり、自分のもの以外の嘘を徹底的に統べることで果たされているのだ。決してハッピー・エンドではないなのに、きらきらときらめくラスト・カットを哀切と呼ばずに何と呼ぼう。

 コミックスには表題作のほかに「コドモノ森」という読み切りが収められており、そちらもサスペンスの趣向を持っているけれど、題材とされているのは家族間の愛憎である。「ライアー 〜嘘の箱庭〜」に比べると、やや甘い仕上がりだが、とある親子が辿り着いた幸福に大変微笑まされる。ショート・エピソードの番外編を含め、とてもいい作品だ。

・その他いしかわえみに関する文章
 『絶叫学級』について
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
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2012年05月04日
 おはようおかえり(3) (モーニング KC)

 鳥飼茜には「家出娘」という寂しくてやさしい読み切りがあって、内容はともかく、その題名はくるりの楽曲から取られているのだったが、この作者にとって初の長い連載作品となる『おはようおかえり』が、くるりの楽曲のいくつかを思わせるような柔らかいせつなさを持っているのは、なにも京都を舞台にしているから(だけ)なのではないだろう。短編みたいな小さい情景の繰り返しを日常と呼ぶとき、ささやかな喜びも悲しみも鮮やかな感動となってくる。

 基本的には、青年期の揺らぎを題材にしたマンガで、ミニマリズムに近い。つまりは、スキャンダラスな事件を大げさに扱うのではなく、ライト・ポップでありながら適度にデリケートなコミュニケーションを主要としたアプローチが取られているのだけれど、本筋にそくしていえば、主人公の堂本一保と二人の姉、奈保子と理保子とが、それぞれの愛しい人たちから離れていく、どうしても離れていかざるをえなかった様子を、この3巻は描いている。誰かと別れることの、あまりにもありふれているからこその普遍性が確かに掴まえられているのだった。

 とりわけ、一保と有里恵の儚いワン・シーンを切り出した第15話には、本来は短編作家的である鳥飼の長所が、とてもよく出ていて、ああ、桜の季節はなぜ郷愁を誘うのか。叶わなかった願いにどれほど胸を痛めようと時間はめぐり巡ってしまう。もはや取り戻せはしないものをいくら悔やもうが全ては足早に過ぎ去る。たとえ忘れることができたとしても決して無くしたわけじゃない。だってそうだろう。まだ思い出せるのだ。いつだって春の風は新しい匂いを連れてくる。しかしそれはかつての懐かしい匂いでもある。桜の季節は何度も繰り返される。そしてこれからも繰り返されていくと知っている。こうした既視感のあいだで暮れなずむ永遠と一瞬とが、一保によって見られる情景として、眩しく現れているのである。

 一保によって見られる情景は正しく夢である。同時にそれは抽象度の高いリアリティでもある。そこには彼と彼女のこれまでと別の女性とのこれからが暗示されている。桜の季節のイメージが、決定的な何かがすでに定められてしまった過去と決定的な何かが曖昧にぼかされたままの未来とを美しく飲み込んでいく。コマが大きくなるにつれて、言葉から表情へ、仕草の一つ一つへ、出しゃばりすぎず、でもはっきりと浮かび上がってくるエモーションが、実に見事だ。この作者ならではの、読み切りの一編としても通用する寂しさとやさしさを備えている。

 もちろん、先行するエピソードを読み手は踏まえているので、現実に引き戻される(右のコマから左のコマに視線を移す)一保の戸惑いに、異論の余地がない。たとえば2巻に収められた第9話で、一保のモノローグが〈何かを失っても・新しい場所には新しい発見があるやろう・今までに負けないぐらいの・まだ俺が知らんだけで〉と言っている箇所を振り返られたい。そこでの一保の視線(あるいは顔面)は右のコマを向いている。対して第15話の〈友達でもなんでもええからさ・僕の前からもう誰も消えなければいいのに〉というモノローグを彼が述べるとき、その視線(あるいは顔面)は左のコマを向いている。両者の違いを看過してはならない。それはおそらく、一保の意識(無意識)にとって、有里恵が意味しているものと実佑紀が意味しているものの違いなのである。

 青年期の揺らぎを題材とした『おはようおかえり』において、大切だと信じていたはずのことがはからずも自分の足場を揺るがせるその不安は、非常にあっけなく、訪れる。ある場合にそれはロマンスの終わりや始まりとして存在しているのだけれど、ある場合には他には乗り換えられない家族の関係として存在している。奈保子と理保子、一保の姉弟が付かず離れずにいるのは、家族の基準がどこにあるのかを象徴しているのだし、一保の上司である福住が病床の父親とのあいだに微妙な葛藤を抱えているのも、やはりそうだ。

 条件は異なれど、きっと誰の人生にも難しいときがある。この3巻にはとくにそれが顕著であると思う。だが、むやみに黄昏れているのではない。くるりの楽曲になぞらえていうなら、「JUBLEE」のあの柔らかいせつなさ。〈祝祭・歓びとは・誰かが去るかなしみを・胸に抱きながらあふれた・一粒の雫なんだろう〉と歌われるようなきらめきが、嘆息の先に広がっている。

 1巻について→こちら

・その他鳥飼茜に関する文章
 「家出娘」について→こちら
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら
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2012年04月29日
 蒼太の包丁(33) (マンサンコミックス)

 最近、情報誌や書店などでグルメ・マンガが特集されているのをよく見かけるが、この作品が取り上げられているというのはほとんどないような気がする。それはたぶん、『蒼太の包丁』が、テレビのヴァラエティやワイドショー的なコンセプトではなく、テレビのドラマに近いタイプの成り立ちをしているためだろう。換言すれば、ワン・カットやワン・ショットの強度ではなしに、時間の軸をベースとしたストーリーに重きが置かれているのであって、料理自体の描写や紹介がどうというより、そのストーリーに乗れるかどうかで判断されるきらいがあるからなのだと思う。まあ人情とロマンをミックスした話の筋は、いくらかオールドスクールであるし、要するにヒップじゃないんだ。けれども、地味ながら徐々に積み上げられていく物語の確かさこそが、やはり『蒼太の包丁』の魅力にほかならないわけである。

 長期連載作品において、物語=時間の経過をどうアピールするか。一つには、主人公の立場や環境に変化を加えることが挙げられる。そしてもう一つには、過去の登場人物をカムバックさせ、それとの対比によって、先の変化を如実にするなどが挙げられるだろう。これらの手法の駆使が、ここ数巻『蒼太の包丁』を支えてきたのだが、無論、この33巻も同様である。中学生になって再登場した時藤啓一と黒坂千鶴の成長を描くなかに作品の足跡が現れているのであって、また過去のエピソードから引っ張ってこられた意外な人物と花ノ井清一の交際が、主人公の北丘蒼太に、人の上に立ち、店を切り盛りしていくことの難しさをあらためて教える機会になっている。それにしても本作の誠実さは、絶え間ない努力を力強く肯定する一方で、それが無条件の正解とはならないことをシビアに突きつけてくる点だと思う。おそらく、正解のない世界だからといって努力を容易く手放すことも非常に愚かしいという態度がそこでは貫かれている。

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2012年04月28日
 純情ドロップ (マーガレットコミックス)

 内面と外見のイメージが一致しないこと。通常、それはギャップと呼ばれる。そうしたギャップからはじまるラブコメを中原アヤは『純情ドロップ』に描いている。クラスメイトの青山にふられたばかりのヒロイン、桃田は、弟の真希が通う保育園で、学校中にその形相をおそれられている、やはりクラスメイトの赤居とばったり鉢合わせてしまう。赤居もまた姪のココナを迎えに来ていたのだった。真希とココナが仲良しであったため、はからずも公園で一時を過ごす羽目になった両者だが、しかしぎこちない会話のなか、桃田は赤居が周囲に見られているような不良少年ではなく、実は思い遣りに溢れた人間であることを知っていく。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。そこからはじまるラブコメというのは、別段目新しい発想ではないだろう。ロマンスを題材にしたフィクションにおいては、オーソドックスなものですらある。いや、現実の恋にしてもそうか。あの人の意外な一面を見てしまった、であったり、みんなが知らないあの人を理解しているのは私だけ、であったり。ギャップの介在は、なんらかの関係が生じるきっかけになりうるし、なんらかの関係を特別なレベルに底上げする燃料となりうる。ああ、まったくよくあることではないか。ある種のラブコメはこれの戯画化にほかならないので、ちょっとした出来事の大げさな語り口にはらはらときめかされるのである。『ラブ★コン』のヒット以降、あるいは『ラブ★コン』自体が『HANADA』のヴァリエーションであったとしたらそれ以前より、コンセプト先行型のスタイルに従事するなか、しばしば空回りを見せてきた中原だけれど、『純情ドロップ』では、これまでに比べ、いくぶんストレートに少女マンガの文脈に忠実なロマンスをやっている印象が強い。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。どうして桃田は赤居を気にかけるようになっていったのか。無論、それは赤居の心優しい部分に触れたためだ。が、もう一つ別の解釈も許される。なぜ最初は青山に惹かれていたのか。桃田によって述べられる理由は、もしかしたら彼女が、ギャップに弱いタイプであることを暗に示してはいまいか。ここで注意されたいのは、桃田の性格が明け透けだという点だろう(コミックスのカヴァーに付せられた紹介では「天然」となっているけど、それが「天然ボケ」に由来する言葉であれば、桃田は必ずしも「ボケ」ているわけではない)。その真っ正直な性格が、彼女に、みんなが見ているのとは違う赤居(や青山)の姿を見させているのだし、やがて赤居(や青山)の言動に影響を与えるファクターとなっているのである。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。『純情ドロップ』は、プロローグを含めた全5話で構成された作品である。そしてそのストーリーは基本的に桃田の主観=モノローグで進んでいくのだったが、第3話のみ、赤居の主観=モノローグに内容がスイッチしているのは、正しくそれが起承転結の「転」にあたる箇所だからなのだと思う。そこでは外見を通じ、ギャップを見られていたはずの赤居の内面が、赤裸々に語られている。あるいは内面を通じ、外見がどうとかいうギャップは、自覚的に埋められていく。それがエンディングである最終話の、小さくて大きな感動へと繋がるのだ。当然、あの例の関西弁を込みのコミカルな調子で描かれているところに、この作者ならではの個性がよく出ており、従来のファンを決して裏切らない。しかし同時に、コンセプト先行型のスタイルをいくらか逸れながら、少女マンガの文脈に忠実なロマンスを繰り広げているところに、はらはらときめかされる。

・その他中原アヤに関する文章
 『ベリーダイナマイト』3巻について→こちら
 『ナナコロビン』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ときめき学園・王子組』について→こちら
 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2012年04月27日
 皇子かプリンス 2 (マーガレットコミックス)

 前作の『悪魔とラブソング』ではアメリカ兵によるレイプ問題を。そしてこの『皇子かプリンス』では皇室の恋愛を、ある種のモチーフとして導入している桃森ミヨシだが、なにも社会派のマンガ家というわけでもないだろう。そうした(本来ならばデリケートな)題材に触れる際の大雑把な手つきからはむしろ、ゴシップ的な好奇心を大声で話せる無神経さ、それをイノセンスと取り違えている感さえ見受けられるのである。実際には下品な登場人物しか描けない、にもかかわらず読み手にピュアラブルだと錯覚させてしまう危うさは『ハツカレ』の頃より一切変わっていない。しかしその危うさを差し引いてもなお魅力的なポイントの本作にあることが、少なくとも2巻の時点では感じられる。

 端的にいって、それは三角関係である。『ハツカレ』においても『悪魔とラブソング』においても、男女の三角関係は、ドラマを盛り上げるための予感として用いられながら、しかし具体的には扱われなてこなかった。踏み込みが浅かったともいえる。半径の狭い世界を舞台にし、物語を回しているのに、その中心からは目をそらしているようなところがあった。アイディアに淫しているだけではないかと思わせるものがあったのだ。結果、登場人物たちの交わり、心の働きが、ひどく単純になってしまっていた。もちろん、そうした底の浅さを純情と結びつけて解釈されたいのが作者の目論みではあったのだろうし、一部では確かに成功していたので相応のヒットを得られたに違いない。だがそれは必ずしも、繊細なコミュニケーションを取り上げられないという作者の不得意を覆してはいない。

