ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年01月11日
 新ドーベルマン刑事 1 (ニチブンコミックス)

 実に「いいんだよ、細けぇ事は!!」てなノリで『ブラックエンジェルズ』の松田鏡二を現代に蘇生させた平松伸二が、遂にあの『ドーベルマン刑事』の加納錠治をも墓場から引っ張り出した。熱心なファンからすれば、ああ、禁断の扉を開いてしまったな、といった感を持たざるをえない『新ドーベルマン刑事』の1巻である。ともあれ、オリジナルの『ドーベルマン刑事』は、大きく二つのシーズンに分けられたと思う。元自衛隊である武論尊の思想(イデオロギー)が強く出ていた初期と、ラブコメ・ブーム(当時)の影響から平松がお茶目なタッチを手に入れた後期とに、だ。個人的に、加納の本質はやはり前者にあって、連載を経るにつれ、その点は薄まっていったと考えるのだけれど、ではこの『新ドーベルマン刑事』の加納は果たしてどうだろう。『新ドーベルマン刑事』において、武論尊は「原作」ではなく「原案」としてクレジットされており、おそらく作品には一切関与していないと判断される。つまり、平松が単独で再現した加納錠治にほかならない。武論尊の思想(イデオロギー)を濃く引き継いでいないことは、もしかすると加納を記憶喪失にさせたまま現場に復帰させるというストーリーからも読み取れるのではないか。全身に銃弾を浴び、死んだはずの加納が、なぜか以前と変わらぬ姿で、かつての上司、西谷警視の前に現れる。オカルト的な展開は正しく平松が得意とするものである。とはいえ、その表情には旧『ドーベルマン刑事』の後期にあった和やかさはまったく存在しない。換言するなら、初登場した頃の加納錠治でもないし、ワキの女性たちとコミュニケーションがとれるほどには、まあ、日和ったよね、な加納錠治でもない。第三の加納錠治が『新ドーベルマン刑事』では描かれていることになる。問題は、その、第三の、とでもすべき加納がいかに魅力的な野郎なのか、に尽きると思う。が、正直、現時点ではどうだとは見なしきれないので弱る。たぶん作者は「古い」と「新しい」に分かれる価値観の対立のなか、もしも正義というものがあり、それが不滅であるとしたなら、そうした正義の普遍性をあらためて問い直すために、過去の遺物として葬り去られたカリスマを今日にカムバックさせている。無論、たとえ加納の主張する正義が無茶苦茶であったとしても、あるいはそれが誰も幸福にはしない正義であったとしても、加納以上に支離滅裂な論理をかざした犯罪者が容赦なく倒されるところに、読み手はカタルシスさせられるわけだ。が、まだそこまで『新ドーベルマン刑事』における加納のイズムは、どんなに凶悪な人間に対しても一定の理解を示そうとするような社会の通念や混迷を圧倒していない。懐古派ぶるつもりはなく、こうした時代だからこそむしろ、自衛隊は国民の防弾チョッキであるべきだとし、発動を許さず、いち刑事としてテロリストやクーデターと渡り合おうとしたあの『ドーベルマン刑事』を直接復活させてくれた方がよっぽどラディカルだし、熱く燃えられたかもしれない。それにしても、ラリったジャンキーが一般人を殺しまくる光景は、『ドーベルマン刑事』がどうというより、もはや平松伸二のマンガ全般に顕著な様式美であるな。
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2012年12月23日
 爆音列島(18) <完> (アフタヌーンKC)

 既に再三再四述べてきたことだが、所謂ヤンキー・マンガのジャンルは現実的な成熟の苦悩をテーマにした脱モラトリアムの指向によって00年代を延命した。しかし近年ではモラトリアムという名のファンタジーを徹底する動きが主流になりつつあるようである。これは、たとえば講談社なら『A-BOUT!』を。秋田書店なら『シュガーレス』を。少年画報社なら『疾風・虹丸組』を。00年代の終盤から2010年代の初頭にかけて連載のはじまったヒット作として考えてもらうなら、納得のいくところだと思う。他方、ヤンキー出身の人物が原作を手掛ける『ドロップOG』や『デメキン』『OUT』等が、自伝的な内容でありながらも、実際にはありえない、というぐらいの過剰なフィクション化を通じ、反省のないエンターテイメントとして成立している点も看過できまい。こうした流れは、もしかすると男性向けの他ジャンルで、日常の気分を題材にしたドラマ性の低い作品が支持されている状況の合わせ鏡となっているのかもしれない。が、ここ数年である種の移行を経たことだけは間違いがなさそうだ。

 00年代を包括するようにおよそ十年続いた橋ツトムの『爆音列島』が、この18巻で完結した。80年代(昭和)の現実を背景にした自伝的な要素の強いマンガである。暴走族とヤンキー、単車ものとケンカものの区別を厳密にしないで話を進めていくのは申し訳ないが、少なくとも限りのある青春を生きる不良少年の姿をなるたけリアリズムに近づけながら追いかけた作品だったと思う。しかし正直なところ、『地雷震』の作者がこれを描いたという前提がなければ、いくらかアピールに乏しかったのも確か。ノスタルジックなディテールやドキュメンタリーであろうとする構成は、同系統のなかでもアッパーなパートを少なめにしていただろう。もちろん、橋ならではの迫力に溢れたカットや、ひりひり緊張に飲まれていく心理描写こそ、何よりの醍醐味であって、若さと虚しさの狭間をぬって刹那を輝かせようとすることの価値や本質を、ああ、という溜め息の勢いを借りて深く印象づける。誰もが勝者を愛するけれど、誰もが勝者になれるわけではない。結局は存在していることの証明を自作して自演しなければならない。その、どうしようもない切実さを等身大のサイズで切り取ろうとする手つきに大きな特徴があったのだった。

 クライマックスにおいて、暴走族を引退する間際の主人公、タカシが後輩たちを見、こう言う。〈オレはあいつら位の時 これが永遠に続くと思ってた 族は仕事になるって信じてたからな〉と。同輩の綾瀬が〈アホか お前 そんなバカな事あるわけねーじゃんか〉と述べるとおり、当然それはあぶくのごとき夢でしかない。そう、〈そうだよな 族が仕事になったら 面白すぎるもんな〉

 橋が「あとがき」で触れているように、上記したタカシの言葉は、物語のはじまり(1巻)を意図している。そして、それが叶わなかった場所で色合いを変えながら反復されているのである。他の作品を参照するのであれば、それはまた『サムライソルジャー』の桐生達也の野望を想起させる。永遠に終わらない王国を作り上げ、そこに留まり続けようとすることには、不良少年の、逃れがたき運命を逃れようとする意識が照射されているのかもしれない。『爆音列島』のタカシにとって、「ZEROS」という暴走族こそが、同化するに相応しい無限の王国であるはずだった(『サムライソルジャー』の桐生にとっては、それが「ZERO」という名のチームであるのは偶然だろうが、奇妙な符号だと思う)。けれど、時間には限りがある。必ずや終わりはくる。そうして訪れる青春のラストを巨大な自然との対比のなかに映し出した総括のエピソードは、事件らしい事件は一切起きないというのに、もしかしたらこれまでのどんな場面よりもエモーショナルだ。モラトリアムの完結が、険しい目つきと穏やかな目つきを入れ替えていくタカシの表情を経、堂々と表されているからだろう。黄昏や断念を、喪失の果てではなく、獲得された一歩として、鮮やかに響かせているためであろう。そして、それは80年代に限らず、また不良少年のみならず、過去に別れを告げ、新しく勇敢な世界へ足を踏み出そうとする者にもたらされるに違いない。美しい余韻なのである。
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2012年12月21日
 ばくだん!~幕末男子~(6)<完> (講談社コミックス)

 フィクションの世界には、坂本龍馬を悪党のように扱ってはいけない、というルールでもあるのか。大抵の場合、坂本龍馬はヒーローとして描かれ、生き、死ぬ。こうしたパブリック・イメージを越えることはほとんどない。もちろん、それこそが多くのファンに望まれているものなのだろうし、それに見合うだけのカリスマが実際的にあったのかもしれない。が、偶にでいい。偶にでいいので、もっと違った龍馬が見てみたい。様式美から外れた自由な龍馬が見てみたい。すげえ悪党のような坂本龍馬が見てみたい、のである。

 そこで、もしかすると悪党・坂本龍馬が描かれるのか、と期待させられたのが、加瀬あつしの『ばくだん!〜幕末男子〜』である。序盤、岡田以蔵を凶行に走らせ、その後、正体は不明なまま不穏な動向をうかがわせていたあたりで、おお、こいつが坂本龍馬であったなら間違いなく悪党だぞ。わくわく予感させられたのだった。さすが加瀬あつし、ステレオタイプな発想にはとどまらねえな、と。しかし結論からいえば、主人公である安達マコトとの直接対決が展開されるこの最終巻(第6巻)で、確かに悪党のような坂本龍馬ではあったけれど、その正体が坂本龍馬のフェイクであったことも明かされてしまう。ばかりか、連載終了後に発表された番外編(エピローグにあたる)で、オリジナルの坂本龍馬はやはりヒーローとして扱われているのを少々残念に思う。いや、個人的に坂本龍馬を嫌っていて、だから悪党にして欲しい、というわけではなく、パブリック・イメージに忠実な坂本龍馬の活躍を見るたび、どうもフィクションの限界を考えさせられるのだ。いずれにせよ、体中にタトゥーを入れ、サブ・マシンガンをぶっ放す坂本龍馬の像は新鮮だし、痛快だったが、フィクションの限界ににじり寄っていくなかで今一つ中途半端に終わってしまったところが『ばくだん!』にはあったのだと言いたい。

 加瀬は1巻の巻末でインタビューに答え、幕末版『カメレオン』として『ばくだん!』は構想されていると述べていたけれど、第二次世界大戦中の軍人をモチーフに持ってきていた『ゼロセン』の後、やんちゃな日本人男子をテーマに戯画化を果たしていく上でさらにルーツを辿る、つまりは幕末(近代)にまで遡るのはある種の必然だったのだろう。『ゼロセン』では、コールド・スリープという擬似的なタイム・スリップを使い、過去の人物を現代へと召喚したのに対して、『ばくだん!』では、直接的にタイム・スリップのアイディアを採用し、現代の人物を過去に飛ばしている。そうすることで、かつての日本人男子にはあって現在の日本人男子にはないもの、あるいはその逆において存在するものを、シリアスとユーモラスの双方から加えられる力を通じて、フィクションの域に浮上させようとしたのではないか。

 日本国初代大統領を目指す安達少年の挑戦は本来、今なお大勢にヒーローとして望まれ続ける坂本龍馬を越えたその先を切り開かなければならなかった。それにしても「ばくだん」というのはマンガ史において不吉な題名である。たとえば、本宮ひろ志に『ばくだん』という作品がある。宮下あきらに『BAKUDAN』という作品がある。かわぐちかいじにも『バクダン』という作品がある。他にだってまだあるかもしれないが、決してヒットはしていないだろう。要するに、どれも長くは描かれなかった。名は態を表すのか。加瀬あつしの『ばくだん!〜幕末男子〜』もその系譜に連なった。

 『ゼロセン』1巻について→こちら
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2012年12月17日
 月と太陽のピース(3)<完> (講談社コミックス別冊フレンド)

 今までの作品に比べると(あくまでも比べると、ね)案外ライトな内容を持ち合わせ、いくらか新境地をうかがわせていた『月と太陽のピース』だけれど、この最終巻(3巻)に入って、やはり吉岡李々子らしいスタイルに帰着した。スモール・サークルをベースにした青春劇が爽やかに繰り広げられていくかと思いきや、不幸を背負った人間が恋愛に救われるというメロドラマの様式へ転換するのである。

 親友であるコマキのため、同じ地学部のホマレと付き合う「ふり」をすることになったミミだが、しかしその気持ちはホマレの従兄弟であるイノリに対してなおも揺れ続けるのだった。と、いやはや、そこでわりとあっさりコマキが本筋から外れしまい、ミミとホマレとイノリの三角関係が前面に出ることで、物語はメロドラマの様式に定まっていくのだけれど、注意されたいのは、ミミとイノリのラインを強化するにあたり、この手のラヴ・ロマンスによくある手順が2パターンもとられている点だろう。

 一つには、迷子になっていた幼児を恋人ではない男女が共同して保護するというものであり、もう一つは、不慮のアクシデントが恋人ではない男女を旅先に一泊させるというものであって、大抵の場合、前者は擬似的にカップルもしくは夫婦のイメージを導き出すわけだけれど、『月と太陽のピース』では、それがイノリの意外な表情をミミに覗かせる成果をあげている。他方、実は『月と太陽のピース』において、前者と後者はワンセットになっている。前者を経ることで、後者のなかにイノリの家族に関する重大な告白が「流れ」として生まれているのだ。

 後者のパターンは、それこそ夏目漱石の『行人』にさえ見られる男女の正念場にほかならない。差し向かいにならざるをえない状況に閉じ込められた一対の関係が変則的に実存の比喩となりうるとき、同様のシチュエーションによって『月と太陽のピース』のイノリがミミに自分の秘密を明かすこととなるのは必然だという気がしてくる。そして、結局のところストーリーは、互いに遠慮しながらもミミに強い好意を抱くホマレとイノリのどちらが選ばれるのかをクライマックスとし、三角関係に決着をつけようとする。

 前作『白のエデン』で、それ以前の『彼はトモダチ』における主要人物を登場させていた吉岡だが、今回もとある場面で『彼はトモダチ』の主要人物をゲストに採用している。それは作者の愛着であるのかもしれないし、ファンへのサービスであるのかもしれない。しかし、彼らが初出時よりも大人として成長していることを踏まえ、別の解釈も充分に許されると思うので、私見を述べたい。

 彼らはつまり、かつては悩み多き未成年であった。未成年であるがゆえの試練をメロドラマとして引き受けなければならなかった。だが、その後、確かに幸福を得られた。幸福を得られたことと大人になれたことの実感が正しく結び付いているので、おそらく次のように若い世代へと教えられる。それだけの資格と役割を負っている。〈あのね どんな子供でも意味があって生まれてくるんだよ それがわかってれば みんな幸せになれるんだ キミだってそうだ 生まれてきた意味がちゃんとある〉

 無論、作品をどうにか畳まなければならない都合もあったのだろう。物語の進行からすると、上記の場面はいささか唐突ではある。けれど、後半のメロドラマ化が何に由来しているのか。生きる意味を教えてくれる者とそれを教えられる者というテーマの顕在に拠っているのは疑うまでもない。その上で祝福を描くこと。これについて決して漏らせない手続きになっているのだし、エンディングに用意された感動はまず間違いなくそれと呼応している。

 1巻について→こちら

・その他吉岡李々子に関する文章
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『99%カカオ』について→こちら
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2012年12月07日
 KIPPO 1 (ヤングキングコミックス)

 田中宏が2008年より『女神の鬼』と並行しながら『ヤングキング』で不定期に発表してきた『KIPPO』の1巻が遂に出た。たとえば『女神の鬼』が『BAD BOYS』や『グレアー』の前日譚(プリクエル)的な続編であるとしたら、『KIPPO』の場合は正しく『BAD BOYS』や『グレアー』の後日譚(シークエル)的な続編にあたるといえよう。さらに「ファミリー」という概念の頻出とクローズ・アップは『莫逆家族』のテーマを引き継いでいるふしもあって、すなわちストーリーのおおよそは、作者のマンガからしばしば感じ取られるシリアスな認識、あるいは以下のような問いかけへと集約されていく。そう、どれだけ時代や場所が異なろうと、この世界にはどうしようもなく不良少年にならざるをえなかった人間というのがいる。漏れなく存在する。もしもそれが不幸であるとすれば、彼らは一体何によって救われなければいけないのか。

 サーガの出発点といえる『BAD BOYS』の主人公だった桐木司の息子、桐木久司を語り手とし、彼と同世代の不良少年たちが抱える孤独や苦悩はどこからやってきているのか、それを描こうとしているのが『KIPPO』である。黒ヶ丘の街で〈とんでもなくヤバイ人〉としておそれられる不良少年、澤一郎はとある依頼を久司に持ちかける。果たしてそれがきっかけとなり、一郎は久司の父親である司や『グレアー』の主人公であった大友勝将らの仲間が集まった「ファミリー」の結束を知るのだった。これが最初のエピソードから見られる『KIPPO』の概要であって、自分のよく知る大人とは違った大人たちの連帯に居場所を持たない不良少年が感化されていく、そして自分と同世代である不良少年たちとの共闘を経ることで居場所を持たなかった人間が成長していく、そのようなところに眼目の置かれたマンガだと思う。

 2000年代(もしくは2010年代)の広島を舞台に不良少年たちの熾烈な抗争劇を描くという選択肢も、おそらく作者にはあったろう。それを読み手が期待することも出来たであろう。だが、久司を様々な事件に首を突っ込んでは解決していくタイプの積極的な主人公ではなく、一郎をはじめとする各登場人物のエモーションを相対化すると同時に客観視させるのに適した距離に語り手として配置している点などから(現時点では)『グレアー』の次の世代の抗争劇を安易に引き起こすまいとしているのが窺える。もちろん、〈その昔 ヤクザ映画で怖いイメージが定着し 昭和から平成に変わった頃にも暴走族事件が多発… しかしそんな広島も現在はスッカリ生まれ変わ〉ったという時代と背景が、大規模な暴力を遠のけてはいるのだろうけれど、しかし実際に行くあてを無くした欲望の比喩として血みどろの抗争劇が繰り広げられていない。それが不良少年たちの孤独や苦悩を一層印象深いものとしているのである。

 現役のワルガキである不良少年たちが、かつてワルガキであった大人たちと交わり、信頼とある種の教訓を学んでいく姿は、いったんはアウトサイドに追いやられた人間でも再び社会との関係を取り結べる可能性をそのまま物語っている。一郎もそうだし、彼らを抑圧するヤクザの加治屋(『グレアー』で勝将と戯れていたあのイガグリ頭の子供である)もまた、母親から見捨てられたという記憶によって、この世界に希望を求められなくなってしまった。換言するなら、原体験のレベルで社会との関係が壊れており、誰にも必要とされない自分を徒手空拳で生かそうとした末、不良少年になるよりほかなかったのだ。果たして不良少年にならざるをえなかった人間に内面はあるか。あるとすれば、それは強力なオブセッションでひどく歪んでいるのではないか。このようなイメージが一郎や加治屋の屈託には色濃く投影されている。

 歪んだ内面をアイデンティティとし続けることはやはり不幸だろう。いや、でもその孤独や苦悩を救うことは出来るはずなのだ。こうした仮説を『BAD BOYS』や『グレアー』において同様の不幸を踏み越えてきた大人たちは一郎や加治屋に教えようとしている。それがつまりは「ファミリー」という居場所なのである。もちろん、「ファミリー」とは語義の上で、コミュニティ(共同体)の問題に還元される概念となっている。しかし私見を述べるなら、それはむしろ後発の柳内大樹がヤンキー・マンガ等の諸作で「想像力」として主張しているのとリンクしうるものだと思う。たとえば、他の誰かへの働きかけは、ポジティヴであろうとネガティヴであろうと、必ずやなんらかの反応と影響をもたらす。このことに対して誰もが自覚的に振る舞わなければならないのであって、その責務が果たされなかったとき、少なくとも物語のなかでは不幸が描かれる。

 また、「ファミリー」を前にした一郎や加治屋の視線は、それが単なる理想論にすぎないのではないか、所詮は当事者に都合のいい綺麗事でしかないし、現実的には意味をなさないのではないか、という懐疑を挟んでいると考えられる。だからこそ彼らは、時折、大人たちの言動に反発を示さなければならないのだ。当然、そうした態度も彼らへ向けられた働きかけに対する反応と影響の現れにほかならない。題名になっている『KIPPO』が何に由来するのか。作中で〈キッポ 広島弁で あとに残る小さなキズのコト……〉と明かされている。不良少年に限らず、無傷で生きられる人間はいない。だとすれば、その痕跡は今までに積み重ねてきた歳月の自然な結晶化であろう。あまたの経験として数えられるものである。そして経験は、過去の自分と現在の自分のあいだに明確な差異を残さずにいられない。言うまでもなく、孤独や苦悩も、孤独や苦悩に縛られない自由も、呪いも祝福も、すべてそこに含まれていくのだ。と、登場人物たちの泣き笑う表情は訴えている。

 2話目について→こちら
 1話目について→こちら

・その他田中宏に関する文章
 『女神の鬼』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻と2巻について→こちら
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2012年11月11日
 絶品! らーめん娘(3) (ヤンマガKCスペシャル)

 いま現在、最も無意味なマンガを述べよ、ということであれば、間違いなくこれを挙げたい。いや本当に。他と比べてどうとかではなく、もしかしたら世界で唯一このマンガだけが無意味なのではないかとさえ思う。誤解があってはいけないのだが、褒め言葉のつもりはまったくなくて、ひどい、くだらない、と積極的に非難するのもばからしいマンガなのである。友木一良の『絶品!らーめん娘』は。しかし滅茶苦茶を言うようだけれど、ごめん。それでも『絶品!らーめん娘』のことが気になって仕方がないのだ。いつの間にか欠かさずに読んでいるマンガの一つになっているのだから弱る。弱るのだよ。こんなのを楽しみにしていると世間にバレた日にはもう絶対に後ろ指さされちゃうもんな。

 ジャンルとしてはギャグ・マンガである。片田舎で人知れず(!)営業されているラーメン屋を切り盛りする三姉妹とそこを訪れる青年客が繰り広げるシチュエーション・コメディ(の亜流)ともいえる。全編、下ネタに終始しているのだが、ギャグ・マンガだから無意味なのではない。ギャグのほとんどが下ネタだから無意味なのでもない。そのなかに盛り込まれている掛け合いの壮絶な即物性が、実際に一切の含みも持っていないことを指して、無意味なのだと言いたい。

 たとえばこの3巻に入っている「牛乳」というエピソードだ。長女に頼まれたお使いで牛乳を買ってくるのを忘れてしまった三女が、それを挽回すべく次女に自分の胸を揉んでもらいミルクを出そうとし、そこに青年客が下心丸出しで混じってくるというもので、驚いたことに相応の起承転結はあるし、ちゃんとオチも付いているのだけれど、あまりにも直接的なリビドーを前に、はたしてこれがギャグとして成立しているのか。はたまたどこで笑えばいいのか。よくわからないのである。

 あるいは直接的なリビドーの描写に欲情すればいいのか。おそらくはある種のコード(規制)を意識して成年に設定されてはいるが、あきらかに幼女を模して裸エプロンにした三女をはじめ、その手のフックを兼ね揃えた登場人物たちがあたかも痴女のように振る舞っているのは、まあ確かに『絶品!らーめん娘』の売りではあるのだろう。作中では所謂本番行為(セックス)は避けられているものの、ロール・プレイをベースにした性風俗のイメージに近いコミュニケーションが展開される。しかしエロ・マンガはもとより、現代におけるポルノの基準からしても、程度は著しく低い。絵やストーリーは極端なまでに簡素化されていて、これを見ることでスケベな気分になれる層が一体どこにいるのか。やはりよくわからないのである。

 つまりは総じてよくわからないのである。たぶん『絶品!らーめん娘』という題名は今日においてアニメ化されるようなヒット作のいくつかが「××娘」と冠していることのパロディだろう。しかしユーモアやアイロニーの類をどこにも求められないので、そんなことすらどうでもよくなってくる。もちろん、読みながらゲラゲラ笑ったりムラムラ催したりする向きがあっても構わないのだったが、個人的な感想は正直なところそれらと縁遠い。

 結論として『絶品!らーめん娘』のことがよくわからないのは、何もかもが無意味だからなのだと思うよりほかねえんだ。完全に自分の理解を越えているのであって、理解しようとする意欲をも無意味に変えてしまう。だがそれは決して、悪い意味で、ではない。欲情には意味がない。サービス・カットには意味がない。後ろめたさには意味がない。善良な配慮には意味がない。プロパガンダには意味がないし、 ポリティカル・コレクトネスにも意味がない。ありとあらゆるジレンマを徹底的に放棄することで、ただ突き抜けた明るさだけが獲得されていく。その明るさが滑稽であったりイヤらしかったりするのとは別次元の楽しさを確立しているため、ああ、こんなにも目が離せないのかもしれないけれど、ごめん。本当はそれもよくわかっていない。
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2012年11月02日
 onikoti.jpg

 重本ハジメの『鬼さんコチラ』は、『週刊少年チャンピオン』の39号から49号(今週号)まで掲載された。全12話のマンガである。秋田書店の通例からすると、このような短期終了型の作品はコミックス化されない場合が多いのだったが、じゃあ単純に退屈だったのかといえば、そうとも断じきれないところがあったろう。今日の流行りとはやや毛色の異なる画の触感は、もしかしたら古くさく見えるものであったかもしれないし、あるいは以前の『コロコロコミック』や『コミックボンボン』等の幼年誌に載っていたいくつかを思い出させたりもした。けれど、それは必ずしもテクニカルではないということではない。むしろ、作者が自分の指向性をダイレクトに出そうとし、また自分なりに独創性を出そうとした結果が、上述の触感をもたらしているのではないか。

 現代に蘇った百鬼夜行によって、平凡な少年(金木)と少女(桜田)であったはずの二人が、一千年前からの因縁に絡めとられていく。鬼と人の側に分かれ、互いを滅するために対決せざるをえなくなるのだった。ストーリーは少年マンガの伝奇ものに珍しくはないタイプであって、おそらくは先行する藤田和日郎の『うしおととら』との類比を免れないだろう。宿命を象徴する宝刀の無敵っぷりが獣の槍を彷彿とさせ、百鬼夜行の悲愴が白面の者のそれを思わせるのはともかく、ひたむき、純粋な態度を是とすることが、嫉み、憎しむことの集積であるような災厄を見事に打ち砕いてみせるのである。無論、それは模倣というよりは継承と見なせる。一種の伝統を後ろから追うなかに独特の演出を加えようとしているので、作品に悪い印象を持たないのだ。大胆なアクションに期待を持たせられる場面が少なからずあった。

 ただし、物語の長さに還元される問題なのかもしれないが、百鬼夜行を現代に導入したことの意義が、あまりよく生きていない。百鬼夜行の面々を含め、ワキの人物がさほど魅力的でなかったのも悔しい。主人公に、今を生きていると公言させることで、大団円に辿り着くのだけれど、結局のところ、現代で何が起きたか(能動的に運命を変えるべく何を起こしたか)へのフォーカスは甘く、過去の因縁をいかに収拾するかに内容は任されてしまった。
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2012年10月21日
 マンブリ!(1) (講談社コミックス)

 七三太郎が原作のマンガは、それが主にスポーツを題材としているからか、あるいは月刊ペースのものが多いからなのか、比較的連載の長期化していく傾向があるのだったが、しかし結局のところ、序盤の段階で充分なアピールに成功しているので、後の展開が求められるまでになっているのではないか。まさか大御所だからという理由で連載の長期化が許されているわけではあるまい(まさかね)。いずれにせよ、作品が安定してくるにつれ、カタルシスが弱まるのはフィクションの常で、七三の場合も例外ではなく、やはり序盤の段階に見るべきものが多いように思う。

 天野翔は、中学の三年間、格闘技の全国大会を制してきた。その世界では名の知られた少年だ。しかし同時に、突き詰めれば対戦相手を叩きのめさなければならない格闘技の価値観に疑問を抱いてもいた。きっかけは幼馴染みである桜の父親が経営するゴルフの練習場だった。そこでクラブを握った自分とただ一人で向き合い、フルスウィングすることの新鮮さに魅力を覚えた彼は、次第にゴルフの奥深さを肌で知るようになっていく。以上が『マンブリ!』の1巻のあらすじであって、要するにスポーツを題材にしたジャンルでは定番の一つ、ある種の転向ものだといえる。

 主人公にとっての達成感とは何か。格闘技からゴルフへの転向にあたってキーとなっているのは、この問題にほかならない。この問題を詳しく描くことで、競技の特徴(ゴルフには存在して格闘技には存在しないもの)と主人公のモチベーションや個性が明るみにされる。格闘技とゴルフの差異ばかりではなく、共通点をしっかり押さえているのも、転向を正当化する上でのキーだ。なぜ主人公が優れたゴルフのプレイヤーになりうる可能性を持っているのか。作中では〈格闘技もゴルフも・もちろん野球やサッカーも・根本的に身体の使い方はあまり変わらない〉と解説されている。が、他方で主人公の父親が〈「勝負は常にヤるかヤられるか」それはゴルフも格闘技も同じ〉と繰り返す。格闘家である父親の言葉は、転向が、逃避ではなく、成長と同義であることの示唆となっており、前向きな性格の翔がやがて直面するに違いない苦悩を予感させる。

 今回、七三とパートナーを組んでいるのは向山知成である。若いマンガ家である。随所に現代的なアクセントが加えられているのは、向山の功績だろう。ユーモラスな場面、シリアスな場面に限らず、眼の描き方が実に良い。集中力を説得的に表現することは、競技マンガにおいて、もしかしたらストーリーを語る以上に重要なのだけれど、表情のアップからフルスウィングの動きに持っていくその瞬間、たっぷりのダイナミズムを味わえるのが非常に大きい。

・その他七三太郎に関する文章
 『天のプラタナス』(漫画・川三番地)
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2012年10月13日
 MIX 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

 あだち充は現代の夏目漱石である。これは日本で最も早くコミックスの発行部数が一億冊を突破し、要するに国民的な作家になったことのみをいっているのではない。多少文学ぶって述べるのであれば、(欲望とは他者の欲望を欲望することであるとしたら)他者の欲望を自分が欲望していることに対して自覚的(あるいは懐疑的)な主体を常に描き続けている、という意味において漱石的なのであって、それはもちろん、三角関係や家族の構成、死者の問題として現れているのだし、技術の確かさで軽く読み流すことと深く読み込ませることを両立してしまっている点などは、ある種の手本として評価されるべきものであろう。かつて島本和彦は『タッチ』の上杉達也と浅倉南を指して、まるで婚姻していない夫婦のように描かれているのが今日のラブコメとの最大の違いと分析していたが、そこから彼らが生活しているリズムであったり温もりであったりがよく伝わってくるところなども、実に漱石的だ。

 死者である兄と様々なしがらみを生きなければならない弟の交流を題材にした前作の『QあんどA 』は、ファンタジー以外の何ものでもない展開を示していたけれど、おそらく私小説的な側面をも併せ持つマンガであった。兄、あだち勉が亡くなったことの影響をどうしたって想起させるのである。しかしその、ファンタジーと私小説的な意識の混在は、従来の路線と異なっている以上に、物語の方向性をいくらか不明瞭にしてしまっていたように思う。洒落ていながらオーソドックスなコマ割りによって作り出される呼吸の整ったテンポには、さすが、心地好さを覚えるのであって、そこでの主人公もまた、他者の欲望を自分が欲望していることに対して自覚的(あるいは懐疑的)であったわけだが、結果として、あだち充の本領はこれではないぞ、と改めて実感させられもした。

 さて、あだち充が最も得意とする方法論、シチュエーションを再び(いや、三度四度目かもしれないが)用い、連載をスタートさせたのが、ご存知の通り、この『MIX』という作品である。『タッチ』と同一の背景、明青学園を舞台にしていることで、話題を集めているけれど、血の繋がらない兄弟(妹、家族)が一つ屋根の下に暮らしている設定は、『みゆき』や『虹色とうがらし』『じんべえ』等のモチーフも流れ込んできているのではないか、との期待を煽る。もちろん、野球を手段に甲子園と青春のイメージをぴったり重ね合わせるというのは、『ナイン』や『H2』『クロスゲーム』の例を出すまでもなく、初期の頃より作者が取り組んできた事業であって、これまでのキャリアの集大成を為している、という意味でミックスの題名が付けられていたとしても、まったく不思議ではない。

 1巻の段階では、状況を詳しく準備しているものの、お話自体はさほど進んでいない。だが、こうしたスロー・ステップな導入こそがあだち充なのだという気がする。何よりもまず、作中人物たちの生活が周到に描かれているのであり、そのリズムや温もりが魅力的であればあるほど、この後のストーリーはさらに輝きを増していく。作中人物たちの心情にほとんどモノローグをあてず、しかし各々のパーソナリティを適切に描き分けている点に注意されたいのである。驚くべきことに(!)、お馴染みのサービス・カットが今のところないのは、まあヒロインがまだ中学生であるため、そのパンツや入浴シーンを描くことへの配慮があるのかもしれないが(義理の娘の制服に頬ずりする親父さんの描写はやや変態的だが)、逆にサービス・カットを省いたからといって、作品の色気には何ら支障が出ないことの裏付けにもなっている。

 主人公である立花投馬、立花走一郎(投馬と同じ誕生日の義理の兄弟)、立花音美(走一郎とは血が繋がっているが投馬とは血の繋がっていない妹)のほか、彼らの両親、そして明青学園中等部野球部の面々と、おそらく高校に進学してからが本格的な本筋なのだろうけれど、物語に相応しい役者が揃ってきている感がもうある。なかでも2年生である投馬や走一郎を抑圧する先輩の二階堂はいやな奴だねえ、であろう。無論、『タッチ』の柏葉監督代行や『H2』の広田みたいに最初は悪役でしかなかった人物を最後には屈託を持った名脇役として描ききった作者である。このままでは終わるはずがないところにドラマが生まれていくに違いないのだし、花壇のエピソードは意味深長に二階堂のパーソナリティを暗示させる。このとき、キャプテンである今川とのあいだで交わされる視線は、不意に行間を覗かせるテクニックでもある。やっぱり巧いよな。

 どれだけ『MIX』が『タッチ』の物語と直接関わっている(直接関わっていく)のか定かではないが、両者を結びつけたくなるような仕掛けを部分部分に盛り込んでいるのも、やっぱり巧い。とりわけ、胸に「MEISEI」と入った背番号1のユニフォームが投馬の家で見つかる場面などは、否応なしに上杉達也の存在を思い起こさせるわけだ(案外そういう風にミスリードさせようとしている可能性もある。あだちはその第3話が掲載された『ゲッサン』の巻末コメントで「過度な期待は漫画家の健康を害しますのでご注意ください」と言っている)。もちろん、それは『タッチ』のファンにしてみたら、の話である。が、そうではない向きにとっても何かマクガフィンのように耳目を引くものとして機能しうるのではないか。つまり、たった一つの場面に何重ものフックが凝らされているのだ。

