ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年10月11日
 Don't Hear It...Fear It

 ドゥームやストーナーといえば、一部ではヴィンテージなサウンドを醸し出すハード・ロックのスタイルと同義になりつつあるのだったが、そのジャンルにあってまずは、うねりにうねり、おお、これがヘヴィなグルーヴの醍醐味ぞ、と唸らされるのが、イギリス出身のトリオ、 ADMIRAL SIR CLOUDESLEY SHOVELLのファースト・フル・アルバム『DON'T HEAR IT... FEAR IT!』である。リー・ドリアン主宰のRISE ABOVEレーベルからのリリースということで、マニアにとっては御墨付きであるのと同然なのだけれど、実際、トレンドとは絶縁状態のポリシーをアンダーグラウンド仕様の妖しいディストーションによって骨太に具体化していく様子は、同じくイギリスのORANGE GOBLINなどに通じるものだ。

 いやはや、まったく。この手のジャンルを語る上ではお馴染みのBLACK SABBATHはもとより、BUDGIEやBLUE CHEER、BLUE OYSTER CULT、SIR LORD BALTIMORE(SIR繋がりだ!)が引き合いに出されるのも納得、の豪快なダイナミズムが ADMIRAL SIR CLOUDESLEY SHOVELLの魅力でもあるだろう。つまり、レトロスペクティヴな指向性が、様々なパターンに細分化される以前の原初的なハード・ロックの、さらには野蛮なイメージを、サウンドにもたらしているのだった。が、エネルギーの量をそのままテンションの質の高さに変えたかのようなエッジの立ち方には、パンクやハードコア、デス・メタルを通過した時代ならではの説得力がしかと備わっているのであって、正直な話、そこら辺のモダンでブルータルなバンドに引けを取らないアグレッシヴな盛り上がりを存分に堪能できるのが、最大の強みだと思う。

 不穏なイントロが怒濤のハード・ロックを呼び込む1曲目の「MARK OF THE BEAST」から、隠しトラックである9曲目の「BEAN STEW」(70年代に活動したオーストラリアのバンド、BUFFALOのカヴァー)を除く8曲目の「KILLER KANE」まで、ひっきりなしにとにかく荒ぶった演奏を聴かせる。「KILLER KANE」と4曲目の「KILLER KANE (REPRISE)」の対比は、あきらかにアナログ・レコードの構成を意識したもので、アティテュードの徹底ぶりをアピールしているのだろう。ぶっきらぼうなヴォーカル。ギターのリフのすばらしい格好よさ。ベースとドラムが絡み、練り上げられるヘヴィなグルーヴもまた、そうしたアティテュードに由来していると見ていい。溢れるガッツを一向に隠さない。アートワークを含め、すべてのデザインが本当にナイスなバンドの登場である。

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2012年09月23日
 One Wing

 ぬおお、これぞエクスペリメントでエモーショナルなハードコア、であろう。ベテラン勢ではVISION OF DISORDERの再結成作やCONVERGEの新譜であったり、そして若手ではCODE ORANGE KIDSのファースト・アルバムが。と、下半期には注目すべきタイトルが目白押しであるハードコアのジャンルだが、しかしそのなかにあってまさか、ジョージア州アトランタ出身の5人組、THE CHARIOTがここまでインパクトのすばらしいアルバムを出してくるとは思わなかった。いや、確かに過去の作品やライヴ・パフォーマンスなどで尋常ではないポテンシャルを発揮してきたバンドではある。けれど、そうした実績を認めてもなお、くそ、こいつらを見くびっていたぞ、と怯まされるだけの独創性とサプライズがTHE CHARIOTの通算5作目となるフル・アルバム『ONE WING』には詰まっているのだった。

 聴く者をねじ伏せるようなパッションはそのまま、さらに楽曲のヴァリエーションを拡張し、自由奔放なスタイルで様々なイディオムを行き来しながらも、決して中心の軸を損なっていないサウンドは、ああ、正しく目の眩むスリルと一緒くたになっている。どんなフラストレーションも即座にぶっ壊される。刺激的な瞬間の介在することをカタルシスと呼んでいいのであれば、実にそれが盛り沢山なのである。

 1曲目の「FORGET」こそ、息つく間もない激しい演奏で即座に畳み込んでくる、というカオティックなハードコアのマナーを繰り広げてはいるが、ヴォーカルが繰り返し叫ぶに叫び、叫び続けるワン・フレーズにはキャッチーとも取れるヒキの強さが備わっているのであって、ギターのリフは切っ先の鋭さを応用することで、きっちり決まった構成のなかに自由度の高いうねりを導き出していく。圧倒される。魅力だ。それはドゥームとジャンクの要素を含んだ2曲目の「NOT」においても同様に、ダイナミックな展開をよりダイナミックなものとしているのだし、只ならぬ緊張感を持続的に生み出している。

 かくして3曲目の「YOUR」で、はっ、とさせられる。ゲストに迎えられた女性のヴォーカルが、薄く響くオルガンの音色に美しいコーラスを重ねるナンバーである。本来であれば、ハードコアのアルバムには似つかわしくないと判断されても仕方がないタイプの楽曲が、どうしてか。単なるブレイク(箸休め)でもブリッジ(繋ぎ)でもなく、もちろん奇をてらった変化球のアイディアでもなくて、これもまたバンドの指向性をダイレクトに反映した結果にほかならないことが、『ONE WING』のトータリティを考えたとき、明らかとなる。いずれにせよ「YOUR」の、甘やかでありつつ、だが芯の固いアジテーションを含むメッセージは、THE CHARIOTの本領を外れるものではないだろう。つまりは以下の通り。〈Oh Busy, Busy Bees, Walking Too And Fro, What If We Close Eyes?What If We Don't Wake Up?〉