 ヒロインと双子の皇子の出会いを本筋に置いている『皇子かプリンス』では、必然、どう三角関係を扱うかが重要視されてくる。このことはある意味で選択を迫っている題名にも明らかだと思う。身分とタイプの異なった二人の男子に優柔不断な少女が挟まれる。こうした構図は、少女マンガにベーシックなものだと言っていい。現段階では、それが顕著になっており、作中人物たちの思惑が不本意にすれ違っていく、あるいは不本意に重なりあっていくその摩擦に、繊細なコミュニケーションの光と影とがはっきり現れているのだった。ただ、やはり気になってしまうのは、これが(だいぶファンタジー化されてはいるのだけれど)皇室をモデルにしている点であって(今までの作品と同じく)思慮の欠如したヒロインをまるでイノセンスだと演出している点である。それらは設定や局面の難しさを妙な善人論ではぐらかすという作者の悪癖を懸念させる材料となっている。
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2012年04月17日
 ARISA(10) (講談社コミックスなかよし)

 本人の与り知らぬ運命を限定条件下のゲーム=サヴァイヴァルに喩えるかのようなフィクションのブームも一段落しつつあるか。ここ数年で人気作が次々と完結を迎えている。安藤なつみの『ARISA』もいよいよ佳境に入った。2-Bのクラスを影で支配する「王様」の正体がついに明かされ、幾多の不幸を生んだ「王様ゲーム」の起源がこの10巻でとうとう語られることになったのだった。

 まあ10巻から読みはじめる向きはないと見越しているのだろう。コミックスのカヴァー(裏表紙)に記載された紹介文がネタを割りすぎているような気もするので、そこまでナーヴァースになる必要はないのかもしれないけれど、一応はミステリ的なパートを持ったマンガであるため、なるたけストーリーの核心には触れないようにしながら話を進めたい。

 この手のジャンルにおいて、最も善良そうな(あるいは最も無害に思われる)人物が実は黒幕だった、という展開は一種の鉄則だと考えてよい。それがパターンである以上は「王様」の正体にさほどの驚きはないのだが、しかし『ARISA』の場合、「王様」が自ら露わにしていく悪意とヒロインであるつばさに託された理念との対照にサスペンスの特徴がよく出ているのであって、両者のお互いを否定せずにはおれない関係が何より直接になったことは、なかなかにスリリングだ。

 10巻で着目しておきたいのは、「王様」の正体に翻弄され、一旦敗北したかのようなつばさが、とある人物に対する別のとある人物の態度を目の当たりにし、再び妹のありさと向き合っていこうとする、その身振りである。「王様」のいかなる計略がつばさの心を折りかけたか。そしてそれがつばさのどういう言葉と表情によって示されているのかを見られたい。

 つばさは「王様」にこう言われただろう。〈でも キミだってそうとうこわい人だよ(略)人のものをうばう 最低な人間だよね〉と。この指摘は必ずしもブラフではない。実際につばさの後ろめたさを暴いているからこそ、彼女に〈なにがドキドキするだよ バカじゃねーの〉〈あたしが悪いんだ ありさを助けることだけ思ってなきゃいけなかったのに〉と後悔させるほどの効果を上げているのである。

 振り返るのであれば、『ARISA』とは、利己的な子供たちのゲーム=サヴァイヴァルに途中参加した主人公が、限定条件下でそのルールを正面から否定するという物語であった。ヤンキイッシュな少女として設定されたヒロインのつばさは、つまり利己的な世界のなかでどれだけ利他的な態度を貫き通せるかを測りうるリトマス試験紙にほかならなかったのである。しかし、先の「王様」にもたらされたつばさの挫折は、彼女もまた利己的な子供にすぎなかったことの告白を伴っている。

 同時に、本作の極めてエモーショナルなポイント(そしてそれが『なかよし』という掲載誌本来の若い読み手に誠実だと思われる理由)は、反省が失敗を乗り越えさせることもあるのだというポジティヴな解釈を決して手放してはいないところなのだった。ここで、かつて散々苦しめられた玖堂の意外な素顔が、結果的につばさの窮地を救っている。その点を看過してはならないだろう。

 玖堂もつばさと同様にゲーム=サヴァイヴァルに途中参加してきた者である。では、なぜ外部の人間であるはずの彼がゲーム=サヴァイヴァルのプレイヤーにならなければならなかったのか。動機は一体何なのか。それもこの10巻の大きなハイライトとなっている。とある人物への献身ゆえに玖堂は進んで自分を犠牲にしていったのだ。

 つばさと玖堂は、手段や目的は異なれど、いや、もしかしたら目的の本質は異なっていないかもしれないのかもしれないけれど、利己的であることに反対の立場に立っているという部分で実は一致している。あれだけ憎らしかった玖堂が、その動機を知った途端、とてもせつない存在に変わってしまうのは、他の誰かとの繋がりが孤独を忘れさせるのに十分な希望になることを証明しているからである。

 ああ、玖堂、玖堂よお。〈ボクの生きる支えだ… 裏切られたってうらんだりするわけない〉と言い、〈こんな ボクに「いてくれてありがとう」っていってくれたんだ ボクに 一番ほしかった言葉をくれた… そのとき決めたんだ この命をこの娘(こ)のために使おうって この娘(こ)を守るためなら 悪魔にもなるんだって――…〉と言う彼の願いは確かに暗いものではあるものの、疑いなきひたむきさにはどうしたって胸を打たれてしまう。

 描写の上でというより、読み手の感想のレベルでは、玖堂のひたむきさを代わりに引き受けることでつばさは当初のモチベーションを回復しているように思われる。あるいはそうしたプロセスを経て、つばさは利他的であろうとする態度を取り戻し、再び妹のありさをめぐる闘争に身を乗り出すことができているように思われるのである。

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2012年03月27日
 俺物語!! 1 (マーガレットコミックス)

 絵には以前ほどの魅力がなくなってしまい、死んでいるかのように瞳孔が開いた目ばかりを描き続ける河原和音だが、マンガの原作者としては山川あいじと組んで『友だちの話』という紛れもない傑作を世に送り出したのは記憶に新しい。その河原が、今度はアルコをパートナーに選び、颯爽としたスタートを切ってみせたのが、この『俺物語!!』の1巻である。

 剛田猛男。名前からイメージされる人物像を実に裏切らぬ野郎であった。一般的にはハンサムじゃない。柔道着を担ぐ姿は時代がかっているし、体つきは巨大な熊を思わせる。腕っぷしには自信があるものの、猪突猛進型の性格は決してデリケートとはいえない。もちろん、女性に好かれるタイプではないだろう。ヒップな青春とは明らかに無縁そうな主人公なのだ。

