ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月28日
 吉田聡の『荒くれKNIGHT 高校爆走編』、そのラスト・シリーズにあたる「黒い残響」をまるごと収めた完結の11巻であるが、ああ、そうか、こうして最終回までの道のりをまとめて読めば気づかされるものもあるな、と思うのは、そもそも前シリーズ「ROAD TO STARDUST」から「黒い残響」にかけては、主人公である善波七五十の出番がすくなく、あくまでも周囲の状況整理が行われ、そうして全部の物語が閉じられるさい、善波ではなく、その彼をライバル視する伊武の台詞が幕引きの役割を担うことに、もちろんエンターテイメントをたんに鑑賞するのとはべつのレベルで、どう解釈すればいいのか、初読時には悩ましいところもあったのだが、それに対して、ようやく自分なりに納得しうる答えが見つかったからなのだった。要するに、太陽の存在がいかに貴重であるかは周辺の星々の営みによって証明される、ということであろう。過去の作中人物たちが、どれほど夜の太陽=善波の登場を待ち続けたか、また若い世代たちにとって、善波=夜の太陽がどれほど重要であるのか、が、こうした描かれ方のうちには表されているのである。さらに、もうひとつ、べつの角度からの見方をあててみることもできる。たとえば、一個の物語のなかに複数のカリスマが存在する場合、ワキの作中人物ばかりか、作外の読み手もまた、はたしてどちらが上なのか、正しいのか、えらいのか、と、そのような部分に関心を向けがちになるけれども、大鳥のエピソードを通じ、輪蛇(LINDA)と虎武羅(COBRA)の対照を際立たせ、最後に伊武の背中を見せることで、種類は異なっても本物が並び立ってある、そういう極論では裁けない世界が実現されている。結局のところ、それぞれが自分で自分の信じられるものに誇りを持てるのであればそうすればよい、のである。初代輪蛇の赤蛇に認められず、〈まるっきりのニセ物だな〉と言い捨てられた木原は、〈リーダーが笑えば・・・・仲間は明日を・・・・ / 叫べば憎しみのコブシを・・・・・・自分の時間を仲間にくれてやる・・・・仲間の為に怒りも悲しみも凍らせる・・・・・・それがリーダーか!? オレは・・・・“独り”だってイキがってたけど・・・赤蛇の方が何倍もつらくて淋しいじゃねえか!!〉と理解することによって、二代目の輪蛇になる資格を得る。しかし彼は、自身が夜を照らす器量ではないのを知っているから、〈出て来い! 夜の太陽・・・・ずっと路地裏を照らし続けろ!!〉と待ち続けるしかないのだが、やがて夜の太陽となる三代目輪蛇の善波七五十にとっては、まさに木原こそがカリスマであったことを、これまで『荒くれKNIGHT』を、そして『荒くれKNIGHT 高校爆走編』を追いかけ続けてきた人びとは知っている。

 最終回について→こちら
 
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』1巻について→こちら
 『湘南グラフィティ』について→こちら


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 岳 3 (3)

 石塚真一『岳』の、作中に流れる時間がどのようなものか、真剣に考えたときはないのだけれども、この3巻で見られる、新人救助隊員である椎名の成長ぶりには、うんうん、と親身な気持ちになってしまうのだが、しかし、こういう一話で完結するマンガというのは、どれだけエピソードにヴァリーションを持たせられるかといった面もあり、そちらに関しては、やや懸念を覚えてしまったのは、高齢者を扱ったものが、いや、ま、たしかに以前からけっして少なくなかったとはいえ、やけに目立つように感じられたからなのだった。雄大な自然のなかの、ちっぽけで厳かな生と死をめぐるドラマとしては、あいかわらず胸に響く内容になっているだけに、そのあたりが、すこし、気にかかった。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2006年12月27日
 覇-LORD 7 (7)

 ついに董卓討伐の勅命がくだされる、この“超”[三国志]と銘打たれた『覇‐LORD‐』の7巻では、趙雲とは違う女としての在り方で、乱世を戦う貂蝉の登場が、大きくスペースをとっている。ここでの貂蝉は、悲痛な覚悟を持った若き売春婦といった独自の設定で、そういう女性の復讐者というのは、武論尊・池上遼一コンビの作品にしてみると、けっして珍しくはない造型だといえよう。関羽、呂布、董卓を渡り歩く、いわばファム・ファタルの体であるけれども、その価値を三者が異なった部分に見ていることで、おそらくは彼女の彫りを深くしており、並行して董卓の過去を描き、彼にも人間らしさを与えようとしているのだが、しかし、ここのくだりを、すこし退屈に感じられるのは、やはり、このマンガにおいて、もっとも魅力的な人物なのは呂布であるがゆえに、と僕は言うわけだ(この巻の表紙も呂布だしね)。いや、まちがいなく呂布が姿を現したとたん、その場面は、緊迫に満ち、引き締まる。というのは、もちろん奴の姿形がかっこうよく描かれているのもあるのだが、それ以上に、その行動が何よりも予測不可能だという点が大きい。貂蝉の素性が『三国志演義』的なものから変更されている以上、いったいどのようにして呂布が董卓を殺害するに至るのか、この段階では、彼らふたりが漢と漢の語らいをしているだけに、絶対にせこい理由にはならないだろう、と思えば、この中弛みからでも燃える展開を期待したくなる。

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 2巻について→こちら
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2006年12月26日
 Yesterday、Yes a day

 『スケルトン イン ザ クローゼット』が佳作であった岩本ナオの、二冊目の単行本となる『Yesterday, Yes a day』は、『スケルトン イン ザ クローゼット』の表題作がそうであったように、身近な他人を扱ったホーム・ドラマの良作である。小学生の頃、東京へ引っ越していった多喜二は、しかし、あちらで進学校に通う生活に馴染めず、高校一年の夏休みにひとりで、祖母の暮らす小さな村へと帰ってくる。その彼とは同い年の幼馴染みで遠縁にあたる小麦は、三年前に母親が病気で入院して以来、家族の雰囲気が変わってしまったことに敏感となり、兄のスバルからは苦手だと思われ、友人たちともどこか素直に付き合えない、そうした寂しさを紛らわすかのように、無口でおっとりとした多喜二の面倒を熱心に見るのだけど、〈誰かに側にいてほしいなんて言っちゃいけないことみたいな気がして…〉という思いなしが、消えてなくなることはないのだった。おそらく小麦が抱える空漠の多くは、幼年期と現在との対照からやってきている。彼女が、多喜二やスバルに求めているものを、簡単にいうと、子どもの頃と同じままであるような環境だろう。父や母という絶対的な庇護者があって、そのもとで安寧に過ごせた時代への思慕ともいえる。だが季節が自然と巡り巡るように、人と人とのあいだの横たわる時間も、止まることなく、流れ、間柄も変わりゆく。覚えていれば戻せることもあるが、忘れられてしまうことも少なくはない。そうした渦中にある動揺と不安に、小麦の心情は一致している。多喜二は、たしょう大げさにいえば、自己実現のために出て行った人間ではなくて、そういったことの煩わしさや寂しさから帰ってきた人間であり、あるいはそのことが、彼の臆病であるけれども、やさしい性格を形作っている。こうしたふたりが、お互いを必要とするでもなく必要とする関わり合いは、物語のなかで、直截的な相思相愛の関係に至ることはないが、それがかえって、定型に凝り固まってはいない、無形の、やわらかな感動を、読み手にもたらす。
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2006年12月25日
 イカロスの山 5 (5)

 〈結果がすべてだと? ならば魂は 魂はどこへ行くんだ 彼らの情熱はどこへ――〉。成績への欲求だけを尋ねる米国テレビ・キャスターのインタビューに気分を悪くした平岡は、その脳裏に、中途で夢を費えてしまった人びとの姿を思い浮かべる。〈おれが山に登るのは“挑戦”でも“ビジネス”でも まして“征服”でもなく――〉、では平岡が山を登る理由とはいったい何なのか。塀内夏子『イカロスの山』は、この5巻に至り、さまざまな局面において、俄然緊張感を高めてゆく。三上のクレバスへの落下、三上の妻靖子をめぐる三上と平岡の直截的な対峙、そして先ほど述べたインタビュー・シーンに、突然の雪壁の大崩落、それらの出来事は、もちろん読み手を退屈させないハイライトとなっている、が、そのことだけに止まらず、平岡という個人の、感情の巧みな表現へと結びついている。描かれる表情は、いつも無愛想であるけど、作中で起こされる幾多の事象がかわりに、その内面の基底にあるものを、読み手に垣間見せる。三上の〈おまえはそういう男だから 友やザイル・パートナーを自分のことより大切にする男だから〉という言葉には、平岡の孤独がどこからやってきているのか、ついに胸を打たれる効果がある。平岡と三上のコンビに先んじて、アメリカ隊が頂上へのアタックをかけようとするそのとき、上空を不吉な雪雲が覆う。8000メートルの未踏峰がもたらす次の試練を予感させ、物語は、次巻へと続く。

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 2巻について→こちら
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 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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 そんでむらさきどーなった? (マーガレットコミックス)

 『そんでむらさきどーなった?』は、幸田もも子が『ザ マーガレット』をおもに『デラックスマーガレット』や『別冊マーガレット増刊号』に発表したマンガを収め、作者にとっては初のコミックスだということもあって、拙いところも多く見受けられるが、もっとも発表時期の新しい「初恋日和」のような、ひじょうに短く、心情だけの綴られた作品からは、今後に伸びていく可能性がうかがえる。絵柄は、やはり『別冊マーガレット』周りのマンガ家(といってしまっていいのかはわからないが)アルコや高野苺に似たところがあり、作風も、近しい線を感じるコメディの要素が強いものだといえる。表題の「そんでむらさきどーなった?」や、そのプロトタイプである「純潔ヴァイオレット」には、あまりそそられなかったけれど、先ほどいった「初恋日和」や、そのほかにも「どこへ行ったの? あのバカは」などは、愉しく読めた。「どこへ行ったの? あのバカは」で扱っているのは、「そんでむらさきどーなった?」と同じく、幼馴染みとの進展しにくい恋愛なのだけれども、おおきく違うのは、告白してからの距離ではなく、告白するまでの距離を描いている点にあって、そのさい障害として置かれる出来事が、あまりにも現実的ではないことが、翻ってヒロインの感情に説得力を増させる結果となっている。
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 高野苺は、『愛し金魚』に惹かれるものがあったのだけれども、この『Shooting Star』に関しては、ちょっと厳しいなあ、と顔を顰めさせられた気分である。表題の「Shooting Star」は、全四話のシリーズで、青春パンクというかフェイク・パンクというか、一種のファッション・パンクな高校生たちのバンドやろうぜ的なものだ、と、一言でまとめられるが、いかんせん、登場人物の賑やかな性格以外に読むべき点が少なく、物語に集中するのが難しいし、また『愛し金魚』のときも述べた気がするけど、おそらく作者当人は(初期の)矢沢あいや(現在の)いくえみ綾を意識しているのではないか、と思わせる絵柄が、時折きらたかしに見えてしまうあたりに顕著なように、おおもとの感性はヤンキーに近しいのだろうから、そのへんを生かすつもりなのか殺すつもりなのか、はっきりとした自覚があったほうが良いように思う。

 『愛し金魚』について→こちら
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2006年12月24日
 ryusei.JPG

 大井昌和のマンガ『流星たちに伝えてよ』は、絵柄も含め地味かもしれないが、いやしかし、できれば多くに読まれて欲しい連作短篇集である。SF作品としては特筆すべきシーンは少ないけれども、作者なりの手つきで描かれた生の営みは、つよい訴えかけをもった哀切な感情の、良心的な表現たりえている。〈知ってるか? 流れ星ってただのチリが燃えて光っているんだぜ〉。その数年後、月と地球を繋ぐ一機の月航船が墜落した。乗員乗客127名はみな、爆発のなかで、死んだ。地上の人びとは、そのことを知らず、まるで流星のような、夜空を駆ける輝きを、見た。こうして、ひとつの象徴的な出来事とは無関係な、あるいは、その周辺に関わる種々のエピソードが、提示される。それぞれの登場人物が、それぞれの日常で、それぞれの悩みを抱え、生きることの意欲を弱くさせるような、いうなれば壁に突き当たっている。その壁は、他人の表情を見えなくさせ、自分のことを第一義に考えさせるあまり、信じるに値するものを隠してしまう。だが、空から降るひと筋の光が、心の奥にひっそりとしまわれていた希望を照らし、静かに思い出させる。〈前ばかり見てると気づかないこともあるのよ / 立ち止まって空を見上げる気持ちでないと――〉そのことに気づけないのである。無名の人は、よく星屑に喩えられるが、その、ささやかな煌めきが、ある場合には、とても尊く、他人の目に映ることだってあるだろう。人の一生には必ずや意味がある、というのが可能性の問題であるならば、人の一生には何の意味もない、というのも可能性の問題にほかならない。墜落を覚悟した月航船の乗客たちを捉まえた最終話が圧巻で、〈僕らの言葉を…せめて僕らの言葉を家族に伝えるため 守り抜きましょう〉という彼らのとった行動が、どのような意味を持っていたのか、物語のなかに点るさまざまな瞬間を振り返り、思わず目頭を押さえる。
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 ここまで永く、風呼、大也、壱の三角関係が続くと、さすがにヘキエキさせられるけれど、でも、このあいだから物語に投入された影近さんの素敵さ加減ときたら、ちょっと、好きにならずにはいられない指数が高すぎる。なぜ作中の人びと、とくに壱は、彼女に魅了されてしまわないのだろうか。ななじ眺『パフェちっく!』19巻である。正直なところ、19巻という長さに、もう何の意味も感じられなくなっているのは、大也と壱に対して風呼が受け身の立場にシフトしてしまったあたりに原因があるように思われる。そうして登場人物たちから、ある種の積極性が損なわれてしまったため、ヘヴィとも暗いともいえない、たんに消極的な展開へと陥ってしまった。この停滞は、まさに三竦みと言い表すのに相応しい。そうした退屈にも思える雰囲気のなかで、影近さんの存在がキュートなのが、せめてもの救いだな。

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 刑事が一匹… 7 赤い記憶編 (7)

 すこし前まで、きたがわ翔が『小説すばる』に連載していた(現在は終了している)エッセイふうのマンガは、80年代から90年代前半にかけての、あるマンガ史にとっての生きた資料なので、どっかでまとまってくれると、うれしい。そのなかで幾度か述べられていることからわかるように、きたがわは、先行する作家や作品を几帳面に意識してしまうマンガ家であり、この『刑事が一匹』最終7巻のカバーに付せられているあとがきで、ラスト・エピソードとなる「赤い記憶編」は、『トーマの心臓』からの影響が仄めかされているけれど、えーどこがあ、という一方で、たしかにその手触りを感じられなくもない。二年前に電車事故で父親を亡くした女子高生の霧間早希は、いっけんダメージからは回復したように、あかるく見えながらも、しかし、とある呪縛に囚われていたままであった。その彼女が、隣のクラスの吉川葵に急接近した真意とは、いったい何か。ふとしたきっかけをもって、高円寺は、そうしたことの顛末に関わることとなる。「赤い記憶編」で主人公の高円寺は、これまでとは違い、ほとんど事件に介入することはなく、あくまでも傍観者に近しい立場に置かれている。作中で、メインに描かれているのは、少女たちの罪と赦しをめぐる劇だといえるであろう。しかし、完結したこの時点から振り返ってみれば、『刑事が一匹…』というマンガ自体が、そういう、同性二者間の絆によって、当事者たちが悩み、苦しみ、罰を授け、受ける話ではなかったか、という気もするし、なるほど、そう考えれば、大筋はうまくまとめられている。ただし、いち狂言回し以上の役割を高円寺に見ていた場合、彼の行く末などに関しては、いささか消化不良の嫌いがある。

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2006年12月22日
 ヒメレス~私立姫園学園女子レスリング部 1 (1)

 元オリンピック代表候補、一場大介は、選手としての夢は破れたかわりに〈指導者としてレスリング界に名を残してやる!〉と、非常勤で招かれた私立女子校での職務に燃えるのであったが、しかし、わずか三人のレスリング部員、雪邑香織、月野芹伽、花小路杏の、一癖も二癖もある態度と、そのやる気のなさに翻弄され、空回りし続ける。だが、これも自ら選んだ道だと覚悟を決め、文字どおり、体当たりで活路を見出していこうとするのであった。一智和智『ヒメレス 私立姫園学園女子レスリング部』の1巻は、そうして登場人物たちの個性を、ユーモラスなやりとりのなかに描き、まずまずの出だしとなっている。挫折した男性スポーツ選手が、女性にコーチすることで、あらためて競技にカムバックするというのは、まあよくあるパターンのひとつだといえるわけだけど、このマンガの良さは、教える側の大介に暗い陰がないこと、その前向きさ加減にあるのではないだろうか。とにかく熱血性のバカ、こういう登場人物は、すこし前までは敬遠される傾向があったが、このところ再びリヴァイバルしてきているような、あくまでも印象に頼っていえば、そんな感じがする。というのも単純に、女性に免疫のない人間が女性に取り囲まれるシチュエーションをつくろうとすると、自然に、そのような造型になってしまうのかもしれないし、お色気的なファクターを軸とした騒動を際立たせるのには、それがもっとも適しているのだとしたら、案外ここ最近の風潮を反映した、いわゆる頼りない男のヴァリエーションだと解釈できないこともなく、じっさい本筋とは無関係に、ふんだんにエロチックな描写が投入されてもいるのだけれど、そういう要素は措いておいても、いや、大介の、時代錯誤の男らしさは、たいへんよろしいよ。今後の方向性はもちろんわからないが、単細胞であるがゆえに向こう見ずでがんばる、こう、ガッツとコメディに溢れた展開を期待したくなる。
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 極道の食卓 1 (1)

 今年は、『月の教室』に『仁義S』、『ポリ公』、それからこの『極道の食卓』と、次々に新シリーズが単行本化された、その一方で『あばよ白書』が文庫になって、『仁義』の無印がコンビニ売りの版で出たというのもあり、立原あゆみの良さと悪さと再確認する機会に、ずいぶんと恵まれたわけだけど、はっきりといえば、主人公がまだ権力を持たず、とにかくイケイケのときは燃えるのだが、ある程度えらくなってしまうと、いきなり作品全体のテンポが悪くなってしまう。これは、そのころには登場人物が膨大に増え、作者が捌ききれなくなるからではないか、と、ひとつには考えられるし、まあ破滅型の主人公が、破滅しないで延命し続ければ、そりゃあ当然テンションは下がろう。唯一『本気!』は、死という終着点が定められたおかげで、後半に読ませる展開を持ってこられた例だといえるけれども、まあ続編が描かれてしまったので、ぜんぶ台無しになってしまった、が。ともあれ、ここ最近の作品は、さらに新境地に入った感があり、ハナから整合性を無視したかのような、度肝を抜くワン・アイディアだけで物語がはじまったとたん、おそらく作者自身も後のプロットなんかまったく気にしていないぶん、そこいらへんのマンガでは味わうことのできない、驚愕のインパクトを、何はともあれ寄越してくれる。それがもう、堪らない。さて本題に入ると、『極道の食卓』の1巻なのだが、この作品の、頭のおかしさ(むろん褒め言葉)は、はたして計算なのかどうだろうか、すくなくとも、もはや常人には及びもつかない想像力の行使されているのは間違いなく、内容を説明するさい、まずは帯にあるコピーを借りてくれば〈極道×料理×学校+恋〉なわけで、この時点でどのような作品か、まったく予測できないあたり、さすがである。ふたたびいうが、堪らない。濁組組長は、55歳にして熟年離婚し、ひとり暮らしをはじめることになる。〈めし! 腹へった〉といったところで、もはや台所で答えてくれる者はいない。それというのは、妻子の将来を考えての決断であり、自分の夢を叶えるためでもある。では彼の望む夢とは何か。夜間高校の門をくぐり、勉学に勤しむことであった。かくして、ここにヤクザの組長の、第二の青春、老いてよりのハイスクール・ライフが幕を開ける。主人公は、久慈雷蔵(くじらいぞう)という、あゆみイズムに溢れた名が体を表すのか、当然のごとく、ポエジー込みで義理と人情に厚い人物であるが、すでにトップにまで登りつめているため野心に乏しく、インポテンツ気味なせいでセックス(性交)への関心も低い、そのかわりに代入されているのが、つまり、食の要素だといえる。落ち込んでいる舎弟がいれば、手作りの御茶漬けやステーキを振る舞ってやり、年下のクラスメイトたちとはコンビニで万引きしてきた食材を載せたホットプレートを囲む、ソーメンといえば流しソーメンだから、大勢の部下を引き連れ、わざわざ山へ竹を取りに行き(そこからかよ、と突っこむのは野暮だよ)、蟹相場での儲けは蟹を食って祝う。やりたい放題である。しかしながら、それで出てくる料理が、こちら読み手の食欲をまったくそそってくれないのは、描写云々の落ち度ではなくて、もはや矜持の域に達しているからなのだと解釈したいのは、久慈雷蔵、メシを拵えるときと食うとき、いや喰うときは、決まって裸になる男で、〈やあ裸はやっぱいいな / コンビニ飯もいい / からしがあればもっといい〉と喜ばれても、困る。だが、三たびいうけれども、そこがまた、堪らない魅力なんだ。

 『月の教室』について→こちら
 『喰人』第1巻について→こちら
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2006年12月21日
 チェリッシュ

 吉住渉が、少女の出てくる少女向けのマンガを描くという意味で、まさしく少女マンガ家であるといった意見に反論は少ないに違いない、が、その吉住が大人女性向けに『コーラス』誌で発表した二篇をまとめたのが、この『チェリッシュ』になるのだけれど、まあたしかに年齢層の高い登場人物たちを扱ってはいるにしても、いやなに、これまでのイメージどおり、屈託のない作風は健在のままだといえる。たとえば表題作「チェリッシュ」の、血の繋がらないゲイのカップルを両親に持つ大学生といった設定は、現実的にはどうであれ、フィクションの世界ではそれほど奇抜なものではなく、たいていそうした環境が、いかに悩ましいものであるかを強調することで、ドラマが形づくられていきがちだが、ここでの主人公である千紘の健全さは、世間からの視線をまったく気にする様子がない、そのため、初恋の男子との再会や実の親の存在をもって、物語は展開されることになるわけだけれど、それというのはべつに、少女向けのマンガでも十分に出来ることではないか、という気がしてくるし、もうひとつの作品「ハピネス」も、好きになった女性の別れた夫が有名な芸能人だったというシチュエーション自体、すこし、浮き世離れの感がある、あるいは一種の少女趣味であろう。だからといって、悪いと判ずることができないのは、そうした諸事情が、装飾程度の役割しか果たしていないというのではなく、内容の重要な部分と不可分に結びついているからで、つまり作者のキャリアを考えたさい、やや肯定的な見方過ぎるかもしれないけど、今までの作品であったならば、『マーマレード・ボーイ』など、特殊な環境に置かれた少女たちが主人公になることが多かったわけだが、ここでは、その特殊な環境をもたらした親の立場のほうへ、焦点が合わされている、ともとれる。
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2006年12月18日
 このマンガを読め! (2007)

 このムックを取り上げるさい、毎年いっていることだが、どうして上から物を言うふうなんだよ、趣味のことで人に指図されるのは好きではねえのです、何をえらそうに、というわけで『このマンガを読め!2007』なのだが、2位に入っている『舞姫 テレプシコーラ』の評をつらつら見るに、あくまでも今年の10月までの作品が対象になるということもあり、結局のところ、これは衝撃的な展開を経た直後に、10月売りの『ダ・ヴィンチ』誌で第一部が完結したというタイミングの要素が大きいのかなあ、と思えなくもなく、たとえば『皇国の守護者』なども、展開の冴えわたった最新の4巻が、あと一月出るのが早ければ、もうちょい上位に入っていたのではないか、とか考えてしまう。まあ、逆に『舞姫 テレプシコーラ』は連載の段階で読まれているのに対して、『皇国の守護者』は単行本のほうで多く読まれているということなのかもしれない、が。4位の『群青学舎』は、恒例の「年末回顧座談会」で、いしかわじゅんが〈でも、これからうまくなるかもしれないけど、いまこの時点で、作品の評価としてはそれほどでもないんじゃないかな〉といっているのに個人的には同意で、そのおもしろさは十分に認めるが、相対的な評価になると、この位置は、やや高めである気がする。6位の『鈴木先生』に関しては、『このマンガがすごい!』のオトコ版でも上位であったが、いや、たしかに優れた内容なのは間違いないにしても、この意外性のなさを、作品の内包する普遍性と受けとめるべきかは悩む。さて、このムックの唯一のといってもいい読みどころは、先ほども触れた「年末回顧座談会」なのだけれど、少年誌の売り上げが低下しているという話題のなかで、中野晴行の〈少年誌の販売金額の落ち込みがマンガ誌全体の落ち込みの七割を占めているからきついんですよ〉と、それで〈「マガジン」だと、ふたつ大きな山があるんですよ。十代と、もうひとつは三十代の、「GTO」とかを読んで育った山。これをはずせないから、いまは少年誌の読者年齢を下げられなくなっている〉という発言が興味深いのは、要するに、十代の読者に対しては、とにかく金を落とさせるメディアミックス可能なコンテンツたるマンガをつくらなければならないし、そこに特化してしまうと団塊ジュニアあたりの読者がついてこなくなってしまう、中野によれば〈百万部を切ったと言われて〉いるらしい『週間少年サンデー』は、それで失敗してしまったのかなあ、やっぱり、と思うからなのだが、ところで今の『週刊少年マガジン』で三十代が愉しめるマンガってどれだろ、あ、もしかすると朝基まさしあたりが、その線を担っているから重宝されているのかしら。
 
 『このマンガを読め!2006』についての文章→こちら
 『このマンガを読め!2005』についての文章→こちら
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 パラパル 4 (4)

 恋愛とは何か、という議論は、真剣に行えば行うほど込み入ってくる性質を持っているので、一般的な生活のレベルにおいては、あくまでも抽象的な感情の指向を指し、そう呼び、済ましている場合が多いように思われる。反面、そうした過程のうちにあって、セックス(性交)が、重要なトピックとして浮かび上がりがちなのは、それが直截的ないし具体的な愛の営み、他者へのコミット、他者からのコミットに見える、そういった思いなしがあるからであろう。セックス(性交)抜きの恋愛というものが考えられなかったり、そもそも恋心といったものが、性欲の下位カテゴリーであるかのように語られてしまうのも、おそらくは、そうした側面からやって来ている。しかしながら、セックス(性交)を基準に恋愛の真偽をはかるのには、何かしらかの抵抗を覚えるとして、それが、けっして特殊な傾向と見なされないのは、肉体的な接触による、快・不快の二項のみで、対象に向け、対象から向けられる愛情の正否が判定されるのは、まあロマンティックではないし、とどのつまり物語にならないよね、と、石田拓実の『パラパル』を読みながら思うのは、いつも、そういうふうなことなのだが、さて、ここまでの展開で、おもだった四人(いや、五人か)の登場人物たちが、各々の定位置についたかっこうになるわけだけれども、この4巻では、それぞれが自分の、特殊な能力で得られる情報とは異なる、確としない、漠とした感情に左右されながら、その表情を、くるくると変える。なかでも、鶴見への他に代え難い想いを意識しはじめた莉花なんかは、そのことが、とくに顕著で、小牧に対する嫉妬からか、以前の幼稚さはそのままに、抑圧された悪意が、歪なかたちとなり、現れはじめるのであった。そうした莉花の言動が、今後、登場人物たちの関係に変化を及ぼしそうではある。ところで、いま、幼稚と形容したが、それは何も莉花にかぎってのことではなくて、小牧、鶴見、四条らにも共通していえるし、たぶん、作者は意図的にそうしている。ここでいう幼稚とは、要するに、抽象的な考えのできない人間のことを指す。莉花や四条が、自分の欲望が他人を巻き込むのに、躊躇いを覚えなかったのは、たんに幼稚だったからなのであり、小牧や鶴見の、他人との距離感がアンバランスなのも、やはり幼稚であるからに他ならない。そうであるがゆえに〈鶴見くんの感触はすごいすきだよ てゆーか 今気持ちいいって思えるの それだけだし…〉という莉花は、小牧の〈……や、だから 鶴見くんのことがすきだから 気持ちいいんじゃないの? それは〉という問いに、うまく答えられないのであり、こうした幼稚性が、莉花に〈あたしが小牧ちゃんみたいになれないのなら それなら 小牧ちゃんがあたしみたいになってくれればいいんじゃないかな〉との、合理ではあるのかもしれないが、本末の見失った発想を浮かばせる。

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2006年12月17日
 ぶっせん 下

 もとのヴァージョンも持っているのだが、書き下ろしで番外編が加えられているというから、今回の、上・中・下の三冊に新装された版も手に入れた三宅乱丈の『ぶっせん』なわけだけれども、あらためて読み直してみても、その馬鹿馬鹿しいシチュエーションのなかを、悩ましくも楽しげに生きる登場人物たちの、ひじょうに頭の悪いあたりが、おかしい。ところで上巻は夏目房之助の、中巻は三浦しをんの、そして下巻には長塚圭史の解説が付せられていて、これが驚くべきことに、リアルタイムで読んでいないことを(いや、長塚ははっきりそういっているわけではないが、文章から判断するに)明言している人たちばかりで、資料としてどれだけの価値があるのかは、とても訝しい。誤解なきよういえば、当然のように、リアルタイムで読んでいた人がえらい、ということではない。じっさい、夏目の、この作品に対する読解は、これまでにもすでに『BSマンガ夜話』などで提示されていたことからもわかるとおり、相応に首肯させられるものである。しかし、それらの解説は、たとえば今回の下巻「あとがき」マンガにおける、作者の、当時の担当M村氏に対する感謝が、どこからやって来ているのかは、すくい取れていない、と思う。それは、何も作外の諸事情を考慮せよ、という意味ではない。だいたい、三者が解説を書いた時点で、たぶん、その「あとがき」マンガは読めていないのだろうし、だからそうではなくて、たとえば『モーニング』掲載時、毎回毎回の柱にあった煽りや次回予告もまた、マンガの内容にあわせたかのような滅茶苦茶なものだったのであり、この『ぶっせん』という作品を愉しませるための、ひとつの要素として機能していたのであった。もちろん、それは担当氏の仕事であろう。そういう、恵まれたといってもいい環境下で発表されたがゆえに、最初から最後まで特殊なエンターテイメントをまっとうしていたことを、ここでの「あとがき」マンガは、ふと思い出させるのだ。せめてそれを誰かひとりぐらいはいってもよい。話は変わるが、同様のことは、今ぱっと思いつくかぎり、ここ最近のものでは『週間少年チャンピオン』に連載されている『椿ナイトクラブ』にもいえる。あれも雑誌掲載時のあらすじや次回予告が、本編それ自体を上回る度の越えようなのだが、単行本では、当然のごとく、オミットされている。もちろん、そうしたケースであっても、なかには雑誌掲載時の状況をできるだけ保持したまま単行本化される作品などもあるので、そうではないものに関しては忘却されてしかるべき程度の些事なのかもしれないし、まあどんなマンガであれ、資料的な情報や、それこそ作品に対する愛着でさえ、今やネット上にあるファン・サイトやどっかの掲示板の過去ログのほうが濃いのだから、といってしまえば、それでお終いな話だけれど、著名人をパブリシストとして召還することのみを解説の役割に限定してしまうのは、もしもマンガという表現の周辺を文化と呼ぶのであれば、いささかお粗末ではないかしら、結局のところマス相手の産業だって割り切っているならいいけどね、と常日頃から考えているので、以上のようなことを述べた次第である。

 ※とはいえ、この項、作品の内容からは逸れているため、のちほど書き改めるか、削除するかもしれません。
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 打撃王凛 8 (8)

 〈本当に帰ってきやがった…18.44mの空間を最短距離に縮めトップスピードでかけぬける“豪腕戦闘機”が目の前に――!!!〉。完全復活したやっちんの速球が、かつてのチームメイト緑北シニアのメンバーたちから次々と三振を奪ってゆく、このことが、凜と緑南シニアの仲間を〈やっちんのこの勢いはもう誰にも止められないぞ!〉と勇気づけるが、しかし優勢なのも束の間、キャッチャーである凜の未熟さを突く、超高度で理知的な技術に、手痛い失点を喰らわされてしまうのであった。佐野隆『打撃王(リトルスラッガー)凜』の8巻である。このマンガにおける試合の運びは、余計な要素を持ち込まずに、精神戦と、ほぼ同義だといえる。すくなくとも主人公サイドの緑南にとっては、そうだろう。すなわち彼らの心の動きが、攻守の首尾へと、直截的に接続される。これまで頼りにしてきたやっちんと凜のバッテリーが打ち崩されることで、バックのメンバーは動揺し、うろたえ、緑南はピンチに陥るのだが、それを乗り切るため、今度は打席に立ったやっちんと凜のふたりが奮闘する、文字どおり「奇跡の瞳」と呼ぶに相応しい凜の資質が発揮される、というのが、ここでの最大の見せ場になるのだけれども、相対する「氷の刃(アイスエッジ)」と称される中根の、その只者ではないピッチングが、安易な逆転劇を許さないおかげで、4回裏のこの時点で、すさまじいクライマックスぶりを迎えている。一方で、緑南の他の面々の、立ち直るのも早いが、挫けるのも素早い、二線級の振る舞いは相変わらずなのだが、いやいや、そうとも言い切れない、心の成長ぶりが、どうやら反撃の筋道を描き出しそうな感じで、こちらの関心は、テンションの高まったまま、次巻へと引っ張られる。

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2006年12月15日
 白亜紀恐竜奇譚竜の国のユタ 1 (1)

 佳作『DINO2』で惜しみなく発揮された、恐竜に関する知識と愛情とを、真っ向から少年マンガしているフォーマットへと落とし込むことで、所十三は、安易に先読みできない展開の冒険活劇をここに作り上げたといえよう、『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』の1巻である。竜の国に暮らす少年ユタは、野性の竜たちから隊商を守る竜使いの新米として、子どもの頃から家にいる老いたパキケファロサウルスのジサマとともに、はじめてのガイドに出るのであったが、しかし道中、高地では滅多に遭遇することはないはずのティラノサウルス・レックスに襲われてしまい、一行が退避するなか、彼ら一人と一匹だけが逃げ遅れてしまう。〈生きるか死ぬかの修羅場をくぐり抜ける技と運 そのどちらが欠けても竜使いは生き残ることはできねぇ〉。他の竜使いからも見捨てられ、あわや、という場面で、〈大丈夫だ 恐れずともよい 逃げる必要もない〉というジサマの力強い声が、ユタには聞こえた。そのような、恐竜の言葉を理解する不思議な資質の備わっていることが、おそらくは主人公であるユタを、作中でキー・ワードのように扱われている「閉ざされた環」なる事象をめぐった、巨大なストーリーの中心へ向かい、進ませることになるわけだ。が、何よりも、人類と恐竜という、生態系も違えば、理も異なる二つの種が、共存している世界の、自然なつくりに、作者の想像力の確かさを感じられる。また、未熟なユタを言葉少なにリードするジサマのコンビも、王道といえば王道で、そのオーセンティックな手触りも、良い、じつにいい。
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 minima! 1 (1)

 どこか性格のいじけている及川飴は、学校のイベントで訪れた遊園地の、ワゴンセールのなかから、自分が取り上げた一体の人形が、まさか喋るだなんて、それどころか感情を持ち合わせているだなんて、思ってもみなかった。かくしてニコリと名乗る、片手ほどの大きさのオモチャが、人間の世界で、てんやわんやと巻き起こす騒動を描いた、桜井まちこの新作『minima(ミニマ)!』は、その麗しい絵柄は、あいかわらず、とても目を引くのだけれど、内容は、この作者にしたら新境地にも思えるファンタジックなコメディで、そういうこともあってか、この1巻を読むかぎりでは、話し運びのテンポが、どうも、いまいち、しっくりきていないような気がした。いかんせん、ニコリを、その特異性をべつに隠すまでもなく、ごく一般の人間社会に放り込むまでの過程が、性急すぎる。そのため、〈…………あいつ……なにもわかっちゃいない……人間の前でしゃべるってのがどういうことか……もう戻れないぞ……〉といった不穏なモノローグで暗示されている、ニコリの、本質的には玩具であるという宿命が、物語のなかで、あるいは読み手が共有できるレベルで、たんに珍しいものを見る以上の効果を発揮していない。とはいえ、たとえば飴が幼馴染みの男子に言われる、〈……おめーーは いーーっつも そーーだな 輪ん中に入ろーとしねェ / ガキの頃だって みんなで鬼ごっこしよーっつってんのに ぜってー入ってこねェしよ「鬼になんのも鬼に追っかけてもらえないかもしんないのも嫌」おめーそんなんじゃ鬼ごっこどころか なんもできねェじゃんよ〉、こういう言葉とその場面に顕著な、対他関係における内面の傷つかせ方は、やはり、うまい。しかし、登場人物たちが中学生に設定されているここでは、その暗さが、逆に、つらい、か。以前にもいったが、僕は短篇集『WARNING』に入っている「冬の塵」がとても好きで、ああいう作者と等身大の物語のほうが、今の作風には合っているのでは、とも感じられた。

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2006年12月13日
 女神の鬼 5 (5)

 『BAD BOYS』や『グレアー』と重複するキー・パーソンが次々に登場し、これがそれらと地続きの世界を舞台にしている、ある意味ではサーガとでもいうべきものの一部であることがあからさまになりつつあるわけで、そう考えたとき、この作者にとっての「広島」とは、もしかすると中上健次にとっての「路地」のようなものにあたるのではないだろうか、とさえ思える。田中宏『女神の鬼』の5巻である。今さら確認するまでもないことだけれど、作品が発表されたのは『BAD BOYS』→『グレアー』→『女神の鬼』の順だが、物語内部の時系列は『女神の鬼』→『BAD BOYS』→『グレアー』といった具合に設定されている。しかしながら、読み手であるこちらがもしも、ひとりの女神が誕生することによって大多数の鬼たちが調停される、あの『グレアー』の結末を知っているのであれば、まるでそれを受けているかのような『女神の鬼』という題名は、じつに示唆的であり、たんに前日譚に止まらない、主題のレベルにおいては、より先に進んだものである、と推測される。いや、まあ、『BAD BOYS』との関連が明示されていた『グレアー』とは異なり、『女神の鬼』の場合は、これを一個の独立した作品として読むのが正しいのかもしれないが、やはり女神と鬼の二項が、物語のうちで、どのような意味合いを持つのか気にかけてみると、先行する二作を参照したい欲望に駆られる。鬼とは何か、端的に解釈すれば、世間に忌まれながら生きる存在のことであろう。たとえば、この巻の表紙に描かれている牛山という登場人物は、その喋り方が異様なせいで、子どもの頃から、自分の居場所を損ない続けている。その彼を受け入れてくれたのが、雛石であり、小野寺であり、ビイスト(正確には漢字表記)であった。そうした拠り所を守ろうとした結果、しかし彼は、すべてを失い、ふたたび孤独になり、警察に追われる。悲しい話だ。それでも牛山の救いは、理由の違いはともあれ、同様に世間から忌避されている花山に声をかけられ、自分の新しい居場所を得たことにある。〈昭和54年 まだガキじゃったキッチョ(ワシ)の知らんトコロで 鬼たちは荒れ狂い…離れ…繋がり…導かれるかのごとく 着実にソコへ向かって行きよったんじゃ…〉と、つまりは、そういうことだ。こうした鬼たちの共感は、『BAD BOYS』の終盤、廣島連合を駆動させた狂気と不安とを想起させる。あそこで、ホレ込む男を間違えたといわれた石本千春は、幼少時より地獄を見てきた佐々木への感情移入以外に、自分を肯定し、支えるものを持たなかった。話を『女神の鬼』に戻すと、雛石と牛山を破門したビイストのトップ虎鮫金次郎と、ライバルである極楽蝶の二代目との、ある晩における、次のような対話が印象的である。〈な〜んか…同じよーに枠から溢れてグレてしまうヤツらの中にも 暴れるコトで何か大切なコトに気づけたり…絆を結べたり…この世界の中でなんとか揉まれながらも成長できるヤツと なんちゅーかこー…それとは明らかに違う…生まれながらの鬼っちゅーのは……やっぱしおるんじゃ……〉〈矯正不可能……か…〉〈同じよーにぶち込まれた花山やら原…ほいから もしかすりゃあワシの従兄弟もそのツレの隆もそーかもしれん…〉〈…確かに廣島連合の中にもソレらしいヤツはおるし…この世界ってのもなんかヤバイ事が起こりそーな匂いがしよるわい…〉〈鬼と共存しながら平和を維持するなんて…土台無理な話なんじゃ〉。ここに示されている事柄は、見ようによっては『女神の鬼』ばかりではなくて、『BAD BOYS』や、それから『グレアー』をも貫いているように思われる。ちなみに『グレアー』は、先ほどもいったが、女神の誕生を期に、廣島連合とビイストを軸として、広島で暴れる鬼たちが、ようやく共存へと至る物語であった。では、女神とは何か。花山や原らにとっては、ギッチョの姉たちがそうだろう。じじつ、逮捕される間際、原はギッチョの姉である舞と出会い、彼女にどれだけ救われたかを振り返りながら、こう言う。〈舞ちゃん…アンタはワシにとって……真っ暗闇のこの世界に現れた たった一人の女神なんじゃ…〉。原や花山は、自分のなかに、けっして飼い慣らすことのできない破壊衝動を持っている、それが女神と慕う女性の前にあっては、静まり、安らぐ。あるいは、そうやって得られる感覚こそが、世間に疎まれるしか生きようのない彼らにとっては、ただひとつ、幸福と呼ぶに値するものだった。ここで『女神の鬼』という題名を、文字どおり受けとり、極論するのであれば、それが「鬼の女神」ではなく、あくまでも「女神の鬼」であるように、女神と鬼の、どちらが優位であり、どちらを押さえているか、主従の関係は明らかだといえる。しかしながら、いよいよギッチョが14歳になった今後の、1983年以降の展開如何によっては、鬼と女神をめぐる、べつの局面もまた、露わになるのに違いない。はたしてギッチョがいう「ソコ」とはどこか。登場人物たちのなかで王様になれる者などいるのか。未だ興味は尽きない。

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 このマンガがすごい! 2007・オトコ版 このマンガがすごい! 2007・オンナ版

 結局のところアンケートというのは、不特定多数の傾向を指し示すものでしかないのだから、僕個人の指向または嗜好を盾に、あれが入ってない、これが入っていない、などと憤ってみせるのも、まあ不毛だよね、悉くヤンキー・マンガがスルーされているのは例年どおりで、もはや気にならないが、しかし、そういったジャンル云々は無関係に、今年完結した作品のなかでも、とくにすばらくすばらしかった山本隆一郎『GOLD』の、Gの字も山の字も見つけることができなかったのは、誠に遺憾である。いやいや、『このマンガがすごい!』の「オトコ版」と「オンナ版」で選ばれているうち、それぞれ上位52作品中、「オトコ版」ならば47作品、「オンナ版」ならば36作品を、ちゃんと買い揃えて、読んでいるのだから、せめてそれぐらいは言わせてください。ともあれ、このムックの最大の問題点は、双方に付せられている「ランク外タイトル サルベージ評議会」のなかで、(鼎談に参加している面子はいっしょだから、まあ)各々指摘されているように、低年齢層の支持と売り上げが反映されていない点であろう。反面、だからといって上位に、高度に難解であったり、またはマイナーな作品ばかりが並んでいるのかといえば、そういうこともなくて、ある程度はわかりやすく、(とくにネット周りで)知名度のあるものが、ずらり、といった感じで、ふつう、こういうのは「偏っている」と形容されてしかるべきなんじゃないかしら。ともあれ、「テーマ別におススメ!イチオシ作品ガイド2006」というコーナーにおける、野球マンガの項で佐々木正孝という人が、『野球しようぜ!』も『打撃王 凛』の名前すら出してくれず、某有名作のリメイクを、皮肉っぽくもあるけれど、推しているのは、ガイドとしてはまったく参考にならないので、萎える。ところで「オトコ版」の「ランク外タイトル サルベージ評議会」なのだが、粟生こずえという人が『アクション』に連載されているマンガのなかでも『駅弁ひとり旅』に対して〈なんかイヤ〉と、ごく個人的な感想以外の何ものでもない評価を述べているのが、それこそ〈なんかイヤ〉なのだけれども、その『駅弁ひとり旅』を、「あの人気マンガ家に聞く!」という項で、森薫が「今注目している作品」として挙げているのが、すこしおかしかった。

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2006年12月12日
 マフィアとルアー さくらの唄(上) さくらの唄(下)

 べつに感想というのではないのではなくて、たんに要望みたいなものなのだけれども、「講談社BOX」が、安達哲の『さくらの唄』とTAGROの『マフィアとルアー』を、もとのヴァージョンがまだ生きているのに、わざわざ出しているのを見て、どうせなら、よしもとよしともの『GOD DOGS』を何とかしてくれないものかな、掲載されたのは『ヤングマガジン』だしね。たとえば90年代の一品ということであれば、西村しのぶの『メディックス』を単行本化した『IKKI』の人の業績は立派なもので、あれと同じように、喜ぶ人間はけっして少なくはないだろう、と僕などは思うのだ。
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2006年12月10日
 いっぽん! 14 (14)

 結果的には、北村に真道という二大ライヴァルと相まみえることなく、つまりストーリーのレベルにおける最大の結着はつけられずに完結してしまったわけだ、が、春を中心とした酒高柔道部員たちの成長に焦点を合わせれば、十分に納得のいく展開になっているし、逆に、連載の終了が前提にあったのだと仮定したなら、せめてそこまでをちゃんと描ききった作者は立派だったと思う。佐藤タカヒロ『いっぽん!』の最終14巻である。選手権地区予選、無差別級個人戦は、終盤において、勝ち残った酒高メンバーたちによる同校対決の場となった。これまでともに励んできた各人の、だからこそ譲れない意地と意地の、壮絶なぶつかり合いが繰り広げられるなか、柔道に出会えたことや、今の仲間に出会えたことの喜びが再確認される。そして、ついに迎えた決勝では、春と、その春を酒高に導いた五十嵐との直截対決が実現したのだけれども、これが読ませるのは、スポーツ・マンガまたは格闘技マンガの、こういうクライマックスのパターンとしては、フィジカルにメンタルといった二項のうち、どちらかが片方を凌駕するかたちで勝敗がつけられることが多く、じっさいにそれは燃える。しかし、ここでは、対決している両者の、肉体的にも精神的にも窮極へと引っ張られたところから、さらにひとひねり加えられており、ラストの、文字どおり一本が決まるまでのあいだに、けっして予断を許さないスリルと、その死闘とも呼べる瞬間の積み重ねが、思わず胸の熱くなるドラマを屹立させている。そういった意味では、最後の最後まで、余すことなく魅せてくれた。

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2006年12月08日
 doremiso.jpg

 『週刊コミックバンチ』1月8日増刊号(蒼天の拳トリビュート号)掲載。小路啓之の『ドレミとソレミ』は、「第3回ワールドMANGAエンタテインメントカップ」入選作である。ひとまず、犬塚康生名義のものも含め、いったいこの人はどれだけ新人賞の類を獲得すれば気が済むのだろうか、こういうかたちで新作が発表されるたびに、だからといって連載とかそういうのはないんだろうな、と思う。が、さて。〈私達のクラスにもやっとロボットが来た!!〉〈今やテレビ並に普及する勢いのロボット 子供の頃から抵抗のないように一ヶ月間学校生活をともにする〉といった世界を背景に、ひとりの少女と美少女ロボットのあいだにある秘密をめぐり、彼女たちとクラスメイトとの対他関係を扱った内容は、じつにこの作者らしい、ファンタジックな絵柄のなかに、やけに現実的な視線を滑り込ませることで、人間の内なるポジティヴとネガティヴの両面を、アレゴリカルに表してみせたものであり、そこからは、純粋な幼年期における残酷な一面を見てとることもできるが、それはけっしてシリアスにではなく、また不真面目にというわけでもなくて、批評的にユーモラスという意味合いで、愉しげにつくりあげられている。さらにいえば、ストーリー自体よりも、いち場面の描き方と話運びのテンポで、多くを見せる作品である。
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2006年12月04日
 KUROZUKA-黒塚 10 (10)

 〈しかしこの旅の果てにいったい何があるのか / 何が待っているのか / 何も待ってはいないだろう〉。一千年もの永き間を経て、義経、黒蜜、弁慶、ついに三者が再会を果たすときが、きた。野口賢(夢枕獏原作)のマンガ『KUROZUKA -黒塚-』も、この10巻で、とうとう完結である。物語の中枢を為していたおおよその謎は明らかになっており、ある種の悲劇として捉まえた場合、それに十分見合うだけのラストを、登場人物たちの行動は導いていると感じられはするのだが、個人的には、超絶的なバトルこそが最大の読みどころだっただけに、クライマックスを迎えるにあたって、ずいぶんとスタティックな展開になってしまったのは、すこし残念に思う。

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 GATE OF PLANET

 こういうマンガ家に出会えることは、すなおに嬉しい。『BLUE』が、ひじょうに好感触であった咲坂伊緒は、それ以外の作品を読んだときがなかった(気がする)ので、この機会に、以前のものにも目を通しておきたい、という感じになったのだ。そのようなわけで、四篇の読み切り作を収めた『GATE OF PLANET』である。表題作の「GATE OF PLANET」が04年の作品で、ほかのは05年に発表されており、なるほど、こうして見てみると、ここで断片的に採用されているモチーフを、最良のかたちで発展させていったのが『BLUE』になるわけだ、と、そういう印象を受けた。なかでも特徴的なのは、ヒロインの目前に置かれた告白という行為が、彼女の自意識を強烈に反映するため、その向こうにいる他者の内面を完璧に隠蔽してしまう、といった構図で、そういえば、これは『BLUE』でもとられていた。また女性同士の摩擦が、けっこう容赦なく描かれているあたりなども、卑近に起こりうることであるがゆえに、なかなかにヘヴィというか、作者の指向性をうかがわせる。いずれにせよ、すべての篇が、しきりに感心するほど興味深い内容であったよ。

