ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年11月02日
 ホーリーランド 11 (11)

 所詮、ひとりで生きて、ひとりで死ぬ、がゆえに、誰かに期待なんてしないし、誰からも期待なんてされない、どこにも居場所などない、として、なぜ神代ユウは、ある種のスモール・サークルであるような路上にこだわるのか。このマンガ、森恒二『ホーリーランド』の本分は、ヤンキー・マンガ風バトルのなかに、「ぼくっていったいなに」的な自意識の堂々巡りを組み込んだ点にある。そのため、戦いに勝利することで承認欲が満たされる式の展開は行われない。むしろ主人公であるユウは、そうして獲得されたポジションに対してさえ、居心地の悪さを感じる。これまでの流れからみるに、物語の帰着として想定されるのは、彼が、自分を許していないのは自分だけであることに気づく、そういった場面になるのだろう気がする。さて11巻である。ここでは、ユウに内在する、ふたつの分裂した自我が、第三者からの視点によって、濃く、明瞭に提示されている。ふだんは臆病で穏やかな彼のなかには〈凶暴で好戦的で荒れ狂う怪物が〉たしかに、いる。これはもちろん「キレる」といったタームで表わせるものであると同時に、多重人格的なモチーフを捉まえているのだとすれば、じつに90年代以降に顕著な、ナイーヴ系の人物造型だといえるのであった。以前にも言及した気がするが、『軍鶏』(橋本以蔵[作] たなか亜希夫[画])において、それは暴力のサイドに統合され、結果、容赦のない格闘技マンガとしての成立を果たしたわけだ。しかし『ホーリーランド』の場合、ベクトルは、それとはべつのほうを向いている。そのことは、この11巻において、いったんは不良を卒業した人物が、ふたたび路上にカムバックするシーンから窺える。その人物は、いうなれば、モラトリアムに結着をつけるべく、街のルールに則っての格闘を望むのである。つまり路上とは、非決定の場なのであり、その磁場は、神代ユウという主人公が先送りにし続ける終着とパラレルなのである。ヤンキーという在り方も、「ぼくっていったいなに」という問いも、すべてモラトリアムの過程にしかありえない。だが、それがルーチン化されることは退屈以外の何ものでもない。ギリギリのラインで、その一歩手前に踏み止まっているところに、『ホーリーランド』のおもしろさはあるのだが、ぼちぼちそれも限界が見えてきたような感じがする。そろそろクライマックスに踏み込んでしまってもいい頃合いだ。

 10巻についての文章→こちら
  9巻についての文章→こちら
  8巻についての文章→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。