ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年09月09日
 本題とはぜんぜん関係のない話から入る。『群像』10月号の評論特集「小説の現在」である。そこに11の人間が書いた11本の評論が寄せられているのだが、そのうちの半数以上が読むに耐えられないシロモノで、いや、ほんの2、3本はヴィヴィッドなものもあったのだが、しかし、さすがにウンザリさせられるのだった。もしもそれらが評論と呼ばれるのであれば、評論もまた、現在たくさんの小説が書かれるのと同じような理由で、承認欲を満たすためのツールでしかないのだろう。書くべき物事がないのなら、書かなければいいのである。くっだらない。いま若い文芸評論家のなかで読むに値するものを、コンスタントに書いているのは、石川忠司と前田塁ぐらいだと思う。と、そのようなグッタリとした気分で、同号に掲載されている宮崎誉子の小説『ガシャポン ガールズ篇』を読んだ。

 気が晴れた。僕は、それほど好みではないとしても、宮崎のものに関しては、なぜかわりと読んでいて、『ガシャポン ガールズ篇』は、そのなかで、一番好きであるかもしれない。というのも、これ、ふつうに良い話ですよねえ、と感じ入ったからなのだった。

 冒頭、ある女子小学生とその担任教師との会話から、物語はスタートする。女子小学生は語り手であるところの〈わたし〉であり、新井ミキという名前を持っている。その会話において、ミキは自分の母親のことを「ママ」と呼ぶ、そのことに対して担任教師は「ママってあなた、日本人ならお母さんって呼ぶべきじゃないの?」と言うのだが、この場合は本来であるならば、「母(はは)」と呼ぶべきだろう。そのへん、この意地悪な作者は意図的にやっている節がある。つまり、正しさを主張する人間ほど多くのことを間違えている、と言外に匂わせているのではないか。そのような人を小馬鹿にした態度は、宮崎の専売特許とでもいうべきもので、これまではすこし嫌味にすぎるところがあったのだけれども、ここでは、正解のない世界でいかにサヴァイヴしてゆくか、といったひじょうにポジティヴなものとして捉まえることが可能だ。

 登場人物たちの会話によって、物語中の時間が進行してゆくスタイルは、これまでどおりである。石川忠司は『現代小説のレッスン』のなかで、そういった宮崎の手法を、内省や描写の「かったるさ」を消去する、純文学=近代文学の「エンタテイメント化」と評した。たしかに「カギ括弧」の並列によって、改行の設けられた文章は、リーダビリティは高く、視覚のレベルにおいては、躓きがないとさえいえる。しかし、今回に限っては、その合間合間に挿入される地の文こそが、強く目立つ。ポイントであるように考えられる。

 それはもちろん描写であり、内省であったりの類を含んでいるのだけれども、ぜんぜんかったるくない。明示されてはいないが、ミキはそのスカした性格から、同じクラスの女子よりハブられているみたいな感じである。その彼女の下駄箱にガシャポンのカプセルが置かれている。プラスチックのカプセルを開けてみると、中には、あまり嬉しくないプレゼントが入っている。そのようなシーンは、延々と続く会話を唐突に遮るようにして、挿入されるため、とくに印象的、効果的なものとなっている。また、そうした出来事に付随して、たかだか数十字のセンテンスで表されるミキの内省は、あまりにも簡潔であるがゆえに、その混乱と混沌ぶりがダイレクトに伝わってくるようだ。

 それにしても宮崎の小説は、先ほどもいったが、会話文を主として動くので、誰が発言したかを、たぶん読み手に判別させるがために、たとえば「ヨシオ君、おはよう」などという、名前の明言された他者への呼びかけになっている場合が多い。ことによるとウザい部分でもあるのだが、そうした呼びかけと、それに対する反応とのギャップが、会話の内容そのものよりも、ずっと大きな要因として、あるときにはリアリティなどと呼ばれる、作品の骨組みを支えていることだけは、指摘しておきたい。

 『少女ロボット(A面)』については→こちら
 『セーフサイダー』については→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書。
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