ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年10月30日
 宮台真司と宮崎哲弥の対談集の第3弾で、連載も長く続くと、馴れ合いみたいなものばっかが目に付く、ところどころでは納得させられる部分もあるんだけど、全体を見通すと、ずいぶんととっ散らかった印象だなあ。正直、この人たちの問題意識がどこにあるのかが掴みづらい。もちろん僕が頭が悪いというのもある。

 僕の印象だけを適当に書き散らす。

 ものすごくシンプルに考えるならば、ネットワークの問題なんだと思う。家族や社会、政治や経済、恋愛やサブ・カルチャー、すべてがある種のネットワークだといえる。ネットワークは、ある根拠と近しい根拠、あるいは、ある根拠とまったく違った根拠を繋げる。だけど、根拠自体がほぼ失われている場合にあっては、ネットワークはどのように機能するのか、または、機能しないのか。
 
 それと、こういった人たちが、サブ・カルチャーについて何か話す必要ってほんとうにあるのかなあ。問題意識を持たせる、わかりやすい入り口として利用するのは、わかるんだけど、間違ったサブ・カルチャーの知識は、ただ混乱しか呼ばないと思う。

 で、なにが間違ってるかというと、要するに、この人たちのサブ・カルチャーって、90年代抜きのサブ・カルチャーでしかない。青山真治がゲストで出てくるところがあって、青山が、90年代をいつまでも引きずっていてもしょうがない、ということを言っていて、これはたぶん、よしもとよしともが90年代に、閉塞感みたいなことをずっと言ってても仕方ない、と言ったことと同じような意味なんだと思うんだけど、どうもそのあとの話の展開が90年代はナシにしようみたいな感じになってて、いや、90年代は前提として置いておいて前に進んでかなくちゃいけねえんじゃねえか、と思う。

 それはつまり、こういうことでもある。宮崎が「まえがき」で、川で子供が溺れていたら損得は抜きで助ける、という例え話を出してるんだけど、じゃあさ、もしかしたら助けようとする最中に命を落とすかもしれない、さらに、その川で溺れている子供と同じ年齢の子供が自分の家族にいたとしたら、ほんとうに、川に飛び込まなければならないのか、という問題があって、それなんかも要するに、小林よしのりが「個」と「公」とかって90年代にやっていたことだと思う。それもナシになってる。

 僕が90年代に関心を持つのは、90年代に提出されたいくつかの問題って、ぜんぜん解決されていなくて、00年代っていうのは、なんだかその繰り返しのように感じるからなのだった。

 最後にもうひとつ。宮台と宮崎は、天皇だけは入れ替え不可能という前提で話を進めているんだけど、最近の風潮では、たぶん天皇も入れ替え可能だと思ってる向きも増えてきてるんではないか。そこで入れ替わる際に、根拠になってくるのは、皇室という名のネットワークなのではないだろうか。つまり、ネットワーク自体が根拠化してるという反転みたいなものが、どっかにある。

 と、ものすごくグダグダで、申し訳ない。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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