 対して、猛男の幼馴染み、三歳のときから高校にあがった現在まで十年以上の付き合いをしている砂川は、100パーセントのイケメンさんである。昔から女の子に人気がある。もてなかったことがない。猛男が好きになった女の子はみんな砂川のことを好きだと言うのであった。しかしまあ、外野の人間にしてみたら、どうしてそんなにもアンバランスな彼らが一緒にいるのか。不思議だ。いや、当の猛男にしたって〈こんなオレ達がなぜ友達なのか・けっこう謎だ〉と疑問に感じているではないか。

 第一の印象を述べるなら、『俺物語!!』は、自分とは不釣り合いな少女である大和に恋をした猛男の、明後日の方向へと突っ走っていくガッツが題材のラブコメだというふうに見られる。猛男、猛男よお、その恋がうまくいくといいな、お前のよさがわかってもらえるといいなあ、猛男よお。ほとんどギャグでしかない彼の言動にニヤニヤしながら、あたたかい声援を送りたくなるのである。

 第二の印象を述べるとすれば、上記の通り、アンバランスな猛男と砂川の(当然、良い意味での)腐れ縁をベースにした、つまり友情のかけがえのなさに重きを置き、でもそれがあまりにもストレートだと照れるから、コミックならではのレトリックを豊富に交えることで、白けず、心をぽっとさせてくれる体温を再現したバディものに見える。クールな砂川の隠された内面には暗示的に猛男への理解が含まれている。関係の深度に、あ、いいな、と羨ましくなるものがある。

 だが、第一の印象と第二の印象は決して離れているわけではない。猛男に注ぐ大和の(あるいは大和に注がれた猛男の)視線においては前者が、猛男に注ぐ砂川の(あるいは砂川に注がれた猛男の)視線においては後者が、とりわけクリアになっているに過ぎないのであって、要は、猛男というアピールが周囲の人間にどう関与するか。これを最大のテーマとして見て取れるところに、『俺物語!!』なる題名の本質が現れている。

 確かに猛男の振る舞いは、独善すれすれ、である。その「独善」であることが「俺」という押しの強い主語を作り出してはいるだろう。しかし「すれすれ」であることのなかから浮かび上がってくる悲喜こもごも、利己や保身ではなく、周囲の人間を認め、周囲の人間から認められるだけの余地が「物語」をエモーショナルに織り成しているのだ。

 一個の人格または個性を平面として見ない。多面体に近い見え方をさせる。ラブコメとバディもののミックスは、表層こそ違えど、実は先の『友だちの話』と同様のアプローチを果たしていく。そしてそれは、誰かが君のことをちゃんとわかってくれているというやさしさを内奥に忍ばせているので、紙幅を埋める高いテンションに息つく間もないはずなのに、不思議と人心地つけるのである。

 ここ数作ではギャグにシフトした作風と雑なタッチとの区別がなくなってしまっていたアルコも、原作者を得、新たに緊張を取り戻したからか、他の作家の持ち味を参考にしながら(ヒロインである大和の恥ずかしげな表情にそれはよく出ていると思う)、効果的にコマを割り、弾むようなテンポを成立することができている。剛田猛男というオールドスクールな人物像は、まず間違いなく『ヤスコとケンジ』でヤンキイッシュなドタバタ劇を描いたアルコでなければ生きなかっただろう。

 どのような形で河原が原作(ネーム)を提供しているのかは『友だちの話』の巻末に載っている。今回も同じパターンで作業が行われているかどうかは不明だけれど、アルコならではの茶目っ気が、たとえば河原の『青空エール』には決定的に欠けているそれが、『俺物語!!』の魅力に貢献しているのは明らかなのだ。

・その他河原和音に関する文章
 『青空エール』2巻について→こちら
 『高校デビュー』
  9巻について→こちら  
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら

・その他アルコに関する文章
 『終電車』について→こちら
 『超立!! 桃の木高校』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2012年03月15日
 月と太陽のピース(1) (講談社コミックス別冊フレンド)

 前作『白のエデン』と前々作『彼はトモダチ』でドロドロとしたテイストのメロドラマを描いてきた吉岡李々子の新作『月と太陽のピース』は、この1巻を読む限り、現代的で爽やかな、と言ってもいいような青春像が繰り広げられている。要するに(とりあえずはまだ)悲劇的な展開が見当たらないのだったが、それというのはおそらくヒロインの快活で明るい性格によるところが大きいと思う。

 悲劇的な展開は見当たらないと述べたけれど、実際のストーリーは彼女と恋人との別れの予感を出だしにしているのだった。が、しかしそこから暗い心情のアピールへ作品は流れていかない。散々な目に落ち込むヒロインの姿を描写の中心に置いてはいない。確かに彼女はせつない表情を浮かべざるをえない状況を前にしているものの、いや、それ以上の笑顔が『月と太陽のピース』というマンガにアップ・テンポなムードをもたらしているのである。

 誕生日であった。世間がクリスマスに浮かれるなか、主人公である槻ノ木沢実々のもとには一番大切な人からの連絡だけがこない。結局、アルバイトをし、その足でクラスメイトのパーティに顔を出すのを良しとしたい。災難なのは、途中の電車で痴漢に遭ったことだろう。自分と同世代の男子をとっつかまえた彼女だが、それは誤解だと、しまいにはその男子の友人も一緒になってシラを切られてしまう。そして16歳になった。次の年の春である。2年に進級し、新しいクラスに移った実々は、まさかクリスマスに出会った斎藤壱紀と斎藤誉の二人に再び対面する。

 こうして、彼女と彼らのあいだで高校生活をベースにした三角関係が繰り広げられていくわけだ。と、予想できる範囲で『月と太陽のピース』のアウトラインは述べられる。もちろん、W斎藤は、校内でも知られたイケメンさんであり、対照的な性格をしているという設定を含めて、ある種のセオリーがしっかり押さえられているのは手堅いし、またネガティヴなパートを極力省いた結果、内面のハンサムな人物が多数を占めるのは今日のトレンドを踏まえているといえる。

 ただし、それらはあくまでもフックをどう作るかというレベルの話であって、壊れそうな線の絵柄と同質のデリカシーが作中人物のコミュニケーションを成立させている点に、こちらの心は動かされる。そしてその、デリケートなコミュニケーションは必ずしも作中人物たちをストレートに結びつけはしない。このような屈託に作者の本質がとてもよく出ているのだった。

