ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年10月16日
 溺れるナイフ 2 (2)

  少年と少女は束縛されている。何に? 少年と少女は、自分たちが、少年と少女であることに、束縛されているのを、知らない。あるいは、知りながらも、そこから解放される術のほうを知らず、だから彼や彼女は、少年と少女であることから、逃れられない、止まっているかのようであった。ジョージ朝倉『溺れるナイフ』において、若さは、輝かしい可能性を代替せず、むしろ反対に、可能性を剥奪された状態を示している。だから少年と少女は苛立ちを隠さない。だが、しかし、それというのは、じつは、ものすごくオーソドックスな少女マンガの作法なのである。また、登場人物のひとりが血筋による呪いに囚われている、というのも伝統的なヒーローの像だろう。それでも、古くさい、ダサくなるポイントのギリギリ一歩手前に踏み止まっているあたりに、作者の手腕が発揮されているといえる。第2巻である。クラスメイトのコウに惹かれながらも、その圧倒的な存在感の前では、自分の無力さを思い知らされてしまう夏芽は、少女モデルの仕事を再開しようか、と思う。仕事の現場、一流の才能を持つカメラマンが、彼女を見初めて、こう評する。〈なんだろうね 自分の力を信じているんだけどどうしていいかわからない〉〈居場所がない子というか……そーゆうバランスの悪さが撮りたいなぁって〉。その言葉は、おそらく、夏目の本質を言い当てている。と同時に、近くて遠い、遠くて近い、手が届きそうで届かない、夏芽とコウの、ふたりの関係をも切り出している。少年と少女は、果てなく走れるだけの力を持て余しながらも、どこにも行くアテなどないので、「ここ」に踏み止まっている。「ここ」で無邪気にはしゃぎ回れた小学生の季節は終わる。フリーズ。しかし、中学に進学することで訪れた状況の変化は、新たな局面を少女の、その心にもたらすのであった。とはいえ、彼女と彼とを結ぶ線がまだ、歪で、綺麗に整えられないのは、少年の側の気持ちが、こちら読み手からは、透視できない位置にあるからに他ならない。その見えないことが、物語を動かしてゆく。ラストの1ページで、唐突な波乱が暗示されて、次の巻へと、続く。ときおり無軌道になりがちな作者が、どこまで今後の展開を予定しているのかはわからないけれども、今のところ叙情と情緒は端正に仕立て上げられており、わりとスローに流れる時間のなかに退屈さは見受けられない。こういったあたりも、じつに少女マンガ的であり、そのことが内容の充実を促している。

 1巻についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ。
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