ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年11月08日
 佐藤由幸の『弾丸タックル』は、いじめられっ子だった男子学生が、スパルタ・タイプのエキスパートと出会い、特定のスポーツ(格闘技)に取り組みはじめ、次第に才能を開花させていくという、要するに『はじめの一歩』を代表とするようなマンガのヴァリエーションであって、題材となっているのはレスリング(アマチュア・レスリング)である。ついでに述べれば、母親思いの主人公は進んで家業を手伝っていたおかげで基礎体力や自身の特性を養っていたことになっているのだが、無論、そうしたストーリーの類型性は様式の問題でしかないし、むげに否定されるべきものではないだろう。少なくとも、硬質な絵柄と迫力のあるカットを通じて、競技の躍動感はよく出ている。そのことに焦点を絞って見るなら、充分な成果を備えていると思う。ただし、ライヴァルと目される登場人物たちも揃ってき、レスリングの初心者であった主人公も最初の試合に勝利しているにもかかわらず、3巻に入ってもまだ、がしっとガッツ・ポーズを決めたくなるほどのカタルシスが不足したまま。そこが作品の弱さになってしまっている。主人公のモチベーションが確定されていない状態で、単にストーリーが前へ前へと進んでしまっているせいだ。発端はどうであれ、強くなりたい。本当はそれだけでいいのだ。そもそもが様式である以上、動機の部分にもしっかりとした基盤が必要となってくる。おそらく、作者もそのことに気づいている。気づいているので、主人公の朝日昇を試合直前に逃亡させ、カムバックさせるという手はずを取り、なんとかモチベーションを確定させようとしているのではないか。現状、肉体は具体的に描かれているものの、ハートを描くことの魅力は掴み損ねている。
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2013年08月10日
 聖闘士星矢EPISODE.G 20 (チャンピオンREDコミックス)

 要するに手法としていうところの「対話篇」にほかならないのだ。聖闘士(セイント)による一対一(タイマン)のバトルってやつは。光速域で応酬される拳のラッシュは、雄弁に語られる思想の硬度を可視化させ、互いが互いにとってのアンチテーゼであることを具体的に強調するための演出となっているのであって、どちらが正しいか正しくないかを問うかのような交わりのなかに、ロジックを越えたスペクタクルが生じているのである。そして、それは車田正美のオリジナルのヴァージョンの段階で既に発明されていたものではあったが、岡田芽武の『聖闘士星矢 エピソードG』ではそうした方法論の更なる徹底が試みられているだろう。

 遂に最終決戦である。神王、クロノスは世界の崩壊を望みながら、黄金聖闘士のアイオリアに向かい、こう述べる。〈キレイダネ―― これが―― 人の命の輝きガ―― 陽の当たる場所へ昇ってユクヨ / イイナァ まるで宇宙だネ / キレイだなァ / あの全ての星が砕けて消えたら きっと もっと美シイヨネ / 漆黒の闇は―― アタタかくて悲しくテ…… 安心出来ル―― そンな夜空をボクが全ての命にあげルネ〉というそれはあまりにも孤独であるがゆえに魅惑的な思想なのだし、ポエムだ。

 しかし、これをアイオリアは〈宇宙の星は… もう死んだ星の最期が見えてる / でもその輝きは今でも残っていて見てくれてるンだ / 死んだ者達がそうやって生きる人を見守ってくれるってオレは思う / そうやって希望という光を―― 星々は静かに見せてくれている / 人は一人では無い―― 見えなくても共に歩んだ人は 光となって道を照らしてくれている / オレは… そう信じているんだ――〉と裏返す。つまりはクロノスが言う孤独を否定するがゆえに魅惑的な思想を、ポエムを述べてみせるのだ。絶望にも美しさがある。同様、希望にも美しさがある。だが、どちらか一方を正しいとしなければならないとき、黄金聖闘士の聖衣(クロス)は後者の美しさによってのみ輝くことを選ぶのであった。底の見えない絶望を前にしてさえ、希望をその拳に託し、運命に抗おうとするのである。

