ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2006年12月20日
 ヒステリック・サバイバー

 この、深町秋生という作家の小説を読むのは、なにせはじめてのことなので、最初は『ヒステリック・サバイバー』という題名や、その装丁、帯における過剰にチープな煽り具合から、ショッキングな筋立てに頼った(だけの)ものか、そうでなければ、サブ・カルチャー的な意匠を凝らした(だけの)ものを予想しつつ、ページをめくり出した次第なのだけれども、いやいや、それはあらぬ誤解でしかなく、こちらの不明を恥じなければなるまい、なんともこれは、エモーショナルな物語のうちにアクチュアルな問題意識を持ち込もうと腐心したことのうかがえる、ひじょうに誠実な態度の作品である。〈九ヶ月前の悲劇が彼の人生を一変させた〉。米アイダホ州の公立中学に通う三橋和樹は、そこで、何げない日常とともに、若さゆえの自信に満ちた、賑々しい青春を謳歌していたはずだったが、しかし突然、同校の生徒による多数の死傷者を出すほどの銃撃事件に遭遇し、親しい友人を失い、自らの身も心も、ひどく傷つけられ、日本へ帰国することとなる。かつての快活さは損なわれ、ある種の有名人であるせいで好奇な目を向けられることもあったけれど、半藤という新しい友人も出来、ようやくここでの生活に馴染みはじめたころ、いや、馴染みはじめたために、校内における理不尽なヒエラルキーから逃れられず、関わりを持つこととなるのであった。基本的には三人称で進むつくりでありながら、プロローグとエピローグに置かれた〈ぼく〉という主語や、主人公である和樹の内面に寄り添った記述が、あくまでも彼の再生劇として読ませると同時に、雑多な登場人物たちの置かれている環境に、地方都市が抱える憂鬱な閉塞感を、思わせられる。作中で、町全体が囚われている、忌まわしき過去の亡霊として、モトヤマという、猟奇的な殺人者の名が幾度か言及されるが、それは、あきらかに89年に逮捕された宮崎勤のイメージを掴まえたものであり、75年生まれの作者が、当時の、多感な時期に受けた何かしらかの印象を反映したものであろう。そこにある実感は、おそらく、他人に特殊なレッテルを貼る行為をもって、自分たちだけは安全圏に立とうとする心性が、この国のあらゆる場所に遍在している、そのことを指摘するほうへ向けられ、そうして、少年や少女の世界を扱ってはいるが、子どもたちの共同体を無批判に美化することもなく、悪いのはぜんぶ大人だろ的な思考停止にも陥っていない、じゅうぶん信頼の置ける内容を支えている。

 ところで巻末には、参考文献として『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』(ブルックス・ブラウン / ロブ・メリット)が挙げられているが、ここで思い出されるのは、たしかそれに付せられた解説で、大澤真幸が、コロンバイン高校銃撃事件の、ある被害者になった少女とその両親の言動から「寛容」というタームを導いていたことで、また、その解説に先立つ文章「寛容と不寛容」(『帝国的ナショナリズム』所収)のなかで大澤は、そうしたアメリカ社会の〈犯罪者への基底的な肯定性〉は、キリスト教の伝統に基づいているとし、〈それに対して、日本社会の態度を基底している伝統は何か? 日本社会が示した底無しの否定は、結局、否定された者の排除に繋がる。こうしたやり方を支えているのは、村の論理である。いわゆる自然村は、少なくとも社会構造のレベルでは、あらかた破壊されつくされたと言ってよいだろう。だが、心性のレベルでは、自然村を支えていた原理に代替しうるものが、未だに現れていない。底無しの排除とは、要するに、あの「村八分」のことである。過激な事件、過激な逸脱を前にしたとき、日本社会が巨大な村となって、犯罪者に村八分を仕掛けているのだ〉と書いている。むろん大澤は、無条件で、日本社会との対照に提示された「寛容」を支持せよ、といっているのではない。それは、ときに極端な「不寛容」へと裏返りうるからだ。赦されるものと赦されざるものは、宗教的な相違によって、明確に差別されてしまう。では、排除を斥けるにあたり「寛容」と「不寛容」のあいだに、何か、置かれなければならないものがあるとして、いったい何を設ければよいのか。そのことに、この『ヒステリック・サバイバー』という小説は、ひとつ、答えているかのように思われる。それを僕なりに解釈し、一言でいえば「葛藤」になるのではないだろうか。とある危機的な状況下で、和樹のとった行動は、いかに「寛容」と「不寛容」のあいだにある「葛藤」に耐え、そこに留まり続けるべきかを示している、といったふうに受け取れる。言うまでもなく「葛藤」は、判断の停止を回避する。たとえば、どうして虐めはなくらないのか、といった問いは、どうして戦争はなくならないのか、という問いがそうであるように、虚しく、儚い。が、しかし誰かが死に、誰かが不幸になったところで、けっして変わることのない、その暗い現実に希望を灯すためにこそ、人は悩み、生き延びなければならないのである。
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2006年12月14日
 『すばる』1月号掲載の短篇。何かを書かなければならない気がするのだけれども、何を書きたいのかわからない、それを書くことが、今の(純文学系の)作家にとってテーマになっているみたいな、じつはいつの時代にもいわれていそうなことを、つい最近もどこかで見かけた気がするのだが、どこだったか、まあ、何にせよ、生田紗代の『浮かぶしるし』もまた、そういう小説だといってしまっていい感じがする。〈ものを噛むたびに、右の顎が外れたみたいにカクッとなるので、違和感に耐え切れず土曜の昼にデンタルクリニックに駆け込んだら、いきなり親知らずを抜くことになってしまった〉、それで抜いたあと家に帰り、〈炎症を抑えるものと感染症を防ぐ〉ための薬を飲むわけだが、アレルギー体質の気が強いせいで、〈私〉の体には発疹が浮かぶから、麻酔が切れ、痛みに悩まされても、痛み止めの薬すら飲めない。そうした経緯のなかで、〈私〉が〈毎週火曜の夜に通っている英会話のレッスン〉における、些末なあれこれが回想される。前半に〈カクカク鳴った〉やら〈ふらふらと〉やら〈とぼとぼと〉やら〈かさかさと〉やら〈いそいそと〉やら〈なみなみと〉やらといった、ずいぶんと幼稚で曖昧な言葉遣いを多く見かけられるけれど、それはレッスンで英会話を交わすさい、自分が自分で自分の言いたい旨をうまく言語化できない、それとの関連で見ることもできる。〈そういえば、英会話の帰りも、今と似ている。つまり、ちょっとした放心状態になるという意味で。歯を抜かれ、日本語を奪われ、私はそう遠くない場所に心を置いてきてしまう。本来の自分に戻るには、多少の時間を要する〉からだ。とはいえ、そのような図式的な見方に落とし込んでみないと、読むところの少ない、文章それ自体の旨みが乏しいあたりは、要するに、語り手に魅力が欠けているということでもあるので、やはり、この作品の欠点にも思われる。生田は、絶えず書き続けることで、良くなってきた作家であるが、どうもここ最近は、作品ごとに一進一退を繰り返しているかのような印象を覚える。

・その他生田紗代の作品に関する文章
 「靴の下の墓標」について→こちら
 「ハビタブル・ゾーン」について→こちら
 『彼女のみる夢』について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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2006年12月12日
 『群像』1月号掲載。津村記久子に関しては、これまで長篇をひとつ、短篇をひとつ読んだのみの立場だが、そこからいわせてもらえば、もうすこし評判になってもよい作家に思われる。つまり、そういう期待値の高さを目安に、この『十二月の窓辺』を読みはじめ、読み進めたわけだけれど、読後に、その印象はより強まった感がある。物語の中心は、大学の新卒で印刷会社に入ったツガワという女性であり、彼女の〈当初こそ、ひなびた田園風景の中にたたずむ本社ではなく、交通の便がよく、いかにも洗練されたオフィス街の真ん中にある支社に通えることを喜んでいたが、郊外の地元採用の高卒の女の子たちが大部分を占め、職場の先輩のほとんどが三つ四つ年下であることがわかり、数ヶ月も経って自分が彼女たちに徹底的に馴染めていないことが身に染みてくると、どうしてこんな閉鎖的なところに配属されたのか、本社で営業をするほうがよかった、と人事を恨むようになった〉と感じる、そのような半径の狭い世界における、卑近であるがゆえに強力な抑圧が、いかに生きることをしんどくさせるか、を、簡単にいうと扱っており、またそこに、ツガワの勤め先付近で、この夏から冬場にかけ通り魔事件が発生している(らしい)ことと、その勤め先の窓からは、彼女が最終面接で落とされた雇用環境促進公団という団体の入ったトガノタワーが見えることの、おおきく二つの事項が絡んでくる。図式的に捉まえれば、両者は登場人物の心境を象徴しているといえるし、じっさい、そういうふうに解釈してもらおうかというように、読み手は誘導される。休憩所の窓から覗けるトガノタワー内の〈雇用環境促進公団の印刷室での不穏な出来事は、部長が通り魔に襲われてから間もなくして起こった〉、こうした出来事をきっかけにして、狂言自殺を考えるほど追い込まれながらも、それまでなかなか決心のつかなかった〈今の会社を辞める〉ことが、具体的な行動になるのである。しかし、これを話の筋とともに飲み込むのには、やや難儀させられる。執拗なまでに暗く描かれている業務の生々しさに比べ、いかにもターニング・ポイントめかすべく起こされた事件といった印象が強く、どこか白々しいからだ。が、まあ、そのへんは、技巧的にうまくいっていない、の一言で片付けることも可能だけれど、ページを閉じて、ふと思い返したさいに、これがどうも気にかかる。おそらく、種々の物事が密接にリンクするのは、べつの会社の人間だが、たまに昼食をいっしょにとることがあるナガトに誘われ、飲みに行った場面に書かれている、次の箇所だろう。〈ツガワは膝の上で頬杖をついて、ゆっくりとまばたきし、やがて目を閉じた。瞼の裏に、ナガトのことを自慢していたZ課長の顔が浮かび、通り魔から免れたとはしゃいでいた自分の職場の部長の様子が浮かび、V係長の鋭い肩口のシルエットが浮かび、また吐き気をもよおし、最後に、窓の向こうでゆっくりとかがんでいった雇用環境促進公団の印刷室の彼女のことが浮かんだ〉。この記述は、いうまでもなくツガワの連想を示しており、要するに彼女の内面とイコールになっている。そう考えたとき、通り魔にまつわるエピソードだけが、ツガワにとっては、伝聞的もしくは間接的に認知されているものに他ならない。じじつそのとおりであるかのごとく、やがて〈雇用環境促進公団の印刷室での不穏な出来事〉は、ツガワのエゴイズムに回収されるが、通り魔の一件は、宙に浮いたような状態で、彼女の前を通り過ぎるのみである。だが、その、エゴイズムに回収されえないことは、ことによると他者の存在を指し示しているのではないか。あるいは、退社の日に、通り魔の現れる路地を抜ける間際、それに気づかされたからこそ、〈ツガワはいつの間にか息を切らしながら全力で駆け出していた。そんなことでのしかかる後悔が振り払えるとは思わなかったが、次は自分以外の誰かのこともわかることができるようにとツガワは強く願〉わずにいられないのではなかったか。何はともあれ、こういう社会に出て働く若い女性の苦悩を主題にした小説は、近年、けっして少なくはなく、いや、むしろ有り触れているなかでもとくに、いわく言い難い孤独の影を写しとった作品になっている。

 『花婿のハムラビ法典』について→こちら
 『君は永遠にそいつらより若い』について→こちら
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2006年12月09日
 化物語(下)

 モテモテじゃないか、阿良々木くん。蛇に憑かれた少女千石撫子の不運をめぐる「なでこスネイク」と、シリーズ当初から仄めかされていた羽川翼の事件が明かされる「つばさキャット」を収めた、西尾維新『化物語(バケモノガタリ)』の下巻である。上巻分は、あらかじめ『メフィスト』誌上に掲載されるという経緯をとったが、ここでの二篇は、「講談社BOX」のこのヴァージョンが初出となる。そうして五つのエピソードで完結しているわけだけれども、総括してみると、登場人物たちによる一対一の会話劇で読ませる、といった趣が、強い。怪異に関わってしまった女の子が、〈僕〉こと阿良々木暦の助力を得ることで助かる、すべてがそのようなプロットで共通しており、要は、語り手である〈僕〉と相対する女の子の性格や年齢、境遇などの差異が、そのまま、やり取りのヴァリエーションとなって現れる、結果、内容そのものに異なった顛末が与えられる。「あとがき」の言葉を正直に受けとれば、〈この『化物語』は百パーセント趣味で書かれた小説〉であり、〈元々ぽっかり空いたスケジュールを埋めるために手遊びで書いた小説〉だということもあるから、〈どのキャラにしても、彼らが会話をしている様子は書いていて本当に楽し〉かったらしいが、いやいや、読み手にしても、登場人物たちが生き生きと話を交わす様子は、とても愉快で、十分に楽しめるレベルに仕上がっているように思われるし、あるいは、気負いのない状態で編まれた作品であるからこそ、作者の逃れようもない指向性をうかがわせる、とも考えられるのは、これまでしつこく繰り返しているとおり、僕が、西尾作品のどこにどう重きを置いているかというと、もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能だと判断されるのか、といった部分にあるからで、そのような印象は、たとえば「つばさキャット」において、ヒロインから重大な悩みを打ち明けられるさいに〈僕〉が〈僕だから誘ったわけでもない、誰でも良かった。そのとき、そこにいたのが僕だっただけだ〉と感じるほかにも、複数の箇所で確認できる。自分ではない他の人間がそこに居合わせることもありえた可能性は、当然のように、その立場を引き受けるのが自分ではなければならない絶対性を、保証しない。裏を返せば、引き受けなくともよい、ということである。関わらなくてもよい。しかし、それでは物語は成り立っていかない。だからというわけではないが、〈僕〉は、ほぼ無条件で、献身といえるほどに、ヒロインたちの抱える怪異へと、積極的にコミットしていく。そういう資質の持ち主であるがゆえに、いや、より正確にいうと、その誰にでもやさしいことが重要なのでない、彼の働きかけが、べつの誰かからは得られない(得られなかった)と、特定の他者には感じられるがゆえに、そのことに対する反応が起こる、つまり作中の言葉を借りれば〈人は、一人で勝手に助かるだけ――〉にとどまらない結論が導かれたときに、それは、彼の固有性を肯定するものとなっている。

・『化物語(上)』収録の内容に関する文章
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 『零崎軋識の人間ノック』について→こちら
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2006年12月07日
 愛と癒しと殺人に欠けた小説集

 伊井直行の『愛と癒しと殺人に欠けた小説集』に収められている、六つの短篇のうち、「ヌード・マン」(元の題名は「ヌード・マン・ウォーキング」)と「掌」、「ローマの犬」の三篇、つまり半分は、初出時の段階で読んでいるのだが、「初出誌に関する記述を含む前置き」によると、それぞれ、程度の差はあれ、手が入れられているらしい、とはいえ、正確に比べたわけではないので、あくまでも記憶に頼っていうのだけれど、読後の印象をおおきく違える、そういうことはなかったように思われる。どの篇も、とぼけてはいるのだが、ふざけているのではない、独特な真剣さを持った作品になっていて、そのことが、とても好ましい。と、なかでもひとつ、お気に入りを挙げろということになれば、僕の場合は「掌」が、それにあたる。高校生の〈僕〉が、自分の身辺を語っているうちに、今は亡き父親が経営していたのと同じ名前の、べつの病院を、とくにどうといった具体的な動機があるわけでもなく、尋ねる。筋のみを述べれば、たったそれだけの話である。とくにどうといった具体的な動機があるわけではない、と今いったけれども、しかし、なぜかしらそうしなければならない必要性が彼にはある、たしかにそう感じられるところに、作品の魅力が備わっている。ここに入っている他の小説もそうなのだが、登場人物たちがとある出来事の前を通り過ぎる、あるいは、いくつかの出来事が登場人物たちの前を通り過ぎていったさい、以前と以後では、あきらかな変化があるにもかかわらず、それは作中の彼や彼女らに強く意識されるのではなく、まるで無意識への働きかけであったかのように、その行動や記憶の一片に付与される。たとえば「掌」には、こうある。〈僕の手には、小山先生の掌の感触が残っていた。肉厚で皮膚がしっかりと固い。父が元気なときに、握手をしたことはなかった。入院してから、祖母に促されて手を握ったのが唯一の機会だ。父の手に脂気がなく、しわくちゃの紙のようにカサカサしていたことにショックを受けた。そのときの父親の皮膚の感触をずっと忘れないでいた。だが小山先生と握手した後には、二つの手の感触がごちゃまぜに思い出される。父の手の感触だけを思い出すことができなかった〉。このように書かれていることには、平常と地続きであるがゆえの、なにか、はっとさせられる生々しさが、そしてその生々しさが、僕という読み手の心を動かす。

 「ヒーローの死」について→こちら
 『青猫家族輾転録』について→こちら 
 「ヌード・マン・ウォーキング」について→こちら
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2006年12月05日
 ミステリアスセッティング

 〈極限の純真小説〉だとか〈少女の歌声が、奇跡を起こす――〉だとか〈2011年の『マッチ売りの少女』〉だとか、帯に書かれてあるのを見ればこそ、思わず新境地を期待してしまうのであったが、読み終えてみると、いつもどおり、阿部和重の小説といった感じで、この作風に馴染んでしまった今となっては、エントロピーの増大にともないカタストロフへ向かうのではなくて、すかすかのまま、不可避な状況の変化に矮小な個人が組み敷かれていく中盤以降の流れは、たしかに他の作家と比べ非凡であるにしても、これはこれで、もはや予定調和の範囲でしょう、とさえ言いたくなってしまうのは困ったところ、だ。とはいえ、たとえば、すぐれたミステリ小説が作品のうちに用意してある論理的な正回答を、ここに期待していいのかどうか、一概には判断できないにもかかわらず、なにか腑に落ちるような整合性を読み手にどうしても欲望させてしまうつくりは、いやいや、さすがの芸である。そのようなわけで、この『ミステリアスセッティング』という小説では、ひとりのイノセンスに近しい少女の不運な生涯が語られているのだが、もちろん、その語りを真正面から受けとった場合、悲劇的すぎるほどに悲劇的な内容だといえるから、登場人物に深く哀悼の意を覚えたりもする、しかしながら語り手が、けっして真を述べているといった保証がどこにもないため、そうやって悲しんださいのエモーションが、どれだけ誠実であるかを証明するのは、ひどく難しい。つまりは、詐欺師に騙されることを、正直者のステータスなのだとすれば、まあそうなのだろうし、いや、ただ馬鹿を曝しているだけだとすれば、きっとそれもそうで、結局のところ各自の判断に拠るのでしかないのならば、正解は、どこにでもあるといえるし、どこにもないとすらいえる。さて、では『ミステリアスセッティング』の語り手を、詐欺師と見なすべきであろうか。そうだ、とも、そうではない、とも断言しえない。おそらくは、二重になっている語り手の当人たちでさえ、それを証明することができないのは、伝承されるそもそものエピソード自体が、携帯電話のメールを通じ、一方的に送信されたメッセージを、現実に照応させ、一方的に解釈した結果でしかなく、他者との弁証を経て得られたものでなければ、相対的な視点により固定されたものでもない。これはちょうど、そうした語りのなかを生きる少女シオリの、ある種のルーティンをコミュニケーションとして受け入れる態度と、まさしくパラレルになっている。したがって、ことあるごとにシオリが、自分で膨らませた妄想を真実だと信じてみせるように、ここで真実として語られていることが、じっさいには膨らまされた妄想である可能性は、じゅうぶんに疑える。さらに、そのような、語りに対するこちら読み手の解釈も、一方的なものでしかないのだから、当然、ここまで僕が書いてきたことも、たんにひとつの妄想なのだといわれれば、なるほど、そのとおりかもしれなかった。

 『課長 島雅彦』について→こちら

 『阿部和重対談集』について→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら
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2006年12月03日
 表象の奈落―フィクションと思考の動体視力

 四半世紀に渡り書き連ねられてきた文章の収まった『表象の奈落―フィクションと思考の動体視力』のうち、おそらくもっとも長いものである「『ブヴァールとペキッシェ』論 固有名詞と人称について」は、題にあるとおり、フローベールの小説『ブヴァールとペキッシェ』を論じた内容で、初出が84年だというのもあるのかもしれないけれど、そのじつに蓮實重彦している筆致に、おお、自分は今まちがいなく蓮實重彦を読んでいるぞ、という気分にさせられるわけだ、が、そこで蓮實が行っているのは、批評の対象、この場合は作品内の記述を、物語を納得させるための効果として捉まえるのではなくて、あくまでもテクスト上で機能する説話論的な役割として解析することにほかならない。つまりは〈テクストの提起する形式的な問題に共鳴し、そこに饗応すべき問題体系を増幅させることがこの文章の目的である〉がゆえに、〈この作品(引用者注:『ブヴァールとペキッシェ』)の理解を深めようとする意志などまるで持ってはいない。テクストは理解の対象ではないからである。そこに提起される形式的な問題に反応することだけをテクストは持っている〉といった指向性が、全開されているのである。たとえば蓮實は、『ブヴァールとペキッシェ』の冒頭で、偶然に出会った多くの共通点を持つ二人の作中人物、まあそれこそがブヴァールとペキッシェなのだけれども、その彼らが、たまたまそれぞれの帽子の裏に書いてあった名前を黙読し、そこではじめて二人の名前が明かされるくだりを指し、〈『ブヴァールとペキッシェ』を読み始めるものは、すぐさま、ブヴァールとペキッシェという名前を読んでいる二人の作中人物の描写を読むことになる〉と、要するに、作中人物たちがべつの作中人物の名前を読み、知ることが同時に、作外にいるこちら読み手が彼ら作中人物たちの名前を読み、知る行為を象徴しているのであり、それはつまり、作中の二人がそこでお互いの振る舞いを反復しているのと同じように、読み手たちもまた彼らの振る舞いを見事なまでに反復していることをも含んでいるのだ、という。しかしながら、読み手は、じっさいに作中人物たちの帽子の裏に肉筆で書かれた名前を読んでいるわけではない、いや絶対に読むことはできないし、さらに〈作者フローベールの肉筆原稿にあってさえ、それと遭遇することは不可能〉であるにもかかわらず、綴りの同一性があるかぎり、〈二人が相手の裏に読みとった筆記体の書名と、作者の肉筆原稿のその部分と、われわれが読むテクストの同じ箇所との間には、一貫した類似が否定しがたく維持されている〉のである。そう考えていったさい、着目すべきは、物語的な情報の数々ではなく、そこに記述されている反復性が何を意味するか、になるであろう。と、いや、あまりうまく捉まえられていないかもしれないが、それでもまあ、込み入っているといえば、じつに込み入っているし、当たり前のことだといえば、ごく当たり前のことのふうにも思える、そのようなロジックにおいて、〈読者がある恋愛を物語として納得するのは、その成立事情を完全に了解したからではなく、いかにもそれらしい細部に触れたり、効果的な技法に促されて、その虚構をとりあえずうけいれるからにすぎない(略)それが遊戯として進展するか否かは、話者が題材をどれほどうまく語るかにかかっているが、その場合のうまさとは、理由の説明に関わるものではなく、理由を問わんとする意識をほどよく眠らせるための技術にほかならない。本当らしさとは、決して真実そのものなのではない〉といった具合に、物語とは異なるもののほうへ、堂々と、そうして説得力を加えていく過程を読むのは、ごく単純に、愉しい。それこそが、あるいは「あとがき」の言葉にしたがえば、〈「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる (略)その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する〉ことの成果だといえる。

・関連
 阿部和重『阿部和重対談集』についての文章→こちら
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2006年11月28日
 ピカルディの薔薇

 津原泰水に関しては、それほど熱心にフォローしているつもりはなかったのだが、この『ピカルディの薔薇』に収められている七篇のうち、「甘い風」と「新京異聞」以外のものは、初出の段階で目を通していたことに、自分で自分が驚かされた。「新京異聞」にしたって、掲載誌は持っているはずなので、たんに見過ごしてしまっただけであろう、といえば、つまりは偶然でしかないわけだけれど、なぜそのように書きはじめたかというと、「甘い風」のなかにある次のようなやりとり、「貧乏暇なしが昔話じゃないんだよ、こっちの世界は。本読みのあいだで評判がいいからといって普通より売れるわけじゃなし、増した仕事は貧乏性だから断れないだろう、するとあちこちに書き散らすから、一社ごと本にまとまるのは先延ばしになる。扶養家族はいるし、学生の頃のほうがよほど豊かですよ」「すると原稿がたまりきりゃ、どっと金が入るってことだ」「それまで評判が続いていればね」、この箇所がひどく印象に残ったからである。もちろん、ここに紡がれている物語群は、あくまでも猿渡という、以前の短篇集『蘆屋家の崩壊』と重複する架空の人物を、語り手(書き手)に置いたフィクションである、しかしながらその一方で、作者側の実感が、先のような書き方で表れている可能性も否定できない。いや何もそれは、作品の、内部と外部とのレベルを同一視すべきだということではない、そうではなくて、作中の人びとに流れる血やエモーションが、いったいどこから注ぎ込まれているのか、ふと気にかかったりもする、活字のなかから彼らの表情が生々しく浮かび上がってきたりしたときなどはとくに、だから、だ。じっさい『ピカルディの薔薇』で読むことのできる七篇はすべて、いわゆる怪奇小説ふう、さもなければ幻想的、ゴシックとはいかないが、観念にからんだ作風で、現実を現実的に描写することに、立脚していない。にもかかわらず、そこかしこにリアリティのある重みを感じさせる。たしか、津原の筆致を、舞台劇の屋台崩しに喩えて評したのは東雅夫であったと思うが、それまでに積み上げられたものが、わずかな数センテンスのカタストロフをもって、ごそっと消失するさい、読み手の意識が否応なく動かされるのは、当然ディテールの巧みさもあるけれど、そのことを含め、実存ないしリアリズムとの接点上で引き起こされるからに他ならない。ともあれ、語り口は、シリアスに傾き過ぎず、ふんだんにユーモラスで、そのおかしみのあることが、もう片方、作品のリーダブルな面を支えている。

 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら
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2006年11月20日
 新編 軟弱者の言い分

 『新編 軟弱者の言い分』は、2001年に出た小谷野敦初のエッセイ集『軟弱者の言い分』を加筆訂正のうえで文庫化したものであり、僕はこれを元の版で何度も読んでいるので、ここでは、このたび「軟弱者2006」として追加された文章のうち、「片思いと一神教」についてのみ、すこし、メモ程度に触れておきたい。片想いと一神教は似ている、というのは、小谷野が折に触れ(というほど頻繁ではないかもしれないが)言及している、ひとつのテーマのようなもので、たとえば彼が書いた例の『悲望』なども、そのことの小説化だといえる。『悲望』にあてられた批評(批判)のなかで、とくに多く見かけられたのは、女性の側の心理的な負担が考えられていない、要するに他者の内面が顧みられていない、等々であったように思うけれど、小谷野が小説の上手い下手のレベルを問うのではない、それらの評価に反論しなければならなかったのは、けっして『悲望』の主人公は他者をないがしろにしているのではなくて、そこでは恋愛(片想い)の対象が、あくまでも神を思わせる、絶対的な他者としてのみ、主体の前に現れているのだ、と、しているがためであろう。小谷野は「片思いと一神教」で、〈この先は、私が考えたことである〉と、次のような持論を披露している。〈応えてくれない片思いの相手を選ぶのは、そのひとを唯一神の代わりにしているのではないか。日本で一神教があまり広まらなかったのは、日本人は「世間」のような緩やかな羈範に依拠していたからだと言われる。(略)応えてくれない恋の相手を一人に定めることによって、人間嫌いは一神教徒のように、世界の中心を定めて生きられるのである。(略) ダンテが、一目見ただけのベアトリーチェを生涯永遠の女生と思い続けたのは、南欧中世の聖母マリア信仰を源泉とすると言われているが、多神教国の片恋男にとっては事態は逆で、片恋から唯一神を作り出すのだ〉。ここで押さえておかなければならないのは、たんに片想いの対象を救済と見るのではなく、それが、どのような働きかけにも〈応えてくれない〉ことの苦しみが、主体に「この私」を実感させる、あるいは自己の無意味さと空漠を埋めうる、ということで、おそらくこの考えは、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』をベースに置いたものであり、相思相愛という既成の恋愛形態を、すべての人間がなぞらえなければならないとしたら、それは共同体のイデオロギーに従っているにしか過ぎず、じつはそちらのほうこそが、真実の意味で他者の他者性を排除しているのではないか、と推測することもできるわけだ。

・その他小谷野敦に関する文章
 『悲望』について→こちら
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2006年11月17日
 『文學界』12月号掲載。岩代明子の『トカゲ』は、もともとは『樹林』という同人誌の四九六号にて発表されたものであるが、「二〇〇六年下半期同人雑誌優秀作」に選ばれたことで、このたび『文學界』へと転載された。〈離婚して、母の家に戻ると、同居人が増えていた〉。その同居人というのは、父方の遠縁で、30年近く精神病院に入院していた老人である。この老人は、語り手である〈私〉たちとほとんど口をきかず、〈時々、自分でコーヒーを淹れる以外は、終日和室に引きこもり、縁側に座って、2Bの鉛筆を握り締め、絵を描いている〉のだが、その絵のどれもが小さな庭を描いたもので、内容にほとんど違いは見られない。そしてどの絵にもなぜか必ず、黒々と塗りつぶされたトカゲが描かれてあるのだけれども、〈私〉は庭先に、そのようなトカゲの姿を見かけたことがなかった。と、こういう筋立てであれば、読み手の関心は、たいてい老人とトカゲの関係に向けられるのではないか。だが、文章を追っていくうちに、この小説は、そのことの焦点化を目指していないことに気づく。終わりぎわに〈私〉の、次のような言葉がある。カワタさんというのは〈私〉の恋人の名前である。〈わからないので黙っていると、カワタさんの声が、あなたはそういうのが好きなんでしょうと言った。それで、そうか私はそういうのが好きなのかと思ったけれど、わからない。わからなくて、でも、それでいいように思った。わからないままに、というのがいいような気がした〉。この〈わからないままに、というのがいいような気がした〉という気分こそが、おそらくは作品の重心であるように思う。じじつ、ここでは何もかもが、理由の明言化されないまま、ただゆらりと物語の表面を漂う。たとえばカワタさんに何を考えていたのかを尋ねられ、〈私はわざとわからないように答えた。わざとわからないように答え、けれど、わからないようにしか言えないと思った〉とあるように。あるいは、なぜ母親が老人を引き取ったのか、〈よくわからない、というのがその返事だった〉というように、だ。こうした「わからない」という響きは、しかし「じっさいにわかっていない」というのではなくて、おおかた「なんとなくわかっている」ということの言い換えであり、そういう「なんとなく」が、作中で指向されているのは、〈けれども、いったん言葉にして口に出してしまえば、きっと記憶は無力なものに変わり果ててしまう〉といった意識(無意識)を前提に立てているためであろう。そのことは、老人が何をするにも頻繁に許可を求めるので、あらかじめ家中に許可を書いた指示書が貼り付けられている、そうしたことと暗に結びつけられている。〈私はこっそり家のメモを一枚ずつはがし始めた。一ヶ月もたたないうちに、家中の指示書はゴミ箱に捨てられていった。特に老人に変わった様子はなく、許可を求めることもなかった〉のだが、〈老人を見ていると、目に見えない指示書が家のあちこちにまだ貼りつけられているような気がした〉のを、要するに、反証するものだといえる。そういったことをあわせ、「なんとなく」を「なんとなく」書いたというのではなく、「なんとなく」の曖昧な気分を、できうるかぎり的確に描写しようとしたところで出来上がった、あくまでもその質感に、好感を持った。
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2006年11月14日
 絶対、最強の恋のうた

 『100回泣くこと』が、ちょっと、いやけっこう気に入らなかったので、それを書いた作家に対しても、あまりいい感情を持てなくなってしまったというのもあり、今後は中村航のものを積極的に読んでいくことはないか、と思っていたのだが、以前にとあるアンソロジーに収められていて、とてもチャーミングだと感じられた短篇「突き抜けろ」が物語の一部分に採用されているというわけで、この『絶対、最強の恋のうた』を手にとった次第なのだけれど、五つに分かれているパートのうちで、とくに印象に残ったのは、まあ正直なところ他はほとんど印象に残らなかったにしても、やはりその「その二、突き抜けろ」と、「その五、富士に至れ」の、つまり命令口調的な題名の付せられたふたつのエピソードだったのだが、それというのはたぶん、そうした題名自体に、それぞれで語り手をつとめる大野と坂本から見られた、木戸さんの位置が象徴されているとしたら、僕という読み手はというと、彼ら三者の、鮮やか、とはすこしばかり言い難いが、しかし楽しげな交わりに惹かれるところがあるからなんじゃねえかしら。そこで捉まえられている、モラトリアムというか、モラトリアムのどこか途中というか、モラトリアムの終わりのはじまるきわは、じっさい誰にでもありえそうな、と、そういうふうに形容するのが似合う気のする風景なのだけれども、いうまでもなく、じっさいにありうることと、じっさいにありえそうなこととは、似て非なるものであり、前者と後者のあいだにある差異、距離こそが、とりたてて突飛ではない話のなかに、なにかファンタジックな彩りを、あたかも憧憬をうかがわせるかのような筆遣いで、加えている。

 『100回泣くこと』について→こちら
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2006年11月13日
 零崎軋識の人間ノック

 あまり小説の類をキャラ読みしない、ほとんどできない、僕のようなタイプの読み手には、こうした、本編の細部を埋めていく以上になっていかない、あくまでもサイド・ストーリー的な位置にとどまる物語は、とくに嬉しいというほどではないのだけれど、しかし哀川潤の規格外さ加減だけは、いやいや、怒濤の勢いで迫ってくる存在感があるよ。と、西尾維新の『零崎軋識の人間ノック』には、すでに『ファウスト』誌上で発表されている「狙撃手襲来」「竹取山決戦―前半戦―」「竹取山決戦―後半戦―」のほかに、書き下ろし(だろう)「請負人伝説」が加えられているのだが、請負人といえば、当然のように哀川潤というわけで、その、零崎の大将ですらも引くほど、マンガ的であることをもオーヴァーする暴挙に、ふふ、と笑う。とはいえ、内容に関し、すこしばかり真剣に述べるならば、すべての篇で、家族というファクターに軽く触れられている。零崎一族の家族愛がもちろんそうであるし、赤神イリアの「家族を殺すって、そんなにおかしなことですか?」という問いかけやメイド仮面(!)の「私は私の家族を守る――それだけです」などの決意に含まれているものもそうであるだろうし、それから石凪萌太の「僕には夢があるんです」と語られる、彼のその後を考えると感傷的な気分にもなる、言葉のうちにも如実に表れており、じつは、そうした家族をめぐるイメージは、戯言シリーズ本編のところどころにも、また西尾の他の作品、たとえば『きみとぼくの壊れた世界』や『新本格魔法少女りすか』、『ニンギョウがニンギョウ』にも分け隔てなく介在するもので、舞城王太郎や佐藤友哉の作品に孕まれる家族の問題に注視した論考がけっして少なくはないように、それもまた三者の作家に共通する項だといえる。

・その他西尾維新に関する文章
 「栄光の仕様」について→こちら
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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 新潮12月号掲載。やはり、こういう長篇を掲載された分ごとで見ていくのは、無理があるなあ、と今更ながら思うのは、たとえば今回の「ディスコ探偵水曜日」第三部「解決と「○ん○ん」」の8〜11パート目にあたる〈第四回〉に満載されているイラストと謎解きによる、作中の言葉を借りれば〈すべてはこの過剰な意味の館で起こったこと〉のそのことが、では全体のなかでいったいどのような意味合いを持っているのかを、すぐさまに俯瞰することができないからで、同様に〈名探偵たちが《真相》を連打してくるせいで、俺は驚いてばかりで何の行動を起こす余裕もない。動こう、戦おうと決めた途端にこれだ。傍観者の位置から俺は微動だに許されない〉といっている語り手であるディスコ本人が、じっさいに物語の駆動へ(積極的ではないにしても)加担していないのかどうかを、このような断片をもって判ずるのは、はなはだ不用意に近しいし、水星Cの《役割》や、また〈《(最終的には)絶対に間違えない》という《名探偵》という存在は、まあたぶんそういう自己の《登場人物化》に陥りやすい人種なんだろう〉といわれている名探偵たちが、当人たちの思惑の外でいったいどれぐらい間違えているのかは、小説内部の時間においては未だ終点に達していない、現段階では、不透明にすぎる、あるいは混沌としている。が、いずれにせよ、さっきまでは生きていなかった死者たちが蘇り、〈ははっ、と水星Cが俺の隣で笑う。「いよいよ事件の解決はお前に任せられたみたいだな」と言った相手はしかし俺ではなくて〉と向けられた視線の先に〈存在すら忘れていたよ。どこにいたんだこの馬鹿〉というほどに唐突な人物が現れれば、まだなおディスコを当事者から除けておくかのような、解決の先延ばしが続くことを予感させる。

 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2006年11月10日
 さよなら純菜 そして、不死の怪物

 八木剛士、ついに起つ。どんなに駄目でも自分で自分を変えられない人間なんていないんだ、とすれば、ふつう、多くの心弱い人間を勇気づけるような、励ますかのような、ポジティヴなメッセージが成り立ってもよさそうなものだが、いやいや、もちろんそうなってはいかない、これぞまさに浦賀和宏のマジックである。前エピソード『八木剛士史上最大の事件』を通じ、絶望の果てを垣間見た剛士に、やさしく手を差し伸べ、〈私達は、決して間違いで生まれてきたのではないないということを〉教えてくれるものは、もう誰も、どこにもいない。いくら不死身の《力》を持とうとも、喪失の苦悩が、内側からすべてを激しく焼き尽くそうとするとき、ただただ悪魔を思わせる叫びをあげる。そして、そのような個人の抱える苦悩をよそに、大状況を動かしかねない、不吉な計画が暗部で動きはじめるのだった。という具合に、これまでなかったぐらい物語的な話の運びと、相変わらず屈折した批評性の入り混じる語り口は、もしかするとこの作者の出発点ともいえる、安藤直樹のシリーズを彷彿とさせるほどに、不条理と自意識の圧倒的な世界を開示している。お肉も食べるし、ね。『インビテーション』誌の10月号で、浦賀はインタビューに答え、〈今後の展開やラストはどうなるのかなどは、かなりきっちりと考えてから始め〉たこのシリーズは、『八木剛士史上最大の事件』で〈大体、全体の半分くらいまで来たところ〉だといっているけれど、するとここからが折り返しになるわけで、『さよなら純菜 そして、不死の怪物』という題名に暗示されているとおりの不穏な内容に、ハッピー・エンドの確率がかなり低まったことを意識させられた。

 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

 「リゲル」について→こちら
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2006年11月09日
 『新潮』12月号掲載。佐藤友哉ひさびさの新作長篇であるが、それとは直截的には関係のないように見えるところから、ここでの話をはじめる。かつて江藤淳は、夏目漱石に関する文章のなかで、次のように書いた。〈元来、個性的な作家が存在し、多くの崇拝者を持つような場合、その死後四半世紀乃至は半世紀の間はある意味での神話期であって、この時期はほぼ正確に崇拝者達(略)の寿命と一致している。作家は彼らの追憶の中で神の如き存在となり、様々な社会や趣向の変遷に乗じて、神話はやがて厖大な分量にふくれ上がる。しかしひとたび生前作家と親交のあった崇拝者達が死に絶えるとそれは次第に雲散霧消する。あとに残るのは動かし難い一かたまりの作品であり、これが後に新しい神話を生むにしても、それはかつての感傷的な性格をすて、その故にかえって永い生命を持つにいたるのである〉、そうして時の試練に耐え、また骨董品のような過去に寄り添った場所でもないところで、漱石の作品は、現在もなお生き続けている、と江藤はいうのだった。これは、およそ100年前に発表された『吾輩は猫である』が、現在どのような受けとられ方をしているか、を考えてみると、わかりやすい。あるいは、今日を生きる僕たち読み手が、やはり100年ほど前に誕生したといわれる近代日本文学の、そのうちのいくつかの小説に、何かしらかのアクチュアリティを覚えるとしたら、それは、このような変遷をクリアして、残ったものだからなのだともいえる。しかしながら、この考えは、平均寿命がかつての倍近くにまで伸び、一般的な消費速度に関してはもはや倍以上にも達した、今後の100年から先に対しては、たぶん適用することはできないであろう。そうした意味で、現代の日本文学(にかかわらず、サブ・カルチャーをも含め、すべての表現)は、その場しのぎのヒットと内輪受けでオーケーという姿勢を良しとしなければ、前人未踏の領域に挑む決死の体でこそ、つくられていかなければならない。すくなくとも佐藤友哉の『1000の小説とバックベアード』は、そうしてある逼迫を、僕に想起させるのであった。佐藤には以前に「『世界』の終わり」という作品があるけれども、そちらがミッシェル・ガン・エレファントの曲名を思わせるなら、こちらはROSSOの曲名を思わせる、というのは、ややこじつけ臭いが、作品がいくつかの節に分かれていること、それから作中の人物が小説を書くことに腐心することが作品そのものの輪郭に繋がっていくという部分は似ている、として、「『世界』の終わり」がサブ・カルチャー的な知識を多く参照することで成り立っていたのに対し、この『1000の小説とバックベアード』はそれを古典から準古典そして近代文学まわりの知識に入れ替えることで成り立っているといってよい。だが、そうしてわかるのは、それらの知識そのものが、小説のフックとして機能しているのではない、ということだ。では、何がかといえば、まちがいなく語り手の役割をつとめる登場人物のエモーションであろう。物語を、サプリメントのように、つまり工学的にこしらえる職業である片説家は、小説家とは違い、集団で作業にあたる会社員なのであり、あくまでも効果と効率だけが求められる。その片説家であった〈僕〉は、しかし27歳の誕生日に、仕事をクビにされ、挙げ句、文字が読めなくなり、文章が書けなくなってしまう。そのような状態から、虚構じみた活劇を経て、立ち直り、片説家ではない、小説家として生きることを決心する。というのが、『1000の小説とバックベアード』のおおまかな筋である。そのなかで〈僕〉が、とくに自己を投影して見る対象に、石川啄木がいる。啄木の憂いに関しては、彼の親友であった金田一京助の書いたものや、そのほか関川夏央と谷口ジローのマンガ『『坊っちゃん』の時代』の第3部などで、わりと簡単にあたることができるので詳しくは述べないけれども、ここでの〈僕〉は、たとえば啄木の、小説家になりたかったが、小説をうまく書くことができず、そのかわり、いくつかのすぐれた詩と評論を書いたことで、27歳の若さで亡くなるが、文学史にその名を残すこととなった、こうした経歴に、ほんとうの小説に辿り着くことのできない、自分の境遇を重ねていることがうかがえるわけだけれども、たんにそこばかりではなく、明治時代の自然主義に批判的であった啄木の小説が、はからずも自然主義ふうの作風であったことと、それこそ積極的に大文字の文学に近しくあろうとする〈僕〉というか、作者である佐藤友哉自身の小説が、この時代のアニメ・まんが的なリアリズムの域から脱しえないこともまた、一致しており、おそらくそのようなジレンマから、作中で何度か繰り返される〈小説を書くような心で書いたら……それはもう、小説なのだから〉という、印象的な声は、やってきている。

 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2006年11月06日
 新書365冊

 世のなかには新書読みとでもいうべきタイプが(たぶん)いて、ときおり新書のみをずらーっとレビューしてあるブログなどを見かけると、この人は新書以外は読まないのかしら、ふと疑問を覚えることがあるのだが、それというのは僕が逆に、新書の魅力というのをよくわかっていないからなのかもしれない。だいたいハードカヴァーよりも新書のほうがすぐれているという書き手というのは、そんなにいないのではないか、という思いなしがあるよ。たとえば小谷野敦は『もてない男』が売れたけれども、あれは小谷野の他の本と比べたら、読むところがすくないし、たとえば石原千秋は阿呆みたいに新書を出しているけれど、石原ので辛うじて読むに値するのは、けっして安価ではない『テクストはまちがわない』ぐらいだし、小説家が、なぜだかわからないが、小説ではない類の文章を書いている新書は、全滅に近しい。すこし話は変わるが、仲正昌樹が先日出した新書『ネット時代の反論術』は、語り下ろしというスタイルも、話されていることも、かなり『ラディカリズムの果て』とダブっていたので、誰に責任があるのかはわからないが、一瞬、ぼったくられた、と思ってしまったのだけれども、よくよく読むと、新書のほうが、やや内容がよかったという、そういうケースもままあるし、鈴木淳史の『クラシック批評こてんぱん』のように、最初は新書で発表され、のちに文庫になるというケースもあり、もちろんたまたま出版形態が新書であっただけで、中身が突出しているものもかなりあるのは知っているつもりだから、べつに新書の悪口が言いたいわけではなく、じっさい僕だって、人文学のものを主に、よく読む。それで何の話だったかといえば、宮崎哲弥の新書『新書365冊』を読んでの、たんなる思いつきを、これまでだらだら述べてきただけであった。この『新書365冊』は、とにかく膨大な数の新書を、一冊一冊解析し、おおまかに論を取り出し、相対的に評価した、ガイドというか、ウォッチの色合いがつよいものとなっている。相対的とはいっても、あくまで宮崎の主観を、新書に対し、向かい合わせたかっこうになっており、対象のうちにある意見のそぐわない箇所に関しては、なかなか厳しい。正直なところ、この新書もまた宮崎の他の本に比べて、とくにすぐれたものではないのだが、それでもたしかに、えらい仕事だ、とは感じられる。
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 EDGE

 うんうん、なるほど、これは、たしかに評判がよいのも頷ける、頷かざるをえないほどに際立ったエンターテイメントであったよ。この、とみなが貴和の小説『EDGE』は、解説で大森望がいっているのをみると、もともと99年に〈女の子向けライトノベルのレーベル〉講談社X文庫ホワイトハートから発表された作品らしいのだが、いやいや、文章にしても話の運びにしても、けっこう硬質な内容であり、このたびこうして講談社文庫に体裁を変え、より広い層へとアピールされるだけの価値は、十二分に、ある。と、じっさいに、だから手にとる気になった僕は実感を込めて言える。わずか一年足らずのあいだに〈東京タワー。レインボーブリッジ。新宿都庁。サンシャイン60の隣に立つ、白く優美なオベリスクのような、ゴミ処理場の巨大な煙突〉が次々と爆破、倒壊されるが、しかし犯行声明はなく、またこれまでの事件で誰も死者を出していない、その謎の犯人を指し、マスコミは「黄昏の爆弾魔(ラグナロク・ボマー)」と呼んだ。いっさいの手がかりを掴めず、捜査に行き詰まった警視庁は、三年前のとある悲劇的かつ猟奇的な事件を境にし、姿を消した一人の人物を、見つけ、ふたたび現場に呼び戻す。だが、若くして天才的な心理捜査士(プロファイラー)大滝錬魔は、過去に失った大きなもののために、その要請を拒否しようとするのであった。このように、プロファイリングでもって犯罪者が確定されてゆく過程に、登場人物たちの、それこそプロフィールに関わる諸要素が絡んでくる、というのが、おおまかな筋であり、そうして構築されていく時間がそのまま、スリリングな劇となっていて堪らないのだけれど、今このタイミングではなくて、7年前にリアルタイムで読んでいたら、ここまで愉しめなかったかもしれないなあ、と思うのは、ある登場人物が超常的な能力を携えているという、ちょっとマンガ的すぎる造型や、(この講談社文庫版でいうと)P268における爆破場面の、直截的すぎる描写などを、もしかするとマイナス点と捉まえてしまった気もするからで、とはいえライトノベルふうの想像力が効果的である現在ならば、むしろ表現の立ち方としては有用に感じられる。またサイコな犯罪やプロファイルという題材も、99年の時点だったら、ことによると使い古びている、という具合に受けとってしまった可能性もある。が、そちらもスタンダードな様式としてすでに定着している以上、今さら、設定が新規かどうかでその価値を判断することもない。要は、質の高さに還元される。いずれにせよ、自分の読書暦を顧みるに、ここまでこれ以降のエピソードが気にかかるシリーズものは、たぶん森博嗣の初期のころ以来ではないか。
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2006年11月05日
 極上掌篇小説

 『極上掌編小説』は、これまで『野性時代』誌上に掲載されてきた、総勢30名の、女性作家はわずかという偏りはあるけれど、それでも、さまざまな系の作家によるいろいろなかたちの掌編を、バランスよく取り揃え、一冊にまとめたものであり、率直にいって、極上とはいえないものがいくつか混ざっているような気もするが、しかし、それというのはあくまでも読み手側の好みの問題でしかないのかもしれず、このなかから僕が気に入った作品を選べということであれば、以下のようになるのだが、もちろんそれ以外の作品のほうがよかったぜ、という向きもいれば、つまりは、まあそういうことなんであろう。けっこうぴんと来たのは、車谷長吉と佐伯一麦、西村賢太ら、どちらかというと私小説寄りの作家の書いたものになるが、しかし西村のは、けっして私小説ふうとはいえない、ある小動物の兄弟を主役にした切ない話である。が、作者の資質のよく出た、アイロニックというか意地の悪い内容となっている。いやいや、意地の悪さでいえば、歌野晶午も負けてはいない。話の落とし方自体は、それほどのサプライズではないんだけれど、そこへ持っていくまでが芸の巧さで成り立っている。その他、三田誠広のナイーヴぶった学生ものと、矢作俊彦のクールなアウトサイダーものに、それぞれの「らしさ」が出ていて、快く読めた。
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2006年10月24日
 酒日誌 本日記 

 『酒日誌』はマガジンハウスから出ている。『本日記』は本の雑誌社から出ている。要するに、書かれた場所は違うということなのだけれど、書き手の体験したイベントやそのことが書かれている日付は、多少のズレがありながらも、重複しているのだが、まったく違った視点の持ち方、また文章の書き方がなされているため、完全に異なった印象をこちらに与えてくれるところに、坪内祐三という書き手の、書き手としてのモラルやスキルの高さを感じさせる。さすが(というか当たり前のことなのだが)原稿の二重売りを執拗に突く人だけのことはある、周到さである。そのようなわけで、双方を比べた印象をいえば、ある種の交友録に見えなくもない『酒日誌』よりも、種々の本を買う読むの記録に近しい『本日記』のほうが、愉しく読めた。それというのはもちろん、読み手である僕の指向性がそういうものだからなので、べつに『酒日誌』が詰まらないというのではなく、どこそこの雑誌にこれこれこういう記述があった、という話よりも、文壇バーに行ったら××(有名な批評家の名前などを入れてください)が飲んでいてどうだった、というような話が好きな向きには、『酒日誌』のほうが、おもしろみを強く感じられるだろう。たとえば僕なんかは、『本日記』の、小林秀雄の各新聞紙における死亡記事を読み比べる段(P28)などに、へえ、と引きつけられるのである。ところで『本日記』、小島信夫の『別れる理由』を探し求めるくだりで、一箇所だけ唐突に『別れの理由』になっているところがある(P46)のだけれども、これは、単純に誤植なのだろうか、それとも何か意図があってのことなのだろうか、と気になってしまうのは「誤植が未来を予言する」という節で、とある本の誤植に触れ、おもしろおかしく書かれていたりもするからなのだった。

・その他坪内祐三の著作に関しての文章
 『「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』について→こちら
 『考える人』について→こちら
 『同時代も歴史である 一九七九年問題』について→こちら
 『古本的』について→こちら
 『『別れる理由』が気になって』についての文章→こちら
 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』についての文章→こちら
 『文庫本福袋』についての文章→こちら
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2006年10月20日
 「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む

 『「近代日本文学」の誕生―百年前の文壇を読む』は、その題名のとおり、今から約100年前、明治32年(1899年)から明治39年(1906)年までのあいだ、当時の日本文学というか文学に携わる人びとがどのようであったかを、坪内祐三が、一月ごとに象徴的な出来事を調べ、扱い、並べた新書で、「はじめに」の段にあるように、現在においては純文学とほぼイコールである自然主義の本格的な台頭や、近代作家のうちでもっとも知名度の高いといえる夏目漱石が活躍していた頃ではなく、その登場を準備した時期のことを主にまとめたもので、ここではまだ、漱石も石川啄木も正宗正鳥も文壇における重要な人物ではないし、田山花袋の『蒲団』は書かれていない。すなわち江藤淳の評伝『漱石とその時代』後半や関川夏央・谷口ジローのマンガ『「坊っちゃん」の時代』のなかで捉まえられている段階の、そのすこし前の時代が集約されていることになる。坪内の記述は、いっけん淡泊であり、時系列にそって事実がじつに事実的に列挙されているだけに見えなくもないが、しかし、たとえば複数の文献を照らし合わせ、明治33年に漱石がロンドンへ渡るさい、南方熊楠とニアミスしていた事実を発見するあたりなど、いやいや、なかなかドラマティックに感じられたりもする。

・その他坪内祐三の著作に関しての文章
 『考える人』について→こちら
 『同時代も歴史である 一九七九年問題』について→こちら
 『古本的』について→こちら
 『『別れる理由』が気になって』についての文章→こちら
 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』についての文章→こちら
 『文庫本福袋』についての文章→こちら
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2006年10月17日
 月光・暮坂 小島信夫後期作品集

 保坂和志『小説の誕生』の「あとがき」のなかに〈小島さんが六月に脳梗塞で倒れた。病状はひじょうに悪く、意識がもどる可能性はまずないと言われている〉と書かれているのを読んだとき、ぎょっとしてしまった。そうした、作家をめぐる現在と、このたび『月光・暮坂』が講談社文芸文庫から出たことの背景というは、たぶん山崎勉が解説に書いてあるとおりで、直截の繋がりがないのだろうけれども、これが「小島信夫後期作品集」としてまとめられている、その「後期」といった表記の部分が、なんだか、ぐっと重たく感じられるのはたしかだ。山崎の解説によれば〈後期作品集」と銘打たれているものの、九七年以降現在までの、いわば最晩年期の作品は含まれていない〉にもかかわらず、である。しかしそれにしても、小島信夫の小説というのは、とてもへんてこで、とてもとてもおもしろいなあ。『文藝』冬号の、高橋源一郎と保坂和志の対談で、ふたりがいっているのはたぶん、自分たちもこういう、小島みたいな書き方をしたい、というようなことだろう。たとえば、この文庫の最初に収められている「返信」という短篇、その出だしには、内田魯庵が「漱石の万年筆」という文章のなかで、夏目漱石の「よさ」についてうまいことを言っている、というふうに綴られている、と、たいてい魯庵がどのようにうまく書いていたか説明されるほうへと流れてゆく、か、すくなくとも読み手はそれを頭のどこかで期待してしまうわけだけれど、小島のばあい、そうはなってくれない。で、〈その「よさ」について魯庵は、実にうまい言い方をしていたが、これも忘れた〉となる。なってしまう。ふつう、こう書かれると、えー、と思わざるをえないし、そのあとに〈私が「漱石の万年筆」のことを紹介したのは、ほんとうは、漱石の「硝子戸の中」のことを書くための枕にしようとしてのことである。魯庵があげた作品の中に「硝子戸の中」はなかったような気がするが〉と書かれていれば、さらに、ええー言及する意味ないじゃん、といったところであるし、そこから〈……なかったような気がするが、「硝子戸」のために、私は何かを必要としたものだから、何となく魯庵のたすけを借りたのであった〉と続くのだから、そうか、漱石の「硝子戸の中」についていいたかったんだね、と思い、文章を追っていくと、「硝子戸の中」の存在は、主題を象徴したり代替したり示唆していたりするものではなくて、ただ一個の小道具にしか過ぎないことが、わかる。そうやって「返信」という小説は進んでゆく。だが、そういう在り方に関して、けっして不満だとは覚えないところに、小島の、作品のおもしろみはあるように思う。どういうことか。読み手の側からすれば、接点の小さく見える、とりとめもない事柄が連続することで、まるで書き手の意識が、今まさに、小説の内部で、生成されているかのように実感されてくる。今まさに、というのは、その小説が書かれた時点ではなくて、ここでこうして読まれているこのときに、為されているということで、だから、それはいっけん、書いている当人に限定された情報だけでつくられたふうであるにもかかわらず、書き手のなかだけで、あるいは小説のなかだけで、完結していない。読んでいる人間が、おもしろがれるのである。

 『残光』について→こちら
 『殉教・微笑』について→こちら
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2006年10月16日
 一、二、三、死、今日を生きよう!成田参拝

 ここ最近の、笙野頼子が書くメタ私小説ふうな作品群のなかにあって、この『一、二、三、死、今日を生きよう! 成田参拝』は、わりとダウナー系の内容になっており、全部で四つの篇が収められているのだけれど、そのうちでも〈なぜだ! 十一月の六日に自分が死ぬ事に決まってしまっていた〉という書き出しと〈十一月の六日、死を免れた〉という書き出しとが直截の連続性を示す、「一、二、三、死、今日を生きよう!」と「語、録、七、八、苦を越えて行こう」がとくに暗たく思えるのは、〈私〉という語り手の一進一退の攻防が、そこでは、わずかに敗北を背後霊のように背負ってしまっている、と見えるからではないだろうか。あるいはその、敗北の背後霊こそが、それぞれの篇の前後に置かれている「成田参拝」と「羽田発小樽着、苦の内の自由」の内部で、個人的な祈りを誘発している。ここでの一人称が見、語っているのは、政治的な闘争としての「成田」ではなくて、自我や内面と他者や社会とが、緊張のなかでせめぎあう場としての「成田」なのである。〈人は所有によって内面の苦悩を抱え時にはその苦悩を救うために出家までして、既に獲得してしまった内面を守ろうとする。自我とは土地所有によって始まった心の動きである(P188)〉という考えに、共振するがゆえに、〈私〉は、「成田」という土地回りにおける組織と個人の諍いに、自分が抱えるテーマ、ときに彼女の自我や内面の投影された神や水晶や猫たちとタコグルメや評論家等々との論争となり現れるそれ、と共通したものを感じとるのだ。が、正直なところ、そうして成り立つ語り口と取材対象との(あいだにあるべきだと考え、ロジカルな説得力を見るとしたら)客観的な距離が、ところどころで破綻しているようにも受けとれる。

 「この街に、妻がいる」について→こちら
 『だいにっほん、おんたこめいわく史』について→こちら
 『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』について→こちら
 『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』について→こちら
 『片付けない作家と西の天狗』について→こちら
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2006年10月12日
 『文學界』11月号掲載。『海行き』という小説は、『風化する女』で第102回文學界新人賞をとった木村紅美によって、書かれている。ところで僕という読み手は、小説のなかに、サブ・カルチャーにおけるスノッブな知識というか、いわゆるサブカルふうの固有名や薀蓄などが出てくると、なんだか気恥ずかしいというか、居たたまれなくなるというか、書き手の厚顔ぶりにあてられた気がして、作品を一段階か二段階低く見積もってしまいたくなるタイプなのだが、それでこの『海行き』でも、下北沢にわざわざ通う大学生がゴダールだとか澁澤龍彦だとかヴェルヴェット・アンダーグラウンドだとか言っていたりするのだけれど、だが全体を俯瞰してみればわかるとおり、そのような紋切り型ともいえる、モラトリアムの、ある種特権的な自意識は、物語の内部で相対化されるために、ひとつの極として、あえて提示されているものに他ならず、語り手である〈私〉の実感は、たとえば深川めし弁当や新鮮なうにや手巻き寿司のほうへ、そして〈サラちゃんとは、卒業後もずっと定期的に会っているのだから、彼女の目に映る私は、日々少しずつ肉がついていき、その積み重ねが十五キロあるわけで、いきなり数字だけ言われてもぴんとこないのは当たりまえだろう〉という体型や、〈サラちゃんとも譲くんとも、好きなだけいっしょにいられたときは、半分惰性的、みたいな気がしていたけれど、めったにそろわなくなったいまとなっては、あれは、何て贅沢な時間だったのだろう、と感じられる。でも戻りたいとは思わない〉といった言い切りのほうへとかかっている。大学時代には仲のよかった男友だちのところに、卒業後6年経ってから、ふたりの女性がひさびさに会いに行く。というのが大まかな筋で、それと並行しつつ、3人がいっしょに過ごした頃のことが振り返られる。そうやって小説のかたちはつくられているわけだが、〈私〉のエモーションは、現在からしてみればまだ近過去でしかない程度の昔が、しかし遠く、横たわるわずかばかりの歳月が、しかし長く、つまりはそのような距離感へと宿らされており、それが、旧友たちとのやり取りのあいだで、ふっと消える瞬間に、今このときの尊さは光のように見え、近未来にさびしさの影を映しながら、そこからさらに先の未来へとあかるく伸びながら、〈私〉の胸中を、あたらしく書き換えるのである。

 『風化する女』について→こちら
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 独白するユニバーサル横メルカトル

 平山夢明のものは、これまで読んだときがなかったのだが、『小説すばる』10月号で大森望が、『文學界』11月号では中原昌也が、この短篇集『独白するユニバーサル横メルカトル』について、えらい賛辞を送っていたのにそそられ、手にとった次第なのだけれども、まあそれぞれ知り合いらしいという事実は差し引いても、中原の「読むスラッシュ・メタル」という評は、じつに言い得て妙で、倫理のパースペクティヴが甚だしいほどに狂った内容は、読み手に対して、ある種の生理的な耐性を強いるが、しかし、いったん引き込まれると、ページをめくる手は、一方的に加速する勢いである。ほとんどすべての篇で、人体が改造されるか、解体されるか、焼かれるか、食されるか、いずれにせよ無惨に殺される、というのがイメージのレベルで堪える、というのもあるけれど、それ以上に、けっして善良ではない人間が、より純度の高い悪意に逆襲される、その、非常に理の適った不条理に、生きるも死ぬも同程度に不当であり、この世のなかでいちばん怖いのは痛みを知覚する事実であるに違いない、と、さんざん思い知らされる。胸糞が悪い、そのことに疑問を差し込む余地は1ミリもなく、いっそ清々しい。こういうグロテスクな譚の類は、ふつう、独特な美意識が嵩じるあまり、まず文章を見た時点で、入り口が狭く感じられがちなものだが、ここでの適度に端正な文体は、敷居の高低を錯覚させ、足を踏み入れたとたん、さっ、とその世界観に攫われてしまうところが、何より、こわい。秀逸なのは表題にもなっている「独白するユニバーサル横メルカトル」で、地図が語り手をつとめるというトリッキーなアイディアが、アイロニックなおかしみと同時に、静謐ともとれる叙情を、ぜんぜん良心的じゃあない話のうちにもたらしている。また最後に収められている「怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男」という、題名からして嫌な感じのそれも、肉体と精神、現実と夢、覚醒と混濁の、さまざまな意匠による二重奏に脳が揺さぶられるからなのか、吐き気がするような描写にもかかわらず、それこそ登場人物のひとりが言う「ロマンス」と覚しきフィーリングさえ受けとってしまえるのが、(こう、顔を覆った両手の、その指の隙間から目を覗かせながら)ほんとうに、いやだ。
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2006年10月10日
 『文藝』06年冬号掲載。山崎さやかが『はるか17』というマンガを描きはじめたとき、いやおもしろいのだが、しかし、どこへ向かっているのかよくわからないなあ、と思ったのに似た戸惑いを、綿矢りさの、ようやく芥川賞受賞第一作となる『夢を与える』を読みながら、感じていた。芸能界に入った少女の、人生の上昇と下降を捉まえた、そういう通俗的なフィクションとしては、とてもよく出来ており、実録○○(スキャンダルなどでテレビの画面から消えていったアイドルなどの名前を入れてください)物語とか、そういうふうに言われてもわりと受け入れられそうな内容であるし、それを成り立たせている力量にしたって、同世代の女性作家と比べ、いかにも圧倒的であることを如実に伝えてくれるのだけれども、反面、新鮮さがどこにもない。筋の運びだけを取り出せば、紋切り型でさえあるだろう。とはいえ、否定的な意味で、そう受けとるのではない。だから困ってしまう。じっくりと考えたわけではないので、あまりうまく書けないのだが、現代を生きる人間が、たとえば、その胸のうちに抱える小さい世界なぞ、いとも容易く崩壊するという決定的な事実に、できうるかぎりの焦点をあわせ描写した、ひじょうにジャーナリスティックな作品であると思う。

 「You can keep it.」について→こちら
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2006年10月09日
 『新潮』11月号掲載。舞城王太郎の、「ディスコ探偵水曜日」の、第三部「解決と「○ん○ ん」」の6パートと7パート目、〈第三回〉である。一回の分量が少なくなって、一場面ずつしか話が進んでいかないので、リアルタイムで掲載を追う読み方だと、ややもどかしい展開が続く。〈人間の死がパチンで終わりなら、肉体を離れた魂の活動なんてなかったなら、桜月の怯えも梢のトラブルもなかったはずなのだ。パンダラヴァーの事件もなかっただろうし、パインハウスの事件は起こったかもしれないが、俺も梢も巻き込まれずに済んだはずなのだ。厄介な生き物……と言うか死に物だぜ、人間〉そのようなわけで、パインハウスにおける探偵たちの推理というか御託というか屁理屈は、懲りず繰り返され、おそらくは、また誰かが死ぬ、登場人物である水星Cの言葉を借りれば「あ、阿呆どもが。お前らがくっちゃべって時間稼ぎしてる間に、もう一人死ぬぞ」という次第になるのだろう。今回、読んでいて単純に思ったのは、これが、読み手を小説の内部に引き込むようなかたちでつくられた作品ではなくて、たとえば名探偵たちの発言は、小説の外部にいる読み手に対してのメタ活字になっているのだが、しかしそれは、あくまでも小説の内部に存在する他の登場人物たちへの働きかけとしてしか機能していない、したがって読み手の、作品に対する位置は、いち傍観者に過ぎないのだけれども、じつはそのことが翻って〈名探偵たちは自分の推理を構築するためにいろんな情報を取捨選択したはずだが、捨てられた方の情報を俺はまだ知らない〉語り手であるところの〈俺〉イコール・ディスコの立場と、読み手の立場とを近しくさせている、ということであった。すくなくともディスコは、パインハウスに到着してから、彼自身がいうとおり〈既に始まってた推理合戦をぼけっと聞いてただけ〉なのであり、水星Cからは、逃げている、と指摘される。要するに、能動的に、活発に、事件へと介入していかない。その介入していかない、いけないことのジレンマが、最初に書いたような、こちらの、断片にしか触れられない、もどかしさと重なっている。

 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2006年10月08日
 『en-taxi[エンタクシー]』VOL.15掲載。このところの生田紗代の作品は、どこか暗い、と感じられる。ナイーヴで多感な思春期のような暗さ、しかしナイーヴで多感な思春期そのものではない暗さ、である。たとえば福嶋亮太は、『文學界』10月号の「新人小説評」のなかで、生田の『彼女のみる夢』を指し、〈ほとんど中学生レベルの認識〉といっているけれども、僕の考えをいえば、それは、作者が自身の自意識をそのまま放り投げた結果そうなった、というのではなくて、わざわざそのようなかたちに小説をつくっているのではないか、といったふうに読めなくもなく、その自覚された部分に、なにかしらかのエモーションが込められていると感じられるのだった。たしかに、この「靴の下の墓標」における認識もまた〈世界は僕を拒絶していた〉〈世界は、相変わらず僕を拒絶していた〉という具合に、幼い。が、そうした幼さが、同時に〈僕〉という人物の生きにくさを代弁しているのである。「靴の下の墓標」は、「ハビタブル・ゾーン」に続く連作の一部で、「ハビタブル・ゾーン」からの流れでみればわかるとおり、連作自体は、高校時代に『進路研究クラブ』という、要するに文系的なマイノリティが強制的に組み込まれるクラブ活動で、けっして明るくはない青春を過ごした4人の男女の数年後、成人してからの姿を捉まえている。彼や彼女らはみな一様に、他人との関係に豊かさを見出す能力が高くなく、それは過去も現在も変わらない。というのは、結局のところ、彼や彼女らが、自意識だけはごろんとあり、そして他者のいない世界の住人だからだろう。そのうちのひとりであり、ここでの語り手であるところの堀田悠仁は、中学校の教師をやっているが、〈教師の仕事は好きではなかった〉〈僕は教師の仕事ではなく、生徒のほうが嫌いなのかもしれない〉と思うほど、そうした役割に対して価値を見出しておらず、また、自分の家族に関しては嫌悪しかなく、だから一人暮らしをするためだけの給料を得るために、嫌な仕事でもつとめているのだし、友人や異性への関心も乏しい。だが、この一個の自意識は、あくまでもこの小説の語り手という限定されたレベルにおいてのみ、固有なものでしかありえないのは、それこそ「ハビタブル・ゾーン」の原かの子にとっての、堀田悠仁は、いつも少女マンガを読んでいる男子以上の印象を持っていなかったことからも明らかである。その、原かの子の、堀田悠仁に向けた無関心は、ここでも回想のなかに反復されている。つまり、他者のいない世界で、同時に〈僕〉も、誰かの他者ですらない、なかった、そして今でもやはり、ない。ない、という空漠が、彼の〈足下の下深くに、墓標の存在を感じ〉させる。

 連作第1回「ハビタブル・ゾーン」について→こちら

・その他生田紗代の作品に関する文章
 『彼女のみる夢』について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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2006年10月06日
 愚者と愚者 (下) ジェンダー・ファッカー・シスターズ

 『裸者と裸者』がそうであったように、物語の主人公は、この『愚者と愚者(下)ジェンダー・ファッカー・シスターズ』から、女の子だけをメンバーとするマフィア、パンプキン・ガールズのボス、椿子へとスイッチする。時系列は上巻の直後、海人の電話が、椿子に感傷的な気分をもたらしたところから、はじまる。そして銃撃戦が、ロケット弾が、ふんだんな死傷者を、出し惜しむことなく出しながら、作中の時間は進められていくのだが、副題に示唆されているとおり、セックス(性交)に対する指向性の葛藤は、より色濃くなっており、あるいはそのことが、戦局さえも、おおきく左右する。ロマンティック・ラヴをせせら笑い、ほとんど唯物論者のように見える椿子が、パンプキン・ガールズに敵対する勢力を「社会正義党はどこにでもいる腐敗した人種差別主義者で女嫌い。我らの祖国は腐敗した狂信的な人種差別主義者で女嫌い。黒い旅団は生真面目な反人種差別主義者のくせに狂信的な女嫌い」と分析し、唾棄し、男性とも女性とも、それらのあいだにまたがる性の人たちとも共闘することができ、寝ることができるのは、つまり「混沌こそ、破壊エネルギーの尽きせぬ源泉なのさ」と信じているからで、海人が率いる孤児部隊が〈こじはみな、はらがへって、軍たいにはい〉り、〈むずかしい話はかんけいない〉がゆえに、イデオロギーにはまることもなく、ただ勝利を優先させる能力に長けているのと近しいように、パンプキン・ガールズも、イデオロギーの外側で、ただ自分たちが自由に振る舞うためにのみ、持ちうる力を最大限に発揮する、だからこそ規律は守られなくとも、強いのだ。しかし現実的に、組織としてのまとまりのなさが、彼女たちを窮地に追いやることもある。欲望を認めながらも、コントロールする術は、十分に学ばれなければならないのである。孤児部隊にとって、それは教養、知性の教育にあたり、パンプキン・ガールズにとっては、軍事訓練、ある種のディシプリンであろう。両者は対応している。それもまた、作中でいわれる〈二者の愚行〉のひとつに数えられるのかもしれないけれど、成熟と平和が、双方を解体する前に、物語の幕は、潔く、おろされるのだった。

 『愚者と愚者(上)野蛮な飢えた神々の叛乱』について→こちら
 『裸者と裸者(下) 邪悪な許しがたい異端の』について→こちら
 『裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争』について→こちら
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 愚者と愚者 (上) 野蛮な飢えた神々の叛乱

 応化という元号で語られる内戦状態の日本で、孤児部隊を率いていた少年佐々木海人が、青年になったのちの物語が綴られた、打海文三『愚者と愚者(上)野蛮な飢えた神々の叛乱』である。表紙には、ややライトノベルがかった清潔なイラストが添えられることになったけれども、『裸者と裸者』に引き続き、けっして柔くない、ハードな殺戮の風景が、鮮血をともない描写されている。ゲイ・ヒロイズムを掲げる「黒い旅団」や、性的マイノリティを攻撃する「我らの祖国」といった勢力が台頭してくることで、三つ巴、四つ巴の戦況が、さらに混乱をきわめる、そうした新しい局面に象徴的であるように、セクシャリティの問題が、物語の前面へと迫り出しており、そこから生真面目に主題みたいなものを読み取ろうとすれば、できなくもない、が、まあそれだけを見てしまうと、マンネリな議論に似て、いささか退屈であるし、けっして、そのようなイデオロギーを語るだけのナルシスティックな振る舞いに、作品は終始していない、と思う。たとえば人種差別も含め、レイシズムが恐怖からやってくるのであれば、ではその恐怖はいかにして飼い慣らされるべきか、といった問いに対し、答えのないことの混沌が混沌のまま転がる周辺を、登場人物たちは、右往左往疾駆し、生き、ときには死んでゆく、強くも儚くも、また愚かしくもある行動の連鎖反応を、繰り返し捉まえることにより、エンターテイメントとしての内実は成り立っているのである。最低限の秩序も、戦況次第で、容易く覆される、そのような場において、善悪を線引きし、倫理を決定することは困難を極める。しかし、人は自分が無意味であることには耐えられないので、確信をもって語られる主義や主張に同調し、そうして生まれた信念や欲望を、あらかじめ自分の内部にあったものだと信じうる、結果、裏切ったり、裏切られたりもする。作中の言葉を借りれば〈世界は神の悪意にほんろうされてる〉わけだ。クライマックスで、海人を見舞う困難は、同時に少年時代との決定的な訣別を促す。それでも彼の人生は、「律儀で無学な鈍くさい男の子の悲劇」の残響をともない、続いていくのだろう。

 『裸者と裸者(下) 邪悪な許しがたい異端の』について→こちら
 『裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争』について→こちら
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2006年10月03日
 ひとかげ

 小説の前置きに作者のエクスキューズが付せられることをあまりスマートだとは思わないのだけれども、まず「はじめに」のなかで、よしもとばななは〈私の若い時に書いた小説だけが好きな人たちというのもいて、彼らはかたくなに私の今の小説を否定したりします〉といっていて、僕などはけっこうそれに近しいタイプの読み手であるぶんだけ、この、よしもとが若いとき、つまり吉本ばななであったときに書かれた短篇「とかげ」のリメイクである「ひとかげ」に対しては、わりと慎重な面持ちでページをめくったわけだが、そうして読後感を簡単に述べるのであれば、たしかに書き直されたことで異なる感触が持たされているのはわかる、にしても、そうすることで良くなったとか悪くなったとかはないな、というものだった。要するに、べつの作品として成立させられているのであり、だから「とかげ」と「ひとかげ」のどちらが好みか、というのは、結局のところ、読み手の指向性に拠るしかないのであって、やはり僕はというと「とかげ」のほうを高く評価してしまうわけだが、それは、すくなくともこの話に関しては、登場人物と作者がべったりとくっついて、不可分になっているような、そういう書かれ方は、あまり合っていないと感じられるからだ。フィクションであるかぎり、登場人物が、作者の分身であったとしても、作者そのものである必要はない。両者の境界が、「ひとかげ」においては、曖昧になってしまっている。地の文における、よしもと(吉本)には数少ない男性による語りが、作者自身の、他の小説やエッセイなどでも用いられている言葉と、ほぼ同型のまま記述されている(というふうに読める)ためだ。そういったことを指して文体と呼ぶかどうかはともかく、そのような、作者の〈心の叫び〉を否定するつもりはないし、それを求める読み手を批判する気もない、とはいえ、リメイクの必要は、つよく感じられなかった。もちろん「とかげ」の〈私は29歳男〉といった自己紹介も、いま読むとあんまりではあるが、そのへんも含め、さしあたり相対的な好みの問題に還元した結果、そう思う。

・その他よしもとばななの作品についての文章
 『イルカ』について→こちら
 『みずうみ』について→こちら
 『王国 その3 ひみつの花園』について→こちら
 『なんくるない』について→こちら
 『High and dry(はつ恋)』について→こちら
 『海のふた』について→こちら
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2006年10月02日
 桜ハウス

 小谷野敦は今でも藤堂志津子を読んでいるのだろうか、ということが気にかかるのは、じつは僕が藤堂を読むようになったのは、以前に小谷野が褒めていたのを入り口にしたからで、その後、文庫になっているものはほとんど揃えてしまった(ちなみに僕は『人形を捨てる』を推す。いやまあエッセイ集なのだが、はっきりいって、その内容は凡百の私小説を軽く圧倒しているのだ)。さておき。藤堂の新刊『桜ハウス』は、4人の女性が10年の歳月を通じ、培ってきた繋がりを、その10年間ではなくて、その10年後を描くことで、中年期以降における人生のおかしみとかなしみを捉まえた、そういう連作小説である。蝶子が36歳のとき、亡くなった伯母から遺産として譲り受けた一軒家の二階を、他人に間貸しするさい、住居人募集の面接で選ばれたのが、31歳の遠望子と26歳の綾音、それから21歳の真咲だった。そうして「桜ハウス」と名付けられたそこで、ともに暮らした4人であったが、3年後に遠望子と真咲が出て行く、それから〈こんなふうに四人がここにそろうのは、かれこれ七年ぶりです。個別には電話しあったり、そこで会ったりもしてたのに、なぜか、ここで一堂に会するチャンスはずっとありませんでした。これも別に理由はなくて。でも、きょうの再会をきっかけに、また親しくおつきあいできますように〉という再会を経て、つまり蝶子が46歳、遠望子が41歳、綾音が36歳、いちばん若い真咲でさえ31歳になってからの、彼女たちの交流が、いくつかのイベントとともに、四つの短めの物語として綴られてゆく。北上次郎は、『小説すばる』10月号の書評欄で、この『桜ハウス』を評して〈藤堂志津子の最近の作品には、中年女性のひりひりとした焦燥感と孤独をモチーフにするものが少なくない〉のだが〈今回は違〉い、王道パターンの友情小説だといっているが、たしかにそのとおりで、藤堂の近作中では、かなり明るく楽しい内容になっている、とは思うのだけれども、〈中年女性のひりひりとした焦燥感と孤独〉がまったく漂白されてしまっているかというと、そうではなく、随所でそれは、登場人物たちのエモーションを際だたせる効果をはたしている。たとえば〈十年前の私の最大の悩みは、つねに恋愛だった。いまの私にその悩みはない〉という蝶子にとって、〈もうここ何年も私が夢中になることって、おいしいものを食べることなの〉だが、結果、それが食に対する異様な執着、あたかも依存か中毒のようになっており、〈十代の若者ならばまだしも、四十代なかばになって自分の食欲をコントロールできないのは、どう考えても恥ずかしいことだ〉と思い、誰にもそのことを打ち明けられずにいる。そうした悩みが、さりげなく徹底されることで、〈平均寿命が八十歳をこえた高齢化社会のいま、いつまでも、はてしなく若い気分でいることが美徳とされているらしい〉現代の空気がじつはシビアであり、そのなかで自然を振る舞わなければならない、女性であることの困難が、深く掘り下げられている。
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2006年09月30日
 「栄光の仕様」は、西尾維新の『〈戯言シリーズ〉限定コンプリートBOX』に含まれている、作者書き下ろしの小説(豆本)である。とはいっても、戯言シリーズとの直接的な繋がりはなさそうな内容で、「なこと」という語り手と読書にまつわる奇妙な出会いという意味では、むしろ『ユリイカ』9月臨時増刊号「総特集西尾維新」に掲載された「させられ現象」や、『西尾維新クロニクル』に掲載された「ある果実」のほうに関連づけられる作品なのだが、「させられ現象」の両島なことが「おれ」であったのに対して、「ある果実」の海鳥なことが「ぼく」であったように、「栄光の仕様」の地這なことには「わたし」という主語が用いられている。〈生まれて初めてのアルバイトをするにあたってあたしは迷うことなく趣味を仕事にすることにした〉、彼女の趣味とはいったい何かといえば〈わたしの趣味は読書である〉、なので選ばれたのは〈書店員である。高校生でも無理なくできるだろうし〉というわけだ。そうして彼女がレジ打ちの業務にあたっているとき、ふと気づいた、とある少女、富山たあとの不思議な本の買い方、それはシリーズ作品を逆からの順番で揃えてゆくことなのだが、それに対する懐疑がそのまま、作品のなかで展開させられてゆく。なこととたあとのあいだで交わされる、作者とテクストと読み手という三角関係についての会話は、以前の2作にも通じるものであるけれども、しかし、この「栄光の仕様」に関して、正直なところ、あまり訴えかけてくるものが感じられなかったのには、ふたつの理由が考えられて、ひとつには、そのような出来事の「わたし」という主体への働きかけが、作中の表現において弱いこと、もうひとつには、富山たあとという登場人物の突飛さが、いささか類型的であるがゆえに、こちらへのアピールが弱まっていることが挙げられる。

・その他西尾維新に関する文章
 『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』について→こちら
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2006年09月28日
 福田和也と“魔の思想”―日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝

 いやまあ、僕のように福田和也に対し、あまり高い評価を持っていない人間には、「序」の段と「あとがき」に目を通しただけで、もうその愛と憎しみの満ち具合からして、すでに過大評価ではないかな、というぐらいに、お腹いっぱいであり、たとえば他の人間はフルネームでなければ名字で記されているにもかかわらず、なぜか福田和也だけは「和也」という下の名前での呼びかけであったりするところで、とくに〈和也は、きっと中学にいかなかったのだろう〉〈やはり、和也は中学に行っていない〉と連呼されるあたり(P256)が個人的にはツボに入り、思わず吹き出してしまいもするし、たとえば〈福田和也について、本書を読まれれば、その脳内の構造も、その特殊な臓器のすべても、日本人を“皆殺し”したくてたまらない、その人格の常・異常も、解剖台の上に白日のもとにさらわれているだろうと確信している〉という高らかな宣誓にいたっては、いっそ福田和也という人間が魅力的に見えてしまいもするのだけれども、それというのはつまり僕自身が、ポスト・モダン(本書での表記に従い)の考えに、知らずのうちに毒され、〈思想改造されている〉「無意識のアナーキスト」たる現代日本人のひとりだからなのかもしれない。いやいや、そんな。中川八洋『福田和也と《魔の思想》―日本呪詛(ポスト・モダン)のテロル文藝』は、その題にあるとおり、福田和也とポスト・モダン的な思想の糾弾を目指しているわけだが、しかし、これがすげかった。中川の筆にかかれば、磯崎新は〈一面の焼野原に精神の空洞と狂気という疾患を得て墓場のごとくなった〉心の持ち主であり、保田與重郎は〈どうやら生死の区別がつかない〉ばかりか〈妄想と現実との区別がつかない精神疾患〉を持っていたのであり、 リオタールは〈人間を「物体」にすぎないと見てメスとナイフで人間を切り刻む欲望と妄想に生きた、“世紀の狂人”〉なのであり、『象徴交換と死』を訳する今村仁司は〈ボードリヤールという魔教を吸飲した信者の“脳死状況”がどんなものかを教えてくれる〉のであり、浅田彰とフーコーは〈「ゲイ」の言葉をやたらに撒きちらせば革命力がうまれると狂信している〉という意味で相似なのであり、そうしてポスト・モダンとは〈近代を価値として断じて認めず、破壊する執念を正当化したドグマ〉にすぎず、福田和也こそが〈一九八〇年代の浅田彰を継承するポスト・モダン系のアナーキストの中でも最も大物であり、その才は抜きんでて、他のポスト・モダニストは足下にすら及ばない〉のであり、その念願は、日本国家の死滅、消滅、亡国とすることにあるのだった。おお。このように書くと、陰謀論めいていくる、というか、じっさいにある種の陰謀論に読めなくもないのだが、その原因の多くは、対象を一方的に切り捨てる文章の在り方、あるいは、それを生み出す想像力の働かせ方に負っており、基本的な主張は、出生率が低まると将来の日本人人口が減ちゃうので、安易にジェンダーやフェミニズムが振りかざされるのはいかがなものだろう(もちろん出生率を考えれば、同性愛もよろしくないわけだ)とか、「ゆとり教育」は日本人の学力を低下させるだとか、それは結局のところポスト・モダンのせいなのだとか、の、けっこう素朴なものだといえるし、福田和也のミスリードや事実誤認を指摘するのは、彼に対する批判としては、わりと一般的なものだともいえよう。
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2006年09月24日
 ブラバン

 読み手である僕が、お気に入りの登場人物を挙げるとすれば、用賀大介と辻吉兵のふたりの先輩、彼らは25年前の過去も25年後の現在も変わらず、かっこうよい。すくなくとも語り手である「僕」の目を通したとき、こちらにはそう見えてくる。津原泰水の『ブラバン』は、その題名にあるとおり、とある高校の吹奏楽部を主役にして成り立っている。巻頭に、30名を越える雑多な登場人物が紹介されているため、読みはじめる前は、同作者の長篇でいうと、『妖都』や『少年トレチア』のような、複数人の視点をスイッチするスタイルが、青春小説のかたちへ流用され書かれたものを想像していたのだけれど、違った。視点は、あくまでも「僕」という一人称に固定されている。その「僕」が、00年代の現在、つまり40代に入った今と、80年代の過去、つまり彼の高校時代とを、パラレルに並べてゆくことで、物語は進む。〈ここにあるのはあくまで、やがて僕らにとってブラバンといえばそれを指すようになる凸凹楽団の物語であって、僕の自伝ではない。やることなすこと悉く失敗してきた人間の自伝なんか、誰が読みたいものか〉というわけだが、しかし、その記述のうちで、的確に峻別され、構成された、語られることと語られぬことのあいだに、「僕」の感情は、しっかりと宿らされている。楽隊における「僕」のパートは、〈管楽器と打楽器のアンサンブルたる吹奏楽〉に引っ張り込まれ、地味ながらも低音部を支える唯一の弦楽器、コントラバス(弦バス)であり、彼には、そうした全体を俯瞰する立ち位置をそのまま、人間関係における自分の役割に課しているところがある。たとえば、ある場面で「俺が知らんうちに終わってしもうて、それをあとから聞かされたとするじゃんか。ほしたら、はあそれが存在せんもんじゃいうのを俺はよう忘れる。あ、終わってしもうとんじゃったいうて気がついちゃ、なんべんもがっかりせんといけん。ほいじゃけえ自分の目で見届けて、これが終わりじゃいうて頭に焼き付けとく必要があるんじゃ」と訛りながら、自身が言うように、だ。大勢いる登場人物ひとりひとりのチャームは、そうやって引っ張り出される。が、そのような資質は、たとえば、べつの場面で他の登場人物から「思うとることを口にださんけえよ。相手が見てほしい部分じゃなしに見てほしゅうない部分をさきに見つけて、しかも黙ったままでおるけえよ。それがみな怖いんじゃ」と指摘され、相対化されることで、他の誰でもない「僕」の、その人生へと回収されるのである。そうして彼が口にする〈なんだかんだで上の世界を信じ〉られるぐらい〈日本という国全体が、まだ辛うじて成長期にあった〉80年代初頭の空気は、青春の貴重さを際だたせ、今日における閉塞感との対比が、歳月の重みを伝える。喪われたもの、損なわれたもの、そして残るもの。とにかく、〈バスクラリネットの死を知ったトロンボーンとアルトサクソフォンは、ちょっとしたパニックに陥った〉という書き出しから、最後の一行に至るまで、読ませどころが盛りだくさんで、とてもうつくしく、悲しく、愉しく、「ほいなら泣き笑いもするの」の小説であった。
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2006年09月21日
 どちらでもいい

 『悪童日記』で知られるアゴタ・クリストフによる短編集、というか一冊の輪郭はショート・ショートをまとめたものに近しい、というか非常に短い散文が、わりと無造作に並べられている印象なのは、「訳者あとがき」のなかで堀茂樹がいっているように、これが〈ノートや書き付けの中に埋もれていた習作のたぐいを編集者が発掘し、一冊に収録した拾遺集〉だからだろう。全部で25の作品が収められているが、どれも、具体的なエピソードを語るというのではなくて、むしろ抽象的な心の動きが漠としたイメージを描き出している、といった感じだ。ある種の不条理劇としても読める。が、しかし、そうした条理の歪さは、世界の側からの個人に対する働きかけというよりは、個人の側から世界を眺める視線によって生じている。あるいは、個人への無関心こそが世界の実像なのであり、人びとが持ちうる想像力などは、現実の逆しまな反映でしかないのかもしれない。自分は、彼らが自分のことを知っていると思うけれども、じつは彼らは自分のことを知らないし、もちろん自分も彼らのことを知らない、それを妄想と呼ぶのであれば、そういう妄想の、それを孤独と呼ぶのであれば、そういう孤独の、原形であるかのようなスケッチが、この『どちらでもいい』には、ゴツゴツとした肌触りのまま並んでおり、すべてとは言わないが、いくつかはおそらく、読み手の胸中に、共感となって、現れるはずだ。堀によれば、その年齢と体調のため〈この先、A・クリストフの新作長篇小説が出る可能性は、残念ながらきわめて少ないと考えざるを得ない〉らしい、それが事実だとすれば、すこしばかり寂しいお知らせではある。
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2006年09月19日
 『小説すばる』10月号掲載。「beast of burden」は、絲山秋子による連作「ダーティ・ワーク」の最終話である。およそ1年に渡って発表されたシリーズの落としどころは、熊井と遠井、ふたりのこれまでとこれからを繋ぐターニング・ポイントとして成立している。〈ずっと探していたTTと会えたのは、楽屋に出入りしている花屋の辻森さんのおかげでした〉。そう語りはじめる彼女は、しかし〈私は別れる日のことまで考えてしまうから、男の人と出会ったときに悲しくなるのかもしれません〉という習慣のせいで、やがて彼と付き合うようになってからも、ふたりのそれからに対し、どこか消極的な展望を描いてしまう。ここで〈私〉となり現れている熊井望は、第1話の頃からのイメージからすると、非常に女性的な語り手である。じじつ読んでいるうちに、彼女がロック・バンドで男性メンバーに引けをとらない演奏をするギタリストであり、それ相応のタフさを持っていたことは、こちらの頭のなかからは抜ける。そして、そのような書かれ方がそのまま、作中の主題と重なる。自分が妊娠していることをTTに告げられない〈私〉は、女友だちから「ばか、あんたそんな男らしく見えるのに、見た目と違いすぎ。何が恥ずかしいの」と笑われてしまうし、〈私は、きっと子供を産むだろう。昔から女たちがしてきたように〉〈少しずつ、母親になっていく自分が、この森のなかにいる。それは心地のいいことでした〉と、通俗的ともいえる女性の役割を受け入れてゆくのであった。が、しかし作品の比重は、そうした母になることの決意よりも、そのことを共棲する異性と過不足なく分かち合うことはできないといった認識、つまり、他者との関係性はつねに不完全であるがゆえに他者は他者として意識されるといった状態のほうへ、つよくかかっていることが、おそらくは「ダーティ・ワーク」という連作の、総体として持ちうる価値であろう。「beast of burden」という題名は、これまでと同様にローリング・ストーンズのナンバーからとられており、その歌詞からは作中に「重荷」という言葉が導かれている。重荷とはいったい何だろう。具体的に語られなくとも、ある程度の見当はつく。けれど、それは同時に、言葉のうちにある意味が、漠然としているということでもある。その漠然としたものに包まれるとき、性差の問題はともあれ、読み手は〈私〉とともに、立ち止まる。

 「ダーティ・ワーク 第六話 back to zero」について→こちら
 「ダーティ・ワーク 第五話 miss you」について→こちら
 「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら

・その他の絲山秋子に関する文章
 『絲的メイソウ』については→こちら
 「みなみのしまのぶんたろう」については→こちら
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら 
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
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2006年09月17日
 暴力的な現在

 井口時男の『暴力的な現在』は、あまり長すぎない批評の類を集めたものであり、表題になっている「暴力的な現在」もそのうちのひとつ、おもに90年代以降に登場した男性作家たちについて論じられていて、僕はそれを、初出の段階(『群像』06年4月号)で目を通していたはずなのだが、ここであらためて読むまで、ほとんど記憶に残っていなかったのは、正直なところ、書かれていることに刺激を受けることもなく、感心するところもなかったからなのだった。たとえば井口は、中原昌也や阿部和重、舞城王太郎に佐藤友哉などの作品を見、村上龍や村上春樹、島田雅彦を経由しつつ、池田雄一や石川忠司といった、どちらかといえば若手批評家のロジックを参照したうえで、中村文則の優位性を述べてゆく。その中村への評価は、続いての、ほぼ同時期に発表された「暴力の記憶」にも共通しており、井口によれば〈阿部和重、中原昌也、舞城王太郎、佐藤友哉といった書き手たちが、アイロニーや紋切り型やサブカルチャー性によって「文学」から距離を置こうとしているのに対して、次のように書く中村文則は、一貫して暴力を主題にしながらも、正面切って「文学」であろうとする姿勢で際だっている。(略)つまり中村は、小説を書くことによって現実へ応答し、同時に、かつて読んだ文学にも応答しようとしているのだ。文学に対しても現実に対しても応答=責任を引き受けようとすること。現在の文学の風景のなかで中村文則を際だたせているのは、ほとんど無防備にもみえるこの倫理的な姿勢にほかならない〉ということになるらしいのだけれども、そうした言葉に首肯しづらいのは、たんに僕の中村に対する評価が高くない、という事実以前に、若い作家の作品から、とりわけ暴力のみをピックアップしてくる、その、もちろん批評につけられた名からもうかがえる指向性というのはつまり、暴力を暴力だと指摘するだけで倫理が倫理として規定されてしまうことと、相容れられないからである。他の批評家(柄谷行人や加藤典洋など)を意識した語彙の繰り方は、いっけん複雑なことをいっているように思えるが、97年の酒鬼薔薇聖斗事件をベースに組み立てられたロジックは、それぞれの作品に宿る主題を、欲望の前景という一面性へ単純化するだけの、それこそが書き手にとって都合のいい解釈の在り方、暴力的な手つきに他ならない。そのことは、「なぜ人を殺してはいけないの?」という、ここに収録された98年時のアンケートにおける、〈この抽象的かつ一般的な形式の質問文に、「私は」という主語を挿入させることから始めるだろう。次に私は、「なぜ私は人を殺してはいけないの?」という裏返しの問いが息を潜めていることに気づかせるべく試みるだろう〉といった回答の、中身の空疎さはともあれレトリックだけは立派に心がけようとしている、言い回しにも感じられる。ところで、いっつも疑問に思うのだが「なぜ人を殺してはいけないの?」というところの「人を殺してはいけない」という禁止は、いったい誰が発した(発している)ものなのか。問う側が示してくれず、どうして納得できないのかが前提にないかぎりは、その禁止者に直接訊いてみな、以外に答えようがないだろうに。
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2006年09月14日
 『金沢からの手紙―ウラ日本的社会時評』は、『文學界』に連載されていた「実践的思考序説」を1冊にしたものであり、じつは僕が、仲正昌樹のものを読むようになったきっかけがそれであったので、収められているほとんどには、すでに1回は目を通しているのだけれども、こうしてまとめてみると、やはり前半よりも後半のほうが、ぐっとエモーショナルな書き方になっており、エンターテイメントとしてすぐれている。エンターテイメントとしてすぐれているなどというと、失礼なように思えるかもしれないが、いやそうではなくて、「序にかえて」のなかでいわれている〈とにかく自分の思っていることを文章にして発表してみよう〉、そのようなパフォーマンスがうまくいったことの成果なのである。とくに、ネット書評家に対する批判である「レディ・メイドの「哲学」?」あたりは、同様の言い分は、仲正の、他の文章でも見受けられるのだけれども、しかし一篇のエッセイとして完結している分だけ、完成度が高い。ふつう書かれていることと書き手の距離が近くなれば、その結論はせこくなってしまいがちなものだが、いやたしかにせこく見えなくもないのだが、けっして自己弁護に陥っておらず、一般的に「哲学する」ことの陥穽を突いている。反対に、冷静な考察として興味をくすぐられるのは、『電車男』を叩き台に、恋愛が表現され、共感されることの矛盾を指摘した「「プライベート」を書き込む」になる。仲正は、シュレーゲルの実験的な小説から〈我々が“純愛”だと思っているものが、実は、様々な主体によるその場その場の断片的な思いつきとか、ステレオタイプ化した“愛情”表現を適当にコラージュして、それらしく作り上げた不純物にすぎないことが構造的によく見えてくる〉という考察を得、〈本当に他人に了解できないほど“純粋”だったら、「文学作品」にすることはおろか、「恋愛」という言葉で捉えることさえ不可能なはずだ〉と述べている。仲正は〈この世界に「純愛」なるものがあろうとなかろうと“本当のところ”どうでもいい〉と思っているらしいが、しかし、ここで見抜かれているものは、要するにあの、恋愛(または欲望)とは他者(または第三者)の欲望を欲望することである、といった図式に近しいのではないか、という気がしないでもないので、このへんの突っこんだところをもうすこし読んでみたい。

・その他仲正昌樹の著作に関する文章
 『ラディカリズムの果てに』について→こちら
 『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』について→こちら
 『松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)』について→こちら
 『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』について→こちら
 『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
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2006年09月12日
 北京ドール

 春樹(チュンシュ)というこの作家のものは、以前『すばる』に掲載された短篇を読んだことがあり、好感を持っていたので、その長篇作にあたる『北京ドール』も手にとってみた次第なのだが、しかし、中国の若い女性(作者は83年生まれ)が書いた、といった部分を、二次的な要素に回してしまうと、それほど特筆すべきところはないように思えた。学校生活を含めた日常にフラストレイトする10代のパンク・ロック少女が、バンド・マンを主とする様々な男性と出会い、セックス(性交)し、やがて相手の本質が安く、フェイクであることに失望する、という繰り返しにより、小説内の時間は進行してゆく。〈それにしても現実には失望させられる。男の人は生きることが大好きで、命への執着がすごい。そのことに私はぞっとしてしまう。何でそんなに生きたいんだろう?〉というわけだ。まあ、この世界のいたるところでサブ・カルチャーのうちに培われた様式の一種をまっとうしているだけともいえる。だから、作品のインパクトまたはエモーションやリアリティが、どこに由来しているのかというと、やはり、中国の若い女性が書いた私小説的な側面から、でしかなく、そのあたりをどう評価するかがそのまま小説の価値に繋がってしまっている、という意味では、よわい。じじつ、ここに書かれていることが、まったくのノンフィクションでありうる可能性を見たとき、つまり登場人物たちが実名だとすれば、たとえば別れた男性を罵倒するさいの具体的な事実の列挙は、たしかにセンセーショナルではあるけれども、それ以上の効果を読み手には与えない。とはいえ、自意識が先行しすぎるわけではなく、あくまでも〈私〉という主体が経験する出来事のほうをベースに置いた語りは、若さがナイーヴであることだけで特権化される、そういうだらしなさに対する、客観的な距離になっているようにも感じられた。さておき。僕はといえば、こういったものを読むと、逆説的にだが、佐藤友哉や金原ひとみの、その芸における達者さを再認識したりもする。

 「アタラシイ死」について→こちら
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2006年09月11日
 長嶋有の小説のなかで、僕にとって、とくにぐっとくる題名を持つものは『タンノイのエジンバラ』と『泣かない女はいない』のふたつになり、双方ともに、作品それ自体の、おおもとのアイディアの直截的な流用だといえるのだけれども、内容を抜きにしても、その題名だけで、ばしっと決まっている。さて。ブルボン小林(長嶋有)の『ぐっとくる題名』は、そういった、世間に流通している「ぐっとくる」題名についての思いをめぐらした新書である。たとえば「部屋とYシャツと私」ならば、3者の言葉の並びに隠された〈「俯瞰する私>想像のあなた>部屋>Yシャツと私」という入れ子構造〉を見出し、たとえば「隠し砦の三悪人」ならば、3者の〈関係性をほとんど明示していないが、唯一、その三人が「悪い」ことだけははっきりと示している〉と見抜くことで、題名として、それらのインパクトがどこからやってくるのかを探る、といった具合に、だ。そうした考えにおいて、重点が置かれているのは、「二物衝撃」というもので、それというのは〈伝統的な俳句というのは「季語」「切れ字」「それ以外の叙述」で構成される。このうち切れ字をのぞく二つの要素がぶつかりあって、衝撃をもたらす〉ことであり、たとえば「課長島耕作」などもそれにあたる。とはいえ、「課長島耕作」のすぐれているのは、さらにkachou simakousakuといった言葉のうちで、「ou」音による適度な押韻が行われているからなのだ、とブルボンはいう。まあはっきりといえば、どうでもいいような気もするのだが、ふだんから真剣に考えることでもないので、へえ、と思い、楽しいし、冗談半分本気半分で、「利家とまつ」が「トミーとマツ」へのオマージュだというのは結構あるかもしれない、とか頷いてしまう。

 ブルボン小林『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら

・その他長嶋有関連の文章
 小説『夕子ちゃんの近道』について→こちら
 小説『泣かない女はいない』について→こちら
 エッセイ『いろんな気持ちが本当の気持ち』について→こちら
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2006年09月09日
 『群像』10月号掲載。「創刊六十周年記念短篇特集」のうちのひとつである。夢の話があって、猫の話があって、ニュー評論家批判があって、ブログ批評があって、宗教の話があって、それから、ああそうだ、それから、そういったことも含めて、書き手自身をも否応なく想起させる記述があって、と、こういう小説は笙野頼子ならではだなあ、と思うけれども、ここ最近の、怒濤の勢いで捲し立てる作風とは違い、ひと頃に近しいスタティックな文体なので、なんだろう、まあこんな言い方は相応しくないのかもしれないが、おだやかに、メロウな読後がやってくる。そうそう、すっかりと忘れていたけれども、この作家は、その正直さを、こうした『この街に、妻がいる』のようなかたちでも書ける人であった。
 
 『だいにっほん、おんたこめいわく史』について→こちら
 『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』について→こちら
 『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』について→こちら
 『片付けない作家と西の天狗』について→こちら
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 『群像』10月号掲載。「創刊六十周年記念短篇特集」のうちのひとつ。舞城王太郎の『重たさ』は、わざわざ、純文学ふう、というか、私小説的に書かれた、これまでの作品でいうと『川を泳いで渡る蛇』に近しいラインの小説である。家族や恋人との悶着を扱っている、といっても、そうした語り手である〈俺〉の身の回りで起こる出来事の大半は、フィクションであろう。そのなかで作者の内面に深く関わっているのは、現在『新潮』で書き続けられている「ディスコ探偵水曜日」にも通じる「文脈」というフレーズをもって言われる、〈人は勝手に何となくの文脈を作って読み取って考えるが、そういうものの大半はどっかで拾ってきた既成のストーリーラインなんだ〉というあたりだと思われる。これはもちろん、舞城が初期の頃から書き継いでいるテーマのようなもの、僕なりに捉まえると、感情は自意識の内部にあらかじめ備わっているのか、それとも外部からの引用に過ぎないのか、といったことの言い換えである。いま偶々手元にある『熊の場所』から引けば、〈恐怖とは一体なんだろう。恐怖とは、一体何に対して生じる感情なんだろう〉ということだ。が、いずれにせよ、ここでは、そういった感情に、すくなからず人の行動を左右する「重たさ」の宿って「ある」ことが、焦点化され、題名へと表されている。

・その他舞城王太郎に関する文章
 「ディスコ探偵水曜日」
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
 「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2006年09月08日
 『群像』10月号「創刊六十周年記念短篇特集」のうちのひとつ。『ヒーローの死』は、伊井直行らしい、現実からすこしばかりずれた状況下で生々しい感触の保たれる、独特な空気を持った小説である。あるとき偶然、不思議な能力を授かったばかりに、誰にも知られることなく、自殺者の救助にあたる中年男性の上田が、その疲弊と矛盾のために、家庭や仕事、挙げ句の果てには、彼自身の命さえ損なってしまう、と、要約すれば、そのような内容であると思う。短いがゆえに、様々な解釈が成り立ちうる作品だけれども、マントを羽織り月明かりのなかを飛行する上田が、自らが自らに課した任務を〈自分がTVや漫画のヒーローではない何かに似ているのじゃないか〉と考え、そうだ、〈テロ事件を起こしたカルト教団が作ったアニメーションの中で、教祖が浮遊している場面に似ているのだ〉と思ったとたん、〈飛行の姿勢がくずれ、地面に向かって一直線に落下し始めた〉といった場面に、小説の重心が支えられているように感じられる。そこに描かれているのは、簡単にいうと、主観的な正しさが、客観的な醜悪さに、侵され、失効される瞬間であろう。しかし、それでも人は、たとえでっちあげだとしても、せめて自分の内部で、何か、納得のいく倫理を設けなければ、生きてはいけない。だから〈上田は以降、あの教祖のことは考えないことにした〉のだが、はたして、それは単なる判断停止なのか、あるいは思考としてまったく正常なのだろうか、結論が宙づりのまま閉じられることで、ここに捉まえられた奇妙な夢のような出来事は、読み手の目の前で現実と変わるのである。

 『青猫家族輾転録』については→こちら 
 「ヌード・マン・ウォーキング」について→こちら
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2006年09月03日
 ボトルネック

 〈兄が死んだと聞いたとき、ぼくは恋したひとを弔っていた〉。彼女の亡くなった海崖で。吹く風のなかに聞こえる声があった。その声に誘われるかのようにして〈ぼく〉は、落ちる。もうひとつの世界へと、おちる。米澤穂信『ボトルネック』には、SF(すこし・ふしぎ)ふうの趣向が凝らされているけれども、この作者ならではの、わざわざ大人の介入してこない物語で、子どもたちが半径5メートル圏内のリアリティとシリアスに対面する、といったスタイルは健在であり、青春というものを、その輝きではなくて、傷みのほうで捉まえたライト・ヘヴィ・ノベルとしては、かなり効果的な内容になっていると思うのだが、そうしたつくり自体が、いささか明け透けであるような気がし、僕は、あまりのれなかった。明け透けというのはどういうことかといえば、伝えるのが難しいのだが、要するに、作者が主人公に何を感じさせたいのか、またはそれを通じて読み手に何を感じさせたいのかだけで、筋が進んでいくような感じがする、というわけである。そのため『ボトルネック』という表題と作品の主題は不可分となり、読み手は半ば強制的に、作中における「ボトルネック」の意味合いを考えさせられることとなる。そのことを、すこし、窮屈に思う。また一方で、これは、代替(オルタナティヴ)の可能性と不可能性をめぐる物語だともとれる。が、しかし、それもまた、主人公のエモーションを物事の不可逆であることに依存させる仕掛けでしかなく、結果『ボトルネック』という表題を強調する以上のものとなっていかない。

 『夏期限定トロピカルパフェ事件』について→こちら
 『犬はどこだ』について→こちら
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2006年09月02日
 考える人

 ここで紹介されている「考える人」たちのうちで、恥ずかしながら、これまでに文章を読んだことのなかった武田百合子のものを購入して来て、読む。といった具合に気持ちを促されてしまったことを、あらかじめ書いておくべきなんだろうな、と思ったので、そのように書いたわけだが、つまりはそれぐらい、この、坪内祐三の視線により捉まえられている「考える人」たちときたら、すくなくとも僕にとっては、ひじょうに魅力的であるというふうに感じられたということなのだった。坪内の新刊『考える人』は、雑誌『考える人』の創刊号から16回に渡り行われた「考える人」という連載を一冊にまとめたもので、本文から引けば〈この「考える人」は単なる作家論や人物論ではありません。「考える人」としてのその人を考える論考です〉というねらいになっており、初回に小林秀雄を取り上げ、最終回が福田恆存で、そのあいだには田中小実昌や植草甚一など、坪内の嗜好を考えると、じつに「らしい」といえる面々が並んでいる。「らしい」といえば、それらはすべて、すでに故人になっているにもかかわらず、その考え、考え方、考える姿勢は、現在もまだ生きてある、と考える坪内の手つきも、じつに「らしい」ものだといえる。要するに、今まで坪内が発表したいくつかの論考と同様に、書き手が生きた時間、書かれた文章のなかに流れる時間、そして読み手である(あった)坪内の生きている時間とを並列することで、そこに存在している言葉そのものの立体的な拡がり、アクチュアリティを、すくい取ろうとしているのだ。そうした試みは、しかし〈私は、須賀敦子の良い読者ではありません。食わず嫌いならぬ読まず嫌いである〉といわれている須賀敦子の項では、やはり、あまりうまくいっていないように思える。そこには、坪内の読書体験と須賀の文章からの引用とのあいだに、密接な繋がりが見受けられない。あるいは乖離してしまっている。つまり、中野重吉の項で触れられている「当面性」がゼロに近いほど欠け、坪内の読みは、森有正の項で「体験」と「経験」は異なり〈「経験」とは深化させるもの、すなわち連続的なものであって、再現させるものではないはずです〉といわれているところにまではいっていないのである。逆に、〈とにかく、その文章に触れるのが、とても楽しくて仕方がないのです。楽しみながら、しかも、しばしば、ひやっとさせられます。きわめて本質的なことが語られているので〉という武田百合子の項に見られる無邪気な感想からは、坪内ならではの、それこそ唐木順三の箇所で押えられている「型」または色川武大の箇所でいわれている「フォーム」みたいなものが備わっているのではないか、と感じられ、だから気持ちを促されたのであろう、いま、その著書を買い求め、読みはじめたことは、そういえば、いちばん最初に書いた。

・その他坪内祐三の著作に関しての文章
 『同時代も歴史である 一九七九年問題』について→こちら
 『古本的』について→こちら
 『『別れる理由』が気になって』についての文章→こちら
 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』についての文章→こちら
 『文庫本福袋』についての文章→こちら
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2006年08月31日
 「性愛」格差論―萌えとモテの間で

 下流だとかモテないだとか言わないで、田舎独身貴族と呼んで欲しいものだな(ひどい曲解だ)、というわけで、本題にはあまり関心がないにもかかわらず、この斎藤環と酒井順子の対談新書『「性愛」格差論――萌えとモテの間で』に目を通したのは、3章目の「「ヤンキー」――語られざる一大文化」の項が気になったからなのだが、他の「負け犬」や「おたく」「腐女子」の項と同様に、いかにも適当な考察(それを人は印象論という)でしかなく、それこそ「語られざる一大文化」をちらっとでも語ったら価値があるとでも? といった程度の浅はかなものであったので、まあ、ガッカリとさせられたりもするのだけれども、それでも注目したいのは、斎藤や酒井が、改心したヤンキーについて語るあたりで、そのヤンキーの改心については、ここで、以前はヤンキー的であったと指摘されているビートたけしが、過去のいくつかのインタビューにおいて、たしか弟子(たけし軍団)に元ヤンキーの人がいることを踏まえ、そうした変容の条件について語ったりしている事実からわかるとおり、ヤンキーの転向ごときを特化する発想自体が、すでにヤンキー的なんだよね、とさえいえる。つまりは酒井の〈改心したヤンキーは、穢れのない人に見えますね〉といった錯覚こそが、斎藤のいう「内なるヤンキー性」に関わる問題であろう。ところで斎藤は、以前より、ナンシー関の、日本人の本質はヤンキーとファンシー云々といった説を引いたうえで、「オタク(この新書の表記では、おたく)」と「ヤンキー」「サブカル」の三項を分けて考えるが、それというのは「オタク」と「サブカル」は、「ヤンキー」のサブ・カテゴリーであるがゆえに、ヒエラルキーが上位の「ヤンキー」に対してカウンターたりうるということだったはずで、それを演繹していけば、じつは「ヤンキー」というのは「体育会系」と入れ替え可能だという事実に突き当たりうる、と思うのだが、しかし、やはり「ヤンキー」と「体育会系」というのは似て非なるものに他ならない。おそらく権力の在り方が、微妙に異なっている。そこで僕は、そもそも「ヤンキー」というのは、戦前と戦後あるいは近代以前の封建制と近代以降のデモクラシーの畸形なアイノコ、要するに日米安保条約下の思わぬ副産物であり、そういった意味において、元来アメリカ人を指す語が、高度経済成長を経た80年代に、それこそ国土全体へ、日本的なものとして、無意識のうちに波及したのではないか、という見積もりを立てたいのであった。

 斎藤環『文学の徴候』について→こちら
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2006年08月29日
 だいにっほん、おんたこめいわく史

 「おんたこ」とは、隠蔽された権力の、抽象的な言い換えであり、それは、この国のどの時代においてもつねに、ヒエラルキーの上位にありながら、マイノリティを装うことで、真実にカウンターであるものを吊し上げ、排除し、政治的な正しさのなかに延命をし続けてきた。ここ、『だいにっほん、おんたこめいわく史』に召還(降霊)されているのは、そうした「おたんこ」により、虐げられてきた人びとの種々なる声なわけだが、もちろんその、声のうちのひとつには小説内登場人物としての「笙野頼子」のものもあり、第3章のタイトルに「さて、そういうわけでみたこの学生たちは連行されました! ふん、それにしても。ああ第1章は宗教弾圧第2章は少女虐待まったくっ! なんと言うひどい国にっほんであろうかっ! そもそもこんなひどい国を作っておいて一体作者はどういう意図なんでしょう。でもまあ意図はともかく作者の事情はこんな感じですのでどうか……(ふんまったくこいつはメタしかできんのか、と自分で書きながらまだやるのだ。はいはいここまで第3章のタイトルですよー)。」とあるとおり、記述それ自体が起動させるメタ・レベルまでをも射程に入れた、濃い口のフィクションが、圧倒的な饒舌さでもって展開されている。ところで、近年の笙野頼子の、いくつかの作品に共通する固有名または登場人物たちを指し、それらをいわゆる「キャラクター」という概念に変換できるか、またはその小説を「キャラ読み」することが可能であろうか、といえば、おそらくは、できない。それらはあくまでも声に徹せられており、語りの変形であるがゆえに、いかに批評的であり、どのような運動を持っているのかは、佐藤亜紀が『小説のストラテジー』で詳しく述べているのを参照していただくとして、その一点において、小説以外のジャンルには転送しにくい、たとえば本書書き下ろしの「言語にとって、ブスとはなにか」(あはは)のなかで笙野が、マスコミ(本来的なマス・コミュニケーションの意)のコードとは異なるコードにおける〈書き手と読み手一対一〉のコミュニケーションといっているような、いやそれこそがつまり文学である、と、ここでは断定しないが、しかし、そういったことをすくなからず意識させられる、稀少な表現となっていることだけは、たしかである。

 『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』について→こちら
 『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』について→こちら
 『片付けない作家と西の天狗』について→こちら
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 ゆれる

 西川美和の小説『ゆれる』は、同名映画の、監督自身によるノベライズという立場にあるのだが、映画のほうを観る機会に恵まれていない僕は、こちらのノベライゼーションのみに限定して、ここからの内容を書きます。昔から父親との折り合いが悪かった弟、早川猛(たける)は、高校卒業と同時に、東京に出、やがてカメラマンとして成功する。一方、兄の稔は、田舎で、父親の信頼のもと、家業のガソリンスタンドを支えていたが、その穏和な性格のせいで、従業員で幼馴染みの川端智恵子に自分の想いを伝えられず、30代になった今も、まだ独身のままでいる。智恵子には、高校のときに猛と付き合っていた過去があった、そのことを誰も知らないし、彼女の猛への気持ちが未だに消え去っていないことも、誰も知らない。母親の一周忌のため、ひさびさに帰郷した猛が、そこで智恵子と再会したことをきっかけに、早川家をめぐる停滞は、ゆっくりと揺れ、動きはじめる。作中に「藪の中」といった言葉が、おそらくは意識的に用いられているとおり、小説は、芥川龍之介の『藪の中』をおおもとのアイディアとしたかのような、一種の心理劇であるといったふうに読める。とはいえ、章ごとに視点を変えることでつくられてゆく全体の構造は、けっして語りにおける技術的な駆使ではなくて、あくまでも物語進行上の必然、小説内部の時間を進めるうえでの要請であるところが、おおきな相違点であろう。おもな登場人物たちにはそれぞれ、早川に川端、それから岡島洋平といった具合に、どこか水のイメージに関わる名前が付せられているが、それと同程度に、語り手の交代は、表層を彩るものでしかない。が、しかし、そのことがけっして読後感を濁さないのは、基本の筋が、考え抜かれ、しっかりとした着地点へと結びついているからだ。ふたたび『藪の中』との比較を用いれば、ここでは、いったい誰の述べていることに信頼が置けるのか、そのような疑問を挟み込む余地なく、証言者はみな、正直すぎるほどに、ほんとうのことだけを告げている。結果、他人の内面を見渡すことなどできないのだ、といった断念が、前提として浮かび上がり、そこにある不可能性を乗り越えようとすることで、物語は結末へと至る。じっさいに乗り越えられたどうかはともかく、読み手が何かしらかの感銘を覚えるとしたら、良くも悪くも、そのような推移の描かれ方、書き方にではなく、そういった推移そのもの、つまりはプロットに対して、なのである。
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2006年08月26日
 夜をゆく飛行機

 角田光代『夜をゆく飛行機』は、直木賞受賞後初となる長編であるが、なるほど、たしかにこれは、直木賞作家が、じつに丁寧につづった少女小説といった風情である。酒屋を営む両親と四姉妹にまつわる物語なので、少女小説というよりは、むしろ家族小説なのではないか、という向きもあるだろうけれど、やはり家族小説というよりは、少女小説として見たい。とはいえ僕は、家族小説や少女小説とはなにか、といった厳密な定義を知らないし、あくまでも雰囲気で、そう喩えるのだが、しかし、たとえば斎藤美奈子は、金井美恵子の『小春日和』文庫版の解説で、少女小説の型について次のように述べている。〈少女小説とは何か。簡単そうで、これは厄介な問題です〉〈第一に、主人公が健気な少女で、描かれているのも主に女どうしの愛憎であること〉〈第二に、主人公が家庭的な不幸を負っていること〉、しかしながら〈いまに残る翻訳少女小説の共通点は「親と離ればなれになった可哀想な少女の物語」の枠組みを持ちながら、実際には、その枠を大きくこえて「元気な少女が逆境をバネに活躍する物語」になっていることです。好奇心と独立心にとんだ「少年のような」少女を主役にし、女どうしの友情に価値を見出し(ついでにいえば男をちょっと見下し)、しかも最終的には少女の成長と自立を描いている〉のだとすれば、この『夜をゆく飛行機』のなかに編まれた物語もまた、少女小説の型に近しいものだと、十分に、いえる。あくまでも、語り手である17歳の少女=「私」の視点を通じて、読み手は、彼女の周辺に起きた出来事たちと、それから彼女自身の成長と自立とを追体験する、そういうつくりになっているからである。〈ねえ、どう思う?〉と、実在しない(生まれてはこなかった)弟「ぴょうん吉」に話しかける〈私〉の夢想を、アン・シャーリーの現代的なヴァージョンだと捉まえることもできる。もっとも、そういう小説の内部において、角田ならではの「ここではないどこか」をめぐる運動が、しっかり行われていることにも注視しておきたい。ひとつの内面から眺められる「ここ」と「ここではないどこか」の二重性は、現実と空想、現在と過去、じっさいの日常と「私」の姉である寿子が書いたエッセイふうのテクストなどにおける対比に託され、語られ、やがて夜空を渡る飛行機を見つけたときに〈私は飛行機に乗ったことがない。それでもなんだか、乗っている感じ、というのを、不思議なくらい現実感をもって想像することができる (略) 新幹線よりも速く移動しているのに、狭い座席に座っている私には、どこかに向かっている、という気がまったくしないのだ〉といった具合に、合わせられる。

・その他角田光代の作品に関して
 『ドラママチ』について→こちら
 『おやすみ、こわい夢を見ないように』については→こちら
 『ぼくとネモ号と彼女たち』については→こちら
 「ロック母」については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2006年08月25日
 文学賞メッタ斬り!リターンズ

 『群像』9月号の書評欄で、大森望が、金原ひとみの『オートフィクション』を褒めているのは、そこで採られている、ある種のメタフィクショナルな構造を評価してかのことかと思っていたのだが、この豊崎由美との対談『文学賞メッタ斬り! リターンズ』を読むと、どうやら大森は、ほんとうに金原という作家のことを買っていることがわかり、へえ、と思う反面、この本では、金井美恵子を、『群像』の書評では、鈴木いづみを、引き合いに出し、その価値を語るのは、いささか持ち上げすぎのような気もする。ところで、ROUND 1にゲストで参加している島田雅彦は、海外の文学にちゃんと触れている若い作家に批評を書かせたら〈それなりにいいものを書けるんじゃないでしょうか。だけど、そうでない人たちっていうのは、一切書評もしないでしょうし〉といっているのだけれども、じつは、ここ最近の文芸誌の書評欄はまるで、若手の作家に、お小遣い(原稿料)をあげる場みたいになっていて、詰まらない文章(知り合いの作家の、作品について書くときの、あの身内トークなど)が多く、そういう現状を、僕個人は、あまりよく思わないため、ここのところの意図が、よく理解しづらかったのだが、それ以前に、作家に批評を書かせたら、その作家の批評性がわかる、というのは、もちろん本末転倒に違いなくて、問題は、ちゃんとした、それこそ文芸時評をやれる批評家がいない、あるいは、それをやれるであろう批評家(それにしてもさあ、佐々木敦や田中和生、仲俣暁生の文章って、いったい誰が必要としているのだろう)が起用されないせいで、こちら読み手に、その作家の書いた小説のうちにある批評性が取り出され、提出されない点にこそあるのではないか、と思った。
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2006年08月20日
 表現したい人のためのマンガ入門

 しりあがり寿による『表現したい人のためのマンガ入門』のなかで、じっさいにマンガを描くさいのテクニカルな問題に触れているのは、第4章(20ページ弱)ぐらいで、それ以外は、創作にあたるさいの精神的というか考え方というかアティテュードの部分に関する面が述べられており、マンガに限らず「表現したい人」全般に汎用性の高い内容になっているとは思うのだけれども、「しりあがり寿」という、どちらかというとレア・ケースのマンガ家が何かを提示するにしたら、やや一般論めいたものにまとまってしまっている感じがあり、どうなんだろう、すくなくとも僕は、それほど刺激的な内容を持っているとは受けとれなかった。新書という性質上か、おおよその論旨は、序章の部分にまとめられている。〈「作品」と「商品」、どこがどう違うのでしょう? ボクはその違いを「良し悪しを誰が評価するか」によって分けています〉という。そして「作品」とは〈あくまでもその評価は「自分」、つまり作者本人が下すもの〉であり、〈では「商品」を評価するのは誰でしょう。それが市場であり、マンガの場合は読者〉なのであり、それは、〈それそのものの持っている価値だけでなく、相対的に変化する〉のだから、〈市場が変わればまた評価が変わる〉可能性がある、そうした枠組みのなかで、いったい何を意識し、創作または表現に向かうべきなのか、が全体を通じ、しりあがりがいわんとするところであろう。要するに「作品」とは内在する価値を指し、「商品」とは市場あるいは情報を経由してこそ生じる価値であるとして、「作品」から「商品」への媒介となるブランドイメージやマーケティングを中心に話が進んでいけば、なんとなく80年代ベースな指向である気もするが、じじつ第7、8、9章らへんは、ちいさく切りとられた、しりあがりふうの80年代論として読めなくもない。そのなかで、やはり僕個人が興味深かったのは、たとえば〈九〇年代に入って考えたのは、思いきり暗くて深刻なものを描いてやれ、ということ(P149)〉とか、〈八〇年代が終わってなんとなく挫折感を味わった後、一度は内面的なことや自分的なことにもぐりこんで遊んではいたけれど(P180)〉といったあたりで、そうした〈九〇年代のテーマ〉は、しりあがり個人にとってというよりは、90年代の、または90年代以降のサブ・カルチャー表現におけるテーマであったのであり、僕なりに言い換えると、そのようなエモーションの問題すらも、見事に商品化されたのが90年代だったのだから、そのことを踏まえずに、ただ思春期的な自意識を振り回して青春とか絶望とかをやったところで、そこにあるリアリティなんてたかが知れているようなときに、では、何をどうすればいいのか。今日、すくなからず自己実現(って結局、サラリーマンの出世欲といっしょでしょう、だいいち島耕作だってレーゾンデートルぐらいは口にする)以上のものを念頭に置き、「表現したい人」たちにおいては、じつはそのことこそを深く考えるべきなんじゃねえかしら、と思う。
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2006年08月18日
 ライトノベルを書く!―クリエイターが語る創作術

 小学館のガガガ文庫編集部というところがつくった『ライトノベルを書く!』というムックに掲載されている短編。ムック自体は、表紙が森本晃司で、佐藤大が大きくフィーチャーされているというのが、なんとなく一世代か二世代前のセンスではないか、という気がしないでもないし、あるいは、そういう僕の感覚がすでに古いのかもしれないけれど、まあでも10年前のJ文学のころと比べても、それほど新しいことは言われてないじゃんね、とは思う。さて。『UTOPIA』は、乙一による異世界ファンタジー小説ということで、その制作過程が、同誌には袋綴じで付せられているのだが、それは開かず、読まない状態で、これを書きます。〈マリヤがこの国の住人ではないことはあきらかだ〉。少年アレクが、砂浜で見つけた少女タナカ・マリヤは、その容姿や服装、それから使う言語からして、まるでこの世界の住人ではないようだった。彼女はニホンという国からやってきたのだという。しかしアレクは、ニホンという国を知らない、聞いたことがない。アレクの日常は、竜や妖精や魔法使いたちとともにあり、それを指してマリヤは「ファンタジーって呼ぶんだよ、こういうのを」と言った。そうして話は、ボーイ・ミーツ・ガールのスタイルをとりながら、マリヤの来歴をめぐるかたちで進行してゆく、といえば、いやあライトノベルしてるなあ、といった感じなのだが、終盤で、登場人物と世界観との関係性が逆転するあたりに、この作者ならではの批評性を見ることができる。たとえば同ムックの、「ガガガトーク02」という対談のなかで、東浩紀は、涼宮ハルヒのシリーズに関して、〈《涼宮ハルヒ》は、一種のメタライトノベルだということです。この作品は、ライトノベルの約束事自体を対象化してつくられている。あの作品を読むためには、ライトノベルの感覚を相対化できていなくはいけない〉といっているが、それと同様の手つき、つまり乙一ふうに「ライトノベルの約束事自体を対象化」することで、この『UTOPIA』も成り立っているのだと思われる。とはいえ、そうした部分も含め、内容そのものは、あくまでも標準のレベルにとどまっている。登場人物のエモーションが、やや表層的にすぎるのかもしれない。

 『銃とチョコレート』について→こちら
 「愛すべき猿の日記」について→こちら
 『小生物語』について→こちら
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2006年08月17日
 東京大学「80年代地下文化論」講義

 僕という個人のバックボーンは、完全に90年代に拠っているので、80年代というディケイドへの関心は、とてもとても低い。ゼロではないにしても、100のうち10はない、とはっきり言える。したがって当然のように、その時代を論じたものについても、読むが、しかし、それなりの勉強にはなりました、という以上の感想を持つことはほとんどないのだけれども、この宮沢章夫の、東大での講義をまとめた『東京大学「80年代地下文化論」講義』からは、わかりやすく、さらにそこから一段階踏み込んだ話を聞きたくもなる、そういう声が届いてくる。以前にも書いた気がするが、この時代から、過去を振り返る体で編まれる80年代論というのは、そのころを実体験した世代の、自分語りに終始するパターンが多く、それはつまり、一面的な切り口でもって、10年ならば10年というスパンを取り出し、再構成してみせる作業でしかないのであり、拡がりがなく、だから、その語り手に対して、もしくはその語り手が得意とするジャンルに対しての興味がない場合、退屈な発表会を上回るものとはなっていかないのだけれども、ここでは、宮沢自身が、二項対立の超克を目指しているというのもあり、〈新人類に対する大塚英志の解釈を紹介しつつ、それに対して僕も反論したい部分がある。で、『「おたく」の精神史』を反語的に読む〉といっているように、時々に応じ、大塚の『「おたく」の精神史』で展開された、同じ時代にまつわる、自分とは異なる、べつの見方を参照することで、ある種の相対性を獲得するに至っている。そのため、もしかすると結論といったものは、この本のなかにはないのかもしれないが、論の積み重ねそれ自体が、現代を生きるこちら読み手へ、たんなる情報にとどまらないインプットとなり、響く。じっさいに僕は、宮沢にも、宮沢が属していたシーンにも、最初にもいったとおり80年代そのものへの興味もない、が、これを読みながら、うんうん、と、あちこちで頷くことができたのであった。

 おもしろく読める箇所は、いくつもあり、それらにいちいち触れていったら、キリがないので、あくまでも僕個人に引き寄せて、もっとも重要であると思われたのは、P380のあたりで披露される推論で、宮沢は〈「80年代には埼京線が走ってなかった」ということが、すごく大きな意味としてある〉としたうえで、〈渋谷がよかったのは、東横線が横浜に通じていた〉一方で、埼玉県の人たちは〈池袋で止まっていた〉〈それ以上先まで行こうなんて考えもしなかった〉、だからこそ新宿・渋谷間に〈関東大震災後の若者の文化が形成されていったんだろう〉、しかし〈恵比寿まで埼京線が伸びてしまったがために、途中の街がのきなみ蹂躙されていった。誰に蹂躙されたか。もちろん、埼京線の北のほうの沿線住民です〉といっている。まあ、田舎または郊外の側から、都会へと向かい、郊外化の波がやってきた、ということの言い換えともとれるのだけれども、そうした推論を前に、僕が気にかかるのは、では、その池袋までで止まっていた人たちにとっての80年代とは如何なるものであったか、なのである。じつは、そうした人びとのうちのひとりとしてカウントされるのは、まちがいなく、大塚英志が強くこだわり、それを踏まえ、ここで宮沢が、その〈事件が「おたく」を顕現させてしまった〉と指摘している宮崎勤の存在であるし、たとえば北田暁大が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で解説した「純粋テレビ」という概念、その成立に関わったとんねるずなども、彼らは埼玉の人間ではないが、東武東上線沿い出身という意味では、同様の文化圏からやってきているといえる。要するに、こうしてさまざまな角度から80年代論が出揃いつつあるなかで、その、郊外における80年代の文化を当事者が深く、振り返り、再検証した言説だけがまだ足りていない、と感じられれば、それがひどく残念なことに気づかされたのだ。

 というか、それはそれとしても。宮崎の事件があった当時の、地方都市におけるオタクへの抑圧は、たぶん地域共同体がまだ(かろうじて)機能していたというのもあるし、もちろんヤンキーや体育会系の勢力が隆盛を極めていたというのもあり、いやほんとうに凄まじいものがあったので、それを誰か言語化してくれないものだろうか、と単純に思うわけである。

 『『資本論』も読む』について→こちら
 『不在』について→こちら
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2006年08月12日
 八木剛士史上最大の事件

 THE青春小説の極北。そう、あらかじめ絶望するための望みすらも絶たれていることを指して、真に絶望というのならば、あるいは彼こそが、絶望であった。松浦純菜に出会うまで、世界はそのようにしてあるのだと思っていた。しかし、そうではなかった。世界は変わったのだろうか。いや、望みを知ってしまった今となっては、今度は逆にそれを失うのが怖く、きっと失われたさいの苦痛は、これまでに感じたことのないほどのものだろう、と考えれば、やはり世界は以前と何ひとつ変わっていないんだ、とさえ思う。けっして止むことのない不幸と苦悩の連続に、カウントダウンは、じょじょにスピードをあげ、いよいよそのときが差し迫る。はたして『八木剛士史上最大の事件』とは何か。(空白)っアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハっはっ (空白) あ、大きな星がついたり消えたりしてる。おおきいな。彗星かなあ。いや、違うな。彗星はもっと、ばあーって動くもんな。暑いな、ここ。出られないかなあ。おおーい。出してくださいよ。ねえ。驚天動地のクライマックスに、まさか刻の涙を見てしまったかのようであった。前『上手なミステリの書き方教えます』同様に、しごく真っ当な、いや異論反論はあるだろうが、きわめてオーソドックスな展開の、思わず赤面してしまいたくなるラブコメでありながらも、浦賀和宏のつくる語り口だけが、なにかを大きく間違えてしまっている。だが、その間違え方が、最大限の読み応えとなっているのだし、この作品を小説たらしめているものなのだから、まいる。まいった。

 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

 「リゲル」について→こちら
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2006年08月09日
 『群像』9月号掲載。もしも恋愛というのが他者の欲望を欲望することなのであれば、という勿体ぶった言い回しをするまでもなく、第三者の好意的な評価が欲望を後押しすることなどざらにあるのだから、〈私〉は、あの吐き気がするほどに冴えない海野くんのことがまんざらでもないと、嘘でも、もちろん適当でもいいので、友人に述べてさえあげれば、友人と海野くんがくっつくのなんて、わりあい手っ取り早い話だったに違いない。とはいえ、それのできないことが、〈私〉を抑圧する、唯一の、切実さなのだろうから、そのかわりに彼女は〈ねえ、想像してみて〉と言いながら、自分と他人とのあいだに、けっして共感や連帯へと繋がらない、一本の線を引いてゆく。

 生田紗代の『彼女のみる夢』は、たんに若い世代の肥大化した自意識を取り扱った小説なのだろうか。読みながらつねに、そのことが気にかかった。あるいは、読み終えてまずは、そのことを考えた。たしかに小説の内部には、語り手である乃梨子という名の〈私〉以外に、何人もの人間が登場している。そのなかでも、とくに存在感があるのは、学生時代から付き合いのある〈典型的でも類型的でもなく、正しいOL〉の友人、〈彼女はストレスのたまる友人だった。しかしなぜか、私は彼女と仲が良かった〉。それから、この夏に結婚をする予定の姉、〈姉とは仲がいいほうだとは思うが、私は彼女に対して特別な関心はない〉。そして、働きはじめてからも自宅住まいなので毎日のように顔を会わせる母、〈母は決して愚かな人間ではない。ただ、要領が悪いために、得てして愚かに映ることがある。私とは逆だ〉。それら身近にいる同性の三者が、とくに目立って見えるけれども、彼女たちは、一人称の語りにより、それぞれ〈私〉とは対角線上に位置する人物として、肉付けされている。その関係性はあたかも、彼女たちのネガが〈私〉なのであり、〈私〉のネガが彼女たちなのだ、といったふうにも感じられる。

 では、そうした差異となるような、彼女たちが受け入れ、〈私〉が拒んでいるものとは、いったい何なのであろうか。おそらくは、そういう問いかけこそが、この『彼女のみる夢』の核心にあたるものだ。あくまでも僕なりの見方でいうのであれば、それは、時間の流れに沿うようにして自分で自分を生かそうとする意志なのではないか。作中に次のような箇所がある。〈私〉が家族といっしょに朝食をとっている場面である。〈永遠に、こんな朝の風景が続くような錯覚を覚えることがある。十年後も、三十年後も、そらからもっと先も、 (略) 私たち家族は、変わらずにそこにいる。そんな気がする。もちろん、そう遠くない将来、両親は死ぬし、私がこの家を出る日が来るのだろうけど。ただ、両親が死んでも、私だけは地縛霊のように、この家でただ一人暮らしている。そんな気もしていた〉。これは、風景としてある家族の団らんというより、モラトリアムの心情に近しい描写だと思う。モラトリアムというのは、おおよその場合、時間や状況に左右されない状態に身を置くことである。こうした〈私〉の在り方は、終盤に、姉の結婚式を指して〈完璧なまでに幸福な一瞬である、今日この日があるからこそ、あの二人は、きっとこの先何十年と続く、退屈な夫婦生活を送っていけるのだ〉といわれているものと、やはり対照的だといえる。それが、たとえ退屈なものであれ、姉の人生は、まちがいなく未来へと、絶え間なく動き続けているからだ。

 恋愛や結婚のことを〈私〉が考えないのは、もちろん〈誰かといるより一人で何かしているほうが好きな〉性格も含め、彼女が、他者の欲望を欲望しないからに他ならないし、それというのはもしかすると、彼女にとっての他者がどこにも存在しないからなのかもしれないが、しかしそうではなくて、〈私〉の意識のなかで〈ねえ、想像してみてよ〉と言う自分自身が、そもそものはじめからどこにもいない、ただうたかたの夢程度にしか感じられない、ということだってありうる。アパシー。彼女のみる夢。

・その他生田紗代の作品に関する文章
 「ハビタブル・ゾーン」について→こちら
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 『タイムカプセル』について→こちら
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2006年08月08日
 『新潮』9月号掲載。「ディスコ探偵水曜日」の第三部、「解決と「○ん○ん」」である。が、べつの文脈から話をはじめる。同じく『新潮』の9月号に掲載されている福田和也の連載「わが戦前」の第六回では、舞城王太郎が論じられており、福田が舞城のデビュー作『煙か土か食い物』の帯に推薦文を書いた経緯などが語られていて、そのあたりはもしかするとファンのあいだでは周知の事実なのかもしれないけれども、僕はとても興味深く読んだのだが、それはさておき、福田は、その論のなかで、舞城の小説のうちでは〈無力であるということ、無意味な存在であるということの確信が最上の歓喜をもたらす。その無力さは、子供であること、幼児的であることと直接に結びついている〉といっている。〈舞城は削り取られ、寸足らずにされた、塵埃のようなものでしかない人間性を許容し、凡庸で平準的で小児的なカタルシスを賛美している〉として、それを正面から引き受けるところにこそ、舞城の批評性があるのだし、だからその作風が信用できるというのである。なるほど、とは思う。が、しかし、その「凡庸で平準的で小児的なカタルシス」がカタルシスたりうるためには、相応に非凡で荒唐無稽な物語を、小説の内部で駆動させる必要があるのではないか。と、この「解決と「○ん○ん」」を読み、感じる。ここには、たしかに謎解きのロジックやレトリックをめぐって「凡庸で平準的で小児的なカタルシス」が描き込まれているけれども、反面、小説内の時間を動かす、押し進めるような物語が内在されていない。そのために、第一部、第二部ときて、この第三部で、ディスコ水曜日の地獄巡りは、ついに失速してしまったかのような印象を与える。じっさいに、パインハウスの連続殺人がいよいよ解決に近づこうとする段になって、ディスコは、とある登場人物の言葉から〈俺もまた、ここに俺がいる理由を考えすぎて、梢を取り戻すためにはこのパインハウスの事件を解くことが自然と必須に思っていた。俺は水星Cに釘を刺されていたにもかかわらず、《変な文脈》を読み過ぎていたのだ。そうだ。梢の願いはこの事件を解決してってことじゃなかった。《十七歳の梢》はパインハウスに「行ってきて」としか言ってなかったのだ〉との示唆を得る。つまり、パインハウス事件の解決は、ディスコにとっての本筋における解決とはならないのだし、パインハウス事件の真相究明に終始する(が、未だに真相には辿り着いていない)この第三部は、「ディスコ探偵水曜日」という小説の内部にあって、いわば脇道にあたる。大枠の物語には関与していない、ように読める。あるいは、第一部や第二部の登場人物たちのほとんどが、第三部においては進行の外部へと追いやられている、内容に参入してこないのもそのためであろう。だが、いかに脇道であろうとも、小説の内部にあるものが、その小説の輪郭へ影響を与えないということはありうるのだろうか。といえば、それは全体の完結を見ないこの時点では、やはりわかるはずもないので、このすこしばかり退屈な第三部を閉じた僕は、ひとまず次なる第四部の掲載を待つことにするのであった。

・「ディスコ探偵水曜日」
 「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
 「第一部 梢」について→こちら

・その他舞城王太郎に関する文章
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2006年08月07日
 冬至草

 石黒達昌の短編集『冬至草』には、当人が「あとがき」のなかで〈自分が純文学とSFのどちらに分類されるべき作家なのか、未だに判然としない〉といっているように、この作者ならではの科学的な視点がスタティックな文体でもって語られるといったつくりの作品が、6篇収められており、そのなかには第132回芥川賞(阿部和重が受賞した回)の候補にもなった「目をとじるまでの短い間」も含まれているのだけれども、どの小説にも、ある事象とべつの事象とのあいだに隠されている因果が、そのままこちら読み手の想像力に接続されるという、共通点がある。あるいは、そうした部分こそが、それぞれの読みどころになっているのだが、けっして謎解きを仕掛けてくる挑発や難解さのないところが、読後の、淡い感動へと繋がっているのだに思う。このなかで、もっともよく石黒の資質が現れているのは、最後の「アブサルティに関する評伝」だろう。が、しかし僕はというと、難病への抵抗をアイロニックな寓話に仕立てた「希望ホヤ」と、幻想的なイメージと現実的な硬さのアマルガムであるかのような「月の・・・・」あたりが、とくに強く、印象に残った。
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2006年08月02日
 ×××HOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル

 ノベライズ維新ということで、CLAMPが現在も好評のうちに連載しているマンガ『xxxHOLiC』の、西尾維新によるノベライズ『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』である。一読して驚かされたのは、原作世界と西尾の小説との親和性の高さに、であった。それというのは、この『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』では、たしかに登場人物や設定のほとんどが、原作のまま使われているにもかかわらず、話のつくりが大幅に変えられている。変えられているのだが、もしも逆に、この小説をコミカライズし、原作のワン・エピソードに組み込んだとしても、それほどの違和感は生じないのではないか、といった予想が立てられる。たまたま『ヤングマガジン』NO.35(いちばん新しい号)掲載分の『xxxHOLiC』中で、〈言柄(コトガラ)〉に〈事柄(コトガラ)〉といった言葉が使われているけれども、それを用いるのであれば、西尾『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』の内容においては、〈事柄〉よりも〈言柄〉の比重が、圧倒的に大きい。さらに単純化していうと、つまり、人の与り知らぬ因果律にかかわる物語が、あくまでも人が繰りうるレトリックの物語へと、換骨奪胎されているのである。マンガ『xxxHOLiC』の基本は、先天的に人外のものである「あやかし」が視えてしまう体質の四月一日君尋が、日常的にオカルトな事象に巻き込まれてゆくかたちで進んでゆくために、人間の姿をしていないもの、あるいは人間の姿をしているが人間ではないものが、それこそ必然的にマンガのなかに描かれることになるのだけれども、『xxxHOLiC アナザーホリック ランドルト環エアロゾル』には、物語のガイド役をつとめる壱原侑子が厳密に人間と定義できるかどうかをべつとすれば、文章のうちには基本的に、人間しか登場しない。三つの篇が収められているが、そのうち第一話「アウターホリック」には次のような台詞がある。「あやかしなんていなくとも、人間一人いるだけで、それだけの現象は起りうる。四月一日のような健全な精神の持ち主から見れば、気持ちの悪い人間が、この世界には存在する。人間の部品として、人間の中にある。四月一日はあやかしを、まるで怖いものみたいにまるで悪いものみたいに言うけれど、どんなものでも人ほど怖くも悪くもないのよ。ねえ、四月一日、暇があったら一度、一人になれる場所で、じっくりと戯れに考えてみなさいよ。四月一日があたしに、それだけの対価を支払い終えて――その眼が無事に、あやかしを映さなくなったとき――」「果たして、人間が視えるかどうか」。要するに、そういうことだ。すべてが自業自得の物語なのだとすれば、そこで孤独な自分の運命を変えられるのは、ただひとり自分自身のみである。こうした命題は、そもそもCLAMPのマンガ『xxxHOLiC』に見受けられるものであるが、しかし同時に、かねてより西尾がその作品のなかに捉まえているものでもあった。

 追記:アニメ版の第17話目が、このノベライズの最初のエピソードの映像化であるらしい。いつか観よう。

・その他西尾維新に関する文章
 『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』について→こちら
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2006年08月01日
 DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件

 ノベライズ維新ということで、大場つぐみ(原作)小畑健(漫画)がヒットさせたマンガ『DEATH NOTE』の、西尾維新によるノベライズ『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』である。ノベライゼーションとはいっても、本編つまりはキラが行った大量殺人事件自体の文章化というのではなくて、いわば外伝、サイド・ストーリーというか、西尾のこれまでの作品でいえば、おそらくはJDCトリビュートに近しい手つきでもって、物語は編まれている。あるいは、これはLトリビュートというべき内容であろう。〈キラなんてどうでもいい〉〈僕にとって重要なのはあくまでもLだ〉。そうして副題にあるとおり、本編2巻でその名前だけは登場した、唯一Lと南空ナオミの接点でもあるロサンゼルスBB連続殺人事件の詳細が、西尾ふうのミステリ小説として展開されているのであった。もちろん当然のように、本編とのリンク、いや作中の言葉に倣えば、むしろミッシングリンクが、登場人物やアイテム、記述のあちらこちらに遍在している。〈殺人鬼キラだって、もしも南空がこのような形でLと関わっていたと知っていたなら、彼女をひと思いに殺すような真似はしなかったはずだ。Lの寿命がほんの数年だけとは言え延びたのは、そういう意味では南空ナオミのお陰であるとさえ言えるのだ……いや、こんな仮定は、あまり意味がない〉。とはいえ、『DEATH NOTE アナザーノート ロサンゼルスBB連続殺人事件』の主題は、そうした二次創作的な表現から、この作家が得意とするオリジナルとそれの代替物(オルタナティヴ)の相克といったところへ着地していると思われる。そう考えれば、この事件が記述されるにさいして、西尾が、語り手に選んだのだが、本編7巻で、Lの後継者(オルタナティヴ)として、またニアの二番手(オルタナティヴ)として登場しなければならなかった、あの悲しき運命のメロであったというのは、きわめて必然的なことだといえる。ところで僕は、この文章を書くにあたって、マンガ『DEATH NOTE』本編の2巻と7巻をとくに参照した。その単行本の、表紙のどちらにも描かれているのは、はたして誰であったかというと、なるほど。まさしくLトリビュートのようにも見えるはずである。

・その他西尾維新に関する文章
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』について→こちら
 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2006年07月31日
 「あの明け方の」は、単行本『生きてるだけで、愛』に収められている、本谷有希子の、書き下ろしの短編小説である。〈さっき自分が感じた憤りが「やっぱりその程度なんじゃん」とか思われるのが癪で、あたしはそのまま目の前の14号線に沿って歩いてみよう、となんとなく思いついたのだった〉。「松岡修造」のことで、同棲相手に対しヒステリックに振る舞い、部屋を飛び出した〈わたし〉は、午前4時の都道14号線沿いを、目的もなく歩く。そうした行動のうちに、街角のどうでもいい風景や、過去、それから30代なのに働かずにいる自分の現状が、まるでそれらのあいだには程度の差などないかのように、並列される。登場人物の年齢は違えど、付き合っている男性との別れる別れないといった諍いや、自意識がそのまま漏れているみたいな語りがメインであり、微笑ましいラストのやりとりで、それまでの虚無感がさりげなく融解されるつくりは、「生きているだけで、愛」に近しいと思う。こちらのほうがコンパクトであるぶんだけ、わざとらしい物々しさはないが、感情と空想と肉体のトライアングルが鳴らす音には、すこしばかり重みが欠けてしまっている。

 「生きてるだけで、愛。」について→こちら
 「被害者の国」について→こちら
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2006年07月28日
 絲的メイソウ

 絲山秋子の小説はまあいいとして、エッセイはどうなのさあ、といったところで、群馬好きの絲山にちなんで、わりいけんど普通だいね、と群馬寄りの言葉で答える感じである。といったところで、明確にエッセイの良し悪しを定める基準が自分のなかにあるのかというと、そういうわけではなくて、ただ単純にいうのであれば、初読のさいにはページをめくる手がとまらず、その後に繰り返し何度も再読してしまうような、そういうエッセイに関しては、普通以上だと思うし、好きだというぐらいである。つまり、この『絲的メイソウ』については、すくなくとも僕個人に対して、そうした条件を満たしていなかったということになる。たとえば「世の中よろず五七調」とか「講談社24時」とか「自分の取説」とかの文章は、そこに提示されたワン・アイディアだけを読むような内容なのであって、やはり、あまり感心しない。まあ、この書き手は、小説でも、ときおりそれをやったりするが。「男は外、飯は別」というエッセイのなかで〈体験したことを小説に書く、というやり方は確かにあるが〉といい、〈なんと、小説に書いた通りのことがあとから本当に起きるのです〉〈もちろんなんでもってわけではありませんが、友人と同居したのも、群馬に戻ってきたのも、クーペフィアットを買ったのも、そいつが壊れたのも、全部以前に小説やエッセイに書いたことです〉と「男たちよ、本を読むな!」のなかでいっているけれども、それというのは逆に、自分の体験や身近な出来事を捉まえるのが不得手だということの暗示であるのかもしれない。

・その他の絲山秋子に関する文章
 「ダーティ・ワーク 第六話 back to zero」について→こちら
 「ダーティ・ワーク 第五話 miss you」について→こちら
 「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら
 「みなみのしまのぶんたろう」については→こちら
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら 
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
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2006年07月27日
 晴れのち曇りときどき読書

 『晴れのち曇りときどき読書』は、松浦寿輝が、この20年ほどのあいだに、おもに新聞紙上に発表した書評を、一冊にまとめたものなのだけれども、いや、これがとてもおもしろくはなかった。松浦は巻末に付せられた「書評の書き方――あとがきにかえて」のなかで〈良い書評が満たすべき条件は三つ〉、ひとつには〈それがどんな本なのかがわからなければならないということ〉で、もうひとつは〈それがそういう本だとして、ではそれにいったいどういう意味があるのかが評定されているということ〉、そして最後に〈それが読める文章でなければならないということ〉だといっているのだが、しかし〈そんな「良質の書評」なんぞ、実はわたしはあんまり書きたくないのである〉と、こういう言葉のうちに見え隠れしているのは、まちがいなく、ある種のスノビズムであろう。「良質の書評」を書けないのではなくて、書きたくないし、書かないという、さぞかしご立派な態度である。ふっ、鼻持ちならねえ、ね。とはいえ、松浦は、そうして自分の書いたものが〈単なる「良質の書評」という以上の何ものかになりえているのが理想だが、実際に言っているのとは違うことを行間に滲ませようとして、ぶざまな失敗を露呈させていることもあったかもしれない。世間様と折り合いをつけようという義務感の空転だけで終わってしまった文章も混ざっているかもしれない。わたしの偏見がぷんぷん臭いすぎてその本の本質を捉えそこねているようなケースも多かったかもしれない〉と、それがもしもアイロニーではなければ、殊勝な言葉を続けたりもするのだが、「かもしれない」といった語尾はもちろん、まあ基本的にそういったことはない、といった傲慢にしか読めない。いや、そうとしか捉えられないのは、こちらが単に頭の悪いせいなの「かもしれない」。それはともかく。さすが蓮實重彦門下というのが褒め言葉になるのかどうかはしれないけれども、さすが蓮實門下といったところで、批評や現代思想に関する書評は、ガイドとして相応に役立ちそうでもあるのだが、ひどいのは小説を扱っている項で、とくに内田春菊『あたしのこと憶えてる?』についての文章は、まあ、これが「実際に言っているのとは違うことを行間に滲ませようとして」成功している部類なんでしょうけれども、たとえば、そこで女性器の描写を引いたあとで〈いいなあ、こういうの。感性としてはむしろゲイ寄りのはずのわたしでも、こういう箇所を読むと何ともおいしそうでいいなあと感じ入ってしまう〉と書くあたり、内田春菊の作品を読める、理解できる、愉しめるボクちゃんてセンスあるよね、と坊ちゃんが媚びているような姿がイメージされ、なんとも白ける。寒々しいかぎりである。同じような詩人の書評集に、3000円ほどの金額を出すのであれば、荒川洋治の『文芸時評という感想』のほうが、何倍も得だし、すぐれていると思う。
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2006年07月26日
 ソロモンの歌・一本の木

