ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年09月12日
 ニンギョウがニンギョウ

 手にとって、ぼったくりじゃねえか、と思わず声を出しそうになってしまった、そういう値段と作りの本である。内容の方も、文体のテンポとストーリー展開によってページが押し進められる、従来の西尾維新作品とは違い、抽象的かつ観念的なものなので、というか、ごめん、率直にいってしまうが、単なるイメージの垂れ流しでしかないので、読み手によっては、あらら、となってしまうかもしれない。村上龍でいえば『海の向こうで戦争が始まる』みたいなものか、しかし、あそこまでの映像喚起力は備えていないように思う。とはいえ、個人的には、こういう散文をしくじった感じの作品は、嫌いではない。書き下ろしである最終章「ククロサに足りないニンギョウ」以外のものは、『メフィスト』掲載時に読んであるので、ここでは「ククロサに足りないニンギョウ」についてのみ、触れる。熊の少女の住む山が燃えた。放火されたということだった。彼女の生存は絶望的であるようだった。それに気づいたとき、ある直感が〈私〉を襲う。〈私〉には二十三人の妹がいるが、熊の少女こそが、もしかすると二十四番目の妹だったのである。そのことの承諾を得るために〈私〉は、一番目の妹に会いにいこう、と思う。と、この作品の最重要事項は、やはり、オチの部分にあるのだろう。このところのフィクションなどで、萌えなる行為の対象とし、描かれる「妹」といった存在は、いったい何を表しているのか、僕は最近、次のように考えている。仮構上に存在する「妹」というのは、ある場合には、母性ないし保護者を代替するものなのではないか。だからこそ、彼女たちはまず、しっかり者として現れる。しかし、兄妹という年功序列的な関係性においては、彼女たちを保護しなければならないのは、兄の立場に存在する者になるわけだ。だから、タイミング次第で、彼女たちは、おっちょこちょいであったり、泣き虫であったりといった性格に変化する。そのような手順を経ることで、架空の「妹」に相対する人物の、父性ないし男性性は、回復される。つまり男の側、それもホモ・ソーシャルなサークルのなかにあっては、弱者であるような人間にとって、その自意識の脆弱さをカヴァーするために、安易に都合よくカスタマイズ可能な、そういう女性性への願望を象徴するものとして、フィクショナルな「妹」は発現するのである。そこでは「妹」のサイドの自意識は、不要なものとして切り捨てられる。それこそ人形として扱われている。ただの表現だよといったって、それはちょっとあんまりだ。としたとき、やはり、この『ニンギョウがニンギョウ』という小説の、全体を締めくくる最後の段は、まあまあな程度に気が利いている。かろうじてではあるが、リアリティが妄想に対する抗体となって機能する場面であり、そのような意味で、ある種のアイロニーだという風に評価できる。

 「コドモは悪くないククロサ」について→こちら
 「タマシイの住むコドモ」について→こちら
 「ニンギョウのタマシイ」について→こちら

 西尾維新その他の作品に関する文章
 『ひたぎクラブ』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第四回「四季」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第三回「第三」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第二回「二人」』について→こちら
 『トリプルプレイ助悪郎――第一回「唯一」』について→こちら
 『ネコソギラジカル (中) 赤き征裁VS.橙なる種』について→こちら
 『ネコソギラジカル (上) 十三階段』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか 2』について→こちら
 『新本格魔法少女りすか』について→こちら

 『総特集 西尾維新』ユリイカ9月臨時増刊号について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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