
〈不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。〉と帯にはある、なるほど、そうして示されるとおりの、読み手側の共感によって支えられていそうな、村上春樹の連作短編集である。単行本化に際して、書き下ろされた「品川猿」以外のものは、『新潮』掲載時に読んであるので、ひとまず、「品川猿」についての話からはじめる。
安藤みすずは、結婚3年目の女性である。夫婦の間に子供はなく、今も自動車のディーラーで、事務仕事をやっている。彼女には、人に相談しづらい、夫にさえ言うのが憚られる、悩みがあった。ときどき、自分の名前を思い出せなくなってしまうのだ。他の物事に関する記憶については、問題がないのだが、自分の名前だけが、頭のなかから、抜け落ちてしまう。そうして物語は、彼女が、自分の名前を取り戻すまでの過程を、追う。
途中、カウンセラーが登場したあたりで、よしもとばなな風のオカルトな様相が浮上し、すこし雰囲気が悪くなるのだけれども、着地は、さすがに、綺麗に決められており、最初に引いた惹句どおり、〈不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。〉という印象を、おおよその読者に与えることだろう。しかし、それはつまり、漠然としたイメージに対しての感情移入は促すが、論理的な解説はどこにもなされていない、ということでもある。
なぜ主人公は、自分の名前を忘れてしまうのか、そういったことへの回答は、ロジックでは示されない、あくまでも抽象的な物語によって、クエスチョンとアンサーが接続される。問題は、象徴的に、解決する。そのことはまた、「品川猿」に限らず、『東京奇譚集』という総体を貫くテーゼに他ならない。そのように考えるのであれば、寓話性を高めることで、解釈領域の広い、高度なテクストとして、小説を成り立たせる村上春樹の手腕が、遺憾なく発揮された、密度の濃い作品が並んでいるといえる。
だが、しかし、べつの見方をすれば、明快な結論を欠如している、という風になる。もちろん、小説が、AはBであるなどといった命題を示す必要など、ビタ一文、ない。だから、もうちょっと、異なるレベルでの言い換えを行うと、『東京奇譚集』という小説群は、どれも曖昧な内容に終始している、読み手ばかりではなく、登場人物たちもまた、さらに、もしかすると書き手自身にも、その物語のなかで何が起こったのか、明瞭な判断は下せない。そうであれば、ふつう、だから何なのさ、と噴飯したくなるものだけれども、この場合、それこそ〈不思議な、あやしい、ありそうにない話。しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない物語。〉という了解でもって、大勢の読み手、そして登場人物たち、ことによると書き手自身さえも、その内容に関しての、懐疑を斥ける。それというのは、いったいどういうことなのだろうか。
ある意味、ミステリと呼ばれるものの書き方、読まれ方は、そういったスタンスと、真逆に位置するものだろう。たとえば、ある犬が原因となって、とある事件が起きる。としたら、なぜその犬はそのような行動をとったのだろうか、それは習性なのか偶然なのか、それとも第三者の計画的な作為なのか、などと、そうした原因と結果とをロジックで結びつけ、その背後に隠れている物語を具現化しなければならない。そこに介在する論証の正確さが、小説にリアリティを付与する、読み手に対するリアリズムの担保になるのである。だが『東京奇譚集』で行われているのは、つまり、こういうことだ。ある犬が原因で、とある事件が起きる。どうしてそのようなことが起きなければならなかったのか。その背後に隠されている物語を、読み手は知ろうとする。さて、といったところで、じつはその犬が自我を持っていて、これこれこういうわけで、とかいう真相を話しはじめてしまうのである。これは、ほんとうは、ずっこける箇所だろう。でもなぜか、『東京奇譚集』の場合、村上春樹の場合、そうはならない。腑に落ちる。
当然、村上春樹とミステリではジャンルが異なるといえば、それはそうに違いない。しかし一方で、まるでミステリを読み解くかのように、村上作品を、トリビアルな批評に似た位相で解釈する、そういう書評が、ネットをちらりと覗いただけでも、うんざりするほど目につくのであった。それこそが僕の気にかかっている点なのである。
論理的に説明可能だと判断させるリアリティが、それはじっさいには物語内には含まれていないにもかかわらず、村上春樹の小説を通じて、読み手の眼前に発現するのはなぜか。加藤典洋は「換喩」の問題として、『海辺のカフカ』を読み解いたが、それを、ここでの話に用いるのであれば、なるほど、ミステリは「隠喩」的であり、村上春樹は「換喩」的だといえる。要するに、そこに書かれている物語とは、べつの空間から、リアリティは引っ張られてくるのである。としたとき、『東京奇譚集』においては、このようにいえるだろう。〈不思議な、あやしい、ありそうにない話〉が、〈しかしどこか、あなたの近くで起こっているかもしれない〉という感覚を、読み手に喚起する、というわけだ。そうした行為の過程においては、たしかに、ロジックなどといったものは必要とされないのかもしれない。
ぜんぜん話がまとまらなかった。が、つまり、ここ最近の村上春樹の小説は、中心部が空白、ブランクだということであり、そのブランクこそが有意味として機能している、それはもちろん違う角度からみれば、無内容だと断じることもできる、と、それを言いたかったのだった。
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