 講談社文芸文庫『ソロモンの歌・一本の木』は、表題になっている二篇を含め、吉田秀和のエッセイ調の文章を集めたものであるが、そのうちでもとくに「中原中也のこと」と「小林秀雄」を目当てにして読んだ。「中原中也のこと」に関して、かつて江藤淳は時評のなかで〈この吉田氏の回想文は回想としても批評としても近来の名文章で、小林秀雄氏の「中原中也の思ひ出」や大岡昇平氏の『朝の歌』に匹敵する地位を主張しうるものである〉といっているけれども、なるほど、小林や大岡と同じように中原と交流のあった吉田が綴る文章は、詩人の、詩人である以前に人間としての、在りし日の姿を、こちら読み手の眼前へと立ち現わせる。吉田は〈私は「詩人」についての思い出などあまりかきたくない〉〈小林秀雄がどこかにかいていたが「上手に思い出すことは、むずかしい」。ことに、詩人についての思い出は、上手にやるのではなくては、単に正確か不正確かというだけでなしに、まるで意味がなくなってしまう〉と書いている。そうして続けられる回想は、ひとりの人間がひとりの人間と出会った、あるいは、ひとりの人間がひとりの人間を喪った、そういう情緒に浸るが、溺れることはなく、あくまでも書き手が、自分の属する此岸から、そして此岸へと泳ぎ、戻り、帰る過程なのである。22歳の中原との交流がはじまったのは、吉田が17歳、高校1年のときであった。〈中原は、こんな若さで人生の遍歴をあらかたすごしてしまったみたいな口のきき方をした〉。〈結果的にいえば、彼には、二十二歳にしてすでにあと七年の生命しか残されてなかった〉。個人的に興味深かったのは、次のような箇所である。〈中原は、日本の俳句や和歌や近代詩について「どれも叙景であって、歌う人の思いが入ってないからだめなんだ」とよくいっていた〉とある。今日においては、これは逆さまで、叙景ではなくて、歌う人の思いが入っている(かのように感じられる)ものが好まれる。エピソードとしておもしろいのは、やはり、中原と小林の単純だが複雑で奇妙な関係が、文章の向こうに透けて見える場面であろう。吉田は、中原の住まいで、小林が翻訳したランボーの『地獄の季節』を発見することになる。そこで衝撃を受けた吉田を見て、中原が小林を評する言葉に、嫉妬だろうか、等身大の感情が込められているように思う。中原の生々しい像が想起される。〈私は、たしかに中原に会ったことがあるにはちがいないが、本当に彼を見、彼の言葉をきいていたのだろうか? こういう魂とその肉体については、小林秀雄のような天才だけが正確に思い出せ、大岡昇平のような無頼の散文家だけが記録できるのである。私には、死んだ中原の歌う声しかきこえやしない〉として捉まえられた、こうした文章のうちに宿されたエモーションはいったいどこからやって来ているのだろうか。ここに収められている「音楽とわが青春」という篇のなかで、〈青春は、なんといっても、誕生や死と同じように、人生での最大の意味をもった出来事の起こる時期〉だといわれている。
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2006年07月20日
 『小説すばる』8月号掲載。絲山秋子の連作シリーズ「ダーティ・ワーク」の第六話。ローリング・ストーンズの『DIRTY WORK』アルバムに入っている、「back to zero」というナンバーから小説の題名はとられている。おそらく、単行本の状態で読むぶんには、驚くこともないのだろうが、こうした連載の段階だと、おお、と思うのは、これまでの登場人物たちの相関が、この話で、いくつかクリアーになっているからで、まず何よりも第三話の遠井と第五話に出てきた辻森のやり取りが、ここではメインになっているのだけれども、そうして、その遠井と、第一話の登場人物である熊井が、高校の頃いっしょにバンドをやっていたという事実が明かされるし、第四話のうちで語り手のひとりであった〈俺〉の兄が、じつは遠井であるかのような示唆もされている。とはいえ、正直に、この「back to zero」には、それ以上の楽しみは見つけられなかったかな。人称に気を配った文章の運びは、結果として、ごく通俗的な描写にしかなっていないし、そういった部分や、「うまく言えないけど……俺ずっとマイナスだから、一からやり直すっていうよりは、ゼロからやり直したいって」という青臭さ、先ほどいった人間関係、つまり知り合いの知り合いがじつは知り合いであったというサプライズも含め、まるで青年向けマンガのノベライズみたいな、そういう感じの内容に止まる。会社に行かなくなってから三ヶ月が過ぎ、無気力が深まる一方の遠井のもとへ、年上の知り合いである辻森から、写真展の誘いがかかる。辻森の撮った〈写真はモノクロで、すべてヌードだった〉。そのなかの一枚に、遠井は、高校のときまで仲の良かった熊井が、裸でギターを弾いている姿を見つけると、〈動悸が強くなった。汗ばむ自分を感じた〉のであった。

 「ダーティ・ワーク 第五話 miss you」について→こちら
 「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら

・その他の絲山秋子に関する文章
 「みなみのしまのぶんたろう」については→こちら
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら 
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
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2006年07月19日
 オートフィクション

 ひさびさに自分の読みにまったく自信が持てなくなる小説であったよ、金原ひとみの『オートフィクション』は。というか、ちょっと、おもしろがれなかった。22歳の〈私〉が書くオートフィクション(自伝的創作)のなかで、18歳の夏に〈私〉は、〈シャアと出会い、大分変わってしまったようだ。シャアを愛せば愛するほど、適当さがなくなっていく。生活も男も、何もかもが面倒臭くなって、適当な放浪生活を始めたはずだった。それが、シャアと出会った瞬間から、私はまたせっぱ詰まった人間に逆戻りを始めてしまった〉と思う、その〈私〉は、16歳の夏にガトウという男と付き合っていたときに、〈私があんたにしてやれる事は、全てやってきたつもりだった。毎日ご飯も作ったし、炊事洗濯もした。ただ浮気だけした。それにも理由があった。あんたが私を大切にしないからだ。毎日毎日スロットばかりで相手にしてくれないし、いつも「飯」とか「風呂」とかクソ亭主みたいな事ばっか言うし、友達の彼女を可愛いと褒めるし、そんなの、浮気されて当然だってんだ。くそ〉と涙を流す以前の、15歳の冬には、父と母の不仲を眺めながら、〈私はこれからずっとにゃんこと一緒にいて、いずれは一体化する方針だ。でも、もう何十年も一緒にいる彼らが一体化していないのを見ると、望みが叶わない可能性を疑って〉しまい、そのにゃんこという男とのあいだにできた子どもを堕胎したさい、〈自分の子供を産むも堕ろすも決められなかった事を。ずっと自分が死ぬところを想像しながら、今この瞬間死んでいないという事実を〉受け止め、〈私はきっと、自分自身で自分自身を変化させていく事が出来るだろう〉と考えていたのであった、が、しかし、22歳の冬に担当編集者からオートフィクションを書くことを提案された〈私〉はといえば、〈シンの事が好きで好きで仕方ないのに、私は死にたくない。愛するという事は死ぬという事だ。生きていたら愛する事など出来ない。生きるべきか死ぬべきか愛するべきか愛を諦めるべきか〉といった妄念に囚われ、〈彼と出会い初めて人間として本物の愛を手に入れる事が出来たのだ〉と信じていた男に離婚を、すでに切り出している。と、引用でもって、おおまかなアウトラインを描いてみれば、そのような感じになると思うのだが、いかんせん、その奥に書かれているもののほうに、どうも僕は入り損なってしまったみたいなのである。とがった文章からは、他者との断絶を前提としながら、それでも他者との共存を願わずにはおれない、殺伐としてさびしげな雰囲気が醸しだされてはいるのだけれども、それにうまく乗れなかったというのもある。まあ、いまどきの饒舌小説としてみたら、それほどに高い水準ではないと思うのだが、しかし、じっくりと付き合ってみれば、何かしらかの発見があるのかもしれない、と引っ掛かるのは、登場人物たちの名前(愛称)の付けられ方の適当さ具合から、オートフィクション(自伝的創作)という言葉が示しているフィクションに対する、作者の用意周到な悪意を察することも可能だからで、だいいちシンとかシャアとかカズとか、リンとかランとかモエとかユウナとか、この匿名的かつヤンキーとオタクが紙一重となった頭の悪さは、それこそがこの時代のリアルなどといえばひどい退屈でしかなく、あきらかに作為的なものなのであろうから、いったい何を意図しているのか、考えているうちに頭がこんがらがった。

 『AMEBIC』について→こちら
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2006年07月13日
 愛を海に還して

 小手鞠るいという、この作家のものははじめて読む。帯には、角田光代が推薦を寄せているのだが、これはちょっと、甘過ぎだあ。ビター・スウィートな恋愛小説なのだろうけれども、本来ならば、そのビターであるべきところも、たとえば〈泣きながら手紙を書き、何度も書き直して、やっと書き上げることができた時には、涙は涸れ果てていた。そのせいで、わたしの躰は砂漠のように乾き、悲しみは胸の内で無数の砂粒になっていた〉といった具合に、自己憐憫にまみれた、ひどく甘ったるい言い回しによりコーティングされているので、文章を噛み砕いているうちに、味覚がおかしくなるかと思った。当然、お約束はすべからく果たされるべきだとして、『愛を海に還して』という題名や、あるいは物語の序盤で予感されるとおり、登場人物のなかの誰かが、やはり、お亡くなりになるのもまた、ラジオ・フレンドリーなスロー・バラードみたいで、居心地が悪くもあるのだが、しかし、そういうのが大好きな向きもすくなからずいるのだから、喪失と感傷をうたうだけで成り立つ愛の歌は、飽きられることなく、次から次へと生産される。さて。仕掛けというほど大げさでもないが、32歳の〈わたし〉が、過去を回想するかたちで、この小説はつくられており、かつては一冊の本を書き上げることを夢見た、その彼女が〈いつか、再び、わたしが何かを書くことがあるとすれば、それは昔語りになるだろう〉〈そうして彼は、わたしの声を聞く〉〈ページの中から、わたしは彼に呼びかける〉〈ただ、その瞬間のためだけに、わたしはその物語を書くのだ〉〈ただひとりの人に読まれたくて〉というふうに、ここに編まれた物語それ自体が、あたかも語り手の主体性を保証するかのような、そういう記述のなされ方によって、ある種のエモーションが形成されているのかもしれないけれど、その言葉に、もちろん皮肉でもって従えば、ああ、そうか、結局のところ、これは特定の人間にのみ向けられているものなので、それ以外の人間、つまり僕という読み手がげんなりしてしまうのも、まあ仕方がないことなんだろうね、というわけである。
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2006年07月11日
 ワルの漫画術

 『ワルの漫画術』というのは、どっかの坊ちゃんくせえパンク気取った批評家の新書を思い出させたりもするが、そういえば島田一志もパンクスなんだったっけねえ。まあ個人的には「ワル」などといわれても、あまりかっこうよい感じはしないのだけれども、その二線級っぽいところが、まあ、島田という人そのものなんだろうな、と、彼が編集長をやっていた『九龍』の、あの誰に向けているのかわからない偏重ぶりを、今さらながらに偲ぶのであった。さて。〈本書でいうワルとは、簡単に言えば「既成の観念に囚われないアウトサイダー」のことです〉と本文中にはある。それというのは要するに、高尚なアートとして海外に流通することがマンガというジャンルにとっての最善ではなくて、あくまでもサブ・カルチャーとしてエンターテイメントとして読み手を楽しませると同時に、ステレオタイプな物の見方からの逸脱を啓蒙する、そのような在り方こそが、すくなくとも島田にとってはマンガの本質にあたる、といったことの言い換えであるのだが、ここに書かれていること自体がすでに、「「既成の概念に囚われないアウトサイダー」というステレオタイプ」をなぞるものでしかないので、マンガに対する読みに関しては、とくに感心する点はなく、江上英樹『IKKI』編集長と太田克史『ファウスト』編集長のインタビューも収められているのだが、率直にいって、読むところは少ないかな。とはいえ個人的には、島田も参加していた90年代半ば頃の『ヤングサンデー増刊 大漫王』を偏愛しているので、たとえば、そこで〈初めて起こした連載作品は古屋兎丸氏の『ショートカッツ』とねこぢる氏の『ねこぢるまんじゅう』なのですが〉というあたり、どういう経緯でもって『ガロ』から引っ張ってきたのかしらとか、そのへんの話がもっと聞きたい。

 『コミック・イズ・デッド』について→こちら
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2006年07月10日
 『文藝』06年秋号掲載。『ひとり日和』は、『窓の灯』で第42回文藝賞を受賞した青山七恵の、受賞第一作になるのだけれども、まいったな、これが二作目のジンクスというやつか、かなりつらかった。せめてこの半分ぐらいの長さであれば、良いトコ探しもできたのだろうが、読み進めるうちに、その気さえガシガシ削がれていったのだから、不平不満ぐらいしか述べることがない。何よりも登場人物たちに、魅力がないというか、その身に血が通っているようには感じられない点が、致命的である。また、その書き割り程度の存在感しか持たないものが、ぼんやりと、生きることの長さを測ったり、恋愛を考えたり、セックス(性交)をしたり、〈死にたいな、と思った〉りする。正直、死ねばいいじゃんね、勝手にしてよ、といったところだ。フリーターで来年21歳になる〈わたし〉は、母親が仕事の都合で単身中国へ渡ることをきっかけに、東京での一人暮らしを希望するが、金銭的な問題や手続きの面倒があって、親類で71歳の女性が住む家に転がり込むことになる。そうして、ふたりの間に流れる1年という時間を、または若者と老人という二者の間に異なる速度として横たわる日々を、小説は追っていくことになるのだけれども、いかんせん彼女たちの表情がいっさいイメージできないために、まあ、それはこちらの読解力のないせいならごめんなさいなのだが、しかし裏を返せば、それを説得するだけの力がそちらにないということでもあるのでしょう、だいいち「カギ括弧」が続く会話の場面ではいったい誰が誰に向けて喋っているのか途端に区別がつかなくなるのが困る、というわけで気分としては、どうでもいいよお、となってしまうだった。

 『窓の灯』について→こちら
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2006年07月09日
 『文學界』8月号掲載。目次には「創作」とあって、あれ? と思うが、じっさいに読んでみて、『悲望』が小谷野敦にとっての、はじめて発表された小説であることがわかった。個人的には、小説家になりたかったが才能がないためになれないことを悟った、という、いくつかの文章に書かれてある断念こそが、小谷野の批評性を支えているひとつの柱であると考えていたので、いささか複雑な気持ちでページを繰っていたのだけれども、いや、これがなかなかに読ませてくれる内容であった。おそらく若かりし頃の小谷野の、その実体験に基づくエピソードが、藤井というフィクショナルな人物に仮託され、記述される。大学院時代よりの片想いを捨てきれず、留学先のカナダにまで追いかけてきた篁響子から、藤井に一通の手紙が届く。そこに書かれていたのは、徹底的な拒絶の態度であった。1990年11月19日のことである。〈私は暗い道をどこまでも歩いたが、闇は深まるばかりで、どこにも出口は見いだせなかった〉。しかしどうしてこう、藤井の、篁へ向けられる感情は形成され、募り、話がこじれていったのか。そうした一連の顛末が、〈私〉という主語により、告白されてゆくといった寸法だ。恋愛における一神教的な側面など、小谷野の著書『男であることの困難』や『「男の恋」の文学史』の小説化といった趣もある。ヒロインにあてられた響子という名は、小谷野の好きなマンガ『めぞん一刻』からとられたものだろう。文体は、まあ、いつものとおりであるが、話しの運びはけっして悪くはないし、〈私の内心には、ああ、君に洗脳されるなら、私はナチスにだってなるよ、という奇怪な台詞が鳴り響いていた〉といった妄想の展開など、エモーショナルであるぶんだけ、じつにおかしい。思わず笑いこけたのは、藤井が響子に電話で告白をしようとする段で、〈もう、この会話はしっちゃかめっちゃかである〉というような、ふたりのちぐはぐなやり取りには、ある種のリアリティが持ちうる無様さと滑稽さとが、とてもよく捉まえられている。とはいえ、僕という読み手はすでに、こういった類のモテない男譚としては、浦賀和宏の『上手なミステリの書き方教えます』という孤高の一作に出会ってしまっているのであって、それに比べると、やはりすこし、芸の乏しさを感じてしまう。が、そこいらへんは、こちらの年齢(世代)による素養というのもあるのだとは思う。

・その他小谷野敦に関する文章
 『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』について→こちら
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2006年07月07日
 谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

 もちろん大谷崎といえば、谷崎潤一郎のことなのだけれども、僕はずうっと、偉大な谷崎というような意味合いで、大谷崎(おおたにざき)なのだと思っていたのだが、事実はそうではなくて、潤一郎の弟、精二もまた作家であったのであり、その区別のために大谷崎(だいたにざき)と呼ばれるようになったのではなかったか、という指摘からはじまる、小谷野敦『谷崎潤一郎伝――堂々たる人生』は、そのように、谷崎の一生涯を、雑多な資料と取材により洗い直すことで、一般的に固定化されたイメージから、その生々しいまでの在り方を取り戻そうとしている。〈作品論でも作家論でもない、谷崎潤一郎という一個の人間像〉を描きたかったと、「まえがき」で小谷野はいっている。そうしたアプローチからは、小谷野当人はどう思うか知らないが、僕は、江藤淳が『漱石とその時代』で夏目漱石にあてた執着に近しいものを感じとった。いずれにせよ、だ。力作であることは間違いがない。じっさい、読む前は、怠いかな、と思っていたのだ。谷崎なあ、じつはそんなに興味があるわけでもないしね、と。しかし、その人となりを知らされるうち、じょじょに集中していき、やがてページを繰る手が止まらなくなったのには、驚いた。個人的には、けっして好む系の生き方ではないとしても、たしかに心のどこかに当り、こつんと反応させられるような、非凡なほどに、魅力的な人物であったことだけは、十二分に伝わってくる。谷崎と、最初の妻である千代、それから佐藤春夫の特殊な三角関係について割かれた項などは、小谷野ならではの恋愛考察が生きて、なかなかにエモーショナルであるし、ふたり目の妻、丁未子に対するこれまでの過小(?)評価を覆し、三番目の妻である松子と谷崎の関係の、その真実を、独自の視点で突く段には、ぞくりとさせられる読み心地がある。〈まったく、神話である。谷崎がこしらえ、松子が協力した、これは「松子神話」の最後の画竜点睛なのである〉と書かれてあるところで、思わず、息を呑んだ。もちろん、ひとつの近代文壇史としても、豊富な内容となっている。石川達三が、谷崎の親類となぜか巡り会う奇縁は、小谷野がいうように、なるほど〈不気味な話〉で、江戸川乱歩との「影響の不安」が語られる段も興味深く、当然それ以外にも関心のわく箇所が数多あり、いずれにせよ、ここに書き写された種々の出来事の、その背景にいる谷崎潤一郎という存在が、いかに強大であったか、実直なまでに教えられるのであった。

・その他小谷野敦に関する文章
 『なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察』について→こちら
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2006年07月04日
 初恋温泉

 吉田修一の『初恋温泉』は、温泉宿という、いわば日常からはすこしばかり外れた場にある空気をうまい具合にすくっている、その力量の確かさをうかがわせる短編集になっている。とはいえ、達者ではあるが、この作者ならばこのぐらいは書くだろう、といったライン以上のものでもなければ以下でもない。もちろん、それは不満を述べているわけではなく、読んださいの印象をただ率直に言ってみただけのことである。収められている六つの編は、簡単にいうと、どれも男女の問題を扱っているが、語りの焦点は、カップル一組ずつの関係性そのものであるというよりも、そこから遡行して、一個の人間のあり方、おもに男性側の背景を為すような、意識のほうへと合わさってゆく。男と女とを結びつける、あるいは分け隔ててしまうことがある、セックス(性交)以外の何かが、さざ波ほどの他愛もない揺らぎとなって、彼らの内面にあたる。そのときの、微細な表情の変化を、たいていの読み手は、自分のなかで視覚化するのではないだろうか、という気がする。登場人物たちはみな、ひっきょう俗世間を生きる、暮らしている。小説の現実感は、しかし、そうした設定に宿るのではなくて、彼らと彼らをめぐる世界との相関関係のほうからやって来ている。「風来温泉」の男は、保険外交員としての優秀性が、いつの間にか、アイデンティティじみてしまっている。妻にそのことを指摘され、心を乱すが、「おまえ、俺のことを馬鹿にしてんのか?」という呟きは〈自分でも、誰がしゃべっているのか分らないほど、その声は遠くから聞こえてきた〉のであった。ここにあるのは、自分が自分で知らずのうちにかつてとはべつの人間になってしまっている、そういう、けっしてSF的ではなくて、ごく日常的な時間の進行がもたらす恐怖である。そしてそれはやはり、均質的な毎日の線上にあっては、取り出しにくい類のものであろう。いちばん最後に収められた「純情温泉」の男はまだ若く、〈この女と一緒にずっとこうやって一緒にいたい〉〈この気持ちがいつかなくなるなんて、いくら考えても想像できなかった〉と思う。そうした感情自体は、しかし、どこまで続いたとしても、自然の流れに試されながら、それを守ろうとするために生き方が、気づかぬ間に、違うものになってゆくことだってありうるかもしれない。冒頭に置かれた「初恋温泉」で、壮年期の男は、社会的な成功を収め、最愛の人と結ばれるのだけれども、彼女から別れを切り出されれば、その理由もわからなくて〈思い描いた通りの生活を、やっと手に入れたはずなのに、一番そこにいてほしい女がいない〉という悲哀に囚われる。

・その他吉田修一の作品に関する文章
 『女たちは二度遊ぶ』について→こちら
 『ひなた』について→こちら
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
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2006年07月03日
 〈「ハビタブル・ゾーン」は、「居住可能領域」という意味らしい〉〈私は勝手に、「人並みに生きていける領域」と解釈していた。そっちのほうが、ずっと言葉の響きに合ってる気がした〉〈今、私がいるのは、ハビタブル・ゾーンの内なのか外なのか〉。このたびリニューアルした『en-taxi[エンタクシー]』誌VOL.14からはじまった、生田紗代の連作小説の第1回「ハビタブル・ゾーン」、これが小説全体の題名なのか、第1回に付せられた題名なのかはちょっとわからなかったのだが、それを読んでひとまず僕が思ったのは、ぼちぼちこの作家の最初のほうの作品を読み返してもいい頃なのかもしれないな、ということであった。というのも、雰囲気としては、ここ最近のものよりも、ずっと以前のものに近しい、そう感じられたからだ。過去ログを辿ればわかるのだけれど、今でこそ熱心に読むが、僕は昔に、生田に関しては、あまり好意的な評価を持っていない。いや、なぜそんなことを書いたかというと、そのような一個の人間のなかで時間が蓄積されてゆく、そうして形成される相対的な視線が、ひとつには、この小説の主題に噛んでいるのではないか、と考えられるからである。〈私〉は新卒で入った編集プロダクションを辞め、今は求職の最中を漠然として暮らしている。しかし、新しい仕事はなかなか見つかりそうもないので、千葉の実家へ帰ろうかと思うのだけれども、部屋をシェアしているルームメイトの金銭的な事情を考えると、べつに仲が良いというわけでもないのに、それも先延ばしになってしまう。そのような日々のなかで、なぜだろう、誰一人友人などできず、けっして馴染むこともなかった〈本当につまらない、空白のようにぱっかりと浮いた三年間〉であるような、高校のときのことが思い出されるのであった。自分対世界という二項の、自意識の強まった語りは、いや、だからそれが若書きともいえる初期の頃の作品を想起させたりもするのだが、先ほどもいったように、時間の蓄積のうちで相対化され、〈私〉自身によって批評され、思考されることで、たんなる描写ではない、そこから長じたものになっている。同様に、相変わらず料理の捉まえ方は味気ないのだが、しかし、たとえば冷凍のパスタを食している場面で、〈味付けがしょっぱすぎる。それでも私は冷凍食品の可能性を信じているので、不満ではなく、頑張れよ、という気持ちになる〉という言葉が付け加えられることで、その味気なさそのものが、一段階上の表現や記述へ、ちゃんと持ちあげられているようにも思う。いま現在に〈私〉が生きているのは、フィッシュマンズや中村一義の歌が、昔のものとして聴こえる世界である。もちろんのように、そこでうたわれている気分や感情すらも過去のものとして感じられるとき、では、その未来にいる〈私〉はいったい何を望んでいるのだろうか。たとえそれを明瞭に、うまい具合には把握できないにしても、〈馬鹿馬鹿しいほど真面目に考えてみる〉ことには、きっと、何かしらかの意味はある。

・その他生田紗代の作品に関する文章
 「なつのけむり」について→こちら
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 「タイムカプセル」について→こちら
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2006年07月02日
 ドラママチ

 待たされるといわれれば、たしかに象徴的ではあるな。ここに収められた8編のどれにも、喫茶店が重要な場として現われている。角田光代の『ドラママチ』は、じっさい自分の身にやってくるかどうかはわからない何か、そうしたものの到来をそれでも待ち続ける女性たちを捉まえた短編小説集である。彼女たちはみな、半径5メートル圏内の諸事情により、ストレスをいっぱいにし、フラストレイトしている、あるいはフラストレイトさえし損なっているのだが、では、いったいそれをどうやって処理すればいいのか、適当な落ち着かせ方も知らない。そのために怠い閉塞のうちを漂う羽目になっている。とすれば、もしかすると彼女たちの待ちわびている何かというのは、自分たちをカタルシスさせてくれるような、そういうポイントのことを指すのかもしれないな、と思う。いや、一般化してしまえば、おそらくはそのような見方こそがもっとも妥当なのだけれども、角田がよいのは、それを、登場人物たちに固有なエモーションとしてピントをしぼっていくところだ。たとえば、ここに収められた「コドモマチ」という小説は、この作者の作品にしてみたらけっして珍しくはない、ストーカーものだといえるだろう。そこでの語り手である〈私〉がストーキングを行うのは、夫の浮気相手に対して、である。が、しかし興味深いのは、〈私〉が、悪意とでもいうべき情念に従って、そうしたアクションを起こしているのではない、ということだ。それはどちらかというと、〈私〉の癖というか、性質のようなものに近しく、夫の浮気相手をつけ回したところで、とくに危害を加えたいという欲望は有されていない。もうすこしいうと、〈私〉のなかには、夫の浮気相手は夫の恋人なのであり、〈私〉はといえば夫の恋人ではなくて妻である、といった棲み分けができていて、それらはどうも気分的には衝突をしていないみたいでもある。事実、〈私〉が結婚以前に付き合った男性は一人残らず浮気をした、そのたびに彼女は自分のネガティヴな感情を処理するために、相手の女性を突き止めたりするわけだが、今回の、夫の場合は違う。たしかにいつものとおり、浮気相手を調べ上げる真似はしたけれども、それは〈今までに感じたような、始末に困るような嫉妬や、立ち去られるかもしれないという焦燥感、裏切り行為に対する腹立ちや失望〉があったからではなくて、まあだから要するに癖のようなものなのであって、結局のところ、心のうちからは〈何も、たじろぐほどなんにも出てこない〉。こうした空漠をもって、一概にレアなケースだとは判ぜられないけれど、すくなくともそれは、「コドモマチ」というフィクションの内部に、〈私〉という独特で生々しい感触をあてがう作用を果たしている。彼女の置かれている、宙吊りの状態が、浮き彫りにされているのであった。全体に共通して描かれているのは、すべてを望むにはもはや若くないが、ぜんぶを諦めるほど年老いてもいない、そのような女性の像だ。生死に関わるぐらいの、過剰にシリアスな問題を抱えているわけではない、にしても、目の前の現実は、深刻に、これから先の人生を考えさせる。そういう物語群のなかで、個人的にはとくに、姑との確執を扱った「ワカレマチ」、そこでの喫茶店におけるスタティックかつパセティックな一場面に、すばらしさを感じた。

・その他角田光代の作品に関して
 『おやすみ、こわい夢を見ないように』については→こちら
 『ぼくとネモ号と彼女たち』については→こちら
 「ロック母」については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2006年06月29日
 短篇集 バレンタイン

 「柴田元幸、初の小説集」ということで、長さでいうと短編か掌編にあたるような作品の集められたのが、この『バレンタイン』という本になるわけなのだけれども、ぶっちゃけて、あんまし恵まれた内容ではないな、というのが本音である。いや、わざわざ小説だというから、ぴんと来ないのであって、エッセイだといわれれば、やはりそちらのほうが似合っているような、そういう系の文章であると思う。たとえば、おそらく親和性の高いのだろう村上春樹や伊井直行などの小説とくらべたときに、ちょっとこれは、いささか芸が足りなく感じられる。それでも一編を選ぶとしたら、個人的には「ケンブリッジ・サーカス」になるかな。〈僕〉が過去の自分に向かって〈君〉と語りかける、この手法は表題作にあたる「バレンタイン」や、かたちを変えべつの作品でも採られているが、分裂の度合いはこれがいちばん激しく、他の作品が年輩者の感傷に絡めとられているところを、オルター・エゴふうの物語にまで発展していっている、そのためにもっとも強く印象に残った。

 『200X年 文学の旅』(沼野充義との共著)について→こちら
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2006年06月27日
 ソラカラ

 太陽の膨張により、やがて地球上に生物が生きられなくなることの決定された近未来、人類は火星へ移住を開始する。宇宙へ向け、人々を運び、空を舞うシャトル、それを地上から、つよい紫外線に焼かれた目で見上げる3人の少年たち、いったい彼らはなぜ、一方的に環境の壊れゆく世界に止まろうと思ったのか。桑原美波の小説『ソラカラ』は、その決意に至る1年に近い経緯を、テレビのニュースで重大な発表がなされてからの日々として、順を追うかたちで描いている。まあ「世界の終わり」というシチュエーションそれ自体は、いまどきのサブ・カルチャー的な想像力においては、さほど特筆すべきことではない。もはやある種のテンプレートだといえる。が、それでも飽きられることなく採用され続けるのは、それが、実際的な可能性とはべつのレベルで、何かしらのリアリティというか気分を保証するからであろう。86年生まれの作者にとっては、ごく自然な選択であるのかもしれない。となれば、問題は、そこで扱われているエモーションが、いかに読み手の側を説得しうるか、そういった部分にかかってくるわけだ。さて、この作品はというと、そのあたり、ちょっと微妙かな。いや、知識の危うさは不問としたうえで、日常を捉まえたあたたかな空気、青春の風景としてはなかなかに美しいし、泣きどころもあるよ、それはそれでオーケー、文章も含め、物語そのもののかっこうは、けっして悪くはない、どころか個人的には好感を持つのだけれども、やはり全体のポイントである、どうして3人の少年が地球に残ろうと思ったのか、そのことの正当化がうまくなされていないように思えた。
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2006年06月22日
 同時代も歴史である 一九七九年問題

 坪内祐三が、この新書『同時代も歴史である 一九七九年問題』のなかで述べている、「一九七九年問題」とは何か。正直をいえば、よくわからないというのが本当のところである。そして、それはたんに僕という読み手の力量のなさによるものではない、と思う。いや、自己弁護ではなくて。とはいえ僕なりにならば、「一九七九年問題」というものを、どうにかこうにか言い換えることはできそうな気もする。それは、つまり、このような感じだ。「一九七九年」とは、この国(またはこの世界)が全面的にサブ・カルチャー化してゆく転換が端的に示されたときであり、それ以降、自覚的にであれ無自覚にであれ、必然的にサブ・カルチャー(の一部)として生きなければならない我々を、歴史という認識をもって捉まえるひとつの視点を指し、「一九七九年問題」という。

 たとえば坪内は、64年(日本では70年)に出版された、アメリカの文芸評論家であるノーマン・ポドレッツ(30年生まれ)の『行動と逆行動』を80年頃に読んだ、そのときに「興奮した」といっている。58年生まれの坪内は、当時、20代前半の大学生である。〈当時、日本では、まさに、サブカルが真面目な批評の対象となり始めていた〉〈そのような今日的問題が、さすが大衆文化の御本家アメリカでは、二十年以上も前にすでに問題として指摘されていたとは〉。要するに、未だサブ・カルチャーが真面目に論じられることのなかった80年の日本で、坪内は、64年のアメリカではすでにサブ・カルチャーが批評の俎上に乗せられており、ポドレッツというすぐれた書き手さえあったことを知り、驚き、そして興奮したわけだ。そのことはもちろん、日本におけるサブ・カルチャー受容の遅れを示しているのだけれども、重要なのは、その遅れではなくて、アメリカがまず先んじていたことであろう。国産のサブ・カルチャーが充実してくるのは、70年代を回ってからであるが、しかし、それだけではまだやっていけない、自給自足していなかったことは、坪内の著書でいうと『一九七二』に詳しい。

 一方で、そういう国内におけるサブ・カルチャーの全面化を、なし崩しのアメリカナイズと見なし、対立した人物に、江藤淳がいる。33年生まれの江藤は、ポドレッツとほぼ同世代だとして、坪内は〈そして江藤淳は当時(一九八〇年頃)、盛んに日本文学のサブカル化のことを嘆き批判していた。ポドレッツと江藤淳のサブカルに対する視線の差に、私は、アメリカと日本の国柄の違いを感じた〉といっている。〈国柄の違い〉という短絡的ではあるけれども、じつに本質的な直感をしたのは、20代だったときの坪内祐三である。こうした書かれ方、書き手が過去を反復し、読み手が追体験するような書かれ方は、たとえば『一九七二』や『『別れる理由』が気になって』などでも採られたものだ。が、こうした書かれ方の必要は、どこからやってきているのか。
 
 〈一九八〇年代に入ろうとする一九七九年は、いわゆるポスト・モダニズムを迎えようとする時であった〉〈そのポスト・モダニズムは文字通りの超近代だけではなく否近代を含むものであったが、一番の特徴は、それが単一の真理を持たないことだった〉〈単一の真理を持たないなら、つまり、単一の歴史を持たない〉〈それぞれがそれぞれの歴史を持つ〉がゆえに、坪内は〈もし歴史が複数だとしたら、そのそれぞれの「そばに流れている」歴史への参加のあり方に果して優劣がつけられるのだろうか〉と思う。そのように考えるのであれば、坪内が語りうるのは、あくまでも坪内が果たした(今も果たしている)歴史への参加のあり方のみである。この新書の書かれ方は、そういった意識の持たれ方から、おそらくは、やってきている。

・その他坪内祐三の著作に関しての文章
 『古本的』について→こちら
 『『別れる理由』が気になって』についての文章→こちら
 『私の体を通り過ぎていった雑誌たち』についての文章→こちら
 『文庫本福袋』についての文章→こちら
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2006年06月19日
 ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典

 西尾維新自身が、前書きにあたる段で、〈裏話や制作秘話、副音声、コメンタリー、ライナーノーツ風の文章がお好きでない方には、やっぱり本書はあんまりお勧めできません。本書にはそういうことしか書いていないからです〉といっている、この『ザレゴトディクショナル 戯言シリーズ用語辞典』を読んで、僕は自分が、とある小説がどのように書かれたかについてはあんまし関心のない読み手なのかもしれないね、と思う。もうすこし正確にいうと、作者自らがどのようにその小説が書かれたかに関して言及することには興味がない、という感じになる。これは、たとえば高橋源一郎や阿部和重とか、笠井潔もかな、あたりがときどきそれを書くことに対しても、つねづね思うところでもある。ただしインタビューや対談の類については、その限りではなくて、それはなぜかというと、この本のなかの「インタビュー」の項を引くのであれば、〈インタビューは、基本的にはインタビューアーさんとの対話で行われるため、ついつい見栄を張ってみたり、意地を張ってみたり、誤魔化してみたり、あるいはインタビューアーさんの期待に応えてみたりする〉といった余談があるからであろう。まあ、テクスト至上主義みたいな考えがないこともないけれども、それ以上に、ライナー・ノーツならばライナー・ノーツで、もしかするとジャーマン・メタルとか聴く人ならばわかっていただけるかもしれないが、そのなかでもセルフ・ライナー・ノーツの類は、やはりどこか退屈であるような気がするのだ。まあ、好みの問題だといえば、そのとおりである。とはいえ、これだけのもの(帯には全460項目、15万文字書き下ろしとある)をひとりで書けるというのは、要するに管理能力があるということでもあるんだろうけれど、それはそれですごいなあ、という感心は、素直に、した。また「戯言シリーズ」に関してということではなくて、西尾維新という作家についてということであれば、たとえば「物語」の項、〈メタ小説があんまり得意な読者ではないので、戯言シリーズがそうならないよう、この言葉の使用には結構気を遣った〉とあるところとか、その指向を見てとるうえで、興味深い箇所はいくつかあった。

・その他西尾維新に関する文章
 「するがモンキー」について→こちら
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2006年06月14日
 『新潮』7月号掲載。距離、というのはけっして平面上の間隔だけを言うんではないんだろうな、と思う、読後に。それで、長さと幅だけでは測ることのできない距離というものがあるのならば、いったいそれをどのように感じながら我々は生きているのであろうか、と柴崎友香の『その街の今は』は、その実感にあたる部分を、なんとか言葉の内側に捉まえようとしているような、そういう感じのする小説だった。たとえば、これまでの柴崎の作品を、題名だけで考えるのであれば、『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』や『青空感傷ツアー』、『ショートカット』、もしかすると『いつか、僕らの途中で』までを含めてもいいのかもしれないが、それらのなかにはすでに、平面における距離を想起させる言葉が含まれており、じっさいに登場人物が旅行に出たりするなど、そういった線で結ぶことのできる移動が行われている。『フルタイムライフ』はともかく、『きょうのできごと』にもその傾向は見受けられるとして、しかし、それらについては、やはり題名から察せられるとおり、時間軸に置かれている比重が大きい。そのような平面の移動のないことに対して、何も起らないだとか、日常的だとかいうふうに読む向きもあるかもしれない。けれども、そうではなくて、もっと抽象的に、漠然としたイメージのなかで、とはいえ形而上ではないほどに身近に感じられる距離があり、その間隔のどこかでつねに登場人物たちは動く、動かされている。そのことが、より鮮明なかたちで、『その街の今は』という題名の、「その」と「今は」のあいだに示されているのではないか。語り手である〈わたし〉は、自分が住んでいる大阪の、現在ではなくて、それよりも昔の写真を眺めるのが好きで、それはなぜかと尋ねられれば、「そらそうやけど。なんていうか、自分が今歩いているここを、昔も歩いていた人がおるってことを実感したいねん。どんな人が、ここの道を歩いていたんか、知りたいって言うたらええんかな? 自分がいるとこと、写真の中のそこがつながってるって言うか……。だんだんなに言うてるんかわからんようになってきたけど」と、うまく答えることができない。でも彼女は、自分で自分がどうして、それを好んでいるのか、じつはちゃんと、次のようにわかっている。〈言葉を選んでいるつもりなのに、写真を見た瞬間のあの実感を説明するのには全然足りなかった。最初に空中写真で焼け野原の心斎橋を覗き込んだときの、あの感じ。なんとかして、あの感じやそれ以上の感覚をもたらすものに出会えないかと思って、わたしは写真や映像を見ている。自分の知っている場所のほうが、その感じが強くあるっていうだけのことなんだけれど。どの道をどこに行けばどんな景色があるかすぐに思い浮かぶくらい、わたしはここを知っている〉。こうした文中に含まれている、「あの」や「それ」、「その」や「どの」「どこ」そして「ここ」といった指示語の曖昧さ、より強調していえば、語り手以外の人間、つまり他の登場人物たちや読み手から見た場合にとっての不正確さこそが、『その街の今は』という小説もしくは作者が問題としている距離にかかっている、と考えていい。

 『フルタイムライフ』についての文章→こちら
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2006年06月12日
 少女は踊る暗い腹の中踊る

 80年代アメリカの、アーバンでハイソサイエティな暮らしは、パトリック・ベイトマン(ブレット・イーストン・エリス『アメリカン・サイコ』)という無感動な殺人者をつくり上げた。その影響は、00年代の日本の、退屈で閉塞的など田舎のなかで、ウサガワという、エモーショナルなシリアル・キラーへと伝播する。いや、それはちょっと、おまえ、じっさいにウサガワ当人が「何に影響受けたっかっつったら、間違いなく『アメリカン・サイコ』じゃけ」と言っていたところで説得力を欠くだろ、としても、どちらの非人間的な凶行も、けっして完璧にフィクショナルな想像力の産物ではない、むしろ時代の反映として、当然の成り行きのように現れたものだ、といえなくもない。

 『少女は踊る暗い腹の中踊る』は、第34回メフィスト賞受賞者である岡崎隼人のデビュー作である。85年生まれという若さゆえか、先行する舞城王太郎か、あるいは佐藤友哉あたりのフォロワーとして割り切ってしまえるし、技術的に未熟なところもあるが、この数年のあいだに、純文学系の新人賞からデビューした同世代の作家群と比べれば、ここに書かれている内容は、十分評価に値すべきものである。

 物語は、父親から譲り受けたコインランドリーの管理人をしている19歳の〈俺〉イコール北原結平の、饒舌さがそのまま余裕のない行動力となって示される語りによって、進行してゆく。岡山で起きた連続乳児誘拐事件、そしてウサガワと名乗る男が軽トラックで運ぶ女と生首、それらの惨劇に否応なく巻き込まれた結平は、蒼以という少女と出会い、やがて自らの抱えるトラウマと対決せざるをえなくなる、というのが『少女は踊る暗い腹の中踊る』という作品の、大まかなつくりだ。ここで重要なのは、そうして小説内に登場するほとんどの人物が、一般的な倫理の枠外で生きていることである。結平は、語りのレベルにおいて推理を遂行する探偵の役を兼ねているけれど、しかし、その彼自身からして、けっして暴力を振うことに躊躇いを持っているわけではない。〈とにかくおかしなやつが多いのだ〉と納得済みで、先を尖らせた長く長いプラスドライバーを携帯している。

 そのような諸々なことの結果として、膨大な数の死者が、小説のなかで要請され、用意される。先ほどもいったが、語り手を含め登場人物たちはみな、一般的な倫理の枠外にいるため、殺害を重ねることに抵抗や嫌悪を感じることはない、というのが、その一因であろう。より正確にいうならば、原体験ともいえる、いちばん最初の惨劇だけは、それぞれバイアスのかかった特別なものとされ、一段階上に持ち上げられているのだけれど、それ以外の惨劇は、あくまでもその下位に属するものである以上、あたかも無価値であるかのように切り捨てられる、要するに、意味のないゼロの死がいくつ積まれたところで、それはゼロ以上の価値を得ることはないのである。これが『少女は踊る暗い腹の中踊る』の殺伐としたテイストの背景となっている。

 しかし、そこに横たわる問題は、けっしてアパシーに終始していない。いや、むしろ逆に、登場人物たちの多くは、きわめて感情的な行動原理に従っているように思える。つまり、小説の比重は、頻出する無価値な死に対してではなくて、それらをゼロに貶めてしまうほどに高められた、それぞれの登場人物にとって、唯一無二の固有性を孕む死のほうへとかかっている。そして、その場合の死とは、自分以外の人間のことでありながら、いかんともし難く自分自身へと反映されてしまう、そうだからこそ一個の他者たりうるものの喪失を指しているのだった。登場人物たちの、非人間的な凶行は、しかし彼らが、その他者を意識しているかぎりにおいて、彼らの人間性をキープするものとして機能する。まるで詭弁のようだが、ならば簡潔に、こう言っても、良い。大切なものを守るため、それ以外のものを犠牲にすることは、ときに正当化される。

 ふたたび繰り返すが、登場人物たちが立っているのは、一般的な倫理からは完全に逸脱した場所である。にもかかわらず彼らは、物語の最後までいっても、そのような立場から、いっさい裁かれることはない。おそらくは、その点を瑕疵だとする向きもあるだろう。だが僕は、べつの見方を採用したい。彼らはたしかに、社会的な通念からすれば、大幅に間違えている。たとえばウサガワが、その別れ際、結平に向かって「また間違えようね」と言うように、自覚的に。しかし、それでも彼らが、人間的に、無事でいられるのは、小説の内部において、べつの倫理体系に保護されているからなのではないか。

 それはどのようなものかというと、自分の生命の範疇に他者の生命を迎え入れたとき、その一対一における関係性の保持のみを目指し、必要とされる類の倫理である。そのことはもしかすると、今日においては「きみとぼく」というテーゼに連なっていくのかもしれないが、ともあれ地獄巡りの果てでようやく、結平は、損なわれた過去を上書きしてくれる、換言すれば、唯一固有的であった死のオルタナティヴとなる、生きた他者を獲得し、〈他には何もいらないのだ〉と思う。そうした言い切りに、ぐだぐだとして薄暗い不平不満とは異なる、自意識の声が生まれているのを聞いた。
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2006年06月11日
 上手なミステリの書き方教えます
 
 この国のこの時代を生きる、すべてのネガティヴ・クリープやコンプレックス・パーソンが受けとるべき小説が、いま、ここに。いやはや、もう、間違いなく浦賀和宏だけは別格ですよ、と声を大にして言いたい。松浦純菜(あるいは八木剛士)のシリーズ第3弾『上手なミステリの書き方教えます』であるのだけれども、この全編を覆う、惨めさと無様さと切なさと心強さ具合ときたらどうだろう、しかも、それらが抱腹絶倒のうちに、こちらへと手渡されるのだから、参る。じっさいに電車で読んでいたら、思わず声を出し笑えてしまったので、困った。だいたい頭のほうからして、こんな調子である。〈剛士は純菜が好きだった。もっとはっきり言うと、彼女のパンツが欲しかった。更に言うならば、脱いだばかりのまだぬくもりが残る彼女のパンツが欲しかった。パンツが無理なら、純菜を教室に連れ込み剛士の席に座らせ、純菜が帰った後に彼女が座った椅子に頬ずりしたかった。一緒に教室を出た後『あ、忘れ物しちまった』と嘘くさい台詞を吐いて、一人だけ教室に戻り、椅子に残った彼女の体温を味わうのだ〉。ほとんど病気である。十分に変態さんである。自分でもそれはわかっている。しかし妄想は自由である。そのような葛藤と自虐を含みながらの願望が、二段組み約330ページ中のおおよそを占めている。まあ、その時点で、読み手を選んでいる、といえば、言える。さらに、けっこう幅広にサブ・カルチャー(なかでもオタク系のカルチャー、とりわけ『機動戦士Zガンダム』)の知識が全編に散りばめられており、僕の場合、作者と世代がそれほど離れていないためか、わりと理解可能なものが多かったけれど、それでもぜんぶの元ネタを羅列できるかというと、とうぜん無理で、裏を返せば、そういった部分でまったく楽しめない読み手もいるだろう、と考えられる。個人的には、かつて一世を風靡したPCゲーム『ダンジョン・マスター / カオスの逆襲』スタート直後のくだりが、最高にヒットだった。うはは、それ、あったあった、となる。しかし、特筆すべきは、そうしたある種の限定的な語りが、ときに歯止めの利かないほどに暴走しつつ、話の筋を運んでゆけば、やがて、すこしばかり泣けてくる青春と恋愛の像をつくり、そして、普遍に届きそうなエモーションを、ついに手に入れてしまうことなのだった。なんで、好きな女子のパンツが欲しいといった、どうしようもない場所からはじまったものが、最後の最後に、いやあ、すごく良い物語だった、みたいな読後感になってしまうのだろう。驚いた。もしかすると巧妙に騙されているだけなのかもしれない。巧妙といえば、ミステリ部分を支える仕掛けに関して言うと、小説内部にいくつもの異なった位相を設け、読み手を攪乱させる、この作者にお馴染みの手法が用いられているので、はったりにさほど驚くこともないが、しかし、そうした構造を成立させるにあたって、入念に、周到に、文章の細部を加工する執着のようなものが、同様に、登場人物の過剰に悲喜劇的な猜疑心へ、説得力およびアクチュアリティを帯びさせているように思える。この痛々しいまでに肥大した自意識に、共感できるか嫌悪するかは、そりゃあ読み手の勝手な判断だろうけど、いやいや、これは酷いや、といった救いのなさに皮肉としてならすくなからず愉快である一方、ここで、もてない男の傷ついた内面を通じ見られる、同調圧力の地獄は、この時代のこの国のある一面を的確に捉まえている、といっても過言ではない。

 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら

 「リゲル」について→こちら
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2006年06月09日
 目白雑録(ひびのあれこれ) (2)

 すくなくとも僕にとって、かっこういいとは、こういうことだ、と思わされる金井美恵子のエッセイ集『目白雑録(ひびのあれこれ)』の第2弾である。が、いや、しかし、ほんとうにおもしろいなあ、あっという間に読み終えてしまう。はじめのほうは、04年に書かれたものだということもあり、時事的な部分に関しては、いま現在からみれば、やや時期の過ぎた、この本のなかの言葉を借りれば「長月のアジサイ」的なものも多いけれど、だからこそ逆に、たとえば〈『聖少女』は高校生の時に読みましたと言われたことで〉〈この年になってみれば、私も全然平気になるのだった。ウン、ウン、〉と書かれていたり、〈『暗い旅』は「私」という一人称が自動的に「あなた」に置きかえられているだけなのと内容の少女小説性のために、なんかこう、自分のことを「あなた」と呼びかけて日記をつける文学少女のような文体になってしまうのが気持ち悪かったけれど〉などとある箇所は、倉橋由美子が亡くなった今日この頃では、よけいに興味深かったりもする。そのような同業者(「競争相手は馬鹿ばかり」の世界)への意見として、もっとも多くページが割かれ、もっとも辛辣なものとなっているのは、やはり島田雅彦に関してで、そのさい、中原昌也や阿部和重の持ち上げ方はべつにどうでもよく、〈絶対なりたくないし、なれないものがもう一つあった。男の利口ぶった小説家である〉といった言い切りのセンスに、ふふふ、と笑わされる。
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2006年06月08日
 『群像』7月号掲載。ああ、やめればいいのに、なぜこんなところに顔を出してしまうのだろう。アメリカ(ニューヨーク)を舞台にした、フィルム(カメラ) を巡る物語という大筋自体は、作者である生垣真太郎が以前に発表した『フレームアウト』や『ハードフェアリーズ』といった小説に通ずるものであるが、しかし、それらがミステリという論理的整合の世界に止ろうとすることで、かろうじてキープされた緊張を読ませるものになっていたのに対して、この『キメラ』の 場合は、掲載誌に合わせてか、冗長に、散漫に、抽象的なイメージのぐだぐだに帰結するのみである。状況の把握と細部の積み重ねにつとめる前半は、けっして悪くない。だから、そのひっくり返し方というか。おそらくは、プロットには拘束されえないものを小説の内部に導き出すことが、ここでは目指されているのだろうが、そうして最終的に辿り着くのが、語り手のいうように「まあ、いいから。気にするな。俺の問題だ。君が気にすることはない」程度のものでしかないのだから、ああ、いや、そうですか、といった具合で返答に困ってしまう。
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 ラディカリズムの果てに

 これ、『ラディカリズムの果てに』は、語り下ろしというか、インタビュー形式の内容だということもあり、わりと仲正昌樹が言いたい放題なので、野次馬根性的に読むぶんには愉快だと思うのだけれども、「本書を読む前の注意書き」という前書きの箇所で、仲正自身が〈けっこう適当に語り下ろしたものである。それほどマジな批判ではない〉といっているように、それほど実がないというか、他の著作に比べ、論理的な重量はほとんどないので、まあ、こちら読み手も、おもしろ半分、茶化しながら、適当に読むぐらいがいいのではないか、と思う。北田暁大とのやりとりは、もっと泥沼になったほうが見てておもしろいのに! あはは、とか思いながら。その北田の件にからんで、すこし前にネット禍に遭った、とある対談に関しても、ここでは触れられている。その対談について、仲正は〈雑談の延長のようなもの〉といっている。要するに、それと同程度に、これもまた雑談の延長のようなものに過ぎない、ということだ。それはともかく。インタビューイの仲正は、いつもどおりのことしか言っていないという意味合いで、その発言にはある種のカタルシスがあるのだが、へぼいのはインタビュアー(編集者)である。謎の質問がいくつか見受けられる。いちばん顕著なのはP156に、仲正のような〈そういう態度を取ると、かえって「炎上」しないですか〉とある。これ、意味がわからない。「炎上」というのは、いわゆるネット用語でいうところの「炎上」のことを指すのだと思われるが、たしか仲正は(現時点では)ブログを持っていないはずである。存在しないブログが「炎上」することなどありえるのだろうか、不思議質問だろ。これはこれで、突き詰めていくと、ムード優先で言葉が使われることに批判的な仲正のスタンスさえも脅かすことになってしまう。もちろん、僕が仲正のブログが存在していることを知らないというだけなのかもしれないが、だとすれば仲正がここで熱心に語っている「ブログ論壇」批判は、まったく無効化されてしまう。そういう、曖昧であるがゆえにインタビューイを貶める悪質な質問が、いっそインタビュアー(編集者)の発言はぜんぶ抜いてしまっても成り立ちそうな構成であるにもかかわらず、けっこう見受けられる。もしかすると、インタビュアー(編集者)は、褒め殺しの体で仲正を晒し者にしてやるぜ、といった魂胆なのかもしれないが、それそれで、酷い仕打ちだなあ、と思う、他人事ながら。

・その他仲正昌樹の著作に関する文章
 『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』について→こちら
 『松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)』について→こちら
 『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』について→こちら
 『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
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2006年06月07日
 『小説宝石』6月号掲載の短編。近況欄に「初めまして」とあるので、生田紗代は、これが『小説宝石』初登場になるのかな。とはいえ、これまでと作風を大幅に違えることのない、作者と年齢の近しい、等身大の若い女性を語り手に置いた小説である、「なつのけむり」は。祖母の墓参りのため、4年ぶりに母親の姉夫婦の暮らす田舎へと訪れた〈私〉は、そこで、散歩の道すがら、〈ここは、普段私がいる場所からは遠い。それは距離的なことだけではなく〉と思うのだった。この〈私〉はといえば、四年制大学を卒業後、新卒で入った小さな会社に勤めて3年目になる、実家暮らしではあるが東京で都市型の生活を営んでいる、といった背景を持たされている。しかし彼女には、これから先において、仕事上の明るい展望はなく、結婚の予定もない。〈中学や高校の頃は、大学を出たら、自分はもっとバリバリ働いているのだと思っていた〉が、じっさいにはそうなっていないことに、ふかい失望を覚えている。ここで、ひさびさに訪れた田舎の風景が、彼女に与えるものは、けっして癒しめいたものではなくて、たとえば〈左右を民家の塀に囲まれ、窮屈で閉塞感を感じるのも苦手な理由の一つだった〉というように、自分の普段の生活とはまた別種の、行き詰まりでしかないことが、おそらく、この作品のポイントだと思う。都会と田舎といった二項の対比は、たしかに小説のなかに設置されているけれども、それは、あくまでも叔母という、〈専業主婦なのに、専業主婦を嫌っている人〉である〈私の母〉や、もちろん働く女性である〈私〉とも異なる、いわば、もうひとつオルタナティヴな可能性であったものを登場させるために用意されたものであろう。だが、ここでさらに付け加えておかなければならないのは、〈私〉はしかし、先行する世代である〈私の母〉とも、そして叔母とも異なる、オルタナティヴな可能性のなかを生きるしかない、ということである。そのような、相対関係のうちで、後発の、若い世代が、その若さを消耗していく過程でのみ感じうる現実の重みが、小説の、というか〈私〉が抱えているエモーションの根幹にはあるように感じられた。

・その他生田紗代の作品に関する文章
 「私の娘」について→こちら
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「タイムカプセル」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
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2006年06月06日
 あなたに不利な証拠として

 『SIGHT』誌「読むのが怖い!」で、北上次郎が褒めていたのをきっかけに読んだ。僕のばあい、そのパターンが多いな。とはいえ、そのなかには、なるほど納得できるものもあれば、もちろん、それほどでもないような、というのもある。このローリー・リン・ドラモンド(駒月雅子・訳)『あなたに不利な証拠として』は、圧倒的に前者、間違いなく読んでよかったと思えるものであった。ルイジアナ州バトンルージュ市警に勤務する女性警官たちの、一般市民から見れば、一生関わりたくないが、しかし彼女たちにしてみれば、ほぼ日常と同義の苦悩、苦痛を捉まえた、10の短編が収められている。そのうちで、05年エドガー賞最優秀短編賞を受賞したのは「傷痕」である。北上はべつの1編「味、感触、視覚、音、匂い」がいいといっている。が、僕は「制圧」を挙げたい。ひとりの女性警官が、とある現場の緊急性のなかで、自らの過去をフラッシュバックさせていくと、そういう感じのつくりになっている。彼女の、肉体と精神の双方にかかる緊張が、文章に、するどいテンポの弾みを生じさせている。この短編集においては、もっともスリリングな読み応えを持つ1編だと思う。最後の2編「生きている死者」と「わたしがいた場所」は、すこしばかりサスペンスとメロ・ドラマの定型に接近しすぎているため、やや気勢を削がれるところがあったけれど、それでも退屈はしなかった。それらを含め、総体的には、ひじょうに充実した内容だといえる。通報を受け、まだ他に誰も到着していない現場に駆けつけた登場人物たちが、まず最初に対面する他者は、たいていのばあい、死体(遺体)である。死体とは、この世で唯一、死を体現したものであろう。それを前にしたとき、彼女たちのほとんどは、死を近くに感じ、死そのものと向き合い、死の内側を覗き込み、自分のなかにその重たさを感じとる部分のあることを、知る。そこから伸びてくるイメージに呑み込まれず、耐え、あくまでも生者としての営みを引き受け、まっとうすること、そのような物語による要請が、ナイーヴな感傷にほだされない、ある種ドライで硬い筆致へと結びついているのではないだろうか。
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2006年06月05日
 残光

 『新潮』掲載時に1度読んでいるので、これで読むのは2度目になるのだけれども、いやいや、しかしだからといって、何とも言い難い小説だな、という印象はちっとも変わらなかった。ここにはいったい何が書かれているのか、そして、いったいどのような書き方をすればこういうふうになるのか、こちらにある理解の枠内から、大幅にはみ出してしまっている。「カギ括弧」のなかに「カギ括弧」が増殖し、回想のなかに引用が増殖してゆくつくりは、ほんとうにもう、技巧的に高度なメタ・フィクションなのか、たんに作者がぼけちゃっているだけなのか、一概には判ぜられない領域に達してしまっている。とはいえ、詰まらん、とか、こんなもん読めない、とかいうことはなくて、最後の最後まで、飽きず、引っ張られていってしまうのだから、また厄介だ。作中で何度も繰り返されている点からわかるとおり、これを書いている小島信夫という人の、意識の始点に置かれているのは、保坂和志との「トーク・イベント」のことと、介護施設に入った妻の存在である。そこから、他の人の書いた小説を読んだときの小島信夫が引き出され、過去に小説を書いたときの小島信夫が引き出され、自分の小説を読み直しているさいの小島信夫が引き出され、小島信夫の小説を読んだ他の人たちの声さえも引き出されてゆく。そうして『残光』を書いている小島信夫の意識は、中心を一箇所に持たない文章の流れとなって、それに触れている読み手の意識をも、時と場所を一定に保たない浮遊へと、道連れにするのであった。とくに混沌としてくるのは、第二章の後半、小島信夫という人が以前に書いた『寓話』という小説の引用から進んで、それまで実名で書かれていた、小説外に実在する登場人物たちがイニシャル化されていくあたりだろう。たとえば〈Oさんとは第二章の電話の人である。女流作家の大庭みな子さんだろうと読者は思うことを期待している。(私がであるが、そうはあからさまに書かれてはいない)〉と書かれている、ここでの〈第二章〉とは『残光』においての第二章ではなくて、『残光』という小説の平面上にいる小島信夫という人物が、過去にじっさいに現実のレベルで発表した『菅野満子の手紙』という小説の〈第二章〉を指しており、それが『残光』という小説の第二章に書かれているのだが、それ以降、『残光』の内部に書かれている登場人物が、はたして『残光』の平面に生きる人間なのか、『菅野満子の手紙』の平面に生きた人間なのか、その他の小説から引っ張ってこられた人間なのか、それとも実在の世界を生きている人間なのか、つまり、それらの人々ははたしてどこからやってきたのか、確定するのが容易ではなくなる。ところで、このたび付せられた「あとがき」を読んで驚いたのは、次のようにある。〈第三章は、第二章とは無関係ではないが、ぼくが妻のことを書いたいくつかの短編から引用したものである〉。要するに、もしかするとその箇所はサンプリングあたりに近しいつくり方によって書かれたのではないか、と、ふいに思わされることだ。けれども、しかし、小島信夫という、おそらくは実在のレベルを生きる90歳の作家の、その生々しいまでの固有性は、全編にわたり、けっして手放されてはおらず、それはそれで、それこそが一回性の生が負う、業というに相応しいものの現れなのかもしれないな。と、これを読んだあとで、僕にいえるのは、せいぜいそれぐらいだ。

 『殉教・微笑』についての文章→こちら

 坪内祐三『『別れる理由』が気になって』についての文章は→こちら
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2006年06月04日
 ライトノベル「超」入門    ソフトバンク新書

 『ライトノベル「超」入門』という題名に嘘偽りはまったくない、と、いま現在ライトノベルに関しては親和性のあまり持たない僕のような読み手が言うのだから、間違いがないだろう。自らがライトノベルの作者でもある新城カズマが、一般的に門外漢からはチャラいと見なされがちな、その世界の奥行きと拡がりを、ひじょうにわかりやすく解説したガイドブックである。けっしてマニアックな知識に偏っていないので、読みながら、意味不明瞭に陥るところがなかった。

 とはいえ、僕はさっき、ライトノベルに親しみがないといったが、しかし、それはちょっと嘘で、かつては熱心に読んでいた時期もあった。大昔のことだ。いつぐらいかというと、この新書のなかで、ちょうどライトノベル元年といわれている90年の頃まで、である。つまり、ふたたび新書の内容に沿っていえば、『スレイヤーズ!』以前の、ライトノベルとして明文化される以前のライトノベルに関しては、ほとんど読んでいる。ちなみに『ドラゴンマガジン』は創刊号からしばらく買っていたのだが、そのあとで、角川まわりというか『コミックコンプ』などの、イラストレーター寄りの作家が描くマンガのほうに流れていってしまい、ライトノベルそのものへの興味を失っていくのであった。新城は、ここで、「字マンガ」という蔑称が80年代頃にはあり、それはそれでライトノベルにおける本質の片鱗を的確に捉まえていた、といっているが、まあ、だから要するに、あくまでも僕の場合は、マンガの代替物としてライトノベルに触れていた、ということだ。以上、自分語り、おしまい。

 しかし重要なのは、今日では、ライトノベルの存在は、けっしてマンガの代替物に止まるものではない、といった点であろう。マンガはもちろん、アニメやゲームと並び、サブ(オタク)・カルチャーを支える、おおきな柱として機能している。そのことを踏まえたうえで、新城は、あらかたの説明を終えた、最終章にあたる「ライトノベルはどこにいくのか?」のなかで、「ゼロジャンル」といった造語を提出する。

 「青春小説」もしくは「私小説」に近づいた、「これまでのジャンル・フィクションのアイテムとか設定とか、あまり気にしない、ふつーに“良い話”“じーんとくる話”」の増えてきた傾向を指して、「ゼロジャンル小説」というのはどうだろうか、と新城はいうわけである。

 「ゼロジャンル」という呼び名はともかく、この見通しは、純文学系の雑誌に、ライトノベル作家の多く登用される近頃においては、ひどく有り触れたものであると同時に、だからこそ正鵠を射たものだといえる。そうした指向性は、今後おそらく、より一般化されてゆくだろう、と考えられる。ただし僕は、そのなかで、はたして倫理がどのように動いていくのかが、気になっている。それというのは、ライトノベルを扱う批評家の多くというか、いい大人が、どうしてか、その作中に働く倫理のこととなると、無視するか、とたんに口野暮ったくなってしまうのを見て、ああ、こりゃひどいな、と思わされる機会がしばしばあるからなのだった。
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2006年06月02日
 銃とチョコレート

 実際のところ、怪盗と探偵の対決が、いまどき僕たちを魅了する、冒険のときめきを、スリルと興奮とを与えてくれることなどあるのだろうか。そのような問いの退屈さを、乙一の小説『銃とチョコレート』は、易々と飛び越えてゆく。母と子ふたりの貧しい生活を営むリンツ少年にとって、世間を騒がす謎の怪盗ゴディバを追う名探偵ロイズの活躍は、学校の友人たちと共有する、ほとんど唯一の明るい話題であった。ところが思わぬことで、ゴディバに通ずる秘密を知ったリンツ少年は、それをきっかけに、憧れの人であるロイズと知り合うことになる。かくして幕を開ける物語は、じょじょに速度をあげてゆき、中盤以降、読み手の予想を裏切り、読み手の期待に応える、転回に次ぐ転回の連続によって展開していくのである。じっさいに3章から先の流れは、息を呑む、というのに相応しい、クライマックスの応酬だといえる。なだれ式の勢いで、こちらを取り込んでいくけれども、伏線の回収は、じつに鮮やかに決まっており、ひさびさにこの作者の力量が並みのレベルではないことを、思い知らされた。レイシズムやマスメディアなどを含め、今日にアクチュアルな社会的要素が、背景に、違和感なく置かれているのも、よい。さらに見事なのは、大枠において、小説内の時間で怪盗がつねに探偵を先行するといった位置関係が、最後の最後まで一定にキープされていることであろう。主人公であると同時に〈ぼく〉という語り手であるリンツ少年は、探偵のさらにあとを追いかけるかっこうとなる。しかし最後尾にいることで、怪盗から探偵へという過程を経て周囲を巻き込んだ事件の全貌を、登場人物のなかでただひとり彼だけに、把握可能とさせる構図の妙が、全体をきれいな円環のかたちにまとめているのだった。〈かつて子どもだったあなたと少年少女のために〉書かれた「ミステリーランド」という刊行シリーズのうちの一冊であるためか、平仮名が多用され、「〜だった」や「〜た」「〜だ」でリズムを整えた文章も、雰囲気を盛り上げるのに一役買っているとは思うのだが、そのなかでいくつか、僕が数えたかぎりでは4箇所ほど、「〜である」というふうに記されているところがある。どのような効果を狙ったものかはわからないが、まあ意味なんてないのかもしれないけれど、かなりおもしろくつくられた作品のなかで、その点だけが、やや緊張感を削いでいる気がした。

 「愛すべき猿の日記」について→こちら
 『小生物語』について→こちら
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2006年05月26日
 東京バンドワゴン

 ああ、これはとびっきりのエンターテイメント、ひさびさに、純粋な意味で、物語世界を楽しんだ、という気がする。小路幸也の小説『東京バンドワゴン』は、東京の、とある下町で、旧くから続く古書店「東京バンドワゴン」を営む大家族、堀田一家のてんやわんやな四季折々を描いた、そういう内容である。おそらく作者は、ここで語り手の役割を果たす人物を発見した時点で、おおきな手応えを覚えたに違いない。そうした確かな実感が、小説それ自体の充実へと繋がっているのではないか、と思う。語り手をつとめるのは、2年前に亡くなった、家長の妻である。要するに、彼女は、幽霊となっていて、実体がない。視点の問題を考えれば、不自由な制約を持たないということだ。また、しかし幽霊だからといって、超常的な力を発揮したりなどしないし、そのような体で物語に介入したりなどもしない。あくまでも純粋に、カメラ的に、語りの立場に徹しており、読み手は、その彼女に寄り添い、いわば観客として、小説の内部に入り込んでゆく。そうして意識は、小説のなかで流れる時間のままに動き、雑多な登場人物たちのひとりひとりに情を寄せたり、ときおりその行動に疑問を感じたりしつつ、賑々しさに浸っている間に、やがて大団円の結末へと導かれているというわけであった。そのようにつくられた作品の中心に置かれているものを、作中の人物の言葉を借りて一言でいうと、やはり「LOVEだねぇ」ということになるだろう。このとき、LOVEというのが、いったい何を示しているのか。それを作者は、具体的に問い詰め、理念的に正当化したりせず、全体の展開を通じ、通俗性のなかに、せめて輪郭だけを書き表そうとしているみたいだ。そのため、こちらは、自分の入っていった物語世界に窮屈な思いをしない、エンターテイメントとしてのやわらかみ、あたたかさのほうを存分に味わえるのである。

 『HEARTBEAT』について→こちら
 『そこへ届くのは僕たちの声』について→こちら
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2006年05月25日
 強運の持ち主

 最近はあまり、ネガティヴなことは書きたくないので、とくに批判的に受けとれたものに関しては取り上げないようにしているのだけれども、これは、ちょっと、と思わされたのは、瀬尾まいこの『強運の持ち主』である。作者が、読み手の精神年齢をかなり低く見積もっているのでなければ、作者の精神年齢そのものが低いか、あるいは双方が、そうしたことの反故を、暗黙の了解のように扱い、共犯関係を結んだうえでようやく成り立つ、そういった体の小説であろう。連作ふうにつくられたこのなかで、取り扱われているシチュエーションはどれも、個性的とはいえず、どこかで見かけたことのある、ひどく類型的なものだといえる。そのことをけっして悪くはいわないが、ならば、そこから発生するエピソードが、他と比べたときに、どのような強度を持っているか、その質の高さが、否応なく、目につくことになる。したがって、たとえば1話目にあたる「ニベア」を読み、それから金田一蓮十郎のマンガ『ニコイチ』あたりを読んでみれば、ひじょうにおもしろみに欠けた内容であることが、途端に、ばれてしまう。作中で、語り手の〈私〉は、占いの本質は、出された答えの中身そのものであるよりも、それに対して、相手を納得させるほどの、いかに説得力を持たせるかである、といったことを幾度となく、繰り返して、いう。が、しかし、その彼女の発言が、浅はかな、上辺をなぞったものでしかないのと同程度に、小説それ自体も、上滑りを穏便に済ますよう、適当で、なあなあ、に流れ進んでいくのみであった。

 この作者のものは、やはり『卵の緒』から『天国はまだ遠く』までを読めば、それでいいのではないか、と思う。

 『優しい音楽』について→こちら
 『幸福な食卓』についての文章→こちら
 『天国はまだ遠く』についての文章→こちら
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2006年05月22日
 『小説すばる』6月号掲載。絲山秋子の連作シリーズ「ダーティ・ワーク」の第五話。「miss you」という題名は、これまでどおりストーンズのナンバーからとられているわけだが、そういった知識を抜きにして、その、言葉自体が持ちうるせつなげな響きに浸っていたいような、そういう、わりとロマンチックな小説に仕立てられている。一読、絲山作品のなかで、もっとも素敵因子の多く塗り込められた作品ではないか、と思う。月曜日に、〈私〉は職場に飾るための花を、辻森さんの店に買いに行く。そして、姉の結婚式にブーケを作ると約束した〈私〉は、その辻森さんに、ブーケの作り方を教えてもらいたいとお願いするのだった。そのようにして、41歳の男性である辻森さんと、おそらくはまだうら若い、歯科医院で事務として働く〈私〉が、ブーケ作りのために明かす一晩が、短い枠のなかに描かれている。とはいえ、作中で〈私は辻森さんの愛や、欲望や、べたべたした暑苦しいさまざまなことを欲しない〉といわれているように、ふたりの関係が、恋愛へとゆらぐことない。むしろ〈私〉の、辻森さんに関しては、対人関係における負荷のほとんど感じられないことが、〈私〉と姉のあいだにある、ウェイトのかかった、切っても切ることのできない繋がりとの、対比になっていることがポイントであろう。ここでは、〈私〉の感情は、〈私〉から他者へ向けられる一方的な視線によってのみ成り立っている。他者との距離感は、〈私〉の視点によってのみ測られている。そのことがつまり〈私〉にとっては、辻森さん、そして姉といった二者の存在の、異なる見え方になっているのである。だが、しかし注意しなくてならないのは、そうした構図が、最後の段になって、逆転することだ。ラストに〈私〉は、姉から見られる〈私〉となって、辻森さんから見られているところの〈私〉となる。もちろんのように、どちらも〈私〉というひとつの像を結ぶものに他ならないが、だからといって、それらは重なり合うものでもない。要するに、同心円ができるわけである。その描かれた図形のうつくしさが、「miss you」という言葉の持つ余韻、それに似たイメージを、読後につくり出しているように感じられた。

 「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら

・その他の絲山秋子に関する文章
 「みなみのしまのぶんたろう」については→こちら
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
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2006年05月21日
 題名『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』のうちにある「分りやすさ」そして「アイロニカル」の2語が、この新書の内容を端的に示していると思う。仲正昌樹が、ここで行っていることは、哲学的な歴史を遡行することで、アイロニーの本質的な意味を解説し、それによって現代社会における、限定された思考パターンであるような、二項対立の構図が導き出すわかりやすさ、その功罪を射抜くことである。「分りやすさ」という部分に着目すれば、それは、ここ最近の著作のなかで、仲正が繰り返し述べていることだともいえる。なので、本書で比重を置いてみるべきは、アイロニーとは何か、といったことであろう。仲正は、アイロニーとは、たんに皮肉の意で使われるべきではないとして、P206で次のようにいっている。〈くどいようであるが、アイロニーは、「私の対象」に対する「私」のまなざしにズレを生じさせることで、「私」自身の存在を捉え直すことに主眼を置く営みである〉。つまり、それは、自分はすべてをわかっているという態度をとらない、自らが仮想した状況を固定したうえで自らをドライヴさせるわけではないので、社会的なレベルにおいては即効性を持たない。だが、今日において、アイロニーとして捉まえられるものは、それとは問題の位相が異なるものに他ならない。それは〈「反省的な思考によって当該の言説の主体自身が必ずしも自覚していない“秘密の意図”を明らかにし、さらなる創造の可能性を開く」ための哲学的な戦略としてのアイロニー的な批評〉ではなくて、〈社会的なコミュニケーションの支配的なモードの中に現れてくるアイロニー的な表現形態〉に過ぎないのである。もちろんのように、ここで、前者の有り様を正、後者の有り様を悪としてしまえば、それさえも、わかりやすい二項対立の関係式に陥ってしまう。仲正の、ある意味でくど過ぎるほどにくどいロジックの立て方は、そうした鳥瞰図をいちいち破り捨てていく、徒手空拳の営みに近しいが、しかし、あたうかぎりの実直さをもって逼迫に堪えようとする意識の表れなのではないか、という気が僕にはした。

・その他仲正昌樹の著作に関する文章
 『松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)』について→こちら
 『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』について→こちら
 『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
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2006年05月15日
 村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する

 まあたしかに僕も、村上春樹の『海辺のカフカ』は偏りのある小説だと思うし、けっしておもしろいとは思わないのだけれども、かといって、ここでの小森陽一の批判もずいぶんと偏っているように感じられ、これはこれで、深く説得されない、いぶかしく感じられるところがないわけでもなかった。とはいえ、あの小説をここまで読み込むのはかなり労であったろうな、とは感心する。小森が、この『村上春樹論 『海辺のカフカ』を精読する』で述べていることの、大枠をいえば、つまり『海辺のカフカ』のベースにあるのは、男性側の女性嫌悪(ミソジニー)であり、それが無媒介的に権力と結びついてゆく過程を追った物語は、9・11以降の、アメリカのイラク攻撃や、それを支援する日本政府の在り方も含め、現代的な暴力の振われ方とパラレルであるがゆえに、今日における思考停止または判断停止に寄り添い、そのことを正当化させる、安心させる、すなわち読み手にとっては、あたかも癒しであるかのように機能する、ということだろう。そうした指摘は、『海辺のカフカ』のなかに参照された、『オイディプス王』や『千夜一夜物語』、『流刑地にて』、『坑夫』、『虞美人草』なとといった先行するテクストの側から、逆に、翻るようにして『海辺のカフカ』という後発のテクストを眺めたときに発見されている。ものすごく簡単にいってしまうと、夏目漱石が書いた小説のうちにはあった歴史の生成が、『海辺のカフカ』では結果だけが取り出され、その過程は抹殺されている、そのために本末の転倒が起こっているのではないか、といった具合である。たしかに小森の言い分には、一理、ある。が、しかし、それが一理を越えて、それ以上のものになっていかないところに、今日を生きる我々の、難点を見るべきだと思う。ともすると、ここで小森が国家を語るさいの前提は、たとえば柄谷行人が最近『世界共和国へ』で説いた国家のロジックとは、おそらく異なる。真っ向から対峙しているといってもいいかもしれない。が、いや、だからといって、どちらが正しいのかというわけではなく、そのような種々の問題が一元化されないことにこそ、本質的な問題があるのだとすれば、そりゃあ断片ばかりが目に立つ『海辺のカフカ』のような小説は、この時代の、「ぼく(わたし)っていったいなに」系の意識の揺らぎを大事にするタイプの読み手には、構造上の必然として、まあうまくあたるに違いない、のである。
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2006年05月12日
 青猫家族輾転録

 作者である伊井直行が、あとがきにあたるような「ノート」のなかで、大幅な改稿により〈作品の「重心位置」が移動されていることから、私としては「新潮」版とは別の作品と考えている〉と述べているけれども、なるほど、『新潮』05年3月号に掲載された『青猫家族輾転録』と、この単行本版『青猫家族輾転録』とでは、たしかに読み終えたあとの印象を、おおきく違えている。もちろんのように「重心位置」の移動に関しては、作者側の意図はともあれ、こちら読み手の側の推測にしか過ぎないが、すくなくとも、このヴァージョンでは、語り手である50代男性である〈僕〉が、いったい誰に何を語るのかが明らかになっている、つまり、それは30年前に亡くなった叔父に、これまでに〈僕〉が生きてきた大筋を語るといったスタンスがとられているため、『新潮』のヴァージョンでは、〈僕〉を中心とした周囲の人びとの動きが、物語を進行させているように読めたものが、あくまでも〈僕〉自身にまつわる物語としか読めないものへと変奏されている。しかし、いずれにせよ、すばらしい小説である。成熟したようには見えないまま大人になってしまった〈僕〉が、では、そのように成熟せずに歳月の経ることを許された現代のなかで、いかに後発の世代に対して先行する立場としての責任を果たしてゆくか、それが器用になりすぎず、かといって不格好にもなりすぎない、ただただまっすぐな問いかけとなり、力強く発言されている。

 『新潮』掲載版については→こちら

 「ヌード・マン・ウォーキング」について→こちら
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2006年05月10日
 『新潮』6月号掲載。僕という読み手が飽きやすいというのもあるのかもしれないが、饒舌な語り手が延々と喋り倒すというスタイルの小説は、なんとなく、もういいよ、って感じもあるし、ましてや、その語り手がやけにヒステリックであったり、鬱病のケがあったり、嘔吐癖などを持っていたりすれば、ああ、まあね、となってしまう。ここで、この『生きてるだけで、愛。』で、本谷有希子が採用しているのも、そういう、たとえば最近では、やはり演劇界出身の松尾スズキの小説『クワイエットルームにようこそ』で見かけられた、いまどき類型的な語り手であるような〈あたし〉であり、これまでの作品『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』や『ぜつぼう』に比べると、文章それ自体を、過剰な自意識によって進行させているふうに感じられるため、前半は、かなり怠かった。それでもいいかな、と思えてくるのは、〈あたし〉の同棲相手というか、無職の彼女が半パラサイトしている男性以外の人物が、わらわらと登場してくるあたりからで、それというのは、言うなれば、小説内において、語りによりつくり出された、ある種の密室状況的な息苦しさから、ようやく読み手が解放されるからであろう。しかし、語り手当人にしてみると、そのような、一見ひらけた関係性こそが、じつは怠いのに違いない。とある事情を経て、〈あたし〉は、元ヤンキー夫婦が経営するイタリアンレストランで、働くことになる。決心したのは、インターネット上の掲示板の、閉塞性または排他性の、その空気にあてられたためだ。画面のなかの人びとは、たしかに〈あたし〉の話題をしているのだけれども、そこには〈あたし〉の意志や存在は、介在していない。そうした〈あたし〉の内面を占めるものの不在、作中の言葉を用いれば〈いつものあの無感触の世界〉は、さいしょは雰囲気よく思えたイタリアンレストランの人びととの関わり合いのなかでも、再確認される。そこにあるのは、おそらく主体と他者とのあいだにある、深い断絶だろう。人と人は、けっして完璧に理解しあえるはずはないのだという、まあ当然といえば当然だとしても、だが寂しく、絶望的な真実に他ならない。けれども、だからこそ、終盤で〈あたし〉は、同棲相手である奈津木を前にして、次のように思えたりもする。〈本当は奈津木にあたしのことを何から何まで全部全部全部全部理解してもらえたら最高に幸せだったのにと思うけど、あたしが自分のことを何も分らないんだから、それは無理な話だ。あたし達が一生ずっとつながっていることなんかできっこない。せいぜい五千分の一秒〉。ここで重要なのは、〈あたし〉という語り手が、最終的には、〈せいぜい五千分の一秒〉程度の、わずかさであろうとも、〈あたし達〉という繋がりを肯定していることである。そのハイライトで、雪が降っている、という舞台を用いたのは、すこしメロドラマし過ぎな気がしないでもないが、いくどとなく繰り返されたブレーカーのエピソードが、最後になって生きることもあって、けっして興ざめするほどのものではなかった。これはこれで、とても素敵なハッピー・エンドのひとつだな、と素直に思う。

 小説冒頭部分→こちら

 「被害者の国」について→こちら
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2006年05月08日
 絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男

 作家笙野頼子によって書かれた作家八百木千木の、新しい生き残り戦が、はじまる。八百木千木イコール〈私〉は、この国の上層部が有する「批判」や「アート」や「哲学」の権力により、清潔な部屋に閉じ込められ、今まさに、ブスとして小説を書き、そのなかで生きることさえも剥奪されようとしていた。つまり〈私〉ではないものになることを強要されている。見事に洗脳されたのち、12歳の美少女、美ガ原キレ子に取って食われ、そのパーツとなり、併合されるのだ。八百木千木が〈私〉として、それに抗うためには、〈私〉が他の何者でもない、八百木千木でしかないことを書き続けなければならない。しかし八百木千木というのは、もちろんのように、笙野頼子の手により書かれたものなのであって、笙野頼子の作家生命の危機や、それに対する不安が、そのまま百木千木の書く小説へと作用し、反映されるとき、では〈私〉とはいったい誰に所属するものなのであろうか。『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』は、おおきく、4つのパートに分かれている。『文藝』誌に掲載された「絶叫師タコグルメ」と「百人の「普通」の男」、そして書き下ろしである「センカメの獄を越えて」と「八百木千木様へ笙野頼子より」である。このうち「八百木千木様へ笙野頼子より」の終盤で、笙野頼子は次のように八百木千木への手紙に寄せている。〈近代小説は今後もその一部を変奏され本歌取りされまた異化され、愛され求められ続いていくでしょう。私はその近代小説を相対化する事で、特に近代中の異端私小説の流れを一筋受ける事で先に進もうとしている作家です。それはまた夢日記や語りものの中に活路を見出したりする努力と同時進行でやっていける事です〉〈そして究極私の中でまことの他者に会いたい。まあ、まことのなどと言ったってそんなのフォイエルバッハの悪く言う、人間の本質的感情としての「神」でしかないけれども、だからこそ文学の世界に転生させるしかないようなその「神」というものに出会いたいのだ。そしてそれを正気のままレポートしたい〉。もしも、この言葉を額面どおりに受けとるのであれば、ここに書かれている〈私〉とは、要するに、そうした取り組みの最中に生じた、ある種のノイズまたはリズムまたは、それこそ文学だということになるだろう。この小説の書かれた背景は、作品中でほぼ説明されているが、そうした部分を熟知していなくとも、最後まで飽きさせることのないところに、文体の、それはたぶん作者の意志とスキルが転化されたものの、強度が現れている。個人的に、あはは、となってしまったのは某文芸誌の「創作合評」で笙野の作品に不理解を示した文壇内部の人たちに向かい、〈女性文学と九十年代を見ない事にしてこそ仕事のある三猿〉と言い放つあたりで、なかでも、こう言われてしまうと、今日活躍する女性作家を多く輩出した90年代J文学期に、ヤングで多感な学生時代を過ごしたはずのニュー評論家田中和生は、ほんとうに立つ瀬がなくなってしまうなあ、と同情しつつ、笑い転げた。まあ、しょうがないよ、団塊ジュニアの層は、受験勉強とか、その他いろいろな競争とかで大変だったんだから、リアルタイムの文化になんて構っている暇はなかったんじゃないかな。

 『徹底抗戦! 文士の森 実録純文学闘争十四年史』について→こちら
 『片付けない作家と西の天狗』について→こちら
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2006年05月07日
 『文學界』6月号掲載。「第102回 文學界新人賞受賞作」である木村紅美『風化する女』は、一言でいえば、しっかりと書けている小説だと思う。〈れい子さんは、一人ぼっちで死んでいった〉。正社員として事務で働く、結婚退職を間近に控えた〈私〉という20代女性の語り手の、やはり同じ会社に勤めていた〈これから仲良くなっていけそうな可能性はあった〉40代の独身女性であり、つい先日に唐突に亡くなった「れい子さん」という存在を捉まえる視線が、内容そのものを展開させてゆく。とはいえ、適度に親密な対象が喪われたさいに感じうる空漠が、作品の主題ではないのだろう。ここで〈私〉を動かし、物語を動かしてゆくのは、たしかに「れい子さん」の不在ではあるのだけれども、序盤では〈では彼女の死を悲しむ人は、いったいどこにいるのだろう、と考えた。悲しむ人がいるとして、その人に、彼女の死はきちんと伝わっているだろうか〉と、彼女の死それ自体にではなくて、その、彼女にはその死を悲しんでくれる人はいないのかもしれない、ということのほうに〈私〉の気分が重たくなるように、「れい子さん」の死は、あくまでも主体の外側に置かれているものである。それが、終盤になり、ようやく〈その肉体は消滅し、だれの持っている思い出さえ、早くも風化しつつあるかもしれないけれど、いつか私が死ぬときまで、れい子さんはきっと、私の中に住みついて離れない〉という場所にまで、つまり「れい子さん」の死そのものが、〈私〉の内側に入り込んだところにまで辿り着く。言い換えるとすると、とある他者の喪われたことが、主体のうちにエモーションとなり、特化されるまでの過程が、じっくりと丁寧に、描かれているのだ。小説内の時間は、故人の知られざる一面を、業務的な事項から、〈私〉が知っていくなかで進行する。そこからは、過渡にドラマティックであったり、またはスキャンダラスなストーリーは生じない、むしろ何もかもが、ありふれていて、惨めであるとさえいえる。しかし、そのような凡庸さから目を背けないことによって、逆に、新鮮ともとれるような情景がひろがりかける、そういうふうにまとめられた着地点が、ひじょうに頼もしかった。

 ところで「第四十九 群像新人賞」当選作である朝比奈あすか『憂鬱なハスビーン』にも、やはり「れい子さん」という年輩の女性が、わりと重要な役割として登場しているのだけれども、こういう偶然的な一致を指して、シンクロニシティとかいったりするのかしら。まあ双方ともに、76年生まれの女性であるから、想像力の源泉あるいは持ちうるデータベースに、共通項があるということの結果にしか過ぎないのかもしれない。
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2006年05月06日
 世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて

 語り口は、まあやさしいけれども、世界史(近代史)の講義を受けているような怠さがある。が、それというのは現在的な社会システムの、その内枠を、あくまでも論理的に解説しようというための、面倒がくさいぶんだけ、律儀な手続きなのだと思う。反面、そこから導き出された、柄谷行人自身の主張は、わりあいシンプルなものとなっている。新書『世界共和国へ――資本=ネーション=国家を超えて』である。

 柄谷は、ノーム・チョムスキーの考えから、産業的先進国でとりうる4つの国家形態を持ってくる。「国家社会主義」「福祉国家資本主義」「リベラリズム」「リバタリアン社会主義」が、それである。このうちで前三者は、〈資本、ネーション、国家のどれかに従属しているのに対して〉、「リバタリアン社会主義」だけが、〈それらを出ようという志向〉を持っており、また〈現実的には存在しえないもの〉であるが、〈しかし、無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと努めるような「統整的理念」(カント)として機能しつづけます〉という。そして、その「統整的理念」が、今日我々が生きるこの世界において、どのようなアクチュアリティを持ちうるか、ということの吟味が、本書の大まかなところであるといえるだろう。

 「世界共和国」といった構想もまた、カントの考えからやってきているものである。〈カントがいう「世界共和国」は、それに向かって人々が漸進するような統整的理念です〉〈カントによれば統性的理念は仮象(幻想)である。しかし、それはこのような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」なのです〉〈統整的理念は、決して達成されるものではないがゆえに、たえず現状に対する批判としてありつづけます〉と柄谷はいっている。

 では、なぜ「世界共和国」という「統整的理念」が、この時代においては、重要な意味合いを有するのか。そのことを、歴史的な筋道から、検証し、明らかにしてゆくことこそが、この新書の内実を為しているというわけだ。

 おおきな指摘として目立つのは、「国家」を、共同体の内部から考えるのは誤りだとしている点である。柄谷は次のようにいっている。〈共同体から国家が形成されるように見える場合、実際は、外に国家が存在し、それに対して周辺の共同体が防衛したり、支配から独立しようとすることによって、国家が形成されるのです。国家は、そもそも他の国家(敵国)を想定することなしに考えることはできません。国家の自立性、つまり、国家を共同体や社会に還元できない理由はそこにあります〉。このような考えは、新書のなかで、何度も繰り返し用いられているが、それはつまり、「国家」の自立は、その内部の運営方針によってではなくて、あくまでも他の国家との関係性のうちにあって見いだされるものだということの、言い換えである。と同時に、そのために「国家」が、資本主義経済や、それに基づくグローバリズムと〈別の源泉に由来している〉〈違った基礎的交換様式に根ざして〉いることをも示している。

 〈ヘーゲルの考えでは、世界史は諸国家が相争う舞台です。世界史的理念はヘゲモニーをもった国家によって実現される〉といわれ、そのようなヘーゲルの考えは「理性の狡知」とされる。「理性の狡知」とは、あるひとつの「国家」の単独的な行動が、結果的に、世界史的な理念を実現することである。これに対して、またはそれのオルタナティヴとして、柄谷が着目するのが、「自然の狡知」というような、カントの考えである。

 もちろんのように「自然の狡知」は、「世界共和国」や「統整的理念」へと通ずるものであろう。かつて19世紀を支配していたのは、ヘーゲルのような考え方であった、その結果として、第一次世界大戦が起こったのだ、と柄谷はいう。そののち、カントの理念に基づいて「国際連盟」が形成されたが、アメリカ国家が批准しなかったために、第二次世界大戦を防ぐことはできなかった。その反省を踏まえ結成されたのが「国際連合」いわゆる「国連」である。そうしたことを前提に、柄谷は、「国連」の無力さ、〈国連への批判はいつもカントに対するヘーゲルの批判に帰着する〉といっている。要するに、ヘーゲル的な考えを乗り越えようとしたのが、カントのような考え方だったとして、しかし、カントの考えをもってしても、未だ世界は平和になっていないではないか、といった種の批判は、反動的に、ヘーゲルの考えを再起させるだけでしかなく、それもまた有効ではない。

 そこで柄谷が導く、ひとつの主張は、今日の世界がけっして平和ではないのは、それでもまだカントの考えが十全に行われてはいないからなのだ、といった旨である。〈カントの考えは、たんに、単独行動主義に対する多国間協調主義のようなものではありません〉〈カントの平和論は、国際法や国際政治に還元されるようなものではない〉。「世界共和国」というのは、未だかつて、人類が達成したことのない理念である。だが、それは〈人類史が到達すべき理念〉として存在している。

 めじるしのない暗闇のなかを、あてもなく彷徨えば、人は道に迷う。だから、ここで柄谷がとりあえず設けているのは、人びとが歩を進めていくうえで、まあ、それをあてにするかどうかは、読み手側の判断であるとして、せめてもの道筋となってゆくような、そういうめじるしの類なんだろうな、と思う。

 『定本 柄谷行人集 第5巻 歴史と反復』についての文章→こちら
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2006年05月04日
 夕子ちゃんの近道

 たいへんおもしろかった。個人的な好みを含めていえば、長嶋有の書いたもののなかでベストではないか、と思うほどに、たのしんで読んだ。非常に魅力的な作品である。『夕子ちゃんの近道』は、『新潮』誌に掲載された連作短編六編に、一編の書き下ろしを加え、単行本化されたものだが、フラココ屋というアンティーク専門店の2階に住む〈僕〉を語り手に置き、その周囲の人々との関わりを描いた、ひとつの物語として捉まえることができる。それほど長くはない時間が、この作者独特の、まるく、やさしい、ゆったりとしたテンポで流れてゆく。

 過渡にドラマチックな出来事が起こるわけではないが、なにも起こらないというわけではない、そういう、こちら読み手の生きる日常に似せた空間が、ちょうど冬から春へと移り変わっていく季節のあいまぐらいのかたちに、切りとられており、軽くもなく重たくもなくといった程度のエモーションが、ユーモアのセンスをまじえながら、親しみやすく展開されている。たとえば〈僕〉が、ふいに大家の孫娘である夕子から(当人にとっては)深刻な話を打ち明けられる場面、〈夕子ちゃんの口調にはさらに切実な響きが混じっている。ここは大事だぞ。この会話のハイライトだぞ、と気を引き締める。引き締めるが、何をいえばいいのか分らなくなる〉、こういった語り口のあたりに、この小説の醍醐味を見てとれる。

 〈僕〉はといえば、この作者が扱うことの多い、けっして若いとはいえないにもかかわらず、それでも所在のなさを持て余した人物で、たとえば本人も〈モラトリアムの不安と気楽さとが、がらんとした銭湯で服を脱ぐ瞬間に最も強くこみあげる〉と思ったりもしている。しかし、その所在のなさ、〈モラトリアムの不安と気楽さ〉は、最後の最後まで〈僕〉の名前が明かされることのないように、きわめて匿名的なひろがりを持っていて、それが、共感または感情移入の働きとなっている。と同時に、そうした書かれ方は、物語総体のクライマックスにおいて、〈僕〉という存在自体の重心に、つよく作用し、読後の印象に対して、ひじょうに効果的な成果をあげている。

 ときおり人生とは旅(のようなもの)だといわれる。トーマス・マンは『魔の山』の冒頭で、旅について次のように書いている。〈時は忘却の水だといわれるが、旅の空気もそうした一種の飲物であり、時の流れほど徹底的ではないにしても、それだけにいっそう効きめは速い〉。『夕子ちゃんの近道』で、〈僕〉の心境にもたらされる変化は、おそらく、それとは真逆の現象である。ある種の親密さが、ゆっくり、記憶となって、主体に付着してゆく、そのことの過程だといえる。だからこそ終盤に至ったところでようやく、すでに教えられていたことではあるけれども、しかし体験としては未知であったはずのものに、〈僕は初めて知ったのに、そのことを前から分っていた気がした〉というふうな、愛着と実感が込められるのであった。

・その他長嶋有関連の文章
 小説『泣かない女はいない』について→こちら
 エッセイ『いろんな気持ちが本当の気持ち』について→こちら
 
 ブルボン小林『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら
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2006年05月01日
 帯に高橋源一郎が推薦文を寄せているので、買ったはいいが、じつはなかなか手をつけられずに、しばらくのあいだ置いてあったのだけれども、『ポップ・カルチャー年鑑2006』のなかでも、えらく褒められており、どちらかといえば、それがきっかけとなり、ようやく読みはじめたのであった。とはいえ、読み進めるのは、けっこう難儀だった。それというのは、たぶん単純に、僕のなかのタイム感と、文体におけるタイム感との相性のせいだと思う。そのあたりは、たとえば保坂和志のものが快く読める向きには、むしろマッチしているのではないだろうか。川崎徹の書き下ろし短編小説集『彼女は長い間猫に話しかけた』である。ここには、ぜんぶで、4つの作品が収められている。それらの小説は、どれも具体的な物語をベースにしたものではなくて、抽象的なイメージの連鎖反応というか、語り手の意識の流れを追うようにして、こつこつと進んでゆく。そのなかでも、とくに触れておきたいのは、やはり表題作にあたる「彼女は長い間猫に話しかけた」だろう。臨終間際の父親が横たわる病室で、語り手であるところの〈わたし〉は、自分が子供だった頃の記憶を覚醒させてゆく。それは同時に、オニババァと呼ばれ、近所から忌避されていた、ある老女と死にまつわる報告でもあった。この作品のつくりをみたときに、重点なのは、父親についてを述べる〈わたし〉と、オニババァについてを述べる〈わたし〉は、小説の構造内部においては、異なる位相にありながらも、語り手の水準においては、同一的であるということだ。死へ向かう父親の姿を捉まえる視点は、目の前の現状を認識する働きである。一方で、死に接近したオニババァを捉まえる視点は、過去の情報を再構成する働きである。それらは、しかし〈わたし〉のなかに、二股に分かれた道筋を設けるのではなくて、逆に〈わたし〉という自意識の整合をまとめ上げてゆく。〈わたし〉に見られているかぎり、その見られているものは、あくまでも客体の役割を負う。けれども、主体が行うある種の行為のうちでのみ、その見られていたものが顕在化するとき、それは、完璧な客体としてはありえない。そのような現象の起こり方は、父親に関しても〈しかしこうした物理的名残よりも、父を介して母は生き続けていた〉〈父の一部としてではない。母は父の中に入り込んで生きていたような気がする〉という記述が示すとおり、パラレルで当てはまっている。意識の混濁した父親を見つめながら、〈わたし〉は〈地球上には「ここ」と「ここ以外」の二種類の場所があり、「過去」「現在」「未来」の三種類の時間が存在することも、父にとってはもはや重要ではなかった〉と思う。裏を返せば、〈わたし〉にとっては〈地球上には「ここ」と「ここ以外」の二種類の場所があり、「過去」「現在」「未来」の三種類の時間が存在すること〉こそが重要になっている。それはなぜか、つまり、こういうことではないか。それらすべてを見つめる視点の総体として、〈わたし〉という生者が成立しているからなのである。
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2006年04月27日
 詩学叙説

 最初にことわっておくと、僕はそれほど頭のいい人間ではないので、吉本隆明にとっての大きな仕事のうちのひとつである『言語にとって美とはなにか』、いわゆる『言語美』に関しては、正確に理解しているとは言い難く、むしろ『詩人・評論家・作家のための言語論』のわかりやすい物言いで大枠を把握してしまったところがあるので、この『詩学叙説』でいわれていることも、その内容にどこまでついていけているか、自分ではすこし訝しいところがある。

 ちなみに、吉本の言語論または言語表現論について、いま現在、大枠のみを知りたいのであれば、『SIGHT』誌VOL.26(06年冬号)の、渋谷陽一による吉本へのインタビュー「吉本隆明 自作を語る 第六回『言語にとって美とはなにか』」が、ひじょうに有用ではないかと思う。

 さて『詩学叙説』である。ここに収められたもののうちでとくに重要なのは、やはり表題に置かれている、『文学界』01年2月号に掲載された「詩学叙説」であろう。吉本自身が「あとがき」のなかで述べているように、『言語美』で展開された理論は、小説などの散文作品には適用できるが、しかし、それは詩のような表現形態のものには適応しないのではないか、と思い直し、〈詩の言葉の表現様式の面から近代以後現在までの様式を、個々の詩人たちの個性的な特性よりも言語の様式の変遷の面から検討すること〉が目指されている。

 たとえば『詩学叙説』以前の、吉本の考えでいえば、すべての文学表現は「韻律」「撰択」「転換」「喩」を観察することで、その作品に評価をくだせる、批評することができる、論じられる。なかでも、作者がなぜその文章において、その言葉を「撰択」したか、そして、そのあとでなぜ、そのように場面を「転換」させたのか、文章を「転換」させたのか、を正確にみていけば、作者の意識、あるいは無意識、あるいは意識と無意識の兼ね合いにまでつっこんだところで、その作品の良し悪しを見極めることが可能になるというわけである。

 だが、しかし、近代詩以降の詩において、とくに「転換」は、極端にまで徹底化され、自国語と異民族語とを、等価交換可能にするほど、極限にまで突き進められる。要するに、詩作上における、言語表現の技術は、自然な言葉の流れとは相反するところへと向かってゆく。そうなると、小説などの散文作品のうちにある「転換」と、詩のうちにある「転換」は、その役割を、おおきく違えることとなる。

 もうすこし、くわしく述べたい。たとえば吉本は、小説などで「朝5時に起きた」と書かれることと「朝早くに起きた」と書かれることは、言われていることの意味合いは同じだとしても、作者の意識または無意識が行う「撰択」としては、決定的に異なる。また、そのあとに「外はまだ暗かった」でも「鶏の鳴くのが聞こえた」でも、はたまた「隣で人が死んでいた」でもいいのだが、そのように言葉を続け「転換」させてゆくことのなかに、その作品の芸術性が宿る、といっている。

 だが、近代詩では、そうはいかない。〈近代詩にとって詩を詩たらしめるための最後の言語技術は、詩の〈意味〉にできるかぎり変更を加えないで散文に比較して〈価値〉を増殖させて、散文からの分離と飛躍を実現させることであった。詩は散文とは異なるものだというための、言語上の試みとしては、それが最終の課題だった〉のであり、〈それならば日本語の詩とは何であるのか? また散文と異なる所縁はどこで求められればいいのか? 現在でも確かな相違点を指摘できそうもない〉が、〈言語の〈意味〉よりも〈価値〉に重点を置いて描写されているものを「詩」と呼び、〈価値〉よりも〈意味〉伝達に重点が過剰に置かれた描写を散文と呼ぶというほかないとおもえる。これは日本語の不可避の運命だった〉からだ。

 では、ここでいうところの「意味」そして「価値」とは、いったい何だろう。じつは、それらこそが、「詩学叙説」における、キー・タームとなっている。〈〈一は一だ〉という数学的な表現を、〈意味〉だけで出来上がった表現だとすれば〈一はまるで一軒家だ〉とか〈一本杉〉だとかいう表現は〈価値〉だけでできた表現の極限だといえる〉と吉本は示している。要するに、とある文章において、ある言葉をべつの言葉に置き換えたとしても、変更されない文意のほう=〈一は一だ〉を「意味」とし、その置き換えの多様性のほう=〈一はまるで一本杉だ〉〈一軒家だ〉を「価値」として捉まえるわけである。

 もちろん、そのように考えれば、「価値」というものは、先の「韻律」「撰択」「転換」「喩」でいうと、「喩」の部位、楡法につよくかかっていることになる。つまり、小説などの散文では、言葉の連続は「転換」によってもたらされるとすれば、近代詩以後の詩では、言葉の連続を担うのは「喩」の増殖に他ならない。また、そういうふうにして「喩」が「価値」をともない、拡大してゆけば、本来の「意味」を覆う、隠蔽することがありうる。しかし、そうすることによって出現する〈幻想の言葉だけで構成された言語空間〉や〈科学的な言葉を使えばバーチャルな空間〉こそが、じつは、近代詩以後の詩の特色なのである、というのが「詩学叙説」における吉本の主張の、とりあえず大旨ではないだろうか。

 ※この項、これ以上は長くなりすぎるので、べつの機会に書き改めます。
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2006年04月24日
 夏期限定トロピカルパフェ事件