 先の「YOUR」を経、アルバムは以前のキャリアを極端にオーヴァーしたヴァリエーションを孕みはじめる。おそらくは、ここがキモである。4曲目の「FIRST」を聴かれよ。カオティックなハードコアが、中盤、唐突に西部劇風のロックン・ロールへと変調するナンバーで、思わず、おい、一体何事だ、と尋ねたくなるアプローチを取っているが、しかしそれが、どろどろのグルーヴにノイズを満たした5曲目の「LOVE」と違和感なく接続される。そして続く6曲目の「SPEAK」では、ヴォーカルが従来のスクリームをキープする一方で、葬送を彷彿とさせる鍵盤の調べが不穏に乱れていったりする。こういう部分部分の異様さが、個々のレヴェルで際立っているばかりではなく、楽曲の単位でもアルバムの単位でも、ちょうど画竜点睛の役割を為しているところに、結局は諸手を挙げさせられてしまうのだ。

 ファストなチューンにインダストリアルのテイストを噛ませた7曲目の「IN」は最高に燃える。スローにずしりと重たいリズムを引きずった8曲目の「TOUNGS」は終盤のヤマにあたるだろう。牧歌的なSEをラジオ音源みたいに盛り込んだ9曲目の「AND」は前作に収録されていた「CALVIN MAKENZIE」のニュー・ヴァージョンなのかもしれない。チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』からのスピーチを引用し、ついには轟音が雪崩を起こす10曲目の「CHEAK」はラストの印象に相応しい。CDケースの裏側にクレジットされているのだけれど、各曲のタイトルを一つに繋げると「FORGET NOT YOUR FIRST LOVE. SPEAK IN TONGUES AND CHEEK.」という文章になる。言葉の意味はよくわからないが、なんらかのコンセプトを持っていてもおかしくはない妖しさが『ONE WING』にはある。これぞエクスペリメントでエモーショナルなハードコア、である。THE CHARIOTの真髄がたっぷりと詰まった。

 『LONG LIVE』について→こちら
 
 ライヴ(2011年5月5日)について→こちら

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2012年07月17日
 Oceania

 結論から述べると、今回も90年代のあのSMASHING PUMPKINS(スマッシング・パンプキンズ)のカムバックはありえなかった。オリジナル・メンバー云々のことではない。サウンドの印象が、である。デビュー作の『GISH』(91年)や『SIAMESE DREAM』(93年)はもちろん、かなりの大作であった『MELLON COLLIE AND THE INFINITE SADNESS(メロンコリーそして終りのない悲しみ)』(95年)とも違うし、路線変更を果たした『ADORE』(98年)とも違う。しいて言えば、『MACHINA / THE MACHINES OF GOD』(00年)の延長にあるのだろうが、それだったらZWANの『MARY STAR OF THE SEA』(03年)の方が近い。つまり、再結成第一弾の『ZEITGEIST』(07年)と同じく、単なるリヴァイヴァルとはなっていないのだ。当然、それが良いか悪いかはまた別の話として。

 中心人物であるビリー・コーガン以外にオリジナル・メンバーがいないのはともかく、たっぷりディストーションのかかったギターやセンチメンタルでいてロマンティックなメロディに「らしさ」を求めることは可能だし、ジミー・チェンバレンの後任をつとめるマイク・バーンのドラムはいくらか行儀の良さを感じさせるものの充分にパワフルだ。ラウドに響き渡り、重量のあるグルーヴを溢れさす1曲目、「QUASAR」の出だしに、お、と思わされる。確かにSMASHING PUMPKINSだ、と納得されるものがある。だが、しばらくすると、やはりあのSMASHING PUMPKINSとは違うんだよな、という気がしてくるのである。なぜか。かつてのスマパンにあって現在のスマパンにないものがはっきりとしているからであって、端的に言ってそれは、振り絞るような必死さで叫ばれたヴォーカルだろう。

 リリカルな旋律がノスタルジーを美しくも高めていく一方、不機嫌な佇まいのヘヴィ・メタルが辺り構わずに炸裂しまくる。両の魅力をまたぎながら、共感に相応しいフレーズと強く結び付いているのは豊かなポップさである。世評の上でスマパンをスマパンたらしめるこの方程式を最も成功させたのが『SIAMESE DREAM』と『MELLON COLLIE AND THE INFINITE SADNESS』だったのだと思う。しかしそこで同時に聴かれ、グランジやインダストリアルの時代においてカート・コバーンであったりトレント・レズナーであったりに匹敵しうるカリスマを際立たせていたのは、ビリー・コーガンの、特に振り絞るような必死さで叫ばれたヴォーカルではなかった。たとえネガティヴなラインであろうと、ぎりぎりの焦燥を動力に大声のなかへ解放されたそれこそが、ひたすらエモーショナルなのではなかったか。既に述べた通り、今回の『OSEANIA(オセアニア〜海洋の彼方)』にも「ない」のはそれなのだ。

 誤解があっては困るのだけれど、若さや青さ、初期の衝動とおそらくは密なのだろうそれの「ない」ことを必ずしも否定的に見たいのではない。たとえば「QUASAR」の曲中にもあるように、ビリー・コーガンがリリックにしばしば用いる〈God〉というワードを一つ取ってみても、その使用に変化を来しており、前後のフレーズ、ひいてはメロディの立ち方自体が以前とは違っているのであって、こうした印象の、過去と一線を画していることが『OSEANIA』の全域にまで及んでいるのだ。ビリー・コーガンのヴォーカルのスタイルは、極めてポジティヴであろうとしたZWANの時点である種の転向を果たしていたわけだが、ほとんど意気込みだけでSMASHING PUMPKINSという様式美のアグレッシヴなサイドを成立させていた『ZEITGEIST』とは異なり、『OSEANIA』には無理やりハッスルして空回ったところがない。

 換言するのであれば、若さや青さ、初期の衝動とは別のレベルにフックの位置を定め、それを決して掴みあぐねてはいないことが、確かな手応えをもたらしているのである。激しい感情のリリースを止めたヴォーカルは、だが一切のテーマをなくしたのではない。センチメンタルでいてロマンティックなメロディとともに、なめらかな曲線でスケールの広い風景を描き出す。平行して、たっぷりディストーションのかかったギターは、場合によってはプログレッシヴと言おうか、あるいはサイケデリックと言おうか、初期の『GISH』やBサイドのコレクションであった『PISCES ISCARIOT』(94年)を彷彿とさせるようなフィーリングを取り戻し、他に替え難いプレゼンスを雄弁なまでに奏でる。もはや先駆性で評価されるサウンドではないものの、この自由奔放とは似て非なるエネルギーの意図的な満載は、ああ、正にSMASHING PUMPKINSだ。

 ドラマティックなパートを盛り上げるにあたって、幽玄なキーボードがふんだんに取り入れているのも『OSEANIA』の特徴に挙げられるだろう。凝らされた音色が、黄昏の風景を鮮やかに彩っていく。先の「QUASAR」や2曲目の「PANOPTICON」を例に、ダイナミックな展開の佳曲が揃い、すぐれたギター・プレイヤーとしてのビリー・コーガンを再発見できるようなアルバムである。反面、せつなくも穏やかな表情のナンバーには、スマパンの現在が、たぶんそれは洗練とイコールで受け取られるべきなのだろう旋律が、非常によく出ていると思う。5曲目の「MY LOVE IS WINTER」に耳を傾けよ。6曲目の「ONE DIAMOND, ONE HEART」に耳を傾けよ。13曲目の「WILDFLOWER」に耳を傾けよ。「愛」という「呪い」という、「永遠」という「刹那」という、なんともSMASHING PUMPKINSに象徴的なテーマが、深い闇の底から見上げられる光の、とてもやさしくて儚いイメージをともないながら奏でられているよう。

 とりわけ、ラスト・トラックでもある「WILDFLOWER」だ。最初はその、ヴォーカルとキーボードを基調としたあまりの素朴さに意外性すら覚えたのだったが、中盤で差し込まれるギターのアクセントが胸に迫り、フェードアウトのエンディングに幸福な物語の結末を考えさせられる。〈Wasted along the way, Wasted along the way, Im wasted along the way to reach you〉もしかしたら誰かが長い道のりの疲弊の先で待っていてくれるのかもしれない。以上のリフレインは、そのような奇跡を意識させる。

 『ZEITGEIST』について→こちら

・その他ビリー・コーガンに関する文章
  来日公演(05年8月4日)について→こちら
  シングル『WALKING SHADE Limited Edition DVD』について→こちら
  アルバム『THE FUTURE EMBRACE』について→こちら
  詩集『blinking with fists』について→こちら
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2012年05月27日
 Pop War

 ポップ・ウォー。近年、ここまでときめかされるタイトルはそうお目にかかれないぞ、というぐらいに決まっている。元THE HELLACOPTERSのニッケ・アンダーソンが率いるIMPERIAL STATE ELECTRIC(インペリアル・ステイト・エレクトリック)のセカンド・アルバムである。バンド名を冠した2010年の前作が極めてソロ・プロジェクト的であったのに対して、今作の『POP WAR』はTHE DATSUNSのベース、ドルフ・ドゥ・バーストなどを正式なメンバーに含む、バンド編成で制作された。それもあってか、楽曲の印象はよりシャープに、タイトかつコンパクトにまとまっている。

 もちろん、THE HELLACOPTERSの後期と同様、疾走感を失わないままに黄昏れたサウンドが何よりの基本線であって、オーセンティックであることを最大のテーマにしたスタイルは、レトロスペクティヴだと言ってしまって構わないだろう。しかしそれがどうしたっていうんだ。THE HELLACOPTERSが08年に出したラスト・アルバムの『HEAD OFF』は、実はマイナーなバンドのカヴァー集であったと(最初は秘密にされていて)後に明かされたが、そこで発露されていたのは、結局のところ、ロックン・ロールにおけるシンプルなビートの、とりわけエヴァーグリーンな魅力をいかに抜き出せるか、という巧みさであり技法であった。IMPERIAL STATE ELECTRICの『POP WAR』もまた、いや日本盤のボーナス・トラックを除く全10曲が自作自演のオリジナル・ナンバーであるものの、おそらくそれと本質は等しい。

 要するに、ロックン・ロールに初期衝動やセンセーショナリズム等のタグを付けるような立場とは異なったところでピュアなロックン・ロールを再現しているわけだ。エヴァーグリーンとは、つまり、そういうことである。

 冒頭を飾る「UH HUH」の実に玄人な味わいであることよ(詠嘆)。2分にも満たないナンバーだが、軽妙なリズムに乗じながら〈ア・ハー〉と繰り返されるフレーズがとにかくキャッチーであって、気がついたら一緒になって口ずさんでいるほど。掴みとしてはこの上ない。ああ、軽い溜め息にも甘い囁きにも似たメロディのせつなさときたら。アルバム全体を通して言えることなのだけれど、北欧(スウェーデン)のバンドだから、という理由で済ませてしまっていいものかどうか、もうよくわからないぐらいの哀愁こそが一つの個性となっているのは、既に述べたとおりTHE HELLACOPTERSの後期とイメージの重なるところ。コーラスに差し掛かって〈IN THE DRIVING RAIN〉と歌われる4曲目の「BACK ON MAIN」ではないが、雨の日にドライヴでアクセルを踏んだ瞬間、ぴったりとはまるサウンド・トラックのようでもある。

 必ずしも線の細いわけではない2本のギターが、しかしデリケートに絡み合う。ベースのラインは、ヘヴィであるというのとは別のレベルで、太いグルーヴをうねらし、メロウなムードのなかにあってもドラムのアタックは強い。ニッケのヴォーカルは以前にも増して渋く、雨の日のドライヴにはまりそうでありながら、その情緒はひどく乾いている。ある種の二律背反を持ったロックン・ロールが見事に成し遂げられているのであって、もしかすれば『POP WAR』というアンビバレントなタイトルはそれを暗示しているのかもしれない。比較的、スローにダウンした5曲目の「WALTZ FOR VINCENT」からこぼれてくる物憂げな旋律にはまったくたまらないものがある。

 日本盤のボーナス・トラックを除けば、トータルにしてわずか30分強の内容だが、アナログ(ヴィニール)のA面とB面を意識した構成がされていることは明らかで、A面にあたるパートは、フックを満載した「UH HUH」ではじまり、今しがた挙げた「WALTZ FOR VINCENT」で締め括られる。こうした並びは非常に鮮やかであるし、大変メリハリが利いているのだけれど、実はB面にあたるパートの方が盛り上がりを重視した仕上がりになっているのではないか、という気がする。6曲目の「SHELTERED IN THE SAND」で弾けたビートは、ラストに置かれた10曲目の「ENOUGH TO BREAK YOU HEART」まで緩むことがない。所謂ガレージ・ロックのノリを期待するなら間違いなくこちら。THE HIVESにも負けないエネルギッシュな8曲目の「MONARCHY MADNESS」にそれは代表されているだろう。

 いずれにせよ『POP WAR』には目新しくはなかったとしても決して古びれないときめきが宿っている。ストリングスを配した「ENOUGH TO BREAK YOU HEART」の終盤に広がるサイケデリックな色彩は、先般デビュー作をリリースしたデンマークのTIM CHRISTENSEN & THE DAMN CRYSTALSにも通じるものだ。出身地や方法論は違えど、72年生まれのニッケ・アンダーソンも74年生まれのティム・クリステンセンも、両者ともエヴァーグリーンであることを目指した同時代の、そしてほぼ同世代のアーティストだと付け加えておきたい。

バンドのオフィシャル・サイト→こちら

・THE HELLACOPTERSに関する文章
 『HEAD OFF』について→こちら
 『AIR RAID SERENADES』について→こちら
 『ROCK & ROLL IS DEAD』について→こちら
 『STRIKES LIKE LIGHTNING』について→こちら 
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2012年04月21日
 これを読むほとんどの人にはまったく興味のない話題かと思われるが、筆者の近況から入ると、失恋のショックを立ち直れずに死ぬことばかりを考えていたのだったけれど、もちろん、それが正常な思考のはずはねえんだ。しかし、暗い感情は希望を萌えさせるのに必要な素材をいとも容易く隠してしまうのであって、どんな願いも色褪せるかのよう。むなしさに肩をすぼめる。でもやはりそのままでいいわけがないのだ。うなだれていたって何もえらくない。まずはもう一度背筋を伸ばせよ。そのために心を動かされたい。心を動かされるほどの光景を観たい。得たい。目の当たりにしたい。あるいは見たのでこれを書いているのである。

 昨日(4月20日)は東京ドームに「KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN」を観に行ってきたのだった。デビューして6周年を過ぎ、結成して11周年を迎えたグループの約2年ぶりのステージである。そのキャリアを振り返るとき、とくにここ数年は、まるで引き算のような道のりを結果的に強いられてきたKAT-TUNだけれど、たとえば昨年に予定されていた大規模なコンサートがキャンセルになったことなども一例に挙げられる。また今回のショーには、これまでサポートをつとめていたKis-My-Ft2やFiVeが帯同していないのもある種の変化として挙げられるだろう。当人たちの思惑はどうであれ、かつてはそこにあったものがもうない。ファンの立場からすると寂しさがないわけではない。しかし、「RUN FOR YOU」の歌詞になぞらえるならば、〈頑くななPRIDE・張り切れそうなVOICE・れんぞくしたTENSIONに・心痛めないで・日の昇らない朝はない・夢見ること止めない・本当のCHALLENGEが今・この場所で・ここで始まる〉という確信に〈言葉も無くただ・走り抜ければ・いつか辿り着けるだろう〉そう満を持しただけの情熱を注ぎ込んだパフォーマンスは、いや間違いなく、彼らの姿を眩しくしていたし、その眩しさのなかに〈大事な夢・生まれたら・叶う君の道・闇を照らして・少し前を走るから〉と励まされるやさしさを知った気がした。

 先頃リリースされたKAT-TUNのニュー・アルバム『CHAIN』は、シングルのタイトルを5曲含み、『NO MORE PAIN』の路線をもう一段階進めた佳作であった。が、どのナンバーも背後に(程度の差こそあれ、メロディと歌詞のレベルに)せつないストーリーを潜ませており、それが以前みたいなデンジャラスかつワイルドでゴージャスなタッチには振り切れないマイルドさをもたらしていた。おそらく『CHAIN』とは「繋がり」や「絆」の象徴だろう。「繋がり」や「絆」というのは必ずしも自明なものではない。別れずにいることや離れずにいることの尊さは、別れてしまうことや離れてしまうことの悲しみ、それとの対照において、輝きを増す。この手法のコンセプト化が、収録された楽曲の背後にせつないストーリーを潜ませ、総体的に『CHAIN』をカドのとれた仕上がりにしていたのではなかったか。

 その実践版ともいえる今回のショーは「BIRTH」で幕を開けた。KAT-TUNにはお馴染みのバンド・サウンドながら、従来の得手であるミクスチャーのアプローチもヘヴィ・メタリックなプロポーションも逸したナンバーだ。実際、スタジオのヴァージョンにはジャズやフュージョン系のミュージシャンが起用されている。正直にいって、テレビ・ドラマのタイアップという知名度を別にすれば、オープニングに相応しい派手な楽曲はほかにあったと思う。だが、「光」と「影」であったり「朝」と「闇」であったりの対照を用いることで「繋がり」や「絆」のイメージを浮き彫りにしていく「BIRTH」の躍動には、「KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN」と題されたコンサートのテーマをより明確にする役割が課せられていたに違いない。

 過去、KAT-TUNのコンサートには信じられない驚きに目玉を丸くさせられることが多々あった。この日の内容に関していえば、その点はいくらか希薄になった。無論、おお、と声を出してしまう仕掛けはいくつかあったものの、グループがもっとずっと剥き身の部分で自分たちのカラーをはっきりさせようとしている印象が強かった。凄まじい一回性のアトラクションで観客を圧倒するのではなく、そこに立ち会えたことが素直に嬉しいと信じさせるような楽しさ、ピースフルな温度を軸に全体のショーが組み立てられていたのである。序盤、「Keep the faith」で田口くんが出だしを間違えてしまったが、そうしたミステイクを笑顔で許せる色合いが今回のショーにはあった。かつての若々しいむらっ気とは微妙に違う。リラックスしたムードがそのままコンサートの盛り上がりと同期する。効果的な関係が終始キープされていた。ただし、あの予測不能なテンションが懐かしくなかったと言ったら嘘になる。要は、前に進もうじゃないか、ということだ。「CHANGE UR WORLD」の歌詞になぞらえると〈COME WITH ME・この未来を・変えてみようか・今・手を・空へ・瞬間を生きてゆく・瞳を・逸らさぬように〉そのための一歩はすでに踏み出されている。

