ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年10月02日
 日々の泡

 宮崎誉子の小説は、要するに、ダイアローグの連続なのであるけれども、それらはけっして、なにか命題のようなものを導き出すために行われているわけではないし、また作中にある種の世界を構築するために必要とされているわけでもなくて、ただひたすら登場人物たちの気分を反映させてゆく。たとえば〈「ちょっとぉ人の話聞いてんのぉ」「聞いてますとも」「頭のよさに負ける女だっているんだから」「……わかるようニャわからないようニャ」「そうだよね。こないだの彼は元気?」「知らニャイ。バカすぎて話しになんないもん」〉といった具合に。そこにはたしかにコール・アンド・レスポンスの関係性は存在しているが、しかし、内容のレベルにおいては、お互いがお互いの話題をスルーしまくっている。深く噛み合っていない。そういった意味では、モノローグのようにも思える。それは時おり挿入されるメールのやりとりもいっしょで、彼や彼女たちは、どうでもいいことを、彼女や彼たちに向け、送信する行為へのみ、作品のなかに流れる時間を費やしている。もちろん、それが、コミュニケーションなのかディスコミュニケーションなのか、そういう風に考えることに、ちょっと興味がないわけではないが、ここでは、僕は、もうすこしべつのことを考える。大切なのは、そういった会話が、楽しいか、ファニーに感じらえるかどうかといったことである。それはべつに、会話の中身がどうとかいうのではなくて、そのテンポが充実しているかどうかという話である。宮崎の小説の場合、それこそがポイントなのだろうな、と思う。ライヴ会場などで開演前に流れるBGMのようなものである。それを心に留めておく必要もないし、それに心を動かされる必要もない。ただ退屈はしない程度の感覚で時間だけが潰れればいいのである。でもって、本作『日々の泡』なのだが、これはやや悪い選曲にあたってしまったなあ、そういう気分になった。あまりにも死にたくなる死語の連続は、登場人物たちの年齢にあわせたものなのかもしれないけれど、それこそポップ・ミュージックの世界では、うたわれるフレーズが日々更新される、そのことによってテンポも変質するわけだが、ここで催されているのは、まるで、懐メロを延々とうたうカラオケ大会みたいなものなのだった。だから、まあ、それを楽しめる人もいるのだろうことはわかる。が、どうやら僕はそういうタイプではなかった。それに、作者自身が、大いなる普遍性を目指しているつもりはなさそうなのに、それにあわせる必要もないのだろう。ところで、マンガなどを読んでいると、かなりポップ・ミュージックの歌詞における著作権には神経質なところが見受けられる、反面、小説というジャンルにおいては、けっこう大々的にやっているにもかかわらず、わざわざ許可をとっている節がなさげである。この作品でも、そう。引用の範疇ということで片付けられているのかな。あるいは相手にされない程度のマーケットだということなのかしら。どうでもいいことが気になった。

 『ガシャポン ガールズ篇』については→こちら
 『少女ロボット(A面)』については→こちら
 『セーフサイダー』については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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