ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年09月16日
 200X年文学の旅

 柴田元幸と沼野充義が、交互に、自分の関心を書き連ねるフォーマットで、本書『200X年 文学の旅』は続いてゆく。とはいえ、べつだん往復書簡形式というわけではないので、一部ではそれに擬したところもあるが、それぞれの文章に、お互いが反応する場面はすくなく、もともとの『新潮』の連載が、なぜこのような形になったのか、これを読む限り、その意義は、よくわからない、柴田はいつものようにアメリカ文学を中心に語り、沼野はいつもどおりロシア文学を軸に話をしているだけといえる。まあP233とP243の「少し前」という出だしの符合は、わざとだと思うけれど。そんなに深く頷くところはなかったかな。柴田の分であるならば、ポール・オースター『幻影の書』と村上春樹『海辺のカフカ』とサリンジャー『ライ麦畑』を接続して、少年や少女たちが日常生活から降りること、世界と和解することに触れたくだりが、いちばん興味深く、沼野の分であるならば、t.A.T.uの歌詞を起点に、ロシアの保守性と過激さを解析しようとした箇所を、楽しく読んだ、が、前者は02年で、後者は03年のものなので、いささか賞味期限切れの感が強いのであった。それらよりもむしろ、巻末に付せられた、ふたつのシンポジウムの方が示唆に富んでいた、というのは、ちょっと嫌な性格すぎるだろうか。レベッカ・ブラウン(と小野正嗣)を招いてのシンポジウムのなかで、「世界文学」というタームについての話題が出てくる。それはゲーテが、〈一つの民族の限界を超え、精神的な交流を通じて諸民族の間を媒介し、人類全体の精神的財産を豊かにするような文学〉として、掲げたスローガンであると説明し、しかし自分は〈二十一世紀の世界文学はゲーテが考えたものとは少し違うのではないか〉と思っている、そのように沼野は言う。そして要するに、多様化した世界では、すべてをカヴァーする普遍性は成り立ちにくい、なので、すでに確立されている体系に従うのではなくて、個人がある作品をどう読むかといった部分、その自由度の高さに力点は置かれるべきで、そうした個人個人の読みを、翻訳は、ネットワークとして繋げる、との意見を述べる。だが僕は、個人的なことをいえば、そいつはちょっと甘いぜと思う、賛成できない風である。というのも、それを受けて、柴田が〈個に集中することで逆説的に世界文学と言えるものになっていく、大きなものが生まれてくる〉といっているのだが、そうした「逆説的な」道筋が機能するためには、やはり共通の前提というものが広く伝搬していなければならない。それが無くなりつつあるのと、多様性のさらなる多様化はパラレルなのであって、そのような場合、孤絶したレベルに文学をいったん還元することは、はっきりいって、細分化の根のうちのひとつに止まる危うさを含んでおり、世界という広いパースペクティヴを捉まえる視線とは、切り離して考えるべき問題なのである。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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