 しばしば、抑圧と洗練は同義になりうる。現在のKAT-TUNには正しくそれを過渡期として挑んでいるところがある。やんちゃな少年とは異なった顔つきの表情を『CHAIN』は覗かせていた。この日の前半に披露された「WHITE」や「LOCK ON」「儚い指先」は、それぞれタイプの違う曲調だが、しかし意外と過去のどのナンバーとも似ていない。デジタルなビートを強調しつつ、ギターのリフがロックもしている「LOCK ON」は、さすがアルバムの1曲目に置かれていただけあって、ミドル・テンポであるにもかかわらず、激しさをダイレクトにしている。ライヴのヴァージョンだとそのグルーヴがなお映える。「RUN FOR YOU」のシングルに入っていた「COSMIC CHILD」も同様である。「Keep the faith」や「ONE DROP」のバンド・サウンドに相変わらず興奮させられる一方、それらハイブリッドなダンス・チューンに身も心も躍らされる。前半のヤマだ。それから〈二度と逢えない・抱きしめて歩こう・雨の日には・君の傘になろう〉というコーラスに挿入される〈YOU! YOU! YOU!〉のリフレインがチャーミングな「ONE DAY」もよかった。

 MCのコーナーはずいぶん長かったが、ファン・サービスと止まらないギャグの応酬にグループの状態が非常に健康であることを実感する。演出に様々な趣向の凝らされた各人のソロ・ナンバーも大変楽しかったのである。『CHAIN』のなかでも「SOLDIER」「あの日のように」「歩道橋」のメロウなナンバーが立て続けに歌われたあたりは、ああ、なんてドラマチックだし、ロマンチックなんだろう。メンバー5人のヴォーカルが、線の細さをむしろ生かし、感情表現を豊かにしていることがわかる。「SOLDIER」も「あの日のように」も「歩道橋」も、題材とシチュエーションは異なっていれど「繋がり」や「絆」を前面にした楽曲になっており、ある意味コンサートのテーマが最も如実になったのはこのときではなかったか。ユニゾンであることの美しさに、「歩道橋」の歌詞を借りるなら〈嬉しかったり・切なかったり・悔しかったり・思い描いた未来・この街の景色のように・また変わっていくけど・それでいい〉それでも決して消えない気持ちがあるのだと思わされる。

 先の「COSMIC CHILD」もそうだけれど、セットリストにはシングルにカップリングされていた楽曲がわりとふんだんであった。一年越しで春の季節にマッチした「PERFECT」が爽やかに響いたり、ファンとの掛け合いとメンバー紹介を兼ねた「NEVER × OVER 〜「-」IS YOUR PART〜」がようやくその本懐を遂げたり。KAT-TUN流のヘヴィ・ロックをカムバックさせたかのような「GIVE ME, GIVE ME, GIVE ME」がラウドにうねるのだったが、やはり「勇気の花」だよ。

 ああ、激情の「LIPS」「喜びの歌」そしてグループとファンにとってのアンセムともいえる「Peaceful days」が、これ以上ないくらいの熱狂を作り上げる。ここだ。ここがクライマックスだぞ。会場中の誰もがちゃんと理解しているのだ。何度経験しようがKAT-TUNのコンサートにおいては絶対に欠かすことのできないあのフルスロットルである。もしかすると「Peaceful days」によって漲らされるエネルギーとは、やがてそれが失われてしまうかもしれない可能性の裏返しなのであって、だからこそ〈せめて永遠ではない時を一瞬でもムダにはしないと・ココデ約束しよう〉と誓えるのではないか。しかし、いまだに手放されてはいないし、色褪せてもいない。新しい希望を萌えさせる。眩しい光景が繰り返される。一度目のアンコールに登場した「REAL FACE」や二度目のアンコールで登場した「ハルカナ約束」も同様に、今後KAT-TUNがどこへ向かておうとその原点に変わりはないことを。どれだけの現在が過去になり遠ざかっても果たすべき約束のもとへ戻ってこられることを教えてくれる。

 そして、本編のラストを飾る「勇気の花」はとても感動的だった。パセティックな調べのバラードが、不思議と心を寂しくはさせない。「WE」を主語とした楽曲に「繋がり」や「絆」の理念が集約されているためだ。「WE」を主語として投げ掛けられるフレーズにぬくもりが備わっているからなのだ。〈どこまでも・どこまでも〉と伸びていこうとする上田くんのファルセットが実に素晴らしい。メンバー5人が声を重ねた〈聞こえるかい?WE WILL MAKE YOU SMILE・笑って・少しずつ優しさ集めたら・ほら、勇気の花が咲く・そう、君のため・そう、遠くまで・届くように・笑顔(はな)を咲かそう〉というメッセージに姿を現している「君」とは、つまり「勇気の花」を耳にした我々みんな=「WE」にほかならないのであって、誰もが誰かに届けられるやさしさを持っている、誰もが誰かから届けられるやさしさを待っていることを含意している。ステージを去っていく際のスピーチはたぶんそれの言明であったと思う。

 この日の公演に「ULTIMATE WHEELS」がなかったのは残念だし、なんであれをやらないんだ、と言い出したらキリがないのだけれど、KAT-TUNが『CHAIN』と名付けたアルバムの本質は、今回のショーを通じて、より鮮やかになっていた。

・その他KAT-TUNに関する文章
 「WHITE」について→こちら
 「CHANGE UR WORLD」について→こちら
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2012年04月12日
 LOMA PRIETA.jpg

 ほら、こんなにもフラストレイトしているんだぞ。憤り、行き場のない感情も純化を重ねたら最高のカタルシスになる。このような方法論がある種のラウド・ミュージックをとても魅力的にバーストさせてきたのだったが、ああ、激しきLOMA PRIETA(ロマ・プリエータ)よ。米カリフォルニア州サンフランシスコ出身の4人組が、そのニュー・アルバム『I.V.』で炸裂させているのは、鋭さを通じ、洗練されたフラストレーションにほかならないのであって、それが閉塞の向こうへとダイナミックに突き抜けていく。