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2006年11月30日
 BLUE

 いや、これはもう、とてもキュートな良作で、惜しむべきは『BLUE』という題名が、どこかありふれ、すこし凡庸に思えてしまうところぐらいだろうが、しかし、この、あわく、残酷な面もある、恋愛劇を、どうしても青色になぞらえなければならなかったあたりに、作者である咲坂伊緒の資質が現れているともいえる。主人公の杏奈は、片想いの相手である怜司と同じ高校に入れたことを喜ぶ、けれども、彼とは同い年のいとこ同士だから、心のどこかで、あるいは世間体的に、結局はこれが望まれない恋愛でしかないことを、知っている。すくなくとも怜司のほうは、杏奈が親しく接してくることに、快い顔をしない。こうしたふたりの齟齬に絡んでくるのが、杏奈が入学式で知り合い、親友となった、クラスメイトの瑠海である。瑠海は、姿形がえらく可愛らしいのに反して口悪く、その彼女といがみあう怜司の、しかし今までに見たことのない態度が、もしかすると彼の気持ちは瑠海に惹かれはじめているのではないか、と杏奈を不安にさせ、そうして拡がってゆく波紋が、三者三様の反応を呼び起こすのであった。と、物語そのものは、いっけんよくあるトライアングルを扱っている。だが、その過程の在り方、つまり話を展開させるさいの手つきに、作品の魅力は、おおきく担われている。杏奈の内面または視点は、モノローグのかたちで、こちらへ、〈怜司のそばにいたかったから だけど私の想いはヒミツなんだ〉といった具合に、あらかじめ開示されている他方で、瑠海と怜司の感情は、あるタイミングまで徹底的に伏せられている以上、読み手は、作中の杏奈がそうするように、彼や彼女の行動から判断、推測するほかない。多少おおげさにいうならば、これはちょうど、物語のなかにおいて、瑠海と怜司が、その内面のけっして確定しえない、まさしく他者であることの、適切な証明である。ずばり『BLUE』の読みどころとは、そのような構図が、結末に向かうにつれ、ごく自然な振る舞いで、転換し、杏奈以外の登場人物らの、べつの、真のといっていいかもしれない、表情が現れる点にこそ、ある。ここで注意深く指摘しておきたいのは、杏奈が自分の気持ちを怜司に伝えることを目指し、大筋は進んでいるにもかかわらず、よく目を通せばわかるとおり、その、もっとも重要な行為だけが、いくつかの不可抗力のため、最後の最後まで達成されない。要するに、杏奈は、結果的にだが、告白をしていない(できなかった)。当然それでは収まりがつかないはずなのに、読後の感触はしっかりとしている。なぜか。たんにハッピー・エンドで終わるから、といわれれば、たしかに事後的にはそうである、が、ラストの3ページは、お世辞にも印象深いとは思えず、したがって、このマンガの、すべての成果は、それ以前の段階に集約されているといえよう。繰り返しになるけれども、杏奈からの告白はなされない。かわりに彼女は、瑠海や怜司からの直截的な働きかけによって、それまでは、どれだけ覗き込んでも知ることができず、だから苦しまされもした、その他者であるものたちの内面に通じる。そうした展開は、読み手に、三人を結ぶ関係式がいかにして成り立っていたのかを俯瞰させ、誰かの他の誰かに対する思い遣りが、恋愛においては、ときに秘密として振る舞われる、隠せば隠すほど〈胸に青く積もる〉感情を抱えていたのは、なにも杏奈ひとりだけではなかったことに、はたと気づかされるのである。
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2006年11月27日
 この7巻の時点から、3巻の、晴菜とヨウのカップルが成立したくだりを読み返すと、あらためて燃えるし、すごく泣けてきてしまう。燃えたり、泣けたりできるのは、なんて素敵なことなんだろう。そういえば、河原和音の『高校デビュー』は、主役のふたりが付き合いはじめるよりも、付き合ってからのほうがすでに長く、その間のトラブルを、晴菜が、文字どおり、力ずくで乗り越えてきたからこそ、じっさい3巻における上級生女子の嫉妬を腕力でクリアしている実績があるだけに、ここでの〈私は心配ないけどさ ヨウはこれからいろんな人に狙われるんだとか考えたらさあ〉〈やっぱり私……やっぱり……〉〈体きたえとかないとダメかなと思って!!〉〈これからの女の戦いにそなえないと!〉という、すこしばかり的はずれな決意は、しかしこのマンガの場合、とてもよく生きている。だいたい、モテモテで引く手あまたのヨウが、なぜ晴菜に惹かれたのかといえば、そのような、多少ピントがずれていながらも、がむしゃらで真っ直ぐな精神を持っているがゆえにだったことは、たとえば彼の〈何からも逃げない そういう強さが俺 ずっと自分にほしかったのかも〉という告白に集約されている。さて。高校への入学を期に、それまでの体育会系的な青春ではなく、恋愛のある学校生活を目指し、がんばり、事実そうなった晴菜も、いよいよ2年(一学年上のヨウは3年生)に進級し、もちろんのように校内は新入生たちを迎える。先述した晴菜の発言は、1年生女子たちに騒がれるヨウの人気を受けてのものだけれど、今後の波乱は、むしろ晴菜をめぐって起こるのではないか、と予感させられるのは、やけに特徴づけられた3人の1年生男子が、なにか意味ありげに登場してきたからで、これはもしかすると、ついに晴菜にもモテ期が訪れるのかな、と思えば、それはそれで、ずいぶんとわくわくさせてくれるじゃないか。

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2006年11月26日
 Walkin’Butterfly 2

 あら。そういえば、『ease』って新しいの出ていないよね、と思い、この2巻掲載分の初出を確認すると、現在は携帯サイト『コミックWALKER』で配信されているらしい、たまきちひろの『WALKIN' BUTTERLY(ウォーキン・バタフライ)』は、際立った身長の高さと明け透けな性格ゆえ、周囲の男性から、かわいい女の子として見てもらえない、そのせいで自分に自信の持てない主人公、寅安ミチコ(通称トラ)が、ようやく発見した可能性として、(ファッション)モデルの世界に臨んでゆくという、ある種のコンプレックス・パーソンを扱った内容となっており、もちろん、だからこちら読み手の期待は、ミチコの意志と覚悟が彼女の美しさを開化させることに一致する、のだけれど、なかなかそうなってくれない。まだ短い物語であるにもかかわらず、落ち込んで、立ち直り、また落ち込んで、ふたたび立ち直り、のルーティンに陥ってしまっている。ことによると怠惰で向上心のない繰り返しにも見える。すくなくとも、上昇の勢いは、ない。なぜなのか、を考えれば、それほど複雑ではない説明をつけられるであろう。作中のあちこちに散りばめられた、そのままでいんだよ、と、このままじゃいけない、という本来ならば相反する二項のメッセージが、あたかもダブル・バインドのように、ミチコを拘泥し、作品の主題をも宙づりにしてしまっているからだ。あるいは展開を定型的に捉まえるなら、今後にミチコは、彼女がモデルを目指す直截の原因となった敵役のデザイナー三原や、彼女が所属する事務所の社長でモデルのあれこれを教授する多湖ら、ワキの登場人物たちを乗り越えていかなければならないのだとすると、正直な話、対等に渡り合うとまではいかなくとも、勝敗を持ちかける云々のレベルにすら達していない。が、しかし、ときおりミチコが見せるガンバリストぶりは、ひじょうに魅力的で、たとえば、この巻でいうと、何度もオーディションに落とされてもなお挫けない態度が、はからずも三原を励ます場面などは、えらく気持ちを昂ぶらせる。それというのは、要するに、自分探し的とでもいおうか、アイデンティティを模索するうえでの右往左往自体が安易に目的化されてしまう、そういう白々しい本末転倒を、一時的にだとしても打破してみせる、心強い表現になっているためである。
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2006年11月25日
 男子向けのマンガに比べ、女子向けのマンガは、初期の設定が反故にされても、あんがい寛容に読まれているように思われる。この、田島みみの『学校のおじかん』なども、主人公の女子高生が自分の通う学校の学園長をつとめる、といった、ふつうなら最重要な条件が、このところエクスキューズ程度に用いられるぐらいで、あまり効果的とはいえないのだけれど、以前にもいったが、それはけっして悪くない。しなしながら今回の9巻にいたっては、カップルの男子サイドに、元カノが、それはタチが良いとはいえない男と付き合っている年上の女性が言い寄ってくる、そのような、最近よく見かけるパターンを、メインのエピソードにしているため、まあ紋切り型だよね、と、いささか気分が萎える。そういうヒロインの陸と相対するマキ(男子)がマイナス満点状態なのに反し、楓(男子だよ)と仁美(男子ね)と譲(これは女子)のワキの動き、フォローは、じつに気が利いていて、いい。そのあたりは救いといえる。いや、それというのは、もしかすると僕という読み手が、たんに噛ませ犬を好意的に見てしまうタイプだからなのかもしれない、が。

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2006年11月24日
 サルヤマっ! 4 (4)

 あっちゃんにはがっかりさせられたよっ。転校生の春菜は、家庭の事情に起因するその冷めた性格から、新しいクラスメイトらと打ち解ける気もなかったのけれど、背は低いが前向きなまちゃる(勝)と出会い、感化され、変わる。大勢の友人たちと賑やかで楽しい時間を過ごすせるようになり、やがて春菜とまちゃるは、それぞれを意識し、恋人として付き合いはじめるのだった。と、以上が、彬聖子『サルヤマっ!』の、これまでのおおよそであり、ふたりをずうっとサポートしてきた、まちゃるの幼馴染みこそが、あっちゃん(アツ)なのだけれども、どうもあっちゃんときたら、この4巻で、春菜のことがすこし、気になるような素振りだったりするのだ。それはだめだよ。あっちゃんの良さはさあ、なんつうか、そうじゃなくて、こう、軽薄に見えても、じつは他人の気持ちを大切に汲み、何よりもまちゃるとの友情を、とてもとても大事にしているところだったではないか。だから僕などは、春菜が、あっちゃんのふざけた態度にさえ〈城戸(注:あっちゃんのことね)は あたしがまちゃるの彼女じゃなかったら たいして構ってこないよね〉と信頼している場面に、それがあっちゃんなのさ、と納得させられるのであって、物語上の安易な装置的に、三角関係のダシにされてしまっては、堪らない、反応に困るのだよ。あるいは、この作者の力量は、これぐらいのものなのだろうか。
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 僕等がいた 11 (11)

 矢野はなあ、男の子にしたら、正直なところ同調し難い面が多々あるのだけれども、今回ばかりはちょっと、悲しく、感じ入ってしまった。なにもそこまで追い込んでやらなくてもいいではないか。〈矢野のお母さん / 彼はあなたを失い / 彼が生まれてきた意味を失いました / 彼の指針を / 彼の信念を / 彼の方位磁石を / そして私たちも / やがて / 矢野を失うのです〉。姿を消す直前、矢野の身にいったい何が起こったのか、上京して以降の彼と付き合いがあった亜希子の、その回想のなかで語られる。一方、七美は〈3年前あいつに会った〉という竹内の口から、矢野の背負ってしまった苦悩を聞かされる。一年後、大学を卒業し、働きはじめた三人は、けっして忘れることはないが、前に進もうとして、矢野のいない日々を、慌ただしく生きる。小畑友紀『僕等がいた』の11巻である。ここ数巻、物語は、矢野の不在とその過去をちょうど、登場人物たちがつくる円の中心に置き、それを周回するかたちで進んできたわけだけれど、ここでいよいよ現在へ、矢野以外の登場人物たちの今へと焦点は合わされる。七美と竹内の仲は、とりたてて大きな進展を見せず、ふたりと知り合い、親しくなった亜希子は、それを心配する。もちろんようにこれを停滞ととるのであれば、次の展開を導くため、なにかしらかのアクションが、作品の内部で起こされなければならない。そのことをひとつには、竹内の〈『オレのほうが高橋を幸せにできるはずだ』と〉いう決心が担っている。だがもうひとつ、べつの角度からの衝撃を加えることで、さらなる動揺が誘われている。おそらく読み手の多くは、亜希子がたまたま目にした名刺から、矢野の再登場と、それにともなう今後の波乱とを、予感する。

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 9巻について→こちら
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2006年11月23日
 もっけ(勿怪) 6 (6)

 ふつうビルドゥングス・ロマンは、過去から未来へと縦長に伸びる時間のうちに物語を置くことで、登場人物の大人びていく精神を顕在化させるものであるが、熊倉隆敏の『もっけ』は、そうつくられておらず、あたかもランダムに引き出されたかのような記録(記憶)が、ひとつひとつの独立したエピソードとして、ときには時系列を無視し、並列的に開示されている。にもかかわらず、少女たちの成長してゆく様子に、不思議と関心が引き寄せられるのである。先天的に物の怪の類と関わってしまう体質である静流と瑞生の姉妹は、その手のものに詳しい母方の祖父に預けられ、両親とはべつに田舎で暮らしている。この6巻では、ふたりの高校進学や中学入学による生活の変化を中心に据えながら、それぞれの自立が描かれているわけだけれど、その一方でたとえば、第30話(♯30「オマモリ」)における、仏壇にある祖母の写真に静流が手を合わせたあとで、祖父のかける〈皆見守っている〉という言葉と、第34話(♯34「オモカゲ」)の、まだ幼かった瑞生が、祖母の死を通じて体験した出来事とは、まさしく響き合っており、そうして作中に視認できるのとは異なったレベルで、彼女たちの精神を支えている何某かが、あわく表現されている点に注意されたい。対人関係の問題を、異者との交わりに置き換えてみせることは、サブ・カルチャーにかぎらず、旧くからある表現のモデルだといえる。そう考えたとき、作品の質はほとんどの場合、異者の側をどう動かすかのプロットではなく、一個の人間がいかにあるか、その成立に奥行きをどれだけ出せるか、にかかっていることに気づく。要するに『もっけ』というマンガの魅力もそこに、つまり登場人物たちがたんなる人形に、そして背景がたんなる書割になっていないところにあるのだ。
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2006年11月18日
 スマッシュ! 1 (1)

 掲載誌の休刊にともない終了せざるをえなかった『やまとの羽根』は、咲香里というマンガ家の、それ以前のキャリアを知る向きには、あまりにも真っ直ぐスポーツ・マンガしているので、もしかすると転向作ともとれたわけだが、おそらくそのことを促したのであろうバドミントンへの愛情は、現在『週刊少年マガジン』誌において連載されている、この『スマッシュ!』へとしっかりと引き継がれている。こちらもやはり、素直なほど健全にスポーツ・マンガをしているので、やや地味に受けとられがちになるのかもしれないけれど、いやいや、きっちり魅せるところは、魅せてくれる。中三の冬、主人公の翔太は、バドミントンを通じて、口はきけないがバドミントンの〈めちゃくちゃうまい!〉少女優飛と、バドミントンはマイナーな競技だということで、兄たちからは馬鹿にされるが、しかしトップレベルのプレイヤーである亜南との、ふたつの運命的な出会いを経て、〈楽しくやりたんだ / バドが好きだから〉というやわらかい気持ちを、つよく〈バドミントン / 本気でやってみたいんだ〉という決意に変えるのだった。と、以上が1巻のおおまかな筋であり、翔太の幼馴染みで、中学の全国ベスト8に入るぐらいの選手でもある美羽が、翔太と亜南の邂逅にさいして、〈私たちの未来への――〉といった予感を覚えるように、彼らのこれから、つまり高校に入ってインターハイを目指すこととなる今後の展開を、暗示させる内容となっている。大きくスポーツ・マンガの主人公を「元気」「根暗」「天才」「努力」の4つのカテゴリーから判断するとしたら、翔太は「元気」と「努力」の複合型だといえる。そういった資質と、第1話の冒頭でルービックキューブを短時間で完成させた能力とが、いかに結びついていくのか、そのあたりが今のところ未知数である点も、うまくこちら読み手の注意を引っ張っている。
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 arakure10.jpg

 〈大事な事だ忘れるなよ“おまえはオレの地図が描けるか”と質問するんだ〉と、もうひとりの輪蛇、来原は言った。〈今、ワケは考えなくていい! おまえはこの話を覚えておけばいいんだ ハルマ!〉〈“地図が描ける”とヤツが答えたら お前は命令しなければならない〉〈“オレの反射板(リフレクター)になれ”とな……〉。吉田聡の『荒くれKNIGHT 高校爆走編』10巻、「ROAD TO STARDUST」シリーズは、そうして若き、やがて四代目となる輪蛇(LINDA)が、自分たちにとって反射板の役割に値する男を見つけ出すまでの話だ。では反射板とは何か。それは〈遠くにいるリーダーの存在を闇の中でも示すモノ / リーダーがテールランプを消しても 遠くの仲間にその居場所を教え続けるモノ〉である。善波七十五率いる三代目において、知性派の牧が担った役目でもあった。ならば来原のいう「ヤツ」=由利矢は、はたして四代目の、それに見合う男なのであろうか。秋山と村雨が奔走する一方で、春間が先代輪蛇の一員として善波らといっしょに消えていくつもりなのか、それとも後続たちを導くための新しい光になる自覚があるのか、が、試される。振り返ると、「高校爆走編」よりも以前『荒くれKNIGHT』(無印)というマンガは、まだ右も左もわからなかったころの春間が憧れの輪蛇に入った、そこを物語の出発点に置いている。いうなれば、物語のうちにおける時間は、ペーペーからいっぱしの輪蛇へと成長する彼の時間とパラレルであった。だから(次巻で)全部の物語が完結するにあたって、春間の得たものが、こういうかたちで提示されなければならなかったのは、ほとんど必然だといえるし、そのことは〈善波さんに比べればオレや村雨はまだまだ20点か30点ぐれえの下っ端だ〉〈でもな! オレは三代目のケツにくっついて皆のテールランプを追っかけてるウチにわかったんだ!!〉〈満点目指すならよ!〉〈汗流してかき集めるしかねーんだ!〉〈てめえの中に転がってるマシな所をかき集めて満点になっていくんだ〉〈輪蛇はな!そうやって男になっていく場所でもあるんだ!!〉という、このような言葉にまさしく集約されていることを、おそらく、これまでの物語に付き合ってきた読み手の多くは知っている。がゆえに、燃える。と、ここでさあ、ちょっと気づいたことを書いておきたいのは、たしか『荒くれKNIGHT』(無印)の15巻だったけな、あの甲斐性なしのロクデナシで人間の屑のヒデオのエピソードで、ヒデオのしでかしたゴタゴタを後輩の秋山が謝りにいく場面があるじゃん、あそこでさあ、ヒデオのために頭を下げる秋山のためにいっしょにおっかない善波さんに頭を下げてやろうとする春間だからこそ、こうやって秋山たちがついていくのかな、と思えば、さらに感動的であったよ。

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』最終回について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』9巻について→こちら
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』8巻について→こちら

 『ジナス』1巻について→こちら

 『湘南グラフィティ』→こちら
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2006年11月17日
 pianissimo.jpg

 ポプラ社から、『psiko』という雑誌の増刊号扱いで、新創刊された『コミックピアニッシモ』は、松苗あけみの素敵な表紙のわきに〈マンガで読む文藝、始まる――。〉とあり、既存小説のコミカライズをおもに扱った内容となっていて、正直なところ、このなかで読んだことのある原作は、それほど良い印象がないものばかりなのだけれども、マンガ家の側の、ゴツボ×リュウジ、たまきちひろ、海埜ゆうこ等がそれをどうアレンジするのか、を目当てにして、購入してみたのだったが、いや、これはちょっと、なんともならねえな。もしかすると編集者の舵取りが駄目なのかもしれないけれど、あらかじめストーリーまたはプロットが制限されている以上の欠陥があるように思う。全体的に、ごくふつうにマンガとして愉しめるのは、自身が原作も兼ねている岸虎次郎の『マルスのキス』ぐらいで、あとは、もはやコミカライズ作家の感がある海埜が、まあ手堅くまとめてはいる。ゴツボとたまきは、もともとラフな絵柄ではあるが、ふだん以上に雑に描いているのでなければ、その作風が内容にマッチしていない。小説とマンガのコラボレイトという企画自体は、それで雑誌一冊つくるという点が志の高いものか、商業的な狙いがあってのことかは知らないにしても、わりと安易なだけに、もうすこし質の向上にこだわるべきであった。
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2006年11月15日
 arakure.jpg

 終わった。終わった。終わった。単行本になるまで触れるのはよそうと思っていたのだけれども、だめだ、『月刊荒くれKNIGHTマガジン』Vol.11掲載の最終回、「[黒い残響]第9章――終幕」を読み終えたらたちまち、なにかを言いたい気分になった。いやいや、さすが吉田聡というべきか、超膨大な群像劇の、見事なエンディングであったよ。正直なところ、[黒い残響]が、『荒くれKNIGHT 高校爆走編』のラスト・シリーズであることがアナウンスされてよりこちら、これ、いったいどうやって終わらせるんだろう、と悩ましくあったのは、本編の主役であり、三代目の輪蛇(LINDA)である善波七五十が登場する、それ以前の時代、つまり初代と二代目の頃に関するエピソードが、[黒い残響]のメインであったからなのだが、しかし前回[黒い残響]第8章(Vol.10掲載分)で、春間が四代目を名乗った瞬間に、ああ、そうか、と、すべてが繋がった。そもそも『荒くれKNIGHT』(無印)は、まだ小僧であった春間が、輪蛇入りを果たしたことで幕を開けている。そうして春間が、輪蛇とはどのような存在であるのかを知っていく、あるいは、かっこういいとはどういうことかを学んでいく過程が、そのまま読み手の関心と重なり、物語内部の時間を動かしていたのである。だが、春間の視点に限定されたところからでは、こぼれ落ちていく面も多々あった。とくに全編に渡り通底音のように響いていた、初代から続く「がらがら蛇」との因縁は、その最たるものであろう。じっさい『荒くれKNIGHT』(無印)が終盤に、春間の周辺の物語から、善波の周辺の物語へと、そして善波の滅茶苦茶な高校生活を主とする『荒くれKNIGHT 高校爆走編』へと、位相を変え、リニューアルされたのは、そういったことと無関係ではあるまい。やがて『荒くれKNIGHT 高校爆走編』は、それまでに拾い上げられなかった伏線を回収する段階に入り、三代目輪蛇たちが過去と現在に結着をつけ、そして輪蛇そのものの未来である四代目たちを模索するくだりを経て、[黒い残響]へと至ったわけだが、[黒い残響]で捉まえられていたのは、要するに、輪蛇のメンバー個々人のではなくて、輪蛇というグループそれ自体の過去であった。こうしてすべての伏線が一通り揃えられたうえで、とうとう最終回を迎えた。〈善波七五十は走り続けてるぞ〉とヒデオが告げ、〈まだまだ三代目輪蛇とのレースは長くなりそうだぜ!!〉と虎武羅(COBRA)の伊武が言う。ページ下部にあしらわれた二匹の蛇のマークは、メビウスの輪を思わせ、まるで∞(無限)を暗示させる。続編が描かれることがあるのかどうかはわからない。だが、描かれることなどなくとも、黒い太陽が、いつまでも暗く惨めな路地裏を照らしていることを忘れてはならない。人はどんな状況であれ、自分と、自分を信じてくれる人間が見えなくなってしまえば、もはや何者ですらもないのだ。とはいえ、そうしたメッセージは、じつはすでに同作者の『ジナス』へと持ち越されており、『ジナス』の1巻にあった〈ジナスを見た者はジナスに覗き返される〉という印象的な台詞は、『荒くれKNIGHT』(無印)の4巻で善波七五十が口にしたものの、ヴァリエーションに他ならない。〈覚えときな……深い闇の淵を覗こうとする者は その時深い闇からも覗き返されているのだという事をな……!〉。だから光を。

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』9巻について→こちら
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』8巻について→こちら

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2006年11月14日
 Easy! 2 (2)

 池沢理美のマンガ『EASY!』は、この完結2巻で、着地点を女の子同士の友情みたいなところに持っていっているのだが、いかんせん主人公にあたるリカの魅力がぜんぜん描けていないため、説得力に欠く、まったく成功していない。いやたしかにヨネは、リカの〈迷いなくストレートにすきな人に向かっててさ〉という部分に惹かれたとの説明は、ちゃんと作中でなされてはいるのだけれども、それはたんに登場人物がそう言ったという程度の、まさしく取って付けたような理由でしかなくて、読み手の側からすれば、終始リカの在り方は、世間知らずで頭の弱い女の子というカテゴリーにすっぽりと収まってしまい、そこから出ることがない。じじつ物語内部の水準で考えてみても、先に挙げたリカの長所(に見えるらしい)〈迷いなくストレートにすきな人に向かっててさ〉というのは、じつは1巻の頃からヨネに指摘されている〈すぐホレて / すぐ貢ぐ〉悪い癖と同義でしかないのであって、とどのつまり、ひとつのことをべつの言葉で言い換えてみせただけに過ぎない。またリカは、ヨネに腹を立てたさい、〈いっかいふられたからって / そう簡単に「すき」をやめられるもんじゃないの〉と激しく言い、〈もしかしてヨネちゃんてモテすぎて / だれかをホンキですきになったことないんじゃないの?〉と罵るわけだが、ここには、論理のすり替えでなければ、もっとも大切なことが誤魔化されている。リカの場合、対象(好きな人)と行為(好きになること)の区別でいえば、あくまでも行為へのアディクション(嗜癖)に近しく、結局のところ、その行為自体が真に恋愛であることを、けっして証明するものではない。とはいえ、ヨネが永く好きであった先輩に告白しようかどうか迷う場面で、砂浜からリカが突然出てくるあたりの、自分の恋愛以外にも発揮されている、ああいう滅茶苦茶で意味不明な行動力が、リカの魅力だといわれたら、ものすごくわかるのに。

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2006年11月11日
 キレルくん 1 (1)

 主人公の名前をキレルくんという、従って作品名は『キレルくん』である。と、そこで、ええー、と眉を顰めたあなたはきっと、ミッチェル田中の『絶対解決まぐれ君』を知らないのかもしれないが、まあいい。だいいち『まぐれ君』と『キレルくん』は関係ない。いや『週刊少年チャンピオン』繋がりだろ。あなたがそう言ってくれると、僕は嬉しい。が、さておき。本題は五島慶彰のマンガ『キレルくん』の第1巻なのだった。まさか単行本が出るとは思わなかったね〜(キレルくん口調で)。ジェノサイド学園、通称ジェノ学は、県下に知らぬ者のいない、伝説的な不良校であったが、ある年の入学式を境に、世間へ対する学校の評判も上々に、激変を遂げる。なぜか。キレルくんがおっかないからである。ふだんは温厚な、どちらかというとオタクの気があるキレルくんは、道に唾を吐いた程度のマナー違反であれ、それを目にした瞬間、女子供さえも容赦なく殴る、蹴る、の鬼と化す。そうして不良グループは一掃され、あまりの傍若無人さに教師すら口を出すのを憚るぐらい、当人の自覚はほぼ皆無のまま、まさに学内の治外法権として、皆から恐怖されているのだ。作品は今も『週刊少年チャンピオン』で続いており、現在の連載分では、ヤンキー・マンガのスタイルに似た、大規模な抗争に発展しているけれども、この、ごく初期の段階では、あくまでも特殊な人格をテコにしたギャグ・マンガのスタンスをとっている。とはいえ、キレルくんという、いわば強力な地雷をいかにして踏まないか、といった周囲の人間たちの挙動こそをエンターテイメントの源にしている、その一点においては、何ら路線変更は行われていない。要するに、マンガ総体の主人公はキレルくんであっても、ワン・エピソード単位の主役は脇を固める登場人物たちのほうがつとめているわけだ。そのなかにあって、僕がもっとも愛着を抱くのは、かつては学園を支配する女番長であったが、キレルくんのキレっぷりに惚れてしまう、さやか姐さんである。彼女に対するキレルくんの仕打ちも滅茶苦茶だが、そのことでますます募る姐さんの愛情も滅茶苦茶なのだが、それがじつに割れ鍋に綴じ蓋というか、思いのほかナイスなカップルぶりは、たぶん次巻以降に収められる。
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2006年11月07日
 not simple

 ときに、ある作品に触れたことで、それまでその作者に持っていたイメージが一変する、という経験をすることがあり、オノ・ナツメの『not simple』を読んださい、僕に訪れた感動は、まさにそういった類のものに近しい。こんなにも直截的にヘヴィなものが描ける人だったのか。と、胸を打たれ、最初のページにまで戻り、それから執拗に何度も繰り返し、作中を生きる人びとのエモーションを、深く噛みしめた。おそらく多くの人と同じように、僕もまた遅れてきた読み手であるため、ここ最近のには間に合っても、『not simple』に関しては、この〈未収録分172Pを加え完全版として復刊〉と帯にあるものしか知らないのだけれども、いや、これは、こういうかたちでちゃんと復刊されてしかるべきマンガであり、それを手にすることができ、ほんとうによかった。物語は、イアンという数奇な運命を辿った青年の、その一生がどのようなものであったのか、を巡るようにしてつくられている。やがてイアンと出会う小説家が〈お前の人生はすごい。今時こんな映画もない、これだけの話がつまった映画だと逆にウソっぽく見える〉と言うとおり、幼年期あるいは生まれたときより、その生涯は、一般的なそれからはひどく縁遠いものであった。が、しかし、その波乱に満ちていることが、作品の主題ではないように思う。では、何がどうなのか。じつはそれを一言で述べることの難しい点こそが、最大の魅力となっている。大筋をさらに簡略化すれば、ひとりの人間が、とにかく失い続け、損なわれ続ける過程でしかない。要するに、空(から)に達するまでの話であるから、当然、寂しい内容なのだが、読後に、不思議と気分を落ち込ませない。いや悲劇的であることは悲劇的だとしても、その悲しみは同時にやさしみに溢れている。そのことはもちろん、プロローグとエピローグの果たす役割、構成上の効果に負うところが多いのだけれども、それだけではなく、つねにゼロに近しい登場人物たちの視線が、できうるかぎりゼロ以上のものを見つめていることから現れている、といえる。人は死ぬとき誰しもがひとりであり、孤独とは、ふつう、悲惨と等しく受けとられる。ただ束の間の幸福がそれを忘れさせることがあり、束の間の幸福を永く覚えていることが人を生かすこともある。あるいは殺すことも。絵柄はというと、デフォルメ的であるが、描かれているのは、そのような、血の通うリアリズムに他ならない。
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 ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る!

 『でろでろ』を通読していると、押切蓮介の魅力は、幽霊や妖怪がどうのこうのという以前に、あ、それはあるね、わかるわかる、そうした共感がフックとなり、おかしみを誘うところにある、といった具合に理解するのがもっとも納得できるかな、と思えるのだが、もうちょいべつの言い方のあるような気が、この読み切り作をまとめた『ドヒー! おばけが僕をペンペン殴る! 押切蓮介作品集』を読みながら、した。それはつまり、押切のマンガにおける、幽霊や妖怪との邂逅は、ごく日常的に、隣人からかけられる迷惑の、アレゴリカルな表現なのだ、ということだ。隣人というのは、もちろん他者と言い換えてもよい。そのように考えるのであれば、他者の不用意な接近に恐怖する、そういった部分を介して、なるほど、昨今の日本的なホラー映画に通じる邪悪な気配が、作中から漂ってくるわけである。そのことの具体性は、ここに収められた、作者には珍しくギャグの要素がいっさい排除された「かげろうの日々」にうかがえる。「かげろうの日々」に描かれているのは、他者に向けた悪意が、他者という像に反射して、自分へと返ってくる、わりとまっとうな因果観であり、そこに含まれ、焦点化されているのは、他者が脅威でしかないような、そういう怯えだといえる。怯えは隠蔽された結果、悪意へと変わる。その、隠蔽されながらも、けっして消えないものにこそ、少女は逆襲されているのであった。しかしながら作者の本分はやはり、そういった関係性を逆転させ、本来ならば不可視なものを、解釈可能な他者のレベルで掴まえることにより、畏怖すべき対象とのやり取りを、おかしく笑えるワン・シーンに変える点だろう。登場人物たちが、幽霊や妖怪などの類と、対等に殴り合えるのは、それが異者との交わりではなくて、あくまでも他者との出会いだからなのである。

 『マサシ!! うしろだ!!』について→こちら
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2006年11月04日
 忍者パパ 1 (1)

 凄腕の抜け忍が、命を狙われながらも、一家の主たるべく会社員として奮闘する、といったシチュエーションは、新田たつおの『サラ忍マン』を彷彿とさせなくもないが、あちらがどちらかというと「得る」ことをモチベーションにしていたのに対して、この山本康人の『忍者パパ』は「守る」ことに作品の主眼が置かれているといっていい。一族の掟を破り、里を出た、七狗留(なくる)忍流暗殺技の伝承者である祭のぶ夫は、現在、愛する妻そして子どもたちとともに、慎ましくも平穏な日常を送り、それを幸福だと感じているのだが、しかし追跡の手がゆるんだということもなく、秘密裏に熾烈な攻防を繰り返す、その一方で、現代社会の病理、どうしようもなく弁護しきれないほどの悪意、法や倫理では是正できない人間たちから、家族の身を守るため、命を懸けて戦うのであった。とはいえ、いや、まあ正直なところ、対忍者戦のすくないこの1巻の段階では、不細工な中年なり、けっして気の強くないマッチョが、世の変態に正義の鉄槌をくだす体の、この作者得意のパターンで描かれた、ある種のルーティン的なマンガに過ぎない、かなあ。
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 サードガール1.jpg

 やはり今年は西村しのぶイヤーであったな。いやいや、同じタイトルの作品が版を改めて出た、それだけで買い集めてしまうこれをファン心理というのであれば、たしかにそうなんだけれども、今回の、『サードガール』はさすがに「完全版」というだけあって、うんうん、このかたちで持っておきたいねえ、と納得できるぐらい、ポストカード等のオマケも含め、びしっと決まっているのではなかろうか。涼と美也の大学生カップルと中学生の夜梨子の、すこし変わった三角関係を描いていると同時に、その三人がじょじょに大人び、洗練されていく様子を追った一大長篇となっているのだが、このデビューの頃はまだ、随所に拙さが見え、また話の運びや雰囲気もやけに80年代し過ぎているきらいがある、とはいえ、登場人物たちのスタイリッシュで粋な振る舞い、神戸という土地への愛着は、のちの西村作品へと発展する、まさに原形であるような輝きを放っている。巻末の作者コメントによると、文庫版でアナウンスされ、長年噂になっていた9巻の予定はどうやらなくなってしまったらしいのは、すこしばかり残念というか、やっぱりというか、まあほとんどのマンガが未完なのも、微笑ましく、この作者の魅力だと感じてしまうそれもファン心理というのであれば、たしかにそうなのであった。

・その他西村しのぶの作品に関する文章
 『下山手ドレス(別館)』について→こちら
 『メディックス』について→こちら
 『アルコール』2巻について→こちら
 『一緒に遭難したいひと』2巻について→こちら
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 ツギハギ漂流作家 3 (3)

 その年のもっともすぐれた新人を決める室町杯にエントリーした吉備真備たち漂流作家は、地下遺跡のなかに地底人が封じ込めた化け物と遭遇してしまう。圧倒的な破壊力を前に、ライバルの誰もが歯の立たないとき、真備は、師匠フジワラ・ノ・フヒトの技を借り、放つのであった。ZUDOOOON! 西公平『ツギハギ漂流作家』最終3巻である。ううん、こうして改めて読んでも、まあ打ち切りだから仕方がないという事実を差し引いても、強敵との決戦の最中に回想に飛んでそのまま最終回という、話のまとめ方はやや難があるような気がしないでもないが、しかし、燃えるセリフ蒐集家としては〈百の罵声をあびせるよりも / 好きなもん一つ胸張って言える方がずっとカッコいいだろ / 何が嫌いかより / 何が好きかで自分を語れよ!!!〉という叫びが十分に熱いのでオーケー、これはぜひ日常的に使わせていただこう。ところで、ここには連載以前の『HELLO SUNSHINE』という読み切りも収められていて、2年も前の作品であり、ストーリー自体はけっして珍しくもないのだけれども、ああこれたしかに『週刊少年ジャンプ』に載ったとき読んだわ、と覚えていたのには、ちょっと驚いた。それは、こちらの記憶力の問題ではなくて、絵柄やセリフ、設定などに刻まれた、何かしらかの個性に起因するものではないか、と思う。

 2巻について→こちら
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2006年10月27日
 〈お袋は / 殺し屋が人を統べる事を / 愚かと断じていた / 殺しは何も生まない / それを解った上で殺しに徹するのが / プロの殺し屋だ / てめえらが徒党を組み / たかが殺しに意義を見出そうとした所で / 殺しは殺しでしか無い / その自覚があるかどうかが / てめえら組織(マフィア)と / 殺人業者(ジャッカル)の違いだ / オレは / ジャッカルとして生き / ジャッカルとして死ぬ〉主人公を動かすこうした理念、つまり、他者を殺害するさいに余計なイデオロギーを持ち込まない、シンプルな行動原理が、そのままこの『JACKALS(ジャッカル)』(原作・村田真哉:作画・金炳進)というマンガの枠組みを支え、一対一のバトルにおける圧倒的なテンションの高まりを促している。シセロシティの北半分を牛耳る「ガブリエラ」の構成員を敗北させたがために、不利な条件のもと、組織から送り込まれた強力な刺客と敵対することとなってしまったニコルであったが、はからずも賞金稼ぎを名乗るフォアとの共同戦線を張ることで、対等に渡り合うところまで持ち込むのであった。というのが前巻からのおおまかな流れであるけれども、「ガブリエラ」からの刺客が〈ジャッカル!! 金のためなら仲間の腐肉を喰らうような / お前等には解るまい!! 我等には大義がある / そのために命を賭す〉と仇討ちに臨む覚悟を述べるように、ふつう正当性と呼ばれるものは、ニコルとフォアの主人公サイドではなくて、報復する「ガブリエラ」の側にあるといってよい。双方ともに社会的な倫理の外に立つのであれば、なおのことだ。が、しかし、それというのはもちろん、他者を殺めることに大義を求める場合の話で、裏を返すと、殺害の責任が組織化されたイデオロギーに委ねることで、当の殺し屋は、相手を抹殺できるかできないか以外のすべての責任を、免除される。要するに、いち個人としての責任が消去されてしまうわけである。このことの問題を、いちばんはじめに引いた〈てめえらが徒党を組み / たかが殺しに意義を見出そうとした所で / 殺しは殺しでしか無い / その自覚があるかどうか〉といった言葉は、指し、貫いている。とはいえ、そのような問答による精神戦が、この作品の核なのではない。そうではなく、〈それを解った上で殺しに徹するのが / プロの殺し屋だ〉とする技術的な攻防を、同等に、テクニカルに描いてみせることで、ひとかどの興奮を作りあげているのである。

 1巻について→こちら
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2006年10月26日
 『週刊少年チャンピオン』で侍がモチーフの作品を描いていたマンガ家は、やがて青年誌で鍵開けのマンガを描くという法則なんてのは、もちろんないのだけれども、芹沢直樹の『猿ロック』が作中で金庫を開けてくれなくなった今日この頃、ピッキング・フェチの欲望を満足させてくれるのは、もしかしたら山田秋太郎の『解錠ジャンキー・ロック』であるかもしれない。天才鍵師、日輪錠九登場の第1巻である。基本的には、落としどころのはっきりとした一話完結のエピソードが並べられており、それほどシリアスな展開に沸く作品ではないのだが、主人公である錠九が小さな小道具ひとつで眼前の鍵と対峙する場面は、几帳面な線の引かれ方もあり、なかなかにスリリングで、すくなくともそこだけは体温があがる。山田秋太郎の連載は、これまで原作付きが多かったので、今後、どれほどのアイディアを捻出できるかが、文字どおり、このマンガの鍵となるのだろうけれど、この巻に収められているラブ・ホテルのエピソードの、そのショボさなんかはもう、ギリギリであるような感じがする。いや、こういうのが好きそうなマンガ家だというのは重々承知のうえで。
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2006年10月22日
 君と僕。 3 (3)

 だらだらとする以外にやることもない、そんなモラトリアムのワン・シーンをゆるやかなかたちで切り出した、堀田きいち『君と僕。』の3巻であるが、いやあいかわらず、どうということもない日常のうちに含まれている、ささやかな幸福と失敗と喧噪とが、呼吸の乱れない、リラックスしたテンポで描かれていて、読みながら、大波のエモーションにさらわれるというのではなく、もうちょっと実感のこもった親しみやすい空気が、やさしくあたる。『ガンガン』系誌掲載の作品だが、暗くない青春劇ということでいえば、女性向けのマンガも含め、いま現在とくに秀でた内容ではないか、と思う。無愛想な双子、優等生タイプのメガネ、女性的な長髪といった具合に、中心人物となる4人の幼馴染みは、わりと類型的な造型だといえるけれども、その体温の掴まえ方がうまく、彼らの微妙な一喜一憂に、思わず気もそぞろで、ときおりほくそ笑んでしまう。途中から4人の仲間に加わった、ふたりの登場人物たちも、すっかりと作風に馴染んでおり、ここに収められた文化祭エピソードの終わりでは、すこし、ラブコメふうの展開も見せてくれるのであった。
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2006年10月21日
 ゴシックな質感の流麗な銃撃戦が繰り広げられる、三輪士郎『DOGS BALLETS & CARNAGE』は、これ以前に単行本化されている『DOGS』の、仕切り直しというのではなくて、直截的な続きとなっている様子なのだけれども、『DOGS』が、ミハイ、バドー、直刀、ハイネの4者をスイッチしながらの、あくまでも連作ふうなつくりであったのに対し、ここでは、すくなくともこの1巻では、ハイネの宿痾に焦点をあてた物語として進行しているので、趣は、けっこう違って感じられる。ミハイの内面が、わりと余裕のない、切羽詰まったものであるのと同じく、遊びのすくない、シリアスな展開が続く。それはそれで、けっして悪くはないのだが、トラウマティックなモチベーションを大事にしたハイネの造型は、やや使い古されているとも思え、逆に、今どきのスマートなダンディズムを身にまとったミハイが、完全に脇(以下の存在)に回ってしまい、今のところ、ぜんぜん話の筋に噛んでこないのが、まあ『DOGS』にあったものを期待していみるとの話だが、やや残念ではある。
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2006年10月18日
 アライブ最終進化的少年 10 (10)

 マンガ表現のなかで、わりと頻繁にとられるパターンのひとつに、かつては親友同士だった黒い髪の少年と白い(色つきの原稿では銀であったり金であったりするのかもしれないが、ストーリーのなかにはあっては白くしか見えない)髪の少年の複雑な対立というのがあって、それは多くの割合で、世界規模の破滅や神話的な創造へと繋がってゆくものなのだけれど、まあたとえば、ものすごくわかりやすい例を挙げれば永井豪の『デビルマン』とかね、そういう系のヴァリエーションだというふうに、この『アライブ 最終進化的少年』(原作・河島正 / 作画・あだちとか)の内容を捉まえるとすれば、主軸である叶太輔と広瀬雄一の邂逅が、直截的に、物語全体において鍵の役割を担う“アクロの心臓”の復活と一致せざるをえないのは、これ以前の9巻によって実証された。というわけで、この10巻からは、“アクロの心臓”が復活して2年の月日が経ち、表面上は平穏な時間が流れながらも、その裏側では、国家レベルの思惑が導入されるなど、顕著なスケールの拡がりが新展開とともにもたらされているのだが、いちばんのポイントは、前巻で消息を絶った太輔と雄一の生存が、読み手の側からは確認できない、という点だろう。そういう、ふたりの距離が今この時点では無限に開かれているかのように見えること、それこそが、先ほどいった作品内部におけるスケールの拡がりと一致しているのだし、その拡がりのなかに、次巻以降を展開させるのにおそらく必要な、新しく多くの謎が生まれているのである。
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2006年10月15日
 溺れるナイフ 4 (4)

 つい先日某人気男性アイドルが突然の活動停止を発表したばかりだということもあるし、このあいだ綿矢りさの、やはり芸能界に身を置く子どもを主役に据えた『夢を与える』という小説を読んだこのタイミングだからなのかもしれないが、ジョージ朝倉『溺れるナイフ』の、4巻の内容、つまりそれは、少女モデルが行き過ぎたファンの暴挙のため心的なダメージを負う、といったくだりを目にしながら、こういう大勢の好奇を集めがちな人間がフラストレイトする姿というのは、じつに、ステレオタイプであるほどに物語的で、たぶん大昔からそうだった、が、しかし今日の、相互監視社会と気取った言い方をすれば、その抑圧下にあっては、不特定多数が自然に蓄積してゆくストレスと、ほとんど同型であるとしたなら、物語自体の性質あるいは感受のされ方は、以前とはおおきく異なるのではないか、と思わされた。たとえば、ここで、ヒロインの夏芽が覚える対人的(対視線的)なオブセッションは、原因はともあれ、ノイローゼの傾向としては一般的だといえ、けっして彼女の自意識が特殊だからそうなった、というわけではないだろう。むしろそうしたオブセッションが夏芽に生じることで、彼女の自意識が、表現のなかにあって、ようやく確立されたようにも見える。そしてそのことが今後、この少年と少女の暗いロマンスにおけるリアリズムと共感を支えてゆくことになるのでは、と予期させなくもない。

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2006年10月14日
 元男子校に入学してしまった少女が、クラスメイトたちの意識を前向きに変えてゆくのが楽しい、酒井まゆの『ロッキン★ヘブン』の2巻では、この手の少女マンガにしたら定番ともいえる、お見舞いに合コンに元彼女の登場と、イベント盛り沢山の内容なのだが、合コンで王様ゲームというのは、未だ若い世代に(ベタでも)受けるネタなんであろうか、と思うわけだけれど、もちろんそれは本題とは関係なく、主人公の紗和の、初々しく無垢であるがゆえの挙動不審ぶりは、あいかわらず好調である。この、わりと早い時点で、藍に心の傷を負わせた過去の出来事がオープンになり、紗和が藍に惹かれていることを自覚させたり、と、そのへんの展開もへたに勿体ぶっていないから、読んでいて疲れない。いやまあ、読んでいて疲れないことがえらい、というのではないのだが、このマンガの場合は、それがちょうど主人公の性格や行動とマッチしていて、物語全体の雰囲気づくりに役立っている。ただし、登場人物のうちでもっとも軽い(ように見える)城戸は、愉快な奴だが、けっこう傍迷惑で、これがもしも女子であったならば、読み手からは、あまり好かれないのでは、と思ってしまった。

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2006年10月11日
 〈『人間は死ぬまで一人ぼっちだという事実』と……『人間は一人では生きていけないという事実』……大事なんは……『人間は一人では生きていけないという事実』の方じゃと思う!〉というメッセージが、ただのセリフ以上にはなっていないにしても、けっこうぐっとくる、この8巻の最後に収められているマッスルくんの卒業のような単発エピソードにこそ、やはり柳内大樹の資質がよく出ており、『ギャングキング』のおもしろみになっている、と思われる。それというのは裏を返すと、長期にわたるエピソードを支える構成力と、いかんせんケンカの場面における盛り上げ方、見せ方に、いささか不備が感じられるということでもある。事実、すこし前からピンコとの抗争はずうっとカタルシスを欠いたまま、だらだら続いているだけであるし、ここで繰り広げられているジミー対マッスルくん、バンコ対チェルシーのケンカに関しても、率直に、退屈としかいえない。まあたしかに、昨今ヤンキー・マンガのケンカは、(未検証であるが、おそらく)ハロルド作石が発明し、高橋ヒロシが広めた、あの、見開きの一撃で相手が吹っ飛ぶことで結着がつくパターンに頼り気味なところがあり、それを安易に使っていない点には高い好感が持てるのだけれども、けっしてそれ以上のものになっていないし、この巻で使われている格闘技マンガふうのイディオムも、あまりこなれていない印象を持ち、弱い。吉田聡以降、ヤンキー・マンガにおける単発エピソードは、名手と呼ばれるような描き手を持っていないので、個人的には、そちらの方面で地位を確立してもらいたいのだが、もしかしたらそれを望む読み手は少ないのだろうか。ところで、巻末のオマケ・マンガによると柳内は(長田悠幸と同い年なので)75年生まれなのか。知らなかった。このぐらいの年代が、いま現在ヤンキー・マンガのシーンで中核を担っている状況は、世代論にしてみると、けっこうわかりやすい気がする。

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 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・『ドリームキング』に関する文章
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2006年10月09日
 『電車男』という、ある程度話題性の確保された題材を扱いながらも、いまいち不発だった気がしないでもない渡辺航のヴァージョンであったけれど、それというのはおそらく、じつはシリアス(ベタ)な指向性に支えられた原作に、渡辺の作風がうまくマッチしなかったからではないか、と思うのだが、いやまあ、原秀則のヴァージョン以外はどれもあまり振るわなかったといってしまうと、そこで話が終わってしまうので、そういうことにしておいて欲しいのは、この『ゴーゴー♪こちら私立華咲探偵事務所。』の、よい意味で無目的な内容にこそ、渡辺航というマンガ家の本質が、よおく描き表されていると考えられるからだ。華咲探偵事務所には、女局長をはじめとして個性的ではあるが、しかしやる気の感じられないメンバーが揃っており、慢性的に仕事がなく、暇な日常が続くため、新入社員である小金田一耕太郎の不安は募るばかりなのであった。そのようなわけで、作中に事件らしい事件は何一つ起こらず、いやいや起こることは起こるんだが適当にあしらわれ、ただ華咲探偵事務所という場の空気に、小金田一がじょじょに馴染んでゆく、他の登場人物たちに振り回され、ツッコミを入れる、その過程が、ギャグとしておかしい、というのではなくて、コメディとしてたのしい。おおらかで親しげな雰囲気を気楽に読める作品である。
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2006年10月07日
 星のブンガ 1 (1)

 内容とはべつのレベルの話で、これは先月に単行本になった『椿ナイトクラブ』にもいえることなのだが、1巻が出た、何よりもまずそのことに意味がある。ここ最近の『週刊少年チャンピオン』を読まれている方であるならば、ご理解いただけると思うのだけれども、それはつまり、あの新連載と短期集中連載の嵐を、ひとまずは乗り切った証明となっているからだ。あと『キレルくん』が単行本になってくれると、個人的には、うれしい。さて。細川雅巳『星のブンガ』の大まかな雰囲気を述べるならば、特殊な能力を携えた主人公と呪いをかけられたヒロインが、過去の因縁を回収するために流浪の旅を続けるという、今日にオーソドックスなファンタジーものである。天帝エデルに仕えし翼の生えた魔人たちが、地上の人びとを襲う、そのとき、一羽の小鳥をつれた赤い道化師が、彼らの前に立ちふさがった。〈オレはディーギ〉〈お前らの敵だ〉。不敵な笑みとともに魔炎が放たれ、邪悪な者たちは焼き払われる。先ほどもいったように、物語の輪郭に、とくに目新しいところはない、とはいえ、バトルにおけるアクションは、ばっちり決まっており、なかなかに見せる。また、エデルに抗うモチベーションが、愛する人のため、といったシンプルきわまりないものであるのも、作風の快活さに一役買っているのであって、まあたしかに、心理学めいた黒い情念がややこしく絡めば、相応にエモーショナルな深みが出るのはわかるけれども、そういう面倒くさい復讐劇ばかりじゃあ、さすがに安直すぎやしないか、食傷気味で困るよ、な昨今では、こういう古典的な理のほうが、むしろ新鮮に、また力強く感じられるし、すくなくとも僕という読み手は、支持する。この巻の後半では、ディーギの仲間であるらしいリオドの、死んだ恋人を蘇らせるための、戦いが展開されるのだけれど、そちらの冒険も〈格好悪い〉を〈ダサい〉と読ませる熱血ぶりで、好きだ。
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  野球しようぜ! 6 (6)

 〈情報と精神論か……か〉〈さあ〉〈どっちが勝つ?〉。県大会3回戦、日横商工の、上下の投球を使い分けるピッチャーと女子マネージャー千乃の見事な采配に、天たち鷹津高校野球部は、突破口のない窮地へ追いやられる。勝利を確信した千乃が〈はしるのよ精神論にね〉〈まあ……そうなったらまず終わりだわ〉とほくそ笑む、その反対側のベンチで、鷹津高の監督は選手らに向かい〈気持ちだ!! 気の持ち方一つで上から投げようが下から投げようが関係なくなる!〉と檄を飛ばすのであった。データを凌ぐ気合いが勝利をもたらす、というのは、まあ出来すぎたファンタジーであるけれども、はたして作者は、それにどのような色と説得力をつけるのか。いわさわ正泰『野球しようぜ!』の6巻である。結果からいえば、日横マネージャーの思考を、鷹津高監督の采配が上回った。〈「情報」対「精神論」じゃなくて〉〈「情報」対「作戦+精神論」だったね〉というわけだ。が、しかし、ここでの読みどころは、鷹津高の猛攻を受けたせいで、亀裂の入れられた日横ナインと千乃の関係が、思わぬ人物のアドヴァイスにより、修復されてゆくくだりだといえる。〈信じなさい 彼らを〉〈みんながあなたの言葉を待ってますよ〉。こうして「情報」対「作戦+精神論」だったものが、「情報+精神論」対「作戦+精神論」の、五分と五分の立場へと引き揚げられる。天の〈日横さん変わりました〉〈人間へ!!!〉という無邪気な言葉は、まさしくそのことを見抜いているのである。前巻の杞憂でもあった、日横選手たちの、噛ませ犬の臭いも消えた。9回裏、2点差のリードを保ちながらも、ふたたび鷹津ナインは窮地に陥る。限界を超えてもなお投げ続けるピッチャーのカイオ、彼にかけられる天の言葉に燃え、7巻へと続く。いや、それにしても何度かいっているが、この『野球しようぜ!』と佐野隆『打撃王 凜』のふたつが、いま現時点における、野球マンガの沸点なのは疑いようがない。

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2006年10月04日
 コックリさんが通る―Planset3 (上)

 このたび、奥瀬サキが『ヤングサンデー』(の本誌と増刊号)に連載していたマンガ『コックリさんが通る』が、メディアファクトリーから文庫化されたので、それについてすこし書くと、新宿を舞台に、妖(あやかし)の血の混じった女子高生が、やはり人外のものたちとバトルを繰り広げるという、基本線は奥瀬早紀名義のデビュー時より追求されてきた、伝奇ふうの内容であるが、もうひとつの読みどころは、これが、エヴァンゲリオンやブルセラの時代、つまり90年代半ばの空気を背景に、いわゆる自分探しの物語としても成り立っている点だ。帰属先を持たない登場人物たちの、その内面の頽廃が、現代社会の暗部と対応するようにして、物語はつくられている。また、来月発売の下巻では、主人公のひとり大森狸花子と、この上巻のラストに登場する少年とのあいだで、「きみとぼく」の連帯に近しい、疎外者ゆえの共感が生まれ、いま現在奥瀬が原作として関わっている『神の夜刀つかい』にも通じる世界観が、展開されてゆくことになる。

・『夜刀の神つかい』(清水アキ・画)に関する文章
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 taisyou.jpg