 時々、『聖闘士星矢 エピソードG』におけるアイオリアの登場(1巻)を思い出す。テロリストが引き起こした原子力発電所の暴走を食い止めるため、アイオリアは物語に召喚されるのだった。もしも聖闘士がいてくれたなら、どんな天変地異からだって我々は守られるんだぞ。もちろん、聖闘士は実在しない。だが、フィクションの描き出す希望をことごとく儚いとは言うまい。ちっぽけであろうが、世界の一片として、未来に関与すべく、踏ん張ること。様々な迷いを経ながらも、アイオリアの行動理念はこの最終巻(20巻)に至るまで一貫している。いかなる強敵を前にしようと、たとえ神をも向こうに回そうと、地上に光の道が敷かれることを願い、自らもそこに溢れた光の一筋であろうと信じ、戦い続けていたのである。

 果たして彼の想いはクロノスに通じたか。亡兄であるアイオロスにあらためて投げかけた次の言葉は、まだ発展途上である少年のそのエピソードのフィナーレに相応しい。〈兄さン… ボクは翼はないけれど―― 黄金の獅子の鬣を持つ資格のある―― そんな聖闘士になれたかなぁ?〉当然、これは読み手に投げかけられた問いでもあって、なれた、なれたに決まってらあ、と答えてあげたい。

17巻について→こちら
 15巻について→こちら
 0巻について→こちら 
 14巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
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 6巻について→こちら
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2013年06月16日
 新潮 2013年 07月号 [雑誌]

 『新潮』7月号掲載。平野啓一郎の『Re: 依田氏からの依頼』には、同号に載っている第二十六回三島由紀夫賞の選評で平野がいとうせいこうの『想像ラジオ』に宛てて書いていることと少なからずリンクする要素が入ってきているように思われる。それはつまり〈「死者の声を聴け」というのは散々語られてきたことだが、いかに想像力によって循環しているとは言え、私はやはり、自己の死、近親者の死、赤の他人の死は、一旦、区別して考えるべきだと思う。(略)見知らぬ樹上の人の声を、同じ「想像の共同体」の一員だからといって、一種のオカルティズムにより「聴くことができる」とするのは乱暴に見える。死者の孤独は、その絶対的な反論不可能性にある。仮に私が、樹上の死者だったとして、下から見上げている赤の他人の自由な想像とは何なのか。何が聞こえるのか。聞きたいという思いと聞こえないという絶望のジレンマを想像力はどうやって乗り越え得るのか(略)読みたかった〉という箇所である。実際に平野がどこまで意識しているのかわからないし、三島由紀夫賞の選評と三島由紀夫に言及している『Re: 依田氏からの依頼』のどちらが先に書かれたのかは知れないけれど、他人の内面を想像し、仮構し、何かしらの物語を編み出そうとするときのその手つきについて、共通の認識が、おそらくは横たわっている。

 が、しかし、『Re: 依田氏からの依頼』と最も比較されるべきは『すばる』2月号に発表された瀬川深の『目の中の水』であろう。両者はともに、ある場合には災害を直接的な題材とはしない災害小説であり、ある場合には小説を書くことについて書かれた小説家小説であって、作中作の現実と作中の現実とが並列的に存在しながら、あるいは入り混じりながら、所謂メタ・フィクションとは異なったレベルでのリアリティ(共感)をフィクションのなかに出現させようとしているのである。実は『目の中の水』を読んだとき、発表された時期が近かったのもあって、並べてみたくなったのは『想像ラジオ』であった。たとえば『想像ラジオ』において「耳」に象徴されているのと同様のものが、『目の中の水』では「目」に象徴されているように感じられたのだ。失われた者、失われていく者を一方に置いた上で複数の視線をパラレルに展開するという意味では、もしかしたら第148回芥川賞の候補になった北野道夫の『関東平野』も近いラインに挙げられるかもしれない。『Re: 依田氏からの依頼』を含め、それらの作品には、年代に関係なく、今日の男性作家が自然と前提に汲んでしまうような条件ないしテーマが介在しているのではないかと思う。

 さて『Re: 依田氏からの依頼』である。〈東日本大震災から、丁度二年が経った頃〉に小説家の大野はとある演劇関係者より「依田氏からの依頼」というメールを受け取った。依田氏というのは劇作家、演出家の依田総作のことであって、大野はまだ新人であった90年代後半に二十歳年上の彼と対談し、以来、特に深い間柄ではないけれど、何度か顔を合わせる機会があった。だが〈この五年ほどはやや疎遠で、新刊は必ず献本していたものの、気がつけば、依田からの献本は絶えていた〉のだった。実際、この二年間、活動らしい活動を依田はしていなかったのだが。そのため、もしかしたら〈依田は何かの事情で、あの時被災したんじゃないだろうかと考え〉ていた大野は、しかし依田の妻である未知恵を通じて、依田が現在置かれている本当の状況を聞かされることとなる。それは〈とても俄には信じられな〉いものであった。「依田氏からの依頼」とは、なぜ依田がそのような状況に陥らなければならなかったのかを、未知恵から手渡された聞き書き原稿と録音データを頼りに小説化して欲しいということ。結局、大野はその意図もわからぬまま「依田氏からの依頼」を引き受けてしまうのだったが、こうして書かれた小説が作中作として小説の大部分を占めていく。

 小説の大部分を占めるのは依田を見舞った強烈な事件とその顛末ではあるのだけれど、最終的に具体化されているのは、大野の困惑だといえる。その困惑が一体どこからやってきているのか。こうと定めるのが憚れる。極めてアブストラクトであることは作者の狙いだろう。そこで別の設問を立てるとすれば、どうして「依田氏からの依頼」は、ルポ・ルタージュやノン・フィクション、自伝ではなく、ほかの人間の手により小説としてまとめられなければならなかったのか。小説というのはおおよそフィクションと同義である。確固たるモデルがあろうとも。必然として、他人の内面を想像し、仮構し、何かしらの物語を編み出してしまう。そうした物語に試される人間がいるとしたら、一番にそれは物語を書いた本人が当てはまる。真実を書いたつもりでいようが必ずしも現実と一致しないことがあるのだし、虚偽を書いたつもりなのに図らずも現実と一致してしまうことがある。ついに依田と直面した大野を襲った困惑は、たぶん根底の部分で『想像ラジオ』の「耳」や『目の中の水』の「目」と決して遠からぬ機能を果たしている。
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2012年11月17日
 私を知らないで (集英社文庫)

 白河三兎は確かに村上春樹からの影響を思わせる独白を持ったミステリ作家として登場したが、もしかしたらそのスタイルは伊坂幸太郎や本多孝好以降に青春小説をやろうとするとこうなると判断されるものでもあった。三作目の『私を知らないで』(文庫書き下ろし)はデビュー作だった『プールの底に眠る』のヴァリエーションのようであって、名指す者と名指される者が、時にお互いの喪失を浮き彫りにし、時にお互いの欠落を埋め合う、という関係を、大変意固地で青臭い印象のなかに示していく。

 小学生の頃より数回の転校を繰り返してきた〈僕〉は、クラス内の波風に巻き込まれないための処世術を十三歳にして身に付けていた。経験的に無害で穏当なポジションを獲得することを第一義としていた。しかし今回ばかりはどこかで歯車が狂ってしまった。横浜郊外の中学校に編入して〈無難に初日を乗り切り、その後も自然にクラスに溶け込めた気でいた僕に思わぬ落とし穴が待ち受けてい〉たのだった。〈僕〉のあとに転校してきた高野三四郎という健全なお調子者からの押しつけがましい関与によって、その美しさと薄幸のせいで学校中に疎まれていたキヨコと呼ばれる少女(新藤ひかり)へ否応なく関与せざるをえなくなってしまうのである。

