ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年09月28日
 禁煙ファシズムと戦う

 僕などは田舎の子なのであって、週に1回あるかないかぐらいしか、都内には出かけないのだけれども、そのたびに、ぞっとしないでもないのは、街頭からじょじょに灰皿が消えてゆくことと、それに比例して、タバコを吸っている人を見かけなくなることなのだった。僕がタバコ喫みだというのもあるからなのかもしれないが、これは、けっこうシュールな体験なのである。自分が知らぬ間に、この世界が、べつの世界と入れ替わってしまったのではないか。と、まるで不条理劇のなかにいるみたいな感じになるのであった。また、そのような環境にあって、普段の調子で、さて一服一服と、タバコに火をつけようとすると、なにか吸いづらさのようなものを覚える。そのときに、ふと、マナーやモラルなどといった、自律を司るものではなくて、同調圧力の恐怖によって、自分の行動が差し押さえられている、そういう尋常じゃない気分にもなるのだった。本書『禁煙ファシズムと戦う』の肝は、ちょうど小谷野敦と栗原裕一郎の論考に挟まれる体で存在している、斎藤貴男の「「禁煙ファシズム」の恐怖」である。初出は99年であるが、これまで僕はそれを読んだことがなかった。「禁煙ファシズム」といった語彙も、また小谷野、栗原両者の論考も、その斎藤が書いたルポルタージュを、ひとつのベースに置いている。斎藤は、20年代ソビエトの監視社会を風刺したザミャーチンの近未来SF小説『われら』の参照から、話をはじめる。健康までをも含めた、人間の自由が、公的に管理されるなんてのは、おそろしいことじゃないか、といった問題提示である。しかし人々は、自ら進んで、そのような拘束に従おうとしている、喫煙者を排斥しようとする運動は、その一環である、と斎藤は指摘する。なぜならば、そこでは個々人の権利といったものが、市民団体や行政権力の下部に属する格好になるからである。そうして斎藤は、いわゆる副流煙有害説の根拠として、世界的に有名な、平山雄博士による研究(平山疫学)の矛盾点を発見してゆくのだった。ちなみに斎藤は喫煙者ではない。自分のことを、アンチ喫煙者だといっている。つまり、広がりつつある禁煙運動の背後に隠れている、少数派を排除するような、ファシズム的な気配と、大勢の思考停止こそを、問題視しているのだ。敷衍すれば、現在さまざまな議論のなかに散見できる監視社会の二律背反、その一面として、禁煙運動をクローズ・アップしているのであった。なるほど。たしかに禁煙家にとって、喫煙者は、自己の投影とはならないのだから、他者以外の何ものでもない、だが、その他者を丸ごと消去したいという、現代的な指向性が表出した例として、禁煙運動を捉まえることは可能だというわけだ。それはこの新書全体を貫くテーゼでもある。小谷野と栗原の文章について触れる余力がなくなってしまったが、どちらもさすがの読ませる内容であると思う。ただし、小谷野の文章はかなりアグレッシヴなので、広く開かれていないというか、本人がケンカを売っているといっているのだから、それは「あえて」のだろうけれども、ある程度たしかなロジックを用いているのだから、それが文体のせいで、対面する側に矮小な議論として見なされてしまうかもしれない、という風に考えると、なんか、ちょっと勿体ない気がした。ああ、でも、相手に話が通じていないというのが、すでに前提の上で書かれているのか。

 小谷野敦の他の本に関する文章
 『帰ってきたもてない男――女性嫌悪を超えて』について→こちら
 『恋愛の昭和史』について→こちら
 『俺も女を泣かせてみたい』について→こちら
 『すばらしき愚民社会』について→こちら
 『評論家入門 清貧でもいいから物書きになりたい人』について→こちら


posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
「禁煙ファシズムと戦う」のその後です。ご参考までに。
http://winef.ddns.us:680/~winef/koyano/koyano1.html
Posted by ワイネフ at 2007年02月04日 22:54
ワイネフさん、どうもです。
おお、そんなやりとりがあったんですね。時間があるときに読ませていただきます。
Posted by もりた at 2007年02月06日 17:31
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