 榊健滋の『大正警察活劇百獣夜行』は、『週刊少年ジャンプ』の新しい増刊誌『ジャンプ the REVOLUTION』掲載の読み切りである。このマンガ家のものははじめて読む(と思う)のだが、とてもおもしろく感じられた。二十世紀大正初頭、第X次世界大戦終結後の日本では、阿片やモルヒネよりも数倍強力だとされ、かつて戦場で重宝された合成薬物「浪漫薬」に依存する人びとによる犯罪が増加していた。その背後にあるのは「帝國ロマン」という薬物組織であり、「浪漫薬」は、獣の心臓を用い、作られるため、各地で家畜が襲われ、本来日本にはいない動物らが密輸入される。それに対して警視庁内部に設けられた、「浪漫薬」を取り締まる特殊犯罪部「獣使警官」には、その年齢を問わず、動物たちと密にコミュニケイトできる能力を持った人間が採用されることになるわけだが、そうして書生でありながらも「獣使警官」をつとめる竹久九段の、活躍が、ここに描かれている。薬物に汚染された戦後という社会背景は陰鬱で、主人公が「獣使警官」の任務に就くモチベーションも、悲運な過去の経験にかかっているのだけれども、作品の雰囲気は、前向きで、明るい。それというのは結局のところ、作者の表現力が設定における暗さをうまく拾えていないからだ、との解釈もできなくないが、しかし、そうではなくて、表現の向きが、物語のネガティヴな部分をいなし、ポジティヴな面に着地しようとしたことの帰結として、このようになったと捉まえるべきではないか、と思うのは、たとえば、その主人公の造型が、アプリオリに直情的な馬鹿であるおかげで、屈折した性格から免れているのとは違い、〈…あやつの目を見ていると…何故かあたたかくなる〉〈それにあの匂い「帝國ロマン」への負の感情が強いな〉という二面において、後者よりも前者のほうが色濃く出ており、それがクライマックスでの、動物たちに教わった(憎しみ以外の)エモーションをさらに動物へと教え返す、といった構図に結びついていると同時に、エピソード全体のおもしろみも、そこで成立しているからである。
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2006年10月01日
 蒼太の包丁(12)

 〈姉ちゃんをもう静内さ帰らせてくれませんか……東京さ出たってタダの「お運び」じゃ仕方ないでないですか〉という純ペイの弟健太郎の要望に、〈仲居だって「タダのお運び」じゃなくてプロの仕事なんだけどな〉〈うん…料理人と同じように立派な技術なんだよ〉と、困り顔で言葉を返す蒼太とさつきであったけれども、〈そうは思えないです〉と健太郎の意志は固い。しかし、じっさいに純ペイの働きぶりを目にした健太郎は、自分の認識を改めるのであったが、その給仕をつとめることが「タダのお運び」ではないことは、続いてゆくエピソードのなかで、逆に、女将修行中のさつきを苦しめることになる。『蒼太の包丁』12巻である。いくつかの失敗から、自分には「ひと通りの基礎」がないことにさつきが気づくように、食材の知識をインターネットに頼った須貝は、自分の足で直に市場を巡ることで、「職人にとって大事なこと」がいったい何であるかを知る。それもまた同様に、ある職種において基礎となる部分を発見(または再発見)することと同義だといえよう。そうした具合に、基礎、つまり成長してゆく段階の、おおもとの土台がいかに大切かが、この巻では、繰り返し描かれているように感じられる。そのことは、べつの料亭へ「助」に出された蒼太が、そこで、すっぽんの調理を教えられるさい〈命を料理してるんです〉〈僕らの仕事です〉と、「助」に行った先で出会った女性料理人に言うセリフからも、見出すことができる。

 11巻についての文章→こちら
 10巻についての文章→こちら
 9巻についての文章→こちら
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 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら 
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2006年09月30日
 岳 2 (2)

 主人公の三歩は、自分の救助した人たちが、山をおりるさいに〈また山においでよ〉と声をかけるのだけれども、その、悲痛なハプニングに遭いながらも、たまたま命を落とさずに済んだ彼らが、ふたたび山登りに赴くことはあるのだろうか。あるのではないか。はっきりとした根拠があるわけではないのだが、しかし読み終えたあとで、すくなくともそう思えることこそが、石塚真一の『岳』に、こちら読み手の心が動かされた証拠だといえる。すぐれて悲しみと喜びに溢れた内容だった1巻に引き続き、この2巻も、ボランティアで登山者の救助をやっている三歩の活躍を通じて、人が生きること死ぬこと、けっしてひとりで生きているのではないこと、ときにはひとりでも生きていかなければならないことが、まっすぐと力強く描き込まれており、そのドラマが苛酷であればあるぶんだけ、深く頷き、前向きにならなくちゃあな、と自分に言って聞かせたくもなる。どんなシビアな状況下でも、笑顔を絶やすことなく、また諦めることもしない、三歩の姿が、とにかくすばらしく、魅力的である。

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2006年09月29日
 1巻のときもいった気がするけれども、『駅弁ひとり旅』とはいっても、基本的な旅路は、ふたり連れで行われる。妻の厚意で、趣味の鉄道と駅弁を満喫する旅に出た主人公の大介が、その旅先でたまたま知り合った人間と、しばらく道行きをともにする、というのが、だいたいの趣向であり、前巻では九州を女性カメラマンと巡ったが、この2巻では、お遍路巡りをしている女性と四国で出会い、その後、その女性の甥である小学生と山陰に入ってゆくことになるのだが、そうした道中に、女性たちとのラヴ・ロマンスが発生したり、はたまたドラマチックなヤマがあるわけでもなく、さまざまな土地土地の、列車に乗って、駅弁を食すといった行程だけが、単純に繰り返される。たったそれだけのことがおもしろいのかどうかというと、おもしろい、のである。では、そのおもしろさがどこからやってくるのか、それを説明するのが難しいのだけれど、たんに鉄道と駅弁のトリビアルな知識に支えられているのではないようにも、思う。たとえば、四国をいっしょに行く美希という女性は〈弁護士をめざしてるんですが〉〈お恥ずかしい話もう三回も司法試験に落ちちゃって……もう26になっちゃうし後がないんです〉という事情を持っており、彼女の旅は、いわゆる自分探しの意味合いが含まれている。また、山陰をともにする洋史少年は、2年前に亡くなった鉄道好きの父親と乗る予定だった山口線のSLを目指す、作中の言葉を借りれば〈お父さんと約束したあの場所へ〉という夢を叶えようとするのである。ここで重要なのは、そうした心理のレベルにおける彼女や彼の再生劇すら、けっして大げさに表現されてはいない、ということだ。さらりと流したぶんには、気が変わった程度の、心変わりにしか読めないし、じっさいに作中で割かれている描写も、そのぐらい、抑えられたものであろう。しかし結局のところ、旅なんていうのは、そんなものなのかもしれない。空気や水が変わることで、思いがけぬ光景を目にすることで、人の気持ちに、それまでにはなかった余裕が出来たりもする。この巻で、僕がいちばん好きな場面は、三段式スイッチバックで機関車が急勾配を登っていくのを、大介と洋史少年が〈ガンバレ ガンバレ!〉と応援するところである。それまで白けていた洋史と、大介の気分が〈ガンバレ ガンバレ!〉という掛け声によりシンクロしている、たったそれだけのことが、ずいぶんと楽しそうに見える。まあ見ず知らずのおっさんに、自分の息子を預け、旅させるというのは、いまこの時代にはなかなかありえそうもないが、そういった部分も含め、殺伐とした現実を忘れさせてくれるフィクションの旅を、束の間、味わうのだった。

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2006年09月27日
 ジナス-ZENITH 1 (1)

 記憶を失っている銀髪の青年は、空中に浮かぶ奇妙な物体の夢を視る。そして、その物体を目撃した者たちの、思い出が、死者を六日間だけ蘇らせる。六日目の終わり、青年は、死者たちを土へと還す殺し屋となる。死者を喚んだ者がそれを望もうが望むまいが、死者がそれを望もうが望むまいが、青年がそれを望もうが望むまいが。すべてはジナスの定めに従うかのように、だ。が、しかしジナスとはいったい何なのか、誰も知らず、そうして繰り返される、いくつもの再会と別れの劇を吉田聡は『ジナス』で描いている。

 物語の中心に置かれ、登場人物たちを動かしているのは、「ジナス」という言葉に託された謎(都市伝説)であるのだけれども、作中にある〈ジナスを見た者はジナスに覗き返される〉〈私の心の淵にはどんな魔物が潜んでいるのだろうか……〉という印象的なモノローグが示唆するように、裏を返せば「ジナス」とは、人の心を中心とした、その周辺上に存在しているものであり、つまり『ジナス』というマンガの主題は、あくまでも登場人物たちの「心」のほうにこそ宿っているのだ、といえる。

 人は生きていくために思い出を必要とする。いやまあ、もちろん必要としない人もいるんだろうが、ここで重要なのは、思い出あるいは記憶というものは、ある人間が、生まれた、それから死ぬまでの軌跡たりうる、ということで、たとえば、すでにこの世にいない人間であったとしても、その痕跡が、他者の心に、しっかりと残されている場合、その死者は生きている、といわれることがあるし、だからこそ逆に、ある人間のなかに、他者の記憶が、消えず、残っているとき、その人間は、けっして孤独ではない、といえることもある。言い換えるのであれば、思い出は、思い出す側の人間を生かす、と同時に、思い出される側の人間をも生かす、そのような双方向の可能性を有している。唯物論者にしてみたら、とんだお笑い種であろう。だが、そのような考えが、生きている者にとって、ささやかな支えになりうることもあるのだ。

 この1巻のうち「三の再会」(第3話のこと)では、〈記憶から現れた者〉が、その自分を憶えていてくれる人間がどこの誰なのかわからず、けっきょく邂逅することもなく、六日間が過ぎ去る。しかし、もしかすると〈思い出してくれた人〉の見当はつきながらも、あえて会いに行かなかったのではないか。そういうふうにも読める。とすれば、なぜ会いに行かなかったのか。

 思い出す、というのは、いうなれば認識の方法である。最後に明かされるように、「三の再会」のエピソード内においては、励まされ方のひとつのかたちとなっており、すくなくともそこでは、蘇り、肉体を持った死者との交渉は必要とされていない。そうして念願の叶わずにあることが、翻って、その生者にとり〈記憶から現れた者〉を、尊い存在に格上げしているのだ。それに比べると死者の〈思い出してくれた人〉への執着は、いかにも弱い、むしろ皆無に等しいのだけれども、〈思い出してくれた人〉という言葉に含まれたニュアンスに現れているとおり、そのことを無下に思っているわけでもなく、だからこそ〈記憶から現れた者〉は、わざわざ不必要に蘇らされてしまったことに対して、〈思い出してくれた人〉にではなく、空の、おそらくは「ジナス」に向かい〈くそったれ〉という悪態をつくわけである。

 そのような、生者の願いだからといって、むやみやたらと死者の蘇ることが、必ずしも幸福とは限らない、というテーゼは、じつはすべてのエピソードに通底しており、たとえば「五の再会」における、銀髪の男の〈さよならはすんだんだぞ……〉という涙と〈良い思い出はいつも人間を強くしてくれる そうじゃないのか?〉という微かな笑みが、こちらに寄越す感動もまた、そのことの反響をともなっている。

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』9巻について→こちら
 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』8巻について→こちら

 『湘南グラフィティ』→こちら
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 7SEEDS 9 (9)

 夏のAチームとBチームが対称的であることの意味合いが明かされ、そして夏のBチームに付き添う百舌がいったい何者なのか、おそらくはそのヒントが与えられている、田村由美の『7SEEDS』9巻である。夏のAチームの選抜テストが結果的に何を育んだかといえば、ある種の狂気であった。これまでに物語内で紹介されてきた夏のBチーム、春のチーム、冬のチーム、秋のチームの少年少女たちが、突然、非日常的な空間に放り出されたため、文明的な精神をいったんリセットしなければならなかった、要するに、それまでの論理からゼロの状態でスタートを切らなければならなかったのとは違い、夏のAチームは、徹底的な合理化のうえに成り立つ集団である。極められた合理は、しかしエモーションという余剰を排除してしまう。そのことを指して、とある人物は〈オレは失敗したかもしれない〉と呟いたのではなかったか。とはいえ、文明崩壊後の未来を、夏のAチームが、いかに生きたのかはまだ語られていない。そうして作中の時間は、そこに戻り、春のチームと行動をともにする冬のチームの荒巻は、かつて甲子園のあった場所で〈もう誰も独りで死なせたりしない〉と誓う。

 8巻について→こちら
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2006年09月25日
 誰に感情移入したらいいのかわからないまま、わりとヘヴィな気配を漂わせ、物語は進む。まあ近親相姦が明るく楽しい話題のはずもない、か。ふとしたことをきっかけに出会った無気力な青年の喬が、じつは母親の再婚相手の息子、つまり自分の義兄であることを知った梢子は、自堕落で頼りない彼の世話を焼いているうち、次第に異性として心を惹かれてゆく。というのが、斎藤倫『世界を敵に回しても』の、前巻における大まかな筋である。この喬の親父さんというのが大したタマで、これが3度目の結婚になるのだが、一番最初の奥さんとのあいだにできた娘を月名という、彼女と、二番目の奥さんとのあいだに生まれた喬とは、要するに、異母姉弟なのだけれども、ふたりが過去に一線を越え、セックス(性交)してしまったことが親父さんの知るところとなっため、いま、月名は家を出て一人暮らしをしている、それでも彼女を忘れられない喬は、だからじょじょに壊れてゆくしかなかった、そのことが、この巻で語られる。三番目の奥さんの連れ子にあたるのが、つまり、梢子になるのだが、こちらはまあ血は繋がっていないとはいえ、喬を想うことに問題がないわけではない。というか、いやもう、ふつうの三角関係以上に、大変な騒ぎである。そういう事情があるから、喬を立ち直らせようとする、梢子の甲斐甲斐しい努力が実を結び、それこそ「世界を敵に回しても」彼女らが一緒になったところで、おめでとう、よかったね、とは、さすがにちょっと言い難い。これをどうやってハッピー・エンドに持っていくのか、あるいは持っていかないのか、作者のコメントによると3巻で完結する予定であるらしいので、期待して待っておく。
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 君に届け 2 (2)

 〈矢野さんと吉田さんはあきらめられなかった〉というのは、この巻の、山場における爽子のセリフであるけれども、いやいや、わかるわかる、矢野ちんとちづはほんとうにいい子だもんなあ。僕も彼女たちのことが、とてもとても大好きだ。というわけで椎名軽穂『君に届け』2巻なのだが、前巻のラストで不吉に臭わされた、悪い噂の広まりが、せっかく仲良くなりはじめた矢野ちんとちづとを、爽子から遠ざけてしまう。彼女たちを大切に想うあまり、あえて避けて振る舞う爽子の行動は、誤解され、逆に不信感を与えてしまう。それが切ねえのだが、しかし風早と龍ら男子陣によるナイス・サポートもあり、雨降って地固まる的に親交をよりいっそう深めてゆく、そこから先がまた熱いのである。うんうん、よかったねえ。ちづが号泣するのと同じぐらい、読んでいるうちに、泣いた。本筋は、爽子と風早の、初々しい恋模様なのだろうが、それ以外の部分もこうやって、しっかり魅せてくれるのが、うれしいし、そうすることで爽子の人の良さや気の弱さが掘り下げられ、それが前向きに変わっていく様子も、たのしく思う。

 1巻について→こちら

・『CRAZY FOR YOU』
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2006年09月24日
 イカロスの山 4 (4)

 他国に先んじる登頂ルートをとっていたクロアチアのイェンセン兄弟を、突然の悲運が見舞う。救助に駆けつけた平岡と三上は、あらためて生きた山の厳しさを実感する。そのころ、日本隊キャンプ地のテントを守る原田もまた、自然の猛威に襲いかかられていた。塀内夏子『イカロスの山』4巻である。原田が負傷したため、平岡の正式なパートナーに指名されたのは、やはり三上であった。そのようにして、ついに彼らふたり以外の、ほとんどの登場人物は、物語の舞台からおろされる。悲しむべきは、命懸けで留守を守りながらも、山を下らざるをえなかった原田の存在だけれど、このマンガの中軸を担っているのが、平岡と三上(それから靖子)の複雑な友愛である以上、それは、2巻で平岡が吉崎を喪わなければならなかったのと同様に、避けられぬリタイアでもある。多くの犠牲が払われた。〈とうとう二人が登る〉〈ザイルで体をつないで〉〈登らなければ終わらないんだ〉そのために。次巻以降、彼らコンビは、アメリカ隊と競るかっこうで、8000M未踏峰の初登頂へと挑むこととなるわけだが、おそらくライバルは、もっとべつのもの、過去や未来を含め、運命をおおきく左右するような試練へのチャレンジ、そういう意味でも〈真の未踏ルート〉が、いよいよはじまるわけだ。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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2006年09月22日
 ちぇんじ123 3 (3)

 〈巻末のオマケ用に一年振りにペンで絵を描いたが…〉とある坂口いくのコメントに、ああもうこの人はマンガを描かないんかな、と、すこしばかり悲しくなってしまったのは僕だけだろうか。その坂口が原作を担当し、岩澤紫麗が絵を描く『ちぇんじ123(ひふみ)』の3巻目である。多重人格の格闘少女素子を急襲する刺客たちに攫われてしまった特撮オタクの小介川は、彼らの目的が、素子のうちに隠された怒りと憎しみに満ちた第5の人格を引き出すことにある、と知る。それこそが、彼女の治療には必要なのだと説得され、激しいバトルによって傷つく「ひびき」「ふじこ」「みきり」たちの姿を、〈これ――正義じゃないよ!〉と思いながらも、しかし結果的に、非力であるがゆえ、ただただ見守ることしかできない。そのとき、素子のなかからついに発現した「ゼロ」という人格は、想像をはるかに超える、残酷なまでの強さで、その場に居合わせたすべての人間たちを戦慄させるのだった。僕という読み手にとって前巻までの懸念事項であった、作品の内部でうまく機能していなかった小介川の、ヒーローに対する憧憬が、この巻では、物語の中枢へ密接に絡んでくる。人並み以下と判ぜられる小介川に比べ、圧倒的に優位な力を持つ登場人物たちが、彼のなかに、何か、特別なものを見出してゆくのである。正義などは、状況次第で如何様にも、転ぶ。フィクションを可能性として信じることは、まったく無駄だ。そのような断言に対する、ささやかな反論であるかのような、小介川の資質が、あるいは次巻で、唯一「ゼロ」の暴走を食い止めることになるのだ、と思われる。

 2巻について→こちら
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2006年09月20日
 ひとりで生きていくのは嫌なくせに、他人を怖がったりもするのだから、人間というのは、なんとも面倒がくさい存在ではあるのだけれども、その厄介極まりない右往左往の劇を指し、物語と呼べば、心を動かされることだって、まま、あるわけだ。ついに夾への想いを告白するに至った透であるが、透の母親との過去のために自己嫌悪に陥る夾は、しかし、それを拒絶する。そうして失意のなかをゆっくり歩く透と、混乱をともない迷走する慊人の、直截的な対面が、それぞれの運命に、大きな変節をもたらすこととなるのが、この高屋奈月の『フルーツバスケット』、第21巻である。透というのは、いってみれば、他人とのあいだに良好な関係をつくる名手である。一方、慊人はといえば、まさしくその反対で、他人との関わり以前に、他人そのものを信じていない。序盤の、若い巻のころはともかく、中盤以降に、十二支たちにかかる「呪い」が、こちら読み手にとってネガティヴなものにしか見えないのは、そのような慊人の資質が前提にあってのことだ、といえる。しかし愛されることの代替的な行為として、慊人が「呪い」に頼るのは、けっして欲深さのためではなかった。ただ、他人に置いていかれる恐怖から目をそらしたことの結果であった。あるいは、誰からも愛されない、そういう自己憐憫の裏返しだとすれば、それというのはもちろん、慊人だけに特殊な感情ではなくて、たとえば夾の、由希に対するコンプレックスや透に対する屈折した態度もまた、同型の孤独からやってきている。だけど、ほんとうに望んでいるものは違う、そうではないだろう。いっけん、作中においてもっとも受け身であるかに思える透が、それでも主人公として立っているのは、そのような、孤独からやってくる苦しみに対する、抗体としての役割を負っているからである。救いがたく、自業自得の地獄でのたうち回る慊人にさえ、彼女は、その手を差し伸べ、かくして物語は、悲劇以外の結末を目指すかたちで為されてゆく。
 
 20巻については→こちら
 19巻については→こちら
 18巻については→こちら
 17巻については→こちら
 16巻については→こちら
 15巻については→こちら

 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』については→こちら
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 月刊 COMIC (コミック) リュウ 2006年 11月号 [雑誌]

 1世代か2世代前、あるいは90年代の青年誌におけるオタク層向けのマンガ家を、一並び集めてみたといった感じがしないでもない『月刊COMICリュウ』の創刊号であるが、そのなかにあってもっとも自覚的だと思える作品は、五十嵐浩一の『REVIVE!―壮年は荒野を目指す!―』になるのではないだろうか。大学卒業を機に〈小学校から集め続けていた漫画やアニメのグッズをすべて灰にし〉てから、社会人として自立し〈日々の生活に追われて二十年〉〈気がつけば今や中学生の娘を持つだたのリーマン親父〉となった主人公であったが、高校時代に夢中であったヒロインのフィギュアを、たまたま模型店で見つけたことをきっかけに、ふたたびオタクとしての資質を再燃させてゆく、そこに娘との確執(ディスコミュニケーション)が絡んでくる、というのが、おおよその筋である。サヴァイヴではなくてリヴァイヴ、少年や青年ではなくて壮年が荒野を目指す、その題名に内容のほとんどは集約されているといってもいい。たとえば、主人公の立場が、かつて暴走族だったとかロック・バンドをやっていたとかであったなら、よくあるフィクションのパターンであるけれども、その青春期の指向性が、オタク的なサブ・カルチャーに置き換えられているのだとしたら、こういったマンガの登場は、それこそ今日においてアニメやマンガ等の文化が、いかにこの国の中枢に食い込んできたか、という現実が可能としたものに違いない。言い換えると、70年代から80年代にかけて影響力の強かったサブ・カルチャーを生きた人々が、モラトリアムの終わったあとで、どのように歩んでゆくか。そうした表現は、すでにある程度は定型化されている。同様の水準で、80年代後半から90年代以降の、サブ・カルチャーにおけるアフター・モラトリアムが、ここに描かれているのである。たとえば久々に秋葉原に訪れた主人公が、その風俗の変容に漏らす以下のような言葉〈学生時代に来て以来なんだが…ずいぶん変わったな〉に対し、一緒にいた若い部下は〈そうなんですか? オレたち初めて来た時からずっとこうでしたけど 昔はもっとマトモだったんスか?〉と尋ね返すのだが、それに〈いやまあ別の意味で変だったがね(電波くんワールド)〉と答えるあたりが、この作品におけるリアリティであろう。ところで、主人公が自分の蒐集物を燃やすのは、平成元年(1989年)の3月であり、同年の夏に宮崎勤が逮捕されたことを考えれば、ちょうどオタク的な傾向への風当たりがもっとも強かった時代に、彼自身はもはやそうではなかったため、その後に人並みの人生を送りえてきた、というふうに読むこともできる。

 『めいわく荘の人々』復刻版 第1巻 第2巻について→こちら
 『迷惑の人』について→こちら
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2006年09月17日
 『週間ヤングサンデー』第42号掲載の読み切り。いくえみ綾『MANY』は、第34号に載った『マシマロ』に続く〈奥田民生との…夢いっぱいコラボ、その2!!〉ということになっている。『マシマロ』が実質3ページ程度の小品であったのに対し、今回は34ページと相応に読み応えのある内容である。宮内皓にとって17歳の夏休み、〈高校卒業を目前にして、突如家を出〉て以来〈音信不通になっていた、15上の兄〉が、ぶらり、と帰ってきたことで、日常という水面に、さりげない波紋が拡がる。過去の、死を想うほどにヘヴィな出来事の、その経験は具体的に描かれず、そうして得られた感情が、登場人物たちの今を形成している、というつくりは、この作者が近年発表してきたいくつかの作品に通じている、といえる。特徴的なのは、たとえば次のような場面、マンガの内部においては、おそらくもっともエモーショナルな兄の告白が、〈その後の出来事が衝撃的で――〉という皓の、軽く、明るい失恋が発生することで、受け流されてしまうところである。だからといって読み手は、けっして兄の喪失よりも皓の喪失のほうが、重たい、と考えるわけではない。もちろん作者はそのように描いている。そう描くことは、過去よりも現在のほうへ、作中のバランス、またはアクチュアリティを傾ける手法なのであり、そのことによってラスト間近〈こんな夏、早く終わればいい〉〈だけど、また来るといい〉以降のモノローグが生きてくる。

・その他いくえみ綾の作品に関する文章
 『マシマロ』について→こちら
 『潔く柔く』第3巻について→こちら
 『潔く柔く』第1巻について→こちら
 『カズン cousin』第1巻について→こちら
 『かの人や月』第2巻について→こちら 
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2006年09月16日
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 『週間少年ジャンプ』の新しい号(42号)は、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が連載30周年ということで、両津勘吉が他のマンガに、ちらり、と顔を出していたりするのだけれども、いちおう全部確認したので、アーカイヴに残しておきます。自力で探されている方は、以下に画像貼ってありますので、ご注意ください。続きを読む
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2006年09月10日
 にわかに災害マンガがブームである。『日本沈没』の影響なのか、それともこの国の無意識がそれを要求しているからなのか、震災に端を発するパニックを取り扱ったものを、ここ最近、よく見かけるようになった。そういったムーヴメントに関連しているのかどうかは知らないが、古屋兎丸が現在『コミックバンチ』にて連載している『彼女を守る51の方法』もまた、非常事態下でサヴァイバルを繰り広げる市井の人々を描いた、そういう作品なのだった。就職活動中で、テレビ局の会社説明会のためにお台場に来ていた三島ジンは、そこで偶然、中学時代の同級生である岡野なな子に再会する。かつての快活なイメージとは違い、ゴシック・ロリータのファッションをまとった彼女は、ヴィジュアル系バンドのライヴを観ようと、その日、××年の2月23日にお台場にいたのである。中学の頃、いじめられていたなな子を見捨ててしまったことを、ジンは後悔とともに詫びる、そのとき、マグニチュード8の直下型地震が東京を襲った。高速道路が崩れ、建築中のマンションが倒壊し、地面は泥水のようになってしまった、その絶望的な世界で、ジンは、今度こそなな子を守ってやろう、と誓う。いっけん古屋らしくない、正統的な物語に重心の置かれたマンガであるけれども、しかし、彼がつねにチャレンジングなマンガ家であったことを考えれば、べつに不自然なことではないし、ヴィジュアル系の音楽に少女のナイーヴな心が救われるといったモチーフは、これまでの作品にも見られたものだといえる。この1巻の段階では、震災後における、真に危機的な訪れてはいないが、作中を覆う影の濃い描写に、不穏な気配がよく出ており、登場人物たちが、けっして安全圏にはいないことを、つよく臭わせている。舞台はお台場ということで、そこに集ったさまざまな人種、といっても国籍や血統のことではなくて、サブ・カルチャー的に異なる指向を持つ人々を、被災者という単一のカテゴリーで捉まえてあるのは、意図的な配慮だろう。それぞれがそれぞれの価値観を有しているなかで、だからこそ〈みんなしんどいんだ〉〈こんな時は助け合おうぜ〉というジンの言葉は、甘いけれども、ひとつの倫理として生きている。
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 香取センパイ 11 (11)

 『香取センパイ』おわった。というわけで、これにて完結の第11巻である。いやあ、最後の最後までとてもとても楽しかったので、一部のヤンキー・マンガ・ファン(というか僕)のなかでは、TAIRAの『ゼロサキ』と同じぐらい、一般的な評価の過小さに相反して、末永く記憶に残るであろう作品になった。不良界最強の男、倍賞を倒すべく、たった5人で西京高校に乗り込んだ香取一行であったが、やはり多勢に無勢、あと一歩のところで、ついに追いつめられてしまう。が、しかし、その挑戦劇からは、勝敗以上の価値を得るのであった。もちろん、負けん気と傍若無人さでは右に出る者はいない、そう、香取センパイを除いては、の話だ。リベンジというのは、ヤンキー・マンガにおける最大の見せ場であるけれども、それを、このクライマックスに持ってくるのは、シリアスであるほどに、燃える。だからといって、プロレス道場に通いはじめようとした結果、プロレスラーと対決する羽目になるところが、さすが香取センパイで、当然、かわいそうにガチャピンも巻き込まれる。しかも、なぜか敵対する西京のナンバー2新見までも道連れしてしまうのが、もう滅茶苦茶である。とはいえ、最終話では、倍賞との結着も、きちんとつけられている。あのオチも含め、というか、ここまで読んできた者にとっては、あのオチでなければならなかった。すくなくとも僕は、満足である。あと、すこし真面目なことをいえば、全編に渡り、ケンカの原因や動機に、ネガティヴな感情の持ち込まれていないことを、高く評価できると思う。じつは、90年代以降に、ヤンキー・マンガに限らず、バトルを取り扱ったストーリー・マンガのなかで、それをやれているものは少ない。また、僕は、ヤンキー・マンガを、ある種のモラトリアム劇とも見ているので、限定的な青春の期間を、おもしろさと明るさだけで描ききった点も、オーケーである。しかし作者の秋好賢一は、この連載のあいだだけでも、かなり画が巧くなった。香取センパイは、もうふつうにハンサムな男にしか見えない。馬鹿に見えない。そこだけが、ちょっと不満足だよ。

 10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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2006年09月07日
 冒険少年

 僕はといえば、『タッチ』は『あしたのジョー』へのオマージュ説(酒見賢一)を採りたい人間なので、あだち充のマンガにおけるラブコメ的な描写をあまり重視しないというのもあり、その諸作品のうちにもっとも多く見出すのは、たとえば、取り返しのつかないことを主人公たちがいかにして挽回するか、といった構図なのであった。やや妄言めいていることは自覚したうえでいうが、それはつまり、再戦の叶わぬ勝者(力石)をどのように敗者(丈)が乗り越えるか、の物語をめぐるヴァリエーションである。ついでに、あだちの作品で、死者が頻出するのは、それが、取り返しのつかないものを、ずばり象徴するからだといえる。そうした見方を用いると、この『ビッグコミックオリジナル』に掲載された不定期シリーズ『冒険少年』の全話に共通するのも、やはり、取り返しのつかない、この場合は、大人になってから自覚する失敗に近しい過去であることがわかるわけだが、しかし、その挽回が、当人たちのがんばりではなくて、ファンタジックな奇跡によって担われているところが、少年誌に掲載されている作品との大きな差異であろうし、そこからは逆に、あだちの描く少年マンガのうちには、努力や勝利といった、じつに汗くさい要素が過分に含まれているのだ、という事実が示されている。

・その他あだち充に関する文章
 『アイドルA』2話について→こちら 1話について→こちら
 『クロスゲーム』1巻について→こちら
 『あだち充傑作短編集 ショート・プログラム』『あだち充傑作短編集 ショート・プログラム2』について→こちら
 『タッチ [完全版]』7巻・8巻・9巻について→こちら
 『タッチ [完全版]』4巻・5巻・6巻について→こちら
 『タッチ [完全版]』1巻・2巻・3巻について→こちら
 『サンデーコンパクト あだち充コレクション』創刊号について→こちら
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 『月刊少年ジャンプ』10月号よりはじまった浅田弘幸の新連載作である。『テガミバチ』という題名は、主人公である少年ラグが、やがて目指すこととなる職業〈AG(アンバーグラウンド)国家公務郵便配達人「BEE」……通称……テガミバチ〉からやって来ている。アンバーグラウンドとは、物語の舞台となる架空国家のことであり、テガミバチの職務は、作中で述べられるマニュアルに従えば「首都をのぞいたこの国の町から町へ旅をし……どんな危険すらいとわず」「国民の大切な『テガミ』をお届けする」ことであった。こういうファンタジックなロマンをやるのであれば、いっそのこと『蓮華』を描き継いで欲しいという気持ちもなくはないが、しかし、全体のプロローグに値する今回の第1話を読む限りでは、上々の滑り出しであり、今後の展開に十分な期待が持てる。先行する人物に出会い、導かれ、主人公が特定のジョブに憧れを持つといった発端は、たしかに『ONE PIECE』や『HUNTER×HUNTER』あるいは『からくりサーカス』などの例を挙げるまでもなく、今どきの少年マンガにおける定型的なパターンではあるけれども、そのなかに、登場人物たちに差す暗い過去の影が、彼らのエモーションを左右するといった描写を、ふんだんに盛り込むことで、個性ともいえる傾きがつくりあげられている。問題は、次話以降に、それが、どんな表情を見せることになるのか、だろう。

 『蓮華 spring edition one's intimate feeling / ふたつの忍花』について→こちら
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2006年09月04日
 いやまあ、たしかにけっしてうまいとは言えないし、ねえこれって『HUNTER×HUNTER』と『ONE PIECE』あたりのミックスじゃない、と尋ねられれば、そうね、といった感じではあり、すでに連載自体が打ち切られているのも仕方がないかとは思うのだが、たとえば〈文字覚えたての子どもに審査される時の緊張感と同じだよ〉といった、ちょっとしたセリフ回しや、それを口にするに見合う登場人物たちの性格などが僕の趣味には合っていて、けっこう好きだ。西公平『ツギハギ漂流作家』の2巻である(ちなみに単行本は3巻まで出る)。地図には未だ記載されていない未開での冒険を文章化し、漂流録として出版することで、地位と名誉を約束される漂流作家、その大家であるフジワラ・ノ・フヒトの弟子、吉備真備は執筆のために、新しく発見されたばかりの孤島へと上陸する。行動をともにする凄腕編集者の橘は、そこで、ふたたび真備のポテンシャルの高さに驚かされることとなるのであった。じっさいの小説家(にかぎらず、創作者全般)がそうであるように、才能の評価が、知名度や金銭となって現れる世界で、真備は〈・・・でも ぼく 人の心を動かすのは 好きだな〉と自分のモチベーションを簡潔に述べる。この〈人の心を動かす〉ことだけが目指されているという、いわば理想的な理念こそが、第1話(第1刷)がはじまった時点から、『ツギハギ漂流作家』における少年マンガ性を支える核だといえる。と同時に、そのことが物語の展開とうまく噛み合っていない点が、結局のところ、作品そのものの瑕疵でもあった。この巻のおまけページによると、作者はもともとギャグ・マンガ家志望だったらしく、ところどころに、あえて組み込まれている脱力感のようなものが、シリアスさに対してマイナスの方向に働いてしまっているのだが、〈飴玉ちゃうで〜目ん玉やで〜〉のやり取りは、いま読んだら、ごめん、すこしおもしろかった。
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2006年08月31日
 『闇金ウシジマくん』を読んでいると、相変わらず真鍋昌平のマンガは登場人物に厳しいなあ、と思う。しかも、だ。自由意志というのがもしもあるのならの話になるのだけれど、しっかりと当人に、その生き方を選ばせた結果として、奈落に突き落とすのだから、泣きっ面に蜂でありながらも、まあ自業自得じゃんね、ということで、読み手は、あまり痛ましさを覚えない。が、しかし、そうした登場人物の愚かさを強調するあまり、同情や共感の回路を完全に絶ってしまうのではなく、そこへと至る思考や指向性の部分に焦点をあてることで、こちらの現実とあちらのフィクションとのあいだに接点をつくり、描写のレベルにおいては、執拗なリアリティは追求されていないように見えるにもかかわらず、ともするとエモーションすら発生させられていることに、ようやく気づいた。丑嶋と関わりを持つ人間はみな、金銭によってでしか、自己実現や自己確認ができない。あるいは、最初からどこにも存在しない自己というものを、金銭によりカヴァーしようとつとめる。たとえば、この5巻では、イベサー(イベント・サークル)の運営に四苦八苦する青年は、〈ありきたりのコト言ってンじゃねェーよ! 大切にしたい自分がねェから 俺は、無理して上がる努力をしてンだ!!〉と思ったりするし、売れっ子の風俗嬢は〈私には彼氏も、友達も1人もいねーし……〉という不安を、貯金残高を確認することで払拭したりもする。とはいえ、たしかに彼らの行動は浅はかであるし、間違っても褒められないけれども、ある意味で総病巣化したこの国の現代社会においては、ごく日常的な光景の一部とも捉まえられるし、その空漠と懐疑苦悶自体は、けっして特殊なものでもないのだが、そのことを重々に承知のうえでならば、すでに異常だとはいえるのである。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2006年08月28日
 砂時計 10 (10)

 あーあ、また泣かされたぞ。本編自体は、8巻の時点ですでに完結している芦原妃名子のマンガ『砂時計』の、番外編に位置するのが9巻と10巻になるわけなのだけれども、前巻が、まさしくサイド・ストーリー集の趣であったならば、この最終巻に収められた「time letter」は、杏と大悟の主人公ふたりの後日談といった体になっており、事実上の最終エピソードにあたるといえる。吉田秋生の『BANANA FISH』に喩えると、「光の庭」に相当するような感じといえば、まあ多少のイメージは掴めるだろうか。小学校の教師となった大悟が、タイムカプセルを掘り起こすための同窓会で、当時の担任であり、もっとも影響を与えられた恩師である幸田と再会する。すっかりと年老いた幸田に、しかし、かつてと同じような人格者の面影を見る大悟であったが、破綻した結婚生活を隠しながら生活する彼女のことを、近隣の人間は「嘘つき」だと非難するのだった。そうした再会の劇が、紆余曲折の末に結ばれた大悟と杏の夫婦生活に反響するようなかたちで、「time letter」の物語はつくられている一方で、大悟と幸田の対比は、いち教師として、いち個人として、生徒たちに、いち個人に、希望を教えること、伝えることの、困難と迷いの表現となっている。〈どぎゃん人間になってもかまいません〉〈優しくても利口でも 馬鹿でも阿呆でもかまわない〉〈なりたいものになれてもなれんでも どぎゃん落ちぶれてもまあいいや〉〈ただし自分を好きと言える人間に〉〈自分にだけは嘘をつかないで〉〈誤魔化さないで 信念を持って真っ直ぐに〉〈先生は〉〈君らを信じる〉。人生とは、経験をストックしてゆくものであると同時に、時間を消耗してゆくものだ。未来はつねに先にあり、前へ前へと進むことを催促し続ける。そうした営みのなかで、人は変わることもありうるし、変わらずにいることもありうる。もうすこし細かく、変わってしまう部分があるように、変わらずに残る部分だってある。なにを肯定し、なにを否定するのか、せめてその結果が、光となり、輝き、幸福に満ちてくれることを祈りながら、人は、生きる。

 8巻について→こちら
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2006年08月27日
 青春サバイバル

 最富キョウスケの『青春サバイバル』には、4つの、読み切り短編マンガが収められている。わりと突飛なシチュエーションのものが多い。そのなかでも、作者自身が〈このマンガ、私が歴代描いた作品の中でも1、2を争う「……あれ? なんか少女まんがっぽくねコレ?」的マンガですね〉とコメントしている「うそつきラブレター」が、もっとも心に引っかかった。たまたま学校の屋上で出会った男女が、ふとしたきっかけで手紙のやりとりをするうちに、いつの間にか深く恋し合うようになっていた、と話の運びだけを取り出してみると、人によってはジョージ朝倉の『恋文日和』あたりにあったエピソードを思い出すかもしれないけれど、そうした部分も含め、なるほど、オーセンティックなラヴ・ロマンスに思える内容となっている。が、この「うそつきラブレター」の魅力がどこにあるのかを簡単にいえば、お互いがお互いを騙している、騙されているふりをしている、といった行為の帰結が、じっさいには相手に対し真実しか告げていなかった、という物語をつくり上げているところにある。といっても、そのことはまあ、明白でありすぎるぐらい読み手には示されているわけだが、反対に、マンガの内部にいる登場人物たちにはクライマックスまで明かされないがために、切なげなフィーリングを、彼や彼女のやりとり、それから表情に滲ませることに成功している。けっして個性的ではないが、繊細さだけはしっかりと捉まえた、そういう作品であり、こうした手つきで、長めのものを描けるようになれば、作者への一般的な評価もぐっと上がるのではないか、と思う。

 『ペンギンプリンス』について→こちら
 『プリキュウ』について→こちら
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 一大決心の末、意中の人に告白することを決めた紅葉であったが、結果、元同級生たちの前で、ひどい辱めを受けることになる。そのことをきっかけに、怒りの感情を知った恵都は、浩一に協力を頼み、紅葉を辛い目に遭わせた男子への復讐を企てる。一方、恵都と本格的に付き合いはじめた玲は、浩一と恵都の親しさが気にかかるあまり、浩一への態度を硬化させてしまう。恵都は〈いま思えば これが終わりの始まりだった〉ということを、そのときはまだ知らない。神尾葉子『キャットストリート』の4巻は、そうして主要登場人物たちの関係が、冬のはじまりとともに、さびしく変化してゆく過程を捉まえているのだが、そこにある転回が、あまり心には触れてこないように感じられた。このへん、うまく説明するのは難しいのだけれども、たとえば同作者の『花より男子』であったならば、よりずっと爽快に描かれていたであろう恵都の制裁が、彼女の男性への嫌悪感や〈でも復讐ってそんなにすっきりするもんじゃないね〉という一言を導き出すために、ぎこちなく、たどたどしい素振りになってしまっている。そのために、作者本来の資質、持ち味あるいは筆力自体がセーブされてしまったのではないか、と思うのだ。そうしたせいで、完全に現実的ではない行為にフィクションの説得力が備わっておらず、そのことが、恵都たちと浩一との訣別にも波及してしまっている。とはいえ、恋愛劇として見るならば、恵都、玲、浩一の三角関係が、とうとう顕在化し、それぞれの動向がどうなるのか、といった部分は気にかかるわけである。

 4巻についての文章→こちら
 3巻についての文章→こちら
 1、2巻についての文章→こちら
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 〈君さ 知らなすぎるよ 乙女心ってゆーのがさあ・・・〉と言われて、〈知るわけがない なぜなら僕は・・・男の子だもん!〉と涙を拭く主人公の岡虎雄は、子どもの頃、とある少女マンガ(作中表記では少女漫画)に感動して以来、少女マンガ家を夢見、目指し続ける純粋まっすぐな高校生であったが、2年に進級したとき、いっしょのクラスになった中村タキに一目で惹かれはじめる、しかし彼女には、のちに彼の運命を変えてしまうほど重大な秘密が隠されていた。ずどん。というわけで、筒井旭『ダメ出し。』の1巻である。両親に失踪され、祖父との2人暮らしといった、わりとハードな設定がなされ、才能のなさから小さなことから大きなことまで、とにかく「ダメ出し」されるにもかかわらず、前向きな態度を崩さない主人公の性格や、適度に軽くあかるく描かれる他の登場人物たちの存在、とくに友人の金子とじいちゃんが愉快なのもあり、物語は、まあギスギスもあるけれど、あくまでもポジティヴなムードに傾きつつ進むあたりが、つよいチャームになっている。
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2006年08月25日
 カラスヤサトシ

 もともとが『アフターヌーン』の読者ページにおける一角に置かれていたマンガということで、まとめ読みする性質のものではないというのもあるのだろうが、膨大な数の4コマ・マンガを次々に消化してゆくうちに、なんだか気分が、ずん、と暗く落ち込んでしまった。カラスヤサトシの『カラスヤサトシ』である。いや、くすくす笑いながらめくったページも、もちろんあるにはあるのだけれども、基本的に、明るい話題なんていっこもないですよ、と思うわけだ、が、それというのは結局のところ、ここで披露されているエピソードの半分以上には、うんうん、と共感し、その共感できてしまう自分というのが、とてもとても悲しい存在であるように感じられるからなのだった。とくにやるせないのが、2005年8月の回で、これは、内向的な人間ならば、けっして他人事だとは感じられず、心が、泣けて泣けて、困るに違いない。冗談半分本気半分でいえば、じっさいに死にたくなるほど、精神が弱ませられた!
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 YATO10.jpg

 この10巻で、第4章「夜刀の神つかい」は、終わる。夕介と菊璃の悲恋に結着がつけられる。そうしてそれは、ひとつの「きみとぼく」にまつわる物語へピリオドが打たれる、ということでもあった。これより先に描かれることとなる最終章「太陽の理」は、つまり、夕介にとって〈それはもうオレと菊璃の愛の物語じゃない〉のであり、〈オレにとってはどうでもよかった筈の外の物語〉に他ならず、それでも、その〈国とか世界とか宇宙の物語〉といった大状況のなかで、「神つかい」として選ばれた彼は、戦いを戦い、死線を生き延びなければならない。なぜならば〈菊璃の愛したこの世界〉を守るために、全人類の命運が彼に託されているからであるのだけれども、〈なんて小さな物語だろう〉〈ここは・・・なんて小さな世界だろう〉といった具合に、夕介の内面には、ただただ空漠が拡がる。ここに示されているのは、いわゆる「きみとぼく」というミニマムな物語にくらべ、マスを左右する、いわば大きな物語は、小さい、といった想念の図式だといえる。また、たとえ菊璃が、人の道を踏み外してしまい、夕介と敵対したとしても、その命があるかぎりは、彼と彼女の物語が続いていたのと同様に、日向夕介が生きている以上、蟆霧(まきり)=ヒカゲにとっての「きみとぼく」の物語は終わってはいない、そのときに、ふたたび彼らが再会することから、これが、人類や国家の一大事よりも、この地上で生きる、ひとりひとりのエモーションに、あくまでも焦点があてられ、進んでいることがわかる。あるいは『エヴェンゲリオン』や『ベルセルク』以降に、サブ・カルチャーが抱えた、自意識の流れさえうかがえる。神のオウムとなり、進化の理を語る砌(みぎり)の言葉は、はたしてそれが、作中における現実なのか、夕介の妄想なのかは不明だが、菊地秀行の諸作品にも通じる、要するに奥瀬サキ流の伝奇科学的な解釈を思わせ、もはや、ほとんど総吸血鬼化し、朝日を愛でることのできなくなった登場人物たちの手により、『夜刀の神つかい』をめぐる物語は、最後の局面へと突入してゆく。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
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2006年08月24日
 乱飛乱外 2 (2)

 田中ほさな『乱飛乱外』の2巻は、1巻にもまして、登場人物たちが伸び伸びと暴れ回り、とてもとても楽しい。戦国の世のこと、額に角を生やしているせいで、村の人々から疎まれていた雷蔵であったが、彼のことを「我が殿」と慕う女性忍者(くノ一)かがりの登場により、かつての領主刀家の末裔として、お家再興の旅に出ざるをえなくなる。その彼のもとに、かがりの他にも、如火、姫丸、といった凄腕の忍び衆が集う。彼女たちは「我が殿」雷蔵の出世を望み、他家の姫君に婿入りさせる作戦を立てるのであった。この2巻では、かくして相楽国のひばり姫の用心棒となった雷蔵が、やがて姫の孤独を知ると同時に、下克上の騒乱に巻き込まれてゆく。〈全くそれでも男かよっ 女に一度ついた嘘を引っくり返すなんて〉と姫丸、〈それが我らの殿なのじゃ いまさら嘆いたとて始まるまい〉と如火、〈まあそう申すな だからこそ我らも働き甲斐があるのではないか〉とかがり、雷蔵の危機に駆けつけるさいの、3人の表情と動きを、とにかく、推したい。今後の展開はともあれ、現時点における、作品のつくりを簡単にいえば、ひとりの男性主人公の周囲を、複数人の、くせのあるヒロインで固めたドタバタ劇といったものであり、さほどの目新しさはないのだけれども、悲願をともにする登場人物同士の、コミカルでもありシリアスでもある付き合い方に、喜怒哀楽の妙を見ることができる。
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 刑事が一匹…裏金を生む英雄編 上の巻 6 (6)

 もしかすると、組織はつねに加害者であり、個人はつねに被害者であるといった構図が、つねに紋切り型でありながらも、飽きられることなく再生産され続けるのは、そこに、人々がつねに共感しうる、何かしらかの、アクチュアリティが含まれているからというよりはむしろ、そのかたちが表現の形式上、壊れにくい、強度を兼ね揃えているからなのかもしれない。きたがわ翔が『刑事(デカ)が一匹・・・』のなかで採っているのも、同型の、加害者として組織があり、被害者である個人がいて、それから両者のあいだには悲劇がある、といった線の物語だといえる。たとえばヤクザの若頭、氷室は、次のようにいう。〈組織の下っ端はいつだって無力だ……奴らに……罪はねえ〉。こうした言葉のうちからは、如実に、組織と個人のどちらが、加害者であり、そして被害者であるか、の関係性がうかがえる。とはいえ、主人公である高円寺だけは、そのような構造のなかにあって、けっして被害者面をしない。そうした一点こそが、あるいはこのフィクションにおいて、最大限のエンターテイメントとなっている。恩師である沢口を救うために、命懸けの潜入捜査を開始した高円寺に、氷室は、その素性を知らないまでも〈自分の信念のためなら平気で死ねる奴だ〉と、畏怖の念を抱くのであった。そうして高円寺、氷室、沢口、の三者が、それぞれにまっとうする純粋性の顛末を描いた「裏金を生む英雄(エース)編」のほか、この6巻には、28歳の無職青年による自分探しふうのエピソード「冬のキリギリス編」が収録されているのだが、そちらは、ひとつの幕間といった感じで、本筋のようなハードさはなく、作者従来の作風に戻っており、わざわざ、こういう刑事物に組み込む必要があったのかな、との疑問を覚える。

 5巻について→こちら
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2006年08月21日
 メトロ・サヴァイブ 1 (1)

 非常事態下の生き残り劇に、またもや藤澤勇希が挑む、『メトロ・サヴァイブ』の第1巻なのだけれども、掲載誌(『プレイコミック』)のカラーに合わせてもあるのだろう、『BM〜ネクタール』や『エレル』とは違い、少年や少女たちではなくて、妻子のある男性が困難に立ち向かってゆくといった設定になっているのだが、しかし、人はけっして自分のためにのみ生きているわけではない、という基本線は、これまでの作品どおり踏襲されており、当然、一寸先は闇であり、その闇のなかに足を伸ばせば、新しい危機が押し寄せてくる、スリリングな展開が、次々と繰り広げられている。2005年6月にオープンした『エクサポリス東京』は、いわゆるこの国で勝ち組の人々を象徴する、巨大な複合商業施設である。そこに勤めている、いや勤めるとはいっても、そのビルの裏方、メンテナンスのために日夜ハードな業務にあたっている主人公の三島は、表の世界を行き交う人たちと自分が生きている現実との違いに、〈こんな日常ブッ壊れてしまえばいい〉と思う。妻に責められながらも、残業のせいで、子どもの誕生日にも家に帰ることができず、夜明けに、ようやく始発の地下鉄に乗り、帰路につこうとする、そのとき、ふいに、地面が、ゆれた。こうして、三島と地下鉄の乗客たちの、地上への帰還を目指してのサヴァイバルは、幕を開けたのであった。序盤、日常業務の無益さにすっかりと疲弊しきっていた三島が、もしかするとこの震災によって、妻子(美映子と将馬)も被害を負っているかもしれない、〈オレが助けに来るのを待っているんだ〉〈ガレキの中で凍えながら――!!〉とのモチベーションを得て、これまでの仕事で培った知識と勘を駆使しはじめると同時に、こちら読み手のテンションは高まり、彼(彼ら)の地獄めぐりに随伴しようという気になる。また、パニックに陥り、身勝手に不平不満を述べる他の乗客を傍らに、〈オレもこの人達も――美映子も将馬もみんなこんな世の中でしか生きられないんだったら オレ達が今このツケを払わされている事だって別に理不尽な話でもないだろうに――〉と三島は考えるように、彼らが閉じ込められたのは、平静な毎日から切り離された空間というのではなくて、あくまでも日常における負の部分の顕在化した場所にしか過ぎない、というふうに描いてあるところに、作者の問題意識がうかがえる。世界は、ちいさなピースの積み重ねにより、こうしてこのようなかたちで、成り立っている。大半の人間は、そのちいさなピースのうちのひとつでしかなく、無力だ、が、しかし、狭く切りとられた断片の世界にあっては、誰しもが負うべき責任と役割を拡張させられる。逃げ場の失しられた高濃度の瞬間瞬間に、自分たちの本質と向き合わざるをえないのである。残りすくない食料や水をめぐって、生存者たちが行う退廃的な権力の行使は、この社会における持つ者持たざる者式のパワー・ゲームを想起させ、物語は2巻に続く。

 『エレル』全2巻について→こちら
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2006年08月19日
 聖闘士星矢EPISODE・G 10 (10)

 〈理解しろョ・・・これは戦争なンかじゃねぇ お前達(神々)と このオレ一人の勝負だ 先にケンカ売ったのはそっちだ だから・・・全部オレが買ってやる!!!〉。おいおいアイオリアが、見事にスクライドぶいてくれたぜ。そりゃあ俄然燃えてくらあ、というものである。クロノスの記憶を甦らせるため、その鍵となりそうなアイオリアを罠にはめ、闇の世界へと招き寄せたティターン神軍、〈お前の考えは……心を打つかも知れぬが 甘すぎる〉ヒュペリオンの大剣が、アイオリアの肉を打つ。そのダメージに、あわやアイオリアの限界が近づくとき、白い薔薇が闇の世界に咲き乱れた。いや、ビューティーであることが売りのアフロディーテなのに、ででーんと登場したときの表情が、間抜け面に見えるので、もうちょっと何とかならなかったのか、と岡田芽武に尋ねたくもなるが、ともあれ、ばしっと決めるべきは決めたところで、その美技が炸裂する。

 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら 
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 打撃王凛 7 (7)

 単行本を1巻ずつ取り上げてゆく、こういったパターンの書き方だと、やっぱりその作品の熱量は正確に測れないんじゃねえか、と思わせられる。それというのも、この佐野隆『打撃王 凜』7巻における、これまでの積み重ねがけっして無駄ではなかったことを実感させられる、登場人物たちの、熱く熱く燃える表情を見たせいである。ついに緑北シニアとの宿命の対決にまで漕ぎ着けた緑南シニアのメンバーたちは、試合前日、〈それぞれがそれぞれの想いをその胸に刻み込んで〉夜が明けるのを待つのであった。これまでの激しく厳しい道程を反芻しながら、ページをめくる一瞬一瞬、その一瞬に、ぶわっと血がたぎる。〈バカだ〉〈やっぱり僕は大バカだ〉〈6年間ずっとずっと信じ続けてきた一番大切な事を〉〈どうしてこんなにも簡単に忘れちゃうんだろう〉〈僕が信じていたのは裏切り者に対する怒りだとか〉〈そんなものなんかじゃない〉〈・・・・思い出した〉〈僕の戦う真実(ホントウ)の理由を〉〈今ハッキリと思い出した〉〈それは〉、そうしてすべてのはじまりであった約束を再確認した凜は、ホームランと勝利を誓う、Vのサインをその傷だらけの手につくる。ここでもう駄目だもの。いやいや、たしかに僕が過度に感激屋だというのもあるが、しかしそれでも、とめどなく涙が溢れれば、もう冷静な判断ができなくなる。いちギャラリーとして、とにかくがんばれ緑南モード、である。もちろん肝心の試合のほうも、見せ場満載でお送りします、といった感じで、まだ1回が終わったばかりだというのに、壮絶な消耗戦とせめぎ合いが続く。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
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 パラパル 3 (3)

 あ、ものすごくおもしろい、という以上の感想がうまく引き出せないぐらい、おもしろい、石田拓実『パラパル』の3巻である。自らを宇宙人だと名乗る存在ハナが、その脳内に入り込んでしまったため、ふつうの人間以上の嗅覚を手に入れてしまった小牧は、同じ理由で、聴覚の鋭くなった鶴見と親しくなるが、ふたりのあいだに、はっきりとした恋愛の感情は、まだない。そうした微妙な関係は、触覚の冴えわたった莉花や、味覚の発達した四条を仲間に加えることによって、ゆるやかに変化してゆくのだった。また一方で、彼女たちを観察するかのような蓮沼という教師のことを、ハナは、その素性を正確に知らないまでも、特別な個体として認識しはじめる。といったストーリーの流れを追ううちに、登場人物たちに課せられた設定が、けっして不自然なものではないことに納得させられたうえで、男女間の交流が、フィジカルというかセクシャルであることを前提しながら、それ以外の、もうちょい抽象的であるがゆえに安易にイデオロギー化されない、だからこそ特定の個人対個人のあいだで、希望や可能性となりうるものを描き出そうとしているところに、このマンガの利点はあるのだ、といえる。たとえば、他の人間との接触は不快だと感じるようになってしまった莉花は、唯一〈鶴見くんにさわるのは気持ちいい〉と思いながら、しかし〈とても気持ちいい でもなぜか最近は さわればさわるほど 余計に足りない気がするようになってきてて それが少し嫌だった〉〈一体何が足りないのか どうして足りないのか そんなの知らない わからない〉と考えるのだけれども、その「何か」が「足りない」といった言葉に、表現の力点がかかっているのではなくて、そうした言葉をいわせるエモーションのほうに、それはかかっているのである。したがって「何か」が、具体的に何であるかは、作中に示されることを必要としないし、また「足りない」ことが、マイナスにポイントされる欠損である、といったふうに読むこともない。ここまでの物語においては、性差(セックス)を性交(セックス)により安易に誤魔化すことを避けつつ、異性を意識する恋愛を恋愛と規定せずに恋愛として描くことの二重性が、作品を盛り上げる大きな要となっている。


 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 
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2006年08月18日
 小さな親切が大きなお世話である「トリ」といっしょに生活する羽目になった毬央は、「トリ」の生みの親である研究者の野村(メガネ)のことが気になり、すっかり恋する乙女のモードであったが、もちろん当然のように、そんな彼女を「トリ」が放っておくはずもなく、あいかわらずのドタバタ劇が繰り広げられることとなる。金田蓮十郎『チキンパーティー』、これにて落着の第3巻である。つうか、一言だけどうしもいわせてもらいたいのは、このマンガ家の作品がちゃんと完結したのって、はじめて見たかもしれない、ということで、何よりもそのことにびっくりさせられた。なんだよ、最終回のつくれる人だったんだ! もう完全に惰性で続いてるとしか思えない『ハレグゥ』はともかく、『ニコイチ』のストーリーもちゃんと終わる可能性があるのだとすれば、今後の展開に期待したくもなった。
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2006年08月17日
 めっちゃキャン 1 (1)

 中学2年、14歳という若さながら、築地市場の老舗仲卸業者「一心」の十代目として、その目利きを超一流と評価される少女、天海いちごを主人公に、魚と食をめぐる人間ドラマを、このマンガ『めっちゃキャン』は成り立たせているのだけれども、いや、国広あづさってマンガ版『七人のナナ』の人か、プロフィールを見るまで気づかなかったのだが、まあ言われればたしかにそういう感じであるにしても、原作者が違えばその作風も大きく変わってくるものなんだねえ、と思うのは、これが、『チャンピオン』の系でいえば緋采俊樹を思わせるような、そういうコメディとハートウォームの見事なコントラストとなっているからなのだった。原作の九十九森は、魚介料理を扱った作品では、すでに『江戸前の旬』(漫画・さとう輝)で、それなりの実績を持っているが、あちらがあくまでもアダルト向けの、落ち着いた味わいに徹したものであったならば、こちらは少年誌向けの、にぎにぎしいフィクションへと展開するために、その知識が生かされている。ヤクザに身を堕とした孫を、祖母の愛情が救う4話目(第四魚)など、まあレディメイドなメロドラマにしか過ぎないのだが、たとえばイワシの生態から引き出された〈人は金を持ってるかどうかじゃねェ・・・一生懸命生きてるかどうかで評価されるべきなんでぇ!!〉という教訓が、国広のつくる登場人物の口から元気いっぱいに発せられたときにはさあ、どうであれ肯定の力強さが勝つよ、といったところで、清々しい気分にさせられる。
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2006年08月14日
 Easy! 1 (1)

 多重人格をステレオタイプなイメージで扱った『オセロ』の軽薄さは、まあ楽しかった池沢理美だけれども、この『Easy!』の、作品のなかを生きる登場人物たちの薄っぺらさは、読んでいてあまりファニーではない。とくに主人公の有田リカである。大学に入り、ようやく出来た恋人と二六時中セックス(性交)をするために、ひとり暮らしをはじめるが、その恋人をはじめ次々と現れる男性たちに、ことごとく騙されてゆく。たしかに、19歳という年齢は、現実の世界においても、この程度には浅はかな存在なのかもしれず、その愚かさが取り出され、デフォルメされているのだとすれば、それはそうであったとしても、注意深く見ておきたいのは、そうした自業自得が、展開上の都合によりフォローされ、甘やかされてしまうことである。騙す側と騙される側、どちらが悪いかといえば、もちろん騙す側が悪い。とはいえ、そのことが騙される側の正しさを保証するわけではない。騙される側がもしも間違えていないとしたら、騙す側を裁くのは、せめて倫理でなくてはならないだろう。しかし、ここでリカが騙されることは、翻って彼女の純粋さを示すかのような、そういう表現上のテクニカルな処理、それもかなり稚拙なものでしかなくなっている。おそらく物語は、リカのアパートの隣人であるヨネとの友情のようなものを軸に今後展開していくのだろうけれども、異性への執着は愛情へと転化されて、同性からの助力は友情を補填するといった感じの、そういう人間関係の立て方自体が、『Easy!』という題名に比べて、いかにも不自由だといえる。
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2006年08月12日
 鈴木先生 1

 帯にはすでに大西祥平が推薦文を寄せているけれども、おそらくは今年末か来年頭には出ると思われる「このマンガがすごい」だとか「このマンガを読め」だとかの、なぜか目上から物事を言う系ムックにおいて、何人かのマンガ読みが06年のおおきな収穫のひとつに挙げることとなるであろう、武富健治『鈴木先生』の1巻が、ついに発売されたのであった。掲載誌が『漫画アクション』ということあり、もしかすると未だ知名度の低い作品かもしれないが、ここ最近、いくつかの良質なマンガがそうであったように、ネット上で、その評判がひろく波及していくなりし、今後、大勢の注目を集める可能性はある、それだけの内容を持っている。さて。話の筋を簡単にいうと、『鈴木先生』という題名が示すとおり、鈴木という中学教師の、自分が受け持つクラスで、次々と勃発するトラブルへの悪戦苦闘を描いている。とはいえ、けっしてハートウォーミングな予定調和の劇へと着地するのではなく、また挑発的に教育の問題を扱ったり、イマドキの子どもたちを使って過激なドラマをつくるのでもない。そうではなくて、マンガという表現の奥行きをフルに活用する、アイディアと技巧により、フィクションのうちに学校という空間を、生々しく再現することに終始しているのである。たとえば、いちばん最初のエピソードは、給食の時間に問題のある行動を起こす生徒に、鈴木が手を焼くといったものだ。なぜ、その生徒が給食のときにかぎって、他の生徒に対し、不愉快な言動をするのか。ヒントは作中の至るところに散らばっており、それの検討に頭を悩ませる鈴木の生活を追うことで、読み手はマンガの内部に入り込み、やがて辿り着く真相に納得させられる。そういった体験は、ともすればミステリ小説を読むのに近しいものだといえる。もちろん作品の世界において、子どもたちも大人たちも、みんなシリアスに自分の周囲の環境に応対しており、ときには理不尽な現実に曝されたりもするのだが、あくまでもエンターテイメントに立脚しているおかげで、息苦しさを退屈と履き違えることはない。根は真面目でも熱血教師という柄ではない鈴木が、ささいなことで一喜一憂する様も、へんに気どっていなく、チャーミングでよい。
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 からくりサーカス 43 (43)

 ついにフィナーレとなった藤田和日郎『からくりサーカス』最終巻を読み、9年という期間、43巻という長さが、はたして妥当であったかどうか、それをしたり顔で判ずることを、ひとまず避けたいと思うのは、物語から登場人物たちが次々とリタイアしてゆく終盤が、とにかく泣けたし、燃えたからである。そのへんの筆力は、さすがに、あの『うしおととら』という奇跡の一篇をつくりあげた、この作者ならではといったところで、あるポイントから、いささか展開に性急な速度がつきすぎたきらいがなきにしもあらずだが、しかし、けっして落着の感動を損なうほどのものではなかったように感じる。いや、ま、鳴海の見せ場が思いのほか少ないといった不満はあるし、フェイスレスの暗く重たい因縁を、勝の少年性が断ち切るといった構図に関しては、その成り立ちにいささか説得力を欠いているとはいえ、孤独から解放されたフェイスレスの言葉に、涙がこぼれる最中は、そういったことすらも忘れてしまえるのだから、全体を詳細に検討するにしても、あと10回は、はじめから終わりまでを通して読んでからだな、という意気込みを持ちたいぐらいの深みには達している、と思えるのである。

 『からくりサーカス公式ガイドブック サーカスのすべて』について→こちら
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2006年08月09日
 いっぽん! 12 (12)

 よし。熱くなった。佐藤タカヒロ『いっぽん』の12巻である。女子個人戦決勝、酒高柔道部部長の晶は、勝敗とはべつのレベルで、努力がけっして無意味ではないことを証明する。が、しかし一方で、かねてより物語のなかで登場が暗示されていた男子柔道界に波乱を巻き起こす男、冴刃真道が、ついにその姿を現す。まるで小林まことの『柔道部物語』における西野を想起させる実力主義者の真道は、圧倒的な強さと傍若無人のヒールぶりで、柔道そのものを否定するのであった。そのときに、主人公の春がとる大胆な行動が、最大の見せ場であろう。インターハイ終結にともない、春、春の世代最強といわれる北村、そして真道と、ようやく役者は揃ったといった感じである。春の、かつての師匠であり現在は真道の指導にあたる新井との訣別や、晶に対する竜二の失恋を経て、結束を固めた酒高柔道部を中心に、物語は次の段階へと進む。

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2006年08月07日
 東京フレンズTHE Movie

 もともとはDVDドラマであった『東京フレンズ』の小林ユミヲによるコミカライズの、今度は映画版のコミカライズにあたる『東京フレンズ The Movie』である。DVDドラマは観たときないし、映画はまだ公開されていないので当然観ていないのだけれども、これまでに出ている3巻分のマンガだけは読んでいる立場でいわせてもらえば、純粋に単行本の4巻という位置づけで受けとってしまって構わない、と思う。じっさいにマンガ版『東京フレンズ』は、3巻の時点で物語はどこにも着地していなかったので、これは続編というよりは、完結編という内容となっている。メジャー・デビュー直前に、メンバーの不祥事のためにバンドを解散せざるをえなかった隆司は、その挫折から立ち直れずに失踪してしまう。その別れた彼女であり、元バンド・メイトである玲は、隆司の姿をニューヨークで見かけたという知らせを受け、単身海を渡るのであった。そうしてニューヨークでの、玲と隆司の再会を描いたのが、この『東京フレンズ The Movie』というわけなのである。まあ、『東京フレンズ』という題名からしてあれなのだが、話の筋もどうってことはない、自分探しふうに東京へ出てきた女性が、夢を見つけ、恋人や友人たちと出会い、別れ、成功と挫折を味わうといった、ステレオタイプな運びで、それが今度は、別れた恋人を追ってニューヨークへ旅立つというのもどうもね、といったところなのだが、個人的には、こうした上京の物語が、消耗され尽くされずに、いつまでも再生産され続け、ある程度は有効であることの背景が気にかかる。どういうことかというと、たとえば日本中が総郊外化されつつあるとか、あるいは都内と地方の流通や情報の格差はなくなりつつあるとか、そのような言説からはこぼれたところに、こうした上京の物語が発生するのではないか、という疑問だ。また一方で、小倉千加子と中村うさぎの対談集『幸福論』のなかで、東京郊外に生息するヤンキーに触れ、彼らがけっして地元から出て行かず、その閉塞感のなかで欺瞞的に満足していることが指摘されているけれども、それをもしも不幸だとすれば、上京の物語は希望になりうる可能性がある。が、その希望は、東京に行けば幸福になれるかもしれないといった言葉における「かもしれない」の不可能性に囚われたとき、金銭や交通手段の面とはべつに、メンタルな領域でハードルの高いものとなる。「ここではないどこか」を目指す物語のヴァリエーションとして、おそらく上京の物語はある。しかし、なぜにそうしたフィクションやファンタジーが、未だにこの国で商売として成り立ちうるのか、僕の関心はそこに高いのだった。
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2006年08月05日
 女神の鬼 4 (4)

 すこしばかり前に出た本の話になるが、『嫌オタク流』という対談集のなかで、更科修一郎が、〈今、広島のヤンキーって特攻服を着ちゃいけないらしいんですよ。特攻服を着ているから、かわりになぜか着ぐるみを着てるんです〉〈そんな状態だから、田中宏のヤンキーマンガも現代を舞台にできないんじゃないかなあ、と。今『ヤンマガ』で連載中の新作が一九七九年の話だったんです。時間軸を昔に設定しないと、登場人物がみんな着ぐるみを着ていることになっちゃう〉と言っている。そこでいわれている田中宏の新作とは、もちろん『女神の鬼』のことである。更科の発言は、まあ冗談半分に受け止めるにしても、しかし「現代を舞台にできない」がゆえに、田中が『女神の鬼』における物語内の時間設定を1979年にしたという意見には、承伏しかねる感がある。おそらくは、そうではない。では、どうして田中は、今この時代ではなくて、かつてのその時代を、今この時代に描かなければならなかったのか。

 ところで、田中の初期作品『BADBOYS』の総集編にあたる『月刊BADBOYS』には、毎号巻末に、『BADBOYS』に影響を受けた芸能人のインタビューが掲載されている。これまでのそのおもな顔ぶれが、青春パンクの人だったりお笑い芸人だったりするのが、いまヤンキーの精神がサブ・カルチャーのどこに顕著なのかを示していて興味深いのだけれども、9月号(VOL.15)のその欄に登場したのは、お笑いコンビやるせなすの中村豪という人であった。「やはり高校時代はやんちゃだったのか」といった旨の質問を受け、中村は「いや、僕が高校にあがったころはもう(東京は)チームの時代でしたから」といったようなことを答えている。調べてみると、なるほど、中村は都内出身の75年生まれなのであった。つまりは彼の高校時代というのは、90年代の前半にあたるのだとすれば、たしかに80年代後半から90年代の半ばまで続いた『BADBOYS』の連載期間に符合する。とはいえ、『BADBOYS』には、いわゆるチーマーふうの登場人物は、ほとんど現れない。チーマーふうの格好をした登場人物が物語にコミットしてくるようになるのは、おそらく『BADBOYS』の続編にあたる『グレアー』以降である。

 ここで注意しておきたいのは、『BADBOYS』の舞台が広島であったことだ。中村豪が発言しているように、90年代前半に、東京の不良は、チームの時代であった。そのころ、広島はまだヤンキーの時代であったのかもしれない。いや僕は広島の人ではないので、事実に詳しくないのだけれども、すくなくともそのように推測したばあい、そこで浮かび上がるのは、都会と地方という、あの二項対立の図式であろう。

 やはり75年生まれである更科修一郎が、どこの出身で、はたしてリアルタイムで田中宏のマンガを読んでいたのかどうかは知らないが、先に引いた発言のうちで、更科に欠けているのは、地方都市に生きる者の視点だろう。ネタではなくて、じっさいに広島のヤンキーが特攻服のかわりに着ぐるみを着ているのだとすれば、そこにはそうまでしなければならない切実さがある、と考えるべきである。田中宏が「現代を舞台にできない」という見方は、たんにひとつの風俗情報としてのみ『女神の鬼』を読むような立場からやってきているのであって、そうした見方からすこしずれてみれば、なぜ『女神の鬼』が、今この時代ではなくて、かつてのその時代を描いているのか、「現代を舞台にできない」からというのとはまたべつの理由が浮かび上がってきそうな感じもするのだが、しかし残念ながら僕はといえば、そのことをまだ言語化できないでいるのだけれども、あるいはそれが僕の『女神の鬼』を読む、そのひとつの理由となっていることだけは述べておきたい。

 よけいな前置きが長くなりすぎた。というわけで『女神の鬼』4巻である。主人公であるギッチョが、まだ小学生だったころの話が続く。彼に先行する世代たちの苦悩が、ねじれにねじれ、次第に血なまぐさい抗争へと発展してゆく、その過程が繰り広げられている。彼らはなぜ争い合わなければならないのか、といえば、それはただひとりの「王様」になるためであった。たいていの場合、王になることが目指されるのは、自分の存在を絶対化しようとする、そういう心理において、である。裸の王様が、裸であることを誰も指摘できないのは、それは彼が絶対君主だからに他ならない。同様に、この4巻で、ついに暴走をはじめる少年たちも、それまで虐げられてきた自分を自分で救うために、けっして誰からも否定されない存在としての「王様」へ、その願望を露わにするのである。たとえば、この巻の表紙を飾る雛石は言っている。〈イライラがどーしよーもないけぇ 目の前の物をぶち壊す!! 〉〈怒られたらまたイライラが大きゆーなってどーしよーもなくなる……〉〈片っ端から攻撃するんじゃ……!!〉〈どんなジャマが入ろーが関係ない〉〈攻撃し続けるんじゃ……!!〉〈じゃが攻撃すればするほど知らん大人が次から次にやって来てワシをどーにかしよーとする〉。こうした悪循環は、ともすれば王の絶対性をもって、他者の意見を封殺またはその視線を無効化さえすれば、断ち切ることが可能であるかもしれない。すくなくとも雛石の行動原理は、そのような考えに沿ったものに思える。

 いや、それは何も雛石に限ったことではないだろう。真清や花山たちもまた同種の指向を抱えていることは、たとえばこの4巻のなかでだけでも、真清の、次のような言葉からうかがうことができる。〈ガキの頃からいっつもこーじゃ…小川(保護司)のオヤジが言ぅとーりにいろんなコトやって昔っから必死に抑えよーとしてきたが……自分じゃどうにもならん・・・・ブチ切れるたんびにワシの頭はぶち壊れる〉。他者からの攻撃に曝されたさい、頭のなかにはノイズがあふれ、自身のことがコントロールできなくなる。真清がいう言葉のうちに表れているのは、そうした性質に修正が効くことはないのだという断念だとして、それが裏返しになったところに、自らの存在を「王様」という絶対性へと同化させようとする意志が隠されていることは、広島カープが日本一になろうとする前夜の描写にパラレルで表されている。歓喜に沸く市街地を抜けた場所で、真清たちの背景にそびえ立つのは、さびしい原爆ドームの姿である。

 登場人物たちのあいだには、そうした「王様」への指向性といった部分における相似点がある。面倒くさい言い方になるけれども、「後天的に「先天的にお前は間違えている」と植え付けられた」オブセッションに抗おうとしているという意味で、みな共通の運命を背負っているのである。しかし、絶対者は複数であってはならないために、それを共有することができない。また、その一方で、仲間を鎧として扱う雛石に対して、仲間のためにカッターを突き立てる真清など、彼らのあいだには相違点も存在しており、あるいはそれこそが、ほんとうの意味で、彼らの生き方を分かつものであったかもしれない。

 1巻と2巻について→こちら
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2006年08月04日
 海埜ゆうこ「君という花」は、『週間コミックバンチ』第36号(今週号)掲載の読み切りで、My Best Love Song(MBLS)という雑誌内シリーズの、2nd season第3弾にあたる。アジアン・カンフー・ジェネレーションの同名曲からのインスピレーションによってつくられた作品である。高校に入ったばかりの沢田未来に訪れた不幸とは、両親の離婚であった。それぞれ再婚した父と母が、自分の人生を大切にしたいばかりに、未来は祖父母の家に引き取られることになったからだ。祖母は寝たきりで祖父はすこしボケはじめていた。そして彼女は〈ああ あたし棄てられるんだ――〉と思う。〈あたしは16歳でそんな子供なわけじゃないけど〉〈早くもっともっと大人になりたい〉。とくに必要に迫られているけではないが、お守りとしてコンドームを買ったコンビニで、未来は、無表情な男に出会う。隣の家に住む渡里一哉であった。廃屋にしか見えないそこにまさか人が暮らしているとは思わなかった彼女は、その事実に驚く。が、やがて渡里の抱えるヘヴィな現実を知り、その理由に納得する一方で、感情は、居ても立ってもいられない衝動に駆られる。と、まあ一言でいえば、理不尽な世のなかに対するささやかな異議申し立てであるような、青臭い話であり、さながら渋谷陽一ふうに、半径5メートルのリアリティをすくいとり、現実との摩擦係数を捉まえた内容だともいえ、閉塞感や虚無を孕んだネガティヴな心情が、あかるくひろがりのあるポジティヴな風景へとひっくり返る読後は、けっして悪くはない。ただし作品自体は、けっして現代という時代への批評にはなっておらず、あくまでも時代性の反映でしかないところに不満を覚えもした。〈自律神経が狂って夜眠れないんだろ〉という一言は、物語内の時間設定を夜にする、そのための制約以上のものとなっていなければ、やはり不用意でしかない。また、たとえば渡里を襲った不幸は、あきらかに実在の事件をモデルにしているわけだけれども、それが少女の、または思春期特有のセンシティヴな揺らぎによってのみ回収されてしまうのは、倫理の不徹底さを感じさせるし、表現としてはいささか安直すぎる。やや厳しくいうと、この世界はどこか間違っている、とうたうだけで保証される程度のアクチュアリティに、あたかも作者が安心してしまっているかのようだ。
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 こうの史代「小さな恋のうた」は、『週間コミックバンチ』第35号(現時点での先週号)掲載の読み切りで、My Best Love Song(MBLS)という雑誌内シリーズの、2nd season第2弾として描かれたものである。My Best Love Songは、さまざまなマンガ家が、自分の思い入れのある邦楽曲から受けたインスピレーションを作品化するといった趣向で、それを指してコラボレーションといってしまっていいのかどうかは不明なのだが、こうした種の企画は、最近になってけっこうさまざまな媒体で見かけるとして、そのなかでもとくに良質のマンガが次々と発表されているのが、このMy Best Love Songシリーズだという気もする。それというのはもちろん、取り揃えられたマンガ家がみな、なかなかの手練れだという、編集サイドのセレクションがひとつにはある。それともうひとつには、おそらく作者個人の感情移入と原曲(アーティスト)への配慮が、ふだんとは別種の緊張をもたらし、作業そのものへ、そうして描かれた内容へと作用するからだろう。さて。題名はモンゴル800のヒット曲からとられている、こうの史代「小さな恋のうた」である。かつては穏やかな時間をともに過ごした、いぶきと直行のふたりは、現在は離ればなれの暮らしのなかで、互いに互いのことを想う。自分の近況はただ、手紙のやりとりによって、相手に報告される。〈変わりばえのしない毎日ですが こうして いぶき殿に葉書を書くと思えば 休み明けでも気が少しまぎれた月曜でした〉といった具合に。だが、しかし、そうして続いてゆく日々にも、いつしか終わりが近づいていた。そのことに気づく直行は、ひとり切符を握りしめ、海を渡り、いぶきに会いに行こうとするのであった。時間の移ろいによって、女心にもたらされる心変わり、あるいは望むでも望まないでもなく、訪れてしまう別れというのは、つねに残酷であるけれども、この作者ならではの性急さを斥けた展開が、それをそれと感じさせず、ピリオドの打たれたあとの感傷を、ただやわらかな波の音のように鳴らしている。

 『さんさん録』2巻について→こちら
 『さんさん録』1巻について→こちら
 『夕凪の街 桜の国』について→こちら
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2006年08月02日
 マスター・オブ・サンダー 決戦!!封魔龍虎伝

 たしょう大げさにいえば、今よりももうちょい若い頃に僕は、間部正志の『ノーホシTHEルーザー』や『SPEED KING』を読んで、それこそ絶望から救われた人間なので、いや以前『クッキーシーン』に載せてたサブカル風味(ソフト・ロック指向)な作品にもまいったが、しかしこういうのがいちばん困る、といった感じである。『マスター・オブ・サンダー 決戦!! 封魔竜虎伝』は、この夏公開予定の、同名アクション映画のコミカライズらしく、『武打星』で協力を仰いでいる谷垣健治が監督をつとめているというのもあり、ここで間部がマンガ化にあたっているのだと思われるのだけれども、芸能界での活躍を夢見て、生まれ育った鬼封じの一族を飛び出した主人公が、巨大な怨霊を打倒するために、7人の仲間を集めるといったストーリー自体は、まあわりと凡庸で、バトルの場面も、登場人物の動きは派手だが、対決がシリアスに突き詰められているわけではなく、そのせいで、やや緊張感を欠いてしまっている。とはいえ、これは僕がこのマンガ家のファンであるような立場だから、贔屓目なのかもしれないが、7人の仲間のうち、オタクふうの特徴付けがなされたコースケのかっこう悪くともかっこうよい、その不遇な男の子の描きぶりに、なんだか得体の知れないパワーが感じられた。つまり、そこに間部の良さがよく出ていると思えた。

・『武打星』に関する文章
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2006年07月29日
 かわぐちかいじ『太陽の黙示録』の最新12巻を読んでようやく、その登場人物の名前が『三国志』(『三国志演義』)の英雄たちに模してあることに気づいた自分は遅すぎだけれども、それを踏まえると、要するに『太陽の黙示録』というのは、近未来を舞台に(あるいは日本社会が一回崩壊したあとで)『三国志』をやりたいわけだ、というふうにも読める。が、まあ、それはそれとして。マンガに限らず、創作者たるもの、やはり一度ぐらいは『三国志』に取り組んでみていものなのかねえ、と考えたりもする。それとも、本屋に行けば「三国志に学ぶ現代何とか」とかみたいなののヴァリエーションが豊富なように、日本人(おもに年輩男性)の心性というのは、すべからく『三国志』を好むべしといった感じなのだろうか。いや、僕自身はそうした欲望はあまり強くないので、ときどき不思議に思ったりもするのであった。じっさいに、この“超”[三国志]と銘打たれた『覇‐LORD‐』に関しても、董卓そうくるかあ、というよりは、たんに呂布の、その渡海さん(『サンクチュアリ』の登場人物ね)ばりの、無頼漢なところに燃えているだけなのかもしれない。そうして、この第6巻では、ひさびさに呂布がガッときた。出番は少ないけれども、ギラギラとしたその眼の輝きに、ぷんぷんと噛ませ犬の臭いがする一方で、狂犬のような獰猛さをうかがわせる。だいいち、ひとりだけ敵味方の陣営関係なく、好き放題やり放題じゃないか。呂布に比べれば、曹操も孫堅も、スケール・ダウンである。しかし劉備だけがただ、〈ただ一つ、劉備玄徳に勝つために!!〉と呂布の心を駆り立てるのであった。ついでにいうのではないが、この巻は張飛と協皇子の交流も泣けた。

 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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 以前にも何度か書いているが、高橋ヒロシは、彼のマンガ『キューピー』に登場する我妻涼に憧れるファンの声が多いことに対して、あれは不幸なのに、と困惑した旨を増刊号だかどっかに書き残している。ところで柳沢大樹『ギャングキング』において、どの組織にも属さず、ギャングキングを目指すピンコの姿は、我妻涼のそれに重なるところがあるのではないか。そう思うときに、やはりそれは間違っているという指摘を、この7巻におけるマッスルくんのアクションに見ることができる。というか、マッスルくん、ここでいきなり物語の主軸に絡んできたなあ。そして、案外にいい人なのであった。〈ハートじゃ! 人っちゅうのはハートについて来るんじゃ!!〉。じつに渋い。前巻のジミーがピンコに敗北を喫した時点で、僕という読み手のテンションは、かなりの勢いで落ちてしまったのだけれども、マッスルくんの熱血硬派ぶりもあって、この巻はなかなかにエキサイティングだった。落ち込んだジミーを励ますアネの役割もいい。サイコの失恋エピソードも含め、これなんだよなあ、『ギャングキング』のよさは、こういう力みすぎない、それぞれがそれぞれそれなりに前向きであろうとつとめる様子なんだよなあ、と思い出す。たしかに、おしなべてこの世界はクソだ。おそらくはそのとおりである。ならば、世界の側に与さず、そこからドロップ・アウトすることこそが、もしかすると正しさなのではないか。いや、そうかな。それはそれでただの屁理屈だろう。社会の仕組みが絶対的に正しいわけじゃないが、そのなかに正しさがまったくないというわけではないときに、バンコは〈…自分の力じゃどうしようもねーことをよ……『しょうがねー』って思うのは簡単だけど……アイツ(ジミー)みてぇに悩んで苦しんで…“怒り”って感情を持ち続けることが大事なんじゃねーかな…〉と言った。

 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・『ドリームキング』に関する文章
 3巻について→こちら
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2006年07月28日
 kakeru1.jpg kakeru2.jpg
 
 そのディケイドを指して、失われた10年というのであれば、そこで得られたものなど、たかが知れているのだろうか。というわけで、竹下堅次朗の『カケル』が、FOX出版というところから復刊され出したので、記憶を頼りに、昔話をします。正直にいって、97年に『カケル』の連載が『ヤングサンデー』ではじまった当初、すこしばかり落胆したのを憶えている。あの『パープル』の作者が推理ものかよ、と感じられたのである。金田一少年のテレビ・ドラマ化が95年で、コナンくんのテレビ・アニメ化が96年だったことを考えれば、ある程度の時代背景はわかってもらえると思う。『ヤングサンデー』の増刊で発表された『パープル』は、おおくのばあいセクシャルな面における設定や描写などで語られるけれども、じつはよしもとよしとも作品の台詞や場面の流用が少なくはなく(同様の振る舞いは、遠藤浩輝や日本橋ヨヲコの短編にも見受けられるのだが)、おそらくは、ポストよしもとよしとも、もしくはポスト岡崎京子あたりの世代が描いた、青春(モラトリアム)劇というふうに、現れるべくして現れたものだと考えられる。じっさいに『カケル』連載時に、竹下は巻末のコメントで、よしもとの「好き好きマゾ先生」をフェイヴァリットに挙げている。そういったことも踏まえ、たぶん僕は、そのころはまだ『ヤングサンデー』にいた、竹下と同い年の沖さやか(現・山崎さやか)が『マイナス』などで、自意識の脆弱さをラジカルに表現していたのにくらべ、『カケル』はといえば、竹下のセルアウトであるかのように見えたのだろう。当然、中盤以降にミステリの要素が排除され、「ぼくっていったいなに」といった問いかけが、まさか浮上してくることを知らなかった段階での話である。と、ここで昔話は終わります。ちなみに、今回の復刻に際して付せられた全話セルフレビューで、作者が、連載当時の状況などを語っているなかには、なかなかに興味深い発言もある。マンガの内容に関しては、もうすこし話が進んでから言及することにしたい。

 『COCOON』1巻について→こちら
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2006年07月27日
 そんなんじゃねえよ 9 (9)

 これにて完結の和泉かねよし『そんなんじゃねえよ』9巻である。セックス(性交)するまでには至らなかったとはいえ、ソフト近親相姦ものでありながら、最後までテンションが落ちずに、あっかるい感じが続いたまま、いちおうの大団円となった。とはいえ、主人公である静の、ふたりの兄のうち、烈が、中盤以降に影が薄くなってしまったのが、やはり、ちょっともったいなかったかな。身内の三角関係という特殊な設定と、それにともなう緊張感が弱まってしまったため、作中にある〈静ちゃんは兄妹愛と恋愛の区別がついてないだけだ〉といった台詞に、もう一方の兄、哲がうまく答えていないかっこうで物語が収まってしまっている。その台詞を言った仁村が、最後まで〈まだ全然納得してないんスけど〉と愚痴をこぼすのは、作者自身が、おそらくは無意識のうちに、そういった不備に気づいているからであろう。登場人物たちの血縁関係が入り組んでいるのは、結局、この劇があくまでもスモール・サークルのなかで繰り広げられるよう限定されているからなのだが、その狭められた範疇内の整合性は、たんに血筋の解明といった設定の開示により担われているのであり、結局のところ感情の動きは、そうした裏付けを越えてゆくほどには、説得力を成り立たせてはいない。だからこそ単純に、物語の最初からぜんぶの設定を唯一知っていた、静ら三兄妹の母である涼子の言葉だけが、特権的なぐらい、他の登場人物への強い働きかけを持っていたのである。いや、それにしても涼子はかっこうよかった。その益荒男ぶり(女性なので語義矛盾だ)が、個人的には、このマンガにおける最大のチャーム・ポイントだった。

 『二の姫の物語』について→こちら
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 巷の評判がいかがなものなのかは知らないが、近所の本屋にはいつも一冊しか入ってこない金平守人の単行本を、地道にゲットし続けるのが、なんだか使命のようになってきている。というわけで当然、『金平deR(カネヒラデアール)完全版』も近所の本屋に一冊だけ置かれているのをキープしたのであった。個人的には、下ネタの類には関心がなく、ブラック・ユーモアもあまり好まないのだけれども、この人の描く、既存マンガ家のパロディとか、ひとまず政治的には正しくなさそうなところを、まあ、わりと好む。それはともかくとして。吾妻ひでお風に描かれた森薫が、ものすごくかわいい。と、これが言いたかったのです。
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2006年07月26日
 刑事が一匹…裏金を生む英雄編 上の巻 5 (5)

 前巻まで続いた「牙の女王」編で、県警内部の隠蔽工作を公にしてしまったことの代償として、銃器対策課へと飛ばされてしまった主人公の高円寺は、そこで拳銃の密輸ルートを探るために、〈この世で一番恐ろしい仕事〉である暴力団への潜入捜査を命じられる。もしも正体が知られれば、間違いなく命は、ない。そんな危険な任務を高円寺が引き受けたのには、密輸ルート摘発のほかに、もうひとつの理由があった。ヤクザと繋がり、拳銃の密売に一枚噛んでいると噂される、かつての恩師、先輩刑事の沢口豪を救うためだ。〈俺は命に懸けてもあんたの目を覚まさせる〉。というのが、きたがわ翔『刑事(デカ)が一匹…』5巻「裏金を生む英雄(エース)編 上の巻」のあらましである。「牙の女王」編の犯人、梶山めい子が、狂気の、いわゆる壊れた人間であったのに対して、ここで高円寺と敵対する沢口と、その幼馴染みであるヤクザの若頭氷室司は、あくまでも業を背負った人間である点が、「裏金を生む英雄編」の特色であろう。もちろん、組織のうちにあって個人は生かされるのか殺されるのか、といった問題は、前シリーズから引き継がれている。なぜ沢口が、刑事としての自分を見失い、悪に身を落としたのか。それは、氷室が、暴力団の変質について〈社会には本来あぶれ者のための受け皿がなくてはいけない……だが……国家はそれを用意せず ただその存在を否定した〉〈国がどんなに存在を否定したって俺たちはいなくらねえ〉と語る言葉に、パラレルな問題となっている。どのようなシステムであれ、その成熟は、弱者や、それを守ろうとする青臭い理念を切り捨てたうえに、成り立とうとするからだ。そして成熟したシステムは、その内部にエントロピーを増大させる。増大したエントロピーが導くのは、当然、頽廃的な傾向である。成熟した国家の、その下位に属するといった意味では、警察も暴力団も、それぞれがオルタナティヴなカテゴリーでしかなく、どちらも同様に頽廃している。それでもしかし、人が人として生き、なおかつ人が人を救うことに、意味などあるのだろうか。自らの命を賭けてまで、高円寺が潜入(ダイブ)するのは、そのような問いかけのなかへ、でもある。
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2006年07月24日
 少女ファイト 1 (1)

 日本橋ヨヲコのマンガは、わりと参照項があからさまというか、先行作品からの影響を包み隠さないので、そのつくりは、要するに、サンプリングだとかリミックスだとかに近しいと思うのだが、多くの読者からそういうふうに読まれているといった気配が感じられないのは、あくまでも焦点は、そうしたフレームの内側にどれだけの熱量を込められるか、または読み手の注意をその熱量のほうへと傾けさせるか、という部分へと合わせられているからに他ならない。言い換えると、カタルシスさせるためのカタルシスを設ける、そのようなある種のハード・ロックに似た様式美がまっとうされているのであり、その機能性の機能的にのみすぐれていることが、良くも悪くも、作者の個性にまで高められているのだとして、作風に明瞭な熱血さ具合やストイシズムもまた、そこからやってきている。さて。古巣の講談社に戻り、現在『イブニング』誌で連載されている『少女ファイト』の第1巻である。過去に体験した悲痛な出来事から、もう調子に乗らないよう抑えながらバレーボールに取り組む主人公、練(ねり)は、しかし試合でコートに立ってしまえば、その才能を隠すことができず、チームメイトとの調和を無視してまで、ボールを追ってしまう、追えてしまうのだけれども、そういった自分自身こそが、もっとも嫌悪すべきものだと考えているので、ついに生き方を見失ってしまうのであった。これまでに『イブニング』に掲載された分をすべて収めたこの巻では、練の、中学時代の終わりが描かれ、高校へと進学した次巻以降では、おそらく、それから彼女がじょじょに再生していく、あるいは生き方の発見してゆく姿を追ってゆくことになるのだと思うが、現段階で、この作者得意のネガティヴに陥った登場人物を他の登場人物のポジティヴさが励ます、サポートするといった構図は、すでに顕著になっている。
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2006年07月23日
 水の色銀の月 1 (1) 水の色銀の月 2 (2)

 1巻は、以前にべつの判型で出ていた『水と銀』と同内容なので、すでに『水と銀』を持っている方は2巻のほうだけを購入すればいいです、といったところで、その2巻よりも1巻のほうが確実におもしろいのだから、『水と銀』を読んだことのない方はとりあえず1巻だけを購入すればいいです、とあまのじゃくなことを言ってみたくもなってしまう、1、2巻同時刊行となった吉田基已『水の色 銀の月』である。『水の色 銀の月』は、吉田の、あの『恋風』以前、現在から6〜8年前の作品にあたる『水と銀』のオルタナティヴなヴァージョンというか、リメイクというか、設定はすこしばかり変更されているが、それでも登場人物や主題めいたものは共通しているのだけれども、まとっている雰囲気が微妙に異なっている。それが作者の加齢によるものなのか、時代性の反映なのか、技巧的なディフォルメのせいなのか、判断がつきにくいというのも、『水と銀』には、ほぼ同時代に、やはり同様に大学生のモラトリアムを扱った、たとえば90年代の後半に描かれた木尾士目『四年生』や『五年生』や、たとえば00年代初頭に発表されたひぐちアサの『ヤサシイワタシ』に相通じるような、そういう閉塞感と倦怠が内包されていたのに対して、『水の色 銀の月』のうちには、それがあまり感じられないからなのであった。そのせいで、作内にいる人間たちの切実さが柔いでしまっているように読める。ちなみに世代で括ってみると、木尾が74年生まれ、ひぐちが70年生まれで、吉田が76年生まれになる。さて。このマンガの主題めいたものとはなにか。簡単にいうと、ひとりぼっちというわけじゃないのに、なぜかそうは感じられない、といったものであろう。先にも書いたが、それは『水と銀』と『水の色 銀の月』に共通してある感覚だ。〈どうしてひとつになれないんだろう……〉。『水の色 銀の月』の2話目で、そのような気持ちを抱え、夜を越えざるをえなかった登場人物は、やがて〈ひとりだけど ひとりじゃない ひとつになれないから もっと見つめたい――〉と思うようになれる。ちなみに、こうした他者に関わる不安と自意識の有り様は、男性向けのマンガ表現においては、80年代の後半、安達哲の『キラキラ!』のなかにすでに見られるものである。

 『恋風』5巻についての文章→こちら
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2006年07月21日
 ZETMAN 7 (7)

 一方に正義は教えられるかといった問題があり、もう一方では他人から提示された正義に従うことは真実に正義なのかといった問題があるとして、その狭間で、人は、正義とはいったい何かを考えることができる存在なのではねえのかな、あるいは、それぐらいのことしかできない存在なんじゃないかしら、と僕などは思うのであった。桂正和『ZETMAN』7巻、自分の運命を受け入れたジンは〈まるで他人の為に生きてるみたい〉と言われれば、〈しかたねーだろ それがオレの生きてる理由なんだから〉と、切なげに笑う。ところで。ときおり自己犠牲は、偽善的だといわれる。そのような言説が、この国で、いつぐらいに成立したのか、または説得力を持つようになったのか、もうちょいいうと、一般化されたのか、詳細に検討したわけではないので、直感でいうが、じつはそれほど古くはないような気がする。そしてそれはたぶん、大きな物語と呼ばれるような公的なイデオロギーの失墜と、すくなからず連関している。なぜならば、ポストモダンより以前においては、なにかしらかの倫理のために死ねばよかったのか、そう問われれば、死ねばよかったのだ、と言えた。しかし、ポストモダン以降にあっては、なかなかそうは言えず、言えたら言えたで、まあそれもちょっとどうだろうというのもあって、死ねばよかったのだ、といった言葉が、共感を導き出す機会も稀となった。サブ・カルチャーの表現に引き寄せれば、90年代に、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』で碇シンジが人類のために戦えないのも、小林よしのりが個だとか公だとかいいかましたゴーマンも、それぞれ見え方や主張は違うが、議論としては有効であり、センセーションであったのは、死ねばよかったのだというのは、もうすこし正確を期せば、自分のために死ねばいい、生きればいいというのではなくて、他人のために死ねばよかったのだ、と口にするのが、すでに憚れていた時代の反映であり反動であったと考えられる。さて。『ZETMAN』に話を戻す。出生の秘密や、紆余曲折を経て、ジンが選んだのは、ある種の自己犠牲に他ならない。自己犠牲はたしかに偽善的でありうるかもしれない、が、しかしだからといって、それを偽善であると指摘すること自体が、すなわち真に善なる行為として保証されるわけではない。そうしたときに、いったい何が何をもって正当化されるのか。ひとつ可能性として挙げられるのは、エモーションであろう。先天的には人ではないはずのジンが、なぜ人間のサイドに立ち戦うのか、そして本質的には人でありうるのか、というのは、まちがいなく『ZETMAN』の物語を動かす主軸のうちの一本である。それに対する答えは、この巻の随所で端的に示されており、要するに、感情を、心を、やさしさを教えられたからということになる。もっともエモーションに裏打ちされた行動が、ただそれだけの理由で、善となるいわれもないのだけれど、たとえば打算的な論理とをハカリにかけてみれば、どちらに信頼が置けるのかは、火を見るよりも明らかであるように思える。そうして7巻でもっとも印象的かつ感動的なのは、死ぬことも許されず、愛する人たちからも遠ざけられ、苛酷な試練を告げられたジンが、次のように言う場面である。〈なぁZETになれば・・・大切な人を守れるか?〉。こうした決意を、現段階での『ZETMAN』という作品の内部に入ったところから否定するのが難しいのは、もしもほんとうにジンが〈ニンゲンがどーなろうと知ったこっちゃねーよ〉といったほうに傾き、〈プレイヤーなんか追わねーで好きに生きてやる〉としたならば、〈罪もない人々が無差別に殺される〉可能性へと繋がっていくからだ。問題は、彼の内的な葛藤に止まらない。が、しかし〈やっとこれで本当のオレになるんだろ?〉すべてを受け入れたジンが、いよいよ本格的なZETの覚醒に臨む段になり、ふたたびプレイヤーの到来と危機が予告され、8巻へと続く。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
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2006年07月20日
 『週間ヤングサンデー』第34号掲載の読み切り。いくえみ綾は、男性マンガ誌はこれがはじめての登場(作者プロフィール欄より)だということである。いくえみが男性向けの雑誌に登場するというのは、そりゃあ90年代の頃だったら、ちょっとびっくりもしただろうけれど、ここ数年は、作風も、また読者の層も移り変わっているので、そのあたりは、へえ、といった程度の感慨しかない。『マシマロ』という題名は、奥田民生の同ナンバーからとられており、いちおうコラボレーションの体になっている、実験作らしいのだが、べつに前衛的な作品というわけではなくて、とある恋人たちの日常を、実質3ページのわずかさで捉まえた、要するに、小品というべきものなのであった。いや出来自体は、じつにこの作者っぽい、程よく肩の力の抜かれた安寧さがあり、けっして悪くはないのだけれども、こうした歌謡曲(Jポップ)のコミカライズは、最近の『コミックバンチ』でも行われおり、種々のマンガ家によって、すぐれた作品がいくつか描かれているのもあって、それほど特筆するような内容でもないと思う。楽曲の歌詞が引かれているとはいえ、中身との関わりは希薄で、まあ、そのへんが「本文と関係ない」といったことなのかもしれない。夏には同様の企画で、長編の読み切り掲載が予定されているらしいので、つまりこれは、そちらの前哨といったところであろう。

・その他いくえみ綾の作品に関する文章
 『潔く柔く』第3巻について→こちら
 『潔く柔く』第1巻について→こちら
 『カズン cousin』第1巻について→こちら
 『かの人や月』第2巻について→こちら
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2006年07月15日
 たらんたランタ 1 (1)

 〈バカな男のために自分下げて泣くな〉と、アイドルのグループでいったら2番手あたりにいそうなハンサムさんに言われれば、そりゃあ世間知らずで頭が空っぽにしか見えない主人公のヒカルでなくとも、好きにならないでいるのは無理というものだろ。というわけで、槙ようこの新作『たらんたランタ』の第1巻である。拡げられた大風呂敷が畳まれずに終了してしまった前作『STAR BLACKS』が、その前の『愛してるぜベイベ★★』とはまったく異なった方向性であったように、『たらんたランタ』もまた『STAR BLACKS』とは大幅に違うテイストの作品となっている。2年前に事故で、やさしかった兄を失ったヒカルは、高校入学を期に、これからはつとめて明るく振る舞おうと誓う。が、しかし登校初日に、廊下で、兄とよく似た面影の先輩を見かけるのであった。一言でいうと、学校生活をメインに置いたラブコメなのだが、進学したばかりの女の子が意地悪な男の子にいじられるといったシチュエーションは、やはり『りぼん』の作品である酒井まゆの『ロッキン★ヘブン』あたりと被ってないか、といった気がしないでもないのだけれども、登場人物たちのローIQさ具合でいったら、おそらくこちらのほうが上で、その単細胞であるところに腹が立たないのであれば、無闇にやたらと楽しい笑いに包まれる。そうした内容はともかくとして、単行本を開いたとたん、作者の手書き近況が目に入るというのは、どうだろう。びっしりと細かく詰まった文字に、いや、それをかわいいと思う向きもあるのかもしれないが、僕のばあいは、うっすら狂気さえ感じられたので。

・『STAR BLACKS』
 2巻についての文章→こちら
 1巻についての文章→こちら
・『愛してるぜベイベ★★』
 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら
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2006年07月14日
 H-ラブトーク

 桜井まちこの『H-ラブトーク-』には、『H-エイチ-』の番外編にあたる「ラブトーク」と「Code name K」の二編と、03年に発表された単独の読み切り「クレパス」が収められているのだが、そのうち女性の一途な片想いがストーキングへと発展する「クレパス」は、『本気で泣けちゃう恋』というオムニバスでも読める。その「クレパス」と、『H-エイチ-』本編ではワキであった樹と智のその後を追った「ラブトーク」とを読み比べてみると、出会いを通じて自分を変えられることができたらハッピー・エンドで、変えられなければバッド・エンドへ至るという、作者の指向のようなものが見えてくるのであった。たしかに『H-エイチ-』本編も、そうした物語だったなあ。いわゆる作中劇ふうな趣の「Code name K」では、そのことがわりと端的に描かれている。〈自分に……「価値がない」なんて言うな〉。このような言葉を、自分が自分で自分にしか与えられない場合、それはただの妄想に近しい、これは「クレパス」に内在しているテーマだとして、しかし自分以外のものが自分に与えてくれたときに、それは希望や未来となりうる、といった旨を展開させたのが「ラブトーク」だろう。ところで、桜井まちこ、デビューしてから10年だということである。当時はまだ高校生だった人物が、26歳になったというのは、いち読み手としても、なかなかに感慨深いものがあるのだった。なるほど、こうして人は歳をとっていくのだね。ちなみに。これまでのところ、この作者のものでは短編集『WARNING』に収録されている「冬の塵」が、もっとも良いと思う。

 『H-エイチ-』6巻について→こちら
 『H-エイチ-』3巻について→こちら
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2006年07月09日
 下山手ドレス別室

 ファッションなどに興味のない僕とは、よっぽど生きている文化圏は違うであろうのに、どうして西村しのぶの作風にはこうも惹きつけられるのか。西村の魅力については、大昔に大塚英志も書いていた(たしか『戦後まんがの表現空間』に収められている)気がするけれど、たぶん、そのメリハリの効いた活力みたいなものがよく表されているところに元気づけられるからなんだろうな、と、このエッセイ・マンガ調の『下山手ドレス(別室)』を眺めながら、思う。同様のフォーマットで以前に発表された『西村しのぶの神戸・元町「下山手ドレス」』は、アニメ誌『ニュータイプ』の連載であったが、ここに収められているのはおもに女性向けコミック誌に掲載されたものだということもあり、個人的にはひじょうに縁遠い話題も多いのだけれど、それでも全編に渡り満足げに読んだ、とても愉快に読まされたのであった。げらげら笑いつつ、ああ、こういうかっこうよいふうになりてえな、と。単独でびしばしとアクションを起こす、その飄々として颯爽とした行動力に憧れたりもする。

・その他西村しのぶの作品に関する文章
 『メディックス』について→こちら
 『アルコール』2巻について→こちら
 『一緒に遭難したいひと』2巻について→こちら
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2006年07月08日
 スクナヒコナ 4 (4)

 じつに面倒くさい展開でここまで進んできたので、さてさて、着地点はどうなることやら、と思っていた南Q太の『スクナヒコナ』なのだけれども、これが最終巻になるのかな、わりとまっとうに幸福の匂ってきそうなエンドだったので、読み手としても、重い肩の荷が下りた感じではある。最後のシーンの、とてもうつくしく、まぶしい余韻に、ぜんぶ持っていかれる。が、まあ一通りの感想としては、もうちょいみんな真剣に生きようよ、というふうになる。いや登場人物たちが不真面目だというのではなくて、なんだろう、わだかまりが残るのは、この巻でいうと、ある女性がべつに夫婦でも恋人でもない男性とセックス(性交)するさいに、コンドームは付けなくていいよ、と言うのだが、妊娠はともかくとして、なにか病気に感染したりすることなどは考えないのだろうか。こういう描写は、最近の、この国のマンガのなかに多い。いや、べつにコンドームなしのセックス(性交)の、その是非を問うのではなくて、たとえば90年代に、エイズの問題が今よりは深刻に考えられていたころ、さそうあきらが『愛がいそがしい』というマンガのなかで、もうちょい覚悟のいるセックス(性交)を描いていたのに比べると、やはり表現として弱い気がするのだ。そうした表現のなかで、いろいろと揉め事が起るのは、結局のところ当事者たちがだらしないからでしょう、それってすごく当たり前じゃんね、ドラマでも何でもないよ、と思ってしまうのは、まあ、たんに僕の頭が固いだけなのかもしれないが、だからといって自分が間違ってると言うつもりもない。
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 ナンバMG5 5 (5)

 前巻に引き続き、ハワイ編がメインのエピソードになっている、小沢としお『ナンバMG5』5巻であるが、いや、剛の兄ちゃん(猛)が最強過ぎて、こう、血が滾るのであった。〈男のクセに腕折られたぐれぇでピーピー泣くな! 牛乳飲んどきゃ治るべ!!〉。まあ、いつかは治るだろうけれどね、しかし無茶言ってらあ。とはいえ、そういうところが好きである。さて。ヤンキーといえば、もともとはアメリカ人を指す言葉だったとして、それに不良の意味合いでの日本人ヤンキーが立ち向かう、といったシチュエーションを読むたびに、ときどき、結局これはいったいどういうことなのだろうか、と考える。日本人の基本的な属性はヤンキーとファンシーだというようなことをいったのは、たしかナンシー関であるが、おおむね僕もそれに賛同であるとして、では、なぜヤンキーやファンシーの血が日本人からは抜けないのか、そのことを根本的に突き詰めていくと、おそらく、戦時下や高度経済成長期における連帯やがんばりが、この国の人々の本質であるといった体の見方にぶつかるのではないか、という気がする。ファンシーのことはおいておくとして、日本人のヤンキー化というのは、アメリカナイズの畸形であると同時に、近代以降のこの国の人々が、近代以前に回帰しないかたちで、日本人としてのアイデンティティを保持するための抵抗であったかもしれず、要するに、戦後日本が抱えたジレンマそのものを、はからずも原形に近しいかたちで体現してしまったものであろう。それこそ、江藤淳がいうようなサブ・カルチャーを、無意識のまま生きてしまったときに、日本人の多くはヤンキーとなるのではないか。たぶん、そうした部分を含め、日本人ヤンキーがアメリカ人と対峙するという図式にもっとも意識的であるのは、佐木飛朗斗だと思うが、それについてはべつの機会にゆずる。『ナンバMG5』の話である。ヤンキー一家である難波ファミリーの姿は、戦後日本のもっとも豊かであった時代、その理想的な家族の団らんを彷彿とさせる。そのことはこれまでにも、現代的な母子家庭に育った伍代との対比によって、明らかだ。その彼らが、ハワイでアメリカの悪漢と対峙する。勝敗を分けるのは、体格差やピストルやナイフなどの武力ではなくて、気合と根性である。つまり、かつての日本人にとっては美徳であるようなものが、勝率に加算されている。しかし、合理化と相対化の徹底的に押し進められた現代においては、気合と根性で勝つなんていったら、それはもうファンタジーにしか過ぎない。だが、そうした無茶を無茶と知りつつ、いや、だからケンカのギャラリーであるアメリカ人たちは剛や猛の強さに驚くわけだし、その勢いを特化し強め、とにかくエンターテイメントの本分としてきちっと機能させているところに、『ナンバMG5』のおもしろみはある。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら
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2006年07月07日
 KUROZUKA-黒塚 9 (9)

 前巻を読み終えてから、気になったので、夢枕獏の原作小説も読んでしまったのだが、それで、おお、けっこうアレンジが加わっているのだね、と思った。このマンガ版『KUROZUKA』では、いや死ぬときはあっさりと死ぬのは夢枕獏調なのだろうけれども、それでもわりと脇の登場人物たちの存在感が濃厚に描かれているのは、野口賢のセンスだろうか。不吉な運命を背負った少女シェラの、めっぽうキュートなところがいい。さて。ついにクロウと黒蜜が再会を果たすか、といった内容の9巻である。が、やはりこのマンガの最大の見せ場は、超絶バトルなんじゃないかしら、白王と九遠の死闘はさわりと結着しか描かれていないにもかかわらず、燃えるな。

 8巻についての文章→こちら
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2006年07月06日
 さんさん録 2 (2)

 こうの史代『さんさん録』の良さというのを、簡単にいうのであれば、登場人物たちが、物語のなかで、なにか大げさなドラマを演技しているのではなくて、ごく自然に、そこで文字通り、生きている、そう感じられるところにあるのだと思う。日々を積み重ねてゆく最中にある、いっときの風景が、ユーモアをまじえられることで、やわらかくたのしく取り出されている。「あとがき」には、〈今まで商業誌で発表した中で、やっぱり一番自信のない作品です〉とあるが、そこからはむしろ、作者の志の高さをこそ見てとるべきであろう。いちおうこの巻で完結となっているけれども、こちら読み手が覗ける、わずか2巻分の長さの向こうではまだ、登場人物たちの暮らしが続いていることを信じられるような、豊潤な味わいがある。個人的に目がいくのは、やはり参平と仙川さんの、ちょっと気になる関係だったりする。ふたりの微妙な距離のとり方に、はにかむ。その一方で、すこし考えさせられるのは、たとえば次のようなことだ。最終話に付せられた題は「見てると思わなきゃいいのよ」である。これはおそらく、参平の亡くなった妻である鶴子が、作外から発している言葉だと捉まえるべきで、作内において仙川さんが参平に言う〈いつまで見てんのよ〉という台詞と対になると同時に、参平が空に向かって、つまり作外に呟くかっこうになっている〈こんな時までにこにこ見てるやつがあるか〉といった言葉に、受け答えするものになっている。また第31話「春風」で、仙川さんが〈ばかな参平さん 鶴子さんがいつもあなただけについててくれると思うの〉と口にするのも、遡って印象的に感じられた。他者の視線を意識するというのは、その他者を、ある特別なものとして見ているということでもある。彼や彼女たちは、自分が見られているという感触によって、そこにいる人やいた人の尊さを、密やかに確かめ合う。

 1巻について→こちら

 『夕凪の街 桜の国』について→こちら
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2006年07月05日
 夢で逢えたら (1) 夢で逢えたら (2)

 なぜか集英社ではなくて、メディアファクトリーから文庫化された山花典之のマンガ『夢で逢えたら』であるけれども、たしか90年代の連載中にHANAKO(旧・山崎花子)から、現在の山花典之に名義が変ったのではないか、と記憶している。基本的には『めぞん一刻』ふうな、ヒロインというよりもマドンナといったほうが相応しい女性をめぐるラブコメであるが、いま現在の視点で読み返してみると、今日の『電車男』的な純愛のモチーフ、モテない男譚と大きく重なり合う部分があるようにも思う。生まれてから24年間彼女のいないフグ野マスオは、そのような境遇から脱するべく、お見合いパーティに参加する。そこで嫌々友人に連れられてきた潮崎渚を見初める。マスオからすれば、まさしく天使のように見える渚の場合は、その容姿に恵まれながらも、あまりにも純情であるために、これまで男性と付き合ったことがなかった。かくして出会ってしまった奥手なふたりの、ゆっくりで紆余曲折な恋愛劇が、ここに幕を開けるのであった。おもしろくなるのはマスオの会社の後輩である浜岡が、マスオに対して恋心を抱くようになる、要するに、三角関係調のドラマに発展してからで、ここでマスオのチャーム・ポイントとなっているのは、彼の生真面目で優しいキャラクターだということになっている。たくさんの男から言い寄られる渚が、その異性のなかでもとくにマスオを意識してしまうのも、また同様の点においてである。つまり、ひとつには男はルックスじゃないよ、といった感じのメッセージが、そこには託されているわけだけれども、たとえばそれが一時代前であったならば、それこそ寅さん的な「男はつらいよ」といった硬派の像に結びつくことがありえたとして、マスオの場合はとにかく、情けなさの裏返しでしかないということだ。この文庫版でいうと2巻の中頃で、『ときめきメモリアル』みたいなギャルゲーをプレイしているが、べつにマスオはオタクというのではなくて、ごく普通に一般のサラリーマンである。時代的なことをいうと、マスオと渚が知り合うきっかけとなったのは、お見合いパーティであったように、90年代初頭のいわゆる「ねるとん」式な措置というのは、ある側面だけを見れば、その当初には、モテない人々を救済する役割を果たすためにあったように思う。しかし結果的には、モテない人々のあいだにさらなるヒエラルキーをつくり出してしまった。まあ出会いの場が設けられても、それをいっさい生かすことのできない人間というのは、まちがいなく一定数いるからね。そこから時代が進んで、もはや恋愛へと発展しうる、理想の女性との出会いそれ自体がラッキーなフィクションなのだという思考にまでいったのが、たとえば『電車男』なのであり、『電車男』の主人公にはそれなりのルックスや年収があったことを踏まえたうえで、ニーチェの思想などを持ち出しヒエラルキーそのものを否定すべく発生したのが、たとえば『電波男』のような思想なのだ、という見方もできるかな。などと本題とはぜんぜん関係のないところで、適当に考えさせられた。いや、このマンガの内容に関しては、マスオの挙動不審ぶりがとても他人事とは思えず、己を省みながら楽しく読んだ。
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2006年07月01日
 日本ふるさと沈没

 このたび小松左京の『日本沈没』が(再)映画化されることを記念して企画されたアンソロジー『日本ふるさと沈没』である。参加しているマンガ家は、吾妻ひでお、あさりよしとお、唐沢なをき、西島大介、恋緒みなと、トニーたけざき、宮尾岳、安永航一郎、とり・みきなどなどで、それぞれの出身地を舞台に、海中に沈没してゆく風景を描いているといった感じかな。まあ基本的には、地域色豊かな? 読み切り形式のギャグ短編になっている。表紙も担当している鶴田謙二の「沈没ラプソディー」あたりが、もっとも読ませますかね。ちゃんとした設定がありそうななさそうな、そこいらへんの余剰を、さすがの画力とテンポで押し切っている。熊本を舞台にした、ヒロモト森一の「マンガ日本沈没」におけるテンションの高さも愉快だ。〈流石ジュピター!!〉とかの言い回しがとくにね。ところで遠藤浩輝の「Sink←→Float(スレ違い)」だが、巨大なワイヤーによって宙づりにされた世界は、かつての短編「HANG」(『遠藤浩輝短編集2』所収)のものと共通しているように思える。いちおうストーリーには続きがあって、それは9月創刊の『月刊COMICリュウ』に掲載されるということだ。最近の絵柄はちょっとばかしツラいところもあるけれど、その倦怠を引きずった空気感には、やはり惹かれるものがある。
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 蒼太の包丁(11)

 決められた正解はないにしても、正しさというのは必ずやある。そういう感想とともに心の動かされた『蒼太の包丁』第11巻である。もうすでに何度も言っているが、テレビ・ドラマ化すれば、けっこうイケるんじゃないか、というぐらいに良質なエピソードが、ここまでの長さのなかでけっして型くずれせずにキープされているのが、えらい。基本的なラインをつくっているのは、若手板前である蒼太の成長過程であるけれども、だからといって周囲の人々がけっして引き立て役のみに止まらず、それぞれの葛藤や困難をもってマンガの全域に貢献しているところもまた、魅力のひとつとなっている。物語のなかに必要とされるものとして、ちゃんと各人の個性が生かされているのだ。蒼太の勤める料亭「富み久」の一人娘さつきは、法律事務所で働いているのだが、そこでの経験を通じ、両親が果たしてきた仕事の偉大さを、逆に意識するようになった。そうして迷うわけだ。もしかすると自分は家業を継ぐべきなんじゃないか、と。じつをいえば、さつきの母親もそのことをつよく望んでいた。双方の気持ちを知る純子(純ペイ)、彼女は蒼太の幼馴染みであり、今「富み久」の給仕をやっているのは、蒼太の近くにいたいという気持ちがあるので、蒼太が密かに想いを寄せるさつきが「富み久」に入ることには複雑な部分もあるにはあるのだが、しかし意を決して、彼女にアドバイスを送るのであった。というのが、ひとつ、ここでのクライマックスになっている。また一方で、京都から助っ人にやってきている蒼太のライバル花ノ井が、ぶち当たる壁というのがある。京野菜を使った料理に対して、常連客から、結局はカタログを上手に再現しただけなのではないか、と注文されてしまい、おおいに悩む。この巻では、脇の登場人物たちに関するエピソードが大半であるけれども、それが、いち料亭という見方によっては狭い舞台に、拡がりのある展開をもたらしている。

 10巻についての文章→こちら
 9巻についての文章→こちら
 8巻についての文章→こちら
 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら 
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2006年06月30日
 メディックス

 おお、やはりけっこう覚えているものだな、というのが読み終えて、とりあえず思ったことだ。ファンのあいだでは、長らく単行本化が待たれていた『メディックス』であるけれども、ついについについに、およそ15年の月日を経て、このたびついにその念願が叶えられたのであった。このマンガ『メディックス』は、90年代のはじめに『ビッグコミック・スピリッツ』誌上で不定期に掲載されたシリーズで、おそらく西村の作品のなかでは、ほとんど唯一といってもいい、男の子がメインの物語である。いや、それまでも基本的には青年誌をベースに活動していた西村だが、初期の代表作『サード・ガール』や『美紅・舞子』に顕著なように、そこに描かれる女子の立ち振る舞いがそのまま内容のチャームになっていたのに対して、ここでは明らかに、若い男子を中心に、その動かし方によって、内容のグラデーションがコントロールされている。80年代の短編を集めた『VOICE』単行本のコメントで、その表題作「VOICE」は、女性向け雑誌に掲載されることを念頭に置いたため、ややストーリーが甘くなりすぎたといったふうな旨が述べられているが、それとはちょうど反対に、あくまでも男性読者を意識したうえで、登場人物たちの構図がとられており、こちら読み手の視点は主人公、年上の女性に惹かれる医大生広瀬になるたけ同化することで、ストーリーの進行を追うかたちになっている。そのようなあり方はまた、その後に『ヤングアニマル』にて連載された『SLIP』の序盤でも採用、踏襲されているものである。や、それにしても『ライン』の新刊はどうやら延期ってしまったみたいだが(だよね?)、そのかわり7月には『下山手ドレス(別室)』が出るらしいし、ほんとうに今年は西村しのぶイヤーだあ、とすれば、ほくほくとした気持ちにもなるよ。それを記念してさ、髪を伸ばしたくもなるぐらいだ。

・その他西村しのぶの作品に関する文章
 『アルコール』2巻について→こちら
 『一緒に遭難したいひと』2巻について→こちら
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2006年06月28日
 コミックファウスト

 小説作品に関しては未読の状態なので、あくまでもマンガ誌として見たとき、これはちょっと微妙というか、まあ印象としては、同じ講談社から出ている『少年シリウス』の、読み手をさらに限定して、表向きだけはデラックスにしたヴァージョンっていう感じかな。まあだから要するに、微妙なんだ。いや、個々のマンガはけっして悪くはないと思うのだが、独自のカラーといえば聞こえはいいとしても、総体的にはものすごく閉じている印象がある。舞城王太郎のマンガって、ほんとうにみんな読みたいのか。小説だけでいいんではないか。まあ、それはともかく。興味深いのは、小説からマンガにジャンルが変わっただけで、『ファウスト』本誌にくらべると、執筆者の年齢がだいたい一世代上にあがるところだろうか。これはマンガの場合、作品として見られるものであるためには、やはりある程度テクニカルである必要があるからなのかもしれない。マンガ以外の話になってしまうけれど、じつは「特集 世界と格闘する日本まんが!」がおもしろかった。いやその中身には、あんまし感心するところはなかったのだが、『IKKI』の編集長の原稿と、『週間少年ジャンプ』の現編集長のインタビュー読んで、ああやっぱりこの人たちって人間的に問題ありそうだよなあ、と、どうでもいいようなことが。
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2006年06月27日
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 『イブニング』の新しい号(NO.14)ではじまった、風間やんわり(デビュー10周年)の新連載が、やべえ、とか思った。ばかだ。いちおう体裁としては、対談マンガというふうになっている。その記念すべき第1回目のゲストは、きうちかずひろである。全ビー・バップ世代刮目の人選なのだけれど、風間のやる気のなさが尋常じゃなさすぎだ。ふつうに彼の描く、いつもどおりのギャグになっている。だいたい『やんわり大陸』という題名からして、テレビ番組『情熱大陸』のもじりじゃないか、たぶん。その時点からすでに適当さ加減がフル出力であろう。いや、この対談がじっさいに行われたかどうか、読み手の側からは判別できないのだが、きうち相手にこれというのがウケる。〈オモシロコメントお願いします!〉って、いったい何を求めてるんだか。あはは。ちなみに最終ページによると、この『やんわり大陸』は今回が最終回らしい。よし。このまま次号からはじまる予定の新連載も、ひじょうに楽しみになった。
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2006年06月26日
 潔く柔く 3 (3)

 2巻「ACT3」の最後に、こういうモノローグがある。〈とにかくあたしたちには今時間があるので これからをゆっくりと考えるところ〉。「これから」という言葉は、未来へと伸びている、その線のなかには現在この時も含まれていて、たとえそれが過去になってしまったとしても、いつだって「これから」だけはすぐ手元にあると同時に、そこよりもさらに先へ先へと伸びて見える。いくえみ綾『潔く柔く』のなかに描かれた人々が歩いているのは、そういう「これから」もずうっと続いていくような線の、それはつねに真っ直ぐとはかぎらない、ときにはひどく歪に曲がることもあるが、生きているかぎりけっして途切れることはない、線の上である。この3巻では、前巻の続きを受けて、ハルタの不在を現在進行形で感じとっている真山と、彼に惹かれる亜衣の前に、真山と過去を共有する、それはつまり同じくハルタの不在を抱えるカンナが登場する。カンナは真山の「これから」先のことを考えて、亜衣に〈私は 彼を過去から引っぱりあげてくれる人が現れてくれるといいなあって・・・ずっと思ってるんだよ・・・〉と言う。そのエピソードにいったん区切りがつけば、時と場所は違うけれども、やはりハルタの不在に関わる、ハルタが初恋の相手であった一恵(いちえ)と、ハルタのイトコであるキヨをめぐる「ACT5」が展開されることになる。彼女や彼の「これから」がどうなっていくのかは、次巻へと持ち越されてゆく。そうして振り返れば、1巻のラストで、ハルタはカンナに〈いくよ〉とメールを入れた。それは間違いなく、「これから」行くよ、という意味だ。要するに、その「これから」のあとに拡がった世界を生きる、ハルタ以外の人々の姿が、この3巻には描かれているのである。

 1巻について→こちら

・その他いくえみ綾の作品に関する文章
 『カズン cousin』第1巻について→こちら
 『かの人や月』第2巻について→こちら
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2006年06月25日
 東京トイボックス 2 (2)

 2巻で完結になってしまった、うめ(TAKAHIRO OZAWA & ASAKO SEO)の『東京トイボックス』であるけれども、けっして詰まらない内容ではない、いや、おもしろい、すごく楽しんで読んだ、そのことは認めたうえで、しかし僕という読み手は、それでもこのマンガに対し、すこしばかり批判的なことを言いたい立場の人間である。舞台は、今様のゲーム業界にアップデートされているが、アウトラインだけを眺めれば、典型的なサラリーマンものの範疇に止まる。そのため、個人対組織という構図が、作品のうちに、必然的に、組み込まれるかたちになっている。そうした部分における、着地のされ方に、結局のところ、僕は説得されなかった。言い換える。個人が社会との関わりあいにおいて、どこかのポイントで妥協せざるをえない、そのような局面に立たされたとき、ではそこでいったい何を守り、何を放棄するのか、つまり大切なものは何かということが、主人公である太陽の行動からうまく感じとることができなかったのである。そして、それはけっして物語の長さ(短さ)によるものではない、と思う。たとえばクライマックス、商標権をかけた対決の末、太陽は〈エゴがなくてゲームがつくれるか〉〈ワガママだよな〉〈ゲームのことだけ考えて生きるって〉と言う。このような断言は、彼のクリエイターとしての天才的な側面に裏打ちされることによって、説得力を持ちうるものである、が、しかし、それは対決の前に、ライバルにあたる仙水が〈お前はさ パトロン付きの芸術家じゃないんだ〉〈それともいまだに「若き天才クリエイター」気取り?〉という指摘には、反論として成り立っていない。同人でゲームを作っているわけではないからだ。〈品証・プレス・流通・販売店が順々に頭を下げてみんながちょっとずつイヤな思いをするだけだから〉といった仙水の皮肉に対する回答が、〈品証・プレス・流通・販売……みんながちょっとずつイヤな思いをする〉〈でも、それでいいじゃねーか〉であったとしたならば、なぜそれでいいのか、すくなくともそこで、気分や感情に回収されて終わり以上のものが示されなければならなかった。

 1巻についての文章→こちら
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2006年06月24日
 恋愛幸福論

 山口いづみ『恋愛幸福論』には4編の読み切りが収められている。このなかでもっとも古いのは「ハロー★ハロー」(H16年)で、そのポップな線を狙って外してしまっているような絵柄はともかくとして、ストーリーは、それまで友達として過ごしていた男女が、ふとしたことをきっかけに、ふたりのあいだにある恋愛感情に気づく、といった、じつに少女マンガ的なセオリーに則ったものに仕上がっている。というか、このマンガ家の描くものはどれも、表紙に顕著なケバさとは裏腹に、きわめてオーセンティックで純情なラブ・ストーリーだと受けとっていいだろう。「ハロー★ハロー」以外の作品はみな、比較的新しいものだが、そのなかでも個人的に気に入ったのは、「恋愛理想論」(表題作「恋愛幸福論」の姉妹作)である。大家族の長女である佐都は、学校以外にも、幼い弟たちの世話をしたり、バイトをしたりの毎日に、けっこうくたくた気味なのだけれども、中学から付き合っているヨシのやさしさに支えられながら、それでもちゃんとがんばれている。でも、ヨシに頼ることが当たり前になりすぎて、もしかしたら自分が彼を慕い、彼が自分といっしょにいる、それは恋愛とは違うのではないか、と考えはじめてしまうだった。いやいやいや、ヨシ、たしかにいい奴である。ナイス素敵メガネである。まあね、こういう出来た子の前では、〈いつのまにか助けられっぱなしだ〉と卑屈になってしまう気分もわかる。とはいえ、もちろん当然、佐都が駄目な子というわけではない。あくまでもふたりの関係に限定された相対的なバランスからいって〈私はヨシに何もしてあげられてない気がするけど〉と思うだけのことだ。けっして誰も悪くないのに、それでも何かがどうにかしてうまくいかなくなってしまったりもする、恋愛の不思議である。

 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
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 イカロスの山 3 (3)

 2巻は泣けた。そして3巻は熱くなった。って感じだな。いま現在、もっとも男のロマン度数が目覚ましいのはこれではないか。そう、塀内夏子『イカロスの山』である。ついに8000m未踏峰へ登る決意を固めた三上、三上の妻靖子との急接近に戸惑う平岡、そして彼らを見送る靖子は〈二人が無事に戻ってきた時に〉〈私は二人とも失うかもしれない〉と思う、いよいよ未だ名前のない「幻の山」への挑戦がはじまる。くはあ、山へ入ってからも緊張は連続する。靖子が予感するように、もしもふたりが無事に帰っても、いや、もしかしてどちらかが欠けたとしても、もはや誰ひとり元の日常には戻ることができない。なのにどうして男たちは、危機を、危険を、困難を知りながら、それでも征かなければならないのか。そのような疑問に対して、作者の塀内はまさしく、そこに山があるから、以上の回答を登場人物たちに持たせていない。だからこそ彼らのストイックさが際立つかっこうになっている。あるいは、どうしても挑まなければならない理由を「運命」の一言に集約させている。〈もう始まっている〉〈おれと〉〈平岡の〉〈再会した時から〉〈動き出してしまった〉〈運命の……〉〈山へ――〉と三上は思い、そしてその山を前にしたときに平岡は言っただろ〈達也を呼んだ山〉〈死へと呼び入れた……〉〈そしておれたちの運命を狂わせた……? ――山〉だと。そうして「運命」が山そのものの存在と重なり合う場所で、ふたりはふたたびチームを組むことになるのであった。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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2006年06月23日
 月の教室

 これはもうある種の暴力ともいえるマンガだと思う。『月の教室』は、立原あゆみの、あの独特な磁場のなかに、ミステリの要素を放り込んだら、凶悪なキマイラが発生したかのような、他に類を見ない作品である。いや、他に類を見ないというか、あえていうと、ヤンキー先生が母校に帰った世界でリングだかひぐらしのなく頃にだかをやったら結果的に土曜ワイド劇場になってしまった、そういう破れかぶれな感じなのだ。過疎地の中学校に赴任した代打教師(!)青山蒼が、そこで遭遇するのは、いくつもの怪異現象であった。彼の視界に入る奇妙な少女、超能力者フェルナン・ブビエの死、そして連続する水難事故、やがて辿り着く因縁のなかに、蒼が見たものとは。どどーーーん。と、そういった具合に謎めく本筋がさあ、生きるって命ってほんとうに尊いぜっていう一言、見事なまでの立原あゆみイズムによって回収されてゆくのだから、うはあ、ってなる。真相を含め、けっしておもしろいとは言わないのだが、しかし、一コマ一コマ、台詞のひとつひとつを支える、笑えてくるほどに過剰な演出からは目が離せなくて、困る。ファッション・センスからして、ぶっ飛びすぎだろ。真剣に頭おかしいんじゃないか。そのような疑問など、まったくもって無意味である。説教は理解できないほうが悪い、と正座させられている気分にさえなる。滅茶苦茶だ。とはいえ、まあ、そこがまたこのマンガ家の魅力でもあるのだから、いかんともし難い。

 『喰人』第1巻について→こちら
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 karakuri o.jpg

 オデットは、天才的な科学者である吉沢に作られたアンドロイドである。見た目には完璧な人間でしかない彼女は、しかし、ふとした瞬間に考えるわけだ。「私と人間の違いは何だろう」と。かくして、社会勉強を兼ね、高校に通いはじめることになるのだけれど、もちろんのように、オデットがアンドロイドなのは他の生徒たちには秘密なのであった。作者の鈴木ジュリエッタは、この『カラクリオデット』が初のコミックスだということだが、いや、これ、おもしろいや。このまま連載が続いて、ある程度エピソードが溜まったら、アニメ化されるんじゃないかな。というのは、まあ、ちょっと期待値を高めすぎだ。とはいえ、シリアスな部分とユーモアの兼ね合いがとてもよろしく、また吉沢の過保護さ加減などを含め、オデットを取り巻く他の登場人物たちの立ち方も決まっており、物語の世界がいくらでも拡がっていきそうな雰囲気に、愛着が沸いた。すでに次巻以降が待ち遠しいほどである。

 以下、読みながら考えたこと、本題とはすこしズレるかもだが、とりとめもないままでメモしておく。

 これは末次由紀の『Silver』(例の騒動で絶版なのはもったいない)を読んだときも思ったのだが、今日、このような機械(ロボット、アンドロイド)と人間の交流ものというのは、唯物的な見方をすれば、つねに残酷な前提を孕んでいるように思う。ものすごく簡単にいってしまうと、本質的には違いのないものが、決定的に異なる存在である、という断絶を根本的に抱えているために、ある種の感動が、物語のなかに確約されている。まあ、そういう問題は手塚治虫のころからあった、といえば、そうかもしれないけれど、手塚の場合は、人種間の対立やレイシズムのアレゴリカルな表現化といった部分が大きかった。しかし、現在のサブ・カルチャーの想像力は、それとはすこし違ったものを、表現のうちに召還しているのではないか。もっと卑近な、それこそ他者の他者性というか。たとえば浦沢直樹の『PLUTO』を引き合いに出してみるとわかりやすいと思うが、あそこでのロボット犯罪者の描かれ方は、サイコな犯罪者の描かれ方とそれほど変わりはない。また一方で、これは映画になるが、スピルバーグの『A.I.』のような突き抜け方、あそこでの少年型ロボットは、病気の子どもの代替品(オルタナティヴ)として物語に登場するわけだが、そのような出発点は、手塚の『鉄腕アトム』における、アトムがもともとは、天馬博士の息子の代替品(オルタナティヴ)として制作されたのと相似であり、またその後に、しかし、やはり代替品(オルタナティヴ)にはなりえないといった切り捨てによって、ファミリー・ロマンスあるいは貴種流離譚ふうに物語が展開していくあたりも相通じるとして、でも『A.I.』の、唯物的なレベルにおいては、機械(ロボット、アンドロイド)と人とのあいだに、けっして和解の生じていない結末を眺めるにつけ、内包されている思想というか葛藤は、完全に異なっているのではないか、とさえ思う。このへんは、説明するのが難しい。が、たとえば90年代半ば以降、顕著になってきた人間存在を工学的に捉まえる視線の作用は、すくなからずあるように感じられる。要するに、先にいったことに戻るが、本質的には違いのないものが、決定的に異なる存在である、といったテーゼにかかってゆくものだ。そこを辿っていけば、大塚英志のいう「アトムの命題」的な問題、サブ・カルチャー的な身体の問題に突き当たるのかもしれないけれど、それはべつの機会に時間があれば、考えてもみたい。
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2006年06月22日
 KANAKO MANDALA―たなかかなこ短編集

 率直にいって、打ち切りマンガ家のイメージが強い、たなかかなこ(田中加奈子)であるけれども、ただ単に長期連載に向いていないだけで、読み切り作家としてはなかなかの名うてなのではないか、と思う。いや、『三獣士』終盤に顕著なダイナミズムとグロテスクさこそが、一読に値する、たなかの真骨頂であるとするならば、それが、物語の整合性を無視したところで十全に発揮されているのが、たとえば、この『たなかかなこ短編集』に収められた4編の作品たちなのである。まあ、裏を返せば、ストーリー・テリングの能力において、難があるともいえるわけだが、そうした部分を抜きにして映える、エゲツないノリが、ここには溢れている。以前の『KANABALISM―田中加奈子短編集』がおもに少年誌時代(『週間少年ジャンプ』やその増刊など)に発表した作品をまとめたものであったのに対して、『たなかかなこ短編集』は青年誌(『ヤングジャンプ』やその増刊など)に移ってから発表されたものだということもあり、下品な描写に拍車がかかっているのも、独特な風味を出すのに一役買っている。ちなみに『破戒王〜おれの牛若〜』の単行本にも、いくつかの読み切りが収録されている。さて。このなかで、いちばん良いのは、中世ヨーロッパ調の「ソロモンアイズ」である。既存のフィクショナルな物語をベースに、そこへモンスターやクリーチャーの類をわんさか投入するという、たなかならではの手法がとられている。のだが、おもしろいのは、特殊な能力のために、人の姿が、動物に移し換え見えてしまうという、主人公の視線が作品そのものを覆う、そのようなねじれた構図によって、ファンタジックな活劇が成立させられている点だ。ここで異者として描かれているものはみな、マンガの内部においては、本来、生身の人間に過ぎない。敵方の登場人物の〈その男は人の心を読める超人ではない!! 病人だ!!〉という台詞は、ある意味で真実をついているとして、しかし、その本質的には病人に近しいものが、まさしく超人でしかないもののように、読み手の前へと差し出される、そういう無体な力業こそが、たなかかなこにとっての本分だといえる。
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2006年06月20日
 最新19巻を読んだら、ひじょうに気分が盛り上がったので、ひさびさに1巻から読み直したのだけれども、個人的に、ポイントとして感じられたのは、1巻、8〜10巻、15、16巻、そして19巻あたりになるかな、と考えたりもするのは、僕が、この奥浩哉『GANTZ』に見ているものを大まかにいうのであれば、他人のために生き、死ぬことに意味や価値はあるのか、ないのか、ないとしたら、なぜそのような行動原理がこの世のなかで一定の意味や価値を持ちうるのか、といったふうになる。それがもちろん作者サイドの本懐であるかどうかはともかく、すくなくとも僕という読み手は、作品のうちにおいて、ストーリーや世界観の整合性に関わる部分よりも、そちらのほうが気になるのであった。

 だいたいのところ、たぶん主人公として考えていいだろう登場人物である玄野を、ガンツの部屋に巻き込む、つまり、物語の起点となったのは、加藤の、見ず知らずの人間を助けようとする、そういった行為への協力だといって差し支えがない。そして、それは流れで、たまたまそうなってしまっただけなのであり、けっして積極的な参加ではなかったとして、要するに、モチベーションは不透明なものなのである。だから当初は、ガンツの部屋における玄野の立場はちょうど、彼の、日常への中途半端なコミットと相似になっているわけだが、しかし、物語が進むにつれ、そういった姿勢自体が、大きく変化してくるのは、こちら読み手側の目に見えるとおりであろう。

 恋人である多恵の喪失を通じ、玄野は、100点をクリアしたときに、ガンツの部屋から解放されることよりも、メモリのなかにある死者の再生を目指しはじめるようになる。16巻で行われているのは、そのような大幅な路線変更である。8巻における全滅など、加藤を含め、それ以前にも玄野は、大勢の屍を踏まされているにもかかわらず、そうした提案が、その時点まで浮上してこなかったことから考えるに、もしかするとそれは、100点クリアに達したあとでも物語を続けるための、制作上の都合によるものなのかもしれないけれど、多恵が、玄野にとっては他の人間とは違う、あくまでも代替不可能な存在であることが、つよく強調されているために無理は感じられない。最初は誰でもいいうちのひとりにしか過ぎない多恵であったが、やがて掛け替えのないものになっている。その掛け替えのないもののために、ガンツの部屋からの生還を玄野が決意するのは、10巻のラストであり、100点クリアにかける動機が、いよいよ固まるのもそこになるわけだが、そう考えるとすると、そもそものはじめから玄野のモチベーションそれ自体が、多恵の固有性に左右されている、掛かっているのであって、彼が、ガンツの部屋から出ることを選ぶのも、死者の再生を選択するのも、本来的な目的としては一貫してさえいる。

 そういった固有性に関わる部分は、翻って、作品全体に反映される。19巻における復活劇に結実しているように思う。加藤とその弟の再会も、そうしたことの一環なのではないだろうか。8巻で、つよく願われるように、弟のところへ無事に帰るために、加藤はガンツの部屋を出なければならなかった。兄と弟以外には天涯孤独に近しい、ふたりの関係においては、それぞれがそれぞれにとって決定的に代替不可能な存在だといえる。19巻で、加藤の弟が流す涙に説得力があるのならば、それはそのような面からやって来ている。

 ところで、ガンツの部屋以外で、とくに印象に残るように描かれている場所があるとしたら、それは地下鉄のホームである。もちろん玄野と加藤が再会した、そして、すべてがはじまった地点でもあるのだけれど、たとえば8巻で初登場した和泉が、玄野と地下鉄のホームで並んでいる一コマは、まあ、帰り道として通る必然的なルートなので挿入されただけなのだろうが、その時点では、玄野が和泉のことをどこか加藤に似ていると感じられるように、加藤の存在を補填するために和泉が投入されたと考えられるせいで、他のコマと比べても、ひじょうに目につく。また19巻で、おっちゃんが玄野に礼を述べるのも、地下鉄のホームになっている。そのやりとりは、ある意味で1巻の冒頭のヴァリエーションでもあるわけだが、玄野の応対が大きく異なっているからこそ、おっちゃんの言う〈ありがとう……〉に含意されたものが、泣けてくるほどに、生きてくる。
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2006年06月16日
 ロッキン・ヘブン 1 (1)

 酒井まゆの新作『ロッキン★ヘブン』は、一言でいうと、たったひとりの女子の逆境に挫けないほどの純粋ながんばりが、周囲のヒネた小僧(ハンサムさん)たちに変化を及ぼす、といった体のマンガであり、これはもう、古典的な少女マンガのいちフォーマットだといえるわけだけれども、いやいや、しかし僕はといえば、この手のもの、つまりガッツと思い遣りの話が大好物なのであり、ひっじょうに楽しんで読んだ、今後の展開もわくわくさせられる第1巻なのだった。主人公の紗羽が、その可愛らしい制服に憧れて入学した高校は、今年から共学になったばかりの元男子校であった。紗羽以外の女生徒は、クラスにもうひとりだけで、その他はみな、態度の横暴な男の子たちで占められている。そのような特殊な環境に最初は戸惑う紗羽だったけれども、不正は不正として許せない、わりとはっきり物事を言う性格のため、クラスのリーダー格である藍(らん)に目をつけられてしまう。ことあるごとに対立する紗羽と、藍率いる男子たちだったが、ふたりの関係の微妙な変化とともに、周囲の紗羽を見る視線もじょじょに変わってゆくようであった。よく見ると、いやよく見るまでもなくかな、1話目以外のぜんぶのエピソードで、紗羽が涙を流しているのだけれど、その理由が、けっして自分のためではなくて、藍やクラスメイトたちのためだってところがねえ、ほんとうに強い、いい子だなあ、と思わされる。こういう子に、娘が育ってくれれば、そりゃあお父さんもお母さんも満足であろうよ。そういうヒロインの在り方や、ある程度の複雑さを抱える藍の家庭環境も含め、全体のつくりは、まあ様式美といえば、そうなんだろうけど、でも、この心に迫ってくる元気な明るさには抗えない。
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2006年06月15日
 スプラウト 2 (2)

 わりとシリアスというか、緊迫した、すこし言い方を変えると、泥沼風味の展開が続くので、おどろいた。南波あつこ『スプラウト』2巻である。父親が下宿を開いたため、同じ高校に通う草平と、一つ屋根の下に暮らす羽目になってしまった実紅は、そのせいで恋人である片岡先輩との関係に、なにか、微妙な違和感を覚えはじめるのだった。同居コメディ的な、すれ違いなどが重ねされ、読み手がヤキモキさせられるのではなくて、けっこう早い段階で、実紅が、自分の心変わりを察してしまうため、これはちょっと見ていて、痛ましい。それを緩和してくれる役割を果たしているのが、草平以外の下宿人たちになるわけなのだけれども、ただ、そうした周囲の人々の気遣いが、逆に、実紅の心内を見透かしているようであって、なお切ないといったところか。まあ単純に、実紅が空回っているだけという話もある。要するに、ワキの登場人物たちと巧く噛み合っていないのであって、そのへんの調整が、作品そのもののコントラストに繋がるのではないか、と思う。このまま恋愛面のみを強調してゆくのであれば、問題は、と、草平とみゆのカップルが、それが壊されるのを想像するのも忍びないほどに、けっして悪い雰囲気じゃないってことだよな。現段階では、藻掻けば藻掻くほど深みにはまる一方の泥沼に、実紅ひとりだけが足を踏み込んでしまっていて、読み手の立場をいえば、だ。心理的に、とてもやるせないのである。

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2006年06月11日
 野球しようぜ! 5 (5)

 3回戦の相手である日横商工の女子マネージャーによる悪質な策略は、ようやく野球に巡り会えた天から、その喜びを奪い去ってしまうのか、それとも継母との和解は成立するのであろうか。いわさわ正泰『野球しようぜ!』5巻目である。にしても、嫌な女だねえ、あのマネージャーさんはよお、といったところだが、その手段を選ばぬ勝利への執着は、もちろん、とうとう幕を開けた試合内容をも左右する。男性陣のプライドの高さを、うまく手玉にとり、天の所属する鷹津高校を窮地に追い込むのであった。要するに、ある種の知能戦が仕掛けられているわけだけれども、しかし、それすらも意に介さない天の、天才的なセンスの発現と、それを躊躇うことなく実行する純粋な意志が、このマンガの、おおきなチャームであることを再確認させる。前巻のとき思った、敵役の魅力に乏しい点は、この巻にかぎっては、女子マネージャーの存在がかろうじてフォローしているが、プレイヤーの立場にある登場人物たちは、相変わらず、噛ませ犬の臭いがプンプンなままなので、そこだけはやはりもったいない感じになってしまっている。

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2006年06月07日
 RIN 1 (1)

 新井英樹『SUGAR』は、天才であるがゆえに不敵すぎるボクサー石川リンの、猛スピードな成り上がりと、すこしばかりの挫折を描いたマンガであった。そして、この『RIN』は、その続編にあたる。元の掲載誌である『アッパーズ』が休刊になってしまったせいで、場を『ヤングマガジン』に移し(現在は執筆速度に合わせるためだろう『別冊ヤングマガジン』へさらに掲載誌を変更)、仕切り直しが行われたわけだけれども、いやいや、物語を駆動させるテンションは低くなっていない。冒頭から、世界タイトルマッチのリングにあがったリンの、あまりにも挑発的な態度が、世間に動揺を呼び起こす様が、ひとつには、このマンガの読みどころである。主人公であるリンは、同作者の『キーチ!!』と同様、ある種イケイケ型の登場人物だといえるけれども、あちらが支持者を多く獲得するカリスマであったのに対して、こちらは、とかく反発者を増加させる、ヒールというに相応しい、真逆のベクトルを担っている。それはもちろん、両作品におけるアングルさえも異にさせる。この世の9割方を占める凡人は、はたしてほんとうに、圧倒的な才能に共感することができるのか、それを受け入れることが可能なのか。あるいは、拒否するとして、それに抗うだけの正当性や理念を持ちうるのか。要するに、リンという、ひとりの傍若無人な天才は、この世界の強度をはかる、試金石の役割を果たしているのであった。また、そうした見方をすることでようやく、『キーチ!!』とも重なり合う、おそらくは作者の描き込んだ本質が取り出せるようになるのではいか、と思う。

 『キーチ!!』9巻について→こちら
 『キーチ!!』8巻について→こちら
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2006年06月03日
 きららの仕事 12 (12)

 だいたい、これまで見られた坂巻の圧倒的な強さを前にして、きららの勝てる見込みなどあまりないように感じられるのだけれども、いやいや、じっさいに、いよいよふたりの直接対決となった決勝戦では、序盤からして窮地に立たされてしまう、きららであった。強さ=うまさ、そして舞台とも、過渡にエスカレートしてゆくスシバトルだが、登場人物のひとりが〈正直坂巻氏に鮨職人としてのプライドがあるのか問い質したいですね〉というように、坂巻の握りはもはや、鮨なのかどうかわからん領域に入っちゃってるよね、といった感じだ。しかし、べつの登場人物が〈普通に考えれば邪道・・・しかし ここまで高いレベルに持ってくれば・・・それは本物になる!〉といっているように、それはそれで、坂巻という男の、その修行や鍛錬によって培われた実力を、余すことなく誇示するために必要とされた見せ方であろう。とはいえ正直、坂巻の鮨、そんなに旨そうかあ、と読みながら、思う。率直にいって『きららの仕事』は、坂巻VS神原の対決がピークだったのではなだいろうか、現時点では、まあバトル形式のマンガに典型的な欠点ともいえる、アンバランスな力関係の上に、作品は完全に載っかってしまった。ここからの逆転劇があるとして、アクロバティックな操作を、よほど巧妙にしなければ、説得力が付与されるのは、難しい。そういうギリギリのラインで、すでに物語は進行しており、そのことは作画の部分においても、きららの、見るに耐えない顔つきの崩れへと及んでしまっている。なんで主人公というかヒロインが、こんなにも不細工に描かれているんだろ。個人的には、父親の件などの結着は残されたままでも、この決勝戦を最後に作品の終わってしまうぐらいが、評価として、ちょうどいい、好ましいかな。

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2006年06月01日
 フルーツ

 『フルーツ』は、木葉功一による連作ふうの短編マンガ集である。6つの作品が収められているけれども、個人的な好みをいえば、この作者ならではのガン・アクションの激しい第1話目の「桃-tao-」が、もっともよかった。が、しかし、ここで述べておきたいのは、最終話にあたる「アフリカの林檎」に関して、である。全体のテーマのようなものは、女性の、男性からは捉まえきることのできない、魔性ともとれる深みだといって、おそらく差し支えがない、と思う。そうしたとき、「アフリカの林檎」以外のものは、基本的に、特定の男性が特定の女性に奉仕するといった構図がとられていることが、わかる。台詞からも明らかなように、その、男性サイドからの視点をもって、女性は果実(フルーツ)に喩えられている。それはつまり、ひとりの男性のうちにある想いが、ひとりの女性に固有な魅力を備えさせる、といったことの現れに他ならない。けれども「アフリカの林檎」だけは、ちがう。そこで、主人公である女性を果実(フルーツ)のイメージに置換しているのは、もっと一般的な、言い換えるなら、ありきたりな、それこそ帯にある〈女は果実――毒のように、甘い〉といったコピー程度の、浅はかな印象でしかなく、もちろんそれは当然、固定観念を越えてゆく表現のおもしろみには、結びついていない。そのことを踏まえ、作品が発表順に並べられているのを考えると、作者の意図はどうであれ、最後の最後にアイディアの乏しい作品が置かれてしまったことは、単純に、残念な感じだ。
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 キーチ 9 (9)

 本宮ひろしのマンガに『新・男樹』というのがある。おそらくは本宮の代表作のひとつに挙げられる『男樹』の続編になるのだけれども、個人的には、『新・男樹』のほうこそを推したい。その理由は、作中の登場人物がいうように、たいていの場合、イケイケ型のカリスマが、力押しで行き着くのは破滅なのであり、それに関わった他の登場人物をけっして幸せにしない、そこのところで、『新・男樹』の主人公である京太郎は、前作『男樹』からの流れをも含め、物語の結末を見事にハッピー・エンドに持っていくという、ある種の離れ業をやってのけているからなのだった(とはいえ、それは、次の続編にあたる『男樹四代目』で反故にされてしまうが、置いておく)。イケイケ型のカリスマとハッピー・エンドとの結びつきが、おおよそ困難なのは、村上龍が小説『愛と幻想のファシズム』で書いたように、当初はシステムに抗っていた勢力は、やがて強大になると、システムそのものと化すか、さらにメタ的な場所から捉まえたシステムのうちに呑み込まれるかしかないからで、要するに、権力への対抗としてのみ、民衆をドライヴさせうるカリスマ性は、それ自体が権力として機能しはじめれば、当然、その役割を果たさなくなる、というわけだ。まあ、そういう類のことは、とっくの昔にニーチェなどが言っている。

 新井英樹でいうと、たとえば『THE WORLD IS MINE』では、当初の時点で、命には等しく価値がない、という宣誓がなされ、権力装置の無効化が図られたが、しかし結果だけを取り出せば、物語の終焉が世界の終わりと同義であるというかたちが取られ、やはりハッピー・エンドとはなっていない。もちろん、ハッピー・エンドが絶対的に正しいわけではないとして、同様に、破滅タイプな物語のなかにも必ずや何かしらかの問題が含まれているのである。それを忘れてはいけない。

 さて、この『キーチ!!』もまた、イケイケ型の主人公が、そのカリスマ性をもって、大勢を魅了してゆく体のマンガだといえる。作者が周到なのは、ここで、いわゆる若者と呼ばれうる世代の、物語への関与が、それほど重要ではないふうに、描いている点であろう。基本的には、子どもと、壮年期以降の、つまり大人という二項の対立が、明確な、カウンター形式の構図をつくり出している。青年期の、要するに、子どもでも大人でもない登場人物を、おそらくは意図して片隅に追いやることで、読み手の安心できる、システムとアンチ・システムの定型を導き出しているのである。キーチは言うだろう。〈お前の理屈は正しくても醜い〉。こうした言葉が、あくまでも純粋さの仮託された人間によって発せられたとき、それは、とてもとてもうつくしい高揚を呼び起こす、として、その役割はやはり無垢な少年が負うべきものであったろう、そして、それがここまで『キーチ!!』の物語を引っ張ってきたドライヴ感の本質に他ならない。すくなくとも僕は、そこに魅了されてきたのだった。が、しかし、そのような少年時代を捉まえた「子供編」は、この巻にて終わる。ここからの続き、主人公がいかにして成長してゆくのか、カリスマ性をキープしたまま突っ走ったすえの、ハッピー・エンドは果たしてあるのかが、ほんとうは重要なのだけれども、(カバーのところではなくて)単行本内巻末の出版案内を見ると、「全9巻」になっちゃってるなあ、じっさいに連載は中断してしまっているし、もしかするとこれで終わりなのかしら、そりゃあ激しく問題ありですよ、と思わず溜め息をついた。

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2006年05月29日
 君に届け 1 (1)

 いやあ、みんないい子だなあ、いい子、こういう子たちが、いったい、今の日本のどこのどういう文化圏から生まれるのかわからないけれども、その素敵さ加減に、思わずもらい泣きしたあとで、ニコニコしちゃうよ。椎名軽穂『君に届け』の1巻である。ルックスのイメージと内気な性格のために、霊感があると噂され、貞子とあだ名される黒沼爽子の憧れは、同じクラスの中心でいつも明るく爽やかに振る舞う男子、風早翔太であった。彼のようになりたい、そう思う爽子のがんばりが、周りの反応を次第に変えてゆく。作者が、おまけマンガで、前作『CRAZY FOR YOU』が〈暗くてどろどろのマンガ〉であったことの反動だと述べているように、この『君に届け』は、ほんとうに目を瞠るほどに、さわやかにさわやかな、超さわやか路線を貫いているといえる。楽しくて、いい感じだ。ハッピーな傾向が強調されている。最初にもいったみたいに、ほんとう、いい子たちがいっぱいで、その思い遣りの在り方に、まるで心が洗われるようだった。登場人物のなかでとくによいのが、いっけんチャラい見た目であるが、ほんとうはいい子たちな吉田と矢野、ふたりのコンビである。彼女たちの存在が、ユーモラスなノリをさらなる彩りとして、物語に加味している。いやいや、僕などはむしろ、義理人情に厚い(熱い)吉田さんになりたいぐらいだった。

・『CRAZY FOR YOU』
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  5巻についての文章→こちら
  4巻についての文章→こちら
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 JACKALS 1 (1)

 これはハイスペックなバトル・アクション、「ザン」「ガキン」「ドガン」という、そんな幼稚な擬音をもって描かれる戦闘シーンこそが、肝心要の見所であろう。たしょう大袈裟にいえば、『ベルセルク』や『新暗行御史』が、ストーリーの複雑化にともない損なってきた、激戦のダイナミズムによって成立しているのである、この『JACKALS(ジャッカル)』(原作・村田真哉:作画・金炳進)というマンガは。「シセロシティ」、そこは様々な人種が流入する移民都市、混沌に満ちた世界でギャングたちの縄張り争いは、さながら戦場の様相を呈している。そうしたなかにあって、裏社会を生きる人びとは、フリーランスで殺人を請け負う者たちを指し、畏怖と侮蔑の意を込め「ジャッカル」と呼んだ。登場人物たちの関係は、敵か味方か、殺すか殺されるか、そういった線によってのみ結ばれているのだった。余計な御託は抜きだ。あるのは実戦だけである。原作者の想像力は、武器の発達に注がれ、描き手の筆量は、それを見事な像に具現化している。たとえば主人公であるニコル・D・ヘイワードの繰る巨大な刃「アリゲーター」を見よ。壁を突き崩すほどの破壊力で、対峙する者の胴体をまっぷたつに裂く。そのワン・アイディアだけで、この1巻は成り立っているとさえいえる。ただし今後、物語の進行につれ、ここにある機動性と迫力が変化してしまう可能性もあるが、個人的には、どうかこの路線で最終局面まで突っ走っていって欲しい、と思う。
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2006年05月27日
 CURE.jpg