 今日、学校や教室を舞台に青春小説を展開しようとするとき、格好の材料として所謂スクールカーストの状況が用いられ、場合によっては家庭におけるネグレクトであったり、生まれや育ち(遺伝や環境)の問題に注がれる視線が個人とその周辺にどう作用するかがクローズ・アップされがちのだけれど、以上のマナーを『私を知らないで』もやはり汲んでいると言って差し支えがない。事実、家庭に特殊な事情を抱えていることがキヨコを孤立させているのだし、また孤立を怖れさせない性格を彼女に与えており、その秘密に深く踏み込んでいくことで利口に振る舞っていたはずの自分を〈僕〉は見失い、学校での立場を危うくする。

 キヨコは同調圧力の渦中において唯一の例外であるがゆえに〈僕〉や高野に注目されることとなるのだが、他方でそれは〈僕〉や高野が本質的には同調圧力の外側にいられるよそ者でありストレンジャーであることの証明を兼ねている。この三人のささやかな共闘とでもすべき結びつきが、死人が出るほどクリティカルな事件を通じ、各々の内奥に隠された苦悩を告白の形で導き出しているところに、推理小説に似た謎解きの伏線が凝らされており、まさかのクライマックスに至る筋書きを非常に整ったものとしている。

 もちろん、〈僕〉の言葉であれ、高野の言葉であれ、キヨコの言葉であれ、告白それ自体は実にエモーショナルな働きかけを読み手にもたらすだろう。無力な子供たちがこの世界を受け入れようとしては拒絶され、小さな心を散り散りに切り刻まれることにも耐えなければならない。結果〈「私が普通に生きようとしちゃいけなかったのかな? 間違ったことだったのかな?」と別れ際にキヨコは僕を通してこの世界へ問いかけたのだ〉けれど、現実は残酷な返答を突き返してくるのみであった。そうした返答に対する否定をどうしたら手に入れられるか。

 思春期特有のナイーヴなトライ・アンド・エラーを、惨めで憐れで不幸せな敗北の記憶としてではなく、せつない感傷が許されるまで実った未来へと繋げるために『私を知らないで』のアクロバティックな結末は書かれているのだと思う。結末を伏せて言うが、そりゃあ〈僕〉の両親の驚くべき寛容さはさすがにちょっと待って欲しいし、ハッピー・エンドから逆算されたかのような都合の良さにはいくらでも注文を付けられる。が、しかし喪失のダメージはいかに回復されるのか。欠落に絡め取られた者同士が願いを叶えることは可能か。センシティヴな物語によって試みられているのは、おそらくその実現にほかならない。

 作者は『プールの底に眠る』で同調圧力で魂の砕かれた少女を新しい共同体に加えることで救ってみせた。獲得された希望の生み出した歳月が感傷になりうることをかつての少年に語らせた。そこで残った課題を踏まえながら同様の手続きを『私を知らないで』は取っていく。すなわち今回は、現実に逆らえない子供たちの悲哀ではなく、現実を変えられる子供たちの勇気に着眼しているのであって、これがリアリティとは別次元の成功を作品に施しているのである。
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2012年08月16日
  満天の星と青い空

 もちろん西森博之は(比類なきといってもいいぐらい)すぐれたマンガ家だが、しかし小説家としてはどうか。作者にとっては初の小説となるこの『満天の星と青い空』を、作家論的に考えるのではなく、あくまでも作品論的に読むのであれば、いくらか残念な気持ちにならざるをえない、というのが正直な感想だろう。理由は非常に単純で、「描写」が「説明」にしかなっていない、または「説明」が「描写」にはなっていないからであって、後に図像を加えられ、マンガ化されるため、用意された原作ならこれで充分なのかもしれないけれど、そうではなく、書かれたものが素のままで百であると手渡されたとき、やはりどうも物足りなさを覚えるのだった。

