ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年10月31日
 舞城王太郎の短編集になるのかな。ほとんどが以前に読んだことがあって、あらためて読んだ感じとしては、「みんな元気。」がまあ良い、「我が家のトトロ」がまあまあ、「矢を止める五羽の梔鳥」がいまいち、「スクール・アタック・シンドローム」がけっこう良い、といった感じ。で、ここでは書き下ろしである「Dead for Good」について、書き留めておく。

 主人公の「俺」の友人は、いま海外にいる。彼はテロリスト狩りを行うサディストで、「俺」に死ぬべきだと思われている。過去に、友人は、ただ関係性のためだけに「俺」を痛めつけたことがある、現在の「俺」はそのときの後遺症とともに生きている、しかし、そのようにして生き残っていることは、もしかしたらただの妄想なのではないかとも感じているのだった。

 いろいろとあるが、大きなところで3点ほど、気づいたことを。

 ひとつは〈物語って、物語たくさん読んでないと、物語って何だっけ?ってところから始まってしまってにっちもさっちもいかなくなる〉と「俺」が考えるのは、つまり舞城の、自分の参照項に対するスタンスを表している、ということ。これはもしかしたら、最後まで読まなくても参照項がわかればそれがどのようなものかわかる、といってしまう大塚英志に対する遠まわしな批判(言い訳)なのかもしれない。

 もうひとつは、知り合いが飼っている犬がいなくなって、「俺」がそれを探す場面があるのだが、そこで「俺」は自分が犬ならば、3時間ぐらい探して見つからなかったぐらいで諦めて欲しくない、と思い、夜中の3時まで探し続ける。ここでの「俺」の感情は「待つ」「待たれる」でいったならば「待つ」ほうに傾いているということ。「待つ」という行為は、なにも(何かが)やって来ていない、そういう時点でしか行われない。つまり、「俺」が生きているのは、結局のところ、プラスもマイナスもない、ゼロの場所なのである。

 あとひとつ、村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』で暴力を、「僕」が謎の男に振るうバット、そしてノモンハンでの皮剥ぎ、そのふたつに象徴的に表している。これは参照項の話とも繋がるのだけれど、「Dead for Good」は、どことなくそれをトレースしているように思われる。「俺」は包丁を握り、バスタブのなかに座り、ドアを叩く男を刺し殺すことを夢想する、「俺」の友人は南米で犯罪組織への見せしめのために子供の体を切り刻む。ただ『ねじまき鳥クロニクル』には、やがて発動するものとして暴力が現れるのだけれど、舞城の場合は、あらかじめ暴力が発動している世界から、物語がはじまっているのだった。


 んーなんかグダグダだな。こういうことは「はてな」のほうでやろう。明日からはもうちょいサクッとしたレビューを心がけるように。
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
ブログって、若いオネエちゃんが今日食ったメシの話とかをひたすら書いてるみたいなイメージあったけど、このブログをみてイメージ変わりました。

これから愛読します!!


Posted by 未回収のイタリア at 2007年01月08日 21:21
いやいやどうも、はじめまして。
今後ともよろしくお願いします。
Posted by もりた at 2007年01月09日 18:08
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