 『月刊アフタヌーン』7月号付録掲載。前邑恭之介(まえむらきょうのすけ)『CURE−キュア−』は、06年春の四季賞受賞作である。大賞作ではないが、いや、しかし、これはすげかった。ページを繰りながら、ああ、読まなければよかったと逆に後悔するほど、胸が潰れた、苦しくなった、息が出来なくなるかと思った、それぐらいの深いところから心を動かされた、あまりにもひたむきでぐっとくる内容だった。話の筋を簡単にいってしまうと、ダンプカーとの衝突事故に遭い、左足大腿部に深刻なダメージを負った少年が、そこからじょじょに心と体を回復させていく様子を捉まえた、たったそれだけのことである。だが、そうした過程のうちに、生きることの全面的な苛酷さと喜びが、気取りのないかたちで、封じ込められているように感じられる。ありがたいことに、僕は、このような経験をしたことはないのだけれども、いや、だからこそ、そういう人間が、主人公の抱える痛みと苦悩に、どれだけ抵抗なく、気持ちを持っていけるかが作品の要であろう。もちろん、それは、事実に厳密であるかどうかにのみ寄りかからない。あるいは描き手が、自分の想像に頼って、組み立てたものだとしても、それが、読み手を、いかに説得しうるか、問題となるのは、そういった筆力の部分にほかならない。たしかに、展開や画の映え方に、かなり荒いところがあり、難がないとはいえないけれども、たとえば登場人物の無神経な一言が、他の人間との関係をギスギスとさせるあたりの緊張などは、それを補って余りある、ほんとうに息が詰まるかと思う。ところで、もしかしたらこの、いっけん良心的に見えるストーリーはぜんぶ、麻酔で意識の混濁した主人公が視た、うたかたの夢の上に成り立っているのではないだろうか、といった具合に想像できなくもなく、ま、考えすぎだろうが、そういうふうに読んだら、思わず背筋のぞっとしてしまったことを、最後に付け加えておきたい。
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 僕等がいた (10)

 あーまあ、そらね、人はつねに強くいられるわけではないからね。それに、不遇の最中にあっては、誰だってきっと、誰かの支えを欲するものであろう。にしても、千見寺の、矢野に対するアプローチは、もうここまでくると思い遣りなのか身勝手なのかわからない次元に達しているなあ、わからないながらも、それで、心の揺らいでしまう矢野の気持ちというのは、わからなくもなかった。小畑友紀『僕等がいた』10巻である。ここで、東京に移り住んでから矢野にいったい何があったのか、その空白のときが、読み手に向けて、開示される。ずるいというか、見せ方の利を述べれば、七美がいっさい、絵のなかに登場してこないことになる。そのため、こちらは、前巻における七美の苦悩をしばし忘れ、矢野の側に共感することが、容易い。いや、しかし、相変わらず矢野はネガティヴさんだなあ、と思う。〈オレは正しく前を向いているか オレの持ってる方位磁石は狂っていないか〉、そんなふうに戸惑う感情こそが、未来のオープンであることを見えなくさせる。まっすぐに歩いているつもりが、どこかで何かを取り違えさせるとしたら、はたして矢野のとる選択は。

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2006年05月25日
 イカロスの山 2 (2)

 絶対に泣かされてたまるかよ、といったつもりでページをめくりはじめたのであったが、ああ、しかし、やっぱ駄目だった。結局のところ、それでも涙は溢れてしまいます、というやつだ。塀内夏子『イカロスの山』2巻である。平岡に師事する若きクライマー吉崎を見舞う悲劇、それをきっかけに、三上と、その妻靖子、そして平岡の3人が結ぶトライアングルは、おおきく揺れ動き出す。おそらく、このような展開は、吉崎が登場した時点からして、あらかじめ用意されていたものであろう。言い換えるなら、そのためにのみ吉崎は、物語に召還させられたというわけだ。けれども作者は、その存在を、けっして安易に用いてはいない。『イカロスの山』というマンガのうちを生きる人物たちは、みな一様に、孤独である。このばあいの孤独とは、他人とはけっして分かち合えない感情によって、内面の一角が占められている、という、たかだかその程度のことだ、が、その程度の重たさが、現状においては、いかにしても氷解しえないことの苦悩でもある。それを自分が自分でよくわかっているがゆえに、平岡はひとり〈今は別の道だ〉と呟くのだった。その彼の背中を追う吉崎は、ある意味で、平岡自身のわだかまりを、下界に置いてきたそれを体現するものではなかったか。〈耐えることは承知の上で雪山に入ってますから〉と平岡は言う。だが、耐えることの悲しみに、吉崎が追いついてしまったとき、平岡はふたたび孤独の淵を覗くことになる。朝が光を運んでくる、その場面が、しかし明るいものとして描かれていないのは、そのためである。

 1巻について→こちら

 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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2006年05月24日
 ロボとうさ吉 3 (3)

 加藤和恵『ロボとうさ吉』は、けっして詰まらないマンガではないのだけれども、おもしろいというのには、なにか致命的な欠如を感じる、それというのはおそらく、ガジェットの雑然としていることに、ストーリーのわかりやすさが負けているからなのではないか、といったようなことはたしか前巻のときに書いた。その印象は、この巻の前半でも変わりはない。主人公であるロビンの暴走といった、作中もっとも重要なトピックも、こう、わずかなあいだに繰り返されてしまっては、もったいない、インパクトに欠ける。とはいえ、中途からいきなり、ドラマに熱気が帯びる。権力から辺境に逃れた老人が、機密事項である幼子を匿うといった設定は、それこそSFやファンタジーの世界で、大昔から使われている定番だといえるけれど、それでもあんがい白けてしまわなかったところに、作者の力量というか、物語の見せ方における筆力を感じとるべきであろう。いや、ごめん、ロビンと親父さんの語らいには、わりと胸にこみ上げてくるものがあった。それから、だ。うさ吉の、これまでは秘められていた熱血さ具合が、けっこう露わになってきたもの、よい徴候である。けっきょくレースが有耶無耶になってしまったのは、アイディアの無駄遣いにほかならないが、しかし、それを差し引いても、「赤の七」戦士が終結し、そして星の子狩りがはじまる、ここから先の話が、どうやって進んでいくのか、がぜん気になる展開になってきた。ああ、でも次巻の予告に「新キャラクター続々登場!!」とか銘打たれているのは、ちょっと萎える。登場人物、増えたばかりじゃないか。物語の歩みはスロウなのに、そんなに余計な枝葉生やしてどうすんだろ。

 2巻について→こちら
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2006年05月23日
 アルコール 2 (2)

 今年は、数年に一度あるかないかと言われている、西村しのぶイヤーにあたるのかもしれないね。『ライン』の新しいやつも出るっていう話だしね。というわけで『アルコール』2巻の到着である。約4年ぶりの続きである。しかし、これでもファンにしてみれば、短いほうのスパンに感じられる、嬉しくて堪らないのだから、まったくもって罪なマンガ家である。下戸でありながらバーテン道に励むミサオと、その友人で美人ホステスなユキの、ハンサムで、素敵ライフな日々は、いや、こころの底から憧れてしまうな、読みながら元気が出てくるし、そして、こういうふうに生きられない自分のかっこう悪さを、ほんとうに恨むよ。西村の作品はどれもそうなのだが、凛としているけれども、大口で笑う女のこたちの立ち振る舞いが、いい。それから、彼女たちに振り回されることを厭わない、髪が長くて、背の高い男のこたちの甲斐甲斐しさに、惚れる。この巻の読みどころは、やはり、あれですか、時流のせいかしら、タバコを止める、止めない、減らすみたいなことにかかわるエピソードあたりになるのだろうか。まあ、でも、へんな社会的バイアスに左右されることもなく、あくまでも嗜好品としての本質を的確に捉まえているのが、やっぱしっかりしている。〈減煙の応援は あなたの喫煙を咎めるものではありません〉。そういった気の利いた台詞のひとつひとつと、それに見合う登場人物たちの在り方が、信頼の置ける作風をつくり出している。これはこれで、かっこういいとは、こういうことだ。

 『一緒に遭難したいひと』第2巻について→こちら
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 フルーツバスケット 20 (20)

 純粋でありすぎるがゆえの愛憎劇ということであれば、やはり細部の語りにおいて、みさき速『特攻天女』との共通項を見出さずにはおれない展開になってきたが、それというのは結局のところ、どのような角度であれ、同体の表現で、人のうちにある感情の美醜を突き詰めていけば、似たような場所に突き当たるからなのだろう。つまり、持て余された孤独はけっしてひとりの人間のなかにのみ止まるものではないよ、ということだ。もちろん、そこには大元となる参照項があるのかもしれないが、もしかすると高橋留美子かしら、と思うぐらいで、自分はそれほど博識ではなかった。高屋奈月『フルーツバスケット』20巻である。いやあ、前巻において、みごと噛ませ犬であることが判明した由希を置いて、物語はぐんぐんと流転してゆく。紅野にとどまらず、じょじょに呪いから解き放たれる十二支たち、そのことが、彼らの世界の神=慊人の、誰からも愛されないという妄念を加速させる。一方、夾への想いをついに自覚してしまった透は、その事実に、身勝手なのではないかと戸惑い、夾はといえば、透の母親に関する秘密のため、ひどくつよい罪悪感に苛まれるのであった。各人の、未だ幸福からは縁遠い表情から伺えるように、ここで、いっきに花開いたのは、自己嫌悪という、矮小で横暴な禍であろう。どれだけ苦しんだところで、なかなか壊れてしまうことを許さないだけの強さが、さらに苦しみを深めさせるとき、いったい誰が、誰を、許し、救えるのか。そうした問いに、いよいよ全体の焦点が、合わさりはじめる。

 19巻については→こちら
 18巻については→こちら
 17巻については→こちらこちら
 15巻については→こちら

 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』については→こちら
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2006年05月20日
 うさぎドロップ 1 (1)

 『うさぎドロップ』は、宇仁田ゆみの作品のなかでも、わりとヘヴィな内容になっているのではないか、と思うのだが、どうだろう。祖父の訃報を聞き、実家に帰った三十路男の大吉は、そこで見たことのない、ちいさな女の子に出会う。りんという名の、その少女が、亡くなった祖父の隠し子であることを知り、驚く大吉であったけれども、彼女が、親族の誰からも望まれていない存在であることに気づき、ひそかにシンパシーを寄せる。一方、りんはといえば、亡祖父に面影の似た大吉に懐き、葬儀の最中ずっと、彼から離れず、あとをついてまわる。やがて親族たちが、彼女の受け入れ手について話し合うなか、そうしたやりとりに辟易した大吉は、自分がりんを引き取り、育てることを決意するのだった。そういった設定そのものは、なかなかに前途多難な調子である。とはいえ、このマンガ家ならではの、ゆったりとした、やわらかい雰囲気は損なわれてはいないため、物語の進行は、とりたててシリアスになり過ぎることはない。にわかに父親役をつとめることになった大吉の奮闘ぶりや、りんの6歳児らしい無邪気な可愛さもあまって、ときに、ふふふ、と顔が綻んでしまう場面もしっかり設けられているし、もちろん、ほろり、とくる場面もあり、ハートフルなコメディ・ドラマとしては上々の滑り出しであろう。はっきりいって、このような、突発的なシチュエーションの変化による子育てものは、サブ・カルチャーの表現において、けっして数少ないものではない。が、しかし、そのうちにあって、この『うさぎドロップ』の特殊性をいうのであれば、それは、30代でありならがも、どこかモラトリアムを引きずった、じつに今どきな造型のなされた男性が、年齢的な意味合いのみではなく、精神的な意味合いをもって、大人としての立場をまっとうしなければならない、そのような状況を認識するまでの過程に焦点があてられている部分に、ある。そのことは3話目や4話目あたりに、とくによく出ていると思う。この、大人としての立場とは、もちろん子どもといった項に対してのものであるけれども、それが、親としての義務を果たせというような、社会的な要請とは真逆のベクトル、つまり、あくまでも1対1の対人関係から、その外にある社会に向け、生じているところが、ひじょうに興味深い。

・その他宇仁田ゆみの作品に関して
 『酒ラボ』について→こちら
 『よにんぐらし』第1巻について→こちら
 『アカイチゴシロイチゴ』について→こちら
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2006年05月19日
 風魔の小次郎柳生暗殺帖 3 (3)

 この『風魔の小次郎 柳生暗殺帖』に関しては、これまでのところ正直あまり芳しく思えなかったのだけれども、前巻の半ばぐらいから、なかなか読めるものになってきている。それというのは、まあはっきりいって、ベースである『風魔の小次郎』の、あの登場人物たちが、ずらりと作中に並びはじめたからであろう。そのせいで、おそらく当初は、主人公として設定されていたはずの虎次郎は、すっかりと脇に回ってしまったが、しかし役不足な感の否めないため、致し方ない。由利聡の作家性がどこまで及んでいるのかは、よくわからないのだが、『風魔の小次郎』のみならず、『聖闘士星矢』や『リングにかけろ』あたりに見られたアイディアも、ばんばんと取り入れられ、これだけでは独立した作品として評価することはできないとしても、車田正美作品という参照項ありの、パスティーシュあるいは二次創作といった具合には、ようやく見られるレベルには達してきた。ただ、こうなってくると問題は、武蔵というキャラクターをどう扱うかだよな、と思う。
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 聖闘士星矢EPISODE・G 9 (9)

 〈仲間を助けちゃならない命令とは 初耳だな〉。きた。威風堂々たる巨漢アルデバラン参戦の、岡田芽武(原作・車田正美)『聖闘士星矢 EPISODE.G』9巻である。ついに復活してしまった神=クロノス、そして彼を守護する圧倒的な脅威ティターン神族を前に、くだされる神罰のなか、3人の黄金聖闘士が、吠える。〈どんな…重い罪でも………自分…で…支える〉〈それを恐れちゃ…いけねえ……〉〈罪を背負って猶 立つのが!!! ホントの力ってヤツだろ!?〉放たれたアイオリアのライトニングプラズマは、しかし、容易く弾き返される。その危機に駆けつけたシュラが言う。〈罪を持たぬ者などいるものか――人である限り 罪を背負う……だからこそ〉〈我々人は共に闘うのだ――人とは〉〈支え合う事が出来る者を言う〉。だが変わることのない劣勢に、傷ついた仲間の前に、立つ漢(おとこ)がいた。アルデバランだ。〈人の罪を断罪する天秤か〉〈ふむ…人の罪の重さは確かに大きいかも知れんが〉〈それを支える事が出来るのもやはり人だけだ〉。おお、燃えるなあ、アルデバランよお。さすが『聖闘士星矢』本編において、いち早く青銅聖闘士たちの心意気に感化された漢(おとこ)である。抜群の見せ場が用意された。この『聖闘士星矢 EPISODE.G』で展開されている大まかな主題を切り出すのであれば、それは、人智を越えた定めに対し、はたしてほんとうに人は無力であるのか、といった、たとえば萩原一至の『BASTARD!!』や三浦建太郎の『ベルセルク』に相通ずるものではないか、と僕は考えているのだけれども、このマンガのばあい、やはり根底に流れる車田正美イズムと、岡田芽武の、良くも悪くも軽量なダイナミズムのため、圧倒的な熱さが前面に出、説教くさい台詞のうちに、絶望の色合いに拘泥しないドライヴ感がもたらされている。あるいは、それこそが読みどころなのだとして、この巻の後半では、クール・キャラであるはずのカミュがまた、いいことを言っているのであった。

 8巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら 
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2006年05月16日
 『二の姫の物語』は、『そんなんじゃねえよ』の和泉かねよしによる、中国時代劇ふうのラヴ・ロマンスである。黄という国、宰相の一人息子である青推は、国王の娘、三人姉妹なかでも愚図と目される二の姫に、仕えることになった。堂々としたところのない二の姫の態度に、最初は不満を覚える青推だったが、しかし歳月を経るにしたがって、彼女には、ほかの姉妹にはない、王者の資質が備わっていることを確信し出す。やがて隣国との戦がはじまる。二の姫の軍に不利な戦況を見て、敗北を覚悟した青推は、せめて二の姫の身だけは、その命に替えてまでも守ろうと誓うのであった。『そんなんじゃねえよ』を含め、作風がわりと力押しのマンガ家なので、ページを開く前は、ディテールに関し、すこしの危惧があったけれども、読みはじめると、それはあまり気にならなかったのは、物語の焦点が、あくまでも一組のカップルの、つよい結びつきに合わせられているためであろう。また、それほど凝ったつくりではないが、しかし女性向けマンガという枠内にかぎらず、昨今のファンタジー形式な物語としてみても、なかなかにうつくしい内容になっていると思う。へえ、こういうのも描けるんだね、と。『そんなんじゃねえよ』の連載が終わって、もしもこういうタイプのマンガをはじめたとしても、あんがいイケそうな感じだ。
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2006年05月14日
 大阪ハムレット 1 (1)

 たとえフィクショナルなものであっても、やはり人情というのに触れると、思わず涙腺がゆるんでしまうな、と思う。ボロボロと泣けてくるというほど大仰ではないけれども、そのぶん、胸のうちの柔い部分にちょこんとタッチしてくるかよ、といった感じだ。森下裕美の『大阪ハムレット』は、題名どおり大阪に暮らす、市井の人びとにおける悲喜劇を扱った連作マンガである。誰しもが自分の人生に満足して生きているわけではない、その芯は強くもなく、逆に弱々しいが、しかし、それでも真っ直ぐに歩こうとして、悩み、苦しみ、やがて笑えるよう、頑張る姿に、心うたれる。登場人物たちの取り組むドラマは、なにげにシリアスすぎる。この1巻のなかでは、第2話「乙女の祈り」に、それは顕著であろう。大好きであった叔母が、闘病生活の果てに亡くなってしまったのをきっかけに、女のコとして生きることに憧れるようになった少年が、周囲の人たちのノイズにさらされ、あるいは助けられ、学校でシンデレラの劇をこなすまでが、描かれている。扉絵では、ふっくらとした姿の叔母が、作中では、ひじょうに痩せ衰えているのが、印象的だ。作品はさいしょ、叔母は病死したのだというふうに読ませるつくりになっている。だが、ほんとうのところは、そうではなくて、病気を苦にした自殺だったということが、ごく自然に明かされる。〈やっぱり しんどいのかなんかってんやろや〉〈アカン……ボクもしんどいのかなんわ〉。ここで、少年と叔母の、それこそ時と場合やレベルが違うとしても、生きていくうえでのしんどさが、相似形に近しいかたちで結ばれる。おそらく物語それ自体は、叔母の自殺をひとつの逃亡だと見立てながらも、けっしてそれを否定してはいない。ただ少年が、叔母の死をブレイクスルーしてゆく過程をとおして、べつの選択肢〈死んだらしまいやん〉ということもありえたのではないか、と暗に提示するのみだ。もちろんのように人はずうっと生き続けられるものではないが、すくなくとも死ぬまでは生き続けることができる。不妊に悩む女性を題材にした第3話「名前」に、〈人生てうまいコトいかへんな〉と泣き笑いするシーンがある。〈人生てうまいコトいかへんな〉たったそれだけのことを納得するのが、いつだって、とてもとても難しい。でも、その難しさのなかで、手放してはいけないものがあるとして、それはきっと、自分の人生を生きているのは自分以外の誰でもないといった、しごくあたりまえのことに他ならない。

 第1話「大阪ハムレット」について→こちら
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2006年05月11日
 ゴルディオスの結び目 1 (1)

 解くのが難しいといわれるゴルディオスの結び目を、だったら剣で切ってしまえという、アレキサンダー大王にちなんだ故事から〈発想の転換によって難題を一気に解くことをゴルディオスの結び目を切るというのである〉らしい。つまり、そうした抜け道ありの知能戦を題材にしたのが、この坂登陸(原作)と野瀬尚紀(漫画)によるマンガ『ゴルディオスの結び目』である。駆け引き(ギャンブル)と謎解き(トリック)のサイトで出される難問に正解率99%を誇る高校生、万丈ユウキは、古物商にスカウトされ、無理難題をふっかけてくるコレクターたちと、美術品や骨董品を賭け、さまざまな勝負(ゲーム)をし、ときにはイカサマを仕掛け、ときには仕掛けられたイカサマを見破ってゆく、というのが大まかな内容になっている。この手のものは、登場人物が登場人物に対して騙し合いを実行する作中のスリリングさと、その対決自体が、作外にいる読み手をもハラハラさせ、一泡吹かせるスリリングさの、二重性が、肝だと思うのだが、掲載が少年誌ということもあるのか、どうもギャンブルの行われている場がぬるく、いまいち入り込めなかったというのが、正直な感じかな。まあ、場に仕掛けられたイカサマが、あまりにもシンプルすぎるというのもある。さすがにこの時代、じつは磁石が仕掛けてあったのか、とかいわれても、あまりびっくりしない。また逆に、そのシンプルであるイカサマを、いかにして相手に見抜かせないかが主題だとしても、うーん、単純に相手が間抜けなだけじゃないか、というふうにしか読めない点も弱い。ただし今後、頭の切れるライバルみたいのが登場すれば、そこは違ってくるのかもしれないけれど、アイディアを出し惜しみしてるのでなければ、ネタがそれまで続くのかどうか、そのへんはさて、お手並み拝見といったところだ。
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 GO16.jpg

 まいった。この完結16巻目をもって、山本隆一郎『GOLD』は、この10年のあいだで、とくに突出したマンガのひとつになった。この10年、つまり、95年からこちら、生きるということに対して、登場人物たちが、これほどまで誠実に向き合い、そして、作品それ自体が、現代的な終わりなきモラトリアムについて、見事な回答となっているケースは、じつに稀であろう。率直にいって、『エヴァンゲリオン』以降のビルドゥングス・ロマンのなかで、もっとも重要な作品だと思う。おそらくヤンキー・マンガ的なつくりのために、思わず敬遠してしまう向きも多いかもしれないが、しかし物語は、ホモ・ソーシャルふうの連帯から遠く離れたところにまで、飛翔している。着地点は、一言でいえば、愛、である。その愛は、友人や両親、兄弟や、隣人といった、要するに、一個の人間が周囲として認知しうる他者のすべてを、おおきく包括している。それはたとえば、人は、自分を見捨てた人間をほんとうに許すことができるのだろうか、といった問いがあったとして、ここでは、許す、許せる、といった断言のかたちが、迷走のはてで、最終的には、とられていることに如実である。またその点に、このマンガの強度を伺える。はっきりといえば、自然主義の畸形にしか過ぎない、グダグダやウダウダした態度こそが、今日ではリアリティだとかエモーションだとかいわれるものの正体であろう。そして、マンガにかぎらず多くの表現が、そうした時代のムードと対決することなく、要するに、時代に呑み込まれる体で、読み手の自意識と寄り添うものとして成立してしまっているし、だからまた、それが商売になる。くだらない。結局のところ、作者が、自身のなかに、なんら問題意識も倫理も、責任も、高い志も持ち合わせていないことを、ただただ自堕落に、げえげえ、と吐き出しているだけのものが、社会的なオートマティズムのおかげで肯定されているだけのことだ。そこにはもちろん、個性の類はいっさい存在しない、あるいは、固有の想像力による働きかけがまったく介在していない。まあ、いいや。『GOLD』の物語においても、たしかに多くの登場人物たちが、やはり、その過剰な自意識を持て余すがゆえに、混乱しては、他の登場人物との関係性をこじらせ、孤独へと陥ってゆく、呪われる。だが作者は、そこで想像力を眠らさずに、なしくずしの展開を避け、登場人物たちを這わせ、ふたたび立ち上がらせ、戦わせ、そして勝たすというところにまで持っていっている。当然、負ける登場人物だっているが、それはそれで、ちゃんと生の一回性を背負わせ、その重みを実感させたうえで、葬り去っている。いやいや、しかし、じっさい最大の焦点は、主人公であるスバルと、その宿縁とでもいうべき十雲の、ふたりの対決に、どのような結着がつけられるかといった部分で、それを、こう、物語全体の締めくくりであるかのように、ここまできれいなかたちでまとめられてしまったのでは、ああ、文句をいうのは野暮だよなあ、といった感じである。気になる勝敗については、両者の差し出した手の角度をみればわかるようになっているし、すくなくとも僕には満足のいく描かれ方ではあった。それにしても〈生きてるってよ……最高にオモシロイぜ!!〉、ラストのページにおけるスバルの表情が、ずるいや、最高に胸が熱くなる。

 15巻について→こちら
 13巻と14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻につてい→こちら
 10巻について→こちら
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2006年05月09日
 ナンバMG5 4 (4)

 〈こんな天国みてぇなトコにもゲスはいるんだな〉ああ、こういうセリフが、きちんと見せ場で、ばしっと決まるところが、小沢としお『ナンバMG5』というマンガの強さなんだろうな、と思う。あと〈自分の母ちゃんだろ テメェとか言うよな〉とか。ここで働いているものを、一言で捉まえるのであれば、おそらくは、倫理、ということになるだろう。勧善懲悪のストーリーは、ステレオタイプでしかない。が、しかし今日においては、勧善懲悪ではないストーリーもまた、ステレオタイプに他ならない。ならば、その物語また表現のうちで、いったいどれだけの確信あるいは熱量が動いているか、というのが作品の質や強度を決めてゆくのではないだろうか。さて、この第4巻では、筋金入りのヤンキー一家である難破ファミリーが、千葉を飛び出し、ハワイへと旅行に出かけ、そこで、もちろん当然のように、トラブルに巻き込まれ、というか、トラブルを発生させてゆく。地元以外が舞台となっても、ツッパリの度合い、シリアスとユーモアの基本線は変わらないという展開は、西村博之『今日から俺は!!』あたりの先行作品を彷彿とさせるが、しかし、そういったところを含め、あいかわらずおもしろいのは、登場人物たち自身が、自分の生き方に不審を抱いていないからであろう。そしてじつは、その、不審を抱かせない点もまた、作者の力量なのである。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら
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2006年05月08日
 全3巻という表記があるので、これで完結ということになるのか。エピローグみたいな感じで、登場人物たちのその後が語られてしまっているので、たぶん、そうなのだろう。はっきりといって、話の大枠自体には結着はつけられておらず、ラストのエピソードもけっして盛り上がるものではないけれども、しかし連載が長期になりつつある『ギャングキング』とは違い、このぐらいのボリュームでまとまっていれば、キャラクターにぶれが生じることもなく、こちら読み手が破綻を感じることもないので、まあ、これはこれで、いい具合だったのではないか、とは思う。柳内大樹『ドリームキング』第3巻である。クライマックスは、前巻から引き続き展開されている、大阪編であろう。大阪という舞台がそうさせるのか、ひじょうに人情味あふれた筋立てとなっており、なかなかに泣ける。ドン、ハク、クロのやりとりにおける、漢(おとこ)ぶりが、かっこういい。ただし物語のレベルでみれば、ストーリートファッションという要素は、ほとんど意味がない、うまく機能しておらず、ここまでくるとヤンキー・マンガのパスティーシュというよりは、オールド・スクールの足を洗ったヤクザものにしか見えないあたりに、欠点を指摘できる。00年代の現在において、あまり明るい未来をみせてくれないのだ。せめてタイトルに「夢の王」と冠しているのだから、もうちょい希望の色合いの濃く出た顛末のがよかった。序盤でキャラクターを掘り下げた敵対関係の人たちだって、結局、裏社会でしか生きていけないわけだし。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・『ギャングキング』
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
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2006年05月02日
 猫本

 最近、本屋に行って思うのは、ペットをテーマにしたマンガがにわかにブームなのかしら、というぐらい、猫やら犬やらのキャラクターを表紙にした、その種のコミックスを多くみかけることで、いやいや、可愛さがあまれば、もちろんのように僕も、ついつい手を出してしまう。と、さて。この『猫本 NEKO-MOTO』はといえば、ある意味で、そういったヴァリエーションをひとまとめにした、決定打的な、内容だといえるであろう。こなみかなた、北道正幸、萩尾望都、諸星大二郎、小林まこと、山下和美、漆原友紀、伊藤理佐、近藤ようこ、塀内夏子、業田良家、やまだないと、小田扉、ジョージ朝倉、いくえみ綾、松田陽子、とりのなん子などなど、錚々たる面子が、“とにかく猫で一冊作ろう”というコンセプトのもとに、短編作品を寄せている。しかも、そのほとんどが書き下ろしの新作という具合なのだった。巻頭に、それら何人かの愛猫写真が付せられているように、大勢が、猫といっしょに暮らしているためか、身辺雑記的なものが多いけれども、萩尾望都や山下和美、近藤ようこ、松田洋子、小田扉あたりは、じつに「らしい」いつもどおりの独特な世界観を展開しており、これ一冊を総体的にみても、なかなかに読み応えがあり、けっして余技のレベルに止まるところではない。が、しかし、なかでもやっぱり、チー(こなみかなた『チーズスイートホーム』)のキュートさにはねえ、まいる。その表情の多彩さは、ほんとうに、ずるい。
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 柳沢きみおのマンガ「大市民」シリーズは、その根底に流れる思想みたいなものが、どうにもフィットしないところがあり、ジャンル的な立場にたてば、けっこう苦手な部類に入るのだけれども、そこで紹介されている食の薀蓄にかぎっては、なかなかに惹かれるものがあり、ついつい読んでしまったりする僕だが、この『大市民グルメ「美味し!!」―お金をかけなくても美味しい簡単料理』は、その食パートだけを一部取り出し、写真などを織り交ぜ、再構成した内容となっており、このぐらいのアクの強さであれば、あまり気分を害せずに楽しむことができる。とはいえ、いや僕もビール好きではあるが、ここでのビール擁護ぶりは、いささか行き過ぎなような気がしないでもないし、人の舌には、それぞれ好みがあるのだから、それを許容するぐらいの幅広さがあったらいいように思うのけれども、山形のつくる料理は、たしかにチープでありながら、その融通のきかなさも含め、美味そうではある。
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2006年04月30日
 “かっこいい”とはどういうことか。「“かっこいい”とは、こういう事だ」。吉田聡『荒くれKNIGHT 高校爆走編』は、終幕に向け、『月刊荒くれナイトマガジン』の発刊も含めて、輪蛇のメンバー各人、または輪蛇というチーム自体の、決算が行われつつあるわけだけれども、この9巻で、『荒くれKNIGHT』本編より主要登場人物のひとりでもあった、野呂に関するエピソードはフィニッシュ、という感じかな。前巻に引き続き、野呂と来原、ふたりの対照的な生き方に、ひとつの結着がつけられている。〈燃えるってなんだよ・・・〉、ついに来原が見つけた答えを、善波七五十は、野呂に告げただろ。〈ノロよぉ・・・来原はよォ・・・‥燃えるモンが見つかんなかったけど……〉〈最後に“ひとりぼっち”の自分を燃やしたんだ〉〈だからオレらはアイツの“灯り”でアイツが そこにいるってわかったんだぜ!〉。来原のハートをサイドカーに乗せ、野呂のバイクは闇を抜ける。かくして輪蛇への復帰を許された来原だったが、しかし彼は、それよりも大切なことを、後輩に託すのであった。〈どうでもいい事は流行に従う〉〈大切な事はルールに従う!〉〈燃えるべき事は自分に従う、オレは・・・‥ここで静かに燃えているだけで充分さ……!!〉。ここだ。ここで、涙腺の弱い僕などは、うわーんってなってしまう。ああ、“かっこいい”とはどういうことか、つまり、そういうことであったな。

 さて。野呂と来原の友情もそうだったが、この巻のラストにおける青蛇と赤蛇のエピソードから、たぶん次巻以降に収められることになる『月刊荒くれナイトマガジン』掲載分の、最終章「黒い残響」で、吉田が描こうとしているのは、登場人物たちひとりひとりにおける、ある種のオルタナティヴな可能性ではないか、と思う。たとえば、孤独を、当人では決定不可能な宿痾としては捉まえず、対照的な、信頼できる仲間に囲まれたべつの登場人物とのコントラストによって、そうでありえたかもしれない、といった選択権のひとつとして定義し直すことが、延々と描かれているように見える。孤独な自分の運命は、自分にしか変えられないとして、そのために燃やせるものが、まだ残されているのだとすれば、遅くはない。あの、まばゆく届く光も、きっと、同じようにして灯っているのなら、そうか、諦めないかぎりは、自分にできないはずもないんだった。

 第8巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』→こちら
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2006年04月29日
 いよいよ、劉備、曹操、孫堅が、揃い踏みし、三国志演義的にサマになってきた。一方で、趙雲や孔明など女子供の扱いや、張角や呂布の噛ませ犬ぶり、宦官たちの下卑た描かれ方が、いかにも武論尊、池上遼一コンビといった感じで、“超”[三国志]かあ、なるほど、たしかに一種異様な歴史活劇がつくられつつあるな、と思わせられる。「覇-LORD-」第5巻である。とはいえ、山原義人のマンガ『龍狼伝』の冒頭でエクスキューズされているように、今どきの人間というのは、おもにゲームなどから三国志の物語に入る傾向が強いので、このぐらいの改変(解釈)というのは、まあ、かなりまともな部類に入るのではないだろうか。と、それよりも、わずか1巻分のあいだに、けっこう盛りだくさんなトピックが詰め込まれているにもかかわらず、一読して、その世界に引き込まれるあたりに、色を見る。つうか、張角、かっこうよすぎだろ。ちょっと色をつけすぎだ。しかし個人的な不満を述べれば、登場当初の鮮烈さを失いつつある呂布の扱いである。これではまるで、『サンクチュアリ』における、渡海さんの二の舞ではないか。孫堅の登場、董卓の出番が増えたのもあり、漢(おとこ)のインフレ状態に入ったのはわかるが、呂布あんなにかっこうよかったのに! 微妙に影が薄くなり、すでに負け負けムードが濃厚になり出している。せっかく赤兎馬を手に入れたのだから、退場するそのときまでは、もうちょい、度肝を抜くほどに、はっちゃけさせていただきたい次第である。

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 高校デビュー 6 (6)

 晴菜の元気いっぱいな立ち回りが、ほんとうに、楽しいなあ。河原和音の『高校デビュー』は、ヤングな男女間における恋愛の相克を、とてもとてもポジティヴに描き出した、気持ちのよい作品であるけれども、この最新6巻の振り切れ方は、これまでのなかでもトップではなかろうか、あはーとなるほどに新鮮であるし、いやいやいやってなるほど素敵である。恋愛マンガというのが、もしもリアリズムではなくて、空想に則したものであるのならば、一線級のファンタジーとして、まばゆい輝きを放っている。さて。てんやわんやを経ながらも、ヨウとの初々しい恋愛関係を、順調に育む晴菜であったが、ついに、伏線の一部として捉まえてしまってもいいだろう、ヨウの元カノという存在が、晴菜の前に姿を現してしまう、というのが、この巻における大筋だといえる。この手のストーリーにおいては、過去の因縁が、物語に絡んでくると、とたんにドロドロと、グロテスクな側面が屹立してきてもよさそうなものだが、しかし晴菜の、ヨウにいわせれば〈嘘だと思いたい〉キャラクターによって、そうはなっていかないところが、やはり強いチャームであろう。正直なところ、なぜヨウが晴菜を選んだのか、ここまでの展開上、その理由付けが弱く感じられる部分もあったけれど、ヨウと元カノとのクライマックスにおける対話を読めば、ああ、そうか、わかる、つまり晴菜の良さって、そういうことなんだよな、と腑に落ちる。なんかね、ハッピーすぎてズルいや、と思わなくもないが、でも、元気いっぱいって、きっときっと、すごいことなので、ふいに近寄ってきた不幸も、どっか吹っ飛んでいってしまうのだとすれば、それはそれで、このマンガが持つ最大限の説得力なのに違いない。

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2006年04月28日
 7SEEDS 8 (8)

 近未来、巨大隕石が衝突し、いったん世界が終わったあとの日本に生き残った人類は、「7SEEDS」計画によって選ばれた、ごく少数の若者たちのみであった。獰猛に変化した自然環境のなか、春・夏×2・秋・冬の5チームに分かれて存在する彼らは、はたして、絶望に近しい状況をくぐりぬけ、希望に似た光を見つけることはできるのだろうか。田村由美『7SEEDS』が興味深いのは、非日常へと放り込まれた少年少女たちの生きる懸命な姿を描きながらも、ふつう、こういったサヴァイバルものにとっては、登場人物たちを移動させたり、ストーリーを駆動させるために、必要不可欠ともいえる、明確なゴールがどこにも設定されていない点だろう。たとえば『ドラゴンヘッド』などの作品に見られる、自分たちの住んでいた街では家族が待っているかもしれない、あるいは大きな都市(東京など)に行けば生き残っている人間がいるかもしれない、といった可能性も、かなり初期の段階で無化されているし、『漂流教室』などの作品に見られる、平穏な時代への帰還が、そもそもそれを望むことが、無意味であるように舞台は設定されている。つまりは、ゼロ同様の始点から終点までを、物語中の人間が、自ら、立ち上げてゆかなければならないのである。文化を知らないわけではない、文明人としての意識を持っていることが、逆に、生き残りを苛酷にしてゆく過程は、かなりヘヴィだといえる。じっさいに、魅力的なキャラクターたちでさえ、やけにあっけなく退場していってしまうのであった。さて。8巻では、前巻に引き続き、現在または現代(つまり本筋からすると過去)での、「7SEEDS」計画に関わる、とある試練が描かれている。おそらくは、その試練を通じ、本来の目的とはべつに、7巻において「死神」として暗示されているものが誕生することになるのだと考えられるが、しかし、いったい何(誰)がそれにあたり、そして本筋に戻ったとき、どこでどう絡んでくるのか、いや、すでに絡んでいたとしても、それがどういう役割を負っているのか、まだまだ先の読めない展開が繰り広げられており、読ませる。
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2006年04月26日
 ALL.jpg

 川畑聡一郎の『S60チルドレン』には、団塊ジュニアまたは70年代生まれを主軸とした「ちびまる子」になりうる可能性があった、としてしまうのは、過大評価だろうか、それとも過小評価だろうか、あるいは見当違い、お門違いだろうか、いや、しかし、ある特定の時代を切り取りつつ、その枠のうちに描かれた少年少女特有のユーモアな姿やエモーションは、けっしてノスタルジーに止まることのない、ひろく多く親しまれるべき普遍性を獲得していたように思う。すくなくとも川畑聡一郎というマンガ家を代表する作品であるのは間違いがない、というか、これまでに単行本化されているのは『S60チルドレン』全4巻のみであった。その川畑が、昨年(05年)の11月に癌のため31歳の若さでなくなったことを受けて、追悼の意味を込め、発表された短編集が、この『ALL WORKS』であり、「S60チルドレン」のオルタナティヴ・ヴァージョンを含めた、初期の、単行本未収録作品などが収められている。ほぼデビュー作である「DOG DAYS」や「ジダラクノウタ」等を読むと、作者の感性が、いかに90年代的な閉塞感や倦怠感に立脚していたかが、よくわかる。両作品ともに、ネガティヴかつ無気力でアパシーな青年を主人公として扱っており、前者では、そのような現状をブレイクスルーしてゆく過程が、後者では、「ここではないどこか」さえも失われた行き詰まりの顛末が、描かれている。サブカルふうのリリカルなタッチではなくて、シンプルであることとクセがあることの同居した絵柄のため、世間一般的にはおそらく、けっして感情移入し易いタイプの作風とは言い難いかもしれないが、しかし、ひとコマひとコマが展開する、そのあいだに湧いた熱は、どれだけ無様であっても、生きることを手放してはいない、まるで体内で満ちる体温に通じるものであろう。世紀末な舞台装置を使い、人間のいなくなった廃墟を懸命に駆ける犬たちの姿を捉まえた「無頼犬テイル」全4話には、頽廃と救済のイメージが、疾走や躍動をともなって描かれているけれども、作者がリアルタイムで享受したに違いない先行作品、たとえば『北斗の拳』や『AKIRA』の影響下から逸脱するものではない。それが惜しいとはいえ、そこで培われた、生や死に対する、ウェットな感傷とドライな視点の、どちらか片方のみに崩れていかないバランスが、のちに『S60チルドレン』の、少年や少女たちの像を純粋さと狡賢さでリアルに結んだ、あの、効果的な使用へと発展していったことを、いま、読み手であるところの僕たちは知っている。

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 S60チルドレン 1 (1) S60チルドレン 2 (2) S60チルドレン 3 (3) S60チルドレン 4 (4)
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2006年04月22日
 暴虐外道無法地帯ガガガガ 2 (2)

 結局、何年ぶりになるんだろう、山下ユタカ(山下ゆたか)の『暴虐外道無法地帯ガガガガ』なのだが、ついに2巻目の登場である。けっして短くない中断を挟み、掲載誌は『ヤングマガジン』から『アフタヌーン』に移ったけれども、しかし、中身のほうはといえば、ジャンキーと暴力、血と頽廃のむんむんと充満した、絵柄そしてストーリーともに、相変わらずのハードコア・パンク路線を貫いている。キカイ島、それは薬(ドラッグ)を産業の中心として成り立つ、悪党どもの巣窟であり、そこに面する朧燈地区(陸)もまた、キカイ島と連動するかのように、全面的にスラムと化している。それらふたつのサイドの対立を背景に、様々な人間(たいていがろくでなし)の思惑が入り乱れ、破壊に次ぐ破壊が繰り返されることで、物語は右往左往してゆく。主人公である拳銃使いのベニマルは、キカイ島のトップにあたるリタから、レーイチという男とコンビを組まされ、3兄弟と呼ばれる朧燈地区の新興勢力に奪われた薬(ドラッグ)を取り返すため、陸(オカ)へと渡る。そうして彼らふたりの登場が、朧燈地区内部の騒乱に拍車をかけてゆくことになるのだった。このマンガの魅力は、やはり、その速いのか遅いのかよくわからないテンポ、スピードであろう。細部は忙しないのに、全体はもっさりと進む。派手なコマは、緊張の度合いとダメージの大きさを表すシーンに終始する。いっけんスタイリッシュには見えがたいけれども、見せ場を生かすことを最善に、じつに効果的な場面場面を組み立てることで、その世界観へと、知らずのうち読み手を引き込んでゆく。いや、じっさい、登場人物のほとんどはラリっており、アナーキーではあるのだが、作中には何か秩序めいたものが働いており、物語それ自体は、不穏だが、破綻していない、というか、あえて破綻を構築しているふうに思えるところが、『ガガガガ』の肝なのではないかな、という感じがする。ストーリーは、スリルが先走りするかのような展開をみせ、3巻へと続いてゆく。
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 デパートの屋上で着ぐるみのアルバイトをしている涼は、過去に付き合った男性の裏切りのせいで、遠距離恋愛に希望を持つことができないでいるのだが、現在付き合っているカフェ店員のヨージにも、それが彼女の運命なのか、そこからは遠く遠い札幌行きの辞令がくだる。離ればなれになることを極度に怖れる涼に、ヨージはやさしい言葉をかけるのだけれども、しかし、彼女はそれを信じられない。やがて涼は、ヨージの異動についての真相を知る。原因はふたりが付き合うきっかけとなったヨージ・オリジナルのコーヒー・レシピ、アップルシナモンキャラメリゼにあった。そこではじめて彼の愛の深さを想い、遠距離恋愛に踏み出す決意をするのだった。以上が、表題作となる「アップルシナモンキャラメリゼ」の、大まかなストーリーであり、いやあ、甘い、それに象徴されるように、ここに収められた、着ぐるみのアルバイトをする女の子たちを主人公とする5つの連作は、どれも甘く、ずいぶんと甘く、透き通った恋愛劇として成り立っている。個人的には、自分は可愛くない、というコンプレックスに悩む、海老役の着ぐるみの子が、片想いを経て、自信を回復する「Happy tomorrow」が、その、素敵な着地の決まり方も含めて、よかった。やさしい人間が、やさしい人間と出会い、そして結ばれることを、ハッピー・エンドと呼びたい気分になる。
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2006年04月21日
 駅弁好きが嵩じ、弁当屋を営む大介は、しかし、この10年仕事熱心なあまり休みもとれず、趣味に使う時間を持つことができなかったのだが、10年目の結婚記念日に、妻の厚意から〈お店のことは大丈夫! パートのおばちゃん達と頑張るから!〉〈私からの特別休暇! 期限は日本一周するまで!!〉という、列車旅行に出る機会を得る。そのようにして、東京駅から、九州行きのブルー・トレインに乗った大介の「駅弁ひとり旅」がはじまったのだった。その地方地方の、ヴァラエティに富んだ駅弁を紹介しつつ、列車関連の薀蓄を盛り込むふうなかたちで、物語の全般は進んでゆく。なので、読みどころは、やはり、びっくりリアクションとともに描かれる駅弁の美味そうさ加減であり、新幹線の速度には及ばない、独特のスロー具合を担保にした旅情であろう。とはいえ、「駅弁ひとり旅」という題名に偽りがあるとすれば、大介の道程が、けっしてひとり旅というわけではなくて、ふとした出会いから、それなりにキュートな道連れをともなっていることである。ただし、ここで重要なのは、そうした連携のあいだからは、エロチックな要素が除外されている点だ。いや、若い女性に対する大介の視線は、ある程度には、助平であるけれども、物語のデコレーションでしかないような、愛嬌のレベルにとどまっている。読み手にセックス(性交)を意識させない、そういうつくりを心がけているみたいだ。掲載誌は、復刊後ふたたび下世話なマンガ盛りだくさんな『アクション』なのに! いやいや、それはどういうことか、端的にいえば、このマンガにおいて焦点化されているのは、男女間のロマンスではなく、あくまでも男のロマンであるからに他ならない。まあ、悪く言いうと、女性の登場人物は飾りでしかないのだが、翻って、そのことが、じつに庶民的な味わいを、全編に塗す結果となっている。それというのは、要するに、一人旅を、ほんとうにひとりの旅として描く場合、たとえば主人公が周りに誰もいないのに独り言ばかりを喋っていると変だ、なのでモノローグが増えてしまう、と今度は取っ付きにくさが生じてしまうところを、対話の場面を増やすことで防ぎ、親しみやすさを演出する、そういったテクニカルな問題に拠っているのである。

 『メメント・モリ』についての文章→こちら
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『永遠のイヴ』は、『ヤングユー』や『コーラス』系の雑誌に掲載された上野愛の短編をまとめたもので、そこから想定される読者の年齢層にあわせてか、ほとんどのマンガが20代後半の恋愛を扱った内容になっており、女性たちはとても疲れていて、男性たちはすこしだらしがない。歳相応の経験は、けっしてプラスの向きに作用しない。むしろ、まっすぐ歩くことの邪魔をしているみたいだった。さて僕が、このうちでもっとも良いと思えたのは、「この地球(ほし)に生まれて」という作品である。輪郭だけをいえば、28歳の女性が、泥酔してしまった夜に、意識だけのタイムスリップを経験することで、祖母の愛情を思い出し、幼馴染みの恋心の気づく、といったつくりになっている。その中心に置かれた、ポエム的なモノローグは、先行するサブ・カルチャー群からの影響または引用またはサンプリングの体で、作者がどこまで意識的にそれを行っているのかは不明だけれども、しかし、そうしたステレオタイプ性の過分に含められることで、共感の枠が出来上がっていることは疑いようがない。僕はといえば、男の子だということもあって、ながい片想いを抱える幼馴染みのほうに対して、感情移入しつつ読んだ。やさしくつとめることと、臆病であることの境目だけが、いつだって自分では、うまく見分けられない。
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2006年04月20日
 mugen.jpg

 いや、こいつはブリリアントだ。高橋葉介のライフワーク的マンガ『夢幻紳士』の新刊「逢魔篇」である。前節「幻想篇」を、夢幻魔実也というキャラクターにガイドされた、ひとつの幻であったとするならば、「逢魔篇」にて案内されるのは、ひとつの夢のなかだといえなくもないけれど、しかし、それらは、別個の、異なった空間として披露されているわけではなくて、読み手の経験を通じ、ひとつの、無限に拡がる世界へと繋がっている。「メタ」などといった理論の言葉では、限定することのできない、夢幻のごとき、めくるめく物語が繰り広げられているのである。基本的なつくりは、とある場末の料亭に立ち寄った青年、夢幻魔実也のもとに、入れ替わり妖怪変化の類が訪れては退治されるといった、オムニバス形式となっており、時系列でいえば「幻想篇」の直後、つまり、その最後のコマが、ここでは、いちばん最初のコマになっているのだが、ひとコマひとコマの展開は、やがて時間軸さえも超越した、驚きのパースペクティヴへと到達する。もちろんのように、そうした仕掛けの施された体裁こそが、最大の読みどころ、醍醐味ではある。一方で、全体のクライマックスにおける、「手の目」の少女の、そこはかとなく切なげな表情に、読み手である僕はといえば、思わず、もらい泣きしそうになってしまうのであった。そうして、ワンダーとエモーションが、分かちがたいほどに、すばらしく同居することで成り立った、うつくしい像に、ふかい眩暈を覚えるわけで、繰り返し読めば、感動は掘り下げられ、そのたび、新鮮な風に、あてられる。
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2006年04月18日
 打撃王凛 6 (6)

 〈僕はもう二度と自分を無力だなんて思わなくていいんだ――!!〉。ああ、この台詞だけで、目にいっぱいの涙を溜めただろ。努力、努力、努力って、がんばり続けるのは、たしかにシンドいことだけれどもさあ、生まれ変わる必要を感じないぐらい、あんたが自分の人生に満足しているんならば、それはそれで素晴らしいことだな。でも、だからといって、這い上がろうと踏ん張る人間を見下したりするのは、よせよ。強敵、浜松中央シニアをくだし、2回戦を突破した緑南シニアは、その後も凜の打撃にリードされるかのように、『日本選手権予選・夏季関東連盟大会』を勝ち上がってゆく。そして、ついに因縁の相手である緑北シニアを、その射程圏外に見すえるのであった。が、しかし、改めて思い知らされる実力差の前に、凜以外のメンバーは気落ちするばかりだ。けれども、過去に味わった悔しさが、翻って、ふたたび彼らを奮い立たせる。〈憧れ 劣等感 そしてあの日に刻まれた心の傷〉〈だがそれを全てはぎ取った時 そこに残るのは〉〈ただ純粋に勝ちたい 上手くなりたいという 強烈なまでの執念のみ〉〈その執念に従えば たとえ万年球拾いのホケツだろうが 何にだって生まれ変わる事ができる〉。かくして、決戦まで間もないそのときに、劣勢を覆そうと、緑南の猛特訓がはじまる。というわけえ、相変わらず、燃える。そりゃあ、したり顔であんたは、努力のぜんぶが実を結ぶというのは、都合のいいファンタジーだって言うかもしれないけれども、架空の物語のなかでさえ、そうした夢を描けなくなったら、この世はお終いなのであって、そこに説得力を付与してゆくのが少年マンガというエンターテイメントだとしたならば、佐野隆の『打撃王 凜(リトルスラッガーりん)』は、まさしく王道を征く。6巻目にして、さらにガッツは盛り上がってきた。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
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 わずか16歳で司法試験に合格し、18歳で弁護士となった知立護(ちりゅうまもる)は、かつては渋谷で200人からを束ねるキングであった。その彼の、正義を守るための、派手なケンカがここにはじまる。と、要するに『M.C.☆LAW』は、一昔前だったら、モラトリアムを終えたヤンキーや暴走族が、社会に出て、世のなかの不正と渡り合うといった典型的なパターンの、アップ・デートなヴァージョンである。まあヤンキーや暴走族が、ギャングやチーマーに代替わりしただけで、それをもって今日的だといえるかどうかは不明だとしても、勧善懲悪を目指し、ある種の様式美をまっとうしたものとしては、それなりに楽しめる。きたがわ翔と中祥人をミックスし、そこにパンクのテイストを加味したかのような浅田有皆の絵柄は、内容には合っているし、また、ある程度の新鮮さをもたらしてはいる。が、しかし、剣名舞のつくるストーリーは、やはりオールドスクールに過ぎるかな。結局は、肉欲と金欲こそが悪であり、思い遣りが正義だったとしても、もうちょい滅茶苦茶に突き抜けたほうが、個人的には、燃える。物語自体に対する主人公の優位性が、元ギャング(チーマー)だけだというのも、やや弱い。とはいえ、まあ、警察や弁護士も含め、もはや法律などが絶対的な正しさを象徴しているとは信じられてはいない、この時代だからこそ、こういうヒーロー像が描かれるというのは、なかなかに貴重なのではないか、と思う。
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2006年04月11日
 犯罪交渉人峰岸英太郎 5 (5)