 文明の崩壊しかけた世界で、高校生の一群と、彼らを付け狙う若者たちが、殺し合いと違わぬ状況へと追い込まれていく、という内容は、一部のライトノベルに近いところがあるし、現代的なジュヴナイルと評するのに相応しいものだと思う。そこでは、サヴァイヴァルの死線を比喩とし、ティーンエイジャーの葛藤にリアリティが担保され、残酷な問題提起とそれを越えようとする理想像とが熾烈に入れ替わりながら、安易なハッピー・エンドに回収しきれない帰結を導いているのだが、作中人物たちの言動が「説明」の具体性によって拘束されている=こいつはこういう人間だからこの場面ではこういう風に決断するとあらかた「説明」してしまうので、ショッキングな展開にも戸惑いは少ない。筋書きには魅力があるのに下手な役者ばかりが揃った舞台劇のような印象を残すのである。

 弱者と強者はどこで分け隔てられるのか。SF的な事件を経、設定された受難を通じ、繰り広げられる『満天の星と青い空』の物語において、テーマを一つに絞るのであれば、おそらく、それになる。弱者と弱者の比較が強者を作り出す(弱い者がさらに弱い者を殴る)。こうしたシステムの閉塞を、終末の風景に放り込まれた高校生たちは、否応なく体験していく。そのことが、殺伐としたイメージを全編に付与させているのだが、他方で彼らを励まし続ける二つの存在に着目したい。主人公格の中澤真吾とヒロインにあたる水上鈴音である。タイプのまったく異なった両者が他の作中人物たちよりも特別目立っているのは、弱者と弱者の比較が強者を作り出す、というロジックを同じく逸脱しているからにほかならない。そうしたルールやゲームをはっきり無効としてしまう真吾と鈴音こそが、文明の崩壊しかけた世界で秩序を再チューニングしうる。前述したシステムの上位に存在する、という意味で強者の役割を果たしているのだ。

 ただし、真吾も鈴音もある種の超人であって、およそ凡人には及びもつかない領域に達していることが「説明」されている。確かに『満天の星と青い空』は、アパシーを生きる真吾が、対極である鈴音との出会い(ボーイ・ミーツ・ガール)を介して、感情を回復しつつ、超人を降りていく過程でもあるだろう。だが、それを中心の点とするには、あまりにも場面の転換が激しすぎる。「描写」というより「説明」をベースとしているがゆえに可能な(速やかな)視線のスイッチが、真吾の活躍を正しくコミック的な超人のそれに止めているのである。真吾や鈴音とチームを組むことになる横川晃一は『ドンキホーテ』におけるサンチョ・パンサのような奴で、いっそのこと、こいつに語り手を任せてしまうという方法もあったのではないかと思う。

 ヤンキー・マンガ出身の小説家としては、木内一裕(きうちかずひろ)が徐々に成功を収めつつあるが、木内がハードボイルドを参考にし、文体を固めたのとは違い、西森の『満天の星と青い空』には何を手本としているのか判然としないところがある。無論、そこに独自性を見出すことはできなくないものの、ねえ、やっぱりこれはマンガで読みたいよ、という願望の方が大きく出る。
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2012年08月03日
 クエーサーと13番目の柱

 ニコニコ動画を閲覧していると、偶に「謎の感動」なるタグに出会うときがある。発祥は知らないのだけれど、冷静に判断したらしょっぱいアトラクションでしかないのに妙にカタルシスさせられてしまう、そのような投稿に付けられているのが相応しい。そして、たぶん、阿部和重の小説『クエーサーと13番目の柱』にも実は「謎の感動」のタグがぴったり似合うのではないか、という気がしている。いや、これ、よく考えれば、全然いい話じゃねえんだよ。にもかかわらず、不思議と光って見えるものがあるのだ。

 非常に簡単に要約するとしたら、『クエーサーと13番目の柱』とは、その筋のプロフェッショナルとして新進のアイドルをストーキングするグループに起こった破滅と奇跡だといえる。現実には、犯罪者集団の類がどう破滅しようがどんな奇跡を起こそうが知ったことではないのであって、心のなかで軽蔑してやればいいのだが、しかし既に述べた通り、それがフィクションの力学を通じ、どうしてか「謎の感動」を寄越したりもするのだから弱るのである。では、その「謎の感動」の正体とは何か。

 佐々木敦は『群像』8月号に掲載の評論「DEYDREAM BELIEVER」で、〈自分自身でさえ本当に信じているわけではないのかもしれない何ごとかを、とりあえず、敢て、だがあくまでも真剣に、信じたことにしてみる、ということ、そのような振る舞いが必然的に、不可避的に招き寄せることになる悲劇と喜劇、そしてそこに舞い降りる紛れもない奇跡こそ〉が『クエーサーと13番目の柱』のテーマであるとし、〈より強く信じてみせた者が、誰よりもそうすることに決めた者だけが、最終的な勝利と成功を得ることになるのだ。そこでは信じられているものの信憑性は、もはやまったく問題ではない。むしろマトモに考えたら、決して信じることなど出来ないようなことこそが、思考の現実化を齎すのである〉と述べ、そういうある種ロマンティックな態度を、たとえそれを陳腐だと自覚してもなお果敢に引き受けて、徹底的に追求している点が、おそらく阿部和重の真価なのだと判断している(ように読める)。また、これはもしかすると『クエーサーと13番目の柱』が宿す「謎の感動」の正体の一端に触れてもいる。

 だが、個人的には「謎の感動」は「謎の感動」のままにしておきたい。もうそんなものの正体はどうでもいいのだ。たとえば、インターネットなどを中心に、どうやら陰謀論が歓迎されているみたいだぞ、と思うことが最近多い。こうした時代にあって、阿部和重の現実と妄想とが緻密に噛み合った作風は、かつては高度なアイロニーであったのかもしれないけれど、もはや圧倒的なリアリズムとして受け取れるものなのである。作中、スマートフォンや匿名の電子掲示板を介してスリリングに展開される追跡劇は、何らかの比喩というより、今日的な社会の直接的な描写だろう。無論、情報戦を制することの優位や暴力に緊張の糸を張り巡らせ、スパイ映画さながらのサスペンスに仕立てた序盤は強いフックたりえているし、欠落と獲得を経、無数に存在する可能性のなかから唯一の必然がいかに選び取られるかを戯画化したクライマックスには大変鮮やかなものがある。しかしそのすべては、あくまでも結果としていえば、「謎の感動」というリアリティ(共感)を呼び起こすためのプロセスにほかならない。

 そこに深い意図があろうとなかろうと、レディオヘッドの「エアバッグ」を用意したラスト・シーンは単純に出来すぎである。防ぐことのできなかったアクシデントは、あらかじめ防げないことを決定されているアクシデントでもある。この限りにおいて、とある人物の行動履歴は予測を後追い、経過を埋めているにすぎない。そしてそれは本質的には(残念なことに)奇跡ですらない。だが、その動かしがたい事実に窮すれば窮するほど、かえって見えてくるものもあるのではないか。少なくとも『クエーサーと13番目の柱』には「謎の感動」のタグを付けるのに十分なだけの内容が公開されている。

・その他阿部和重に関する文章
 『くるみ割り人形』について→こちら
 『ミステリアスセッティング』について→こちら
 『課長 島雅彦』について→こちら

 『シネマの記憶喪失』について→こちら
 『阿部和重対談集』について→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら
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2012年03月13日
 文学界 2012年 04月号 [雑誌]

 『文學界』4月号掲載。自称・小説ファンの御多分に漏れず、石原慎太郎の良い読者ではないのたが、この『世の中おかしいよ』に関しては、途中まで、いやいやこれ案外おもしろいじゃないの、と思いながら読んだのだった。池袋署で警部補を務める男が自分の経験談を(おそらくは読み手に対して)報告するというスタイルの作品であって、その主観の実に一面的であることがニヤニヤとした笑いを誘う。

