ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年09月14日
 誰とでも寝るような女の子の気持ちがわからないのは、僕が誰とでも寝るような女の子と寝たことがないからなのだろうか、などと考える。まあ、どうでもいいや。『野性時代』10月号掲載の短編。昭和の最後の年、〈わたし〉であるところの川村優奈は25歳だった。旭川の、わりと厳格な家庭の、一人娘だった。母親は昨年亡くなった。今は父親とふたりで暮らしている。教師の〈わたし〉は、その時代ならではの、モラルにちゃんと則って生きていた、と思う。でも、ある朝、〈わたし〉のなかに、唐突な変化が訪れる。「男たちと寝たくてしかたがないよ」。心が騒いだ。自分を変えるため、まるで辻斬りのように、いろいろな男と、次々に寝ることを、決めた。そのように話の筋を取りだし、考えてみるに、ひとつには、抑圧の問題があるのかな、という気がする。それまでは男性に対して臆病であった〈わたし〉が、なぜ突然、男遊びをしたい、そうしなければならない、といった衝動に掴まえられるのか。はじめの方で、母親の影が提示されている。〈わたし〉は、自分のことを〈いうなれば平凡な白っぽい丸のような人間〉だと思っている、その〈自分の輪郭をデザインしたのは、亡くなった母親である〉という気に、なんとなくなっている。そして、その丸っこい輪郭が濃くなっていくことに脅えている。また、そうした外見が自分自身の内面を規定しているのだ、と捉まえている節がある。〈おんなというものは、どうしたら、変わるのかしら? こころのかたちを変えるのに必要なのは、男遊びなんじゃないかとわたしはとても真面目に考えた〉。このような、セックス(性交)が、性欲の充足を目的としてではなくて、自意識を、象徴的に、洗い流すために行われる、といったモチーフは、女性作家が書くものとしては、今日とりたてて珍しいケースではない。いや、富岡多恵子『波うつ土地』(58年)などを先行する例に挙げれば、戦後以降、日本人女性にとっては、ある種の本質的なテーマであった、といえるかもしれない。そのように考えるなら、もしかすると江藤淳が「母の崩壊」などといったことの、延々と連なるその先に置かれている必然だ、ってこともありうるわけだ。この『辻斬りのように』で、桜庭一樹が、あくまでも舞台を、昭和に設定したのは、女性性への抑圧を、物語上に顕在化させるためだろう。そのことは〈独身の若い女性の飲酒には、まだまだ厳しい時代のことだった〉などといった記述から、伺い知れる。しかし逆に、そのことは現在、現代というシチュエーションでは、この物語がうまく成り立たなかったことを、暗に示している。つまり状況が違う。だが、状況が違うにもかかわらず、なぜ何かから逃れるように誰とでも寝る女の子の話は、過去から今にかけて、途切れることなく、書かれ続けるのか。僕の関心は、そういったところに、ある。たしか上野千鶴子だと思ったが、かつてどっかで、セックス(性交)なんて嗜癖でしょう、みたいなことをいっていた気がする。要するに、アディクションのようなものだということだ。だとしたら、ある女の子が誰とでも寝たりするのは、僕がタバコを止められないのに似たことなのかもしれないな、と思う。だけど、それは、ときどきシリアスに描かれすぎる。『辻斬りのように』における〈わたし〉は、7人目の男と寝終えたあとで、ぱた、と男遊びをやめる。衝動が消えたのだ。そして彼女は身ごもる。父親が誰なのかは知らない。このラスト・シーンは、けっこう鮮やかな筆致なのだが、すこし残念なことがあって、それは〈わたし〉が〈まだすこしもの狂いのままだったので〉とか〈もの狂いのなおらぬまますこし微笑んで〉などと、平常ではない自分の様子を、安易に語ってしまう点で、そのような表記における迂闊さは、それが望まれた妊娠なのか、それとも望まれえぬ妊娠だったのかを、いとも簡単に誤魔化し、未だ生まれ出ぬ子供の重みを、白々しくも、殺してしまう。


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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