 巻末に付せられた解説で、小池啓介が述べている旨に反発するわけではないけれども、たとえば僕などは、キャラ読みが不得手なうえに、熱心なミステリ読みでもないのだが、しかし、そうした人間が、おもしろい、と感じるのであれば、それはつまり、あくまでも一個の小説としておもしろい、すぐれていることを意味しているのではないか、と思う。米澤穂信の『夏期限定トロピカルパフェ事件』は、同作者による『春期限定いちごタルト事件』の続編であり、高校入学を機に、清く慎ましい小市民として生きることを目指すことにした〈ぼく〉こと小鳩常悟朗と、その同士である小佐内ゆきの、2年目の夏休みを舞台にしており、序章と終章を含め、ぜんぶで6つのセクションに分けられた短いエピソードの連なりが、やがて、けっして小規模にとどまらない事件の真相を解き明かす、と、そういったつくりになっている。すばらしいのは、全体のスターター部にあたる「シャルロットだけはぼくのもの」の章であろう。ここでは登場人物に課せられたキャラクターや、あるいは構造を左右するミステリ的な要素は、それほど深い意味合いを持たず、いや、ちがうな、より正確を期して言い換えると、それらは、1対1に置かれた登場人物の関係性を、ひとつの喜劇として成り立たせるための補助線にしか過ぎず、読み手の関心は、切り取られた状況のうちで、刻一刻と生成される起伏へと、吸い寄せられてゆく。個人的なことをいえば、前作『春期限定いちごタルト事件』は、登場人物たちが、自分に課せられたキャラクターをいかにして殺すか、または殺せないか、とった現代風なモラトリアム劇のライトなヴァリエーションにしか感じられず、これを読むまでは、すっかりその内容を忘れていた程度のものだったのだけれども、ここでは、序盤で明示された1対1の関係性が、終盤において、切り取られた状況のなかにある緊張感は変わらず、しかし、逆立ちしたかのような結末を迎えるにあたって、心をつよく動かされるものがあった。それというのは、おそらく、感情というものは、登場人物のそのキャラクターに潜在的に備わっているものではなくて、他の登場人物、つまり他者を経由することによってはじめて発生するという、ごく当たり前のことが、ごく当たり前のように、そして今日的な手法をもって、できうるかぎり綿密に書かれているからに他ならない。どのようなものであれ、ひとりきりで吐く嘘に、意味はないもんな。

 『犬はどこだ』について→こちら
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2006年04月23日
 『文學界』4月号掲載。要するに、今月号ではなくて、先月号に載っていたものである。いや、今さらなのだけれども、ふと目にとまったので、パラパラとページをめくり出したら、何気におもしろく、最後まで行ってしまった。正直をいえば、吉田知子のものを読むのは、この『野良おばけ』がはじめての経験となる。自分の夢のなかにいるみたいな〈私〉は、けっして目を覚ますことのない〈おばけ〉だった。その〈私〉の意識が、さまざまな場面を移動し、やがて死のうと考えるが、しかし〈おばけ〉であるために、死ねない、そして〈私はこのことをもう明日には忘れてしまっているだろう〉と思い、終わりのない繰り返しが訪れることが示唆され、小説は終わる。そのような具合に、ひとまとまりに固まった物事の顛末が語られるのではなく、ひじょうに抽象的な出来事がワープ航行で進むみたいに、書かれている。そのなかには、セックス(性交と性別)や死に関するイメージ、それから戦争へと連なる記憶が、濃厚に含まれており、読み進めるうちに、語り手であるところの〈私〉は、いや、じっさいには〈おばけ〉などではない、もしかすると精神を病んだ、なにかしらかのオブセッションを抱えた、または幼児退行した老人なのではないか、と行間に目が向く。〈私〉の落ち着きのなさは、序盤は、愉快な感触を湛えているのだが、字数を重ねるにつれ、だんだんと不安だけが高まっていき、狂った情緒に支配されれば、ついに、生きることの前後不覚な有様を、読み手であるところの僕は知らされる。
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2006年04月19日
 ぼくのメジャースプーン

 以前にも引いたが、三田格は「24アワーズ・パンティ泥棒」(『ユリイカ』05年12月号掲載)という文章のなかで、マンガ『デスノート』に関して、そのエンターテイメントの中核を成しているのは、「間接的な暴力」を用いた「去勢」の隠蔽、つまり、主体や読み手が、他者に対してダメージを与えることに対して心的な負荷を覚えない、そのための「回路」の抽出なのであり、それが、大勢に支持されることの背景には「ネット上の暴力」を達成させるような、そういう文化があるのではないか、といった感じの旨を述べている。辻村深月が、ここで、『ぼくのメジャースプーン』で取り扱っているのも、同様に「間接的な暴力」を成立させる「回路」だといえなくもないし、またそれを、時代の反映として見てとることも可能であるが、しかし、小説の主題は、いかにしてそのような「回路」それ自体に、心的な負荷を付与するか、といった部分にかかっている。話の筋を、大まかに取り出せば、不思議な能力を持った小学生の少年が、ある事件によってダメージを負わされた幼馴染みの少女のため、その犯人に、自分の能力を使った復讐を試みる、というものである。小説内の時間は、とある人物との対話を通じ、少年が、自分の能力を左右する基本的な法則を学んでいく、その過程によって動いてゆく。と同時に、そうした過程がそのまま、ダメージを与える側と与えられる側、要するに、加害者と被害者間とを、主体と他者として結ぶ、心的負荷についての、考察となっている。そういう意味で、読み手であるところの僕は、これ、志の高さみたいなものは、ものすごく買うのであるけれども、物語のほうはといえば、それほど深く潜ったものではない、表層的にすぎるので、総体的にみると、ひじょうにもったいない気がした。いや、正直にいうと、読後にすこし涙ぐんでしまったのだが、それというのは、結局のところ、落着の仕方の綺麗さによるものでしかないのであって、けっして、小説という器のうつくしさからやってくる余韻ではない。先ほどもいった小説の基本的な進行となる、とある人物と少年との対話が、いかんせん退屈であるし、そこでの議論が、うまい具合に、物語のうちへと、『ぼくのメジャースプーン』という題名の示す寓話へと落とし込まれていない感じがするのだ。法則的に重要なダブル・バインドといった項目や、〈誰か人が死んだ時に人間が泣くのは、その人を失った自分のことがかわいそうだから〉という節理に関して、たとえば僕たちの文化(サブ・カルチャー)はすでに、ジュニア向けの表現として、かずはじめのマンガ『MIND ASSASSIN』という、すぐれた解答を、90年代の半ばに持っている。そのあとで『デスノート』のような作品を受け入れる文化が発達したのだとして、そうした事実を踏まえたときに、『ぼくのメジャースプーン』はやはり、観念の面においても、強度の面においても、それらを越えてはいないように思えた。
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2006年04月17日
 中原中也との愛―ゆきてかへらぬ

 このたび文庫化されたので、はじめて読んだ。『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』は、昭和49年頃に村上護が、長谷川泰子に対して行ったインタビューをまとめたものである。長谷川泰子といえば、若き日の中原中也と小林秀雄の関係を語るさいに、けっして省くことのできない女性で、たとえば大岡昇平『中原中也』にその存在は詳しいけれども、僕個人としては、どうも江藤淳が『小林秀雄』で〈それは人間の存在の奥底にほそむ暗い血のすすり合いであった〉という具合に論じていた小林への影響を強く意識してしまうため、どうもネガティヴな面影をイメージしてしまうところがあったのだが、しかし、ここで長谷川の語る、彼女と中原そして小林の三角関係は、たしかに長谷川の精神を病むほどの潔癖性など、その気質には難があり、ある種の悲劇性を小林や中原に与えていたとしても、けっして暗雲に包まれるばかりの状態ではなかった。村上は、全体のバランスをとろうとしてか、ところどころに他の文献を引用したりしているが、長谷川は、中原との出会いから、小林との出会いと別れを経て、中原との別れ(中原の死)までを、わりとオープンに回想しており、あくまでも長谷川の主観的な視点に基づいているせいで、駄目さ加減も含めた、中原や小林の人間としての生々しさの面が、けっこう強調されるかっこうになっている。が、しかし、それでいっそう顕著になるのは、中原や小林の良し悪しの両面を抱えたうえでの魅力であり、それを浮き上がらせているものとは、形はどうであれ、やはり、愛の一端なんだろうな、と読み終えて思う。
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2006年04月14日
 『メフィスト』5月号掲載。西尾維新による「ひたぎクラブ」「まよいマイマイ」に続くシリーズの第3作目「するがモンキー」である。春に、吸血鬼に襲われたことから怪異なる現象と、ふかい縁を持つようになってしまった〈僕〉こと阿良々木暦(あららぎこよみ)の、新しく遭遇した災難とは、一線級のバスケット選手として学校中からスターと目される、ひとつ年下の女生徒神原駿河(かんばるするが)から受けるストーキングの被害だった。いったい何がどうして彼女は、〈僕〉につきまとったりするのだろうか。前回の事件を通じ知り合った小学生、八九寺真宵(はちくじまよい)は、ギャルゲー的なモテモテ期に入ったのではないか、というが、いや、しかし、まさか。もちろんのように、ほんとうのところは、これで5度目となる怪異に巻き込まれはじめていたのであった。

 怪異とは、大まかにいえば、人の心のうちにある暗部の、歪な、変形した反映である。「ひたぎクラブ」や「まよいマイマイ」と同様に、「するがモンキー」の大筋も、怪異へと結びつく原因を、つまり、一個人が抱えるネガティヴな屈折を、〈僕〉が解明してゆく過程を追うことによって、成立している。〈僕〉が相手どるのは、人外のものであるために、オカルトまたは伝奇的な要素を、過分に含むが、しかし、解決はロジックとレトリックによってもたらされるため、そこに読み手が推理を働かせる余地が生まれている。あるいは、それがこのシリーズのパターンだともいえる。とはいえ、そのようなポイントのみに着目してしまうと、びっくりするようなトリックが仕掛けられているわけではなく、また、想定外の展開が待ち構えているわけでもないので、いささか物足りなさを覚える向きもあるだろう。ぶっちゃけてしまえば、予定調和といってもいい、先が読める、からである。

 だが、しかし、ドラマのつくりのほうをみれば、これは相当にしっかりとしている。語り手である〈僕〉のキャラクターは、いっけん西尾維新の作品に類型的な、安易にひねた少年像に見えなくもないが、しかし、彼を動かすモチベーションは、ずいぶんと真っ直ぐに、ポジティヴなものになっている。たとえば、この「するがモンキー」において〈僕〉は、ある場面で、なんのてらいもなく〈でも――僕達は、同じ痛みを、抱えている。共有している〉といってみせる。あるいは〈僕は神原を、対等な相手として見ていなかった〉として自分が〈絶対に安全な高みから、たっぷりと余裕のある立場から〉物事を調停しようとしていたことへの嫌悪を述べる。言い換えるとすると、つまり〈僕〉を動かしているのは、疑いようのない、他の登場人物たちイコール他者への共感となっているのである。そして、それは、戯言シリーズにおける〈ぼく〉が最終的に選択した立ち位置を、では、そこからいかにして生きてゆくかといった課題へと、作者が踏み込んでいったことの証左ではないかな、と僕は思う。

 どういうことか、もうすこしだけ詳しく述べたい。世界と主体という関係性をもって、これまでの西尾の作品を、壊れた人間が、いかにして正常な世界との関わりを持つか、といった体でまとめられたものとしてみるならば、いや、もちろんのように、正常な世界などどこにもないとしても、すくなくとも語り手または主体のレベルから、世界の在り方を眺めた場合、すくなくとも、壊れた世界のうちにあってさらに壊れているのが自分である、といった考えに取り憑かれていたとして、それが、しかし、ここでは、大枠の部分においては、正常な人間が、いかにして壊れた世界と関わりを持つか、といった体に組み替え直されている、ということである。物語のレベルに還元してみるのであれば、世界に迎え入れられるために主体が変化するという筋から、主体が能動的に世界を変えてゆこうとする、そのような筋へと移行している。

 ただし、だからといって、主体そのものが抱えるエモーションが変化した、というわけではない。たとえば、(これまでにも何度か書いたけれども)読み手であるところの僕が、この作家が書くものに一貫してみているテーマみたいなもののひとつに、もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替(交換)不可能として判定されるのか、といったものがある。そういった部分については、けっして見失われてはいない。それどころか、ここにきて、語り手であるところの〈僕〉がいよいよ〈誰かが誰かの代わりになんてなれるわけがないし、誰かが誰かになれるわけなんか、ない〉と、力強く断言するにいたっては、やはり、作家サイドのキャリア上における地続きな発展を感じさせる。たしかに小説の書かれ方そのものは、ある種のルーティンのように読めなくもないし、定型の再生産に思えなくもないが、しかし、そういった諸々のことを含めたうえで、僕はこれを、西尾維新式様式美が完全に確立された、というふうに捉まえる立場をとりたい。

 ※この項、大幅に書き直しました。が、あまり満足のいく結果は得られませんでした。

 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら

・その他西尾維新に関する文章
 「ある果実」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2006年04月13日
 悲劇週間

 遅ればせながら、この物語世界をひじょうに堪能したのだ、僕は。矢作俊彦の『悲劇週間』である。20歳の頃の、詩人・堀口大學を語り手に、史実の隙間をフィクショナルな想像力によって埋めるようにし、この長編小説はつくられている。大逆事件の余韻が残るなか、与謝野晶子への淡い想い、佐藤春夫との友情、そして石川啄木に対する不快などが綴られた序盤からして、とてもとてもわくわくさせる、壮麗なロマンのイントロダクションに、じつに相応しい。が、しかし、やはりお楽しみは、外交官である父親に呼び寄せられ、メキシコに渡ってからの日々、『悲劇週間』それ自体の本編ともいえる、恋と革命に翻弄される、若き詩人の、二度と帰らぬ青春劇であろう。当然のように、彼の地でも、歴史上の著名人たちや、いくつもの挿話が、物語に彩りを添えている。寡聞にして僕には、これがどれだけ史料に忠実であるのか判ずることはできず、もしかすると大規模な与太話なのかもしれないけれど、しかし、つよい説得力をもって、その話の渦中に引き込まれたのには、大きくいえば、ふたつの理由があると思う。ひとつには、登場人物たちの運命を変えるような西欧化の流れが、今日におけるアメリカ主体のグローバリズムと、あたかも相似形であるふうに見えること、つまり、けっして他人事ではない、ある意味で現代的かつアクチュアルな出来事の連鎖が、小説それ自体を駆動させている。そして、もうひとつには、〈ぼく〉こと堀口大學のキャラクターである。実在のレベルにおいても、大學は、厳密な定義上の明治人ではなかった。ある程度近代化を受け入れたあとの日本に生まれた人物であるからだ。そのため、彼の自意識または日本人であるというアイデンティティの重たさは、読み手であるこちらのそれと、かなり近しいのではないかという、おそらくは、そのような根拠に拠って、ひとつの時代の流転が、観察されている。彼よりも年長の登場人物にくらべ、国家という枠組みは、それほど不自由な足かせではないように見える。がゆえに、異国の地を、自分の足どりで、わりと勝手に、闊歩できるわけだ。簡単に言い換えると、ひじょうに感情移入しやすいふうにつくられた語り手なのだといえる。あるいは、逆に、だからこそ『悲劇週間』の語り手として、作者に選ばれたのに違いない、堀口大學という人物は。赤く抽象的な血のイメージから、黒く具体的に焼かれた死体の広がる光景へと導かれてゆくように、革命はやがて苦々しい結末を迎え、大學の恋は、物悲しくもうつくしく、そして遠い記憶へと過ぎ去ってゆく。主題が、ひとつぽんっと小説のうえに置かれているのではなくて、法や規律、歴史との軋轢などなど、世界のうちにある複雑さを思わせるほどの数、小説のなかに含まれているとして、人が生きていく価値において、もっとも尊いものは何かといえば、やはり、かけがえのない情熱であろう、そのことだけはきっちりと明言されている。ロマンの醍醐味である。
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2006年04月12日
 なぜ悪人を殺してはいけないのか―反時代的考察

 『なぜ悪人を殺してはいけないのか』は、小谷野敦があちこちに発表した論考(またはエッセイ)を加筆し、一冊にまとめたものであり、表題になっている「なぜ悪人を殺してはいけないのか――復讐論」は、そのうちの一編にすぎず、全体を貫く主題はむしろ、副題である「反時代的考察」のほうにかかっており、大まかにいえば、近代あるいは戦後以降から現在に至って、日本人みずからの手によって歪められた日本人像そしてアイデンティティを撃つ、そういった内容になっていると思う。個人的にもっともおもしろく読めたのは、小谷野によれば〈こうしたものが「武士道」の精神を代表するものとして諸外国に紹介されるのは、ただ日本文化に対する誤解を増幅させるものである〉とされる『葉隠』が、過大に評価されるきっかけとなった(後年の)三島由紀夫批判から、エロスとアガペーの恋愛観念に踏み込み、若い女性のあいだで男の同性愛ものが美化される傾向の、その根底にあるのは女性の女性性からの逃避であると推測する「忌まわしい古典『葉隠』」であった。それというのはもちろん僕が、小谷野の書いたもののなかではとりわけ恋愛論を好む、というタイプの読み手だからに違いない。以前にもいった気がするけれども、僕個人は、筋金入りの恋愛至上主義者なので、けっして小谷野の意見を全面的に肯定しないが、しかし、当人の思惑はどうであれ、ある種の固定観念を攪乱させる、そのような役割を持ったものとして、小谷野の在り方については、基本的に支持の立場である。そういった小谷野の資質が、とくによく出ているのは、「夏目漱石の保身――『こころ』の「殉死」をめぐって」と「「オリエンタリズム」概念の功過――『トゥーランドット』と『逝きし世の面影』であろう。前者は、やはり本書に収められた「戦後転向論」へと、規模を変え、発展していったように思われる。さて。小谷野は、私怨を否定しない人であるが、その醍醐味を色濃く味わえるのが「田中克彦『チョムスキー』批判」だ。なぜここで、田中克彦を否定し、〈僅かに分かっただけ〉のチョムスキーとその系列の理論に触れるのか、といえば、その理由は、ラストに収められた、小谷野版「アメリカと私」といえなくもない「カナダ留学実記」によって明かされている。ああ、まさしく私怨以外の何ものでもないではないか。もしかしたらご存知の方も多いかもしれないけれど、これはもともと小谷野のブログ(はてなダイアリー)にアップされたもので、その、受難と孤独な日々は、一読に、いや、それ以上に値する。たしか以前に小谷野がべつの場所でもすこし触れていた、〈たしかに私は小説家になりたいと思ってはいた。だがその才能がなかった〉と述懐するくだりは、胸打つほどにエモーショナルである。

・その他小谷野敦に関する文章
 『禁煙ファシズムと戦う』について→こちら
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら
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2006年04月10日
 『群像』5月号掲載の短編。なんてひどい表紙なんだろう、と思うが、それはそれで単にセンスの違いなのかもしれず、なるほど、内容のほうも僕のセンスには合わないものばっかりだ、と読み終えて思った「新人15人競作」のなかでは、これがもっとも良かった。『君は永遠にそいつらより若い』の津村記久子による『花婿のハムラビ法典』である。他の作品が、「青春」「奇病」「死」「排泄(?)」などといったもののどれかひとつを設定としてチョイスしているのに対して、ここでは、それらのどれもが選ばれていないように思うし、また他の作家のものと比べれば、例外的に、日常における他者との共存を扱い、否定ののちで、つよく肯定するものになっている。話の筋はどうということもない。サトミという女性との結婚式の直前、ハルオという男性が、ふたりの馴れ初め、ここに至るまでの経緯を回顧するといったものである。サトミのルーズさに、どうも振り回されているだけなのではないか、と考えたハルオが、そうしたふたりの関係を、すくなくとも自分にとってはフェアに感じられるようにするため、あえて同じ程度ルーズに振る舞うことから、おそらく『花婿のハムラビ法典』といった題名はきている。目には目を、というやつだ。しかし、そういった目論見のみでは辻褄が合わないのが、対人関係というものなのであり、結局のところ、これといって具体的な決算は行われず、それでも差し引きゼロの自然な和に収まっていくところに、高い好感を覚えた。

 『君は永遠にそいつらより若い』についての文章→こちら
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2006年04月08日
『文藝』06年夏号掲載。山崎ナオコーラの文藝賞受賞第一作にあたる『浮世でランチ』は、簡単にまとめるのであれば、ひとりの女性がこの世界と和解する過程を追った、そういう小説であると思う。こういう言い方はあまり褒め言葉にならないのかもしれないが、いわゆる「自分探し」にまつわる物語だともいえる。〈元来私は、好きな人に対して以外に、仲良くなる努力をする気が起きないから、ぼうっとしていた。他の友だちを作る気にはまったくならなくて、休み時間はひとりで廊下を散歩した〉。そのようなスタンスのまま大人になった〈私〉は、社会に出てからもひとりで、公園に行って、ランチをとる。同じ会社の女性社員たちのする話は〈全部がくだらなく思えて、猫と食べる方が楽しいような気が〉するからである。しかし、そのような生活も2月のはじめに、いったん終わりを告げる。退社して2日後に〈私〉は、ひそやかな目的のため、タイ行きの飛行機に乗っていた。ふとした瞬間に思い出されるのは、中学校のときのことだ。犬井やタカソウ、鈴木くんや新田さんたちと興じた「宗教ゴッコ」のこと。〈私〉は神様と文通をしていた。でも神様みたいなものに祈るのを止めたのも、そのころのことだった。そのようにして25歳の〈私〉の旅と、14歳ぐらいの〈私〉をめぐる記憶とが、読み手の前に、パラレルで提示されるつくりになっており、そのなかで〈私〉の旅行の目的もあきらかになってゆく。明言されているわけではないが、「ここではないどこか」を目指したあとで、「いまここ」に帰ってくるところが、主題めいたものであろう。さらに付け加えるとすると、神様という定義の受け取り方と、同性間のコミュニケーションとが、世界と触れあう〈私〉という自意識に、ふかく関与している。さまざまな箇所に、類い希なる凡庸さを感じさせるが、そのことも含めて、けっして悪い読後感をもたらさない。しかし、まあ『人のセックスを笑うな』もそうだったが、題名のつけ方は相変わらず、内容とのミスマッチを感じさせた。

 『人のセックスを笑うな』について→こちら
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2006年04月07日
 モダンのクールダウン

 んーあーうーん、もちろんのように僕の頭が悪いからだというのもあるのだろうが、この『モダンのクールダウン』において稲葉振一郎の目指しているものがいったい何なのか、ちょっと僕には理解できなかった。とはいえ、べつに難しいことが書かれているわけではない。むしろ「モダニズムとポストモダニズムの違い」からはじまり、リオタールの「大きな物語」やアレントがいうところの「公共性」、またはベンヤミン「複製技術」、フーコー「規律訓練」などといったタームを引き寄せつつ、全体がサブ・カルチャー化した今日の世界において、〈東浩紀と大塚英志の対質〉についてまとめたものとしては、いっけん入りやすそうな内容である。が、しかし、いかんせん回りくどい、読みながら、あれ? さっき何のこと言ってたんだっけ、と思わず話をはぐらかされた気分になるのだった。じっさいに迂回云々という言い回しを随所で見かけることができる。もうすこしいえば、他人の持って回った言い方を、稲葉なりの持って回った言い方に換言することで、全体の論は進んでゆく。もちろんのように、そうした振る舞いこそが、稲葉自身がポストモダニストであることの(もしかすると当人にとっては不本意な)実証になっているのかもしれないけれど、あたかもロジックではなくてレトリックいじりに見えるような所作に、最後まで付き合うのは、けっこうしんどい。たとえば稲葉は、東浩紀がいうところの「環境管理型権力」を「テーマパーク型権力」と言い換える。当然、両者の言葉のあいだにはズレ(差異)がある。だが、そのズレにこだわることは、あまり本質的な議論じゃないのではないか。すくなくとも東が「監視」を「環境管理」という語のオルタナティヴとして使うようには、稲葉の「テーマパーク」は「環境管理」のオルタナティヴとしては機能していないふうに思える。おそらく本書でもっとも興味深いのは、「動物化」について〈東がはっきりと言わないことをあからさまにしてしまったのは、むしろ本田透(略)です〉と書かれている箇所であろう。ただし、そこでがっと神経を傾けてみれば、何をもって本田が〈東がはっきりと言わないことをあからさまにしてしまった〉のか、あからさまに示されていないことこそが、じつは本書でもっとも残念なところでもあるのであった。

 『オタクの遺伝子 長谷川裕一・SFまんがの世界』について→こちら
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 『エソラ vol.3』掲載の短編。『みなみのしまのぶんたろう』は、けっして僕という読み手が絲山秋子に求めるものではないが、作家を長いキャリアに繋がるものとしてみれば、こういう作品の1個や2個ぐらいはあってもいいのだろう、とは思う。簡単にいってしまえば、〈しいはらぶんたろう〉というキャラクターが、南の島にひとりで移り住んでいったあと、そこで遭遇するファンタジーを扱っている。物語自体は、ひらがなとカタカナのみで綴られている。そういったつくりの意味、つまり、それがどのような必然を、内容のうちに導いているのかは、最後までわからなかった。好意的に受けとれば、なんらかの寓話なのだろうけれども、そこに含まれているアイロニーあるいは教訓みたいなものを、理解しようとつとめ、2度3度と繰り返し読む気になれないのは、まあだから、僕の側の問題なのだといえば、そのとおりである。

・その他の絲山秋子に関する文章
 「ダーティ・ワーク 第四話 before they make me run」について→こちら 
 「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
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2006年04月05日
 『en-taxi』13号(06年春号)掲載の短編。『文藝』出身者が、『en-taxi』で作品を発表するという経緯は、なんだか鹿島田真希の場合を思い起こさせるな、とすれば、そのうち三島賞候補にもなりますかね、とひとりごちてみたりもして、さっそく読みはじめた『私の娘』は、これまでに生田紗代が書いてきた小説とはやや趣きを違えるつくりであるが、しかし、主題に近しい部分においては、以前のものにも見受けられた、女性性の不便さあるいは個人としての独立に基づく、母子間の対立といったモチーフを扱っているような、そういう感じだ。未だ生まれてはいないが、しかし、やがて生まれてくるのだろう自分の娘を見つめる〈私〉の、その、〈私〉の母親の視線を意識したうえでの語りによって、小説それ自体は成り立っている。〈まだ性行為を知らない私がいずれこの世に産み落とす〉と、ひとつのエクスキューズが入っているように、あくまでも実存しえないものが、〈私〉の、実存に向けられる態度へと関与しているところが、おそらくはポイントであろう。ここで〈あなたは生まれたときからプログラムされた行動を実行したにすぎない〉といわれているところの〈あなた〉とは、〈私〉の娘のことであると同時に〈私〉の母親のことであり、そして〈私〉自身のことに他ならず、それは〈一つの凡庸な意志の形〉として、〈私〉たちの眼前には、あたかも忌むべきものであるかのように、現れているのだった。

・その他生田紗代に関する文章
 「雲をつくる」について→こちら
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「タイムカプセル」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
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2006年04月03日
 ずっと

 この数年のあいだに登場した小説家のなかで、その重要度をいえば、個人的な五指に入る森健(もりたけし)だが、04年の『群像』7月号に発表された、あのすばらしき『種を蒔く人』が未だに単行本化されていないところをみると、どうも世間ではそれほど求められていなさそうである。おおいに残念だといわざるをえない。が、しかし。そうした状況自体が、もはや馬鹿馬鹿しいと思えるほどに、この、新作である『ずっと』は、よかった。通俗性を突き詰めてゆくことで、逆に、ある種の純朴さを結晶化させる、そういった森ならではの手腕が、生きている。これが大勢に読まれないということは、たんに、その人たちがもったいないことをしているというだけの話であろう。

 14歳で家出をした少女が、アンダーグラウンドな風情の人間たちに絡めとられ、風俗で働かされることになる、といった具合に、おおまかな話の筋だけを取り出せば、たあいもない、あんまりな内容になってしまうのだけれども、そういったプロットは、当然のように、小説を成しうるディテールのひとつに過ぎず、構築された物語や、そのなかを生きる登場人物たちの動きを眺めているうちに、翻って、そのようなプロットの退屈さこそが、また、この小説、その全体に必要とされたものであったことに、気づく。〈このわたしたちの知っている言葉の世界は、とても小さくって弱くって、同時にとてもいじっぱりな世界だ〉と少女は思う、それから〈わたしたちはこのあてのない世界のなかで、あてのない夢を見て、あてのない空を眺める〉と考えるが、しかし〈すぐに自分の理解できる理性の小さな世界に戻りたがる〉ことをわかっている。じつをいえば、そのような往復運動と確認作業それ自体を、先に挙げたプロットが兼ねているのである。

 また、内面というものは告白を経ることによって生じる、という説をとるのであれば、この小説のうちで、主人公の立場にあるナオミに、語り手であるところの作者は、ことごとく告白を禁じる。その有り様は、たとえば、金原ひとみの小説における、やはり水商売をこなす登場人物が、つねに、饒舌に、告白をし続けることで、内面を仮構し、かろうじてそのキャラクターをキープするのとは、まったくといっていいほど正反対である。しかし、それはけっして、作者の年齢差や性差の違いに基づく振る舞いではない。そうではなくて、現実に関する認識の差異により、もたらされているものだろう。おそらく森は、内面というものが、先天的に、人間のなかに備わっているとは考えていない。むしろ、それは外からやって来る、あるいは外部との接触のさいに生じるノイズみたいなものだと思っている。基本的に、人間というものは空っぽなのだという、厳しい前提条件のうえを、あたかもナオミは歩かされているかのようだ。

 他の登場人物、とくに男たちがやけにお喋りであるのに対して、ナオミが本音を口にする機会は、あまりにも少ない。というか、読み手の側からすると、彼女が何を考えているのかは見えない、いや、何も考えていないようにさえ見える。だが、そのことがナオミという少女の存在感を軽薄にしているかといえば、そんなこともなく、ラスト間近のある一点まで告白が制御されることで、彼女の抱える空虚さは、孤独や絶望といった平面的な言葉に置き換えることのできない、漠然として立体的なイメージそのものへと化してゆく。唐突に「あんたそれ、犬の笑顔やな」とナオミの同僚であるアヤが苛立って口にするとき、ナオミのなかでは〈言葉では一旦まとまった像が、否定されて壊れ、耳に残ったその音とともに取りとめもなく拡散していった〉のは、つまり、言葉が先にあることで、牽引されてきた内面などといえば、結局のところ、嘘に近しい、ということの言い換えなのではなかろうか。

 エピローグとして付せられた着地点は、いささか綺麗にまとまりすぎていて、ナイーヴな情緒に流されすぎなきらいがあるが、しかし、それでも犯された背徳のすべてが払拭されないところに、この『ずっと』という小説の、本質があるのだと思え、僕はといえば、読後に、ほんのすこしばかり具合が悪くなった。

・その他森健の作品に関する文章
 「ペイル・ブルー」について→こちら
 「楽園の夜に」について→こちら
 「女の子と病気の感染」について→こちら
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2006年04月01日
 女たちは二度遊ぶ

 しかし男の若い頃というのは、どうして、ああもショボいのだろうか。往々にして、思慮を欠き、尊大で、がさつ、その短絡さをもって真っ直ぐなどといえば聞こえはいいけれども、じっさいのところ、純粋とはいえないぐらいに、狡さを覚えてしまっている。女の子たちときたら、よくもそんな生き物と付き合うよ。とはいえ、ある年齢から振り返ってみると、そのような愚かさこそが、もしかすると青春というに相応しいものなのかな、と思う。『女たちは二度遊ぶ』は、吉田修一の、その技量を、的確に11等分してみせた、短い小説の並ぶ作品集であり、そのほとんどが、若い男女間における、ささやかな混乱を取り扱っている、といえる。どれも小品であり、簡素なつくりであるけれども、際立つ情緒は、なかなかに、きめ細やかだ。たぶん「十一人目の女」が、叙述の形式として、もっとも工夫の凝らされているふうな内容であるが、個人的には、フリーター文学あるいはルームシェア小説のヴァリエーションであるかのような、冒頭「どしゃぶりの女」と、『パークライフ』に近しい雰囲気を持ち、淡々とした叙情で綴られる、ラスト「ゴシップ雑誌を読む女」が、とくによかった。いや「殺したい女」も「平日公休の女」も「泣かない女」もよかっただろ、といえば、記憶のなかで美化されつつあった、あの人が立ち去ってゆくときの情景と、そこにあったはずの惨めさや後ろめたさを、ほんのすこしばかり思い出す。

・その他吉田修一の作品に関する文章
 『ひなた』について→こちら
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
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 イルカ

 たとえば、ある登場人物が「男の人ってさ、どうしてマザコンなの?」という。が、しかし、その人はたぶん、もしもマザコンではない男の人に会ったとしたら、この人はどこかおかしい、と思うのではないか。その人にとっての正常な世界では、きっと、男の人はみなマザコンでなければならないのである。フロイトか、ユングか、河合隼雄か、そのあたりをベースにした考えなんだろうけれども、いやいや、それはそれで、そのことに疑いを持たないのだとすれば、じつに一方的な決めつけ、見方ではあるよな、というのが僕のなかにある反発である。さて。帯には〈よしもとばななの新境地!〉とある『イルカ』なのだが、なるほど、これまではセックス(性交)に奔放でありながらも、妊娠する主体を執拗に回避してきたよしもとが、はじめて妊娠する主体を取り扱った内容という意味では、たしかに新しいフェーズに入ったとはいえるのだろうけれど、結果的に、それほど未踏の領域へ踏み込んだという感じをさせないのは、ここでの妊娠が、じつは「できちゃった」という系の出来事に止まるからなのではないか、という気がする。中絶は行われないが、しかし、当初は「望まない妊娠」であったことを考えれば、それこそ斎藤美奈子は、よしもとを「L文学」という範疇ではなくて、「妊娠小説」の範疇でこそ語るべきであろう。心理学的なモチーフと妊娠ということであれば、村上春樹「神の子どもたちはみな踊る」あたりと読み比べてみると、あんがいおもしろいかもしれない。が、個人的には、夢と偏見だけで、物事のすべてが解決してしまうワンパターンは、長年読み続けているせいもあって、さすがにもうきつい、きびしい。ただ、まあ、オカルトの一言で切り捨ててしまうのはもったいない、なにか、やわらかなイメージだけは未だに買ってはいる。

・その他よしもとばななの作品についての文章
 『みずうみ』について→こちら
 『王国 その3 ひみつの花園』について→こちら
 『なんくるない』について→こちら
 『High and dry(はつ恋)』について→こちら
 『海のふた』について→こちら
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2006年03月28日
 越境陀羅尼

 青野聰は〈歌ってもまだのこるもの。それが文学の魂である。いままで書かれることがなかった日本人がここにいる〉と帯の推薦文にあてているが、そうだろうか、僕には、これ、佐藤トモヒサ『越境陀羅尼』は、単なるヤンキー・マンガの写生にしかすぎず、それが「文学の魂」であるのならば、へえ、そうなんですか、といった感じであるし、そのことを指してのみ、「描かれる」ことはあっても「書かれる」ことがなかった「日本人」なのだといえば、まあ、たしかにそのとおりなのかもしれず、ふいに斎藤環がどこかで「ヤンキー文学は可能か」と書いていたことを思い出す。ああ、そうか、日本人の本質はヤンキーに近い、と指摘したのはナンシー関であった。

〈荒野をめざす君たちに!〉今は亡き浅田基行の考えに従い、バンコックで設立された「ニルバーナ旅団」の、その理念は〈世界各地で頻発している民族紛争の中で、俺たちが共感できる正統なる各民族自決の動きを支援する、それと同時に、俺たちもまた日本人としてのあるべき生き様を確認する〉といったものである。密教とトランスパーティーの要素を用い、日本を捨てたバックパッカーたちの支持を集め、次第に勢力を拡大していった旅団は、しかし、権力の巨大化にともない、その本質を見失いつつあった。「在」と「流民系」の2派による確執が深まってゆくなか、中心人物であったシゲが謎の失踪を遂げる。「流民系」に属し、シゲの親友でもあった〈俺〉=サンタは、自分がただの代役、サンドイッチマンだと自覚しながらも、「流民系」をまとめようと奔走するが、一方で、彰が取り仕切る「在」の不穏な動きを嗅ぎつける。

 具体的に、暴力的な、アンダーグラウンドのニュアンスを含む文章は、ところどころにあるブンガクぶった言い回しに、ソリッドさとシャープさを欠くが、それでも村上龍か、あるいは花村萬月あたりを想起させる。だが、そのようにして、小説のうちに招き入れられるのは、じつにホモ・ソーシャルな物語にほかならない。もしかすると作者は、イデオロギーや宗教、そして、この国のアイデンティティなどといった問題を、高次のレベルで取り上げたい、あるいは扱ったつもりなのかもしれないけれど、たとえば「ニルバーナ旅団」を「武装戦線」や「黒焚連合」に置き換えてみると、ああ、高橋ヒロシが描くマンガと大差のない世界観が、そこには広がるばかりなのだった。そのように考えれば、青野の推薦文は、あたかも、後発ヤンキー・マンガ家の単行本の帯に、ときおり先行するヤンキー・マンガ家が寄せるそれに、似て、見えてくる。
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2006年03月23日
 ポップ・カルチャー年鑑〈2006〉

 『ポップ・カルチャー年鑑2006』は、川勝正幸+下井草秀=文化デリックが、昨年一年にわたって行った「文化デリックのPOP寄席」というトーク・イベントをまとめたもので、巻頭には、菊地成孔に安田謙一、湯山玲子を招いての「ポップ・カルチャー・アワード2005発表!」という座談会が付せられており、要するに、05年に発表された映像作品、音楽、書籍を総括しているのだが、僕が関心のある文化圏とは、一部は重なるが、微妙に異なる題材が多数取り上げられていて、むしろ新規の情報として得るところが大きかった。微妙に異なるといったけれども、では、ここでは「ポップ・カルチャー」として定義されているのはどのようなものか。たとえばP6に次のようにある。〈ポップ・カルチャーの「ポップ」には、二つの意味があると、文化デリックは考えている。まず、アンディ・ウォーホールのポップ・アートのように、価値観の座標軸を変える強さを持つ作品。そして、ポピュラーな文化のポップ。大衆に売れることで、気が付いたらパラダイムの変換点を起こすパワーを持つ作品〉。けっしてユース・カルチャーやカウンター・カルチャー的な側面の模索されていないあたりがミソではないかな、と思う。それも、まあ、性差年齢に問わず、すべてがサブ・カルチャー化した現在においては、センスやカテゴリーに関わる、一種の傾向または指向として捉まえるのが妥当だろう。音楽の系統でいえば、なんとなく『ミュージック・マガジン』といった感じの範疇が選択されている。個人的には、「ポップ・カルチャー・アワード2005発表!」のなかで、菊地成孔が、村上春樹の『東京奇譚集』を、ユング派の視点を持った作品として高く評価している点が興味深かった。菊地は〈今回の短編集でいえば、最後の一篇の「品川猿」――あれはユングを使った日本のエンタテイメント小説としては、すごいレベルですよね〉といっている。あと、出版部門の1位に川崎徹の小説『彼女は長い間猫に話しかけた』が輝いている。僕はといえば、これ、高橋源一郎が帯で褒めていたので、買ったはいいけど、じつはまだ手をつけていなかったのだが、ここでの意見などを見、そうかそうか、と思い、ようやく読みはじる気になった次第である。
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2006年03月22日
 『小説すばる』2月号掲載。絲山秋子の連作シリーズ「ダーティ・ワーク」の第四話目である。「before they make me run」という題名は、これまでと同様に、ローリング・ストーンズのナンバーからとられている。芥川賞受賞第一作ということになるらしい。ストーンズもちょうど来日している時期だし、なんとなく、タイミング的にはばっちりですね。そうかな。さて。この「ダーティ・ワーク」シリーズにおいて、絲山は、ひとつごとに、その作風というか文体を、微妙にチェンジしているのだが、ここでは、複数人の語り手あるいは視点が、順次入れ替わるという手法を用いている。まともな職につかず、アルバイトのない日はだいたいパチンコ屋へ通う〈俺〉は、唐突に会社を辞め、アパートに引きこもってしまった兄のことを考える。〈わたし〉はごく平凡な男であるけれども、女性たちにかける声が、〈それがちゃんと彼女たちの深いところに届いてしまうのがわたしの問題だ〉と思う。恋人のほかに、浮気相手が3人いる。しかし彼女たちの作る料理を一様にまずいと感じるので、ただ恋人の作った料理にだけ、ほっと安心を覚える。そして、次の〈私〉、〈私〉は、仕事上のごたごたのせいで、気分を腐している、男付き合いに関しても、もはや新鮮さを覚えることはなくて、〈多分、とっくの昔にいろんなことは終わっていたのだ。新しいことは何も始まらない。私はまだ、歩きはじめていない〉と感じているのだった。と、登場人物たちの性格(キャラクター)はどれも、これまでの絲山作品のエッセンスを、引き継いだものばかりである。それらがけっして交わることなく、ただモノローグのようにして過ぎ去り、そして三人称を使う統括的な語り手あるいは視点が現れると、ふたたび〈俺〉イコール〈彼〉の方向転換を示唆して、小説は、終わる。興味深いのは、もしも「ダーティ・ワーク」が一冊の本としてまとめられたとしたならば、そのなかで、この作品が持ちうる意味である。見ようによっては、連作のうちに連作のミニマム化されたものが収まっているように思えるかもしれない、いや、そんなことはないか、としても、じっさいのところは、そのときにまとめて読んでみないと、わからないのかもしれない。かつて村上春樹の作品を評して、男女(主体と他者)が向かいあわず、横並びになった時代の小説だという意味合いのことをいったのは三浦雅士であったが、絲山のばあい、もはや横並びになることすらもなく、まるですべてが、自然と、背中合わせになっている。そのことは、最後の段で、白っぽいスーツの女と〈彼〉とが、正反対の方向へと向かってゆく、その姿形に、顕著に、現れているように思う。それはそれとして。ここで〈私〉の友人というふうに扱われている熊井望は、すでに第一話「worried about you」に主人公として登場している。

 「ダーティ・ワーク 第三話 moonlight mile」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら

・その他の絲山秋子に関する文章
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
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 『スモールトーク』については→こちら
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
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2006年03月18日
 ロビンソンの家

 感想みたいなものは書いてきていないが、じつは打海文三の小説は、文庫になっているものから、こつこつと読み集めている。わりと好みの作家であるかもしれないという気がしてきた。ああ、でも『ハルビン・カフェ』は思いのほかハマれなかったな。さて。『ロビンソンの家』である。

 〈その夏に会った女の子の言葉。「世界は解読されている。せめてそのことは認めようじゃないの。でも出口はどこにもない」同感だ。出口がなければ、ぼくたちはこの惑星で、いつでも愚行を繰り返すことになる〉といったアフォリズムとそれへの反応に顕著なように、村上春樹ふうな「僕小説」のヴァリエーション、あるいはポール・オースター調のミステリとして、大枠は存在している、といってしまえる、じっさいにオースターへの言及が作中にあるのだけれども、そのことが物語の本懐でないのは、付せられた村上貴史の解説に詳しい。

 正直にいって、その言動やナボコフを手にとったりする〈ぼく〉の造型が、あまりにもスノッブ過ぎるので、前半は、やれやれ、といった気持ちでいっぱいだったのだが、中盤以降、正確にいえば、第三章から先に至ると、これはけっして〈ぼく〉をめぐる小説ではないことが、わかる。亡くなったはずの母親の、奇怪な行動とその真意が、直截的にではなくて、複雑な演出の向こうに、描かれている。まあ、そういった仕掛けがぜんぶ巧くいっているとは言い難いところもあり、すごい、と驚くこともないのだけれど、結末は鮮やかに決まっているので、悪くはない読後が与えられる。

 主題を一言で取り出してしまうのはマズいのかもしれない、だが、あえて行ってみるならば、たぶん、どれだけ抗おうとも人はある種のパターンから逸することはできない、といった具合になるんだと思う。呪われ、戦うが、やがて力尽きて、死ぬ。しかし、それでも足掻こうとする彼女は「敗北の道をえらぶのも人生」と言う〈ぼく〉に向かい〈小さく微笑んだ〉のだった。

 『ぼくが愛したゴウスト』について→こちら
 『裸者と裸者(下) 邪悪な許しがたい異端の』について→こちら
 『裸者と裸者(上) 孤児部隊の世界永久戦争』について→こちら
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2006年03月17日
 『資本論』も読む

 宮沢章夫の『『資本論』も読む』は、マルクスの『資本論』について書かれた本ではなくて、宮沢章夫がマルクスの『資本論』を読むことについて書かれた本である。つまり力点は、「マルクス」や『資本論』にかかっているのではない、「宮沢章夫」と「読む」ことにかかっている。文中の言葉を用いるのであれば、〈わかりやすく解説し、単純化することは私の仕事ではありません〉〈むしろ、わからない、全然わからない、わからないわからないと格闘している、ある作家のその姿を見ていただくことに連載の意味があります〉というわけだ。ここで「連載」といわれているのは、これのおおもとの文章は、雑誌に掲載されたものだからである。宮沢は、はっきりといって、意欲的かつ能動的に『資本論』を読まず、むしろ締め切りに追われ、ギリギリまで追いつめられることで必死になり、ようやく『資本論』を読む。その奮闘ぶりは、じっさいの注釈のほかに、注釈状に付せられたウェブ日記の転載でもあきらかであるのだが、そのような構成はもしかすると〈だが、注釈こそ (略) それこそがマルクスの息づかいではないか〉〈ときとしてそれは「余談」だとも読め、学校の授業中、本論とは関係ないところで教師が語り出した余談の面白さを思い出す〉とあるように、『資本論』に触れたことからやってきているインスピレーションに、基づいているのかもしれない。全体の書かれ方は、高橋源一郎方式(というか小島信夫方式)というか、あるワンセンテンスに引っかかったら、それを軸に、つれづれなるままに迂回を繰り返す、そのような仕草で、まあたしかに『資本論』を理解するにあたっては、まったく役に立たないのだけれども、その引っかり方、要するに、ひとつの文章のうちにあるアフォリズム的なものに対して、つべこべ言うのは、いつもどおり、宮沢のエッセイの書き方と違った点は、あまり、ない。言い換えれば、エッセイストとしての宮沢の本領が発揮されている。じつのところ、僕がいちばんおもしろく感じられたのは、『資本論』を読まない(読めない)回の、言い訳じみた部分なのだった。〈とうとう今月、『資本論』を読めなかった。読めなかった。まったくだめだ。だめな人間だ。生きていてすみません〉などといわれれば、いやいや、お気になさらず、こちらこそなんかアレで申し訳ないです、と逆に謝りたくもなる。いや、ならないか。結局、本書においては『資本論』全部は読み切らずに、幕引きとなってしまっているが、しかし、この奮闘ぶりには、やはり『資本論』を読んでいる途中で投げ出してしまった人間の多くが、もちろんそのなかには僕も含まれるのだけれども、とにかくいつの日か『資本論』それ自体を一度でもいいから読み通したいと思っている向きには、励まされるところがあったりなかったりするはずだ。

 小説『不在』についての文章→こちら
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2006年03月16日
 トンデモ本?違う、SFだ!RETURNS

 山本弘『トンデモ本? 違う、SFだ! RETURNS』は、いや、ほんとうに、これはよく出来たガイドブックになっていると思う。もしかすると『トンデモ本? 違う、SFだ!』よりも、入りやすく、わかりやすい、語り口はとっても軽い感じなのだけれども、ひじょうに啓蒙された。紹介されている作品に関しても、SFにはそれほど造詣の深くない僕がいうのだから間違いないのだが、けっしてマニアックな選ではなくて、わりと広く開かれているものばかりであろう。[小説編][映画編][マンガ編][テレビ編]に分かれた本編はもちろん、インターミッションとして置かれているコラムもまた、興味深い内容である。とくに「SF版ノックスの十戒を考えよう」と「パクリはどこまで許される? あの名作の元ネタはこれだ!」がおもしろかった。前者は、SF作品を視聴または読み書きするさいの基本的な知識を、過去の名作などの難点を示しながら、つまり反面教師として用いることで、教科書的な堅苦しさのない、しかし明確な訓示としてまとめており、参考になる。また後者は、とくにインターネットのシーンなどで話題になりがちな、パクリや盗作の問題に対し、ここ最近は「パクリ冤罪事件」多すぎるとして、〈アイデアを盗むことが悪いのではない。他人の功績を盗むことが悪いのである〉〈元ネタがあるにしても、もはや作品の価値が元ネタに依存していないのなら、それは許されるべきだろう〉といった筆者ならではの見解を表していて、説得させられた。

 『トンデモ本? 違う、SFだ!』についての文章→こちら
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2006年03月14日
 松本清張の現実(リアル)と虚構(フィクション)―あなたは清張の意図にどこまで気づいているか

 最初にいっておくと、僕はそれほど松本清張のものを熱心に読んだことがない。とはいえ、しかし、この『松本清張の現実と虚構』において、仲正昌樹の行っている読解は、けっして入りづらいものではなかった。清張の作品をベースにした、それほど入り組んでいない、推理小説入門みたいな側面を兼ね揃えているためだろう。ストーリーとトリックはあらかた語られてしまうが、結果、そのことにより、テクストの拡がりを知らしめるかたちになっている。もうすこしいうと、ここで述べられていることの中心は、ストーリーやトリックにおける「演出」ではなくて、清張という作家が、推理小説にとどまらず、その歴史研究のうちにリアリティを発生させる、そのための方法論とはいかなるものなのか、といったことなのである。

 どうやら仲正は、基本的に、清張を、とりわけ「間テクスト性」に敏感であった作家、あるいは読み手を敏感にさせる作家として、考えているみたいだ。「間テクスト性」とはなにか、〈我々は、個々の文学作品を読む際に、その作品を、それだけで自己完結的な独自の世界を形づくっているものと見なしているわけではない。意識するとしないとに関わらず、何らかの形で、既に文学的な「トポス」になっている他の作品との関係性において読んでいる(P135)〉〈文学作品に限らず、あらゆる言語表現のテクストは、何らかの形で、他のテクストとの相互参照関係にあるということができる(P192)〉、そのような作品の在り方(読まれ方)を指して、フランスの現代思想家クリステヴァは「間テクスト性(intertexualite)」と呼んだ、と仲正は説明している。まあ〈テレビでミステリー番組を見る時、身元不明の死体が「駅」、もしくは「駅」の近くで見つかる設定になっていれば、ほぼ自動的に、ストーリーが何らかの形で「旅」と共に、「地方=過去」に向かって展開するのではないかと連想するのは〉云々といった箇所は、いささか牽強付会に思えなくもない、が、しかし、そういった「間テクスト性」の顕著であることが、読み手に、清張の作品から、時代背景や歴史、社会的な要素などなどを見いださせる、というわけだ。

 では、そうした「間テクスト性」を用い、書かれていることのなかに主題として盛り込まれているものとは、といえば、形而上的な〈思想〉とは異なる、もっとずっと地に足をついた、どちらかといえば形而下的な〈実生活〉だというのが、仲正の読みである。そうしたことについて興味深いのは、清張のほうが歳上なので同世代とはいえないけれども、あくまでも同時代を生きた三島由紀夫との対比において、〈[文学→生活]という方向で自己を形成した三島とは正反対に、清張は[生活→文学]という立場に徹した〉のは、いわゆる純文学とは違った〈“もう一つの文学”可能性を模索した〉という見方であり、それは、三島と同じく〈実生活〉を欠いた、先行する作家であり自殺した芥川龍之介、彼の脆さはそのまま、近代に無理繰り産出された「個=主体」イコール「私」の弱さだったのであり、そのような脆弱さは、最終的に、社会の圧力の前に敗北してしまう、なので清張は、個人に限定された不安ではなくて、「国家」全体を捉まえる不安にこそ注視した、といったところへ繋がっている点であろう。

・その他仲正昌樹の著作に関する文章
 『デリダの遺言 「生き生き」とした思想を語る死者へ』について→こちら
 『なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
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2006年03月12日
 失恋論

 これ、切通理作が3年前にフラれたイラストレーターって小林エリカのことかしら、ちがうか、計算は合ってるんだけれども、まあ、そういったことはどうでもよろしい。ただし、それと同じぐらい、この『失恋論』に書かれていること、その中身もどうでもよろしい、といった感じである。たしかに以前から自意識のつよく反映した文章を書く人ではあったけれども、それにしてもいったい切通はどこへ向かっているのだろう。結局のところ、ここには彼自身の、実話に基づいた、失恋して悲しい、という記憶が書かれているにすぎない。田山花袋の『布団』によって確立されたといわれる、近代私小説ふうの女々しい告白は、なんとなく今さらであるし、論(ロジック)というには、いささか私情に寄りすぎていて、ちっとも説得されないのであった。大旨は竹田青嗣『恋愛論』をモチーフの在りかとしているのだけれども、それだって切通の心情を慰めるためだけに、都合のよい読解がなされるのみである。だいいち、切通は今様の恋愛(純愛)小説、たとえば『世界の中心で、愛をさけぶ』などのことを〈どこに「さけび」が書いてあるのかわからなかった〉と、あまりよく書いていないのだが、しかし、ここで切通の行っていることも、先ほどもいったが、近代的な私小説のヴァリエーションとしてある「僕小説」にとてもよく似たものであり、他者の認識という一点において、けっして非難できる立場ではないよ、と思う。また「失恋図書館」というブック・ガイドのなかで、村上春樹の『国境の南、太陽の西』が取り上げられている。青春の季節の終わった〈僕〉が、かつての恋を甦らせ、そして家庭あるいは日常を捨てようとするが、しかしふたたび家庭あるいは日常へと引き戻される、簡単にいってしまえば、そういう物語であろう。切通は、40歳間近になって、妻以外の女性に惹かれ、そして家庭を捨てようと思ったという。あきらかに、そうした部分での感情移入を用い『国境の南、太陽の西』を読み解くことは、手前勝手なエクスキューズ以上のものを導かない。また小谷野敦の著作なども、わりと多く援用されているのだけれども、小谷野が、片思いもまた恋愛としてカウントされるべきだといっているのは、そこにある苦しみによって「この私」に固有性が発生するからなのであり、相思相愛のみが恋愛としてカウントされるのであれば、それに向いていない人間もいる、だから、そういう人は恋愛などしなくてもいい、といっているのではなかったか。切通は〈「もてない男」を名乗る小谷野敦は『反=文藝評論』という本の中で、竹田青嗣の恋愛論は相思相愛を前提にしており、モテ男の恋愛論に過ぎないと批判している〉と書いているが、〈モテ男の恋愛論に過ぎない〉というのは、けっして小谷野にとっては批判の本質ではない。ところで、はたして失恋は他者と共有できるものであろうか。たぶん、できない。繰り返すけれども、だからこそ、その痛みが「この私」に固有性をもたらすのである。切通は「まえがき」のなかで次のようにいっている。〈おそらく、人間は楽しいときより、不幸な時の方が、お互い無防備に、裸の自分をさらしあうことが出来ると、子供ながらに予感していたのではないか〉〈大人になって、私は、あの子どもの時の予感が、正しいものであると知った〉〈大学で講師をしていて、若い学生と話すとき、一番お互いの鎧を脱いで対話することが出来るのは恋の話題であり、とりわけ失恋話である〉。はっ、そこにあるすばらしき連帯と共感! なるほど、そういう考えを信じていれば、そりゃあ、無条件で「この私」という固有性が自分には備わっているものとして、無防備に自分語りなどをはじめてしまいたくもなるか。
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2006年03月09日
 『文學界』4月号掲載。本筋とはぜんぜん関係のない話から入るのだけれども、今月より『文學界』ではじまった田中和生の連載が、まあ以前連載されていた前田塁のものに比べると、いささか浅はかではあるとしても、なかなかにおもしろく感じられたのは、平野啓一郎や渡部直己への批判、もしかすると田中自身は批判ではなくて批評だというかもしれないが、しかし批判にしか読めない、とはいえ渡部や平野に対する言葉としては圧倒的に正しい旨が、僕の卑しい野次馬根性のようなものに触れるからなのかもしれなかった。その連載「文学まであと少し」のなかで、田中が、この車谷長吉の「世界一周恐怖航海記」について、次のように言うている(車谷の真似)。〈その楽しみの多くが「車谷長吉」という名前の意味に依存したものであるのは否定できない〉。田中は、かねてより固有名詞(これは、いわゆる固有名と区別し、あくまでも広告的な機能、コピーライトの言葉として考えるべきであろう)の問題に取り組んでいるのだが、それは車谷のばあい、当てはまるものではない。「吉本ばなな」が「よしもとばなな」に表記を変えたようなケース、つまり、作者のキャラクター化が作品内容を担保するのとは、質を異にする、同様に捉まえることはできない、というのも、たしかに今後いっさい車谷が私小説を書かないという取り決めがあったとしても、それはけっして、車谷という作家が「私」を捨て去ることを意味しないからである。田中は、「世界一周恐怖航海記」の第一回における、あるやり取りを〈それを読者が作家のユーモアと受けとれなければ危険である〉といっているけれども、そのユーモアは、べつに車谷長吉という固有名詞によって守られているものではない、と思う。

 さて。1月16日からはじまる、前回の続きである。予告どおり、船上で行われた車谷の講演で、幕が開く。この講演が1月22日の些細な諍いを呼び寄せる。こういったつくり、それはこの旅行記の構成を指すのではなくて、この世の成り立ちみたいなものが、車谷をゲンナリさせるんだろうか。あいかわらず、景色の描写に字数は費やされず、人間の業を眺めては、文学に囚われ、死にたい、と願い、死にたくないな、と考えている。車谷は芭蕉の詠んだ句から〈人生は死出の旅である。別にいまわのきわにいる人だけが、死出の旅に出るわけではない。人は生まれた時から長い死出の旅を歩んでいるのだ〉という連想を浮かべる。ああ、じつに暗く重い旅路である。そのなかにあって、道連れのお涼さん(詩人の新藤涼子)の存在が、いや、和むなあ。〈お涼さんは物怖じしない人である。本来は乱世に生きる人である〉と車谷は書いているが、そのきっぷの良さは、22日の記述のなかにある「あんた、結婚したことがないでしょう」「結婚したことない人は、だいたい聞く耳持たないのね。あんたみたいな人が多いよ」といった言葉にも、よく現れている。ひゃあ、といった感じの言い切りだ。そういうタチだから、逆に、彼女が涙を流したり、捻挫をしてしまうくだりが、話の流れのなかで、生きている。ここで、最初の田中の話に戻るが、それというのも、けっして車谷や新藤涼子という固有名詞に保証されているわけではなくて、あくまでも書かれ方の問題へと還元されるべきものに違いない。ところで。タバコ喫みの僕は、車谷がこぼす〈タバコを喫うことが一番の楽しみだ。これなくして生き延びても意味がない。生きる価値がない〉といった箇所に、わかる、と膝をはたく。

 第一回について→こちら

 『反時代的毒虫』について→こちら
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2006年03月08日
 〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀

 クローネンバーグの通っていた大学の教授にマクルーハンがいて、映画『ビデオドローム』に出てくる博士のモデルこそがマクルーハンだというのは有名な話なのかな、寡聞にして僕は知らなかったが、町山智浩『ブレードランナーの未来世紀』は、そのような裏話ふうのエピソードを用いながら、〈保守的で脳天気な八〇年代ハリウッド映画の陰で、スタジオから締め出された映画作家たち〉が作った〈異様な映画〉の数々に、批評の言葉をあててゆく。取り上げられているのは『ビデオドローム』、『グレムリン』、『ターミネーター』、『未来世紀ブラジル』、『プラトーン』、『ブルーベルベット』、『ロボコップ』、『ブレードランナー』といった作品である。たしかに、どこか仄暗く、陰気なイメージを引きずるものばかりだ。簡単にいってしまうと、エンターテイメントとして機能しつつも、明確なハッピー・エンド型のストーリーと割り切れない、そういう映画が並んでいるのだと思う。それらの作品には、1946年に作られた『素晴らしき哉、人生!』という映画のモチーフが通底音のように流れている、という町山の見え方が、ここでのロジックを動かしている。

 町山は〈残酷な現実を見せたうえで、ハッピーエンドでアメリカが目指すべき理想を示した〉のが『素晴らしき哉、人生!』だといっている。ここで重要なのは、80年代に目指すべき理想へと近づいたアメリカが、しかし行き着いたのは、やはり残酷な現実でしかなかったのであり、ある意味そのようなパラドクスの反映として、本書で論じられている作品群は存在しているということだ。そして現在という時代は、まちがいなく、その延長線上にある、眼前にはつねに残酷な現実が、突きつけられている。とはいえ、町山が見いだすのは、そこにある絶望のさらなる反転である。〈『素晴らしき哉、人生!』(四六年)の主人公ジェームス・スチュアートは事業に失敗して「生まれてこなければよかった」と自殺を図るが、天使に「自分が生まれてこなかった世界」を見せられる。町は荒廃し、愛する人々は悲惨な運命を辿っていた。どんな小さな人生でも未来に影響を与える〉。このような言葉のうちにおいては、町山がいったいどこに力点を置いているのか、とてもわかりやすく示されているといえる。

 また町山は、個々の作品のなかで、悪夢あるいは妄想が、現実との区切りなく、登場人物たちの内面を浸食してゆく様子に、ピントを合わせている。それは、ハリウッドという仮構された世界のなかで、現実を忘却させようとする体制の、そのバイアスに面した監督たちの心境の投影であると同時に、『ブレードランナー』の項で述べられているように、ポストモダンの世界では、シミュラークルが蔓延し、主体からは固有性やリアリティが剥奪さている、といったことの含意であろう。〈わかりやすい例を挙げると、ポルノはセックスのシミュレーションだが、実際のセックスでアダルトビデオのように女性が反応しないと男性は自分がセックスをしていないように感じる。また女性はビデオを真似して感じている演技をする。アダルトビデオのほうが現実に真似される「本物」になってしまったのだ。これと同じで、本来「真似事」であったはずのシミュレーションが現実より優位に立つ事態はあらゆる場所で起こっている〉。おそらく、我々が生きているのは、そのような虚構ともつかない、現実なのである。

 だが先ほどもいったけれど、町山は、そうした状況から絶望のみをピックアップしてはこない。絶望以外に差し出されたものを指して希望とはいわないが、すくなくとも書き手の姿勢に関しては希望を感じることができる。ただし全体の調子からすると、けっきょく身体による実感(の重要性)みたいなところに問題は帰結するのかな、といった気がしないでもなく、そういった認識の一点突破ではフォローしきれないほどに、ややこしい、不自由さにこの時代は覆われているとしたら、という疑問は残った。
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2006年03月07日
 村上龍文学的エッセイ集

 村上龍は好きな作家のひとりである。たとえば、僕がドアーズやピンク・フロイドを聴くようになった直接のきっかけは、彼の書いた文章のなかでそれらの固有名をよく見かけたからであった。そのような意味で、ロック・ミュージックに関する知識のいくらかは、村上龍経由で仕入れてきたといえる。とはいえ、小説はともかく、そのエッセイの類を真面目に読んでいたのは、『すべての男は消耗品である』の最初の1、2冊ぐらいまでで、以降は、ほとんど関心を持たなくなってしまった。それというのは、じょじょに増えてきた映画制作やキューバ音楽についての記述との相性がそれほど良くなかったためなのだろう、きっと、というのが自分のなかでの一応の納得であったのだけれども、この『村上龍文学的エッセイ集』の「あとがき」を読んで、ああ、そういうこともあるのか、と思ったのはつまり〈一九九〇年代にエッセイの書き方が変わった〉〈洗練を織り込んだエッセイを書かなくなった〉〈エッセイ・作品において洗練が機能するには、書き手と読み手を包み込む共同体内に自明の文脈があることが前提となる〉〈あるときからわたしは、共有されていない文脈について意識し、そのギャップをエッセイのテーマにしてきたような気がする〉とあるからで、まあ、その言葉を額面どおり受けとる、鵜呑みにするのであれば、おそらく僕は、洗練の織り込まれていないこと、言い換えると、村上龍の、創作ではなくてノンフィクショナルな記述のうちにあるフィールに共感できないというのが、ひとつ、遠ざかる理由としてはあったのかもしれないねえ、と。もちろん、それは僕という読み手が〈書き手と読み手を包み込む共同体内に自明の文脈〉への依存を欲しているということでは、けっしてなくて、むしろ逆の方面、では村上龍という書き手がいったい何を足場に置いているのか、そうした部分が不透明に見えてしまうことへの懸念である。たしか『ラブ&ポップ』の「あとがき」で村上が、女子高生のサイドに立ってこれを書いた、みたいなことを記したのに対し、どこかで赤坂真理が批判的な旨を述べていた記憶があるけれど、僕が村上のエッセイを楽しまなくなったのも、もしかするとそれに似た感情ゆえになのかもしれない。さて。内容とあまり関係のないことを書き連ねてきたが、それでもこの本のなかでとくにおもしろかった箇所を述べるとしたら、じつは最初の数ページ、たとえば埴谷雄高や大岡昇平、吉行淳之介に瀬戸内寂聴などの人柄について書かれたところになる。なぜか考えてみると、それらは文壇の記憶といった意味合いで、ある種の共同体内にある自明の文脈に寄り添っている、要するに良くも悪くも、洗練の宿った文章として成り立っているからなのであろう。

 『半島を出よ』について→こちら
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2006年03月04日
 ネット社会の未来像―神保・宮台マル激トーク・オン・デマンド3

 『ネット社会の未来像』は、宮台真司と神保哲生がホストとなり、テーマごとに、東浩紀や水越伸、西垣通、池田信夫といったゲストを迎えるかたちで、構成されている。僕個人の関心はやはり、東浩紀が「環境管理」と言い換える、「監視」あるいはセキュリティ・レベルの助長、つまり今の我々にとって他者がどのような働きかけを持っているか(あるいは持っていないか)、また、そのようにして出来上がった社会は、はたして生きやすいものであるのか、生きにくいものであるのか、といった項に高く、要するに、コミュニケーションと自意識の傾向推移、東ふうにいえば「動物化」の問題に帰結すると思うのだが、そのなかでの、日本語の言語条件が日本という国に特殊な匿名性を導いているとして、〈とくに何人ということもなく生きていていいという、独特な浮遊感を醸しだした日本社会〉は、しかし〈浮遊感を浮遊感のまま維持できる環境は壊れてしまった〉ので、だからといって〈日本人の伝統や歴史を持ち出してハードランディング〉しようとせず、あくまでも〈ソフトランディング〉するためにはどうしたらいいか、といった課題の提出につよく実感できるものがあった。もちろん、それ以外にも、興味深い箇所は、いくつか存在している。たとえば西垣通の項で出てくる、競争の逆説の話なども、そうである。ネット社会における平等性というのはウソで、神保哲生の言葉を借りれば〈ネットは基本的に自由で、参入障壁もないから、誰でも入れる。しかし基本的に自由だからこそ、弱肉強食の淘汰が起こる。弱肉強食が起こらないような措置をとれば、それが今度は参入障壁になる。自由競争のジレンマがインターネットのコンテンツに現れてしまった感がある〉というわけだ。まあ、これはある意味で一般論のように思えるが、しかしブログなどのツールが、以前よりも汎用化したからこそ、ようやく適用できる一般論に他ならない。個々の鼎談で取り上げられるテーマは多岐に渡っているので、内容を一掴みにするのは難しいが、しごく簡単に大枠を取り出すのであれば、既存のマスメディアというか、テレビや新聞などの、大衆に影響力のある現在的なシステムと、インターネットを軸とした新規のネットワーク・テクノロジーとの対比を用い、両者の功罪、優位性と弊害を検討するものになっている。
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2006年02月28日
 バカでもわかる思想入門

 『バカでもわかる思想入門』という題名のとおり、マルクスやらプラトンやらハイデガーやら親鸞やらの思想を、さすがに細部にまで手は届いていないが、しかし概要については、ひじょうにわかりやすく説明している。個人的に、福田和也がここで披露している芸(台詞回し等)には、どうやらセンスの部分で相性が悪いらしく、くすりとも笑えない、むしろ気持ち悪さを感じるばかりであるけれども、その入りやすさに関しては、否定するつもりはない。某電波男の人や某ひきこもり界のトップランナーの人も、せめてこれぐらいのニーチェ読解を示して欲しいものである、まあ、それは余談で、僕ごときが言うことでもないのだけれども。そういった内容とはべつのレベルで、すこし思うところがあったので、それを簡単に書き留めておきたい。福田は「はじめに」で、近年における啓蒙の難しさを書いている。これはもしかすると「教える−学ぶ」の関係に言い直していいのかもしれないが、そこにある困難さは、一般的に、「学ぶ」あるいは「習う」側の問題に回収されてしまいがちであるような気がする。人の話をきかない、みたいなアレである。しかし、じつはそうではないのではないか。「学ぶ」姿勢がないから、「教える」側が困るのではなくて、「教える」主体がもはや成り立たないので、「学ぶ」という文脈が派生しないのではないか。かつて柄谷行人は、「教える−学ぶ」という関係性から他者の在り方を導き出したが、今日において、たとえば他者の不在の上に自意識が作動するとき、それはつまり「教える」人間の不在にかかっているのではないか。この本のなかで、福田は「教える」役、「はじめに」の言葉を使えば家庭教師を買って出ている。だが「何々なんだよ」「そうだね」などと繰り返す彼の口調は、まるで出来の悪い「僕小説」の主人公のようだ。そして「僕小説」の主人公というものは、往々にして、「教える」ことには向かない性格なのである。

・その他福田和也関連の文章
 『暴論・これでいいのだ!』について→こちら
 『en-taxi』07号について→こちら
 『イデオロギーズ』について→こちら
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2006年02月26日
 忘れないと誓ったぼくがいた

 忘れないと誓ったぼくがいた。だが、ぼくは忘れてしまう。いや、そもそものはじめから覚えてさえいないのかもしれなかった。あるひとりの少女が実存的に消失する、そういうファンタジックなワン・アイディアが、へたに弄られるのではなくて、ストレートに展開されることで、爽やかに、切ない、青春と恋愛の情景が成り立っている。平山瑞穂といえば、きわめて不吉なデビュー作『ラス・マンチャス通信』の終盤で、しかし著しくなった村上春樹ふうのナイーヴさにフォーカスをあてたかたちだともいえる。とはいえ、いわゆる「僕小説」にアリガチな、自意識の過剰さ加減が極力避けられているように感じられるのは、物語に対して存在する語り手の水準が、作者のなかで出来うるかぎり一定に保とうとし律せられながら、これが書かれているためであろう。作中の言葉を引くのであれば〈それを読んでも、書かれているできごとが思い出せるわけじゃない。ただ、それを読んで、どんな場面だったのか想像することはできる〉、おそらくはこの位置である。ある意味で、ここに綴られたものはぜんぶ、現実からは隔離されたフィクションにしか過ぎないのだが、そのフィクションのうちにある現実を、語り手であるところの〈ぼく〉は、懸命に捉まえようとしている。その姿形、けっして内面などといったものではなくて、そういった姿形のほうこそが、物語を動かしてみせる。そして、それはもちろん、読み手の側が物語にコミットする、その態度に近しい。見ようによっては、まあ、予定調和というかウェルメイドというか、ひじょうに都合のいいお話ではあるけれども、この『忘れないと誓ったぼくがいた』という小説のつくり自体が、作中で述べられているように、あくまでも細部からの逆算により構築されたアウトラインに過ぎないのだとすれば、むしろ、そのようにしてなるようになっている、構造上の必然的な帰結として考えるべきなのだった。ところで〈ぼく〉が、携帯電話の着信音に使っているのはドアーズの「ピープル・アー・ストレンジ」つまり「まぼろしの世界」である。それが鳴ったときに〈ぼく〉は、たとえば〈心臓がわしづかみにされたみたいな気持ち〉になり、彼女のもとへと急ぐ。この選曲は、たぶん彼女の〈私ね、小さい頃から、ものの感じ方とかがまわりの人と必ずとこか違っていたの〉云々にかかっており、彼女にとっては、この世界はいささか「ピープル・アー・ストレンジ」なのだが、〈ぼく〉にしてみれば、彼女と過ごす時間こそがまるで「まぼろしの世界」にいることを思わせる、そのような対称性の、わかりやすい明示となっている。

 『野天の人』について→こちら
 『ラス・マンチャス通信』について→こちら
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2006年02月23日
 ひなた

 まるでこの国のテレビ・ドラマのようなお話である『東京湾景』が、じっさいにテレビ・ドラマ化されたさいに、そのままのかたちを守られなかったのはどうしてだろうか、というのはときどき考える。おそらくは「俗」であることに対する認識の違いが、作者である吉田修一とスタッフの側とのあいだにはあったのではないかな、と思う。それはもちろん、どちらがどうとかいう話とは違い、「俗」であることを、無意識のうちに体現してしまうのではなくて、意図的に作り上げ、ひろく一般的に共有させることが、いかに困難であるか、そのような問題に接近している。この『ひなた』という小説もまた、ひじょうにこの国のテレビ・ドラマっぽいお話ではあるけれども、どうもその、いかにも作りましたふうの「俗」っぽさを前にして覚える戸惑いこそが、あるいは作品の見え方を左右しているのだろう気がする。

 物語は4つの視点をもって語られる。そして、その4つの視点の背景には、メロドラマとして捉まえれば、いささか類型的にすぎる設定が隠されている。とはいえ吉田は、それらを盛り上げ効果の演出に用いず、あくまでも背景のまま静止させておくのである。だから、こうも言える。動的にならない「俗」っぽさに支配されることで物語は成り立っている。

 そのように考えるとしたら、では、そのことの意味はどこにどうやって繋がってゆくのかであろう。たぶん、日常に回帰するのみなのだ。過渡にドラマティックな性格を帯びない、何気ない展開の連続線であるような、そういう自然な変化としてある毎日は、まあ、エンターテイメントには不適切に違いなく、新鮮な驚きもすぐさま凡庸な退屈に取って代わられる。そうした生身の意識による集合が、俗世間というものなのだとして、吉田はここで、その虚しさにも近しい、ありふれて、詰まらない有り様のうちにある、通り一遍の感傷を、的確に捕まえているといっていい。したがって『ひなた』という、この小説がおもしろくなっていないのは、しごく当然のことなのである。読みやすいが、しかし、読み手の目に入ってくるのは、空疎な言葉群ばかりだろう。だが、その満ちていないことが、翻って、読後に残るような、もやもやとした輪郭をつくる。

 登場人物のひとりが次のようにいっている。〈ドライブというのは不思議なもので、どちらかが話し出さないとシャッターが押されない。シャッターが押されないというのはヘンな言い方かもしれないが、とにかくどちらかが話し出さないと、ただ窓外の景色が流れてゆくだけで、いっさいの区切りというものがない〉。おそらく人生などと大層な言葉を口に出してみたところで、それは結局、シャッターが押されないドライブのようなものに他ならず、ただダラしなく流れてゆく窓外の景色を眺めるだけに過ぎない。

・その他吉田修一の作品に関する文章
 『7月24日通り』については→こちら
 『春、バーニーズで』については→こちら
 『ランドマーク』については→こちら
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2006年02月22日
 星のカギ、魔法の小箱―小谷真理のファンタジー&SF案内

 『星のカギ、魔法の小箱』は、副題にあるとおり、小谷真理によるファンタジーそしてSF小説のすごく親切なガイド・ブックといった趣である。もともとは読売新聞に連載されたもので、そのおおもとを僕は拝見したときがないのだけれども、「です・ます」調のやさしく諭す文体から察するに、かなりの若年層に向けて書かれたものなのだろう。とはいえ、取り上げられている作品のなかには、なかなかハードなものが含まれていたりもする。じつはこれを手にとったのは、僕個人がファンタジーやSFに浅いタイプの人間であるからなのだが、ここに紹介されているものの(映像化されたものも含めるならば)8割方は目を通したときがあるものであった。そのような意味では、わりとベーシックというかスタンダードなものをピック・アップしているのかもしれない。また、正直なところ僕はといえば、小谷のわりと堅めの評論は、相性の問題なのだろうが、かなり苦手な口なのだが、これは単にライトな読み物として、けっこうおもしろかった。それというのは、要するに、ガイドに徹底する仕方が巧いということなのだ、と思う。単純にいうと、ネタを割らないで概要を説明する、つまり、物語の奥深さを匂わせながら、その入り口だけを指し示したものとして、きっちりと役割をこなしている。世のなかには、これが出来ていない案内書が、思いのほか多い。まあ、こういうのはスキルの問題なのかもだが、僕もまた不得手とするところでもあるので、ほほうと感心する。これまで機会のなかったハル・クレメントの『20億の針』は、そのうち読もうかという気になった。
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2006年02月19日
 アムネジア

 『アクアリウムの夜』の著者による15年ぶりの新作ということで、一部で注目(なのかな)の、稲生平太郎の『アムネジア』であるけれども、これがじつに読ませる、というか、読まされるといったほうが的確か。率直に、物語(の内部)に引き込まれたという有り体の感想を述べることこそが、あるいは作品の本質をもっとも正確に捉まえるのかもしれない。80年代初頭、大阪、ちいさな編集プロダクションに勤める〈僕〉は、たまたま広げた新聞のなかに、そのとき携わっていた仕事との奇妙な関連を発見する。〈僕には何の関係もないことなのだから。こんなつまらないことが気にかかるなんて、どうかしているのかもしれない〉と思いながらも、しかし、なぜかそのことを調べられずにはいられない。やがて、見知らぬ男の死が、どうしてだろう、自分のアイデンティティと、深く、どこかで結びついている、そんな感じもしてくるのであった。

 はっきりといえば、物語そのものに、腑に落ちる、そのような読後を抱かせるための着地点は用意されていない。だが、遍在するマテリアルのすべてが、けっして作者の思いつきで配置されたわけではなくて、もしかすると小説のうちに何かしら筋のとおったロジックが作用しているのではないか、と思わされるがゆえに、精密な読解への意欲が促される。それというのは、結局のところ、構造上の問題をとって考えるのであれば、語り手の水準が、たとえばメタリアル・フィクションとかリアル・フィクションなどと名指される今様の小説群においては、どこに位置するのか不明瞭であることにより、読み手に都合のいい感情移入を誘うのとは違い、ここでは、時系列のいちばん最後もしくは物語の外部にあることが明示されているために、小説の全編は、語り手の恣意的ないし作者の自覚的なコントロール下に置かれている、つまり、ある種の計算が働いているのではないか、そういった思いなしが、行間の未知を埋め合わせようとする、それこそ探究心に近しい動機付けを読み手の側に発生させるからであろう。

 いや、しかし、じっさいこの『アムネジア』という作品の総体を、ロジックで処理できるかどうかというのは、本当のところ不明である。細部を取り出せば、いくらでもこじつけのできる気がしないでもないが、それを行っている当の本人、つまり僕自身が説得されないという困った状況が導き出されてしまう。とはいえ、べつに謎解き云々について述べたいわけではない。そうではなくて、ここで、読み手のうちに喚起された、物語の内部に整合性を求めようとする欲望は、作中において〈僕〉を動かしているものとじつは相似のようにも思える、ということである。

 そのことが結果として、明快な解答の示されない、超然としたカタルシスがもたらされるわけではない、この小説に、読み終えたとき、猛烈な吸引力を備えさせる。〈僕〉は次のように書いている。〈たとえ僕の生が物語であるとしても、次の物語が書かれることはない。前の物語が書かれたこともない。その意味では、僕たちは、かみのけ座へと旅立った少年とまったく同じように、ひとつの物語のなかに封じ込まれている〉。だが、その物語は、テクストとして開かれることで、外部へと繋がる。一個の完結は、しかし、多くの疑問を残す。もしかすると、それらの連鎖が作りうるのかもしれない〈本当の物語〉があるとしたならば、知りたがる。読み手であるところの僕にはまるで、そうした小説のつくりをこそ、作中に登場する〈ほとんど見かけ上は永久機関といえなくもない〉発電機が、暗示しているかのように感じられたのだった。
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2006年02月14日
 図書館戦争

 市街戦をモチーフとしたメロドラマ以上のものを期待しなければ、十二分におもしろい。ぶっちゃけて、中身はスカスカなので、それ以外のことを言おうとすると、どうも批判的な文章になってしまうなあ。『SUTADIO VOICE』3月号のなかで、前島久が、有川浩について〈有川の小説は「自衛官のロマンスを書きたい!」という欲望に駆動されている〉〈有川の作品を読み解くポイントは、こういった思想性ではなく「萌え」によって高まるぷち右翼性に存在している気がしてならない〉と書いているが、良くも悪くも、そのとおりであるかもしれないねえ、と思う。この『図書館戦争』の場合、自衛隊は直截的には扱われないが、しかし、物語のために仮構された図書隊というのは、まあ似たような組織であるといえるし、また、ただ一個人の恋愛感情を引き立てるために、人々は争い、傷ついてゆく、あるいは死ぬ、身も蓋もない言い方をすれば、それだけのお話にまとまっている。舞台は、正化という架空の元号で語られる日本、「メディア良化法」の施行にもとづき、検閲制度は合法化された、唯一それに対抗しうるのは「図書館の自由」をうたう図書館法のみであった。メディア良化委員会と図書館の対立は激化の一途をたどり、武装化による抗争のもとでの死傷には、超法規的措置がとられている。三人称の語りで小説は進行しながらも、随所に主人公の内面が流れ込んでくる、作者得意の記述は、本作においても健在で、そのことを通じ、登場人物に感情移入できればしめたもの、存分に図書館戦争の渦中におけるメロドラマを堪能できるであろう。だが僕にとっての大いなる謎は、いやいや、この人たちいったい何のために戦ってんだろ、ということであった。良化委員会は、まだ権力のために、といえば、わかる気がするのだけれども、図書隊に属する人たちのモチベーションが何に拠っているのか、よくわからない。だいたい、読書があまり好きじゃなさそうである、というか、読書に対しての愛情が示される箇所は、作品のなかに、一個もない。強いていえば、主人公がなぜ図書隊に志願したのか、その理由を示すエピソードと、「日野の悪夢」と呼ばれる出来事で、ある登場人物が一冊の本のために死ぬ、そうしたエピソードのふたつが挙げられるかもだが、前者はたまたまの出会いが本屋であったに過ぎないし、後者に関しては、守られた一冊の本というのは、個人的な思い出を含む資料のようなものであり、双方ともに、読書への愛情とはいっさい関係がないのであった。とすれば、正直、図書隊も図書隊で「自由」という名の、書き割りのイデオロギーに、オートマティックで従っているようにしか思えない。あるいは承認欲か。そんなもののために進んで戦闘に加わる人間の心境は、やっぱ僕には、理解ができねえのです。万が一にでも、その世界の図書館に行ったなら、倉田英之の『R.O.D』と佐藤亜紀の『戦争の法』はどこにありますか、と尋ねてみたい。
 
・その他有川浩の作品に関する文章
 「ロールアウト」について→こちら
 「クジラの彼」について→こちら
 『海の底』について→こちら
 『空の中』について→こちら
 『塩の街』について→こちら 
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2006年02月12日
 『文學界』3月号掲載、『世界一周恐怖航海記』という連載の第一回目である。車谷長吉にしてみれば、私小説ではなくて、旅行記なのだろうが、これが、いつもと変わらぬ毒気の混じった文章により、淡々と綴られる苦行の日々といった体である。だいたい、船上の生活において〈連日、さまざまな催しあり。私はそういうものに一切参加せず、乗客はみな、この船旅を貪り楽しもうとしている。この「むさぼる」という空気が息苦しい。私は「楽しむ」というのが嫌いだ〉、〈この船の生活には、慰めがない。「しみじみとした生活」がない。みんな、生の楽しみをむさぼろうと、はしゃいでいる。この「むさぼる」というのが、私は嫌いだ。この船に乗って思い知ったのは、私には楽しむ能力が根本的に欠けているということだ〉と思うばかりで、読みながら、とうてい楽しそうだとは感じられない。たいていは図書館で過ごしたり、人間観察、あるいは目にした風景に過去を振り返ったりしている。そのつど、暗く重たい憂鬱を吐く。では、なぜ、それなのにわざわざ世界一周、100日にも及ぶ旅になど出たのかといえば、妻であり歌人の高橋順子が、どうしても、と行きたがったからである。もしも断れば、彼女はひとりででもそうしただろう、そのように考えると〈私は家に百日も取り残されるのが怖かった〉のだ。しかし、この消極的な選択を笑うことが、僕にはできない。ある意味では孤独をおそれる、このような感覚というのは、人にとり、けっして逃れられない、根源的な苦しみであろう。車谷は〈私をこの世に繋ぎ止めているものは、お袋と順子さんの慈悲だけである。この二人がいなくなったら、もうこの世には意味はない。存在理由はない。生きる価値はない。一切は無意味、無価値である〉といっている。旅の同行者は、その順子さんと、詩人の新藤涼子(お涼さん)である。話の流れでいくと、次回分は、車谷の講演からはじまる。
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2006年02月11日
 『群像』3月号掲載の中篇。ふ。はっ。くっだらねえ。でも嫌いじゃあない。いや、むしろ好きである。前田司郎は、以前読んだ『愛でもない青春でもない旅立たない』が、ちょっと残念な感じだったが、この『恋愛の解体と北区の滅亡』は、いいんじゃないだろうか。とりあえず愉快だった。こういう作品のつくりに、正確な名称があるのかどうかは知らないけれども、ときおり舞城王太郎がやるのに近しい、が標準語に徹底した、逡巡を繰り返す、口語体のモノローグによって、小説内の時間は進む。あるいは、批評意識をまったく排除した阿部和重というか、笑劇ふうの一人芝居であるかのような、そう、たとえばこんな体である。〈オレはさっきから愛の存在を証明しようとしていたんだっけ? 違うだろ、今日の目的は憎しみを殺意にまで育てようっていうのだったろう。もうどうでも良くなっているのではないか。駄目だそんなんじゃ。ちゃんと憎しまないと。肉島ナイト。凄いエロい事が行われそうだ。瀬戸内海の小さな島、肉島。そこで行われる酒池肉林のパーティー〉。

 語り手であるところの〈オレ〉は、〈俺〉であったり〈僕〉であったり、その表記はつねに揺れ続けるのだが、彼は一貫して、ひどく形而上的なことを、すごく下世話な頭でもって思案している。読み手は、そのプロセスを追いかけるかっこうになる。とはいっても、得るものは少ない。こいつ、馬鹿だろ、と思うぐらいではないか。そうではなくて、文体のグルーヴなのだといえば、まあ、そうなんだろう。ストーリーはある、あることにはあるけれども、その筋を取り出すのは、難しい。ちがう、そうじゃないな。ひとりの若い男が世界の滅亡がかかった夜に風俗に行く、たったそれだけの話である。その間に膨大な思弁が詰め込まれている。しかし証されるのは、ほんとう人間ってしょうもないよね、という程度のことだ。それにしたって、あれだけ悩んだサディズムとマゾヒズムの件はどうなったんですか、と尋ねたい。

 ひとまず中身を読み終えて、『恋愛の解体と北区の滅亡』という題名を、僕なりに解釈するのであれば、次のようになる。おそらく「恋愛の解体」は他者にかかっており、対して「北区の滅亡」は他者ならざるもの、つまり異者に、である。他者は主体に干渉しうるが、異者はそうではない、ただ鑑賞の対象として、顕在化しうるのみである。だから前者に関して、主体の内なる意識は、「解体」を思わせる、作中の言葉でいうと〈この嫌悪の表皮を剥ぎ取った下には歓喜があるかもしれぬ〉などと左右され、後者に関しては、〈がっかりだ〉の一言をもって、やがて無関心に達する、そのため〈もう今日で僕は終わりかもしれないと思っていても、死ぬ気がしない〉、要するに、今そこにある「滅亡」の可能性にさえも、真面目にコミットする気が起らないのだ。両者は、しかし明確な区分をもって主体の行動を引き裂いているのではなくて、ありきたりな日常のなかに、違和感なく融け込み、まるで自然な風景と化している。すくなくとも、そう感じている。

 いうなれば、敏感なふりをして、じつは鈍いのである。として、それは、ある意味で、怠惰な生を延長させながらも、自らの切実さだけは高級だとしたい、そういう精神の有り様、または今日におけるリアリティの、見立てだろう。が、深刻さのかけらもなく、いっさいの阿呆丸出しに書かれているところが、とてもとても愉快で、よかった。

 『愛でもない青春でもない旅立たない』については→こちら
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2006年02月09日
 中上健次未収録対論集成

 6800円(税別)もしやがるので、正直なところ手を出そうかどうか迷った『中上健次[未収録]対論集成』であるけれども、しかし誘惑には勝てずに、けっきょく買ってしまった。ページを開けば、けっこうなボリュームであるが、こういうのはインタビューといっしょで、会話のスピードに乗れば、ひととおり読み通すのはそれほど難ではない。また80年代を中心とした文学のシーンを振り返る、そういうための資料と捉まえれば、興味深い箇所がいくつもあった。たとえば吉本隆明が『遺書』のなかで、中上はいずれ大谷崎のようになりえたかもしれないが、インテリたちと付き合い過ぎた、みたいなことをいっていたが、ここに収められた中上と吉本の対談「文学と現在」(83年)を読むと、その真意のようなものがよくわかる。要するに、知識階層と「大衆」の問題に還元されるのである。吉本がいうインテリたちとは、柄谷行人などのことで、中上が柄谷(や浅田彰や蓮實重彦)のことを褒めれば褒めるだけ、無下にあしらう吉本の応対に、あはは、となる。いや、その柄谷行人も、なかなか愉快な人である。中上と柄谷、中野孝次、秋山駿による「戦後文学の「内部」と「外部」」(85年)は、たぶん小谷野敦がどこか論争に関する文章で触れていた鼎談だと思うが、そこでの柄谷の、先行する世代である中野や秋山に対する挑発的な態度は、じつにスリリングで、中野が〈あなたの使うそのテクノロジーって言葉はどういうことなんだ。ちょっと言ってみてくれないか〉と尋ねれば、柄谷は〈もう言う気しない〉と返すあたり、その血気盛んなところに、やはり、あはは、となる。中上と柄谷そして川村二郎「第七十三回 創作合評」(82年)では、高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』が取り上げられている。三者の微妙な評価の仕方が、逆説的に、『さようなら、ギャングたち』という小説の特殊性を浮き彫りにしている気がした。それはおそらく時代性に基づいている。今の時代ならば、こういうふうには言わないだろう、ということを言っている。個人的には、宮本輝を呼んでの「物語の復権」(84年)と、筒井康隆との「膨張する境界」(91年)のふたつが、とくにおもしろかった。前者では、物語にまつわる抽象性が具体的にどこからやってきているのかが宗教と「路地」の問題を絡めながら、語られている。後者では、当時の湾岸戦争をひとつのトピックに、おそらくは小説家が創作に向かうさいの批評意識が、問われている。話しぶりは浅はかだが、機知に富んだ内容となっていて、こういうことを考えている人たちの書く作品は、そりゃあおもしろいはずだよ、と思う。この『中上健次[未収録]対論集成』を、一冊の本としてみれば、たくさんの声が、雑多な話題を掘り下げている、複数人による会話では、中上が中心にいないこともある、しかし、ただの寄せ集めではなくて、たしかにどこかに一本の明確な筋が通っているのを感じさせる。そうして現れているものこそが、もしかすると中上健次という人の、人柄、カリスマ性であったのかもしれない。ただ、読み手であるところの僕はといえば、そういったキャラクターよりもずっと、その書かれたもののほうを愛するな。
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2006年02月08日
 『新潮』3月号掲載の短編。伊井直行「ヌード・マン・ウォーキング」は、大まかにいうと、細川という中年男性と彼が抱えるとある悪癖との関わりを描く。悪癖とは次のようなものである。〈細川は露出狂ではないが、一糸まとわない裸で外を歩きたいという強い欲望を持っている。時々そうする〉。もちろんのように、小説の題名はそのことにかけられている。が、そうした行為を、一過性のトピックとして扱うのではなくて、長いスパンの日常に融け込ませているあたりが、おそらくは主題に結びつく部分であろう。細川は独身ではない、妻があり、ふたりの子がいる。けれども当然、自分の秘密は打ち明けられない。かくして、家族の一部であること、その責任が、彼にとって、ひとつの咎として作用している。なかでも、娘である早希の視線を、特化して考える。早希は、幼少の頃から、父を慕う娘であった。なぜなのか、細川にはよくわからない。だから〈これはなにかの間違いで、いずれ訂正されるはずだ〉と思っている。この、自分のなかに正当性をたしかに見つけられないことが、物語の断片を繋げる糸である。細川は、裸の歩行中に〈人間も世間も社会も、卑小な、くだらないもの、実体のない模造品のように〉思う、これは要するに、ひとりの人間が、自分の外側に、生きていくうえでの確証を感じられない、そのことの言い換えなのではないだろうか。資本制あるいはシステムとでいうべき権力は、70年代から80年代そして90年代それ以降といった時代の移り変わりを経て、徹底されてゆく。また防犯カメラや携帯電話の普及などにより、細川が欲望を叶えにくい環境に、世のなかは整備されてゆく。だが、そうした世相と相反するように、彼の執着はその度合いを増し、たぶん無意識からの要請なのだろうが、じょじょに危険なトライアルに臨むようになる。いささか寓話ふうの結末は、結果的に、人間と自然という安易な二項を導き出してしまっている気がしないでもないけれど、それは、社会の集約として個人があるのか、個人の集積として社会があるのか、といったべつの二項に相関した問題を宙づりにする、そのため、小説自体は明晰な単純化を免れ、読後の鈍い虚脱に感情が絡めとられた。

 『青猫家族輾転録』についての文章→こちら
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2006年02月03日
 君は永遠にそいつらより若い

 津村記久子『君は永遠にそいつらより若い』は、第21回太宰治賞受賞作である。まるで損なわれた過去を悼むかのような、ナイーヴな冒頭に、ある人たちは死に、ある人たちは去っていき、そしてそれらは二度と戻らないのだろう式の、よくあるステレオタイプな青春の追想劇かしら、と思わず身構えながら読みはじめてしまったが、いや読後はそうじゃない、もうちょいべつの、なにかべつの見え方をするエモーションに、すくなからず心を動かされた。

 かといって「22歳、処女。いや「女の童貞」と呼んでほしい――」と帯にはあるけれども、これはけっして、そこからイメージされるような、劣等感にまつわる、コメディに寄り添った小説でもない。むしろ物語は、シリアスに過ぎるほどシリアスなほうに傾いているが、しかし語り手であるところの〈わたし〉には、そのシリアスさを、蒼い時代特有の茶番であるとし、出来うるかぎり回避しようとする小賢しいところがある。そうしたヒネた態度が、自分を、10代の頃にやりそびれてしまった処女ではなくて、〈やる気と根気と心意気と色気に欠ける童貞の女ということに〉しておきたい。

 そういった面を強調しつつ、就職先も決まり、あとは大学を卒業するだけの〈わたし〉のとりとめのない日常が、どちらかといえば明るい調子で、語られてゆくのだが、総体を貫くのは、モラトリアムに関するああだこうだじゃあなくて、たぶん、トラウマという限定的に使い慣らされた言葉を用いず、幼年期に受けたメンタルなダメージから、成長を通じ、いかにして人は救われるか、あるいは救われえないか、というようなことではないかと思う。

 たとえば、児童福祉の仕事に就く予定である〈わたし〉は、言うなれば、ライ麦畑のキャッチャーを目指すものである。その直接の動機は〈テレビの特番で見かけた行方不明の男の子を探すために児童福祉司の資格を取ったのだ〉として明かされているけれども、モチベーションの量は、べつの箇所で語られているような、彼女自身の小学生時代の体験ともけっして無縁ではないだろう。彼女は、自分に痛みを与えた世界に対するささやかな抵抗として、他の誰かを助けたいと考えている。と同時に、そうすることで自分もまた救われようとする、ある種の代替行為を選択しているのである。『君は永遠にそいつらより若い』という題名は、その〈テレビの特番で見かけた行方不明の男の子〉を指して、いわれている。

 ところで読みながら気になるのは、小説内において、いくつかのロック・アーティストが固有名を引かれていることで、たとえばソニック・ユースであったりハスカー・ドゥであったりオール・アメリカン・リジェクツであったりするわけだが、大抵のばあい僕は、こういうディテールに関しては作者の趣味を投影する以上の理由があるかよ、と訝しげであるのだけれども、ファウンテンズ・オブ・ウェインのところで、ああ、これが書きたかったのかあ、そのためだとしたら、なるほどねえ、と納得させられてしまった。
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2006年02月01日
 おやすみ、こわい夢を見ないように

 悪意(あるいは殺意というべきだろうか)は、人のなかに必ずや生じるものである、というのが前提条件だとして、では、それはいったい何を起源とするのだろう、どこからやってくるのであろうか。またはこう言い換えよう。自分と他人とのあいだにはけっして埋められない隙がある、としたら、その隙間が悪意を育むのか、それとも悪意があるから隙間ができるのか、もしかすると、それは、卵が先か鶏が先かといった疑問同様に、永久に解消しえない問いであるのかもしれなかった。

 角田光代の『おやすみ、こわい夢を見ないように』は、7つの短めな小説によって編まれた作品集である。表題作となる「おやすみ、こわい夢を見ないように」のなかで、ある姉弟が携帯電話のメールで送受信する、その文面の最後には、ふたりが幼い頃に発明した「ラロリー」という造語が添えられる。〈ラロリーは未だ残っている数少ない造語で、「おやすみ、こわい夢を見ないように」という意味だ〉。姉は高校で陰湿な嫌がらせに遭っており、弟は部屋に籠もったまま外に出ることがない。彼女らの保護者である両親の仲も、父親の転勤がきっかけとなり、どうもうまくいっていないようだ。母親はやや情緒不安定な調子である。設定としては十分に暗い、けれども、姉である沙織の〈強くなるんだ〉〈強くなってやる〉という意思が、物語を湿っぽいものにしていない。しかし、なぜ強くならなければならないかといえば、学校中から疎外されることの原因となった元恋人を殺してやるために、である。自分に向けられた悪意には悪意をもって抗おうとする、そのような理論が、ある意味で前向きな彼女の姿形を支えている。だが当然のように、悪意をもって悪意に抗うことは、他人と自分とのあいだに、共感や連帯とは異なるが、それでも相似形であるような感情の在り方を見いだすことでもある。それに気づいたとき、少女の視線は転回し、目指される強さは、その意味合いを変えるのだった。

 また一方で、「おやすみ、こわい夢を見ないように」には、浮浪者ともいうべき女性が、ちょうど視界の隅に触れるようなかたちで、登場する。彼女に投影されているものとは何であろうか。じつは、ここに収められたべつの小説「スイート・チリソース」のなかにも、同様に、何かしらかの象徴であるかのような、女性の浮浪者が現れている。あるいは浮浪者ではなくて、得体の知れない、不穏な、と言い換えるならば、そうした女性像は『おやすみ、こわい夢を見ないように』という本全体に遍在して、ある。というか、それは、この作者の作品においては、ときどき顕著となるモチーフだといえるだろう。おそらくは、家族を含めた、ある特定の集団に、回収されない、内包されない、個人の内面における余剰を示唆するものであり、「ここではないどこか」になどけっして到達しえない登場人物たちのネガである。見方によっては、閉塞した環境に束縛されていない分だけ自由であるが、しかし、その自由は帰属先の消失によって成り立っている以上、不安定で、寂しく、発展のない、すでに完結してしまったものに他ならない。

 「私たちの逃亡」においては、川窪理沙という登場人物が、それにあたるだろう。「私たちの逃亡」は、この作品集の最後に置かれた小説で、『おやすみ、こわい夢を見ないように』のうちにあって、例外的に、三人称ではなくて、一人称である〈私〉により語られている。理沙は、〈私〉がまだ田舎に住んでいて、子供だった頃の友人であるが、やはり他人の悪意に曝されたせいで、自分の部屋から出られなくなり、学校という社会からドロップ・アウトしてしまった。その彼女もまた、悪意ある人々に悪意をもって抗おうとするばかりに、〈死ねって感じ〉という呪詛を口癖にしていた。その言葉は、そしてその言葉に含まれる感情は、はたして彼女を救うことがあったろうか。いや、むしろ、その重みは逆に彼女を拘束するのみではなかったか。〈彼女は未来に続く出口を頑丈に締め切り、過去ばかりがひしめく密室で、気にくわなかったひとつひとつを発酵させているように思えた〉。やがて交流もなくなり、成人した〈私〉は、もはや知る術のない理沙のその後をイメージしながら、さりげない日常に揉まれ続けることこそが、自分のなかにある悪意から逃れる唯一の方法だと思う。

・その他角田光代の作品に関して
 『ぼくとネモ号と彼女たち』については→こちら
 「ロック母」については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2006年01月29日
 西尾維新クロニクル

 宝島社『西尾維新クロニクル』掲載の短編。日本橋ヨヲコがイラストを描いていて、なんとなく、へえ、と思う。海鳥なことイコール〈ぼく〉が、早朝の通学中に、誰もいない電車のなかで一冊の本を読んでいると、同じ車輌に乗ってきた女子高生が隣に座った、そして彼女は〈ぼく〉の手にしている本を臆することなく盗み読む、彼女の名前は沢崎るい江といった。と、この『ある果実』においては、これといった話の筋が存在しているわけではない、いや、ちがうかな、ボーイ・ミーツ・ガールこそが最小にして最大のドラマであるのならば、つまり、そういう物語を取り扱っているとはいえる。冒頭で、作者との相関関係から切り離して、ある作品に接すること、要するに、テクスト論じみたことが語られる、〈ぼく〉の読んでいる小説の作者はじっさいに死んでいるという意味合いで「作者の死」が体現されてたりするわけだが、それは換言すれば、ある作品と読み手とのあいだに生ずる、べつの水準で捉まえ直された、関係の示唆である。その関係に介入してくる、いわば読み手のレベルにおける他者との出会いが、〈あたしは作品と作者が別物であるとは思いませんよ。同じだと思います〉という提案をもたらした場合、それは、読み手とある作品とのあいだにあって、どの水準の、どの位置に代入される変数なのか。〈ぼく〉と彼女とのやり取りのなかで、本質的なことを言い当てているのは、おそらく〈違うというなら人の意思の関与する具合が違うのでしょうね〉といった部分になる。たしかに物事の判断は、すべからく主体性に委ねられるべきであるけれども、そもそも主体などといったものが、他からの影響を受けることなく、完全に自律しているだなんて、実証不可能に近しい。そのパラドクスのクリアにならないことを生きていくうえで、好むと好まざるに関わらず、芽生えてしまう逡巡が〈それは、理想論ですよ?〉といった呟きに固定されている。ところで『ある果実』というのは、たぶん知恵の実のたとえであろう。それを知らなければ、人は、悩むことすらなかったのである。が、しかし、その悩みのうちにある愉悦が、ここでは、読書という行為を〈面白いものが面白くなくなっていく〉過程、ある種の原罪だと見なしても、それをけっして捨てきれないものとして受け入れるという、登場人物たちの姿形に表されているかのように思えた。