 立花兄弟のバランスを見る上で、ピッチャーとしての才能は投馬の方が上だったため、走一郎がキャッチャーに回ったという前提を看過してはならないだろう。走一郎は投馬に自分の夢を託し、投馬は走一郎に託された夢を自分のものとしている。そう、そこには、あだち充が常に描き続けてきたテーマ、すなわち、他者の欲望を自分が欲望していることに対して自覚的(あるいは懐疑的)な主体の像がすでに浮かび上がっているのである。

その他あだち充に関する文章
 『冒険少年』について→こちら
 『アイドルA』
  2話について→こちら
  1話目については→こちら
 『クロスゲーム』1巻について→こちら
 『あだち充傑作短編集 ショート・プログラム』『あだち充傑作短編集 ショート・プログラム2』新装版について→こちら
 『タッチ』完全版
  7巻から9巻までについて→こちら
  4巻から6巻までについて→こちら
  1巻から3巻までについて→こちら 
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2012年09月27日
 ゲバルト 1―青色テロル×青春グラフィティ!! (ヤングキングコミックス)

 この世界には不良にならざるをえない人間というのがいる。それが決して逃れられない運命のようなものであったとしたら、実は不幸な話なのではないか。一方で、本来不良とは無縁であるのに不良に憧れる人間というのがいる。後者が不良になろうとするとき、しばしば自己実現や自己改革の物語を生きていると見なされるのであって、いや、確かにその筋書きには相応のカタルシスがあるよね、普遍性があるにはある、とは思う。これを端的に再現しているのが、つまりは不良デビュー型のヤンキー・マンガであろう。そして、最初の1巻を読む限りでは、コウノコウジの『ゲバルト』もまた同様のヴァリエーションだといえる。

 少年は不良の道に進むことを決心する。〈高2の夏、僕は不良になることに決めた〉のだった。玄葉瑠偉人は、何の取り柄もない自分のプライドを保つために工業科のヤンキーたちを心のなかで見下し、それでもクラスの上位グループからは浮きたくないので声優アイドルのファンであることを隠しながら、平凡な高校生活を送っていた。しかしある日、他校の不良に絡まれ、散々な目に遭っているところを、普通科で唯一のヤンキーである庵野倶理生に助けられたのを機に、彼が属している暴力的なテリトリーに進んで足を踏み入れていく。というのが、おおよその展開である。が、作品の方向性はほとんど、いちばんはじめのエピソードで出ているように思われる。はからずもオタク趣味がばれてしまい、グループから浮いた瑠偉人が、教室内である種のテロ行為を働く場面だ。

 そこには二つのトリガーがある。一つは、暴力によって飼い慣らされた本性を覚醒させるものであって、もう一つは、自分が価値を置く他人の目を通じて自分を再確認させるものである。この二つのトリガーは、自己実現や自己改革の物語を生きる式のカタルシスを正しく誘発しているのだし、トリガーが引かれ、突然驚くべき行動に及んだはずの瑠偉人の視線がどこか冷めているのは、強圧的な不安の外側にこそ、スペクタクルと呼ぶのに相応しい光景が開けていることを暗示しているためであろう。ただし、そのカタルシスを持続させられるだけのストーリーと充分なスペクタクルはまだ描かれていないという感じがする。

 主人公である玄葉瑠偉人(げんばるいと)の名前は、もちろん、『ゲバルト』というタイトルにかけているに違いない。しかし不思議なことに、作中には「ゲバルト5」なるチームまで出てきてしまう。この重複が、意図的なものか。あるいは行き当たりばったりのケアレス・ミスか。判断はつかない。普通、そのような重複は避けたい(避けて欲しい)ものである。けれど、ゲバルトの一語が作者に対して過剰なインスピレーションを与えていることは明らかだ。ゲバルトとは、字義通り、暴力であって、闘争であって、当然、内ゲバの「ゲバ」でもある。やがて、瑠偉人や倶理生が介入することとなる工業科内部の対立抗争は、実際に内ゲバ以外の何ものでもない。

 大抵、内ゲバというのは、せこくてしょっぱい、と相場が決まっているわけだが、はたして。多少好意的に受け取るなら、そのスケールの小ささは青春のイメージを重ね合わせるのにちょうど適しているのかもしれないし、コウノが本当に描きたいのは自己実現や自己改革のカタルシスではなく、もっと暗いものなのかもしれない。アクション・シーンの派手さに比べ、登場人物たちの表情がぱあっと輝いていないのが、現時点ではひどく印象的なのである。

・その他コウノコウジに関する文章
 『肉の唄』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
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2012年09月09日
 ARISA(11) (講談社コミックスなかよし) ARISA(12) <完> (講談社コミックスなかよし)

 もしも絶望から回復するためだけにこの世界を憎まなければならなかったとしたら、それはもちろん、不幸なことなんだぞ、と思う。11巻と12巻が同時刊行となった安藤なつみの『ARISA』であるが、そしてこの物語は完結した。当初は、学校あるいは教室という閉じたサーキットの頽廃的な象徴=王様タイムへ、本来は外部の人間であるヒロインのつばさが侵入、参加し、ネガティヴなロジックとは別個の可能性を切り開いていくサヴァイヴァルに作品の主題が垣間見られていたのだった。が、しかし全編のクライマックスにおいて、その閉じたサーキットは社会や家庭の問題に接続されていき、ついにはとある人物のこの世界に対する報復こそが、すべての発端にならないことが明かされる。

 結局のところ、2-Bのクラスを影で操作していた「王様」であるその人物にとって、学校や教室の問題は、目的ではなく、手段にすぎなかった。ここでいう目的とは、自分が拠るべき居場所と解釈して差し支えない。しかしてその人物の企みは、他の生徒たちが学校あるいは教室に居場所を確保するという目的のため、優越感や同調圧力のゲームに与することを手段にしていたのと、完全に異なった性質を持っている。すなわち、生徒たちの目的が「王様」に手段として利用される、このことが物語内における両者の力関係を決定していたのであって、そもそも「王様」は2-Bの生徒たちと同じルールに属していない。このような意味で、主人公のつばさと正しく陰と陽の綱引きをするのに相応しい立場にあったわけだ。けれど、「王様」の正体が暴かれ、次第にその企みが(作中の人物にも作外の読み手にも)はっきりとしてくるにつれて、作品の構造も大きく違ってきている点に注意されたい。すでに述べたとおり、閉じたサーキットの枠外で物語が展開されることとなっているのである。

 結果的にそれは、学校ないし教室の比喩でしか描けないテーマを、“社会や家庭に原因があった”式のステレオタイプにすり替えてしまっているのではないか、という疑念をもたらす一方、経緯はどうであれ、少年や少女の孤独と救いこそが作者の最も描きたかったものなのではないか、と思わせる。確かに『ARISA』のとくにエモーショナルな部分は、居場所をなくした少年や少女の、心の声とでもすべき悲痛な訴えに由来していただろう。そのような意味において、「王様」もまた他の生徒たちと近似の孤独を抱えていたのであった。

 誰とも何も分かち合えない。共有できない。事実としてそう断言されることは、当然、孤独を身に染みさせる。誰からも必要とされない。必要としている相手に関与できない。振り返ってみるなら、「王様」からの指示を受け、つばさを陥れようとした人物たちは皆、孤独や絶望を憎しみに上書きすることである種の特権を得ていたのではなかったか。このように考えられるとき、それらの人物たちが「王様」のどのパートを代理するべく選ばれたのかが判りはじめる。望みを述べよ。それは復讐である。この世界に対する報復を我に許し給え。無論、つばさはこれに反論する者であって、彼女の活躍がその実証を果たしてきたのだが、しかし終盤に至り、物語の構造に違いが出てくると、つばさの負っていた役割はきわめて小さなものとなってしまう。彼女では「王様」の暴走は食い止められない。

 では、最後の段に入って、ほとんど狂言回しの立場にまで追いやられてしまうつばさにかわり、「王様」の暴走を食い止めるのは一体誰か。端的にいって、それは作品の題名に示されている人物以外の誰でもないだろう。ありさの不在をめぐっていたはずの物語は、ありさの覚醒を経、ありさの願いによって最悪のシナリオを免れるのである。繰り返しになるけれど、つばさは絶望の否定形であるがゆえに「王様」と対立しえたのであった。しかしそれはアンチテーゼであるかぎり、「王様」からの反論をさらに引き出す以上の働きを持たない。だが、ありさのアプローチは、双子であるつばさとは別の角度から希望を添えるものであって、たぶん、次のような問いへの解答を内包する。この世界を憎まなければならなかった人物がいたとして、もしもそれを救おうとするなら、単に批判を突きつけるのみでは叶わないのではないか。

 つばさとありさのどちらが正しいというのではないし、(ティーンエイジャーであることも含め)いかなる事情があるにせよ「王様」は充分に裁かれるべきであろう。現実的な判断において、いくつかの留保を残しながら物語は幕を下ろすが、それでもすべてが収まるべきところに収まったと感じられるのは、絶望が絶望のまま、孤独が孤独のまま、憎しみが憎しみのままで終わることの不幸を決して勝利とはしなかったためだと思う。

 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2012年09月01日
 SOUL 覇 第2章 2 (ビッグ コミックス)

 赤壁の戦い、である。ここ最近、小説でいうと酒見賢一の『泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部』を読み、マンガでいうと青木朋の『三国志ジョーカー』の4巻を読んで、揃いも揃って赤壁の戦いであるな、と思ったのだが、マンガでもう一つ、武論尊(原作)と池上遼一(漫画)による『SOUL 覇 第2章』もまた、この2巻で、赤壁の戦いを繰り広げているのだった。思わず、「三国志」(三国志演義)を題材にしたフィクションの世界では赤壁の戦いがブームなのか、と言いたい。が、それはともかく、いずれの作品も、アプローチは完全に異なっていながら、かなりの無茶をやっていて、そこが愉快ではあるのだけれど、『SOUL』の場合はもはや、これ、『三国志』じゃねえ、というところにまでいきかけているのだよ。

 いや、確かに前身の『覇 -LORD-』の段階で、これ、『三国志』じゃねえ、いつも通りの武論尊と池上遼一だ、と言わざるをえなかったのだが、しかし『SOUL』になり、それはより一層濃くなっているのだ。大体、『SOUL』における赤壁の戦いとは、自分が倭人であることをバラした劉備(a.k.a.燎宇)が、曹操や周喩はもとより、諸葛亮ばかりか、関羽や張飛をも敵に回して、大規模な水上戦と陸上戦を繰り広げる、というものなのである。諸葛亮は、下克上よろしく劉備に宣戦布告をかまし、敗走した曹操を助けた関羽と張飛が、そのまま曹操軍に加わってしまいそうな勢いなのである。天下三分の計どころではない。野望をギラギラさせた連中が血気盛んに入り乱れ、所属関係なしに命(タマ)の奪い合いを果たしていくのである。卑弥呼の軍を招き寄せた劉備が大陸に対して全面戦争を仕掛けているのは、イデオロギー的に日本の中国侵略の比喩として解釈される余地を持っているけれど、やはり、アウトロー風情が犬死にをおそれず、己の正義を生き様によって語ろうとしているところに、このコンビならではの醍醐味が存分にある。実際、こんなにも知性より欲望を丸出しにした諸葛亮はほかになかなかいない。

 しかしまあ、劉備が常元を傘下に置くような展開を一体誰が望んでいるのか、という気がしないでもない一方で、主人公が周囲の期待に反して下衆な人物と手を組むのは、そういや、このコンビにお馴染みのパターンであったな、と思うし、若輩の人物が目上の人物に予想外の説教をされて衝撃を受けるシーンなども、「三国志」とは関係なく、ある種の様式美だろう。

 1巻について→こちら

 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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2012年08月30日
 青春ロケーション 1 (マーガレットコミックス)

 田島みみは人気マンガ家だ(と思う)が、その訴求力は幅広い層に向けてというより、たぶんティーンエイジャーの女の子に対して限定的なものであったといえる。このため、年長の女性や少女マンガに詳しいとされる男性の読み手から言及される機会をほとんど持たなかったのではないか。もちろん、それをスタイルとして完成していると解釈することは可能であったろうし、実際にそれが功を奏してパターン化された展開のなかにも強いフックが生じていたように感じられたのだ。しかしここにきて、おお、ずいぶんと大胆に新味を盛り込んできたぞ、と驚かされるのが、この『青春ロケーション』の1巻であって、つまりは今まで田島の作品に興味がなかった向きにこそ、是非とも読まれたい内容になっている。

 ともあれ、引きこもり気味のオタク少年という過去の作品には決してありえなかったタイプをストーリーの真ん中に加えてきた点は絶対に見逃せない。もしかすれば、ギャルゲーの愛好家で他人を見下しがちなシャイ・ボーイを登場させるのは、現代のサブ・カルチャーと流行を踏まえるなら、あざとい、とも判断される戦略だろう。だが、重要視すべきなのは、それによって田島の本来の作風に自然な化学変化が起きており、かつて以上に魅力的な話運びが成立していることなのだ。

 かつての『学校のおじかん』も『君じゃなきゃダメなんだ』も、採用されているシチュエーションは異なれど、根本は三角関係をベースにしたラヴ・ロマンスである、という部分で一致していた。そして、おそらく『青春ロケーション』もまた(序盤の現時点でうかがえるかぎり)三角関係をベースにしたラヴ・ロマンスを踏襲している。要するに、以前のキャリアと基本線を違えているわけではないのだ。むしろ、ヒロインの小夏モアの、とても頭の悪そうな言動と外見や性格の可愛らしさが紙一重の造形であったり、彼女の幼馴染みである如月雅の、王子様然としたルックスやしばしば意地悪な素振りを含むスマートな対応は、過去の二作に通じるものだといえる。ここにもう一人の関与を加えることで、当然、三角関係のモデルが出来上がるのだけれど、そのもう一人が先ほど挙げた引きこもり気味のオタク少年、山田蛍であることが、正しくターニング・ポイントたりえているのだと思われる。

 高校に入学してしばらく、家が一番近いという理由で担任の教師からプリントを預かったモアは、雅をともない、山田の家を訪れるのだったが、不登校の山田は、たとえそれが親切心からくるものであったとしても、二人の干渉を快くは受け取らない。そう、彼にとっては、ギャルゲーのヒロインだけが愛すべき存在なのだし、自分の部屋だけが安全で楽しい場所にほかならないのだった。あまりにも卑屈な態度で接してくる山田に困惑しながら応対するモアと雅である。しかしどうしてか。売り言葉に買い言葉を重ねるうち、まるで発憤したかのように。モアと雅を見返してやろうと言わんばかりに。あくる日、山田がその姿を教室に現した。以上が発端であって、本来は相まみえないであろう彼らのコミュニケーションを動力にストーリーは進んでいく。

 モアと雅からすれば、山田はある種の異物なのかもしれない。いや、既に述べた通り、田島のキャリアにおいても、山田みたいなタイプはある種の異物だといえよう。山田に対しての認識をあらためることが、モアと雅の間柄をも変化させている。と同時に、山田をどう扱うかの基準が、田島みみらしい作品の構造そのものに変化をもたらしているのである。

 オタク少年の、ステレオタイプなイメージの、とりわけそのデリカシーを作者なりに学習し、描いているのだろう。山田のコンプレックスは、肥大した自意識に由来している。ただし、単に肥大した自意識に性格や言動が左右されているのみなら、『学校のおじかん』や『君じゃなきゃダメなんだ』の王子様然とした男の子たちと、さして造形が異なっているわけではない。ここで注意したいのは、それがヒロインであるモアの積極性をクローズ・アップするための、特殊な倍率を有したレンズの役割を果たしていることなのだ。

 これまで田島のヒロインは、どちらかというと消極的であるがゆえに周囲の人物から強引にアプローチされる立場に置かれてきたのであって、結果としてどこが魅力であったのか不明の場合が多かった。『青春ロケーション』のモアも、繰り返しになるけれど、とても頭の悪そうな言動と外見や性格の可愛らしさが紙一重の造形で、過去の二作におけるヒロインと大差がない。このとき、雅のアプローチも同様に過去作の引用に止まる。しかしながら、上記したように、山田というレンズを得たことで(モアが別の価値体系を生きる山田に対しての関心を隠さないことで)その積極性がクローズ・アップされると、魅力の所在が今までになくクリアーとなっているのだし、この影響はあきらかに幅広い層にアピールするほど魅力的な話運びを成立させるところへまで及ぶ。

・その他田島みみに関する文章
 『君じゃなきゃダメなんだ』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『学校のおじかん』
  17巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
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2012年08月23日
 凍牌~人柱篇~ 3―麻雀死闘黙死譚 (ヤングチャンピオンコミックス)

 まったくどうかしてるよな。一つ、ストーリーの先が見えないことをすぐれたフィクションの特徴として挙げられるなら、間違いなく志名坂高次の『凍牌(とうはい)』全12巻はその条件を満たしていたといえよう。そしてもちろん、同じことはタイトルに一部変更を加えた「人柱編」にもいえるのであって、主人公が文字通りの絶体絶命に陥った前2巻も予想外であったが、ほとんど誰も幸福を手に入れられないままに勝負が決着したこの3巻もすさまじい。

 主人公が死ぬ。退場する。主人公を置き去りにして事態が進む。そのような筋書きのフィクションですら珍しくない昨今だけれど、さすがに無敵と思われていた氷のKが対局の途中で首吊りさせられ、あっさり舞台を降りてしまったのにはびびった。確かにまあ、無印の『凍牌』においても、足の指を切断したり、腹から内蔵をこぼしたり、おいおいそりゃあえぐすぎるぜ、の窮地を(どんなに辛うじてであろうとも)澄まし顔で脱してきたのが氷のKの氷のKたるゆえんなのだが、唯一ピンチを巻き返せる可能性を持っていたはずの本人が意識不明になってしまうのだから、やばいに決まっている。これ、どうにもなんねえだろう、完全に詰んでるじゃん。掻き立てられた不安にはらはらさせられる一方で、しかしKのことなので必ずや裏がある。思い切り作者の手の平の上で踊らされ、異様にわくわくしまうのだった。予想外とは、つまり、そういうことだ。

 そして3巻である。先述の難関を(誰が)いかに突破するかは、俄然注目せざるをえないところであって、まさかまさか、という展開の続くことに大変驚かされるし、さらにはその、まさかまさか、のラッシュによって辿り着かれた真相の意外性にはぎょっとさせられるばかりか、実はそれが次の展開への布石にすぎず、結局は一度ハマったドツボから抜け出せていないことが明かされる段に至っては、物語の向こうに広がった暗がりの深さをあらためて知り、震える。『凍牌』にとって麻雀とはサヴァイヴァルそのものだが、束の間の小休止ともとれる場面で、とある人物が口にした「人柱編」の真の意味はおそろしい。非常にぞっとしないのであった。これまで膨大な死者の上をまたいできたかのようなKの軌跡でさえ、所詮、富や権力の下部でしかないことが宣言されてしまうのである。そこでは人の命は呆気ないほどに軽い。

 命が呆気ないほどに軽い。これは『凍牌』を貫く一本の指標でもある。誰もがいとも容易く死ぬ。簡単に死ぬ。惜しまれることなく死ぬ。残酷な指標はギャンブルを題材とした作品のなかに強烈なスリルとサスペンスを生じさせる動因になっているが、そればかりでなく、建て前の倫理では対処しきれない現実の、あまりにも荒廃し、惨めな救いがたさを投影してもいる。しかしだからといって悲嘆していてはいけない。絶望だけがキャンセル不可のゲームに、たとえ強制的であろうと、躊躇わずに参加し続ける主人公たちのヴァイタリティとストイシズムは、悲嘆が悲嘆であるかぎりは決してマイナス以上の価値を生み出さないことをアピールしているのである。

 ああ、Kと両親のディスコミュニケーションをも斥けられた関係の殺伐さを再確認されたい。父母に愛されたとか愛されなかったとかいう苦悩もまったく役に立たない。どのような憐憫も〈考えてもみろ… Kさんは 親に殺されるかもしれない恐怖の中で暮らしてきたんだぞ ずっと… ずっとガマンして生きてきたんだ〉このような善良な怒りも、Kを生かすための希望にはならないのであって、いやむしろK自身がそのような建て前の倫理とは訣別しているがゆえに、他の何者にも足を引っ張られず、ライヴァルたちを上回り、いくつものデッドラインを踏み越えられてきたのではなかったか。誰の命も呆気ないほどに軽い。これは必然、何者も特別ではないことを含意する。性別も年齢も国籍も立場も関係なしに誰もが次々と地獄に落とされる。それなのにどうして自分だけが特別だと述べられようか。

 根拠のない独我論やメロドラマの発想をKは一切信じない。ただ地獄の最中を生き残るために手を尽くし、勝利することが、結果的に彼の存在の正当性になりえているのである。ときにKの態度は極めて非人間的に受け取れる。だがその活躍を見るたび、どうしてか元気が出てくるのは、おそらくはKが他人に対してと同様、自分に対しても甘えを許していないからなのだと思う。

・その他
 『牌王伝説 ライオン』1巻について→こちら
 『凍牌』10巻について→こちら
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2012年08月18日
 三国志ジョーカー 4 (ボニータコミックス)

 周喩きたああああ、であろう。これで、魏、呉、蜀に役者が揃い、いよいよ赤壁の戦いに向かって大局は動いていき、多くのサンゴクシシャン(小説家酒見賢一による造語で「三国志」ファンの意)にとって最高の見せ場を迎えるはずなのだが、いやしかしまあ、青木朋の『三国志ジョーカー』の本筋といおうか醍醐味といおうか、「三国志」(三国志演義)をベースにしたこの奇想天外なマンガの真骨頂は、軍記もの本来のフォーマットに特徴的なスペクタクルを思い切り外れたところに存在してるのは明らかで、ある種の場外戦がどこへどう進んでいくのか。よもや「三国志」とは思われない展開の方が大変気にかかるのである。

 だいたい『三国志ジョーカー』とは一体何なのか。4巻に入り、これまで謎めかされていた部分がだいぶ詳細になってきたわけだけれど、あらためて概要を述べようとすると以下の通りになってしまう。諸葛亮に誘拐された過去を持つ司馬懿。以降も執拗に司馬懿を執拗に付け狙う諸葛亮。スーツを着込んでタバコをふかし、数々の小道具とアイディアを弄しながら、諸葛亮の仕掛けてくるトラップをかわしてみせる司馬懿と、修道服を身にまとい、その時代にはありえないテクノロジーで司馬懿を監視、次々と怪事件を引き起こしていく諸葛亮。二人の対決は、さながら探偵と悪党のそれを思わせる(掲載誌は『月刊ミステリーボニータ』だしね)。しかしどうして諸葛亮は司馬懿に拘り続けるのか。タイムパトロールを名乗る少女の登場をきっかけに、未来からやってきたとおぼしき諸葛亮の正体が遂に暴かれるのだった。が、総じて、あの血湧き肉躍る男のロマンはどこー、といった感じなのだ。実際、劉備や曹操の大義や野望は物語上さほど重要ではないし、司馬懿や諸葛亮の知略はほとんど個人的な目的のためにあてられている。

 ところで酒見賢一は『泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部』で〈孔明とはドラマツルギーをぶち壊す男なのであり、『三国志』の歴史と物語を歪める放射能をまき散らすジョーカー、トリックスターなのである〉と書いているが、『三国志ジョーカー』の諸葛亮もまた、文字通りのジョーカー、トリックスターであることが如実にうかがえる。結局のところ、司馬懿を巻き込み、いかにも「三国志」的なパブリック・イメージを覆しているのは、諸葛亮にほかならないのだ。では、はたして諸葛亮の目論みとは何か。これはおそらく、『三国志ジョーカー』とは一体何なのか、という本質に符合してくる問いでもあるだろう。

 軍記ものの時代にタイムスリップしてきた人物が、積極的にであれ消極的にであれ、歴史上のイベントに介入してしまう。このタイプのフィクションは決して物珍しくない。『三国志ジョーカー』もそのヴァリエーションだといえばいえるのだけれど、他と様子が異なっているのは、彼の(この場合は諸葛亮の)モチベーションが舞台背景とは完全に乖離していることだと思う。主人公である司馬懿をなぜ付け狙うのか。序盤の段階では、もしかしたら諸葛亮の企みには巨大なサスペンスが隠されているのではないか、と勘繰らせるところがあった。しかしそんなことはなかったぜ。こうはっきりするのが4巻のクライマックスであろう。そしてそれは、以前より司馬懿と諸葛亮の関係に匂わされていたボーイズラブちっくなニュアンスをさらに強めるものとなっている。実は冒頭の、周喩きたああああ、の叫びは彼らの三角関係を期待したい心の声である(冗談半分本気半分だよ)。
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2012年08月17日
 L DK(10) (講談社コミックス別冊フレンド)

 渡辺あゆの『L・DK』も10巻である。まさかここまで続くとは思わなかった。いや、思っていなかったのは、結局のところ、見知らぬ男女の同居ものというワン・アイディアにそれ以上の広がりは生まれないだろうな、と踏んでいたからなのだが、しかし実際にはワン・アイディアでは終わらず、男性側の過去を知る人物の横槍であったり、優しい噛ませ犬の登場と三角関係への発展や、女性側の父親による条件の提示など、少女マンガのラブコメに特有な(アリガチな)パターンを次々に投入して、弾みをつけていったことの成果が、つまりはこうした連載の長期化なのであって、その勢いは今もなお継続している。要するに、だれていない。

 とりわけ10巻においては、主人公である葵と柊聖を取り巻く環境が、高校三年への進級によって大きく様変わりしている点に工夫が見られる。ここで行われているのは、ほとんどリセットと呼ぶのに近いシチュエーションのチェンジであって、同時に登場人物を複数増加させることに成功しているのである。葵は、萌という序盤から出てきている友人と一旦離され、いくらかボーイッシュなタイプである波留という友人と色気があり派手目なタイプのかえでという友人を作る。新しいクラスで新しい友人たちとの、しかもそれがヒロインを含めてタイプの違った三人組となるような関係は、この種のジャンルにお馴染みのものだとしてしまって差し支えがない。過去には萌とのあいだで、一対一の、友情の緊張状態を体験させられた葵だが、今回は三人組のなかの一人として、やはり少女マンガのラブコメに特有な(アリガチな)パターンを演じさせられているのである。もちろん、柊聖と同じクラスになったことで、以前とは異なったコミュニケーションが必要とされ、それが二人の間柄にとってカンフル剤のように機能しているのも看過してはなるまい。

 当初、ワン・アイディアを軸としていた『L・DK』は、たとえ類型的であろうともカンフル剤になりそうなパターンを次々と引っ張ってくることで、ストーリーが膠着してしまうのを免れてきた。だが、一時しのぎの建て増し住宅みたいに不格好になるのみであったなら、もっと早く作品は飽きられてしまっただろう。結果としてそうなっていないのは、最も重要な箇所、土台となる部分を決して壊したり、ずらしたりはしていないためだ。換言すると、葵と柊聖のロマンスは他の人間に秘密でなければならない、このしごく単純なアトラクションをいかに埋もれさせず、キープさせるか。本題は常にはっきりとしている。勢いがだれないことの理由はとても明快なのである。

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・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
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 『キミがスキ』
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2012年07月07日
 湾岸ミッドナイト C1ランナー(11) (ヤンマガKCスペシャル)

 確かこの11巻に収められているエピソードだったか。『ヤングマガジン』に掲載されたとき、とある作中人物の〈実は才能って最初からはっきりあるモノじゃなく / 何かのキッカケで目覚めるのよ / そのキッカケでいちばんが実は模倣なのよ〉〈実はミスチルにもマザーはいるはず / でもわからない / 完全に一人歩きしてるから / つまりそれが才能よ〉なる発言に対し、さりげなく岩見吉朗がTwitterで苦言を呈していた()けれど、それはマンガ原作者の久部緑郎というより、やはり元『ロッキング・オン』の岩見吉朗のものであるように思われたのだった。が、ともあれ、楠みちはるの『湾岸ミッドナイト C1ランナー』は、たぶん世間的にはそう認知されているに違いないものの、必ずしも走り屋のロマンを追っているのではない。

 もちろん、公道でのレーシングを抜きにしては語れないマンガだろう。しかし、本編である『湾岸ミッドナイト』の終盤で、意外とそうした面は後景化していき、自動車産業と密な日本の戦後史(精神史)を作者なりに編み直そうとする部分が大きくなっていたのであって、リニューアルされた「C1ランナー」では、もしフリーターの若者が各種のプロフェッショナルにマネジメントを学んだら(プロのライターになれるか)、とでもすべきストーリーとともに、WEB時代において老舗の自動車雑誌を存続させようとする人々の愛着と奮闘が描かれていた。そこで各種のプロフェッショナルたちが、自動車産業、出版産業、サービス産業と、立場や言葉を変えながら持論として述べているのは、要するに日本の現代史(精神史)にほかならない。先に引用した模倣と才能(ミスチルとオリジナリティ)の発言も、おそらくはそれを象徴するものとなっている。

 主人公の一人であるノブが編集部のアルバイトと多くの出会いを経験することで成長していくさま。『湾岸ミッドナイト』の終盤に登場した荻島信二が優等生であることのジレンマを通じながら自動車評論家としてのポジションを確立していくさま。これらの二点が「C1ランナー」の本筋を動力させているキーだと言える。だが、ここで注目したいのは9巻から物語に加わってきた有栖ガレージのオーナー、有栖高彦の存在である。タカと呼ばれるその中年男性はある種のカリスマであって、ノブや荻島に新たなインスピレーションを与える役割を持たされているのだけれど、それは同時に『シャコタン☆ブギ』や初期の『湾岸ミッドナイト』のサブ・テーマでもあった不良少年がモラトリアムの外でいかに社会と関わっていくか、そして『TOKYOブローカー』や後期の『湾岸ミッドナイト』に組み込まれていたどのような理念によってダンディズムは支えられるのか、等々の、すなわち楠のエッセンスを極めて具体的に凝縮しているのだ。

 実際、作者自身もタカという作中人物を得た(導入した)ことで以降の方向性を掴んだのだろう。『湾岸ミッドナイト』のスタイルがそもそもそうであったように、当初はゲストでしかなかったはずの彼にカメラのズームを合わせていくのだし、出番を経る毎にその容貌が若返ってグッド・ルッキンになっていく。つまり、肩入れの度合いがあからさまになっていくわけだ。タカの半生、それはちょうどオールドスクールなフィクションにおける不良少年の躓きと立身出世を思わせる。バイクの事故で友人を亡くし、挫折を経、自分で自分を救うべく、新天地へ渡ったのち、成功を収める。こうした変遷が、しかし現在進行形のメロドラマではなく、何世代も下の若者に向けた伝承であったり教訓であったり、おっさんのセンチメンタルをぎりぎり免れるか免れないかのラインで、この国の現代史(精神史)とのミックスになっているところに「C1ランナー」の魅力はある。

 10巻のラストで自動車評論家の荒井がノブの進退をめぐって〈…これは前にタカにも言ったんですが / 生きるってコトは「人に借りをつくってる」わけですよね / いいコトも悪いコトも借りをつくっている / いいコトはもらっといて悪いコトは知らない / そーゆうわけにはいかないんですよ〉と言っているこれが、タカの、死んだ友人のオルタナティヴとしての半生、つまり〈「忘れる」もしくは「認める」 / キツいことを振り切るには結局この二つしかないな…と〉〈あの時の負い目はすべて仕事に変えて認めてきた / そして仕事に変えた以上それはもう負い目じゃないと割り切ったわけ〉だという挿話と絡まり、先に引用した模倣と才能の議論にまで影響を及ぼしているのは、正に作品の醍醐味だと言える。

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2012年07月04日
 pupa(2) (アース・スターコミックス)

 掲載誌の『アース☆スター』はマイナーではあるものの、きっかけ次第ではブレイクもありうるのではないか。反面、マニアックな評価にとどまるのが相応しい気もしてしまう。採用されているのは意外とキャッチーな要素ばかりなのだったが、それらの組み合わせが一般受けしそうなラインをどうしてか少し逸れているのである。これまでの2巻を読む限り。茂木清香の『pupa(ピューパ)』というマンガは。そしてそこがいい。

 父親の暴力が原因で、母親からも見捨てられ、それでも健気に生きようとしている兄妹がいた。兄の現(うつつ)は妹の夢を守るためだったら、どれだけ自分が傷ついても構わなかった。仲睦まじい二人の様子はクラスメイトたちが羨むほどであった。決して幸福とは言えないけれど、平穏な日常がずっと続くと信じていた。信じていたのに、そうはいかない。そうはいかなかったことの悲劇性が、荒唐無稽でいてグロテスクなファンタジーのなかに切ない物語を編み出しているのだ。

 ある日のこと、いつも通りの帰路は、しかし兄妹の運命を大きく違えてしまう。突然の岐路でもあった。公園で現を待っているわずかな間、謎めいた赤い蝶を目撃した夢はそれがもたらす不幸をまだ知らない。彼女の異変を直視し、現は驚愕するだろう。まさかあの禍々しい怪物が、人であろうと何であろうと殺して喰らい尽くすあの怪物が、最愛の妹の変わり果てた姿だなんて。pupaと呼ばれる未知のウイルスが原因であることをマリアと名乗る研究者に聞かされた現は、抗ウイルス薬を投与した自分の身を夢に捧げようと決心するのだった。

 極論すれば、近親相姦のモチーフとカニバリズムのイメージとを折り重ねることで作品の骨格が作られており、さらにはドメスティック・ヴァイオレンス(DV)や組織化されたイデオロギーの介入を通じ、半径が狭い世界と巨大な陰謀論の対比という現代的な設定の肉づけが為されているのだと思う。

 カニバリズムもそうだし、人体の破壊など、直接的に残酷な描写の多い内容である。ただし、デフォルメが利いた作風のためか、そのこと自体にとりたててショッキングな効果があるのではない。実際、これぐらいなら、マンガはもちろん、アニメやライトノベルを含め、今日のフィクションにおける(ある程度の規制はかかるかもしれないが)マナーの内に入るだろう。むしろ、それが場合によってはあっけらかんとし、あまりにも屈託がないせいで、ことのほか際どいものとなりえている点に異質さを見られたい。

 登場人物のファッションや作中に江戸川乱歩の引用を確認できるように、ゴシックであったり所謂アングラであったりの趣味が作者にあるのかもしれないけれど、個人的には、もしかすると90年代の華倫変やサガノヘルマーあたりをよりオタクナイズドしていったらこうなるのでは、という印象を持った。絵柄はかなりキュートだが、近いラインの作品がありそうでなかなかなさそうなところに独特と形容してもいい魅力を備えさせているのである。兄妹の父親もあまりにも外道で実にえぐい。

 無論、そうした切り口(語り口)と相まって、テーマのレベルに切ないエモーションが寄り添えている。このことが『pupa』の本領に他ならない。

 2巻にひときわ眩しいシーンがある。主人公の一人がそれを幻だと自覚しながら、その幻のなかのささやかな幸福こそが真実であって欲しい、幻であるなら消えないままでいて欲しいと願うシーンである。現と夢、主人公たちに付けられた名前は、明らかに「現実」と「夢想」のコントラストを象徴している。普通、「現実」と「夢想」は相反していると考えられる。「眠り」と「目覚め」がそうであるのと同様に。だが「現実」であれ「夢想」であれ、いずれであろうとそれが幸福を意味し、必ずや失われていくものであるとき、失われていくことの儚さに胸は締めつけられる。

 ああ、〈今までずっと現実世界が夢ならばいいと思ってきた 忘れてしまいたい事が多すぎるから… だけど… こんな気持ちははじめてだ… この夢が永遠に続きますように〉

 しかし、この願いは叶わない。叶わないという暗示を含んでいるがゆえに眩しさと儚さとを同期させるに至っているのであって、以上のような認識はおそらく『pupa』において着眼すべきテーマとも深く関わっている。では、そのテーマとは何か。グロテスクでいて切ない物語を通じ、こちらへと届いてくるテーマとは何か。仮に述べるとするなら、それたぶんこういうことである。すなわち、理性が本能や衝動に負けるとしても感情によって人は救えるか。

 近親相姦のモチーフであったり、所謂「妹萌え」の文化的なフックが作品の魅力の一端を担っているのは疑うまでもない。ミスマッチとも取れる残酷な描写の数々がそこに差し込んでいるのは、理性を容易く無化しうる本能や衝動、欲望の類だろう。

 さしあたり行為をワキに除け、因果のレベルで考えるとき、人を食らう怪物へと変身した夢に罪はない。もちろん、だからといって彼女の行為は許されるものではない。醜さは罰を連想させる。ある種の喩えである。そうした楔とともに打ち込まれた絶望を、自らを生き餌として捧げることで現は共有するのだったが、当然それは根本的な解決とはなっていない。所詮、同じ地獄に落ちていくのを選んでいるにすぎない。では、二人の運命に救いはまったくないのか。こうした疑問形に対してのわずかな抵抗。もしも現の懸命さに体現されているものがあるとすれば、きっとそれになる。

 奪われた夢の未来を穴埋めしようとする現の態度は単なる徒労なのかもしれない。にもかかわらず、彼の前に他の進路は存在しない。これもまた絶望と判断するのに充分な条件なのだけれど、本当に大切なものは決して投げ出さないという決心だけは叶えられているのだ。消極的にではなく、積極的に。地獄の、暗闇の底で、足掻くことでしか灯せない光を探している。
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2012年06月10日
 ランチキ 9 (少年チャンピオン・コミックス)

 奥嶋ひろまさは苛烈な青春の光と影を不良少年たちの姿に見出そうとしている。卒業していく椿屋からのタイマン指名問題を経、遂に直接対決を果たしたランチキ(鹿野乱吉)とキム(金田鉄雄)は、かつての関係を回復することがないまま、二年へ進級する。キムをトップに抱く仲間とも距離を置くランチキであったが、周囲と馴れ合わない環境が彼を強くするのか。単身、他校とのケンカを繰り返し、降威高校のなかで一目置かれる存在にまでなった。椿屋の弟である新入生らを一派に加えたランチキ。五島などとともに磐石を築くキム。別々の道を進んでいた二人は、しかし同じく播州司馬工業高校という脅威を相手にせねばならなかった。以上が『ランチキ』9巻のあらすじである。

 ヤンキー・マンガとは、学園ものをベースにしたある種の様式美であろう。限られた学校生活をコンセプトとしたストーリーはおおよそ類型化している。この9巻では、降威高校の卒業後の進路がわずかにアナウンスされているけれど、それがプロ・ボクサーであったりヤクザであったりバンド・マンであったりするところを含め、やはり様式美というよりほかない。だが、時代をくだりながら紡ぎ直されていくその物語において、新しい共感や孤独が必然として不可欠に発生しうる点こそが最も見られたいものだと思う。他の作品を引き合いに出すなら、たとえば市川マサの『A-BOUT!』がギャグ(ネタ)のレベルで解釈される通俗性とシリアス(ベタ)のレベルで解釈される通俗性の掛け合わせをナチュラルに展開することでインターネット時代ならではのアイロニックな共感を獲得しているように、だ。

 奥嶋が『ランチキ』で掴んでいる(あるいは掴みかけている)アクチュアリティは、おそらく、主人公の一人である鹿野乱吉の、自分は他の何者にもなれない、他の誰とも何かを分かち合えない、にもかかわらず自分だけでは自分の身を確認できないし、自分を決して満足させられない、そうした屈折を引き受けることでしか自分を証明できないのだとしたら持つべき居場所はどこにもないのではないか、という認識とイコールな孤独に由来している。そしてそれは、たぶん作者が90年代のロック・ミュージックの影響下にあることと無縁ではないのだったが、今日のサブ・カルチャーやフィクションが内面を問題視したとき、自然と携帯してしまう苦悩と重なる。当然、その苦悩ですら様式美だとされる可能性もあるにはある。だからむしろ、様式美を徹底することではからずも定型の綻びからこぼれ落ちる微妙なニュアンスをも総合してしまう、かのような筆致が「ふるさ」のなかに「いま」を覗かせている。ここに『ランチキ』の価値はある。

 ランチキもそうだし、彼の先輩格である手呂にしても、本来は内面のぶっ壊れた人間で(あると周囲に忌まれる)しかない。彼らの暗いロジックを肯定することは、手呂の名前に暗示されている通り、テロリズムを許すことになりかねない。作者は彼らを好意に描きつつもこの一線を厳しく律しているように思う。結果、彼らはどれだけの勝利を得ようとまるで敗北者の影を逃れられない。手負いの椿屋を襲撃し、リベンジを達成したはずの手呂の、ああ、あたかも手元には虚無だけが残されたと言いたげな表情は印象的だ。その姿には、学校を中心とした半径の狭い世界から感情を応酬するのに相応しい唯一の対象、この場合は椿屋が遠のいてしまったせいで、自分だけでは自分の身を確認できず、自分を満足させられないというジレンマが投影されている。喪失感の持続が束の間の達成感を上回っているのである。置いていかれること、取り残されることの寂しさはあくまでも結果として訪れるのであって、すべての結果は過去に立ち戻れないことを含意する。

 もちろん、手呂と椿屋の関係(椿屋に対する手呂の片想い)はランチキとキムの関係(ランチキとキムの両想い)の補助項だろう。キムに破れ、大勢と仲違いし、居場所をなくしてしまったランチキがそれでも学校に止まるのはなぜか。五島たちに詰め寄られたランチキは次のように告げる。〈悪いけど俺が降威高生でおる理由はただ一つ――キムを倒すって事だけや・俺達の繋がりが清い感情だろうが汚れた感情だろうが関係ない・繋がってるって事に意味があるんや……キムもそれを分かってるはずや〉と言う。キムも自分も昔の立場には立ち戻れない。だが、これを断絶としないための方法を。青春の光と影が交わり合うかもしれない場所を。実直に。『ランチキ』は探し当てようとしている。

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2012年06月02日
 キリンThe Happy Ridder Speedway 3 (ヤングキングコミックス)

 東本昌平の『キリン』自体は大変息の長いマンガであるが、所謂巨編のように大きなストーリーが持続的に展開されているのではないし、かといって一話完結に近い小さなエピソードの集成でもない。登場人物や時系列、各種の設定が一定ではない点を含め、ちょっと説明がしづらい。複雑な構成を擁しているのだけれど、基本としてはいくつかに分かれたシリーズの総称を指して『キリン』になるのだと思う。この『キリン The Happy Ridder Speedway』は、必ずしも無印の『キリン』とリンクする内容ではないとはいえ、今までの経緯からすると単純に『キリン』の新シリーズにあたるのが「The Happy Ridder Speedway」ですよ、ぐらいの解釈で差し支えないだろう。それの3巻である。

 おそらく『キリン』というのは、一般的にバイクを主題とした走り屋のロマンと認知されているに違いない。だが、それは初期のシリーズである「POINT OF NO RETURN!」や「The Horizontal Grays」によって確立されたパブリック・イメージにすぎず、以降のシリーズではもっと意欲的に幅の広い枠組みが採用されているのであって、たとえば前シリーズの「WONDER NET WANDER」などはある種のホーム・ドラマですらあった。正直、古くからのファンにすれば、「WONDER NET WANDER」に関して、こんなの『キリン』じゃない、という声が出てきてもおかしくはないかもしれなかった。それほどシリーズ毎の方向性は異なっている。

 そして「The Happy Ridder Speedway」だが、これなんかは『キリン』というよりむしろ同作者の『CB感。REBORN』にニアなものを思わせる。つまり、SFめいた背景にサスペンスを盛り込んだ物語が繰り広げられているのである。東辺町、さびれ、妙なルールに支配された一角に迷い込んだ青年は、自分の名前と記憶とバイクを奪われてしまう。ネギと呼ばれ、夜のクラブで働くことになった彼は、しかし理不尽な住人たちの暴力を尻目に、全てを取り戻すための機会をうかがっていたのだった。誰も許しなくては町を出らない。警察官とギャングが牽制し合い、曰くありげなレースに皆の目が注がれていく。果たして町長をはじめとする権力者は何を秘匿しているのか。

 序盤、日本の田舎町を舞台に『ツイン・ピークス』みたいなアメリカン・ゴシックをやっていくのかと想像していたら、3巻の段階ではだいぶ様子が変わってきている。差し向かいのアクションがばきばき繰り広げられているものの、本質はやはり、ストレンジャーもしくはアウトサイダーが自由の概念を再定義していくあたりにあるのだろう。という意味では、「POINT OF NO RETURN!」の頃とテーマを違えてはいない。

・その他東本昌平に関する文章
 『ハルマン』Vol.1について→こちら
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2012年05月31日
 黒猫DANCE(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

 安田剛士は、同名小説のコミカライズである『一瞬の風になれ』を別にすれば、自転車マンガの『Over Drive』で何らかの病状に苦しむ人間をモチーフとして取り入れ、続くサッカー・マンガの『振り向くな君は』でも同様のモチーフを導入していたのだったが、それらの事例はもしかすると、この作者の深奥には健康を生きられないことを強く生きるというテーマが大きく存在しているのではないか、と思わせる。

 新撰組を題材にした『黒猫DANCE』の主人公は沖田総司であって、その固有名詞からイメージされるのは、やはり健康を生きられないことを強く生きた人物像であろう。

 江戸を離れて日野に暮らす惣次郎少年は知らない。やがて自分が幕末の波乱を血まみれで駆け抜けていくなかで注目されることを今は知らない。傍らで彼を見つめる黒猫によって暗示される〈未来は幾つもの選択で成り立っている・破滅か・覚醒か・そうじ・お前はどの道を選ぶ?〉というヴィジョンは果たして何を意味しているのか。若き日の土方歳三や島崎勝太(近藤勇)との出会いを経、(後の)沖田総司は江戸へと旅立つ。剣の道を極めるべく、決心するのだった。1巻の内容を大まかに説明すると、このようになる。

 通常、沖田総司と聞いて想像される薄命な美少年(青年)の姿はまだここにはない。しかし、冒頭に土方歳三との別れを置いた物語の構成は、どうしたって病床を免れない彼の行く末を、こちらの意識に植え付ける。少年マンガならではのきらきらとした輝きを止めつつ、佐藤秀峰と井上雄彦をミックスしたかのような濃い作風は、死と隣り合わせの壮絶な青春が繰り広げられることを予感させるのであって、当然、そこが魅力の一部を担っているのは明らかだ。

 幸村誠に単行本未収録の「さようならが近いので」という沖田総司の最期を描いた作品があるけれど、モノローグにアナウンスされる〈それは人類史上最後に剣の高みへ辿りつく男の〉〈最初の一降りであった〉の言葉は、『黒猫DANCE』も同様に、ひたすら剣の道を歩むことの純粋性と時代や運命に翻弄されることの悲劇性とが二重写しであるパブリック・イメージのヴァリエーションを織り成していくに違いないと信じさせるのである。

 その上で気になってくるのは、題名にもある「黒猫」の役割だろう。これがとても意味深長なのである。幼い惣次郎は、黒猫をある種の媒介とし、史実に沿うのであれば、新撰組が活躍して以降の歴史を先取り、垣間見る。そうした語り口が、SF的な趣向に基づくものなのか。あるいはこうも考えられはしまいか。これから起こることのすべてが主人公に回想される走馬灯みたいなものであって、死を目前にした沖田自身の依り代こそが黒猫なのだという線もありえるのではないか。

 いずれにせよ、1巻のおしまいで江戸に旅立った惣次郎少年に対して〈やはり今度も選択は変わらぬか〉と述べる黒猫の存在は、ループ構造をベースとした今日におけるフィクションの作法を汲んでいると解釈してもいいし、それが『黒猫DANCE』の、沖田総司のはからずもせつない行く末を象徴している。
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2012年05月20日
 フラワー 1巻 (ヤングキングコミックス)

 いつ頃『ヤングマガジン』から『ヤングキング』へ移籍というルートが確立されたのか詳しくは知らないが、近年の柳内大樹を筆頭に前者でうまく立ち回れなかったマンガ家が後者でブレイクを果たすケースもないわけではないのであって、明石英之もここで伸るか反るかといったところであろう。心優しい殺し屋の仕事ぶりを描いた『フラワー』の1巻である。

 誰もその正体を知らないが、このところ裏の世界でにわかに話題となっているヒットマンがいた。通り名を「フラワー」という。だが実際には噂先行のルーキーであって、一回も暗殺に成功した試しはないのだった。しかし不思議なことに、彼に命を狙われた者、彼の命を狙った者、彼と関わった者たちは皆、フラワーの存在を認め、生き方を変えるほどに強く影響されていく。

 前の二作『きんぼし』と『二瘤駱駝』では、主にスポーツ(格闘)を題材としていた作者である(後者は原作付きであるものの)。それが『フラワー』では、ライトなハードボイルドと見なされるものに挑んでいる。おそらく、新境地といっていいのだけれど、肝要なのは、ライトであることとハードボイルドであることの双方を両手で引き受けられるような、そういうユニークさ、チャーム・ポイントを主人公に与えられている点だと思う。

 おっちょこちょいのルーキーらしさは、不器用な童貞っぽいイメージのなかに生かされている。携帯電話などの現代的なツールを使うにあたって喋らざるをえない場面があるためだろう。正直、まったく無口であってもよかったぐらいだが、極めて寡黙なフラワーはそのかわり、目鼻口のコミカルな動きで感情を表しており、これが作品自体の小気味よいテンポに繋がっているわけだ。ギャグとして見られる軽さ、明るさがある。

 また、ハードボイルドに似たタッチも同様にフラワーが時折覗かせるシリアスな顔つきによって担われている。絶体絶命の窮地を前に、いや確かにおどおどしたりする場面もあるにはあるのだけれど、スタンスそのものは日常と変わらず、ぶれてはいないのだし、こいつ案外何かを隠し持ってるぞ、という予断を感じさせるだけの鋭さ、厳しさをしばしば見せる。事実、彼の壮絶な過去をストーリーは徐々に明かしているであろう。

 なぜ、主人公は「フラワー」と呼ばれるのか。なぜ、彼は殺し屋になったのか。これが本作の核心であって、伏線めいたいくつかの箇所と「アガペー(見返りのない愛)の花」なる存在とが曰くありげに絡み合っていく。

・その他明石英之に関する文章
 『きんぼし』
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2012年05月19日
 ライアー 〜嘘の箱庭〜 (りぼんマスコットコミックス)

 西尾維新がいしかわえみの『絶叫学級』をフェイヴァリットに挙げていたのは記憶に新しいけれど、いしかわえみの『ライアー 〜嘘の箱庭〜』には(部分的にだが)西尾維新の作品を彷彿とさせる哀切があるように思う。

 恋人であった神木が突然の失踪を遂げてから一年が経つ。今でも彼を思うと胸が痛む沙良だったが、親友のあすみや級長の拓也に励まされながら、無事に進級を果たした頃、彼女が通う中学校に神木とそっくりな教師が赴任してきたことで、ああ、誰にも知られてはいけない真実の扉が開く。クラスメイトの携帯電話に一斉送信されてきた「このクラスには嘘をついている人間がいる」というメールは一体何を意味しているのか。日常に隠されていた幼く、幼いがゆえに残酷なまでの愛憎が次第に暴かれていく。

 半径の狭い世界に潜んだ憂鬱=閉塞感をホラー・マンガという喩えのなかに描き出してみせたのが『絶叫学級』だとしたら、同じ題材をより直接的に表しているのが「ライアー 〜嘘の箱庭〜」だといえる。そしてそのことが、秘密を握っているのは誰だ、的なサスペンスをストーリーにもたらしているのである。

 謎解き、ミステリのような整合性を求めるタイプのマンガではないだろう。むしろ、隠蔽され続けてきた一点の明るみになることで、それまでの善良な振る舞いが実は悪意の裏返しであったとばれてしまう。サスペンスはこの倒錯を用意するためのものでしかなく、バランスを欠いた平穏があっけなく壊れる。その容易さの非常に無慈悲であることに登場人物たちは翻弄されるのだし、作品のテーマは集約される。秘密を握っていたのが××だったとは、的な逆転は、しかし意外性や驚きより、なぜ幸せを小さく願っただけのことが悲劇を呼び寄せてしまうのかという、せつない溜め息を生じさせているのであって、桜の美しさに差す光の眩しいラスト・カットを決して明るいものとしていないところに最大のエモーションがある。

 間違いは間違いを通じてのみ正される。この認識が道徳や倫理の枠を外れているのは疑うまでもない。そのような意味において「ライアー 〜嘘の箱庭〜」の結末は禁忌にほかならない。だが、もしも道徳や倫理を守るのに嘘が必要とされるのであれば、禁忌こそが「本当」に等しいのではないか。

 やはり学園を舞台にした西尾維新の『君と僕の壊れた世界』では、あらかじめ嘘と見抜かれている限りその嘘は真実と同型だと判断されるような物語が展開されていた。一方、いしかわが「ライアー 〜嘘の箱庭〜」に展開しているのは、一つの嘘が他の嘘を覆い尽くすことで真実に近いポジションを占めていく様子である。そしてそれは結果的に「永遠」と名付けられ、不可侵なほどにピュアラブルなロマンスへと格上げされる。「このクラスには嘘をついている人間がいる」というメールが告発であるとき、では告発をしているのは誰か。そして告発をされているのは、つまり〈本当に嘘をついていたのは――…〉誰か。このことに留意しておかなければならない。

 私にとって貴方との関係が絶対であるなら他との関係は偽りにすぎない。作中でとある人物が目論んだのは、結局のところ、これを是とするための方式であって、それはすでに述べたとおり、自分のもの以外の嘘を徹底的に統べることで果たされているのだ。決してハッピー・エンドではないなのに、きらきらときらめくラスト・カットを哀切と呼ばずに何と呼ぼう。

 コミックスには表題作のほかに「コドモノ森」という読み切りが収められており、そちらもサスペンスの趣向を持っているけれど、題材とされているのは家族間の愛憎である。「ライアー 〜嘘の箱庭〜」に比べると、やや甘い仕上がりだが、とある親子が辿り着いた幸福に大変微笑まされる。ショート・エピソードの番外編を含め、とてもいい作品だ。

・その他いしかわえみに関する文章
 『絶叫学級』について
  6巻について→こちら
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 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
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2012年05月04日
 おはようおかえり(3) (モーニング KC)

 鳥飼茜には「家出娘」という寂しくてやさしい読み切りがあって、内容はともかく、その題名はくるりの楽曲から取られているのだったが、この作者にとって初の長い連載作品となる『おはようおかえり』が、くるりの楽曲のいくつかを思わせるような柔らかいせつなさを持っているのは、なにも京都を舞台にしているから(だけ)なのではないだろう。短編みたいな小さい情景の繰り返しを日常と呼ぶとき、ささやかな喜びも悲しみも鮮やかな感動となってくる。

 基本的には、青年期の揺らぎを題材にしたマンガで、ミニマリズムに近い。つまりは、スキャンダラスな事件を大げさに扱うのではなく、ライト・ポップでありながら適度にデリケートなコミュニケーションを主要としたアプローチが取られているのだけれど、本筋にそくしていえば、主人公の堂本一保と二人の姉、奈保子と理保子とが、それぞれの愛しい人たちから離れていく、どうしても離れていかざるをえなかった様子を、この3巻は描いている。誰かと別れることの、あまりにもありふれているからこその普遍性が確かに掴まえられているのだった。

 とりわけ、一保と有里恵の儚いワン・シーンを切り出した第15話には、本来は短編作家的である鳥飼の長所が、とてもよく出ていて、ああ、桜の季節はなぜ郷愁を誘うのか。叶わなかった願いにどれほど胸を痛めようと時間はめぐり巡ってしまう。もはや取り戻せはしないものをいくら悔やもうが全ては足早に過ぎ去る。たとえ忘れることができたとしても決して無くしたわけじゃない。だってそうだろう。まだ思い出せるのだ。いつだって春の風は新しい匂いを連れてくる。しかしそれはかつての懐かしい匂いでもある。桜の季節は何度も繰り返される。そしてこれからも繰り返されていくと知っている。こうした既視感のあいだで暮れなずむ永遠と一瞬とが、一保によって見られる情景として、眩しく現れているのである。

 一保によって見られる情景は正しく夢である。同時にそれは抽象度の高いリアリティでもある。そこには彼と彼女のこれまでと別の女性とのこれからが暗示されている。桜の季節のイメージが、決定的な何かがすでに定められてしまった過去と決定的な何かが曖昧にぼかされたままの未来とを美しく飲み込んでいく。コマが大きくなるにつれて、言葉から表情へ、仕草の一つ一つへ、出しゃばりすぎず、でもはっきりと浮かび上がってくるエモーションが、実に見事だ。この作者ならではの、読み切りの一編としても通用する寂しさとやさしさを備えている。

 もちろん、先行するエピソードを読み手は踏まえているので、現実に引き戻される(右のコマから左のコマに視線を移す)一保の戸惑いに、異論の余地がない。たとえば2巻に収められた第9話で、一保のモノローグが〈何かを失っても・新しい場所には新しい発見があるやろう・今までに負けないぐらいの・まだ俺が知らんだけで〉と言っている箇所を振り返られたい。そこでの一保の視線(あるいは顔面)は右のコマを向いている。対して第15話の〈友達でもなんでもええからさ・僕の前からもう誰も消えなければいいのに〉というモノローグを彼が述べるとき、その視線(あるいは顔面)は左のコマを向いている。両者の違いを看過してはならない。それはおそらく、一保の意識(無意識)にとって、有里恵が意味しているものと実佑紀が意味しているものの違いなのである。

 青年期の揺らぎを題材とした『おはようおかえり』において、大切だと信じていたはずのことがはからずも自分の足場を揺るがせるその不安は、非常にあっけなく、訪れる。ある場合にそれはロマンスの終わりや始まりとして存在しているのだけれど、ある場合には他には乗り換えられない家族の関係として存在している。奈保子と理保子、一保の姉弟が付かず離れずにいるのは、家族の基準がどこにあるのかを象徴しているのだし、一保の上司である福住が病床の父親とのあいだに微妙な葛藤を抱えているのも、やはりそうだ。

 条件は異なれど、きっと誰の人生にも難しいときがある。この3巻にはとくにそれが顕著であると思う。だが、むやみに黄昏れているのではない。くるりの楽曲になぞらえていうなら、「JUBLEE」のあの柔らかいせつなさ。〈祝祭・歓びとは・誰かが去るかなしみを・胸に抱きながらあふれた・一粒の雫なんだろう〉と歌われるようなきらめきが、嘆息の先に広がっている。

 1巻について→こちら

・その他鳥飼茜に関する文章
 「家出娘」について→こちら
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら
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2012年04月29日
 蒼太の包丁(33) (マンサンコミックス)

 最近、情報誌や書店などでグルメ・マンガが特集されているのをよく見かけるが、この作品が取り上げられているというのはほとんどないような気がする。それはたぶん、『蒼太の包丁』が、テレビのヴァラエティやワイドショー的なコンセプトではなく、テレビのドラマに近いタイプの成り立ちをしているためだろう。換言すれば、ワン・カットやワン・ショットの強度ではなしに、時間の軸をベースとしたストーリーに重きが置かれているのであって、料理自体の描写や紹介がどうというより、そのストーリーに乗れるかどうかで判断されるきらいがあるからなのだと思う。まあ人情とロマンをミックスした話の筋は、いくらかオールドスクールであるし、要するにヒップじゃないんだ。けれども、地味ながら徐々に積み上げられていく物語の確かさこそが、やはり『蒼太の包丁』の魅力にほかならないわけである。

 長期連載作品において、物語=時間の経過をどうアピールするか。一つには、主人公の立場や環境に変化を加えることが挙げられる。そしてもう一つには、過去の登場人物をカムバックさせ、それとの対比によって、先の変化を如実にするなどが挙げられるだろう。これらの手法の駆使が、ここ数巻『蒼太の包丁』を支えてきたのだが、無論、この33巻も同様である。中学生になって再登場した時藤啓一と黒坂千鶴の成長を描くなかに作品の足跡が現れているのであって、また過去のエピソードから引っ張ってこられた意外な人物と花ノ井清一の交際が、主人公の北丘蒼太に、人の上に立ち、店を切り盛りしていくことの難しさをあらためて教える機会になっている。それにしても本作の誠実さは、絶え間ない努力を力強く肯定する一方で、それが無条件の正解とはならないことをシビアに突きつけてくる点だと思う。おそらく、正解のない世界だからといって努力を容易く手放すことも非常に愚かしいという態度がそこでは貫かれている。

 30巻について→こちら
 25巻について→こちら
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 22巻について→こちら
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2012年04月28日
 純情ドロップ (マーガレットコミックス)

 内面と外見のイメージが一致しないこと。通常、それはギャップと呼ばれる。そうしたギャップからはじまるラブコメを中原アヤは『純情ドロップ』に描いている。クラスメイトの青山にふられたばかりのヒロイン、桃田は、弟の真希が通う保育園で、学校中にその形相をおそれられている、やはりクラスメイトの赤居とばったり鉢合わせてしまう。赤居もまた姪のココナを迎えに来ていたのだった。真希とココナが仲良しであったため、はからずも公園で一時を過ごす羽目になった両者だが、しかしぎこちない会話のなか、桃田は赤居が周囲に見られているような不良少年ではなく、実は思い遣りに溢れた人間であることを知っていく。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。そこからはじまるラブコメというのは、別段目新しい発想ではないだろう。ロマンスを題材にしたフィクションにおいては、オーソドックスなものですらある。いや、現実の恋にしてもそうか。あの人の意外な一面を見てしまった、であったり、みんなが知らないあの人を理解しているのは私だけ、であったり。ギャップの介在は、なんらかの関係が生じるきっかけになりうるし、なんらかの関係を特別なレベルに底上げする燃料となりうる。ああ、まったくよくあることではないか。ある種のラブコメはこれの戯画化にほかならないので、ちょっとした出来事の大げさな語り口にはらはらときめかされるのである。『ラブ★コン』のヒット以降、あるいは『ラブ★コン』自体が『HANADA』のヴァリエーションであったとしたらそれ以前より、コンセプト先行型のスタイルに従事するなか、しばしば空回りを見せてきた中原だけれど、『純情ドロップ』では、これまでに比べ、いくぶんストレートに少女マンガの文脈に忠実なロマンスをやっている印象が強い。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。どうして桃田は赤居を気にかけるようになっていったのか。無論、それは赤居の心優しい部分に触れたためだ。が、もう一つ別の解釈も許される。なぜ最初は青山に惹かれていたのか。桃田によって述べられる理由は、もしかしたら彼女が、ギャップに弱いタイプであることを暗に示してはいまいか。ここで注意されたいのは、桃田の性格が明け透けだという点だろう(コミックスのカヴァーに付せられた紹介では「天然」となっているけど、それが「天然ボケ」に由来する言葉であれば、桃田は必ずしも「ボケ」ているわけではない)。その真っ正直な性格が、彼女に、みんなが見ているのとは違う赤居(や青山)の姿を見させているのだし、やがて赤居(や青山)の言動に影響を与えるファクターとなっているのである。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。『純情ドロップ』は、プロローグを含めた全5話で構成された作品である。そしてそのストーリーは基本的に桃田の主観=モノローグで進んでいくのだったが、第3話のみ、赤居の主観=モノローグに内容がスイッチしているのは、正しくそれが起承転結の「転」にあたる箇所だからなのだと思う。そこでは外見を通じ、ギャップを見られていたはずの赤居の内面が、赤裸々に語られている。あるいは内面を通じ、外見がどうとかいうギャップは、自覚的に埋められていく。それがエンディングである最終話の、小さくて大きな感動へと繋がるのだ。当然、あの例の関西弁を込みのコミカルな調子で描かれているところに、この作者ならではの個性がよく出ており、従来のファンを決して裏切らない。しかし同時に、コンセプト先行型のスタイルをいくらか逸れながら、少女マンガの文脈に忠実なロマンスを繰り広げているところに、はらはらときめかされる。

・その他中原アヤに関する文章
 『ベリーダイナマイト』3巻について→こちら
 『ナナコロビン』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ときめき学園・王子組』について→こちら
 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2012年04月27日
 皇子かプリンス 2 (マーガレットコミックス)

 前作の『悪魔とラブソング』ではアメリカ兵によるレイプ問題を。そしてこの『皇子かプリンス』では皇室の恋愛を、ある種のモチーフとして導入している桃森ミヨシだが、なにも社会派のマンガ家というわけでもないだろう。そうした(本来ならばデリケートな)題材に触れる際の大雑把な手つきからはむしろ、ゴシップ的な好奇心を大声で話せる無神経さ、それをイノセンスと取り違えている感さえ見受けられるのである。実際には下品な登場人物しか描けない、にもかかわらず読み手にピュアラブルだと錯覚させてしまう危うさは『ハツカレ』の頃より一切変わっていない。しかしその危うさを差し引いてもなお魅力的なポイントの本作にあることが、少なくとも2巻の時点では感じられる。

 端的にいって、それは三角関係である。『ハツカレ』においても『悪魔とラブソング』においても、男女の三角関係は、ドラマを盛り上げるための予感として用いられながら、しかし具体的には扱われなてこなかった。踏み込みが浅かったともいえる。半径の狭い世界を舞台にし、物語を回しているのに、その中心からは目をそらしているようなところがあった。アイディアに淫しているだけではないかと思わせるものがあったのだ。結果、登場人物たちの交わり、心の働きが、ひどく単純になってしまっていた。もちろん、そうした底の浅さを純情と結びつけて解釈されたいのが作者の目論みではあったのだろうし、一部では確かに成功していたので相応のヒットを得られたに違いない。だがそれは必ずしも、繊細なコミュニケーションを取り上げられないという作者の不得意を覆してはいない。

 ヒロインと双子の皇子の出会いを本筋に置いている『皇子かプリンス』では、必然、どう三角関係を扱うかが重要視されてくる。このことはある意味で選択を迫っている題名にも明らかだと思う。身分とタイプの異なった二人の男子に優柔不断な少女が挟まれる。こうした構図は、少女マンガにベーシックなものだと言っていい。現段階では、それが顕著になっており、作中人物たちの思惑が不本意にすれ違っていく、あるいは不本意に重なりあっていくその摩擦に、繊細なコミュニケーションの光と影とがはっきり現れているのだった。ただ、やはり気になってしまうのは、これが(だいぶファンタジー化されてはいるのだけれど)皇室をモデルにしている点であって(今までの作品と同じく)思慮の欠如したヒロインをまるでイノセンスだと演出している点である。それらは設定や局面の難しさを妙な善人論ではぐらかすという作者の悪癖を懸念させる材料となっている。
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2012年04月17日
 ARISA(10) (講談社コミックスなかよし)

 本人の与り知らぬ運命を限定条件下のゲーム=サヴァイヴァルに喩えるかのようなフィクションのブームも一段落しつつあるか。ここ数年で人気作が次々と完結を迎えている。安藤なつみの『ARISA』もいよいよ佳境に入った。2-Bのクラスを影で支配する「王様」の正体がついに明かされ、幾多の不幸を生んだ「王様ゲーム」の起源がこの10巻でとうとう語られることになったのだった。

 まあ10巻から読みはじめる向きはないと見越しているのだろう。コミックスのカヴァー(裏表紙)に記載された紹介文がネタを割りすぎているような気もするので、そこまでナーヴァースになる必要はないのかもしれないけれど、一応はミステリ的なパートを持ったマンガであるため、なるたけストーリーの核心には触れないようにしながら話を進めたい。

 この手のジャンルにおいて、最も善良そうな(あるいは最も無害に思われる)人物が実は黒幕だった、という展開は一種の鉄則だと考えてよい。それがパターンである以上は「王様」の正体にさほどの驚きはないのだが、しかし『ARISA』の場合、「王様」が自ら露わにしていく悪意とヒロインであるつばさに託された理念との対照にサスペンスの特徴がよく出ているのであって、両者のお互いを否定せずにはおれない関係が何より直接になったことは、なかなかにスリリングだ。

 10巻で着目しておきたいのは、「王様」の正体に翻弄され、一旦敗北したかのようなつばさが、とある人物に対する別のとある人物の態度を目の当たりにし、再び妹のありさと向き合っていこうとする、その身振りである。「王様」のいかなる計略がつばさの心を折りかけたか。そしてそれがつばさのどういう言葉と表情によって示されているのかを見られたい。

 つばさは「王様」にこう言われただろう。〈でも キミだってそうとうこわい人だよ(略)人のものをうばう 最低な人間だよね〉と。この指摘は必ずしもブラフではない。実際につばさの後ろめたさを暴いているからこそ、彼女に〈なにがドキドキするだよ バカじゃねーの〉〈あたしが悪いんだ ありさを助けることだけ思ってなきゃいけなかったのに〉と後悔させるほどの効果を上げているのである。

 振り返るのであれば、『ARISA』とは、利己的な子供たちのゲーム=サヴァイヴァルに途中参加した主人公が、限定条件下でそのルールを正面から否定するという物語であった。ヤンキイッシュな少女として設定されたヒロインのつばさは、つまり利己的な世界のなかでどれだけ利他的な態度を貫き通せるかを測りうるリトマス試験紙にほかならなかったのである。しかし、先の「王様」にもたらされたつばさの挫折は、彼女もまた利己的な子供にすぎなかったことの告白を伴っている。

