
小学校の頃の遠足で一年に一度は訪れたのが、丸木美術館というところで、そこには原爆の被害にまつわる絵が飾られていた。ある種のグロテスクさに、重たいウェーヴがかかっている。それを見ると具合が悪くなる、僕はそういう子供だった。しかし絵画には、モデルとなる現実があって、現実は、立体であり、ニオイがし、音をたてる。とすると、原爆によるダメージというのは、僕の想像力では追いつかないほど、おそろしいものに違いなかった。
『夕凪の街』は、『WEEKLY漫画アクション』に掲載された短編で、評判がよかったのか休刊ののち復刊した『漫画アクション』に、その続編ともいえる『桜の国(一)』が掲載された。ここには、そのさらに続編である『桜の国(二)』が書き下ろしで収録されている。幼い頃に広島で原爆に被爆した女性の生涯を『夕凪の街』は扱っており、『桜の国』は、間接的に彼女の子孫にあたる人々の現代における生活を描いている。
ふつう原爆などのシリアスな問題を取り上げると、リアルに熾烈であることが正しいメッセージであると見なされるが、しかし、このマンガはやさしいファンタジーとして成り立っている。そのファンタジックにあたたかいことが、ショッキングな事実に思考を停止させない、心の奥のほうに染み入っていって、おそらく魂のレベルで、この世界における病み(闇)というものに、読み手の目を向けさせる。他人事であるはずのことに、なにかしらかの責務をもって関心を持つのではなくて、ただただ自然にシンクロさせられる。
とくに秀逸であると思うのは、ある意味ではけっして特殊なものではない、生きようとする力と殺そうとする意思の凌ぎ合う場として、登場人物たちの命が現われているところだ。
ぜんたいこの街の人は不自然だ 誰もあの事を言わない いまだにわけが わからないのだ わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ 思われたのに生き延びているということ そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに 自分で時々気づいてしまうことだ 『夕凪の街』
原爆を含め、すべて兵器は、死ねという意思の具体的な行使である。彼女はなんとかそれを生き延びる。けれども、生き延びたことが、まるで呪いやトラウマのように彼女の心を蝕む。忘れようとしても、放射能に汚染された体が、忘れさせてはくれない。そのせいで、生きることがそのままツライものであるかのように感じられる。けれども彼女はけっして自ら死のうとは思わない。忘れないでいることこそが、生きるのに等しいことを彼女は知っていた。
そういった主題は『桜の国』でも反復される。『桜の国』で描かれるのは、被災地より時間的にも空間的にも離れた、東京での一家族の暮らしである。身内が死ぬ、だが、その原因が原爆(放射能)にあるのかどうかわからない、それぐらい遠い場所まで来てしまった家族が、あることを契機に、自分たちのルーツを遡ってゆく。半ばで、ようやく物語は『夕凪の街』とリンクするのだが、そこで得ることは、あそこ(広島)に生きていた人たちのことを忘れないという感触である。いま生きている場所はたしかにここ(東京)であるが、しかし、自分がここにあるのは、その人たちがたしかにあそこで生きていた、ということの証でもあるのだった。
これは澱みのない直線で描かれた感動なのだと思う。とりたててドラマチックなことが起こるわけではないけれども、しかし、呪われ、戦い、勝つという普遍的な生命の躍動を、とても丁寧に掴んでいる。このメッセージが、多くの人たちに届けばいいな、と僕は願う。