 自分へ向けられたやさしさに対して素直になるべきなのになれない。それは誰しもが少なからず経験したことのある局面に相違ない。先にいった通り、ヒロインの実々は快活で明るい性格だが、壱紀と誉のささやかな気遣いに触れ、嬉しく思いながらも、感謝の言葉をなかなか表すことができない。一方でそれはタイミングの問題である。たとえば彼女が感謝を伝えようとしたとき(p119)タイミングに邪魔をされる。しかし他方でそれはシチュエーションの問題である。たとえば彼女が伝えようとした感謝は(p156)シチュエーションによって裏返しにされてしまう。

 序盤に(p41)実々が素直に感謝の言葉を表しているシーンがある。以上の二箇所とそれを比べられたい。そこからは彼女の、わずかだとしても、明らかに意識の変化が見て取れるだろう。そういう、少しずつ他人との距離を狭めていくことが、どうしてか気持ちに窪みを与える。窪みに躓かされる。躓くことの歯痒さが、『月と太陽のピース』にピュアラブルでいてエモーショナルなきらめきを落としている。

・その他吉岡李々子に関する文章
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
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2012年03月03日
 SOUL 覇 第2章 1 (ビッグ コミックス)

 タイトルは「LORD」から「SOUL」へ。そして「超三国志」から「真三国志」の冠へ。しかし「真」を謳いながら明らかな偽史を描くこと。この野蛮ともいえる手つきが、本作を一種異様なエンターテイメントに仕立てているわけだ。22巻の内容まで進んだ『覇 -LORD』をリニューアルし、改めて続編的なフェーズを展開していこうとするのが、『SOUL 覇 第2章』の1巻である。

 いや、実際に作中の時間もいくらかジャンプしており、『覇 -LORD-』で目覚ましい活躍を見せていた英雄たちが、序盤の段階より、実にあっけなく、薄情なほど、物語を次々とリタイアしていく。また、子供であったはずの関平や諸葛亮が、いつの間にやら大きく成長していて、青年期ならではの勇ましさを持ち、本筋に絡んでくるのだった。が、最も驚くべきは、劉備(燎宇)の豹変である。ともすればタガを外した劉備の言動に関羽と張飛は愛想を尽かし、ついには離反してしまうのだ。思わず、自分が知っている「三国志」と違う、と言いたい。

 おそらく、武論尊にとって「三国志(演義)」は喩え=入れ物でしかないのだろう。バイク代わりか、荒馬にまたがった無法者たちが暴れ回る様子は、さながら平松伸二と組んだ『ドーベルマン刑事』や原哲夫と組んだ『北斗の拳』みたいだし、中国大陸を舞台にしているにもかかわらず、日本人のアイデンティティを執拗に問い質すかのようなテーマの出し方は、史村翔名義で池上遼一と組んできた『サンクチュアリ』や『オデッセイ』に通じている。多国籍を装ったヴァイオレンスは、さしずめ『strain』や『HEAT -灼熱-』のヴァリエーションと解釈可能したところで差し支えがない。

 正直に述べてしまえば、倭人に設定されている劉備が、中国大陸で万世一系を説き、卑弥呼を主権として招き入れようとしているのは、アジアの歴史を考えたとき、ややイデオロギッシュな印象をもたらしかねない。そのような危うさがあるにあるのだけれど、根無し草的な人々がどうやって己のルーツを定めていくかという、つまりは武論尊のキャリアに顕著なハードボイルド・タイプのロマンこそが、『SOUL 覇 第2章』の本質であって、それが劉備はもちろん、曹操や孫一族など、「三国志」の英雄たちに託されているのである。

 万世一系を説く劉備、絶対的な皇帝になろうとする曹操、首都の消失を企てる諸葛亮、十字架の教えを胸に抱いた周瑜、彼らの思惑は、確かに国家論の対立として現れてはいるものの、己と大衆が信を置くべきルーツの開拓を基礎にしているという点で、意外にも共通する。

 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
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・その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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2012年02月14日
 どのように挫折を描くか。あるいはどのように挫折からの回復を描くか。それはおそらく00年代後半のヤンキー・マンガに顕著な問題だったのではないか。こう考えられるとき、柳内大樹の『ギャングキング』におけるジミーのあの、当初のスケールを失念したかのようなしょぼくれ具合にも説明がつくのである。無論、その問題は、たとえば高橋ヒロシの『QP』や田中宏の『莫逆家族』で社会人を対象としていたものが、山本隆一郎の『ゴールド』を経、再び学園を舞台とする不良少年の物語へと移し換えられた結果なのであって、以上をジャンル的な変遷としてとらえることができるだろう。

 さしあたり、奥嶋ひろまさの『ランチキ』などもその延長線上に位置させることが可能だと思う。挫折。挫折。挫折。ここ数巻に渡り、いやもしかすれば序盤の段階より主人公である鹿野乱吉を見舞ってきたのは、当人の自信をことごとく挫くほどの躓きであった。周囲から期待されないことに反発するも、自分自身の期待を自分自身で裏切ってしまうという躓きである。相応に悩み、苦しみ、ようやく提出したはずの解答が間違っているとされるのはキツい。こうしたキツさを、結果的にだが、乱吉は引き受けざるをえないのであって、それが物語の中心的な活躍を実現するのとは別の役割を彼に与えている。主人公であるにもかかわらず、だ。

 この手のジャンルでは、イケイケ型の主人公が無茶無謀をしたり、成り上がり、作品の世界=学園や地域のなかで一目置かれていくのが常道だけれど、『ランチキ』の場合、いくらかそこをずれてしまっているところがあって、確かに個々の展開と描写には、こちらの鼻息をふんふん荒くさせるものがあるのだったが、ストーリーのレベルでは、高まったテンションが、ぐっとガッツ・ポーズを取らせる段階にまで跳ねていかない。最高潮に達しそうだぞ、という手前で乱吉が躓くためである。

 反面、無二の親友であるキム(金田鉄雄)が、ケンカの強さと人柄を買われ、校内での地位を固めていくのが、乱吉の立場からすると、せつない。物語の当初はてっきり、歴代のヤンキー・マンガにおける名コンビみたいに、乱吉とキムがナイスなコンビネーションで八面六臂の、それこそ物語の中心的な活躍な果たすものだと予想されたのだが、案外そうはなっていないのである。むしろ、パートナーであったはずのキムとの差が大きく開いていくにつれて、おまえなんでそのポジションにいるの、的に主人公としての乱吉の立場は危うくなってしまう。がゆえに、彼の存在はフラストレーションから自由になれないのだし、作品を前にしてある種のカタルシス作用が弱いと感じられるのも同じ理由によっている。