 同時に、本作の極めてエモーショナルなポイント(そしてそれが『なかよし』という掲載誌本来の若い読み手に誠実だと思われる理由)は、反省が失敗を乗り越えさせることもあるのだというポジティヴな解釈を決して手放してはいないところなのだった。ここで、かつて散々苦しめられた玖堂の意外な素顔が、結果的につばさの窮地を救っている。その点を看過してはならないだろう。

 玖堂もつばさと同様にゲーム=サヴァイヴァルに途中参加してきた者である。では、なぜ外部の人間であるはずの彼がゲーム=サヴァイヴァルのプレイヤーにならなければならなかったのか。動機は一体何なのか。それもこの10巻の大きなハイライトとなっている。とある人物への献身ゆえに玖堂は進んで自分を犠牲にしていったのだ。

 つばさと玖堂は、手段や目的は異なれど、いや、もしかしたら目的の本質は異なっていないかもしれないのかもしれないけれど、利己的であることに反対の立場に立っているという部分で実は一致している。あれだけ憎らしかった玖堂が、その動機を知った途端、とてもせつない存在に変わってしまうのは、他の誰かとの繋がりが孤独を忘れさせるのに十分な希望になることを証明しているからである。

 ああ、玖堂、玖堂よお。〈ボクの生きる支えだ… 裏切られたってうらんだりするわけない〉と言い、〈こんな ボクに「いてくれてありがとう」っていってくれたんだ ボクに 一番ほしかった言葉をくれた… そのとき決めたんだ この命をこの娘(こ)のために使おうって この娘(こ)を守るためなら 悪魔にもなるんだって――…〉と言う彼の願いは確かに暗いものではあるものの、疑いなきひたむきさにはどうしたって胸を打たれてしまう。

 描写の上でというより、読み手の感想のレベルでは、玖堂のひたむきさを代わりに引き受けることでつばさは当初のモチベーションを回復しているように思われる。あるいはそうしたプロセスを経て、つばさは利他的であろうとする態度を取り戻し、再び妹のありさをめぐる闘争に身を乗り出すことができているように思われるのである。

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2012年03月27日
 俺物語!! 1 (マーガレットコミックス)

 絵には以前ほどの魅力がなくなってしまい、死んでいるかのように瞳孔が開いた目ばかりを描き続ける河原和音だが、マンガの原作者としては山川あいじと組んで『友だちの話』という紛れもない傑作を世に送り出したのは記憶に新しい。その河原が、今度はアルコをパートナーに選び、颯爽としたスタートを切ってみせたのが、この『俺物語!!』の1巻である。

 剛田猛男。名前からイメージされる人物像を実に裏切らぬ野郎であった。一般的にはハンサムじゃない。柔道着を担ぐ姿は時代がかっているし、体つきは巨大な熊を思わせる。腕っぷしには自信があるものの、猪突猛進型の性格は決してデリケートとはいえない。もちろん、女性に好かれるタイプではないだろう。ヒップな青春とは明らかに無縁そうな主人公なのだ。

 対して、猛男の幼馴染み、三歳のときから高校にあがった現在まで十年以上の付き合いをしている砂川は、100パーセントのイケメンさんである。昔から女の子に人気がある。もてなかったことがない。猛男が好きになった女の子はみんな砂川のことを好きだと言うのであった。しかしまあ、外野の人間にしてみたら、どうしてそんなにもアンバランスな彼らが一緒にいるのか。不思議だ。いや、当の猛男にしたって〈こんなオレ達がなぜ友達なのか・けっこう謎だ〉と疑問に感じているではないか。

 第一の印象を述べるなら、『俺物語!!』は、自分とは不釣り合いな少女である大和に恋をした猛男の、明後日の方向へと突っ走っていくガッツが題材のラブコメだというふうに見られる。猛男、猛男よお、その恋がうまくいくといいな、お前のよさがわかってもらえるといいなあ、猛男よお。ほとんどギャグでしかない彼の言動にニヤニヤしながら、あたたかい声援を送りたくなるのである。

 第二の印象を述べるとすれば、上記の通り、アンバランスな猛男と砂川の(当然、良い意味での)腐れ縁をベースにした、つまり友情のかけがえのなさに重きを置き、でもそれがあまりにもストレートだと照れるから、コミックならではのレトリックを豊富に交えることで、白けず、心をぽっとさせてくれる体温を再現したバディものに見える。クールな砂川の隠された内面には暗示的に猛男への理解が含まれている。関係の深度に、あ、いいな、と羨ましくなるものがある。

 だが、第一の印象と第二の印象は決して離れているわけではない。猛男に注ぐ大和の(あるいは大和に注がれた猛男の)視線においては前者が、猛男に注ぐ砂川の(あるいは砂川に注がれた猛男の)視線においては後者が、とりわけクリアになっているに過ぎないのであって、要は、猛男というアピールが周囲の人間にどう関与するか。これを最大のテーマとして見て取れるところに、『俺物語!!』なる題名の本質が現れている。

 確かに猛男の振る舞いは、独善すれすれ、である。その「独善」であることが「俺」という押しの強い主語を作り出してはいるだろう。しかし「すれすれ」であることのなかから浮かび上がってくる悲喜こもごも、利己や保身ではなく、周囲の人間を認め、周囲の人間から認められるだけの余地が「物語」をエモーショナルに織り成しているのだ。

 一個の人格または個性を平面として見ない。多面体に近い見え方をさせる。ラブコメとバディもののミックスは、表層こそ違えど、実は先の『友だちの話』と同様のアプローチを果たしていく。そしてそれは、誰かが君のことをちゃんとわかってくれているというやさしさを内奥に忍ばせているので、紙幅を埋める高いテンションに息つく間もないはずなのに、不思議と人心地つけるのである。

 ここ数作ではギャグにシフトした作風と雑なタッチとの区別がなくなってしまっていたアルコも、原作者を得、新たに緊張を取り戻したからか、他の作家の持ち味を参考にしながら(ヒロインである大和の恥ずかしげな表情にそれはよく出ていると思う)、効果的にコマを割り、弾むようなテンポを成立することができている。剛田猛男というオールドスクールな人物像は、まず間違いなく『ヤスコとケンジ』でヤンキイッシュなドタバタ劇を描いたアルコでなければ生きなかっただろう。

 どのような形で河原が原作(ネーム)を提供しているのかは『友だちの話』の巻末に載っている。今回も同じパターンで作業が行われているかどうかは不明だけれど、アルコならではの茶目っ気が、たとえば河原の『青空エール』には決定的に欠けているそれが、『俺物語!!』の魅力に貢献しているのは明らかなのだ。

・その他河原和音に関する文章
 『青空エール』2巻について→こちら
 『高校デビュー』
  9巻について→こちら  
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら

・その他アルコに関する文章
 『終電車』について→こちら
 『超立!! 桃の木高校』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2012年03月15日
 月と太陽のピース(1) (講談社コミックス別冊フレンド)

 前作『白のエデン』と前々作『彼はトモダチ』でドロドロとしたテイストのメロドラマを描いてきた吉岡李々子の新作『月と太陽のピース』は、この1巻を読む限り、現代的で爽やかな、と言ってもいいような青春像が繰り広げられている。要するに(とりあえずはまだ)悲劇的な展開が見当たらないのだったが、それというのはおそらくヒロインの快活で明るい性格によるところが大きいと思う。

 悲劇的な展開は見当たらないと述べたけれど、実際のストーリーは彼女と恋人との別れの予感を出だしにしているのだった。が、しかしそこから暗い心情のアピールへ作品は流れていかない。散々な目に落ち込むヒロインの姿を描写の中心に置いてはいない。確かに彼女はせつない表情を浮かべざるをえない状況を前にしているものの、いや、それ以上の笑顔が『月と太陽のピース』というマンガにアップ・テンポなムードをもたらしているのである。

 誕生日であった。世間がクリスマスに浮かれるなか、主人公である槻ノ木沢実々のもとには一番大切な人からの連絡だけがこない。結局、アルバイトをし、その足でクラスメイトのパーティに顔を出すのを良しとしたい。災難なのは、途中の電車で痴漢に遭ったことだろう。自分と同世代の男子をとっつかまえた彼女だが、それは誤解だと、しまいにはその男子の友人も一緒になってシラを切られてしまう。そして16歳になった。次の年の春である。2年に進級し、新しいクラスに移った実々は、まさかクリスマスに出会った斎藤壱紀と斎藤誉の二人に再び対面する。

 こうして、彼女と彼らのあいだで高校生活をベースにした三角関係が繰り広げられていくわけだ。と、予想できる範囲で『月と太陽のピース』のアウトラインは述べられる。もちろん、W斎藤は、校内でも知られたイケメンさんであり、対照的な性格をしているという設定を含めて、ある種のセオリーがしっかり押さえられているのは手堅いし、またネガティヴなパートを極力省いた結果、内面のハンサムな人物が多数を占めるのは今日のトレンドを踏まえているといえる。

 ただし、それらはあくまでもフックをどう作るかというレベルの話であって、壊れそうな線の絵柄と同質のデリカシーが作中人物のコミュニケーションを成立させている点に、こちらの心は動かされる。そしてその、デリケートなコミュニケーションは必ずしも作中人物たちをストレートに結びつけはしない。このような屈託に作者の本質がとてもよく出ているのだった。

 自分へ向けられたやさしさに対して素直になるべきなのになれない。それは誰しもが少なからず経験したことのある局面に相違ない。先にいった通り、ヒロインの実々は快活で明るい性格だが、壱紀と誉のささやかな気遣いに触れ、嬉しく思いながらも、感謝の言葉をなかなか表すことができない。一方でそれはタイミングの問題である。たとえば彼女が感謝を伝えようとしたとき(p119)タイミングに邪魔をされる。しかし他方でそれはシチュエーションの問題である。たとえば彼女が伝えようとした感謝は(p156)シチュエーションによって裏返しにされてしまう。

 序盤に(p41)実々が素直に感謝の言葉を表しているシーンがある。以上の二箇所とそれを比べられたい。そこからは彼女の、わずかだとしても、明らかに意識の変化が見て取れるだろう。そういう、少しずつ他人との距離を狭めていくことが、どうしてか気持ちに窪みを与える。窪みに躓かされる。躓くことの歯痒さが、『月と太陽のピース』にピュアラブルでいてエモーショナルなきらめきを落としている。

・その他吉岡李々子に関する文章
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
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2012年03月03日
 SOUL 覇 第2章 1 (ビッグ コミックス)

 タイトルは「LORD」から「SOUL」へ。そして「超三国志」から「真三国志」の冠へ。しかし「真」を謳いながら明らかな偽史を描くこと。この野蛮ともいえる手つきが、本作を一種異様なエンターテイメントに仕立てているわけだ。22巻の内容まで進んだ『覇 -LORD』をリニューアルし、改めて続編的なフェーズを展開していこうとするのが、『SOUL 覇 第2章』の1巻である。

 いや、実際に作中の時間もいくらかジャンプしており、『覇 -LORD-』で目覚ましい活躍を見せていた英雄たちが、序盤の段階より、実にあっけなく、薄情なほど、物語を次々とリタイアしていく。また、子供であったはずの関平や諸葛亮が、いつの間にやら大きく成長していて、青年期ならではの勇ましさを持ち、本筋に絡んでくるのだった。が、最も驚くべきは、劉備(燎宇)の豹変である。ともすればタガを外した劉備の言動に関羽と張飛は愛想を尽かし、ついには離反してしまうのだ。思わず、自分が知っている「三国志」と違う、と言いたい。

 おそらく、武論尊にとって「三国志(演義)」は喩え=入れ物でしかないのだろう。バイク代わりか、荒馬にまたがった無法者たちが暴れ回る様子は、さながら平松伸二と組んだ『ドーベルマン刑事』や原哲夫と組んだ『北斗の拳』みたいだし、中国大陸を舞台にしているにもかかわらず、日本人のアイデンティティを執拗に問い質すかのようなテーマの出し方は、史村翔名義で池上遼一と組んできた『サンクチュアリ』や『オデッセイ』に通じている。多国籍を装ったヴァイオレンスは、さしずめ『strain』や『HEAT -灼熱-』のヴァリエーションと解釈可能したところで差し支えがない。

 正直に述べてしまえば、倭人に設定されている劉備が、中国大陸で万世一系を説き、卑弥呼を主権として招き入れようとしているのは、アジアの歴史を考えたとき、ややイデオロギッシュな印象をもたらしかねない。そのような危うさがあるにあるのだけれど、根無し草的な人々がどうやって己のルーツを定めていくかという、つまりは武論尊のキャリアに顕著なハードボイルド・タイプのロマンこそが、『SOUL 覇 第2章』の本質であって、それが劉備はもちろん、曹操や孫一族など、「三国志」の英雄たちに託されているのである。

 万世一系を説く劉備、絶対的な皇帝になろうとする曹操、首都の消失を企てる諸葛亮、十字架の教えを胸に抱いた周瑜、彼らの思惑は、確かに国家論の対立として現れてはいるものの、己と大衆が信を置くべきルーツの開拓を基礎にしているという点で、意外にも共通する。

 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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2012年02月14日
 どのように挫折を描くか。あるいはどのように挫折からの回復を描くか。それはおそらく00年代後半のヤンキー・マンガに顕著な問題だったのではないか。こう考えられるとき、柳内大樹の『ギャングキング』におけるジミーのあの、当初のスケールを失念したかのようなしょぼくれ具合にも説明がつくのである。無論、その問題は、たとえば高橋ヒロシの『QP』や田中宏の『莫逆家族』で社会人を対象としていたものが、山本隆一郎の『ゴールド』を経、再び学園を舞台とする不良少年の物語へと移し換えられた結果なのであって、以上をジャンル的な変遷としてとらえることができるだろう。

 さしあたり、奥嶋ひろまさの『ランチキ』などもその延長線上に位置させることが可能だと思う。挫折。挫折。挫折。ここ数巻に渡り、いやもしかすれば序盤の段階より主人公である鹿野乱吉を見舞ってきたのは、当人の自信をことごとく挫くほどの躓きであった。周囲から期待されないことに反発するも、自分自身の期待を自分自身で裏切ってしまうという躓きである。相応に悩み、苦しみ、ようやく提出したはずの解答が間違っているとされるのはキツい。こうしたキツさを、結果的にだが、乱吉は引き受けざるをえないのであって、それが物語の中心的な活躍を実現するのとは別の役割を彼に与えている。主人公であるにもかかわらず、だ。

 この手のジャンルでは、イケイケ型の主人公が無茶無謀をしたり、成り上がり、作品の世界=学園や地域のなかで一目置かれていくのが常道だけれど、『ランチキ』の場合、いくらかそこをずれてしまっているところがあって、確かに個々の展開と描写には、こちらの鼻息をふんふん荒くさせるものがあるのだったが、ストーリーのレベルでは、高まったテンションが、ぐっとガッツ・ポーズを取らせる段階にまで跳ねていかない。最高潮に達しそうだぞ、という手前で乱吉が躓くためである。

 反面、無二の親友であるキム(金田鉄雄)が、ケンカの強さと人柄を買われ、校内での地位を固めていくのが、乱吉の立場からすると、せつない。物語の当初はてっきり、歴代のヤンキー・マンガにおける名コンビみたいに、乱吉とキムがナイスなコンビネーションで八面六臂の、それこそ物語の中心的な活躍な果たすものだと予想されたのだが、案外そうはなっていないのである。むしろ、パートナーであったはずのキムとの差が大きく開いていくにつれて、おまえなんでそのポジションにいるの、的に主人公としての乱吉の立場は危うくなってしまう。がゆえに、彼の存在はフラストレーションから自由になれないのだし、作品を前にしてある種のカタルシス作用が弱いと感じられるのも同じ理由によっている。

 しかしながらその、フラストレーション=ハッスルのむなしさこそが、現時点で『ランチキ』の、最大のアドヴァンテージたりえているのもまた事実だ。どれだけ手を伸ばそうが何者にもなれない。いまだ何者にもなれずにいる。それを強く思い知らされる。このような挫折は、何も不良少年に特有のものではないだろう。思春期ならではの光景を、根拠のない全能感ではなく、ア・プリオリな不全性を通じ、切り出すことで、挫折という普遍的な問題の、とくに皮肉めいた仕打ちが、エンターテイメント上の「喩え」として、よく生かされている。

 ラストのカットで乱吉の見せる表情が痛切な、あまりにも痛切な8巻である。キムと距離を置き、同級生たちのあいだで孤立してしまった乱吉は、狂犬のごとくおそれられる2年の手呂と関わりを持つこととなる。降威高校のトップである3年の椿屋は、乱吉と手呂が手を組み、次々と他校にケンカを売るのを静観するのだったが、キムを盛り立てていこうとする五島たち1年の乱吉に対する風当たりは強くなるばかり。緊張が高まるなか、椿屋は最後のタイマンの相手にとある人物を指名する。それはつまり、椿屋が去った後の降威高校を取り仕切るということでもある。

 果たして指名されたのは誰か。こじれてしまった関係を乗り越え、キムと乱吉が再びコンビを組むことはあるのか。主人公の挫折に強調線を引き続ける物語に更なる風雲急が告げられた。

