ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年05月20日
 群像 2008年 06月号 [雑誌]

 『群像』6月号掲載。第五十一回群像新人文学賞に選ばれた松尾依子の『子守唄しか聞こえない』は、海と山のある地方都市を、一個の世界として見、その閉塞に違和感を覚えながら生きる女子高生を語り手に置いた小説で、まあ概要自体は、女性作家によるライトノベルやケータイ小説にもしばし見かけられるものであるし、要するに少女マンガ的といおうか、少女文学的といおうか、とにかく、そうしたナイーヴさを土台にしており、家出や自殺などの作中で起こる事件も含め、注目に値する部分はすくない。しかし作者が、それについてけして無自覚ではないことは、次のような一節からうかがえる。〈この光景に、妙な既視感を覚えた。こんな風に複雑な気持ちで自分達の行く末を話し合う若者を幾度も見てきた気のするこの既視感の目線は、しかし私のものではないだろう。幾度も繰り返されてきた普遍的なこの一場面を通ってきた、先人達の目線だ。/ そうした大きな目で見れば、特別なものなど何もない、手垢にまみれた一場面ではあるが、それでも私たちは繰り返さなければならない。打ち砕けては引いてゆき、また打ち返す波のように、自分も波の断片となって繰り返す他ない。何度となく続いてきたリズムの一端を担うだけのことだが、それでも、自分たちとしてはたった一度の当事者としての緊張を味わいながら〉。つまり、こうした〈特別なものなど何もない、手垢にまみれた一場面〉でありながらも〈自分たちとしてはたった一度の当事者としての緊張〉が、いかに描写されているかが作品の重心にあたるわけだが、それを出来事のほうにではなく、あくまでも〈私〉という自意識に寄り添わせるような書き方は、そこが純文学っぽいとすればそうなのかもしれないけれど、やや怠い、とはいえ、その〈私〉である主人公の美里の自意識に、彼女のクラスメイト真沙子の存在が深く絡んでくる中盤は、なかなかにスリリングで、引き込まれる。たぶん、〈私〉の認識にそって成り立つ作品のなかの関係性が、はっきりとさせられている箇所だからだと思う。恋人であるタイラと三人の男友達に囲まれているとき、彼女は、性差を条件とする隔たりを逆手にとって、自己を理解している。〈私〉は彼らとは違う、彼らとは違うからこその〈私〉なのである。だが、ここにもう一人、女性が加わり、四対二の関係になるとすれば、まさしく四対一であるがゆえに得られた単独性は失われてしまう。もちろん、そうした四対一の関係における一の側が、誰とでも入れ換え可能なものであったとしたら、なおのこと自他の区別は曖昧化する。このような事実への畏れが、美里に、真沙子に対する不快感を与えている。反対に、真沙子の登場と接近は、タイラの彼女という立場からゆるやかに女性性を行使し、自分に都合のいい立場を、意図的につくり出している美里への批判ともとれる。たとえば、もしかすると書き手や語り手の性差の問題なのかもしれないけれど、白岩玄の小説『野ブタ。をプロデュース』が、他人をプロデュースすることで狭く残酷な世界を生き抜こうとする作品であったとしたら、『子守唄しか聞こえない』は、セルフ・プロデュースによってそれを為そうとした作品だと解釈することも可能だろう。それにしてもなあ、作中人物たちが住んでいる地方都市に、田舎というわりに田舎の住みづらい感じ、環境があまりよく出ていないのには、いちおう温泉街の周辺で駅前は開発されているとの説明は為されている(そりゃあ東京にくらべれば、どんなに発達した郊外だって田舎になってしまう)ものの、もうすこし、舞台をそこにする必然、リアリティがあって欲しかった。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(08年)
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