 とりわけ序盤の、警察官である自分が他人にどう見られているかの認識から彼の先輩と警視総監を名乗る男とのやりとりにかけては、妙にかしこまったり砕けたりするアクセントの語り口を含め、ある種のギャグがスタンダードであればあるほど軽快に弾むのと似た効果を持っているように思う。まあ全体の印象として主人公が対面する人々の人格あるいは人権を軽んじている部分があるため、作者のプロフィールと合わせて、そこを疵とするのは容易い。

 だがむしろ、ともすればアイロニーであると解釈できた主観の在り方が、中盤以降に、意外とマジだったと思われてしまうところで、小説そのもののテンポも調子を悪くしていってしまう。それが一番もったいない。とくに〈人間相手の仕事ならともかく人間以外の捜査や逮捕となるとこれはいっそう大変なんです〉というラスト間近で、主人公は感想文にぶら下がっているだけの役割になってしまう。要するに、ギャグとして見たときにそれが最後の段でオチていないので肩透かしを喰らう。
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 Story Power (ストーリーパワー) 2012 2012年 04月号 [雑誌]

 『「新潮」4月号別冊 Story Power 2012』掲載。その『Story Power 2012』の表紙には「元気の出るお話、売ります」とあるが、しかしこの佐藤友哉の『ベッドサイド・マーダーケース』を読んだからといってたちまち「元気」が出るかどうか。いくらか疑問が残るのは、一般的に「ポジティヴ」だというふうに判断されるのとは反対の力学によって小説が編まれているためであり、まあ決して「ハッピー」な物語じゃねえんだとは思うのだけれど、たとえば判断停止と同様の空元気を他人に強いることが一種の暴力でありうるとすれば、それを向こうに回すのに十分な抗弁となっている。この意味で、いや確かに「元気」が出てくる面を持ってはいるのだった。

 薄暗い寝室で主人公の〈僕〉が目を覚ますとベッドの隣で妻が死んでいる。包丁で首を刺され、枕を血で濡らし、死んでいる。玄関のドアには鍵がかかっている。一体誰が妻を殺したのか。たぶん世間は自分を犯人として見るだろう。状況を理解し難い〈僕〉は、ポストに一枚のメモ用紙を見つけるが、途方に暮れ、それをポケットにつっこんだまま、マンションの外へ逃げ出すのだった。そして一人の男と出会う。六条と名乗るその男は自分も同じ目に遭ったと言う。さらに驚くべきことに、似たような殺人事件は過去三十年の間に四十件以上も起こっていて、犯人はまだ捕まっていない。

 以上が発端で、〈僕〉は六条とともに自分の妻を殺した真犯人を独力で探し出すことになるというのが、『ベッドサイド・マーダーケース』のあらましなのだが、なるたけネタを割らずにいうと、ミステリともとれるスタイルの小説は、終盤に差し掛かり、奇妙な変形を遂げていく。日用品から具体的な名称が斥けられているのは、そのヒントであろう。自然災害と放射性物質の恐怖が、忘却という名のもと、隠蔽された世界像が浮かび上がってくるのである。

 佐藤は『群像』4月号掲載の「命短し恋せよ原発」で、太宰治の『十二月八日』を取り上げながら、そこで十二月八日を〈ジョン・レノンの命日でもあり〉〈高速増殖原型炉もんじゅが事故を起こした日でもある〉とし〈日本が宣戦布告した日〉でもあるとしながら、同時にそれが〈浦賀和宏さんの誕生日でもあ〉ることをわざわざ触れているが、『ベッドサイド・マーダーケース』は、良い意味で浦賀和宏ライクな荒唐無稽さ、残酷さ、身も蓋もなさ、つまりは佐藤友哉という作家の、根の部分をよく覗かせていると思う。

 また「命短し恋せよ原発」に書かれた問題意識を明らかに共有しているのが、『ベッドサイド・マーダーケース』(と『新潮』2月号に掲載された『今まで通り』)だといえるのであって、『ベッドサイド・マーダーケース』における感情の矛先を失った結末を考える際、次のような一節は大いに参照されるべき言いを含んでいる。2011年3月11日の大地震とそれにともなう原発事故を経た結果、〈やれやれ、観測者であったはずの僕たちが「シュレディンガーの猫」になってどうする〉〈もちろん、「シュレディンガーの猫」になったのは僕たちだけではない〉〈この国に住むすべての人間がそうだ〉〈たとえば、ついさっき生まれたばかりの赤ちゃんさえも〉