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2012年02月09日
 疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day’s〜(2) (ヤンマガKCスペシャル)

 ああ、〈“死の商人”‥‥ それが“天羽一族の事業”さ‥‥ “父さん(ダッド)”はそれを憎んで合衆国(ステイツ)へ渡った‥‥ そして あの日死んだ‥‥ “母さん(マアム)”と一緒に‥‥ オレが望んだとでも? “悪魔”に赦しを請えよ? ラファエル‥‥〉と。これである。このダイアローグでありながらモノローグにも思われるポエジーこそが『疾風伝説 特攻の拓』の、あるいは佐木飛朗斗の真骨頂であろう。

 果たして現代に『特攻の拓』の前日譚=『外伝 〜Early Day's〜』が発表されることはどれぐらいの意義を持っているのか。2巻に入ってもなお議論の余地は残る。個人的には佐木が東直輝と組んだ性格上は続編にあたる『外天の夏』や『爆音伝説 カブラギ』のほうにアクチュアリティを見たいのだったが、しかし物語を解くというより詩歌を詠ずるような気持ちで作品に接するのであれば、コミックスのオビに記された「音速の累計70万部突破!!」という売り上げもわからないではない。かつてと同等の心象が、ある種のポエジーを通じて、いや確かに伝わってくる。それだけは絶対に損なわれてはいないと実感されるのである。

 いくつもの事件をパラレルに展開するのが、『外伝 〜Early Day's〜』に限らず、佐木が原作の特徴であるけれど、本来なら同じ時間帯を共有しているはずのそれらが、全体の整合性をほとんど無視し、各々のドラマを肥大させていった結果、一日がちっとも終わらないのに、まるで数日が過ぎ去ったかのような錯覚を引き起こしてしまう。無論、これを指して、タイム・テーブルの調整が狂っていると揶揄することはできる。だが、本当にそうなのだろうか。おそらくはその、歪んだ時空の在り方によってでしか、佐木の思想=宇宙は証明されえないと考えるべきなのではないか。以上のことが是であるとき、浮かび上がるのは、もはや物語の問題ではなく、詩歌の問題にほかならない。ええっ、さすがにそれは過言でしょう、と眉をひそめてもよいよ。

 ただし、物語の問題であれ、詩歌の問題であれ、本質のレベルでは、争いのない世界なんてないというテーマと純粋な祈りは必ずや争いを止められるというテーマとが常にせめぎ合っている点を忘れてはいけない。

 そう、一例を挙げるなら、本作における主人公の天羽“セロニアス”時貞が恋人である芹沢優理との会話のなかで漏らしたとある楽曲への感想は、間違いなく、詩歌としての儚さ=ポエジーを宿しているし、佐木の編み出す物語が潜在的に抱えた矛盾を覗かせる。つまりは〈“新世界より”‥‥ ドヴォルザークの“祈り”だよ‥‥ この“楽曲”は“宇宙”を祈ってるんだ‥ きっと‥‥ ウジェーヌ・イザイのようには‥‥ “呪”わない‥‥〉という憧憬が、あるいは黄昏が述べられる一方で、屈指のギタリストでもある天羽ですらそれを弾きこなすことは〈“無理”‥ だよ “優理”‥‥ コイツはどーにもならないのさ? “不可能”だよ 今のオレの“力”では‥‥〉という諦念が、あるいは留保が告げられているのだ。

 潜在的に抱えた矛盾そのものを真理として走らせるあまり、無尽蔵に膨張し続け、混乱を手招き、あやうく破綻しかねないのが、佐木の宇宙であり、魅力である。これを巧みに制御し、物語ならではの強度を機能させているところに、所十三の重みを見られたい。原作がどのような形式で手渡されるのかは不明だが、『特攻の拓』以降、他のマンガ家たちが佐木飛朗斗と組んで描いてきた作品、とりわけ不良少年の物語には、あきらかに所のイディオムを踏まえているものが少なくない。

 また『週刊文春』2011年10月27日号の「マンガホニャララ」で『特攻の拓』の復刊を取り上げたブルボン小林は「拓も不良たちも頑丈だ。頑丈さは(この作品に限らず)漫画表現の、根源的な快楽に拘わっている。(略)派手に殴られて血をみせることと、うやむやに(速攻で)回復することの両方が、漫画だけのリアリティだし、本作はその特性に満ちている。世界の新陳代謝が良いと感じられるのだ」と書いているけれど、その健全さはもちろん、所十三の技法に負われている。

 しかしながら、とりわけ頑丈な身体をもってしても半村誠と天羽時貞の死は決して避けられない。悲劇的な運命を辿るのは周知のとおり。本編のファンからすれば、この2巻で、後に親交を結ぶこととなる緋咲薫と天羽が、殺伐とした表情で初顔合わせしているのを感慨深く思われるだろう。天羽の赤い瞳は、他人に対して、敵意だけを剥き出しにしている。病んだ魂が救われることをまだ信じられてはいない。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』(漫画・東直輝)
  2巻について→こちら
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 『妖変ニーベルングの指環』1巻(漫画・東直輝)について→こちら
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
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  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他所十三に関する文章
 『AL』4巻について→こちら
 『D-ZOIC』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら 
 『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
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2012年02月06日
 解剖医ハンター 3(リュウコミックス)

 我々は皆等しく平凡な人間である。しかるに誰もが必ずや何者かになれる。とすれば、成長とはそれを証明しうる一つの手立てになろう。吉川良太郎(原作)と黒釜ナオ(作画)のタッグによる『解剖医ハンター』の最終巻(3巻)だが、エンディングにおける清々しい感動は、もしかしたらその証明の正しく果たされているところからやってきているのではないかと思う。

 とりわけ、主人公であるジョン・ハンターのワキで頼りなさそうにうろうろしていたあのエドワード・ジェンナーの、おお、おまえ、すっかり顔つきが変わったな、と驚かされるような精悍さには大変見習いたくなるものがあるのだった。

 18世紀のロンドンで若き日のハンターはなぜ医学を志したのか。彼の場合とは異なる足どりながら、しかし着実にジェンナーはハンターの弟子に相応しいだけの素養を身につけていく。そして聖ジョージ病院をめぐるおぞましい事件にハンターが巻き込まれる一方、ジェンナーは自らの使命を天然痘の危険な実験に求めることとなる。というのが、文字どおりのクライマックスであって、両者の、パラレルに描かれていたはずの孤独と苦悩が重なり合い、重なり合うことで継承のテーマを浮かび上がらせる構成は、間違いなく、ジェンナーの成長を前提にしている。

 時代はもちろん、題材や舞台の違いがあるとはいえ、医師であるジェンナーの成長は、もしかすれば『医龍』(乃木坂太郎)の伊集院を彷彿とさせるかもしれない。おそらく、一個の青年の成長が、彼に限られた現象ではなく、職種の理念にまで押し広げられるような物語を通じ、誰もが必ずや何者かになれる、の可能性を導き出している点において、それらは共通しているのである。

 いずれにせよ、『解剖医ハンター』というマンガは、ジョン・ハンターの伝記的なロマンであると同時にエドワード・ジェンナーにまつわる成長のロマンでもあった。〈答えのない問いだ・おれの答えは「問い続けること」だ・真実を・だがあいつの――エドワードの答えをおれは知らない〉とハンターは言う。やがてジェンナーは自分なりの「答え」をハンターに告げるだろう。その曇りのなさに、男子三日会わざれば刮目して見よ、なる言葉を想起する。

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2012年01月15日
 TRACE 2 (アース・スターコミックス)

 こうした新展開が意図するものとは一体何なのか。NASTY CATの原作と雨松の作画で送られる『TRACE』の2巻である。が、1巻と同じ舞台、設定を共有しながら、全く別のエピソードへと話は飛ぶ。当初の主人公、神山ユウを見舞った絶望をよそに、人間と異能者であるトレイスの相剋は更なる局面を迎える。妻子のために働く月城カイは、30年前に突如として人間を襲いはじめたトラブルという謎の脅威や、人間の体内組織を超人のレベルに変質させてしまうトレイス化の奇病とは無縁に、そして平和に生きてきたはずだった。どれほど社会が深刻になろうとも自分の家族だけは絶対に幸福でいられると信じていた。しかし、いつだって悲劇は忽然としていて容赦がない。まさか、予期せずトレイスの能力に目覚めてしまったがため、カイは現在の生活を捨てなければならなくなってしまう。会社を辞めさせられ、妻子との隔離を余儀なくされるのだった。政府の管理下に置かれるのは仕方なかった。受け入れるよりほかない。だがしばらくすると、研究施設で検査を受けなければならないとされていた妻のハルカから連絡が途切れ、関係者は質問に一切答えなくなってしまう。ハルカと娘のサナを心配するカイが、あらぬ容疑をかけられ、指名手配されたのは、それから間もなくのことだ。追われ、あまりの理不尽さに為す術をなくした彼に、稲葉アキラと名乗る男がスカウトの声をかけた。果たしてこれが1巻のエピソードとどこでどう繋がっていくのかはまだわからないのだけれど、アキラとカイがとある計画を実行すべく、トレイスの仲間を集め、個性的なチームを結成していくという筋書きの、大変陽性な描かれ方は、今日におけるフィクションのマナーからすれば、プロセスとは正反対の暗い結果を予期させる。アキラの意味深長な発言はその手の伏線にも思われる。いずれにせよ、無事にカイが家族を取り戻してめでたしめでたし、は難しかろう。そう考えるなら、ユウが再登板してからが本当の本編になるのかもしれない。設定や描写に謎めいた部分は多いし、先は随分と長そう。とはいえ、フックのしっかりと効いた内容は十分な魅力を湛えている。また、シリアスなストーリーのなかで、カイの養父やアキラの上司に代表されるようなやさしい大人の存在がきらりと光っているのは、このマンガにとって大きな美点になりえている。
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2012年01月09日
 WORST 28 (少年チャンピオン・コミックス)

 ついに鈴蘭史上初の番長が誕生した。時を同じくして、巨大な萬侍帝国に不穏な動きが広まりはじめる。ぬおお、これは熱くならざるをえまいよ、があああっ、なんて言うと思ったか。確かにストーリーは、完結に向け、着実に大きな変化を見せてきてはいるのだけれど、シークエンスそれ自体に魅力は乏しく、アップを多用した派手なカットが手癖にしか見えない面もあるため、いくらか盛り上がりに欠ける。しかしまあおそらく、ここから真のクライマックスに入っていき、手に汗握るような場面も出てくるのだろう。信じたいところ。

 90年代に『クローズ』でハロルド作石や井上雄彦の技法を横目にしつつ80年代のヤンキー・マンガとは一線を画すことに成功したのが高橋ヒロシである。だが、そこで確立された作風は『WORST(ワースト)』の長期連載中、ともすればマンネリズムに等しい印象を持ってしまった。もちろん、それを作者のぶれないイズムとしたい向きも少なくはないので、いまだに十分な支持が得られていると考えるべきなのかもしれない。

 以前にも指摘した気がするが、当初の『WORST』には、たぶん海外のギャング映画を強く意識しているのだろうな、と思わせる部分が色濃かった。自らをアウトサイダーとして引き受ける不良少年たちの造形や、彼らを結束させるファミリーという概念の頻出に、それは顕著であったろう。一方で、主人公である月島花の笑顔とサムズアップ、あれは明らかに『仮面ライダークウガ』のヒーロー五代雄介の引用である。ここで不良少年たちのイメージが初代『仮面ライダー』の敵役ショッカーに重ねられていた『QP』を引き合いに出すのであれば、『WORST』とは、ヤンキー=ショッカー=マフィアの喩えに悪のレッテルが貼られるとき、五代雄介みたいな正義漢を対置するのではなく、もしも同じ立場としてその自由を奪わずに放り込むことができたなら、何かポジティヴな化学反応が起きるのではないか、式の試みと解釈することが可能だったはずだ。

 ただし、物語が進むにつれ、国盗り合戦、軍記物のフォーマットに作品の構造は純化、抗争のための抗争が繰り返されると、青春と学園の枠組みは後退し、大立ち回りの場を次々与えられたワキの人物らが人気を博すのはいいが、反動的に花のカリスマ・アピールがなおざりになってしまったのは痛し痒し、であろう。

 冒頭で述べた展開がこの28巻に訪れているわけだけれど、どうしたって花が春道や九里虎の先行世代より大物には思われないし、数以外で萬侍帝国が他を圧倒する理由があまりよく伝わってこない。一つにはここまでの積み重ねがそれらの脅威とは別のものにあてられていたせいである。無論、前者に関しては先行世代にはなかった資質を花だけが備えていたと読めるわけで、後者に関してはこれから存分描かれるに違いないと踏める。したがって今後に真のクライマックスを期待したいというのも最初に言った。

 また、ここで注意しておきたいのは、ファミリーという概念が、萬侍帝国との対決を意識した武装戦線、村田将五の口を通じ、あたかも重要なテーマを再確認するかのごとく、浮上している点だ。コミックスの裏表紙にまで引かれるほどそのセリフは28巻のなかである種のハイライトを為している。いわく〈だがそれでも戦おう・自由を奪われるわけにはいかねー・野郎ってーのは自由と女とそしてファミリーのために立ち上がるもんだ〉なのだったが、アウトサイダーたる不良少年たちが「自由」のために「立ち上がる」のは至極当然のこととして、周知の通り『WORST』にはほとんど「女」の人物は登場しない。そうであるならば「ファミリー」の一言こそが、実は最も示唆に富んでいるのではないか。

 しかしてその「ファミリー」は、鈴蘭史上初の番長に花を推挙する九里虎の、こういうセリフと間違いなく呼応している。〈わしはこげな男や! ワがためンしかケンカはせんバイ! 仲間のためやらツレのためやら・そげなもんアホらしか〜って男バイ! バッテンあいつは・花はちがうやろ! お前らんごたるしょーもなかボンクラどもんために一緒に血ば流し一緒に泣きよる男やろが! 今どきめずらしか〜大バカモンタイ!〉

 結局、これなんだよなあ、花道や九里虎になくて花にのみ備わった資質ってのは、といえるだろう。そして鈴蘭の統一を果たした花の目に映っているのは、決して周りは敵ばっかりの世界ではない。〈ホントに敵なのか? 鳳仙… 竜胆… 武装… ホントはこの同じ街に住み・同じにおいがする仲間なんじゃねーのかな…〉という問いがそれを代弁している。このとき、鈴蘭の花と武装戦線の拓海が、梅星一家なるファミリーの絆で結ばれているのを伏線と考えてもいい。他方、萬侍帝国、九頭竜會會長のビスコ(蛭子幸一)が〈勝ち続けでかくなった萬侍帝国… 今 オレたちに必要なのは「大いなる敗北」かもな…〉と自身たちの先行きを占っているのは、否応なく『クローズ』の終盤で九頭神竜男が坊屋春道と相まみえたあのくだりを思い起こさせる。がゆえに、ビスコが〈ああ… そんな奴らがいたらの話しだがな…〉と続けているのを看過してはならない。

 春道と竜男のそれは、一対一の、正しくタイマンであった。『WORST』の場合、集団VS集団の決戦になるだろうことが、もしかしたらビスコの「奴ら」という複数形に暗示されているのであって、共同体の換言であるようなファミリーという概念も必ずやそこにかかっているのである。

 22巻について→こちら
 21巻について→こちら
 20巻について→こちら
 17巻について→こちら
 11巻について→こちら

 外伝について→こちら

・その他高橋ヒロシに関する文章
 『鈴蘭男子高校入学案内』について→こちら
 『クローズイラストBOOK』Vol.1について→こちら
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2012年01月05日
 ごくべん (ヤングキングコミックス)

 題名に「べん」と入っていたら、まあ弁当の「べん」というケースもあるにはあるのだったが、たいていは弁護士を題材にしていると考えていいわけで、オオイシヒロトの『ごくべん ―極道弁護士 豆柴トメオ―』もその例に漏れない。つまりは極道の「ごく」と弁護士の「べん」をかけて『ごくべん』になるのだけれど、おお、なんてわかりやすいんだ。無論、内容の方も題名を裏切っていない。非常にストレートでわかりやすいものである。

 カタギの世界で最弱と馬鹿にされる新人弁護士のトメオは、しかしヤクザの世界では小津組最狂の男として知られる青年であった。その彼が東京は下町を舞台に、弱きを助け強きを挫く、的な活躍を繰り広げていく。おそらくはこのような説明でほとんどを語れてしまうマンガだろう。

 たとえば、日向武史や佐藤秀峰、浅野いにお、等をミックスしたかのような絵柄と画面の作りは、ある意味で現代的だし、大変キャッチーだと思う。それが、古臭いともとれるストーリーとテーマを汲んでいる点に、作品の真面目さ、を見られたい一方、各個の展開が安直すぎるため、雰囲気だけが熱っぽい、のレベルを大きく越えてはいない。結局のところ、弁護士の資格は、主人公を正義としておくのに適した建て前、単なるエクスキューズにしかなっていないのであって、おおよその事件が武力解決されてしまうのは、いやそれを痛快だとすることは可能だとしても、練りの面からするとやはり拙い。

 勧善懲悪の結末は決して批判されるべきではないが、設定より深く述べられているものが少ないからか、読み手に対する説得が十分ではないように思われるのだ。連載が続いていたら、作中人物の立場にしろ、コンセプトにしろ、もう少し掘り下げた部分が出てきたのかもしれない。ラストのコマには第1部完と記されている。
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