ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年12月10日
 女神の鬼 8 (8) (ヤングマガジンコミックス)

 ああ、ケンエーもまた、兄と同じく、誰とも何も分かち合わない道を行くことで、王様の座を目指すかよ。田中宏の『女神の鬼』であるけれども、雛石顕治がカヴァーを飾った4巻の、その倍数たる8巻の表紙が、弟の雛石顕映なのは、とても意味深く、やはり狙っているんだろうな、と思う。己の野心のためならば、仲間であったはずの人間をも容赦なく欺き、切り捨てる、いよいよ表面化しはじめたケンエーの企てが、ここでのおおきな展開で、それはもちろん、顕治の行為の一種反復になっている。こうした反復によって示されるのは、いわば、宿命とでもすべきものの強度であって、つまり、自分たちはこうなんだから仕方がないということであり、自分で自分の運命を変えようとすることすらも因果の内に含まれてしまう、あるいは業に囚われるということである。それでも人は生きていかなければならない。以前にもすこし触れた気がするが、雛石兄弟に焦点を合わせ、物語を振り返ってみるなら、ビイストとフレイヤの対立は、そもそもケンエーと花山の個人的な衝突に端を発しており、そうしたことの末、旧ビイストに見限られた顕治は、転落する。ケンエーが、現ビイストの仲間を背くことで果たそうとしているのは、その兄の復讐であると同時に、きたるべき「鎖国島」行きに備え、ふたたび〈雛石の血の力を証明する・・・・!!!!〉ことなのだけれども、それらのすべては、『女神の鬼』という物語において、まさしく一連なりの円環となって現れているわけだ。さらにいえば、裏切り、孤独、そして暴力の連鎖は、『女神の鬼』より下った時代の同じ場所を舞台とする『BADBOYS』、『グレアー』にあっても、登場人物の多くを翻弄するテーマであった。要するに、三つの作品を一個のサーガとして捉まえ直したさい、円環はより巨大に出来上がる。だからこそ問題となってくるのは、そのような円環のなかに作者がいったい何を見据えているのか、に他ならない。仲間、たぶん、それだろう。暴走する内海が、ギッチョたちの団結に見たのも、それである。不良少年たちに謎めいた計画を持ちかける松尾老人が、3巻で、「鎖国島」へ渡る必要条件のひとつに、人望の無さ、嫌われ者であることを挙げていたのが思い出される。だが、花山を慕う牛山がすでに海を渡り、ハンニャとマンバのふたりもリーダーである真清のあとを追う可能性が、作中に暗示されている。はたしてこれがどういう意味を持つのか。そして、ギッチョが「鎖国島」へ流されるとしたら、そこまでのあいだにどのようなドラマが導かれるのか。ともに行く者が誰かあるのか。ひとまず、内海との出会い、五島との邂逅が、何をもたらすのか。盛りだくさんの内容と、まだまだ先のまったく見えない物語に、狂おしく、心乱されるよ。ほんとうにもう、『このマンガがすごい!』08年版で、『女神の鬼』を挙げていたのが、ロマン優光だけだというのが信じられない(ちなみに、ロマン優光の文中、「中上健二的」は、正確には「中上健次的」だと思われる)。

 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(07年)
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