ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年02月16日
 ワールズ・エンド (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 「獣の頃」が、良い、とても良い。斉木久美子の『ワールド・エンド』には三篇の読み切りが収められており、けしてノーブルではない女子高生同士の友情が展開される表題作も、バレンタイン・デイの兄妹再会といえる「スウィート・チャイルド」も、そこそこ魅力的な作品だとは思うのだが、江戸時代あたりを舞台とし、一人の少女と二人の浪人らしき男たちの束の間の平穏と悼むべき別離を描いた「獣の頃」が、もっともつよく胸を打つ。〈嗚呼 嫌だ 女は損だ 女は無力だ 今度 生まれて来る時は 他のものがいい――かと言って 男も嫌だ〉。山中、背中を切られ、行き倒れていた少女は、通りがかりの男二人組に声をかけられ、〈ダメだ! ついて行ったら 犯される 輪姦(まわ)される そして きっと殺される おっ母の様に…〉と思いながらも、拾われてゆく。だが、少女を飼うことにした多喜松と伊織は、そんなふうに手を出してくることはなかった。彼女をコロ助と呼び、まさしく犬を可愛がり、しつけるかのように、自分たちの生活のなかに置いた。このマンガのポイントは、女になるのが嫌だ、つまり、それ以前の状態に止まり続けることを願う少女が、しかし自然や運命には逆らえず、女であることも込みの一個の人間でしかありえない自分を受け入れてゆく、そうした姿に、多重の想いを含ませ、物語を、しん、と静かに響かせているところにある。〈おれの頭はふるとカラカラ音がするほど脳ミソが小さくて たくさんの事がキチンと理解できないんだ 町はダメだ 人が多い 山がいい 山にいれば 多喜松と伊織だけの事を考えればいい〉と少女は思う。けれども、人は、人に出会わなければ、人にはなれない。伊織が〈あの山の様にただ「在る」だけの存在かよ〉と言うように、そして多喜松が〈せっかくの長い道があるんだから 歩くんだよ 景色はいつか変わる〉と言うように、いつまでも人にならず、そのまま、獣の頃のままでいていいはずもない。やがて、それを証明するかのような機会が、望まずにやって来る。まあ、ある意味では予定調和とでもいうべき破滅が訪れるわけだ、が、むしろ、その後、すべての出来事がやさしくも輝いて見える風景のなか、悲しさばかりではない、涙を誘われる。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック