ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年09月11日
 僕は、スポーツについては、いっさいの関心がないタイプの人間なので、この国において、どのスポーツがどれだけ人気があるのかといった事情を、まったく知らない。しかしマンガの世界でいえば、サッカー・マンガはもはや、完全に凋落してしまったといえる。各雑誌におけるサッカー・マンガの連載率から、それはわかる。その一方で、野球マンガは、着実に、延命した。米沢嘉博は『戦後野球マンガ史』(02年)のなかで〈野球が、野球マンガが、子供たちにとって一つの教育であり、戦後の大衆文化に大きな影響を与えていった〉ことを前提に、現在においては、ヒーローの不在、要するに、憧憬対象が成り立ちえないことを理由に、野球マンガは、その構造を崩壊させてゆくしかないことを示唆している。が、現状を捉まえ直すに、むしろ野球マンガという表現は、時代性にともない、そのフォーマットを進化させるに適した器だったのではないか、という気がしてくる。たとえば今、ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』などは、けっこう泥臭いことをやっているにもかかわらず、泥臭さをそれほど感じさせず、好評を博している、それというのは自意識やトラウマなどといった諸マテリアルが、汗にまみれた熱血のモードをいったん洗浄した上で、ふたたび肉感的なドラマを再構成しているからだろう。つまり、フィジカルやメンタルといった二元論を用いながらも、どちらかのみを択一するのではなくて、それらのマイナス・ポイントを相殺させるような体で、野球マンガを成り立たせているのである。と、ここでの本題は、いわさわ正泰『野球しようぜ!』であった。

 野球選手だった父親は失踪し、実の母親とは死別、叔母に引き取られ育てられるが、その教育環境は劣悪、にもかかわらず主人公は純粋という設定は、いかにも前時代的ではあるけれども、僕は『野球しようぜ!』を、けっして古いとは思わずに、読む。それは、野球を知らなかった少年がプレイを通して野球を覚えていく、といったプロセスによって、あくまでも個人の問題として、野球という団体競技が取り扱われている、そのような手法に拠っている。この3巻のなかで興奮する、スリリングな場面を挙げるとしたら、主人公である天が、フォークのキャッチ方法を覚えるところと、送りバンドに気づくところになると思う。その破格な才能によって天は、野球を超速で学習してゆくのだが、そのほとんどは、誰かに指導されるのではなくて、独自の思考をベースに発明(!)されている。ルールだけは、さすがに他の人間から授けられなければならないのだけれども、野球がその歴史において合理的に発展してきた過程が、競技上の制度から押しつけられたのではない、個人の自由な発想に沿う形で、トレースされるという仕組みだ。もうすこしいえば、いわゆるスポ根というのは、抑圧によって汗と涙が流れる物語であるわけだが、ここでは、汗と涙はそのベクトルを解放と悦楽の方へと向けている。そのあたり、やはり野球人間の描かれ方としては、新しいのではないだろうか。というか、だいたいのところ、あらかじめ野球という概念を有していないプレイヤーというのは、野球が国民的スポーツとしては機能していない、そういう現在に至り、ようやく為しえた造形に他ならない。

 2巻についての文章→こちら
 1巻についての文章→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバック