
『ネコソギラジカル』というほどには根こそぎでもラディカルでもなかった、西尾維新の戯言シリーズ完結編は、要するに、青春=モラトリアムの終焉を背景に、「ぼく」が「ぼくたち」になる過程を描きつつ、非日常が日常化することで生成した、終わりなき非日常をその大人になった「ぼくたち」が引き受けるといった体のエンディングを迎え入れたのであった。
いや、しかし、語り部であるところの「ぼく」は、「いーちゃん」というニックネームを持つことで、当初は作者西尾維新自身をも想起させた、そういう意味で、物語のメタポジションに位置するキャラクターであり、その彼の宿敵として現れたのが、やはり物語の因果律から外れているという意味合いではメタポジションに値する男であったのは必然だといえるわけだが、そのふたりが、つまり物語内に居場所を持たない人間が、最終的に物語に組み込まれることで、ついに居場所を獲得するという落着は、すこしばかり安全すぎる気もした。
裏を返せば、こうもいえる。キャラクター設定の強さに、物語は完全に負けていたのだけれども、その強いキャラクター設定をも取り込んでしまうほどに、物語を成り立たせるようとする力は、強い。また作品内で言及されているとおり、物語は世界とほぼ同義だと見なして良い。とすれば、ああ、だから「世界って、終わらないじゃないですか」ということである。
あるいは、そういった事実に対する違和感こそが、「ぼく」を動かしていたものではなかったか。それこそが、この戯言シリーズの始点であったような気もする。もしもそうであるなら、世界は何も変わらないが、「ぼく」は変わった、成長した、その何も変わらない世界で、呪われ続け、戦い続けることをも厭わなくなった、なるほど、そうした姿形のとられたことで、全体が丸く収まっているようには見える。
が、すべての読み手を満足させるものではないのだろう。「第二十三幕」からエピローグである「終幕」までに流れる4年という歳月は、おそらく小説外の時間、要するに『クビキリサイクル――青色サヴァンと戯言使い』刊行から『ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言使い』刊行までの歳月に対応している、その間をもって、「ぼく」と同程度に成長した読み手は、たぶん、ほとんどいないからである。なぜなら、たいていの場合、モラトリアムの慰みとして必要とされたがゆえに、戯言シリーズは、新青春エンタと冠されるに相応しいものでありえたといえる。
さて。僕という読み手が、一貫して、この作者に見ているテーマ、もしも唯一無二のものがあるとしたら、それはいったいどのようにして代替不可能として判定されるのか、という部分についてはどう応えているか。シンプルにいえば、次のように受け取れた。オルタナティヴが必要とされる結果として、オリジナルはオリジナルでありうる。君の替わりがいないということは、君によく似た人を探し続けることで実証される、結局のところ君の替わりはいないがゆえに、君の替わりはいない、というわけだ。作中にトポロジーという言葉が頻出するが、じつはそれは、トートロジーの間違いなのではないだろうか。
印象のみを簡単に書き連ねてきたが、最後に、読んでいるうちに泣けてきて困った場面が数カ所ほどあったことを付け加えておきたい。具体的にどこかは記さないけれども、素直にいいシーンだと思うし、その際に、まだまだナイーヴな自分がいることを再確認した次第である。
『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
・西尾維新その他の作品に関する文章
『ひたぎクラブ』について→こちら
『トリプルプレイ助悪郎――最終回「終落」』について→こちら
『トリプルプレイ助悪郎――第五回「五々」』について→こちら
『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
『ニンギョウがニンギョウ』について→こちら
『コドモは悪くないククロサ』について→こちら
『タマシイの住むコドモ』について→こちら
『ニンギョウのタマシイ』について→こちら
『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
『新本格魔法少女りすか』について→こちら
『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
