
もしかしたら反動的なことを書くようだが、鈴木央の『金剛番長』は、ギャグを眺めるのに近しい斜めからの視線で受けとるのでなければ、熱い、とか、燃える、とかの評価を前提にし読まれ、漢(おとこ)というタームをふんだんに使い語られるべき作品、マンガなのかもしれないけれど、個人的には、いまいち、こう、かっと盛ってくるものを得られず、漢といったところで、今日のサブ・カルチャーにおいては、中身の乏しさを形容するのに似た空虚なレトリックとして使われることが多く、それが相応しくあるのは、やはり、ちょっと、まずいだろ、と思ってしまう。ここで、学園マンガというか、ガクランもの、とりわけ番長ものの歴史を振り返りたく、引用したいのは、横山光輝の『あばれ天童』の文庫版1巻に付せられた飯城勇三の解説である。飯城は、その、70年代半ばに発表された横山にとっては異色にあたる番長ものに対し、〈私は本作を連載中に愛読したのだが、正直言って、最初の頃は感心しなかった。あまりにも古くさい感じがしたからだ。連載第一回めのスカートめくりのシーンなどは、すでに永井豪の『ハレンチ学園』(一九六八)の洗礼を受けた読者には物足りない(?)ものであった。その後に登場する天童の、屈折のかけらもない真っ直ぐで優等生的な性格と行動もまた、本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』(一九六八)を読んだ者には不満だった。まるで、ちばてつやの『ハリスの旋風』(一九六五)か関谷ひさしの『ストップ!にいちゃん』(一九六二)の時代にタイムスリップしたかのような錯覚すら感じてしまったのだ〉が、じつはそれが同時期に横山の手がけていた『三国志』の学園版、つまり「学園三国志」であることに気づくと〈時代錯誤に感じたのも当然。そして、面白いのもまた、当然なのである〉と考えを改めた旨をいっている。要するに『あばれ天童』は、(当時の)リアルタイムな表現としてはアクチュアルさを欠く、けれども、普遍的なエンターテイメントとしてのすぐれた完成度を持っている、ということであろう。同様の見解を、『あばれ天童』文庫版4巻の解説で、米沢嘉博が〈本宮ひろしの学園マンガが、学生版国盗り物語であり、現代英雄譚であったように、当時少年マンガの新たなジャンルとなっていた学園硬派物に、横山光輝は自らが得意としてきた物語を見たに違いない〉と披露している。しかし重要なのは〈「学園三国志」は三巻目の番長連合との大決戦で終わり、犬神というキャラクターの登場から、物語のテーマは変わってゆく。それは「暴力の否定」である〉と飯城が指摘している点である。〈再び正直に言うと、私は、なぜ作者がこんなテーマを描いたのか、連載中には理解できなかった。しかし、今ではわかっている。当時の横山光輝は、少年たちの世界で「ケンカ」が「暴力」に変質していくのを、感じ取っていたのだろう〉と、そこでいわれている「ケンカ」と「暴力」の違いとは〈ケンカは一対一で武器を持たずに正々堂々とやるものであり、そのため死に至ることもないし、恨みや憎しみも生まれることはない。しかし暴力は、人数の多さや武器や姑息な手段で一方的に他者を痛めつけるだけであり、そのため死に至ったり、恨みや憎しみが生まれてしまう〉のであって、〈漫画の世界を見ても、ケンカしか出て来ない『ハリスの旋風』から、ケンカと暴力の混在する『男一匹ガキ大将』へ、そして暴力だけの『男組』(雁谷哲・池上遼一 / 一九七四)へと、学園マンガは変質していった。この流れを止め、少年たちを暴力からケンカの世界に戻そうとして、作者は『あばれ天童』を描いたのかもしれない〉、そのように飯城は自分の意見を述べている。これに沿っていうのであれば、80年代の最中、学園マンガはさらに「ケンカ」よりも「暴力」をメインに扱うようになり、ヤンキー・マンガの隆盛を経て、90年代には、完全に「暴力」だけが主題化されてゆく。あるいは、こう言い換えても良い。エスカレートする「暴力」のなかをいかにして生き残るか、または「暴力」それ自体をどうしたら食い止めることができるか、にテーマは移り変わってゆく。さて『金剛番長』に話を戻せば、まず序盤で登場するライバルたちがボクシングや居合いを身につけている、というこの手の定番のスタイルを意識的になぞらえている(90年代前半の菊地秀行と細馬信一による『魔界学園』でさえ、このパターンを踏襲している)以上、あきらかにそうした歴史の先に存在しているわけだが、この1巻の段階では、残念ながら、「ケンカ」や「暴力」といわれるところのものが、たとえば「バトル」や「ヴァイオレンス」といった具合に言葉を改められ、その本質の漂白されているかのようなスペクタクルを、たんに展開しているにすぎない。もちろん、それは「男」を「漢」と表記し直すのと同じ手つきの上書きであろう。とはいえ、今後の物語の進み方次第で、そうした空虚さを埋めうる可能性は、十分に、ある。なぜか『週刊少年サンデー』に発表される作品は、語らなければいいのに小学生レベルのとても素朴な政治観を恥ずかしげもなく語る傾向があって、『金剛番長』の「23区計画」などもまさにそうなのだが、言うまでもなく、番長または熱血硬派というものは、本宮ひろ志や車田正美が描く主人公たちに象徴されるとおり、国家や法律をはるかに上回るスケールの存在でなければならない。一種のテロリズムでしかありえない彼ら主人公たちの行動が大勢を納得させるのもそのためで、ねえ、はからずも政府そのものと相対しているかっこうの金剛番長こと金剛晄は、そこまでいけるかな。
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