 警察の強制捜査中に起こったカルト教団内部のクーデター、けっして忘却することのできない過去を清算するため、教祖殺害を目論んだ少年を、はたして英太郎は救うことができるのか。これにて嘘を嫌う敏腕交渉人の活躍も見納めとなる、記伊孝『犯罪交渉人 峰岸英太郎』最終5巻である。最後の最後まで純度の高い緊張感をキープし、きっちりと読ませる内容であったと思う。これが、あくまでも英太郎を主軸とし進行しながら、ある種の群像劇に見えなくもないのは、すべての登場人物に内面があることを、作者が忘れず、物語の動き自体に奉仕するよう、うまく、コントロールしているためであろう。また見事なのは、クライマックス、英太郎の交渉術と敵役の少年の洗脳術が同型であることを明示しながら、その差異を際立たせることで、事件そのものを終結へと導くくだりだ。登場人物のひとりが次のようにいう。〈交渉術の究極の基本は人間の返報性の原理によるものだ・・・・人には・・・・他者から何らかの誠意を受けた場合同じように誠意を返そうとする本能が働くようになっているのよ〉。しかし、おそらく英太郎の言葉は、そして声は、そういった理屈のレベルを越え、他者へと働きかけてゆく。そこに介在しているのは、たぶん、いや、やはり、こころ、なんだろうな。当然、心などといえば、ある種の議論においては判断停止とまったくの同義になりうる。それをギリギリのラインで説得力の向きに推進させているのは、英太郎の、作中では「勝算」として捉まえられている、状況把握の能力にほかならない。それは知性によるものというよりは、むしろ理性によってもたらされているものだろう。他者への働きかけと応答が、人を人としてのかたちに止めておくものだとして、そのような不文律が、ここでは、人為的な所作を経由して、自然な成り立ちへと還元されている。作品は、物語が終わったあとでも登場人物たちが、人が人を救うたったひとつの言葉を探し続けることを示唆して、おわる。もちろんのように、そのことは、ひとりの人間が生きること、生き続けることをも同時に意味している、あるいは、どんな受難の最中にあっても人は生き延びなければならない、ということの言い換えなのである。

 4巻については→こちら
 3巻については→こちら
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2006年04月10日
 もずく、ウォーキング! 1 (1)

 もしも家で飼っている犬が、もずくみたいなことを常日頃考えていたらどうだろう、そんなことを想像すると、なんだか楽しくなって、にやにやしてしまうな。『サナギさん』の2巻と同時発売になった施川ユウキの『もずく、ウォーキング!』の1巻を読みながら、なんだかやっぱり僕は、にやにやしてしまうな。ギャグ・マンガといえばギャグ・マンガなんだろうけれども、あはは、と笑って、それでお終いにならない、そんな不思議な魅力の虜となる。施川ユウキの特徴は、その、言葉遊びのセンスであるというようなことを、どっかで誰だったかが述べていた気もするが、そのような部分はたしかに『サナギさん』のほうに顕著なんだけれど、『もずく、ウォーキング!』のばあいは、そういった言語センスのおおもとであるような、柔軟にしなる作者の感性に支えられているような感じがする。たとえばもずくの飼われている家庭において、姉弟は「もずく」と呼ぶ、母は「もずくさん」と呼ぶ、父は「もずく君」と呼ぶ、これを僕は、表層的なレトリック・スキルの産物だとは考えない。むしろ発想の妙であろう。そのようにしてつくり出された、主人公サチともずくはもちろん、父や猫のキャラクターが、とりわけ愉快だ。
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2006年04月09日
 イゾラバ! 巻ノ1 (1)

 個人的な好みをいえば、お色気要素満載のコメディは苦手な部類に入るのだが、この大西実生子の『イゾラバ』はよろしいんじゃないか、おもしろい、と思う。江戸中期、才能ある能面師に惚れた花魁の常盤は、しかし、その恋が実らぬことを知り、死に、鬼となり、そして現代、能面師の子孫である以蔵の前に、時を越え、甦る。以蔵を能面師の生まれ変わりだと信じる常盤は、押しかけ女房よろしく彼につきまとい、その平穏な日常を掻き乱してゆく。といった具合に、大筋は、異性異者との非日常的な同居という、ある種のパターンをなぞった物語だといえる。そのようなパターンの典型として、下着の描写など、お色気要素が相応に盛り込まれている。そりゃあ、常盤のキュートさには、ちょっと、いや、めちゃんこ魅せられるものがある。まいる。とはいえ、僕にとっての重点はそこではなくて、これが、とにかく一途な片思いと、そして〈女の子を悪から救う〉自然居士の精神を扱っているところである。行き過ぎた想いは、たしかに人を傷つけることもあるが、しかし、ときに人を守るためにある。〈わっちゃあ物やない!! お金でどうこうされるんは好かん!!〉という常盤の嘆きに、思わぬところで〈人はおカネにかえられないさ〉と以蔵が応えている、そうした展開がいい、好みである。
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2006年04月08日
 香取センパイ 10 (10)

 すっばらしい! やはり香取権太(フルネーム)のぶっとび具合は異常だった。秋好賢一『香取センパイ』10巻である。地区不良界最強の男、西京工業3年倍賞への挑戦権をめぐり、各校2年のあいだに緊張感渦巻くなか、香取センパイはといえば、なぜか生徒会長に立候補するが、当然のように、支持率は最低で、あげく、対立候補の弱みを握ってやろうと、尾行調査を開始するのであった。もちろん、その先にあるのはトラブルだ。つうか、ガチャピンはほんとうに彼女ができたのか。あれはワン・エピソードかぎりのネタではなかったのか、というのが驚き、いや、世界中のモテないさんたちへの朗報だろう。苦労はやがて報われるのである。もちろん、その先にあるのも香取センパイがらみのトラブルだ。と、そのようにドタバタ喜劇が連続するけれども、本筋の物語はかなりシリアス気味にクライマックス加減を増してゆく。麻生との因縁の対決が、いよいよ実現し、そして香取センパイは、ついに倍賞と対面する。ちなみに倍賞は、前巻ではエアロを聴いていたが、今巻ではポール・ギルバートを聴いている。や、どうでもいいんだが。しかし、クールに決めている倍賞でさえも、香取センパイの無茶苦茶なところ、場の空気を読まない態度に翻弄される様子が、ひじょうに愉快だ。あと、サダオやワタルのみせる男ぶりが、とてもとても燃える。この巻は、ほんとうのほんとうに何度読んでもニヤニヤしてしまう、最高なので、あなたがなぜ、未だにこのマンガを読まないのか、僕にはまったく理解できない。

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2006年03月31日
 『ユリイカ』05年12月号(特集「野坂昭如」)に収められた「24アワーズ・パンティ泥棒」という文章のなかで、三田格は、ネット的な身体性つまり「回路」の利便性を基本に置いたうえで、マンガ『デスノート』に触れ、〈「間接的」な暴力の主体がどれだけ特定されないのかということが、いわばエンターテインメントの中核をなしている〉といっている。『デスノート』における、「間接的」な暴力の達成度や完成度は、すなわち、他者にダメージを与える主体がエロティシズムから切り離されている、「去勢」されているという事実を隠蔽するための、じつに効果的な機能を果たしており、それが受けているというのである。一方で三田は、森恒二の『ホーリーランド』を、逆に「直接的」であろうとする方向に振り切れた作品として取り上げ、〈『デスノート』がもしも「去勢」を解除しようとすれば、『ホーリーランド』のように、自分が攻撃した相手からは必ず逆襲を受けなければならず、そのためには相手にもノートを持たせなければならなくなる(つまり、『デスノート』という作品は成立要件を失ってしまう)〉という。『デスノート』云々はともかくとして、三田の言い分の、その裏を返してみるとすれば、『ホーリーランド』というマンガの成立要件とは、つまり、「直接的」な暴力を行使しうるがゆえに〈自分が攻撃した相手からは必ず逆襲を受けなければなら〉ないということになる。これはたしかにそのとおりで、暴力をふるう側とふるわれる側の平等な関係性こそが、あるいはリベンジする側とリベンジされる側の素直な応答こそが、『ホーリーランド』のうちに、ストリートという舞台を発生させ、その場における、ただ「直接的」なやり取りだけが、物語の総体をエンターテイメントとして、駆動させているのだ。とはいえ、しかし、それが凄惨な報復戦にならず、むしろ、私怨を越えたコミュニケーションとして成り立っているところに、その本質を見てとるべきであろう。この12巻においては、そういった部分が、より具体的に描き込まれている。〈この拳も想いがなければただの暴力だ・・・〉。ヨシトのキック・ボクシングに敗北を喫したユウは、シンイチのアドヴァイスにより立ち直り、再戦を決意するが、実力の開きから、勝ち目を見つけることができない。唯一対抗しうる自分の武器はなにか。かつて圧倒的な勝利を収めたボクシング部の山崎に、本格的なストレートの打ち方を師事しようとするけれども、山崎は、その敗北感から徹底してユウを遠ざけるのであった。自分以外の人間と対面することが、ときどき、それだけのことなのに恐怖に感じられるとしたら、どうしたらそれを乗り越えることができるのか。おそらくは、自分が自分で怖がることを許してやるしかないのではないか。そこからはじめるしかないのではないか。怖れることさえも怖れるあまり、背を向け、逃げ続けているかぎり、光はけっして射してこない、すくなくとも目の前を照らしてくれることなんてない、のである。

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 恋々。

 たぶん、山川あいじに関しては、安野モヨコ以降のコンプレックス・パーソンを扱ったマンガ家のうちのひとり、という位置づけになると思うのだけれども、では、その「安野モヨコ以降のコンプレックス・パーソン」とはどのようなものかといえば、そこらへんは小倉千加子と中村うさぎの対談『幸福論』に詳しい気がするが、僕なりに捉まえ直すと、主体というのは自意識に隷属するものだとして、その自意識自体が、現在では、他者の視線により相対化された欲望に基づいているがゆえに、事前に、欠点を匿うことを何よりも優先させるような、消去法的な在り方をたえず選択していってしまう、そういう息苦しさをまとった主体のことである。たとえば、この短編集『恋々。』でいえば、もっとも新しい作品にあたる「ハッピィ バースデー トゥ ××」に、そのような傾向は顕著である。〈しかし恋愛がうまくいかないのも いまいち自分を好きになれないのも 全ては結局コンプレックスが原因なんですね〉。「フラれるオレ」「マイナスなオレ」「シスコンなオレ」といった具合に、ガクの心には、いくつもの秘密の扉があって、それらがひとつずつ開かれるたびに、リョウとの間柄は微妙に変化してゆく。本当の気持ちなどといえば、相手も自分もうっすらとは気づいているのだけれど、その根拠だけが、しかし、どこにもない。ここで興味深いのはやはり、けっして明言されているわけではないとしても、自信あるいは自分の価値といったものが、ア・プリオリには備わっていない、あくまでも主体の外つまり他者から、ほぼ偶然のように、もたらされるものとして、描かれていることであろう。
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2006年03月30日
 NANA -ナナ- スタンダード・エディション

 ややイレギュラー的なエントリを。というか、すこし前に映画版『NANA』をDVDで観たのだった。それで『NANA』というマンガにおける、語り手の水準について思うところがあった。マンガ版『NANA』においては、語り手つまりモノローグを語る主人公のハチが、時系列でいえば、どのポイントから「あのとき」と発しているのか、ストーリーはそれを追いかけるかっこうになっており、その運動に読み手の関心は依存する。簡単にいってしまえば、ナナとハチに何があったんだろうねえ、という興味にほかならない。いつかはそれが明かされるのだろう、という期待でもある。しかし、映画版においては、最後の最後に物語が至っても、それは明らかにされない。そのことが尻切れトンボ感を覚えさせるのではないか。だから逆をいえば、語り手の水準をはっきりと配置させておくことができていれば、すっきりとしたエンディングを設けることができたようにも思う。時系列でいえば、最後のシーンに、語り手であるところのハチを置いておけばよかったのである。言い換えると、映画版においては、最後の最後まで、ストーリーを牽引してきた語り手は、けっして画面に登場しない。つまり、映画の内部に語り手が存在していないのであって、それはもちろんのように、ひとつの作品を一個の完結した空間としてみた場合には、ある種の間違いを犯していることになるのだった。まあ続編ありきの企画なのだとすれば、そのように制作されるのは必然だとはいえ、細部への配慮を欠いているのは疑いようがない。それはそれとして。いちおうパンク・バンドの設定なのに、ステージ上のアクションが完全にメタル様式であったのには、にはは、となる。いや日本のバンドって、案外そんな感じなのかな。
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2006年03月28日
 ERISA.jpg

 『向こう町ガール八景』は、衿沢世衣子の新しい短編集で、デビュー作「カナの夏」をはじめ、『コミックH』や『アックス』にて発表されたものを収めている。どれもいいが、僕が、とく好きなのは「蜻蛉スコープ」と「オムレツ」の2編である。それらのどこにどう惹かれるのかを説明するのは難しいけれど、そういう、こちら読み手の言葉ではうまくすくえない、微妙な機微こそが、衿沢の魅力ではないか、といえば、そういえる。とはいえ、思い切ってシンプルに見積もれば、たぶん、家族の成り立ちに関するエピソードだからなのかな、といった気がしないでもない。「蜻蛉スコープ」は、ときに暴力をふるう、引きこもりの兄を持った少女が、不可思議な言動をする友人のおかげで、すこしばかり気が楽になる、という話で、「オムレツ」は、6年前に家を出て行った母親が、ぶらりと舞い戻ってき、唐突に再結成された家族に、大学生の〈私〉は戸惑う、というものである。生活の最中で、ふとした出来事が、彼女たちの、物の見方に、ささやかな変化を促すと、すり切れた日々のなかに、新鮮な情緒が、思わず、立ち現れてくるようだった。

 『おかえりピアニカ』についての文章→こちら
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2006年03月26日
 おせん 11 (11)

 休日の昼間からビールを飲めることほど素晴らしいものはない、と思う人間は、すべからく、きくち正太の『おせん』を読むべきじゃあないかな。そのようなわけで、この巻は、冒頭のエピソードからして、愉快であるし、粋の境地である。おせんさんは言うだろう。〈飲んだ翌日にゃァ 二度寝が一等賞でやんすなァ〉〈飲んだ翌日にゃァ 朝っ風呂が特等賞でやんす〉そして〈飲んだ翌日の大トリにひけえしは〉何か? といえば、そりゃあもちろん、冷えたヱビスのビールなのだった。しかし前日に、ストックしてあった分をぜんぶ〈宵越しのビールは持たねえぜ〉とばかりに、お客さんにふるまってしまったので、なかなか一杯のビールにありつけない、おせんさんの悪戦苦闘ぶりが、なかなかにキュートである。続いて、蚕豆の茹で方から、すいとんの拵え方へ持っていく、エピソードの繋げ方も堂に入っており、ほんとうに惚れ惚れする。この巻の大部分を占めるアワビのエピソードにおいては、女優と脚本家そして玄人海女の、それぞれのプロフェッショナリズムが鎬を削るなかで、料理の在り方が、ちゃんと調停の役割を果たしている、そういった物語のあつらえ方がまた、じつに見事といえる。全体の進行自体は、もはやルーチンに入ってしまった感がなきにしもあらずだけれど、エンターテイメントのレベルは、未だ目減りしていない。

 10巻について→こちら
  9巻について→こちら
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 東京トイボックス 1 (1)

 『東京トイボックス』は、一言でいってしまえば、ゲーム業界を舞台とした、成功と挫折の物語である。作者うめ(TAKAHIRO OZAWA & ASAKO SEO)の絵柄は、『ちゃぶだいケンタ』のころのイメージと比べると、日本橋ヨヲコ+遠藤浩輝ふうになっている気がするのだが、じつはストーリーのほうも、そういう、モラトリアムの終焉で青い時代の息吹を持て余す、といった感じのものになっている。IT総合企業に勤め、その優秀な仕事ぶりから、若いながらも社内の評価は高い月山星乃の、密かな楽しみは、日曜の朝に戦隊特撮ものを観ながらリラックスすることであった。しかし、あるとき、そうやって和んでいる最中に、彼女の部屋のドアがピッキングされ、開く。一階下の住人で、カギを失くしてしまった天川太陽が、部屋を間違えたのだ。汚く臭い身なりの天川を、速攻で警察に突き出す星乃であったが、そのようにして出会った男の、ゲームに対する情熱と、天才的な才能が、やがて自分の仕事を救うだとは思ってもみなかった。まあ、おもしろいといえば、十分におもしろいのだけれども、『ちゃぶだいケンタ』のときのような、無様さや惨めさを引き受け、前倒しにしていくヴァイタリティは失しられており、言い換えれば、無難なおもしろさに落ち着いている。その点をどう受けとるかは、もちろん好みの領域であろう。ゲーム関連の知識もそうだし、某アニメを彷彿とさせる台詞回しや登場人物プロフィール欄の小ネタとかは、主人公たちと同世代の、70年代生まれの人間には、ノスタルジーも含め、相応のフックとして機能するんじゃないかしら。ただ個人的には、こうした団塊ジュニアの層を中心とした、モラトリアムの延滞を、表現ないし消費するのはそろそろ如何なもんだろ、というのがあって、その先をどれぐらい射程に入れているのか、この1巻の段階では、ぜんぜん見えてこないのが、むず痒い。まあ、それは、あくまでも読み手である僕の問題にしかすぎず、作品自体の評価とは関係のないことなのかもしれない。先ほどもいったが、話の運びに関してはおもしろい、読ませるものがある。
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 Fashion Leader今井正太郎 1 (1)

 モテたいか、モテたくないか、といえば、そりゃあモテたい盛りですよ。いや、大勢にモテたいとはいわない、せめて好きな子に振り向いてもらいたいというのが人情であろう。しかし、そうそうなかなかなってくれないのが、この世の理なのだった。それにしても、いったい何がどうしてこうも、うまくいかせてはくれないのだろう。疑問に対する解答は明快かつ単純に、お前さんが死ぬほどダサいからだよ、といわれれば、ああまあそれはそうなんだろうけれど、と首肯せざるをえないのが、大いに不本意である。西山佑太の『Fashion Leader 今井正太郎』は、じっさいに『週間少年マガジン』の連載で読んでると、他のマンガとの並びのせいか、どうもその世界に入っていけないところがあったのだが、こうしてまとめて読んでみると、じつにナイスなコメディさ加減で、抱腹絶倒とはいかないまでも、くすくすと笑い、過ごせる。決してありえない服装のせいで、告白に失敗し、傷心した今井正太郎が、しかし、めげず、恋愛を獲得するために、自らのファッション・センスを高めようとする、というのが全体の要約なのだが、その成長具合のてんで方向違いであることが、ひそやかな笑いを、さそう。いやあ、第1話の、はじめて原宿を訪れ、じょじょに羞恥心を覚えてゆく過程とか、あんがい見せ方に説得力を持たせる、そのための工夫が凝らされているように思うし、作中の登場人物たちがじっさいにお洒落であるかどうかは、読んでてどうでもいいと感じさせる、力業も併せ持っている。それと脇を固める主人公の友人たちが、なにげに、青春っぽい雰囲気をサポートしていて、というのも、リーダーとかいって、ふつう、付きあいきれないでしょう、といったところで、おもしろ半分だとしても、ちゃんと最後まで付きあうあたり、好感度が高い。まあ、これを読んだからといってモテるようになるとは、けっして思わないけれども、万遍のないバカバカしさは、ふいに無様な自分を勇気づける。
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 イカロスの山 1 (1)

 塀内夏子は、良くも悪くも、正統派なマンガ描きといった印象であり、ギミックやストーリーの見せ方よりは、むしろ主題で勝負といった、一本気なところが、今の時代においては、ややオールドスクールに感じられてしまう、そのあたりが、不幸といえば、そうなんだろう。これまでの塀内のマンガは、ごく初期を除けば、どちらかというと、人間同士の横の繋がりよりも、縦の繋がり、上下の連係、つまり「教える-学ぶ」といった関係性を軸として展開されていたように思えるのだが、この『イカロスの山』においては、横の繋がり、友情といってしまえば、まあ、そうなのだろうけれど、どうもそんな単純な一言では片付けられない桎梏のほうに、すくなくともこの1巻の段階に関しては、大きく比重があてられている。現在は医師として、妻子とともに安寧な生活を営む三上には、大学時代、クライマーとして活躍した過去があった。今でも、胸にくすぶる登山への情熱を感じることはあるが、家族のことを想えば、ザイルを使った危険なチャレンジは、もうしない。一方、学生のころ三上とコンビを組んでいた平岡は、就職もせず、今でも山を登り続けている。もはや交わるはずのなかった二人の運命は、しかし、ヒマラヤで発見された8006メートルの未踏峰を知らせるニュースを、ひとつのきっかけとして、ふたたび繋がりはじめる。そのほかに物語の主要人物として登場している、すくなからず平岡との因縁を感じさせる三上の妻靖子と、平岡に憧れる若きクライマー吉崎の存在が、三上と平岡の相対性をより際立たせるかっこうとなっており、平岡と吉崎の線は「教える-学ぶ」といった、塀内作品従来のモチーフを踏襲しているといえる。いや、それにしても、なんでだろう、僕はといえば、とりたててドラマは佳境に入っているというわけでもないのに、これを読んでいるうちに、なぜか、泣けてきてしまい、困るのであった。たぶん登場人物たちと年齢的に近しいというのもあるのだろうが、しがらみのあることが孤独なのか、しがらみのないことが孤独なのか、いずれにせよ人はみな孤独ではないのか、などと思わず考えさせられてしまうからなのかもしれない。あと、次巻予告の、吉崎へのクローズ・アップの仕方が、編集サイドの仕事なんだろうけれど、過渡に悲劇的なのは、ずるい。

 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
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 ペンギンプリンス

 『プリキュウ』の最富キョウスケによる短編集。ぜんぶで5つのマンガが収められているが、なかでもよかったのは、表題作にあたる「ペンギンプリンス」である。魔女顔であるばかりに、つねに第一印象のよくない勅使河原蘭子は、あるとき学校中の女子から王子様として慕われる村上隆治の、意外な一面を目撃してしまう。じつはヘタレなのに周囲の期待に応えようとする村上は、自分の弱点を知られてしまったことで、極度にうろたえるけれど、そんな彼に向かって蘭子は〈いいじゃん ペンギン王子 弱点のない奴なんか 底が知れてるよ〉と微笑むのであった。蘭子、男前である。燃えるな。いや、蘭子に限らず、ここに収録されているどれもが、基本的に、ハンサムなヒロインを扱っており、作者のコメントを借りるのであれば〈ちゃんと『ノリと気合』で乗り切ります!〉といったタイプの人物に造型されている。翻って、男子は、ツンデレっていう言葉の意味はよくわからないのであまり使いたくはないのだが、表面上は突っ張っているけれども、内心は弱気で、好きな子の前ではがらりと表情が変わり、甘える、そういった性格づけがなされており、男女両者の逆立ちしたコントラスが、スウィートな恋愛劇に、鮮やかな情緒を施している。

 『プリキュウ』についての文章→こちら
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2006年03月25日
 ヤスコとケンジ 2 (2)

 突然降ってわいたケンジのお見合い話に、ケンジに想いを寄せるエリカは心中穏やかではない。エリカの恋を応援したいヤスコは、断固お見合い反対のスタンスであるが、しかし、はたして現れたお見合い相手は、ケンジが描くマンガのヒロインそっくりなルックスなのだった。アルコ『ヤスコとケンジ』もいよいよ2巻目なのだけれど、コメディとしてみたばあい、ややファニーさに欠けるような気がするし、ハートフルな部分に着目しても、ドタバタした感触の先走りのせいで、いささかエモーションが上滑りな感じがしないでもない。けれど、それというのはもしかすると、僕がキャラ読みのできないタイプの人間だからなのだとしたら、こっち側の問題になるのかもしれないが、うーん、たとえば番外編として収められている「モスの恋編」は、要するに、美女と野獣的なモチーフなのだけれども、オチに年齢の大幅なひらきを持ってくるにしても、西村博之『道士郎でござる』における、早乙女(前島)のワン・エピソードと比べてみれば、どうも落としどころに決定的な弱さを覚える。まあそこで、比較対象自体が間違っているとわれると困ってしまうのだが、そうか、ならば川原泉『笑う大天使』の兄妹にはあったような、デコボコの連係が、ケンジとヤスコのあいだでは、あまりうまく働いておらず、じつはそこのところ、作風の違いの一言で片付けられる問題ではなくて、根本における作者の足場の脆さを物語っているのではないか、と勘ぐったりもする。ひょっとしたら僕の期待値が高すぎるのかしら。

 1巻について→こちら

 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2006年03月24日
 ロボとうさ吉 2 (2)

 加藤和恵『ロボとうさ吉』は、ひじょうにエンターテインな内容ではあるのだけれども、どうも最高潮にまで気分が持っていかれることはなくて、それはどうしてだろう、というのが引っかかり、気になっていたのだが、この巻におけるある場面が、その理由を象徴的に表しているような感じがした。衛星軌道を最速でまわるレースの途中で、軍が介入し、すべてがぶち壊しになったとき、主人公のひとりであるロビンが〈わーわかんないわかんない わかんないよ!!!〉〈お前らはなんなんだ!!! なんでおいらにつきまとうんだよ〉〈おいらはこのレースにゆうしょうして〉〈宇宙船なおしたいだけなんだ!!〉〈だからもうほっといてよ!!!〉と叫ぶ。僕個人は、このマンガを、ごく初期の『ドラゴンボール』のような、旅は道連れ的な冒険活劇のヴァリエーションとして楽しみたいところなのだが、というか、人里離れた場所で生活していた人外の者が、余所からやってきたワケアリ者にナビゲートされ旅立つ、といったプロット自体は、そのように出来ていると思うのだが、それ以外の設定が、たとえば「あらすじ」における固有名の多さからして、ちょっとばかり面倒くささを含んでいるのと同時に、よくある主体がふたつに引き裂かれる描写が多く用いられているため、爽快感がめっきりと後退してしまっている。つまり〈おいらはこのレースにゆうしょうして〉〈宇宙船なおしたいだけなんだ!!〉といった、シンプルな一本道が、その他の出来事や思惑によって、ことごとく迂回させられてしまう、言い換えれば、ワンエピソードが一個のイベントとしては完結しないまま、次々に大量のガジェットが投機されてしまう点に、いささか不満を覚えるのである。
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 自分の才能に気づくのは幸か不幸か、という問題があって、たとえ己の天賦に無自覚であったとしても幸福に生きるというのはありうる、逆に己の無能さを自覚してしまったばかりに不幸になるというのもありうる、だからまあ、才能だなんてそんなこと考えないほうが、と思うこともあるのだった。それはそれとして。神尾葉子『キャットストリート』の4巻である。子役としての挫折から立ち直れず、引きこもりになってしまった恵都は、フリー・スクールに通い出すことで、じょじょにかつての明るさを回復していった。子役のころ、自分を陥れた奈子の代役として、新人バンドのプロモーション・ビデオに参加させられることになった恵都は、しかし、その撮影現場で、与えられた役割をきっちりとこなし、いっとき輝きに満ちた表情を取り戻すのであった。たちまちその映像は評判となり、ざわめき出す周囲に、ようやく築き上げた友人たちとの関係が壊れてしまわないかを心配する、そんな恵都の耳に、フリー・スクール閉鎖の噂が聞えてくる。この巻では、わりと恋愛のモードがつよく打ち出されており、恵都と玲、浩一のトライアングルが、微妙に変形しはじめるのが、ひとつの見所であるわけだが、いやいや、ヤキモチを焼く玲と叶わぬ想いに傷つく浩一の姿が、とってもキュートだったりするのだけれども、その一方で、やはり恵都の成長ぶりが、大きな関心として物語を動かしている。さる高名な演出家から、長いブランクに関して、駄目出しをされた恵都は、遅れてやってきたプロ意識に、はじめて傷つく。〈昔は いつも 仕事は黙っていても向こうから来たから いらないっていわれたのはじめてだった〉からである。まだ、ふたたび役者をやるかどうかは決めていないが、とりあえず発声練習を開始する恵都の姿は、まちがいなく、再生への手がかりを映し出している。〈この短い舞台に立ちながら ひとつコードの抜けたテレビを思った〉〈赤白黄 どれが繋がらなくてもなにも映し出さない〉。みっつのコードのたとえは、僕には、自分が自分にしてあげられること、自分が他人にしてあげられること、そして他人が自分にしてくれること、そういった三点の交わりを意味しているように思えた。

 3巻についての文章→こちら
 1、2巻についての文章→こちら
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2006年03月23日
 『週間ヤングサンデー』17号掲載の読み切り。昨年同誌の36・37合併号に掲載されたものの続編である。人気絶頂のアイドル里美あずさは、幼馴染みの平山圭太を装うことによって、プロ野球選手になるという夢を叶えようとする。『アイドルA(エース)』といった題名は、そのような事情、つまり「アイドル」と「エース」にかかっていると思われる。今回は、ついに高卒ルーキーとしてプロのマウンドに立った圭太(あずさ)の活躍が描かれているのだが、こういった入れ替わりとすれ違いを軸とした物語こそが、あだち充の得意とするものであったことを、あらためて確認するのみであった。『タッチ』にしても『スローステップ』にしても、そういうシチュエーションをうまく扱っていたわけだし。ま、じつに、あやうげなく、楽しいですよ。シリーズ化ということなので、今後もときおり登場するんだろう。架空のグラビア・アイドルに関するアンケートといった当初の企画を抜きにすると、先ほどもいったが、とりたててチャレンジングな内容ではないので、単行本になるまで続くのか、新しい短編集に収められることになるのかわからないけれど、それまではとくに言うことはないかな。

 1話目については→こちら
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2006年03月22日
 MUSI.jpg

 『週間少年ジャンプ』第15号(3月27日号)掲載の読み切り。えーっと、今週号ではなくて、先週号に載っていた作品です。最近の『ジャンプ』の新人さんは、どうも僕の不得手なタイプが多く、あまり注意してみないため、今ごろになって読んだ。そしたら、いや、これがけっこうヒットだったのである。たぶん、すこしばかりスクライド成分が含まれているみたいな感じがする、というのもある。村中孝『蟲人間 INSECTOR』は、その筋を大まかに取り出せば、次のような話になる。

 主人公である暗夜甲虫(あんやこうむ)は、家庭の事情により引っ越しを繰り返していたため、なかなか友達というものを持てずにいた。また友達ができにくい理由は他にもある。その体躯が人並み外れて巨大なため、周りの人間からは、はからずも凶暴な奴だと思われてしまうのだ。どうしても友達の欲しい彼は、新しい転校先の高校で、必死になってみんなに愛想を振りまくのだが、そこでひとりの、暗い表情の少女と出会う。彼女は、〈人間なのに虫の様な特徴とその能力を持ち人を殺す危ない能力者らしい〉と噂される蟲人間からストーカーの被害に遭っていた。彼女と親しくなった人間は、みんな蟲人間によって傷つけられる、そのために彼女に近づくものはなくて、ひとり孤独な学園生活を送る。暗夜甲虫は、そんな彼女の姿を見、救ってやりたいと思うのであった。

 ネタを割ってしまえば、じつはストーカーをしていたのは蟲人間を装っていた偽物で、暗夜甲虫こそが〈ああそーだ オレは確かに化物・・・お陰で誰も友達いねーよ!!〉〈子供の頃から不思議だったよ 何で俺は皆と違うのかって〉〈でも今ならわかるぜ!! 俺の力はお前のような奴から友達を助ける為に〉〈あったんだってな!!〉といった具合に、熱血で心の優しい蟲人間だったのだ。まあ、そういったストーリーの展開はともかく、台詞回しや、あと絵柄のダイナミックさ加減が、なかなかに燃えで、良い感じなのである。

 それから、ひとつポイントを挙げるとしたならば、たとえば〈犯罪者と同じよ 異質な存在でありながら 普段は社会に溶け込み 普通に暮らしている〉という、まあ偏っているといえなくもない言葉に、おそらくは作者の無意識が現れているように、このマンガにおいては、善と悪とが、完全に二項として分離されているところであろう。結果、善と悪が、主体のなかで、綱引きを起こしていない。それこそ『ブリーチ』や『NARUTO』の連載分をみてみればわかるのだけれども、主体がふたつに引き裂かれるような表現が、いま現在の少年マンガの主流だとして、ポジティヴな意志のちゃんとひとつに固まっているこれは、読み切りだからといった部分を差し引いても、けっこうレアなケースではないか、と思う。

 もちろん、その点をもって、勧善懲悪のパターンだと判じ、アクチュアルさの欠如を断じることはできるが、いやいや、僕などは、こういう時代だからこそ逆に、これぐらいのガッツと思い遣りに突き抜けていたほうが、どこか信じられる気がするのだった。
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2006年03月20日
 終わりとはじまり

 世に詩が満ちることは、けっしてすばらしいことではない。だって、今こそが、そういう時代だろう。まあ、そのうちの大半が詩ですらないといえば、そのとおりで、しかし、では、詩はどこにあるのだろう。『文學界』4月号の、吉本隆明『詩学叙説』の書評で、伊藤氏貴が次のようにいっている。〈一体、日本の「詩人口」は現在のところ何人くらいなのだろう〉〈もちろん、これだけでは「詩人」の人数なのか「詩愛好家」の人数なのかわからない〉〈しかし、「詩人」をプロフェッショナルに限定しないなら、両者の数はそれほど大きく異ならないだろう〉。とはいえ、本職の詩人が書いたものと素人ポエマーの書いたものとでは、その、ひとつひとつの言葉に対する気配りの有り様において、差異は歴然としている、と僕は思うのだが、人によっては、後者のほうをより好む、より大きな価値を置く場合などあり、そんなことを考え出せば、やはり、詩はどこにあるのだろうか、と首を傾げたくもなる。

 小林エリカ『終わりとはじまり』は、それ相応に有名な詩人の作品から受けたインスピレーションを、マンガへと発展させたものである。『終わりとはじまり』という題名からわかるように、ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩が用いられているのはもちろん、それ以外には、ヤニス・リッツォス、宮沢賢治、ロベール・デスノスといった人たちの作品が取り上げられている。マフムード・アル・ブライカーンに関しては、寡聞にしてここではじめて知ったのだが、基本的に、抽象的かつ幻想的な作風のものが選ばれているようだ。僕は、小林エリカについては、文筆(小説など)の活動のファンであるけれども、それ以外の、つまりイラストやマンガにおいては、まあ根底のセンスは同じなのだろうが、あまり高い関心はなくて、だから、正直なところをいえばこれも、どうだろう、といった疑問形でしか触れられない。絵柄は好みの問題だとしても、本来、詩の言葉のうちにある拡がりが、青春という限定された情緒に回収されてしまっているのは、やはりうまくないのではないかな、と思う。

 たとえば僕の考えを述べれば、ここで詩情として扱われているような、少年性のロマンチシズムは、青春の外部に立ったとき、つまりモラトリアムの外へと至ったときに、はじめてその真価が試されるのであり、けっして有り体の姿で青春の像を仮構したり捏造するためにのみ、尊ばれるべきではないのである。
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2006年03月17日
 ヤマトナデシコ七変化 15 (15)

 もはやルーティンといえるような、終わりなき非日常的なドタバタ劇に達しながら、それでも一定以上のアクチュアリティをキープし続けているのだから、大したものだ。と感心しながら、はやかわともこの『ヤマトナデシコ七変化』の15巻を読むのだった。また、感心するのはそればかりではなくて、根暗なゴシック・ガール中原スナコを、美少年4人組が一人前のレディに導くといった、物語総体の目的が一時も忘れられていないところに、たいそうなエラさを感じる。そのようなわけで、嫌がるスナコを合コンに送り出そうとする4人組であったが、しかし、そのことがスナコの忘却された忌々しき記憶を呼び覚ましてしまう。ここで読み手の側に明かされるのは、スナコの特殊性が、天然のものではなくて、じつは過去のとある出来事に起因しているということだ。これにはちょっと驚いた。昔は、ごくふつうの少女だったのである。人がネガティヴになるには、やはり、それ相応の理由が必要とされるのだろう。しかし興味深いのは、「うらばなし」の項で作者が述べるところによると、このエピソードはじつは〈あたくし的には「最終回」みたいなモノ〉だったという話だ。まあ、たしかにトラウマじみた原体験が取り除かれることで、人は、それこそ生まれ変わったかのように、変われるというのはありうるのかもしれない。だが、それはそれである意味においては、ひどく安直な結着に他ならない。要するに、そうした安直さは、この巻での展開によって、回避されている。これは、物語があくまでも、過去から未来へと延びる直線的な運動のなかに置かれていることの必然だともいえる。そのように考えたとき、スナコにかけられる〈今のままでいい〉という言葉は、けっして現状維持の怠惰さを薦めるものではない、そうではなくて、「今を一生懸命に生きればいい」といった、明日へ繋がっていくための前向きさを促す、激励の、言い換えに違いない。と、ここまで書き、そうした堅苦しさは、このマンガを読むにあたって不要なのではないか、と思い返せば、それもまた、ひとつのチャームなんだろうなあ、と、あらためて感心するのだった。
 
 14巻についての文章→こちら
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2006年03月16日
 住み込みの仕事を探していた雨宮ふうは、公園のベンチで眠ってしまっていたところを、謎の男3人組に連れ去られる。彼らは、彼女に職を与えたい、という。彼らの衣食を世話する、ハウスキーパーのような役割だという。ふうはその話に、よろこんで乗るのだが、しかし、ひとつ疑問なのは、彼らが自分たちの仕事を秘密にしていることであった。怪しげな男の来訪、そして偶然発見してしまった拳銃に、ふうは、思わず不安を覚える。そのとき、仕事場の奥からは、誰それを殺すだとかの、ぶっそうな話が漏れてきて。と、ネタを割ってしまえば、彼らの正体はマンガ家であるといった、まあ、アリガチといえばアリガチなパターンで幕を開ける遊知やよみ『素敵ギルド』の1巻である。さて。ふうと壱、三慈、五佑との共同生活が如何様にして進んでいくのか、そして、ふうが身ひとつで公園に寝泊まりしていた理由はなぜか、といった部分への関心が、物語の本筋にあたるのだと思うが、正直、そういった部分についても、やはりアリガチ以上のつくりにはなっていないかな、という印象だ。が、ワニと呼ばれる売れっこマンガ家のエピソードは、個人的にヒットだった。簡単にいうと、アイデンティティの揺らぎというか、自信喪失をめぐるお話で、解決の在り方をとれば、甘すぎる、のだけれど、その甘さを含めて、作者自身の読み手と表現に対する信頼あるいは期待が透けて見えるのだとすれば、けっして悪くはない雰囲気として、受け入れることができた。
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2006年03月15日
 さんさん録 1 (1)

 あはは。おもしろい、というか、ゆかい、というか、ああ、そうか、たぶん、愛嬌がある、というのが、いちばんしっくりとくるかな。こうの史代の『さんさん録』がいいのは、なにはともあれ登場人物たちが、生き生きとしているところであろう。伊藤剛がいうところの「キャラ」「キャラクター」の区別でいったらどっちになるのかはわからないけれども、そのアクションとリアクションの数々に、思わず、顔が綻んでしまうのだった。〈妻が突然逝ってしまった〉。あとに残された参平(参さん)は、息子夫婦と同居することになるのだが、その性格のためか、孫の乃菜からは〈ぼけかけてるって本当か?〉と言われる始末である。あるとき荷物を整理していたら、いまは亡き妻(おつう)が書き留めた、一冊のノートが出てきた。そこに記されている生活作法をもとに、参平は、できうるかぎり家庭に貢献しようと、奮闘しては、失敗する、そんな日々が描かれている。ふつう、こういう話であれば、幸せ家族ばんざい、みたいな典型に陥ってしまいそうな気もするのだけれども、そうはなっていない。先ほどもいったが、登場人物たちの在り方が、じつにナイスで、魅力的なのであり、そのことが、なかなか他に類をみない、にぎやかな笑いのうちに、ハート・ウォーミングな雰囲気をつくりだしてゆく。たとえば、参平をして〈わが孫ながらほんとにうすきみわるいガキだな〉と思われてしまう乃菜などは、その可愛くない表情や行動のいちいちに、くすり、とさせられてしまう。昆虫好きの彼女は、感謝のしるしに、〈じいちゃん……まるむしあげようか〉という。いや、いらねえだろ。この乃菜と参平のコンビネーションが、ほんとうに抜群なのである。買い物に出かけたさいなども、お互いに意思疎通がはかれてなくてねえ。あと、息子(詩郎)の仕事関係で知り合った仙川さんと参平のやりとりも、楽しい。グーで男を殴る女性というのは、だいたいキュートなものである。そのようにして綴られているのは、じつは年齢や性別にかかわる、ある種のコミュニケーション・ギャップなのだが、しかし、それがシリアスにではなくて、あくまでもユーモラスに展開されている点が、ときおり顔を出す、心に触れるような、鮮やかな情景を際立てるかっこうになっている。

 『夕凪の街 桜の国』についての文章→こちら
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2006年03月13日
 GOLD15.jpg

 ああ、最期の最期に漢(おとこ)をみせるかよ、イグナシオ。まさに〈・・・ドラマのクライマックスだぜ〉といった感じの、山本隆一郎『GOLD』15巻である。イグナシオの謀略により、一夜にしてロットン・アップルズは、ほぼ壊滅状態に陥った。窮地に立たされた十雲は、死神の幻影を見、死へ向かう覚悟の足りなさを思う。一方、スバルは、ステゴロの元と呼ばれる伝説のヤクザとのタイマンにおいて、いま敗北を喫しようとしている。しかし、生き方を見失ったことに対する人々の後悔や戸惑いが、十雲とスバルを、ふたたび立ち上がらせるのだった。もしも人間に「ほんとうのじぶん」などといったものが備わっているとして、つねにそれを自分の心のうちに置いておくことは、とても困難だ。だから、ときに自分以外の何かを頼ったりもするんだろう。イグナシオは言った。〈すがる物が何もなく生きていくのは・・・とても不安なんだ〉。『GOLD』というマンガは、ひとつ、「ほんとうのじぶん」にまつわる物語なのだと思う。けれども、それはア・プリオリに各人のなかに在るものではなくて、苛酷な地獄巡りの果てに、ようやく発見される、そういった類のものに他ならない。かくして、ある者はアウトサイドに身を落とし、ある者はそのアウトサイドにすら居場所を見つけられず、そしてある者は〈他人を無価値と断じることでしか自分の存在を確認できない――そんな自分はいつまでたっても“本物”になれないんじゃないか・・・〉と考え、〈今日この場を死に場所に選んだんだ〉と言う。〈おまえは死ぬ事が怖くないワケじゃない〉〈生きていく事が怖いんや!〉といわれれば、たしかに、そうとおりなのだった。そうした恐怖を引き受け続けること、あるいは乗り越えようとすること、そして生き延びることを指して、「闘い」と呼ぶとき、かならずや「闘う理由」はあった。「闘う理由」とは、要するに、「光」の言い換えである。ところで「光」とは、自分を照らしてくれるためにあるのだろうか、それとも、自分以外のものを照らすためにあるものだろうか、おそらくは両方の面を兼ね揃えている。がゆえに人は、「光」を見いだす、そのことで、生きるも死ぬもできるのではないか。などと、いやいや、じっさいのところはどうかわからないんだけれど、すくなくとも光のために闘うのなら、そこには胸を張るに値する「ほんとうのじぶん」といったものがあって、過去に犯した間違いをすら、正面から迎え入れられるに違いない。さて。この巻で、怒濤の展開は、いったん収束している。ほとんどの登場人物が日常へと帰還した。なので逆に、ここからスバルと十雲が、どうやって結着をつけるのか、そこへどのようにして物語を持っていくのか、一段落したあとだからこそ、またもや目が離せなくなってしまった。というか、いよいよヤンキー・マンガ云々という文脈を越え、いま現在もっともおもしろいマンガといってしまいたくもなるのだが、まだあなたはこれを読んでいないのか。なんてもったいない。

 13巻と14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻につてい→こちら
 10巻について→こちら
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2006年03月10日
 卓球Dash!! 3 (3) 

 本田真吾の『卓球Dash!!』は新刊が出るたびに何か書こうかとは思うのだけれども、正直なところ、いまいちマンガのなかに入っていけないので、どうも先送りにしてしまう。結局、ヤンキー・マンガのヴァリエーションとしてみるべきなのか、それともスポーツ・マンガのヴァリエーションとしてみるべきなのか、もちろんそれらのミックスなのか、そういったバランスが僕のなかでうまくとれないからなのだと思う。じっさい卓球のシーンもケンカのシーンもあまり燃えないというのもある。登場人物の性格(キャラクター)のみで、物語が引っ張られているというか。いちばん近いのは、馬場康誌『空手小公子 小日向海流』を読んでいるときの感覚かなあ、という気がしないでもない。そういえば本田も馬場も代々木アニメーション学院の出身だ。しかし、あれはあれでビルドゥングス・ロマン的な側面を備えているのに対して、こちらはそういった部分すらも排除されてしまっているふうに思えるのである。とはいえ、この巻の終わりあたりにおけるケンカの描かれ方には、なかなか魅せるものがあったので、もうしばらく様子をみたい。あ、また先送りだ。
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 武士なあ、武士はなあ、やはり壮絶に在ってナンボ、みたいなところがあるよなあ、そのためには相当の覚悟がいる、憧れる気持ちもあるんだが、自分が武士ではなかったことに安心する気持ちもあったりして。森田信吾は『伊庭征西日記』で、幕末において武士の矜持をまっとうした、伊庭八郎の生涯を描いている。類い希な剣の才を持ちながら、当時は不治の病であった結核を患う伊庭は、その秘密を誰にも漏らさず、あくまでも幕臣として勤め、生き、そして死んでいったのであった。前半はともかく、後半「鳥羽伏見の戦い」以降、つまり幕府軍が劣勢になってからが、ちょっと、ヘヴィである。菊の御紋(天皇の旗印)を前に、尻込みし、撤退する自軍のなかにあって、伊庭は銃撃された体を引きずり、日の丸(幕府軍の旗印)をあげる。その後の展開は、まさに悲愴というに相応しい。これを見せられたら、日本男児として生まれただけで、自分が武士あるいは侍であるだなんて思い上がり、口が裂けても言えない。それにしても、さいきん森田信吾のマンガがおもしろく感じられる。僕が歳をとったっていうのもあるのか。

 『影風魔ハヤセ』第1巻について→こちら
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2006年03月02日
 だいたいのところ世界はクソだという耐えがたさに耐えながら生きている。じゃあ、お前さんはどうしたいんだ? という問いに対して、速攻で、明確に明快な回答を返せないのが、おおいに不本意だ。そんな風に考えたときに、キーチやっぱすげえな、ってなるよ。というわけで、燃え、かつ盛り上がり過多な新井英樹『キーチ!!』の8巻である。ついに計画は決行された。〈俺がすることをジャマするなら、お前ら警察も法律も、敵だ!! 俺の目に入らないように消え失せろ〉。国会議事堂前、ワンボックス車に籠城したふたりの小学生、輝一と甲斐は、「バレなきゃOK」のルールで生きる次期首相候補の罪を、白日のもとに曝す。マスメディアさえ見事に使いこなした甲斐の戦略は、輝一の主張を世のなかへ向け大々的にアピールし、ブラウン管の前で大人たちは、ただただ右往左往するばかりであった。ごく少数人によるテロリズムということであれば、同作者による『THE WORLD IS MINE』のヴァリエーション的な展開に見えなくもないが、しかし僕はといえば、こちらのほうを買うな、という感じである。というのは、以前にも書いた気がするけれど、僕という読み手は『キーチ!!』それから『SUGAR』以前の新井英樹というマンガ家に対しての評価はあまり高くない、むしろ低いというのもあるが、ここでは、とにかくカタルシスへ向かう直線的な動きが、物語を推進させる、そういうキーとなっているからである。もちろん、それは作者のテクニカルな操作ゆえに、なのかもしれないが、すくなくともフィクションが現実を穿つ、そのための効果的な作用を発揮している。言い換えるのであれば、七面倒くさい御託を抜きにしたエンターテイメントでありながらも、いや、狂おしいほどのエンターテイメントに終始しているからこそ、読み手の心を大きく動かすんだろ、というわけである。

 7巻についての文章→こちら
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 sinzinn.jpg
 
 『週間少年チャンピオン』NO.14(3月16日)号掲載の読み切り。ある朝、主人公が学校に行くと、彼の机の上には花瓶が置いてあった。ひどい悪戯だと思い、クラスメイトたちに詰め寄るが、しかし無視されるばかりであった。〈みんなにはあなたは見えないの あなたは別のクラスになりました〉、見知らぬ少女に案内され入った教室で、編入生として、教師から次のような説明を受ける。〈お前は死んだ ここの奴らは皆……死んだ奴らだ 全国から集まって来た 死んでも死にきれねえ……幽霊になっちまった中学生だな ここは…そのクラスなのさ……〉。生前にやり残した何か、それをやり遂げられれば、無事成仏できるというが、主人公には、自分がいったい何をやり残したのか、まったく思い出すことができない。絵の雰囲気と話の筋からいって、さいしょ『サスペリア』あたりから引っ張ってきたマンガ家なのかと思ったが、ちがった。梅田阿比は、第65回新人まんが賞受賞者で、この『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』は、その受賞作にあたる。死者をモチーフにした青春劇というのは、まあ珍しいものではないけれど、それにしてもけっこう引き込まれる内容だった。物語のポイントは、死者と生者との交流ではなくて、あくまでも死者と死者同士の交流に置かれている。生者のストーリーへの介入は、霊能力者による攻撃といった一点でのみ行われているが、それというのはつまり、主人公のいる位置からすると、外部からの侵入に他ならない。要するに、ここでは死者という存在を用い、物語を、現実の世界から隔離することで、ひとつのアレゴリカルな空間が作り上げられているのである。そのなかにあっては、リアリティに則した懐疑は無効化される。そのように、主人公が幽霊だということの意味合いは、ファンタジーのうちにやがてある種の普遍性を導いてゆく、といった成果をあげている。あるいは、ここで繰り広げられる、優等生的な純粋さというのは、もはや現実の世界を舞台にしては成り立たないものなのかもしれない。総体的にみれば、たしかに拙いところもあるが、結末の爽やかな印象が、読後を鮮やかに塗り替えた。梅田は、次号より早速『人形師いろは』という連載を開始するらしいが、そちらも今から楽しみである。
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2006年02月28日
 蒼太の包丁 10 (10)

 いよいよ経営が立ちゆかなくなり、北海道の実家『きたおか』が売却されることを父から聞かされた蒼太は、家業を継ぎ「故郷を元気にするような店をいつか作る」という一心で頑張ってきた、その励みとなる支えを失いかけるほどのショックを受ける。しょげる蒼太に周囲の人々は優しい。『富み久』の常連が持ちかけてきた投資の話は、蒼太を元気づけるが、京都から修行にやって来ている同世代のライバル花ノ井は、〈どうなんやろ? 恵まれてるのを通り越して甘いんと違いますか?〉と、厳しい言葉を投げつけるのであった。花ノ井の態度は、いっけんドラマの盛り上がりに水を差す嫌な奴ふうのものであり、じっさいにべつの登場人物から非難されたりもするのだけれども、しかしこの指摘はそのまま、物語上における都合の良さをも射抜いているように思う。帰る場所が失われるというのは、じつに深刻な問題である。だが、それを回避することのできない状況というのも、たしかにある。この巻のポイントは、そうしたさいに、自分の気持ちとどうやって折り合いをつけるか、ということであろう。モチベーションを見失ってしまった蒼太にかける、元先輩青柳の台詞が、いい。〈目標が無くなっても志まで消えたわけじゃねぇんだろ?〉。時間はつねに過ぎゆくものであり、当人の努力次第ではどうにもならない事態に無力感を覚えることもある。しかし未来に目を向ければ、これですべて終わりってわけじゃあないだろ。やがて立ち直り、決意を新たに〈・・・ゼロからすべて自分の力でやり遂げればいい〉という蒼太の凜とした言葉は、〈一から身を起こすのが当たり前〉〈ぬるま湯の中からは何も生まれませんよ〉とする花ノ井の、自分を厳しく律する姿形に、一歩追いついたものとして存在しているのであった。

 9巻についての文章→こちら
 8巻についての文章→こちら
 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら
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2006年02月27日
 ううむ。まったくもって感心しない話の運びである。がっかりだ。なんでこうなるのか、よくわからない。いよいよ直接対決となったジミーとピンコであるが、ピンコの突きつける〈おまえには“大事なもの”を持つ“覚悟”があるのか!?〉という言葉に、動揺を隠せないジミーであった。このふたりのやりとりは、いってみれば、この数巻における最大の山場なのだけれども、正直、不可解だとしかいえない結末を迎える。というのも、たとえば恋人を連れて歩いているときに、100人に襲われたら、はたして恋人を守れるのか、という問いに対して、自分の想像力のなさをジミーは感じるわけだが、これは、この世のなかで自分と自分の恋人だけはそんな目に遭うことはない、絶対に安心で平和だ、などと考えていれば、たしかに阿呆である、想像力が欠如しているといえるが、けっしてジミーはそういうキャラクターではなかっただろう。また反対に、この世界は危険なので100人からに襲われれば自分は絶対に恋人を守れない、といった考えを持つことが想像力の保証になるという安直さも、ちょっと納得がいかない。まあ守れませんよ、どうしたらいいのかというのはありますよ、でも、そんな思いなしに苛まれて暮らしているのなら、ただのオブセッションである。だいいち、ここまでのストーリーにおいて、ジミーのうちに「大事なもの」を持つ「覚悟」がないようには、そのことに無自覚であるようには描かれてこなかったではないか。だから仲間がピンチに陥ったりするたび、その窮地に駆けつけることで、物語は動いてきたはずである。この巻の前半では、だから仲間たちは逆にジミーのために、幾度となく立ち上がる。このあたりはけっこう燃えるのである。だが後半に、程度の低い思考実験が紛れ込めば、ぜんぶ台無しになってしまった。僕の頭が悪いのか、このエピソードを通じて作者が何を伝えようとしているのか、ぜんぜん理解できないのだが、これ、次巻以降で挽回できるのかしら、ねえ。

