ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2005年08月20日
 思想のケミストリー

 本書『思想のケミストリー』は、社会学者である大澤真幸が、吉本隆明、柄谷行人、三島由紀夫、埴谷雄高、村上春樹などなど、日本の言論界にとって重要な思想家や作家などの著作を手がかりに、現在という時代を解読しようとするものである。それぞれは単体の論考で、文学誌などに発表された。どの論考も、いっけん大澤が批評対象の思想に寄り添っているように読めなくもないけれども、基本的には、ここ数年の著作のなかで大澤が主張しているロジックの雛形に、批評対象の思想を流し込むという体でもって、成り立っている。

 たとえば廣松渉に触れた「原罪論」の項では、地下鉄サリン事件を経、9・11の同時多発テロ以降、大澤が熱心に説く、他者の他者性あるいは第三者の審級といった問題に、多く字数を割いている。むしろ廣松自体についての箇所は少ないくらいで、廣松の使ったタームを利用しながら、いま現在を生きる僕たちが、他者として捉まえている他者というのは、ほんらいの意味での他者からは遠く離れつつあることを、次のように説明してゆく。闘争は、〈他者〉が〈他者〉としてある限りにおいては――つまり異和的な近くの担い手としてある限りにおいては――、自己と積極的な関係を持ちえないということの補償である。つまり、闘争は、関係を否定する関係であり、ラカンが性的関係について述べた言葉を借用すれば、「〈他者〉との関係は存在しない」ということの直接の表現なのである〈他者〉は、言わば、「そこにあったのに今や現れていないもの」として定位されるわけだ。そのため、やがて、自己=私が直接に対面しているこの〈他者〉とは別に、もう一人の他者が、つまり「既に私を見ていた」と見なされるような他者が、自己に対して存在しているかのような仮象が生まれることになるこの既住性を帯びて現れるもう一人の他者は、さしあたっては、まさに〈他者〉の場所に定位される

 僕なりに言い換える。じっさいに目の前にいる他者と、うまく関係性が結べないとき、僕たちはそのことの原因を頭のなかで考える、ここでこうして対話しているのとはべつのレベルで二人(以上)の関係をシミュレートする。ならば、本来、目の前にいる他者と、脳内における他者は、別個のものであり、実存と想像という段階においては、交換不可能なものであるはずだ。が、しかし、ある場合には、僕たちはそれらを恣意的に混同する。と、ここで重要なのは、脳内で捏造された他者というのは、じつは自分自身の志向でしかないわけだ。けれども、それが現実の他者とすり替えられたとしたならば、今度は逆に、そういった妄想でしかないはずの他者が、自分自身の判断を規定しようとする。外的な他者性は消失し、内的な他者性の駆動がはじまる。

 その結果、どのようなことが起こるか。こうして、既住する他者に帰属していると認定された判断=選択が、自己にとって、自己の本来とるべき選択=志向を提示しているかのように、事態が構成されるのである。この既住する他者において提示されるかのように現れた判断こそが、まさに、規範なのである。このもう一人の他者は、任意の経験に先立つ場所に、すなわち超越論的な場所に定位される。このような他者を、われわれは「第三者の審級」と呼んできた。神は第三者の審級の一つの形態であると、大澤はいう。そして自分の上位に座す神に、ああしなさいと指定されたように感じ、起こす行動も、結局のところは、自己自身による選択なのだ、と。しかし神などというのは、それこそ古代の頃から語られてきたわけだが、ポイントはそこではない。繰り返しになるけれども、それが外側からこちらを見つめる視線ではなくて、たとえそう感じられたとしても、じっさいには自己の内側に収まっている、というのが重点なのである。つまり逆をいえば、ある個人の内部に存在するはずのものが、その個人にとっては、メタ・レベルに存在するものとして変換されている。
 
 そのような在り方は、やはりここ数年の間に大澤がさまざまな文章に記している、この本でいえば、夏目漱石の『こころ』に触れた「明治の精神と心の自律性」のなかに現れる、偶有性なる概念と無縁ではない。偶有性とは、ひどくシンプルにいうと、すべてが終わったあとで、あーあ、ああすればよかったと思う、つまり「他でもありえた」とする、個人の思いなしである。それを可能にするのも、実際の(複数)他者を介在しないで行う脳内シミュレートが、その個人にとってはメタ・レベルに見えるような権力でもって、それは可能性と不可能性の双方をパラレルに統べるものとして、機能するからなのではないだろうか。

大澤真幸その他の著作に関する文章
 『現実の向こう』については→こちら
 『帝国的ナショナリズム 日本とアメリカの変容』については→こちら
 『性愛と資本主義 増補新版』については→こちら
posted by もりた | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書。
この記事へのコメント
こんばんは。一時期大澤先生に傾倒して身体をベースにした社会システム論を根をつめて勉強したことがあります。第三者の審級はジンメルの継承ですね。ただ、現在の大澤先生の仕事に対する率直な意見としては、王権制の存立を描いた「行為の代数学」、資本制のメカニズムを描写した「性愛と資本主義」以降、現代社会分析における先生の理論の認識フレームはちょっと老朽化しているのではないかと思っています。「身体の比較社会学W」が待たれます。
Posted by 戸田修司 at 2005年08月20日 20:40
どうもです。

>現代社会分析における先生の理論の認識フレームはちょっと老朽化しているのではないかと思っています

あ、ここらへん、なんとなく判る気もします。
けど、僕にはまだ、その有効性が信じられるところがあるようにも感じられます。
Posted by もりた at 2005年08月21日 08:24
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