
この『文芸評論集』は、富岡幸一郎が、90年代から00年代にかけて発表した、それほど長くはない文章をまとめたものであるけれども、その根底に敷かれているのは、戦後というタームをどのように扱うか、といった問題であるように思う。なかでも興味深かったのは、「江藤淳の「非在」」という項であった。
かつてインタビューした際に、江藤は若い頃の自分に次のように語ったのだ、と富岡は書いている。それは昭和60年のことだった。敗戦後40年を経た段階で、江藤は、戦後の文化的荒廃は、おそらく60年の時間を要しないと、回復をしないだろう、といった。そうしたロジックは、関ヶ原の役後の30年間、同じように文化的荒廃が続き、そこから再び新しい文学が立ち上がるのに、60年の時間が必要とされたことを、根拠にしている。60年というのは、つまり2世代を通過しなければならない、ということである。江藤がそう言ったことに対して、富岡は〈いや、戦後の日本文学はそれでもなお見るべき作品を少なからず遺したのではないか〉と問う。それを受けて江藤は、そういった作品というのは、戦前の遺産あるいは戦前の貯金で文学をやっていたのであり、それは三島由紀夫の自殺と川端康成の自殺という、2年おいて起こったふたつの事件により、完全に枯渇した、と答えている。近代文学の終焉を意味しているのである。そこでさらに若き日の富岡は、江藤に向けて、関ヶ原の役に比べ、太平洋戦争はスケールが違うのではないか、と尋ねるのだった。
戦後60年目というのは、いうまでもなく、2005年のいま、現在を指している。しかし、ほんとうに江藤が予言したように〈「六十年の荒廃」は終わり、新しい日本文化の躍動がはじまっていくのだろうか。その兆しは何処にあるのだろうか。いや、そもそも「戦後」はほんとうの意味で終わったのだろうか〉と富岡は書く。
またべつの機会、昭和天皇崩御の直後に富岡がインタビューしたとき、江藤はやはり戦後の問題に触れる。昭和天皇は、結局のところ、戦後の終わりを見ることなしに、逝った。〈陛下のお元気なうちに、戦後がすっかり終わり、かつてみんなが信じていた崇高なものを、やはり崇高と認めるだけの自由さを許容する時空間を日本人が回復し、それを自他ともに納得できる状態をご覧になってからお隠れになったのなら、どんなにお幸せであったろう〉。これは現代を生きる人々には、ややわかりづらいニュアンスを含んでいる感じがするけれども、僕なりに言い換えるのであれば、日本人としてのアイデンティティを支える存在がまだ健在のうちに、国民は戦後というダメージから完全に立ち直るべきであった、ということになるのではないだろうか。寄る辺のない場所で、傷を癒すのは難しい。もちろん、僕たちは今や、太平洋戦争のダメージなど、いっさい感じない。しかし、それは、戦後2世代を通じて、文化的荒廃の困難を乗り切ったからではなくて、ただ忘却した、未経験なことは知らないことで、歴史が自分たちの体内に息づいていない、そういった事実確認の結果にしか過ぎない。大きな流れでいえば、敗戦によるダメージは、日本人のアイデンティティに歪なねじれを作っている。そういえば、やはり江藤淳を論じ、『アメリカの影』として、そのようにいったのは加藤典洋であった。
2005年を生きる僕たちは、過去を知らず、それでも日常を機能させている。が、では、未来についてはどうだろう。この本のなかで、個人的にもうひとつ深く読み入ったのは、「村上春樹と全共闘世代」としてある項である。とはいえ、村上春樹について論じられた箇所ではなく、三島由紀夫について論じられた箇所の方が、とくに気になった。富岡は『三島由紀夫VS東大全共闘 一九六九年――二〇〇〇年』(00年)という本から引いたものを検証しながら、全共闘運動を生きた世代の人々が、過去を振り返ったとき、それが〈回顧的言説の頽廃の典型〉に陥ってしまうのはなぜか、を解き明かそうとする。『三島由紀夫VS東大全共闘 一九六九年――二〇〇〇年』は座談本であり、これは三島由紀夫と全共闘の人々との討論を収録した『討論 三島由紀夫VS東大全共闘』(69年)という本の、30年後の続編にあたる、当時三島と討論した面々、芥正彦、小阪修平、橋爪大三郎などが再び集い、対話を交わすといった趣向だ。富岡は、オリジナル『討論 三島由紀夫VS東大全共闘』にて行われた芥と三島の議論に、着目している。
全共闘の人々は、既成の体制への「反抗」の具体的なイメージとして「空間」を志向していた。それはつまり〈既成の秩序を形成し、それを持続せしめている根本たる時間主義(それは歴史なり、伝統といったものである)を乗り越え、そこから“解放”され自由になるための「空間」を重視すること〉である。そのことに対して、三島は、過去や歴史、伝統や記憶などといった時間的な連続性を否定し、現在における行動と現在における思考を重視するというスタンス自体は認めるが、そうしたスタンスをもって未来を信じてしまうとしたならば、それは論理的矛盾である、と揶揄する。なるほど、そうだろう。現在を非連続の点として区切っておきながら、それでも現在を未来へと連続させてしまうのだとしたら、現在が過去からの連続であることを認めざるをえない、それが出来ないというのは、たしかに考えとしては、破綻している。〈「非連続」、「非歴史」のなかに「自由そのもの」を体現しようとした思想的営為は、それを「過去」として連続性のなかで把えることができない〉。そのような欠落と矛盾が、いま全共闘の世代が当時を語ろうとしたときに〈回顧的言説の頽廃の典型〉を生じさせるのだ、と富岡は断じる。
もちろんのように、2005年を生きる僕たちもまた、そうした連続する時間の一部なのである。と、考えるのであれば、戦後60年といった問題もまた、自分たちの内側に含まれていなければならない、そういう事象なのだといえる。が、いや、しかし、もしかすると時間軸が、それを認識する能力それ自体が、すでに狂っているということだってありえるかもしれない。舞城王太郎『みんな元気。』について、富岡は次のように書いている。〈“文明の保育器”のなかで生きてきた人間が、「親」となりえず、アダルトな子どものまま「大人」の世界へと引きずり込まれる、そんな現代の光景を鮮烈に(それこそ無茶苦茶なといいたいほどに)浮かびあがらせている。それは、ジェネレーションそのもの自体の蒸発とでもいうべきものである〉、と。