・その他西尾維新に関する文章
 「まよいマイマイ」について→こちら
 「ひたぎクラブ」について→こちら
 『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
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2006年01月24日
 『小説すばる』2月号掲載。「moonlight mile」というタイトルはやはりストーンズのナンバーからとられているのかな。絲山秋子の連作シリーズ「ダーティ・ワーク」の第三話。死ぬのは怖いことである。その先に何があるのかわからない、あるいは何もないことを知っているので、死ぬのを考えることは怖いことである。昔一度だけ寝て、ふられた女性から、遠井のもとにメールが届いた。悪性リンパ種で、入院しているのだという。彼女の名前は美雪といった、美人ではなかった、牛に似ていた、そして牛のような声で自分のことを「オレ」と言った。病室のベッドの上、数年ぶりに遠井の顔を見て、彼女は笑う。笑う牛(ラ・ヴァッシュ・キ・リ)。それまで遠井は、死を間近にした人間にリアリティを感じたことがなかった。痛みに苦しむ彼女にかける言葉もまた知らなかった。人が生きることのできるのはあくまでも自分の所有する生でしかないのならば、他人の死は他人のもので、自分の死は自分のものであり、そのあいだには境界線が引かれているとして、しかしそれははたして、共有できない、断絶を意味するものだろうか。あまりのつらさに美雪は「オレさ、安楽死を選びたいんだ」と言う。けれども遠井は「それ、だめだ」「日本じゃ無理だよ」と言葉を遮る、〈苦しんでも生きてくれとは言えない。けれどあっさりと死んでほしくはなかった〉ので、どうしてもそれを肯定できないのだ。やがて発作に見舞われる美雪を目の前にして、遠井は自分の不甲斐なさを思う。ここで遠井は、何も言えない人、である。その何も言えないことは、〈美雪の苦しみを真摯に受け止めることができない。いちいち言葉に置き換えることしかできない〉という躊躇いからやってきている。それと対になるのが、発作の止んだ美雪がその解放と今の心境を指していう〈言葉じゃ表せないくらいの気持ちだよ〉という箇所であろう。そのようにして、言葉が持ちうる限界が、二通りの意味合いを持たされている。それは同時に、この小説において、生または死に対するスタンスが、遠井のものと美雪のものとで、二層になっていることでもある。さらにいえば、自分の生(死)と他人の生(死)が、ひとりの人間のなかでは、まったくの同一ではなくて、すこしのずれた二重性をともなっていることへと届いているように思える。

 「ダーティ・ワーク 第二話 sympaty for the devil」についての文章→こちら
 「ダーティ・ワーク 第一話 worried about you」についての文章→こちら

・その他の絲山秋子に関する文章
 『ニート』については→こちら
 「ベル・エポック」については→こちら
 「へたれ」については→こちら
 「沖で待つ」については→こちら
 「ニート」「2+1」については→こちら
 『スモールトーク』については→こちら
 『逃亡くそわたけ』については→こちら
 「愛なんかいらねー」については→こちら
 『袋小路の男』については→こちら
 『海の仙人』については→こちら
 「アーリオ オーリオ」については→こちら
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2006年01月23日
 愛をめぐる奇妙な告白のためのフーガ

 『愛をめぐる奇妙な告白のためのフーガ』は、例の第17回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞を辞退した小説である。プロフィールを見るかぎりではよくわからないのだが、作者である琴音という人は女性という解釈でいいのかな。まあ、女性だと仮定して、だ。いきなり世代論めいたことを言い出してしまうが、篠原一(76年生)といい、黒田晶(77年生)といい、そしてこの作者(76年生)といい、そこに鹿島田真希(76年生)を加えてもいいが、しかし、この年代の女性作家たちは、なぜにこうも、フラジャイルな造型の登場人物たちとフラグメンタルな進行の物語を好むのであろうか。あるいは、そのような傾向こそが、彼女たちにとっては、リアリティを保証するものなのだとすれば、誰かがすでに論じていても良さそうなものであるけれども、なぜに誰もこだわったりしないのだろうか。まあどうでもいいことなのかもしれないが、すくなくとも僕は気になるのである。

 それはさておき。『愛をめぐる奇妙な告白のためのフーガ』は、つまりそういう、壊れた世界を舞台にした壊れた人間の物語であるといえる。お約束としてはもちろん、暴力と妄想とセックス(性交)が、それ相応に用意され、自傷と自殺とクスリもあるよ、といった感じであり、じつをいえば僕はそうした、村上龍のある部分を受け継ぐような系統のものがけっして嫌いではないので、わりと楽しく読めたのであった。とはいえ、ちょっと無駄に長いような気がしないでもない。終盤の、全体の像を焦点化してゆくような流れは、こういったタイプの小説においては、はっきりいって、蛇足だと思われる。「カギ括弧」の使われない文章は、主体と他者の障壁を取り払うのに最適だが、後半においては、すでに他者が消失してしまっているため、その成果は失効されてしまっている。また、あるポイントを境にして、告白の果たす役割が、内面を仮構するための語りから、物語を進めるための語りへと機能転換しているのは、まあ意図的だとしても、かくして明らかになる物語自体の魅力に乏しいことは否めない。それにしても、と、話は戻るのだけれども、この小説は、最終的に〈僕〉という主語を導き出すのだが、篠原といい、黒田といい、鹿島田といい、この作者といい、なぜにこの年代の女性作家たちはみな一様に、デビュー作のなかに男性人称を組み込むのであろうか。その点についても、やはり僕は気になってしまう。
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2006年01月21日
 12歳からの読書案内

 たいていの場合、読む必要のないものを読んでしまったときほど腹立たしいこともなく、まあ自業自得であるゆえに、筋違いの憤りには違いないとしても、僕にとってはまさしくこれがそうであった。『12歳からの読書案内』は、いわゆるライトノベルも含め、ヤングアダルトの範疇に入る本のなかでも、とくに推薦に値する100冊をガイドしたものであり、おそらく数名の選者が自分のチョイスしたものを担当して、紹介を書いているのだけれども、正直、何をもってそれを推すのかが、文章からは読み取れないのであった。つまり、相対的な評価がすっぽりと抜けている。だいたい、保坂和志や町田康、松尾スズキ、水村早苗が、桐野夏生が、なぜヤングアダルトなのだろうか。謎である。いや、アダルトチルドレンというのなら、わからない気がしないでもない。もちろん、べつにここではヤングアダルトに限って取り上げているわけではありませんよ、そういうジャンルにこだわらず、中高生たちに読んで欲しいものを取り上げているのです、といわれれば、ああそうだったのですか、と了承したいところではあるが、しかし、ではなぜ、金原は「まえがき」と「あとがき」のなかでヤングアダルトなどというのであろうか。やはり謎である。いやいや金原は「あとがき」で〈子供が親や教師に読ませたい本の案内としても読める〉といっている。が、ねえねえお母さん、これおもしろいよ、などと言って、親に蘇部健一『六枚のとんかつ』を薦める子供は、僕はちょっと、嫌である。あと安竹希光恵という人はストーリーを割り過ぎだ。いや、個人的にはそれを絶対悪だとは思わないのだけれども、時と場合による。舞城王太郎『世界は密室でできている。』のような、ミステリの要素を含むものに関しては、あきらかに書き過ぎである。だいいち、おおまかなストーリーの流れは同じ枠内にちゃんと用意されているではないか。なぜ改めてストーリーを紹介しなければならないのだ。字数が埋められないのであれば、こういう仕事は引き受けるべきではないし、そのことを聞かされていない、あるいは、指摘されなかったのだとしたら、編集者が悪い。総じて、グダグダの印象である。

 『大人になれないまま成熟するために』についての文章→こちら
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2006年01月20日
 『小説トリッパー』05年冬季号掲載の短編。〈あるいはなんだかんだ言っておれなんか所詮かっぺなんだよなって。自分ではよくわかってないだけで、言ってることやってることダッさダッさなのかもなって〉。やがて親の跡を継ぎ、北海道の地方都市でスーパーの経営者になる予定の〈おれ〉は、商工会の青年会に属していることから、新しい市長の発起した芸術祭の実行委員に名を連ねることになった。それで催し物としてポップスターを呼ぼうってことになった。だが当初の候補たちからはことごとく断られる始末、しかし〈おれ〉には予感があった。〈ユッキーなら来てくれるんじゃないかっていう〉。〈おれ〉はユッキーの大ファンなのである。みんなはそんな大物が来てくれるはずはないという。はたして。じっさいにユッキーのマネージャーは、オーケーの電話をくれたのであった。そのような出来事を通じ、〈おれ〉の内で高まるユッキー熱が、彼自身の存在理由と化してゆく顛末を、桜井鈴茂『おれのユッキー』は捉まえているのだけれども、ふつうに読むと、これ、落ちていない(オチがない)のである。いや、何をもって普通というのかはわからないが、ふつうこういうアウトラインだと、物語自体がストーカーふうな〈おれ〉の妄想であったりする結末を期待してしまいがちだ。たぶん、それをもって落ちている(オチがある)と見なすわけである。違うかな。でも、そのような傾向というのはあると思う。じじつここでも、意味ありげな語り口は、そういった読み手の好奇心を煽るだろう。しかし、着地点は、ちがう。ポップスターであるところのユッキーと出会った〈おれ〉は、一念発起して、片田舎でがんばるのである。〈おれによるおれ自身への闘いだな〉として、30代を一生懸命働いて、がんばるのである。じゃあ、それが駄目なのかといえば、そんなこともない。作中に次のようにある。〈かたや音楽やテレビやスクリーンの中で生き、かたやむしろ生きることから逃れるために音楽やテレビやスクリーンと向き合うんだ〉。この〈生きることから逃れ〉ていた自分こそが、〈おれ〉の闘わなければならない〈おれ〉なのであり、彼は事業拡大をもってして、その闘いを闘い続ける。それはある意味で、アフター・モラトリアムをいかにして生きるかといった姿形ではないだろうか。と、ここで興味深いのは、ではそれは誰のためにかといえば、あくまでもユッキーのために他ならない点だろう。ポップスターと付き合いたい、あるいは結婚したいといったモチベーションは、ティーンエイジャーの頃には効果絶大であるが、じつはここで〈おれ〉を動かしているのも同様のものである。つまり、いずれユッキーを迎えにいくために、なのである。じっさいにユッキーがそれを喜んでくれる可能性は薄いに違いなく、それこそストーカーとして処理される可能性のほうが高い。だが〈おれ〉は、ユッキーのことをほんとうに愛しているのは自分だけ、と、もしかしたら勘違いであることも自覚しながらも、がんばるのである。それをどう取るか、純粋だなあと思うか、馬鹿だなあと思うか、夢があるなあと思うか、気持ち悪いなあと思うかは、おそらく読み手の判断に任されており、そして小説は、落ち目になったユッキーに愛の告白をするため、〈おれ〉が上京することを示唆して、おわる。

 『終わりまであとどれくらいだろう』についての文章→こちら
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2006年01月19日
 ALL YOU NEED IS KILL

 遅ればせながら、東浩紀が「ゲーム的リアリズムの誕生」(『ファウスト』VOL.6 SIDE-A掲載)という文章のなかで取り上げていることから興味を持ち、読んだ。つまりネタそのものというか、小説の骨格がどのようなものかは、あらかじめ知っていたわけだけれども、いや、しかし、にもかかわらず物語をきちんと楽しむことができたのは、構造だけではなくて、その内実がしっかりと備わっているからだろう。ゲーム的リアリズムか、なるほどねえ、言い得て妙である。桜坂洋『All You Need Is Kill』のアウトラインをシンプルに取り出せば、次のようなものである。ギタイと呼ばれる敵との戦争の最中、主人公であるキリヤ・ケイジは、はじめての実戦で、死ぬ。次に訪れるのは、出撃前日の風景である。彼は最初、夢を視ていたのだ、と理解する。が、ちがう。2度目の、はじめての実戦に向かった彼は、ふたたび、死ぬ。目覚めると、やはり出撃前日の風景であった。要するに、繰り返しているのだ。そのように幾度となくループする生と死のなかで、彼は、強さへと繋がる経験を積んでゆくこととなる。

 東浩紀は、その、キリヤの置かれているポジションを指して、プレイヤーといい、同じ戦場上にありながらも、リプレイであることを意識していない(できない)彼以外の登場人物たちを、キャラクターのレベルに置かれているという。もちろん読み手が感情移入するのは、プレイヤーのレベルにいる主人公に対して、である。そしてプレイヤーは、複数の物語(もうすこし正確にいえば、リセットされるごとにヴァリエーションの増える物語)におけるキャラクターの死を通じて、複雑な倫理に基づく生の一回性を問題視することとなる。〈ゲーム的リアリズムは、キャラクターの死を複数の物語のなかに拡散させてしまうかわりに、その複数制に耐える難解な生を描き、キャラクター・レベルとプレイヤー・レベルの二層構造を導入することで現実を作品化する〉と東がいっているのは、つまり、そういうことであろう。

 だが、そのように考えるうえで、重要なのは、小説内に組み込まれているゲーム的な論理、たとえば、作品中に頻出するフラグと呼ばれる概念や、主人公がとある登場人物に〈敵を倒すとロールプレイングゲームみたいに強くなるんですか?〉と問うような感性を、読み手の側が共有していなければならない、ということである。もちろんイマドキほとんどの読み手が理解できないことはないだろうが、その理解を前提としなければならないところに、僕は、強さと同時に弱さを、見る。あくまでも共通のコードに頼らなければ、物語の強度は、最大限に発揮されないからである。裏を返せば、コードのない読み手の場合、リアリズムそのものが発生しない。それは敷衍すれば、人間同士のものとして、戦局が描かれていないといった部分にも関わってくる気がする。というのも、戦闘の是非は、ここでは、侵略に対する抵抗といった解釈により、棚上げされる必要がある。そのために、敵は、他者(人間)ではなくて、異者(エイリアンやモンスター)でなくてはならない。しかし、現実の戦争においても、おそらく、粉砕すべき敵というのは、つねに異者になるのではないだろうか。どうにもうまく言えないが、たぶん、異者がダイレクトに異者として表されてしまう、そのことがリアリティの担保となるとき、表現の域においては、何かべつの脆弱性が潜んでいるように思う。

 当然のようにそれは、異者が攻めてきたときに、武装解除したまま死ね、ということでは、けっして、ない。また、この小説に対する批判でもない。最初にいったが、僕はこれを楽しんで読んだのである。

*追記
 すこし考えてみて、そんなに難しい話ではない気がした。P157あたりに示されているとおり、ここで行われているのは、要するに、殲滅戦なわけである。敵か味方かどちらかが、滅ばないかぎり、戦いは終結しない。それは絶対的なルールである。が、しかし、それは読み手の水準において、開示されているにすぎず、登場人物の与り知るところではない。ラスト間近で主人公が〈人類の勝利で終わらせる〉というとき、それはおそらく、愛する人が守ろうとした人類のために、ということの言い換えであるわけだけれども、彼はおおもとのルールを知らないにもかかわらず、これを殲滅戦として勝ち抜く決意をしているふうに見える。たしかに読み手にしてみれば、この彼の在り方は正しくエモーショナルである、のだが、物語の水準に立ち返れば、戦時下における凡庸なイデオロギーに拘泥されているに過ぎない。はたして作者は、そうしたパースペクティヴを意図的に混同しているのか、そうではなくて無意識なのか、その部分をどう読み取るべきか、といったところに僕は引っ掛かりを覚えた、うまく判ぜられない、というわけだ。
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 『文藝』06年春号掲載の短編。ある種の欠損を抱えた人間が、その欠損込みの自分を自分として、暗くならず、明るく引き受ける、というモチーフは、『セーフサイダー』あたりにも顕著であったように思うけれど、宮崎誉子にとっては象徴的な一側面であるといえるだろう。〈僕は中学生で喋るのがとても苦手だ〉、何かを言おうとすると吃りがちになってしまう、〈反論する言葉を選ぶよりもあきらめ〉てしまう。だからクラスでもよくからかわれる。隣の席の中谷さんにもからかわれる。それでも〈僕〉は中谷さんのことを考えてしまう。罵られても、喜ぶ。と、〈僕〉の語りはその性格からして、ダイアローグとはならずに、モノローグ的に機能することが多いわけだけれども、しかし、小説内の時間経過がほぼ「かぎかっこ」による会話とイコール、といった、この作家ならではのスタイルがキープされているのは、ここで司会進行役をつとめる〈僕〉が、喋らない人であるかわりに、話を聞く人だからである。つまり、〈僕〉以外の人間がちゃんと饒舌であってくれるからである。それは中谷さんであったり、母親であったりする。そのようにして『ミルフィーユ』のストーリーは動く。が、ストーリーなどといったところで、これこれこうでこう、みたいなドラマが用意されているわけではない。むしろ〈僕〉は、そうしたドラマの立ち現れてこない最中を、まるで傍観者のように、見て過ごす。その視線の先に、ぼんやりとして浮かんでくるもの、それこそがもしかするとエモーションなのかもしれなかった。個人的にはセンスがマッチしないせいで、興ざめするような言葉の羅列も、このぐらいの短さであれば、それほど気にならない、どころかテンポよくするのに役立っている。

・その他宮崎誉子の作品に関して
 「チョコレート工場の娘 不登校篇」については→こちら
 『日々の泡』については→こちら
 「ガシャポン ガールズ篇」については→こちら
 「少女ロボット(A面)』については→こちら
 『セーフサイダー』については→こちら
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 ぼくとネモ号と彼女たち

 『カップリング・ノー・チューニング』が文庫化に際して改題されたものだということは、じつは読みはじめてから気づいた、つまり僕にとっては、数年ぶりの再読になる。率直にいって、『カップリング・ノー・チューニング』のほうが内容には合っている。また『カップリング・ノー・チューニング』という題の秀逸さについては、石川忠司だか神山修一だかが、どこかで書いていた、気がする。たまたまペアになったカップルの、チューニングの合わないことが、作品の要点であるわけだから。だいいち、『ぼくとネモ号と彼女たち』では、まるで『ジョゼと虎と魚たち』みたいではないか。とはいえ、小説ではなくて、映画のほうの『ジョゼ』をひとつのロード・ムーヴィーとして捉まえた場合、この変更は、そのゆるやかな影響下にあると考えてよさそうだ。物語自体は、おそらく『ワイルド・アット・ハート』や『テルマ&ルイーズ』、『トゥルー・ロマンス』といった、それらが60年代あるいは70年代のロード・ムーヴィーへのオマージュになっているような、90年代における破滅型ロード・ムーヴィーに対する一種のアンサーになっている。紋切り型にアメリカナイズされた主人公が、典型的な二人連れの「ここではないどこか」行を試みる、が結局のところ退屈で凡庸な生に帰着する。解説で豊田道倫が〈ああ、こういうわかりやすい行き場のない連中ってあの頃いたよなあと懐かしく思った〉と書いているが、たしかに、95年頃からしばらく続く、停滞と閉塞感を、窮屈な束縛としてではなく、ごく自然な空気として、作品のうちに付着させており、それこそ90年代に大学生やフリーターをやっていた人間あたりには、ノスタルジーさえ喚起させるだろう。ひじょうにJ文学している。初出は97年である。ちなみに車内でかかる音楽はスマパンにペイヴメント、ジョンスペにウータン・クランなどで、『ネヴァーマインド』のアナログにプレミアがついている(要するに、94年にカート・コバーンが死に、ニルヴァーナの価値が変わったことが、言外に語られている)といったところにも、時代性がよく現れている。いや個人的には、当時はそれが露骨にすぎて、ものすごく嫌だった記憶があるのだけれども、時代は流れる。今ならば、赤坂真理『ヴァイブレータ』や絲山秋子『逃亡くそたわけ』などと読み比べてみるとおもしろいかもしれない。

・その他角田光代の作品に関して
 「ロック母」については→こちら
 『酔って言いたい夜もある』についての文章→こちら
 『いつも旅のなか』についての文章→こちら
 『人生ベストテン』についての文章→こちら
 『対岸の彼女』についての文章→こちら
 「神さまのタクシー」についての文章→こちら
 『庭の桜、隣の犬』についての文章→こちら
 『ピンク・バス』についての文章→こちら
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2006年01月18日
 『群像』2月号掲載。僕は、宮崎誉子の描く労働者たちが愚痴りすぎることに、ちょっとね、と感じてしまうタチなので、佐々木敦だったか永江朗だったか忘れたが、宮崎の小説は人の働く姿が良い云々といって褒めていたのを読んだときには、げえ、となってしまった記憶があるのだけれども、この『チョコレート工場の娘 不登校篇』は、学校へ行かない決心をした11歳の少女が、父親の経営するチョコレート工場で働く、その姿を捉まえた小説である。まあ11歳の少女が、大人に混じって働くといった部分からして、ある種のファンタジーになっているわけだが、作中で映画『チャーリーとチョコレート工場』に触れていることから、インスピレーションはそこいらへんではないかな、と推測できる。ところで最近気づいたのだが、僕が宮崎のどこいらに惹かれるかといえば、たぶん、登場人物(おもに女の子)たちのタフさ加減に、なのである。だから翻って、ときおりナイーヴな一面が披露されたりすると、思わず心に染みいったりもしてしまう。そしてそのタフさというのは、あの斜に構えた態度(ダイアローグ)をもって、表されているに他ならない。それが行き過ぎると、先に書いたように、愚痴っぽいよなあ、という反感になってしまうのだが、適度なバランスで決まると、ものすごく効果的だ。で、決まっているかどうかの判断なのだけれども、そのことはおそらく作品の長さと密接に関連している。宮崎の場合、登場人物たちの会話が物語内の時間を進めるため、文量が増えれば、比例して、会話も増える。すると無駄口(すくなくとも読み手にはそう思えるもの)も増加してしまいがちだ。いきおいバランスも悪くなる。この『チョコレート工場の娘 不登校篇』に関しては、やはり、すこし、長い。序盤と終盤、とくに終盤、主人公がイジメに抗うところが良いのだが、中盤やや厳しかった。もちろんクレヴァーな作者は、そうしたスタイル上の欠点に自覚している、だからこそ「〜篇」だとか「〜面」みたいな感じで、ひとつの題材を、長尺にではなくて、いくつかに区切り、パラレルに扱うのだろう。が、しかし。

・その他宮崎誉子の作品に関して
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2006年01月17日
アクアポリスQ

 濡女とは何か? 牛鬼というのは? 津原泰水『アクアポリスQ』は、とある都市を壊滅から救う少年の活躍を題材とした小説である。とある都市という部分は、世界という言葉に置き換えてしまってもいい、と思う。ある程度のアッパー・クラスに属する人間が、必然なのか偶然なのか、世界の秘密と暗部に関わり、トラブルの連続をブレイクスルーすることで成長を遂げる、といった構造は、まさにビルドゥングス・ロマンの王道ではあるのだが、しかし、これが、なかなか、読ませる。サクサクと話の進むリーダビリティの高さはもちろん、量子コンピューターACE、水没都市Q市、巨大人工島アクアポリス、シーチューブ、統治府、SSS、暦としての虚無前と虚無後、ペールとルーラとエンプティ、モンスタレーション、そしてフュージョンなどなど、そのような諸要素の設定がばっちりと決まっている部分も大きいけれど、たとえばある登場人物が「もっともここにおいて、時間の経過は意味を持ちません。偏在する自我に対して、あなたが序列をもうけているに過ぎない」というように、物語の複数性(と東浩紀ふうに言うのであれば)、それが自然なかたちで小説内に取り込まれているからこその、センス・オブ・ワンダーとリアリティが同居している、がゆえに、魅力的な作品となっているのである。また、もうひとつ良質なところを挙げるとしたら、それは、子供の進むべき道を、親がその生き様のうちに、あらかじめ指し示している、といった点になるだろう。そのため、大人になること、つまり経験を積むことが、けっしてネガティヴなものとして機能しない、「信じられる方向に進め」というメッセージは、ひと足先に作られた現実に他ならない、要するに、未来だ。「こうしてアンバランスを増していくことが、大人になるということなのだろうかと、彼は未来に恐怖していた」としても、彼は、エレヴェーターの前に立ち、向かう先を「上」だと、力強く告げる。
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2006年01月15日
 みずうみ

 〈私をあの街につなぎとめようとするものすべてが、面倒くさかった〉。大好きなママが亡くなってから、ちひろ=〈私〉にとっては、唯一パパだけが東京近郊の小さな〈あの街〉との関わりであった。でもパパは、やはり〈あの街〉側の人間で、それは〈私〉の現在ではなかった。いま一人暮らしをしている〈私〉の隣には、中島くんが眠っている。中島くんには不思議な雰囲気がある。〈私〉にはそれがわかる、それに惹かれる、引かれる。しかしそれは、この世ではないところに通じるものでもあった。

 よしもとばななの小説というのは、もはやある種の様式美で、その定型を毎度毎度繰り返し続けることが、ファンと呼ばれるような読み手の人たちを、安心させるのだと思う。肉親の死だとか、象徴的な夢だとか、海外旅行だとか、才能至上主義だとか、子供は産みたくないが、セックス(性交)大好きだとか、田舎への偏見だとか、なのに自然礼賛だとか、スロー・ライフ? いや、しかし、これは、『みずうみ』という小説は、そのなかでも群を抜いて既視(既読)感の強い作品であった。焼き直しというか、過去の作品のパッチワーク的な色合いが、かなり、濃い。ネタ的に手詰まりなのか、偉大なるマンネリズムへの到達なのかはわからないけれども、あれ? あれ? このシーン、べつの小説にもあったよね、といった感じで、読み進めた。とはいえ、ここ最近のもののなかでは、もっとも読後がよかった、すくなくとも僕は、いいんじゃなかしら、これ、と思うのであった。たしかに文章は弛緩しきっているし、全体の構成に関しても、とてもベテランの仕業じゃあないだろう、が、しかし、心に訴えかけてくるものが、間違いなく、あった。いったい、なにが。

 『みずうみ』という物語は、ある登場人物の告白というかたちをとることで、安寧に、閉じられる。告白というのは、ある意味で、内面をでっち上げる仕掛けなのであって、それは、すくなくとも2人以上の要員を求めるし、また、受け入れるほうにも、ある程度のエネルギーを必要とさせる、なので、時と場合によっては、うざい、ということは、タイミングの問題にもなってくるのだが、しかし基本的に、そのタイミングを用意するものは、親密さに他ならない、宗教という職業に徹していないかぎり、親密さのない関係での告白は、シリアスであればある分だけ、やはり、うざい。場違いなのである。逆をいえば、君と僕とのあいだに、親密さのあることで、ようやく、うざい印象は消去される、シリアスであることが許される、というわけだ。親密さのないことは、アパシーであるけれども、親密さのあることは、エモーショナルだろう。

 すぐに「世界、世界」と言い出す、セカイ指向の、余計な装飾のせいで、すこし見えにくいが、シンプルに、経過だけを取り出せば、これは、親密さが、具体的になってゆくことで、理解ではなくて、エモーションが通い合う、そういうお話に違いなく、その夜に、やがて僕が告白をし終えると、君は笑い、紅茶を入れるね、と言った。

・その他よしもとばななの作品についての文章
 『王国 その3 ひみつの花園』について→こちら
 『なんくるない』について→こちら
 『High and dry(はつ恋)』について→こちら
 『海のふた』について→こちら
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2006年01月13日
 ファウスト vol.6 SIDE―B

 SIDE-Aに関しては書きそびれてしまった。が、一言だけ。そのSIDE-Aの、佐藤友哉「レディ」のなかに〈顰蹙という言葉は使わないこと。何があっても、口にすべき言葉ではない〉とあるのを読んで、高橋源一郎のことか、と思った僕は、なんて卑しい人間なんだろう。ま、それはそれとして、SIDE-Bである。個人的には、たぶん相性なのだろうが、新伝綺にはやはりあまり感心を覚えず、むしろ新伝綺組で一冊、メフィスト組で一冊という感じで割り振ってくれたほうが嬉しくもあるのだが、そうすると誌面のヴァラエティの問題とぶつかってしまうのかもしれない。しかし佐藤友哉は、こちらSIDE-Bに収まったほうが、しっくりとくる気もするし、福嶋亮太の批評『小説の循環』(第2回)の内容ともリンクしたのではないか。その福嶋の『小説の循環』だけれども、いや、おもしろい、のだが、やや難しく気取りすぎな気がして、どうだろう、あんがい入り口は狭そうだ、でも、読ませるとは思う。舞城王太郎と西尾維新に関しては、良くも悪くも、危うげなく、それぞれの作家性の生きた小説を書いている。とくに西尾は『新本格魔法少女りすか 夢では会わない!!』がよかった。こういう、メタレベルによじ登って眺める青臭さこそが、僕の望むものであるかもしれなかった。さて。北山猛邦『糸の森の姫君』は、さいしょ、未成年の少女が保護者に虐げられる話か、と思い、もうそういうのはいいよ、と思いもしたのだけれど、ちがった、友情の話であった。いまどき至極まっとうな友情小説として、たかく評価したい。しかし、さすが浦賀和宏にとどめを刺す。

 最悪の読後感だ。

 褒め言葉である。作品の出来不出来ではなくて、内容のレベルで、いっさいの希望がなく、読み終えて、ひさびさに具合の悪くなった小説なのである、浦賀和宏『リゲル』は。この高度な達成にも似た、ふかい絶望は、もはや浦賀にしか為しえない、そういう域のものであろう。どこにも希望がなく、誰も助からない。いや、救いはあるのか。しいて言えば、妄想への陶酔と地上からの消滅がそれにあたるのだろうが、けっして生きていくうえでの救済にならないのであって、そのような意味で、やはり希望のない物語だとしか言いようがない。「お前の死体を全部食うからさ」と登場人物のひとりが口にしたときには、この人は相変わらずだなあ、という余裕もあったのだが、基本的に10歳の少女に感情移入しながら読むでしょ、そしたら最後が、あの有様である。なにも、そこまで書かなくとも。生き残ることこそが、自意識の消去されないことが、まるで孤独であり、悲しみのようではないか。と、『リゲル』は、同作者の獣シリーズ3話目にあたるわけだが、1話目と2話目と同じように、世界から切り離された閉塞した状況を、小さく切り取られた世界そのものとして機能させている、しかし、その小さな世界の住人たちは、大きな世界のほうへは関与できない、丁寧に作りあげられたミニチュアというか箱庭ふうの世界が、現実の圧力の前に、跡形もなく、叩き潰される。無力さのなかで嘆くことは、結局のところ、無力でしかないのである。これ、元ネタは藤子・F・不二雄の『絶滅の島』じゃないかな、違うかな。ところで高河ゆんのイラストなのだが、あきらかに描かれている豚のサイズが、本文中の記述と違っているのだけれども、それを指して、イラストーリーというのだろうか。謎である。

 VOL.5についての文章→こちら
 VOL.4についての文章→こちら
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2006年01月12日
 ああ、顔文不一致

 勢古浩爾は、おもしろ文章という芸にこだわっているのだろうが、僕はちょっと苦手である、言い分がではなくて、文体が、である。である、である、が勢古の持ち味である。どうでもいい情報である。と、すこし真似てはみた。さて、と。「顔文」とは、もちろん「言文一致」の「言文」をもじったものであり、「顔文一致」というのを最初に使用したのは、勢古によれば、未確認ながら、亀和田武であるらしいが、そういった書き手の見た目と書かれた文章の因果関係を問うよりも、ここでは〈その顔でその文か、その文でその顔か、というようなことを云々〉している。まあ新書だからというのもあるけれども、エッセイみたいな内容で、真面目くさって読むものではないない、これは、と思いつつ、読み進めた。だいたい、ルックスと文章のあいだにある緊張に後期の三島由紀夫は意識的であった、それが〈でた、三島由紀夫〉の一言で済まされているのは、ひどい、が、たぶんそこが笑いどころなんだろう、とすれば、はいはい、といった感じだろう。とはいえ、ところどころクスリとしたりもする。渡部淳一を扱き下ろす箇所は、あまりにもステレオタイプなので退屈だが、保坂和志の揶揄というのは、すくなくとも僕はあまり見かけないので、ちょっと可笑しかった。勢古は〈自治会の集まりなんかにいくと、いるよねこういうおじさん(略) ただこういう人が怒るとけっこう怖いのである〉と書いていて、そこで僕が笑ってしまったのは、すこし前に保坂が『新潮』の連載(「小説をめぐって」)で、パソコンの調子が悪いのでメーカーにクレームをつけた自分の行動を義憤だ、と宣っていたのを思い出したからである。ははは。たしかに自治会にいそうなおじさんなのだった。ところで勢古は、石田衣良の文章に見かけられる体言止めを洒落ている、という。しかし僕はといえば、あの体言止めこそが、気持ち悪くて、駄目である。そのあたりは、技術(に対する理解)の問題なのか、それとも好みの問題であるのか、すこし気にかかった。また勢古は、舞城王太郎の文章は、よく出来ているが、飽きる、それというのは結局、話し言葉における隠語(ジャーゴン)を書き言葉にしたに過ぎないから、だというのだが、うーん、それはどうだろう。ずっと以前の『群像』の、創作合評のなかで、舞城の書く話し言葉は、じっさいの話し言葉からすこしズラしてある、その力点の置き方について、川上弘美だか誰だかがすこし語ったことがあった、たしか大塚英志も何かの論でそれを参照していた気がするのだけれども、とここまで書いて、あ、ちげえや、あれは話し言葉じゃなくて、ネット用語に関してだったか、と気づいたら話に収集がつかなくなった。
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2006年01月10日
 『すばる』2月号掲載の短編。もう何度も同じことをいっている気がするが、このごろ生田紗代がいい、のである。これが褒め言葉になるかどうか知らないけれども、まちがいなくポスト角田光代の最右翼だろう、と思う。さて『雲をつくる』である。〈私〉は、風邪で寝込んでいる受験生の弟のために、とはいっても、母親に無理強いされたからなのだが、大学を休んで、家電量販店に行き、加湿器を買ってくる。昼食にサンドウィッチも作ってやる。しかし弟の熱は下がらず、むしろ上がる一方で、午後になり、仕方がなく、近所の病院へ、父親の車を運転して、連れて行くことにした。弟が、念のためということで点滴を打ってもらっている最中に、ふと〈私〉は、自分が苦手な人たちのことを考えていた。彼らは一様に、男と女の違いに、こだわるタイプだった。ところで生田という作家に、じっさいに弟がいるのかどうか興味はないが、姉と弟のあいだにある距離感に、じつに雰囲気があり、そのやり取りをイメージすると、なんだか、すこし、ニヤニヤとしてしまう、そのことで、やわらかなトーンが、文章のうちに、芽生える、取っ付きにくさが軽減されるのである。たしか、ここでは触れなかったと思うが、以前どっかで読んだ、眼鏡の話の姉弟もよかった。それはそれとして。短い話なので、逆に、要点を引くのが難しいが、〈私〉が次のように内省する、〈私の意識から成り立つ世界と、そうではない世界。その二つは、完全とまではいかなくても、大部分は一致するものだと思い込んでいた〉という部分が、ひとつ、キーなのだろう。これは、人と人は絶対に解り合えない、という断絶線のように、くっきりと浮かび上がった思考ではなくて、ぼんやりとした思いつきに似ている。そうしたギャップの明瞭ではないことが、ある場合には、登場人物の行動を束縛する。もちろん、その束縛自体も、原因と結果の名指せないことから、不明瞭であるがゆえに、ただ溜め息程度の、たあいのない孤独を描くに過ぎない。しかし、そのたあいのなさが、なぜか引っ掛かるのだ。なぜだろう。と、曖昧な輪郭の疑問に、手を伸ばしては、さっと引っ込めてしまう、この小説自体が、まるでそういう所作のように思える。そして、それはある意味で、生田のこれまで書いてきた作品の多くに内包されているものだともいえる。

・その他生田紗代に関する文章
 「なすがままに」について→こちら
 「まぼろし」について→こちら
 「タイムカプセル」について→こちら
 「十八階ヴィジョン」について→こちら
 「ぬかるみに注意」について→こちら
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 デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

 「序文」にて仲正昌樹本人がいっているように、これは、あの偉大なる(!)思想家ジャック・デリダについての、ガイドという役割を、そもそも負っていない。では、なにが書かれているのか、シンプルにいえば、「生き生き」とした言葉に傾倒する人々への批判である。「生き生き」とした言葉と、そうではない言葉の対比を、デリダがいうところのパロールとエクリチュールの関係にかけ、そこから『デリダの遺言』という題名が、あくまでもアレゴリーとして引っ張り出されている。とはいえ、第二章と第三章は、クセのある現代思想入門ふうに、読めなくもなかった。クセというのは、つまり、さいきんの仲正に特徴的な、ところどころに牽制を噛ませる(――を多用する)文体のことであって、それを差し引いてみると、哲学やら現象学やらの簡単な知識の整理には役立つ、のかな。

 ともかく。それでは本題である、仲正の批判する「生き生き」とした言葉とは、いったいどのようなものを指すのか。ものすごくシンプルに、僕なりにいうと、それを耳にした(目にした)人間が、感情移入しやすく、その過剰な共感でもって、啓蒙という名の錯覚をもたらし、すぐさま判断停止に陥らせてしまう、そういう類の物言いのことである。自分を利巧だと思う人間は、自分の考えや言葉こそが、死んでいない、生きているものだと考える、だから、自分と違った考えの持ち主がいう言葉は、逆に、生きてはいない、死んでいると考える、しかし結局のところ、それは二項対立にしか過ぎないのであり、二項対立は、互いが互いを敵対視しているという限りにおいて、じつは相似形である。その相似に無自覚であること、あるいは、自分以外の考えが生きうる可能性をすっかりと忘却してしまっているという、そのような傲慢や怠慢に対して苛立つあまり、仲正は、だったら自分の思想は「生き生き」としていなくていいよ、と言い放っているように思えた。

 しかし僕が気がかりなのは、もしかすると世のなかには仲正の文章をこそ「生き生き」としたものとして見る人もいるのだろうな、ということである。そうならないための予防線を、仲正は、この本でも、あちこちに引いているように感じられるが、それでも仲正の言葉を読み(聴き)、ああこの人の言っていることわかるわかる、と、のめり込んでいったり、そこまででなくとも、影響され、フォロワー化してゆく人間というのは、たぶん、いる。だから重要なのは「生き生き」としているかしていないかではなくて、P143で仲正が〈現実が「生き生きしていない」と指摘することと、「生き生きとした真の現実」を求めることのあいだには大きな開きがある〉といっているように、ある文脈に身を寄せるにしても、ある文脈を警戒するにしても、その判定を、オートマティックにパターン化してしまう、お粗末な安直さだけは斥けようとする、そういう緊張のある態度ではないだろうか。

・その他仲正昌樹に関する文章
 『なぜ「話」は通じないのか――コミュニケーションの不自由論』について→こちら
 『ポスト・モダンの左旋回』について→こちら
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2006年01月08日
 砂漠

 獲得も喪失もない時代の、すばらしき青春と友情を、この作者ならではの様式美により、安寧に紡ぎ出したのが『砂漠』という小説である、と、ありていにいえば、そんな感じだろうか、しかし、僕には、これはちょっと、あまりにも弛緩しきったお話であるように思えた。だいいち、物語の核となる登場人物たちが、ずいぶんとひねているわりには、あんがい物わかりがよく、そのひねているところも含めて、じつは素直なのであり、まったく感情移入ができない。そのことが物語自体のゆるみにも作用してしまっている。これまでの伊坂幸太郎の作品を、僕は、まあ時と場合によるとしても、それまでそっぽを向いていた登場人物たちが、物語の展開上、やむを得なく連帯する、といったラインで捉まえていたのだが、ここでは逆に、登場人物たちの身勝手な道理を盛り上げるためだけに物語が存在する。言い換えれば、登場人物たちが物語に奉仕するのではなくて、物語が登場人物たちに奉仕しているのである。その結果、お約束の強度がつよまってしまった。ドキドキとハラハラは、せめて予定調和程度のものに過ぎない。そりゃあ大学時代などといえば、大仰な目的やテーマのないことが、その生活の醍醐味であるのだから、そのようになるのは仕方がないといえば、そうなのだろうけれども、そういった中途半端な認識を、ファンタジーに適用する手つきのぞんざいさが、細部の積み重ねを、時間進行の装置以外には働かせない。語り手である〈僕〉が、いくどとなく示す〈なんてことは、まるでない〉という決め台詞は、いわばキューである。〈なんてことは、まるでない〉という響きは、やはり、いっけんひねくれている。直前の(じつに村上春樹的な)センテンスに対する否定になっているのだが、しかし、その言葉をきっかけとしてやってくるのは、ご都合主義的な時間の短縮だろう。つまり、語り手の思ったとおりに物事は運びませんでしたよ、という意味合いを過分に含むことで、そのあとにおける馴れ合いというか、済し崩しの進捗を、読み手に対し、暗黙のうちに納得させようとする仕掛けに他ならない。もちろん、それをアイロニカルな処理として捉まえる向きもあるのだろうが、いや、そうではないだろう。だいたいアイロニーだとすれば、語り手であるところの〈僕〉は、いったい作品世界におけるどの水準から、それをいっているのだろうか。その点が、ひどく不明瞭なのである。共感がすべてなんだ。って、まさか。結局のところ、そういったことの綿密に設定されていない、審級の無自覚さに思い当たれば、いささか興が削がれてしまうのであった。

 (↑思うところがあり、大幅に書き改めました)

・その他伊坂幸太郎の作品に関する文章
 『呼吸』について→こちら
 『死神の精度』について→こちら
 『魔王』について→こちら
 『グラスホッパー』について→こちら
 『チルドレン』について→こちら
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 ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937

 なにを書けばいいのか迷ってしまうが、第一部を読みながら、人の心を苛む最たるものは、やはり恋愛なのではないかな、と思う。『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記 1930-1932 / 1936-1937』という題名に、あるいは「編者序」にあるように、これは、ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタインが1930年から1932年そして1936年から1937年にかけて書いた日記を、再現したものである。

 僕の記憶や計算が間違っていなければ、『論理哲学論考』が編まれたのがたしか1918年で、それはウィトゲンシュタインが29歳の頃であるから、1930年に彼は41歳のはずである。

 そのときウィトゲンシュタインは、マルガリータという女性に恋をしていた。すくなくとも〈私は彼女を愛している、あるいは愛したいと願っている〉と日記に書き留めるぐらいの気持ちにはなっていた。もちろん、そうしたことは、ウィトゲンシュタインの思考を追う際には、さして重要な部分ではないのかもしれないが、しかし、1931年11月7日の箇所にあるような、絶望に対する見解は、マルガリータへの想い抜きには、到達しえなかった域だろう。ある意味において、この本のなかで、もっともエモーショナルなところである。哲学と宗教に関してということであれば、それはむしろ第二部以降、顕著になってくる。

 ところでウィトゲンシュタインは、いくつかの場面で、自分の視た夢について、事細かに綴ろうとしている。夢というものは、基本的に、断片的なものであり、言葉で、ストーリーとしてすくいとるのは、難しい。その抽象性は、もしかすると〈私の本『論理哲学論考』には素晴らしい真性の箇所と並んで、まがい物の箇所、つまり、言ってみれば私が自分特有のスタイルで空所を埋めた箇所も含まれている。この本のどれだけがそうした箇所なのか私にはわからないし、今それを公正に見積もるのも困難である〉といった言い分に通じるものだという気がしないでもない。

 あるいは、そのようなものの集積として、この『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記 1930-1932 / 1936-1937』はあるのかもしれず、言葉足らずであるがゆえの難解さは、だから『論理哲学論考』がそうであったように、まあ、アフォリズム群における効果的な効果をもたらす、けっして聡明な人間ではない自分が、あたかも聡明な人間であるかのような、錯覚した、そういう気分にはしてくれる。
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2006年01月06日
 はなうた日和

 山本幸久のものははじめて読んだ。きっかけは、この作家のことを、けっこうあちこちで北上次郎が褒めていたからである。たいがい他人が褒めているものは貶したがりになる、いやなタイプの読み手である僕だが、あ、これは、よかった、へえ、と思う。ぜんぶで8編、世田谷線沿線を舞台にした、短い、小品と呼べるようなお話が並んでいる、それらは薄く浅く連関している、年齢はさまざまな、市井の人たちの、何気ない、日常のワン・シーンを切り取ったものである。泣ける、という深い感動ではなくて、ほっとして溜め息をつくような、そういう快い情景を、活字のなかでのやりとりが、想起させる。そうね、今日は『はなうた日和』だった、そんな感じのハッピー・エンド群たち。たしか書評などで北上は、「意外な兄弟」における、まずいカツカレーを出す喫茶店の場面をピックアップしていた気がするが、なるほど、というか、この人は、料理の、その背景にある生活感を物語へ組み込むことが巧いのかもしれない。たとえば「犬が笑う」での、ひとりの女性が、一人分のカツ煮を作るところ、あそこでの孤独が寂しすぎずに書かれている、そういう自然な進行がよろしい。だからラストで開くドアを過剰にドラマティカルにしない、控えめに上昇の機運がやってきたものとして、こちらは受け入れるだけである。押しつけがましくないのだ。また一方で料理は、幸せ家族のイメージだろう。「五歳と十ヶ月」で、その欠損は、トンカツを揚げる油の音程度の飛沫として、ささやかに、はねる。夢想は、いつだって心地よく、かなしい。個人的には、無気力な青年が主人公のエピソード「コーヒーブレイク」が、いちばん感情移入しやすいのだった。そこで主人公が出会う、千倉さんの人となりが、なんともいえず、ムズムズとする。千倉さん、最後の「うぐいす」にも登場するけれど、抜けているが、あんがい良い人である。
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2006年01月04日
 テロの社会学

 本書『テロの社会学』は、佐伯啓思と大澤真幸の3度にわたる対談をまとめたもので、いちばん最初の部分は、九・一一テロの1ヶ月後、つまり01年の10月に行われている。「予言者と大統領」と付せられた、その章タイトルは、今日におけるカリスマの姿を示唆している。佐伯は、ビン・ラーディンとブッシュ、ふたりの指導者の立ち位置から、ふたつのタイプのカリスマ像を抽出する。前者は、イスラム過激派を象徴し、後者は当然のように、西洋近代を代弁している。大澤は、そこからさらに両者の差異を突き詰めてゆく。2種類のカリスマは、ある意味で、異なるふたつのテクスト、つまりコーラン(イスラム教)と新約聖書(キリスト教)をベースにしているふうに見てとれる。そして双方における、超越と内在のあり方の違いを、大澤は、次のように、いうのである。イスラム教は、超越的な起源を共同体の外側に保持し、その啓示を、特殊な通路(使徒)=マイク=マホメット(ムハンマド)をつうじて、共同体のなかにもたらすわけだけれども、対してキリスト教の場合、超越性が人間の内側に内在してしまっている。新約聖書は、キリストという対象を見聞した、さまざまな立場の人間によって編まれたものだからである。キリストの言ったことがそのまま書かれているわけではない。要するに、神の言葉がテクスト化されているのではなく、あくまでも作者のうちにある言葉がテクストとなっているのだ。人間界の外部に存在する超越性は摩耗することがないが、人間界に内在する超越性は、システムのダイナミズムにより、摩耗する。ブッシュ大統領の、あのもはやカリスマなのかそうでないのか判然としない佇まいは、もしかすると超越性の消耗しきった姿なのかもしれない。またそれは同時に、民主主義や資本制の内部において、すべての合理化が目指される、近代社会の徹底とパラレルだともいえる。小泉や、たとえばオウムの麻原なども、じつはそのいちヴァリエーションに過ぎなく、取るに足らない詰まらない人物、ほんらいカリスマの否定であるような人がカリスマになってしまう、そういう転倒に現代の特徴を捉まえる。そして〈人物の問題ではなくて現代の民主主義というもの自体がカリスマを要求する。カリスマを生み出せないにもかかわらずそれを待望する。しかしほんとうの意味でのカリスマが存在しうる時代ではないから、パロディとなったカリスマしか設定できないという悲しい状況ですね〉と佐伯はいう。

 その3年後、05年に成立した対話が第2章「テロの社会学」である。そこではデモクラシーという枠を論じるにあたって、けっこうきっちりと佐伯と大澤の、思想(政治)的な振る舞いの違いが、浮かび上がっている。両者の言い分は、それぞれの単著『自由を考える』、『文明の内なる衝突』に詳しい、佐伯ならば「義」というアイデンティティへの保守的回帰で、大澤ならば「喜捨」を含め偶有性への積極的なコミットメントのことなのだが、ふたりとも基本的に、テロの正統性(レジティマシー)を否定しないというところから、話をはじめている。それを始点とし、テロに相対する側の正当性が、なにを根拠に置かなければならないのか、を探り当てようというわけである。そうして、じつは原理主義者を排除してゆくような、多文化主義のうちにある、承認に関わる欺瞞を、問題視するのであった。デモクラシーのなかに収まりきらない思想や、あらゆる承認から完全に疎外される人々が残ったとき、そこからテロリストが生まれうるのだ、と大澤はいい、佐伯は、レオ・シュトラウスの説明を借り、相対主義とは、要するに、他人に関心を持たないことであり、ある種のひきこもり的な心情として、自己を防衛することである、そうしたものとは違う多元主義をどうやって打ち立てるか、それが難しいとする。

 3度目の「ポストモダンの行方」は、本書に収録するために執り行われたもので、ここではもう九・一一におけるテロといった具体的な話はしていないのだが、そこから進んで、現状どのようにして我々が次のフェーズに進んでいくべきか、が模索されている。そうした点において、佐伯と大澤の意見は、やはり必ずしも一致するものではないけれども、結果からいえば、今やアメリカ主導のルールは限界に到達しているので、それに則っているだけでは駄目だ、では、さてどうしようか、という部分が要点になっているふうに思える。大澤は〈選択とか自由といったものの純粋性を保ちながら、この閉塞を克服する方法があるのではないか〉と考える、対して佐伯は〈一方にポストモダン状況があって、他方に原理主義が出てきてという二重性をどうするかが問題〉なのだが〈ただその場合、この二重性は別々に出てきて対立しているのではなく、一つのものから生み出された〉、そしてそれは〈近代主義の無条件な肯定と普遍化の帰結〉には違いなく、だから〈それに対する歯止めとしての保守主義〉というスタンスをとるというのである。〈ポストモダンは大きな物語を否定しているって言うけれども、ポストモダン自体が一つの物語を引きずっている〉という、佐伯のポストモダン批判は、わかりやすく、おもしろい。個人的には、東浩紀の「動物化」というタームを用いながら、環境管理型権力について論じた前半部、今日においては自由であることが抑圧であると感じられるという、いつもの大澤の見解に、佐伯がいくつかの鋭い指摘をあわせる、そこに、なるほど、と思うところもあった。

・その他大澤真幸に関する文章
 『思想のケミストリー』については→こちら
 『現実の向こう』については→こちら
 『帝国的ナショナリズム 日本とアメリカの変容』については→こちら
 『性愛と資本主義 増補新版』については→こちら
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