![SUPER JUMP (スーパージャンプ) 2008年 6/11号 [雑誌]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/61K%2BJcfnNNL._SL160_.jpg)
しばし誤解されがちであるが、典型的なヤンキー・マンガとは、結局のところ、モラトリアムをどう描くか、の、いちフォーマットにほかならない。このような考え方に立つとき、作中人物たちの多くが、無事に高校を卒業できたとしても、しかし大学に進まない、あるいは就業や結婚を理由に暴走族を引退してゆくのは、方法論的な問題にすぎないことがわかる。それはすなわち、モラトリアムの終焉を意味するからである。もちろん、そうした構造上の力学をリアリズムにそくしていると解釈することも可能だろう。実在のヤンキーだって皆そんなもんでしょう、と。だが、そう言ってしまったが最後、ヤンキー・マンガの大部分が、ドキュメントとして成り立っているのではなく、あくまでもフィクションであることの魅力に説明がつかなくなってしまう。もちろん、たとえまったくの虚構であったとしても、生きたフィクションは、自然と、生きた現実に隣接する。要するに、ヤンキー・マンガの質は、(スポーツであれ恋愛であれメインの題材は何であれ)他の青春をモチーフとするほとんどのフィクションがそうであるように、モラトリアムの内部で起こる出来事を、どれだけ満ち足りたドラマに仮構できるかにかかっている。『ギャングキング』を代表作に、今や人気作家になりつつある柳内が、その好評ぶりを買われてか、『スーパージャンプ』NO.12(先週ぐらいに出たやつね)に発表した『オヤジガリガリ』は、かつて伝説のヤンキーと呼ばれた主人公が、39歳の現在、おやじ狩りをするような卑劣漢に育ってしまった息子と、いかにして向き合うべきか、を描く。父親の立場から見られる社会や家庭内の問題が題材である以上、先に述べた意味において、その内容は、決してヤンキー・マンガにはならない、なるはずがない。にもかかわらず、ヤンキー・マンガの方法論に基づくイディオムを、モラトリアムの外部に持ち出し、その本質を問うこともなく、無自覚なまま採用している(自覚的であったとしても、「想像力」という語の現れ方が、まったくのヤンキー・マンガである『ギャングキング』に比べ、ほとんど発展させられていない)ため、結果的に失敗している。つうか、挙げ句、ポエム・オチかよ。いやまあ、ポエム・オチ自体を悪くは思わないのだが、こういうふうに、作品のテーマとエモーションとを全部代弁させてしまうのは、あまり感心しない。
『ギャングキング』
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『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一)
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『ドリームキング』
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1巻について→こちら