 そう、『ベッドサイド・マーダーケース』で、とある人物に真相を告げられた〈僕〉の反応と行動は、正しく「シュレディンガーの猫」が生きているかもしれない(もしもそれを希望と呼ぶのであれば)希望と死んでいるかもしれない(もしもそれを絶望と呼べるのであれば)絶望とを想起させる。

・その他佐藤友哉に関する文章
 『今まで通り』について→こちら
 『333のテッペン』について→こちら
 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2012年01月14日
 新潮 2012年 02月号 [雑誌]

 『新潮』2月号掲載。ここ最近、文芸誌の類に目を通していると震災後の日常を小説の舞台に使っているものが、いや確かに増えた。必ずしも直接的な被害を題材にしているわけではないのだったが、作中人物の心境に、あの体験が、部分的にであれ、紛れ込んでいる様子なのである。そりゃそうだろう。そうした在り方こそが、我々の現在なのであり、生活なのであって、リアリティなのだから、とは思う。しかしながらその大半に対し、どことなく距離を置きたくなってしまうのは、いくらかパターン化された驚きを導入したにすぎない以上の成果が見られないためだ。この場合の驚きとは、大まかに二種類ある。震災を経たことで変わってしまった自分への驚きか。あるいは逆に震災を経ても変わらなかった自分への驚きか。前者であれ後者であれ、デリケートに胸を痛んでみせるのは、作者の誠実さなのか。それとも単なるクリシェでしかないのかどうか。技法の面ではっきりしないものが少なくはない。さて本題は佐藤友哉の『今まで通り』ということになる。

 佐藤の『今まで通り』もまた、震災後の日常を小説の舞台に使っているのだけれど、おそらく例外的であるのは、上述した驚きがほとんどといっていいほど示されてはいない点だろう。反面、無感動と無関心、すなわちアパシーであることの憂鬱が作品の真ん中にきている。震災について、主人公の感想は〈大きな地震と、それによって原子力発電所が爆発して、放射性物質がばらまかれたというニュースを見ても、なにもなかった。/ 地震はすごかったけれど、すんでしまえばそれだけだし、原発についても、私の住んでいる場所からずいぶんはなれているので、あまり切迫したきもちにはならなかった〉という言葉に尽きる。専業主婦である彼女は、そのかわり、生後半年の赤ん坊と自分の関係に注意を引かれているのである。震災後の状況がどうであろうと『今まで通り』に。それが作品のあらましを担っていく。

 極めて単純化すれば、主人公の姿にはある種のストレスが投影されており、そしてそのストレスは、震災の以前から存在していたのであって、震災がもたらしたストレスよりも大きい。ではそのストレスの正体とは何か。自分と小さな赤ん坊の関係に根差したものだといえるのだが、しかしそれを育児の一語にまでは単純化できないところが、主眼にあたるのだと思う。力の強いと弱いとで対他関係が決定されるのなら、母親である主人公は赤ん坊よりも強い。けれど、赤ん坊を取り巻く社会性よりは遙かに弱い。このとき、本当に赤ん坊を保護しているのは誰なのか。果たして赤ん坊を一個の人格と認められるのか。疑問形になりうる混乱を、決して異常な事態とせず、現代的なミニマリズムのなかに落とし込んでいる。震災後の風景を採用してはいるものの、むしろ金原ひとみの『マザーズ』以降に発表された家族小説として、『新潮』1月号に掲載された舞城王太郎の『やさしナリン』などと並べたい作品だろう。ちなみに『マザーズ』は2010年から2011年にかけて『新潮』に連載されていた小説である。

・その他佐藤友哉に関する文章
 『333のテッペン』について→こちら
 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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