 おそらくは現在「激情」と目されるハードコアのジャンルに属するバンドだろう。「わーぎゃー」叫んでうるさいヴォーカルは、なぜだろう、そこはかとなく悲哀を漂わせ、目まぐるしい展開と轟音の向こうからメロ・ドラマティックな旋律が届く。アメリカは西海岸の先達、たとえばFUNERAL DINERやYAPHET KOTTOを彷彿とさせるところがある。あるいは今作のレーベルにあたるDEATHWISHのページで、PG. 99やLA QUIETEなどが引き合いに出されているように、つまりはその路線である。

 かつてはエクストリームであったはずのアプローチも、90年代、00年代、と時代を下るうちにある意味でベーシックなスタイルとなった。今日においてLOMA PRIETAのサウンドもまた、こんなの今まで聴いたことがない、とは決して言われないものだろう。しかし重要視したいのが、にもかかわらずLOMA PRIETAのサウンドは大変刺激的に感じられるんだぞ、という一点なのだ。おそらくは、指向性によって選び取られたスタイルのさらにベーシックなポイントを、きっちり押さえ、磨き上げることでインパクトよりはフックと呼ぶのに相応しい部分の強度が一段階アップさせられているためだと思う。

 方法論の遵守は、しばしば美学と同義に見なされる。一方で、同じジャンルにあるかぎりは他との区別を曖昧にしうる。個性の横並びを生じさせる場合がある。この陥穽をLOMA PRIETAが免れていることは『I.V.』の内容に明らか。フックの確かさがそれをもたらしていることは十分な手応えのなかに現れている。とくに象徴的なのは、アルバムの冒頭を飾る「FLY BY NIGHT」だ。

 何の前触れもなく、しゃがれるほどに声を張ったヴォーカルのスクリームが楽曲を立ち上げる。その瞬間、ギターとベースとドラムの強烈なアンサンブルがいきなりのクライマックスを作り出す。怒濤と喩えられるべき幕開けである。しかし高速のトレモロがヴァリエーションを編みながら繰り返されるとき、不思議とパセティックな印象を持たされるだろう。無論、これを、このエモーションをテンプレートだと見なすの容易いし、実際にそうなのかもしれない。だが、手応えを深く残していくのはむしろそこから先の展開に至ってなのだ。

 怒濤と喩えられるべき幕開けの「FLY BY NIGHT」は、中盤に入ると変調し、さっきまでとは異なった表情を覗かせる。物憂げな旋律に合わせてテンポを落とした楽曲が次第に帯びていくのは、一般的にポップと解釈してもいいようなフィーリングだった。必ずしも陽気ではないのだけれど、きらきらきらめいたときめきを抱かせるのに似た光が差す。この点に関してだけは、もしかすると日本のenvyが2010年の『RECITATION』で獲得したニュアンスに近いか。激しさを一杯に溢れさせなければ剥き身にならなかった輝きがとても眩しい。

 海外ではアナログ・レコードとデジタル・ダウンロードのみでのリリースとなった『I.V.』だが、日本盤はCD化されている。歌詞や対訳に目を通すと「FLY BY NIGHT」における変調の意図しているところがよりよくわかるような気がする。貴方と理解を分かち合えないことの悔しさはネガティヴなものになりうるとしても、貴方と理解を分かち合えないことのせつなさはネガティヴなものになりえないことがある。前者と後者の組み替えが、アグレッシヴなパッションにメランコリックなカーヴをもたらし、その美しい曲線に躍動とイコールのフックが示されているのである。

 すでに述べた通り、フックの強度はアルバム全体のキーでもあるだろう。フラストレーションが満載のサウンドにカタルシスさせられるのはもちろんのこと、それを研ぎ澄ませていく手法のデリカシーにきらきらきらめいたときめきを覚えるわけだ。4曲目の「TRILOGY 4 "MOMENTARY"」から続くトリロジー、なかでも6曲目の「TRILOGY 6 "FORGETTING"」は、LOMA PRIETAが持ちえるポテンシャルをあらためて教えてくれる。

 乱打されるドラムの疾走感が荒々しく、やがてドゥームやスラッジの要素を引用したかのようなパートが顔を出すナンバーは、近年のCONVERGEにも通じる。「カオティック」と目されるだろうハードコアのマナーに則ってはいるのだったが、2008年のアルバム『LAST CITY』に収められた「1」「2」「3」のトリロジーと今回の「4」「5」「6」のトリロジーとを比べてみれば、いかなる洗練をバンドが経てきたか、そしてそれがサウンドを一層ダイナミックにしていることは如実であって、「TRILOGY 6 "FORGETTING"」を最大の成果に挙げたい。

 たぶん、どの楽曲もコミュニケーションの断絶をテーマにしている。薄くであれ。濃くであれ。その憤りは、悔しくて悔しくて堪らない、せつなくてせつなくてやりきれない、の両義を有している。だが、いずれにせよ、行き場をなくしてしまった感情はフラストレイトするよりほかないのである。フラストレーションに首を絞められ、徐々に殺される。そんなのは生き方としても死に方としてもひどく惨めだ。いやだ。勘弁願いたい。だからこそカタルシスを。報われなかった全てに釘を刺されたままでは終わるまい。上等のカタルシスが、LOMA PRIETAの『I.V.』から響いてくる。

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2012年03月19日
 Shadow Gallery

 PRIMITIVE WEAPONSとは正しく名が体を表しているかのようなバンド・ネームだと思う。そう、米ニューヨーク州ブルックリン出身の5人組が、そのファースト・アルバムにあたる『THE SHADOW GALLERY』で披露しているのは、根源的な衝動を濃いままに漏らさず、周囲を見境なく吹き飛ばしうるインパクトへ転化、殺伐さの実に屹立したサウンドなのであった。

 まるでブラック・メタルのニヒルな残酷性がカオティックなハードコアの瞬発力が洗練されたスタイルに流れ込んだアプローチは、なるほど、海外での評価において、惜しまれつつ解散したカナダのCURSEDが引き合いに出されるのも、わかるわかる、というものであろう。一方で、ダイナミクスのくっきりと出た楽曲の構成や、ある種の整合性をきっちりと高めていくタイトな演奏と、ポップもパンクも飲み下しながらアジテーションするヴォーカルが、骨格はシンプルなのにプロテストの迫力を二倍、いや三倍増し以上にしている点は、かつてケイシー・ケイオスが率いたAMENであったり、意外にもMARILYN MANSONなどを思わせたりもする。

 いずれにせよ、アングリー・ミュージックの醍醐味を満載にした作品なのは間違いないのであって、ブラッケンド・ハードコアを標榜するEVERYTHING WENT BLACKと同じPROSTHETIC RECORDSからのリリースだが、こうした若手たちの登場によって、ああ、まだまだアンダーグラウンドのシーンにはナイスなバンドがたくさんいるんだぞ、という発見が尽きないことは素直に嬉しい。

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2012年03月18日
 Cycles of Light

 どんなジャンルにおいても、アンダーグラウンドのシーンにはまだまだナイスなアーティストがいるもんだな、という発見が尽きないことは嬉しい。反面、手探りでいろいろ聴き漁っていると、なんだか皆同じに思えてきてしまうこともしばしば。個性を問題にするのであれば、いや確かに好きは好きなのだけれど、必ずしもはっとさせられるような出会いばかりが転がっているわけじゃないんだ。

 米ミズーリ州セントルイス出身の5人組、EVERYTHING WENT BLACKの、おそらくはファースト・アルバムである『CYCLES OF LIGHT』はどうか。まず間違いなく断言できるのは、これが実にナイスな作品だということであろう。

 アルバムは、不穏なインストゥルメンタルの「XI」で幕を開ける。葬送の暗さを彷彿とさせるスローなギターのフレーズにサンプリングの音声らしきSEが入ってくるイントロダクションだ。その、どっぷりと沈んだ空気と速度を保ったまま、重々しいグルーヴを練り上げる2曲目の「GODS OF ATLANTIS」が中盤に差し掛かったとき、すべてを振り切るほどにストロングで激しく、スピードの一気に高まったハードコアのモードへ、ギアはチェンジ、しかしそれが極端化された転調ではなく、とてもリニアなアップ・リフティングとなっているところに、このバンドのセンスが息づいている。

 CONVERGEやTRAP THEMと同じステージを踏み、DEAF HEAVENともライヴをしたことがあるらしいEVERYTHING WENT BLACKである。自らをブラッケンド・ハードコアとカテゴライズするそのスタイルは、確かに上述のアーティストらに一脈通じるものであって、ピッチの荒々しい展開にスラッジやドゥームのマナーさえ混じり合う。

 代表的なナンバーを挙げるとしたら、5曲目の「PARADES」だ。リズムはシャープに切り込み、ソリッドなギターのリフに爆発的なテンションを絡ませながら、ヴォーカルの叫び声は迫力を増していく。次第にテンポがダウンすると楽曲の構成は反復に反復を繰り返す。甘美なストリングスの鳴り響くエンディングがまた深く印象に残る。

 8曲目の「KINGDOMS」からラストの「BAPTISTS」に雪崩れ込むそのスリルの先、目の前に現れた光景の色は、もちろん、黒、だった。

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2012年02月17日
 Hyperventilation

 NAZCA LINESはシアトル出身の4人組である。彼らが昨年(2011年)リリースしたセカンド・アルバム『HYPERVENTILATION』では、同郷のよしみか、かつてTHE BLOOD BROTHERSのメンバーであったコーディ・ヴォトラト(元JAGUAR LOVE、現HYRO DA HERO)が、ゲストでギターを弾いていたり、アートワークを手掛けていたりするが、なるほど確かにそのサウンドはポスト・ハードコアの文脈に置かれてしかるべきものなのだろうし、海外のメディアではFUGAZIやDRIVE LIKE JEHU、AT THE DRIVE-INなどが引き合いに出されるのもわからないではないのだけれど、いや、もちろんそうしたバンドらに通ずる忙しなさ、変則的な展開を随所に盛り込んでいながら、もっとぐっとストレートにロックン・ロールの迫力を前に出しているぞ、と思わせる。強いて述べるなら、DRIVE LIKE JEHUよりは後継のHOT SNAKESの方に近いスタイルと言えるかもしれない。いずれにせよ、この時代ならではの衝動性をきちんと持っている一方で、そのアプローチの堂々とした佇まいからはオーセンティックと解釈してよいような魅力が溢れており、両者のバランスが音の太さにもなっているのだった。そしてそこが、かっこいいじゃん、なのである。

 1曲目を飾る「THIS LITTLE ISLAND」からNAZCA LINES節とでも評したい猛タックルが聴かれる。08年のファースト・アルバム『CREMATION / CRUISES』で縦横無尽だったハイなエネルギーを激しいリズム・チェンジに変換するかのような、つまりはポスト・ハードコアゆずりのセンスは顕在だ。それがリフのパターンがはっきりとしたギターとベースによって骨太な印象を与えられ、エキセントリックさばかりではなく、ハードにドライヴする感覚を一緒に掴んでいるあたりも同様である。バンド名になぞらえるなら、ナスカの地上絵の、その不可思議なデザインと大陸的なスケールとがコンパクトでインパクトの強いサウンドに凝縮されているみたい。短いメロディを吐き出し、フレーズを重ねる毎に熱を帯びていくヴォーカルが、拳を突き上げるのにもシンガロングするのにも相応しいフックをさらに備えさせているのだから、当然のこと、うずうずしてくらあ。このフィジカリティこそがNAZCA LINESの醍醐味だろう。ダウナーを装った2曲目の「BONES AND BOXES」からアッパーに振り切れる3曲目の「THIS CRIPPLED DEVIL」そして以降のナンバーに明らかな通り、パンキッシュな切り口が基本型だが、決して一本調子にはなっていない。

 アルバムで唯一の長尺を持った7分に及ぶ9曲目の「FOUR FOXES」は、NAZCA LINES流のブルーズか。現代におけるアメリカン・オルタナティヴの詩人がフォークで描くのにも似た光景が、しかしパワフルな筆遣いは決して失われずに広がる。終盤に差し掛かり、2本のギターが交互に軋む。ノイズをあげる。ああ、どこか荒涼としているのになぜこうも引きつけられるのだ、と思う。やはりシアトルの繋がりだろう。元MINUS THE BEARのメンバーであり、初期のMASTODONやISISを手掛けたことで知られるマット・ベイルズがプロデュースを担当しているけれど、ざらついていながらデリケートな音作りに、おそらく彼の功績は大きい。ラスト・ナンバーにあたる10曲目の「NEW VOLUME」で、「FOUR FOXES」のセンチメンタルはさらに突き詰められる。延々と繰り返されるダイナミクスのなかで発せられた〈“Revolution !”from the otheside〉という叫びは狂騒と哀愁の平行線を(本来ならありえないことなのに)不思議と交わらせている。

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2012年01月29日
 至福、の一言に尽きる。尽きた。遂に初来日を果たしたカナダの男女二人組ユニット、NADJAの東京公演だが、アンビエント、エクスペリメンタル、シューゲイザー、スラッジ、ドゥームetc. 様々なトピックを弄しながら形容されるサウンドは、確かに轟音の贅を凝らしたものであって、ああ、これはちょっとすばらしいぞ。と、そう、正しく未曾有の領域を実感させるほどなのだった。

 先にステージをこなしたENDONとVAMPILLIAが「動」の、すなわち激しくうるさいパフォーマンスを繰り広げたのに対し、NADJAの演奏はまず最初に「静」の、つまりは決して騒がしくはないし派手でもない表情を暗がりのなかに描き出す。実際、セットの中央に固まったAidan BakerとLeah Buckareffの姿からは何の気負いも気取りも見えてこない。普通である。自然に構えているだけである。装いは平凡ですらある。しかしその、いっけん特色のない佇まいが、いつしかデリケートな緊張に包まれていき、やがて圧の高い轟音と一体化してしまうのは不思議だ。NADJAならではのマジックというよりほかない。

 マシーンのビートとスローなノイズがスピーカーを通して反復される。地響き。フロアーに背中を向けたLeah Buckareffのベースと電子楽器を並行して操るAidan Bakerのギターが、混じり合い、身体が震えるぐらいのドローン(持続低音)に満たされた空間を、より濃く、うねりが実体を持ったかと錯覚させられるまでの厚み、甚だしいまでの波動を、密度を作り上げていく。そのうねりに掴まれたなら簡単に振り切れはしまいよ。だが息苦しさは、ない。美しくて眩しい幻想に囚われるのとも似た陶酔や恍惚はどこからやってくるのだろう。絶え間なく降り注ぐ轟音がハレーションを起こし、麻薬的に作用するのかもしれない。いや。間違いなくパセティックな旋律を耳にした。メロディアスとはいわれないメロディだ。それが、凄まじく強烈なサウンドと因数分解されないカタルシスとを同じ体験において一致させているのである。

 ともあれ、最高だったよね、と言いたい。唯一もしくは最大の不満は、1時間に届かないステージの短さ、であろう。既存しているアルバムに20分超のナンバーが稀ではないアーティストである。それを何曲もプレイしたら余裕で長丁場になるはずなのだったが、アンコールを含めて結局のところ3曲かな。あっという間に演奏が終了してしまったのを物足りなく思う。

 もちろん、にもかかわらずNADJAのNADJAたるゆえんである圧倒的なポテンシャルを目の当たりにできたというのは、すでに述べたとおり。これまでに発表されてきた作品から窺い知れるように、NADJAのサウンドには、もしも拒絶反応を起こさずにそれを受け入れるならば、感性の構造や法則を変えられるだけのインパクトが備わっている。すなわち、我々によってこうだと信じられているのとは異なったもう一つの世界を顕在させる。価値観を揺るがすでもいいし、現実を忘却させるでもいい。どう喩えてもいい。認識のプログラムが入れ替わる。新しい世界に面してしまうのだ。たとえ束の間だったとしても、である。今回のライヴは全くそのことを明らかにしていた。
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2012年01月10日
 Return To Earth

 これは昨年(2011年)にリリースされた最高にヘヴィなロックン・ロールである。どしどし響くリズムに、分厚いグルーヴを練り出すギター、そしてヴォーカルはブルーズにも似た泥臭さのなかにぶっきらぼうな表情を覗かせており、それらが迷わず、轟音と快楽と天上が同義であるかのような世界のドアを叩く。90年代にブリティッシュ・ストーナーを代表する一つだったACRIMONYの元メンバーによって編成されたバンドだという。なるほどな、と思わせるうねりこそが、このSIGIRIYAの持ち味であり、彼らがファースト・フル・アルバム『RETURN TO EARTH』の魅力に他なるまい。つまり、基本の路線はACRIMONYの頃とほとんど変わっていないのだったが、リフの反復作用にサイケデリックな触感を漂わせながらも、一個一個のフレーズを派手めにすることで、メリハリの大分はっきりとした印象を打ち出している。ダイナミズムが強まったといっていいし、キャッチーなアプローチが増したといっていいほどである。実際、長尺なのはラストに置かれた「DEATHTRIP TO ERYRI」のみで、いやまたその「DEATHTRIP TO ERYRI」におけるメロディアスでドラマティックでスケールの大きな展開がたまらないのだけれど、あとはもう直感的に瞬間的に痺れさせられるナンバーが目白押し。1曲目の「THE MOUNTAIN GOAT」からたちまちめくるめく。スローでドープにもかかわらずなぜかしら。じりじり焦らされることがない。その後も決してアップ・テンポな楽曲ばかりが並んでいるわけではないのに、まるで同じ阿呆なら踊らな損々のテンションを焚きつけてくるのだ。繰り返しのパターンに加え、歌うようなギターと歌いまくるヴォーカルが強烈な3曲目の「HURRICANE」などは正に真骨頂であろう。2010年代の今、ともすればKYUSSやFU MANCHUに比肩しうる最高にヘヴィなロックン・ロールを成し遂げている。

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