ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2007年11月16日
 文学界 2007年 12月号 [雑誌]

 『文學界』12月号掲載。村上龍の連載小説である『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』を、この第七回になって、いきなり取り上げたのはなぜかというと、先般、アタマ(6月号掲載分)からまとめて読み直していたさい、ここで語り手をつとめる人物に付せられた名が「ケンジ」であることに気づいたからだった。「ケンジ」の名を持つ主人公は、村上の作品にいくつか前例があり、たとえば『音楽の海岸』や『イン・ザ・ミソスープ』あたりの小説に、年齢や職業、立場が違い、けっして同一人物と見做すことができないとしても、見かけることができる。『音楽の海岸』が中上健次に献呈されていることを踏まえると、「ケンジ」というのは、かの作家に由来していると考えられるし、あるいは『69』や『長崎オランダ村』、『はじめての夜 二度目の夜 最後の夜』における「ヤザキケン」のヴァリエーションだと解釈することも可能だろう。が、その原型は、おそらく、『コインロッカー・ベイビーズ』のキクとハシだと思われる。ここで『愛と幻想のファシズム』の「あとがき」において、作家自身により、その登場人物たちであるトウジとゼロ、フルーツが、『コインロッカー・ベイビーズ』のキクとハシ、それからアネモネの再来であることが告げられ、さらには、その三者が、姿を変え、のちの作品に登場させられることが予告されていたことを、そして、ゼロの本名が相田剣介であったことを思い出されたい。そう、つまり「ケンジ」という名前は、あきらかに、そのような文脈から派生し、成り立っているのである。しかし、注意すべきは、キク、ハシ、アネモネ(トウジ、ゼロ、フルーツ)を彷彿とさせるような三者(三すくみ)が、たぶん93年の『音楽の海岸』の、ケンジ、石岡、ソフィの失敗を最後に、同じ物語の枠組みのなかで、共存することがなくなっていった点だ(ちなみに02年の『悪魔のパス 天使のゴール』における「ヤザキケン」と「トウジ」の存在も、この影響を免れておらず、キクやハシのような緊張感のある関係を結べていない)。もしかすると、村上の作品にあって「ケンジ」の名を持つ者に、どこか敗北したイメージがつきまとうのは、そのせいかもしれない。さて、『心はあなたのもとに』の「ケンジ」、ニシザキケンジは、50歳を過ぎてはいるが、投資の世界で成功し、平和な家庭を持ち、裕福な暮らしをしている、いわば勝ち組とされるタイプの人間であるけれども、小説は、その彼に訪れる精神的な敗北(喪失)とでもいうべきものの正体を探るようにして、進む。話の筋自体は、(連載はまだ続いているので)あくまでもこれまでのところにかぎっていうと、彼が知り合い、親密になった風俗嬢が、病気で死ぬ、というふうにまとめられるし、それを演出するコミュニケーションの手段が、携帯電話のメールであることから、まあ、じつに村上龍らしい半歩遅れたアンテナの産物だといえる(もちろん、その半歩の遅れこそが、世間一般でいうところの、最先端ではなくて、流行文化とジャストに重なるのも、見逃してはならない)。が、そうした過程において語られてゆくのは、単純に、好きだった人が死んで悲しい、というのではなくて、他人に希望を与えることを自らのアイデンティティとしていた人間が、その希望を与えたはずの人間を喪う、ということである。散見される経済知識やグルメ情報、性風俗の描写は、あいかわらず、といった感じではあるけれど、テーマ的にいうと、他人に生きていく希望を与えるとはどういうことか、について考えられた03年の『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』(文庫版では『空港にて』)や『2days 4girls 2日間で4人の女とセックスする方法』以降へ、しっかりと歩を進めた小説になることを、予感させる。

 『半島を出よ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(07年)
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