ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2008年01月12日
 ANGEL VOICE 3 (3) (少年チャンピオン・コミックス)

 古谷野孝雄『ANGEL VOICE』の3巻は、ああ、やはり、海苔入り卵焼きのエピソードが死ぬほど泣けるな。大局からしたら枝葉であるような個所なのかもしれないけれど、最高潮に好きだ。水商売の母親がつくってくれた朝食に促され、不良少年がサッカー部の練習に参加し続ける、というクサいお話を、ベタだとかいう何か言った気になる(つまり何も言っていないに等しい)マジック・ワードで腐すことは容易いが、しかし見られるべきは、その語り口といおうか、描き方、描かれ方である。かつて自分を捨てたことを許していない登場人物(尾上)が、疲れて食卓にうつぶせる母親と彼女のつくった朝食を見、〈「ちゃんと母親してます」とこれみよがしに言われた気がして 無性に腹が立〉ち、〈ひと口だけ食べてテーブルごと引っ繰り返してやろうと思〉い、〈セリフは考えていなかったが「こんなマズイもの食えるか」的なことを言うつもりだった〉のだけれども、じっさいに一口食べると、それは〈小さい頃から食べていた母の味であった〉ことに気づく。この間の心の動きが、技術的にすぐれたやり方で表される。ここでのモノローグは、作者または天の声とすべき第三者のものでしかありえない。したがって、事実上、作中人物は無言であり、彼の動作と表情だけが、その内面を推し量る材料となる。口に入れた卵焼きを、もぐもぐと噛む。すると、その食感に、あることを気づく。〈母はいつも卵焼きに海苔を入れていた〉のである。このことが彼の心を動かす、そうした様子が、コマとコマとを連鎖させるわずかなモーションのなかに、とてもよく捉まえられている。そして、こういった手続きを経ているからこそ、場面が進み、モノローグが、作中人物のそれに切り替わったさい、〈サッカーをやめたらクソババアのメシが食えなくなるような気がしたんだ〉という言葉自体に説得力が生じるのだし、そのモノローグに重なる流しで水に漬けられた食器と母親にかけられたブレザーのコンボも、抜群の効果をあげる。ところで、いよいよ蘭山高校サッカー部が、初の練習試合に臨む、そこで相手の高校に出向くまでの道のりをまとめた2ページ(単行本でいえば130ページと131ページ)は、作者の手抜きであろうか。いや、そうではない。これもまた技術にほかならない。だいいち、わざわざ描く必要のない箇所だとさえいえるだろう。もちろん、ページ数を埋めるためのものだとの可能性も考えられなくないが、重要なのは、この、千葉から群馬へ向かう行程が、いったんは上りの電車に乗るけれど、結果的には下りの電車に乗る、そのような描写になりえている点である。地方の中高生を題材とするマンガにおいて、下りの電車がいかなる機能を果たすか、十分に解説した前例を知らないので、たとえばヤンキー・マンガを例にして考えてみたい。ヤンキー・マンガの場合、下りの電車が下りの電車であると明示されているときと、上りの電車が上りの電車と明示されているときでは、読み手や作中人物に働く心理作用がまったく異なる。上りの電車は、もちろん東京行きである。あるいはそれは、都会へ行く、という緊張の表現になっている。しかし下りの電車は違う。日常そのものの移動であるような空間のなかに、作中人物たちは置かれ、そこに異物とでもいうべき輩が侵入してくるがゆえに、ケンカは発生するのである。それこそ上りと下りとでは、同じアウェイのシチュエーションであっても、完全に異なったラインでストーリーは分岐し、展開する。これを踏まえ、『ANGEL VOICE』に話を戻せば、ここでとられているのはやはり、下りの電車の手法であろう。つまり、3時間40分もかけてよそに赴きながらも、日常の延長線上で練習試合は行われ、そこに異物たる敵チームが侵入するかっこうになっており、はじめての試合における緊張よりも、登場人物たちの意気込みを自然と描くラインに接続されている。この部分はもちろん、試合中に変化しうるファクターで、チーム単位で成長してゆくサッカー・マンガとしては、能田達規の『GET!フジ丸』や高田靖彦の『やんちゃぼ』にも似た、ばらばらの連帯感をうまく備えさせている。

 1巻について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(08年)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。