 4巻については→こちら
 3巻については→こちら

 『ドリームキング』2巻については→こちら
 『ドリームキング』1巻については→こちら
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2006年02月26日
 多重人格探偵サイコ (11)

 章タイトルが「デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ」で、登場人物のひとりが〈世界の終わり・・・その先にある果て それを見てみたい・・・〉などといえば、これはもうミッシェルガン・エレファントなわけだが、そういったインプットは、もちろん大塚英志ではなくて、田島昭宇の側によるものだろう。だが、世界の終わり、といったファクター自体はといえば、たぶん大塚が用意したものなんじゃないかな、とは思う。ルーシー・モノストーンあるいは℃の造型は、まるでロック・スターのようだが、その原型は、おそらく岡田有希子である。さて。この11巻では、ひさびさに当初の主人公であった人物が活躍している。とはいえ、彼が生き返ったわけではない。大塚はどこかで、彼がけっして生き返らないことを断言している。つまり、西園伸二であり、小林洋介であり、そして雨宮一彦であるところの彼が、まだ生きていた頃に、時間は遡っている。物語の進行自体に大きな発展はないけれども、しかし、謎解きといった部分を取り出せば、なかなかに重要な進展がもたらされているといえる。この『多重人格探偵サイコ』が、興味深いのはやはり、ふたつに引き裂かれた主体という、近代小説ふうの重大な関心事を採用しながらも、大きな物語という枠組みのなかで、それらが、たあいもなく、死を迎える、ということである。そうしたつくりにおいて、主題はどこに宿るのか。オブセッションに苛まれる少年に向かい、西園伸二は〈こっから先はお前自身の問題だ〉と言った。

 10巻について→こちら
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2006年02月23日
 あやかし堂のホウライ 3 (3)

 少年や少女が、そのちいさな体の奥底に灯さなければならないものがあるとしたら、それはジャスト勇気だろう。どんな困難でも、まあ脅えることはあるだろうが、しかし、けっして折れない心こそが、未来を切り拓いてゆくのであった。どういう経緯かは知らないけれども、わずか3巻で完結と相成った『あやかし堂のホウライ』である。とはいえ2巻の内容は、1巻のほぼ焼き直しであったので、実質上の長さでいえば、2冊分程度の物語に収まっている。日本・陰陽寮という新しいファクターが導入され、それを契機に、アヤカとホウライそして彩貸堂をめぐる運命は、いっきに終着へと向かう。怒濤の展開である。それにしても、アヤカの真っ直ぐな気持ちの前では、自分の下卑た態度を改めざるをえない勢いだ。〈見捨ててもいい人間だっているんじゃねぇのか!〉〈いないわ! だって、きっとみんな誰かの大切な人だもの!〉。こうしたやり取りである。こういうやり取りが、生きる意味を教えてくれる。クライマックスにて、アヤカの窮地に駆けつける彩貸堂の面々が、頼もしい。ここでアヤカの、他の人間を想う気持ちが、巻いた種がやがて芽吹くように、彼女自身を守ろうとし、返ってきている。まあ一種の様式美といってしまえば、そのとおりであるけれども、いやいや、胸にこみ上げてくる熱いものがあるだろ。別れは、やや駆け足だが、いい笑顔がオーケーな感じなので、ぜんぶ丸く収まっていた。

 1巻について→こちら
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2006年02月21日
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 『漫画アクション』NO.5(3月7日号)掲載の読み切り。2年間同棲していた彼女が部屋を出て行ってからというもの、白木は、会社以外は部屋から出ず、その情けなさに身悶える毎日であった。それでも、女友人である山田丸絵と飲みに出かけるうちに、じょじょに痛手からは回復しつつあった。次第に恋愛関係に発展しそうな気配を感じとるけれども、〈どんなに愛し合っていても恋愛期間は終わる やがて習慣と惰性で生活するようになる〉のが怖くて、〈けど……友達なら ずっと仲良しのままだ〉と、それ以上に進むことのできない白木である。まあストーリーとしては、アリガチというか、ちょっと前に似たようなシチュエーションの短編を石田衣良がどっかで書いてた気もするが、いや、でも、そういった大枠だけで判じきれないフンイキのようなもの(それはとても良いもの)が、この『フレンド』のうちには流れているように思う。オノリエのマンガを読むのは、たぶんこれが2度目ぐらいだけれども、この作品でもってしっかりと僕のなかにその名を刻みました。
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 ちぇんじ123 2 (2)

 月斗素子は、ふだんはボヤボヤとした眼鏡少女なのだが、その身に危険が迫ると、抜群の格闘センスを持ったべつの人格が現れ、体格も変化する。別人格は、1人ではなくて、「ひびき」「ふじこ」「みきり」の3人、あわせて「ひふみ」である。『ちぇんじ123(ひふみ)』という題名は、なるほど、そこからやってきているわけだ。そうした素子の秘密を知ってしまった、同級生で特撮オタク気味の小介川は、想いを寄せる主人格の素子ではなく、なぜか「ひふみ」たちのほうに好かれている感じで、思いがけず彼女たちをめぐるバトルに巻き込まれていくのであった。まあ設定としては、どっか使い古されたパターンに思えなくもないが、原作を担当している坂口いくの作風自体がもともと、ステレオタイプをステレオタイプとしてまっとうすることで、エモーションを発生させるもの、とくにうまくいった例が『闇狩人』であったことを考えれば、とりたてて批判すべき点には値しない、むしろこの場合、他のマンガ家の絵を使いながらも、よく特性が出せているとしたい。とはいえ、1巻の段階ではあまり物語に入り込めなかったのも、正直なところである。まあ、それはもしかすると僕の側の問題かもしれない。というのも個人的に、お色気的なファクターをフックとしては強く感じられないタイプの読み手であるからだ。なので、バトル要素の前面に出てきたこの2巻に関しては、けっこうおもしろく感じられた。絵コンテまでを坂口が手がけているので、どうとは言い切れないが、岩澤紫麗のタッチは、その肉感性を含め、アクションにメリハリのあるダイナミズムをもたらしているように思う。ぶっちゃけて、坂口よりも巧く綺麗な絵が、功を奏している。また、小介川と素子そして「ひふみ」たちのラブコメ・パートは、バトル面が身体の問題を扱っているなら、つまり精神の部分にかかっているといえ、そのあたりが物語の奥行きとなっている。ただ、その精神的支柱を為す小介川の、特撮ヒーローものから得た教訓、たぶん純真さみたいなものを指し示しているのだろうそれが、ディテールの一部に止まってしまっているため、どうして小介川が「ひふみ」たちに選ばれたのか、その意味合いが掴みづらい。選ぶよりも選ばれたいという、読者の願望を代替しているといってしまえば、それまでである。まあ、小介川の存在感がいまいち弱い、とも言い換えられる。3巻以降は、そこいらへんのバランス次第になるのではないかな。
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2006年02月19日
 SCRYED.jpg

 『チャンピオンRED』4月号掲載の読み切り。きた。これだ、これこそが、僕の心の拠り所、生きてく強さを教えてくれるものであろう。〈青春のまっただ中で・・・!! よそ見をするなッッ!!! 直情のシェルブリット!!!〉。もはあー。これなんだよな。これ、『スクライドビギンズ』は、『スクライド』本編の前日談というかたちをとっており、カズマとクーガーがコンビを組んでいた時代が描かれているのであれば、もうそれだけで燃えてくるシチュエーションだぜ、といったところである。〈『逃げる』気か!?〉〈誰にもの言ってんだ!!?〉〈フッ そうだった そんな弱い考え方はしないんだったな〉〈なんたってお前は・・・反逆者(トリーズナー)のカズヤだからな・・・〉〈カズマだ!!〉。こういったやりとりからして、ファンには充分、いや十二分以上に、たのしい。直接的な絡みはないが、劉鳳やシェリスが登場してくれるのも、うれしい。また『武刃街』を経て、悪ノリの度合いを高めた黒田洋介のセンスは、映像化のさいに自身が脚本として携わった所以なのだろう、ホーリーランドな政治家とハチミツなホーリー隊員をロスト・グラウンドに召還している。〈受けろ!! 『片思いの痛み』!!! そして・・・『届かない想い』を!!!〉。馬鹿丸出しである。だが、それがよろしい。そして戸田泰成は、かつてよりも増した迫力で、漢(おとこ)たちの生き様を、場面場面に刻み込むかよお。〈男気には男気で応える必要がある・・・〉。ああ、いつかは身につけたいものだな、〈男頼み!!!〉というものを。やはり、いいところを全部かっ攫っていくラディカル・グッドスピード、ストレイト・クーガーのような、粋なやつに、僕はなりたい。つうか、まあ、そう思うだろ、あんたも。

・その他黒田洋介関連の作品に関しての文章
 『武刃街 斬皇伝説』2巻について→こちら
 『武刃街 斬皇伝説』1巻について→こちら
 『未来改戦Dクロゥス』3巻について→こちら
 『未来改戦Dクロゥス』2巻について→こちら
 『未来改戦Dクロゥス』1巻について→こちら
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2006年02月18日
 武打星 3 (3)

 いよいよ3(参)巻目に突入した『武打星』であるが、どうもこの作者ならではの、というか、僕が間部正志というマンガ家に期待しているところの、無闇やたらな「熱さ」みたいなものが、うまく形成できていないような気がしてきた。とはいえ、香港映画におけるスタントマンといった、なんとも手のつけ難い題材を、きっちりと少年マンガとして魅せる、そういうところにまで持っていけているので、けっして辛い内容ではない。あるいは、そういった手堅さが、こちら読み手のリミッターを外させてくれないのかもしれない。香港アクション界のアイドル、リー・リンホウとの共演を賭けたオーディションで、残念ながら、元先輩にあたる孟(マン)に敗れ去ってしまった主人公神野武であるが、その彼のもとに新人アイドル、ジジと組んでの映画出演の話がやってくる。だがジジはといえば、極度のアガリ症で、本番ではうまく体を動かせず、アクション・スターとしては使いものにならない。そこで彼女の特訓にあたる神野であったけれども、なかなかその成果はあがりそうもないのであった。〈いー加減にしろよっ!! 何でキモチが入んないんだよ? あンた役者だろ? ファイターになりきってくれよッ!!〉。随所でみられる神野の熱情に、火がつきそうにもなるのだが、たとえば作中で観客たちが〈うおおおお体が熱くなってくるぜっ!〉と興奮しているようなレベルにまではいかない。ファンのサイドの無責任な注文で申し訳ないけれども、次巻以降では、もうちょいぶっとんだ祭りの催されることを望みたい。

 2巻についての文章→こちら
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2006年02月17日
 旬 8 (8)

 これにて完結の高倉みどり『旬 味彩の匠』第8巻である。終わってみれば、かなり波瀾万丈なお話だった、というか、ストーリーの流れに一貫性がなかったというべきか。当初は、料理の才能を隠し持った少年が家業を立て直す式の内容であったのだけれども、そういった本筋からどんどん枝葉の部分へとスライドしていった感じがある。それというのは結局のところ、主人公の意識が物語を動かすのではなくて、主人公が状況に流されてゆく過程のなかで、物語らしきものが形成されていったからであろう。要するに、旬というキャラクターの、料理へ向かうモチベーションが、他人からの依頼をこなすといった部分以外に、いまいち判然としなかったのである。とはいえ、ここに収められたラスト・エピソードでは、ちゃんと自分が自分のために、美味しいものを作りたい、というところに着地している。丼ものにはじまり、丼ものに終わる、そのようなかたちで円環が閉じられたため、結果的に、そうなったともいえる。まあ出来上がったカツ丼うまそうだし、総体的にみれば、おもしろかったとは言い難いが、しかし後味の悪い印象を残すものではなかった。

 1巻〜4巻までについての文章→こちら
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2006年02月16日
 パラパル 2 (2)

 それまで平凡な女子高生であったはずの池野小牧に降りかかった災難とは、脳内に一個の宇宙人が棲みついてしまったことである。その影響として嗅覚の鋭敏になった彼女には、日常のなかにある性(セックス)に関する匂いが気になって仕方がない。〈“発情”とか“行為後”とかの匂いって嫌なイメージしかない……〉のである。しかし、同じく宇宙人の寄生により聴覚が鋭くなっているらしい鶴見に関してだけは、そのような不快さを覚えることがなかった。小牧や鶴見と同様の理由で、触覚の冴えている黒川莉花にとって、性交(セックス)は空気と遊ぶようなもので、だから彼女は誰とでも寝るような女の子、エロ大王であったのだが、とある事件をきっかけに、「快・不快」のイメージが裏返ってしまう。もはや異性に触れられることにすら、気持ちが悪く、耐えられなくなった彼女であるけれども、やはり鶴見に関してだけは、安心を抱くことができるのであった。かくして三角関係っぽい構図が成り立つわけだが、そこに新しい登場人物が介入してくる。「やり逃げ四条」と呼ばれるモテモテ男子で、なぜか小牧に興味津々のようである。彼の目的は、恣意的な妊娠であり、そのために受精と着床に適切な女性を選り分ける。まだはっきりと明言されてはいないが、たぶん、四条くんは味覚の人なのではないかな。彼がキスを好むのは、その味で、妊娠の成否と相手のコンディションがわかるからなのだ、と思う。

 と、まあ、そういった具合に進行する石田拓実『パラパル』の2巻目であるが、これまでのところシリアスとコメディの配分もよく、充実というに相応しい内容ではないかしら。小牧が、“発情”の匂いと“プレ発情”の匂いを区分できるようになり、〈「気持ちいい」から好きになるのか 「好きになる」から気持ちいいのか 「どちらが先か?」 にわとり タマゴ らちもないお話〉と思うあたりを注視し、メタ・メッセージ(テーマ)のようなものを切り出すのであれば、シンプルに、機能的な恋愛から本質的な恋愛のモードへと移行してゆく過程、などといったふうになるのではないだろうか。身体感覚によって認識されるのとは別個の、もうちょい抽象的な想いといったものが、たとえば小牧と鶴見のあいだには生じている。また、謎めいた教師蓮沼の存在も含め、宇宙人たちのほんとうの目的とは何なのか、伏線の部分もちゃんと本編に沿って、効いている感じがする。しかし鶴見、いい人だなあ。こういう健全な男子が描かれるというのは、それだけでもうある種のワンダーであろう。

 ところで本作の内容について云々とはべつのレベルで、最近の僕が気になっているのは、いわゆる性交(セックス)のさいに、病気、とりわけエイズの問題などはもはや、いっさい除外されてしまう傾向があるのかな、ということだ。避妊具を用いるのは、あくまでも妊娠に対する警戒のためであって、妊娠の可能性がなければ、それらは使われる必要がないというような見解を、女子向けのマンガに限らず、けっこういろんな表現で見かける。覚えているところでは、たしか瀬尾公治のマンガ『涼風』のなかにもあったし、よしもとばななの小説なんかもそういったセオリーに基づいて性交(セックス)が扱われている。それというのはもしかすると、俗な言葉でいえば「ナマ」とか「中出し」みたいなものに対する抵抗が、一昔前よりも希薄になっているからなのではないか。あるいは一昔前が過剰であったのかもしれないが、いや、そのことを倫理的にどうとかいうのではなくて、そういった感性を、普通あるいは自然だとして受け入れるものがいったい何なのか、ちょっと気にはなっている。

 1巻についての文章→こちら
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2006年02月10日
 いっぽん! 9 (9)

 泣く泣く、わんわん泣く。この巻を読みながら、ああ僕にも涙が枯れずに残っているな、と感じられる。もちろん、人の生き死にでもって泣かすのは、ずるい。のだが、ポイントは、そうした出来事のうちに含まれるメッセージだろう。師匠である新井が、なぜ春がああまでして勝利にこだわるのか、その理由を口にする。そこには春(康文)の、今は亡き母親への想いが隠されていた。〈無理とか言うな! 自分で自分の可能性を潰す程アホくせー事はねーんだぞ!〉。〈コレ投げたら お母さん 今より元気になるよね?〉。〈康文の可能性は私達の可能性だから そうやって康文の中で私は生きていけるから・・・〉。だめだ、やはり泣けてくるので、困ってしまう。人はときおり、何かに縋る、あるいは、それにすべてを賭ける。新井が語るのは、縋ることと賭けることのあいだにある、微少な差異、それがいかにして強さを分け隔てるのか、といったことであろう。母親が春に賭けた想いは、春の柔道に賭ける想いへと、受け継がれている。だから必然的に強くなれるとは言わないが、しかし強くなるための理由とはなっている。けっして努力を捨てない、そういう覚悟を胸に秘めるからだ。そして、いよいよインターハイがはじまる。ようやく春は、ライバルである北村と再会する。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら 
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 ナンバMG5 3 (3)

 いま、この時代にヤンキー・マンガ以外の何ものでもない『ナンバMG5』が、なんでどうしてこんなにおもしろいのか、というのを考えるけれども、ひとつには作者である小沢としおが、これはクリシェであると自覚しながら、あくまでもクリシェとして描いている点にあるのかな、とは思う。そうすることで、作者が描こうとするものと、じっさいに描かれているものとのあいだに、ノイズの混じることがごく少なめになり、作品は想定外の歪さではなくて、しごく健全なかたちを、その魅力としてまとうことになるのではないか。もちろん、それは言い換えれば、お約束というパターンにまとまっている、ということでもあるのだが、意識して定型を作り上げることと、意識せずに定型に陥ってしまうこととでは、確実に、充実の濃度が違う。『ナンバMG5』は、こういうふうに進んでいけばいいな、といった読み手の期待に、しっかりと応えることで、その内容を膨らませている。

 そういえば、つい最近、この作者の以前の作品である『ダンコン』と『チェリー』を読み返したのだった。『ダンコン』と『チェリー』というのも、いかにもクリシェであるかのような題名だが、まあ、それはそれとして。そこで気づいたことがあるのだが、小沢としおというマンガ家は、もちろん『フジケン』や『いちばん』を含めてもいいのだが、一貫して、ヤンキーになることを回避しようとする主人公を取り扱っているのかもしれない。『ダンコン』では、ヤンキーになることの代替策として応援団が、『チェリー』では、陸上と恋愛がクローズ・アップされている。そして『ナンバMG5』では、それこそ、普通(ごく一般的な、ステレオタイプな、という意味で)の高校生として青春を過ごすことを、主人公は目指しているのである。しかし普通とは何か。本当のところ、これはなかなか難しい問いではあるのだけれども、筋金入りのヤンキー一家で育った人間が、できうるかぎりケンカに関わらず、勉強や部活(そして恋愛)に励むことを「普通」と設定することで、そのような問いにストーリーが停滞させられることを、未然に、防いでいる。

 さて、3巻目である。市松高1年最強の男とされる伍代に、二重生活の秘密を知られてしまい、あわやピンチの主人公難破剛であったが、伍代が思いのほか良い奴であったため、またしばらくのあいだ、普通の高校生活を送れることになった。そういったことの礼を兼ね、剛は伍代を自宅に招待する。そこで伍代が目にするのは、いまどき時代遅れなヤンキー以外の何ものでもない、難破一家の実像であった。ははは。このエピソード、すごく好き。伍代がヤンキーというか不良を気取るのは、要するに、家庭の不和みたいなものが原因なんだけれど、それが難破一家のアットホームさ加減との対比になっているわけだ。つまり、伍代の造型は現代的で、難破一家のうちにある剛の造型は前時代的になっている。だから、たぶん読み手の多くが感情移入しやすいのは伍代であろう。というか、僕はそうである。ここで剛が、家の外に出て、学校生活にあってもヤンキーであったならば、結局のところ、過去はよかった的なノスタルジーに回収されてしまうのだが、そうじゃなくて、脱ヤンキーを目指している点が、今という時代に繋がるブリッジとして機能する、そういうコメディに作品を着地させている。
 ちゃんと笑える。
 これまでのところ、失速することなく、おもしろい。
  
 1巻についての文章→こちら
 第1話についての文章→こちら
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2006年02月07日
 総務部総務課山口六平太プレミアムセレクション 2 (2)

 僕はといえば、『総務部総務課 山口六平太』を熱心に読んだときはないのだけれども、この『プレミアムセレクション』の1巻「怒濤の平成幕開け編‘86〜‘90」を読んでみたら、けっこう楽しめたのに、おどろいた。それと同時に、かなり生活慣習的なものを一話完結のストーリー中に盛り込んであるため、当時を追体験できるように読めるというのも、新しい発見であったし、また『プレミアムセレクション』には、そういう時代を振り返った資料が付いていたりするので便利だ。さて。2巻「白熱のJ 激動の政権交代編‘91〜‘95」である。これが、前巻に比べると、話の内容自体は、あまり世相に関わっていない。しかし、巻末にはなぜか、柴門ふみが『東京ラブストーリー』と90年代について語っているインタビューが載っていて、わりと興味深いことを喋っている。いや、もちろんマンガのほうも、おもしろいです。たぶん六平太の飄々とした軽さというのは、80年代的なものを反映しつつも、かといって軟派にはならず、硬派であるかのような一本筋のとおった信頼性をキープしてある造型なのだと思う。こういった主人公(サラリーマン描写)の生まれた背景は、じつは『静かなるドン』や『美味しんぼ』あたりと共通しているものなんじゃないかしら。そして、それはおそらく『島耕作』なんかを支えている感覚とは違う、じゃあ何が違うのか。といえば、たとえば柴門ふみ(弘兼憲史の奥さんです)がインタビューで次のようにいっている。〈私は「自分は傷つくけども汚れない」という人は好きです。でも、そういう人というのは出世しないんでしょうね(笑)〉。これはある種のアイロニーだろうか、島耕作流の出世してゆくことを優先させる忙しなさというのは、いわば60年代から70年代にかけての高度経済成長に根差したものではないかという気がする。つまり作者のというよりは、どちらかといえば登場人物の、読者層に合わせた、年代的な指向の違い、そこいらへんがきっと、山口六平太と島耕作とを大きく隔てているのであろう。
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2006年02月06日
 相変わらずに、アクション・シーンは魅せるし、燃えるな。この巻でいえば、加速装置とそれを破る三世・白王の剣に、圧倒的なカタルシスを覚える。体に埋め込まれた加速装置により、音の壁を突き破った長谷川は、すべてが静止したかのように見える領域に入る、誰も応答できないスピードが絶対的な支配をもたらした……はずだった、が、後からきたはずの三世・白王の剣が、その音速を超えた切っ先が、無音の空間で一閃する。ブースター。なるほど、前巻で、その体躯に合わぬ巨大な刃を選んだのは、このためであったわけだ。やるじゃないか。ストーリーについても、(僕自身が)原作を読んでいないというのもあるのだろうが、これまでは登場人物たちの相関によくわからないところがあったのだけれども、ここにきて、それらがようやく一点で交わりはじめた。わくわくするね。クロウと黒蜜、そして弁慶? 赤帝軍の前身であるヤマト財閥の創始者、水元六蔵を名乗る男はいったい何者なのか。しかし。それにしても。ひとりきりで消滅を受け入れるタツヤの覚悟がひどく悲しいや。漢(おとこ)とはそのようにしてあるべきかよ。
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2006年01月31日
 村上もとか叙情傑作選SNOW

 小学館の雑誌に掲載された作品がおもなものであるが、なぜか実業之日本社から出た、村上もとかの短編集。表題に「叙情傑作選」とあるように、わりと泣かせ系の話が詰まっている。村上に関しては、青年誌に活動を移してからというもの、それほど熱心な読み手ではなかったので、ここに収められたほとんどのマンガは、今回はじめて目にした。が、しかし、たとえば『風を抜け!』の1巻におけるケンカのシーンが大好きな僕からすると、これでいえば「紅蓮の剣」あたりで見られる、「動」的な表現こそがこの作者の魅力だよなあ、といったところである。やはり活劇を描いて欲しい。とはいえ、アルツハイマーをファンタジックなものとして扱った「あなたを忘れない」を読むと、思わず涙腺が緩んでしまうのも、また正直な話であった。これはこれで、そのキャリアゆえの手際か。「あなたを忘れない」もそうのだけれども、ひとつ、死というものが、すべての作品に通底してあるのだろうか、という気がする。死を拒むのではなくて、生をまっとうしたものとして、受け入れる姿形が、一連のドラマとして展開されている。いや、それはもしかすると、村上というマンガ家が、初期の頃から取り扱ってきたテーマである、といえるかもしれない。そういえば、少年誌で活動していたときも、死と隣り合わせの青春ばっかり描いてんだ。
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 本格的に料理人を目指すことにした主人公の伴は、福岡の大学を辞め、恋人とも別れ、東京で一人暮らしをはじめることにしたのだった。しかし六本木バッカナーレに正社員として雇われた彼は、厨房ではなくて、ホールに回されてしまう。というわけで、サーラ(ホール)編突入の3巻目、まあ総体的な物語としては必要なパートであるのかもしれないが、個人的にはちょいとビミョーな展開であるな、これは、と思う。というのも、接客業務って表現にしたら落としどころが際どかったりする。それは、ホストやホステスつまり水商売系のマンガにあたれば明らかなように、人格の在り方とサービスに関する技術とのバランスの取り方になってくるからだ。すこし言い換えるならばサービスを、精神論込みのものとするか、精神論を分断したものにするかによって、方向性が大きく変わってくる。伴の指導にあたる先輩の態度からするに、作者はその中間項を狙っているようだが、それは、まさに現実的な着地点だとしても、魅せる表現として落ち着かせるにしたら、なかなか難儀なことであろう。また、この『バンビーノ』の場合、これまでの調理パートにおいては、精神が肉体を凌駕するみたいな点に、燃えるポイントがあったわけだけれども、それはある意味で、ディシプリンが個人という枠内に限定されていたからこそ可能であった。しかし、接客業務に転じるとなると、スキルは当人の領域のみで鍛え上げられるのではなくて、否応なく第三者との関わりのなかで育まれなければならなくなる。そのような状況が要請してくるものは、1、2巻のうちにダイナミズムを生じさせていたものとは、べつのベクトルなのではないだろうか。それとじつはこのマンガ、画のスピード感に反して、物語内の時間進行がけっこうスローなので、キッチンのシーンにはあったような、一瞬で目を引く派手さがないと、伴の万年ルーキーぶりが余計に目立って仕方がない。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2006年01月29日
 作者である石黒正数は、この『それでも町は廻っている』の1巻「あとがき」において、〈本物のメイド喫茶に行った事がありません〉といっている。同じように僕も、じっさいのメイド喫茶を訪れたときはないけれども、ドジっこはメイドの華というあの有名な格言は知っている、いや、そんな格言はない、ねえよ、としてもありそうな気がするぐらい、一般的なイメージとして、メイド喫茶にはドジっこが付きものである、そうなのか? まあ、しかし、行き過ぎたドジというのは、やはりあれだ、周囲の人間にしてみると迷惑極まりないものに違いなく、主人公である嵐山歩鳥の厄介な存在感と、そのペースに引きずられた人々の徒労ぶりに、思わず、げらげら、と笑う。ばかだ。馬鹿がいる。エネルギーの無駄遣いというのは、なぜに、こうまで素晴らしく、愉快なのだろうか。と、『それでも町は廻っている』通称“それ町”は、いわゆるメイドものとは違う、むしろ下町を舞台としたコメディである。登場人物たちの不作法さは、ほとんどツッコミ待ちの振舞いで、そのボケた仕草の、みな明後日の方向を向いているあたりが、こちら読み手に、阿呆だろう、と呟かせる。僕がこの巻でとくに好きなのは、真田という少年の妄想が大騒ぎになっている「愛の逃避行」というエピソードであり、手を繋ぐ段を読むたびに、その心中を察するあまり、耐えきれず、ぶ、っと吹き出してしまうのだった。つうか、まあ、この賑やかさは、ほんとうにブリリアントである。是非ともその場に混ざりたい、仲間に加えて欲しい、かな、あ、うそ、ごめん。
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2006年01月27日
 いくえみ綾のつもりがきらたかしになってしまったかのような絵柄がキュートであるかどうかは僕のセンスでは判断できないが、お話は、なかなかにキュートであった、高野苺の短編集『愛し金魚』である。とくに表題作が、切ない。その切なさは、気持ちが通じるかどうかといった段階以前の片想いではなくて、気持ちの通じることが悲恋に終わる結末からやってきている。男性が主人公になっている「星のロマン」などにしてもそうなのだが、「泣く」といった行為に焦点をもっていくことで、端的に表されたエモーションが、物語の落としどころになっている。また、作者が長野在住というのが関係しているのかどうかは不明だけれども、ヤンキー的というか尾崎豊的というか、そういう郊外風の世界観と親和性の高そうなあたりを、ある種の個性として捉えることもできる。描き下ろしである巻末の「愛し金魚」のプロローグ(エピローグ)に、ひどく胸が痛むとすれば、それはやはりそのベタな語り口に、こちら読み手の心情が抗えないからであろう。
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2006年01月26日
 や、『天体戦士サンレッド』おもしろいだろ。おもしろいだろう『サンレッド』、と思うのであるけれども、ぜんぜん興味のなさそうな君のご様子が、僕には残念極まりないのだった。サンレッドは川崎の平和を守る正義の味方である、と同時に、保険外交員をやっているかよ子さんに養われているヒモである。しかし『サンレッド』の真の主役は、悪の組織フロシャイムの幹部であるヴァンプ将軍なのである。ヴァンプ将軍はモラルとマナーをきちんとする人であり、もちろん近所づきあいも欠かさない。合コンに行けば、シャツに赤ワインのシミを作ってしまった女性に対して、〈ためしてゴッチンの受け売りだよ〉と、〈赤ワインのシミは白ワインで取れるの〉ってな具合に豆知識と気配りを発揮する、ナイスな人柄である。だが、機械に弱く、落ちたブレーカーを回復することもできないところが、玉に瑕である。ところで、この2巻の3分の1ほどを占めているのは、『サンレッド』のプロトタイプ『気象戦隊ウェザースリー』である。『ウェザースリー』においては、たぶんこのマンガが、その昔にダウンタウンがバラエティ番組でやっていた戦隊物のパロディであるゴレンジャイに着想を得ていることが、より如実であるような感じがする。正座と説教のあたりがとくにそうではないだろうか。ゴレンジャイでは、ヒーローと悪の優位性が逆転していたが、『サンレッド』と『ウェザースリー』では、それがさらに反転させられている。つまりヒーローが悪よりも優位であるという、ごく自然なポジションに立ち返っているわけだが、その力関係の当然さがときに横暴であることを描くことで、成立するギャグを取り扱っている。まあ、イジメっことイジメられっこのパターンといえば、そういうふうにもいえる。〈……指定席っていうのは あれね 逆に不自由な面もあるよね〉というヴァンプ将軍の気の弱さが、なんとなく他人事には思えない、その気持ちのわかる僕には、ピンポイントでヒットしてしまうのであった。なんて気の毒なことでしょう。
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2006年01月25日
 東京膜

 『東京膜』は、『蛇にピアス』のコミカライズを担当した渡辺ペコ初のオリジナル作品集になる。帯で西島大介がレコメンドしているけれども、いや、しかし、じっさいにこれが、なかなかオススメの一冊なのであった。全部で6つの短編が収められているが、掲載はどれも『YOUNG YOU』(R.I.P.)系の雑誌であり、なるほど、その読者層であるような年齢の女性を主人公に置き、日常のなかにある、等身大で、ままならないエモーションをすくいあげながら、ポジティヴな結末に着地する、そういうささやかにあたたかな物語群になっている。最後のコマに目を通したあとで、じんわりと心に広がってゆく波紋が、心地よい。このなかで、とくに僕が好きなのは、「東京膜#2 適正距離」というお話である。出版社(あるいは編集プロダクションかな)に勤務する大木佐和子は、毎日のように酒を飲む女性である、そのたびに前後不覚になるまで飲み過ぎる、そして酔っ払い、一人暮らしの部屋に帰るが、ベッドまで辿り着けない、いつも廊下で寝てしまう。〈お酒はすき 酔っぱらうのも だけど 本当は 飲まなくったって 素面で世界と対峙したい〉。その彼女が、ふとしたことから、その願いを叶えるまでを「東京膜#2 適正距離」は描いている。これが、アル中というほど深刻ではなくとも、夕方になると、あービール飲みたいなあ、と思う、ある種の寂しくも疲れた人間には、けっこう、「お前はいま泣いていい」と言われているふうに思えるエピソードなのであった。もちろんそれは、読み手を限定しているということではなくて、その心情の動きが、余計な装飾のない、自然さで伝わってくるという意味合いで、なにがしか生きてく上でのリアリティを、しっかりとキャッチしているということである。ほんとうに。思いのほか、よかった。
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 わたしはあい 3―LOVE&TRUTH (3)

 それを「萌え」というのかどうかは知らないけれど、当初は人工的な創造物に対する一方的な愛情を、双方向に転換させようという試みをベースにしたコメディであった外薗昌也『わたしはあい』であったが、着地点は、人間が本質的に抱える業が世界の終わりを導く(回避する)、といった、もはやこの作者のパターンともいえるものなのだった。それをどう見たらよいか。ギャルゲーの天才的なクリエイター紺野マコトの協力により、芝崎重工は、いよいよ、じつに人間らしいロボット、亜衣=AI2000の完成に近づいた。唯一の懸念事項は、結果的に亜衣に高い順応性と自律性をもたらすこととなった、謎のコンピューター・ウィルスの存在である。重役たちへのデモンストレーションを見事にこなした亜衣を見、その想像以上の出来に不安要素を感じた紺野は、プログラムのチェックを要請する。しかし、それを察した亜衣は、人混みのなかに、その姿を消すのであった。人間の管理下に置かれていたはずの存在が、じつは人間を監視する存在であったという展開は、同作者の『犬神』とほぼ同型だといえる。しかし『犬神』の場合、あくまでもそれは形而上的な審級であったのに対して、『わたしはあい』におけるそれは、形而下を出自としているところが、さらに人間の業の深さを掘り下げている、という見方は、まあ出来なくもない。ただ、そういったシリアスさを、作者は、ここでほんとうに描こうとしていたのか、という部分は、ブラック・ユーモアであるかのようなエンディングを見る限りでは、判然としないところではある。外薗の作品を並べてみれば、人間とは何か? みたいな問いへの答えは、たぶん『ワイズマン』あたりでもう出てしまっている感じがする。それはこの『わたしはあい』でも示されているのだけれども、要するに、人の営みはそれ自体が滅びの過程である、ということだと思う。とはいえ、そこに救いがないと、ただの頽廃になってしまう。では、いったい作者は、何をもって救いとしているのか、といえば『犬神』では宮沢賢治の詩が引用されていたことに顕著であったが、無垢なる「純粋さ」とでもいうべき概念なのだとして、それがここでは、紺野の亜衣に対する一途な姿形が、翻って、軽く明るくポジティヴな振舞いとして見える、そういう描写にかかっているのであった。

 『エマージング』2巻について→こちら
 『エマージング』1巻について→こちら
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2006年01月21日
 フルーツバスケット 19 (19)

 あと数巻続く様子であるが、いやいや、クライマックスが止まらないといった感じで、しかもそれが伏線の回収によってもたらされているのがめざましく、このまま最終回まで行っちゃったら、まちがいなく、名作の域だろう。高屋奈月『フルーツバスケット』19巻である。一部の登場人物たちにとっては運命そのものに近しい十二支の呪いは、そう遠くない将来、解ける。だが、その未来に夾がいないかもしれないことを思うあまり、透の目からは涙が溢れてしまう。その気持ちを何と呼べばいいのか、おそらくは恋であろう、しかし当の透と夾だけがまだ、それに気づけずにいるのであった。というか、ラブコメのパターンでみれば、この巻で、由希にほぼ噛ませ犬認定が出てしまったわけだが、そのことをとくに重大事とせず、むしろ彼を、サイド・ストーリー的な部分をガイドし、サポートする役割に、違和感なく転じさせたあたり、やったねえ、と思う。主人公である透とはほとんど無縁であるがゆえに、枝葉(後付け)にしか見えなかった生徒会パートが、ここで見事本筋にからんだのも、作者が、由希の役割をうまくリードしてきたからである。

 ところで。ここに来て、これが、アパシーからエモーションを回復する、そういったテーゼを過分に含んだ物語であることが、顕著となった。この巻でいえば、綾女のエピソードと翔のエピソードが、とくにそれを表している。かつては、他人を傷つけるという行為すら知らず、そのことに無自覚であるがゆえに、他人に傷を負わせてしまう人間が、自分が傷を負ったことで、その痛みにはじめて気づく、それを通じて、他人が他者たりうることを理解する。これは同時に、世界が自分を中心に回っているのではない、ということの理解でもある。人との関わりを経ることで、人は変わる、変わりうる、といえば、そうなのであるが、それが能動的に行われるのでもなく、受動的にもたらされるのでもなく、ただ半径5メートルのリアリティ=世界であるような、そういう自意識を守備しようとしたことの結果として、必然的に、認めざるをえないものになっている。もうすこし言うと、自分からの働きかけや他人からの働きかけが変化を呼び込むのではない、その働きかけが生じた時点で変化は達成された、と見なされる。なぜならば、人が人に行う働きかけのなかには、無関心ではない以上、エモーションが含まれていると考えられるからである。余談であるが、西尾維新が戯言シリーズのなかで書いてきたことも、同様の体であると思う。

 18巻については→こちら
 17巻については→こちら
 16巻については→こちら
 15巻については→こちら

 『フルーツバスケット ファンブック〔猫〕』については→こちら
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2006年01月17日
 酒ラボ
 
 農大を舞台としているということで、石川雅之『もやしもん』あたりと読み比べるとおもしろいのだが、いや、しかし農大流行っているのか、といえば、きっとそうではなくて、モラトリアムを描くに際して、もはやふつうの大学、学部、学科ではうまく立ちいかない、という今日的な問題があるのだろう。だいいち、なぜ大学に入ったのかという、いちばん最初の部分でドラマが生まれないし、俺は大学に入って何がやりたかったんだろう式の自分探しは、90年代までに散々リピートされ、とっくに劣化してしまっているうえに、そこで何かを達成することや、その先にある何かに向けて精進するために、まあたとえば文学部に行く人なんて皆無でしょう、結局のところ、進学なんて時間稼ぎみたいなものだ。その点、技術系なんかだと、入学するにあたって、何かしらの動機が要るように思う。あくまでも推測であるが。そういえば、宇仁田ゆみの描く学生はみんな、何かしら手に職をつけるために、修学しているような気がする。というわけで、『酒ラボ』である。とある農業大学の、発酵や醸造の研究室に属しているアワモリは、なぜ自分がこの道に進んだのかを、もうとっくに忘れてしまっている。下戸であるにもかかわらず、教授の手伝いで、利き酒などをやらされたりする。そのときに〈なんで おれ ここにいるんだろう〉と思う。それに比べ、彼の賑やかな同級生たちは、しっかりとした目的意識を持って、研究に臨んでいるように見える。私生活もそれなりに充実しているみたいだ。なのにアワモリはといえば、要するに、サエない感じなのだ。それでも、ときに仲間を助けたり、もちろん助けられたりしつつ、日々を過ごしている。これが、小品ながら、けっこういいお話なのである。総体的にみればコメディなのだが、ところどころに身につまされるシーンがあり、一生懸命のワンダフルな効能に絆されたりもする。旅の途中だとか、夢の途中だとか、そんなエクスキューズを吐く前にまず、自分がいったいどこに向かっているのか、何を目指しているのか、それを決めなくちゃね、と思う。

・その他宇仁田ゆみの作品に関して
 『よにんぐらし』第1巻について→こちら
 『アカイチゴシロイチゴ』について→こちら
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2006年01月16日
 比べようもない程に

 吉井凜の初コミックスということで、このマンガ家のものは、これではじめて読んだわけだけれども、いや、悪くはなかった。短編集であるが、収められている作品はどれも、『比べようもない程に』という表題の示すとおり、最愛の人の代替物などどこにもない、といった体の物語として描かれている。ぜんぶで4編入っている。そのなかでもっとも好ましかったのは、家庭に居場所の見つけられない高校生たちを扱った「come here, baby」である。女の子の側に、なにかヘヴィな事情があって、その語られないことに感情移入してゆく男の子、というストーリーは、まあアリガチといえばそうであるけれども、じつは登場人物たちの苦しみがあまり巧く表されてはいない、もちろん、それを下手だということはできる、が、そうではなくて、直截的であることを回避した結果、そのようになったと見るほうが、説得力の得られるように思う。表題作「比べようもない程に」のなかに、次のようなモノローグがある。〈強がりっていうのは 気づいてもらえれば それだけで もう救われるのに〉。「come here, baby」では、その気づくことが=救いとなることが=ハッピー・エンドとなっている。そのため胸中にある苦しみは、最後のときまでずっと伏せられなければならない。それが、登場人物に対してのみではなくて、読み手に対しても行われている、と僕は考えた。もちろん作者が意識的にそうしたのかどうかはわからないけれども、そのことが、見え見えの展開に、ひとひねり加えている。
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 スプラウト 1 (1)

 Aの恋するBはCという人物に恋している、というじつにオーソドックスな片想い劇であった『先輩と彼女』が、なかなか良かった南波あつこの新しい作品『スプラウト』は、いわゆる下宿ものの風情である。高1の実紅は〈そもそも自分のテレビが欲しくて始めたバイトで〉片岡さんと出会い、付き合うことになり、友達から〈順調な青春を送ってるよ〉と羨ましがられる。のだが、どうも自分ではそのことにピンとこない。そんなとき、会社を早期退職することになった父親が、下宿をはじめると言い出す。かくして住人として、彼女の家にやってきたのは、同じ高校に通う楢橋草平であった。草平には彼女がいる。女子からは「ウザミユ」として嫌われている、天然さんの美少女みゆきである。さて、そのような環境の変化のなかで、実紅の青春は、今後どのように動いていくことになるのだろうか。と、当初の構図でいえば、実紅(A)と片岡(C)、草平(B)とみゆき(D)のツー・ペアがすでに出来上がっているわけだが、人物の造型、立ち位置の重要さ加減をみれば、あきらかにCとDに噛ませ犬のサインが出ている。しかしCもDも、けっして悪い人間ではない、というのがドラマの焦点である。現段階では、下宿というファクターは発端程度で、あまり有機的な機能を果たしてはいないけれども、すくなくとももうひとり住人が増えることは示唆されている、そういった部分での関わり合いを通じ、今のところ純朴であるAとBの心境が(結果的に付き合うか付き合わないかはべつとして)いかに複雑化してゆくのか、が、たぶん、これからの見所になってくるのだ、と思う。
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2006年01月15日
 STAR BLACKS 2 (2)

 結局のところ、伝奇アクションふうの方向性は、うまく立ちいかなかったのか、細部というか伏線はばっさりと切り捨てられ、2巻目にして完結となってしまった、槙ようこ『STAR BLACKS』である。総体的には、けっして芳しいとは言い難い内容ではあるが、しかしエンディングは、それなりに悲しく、うつくしい。だけに、やっぱり惜しかった。どういう話かまとめると、もしも人の心に悪が棲みつくのであれば、それをコントロールできるのも人だけ、あるいは、それをコントロールできたものが人たりうる、といった感じになるかな。いや、それにしてもロボットなのか! ロボットにはびっくりした。昔だったら、表現上における、世界の終わりみたいなものは、多くの場合、それでも救済はある、といった前提のうえに成り立っていたように思うのだけれども、今やそういったものはあまり信じられていない、ほんとうに滅びてしまうこともありうるのだ、そしてそのことの反映が、ラストのシーンにて、街を、まるで廃墟のように見せるものだろう。ねえ、人は〈最後までちゃんと生き〉ましたか?

 1巻についての文章→こちら

・『愛してるぜベイベ★★』
 7巻についての文章→こちら
 6巻についての文章→こちら
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2006年01月11日
 ゴツボ・ファミリー3人目の刺客であるゴツボナオのデビュー作となるらしい『ラルシド!』の1巻目である。魔法が機能している世界が舞台となっている。そこで、貧乏神シドとともに魔獣退治にあたっているラル=ハルという少年が主人公で、全体の雰囲気はハリーポッターあたりを下敷きにしてそうな、そういうニュアンスを含んでいる。絵柄は、いかにもゴツボ印といった感じであるが、×リュウジや☆マサルに比べると、たしかに拙いところも見受けられるけれど、よっぽど丁寧で、話の内容も、ギャグ込みではあるが、しかし、ややシリアスな要素が強い。ところで僕は、×リュウジのマンガはオーケーなのだけども、☆マサルのマンガはイマイチで、このナオの場合は、なんとオーケーであった。三者の傾向は、ひじょうに似通っている。だが、やはり異なった描き手なのである。いちばんの違いは、漠然と思うというか直感でいうのだが、コマ割りではないだろうか。どこらへんがどうかというのは、いずれ機会があったら、考えてみたい。
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 野球しようぜ! 4 (4)

 いわさわ正泰『野球しようぜ!』は、4巻目にして、ふたつの困難にぶつかってしまっているな、と思う。ひとつは、団体競技を扱ったスポーツ・マンガは大会がはじまってからが難しい、というのと、もうひとつは、天才を物語のなかでうまく転がしてゆくのは難しい、ということである。前者は、つまり、勝ち上がればその分だけライバルを増やさなければならない、要するに、新規のキャラクターをストーリーのなかに投入し続ける必要が出てくるうえ、その人物が魅力に乏しい、ショボかったりすれば、当然のように、おもしろみは半減してしまうわけだ。1年生ながら、鷹津高校野球部のレギュラーに決まった天は、いよいよ開催する県大会に心を躍らせる。初戦(鷹津はシード高なので、実質上の2回戦)の相手は、するどいカーブを投げるピッチャー平澤祐輔を擁する多葉高校であった。はたして鷹津打線は、平澤の球をとらえることができるのだろうか。という感じなのであるが、いやあ、平澤くん、1回戦で7回12奪三振という成績を出していたわりには、すこし、噛ませ犬すぎるだろ。さらには、平澤を打ち崩すにあたって、天の才能が遺憾なく発揮されているとは言い難い、そのため逆転劇のダイナミズムが薄れてしまったのは、もったいない。もしかすると作者は、ここで、鷹津高と多葉高の対比をからめ、チームプレーに関する部分を引き出したかったのかもしれないが、結果、もともと天然さんなところのある天が、ただの傍迷惑な困ったさんにしか過ぎなくなってしまっている。その天才性が、残念ながら、試合のなかでは、生かされていないのである。僕は、自分の才能に無自覚な天才が、いかに周囲を巻き込んでゆくのか、を、このマンガの要点として見ているので、そこがちょっとね。とはいえ、平澤が心を入れ替え、タバコを捨てるシーンは、まあまあ。で、3回戦にかなりの強豪が用意されているっぽいので、次巻以降の展開にこそ期待したい。ところで、義父が新聞で天が野球をやっていることを知るシーン、あれは伏線になるのかな、彼が黙っているのは優しさなのだろう、それと関連して、今後、義母との関係がどう動くのかも、ちょいと楽しみなのであった。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2006年01月07日
 砂時計 8 (8)

 率直にいって、当初はそれほど関心を持っていたマンガではなかったのだけれども、7巻のクライマックスぶりでその気にさせられたら、そりゃあ8巻は感涙の域であった。作者のコメントによれば、このあと番外編的なエピソードが続き、ぜんぶで10巻までは出るそうだが、実質上のストーリーは、ここで完結している。一組の恋人たちの14年間を追った、芦原妃名子『砂時計』である。

 初恋の人である大吾と別れ、自分の道を歩き出した杏であったが、その胸中は、未練とも後悔ともつかない想いに囚われたままであった。大吾もまた、同様に吹っ切れない気持ちを抱えて過ごす日々である。20歳、同窓会で再会したふたりは、しかし、やり直すのではなくて、前へ進むことを約束して、とおくとおく離れてゆく。思い出の砂時計は、そこで、時を刻むのを、止める。それから6年、杏はといえば、ようやく新しい恋に出会い、そして結婚を決めるのだが、価値観の違いから、けっきょく破談になってしまう。そのことに疲れ、暗く、ふかく落ち込み、心を病んでしまった彼女は、自分を置いて自殺してしまった母と同じように、ひとり、死に場所を求めた。

 と、ここまでが7巻の筋であり、8巻では、そうして杏の運命がどこに辿り着くのかが描かれている。もちろん体裁としては、ラヴ・ストーリーである以上、物語は、杏と大吾の描く恋模様を主軸として構成されるわけだが、その色めき具合は、杏の母親の不在により照射されている。もうすこし言い換えると、大吾とのラインに生じるのはプラスの浮力であり、母親とのラインはマイナスの重力を発している、両者の緊張関係が、主人公である杏のエモーションを左右する、といった図式が根底に敷かれており、それが読み手の心を動かす。

 杏がまだ子供だった頃、疲弊しきっている母親にかけた「がんばれ」という言葉は、ある種の呪いである。そのせいで母親は死んだ、すくなくとも彼女はそう考えている。

 鬱病を患っている人間に対して、「がんばれ」と言ってはいけないといわれるように、現在では「がんばれ」の禁止は、つよい説得力を持った他者への働きかけだとされることがある。だが『砂時計』において行われているのは、「がんばれ」の禁止の禁止だといえる。ここで重要なのは、その「がんばれ」という言葉自体の重みではなくて、それを発する人間が「がんばれ」という言葉に込めた想いの重みである。もちろん、その想いの重たさこそが問題であるのならば、それはたしかに人を苦しめるだろう。じっさいに杏は、自分が母親にいった「がんばれ」という言葉と、大吾にいわれた「がんばれ」という言葉を、ダブル・スタンダード化してしまい、ついに身動きがとれなくなるのであった。

 「がんばれ」という言葉は、いわば「弱さ」を否定するものである。「弱さ」を否定し「強さ」を肯定する。「弱さ」は、ときとして身近な者を巻き込む、しかし「強さ」は、ときとして身近な者を平気で傷つける。だから「強さ」は「優しさ」の上に成り立たなければならない。では「優しさ」とは、いったい何を下敷きにして為されるものなのだろうか。

 7巻で、大吾は、杏に「がんばれ」といった。それはつまり、自分を救えるのは自分だけだ、ということの言い換えである。いや、だからといってそれは、ひとりで生きて、ひとりで死ね、という言い切りではない。過去と現在と未来をひと繋がりとして見たときに、過去にいっしょにいられなかったことは過去のこととして、今このときをこうしていっしょにいることがあるように、もしも君がこの先も生き延びるのであれば、いつか、やがて、もしかすると僕たちはふたたび出会えるかもしれない、という、祈りの言葉に他ならない。ほんらい祈りは、強要ではなくて、ただただ切実な、それこそ無為に帰すことも厭わない働きかけに違いなく、そして祈りは、この巻のラストで、ささやかな福音となり響き渡る。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(06年)
2006年01月06日
 05年版のときもいったが、こういう命令調のタイトルは好きくねえです。あんたらの指図は受けねえぜ(使い回し)。いや、しかし、中身は05年のときのものよりも、やや濃くなってる気がした。いちばん驚いたのは、日本にはこんなにマンガ研究者やマンガ評論家を名乗る人々がいたんですね、マンガ批評の未来はきっと明るいものになるでしょう。まあね。とはいえ、セレクション部門で、それほどマニアックにならず(気取らず)、すごく的確なことを書いているように思えるのは、じつはタケカワユキヒデ(音楽家)と大西祥平(ライター・漫画原作者)だというのは、ほんのすこしのアイロニーだろう。前回も行われた座談会は、さすがに読ませる。マンガ関連のニュースをみれば、昨年一番のトピックは、やっぱり、さまざまな場面で起った盗作問題に違いなく、座談会でもけっこうそこいらへんを掘り下げて語っている。あと青年誌の読者層が、30代で占められるようになったという話であるが、これはどうしても団塊ジュニアの高年齢化とパラレルだと思う。思うのだが、しかし、というか、やはり、というか、誌面は総体的にヤンキー・マンガについての記述は乏しいわけだ。コンビニ文化とヤンキー・マンガと団塊ジュニアの連鎖反応を無視しても、マーケティングをエラそうに論じられる、そういうアーバンでサブカルな生活圏に、僕も生きたいものですな。

 『このマンガを読め!2005』についての文章→こちら
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