ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2004年10月04日
 SUM41を真剣に語ることが、どこか恥ずかしいのは、やはり、そのフェイクっぽさがゆえにだろう。
 新曲に対する会場全体の様子、アーティストのパフォーマンス、そしてオーディエンスのレスポンスは、90年代のスキッド・ロウのライヴのパロディみたいだった。それがアイロニーやユーモアやジョークではなくて、みんな真面目にやっているのが、僕にはとても可笑しかった。激しい曲では、一様に拳を振り上げ、静かなナンバーでは、儀式のようにしょんぼりする、そして、うろ覚えな歌詞の合唱。なるほど。時代はまさしく一回りしたのだった。
 前座の10-FEETという日本のバンドがMCのなかで「アメリカのバンドと対談をすると、日本の観客は、80年代頃の向こうのノリを持っているってよく言われる」みたいなことを言って、会場が「わー」って沸いたのだけれど、それってパンクやハードコアのシーンのことではなくて、ヘヴィ・メタルやハード・ロックのことを指しているんじゃないかな。『スヌーザー』誌上で、田中宗一郎がSUM41を批判するのは、たぶん、マッチョで保守的なヘヴィ・メタルやハード・ロックへの反動として、90年代に時代を変えようとしたアーティストの働きが、まったくもってチャラになっていることへの憤りを含んでいるんだと思う。
 僕がSUM41のライヴを観に行くのは、はっきりといえば、そういったことも含めてノスタルジーのためにである。ノスタルジーは、ギターのリフに現われている。僕はただ切っ先の鋭いリフを聴いていたい。そこにはテーマやテーゼやメッセージも何も、ない。だが会場が一体となって、テーマやテーゼやメッセージがあるものだと信じ込んでいる、あの気持ちの悪さ。宗教的な場に置いてけぼりにされたかのような、疎外感と違和感。それまでをもノスタルジーとして味わえてしまうだなんて、ある意味、とても贅沢な経験である。
 居心地の悪さが居心地良いのって、ああ我ながら後ろ向きだなあ、と思う。

  とはいえ、これは現在進行形で起こっていることなので、ちょっとだけ真面目に考えたいのは、たとえばSUM41がパンクかパンクではないかという話である。これこそが今の時代のパンクだとか、パンクではないだとか、パンクだけど偽者だよとか、いろいろな言い方ができると思う。グリーン・デイやオフスプリングなどの後続として捉えればたしかにパンクなのかもしれないが、オリジナルのパンクからは数万光年も離れてしまったといえる。要するに、それはパンクという概念がどこまでも細分化してしまったということでもある。たとえばテクノやヒップホップを除き、ロック・シーンに限って、いま、パンクの後継としてフォーマット化されているのだろうハードコア、エモやスクリーモ、そしてメロコア(青春パンク?)のライヴに行く、すると、客層は完全に異なっている。これが現状である。もちろん、それはパンクに限らず、すべてのシーンで起こっていることなのだと思う。そういった状況のなかで、さて、僕たちは何を語ろうとするのだろうか。全体を見通すのは不可能だという認識をもって閉じた言葉を発するべきか、それとも、少しずつの定義付けと系統立てをもって全体を捉えようとする地道な作業を続けるべきか、それ以外の何かか。とりあえず拡散してゆく感覚の言語化を諦めてしまったのが、現行の音楽批評なわけだけれど。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽。
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