 しかしながらその、フラストレーション=ハッスルのむなしさこそが、現時点で『ランチキ』の、最大のアドヴァンテージたりえているのもまた事実だ。どれだけ手を伸ばそうが何者にもなれない。いまだ何者にもなれずにいる。それを強く思い知らされる。このような挫折は、何も不良少年に特有のものではないだろう。思春期ならではの光景を、根拠のない全能感ではなく、ア・プリオリな不全性を通じ、切り出すことで、挫折という普遍的な問題の、とくに皮肉めいた仕打ちが、エンターテイメント上の「喩え」として、よく生かされている。

 ラストのカットで乱吉の見せる表情が痛切な、あまりにも痛切な8巻である。キムと距離を置き、同級生たちのあいだで孤立してしまった乱吉は、狂犬のごとくおそれられる2年の手呂と関わりを持つこととなる。降威高校のトップである3年の椿屋は、乱吉と手呂が手を組み、次々と他校にケンカを売るのを静観するのだったが、キムを盛り立てていこうとする五島たち1年の乱吉に対する風当たりは強くなるばかり。緊張が高まるなか、椿屋は最後のタイマンの相手にとある人物を指名する。それはつまり、椿屋が去った後の降威高校を取り仕切るということでもある。

 果たして指名されたのは誰か。こじれてしまった関係を乗り越え、キムと乱吉が再びコンビを組むことはあるのか。主人公の挫折に強調線を引き続ける物語に更なる風雲急が告げられた。

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2012年02月09日
 疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day’s〜(2) (ヤンマガKCスペシャル)

 ああ、〈“死の商人”‥‥ それが“天羽一族の事業”さ‥‥ “父さん(ダッド)”はそれを憎んで合衆国(ステイツ)へ渡った‥‥ そして あの日死んだ‥‥ “母さん(マアム)”と一緒に‥‥ オレが望んだとでも? “悪魔”に赦しを請えよ? ラファエル‥‥〉と。これである。このダイアローグでありながらモノローグにも思われるポエジーこそが『疾風伝説 特攻の拓』の、あるいは佐木飛朗斗の真骨頂であろう。

 果たして現代に『特攻の拓』の前日譚=『外伝 〜Early Day's〜』が発表されることはどれぐらいの意義を持っているのか。2巻に入ってもなお議論の余地は残る。個人的には佐木が東直輝と組んだ性格上は続編にあたる『外天の夏』や『爆音伝説 カブラギ』のほうにアクチュアリティを見たいのだったが、しかし物語を解くというより詩歌を詠ずるような気持ちで作品に接するのであれば、コミックスのオビに記された「音速の累計70万部突破!!」という売り上げもわからないではない。かつてと同等の心象が、ある種のポエジーを通じて、いや確かに伝わってくる。それだけは絶対に損なわれてはいないと実感されるのである。

 いくつもの事件をパラレルに展開するのが、『外伝 〜Early Day's〜』に限らず、佐木が原作の特徴であるけれど、本来なら同じ時間帯を共有しているはずのそれらが、全体の整合性をほとんど無視し、各々のドラマを肥大させていった結果、一日がちっとも終わらないのに、まるで数日が過ぎ去ったかのような錯覚を引き起こしてしまう。無論、これを指して、タイム・テーブルの調整が狂っていると揶揄することはできる。だが、本当にそうなのだろうか。おそらくはその、歪んだ時空の在り方によってでしか、佐木の思想=宇宙は証明されえないと考えるべきなのではないか。以上のことが是であるとき、浮かび上がるのは、もはや物語の問題ではなく、詩歌の問題にほかならない。ええっ、さすがにそれは過言でしょう、と眉をひそめてもよいよ。

 ただし、物語の問題であれ、詩歌の問題であれ、本質のレベルでは、争いのない世界なんてないというテーマと純粋な祈りは必ずや争いを止められるというテーマとが常にせめぎ合っている点を忘れてはいけない。

 そう、一例を挙げるなら、本作における主人公の天羽“セロニアス”時貞が恋人である芹沢優理との会話のなかで漏らしたとある楽曲への感想は、間違いなく、詩歌としての儚さ=ポエジーを宿しているし、佐木の編み出す物語が潜在的に抱えた矛盾を覗かせる。つまりは〈“新世界より”‥‥ ドヴォルザークの“祈り”だよ‥‥ この“楽曲”は“宇宙”を祈ってるんだ‥ きっと‥‥ ウジェーヌ・イザイのようには‥‥ “呪”わない‥‥〉という憧憬が、あるいは黄昏が述べられる一方で、屈指のギタリストでもある天羽ですらそれを弾きこなすことは〈“無理”‥ だよ “優理”‥‥ コイツはどーにもならないのさ? “不可能”だよ 今のオレの“力”では‥‥〉という諦念が、あるいは留保が告げられているのだ。

 潜在的に抱えた矛盾そのものを真理として走らせるあまり、無尽蔵に膨張し続け、混乱を手招き、あやうく破綻しかねないのが、佐木の宇宙であり、魅力である。これを巧みに制御し、物語ならではの強度を機能させているところに、所十三の重みを見られたい。原作がどのような形式で手渡されるのかは不明だが、『特攻の拓』以降、他のマンガ家たちが佐木飛朗斗と組んで描いてきた作品、とりわけ不良少年の物語には、あきらかに所のイディオムを踏まえているものが少なくない。

 また『週刊文春』2011年10月27日号の「マンガホニャララ」で『特攻の拓』の復刊を取り上げたブルボン小林は「拓も不良たちも頑丈だ。頑丈さは(この作品に限らず)漫画表現の、根源的な快楽に拘わっている。(略)派手に殴られて血をみせることと、うやむやに(速攻で)回復することの両方が、漫画だけのリアリティだし、本作はその特性に満ちている。世界の新陳代謝が良いと感じられるのだ」と書いているけれど、その健全さはもちろん、所十三の技法に負われている。

 しかしながら、とりわけ頑丈な身体をもってしても半村誠と天羽時貞の死は決して避けられない。悲劇的な運命を辿るのは周知のとおり。本編のファンからすれば、この2巻で、後に親交を結ぶこととなる緋咲薫と天羽が、殺伐とした表情で初顔合わせしているのを感慨深く思われるだろう。天羽の赤い瞳は、他人に対して、敵意だけを剥き出しにしている。病んだ魂が救われることをまだ信じられてはいない。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』(漫画・東直輝)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』1巻(漫画・東直輝)について→こちら
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他所十三に関する文章
 『AL』4巻について→こちら
 『D-ZOIC』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら 
 『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2012年02月06日
 解剖医ハンター 3(リュウコミックス)

 我々は皆等しく平凡な人間である。しかるに誰もが必ずや何者かになれる。とすれば、成長とはそれを証明しうる一つの手立てになろう。吉川良太郎(原作)と黒釜ナオ(作画)のタッグによる『解剖医ハンター』の最終巻(3巻)だが、エンディングにおける清々しい感動は、もしかしたらその証明の正しく果たされているところからやってきているのではないかと思う。

 とりわけ、主人公であるジョン・ハンターのワキで頼りなさそうにうろうろしていたあのエドワード・ジェンナーの、おお、おまえ、すっかり顔つきが変わったな、と驚かされるような精悍さには大変見習いたくなるものがあるのだった。

 18世紀のロンドンで若き日のハンターはなぜ医学を志したのか。彼の場合とは異なる足どりながら、しかし着実にジェンナーはハンターの弟子に相応しいだけの素養を身につけていく。そして聖ジョージ病院をめぐるおぞましい事件にハンターが巻き込まれる一方、ジェンナーは自らの使命を天然痘の危険な実験に求めることとなる。というのが、文字どおりのクライマックスであって、両者の、パラレルに描かれていたはずの孤独と苦悩が重なり合い、重なり合うことで継承のテーマを浮かび上がらせる構成は、間違いなく、ジェンナーの成長を前提にしている。

 時代はもちろん、題材や舞台の違いがあるとはいえ、医師であるジェンナーの成長は、もしかすれば『医龍』(乃木坂太郎)の伊集院を彷彿とさせるかもしれない。おそらく、一個の青年の成長が、彼に限られた現象ではなく、職種の理念にまで押し広げられるような物語を通じ、誰もが必ずや何者かになれる、の可能性を導き出している点において、それらは共通しているのである。

 いずれにせよ、『解剖医ハンター』というマンガは、ジョン・ハンターの伝記的なロマンであると同時にエドワード・ジェンナーにまつわる成長のロマンでもあった。〈答えのない問いだ・おれの答えは「問い続けること」だ・真実を・だがあいつの――エドワードの答えをおれは知らない〉とハンターは言う。やがてジェンナーは自分なりの「答え」をハンターに告げるだろう。その曇りのなさに、男子三日会わざれば刮目して見よ、なる言葉を想起する。

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2012年01月15日
 TRACE 2 (アース・スターコミックス)

 こうした新展開が意図するものとは一体何なのか。NASTY CATの原作と雨松の作画で送られる『TRACE』の2巻である。が、1巻と同じ舞台、設定を共有しながら、全く別のエピソードへと話は飛ぶ。当初の主人公、神山ユウを見舞った絶望をよそに、人間と異能者であるトレイスの相剋は更なる局面を迎える。妻子のために働く月城カイは、30年前に突如として人間を襲いはじめたトラブルという謎の脅威や、人間の体内組織を超人のレベルに変質させてしまうトレイス化の奇病とは無縁に、そして平和に生きてきたはずだった。どれほど社会が深刻になろうとも自分の家族だけは絶対に幸福でいられると信じていた。しかし、いつだって悲劇は忽然としていて容赦がない。まさか、予期せずトレイスの能力に目覚めてしまったがため、カイは現在の生活を捨てなければならなくなってしまう。会社を辞めさせられ、妻子との隔離を余儀なくされるのだった。政府の管理下に置かれるのは仕方なかった。受け入れるよりほかない。だがしばらくすると、研究施設で検査を受けなければならないとされていた妻のハルカから連絡が途切れ、関係者は質問に一切答えなくなってしまう。ハルカと娘のサナを心配するカイが、あらぬ容疑をかけられ、指名手配されたのは、それから間もなくのことだ。追われ、あまりの理不尽さに為す術をなくした彼に、稲葉アキラと名乗る男がスカウトの声をかけた。果たしてこれが1巻のエピソードとどこでどう繋がっていくのかはまだわからないのだけれど、アキラとカイがとある計画を実行すべく、トレイスの仲間を集め、個性的なチームを結成していくという筋書きの、大変陽性な描かれ方は、今日におけるフィクションのマナーからすれば、プロセスとは正反対の暗い結果を予期させる。アキラの意味深長な発言はその手の伏線にも思われる。いずれにせよ、無事にカイが家族を取り戻してめでたしめでたし、は難しかろう。そう考えるなら、ユウが再登板してからが本当の本編になるのかもしれない。設定や描写に謎めいた部分は多いし、先は随分と長そう。とはいえ、フックのしっかりと効いた内容は十分な魅力を湛えている。また、シリアスなストーリーのなかで、カイの養父やアキラの上司に代表されるようなやさしい大人の存在がきらりと光っているのは、このマンガにとって大きな美点になりえている。
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2012年01月09日
 WORST 28 (少年チャンピオン・コミックス)

 ついに鈴蘭史上初の番長が誕生した。時を同じくして、巨大な萬侍帝国に不穏な動きが広まりはじめる。ぬおお、これは熱くならざるをえまいよ、があああっ、なんて言うと思ったか。確かにストーリーは、完結に向け、着実に大きな変化を見せてきてはいるのだけれど、シークエンスそれ自体に魅力は乏しく、アップを多用した派手なカットが手癖にしか見えない面もあるため、いくらか盛り上がりに欠ける。しかしまあおそらく、ここから真のクライマックスに入っていき、手に汗握るような場面も出てくるのだろう。信じたいところ。

 90年代に『クローズ』でハロルド作石や井上雄彦の技法を横目にしつつ80年代のヤンキー・マンガとは一線を画すことに成功したのが高橋ヒロシである。だが、そこで確立された作風は『WORST(ワースト)』の長期連載中、ともすればマンネリズムに等しい印象を持ってしまった。もちろん、それを作者のぶれないイズムとしたい向きも少なくはないので、いまだに十分な支持が得られていると考えるべきなのかもしれない。

 以前にも指摘した気がするが、当初の『WORST』には、たぶん海外のギャング映画を強く意識しているのだろうな、と思わせる部分が色濃かった。自らをアウトサイダーとして引き受ける不良少年たちの造形や、彼らを結束させるファミリーという概念の頻出に、それは顕著であったろう。一方で、主人公である月島花の笑顔とサムズアップ、あれは明らかに『仮面ライダークウガ』のヒーロー五代雄介の引用である。ここで不良少年たちのイメージが初代『仮面ライダー』の敵役ショッカーに重ねられていた『QP』を引き合いに出すのであれば、『WORST』とは、ヤンキー=ショッカー=マフィアの喩えに悪のレッテルが貼られるとき、五代雄介みたいな正義漢を対置するのではなく、もしも同じ立場としてその自由を奪わずに放り込むことができたなら、何かポジティヴな化学反応が起きるのではないか、式の試みと解釈することが可能だったはずだ。

 ただし、物語が進むにつれ、国盗り合戦、軍記物のフォーマットに作品の構造は純化、抗争のための抗争が繰り返されると、青春と学園の枠組みは後退し、大立ち回りの場を次々与えられたワキの人物らが人気を博すのはいいが、反動的に花のカリスマ・アピールがなおざりになってしまったのは痛し痒し、であろう。

 冒頭で述べた展開がこの28巻に訪れているわけだけれど、どうしたって花が春道や九里虎の先行世代より大物には思われないし、数以外で萬侍帝国が他を圧倒する理由があまりよく伝わってこない。一つにはここまでの積み重ねがそれらの脅威とは別のものにあてられていたせいである。無論、前者に関しては先行世代にはなかった資質を花だけが備えていたと読めるわけで、後者に関してはこれから存分描かれるに違いないと踏める。したがって今後に真のクライマックスを期待したいというのも最初に言った。

 また、ここで注意しておきたいのは、ファミリーという概念が、萬侍帝国との対決を意識した武装戦線、村田将五の口を通じ、あたかも重要なテーマを再確認するかのごとく、浮上している点だ。コミックスの裏表紙にまで引かれるほどそのセリフは28巻のなかである種のハイライトを為している。いわく〈だがそれでも戦おう・自由を奪われるわけにはいかねー・野郎ってーのは自由と女とそしてファミリーのために立ち上がるもんだ〉なのだったが、アウトサイダーたる不良少年たちが「自由」のために「立ち上がる」のは至極当然のこととして、周知の通り『WORST』にはほとんど「女」の人物は登場しない。そうであるならば「ファミリー」の一言こそが、実は最も示唆に富んでいるのではないか。

 しかしてその「ファミリー」は、鈴蘭史上初の番長に花を推挙する九里虎の、こういうセリフと間違いなく呼応している。〈わしはこげな男や! ワがためンしかケンカはせんバイ! 仲間のためやらツレのためやら・そげなもんアホらしか〜って男バイ! バッテンあいつは・花はちがうやろ! お前らんごたるしょーもなかボンクラどもんために一緒に血ば流し一緒に泣きよる男やろが! 今どきめずらしか〜大バカモンタイ!〉

 結局、これなんだよなあ、花道や九里虎になくて花にのみ備わった資質ってのは、といえるだろう。そして鈴蘭の統一を果たした花の目に映っているのは、決して周りは敵ばっかりの世界ではない。〈ホントに敵なのか? 鳳仙… 竜胆… 武装… ホントはこの同じ街に住み・同じにおいがする仲間なんじゃねーのかな…〉という問いがそれを代弁している。このとき、鈴蘭の花と武装戦線の拓海が、梅星一家なるファミリーの絆で結ばれているのを伏線と考えてもいい。他方、萬侍帝国、九頭竜會會長のビスコ(蛭子幸一)が〈勝ち続けでかくなった萬侍帝国… 今 オレたちに必要なのは「大いなる敗北」かもな…〉と自身たちの先行きを占っているのは、否応なく『クローズ』の終盤で九頭神竜男が坊屋春道と相まみえたあのくだりを思い起こさせる。がゆえに、ビスコが〈ああ… そんな奴らがいたらの話しだがな…〉と続けているのを看過してはならない。

 春道と竜男のそれは、一対一の、正しくタイマンであった。『WORST』の場合、集団VS集団の決戦になるだろうことが、もしかしたらビスコの「奴ら」という複数形に暗示されているのであって、共同体の換言であるようなファミリーという概念も必ずやそこにかかっているのである。

 22巻について→こちら
 21巻について→こちら
 20巻について→こちら
 17巻について→こちら
 11巻について→こちら

 外伝について→こちら

・その他高橋ヒロシに関する文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
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2012年01月05日
 ごくべん (ヤングキングコミックス)

 題名に「べん」と入っていたら、まあ弁当の「べん」というケースもあるにはあるのだったが、たいていは弁護士を題材にしていると考えていいわけで、オオイシヒロトの『ごくべん ―極道弁護士 豆柴トメオ―』もその例に漏れない。つまりは極道の「ごく」と弁護士の「べん」をかけて『ごくべん』になるのだけれど、おお、なんてわかりやすいんだ。無論、内容の方も題名を裏切っていない。非常にストレートでわかりやすいものである。

 カタギの世界で最弱と馬鹿にされる新人弁護士のトメオは、しかしヤクザの世界では小津組最狂の男として知られる青年であった。その彼が東京は下町を舞台に、弱きを助け強きを挫く、的な活躍を繰り広げていく。おそらくはこのような説明でほとんどを語れてしまうマンガだろう。

 たとえば、日向武史や佐藤秀峰、浅野いにお、等をミックスしたかのような絵柄と画面の作りは、ある意味で現代的だし、大変キャッチーだと思う。それが、古臭いともとれるストーリーとテーマを汲んでいる点に、作品の真面目さ、を見られたい一方、各個の展開が安直すぎるため、雰囲気だけが熱っぽい、のレベルを大きく越えてはいない。結局のところ、弁護士の資格は、主人公を正義としておくのに適した建て前、単なるエクスキューズにしかなっていないのであって、おおよその事件が武力解決されてしまうのは、いやそれを痛快だとすることは可能だとしても、練りの面からするとやはり拙い。

 勧善懲悪の結末は決して批判されるべきではないが、設定より深く述べられているものが少ないからか、読み手に対する説得が十分ではないように思われるのだ。連載が続いていたら、作中人物の立場にしろ、コンセプトにしろ、もう少し掘り下げた部分が出てきたのかもしれない。ラストのコマには第1部完と記されている。
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