ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年08月21日
 偏愛文学館

 倉橋由美子には『あたりまえのこと』という非常にすぐれた小説論というか小説読本がある。77年から79年の間に書かれた「小説論ノート」と、96年から98年に書かれた「小説を楽しむための小説読本」の、小説について書かれた2種類の文章をまとめたものである。文学に関心があり、読んだことがない人はすぐに読んだ方がいい。で、本作『偏愛文学館』は、そのさらなる続編に近しい印象がある。「小説を楽しむための小説読本」の冒頭で、倉橋は〈ご覧のようにこの続編からは「である」スタイルをやめて「です」スタイルにしました〉、その理由のひとつは〈もっとはっきりと読者を前において説得する調子で物を言いたい〉からだという。そして『偏愛文学館』もまた、そうした「です」スタイルによって、話が進められる。倉橋が好む小説作品が次々に評せられてゆく。偏愛というが、たしかにそこにはある種の偏りがあり、その偏りは、倉橋という作家の水準がどこにあったのかを導き出しているみたいだ。たとえば「ぼくは……」「わたしは……」などといった一人称ではじまり、口語を多用する小説に関して、倉橋は次のようにいう。〈今日では、普通の人は本を読まず、手紙その他の文章も書かず、読んだり書いたりするとしても、文章らしい文章は敬遠して、しゃべるように、あるいは携帯電話のメールのように書き、またそんなスタイルで書かれたものしか受けつけないようになっています。小説もそんなスタイルで書かれ、それが読まれるというわけです。しかし私は、メールのやりとりみたいな文章で「ぼくは……」「わたしは……」調で書かれたものなど、小説だとは思っていません。これが私の抜きがたい偏見です〉。ジュリアン・グラックの『アルゴールの城にて』について書かれた項である。では、倉橋にとって一人称とはどのようなものであったか、『偏愛文学館』を通読すれば、それはつまり、物語を捉まえる視点の角度的な問題でしかなく、けっして仮構した内面によって読み手に感情移入を誘うためのものではない、そのことがわかる。そうした事実を踏まえ、一人称で綴られるデビュー作『パルタイ』などを読み直してみれば、なるほど、と思えるところがいくつもあった。ところで本書には、読み進めているうちに、ふいに立ち止まり、どうしても感傷的にならざるをえない箇所がある。それは杉浦日向子『百物語』に関する項のラスト、〈漱石の『夢十夜』や内田ひゃっけん(原文では漢字だが文字化けするため平仮名)の『冥途・旅順入場式』なども、杉浦日向子版で読みたいものです〉と書かれている箇所で、ご存知のように、倉橋由美子は今年の6月に、杉浦日向子は今年の7月に、それぞれ亡くなっている。そのことを考えると、すごく寂しい雰囲気に包まれる。
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
杉浦日向子さんの「百物語」は、エッセイに移行される前の漫画という形態において(江戸の)<世界>を見事に描写した最高傑作ですね。艶やかさでは「百日紅」が群を抜いていますが、日常と非日常の狭間を活写した点ですごい作品だと思います。惜しい人を亡くしました。
Posted by 戸田修司 at 2005年08月21日 18:05
一人称の話。

私は、作品と作者を全く別個に考えたい読み手なので、現代の自分自身の周辺を「文学化」する作家達には違和感を覚えます。故に、倉橋由美子の作品群は未体験ですが、俄然興味が湧きました。
Posted by わきた at 2005年08月22日 01:56
戸田さん
どうもです。僕はそれほど杉浦日向子の熱心な読者ではないのですが、『百物語』はいいですね。『百日紅』は読んだときがないので、機会があったら読んでみようと思います。


わきたさん
倉橋由美子に関しては、松岡正剛が以下の後半で

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1040.html

>この作家は描写によって登場人物の心理を伝えることなど(たいへんそれもうまいのだが)、どうでもいいことなのだ。

と評しているのに、賛成です。
あと倉橋由美子の作品は、けっこう絶版のものが多いのが残念な状況です。
Posted by もりた at 2005年08月23日 09:15
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