僕はやはりメロディのことを考えている。沈黙のなかに置かれると、時間が長く感じられる。居た堪れなくなるように、音楽をかけると、いちばんはじめに耳に飛び込んでくるのが、メロディなのであった。
ジミー・イート・ワールドの新作を聴きながら、このバンドと他のバンドの差異はいったい何なのだろう、と考えてみる。とりたててトリッキーなところはない。基本的には、やわらかいメロディにくるまれたグッド・ソングがあるだけだ。ソング・ライティングの仕方に違いがあるのだろうか。
ふつう、うつくしいメロディは、大きな流れを思い起こさせる。というか、大きな流れを切り取った断片のように存在している。大きな流れとは、もしかしたら歴史のことなのかもしれない。メロディというもののほとんどは、欠損を埋める、そういう満ち満ちてゆく気配を含んでいる。満潮に近づいた海は、歴史そのものと同化する。たとえばアメリカの、レッド・ホット・チリ・ペッパーズは、ファンキーなサウンドからメロディアスな方向へシフトしていったわけだが、そのようにして取り入れられたメロディは、やがて洗練され、ちゃんとアメリカの歴史のなかに落ち着く体で鳴っている。
ジミー・イート・ワールドのメロディもまた、アメリカという歴史の一部を成すものであると思う。だが、この『フューチャーズ』というアルバムに収められた楽曲は、どれも豊潤なメロディによって支えられている、にもかかわらず、満ちてゆく気配をみせない。リズムのとり方もあるのだろうが、むしろ欠損のほうを際立たせている。つまり、アメリカン・ロックにおける歴史との結びつきがうまく隠れるように、まるで成熟して大人になって社会に組み込まれるのを拒むかのように、仕立て上げられているということだ。あるいは、それが青春云々で形容されるサウンドの正体なのだろう。
本作のプロデューサーは、前作までのいかにもアメリカのギター・ロックなマーク・トロンビーノではなくて、イギリスなどで受けるインディな音作りに長けたギル・ノートンである。そのことも、このアルバムの、とりたてて変わったことをしてるわけでもないのに、なぜか個性を感じさせる音作りに大きく作用している。
ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年10月23日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック
